この場所は、ドールズが楽に寛ぐことが出来る憩いのスペース。柔らかなソファとふかふかのクッションが無数に置かれていて、寮内では唯一暖炉があるので凍えずに済む。冬場はラウンジに皆が集まりごった返すことが多かった。
壁際には軽い読み物が収まった本棚が陳列しており、くつろぎながら退屈を潰すことも出来る。
《Brother》
「ミシェラ!」
手早く食事を終えて、彼は席から立ち上がる。優雅と言うに相応しい立ち振る舞いの彼だが、今はガタンと大きな椅子を引く音を立て立ち上がった。のんびり屋の彼にしては珍しく、大股でミシェラの側まで向かう。白銀の滑らかな髪が揺れて、アメジストがきらりと覗いた。弾けるような喜びと溢れんばかりの輝きを抱えて、彼の瞳は瞬かれる。
愛おしいミシェラの近くまで向かえば、彼は白く柔らかな両腕を思い切り広げるはずだ。自分よりもずっと幼く、ずっと華奢なその体を、優しく抱きしめるために。
「おめでとう。ミシェラなら、きっと素敵なご主人様に出会えるよ」
甘いテノールを響かせて、彼はできる限りの祝福を伝える。心の底から、彼女の旅立ちを喜ばしく思っていた。
だって彼女は、愛すべき妹なのだから。
そして彼は、みんなの兄なのだから。
「おにいちゃん、応援してるからね」
人形はにっこりと微笑む。
普段なら少し低めの体温も、お祝いごとにずっと高くなっていた。
彼は設計された温もりを持つ、トゥリアモデル。
彼は愚かなオミクロン・クラスの欠陥品。
彼はブラザー・トイボックス。
君の、誰かの、おにいちゃん。
「──あ! おにいちゃん!」
ミシェラはラウンジで、柔らかなソファに腰掛けていた。その細腕にはずっしりと重たく感じる分厚い書物の背表紙が握りしめられている。その小難しい文字が躍る紙面を眉間に皺を寄せて、うんうん唸りながら読んでいたようだ。
あなたの愛ある祝福と、底なしの親愛を一心に受け止めて、思わずミシェラは頬を綻ばせた。喜色に満ちた笑顔を浮かべて立ち上がると、受け入れるために広げられたであろうその頼もしい両腕に、ゆりかごに飛び込むようにふわりと収まる。
あなたの胸に頬擦りをして、嬉しそうに声を上げるのだ。
「ありがとう、おにいちゃん! わたし、わたしね、きっと素敵なご主人様と出会うわ。お願いして、きっとまたみんなに会いに来るね!」
《Brother》
「ふふ、うん。待ってるね」
会いに来る、なんて言われて、喜ばない兄がいるだろうか。ブラザーは笑みを深めて、ぎゅうと力強く、けれど優しく、ミシェラを抱きしめた。思わずふにゃりとした顔になってしまったが、妹の前でこれはいけない。体を離すときにはいつもの穏やかな微笑に戻して、ミシェラの瞳を真っ直ぐと見つめた。レッドスピネルの眩く愛らしい双眼。これが見られなくなるのは、やはり寂しい。
「愛しているよ。
僕の可愛いミシェラ」
さらりと前髪を撫でて、許されるなら額に唇を落とす。これまでの愛と、これからへの愛を込めて。
柔らかく微笑めば、ブラザーはミシェラからそっと離れた。他のドールも挨拶がしたいはず、兄として下の子たちに譲るべきだろう。
ブラザーは軽く手を振って、ガーデンテラスへと向かった。
「うん! えへ……わたしもね、おにいちゃんのことがだーいすき! ずっとだいすきだよ!」
ミシェラは額へ落とされたくすぐったい感触に頬を緩め、くすくすと笑みをこぼした。いっぱいの幸福をその頬に浮かばせて、あなたへと親愛の情を伝える。
離れていくあなたを見て名残惜しげにミシェラは眉尻を下げたが、聞き分けよく身を離し、大きく手を振ってあなたを見送るだろう。
ミシェラはソファの一つに腰掛けて、小さな膝の上に分厚い本を載せ、難しい顔で唸っていた。どうやら身の丈に合わない勉強中だったようだ。あなた方がやってきたことに気づくと顔をあげ、ぱっと顔を華やがせる。
「ロゼットお姉さま、カンパネラお姉さま! わたしをお祝いしにきてくれたの? えへへ」
人懐っこく微笑んだ彼女は本を閉じて脇へと置き、ぱたぱたとあなた方へと駆け寄る。じぃっと二人を期待するように見つめては、「お祝いのハグが欲しいな」と甘えたにねだってみせた。
《Rosetta》
カンパネラは人嫌いだと思っていたから、彼女はちょっぴり驚いた。
だが、決してそれは悪い兆候ではない。
人付き合いをする勇気を固めたか、こちらに一定の信頼を置いてくれたということだ。
どちらにせよ、ロゼットはそれを歓迎する。
「うん。行こうか」
カンパネラと歩幅を合わせて、ゆっくりとラウンジに向かう。
そこにはソファに座ったミシェラがおり、小鳥のような声で二人の名を呼んだ。
「おめでとう、ミシェラ。寂しくなるけど、外でも幸せにね」
しゃがんで相手を抱き締める。離したくはなかったけれど、カンパネラもいるのだ。ロゼットは少しの抱擁を残して立ち上がった。
《Campanella》
ミシェラの花がほころぶような笑顔に、カンパネラは物寂しささえ感じた。もうこの笑みが見れないのかと思うと、悲しいな。そんな感情が自分の中にわき上がったことを我ながら不思議に思った。
「わ、え、あ。は、ハグは…………その…………」
ロゼットとミシェラの抱擁を背後で見届けると、長身の彼女はミシェラと視線を合わせるために床に膝をつきおず、と躊躇いがちにカンパネラは両手を広げた。しかし、自分から相手を抱擁する勇気は出ないらしい。じんわりとカンパネラの背中に汗が滲みはじめる。
「あ……え、えっと……その……ご、ごめんなさい、あのね……」
ここに来て、祝福の言葉の一つも言紡ぐことができていないことに今更気付いてしまった。開いた腕を少し引かせ、視線を泳がせる。
ロゼットの優しい腕に包み込まれ、ミシェラはこれこそ一番の幸せであるかのようにうっとりと頬を綻ばせる。
ロゼットからの門出を祝福する言葉を受け止めて、「うん!わたし、絶対に幸せになりたいの」と弾んだ声をあげた。
そして、目の前で目線を合わせてくれたカンパネラをじっと見つめる。ミシェラは普段、人との関わりを極力避けようとしている彼女に、“特別に”会いに来てもらえて、“特別に”ハグを頑張ろうとしてくれていることが本当に嬉しくて、「わぁ!」と歓声を上げながらその腕の中に飛び込んでいく。
しっとりと抱擁をして、嬉しいな、幸せだな、と言った感情を全面に押し出したミシェラは、素晴らしい笑顔のままに二人を見据えた。
「お姉さま、だーいすき。……わたしね、お披露目に選ばれてすっごく誇らしいの。でもね、それと同じぐらい、優しいお姉さまとお別れしたくないなって思うの。……ずっと一緒にいられたらな」
《Rosetta》
謝らなくてもいいのに、どうして謝るのだろう?
