学園、2階。備品室にて。
ブラザーはここに積まれているであろう、過去の教材を目当てにやってきた。元々、兄は湧出なドールである。ディオほどの頭脳はもちろん持っていないが、それでも勉強を好む方だった。ミシェラのお披露目が決まった今、ブラザーも何となく浮かれている。来たるお披露目の日に備えて、勉強に必要な教材なんかを探しに来てしまうほどには。ブラザーとてドールであり、他のドールと比べて低いとしても、無意識にお披露目への憧れはあるようだ。
と、そんなとき。備品室に入った兄は、清らかな自分と同じ白銀を見つけた。
「……あれ、ミュゲ! 奇遇だねぇ、こんにちは」
数日前に彼女に起きたことなんて露知らず、ブラザーはパッと顔を明るくする。にっこり嬉しそうに微笑んで、小さな影に近づいた。最愛の“妹”とこんなところで会えるなんて、今日はいい日かもしれない。
愚かな兄は浮かれきって、ぽやぽやそんなことを考えていた。
《Mugeia》
学園の2階、備品室。
ここに城を築くように積まれている過去の教材たち。
ミュゲイアの頭の出来は至って普通。可もなく不可もなくといった調子であった。
だから、デュオほどの頭なんてないしエーナのようなインプット量もない。
そんなミュゲイアは先日のあの情景はなんだったのかを知ろうとやってきた。
√0だってそうだ。
√0がお披露目に選ばれることの出来る合言葉なら何かあるかもしれないし、秘密の言葉だから記載されていないかもしれない。
どちらにせよ、ミュゲイアは気になっているのだ。
あのコメカミの痛みについて。
あれはなんだったのか。
情景はなんなのか。
あれは何を意味するのか。
笑顔になれるのか。
何も分からなくても、お勉強することが出来ればお披露目に選んでもらえるかもしれない。
この山積みの教材のどれから手をつけようかと悩んでいれば声がした。
その声にピクリと肩を上げた。
「あっ! お兄ちゃんだ!
こんにちは。ミュゲね、お兄ちゃんに聞きたいことがあるの!」
彼の柔らかい笑みの浮かぶ顔を見て、ミュゲイアもニッコリと微笑んだ。
そのまま、彼の方へと近づいて言葉をかける。
花に蜜を垂らすような甘い声は小鳥の囀りのように。
「前ね、先生とお話をしてたら頭が痛くなってね、お兄ちゃんと暗い部屋にいるのが見えたの。真っ赤に輝く何かがあってね、お兄ちゃんとミュゲがいるの。……ミュゲはね、そんなの見た事ないと思うんだけどお兄ちゃんとミュゲはそういうのを見た事あるのかな? ミュゲが忘れちゃってるだけなのかな?」
おつむが緩いからわからないの?
そのひと時が分からない。
忘れてしまったの。
「聞きたいこと?」
首を傾けた。甘い微笑みが、僅かに固くなる。きっとまだミュゲイアの嫌な顔ではないはずだが、兄の心は平穏を保っているわけではない。
“妹”であるミュゲイアとの会話はいつも楽しいし、いつだって笑顔になってしまう。けれど、少し前のドロシーとの会話を忘れられるわけではなかった。いつ切り出そうかと迷っていたが、もしや√0に関することだろうか。もしそうだったら、兄としてどんな行動をとるべきだろう。ブラザーは瞳を伏せた。トゥリアのふわふわした回らない頭で、答えを探す。
「……頭が? いや、おにいちゃんも分からないな。ミュゲはどんな話をしてるときに頭が痛くなったの?」
しかし、投げられた質問は予想とは大きく離れているものだった。ブラザーは驚きに瞳を瞬かせてから、考えるように顎に手を添える。記憶を辿ってみても、そんな出来事があったようには思えない。ブラザーは自分が“妹”との記憶を忘れることもないと思っている。では、ミュゲイアが見たものはなんだったのか。
依然、平穏には戻らない心情で、ブラザーからも質問を返してみる。アメジストが悩ましげに揺れて、ミュゲイアを見ていた。
《Mugeia》
首を傾げたお兄ちゃんは優しく話を聞いてくれた。
甘い微笑みを見ればスルスルと言葉が漏れてゆく。
あの情景について。
あの真っ赤に輝くなにか。
それを暗い空間で眺める2人のドール。
それはこのトイボックスではおかしくて、不似合い。
悪い悪夢のようでもある。
とても、とても、不可思議なお話。
貴方と私のお話。
「えっとね、ミシェラの前にね、お披露目に行った子の名前を先生に聞いたの。その子はその、√0ってよく口にしてた子でね。お名前知ってるはずなのに思い出せなかったの。そしたら、頭が痛くなっちゃったの。……変な話だよね。」
その時のことを思い出すようにポツ、ポツと小さな声で囁くように話し出す。
変な話。信用できるかも分からない。
何も分からない。
グルグルと頭がおかしくなっていくように、何も分からない。
√0も頭痛も。
あの子の名前も。
全部分からない。
ミュゲイアの知らない話。
「……√0の、ことを」
ブラザーの瞳が陰る。
胸の奥がざわざわする、あの嫌な感じ。可愛い“妹”といる時にすらそれを味わわなければならないなんて、苦痛にも程がある。救済も、未来も、どうだっていいのに。
「……ミュゲ、そのドールは√0についてなんて言っていたか、覚えてる?」
口元を覆うように手を添え、ブラザーは体を少し斜めに向ける。考え込むように瞳をミュゲイアから外し、床を見つめた。腰に手を当て、伏せたアメジストに怪訝の色が混ざる。僅かに寄った眉間はあまり機嫌がいいようには見えないが、だからこそミュゲイアから見えないよう体の向きを変えたのだろう。基本的に、本人の意識がある間は、“妹”には笑顔しか見せたくないから。
ブラザーは√0に心当たりがある。
しかし、誰に聞かれても知らないと通すつもりだった。そんな馬鹿げた話をしたくなかったのだ。
だというのに、ミュゲイアもこの言葉について知っている。もう避けて通れる道ではないのかもしれない。
『そんなに欲しいなら啓示してやるよ兄弟。お前の中で出来上がった不定形の不条理はお前のカワイイカワイイスマイラーが解を抱えてる』
……脳裏の奥でなびく金髪に、ブラザーは一際不愉快そうに眉を寄せた。
《Mugeia》
目の前のお兄ちゃんはまるで√0のことを知っているように言葉を返す。
√0はそんなに知られたものなのだろうか?
それはミュゲイアには分からない。
ミュゲイアは何も知らないのだから。
√0だって詳しく知っているわけじゃない。
今まで気にした事もないほどに。
興味すら持っていなかった。
最近になってまた目にしたから、ちょっと気になるかな? くらい。
笑顔と関係があるかは分からないそれにこれといって大きな興味はない。
「え? ……えっと、うーん、√0がヒトに隷属するしかないドールの未来をきっと切り開いてくれる。だったかな?ミュゲにはよく分からないけど、よくあの子は呟いてたよ。」
√0のことを。
√0はきっと救いの言葉なのかもしれない。
けれど、その実態は分からない。
ミュゲイアは深くそれについて知ろうとしなかったから。
√0。それは意味のあるものなのだろうか?
ミュゲイアには分からない。
ミュゲイアは知らない。
だって、ドールである自分の在り方に疑問なんて持った事がないから。
あのドールの方が少数派だ。
あのドールの方がおかしい。
「ねぇ、お兄ちゃんは√0について知っているの? √0ってなぁに? 教えてよ!」
ニコニコとスマイルは尋ねる。
√0について。
まだ知らない未知の存在について。
「……そっか」
やっぱり。
√0なんて言葉を口にしていたのは、あの子だけだったんだ。
「ごめんね、おにいちゃんもよく分からないんだ。救済のイト、みたいなことは聞いたことがあるけど。
……たしか、あの子の名前を聞いたときにこめかみが痛くなったんだよね」
ブラザーは困ったように微笑み、口元から手を外した。一応ドロシーから聞いた言葉を添えてみたが、深い意味は分からない。
少し口を閉じてから、ブラザーはミュゲイアに視線を送る。確かめるように、確認するように。考えたくないことだらけだが、それでも考えなければならないのだろう。であれば、仕方がない。だって兄は、おにいちゃんだから。
ブラザーはそのドールについて思い出す。人と暮らす未来を拒む、奇妙なオミクロンドール。かわいい弟妹だと思いながらも、どこか心がざわつくあの子。
さて、名前はなんだっただろうか。
あなたは、確かに以前共に過ごした“彼”の名を改めて思い出そうとしてみる。
“彼”は、あなたやミュゲイアとかつてこの寮で共同生活を送っていた。同じ部屋で目覚め、同じダイニングルームで食事を取り、共に学び、共に語らい、共に、共に、共に。
いま現在、あなたと親しいオミクロンの同級生達のように。変わらずあなたは彼と親しく過ごしていた、はずだ。
──だが。
そう、彼は、■■■■■■■■、■■■■■■■──
「う、ぁ」
ふらり、体が倒れる。
トゥリアの脆い体では耐えられず、床に勢いよく手をついた。ヒビが入っていなかったのは、不幸中の幸いかもしれない。
代わりにヒビが入ったのは、記憶の方だった。
「ぁ゙、ぐッ……う、あああ……?」
突如感じた、こめかみを刺すような鋭い痛み。ブラザーは目をきつく閉じて、ぐらぐらと揺れる頭を垂れた。冷や汗か脂汗かが一気に溢れ、その涼しい顔を曇らせる。
尾を引く激痛に体は動かない。
けれども、ブラザーは目眩のする視界にミュゲイアを押し入れた。
「みゅ、げ。君は、僕らは────…“あの日”、何を、見た?」
痛みに顔を歪めたまま、途切れ途切れの声を紡ぐ。甘く妖しいアメジストは今やゆらゆらと揺れて、あったはずの答えを探していた。
そう、あの日。
ブラザーはミュゲイアの手を取って、学園に走った。
そこで、何を見たんだっけ。
「っ、ぐぁ゙、」
……ブラザーには、痛みに耐える機能なんて備わっていない。兄は焦燥感に襲われながらも、再び顔を伏してしまった。
《Mugeia》
ブラザーの言った。
救済のイト。
それはきっと√0のこと。
救済。
救済なんてまるでお披露目がダメかのような言い方。
救済のイトってなに?
そう聞く前にブラザーはふらりと倒れた。
まるで、花弁が風に乗って散るように。
当然とブラザーは倒れた。
ブラザーの倒れた音にミュゲイアは目を見開いた。
苦しむような声が漏れている。
あの時のミュゲイアのように。
ミュゲイアはブラザーの隣でしゃがんだ。
ブラザーを心配するように。
ブラザーの身体に手を添えて。
「お兄ちゃん!? 大丈夫? どうしたの? 痛いの? しんどいの? 笑って? 笑ったら良くなるから!
……え。わ、わかんないよ! 何の話? お兄ちゃんも何か見たの?」
ゆらゆらとアメジストの瞳にミュゲイアが映る。
いつもと変わらない笑顔。
いつもと同じ笑顔。
こんな時でも口角は上がったまま。
ブラザーの言葉にミュゲイアは答えられなかった。
あの日っていつのこと?
何を見たの?
何をしたの?
何があったの?
