晴れた太陽の匂いがとても鼻腔を擽る朝のことでした。小窓から射し込む日差しは柔らかく、母の抱擁のように、天使の光輪のように、かのドール達を抱きしめるのです。嗚呼、なんて素晴らしい朝のひと時。
嗚呼、なんと煌めきと希望に満ちた朝でしょうか。小鳥の囀りは聞こえないけれど、愛らしいドール達の金糸雀のような声が響いています。太陽にご挨拶をするようにミュゲイアはその陽射しを溢れんばかりに抱きしめて、今日という日の始まりを噛み締める。太陽の日差しはまるで母の笑顔。太陽の柔らかさはシルクのようにミュゲイアを包み込む。銀糸の髪は太陽の陽射しを受け止め乱反射するスパンコールのように煌めいている。踊るように柔らかく笑みを浮かべた唇は夜を着飾る三日月のように、絵に書いた様に完成された微笑みがそこにはあった。真珠の肌を艶めかせたかんばせは傷一つなく、白蝶貝の瞳が捉えたのは金色の長い髪の小さなドールでありました。 スープを食べる手を止めて、ミルクで混ぜたようなココアブラウンの髪の先生、このトイボックスアカデミーの大人である彼の言葉に耳を傾けた。
お披露目、お披露目が決まったのだとその薄い唇は唄う。なんて、素敵で幸せなお知らせ。晴天のこの日に見合った幸せな告知。それは受胎告知のように神聖なもので、オミクロンであるドール達に希望を与える言葉。それにミュゲイアは大きく手を叩いて拍手を送る。弾ける笑顔とテンポよく奏でられる拍手はまるでワルツ。社交界に花が咲いたようにミュゲイアは喜んだ。
「……とっても素敵! ああ、ミシェラとても幸せそう! とっても笑顔! ミュゲも嬉しくなっちゃうな!」
今日はいい事が起こりそうだと、そんな気がした。だって、朝からこんなにも素敵で幸せなお話を聞けたのですから。オルゴールの音のように穏やかな心は幸せに満ち溢れて、その全てを抱きしめそうになってしまうのです。会えなくなるのは寂しい事かもしれませんが、ミュゲイアはそれよりもミシェラの幸せにしか目がないのです。甘いスイーツを見るように、ドレスを選ぶ様に、それに釘付けなのです。だから、目の端に写った太陽のような髪の色のドールの姿がやけにこの幸せに不似合いに見えたのです。どこか寂しげにも見えるその背中をミュゲイアは追いかけていました。どこか焦る様なかのドールはまるで時計ウサギ。それを追いかけるミュゲイアはワンダーランドに導かれる少女のよう。椅子から降りてミュゲイアはその背中を一生懸命追いかけます。ねぇ、そのかんばせは微笑んでいるのでしょうか? 幸せでしょうか? 草原の丘に吹く春風のような貴方の笑顔を追いかけてしまうのです。待って、待ってとスカートを靡かせて小さな歩幅で追いかけてしまうのです。
ほら、もう少しで笑顔が見れそうです。
医務室の扉をくぐると、これまでの温もりを感じる木製の床から一転、清潔な白い壁と床の空間があなたを出迎える。
ドールが収まるための棺のような箱型のベッドが三つ、壁に沿って並んでいる。作業台と思しき広い机には何も置かれていない。当然だ、近頃は誰も目立った怪我をしていないから。
奥に置かれた棚には、怪我をしたドールズに処置をするための医療道具が収められていたはずだ。
《Licht》
おもちゃ箱のドールズ。
ヒトの手を待つ球体関節。
どれだけコワれていようとも、
それを望んで、待っている。
(なんだよ……なんだよ、ミシェラ。先に行っちゃうのか)
自分よりも年下設計の彼女に対して、リヒトは遊び相手として接していた。柔らかな草の間を駆け抜け、花冠の作り方を教わって。未だに花冠は上手く作れないけれど、むしろそれが、彼女をつなぎとめてくれるんじゃないかなー、なんて、思ってしまっていたことは否めない。
あんなに暖かな陽だまりの記憶が、今もぐずぐずと、逃げ場を探して俯く彼を明るい声で苛むのだ。
(結局、アイツも、キレイだったじゃねえか……)
手慰みに医務室の棺をぜーんぶ開けてみるけれど、この腐った羨みや、妬みや、ぐずぐずした自分嫌いが隠れられそうな暗がりは見つからない。ひとつ、ふたつ、みっつ。
不意に、医務室のドアが開く。
「ミ……………ミュゲ!? び、びっくりした。なんだよもう、オドかすなよ〜!!」
慌てて振り向いたドールは、予想外に驚いて、笑おうとした。ああ、完全でコワれていないドールなら、予定通りに笑えたのかもしれない。隅から隅まで完璧なら、もっと上手く、もっと上手く、活動できるのかもしれない。ミシェラみたいに。
なあ、ミュゲ。
オレ、上手く、笑えてる?
おもちゃ箱のお人形さん。
おもちゃ箱の妖精さん。
いつまでそこにいるの?
誰か待っているの?
待人は訪れますか?
お人形も遊んでもらえなければ埃に撫でられる。
そう思いませんか?
そんなにも悲しい事を考えてしまうのならば、なぜこの鼓動と思考はあるのでしょうか。
いっその事、なくなってしまえばいいのです。
おもちゃ箱はまるでヴェールのよう。淡い彩色の純白に包まれたおもちゃ箱は美しくて綺麗なものしか存在しない。汚いものも苦しいこともそんなものは一切存在しない。甘美に浸る花々のように甘く、それに蜂蜜をかけて浸りきる。このおもちゃ箱になんの疑問も抱かずに、与えられたもの達だけが世界の全てなのだと疑わない。疑うところなんてないのだから、疑う必要なんてない。きっと、そう造られているから。ただ、少しなにかの分量を間違われたドール達だけが疑問を持ってしまう。"あのドール"だってそうだった。ミュゲイアにはよく理解できないドールだった。嗚呼、あの子が言っていた事も聞きそびれてしまった。あの子は今頃、ご主人様と朝のひと時を楽しんでいるのだろうか。楽しめているのだろうか。あのドールの言葉をちゃんと聞かないと。金色のドールに聞かないと、なんて考えながらミュゲイアは医務室に着いた。清潔感のあるその場所にドールの驚いたような声が響き渡る。いつもなら、保健室ではお静かにと言われるだろうけれど、今はここに2人しかいない。
「えへへ、おどかしちゃってごめんね! リヒトの事追いかけて来ちゃったの! リヒトはどこか怪我でもしたの? ……どこか痛いなら笑ってみて! 笑えば痛みも吹き飛ぶの!」
驚いたような声に対してミュゲイアは笑って言葉を返した。もし、リヒトが怪我をしてこの場に来たというのならミュゲイアはきっと何か包帯でもないかと探すだろうし、違うのであれば違うで怪我がなくて良かったで話は終わる。棺のベッドは全て開かれていた。やはりどこか不具合でもあるのだろうか? そう思いながらもミュゲイアはリヒトの近くに行き彼と一緒に棺のベッドを見るだろう。
リヒトが覗き込んでいた箱型のベッドのひとつ。開け放された蓋の部分に、無数に同一の言葉が刻まれている。
あなたはその言葉…単語というべきか。それに覚えがあった。なぜならば近頃同じような単語を耳にしたからだ。
ベッドの蓋にはこのような単語が無数に刻み込まれている。まるであなたの脳髄に焼き込み、存在を印象付けるかのように。
────『√0』と。
《Licht》
「あ……はは、あはは! 大丈夫、ダイジョーブ! ホラ、オレは元気だろ? どこもコワれてない!」
だんだん、上手くなってきた。ぐちゃぐちゃの、どろどろの、ボロボロにコワれた心を隠して、リヒトは上手に口角を上げる。そしてその場でくるっと一回転して見せた。トイボックスの完璧なドールが、明るく元気なテーセラモデルが、ネガティブな感情に流される訳無い。
……よな。だからオレは、(大した取り柄もないオレは、)ちゃんとそれくらいやらないと。
「……ココに来たのはさ! ほら、気になることがあったんだ。……見て見て」
嘘をついた。下手くそな嘘を。
開いた三個目の棺の中、蓋の部分に書いてある何かの文字列を、ミュゲに見せてみた。まるで最初から『これを見せに来た』と言わんばかりに。情けない自分が嫌になった、なんてバレないように。
「────な? ミュゲ、これって……みんなを楽しませて、笑わせようっていう、誰かのサクセンじゃないかな。……ミュゲ、これなんだと思う?」
ドールのみんなを笑顔にする会のメンバーとして、リヒトはこそこそと囁いて、また笑う。そして、“いつもの“ノートと鉛筆を取り出して、不格好ながらにそれを書き移そうとした。誰かが、みんなを笑わせるためにこんなことをしている。だから笑顔にする会の自分たちで、これを追っかけてみよう、なんて。
……でも、ああ、拭えない。この異質への恐怖が消えてくれない。じわじわと心の底から染み上がってくる、『なんだこれ』という震えが止まらない。咄嗟の言い訳に使ってしまった、その後悔が。
ねえ、なんなんだよ、これ。
「ミュゲね、リヒトの笑顔大好き! 今日もとっても素敵な笑顔!」
彼はとっても素敵な太陽の笑顔を浮かべた。爽やかな草原の丘が見えるような、草花をかき分け撫でる風のような、そんな笑顔。ミュゲイアの何よりも大好きな笑顔がそこにはあった。壊れてなんかいない。だって、笑っているから。とっても元気なのはその笑顔が物語ってくれている。笑顔が全てを救って平等に幸せにしてくれる。笑顔は幸せのもと。幸せは笑顔から始まる。笑顔から幸福が始まる。笑顔は救済であり、特効薬。笑顔はそれだけに素晴らしく、ドールとして大切なもの。それをミュゲイアはよく分かっている。だから、リヒトがどう思っているかなんて知らないし、そんなのはミュゲイアにとっては関係のないものだった。表面的な笑顔しかミュゲイアはわからない。笑顔ならそれは全て幸せになってしまう。心の底からのものになってしまう。だから、オミクロンなのでしょう。その歪みがかのドールをそうさせる。もちろん、目の前のドールでさえも。
「え! なになに!? ……ルートゼロ。これね、ミシェラも言ってたの! きっと素敵な言葉なのかも! ミシェラに聞いてみないとってミュゲも思ってたんだけど、この言葉を他の人も知ってたんだ! きっと、幸せのおまじないなのかも!」
だから、あの子も呟いていたのかも! そんな思考がミュゲイアの頭に流れた。こびりついて消えないこの言葉。誰かも知っていた言葉。ミシェラも知っていた言葉。きっと、幸せのおまじないそんな気がする。だから、みんな呟いていたんだなんて浅はかな思考が頭に過ぎる。どこまでも頭は正常に狂って歪んで御伽噺を囁く。
《Licht》
「るーと、ぜろ……“るーとぜろ“って、なんだろうな?」
蓋の裏の文字列に指でそっと触れながら、ミュゲにそう尋ねる。次第に、読めなくても、その文字の形がみんな同じことに気づいていく。薄ら寒い、嫌な予感がする。こんなに、こんなに同じ文字列を書き込むことへの、病的な執着や、おぞましい焦燥や……気の所為。気の所為。気の所為。気の所為。気の所為。
(……気の所為、だ)
だから、笑わなきゃ。
ミュゲの前だぞ。
「じゃあ、他のみんなにも聞いてみないとな! こんなコトが出来る人って、要はその……“るーとぜろ“を知ってる人、ってコトだろ?」
『ソイツを見つけて、“笑顔にする会“のメンバーにしちまおうぜ!』なんて言いながら、ノートを開いて書き込みつつ、リヒトはシワの入ったその箱の縁に腰掛けた。そして、皺の寄った箱の中を見る。
もしかしたら、この箱に居たのはミシェラかもしれない。“るーとぜろ“をここで知ったのかもしれない。そしたら、“るーとぜろ“って何なんだろう。
……今も止まないその疑問が、お披露目の決まった晴れやかなミシェラから目を背けるための口実であることに、リヒトはまだ気づいていない。気づいていないまま体を傾がせて、彼はぽすん、と一番奥の箱の中に収まった。まるで規格通りのお人形みたいに。
同じ文字列の並び。狂ってしまいそうな程にそれを何かで書いたのだろう。きっと、毎日、毎日なにかに取り憑かれたように、それを脳裏に焼き付けて忘れないように。その様はまさしく不気味であり、狂っているや歪んでいると言ってもおかしくないほどであろう。そうでなくてはそんな言葉、そんなもの、そんなに書かない。書けない。おぞましさする感じる蓋の文字列を見ても呑気にミュゲイアはそれをポジティブなものとして受け止める。クタクタに煮込まれた林檎のような思考はどこか腐りかけのようにも見える。それくらいにおかしいのである。それを見て、ミュゲイアのような言葉がでるだろうか? 明らかにこんなおぞましさを持ったものに対してそんなにも明るく返せるのだろうか。それはきっとミュゲイアにはわからない。腐った思考では客観視など出来ない。腐った思考ではその文字列の意味もわからない。そもそも、√だとかそういうのはきっとデュオの方がわかるはず。お勉強が得意なのはデュオというのはお決まりのこと。だからミュゲイアはいつもと変わらない笑顔を向けて勝手に素敵な言葉と決めつければ、棺のベッドの縁に少し体重を任せて、愛おしそうにその文字列を撫でる。きっと、素敵なおまじないのその言葉を。
「うーん、わかんない! 難しい事はデュオの子達に聞いてみよ! でもきっと、素敵な言葉だよ! だからこんなに書かれてるの!
