ふんふん、鼻歌を歌いながらエルはいつもなら軽い足取りでここらを歩くが、今日は違う。
大好きなミシェラが今日からいない。お披露目に出て、ヒトに見定められて行った、可愛らしい可愛らしいドールが、いない。
しょも、と眉を下げてとぼとぼとラウンジを歩く。心に空いた寂しさはドーナツのように空洞で、何でも埋めることができないだろう。いつもふらふらと適当に歩いているが、今日は同じところをふらふら歩いている。髪の毛の重さに身をゆらり、ゆらりと任せて左右に揺れた。
《Mugeia》
今日からミシェラがいない。ミシェラはお披露目に行ってしまった。
それはめでたいことで、喜ばしいこと。
可愛い可愛い子うさぎの素敵な門出。
今頃きっと、素敵なご主人様と素敵な生活を始めている。
ご主人様と暖かいベッドで眠って、柔らかい朝日に撫でられて目を覚ませばご主人様が隣でおはようと声をかけてくれるはず。
毎回先生に起こしてもらっているせいで、最初はご主人様のことを起こしてあげるのは難しいかもしれない。
もしかしたら、ご主人様が先に目を覚まして、柔らかい夢から起こしておはようのキスをしてくれるのかもしれない。そうだとしても、それはとっても素敵な一日の始まる。
優しく髪の毛を櫛でといてくれるかもしれない。きっと、その優しい手つきに小舟を漕いでご主人様がクスクスと優しく微笑んでくれるかも。
大きなテーブルでご主人様と朝の天気を話しながら暖かい紅茶を飲んで朝ごはんを食べる。ミシェラならずっと練習をしていたからとっても美味しい紅茶をいれてくれる。
ミシェラの紅茶は笑顔になれる幸せの味だから。
今頃、ミシェラもご主人様との生活を頑張っているから、ミュゲも頑張らないととミュゲイアは思う。
もう、このトイボックスにミシェラがいないのは寂しいけれど、きっとまた会える。
ミュゲイアもお披露目に選ばれたら外でミシェラと会う約束をしている。
その為にもお披露目に選ばれたい。
頑張って笑っていたら次こそは選んでもらえるかもしれない。
次こそ、自分かもしれない。
だって、素敵な笑顔で笑えるから。
ミュゲイアには笑顔しかないから。
それ以外はごく普通。可もなく不可もなく。
だからこそ、笑顔を頑張らないといけない。
そうやって、ミュゲイアは今日もニコニコと生活している。
オミクロンのみんなに挨拶をして、ニコニコとする。
笑うのは良いこと。笑うのは幸せのもと。
「天使ちゃんだ! こんにちは! ……どうしたの? 元気ないの? 笑って!」
ラウンジの方へと向かいその扉を開けたらラウンジ内をとぼとぼと繰り返し歩いている水色の髪が雲ひとつない青空のようなドールを見つける。
しょも、と眉を下げて元気なさげにしているそのドールを見つけるないやなラウンジの中へと入り、かのドールの傍へと近寄り声をかける。
もう、この場所にミシェラはいない。
このラウンジに2人のドール以外いない。
金色の髪を揺らす子うさぎはいないけれど、金平糖のような愛らしい天使がいた。
天使が寂しそうにしていることなど露知らず、ミュゲイアは変わりなく話しかける。
いつもの笑顔で笑顔を要求して。
「……えっと、えぇっと……みゅげ、ミュゲなのです! 覚えていたのです! ミュゲ、ミュゲ!」
しょんもり、別れを惜しむ表情をしていれば笑って! と声をかけられる。確か、確か名前は…! 思い出せた、思い出せたのだ。脳裏に焼きついたミシェラの哀しげで、希望に溢れた笑顔さえ吹き飛ばしてしまうほどの喜びようだった。きゃっきゃと飛び跳ねて何度もミュゲ、と名前を呼ぶ。このドールが望むように、エルは天使のような微笑みを取り戻した。だが、不意にまたミシェラの顔を思い出してしょんもりとしてしまう。
「……ミュゲ、エルは、もっとミシャとお話がしたかったのです……でも、ミシャはきっと幸せなのです! ミシャ、元気にしているのですかね?」
両手を合わせて、指を絡め合わせる。きゅ、とお祈りするようなポーズでそう言った。笑っている、確かに天使は笑っている。でも、眉は下がっている。大事なドールへの祈りを捧げるかのように呟いた。
「ミュゲ、エルは寂しいので、お話してくれないのです? ミュゲとお話がしたいのです!」
えへへ、また笑みを溢す。話がしたい、この、悲しい寂しさを埋めてほしい。あなたの笑顔で、エルは心の穴を埋めたがっていた。
《Mugeia》
「そうだよ! ミュゲはミュゲだよ! いつも笑顔のドールなの!」
先程の表情とは打って変わってきゃっきゃっと喜びながら目の前のドールは喜んでくれた。
ミュゲという名前を覚えていたというのが嬉しくてか、ミュゲイアの求めた可愛らしい天使のような微笑みを浮かべてくれた。
それを見て、ミュゲイアも笑顔を浮べる。
相手のテンションと同じくらいにミュゲイアもきゃっきゃっと飛び跳ねて。
それはそれは楽しそうに、ぴょこぴょこと綿あめのようなツインテールが揺れている。
「絶対に元気にしてるよ! ミシェラは素敵なご主人様と一緒に今頃幸せニコニコだよ!
