Lilie

 また、朝を迎えた。
 お父様……基、先生に起こされ、ダイニングルームで朝ごはんを食べる。
 先生からの、『お披露目』の単語を聞き、曇る心には蓋をして。嬉しそうに、頬を染めているミシェラを見遣っては、おめでとう、と心の中で呟いた。そんなこと、数日前に最初にミシェラから聞いた時から、一回も思ったことなんて無かったのに。

「……ご馳走様でした。」

 いつもと同じ朝食、同じ子たちが目の前にいるのに、美味しくなんて無かった。砂を噛むかのように味がしなくて、空気を噛むかのように何を噛んでいるのかすらも分からない。
 嗚呼、でも、あの子はとっても喜んでいる。あの時も、今も。それなら、お祝いをしてあげないと。お披露目に選ばれるとは、ご主人様と出会うことは、幸せなことなのだから。わたし1人の感情に左右されて、ミシェラの幸せに水を差す訳にはいかないのだから。
 無理矢理に口角を上げて、辺りを見回す。皆は、ご馳走様と言って直ぐに出ていってしまったからダイニングルームには先生とわたしを除き、誰もいない。静寂が耳に痛い。わたしは、どこに行くでも無く、微笑みを絶やさず、ずっと先生を見つめていた。

【学生寮1F ダイニングルーム】

David
Lilie

 ダイニングルームで、あなた方の親愛なる父である『先生』は食器を片付けている最中であったようだ。今日は授業の予定がないからであろう、ダイニングルームを出ていくドールズを優しい目で見送っている。
 その指先がグラスを重ね、皿を束ねていく途中。あなたの目線に応えるように、彼はそちらを見るだろう。

「リーリエ、今朝から浮かないね。ミシェラが行ってしまうのが寂しいのかな」

 声色は柔らかく、あなたの鼓膜をやさしく揺らがせる。耳慣れた、穏やかな先生だった。

「……違うのよ。勿論、ミシェラちゃんが行ってしまうのは寂しいの。でもね、ソレは、幸せな事。悲しむべき事では無いの。だから、だから、違う、の。」

 ふるふる、と首を振っては否定の言葉を重ねる。悲しい、寂しい、との色がありありと浮かんでいる目をしては、違う、と言葉を。
 いつの間にか、笑顔は自然なものへと変わっていた。その瞳だけが、悲しみを浮かべる歪な笑顔である。

「先生、わたしも手伝いをするのよ。」

 先生の反対側から、そう声を掛けた。彼がまだ手の届いていないところから、皿を束ね、グラスを重ねる。将来、ご主人様さまができた時に、ある程度のお世話はできるようにしておきたい。それ故の行動であった。不慣れを感じさせない程には、手際は良い。皿を一気に運ぶ事はしないけれど。己の体が傷つきやすいことをリーリエはよく知っていた。

「リーリエはとても優しい子だね。自分の寂しい気持ちを飲み込んで、友達を祝福してあげられるのは素晴らしいことだ。他のみんなもそうだけれどね。…きっとミシェラも、そんな君たちに祝ってもらえて、喜ばしく思っているはずだよ。」

 自身の感情を差し置いて、静かな微笑を浮かべるあなたの強さと優しさを彼は讃える。彼の声はいつもとろとろとしていて、誰もを寝かしつけるような穏和なものであった。

 手伝いを申し出た良い子のドールの頭を、そっとひと撫で。上等な織物のような髪が乱れないように、やさしく。

「ありがとう、リーリエ」



 キッチンは広々とした他の空間に比べて、大きな家具が敷き詰められているためか、少し手狭な印象を覚えるだろう。
こじんまりとしたシンクとコンロ、調理スペースを十分に確保出来る広い机がある。そして奥には、パントリーに続く木扉も取り付けられていた。

「わたしのお勉強にもなるから、わたしが先生にお礼を言うべきなのよ。それにね、先生に撫でられるとね、とっても嬉しいの。」

 頭に置かれた手に、口元を綻ばせてはそう一言。彼の声が、相も変わらず心地よくて、うっとりとしてしまった。
 シンクに持っていた皿を置いては、彼に向かって「お手伝いをさせてくれて、ありがとう」と。辺りを見回しては、ほんの少しの違和感に眉を寄せ、首を傾げた。

「違和感が、少しだけ?」

 あらら?と首を傾げては、辺りをもう一度見回した。パッと見て見つからない違和感に、歯に物が引っかかるような気持ち悪さを感じる。まぁ、引っかかったことは無いのだが。

 あなたの素直で可愛らしい言葉に意表を突かれたか。先生は一瞬目を丸くして、それから茶目っ気を感じさせるラフな微笑みを浮かべた。

「後でリーリエには何かご褒美をあげないといけないね。」

 先生はシンクの蛇口を捻り、皿を洗い始める。キッチンにはひととき、彼の低い声で穏やかなバラードの鼻歌が響き渡る。バックグラウンドミュージックを背に、あなたはふと、足を止める。

 食器棚はいつも整頓された状態だ。清潔を保たれたグラスや皿、カトラリーなどが几帳面に収まっている。食事の支度はクラスの皆で分担して行うため、取り出しやすいように位置をあらかじめ決めているのだ。

 …だが、マグカップのひとつがなぜかカップの棚ではなく、皿を重ねて置くスペースにぽつんと置かれている。
 それだけではなく、スプーンを置くための引き出しに何故かナイフがまぎれていたり、随分しっちゃかめっちゃかな配置となっている。

 昨晩はこのようにはなっていなかったはずだから、恐らく朝食の後に配置がおかしくなったのだろう。誰が使った食器なのだろうか?