それとっても素敵なアイデア! ミュゲもみんなに聞いてみるね!」
その言葉を知っている人をメンバーにしてしまおうと言われればにっこりと微笑んで賛同する。笑顔にする会のメンバーが増えるのはいい事だから、ミュゲイアはそれに反対なんてしない。棺のベッドの中に収まったリヒトの行動にはこれといって何かを言うことはなく、ミュゲイアはベッドの傍から離れていくつか片付けられた椅子の方へと歩いた。其方に座るつもりなのだろう。
あなたの目に留まるのは、医務室に置かれていた椅子のほとんどが部屋の隅に片付けられていたこと。それと、なぜか唯一片付けられていない二つの椅子だ。
残された二つの背もたれ付きの椅子は、向かい合うようにして部屋の中央、作業台のそばに置かれている。
誰かがこの場所で話し込んでいたのかもしれない。あなたはその席に腰掛けられる。
《Licht》
「……ミュゲはさ、“るーとぜろ“ってどこで読んだ? ダレに聞いた?」
まだ、学園には行けない。行けないから、バカな事だとはわかっているけど、こんな“不思議“にかかずらっていたい。時計はチクチク動いているけれど、体はコチコチに固まってるみたいに、億劫だ。今日がどんどんゆっくりになって、固まってるしまえばいいのに、なんて。
ゆっくり体を起こしながらミュゲに尋ねて、そのまま箱から起き上がる。ギチギチと螺子を回された、機械仕掛けのドールのように。
「オレは、知らなかったからさ」
自分だけ、なのだろうか。もしかしたら、みんなみんな、みんな知っていて、オレだけやっぱりまた、知らなかったのだろうか。もしくは、────たのだろうか。不安と焦りは尽きないまま、笑顔の裏に押し込んで、リヒトは手持ち無沙汰に、今度は医務室奥の棚を開こうとしてみた。
「うーん、読んだっていうか聞いたの! もうお披露目に行っちゃったオミクロンの子もねソレを呟いてたの!」
チクタク、針はいつも回っている。グルグルと回る思考を表すようにそれはいつもいつも決まった通りに決まった時刻を示す。まるでドールのように。規則的に動いている。そう言うなら壊れた時計はオミクロン。カチカチ動いてもちゃんと時間を示せない。そんな壊れた時計が二人。この部屋にいる。時計は止まらない。何も知らぬように動くだけ。ミュゲイアは片付けられていなかったふたつの椅子の片方に座ってから、リヒトの質問に答えた。読んだではなく聞いた。ルートゼロという言葉。どう書くのかとかは知らなかったけれど、あの文字列を見てパッと思い当たったのはその言葉。√なんて教科書でしかでない文字をこんなところで見るなんて思わなかった。もっとも、文字を見ても意味なんて分からないし、謎が深まったばかりなのであるが。それでもミュゲイアはあまりその言葉に対して何かを思うことはなかった。気になるとかもそうなかったのである。ただ、覚えていただけ。ただ、見覚えがあるだけ。
「ミュゲも知らないよ?
ミュゲは聴いただけだもん。」
そう、リヒトだけなんかではない。ミュゲイアも知らない。ただ、聞いたことがあるだけ。その言葉の意味もルーツも知らない。ただ、聞いただけ。それだけだったのである。それだけで何も知らないから勝手に決めつけている。リヒトの笑顔の奥を知らないから今も彼は幸せと決めつけるように。ただ、そう決めつけているだけ。
《Licht》
「……そっか」
真っ赤に染まった自分の制服の、一枚裏側を想像する。
手首まである長い服で助かったと、時々思う。今のとこ、ストーム以外には勘づかれては居ない……と思う。センセーはどうか分からないけど、頼りないこの一枚の布が、全部隠してくれることを願う。コワれた体を、何もかも。
真っ赤に染まった自分の制服の、一枚裏側を想像する。
棚を開けられないのに気づいて、リヒトは軽く南京錠を見て、それからミュゲの言葉に振り向いた。もちろん、笑顔で。
「……ってコトは、これってもしかして、お披露目に行ける秘密のアイコトバだったりして、な!」
『だったらいいよな、るーとぜろ。オレだって、ミュゲだってお披露目に行けるかもしれない!』そう言いながら、ミュゲの真向かいにどかっと座る。性能で判断されるはずのお披露目に、合言葉なんてあるはず無い。でも、もしそんな魔法みたいな…コワれた自分でも、一言口にするだけで夢が叶うような言葉があるなら。それはなんて、甘美で素敵な夢物語。作業台の上を見つめる伏せられた目も、ゆっくり瞬きをする。
「お披露目に行っちゃったその子って、なんて名前?」
合言葉。だなんてリヒトが言えば嬉しそうに輝いた目をリヒトに向ける。ミュゲイアとてお披露目に憧れるドールの1人、それはオミクロンに堕ちだからといって変わらない。いつかは素敵なご主人様の腕に抱かれたいという願いは枯れてなんかいなかった。それはきっとリヒトも同じ。オミクロンであれお披露目に憧れる権利はある。お披露目に行く権利も勿論ある。なんせ、オミクロンクラスの子もお披露目に行ったのをミュゲイアはこの目で見ているのだから。今日だってそうである。ミシェラのお披露目が決まったのと同じように次は自分かも、その次はきっと自分かもと待ちわびている。もう、長くこのクラスに在籍しているけれどお披露目に選ばれていないミュゲイアにとってリヒトの言葉は希望だった。椅子から勢いよく立ち上がり向かいに座ったリヒトの方へと作業台越しにグッと身体を近づける。希望に満ちたその瞳は確かにリヒトをくっきりと捉えていた。どこか金魚のようにギョロっとした目ではあるけれど、キラキラと楽しげに彼の言葉に食いついているのが分かる。
「だとしたら凄いよ、リヒト! 大発見だよ! みんなにも教えてあげないと!」
「ん? えっと、えっと、名前は、うーん、なんて名前だっけ。……ってリヒト時間! 授業が始まっちゃうよ!」
キラキラとした瞳は変わらない。そんなはずないなんて疑いもなくリヒトの言葉に食いついて心を煌めかせる。夢物語のようなそれを信じきって喜びに浸る。なんて単純なのだろうか。そう思わせるほどに疑いなんてなかった。けれど、リヒトにお披露目に行った子の名前を聞かれれば悩み出した。口角は上がったままに思い出すような素振りを見せて黙り込む。そんな時に時計が目に入った。もう、授業が始まる。このお話も終わりに近い。
《Licht》
「え、マジ?! 」
慌てて時計を振り返り、リヒトはガタッと立ち上がった。うだうだ、いつまでも落ち込んで、ああ、情けない。
「ごめんミュゲ、先行ってて! オレ取ってくるモノあるからさ!!」
さっきノートに書き込んだ時、インク壺が空っぽになりかけていたことを思い出す。これから勉強に行くなら、換えのインクを取ってこなくちゃいけない。じゃあな、とミュゲに向かって、いつもの通りニッコリ笑って、リヒトは駆け出した。
リヒトと別れた後のこと。
ミュゲイアは急いで学校へと向かい、いつもと変わらない授業を受けようと歩いていった。
トンネルを抜けて、学び舎へと訪れたのは数時間前。
お勉強は難しいけれど、嫌いではない。新しいことを知れるのはいい事。
勉強を終えてミュゲイアが向かったのはダンスホール。
ここに来たのはミシェラが1週間後にここに来るから。
お披露目に憧れているミュゲイアはダンスホールにやって来ている。
あなたはダンスホールへと踏み入る前に、必然とトゥリアに与えられた控室に踏み入ることになるだろう。ダンスホールへはこの控室を通らないと入ることが出来ないようになっているためだ。
控え室の壁には、色とりどりのドレスやタキシードなどの正装がハンガーに掛けられて並んでいる。化粧台が三つほど並んでおり、あなた方はこの場所でお披露目の支度を入念に整えるのだ。
控え室の奥には一枚の鉄扉があり、その先はダンスホールの舞台袖へと通じている。
トゥリアドールズの控え室に入れば目の前に広がるのは色とりどりの豪華絢爛なドレスやタキシード。
そして、化粧台。
こんなにも素敵なドレスを着れてお披露目でご主人様に出会えるのだと考えると胸が踊る。
自分のお披露目に対する願望もまたふつふつと大きくなってしまう。
「とっても素敵! ミシェラもドレス着るのかな? ミシェラならやっぱりフリルたっぷりのとか似合いそう!