……ミュゲも天使ちゃんとお話したい! もっと笑って! 笑顔になれば寂しくないよ! 笑顔はね、幸せにしてくれるの!」
ミシェラのことを聞かれればミュゲイアは即答した。
絶対に元気にしている。
今頃、幸せに包まれて笑顔で生活している。
だから、大丈夫なんだと。
お喋りのお誘いを受ければミュゲイアは目の前の天使の手を取り、お話をしたいと述べた。
そのまま嫌がられなければ、ラウンジの空いている席に連れて行ってしまうだろう。
ミュゲイアもお話は大好き。
それを断る理由なんてない。
太陽のような笑顔でミュゲイアは天使を見つめる。
その口元はとても綺麗な模範的な笑顔を浮かべていた。
「……そうなのです! 笑顔はとっても大事なのです、たくさん笑顔になるのです!」
絶対に元気、幸せだと心から思いたいエルに、ミュゲイアの笑顔はとても効いた。きっと大丈夫、ミシェラはきっと幸せなんだ。エルは、ミシェラの天使であり続けたいと思いながら満開の笑顔を咲かせた。
お話をしたい、と言ってくれるミュゲイアに嬉しそうに、はいなのです! と答える。空いている席へ移動してしまおうと、あたりを少し見渡して席を見つける。
「ミュゲ、立ったままお話すると疲れちゃうのです、あそこで座るのです!」
きゅ、ミュゲイアの手を握った。いこう、と言わんばかりの表情はとても、それはとても笑顔だった。
《Mugeia》
「うん! うん! やっぱり天使ちゃんは笑顔がいいよ! 笑顔が1番似合ってる!」
笑顔が大事。それはミュゲイアにとってその通りな言葉であり、ミュゲイアはうんうんと銀糸の髪を大きく揺らしながら頭を縦に振る。
ミュゲイアにとって笑顔はそれほどまでに大丈夫であった。
笑顔があるから幸せになれる。笑顔があるからみんなを幸せにできる。
ミュゲイアは笑顔のドール。
笑顔がないと何も残らないガラクタ。
笑顔以外取り柄のないドールなのだから、こうやってみんなに笑顔になって貰えないと困ってしまう。
目の前のドールの笑顔がミュゲイアを幸せな気持ちにしてくれる。
きゅっと手を握られれば、その手を優しく握り返してエルの言っている席に目を向け其方へと移動した。
「ねぇ! ねぇ! どんなお話する? 理想のご主人様のお話? それとも、好きなお菓子のお話? 笑顔のお話? ミュゲね、天使ちゃんとならどんな話でも楽しめるよ!」
相手いる席に座ればかのドールの事をニコニコと見つめて今からどんなお話をしようかと振る。
どんな話だって笑顔になれる。笑顔にしてみせる。そう言いながら。
「嬉しいのです! ミュゲも、笑顔が今日もとっても素敵なのです!」
きらきらと反射する銀色の髪の毛を見て、エルは少し眩しそうに目を細めた。笑顔も眩しくて、キラキラとしたミュゲイアがとにかく素敵に思えた。よいしょと席へ着いてはどんな話をしよう! と楽しそうに言うドールへ、こんな提案をした。
「えへへ、エル、みんなのお話がしたいのです! まだ、エルはみんなのことを覚えられないのです……みんなみんな、大好きで大好きで仕方ないのに、忘れちゃうのです……でも、お顔は覚えてきたのです! あとは、お名前だけなのです!」
どんな話でも楽しめる、その言葉に甘えてエルはみんなの話がしたいと切り出した。自分自身が覚えられないことについて、どうにかしたいと思っているのもあるが、もっとみんなのことを知りたいという好奇心があった。みんなを笑顔にしてくれるミュゲイアなら、楽しい話をたくさんしてくれるだろうと思った。
《Mugeia》
エルの言葉にミュゲイアも嬉しそうに微笑む。
満面の笑みでそれはそれは楽しそうに。
だって、笑顔を褒めてくれたから。ミュゲイアには笑顔しかない。だからこそ、自分の唯一の長所であり自分にとって全てである笑顔を褒められれば、嬉しくてたまらない。
自分の笑顔で誰かを喜ばせるのも、自分の笑顔を褒められるのも大好き。
嬉しくて昨日よりも自分の笑顔が大好きになる。
「じゃあ、みんなのお話をしよ! お顔を覚えてきたなら名前を覚えるのもすぐだよ! 天使ちゃんもすぐみんなの事覚えられるよ! だって、ミュゲの事覚えてくれてたもん! ミュゲの事は笑顔を見て思い出して! 何回だって笑うから!
みんなも素敵な笑顔なの! 笑顔が少ない子もいるけどみんな素敵な笑顔でね、ミュゲはね皆の笑顔が大好き! みんなの笑顔ならミュゲ絶対忘れない!」
みんなのお話をしようと言われればそれに賛同する。
ミュゲイアにとって大切なお友達たち。
みんな、みんな素敵な笑顔でそれを見るのが大好き。
みんなを笑顔にするのが大好き。
エルがみんなのことを覚えられなくたって、ミュゲイアの事はこの笑顔を見て思い出してくれたら良い。そのためになら何回だって笑う。
「はいなのです! みんなの笑顔、エルはたくさん知りたいのです! ミュゲ、いーーっぱい教えてなのです!」
満面のパーフェクトな笑みで返答するドールに、エルは上記を述べた。エルの特性上、記憶が薄れていく、という避けられない事実がある。これは今後もエルの足枷となり、そして全員にとってもどうしようもない部分だ。デュオモデルなのに、できる事は答えを導き出すだけ。記憶力のないエルは、ただの計算機同様だ。でも、すぐに覚えられるとミュゲイアに励まされ、エルはもっとみんなが知りたい、そう思ったのだ。エルの知的好奇心は、笑顔へ矢印が大きく向いている。どうやったら誰が笑うのか、その笑顔はどんな笑顔なのか。ワクワクしてたまらない、そんな衝動に駆られた。
「ミュゲ、いろんな笑顔を教えてほしいのです! えっと、たとえば……エル、エルの笑顔! エル、自分のお顔もあまり覚えていないのです、だから、エルの笑顔はどんな笑顔なのか教えてほしいのです!」
まずは自分の顔。まともに覚えられていない自分は、いつも、どうやって笑っているのだろう?
