「ご馳走様でした。」
静かに、そうつぶやいてから先生の合図と共に席を立つ。
けれど、彼女の内心は今日見た夢すらも忘れてしまう程に穏やかでは無かった。
なぜならミシェラがお披露目に選ばれた。
あの、いつも図書館で勉強を教えていたあの子が。
本当なら祝福すべきだろう、言祝ぐべきだろう、或いは抱きしめて称える位はした方が良いだろうし、
彼女にとってそういう感情自体は存在するが、同時に羨ましいだとか、何であの子がといったそんな嫌な気持ち悪いもやもやしたヘドロのような感情によって覆い隠されてしまっていた。
その為か、彼女はミシェラに声をかける事なく、ダイニングルームを出て図書室へと向かった。
一刻も早く頭を冷やして、あの子の事を純粋に送り出せるようにする為に。
階段を上り詰め、寮の最上階に位置する埃臭い書物の蔵に辿り着く。図書室の天井は四階部分までを突き抜けているためか、とても高い。そして、木製のロフトを介して上階にも数多の書物がところ狭しと保管されているようだ。
図書室はほの暗く、壁に取り付けられた卵型の照明をつけてもまだ暗い。
屋根裏の部分に切り取られた小窓から差し込む陽光が、空気中に舞う埃を幻想的に煌めかせていた。
「……あさましい」
図書室に着いた後、彼女はロフトの上に登ろうとする。
というのも、新しく本を読んで心を落ち着けようと思ったは良いものの、この部屋にある本はもう大体読んでしまって、今の心の靄を晴らすには足りなかったからだ。
その為に普段から先生に危ないと言われているというのに、本棚から何冊か本を抜いて、靴を脱ぐことで上りやすくしてから自嘲気味に言葉をつぶやいてロフトの上に上るだろう。
高所から見下ろす図書室はいつもより鬱屈として見えた。しかしロフトの上は、そばに取り付けられた小窓から溢れる陽の光によって、下よりも明るい。
斜陽に照らされたところに、埃を被った本を見つける。こんなところにあるからか、
あなたがまだ読んだことがない本だった。
題名は『ノースエンド』というシンプルなもの。装丁は古く、かなり昔の本であることが見て取れる。
「……知らない本…ですね」
上る事に成功したロフトで、彼女は先ずノートを取り出し、埃を被った本を持ち上げる。
その後、本が置いてあった場所に埃が積もっていないかどうか(つまり、長期間放置されていたかどうか)を確認してから、勉強用のノートとペンを取り出して読み始める。
興味を惹かれる自分にどこか居心地の悪さを感じながら。
本を持ち上げた途端、溜まっていた埃がぶわっと一気に舞い上がり、周辺に漂っていく。相当長い間放置されていたのだろう。
周辺の空気が微かに濁るほどの埃にあなたは目と喉の奥がツンと微かに痛むのを感じるかもしれない。
それでも本は、経年劣化による痛みを感じさせながらも問題なく内容は読み込めそうだった。
内容は、エーナドールが読み聞かせに語るような、ありきたりなおとぎ話だった。雪けぶる雪国で、貴族の乙女は婚約者である伯爵によって、黒い塔に軟禁されていた。そこに盗みに忍び込んだ貧民の裏ぶれた青年が彼女と出会い、隣国への亡命劇を繰り広げる……といった、いわゆる中世を舞台にしたラブストーリー。
これらの物語は、直筆で……インクと筆を用いて執筆されていた。そのためところどころインクが滲んでいるし、文字が乱れているところもあった。
改めてあなたは本の表紙を確認する。『ノースエンド』と雪国の絵が描かれた隅っこに、擦り切れた文字で『Charlotte』と、おそらく筆者と思しき人名が残されていた。
「つっうっ……げほっぉ……」
激しく舞った埃に目や喉がつんと痛む。
呻きながら咳をしてようやく落ち着いた後に、彼女は本を読み始めた。
「……素敵な知識ですね。」
……読んでいる中で少し落ち着いたのか、書いたドール……あるいは人に思いを馳せて小さく言葉をつぶやいた。
……が、筆者の名前にはどうも覚えがない。
怪訝に思いながらも彼女はノートに『図書室、ロフトの上、ノースエンドと言う本、筆者はcharlotte』とメモを書き残す。
その後、足跡を誤魔化す為に来た時に踏んだ足跡を踏んで、積んだ本を足場に図書室に降り立つ。
その後、ついでに丁度気になっていた壁の隙間を調べようとする。
あなたは、図書室に踏み入れた時からなぜか気になっていた、奥まった区画へと向かう。
本棚と本棚の間の壁、まるで人の目から隠されるように翳った場所には、小さく子供が描いたような乱雑な落書きが残されていた。
四人の男女が微笑み合って寄り添い合っている。皆一様に赤い服を着ているので、恐らくは今あなたが着ているような制服を纏うドールだろう。
名前も書かれていたように見えるが、掠れて消えてしまっている。
「……落書き……にしては古そうですね」
いつからあったのだろうか?
名前が掠れる程に古いその落書きについて考えてから、靴を履いて彼女は積み上げた本に目を向ける。
証拠隠滅をするなら、これを片づけなければならない。
その為、彼女は本を片付ける途中で図書室にある、あるいはあるかもしれないいくつかの本を探してみることにした。
「……はあ、没頭し過ぎましたね」
一つ、小さく息を吐いて本を置く。
四冊も連続で読んだせいでそれなりに時間も経ち、頭には心地良い疲れと余裕が生まれ始めていた。
その為、彼女は一度本を片づけてから移動を開始する。
向かう先は先生の部屋。
今なら、この心の内を先生に話して、正しい在り方を示してもらう事も出来る筈、とそう思って。
扉は抵抗なく開く。先生は自室に鍵をかけることがない、それをあなたは理解している。
しかし扉が開いた先に、先生はいなかった。まだ別の部屋に留まっているのだろう。
内装はシンプルだった。まず、執務机と革張りの椅子が出入り口の正面に向かい合うように設置されている。この部屋に先生が居たなら、入室したその後に目が合うようになっているのだ。
部屋の片隅にはベッドがある。あなた方が眠る時に用いる箱形ではない、四本の足で自立した寝台だ。シーツは皺一つなくメイキングされており、抜けた毛の一つすら落ちていない。
奥の壁に沿うように本棚が設置されており、小難しい専門書、或いは童話の詩集など雑多なジャンルの本が整頓されて並べられていた。
「……今なら読んでも咎められない……と思うのは私が浅ましい獣だからなのでしょうね……」
先生の部屋に入ると、意外にも先生は居なかった。
何か用事があったのだろうか?