……ミュゲもいつか着たいな。」
キラキラと輝かせてそれぞれにネームプレートの付けられたドレスやタキシードの並べられた場所へと身体を動かし、ドレスやタキシードを見る。ミュゲイアもこうなれたらなんて淡い期待を抱きながら、自分よりも後にオミクロンにやってきて自分よりも早くお披露目へと行くミシェラを羨ましく思いながら、いつもと変わらない笑顔がここにはあった。
鮮やかな色合いのドレスは、そのどれもが絢爛豪華。ラッフルやパゴダスリープのふんだんにあしらわれたフリルの迫力に飲み込まれてしまいそうだ。
少女であれば誰もが見惚れ、憧れるような麗しい正装を身に纏うこともまた、ドールズがお披露目に憧れる理由の一つだった。人々がウェディングドレスに想いを馳せるように、ドールズもまたお披露目のドレスに袖を通すことを夢見ている。
ドレスやタキシードには、それぞれ身につけるドールの名称が刻印されたネームプレートが合わせられている。
そのうちのひとつに、あなたも覚えがある名前があった。
『ラプンツェル』。花をこよなく愛するあなたの同級生だった少年だ。あなたがトゥリアクラスだった頃、あなたも言葉を交わしたことがある。
光沢が乗った煌びやかなタキシードは、素朴な彼には似合わないかもしれないが、晴れの日がおめでたい、といった感慨を覚えるだろう。
どのドレスも豪華絢爛でまるでジュエリーボックスのようにキラキラと輝いてみる。
なんて素敵なのか。
なんて綺麗なのか。
煌びやかなドレスはまさにお披露目にピッタリで憧れてしまう。
とても素敵なもの。
これを着れたのご主人様もきっと見つけてくれる。
一等輝く私達ドールを。
目を輝かせてドレスやタキシードを見ていれば一つのネームプレートを瞳に捉えてドレスを見る手が止まる。
『ラプンツェル』その名前には見覚えがあった。
トゥリアクラスにいた頃に話したことのあるミュゲイアと同じトゥリアモデルのドールの名前。
花をこよなく愛するドール。
素朴な花のようなドール。
花を見つめて微笑む姿が素敵なドール。
よく、覚えている。
彼もこの煌びやかなタキシードを着て、お披露目に向かうのだろう。
「ラプンツェルもお披露目が決まったんだ! とっても素敵! また、ラプンツェルの笑顔見たいな。」
嗚呼、壊れていないあの笑顔が懐かしい。ドールらしい笑顔。
また、見たいと思わせる笑顔。できることならラプンツェルがお披露目に行く前に。
光沢の乗ったタキシードを柔らかく撫でてラプンツェルの笑顔に浸る。もう、ずっと見れていない笑顔。
ラプンツェルのタキシードから離れると奥のダンスホールに続く鉄扉の方へと向かいソレを開けようとする。
ダンスホールくらい見たって許される。
憧れの場所なのだから。
あなたはダンスホールに移動するため、控え室の奥に取り付けられた鉄扉の元へ向かう。
ドアノブは問題なく動く。だがあなたが気になったのは、この扉には何故か鍵が取り付けられていることだった。しかもこちらが鍵を施錠する側。この扉を閉めたら、ダンスホール側からはこちらに戻ってこられなくなる。どうしてわざわざこんな鍵をつける必要があるのだろうか、と不思議に思うかもしれない。
控え室の先は舞台袖だった。つるつるとした質感のステージが先にまで続いている。
ステージは広く、ダンスホールの名の通りにこの場で社交ダンスをしても事足りそうだった。現在、客席へ続く真っ赤な緞帳は降ろされていて、スポットライトも点灯していないため、ステージはとても暗い。
「なんか変な扉! 不思議!」
ダンスホールへと続く鉄扉のドアノブは問題なく規則正しく動いてくれた。けれど、気になったのはドアノブに鍵がついていたことであった。しかも、こちらが施錠する側。鍵をさす側であればよく分かる。勝手に出入りされては困るからというので話が終わるけれど、そうではない。こちらが施錠する側。それではおかしい。だって、こちらが施錠してしまえばダンスホールから出られない。と言っても、ミュゲイアからしてみれば何故そうなのかは分からない。何か意味があるのだろうとは思うけれど、何を意味しているのかは分からない。不思議というに等しいものであった。
不思議には思いつつも深く考えることなくミュゲイアは重いベルベットのような鉄扉を開けた。
その先に広がっていたのは舞台袖であった。その先にはつるつるとした質感のステージが広がっている。少し歩くだけでもワクワクとしてしまう空間。
「すごぉい! 素敵! こんなところでご主人様と会えるなんてとっても幸せなんだろうなぁ! いいなぁ!」
口から漏れるのは感嘆の声。
ただ凄いだとか素敵だとかそういう言葉。
ダンスホールというだけあって踊れそうなほどの広さのそこをルンルンという音がつきそうな程に浮かれた調子でスキップ混じりに歩いていく。まだストッポライトも点灯していない暗いその場所であっても輝いて見えてしまう。ステージの脇につけばつるつるとしているはずのステージの一部が少し違う材質のようなものを踏んずけてしまった。暗いせいでそれが何かはよく分からない。
一体これはなんなのか?
それを足で少し踏んでしまったせいで歩く足は止まる。
恐る恐るというようにそこにしゃがみこんで手を伸ばし触れてそれが何か確かめようとする。
まるで好奇心旺盛な子供のように。
ダンスホールの隅の床に嵌め込まれた鉄製の格子状の蓋は、釘によって打ち込まれており、取り外すことが出来ない。
なぜダンスホールに排水溝が存在するのか、その珍妙な組み合わせにあなたは首を傾げるだろう。
蓋の向こう、穴の内部は薄暗いが底が見えないのでかなりの深さがあるのではないかと感じる。
用途不明の排水溝らしき穴の正体は現状あなたには分からないだろう。
排水溝のような何か。
鉄製の格子状の蓋は触れると冷たく、釘によって打ち込まれているせいで取り外すことも出来ない。
ダンスホールになぜこんなものがあるのかなんて、ミュゲイアには分からない。何を意味するのかも用途も分からない。
ただのドールには分かりえないのです。
「……変なの!」
言葉から出たのはただそれだけ。
変なの。ただそれだけ。
蓋を覗くように身を乗り出すけれど、穴の内部は薄暗くこのダンスホールも暗いせいもあってよく見えない。
底なしの深淵を覗くような感覚で、穴の終わりなんて見えなかった。
ミュゲイアは立ち上がり客席へと続く真っ赤な緞帳の方へと足を進めた。今はまだ降ろされていてその先は見えない。
それを開けられないかとミュゲイアは緞帳を力いっぱい上へとあげようとする。
あなたは緞帳を下から持ち上げようとする、…が、高い天井までの全てを覆う緞帳はずっしりと酷く重たく、トゥリアモデルのあなたの細腕で持ち上げるには限界があった。
あなたは必然と、左右から閉じられた緞帳の合わせ目から覗き込むような形で客席の方を見るだろう。
プロセニアム・アーチで区切られた先の客席フロアは、ステージよりもさらに天井が高い。恐らく学園の二階部分までもを使って吹き抜けにしているのだろう。客席は階段状となって後方が高くなっており、バルコニー席までが遠方に見られた。
ダンスホールというよりは、劇場、さらに言えばオペラハウスに近い構造である。
お披露目でドールズは歌ったり踊ったりするからこそのステージの構造なのだ、と予想する者もいた。
そして客席の一番奥には、こちらもアーチに囲われた大きな扉が見えた。しかし扉はあまりに大きすぎて、恐らく手動で開けるものではないのだろうとかんじる。
持ち上げるなんて限界があった。すぐに諦めて緞帳にそって歩いていれば、この緞帳は左右から閉じられていることに気がつく。
それなら持ち上げる意味なんてない。
緞帳の合わせ目から覗き込むような形で客席の方へと顔を出す。
お披露目に行ったことのないミュゲイアからしてみればこの緞帳の先もこのステージも初めてそのもの。
まるでオペラハウスのような構造になっている客席はとても広いもので、それだけに沢山の人がお披露目に訪れてくれるのだということがよくわかる。
「すごぉい!! こんなに素敵な場所でお披露目が出来るなんて、ミシェラとラプンツェルは幸せなドールだよ、きっとこの部屋いっぱいいっぱいに笑顔があるんだろうな! いいなぁ、ミュゲも早くお披露目に選ばれて沢山の笑顔が見たいな。そしたらミュゲはもっと幸せになれるの!」
憧れ。ミュゲイアの心を埋めつくしたのはそれであった。
この場に立ち、沢山の笑顔を一身に受ける。
この小さな手に収まりきらないほどの笑顔を浴びる事が出来たのならばそれはきっと、底知れないほどに幸せで満ち足りたものになる。
その幸せをご主人様と共有したい。
その幸福をご主人様と共に。
そればかりが頭を埋め尽くす。ミュゲイアの笑顔はいつもと変わらないけれど、そこには確かな煌めきがあった。
緞帳から覗き込むのをやめて、ミュゲイアはまだ冷めないこの暖かい思いを胸に込めたまま、ダンスホールから帰ろうとする。
ラプンツェルにも会わないと。
だって、あの子もお披露目に選ばれたのならばお祝いしなければ。
球形の天井からは、麗かな春の日差しが降り注ぐ。先ほど寮でも見た晴天が、一面に大きく広がっていた。
陽光を浴びて、テラスに敷き詰められた芝地と花壇に植わった可愛らしい花が瑞々しく咲き誇っている。水を撒かれてまもないらしい。ちらほらと点在する真っ白なガーデンテーブルと椅子では、優雅にお茶会をするドールズの姿も見られた。
暖かな春の日差し。
暖かく麗らかな春の温もりはまるで母の抱擁。
その光をめいいっぱいに受け止めて、ガーデンテラスは輝いている。
可愛らしい花々とドールの姿はまさにメルヘンで御伽噺のようである。
その先にミュゲイアはみ覚えるのあるドールの姿を見つけた。
そう、元クラスメイトのラプンツェル。
ジョウロで花に水をやる姿はとても素敵で記憶に残るかのドールの姿そのままである。
その姿めがけてミュゲイアは小走りに足を動かした。
「ラプンツェル! こんにちは!