《Mugeia》
笑顔の話は大好きだ。
笑顔の話ならどんだけでもできるし、何時間でも舌が枯れるまで話すことが出来る。
ミュゲイアの頭の中はいつだって笑顔の事ばかり。
笑顔のことだけが頭の中で風船のように膨らんで、パンっと弾ける度に笑顔が見たくなる。
笑顔は素敵だから。
笑顔は幸せだから。
笑顔は愛情だから。
ミュゲイアの笑顔に対する執着は全て愛情に収束する。
トゥリアとして笑顔のために尽くしてしまう。
笑顔の為なら毒を舐める事も厭わない。
それで笑顔が見れるなら毒に犯されようが幸せを感じれてしまう。
「いいよ! ミュゲがいっぱい教えてあげるね!
じゃあ、天使ちゃんの笑顔から教えるね! 天使ちゃんの笑顔はふわふわしてるの! 本当に天使みたいなんだよ! とってもキュート !ミュゲね、天使ちゃんの笑顔大好きなの! だからもっと笑って!」
笑顔の話が大好きなミュゲイアはまず、エルの笑顔について教えてと言われるとグッと距離を詰めてキラキラと目を輝かせながら口を開いた。
天使のようなドールの天使のような笑顔。
天使の後輪のように輝く笑顔。
天使の羽が揺らめくような笑顔。
エルというドールだけが見せる笑顔。
その笑顔もミュゲイアは大好きだ。
階段を上り詰め、寮の最上階に位置する埃臭い書物の蔵に辿り着く。図書室の天井は四階部分までを突き抜けているためか、とても高い。そして、木製のロフトを介して上階にも数多の書物がところ狭しと保管されているようだ。
図書室はほの暗く、壁に取り付けられた卵型の照明をつけてもまだ暗い。屋根裏の部分に切り取られた小窓から差し込む陽光が、空気中に舞う埃を幻想的に煌めかせていた。
「ほん……」
図書室に来てまずすること、それは本を読むことだ。少し埃っぽい空気に、こほ、と一つ咳をこぼして本を手に取る。
『シンデレラ』『ハイバネーション』『中世の音楽』『シュレディンガーの猫』……それらを確認しては一つ一つぱらり、とページをめくってみた。
「シンデレラ………ミシャとエルは、似たもの同士だったのです。」
シンデレラの本を開く。灰被りの少女の物語。シンデレラの内容を書き留めようと、ノートを開くが、とあるページに目が止まる。ノートには、簡単にエーナ、お話し、難しい、図書室、とだけ記されていた。エルの脳内はそれを汲み取り、一つの解を出した。ドールの原型のエーナモデルは、昔、物語を力技で多く記憶していた。今ではそんな事はしなくても良いが、この図書室の童話は、物語を覚えることの出来ないドール……そう、ミシェラのようなドールのために、あるのだ。それを理解してふと、静かに似たもの同士だったと呟いた。
次に、ハイバネーションをめくる。少々小難しく書かれているが、難なく理解できた。コールドスリープ、その単語を見終わってふと思った。ここ、トイボックスアカデミーは技術的に進歩しているとは言い難い。なぜ、高度な書物はあるのに、自分たちドールは、高度な技術が使われているのに。と、不思議に思った。
中世の音楽の本をめくる。
『──かん高くヒステリックな音だったが、まるで工作機械のような蓄音機からは、はっきりとした再生音が聴こえてきた。』
その文章を見て、人間の文化はすごいな、と思った。だいぶ昔の話で、エルは興味を持った。蓄音機の仕組みとしては、レコードに鉄製の針を落とし、引っ掻く事で生まれる振動がホーンを通して音を鳴らす。このことも簡単にまとめてノートへ記した。
「……開けるまで死んでいるか生きているかわからない……死んじゃうのです?」
シュレディンガーの猫、その内容に、生死という概念をふとおぼえた。死ぬことはどんなことかわからないのに、死ぬことを恐れる自分を、不思議に思ったのだ。死ぬ、なんで? とノートに簡単に記してみた。
ふと目を本から逸らすと、本棚と本棚の間、奥まった場所が気になった。本を元の位置に戻して、忘れずにノートと筆記具を持ってそこへ向かった。
あなたは、図書室に踏み入れた時からなぜか気になっていた、奥まった区画へと向かう。
本棚と本棚の間の壁、まるで人の目から隠されるように翳った場所には、小さく子供が描いたような乱雑な落書きが残されていた。
四人の男女が微笑み合って寄り添い合っている。皆一様に赤い服を着ているので、恐らくは今あなたが着ているような制服を纏うドールだろう。
名前も書かれていたように見えるが、掠れて消えてしまっている。
「わぁ……すてきなのです……」
小さな子供の落書きのようなものを見ては微笑む。嬉しそうな顔をしているドールが、いる。それだけでなんだか幸せな気分になれた。名前のようなものが見えたが、掠れていて流石に読む事は出来なかった。
ふと上をみる。ロフトの上、そこは危ないと思い登る事はしていなかったが、気になってしまったものは仕方ない。エルの好奇心は止まることを知らないのだ。
ロフトへ登る為の木製の梯子が存在する。が、梯子の先端がやや高い位置に存在しているため、あなたの背丈では一歩届かない。しかしそこは図書室にある椅子を用いることで、どうにか登りきることも可能そうだ。
高所から見下ろす図書室はいつもより鬱屈として見えた。しかしロフトの上は、そばに取り付けられた小窓から溢れる陽の光によって、下よりも明るい。
斜陽に照らされたところに、一冊の本を見つける。こんなところにある本は、当然読んだことがないものだった。
題名は『ノースエンド』というシンプルなもの。装丁は古く、かなり昔の本であることが見て取れる。
《Storm》
ソフィアを探して学生寮まで戻ってきた。
まさに興味と思いつきのまま足を運んでいる感じだ。
ストームは長い足を弾ませながら図書室へ入るだろう。
夢の事を話したらソフィアはきっと呆れる。所詮造られた記憶でしょ?と少し怒られるかもしれない。
が、夢にまでソフィアを見られたのが相当嬉しかったのだろう。そして同時に早く夢の中でディアに出逢いたい。
そうも思うはずだ。
お母様にそっくりなディアとお母様を同じ空間で見られるかもしれない。これ以上ない幸福だ。
考えるだけで……あぁ……ディアディアディア!!!
