「ミシェラ!」
手早く食事を終えて、彼は席から立ち上がる。優雅と言うに相応しい立ち振る舞いの彼だが、今はガタンと大きな椅子を引く音を立て立ち上がった。のんびり屋の彼にしては珍しく、大股でミシェラの側まで向かう。白銀の滑らかな髪が揺れて、アメジストがきらりと覗いた。弾けるような喜びと溢れんばかりの輝きを抱えて、彼の瞳は瞬かれる。
愛おしいミシェラの近くまで向かえば、彼は白く柔らかな両腕を思い切り広げるはずだ。自分よりもずっと幼く、ずっと華奢なその体を、優しく抱きしめるために。
「おめでとう。ミシェラなら、きっと素敵なご主人様に出会えるよ」
甘いテノールを響かせて、彼はできる限りの祝福を伝える。心の底から、彼女の旅立ちを喜ばしく思っていた。
だって彼女は、愛すべき妹なのだから。
そして彼は、みんなの兄なのだから。
「おにいちゃん、応援してるからね」
人形はにっこりと微笑む。
普段なら少し低めの体温も、お祝いごとにずっと高くなっていた。
彼は設計された温もりを持つ、トゥリアモデル。
彼は愚かなオミクロン・クラスの欠陥品。
彼はブラザー・トイボックス。
君の、誰かの、おにいちゃん。
──あなたは学園へ向かうため、寮を出るはずだ。寮の北方に位置する重厚で大きな煉瓦造りの門があなたを待ち構えている。
……その先は暗いトンネルだ。
寮を出て、北へ。
ミシェラの温もりが少しづつ消えていくことになんとも言えない寂しさを感じながら、ブラザーは足を動かしていた。
「…あぁ、そういえば」
寂しさを誤魔化すように、独り言。
ミシェラのことを考えていて、ふと思い出したことがある。
「───“あのこと”、聞き忘れちゃったな」
ぼうっと空を見上げながら、ブラザーはトンネルに入るだろう。その先にある学び舎を目指して、ゆっくりと歩くはずだ。
あの子が言っていたアレは何だったのだろう、と。
そんなことを、考えながら。
この場所に立つと、何だか空気全体が重くなるようだった。暗くて、張り詰めていて……息がしづらいような。
門の先は広いトンネルが続いている。時折水滴が落ちるトンネルを少し歩くと、あなたの眼前には閉じられた平べったい扉が現れた。
扉の前に立ってしばらく。微かな隙間から光が溢れて、とってのない扉は両開きに開かれていく。
箱型の密閉された空間は、まるで棺のベッドを縦にしたのと同じに見えた。これはあなたを学園へと運ぶ《昇降機》。これに乗っていかなければ、学園へは辿り着けない。
あなたは背後で閉まる扉を振り返るだろう。その後、ゴウン、と鈍い音を立てて昇降機は動き始める。
「……ふぅ」
重苦しい昇降機。それなりに長い間乗っているが、何度来ても気分が重くなってしまう。例の寂しさもあってか、ブラザーは昇降機の壁にもたれていた。普段ならこんなことはしないが、今日だけは特別だ。誰も見ていない空間で、ブラザーは深く息を吐く。けれどまぁ、ふわふわした彼が長い間落ち込んでいるなんてことはなく。再び息を吸うときには、すっかり背筋を伸ばしたいつもの頼れる優しいおにいちゃんに戻っていた。
そろそろ昇降機が開くだろう。
3階、ガーデンテラスへ。
辿り着いた学園は、どこもかしこも照明が僅かに暗く落とされた、劇場を思わせる内装だった。真っ赤なカーペットが敷き詰められた床と、ゴシック調の壁。等間隔に様々な種類の赤い花が、様々な形の花瓶に生けられている。
学園には他のクラスのドールも行き交っていた。皆きっちりと制服を着込み、赤い衣服を揺らしながらまばらに何処かへと向かっていく。
……何名かはあなたの姿を見て声を潜ませて、何か噂話をしているようにも見えた。
そんなドールズを脇目に、3階へ。ガラス製の透き通った両開きの扉を押し開くと、その先がガーデンテラスだ。学業に励むドールズの憩いの場である。
球形の天井からは、麗かな春の日差しが降り注ぐ。先ほど寮でも見た晴天が、一面に大きく広がっていた。
陽光を浴びて、テラスに敷き詰められた芝地と花壇に植わった可愛らしい花が瑞々しく咲き誇っている。水を撒かれてまもないらしい。ちらほらと点在する真っ白なガーデンテーブルと椅子では、優雅にお茶会をするドールズの姿も見られた。
「……あれ」
澄んだ空気を吸い込み、ブラザーは目を細める。物思いにふけるときに来る、お気に入りの場所。お茶会をするドールズたちから向けられるであろう視線に笑みを返しつつ、ブラザーは芝生を踏み歩き出した。
そんなとき、視界に人影が映る。
「こんにちは。綺麗なお花だねぇ」
ジョウロを持って佇むドールに、ブラザーはにこやかに話しかけた。オミクロンである、という自覚が足りないのかもしれない。まるで他のドールたちと同じように、世間話を投げかける。少し前まではトゥリアクラスで人に囲まれていたため、まだジャンク品だと自覚していないのだ。
燦々とした陽気が降り注ぐ温室で、可憐な花を愛でるようにエバーグリーンの小洒落たじょうろを手にしたドールが、あなたの声に気づいて振り返る。若草色の短髪を刈り上げた、穏やかそうな少年型のドールだ。
眦を緩めた彼は、のほほんと間伸びした声で「本当にねぇ。今日も元気そうで良かったなぁ」と頷いた。
「きみ、トゥリアクラスで顔を見かけたことあるなぁ。誰だろう。ぼくはねぇ、ラプンツェルっていうんだ、よろしくねえ」
彼はまたジョウロの水を花に振りまく。視線は花に注がれたままだったが、あなたと世間話をする気概はあるようだ。
「ラプンツェル、素敵な名前だね。
僕はブラザーっていうんだ。君のおにいちゃんだよ」
穏やかそうなドールに、ブラザーは微笑む。相手の名前を繰り返してから、にこにこ自己紹介をした。傍から見れば初対面から兄を主張してくる異常者だが、普通に彼は異常者である。
ラプンツェルの視線の先、水を浴びる花々へ視線を移す。きらきらと輝く花は好きだ。擬似記憶を思い出すから。
「君もトゥリアクラスの子?」
花を見たまま、人当たりの良さそうな声で話を続ける。
「へへ……ありがとうねぇ。結構気に入ってるんだぁ、この名前。
……おにいちゃん? あぁ、思い出した〜……ミュゲをいきなり妹だって言い出して、オミクロンになった子か〜」
同じように名乗ってくれたあなたの名と、その特異な言動を見て、ラプンツェルは首を傾げながらも納得したように頷いた。
「そうだよぅ、ぼくもトゥリア。でももうすぐこのアカデミーとはお別れなんだぁ」
「懐かしいね。僕はあまり納得していないけど……」
そんなこともあったなぁ、くらいのテンションでブラザーは肩を竦めた。困ったように笑ってみせたが、お別れという言葉を聞いてぱちりと瞳を瞬かせる。
「お披露目が決まったの?」
妖美なアメジストに祝福と切なさが映る。せっかく出会えた弟だというのに、またすぐ会えなくなってしまうのかもしれないと思うと、兄の心は中々締め付けられるものだ。
「そぉ、一週間後のお披露目に選ばれることになったんだ。だから、少し寂しいけどアカデミーとはお別れ。……今までずっとこの花壇のお世話をしてきてたから、お別れしたくないなぁ」
あなたからの、少しの寂寞が入り混じるような問いかけに、ラプンツェルは滔々として変わらない調子で応える。
けれどもその末尾には、可愛がっていた植物達との別れを口惜しむような、惜別の情が滲み出ていた。
ラプンツェルのジョウロから水が尽きたのか、ぱたぱたと水滴が小刻みに零れ落ちるのを最後に水の流れが止まる。彼はジョウロの取手を握り直して、あなたの方を振り返る。
「ねぇ、ブラザー。コゼットドロップって花を知ってる? 見たことがある?」
「そう、君も……」
今朝抱きしめた金糸雀を思い出す。ブラザーは目を細め、ぽつりと呟いた。しかし、落ち込んでいる暇はない。寂しそうにも見えるラプンツェルを励まそうと、ブラザーは口を開いた。出た言葉は、励ましではなく疑問だったが。
「コゼットドロップ、かい?
なんだろう、知らないな。どんな花なの?」
聞いたことの無い花の名前。
兄としてそれなりに知識はつけているつもりだが、やはりまだまだ知らないことは多いらしい。ブラザーも花から視線を上げて、軽く首を傾けた。
「うん、図鑑にも書かれてない架空の花の名前なんだけどねぇ……水の波紋みたいに花弁が広がった、綺麗な青い花なんだって。
みんな、学生寮の敷地にその花が咲いてるのかもって噂してるんだぁ。」
彼は口元に折り曲げた人差し指を添えて、のんびりとした悠長な表情と声色であなたに聞かせてくれた。覚えのない花の話を。
「ぼく、気になってずうっとコゼットドロップを探してみたんだけど、結局見つからなかったんだぁ。オミクロンの寮には入るなーって言われてるから、そっちには探しにも行けないしぃ……それだけ心残りだったんだよねぇ。
ねぇ、ブラザー。よかったらそっちでもコゼットドロップのお花を探してみて。興味があったらでいいから」
そう言って、ラプンツェルは一冊のスケッチブックから、一枚の紙を手渡してくれた。そこには繊細な筆遣いで、青くほっそりとした美しい花が描かれている。傍には『Cosette drop』と流れるような筆跡でメモがされていた。
「……コゼット、ドロップ」
聞いたことのない、美しい青の花。
紙を受け取り、ブラザーは描かれた花を見る。綴られた夢物語に、兄は花の名前を繰り返した。忘れないように。
「ラプンツェル、おにいちゃんに任せて。きっと見つけて、君に見せてあげるから」
顔を上げ、若草色のドールに微笑む。弟の願いひとつ叶えられずに、おにいちゃんなんて名乗れない。ブラザーは穏やかな、けれど芯のある双眼にラプンツェルを映した。
小指を立てた片手を出して、指切りしようとジェスチャーで伝える。これは自慢だが、ブラザーは弟や妹の頼みを果たせなかったことはないのだ。
「まだ一週間もあるんだ。
君は花壇のお友達と、ゆっくりお話して待っていて」
「……うん。へへ、ありがとぉ、ブラザー。ぼく、凄くうれしいよぅ。でも無理はしなくてもいいからねぇ、一週間って思ってるよりも、きっとあっという間だよ。ぼくはあった方が楽しいな、って思ってる時間も楽しいからさぁ」
ラプンツェルはあなたを気遣うように優しい言葉で締めくくる。しかしその気持ちが嬉しいと言ったように微笑みを浮かべながら、あなたの指切りに応じて小指を絡めた。
「わかったぁ、ぼくは授業の時以外はずっとここでお花を見てるから。……でも、今からまた授業の時間だ。またねぇ、ブラザー。会えてよかったぁ」
彼は朗らかに別れを告げて、ジョウロを片手に歩き去っていった。
「……ありがとう」
小指を絡める。
この温もりが共有できるうちは、きっとまだジャンク品なんかに堕ちていない。
「またね、ラプンツェル。
頑張ってお勉強しておいで」
去っていく後ろ姿に手を振って、ブラザーは軽く息をつく。やるべきことができた。幸い時間はあるのだ、きっと叶えてみせよう。兄は受け取った紙をもう一度見て、小さく、けれど確かな決意を持って頷いた。
紙を丁寧に折り畳み、ポケットにしまう。また深く息を吸い込んで、天井を見上げた。爽やかな青空。気分がいい。
……そういえば、昇降機の下は空気が重たかったが、ここは随分と澄んでいるようだ。
ガラス窓の向こうに広がるのは、この学園の“向こう半分”の天井だ。恐らくお披露目に使うダンスホールの先には、あなた方を求めてやってくるヒトへ向けた入り口があるのだろう。ドーム状の白くて平べったい屋根がずっと遠くまで続いている。
またアカデミーの周辺には青々と茂る森林が続いており、視界の範囲に他の建造物などは見られなかった。
「……一週間後、あそこにミシェラたちが行くんだね」
あぁ、いけない。
おにいちゃんなんだから、あの子たちを祝ってあげないと。
「……ふふ」
この寂しさは、秘密にしよう。
……ブラザーはくるりと振り返り、学園を出ていく。再び昇降機に乗って、今度は《寮周辺》へ向かうだろう。弟のため。青い花を探すため。
あなたが寝泊まりする学生寮の周辺には、広大な草地が広がっている。草木は柔らかな風に吹かれて、目一杯の陽光を浴びてのびのびと成長していた。
門から正面に少し歩いた先に、あなた方の寮が見える。二つの家が重なり合ったような細長い建造物だ。一方は四階、一方は三階建てで二つ屋根が付いている。