久しぶりだね、ミュゲねラプンツェルがお披露目に選ばれたって知っちゃったの! それでね、いても立ってもいられなくて逢いに来ちゃったの!!」
ラプンツェルの後ろからパッと顔を出すように下からラプンツェルの顔をみあげる。
はらりと垂れる白銀の髪は春の陽射しに照らされてスパンコールのように眩く輝いていた。
まくし立てるような言葉で早々に言葉を紡いでここに来た経緯を語る。
エバーグリーンの小洒落たジョウロを持つ、若草色の短髪を刈り上げた少年型のドールが、花壇のそばに立っている。穏やかに、愛おしそうに花を眺める横顔が素朴な愛嬌を持つ彼は、そう、ラプンツェルである。
あなたの麗かな声が確と彼の名を呼びかけると、さすがののんびりした彼も気が付き、顔を上げる。ジョウロで水を撒く動作を一旦取り止めて、体ごとそちらに振り返った。
「あ〜、ミュゲだぁ。ひさしぶりだねぇ、元気にしてた? オミクロンに行ってから、あんまりおしゃべり出来なかったよねぇ」
ラプンツェルは呑気な声色で、しかし会えて嬉しいと告げるように頬を綻ばせる。
「うんー、そうなんだぁ。一週間後のお披露目に選ばれて、今はその支度期間中〜。お祝いしに来てくれたのぉ?」
若草色の短髪は変わっておらず、このガーデンテラスによく似合っている。
柔らかい草原に吹く風のようにのんびりとしたドールと目が合った。
愛おしそうに花を眺めるその姿はとても素敵で愛くるしさがある。
ラプンツェルは呑気な声色で変わらない伸びた話し方をする。
羊のようなその伸びやかな声はとても心地よく、頬を綻ばせる姿にミュゲも嬉しくなってしまう。
「ミュゲはいつでも元気だよ!
うんうん! ラプンツェルとお喋り出来なくてミュゲ寂しかったよ!」
「そうなの! ラプンツェルがお披露目に行く前にラプンツェルの笑顔が見たくて来ちゃったの! だから、ラプンツェル笑って! ……ミュゲね、ラプンツェルへのお祝いで色々考えたんだけどね、ラプンツェルのお世話してるお花で花冠作ってラプンツェルにあげようと思うの! そうしたらラプンツェルで嬉しいでしょ!」
ニコニコといつもと変わらない笑顔。寂しかったと口にした時でさえその口角は上がったまま。いつもと変わらない微笑みを浮かべている。
もう、ラプンツェルの笑顔を見れなくなる前に笑顔が見たいのも事実。
拒まれなければミュゲイアはラプンツェルの手をパッと握って意気揚々とラプンツェルへのお祝いについて語るだろう。
ラプンツェルのお世話している花で花冠を作ると、それに対してラプンツェルがどう思うかも考えずに嬉しいと決めつけて、ミュゲイアは悪意のいっさいない純粋な笑みで語る。
だって、もっと笑って欲しいから。
いつも意気揚々、天真爛漫、溌剌とした笑顔を浮かべるあなたの様子に、以前と変わらぬものを感じ取ったのか、ラプンツェルはほっと息を吐く。
笑って、と乞われれば、「え〜、こぉ?」と期待に応えるように口元を和らげて、純朴な笑みを讃えてみせた。
「ぼくのお祝いのために花冠作ってくれるのぉ? そっかぁ、すごく嬉しいよぉ。ずっとお世話してきたこのお花ともお別れだと思うと、ずうっと寂しかったんだぁ」
ラプンツェルは、自身が育て上げた花を摘み取って花冠を作るという彼女の許諾のない申し出に対し、驚きはしたものの怒りや戸惑いを見せることはなかった。
その瞳も声色も優しく、あなたを見つめている。
「でもごめんねぇ、ここのお花をお世話する係はブラザーに渡しちゃったんだ。いっぱい摘んじゃったら怒られちゃう。
でもブラザーは優しいから、一輪ぐらいなら許してくれるよぉ。それで花飾りを作って欲しいなぁ……だめかなぁ」
純朴な笑みがかのドールのかんばせを飾り付ける。
その素敵な笑顔にミュゲイアは満足そうに笑った。
素敵な笑顔を見れてミュゲイアも幸せ。
素敵な笑顔はいつだってミュゲイアの心を安定させる。
穏やかな気持ちにさせてくれる。あの擬似記憶のような思いにさせてくれる。
笑顔は幸せ。幸せは笑顔から始まる。
笑顔を浮かべるミュゲイアは幸せの白い鳥。
幸せをお届けする春風。
「ならやっぱり花冠がいいよ!お別れが寂しいなら摘んで花冠にするの!そしたらもう離れ離れじゃなくなるよ!ずぅっと一緒!
あらら、そうなんだ。お兄ちゃんがお世話するんだ。それなら花冠は辞めておくね!それならぁ、指輪はどう?指輪って永遠を誓うものなんでしょ?お花で指輪を作ったらラプンツェルはお花とずっと一緒になれちゃうよ!」
寂しかったと告げるラプンツェルにそれなら尚更、花冠にした方がいいと話をするけれど、その後にこの花のお世話をする係をブラザー、つまりミュゲイアの兄妹ごっこ上でのお兄ちゃん役であるドールに渡すというのを聞いて、花冠は辞めることにして、一輪の花でミュゲイアは指輪を作ると言い始めた。
指輪は永遠を誓うもの、だいぶ前にミュゲイアの幸せの語り部が話してくれた。王子様がお姫様に指輪を渡して永遠を違う。とっても幸せな御伽噺。
それと同じように花で指輪を作れば、ラプンツェルと花はずっと一緒になれると思ったのだ。
そう考えればすぐにミュゲイアはラプンツェルの育てる花壇の花を一輪ちぎってしまおうと手を伸ばした。
考え無しに無慈悲にプツリと。
「うんー。……指輪かぁ、へへへ、指輪なら一輪で作れちゃうねぇ。ぼくはお花のことが永遠に大好きなことを誓う指輪ってことでしょ? それってすごくいいアイデアだねぇ」
なんのお花がいいかな、とラプンツェルが花壇に目を落とした時。一足早くに花壇の前に屈み込んだ彼女が、花を一輪細く繊細な指先で手折るさまを彼は見る。
あまりにも素早い動きに、ラプンツェルはぱちくりと、瞳を瞬かせた。だが緩慢な動きでゆっくりとその隣にかがみ込み、あなたと視線を合わせる。
「ねぇミュゲ、サンフラワーってお花を知ってる? 夏のあったかい気候のときに咲く黄色いお花でねぇ、咲いてる時はにっこり明るく笑ってるみたいなんだぁ、きっとミュゲにピッタリだと思うんだ」
ラプンツェルは優しい声色で囁いて、花を手折ったあなたの手をモスグリーンのハンカチで包み込む。泥を払い除けるように。
「でもサンフラワーはね、うつむいちゃうこともあるんだよぉ。ずっと顔を上げていられるわけじゃないんだ。
ミュゲはいつも誰かを笑顔にしようとがんばってるけど……あんまり無理しないで、サンフラワーみたいに休めるときは休もうねぇ。休み方がわからなくても、きっといつか誰かが教えてくれるよ。大切な人の言葉を、ちゃんと聞いて考えてあげてね。きっとその方がみんなも、ミュゲも、にこにこで幸せになれるよぉ」
「そう言って貰えるとミュゲも嬉しい気持ちになっちゃう! とっても素敵だよね! ミュゲがとってもキュートで素敵なラプンツェルに似合う指輪を作るね! だから、いっぱいいっぱい笑ってね!」
プツリと花を一輪折ってしまった。
それに対する罪悪感も後悔もミュゲイアにはなかった。
それを見て誰がどう思うとも考えずに、自分のことばかり考えて行動した。満足気な笑みを浮かべながら。
隣にいるドールもしゃがみ込んだ。
純朴なその瞳と目が合った。柔らかく繊細な瞳。とっても素敵で暖かい陽だまりのような瞳。
ラプンツェルも賛同してくれれば、ミュゲイアもニッコリとしてしまう。
肯定されて嬉しいのはみんなと同じ。
喜んで貰えて嬉しいのもみんなと同じ。
「なぁに、そのお花?
ミュゲと似てるの? ミュゲも見てみたいな! サンフラワー!」
一輪の花を掴んでいる手をモスグリーンのハンカチが包む。
泥を払い除けるように優しく。
それと同じくらいに優しく囁くようか声色はミュゲイアに似た花について語り出した。
ミュゲイアの知らないお花。
「ミュゲは疲れたりなんてしないよ? ミュゲはいっつも笑顔で元気なのがミュゲなの! そうじゃないミュゲなんてミュゲじゃないよ、ラプンツェル。
じゃあ、ミュゲはラプンツェルの言葉もちゃんと聞くね。ラプンツェルもミュゲの大好きで大切な人だから! あとね、オミクロンのみんなも! みんなね、とっても素敵なミュゲのお友達なの! ミュゲね、みんなににこにこ幸せになって欲しいの!」
優しく囁く言葉にミュゲイアは理解出来たのだろうか?
きっと、ちゃんとラプンツェルの言っている事の意味は理解出来ていないのかもしれない。
だって、ミュゲイアは疲れたりしないから。
きっとミュゲイアは元気に笑顔を振りまくように造られている。トゥリアという脆く繊細な存在でありながら、笑顔を求めて止まない。
みんなの笑顔が欲しいのです。
この身体で抱き締められない程に沢山の笑顔が欲しいのです。
そう思うこの気持ちは欲張りでしょうか?
