おめでとう、も。
すごいな、も。
一言だって口を開くことが出来ないまま、リヒトは食事を終えた。上手く笑えていただろうかか。上手く拍手は出来ただろうか。テーセラモデルらしい明るさで、快活な気持ちで。あの子の、いつもの遊び相手として。
「……おめでとう……スゴいな……やったな、ミシェラ……頑張ったんだな……いいや、もうちょい明るく言わないと」
沈んだ声色が、ミシェラに掛ける言葉を探しながら、医務室のドアを開ける。ダイニングルームを出て学園に行かなくちゃいけないのに、足はいつの間にか人形の居ない方へと向かっていたようだ。握りしめたノートと、鉛筆が揺れる。少しだけ、少しだけ、あともう少しでこのぎりぎり締まる鼓動を抑えて、ちゃんと笑って学園に行ける。だから、あと少しだけ。
ちっとも上手く笑えないままのリヒトの背中を……誰かが追ってきた。
《Mugeia》
晴れた太陽の匂いがとても鼻腔を擽る朝のことでした。小窓から射し込む日差しは柔らかく、母の抱擁のように、天使の光輪のように、かのドール達を抱きしめるのです。嗚呼、なんて素晴らしい朝のひと時。 嗚呼、なんと煌めきと希望に満ちた朝でしょうか。小鳥の囀りは聞こえないけれど、愛らしいドール達の金糸雀のような声が響いています。太陽にご挨拶をするようにミュゲイアはその陽射しを溢れんばかりに抱きしめて、今日という日の始まりを噛み締める。太陽の日差しはまるで母の笑顔。太陽の柔らかさはシルクのようにミュゲイアを包み込む。銀糸の髪は太陽の陽射しを受け止め乱反射するスパンコールのように煌めいている。踊るように柔らかく笑みを浮かべた唇は夜を着飾る三日月のように、絵に書いた様に完成された微笑みがそこにはあった。真珠の肌を艶めかせたかんばせは傷一つなく、白蝶貝の瞳が捉えたのは金色の長い髪の小さなドールでありました。 スープを食べる手を止めて、ミルクで混ぜたようなココアブラウンの髪の先生、このトイボックスアカデミーの大人である彼の言葉に耳を傾けた。
お披露目、お披露目が決まったのだとその薄い唇は唄う。なんて、素敵で幸せなお知らせ。晴天のこの日に見合った幸せな告知。それは受胎告知のように神聖なもので、オミクロンであるドール達に希望を与える言葉。それにミュゲイアは大きく手を叩いて拍手を送る。弾ける笑顔とテンポよく奏でられる拍手はまるでワルツ。社交界に花が咲いたようにミュゲイアは喜んだ。
「……とっても素敵!ああ、ミシェラとても幸せそう!とっても笑顔!ミュゲも嬉しくなっちゃうな!」
今日はいい事が起こりそうだと、そんな気がした。だって、朝からこんなにも素敵で幸せなお話を聞けたのですから。オルゴールの音のように穏やかな心は幸せに満ち溢れて、その全てを抱きしめそうになってしまうのです。会えなくなるのは寂しい事かもしれませんが、ミュゲイアはそれよりもミシェラの幸せにしか目がないのです。甘いスイーツを見るように、ドレスを選ぶ様に、それに釘付けなのです。だから、目の端に写った太陽のような髪の色のドールの姿がやけにこの幸せに不似合いに見えたのです。どこか寂しげにも見えるその背中をミュゲイアは追いかけていました。どこか焦る様なかのドールはまるで時計ウサギ。それを追いかけるミュゲイアはワンダーランドに導かれる少女のよう。椅子から降りてミュゲイアはその背中を一生懸命追いかけます。ねぇ、そのかんばせは微笑んでいるのでしょうか?幸せでしょうか?草原の丘に吹く春風のような貴方の笑顔を追いかけてしまうのです。待って、待ってとスカートを靡かせて小さな歩幅で追いかけてしまうのです。
ほら、もう少しで笑顔が見れそうです。
医務室の扉をくぐると、これまでの温もりを感じる木製の床から一転、清潔な白い壁と床の空間があなたを出迎える。
ドールが収まるための棺のような箱型のベッドが三つ、壁に沿って並んでいる。作業台と思しき広い机には何も置かれていない。当然だ、近頃は誰も目立った怪我をしていないから。
奥に置かれた棚には、怪我をしたドールズに処置をするための医療道具が収められていたはずだ。
おもちゃ箱のドールズ。
ヒトの手を待つ球体関節。
どれだけコワれていようとも、
それを望んで、待っている。
(なんだよ……なんだよ、ミシェラ。先に行っちゃうのか)
自分よりも年下設計の彼女に対して、リヒトは遊び相手として接していた。柔らかな草の間を駆け抜け、花冠の作り方を教わって。未だに花冠は上手く作れないけれど、むしろそれが、彼女をつなぎとめてくれるんじゃないかなー、なんて、思ってしまっていたことは否めない。
あんなに暖かな陽だまりの記憶が、今もぐずぐずと、逃げ場を探して俯く彼を明るい声で苛むのだ。
(結局、アイツも、キレイだったじゃねえか……)
手慰みに医務室の棺をぜーんぶ開けてみるけれど、この腐った羨みや、妬みや、ぐずぐずした自分嫌いが隠れられそうな暗がりは見つからない。ひとつ、ふたつ、みっつ。
不意に、医務室のドアが開く。
「ミ……………ミュゲ!? び、びっくりした。なんだよもう、オドかすなよ〜!!」
慌てて振り向いたドールは、予想外に驚いて、笑おうとした。ああ、完全でコワれていないドールなら、予定通りに笑えたのかもしれない。隅から隅まで完璧なら、もっと上手く、もっと上手く、活動できるのかもしれない。ミシェラみたいに。
なあ、ミュゲ。
オレ、上手く、笑えてる?