ともかく、彼女は先ず本棚に目を付ける。
今気にしても仕方ない事だろうにわざわざ足音を殺して、見たことのない本を探そうとする。
ある一冊の書物を開いた瞬間、何か小さな紙片が滑り落ちるだろう。
確認してみるならば、その紙片は押し花で飾り立てられた稚拙な栞だということが分かる。花は随分と褪せてしまっており、鮮やかさとはかけ離れているが、元々は黄色い花だったのではないかということが分かる。
細かい粒のような花が無数に連なっているこの形状から、あなたはこの花がミモザという花ではないかと思い至る。
栞が挟まっていた本は、なんてことのない料理本だ。あなた方に振る舞おうと読んでいたのだろうか、アップルパイのレシピが掲載されていた。
「確か……密かな愛でしたっけ。
先生も案外ロマンチストなところがあるのですね」
落ちた栞を持ち上げると、そこを飾っていたのは……おそらくミモザの花だろうか? 可愛らしい花だった。
先生がこういう花を好んで栞にするのは少し意外で、いつもの先生のイメージとは違っていたため、今までの少し思いつめた表情とは違った小さな笑みを漏らす。
その後、一応このことをメモしておこうと料理本のアップルパイのページに栞を戻して本棚に戻してから、ノートとペンを取り出し、執務机を借りてメモを作る。
その際、彼女はその気が無くとも自然と執務机を一通り見ることになるだろう。
執務机の上は本棚と同様、綺麗に整頓されており、散らかっている様子はない。机の端にはペン立てとインク瓶、それから色とりどりの小さな花が生けられた花瓶が飾られていた。それらは見慣れたものであり、特筆すべきことではないだろう。
先生の執務机にはいくつか引き出しが取り付けられている。そのうちの一つが中途半端に開かれたままになっており、その中身が見えるだろう。
羊皮紙が束ねられて収まっている。一番上の紙に記載されているのは『Sophia』との記名。どうやら彼女がどのように周囲と人間関係を築いているのか、ざっと纏められた書類のようだ。
あなた自身も数日前、先生に課せられた課題で取り組んだものだ。自身と、他者への印象を聞かせてほしいと彼に請われ、言われるがまま記載したのを覚えている。
どうして先生があのような要求をしたのかは未だに分からないでいる。
「課題……」
メモ書きを書き終わったとき、彼女の目には羊皮紙の束が見かけられた。
それが数日前の課題数日前の課題で取り組んだものだという事が分かった瞬間、”ぞわり”と背徳的な欲求がアメリアの背筋を撫でる。
「これを読みたい」と自分が思っている事に気付いた時には彼女は引き出しを一つづつ開けて、紙を取り出していた。
先生の執務机、開いているもの以外の引き出しには、無数のファイルが収まっている。かなり分厚く、手に取るとずっしりと重たい。綴じられているのはあなた方がこれまで取り組んだ勉強に関わる課題や、丸付けが終わったテストの答案用紙などが収まっている。どれもあなたには見覚えのある内容だ。
数日前の課題の羊皮紙は16名分存在した。あなたもよく知るオミクロンクラスのメンバーの人数分である。時折他者に悪印象を抱いているドールもいるようだが、概ね親密な関係を築けているあなた方の記録だ。
この引き出しだけが開いていたということは、先生は直近までこの課題を確認していたのかもしれない。
あなたが今朝も就寝し、起床した生活空間だ。温かみのある花柄の壁とふかふかのカーペットが敷き詰められている……が、部屋に置かれているのは重厚な棺桶型のベッドである。
現在、オミクロンクラスの女子の人数は11名。それよりも少し余裕があるようにか、16個のベッドが二段に積み重ねられたりして上手く設置されている。
部屋の入り口から左手には大きなワードローブが置かれており、皆の制服がきっちりと収められていることを知っている。
「……さて、どうしましょうか」
考えるままに二階、少女たちの部屋に行った彼女はそこで手持ち無沙汰になってしまった。
何をしたものか、正直ここで何を調べても……と思ったところでベッドが目についた。
何故ここのベッドは棺桶型なのだろう?