そう問いかけたかったが、 それがカンパネラを追い詰めかねない言葉であることも薄々勘付いていた。
だから、悲喜交々の絡まった腕たちを彼女は見ていた。
妹と仲良くしてくれる人がいるのは、それだけで嬉しい。“みずをさす”のは花だけでいいと、トゥリアは知っている。
「大丈夫だよ。きっと私もすぐに選ばれて、あなたに会いに行くもの」
それに、何かあったら助けに行くから──なんて、確証のない言葉を吐く。
今度はちらりと、カンパネラを一瞥した。嘘でもいいし、度胸がなくても構わない。銀の目はこの場での同意を求めていた。
《Campanella》
躊躇う自身の腕に飛び込んできた小さなお花を、カンパネラは「……お、おめでとうございます、……ミシェラさん……」と小さな祝福の言葉と共にそっと抱き止めた。壊れ物を扱うかのような手付きと力であっただろう。白樺の木の枝のような腕が背中に少しだけ触れ、そして離れる。人形であることを否定したくなるくらい、彼女は温かかった。
ずっと一緒にいられたら。
ミシェラのそのいじらしい言葉に、ああ、わかるなぁ、と、言いようのない共感を抱く。むろんカンパネラもミシェラとの別れを惜しく思う気持ちがあるというのもあるが。
彼女は“妹”で、自分やロゼットは“姉”なのだ。
例え致し方ない事情があったとしても、姉と別れるのはカンパネラには耐えがたい。もし自分にその時が来たのなら、きっと泣き叫んで駄々をこねて必死に縋りつくに違いない。
きゅ、と無意識に下唇を噛んでいると、ロゼットの、頭をふわふわと撫でるような言葉が耳に入る。何かの意を伝えようとする視線を感じると、なんとか同調する言葉を出そうとする。
「あ、あの………わた、わたしも。すぐに選ばれるかは、わかんない……選ばれないかもしれな………あ、ち、ちがくて。えっと………」
求められているであろう言葉をうまく出力できずに舌をもたつかせていると、頭のなかで“姉”の声が囁く。
「……あなたは素敵な子だから、きっと素敵な人に選ばれるわ。もしもその先で嫌なことがあったらお手紙出して。あなたがどこにいても行くわ。」
カンパネラはそう、台本に記された台詞を述べた。
きっとすぐに会いにいく。
辛いことがあったら、助けに来てくれる。
そんな、二人の愛しい姉から頼もしい言葉を受け取っては、ミシェラは感極まったようにその深紅の瞳を潤ませて、「わぁあん、お姉さまだいすきーっ。ほんとうに離れ難くなっちゃう……!」と、思わずもう一度目の前のカンパネラの華奢な胸に飛び込んでしまうだろう。
すぐ傍に寄り添ってくれるロゼットの優しげな眼差しを見詰めて、ミシェラは頬を綻ばせた。
「実はね、お披露目のこと、ちょっと不安だったの。怖い人に連れて行かれちゃったら、どうしようって……でも、お姉さまのおかげですごく元気をもらえたわ。わたし、絶対に外へ行ってもがんばるね。えへへへ」
自身の頬を掻いて、どこか気恥ずかしそうにはにかむ。それからハッとしたように表情を変えると。
「そうだ! お披露目にむけてちょっとでもかしこくなっておかなくちゃ。わたし、このままここでお勉強してるね。お姉さま、お祝いしてくれてありがとう!」
読んでいた分厚い本を胸に抱えると、ミシェラは心からの笑顔をあなたたちに見せた。ありとあらゆる幸せをかき集めたような顔だった。
《Rosetta》
カンパネラの言葉は、本音であったかは分からない。
けれど、その言葉は間違いなくミシェラの励みとなっただろう。
ころころと表情を変える妹分に、ロゼットは愛おしげな視線を向けた。
「そうだね。選んでくれたヒトのことを、私たちと同じくらい大事に想えるよう祈ってるよ。幸せになってね、ミシェラ」
金糸の髪に、優しく手を乗せる。
毛流れを乱さないように、けれど確かに温もりを伝えるように、彼女は頭を撫でた。
ミシェラが離れていくのであれば、特に止めはしないだろう。
「ありがとう、カンパネラ。優しいね」
急かさないように促したつもりだったが、無理はしていなかっただろうか。
そんな語意も込めて、共に来たドールの方を見る。
このあと、特に何も用がないようなら、どこかに風のように去っていくのではないだろうか。
《Campanella》
「よ、よかったです……え、へへ………」
胸に飛び込んできたミシェラの髪に軽く触れると、カンパネラはぎこちなく笑った。
ミシェラの頭を撫でてやったロゼットが穏やかに告げた言葉に、カンパネラはぎゅっと心臓を絞られるような心地になる。
優しさでもなんでもないだろう。姉が用意してくれた完璧な台詞を、カンパネラはただなぞっただけであった。
「…………いえ………そんなことは、ないですよ。」
だめだなぁ、わたし。自己嫌悪で自身の髪をくしゃりと握りながら、静かに答えた。
「……み、ミシェラさん。元気で、らしてね。……お、おひろめ、がんばって………」
カンパネラは、せめて最後は自分からと、当たり障りのない言葉を放った。
そして、ゆらりとその場を去っていく。少女の幸福に満ちた笑顔から、そっと目を逸らすように。
《Mugeia》
保健室で休んだ日の次の日。
ミュゲイアは学生寮のラウンジへと足を進めていた。
今日もミュゲイアは元気であった。
昨日のあれが嘘みたいに顔色もよく、顔にはいつものニコニコ笑顔が浮かんでいる。
大好きな笑顔のまま。
ミシェラのお披露目まであと少し。
もう、バイバイの時も近い。
「ミシェラいるかな〜?」
軽い足取りで歩いていれば、気がつけばラウンジについていた。
ミュゲイアは今日ずっとミシェラに会いたくて探していたのだ。そのままラウンジの扉を開けて中を覗いて見た。
ラウンジには大きな窓も取り付けられており、そこからぽかぽかと心地よい陽光が差し込んでいる。この場所にはドールズが寒さに凍えることのないように暖炉が取り付けられているが、今は火を灯さずとも室内はゆったり微睡めるほどに暖かい。
ミシェラはそんな居心地のよい部屋の中央の長椅子に腰掛けて、うとうとと舟を漕いでいた。だがあなたの入室に気がつくとパチ、と瞳を瞬き、緩慢な動きで体を起こす。
「ミュゲお姉さまだ! えへへ、こんにちは。ゆっくりしに来たの?」
頬を綻ばせてあなたを歓待するような喜色ばんだ声を上げると、隣のクッションを叩いて「ここで座っておしゃべりしましょ」とそわそわと誘いかけてみる。
《Mugeia》
ラウンジの大きな窓からポカポカとした日差しが差し込んでいる。
その日差しの先に探していた人物がいた。
暖炉の火を灯さずとも暖かいその場でうとうとと舟を漕いでいた。
微睡むほどのぬくもりとは、少女の頬を薄紅に染めて、窓から垂れる光が少女の黄金を煌めかせている。
穏やかな昼下がりのこと。
「ミシェラみっけ! あのね、ミュゲね、ミシェラがお披露目に言っちゃう前にミシェラのとびきり可愛い笑顔が見たくてミシェラのこと探してたの!」
パチッと目が合った。
声をかけられれば、ルンルンと効果音の着きそうなスキップ混じりの軽い足取りでミシェラの隣に腰を下ろし、グイッと少女と距離を縮めて話しかける。
いつものニコニコ笑顔で零れ落ちそうなほどにクリクリとした白蝶貝の瞳を輝かせて。
お披露目に言ってしまう愛らしい黄金の子うさぎの笑顔を見に来たこのドールはまるで笑顔の狩人である。
綿菓子のように柔そうな髪をふわふわと揺らしながら、彼女がぽすんと軽やかに隣席に腰掛ける。スプリングで僅かに跳ねながら、ミシェラは身近に感じる優しい花の香りに目を細める。乙女の清純な香りが緊張を解いてくれるのだ。
こちらに迫るは、満点の笑みのあなた。こちらの笑顔をも期待しているのだろう、疑いもしない瞳の瞬きをミシェラはぽかんと見据えてから、やがて両頬に人差し指を添えて、その期待に応えるようにニコッ! と音がつきそうなほど明るく破顔した。
「ミュゲお姉さまと会えて嬉しいから、笑顔になっちゃった。えへへ、わたしに会いに来てくれたの? 嬉しいなぁ。お姉さまも、わたしのことお祝いしてくれる?」
《Mugeia》
愛らしく幼いドールはその容姿に見合った可愛らしい無邪気な笑顔を見せてくれた。
ミュゲイアの大好きな笑顔がそこにあった。
ミュゲイアにとっては妹のような存在であり、可愛い可愛い子うさぎちゃんの愛くるしい笑顔。
そんなこの子もお披露目に行ってしまう。
それは喜ばしいことであるけれど、もうこの子の笑顔を間近で見れないのかもと思うとちょっぴり寂しくもある。
「それってミュゲがミシェラを幸せにしたってこと!? 嬉しいな! ミュゲもね、ミシェラに会うと笑顔になるの!