あなたは箱型のベッドを開く。内側は、あなた方の部屋に置いてあるものとさして変わらない。敷き詰められた柔らかなシーツの上に、白く清潔な枕が乗せられている。
シーツはきちんと伸ばされていて、綺麗な状態だった。あなた方に万が一があった時のための設備なので、先生が欠かさず清掃を行なっているのだ。
…しかし、一番奥のベッド。こちらだけ、ほんの微かだがシーツに皺が残っているようだ。
覗き込んで中を確認すると、あなたは気がつく。ベッドの蓋の部分に、無数に文字が刻まれているのだ。この文字…なんと書かれているのだろう。あなたには分からない。何かの記号のようにも見えた。
《Mugeia》
おもちゃ箱のお人形さん
おもちゃ箱の妖精さん
いつまでそこにいるの?
誰か待っているの?
待人は訪れますか?
お人形も遊んでもらえなければ埃に撫でられる。
そう思いませんか?
そんなにも悲しい事を考えてしまうのならば、なぜこの鼓動と思考はあるのでしょうか。
いっその事、なくなってしまえばいいのです。
おもちゃ箱はまるでヴェールのよう。淡い彩色の純白に包まれたおもちゃ箱は美しくて綺麗なものしか存在しない。汚いものも苦しいこともそんなものは一切存在しない。甘美に浸る花々のように甘く、それに蜂蜜をかけて浸りきる。このおもちゃ箱になんの疑問も抱かずに、与えられたもの達だけが世界の全てなのだと疑わない。疑うところなんてないのだから、疑う必要なんてない。きっと、そう造られているから。ただ、少しなにかの分量を間違われたドール達だけが疑問を持ってしまう。"あのドール"だってそうだった。ミュゲイアにはよく理解できないドールだった。嗚呼、あの子が言っていた事も聞きそびれてしまった。あの子は今頃、ご主人様と朝のひと時を楽しんでいるのだろうか。楽しめているのだろうか。あのドールの言葉をちゃんと聞かないと。金色のドールに聞かないと、なんて考えながらミュゲイアは医務室に着いた。清潔感のあるその場所にドールの驚いたような声が響き渡る。いつもなら、保健室ではお静かにと言われるだろうけれど、今はここに2人しかいない。
「えへへ、おどかしちゃってごめんね!リヒトの事追いかけて来ちゃったの!リヒトはどこか怪我でもしたの?…どこか痛いなら笑ってみて!笑えば痛みも吹き飛ぶの!」
驚いたような声に対してミュゲイアは笑って言葉を返した。もし、リヒトが怪我をしてこの場に来たというのならミュゲイアはきっと何か包帯でもないかと探すだろうし、違うのであれば違うで怪我がなくて良かったで話は終わる。棺のベッドは全て開かれていた。やはりどこか不具合でもあるのだろうか?そう思いながらもミュゲイアはリヒトの近くに行き彼と一緒に棺のベッドを見るだろう。
「あ…はは、あはは! 大丈夫、ダイジョーブ! ホラ、オレは元気だろ? どこもコワれてない!」
だんだん、上手くなってきた。ぐちゃぐちゃの、どろどろの、ボロボロにコワれた心を隠して、リヒトは上手に口角を上げる。そしてその場でくるっと一回転して見せた。トイボックスの完璧なドールが、明るく元気なテーセラモデルが、ネガティブな感情に流される訳無い。
……よな。だからオレは、(大した取り柄もないオレは、)ちゃんとそれくらいやらないと。
「……ココに来たのはさ! ほら、気になることがあったんだ。……見て見て」
嘘をついた。下手くそな嘘を。
開いた3個目の棺の中、蓋の部分に書いてある何かの文字列を、ミュゲに見せてみた。まるで最初から『これを見せに来た』と言わんばかりに。情けない自分が嫌になった、なんてバレないように。
「────な? ミュゲ、これって…みんなを楽しませて、笑わせようっていう、誰かのサクセンじゃないかな。……ミュゲ、これなんだと思う?」
ドールのみんなを笑顔にする会のメンバーとして、リヒトはこそこそと囁いて、また笑う。そして、“いつもの“ノートと鉛筆を取り出して、不格好ながらにそれを書き移そうとした。誰かが、みんなを笑わせるためにこんなことをしている。だから笑顔にする会の自分たちで、これを追っかけてみよう、なんて。
