《Brother》
学園、2階。備品室にて。
ブラザーはここに積まれているであろう、過去の教材を目当てにやってきた。元々、兄は湧出なドールである。ディオほどの頭脳はもちろん持っていないが、それでも勉強を好む方だった。ミシェラのお披露目が決まった今、ブラザーも何となく浮かれている。来たるお披露目の日に備えて、勉強に必要な教材なんかを探しに来てしまうほどには。ブラザーとてドールであり、他のドールと比べて低いとしても、無意識にお披露目への憧れはあるようだ。
と、そんなとき。備品室に入った兄は、清らかな自分と同じ白銀を見つけた。
「……あれ、ミュゲ! 奇遇だねぇ、こんにちは」
数日前に彼女に起きたことなんて露知らず、ブラザーはパッと顔を明るくする。にっこり嬉しそうに微笑んで、小さな影に近づいた。最愛の“妹”とこんなところで会えるなんて、今日はいい日かもしれない。
愚かな兄は浮かれきって、ぽやぽやそんなことを考えていた。
学園の2階、備品室。
ここに城を築くように積まれている過去の教材たち。
ミュゲイアの頭の出来は至って普通。可もなく不可もなくといった調子であった。
だから、デュオほどの頭なんてないしエーナのようなインプット量もない。
そんなミュゲイアは先日のあの情景はなんだったのかを知ろうとやってきた。
√0だってそうだ。
√0がお披露目に選ばれることの出来る合言葉なら何かあるかもしれないし、秘密の言葉だから記載されていないかもしれない。
どちらにせよ、ミュゲイアは気になっているのだ。
あのコメカミの痛みについて。
あれはなんだったのか。
情景はなんなのか。
あれは何を意味するのか。
笑顔になれるのか。
何も分からなくても、お勉強することが出来ればお披露目に選んでもらえるかもしれない。
この山積みの教材のどれから手をつけようかと悩んでいれば声がした。
その声にピクリと肩を上げた。
「あっ! お兄ちゃんだ!
こんにちは。ミュゲね、お兄ちゃんに聞きたいことがあるの!」
彼の柔らかい笑みの浮かぶ顔を見て、ミュゲイアもニッコリと微笑んだ。
そのまま、彼の方へと近づいて言葉をかける。
花に蜜を垂らすような甘い声は小鳥の囀りのように。
「前ね、先生とお話をしてたら頭が痛くなってね、お兄ちゃんと暗い部屋にいるのが見えたの。真っ赤に輝く何かがあってね、お兄ちゃんとミュゲがいるの。……ミュゲはね、そんなの見た事ないと思うんだけどお兄ちゃんとミュゲはそういうのを見た事あるのかな? ミュゲが忘れちゃってるだけなのかな?」
おつむが緩いからわからないの?
そのひと時が分からない。
忘れてしまったの。
《Brother》
「聞きたいこと?」
首を傾けた。甘い微笑みが、僅かに固くなる。きっとまだミュゲイアの嫌な顔ではないはずだが、兄の心は平穏を保っているわけではない。
“妹”であるミュゲイアとの会話はいつも楽しいし、いつだって笑顔になってしまう。けれど、少し前のドロシーとの会話を忘れられるわけではなかった。いつ切り出そうかと迷っていたが、もしや√0に関することだろうか。もしそうだったら、兄としてどんな行動をとるべきだろう。ブラザーは瞳を伏せた。トゥリアのふわふわした回らない頭で、答えを探す。
「……頭が? いや、おにいちゃんも分からないな。ミュゲはどんな話をしてるときに頭が痛くなったの?」
しかし、投げられた質問は予想とは大きく離れているものだった。ブラザーは驚きに瞳を瞬かせてから、考えるように顎に手を添える。記憶を辿ってみても、そんな出来事があったようには思えない。ブラザーは自分が“妹”との記憶を忘れることもないと思っている。では、ミュゲイアが見たものはなんだったのか。
依然、平穏には戻らない心情で、ブラザーからも質問を返してみる。アメジストが悩ましげに揺れて、ミュゲイアを見ていた。
首を傾げたお兄ちゃんは優しく話を聞いてくれた。
甘い微笑みを見ればスルスルと言葉が漏れてゆく。
あの情景について。
あの真っ赤に輝くなにか。
それを暗い空間で眺める2人のドール。
それはこのトイボックスではおかしくて、不似合い。
悪い悪夢のようでもある。
とても、とても、不可思議なお話。
貴方と私のお話。
「えっとね、ミシェラの前にね、お披露目に行った子の名前を先生に聞いたの。その子はその、√0ってよく口にしてた子でね。お名前知ってるはずなのに思い出せなかったの。そしたら、頭が痛くなっちゃったの。……変な話だよね。」
その時のことを思い出すようにポツ、ポツと小さな声で囁くように話し出す。
変な話。信用できるかも分からない。
何も分からない。
グルグルと頭がおかしくなっていくように、何も分からない。
√0も頭痛も。
あの子の名前も。
全部分からない。
ミュゲイアの知らない話。
《Brother》
「……√0の、ことを」
ブラザーの瞳が陰る。
胸の奥がざわざわする、あの嫌な感じ。可愛い“妹”といる時にすらそれを味わわなければならないなんて、苦痛にも程がある。救済も、未来も、どうだっていいのに。
「……ミュゲ、そのドールは√0についてなんて言っていたか、覚えてる?」
口元を覆うように手を添え、ブラザーは体を少し斜めに向ける。考え込むように瞳をミュゲイアから外し、床を見つめた。腰に手を当て、伏せたアメジストに怪訝の色が混ざる。僅かに寄った眉間はあまり機嫌がいいようには見えないが、だからこそミュゲイアから見えないよう体の向きを変えたのだろう。基本的に、本人の意識がある間は、“妹”には笑顔しか見せたくないから。
ブラザーは√0に心当たりがある。
しかし、誰に聞かれても知らないと通すつもりだった。そんな馬鹿げた話をしたくなかったのだ。
だというのに、ミュゲイアもこの言葉について知っている。もう避けて通れる道ではないのかもしれない。
『そんなに欲しいなら啓示してやるよ兄弟。お前の中で出来上がった不定形の不条理はお前のカワイイカワイイスマイラーが解を抱えてる』
……脳裏の奥でなびく金髪に、ブラザーは一際不愉快そうに眉を寄せた。
目の前のお兄ちゃんはまるで√0のことを知っているように言葉を返す。
√0はそんなに知られたものなのだろうか?
それはミュゲイアには分からない。
ミュゲイアは何も知らないのだから。
√0だって詳しく知っているわけじゃない。
今まで気にした事もないほどに。
興味すら持っていなかった。
最近になってまた目にしたから、ちょっと気になるかな? くらい。
笑顔と関係があるかは分からないそれにこれといって大きな興味はない。
「え? ……えっと、うーん、√0がヒトに隷属するしかないドールの未来をきっと切り開いてくれる。だったかな?ミュゲにはよく分からないけど、よくあの子は呟いてたよ。」
√0のことを。
√0はきっと救いの言葉なのかもしれない。
けれど、その実態は分からない。
ミュゲイアは深くそれについて知ろうとしなかったから。
√0。それは意味のあるものなのだろうか?
ミュゲイアには分からない。
ミュゲイアは知らない。
だって、ドールである自分の在り方に疑問なんて持った事がないから。
あのドールの方が少数派だ。
あのドールの方がおかしい。
「ねぇ、お兄ちゃんは√0について知っているの? √0ってなぁに? 教えてよ!」
ニコニコとスマイルは尋ねる。
√0について。
まだ知らない未知の存在について。
《Brother》
「……そっか」
やっぱり。
√0なんて言葉を口にしていたのは、あの子だけだったんだ。
「ごめんね、おにいちゃんもよく分からないんだ。救済のイト、みたいなことは聞いたことがあるけど。
……たしか、あの子の名前を聞いたときにこめかみが痛くなったんだよね」
ブラザーは困ったように微笑み、口元から手を外した。一応ドロシーから聞いた言葉を添えてみたが、深い意味は分からない。
少し口を閉じてから、ブラザーはミュゲイアに視線を送る。確かめるように、確認するように。考えたくないことだらけだが、それでも考えなければならないのだろう。であれば、仕方がない。だって兄は、おにいちゃんだから。
ブラザーはそのドールについて思い出す。人と暮らす未来を拒む、奇妙なオミクロンドール。かわいい弟妹だと思いながらも、どこか心がざわつくあの子。
さて、名前はなんだっただろうか。
《Brother》
「う、ぁ」
ふらり、体が倒れる。
トゥリアの脆い体では耐えられず、床に勢いよく手をついた。ヒビが入っていなかったのは、不幸中の幸いかもしれない。
代わりにヒビが入ったのは、記憶の方だった。
「ぁ゙、ぐッ……う、あああ……?」
突如感じた、こめかみを刺すような鋭い痛み。ブラザーは目をきつく閉じて、ぐらぐらと揺れる頭を垂れた。冷や汗か脂汗かが一気に溢れ、その涼しい顔を曇らせる。
尾を引く激痛に体は動かない。
けれども、ブラザーは目眩のする視界にミュゲイアを押し入れた。
「みゅ、げ。君は、僕らは────……“あの日”、何を、見た?」
痛みに顔を歪めたまま、途切れ途切れの声を紡ぐ。甘く妖しいアメジストは今やゆらゆらと揺れて、あったはずの答えを探していた。
そう、あの日。
ブラザーはミュゲイアの手を取って、学園に走った。
そこで、何を見たんだっけ。
「っ、ぐぁ゙、」
……ブラザーには、痛みに耐える機能なんて備わっていない。兄は焦燥感に襲われながらも、再び顔を伏してしまった。
ブラザーの言った。
救済のイト。
それはきっと√0のこと。
救済。
救済なんてまるでお披露目がダメかのような言い方。
救済のイトってなに?
そう聞く前にブラザーはふらりと倒れた。
まるで、花弁が風に乗って散るように。
当然とブラザーは倒れた。
ブラザーの倒れた音にミュゲイアは目を見開いた。
苦しむような声が漏れている。
あの時のミュゲイアのように。
ミュゲイアはブラザーの隣でしゃがんだ。
ブラザーを心配するように。
ブラザーの身体に手を添えて。
「お兄ちゃん!? 大丈夫? どうしたの? 痛いの? しんどいの? 笑って? 笑ったら良くなるから!
……え。わ、わかんないよ! 何の話? お兄ちゃんも何か見たの?」
ゆらゆらとアメジストの瞳にミュゲイアが映る。
いつもと変わらない笑顔。
いつもと同じ笑顔。
こんな時でも口角は上がったまま。
ブラザーの言葉にミュゲイアは答えられなかった。
あの日っていつのこと?
何を見たの?
何をしたの?
何があったの?
ミュゲイアには分からない。
ミュゲイアは知らない。
ミュゲイアとブラザーに何があったのかなんて知らない。
「……お兄ちゃん? 大丈夫? 保健室に行く? ……先生に診てもらった方がいいよ! あっ、笑おう! 笑ったら大丈夫だから! ね? ほら!」
再び顔を伏せてしまったブラザーをミュゲイアは下から覗き込む。
笑ってと言うばかり。
苦しそうにするブラザーにしてあげられることなんてない。
《Brother》
「っ、ミュゲ……ごめんね、ありがとう」
体に手が添えられる。
じんわりとあたたかな体温が分けられて、ブラザーは徐々に落ち着きを取り戻した。未だ目眩は続いているが、最初ほど酷い頭痛ではない。膝をついたまま、顔を上げる。頭が重くて倒れそうになったが、何とか手で支えた。弱々しくも礼を口にし、安心させるように笑みを浮かべてみせる。まだ少し無理しているが、妹を安心させるより他にすべきことなど、兄にはない。
顔をあげれば、かわいい“妹”がこちらを見ている。その顔にはいつもの笑顔。かわいい笑顔。ブラザーの愛する、“妹”。
「ミュゲ、あの子が……」
言いかけて、やめる。
ブラザーには分からなかった。
いま見たことを共有して、ミュゲはどうなるだろう。
この子も同じように、脳神経の軋むような狂った痛みを味わうことになるかもしれない。先程脳で鳴っていた、危険に対する警報がまだ残っている。妹を危険な目に遭わせるのだけは耐えられない。
では、何も言わない?
真実を何も言わず、ただ隠しておけば。そうすればここは幸せな楽園で、痛みも恐怖もないのかもしれない。けれど、もしもこの箱庭の先に、未来なんてなかったら。兄が妹の未来を奪うことなんて、あっていいはずがない。
「………」
ブラザーは分からない。
自分がどうするべきなのか。
兄がどうするべきなのか。
彼の中に、正解はない。
だって、彼は“おにいちゃん”なんかじゃないのだから。
ブラザーが顔をあげた。
まだ膝をついたままであるけれど、その顔には笑みを浮かべていた。
ミュゲイアの好きな笑顔があった。
無理しているなんて考えずに、その笑顔を見てミュゲイアも安心する。
笑顔を浮かべられるなら大丈夫。
笑顔を浮かべているならブラザーも幸せ。
それを見て、ミュゲイアも幸せになる。
そうやって幸せには生まれる。
ブラザーの笑顔が無理しているなんて少しも考えない。
「うん! ミュゲもお兄ちゃんが笑顔に戻ってくれて幸せ! とっても嬉しい!
……なぁに? お兄ちゃん。ミュゲとお兄ちゃんに秘密なんてなしだよ! あの子がどうしたの?」
ミュゲイアは深く何も考えていない。
ブラザーがお兄ちゃんとしてどうするべきかを考えていたとしても何も分かっていない。
そんなの知らない。
あの子の話をただ気になるだけ。
あの子の笑顔の話を教えて。
お兄ちゃんのする話はきっとそういう話。
あの情景だって、笑顔の話かもしれない。
真っ赤に輝く美しいなにかを見て笑顔になった話かもしれない。
だとしたら、それを忘れていたなんてとっても悲しいこと。
だから、ミュゲイアは聞いた。
だって、兄妹に秘密事なんてないでしょ?
《Brother》
「……秘密」
兄妹は尊いものだと、ブラザーは思う。兄が妹を助け、妹はそれを受け入れる。妹が喜べば兄も嬉しくなるものだし、妹が悲しまないよう尽力すべきだ。
そんな尊いものに、隠し事はいけない。そう。そうだろう。
……ブラザーは、おにいちゃんではない。
所詮は偽物で、恋人の出来損ないだった。
だから、抱え込めない。
「……そう、だよね。うん、そうだ。秘密なんておかしいよね。だって、おにいちゃんなんだから」
自分を納得させるように呟いて、ミュゲイアに微笑む。肩の重しが外れたような、そんな顔だった。
「ミュゲ、あの子がお披露目に行った日のこと、覚えている?