そんな疑問が浮かび上がる。
正直、寝返りをうったりするには明らかにこの形は不便だし、先生の部屋にあった先生のベッドの方が遥かに寝やすそうだ。
そんな疑問が浮かんだ彼女は試しにベッドを一つづつ調べてみる事にする。
皆のプライベートな部分に触れるのは少し申し訳ないなと思いながら。
あなたは外装がひんやりと冷たい、漆黒で塗ったくられた光沢のある箱の表面に触れる。材質は謎めいているが、この箱の蓋は存外軽く、ドールの細腕でも簡単に開け閉めが出来る様になっている。
取手の部分には南京錠が取り付けられており、毎晩先生があなた方を寝かしつける時に、一緒にこの箱の蓋も施錠するのだ。
これはドールズの安全を確保する為であり、怪我が許されないあなた方が勝手に夜に外を出歩き、危険なことをしでかさない為の防止策であるらしい。つまりあなた方は夜間に外を出歩くことが出来ないようになっている。
箱の中には上等で清潔なシーツと枕が詰め込まれている。そしてちょうど顔に当たる部分の蓋には格子付きの窓が取り付けられており、上から眠るドールズの顔を確認出来るようになっているのだ。
「うーん、やっぱり大仰な気もしますね……」
ベッドを見て、そんな感想を抱く。
夜間の外出禁止は分かるけれど、それにしても厳重が過ぎる。
まあ、実際夜間のトイボックスがどんなものかを全く知らない彼女ではそう思うのも無理はないが。
ともかく、そこで彼女は一つの可能性に思い至る。
よく考えたら今持ってるこのノート、普通に持ってたらまずいんじゃあないだろうか? と。
そう、明らかに行っちゃいけない場所にガンガン行きまくってる証拠が詰まったこのノートは流石に見られると大変不味い。
その為、彼女はワードローブを調べて隠し場所になりそうな場所を探してみることにする。
ワードローブの木の扉を開くと、きっかりと皺を伸ばされた綺麗な状態の制服が何着もハンガーに下げられている。それぞれ衣服を置いておく場所は定められており、あなたが使用している一角には予備のズボンスタイルの制服と、ナイトウェアでもある真っ白なフリル付きの寝具がきちんと収まっている。足元には予備の靴も揃えて置かれていた。
区画を分けているとはいえ、他のドールも共用で使っているワードローブにノートを隠しても、隠せたとは言い難いかもしれない。
「駄目そうですね……」
この様子ではアメリアの知識を隠す欲求には応えられないらしい。
彼女はしゅん、と表情を暗くした後に諦めて一階へと向かう。
「うーん……かなり時間が経ってしまいましたから……」
そうして、今度はミシェラを探してみる事にした。
恐らくあれから時間が経ってしまっているからラウンジには居ないだろうな、という予測の下彼女は先ずエントランスホールへと足を踏み入れる。
エントランスホールはだだっ広い大広間になっていた。三階までが吹き抜けになっており、天井からぶら下がっている古いシャンデリアがきらきらと優しい光を落としている。
薔薇の花を描いたボタニカル柄の大きなカーペットが足元には敷かれていて、階段と出入り口に挟まれた構造になっている。
エントランスホールの出入り口の傍にある壁には、ドールズが守らなくてはならない大切な『決まりごと』が一覧となって掲示されていた。
《たいせつな決まり》
・いつか出会うヒトに尽くすため、日々の勉強には努力して取り組むこと。
・朝は7時に起きて、夜は21時に必ずベッドで休むこと。
・夜に外を出歩かないこと。
・身なりは清潔にしておくこと。
・身体に傷が残る怪我は “絶対に”しないこと。
・他のドールズを傷付けないこと。
・あなたたちを教え導く先生たちを傷つけないこと。
・アカデミーや寮の設備は壊さずに大切に使うこと。
・寮の外、柵の先へは行かないこと。
・ヒトに背かないこと。
「居ません……」
どうやら、予想は外れだったらしい。
が、まあローマは一日にして成らず、千里の道も一歩よりというように、直ぐに見つかるとは思ってはいない。
彼女は気を取り直して、決まりごとを横目に見ながら、隣の部屋であるスタディルームへと向かおうとする。
部屋の扉を開けると、無秩序に並べられた机と椅子の組み合わせが十六存在した。机が向かい合うのはいわゆる教卓であり、先生があなた方へ何か教えるときはもっぱら学園ではなく、この学習室を用いることが多かった。
教卓の背後の黒板には、昨日学びを受けた内容の板書がまだ残されている。いつもこうして、先生は授業内容を簡潔に纏めては、暫く残しておいてくれることが多かった。ミシェラのような、学習に遅れを取ってしまうドールへ配慮してのことだろう。
「……」
探してたどり着いた二つ目の部屋は、どうやらまた空振りだったらしい。
可愛らしく隠れていたりしないだろうか、なんて思いながら見渡すと、代わりに忘れ物らしいノートが広げられていた。
届けなきゃいけませんね。
なんて思いながら彼女はノートを取りに行くだろう。
学習室の前の方を陣取ったミシェラの席は、キッズサイズなのかミニチュアのように小さく感じられる。
その机の上にぽつん……と寂しく取り残されたノートは、中途半端なページで開いたままだった。ミシェラが学習能力に遅れがあることは、このクラスの者なら大半は知っているだろう。その事実を表すように、ノートには読解困難なミミズの這ったような文字が綴られており──恐らくは黒板の板書を一生懸命写していたのだろうけれど──理解に苦しむ内容であることは間違い無いだろう。
そしてノートの隅っこには同じように曲がりくねった丁寧とは言えない線で、落書きが残されていた。恐らくは……水色のマフラーなどの特徴を鑑みれば……その絵はサラを描いたものに見える。その隣にはリーリエ、ソフィア。沢山のハートに囲まれており、モデルへの愛情を感じさせる。
その落書きに沿って、あなたには覚えのない単語が無数に書き込まれていることに気づく。
……『るーとぜろ』。『るーとぜろ』。『るーとぜろ』。
√0のことだろうか。授業内容とはかすりもしていない単語に、あなたは首をかしげるかもしれない。
「妙……ですね。」
るーとぜろ、ルートゼロ、√0
執拗にノートに書かれたその単語を見て、彼女は首を傾げる。
デュオのドールにして重度の知識狂でもある彼女は勿論その言葉……というより数字の意味する所を知っているが……授業でもやっていないその数字を執拗に書き込むのは余りにも奇妙であった。
そのため、彼女は首を傾げたあと、もしかして授業のないように何かあったのか?