……でも、ああ、拭えない。この異質への恐怖が消えてくれない。じわじわと心の底から染み上がってくる、『なんだこれ』という震えが止まらない。咄嗟の言い訳に使ってしまった、その後悔が。
ねえ、なんなんだよ、これ。
《Mugeia》
「ミュゲね、リヒトの笑顔大好き!今日もとっても素敵な笑顔!」
彼はとっても素敵な太陽の笑顔を浮かべた。爽やかな草原の丘が見えるような、草花をかき分け撫でる風のような、そんな笑顔。ミュゲイアの何よりも大好きな笑顔がそこにはあった。壊れてなんかいない。だって、笑っているから。とっても元気なのはその笑顔が物語ってくれている。笑顔が全てを救って平等に幸せにしてくれる。笑顔は幸せのもと。幸せは笑顔から始まる。笑顔から幸福が始まる。笑顔は救済であり、特効薬。笑顔はそれだけに素晴らしく、ドールとして大切なもの。それをミュゲイアはよく分かっている。だから、リヒトがどう思っているかなんて知らないし、そんなのはミュゲイアにとっては関係のないものだった。表面的な笑顔しかミュゲイアはわからない。笑顔ならそれは全て幸せになってしまう。心の底からのものになってしまう。だから、オミクロンなのでしょう。その歪みがかのドールをそうさせる。もちろん、目の前のドールでさえも。
「え!なになに!?……ルートゼロ。これね、ミシェラも言ってたの!きっと素敵な言葉なのかも!ミシェラに聞いてみないとってミュゲも思ってたんだけど、この言葉を他の人も知ってたんだ!きっと、幸せのおまじないなのかも!」
だから、あの子も呟いていたのかも!そんな思考がミュゲイアの頭に流れた。こびりついて消えないこの言葉。誰かも知っていた言葉。ミシェラも知っていた言葉。きっと、幸せのおまじないそんな気がする。だから、みんな呟いていたんだなんて浅はかな思考が頭に過ぎる。どこまでも頭は正常に狂って歪んで御伽噺を囁く。
「るーと、ぜろ……“るーとぜろ“って、なんだろうな?」
蓋の裏の文字列に指でそっと触れながら、ミュゲにそう尋ねる。次第に、読めなくても、その文字の形がみんな同じことに気づいていく。薄ら寒い、嫌な予感がする。こんなに、こんなに同じ文字列を書き込むことへの、病的な執着や、おぞましい焦燥や……気の所為。気の所為。気の所為。気の所為。気の所為。
(……気の所為、だ)
だから、笑わなきゃ。
ミュゲの前だぞ。
「じゃあ、他のみんなにも聞いてみないとな! こんなコトが出来る人って、要はその…“るーとぜろ“を知ってる人、ってコトだろ?」
『ソイツを見つけて、“笑顔にする会“のメンバーにしちまおうぜ!』なんて言いながら、ノートを開いて書き込みつつ、リヒトはシワの入ったその箱の縁に腰掛けた。そして、皺の寄った箱の中を見る。
もしかしたら、この箱に居たのはミシェラかもしれない。“るーとぜろ“をここで知ったのかもしれない。そしたら、“るーとぜろ“って何なんだろう。
……今も止まないその疑問が、お披露目の決まった晴れやかなミシェラから目を背けるための口実であることに、リヒトはまだ気づいていない。気づいていないまま体を傾がせて、彼はぽすん、と一番奥の箱の中に収まった。まるで規格通りのお人形みたいに。
ベッドの蓋に刻まれた文字は、何か尖ったもので何度も執拗に表面を削ったようにざらざら、でこぼこと凹んでいた。背筋がぞわぞわとするような不気味な執念を感じるだろう。
《Mugeia》