僕らはあの日、何故か目覚めて……学園の方に、走ったよね」
結局、簡単に喋ってしまった。
兄だったら抱え込めたかもしれない情報も、ブラザーには抱えられない。大きすぎる重しは背負えない。
だって、彼は恋人用のトゥリアドールだから。
彼は晴れやかな微笑みで保身に走る。所詮、偽物でしかない。
「あの後どうなったか、何も思い出せないんだ。いや、そもそも、どうしてこんなことを忘れていたんだろう。
あの日、僕らのベッドだけ鍵がかかっていなかったのも、どうして……」
考えるように呟きながら、ブラザーはミュゲイアの返答を待つ。
さぁ、大事でかわいい“妹”。
コレを一緒に、抱えておくれ。
「うん! ミュゲ達に秘密なんてないよ!」
秘密はダメ。
だって、私たちは兄妹だから。
なんて言うけれど、ミュゲイアにそれの正しい在り方なんて分からない。
ミュゲイアは所詮はトゥリアモデルのドール。
恋人のように接し、母親のように受け止める。
そういうドール。
ただ、話を聞くだけ。
変わりない笑顔で、受け止めてあげるだけ。
ただ、それだけ。
笑顔で受け止めることができるならそうするだけ。
そっと、お兄ちゃんの手に小さな柔らかい手を添えて。
「あのね、お兄ちゃん。ミュゲはね、その時の事を覚えてないの! でも、ミュゲが前に見たって言ってたアレがそれなのかな? なら、ミュゲとお兄ちゃんは暗い空間で真っ赤に輝く綺麗なものを見たんだよ! 笑顔にしようとしてくれたんだよ、お兄ちゃんは!」
「でも、なんでミュゲ達忘れてたんだろうね? 鍵がかかってなかったのは先生のうっかりさんかのかな? 先生も疲れてたのかも!」
都合のいい解釈。
ブラザーはきっとたまたま鍵の閉まっていなかったあの日にミュゲイアを連れて、それを見せてくれたんだ。
笑顔にするために。
そうやって、都合よく解釈してしまう。
緩い頭では何も分からない。
《Brother》
「…………」
都合のいい、夢物語。そんなことは有り得ないと、ブラザーにだってわかる。記憶がない違和感も、鍵がかかっていなかったことも、きっと。きっと何か理由があって、警報はそのためのものだったのだろう。
しかし、ブラザーはそれを信じた。
それでいいと、思考を止めた。
「……ふふ、そうだね。
少し立ちくらみがしたんだけど、ミュゲのおかげで治ったみたい。ありがとう、ミュゲは優しいねぇ」
馬鹿げた空想に柔らかく微笑んで、ブラザーはミュゲイアの頭を撫でようとする。ふわふわの髪の毛にそっと指を沿わせて、いつもの、宝物にするみたいに撫でる。
それから壁に手をつけながら、ゆっくりと立ち上がった。まだ少しだけふらついたが、それでも立っていられないほどではない。呼吸を整えて、ミュゲイアの方を見る。安心させるように、今度は無理せず笑った。無論、“妹”がこの違いに気づくかどうかなんて関係ない。ただ兄は、“妹”の好きな笑顔を浮かべるのだ。
深く探ろうとしなければ、心做しか頭痛も和らいだような気がする。余計なことを考えていたから痛かったのかもしれない。きっとそうだ。
ブラザーもそれを信じてくれた。
誰にでもわかる浅はかな夢物語を。
意図も簡単にそれ以上否定もしなかった。
ミュゲイアもこれ以上なにも考えなかった。
今、この2人の謎は笑顔の話で終わったから。
笑顔になる素敵な話でまとまったのだから、ミュゲイアがそれを否定するなんてことは無い。
だから、これ以上何も言わなかったし、考えなかった。
普通に考えればおかしな事で、もっと疑問を持つべきことでもあるのに。
それ以上何も思わない。
とろりと蕩けてしまうような蜜に浸って2人とも砂糖漬け。
甘い甘い2人だけの夢に耽ってそのまま。
歪な兄妹ごっこに蜜を垂らすだけ。
トゥリアドールの得意な恋人ごっこのように。
2人だけの世界で終わらせてしまう夢物語。
「良かった! ミュゲもお兄ちゃんが笑顔になってくれて嬉しいよ! えへへ、ミュゲね、お兄ちゃんに頭撫でられるの好きだよ。」
「今日はもう寮に帰ろ! ミュゲね、お兄ちゃんとお絵描きしたいな! 笑顔のお絵描きしよ!」
ブラザーに頭を撫でられれば心地良さそうに目を細めて微笑む。
こうやって、頭を撫でられるのは好き。
優しく微笑むお兄ちゃんの事は好き。
だから、このまま機嫌を損ねないように。
ミュゲイアはもう帰ろうと提案をしてブラザーの腕を組んだ。
もう、今日は帰る方がいい。
寮に帰って絵を描こう。
この夢物語のヒビに気付かぬように。
ちゃんと良い子でいられるように。
《Brother》
「ふふ、おにいちゃんもミュゲのこと撫でるの好きだよ」
微笑むミュゲイアを見て、ブラザーも自然と笑みを深めた。長くてつやつやの髪を毛先まで優しく撫でる。
二人の間には幸せしかない。例えこれが空想だとしても、箱庭だとしても。この世界は誰にも壊せない。壊させない。
それでいい。
これでいいのだ。
だって、こんなにも幸せなんだから。
「うん、帰ろっか。お絵描き、楽しそうだねぇ。お供のホットミルクをいれてあげるね」
腕を絡められても、ブラザーはそれを拒まない。大人しく組まれたまま、にこにこミュゲイアに笑いかけた。小さく頷いて、2人で絵を描くところを想像する。考えただけで幸せで、頬が蕩けてしまいそうだ。この子が好きなホットミルクもいれてあげよう。蜂蜜をたっぷり垂らした、甘い甘いホットミルクを。
それでいい。
これでいいのだ。
狭い殻の中を、甘いだけの蜜で満たしてしまおう。
密に溺れて、息ができなくなるまで。
《Ael》
ふんふん、鼻歌を歌いながらエルはいつもなら軽い足取りでここらを歩くが、今日は違う。
大好きなミシェラが今日からいない。お披露目に出て、ヒトに見定められて行った、可愛らしい可愛らしいドールが、いない。
しょも、と眉を下げてとぼとぼとラウンジを歩く。心に空いた寂しさはドーナツのように空洞で、何でも埋めることができないだろう。いつもふらふらと適当に歩いているが、今日は同じところをふらふら歩いている。髪の毛の重さに身をゆらり、ゆらりと任せて左右に揺れた。
今日からミシェラがいない。 ミシェラはお披露目に行ってしまった。
それはめでたいことで、喜ばしいこと。
可愛い可愛い子うさぎの素敵な門出。
今頃きっと、素敵なご主人様と素敵な生活を始めている。
ご主人様と暖かいベッドで眠って、柔らかい朝日に撫でられて目を覚ませばご主人様が隣でおはようと声をかけてくれるはず。
毎回先生に起こしてもらっているせいで、最初はご主人様のことを起こしてあげるのは難しいかもしれない。
もしかしたら、ご主人様が先に目を覚まして、柔らかい夢から起こしておはようのキスをしてくれるのかもしれない。そうだとしても、それはとっても素敵な一日の始まる。
優しく髪の毛を櫛でといてくれるかもしれない。きっと、その優しい手つきに小舟を漕いでご主人様がクスクスと優しく微笑んでくれるかも。
大きなテーブルでご主人様と朝の天気を話しながら暖かい紅茶を飲んで朝ごはんを食べる。ミシェラならずっと練習をしていたからとっても美味しい紅茶をいれてくれる。
ミシェラの紅茶は笑顔になれる幸せの味だから。
今頃、ミシェラもご主人様との生活を頑張っているから、ミュゲも頑張らないととミュゲイアは思う。
もう、このトイボックスにミシェラがいないのは寂しいけれど、きっとまた会える。
ミュゲイアもお披露目に選ばれたら外でミシェラと会う約束をしている。
その為にもお披露目に選ばれたい。
頑張って笑っていたら次こそは選んでもらえるかもしれない。
次こそ、自分かもしれない。
だって、素敵な笑顔で笑えるから。
ミュゲイアには笑顔しかないから。
それ以外はごく普通。可もなく不可もなく。
だからこそ、笑顔を頑張らないといけない。
そうやって、ミュゲイアは今日もニコニコと生活している。
オミクロンのみんなに挨拶をして、ニコニコとする。
笑うのは良いこと。笑うのは幸せのもと。
「天使ちゃんだ! こんにちは! ……どうしたの? 元気ないの? 笑って!」
ラウンジの方へと向かいその扉を開けたらラウンジ内をとぼとぼと繰り返し歩いている水色の髪が雲ひとつない青空のようなドールを見つける。
しょも、と眉を下げて元気なさげにしているそのドールを見つけるないやなラウンジの中へと入り、かのドールの傍へと近寄り声をかける。
もう、この場所にミシェラはいない。
このラウンジに2人のドール以外いない。
金色の髪を揺らす子うさぎはいないけれど、金平糖のような愛らしい天使がいた。
天使が寂しそうにしていることなど露知らず、ミュゲイアは変わりなく話しかける。
いつもの笑顔で笑顔を要求して。
《Ael》
「……えっと、えぇっと……みゅげ、ミュゲなのです! 覚えていたのです! ミュゲ、ミュゲ!」
しょんもり、別れを惜しむ表情をしていれば笑って! と声をかけられる。確か、確か名前は…! 思い出せた、思い出せたのだ。脳裏に焼きついたミシェラの哀しげで、希望に溢れた笑顔さえ吹き飛ばしてしまうほどの喜びようだった。きゃっきゃと飛び跳ねて何度もミュゲ、と名前を呼ぶ。このドールが望むように、エルは天使のような微笑みを取り戻した。だが、不意にまたミシェラの顔を思い出してしょんもりとしてしまう。
「……ミュゲ、エルは、もっとミシャとお話がしたかったのです……でも、ミシャはきっと幸せなのです! ミシャ、元気にしているのですかね?」
両手を合わせて、指を絡め合わせる。きゅ、とお祈りするようなポーズでそう言った。笑っている、確かに天使は笑っている。でも、眉は下がっている。大事なドールへの祈りを捧げるかのように呟いた。
「ミュゲ、エルは寂しいので、お話してくれないのです? ミュゲとお話がしたいのです!」
えへへ、また笑みを溢す。話がしたい、この、悲しい寂しさを埋めてほしい。あなたの笑顔で、エルは心の穴を埋めたがっていた。
「そうだよ! ミュゲはミュゲだよ! いつも笑顔のドールなの!」
先程の表情とは打って変わってきゃっきゃっと喜びながら目の前のドールは喜んでくれた。
ミュゲという名前を覚えていたというのが嬉しくてか、ミュゲイアの求めた可愛らしい天使のような微笑みを浮かべてくれた。
それを見て、ミュゲイアも笑顔を浮べる。
相手のテンションと同じくらいにミュゲイアもきゃっきゃっと飛び跳ねて。
それはそれは楽しそうに、ぴょこぴょこと綿あめのようなツインテールが揺れている。
「絶対に元気にしてるよ! ミシェラは素敵なご主人様と一緒に今頃幸せニコニコだよ!
……ミュゲも天使ちゃんとお話したい! もっと笑って! 笑顔になれば寂しくないよ! 笑顔はね、幸せにしてくれるの!」
ミシェラのことを聞かれればミュゲイアは即答した。
絶対に元気にしている。
今頃、幸せに包まれて笑顔で生活している。
だから、大丈夫なんだと。
お喋りのお誘いを受ければミュゲイアは目の前の天使の手を取り、お話をしたいと述べた。
そのまま嫌がられなければ、ラウンジの空いている席に連れて行ってしまうだろう。
ミュゲイアもお話は大好き。
それを断る理由なんてない。
太陽のような笑顔でミュゲイアは天使を見つめる。
その口元はとても綺麗な模範的な笑顔を浮かべていた。
《Ael》
「……そうなのです! 笑顔はとっても大事なのです、たくさん笑顔になるのです!」
絶対に元気、幸せだと心から思いたいエルに、ミュゲイアの笑顔はとても効いた。きっと大丈夫、ミシェラはきっと幸せなんだ。エルは、ミシェラの天使であり続けたいと思いながら満開の笑顔を咲かせた。
お話をしたい、と言ってくれるミュゲイアに嬉しそうに、はいなのです! と答える。空いている席へ移動してしまおうと、あたりを少し見渡して席を見つける。
「ミュゲ、立ったままお話すると疲れちゃうのです、あそこで座るのです!」
きゅ、ミュゲイアの手を握った。いこう、と言わんばかりの表情はとても、それはとても笑顔だった。
「うん! うん! やっぱり天使ちゃんは笑顔がいいよ! 笑顔が一番似合ってる!」
笑顔が大事。それはミュゲイアにとってその通りな言葉であり、ミュゲイアはうんうんと銀糸の髪を大きく揺らしながら頭を縦に振る。
ミュゲイアにとって笑顔はそれほどまでに大丈夫であった。
笑顔があるから幸せになれる。笑顔があるからみんなを幸せにできる。
ミュゲイアは笑顔のドール。
笑顔がないと何も残らないガラクタ。
笑顔以外取り柄のないドールなのだから、こうやってみんなに笑顔になって貰えないと困ってしまう。
目の前のドールの笑顔がミュゲイアを幸せな気持ちにしてくれる。
きゅっと手を握られれば、その手を優しく握り返してエルの言っている席に目を向け其方へと移動した。
「ねぇ! ねぇ! どんなお話する? 理想のご主人様のお話? それとも、好きなお菓子のお話? 笑顔のお話? ミュゲね、天使ちゃんとならどんな話でも楽しめるよ!」
相手いる席に座ればかのドールの事をニコニコと見つめて今からどんなお話をしようかと振る。
どんな話だって笑顔になれる。笑顔にしてみせる。そう言いながら。
《Ael》
「嬉しいのです! ミュゲも、笑顔が今日もとっても素敵なのです!」
きらきらと反射する銀色の髪の毛を見て、エルは少し眩しそうに目を細めた。笑顔も眩しくて、キラキラとしたミュゲイアがとにかく素敵に思えた。よいしょと席へ着いてはどんな話をしよう! と楽しそうに言うドールへ、こんな提案をした。
「えへへ、エル、みんなのお話がしたいのです! まだ、エルはみんなのことを覚えられないのです……みんなみんな、大好きで大好きで仕方ないのに、忘れちゃうのです……でも、お顔は覚えてきたのです! あとは、お名前だけなのです!」
どんな話でも楽しめる、その言葉に甘えてエルはみんなの話がしたいと切り出した。自分自身が覚えられないことについて、どうにかしたいと思っているのもあるが、もっとみんなのことを知りたいという好奇心があった。みんなを笑顔にしてくれるミュゲイアなら、楽しい話をたくさんしてくれるだろうと思った。
エルの言葉にミュゲイアも嬉しそうに微笑む。
満面の笑みでそれはそれは楽しそうに。
だって、笑顔を褒めてくれたから。ミュゲイアには笑顔しかない。だからこそ、自分の唯一の長所であり自分にとって全てである笑顔を褒められれば、嬉しくてたまらない。
自分の笑顔で誰かを喜ばせるのも、自分の笑顔を褒められるのも大好き。
嬉しくて昨日よりも自分の笑顔が大好きになる。
「じゃあ、みんなのお話をしよ! お顔を覚えてきたなら名前を覚えるのもすぐだよ! 天使ちゃんもすぐみんなの事覚えられるよ! だって、ミュゲの事覚えてくれてたもん! ミュゲの事は笑顔を見て思い出して! 何回だって笑うから!
みんなも素敵な笑顔なの! 笑顔が少ない子もいるけどみんな素敵な笑顔でね、ミュゲはね皆の笑顔が大好き! みんなの笑顔ならミュゲ絶対忘れない!」
みんなのお話をしようと言われればそれに賛同する。
ミュゲイアにとって大切なお友達たち。
みんな、みんな素敵な笑顔でそれを見るのが大好き。
みんなを笑顔にするのが大好き。
エルがみんなのことを覚えられなくたって、ミュゲイアの事はこの笑顔を見て思い出してくれたら良い。そのためになら何回だって笑う。
《Ael》
「はいなのです! みんなの笑顔、エルはたくさん知りたいのです! ミュゲ、いーーっぱい教えてなのです!」
満面のパーフェクトな笑みで返答するドールに、エルは上記を述べた。エルの特性上、記憶が薄れていく、という避けられない事実がある。これは今後もエルの足枷となり、そして全員にとってもどうしようもない部分だ。デュオモデルなのに、できる事は答えを導き出すだけ。記憶力のないエルは、ただの計算機同様だ。でも、すぐに覚えられるとミュゲイアに励まされ、エルはもっとみんなが知りたい、そう思ったのだ。エルの知的好奇心は、笑顔へ矢印が大きく向いている。どうやったら誰が笑うのか、その笑顔はどんな笑顔なのか。ワクワクしてたまらない、そんな衝動に駆られた。
「ミュゲ、いろんな笑顔を教えてほしいのです! えっと、たとえば……エル、エルの笑顔! エル、自分のお顔もあまり覚えていないのです、だから、エルの笑顔はどんな笑顔なのか教えてほしいのです!」
まずは自分の顔。まともに覚えられていない自分は、いつも、どうやって笑っているのだろう?
