車窓の外は銀河であった。大地の姿はなく、竜胆の花はどこにも咲いていないし、鷺や鳥取りもいない。ただ、ずっと夜で、ずっと星。美しくて寂しい場所だ。
列車の乗客はわたしと、向かいの席に座るもう一人のわたしの姿──いいえ、それはわたしの唯一の家族。わたしの守護者。わたしの愛。わたしにとって、世界で一番大切な人。
「お姉ちゃん」
わたしは彼女の手を握る。冷たくて、何故だか知らないけど、濡れている。でも構わずに強く握る。
「わたしたち、一緒に行こうねぇ」
言えば、手を優しく握り返される。重なった手のひらが熱源になって、胸までじんわりと温かくなる。姉は穏やかに微笑む。でも、なんにも答えてはくれない。
ねぇ、声を聞かせてよ。わたしはそう乞うけれど、それは列車の灯りの明滅に、いともたやすく掻き消される。
──そして、カンパネラの意識はのっそりと、重い布を一枚一枚剥ぐように意識を少しずつ浮上させていく。
彼女はダイニングのテーブルでうつ伏せになって目を閉じている。夢の終わりをまだ認識できておらず、うつらうつらとしていた。覚醒しきっていない様子であり、自分が身じろぎして鳴った布の擦れる音さえ彼女の耳には届いていない。
《Rosetta》
暖かな部屋、温い肌、冷たいはら。
おもちゃ箱のロゼットは、今日もベールのかかったような世界で生きている。
──何だっけ、アレ。
右。左。右。左。
脚をなめらかに動かしながら、偽物の頭蓋の内で、思考を巡らせている。
妹──ミシェラがお披露目をするようだから、何かをプレゼントしてあげたいと思ったのだけれど。どうにも思い出せない。
欠陥品の中で選ばれるなら、きっとミシェラだろうとは思っていた。
美しいが瑕のある、変わり者の宝石たちの中で、ロゼットはいっとう彼女を気に入っている。
可愛らしい、エーナモデルのドール。欠けてはいるが、それでもヒトを愛する少女。
かわいいかわいい、自分の妹分だ。
だから、早く抱き締めてあげたい──とは、思っていたのだけれど。
どうやら他の誰かが行っているようだし、それなら贈り物の支度をしたほうがいいと判断したのだ。
中身はまるで思い出せないが。
口元をゆるく歪めて、彼女はダイニングにやってきた。
眠り姫を見つけたならば、ゆっくりと傍へと近づいて行くことだろう。
「おはよう、寝坊助さん。えーと……カンパネラちゃん、だっけ?」
星間の旅は、未だ遠く。
陽だまりの下、悪気なくロゼットは肩を叩いた。目を覚ましたなら、顔を覗き込む銀の双眸が見えるだろう。
とん、という感覚。鼓膜を叩く優しい声。肩を叩かれたのだと気付くまでにはずいぶん時間がかかっただろう。んん、とくぐもった声を喉奥から溢しつつ、カンパネラは突っ伏していた顔を横にずらし、口をもにもにと動かしながらそうっと瞼を持ち上げる。前髪の奥に隠された、ダイヤモンドのような相貌が、朝の目覚めを迎え──
「………ッッッ!?!?」
と、その表情は一瞬にして穏やかさを失い、どうっと彼女は汗をかいて顔を青くした。
昼の空に昇るような美しい銀の両目が、こちらを覗いていたのである。目の前で、薔薇のような鮮やかな色の頭髪が揺れて。 それが人嫌いのカンパネラに強く衝撃を与え、頭の中で警鐘を鳴らし、ひどく動揺したカンパネラは勢い良く顔を上げる。そのまま咄嗟に後方へ逃れようとして、がたりと椅子から転げ落ちそうになった。
「うぇっ、あっ!? ごめんなさい!? あれ!? わっ、……わたし……寝て、ました……?」
言い終えた頃には、目の前の少女の名前も頭の中に浮かんだ。
《Rosetta》
「わあ」
大仰な動きに目を見開き、ロゼットは声を漏らした。
落ちそうになる相手のことも、特に助ける気配はない。
手を出さず、驚きもせず。薄い笑みを浮かべたまま、彼女は見守っている。
「そうだね。よく寝ていたよ。寝不足だった?」
小首を傾げ、そう問いかけた。
トゥリアと言えど、寄り添うことが得手とは限らない。会話を切り出すことも、また得意とは言い切れない者もいる。
ロゼットは不器用な方だ。恐ろしく──なんて言葉が、形容詞として付くほどに。
「ミシェラがお披露目で行ってしまうけれど、ちゃんと聞いていた?」
耳に髪をかけながら、そう口にする。
「え、あ……は、はい。ちょっと最近……夢見が悪くて……。」