ミュゲイアには分からない。
ミュゲイアは知らない。
ミュゲイアとブラザーに何があったのかなんて知らない。
「……お兄ちゃん? 大丈夫? 保健室に行く? ……先生に診てもらった方がいいよ! あっ、笑おう! 笑ったら大丈夫だから! ね? ほら!」
再び顔を伏せてしまったブラザーをミュゲイアは下から覗き込む。
笑ってと言うばかり。
苦しそうにするブラザーにしてあげられることなんてない。
「っ、ミュゲ……ごめんね、ありがとう」
体に手が添えられる。
じんわりとあたたかな体温が分けられて、ブラザーは徐々に落ち着きを取り戻した。未だ目眩は続いているが、最初ほど酷い頭痛ではない。膝をついたまま、顔を上げる。頭が重くて倒れそうになったが、何とか手で支えた。弱々しくも礼を口にし、安心させるように笑みを浮かべてみせる。まだ少し無理しているが、妹を安心させるより他にすべきことなど、兄にはない。
顔をあげれば、かわいい“妹”がこちらを見ている。その顔にはいつもの笑顔。かわいい笑顔。ブラザーの愛する、“妹”。
「ミュゲ、あの子が……」
言いかけて、やめる。
ブラザーには分からなかった。
いま見たことを共有して、ミュゲはどうなるだろう。
この子も同じように、脳神経の軋むような狂った痛みを味わうことになるかもしれない。先程脳で鳴っていた、危険に対する警報がまだ残っている。妹を危険な目に遭わせるのだけは耐えられない。
では、何も言わない?
真実を何も言わず、ただ隠しておけば。そうすればここは幸せな楽園で、痛みも恐怖もないのかもしれない。けれど、もしもこの箱庭の先に、未来なんてなかったら。兄が妹の未来を奪うことなんて、あっていいはずがない。
「………」
ブラザーは分からない。
自分がどうするべきなのか。
兄がどうするべきなのか。
彼の中に、正解はない。
だって、彼は“おにいちゃん”なんかじゃないのだから。
《Mugeia》
ブラザーが顔をあげた。
まだ膝をついたままであるけれど、その顔には笑みを浮かべていた。
ミュゲイアの好きな笑顔があった。
無理しているなんて考えずに、その笑顔を見てミュゲイアも安心する。
笑顔を浮かべられるなら大丈夫。
笑顔を浮かべているならブラザーも幸せ。
それを見て、ミュゲイアも幸せになる。
そうやって幸せには生まれる。
ブラザーの笑顔が無理しているなんて少しも考えない。
「うん! ミュゲもお兄ちゃんが笑顔に戻ってくれて幸せ! とっても嬉しい!
……なぁに? お兄ちゃん。ミュゲとお兄ちゃんに秘密なんてなしだよ! あの子がどうしたの?」
ミュゲイアは深く何も考えていない。
ブラザーがお兄ちゃんとしてどうするべきかを考えていたとしても何も分かっていない。
そんなの知らない。
あの子の話をただ気になるだけ。
あの子の笑顔の話を教えて。
お兄ちゃんのする話はきっとそういう話。
あの情景だって、笑顔の話かもしれない。
真っ赤に輝く美しいなにかを見て笑顔になった話かもしれない。
だとしたら、それを忘れていたなんてとっても悲しいこと。
だから、ミュゲイアは聞いた。
だって、兄妹に秘密事なんてないでしょ?
「…秘密」
兄妹は尊いものだと、ブラザーは思う。兄が妹を助け、妹はそれを受け入れる。妹が喜べば兄も嬉しくなるものだし、妹が悲しまないよう尽力すべきだ。
そんな尊いものに、隠し事はいけない。そう。そうだろう。
……ブラザーは、おにいちゃんではない。
所詮は偽物で、恋人の出来損ないだった。
だから、抱え込めない。
「……そう、だよね。うん、そうだ。秘密なんておかしいよね。だって、おにいちゃんなんだから」
自分を納得させるように呟いて、ミュゲイアに微笑む。肩の重しが外れたような、そんな顔だった。
「ミュゲ、あの子がお披露目に行った日のこと、覚えている?
僕らはあの日、何故か目覚めて……学園の方に、走ったよね」
結局、簡単に喋ってしまった。
兄だったら抱え込めたかもしれない情報も、ブラザーには抱えられない。大きすぎる重しは背負えない。
だって、彼は恋人用のトゥリアドールだから。
彼は晴れやかな微笑みで保身に走る。所詮、偽物でしかない。
「あの後どうなったか、何も思い出せないんだ。いや、そもそも、どうしてこんなことを忘れていたんだろう。
あの日、僕らのベッドだけ鍵がかかっていなかったのも、どうして……」
考えるように呟きながら、ブラザーはミュゲイアの返答を待つ。
さぁ、大事でかわいい“妹”。
コレを一緒に、抱えておくれ。
《Mugeia》
「うん! ミュゲ達に秘密なんてないよ!」
秘密はダメ。
だって、私たちは兄妹だから。
なんて言うけれど、ミュゲイアにそれの正しい在り方なんて分からない。
ミュゲイアは所詮はトゥリアモデルのドール。
恋人のように接し、母親のように受け止める。
そういうドール。
ただ、話を聞くだけ。
変わりない笑顔で、受け止めてあげるだけ。
ただ、それだけ。
笑顔で受け止めることができるならそうするだけ。
そっと、お兄ちゃんの手に小さな柔らかい手を添えて。
「あのね、お兄ちゃん。ミュゲはね、その時の事を覚えてないの! でも、ミュゲが前に見たって言ってたアレがそれなのかな? なら、ミュゲとお兄ちゃんは暗い空間で真っ赤に輝く綺麗なものを見たんだよ! 笑顔にしようとしてくれたんだよ、お兄ちゃんは!」
「でも、なんでミュゲ達忘れてたんだろうね? 鍵がかかってなかったのは先生のうっかりさんかのかな? 先生も疲れてたのかも!」
都合のいい解釈。
ブラザーはきっとたまたま鍵の閉まっていなかったあの日にミュゲイアを連れて、それを見せてくれたんだ。
笑顔にするために。
そうやって、都合よく解釈してしまう。
緩い頭では何も分からない。
「…………」
都合のいい、夢物語。そんなことは有り得ないと、ブラザーにだってわかる。記憶がない違和感も、鍵がかかっていなかったことも、きっと。きっと何か理由があって、警報はそのためのものだったのだろう。
しかし、ブラザーはそれを信じた。
それでいいと、思考を止めた。
「……ふふ、そうだね。
少し立ちくらみがしたんだけど、ミュゲのおかげで治ったみたい。ありがとう、ミュゲは優しいねぇ」
馬鹿げた空想に柔らかく微笑んで、ブラザーはミュゲイアの頭を撫でようとする。ふわふわの髪の毛にそっと指を沿わせて、いつもの、宝物にするみたいに撫でる。
それから壁に手をつけながら、ゆっくりと立ち上がった。まだ少しだけふらついたが、それでも立っていられないほどではない。呼吸を整えて、ミュゲイアの方を見る。安心させるように、今度は無理せず笑った。無論、“妹”がこの違いに気づくかどうかなんて関係ない。ただ兄は、“妹”の好きな笑顔を浮かべるのだ。
深く探ろうとしなければ、心做しか頭痛も和らいだような気がする。余計なことを考えていたから痛かったのかもしれない。きっとそうだ。
《Mugeia》
ブラザーもそれを信じてくれた。
誰にでもわかる浅はかな夢物語を。
意図も簡単にそれ以上否定もしなかった。
ミュゲイアもこれ以上なにも考えなかった。
今、この2人の謎は笑顔の話で終わったから。
笑顔になる素敵な話でまとまったのだから、ミュゲイアがそれを否定するなんてことは無い。
だから、これ以上何も言わなかったし、考えなかった。
普通に考えればおかしな事で、もっと疑問を持つべきことでもあるのに。
それ以上何も思わない。
とろりと蕩けてしまうような蜜に浸って2人とも砂糖漬け。
甘い甘い2人だけの夢に耽ってそのまま。
歪な兄妹ごっこに蜜を垂らすだけ。
トゥリアドールの得意な恋人ごっこのように。
2人だけの世界で終わらせてしまう夢物語。
「良かった! ミュゲもお兄ちゃんが笑顔になってくれて嬉しいよ! えへへ、ミュゲね、お兄ちゃんに頭撫でられるの好きだよ。」
「今日はもう寮に帰ろ! ミュゲね、お兄ちゃんとお絵描きしたいな! 笑顔のお絵描きしよ!」
ブラザーに頭を撫でられれば心地良さそうに目を細めて微笑む。
こうやって、頭を撫でられるのは好き。
優しく微笑むお兄ちゃんの事は好き。
だから、このまま機嫌を損ねないように。
ミュゲイアはもう帰ろうと提案をしてブラザーの腕を組んだ。
もう、今日は帰る方がいい。
寮に帰って絵を描こう。
この夢物語のヒビに気付かぬように。
ちゃんと良い子でいられるように。
「ふふ、おにいちゃんもミュゲのこと撫でるの好きだよ」
微笑むミュゲイアを見て、ブラザーも自然と笑みを深めた。長くてつやつやの髪を毛先まで優しく撫でる。
二人の間には幸せしかない。例えこれが空想だとしても、箱庭だとしても。この世界は誰にも壊せない。壊させない。
それでいい。
これでいいのだ。
だって、こんなにも幸せなんだから。
「うん、帰ろっか。お絵描き、楽しそうだねぇ。お供のホットミルクをいれてあげるね」
腕を絡められても、ブラザーはそれを拒まない。大人しく組まれたまま、にこにこミュゲイアに笑いかけた。小さく頷いて、2人で絵を描くところを想像する。考えただけで幸せで、頬が蕩けてしまいそうだ。この子が好きなホットミルクもいれてあげよう。蜂蜜をたっぷり垂らした、甘い甘いホットミルクを。
それでいい。
これでいいのだ。
狭い殻の中を、甘いだけの蜜で満たしてしまおう。
密に溺れて、息ができなくなるまで。
《Rosetta》
とうに温もりの失せた椅子の上。ロゼットは腰掛けたまま、天井を見つめている。
膝の上には花入りの巾着、手の中には青い液体の詰まった小瓶。
擬似記憶の中の“花”を見つけようとは思ったものの、どうにも答えは見出せない。
「そこそこ物知りのつもりだったんだけどなあ」
デュオクラスの仲間に訊けばよかったのだろうか。それとも、素直に先生を頼るべきだったのか。
それは何かが許さない気がして、ロゼットはひとりでぼんやりし続けている。
まともなドールのお歴々は避けていくだろうが、誰かに声をかけられれば、きっと薄い笑顔を向けるはずだ。
学生寮、ラウンジにて。
授業が終わり、ブラザーは最近新しく増えた日課をこなしてから寮に戻ってきた。図書室にでも行こうかと思っていれば、見覚えのある深紅が見える。
「やあ、ロゼット。こんにちは。
日向ぼっこしてるの? おにいちゃんも混ぜてほしいな」
扉の隙間から見えた、薔薇のように赤く燃えるうねった髪。持ち主はもちろん、ブラザーのかわいい妹の1人であるロゼットだ。
扉を開け、にっこりと微笑みながら軽く手を振ってみせる。窓から差し込む陽光に照らされるその姿を見て、兄はくすくす笑った。いつもの甘いテノールでお願いをひとつ、のんびりとした足取りでロゼットの隣に向かう。特に否定がなければ、ブラザーは隣にその細い腰を下ろすはずだ。
《Rosetta》
「おにいちゃん」
“兄”を名乗る不審者を前に、彼女がたじろぐことはない。
目を細め、猫のように笑ってみせるだけである。
ブラザーが隣に座るなら、少しだけ端に寄るだろう。兄を名乗るだけあり、彼の体躯はロゼットよりも少し大きい。邪魔になってはいけない、という配慮である。
「花を見ていたんだ。変な花と、変な花を浸した水」