ミュゲイアは元気よく語る。
ハンカチで包んでくれているかのドールの手をもう片方の空いた手でそっと包み込み、コツンとかのドールのおでこに自分のおでこを当てて話すのです。
大切な人達のことを。
母親のように柔らかく穏やかな綻びで、愛おしそうに話すのです。
「……そっかぁ。ごめんねぇ、ミュゲ、変なこと言って。
そうだねぇ、ミュゲはいつもニコニコ笑ってて、素敵だよぉ。ぼくも話してて元気をもらえるからねぇ。」
彼女の、いっそ強迫観念じみた笑顔、前向き精神への執着を前に、ラプンツェルは一度瞬きをした後、これ以上は追い詰めることなく優しく囁いて、そのかんばせに笑みを添えた。
彼は彼女を憐れむことはない。彼女がそう在りたいと願うなら、無理に矯正することもしない。いずれ壊れてしまうとしても、それが彼女の本望なのかもしれないとすら感じる。
間違いなのだとすれば、きっと彼女にとっての真に大切な人が諭してくれるはずなのだ。
「ねぇ、ミュゲ。指輪をつくって。ぼくがアカデミーを忘れないように。」
「本当に!? ミュゲと話してたらげんきになるの? 幸せになるの? なら一緒にいっぱい笑お!」
元気を貰える。
その言葉にミュゲイアは嬉しそうに目を輝かせた。
ミュゲイアにとっては嬉しすぎる褒め言葉。
ミュゲイアがラプンツェルを元気にさせるというのならそれはミュゲイアにとって嬉しいこと。
元気になるなら幸せにもなる。
なら、もっと笑ってとミュゲイアは述べる。
もっと、もっとと甘いチョコレートをもっと欲しがるように。
その甘い甘い言葉にもっと浸ろうとする。
「ミュゲに任せて! 絶対に絶対にラプンツェルの為に素敵で見るだけで笑顔になるような指輪作るね! だから待ってて!」
ミュゲイアは立ち上がって宣言する。
ラプンツェルという純朴で愛らしいドールのために笑顔になれる指輪を作ってみせると。
そう、強くキラキラとした笑顔で宣言するのです。
そして、そのままミュゲイアは指輪を作るために手を振りながら去っていくでしょう。
大好きなラプンツェルの為に。
約束を実現するために。
今日という日もまた素敵な一日だった。
ミュゲイアはそう思っていた。学園で新しいことを学び、知識を得ていくたびにご主人様の為になると思うと嬉しくなってしまう。
ダンスホールを見てからというもの、ミュゲイアのお披露目への憧れは日に日に増していっていた。
それに、ラプンツェルやミシェラの幸せそうな顔を見ればそうならない方がおかしい。だって、あんなにも満ち足りたような顔を見てしまえば誰だって、憧れてしまうし羨ましくなってしまう。それはジャンクであるミュゲイアとて同じ。ジャンク仲間であったミシェラが選ばれたのを思えば可能性が広がった。別にオミクロンに堕ちたからといってお披露目を諦めていたわけではない。
そもそも、ミュゲイアはなぜ自分がオミクロンにいるのかをちゃんと理解していない。
自分の欠陥を分かっていない。だから、良い子にしてちゃんと頑張ればトゥリアクラスに戻れるかもしれないし、お披露目に行けるかもしれない。そう、次こそは自分かもと思っているのだ。柔らかくも強く切に願っているのです。自分には変化の春の風が吹いてくれることを。
そんな事を思いながら、ミュゲイアには目的地であるカフェテリアに辿り着いた。
目に入ったのは見知ったドールの背中であった。
「こんにちは、おにいちゃん! 何してるの?」
トントンと肩を叩いてみた。
いつもと変わらない明るい声色とニコニコの笑顔でミュゲイアは話しかける。
あなたがキッチンへ向かおうとする道筋の途中。テーブルの横を通過することで、自然と雑談しているドールズの声が耳に入ってくるだろう。
「──ねぇ、聞きまして? オミクロンの“欠陥ドール”のお話」
その言葉を発したのは、輝かしい光を放つ金色の髪をこれでもかと巻き込んだ、いかにも令嬢風の気が強そうなドールだった。声を潜ませて、今からとんでもないことを話しますと勿体ぶったような口振りに、その他のドールも前のめりになる。
「何でもまた、オミクロンからお披露目に一人選ばれるそうよ。先生方は何を考えていらっしゃるのでしょう」
「どうせ媚を売っただけに決まっているわ。ティアナリリア様やプリマの方々を差し置いてお披露目だなんて、身の程を弁えて頂きたいところね」
「まったくよ。けれどたかがジャンク、どうせお披露目ではろくなことが出来ないに決まっています」
「そうよ! きっとすぐに見放されて、『スクラップ』よ! そうなるに違いないわ」
キャハハハハ……と悪意のある少女たちの笑い声がカフェテリアにこだまする。話に夢中になっている彼女たちは、この場にオミクロンの生徒が立ち寄ったことにも気づかずに話に花を咲かせたかと思えば、少しして一様に席を立ち、その場を離れていった。
《Brother》
ブラザーは口を閉じる。
口元にだけ笑みを浮かべたまま、曖昧に眉を下げた。
美しい金髪。ミシェラと同じ、黄金の輝き。
けれどあの子は、ジャンクのオミクロン。
「……あぁ、ミュゲ。こんにちは。
ハーブティがあるのか見に行こうとしてたんだ」
後ろから肩を叩かれ、ブラザーはゆったり振り向いた。その頃にはもういつもの甘い微笑で、優しいおにいちゃんの顔だ。今日も可愛らしい笑顔を見せてくれる“妹”に柔らかい声を出し、何も無かったかのように挨拶する。もしかすればミュゲイアにも聞こえていたかもしれないが、彼女とそんなことについて話したくなかった。触れずに、聞かずに。無かったことにすればいいだけ。
もっと素敵なことを考えよう。
せっかくこの子に会えたのだから。何よりも愛おしい“妹”のこと、それだけを考えればいい。
「ミュゲも一緒にお茶しない?」
にっこり、ブラザーは笑う。
慕われる兄の象徴のような笑顔を浮かべて、歪んだおにいちゃんは愛を囁いた。
そのままのんびりと歩きだし、奥のキッチンへ向かう。簡易的なようだが、何があるのかをひとまず確認した。
ミュゲイアと同じトゥリアモデル。
ミュゲイアとよく似た白銀のボブヘアー。
スラリとした背丈とトゥリアらしい細身の体格。顔立ちも端正であり、はらりと垂れる前髪の一束までもがかのドールの新雪のように白いかんばせを撫でては彩り、かのドールらしい妖美さを際立たせている。
そんな彼をミュゲイアはよく分からない。
何故、ミュゲイアがかのドールの妹なのか。けれど、それもかのドールがそう造られているからだろう。
彼はお兄ちゃんのドール。
だとすれば全員を弟、妹と呼び接するのもよく分かる。
お兄ちゃんらしい素敵なドールなのだから。
お兄ちゃんらしいかのドールの優しい笑顔がミュゲイアは大好き。
甘く包み込むような微笑み。
「いいの? じゃあ、ミュゲが頑張ってお兄ちゃんにハーブティーを入れるね! ミュゲが上手に出来たらいっぱい笑って! ……ああ、でもミュゲ指輪作らないとなんだった。早くミュゲがラプンツェルに指輪を作ってあげないとラプンツェルが永遠を誓えないよ。うーん、どうしようかな。」
誰かが何か噂話をしていた。けれど、ミュゲイアにとってはそれは今は二の次な事であった。
噂話をしているみんなも笑っていて幸せそう! としかミュゲイアは思えないのだから。
ブラザーからのお誘いにミュゲイアはニッコリと笑顔を見せた。
彼のやや後ろ隣をついて歩きながら、お茶会のお誘いを受け入れた。
しかし、ミュゲイアは自分がラプンツェルに指輪を作ってあげないといけないのを思い出してうーんと悩むように顎に手をおいて見せた。お茶会もしたいけど指輪も作りたい。悩んでるようには見えない顔であるが、これでも少しは悩んでいるのだ。
《Brother》
「ふふ、それは嬉しいな。けど火を使うのは危ないから、ミュゲにはおにいちゃんがカップに注いだ紅茶を混ぜる係を頼みたいんだけど………ん、ラプンツェルに会ったんだ。ふふ、もうすっかり仲良しだねぇ。可愛い“妹”と弟が仲良しで、おにいちゃんは嬉しいよ」
ブラザーはミュゲイアの頭に手を乗せ、まるで硝子細工にでも触れるような優しさで小さな頭を撫でた。大事に大事に、壊れないように。それからミュゲイアの背に合わせるように、ゆっくりとその長い両足を折る。しゃがんで、白蝶貝のような双眼と目を合わせた。柔らかく両目を細めて、まるで諭すように別の仕事を頼み始める。命よりも大事な“妹”に怪我をさせないように。同時に、気分を害させないように。兄が妹に嫌われたくないのなんて、当たり前のことである。
ラプンツェルの名を聞けば、細められていた瞳はぱちりと瞬いた。不思議そうにしていたアメジストは、徐々に幸福を湛える。慈しみを込めた軽い笑い声を零してから、ブラザーは満足気に数回頷いた。ミュゲとラプンツェルが話しているところが見てみたかったくらいだ。きっとその空間は想像の何倍も素敵で、優しくて、幸せなんだろう。考えただけで胸が幸せになる感覚に、笑みを深めながら言葉を続けた。
「指輪っていうのは、お花でつくる指輪? 作り方が分からなければ、おにいちゃんが教えてあげようか。
ほら、“あの時”みたいに」
にっこり、にこにこ。
トゥリアらしい全てを蕩かす甘やかな笑みを浮かべたまま、ブラザーは立ち上がる。純粋な好意で、彼は妹と弟の交流を手伝おうとしていた。だって彼には、その経験があったから。
ほら、ミュゲ。
“あの時”も、君に指輪を作ってあげただろう?
妖艶な双眼は、“妹”にそう語っている。
───そんな時は、存在しなかったのに。
「そっかぁ、じゃあミュゲその役頑張ってするね!
そうなの! ラプンツェルとはね、トゥリアクラスの頃から仲良しなの! ミュゲね、ラプンツェルのお花を見てる時の笑顔がとっても大好きなの! お花への笑顔はラプンツェルが一番キラキラしてるの!」
ポンと頭に手が置かれた。
優しい手つきで壊さぬようにと繊細に頭を撫でてくれるこの手つきはミュゲイアも大好きである。
頭を撫でられて嫌になる子なんてきっといない。
柔らかく微笑まれながら撫でられるのであれば尚更である。
ミュゲイアはそんなお兄ちゃん役のブラザーが好き。
よく分からないドールだけど、この笑顔だけはとっても甘くて家族のようなそれに近いから。
優しく諭されれば、ミュゲイアはそれに反論はしない。
ミュゲイアが何かをしてそれに対して笑ってもらえるのであれば割となんでもいい。
そして、ラプンツェルの事を聞かれればルンルンで言葉を返した。
ラプンツェルとはトゥリアクラスから仲良し。ミュゲイアはラプンツェルの事を友達と認識している。
そんなラプンツェルのお願いなら頑張るしかない。
「そうなの! ラプンツェルの為にお花で指輪を作ってあげるの!
おにいちゃんは面白いね、ミュゲがお兄ちゃんに作り方を教えてもらうのは初めてだよ! でも、ミュゲいっぱい頑張って作るね! ラプンツェルの為に!」
ルンルンとラプンツェルの笑顔の良さを語った後に浮かれた様子でブラザーの続く言葉に返答をした。
だから、ミュゲイアは忘れてしまっていた。
彼の前での兄妹ごっこを。
面白いことを言うブラザーに対してニコニコと笑って、作り方を教えてもらうのは初めてだと述べた。
ミュゲイアは嘘をあまりつけない。
笑うこと以外に取り柄のないミュゲイアは上手く妹も出来ないのかもしれない。
《Brother》
ブラザーはにこにこ、ミュゲイアがラプンツェルの話をするのを聞いていた。弟の話を楽しそうにする妹。目の保養、なんて馬鹿げたことを考えてしまうくらいには、ブラザーはその瞬間を幸福に思っていた。
「そっか、ミュゲは」
ミュゲは優しいねぇ。
出かけた言葉は、突然喉から出なくなった。“妹”が、おかしなことを言い出したから。
初めて。
はじめて?