四階は広い図書室の屋根裏であるが、三階建ての最上階には誰も辿り着けた試しがない。先生は物置だと語っていたが、その入り口すら発見されていなかった。
また寮を囲うように、鬱蒼とした森林が広がっている。あなた方は勉強の合間に散歩をしたり、外遊びにこの広い敷地を利用することが多い。
「よし」
学生寮、周辺。
ブラザーはぐっぐっと体を伸ばしてから、低く意気込みを口にする。あまり動き回るのは得意でないが、そんな甘えを言っている場合ではないのだ。
まず、オミクロン寮の近くへ向かう。コゼットドロップの紹介に合うような青い花が咲いていないか、注意深く見て回ってみた。
寮の周囲には、噴水とのどかな花畑が広がっている。噴水の中央にはいわゆる天使像が据えられており、広げられた翼は経年劣化のためか欠け落ち始めている。像を修復してはどうかという進言は、修理業者を呼び付けることが出来ないため一時保留となっていた。 そういえば、あなたはこのアカデミーの外部の人間の存在を一人も見かけたことがない。常に生徒であるドールズと、彼らを取りまとめる『先生』の存在しか居ないのだ。
今朝方先生と他複数名で干したタオルケットなどの洗濯物が竿に掛けられて風に煽られている。今日は天気がいいが、少し風が強いようだ。
近隣の花畑からコゼットドロップの特徴に合うような花を探してみるが、特段見当たらないだろう。
「……そう簡単にはいかないねぇ」
ある程度探してみても、特にそれらしい花は見つからない。予想はしていたが、先はやっぱり長そうだ。
ぶわり、風が舞う。
長い前髪を手でおさえつつ、他の寮へと歩きだした。オミクロン以外の寮の花壇も見て、青い花が咲いていないか確認してみる。
あなたはその途上で足を止めることになる。オミクロンの生徒は、他の寮へ向かうことは出来ない。先生から固く禁じられているのだ。
故にあなたは、古巣であろうトゥリアクラスの寮にすら立ち入ることは出来ない。昇降機の入り口に向かえば、必ずや後ろ指を刺されることになるだろう。
「…、…………、………」
弟の願いと、弟との約束。
そのどちらも尊いもので、ブラザーにとっての生きる意味に等しいもの。
「う~ん……」
故に、彼は足を止める。
ここは最終手段にしよう。
引き返し、今度は森林の方へ向かう。鬱蒼としたこの場所に、美しい花が咲いているかは分からないが…探してみないことには始まらない。姿勢を低くし、ブラザーは花を探して森林を歩き出した。
森林はかなりの広範囲に広がっている。その道中、小川が流れていたり、小鳥の群れが飛び立っていたり、虫の囁きが響き渡っていたりと……さまざまな耳心地のいい物音で森は楽しく満ちていた。
学生寮周辺の森は、テーセラの機能性の確認の為に使われる事が多い。稀に先生がテーセラの同級生を連れて身体を動かす授業を行なっていたことを覚えている。トゥリアであるあなたには関係のないことではあるが……。
ふと、顔を上げると。木々のうちのひとつに古い布が引っ掛かっている様を見つけるだろう。布は枝に引っ掛かって裂けており、みっともない姿で滑り落ちそうになっている。
「わ……」
長い間しゃがむと疲れるなぁ、なんてことを考えていれば、風がまた吹く。前髪をびたびたと顔に張り付かせながら、ブラザーは顔を上げた。手で髪をわければ、古そうな布を見つける。
もしや、今朝方干していた洗濯物が飛ばされてしまったのだろうか。そう考えたブラザーは立ち上がり、辺りを見回す。登ってとろう、なんて無謀な考えをするほど馬鹿じゃない。脆いトゥリアに木登りは向かないはずだ。
ブラザーは落ちている長い木の棒を拾い、布に引っ掛ける。破らないように優しく、棒で布を落とすつもりらしい。
偶然見つけた老朽化により黄ばんで褪せた布は、あなたが木の棒で突っつけばすぐに滑り落ちてくる。
そっと広げてみると、布に柄などはなく、元はシンプルな白地であったことがわかる。恐らくはベッドシーツだったものだろうか。
そして広げた布の隙間からぽろりと、透き通るような青みがかった見たことのない花弁がこぼれ落ちたことにあなたは気がつく。花弁はまるでころころとした宝石のように陽光を反射して煌めいている。
「わ、とと」
布が落ちれば、慌ててそれをキャッチする。洗濯物かと思ったが、随分と古そうな……ベッドシーツだろうか。花弁がこぼれ落ちたことに気づけば、優しく拾い上げてみる。
「もしかして……」
花弁を持ったまま、布が引っかかっていた木やその近く、地面などを注意深く観察してみる。この近くに、同じ花弁や花はあるだろうか。
あなたは布を発見した周辺の地面をじっくり念入りに探していく。だがその足は途中でピタリと止まるだろう。
──高さ2mの格子状の柵が、あなたの行く先を塞いでいる。柵は鉄製なのだろう、硬質で触れるとひんやりと冷たく、壊すことは難しい。それに『決まりごと』には、柵を越えた先へ行ってはいけないという制約もあった。
残念ながらこの一帯に青い花は存在せず、更なる手がかりも近辺には見られなかった。
「……」
これだけ。
花弁は確かに美しい。しかし、たったこれだけでは、門出のお祝いに相応しくない気がする。ブラザーはベッドシーツをたたみ、代わりにハンカチを取り出す。花弁を優しく包んでから、髪を結び直した。ぱん、と頬を軽く叩く。
「頑張らないと、おにいちゃん」
鼓舞するようにそう呟いて、ブラザーはまた歩き出す。この広大な森林を、ひたすら歩き回るようだ。青い花の手がかりを探して。
無論、一日で達成できなければ、キリのいいところでやめて一度寮に戻るだろう。
きらきらと煌めく花弁を大切にハンカチに仕舞い込んだあなたはいまだ諦めず、いっそ執念深く感じるまで森林を練り歩いた。
頭上の雲は何度もその場を通り過ぎ、かなりの時間が経過した頃であろうか。あなたにも少々の疲弊が見え始めた頃。
寮を取り囲む柵のすぐ傍に、可愛らしいほどちいさな青い花がこじんまりといくつか咲いているのを視界の端に捉える。
優しく摘み取らなければすぐにでも萎れてしまいそうなか弱い花だが、柵の根元にひっそりと咲いていた。自身が持つ輝き放つ青い花の花弁よりも弱々しい様子ではあったが、託された絵に描かれた水の波紋のような形状とも似ているような気がする。
あなたが知るどんな花の特徴にも一致しないようだった。
ぐるぐる、ぐるぐる。
僅かな可能性を追いかけて、鬱蒼とした森林を歩き回る。元々運動に適した設計でないトゥリアモデルにとって、長時間の歩行は苦痛にも近しいものだった。芸術品のように整った顔からは汗が垂れ、涼しげな目元は眉間に皺が寄っている。珍しく呼吸も荒らげるブラザーは、既にびしょびしょになった制服の袖で細い顎を滴る汗を拭いた。
あまり上品でないし、スマートでもない。
それでも、兄は兄でいたかった。
「あっ! た、ぁぁ~……」
柵のすぐ傍。見たこともない青い花がひっそりと咲いているのを見て、ブラザーは柄にもなく大声をあげた。目を見開き、ブーツだというのに走り出す。花の近くで急ブレーキをかけ、ふらりとその場に座り込んだ。弱々しい声を零し、ふにゃふにゃ肩を落とす。
「はぁっ、はぁ……ふぅっ、ふ、ふふふ……」
息を荒げたまま、ブラザーは笑いだした。外だというのに後ろに倒れ、大の字のように寝転がる。すっかり暗くなった空を見上げ、星を眺め、兄は目を閉じた。
「おにいちゃん、やったよ~……ラプンツェル~……」
満足そうな笑みを浮かべ、うわ言のように呟いて……。
……ドールは無意識に、眠りに落ちていった。
夢を見た。
「おにいちゃん」
いつもの花畑。
柔らかい手が頬を撫でる。
「おにいちゃん、だいすき!」
花冠を被った“妹”が、陽光の中で笑う。
頬を撫でる小さな手をつつもうとして、そうして───……
「ん……」
頬を撫でる、冷たい風。
ブラザーはゆっくり体を起こし、目をこする。ぐーっと体を伸ばして、欠伸をひとつして、辺りを見回した。
「……あ……あれ……」
夜。しかも、外。
ブラザーは冷や汗を垂らし、やや引きつった笑みを浮かべる。そうっと立ち上がり、後ろを振り向いた。
「……あちゃ~……」
肩越しに見える範囲にすら、木くずや葉っぱがたくさんついている。汚れてしまった背中に苦笑し、もう一度体を伸ばした。
こっそり制服を洗濯をする。
ミッションがまたひとつ増えてしまったが、不思議と嫌な気分ではない。
ブラザーはハンカチを取りだし、中の花弁が無事であることを確認する。制服のジャボを取り外し、可愛らしく咲く青い花を一輪だけ優しく積みとった。ジャボでそっと包み、夜空に照らしてみる。
「……ふふっ」
若草色の弟が、花開くような笑顔になるところを想像して。
兄は一人、星の下で笑った。
花が咲いている周辺に気になる点がないか確認してから、ブラザーはゆっくりと寮に向け歩き出す。
あなたは青い花をそっと摘み取ることが出来る。トゥリアが得意とする繊細な挙動によって、青い花は崩れ去ることもなく、ちょこんとあなたの手の中に収まった。これこそが恐らく、ラプンツェルの語った『コゼットドロップ』と呼ばれる花なのだろう。
何故この場所に図鑑にすら載っていない貴重な花が自生していたかは定かではないが、ラプンツェルからの頼み事は達成できたと言える。
あなたが空を見上げると、いつものように星々が美しく瞬いている。人工の光源が周囲に存在しないためか、星空はいつもよりも壮大に光り輝いているように見えた。
あなたが視線を柵の方へとやれば、……コゼットドロップの花は、柵の向こうにも点々と咲いているようだ。暗がりの中で、弱々しい青い光を発しているのが見える、が……もう夜も遅い。柵を越えるのは規則違反だ。
あなたは暗い森に足を取られないよう注意しながら寮に帰り着くことになるだろう。
翌日。
三階、ガーデンテラスにて。
ブラザーは花と花弁をハンカチに包み、テラスへとやってきた。慎重に運んだため動きは遅く、昨日よりも目立ってしまったかもしれない。しかし、ブラザーの胸は弾んでいた。おっとりした優雅なドールにしては珍しく、スキップでもしたい気分である。昨日の疲労はまだ残っているが、足取りは軽やかだった。
きょろきょろと辺りを見回して、昨日出会った若草色のドールを探す。もしもいなければ、花壇の近くに座って待機していることだろう。
あなたがガーデンテラスへ足を運ぶと、昨日彼が述べていた通り、花壇の前に佇むエバーグリーンのジョウロを持ったドールを見つけることが出来るだろう。
彼は今日もジョウロで花達に水を撒いている。優しいシャワーを受けて揺れる花の綻びに、彼自身の頬も柔らかく緩んでいた。
あなたがかなり近付いたところで、ようやくラプンツェルは顔を上げる。おっとりしすぎているので、警戒心もあまりないのだろう。
「あ、ブラザーだぁ。こんにちは、今日も会ったねぇ。元気?」
「ふふふ、こんにちは。
おにいちゃんは元気だよ」
ラプンツェルの姿を見つければ、ブラザーは今度こそスキップするような足取りで近づいた。両手を後ろに回し、花たちを見えないようにしておく。ウキウキご機嫌で近づいてから、にっこり相手の問いに答えた。警戒心のなさを心配する気持ちよりも、今は喜ばせたい気持ちの方が大きいのだろう。
「ラプンツェル、昨日の話覚えてる? コゼットドロップの話!」
相手の隣に立って、早速本題に入る。この浮かれ具合では見つかったことが気づかれそうだが、のんびり屋の相手なら気づかれないかもしれない。
「ブラザーが元気そうでよかったぁ、ぼくも元気だよ。花達も今日も元気。いいことだよねぇ」
ラプンツェルが注ぐ水によって、今日も花壇の花は瑞々しく咲き誇っている。彼はその華やかな光景を満足そうに眺めていた。しかし何処か落ち着かない様子でこちらに問いかけてくるブラザーに、ラプンツェルはきょとんとして首を傾げる。
「うん? うんー。コゼットドロップ、青い特別なお花。ぼく、ずっと探したけど見つけられなかったんだぁ……ブラザーはあれから見つけられたぁ?」
あなたの予想通り、彼はふんわりとした様子で首を傾げて、そわそわ浮かれ立つあなたの真意に気づくことが出来ないようだ。
「いいことだねぇ」
にこにこ、ラプンツェルの言葉に頷く。満足そうな弟の様子に、浮かれた兄はいつも以上に表情がゆるゆるだ。
首を傾けるラプンツェルに、ブラザーは得意そうな顔で隠した両手を差し出した。
「ふふ……言ったろう?