巾着の口が、ゆっくりと開かれる。
中には見覚えのあるであろう花が入っている。花弁が少し欠けているが、大きく損傷はしていない。
巾着を膝の上で安定させると、小瓶も手渡そうとするだろう。受け取らなくても、また膝の上に乗せるだけだ。
「花?」
ブラザーもまたロゼットが座りやすいように寄れば、その手に巾着があることに気づいた。最近は花に縁があるなあ、なんて思いながら、大人しく開かれていく口を見ている。中から宝石のように美しい青の花弁が見え、ブラザーは驚いたように瞳を瞬かせた。渡された小瓶を受け取り、光にかざす。ちゃぷちゃぷ揺れる水に目を細め、ロゼットに視線を戻した。
「コゼットドロップ、だね。僕も持ってるよ。柵の近くで見つけたんだ。
ロゼットも、そこで見つけたの?」
あの時のことを思い出すと、薄らと足が痛くなるような心地がする。けれども、その後に見たどんな花よりも美しい笑顔を思い出せば、自然と顔が綻んでしまうのだ。
《Rosetta》
どうやら、ブラザーの方がこの花に詳しかったらしい。思わぬ収穫だ。
「違うよ、くるみ割り人形の本に挟まっていたの。水は花を浸したら色が変わったんだ」
柵の方まで行く理由はないし、ひとりでは行ったとて危険なだけだろう。
首を横に振り、上記の言葉を返す。関係もなさそうだから、食べるつもりだったことは言わなかった。
「お兄ちゃんは、どこでこの花の名前を知ったの? 私、初めて見たよ」
花壇のどこにも、コゼットドロップの居場所はなかった。
今度、探しに行くのも悪くないかも──なんてぼんやり考えながら、ロゼットは問いかける。
「本に……? 誰かがはさんだのかな」
不思議そうにロゼットの言葉を繰り返す。この花は弱々しく咲いていたはずだが、本に挟んでおけるものだろうか。そもそも、誰が何の目的でそんなことを。
流れ始めた疑問を止めたのは、かわいい妹の問いかけだ。
「トゥリアクラスの子から聞いたんだ。架空の美しい花って言われていたんだけど、この学園のどこかに咲いているって噂があったんだって」
瞬いていた瞳を柔らかく細めて、ブラザーは笑いかける。そういえば、あの子はこの花の名前をどこで知ったのだろう。噂を流したのは、誰からだったのだろうか。
……この学園は、分からないことだらけだ。
「色が変わるのは初めて見たよ。不思議だねぇ」
《Rosetta》
「うん。萎れてもいなかったから、誰かが隠してたのかも」
そうだったらちょっと面白いね、なんて。
冗談めかして、ロゼットは口にした。
疑いも、不安も、彼女の中には存在しない。智慧を知らぬイヴのように、ただ微笑むだけである。
「でも、ここにあるのは本当だもんね。色が変わることも教えてあげたいけど……その子はどこにいるの?」
トゥリアクラスの面々は、顔こそぼんやりしているものの、何となくであれば容姿を思い出せる。
純粋な善意から、ロゼットは問いかけた。心を苛む一切合切と、彼女は無縁なのだ。
冗談めかして笑うロゼットに、ブラザーも口角を緩める。穏やかな兄のような微笑みは彼の常だが、こういう時なら、妹に同意してもっとおかしそうに笑うはず。しかしブラザーは、ただニコニコとしているだけであった。とても冗談のように思えなかったから。
「ラプンツェル、って子だよ。覚えてる? トゥリアクラスの子で、若草色の髪を刈り上げたのんびり屋さん」
元々トゥリアクラスであったロゼットも、その姿は見たことがあるだろう。甘い茶色の瞳を瞬かせる、花好きな少年を。
「ラプンツェルは前回のお披露目に選ばれたんだ。だから今は、どこかで幸せに暮らしているよ」
今度は心の底から幸せそうに、ブラザーは顔を綻ばせる。なにか奇妙な陰謀が渦巻いていると疑い始めても、兄はまだ、お披露目が素晴らしい夢だと信じていた。
《Rosetta》
草原のような髪、キャラメルのようなまなこ、羊のように穏やかな精神。
言われればわかるような、わからないような。
小首を傾げ、ロゼットは曖昧に微笑んだ。
「そう。よかった、幸せになるのはいいことだからね」
知らない場所で、知らないヒトと、いつまでも幸せに暮らすであろう妹。
その中に、ぼんやりとしたシルエットが混ざる。不快なものではなかった。
幸せを願える相手など、多くて困ることはないのだから。
「私たちも、いつかお披露目に行くのかな。オミクロンは中々選ばれなさそうだし、プリマだった子の方が早いかもしれないけれど」
「うん、いいことだね」
にこにこ、中身のない発言を繰り返す。誰かのお披露目に対して、ブラザーは負の感情を何一つ抱かない。それが兄だからだ。
「そうかな、ロゼットは優しくて綺麗な子だからね。きっとすぐにお披露目も決まるよ」
そのまま、ブラザーは優しく微笑んでいる。拒まれないのなら、ロゼットの頭をそっと撫でるはずだ。安心させるような手つきでもあったし、褒めるような手つきでもある。少なくとも、エーナドールでなくとも、その言葉に嘘や悪意があるようには感じないだろう。
《Rosetta》
──ブラザーは、私がいなくなったら寂しい?
──ブラザーも優しくて綺麗だから、すぐにお披露目に行ってしまうの?
──優しくて綺麗でなければ、誰にも選ばれないの?
頭蓋の内から溢れる疑問は、兄の手により押し留められた。
相手にそのつもりはないだろう。ロゼットだって、そのことに気付きやしない。
ただ、意識がいくつかの問いよりも、温かな快を優先しただけなのだから。
「ありがとう。私がいなくなっても泣かないでね」
目を細める。
兄と呼ぶには甘やかすぎる仕草だ。嬰児にとって、親愛か否を区別するのは難しい。
「お披露目に行くところ、みんなにも見てほしいな。どんなヒトが私を選ぶのか、気になるもの」
実際にお披露目を見た者はいないと知りながら──いないと思いながら、そんなことを呟いた。
「難しいお願いだねぇ」
今度はブラザーが冗談めかして笑った。なでなでと手を動かしながら、肩を竦めて笑ってみせる。茶目っ気たっぷりにおどけているが、もし本当にお披露目が決まったら、彼は泣くどころか全身で喜びを表現するはずだ。
「僕も見てみたいな。可愛い妹を任せられるヒトか、おにいちゃんが確かめないと」
椅子の背もたれに体を預け、ブラザーは調子よく続ける。頼まれれば、兄はお披露目会場に乗り込むことだって辞さないだろう。
《Rosetta》
嬉しいような、うざったいような。
何とも言えない気持ちのまま、ロゼットは愛撫から逃れた。
「怒って喧嘩したら、嫌いになっちゃうから。するならハグだけにしてね」
するりと、猫のように立ち上がる。このまま立ち去るつもりなのだろう。
巾着も口を閉じて、小瓶をブラザーの前に差し出して。ロゼットは問いを投げる。
「これ、いる?毒かもしれないよ」
いると言われたら、彼女はあっさり手渡すだろう。
いらないと言われれば、巾着の中にしまって、颯爽と部屋を出ていく。
どちらにせよ、彼女は兄を嫌わない。日常の一環である、会話の綴じ目として扱うだろう。
「ふふ、もちろん」
くすりと笑って、ブラザーは大人しくロゼットから手を離す。結局はただの冗談で、そんな気なんてないのだ。
「一応貰っておこうかな。毒なら尚更さ。
ありがとう」
揺れる小瓶を受け取り、軽く微笑む。大人しく座ったまま、ブラザーはロゼットの背中を見送った。
1人になってから、小瓶を揺らす。ちゃぷちゃぷと揺れる色水を見つめ、ため息をこぼした。
本当に、毒薬なら。そんな期待を小瓶と共にポケットに入れて、ブラザーも立ち上がる。兄はそのまま部屋を出ていった。
「うっかりしてたなぁ」
2階、備品室。
ブラザーは眉を下げ、困ったような恥ずかしがるような顔で笑っていた。少し前に、ここに教材を取りに来たことがあったのだが……最愛の“妹”に会えたことに浮かれ、すっかり目的を忘れていたのだ。手ぶらで寮に戻り、楽しく仲良く絵を描いてその日は眠ってしまった。
故に彼は、またここに足を運んだわけである。さて、何があるだろうか。
この場所は主に講義室での授業に用いる雑多な教材備品を保管して置くスペースだ。黒板に図形を描く為の巨大な定規や、人体の構造を学ぶ為常設された人体模型、スチールラックには所狭しとチョークの替えや過去の教材を束ねて置いたものなどがまとめて置かれている。
清掃は欠かしていないのか、多少手狭でも埃っぽくはなく、清潔な倉庫であると分かる。
「この辺、かな」
ブラザーは辺りを見回して、スチールラックに目をとめた。並べられた教材備品たちに近づき、手に取ってみる。気になったものを持ち帰るつもりだったが、ここまで量が多いとは思わなかった。色々な物を手にしているうちに、ブラザーは“ソレ”に気づく。
「……あれ」
まるで隠すように置かれた、一冊のノート。ブラザーは手を伸ばす。ノートを手に取って、表紙を見たあと中身がなにかを確認してみた。
スチールラックには様々な教材備品が整理された状態で置かれている。教材が詰まった大箱と大箱の合間に立てられ、隠されるように置かれていた一冊のノートを偶然にも見つけたあなた。
ノートは、ドールが日頃勉強に用いる為に配布される、何ら特別なところのない一般的なノートのようだった。開いてみると、几帳面な文字で日々の授業内容が綴られている。あなたが見るにかなり高度な分野を学んでいるようなので、恐らくデュオクラスのドールなのではないだろうか。
そのため内容の解読は難しかったが、このノートの持ち主がかなり聡明な人物であろうことは薄々と察せられる。理路整然と纏められた文面がその事実を表していた。
ノートにはきちんと名前が記されている。『グレーテル』──と。
「……忘れ物かな」
ブラザーはノートを閉じて、名前を確認する。聞いたことはないが、恐らくデュオクラスのドールだろう。このノートの中身を理解するには、少し頭の出来が違いすぎる気がした。
忘れ物だろうノートを回収して、ブラザーは奥の奇妙な塊に近づく。布をかぶっているようだが、授業に用いる模型たちだろうか。何となく気になって、単なる好奇心から布を外してみた。
備品室の奥には、何やら正体不明の大きな塊が転がっていた。上から襤褸布で覆われており、その全体像を確認出来ない。
──しかしあなたが少しずつ歩み寄るにつれ、その謎の塊から啜り泣くような微かな声が聞こえてきた。よく見れば、襤褸布の端からはドールのものと思しき細い脚が束ねられて飛び出ている。
布を取っ払ってその正体を確認するならば、案の定、いや驚くべき事に──床に転がっていたのは一体のドールであった。顔を覆って蹲りながらシクシクと泣いているらしい、小刻みに肩を震わせている。備品室の暗がりでも、それが少女である事、そして鮮やかな赤毛であることは容易に見て取れた。
「ぐす……ヘンゼル、ヘンゼル、ヘンゼル、ダメな姉でごめんね……上手く殺せなくてごめんね……お姉ちゃんを見放さないで……嫌わないで……わたしあなたが居ても駄目な女なの……でもあなたのためにきっとあの魔女を殺すから……次こそは……ひっく」