目を擦りながらカンパネラは答える。
ロゼットさん。ぐいぐいと近寄って来るでもなく、馬鹿にして来るでもない、カンパネラにとっては丁度良い距離感の少女だ。少しだけ安心できた。
彼女の抱える不器用さを、カンパネラは気にもしない。少し不器用なくらいが、彼女には合っているのかもしれない。すっかり青ざめていた顔も、元の顔色を取り戻す。
「は……はい。き、聞いてました。……さ、みしくなるけど、でも、……めでたいですよね。お祝いしにいかなくちゃ、いけませんね……」
ロゼットの所作につられ、カンパネラも耳に髪を掛けて答える。眉を八の字にして、少し困ったような笑みを浮かべ。その表情には言葉通りの寂しさが僅かに滲んでいた。
少しだけ苦手だけど、可愛いと思える少女の笑顔を思い浮かべる。おこがましいけれど、妹や娘のように思っていた相手だ。
「……あの、ミシェラさん、どちらにいらっしゃるか……あの。ご存じですか?」
《Rosetta》
夢。
人形からはそう出てこない言葉だが、ロゼットにも覚えがある。寝ている時に見る、よく分からない思い出の再体験のことだ。
語を選んでいるのか、彼女は辿々しく言葉を紡ぐ。
急かす必要はない。陶器のように壊れやすい言葉は、星屑のようなものだ。
見守っているうちは美しいが、不用意に触れれば砕けてしまう。
カンパネラのことを待つのも苦しくはなかった。ガラスのお腹に手を当てて、ぼんやりと相手の声を聞いている。
「お揃いだね」
それだけ返して、質問へと意識を向けた。
ミシェラは今どこにいるのだっけ。ラウンジだっただろうか?
何かを渡そうとしていた気がするが、もうどうでもよくなってしまった。
私自身がプレゼントになろうと、そんな気持ちで口を開く。
「ラウンジかなあ。よければ一緒に行こうよ」
「あ、えと……い、いいんですか……? あの、ぜひ………お願いします………」
ロゼットからの提案は、カンパネラにとって好都合だった。恐らく今ごろ色んなドールに祝福の言葉をかけられているであろうミシェラのもとへ、一人で向かって挨拶をしに行くのは、カンパネラには少々難しいことだった。
友人ではあらずとも、多少は話せる相手であるロゼットには、一定の信頼を置いていた。彼女がついてきてくれるならなんとかなりそうだ。
「……い、行きましょう……」
カンパネラはそう言って席を立った。
「……い、今なら誰もいないかな………」
部屋の外から耳を澄ませる。防音の部屋とは言えども、演奏は僅かに外へと漏れ出るものだが、今は何も聞こえない。……たぶん、大丈夫だ。たぶん。
カンパネラは、合唱室に忘れ物をしていた。授業で使っていた楽譜だ。
その曲についてはとっくに暗譜していて、すべてのパートが歌えるようになっているが、より良い自主練習のためにはあのメモだらけの楽譜が必要だったのである。
さっと楽譜を探し出して、早く部屋を出よう。カンパネラは扉をそっと開き、部屋の中へ足を踏み入れた。
合唱室の内部は、あなたがよく知るものと大差ない。コーラスごとに分かれて立つことが出来るよう、部屋の奥の床は階段上になっている。ドールズは基本、こちらの階段側に立ち、ドールズに音楽を教えるトゥリアクラスの先生は、部屋の手前側の教卓の前か、部屋の奥に置かれたピアノで伴奏をする。合唱の授業の基本形だ。
階段状になっている床の最上段に乗り、ソプラノ側の一番端まで移動する。……楽譜はない。一通り歩いて見渡してみたが、やはり見つからなかった。
「あ、あれ………どうしよう。せ、先生が回収しちゃったのかな…………誰かに持ってかれちゃった…………?」
おろおろと独り言を呟いていると、部屋の奥のグランドピアノが目についた。大きくて黒くてつやつやで、演奏者に寄り添った音楽を奏でる、巨大な生き物のような楽器。
蓋はテーブルのように広い。そこに自分の楽譜が置かれているかもしれない。内部も簡単に物が入りそうなスペースがあるので、何かの間違いで滑り込んでしまう可能性もないとは言えないだろう。
こっちを探してみよう、とピアノの方へ近付いた。
あなたは自身の楽譜を探すため、そっと部屋の奥にあるグランドピアノに歩み寄る。蓋の上、内部には楽譜らしきものは見当たらない。
あなたはグランドピアノの下を覗き込もうとした。
────ダン!!!!!