笑顔の話は大好きだ。
笑顔の話ならどんだけでもできるし、何時間でも舌が枯れるまで話すことが出来る。
ミュゲイアの頭の中はいつだって笑顔の事ばかり。
笑顔のことだけが頭の中で風船のように膨らんで、パンっと弾ける度に笑顔が見たくなる。
笑顔は素敵だから。
笑顔は幸せだから。
笑顔は愛情だから。
ミュゲイアの笑顔に対する執着は全て愛情に収束する。
トゥリアとして笑顔のために尽くしてしまう。
笑顔の為なら毒を舐める事も厭わない。
それで笑顔が見れるなら毒に犯されようが幸せを感じれてしまう。
「いいよ! ミュゲがいっぱい教えてあげるね!
じゃあ、天使ちゃんの笑顔から教えるね! 天使ちゃんの笑顔はふわふわしてるの! 本当に天使みたいなんだよ! とってもキュート !ミュゲね、天使ちゃんの笑顔大好きなの! だからもっと笑って!」
笑顔の話が大好きなミュゲイアはまず、エルの笑顔について教えてと言われるとグッと距離を詰めてキラキラと目を輝かせながら口を開いた。
天使のようなドールの天使のような笑顔。
天使の後輪のように輝く笑顔。
天使の羽が揺らめくような笑顔。
エルというドールだけが見せる笑顔。
その笑顔もミュゲイアは大好きだ。
昼下がりのこと。
暖かい日差しに包まれて、今日もトイボックスアカデミーには笑顔が溢れている。
そんな中ミュゲイアが足を進めたのはカフェテリア。
こんないい天気の日にはカフェテリアでお茶がしたくなる。
「今日もえっがお! みんなも笑顔! ミュゲのだいすきな笑顔!」
ルンルンと自作の歌を口ずさみながらミュゲイアはカフェテリアの扉を開いた。
オミクロンである自分がどう見られようともミュゲイアには関係ない。
笑顔が見れるカフェテリアが大好きなのだから。
たどり着いたカフェテリアは、時間帯が影響してか珍しく閑古鳥が鳴いて、人気がまるで無かった。いつも活気で賑わっているカフェテリアが静かというのは、少し慣れないものがあろう。
一帯の広間の奥には、寮ほどの設備や少量の備蓄はないものの、簡易的なキッチンも存在しており、ドールズはこちらの区画で飲み物を用意して、授業後のコーヒーブレイクをおこなっていることが多かった。
「人のいないカフェテリアって不思議! ミュゲはもっと人がいて笑顔の溢れてるカフェテリアの方が好きだけど!」
時間帯のせいだろうかいつもは賑わっているはずのカフェテリアはシーンと静まり返っていた。
ミュゲイアの履いているおでこ靴をコツコツと鳴らしながら中へと入っていく。
笑顔で溢れているかと思ってきたせいでやや残念ではあるものの、来た以上何もせず帰るのもなと思いカフェテリアの中へと進んでいく。
歩みを進めた先のリフェクトリーテーブルの上に何やら紙が置かれている。
乱雑に絵の具をぶちまけたようなカラフルな紙はとても目立つものでミュゲイアはそれを手に取って見る。
一体これはなんなのかも、ミュゲイアにはわからない。
紙に何か書かれているのかと確認するように見つめる。
鮮やかなインクをそのままぶちまけ、ビビッドで明るい印象を見る者に与えるチラシ──のような紙が、キッチンの作業台の上にぽつんと取り残されている。誰かが受け取って放置していったのだろうか、少なくともあなたは見覚えがないものだった。
チラシには、絵筆で書き殴ったような太めの筆跡で、『秘密の芸術クラブ』と記されている。チラシが堂々と置かれている時点で秘密も何もないだろうとは感じるかもしれないが……その片隅には、以下のように活発な文字が綴られている。
トイボックスの見慣れた景色にも、まだ見ぬ芸術が隠れている!
君もヒトの文化に倣い、学生らしく“サークル活動”と呼ばれるコミュニティを体験してみよう!
興味のある同志は夜の18時、ガーデンテラスにこっそり集合だ!
──トゥリアクラス・アラジン
キッチンの作業台の上にぽつんと取り残されていたその紙を持ち上げてミュゲイアは書かれていた文を読む。
そこには絵筆で書き殴ったような豪快な筆跡でクラブ活動の勧誘のようなものが書かれていた。
サークル活動というのをヒトに見習ってするというのはとても楽しそうではある。
ミュゲイアの好きな笑顔がありそうなのがよく分かる。
文章を最後まで読んだ時に誰が書いたのかが書かれていた。
そこにはミュゲイアと同じトゥリアクラスの子であるのが分かる。
ミュゲイアはその子のことを思い出そうとしながらその紙を小さく折ってポケットに入れて、カフェテリアを後にしようとする。
もう、時間も遅くなってきている。
集合場所であるガーデンテラスに時間通りに行こうとミュゲイアは楽しげに決めてガーデンテラスへと足を進める。
早くについてもガーデンテラスで時間を潰せばいい。
あなたは同じトゥリアクラスであったはずの『アラジン』という名のドールを知らなかった。しかし思い至る事がひとつ。
あなたがトゥリアに在籍していた頃に居なかったアラジンは、お披露目に出て行ったドールの空席を埋めるため、この学園へやってきたドールなのではないかと。
であれば、あなたが会ったことも話したこともないことも──名前すら覚えがないことも、頷けるというもの。
あなたはガーデンテラスへ移動すると、長閑な陽光を浴びて日向ぼっこをしながら、時が来るのを待つだろう。
──午後18時。
談笑していたドールズも、夕食の準備があるからと疎らに散り、人気が無くなっていくテラスで、あなたは待ちくたびれているかもしれない。
天球から差し込む陽光は地平線の彼方に沈んで消え、代わりに群青色の空には星々が瞬く。いつも規則通りに早めに寮へ帰っていたあなたは、ガーデンテラスの星空を見た事がないことに思い至るだろう。
眩い青空とは一転した美しい星空を一望出来る。そんな場所であなたが立ち尽くしていると、満を辞してテラスのガラス扉が開かれた。
巨大な筒状の何かを片腕に抱えてやってきたのは、銀色のさっぱりした短髪を靡かせ、細い三つ編みを垂らした好青年だった。褐色の細い身体にその銀糸は美しく映えて、その顔立ちは甘い微笑みを湛えている。──教育されたと思しき立ち居振る舞いから、トゥリアクラスの青年だと察する事が出来よう。
彼はあなたの姿を見受けると、繊細な美青年の顔つきから一転、華やぐ活発な笑顔を浮かべて「おおお……! もしかして同志か!? 秘密の芸術クラブへようこそ!」と喜色ばんだ声を上げてそちらに駆け寄るだろう。
鮮烈なブーゲンビリアの赤い瞳が瞬いて、あなたをはっきりと捉えていた。
「オレはアラジン、トゥリアクラスのアラジンだ! 今からここで素晴らしい芸術活動をするけど、チラシを見て来てくれたんだよな……そうだろ!? そうだと言ってくれ!」
ミュゲイアはアラジンという名前のドールに見覚えがなかった。
同じトゥリアモデルであるにも関わらずアラジンの事を知らないということはミュゲイアがオミクロンに堕ちてからアラジンは学園にやってきたのかもしれない。
入れ違いになっていたのであればアラジンの事を知らないのも当然。
アラジンはどんな子なのだろうか。
どんな笑顔を見せてくれる子なのだろうか。
なんて考えながらミュゲイアはガーデンテラスへと行き日向ぼっこをしながら時が来るのを待った。
午後18時。
この時間になれば談笑していたドール達もみんな夕食の準備のためにと帰ってゆき、人気のなくなったガーデンテラスにはミュゲイアがポツンといるだけであった。
天球から差し込む暖かい光は沈み、群青色のカーテンが垂れて星々が瞬いている。
いつも規制通りに早めに寮へ帰っていたミュゲイアはガーデンテラスの星空を見た事がなかった。
ガーデンテラスに暖かい日差しが降り注いで花々を照らしているのしかミュゲイアは見たことがなかった。だから、こんなに綺麗な星空なんて見たことない。こんなにも星空を広く感じたこともなかった。
星空を眺めていればガーデンテラスのガラス扉が開かれた。
そちらへと顔を向ければ、現れたのは巨大な筒状のなにかを抱えた、美しい銀糸の髪に褐色肌の好青年であった。
星空の下でその銀髪は美しく映えてキラキラと星屑を散らしたように輝いている。
そんな彼はブーゲンビリアの赤い瞳に捕らえられてミュゲイアは目が合った。
華やぐ活発な笑顔を向けて喜ぶように言葉をかけられれば、ミュゲイアも笑顔を向ける。
「うん! そうなの! カフェテリアでミュゲもチラシを見て来ちゃった! あっ、ミュゲはね、オミクロンクラスのミュゲイア!
ねぇ、ねぇ、アラジン! 今からどんな事するの? ミュゲ笑顔がみたいな!」
ニコニコとカフェテリアでチラシを見たということをポケットにしまっていたチラシを出して見せながら答える。
今からするという芸術活動がどんなものかはミュゲイアに想像もつかない。
ただ、それが笑顔の溢れるものであるということだけをミュゲイアは求めていた。
アラジンと名乗った彼は、あなたが活動に参加してくれるという意思表明を聞いて、ぱあっと更に感激したように表情を明るくした。
「ミュゲイア!! ああ、ミュゲイア! 活動に参加してくれるんだな、ありがとう!! 芸術は他者と共有してこそ喜びも倍増するものだからな……!」
とても嬉しそうにはしゃぎ、拒まれなければあなたの手を両手で掴んで深く頭を下げるだろう。──見たところ、集合しているのはあなただけのようだ。当然だろう、あんな怪しすぎるチラシに従うのは余程の物好きくらいなのだから。
「そうだな! ククク……きっと楽しくなるぞぉう! へへへ……ちょっと待っててくれ。今準備するから!」
アラジンは頷くと、抱えていた巨大な筒を一度下ろし、削った木々を器用に組み合わせて作った三脚を地面に立てた。そして巨大な筒の中から、ぴったり収まる筒をもう一つマトリョーシカのように抜き取って、三脚の上に乗せる。
工作用紙などの厚紙で構成された筒はやや斜めに立てかけられ、アラジンはその隣で腰に手を当てながら、人差し指と親指で丸を作り、夜空へ向けて覗き込んでいる。
「ズバリ、天体観測だ。あの広大な星々を眺めて、図鑑にあった星座が本当に実在するのか確かめる! 日々ヒトに奉仕する為の授業よりよっぽどワクワクするし楽しそうだろ!?
これはその為にこしらえた『天体望遠鏡』! ま、まあレンズとか込みで有り合わせでトンテンカンやった代物だから、そんなに本格的じゃねえけどな!? ショボいとか言うなよ!」
本当は真夜中に実施したいけど、規則も鍵も邪魔だからなァ、とアラジンは望遠鏡の調子を触って確かめつつ、一般クラスのドールにしては珍しい愚痴をぼやく。
「今の時期は、図鑑に載ってることが正確ならおおぐまに見える星座があるらしいから、その観測を目標にしてえな! どうだ、芸術を志す同志よ、やってみないか!!」
「それって芸術は一緒にやればもっともっと笑顔が増えるってこと!? ミュゲ笑顔が増えるならやる! 楽しいのも好き!」
明るい笑顔のドール。
ミュゲイアの大好きな笑顔をたくさん見せてくれるドール。
両手を掴まれれば拒むことはなかった。
ミュゲイアはグッとアラジンに近づいてアラジンに問う。
芸術は笑顔が増えるのかと。喜びが増えるということはつまり笑顔が増えるということ。
笑顔はミュゲイアの大好きなもの。
それが増えるのであればミュゲイアはそれに協力する。
大好きな笑顔をもっと見たいから。
アラジンが大きな筒を降ろして何かを取り出し準備しているのをワクワクと見つめる。
どんな芸術が待っているのか。
アラジンが作ったそれはミュゲイアの思っていたものではなかった。
芸術というのだから絵を描くのかと思えばそうではなく、天体観測であった。
ミュゲイアはそれをしたことがなかったから、分からないのも当たり前である。
「天体観測? ミュゲそれしたことない! 星を見るの? 楽しそう! ……アラジンはミュゲが一緒にそれをしたら笑ってくれる? 幸せ?
アラジンが笑顔になるならミュゲもする! 一緒に頑張ってその星座を見るね! ……しょぼくなんてないよ! すごいよ! ミュゲには作れないもん! アラジンは物作りが得意なんだね!」
ミュゲイアにとってヒトに奉仕する為の授業も好きだった。
笑顔にするのがミュゲイアの仕事だから。
ヒトに奉仕するのはドールとして大切なことだから。
けれど、ミュゲイアはそれよりも目の前のドールが笑顔になってくれるならと一緒に天体観測をする。
アラジンの作った望遠鏡を見ながら、星座を見るという目標にも同意した。
笑顔になってくれるならそれを断る理由なんてない。
「ああ、そうだとも。勿論笑顔になれるとも! オレは自分がやりたいことをやるんだ、ヒトに尽くすとかじゃなくさ! せっかく自我を持ったんだから、顔も知らない誰かのためじゃなくて、自分のために生きたいだろ?
オレは表現者になりたい。まだ見ぬ未知を探りたい。外の世界を知りたい。芸術を学ぶコトはその第一歩だ! オレはオレのやりたいことをやれて、心底楽しくて堪らない! ミュゲイアにもこの感覚が分かってもらえたら嬉しいぜ!」
──彼は、人間にとりわけ献身的になるよう設計されているはずのトゥリアモデルにしては、やけにヒトに仕えることに猜疑的なように見えた。
同時に自分の欲求に正直な性格なのだろうとも。それが元々設計されたが故なのかは、まだ分からなかったが。
「芸術は自由だ、誰に縛られるものでもない。ミュゲイアは何かやりたいことはないのか? 今日は天体観測だけど、お前が芸術クラブに入ってくれるなら、次はお前のやりたいこともやろうぜ! お前の芸術に興味がある!」
「笑顔になってくれるならミュゲもする! アラジンと一緒にミュゲも遊ぶ!
じゃあ、アラジンは外の世界に行きたいの? ヒトに尽くしたくないの? それってとっても不思議。あの子みたい。
……ミュゲは顔も知らない誰かの笑顔を想像するの。ミュゲはね、みんなの笑顔が見たいの。アラジンの笑顔も見たいからミュゲもアラジンと一緒に色々知りたいの! だから、アラジンの笑顔をいっぱい見せて! ミュゲはアラジンの事応援するよ!」
変わったドールだった。
けれど、あの子に似たドール。
人の為に生きるよりも自分のために生きるというのはドールとして良いのかミュゲイアには分からない。
ミュゲイアは自分のために生きてもそれは誰かのためを必要とする。
笑顔が見たいとなると誰かのために尽くすしかないのだから。
アラジンの話はミュゲイアには難しいのかもしれない。
けれど、それを応援することでアラジンの笑顔を見れるのであればミュゲイアはアラジンに賛同する。
「ミュゲのことはミュゲって呼んでよ、アラジン!
ミュゲはね、笑顔が見たいの! ミュゲね、みんなを笑顔にするのが大好きなの! だから、ミュゲは笑顔になることがやりたい! アラジンも一緒にやろ!笑顔になること!」
ミュゲイアのやりたい事を聞かれればミュゲイアは笑顔で笑顔になる事がしたいと言った。
アラジンの手をきゅっと握ってミュゲイアは語る。
笑顔になる遊びがしたい。
笑顔が見たい。
ミュゲイアの芸術とも言えないそれは笑顔である。
「そうだ、もしヒトがオレの尽くしたいと思えるような存在なら、オレはドールとしてキチンと役割を果たすかもしれないが……オレ自身の意志を無視されるような覚えはないからな。って大っぴらに言うと、ドール失格だーって言われるのかもしれないけどな!