何やら悲しみに暮れたその一塊は、しきりに何か物騒な呪詛のようなものを吐きながらも、何やら落ち込んでいるのは火を見るより明らかである。
「わァ~……」
すすり泣く声。細い足。
首を傾けながら塊に近づいて、少し止まってから、ブラザーは布をめくった。誰か生徒が迷子にでもなったのかと思ったからだ。しかし、現れたのは赤毛の少女である。見たところ、それなりに成長した。
ブラザーは呟かれた呪詛に曖昧な声を出してから、布を完全に取っ払う。その場にしゃがんで、できるだけ優しく声をかけてみた。
「こんにちは。なにか辛いことがあったんだね。
けど、もう大丈夫。おにいちゃんが来たから」
甘いテノールの慰めが暗闇に響く。安心させるように囁いて、拒まれなければその背中にそっと手を添えようとした。そのまま撫でて、落ち着かせようとするだろう。
「ひぃいっ……なに、だ、誰……!? おにいちゃん……!?」
驚くべきことに、彼女は布を払われた段階であなたを認識出来ていなかった。無心に爪をがじがじと噛みしだきながら、己への卑下と誰かへの殺意を吐露し続けるのに全神経を集中させていたらしい。
あなたの声と、背中に添えられた手によって、急に電流を流されたみたいに全身を強張らせてビクつかせながら、赤毛の少女は戦々恐々あなたを見上げた。
優しげな声と眼差し。麗しい美青年の笑顔。宥めるような手つき。そのどれもが自分を安心させる為のものだと容易に察せられたし、恐らくこの格好良い人はトゥリアのひとなのだろう……と彼女は心の中で当たりをつけた。
とはいえ彼女はとんでもなくみじめな姿を知らない人に見られてしまった! と汗をかき、飛び起きては、しかしへたり込んだまま涙を袖で強引に拭う。
「び、備品室゛……うぁ、だ、誰も来ないと思っ、て………だからその、わ、わすれて……誰にも言わないで」
「勿論、誰にも言わないよ」
ブラザーはふわりと笑いかけ、ポケットからハンカチを取り出した。ガーゼの上質なそれを、少女の目元にあてる。強引に涙を拭おうとする手を止めさせて、柔らかな生地で涙を拭こうとした。
「僕はブラザー。君の悲しみが和らぐまで、そばにいさせてほしいな」
笑みを深める。
少女の予想通り、ブラザーの仕草はトゥリアそのものだ。傍から見ただけでは、オミクロンの落ちこぼれだなんてとても思わないだろう。しかし、それはブラザーにも同じこと。
彼が慰めるべきだと思っている妹が、同じ妹を殺しかけただなんて、ブラザーは少しも思っていなかった。だから彼は、隣にしゃがんだまま微笑み続ける。
「うう」
柔らかな材質のハンカチが目元に触れ、少女の涙が布地にきらきらと吸い込まれていく。哀しげに目蓋を伏せていたグレーテルは、やがて薄く双眸を開き、ぐるぐる、ぐるぐると失意に渦巻くラズベリーの視線を床に落とした。まだ落胆に暮れているようだが、ひとまず泣き止みはしたようだ。
「……ぶ、ブラザー、さん。わたし、グレーテル……。わた、わたしなんかに構っていたら、きっと駄目駄目が感染する、よ……せっかく綺麗なトゥリアの子なんだか、ら、駄目だよ。……ど、ドールなのにこんな、ま、ま、まともに、喋れないし。欠陥品だから……面汚しなんだ……放っておいて……」
グレーテルと名乗った少女は、スカートが皺にならないよう座り直し、気落ちしたように俯いたまま、酷く吃ったおどおどとした声で語る。かなり卑屈な性格なのだろう。
「あ、あと、わたし……あなたの妹じゃなくてヘンゼルのお姉ちゃんなの……忘れないで……」
しかし、この訂正の声だけは随分強かったが。
「ふふ、僕は落ちこぼれのオミクロンクラスだよ?君よりもずーっと、欠陥品だって思われてる。
そんな僕が言うと、こんなに綺麗な瞳の子が、欠陥品なわけがないね」
泣き止んだグレーテルの瞳からハンカチを離し、話を聞く片手間に畳み始める。再びポケットにしまってから、顔を上げておかしそうに笑ってみせた。どこか悪戯っぽい優美の笑みを浮かべた彼は、自分の胸に手を当てる。落ちこぼれだという自覚はないが、だからといって利用しないわけではない。可愛い妹を笑顔にするためならば、兄は欠陥品にだって成り下がる。
ブラザーは胸に当てた手を、そのままグレーテルの頬に添えようとした。ささくれ一つない柔らかな手が、貴女の頬を撫でるだろう。
「ヘンゼル? 素敵な名前だね、会ってみたいな」
弱々しい声だった彼女の力強い訂正に、ブラザーは少し面食らう。何を言っているのか、おにいちゃんには分からない。ヘンゼルのお姉ちゃんであることと、ブラザーの妹であることは両立するからだ。無論、ブラザーの妹なんてのは存在しない真実だが。
けれど、それが彼女にとってそれが重要なことなのは一目瞭然で。ひとまず自分の主張は飲み込んで、にこやかにその場を収める。
「あなた……オミクロンの人なの? そう……そうなんだ。わたしよりよっぽどちゃんとしてるのに、け、欠陥品なんて言われるんだね……だ、だったらわたしなんてオミクロン通り越して、処分しかないよ……や、やだ、なぁ……処分はやだ、オミクロンもやだ……」
グレーテルはオミクロンという単語を過剰に恐れて、肩を小刻みに震わせた。一言発するたびにナーバスになり、僅かに思考を巡らせるたびにブルーに浸っていく。そういう性格で、改善しようがないのだろう。目元を黒ずませた陰険な顔色の彼女は、しかし、あなたの繊細な指先で頬を撫でられると、視線を自然とそちらへ向けるだろう。
優しく穏やかな声が心を解きほぐすような、それが少し恐ろしいような、そんなあなたの様子にグレーテルは呆けていた。
「……へ、ヘンゼルは……お、オミクロンの子がき、嫌いなの。憎たらしく思ってる。あの魔女……じゃなくて、ヘンゼルの、あ、憧れの人が、オミクロンになった、から……よ、余計にそうなっちゃったの。」
魔女、という言葉を発した瞬間、グレーテルの低い声の凄みが恐ろしいほどに増し、底知れない怨念を感じたかもしれない。だが彼女はあくまで悩み相談のような気落ちした声で続ける。
が、そこであなたの顔をじっと見ていたグレーテルが、何かを思い出したように呟いた。
「……そういえば、あなた、前に見たことある……女の子と一緒にいたよ、ね。なんか、ふわふわの……え、えと………平気だったんだね、……開かずの扉に深入りして……」
「うーん、そんなことないと思うけど……」
どうやら、想像以上に卑屈な性格だったらしい。気分を軽くしようとした発言は思いもよらぬ方向に捉えられてしまい、ブラザーは困ったように眉尻を下げた。肩を竦め、困ったような顔でグレーテルを見ている。泣き止んでくれたのは嬉しいが、最終目標は笑顔を見せてくれることだ。せめて微笑みのひとつでも、何とかしてみせたいものである。
どうしようと悩んでいれば、グレーテルは例のヘンゼルについて続けた。ほんの一瞬、まるで親の仇でも呼ぶように声が低くなったが、きっと気の所為だろう。ブラザーは少しも気にとめず、真剣にグレーテルの言葉を聞いていた。
「……え?」
まだ見ぬヘンゼルについて続く言葉は、“それは大変だね”とか“仲良くなれたらな”とかだったかもしれない。しかし、グレーテルの呟きによって、ブラザーは甘いアメジストを見開いた。
「……開かずの扉って、どこの話だっけ。ごめん、ちょっと忘れちゃってさ」
できるだけ、自然に。
はにかむように微笑み、グレーテルに聞いてみる。
ふわふわの、女の子。
兄は、嫌な予感がしている。
「……ヘンゼルが……学園で、その……開かずの扉の近くで、化け物を見たって、言い出して。わたし、化け物なんて居ないよって言って、ただ安心させてあげたかったのに……ただでさえあの魔女に苦しめられてるんだから、余計なことで頭を悩ませて欲しくなくて……。
で、でもヘンゼル、信じてもらえなかった、って、き、傷つい、ちゃって、わたし、間違ったこと、言っちゃった、……あ、う、あ………」
グレーテルは嫌なことばかりを思い出して、負のループに陥っているようだ。頭を抱えて、瞳を潤ませて、ガタガタと小刻みに震えている。
コミュニケーションがうまく取れないというのは、ヘンゼルとの仲が上手くいっていないトラウマからも来ているのだろう。グレーテルはまた涙を零しながら、しかし、あなたの質問に答えようと首を横に振る。
「開かずの扉は、その、二階と三階の間にある、地図にない場所につながる扉で……誰もその先を知らないから、怖い噂になってる場所、なの……。
ヘンゼルがその近くで怪物を見た、って話をしたら、あう、みんな、彼を嗤って……、……でもそんな時、あなたたちも同じように、は、話を聞きに来たの、ヘンゼルに。
覚えて、ない……? 開かずの扉のことが知りたいって……絶対、あなたたちのことだと思ったのに……」
「………」
どうして。
どうして、そんなことを忘れられる?
開かずの扉。怪物の話。
忘れない。絶対に。
鍵が何故か開いていたこと。お披露目の日に抜け出したこと。そのあとの記憶。
忘れない。絶対に。
忘れるはずがない。
忘れられるはずがない。
「……おかしい……」
ブラザーは呟いた。
それはたった今グレーテルに向けていた穏やかな声ではなく、随分と切羽詰まった、喉の奥から絞り出すような声。
思い出せないその先の記憶。得体の知れない何かに、確実に干渉されているとしか思えない。馬鹿げた話だ。しかし、その馬鹿げた話が自分の身に起こっていないと、ブラザーはもう否定できない。
「……グレーテル。ヘンゼルは今どこにいるの?」
冷や汗が頬を伝った。ブラザーは顔色を悪くして、息詰まった空気のままグレーテルに問う。もう暗い発言に慰める余裕もないらしい。
ブラザーには、繋がるはずのない2つの出来事が、繋がる予感がしていた。それは絶対に有り得ないことで、有り得ない話だ。だからこそ、もしも有り得てしまったら。
……この先、兄はどうするべきだろうか。
ただ今はその答えを先延ばしにして、真実を追い求めている。
「……ヘンゼルは……分からない、あの魔女があの子を狂わせたの……傷付けて、心を粉々にして……あの子、取り乱してどこかへ行っちゃった。」
グレーテルはおもむろに膝を抱えて、その平べったい頂きに頬を引っ付けながらに答えた。僅かに伏せられた瞼の下の瞳は憔悴の色を浮かべており、しかしともすればまた潤み出して涙がこぼれてしまいそうな憂鬱な有り様であった。
「……わたし、反省のためにここに居たから、どこに居るかは分からないよ。
それにヘンゼルはあの開かずの間の話をしたくなくなっちゃったし……聞きたくても、結構頑張らないと大変だと思うよ……エーナクラスの子だったら違うかもしれないけど。
……探しに行かないと、なのかなぁ……ヘンゼルに会ったら、また状況が悪くなりそうで……わたしが余計なことしそうで、こわいよ。」
グレーテルは自身もまたヘンゼルを探した方がいいことを理解しているようだが、それでも渋っているようだ。
「………」
グレーテルの暗い声に、ブラザーはハッとした。焦りに己の役目を忘れ、1人で突き進もうとするとは。兄として、なんということか。
深呼吸、ひとつ。甘い夢で塗り潰せない違和感も、今だけは忘れよう。大丈夫、忘れるのは得意でしょう?