と、書き残された板書に目を向けた。
あなたはミシェラのノートから目線を外し、正面の黒板へと向ける。変わらず先生の丁寧で読みやすい文字が並んでいる。
あなたは昨日の授業内容を抜けなどもなく記憶しているはずだ。デュオモデルの高性能な脳は、この場所で講義をしていた先生の姿でさえも鮮明に思い返すことが出来る。
『ドールズの体内構造は人間を出来る限り模して造られている。だから君達は食事も出来るし、五感だって備わっている。君達が日夜摂っている食事は、ドールである身体には無意味だと思うかもしれない。
しかし食事は、体内で循環する赤い色をした燃料に変換される。君達はこの燃料を頼りに動いているから、食事を取らなければエネルギーが不足して、やがて死に至る。くれぐれも、意地を張って食事を絶ったりしてはいけないぞ。2、3日で限界が来るはずだからね。もちろん、食事を燃料に変換している心臓部のコアが潰れてしまってもいけない。
体内を一通り循環した燃料はやがて老廃物となる。君達がいつも洗浄室で行なっているように、黒く変色した燃料は順次、洗い流していかなければいけない。いつまでも腐った燃料を体内に抱えていたら、体内機能に支障をきたす場合がある。注意すること。
そもそもなぜドールズに食事をする機能が備わったかというと、よりヒトに寄り添い、共感するために──……』
……と、ドールズが生命維持をするにあたって重要な内容の講義を語っていた。
どう見ても、『√0』に関連する話があったようには思えない。
「やっぱり、そうですよねえ……」
√0などという数字はやはり欠片も出てきては居ない。
となるとこれはミシェラが自分で書いたもの……と思うしかないのだが、それにしてもやっぱり変だ。
となると後で聞く必要があるだろう。
そう考えた彼女は机に取り残されたノートを手に取って次の部屋へと向かうのであった。
今朝も全員で一緒に朝食を取ったばかりであるこの空間は、今は閑散としている。長い机が二つに、人数分の椅子。特に席順は決まっていないが、皆それとなくいつも同じ席に着くことがお決まりだった。
また、先生は皆の顔が見られる一番手前側の席にいつも腰掛けている。
部屋の奥には柱時計が置かれている。今も滞りなくカチコチと時を刻んでいるようだ。
「……居ませんね……」
やはりと言うべきか、或いは己のとんでもない不運を呪うべきか。
困ったことにここにもミシェラは居なかった。
確かに本を読んでいてかなり時間が経っていたし、何処かに移動していてもおかしくないが……。
アテが外れた彼女は今の時間帯なら何処にいるかな……?
と考えながら部屋の奥に置かれた柱時計に近づいていき、見てみることにする。
カチ、コチと、規則的な針の音を鳴らしている。ローマ数字表記の時計は、一部の生徒は読むことが出来ず、時計の前で気難しそうに唸っていたのを覚えている。
この柱時計は、朝8時、正午12時、夜7時にそれぞれ夕食どきを知らせるボーン、という音を鳴らす。あなた方はこの音を聞いて食事を始めるのがルーティンになっていた。
あなたが柱時計の前でじっと振り子が揺れるのを見ていると、こめかみのあたりが微かに痛む。
あなたは、この■■■■■■■■■■■■■■■。
……コーヒーの匂いがした。
『あの人』の好き……だったような気がする砂糖もミルクも入れない苦味の強いコーヒーの匂いが。
アメリアはあの味が苦手でいつもミルクを入れていたけれど、『あの人』が飲む度に自分も同じようにする程度には、同じ場所で同じような物を味わっているあの瞬間は間違いなく彼女にとって忘れがたい幸福だった。
けれど、ここにはもうそれはない。
「は? え? ……ぁえ? 今の……は……」
幻覚じみた暖かく優しい記憶から立ち直った彼女は起こった事象を理解できずに立ち尽くし、周りを見渡す。
そこにあるのはいつもと変わらないダイニングルームで、あの大きな本も苦いコーヒーも見当たらない。
残り香のような幸福が鼻腔をくすぐるばかりで、彼女はまたあの大切な記憶を掴み損ねてしまった。
せいぜい残ったのは普段の知識欲と同じような、コーヒーを飲みたい欲求と、同時に好きでない人とはコーヒーを飲みたくないという忌避感だけだった
……つまり、欠陥が増えただけだ。
そうして、壊れた人形は壊れた頭で歩き出す。
向かうのはウォッシングルーム、やはり目的は変わらずミシェラを探してだ。
洗浄室は二つの区画で分かれている。
手前側の区画はドールズが制服を脱いで皺がつかないように保管しておく場所。この区画はリネン室も兼ねており、シーツやタオルの替えも何枚も棚に収められている。
奥には洗浄室がある。ドールズが自身の体内に巡る燃料の老廃物を摘出し、洗い流すための区画だ。
奥にはドールが横たわるための台が設置されており、洗浄を行う前にあなたは一時意識を失う。目覚めた時には床には黒ずんだ血液のようなもので浸されており、先生はいつもその床を水で洗い流している。なのであなた方は洗浄を行わなければならないことを知っているが、実際の詳しい手順や、どこから排出しているのかも実は知らなかった。
「あっああ……ここは……ウォッシングルームですか。」
半ば茫然自失、といった様相で歩いていた彼女は、ウォッシングルームにやってきた所でやっと正気を取り戻した。
ややあって、どうやらここがウォッシングルームだということに気づくと
「流石にこんな所には居ない……ですよね」と思いつつも周囲を見渡す。
その時、キラリと何かが光った。
見ればそれはまさに金属の輪っか……所謂指輪だ。
「わぁ……」
愛の象徴であるそれに対して彼女は目を輝かせ、半ば反射的に手に取って調べてみる。
脱衣室の棚の隅に転がっていた指輪は、子供が工作で作るような稚拙なものだった。金属の輪は綺麗な形ではなく、僅かに歪みが見られる。
あなたはこのリングを何処かで見た覚えがあった。確かこれは……。
「……?」
そこにあった指輪は思ったよりも出来の悪い、子供が作ったような小さな物だった。
……が、これには見覚えがある。
そう、糸を通して先生が首から提げていたあの指輪だ。
今朝はつけていなかったのを見るに……これは昨日辺り無くした物だろうか?
ともかく、そんなふうに考えてから彼女はそれをポケットに突っ込む。
とりあえず、ミシェラ様にノートを返してから考えよう。
そう考えた彼女は、部屋を出てまだ見ていないラウンジへと歩き出した。
この場所は、ドールズが楽に寛ぐことが出来る憩いのスペース。柔らかなソファとふかふかのクッションが無数に置かれていて、寮内では唯一暖炉があるので凍えずに済む。冬場はラウンジに皆が集まりごった返すことが多かった。
壁際には軽い読み物が収まった本棚が陳列しており、くつろぎながら退屈を潰すことも出来る。
「そういえば……ここにも本が有りましたね」
完全に忘れていたが、どんな蔵書があっただろうか?