ストームの頭の中はディアという博愛を具現化にしたようなドールが埋め尽くす。
ディアに逢いたい。いつの間にかソフィアに夢の事を話すことを忘れディアを探してしまうのはストームにとって仕方の無いことだろう。
念願叶ってか偶然か、彼の抱く世界への愛を物語るにはぴったりな薄い桃色の髪にターコイズに宿した底なしの希望を持つドールが。何にも替え難い彼の姿が。
「ディア! こんな所にいたのですね。今朝はすみません、リヒトに呼ばれていたものでディアの身支度のお手伝いが叶わず……ですが今日のディアの御髪も流星群が降り注いだように輝いていて素敵です」
ディアの姿を見るなりストームは声色高々に謡い彼に近付く。もちろん、毎日ディアに頼まれ身支度を手伝っているのでは無い。ストームは毎日彼に身支度の手伝いをさせて貰えること要求し、彼から許可を得た時のみ“手伝わせて貰っている“だけだ。
だが今朝は、何やら物々しい雰囲気を纏った相棒に呼ばれ危機を感じたのでディアに身支度の手伝いがいるかどうかすら聞かずに出てしまったのだ。
だからこそのストームの常軌を逸した喜びようである。
彼の忠犬は表情さえ動かねど彼に懐いていることがよく分かるだろう。
《Dear》
「あ……ストーム! 来ていたのだね、ああ、愛しいキミの光に気付けないだなんて、自分が不甲斐ないよ! 身支度なら大丈夫だよ、私はむしろ尽くしたい方なんだ。もちろん、キミに尽くしてもらうのもとっても甘美で素敵だけれど……機会があれば、私にもキミの美しい宵闇の髪を飾らせてほしいな」
ぱちん、と弾かれたように顔を上げると、それはそれは嬉しそうに白い頬に朱を差してにっこりと笑う。ディアは、自分の愛情に見返りを求めない。それは言葉の通じない花や空気にまで等しく愛を注ぐ様からも読み取れるだろうが、自分の愛情に愛を返してもらえるのだってディアにとっては等しく愛の対象だ。自らを慕ってくれる愛しい恋人の髪を撫で、そのまま流れるように口付ける。結局、尽くされれば尽くされるほど尽くしたいと感情が向くのは流石トゥリアドールと言うべきか。あからさまなストームの態度とは正反対の、先程先生やアメリアにも向けていたのと全く同じ、愛おしそうな笑みを浮かべて。ディアの沈み込んでいた感覚はやっと、全方位に行き渡り始めた。
よいしょ、よいしょと頑張ってロフトへ登る。足りない身長を補うために椅子を用いて、ロフトから図書室を見渡す。ほんの少し鬱屈に見える図書室を、ワクワクしながら見渡す。太陽の光によって照らされ、明るくなっている場所に本があり、気になって手に取る。『ノースエンド』というシンプルな本だ。古く、昔の本なのだろうと思いページをめくろうとした。その時だ。2人分の声が別方向から聞こえてくる。あれは、もしかして! そう思って『ノースエンド』を抱え、気をつけながらロフトを降りる。椅子をよいしょと元の場所に戻して、ノートと筆記具もしっかり持ち、声の元へとてとてと歩いた。
「えっと、す、すと、スト! と、えっと……ディア、ディアなのです! 偶然なのです、会えて嬉しいのです!」
2人の姿を目で捉え、顔を交互に見る。えっと、確か、確か、と名前を必死に思い出す。エルの脳が、知っていると答えを出す。ディアとストーム、2人の名前を思い出してはきゃっきゃと嬉しそうに飛び跳ねる。水色の鮮やかな髪の毛が、ふんわりふんわりと揺れる。目に浮かぶ天使の羽も、羽ばたいて見えた。会えて嬉しいと愛を確かめるような2人を前にはしゃいだ。
《Storm》
「─────ッ!!!!!」
ディアの愛情表現に息を呑む。コアがピタリとその脈動を止めてしまったようだ。それとも全身を回る液体が一瞬にして固体になってしまったよう。
ストームの脳は考えることを放棄して今享受されている幸福過ぎる事実を受け止めるだけに全性能を注いでいた。
上手く息が吸えない。呼吸という動作が出来ない。
脳がクラクラして体温が上がっていく。
止まっていたかと思っていた脈動が今度はうるさいほどバクバクと大きな拍動を響かせている。
「ぁ、…………はぁ、貴方様はなんて、なんて──」
罪なお方。
心酔してクラクラとする頭は必死に意識を繋ぎとめようとする。ディアの行動はストームをおかしくする。
目を当てるには眩しすぎる光を目の前にストームは矛盾した感情しか湧いてこない。
羨ましい、愛してる、妬ましい、大好き、鬱陶しい、欲しい。
自問自答するように感情がぐるぐる回りようやく吐き出せた言葉は日常的なものだろう。
「コアからお慕い申しております。愛しきディア」
猫のように細い瞳孔がストームの特徴であるが、この時ばかりはちぐはぐな瞳を覆い隠すほど開ききった瞳孔が真っ直ぐにディアを見詰めている。
片膝を着いてお辞儀をし純粋な愛を今日も彼に伝える。
その時に微かな音がし、反射的に背中の後ろへやるように立ち上がる。警戒しながら音の出る方を見ていれば、危なっかしい足運びでロフトから舞い降りる天使の姿が。
エルだった。
強ばった表情が一気に柔らかくなる。ストームはエルに近付き落ちぬように手を添えて降りるのを手助けしてやった。床に着地するなり必死に思い出す仕草をする彼の姿を愛おしそうに見詰め、彼の背の高さに合わせるようにしゃがんだ。小さな飛び跳ねをし喜びを表現するエルの頭を壊れ物に触るように撫でる。
「えぇ、ストですよ。素晴らしいですエル。ちゃぁんと覚えていられましたね。
ジブンも貴方様に出逢えた幸福が身体中に満ちております」
エルの姿を見るなりストームの頭の中は正しく切り替わり、脳内でブレインストーミングを開始される。
エル……記憶障害を持つドール、天使の羽根を宿した瞳、ボーイズモデル、最近は簡単な事は記憶できる、棺の蓋、√0……と。そういえばエルは√0に関係していたと、ストームは思い出した。