「……グレーテル、大丈夫だよ。
君がヘンゼルのことを大切に想っていること、僕からも伝えてみるね。大丈夫、おにいちゃんに任せて」
その場にしゃがんで、グレーテルを真っ直ぐと見つめた。取り乱していた数秒前とは違い、今度は出会った頃と同じような兄の微笑みを浮かべている。やっぱり“おにいちゃん”と付け足すのは変わらないが、それでも、グレーテルを心から安心させようとしているのは本当だ。伝わるか伝わらないか、は関係ない。兄がすべきことなんて、最初から決まっている。決まっていたのだ。
「教えてほしいんだけど、君の言う魔女って誰のことなの?」
最後に首を傾けて、なんてことないように聞いてみる。恨みの重さもあまり理解していないのは、仕方ない。
「……ほ、本当?」
今まで、自分とヘンゼルとの関係性の事を、クラスメイトは腫れ物に触るような……触らぬ神に祟りなしといった態度で、過干渉はしてこなかった。個人主義者が多いような印象を受けるデュオクラスではとりわけその傾向が強かったし、ヘンゼル自身も他人にあまり関わってほしくない性格設計をしていたから。
しかしグレーテルは、こうしてわかりやすく『味方をする』などと声を掛けてもらえたことはなく、一瞬呆けてから、少し俯いて小さくこくりと頷いた。
自分がやることなすこと、全てヘンゼルにとって悪影響となってしまう。その事実をグレーテルは痛いほど分かっていた。その結果がこの冷え切った姉弟関係なのだから。けれども彼は協力するといってくれている。グレーテルは何か変わるかもしれない、と縋るような気持ちで、「お、おねがい……」と小さく呟いた。
「ヘンゼルをどうにかしてくれるなら、お、おねがい。わたし……これであの魔女に集中出来る。
あの、魔女。ヘンゼルを狂わせた……許せない悪魔。──ソフィア! 絶対に許さない、あの女……殺してやる、殺してやる……!!!」
グレーテルはその名を口にした途端、頭が沸騰したかのように顔を赤くして、頭を掻きむしって怨念の塊のような瞳を濁らせた。相当に根強い因縁なのだということは見るに明らかだろう。
「うん、ほんと───」
頷いてくれたグレーテルに、ブラザーは笑みを深めた。さらに安心させるように、強く頷いてみせる。
しかし、言葉は言いかけた途中で途切れた。
「わァ…………ぁ………」
魔女。悪魔。許さない。殺してやる。
その相手が、まさか妹のソフィアだったとは。
ブラザーはなんとも言えない声を零し、難しい顔をする。随分と恨み深そうだが、ソフィアは何をしてしまったのだろうか。兄としては、妹同士の仲が悪いのは悲しくなってしまう。出来れば仲直りしてほしいが、この様子だとグレーテルからは難しそうだ。
まずソフィアに事情を聞いてから、グレーテルの元を再び訪れるべきだろう。ブラザーはそう判断し、肩を竦めながら話題を変える。
「うーんと……あ、そうだ。
これ、君のノートだよね? 備品室に置いてあったんだ、どうぞ」
グレーテルの名前が書いてあったノートを差し出す。にこにこ、怨念なんて何も無かったように。
グレーテルは憎悪と憤慨に顔を赤く染めていたが、あなたがたじろいでいる姿にハッと我に変えると、すぐに頭を掻き乱していた手を下ろした。先ほどの歪み切った顔は形を潜め、今は正反対の真っ青に青褪めた顔に変化している。
「……ぁ、ありが、とう。……ち、ちょっとの間置いてたんだけど、忘れちゃってた、みたい……本当、デュオを名乗るのも恥ずかしいぐらい、で、出来が悪くて……嫌になるな……」
あなたが手渡したノートは、グレーテルのもので間違いなかったらしい。ノートを感謝しつつ受け取ると、それを胸に抱えてため息を吐き出した。
「……ブラザー、さん。わたし、そろそろ行く、ね。話を聞いてくれて……親切にしてくれて、あ、ありがとう。……ヘンゼルの、こと、ご迷惑じゃなければ、一緒に考えてくれると……う、嬉しい。」
グレーテルは未だ顔色は悪かったが、泣きじゃくっていた頃よりは幾らかマシになった表情で立ち上がる。スカートの裾を叩いてからノートを抱え直すと、あなたに一礼をして、呼び止められなければそのまま備品室を去るだろう。
グレーテルの卑下に「そんなことないよ」なんて返しながら、ブラザーは立ち上がった。そろそろヘンゼルとやらを探しに行こうと思っていたが、どうやら相手も同じくだったらしい。立ち上がるグレーテルの方に視線をやる。
「うん、また。僕はよくガーデンテラスにいるから、何かあったら会いに来て。
いつでも頼ってくれていいからいいからね」
にっこりと甘く微笑んで、軽く手を振ってみせる。頼ってくれたことが嬉しくて、その顔に涙が零れていないことが嬉しくて。グレーテルは気づかないかもしれないが、ブラザーの声は僅かに弾んでいた。兄という生き物は、頼られれば嬉しいのだ。
……グレーテルの例に笑みを返してから、ブラザーも部屋を出る。例のヘンゼルとやらを探しに行こう。
デュオクラスであれば講義室にいるのではないか、と思ったが、取り乱して出ていってしまったとのこと。であればいっそ、講義室から遠い部屋?
ブラザーはそんなことを考えながら、備品室を出た。
学園一階、複数の控え室へ続く扉がある広間。そこはドールズによってロビーと呼ばれている空間であった。
各寮のエレベーターホールから出た後の合流地点でもあるので、ドール同士の待ち合わせの場や、単に休憩所としても使われることが多く、現に今も設置された円形のベンチや、ロビーの片隅で複数のドールが談笑しているのが窺えた。
床も壁も、赤いカーペットと壁紙によって敷き詰められており、薄暗い照明も相待って、明るい陽光が降り注ぐ寮周辺と違ってやや暗い印象を受ける空間である。
等間隔に赤い花を生けた花瓶が並べられており、インテリアは執拗なまでに赤で統一していることが分かる。
ロビーの正面には掲示板が設置されており、日々のドールズの成績はこちらに掲載されることになっている。
あなたはその掲示板の正面に立つ、見覚えのある赤毛の少年ドールを見掛けるだろう。先ほど遭遇したグレーテルと全く同じ、緋色の短髪の少年だ。彼は忌々しげに掲示板を睨んでいたかと思えば、踵を返してデュオクラスの寮へ続くエレベーターホールへ向かおうとしてしまう。
「───!」
荘厳な雰囲気を漂わせるロビー。ブラザーはその空気を吸い込みながら、足早に歩いている。目的は控え室だが、念の為に首を左右に振っていれば、見覚えのある赤毛が視界に入った。
瞳を瞬かせ、ブラザーはそちらに向け歩き出す。何やら不機嫌そうな面持ちを不安に思っていれば、相手も動き出してしまった。
「ヘンゼル!」
慌てて名前を呼び、小走りで相手に近づく。波のように揺れる白髪に甘い紫の双眼を持つ奇妙なドールが、貴方を初対面にも呼び捨てにした。
眉間に深い皺を刻み、剣呑な表情を浮かべて何とも近寄り難い風態を醸していたヘンゼルは、それでも高らかに美しい声で呼び止められ、反射的に足を止めた。振り返った少年は、凄みのある不機嫌極まりない表情であなたを一つ睥睨し、低い声で威嚇するように。
「──は?」
と一音、吐き捨てた。ただこれだけで彼の不条理な虫の居所の悪さは察せられるであろうし、彼が他者を歓迎していないことは見るに明らかだ。
「お前、誰だよ。何で俺の名前を知ってる? 気持ち悪いな……」
初対面であるはずのあなたを前に、ヘンゼルは訝しむように問う。数歩後ずさって距離を取ろうとしながら。
「や、やぁ……はあっ、こんにちは……おにい、ちゃんだよ……」
なんという体力。少しの距離を小走りしただけでブラザーは息を切らし、ぜえぜえと意味のわからない挨拶をした。トゥリアというのは、こういうとき不便である。
息を整えるために深呼吸をしてから、ヘンゼルであろう少年を見つめた。気の強そうなラズベリーの瞳。グレーテルとは対照的だが、あの子もこんな目をした時があった。間違いなく、彼がヘンゼルだろう。
「僕はブラザー。
さっきグレーテルが泣いているところを見かけてね、話を聞いていたんだ。君を傷つけてしまった、って言ってたよ」
にっこり、人当たりの良さそうな微笑を浮かべる。敵意がないことを証明するように笑ってから、名前と経緯を説明しておいた。本題はコレではないが、これも本題と同じくらい大事な話題だ。下の子たちが喧嘩しているのは、兄も悲しいのだから。
「……君のところに来たのは、君と話がしたいからなんだ。少しでいいから、僕に着いてきてくれないか」
一呼吸置いて、ブラザーは口を開く。視線だけで辺りを確認する仕草は、周りに知られたくない話をするためだと貴方は気づくかもしれない。
荒く呼吸を乱しながら、何が故か“おにいちゃん”を名乗りながらやってくる、なぜか自分の名を知っている初対面の見知らぬ男。
それだけでヘンゼルは関わらない方がいい類いの手合いだと察し、分かりやすく無視をして、赤毛の毛先を靡かせて踵を返そうとした。
だがグレーテル、とあなたの口からその名が溢れると、ヘンゼルはピタ、と足を止めた。教材を片手に抱えたまま、あなたに背を向けたまま。
「……あの愚図…余計なことを漏らしやがったな、クソ……」
と、なんとも忌々しそうに、黒い声で呪いの言葉を吐き出した。この低く震えた一言だけで、いかに彼らの姉弟間が冷え切っているかが明るみとなるだろう。ヘンゼルはグレーテルを心底疎んでおり、その名を聞くだけで虫唾が走るといった様子だ。
しかし流石に話を聞いたというあなたを無視することは出来なかったらしく、静かに革靴の神経質な音を響かせながらあなたに向き直った。まだ幾らか距離は離れているが。
「お前の話を聞いて俺に何かメリットがあるのか? 俺は一分一秒も無駄に出来ないんだよ、変質者に割く時間なんかないね」
「……君のこと、あの子は心から愛してるよ」
冷めた言葉を吐くヘンゼルには、聞こえなかったかもしれない。ブラザーは眉尻を下げ、甘いテノールで囁いた。
兄として、こう思われるグレーテルにはなにか思うところがあったのだろう。けれど、ブラザーには今ここで何を言うべきなのかが分からない。エーナであれば、もっと違うことが言えたのだろうか。トゥリアというのは、こういうときも不便なようだ。
……いつまでも落ち込んではいられない。
向き直ってくれたヘンゼルにこちらも姿勢を正す。真面目な話をします、という態度になったが、変質者と言われればぱちりと瞳を瞬かせた。
「変質者じゃなくて、おにいちゃんだよ」
いつもの。
「ああいや、えっと……。
……君が満足するメリットかは分からない。けど、僕はもしかしたら……君が見た“怪物”と同じものを、見たかもしれない」
さて、真面目な話に戻ろう。
ブラザーは首を左右に振り、本題に入る。優しさだけで話を聞いてくれるわけではない、とは予想していたが、提示するメリットまでは用意していなかった。濡れたように輝くアメジストを伏せ、声を潜める。けれどすぐに視線をあげて、ハッキリとブラザーは予想を口にした。
「これは可能性だ。けど、確かめたい。
……協力してほしいんだ。君に」
「ハ、どうだか。どちらにせよ、アイツに足を引っ張られすぎてこっちはもうウンザリしてきてるんだ。双子として設計されたって言うなら、アイツもいい加減に俺にウンザリして欲しいもんだな。」
グレーテルとの仲を取り持つようなあなたの細やかな発言に、ヘンゼルは鼻で笑いながら一蹴する。相当に確執は根深いのだろう、ヘンゼルにはグレーテルを受け入れるような素振りが全く見られなかった。
あくまで『お兄ちゃん』を主張するあなたを、生ゴミを見下すような冷め切った目付きで睨みながら「は?」と一言。これが変質者でなくて何と言うのか? と言わんばかりの目で彼はまた一歩後ずさろうとする。
が。
「……待て。お前……怪物を見ただって? ……いや、覚えがある。前に俺に同じように話を聞きに来ただろ、開かずの間のこと。
その報告でもしたいってことか?」
あなたの言葉に目の色を変えると、ヘンゼルはふっと顔を上げて、あなたを凝視しはじめた。
「……場所を変えよう。
君だって、この話を大勢の前でしたくないんじゃない?」
にっこり。
ブラザーは甘く蕩けるような微笑みを浮かべた。声も纏う雰囲気も、依然として穏やかなままだ。けれど、ブラザーはヘンゼルの問いに少しも答えていない。餌だけ見せて、貴方の手を引こうとしている。
ブラザーには考えがあった。
ヘンゼルは怪物のことを信じてもらえず傷ついたと、グレーテルから聞いている。まだ2人には出会ったばかりだが、グレーテルにとってヘンゼルが大切な存在であるということはよく分かった。そのグレーテルが言うのだから、ヘンゼルはあの時、深く傷ついたのだろう。
なら、話はきっと簡単だ。
「僕は信じるよ、ヘンゼル。
君のことを」
ブラザーは柔らかい手を、ヘンゼルの手に伸ばす。トゥリアドールの温もりと、弟への愛情。どちらも本物だ。ただ、ブラザーが、ヘンゼル以外も愛しているというだけの話。
……特に抵抗がなければヘンゼルの手首を掴み、ブラザーはデュオドールの控え室へ連れて行こうとするだろう。
「…………」
ヘンゼルは未だに剣呑な面持ちではあったが、先程のように取り尽く島も無く立ち去ろうとするそぶりは見せなかった。あなたを怪訝な目付きでじっとりと見据えたまま、しかし、伸ばされた手を前にして自身の眉間に手を添えて、溜息を吐きながら首を横に振る。
「もう訳の分からない怪物の話は懲り懲りだ。これが最後だぞ」
──と。
ヘンゼルはあなたの手を粗雑に振り払いながらも、その背に従って同じようにデュオドール専用の控え室に向かうことだろう。
控え室は、あなたが目にしてきたトゥリアドールの控え室の作りとそう変わらない。大きなウォークインクローゼットが部屋の奥に存在し、色とりどりのドレスやタキシードなどの正装がハンガーに掛けられて並んでいる。化粧台が三つほど並んでおり、あなた方はこの場所でお披露目の支度を入念に整えるのだ。
控え室の右手側には、エーナドールの控え室に続く扉がある。ダンスホールへ続く扉があるのはあちらである。
ヘンゼルは入室すると、適当な椅子の一つに乱暴に腰掛け、長い足を組んであなたを見据える。
「それで? この場所に連れ込んでお前は何の話をしたかった? くだらない話だったら帰るからな」
「……まず、開かずの扉の話を最初から聞かせてほしいな」
扉を閉めて、あるのなら鍵を閉める。なければ適当な椅子で、他の人が入るのを防ごうとするはずだ。
ブラザーはそれから振り向いて、ヘンゼルに向き直る。落ち着いた声は、どこか緊張感すら漂っていた。
「本題に行く前の確認さ。お願い、ヘンゼル」
扉の近くに立ったまま、ブラザーは軽く息を吸う。深く吐いて、心を落ち着かせて。伏せていた甘いアメジストを、ゆっくりと持ち上げる。ヘンゼルをその妖しい両目に映す。
……何度思い返しても、ブラザーには怪物の話なんて聞いた覚えはない。しかし、ここで記憶の話なんてしても話がこじれるだけだろう。まずは話を聞いてみて、なにか思い出すこともあるか探すつもりだ。
控え室は更衣室の側面を持つため、内側からの施錠も可能ではあるようだ。あなたは問題なく鍵を掛けることが出来るだろう。
ヘンゼルは苛立ちが尾を引いたまま、神経質に床に靴を当ててタンタン、と断続的な音を立てていたものの。初めから説明を求めるあなたの言葉に顔を上げ、大きくわざとらしく溜息を吐いた。
「はぁ? 一度話した事をもう一回話せって?
