暖かな部屋、温い肌、冷たいはら。
おもちゃ箱のロゼットは、今日もベールのかかったような世界で生きている。
──何だっけ、アレ。
右。左。右。左。
脚をなめらかに動かしながら、偽物の頭蓋の内で、思考を巡らせている。
妹──ミシェラがお披露目をするようだから、何かをプレゼントしてあげたいと思ったのだけれど。どうにも思い出せない。
欠陥品の中で選ばれるなら、きっとミシェラだろうとは思っていた。
美しいが瑕のある、変わり者の宝石たちの中で、ロゼットはいっとう彼女を気に入っている。
可愛らしい、エーナモデルのドール。欠けてはいるが、それでもヒトを愛する少女。
かわいいかわいい、自分の妹分だ。
だから、早く抱き締めてあげたい──とは、思っていたのだけれど。
どうやら他の誰かが行っているようだし、それなら贈り物の支度をしたほうがいいと判断したのだ。
中身はまるで思い出せないが。
口元をゆるく歪めて、彼女はダイニングにやってきた。
眠り姫を見つけたならば、ゆっくりと傍へと近づいて行くことだろう。
「おはよう、寝坊助さん。えーと……カンパネラちゃん、だっけ?」
星間の旅は、未だ遠く。
陽だまりの下、悪気なくロゼットは肩を叩いた。目を覚ましたなら、顔を覗き込む銀の双眸が見えるだろう。
《Campanella》
とん、という感覚。鼓膜を叩く優しい声。肩を叩かれたのだと気付くまでにはずいぶん時間がかかっただろう。んん、とくぐもった声を喉奥から溢しつつ、カンパネラは突っ伏していた顔を横にずらし、口をもにもにと動かしながらそうっと瞼を持ち上げる。前髪の奥に隠された、ダイヤモンドのような相貌が、朝の目覚めを迎え──
「………ッッッ!?!?」
と、その表情は一瞬にして穏やかさを失い、どうっと彼女は汗をかいて顔を青くした。
昼の空に昇るような美しい銀の両目が、こちらを覗いていたのである。目の前で、薔薇のような鮮やかな色の頭髪が揺れて。それが人嫌いのカンパネラに強く衝撃を与え、頭の中で警鐘を鳴らし、ひどく動揺したカンパネラは勢い良く顔を上げる。そのまま咄嗟に後方へ逃れようとして、がたりと椅子から転げ落ちそうになった。
「うぇっ、あっ!? ごめんなさい!? あれ!? わっ、……わたし……寝て、ました……?」
言い終えた頃には、目の前の少女の名前も頭の中に浮かんだ。
「わあ」
大仰な動きに目を見開き、ロゼットは声を漏らした。
落ちそうになる相手のことも、特に助ける気配はない。
手を出さず、驚きもせず。薄い笑みを浮かべたまま、彼女は見守っている。
「そうだね。よく寝ていたよ。寝不足だった?」
小首を傾げ、そう問いかけた。
トゥリアと言えど、寄り添うことが得手とは限らない。会話を切り出すことも、また得意とは言い切れない者もいる。
ロゼットは不器用な方だ。恐ろしく──なんて言葉が、形容詞として付くほどに。
「ミシェラがお披露目で行ってしまうけれど、ちゃんと聞いていた?」
耳に髪をかけながら、そう口にする。
《Campanella》
「え、あ……は、はい。ちょっと最近……夢見が悪くて……。」
目を擦りながらカンパネラは答える。
ロゼットさん。ぐいぐいと近寄って来るでもなく、馬鹿にして来るでもない、カンパネラにとっては丁度良い距離感の少女だ。少しだけ安心できた。
彼女の抱える不器用さを、カンパネラは気にもしない。少し不器用なくらいが、彼女には合っているのかもしれない。すっかり青ざめていた顔も、元の顔色を取り戻す。
「は……はい。き、聞いてました。……さ、みしくなるけど、でも、……めでたいですよね。お祝いしにいかなくちゃ、いけませんね……」
ロゼットの所作につられ、カンパネラも耳に髪を掛けて答える。眉を八の字にして、少し困ったような笑みを浮かべ。その表情には言葉通りの寂しさが僅かに滲んでいた。
少しだけ苦手だけど、可愛いと思える少女の笑顔を思い浮かべる。おこがましいけれど、妹や娘のように思っていた相手だ。
「……あの、ミシェラさん、どちらにいらっしゃるか……あの。ご存じですか?」
夢。
人形からはそう出てこない言葉だが、ロゼットにも覚えがある。寝ている時に見る、よく分からない思い出の再体験のことだ。
語を選んでいるのか、彼女は辿々しく言葉を紡ぐ。
急かす必要はない。陶器のように壊れやすい言葉は、星屑のようなものだ。
見守っているうちは美しいが、不用意に触れれば砕けてしまう。
カンパネラのことを待つのも苦しくはなかった。ガラスのお腹に手を当てて、ぼんやりと相手の声を聞いている。
「お揃いだね」
それだけ返して、質問へと意識を向けた。
ミシェラは今どこにいるのだっけ。ラウンジだっただろうか?