同じ文字列の並び。狂ってしまいそうな程にそれを何かで書いたのだろう。きっと、毎日、毎日なにかに取り憑かれたように、それを脳裏に焼き付けて忘れないように。その様はまさしく不気味であり、狂っているや歪んでいると言ってもおかしくないほどであろう。そうでなくてはそんな言葉、そんなもの、そんなに書かない。書けない。おぞましさする感じる蓋の文字列を見ても呑気にミュゲイアはそれをポジティブなものとして受け止める。クタクタに煮込まれた林檎のような思考はどこか腐りかけのようにも見える。それくらいにおかしいのである。それを見て、ミュゲイアのような言葉がでるだろうか?明らかにこんなおぞましさを持ったものに対してそんなにも明るく返せるのだろうか。それはきっとミュゲイアにはわからない。腐った思考では客観視など出来ない。腐った思考ではその文字列の意味もわからない。そもそも、√だとかそういうのはきっとデュオの方がわかるはず。お勉強が得意なのはデュオというのはお決まりのこと。だからミュゲイアはいつもと変わらない笑顔を向けて勝手に素敵な言葉と決めつければ、棺のベッドの縁に少し体重を任せて、愛おしそうにその文字列を撫でる。きっと、素敵なおまじないのその言葉を。
「うーん、わかんない!難しい事はデュオの子達に聞いてみよ!でもきっと、素敵な言葉だよ!だからこんなに書かれてるの!」
「それとっても素敵なアイデア!ミュゲもみんなに聞いてみるね!」
その言葉を知っている人をメンバーにしてしまおうと言われればにっこりと微笑んで賛同する。笑顔にする会のメンバーが増えるのはいい事だから、ミュゲイアはそれに反対なんてしない。棺のベッドの中に収まったリヒトの行動にはこれといって何かを言うことはなく、ミュゲイアはベッドの傍から離れていくつか片付けられた椅子の方へと歩いた。其方に座るつもりなのだろう。
「……ミュゲはさ、“るーとぜろ“ってどこで読んだ? ダレに聞いた?」
まだ、学園には行けない。行けないから、バカな事だとはわかっているけど、こんな“不思議“にかかずらっていたい。時計はチクチク動いているけれど、体はコチコチに固まってるみたいに、億劫だ。今日がどんどんゆっくりになって、固まってるしまえばいいのに、なんて。
ゆっくり体を起こしながらミュゲに尋ねて、そのまま箱から起き上がる。ギチギチと螺子を回された、機械仕掛けのドールのように。
「オレは、知らなかったからさ」
自分だけ、なのだろうか。もしかしたら、みんなみんな、みんな知っていて、オレだけやっぱりまた、知らなかったのだろうか。もしくは、────たのだろうか。不安と焦りは尽きないまま、笑顔の裏に押し込んで、リヒトは手持ち無沙汰に、今度は医務室奥の棚を開こうとしてみた。
奥に設置された大きな棚には、さまざまな医療道具が収まっている。緊急の事態に対応出来るように、薬剤や消耗品、メスや麻酔といったものまで。
しかし危険物が収まっているという関係上、棚にはいつも南京錠で鍵が掛けられている。なにか怪我をしてしまった場合は、先生に声を掛けて診てもらわなければならないようになっていた。
あなた方は人間を可能な限り模したドールだ。例え作り物であっても、医療道具は人間が用いるようなものと大差はない。
《Mugeia》
「うーん、読んだっていうか聞いたの!もうお披露目に行っちゃったオミクロンの子もねソレを呟いてたの!」
チクタク、針はいつも回っている。グルグルと回る思考を表すようにそれはいつもいつも決まった通りに決まった時刻を示す。まるでドールのように。規則的に動いている。そう言うなら壊れた時計はオミクロン。カチカチ動いてもちゃんと時間を示せない。そんな壊れた時計が2人。この部屋にいる。時計は止まらない。何も知らぬように動くだけ。ミュゲイアは片付けられていなかったふたつの椅子の片方に座ってから、リヒトの質問に答えた。読んだではなく聞いた。ルートゼロという言葉。どう書くのかとかは知らなかったけれど、あの文字列を見てパッと思い当たったのはその言葉。√なんて教科書でしかでない文字をこんなところで見るなんて思わなかった。もっとも、文字を見ても意味なんて分からないし、謎が深まったばかりなのであるが。それでもミュゲイアはあまりその言葉に対して何かを思うことはなかった。気になるとかもそうなかったのである。ただ、覚えていただけ。ただ、見覚えがあるだけ。
「ミュゲも知らないよ?