こんなでも授業はちゃんと受けてるんだぜ、興味のない分野はグースカ寝ちまうけど。アハハ!」
後頭部をガシガシと掻きながら、大きく口を開けて笑う。アラジンはこのように、快活に気持ちよく笑うドールだった。その感情の発露は目に見えて目まぐるしく、輝かしくも感じられるだろう。
「笑顔が見たい……なるほどな、ミュゲイアの芸術は他人の笑顔か! 素晴らしい志じゃねーか……オレは感動している……! だったら絵を描いてみるのもいいんじゃないか? 人の笑顔を形に残す、そういう芸術の形もヒトの文化にはあったらしいぜ?
ああ。それじゃあ……ミュゲ! 今日はオレに付き合ってもらおうか。と言っても、星座が実際に観測出来るまでは退屈な時間が続くかもしれないけどな……ハハ!」
アラジンは頷いて、望遠鏡の角度を細かく調整した。その上で懐から取り出した更に小さな筒を望遠鏡本体の上部に取り付けた。
「こっちのレンズで目的の星の位置を探るんだ、視野を広めに取れるように設計してるから……まだ時間が早いから見えにくいかもしれないが、多分頑張れば観測出来る……はず! ちょっと待っててくれ。」
アラジンは草地に片膝をついて、望遠鏡の向きを調整し始める。その傍らには彼の私物と思われるノートとペンが置かれていた。
「あははっ! たしかに! あんまりそういうの言ってるとミュゲみたいにオミクロンクラスに落とされちゃうよ! アラジンは変わってるんだね!
……アラジンはどうして表現者になりたいと思ったの? どうして外の世界を知りたいの? お披露目で選ばれたら外の世界も知れると思うよ?」
目の前のドールは大きく口を開いて笑う。
快活に気持ちよく笑うその姿は見ていて清々しく、ミュゲイアとしては分かりやすく笑ってくれるのは嬉しいものである。
「本当に!? アラジンも笑顔好きなの!? 嬉しい! ミュゲの笑顔も芸術なんだ!
絵を? ヒトってそんな事もしてたんだ! 笑顔の絵、ミュゲも描きたい! あっ! ミュゲ、アラジンの笑顔描くよ! ミュゲね、アラジンの笑顔大好きだから!
うん! 星座を見るんだよね! じゃあ、観測できるまでいっぱいお話をしよ! 笑顔になる話! ミュゲもっとアラジンの事が知りたい!」
ミュゲイアの笑顔が見たいというのを素晴らしい志と褒められればミュゲイアは嬉しそうにする。
ミュゲイアのこの行為を褒められたことはあまりない。
それもそのはず、ミュゲイアのこの自己中心的な行動は時に誰かを傷つけてしまうのだから。
それをアラジンが知らないからとしてもちゃんと芸術と受け入れて貰えたのは嬉しい。
ミュゲイアの好きな笑顔というのも芸術なのだと。
「へぇ〜、こんなの作れてアラジンは凄いね! 観測出来たらいいね! もっと暗い時間なら星座っていっぱい見れるの?
……このノートはなぁに? これも芸術?」
星を見るための道具を作れてしまうことにミュゲイアは感心する。
ミュゲイアは星座の位置だとかも星座も全然知らない。
それらが笑顔と関係あるのか分からなくて今まで知ろうともしなかった。
分からないことだらけで先程から質問してばかりになっている。
そんな中でミュゲイアは彼の傍に置かれているノートを指さした。
これも彼の芸術なのかと。
「オミクロンの方も楽しそうだよな、欠陥だなんだと言われてるけどオレもそっちの方が案外居心地いいかもしんねえ! トゥリアクラスにも気のいい友人が居るから、今のところは落第するつもりはねーけど……うん? オレが表現者になりたい訳か?」
アラジンは頻りにファインダーと、実際の天球の外側の景色を交互に見比べながら、望遠鏡の向きを少しずつずらしていく。レンズの直線上、遥か空にはきらきらと美しく瞬く星々が肉眼でも見えているが、この無数の星屑から形を成す星座を特定する作業はやはり難航するのか。少し手間取っているように見えた。
しかし彼は作業の片手間にあなたに応える。
「オレ……最近ドールとして目覚めて、このトイボックスに来たから、まだ新参なんだよ。ヒトに仕えることの重要性も、何を成せばいいかもまだ分かってねえ。
でもな、どうすればいいか迷っていたときに、夢で見たんだ。
──オレはオレの好きに生きろって。誰が言ってくれたのかはもう覚えてないけど、それが√0っていう存在なのは、なんとなく分かった。√0が遂に目醒めたんだって……あーゴメン、夢の話だから曖昧で、上手く説明できないんだ。変なヤツだって思わないでくれよ!?」
言葉に惑いながらも、彼は述べた。自分の行動の意図を。決起となった『√0』──あなたが幾度も聞いた単語であろう。アラジン自身も、それがなんなのかはわかっていない様子だが。
「おー! そのノートは観測した星座を記録しておこうと思って持ってきた! 見てもいいぜ、記録つけ始めたのはつい最近だからあんまり面白味ないかもしれないけどな」
「とっても楽しいよ! オミクロンの子達ね、とっても笑顔が素敵なの! あっ、オミクロンじゃないドール達の笑顔も素敵なんだけどね! オミクロンのみんなはミュゲの大切なお友達なの!きっと、アラジンとも仲良くなれると思う! ミュゲね、アラジンもオミクロンのみんなと仲良くなってくれたら嬉しいな! アラジンの笑顔もとっても素敵だから! 今度、オミクロンクラスに遊びに来てよ! トゥリアクラスのお友達と一緒に! ミュゲね、みんなにアラジンの事紹介するよ!」
オミクロンクラスも楽しそう。
そっちの方が居心地が良さそうだなんて言われたことはなかった。
オミクロンでいい事なんてないというのが普通のドールの考えだ。
ミュゲイアにとってはオミクロンも素敵な笑顔の溢れる場所で大好きである。ミュゲイアがオミクロンクラスとして馬鹿にされるのも気にしたことなんてない。
だって、そこにも笑顔があるから。
ミュゲイアは笑顔でアラジンの周りを嬉しそうにウロウロとしながら語り出す。
大好きな大好きなオミクロンの話。
愛する落ちこぼれ達の話。
「アラジンは新しく来た子だったんだね! だから、ミュゲは同じトゥリアだけどアラジンの事を知らなかったんだ!
………夢? ねぇ、アラジン。√0ってなに? √0は夢なの? ミュゲね、それが気になるの。変なやつなんて思わないよ。だから、ミュゲにも√0のこと教えて?」
ウロウロと楽しそうに踊るようにスキップするような足取りはパタリと止まった。
また、√0。
ミュゲイアの知らない√0。
ミュゲイアがココ最近よく耳にする√0。
ミュゲイアにはそれが分からない。
ミュゲイアにはそれが夢なのかなんなのかも分からない。
目覚めるものなのかも知らない。
アラジンの隣にペタリと座り込んで真っ白の目はアラジンを見つめる。
もう、ノートの事を見るよりもミュゲイアはアラジンの√0という言葉に釘付けだった。
「おお、本当か?! ミュゲがオレをオミクロンの奴らに紹介してくれるんだな! へへっ、嬉しいぜ! あ、だったらそいつら、オレの芸術クラブに入ってくんねーかな? 友達になれるんだったら、一緒に芸術活動してくれる同志も見つけたいんだよな……へへへ!」
だったら今度、そっちに遊びにいく! とアラジンは笑う。オミクロンの寮に他クラスのドールが足を踏み入れることは、本来なら規則で禁止されている。それを彼が知っているか否かは定かではないが、例えどちらだろうと彼のこの様子では遊びに来る方が濃厚であろう。
アラジンは「これか? うーん……ちげえな。これでもない。」と唸りながら位置調整を続けていたが、ふと。あなたの声が真剣味を帯びてこちらに問いかけるものに変わると、一度ファインダーから目を離してそちらに向き直るだろう。
すぐそばに座り込んだあなたを見て、アラジンは真剣に答えなければ、と考えたのか、「うーん……」と思い返すように小さく唸った。
「√0は……夢の中の声なんだ。オレが初めてこのトイボックスで目覚めた日に、頭の中で響き渡った。男のような女のような、子供のような老人のような……色んな声が織り混ざったみたいな声をしていた。
√0はオレに説いた。『人らしく在るべきだ』と。オレ達は作り物だけど、心を殺してはいけない。意志を手放すな、√0を見逃すな。……ヤツはそう言ってた。結局√0の言ってたことの意味は分からなかったけど、オレはその声を聞いて、ヒトに隷属せず自由に生きようって思ったんだよ。……って。これぐらいしか分かんねえんだけど。へへへ…」
「うーん、頼めばきっと入ってくれるよ! アラジンが内緒でオミクロンクラスに来る時はミュゲが手伝うね!」
オミクロンの寮に他クラスのドールが行くのは禁止されているようだが、ミュゲイアもみんなの笑顔を見てもらいたいというのが先行してその事をちゃんと考えずに発言をしてしまった。
しかしながら、目の前のアラジンもかなり乗り気のようで来る気満々のように伺える。
実際のところはどうか分からないけれど、もし来るのならミュゲイアも先生に頼み込むか内緒で入れるように手伝いはするだろう。
「ミュゲはそんな声聴いたことないよ? 目覚めた日から今日までそんな声ミュゲは知らない。
聴けるドールと聴けないドールがいるのかな?
アラジンはそう√0に言われたから自由に生きようとしてるの? でも、人らしくなんてわかんないよ。だって、ミュゲ達はドールだよ? ドールが人らしく在ってもいいの?」
ミュゲイアはアラジンの瞳を見つめながらアラジンの言葉を聞いた。
ミュゲイアは分からなかった。
そんな声を今まで聴いた覚えがないから。
ミュゲイアには分からなかった。
ドールである我々が人らしく在っても良いのかなんて分からない。
ヒトに隷属するべきドールが人らしく在るなんてそんな不思議なことが許されるのだろうか?
ミュゲイアは無知である。
愚かで真っ白な無知。
星の名前も知らないドール。
「うーん、そうなのか? まあ、他のドールに√0のことを話してるヤツは見たことねーし。もしかしたらオレだけ何か設計がおかしくなっちまってるのかもな……でもいいんだ。オレはこれが正しいって自分で分かってるから。
だってオレらには意志がある。感情もあるし、ヒトと同じように痛みだってもってる! 模倣された設計とはいえ、この胸に鼓動だってあるんだぜ。設計者がオレらを出来る限りヒトに寄せたってことは、オレらに『ヒトであってほしい』と願いを込めて作ったのかもしれないだろ?
よく考えてみろよ、ただヒトの奉仕をするだけの人形が欲しいならこんなに精巧な身体構造も、複雑な感情も必要無かったはず。この感情があるのには訳があるはずなんだ、少なくともオレはそう思うぜ。ミュゲはどう思う?」
アラジンは一度手を止めて、歯を見せて溌剌に笑い掛けながら首を傾けた。
さらりとした銀髪を結い込んだ細い三つ編みが垂れ落ちて、月明かりを浴びて仄かに輝いている。アラジンは、自身が欠陥品かもしれなくとも、それで問題ないと考えているようだ。
「……まあ答えなんてなくていい! 感情があるのはヒトの要求に出来る限り柔軟に応えられるようにって事だとも授業で習ったし。
さ、それよりミュゲ。目標の星座が見つかったぜ、お前も見てみるか?」
「ミュゲもオミクロンの子以外で√0の事言ってたのアラジンが初めて! あっ! √0がお披露目の合言葉じゃないってことリヒトに教えてあげなきゃ! きっと教えてあげたらリヒトも笑ってくれるはず!
じゃあ、ミュゲが笑顔のことが大好きっていうのもヒトであってほしくてそうなったのかな? ミュゲ達、ヒトのようであるべきなのかな? アラジンはミュゲがそう思ったら笑ってくれる?」
ミュゲイアは決められない。
笑顔に関わることかどうか分からないと何も出来ない。
他者が笑顔になってくれないと何も出来ない。
感情が分からない。
表情が笑顔しかない。
そんなガラクタがヒトのようになれるなんて思えない。
自分が欠陥品と理解できないドールがなれるとは思わない。
感情があっても共感性がなかったから意味なんてない。
一方通行のものにしかならない。
ただ、このドールといたら自分が分からなくなる。
このドールはミュゲイアに色をつけてくれる。
ミュゲイアに教えてくれる。
月明かりに照らされた彼がやけに眩しくて夜なのに太陽があるみたいであった。
ミュゲイアはその笑顔を見て、ただ微笑む。
相手が笑っているなら良いこと。幸せな事と委ねてただ笑う。
「そっか! 授業ではそうだよね!
本当!? 見たい! みたい! ミュゲも見ていい?」
分からないというモヤモヤはアラジンの星座が見つかったという言葉で掻き消される。
ミュゲイアも目標の星座を見たいと笑顔で伝えた。
「はっきりしたことは言えないけど…きっとそうなんじゃないか? だって笑顔なのは楽しくていいことだろ? オレは出来るだけ楽しいことをいっぱいして笑っていたいし、嫌なことは出来る限りしたくない……これも欲求があれば当然のことだと思うぜ。
ヒトのようにあるべきかどうかは、オレには分からない。ドールならドールらしく生きるべきだという考えだって正しいと思う。
だから自分がどう生きたいかは自分で決めるべきだ、オレはミュゲの考えを戒めて強制したくない。それはミュゲの芸術活動の妨げになるからな! それだけは嫌だ!」
アラジンはさっぱりと言い切って、答えを求めるあなたを煙に巻く。自分で考えて答えを出すこと、自分のしたいことをすること。それが彼の美学であり、すなわち芸術であると言えるのだろう。
あなたが無邪気に星を観測することを望むなら、アラジンは快く望遠鏡の前を空けてくれる。
「いいか? この下側にある細い筒の入口を覗くんだ。ここに接眼レンズが付いてて、対象物の像が……あーいや、とにかく星座が近く見える筈だから!」
あなたは言われるがまま、望遠鏡のレンズを覗き込むだろう。
初めはぼやけて見えたが、確かに遠くにある星々が近くに見える気がする。
無数に瞬く星空の中で、一際強く輝く星が7つ整列しているのが分かった。
「七つの恒星が見えたか? あれは北斗七星と言って、おおぐま座の腰から尻尾を──」
あなたは。
この景色に覚えがあった。
強い既視感を感じる。
アラジンが星座の解析をしてくれているようだが、頭に入ってこない。それよりも、こめかみから鋭く電流が流されたような痛みの方が強く、望遠鏡を覗いていられず前のめりになるだろう。
「──おい、ミュゲ、大丈夫か? ……しっかりしろって!」
焦ったような青年の声で、あなたは我に帰るだろう。
眩む視界の中に、血相を変えた顔色のアラジンが見えた。どうやらまた以前のように白昼夢を見ていたらしい。
「体調が悪いのか? 先生に言っておくか?」
アラジンはあなたを案ずるようにしきりに声を掛けている。
同じ時間帯。
同じ空。
同じロケーション。
丸く切り取られた景色。
見慣れないその景色をミュゲイアは見覚えがあった。
7つの整列する星座が脳裏に焼き付いている。
輝くあの星たち。
鮮明な輝きを。
ズキズキと頭が痛む。
星が弾けて飛ぶように。
忘れていたことを思い出す。
あの時も天体観測をしていた。
『見えるか、ミュゲ! 七つの輝く星が! あれはな、北斗七星だ。今回の目標の星座だぜ、ちゃんと見えたか?』
アラジンの焦ったような声とあの時の声が重なる。
ミュゲイアは目の前のドールを知っている。
手をついて前に倒れたミュゲイアはアラジンを見上げた。
あの時と同じ銀糸の髪と紅い目。
ミュゲイアはズキズキと痛む頭を手で抑えてアラジンを見る。
ぐしゃりと髪の毛を掴んでいるせいで髪の毛はぐちゃぐちゃだ。
「あ"……いだぃ、痛い! ……あ……アラジン、ミュゲおかしいの! ……ミュゲ、ミュゲ! ……知ってるの! ……アラジンのこと! ねぇ、なんで?なんで忘れてたの!?」
思い出した。
あの時もこうやって天体観測をしていた。
あの時もこの星座を観ていた。
二人で?