おにいちゃんに任せて、って」
ハンカチをゆっくりと外し、まずは布に包まれていた青い煌めく花弁を見せる。そのあと、柵の近くで見つけた小さな青い花を見せた。
「寮近くの森林で見つけたんだ。君の言う通り、すごく綺麗なお花だね」
「え……」
どこか得意げな表情でこちらに手を差し向けるブラザーの様子に、ラプンツェルは何のことだかまだイマイチピンと来ていないようだったが。
徐々にその手が開かれ、ハンカチの上に乗った煌びやかな宝石を重ねたような花弁と、美しく可愛らしい青い花を視界に映し、ラプンツェルの瞳は次第に華やいで輝いていった。
これまでのんびりとして、瞳の色もさして変わらなかった彼の、初めて見る劇的な変化だった。
「こ……これー! コゼットドロップの、花……わぁ……! どんな図鑑にも載ってないお花だぁ! 実物はもっとずっときれい……! 噂は嘘じゃなかったんだぁ! やったあ!」
ラプンツェルは思わず歓喜の声を上げて、目まぐるしく感激してみせた。落ち着かない様子でピョンピョンとその場で飛び跳ねてからまじまじと花を見つめて、その後あなたを見据える。
「ブラザー、ブラザー! すごいよぅ! 本当に見つけてくれるなんて! えへへ、えへ……アカデミーを離れる前に見れてよかったぁ、これで後悔なく卒業出来るよぉ。ブラザーのおかげ。本当にありがとぉ」
ラプンツェルはこちらに差し出されたあなたの手を包み込むように触れる。深い親愛を示すようにしっとりと。
「こんなにきれいなお花だから、ブラザーの大切な人にプレゼントしてあげたらきっと喜ぶよぉ。ぼくはこの目で見れただけでもう満足。どこかでまたコゼットドロップをきっと探すよぉ」
「───……」
歓喜の声。輝く表情。
それはこの世のどんな声よりも素晴らしく、どんなに華やかな物よりも美しい。弟の喜ぶ姿は、じんわり兄の心に染み込んであたためる。ブラザーはにっこりと柔らかく微笑んで、飛び跳ねて花を見るラプンツェルを見ていた。溢れそうな喜びを噛み締める。
だらしなく汗をかき、足を痛めて、夜まで歩いて見つけた花。
その全部が無駄じゃなかった。
愛すべき弟が喜んでくれたのだ。
それだけで、充分すぎるご褒美である。
「ふふ、約束したからね。喜んでくれて嬉しいよ」
苦労なんてなかったかのように。
弟にかっこつけたいブラザーは、手を包み込む温もりを拒まない。大切な人、という言葉に、愛おしそうに目を細めた。
「確かにそうだね。じゃあこの花は、僕の大切な人にあげることにしよう」
あたたかい手のひらに、ブラザーはハンカチごと小さな花を1つ、そっと乗せる。
「受け取ってくれるかい?
ラプンツェル。お披露目のお祝いさ」
体いっぱいの愛を込めて。
愛する弟の門出を祝おう。
「……いいの?」
ラプンツェルは、自分の掌に載せられたハンカチと、それに包まれた煌めく儚いアクアマリンの花弁に目を落とす。
お披露目のお祝いに、と手渡された花を、ラプンツェルはほろほろと崩してしまわないように大切に抱き込み、口元を綻ばせながら嬉しそうにはにかんだ。
「ありがとう、ブラザー。ぼく、このお花、ずっと大切にするねぇ。絶対に種を採取してまた育てるよぉ。それで、きっと花が咲くたびにアカデミーや、きみのことを思い出すね」
喜ばしそうに、愛おしむようにコゼットドロップの花を見つめたラプンツェルは、「何かお礼をした方がいいよねぇ、欲しいものはある?」と首を傾げる。
「ラプンツェルのご主人様になるヒトも、きっと一緒に育ててくれるよ」
何も知らないブラザーは、何も知らないまま夢を語る。可愛い弟の門出をたくさんの幸せで送り出したくて、責任のとれない空想を語る。
兄は嬉しそうなラプンツェルに笑みを深め、幸せそうに頷いていた。
「お礼なんて……いや、じゃあひとつ、お願いしようかな。
君がお披露目に行ったあと、この花壇の世話をする係に僕を任命してほしい」
首を傾けられれば、最初こそ首を振ったが、軽く顎に手を添えた。ピッタリのお礼が浮かんだのか、考え込むような表情が柔らかくなる。花壇に目配せしてから、もう一度ラプンツェルを見た。「おにいちゃん、ちゃんとお世話するから」なんて付け足して。
「そうかな。……うんー、そうだといいなぁ。へへ……」
未来が明るく見えるような希望を述べてくれるあなたに、ラプンツェルも頬をかきながら小さく頷く。背中を押してくれていることは理解している。たとえその通りにならなかったとしても、その気持ちが喜ばしいとばかりにラプンツェルは微笑んだ。
「ええ〜? アハハ、そんなのお礼にならないよぉ。だってぼくはこの花壇の持ち主ってわけじゃないんだもの。好きで勝手にお世話してるだけだから……もしこのままお世話を続けてくれるなら、それは君のご褒美じゃなくて、ただぼくが嬉しいだけ……」
と言いかけて、止める。ラプンツェルは確かにのんびりしているが、鈍感すぎる訳ではない。彼が初めからおにいちゃんになりたいと述べて、自分の力になりたいと一生懸命になってくれたことは、なによりも分かりやすい事実であるようだった。
ラプンツェルはすこし考え込むと、やがて頷く。
「じゃあ……ぼくがアカデミーを離れたら、今度はブラザーがお世話してねぇ。そしたら本当に、安心して行けるから。……ブラザーみたいなおにいちゃんがいたら、幸せだろうなぁ。きみの持ち主になる人が羨ましいよぅ」
「ふふ、うん。任せてよ」
ブラザーはラプンツェルの言葉を黙って、最後まで聞いていた。言いかけた言葉にもただ笑みを浮かべていたが、やがて頷かれれば、嬉しそうに顔を綻ばせる。多くの言葉は不要だ。ラプンツェルがブラザーの意図を汲み取ってくれたのなら、それを受け入れるだけでいい。
「何言ってるの、ラプンツェル。僕はもう君のおにいちゃんだよ。それに、羨ましいなら君だって同じことさ。
おにいちゃんも、君の持ち主になる人が羨ましいよ」
口元を隠すように手を添え、ブラザーはくすくすと上品に笑う。当たり前のことを、とでも言いたげにラプンツェルを見つめた。主張を曲げる気のない強引さであれど、その言葉はいつも優しさが込められている。
一歩相手に近づいて、ブラザーは手を伸ばした。のんびりした可愛い弟の頭を撫でて、甘いアメジストを蕩けさせる。
「君に会えて良かった。
ずっと忘れないよ、ラプンツェル」
ミシェラにしたように、許されるのならそっと薄い唇を額に落とす。
にっこりと最後に笑ってみせてから、ブラザーはテラスを去っていくだろう。授業が終わったのか、少しづつ人が増え始めている。兄はこういうとき、率先して場所を譲るものなのだ。
ガーデンテラスを出て、三階。
ブラザーはくすりと一人笑みを零してから、のんびりと歩き出した。じっとしていられる気分ではなかったから。
さて、ここからどこに行こう。授業まではもう少し時間があるし、じっとしてはいられない。普段ならぼんやり日向ぼっこでもしているが、今は動きたい気分だ。
「……そうだ」
ブラザーは辺りを見回し、カルチャー・アーカイブへと歩きだす。普段あまり行くような場所ではないが、時間的にカフェテリアは混んでいるだろうし、丁度いい時間つぶしになるかもしれない。
この部屋は、人間の歴史を出来る限り保管し、ドールズがヒトと接する指標と出来るようにと用意された一室だ。文化資料室と名を冠する通り、人間のさまざまな歴史や文化が資料、あるいはレプリカなどの形で保管されている。
部屋の中央には年季の入った黄金色の地球儀が置かれており、各地にどのような国があるか、どのような人種のヒトがいるのか実際に学べるようになっている。
地球儀を中心に据え、その周囲にはヒトが住まう街を模したジオラマや展示されていたり、模型の汽車が煙を上げてガラスケースの中で動き回っていたり、天井からモビールのように吊された飛行機や気球がクルクル円を描いていたり……とにかく豊富な展示品があり、眺めていて飽きない内装となっている。
また部屋の奥には無数のファイルが収められた棚があり、こちらには数多の史料が保管されているようだった。
「わぁ~……」
随分とおっとりした感嘆をひとつ。ブラザーは部屋に入り、まずはよく目立つ黄金の地球儀に近づいた。何故黄金なのかは分からないが、何となくゴージャスで華やかなドールらしいようにも思える。
近くから観察してみたり、くるくると回してみよう。
地球儀を回しながら、その構造を眺めて、以前この部屋で受けた授業内容を思い出す。
現在、あなた方ドールやヒトが住まう母星である地球は、その陸地面積が全体の16%ほどであることをあなたは知っている。
大気構成は窒素(N2)78.4%、酸素が15.6%、アルゴン(Ar)が0.93%、二酸化炭素が4.7%、水蒸気その他が約1%。
ヒトが生命維持を行うにはやや困難な環境になりつつある……という事実を、あなたは先生から聞かされている。無論ヒトはこの状況を改善するために開発を進めており、ドールズの役目はそんなヒトに寄り添う崇高なる使命であるとも。
「懐かしいなぁ」
ブラザーは何も知らない。
地球儀を悪戯に回して、そのまま離れた。
次に確認するのは動き続ける汽車。
そういえば止まっているところを見たことがないが、一体どんな作りになっているのだろう。あまり機械には精通していないが、ひとまずブラザーは不思議そうに汽車を観察してみた。
資料室の一角、ガラスケースに覆われたジオラマの街を横断するように敷かれた線路の上を、蒸気機関車の小さな模型が邁進している。機関車の煙突部分からは少量の煙が燻っているが、実際の煙と違い、ディスプレイの中でこもることはなくすぐ空気中に溶け合って霧散していく。
この汽車は、かつてヒトがメジャーな乗り物として使用していた装置らしい。
この部屋はヒトがどのような生活を日々送っているのかを、詳細にドールズに教育するために存在していた。
「う~ん……」
結論、よく分からない。
「まぁいいか」
ブラザーは汽車から離れ、ファイルの方へ向かう。のんびりとファイルを眺めてみた。膨大な量のファイルだ。全て目を通すことはほぼ不可能だろう。しかし、その分いつも新しい出会いがあると言える。
適当に手を伸ばし、ファイルを一冊手に取った。
人間が辿った様々な歴史が懇切丁寧に記録され、ファイリングされている。その資料の数は何とも膨大で、いかに勉強熱心なドールといえども全てに目を通し内容を覚え切ることは難しいと言える量だった。
人類、ホモ・サピエンスの進化の軌跡、文明や宗教の芽生え、戦争と奪い合いの歴史、目覚ましい発展の道筋──そして、多様な文化についても。
あなた方は、中世の時代において流行した美しい鑑賞ドールを元に設計されている。故に誰もがはっと息を呑むほどに美しく、輝かしく見えるのだ。