お祝いするよ! いっぱいする!」
ミュゲイアはミシェラの言葉にまた距離を詰める。
ミュゲイアと会えたことで笑顔になれたということはつまり、ミュゲイアがミシェラを幸せにしたという事と思いミュゲイアは笑顔で嬉しそうにする。
だって、ミュゲイアの存在意義は笑顔でみんなを幸せにして、ミュゲイア自身も笑顔を見て幸せになることだから。
ミュゲイアは笑顔のドール。
笑顔でみんなを幸せにするドール。
お祝いしてくれるかと聞かれればすぐに答えた。
お祝いしないなんてことはない。
大切なお友達の晴れ舞台なのだから。
「うん、そうだよ! ミュゲお姉さまはいつもニコニコで、見ているとわたしまで元気をもらえるんだもん。しょんぼりしてる時でも、いっぱい元気付けられてきたんだよ。
だからね、わたしお姉さまのことが大好き。お姉さまにお祝いしてもらえたら、きっと外でも頑張れるわ」
こちらに詰められた距離を、ミシェラが離すことはない。恥じらいを覚えることもなく、むしろ漂う百合の香りが緊張を解いてくれるようであった。彼女の高い鼻先がひととき触れそうになるような、パールホワイトの純朴な双眸が煌めく様を捉えられるような、そんな至近距離でミシェラはニコッとまた笑みを浮かべる。
「ねえお姉さま、わたしが外へ行ってもわたしのこと忘れないでね。ミュゲお姉さまの中にずっと残っていたいのよ。ダメ?」
《Mugeia》
「嬉しい! とっても嬉しいよ、ミシェラ! ミュゲもね、ミシェラのことだいだいだいすき!!
それならいっぱいお祝いしなきゃ! ミュゲ、ミシェラに笑顔でお披露目行って欲しいの!」
何回だってミシェラは褒めてくれる。
欲しい笑顔をくれて、欲しいものをくれる。
ニコッと微笑む熟れた林檎の瞳が愛らしくて、ミュゲイアも笑顔になる。
「忘れたりなんてしないよ! ミュゲね、絶対にミシェラの笑顔忘れないよ! だから、ミシェラもミュゲの笑顔忘れないでね! ミュゲも忘れないから!」
忘れたりなんてしない。
かのドールの愛らしい微笑みを忘れたりなんてしない。
ミュゲイアが笑顔を忘れたりしないのだから。
その人本人を笑顔で見ているから、忘れたりなんてしない。
そっと、かのドールの愛らしい小さな手をキュッと握りしめて忘れないと告げる。
「えへへへ……よかったぁ。ミュゲお姉さまに覚えててもらえるの、凄く嬉しい。うん、わたしもお姉さまの素敵な笑顔をずっと忘れたりしないからね。……本当に大好きだよ」
握り締められた掌の柔らかさと温もりに、ミシェラはほっとして眦を緩める。会えなくなって、大好きな人の記憶から薄れていくのは、寂しいことだ。縋り付くように握り締めた手のひらに力を入れてから、目尻を振り絞って微笑みを浮かべると。
「ミュゲお姉さまも、きっとすぐお披露目に選ばれるわ。そうしたらね、きっと……外できっと会おうね。えへへ、そうなったらすごく嬉しいな」
《Mugeia》
握りしめられた手はとても小さく暖かかった。
ぽかぽかと微睡むような温もりに包まれてミュゲイアも目を細めて微笑んだ。
この子の可愛らしい笑みを忘れることなんてないだろう。
この日を忘れることもきっとないだろう。
この記憶が薄れてしまいわないように脳裏に焼き付ける。
「今度こそ選ばれたら嬉しいな! それにね、ミュゲねお披露目に選ばれる合言葉を知ってるの! ミシェラも言ってた√0! きっとこの言葉はね、お披露目に選ばれる秘密の言葉なんだってリヒトも言ってたの! だから、外でも会えるよ! 絶対にミシェラに会いに行くね!」
今度こそは選ばれたい。
その為の合言葉も知っている。
本当かなんて分からないけれど、少なくともミュゲイアはそう思うことにしている。
だから、きっとすぐに外でも会える。
外で会えた時はまたミシェラのいれた紅茶を飲みながらお話をしたいものだ。
《Sophia》
「──ミシェラ、いる?」
ラウンジにて。明るく、優しく、太陽そのものを模したような暖かいかわいい子、ミシェラ。もうすぐ離れ離れになってしまう事が確定している、妹のような存在。…初めてそれを告げられた時から、その現実をとても受け入れられなかったソフィアは、彼女への挨拶を済ませる事からずっと逃げていた。それをしてしまえば、本当にお別れになってしまうから。……何をしようと、いずれ訪れる事実は変わりはしないのに。
珍しく弱気でいたソフィアだったが、ようやく自分が逃げていてもどうにもならないという事を再認識したようで、挨拶を済ませる覚悟を決めて──扉の前で呼吸を整え、ラウンジへと踏み入ったのだ。
ミシェラがお披露目へと行ってしまうことがこんなにも複雑なのは、妬み嫉みなどではない。ただ純粋に、自分を姉と呼び慕ってくれる、愛しいあの子から離れるのが嫌。ただそれだけだった。 子供のワガママのような寂しさであったが、それがずっと、ソフィアの心を絞めつけていたのだ。強く、強く。それでも、最後くらいは優しい姉代わりでいたくて、必死に笑顔を繕った。お披露目に出るのが夢だと語っていたあの子の心を壊さないように、幸せな気持ちのまま見送ってあげられるように。そのヘタクソな笑顔は、幼いミシェラにはどのように映っていたのだろう。ソフィアには知る由もない。
ラウンジはあたたかな雰囲気の照明で明るく包まれていた。ドールズの憩いのスペース。勉強に疲れたこころをひとときの談笑や触れ合いで癒すことが出来る寛ぎの間だ。けれどもミシェラはそんな場所で、地に足のつかないソファに腰掛けて一生懸命小難しい本をうんうん唸りながら読んでいたようだ。
しかし、優しく自身を呼び掛ける、凛と澄んだ愛おしい“お姉さま”の声に、ミシェラは反射的にバッと顔を上げる。
「……ソフィアお姉さまだ! えへへ!」
彼女はとても嬉しそうに、幸せそうに、素直な笑顔を浮かべながら立ち上がって、あなたの方へとぱたぱたと駆け寄っていく。
「お姉さま、何だか最近忙しそうだったから、声を掛けてもいいのかずっと迷っちゃってて……お話しできてうれしい! やることは落ち着いたの?」
るんたったと踊り出しそうなくらい、ミシェラの声色は弾んでいる。歌うような心地で紡がれる言葉と共に、彼女は首を傾げた。「ずーっとお姉さまとお話ししたかったのよ」と、ミシェラは期待に満ちた瞳であなたを見上げる。
《Sophia》
「……そう。気、遣わせちゃったわね。もう大丈夫、今日はミシェラとたくさんお話したくて来たのよ。……勉強してたの?」
ふわりと身を包む、やわらかな光。きらきらと光る、糸のようなミシェラの金髪が揺れた。素直でまっすぐな笑顔に釣られたように微笑みを漏らせば、優しく頭を撫でた。覚悟、は決めたはずだったのに。『お別れ』と言う単語はすっかり喉につっかえてしまって、出てこずにいる。ぎこちない笑顔を浮かべたまま、ミシェラを撫でてやることしか出来なかった。
「そうね、今のうちだったらどんな話だってしてあげる。なんのお話がしたい? ……あ、そういえばミシェラにあげたいものがあったの。ねえ、少し髪を解いてもいい?」
姉の笑顔を取り繕ったまま、ソフィアは思い出したように声を上げた。──ミシェラに送る、唯一。この子は『自分だけ』という言葉が好きな子だったから、この子に送れる最後のプレゼントとして、『特別』を送る事を選んだ。意思を確認するように、小さく首を傾げながら。
「……! 本当に? あ、あのね、えっとね、お姉さま! わたし──」
今日はわたしとたくさんお話をしてくれる。どんな話でも一緒に付き合ってくれる。わたしだけ特別に!