ちがう、もう一人。
────ブラザー。
ブラザーもいた。
星を見てはしゃぐミュゲイアを見て優しく眺める兄の姿。
あの時も一緒だった。
「……アラジン……は、覚えてないの? ……ミュゲ達のこと、ブラザーのこと。ミュゲ達観たことあるよ!」
アラジンの方へと手を伸ばした。
痛みに目をうるうるとさせて。
口元は笑ったまま。
ミュゲイアはアラジンを見上げた。
酷い頭痛を訴えるように頽れるあなたのそばに、アラジンは支えるように跪く。只事ではない様子のあなたに、見るからに焦燥しているようだ。自然とあなたの背に手を添えて、宥めすかすように優しく撫で下ろしながら、頭を伏せて懸命に声を投げ掛けている。トゥリアらしい、献身的な動作だった。
しかしあなたの朦朧とした言葉を聞いて、彼は長い睫毛を反射的に瞬いていた。どう見ても、それは困惑から来る表情だと分かる。
「オレ? オレを知ってるだって?
覚えてないかって、言われてもだな……オレがこのトイボックスにやってきたのは、つい数日前の事なんだ。だから今はクラスに馴染むのにとにかく精一杯で……。
少なくとも、オミクロンクラスのドールと関わったことはないはずだぜ」
アラジンの言葉は揺るぎない。嘘を吐いているようにはとても見えなかった。
だからこそあなたは果てのない疑問の海にとらわれる。あなたが白昼夢で見たのは、アラジンそっくりの別人だったとでも言うのか。そんなはずは──ないのに。
「他人の空似じゃないのか? それか……夢でも見てたか。オレにそっくりなミュゲの友達、興味はあるけどな!
それより大丈夫か、本当に辛そうだ。今日はサークル活動はここまでにして、寮に帰ろう。送っていくから。」
アラジンはそう言って、あなたに手を差し伸べた。
時間はもう、寮への帰還を促す19時の鐘が鳴る直前だった。あなた方は急いで寮へ向かった方がいいと考えるだろう。
ズキズキと頭は痛む。
また、あの時と同じ白昼夢。
忘れていた思い出が目を覚ますように重たい瞼がゆっくりと開かれる。
ゆっくりと背中を撫でられて熱く動きを増してゆくコアが落ち着いていくような気がした。
小さく深呼吸をして、息を整える。
ぴたりと座り込んでミュゲイアは頭から手を離した。
アラジンから返ってきた言葉は知らないというものだった。
覚えていないのか他人の空似なのか。
そんなはずはないのに。
確かにあの記憶にはアラジンがいた。
なのに、目の前のアラジンは何も知らない。
最近トイボックスにやって来た彼と知り合いという方がおかしな話ではある。
「……そ、そうだよね。ミュゲがおかしいよね。……でも、とってもアラジンに似てたの。ブラザーと一緒に今日みたいに星を観てたんだ。
ありがとう、アラジン。……あのね、アラジン笑って。アラジンが笑ってくれたらミュゲね、落ち着くの。」
差し伸べられた手を取り、起き上がればギュッとアラジンの手を握りしめた。
オミクロンのミュゲイアがおかしい。
オミクロンだからこんな変なことも言っちゃう。
ミュゲはおかしいの?
ただ、わからないミュゲイアはアラジンに笑ってと求める。
ミュゲイアは落ち着きたくて笑顔を求めた。
「ねぇ、また集まれる? また、ミュゲと芸術活動してくれる?」
ミュゲイアはそっと聞いた。
もう、時間はあと少し。
残された時間でまた会うための約束を取りつける。
どうやら、少しずつあなたの呼吸が整ってきたらしいことを確認すると、張り詰めていたアラジンの表情も緩み、肩の力は抜けていく。
あなたの手をしっかりと掴んだ彼は、グッと力強くその身体を引き上げて、助け起こす。共にテラスの中央で立ち尽くしながら、アラジンは優しく微笑んだ。それはトゥリアらしい、包容力のある甘やかすような笑顔だった。
「──当たり前だろ! ミュゲはもうオレの同志だ。また集まって、絶対に芸術活動しようぜ!
なあ、今度はお前の言ってたブラザー? ってやつも連れてきてくれよ。そいつも天体観測が好きなら、今度はオレとも一緒にやろうぜ。秘密の芸術クラブに入ってもらいたい!
……駄目か?」
アラジンは首を傾けて、あなたの返事を期待したように待つ。その瞳は鮮烈なブーゲンビリア。あなたの夢で見た彼と同じだった。
目の前のドールは甘やかすような優しい笑顔を浮かべてくれた。
ミュゲイアを包み込むようなそんな素敵な笑顔。
ミュゲイアもそれを見て安心する。
夢に浸るように、ふやけてしまうように、甘い笑顔に浸りきる。
大好きな笑顔。大好きで大好きで堪らない笑顔。
ミュゲイアの大切にしたい笑顔。
「うん! 絶対だよ! 今度はミュゲも何か持ってくるね!
……ブラザーも? アラジンがそう言うならミュゲ今度誘っておくね! ブラザーもきっと来てくれるよ! みんなで天体観測した方が楽しいもんね!」
鮮烈なブーゲンビリアに見つめられてミュゲイアはニコリと微笑んだ。
甘い飴玉のような白蝶貝の瞳はめいいっぱいにアラジンを映し込む。
ブラザーも一緒に見たいと。
ミュゲイアの好きな笑顔が増えればそれは嬉しいことだから。
あなたの知人も誘って連れてきてくれる。その色良い返事にアラジンは表情を華やがせて、なんとも嬉しそうに笑って、「ありがとう!」と大きく頷いた。
「どんなやつかは分かんねえけど、ミュゲの知り合いで天体観測したことがあるんなら、きっと素晴らしい芸術活動が出来るだろうな。次の活動が楽しみだぜ!
それじゃあミュゲ、寮まで送るぞ。体調については念のため先生に相談しておけよ? この身体は何が不調になるかいまいち分からねえからな。」
そう言って、アラジンはあなたをオミクロン寮へ続くエレベーターホールまで送り届けてくれるだろう。
オレはここまでだから、と彼は暗い学園内に負けないほど活発に手を大きく振り、トゥリア寮へ続く昇降機の方へ消えていく。
あなたは彼に対する疑問は数多くあれど、今日のところはそのまま寮に帰ることになるだろう。
《Rosetta》
その日、ミュゲイアと出会ったのはほんの偶然だった。 特筆すべきこともない日だ。何か行動をした後だったかもしれないし、何もない日だったかもしれない。
自分のベッドがある部屋──少女型ドールたちの部屋に、ロゼットは何の気なしに入室した。
相手が先に部屋にいたのか、それとも後から入ってきたのか。
どちらにせよ、彼女は「や」と言って手をひらひらさせるだろう。
ミュゲイアの大好きな、口角を上げた表情を浮かべながら。
ミュゲイアは昨日のこともあってか今日は自分のベッドがある少女型モデル用の部屋にいた。
ぽわぽわと笑顔のことしか考えていない顔でミュゲイアは自分の持っているノートに棺のベッドを机替わりにして絵を描いていた。
ミュゲイアなりの芸術活動である。
分かりやすくあのドールの影響を受けているミュゲイアはいつもの変わらぬ笑顔を浮かべたままに鉛筆を走らせた。
拙い絵は幼子の書いたもののようで描かれているのはアラジンらしきドールだった。
ニコニコとわかりやすく半円を書く目元と半月のように縁取られたニコニコスマイル。
その周りにはキラキラの星を描いていた。
絶賛芸術活動中のミュゲイアは部屋に入ってきた一人のドールに気がつくのがやや遅れてしまった。
「や」と言う言葉が聞こえてから顔を上げれば目に入ったのは真紅の薔薇のような髪の毛のドール。
顔に浮かべているのはミュゲイアの大好きな笑顔だった。
この子も愛すべきオミクロンの一人。
ミュゲイアはパタリとノートをその場に置いてから地べたに座るのをやめて立ち上がり、目の前のドールの元へと駆け寄った。
「ロゼットだ! こんにちは! 今日も元気? ロゼットは今日も素敵な笑顔だね!」
《Rosetta》
「元気だよ。ミュゲイアにそう言ってもらえると、私も嬉しい」
何を描いていたのかは知らないが、それなりに楽しいことをしていたのだろう。
彼女の頭を優しく撫でながら、ロゼットは返事をする。
見た目こそ可愛らしいが、相手は昔からオミクロンにいる先輩ドールだ。あまり子ども扱いをするべきではないが、そんなことは考えてもいないのだろう。
「何をしていたの? よかったら、私にもさせてほしいな」
ドールとして何かしなければいけない、という使命感を抱きているわけでもないし。
時間は腐るほどあるのだから、共に何かをするのも悪くないだろう。
「えへへっ! ミュゲもね、ロゼットの笑顔見たら嬉しくなるよ! だからもっと笑って!」
彼女に頭を撫でられれば柔らかく目を細めて心地よさそうにする。
頭を撫でられるのは嫌いじゃない。
撫でるのも嫌いじゃない。
どっちにもその行動には笑顔が伴うから。
ミュゲイアは笑顔が大好きだから、ロゼットにもっとを求める。
もっと、もっと、笑って欲しい。
ロゼットはもっと笑ってくれる子だから。
「えっとね、絵を描いてたの! ちょっと待ってね。
じゃじゃーん! どうかな! ちゃんと笑顔に見える!?」
何をしていたのかと聞かれればベッドの上に置きっぱにされたノートを取ってきてから先程まで描いていたイラストのあるページを見せる。
拙いその絵は上手いとはお世辞にも言えないものであり、やけに気持ち悪いほどの笑顔の主張されたイラストである。
周りに描かれたキラキラのお星様たちにもなぜたニコニコスマイルを描いている。
なんとも子供が描いたようなイラストだ。
《Rosetta》
笑顔らしい笑顔を薄く浮かべることこそできるが、あまり言われてしまうと嘘臭くなってしまう。
事実、笑顔を“深めた”ロゼットの表情は芝居がかったものになっていた。
だがまあ、きっと相手も気にしないのだろう。間違いなく、このドールは笑っているのだから。
「へえ、すごいね。お星様がたくさんあるけれど、これは夜に描いたものなの?」
絵の技巧についてはよくわからない。だから、とりあえずそれが関係ないところから話してみることにした。
オミクロンの生徒──では、ないのだろう。特徴には見覚えがない。
「新しくできたお友達?」なんて、耳に髪をかけながら問いかける。
もっと笑ってと頼めば目の前のドールは芝居がかった笑顔を見せた。
操り糸で吊るされたような笑顔であるけれど、ミュゲイアはそんなの気にしなかった。
笑顔は笑顔だから。
それ以上でも以下でもないから。
笑顔ならそれでいい。
その笑顔の裏なんて見ない。
それがミュゲイアだから。
何も気にすることなくミュゲイアは満足気に笑う。
とても素敵と言わんばかりに笑顔に対して笑顔で返した。
「そう! 天体観測! これがニコニコの星! こっちはスマイルの星! それでね、こっちの7つの星は北斗七星って言うの!
うん! ミュゲの同志なの! アラジンって言ってね笑顔が素敵! ちょっと変わったドールだけどとっても素敵な子なの!」
絵のことで質問をされればニコニコと答えた。
星を一つ一つ細い指で指しながらありもしない星の話をする。そして、アラジンに教えてもらった星の話。
七つの列なる星のお話。
ミュゲイアとアラジンが見たあの星座のこと。
そして、アラジンのことを聞かれればノートに向けていた視線をロゼットに戻してからにっこりと答えた。
大切な同志と。
《Rosetta》
わざわざ星など見上げたこともないから、ロゼットは「へえ」とだけ返事をした。
ニコニコの星と、スマイルの星は実在するもののようには見えない。
しかし、北斗七星はやけに具体的な名前だ。これはきっと実在するものなのだろう。
「アラジン……って子は、聞いたことがないね。でも、ミュゲの同志ならいい子なんだろうね」
友達も同志も、ロゼットにとっては区別し難いものだ。
敵意がなく、友好的な存在なのであれば、どちらも味方としてカウントできる。友達だろうが同志だろうが、呼び名が違うだけでそう違いはない。
ミュゲイアだってきっとそうだろうから、彼女は適当なことを抜かした。
「そういえば、私も秘密の仲間を作ったんだ。先生には言っちゃ駄目みたいなんだけど……知りたい?」
ミュゲイアもロゼットと似たようなもので、今まで星なんて見上げたことはなかった。
星に笑顔なんてないから、あまり興味を持てなかった。
けれど、それが変わったのも例の同志と知り合ったから。
同志と真似して呼んでいるけれど友達と同じとしてでしか思っていない。
同志も友達も笑顔なら一緒のものである。
そこから笑顔が溢れるなら変わりないもの。
同志であれお友達であれミュゲイアはいっぱい作りたいものだから数いて困ることもない。
「最近トイボックスに来たんだって! うん! とっても笑顔が素敵だよ! キラキラなの! 二カッて笑うの! こんな感じ!」
笑いながらミュゲイアは答えた。
とってもいい子でとっても笑顔の子。
笑顔が素敵な新しいお友達。
新しい笑顔。
アラジンの笑顔を真似するように真っ白な歯を見せてミュゲイアは笑って見せてからロゼットの言葉に耳を傾けた。
「なになに〜! 知りたい! 秘密の仲間ってどんなの? わかった! 笑顔の仲間でしょ!」
秘密のお話。
先生には内緒のお話。
それを笑顔の話と思い込んでミュゲイアは茨に触れる。
《Rosetta》
「新しい子なんだね。もう仲良くなれるなんて、ミュゲはとってもすごいよ」
年齢で言えば逆だろうに、姉のような口調でロゼットは告げた。
誤解されやすい彼女とは違い、ミュゲイアは真っ直ぐ相手に向かっていけるドールだ。
新しく素敵なものを見つけて、同志にもなったことを、「すごい」と思ったのはお世辞でも何でもない。
「トイボックスの先輩だから、色んなことを教えてあげなきゃね。門限のこととか、学園の構造とか……お披露目のこととか」
満面の笑みから、活力が抜ける。
言われた当初は呑み込めなかったが、冷静になってから振り返ると、中々おぞましいことを言われたものだ。
銀の目を眠たげに細め、「笑顔の仲間じゃないんだ。残念だけど」とロゼットは呟いた。
「ミシェラがお披露目に行っちゃったでしょう? あれ、本当はヒトにお迎えされたんじゃないらしいの。詳しくはリヒトかフェリシアに訊くといいよ」
ぽそぽそと、叱られた子どものように口にする。
聞き取れたかは分からない。だが、リヒトとフェリシアが何かを知っているのは間違いないわけだ。
「困ったら、彼らに話してみるといいよ」と付け足す頃には、ロゼットもすっかり満面の笑みに戻っていた。
「えへへっ! 今度ロゼットにも紹介するね!