だが、エルに√0のことを聞いたとしてもしっかりとした答えが得られるはずもない。半ば諦めの境地だが、問いただすことにしよう。
「……エル、今からジブンが聞くことですが、覚えていなければ無理に思い出すことはありません。
貴方様の棺の蓋にたくさんの√0が記されているのを見たのですが、なんの事だか分かりますか?」
「えへへ、スト、ちゃんと覚えていたのです! 嬉しいのです!」
ロフトから降りるのをストームは優しく手伝ってくれた。お陰で怪我もなく降りることができた。ありがとうなのです、と嬉しそうにエルはストームへ感謝する。覚えられていたと褒められれば、にぱにぱと笑顔を咲かせて嬉しい、と言葉にした。優しく、優しく頭を撫でられては、それが心地よくてまるで猫のようにすり、と軽く手に擦り寄った。
「るーと、ぜろ……√0、ルートゼロなのです? えぇっと……うぅん……………。
あっ!!! 知ってるのです、エル、この間見たのです! 眠る前に、√0があったのです、何なのでしょう、エルもよくわかっていないのです………でも、多分、きっと、きっとその…大事! とっても大事なことなのです。……ルートゼロは、エルたちを助けてくれる、えっと、救世主なのです。この先の、みんなの苦しみから解放してくれるのです。もう、目覚める……はずなのです、うぅん……とりあえず、ルートゼロ、√0とっても大事なのです! エル、忘れてないのです!」
ストームに、√0が棺の蓋にたくさん記されていた、そう言われては必死に思い出す。√0、それは目に焼きついて離れなかったあの、ルートゼロ。ふと眠る前に、薄暗い中存在していた√0。その時確かに何か答えを導き出した。当時のエルができたのなら、いまのエルならできて当然だ。ドールズを解き放つ、救世主の目覚め、ルートゼロは目覚め、自分達を解放しようとしている……そんな答えを、再度導き出した。答えを忘れないうちに、早口で、でも、辿々しく、伝わるように言語化する。
「えっと……ディアに、スト、わかった、のです? エルの言いたいこと、わからないならもう一度説明……できるかわからないけど、するのです! 二人とも、√0について他に何か知ってるのです?」
先ほどの笑顔とは反対の、必死の顔で、ストームに訴えかける。わかってほしいと、天使は目を見開いた。
《Dear》
「ふふ、かわいいねスト——エル! エル! ああ、覚えていてくれたんだね! キミの心に焼き付く存在となれたこと、とっても嬉しく……いや、今日も愛しているよ、エル!」
跪いたストームの髪を愛おしそうに撫で、目を細めて笑っていれば。クリアになった耳に届くのは、ころころと笑みをこぼす鈴の音のような恋人の声。嬉しそうに駆け寄り、いつものようにキザったらしい愛の言葉を囁こうとして、やめた。
どうやら、自分が誰かを愛することで誰かを怒らせたり、傷つけてしまうことがあるらしい。怒りとか悲しみとか、感じられないけど理解はできる。愛せる。でも、いざそれを自分で感じようと思うと、どうもだめだった。私には、ディア・トイボックスには、必要のない感情だったから。わからない。わからないけれど、わからないなりに、キミを心の底から愛したい。悲しんだり、傷ついてほしくない。私たちの天使が、いつまでだって輝き続けていられるように。エルが頑張って話してくれるその愛しい言葉に、安心させるように小さく頷きながら耳を傾ける
もっと知ろう、もっと愛そう、キミのことも、私は絶対に諦めない。
「救世主……私は√0について知っていることはないけれど、エルの言葉はちゃんとわかるよ。私たちの希望、エルと一緒だ。話してくれてありがとう! えらいね、エル。ストームも、聞いてくれてありがとう! 二人ともえらい、えらい!」
《Storm》
「えぇ、理解出来ましたよエル。√0はジブン達の架け橋となるかもしれませんね。ナイト様かもしれませんのでエルに見習い、忘れぬように√0を蓋に記しておこうかと思いましたよ」
ストームからの真顔で発せられるジョークは本気で遂行してしまいそうな危なげがあるだろう。“救世主“ストームの全く予期していない返答が返ってきて少々気後れしそうになった。
てっきり√0はカイブツの名だとばかり思っていた。そしてなぜエルのベットの蓋におびただしい程の数が書かれていたのも、昔のオミクロンドールがお披露目を見に行き見てしまった惨劇とリヒトのように聞いてしまった単語の√0をバケモノの名だと認識し、リヒトと同じように蓋に記したのだ、と。
救世主、引っかかってしまう。
ディアは伝えてくれたエルと、何故か自身も褒めるディアに対しストームは当然のように素直に言葉を受け取り、エルをめいいっぱいに褒めるだろう。
こんなふうに……。
「身に余るお言葉ありがとうございます。
エル、よく覚えていてくれましたね。貴方様は確実に成長しています。恐縮ながらジブンが証明しましょう。
自信を持ってください」
ストームはディアにお礼を言う時は立ち上がり、いつも通りにお辞儀をするが、すぐにまたエルと視線を合わせるようにしゃがみこみ柔らかい雰囲気で語るだろう。
本人は微笑むことが出来ていると思っているが、残念ながら全く口角は上がっていない。
このあからさまな態度の違いは仕方ない事なのだ。
エルはストームがオミクロンに堕ちてから彼の素性を知り手助けをするようになった弟のような存在。対するはストームが恋に焦がれたドール。憧れ、尊敬、幸福、嫉妬、憎悪、今までにほぼ全ての感情を向けてきても彼から返ってくるのは輝きを失わぬ希望。
その希望にあてられ今日もストームはディアに恋をしているから。
年齢設計がエルの方が上だろうと関係ないのだ。
「√0は目覚める……ふふ、目覚める日が楽しみですね。
目覚めると言えば、エル、ディア、貴方様達は夢の中でクラスメイトに出会ったことはありますか?