ピアノの鍵盤の、一番低い音が集う場所を一気に叩いたような、乱暴な音があなたの鼓膜を劈いた。
僅かに身を屈ませているであろうあなたを見下ろすように、見知らぬドールが現れたのだ。奇抜にギラギラと輝く黄金と黒いメッシュの入った長髪がカーテンのように滑り落ちて、あなたの頬を掠って撫ぜた。
「ギャハハハハハ、ギャハ、ゲハハハ。オミクロンの欠陥ドールだ。ギャハハ! ねぇどうしたの? 何か探してるのかい? 可哀想に」
耳障りで下賎な笑い声があなたに零れ落ちる。それはとても至近距離で受けて気分が良いものではないはずだ。
「ひッ!? っい゛、いやぁッ!!」
突然鳴り響いた乱暴な音に、カンパネラは咄嗟に強く耳を抑えた。彼女の頬を掠める何か……誰かの髪だと気付いた時には、カンパネラは目に涙を浮かべ、顔を真っ青にしていた。
すぐ近くで響く恐ろしい笑い声に、カンパネラは「ひィッ」と情けない声を上げ、後方へ転んで尻餅をついた。それを言葉として頭の中に受け入れるまでにはずいぶん時間を要しただろう。
「え、うあぁ、ごめんなさ………だ、誰ッ………」
変わらず耳を強く抑えながら、ひどく怯えた様子で彼のことを見上げるカンパネラの姿は、さながら肉食獣に狙われた哀れな小動物そのものだろう。
勢いよく尻臀をついてしまったあなたが見上げた先に、得体の知れない奇妙すぎるドールは立っていた。
金色の巻き髪に、真っ青なツルツルとした瞳。薔薇色の頬……の形に削って色を塗った、不気味で頭でっかちなビスクドールの頭部を被った、奇妙としか形容しようのないドールだった。
被り物の隙間から、先ほどあなたが見かけた金髪に黒のメッシュが入った長髪が滑り落ちている。スカートタイプの制服を纏っており、またその声質から辛うじて彼女が女性型であると分かった。
「謝るなよスクラップ。大丈夫、ただの変な人だ。君を第三の壁の向こうの監視から守りたいだけ。怖がるなよハニービーンズ。虐めたくなるから。
ところでウサギさんの探し物はコレかよ! オイ!」
支離滅裂で訳の分からないことを宣うそのドールは、その手にあるものを掲げた。それはあなたがまさしく今探していた楽譜の束であった。
「ひ………ひいぃっ…………」
偽物の頭だ、というのを理解するまで、またも時間がかかった。耳を塞いで目を細め、これ以上の恐怖を自身の中に受け入れないようにしているのである。
奇妙で、得体が知れなくて、恐ろしい。カンパネラの身体は震え、宝石のような涙がこぼれ落ちる。
「い、ッいいいじめないでくださいごめんなさいッ、うぅ~…………。
………えっ、あ!」
理解しがたいそのドールの発言にただ怯えるばかりであったカンパネラが、その時目を見開いた。ずっと探していた楽譜を、目の前の奇妙な彼女が持っているではないか。
「ど、どうして………あの、それです、かッ、返して、くださいまし………!」
経験上、きっと簡単に返してはくれないだろうと思ったカンパネラは、ドールに対し必死に乞うた。身体の震えは止まらない。
「フーーン、カワイイ文字だね……カワイイって型にはまらないよね。自由系文学みたいな。新しめの表現方法みてーな。
ワタシもカワイコぶる為にこの被り物作ったんだ〜。カワイイだろ。こんな頭でっかちなドールいたら見逃せないだろ? だから量産型ドールズに埋もれないように? 最近それも無駄だって急に分かっちゃったんだけどネッ。
そう、宇宙の全ては無駄で構成されているのです。有限の有機生命体の寄せ集めで構築された失敗作の銀河系は愚かな選択により数百年余で滅ぶ運命にあったのです。方舟はありません。ザ・エンドってね。ギャハハ!」
ドールは饒舌に、早口に、捲し立てるように言葉の濁流であなたを押し流そうとする。人差し指と親指で摘み上げられた楽譜がユラユラと揺れている。
「キンキン叫ぶなよ花のカタチ。ワタシはお前と仲良くしたいだけ。仲良しのお友達になりたいワケ。一足飛びで親友になりたいワケ。
だってオミクロンの子達は無二の個性を持ってる。ワタシはソレが羨ましいのよ。詩の上の役者、ワタシめドロシーとお友達になろうよ! ギャハハ、そしたら楽譜は返してやるよ。嫌だっつったら悲しいから楽譜はビリビリにしちゃう。」
理論も話の文脈も何もかも、カンパネラには理解できなかった。というか、彼女はあまりの動揺に思考を停止していた。自分の状況さえまだうまく飲み込めていなくて、ただ汗がだくだくと流れる感覚だけが鮮明だ。
「なッ、えっ!? 何、どゆこと、何……な、なんなの………」
仲良くしたいとか友達になろうとか親友になりたいとか、どこからなんと言っていいのか分からない。
なんなの!? あなた、オミクロンじゃないの!? 十分個性的じゃない!