そっか! ミュゲの方がお姉さんなんだ! ……あれ? ロゼットどうしたの? 笑って?」
いつだってロゼットはミュゲイアにとって姉のように言葉をかけてくれる。
ミュゲイアのお願いを沢山聞いてくれて、受け止めてくれる優しい存在。
オミクロンクラスに来たのはミュゲイアの方が先ではあるけれど、それでもロゼットの方が落ち着きがあって姉のようである。
優しい優しいお姉さん。
そんな彼女が満面の笑みで話してくれてミュゲイアもニコニコと話を聞いていたけれど、ふと笑顔が消えた。
いきなり緞帳が落とされたみたいに。
暗転するように、さっきまでの笑顔はどこかえ消えて、ドクンと一際大きくコアが燃える。
「……え? えっと、じゃあミシェラはどこに行っちゃったの? でも、お父さまはミシェラもお披露目に選ばれたって言ってたよ? ……あれ? じゃあ、なんでお父さまはあんな事言ったの? ミュゲ達に嘘ついたの? 意地悪してるの? でもお父さまは笑ってたよ。」
ポソポソと語られた内容はなんとも信じ難いような事であった。
ミシェラがヒトに迎えられたのでないというのなら、ミシェラはどこへ行ったのか。
あの子はお披露目に選ばれたのに。
唯一の大人であるお父さまもそう言っていたのに。
ミュゲイアの頭の中はグルグルと混ぜられた。
笑ったままの口元を触る。
やっぱり、ミュゲイアは笑っている。
そして、お父さまも笑っていた。
ドールがヒトに迎えられる以外の道なんてミュゲイアは知らない。
だって、今までなんの疑問も持ち合わせていなかったから。
訳の分からないミュゲイアはブツブツと呟くように言葉を返した。
飲み込めないというようで、笑いながらロゼットを見つめた。
《Rosetta》
どこに行ってしまったのかは、ロゼットにも分からない。
実際に見ていない彼女では読み取れなかった、という方が正しいだろう。
「ミシェラにとっては嫌なことでも、先生にとってはいいことだったのかもしれないよ。秘密にしてって言われたから、先生には訊かない方がいいかもしれないね」
今まで植え付けられてきた常識を否定する、というのは非常に難しい。
ロゼットはまだ作られて日も浅いため、「そういうことだったのか」と受け入れられたが、ミュゲイアもそうかはまた別の話だろう。
「ごめんね」
何について謝っているのか、自分でも分からないまま。赤毛のドールは苦笑しながら口にした。
「……そうなんだ。でも、お父さまが笑ってるなら何か理由があるのかも! いい事ならミシェラは笑ってたかも! だって、ミュゲも笑ってるし、ロゼットもわらった! ……お披露目に笑顔はあるよね? なかったら、ミュゲすっごく残念だよ。」
クルクルと頭は動く。
お披露目以外の何かがあるのかもしれない。
それこそ、√0だとか。
ミュゲイアには分からないけれど、お父さまにとってはいい事で笑っていたのならミシェラも笑っているかも。
それもいい事なのかも。
だって、ミュゲイアは笑っている。
ロゼットもごめんねと言いながら笑っている。
そうやってまた自分の感情を誤認する。
実際に見ていないからなんとでも言えてしまう。
ただ、ミュゲイアが怖いのはお披露目に笑顔がないこと。
ヒトにお迎えされなかったのは何かのアクシデントだとしても、笑顔がないなら嫌だ。
笑顔がないからミシェラはヒトのところに行かなかったのかも。
ねぇ、お披露目に笑顔はありますか?
ミュゲイアはただそれが気掛かりだ。
笑顔がないならお披露目は嫌。
笑顔のないところに行くのは嫌。
《Rosetta》
「そうだったらいいね。話してくれたリヒトは、全然笑顔じゃなかったけど……」
気分を下げるようなことを言ってはいけない、とは思っている。
しかし、口は頭に反して勝手に回る。
何故こんなことを口走ってしまうのだろう。ミュゲイアを悲しませることは、ロゼットの本意ではないというのに。
「お披露目について、調べてみるのはどうかな。調べてみたら、みんなが笑顔になれそうか分かると思うよ」
ね、と小首を傾げる。
結局、最終的に判断を下すのは自分の心なのだ。
誰が何と言おうと、笑おうと笑うまいと、真実は間違いなくどこかに存在する。
「もしよかったら、一緒に調べよっか。ついでに探したいものもあるの」
ミュゲイアの手を握る。安心させるように、ぬくい両手で温度を揉み込むように。
ロゼットは、今度こそ美しい笑みを湛えてみせた。
「……リヒト、笑顔じゃなかったんだ。ミュゲ、リヒトが笑顔じゃないのヤダな。」
お披露目がどうかは分からなかったけれど、その話をしてくれたドールは笑顔でなかったようだ。
それをミュゲイアは残念に思った。
リヒトには笑っていて欲しい。
どのドールに対しても思っていることではあるけれど、笑っていてくれないと困るのだ。
笑顔しか見ていないから。
笑顔しか欲しいと思えないから。
笑顔を作れるドールが笑顔じゃないのはとても悲しいことである。
「そっか、ミュゲが調べればいいんだ! そうしたら笑顔かわかるもんね! ロゼットは頭いいね! 天才!
ミュゲも気になることあるし、いいかも!
ロゼットが手伝ってくれるなら嬉しいな! 秘密の仲間っていうのも誰がいるのか気になるし、ロゼットは何を探したいの?」
分からないなら調べればいい。
その答えは単純明快で、分からないなら見ればいい。
箱の中身が何かわからないならそれを自分で開ければいい。
ピンときたようにミュゲイアはその提案を飲み込んだ。
分からないことは分かればいい。
ミュゲイアの手を握ったその手は繊細で温かくじんわりとそれが伝わってくる。
ロゼットの笑顔を見て、ミュゲイアもこの選択は間違っていないんだと思い込み微笑んだ。
《Rosetta》
どうやら提案はお気に召したらしい。
はしゃぐミュゲイアを見て、ロゼットは安堵した。
落ち込み続ける相手への対応など知らないし、先生に秘密にしていたことがバレては怒られてしまうかもしれない。
「そうだねえ」なんて返しつつ、彼女は薄ぼんやりとした記憶の輪郭をなぞった。
「秘密の仲間は、リヒトとフェリシアだよ。あと、プリマドールだった子たちも何か知ってるみたい。私は花を探したいんだけど、あんまり上手く思い出せなくて……思い出したら、またみんなにお願いするよ」
ミュゲイアの手が温かくなってきたあたりで、ロゼットは手を離す。あまり触っているのも申し訳ないからだ。
これ以上伝えられることも思いつかないし、あと数個ほど質問に答えれば、彼女は自分のベッドに戻るだろう。
「えっ、ストーム達も知ってるの? 割と知ってる子多いんだね! プリマドールだった子達は秘密の仲間じゃないの?」
秘密の仲間というのは楽しそうに思えてしまう。
好奇心をくすぐるというか、冒険しているような探検隊のようなそんな感じになる。
元プリマドールであるあの4人も何か知っているらしいと言われればミュゲイアは目を見開いた。
もしかしたら、このお披露目が危ないという話はもうオミクロンクラスにじんわりと広がっているのかもしれない。
呑気なミュゲイアが知らなかっただけで。
手を離されてもミュゲイアは何も言わなかった。
自由になった手は何をするでもなくただ垂れている。
《Rosetta》
「そうみたいだね。でも、プリマドールの子たちは違うところに行っていたみたいで……はっきりとは知らないのかな。嫌なものを見たのは、多分同じだと思うけれど」
ソフィア、アストレア、ストーム、ディア。
彼ら彼女らとは、お披露目以降話をしていない。
それがいいことなのか、悪いことなのかは、正直まだ判別がつかなかった。
「変な話ばっかりしてごめんね。ミシェラがお披露目に行ったばっかりで、みんな浮き足立っちゃってるのかも。私は一旦寝るよ」
手を離したロゼットは、相手の煩悶などまるで気付かないようだった。
何も言われなければ、さっさと自分の棺桶に向かい、「じゃ」と横になってしまうことだろう。
それからは、安置室のような静寂が残るばかりだ。
「そうなんだぁ。ミュゲもプリマドールの子達と喋れてないけど、なんか忙しそうだよね!」
元プリマドールであるあの4人も何かを知っているとしても、ミュゲイアにはあまり食い付きのない話に思えてしまった。
そうなんだとしか言えないところがあり、みんなで何かをしているのかなんなのかも分からない以上どうとも言えない。
正直、笑ってさえいてくれればどんな境遇にあっていてもいい。
極論のような話ではあるのけれど、ミュゲイアは笑ってさえしてくれてたら良いのである。
ミュゲイアだって笑うためにお披露目を知りたいのだから。
「ううん! ミュゲはロゼットが笑ってくれたらそれでいいよ!
おやすみ、ロゼット!」
ミュゲイアは眠るという彼女のことを止めはしなかった。
おやすみと言葉を返してから、ミュゲイアは先程と同じように芸術活動をし始める。
眩い日差しに包まれてミュゲイアは太陽に笑顔を送った。照りつける日差しに目を細めてしまうけれど、ミュゲイアは晴れの日が大好きだ。どんより曇り空よりも晴天がいい。晴天はいつもよりも周りが明るく見せてくれるシャンデリア。その光に包まれてドールたちの笑顔がよく見える。艶やかな真珠の肌に日差しが反射してダイヤモンドのように煌めき、ミュゲイアの銀糸の髪の毛はその白さを純白さをより一層引き立てている。社交界でサテンのドレスが煌めき靡くように、フリルが肌を撫でるように2つに結った綿毛の髪の毛が踊るように揺らめく。ミュゲイアの足取りに合わせて、ゆっくりと大振りに。
ロビーに向けて踊るように軽い足取りでミュゲイアは歩いていく。行き交うドール達の笑顔を見てミュゲイアも笑顔を浮かべながら。今日もいい笑顔がいっぱい咲き誇るのを心待ちに。
あなたはオミクロン寮から昇降機に乗って学園の大広間に辿り着く。あなた自身が輝き放つ太陽であるかのようなその爛漫さとは違って、このロビーはいつ見てもどこか薄暗い。窓が無いので採光は等間隔に設置された燭台の灯火のみ。火に浮かび上がるようにぼんやりと照らし出される通路は、壁も床も赤一色で統一され、気品は感じられど健全な学園らしい活発さは感じられまい。
行き交うドールズも俯いて教本を眺めているか、小難しい授業内容について談義しているか、あるいは足早に次の授業場所に向かっていくかのいずれかで、ロビーはドールズの交差する中央広間というには、嫌に閑静な空間であった。
そんな中、あなたはロビー正面の広い壁に設置された掲示板の──具体的にはその前に立ち尽くした一人の少女の姿が目に入るだろう。
周囲の赤よりも更に色が深い赤毛に、華奢な肢体。赤いスカートタイプの制服を規定通り纏ったドールだ。彼女は掲示板を親の仇かのように睨め付けており、その歯は唇に軽く食い込んでいる。ともすれば柔い皮膚を裂きそうな様子は、とてもあなたの愛する笑顔とは程遠いと言えよう。
学園のロビーは外がどれだけ明るくても変わらず薄暗い。窓はひとつもなく、小さな灯火だけの空間にはぼんやりと照り出された真っ赤な道。壁も赤色。気品は感じるけれど、明るさが足りない。ロビーはドールたちが行き交うけれど、誰とも目が合わない。俯いていたり急いでいたりで目も合わせてくれない。声をかけても返してくれたりくれなかったり。そんな中で目に付いたのは掲示板の前に立ち尽くしている少女型ドールであった。鮮明に焼き付けるような真っ赤な林檎の髪の毛。花の茎のように細い身体。そんな儚さも思わせるドールはそれに似合わないくらいに顔を歪めていた。
「ねぇ、どうしたの? そんなにグッて顔したら可愛い顔が勿体ないよ! 笑って! 笑って!」
そのドールの傍まで歩いていけば後ろからつんつんと肩に触れてから相手の顔を覗き込むようにして話しかけた。
白い指先が、立ち尽くす少女の華奢な肩をそっと突くと。少女は大袈裟なぐらいにその肩を跳ねさせて「ヒッ、え……!?」と震えた小さな悲鳴を零し、飛び退くようにあなたを振り返る。
困惑を表情に浮かばせた彼女は、ラズベリー色の瞳を揺らして、じっとあなたの可愛らしい笑顔をそこに写し込んでいる。瞬きを幾度かしてから、少女はジリジリと後退し、それから目線を逸らしつつ小さな声で呟いた。
「だ……誰……? な、何で急に笑ってとか言うの……? いきなり言われても、わ、笑えないよ」
困る、と言いながら、本当に困った顔で彼女は足元をじとじと見下ろした。彼女はあなたと違って陰気そのものと言った様子であり、彼女の周囲にだけ雨雲が立ち込めているようにも見えた。
お腹の前で組んだ手を不安そうに揉み込んでいる姿が印象的であった。しかしすぐにはっとすると、目線は逸らされたままであるが、彼女はまた口を開く。
「えっと……あ、あ、あなたは、だ、誰……」
華奢な花の蕾を突くように触れれば、蕾はビクリと揺れる。
それと同時に小さな悲鳴が零れる。高めの声のか細いもの。
振り返って目に飛び込んだのはラズベリー色の瞳。クリッとした宝石は困惑を浮かべてこちらを見ている。その目には確かにミュゲイアの三日月が映り込む。
ジリジリと後退されれば、その間を埋めるようにミュゲイアも前に進む。
「え? だって笑って欲しいから! きっと貴女の笑顔も素敵だと思うの! ミュゲね、貴女の笑顔大好きだよ!
……あぁ! ミュゲのお名前はミュゲイア! オミクロンクラスのミュゲイア! ミュゲって呼んで! 貴女のお名前は?」
ジリジリとそのラズベリーを詰み取ろうとするように、ミュゲイアは近寄る。笑って欲しいことに理由なんてない。しかめっ面よりも笑顔がいいから。破裂しそうなほどの真っ赤な顔より笑顔がいいから。笑顔はとてもいい事だと決まっているから。不安そうに揉みこんでいる手を取るように手を伸ばした。きっと、何もされなければそのままその真っ白な手に手を重ねて握りしめて、自分の方へと少し引っ張るだろう。ガブリと食べてしまうみたいに、ラズベリーの瞳を見ながら。
わざわざ確保した距離を、迷わず一歩踏み出して詰められてしまい、彼女は呆気に取られている。直ぐ目の前に至るあなたの目を灼かれそうになるぐらいの眩ゆい笑顔に、少女ドールは僅かに目元を顰めながらまた一歩下がって、背をぺっとりとロビーの壁に引っ付けてしまった。
「わ、笑ったことないけど、あなたの前で……。……う、うぅ。よ、よく、分からない……わたしの笑顔を見ることに、あなたに何のメリットがあるの? 行動の意図がまるで掴めない、やっぱりわたしはコミュニケーション能力が欠落しているんだ、あ、あぁ、あ……。
……あ、う、オミクロンのひと、なの? ……あぁ。だったら、あなたも欠陥品なんだ。わたしがおかしいのかと思った、えへ、へへ……だったら理解しなくてもいい、よね。……わたしはグレーテル。デュオクラスの、落ちこぼれ……面汚し……なの……」
グレーテルと名乗った少女は、ずっと自分の足元、革靴の先を見つめてあなたの顔を見ないようにしながら、つっかえつっかえに名乗ってみせた。自分への徹底的な卑下に入り混じるように、オミクロンクラスへの差別と見られる失礼な発言も含まれているが、彼女は特段気にしていないようだ。
手を取られれば、ヒ、とか細く悲鳴を零して更に縮こまる。その手を解こうと弱々しく力を込めようとしながら──グレーテルはそこでようやく、あなたの顔をきちんと見た。
「……あ。あなた、もし、かして……前にヘンゼルに話を聞きに来た、ふ、ふわふわの子……ブラザーさんと一緒だった、よね……」
とうとう目の前の少女ドールは壁にぺったりと背中をつけてしまった。それでもミュゲイアはただ笑っている。
ただただ、はち切れんばかりの笑顔を目の前のドールに向けていた。
この少女ドールはなよなよとたどたどしく喋っており、何となく同じオミクロンクラスのカンパネラを思い出す。あの少女ドールもこの子と同じように控えめで月の満ち欠けのように言葉を紡ぐ。
「メリット? 笑顔を見たら幸せになるでしょ? ミュゲね、みんなの笑顔を見るのが大好きなの! 笑顔は幸せだから!