何かを渡そうとしていた気がするが、もうどうでもよくなってしまった。
私自身がプレゼントになろうと、そんな気持ちで口を開く。
「ラウンジかなあ。よければ一緒に行こうよ」
《Campanella》
「あ、えと……い、いいんですか……? あの、ぜひ………お願いします………」
ロゼットからの提案は、カンパネラにとって好都合だった。恐らく今ごろ色んなドールに祝福の言葉をかけられているであろうミシェラのもとへ、一人で向かって挨拶をしに行くのは、カンパネラには少々難しいことだった。
友人ではあらずとも、多少は話せる相手であるロゼットには、一定の信頼を置いていた。彼女がついてきてくれるならなんとかなりそうだ。
「…い、行きましょう……」
カンパネラはそう言って席を立った。
ロゼットはガーデンテラスを訪れる。
理由は単純、ようやく思い出した“プレゼント”を探すためだ。
ミシェラにはもう二度と会えないかもしれないし、どうせならいっとう美しい花を渡してあげたい。
そのために、彼女はここへやってきた。何か見つかるだろうか?
球形の天井からは、麗かな春の日差しが降り注ぐ。先ほど寮でも見た晴天が、一面に大きく広がっていた。
陽光を浴びて、テラスに敷き詰められた芝地と花壇に植わった可愛らしい花が瑞々しく咲き誇っている。水を撒かれてまもないらしい。ちらほらと点在する真っ白なガーデンテーブルと椅子では、優雅にお茶会をするドールズの姿も見られた。
優しい光。美しい花々。水滴を乗せた青葉。
今日もガーデンテラスは変わらない。
眼球を刺すような光に、彼女は思わず目を細めた。
お茶会なんてするほど、気位が高いわけじゃない。ロゼットは芳しい匂いに目もくれず、花の側に寄った。
花の名前は何だっただろうか。鈍い頭で、彼女はゆっくり思考する。
チューリップやダリア、マーガレットなど、春先に咲く花が爛漫と咲き誇っている。花の種を植えているのは先生だが、好んで花々の世話をするドールがいることを、同じトゥリアクラスであるあなたは知っていた。名前は確かラプンツェルといったか。今日はもうこの辺りには居ないようだが…。
あなたが花壇で可憐に揺れる花達を見ていると、突然こめかみの辺りがツキ、と痛み出す。
そう、あなたは、■■■■■■■■■■■■■。
──永遠のような白昼夢から、意識が引き戻される。
あれは何だったのだろう。
他のドールたちが、糸の切れたように動かなくなったロゼットを見ているのが分かる。だが、そんなことは気にならなかった。
今までこんなことはなかったのに、一体どうしたのだろう。
「他の子も、こんな風になってるのかな」
足取りは少しだけ重く、けれど悪い気はしない。
今度は植木鉢を持ってこよう、と思った。小さくて、あまりかさばらないものを。
何故それが掘り返されたのか、どこのことなのか。
それはどうにも分からないが、今は気にすることではないのだろう。
鼻歌でも歌いながら、ロゼットは学園を見下ろせる場所を探そうとする。知り合いでも探すつもりだろうか。
ガラス窓の向こうに広がるのは、この学園の“向こう半分”の天井だ。恐らくお披露目に使うダンスホールの先には、あなた方を求めてやってくるヒトへ向けた入り口があるのだろう。ドーム状の白くて平べったい屋根がずっと遠くまで続いている。
またアカデミーの周辺には青々と茂る森林が続いており、視界の範囲に他の建造物などは見られなかった。
ぼんやりと、ロゼットはガラスの向こう側を見ている。
ドームの向こうにはヒトの街があって、そこで卒業したドールも過ごしているのだろうか。
──卒業する時、ここから手を振っても見えなさそうだ。
