カンパネラは佇んでいた。
エントランスホールの壁に背中をもたれながら、浮かない顔をして。彼女が両腕で胸に押し立てるようにして大切そうに抱えているのは、随分と分厚いヴォカリーズの練習の教本だ。表紙は所々が破れ、インクのシミのようなものがぽつぽつと水玉模様のように付着している。
「………」
彼女は無言だ。当然ながら同行者はいないし、誰かを待っている様子でもない。しかし、迷子の子供のような顔でただ立っていた。前髪がその相貌に影を落とし、その潤んだ瞳を隠している。
《Sophia》
悪夢のように鮮明な現実。脳に住み着いて離れないメモリ。重い呪いに取り憑かれたまま、ソフィアはエントランスホールの床を踏みしめ歩く。特にどこかへ向かいたい訳でもなかったが、無意味な歩みは濃霧のごとき憂いを晴らすのに少しは役に立ったらしかった。
──つまり、ここで『彼女』に出会ったのは偶然のことで。示し合わせたとか、二人で何かをする予定だったとか、断じてそんな事はなくて。けれどもソフィアは心優しいドールであったから、彼女の今にも風に負けて倒れてしまうか弱い細い花のような姿は見ていられなくて、そっと声をかける。
「……カンパネラ? そんな所にひとりでどうかした?」
ソフィアはカンパネラよりも断然背が低い。故に、厚い前髪で覆われた表情も、少しだけ下から覗き込むことが出来た。自分と似通った色の澄んだ瞳が潤んでいるのを、見逃すはずもなくて。
「……何があったのか、教えてくれない?」
「ッヒ、」
臆病なカンパネラは、ただ声をかけられただけであるというのに、反射的に喉でそんな音を鳴らした。目を見開けば自然と涙がこぼれ出る。それを慌てて拭いながら、
「あっ、あ………ソ、ソフィア……さん」
と、どうにかして相手の名前を思い出し、呼んだ。全ての光を反射し輝く、エメラルドの海を思わす瞳がこちらを見上げている。相変わらず、彼女は全てが煌めいている。……ほんの少し、翳りが見られたような気がしたが。きっと気のせいであろうと、言及することはなく。
「…………あ、あの。だいじょぶです。べつに、そ、その……大したことでは、ないので………」
教本を抱える腕に僅かに力が籠る。宝石のようなソフィアの瞳から逃れるように、カンパネラはそっと彼女から視線を離した。
《Sophia》
「はあ〜〜〜………………」
いつもの通り、他人に怯えたような声。脳に刻み込まれてでもいるのだろうか、反射的な悲鳴はもはや聞き慣れたものであった。そして、瞬間的に目を逸らされてしまうのも、 状況を誤魔化すであろうことも想定通りだ。しかしながら、当然それで引くほどソフィアは弱くはなかった。
「あのねえ、大丈夫な奴がそんな風に泣いたりする訳ないでしょ。大したことじゃなくてもなんでも良いから言ってみなさい、このままじゃ気になって夜も眠れないわ。」
視線を逸らした先に回り込むように移動すると、むんと頬を張り腕を組んだ。それはいかにも不満だという態度であった。若干怒ったような表情ではあるものの、大袈裟でいっそコミカルな態度は、本当に怒っている訳では無いと言う事が察せる物だ。
「んええ………で、でも……ほんとに、大したことじゃ…………」
視線の先に回ってきたソフィアの不満げな表情に怯む。心の底からの怒りでも、恐怖を与えるような圧力でもなかったが、しかしカンパネラはそれでもなお怯えるのだ。眉が八の字に下がり、空を堪えた瞳がまた潤む。
カンパネラはしばらく考えるように視線を泳がせたあと、「……あう………」と阿呆のような声をこぼしながら、遂に観念したようにぎゅっと目をつむった。
「……が、合唱室に行きたくて……。歌のれ、練習、したくて……でも、そ、その……あの…………」
ひ、ひっ、と呼吸がおかしくなる。頭に響くのは、あのめちゃくちゃで怖い大音量の不協和音と笑い声。