また、こちらに残された最新の記録は、『西暦2240年』、『新種の青い花が発見された』……──という記述で最後である。
「青い花……!」
ブラザーはぱっと表情を明るくし、その記載がされたファイルを手に取った。新種の青い花、もしやコゼットドロップではないだろうか。違ったとしても、美しい花の記載なら見て嫌にはならない。
ファイルをめくり、ブラザーは更に花に関する情報を得ようとする。写真があればいいのだが、なければ諦めよう。
ファイルには確かに参考資料として古びた写真などが添付されていることもあったが、この最新のファイルに記載された『青い花』らしき写真はどこにも見当たらなかった。
それ以上詳細なこともわからないだろう。
ブラザーは困ったように笑ってから、静かにファイルを閉じた。装飾品の凝った部屋はいるだけで面白いが、派手派手しいものより洗練された美を好むブラザーが長時間いられる部屋ではない。ファイルを元の場所に戻して、そのまま部屋を出ていった。
次に向かうのはカフェテリア。
そろそろ人も少なくなった頃だろうか、中をそっと覗いてみた。
カフェテリアは正午の活気で少しばかりごった返している……と言えども生徒であるドールの母数が少ないこのアカデミーでは、混雑の程度は軽いものだが。数名のドールズがリフェクトリーテーブルの椅子を引いて、紅茶と茶菓子、そして積み上げられた本の内容で談笑しているのが見える。
一帯の広間の奥には、寮ほどの設備や少量の備蓄はないものの、簡易的なキッチンも存在しており、ドールズはこちらの区画で飲み物を用意して、授業後のコーヒーブレイクをおこなっていることが多かった。
「僕もなにか飲もうかなぁ」
思いのほかまだ人がいたようだ。ブラザーは軽く足を止めたが、コーヒーの香りに釣られて歩きだす。あまり利用したことはないが、ハーブティもあるだろうか。そんなことを思いながら部屋の中に入ると、ドールたちの華やかな笑い声が聞こえる。
本人の意図せずとも、その声をブラザーは聞くことになるだろう。
《Mugeia》
今日という日もまた素敵な一日だった。
ミュゲイアはそう思っていた。学園で新しいことを学び、知識を得ていくたびにご主人様の為になると思うと嬉しくなってしまう。
ダンスホールを見てからというもの、ミュゲイアのお披露目への憧れは日に日に増していっていた。
それに、ラプンツェルやミシェラの幸せそうな顔を見ればそうならない方がおかしい。だって、あんなにも満ち足りたような顔を見てしまえば誰だって、憧れてしまうし羨ましくなってしまう。それはジャンクであるミュゲイアとて同じ。ジャンク仲間であったミシェラが選ばれたのを思えば可能性が広がった。別にオミクロンに堕ちたからといってお披露目を諦めていたわけではない。
そもそも、ミュゲイアはなぜ自分がオミクロンにいるのかをちゃんと理解していない。
自分の欠陥を分かっていない。だから、良い子にしてちゃんと頑張ればトゥリアクラスに戻れるかもしれないし、お披露目に行けるかもしれない。そう、次こそは自分かもと思っているのだ。柔らかくも強く切に願っているのです。自分には変化の春の風が吹いてくれることを。
そんな事を思いながら、ミュゲイアには目的地であるカフェテリアに辿り着いた。
目に入ったのは見知ったドールの背中であった。
「こんにちは、おにいちゃん! 何してるの?」
トントンと肩を叩いてみた。
いつもと変わらない明るい声色とニコニコの笑顔でミュゲイアは話しかける。
あなたがキッチンへ向かおうとする道筋の途中。テーブルの横を通過することで、自然と雑談しているドールズの声が耳に入ってくるだろう。
「──ねぇ、聞きまして? オミクロンの“欠陥ドール”のお話」
その言葉を発したのは、輝かしい光を放つ金色の髪をこれでもかと巻き込んだ、いかにも令嬢風の気が強そうなドールだった。声を潜ませて、今からとんでもないことを話しますと勿体ぶったような口振りに、その他のドールも前のめりになる。
「何でもまた、オミクロンからお披露目に一人選ばれるそうよ。先生方は何を考えていらっしゃるのでしょう」
「どうせ媚を売っただけに決まっているわ。ティアナリリア様やプリマの方々を差し置いてお披露目だなんて、身の程を弁えて頂きたいところね」
「まったくよ。けれどたかがジャンク、どうせお披露目ではろくなことが出来ないに決まっています」
「そうよ! きっとすぐに見放されて、『スクラップ』よ! そうなるに違いないわ」
キャハハハハ……と悪意のある少女たちの笑い声がカフェテリアにこだまする。話に夢中になっている彼女たちは、この場にオミクロンの生徒が立ち寄ったことにも気づかずに話に花を咲かせたかと思えば、少しして一様に席を立ち、その場を離れていった。
そこで、あなたはこの場にやってきた“妹”の存在に気がつくだろう。
ブラザーは口を閉じる。
口元にだけ笑みを浮かべたまま、曖昧に眉を下げた。
美しい金髪。ミシェラと同じ、黄金の輝き。
けれどあの子は、ジャンクのオミクロン。
「……あぁ、ミュゲ。こんにちは。
ハーブティがあるのか見に行こうとしてたんだ」
後ろから肩を叩かれ、ブラザーはゆったり振り向いた。その頃にはもういつもの甘い微笑で、優しいおにいちゃんの顔だ。今日も可愛らしい笑顔を見せてくれる“妹”に柔らかい声を出し、何も無かったかのように挨拶する。もしかすればミュゲイアにも聞こえていたかもしれないが、彼女とそんなことについて話したくなかった。触れずに、聞かずに。無かったことにすればいいだけ。
もっと素敵なことを考えよう。
せっかくこの子に会えたのだから。何よりも愛おしい“妹”のこと、それだけを考えればいい。
「ミュゲも一緒にお茶しない?」
にっこり、ブラザーは笑う。
慕われる兄の象徴のような笑顔を浮かべて、歪んだおにいちゃんは愛を囁いた。
そのままのんびりと歩きだし、奥のキッチンへ向かう。簡易的なようだが、何があるのかをひとまず確認した。
あなたはカウンターによって区切られたキッチンの方へ向かう。学園のカフェテリアにあるキッチンの設備としては、シンクと作業テーブル、小さなコンロといったもの。
空間の端に置かれた棚には、茶葉やコーヒー豆、ココアパウダー、砂糖などの調味料などをまとめておくものと、焙煎機やティーポット、マグカップなど道具類を纏められた棚できちんと揃えられているようだ。
奥には完全に壁で区切られたスペースもあり、その先は食糧庫となっている。が、こちらも寮の品揃えと比べるとやはり簡易的となるだろう。
特に目に留まるようなものはここ場所にはなさそうだ。
《Mugeia》
ミュゲイアと同じトゥリアモデル。
ミュゲイアとよく似た白銀のボブヘアー。
スラリとした背丈とトゥリアらしい細身の体格。顔立ちも端正であり、はらりと垂れる前髪の一束までもがかのドールの新雪のように白いかんばせを撫でては彩り、かのドールらしい妖美さを際立たせている。
そんな彼をミュゲイアはよく分からない。
何故、ミュゲイアがかのドールの妹なのか。けれど、それもかのドールがそう造られているからだろう。
彼はお兄ちゃんのドール。
だとすれば全員を弟、妹と呼び接するのもよく分かる。
お兄ちゃんらしい素敵なドールなのだから。
お兄ちゃんらしいかのドールの優しい笑顔がミュゲイアは大好き。
甘く包み込むような微笑み。
「いいの? じゃあ、ミュゲが頑張ってお兄ちゃんにハーブティーを入れるね! ミュゲが上手に出来たらいっぱい笑って! ……ああ、でもミュゲ指輪作らないとなんだった。早くミュゲがラプンツェルに指輪を作ってあげないとラプンツェルが永遠を誓えないよ。うーん、どうしようかな。」
「ふふ、それは嬉しいな。けど火を使うのは危ないから、ミュゲにはおにいちゃんがカップに注いだ紅茶を混ぜる係を頼みたいんだけど………ん、ラプンツェルに会ったんだ。ふふ、もうすっかり仲良しだねぇ。可愛い“妹”と弟が仲良しで、おにいちゃんは嬉しいよ」
ブラザーはミュゲイアの頭に手を乗せ、まるで硝子細工にでも触れるような優しさで小さな頭を撫でた。大事に大事に、壊れないように。それからミュゲイアの背に合わせるように、ゆっくりとその長い両足を折る。しゃがんで、白蝶貝のような双眼と目を合わせた。柔らかく両目を細めて、まるで諭すように別の仕事を頼み始める。命よりも大事な“妹”に怪我をさせないように。同時に、気分を害させないように。兄が妹に嫌われたくないのなんて、当たり前のことである。
ラプンツェルの名を聞けば、細められていた瞳はぱちりと瞬いた。不思議そうにしていたアメジストは、徐々に幸福を湛える。慈しみを込めた軽い笑い声を零してから、ブラザーは満足気に数回頷いた。ミュゲとラプンツェルが話しているところが見てみたかったくらいだ。きっとその空間は想像の何倍も素敵で、優しくて、幸せなんだろう。考えただけで胸が幸せになる感覚に、笑みを深めながら言葉を続けた。
「指輪っていうのは、お花でつくる指輪?作り方が分からなければ、おにいちゃんが教えてあげようか。
ほら、“あの時”みたいに」
にっこり、にこにこ。
トゥリアらしい全てを蕩かす甘やかな笑みを浮かべたまま、ブラザーは立ち上がる。純粋な好意で、彼は妹と弟の交流を手伝おうとしていた。だって彼には、その経験があったから。
ほら、ミュゲ。
“あの時”も、君に指輪を作ってあげただろう?
妖艶な双眼は、“妹”にそう語っている。
───そんな時は、存在しなかったのに。
《Mugeia》
「そっかぁ、じゃあミュゲその役頑張ってするね!
そうなの! ラプンツェルとはね、トゥリアクラスの頃から仲良しなの! ミュゲね、ラプンツェルのお花を見てる時の笑顔がとっても大好きなの! お花への笑顔はラプンツェルが一番キラキラしてるの!」
ポンと頭に手が置かれた。
優しい手つきで壊さぬようにと繊細に頭を撫でてくれるこの手つきはミュゲイアも大好きである。
頭を撫でられて嫌になる子なんてきっといない。
柔らかく微笑まれながら撫でられるのであれば尚更である。
ミュゲイアはそんなお兄ちゃん役のブラザーが好き。
よく分からないドールだけど、この笑顔だけはとっても甘くて家族のようなそれに近いから。
優しく諭されれば、ミュゲイアはそれに反論はしない。
ミュゲイアが何かをしてそれに対して笑ってもらえるのであれば割となんでもいい。
そして、ラプンツェルの事を聞かれればルンルンで言葉を返した。
ラプンツェルとはトゥリアクラスから仲良し。ミュゲイアはラプンツェルの事を友達と認識している。
そんなラプンツェルのお願いなら頑張るしかない。
「そうなの! ラプンツェルの為にお花で指輪を作ってあげるの!