彼女はややしょんぼりして、窓に背を向けた。
どうせなら行けるところまで見送りたかったが、森もドームもあるため難しいだろう。
とりあえずガーデンテラスを出て、ロゼットはどこかへ向かう。きっと昼寝でもするのだろう。
退屈を持て余し、ロゼットはラウンジへやってくる。
ミシェラがいれば、軽く手を振って微笑みかけるだろう。他のドールにも微笑を振り撒きつつ、彼女は室内の探索を開始した。
この場所は、ドールズが楽に寛ぐことが出来る憩いのスペース。柔らかなソファとふかふかのクッションが無数に置かれていて、寮内では唯一暖炉があるので凍えずに済む。冬場はラウンジに皆が集まりごった返すことが多かった。
壁際には軽い読み物が収まった本棚が陳列しており、くつろぎながら退屈を潰すことも出来る。
「何だろう、あれ」
部屋の隅の本棚に、銀色の目が向いた。
椅子の上に本が置きっぱなしになっている。どうせならしまってあげよう、と彼女は近付き、本を手に取るだろう。
本棚の近く、そこに設置された寛ぎのロッキングチェア。誰かが読んだまま戻すのを忘れてしまったのか、一冊の本がポツン…と取り残されている。煌びやかな装丁が施されたその本の題名は『くるみ割り人形とねずみの王様』。
少女がクリスマスプレゼントに受け取ったくるみ割り人形を巡る不思議な物語だ。特段おかしなところは見られない、ごく普通の児童本に見える。
くるみ割り人形。
聞いたことがあるような、ないような。
内容を確認するべく、彼女は本を開く。キラキラしたそれを、余すところなく眺めるように、手の中で回したりしてじっくりと見回すだろう。
【くるみ割り人形とねずみの王様】
『──少女マリーはクリスマスの夜にぶかっこうだけど人なつっこい感じのするくるみ割り人形をもらいました。』
そんな冒頭から始まる童話の一つ。少女が手にしたくるみ割り人形を巡って、さまざまな不思議な出来事が起こるという物語だ。
本のページを捲っていると、とあるページから何かが挟まっていたのか、ポロポロと溢れだしてしまう。あなたの膝下に落ちたのは、きらきらとほのかに青い輝きを放つような美しい花弁だった。
本で挟まれていた為に少し萎れているが、それでも見栄えする。しかしあなたはこの花の種類について、自身が持っているどの植物とも合致しないことに気がつくだろう。
「わあ」
くるみ割り人形の中から飛び出してきたような、美しい花弁。
魔法か何かかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
見たことのないその花は、ロゼットの目を奪うには十分な魅力を持っていた。
「……これ以上バラバラになっちゃったら、嫌だな」
花だけ取り出して、本を閉じる。持ち主の名前がないか、一度だけ確認して、ロゼットはその花を持って帰ろうとするだろう。
次に観に行くのは暖炉だ。
あなたは、近頃は春先の温暖な気候によって出番のない暖炉の近くへ歩み寄る。もちろん火もついていないので、黒い燃え滓が微かに残っているばかりだ。
暖炉の火種となる薪は、すぐそばに重ねられている。この薪は近隣の森から切り出してきたのではなく、先生が外部から運び出してきたものなのだという。いつも気づいた時には補充されているので、おそらくあなた方が出歩けない夜間に運搬されてきているのかもしれない。
薪を一人で切るのは大変だろうに、一体どうやって運んでいるのだろう。
背中に木々を背負い、這々の体でトイボックスと森を行き来する先生を想像し、ロゼットは少し笑った。
何の気なしに暖炉の裏──煤や煙を上に昇らせる場所を覗き込んでみるが、何かあるだろうか?