そんな甘美な響きに、くらりとするほど満ち足りた幸せを感じる。大好きなお姉さまに、特別扱いをしてもらえること。それはミシェラにとって、何にも代え難い至福であった。
嬉しくて嬉しくて、歌でも歌ってしまいたいぐらい。そうしてミシェラは我慢できずに何か、なにかと口を開こうとしたのだが。
あなたの不意の申し出に目を瞬いて、頬を染めたまま慌てて自分の髪を結い込んだ赤いリボンに目を落とす。
「……? うん、わかった! ……これでいい?」
ミシェラは不思議そうにしながらも、自分の髪からしゅるりとリボンを解いて見せた。それから、何をするのだろうと興味津々にあなたを見上げる。
《Sophia》
「……ふふ、ありがと。ミシェラは素直ね。少しだけじっとしていてね………」
自分を見つめるきらきらとした宝石みたいな瞳が、とても美しくて、愛おしくて。柔らかく笑い声をこぼしては、さらりと金糸に指を通す。さら、さら。なめらかに手櫛の間を通り抜けていく艶髪は、ドールとしての美を強く象徴しているように見える。
ソフィアはそれを器用に梳かし整え、三つほど緩やかな束を作って、編み込み…………。
「──これでよし、中々綺麗に出来たわね。あんまり普段こういう事はしないんだけど、ミシェラには特別。『それ』もあげるわ。」
ミシェラの髪に緩やかな三つ編みを施して、前へと流してやる。最後に、ソフィア自身が三つ編みを留めていたリボンをしゅるりと解き、ミシェラの三つ編みへ結わえてやれば、満足そうににこりと微笑んだ。そう、特別。人に物を、ましてや自分の使っていた物をあげるのなんてこれが初めてで、これが最後。自分に出来ることは、これくらいしか思いつかなかった。いつもよりも大人びた印象の髪型になったミシェラの、大きな瞳を覗き込む。
「……ミシェラ。あたしの事、忘れてもいいからね。あたしはね、ミシェラがあたしの事なんか忘れちゃうくらい楽しくて幸せな時間を過ごしてくれたなら、それが一番嬉しいの。そのリボンだって、ご主人様にもっと可愛くて新しい物を貰ったら捨ててしまっても構わない。……だから、どうか幸せでいて。」
髪を結われている間、ミシェラはとても大人しかった。あなたの触れる手つきがあまりに繊細で、丁寧だったから、少しくすぐったくて「ふふふ、」と肩を揺らすことはあったが、それだけ。邪魔をしないようにジッとしていれば、やがて出来上がった、お淑やかですてきな編み込みに「わぁ……!」と歓喜の声を上げる。
普段は作らない髪型であるために、なんだか新鮮な気持ちで、ミシェラは瞳を輝かせてしっかりと編み込まれた自分の金糸を見下ろす。それはいつもよりずっと大人びていて、お披露目に選ばれたこともあって、いよいよ大人になったかのような実感をミシェラに抱かせた。
三つ編みには触れなかった。そのうち解かなければならないことは分かっているけれど、自分が触れて崩してしまったら怖いから。
仕上げに結び付けられたソフィアのトレードマークとも言えたリボンに、ミシェラは驚いたように目を瞬く。上等な生地に触れて、ちらりとあなたの様子を窺えば、喜びが滲む声で。
「く、くれるの? お姉さまが、わたしに? ……わたしにだけに?」
胸が何だかドキドキする。怖い動悸じゃなかった。幸せで、ふわふわとしたものが次第に込み上がってくる優しい感覚。ミシェラは頬を薔薇色に染めながら、なんだかつんと眉間と鼻頭が痛んで、泣きたくなった。ソフィアの言葉が、愛情が、哀しいんじゃなくて、嬉しかったから。
「……わすれない。忘れないもん。わたし、わたしね。お姉さまのことも、学園の大好きなみんなのことも、忘れないもん! 絶対に!
このリボンだって、ずっと大切にする。ご主人様に新しいのをもらっても、こっそり取っておくもの。それで内緒で髪を結んで、わたしだけがソフィアお姉さまの特別な思い出を、思い出せるの。……それってきっと、すごく素敵で、幸せなことだわ。」
ミシェラはしんみりとした声でそう呟くと。やがてばっと顔を上げ、いつもの明るい声をあげた。
「ねぇ、わたしにもソフィアお姉さまの髪、触らせて。わたしとお揃いにしたいの! おねがい!」
《Sophia》
「……うん、あげる。ミシェラに、ミシェラだけに。特別よ。……良く似合ってる。もう、ミシェラも大人ね。」
ミシェラは素直な子だ。その分、その感情はとても顔に出やすい。分かりやすく気に召したらしい表情を見届ければ、満足げに、愛おしげに目を細めた。些細なことでころころと明るく笑う、太陽のような子。この子の笑顔を見ているだけで、創り物の心臓にも温度を感じられた。今だって、それは同じだ。だからこそ、この先訪れる未来が、とても怖くて、ひどく寂しい。……やさしい姉の笑顔を保つのも、もうじき限界だった。視界が霞む。声も震える。だけれど、情けないところを見せて心配をかけたくないという一心で、ミシェラの身体を優しく抱き寄せて、その肩に顔を埋めた。顔を見せたくなかったから。
「………、うん……うん、そうね。ありがとうね、ミシェラ。……ありがとう……あたしもね、絶対に……あなたの事は、忘れないからね。ずっと……ずっと、大好きだからね。」
すん、すん、と小さく鼻を鳴らす音がする。か細い声は、いつものソフィアからは到底考えられないほど弱々しいものだ。言い終わった後も、まだ少しの間そのまま静かにしていた。ようやく呼吸を整えて、情けない顔も落ち着いて。改めて笑顔を作り直して、向き直る。
「ミシェラ。もし、……もしもよ。これからどうしても辛いことや悲しいこと、怖いことがあったらあたしの事を呼んでね。もちろん、そんな事が起こらなければそれが一番なんだけど。でも、あなたに呼ばれたらきっとすぐに駆け付けるから。絶対に『お姉さま』が守ってあげるからね。約束よ。」
少し目元や鼻元は赤くなっているだろうが、そこにあるのは紛れもなく、いつもの姉の強くやさしい笑顔だっただろう。……ああ、ようやく言いたかったことが全て伝えられた。本当は寂しくて寂しくてたまらないけれど、しかし、それでもソフィアはミシェラの幸福を第一に願っている。お披露目で、やさしいヒトに出会って、幸せに暮らせるなら…………それ以上良いことはないのだから。ミシェラにとっても、自分にとっても。ソフィアの声のトーンはすっかり普段通りに戻った。ようやく吹っ切ることができたたのだろう。
「髪? 構わないわよ、好きにしてみてちょうだい。三つ編みのやり方はわかる? 三つ束を作って、端っこの束を真ん中に編み込んでいくのよ。さっきあたしがやったみたいに、難しいけど頑張ってみて。」
「わあっ、うふふ。ソフィアお姉さま、くすぐったい」
優しく回された腕が、壊れものを扱うかのように大切にこの身を懐くと、彼女の柔らかな髪が頬や首筋に触れて、ミシェラは笑った。それでもこの愛おしい温もりに擦り寄り、こちらもあなたの背に手を回そう。
「……わたしもお姉さまのことがずーっと大好き。ソフィアお姉さまはいつまでもわたしの憧れなんだもの。ずっと忘れない。
うん! お姉さま、かっこいい。わたしが外に行っても助けに来てくれるんだ。えへへ……すごく頼もしいな。……安心してお披露目に行けるわ。」
彼女が泣いているのではないかとは思った。普段なら鈍感にもどうして泣いているの、なんて言っているところかもしれない。けれども別れが名残惜しく、涙がこぼれそうなのはミシェラも同じだったので、きっと彼女もそうなんだと思って、何も言わなかった。
髪に触れる許可を貰えば、「えへへへ……ありがとう。三つ編みやったことないけど……頑張るね!」とミシェラは先ほどのあなたの真似をして、せっせと編み込みを始めた。
試したことのないヘアアレンジに加え、ミシェラには学習能力にいささかの欠陥がある。結い込まれるあなたの髪は、残念ながら少し不恰好な仕上がりになってしまう。「あわ、あわわ……」なんて耳元から慌てる声が続いて。
やがてあなたの三つ編みを、ミシェラが使っていた赤いリボンが留めるだろう。
「……ううう……やっぱりお姉さまみたいに上手に出来なかった……ご、ごめんなさい。で、でもね! お姉さまのリボンのお返しに、わたしのリボンをあげるね。……これでわたしのこと、ずっと忘れないでほしいな。」
《Sophia》
「憧れ……、ね。ふふ……そんなふうに思ってくれて嬉しい。あたしも、ここで頑張るわね。だから、あなたも立派に頑張っていらっしゃい。でも無理はしたらダメよ、一人で泣いてたりなんかしたらあたしまで泣きたくなる。どんな所にいたって、ミシェラの為なら飛んでいってあげるからね。」