おにいちゃんは面白いね、ミュゲがお兄ちゃんに作り方を教えてもらうのは初めてだよ! でも、ミュゲいっぱい頑張って作るね! ラプンツェルの為に!」
ルンルンとラプンツェルの笑顔の良さを語った後に浮かれた様子でブラザーの続く言葉に返答をした。
だから、ミュゲイアは忘れてしまっていた。
彼の前での兄妹ごっこを。
面白いことを言うブラザーに対してニコニコと笑って、作り方を教えてもらうのは初めてだと述べた。
ミュゲイアは嘘をあまりつけない。
笑うこと以外に取り柄のないミュゲイアは上手く妹も出来ないのかもしれない。
ブラザーはにこにこ、ミュゲイアがラプンツェルの話をするのを聞いていた。弟の話を楽しそうにする妹。目の保養、なんて馬鹿げたことを考えてしまうくらいには、ブラザーはその瞬間を幸福に思っていた。
「そっか、ミュゲは」
ミュゲは優しいねぇ。
出かけた言葉は、突然喉から出なくなった。“妹”が、おかしなことを言い出したから。
初めて。
はじめて?
そんなはずはない。だって、“あの時”、ミュゲイアと一緒に作ったのだ。“妹”の細く柔らかい指に、シロツメクサで指輪をつくった。“妹”は宝石みたいな大きな目を零れ落ちそうなくらい広げて、きらきらと指輪を見ていた。おにいちゃんはそれをよく覚えている。おにいちゃんにも作ろうとして、ぐちゃぐちゃで失敗して、今にも泣き出してしまいそうになったから、おにいちゃんが教えてあげたのだ。ゆっくり、手を取って。そうしたらあの子はみるみるうちに上手になって、おにいちゃんの右手の人差し指に綺麗な指輪を作ってくれた。得意気にしていたからありがとうって言って、頭を撫でてあげた。すると嬉しそうに、蜂蜜みたいに甘く笑って、あの子はこう言った。“おにいちゃん、だいすき!”って。そう。そうだった。そうだったのだ。
それを。
ミュゲイアが知らないのは。
おかしい。
「…………」
ブラザーは黙った。
柔らかな笑みが表情からは消え去り、見たこともないような緊迫した顔をしている。きっと他のドールが見れば驚くだろうその姿に、ミュゲイアは見覚えがあるはずだ。
青白い顔に冷や汗を垂らす“おにいちゃん”が、このあと貴女に何をするか。
《Mugeia》
「ラプンツェルもお兄ちゃんと一緒に作ったって知ったら笑顔になってくれるよね! それで、それでね、ミュゲもいっぱい幸せになるの! あとね、きっとラプンツェルも幸せにお披露目にいけると思うの! 指輪ならお披露目の時もつけれるかな? ああ、お手紙もあげたいな!あとね、えっとね──」
ただ笑っていた。
いつもの通りニコニコと。
ただ、ニコニコと。
ラプンツェルに早く指輪を作ってあげなくちゃなだとか、ラプンツェルはお披露目の時にもつけて行ってくれるのかなとか、お披露目に選ばれたのは嬉しいけど寂しいなとか。
ブラザーと紅茶を飲みながら、いっぱい指輪の作り方を教えて欲しいなとか、ブラザーの力も借りれたらもっともっと素敵な指輪になって、ラプンツェルはものすごく喜んでくれるかもしれない。
いいや、いっぱい喜んで幸せそうな笑顔を見せてくれるかもしれない。
とっても素敵なミュゲイアの甘い妄想。
蜂蜜のように甘く幸せで、ふわふわとした妄想。
一人で楽しげにニコニコしていた。瞬きをするようにゆっくりとブラザーの顔を見て、ミュゲイアは固まった。
ベラベラと独り言のように喋っていた楽しそうな口を閉じて。
いつもと変わらない笑みのまままで。
目の前のお兄ちゃんは笑っていなかった。
青白い顔のまま。
ミュゲイアはその顔をよく知っている。
ミュゲイアの恐れている顔。
けれど、恐れと認識出来ていない顔。
ドクン、ドクンと燃料が回る。
「──おにいちゃん。
わ、笑ってよ! ミュゲなにかしちゃったの? ミュゲお兄ちゃんの笑顔みたいよ! ほら、ほら指輪作ろうよ! 教えて欲しいな? ミュゲに教えてよ! おにいちゃん! だから笑って! 早く笑って! ミュゲね、お兄ちゃんの笑顔が見たいな?」
よく回る舌は捲し立てるように言葉を紡いだ。
手振り素振りをするように、ニコニコと笑って。
忙しないその姿はまるでピエロ。
なぜ、何が悪かったのかあまり分からないままにミュゲイアは笑ってと懇願した。
笑って欲しいから。
お兄ちゃんのその顔はあまり好きじゃない。
でも、ミュゲイアは笑っている。
これも幸せ?
それを教えてくれる者はまだいない。
ただ、笑って欲しいミュゲイアはブラザーの口角を上げようと手を伸ばした。
邪魔されなければミュゲイアの細い指はブラザーの口角を上げるだろう。
ぱし。
口角を上げようと伸ばした小さな手首を、ブラザーのやや骨ばった手が掴む。ぐっと自身の方に強い力で引き寄せて、透き通ったその瞳を“おにいちゃん”は見つめた。 無遠慮な、優しい兄らしくない力。あんなにそっと頭を撫でていたのに、今はずっと乱暴だ。
その顔に笑顔はない。
憔悴しきった青白い顔。
ミュゲイアの好きじゃない顔。
「ミュゲ」
腹の底から出すような、低い声。
甘く伸びやかなテノールは、地鳴りのような恐ろしい音に変わる。
「君は、おにいちゃんの、“妹”だよね」
どんどん、手首を掴む力が強くなる。もしも人間にしたならミシミシなんて嫌な音がしそうなくらい、強く、強く、強く、強く。
有無を言わせない圧を発して、ブラザーは瞬きひとつせずミュゲイアの顔を見つめた。見開かれた目は血走って、穏やかなトゥリアモデルの欠けらもない。
「指輪の作り方、知ってるでしょ?
教えたよね、ミュゲ」
ぎりぎり、手首を掴む。
掠れた声はか細く震えていて、喉の奥から絞り出した声だ。なのにその瞳からは、否定を許さない執念が感じられるだろう。否定すればどうなるか、誰よりもミュゲイアは知っているはずだ。
彼はのんびり屋で、優しくて、あたたかい。人当たりのいい、優秀なドール。
彼は粘着質で、妄想癖があり、オミクロン・クラスの、がらくたドール。
彼はブラザー・トイボックス。
れっきとした、欠陥品。
《Mugeia》
ぎゅっ。
笑って欲しくて伸ばした腕は彼の柔らかい肌に触れることなく終わった。
やや骨ばった手はミュゲイアの細い腕を掴んで離さない。
その腕を振りほどくことも非力なミュゲイアには出来ず、微動だにしない。
まるでこのままこの腕を折ってしまうのではないかというほどに腕を掴む力は強く、ブラザーの体温が腕に伝わってくる。
ただ、笑って欲しかっただけなのにまたミュゲイアは選択を間違えた。
ただ、ただ、笑って欲しかっだけ。
幸せを感じたかっただけ。
怒らせたいわけじゃなかった。
こんな事をさせたいわけでもなかった。
ミュゲイアを捕らえるその瞳に熱はなく、氷細工のように冷たく氷山の一角のようにミュゲイアを刺す。
その青白い顔にミュゲイアの知っている優しいお兄ちゃんの面影はなかった。
さっきのような優しい手つきでもない乱雑な扱い。
ミュゲイアの苦手なお兄ちゃん。
「……い、いたいよ。お兄ちゃん。笑ってよ。」
こんなにも怖い。
けれど、自分の唇に触れれば笑っていることが分かる。
こんなにも痛いのにミュゲイアは笑っている。
笑っているから、これを拒めない。
分からない。
ただ、笑って欲しいだけ。
もっとちゃんと妹にならないとと思うだけ。
掠れた声でミュゲイアの名前を呼んでミュゲイアに教えてくる。
ミュゲイアは妹だと。
まっさらで何者でもないミュゲイアを作り替えてゆく。
「うん、ミュゲはお兄ちゃんの妹だよ。
指輪の作り方も知ってるよ、教えてくれたもん。だから、もう一回一緒に作ってほしいな? ……ねぇ、だから笑ってよ、お兄ちゃん。……笑って?」
彼のことを見上げた。
ブラザーの言葉の全てを受け入れて、否定せずに。
ニコニコと言葉を返した。
そう、ミュゲイアはかのドールの前では妹。
笑顔が素敵でみんなの笑顔を求めているドール。
ミュゲイアは笑顔の大好きなトゥリアのドール。
そして、お兄ちゃんの妹。
お兄ちゃんが大好きで大好きで堪らないお兄ちゃんの妹。
ミュゲイアは笑顔が大好きなお兄ちゃんのいもうと。
「そう……だよね……うん、よかった。良かった、よかった……」
手首を掴む手が離れる。
フラフラとその場に座り込み、ブラザーは俯いたままうわ言を呟いた。ちかちかと痛む頭が擬似記憶を紡ぎ直し、ブラザーはそれを享受する。
そう。そうだ。
あの日、指輪をつけて笑っていたのはミュゲイアだった。だって彼女こそ、おにいちゃんの“妹”なのだから。
ぼんやり床を見つめていたが、やがてハッとしてブラザーは顔を上げる。ミュゲイアの手首を見て、小さく悲鳴をあげた。白い陶器のような細腕に、くっきりと赤い跡がついている。時間が経てば消える跡だろうが、ブラザーにとって“妹”の怪我は自分の心臓を握り潰されるよりも辛い。
「あっ、あっ……みゅ、ミュゲ、ごめんね、痛かったね。ごめん、おにいちゃん……ご、ごめんね。もうしない、もうしないよ。ぜ、ぜったい……」
はくはく、魚が喘ぐように口が動く。先程よりもずっと顔色を悪くしたブラザーは、混乱と罪悪感に震えた声で謝罪を繰り返した。脆く柔らかい指がミュゲイアの手首にのびる。さすろうとしたのだろうが、すぐに手を引っ込めた。ぎゅっと自分の手首を握り締め、ブラザーはガタガタ肩を震わせる。顔色をうかがうようにチラチラとミュゲイアの顔を見ては、引き攣った呼吸を零した。
「もう、しないから……お、おにいちゃんのこと、嫌いにならないで……」
今度は自分の手首を、強く。
今度も跡がついてしまうだろう強さなのは、そうしないと恐怖が止まらないから。焦点の合わない瞳を床に向けたまま、体を縮こませた“おにいちゃん”は懇願した。
だってそうでしょう。
妹に嫌われて生きていける兄なんて、この世に存在しないのだから。
《Mugeia》
嵐が去った。
手首をぎゅっと握りしめ、存在を強く強く主張するかのようなあの痛みもブラザーの安堵するような声と共になくなってゆく。
手首に伝わるブラザーの熱はなくなり、ミュゲイアの手首には真っ赤な締め付けた跡だけが残っていた。
そこがじんわりとジンジンとするけれど、先程の痛みに比べれば些細なものであった。
ただ、ミュゲイアはその場に座り込んだブラザーを見下ろしていた。
とてもか弱いお兄ちゃんを。
ただ、笑って見下ろしていた。
そして、お兄ちゃんがさっきとは違う取り乱したようにミュゲイアに謝罪の言葉を述べた。
これも、よくあること。
いつもアレの後はコレ。
仲直りに謝ってくれる。
「おにいちゃん、ミュゲ大丈夫だよ! もう痛くないよ! なんで謝るの? ミュゲは笑顔でしょ? だから謝る必要なんてないよ! だから笑って!」
ミュゲイアはお兄ちゃんの事を責めない。
だって、いつだってミュゲイアの口角は上がっているから。
それなら、謝る必要もない。
それでも謝るというのなら、笑顔を向けて欲しい。
謝罪の代わりに笑顔の花束を。
ミュゲイアもその場にしゃがみこんで笑顔で明るく言葉を返して。
こんな時でも笑ってばかり。
歪んでいるのはミュゲイアも同じ。
顔色なんてうかがったとしても、いつもと変わらない笑顔。
怒っているとも悲しんでいるとも取れない笑顔だけがブラザーを見ている。
魚のようなギョロっとした瞳でガタガタと肩を震わし先程よりも顔色の悪いブラザーを捕らえているだけ。
「なんで? なんで!? ミュゲはおにいちゃんの事大好きだよ! だから、笑って! ミュゲね、お兄ちゃんの笑った顔が大好きなの!」
体を縮こませて今にも消えてしまいそうにブラザーは懇願をした。
それに対してミュゲイアはぱちくりと瞬きを一つ。
その後にミュゲイアはぎゅっとブラザーを抱きしめた。
まるで、トゥリアモデルが赤子をあやすように。
もとよりミュゲイアにも備わっていたトゥリアの慈悲深さは消えてなんていなかった。
ミュゲイアは母親のような慈悲深い微笑みも浮かべるし、恋人との熱い夜に耽るような熱情の微笑みも浮かべる。
笑うことに関してのバリエーションは多く、一方的なシチュエーションではそれにハマった役もできる。ただ、共感性が欠落しているだけ。
だから、なぜブラザーがこんなにも罪悪感に苛まれているのかも、体を縮こませているのかもミュゲイアにはあまり分からない。
けれど、ミュゲイアとてこんな相手を放置することはないから、柔らかく抱きしめてみせた。
笑って欲しくて仕方ないから。
ミュゲイアはお兄ちゃんの笑顔-コト-が大好きだから。
お兄ちゃんが笑顔を見せてくれる限りミュゲイアがお兄ちゃんから離れる事なんてない。
「……よかった……」
痛くない。大好き。
ブラザーはのろのろと顔を上げ、安堵の声を溢れさせる。心の底から安心したように、アメジストの瞳が甘く揺らめいた。抱き締められて伝わる温もりに、静かに目を伏せる。赤い跡の残る手首からゆっくりと手を離し、少し躊躇ってから、ミュゲイアの背中に手を回した。震える手で、細い輪郭を確かめる。そこにあるのはトゥリアモデルの体温。“妹”の、愛おしい体温。
添えるだけだった手に、少しづつ力が入る。ぎゅう、と。小さな背中を、やや骨ばった手が抱き寄せた。力強く大切そうに。けれど優しく、世界でたったひとつの宝物を愛でるように。ブラザーはミュゲイアの細い腕に顔を落として、強く抱き締めた。
これでまた、生きていける。
「あぁ、ミュゲ。ありがとう、ごめんね。おにいちゃんも大好きだよ、愛してるよ。
指輪を作りに行こう。作り方を教えてあげる。大丈夫、ミュゲならきっとすぐ分かるさ。それが終わったら、二人でお茶をしようね。ミュゲの好きな、蜂蜜をたくさん入れたホットミルクをいれてあげるよ」
名残惜しそうに体を離し、髪型を崩さないよう丁寧に頭を撫でる。柔らかくて、甘く響くテノール。ブラザーの顔には、いつもの妖艶な微笑が戻っていた。ミュゲイアにだけ向けられる、いつものとびきり愛情の籠った微笑み。トゥリアらしい献身欲とあたたかさがそこにはあり、つい先程自分より小さな女の子の手首を握っていたとはとても思えない笑みだ。
しかし、これがブラザーである。ミュゲイア、貴女の“おにいちゃん”だ。
額にキスをひとつ。
頭を撫でる手を引いて、ミュゲイアの手を取る。乙女の起立を助ける、紳士的なエスコート。ふわふわ朗らかな声で可愛い“妹”の喜んでくれそうなことを言いながら、ブラザーはまた微笑んだ。
瞳にはミュゲイアしか映っていない。
今の彼の頭には、旅立つ可憐な妹も、花壇に咲く若草色の弟も、黄金の煌めきを巻き込んだドールも、何も浮かんでいなかった。
だって、“妹”がいるんだから!