暖炉の内側、その上部には煙を排出する煙突が当然取り付けられている。こちらは壁を通して造られており、そのまま屋外へと突き抜けていく。
内部は非常に煤けている。掃除はいつも冬場を超えた春先に行っているので、そろそろ煙突内部の掃除を行う頃だろうかと感じる。
掃除されていない内部は、流石に汚い。
すぐにロゼットは頭を引っ込めた。少し煤けた顔を、袖で拭いながら。
だが、普段は火がついている状態でしか意識しないし、こうなっているのを見るのも新鮮だ。
ちょっと面白い体験ができたかもしれない。そう思い、ロゼットは自分のベッドがある部屋に戻っていくだろう。
ロゼットはキッチンを訪れる。
片手にあるのは青い花──くるみ割り人形に挟まっていた、例の花である。
舐めるように見回したものの、正体は相変わらず掴めなかった。
腹部で保管したいところだが、何か貴重なものであった場合大変困る。毒性でもあればなおさらだ。
なので、何も分からないこの花を、今日は食べていこうと思うのである。
とりあえず花弁を一枚むしり、水に浸してみる。それで変化がなければ、それをそのまま口に含むだろう。
飲み込みはしない。舌触りや味わいを確かめて、そのまま手に吐き出すだけだ。
あなたが青い花弁を徐ろに水に浸すと、やがて青い花弁からは、じんわりと滲むように青い液体が溢れて溶け出していく。
無色透明だった水は、着色料でも滴下されたかのように、しかし美しくほのかに青く輝く液体と変じた。
もしあなたが花弁を口に含むなら、つるつるとした食感を舌先に感じる。味わいは特に無く、無味といったところ。あなたの身に異変はなく、特段毒性もなさそうではあるが、一応得体の知れないものなので飲み込んで体内に取り込むべきではないだろうなと感じるだろう。
魔法か何かのように、花弁の色が水に溶けた。
紅茶っぽくできそうだとか、ツヤツヤするとか。それぐらいを想定していたが、存外とんでもないものであったらしい。
「多分……飲んだらまずいよね。分かるよ」
興味深そうに、銀の奥にある瞳孔が開いた。その仕草は猫さながらだ。
花弁を口にし、吐き出した後。ロゼットはキッチンの中で二つの物を探す。
ひとつは、青い水を保管できて、ある程度長期保存が効く容器。蒸発しないようにできるとなお望ましい。
もうひとつは、花弁を保管できるちいさな袋。これは最悪なくとも構わない。
とりあえずは探してみようと、彼女はキッチンの中をうろうろし出す。
残念ながら液体を密閉する為の専用の容器が都合良くキッチンにありはしなかったが、パントリーの調味料を纏めた棚に空の瓶が存在した為、こちらに一時的に溜めておく事ならば可能だろう。
また袋についてはキッチンに布製の巾着を発見出来る。こちらも密閉出来るような便利な代物ではないが、そのまま懐に入れておくよりはマシだろう。
液体を空瓶に移し、巾着に花を入れる。
元の容器に残る、わずかな青色以外は、大体いつも通りになった。
これを何で試すかは決めていないが、まあロクなことにはならないだろう。
「いけないな、私。ワクワクすることじゃないでしょ」
軽く自身の頬を叩き、空の容器を手に取った。冷たい水で洗い流したのは、青い花の液体と、わずかな好奇心だ。
棚にしまい直した後、ロゼットは瓶と巾着を持ち直す。誰かに会うまでは、しばらく持ち歩いていることだろう。
「……この花、いったいなんなんだろうね」
肩をすくめて、彼女は部屋を出て行った。
ガーデンの白昼夢──“大事な人”がくれた花は、まだ見つからない。
嘘か真かはさておいて、まだまだロゼットの冒険は続くのである。