抱きしめたミシェラの後ろ頭をやさしく撫でたのち、離した。それは、別れに対しての決心の表れに等しかった。泣きじゃくったあとの子供のようなぎこちない顔に触れないでいてくれる優しさが、やんわりと心を温める。
ミシェラがそうだったように、ソフィアもまた、大人しく髪を結われていた。慌てたように声を上げ、ちいさい手で懸命に自分の髪を編み込んでいくミシェラを、ただ微笑んで眺めていた。そして、不格好ながらも髪が結われ終えたのを見届けると。
「なに言ってるの、すごく上手に出来てるわ。あなたとお揃いができてすごく嬉しい。ありがとうね、ミシェラ。……ずっと忘れないわ、当然。だってあたし、ミシェラの事が大好きだもの……リボンも、ずっとずっと大切にするわね。」
崩さないように、そっとリボンを撫でる。心底愛おしげにミシェラを見つめれば、慈愛に満ちた微笑みをこぼす。……もう、こうして話すのも、きっと今日が最後だろう。寂しさがないと言ってしまえば、嘘になる。でも、こうして今日話せただけで、気分はとても晴れやかだった。
「──いってらっしゃい、ミシェラ。いつまでも、幸せでいてね。」
その笑顔は、実に美しく、後光が差し込むような、満天の笑顔だった。
「うん! わたし、わたしもねっ! ずっとソフィアお姉さまやみんなのこと応援してるね。きっとみんなが外の世界で幸せに暮らせますようにって。それでいつか、外のどこかで出会えるような奇跡があったら嬉しいな。えへへへ、そんな上手くいかないって、分かってるけど。」
ミシェラは頬をかきながら、気恥ずかしそうに応えた。末部の言葉だって、決してネガティブな響きではなく、そうだったらいいなとあくまで願望を述べているに過ぎないトーンであった。とにかくミシェラは今が一番絶頂なのではないかというぐらい、幸せというもので満たされていたから。
「……ああ、嬉しいな。ソフィアお姉さまの元にわたしのことをちょっとでも残しておけて。きっとわたしのこと、忘れないでね、お姉さま、わたしもだいすき。
──うん! 行ってきます! ぜーったい幸せになるね、誰にも負けないぐらい!」
ミシェラはラウンジのソファの一つに腰掛けていた。彼女の身の丈にはどう見ても合わないだろうという本を困ったような顔で捲り続けている。
しかしそこで、ラウンジに踏み入るあなたの存在に気付いて顔を上げた。
「! アメリアお姉さま!」
彼女はぱっと太陽が顔を出したような爛漫の笑顔を浮かべて立ち上がる。重たい本を抱えながらそちらまで歩み寄り、かと思えばいじいじとローファーを履いた爪先を床に擦り始める。
「あのね、あのね、お姉さまにお願いがあるの……」
《Amelia》
「ミシェラ様」
ラウンジに足を踏み入れると、やっと目的の人物が居た。
随分波乱万丈な冒険を潜り抜けて来たような気もするが、ともかく、彼女はミシェラのノートを取り出そうとして……。
歩み寄ってきたミシェラの様子で動きを止めた。
「どうなさったんですか? ミシェラ様のお願いですから、遠慮はしなくて良いんですよ」
そこで、一度彼女は自分の目的を後回しにしてノートを仕舞い、ミシェラのお願いを聞いてみる事にした。
「えへ、お姉さま、すっごく優しい。えっとね、えと、お願いっていうのはね」
あなたに何か要件があったらしいことを、鈍いミシェラは察することが出来なかったらしい。少しまごつきながらも、優しいあなたの応答に安心したのか、彼女は抱えていた本を広げて、おっかなびっくりあなたの方へ掲げてみせた。
「ここに書いてある言葉の意味が分からないの、お姉さま、教えてくれる……?」
彼女の指す先には、確かに彼女にとっては難解であろう文章が列挙している。
「お披露目に向けてちょっとでも賢くならなくちゃって、お勉強してたんだけど……行き詰まっちゃって……だめかなあ……」
《Amelia》
「ふむ……少しだけ待ってくださいね。」
教えてくれる? と不安そうにしているミシェラに対して、彼女は先ず差し出された本を見る事にした。
勿論、教えるのは正直彼女としてはやりたくないのだが、ミシェラは勉強会で幾度もヒントを与えて来た相手で、そうした穏やかな関係も一週間後には終わってしまう。
そう考えると無下には出来なかった。
ミシェラはあなたが本の内容を気にしていることに気がつくと、更に高く、見やすいように配慮して本を掲げた。
どうやら彼女が持っていたのは、他言語を習得するにあたっての入門書のようなものであった。あなた方は基本『英語』と呼ばれる、特定の人種のヒトが用いる言語を共用語として用いている。
そして彼女が読み込んでいた本には、英語以外の様々な言語の体系が纏められている書物らしかった。
「あのね、わたしね、思ったの。もしお披露目でわたしに興味を持ってくれたひとが、わたしと同じ言葉で話さない人だったらどうしようって……わ、わたし、むずかしい言葉はわからないし、ほかの言葉だってさっぱりだし……」
あなたはデュオモデルであるため、エーナには劣ると言えどもさまざまな言語を習得している。故に彼女の本の内容も理解出来るが、言語の習得など、学習能力が欠如したミシェラが一朝一夕で成せることであるはずがない。
お披露目までたった一週間しかないのだ。あなたはそれがかなり難しい無謀な学習であると悟るだろう。
《Amelia》
「そう……ですね。
手を、借りても良いですか? ミシェラ様」
一週間で英語以外の主要な他言語を全て……というのはまた無謀な話…というかアメリアであっても物理的に時間が足りない。
だから、彼女は別の手を取ることにした。
「暖かいでしょう? これが全てに通じる、とは言いません。けれど、言葉意外にもこういう触れ合い方があるのです。それに、こういうのはミシェラ様の大得意、でしょう?」
もしもミシェラが手を差し出してきたなら
彼女は両の手で包み込むように掴み、優しく言葉を紡ぐ。
本当はこういうのは好きな人以外とやるべきではないのだけれど……それでも、今のミシェラの様子は余りにも痛々しかったから。
手を、と乞われれば、ミシェラは不思議そうにしながらも一度本を置いて、彼女の方へと迷いもなく差し出す。大好きなお姉さまなら、悪いようにはしないという全幅の信頼からだった。
彼女の手のひらから、優しい体温が伝播する。じんわりと胸が落ち着く感覚にミシェラはほっと頬を和らげた。
「えへへ……うん、何にも出来ないわたしだけど、大好きなご主人様にだったらきっと出来る。言葉が通じなくても、別の方法でがんばればいいんだよね。
わたし……お姉さまみたいに賢くなれないのに、お披露目に出ても大丈夫なのかなってちょっと思ってた。みんなが言うみたいに、出来損ないの役立たずはお披露目で輝けないのかもって……それで、もしご主人様に気に入ってもらえなかったら、割れた食器や破れたシーツみたいに、ポイって捨てられちゃうのかなって。
でも……でも、えへへ。わたし、きっと大丈夫だよね。お姉さま、わたしのこと応援してくれる?」
《Amelia》
「ええ、そうです。
ミシェラ様に沢山の良い所があるということは揺るがないのですから」
表情を和ませたミシェラに彼女も笑みを浮かべて励ましの言葉を返す。
確かに欠陥はある。けれどドールというのはそれだけでも無いんです。
なんて考えていた直後、ミシェラの何気ない言葉にズキリ、と胸が痛くなる。
なんたって、自分は応援出来なかったからダイニングルームを離れたのだ。
だから、みっともない位に寮を歩き回ったのだ。
けれど、それでも、言うべき言葉はもう決まっていた。
「もちろん。応援しています。
ミシェラ様がお披露目で良いご主人様に出会える事を、祈って居ますよ。」
だから、今も心にあるモヤモヤした感情を押し潰して精一杯の笑顔で送り出すのだ。
「……ありがとう、アメリアお姉さま。わたし、お姉さまに優しくしてもらったこと、ぜったいに忘れないね。えへへ、外に出たらお手紙書かせてってご主人様にお願いしてみる!」
あるいは、彼女が真っ当な機能を保障されたエーナモデルであったならば、あなたの微かな感情の機微、表情の曇り、声色の変化などで異変を察知できたのかもしれない。だがあまりに心根が幼く未発達なミシェラにそれを悟ることはできず、純粋にあなたの声援を受け取り、喜ばしそうに微笑むに終わった。
「そういえば、お姉さまは何かご用があったの? ラウンジに?」
《Amelia》
「ええ、楽しみにしていますね」
お披露目に行ったドールから手紙が届いた事などあっただろうか?