デュオのように完璧な記憶能力は備わってなくとも、その程度もろくに覚えていられないのか、トゥリアモデルは! それともお前が欠陥品の役立たずというだけか?」
呆れたように少しばかり声量を張って、怒鳴るような声色で問うヘンゼル。
どうやら彼が言うには、以前にも同じ話をあなたにしたと言うらしいが──当然ながら、あなたにそんな記憶はない。ヘンゼルとも初対面であることは確かだ。故に認識の齟齬が起きていることにも容易に気付けるだろう。
しかし確認の為と念を押すあなたを見て、諦めたように肩を竦めると、彼は口を開いた。
「……あの日。俺は学園に残ることが出来る限界──夜19時に差し掛かるまで講義室に残って調べ物をしていた。鐘の音を聞いて、急いで寮に戻ろうとしていた訳だが。
そこで『あの怪物』が……ギリギリと言う異音を立てながら、合唱室前の階段を登っていくところを目撃した。 二階と三階の間にある開かずの扉に向かっていったんだ。
それは虫みたいな特徴を持った、大きな化け物だった。でも、間接部位が擦れるギイギイという金属音もしたから……多分あれは『ガワ』だと思う。内側に誰かいるんだ。
何のためにガワを被ってるのかは分からないが、碌な理由じゃないのは確かだな。
その時、怪物は蓄音機に当てるレコードに似た円盤状のがらくらを落としていった。以前、お前達にも見せた筈だが、今はもう手放したから手元にはない」
滔々と語るヘンゼルは、同じ話を何度もしすぎてうんざりしているように見えた。
それでも知りうる事を全て話すと、胡乱げな眼差しをまたあなたへ向ける。
「確認はこれで充分だろ。それで? 開かずの扉の向こうに行ったのか?」
「………」
ブラザーは諦めたように、ヘンゼルから目を逸らした。欠陥品の役立たず。自分だけが“そう”であったのなら、どれほど良かったか。この話を覚えていないのは、愛すべき“妹”であるミュゲイアも同じなのだ。これほど衝撃的な話を、デュオでないからといって忘れられるはずがない。
怪物。合唱室前の階段。内側に誰か。円盤状のがらくた。
……どれも、心当たりがない。
「…………少し、待ってね」
ブラザーはできるだけ自然に、微笑んだ。敵を作らない、トゥリアの笑みだ。しかし、ヘンゼルに効果があるかは分からない。おしゃべりなおにいちゃんにしては珍しく、今の彼はあまりにも無口だったから。
……今から何が起こるのか、彼には少しだけ予想できる気がしていた。
あなたはヘンゼルが語ったはずだという、記憶にない開かずの扉について思い出してみようと試みる。
ミュゲイアと共に手を取り合って学園へと走ったあの日。
ミュゲイアが見たと証言する赤い輝き。
無関係とは思えない、しかし支離滅裂な情報の断片を繋ぎ合わせるように、抜け落ちていると思しき記憶を取り戻そうとして──
ギッ、と嫌な音がして。
あなたはその瞬間、頭を撃ち抜かれたかのような強い激痛に見舞われる。
それは掘り起こしてはいけない記憶だ。そうあなたの脳が警鐘を鳴らしているかのような、命の危険すら覚える致命的な痛みである。
あなたはその衝撃に立っていることさえ耐え難く、その場に膝をついてしまうだろう。
椅子に座していたヘンゼルは、流石に動揺したように居を崩して、瞳孔を開きながらあなたを凝視している。
「……おい、何だ、」
彼は狼狽えたように声を出す。半ば席から立ち上がり、蹲っているであろうあなたを見下ろしている。
地獄の苦しみは数分にわたってあなたを苛んだ。しかして何か記憶を掘り起こせたとは言い難く、神経が軋む痛みが尾を引いている。
ただあなたは、怪我などしていないはずの“自身の腕が異様に切り詰めたように痛む”のをただ知覚していた。
「ぁ、がッ……!!」
ほら、やっぱり。
のたうち回るような痛みとは反対に、ブラザーの脳内は冷えていた。
恐らく、これは思い出してはいけない記憶。
誰かが思い出せないようにしたのか、或いは自分で防衛しているのか。正体も原因も分からないが、少なくとも、ブラザーは自分が開かずの扉について何かしら記憶しているということだけは、これで確定したというわけだ。自分はそこで、何を見たのだろうか。ヘンゼルの言う、怪物なのだろうか。
もっと、なにか。
恐ろしい、おぞましい、何かを見たような気がする。
「ぐ、ぅ゙……ッ!! ぎッ……」
その場に蹲り、例の頭痛に頭を抑える。緩やかに波立つ髪が床について、脂汗がぼたぼたと垂れた。前よりも頭痛が長い気がして、下唇を噛みそうになるのをぐっと堪える。ここまでの激痛を味わっても尚、ブラザーは自分のドールとしての質を保とうとしていた。
それはきっと、開かずの扉への無自覚の恐怖。“お披露目”という夢に縋ることしか、欠陥品にはできない。
「は、ぁ゙ッ……はあ、ッ、はあッ……!」
痛みがゆっくりと引いていく。
ブラザーは息を整えようと酷く乱暴に深呼吸をして、咳き込みそうになりながらも冷静さを取り戻そうとする。身に覚えのない腕の痛みに顔を顰めつつも、壁に手をついて立ち上がった。
「っ、はぁ……ごめん、急に、頭痛がして……。開かずの扉について思い出そうとしたんだけど、ちょっと、難しいみたい……ごめんね……。
……ヘンゼル、円盤状の何かを誰に渡したか教えてくれないか」
へらりと力無く笑って見せて、ブラザーは制服の袖口で汗を拭う。途切れ途切れに言葉を紡ぎながら、ヘンゼルを見上げた。安心させるように笑いかけるが、汗でへばりついた髪はあまりにも悲壮感が漂っている。
しかし、ブラザーはヘンゼルに聞かなければならない。記憶の奥に眠る何かについて、知らなければならない。
共に暮らす、“妹”のために。
「は……? 難しいどころの話じゃないだろ、尋常じゃなかったぞ、何なんだよ、今の異常な苦しみよう……『心的外傷』……?」
椅子から立ち上がった姿勢でヘンゼルは呆気に取られていた。あなたがどうにか言葉を発せられる程度まで回復しても、未だに苦悶を引きずっているかのような、冷や汗が伝うその美しい壮絶な相貌に、ヘンゼルの表情も引き攣っている。
「怪物を目撃して、ショックのあまり記憶を飛ばしたか? はっ……だったらお笑い種だけどな」
しかし少しずつ痛みは引いているらしい。その様子を確認すると、ヘンゼルは案ずる言葉を述べるでもなく失笑を浮かべ、腕を組んで他所を向いた。
「レコードみたいながらくたは……アイツ……オミクロンクラスの欠陥ドールの女に渡した。開かずの扉と怪物を追ってるとか言っていたからな、……お前達と同じように。
ウィスタリアの紫髪の女だよ。多分……あの感じはエーナモデルだと思う。これで満足か?」
ヘンゼルの予想に、ブラザーは曖昧に笑うことしか出来ない。しかし、自分が記憶を無くすほど弱い人形だというのは、もう嫌になるくらい実感していた。
姿勢を直して、ヘンゼルに向き直す。さっきは顔を引き攣らせてしまったが、もう大丈夫だろうか。嫌な思い出にさせたら嫌だな、なんて呑気なことを考えながら、ブラザーは頷いた。
「フェリシアだね。良かった、同じクラスだ」
……さて、ヘンゼルはここで、トゥリアクラスだと思っていた相手がオミクロンのジャンク品だったことを知るわけである。ブラザーとしては特に言う必要がないから言っていなかっただけだが、中々に重大事実だろう。
「教えてくれてありがとう、ヘンゼル。必ずお礼に行くよ」
ブラザーはそんなこと一切気にせずに、にっこりと微笑んだ。かなり痛みも引いてきたようで、その顔はすっかり出会った頃と同じように戻っている。前髪を軽く手でとかしてから、軽く手を振ってみせた。きっと断ったところで、ブラザーは貴方のいる講義室にきっとやって来る。手土産なんかをニコニコ持ちながら。
だが、それはまた別のお話。
ブラザーはなんの邪気もない顔でにこやかに礼を告げ、そのまま部屋を出ていくだろう。今日の日課を終わらせに、今度はガーデンテラスへ向かった。
「同じクラス……はあ!? お前、やっぱり欠陥品だったのかよ……! クソ、関わるんじゃなかった…!!」
涼しい“兄”の顔を貼り付けて悠々と立ち去るあなたの背に、お手本のような愕然とする声が届くだろう。しかしその時にはもう遅く、デュオドールズの控え室の扉はまもなくあなたの背後で閉まっていった。
二度と来るな、と悪態をつく言葉を最後に。
あなたは今日も燦々と眩い陽光が照り付けるガーデンテラスへ訪れる。ラプンツェルが残した花壇は、あなたの日々の世話もあってか今日も瑞々しく爛漫に咲き誇っていた。
それらを横目に歩いていくと、一番奥の人気の少ないガーデンテーブルに、見慣れた顔が腰掛けているのが見えてくるはずだ。
《Sophia》
「……ブラザー?」
カンパネラと何やら会話を交わしていたらしきソフィアは、なめらかな銀糸としっとりとした紫の瞳を持つ美青年──ブラザーへと不意に視線を向けた。
椅子がかたん、と小さな音を鳴らす。立ち上がったソフィアは、普段通りのきびきびとした動作で、ブラザーの方へと歩み寄って行くだろう。彼女達がどんな会話をしていたかは、彼女達のみ知り得ない事で。内容の予測を立てる事など不可能だが、ソフィアのつんと凛々しい表情から、悪い話をしていた訳では無い……と言うふうにでも思いつくだろう。
「こんな所で会うなんて奇遇ね。どうしたの?」
「ソフィアにカンパネラ。二人がここに居るなんて珍しいね」
ブラザーは踊るように軽い足取りでここへやってきた。ヘンゼルとの会話を経て、考えたくないことばかりだったから。この部屋だけでは、重苦しいことは考えたくなかったのだ。つまり、現実逃避である。
故にブラザーは機嫌が良く、2人の姿を見つければ嬉しそうに顔を綻ばせた。あまり見かけない2人組だが、お茶でもしているのだろうか。妹たちが仲良しで嬉しいなぁ、なんて勝手に浮かれて、ブラザーは軽く手を振ってみせた。
「ここの花壇のお世話をしているんだ。
ふふ、弟から任されていてね」
嫋やかに微笑んで、ブラザーは近くに置かれたジョウロを手に取る。世話している花壇に視線をやり、それからソフィアのことを見た。和やかな談笑。それ以上でも、それ以下でもない。
《Sophia》
……………弟……。ソフィアは静かに額を押さえた。何でもかんでも妹弟にするなだとか文句を付けてやるべきかと悶々と悩み果てた末、一旦ノーコメントを通すことにした。この時のソフィアは随分と疲弊したようであった為、無理もないだろう。
「弟………………………はあ、まあいいわ。花壇の世話を任されるだなんて、随分仲が良かったのね。どんな子?」
彼の言葉を信じるならば、良好な関係を築いていたようだし、『弟』と呼ばれた人物もそれを嫌がる事はしなかったのだろう。と推測しきったところで、額から手を離した。クラスメートに花壇の世話を甲斐甲斐しく行うようなドールは居なかっただろうし、彼の弟とは他クラスなのだろうか。己の記憶では、やはり他クラスのドールは総じてオミクロンを冷遇する物であるという印象が強く、ブラザーと仲の良かったのであろうドールに良い方向での興味を抱く。故に、この質問は単なる好奇心であった。