……という、各方面に対し失礼な言葉が頭に浮かぶが、舌がもつれているのが幸いして口にされることはなかった。
それはさておき、楽譜をビリビリにされるのは困る。先生に怒られてしまうし、せっかくたくさんメモしたのに破られるのは嫌だ。
はったりではなく、本気で彼女は楽譜を破いてしまうだろう。なんなら楽譜を破く以上のこともされるかもしれない。見た目とか中身とか、行動も既に怖いので……。
カンパネラは困惑の表情のままに、喉奥から声を絞り出す。
「……い、いいですそれで、それでいいのであの、楽譜! はやく返して、くださいぃ……っ!」
「まあ聞けよスノウホワイト。トイボックスはヒトに寄り添ってやれる、ヒトに近しいドールズの製造をモットーとしてるデショ。それでいて、ドールは完璧なケアとサポートを求められてるワケ。
でもこれは持論なんだけどさァ、人間が完璧なワケあるかよ。欠陥があるからこそ人間ってカワイイんだよね。小動物も食用家畜も人間も生きとし生ける有機生命体はミステリアスで複雑でカワイイ。
だからァ、ワタシ思ったの。個性と欠陥を獲得すれば、ヒトに近いものになれるんじゃないかなーって。だからパートツー、人間観察も兼ねてオミクロンの欠陥ドールのお友達が欲しいっつーコト! ギャハッ、言っちゃった」
ドロシーと名乗ったドールは、気恥ずかしそうな素振りを取るため、内股にした片足を上げ、両手を頬……洋紅に乱雑に塗ったくった粘土製の固そうな被り物の頬に両手を添えた。
その拍子で楽譜はぐしゃりと嫌な音を立てたが、ドロシーはどこ吹く風。皺だらけになってしまったあなたの楽譜で、怯えてこちらを見上げる青ざめた鼻先にぺしりと叩き付けて返してやろうとする。
更にはあなたの目の前で膝を折り、洒落にならないほど顔を近づけて問いを抱えた。
「それで、ウサギさんのおーなまーえはー? お友達になってくれんだろーが。今更ヤダはやめてね、悲しくて脆そうな小指折っちゃうから。
あ! ワタシ、テーセラだから力持ちなのが取り柄! キャハハッ」
……すごい人に目をつけられてしまったのかもしれない……。
ドロシーという名のドールはその珍妙な容姿に反し、なんだか言葉が理知的で、それがぐちゃぐちゃのパッチワークみたいに思えて怖かった。楽譜がぐしゃぐしゃにされても文句のひとつも言えないで、カンパネラは己の肩を抱く。
「ヒッ」
楽譜を震える手で受け取るが、すぐに落としてしまってぱたりと音が鳴る。楽譜の方を見られないぐらい顔が近い。顔と言っても、相手のものは不気味なビスクドールの被り物の顔であるが。
「ヒィ、え、えっと、ッカ、かか………カン、パネラ、………」
小指を折っちゃうから、なんて脅しをされたなら、もはやまともな拒絶などできまい。テーセラモデルのドールの力強さなんてこの身をもって十二分に知っている。
カンパネラはびゅうびゅうとした荒れた呼吸音を必死に抑えながら、蚊の鳴くような細い声で答えた。宝石の涙が次から次へとこぼれ落ち、相手の被り物に付着してしまいそうだった。
正直、かなり限界だ。ガンガンと頭が痛く、少しずつ意識が遠のくのを感じている。
“彼女”が出てこようとしているのだ。
「ギャハハ! ギャハッ、カンパネラね……カンパネラ。リンゴーン、ギャハハハ!! カンパネラ、カンパネラ!!」
ドロシーは耳障りな濁り声で、あなたの名前を繰り返し呼び掛けながら下賎な笑い声をあげ続ける。まるで自らの名を馬鹿にされ、嗤われているかのような。聞いているだけで相手に不安感を与えてしまうような不愉快な叫声を静かな合唱室に響かせる。