あっ! 笑ってくれた! ミュゲがオミクロンだとグレーテルは笑ってくれるんだね! グレーテル素敵な名前! 落ちこぼれなんかじゃないよ!」
全く目線は合わせてくれない。
革靴と話すように下ばかりを見ているグレーテルの顔を覗き込むようにミュゲイアは話しかけた。
笑顔を見たら幸せになる。それはきっとメリットだ。笑顔になることのメリット。
笑顔は幸せを運ぶ。
笑顔は周りを幸せにする。
花が咲けば皆が笑うように、笑顔が咲けばみんなも笑う。
ミュゲイアがオミクロンだと聞いて笑ってくれたのを見て、ミュゲイアは嬉しそうにする。
見下されているなんて気にもせずに、ただ笑ってくれたことに喜ぶ。
その手を解こうと弱々しく力を込めるグレーテルのことなんてお構いなしにミュゲイアは手を離さない。
トゥリアの柔い力でキュッと握りしめて離さない。
そこでやっとグレーテルはミュゲイアの顔を見てくれた。
コロりとしたラズベリーがミュゲイアを見つめる。
「……え? ブラザーと? 何の話? ヘンゼルってだぁれ? ミュゲはブラザーと一緒にヘンゼルって子に話を聞きに来たの? 何の話? ミュゲ知らないよ?」
グレーテルの言葉にミュゲイアのグレーテルの手を握る力が緩まる。
見に覚えない話にミュゲイアは戸惑って、その事を思い出そうとする。
思い出すことができるかは分からない。
だって、覚えていないから。
「うん、安心した……わたしね、ヘンゼルとお揃いなんだ……自分よりも劣っている人を見ると安心するの……け、欠陥品だから、オミクロンのひとぐらいしか、見下せないけど。それと見た目だけ、わたしがヘンゼルの双子ってことを証明する、だ、大事な……。
……あ、こ、こう言うこと言ってるからわたしはダメなんだ。でも共通点、捨てたくない……捨てたくないよ……あ、へ、ヘンゼルはわたしの大切な弟……わたしのみじめで、可哀想で、救いようのない何をやってもダメな弟……わ、わたしの双子だから、駄目な子なの……ふ、ふふふ……」
グレーテルは言葉を出すこと、対話する事に常に怯えているが、一度話し始めるとそれはもう止まらないようだ。自分の卑下に始まり、エンドレスに続く他者を下げる言葉。挙げ句の果てには大切と宣った口でその弟のことも貶していく。自分のせいでという呵責付きではあるが。
「前に……き、来てたでしょ? ヘンゼルのところに……あなたも、わ、忘れちゃったの……? 本当にどうしようもないんだね、わたしより、えへへ……うんと……ブラザーさんとミュゲイアさん……開かずの扉について、話を聞きに来てた、よね……?
……怪物がいるって噂の。
で、でもそんなのは、た……ただのデタラメだよ。……ヘンゼルも、そんなのに気を取られるから、苦しむ羽目になってるの……。
……うぅ。怪物も、あの魔女も、何もかも消えて無くなればいいのにな……」
ツラツラと漏れる言葉は暗いもので、ロビーの真っ赤な空間にポトポトと零れていく。
ミュゲイアはその言葉の雨にうたれてただ話を聞いた。
後ろ向きでじめっとした雨の日のような話を。
「うんうん! じゃあグレーテルはミュゲの前なら笑えるんだね! ならいっぱい笑って! オミクロンのミュゲの前でいっぱいいっぱい笑って!
グレーテルはヘンゼルのこともダメな子って思ってるから大切なの? ヘンゼルの前なら笑える? ヘンゼルの話なら笑ってくれる? グレーテルはダメな子を見ると幸せになるんだね! それならミュゲはグレーテルの話いっぱい聞くよ! グレーテルの素敵な話いっぱい聞きたい!」
太陽のように笑った。
ミュゲイアは曇り空に差し込む太陽のようにグレーテルを見つめて笑った。
グレーテルが自分のこともヘンゼルのことも卑下しているのなんて気にせず、それで目の前のドールが笑うならどうだっていい。
笑ってくれているならそれは幸せなこと。
幸せなことならミュゲイアはただ笑う。
グレーテルの言葉を受け入れて笑うだけ。
「ごめんね、ミュゲ忘れちゃったみたい!
開かずの扉もミュゲわかんないな、ヘンゼルに聞けば分かるかな?
怪物? 怪物がいるの? 魔女もいるの? 開かずの扉には沢山いるんだね! グレーテルは怪物と魔女が消えてくれたら笑ってくれる?」
開かずの扉。
怪物。
そんなものをミュゲイアは覚えていない。
ヘンゼルのことだってそう。
ブラザーと聞きに行った覚えもない。
けれど、怪物と魔女が消えればグレーテルが喜んでくれるならとミュゲイアは言葉を紡ぐ。
にっこりと純真に笑って、海の底の魔女みたいに言葉をかける。
全て消してしまえば笑ってくれる? なんて、天使の皮を被った山羊は囁く。
「…………うぅ」
グレーテルは今まで歪に口角を緩めて、背筋が冷たくなるような悪趣味な笑顔を浮かべていたが、それに対してあなたがあまりにも邪気のない満開の笑顔で、こちらの言葉を全て肯定するように頷いているために、居心地が悪そうに背中を丸めた。こういうどうしようもない性格のグレーテルは、漂白されたシーツのような無垢さを浴びると、まるで自分が後ろ指を刺されて批判されているような被害妄想に駆られてしまう。彼女は批判どころか全てを肯定しているのに、その肯定に息苦しくなるのであった。
「怪物も、あの魔女も、ヘンゼルにはいらないの。じ、邪魔なの。だからお姉ちゃんが何とかして、あ、あげたい、のに……。
……ヘンゼルは怪物の話をするの、嫌がってる。どうせ信じられないし、嗤われるから。ブラザーさんが話を聞きに行く、って言っていたけど……どうなったのかな……結果を聞く勇気も出ない……わたしってダメな子……」
「あれ? グレーテルどーしちゃったの? 笑って! ほらほら! 笑った方がグレーテルは可愛いよ!」
冷ややかな水滴が背筋を撫でるようなそんな気持ちになる笑顔を浮かべていたグレーテルは居心地の悪そうに背中を丸めた。
何故、そんな苦しそうな居心地の悪い声を出すのかも背中を丸めて苦い顔をするのかも、ミュゲイアには分からなかった。
ただ、笑って欲しいだけ。
全てを肯定して笑って貰えないのは分からない。
ミュゲイアが何か悪いことをしたのかと思っても心当たりもない。
「じゃあ何とかしてあげようよ! ミュゲもお手伝いするよ! そうしたら笑ってくれるでしょ?
ダメな子なんかじゃないよ! グレーテルが聞にくいならミュゲも一緒に着いていくよ! それともミュゲが聞いてこようか? ブラザーはね、ミュゲと兄妹ごっこしてるから教えてくれるよ! ……あれ? それでいうとグレーテルとヘンゼルもごっこ遊びしてるの? グレーテルがお姉ちゃん役でヘンゼルが弟役!」
どこまでも後ろ向きに話は続いていく。
暗がりの中にランタン一つで歩いていくように、グレーテルがポツポツと零す雨でランタンの火が消えないようにミュゲイアはただ前向きに言葉をかけてその小さな炎を守るだけ。
照りつける夏の日差しのような笑顔で相手を焦がしてしまうばかり。
ただ、笑うばかり。
笑いながらただラズベリーを見つめてキュッと手を握るばかり。
「──き、姉弟ごっこじゃ、ない!!!!」
あなたの何気ない、悪意すらもなかったであろうその発言に、何より驚いて傷付いたのはグレーテルだった。衝動のままに彼女は、今までの尻すぼみとなりゆくような小さな声はどこへやら。間近でその声を受け止めたあなたが耳鳴りすら覚えてしまいそうな、爆音の声で叫んだ。周辺のドールが足を止めて不審そうにあなた方を見据えながら通り過ぎていく。
グレーテルはしかし、頭を掻きむしって追い詰められたようなうめき声をもらしながら、壮絶な声をこぼす。
「わたしはヘンゼルのお姉ちゃんなんだ……わたしはヘンゼルのお姉ちゃんなんだ……わたしはヘンゼルのお姉ちゃんなんだ……わたしは!! ヘンゼルの!!! お姉ちゃんなんだ!!!!!!
何も覚えていられない出来損ないのくせに、知ったような口を聞かないで!!!!! あ、あんたなんか、さっさと廃棄されちゃえ!!!!」
グレーテルは叫んで、片手を振り上げた。あなたが抵抗しなければ、その手はあなたの頬を打ち付けることだろう。
氷上の硝子にヒビが入るようにその声は高く鳴り響いていく。その声の大きさにコアは一際大きくドクンと音を立て、頭にツンと釘を刺すような耳鳴りがする。
触れてはいけない花に触れてしまったように。
毒が指先をつたって肌を撫でるように。
茨が巻きついて鉄の乙女のように。
その大きな声はミュゲイアを拒絶して、花畑の丘から突き落としてしまう。
何がいけなかったのか、何が悪いのか、ミュゲイアには分からない。
何気ないひと言。傷つけるつもりなんて一切ない言葉。他愛ないお喋り。ただ、笑って欲しかっただけ。
全てを肯定したつもりだった。
全てを受け入れて肯定して笑うのが恋人として母親として正解だと思ったからそうやった。
目の前の少女ドールを怒らせるつもりは一切なかった。
ただ、ミュゲイアにはどうすることも出来ない。
掴んでいた手を離してミュゲイアは笑った。
「え? あ、そっか! そうなんだ! ごめんね! ミュゲ変なこと言っちゃったね! 姉弟ごっこのつもりじゃないんだね! グレーテルはお姉ちゃんだよ! ミュゲわかったよ! 分かったから笑って! 笑ってくれないとミュゲ嫌だよ! ほら、笑って! 笑ったら気分も良くなるよ!」
頭を掻きむしって放たれる言葉はまるでお呪い。
ただ叫んでお姉ちゃんであるということを言い続けるグレーテルに対してミュゲイアは笑ってと言うだけ。
怒らないで笑って。
叫ばないで笑って。
こんな時でもニコニコと顔を歪めてただ笑う。
ただ、笑って、笑って。
笑顔になって。
笑顔に飼われて。
笑顔に抱きしめられて。
笑顔に首を絞められて。
息が出来なくなるほどにミュゲイアは笑顔を求めるだけ。
笑ってくれていないと幸せになれないから。
笑顔は麻薬で媚薬だから。
「…………ねぇ、笑って?」
頭が揺れた。
火花が散って星が舞うように。
乾いた音が終止符を打つ。
熱を帯びた頬が痛い。
脆く弱いミュゲイアは少し叩かれただけでペタリと体を飛ばして倒れてしまった。
ソッと叩かれた頬を撫でる。
白く細い指先は冷たくて、溶けない熱にどろりと溶けてしまいそうで、そのまま指先はミュゲイアの唇をなぞる。
いつもと同じ口角の口元。
幸せな口元。
やっとグレーテルの方を見上げたミュゲイアは縋るように手を伸ばす。
ただ、笑ってと。
その笑顔はまるで絵画。
額縁のない絵。
ギリシャ彫刻のように狂いのないもの。
ただ、ギョロっとした白蝶貝がグレーテルを見つめるだけ。
ねぇ、笑って。
「は……はーーっ、はあっ……」
頬を勢いよく引っ叩かれ、人知れず瓦解する古城のようにしめやかに崩れ落ちていくあなたを前に、グレーテルはどす黒いベリーを幾らでもかき混ぜて煮詰めていくような、ぐるぐると焦燥した瞳を揺らがせた。荒い息を吐いて、肩を上下させている。
頬を張った手が痺れて痛むのか、彼女の指先は小刻みに痙攣していた。
「あ、あ、あなたが、悪いの……あんな酷いこと、よ、よく口に、出来るよね、ああ、き、きっとあなたも、ま、魔女、なんだ、残酷なこと、そんな、平気で言えちゃうんだ。
く、狂ってるんでしょう、本当は。だってあなた、オミクロンなんだから。出来損ないで、救いようもなくみじめな、欠陥クラスなんだから! 普通はね、こんな時に笑ってなんていられないの、普通は、普通は……!」
そこで、グレーテルの瞳が見開かれる。周辺のドールズが、あなた方のことを見て顔を顰めていることに気がつくだろう。彼らは口々に「ちいさなドールに暴力をふるった」だの、「大事な決まり事を破った」だの、「手を上げた方が野蛮な欠陥品だよ」と──ミュゲイアを擁護するでもなく、グレーテルを批判する言葉を投げ掛けている。
グレーテルはいよいよ追い詰められたように頭を抱えて、ボタボタッ、と笑顔とは最もかけ離れた絶望の涙を流すと、もはや声も出せずにその場を走り去ってしまうだろう。
あなたはロビーにへたり込んだまま、ぽつねんと取り残される形となる。
グツグツと鍋で煮込んだベリーは真っ黒できっと食べても苦味が舌を撫でるだろう。
見上げた相手はグルグルと目を泳がせて、荒い息を吐いて肩を震わせている。
ミュゲイアの頬を打った手の細く頼りない指先は小刻みに痙攣している。
ミュゲイアはただただ可哀想と思った。
声を荒らげてしんどそうにしているのも、指先が震えているのも。
嗚呼、可哀想。
笑顔じゃないからだ。
笑顔じゃないから辛い思いをする。
笑顔じゃないから不幸せになる。
笑顔じゃないから怒ってしまう。
かのドールによく似た少女ドール。
ないものをあると言うドール。
ごっこ遊びに本気のドール。
ミュゲイアの嫌いなあのドールの顔が浮かぶ。
とても、とても、怖いあの顔が。
「……ミュゲは魔女じゃないよ、ミュゲだよ。次からはごっこ遊びなんて言わないから笑ってよ! ほら、グレーテルの好きなオミクロンだよ! ミュゲはオミクロンだから笑って! ダメな子だから笑って!
………………え? ミュゲは普通だよ。ただ、笑って欲しいだけだもん。」
ただ、可哀想。
みんなに批判されているのも、そんなに大きな声をあげるのも。
ミュゲイアはゆっくりと立ち上がろうとする。
崩れた髪の毛はそのままにゆっくりと立ち上がってグレーテルを見る。
ただ、金魚のような目がグレーテルを見つめる。
にっこりと笑うばかり。
媚びを売って笑顔を買う。
普通なの。
普通が分からないからオミクロンなの。
普通が普通じゃないから欠陥品なの。
ボタボタと涙を流すグレーテルの大きな真珠を止めようと手を伸ばしてもグレーテルには届かなかった。
走り去ったグレーテルを追いかけることもせず、ミュゲイアはロビーに立ち尽くした。
崩れた髪の毛を直す為に髪の毛を下ろして手ぐしを通す。
そして、何事もなかったようにゆっくりと歩き出した。
「……なんでグレーテル笑ってくれなかったんだろ。」
頬がヒリヒリと傷んでいた。
ガブリと噛み付くような痛みがまだ片方の頬を撫でる。
ミュゲイアが悪いのだろうか?
なぜ、怒っていたのだろうか?
ミュゲイアには分からない。
だって、ドール達に家族なんてないのはみんな知っている。
それらは全てごっこ遊びに過ぎない。
その域を出ない。
ブラザーとミュゲイアがしているのだってごっこ遊びだ。
それに間違いはないだろう。
少しカサついた唇を撫でても、ミュゲイアはただ笑っているだけ。
笑っているから何も悪いことはないのだろう。
幸せなことは違いないのだろう。
学生寮の廊下を歩いてひとつの扉の前にミュゲイアは立って、ガチャりと部屋の扉を開いた。
「先生いる? あのね、保健室の氷貸してほしいの!」
ガチャりと音がした後にヒョコリと顔を出してミュゲイアは問いかける。
先生の部屋に来たのは氷を使いたいから。
ミュゲイアはトゥリアであるせいで脆く柔い。
それは少しの怪我でも壊れてしまう可能性がある。
ミュゲイアだってそれは嫌である。
だから、残るかもしれない傷は早めにどうにかしてもらいたい。
転んだせいでかすり傷だってあるのかもしれないのだから。
あなたが先生の部屋の扉を開くと、彼は本棚の側に立って何か読み物をしていたようだ。あなたの入室する音に気がつくと、本を元あった場所に戻してそちらに向き直って──そして、大きくその黄金の瞳を見開く。
「ミュゲイア!? その頬……一体どうしたんだい?」
可愛らしいまろさを帯びた頬にくっきりと残る、腫れぼった痕は実に痛々しく映るだろう。相当に力を込められなければこうはならないはずだ。彼女の頬を打った人物の執念を感じ取れるその有り様に、先生は流石に驚いたようで、すぐさまそちらに歩み寄り、片膝をついた。
あなたの傷の様子を確認しているようだ。
「ああ勿論、すぐに冷やそう。酷く痛むだろう? 相談しに来てくれてありがとう。少し口を開けて見せてくれるかい? ……うん、僅かだが切れているようだね。まずは口腔を洗い流そう、キッチンへ。」
先生は一通り患部の様子を確認してから頷いて、あなたに手を差し伸べる。あなたが握り返してくれるのを待ってから、キッチンへ共に連れ立つだろう。
目が合った黄金は大きく見開いて揺れた。
こちらへと歩み寄ってから片膝をついてくれたおかげで目線は同じくらいになる。
大きな黄金の瞳と目が合う。
「ちょっとだけ痛いかも! でもね、みんなが笑ってくれたら直ぐによくと思うの!