それが、えずくような罪悪感を呼び覚ますものだとも知らずに。
少し先の未来を知らぬソフィアは、口元で緩やかな弧を描いたまま「手伝うわよ」なんて言いながら、余りのジョウロを手に取る。
「ラプンツェルっていう、トゥリアの子だよ。花が大好きで、のんびり屋さんな子でね」
ジョウロを手にするソフィアに微笑んで例を言えば、ブラザーは花に水をまき始めた。ソフィアの悶々とした悩みなど露知らず、兄は妹とのお喋りに夢中である。しかも、その内容が弟のことなら尚更だ。
爽やかな朝、ここでラプンツェルに出会った日のことを思い出す。コゼットドロップを渡したときの、あの笑顔。自然と表情は綻び、兄は深い親愛の笑みを浮かべている。
「ふふふ、ラプンツェルは前のお披露目に選ばれたんだ。
あの子、いま何してるのかなぁ」
それから、少し得意気に。
爛漫と咲く花々を見つめたまま、ブラザーは楽しそうに語る。「きっと向こうでも、花壇のお世話をしてるんだろうね」なんて、冗談みたいに付け足した。
ブラザーは何も知らない。
開かずの扉により箱庭への懐疑は生まれても、お披露目という夢は疑わない。疑うはずがない。
兄は、弟の幸せを信じている。
《Sophia》
花が大好きで、のんびり屋。ニコニコと、機嫌の良さそうな柔らかな声色のそんな話を、ソフィアも穏やかな気分で聞いていた。花びらが濡らされて、露がきらめいて。そんな美しい光景を楽しめたのは、一瞬のことだった。
「……………っえ、」
ガシャン。取り落とされたブリキのジョウロは、中身の水をそこらに散らしながら自重で地に叩きつけられる。
油断していた。疲弊しきった心を押し殺して、気取られぬ様に浮かべていた穏やかな笑顔は、たった今この瞬間に全て壊れてしまった。
『前のお披露目』。その短い単語は、ソフィアの心を壊すには充分すぎたのだ。花が好きな、……『弟』と言うことは少年モデルだろう。ぐるぐると、あの日の光景が頭で巡る。
お披露目では、浮き足立ったドールばかりだった。けれど確か、一人だけ浮かない顔をした、若草色の髪の少年ドールが居たはずだ。彼は、何やら花を探していたらしい様子で。そうして、最後に呟いた。
『ごめんね、ブラザー』、と。
「………………あ、……ねえ、あの……その子、若草色の髪の毛だった…?」
震える声、絶望に濁った瞳。先程までの様子とは変わり果てたソフィアの表情に、思考に異常のあるドールでもなければ、きっと一体どうしたのだろうかなんて疑問は直ぐに生まれるだろう。
ジョウロが落ちる。
重い音と共に水が撒かれて、2人の靴を濡らした。澄んだ空から降り注ぐ光が、濡れた靴を照らしていく。花はたっぷりの水を受けて輝き、ガーデンテラスを彩っていた。他のドールたちの笑い声が響き、紅茶の匂いが辺りには漂っている。
ここは幸福の庭。ブラザーにとって思い出深く、愛おしい記憶の場所。
「ソフィア?」
……ブラザーは水をかける手を止めて、ジョウロを落としたソフィアの方を見た。凛とした彼女にしては珍しい、弱々しい表情。ブラザーは妹の異変に気づき、足元にジョウロを置いた。ソフィアの元に一歩近づいて、奇妙に濁る瞳を見つめる。彼女が口を開いたのは、そのときだった。
「え……うん、そうだよ。知り合いだったの?
……もしかして、喧嘩でもしちゃったのかな?」
呑気に。
何も知らない兄は、落ち着かせるように微笑んでいる。話なら聞くよ、とでも言いたげにソフィアを見つめていた。
悪魔の巣窟を見たソフィアと違って、まだブラザーの瞳には希望がある。甘く揺らめくアメジストは美しく、なんの濁りも持っていない。
「おにいちゃんに、話してごらん」
心の奥の、ずっとずっと柔らかいところ。穏やかな声が、貴女をつついている。
《Sophia》
「あ、あ……………………………」
『そうだよ』。柔らかな声色の肯定を聞いた、顔面蒼白のソフィアは、もはや言葉になってすらいないうめき声を上げた。ぐるぐると渦を描く瞳からは、冷静さの一切が失せている。それは色濃い絶望か、或いは恐怖か、罪悪感か。ともかく仄暗い感情が渦を描いているのは間違いなかった。
けれど、ソフィアは語らない。顔を覆い隠すように手で抑え、ふるふると首を横に振った。その動きは必死に、ただ必死に。まるで取り憑いた何かを払うかのように。
「…………なん、なんでもない……なんでもないわ。大丈夫、なんでもない。た、たまたま話した事があっただけ……あーそれより、ごめんなさい、靴濡れたわよね。あー……まだ水やりも終わってないし……急がないと、よね、あはは…」
震えて強ばった手先で、先程落としたジョウロを拾い上げる。鈴の音のようなその声に、柔く脆い心の奥底を刺激されて。ソフィアはさらに殻を固くしてしまったようだ。
「……ソフィア」
血色の悪い、小さな顔。
聡明かつ明朗快活なソフィアでは聞たことの無い、今にも壊れてしまいそうなか細い声。
彼女の背丈よりもずっとずっと大きな影が彼女を飲み込んでしまいそうな気がして、ブラザーは更に足を動かした。ソフィアの近くで、片膝を着きしゃがむ。ジョウロを拾おうと伸ばした手を、そっと取った。きっと氷のように冷たくなってしまったであろう指先に、温もりを分けるようにぎゅうと握る。優しく、けれど力強く。ブラザーは顔を上げて、ソフィアを見上げた。煌めく紫の双眼に、小さな少女モデルのドールが映る。
ブラザーは知っていた。
ツンとすました顔で顔を背けてしまう彼女が、まだずっと幼いということを。
だって、ブラザーはソフィアの兄なのだから。
「おにいちゃんはいつでも、君の味方だよ。
何があっても、ソフィアのことを守ってあげる」
真っ直ぐ、その顔を見つめる。ぱちりと瞳がひとつ瞬けば、ふんわりいつものように微笑んだ。
自然と手を握る力が強くなる。きっと振り払おうとも、ブラザーは貴女の手を離さない。力の差で負けてしまっても、絶対にまた掴もうとするはずだ。例え何があっても、その手を離すことはない。
何度だって、ソフィアに言おう。
君の兄は、君の味方だと。
《Sophia》
「〜〜〜〜〜ッッ…………」
ブラザーは、見逃さないだろう。ソフィアの大粒のアクアマリンが光を吸い込んで、宝石のしずくをこぼすのを。
〝兄〟の優しい声に、言葉に共鳴するように、そのしずくはきらめいて、ぽつぽつと地面を濡らした。なにかと気負いすぎるきらいのあるソフィアにとって、守られる側となるのは慣れない暖かみであったようで、小さな身体に見合わない不格好な『年長者の矜恃』は容易く溶けてしまったらしい。
「…………ッ、ごめ、んなさ……ごめんなさい、違う、違うの………あたし、味方なんてされて良いわけない………」
幼子は、すすり泣く。優しく、強く握られた手を離さず、こちらも握り返したまま、もう片方の手で必死に涙を拭いながら。
鼻を鳴らしながら、ソフィアは顔を上げる。ブラザーの柔らかく輝くマリアライトと視線が合った。
「………………ブラザー、あのね。きっとこれを話したら、あなたはあたしを憎んで、軽蔑する。それも、仕方ないと思ってるの。……でも、それでも聞いて──協力して欲しい。
……お話、聞いてくれる?」
「……うん、もちろん」
にっこり、と。
話す気になってくれたらしいソフィアの様子に、自分は力になれたのだと安堵する。ブラザーは依然として微笑んで、ソフィアの手を軽く撫でた。
トゥリアモデルで良かった。
この温もりを分けられて、良かった。
「少し座ろうか。おいで」
まだ何も知らないブラザーは、ソフィアの手を引いて立ち上がる。膝についた埃を軽く手で払って、近くの椅子まで歩き出した。拒まれなければ、その手を握ったままソフィアを椅子に連れていくだろう。彼女を椅子に座らせてから、ようやく手を離して自分も近くに座るはずだ。
それから視線で、彼女に話し始めを促すだろう。
《Sophia》
「……その、ええと……取り乱して悪かったわ。あと、あたしはあんたの妹でもないから。勘違いしないでよね……」
大人しく座らされたソフィアは、少し息をついてから、本題に入る前に気まずそうにぽつぽつと呟いた。なけなしのプライドを護るように、顔を逸らしながらのその言葉は、最早ブラザーにとっては聞き慣れた言葉だろう。
そして、もう一度覚悟を決めるように息を吐いて。ブラザーに向き直り、口を開く。
「……あのね。あたし達……元プリマドールだった皆で、お披露目の正体を見に行ったの。前々から準備して、計画を練って。夜中にベッドを抜け出して。
……それで、分かった。お披露目に救いなんてなかった。アレは、地獄でしかなかった。」
途中、言葉を詰まらせながら。痛々しい表情だった。言葉に一区切りをつけたソフィアは、途中伏せていた視線を、再びちらりとブラザーの顔へと向けた。
同じように椅子に座って、ソフィアの言葉にニコニコ笑う。ブラザーは相変わらず照れ隠しとしか思っておらず、妹を愛でるような温かい視線を向けていた。それは、ソフィアが重い口を開いたときも変わらない。夜中に抜け出したと聞いたときは少し驚いたが、その先に続く言葉の方がもっと衝撃的だったのだろう。変わったのは、彼女がお披露目を地獄だと言ったその瞬間だった。
「……どういうこと?」
まだブラザーの声は柔らかい。多くのドールにとって夢であるお披露目をそんなふうに言われても、怒りの表情ひとつ浮かべなかった。あるのは困惑だけ。何故ソフィアがそんなことを言うのか分からないから。
ミシェラとラプンツェルの顔が浮かぶ。嫌に空気が重たくなった気がして、おもむろに前髪を触った。
その先は、聞きたくない。
自分でも理解できない警鐘を聞きながら、ブラザーはソフィアを見ている。
《Sophia》
穏やかであったその表情が、目の色が、明確に変わったのを見て。はた、とまつ毛を伏せた。お披露目が、多くのドールの光明であり、救いであり、目標であることをソフィアはよく理解している。……きっと、こんな話は聞きたくないだろう。そんなことは容易に想像ができた。
けれど。
「……お披露目は。ヒトに出逢う為の、輝かしい式典なんかじゃないの。あそこに、ヒトなんていなかった。
……いたのは、化け物だけ。
みんな……みんな、アイツに殺された。クモみたいで気持ち悪い、青い花を咲かせた化け物に。……若草色の髪の子は、一番最初に、頭から、た、食べられて…………、ッ、あたし、すぐに逃げた。何も出来なかった、何も出来なかったの………! 逃げなきゃ殺されてたとか、そんなのは言い訳、分かってる……あたし、あたしが、みんなのこと……あなたの弟のことを、見殺しにしたの………」
それは、すり潰すような声だった。激情によって歪む美麗な顔は、まるで誰かを憎んでいるようだった。ぐしゃり、と片手で自分の髪を掴んで、ぎちぎちと握る。自分を傷つけたいのだろうか。苦悶に滲むその声が、瞳が物語る。この話は、嘘なんかじゃないということを。
誰が話しているのか分からなかった。
なんの話をしているんだろう。
今、なにしてたっけ。
ソフィアが苦しそうな顔をしている。何とかしなきゃ。
おにいちゃんとして!