そんなはずはない。だって、“あの時”、ミュゲイアと一緒に作ったのだ。“妹”の細く柔らかい指に、シロツメクサで指輪をつくった。“妹”は宝石みたいな大きな目を零れ落ちそうなくらい広げて、きらきらと指輪を見ていた。おにいちゃんはそれをよく覚えている。おにいちゃんにも作ろうとして、ぐちゃぐちゃで失敗して、今にも泣き出してしまいそうになったから、おにいちゃんが教えてあげたのだ。ゆっくり、手を取って。そうしたらあの子はみるみるうちに上手になって、おにいちゃんの右手の人差し指に綺麗な指輪を作ってくれた。得意気にしていたからありがとうって言って、頭を撫でてあげた。すると嬉しそうに、蜂蜜みたいに甘く笑って、あの子はこう言った。“おにいちゃん、だいすき!”って。そう。そうだった。そうだったのだ。
それを。
ミュゲイアが知らないのは。
おかしい。
「…………」
ブラザーは黙った。
柔らかな笑みが表情からは消え去り、見たこともないような緊迫した顔をしている。きっと他のドールが見れば驚くだろうその姿に、ミュゲイアは見覚えがあるはずだ。
青白い顔に冷や汗を垂らす“おにいちゃん”が、このあと貴女に何をするか。
「ラプンツェルもお兄ちゃんと一緒に作ったって知ったら笑顔になってくれるよね! それで、それでね、ミュゲもいっぱい幸せになるの! あとね、きっとラプンツェルも幸せにお披露目にいけると思うの! 指輪ならお披露目の時もつけれるかな? ああ、お手紙もあげたいな! あとね、えっとね──」
ただ笑っていた。
いつもの通りニコニコと。
ただ、ニコニコと。
ラプンツェルに早く指輪を作ってあげなくちゃなだとか、ラプンツェルはお披露目の時にもつけて行ってくれるのかなとか、お披露目に選ばれたのは嬉しいけど寂しいなとか。
ブラザーと紅茶を飲みながら、いっぱい指輪の作り方を教えて欲しいなとか、ブラザーの力も借りれたらもっともっと素敵な指輪になって、ラプンツェルはものすごく喜んでくれるかもしれない。
いいや、いっぱい喜んで幸せそうな笑顔を見せてくれるかもしれない。
とっても素敵なミュゲイアの甘い妄想。
蜂蜜のように甘く幸せで、ふわふわとした妄想。
一人で楽しげにニコニコしていた。瞬きをするようにゆっくりとブラザーの顔を見て、ミュゲイアは固まった。
ベラベラと独り言のように喋っていた楽しそうな口を閉じて。
いつもと変わらない笑みのまままで。
目の前のお兄ちゃんは笑っていなかった。
青白い顔のまま。
ミュゲイアはその顔をよく知っている。
ミュゲイアの恐れている顔。
けれど、恐れと認識出来ていない顔。
ドクン、ドクンと燃料が回る。
「──おにいちゃん。
わ、笑ってよ! ミュゲなにかしちゃったの? ミュゲお兄ちゃんの笑顔みたいよ! ほら、ほら指輪作ろうよ! 教えて欲しいな? ミュゲに教えてよ! おにいちゃん! だから笑って! 早く笑って! ミュゲね、お兄ちゃんの笑顔が見たいな?」
よく回る舌は捲し立てるように言葉を紡いだ。
手振り素振りをするように、ニコニコと笑って。
忙しないその姿はまるでピエロ。
なぜ、何が悪かったのかあまり分からないままにミュゲイアは笑ってと懇願した。
笑って欲しいから。
お兄ちゃんのその顔はあまり好きじゃない。
でも、ミュゲイアは笑っている。
これも幸せ?
それを教えてくれる者はまだいない。
ただ、笑って欲しいミュゲイアはブラザーの口角を上げようと手を伸ばした。
邪魔されなければミュゲイアの細い指はブラザーの口角を上げるだろう。
《Brother》
ぱし。
口角を上げようと伸ばした小さな手首を、ブラザーのやや骨ばった手が掴む。ぐっと自身の方に強い力で引き寄せて、透き通ったその瞳を“おにいちゃん”は見つめた。 無遠慮な、優しい兄らしくない力。あんなにそっと頭を撫でていたのに、今はずっと乱暴だ。
その顔に笑顔はない。
憔悴しきった青白い顔。
ミュゲイアの好きじゃない顔。
「ミュゲ」
腹の底から出すような、低い声。
甘く伸びやかなテノールは、地鳴りのような恐ろしい音に変わる。
「君は、おにいちゃんの、“妹”だよね」
どんどん、手首を掴む力が強くなる。もしも人間にしたならミシミシなんて嫌な音がしそうなくらい、強く、強く、強く、強く。
有無を言わせない圧を発して、ブラザーは瞬きひとつせずミュゲイアの顔を見つめた。見開かれた目は血走って、穏やかなトゥリアモデルの欠けらもない。
「指輪の作り方、知ってるでしょ?
教えたよね、ミュゲ」
ぎりぎり、手首を掴む。
掠れた声はか細く震えていて、喉の奥から絞り出した声だ。なのにその瞳からは、否定を許さない執念が感じられるだろう。否定すればどうなるか、誰よりもミュゲイアは知っているはずだ。
彼はのんびり屋で、優しくて、あたたかい。人当たりのいい、優秀なドール。
彼は粘着質で、妄想癖があり、オミクロン・クラスの、がらくたドール。
彼はブラザー・トイボックス。
れっきとした、欠陥品。
ぎゅっ。
笑って欲しくて伸ばした腕は彼の柔らかい肌に触れることなく終わった。
やや骨ばった手はミュゲイアの細い腕を掴んで離さない。
その腕を振りほどくことも非力なミュゲイアには出来ず、微動だにしない。
まるでこのままこの腕を折ってしまうのではないかというほどに腕を掴む力は強く、ブラザーの体温が腕に伝わってくる。
ただ、笑って欲しかっただけなのにまたミュゲイアは選択を間違えた。
ただ、ただ、笑って欲しかっだけ。
幸せを感じたかっただけ。
怒らせたいわけじゃなかった。
こんな事をさせたいわけでもなかった。
ミュゲイアを捕らえるその瞳に熱はなく、氷細工のように冷たく氷山の一角のようにミュゲイアを刺す。
その青白い顔にミュゲイアの知っている優しいお兄ちゃんの面影はなかった。
さっきのような優しい手つきでもない乱雑な扱い。
ミュゲイアの苦手なお兄ちゃん。
「……い、いたいよ。お兄ちゃん。笑ってよ。」
こんなにも怖い。
けれど、自分の唇に触れれば笑っていることが分かる。
こんなにも痛いのにミュゲイアは笑っている。
笑っているから、これを拒めない。
分からない。
ただ、笑って欲しいだけ。
もっとちゃんと妹にならないとと思うだけ。
掠れた声でミュゲイアの名前を呼んでミュゲイアに教えてくる。
ミュゲイアは妹だと。
まっさらで何者でもないミュゲイアを作り替えてゆく。
「うん、ミュゲはお兄ちゃんの妹だよ。
指輪の作り方も知ってるよ、教えてくれたもん。だから、もう一回一緒に作ってほしいな? ……ねぇ、だから笑ってよ、お兄ちゃん。……笑って?」
彼のことを見上げた。
ブラザーの言葉の全てを受け入れて、否定せずに。
ニコニコと言葉を返した。
そう、ミュゲイアはかのドールの前では妹。
笑顔が素敵でみんなの笑顔を求めているドール。
ミュゲイアは笑顔の大好きなトゥリアのドール。
そして、お兄ちゃんの妹。
お兄ちゃんが大好きで大好きで堪らないお兄ちゃんの妹。
ミュゲイアは笑顔が大好きなお兄ちゃんのいもうと。
《Brother》
「そう……だよね……うん、よかった。良かった、よかった……」
手首を掴む手が離れる。
フラフラとその場に座り込み、ブラザーは俯いたままうわ言を呟いた。ちかちかと痛む頭が擬似記憶を紡ぎ直し、ブラザーはそれを享受する。
そう。そうだ。
あの日、指輪をつけて笑っていたのはミュゲイアだった。だって彼女こそ、おにいちゃんの“妹”なのだから。
ぼんやり床を見つめていたが、やがてハッとしてブラザーは顔を上げる。ミュゲイアの手首を見て、小さく悲鳴をあげた。白い陶器のような細腕に、くっきりと赤い跡がついている。時間が経てば消える跡だろうが、ブラザーにとって“妹”の怪我は自分の心臓を握り潰されるよりも辛い。
「あっ、あっ……みゅ、ミュゲ、ごめんね、痛かったね。ごめん、おにいちゃん……ご、ごめんね。もうしない、もうしないよ。ぜ、ぜったい……」
はくはく、魚が喘ぐように口が動く。先程よりもずっと顔色を悪くしたブラザーは、混乱と罪悪感に震えた声で謝罪を繰り返した。脆く柔らかい指がミュゲイアの手首にのびる。さすろうとしたのだろうが、すぐに手を引っ込めた。ぎゅっと自分の手首を握り締め、ブラザーはガタガタ肩を震わせる。顔色をうかがうようにチラチラとミュゲイアの顔を見ては、引き攣った呼吸を零した。
「もう、しないから……お、おにいちゃんのこと、嫌いにならないで……」
今度は自分の手首を、強く。
今度も跡がついてしまうだろう強さなのは、そうしないと恐怖が止まらないから。焦点の合わない瞳を床に向けたまま、体を縮こませた“おにいちゃん”は懇願した。
だってそうでしょう。
妹に嫌われて生きていける兄なんて、この世に存在しないのだから。
嵐が去った。
手首をぎゅっと握りしめ、存在を強く強く主張するかのようなあの痛みもブラザーの安堵するような声と共になくなってゆく。
手首に伝わるブラザーの熱はなくなり、ミュゲイアの手首には真っ赤な締め付けた跡だけが残っていた。
そこがじんわりとジンジンとするけれど、先程の痛みに比べれば些細なものであった。
ただ、ミュゲイアはその場に座り込んだブラザーを見下ろしていた。
とてもか弱いお兄ちゃんを。
ただ、笑って見下ろしていた。
そして、お兄ちゃんがさっきとは違う取り乱したようにミュゲイアに謝罪の言葉を述べた。
これも、よくあること。
いつもアレの後はコレ。
仲直りに謝ってくれる。
「おにいちゃん、ミュゲ大丈夫だよ! もう痛くないよ! なんで謝るの? ミュゲは笑顔でしょ? だから謝る必要なんてないよ! だから笑って!」
ミュゲイアはお兄ちゃんの事を責めない。
だって、いつだってミュゲイアの口角は上がっているから。
それなら、謝る必要もない。
それでも謝るというのなら、笑顔を向けて欲しい。
謝罪の代わりに笑顔の花束を。
ミュゲイアもその場にしゃがみこんで笑顔で明るく言葉を返して。
こんな時でも笑ってばかり。
歪んでいるのはミュゲイアも同じ。
顔色なんてうかがったとしても、いつもと変わらない笑顔。
怒っているとも悲しんでいるとも取れない笑顔だけがブラザーを見ている。
魚のようなギョロっとした瞳でガタガタと肩を震わし先程よりも顔色の悪いブラザーを捕らえているだけ。
「なんで? なんで!? ミュゲはおにいちゃんの事大好きだよ! だから、笑って! ミュゲね、お兄ちゃんの笑った顔が大好きなの!」
体を縮こませて今にも消えてしまいそうにブラザーは懇願をした。
それに対してミュゲイアはぱちくりと瞬きを一つ。
その後にミュゲイアはぎゅっとブラザーを抱きしめた。
まるで、トゥリアモデルが赤子をあやすように。
もとよりミュゲイアにも備わっていたトゥリアの慈悲深さは消えてなんていなかった。
ミュゲイアは母親のような慈悲深い微笑みも浮かべるし、恋人との熱い夜に耽るような熱情の微笑みも浮かべる。
笑うことに関してのバリエーションは多く、一方的なシチュエーションではそれにハマった役もできる。ただ、共感性が欠落しているだけ。
だから、なぜブラザーがこんなにも罪悪感に苛まれているのかも、体を縮こませているのかもミュゲイアにはあまり分からない。
けれど、ミュゲイアとてこんな相手を放置することはないから、柔らかく抱きしめてみせた。
笑って欲しくて仕方ないから。
ミュゲイアはお兄ちゃんの笑顔-コト-が大好きだから。
お兄ちゃんが笑顔を見せてくれる限りミュゲイアがお兄ちゃんから離れる事なんてない。
《Brother》
「……よかった……」
痛くない。大好き。
ブラザーはのろのろと顔を上げ、安堵の声を溢れさせる。心の底から安心したように、アメジストの瞳が甘く揺らめいた。抱き締められて伝わる温もりに、静かに目を伏せる。赤い跡の残る手首からゆっくりと手を離し、少し躊躇ってから、ミュゲイアの背中に手を回した。震える手で、細い輪郭を確かめる。そこにあるのはトゥリアモデルの体温。“妹”の、愛おしい体温。
添えるだけだった手に、少しづつ力が入る。ぎゅう、と。小さな背中を、やや骨ばった手が抱き寄せた。力強く大切そうに。けれど優しく、世界でたったひとつの宝物を愛でるように。ブラザーはミュゲイアの細い腕に顔を落として、強く抱き締めた。
これでまた、生きていける。
「あぁ、ミュゲ。ありがとう、ごめんね。おにいちゃんも大好きだよ、愛してるよ。
指輪を作りに行こう。作り方を教えてあげる。大丈夫、ミュゲならきっとすぐ分かるさ。それが終わったら、2人でお茶をしようね。ミュゲの好きな、蜂蜜をたくさん入れたホットミルクをいれてあげるよ」
名残惜しそうに体を離し、髪型を崩さないよう丁寧に頭を撫でる。柔らかくて、甘く響くテノール。ブラザーの顔には、いつもの妖艶な微笑が戻っていた。ミュゲイアにだけ向けられる、いつものとびきり愛情の籠った微笑み。トゥリアらしい献身欲とあたたかさがそこにはあり、つい先程自分より小さな女の子の手首を握っていたとはとても思えない笑みだ。
しかし、これがブラザーである。ミュゲイア、貴女の“おにいちゃん”だ。
額にキスをひとつ。
頭を撫でる手を引いて、ミュゲイアの手を取る。乙女の起立を助ける、紳士的なエスコート。ふわふわ朗らかな声で可愛い“妹”の喜んでくれそうなことを言いながら、ブラザーはまた微笑んだ。
瞳にはミュゲイアしか映っていない。
今の彼の頭には、旅立つ可憐な妹も、花壇に咲く若草色の弟も、黄金の煌めきを巻き込んだドールも、何も浮かんでいなかった。
だって、“妹”がいるんだから!