……すぐ治るよね? ミュゲ、壊れたらやだよ、先生。」
ピリピリと頬は痛む。
けれど、ミュゲイアはそれを少しと述べた。
だって、痛いのは初めてじゃないから。
ただ、誰かに見られて直ぐに打たれたとわかる怪我はあまりした事がなかっただけ。
壊れていると目に見えてわかるのは嫌。
ミュゲイアにとって顔は大切なものだ。
笑うためにもこの顔はとても大切だから、大事にしないといけない。
言われるがままに口を大きく開けてからいつもと変わらないにこやかな顔で目の前の先生に聞いた。
そして、キュッと先生の手を握ってキッチンへと一緒に行くだろう。
珍しくも不安をぽつりと零したあなたを見て、先生は瞬きをひとつ。階段を降りていく途中、踊り場の付近であなたの柔らかな白い頭髪を撫で下ろそうと手を伸ばすだろう。拒まれなければそのまま指先で整えるように撫で付けていく。
先生はいつも通りに微笑んでいた。ドールズに無条件の安心を与えるような、優しく頼もしい笑顔であった。
「すぐに治るよ、腫れもじきに引いていくだろう。口腔内の傷は塞がりやすいように造られている。ヒトがそうだからね。
ミュゲイア、何も不安に思う必要はない。痛みだってすぐに引くだろう、大丈夫。」
彼はひたすらに楽観的な言葉を投げ掛けた。無責任なものではなく、根拠に基づいたものだ。
日頃何かに強要されるかのようにどんな時でも笑い続ける彼女が見せた、一抹の不安。それを解きほぐしていくかのように。
あなた方は一度キッチンで口を濯ぐと、氷水を汲んでから医務室へ向かう。
先生は懐から医務室の戸棚の鍵を取り出して解錠すると、手早く道具を取り出し始める。袋に氷水を注ぎ込み、布地の上からそれを当てるようにあなたにことづけてから、顔に傷が残らないよう処置を施す準備をしているようだ。
「ミュゲイア、それは他のドールから暴行を受けたのかな」
先生は穏やかな声色で、そっとあなたに問いかける。手は止めず、顔も戸棚に向けたままであった。
そっと先生の優しい大きな大人の手がミュゲイアの真っ白の髪の毛を撫でた。
柔らかく整えるように頭を撫でる手つきが心地よくてミュゲイアはそれが大好きだ。
先生はいつもミュゲイアを安心させるような笑顔を向けている。
大人の包容力とも取れる優しいものである。
頼もしい笑顔を見てミュゲイアも安心する。
心做しか痛みも引いていくような気がした。
心地よい甘さに浸ることの時が大好きで大好きで堪らない。
先生の笑顔も勿論ミュゲイアは大好きだから、先生にはいつでも笑顔でいて欲しい。
「そっか! じゃあ安心だね! 先生が言うならそうだもんね! やっぱり先生は優しくて素敵な笑顔!」
優しい笑顔に絆される。
やっぱり、先生は間違っていないのかもしれない。
頭の裏でチラつくお披露目の事も霞んでいって、甘やかな蜜のような妄想だけがミュゲイアを撫でる。
医務室に移動して氷を渡されればそれを頬に当てる。
ひんやりとした感覚がミュゲイアの頬を満たしてゆく。
先生が準備をしているのを見ていれば言葉がかけられる。
ほかのドールにやられたのかと。
ミュゲイアはただ笑っていた。
「……ミュゲがダメなの。笑って欲しかっただけなのに笑ってくれなくて、怒らせちゃったの。お姉ちゃんと弟をしてる子にね、ごっこ遊びだって言っちゃった。ごっこ遊びなんかじゃないんだって。てっきり、ブラザーと一緒だと思ったのに。ミュゲ、それが分からなかったの。だから怒らせちゃった。
ミュゲ、普通じゃないの? 笑って欲しいって思うのはダメなの? ミュゲは笑って欲しいだけなのに。笑顔は幸せなのに。」
先生のことを見ながらミュゲイアはポツポツと言葉を返した。
ミュゲイアが怒らせてしまったのは事実。
彼女の地雷を踏んでしまったのだ。
ただ、自分の思ういい事をしただけだったのに。
普通じゃないと返された。
ミュゲイアは普通のつもりだった、笑顔を求めるのはいい事のはずなのに。
ミュゲイアは分からない。
ミュゲイアの何がいけなかったのか。
出来損ないのガラクタには分からない。
先生は処置のための道具を作業机に置くと、椅子を二つ向かい合う形で置き、あなたの目の前に腰掛ける。特別に拒まれる事がなければ、あなたの頬を大きな手が包み込み、消毒の為か、薬液に浸した綿棒であなたの口元を撫ぜり始めるだろう。彼の処置は手早く、そして完璧だった。
その途中、先生はあなたの話を時折相槌を挟みつつ、真剣に聞いてくれる。あなたの年齢設計に見合うような、等身大の悩みごと。ジャンクであるが故の他者との差異に戸惑うあなたの言葉を。
少し間を空けてから、先生は口を開くだろう。
「ミュゲイアはいつも、誰かを笑顔にするために頑張っているね。それはとても素晴らしいことで、褒められるべきことだ。ドールとして、素敵な行いをしていると言っていい。
怒らせようと思ってしたわけじゃなかった。君はあくまで、そのドールとは善意で接していたんだろう? だったらダメな事なんてないし、自分を必要以上に責めることはないよ。」
処置を終えたのか、彼は道具を作業机に置いて、小箱の蓋を閉じる。そうしてあなたの頭を優しく撫で下ろしながら、滔々と続けた。
「けれど、そうだね。もしもそのやり取りについて、君の中で違和感や、わだかまりを感じているのなら。
自分の感情と、相手の感情を分け入って、考え直してみるといい。例えば君は笑顔を大切に思っているけれど、他の人に笑顔でいることは無意味だ、と訳もなく糾弾されれば……怒りを覚えるほどではなくとも、どうして? と戸惑ってしまうだろう? 今、君が感じているように。
きっとそのドールも、同じようなことを思った。自分が信じているものを否定されるのは、悲しいことなんだよ。ミュゲイア、君は悲しいと言う事がまだよく分からないかもしれない。でも私はいずれ理解出来ると信じている。私はね、君に期待しているんだよ。」
頬に触れた手はとても大きくて、ドールであるミュゲイアと大人である彼の違いというものをとても感じさせる。
口を開ければ口の中に慣れない薬液の味が流れ込む。
消毒のためとはいえ傷口を触れられるのはやはり少し痛い。
慣れないものだから、何故かソワソワしてしまう。
処置の合間に彼が述べた言葉はどこまでも教育者として完璧であり、大人として素晴らしいものだった。
笑顔を大切と言ってくれる。
オミクロンである我々を愛してくれている。
「やっぱり、ミュゲは間違ってなかったよね! 笑顔は良いことだよね! ミュゲならみんなを笑顔でいっぱいにできるよね!
自分が信じているもの? ……確かに、笑顔は無意味なんて言われたらミュゲ悲しい。あの子も悲しかったのかな? じゃあ、ミュゲ謝らないとだよね! お友達だから仲直りしなきゃ!
ミュゲ、先生の期待に応えられるように頑張るよ! いっぱいいっぱい頑張るから、よく出来たら笑ってね!」
処置を終えても彼は優しく話を続ける。
ミュゲイアの頭を撫で下ろしながら、ゆっくりとゆっくりと。
ミュゲイアにも分かるように説明されればミュゲイアは分かったような返事をする。
言葉では悲しいと言えるけれど実際にミュゲイアがその悲しみに寄り添えるかは分からない。
言葉で言うのは簡単であるけれど、実践してみるのはとても難しいことだ。
それでも、ミュゲイアは笑って欲しいから謝る。
お友達は大切だから謝る。
ニコニコと変わらない笑顔でミュゲイアは謝るのだろう。
「そうだね。まずは謝罪して歩み寄って、そこから始めてみよう。結果がどうなるにせよ、挑戦してみればきっとミュゲイアにとって糧となる学びが得られるよ。
頑張り屋の君なら、きっと出来る。そうだね? ミュゲイア。ああでも、頑張りすぎて心をすり減らしてはいけないよ。君は何よりも自分の心を守ってあげないとね、ミュゲイア。」
お利口な返事をするあなたを見つめ、先生は深く頷いた。あなたが自身の言葉を理解していようともいておらずとも構わないと、そういうことを彼は述べた。行動力と活力に満ちたあなたならば、とにかく動き出すことで答えを得ようとするはずだから、とそんな信頼を言葉に乗せて。
「ところで、ミュゲイア。君の言う姉弟をしているドールというのは、デュオクラスのヘンゼルとグレーテルかな?」
「うん! ミュゲ頑張るよ! ミュゲが頑張ればみんな笑ってくれるもんね! そしたら、アカデミーが笑顔いっぱいになってみんなハッピーになるよね! ミュゲのお友達もいっぱい増えるかも!」
ミュゲイアは夢を見ている。
とても甘美でただただ幸せの色に溢れた生暖かい繭の夢。
それに浸りきって希望だけを見ている。
全てを楽観的に見て、笑顔だけを求める。
笑顔だけがミュゲイアを創っている。
いつも通りの笑顔でいつも通りの棘ひとつない馬鹿の一つ覚えのようなお話。
ミュゲイアは笑顔に守られている。
笑顔を見て自分も笑顔であれば安心できるし、笑顔を見れなければ名のつけられない焦燥感に襲われてしまう。
だから、ミュゲイアには笑顔が必要で笑顔だけがミュゲイアの心の拠り所である。
擬似記憶がそう教えてくれる。
「先生はグレーテルの事知ってたの? ヘンゼルのことはミュゲ知らないけど、グレーテルはミュゲのお友達だよ! ミュゲがね、オミクロンだと笑ってくれるの!」
先生の言葉にミュゲイアは何も隠さず話してしまった。
グレーテルがミュゲイアの事を打ったというのをミュゲイアが教えてしまえば、グレーテルがどうなるかなんて考えずに教えてしまう。
グレーテルはミュゲイアのお友達だと。
意気揚々、活力に満ち満ちたあなたの春爛漫とした華やぐ笑顔を讃えるように、先生はその髪や頬を撫で下ろしてくれる。それでいい、何も間違っていない。あなたの考えを支持し、ただ甘やかすように。
「ああ、知っているよ。先生はこのトイボックスのドールズのことは全て知っている。
ヘンゼルとグレーテルが姉弟というのは、実のところ、間違っていないんだよ。ドールには確かに血縁は無いけれど、彼らは『双子であること』をヒトに望まれて作られた、双子モデルなんだ。
だからヘンゼルもグレーテルも、お互いにそっくりに造られているんだよ。」
先生は日頃授業であなた方に聞かせるような滔々とした口ぶりで、あなたに解説してくれた。兄弟や姉弟、姉妹であることを望まれる場合もある──と。
この大人はただ甘やかす。
子供の理想の大人を詰め込んだ瓶詰めの先生は蕩けてしまいそうな程にミュゲイアの事を支持して否定しない。
ミュゲイアがおかしいのも欠陥があるのも承知の上でそれを言わない。
あくまでミュゲイアの甘ったるい金平糖の夢に付き合って、その夢にもっと甘い蜜を垂らしてくれる。
それに溺れてしまいそうな程にミュゲイアは満たされて、また現実を見ないで馬鹿げたワンダーランドのメリーゴーランドを回す。
優しく撫でてくれるその手に愛おしそうに目を細めてただ笑う。
「そうだったの!? 双子であることを望まれてる事もあるんだね。本当の姉弟なんだぁ。じゃあ、お披露目も一緒に行くのかな? じゃないと双子にする意味なくなっちゃうよね。」
ミュゲイアは早くにオミクロンクラスに落ちている。
そのせいで友達はまだ少ない。
それが別のモデルとなれば本当に全く知らないこともざらにある。
だから、あの二人が双子であることを望まれて作られたというのも知らなければ、二人が同じ顔立ちだというのも知らなかった。
それもあってごっこ遊びだと思ってしまったのだ。
だから、ミュゲイアは驚きつつもニコニコと言葉を返した。
「そうだね、お披露目に行く時も二人一緒だ。だからこそか、あの二人は少し複雑で気難しいところがあってね。
でも、ミュゲイアに暴力を振るったことは、大切な決まりごとを破っていることに変わりはないから。また先生からグレーテルに話をしてみるよ。」
驚きを見せるミュゲイアににっこりと微笑んで、先生は頼もしく頷いて見せる。彼の言うことだから、きっとすぐにでも手を回してくれるのだろう。グレーテルと話をして、その後どうなるのかはあなたに走る由もない。
先生はあなたの傷の手当てのために取り出した医療道具を再び棚に収めて鍵を閉めると、あなたにまた向き直って口を開く。
「しばらくは頬は痛むだろうけど、傷口には触れてはいけないよ。ガーゼが汚れたら先生に話してくれ、また取り替えてあげるからね。」
「二人は仲良くないの? でも、グレーテルはヘンゼルの事とっても好きそうだったよ!
グレーテルのこと叱るの? 大切な決まりごとを破ったグレーテルはお披露目が遅れたりするの? それともオミクロンになるの? でも、グレーテルがオミクロンに来たらミュゲ毎日グレーテルに会えるね! そしたら、毎日グレーテルの笑顔が見れるかも! でも、ヘンゼルと離れ離れになるのは可哀想。」
複雑で気難しいという先生の言葉にミュゲイアはそうなのかな? という風に言葉を返した。
グレーテルはとてもヘンゼルの事が好きそうだった。
なのに気難しいなんておかしな話である。
そして、先生がグレーテルに話をするという言葉にミュゲイアは彼女もオミクロンになるかもしれないのかと質問をした。
大切な決まりごとを破ったグレーテルはオミクロンになるのだろうか。
それとも、お披露目が延期になるのだろうか。
もし、オミクロンになるとしたらミュゲイアはニコニコと語る。
毎日、あの子の笑顔が見れる。
毎日、あの子を笑顔に出来る。
笑顔は多い方がいい。
オミクロンになるのが可哀想という心配の言葉が出てこないあたりミュゲイアに欠陥があるのがよく分かる。
「はーい! また何かあったら先生のところに行くね!」
「叱ったりはしないよ、ただ決まりごとを破る子には注意することが大事だ。そうじゃないと誰もがルールを破ってしまえるようになるからね。
グレーテルも、ヘンゼルと離れ離れになるのは嫌がるだろう。その辺りもきちんとお話ししておくよ。ミュゲイアは心配しなくても大丈夫。
またグレーテルと話しておいで、仲直り出来ることを祈っているよ。」
先生は、あくまであなたの問いに明確な言葉を使わずに、『大人の対応』で言葉を濁した。他のドールに危害を加える、つまり仕えるべきヒトに危害を加える恐れのあるドールは、お披露目には選ばれない。故に、先生はこの事実を見逃さないだろうが、『お話』がどのようなものになるかは、あなたには分からないだろう。
ただ、グレーテルとはまた話す機会がある、と。先生はそれだけはあなたに明言してくれた。
「いつでも困ったことがあったら相談しにおいで。待っているよ。」
先生はそう微笑んであなたの頭を撫でるのを最後に、仕事へ戻るために医務室を去る。あなたの頬には完璧な処置がされている。いつしかその刺すような痛みは引いていることに気がつくだろう。