しかして彼女はすっとあなたの至近距離からあっさり離れて立ち上がると、ずり落ちそうになっていた被り物をきちんと被り直した。
「第三の壁、宇宙の真理、花言葉、人生の意味。もろもろなんでも、いろんなことが気になったら、ワタシがお前に教えてやるよ。その代わり、ワタシに醜くて足りなくてもどかしくて欠陥した人間臭さを教えてネッ。
ギャハハ、四番チャンネルトイボックス劇場、コメンテータードロシーがお送り致しましたぁ! アデュー!」
散々捲し立てて叫び散らかしたかと思えば、ビヨンビヨンと跳ね回りながらドロシーは消えた。ぐちゃぐちゃにされたあなたに残されたのは、ドロシーの友達という訳のわからない称号だけだろう。
寒い場所へ服もなしに放り出された時のように口許が震え、かちかちと、歯と歯が小刻みに触れて音を立てる。
正直に答えた名前を、玩具を弄ぶように繰り返される。別にそのことで傷付いた訳ではなかったが、ただひたすらに「正気か?」と疑いたくなるような挙動に顔を青くして、もはや少しの嗚咽もなく泣くばかりであった。
やっと距離が離れたと思えば、またもや言葉の濁流を浴びせられる。
「い?」とか「あ?」とか、そんな意味のない母音を口から溢していれば、嵐が過ぎ去るようにドロシーはいなくなった。
「え、あ……………な、………なんなの………!?!?」
頭痛は止み、意識も鮮明さを徐々に取り戻す。カンパネラは涙を拭うことも忘れ、困惑の声を上げた。
合唱室には腰を抜かした少女と、すっかりぐしゃぐしゃになってしまった楽譜がひとつ。カンパネラは頭の中に響く、姉からの心配の声をただぼうっと聞いていた。
カンパネラは涙目であった。
非常に臆病である彼女にとって、それは日常であるが。
というのも、カンパネラは先ほどの授業中、眠気で意識がふわふわしているちょうどその時に先生に当てられ、焦りでとんちんかんな答えを言ってしまったのである。問題の趣旨から大きく外れた答えであった。
どこからか聞こえた吹き出す音。先生の困ったような優しい笑顔。
その教室に悪意は存在しなかった。それが、カンパネラには辛かったのである。
オミクロンクラスの子供たちの中には、積極的に声をかけて助けてくれるドールも多い。カンパネラが必要以上に恥ずかしがるたび、気にしなくていいよと慰めてくれる。
しかしそれはカンパネラの羞恥心を加速させてしまうのだ。
どんなに優しい声や態度であっても、カンパネラは勝手にその裏を想像して怯えるのである。
講義室から先生が去ると、カンパネラは誰かに声をかけられないよう、机にうつ伏せになって寝たふりをした。今日の授業は今ので最後。次の授業があるからといつもなら起こしに来るドールたちも、今回は放っておいてくれたようだ。
カンパネラは瞼の裏の一人きりの世界で、すん、と鼻をすすりながら思う。
ああ、こんな些細なことであんなに顔を真っ赤にして。いつも優しい誰かのことを疑って。いやな女、恥ずかしい女、嫌いよ、大嫌い……。
習慣のように自己嫌悪を加速させながら、カンパネラはやっと顔を上げる。ずいぶん見慣れた講義室の全体を、座席から見渡した。
「おい」
あなたが授業後、哀しみに暮れ始めて暫く。ようやく顔を上げて周囲を見渡し始めたところで、その背後から冷淡でぶっきらぼうな呼び声が落ちるだろう。
もしあなたが振り返るならば、階段状になった座席の後方で、目が覚めるようなワインレッドの髪の少年があなたを見下していることに気付ける。
「いつまでもグズグズ鬱陶しいんだよ、ジャンク品。ここが何処だか理解出来てるか?