実は本当に先程の話なのですが、ジブンは白昼夢を見ましてその中でソフィアらしき人物とすれ違ったのですよ。いえ、らしきは失礼でしたね。あの麗しさと強かさを肌身に感じることが出来るのはソフィアしか居ない。あれは確実にソフィアでした」
エルが伝えてくれた事柄から自身も情報を共有する。
連想ゲームのように思い出した事だったが、その時の熱量をそのまま伝えるだろう。
エルが怖がらなければいいが。
「よかったのです! えへへ、ディア、ありがとうなのです! ストも、ディアもとてもえらいのです! √0、ストも蓋に書くのです? エル、お手伝いするのです!」
ディアに愛している、そう言われればいつものようにありがとうなのです! と微笑みをこぼし、偉い! と褒められては嬉しそうに顔を綻ばせる。理解できたという二人の言葉を聞き、よかったと胸を撫で下ろした。√0、まだ輪郭もはっきりしていない自分達のヒーロー。今のままでも充分幸せで、楽しいのに解放してくれるという√0は、何がしたいのだろうか。エルはその疑問をずっともっているが、解決するには√0に直接聞かないといけない。
ナイト、つまり騎士かもしれないから自分も蓋に√0と記そうかというストームに、エルも手伝うと冗談が伝わらずに健気に笑った。
「わぁ! エル、ちゃんと成長できているのです? とっても嬉しいのです! これもみんなのおかげなのです! もっとがんばるのです!」
エルに成長していると告げるストームに驚いた様子で嬉しいと感謝する。視線をしゃがみ込んで合わせて話す彼は、残念ながら口角は上がっていない。これがストームだ、仕方ないとエルはそれでもお構いなしにストームの分まで笑った。
「夢の中で……? えっと……夢……、エル、夢を見ても忘れちゃうのです、夢の中でソフィとすれ違ったのです? とっても羨ましいのです! エルも、いろんな人と会いたいのです!」
夢の中でソフィアとすれ違ったと、勢いよく告げられる。夢というものを体感したことがない、いや、していたとしても覚えていないエルは、そんなストームに対していいなと羨ましがった。
《Dear》
「ふふっ、それはいい案だね! 確かに忘れないで済むだろうし、二人とお揃いの景色を見ながら眠ることができるのはとっても幸せだろう……今日の夜にでも記そうか、何を使えば記せるかな?」
細い顎に指を当て、くすくすと笑いながら言うその様は冗談だと無闇に一蹴出来ないような言いようのない雰囲気があった。ストームと同様、ディアなら本当に今夜にでもやってしまいそうだ……。愛する人たちと同じ景色を見たい、愛する人たちのことをもっともっと知りたい、愛したい、ディアにはずっと、それだけだから。ストームの喜びが、エルの健気さが、じわじわディアの空っぽの器に注がれていくみたいに、にっこりと笑う。いっそ危ういほどに、人間的に。
「みんなと会う夢かぁ……私も見たことはないね。ああ、もし見られたのなら、夢の中でまでキミたちに愛を囁けたなら、きっとさぞ幸せなことだろう! そういえば、先程見つけたばかりの本に【ヒト】の夢の仕組みについての記載があったのだけれど、キミの愛しき問いへのお役に立てるかな?」
未だ両腕に大事に大事に抱えていた本——【夢の研究】をストームへと差し出し、恋人たちの幸福のための花束となれば、とターコイズブルーの瞳でただ願った。140cmの恋人は、あまりに強く佇んでいる。
《Storm》
参考文献を差し出すディアにストームは目を見開く。
しばらく石像になったように固まって、ようやく動きだした時には感極まった震え声で話し出す。
「あぁ良いのですか? ディアはまだ読み終わっていないのでしょう? 貴方様を差し置いてジブンがこの文献を読んでしまうなんてなんて烏滸がましい。
ですが、ジブンはとても嬉しいです。一時でもディアと同じ題材について異なる場所で同じ時に考える事になるなんて……。この感動、伝わっていると嬉しいです」
一息で言ってしまうと「もし読み終えていなければ、共に読みましょう」と誘い、差し出された本を押し返した。
ディアと同じ本が読める。それだけで幸福を使い切ってしまったようだが、幸せを感じられるなら取っておくより積極的に掴みに行った方がいいだろう。
ストームはひと呼吸おいて落ち着くと、エルの方へ目線を向けた。
エルの腕にもなにか大切そうに抱えられている。
「エル、それは【ノースエンド】ですね? 良い物を見つけて来ましたね。著書は確かミズ・シャーロット。既に読まれましたか?」
「ディアの本、エルも読みたいのです! とっても興味深いのです……!