「………こわいひと、いてぇ………入れなくってぇ…………」
実に情けない顔を必死に教本で隠しながら、実に情けない蚊の鳴くような声を出す。
《Sophia》
「……怖い人?」
すっかり怯えきった様子で呼吸を荒らげるカンパネラの様子を見ながら、最初に頭に浮かんだのはつまらない人形達のテンプレートのような台詞。自分の低脳を棚に上げてオミクロンに噛み付いてくる頭の悪い恥晒しドールの常套句。その中でも性格や口のキツい人物にでも当たったのだろうか、とソフィアは推測した。そんな出来事があったなら、この怯えようにも納得がいく。
「……カンパネラは歌が好きだものね。良いわ、それならあたしと一緒に行きましょう。そんな奴追い返してあげる、そうしたらあんたは自由に練習出来るでしょ? ね、カンパネラ。ほら行きましょ。」
気丈にニコ、と微笑んで見せれば、素早くカンパネラの片手を取り、そのまま歩き出す。有無を言わさぬその流れにはある種残酷さがあったやもしれない。が、無理矢理連れ出すくらいでなければきっと断られ、カンパネラは永遠に合唱室を使うことが出来ないだろう。と考えての行動だった。
合唱室の内部は、あなたがよく知るものと大差ない。コーラスごとに分かれて立つことが出来るよう、部屋の奥の床は階段上になっている。
ドールズは基本、こちらの階段側に立ち、ドールズに音楽を教えるトゥリアクラスの先生は、部屋の手前側の教卓の前か、部屋の奥に置かれたピアノで伴奏をする。
合唱の授業の基本形、だ──……
──ダン!!!!
常々静謐に満たされているはずの合唱室に、耳をつんざくほどのやかましい乱暴なピアノの旋律が流れている。高音と低音を滅茶苦茶に行き来しているのだが、それでも音程から辛うじてその曲がフェリックス・メンデルスゾーンの『結婚行進曲』であると察せられる。
「ジャーン、ジャーン、ジャジャンッジャンジャンジャン! ギャハハハ!! ギャハハ! ギャハハ! ジャーンジャジャジャジャンッジャッジャジャーーーー………」
合唱室の奥に設置されたピアノを陣取るのは、赤いスカートタイプの制服を身に付けた奇妙な不審者である。頭でっかちな古臭いビスクドールを模した被り物をぐらぐらと揺らがせた、辛うじて女性であると察せられる未知のドールだ。
彼女は壮絶な演奏を奏でながら、何が面白いのか爆笑していた。ペダルを踏んでいた足を時折バタつかせながら、異様な空気を醸していたが、それも唐突に停止する。
グリン、と部屋の入り口に立つあなた方を座ったままものすごい首の角度で振り返り、更にその首を傾けながら。
「あ゛はは♡ ワタシのお友達だァ、わざわざ会いに来てくれたのかい? ……フーン……余計なオマケも付いてるけど。もしかしてワタシに紹介してくれンのかよ! みじめな欠陥ウサギちゃん達!」
「ヒィッ……………」
ドロシーと目が合った──本当に合ったかは彼女にはわからないが──カンパネラの顔は可哀想なくらいに真っ青であった。彼女の虹彩が肌に溶け出したのかと錯覚させるほどに、真っ青であった。
笑い声と不協和音は、合唱室の扉を開ける前からもう既に響き渡っていた。防音のはずの壁に大穴でも空いたかと錯覚するほどだった。
扉を開けば案の定、“彼女”はいた。
「あ、あああ…………あう………………」
酔ったかのように涙の滲む目をぐるぐるさせたカンパネラは、その声からさっと逃れるようにふらふらと二、三歩後退し、そしてソフィアの背中に隠れるようにして身を縮こませた。
「か、かかか、帰りましょう、やっぱいいです、いいですから………」
決してドロシーには声が届かないようにと全力で声を潜めつつ、ソフィアに向かって囁きかける。糸のような声だ。すぐ側のソフィアにすら届くか定かではない。
《Sophia》