ミシェラの言葉に一抹の不安が過り、考えの海に沈み込みそうになったが、直ぐに、彼女は気を取り直してノートを取り出した。
「そうそう、実はミシェラ様に用事があったんです。多分このノートはミシェラ様のでしょう?」
そうして、スタディルームで回収したミシェラのノートを差し出して渡そうとする。
「……あ!」
あなたが取り出した見覚えのあるノートに、思わずミシェラは声を上げる。「それ!わたしの!ずっとどこかにやっちゃったなって思ってたの!」そっと差し出されたノートを受け取り、安堵したように両腕で抱き締める。
それからあなたの方を甚く感謝したように見据えた。
「アメリアお姉さま、持ってきてくれてありがとう! これでお勉強の続きが出来る! ……あ……な、中身、見た? えへ……字下手くそだからちょっと恥ずかしいな」
《Amelia》
「ノートが広げっぱなしでしたから。
少しだけ見てしまいました。けれど、ミシェラ様は頑張っていますね。
√0は授業ではやっていない事ですから、自分でやるのは良いことだと思いますよ」
抱きしめるミシェラに微笑みを向けながら
勉強を勧める自分の言動への気持ち悪さをこらえる。
その上で……奇妙だった√0についての話に水を向けてみる。
ミシェラに何かあったのではないか? という心配とともに。
「うん! お披露目の前に、少しでもわたしのダメなところ、直しておきたくて……頑張ってみたけど、あんまり思うようにはいかないなぁ。えへへ……ん、るーとぜろ?」
気恥ずかしそうに頬を染めたまま、苦笑いを浮かべて少女は頬を小さく掻く。デュオモデルとして聡明であろう彼女に出来損ないの部分を見られるのは、やっぱり少し恥ずかしかったので。
しかしふと、彼女がこぼした単語にミシェラは瞬きを一つ。口元に指先を添えて、「うーん、んー……」としばらく唸ると。
「るーとぜろ……ってなんだっけ。期待にこたえられなくてごめんなさい……難しい数学のお話はよくわからないの」
《Amelia》
「知らない……んですか?
ううん、誰かに勝手にノートに書き込まれた、とかがあったら教えて下さいね。」
もしや誰かが勝手に書き込んだとかなのだろうか……?
だが、それにしてもあれはミシェラの文字だった筈で……どうにも腑に落ちないのを感じながらも、目的を達成した彼女は、
「それでは、これでやるべきことはおしまいです。
アメリアはそろそろ学園の方に行きますね」
と宣言して後ろに下がる。
「うーん、どうかなぁ……わたし、鈍臭くていつもいろんなところにノート忘れちゃうの。今みたいに。ごめんなさい……気を付けるね、ありがとう。」
ミシェラは申し訳なさそうにしゅん……と俯いたが、あなたが心配してくれているのだと分かると嬉しそうに目元を細めて微笑んだ。
「うん! わたしもそろそろ授業を受けに行かなくちゃ」
ミシェラは意気揚々頷いて、本を片付けて部屋を出た。
あなたがしばらく学園内を彷徨い、ミシェラの姿が無いか探していると。ガーデンテラスから2階に降りてきたところで、講義室の扉を開いて出てくるミシェラの姿を見つけることが出来るだろう。丁度、授業を終えたところだったらしい。その胸にはエーナドールの授業で用いる童話の本が何冊か抱えられている。
表情は浮かなく、恐らく授業はいつも通りうまく行かなかったのだろうと察せる。溜息を一つ吐いてから歩き出した彼女は、あなた方の存在を見つけて目を瞬く。それからぱっと顔を華やがせて、るんたったと軽やかな足取りでそちらへ向かうだろう。
「サラちゃん!! 天使さま!! こんなとこで会うなんて奇遇だね、えへへ」
《Ael》
「えっと、お名前は……」
いくつかの本を抱えて浮かない顔をしている可愛らしいドール。こちらからお披露目に出るドールについてきこうと話しかけようとしたところ、あちらも存在に気付いたらしく声をかけてくれたが、どうにも名前が思い出せない。天使さま、と言われてもう少しで思い出せそうだなんて思いながらも申し訳なさそうに名前を訊いた。
《Sarah》
「授業お疲れさま、」
こちらに駆けてくる本を持ったドールは浮かない顔をしていたようだが自分達を見つければ嬉しそうな顔をしていた。彼女の目線に合うよう少ししゃがみつつ重たい本を沢山持った彼女がいつ転んでも抱きとめられるようにしておかなければ、と少しハラハラしながらもこちらに駆け寄ってくる彼女を見る。
「やっぱり服に名前書いておく?」
呆れたように冗談なのか真面目に言っているのかサラはエルサンに提案する。どうやらまた忘れてしまったようだ。この調子だとなぜここに来たのか、サラが誰なのかすらも忘れているのだろう。
「ありがとう、サラちゃん!」
満足行く出来にならなかった授業の疲れを労ってくれるサラに、ミシェラは満点の笑顔を向ける。自身がいかに出来損ないか思い知らされた結果なんて、大好きな友人に会えば簡単に吹き飛んでしまった。
こちらを見て戸惑う、ミシェラの“天使さま”。ミシェラはエルにもニコニコと視線を向けたが、…いつものように忘れられてしまっている事に気がつくと、少しシュンとして寂しそうに眉尻を垂れる。
「わたし、ミシェラだよ。エルちゃん! 同じクラスでねっ、いつも仲良くしてるお友だちなの! 思い出して?」
首を傾けて、忘れてしまったあなたへと首を傾けて促しながら。その後、首を傾けたまま不思議そうに目を瞬いた。
「ところで……二人はどうしてここに? この後授業なの?」
《Ael》
「みしぇら、……みしゃ、ミシャなのです! 思い出したのです!」
顔、声、おともだち。……その情報で、エルの頭にパッと一つの答えが浮かび上がる。嬉しそうに顔を綻ばせてキャッキャと飛び跳ねる。
「ごめんなさいなのです、エル、また忘れちゃったのです……」
うぅ、と申し訳なさそうな顔で謝ってはぺこりと優しくお辞儀した。洋服に名前を書いておく? という声にくす、と笑えば、
「大丈夫なのです、サラ」
と返した。ここにいる理由を聞かれては図星を突かれ、何をするんだったっけ、とサラの方を困ったように見た。
《Sarah》
「授業は、無かったと思う。
ミシェラチャンにこれを渡そうと思って」
花に夢中になっていてすっかり授業を忘れてしまっていた。そのことについてはまた後で考えるとして、ミシェラチャンに渡すためのハンカチに包まれた指輪をそっと丁寧にポケットから取り出す。ハンカチを開けてみれば摘んだときに比べ少しばかり元気はなくなっている花たち。狭い窮屈なところから明るい場所に出たのだすぐに元気に歌い始めるだろう。ハンカチから指輪を掴むことは片手では難しいためハンカチに再度包み渡そうとしたが困ったことに彼女は本を抱えているためあげられない。
「……指触るね、よしできた」
右腕を胸に押し付け左手に持っていたハンカチを落とさぬように移動させ目の前の彼女の指に指輪をはめていく。ほんの少し手間がかかってしまったが最後ぐらいは自分でやりたい。五本ぴったり、指輪の大きさも小さくもなく大きくもなくできていて出来栄えには大満足だ。
朝の憂鬱な気分はどこへいったのか年下の彼女の前ではいつもより柔らかい表情をし達成感に浸る。それに夢の中で会えるのだからそう悲しむことは無いじゃないか。
「えへへ……思い出してくれて、よかったぁ。天使さまは忘れちゃっても、何回でもわたしのことを思い出してくれるもんね。だから、いいんだよ。何回でも教えるからね。」
すまなそうに頭を下げて謝罪する、小動物のようなその姿をミシェラは見上げて、ゆるりと首を横に振った。ミシャ、と柔らかな声で呼び掛けてくれる愛称が、また何度でも聞けるのならばそれでいい。ミシェラは満たされた心地を覚えている。
改めてサラと向き直ったミシェラは、苦労しながら何かを取り出そうとしているあなたの様子を、眉尻を下げてはらはらと見つめている。
けれどもミシェラはあなたの親友。わたしはね、あなたのことならなんでもわかるの。自分でしたいことを邪魔なんてしない。だからミシェラは、そわそわとしながらも何もせず、彼女が切り出してくれるのをわくわくと待った。
そして、数分ほど経過して、ミシェラは自身の五本指に収まる、何とも色とりどりの花で織られた指輪に目を輝かせることとなる。
「わぁ……! 綺麗なお花! しかもこんなにいっぱい!! サラちゃん、エルちゃん、このお花、わたしのために用意して、作ってくれたの? わたしのためだけに?」