 覗いた食器棚は、やはりおかしくて。とても、少しの違和感では済まされない様な有様であった。誰がこのような無茶苦茶な配置にしてしまったのだろうか。折角、昨日の夜までは綺麗に並べてあったと言うのに。彼の穏やかな歌声と、流れる水の音をバックに、リーリエは首を捻った。

「……ねぇ、先生。食器の配置がね、とってもおかしいの。直す許可が欲しいのよ。」

 皿を洗っていた彼の服を軽く引っ張り、注意を促す。それから、許可を乞うた。随分と、とっ散らかっているものだから、気になって仕方なかったのだろう。それに、このままでは、次に食器を使用する時にも使いにくくて仕方が無い。次に使用するする者、を思い行動しようとするその姿は、正にトゥリアモデルの鑑とでも言うようなものであった。

先生はあなたが裾を引くのに合わせて、一 度食器を洗う手を止めて振り返る。「本当かい?」と、単調さを乱した声。一度振り返って食器棚を見据えた先生は、数秒ほど沈黙したあと、(秘匿情報)

「ああ、頼めるかな?リーリエは本当にいろんなことによく気が付くね。」

 とあなたに一任するように述べた。


 食器の整頓はすぐに済むだろう。元よりそこまで配置が乱れている訳ではなかったから。恐らくとっちらかした犯人は一人、二人程度なのではないだろうか。

 彼の動いた口の形を見ては、嗚呼、と少し納得するように。あの子たちなら、やりかねないと。そういった風に苦笑した。
 彼に頼まれると、少し嬉しそうに頬を染めて。弾み気味の声ではい、と返事をした。それほどまでに嬉しかったのだろう。

「先生、置き場所は、前の通りでいいの?特に変わった所はないのよね?」

 念の為の確認を。もしかしたら、彼らが新しい場所を覚えきれずに、なんてことがあったのかもしれない、との気遣い故であった。

「特に配置は変えていないよ。いつも通りで大丈夫。ありがとう、リーリエ」

 先生は重ね重ね彼女に感謝を伝えた。彼の洗い物はそろそろ終わりを迎えそうだ。

 あなたは食器類を点検しつつ、元の場所にそっと戻していく。食器には使い込まれているが故の細かな傷は見られたが、目立った傷やヒビは入っていない。皆が決まりごとを守ってマナー良く食事を取っているからだろう。
 少し時間を掛ければ、全ての食器が元通りの位置に戻っていく。

 あなたが作業を終えたところで、先生もまた洗い物を終えた。濡れた手指を拭い、あなたに向き直る。

「実は今度、アップルパイを焼こうと思っていてね。ミシェラの門出のお祝いに。リーリエには味見をお願いしようかな」

「わたしでいいの?わたしだけにしたら、他の子達に怒られてしまうのよ。」

 お父様と、甘いお菓子が大好きなあの子なら、きっととっても喜ぶのだろう。なんて言ったって、お父様お手製の門出の祝いのアップルパイなのだから。その日が来るのは、少し嫌だけれど。だって、それはミシェラのお別れが近くなっていることと同じであるのだから。いつもは喜んで食べる、お父様のアップルパイを食べられることを知っても、心が踊らない。

「……!先生、先生はお仕事は大丈夫なの?先生は、いつも忙しいのよ。わたしとお喋りをしていて、邪魔になってないの?わたしは、もう少しここにいるの。他の棚も、片付いているか確認してから、図書室に行こうと思ってるのよ。」

 少しの沈黙の後、パッ、と両目を見開いてはそう問いかけを。もしかして、邪魔になっているのでは無いかと心配になってしまった様だ。

「味見係はね、立派な調理担当という仕事だよ。きっとみんなもわかってくれる。リーリエが怖いなら、みんなには内緒でこっそり食べよう。私にご褒美を渡させてくれ。」

 心優しい彼女の気遣いに、先生はくすくすと小さく笑って見せた。そしてまた、あなたの髪が乱れないように繊細な力加減で頭を撫で下ろすと、そう諭すように告げる。
 その後の進言を耳に、先生は一度部屋の時計を確認すると「ああ、そうだね。授業の準備もあるから、そろそろ部屋に戻るとするよ。リーリエ、手伝ってくれてありがとう」と言い残し、彼は足早にキッチンを出て行った。