ミュゲは聴いただけだもん。」
そう、リヒトだけなんかではない。ミュゲイアも知らない。ただ、聞いたことがあるだけ。その言葉の意味もルーツも知らない。ただ、聞いただけ。それだけだったのである。それだけで何も知らないから勝手に決めつけている。リヒトの笑顔の奥を知らないから今も彼は幸せと決めつけるように。ただ、そう決めつけているだけ。
「……そっか」
真っ赤に染まった自分の制服の、一枚裏側を想像する。
手首まである長い服で助かったと、時々思う。今のとこ、ストーム以外には勘づかれては居ない……と思う。センセーはどうか分からないけど、頼りないこの一枚の布が、全部隠してくれることを願う。コワれた体を、何もかも。
真っ赤に染まった自分の制服の、一枚裏側を想像する。
棚を開けられないのに気づいて、リヒトは軽く南京錠を見て、それからミュゲの言葉に振り向いた。もちろん、笑顔で。
「……ってコトは、これってもしかして、お披露目に行ける秘密のアイコトバだったりして、な!」
『だったらいいよな、るーとぜろ。オレだって、ミュゲだってお披露目に行けるかもしれない!』そう言いながら、ミュゲの真向かいにどかっと座る。性能で判断されるはずのお披露目に、合言葉なんてあるはず無い。でも、もしそんな魔法みたいな…コワれた自分でも、一言口にするだけで夢が叶うような言葉があるなら。それはなんて、甘美で素敵な夢物語。作業台の上を見つめる伏せられた目も、ゆっくり瞬きをする。
「お披露目に行っちゃったその子って、なんて名前?」
《Mugeia》
合言葉。だなんてリヒトが言えば嬉しそうに輝いた目をリヒトに向ける。ミュゲイアとてお披露目に憧れるドールの1人、それはオミクロンに堕ちだからといって変わらない。いつかは素敵なご主人様の腕に抱かれたいという願いは枯れてなんかいなかった。それはきっとリヒトも同じ。オミクロンであれお披露目に憧れる権利はある。お披露目に行く権利も勿論ある。なんせ、オミクロンクラスの子もお披露目に行ったのをミュゲイアはこの目で見ているのだから。今日だってそうである。ミシェラのお披露目が決まったのと同じように次は自分かも、その次はきっと自分かもと待ちわびている。もう、長くこのクラスに在籍しているけれどお披露目に選ばれていないミュゲイアにとってリヒトの言葉は希望だった。椅子から勢いよく立ち上がり向かいに座ったリヒトの方へと作業台越しにグッと身体を近づける。希望に満ちたその瞳は確かにリヒトをくっきりと捉えていた。どこか金魚のようにギョロっとした目ではあるけれど、キラキラと楽しげに彼の言葉に食いついているのが分かる。
「だとしたら凄いよ、リヒト!大発見だよ!みんなにも教えてあげないと!」
「ん?えっと、えっと、名前は、うーん、なんて名前だっけ。……ってリヒト時間!授業が始まっちゃうよ!」
キラキラとした瞳は変わらない。そんなはずないなんて疑いもなくリヒトの言葉に食いついて心を煌めかせる。夢物語のようなそれを信じきって喜びに浸る。なんて単純なのだろうか。そう思わせるほどに疑いなんてなかった。けれど、リヒトにお披露目に行った子の名前を聞かれれば悩み出した。口角は上がったままに思い出すような素振りを見せて黙り込む。そんな時に時計が目に入った。もう、授業が始まる。このお話も終わりに近い。
「え、マジ?! 」
慌てて時計を振り返り、リヒトはガタッと立ち上がった。うだうだ、いつまでも落ち込んで、ああ、情けない。
「ごめんミュゲ、先行ってて! オレ取ってくるモノあるからさ!!」
さっきノートに書き込んだ時、インク壺が空っぽになりかけていたことを思い出す。これから勉強に行くなら、換えのインクを取ってこなくちゃいけない。じゃあな、とミュゲに向かって、いつもの通りニッコリ笑って、リヒトは駆け出した。
“るーとぜろ“と、お披露目、知っている人と知らない人。誰かの書き込み、使われた三番目。
そして、ミシェラのこと。
ずきり、と胸が締め付けられるように痛んだような気がして、エントランスホールの階段に立ち止まって、振り返る。朝の光に包まれた、エントランスホールが目に映った。眩しくて、眩しくて……リヒトは思わず目も開かないまま手を伸ばす。もう、少しで、届きそうで。