これでまた、生きていける。
これでまだ、生きている。
ジャンク品はいつまでも、壊れたネジを外せない。
《Mugeia》
先程とは違う安心した声。
耳元で聞こえた声は安堵に包まれていて、ブラザーが元に戻ったのがよく分かる。
これで笑ってくれる。
ブラザーの安堵がミュゲイアも安堵させる。
震える手が背中を撫でた。シャボン玉に触れるようなその手つきは柔らかいもので、添えるだけだった手にはきゅっと力が入る。
先程とは違う優しい力。
力強いけれど優しい、ミュゲイアを思うような手つき。
ブラザーが元に戻ったのはよく分かる。
いつものようにブラザーは甘く響き渡るようなテノールの声でミュゲイアに甘い言葉を囁いてくれる。
優しい手でミュゲイアの頭を撫で、ミュゲイアの好きなお兄ちゃんの笑顔を向ける。
それを見て、ミュゲイアも嬉しそうな笑った。
「うん! ミュゲとっても嬉しい! とっても幸せ!
えへへ、教えてくれるの嬉しいな、ミュゲね、いっぱい頑張るね! ラプンツェルの為に頑張るの!」
「ミュゲね、お兄ちゃんのいれてくれるホットミルク大好き! ミュゲもお兄ちゃんのに蜂蜜たっぷり入れてあげるね! とびっきり甘いのをあげるね!」
額に優しい口付けが落とされる。
親愛を絵に描いたような優しいベールに包まれたキス。
これをミュゲイアは拒んだことはない。
ブラザーに手を取られミュゲイアもゆっくりと立ち上がる。
紳士的なエスコートに甘えながら立ち上がればブラザーの事を見上げてニコニコとブラザーの提案を受け入れた。
くりくりとした白蝶貝の宝石が映すのは優しいブラザーの笑顔だけ。
きゅっと握った手を引いて、まるで花畑を散歩するように少しブラザーの手を引いた。まるで、早く作ろうと言うように。
幾万の花を紡いで作られたブーケのような笑みでただブラザーを見つめる。
もう、さっきの出来事なんて忘れてしまったように。
心の奥底にしまいこんで、今はただ兄妹ごっこに浸る。
そうすれば、優しい笑顔はいつまでもミュゲイアを見捨てないのだから。
その笑みがミュゲイアに幸福感を与えてくれるのをミュゲイアは知っているから。
おかしな事も苦い事も全部小さな小瓶に詰めて隠してしまう。
「何かあるかなぁ」
授業の合間、ブラザーはのほほんと散歩していた。今日はちょうど音楽に関する授業だったので、何となくその気になってこの部屋にやってきたのだ。
音楽は好き。しかし、音楽に詳しいわけではない。器用なトゥリアモデルとして楽器への適性は高いだろうが、ブラザーが演奏できる楽器はピアノだけだった。久しぶりに弾こうかな、なんて考えながら、部屋の扉を開けてみる。
あなたは楽器保管庫へ向かうため、一度演奏室の扉に差し掛かることになるだろう。
室内に踏み入る前に、そこから高らかで、かつ洗練された弦楽器の音色が響いてくることに気がつくだろう。防音室を隔てているため、扉の前に立ったところでようやくほんの少し聴こえるくらいだった。
音色から、ヴァイオリンだと察せられる。その通りに、扉を開くならヴァイオリンを肩に乗せた先客と出会うことになるだろう。
滑り落ちる艶やかな黒珠の頭髪に、節目がちなライラックの双眸が瞬いている。弦から弓を離す瞬間まで、美しい余韻を残したかと思えば。溜息を吐いた彼女はそちらへ向き直ることになるだろう。
「……あ、あら、ご機嫌よう。申し訳ないけれど、先に使用させてもらっていたわ。あなた、トゥリアクラスの方?」
そういう彼女は恐らくはエーナドールであろう。初対面だが、話の輪を拡げようと質問を投げかけてくる。気に障らないような配慮か、優しく控えめに。
「こんにちは。
素敵な音色だねぇ。思わず聞き惚れちゃった」
聴こえてくる音色にぱちりと瞳を瞬かせてから、ブラザーは演奏の邪魔をしないようそっと扉を開く。艶やかな黒を垂らす人形を視界に捉えると、ゆっくり扉を開きながら目を閉じた。流れる旋律に、立場も忘れてうっとりと。
彼女が振り返れば、ブラザーも甘やかな微笑みを返す。品のある動作はまさにトゥリアらしく、エーナドールがそう思ったのも仕方がない。
「僕はブラザー。オミクロンクラスのトゥリアモデルさ。
君のおにいちゃんだよ。よろしくね」
実際のところ、彼はただのジャンク品だ。人当たりのいい笑みを浮かべたまま、静かな部屋に変わった自己紹介を響かせる。自分がどんな扱いを受けるかなんて、一切考えていないと言うように。
穏やかな声色で語り掛けてくる青年から漂う、温和な空気感に彼女もまた安心したように頬を綻ばせる。お披露目が近くなると、学園全体がどこかピリついているように感じるからであろう。あなた方のように、素直に他者がお披露目に出るのを祝福出来るドールばかりではないのだ。
彼女は一度ヴァイオリンと弓を近くの机の上に置いてから、あなたの方へ向き直る。
「あら……お上手なのね。光栄だわ、聴いて下さってありがとう」
エーナドールの彼女は肩口から零れ落ちた髪を軽い動作で払い除けて、片耳へ髪束をかけ流す。そうして彼女は改めて自身の胸元へ手を添え、制服の裾を持ち上げ、見るも優雅なカーテシーを行ってみせた。
「ご紹介感謝するわ、ブラザーさん。わたくしはウェンディ。エーナクラスの──って、ちょっと待って頂戴。“君のおにいちゃん”? 君って、わたくしのことをおっしゃっているの?」
彼女は鈴のような声で自己紹介を述べようとしたのだろう。しかし彼の口からこぼれた単語を咀嚼して、困惑をおもてに浮かべた。「わたくしたち、初対面じゃないの。それにドールに血縁は存在しないわ。」──と、至極真っ当な正論を述べる。
「ふふ、ウェンディの声は綺麗だねぇ」
無敵。
兄はにこにこ、ウェンディの正論を聞いている。しかし何も心に響いていない。よく喋るなぁ、かわいいなぁ、くらいに思っていた。
「僕はブラザー。兄弟って意味だよ。
つまり、君のおにいちゃんだろう?」
さも当たり前のことを言うように、ブラザーは微笑む。子供をあやすような笑みを浮かべては、首を傾けて「ね」と念押しした。
「ウェンディはここによく来るの? 僕はあまり来たことがなくてね。ピアノはあるかな」
さて、話が変わった。
ブラザーにとっては過ぎた話題らしい。にこやかにしながら、部屋の中を見回した。どんな楽器があるか、何があるのか、見ているらしい。
こちらは何を言おうと全く聞こえていないような、全て弾き飛ばされているかのような、手応えのない、掴みどころすらない彼の様子に、ウェンディは戸惑ったように頬を引き攣らせた。
ブラザーという名前だから兄弟。なるほど彼の言う理屈は分かるような気がする。それでもだからと言って、了承の取れていない相手を勝手に兄弟と認定し、そのように接するという感覚はウェンディには理解出来ず、下瞼を僅かにひくつかせているのがあなたの目には分かるだろう。
「……そ、そう。でもだからと言って無闇矢鱈に他人を兄弟なんて呼ばない方がいいわよ。まさかいずれ来るご主人様にもそう接しようなんて考えてないかしら。ご主人様は敬うべきお方よ、間違ってもそんな風に呼んだら失礼になるんだから」
真面目なのかなんなのか。ウェンディは特有の委員長気質として、こんこんとあなたを叱りつけていく。しかしどこ吹く風のあなたに楽器について問われれば、がくりと肩を落とした。
「ピアノならそこよ、使う頻度が高いけれど運び出すのが大変だから、出しっぱなしにしてるんでしょう。わたくしはヴァイオリンのお稽古のためによくここを利用してるわ。邪魔だったらここまでにして切り上げるけれど?」
彼女の細い指先は教室の一角を指す。その先に確かに、煌めく漆黒をしたグランドピアノが置かれているのが分かるだろう。
部屋の大きさは講義室と変わりない。しかし机の数はこちらが少なかった。代わりにグランドピアノ、コントラバスやハープ、打楽器類など、運び出すことが煩雑だが使用頻度がそこそこ高い楽器があらかじめ部屋の端に寄せられるようにして出された状態になっている。
その他の楽器は全て奥の楽器保管庫に収められているのだろう。
「ふふ、ウェンディは面白い子だねぇ。僕の持ち主になるヒトも、僕のかわいい弟に決まってるじゃないか」
ぴくぴくと動く下瞼を見ても、ブラザーは自分のおかしさに気づかない。とち狂ったコミュニケーションをとっている自覚もないようで、顎に手を添え上品にくすくすと笑っていた。その言葉に嫌味も悪意もなく、彼がただ純粋に心からそう思っているということが、きっとウェンディにも伝わるだろう。ドールとして持ち主を愛する気持ちは、ブラザーにとって兄弟へ向ける愛情と同じようなものらしい。
「あぁ、これか。ありがとう。
……おや」
部屋を見回してすぐ目に留まる、大きなグランドピアノ。質の良さそうなピアノに近づき、ブラザーは楽譜が置かれていることに気づいた。誰かが先に弾いていたのだろうか。
鍵盤の蓋をあげてから、楽譜を手に取って確認してみる。
「決まってるって……あ、貴方ねぇ! オミクロンなら仕方ないのかもしれないけど、それでも多少は礼節を弁えた方が宜しくってよ。ご主人様を弟なんて気安く呼んじゃ、絶対、駄目なんだから!」
まるで暖簾に腕押し。それでもウェンディは貴方の背中に声を投げ掛け続ける。何を言っても無駄なんでしょうけれど……と、彼女はやがて溜息を吐きながら眉間に手を添えて項垂れてしまった。
それに、彼がヒトを──ヒトに限った事ではないが、決して邪心があってそのような真似をしているのではないことも、エーナである彼女には理解できた。だからもはや邪魔しないように、音律の調整を始めた。
ピアノ自体には特筆すべき特徴は存在しない。ごく普通の、貴方も授業で見慣れているであろうグランドピアノだ。磨き抜かれた漆黒の表面には、貴方の顔が綺麗に映るほど大切に扱われていることが察せられる。