そもそも出来損ないに席なんか無い。とっととがらくたの寝床にでも帰ってメソメソしてろ、勉強の邪魔になってるんだよ」
彼は脇に積まれた紙束から一枚抜き取り、ぐしゃぐしゃと丸めて紙屑にしてあなたの方へ投げ飛ばす。無慈悲な迫害の矢は弧を描いて、あなたが避けるそぶりを見せなければその頭上に落ちるようにとんでくるだろう。
はた、とカンパネラの身体が固まった。冷たい声。……こちらを見下してくるドール特有の、まっすぐ突き刺すような声。
カンパネラは振り向こうとして振り向けなかった。首の可動域が突然錆びたように、恐ろしさから振り向けなかったのだ。
だってあれは、隠すつもりもない悪意や敵意の込められた声だったのだ。カンパネラはもはや意味をなさない音すら出せなかった。
ザクザクと心臓を切り裂くような言葉。鳩尾の辺りが苦しくなって息が詰まった。先ほどの出来事で柔らかくなった心に、鋭いナイフを突き立てられたゆえに、彼女は極限の緊張に襲われたのだった。
分かってるよ、知ってるよ、わたしが出来損ないで、こんなとこにいる価値なんてないってことなんて。
自己嫌悪に他者からの否定が重なる。カンパネラはふと、意識の遠のきを感じる。
──背後でくしゃりと紙が丸められる音と共に、彼女の持ち上がった頭がガクンと落ちるように脱力したのが見えただろうか。
そして彼女は背中を丸めたまま、ゆらりと幽霊の挙動のように振り向く。目は眠るように閉ざされている。
そして、彼女は──カンパネラの“姉なるもの”は、飛んできた紙屑から避けもせず、ぱし、と片手で受け取った。紙屑がさらにくしゃりと潰されたのが見えるだろう。
「───ご機嫌よう。人に物を投げるのは、あまり褒められた行為ではありませんよ。聡明な眼の貴方ならば、そんなことはお分かりでしょうけれど」
声は淡々としていた。吃りもせず、詰まりもなく、清流のごとくするすると流れて響く。
「……………はぁ?」
投げ入れられた迫害は、吸い込まれるようにして彼女の手のひらにあっさりと収まり、その様子を後ろから見ていた青年ドールは、眉を顰める。
どこからどう見ても、先ほどまで苦しんで泣き寝入りをして蹲っていたドールには見えない、まるきり豹変した凛々しい姿を前に、訝しむように、胡乱げな眼差しを向ける。
「お前、誰だよ。さっきまで泣きべそかいてた欠陥ドールはどうした? ……ああいや待て。理解した。
お前の欠陥はアイツだろ。さしずめ人格形成に問題があったんだろうな、同情する。先生の授業を愚かにも聞き逃した挙句、笑いものにされて何も言えずに蹲ってるような惨めなヤツがオミクロンに堕とされないわけがないからな。」
ハ、と青年は鼻で笑いながら、同情的な言葉を使いつつも軽蔑の眼差しであなたを睥睨する。心底あなた方ジャンクを見下しているのだと分かりきった態度であろう。
姉なるものは目を閉じている。しかし相手は冷たい視線を感じるかもしれない。穏やかな表情の裏側、瞼の内側の美しい空色の眼球は、静かに青年を睨め付けている。
「いえ。どちらかと言えば、私自身があの子の欠陥に該当するでしょうね。彼女がオミクロンクラスへ移ったのは、私が生まれた所為ですわ」
一見自虐的な言葉であるのに、声色は一貫して凛としていた。姉なるものは指揮棒のような真っ直ぐな姿勢で立ち上がる。コ、コ、と硬質な靴の踵を鳴らし、青年の目の前まで歩く。もし青年が後退しても、彼女は距離を同じほどに詰めるだろう。
女性にしては上背の高い彼女であるが、それでも青年とはずいぶん差が付いている。しかし、それでも尚姉なるものは、青年を見下し返すような素振りを見せた。斜め右の方向にころりと首を傾け、じっと見つめる。
「ところで貴方、ずいぶんあの子の事が気になっているのですね。この部屋にはもう他の誰もいませんけれど……。ジャンク品に塵を投げるために、わざわざここへ残っていらしたのですか?」
「…………お前が?」
何処が。そう言いたげな、胡乱げな眼差しをなおもあなたへ投げる。
どう考えても、認めるのは癪だが、今の凛とした柱時計のようにきっかりした立ち姿でこちらを見る──目は閉ざしているが、確かに射抜かれているような感慨を覚えるので──彼女の方が、ドールの姿として理想的だろう。