・
・
・
トイボックスから転げ落ちた、
誰も知らない六等星。
コワれた体で必死に燃える、
見向きもされない小さな光。
欠けたカラダにともる灯が、まやかしの夢を照らし出す。
──さあ、踊って。
出来損ないの星。
モラトリアムの内側で。
「──センセー?」
ノックを一回、二回。
先生の部屋に、先生は居ないのかもしれない。医務室から走ってやってきてすぐ、だからまだ、先生はミシェラの近くにいるのかもしれない。そんなことを思って……ノートを取ってないことを思い出して、慌てて書き込み始めた。ペン先が掠れて、ちょっと焦る。
「セーンセー……居ないかな」
もう一回ノックをする。そしてそのまま、そうっとドアを開けて、中に入ろうとしてみた。先生がいないなら、自分でインク壺を詰め替えるしかない。先生に貰ったばかりだから、やり方は分からないけれど……もしかしたら、そんな簡単なこと、みんな出来るのかもしれない。自分だけ、出来ないのかもしれない。……なーんて。
扉は抵抗なく開く。先生は自室に鍵をかけることがない、それをあなたは理解している。
しかし扉が開いた先に、先生はいなかった。まだ別の部屋に留まっているのだろう。
内装はシンプルだった。まず、執務机と革張りの椅子が出入り口の正面に向かい合うように設置されている。この部屋に先生が居たなら、入室したその後に目が合うようになっているのだ。
部屋の片隅にはベッドがある。あなた方が眠る時に用いる箱形ではない、四本の足で自立した寝台だ。シーツは皺一つなくメイキングされており、抜けた毛の一つすら落ちていない。
奥の壁に沿うように本棚が設置されており、小難しい専門書、或いは童話の詩集など雑多なジャンルの本が整頓されて並べられていた。
「居ないんだ、困ったな……」
先生は居なかった。インクはまだ少し残っているが、ちょっと不安だ。先生の部屋の中をきょろきょろと見回しながら、中に入っていく。換えのインクの壺が無いか、探しながら。
ふと、何か。
あれ、何か……。
「……なんか、スズしい?」
リヒトは本棚をすっと見上げて、ノートを開いて何行か書き込む。そして、本棚をぺたぺたと触って確認し始めた。一瞬そよいだ、風の来た場所を探して。
あなたは先生の執務机、スタンプや万年筆など筆記用具が収められた引き出しから予備のインク壺を見つけ出すことが出来る。いくつか替えはあるので、一つであれば持って行ってもいいかもしれない。
あなたは本棚自体に触れて、微かに感じた風の流れの出どころを探そうとする。本棚の角に指先が触れたところで、カタン、と微かに本棚が揺れた。床にあった溝に上手く嵌まったらしい。
本棚にはまるで滑車が付いたように、そのまま横に滑らせる事が出来そうだ。
「……えっ、あっ」
ぺたぺた触っていた本棚が急にカタン、と音を立てた。リヒトは慌てて本棚から手をぶんぶん振りながら離れ、ぴたっと止まって、眺める。
「ウソだろ、動くんだコレ……」
おっかな、びっくり、後ずさって机のところまで行き……インク壺の換えをこっそり貰って、羽根ペンを付け直す。そしてノートに二三、書き込んでから……辺りを見渡した。
今度はこっそり、足音を殺して、部屋の外に誰か来ないか聞き耳を立てながら……本棚を、動かして、中を見てみる。いけないことをしているのは分かっているけれど、遊び心の原点は好奇心だ。
あなたが恐々とした手つきで本棚を押し出し、横へとずらすと。その奥の壁に、今までは気付くことが出来なかった隠し扉が現れた。木製の重厚な扉で、捻るタイプのドアノブがが取り付けられている。
しかし扉には鍵が掛かっており、開けることはできなかった。
「……な、なーんだ」
開かないことに安堵する、相反する気持ちに困惑する。木製の重厚な扉は、誰かに気づかれないように隠されていた。隠されていたのだ。リヒトは扉の表面を見て、ついでにコンコンと叩いてみる。
「なんだよ……」
しばらく扉を触った後に、バレないように元の位置に本棚を戻して、リヒトはため息をついた。なんでこんな所に扉があるんだろう。本棚が動くんだろう。不思議な仕組みではあるが……リヒトの欠陥は、思考能力にこそある。理由に、意図に、その奥の大きな秘密に辿り着くには、彼のコワれた頭は少々、力不足だ。