ミシェラは思わず歓喜の声をあげて、ぴょんぴょんとその場で飛び跳ねる。そして自身の指を廊下の照明に翳してみたりして、花弁が柔らかな光を受けて一層美しく目に映る瞬間を喜んだ。
「すっごく嬉しい、こんなにいっぱい……! えへへ、もしかして……わたしのこと、お祝いしてくれたの? ……そうだったら嬉しいな。
わたし、サラちゃんとエルちゃんとお別れするの、すごく……すっごく寂しくて。もう会えないなんて……嫌だったけど、この指輪を見たら、いつでも二人のことを思い出せるわ。そのことがすっごく嬉しいの。」
《Sarah》
「もう会えないの? 夢で会えるよ」
お別れという言葉に疑問をもち首を傾げる。夢で会えばそれはもう現実と同じだ。手で触れることができて面白い話を紡げて花のように笑う彼女を見ることができる。現実も夢も大差ない、もう会えないなんて言わないで欲しい。さみしくなるじゃないか。また会える、一度は手を振り別れを告げなくちゃいけないけどまた会える。
「お別れの日に会いに行けるかわからないから今日あげたかったんだ」
話すのが上手なエーナモデルのミシェラチャンは皆と仲良くてお別れの日も沢山の人がお見送りに来る。もしかしたら人に埋もれて小さい彼女が見えないかもしれない。形として別れを告げるのなら今だ。何も包まれていないハンカチをポケットに戻す。返してほしいと言われなかったが貰っていいものなのだろうか。
「夢で……」
あなたの言葉に、ミシェラは面食らったように目をぱちぱちと瞬かせた。それから気恥ずかしそうに頬を染めて、そこを指先でかく仕草を取る。
「夢でも会ってくれるのね、サラちゃん。わたし、わたしね……うれしい。わたしもまたサラちゃんと夢で会いたいな! そしたら、また一緒に遊んでくれる?」
気持が込められた指輪の贈り物が崩れないように慎重に、ミシェラはあなたの左手を掬い上げようとする。ぎゅ、と両手で握り締めながら、幸せを噛み締めるように彼女は緩んだ頬をさらに緩ませて、一歩あなたに近寄った。
「わたしもきっとサラちゃんの夢を見る。でも夢だけじゃなくて、きっとまた会おうね。大好きだよ、サラちゃん」
《Sarah》
「もちろん、またミシェラチャンが花たちと歌っているとこ聞きたいな」
花と歌う、もちろん夢でのこと。花に歌いかけるものはいるだろうが現実で花と合唱するなど考えられない、口のないものとどうやれというのだ。完全な想造。そんなことに気付けない阿呆なサラはそのことを思い返し普段は口元しか動かない表情筋を緩ませ夢に浸る。風は彼女の長く柔らかい髪で遊ぶように優しく撫でる。それをクスクスと笑いながら戯れるミシェラチャンを囲む用にいろいろな種類の花が歌い木までもが魅了されいつも意地悪をしてくる煙までリズムに乗っていた。兄さんはお客さんに喜んでて、
「、約束はできないけど会えたら嬉しいね」
触られた手に一瞬驚きながらも壊さないよう優しく握り返す。きっと自分はお披露目に選ばれることはないはず。サラが周りへの関心が薄いせいもあるが欠損してもなおお披露目に選ばれたドールを知らない。それに加えれサラは何度も与えられた変えのパーツを壊している、こうして学園を歩けてお披露目への希望を抱けるだけで幸せだ。
「……うん。嬉しいから、絶対また会おうね。だって夢の中だけで会うなんて、少しだけ寂しいでしょ?」
ミシェラは優しく包み込んだあなたの片方だけの手のひらを少しだけ揉み込んで、温もりを共有するように、しばらく噛み締めるようにそうしていた。どこか身を引いたような言葉を使うあなたの様子が切なくなったのかも知れない。きっとあなたもすぐにお披露目に選ばれるよ、と勇気づけるように、あえて明るい声色で伝える。
ミシェラは贈られた指輪をまだ夢を見るように見つめていた。また嬉しそうに微笑んで、じっとあなたの目を覗き込む。
「わたし、またサラちゃんに会えるまで、ずっとこの指輪を大切にしてるね。絶対に忘れたりしないからね。だから……サラちゃんもわたしのこと、ずっと覚えていてね」
懇願するようにそういくつか言葉を投げると、ミシェラはおもむろに廊下に掲げられた時計を見上げる。最近覚えた時間の読み方によって、ミシェラは次の授業が近付いていると察知して。「わたし、もうそろそろ行かなくちゃ。お披露目の準備があるの! サラちゃん、また後で会おうね」と最後に笑いかけて、そっと手を離す。
彼女は少し離れても大ぶりで何度も手を振って、その場を離れていくだろう。
《Sarah》
「そう、なのかな」
わからない。自分はよく夢と現実が混ざってるって言われるけどどこからが夢でどこからが現実か、そんなの自分にはわからない。ならば自分にとってはどちらも現実だ。曖昧な返事を返す。
「忘れないよ、大丈夫」
彼女をなるだけ安心させるようエーナほどではないが柔らかく優しく、また自分にわからせるように伝える。握られたては暖かく一度温もりを知ってしまったらそう簡単には離せない。しかし時間は待ってくれないようでぬくもりは自分の手から抜けていった。たしかに温もりがあったのを確かめるように左手を開閉し去っていく彼女が見えなくなるまで手を振る。
「行っちゃった。花がミシェラチャンと一緒に泣かなければいいな。」
気分屋で感化されやすい花とはうまく付き合えるだろうか。ふわふわとしたミシェラチャンだ、きっとうまくやる。それにラプンツェルサンが選んだ花は皆恥ずかしがり屋だったから。それでもミシェラチャンといれば陽気になる、ミシェラチャンも楽しく元気になる。彼女が角を曲がり姿が見えなくなり振っていた手を降ろし廊下の時計を見上げる。あまり時計を読むのは得意ではないがきっともうすぐ自分も授業なのだろう、教科書やノートはもちろんない。まずは取りに戻ることからだ。授業に間に合うだろうか。ノートなどをおいてある場所へ足を進める。一歩一歩、歩いていると難しいことを考えてしまうのは自分だけなのだろうか。
やっぱりさみしくなんか無い、だって夢でまた会えるのだから。それに嬉しいこと、友達の嬉しいことは自分にとっても嬉しいこと。指を口元に持ってきて口角を上げるが片方しかない腕は片方の口角しかあげれずなんとも歪な状況。そんなことは気にせずクラスメイトがいつも笑顔、笑顔と言っているのを思い出し笑おうとする。残念ながら凝り固まった表情筋は動かない。自分には無理なのを理解し笑顔ではなくやはり自分は体を動かしたほうが良さそうだ。小さく息を整えロクに準備運動もせずなるだけ人を避けて廊下を走る。走るのは考えるのが苦手な自分にやはり向いているんだ。頭がきれいになっていく。
やっぱりさみしくないよ、夢で会えるから。
《Ael》
「はいなのです! ミシャ、おめでとうなのです! お別れはとっても寂しいけど、ミシャはエルにとって、とても大事なのです。忘れたくないのです、だから、まだいて欲しいのです……」
ひとつ、ひとつ、ミシェラに嵌められる指輪をみてはわぁと声をあげて喜んだ。ぴょんぴょん、そう跳ねるミシェラが愛らしくて笑顔になった。もうすぐでお別れだと言うミシェラに悲しげな微笑みを返した。すぐ自分は忘れてしまう、だからこそミシェラが側にいてくれないとミシェラを覚え切ることができずに別れを迎えてしまうことになる。そんなの、嫌だ。ミシェラともっと話がしたかったし、遊びたかった。だけども仕方のないことだ、お披露目に選ばれるなんて素晴らしいことだから。ひとつ、ミシェラの頭に手を乗せて左右に動かして撫でる。そうして優しく手を振って、ふらり、思いついたかの様に足を進めた。
「──みんな、お祝いありがとう! えへへ、お別れはすごく……すっごく寂しいけれど、大好きなお兄さまとお姉さまに背中を押されたら、わたし、きっと頑張れるって思えたわ。
わたし、わたしね……みんなのこと、ずっと大好きよ!」
それは、お披露目当日の晩の事だった。ミシェラと行う、最後の食事もつつがなく終えて、あなた方がいつも就寝する時間。
ベッドに潜り込んでしまえば、いよいよ彼女とはお別れになる。なのであなた方はその前に、エントランスホールで各々最後の別れの挨拶をしていた。
ミシェラはこの世の誰よりも幸せそうな顔で笑い、祝福を受け取っている。そんな彼女の肩に手を置いた先生が、「さあ、みんなはそろそろ眠る時間だよ。名残惜しいけど、お別れはここまでにしようね」と告げ、最後の見送りもお開きとなる。
他のドールズがまばらに散って、自室に戻り、ナイトウェアに着替えて就寝の準備に向かう中。
エントランスホールに残ったミシェラは、少しでもこの景色を目に焼き付けておこうと、どこか寂寞を宿す相貌で周囲を見渡していた──。