そんな風に考えた彼女は本棚へと近寄って行って調べようと試みる。
あなたはラウンジに置かれている本棚に歩み寄る。
本棚に置かれているのは、図書室にあるものほど難解な本ではなく、もっと手に取りやすく馴染みやすい、御伽話や児童本、いわゆるフィクションの物語を題材にした絵本が多い。もともと量が少ないこともあってか、あなたはここにある本を概ね網羅してしまっているかもしれない。
この場所を利用するのは年齢設計が幼いドールなどがもっぱらだ。
「……見るほどの物でも無さそうですね」
どうも、特に何かがあるようには見えない。
見慣れたこの本棚から目を離し……たところで、ロッキングチェアの上に放置された本に気付いた。
「ミシェラ様でしょうか……?」
もしかしてあの子が置きっぱなしにしていたのだろうか?
そう考えた彼女はロッキングチェアの上に置かれていた本を持ち上げて開いてみる事にする。
【くるみ割り人形とねずみの王様】
『──少女マリーはクリスマスの夜にぶかっこうだけど人なつっこい感じのするくるみ割り人形をもらいました。』
そんな冒頭から始まる童話の一つ。少女が手にしたくるみ割り人形を巡って、さまざまな不思議な出来事が起こるという物語だ。
本自体に特筆すべき内容はなく、あなたはこの物語を既に知っているだろう。すぐ近くの本棚に収まっているはずなので、そちらに戻しておいた方がいいかもしれない。
「仕方ないですね……」
もう、と小さく息を吐いてから彼女は絵本を本棚へと戻す。
ああして立ち去るなら片づけて行けばいいのに、なんて思いながら彼女はその場を離れ、今度は暖炉へと向かう。
「冬場はここが人気でしたね……」
冬場、他のドールが集まっている様を思い出しながら、彼女は暖炉へと歩み寄る。
その時に特に目を向けたのは暖炉の周辺に置いてある薪だ。
見た目からしてこれは何の木だろうか……?
あなたは、近頃は春先の温暖な気候によって出番のない暖炉の近くへ歩み寄る。もちろん火もついていないので、黒い燃え滓が微かに残っているばかりだ。
暖炉の火種となる薪は、すぐそばに重ねられている。この薪は近隣の森から切り出してきたのではなく、先生が外部から運び出してきたものなのだという。いつも気づいた時には補充されているので、おそらくあなた方が出歩けない夜間に運搬されてきているのかもしれない。
薪に使われている木材の種類は、図書室に置かれていた図鑑頼りの判断にはなるが、おそらくはその多くがケヤキの木なのではないかと感じる。
「ケヤキ……ケヤキ!?」
主に高価な家具などに使われる……という記憶があったその木に彼女は一瞬眼を剥いて驚く。
ドールは丁寧に育てられるという事だったが、まさかこんなところまで高級品とは……と恐れ入りながら、彼女は一度その場を離れて医務室へと向かう事にする
「どなたか、いらっしゃいますか?」
向かった後、彼女は二度扉をノックしてから扉を開くだろう。
医務室の扉をくぐると、これまでの温もりを感じる木製の床から一転、清潔な白い壁と床の空間があなたを出迎える。
ドールが収まるための棺のような箱型のベッドが三つ、壁に沿って並んでいる。作業台と思しき広い机には何も置かれていない。当然だ、近頃は誰も目立った怪我をしていないから。
奥に置かれた棚には、怪我をしたドールズに処置をするための医療道具が収められていたはずだ。
「確か……医療道具はこちらでしたっけ。」
医務室に来たことで、丁度彼女は先ほどコメカミが痛くなった事を思い出した。
薬……正直ドールズに使う薬があるのかどうかは怪しいが、彼女は今は無い頭痛の為に薬を探すことにした。
それが見当たらなければ、彼女は今度は棺のようなベッドに目を向けるだろう。
奥に設置された大きな棚には、さまざまな医療道具が収まっている。緊急の事態に対応出来るように、薬剤や消耗品、メスや麻酔といったものまで。
しかし危険物が収まっているという関係上、棚にはいつも南京錠で鍵が掛けられている。なにか怪我をしてしまった場合は、先生に声を掛けて診てもらわなければならないようになっていた。
あなた方は人間を可能な限り模したドールだ。例え作り物であっても、医療道具は人間が用いるようなものと大差はない。
「うーん……これでは駄目ですね」
これでは直ぐに使えそうに無い……が、そこで妙な点があった。
何故麻酔があるのだろうか?
麻酔はかなり慎重な扱いが必要となる薬剤の筈で……専門の技師でもないと(人間の場合は)使えない筈だ。
ではドールの場合はどうだっただろうか……?
などと考えながら、彼女はベッドを調べに行く。
トイボックスの『先生』は、ドールズの管理を担っていることもあり、ドールズの健康管理の上で必要な知識と技術を全て身に付けている。
ドールは人間の医者には当然罹れない為、万が一何かがあった場合、それに必要な治療──修繕も全て先生が行うことになっている。そしてドールズには痛覚が存在するため、過度な痛みにより健全な精神に支障をきたさぬよう、神経を麻痺させる鎮痛の作用がある麻酔を取り揃えてある、──ということをあなたは思い返すだろう。
そしてあなたは箱型のベッドを開く。内側は、あなた方の部屋に置いてあるものとさして変わらない。敷き詰められた柔らかなシーツの上に、白く清潔な枕が乗せられている。
シーツはきちんと伸ばされていて、綺麗な状態だった。あなた方に万が一があった時のための設備なので、先生が欠かさず清掃を行なっているのだ。
……しかし、一番奥のベッド。こちらだけ、ほんの微かだがシーツに皺が残っているようだ。
覗き込んで中を確認すると、あなたは気がつく。ベッドの蓋の部分に、無数に文字が刻まれているのだ。
この文字はミシェラのノートでも確認出来た。『√0』という文字である。
「そう、確かそうでした。
外から人が来ないんじゃあ先生がやるしかありませんしね」
そう言えば医者みたいな人が来たことは無かったな……と、そう思い返す。
確かにこれでは先生が対応するほかないだろう。
「ひえっ」
そうして、ベッドを見に行った彼女はこれまた現れた√0の表記に驚き小さく悲鳴を上げる……。
が、ここで気付いた。
これはミシェラ様のノートの表記と違う。あのときは『るーとぜろ。』だったが、こちらでは『√0』となっている。
恐らく平方根の概念を知っている頭に欠陥のないドールが書いたのだろうか?