忘れないように新しいインクでノートに書き込んで、彼は途方に暮れた。
扉はシンプルな構造で、他の場所に設置されている扉とそう変わらないデザインだ。
ドアノブの下には小さなシリンダーが取り付けられているが、どのような構造かは詳細な知識が無ければ判断し難いだろう。
扉をノックすると微かに反響するため、その先には確かに空間が存在していると分かる。テーセラモデルであるあなたが聞くに、小部屋程度の広さの空間があると考えられる。が、この先の部屋には恐らく窓はないだろうとも感じる。であれば、風はどこから感じたのだろうか。
「…………そーだよな」
ドアの特徴をぐりぐりとノートに書き込みながら、下手くそな絵も添えつつ、忘れないようにメモを取る。隠し扉の向こうに行けない以上、その他全ての謎を放っておいて、一番に出てくるのはやっぱり……ミシェラのことだった。
「あーあ。オメデトウって、笑って言えたら、楽なのにな……」
笑って言えたら、楽だろうに。ミシェラのことを、自分と同じ『コワれた頭』仲間だと思っていたから、余計にこの喜ばしい雰囲気が痛い。
そろそろ、学園に行かなきゃいけないな。なんて思って立ち上がりながら、リヒトは後ろ髪を引かれるようにずっと、ずっと、迷っていた。
──本日の天気も快晴。
長閑な青空には、綿菓子のような雲が漂っていて、空全体がうねるように動いていく。長閑な昼下がりのことだ。
あなたは柔らかな草地を踏み締め、平原を越えて広い敷地内のちょっとした湖畔に辿り着いた。
湖畔といっても、規模感は小さく、おおよそ2500㎡と言ったところか。
湖の水は澄み渡っており、いつ掬っても澱みひとつ見られない。たまに近辺に自生している広葉樹から落ちた葉が浮いているぐらいである。
「ん〜〜………」
授業を受けてる間ずっと、不思議な単語が頭をチラついていてこまった。ただでさえ、思考能力や論理的な物事の考え方が苦手な彼にとってそれは、足元を掬われるレベルでの大事。順を追ってしか考えられないのに、初手から踏み外している。
「ん〜〜〜〜!! あーもう、考えんのやっぱ、ニガテだ。なんだよ“るーとぜろ“って」
自分で書いたノートの中を睨みつけ、大きく溜息をつく。書いてあるところによると、ミュゲは知っているらしい。ミシェラも。……ミシェラも。
リヒトはノートと羽根ペンとインク壺を湖畔において、湖の傍でしゃがみ込んだ。
やっぱり、一日かけても、心が落ち着かない。ミシェラが居なくなるのは、寂しいし、羨ましいし、自分だけまた、って苦しくなるし、それでも嬉しいし。ゆるりと吹いた風がこの凝った心を晴らしてくれやしないか、と湖の中を覗き込んだ。静かなさざ波が去って、澄み切った湖の中が見える。
透き通った水が満たされているおかげで、砂利が敷き詰められた水底までがとても簡単に見通せる。しかし湖のほとりからから中央に向けて、しばらくは浅瀬が続いている。浸かっても膝上ぐらいまでであろう水深だ。
湖の中央付近はもう少し深くなっているようだが、それでも深すぎるということはなく、ドールズが万が一にも溺れないようある程度埋め立てられているのかもしれない、とあなたは感じるだろう。
湖の中には生物の姿は見られない。あまりに澄み渡った水なので、住処にすることが難しいのだろう。
つるりと透明な水面に一瞬、情けない顔をした自分が写った。くしゃ、と歪んだような顔に、心の中で自嘲をひとつ。まったく、ミシェラより五歳も上の設計なんだぞ。
うん、と伸びをしてリヒトは立ち上がり、軽く腕を振る。授業でやったような構えで、リヒトは湖のほとりを走り出した。
ようい、どん。
……走って、走って、走る。湖畔をぐるぐる、フォームもなってないめちゃくちゃな体勢で、ただがむしゃらに走る。体の中でゴトゴト、赤い燃料が走っている。コアにドクドク、熱が走る。草地を蹴り飛ばしながら、ぐらぐらする頭でただ、思う。
おめでとう、
おめでとう、
おめでとう、
おめでとう、友達。
「はっ、ははっ…はぁっ、はぁっ……あ〜〜っ!!
おめでとう、ミシェラ!!