これ、なのです? さっきロフトの上に登って見つけたばっかりなので、読んでいないのです、スト、ディアはもう読んだのです?」
ディアの差し出した本に興味を持ち、キラキラとした眼をディアへ向ける。夢についての構造だなんて、気になって仕方がないのだ。夢を見ても忘れるエルにとって、夢はとても興味深い。
ストームにエルの持っている書物、ノースエンドについて触れられれば、この書物がミズ・シャーロットによって書かれたものだと知った。まだ読んでいないため詳しくはわからないが、彼らはもう読んだのだろうか? そう思って訊いてみる。どんなお話がエルを待っているのか、ワクワクする。ディアの持っている本のことを忘れてしまっているのは、ちょっと残念だが。
《Dear》
「ならみんなで一緒に読もうか! 愛する人と愛する知識を共有できる時間……ああ、とっても愛おしいね!」
ストームとディアにも見えるように、足早でありながら丁寧な所作で大きくページを開く。愛しくも賢い二人であれば、先程ディアが手に入れた知識を問題なく吸収してくれるだろうとただひたすらに信じ、ディアは鼻歌を歌いながらこの甘美なる一時を享受した。が、ノースエンドという言葉を耳にした瞬間。その小鳥の囀りのような美しい鼻歌は、子供のような歓声に変わる。
「ああ、そうだ! 【ノースエンド】と言えばね、さっき先生のお部屋で新しいミズ・シャーロットの著書を見つけたんだ! 【サウスウッド】というお名前なんだけれど、そちらもとっても素晴らしくて! あっ、私たちは読んだよ!」
愛のことになると周りが見えなくなるのは、世界の恋人であるディアも同じことである。ノースエンド、ミズ・シャーロット、その単語を耳にした瞬間、弾かれるように愛しき発見を口にする。きらきらとターコイズブルーが瞬き、薄い唇からは躍るように言葉が飛び出し、とにかく素晴らしいことは十二分に伝わるだろう。喜びのあまりエルの問いに答えることを一瞬忘れていたが、そこは流石世界の恋人。エルの問いにもしっかりと答え、楽しそうに微笑みをこぼす。
《Storm》
「おや、今お読みになりますか? それならディアはこちらに。エル、こちらへ」
本を広げた憧れの人を見るとストームはすぐに近くにある椅子を引き、彼をそこへ招いた。エルの事は抱えると自身の足の上へちょこんと座らせる。
無論ディアの方が小さいが、彼に頼まれなければ基本的に彼を支えるような行動は取らない。ディアはストームの手助けなんぞなくとも強く気高く生き、大地より広い愛でストームやエルを始めとするドールズを包み込む懐を持った模範的ドール。
ストームにはディアがそう映っているから。
席に招きながらふと話に持ち出すノースエンドの話。ディアはたまらずに目を輝かせた。てっきりミズ・シャーロットはここの元ドールだったのか? という答えを聞けるのかと思えば新たな本が見つかったのだという事実。
ストームは意外そうに瞬きするとすぐに思考を巡らせた。
【サウスウッド】……北は終わりで南は木と来た。
さて分からないがひとまず夢についての知識欲の方が勝ったストームはディアを宥めるだろう。
「ディアその話は後にしましょう。今は夢の世界のお勉強を所望します。
エル、貴方様の最近の成長は目覚しい。ジブンから挑戦して頂きたいことをお伝えしますね。この本に書いてある単語を覚えられるだけ覚えて欲しいのです」
エルはデュオモデル。本来ストームなんかよりメモリーが膨大であり処理能力にも長けている。だからこそ、いくら欠陥があれどエルの持てる力の全てを発揮して欲しいのだ。ディアを席に招き戻し、エルを膝の上にしてディアによって開かれている【夢の研究】に目を通してゆく。
「お、覚える……のです? ……エル、そんな自信はないのです……でも、ノートに書いてそこから導くことはできるのです! 自信は本当に、本当にないのです。でも、2人のためなのです、エル、頑張るのです!」
夢の勉強をしよう、そう言うストームの提案に乗る。エル自身としては覚えるなんて難しいが、ノートが付いているから大丈夫だろう。……きっと。すぅ、はぁ、深呼吸をする。頑張れる、2人のためであるならこの脳みそを使って答えをいつでも導き出せるように、できる。
【夢の研究】
人が睡眠状態にある際、しばしば安定した脳波に覚醒時に近い乱れが見られる事があります。これは人が夢を見ている時間、『レム睡眠』と呼ばれている状態です。
レム睡眠の際には、睡眠状態にある人の瞼の裏側で眼球が小刻みに動きます。レム睡眠とはこの事から、『Rapid Eye Movement』の頭文字を取って名付けられました。
人が覚醒状態にあるとき、脳内には『ノルエピネフリン』と『セロトニン』と呼ばれる神経伝達物質が分泌されています。これらは人が覚醒状態にある際、学習能力や判断力、記憶能力に貢献する重要な役割を果たしているのです。
一方人が眠りについたとき、脳は休息状態に入りますので、上記二つの神経伝達物質の循環が低下します。その代わりに『アセチルコリン』と呼ばれる物質の分泌が増加し、脳の感情中枢を刺激します。こちらの物質の影響で、人はレム睡眠時に景色が鮮明に見える事があったり、感情の発露を促されたりするのです。ただし脳からの運動神経への電気信号は睡眠時遮断されている為、現実で体が動いたりすることは殆どないでしょう。
人は夢を見ている間、『日常生活で知覚した様々な体験の記憶を整理・統合』しています。生存の為に必要な情報を膨大な記憶の中から選別し、脳に定着させるこの作業を行う事で、人は滞りなく日常生活を送るということが可能になっています。
また夢は人の心を癒すという役割が持つことも判明しています。レム睡眠中、人はストレスとなる感情を処理することがあるようです。トラウマになるようなショックな体験をした時、それらを思い返した脳が夢を見させます。そこに現実にはなかった要素が付加されていき、悪夢はその形を変え、その出来事に付随するネガティブな感情を忘れていくと言われているのです。
脳の休眠時に見る夢が持つ大切な役割というものは荒唐無稽に思えて、存外に侮れないものです。自我がある生物であれば、生存の為に必ずや必要となるのも頷けることでしょう。
「レム睡眠……Rapid Eye Movement……ノルエピネフリン、ネルエピネフリン……セロトニン! セロトニン、えっと……これらは人の学習能力や判断力、記憶能力に貢献……寝たら低下、代わりにアセチルコリン…………」
ノートにそうやって書き留めていれば、エルの脳内は何もかもでいっぱいいっぱいになってしまった。アセチルコリン、そう言葉を発してからぴくりとも動かなくなり、そして動いたかと思えばエルの目、手、身体、全てが震えていた。
「あ、あの………えっと……こ、ここ……は、どこ、なのです……? あなた、たちは……えっと……」
大事なことなのに、大事なことなはずなのに! 持っているノートに書いてあるものも読める余裕すらない。目の前にいる大事な大事な2人が、わからない。ほろり、ほろりと涙が出てくる。忘れたくない記憶と共に、涙がたくさん溢れ出した。
《Dear》
「エル!」
時間は無為に過ぎていく。日は落ち、月は昇り、今日も誰かの死が決まる。強大な運命の前に、ただただ押し潰されるしかない陶器の命。ああ、ああ——それがなんだ!