そんな風に考えながら、彼女は慎重にベッドに近付き、『√0』の書き方に規則性が無いかを見いだそうとする。
『√0』という文字が、そのまま蓋の裏にびっしりと刻み込まれている。デュオモデルの観点から考察するも、そこに規則性などは何も感じられず、ただ無心に表面を削り続けて残した…と言った様子である。
「√0そのものに意味がある……という事でしょうか……? うーん」
規則性の感じられない数字の群れに、彼女は首を傾げる。
これ単体では欠片も意味が分からない代物に彼女は他にもこれらしきものは無いかと調べてみる事にした。
「確かあと行っていないのは……」
知識欲に背中を押されるままに、彼女はキッチンへと向かう。
キッチンは広々とした他の空間に比べて、大きな家具が敷き詰められているためか、少し手狭な印象を覚えるだろう。
こじんまりとしたシンクとコンロ、調理スペースを十分に確保出来る広い机がある。そして奥には、パントリーに続く木扉も取り付けられていた。
「……?」
入った時、妙な違和感があった。
まるで何か普段と違う事が起きているような、そんな違和感が。
彼女は半ば反射的に食器棚の方を向き、違和感の正体を探ろうと試みる
「どうも、何かがあるような気が……」
食器棚はいつも整頓された状態だ。清潔を保たれたグラスや皿、カトラリーなどが几帳面に収まっている。食事の支度はクラスの皆で分担して行うため、取り出しやすいように位置をあらかじめ決めているのだ。
……だが、グラスのうちの一つが大皿の上にぽつんと取り残されているのをあなたは見つけることになるだろう。
それだけではなく、ナイフがマグカップの中に立てられて戻されていたり、なんだか随分しっちゃかめっちゃかな配置となっている。
いつのまにこのようなことに。前回の食事後からだろうか?
「ええ……?」
あんまりにもしっちゃかめっちゃかな配置に彼女は困惑する。
何があったらこんな有様になるのだろうか?
いくら何でもマグカップの中にナイフは無いでしょう……と思いながらも、彼女はこれに作為的な物を感じた。
「こういうことが起こるとしたら……エル様とかでしょうか?」
戻す場所を決めて共有しているというのに、こうして乱雑になっている上、時間帯からして先生は今頃洗い物は一通り終えているだろうにこの有様。
その上一見すると規則性の類は見られない。
そんな一連の謎に疑問を抱いた彼女は解き明かす為に一計を案じる事にした。
彼女は移動したカトラリーのうちの1つ、手近にあったナイフだけを取り、回収する事にした。
これでまたナイフだけが移動して居たら意図的に移動させられた物だろうし、移動せずにまた新しい物が移動していたなら
外部の……戻す場所を知らないドールの仕業に違いない、と、そう考えて。
続いて彼女は手の中のナイフを持て余しながら、調理台へと視線を向けるだろう。
あなたはマグカップに突っ込まれていたナイフを手に取っておくことが出来る。
そして視線を向けた先、調理台の上には何か黄色くて大きな塊が3つほど取り残されていた。蜜がたっぷりの林檎とパイ生地の微かな香りがあなたの鼻腔をくすぐる。どうやら焼き上げる前のアップルパイがこの場所に安置されているようだ。
これを作っていたのは先生だろうか?仕事か何かを行うため、一度席を外しているのかもしれない。
パントリーは食糧庫の名の通り、野菜や果物などがうず高く積まれた木箱がいくつか並べられていた。壁に沿って置かれた木製の棚には、調味料やハーブなど調理で使う素材が所狭しと詰め込まれている。
そして雑多な食材で溢れかえり、手狭な印象を受ける部屋の奥には、地下へと続く階段があった。
「もしかして……侵入している子が居るならここも見ているのでは……?」
パントリーに着いた彼女は、先ほどの食器バラバラ事件(命名)の犯人に迫る為、ここも調べるべきなのでは? と思い至った。
その為、先ずは彼女は木箱に歩み寄り、隅から隅まで調べる事で在庫を確認しようと試みる。
パントリーには壁に沿って大きな木箱が並んでおり、その内部には蓋がされた上で冷蔵保存する必要がない果実や野菜などの食品が収められている。
ドールズはこれらの食材を好きな時に使用していいことになっているが、あまりに過食してしまうとコアで燃料に変換する工程が追い付かず、嘔吐反応を起こしてしまう場合があるので自制するようにとは言いつけられている。そんな制止を振り切って、沢山食べてしまう食い意地が張ったドールも稀に居るようだが。
木箱のそばに一つの林檎が落ちているのを見つける。恐らく先生がアップルパイを作る時に一つ落としてしまったのかもしれない。
「先生の忘れ物……いや、犯人の手がかりかも知れませんね」
落ちている林檎を見て考える。
先生がアップルパイを作ったとしたら確実にカトラリーバラバラ事件以前で、もしもカトラリーが外部のドールによる犯行だったとすれば、先生が落としていった林檎を見逃す可能性はとても低い。
そこまで考えた彼女は、足元に落ちている林檎を矯めつ眇めつ眺めながら、今度は調味料を置いた棚に向かう。
その近辺は、床に林檎が落ちていること以外に特に変化は見られないようだった。
調味料などが保管された棚は、入り口手前に設置されていた。こちらには調味料だけではなく、紅茶の茶葉やカカオなどが詰められた瓶が、ラベルをつけて保管されていたり、珈琲の抽出機が端の方に寄せられていたり、雑多な道具も詰め込まれているようだ。
あなたはそんな棚の前で、小箱がひとつ落ちていることに気付く。どうやら紅茶の茶葉の一つが収まっていた箱のようで、破れた袋から茶葉が零れ出して床に散乱しているようだ。
「これは……どう考えても先生ではありませんね。」
なんと雑な事だろう。
これでは氷室の様子が危ぶまれるが、ともかくこれはどう考えても先生ではないだろう。
そう考えた彼女は、紅茶の茶葉がおさまっていた小箱に散らばっている茶葉を詰めた物と落ちている林檎を拾い上げて通学カバンに入れた後、
どんな惨状になっていることだろうかと恐れながら地下室へと向かう。