いっぱい……いっぱい、いっぱい、いっぱい、ご主人様と幸せになれよ!!」
彼女は確かに、自分と同じようにコワれていたが……同時に彼女は、かわいくって、優しくって、お茶目で、ちょっとワガママで……とにかく素敵なドールなのだ。最高に最高にかわいい、リヒトの遊び友達なのだ。
吹っ切れたような笑い声と共にスピードを落として、ぽすん、と湖畔の草原に転ぶ。怪我はしていない。風がのどかに何処かを飛んでいく。もうすぐ春なんだろう、土が柔らかい。燃料が巡り巡って熱を持っていて、体がほくほくする。体を起こして靴を脱ぎ、靴下も脱いじゃってそのまま、湖の中にざぶざぶ入っていった。
見上げた空が、青い。
……よし。
今なら、ちゃんと、ミシェラとサヨナラできる。
あなたは制服がびしょ濡れになることも厭わず、迷いなく湖に突っ込んでいく。迫り来る水を掻き分けて強引に進んだ先、湖の中央付近は流石にやや水深があり、あなたの胸辺りまでを浸していた。ギリギリ水底に足がつく程度だろうか。
ドールズは水中に暫く止まると、呼吸困難に陥るように設計されている。本来ドールズに呼吸という行為は必要とされていないのだが、これもある程度ヒトに寄せるための設計なのだと聞いた。
改めて水面から水底を覗き込むも、揺らぐ波紋の先には敷き詰められた砂利が広がっているということしか現状は分からないだろう。
「………んーー!!冷たい!!やっぱまだ冷たいな……」
湖から出て、ぶんぶんと体を振って水を落とす。随分と晴れやかになったリヒトの体は、熱も下がってすっかりさっぱりしていた。……びしょ濡れになった制服を代償に。
「や、やばいよな……制服、濡らしちゃったら……」
ようやくそこに思い至って焦ったリヒトは、とりあえずギューッと制服を絞って、湖畔の日向に腰かけた。快晴、暖かな日が彼を照らす。何とか乾いてくれないかなあ、寮の近くの、あの洗濯物みたいに。なんて思いながら、彼は湖畔に置いておいた羽根ペンを取って、暇つぶしにメモを書き始めた。思っていることを、たくさん。忘れないように。
寮の周囲には、噴水とのどかな花畑が広がっている。噴水の中央にはいわゆる天使像が据えられており、広げられた翼は経年劣化のためか欠け落ち始めている。像を修復してはどうかという進言は、修理業者を呼び付けることが出来ないため一時保留となっていた。そういえば、あなたはこのアカデミーの外部の人間の存在を一人も見かけたことがない。常に生徒であるドールズと、彼らを取りまとめる『先生』の存在しか居ないのだ。
今朝方先生と他複数名で干したタオルケットなどの洗濯物が竿に掛けられて穏やかな風に煽られている。
洗濯物が揺れる中、乾いた制服にほっとしたリヒトは寮の方を見上げて、ゆっくり頬を叩いて気合いを入れる。怪我はしないように。
「よーし、やるぞ。やり方はミシェラから、ちゃんと習ってるから……」
振り返って、天使像の噴水の近くまで行く。自分はやり方を習っても、どうやって体を動かせばいいか分からないコワれ方をしてるんだから……練習、あるのみだ。
「そろそろ直さねえのかな、これ」
噴水の中を覗いて、コワれた像の欠片が無いかちょっとだけ探してみて……それから、噴水の近くの花畑に向かった。
あなたが寮の外観をぐるりと見回すと、物置があると話には聞いている三階の屋根裏部分に一つ窓が取り付けられていることに気がつくだろう。しかしその窓は木の板が打ち付けられており、外側から中を確認することは出来ないようになっている。
また、噴水の中には清潔な水が満たされていることが分かる。少しずつ欠け落ちていく天使の翼の破片が底に沈んでいるのも、勿論見えるだろう。
噴水周辺の広場には、様々な色合いの花が咲き乱れる花畑がある。現在は春先の季節なので、マーガレットや菜の花、タンポポ、ポピー、春紫苑など……また寮の周辺には花壇もあり、そちらにはチューリップやパンジーの花が育てられている。
花壇の花を取るのはさすがに怒られそうだ、と思って、リヒトは花畑の方に向かう。マーガレット、蒲公英、ポピー、ちょうど自分でも扱えそうな花を摘んで、ゆっくり曲げ始めた。
花かんむりを作ろう。あの日一緒に作った通りに。一度も上手く行ったことがなくても、せめてこのコワれた体いっぱいの餞を込めて。
「よーし、なかなか上手く行ったんじゃねえの……?!」
しばらく摘んだ花々と格闘した後。意気揚々と掲げた花かんむりは、リヒトには珍しく、ちゃんと丸く形になっていた……が。処理しきれなかった茎の切れ端がぴょんぴょん飛び出していて、花びらもぐにぐに弄っている間に半分くらい散ってしまっている。
リヒトはむすっとむくれて、じーーっと花かんむりを見つめた。縦にしてみたり、横にしてみたり、ぐるぐる回して見てみたり。なんとかマシに見える角度を探した挙句……ぐっと自分の頭に乗せて、ため息をついて立ち上がった。
一週間のうちに、納得のいく花かんむりが出来上がり、ちゃんとミシェラに渡せるのかどうか。きっと、欠けた天使像だけが知っている。