これでまた、生きていける。
これでまだ、生きている。
ジャンク品はいつまでも、壊れたネジを外せない。
先程とは違う安心した声。
耳元で聞こえた声は安堵に包まれていて、ブラザーが元に戻ったのがよく分かる。
これで笑ってくれる。
ブラザーの安堵がミュゲイアも安堵させる。
震える手が背中を撫でた。シャボン玉に触れるようなその手つきは柔らかいもので、添えるだけだった手にはきゅっと力が入る。
先程とは違う優しい力。
力強いけれど優しい、ミュゲイアを思うような手つき。
ブラザーが元に戻ったのはよく分かる。
いつものようにブラザーは甘く響き渡るようなテノールの声でミュゲイアに甘い言葉を囁いてくれる。
優しい手でミュゲイアの頭を撫で、ミュゲイアの好きなお兄ちゃんの笑顔を向ける。
それを見て、ミュゲイアも嬉しそうな笑った。
「うん! ミュゲとっても嬉しい! とっても幸せ!
えへへ、教えてくれるの嬉しいな、ミュゲね、いっぱい頑張るね! ラプンツェルの為に頑張るの!
ミュゲね、お兄ちゃんのいれてくれるホットミルク大好き! ミュゲもお兄ちゃんのに蜂蜜たっぷり入れてあげるね! とびっきり甘いのをあげるね!」
額に優しい口付けが落とされる。
親愛を絵に描いたような優しいベールに包まれたキス。
これをミュゲイアは拒んだことはない。
ブラザーに手を取られミュゲイアもゆっくりと立ち上がる。
紳士的なエスコートに甘えながら立ち上がればブラザーの事を見上げてニコニコとブラザーの提案を受け入れた。
くりくりとした白蝶貝の宝石が映すのは優しいブラザーの笑顔だけ。
きゅっと握った手を引いて、まるで花畑を散歩するように少しブラザーの手を引いた。まるで、早く作ろうと言うように。
幾万の花を紡いで作られたブーケのような笑みでただブラザーを見つめる。
もう、さっきの出来事なんて忘れてしまったように。
心の奥底にしまいこんで、今はただ兄妹ごっこに浸る。
そうすれば、優しい笑顔はいつまでもミュゲイアを見捨てないのだから。
その笑みがミュゲイアに幸福感を与えてくれるのをミュゲイアは知っているから。
おかしな事も苦い事も全部小さな小瓶に詰めて隠してしまう。
学校後のこと。
一日の授業を終えて、ミュゲイアはガーデンテラスへと軽い足取りで向かっていた。
ラプンツェルへのプレゼントである指輪を大切そうに手で包み込んで、余所見もせずにラプンツェルがいるであろうガーデンテラスへと足を進めている。
ブラザーに作り方を教わり、頑張って作った指輪は少し不格好ではあるものの、トゥリアモデルで手先の器用なミュゲイアはそれなりの素朴な花の指輪を作った。
ガーデンテラスの方へと付けば中を見渡す。
目当てであるラプンツェルはいるのかと探すように。
──ガーデンテラスの天井の上は、今日も朗らかな日和だ。燦々と降り注ぐ陽光の暖かさがなんとも心地よい。
あなたが少し見渡せば、目当ての人物はすぐに視界に飛び込んでくるだろう。ガーデンテラス端に造られた円形の花壇の周囲をぐるりと回しながら、今日もいつものように可愛らしい花々に水遣りをしていたようだ。
あなたの姿を見つけると、彼は顔を上げて、嬉しそうににこりと微笑む。
「わぁ、ミュゲだ。こんにちはぁ、えへへ。今日も素敵な笑顔だねぇ。調子はどぉ?」
水遣りの手を止めて、身体ごと向き直ると、首を傾けて問い掛けた。
ガーデンテラスからは今日も乱反射するスパンコールのような日差しが降り注いでいる。
心地よい暖かさがドールたちを包み込み、ドールたちの真珠のような肌をきらめかせている。
キョロキョロと周りを見渡せば、すぐにお目当てのドールであるラプンツェルが視界に入った。
今日も飽きずにお花に水をやり、愛らしい花に囲まれて幸せそうにしている。
パタパタと足音を立てながら、ミュゲイアはラプンツェルの方へと小走りで向かってラプンツェルの前にミュゲイアが丹精込めて作った指輪を手のひらに乗せた状態で差し出した。
「こんにちは! 今日もニッコリ笑顔で最高の調子だよ! ラプンツェルはどう?
あっ、そうだ! コレ! ミュゲね、ラプンツェルの笑顔想像しながら頑張って作ったの! ……受け取ってくれる? 笑ってくれる?」
おしゃべりな舌は止まることなく色んなことを話す。調子はどうかと聞かれただけでも色々と話したいことが出てしまう。
それを止めて例の指輪の話をし始めた。
ミュゲイアが頑張ったラプンツェルの為に作った一輪の白い子ぶりの花の指輪。
制服の裾をはためかせて、天使の羽のように柔らかそうな、結い上げた銀糸を揺らがせて。眩ゆいほどの光と笑顔を引き連れてやってきたあなたを前に、ラプンツェルはひらりと掌を振って挨拶を述べる。
「ぼくも元気だよぉ、お披露目が近くてワクワクしてるんだぁ。ぼくを選んでくれるのは、お花が好きなヒトだったらいいなぁ……うんー?」
来たる晴れの日を夢想して、上機嫌だったようだ。仄かに色づいた頬を綻ばせていた彼は、ふと。あなたが差し出してくれた贈り物を、一度手に持っていたじょうろを置いてから両手で受け取った。
ころりと転がる、小さな白い指輪は、素朴ながらに心が篭っていて、ラプンツェルは思わずハニーブラウンのとろけるような色の瞳をきらりと輝かせた。
「わぁ〜……! ぼくのためにわざわざ作ってくれたのぉ? うれしい……それに、すごくかわいいなぁ……! こうして指輪になるために咲いてきた子みたい。えへへ……似合う?」
ラプンツェルはさっそく、自分の中指に茎の輪っかを慎重に通す。間違っても壊してしまわないように、大切に。
可憐な花が指で揺れているのを見ると目を細め、それを天球から降り注ぐ煌びやかな陽光に翳してみた。いろんな角度から眺めては、幸せそうな笑みをこぼす。
「とっても素敵! いいなぁ、ミュゲもお披露目に早く行きたいな!
きっとお花の好きなヒトが選んでくれるよ! それでね、一緒に花壇のお花をお世話するの! きっと素敵だよね!」
「とっても、とーっても似合ってるよ! それをつけてお披露目に行ったらラプンツェルがお花が好きってのも分かるから、お花の好きなヒトに見つけて貰えるよ!」
仄かに色づいた頬は淡い桜のように可愛らしく、来たるお披露目に向けて思いを馳せている姿は誰が見ても幸せそうと思うであろう。
ミュゲイアもラプンツェルの幸せが伝染したようにポカポカとした心地になる。
幸せそうな人を見てると幸せになる。微笑んでいるその姿を幸せそのもので、ミュゲイアもまたお披露目を羨ましく思う。
ミュゲイアも笑顔の素敵なヒトに選ばれたのならとっても幸せ。
きっと、夢見心地の気分になる。
ラプンツェルが指輪をつけてくれればニッコリと似合っていると伝えた。
小ぶりの花がラプンツェルの綺麗な指を飾り付けて、もっと素敵にさせてゆく。
幸せそうな笑みにミュゲイアも満足気であった。
ミュゲイアのやったことでラプンツェルが笑顔になったのだと思うとこれ以上に幸せなことはない。
ミュゲイアの献身欲は満たされてゆく。
「それじゃあ、ミュゲもう行くね! お披露目がんばってね! ラプンツェルだいすき!」
ミュゲイアは満たされていた。
もう思うことはないし、ラプンツェルがお披露目に行くまでにこんなにも素敵な笑顔を見れたから満足であった。
そのまま、ミュゲイアはラプンツェルに手を振ってガーデンテラスを後にする。
次に向かったのは学生寮の先生の部屋。
先生がいるかは分からないけれど。
「……ありがとぉ、ミュゲ。だめかもしれないけど、ぼく、きっとお披露目にこのお花をつけていくよ。だめでも隠し持ってく。永遠の証だもんねぇ、へへ……」
似合っていると絶賛され、太鼓判を押されれば、ラプンツェルは安心したように眦を和らげて、空に掲げていた手を下ろした。指輪は、相当気に入ったのか暫く付けておくつもりらしい。
「うんー、さようなら、ミュゲ。がんばってくるねぇ。それと、ぼくもミュゲのことが好きだよぉ」
ラプンツェルは穏和な笑みを湛え、目一杯に与えられた親愛を受け止めてから、彼女にも返す。そのまま彼は手のひらを振って、いつまでも微笑んであなたを見送るだろう。
扉は抵抗なく開く。先生は自室に鍵をかけることがない、それをあなたは理解している。
しかし扉が開いた先に、先生はいなかった。まだ別の部屋に留まっているのだろう。
内装はシンプルだった。まず、執務机と革張りの椅子が出入り口の正面に向かい合うように設置されている。この部屋に先生が居たなら、入室したその後に目が合うようになっているのだ。
部屋の片隅にはベッドがある。あなた方が眠る時に用いる箱形ではない、四本の足で自立した寝台だ。シーツは皺一つなくメイキングされており、抜けた毛の一つすら落ちていない。
奥の壁に沿うように本棚が設置されており、小難しい専門書、或いは童話の詩集など雑多なジャンルの本が整頓されて並べられていた。
「……お父さま〜、いる!?