地下室へ続く石階段は薄暗い。あなたは足元に注意して、滑らないように気を付けつつ降りていくことになる。
地下は途中から、石畳の床からツルツルとしたタイルの床へと移り変わる。眼前には鉄扉が待ち構えており、こちらもまたひんやりとした鉄製の閂が引っ掛けられていた。問題なく外側から閂は外すことが出来る。
重い扉を押し開くと、暗い空間には肌を刺す冷気が漂っている。遠目には天井からぶら下げられた解体後の肉や魚などが見えた。この空間そのものが冷蔵室になっているのだろう。
あなた方は普段、こちらの氷室に降りてくることは少ない。こういった食材は重い上、氷室全体が薄暗く怪我をする恐れもあるため、先生が全て運んでくるのだった。
隠れんぼでこの氷室に隠れてしまったドールが、まるで凍死するように機能停止した……という噂話も出回っていることもあり、あなたもあまり踏み行ったことはない。
この場所は、生鮮食品が保管されていること以外に目立った点はなさそうだ。
「寒い……ですね。」
慎重に降りて行った後、薄暗い氷室を見渡して何かがありそうだとは思うが明かりを持ってこなかった事を後悔する。
が、後悔して居ても仕方がない、彼女は諦めてパントリーを後にして、そのまま寮の外に出る事にした。
あなたが寝泊まりする学生寮の周辺には、広大な草地が広がっている。草木は柔らかな風に吹かれて、目一杯の陽光を浴びてのびのびと成長していた。
寮から北方に少し進んだ先には、学園へ通じる門が口を開いている。
そしてあなたが今しがた出てきたのは、もちろんあなたたちの生活空間であるオミクロンクラスの寮だ。二つの家が重なり合ったような細長い建造物で、一方は四階、一方は三階建てで二つの屋根が付いている。
四階は広い図書室の屋根裏であるが、三階建ての最上階には誰も辿り着けた試しがない。先生は物置だと語っていたが、その入り口すら発見されていなかった。
また寮を囲うように、鬱蒼とした森林が遠方まで広がっている。
「それじゃあ、アレを確認しましょうか」
寮の外に出てきた彼女は先ず寮の外周をぐるりと回って、その構造を……。
特に二階の構造を見ようとする。
そう、先生の部屋と廊下の長さの謎を暴こうとしているのだ。
あなたが注意深く寮の外観を観察すると、確かに先生の部屋の隣には不自然な小部屋ほどの大きさのスペースがあることに気がつけるだろう。
しかしあの小部屋への入り口は2階に発見されておらず、3階の物置と同様に立ち入ることが出来ない場所になっているようだ。
また、3階の物置があると思われる区画には窓が取り付けられているが、木の板が打ち付けられて塞がれていることも確認できていいだろう。
「やっぱり……そうですよね」
位置的に不自然なスペースにある小部屋には何が面していただろうか?
という疑問を先生の部屋の内装を思い出しながら考えていた彼女はそのままの足で森の方へと向かう。
「そういえば、何故森には近付いては行けないのでしょう」
なんて独り言をつぶやきながら。
森林はかなりの広範囲に広がっている。その道中、小川が流れていたり、小鳥の群れが飛び立っていたり、虫の囁きが響き渡っていたりと……さまざまな耳心地のいい物音で森は楽しく満ちていた。
学生寮周辺の森は、テーセラの機能性の確認の為に使われる事が多い。稀に先生がテーセラの同級生を連れて身体を動かす授業を行なっていたことを覚えている。デュオモデルであるあなたには関係のないことではあるが……
暫く寮から離れる南西の方角へ歩いていくと、あなたの目の前には2mほどの高さで聳え立ち、左右へと遠くまで続く格子状の鉄柵が見えてくる。
柵の間隔は狭く、また足を引っ掛ける部分も存在しないため、複数人でやってくるか、もしくは道具を使わなければ柵を越えることは出来ないだろう。
それに、あなたはこの柵を越えることを許されていない。先生との『決まりごと』で、そう決まっているからだ。
この先の森はさらに入り組んでおり、迷子になってしまう恐れもある。先生はそう語っていたのをあなたは思い出す。
「越えるなら道具が要りますね……。カーテンかシーツで縄梯子を作るのが手っ取り早そうですが……それをやっちゃったらここに居られないですよね」
越えるならどうしようか……とは考えたものの、今すぐ穏便に探検というのは難しそうだ。という結論にたどり着いた彼女は森を調べる事を辞めて学園の方に向かう。
正確には学園に行くための昇降機へと向かう。
あなたは、そのまま踵を返して敷地の北方にある学園へと通じる門へ向かう。煉瓦造りの大きな門と、その先の暗がりがあなたを飲み込もうとしているようだった。
この場所に立つと、何だか空気全体が重くなるようだ。暗くて、張り詰めていて、息がしづらいような。
門の先は広いトンネルが続いている。時折水滴が落ちるトンネルを少し歩くと、あなたの眼前には閉じられた平べったい扉が現れた。
これこそがあなたを学園へと運ぶ昇降機である。この昇降機に乗り込まなければ、学園へは行けないようになっている。
あなたが暫く扉の前で待っていれば、扉の隙間から仄かな光が灯る。到着したのだろう、自ずと扉はあなたを出迎えるように開いて、日頃あなた方が使っている棺型のベッドがそのまま縦になったような、白く四角い箱の内部へ踏み入ることが出来る様になる。
「それじゃあ、そろそろ行かないとですね」
門までたどり着いた彼女は随分と狭い箱の中に入る。
いつも通り、昇降機に乗った彼女は……そこでいつもとは違うことを考えてみた。
そう、昇降機などによって物体が移動するとき基本的に下がっているなら浮遊感が、上っているなら下方向に押し付ける圧力が感じられる筈だ。
故に、彼女はそこで昇降機が上に行っているのか下に行っているのかを自分の体の感覚から考えてみたのだ。
あなたは昇降機が動く振動に揺られながら、学園へと移動することが出来る。
あなたは、この昇降機の揺れが下降する際に起きる浮遊感であると分かる。学園へ向かう昇降機は、『下降して地下へ向かっている』ようだ。
「さて、今日は何を見に行きましょうか。」