今、目の前で、愛しい恋人が泣いている以外に、優先すべきことがあるものか!
愛しい彼の涙を断ち切るように、大きな声で彼の名を呼ぶ。大事な大事な、仲間の名前。エル、エル、どうか、どうか、私の命が、キミの命が尽きたとしても。
愛していると、叫び続けよう。まだ見ぬ愛を、そばにある愛を、抱きしめ続けられるように。キミがどれだけ私たちを忘れても、その度にキミの心を愛す。ずっとずっと、愛しているよ、エル。ちゅ、と小さなリップ音が、エルの細い指先で踊る。エンジェルじゃなく、尽くす者でなく、ただ一人、私たちの愛した【エル】へ。キミの勇気に、最大限の賛美と感謝を。これだけ、これだけは、どうか許して。
「エル、よく聞いて。今はこれだけでいい、ずっとずっと、これだけでいい!
——私たちは、エルのことをずっとずっと愛してる。落ち着いて、息をゆっくり吐いて、大丈夫、ずっとずっと、ここにいるよ」
震える体を力いっぱいに抱きしめて、柔い髪を優しく撫でた。涙を拭って、その美しい瞳をまっすぐに見つめる。——今ここで、恋人の一人救えないで、何が元トゥリアプリマドールだ。
《Storm》
天使の輝きを埋め込んだ瞳から大粒の涙が零れる。
エルの瞳の輝きに反射するように流れ出る涙はまるで天からの恵みの雨のようにストームには見えている。
だがストームはいつものように「美しい」だなんて言葉を発しなかった。それどころか溢れる涙を見て目を伏せる。
──まだ、早かったようですね……。
無理な要求をしてしまった。
ストームは自身への嫌悪感からくる自己抑制からカチカチと爪を弾いてそのまま爪を手のひらに食い込ませる。
その嫌悪感も自分勝手な物。あまりに利己的な物。
ストームはそれを理解していた。
そして処理する。
「すみませんエル、ジブンが無理な要求をしたばかりに辛い思いをさせてしまいましたね。
平気ですよ、貴方様は賢い。また一から覚えていきましょう。持てる力全てで貴方様を支えさせて頂きます」
ディアに抱き締められているエルに対し、優しい手付きでエルの頭を撫でた。腫れ物に触る手つき。慣れたもの。
無償の愛にも似た手つきで撫で、そのまま彼の手から零れ落ちたペンを拾い上げ、涙が滲むノートを手にサラサラと文字を記していく。
「自己紹介から始めましょうか。
はじめまして、エル。ジブンはストームと申します。
貴方様へ抱き着いていらっしゃる方はディア。素晴らしいお方です。
それとここに他の皆様の事も書いておきましたし、それでも覚えられない方が居ましたら“貴方様の記憶”をご活用ください」
ストームはエルの手を取り彼の指先を自身に当てる。そして簡潔に自己紹介、その後にディアに触れさせてディアの紹介を終えた。
ディアについてはとてもとても話し足りない。が、今余計な言葉を言ってしまうとそれこそエルの記憶のキャパをまた越えさせてしまう可能性があるので一言で留まった。
そしてエルにノートを見せる。
そこにはクラスメイトの名前と特徴を完璧に捉えた簡単なイラストを添えたものが記してある。
ストームは自身の出来る精一杯の微笑みをして見せる。
依然として下手くそでぎこちの無いものだ。
「ジブン達以外のドールに会って思い出せなかった時に」と、ページの端を折り曲げながら付け加えて。
「っう、うぅ……すと、と、でぃあ……ごめんなさい、ごめんなさい……っ、でも、思い出したのです、もう、わすれないのです、ノートにも、かいてあるから、エル、ノートなくても、だいじょうぶになれるように、もっと、もっとがんばるのです……! ありがとう、ありがとうなのです、スト、ディア!」
意味もわからないまま抱きしめられる。でも、暖かな体温に確かに慰められ、愛された。優しい手つきにも、癒され、大切にされた。その事実が嬉しくて、なんだか涙が止まらない。もう一度自己紹介をされれば、うんうんとエルは頷いて名前を繰り返した。すと、でぃあ、すと、でぃあ。大事な大事なこと。わすれてはいけないこと。記憶にくっきり焼き付けるようにしてノートを見た。あぁ、あぁ、もっと、もっと大事なドールがいる! こんなにもわすれてしまっていたなんて。悔しくて眉を寄せた。
みんなみんな、エルにとってだいじなだいじなドール。ミシェラだって、わすれてはいけない一つの記憶。ストームの作ってくれた一つの記憶を大切そうに撫でて、ディアにぎゅっと抱きついた。そして、今度はストームの高い頭を頑張って撫でた。
「ディア、愛してくれてありがとうなのです、エルもディアをたくさん愛するのです! スト、ストも愛してくれてありがとうなのです、エルにできるお返しは、ちょっとしかないのです……でも、もっと成長して、たくさんお返しするのです!」
もう涙は浮かんでおらず、天使の笑顔が浮かんでいる。愛すること、愛されることを新たに記憶に刻み、ひとつ、エルは成長できたのだ。