《Licht》
「間、に、合、った────!!」
寂しそうな、悲しそうな、幸せに満ちた日が終わってしまう切なさのような、そんな静寂を打ち破るように……リヒトが、エントランスホールにギリギリ駆け込んできた。お別れの挨拶の時から既にソワソワと何かを気にしていたようだが、どうやら、間に合ったようだった。
わとと、と手に持った何かを落としそうになりながら、咄嗟にそれを後ろに隠す。
「あっ、とっ、と……ごほん。ミシェラ、ミシェラ。目、瞑って」
そしてリヒトは、妙に改まって咳払いをして、ミシェラにそう言った。
今から、とびきりの魔法を掛けてあげよう。
下手くそで、ドジで、間抜けで、無能で、無知で、コワれた見習い魔法使いの、精一杯のおまじないだ。大事な大事なトモダチが舞踏会に行くための、最初で最後の、小さな奇跡を、ここに。
ミシェラが素直に目を瞑ってくれるなら、リヒトはワクワクした気持ちを隠そうともしない声色で、何度も確認するはずだ。
「瞑った? 瞑った? ……ゼッタイ開けるなよ……。
びびでぃ、ばびでぃ、ぶぅ!」
きっと、エーナモデルなら記憶にある、魔法の言葉と共に、リヒトはミシェラに魔法をかける。ぱさり、と軽い音がして、何かがふわりと乗るだろう。まるで餞のように。
────それは、今までで一番上手く作れた、ミシェラのための花冠。
ミシェラが過日の余韻に浸ってエントランスホールに佇んでいたところ、突如背後の扉が勢いよく開け放たれたことに驚き、「わあーーっ!?」と普段はあまり耳にしないような盛大な悲鳴を上げてしまう。
目を丸くして、驚嘆に彩った顔で振り返り、飛び込んできた闖入者の姿をミシェラは視界に収めると。安心したようにほっと息を吐いて、眦を緩めた。
「なーんだ、リヒトお兄さまだったのね。えへへ、ものすごくびっくりしちゃった……え? 目?」
何やら緊張したようにこわばった声でお願いをされては、ミシェラは疑うということを知らないのでそのまま目を伏せる。相手があなたであれば何も怖いことはないと信頼しきっているのもあるだろう。
そうは言っても脈絡もなしに目を閉じていろと言われれば、何故か無性に緊張はする。「ね、ねぇ? リヒトお兄さま、これ、なんの──」──遊びなの? ……なんて続けられようとした声は、しかし。
意気揚々とした聞き覚えのある魔法の呪文によって、噤まれることとなる。
「わっ、なに、なあに? いま、なにかした? お兄さま……目、開けてもいい?」
……本当は。頭に乗った軽やかで柔らかい感触に、もしかして、なんて思ってもいたけれど。彼からの答え合わせを待つように、そわそわと踵を持ち上げてはぺたりと床につけることを何度か繰り返す。
《Licht》
「いーよ、目、開けて」
二歩、三歩と離れて、そわそわとリヒトは後ろで握った手を組みかえる。期待と、不安と、ちょっとした祈りを混ぜた気持ちで、ミシェラが目を開くのを待った。
その、長いまつ毛がゆっくりと、確かめるやうに持ち上げられた時。
「じゃーん!! ……前、教えてくれただろ、花かんむり。いちばん上手く出来たから、ミシェラにやるよ!」
照れ混じりの、それでも誇らしげな笑顔が咲き誇る。……『どうかな』と尋ねるリヒトの頭の上には、渡したものより幾分か不格好な花冠が乗っていた。不格好でも、おそろいだ。
お披露目までの短い時間の間。この数日何度も花冠を作っては、何度も自分の頭に重ねていた。最後の最後、一番最後。軋んだ思考能力が唯一弾いた最適解に、そっと花の茎を通して出来上がった、いちばん綺麗な花冠。
「宝石みたいな花は、その、見つけられなかったけど……」
ロゼの話していた花は、ついぞ見つからなかった。それでも春に咲く、ミシェラに相応しい花を選んで組んだ花冠は、しっかりと丸くミシェラの頭の上で咲き誇っている。
「……!」
ゆっくりと目を開ければ、目の前にはいつもの可愛らしい花冠を乗せたあなたが立っている。ミシェラは安心したように眦を緩めて、しかし。未だに落ち着かないそわそわとした様子のあなたを見つめながら、そっとその両手を自身の頭部へとやった。
かさり、と指先に触れる生花の柔らかな感触。ゆっくりと花でかたどられた輪っかの輪郭を辿りながら、ミシェラはじんわりと頬を喜びに染め上げていく。
「……お兄さま。見てみてもいい? お兄さまがわたしに……わたしにだけに作ってくれた、花冠」
ミシェラはそうお願いをしてから、そっと頭に被せられた花冠を取り外す。両手に乗せた花冠は、確かに今までで一番素晴らしい仕上がりだった。一つ一つの茎が丁寧に寄り合って、織り込まれている。確かにミシェラが普段作る花冠に比べたらずっと不恰好かもしれないけれど。彼の努力と誠実さの表れのような、純朴な贈り物にミシェラは胸が温まっていくのを感じる。
──これをわたしに届ける為に、こんなに夜遅くまで頑張ってくれたんだ。
そんな温かな『特別』が、こんなにも嬉しい。
ミシェラは噛み締めるようにくしゃりと破顔して、何も言わないまま、輪っかを頭に載せ直す。改めて、残念そうに宝石の花を見つけられなかったと語る彼を見据えてから。
ミシェラはドンっ、と勢いよくあなたに飛びつく。拒まれなければその薄いお腹にしがみつくようにぎゅっと抱擁しようとしながら、いっとう幸せだとでもいうように表情を蕩けさせた。
「お兄さま、花冠すーっごく作るの上手になったねぇ! わたしね、すっごく……すごく嬉しいの。こんな形でお兄さまの中にわたしの存在が残ってくれることが。わたしのこと、もしも忘れちゃっても……花冠の作り方は、どうか覚えていてね。
この冠は一緒に外へ連れていくね。ずっと大切にする。ずっと、ずっとリヒトお兄さまのことがだいすき。お祝いしてくれて、ありがとう」
《Licht》
「どーよ、やれば出来んのさ!」
どんっと、勢いのいい抱擁を受けて、リヒトはびっくり両手を広げて……その後、そっとミシェラに手を添えて、自慢げに誇った。
「……そう。やれば、出来るんだ。みんなだって、オミクロンだって。……そうやって、頑張ったから、ミシェラはお披露目に行くんだな」
そして、感慨深いような、口惜しいような、独り言。コワれた自分の、悔しさや、惨めさを踏み越えて渡したこの花冠が、純粋な餞ではないことは、何より自分が分かっているが……それでも、褒めたかったんだ。認めたかったんだ。
誰よりもその努力を見届けてきたから、分かる。この子は、どこに行ったって誇らしい、オレたちのミシェラだ。
「……ミシェラ、お披露目に行って、ご主人様のとこに行ったら、その人のことをイチバンにしなきゃダメだぞ? ……寂しいけど」
そっと、ミシェラの手を下ろそうとしながら、ゆっくり後ずさる。一歩、二歩、三歩、この距離が、これから彼らの間に生まれる距離だ。
サヨナラの時間だ。
「……うん! リヒトお兄さまだって、きっといつか、素敵なところをいっぱい認めてもらえるわ。わたし、先に外に行って待ってるね! みんなが来てくれるの……ずっと!」
こちらに添えられる優しい手が愛おしかった。ミシェラは胸一杯の幸せを抱えて息を吸い込んで。一歩ずつ離れていくあなたを、寂しそうな微笑みで見送る。
「ご主人様のこと、もちろん何より大事にする。でもわたしにとってはみんなも、ずっとずっと一番で、特別なのよ。みんながわたしにいーっぱい“わたしだけ”の特別をくれたように、……わたしも、わたしの中でみんなとの思い出を一番の特別にしておく。
だから安心してね、お兄さま。わたし、みんなのことずっと忘れないからね」
ミシェラは名残惜しそうな表情を拭い去り、いつもの元気いっぱいな満面の笑みを向けると、ブンブンと元気よく手を振った。
「それじゃあおやすみなさい、お兄さま。行ってきます!」
If I was chosen by a nice person at the unveiling, I might die of happiness.
I want to talk to that person a lot and understand that person more than anyone else.
And I want that person to know about me too. I draw a picture. I'm drawing a story.
Let's be happy with each other. I hope to see you again.