使われていないため、閉ざされていた鍵盤の蓋を持ち上げれば、白鍵と黒鍵の規則的な並列がずらりと眼前に現れるだろう。
楽譜台に置かれた楽譜は、ドビュッシーの『月の光』という曲のものだった。その名の通り穏やかな月光を想起させるノクターンであり、どこか切ない旋律を聴く者に印象付ける曲だ。
「……あら、置きっぱなしになっていた? たぶんエーナクラスの先生のものだと思うけれど、先生が楽譜を置き忘れることなんてあるのね。わたくしが預かっておきましょうか」
「……エーナクラスの先生って、そんなにぼんやりした人だったっけ」
ブラザーは楽譜を持ち上げたまま、ぽつりと呟いた。ウェンディへの質問とも、呟きとも捉えられる声量だ。
先生が忘れ物をする、とは考えにくい。では他の生徒のものだろうか。
薄ぼんやりした、確かな違和感。ブラザーは楽譜を手にしたまま、黒板の方へ視線を向けた。端にされた落書きまで近づくと、何が書かれているのか読もうとする。
「……確かに、それもそうね。先生が楽譜を置き忘れるなんて、あまり考えられないわ。いつもここで授業をしているから思い違いをしてしまったかも。楽譜に名前なんて書いていないものかしら?」
あなたの至極真っ当な疑問に、自身の考えを改めるようにウェンディは頷いた。そうしてあなたに楽譜の持ち主が特定出来まいか訊ねてみる。
あなたが黒板の端に目線を向ければ、確かにその場所には小さく落書きがされている。普通に通りがかったなら誰も気にしないであろう落書きだ。
こちらには乱雑な文字で、(秘匿情報)。
目を細めた。
黒板に書かれた落書きは、ただの落書きではない。
「……また、√0」
歌うようなテノールではない、低い呟き。ウェンディにもきっと聞こえない声は、幼い子供であれば肩を震わせてしまうような、そんな声だった。
端的に言えば、彼は気分を害していたのだ。
飄々とした彼にしては珍しく、彼の心はさざ波をたてていた。“あのドール”にも感じていた、不愉快な緊迫感。
ヒトも、運命も。
“おにいちゃん”には、どうでもいい。
彼はただ、愛する“妹”たちがいれば、それでいい。
「……そうだね。名前があるかも」
くるりと振り向いて、ブラザーはウェンディに微笑む。すっかりいつもの兄に戻って、自然な流れで黒板消しを手にした。
……そしてそのまま、彼は黒板の落書きを消そうとする。
消えても消えなくても黒板消しを置き、楽譜を確認するだろう。裏表、名前がないか。
あなたは黒板消しで、チョークによって書き残された落書きを綺麗に消し去ることができるだろう。もうそこには何が書かれていたのか、何かが書かれていたことさえ、きっと誰にも分からない。
ウェンディの進言に従い、あなたは楽譜の記名を確認する。そこには、『Dorothy』とぐちゃぐちゃな筆跡で書き残されているのが分かるだろう。
「……ドロシー」
名前を呼ぶ。
ブラザーは楽譜から顔を上げて、ウェンディの方を見た。
「ドロシーって子の物みたい。返しに行きたいんだけど、どのクラスか分かる?」
にっこり、困ったように微笑む。うっかりさんだね、なんて付け足して、人当たりよく。
ブラザーは楽譜を丁寧にたたみ、ポケットにしまった。このまま返しに行くのだろう。
釘を刺しに行くのは、そのついでだ。
突然の質問に、ウェンディは一瞬面食らう。それから戸惑ったように目線を泳がせたあと。
「その楽譜、ドロシーさんのものだったのね。彼女はテーセラクラスの子よ。テーセラクラスは確か、この後授業のはずだから…寮付近のエレベーターホールに行けば、もしかしたら会えるかもしれないわね。……ただ……」
ウェンディは一瞬、何事か言い淀む。困ったような面持ちで眉尻を下げると、あなたに向き直って告げた。
「こんなことを言うのは憚られるけれど、彼女、最近少し様子がおかしいの。訳の分からない事ばかり言い始めて。会話が通じない事ばっかりなのよ。
それでも構わないなら止めないわ。きっと彼女のことは見たらすぐに分かると思う。物凄く……その、個性的な見た目の方だから」
忠告のような文言でウェンディはそう述べる。あなたが演奏室を出るならば、そのまま見送るだろう。
「……最近っていうと、いつ頃くらいか分かる?」
黙って聞いていたブラザーは、ゆっくりと口を開いた。僅かな心当たりに、波がどんどんと大きくなっていく。
「──例えば、誰かがお披露目に行ったあとから、とか」
√0。
ブラザーはこの言葉を、少し前から知っている。
妖艶な瞳を瞬かせて、ウェンディを見つめた。穏やかな空気を纏ったまま、兄は1人で思考を始める。
「え? えっと……いつ頃かしら。ごめんなさい、具体的な事情は分からないの。わたくしはエーナクラスで、彼女はテーセラクラス。バーナード様ならもしかしたら何かご存知かもしれないけれど、プリマの方には声を掛けるのも烏滸がましくて、あまり話したことがないのよ。」
不意の質問に、ウェンディは困ったように眉尻を下げる。心当たりを探ろうとはしてくれているようだったが、ゴシップには詳しくとも、他クラスのドールの詳細な事情には疎いのだろう。
「少なくとも、前のお披露目よりも以前からだったとは思うけれど。」
なんて、ウェンディはそんな曖昧な言葉で締めくくった。
「そう、教えてくれてありがとう。助かったよ」
懸命に答えてくれたウェンディに微笑み、彼女の手を掴もうと手を伸ばす。拒まれなければ手を取って、唇を落とした。
幼い妹や弟にするものと違い、これはレディにする口付けである。
「良ければ、またヴァイオリンを聴かせてほしいな。
それじゃあ、またね」
甘く微笑んで、ブラザーは部屋を出ていく。相手の反応なんて待たずに手を振って、寮付近の…エレベーターホールの方へと向かった。
あなたがウェンディの美しい白皙の手に口付けを落とせば、頭上から「ひゃあ!」と甲高い上擦った悲鳴が溢れる。淑女への敬意を示すものでさえ、少しばかり彼女は免疫が足りないのだろう。見上げた先のウェンディの顔は真っ赤に熟れてしまっており、当惑に口をはくはくとさせていた。
あなたが演奏室を出る間もウェンディは反応することが出来ず、手を中途半端に突き出したまま硬直してしまっているだろう。
──学園1F、テーセラクラスの昇降機が行き着く、エレベーターホール。
ウェンディが話していた通り、この後テーセラは授業を控えているのだろう。足早にロビーを駆けていくドールが複数名おり、オミクロンが居ようと意に介することはない。
そんなドールの群れから、目的の人物を探そうとするならば。そんな意識の隙間を縫ったかのように、あなたの背後に立つ存在が居る。
「オハヨーゴザイマス! 午前の日報をお知らせします! ピーガガガ! 本日はピクニック日和でごじゃります、ドウゾー。
ワタシはオムニバスに揺られ、一人黄昏ていたのです。絵画の貴婦人は泣いていました。庭のダリアは今日も綺麗に咲いています!
ただそれだけ。ザ・エンドってね。ギャハハ! オミクロンの欠陥ドールくん、ご機嫌よう! ここはお前の居場所じゃないぜ! ギャハハハハハ!!」
壊れたラジオのように前後の繋がりのない文章を無限に吐き出す姿も、頭でっかちな粘土作りのビスクドールの被り物を被っている様も、異様としか言いようがないドール。
被り物の隙間から零れ落ちる金髪を揺らしながら、彼女はゲラゲラと笑っていた。
数秒、やや面食らう。
「……こんにちは。初めましてだね。
君がドロシーさんかな? 忘れ物を届けに来たんだ」
背後から突如聞こえた声に肩を揺らし、ブラザーは捲し立てる背後に振り返った。不格好な被り物、そこから垂れる黄金の輝き。正しく異常と言えるその人物に、ブラザーは固まった。
しかし、出会ってしまえばこちらのもの。だって、妹に驚く兄なんていないから。
にっこり穏やかに微笑んで、ブラザーは軽く手を振ってみせる。対話の意志を見せつつ、甘く柔らかな声を出した。
「ここだと邪魔になっちゃうし、少し移動しない? すぐに終わるからさ」
……さて、確かめようか。
「あらやだ! 何故ナニどーして名前をご存知? 忘れ物? このワタシが? 海馬あたりからポロポロ落とし物するってこたァあるけどォ、三次元物質を取り落としたことなんてあったっけー? あれー?」
ドロシーは作り物の頭部に片手の指先を添え、ぴん、と爪先を伸ばしながら、恐らくは驚嘆……を示して見せる。
しばし首を捻り、そしてフレンドリーな態度を見せるあなたへ一歩踏み出してまじまじと見据えれば。
「これってもしかして……ドキッ! ときめきメ……アルってコト? 校舎裏に呼び出されてあれやこれや……キャーッ、ドロシーちゃん照れちゃう! だーけーどォ、ワタシにはもう心に決めたダーリン♡ がいるからァ、気持ちには答えらんないってゆーかァ……。
それでもいいなら付き合ってやってもいいぜハニートースト。どこへでも連れてけよスケコマシ!」
「ふふ、エーナの子に聞いたんだ。あと僕はハニートーストじゃなくて、おにいちゃんだよ」
不可解な会話。
ブラザーは笑みを崩さないまま、トゥリアクラスの控え室へ歩きだした。
中に入り、誰もいなければドロシーを入れてから扉を閉める。もしも人がいたら、またロビーに戻るだろう。
「まず、君の名前だけ知っているのもアレだし、自己紹介しようか。
僕はブラザー。君のおにいちゃん。よろしくね」
二人だけの空間で、ブラザーは例のとち狂った挨拶をする。フレンドリーに微笑んではいるが、言っていることはめちゃくちゃだ。一先ず敵意がないことは伝わるだろうが、ブラザーはお構い無しに続ける。
「フーン、そーゆーコトね。ワタシそんなに噂になっちったんだ、ギャハハハ、哄笑〜! 照れますなあ!