あれれ、お父さまいないんだぁ。ミュゲ聞きたいことあったのに!」
勢いよく扉を開いた。
バンっと大きな音がしてもおかしくないほどに無遠慮に開いては、先生がいるかと聞いたが残念なことに返事はなかった。
いつもならいるはずの先生は留守であり、静かな部屋がミュゲイアを迎え入れてくれる。
先生がいない部屋というのも珍しく、先生の部屋に何があるのかなんて早々分かるものでもない。
それもあってかミュゲイアはまるで未知の場所を探索するように先生の部屋をキョロキョロと見ながら歩き出した。
目に付いたのは奥の壁に設置されている本棚であった。
あの本棚の本を見たことなんてない。
何か面白い本でもないかという期待を持ちながら本を取り出した。
丁寧に保管された本を一冊ずつ手に取って確認していく。そしてある一冊の書物を開いた瞬間、何か小さな紙片が滑り落ちるだろう。
確認してみるならば、その紙片は押し花で飾り立てられた稚拙な栞だということが分かる。花は随分と褪せてしまっており、鮮やかさとはかけ離れているが、元々は黄色い花だったのではないかということが分かる。
栞が挟まっていた本は、なんてことのない料理本だ。あなた方に振る舞おうと読んでいたのだろうか、アップルパイのレシピが掲載されていた。
あなたが料理本を覗き込んでいると、部屋の扉が開かれる。入ってきたのは部屋の持ち主でもある先生だった。その手に何かの書類が挟まったボードのようなものを持っており、もう片方の手には万年筆を握っていた。
「……おや、ミュゲイア? 来ていたんだね、すまない。少し席を外していた。何か用があったのかな?」
彼はあなたの存在に気がつくとふっと微笑み、手にしていたボードを執務机に置いて首を傾ける。
ある一冊の書物を開いた時にはらりと小さな紙片が滑り落ちた。
それをミュゲイアはしゃがんで手に取った。
確認してみればそれば、押し花で飾り立てられた栞。もう随分前のものなのか、色褪せてしまっていて黄色い花だったのだろうというのはわかれど、それ以上は分からなかった。
栞を拾ってから、栞の挟まっていたページに栞を挟んだ。
なんてことない料理本であった。
美味しそうなアップルパイの作り方が乗っているだけの至って普通のもの。
その本を本棚に直した時に部屋の扉が開かれた。
そちらに目をやれば入ってきたのは先生であった。
「あっ! お父さま! ミュゲね、聞きたいことがあったの!
あのね、ミシェラよりも前にオミクロンクラスでお披露目に出たあの子のこと! お名前が思い出せなくて……先生なら分かるでしょ?」
ニコニコと先生の側へと近寄ってミュゲイアは話しかけた。
あなたの爛漫と輝く笑顔を目にして、先生もまた釣られたか、いつもの見るものを自然と安心させてくれるような包容力のある微笑みを湛える。「今日も元気いっぱいだね、ミュゲイア。素晴らしいことだ」──なんて、あなたの笑顔を称賛する言葉の後。質問を耳にすると、口元に手を添えてふむ、と声を漏らした。
「質問があったんだね。……ふふ、ミュゲイア。忘れてしまったかい?
君が前にお披露目で見送った子の名前は、■■■■■■■■■■■■、」
──先生の言葉を耳にした瞬間。
あなたのこめかみが、ズキ、……と鈍く痛んだ。
「…………どうかしたかい、ミュゲイア?」
はっと意識を取り戻すと、眼前には片膝をついて視線を合わせてくれた先生がいた。あなたの肩に手を置いて、じっと容態を確認するように瞳を覗き込まれる。
「ミュゲイア、顔色が悪いね。体調が良くないのかな。……少し休んだほうがいい。お昼寝でもしてくるといいよ。」
先生は優しくあなたにそう言って、そっとその背を押し出して先生の部屋の外の廊下へ一歩踏み出させる。結局、あなたはあの現象について何も理解出来ないまま、部屋を出ることになってしまうだろう。
優しい声だった。
先生の声はいつだって蕩ける蜜のように優しい大人の声であった。
いつもはそう。
その声に落ち着いて、その大きな手に撫でられて目を細めるの。
なのに、今日は違った。
あの子の名前を聞こうとしただけだった。
だけだったのに、突然ミュゲイアを襲ったのは頭痛であった。ガンガンと杭で打たれるような鳴り響く痛み。
頭の中がかき混ぜられてグチャグチャになりそう。
上も下も分からないみたいで、世界が歪んだような吐き気。
周囲の音を音として認識できず、グラグラと何も分からない。
これがなんなのか、なぜこうなっているのかも理解できない。
「………うっ、ぁ。」
ミュゲイアは口元を抑えてその場にしゃがみ込んだ。
キュッと瞼を閉じた。瞼の裏で暗い暗い世界が見えた。
隣にいるのは、嗚呼かのドール。
白銀の髪のミュゲイアの大好きな笑顔をしてくれるドール。
頭を撫でてくれたドール。
遠い遠いあの奥に真っ赤に輝くなにかが見えた。
暗い空間のその先に。
これは何?
夢だろうか。
なんだろうか。
そこで先生の声でミュゲイアは顔を上げた。
「……あ? ぇ? ……みゅ、ミュゲは元気だよ? ほら、笑ってるでしょ?
……お昼寝したら笑ってくれる?」
いつもの優しい声。
背中を押されればミュゲイアはされるがままに廊下へ一歩踏み出した。
体調が良くないなんてわからない。
さっきまで元気だったのに。
ミュゲイアは笑顔のまま大丈夫だと言ったけれど、頭が痛くなったのも事実。
お昼寝をしたら笑ってくれるかとだけ先生に聞いた。
安心したいのだ。笑顔がミュゲイアにとっては麻薬。元気がなくては笑顔も見れない。だから、寝れば見れると安心したのだ。
「……ああ、確かにいつもの可愛い笑顔だね。でも少し青褪めているように見えるよ、それに瞳孔が少し揺れている。」
どこか迷子の子供のように、こちらに縋り付いてくるあなたを近い目線で見つめて、先生は一等優しく微笑んだ。怖いことなどないのだとひとつも教えるように、めいっぱい甘やかすような声で。
「すこし眠れば、またいつも通りの元気いっぱいの笑顔になれるよ、ミュゲイア。それを見れば、私もきっと安心して笑顔になれる。だから今はゆっくりお休み。何も心配しなくていいのだから。」
「うん、わかった。ミュゲ、ちょっとおやすみするね!」
優しい微笑み。
甘やかすようなとろりとした優しい声はミュゲイアの全身を溶かしてゆく。
これ以上何か言うこともないように、彼の言う通りに休むと決めたようだ。
そのままミュゲイアは先生の元を離れた。
ゆっくりと休むために。
メンテナンスをするように、ミュゲイアが向かったのは医務室であった。
あなたは見送ってくれる先生と別れ、その足先を医務室に向ける。
医務室の扉を開くと、現在は誰も使っていないようだった。以前あなたが見た時と同じような内装が広がっている。
……そして部屋の中央で、また二つの椅子が向かい合うように置かれている。誰かがこの場所を少し前まで利用していたのかもしれない。
椅子はただ置かれているだけ。
それ以上でも以下でもなかった。
誰かが話したのかもしれないなんて思っていたけれど、単に先生とドールが話していただけの可能性もある。
ミュゲイアはそれ以上何も見ずにベッドの方へと向かった。
そして、ベッドの1つ沢山のあの文字が書かれたベッドを開けた。
あの文字はまだあるのだろうか。
まだあるのなら、ミュゲイアはそれを眺めるだろう。
√0、それは謎である。
ミュゲイアには分からない。
だって、ミシェラも口にしていたけれど分からないと述べていたから。
お披露目に行ってしまったあの子のことも分からない。
ご主人様に使えることを嫌がっていた変わったあのドールのことも分からない。
あのドールが何を望んでいたのかも分からない。
あなたは三つ並んだベッドの一番奥、以前確認した際に異変があったそのベッドの蓋を開けて、覗き込む。
棺の蓋の表面を削り取って作られた文字列なので当然なのだが、『√0』という表記はまだそこに残されていた。誰も普通は見ないような暗がりにこっそりと、しかし夥しく残されているため、先生ももしかしたら気づいていないのかもしれない。
そして相変わらず、√0の意味はあなたには分からなかった。
この文字列は変わらない。
まだ、そのまま。
まだ、分からない。
棺の蓋は何も教えてくれない。
ただ、提示するだけで答えは口にしない。
固く閉ざされた唇は涎のひとつも垂らさずに、その口の中すら明かさない。
ミュゲイアはまだソレの事が分からない。
何を意味するのかも、なんなのかも。
なぜ、このベッドにそれを刻み込んだのかも。
まるで自傷行為のように、何度も何度も。
まるで分からない。
全てがヴェールに包まれた存在のまま。
ただ、お披露目に行った友の名前も忘れてしまったガラクタは空っぽの脳みそに詰まった金平糖をカラカラと鳴らすばかりで何も答えは出せない。
ただ、笑うだけ。
笑いだけが救いをもたらすから。
そっと、文字列を細い指先が撫でた。
その文字をなぞるように。
√0。√0。
答えはまだ。
ただ、謎の何か。
「………ねぇ、√0ってなぁに? それはミュゲを笑顔にしてくれるの?
……どうしてお兄ちゃんが、ブラザーがでてきたの?」
それは空虚な言葉。
答えはかえってこない。
ただ、零れた吐息は溶けて雪のように消えるだけ。
あの情景も知らない。
瞼を閉じても赤く輝くなにかは現れない。
流れ星のように流れていってしまえばもう捕まえることも、見ることも出来ない。