「……」
あれ、おかしいな。
声が出ない。なんでだろう。
あぁ、泣かないで。
ソフィア、大丈夫だよ。おにいちゃんが着いているからね。
大丈夫。きっと、きっとみんな何とかなるよ。童話みたいに素敵なハッピーエンドが待ってるよ。
大丈夫、大丈夫、大丈夫……。
「……、」
『ありがとう、ブラザー。ぼく、このお花、ずっと大切にするねぇ。絶対に種を採取してまた育てるよぉ。それで、きっと花が咲くたびにアカデミーや、きみのことを思い出すね』
殺された。化け物。最初。頭から。食べられて。
『ご主人様も、お花が大好きな人だったらいいのになぁ、えへへへ』
ヒトなんて、いなかった。
「は、は……ふふ、ソフィアったら、何言ってるの。そんな、そんなことあるわけないよ。
疲れてたんだね、怖い夢でも見たのかもしれない。大丈夫だよ、もうなんにも怖くないから。おにいちゃんが着いてるから。ね、ソフィア」
席を立った。
椅子から立ち上がって、髪を掴む手を両手で包もうとする。怖い夢を見た子供を安心させるように、そっと目を伏せて囁いた。
……ブラザーは、恋人用のドールである。おにいちゃんでも、兄でもなく、ただのトゥリアモデルだ。
だから、存在しないはずの記憶を見ても、疑うことすらせずにミュゲイアと笑い合える。何か幸せな出来事だったのだと、馬鹿げた夢に浸っていられる。
彼は、兄ではないから。
自分が、兄が、何をすべきか分からないから。
偽物の優しさだけを持って、薄っぺらい愛情を振りかざす。
ほら、今だって。同じように、ソフィアにも夢を見せようとしている。
《Sophia》
「ゆ、め……」
柔らかな指先に包まれて、手に籠った力は段々と抜けていく。荒い呼吸音も、ゆっくりと小さくなっていって。けれども、瞳は依然としてぐるぐると激情を描いたまま。亡霊でも見たかのような恐怖の表情は、凍りついてほどけない。それは、誰が何を言おうと紛れもない現実なのだから……。
……いや。或いは、夢だったやもしれない。そうであるべきだ。夜に抜け出すなんて無茶が成功するわけない。そんな方法はない。どうやって逃げ出したんだっけ? あの日、何を見たんだっけ? 全て、寂しさが見せた春先の幻影で、悪夢? そうあるべき、そうあるべきだ。
だってほら、夢なら。もう怖くない。こうして守ってくれる人が、手を握っていてくれる。ソフィア、きっとこの人は、あなたを、あたしを守ってくれる。頑張りすぎる必要なんて、怖いものと戦う必要なんてないよ。もういいよ、おやすみしましょう。すべてはあくむなんだから。
「……、ちがう」
そう、思えたら。
楽だったのに。
ソフィアは妹じゃない。そうあるべきじゃない。その証拠に、もう届かないあの小さな太陽の笑顔が、今でも脳を焦がすのだから。愛すべき仲間達の笑顔が、声が、姿が。いつでもソフィアを『ソフィア』として縛り付けるのだ。それは、今はまだ、呪縛ではないから。呪いと化す前に、戦わなければならない。
「……聞いて。ブラザー、これは夢じゃない。……残念ながらね。全部、本当のこと。このまま逃げちゃったら、また他のドールも犠牲になってしまう。いつまたオミクロンの子がお披露目に選ばれるかだってわからない。
あたしは、……あたしは大丈夫だから……だから、お願い。協力して、ブラザー。〝おにいちゃん〟なら、皆の事を助けるために手伝ってくれるでしょう?」
優しさを振り払う。これは、革命家としての選択。己の手に添えられていた手を取って、ブラザーの瞳をじっと見据えた。
手をとられる。
強く、凛とした瞳。ソフィアの、いつもの瞳だ。
ブラザーはこの瞳を、見つめ返せるだろうか。
美しく脆いだけの、ただのドールが。
「……ミシェラは」
口を開く。
これは時間稼ぎかもしれない。
「あの子は、どうなったの?」
ブラザーは知っている。
ソフィアはミシェラを可愛がっていたことを。妹たちが仲良く話しているのに微笑む彼が、それを知らないはずがない。
そんなミシェラが、この話にはまだ出ていないのだ。
ブラザーはソフィアの靴元に視線を落として、甘い声で聞いた。慰めるような声音だったかもしれない。未だに、夢を見ているかのような声音だったかもしれない。
《Sophia》
「……お披露目の出席者名簿の中に、ミシェラの名前はなかった。そして、会場にもミシェラはいなかったわ。あの子が今どこにいて、どうしているのかはわからない。……けど……」
その先を言い渋る。少し前ならば、『きっと生きている』なんていう根拠の無い希望的な言葉を無責任にも吐けたのだろう。が、ソフィアの頭に巡るのは、先程対話したドール──ドロシーの言葉。甘い夢に居たソフィアの目を覚ました、鋭い現実。
……その現実は、痛々しいものだ。刃のようなものだっただから、言いたくなかった。
ドールとして優秀であった、デュオドールのようにとは行かずとも聡明な頭脳を持ったブラザーならば、ソフィアが言い渋ったその続きが分かるやもしれない。
「……もしもミシェラが生きていたとしても。その特別が、これからもオミクロンの子に適用されるかはわからない。他のクラスの子と同じようにお披露目に出て、守れなかった子と同じ顛末を辿ってしまうかもしれない。あたし、そんなのは嫌なの。
……だから、戦いましょう。この家畜小屋から逃げましょう。あたし達みんな、このまま終わっていい訳がないもの。
“兄弟”、着いてきて。
大切な皆を守る為、あたしと一緒に戦って。」
たとえブラザーが光に耐えられずとも、それでもアクアマリンはブラザーを捉え、逃がしはしないだろう。その言葉は、誘いは、いっそ拷問だ。何よりも眩しい残酷さが、ブラザーの華奢な身体を呑もうとしている。けれどもきっと、あなたはおにいちゃんなのだから。妹や弟を護る為に生まれてきたんでしょう。選択肢など、あってないようなものでしょう。
「……僕は」
ブラザーは、なんだろう。
自分は、一体なんだろう。
致死量の砂糖に浸って目を閉じるほど、彼は幼くない。幼子のように無力であれど、家畜のように無知ではない。
彼は悩んでいた。
一度は思考の奥にしまいこんでも、滲み出る疑問は拭いきれない。自分が見たものがなんなのか、その先に何があったのか。疑惑は箱庭全体に及び、大切な日常を蝕んでいく。
自分はどうするべきか。
兄は、どうするべきか。
どうあるのが、兄としての正しい姿なのか。
「僕は……」
言葉は続かない。
なにも分からない。
逃げるように落とした視線を、のろのろ持ち上げる。全てを焼き尽くすような青い光がそこにはあって、ブラザーを見ていた。煌めくアクアマリンは美しく、愛おしい。
……あぁ、そうか。そうだった。
「……僕は、君のことを愛している。
オミクロンのみんなのことも、この学園のみんなのことも」
何ひとつ、分からないわけではない。
道も記憶も分からなくても、これだけは揺るがないたった一つの事実。
顔を上げる。
揺らいでいたアメジストが、愛に蕩ける。
ブラザーは偽物の兄だ。
その優しさは盲目的で甘ったるくて、前に進むことは出来ないのかもしれない。
けれど、だとしても。
この愛情は、偽物ではないから!
「僕は、みんなのことを幸せにしたい。それが僕の幸せで、生きる意味で、やるべきことなんだ。
───ソフィア。君の行く先が、君の幸せとは限らない。
だから、その手はとらない。僕は僕のやり方で、君の幸せを模索する」
にっこり、微笑んだ。
聡明な乙女には理解できないかもしれない、一人ぼっちの茨道。押し付けがましいブラザーにできる、大好きな箱庭へのささやかなクーデター。
「君の行く先が幸せじゃないなら、僕は君の邪魔をするかもしれない。むしろ幸せなら、どんな手助けだってしよう。
僕は、君のおにいちゃんだからね」
とられた手を握り返す。
マイペースな貴女の“おにいちゃん”は、にこにこと交渉の決裂を告げた。
言っていることはめちゃくちゃだ。ソフィアの幸せをなぜブラザーが決めるのだろうか。
しかし、彼はこの道を進む。
誰の手も取らず、誰の力も借りずに、か弱いその足じゃとても進めない道を行く。
ブラザーは、“おにいちゃん”だから。
「安心して、しばらくは君の言う通りに動くよ。
一緒に頑張ろうねぇ、かわいい革命家さん」
ソフィアの髪を悪戯に撫でて、ブラザーは立ち上がる。そのまま手を振って、部屋から出ていこうとするはずだ。声をかけられればまだ足を止めるだろう。
それでもきっと、頑固な兄の考えは変わらない。
仄暗い白銀のシロップは、巨星をも蕩かす毒薬だ。
《Sophia》
「…………、そう。わかった。……まあ、あんたの言ってることはわかるから。らしいって言えば、それらしいわね。」
〝おにいちゃん〟の言葉は、強い意志を帯びている。そう、彼の指針は、妹と弟の安全だとか、幸せだとか、いつだってそういうものに委ねられているのだろうから。破られ風化するこの交渉も、僅かな『想定通り』を既に持っていた。
「協力してくれるならまあ、それでいいわ。……あと、あたしは妹じゃないし、あんたに守られてやる気はないからね。」
兄の蜃気楼の背に、ぶっきらぼうな言葉を投げた。それがブラザーに届いていたかどうかは風すらも知り得ない事だ。けれど、その言葉が冷たいものではないというのは、なによりも明らかであったろう。