【学生寮1F パントリー】

 パントリーは食糧庫の名の通り、野菜や果物などがうず高く積まれた木箱がいくつか並べられていた。壁に沿って置かれた木製の棚には、調味料やハーブなど調理で使う素材が所狭しと詰め込まれている。
 そして雑多な食材で溢れかえり、手狭な印象を受ける部屋の奥には、地下へと続く階段があった。

 彼が居なくなってから、取り敢えず点検をして回る。棚にある食器を、一通り見終わった後、パントリーに続く扉が目に付いた。
 普段食べている食料や、調味料。その他色々なものが入っているそこ。先生に、入って良いとは言われていないが、入ってはいけない、とも言われていないそこ。リーリエは、すぐに出るから、と自分に言い訳をし、扉をくぐった。

「……相変わらず、いっぱいの食材と、調味料なのね。」

 ぽつ、とひとつ呟いては棚を見て回る。相変わらず、色々なものが並べられた調味料の棚に、食料の詰められた木箱。普段から見ているものと、何ら変わりはなかった。

 調味料などが保管された棚は、パントリー内部の入り口手前に設置されていた。こちらには調味料だけではなく、紅茶の茶葉やカカオなどが詰められた瓶が、ラベルをつけて保管されていたり、珈琲の抽出機が端の方に寄せられていたり、雑多な道具も詰め込まれているようだ。

 また、壁に沿って大きな木箱が並んでおり、その内部には蓋がされた上で冷蔵保存する必要がない果実や野菜などの食品が収められている。
 ドールズはこれらの食材を好きな時に使用していいことになっているが、あまりに過食してしまうとコアで燃料に変換する工程が追い付かず、嘔吐反応を起こしてしまう場合があるので自制するようにとは言いつけられている。そんな制止を振り切って、沢山食べてしまう食い意地が張ったドールも稀に居るようだが。

 他には気に留まるところはなさそうだ。

 特に、気になる点は見たあらなかった。普段使っている紅茶の茶葉や、カカオの入った瓶が置いてあるだけ。誰が使うのかも分からない珈琲の抽出機が、壁の端の方へと寄せられていたりもしたが、それだけ。食器棚の様に、すぐに分かる異変は無かった。
 先程の様に、最後にくるり、と室内を見渡すと、下へ下へ、と続く階段が目に入った。あそこは、確か冷たいものを保管している所、だっただろうか。リーリエは、まるで誘われているかの様に階段へと足を向け、降りていく。その様子は、かのおとぎの国へと誘われた少女の様であった。靴の音が、こつりと鳴る。手元に掲げられたランプの小さな火は、不安を感じてしまう程に心許なかった。

 地下室へ続く石階段は薄暗い。あなたは足元に注意して、滑らないように気を付けつつ降りていくことになる。

 地下は途中から、石畳の床からツルツルとしたタイルの床へと移り変わる。眼前には鉄扉が待ち構えており、こちらもまたひんやりとした鉄製の閂が引っ掛けられていた。問題なく外側から閂は外すことが出来る。

 重い扉を押し開くと、暗い空間には肌を刺す冷気が漂っている。遠目には天井からぶら下げられた解体後の肉や魚などが見えた。この空間そのものが冷蔵室になっているのだろう。
 あなた方は普段、こちらの氷室に降りてくることは少ない。こういった食材は重い上、氷室全体が薄暗く怪我をする恐れもあるため、先生が全て運んでくるのだった。

 隠れんぼでこの氷室に隠れてしまったドールが、まるで凍死するように機能停止した…という噂話も出回っていることもあり、あなたもあまり踏み行ったことはない。

 この場所は、生鮮食品が保管されていること以外に目立った点はなさそうだ。

「寒い、のよ。」

 扉を開けた途端、肌を刺した冷気に身体を縮める。滅多に降りてこない地下室は、ただただに生物が保管されている場所であった。気になるところも特になく、寒くて寒くて仕方がなかっただけ。上のパントリーと比べ、冷たく、無機質で恐ろしい。そう感じた。冷たくて、薄暗くて、怖い場所。リーリエは、若干足早に氷室から引き上げる。かくれんぼで氷室に隠れたドールが、機能を停止してしまった、とそんな話もあるものだから、怖くて仕方が無かった。

 タイル部分は、万が一にも滑ってしまわぬ様慎重に。石畳の床に移り変わってからは、急ぐように小走りで。色違いの双眼には、地下室への恐怖。それに、今更ながら先生の許しを得ていない状態でのパントリーや氷室への出入りをした事に関しての罪悪感。それらが綯い交ぜになり浮かんでいた。

 あなたは地下の階段を登り、パントリーを通過してキッチンへと戻ってくることが出来る。
 キッチンは先ほどの様子と特に変わりはない。先生は立ち去った後なので、閑静で落ち着いた空間にあなたは身を置くことになる。