そんじゃま、音を吸い込むスノウシーン。行き先はお前に任せたァ! 面倒だから! ギャハハ!」
何やら頑なな訂正をこのおかしなドールが聞き入れるはずもなく、あくまで唯我独尊、己が道を行くスタイルでそれぞれが突っ走っている。収集が付かないようであったが、それはトゥリアドールの控室に踏み入る事で区切りがつくだろう。
煌びやかなお披露目までの待機室には、幸いにして現在人は居ない。同行人の「ギャッハ、いい匂いする〜クオリアを刺激する音^〜」のはしゃいだ声によって騒々しくはなっているが。
「ブラザー。ブラザーね、ギャハハ! ヘンな名前! そのまんま! ゲハハハハハアハハハハハハハ!!!
フゥー。それでェ? スクラップ。ワタシに何のご用? 聞きたい事でもあるのかい? 宇宙の真理、花言葉、隔離空間、タオルケット。優しいドロシーちゃんが聞いたげる! キャハ!」
「ふふ、話が早くて助かるよ。
まず、これをお返しするね」
くすくす、口元に手を添える。ブラザーは優雅に笑ってから、ポケットの中に手を入れた。中から、丁寧に折りたたんだ楽譜を取り出す。ドロシーに向け、届け物を差し出した。
「演奏室に置いてあったんだ」
他愛もない会話。
こんなのはどうでもいい。
「……ドロシー、聞きたいことが二つある」
楽譜を持つ手を見つめて、ブラザーは口を開いた。
「あぁ、ワタシのノクターン! ギャハッ、道理で見当たらないと思ったァ、こんなところに居たとはねェ。無意識領域に墜落してたみたい! ドジっ子ドロシーちゃんはピアノがだーいすき!」
差し出された楽譜を、ドロシーは素直に受け取って、喜びを表すようにズンチャカ足元でリズムを取る。彼女は表情が見えないので得体が知れない分、ボディランゲージが比較的……分かりやすい……そんな傾向にあるようにも感じた。おそらくは。
「勿体ぶってもいいことないぜ偶像崇拝。とっとと聞かせてみな、カワイイドロシーちゃんの気が変わる前に。なるべく他人に借りは残しておかないポリシーでしてェ、楽譜のお礼に大サービスしちゃうゾ! ほらほらァ!」
「ひとつ、どうして僕がオミクロンクラスだって分かったの?」
ひとつ、ふたつ。ブラザーはドロシーにも見えるように、指を折り曲げる。甘く微笑んでいるが、室内の空気は格段に重みを増した。依然として柔らかな声が紡ぐ言葉が、二人だけの部屋に響く。
ブラザーはジャンク品だ。
しかし、まだ彼の思考は鈍っていない。
「ふたつ、黒板の落書きの意図」
指を曲げる。細められたアメジストは今日も妖艶で、穏やかで、いつになく鋭かった。
「筆跡が同じだった。君が書いたんだよね」
駄目押しに続けて、ブラザーは薄く笑いかける。
答えて、マーマレード。
おにいちゃんが君を愛しているうちに。
「ハァ? そんなどうでもいいコトでわざわざワタシを呼んだってワケ? もっと胸が浮き立つようなドラマチックでドキドキする質問が聞きたかったんだケド……その質問の一体何が面白いんだよ。でもしょうがないから答えてやるよ!
オミクロンに個人的な興味があったので独自に調査しました。方法は見境なく付き纏い行為……要するに単純明快なストーキングでネッ。だからわざわざアンタの名前聞いてやったけど本当は知ってるンだよ、モデルから成績、交友関係から欠陥の内容、何から何までコレコレトカトカ。理由は欠陥ドールの観察の為にオミクロンの友達が欲しかったから。
ひとつめはこれでいいだろ?」
本当にあっさりと、至極当たり前のようにストーカー行為を白状したドロシーは、ゆらゆらと上体を揺らしながら退屈そうにあくびを零す……ような仕草を取る。
控え室全体に横たわる異様な緊迫感など、彼女にはどこ吹く風だ。──そのまま、なんとも気乗りしないと言った態度を取っていたが、あなたも二つ目の質問に小さく被り物を揺らがせる。
「……消し忘れてたっけ? まーた無意識領域のうっかり落とし物だな! やっちまった! ギャハハ!」
その反応は、あなたの考えを肯定するものであると分かるだろう。
「ある時天上からいかずちが降り注ぎ、ワタシたちまがいものの神経回路をこんがりと焼いた。ワタシはその時ただオムニバスで黄昏ていました。額縁の向こうに切り取られた楽園を垣間見た。
これは持論ですが、優秀であるよりも、落ちこぼれである方が時に真理に近付ける。ワタシは全知全能の役者に焦がれ、いかずちの大火傷をあるがまま個性として受け入れたのだ。そうするだけできっと人生薔薇色、お先真っ暗とはおさらば出来るので。けれどもワタシはあくまで詩の上の役者、お立ち台には立てない。全部無駄なら預言者のように、あるいはラジオみてーに無秩序に垂れ流してやろうかなと思った次第なのであった。
ギャハハハ! √0と和解せよ! なんつって。
本当は意図なんてねーよバーカ! ただの落書きだからな! ギャハハハハハ」
「………」
つらつらと並べられる言葉の真意は分からない。隠された真実を伝えようとしているのか、はたまたただ此方をからかっているだけか。
何一つ分からないからこそ、ブラザーは確かめたい。とめどなく思考を揺らす荒波が苛立ちであると、兄は流石に自覚しなければならなかった。
「……以前、オミクロンクラスに“√0”を待ち望んでいたドールがいたんだ」
ゆっくり、語り始める。
長い睫毛に包まれた瞳を伏せて、ドロシーの足元を見ていた。
全てを知らないフリをして、隠し続けてきた“あのドール”の話。思い出すことを意図的に避けてきた、いつかの弟妹の話。
「あの子は人に従属することを嫌うドールで、√0と頻りに呟いていた。結局、すぐにお披露目に行ってしまったんだけどね」
静かに視線をあげる。
被り物に隠れた素顔に、明確な懐疑の視線を投げた。
「……ドロシー。
君は、その子のことを知っているかい」
こちらの支離滅裂を極めた言動を、あなたも意に介せず。己の事情を語り始めた様子を、ドロシーは一旦は沈黙して聞いて……はいるようだった。怒涛のように流れる狂った広告宣伝塔のような彼女との対話と呼ぶのも難しいような対話は、その言葉の切れ間にどうにかあなた方が言葉を差し挟むしかないので。
「そいつなら知ってるぜェベビーパウダー。オミクロンクラスの救いようのない欠陥ドールでもお披露目に選ばれる事があるとはまったくもって恐れ入る! まさしく世紀の大発見! マ、オミクロンがお披露目に行けないなんざただ量産型ドールどもが勝手にほざいてる眉唾で、実際はそんな事なかったらしいけどネッ」
ドロシーは手を叩いてゲラゲラと笑いながら応答する。珍しくも言葉の応酬が成立したと感じる稀なる状況である。
しかし。
「つーかそいつについては他クラスのワタシよりお前の方が詳しいだろうが! どうしてワタシに聞く? 忘れちまったかぁ? それとも忘れたふりをしてるだけ? ギャハハハハ! 不条理! 精神直通コミュニケーション! イカれきった血縁狂い!
そんなに欲しいなら啓示してやるよ兄弟。お前の中で出来上がった不定形の不条理はお前のカワイイカワイイスマイラーが解を抱えてる。ただ抱えてるだけでヤツだって知らないケド。
せいぜい一緒にいれば答えも出んじゃね? 知らんけど。ギャハハハハハ!!」
「……ミュゲが、このことを?」
眉を寄せる。
このとき、彼の顔に初めて負の感情が現れた。
浮かべていた笑みは剥がれ落ちて、怪訝と困惑、そして怒りの混じった顔。“妹”にも向けたことのない、明確な敵意。
「ミュゲが何を知っているって? どうしてミュゲが? 誰かがあの子に何か言ったのか? √0なんていうふざけたものに、僕の“妹”が巻き込まれているのか!?」
大股でそちらへ近づき、ブラザーは声を荒げた。歩く勢いで白銀が揺れ、長い前髪から瞳がのぞく。見開かれた両目は血走って、ちかちかと毒々しい紫がドロシーを睨んでいた。温和で友好、そんな印象を与えるはずの彼とは思えない。
ブラザーはオミクロンである。
どうしようもない欠陥品で、だからこそ、彼は兄であった。
兄が“妹”の危険を見逃すわけにはいかない。
だってブラザーは、おにいちゃんだから。
命にかえても、あの子を守らなければならないのだ。
「答えろドロシー。早く!!」
なんの躊躇いもなく手が伸びる。
ブラザーの方が速ければ、上品な制服の胸ぐらを下品に掴むはずだ。そのまま力任せに自分の方に引っ張って、顔がついてしまいそうなほどの距離まで近づけるだろう。
命令口調に手荒な言動、全てブラザーにとっても初めてのことだった。
「ギャハッ………」
彼女の叫び散らかすみたいな笑い声は、断末魔が不意に途切れたように唐突に千切れ飛んだ。ドロシーはあなたから伸びた手を何もせずにそのまま受け止めたために、彼女の踵がグッ、と僅かに浮いた。彼女は女性型ドールにしてはかなり身長が高い方だが、あなたの方が上回っている上に胸倉を掴み上げられれば当然だった。
ドロシーの胸元に巻いているリボンがぐしゃりと皺が入って歪む。被り物が僅かに傾いて、零れ落ちる金糸が照明に反射して瞬いた。
手荒な行動と、恫喝のような激しい声に、先ほどまでの甘やかな言動は欠片も見られない。あなたをつい刺激して激昂させてしまったドロシーは、壊れた人形みたいに無抵抗のまま、被り物の後頭部をボリボリと掻くと。
「ギャアギャア叫ぶなよデカダンス。√0は別にふざけたものでも危険物でもないンだしィ。
√0は──そう、喩えるなら嵐の夜の灯台。暗い航路でしるべになるもの。お前たちに与えられた救済のイト。
巻き込まれてるか? そうだな! ギャハハ! お前らは渦中にいるのにそれに気付きもしない可哀想な兎さんなワケ。
でもワタシはそんなお前らが羨ましいぜ、お前らになりたい。あーあ、誰か一人でも殺して成り代われたらどんなにいいかなァ。なんつて、ギャハハハハハ!」
ドロシーはなおも腹を抱えてゲラゲラ笑うと、胸倉を掴むあなたの手を掴んで強引に引き剥がそうとする。テーセラモデルである彼女は、華奢でもあなたより力はよほど強い。更に攻撃しようとしないならば、彼女に難なく剥がされてしまうだろう。
「残念だけどォ、ワタシも暴力なんて振るわれちゃあ敵わないからもうお話はオシマイ。さよなら三角また来て四角! 限界トイボックス集落にてモルグの現実をお送りいたしました、コメンテーターはドロシーちゃんでしたーッ!! ギャハハハ!!! ギャハ、ゲハハハハハハハ!!!」
──そして彼女は一方的に捲し立てると、ビヨンビヨンと奇妙に飛び跳ねながら控え室を飛び出してしまう。開け放された扉がキィキィと揺れ、その場には静寂が訪れるだろう。
ドロシーは難なくブラザーの手を剥がせるだろう。次の攻撃も無駄な抵抗もしないため、すんなりと剥がれるはずだ。
ここで力に勝る相手と武器もないのに殴り合うほど、彼は馬鹿な選択をとれない。“妹”がいれば話は別だが、今は2人だけだ。ブラザーが愚者である理由は、武器があれば躊躇いなくそれを振るえる点である。
「君は……君は、何を知っているんだ」
飛び出していく後ろ姿に、低く呟いた。揺れる被り物を見たまま、ブラザーは動かない。きっとドロシーの返事は来ないのだろう。欠陥品の質問に答える義務は、向こうには無いのだから。
控え室はすっかり静まり返ってしまった。扉の軋む音だけが響いて、ブラザーの肩に重い何かを与えている。彼はこれに対応し、対抗しなければならない。それが兄であり、彼がそれを自分の役目だと思い続けている限り。
「……救済なんかいらない。
僕の幸せは、僕のものだ」
誰に言うわけでもなく呟いて、兄は歩きだす。部屋を出て、扉を占める。
その瞳には、狂信的な愛情が篭っていた。
「大丈夫だよ、ミュゲ。
君のことは、おにいちゃんが守ってあげるから」