日がな一日図書室で陽の光を眺め続けるというご老人のような一日を送った日の次の日、食事を終えてダイニングルームを出た彼女は、一通り見て周り終わった寮を出て、辺りを散策してみることにした。
そう、探すのはロゼットの言っていた見知らぬ花だ。
……が、生憎見た目どころか名前の手がかりもない……。
となってしまえば図鑑の記憶から一致する植物がない青い花を根気よく探すしかない。
「昨日は一日太陽を見て、今日は一日花を探す……こう見るとなんだか牧歌的ですね」
そんな余りにも時間がかかりそうな探し方に対して、意外にものほほんとした様子で彼女は楽しげに、先ずは森の付近、柵が巡らされた寮の外周を歩いてみる事にする。
あなたは心地よい天気の中、広大な森林を歩き始める。風にそよぐ枝葉の擦れる音、小鳥の囀る無数の声、虫のさざめきなど……今日も寮周辺の森林には様々な音で満ち満ちている。平穏で長閑な日の始まりを予感させる。
あなたは以前のように柵の前まで辿り着くと、柵を辿りながら寮の外周をしとしとと歩み始める。
流石に簡単に見つかるようなものであれば、今までここで過ごしていたあなた方が見つけていたであろう事も相俟って、詳細を知らぬ謎の青い花を探し出すのには随分と苦労するだろう。 それらしき青い花は何輪か道端に咲いていたが、どれもあなたは図鑑で見た事があるようなものばかりであった。
しかし暫く歩き続け、雲の巡りが幾度も続き、日が傾き始めた頃。広大な土地を歩き詰めたあなたの身に疲弊が見え始めた頃合いで、柵の傍で小さく咲く、か弱そうな青い輝きを見つけるだろう。それは降り注ぐ太陽の光に簡単に負けてしまうそうなほど弱々しく儚い小さな花で、数輪ほど身を寄せ合いながら懸命に咲き誇っている。花弁はまるで宝石のようで、水の波紋が広がるように繊細な形をしている。あなたは図鑑でさえも見たことのない美しい花を前に、これがロゼットの言っていた花であろうことを察するだろう。
「はあ……はあ……こんっ……な、事なら、リヒト様に、頼むべきでしたね。」
日が傾くまでの間歩くなどというデュオのドールには有るまじき大移動を成し遂げた彼女は……。
当然のごとく疲労困憊であった。
それこそ普段の恥ずかしいだとかの考えが吹き飛びリヒトに……仲のいいテーセラのドールに頼めば良かったなんて思ってしまう位には。
が、目的の場所に着いた以上いつまでもこうして倒れている訳にも行かない。
彼女は休憩がてらに今までの歩数と方向を変えた角度、そして自分の歩幅の記憶の記憶から、寮の入り口の扉から見てどれくらいの距離のどれくらいの方向にこの謎の花が咲いているかを計算して、次にここに来る時の近道を割りだそうと試みる。
…………
「さて、落ち着いたことですし、調べてみましょうか」
そうして少しの思索と小休止の後に疲労困憊から立ち直った彼女は花を調べて見ることにした。
先ずは根を傷つけないように周りの土をナイフをスコップ代わりにして掘って抜いてみて、図鑑に乗っていた植物と似ているか。形態的な特徴から分類が可能かどうか。そして、どのような特徴があるかを知ろうとする。
花の特徴については前述しているため割愛する。
発見した青い花は、他の種の植物と類似する特徴がある……ような気もするが、あなたが記憶する限りのどの植物と照らし合わせても、この青い花とは一致しなかった。
花弁自体が淡く光り輝いているが、蓄光性があるのか、自ら輝いているのかは判別がつかない。
また、スコップ代わりのナイフを用いて掘り起こす事は可能だろう。
「これだから形態的特徴から分類する方式は嫌いです」
花の生えている場所を確認した後、彼女は望むとおりの結果が思いつかなかった事にムスーっと頬っぺたを膨らませて分類法への不満を漏らす。
……が、今そんな事をしていても仕方がない。
スコップ(証拠品と言って回収していたナイフ)で掘り起こした花は1度横に置いてから、他に生えている花を根っこから引きちぎって抜く。
そして、盗んだナイフでギコギコと刻んで、
花、根、茎
の三つの部位に分けたあと、
右腕、左腕、お腹
の三つの制服で隠れる部位に順番に擦り付ける。
それで肌が赤くなったりヒリヒリしたり──そう、毒が無いかを皮膚で調べたあと、今度はそれを一つづつ舐めて味と毒の有無を調べ、最後に全てで毒を確認できなければ、噛んで食感を確かめようとするだろう。
分解した花は、どの部位を体に擦り付けても、あなたの人工皮膚にはいずれも何らかの反応は示さない。また口内に含んでみても、味覚神経は何らかの刺激を訴えることもなく、無味である。
あなたが使った自身の体は、あくまで人間の身体を模しただけの作り物なので、毒性がないという確信は持てないが、少なくともあなたの身には有害ではないらしいことが分かるだろう。
「毒は無し……有った方がまだ分類のしようがあったんですが……うん、気に入りました!
貴方はそうですね……『青ざめた花の謎』と題しましょうか」
手を土に汚しながら、一連の作業…もとい探究に区切りを付けた彼女はコゼットドロップの名を知らないが故に、この愛すべき奇妙な謎に『青ざめた花の謎』という珍妙な名前を付けた。
まだ誰も知らない(かもしれない)この花の持つ謎を解き明かす事、それはきっと何物にも劣らない楽しい探究になるだろうから、愛する人の手に口付けるような優しさを向けた。
それは彼女にとって正にあさましくてはしたない行為ではあったのだが……誰も見ていない今は、それもどうでもいい事だった。
「さて、流石にそろそろ帰らないとお父様が心配してしまいますね」
根を傷つけないように青く輝く花を持って暗くなり始めた平原を歩き、学生寮へと帰る道を歩き始める。
そうして、学生寮に帰った彼女は、布巾か雑巾を探して掘り起こした土ごとその青い花の根っこを包み、ワードローブの片隅に安置してから、ノートに簡単なスケッチと共に『青い花の謎』と書き込んで眠るだろう。
後日、朝起きて水を飲んだ彼女の口の中が真っ青になっていて悲鳴を上げる事になったのは……また別の話。