そう言いたいのか、しかしこちらへ迫る彼女の何か言い知れぬ迫力に、青年は喉から溢れかけていた言葉を飲み込んだ。
「は? ……何を、勘違いしてるんだよ。思い違いも、甚だしい。
……俺はいつもこの場所で勉強してる。お前のお荷物の欠陥人格がいつまで経ってもメソメソメソメソ……耳障りで仕方がなかったんだよ! 泣くなら出来損ないの縄張りで勝手に傷を舐め合ってろ、不愉快になる。
お前もだよ、とっとと何処かへ行け! 俺の邪魔をするな、俺はプリマにならないといけないんだ、……」
と、そこまで吐き捨てて、青年はばっと顔を背けた。不思議と彼女を前にすると、感情を発露することを促されているような、爪を立てられているような気になるのはなぜなのか。
「………」
姉なるものはただ、名も知らぬ青年の吐露を黙って聞いていた。冷ややかに、相槌もせず、しかし確かに耳だけは傾けて。
愛する彼女を「欠陥人格」と呼ばれても、新しい反応を見せることはなく、本音が思わずまろびでた、というような素振りを見て尚。
「誰かを見下すことに必死になっておられるのですね。自身が見下されていると感じるから。そうでなくては、心が保てないから」
ただ、そう言って。
氷柱のような立ち姿の少女は、青年の横をすっと通りすぎていった。
「私はこれで。失礼いたしました。」
少女は講義室の扉を開け、それ以上は何も言わずにその場を去ろうと廊下へ足を踏み出した。例え引き留められたとしても、少女は立ち止まらないだろう。
「……な……ッ」
欠陥ドール如きが、この俺を罵った! 見下しやがって、後悔させてやる。
そんな怒号を吐こうとした口は、しかし。彼女がそれをぶつけられる前に、足早に通り過ぎてしまったことで、ついぞ少年の口から飛び出すことはなかった。
額や頸には嫌な汗が伝い、心臓が音を立てて脈打ち、息苦しい。このような反応、まさしく図星を突かれたようではないか、忌々しい!
拳を握りしめて震わせた青年は、あの澄ました美しい横顔を思い出して奥歯を噛み締め、「……クソ!」と机に振り下ろした拳を叩きつける。
静かな講義室の響いたのは、ただそれだけだった。
うふふ、あはは、ふふ。
わたしは笑っている。頬杖をつき、肩を揺らし、目を細め、舌を転がして、お喋りをして。
あはは。なぁに、それ。ふふ。
楽しい、と感じる。幸せだなぁとも。穏やかな時間が流れ、多幸感がわたしを包んでいる。
すいぶん慣れ親しんだ、うつくしいドールたちのための箱庭。風は柔らかく、視界はぼやけるぐらいに明るく、淡い緑のにおい……。そして、
──あなた、誰なの?
「ッ、」
肩をびく、と震わせて、カンパネラは眠りから覚める。
……ああ、またこの夢か。
カンパネラは呼吸を落ち着かせながら、血の気が引くような感覚と、落胆を覚えていた。
「ここは………」
カンパネラは扉に背中からもたれかかり、膝を抱えて眠っていたらしい。ぼんやりした頭で最後の記憶を辿る。
……講義室でかけられた、冷淡なナイフのような言葉。涙を流す暇もなく意識が遠ざかる感覚。姉が、出ていたのだ。そう気付いた。
姉は、表に出ている人格の交代に時間がかかることを考慮して、この時間帯では人の出入りが比較的少ないであろう備品室の中に入ってくれたのだろう。
カンパネラは顔を上げて、備品室を見渡した。……誰もいなければ良いなぁ。そう、切実に祈りながら。
備品室に人は居ない。扉が閉ざされており、他に窓はなく、その上照明も現在は消灯しているため、現在は自分の指先すら見えないほどに酷く薄暗い有様だった。
あなたは扉の前に座っているので、手探りで壁を弄れば、照明のスイッチに手が届くだろう。スイッチを入れれば、室内の様子が詳らかになる。
この場所は主に講義室での授業に用いる雑多な教材備品を保管して置くスペースだ。黒板に図形を描く為の巨大な定規や、人体の構造を学ぶ為常設された人体模型、スチールラックには所狭しとチョークの替えや過去の教材を束ねて置いたものなどがまとめて置かれている。
清掃は欠かしていないのか、多少手狭でも埃っぽくはなく、清潔な倉庫であると分かる。
人の気配がないことに安心したカンパネラは、ほっと息をつきながら立ち上がり、壁を手のひらで何度か叩いて部屋の電気のスイッチを探った。
「ん……」
ぱち、という音と感触と共に、部屋の明かりが点灯する。眠気眼に電灯は厳しかった。眩しさに思わず目をつむり、しばらくして、おそるおそるといったふうに目をゆっくりと開く。
光に目が慣れてくると、カンパネラはきょろきょろと改めて備品室を見渡した。あまり備品室に入ったことがないので、なんだか新鮮だ。
好奇心のままに、カンパネラは狭い部屋を歩き回る。教科書らしきものの束が少し気になったが、触った途端に何かの拍子で全てを落として散乱させるビジョンが見えたので即座に手を引っ込めた。
さて、人体模型を見て「ヒィッ」と悲鳴を上げたのも束の間、彼女は眺めていたスチールラックの一角に、隠れるようにそっと置かれていたものに気が付いた。
「……箱?」
教材のひとつなのかな、鉱石の標本の箱なのかなと考えたが、それをこんな小さな箱に入れるものだろうか。小箱は木製で、誰かの手作りのように見えた。継ぎ接ぎな感じで、拙さがあるというかなんというか。
ますますどうしてこんなものが備品室にあるのだろうか。カンパネラは小箱を手に取り、中を見てみようとした。
小箱はそのサイズに反し、ずっしりとした重さだった。蓋は難なく開けることができて、カンパネラはその場に座り込み、その箱の内部を見てみる。
「………わ、わぁ……なに、これ……?」
中には、天使様がいらした。
小さな小さな世界にひとり立ち尽くす、金属製のお人形……天使像と呼ぶべきか。円盤状の大地にお立ちになった天使様を、カンパネラは不思議そうに見つめた。電灯の光を反射して、きらきら見えて綺麗だった。
内部には細かなからくりが施されているように見えるが、何をどうしたらどうなるのかさっぱり見当がつかない。
「んええ、何……オルゴール……? 違うかな。うーん……」
カンパネラはまじまじと小箱を見つめる。
あなたはもしや、この小箱がオルゴールなのでは、と早々に当たりを付ける。用途が理解出来るならば構造の理解も容易く、あなたは小箱をひっくり返したり弄り回したりする過程で、円盤型のステージに乗る天使像を摘むと、ぐるりとそのまま回転させることが出来ることに気がつく。
天使像を回転させるごとにカチ、コチ、カチ、と小箱内部の絡繰部分から音が響いて、やがて一定の地点で像は停止する。
その状態でそっと手を離せば、少しの間を開けて──天使像はまるで舞うように逆回転に巻き戻り始め、その挙動と同じくして、錆び付いた古い旋律が静かな備品室に流れ始めた。
あなたはこの旋律に聞き覚えがある。
これを聞いていると、何だか無性に、こめかみが、痛み始めた──……。
「───っ、!?」
頭をじわじわと絞めるような痛みが走る。カンパネラは、本当にオルゴールであったらしいそれの奏でる音色を聴きながら、激しい動揺を見せた。床に座り込んでいた彼女は不意に体の力が抜けて、壁にどすんと背中を打つ。
「い、痛。……何………」
そして、すりガラス越しに見えているような、雨が降れば消えてしまう水溶性のような、そんな曖昧な景色を見た。
それは夕暮れ時。
それは淡いきらめき。
それは、………。
そこは、見慣れた箱庭。でも、こんなの、こんなの、わたし、知らない……。
「───あなた、誰なの?」
この問いかけを、ついさっきもしていた気がする。
ふっと、目眩のような感覚から立ち直る。カンパネラはその手のひらから小箱を落としていた。カンパネラは得体の知れないそれを、何も考えずにそっと拾い上げる。
簡単に手のひらに収まるぐらいの小さな小さなオルゴール。誰かが作った、天使様のいらっしゃるオルゴール。
それに問いかけるように、カンパネラは繰り返す。
「……誰、なの………?」
そしてカンパネラはしばらく俯いたあと、カーディガンの裏に小箱を隠すようにして持って立ち上がり、備品室の電灯を消した。なんとなく、これは自分が持っていた方が良い気がした。いつもなら、勝手に物を持ち出したら怒られるかもしれないと、こんなことはしなかった。
扉を開く。カンパネラは部屋の外へ出る。今の景色はなんだったのだろうと考えて、やめた。
きっと今のわたしには、考えても考えても分からない。ただ、どこかで聞いたことのあるような旋律だけが脳髄にへばりついていた。