異常だ。思っていたのと違う。てっきり矮小で哀れな存在が居るものだと思い込んでいたソフィアは、ピアノが可哀想になるくらい暴力的な音色を奏でる一体のドールの存在に当惑せざるを得なかった。同時に、確かにカンパネラという気の弱い子がコレに怯える気持ちも良く理解出来た。
しばらく言葉を失い呆然としていたソフィアだったが、自分の後ろで縮こまるカンパネラの細い声と、あの奇怪なドールの発した『ある言葉』に反応して、ひとつの決意を固めたようであった。
「──ごきげんよう、随分とうちのカンパネラが世話になったみたいね。生憎だけど、あたし達出会ったばかりのドールに『みじめ』なんて言われる筋合いはこれっぽっちもないの。ブランドに惑わされて虚を語る……実に愚かで笑えてくる。欠陥はどっちかしら? 節穴ドールさん。」
震えるカンパネラを下がれとでも言うように手で庇った後、ソフィアはひとりで未知なる奇怪なドールの元へと歩き出す。一定のテンポを刻んでつかつかと音が鳴る。それは早足であった。ドールの元へ辿り着くのにさほど時間は要さないだろう。
よくあるピアノの授業では、締めに聴き心地の良い和音を奏でてフィニッシュを迎えるのだという。だが彼女の締めはあまりにも豪快で乱暴だった。ダン!!! とまたしても耳障りな、破裂音みたいな騒々しい・ぐちゃぐちゃな音を響き渡らせて演奏を締め括った女は、ゆらりと立ち上がった。
この異質を前にたじろがず、威風堂々と同胞を守るソフィアは勇敢だ。そんなあなたがこちらに歩み寄るに併せて、ドロシーもまた鏡合わせの存在のようにそちらに歩み寄る。
距離感など彼女にあってないようなもの。小柄なあなたを首が直角になるほどに威圧的に見下しながら、その首をこてん……とまた傾けた。
はて? とでも言いたげだ。
「これはこれはご丁寧に。ご機嫌よう、愚直なるファーストペンギン! ワタシ・ドロシーって言うの。
お前のことはよおく知ってる。玉座からオミクロンに転落したプリマドールどもはこっちでも有名人だから。ギャハハハ!
なァ虚飾のクイーン。
ワタシはねェ、川のほとりでずっと水に問いかけていたのさ。どうすればお披露目に行けますか? どうすれば正しいドールになれますか? どうすればプリマドールになれますか? どうすればあの人に逢えますか?
水はワタシに教えてくれた。ドールには幸せになる権利などないってサ。だからワタシはなりたいワケ。お前たちみたいに。
愚カワイイそこのミザリーはワタシのファースト・オミクロン・お友達! これからめくるめく友情のハープを奏でるところ! キャッ! べつにいじめてないぜ? ヤツがバカみたいにビクビクしてるだけェ。
だろ? カンパネラ。ワタシのお友達になるって言ったよネッ。」
彼女の視線が唐突に遥か後方のカンパネラへ向く。その言葉尻には有無を言わせぬ迫力を感じるだろう。
そのフィナーレはもはやピアノへの虐めであった。弦が一本や二本、弾き飛んでいても不思議ではない。鍵盤が割れていても驚かないだろう。無論、恐怖は増すが。
ソフィアの腕に庇われると、彼女がドロシーの方へ進むのと同時にカンパネラはおずおずと少しずつ後ろへ歩き、遂には足がドアの枠からはみ出てほとんど廊下に出てしまった。壁に触れ、そっと中を覗き込むようなポーズで固まる。
ドロシーから発せられる訳のわからない言葉の濁流も、ここまで距離を置けば恐怖は薄れるような気がした。
嘘である。
普通に怖かったので、カンパネラは遠くで「ヒ………」と喉をひきつらせた。
「えっ!? あっ、あ……………」
ドロシーからの視線を感じると、俯いていた顔を反射的に上げてしまった。同意を求めるような言葉はしかし、確かな圧をはらんでいる。
カンパネラはいつの日にか言われた「小指折っちゃうから」という脅し文句を思い出して顔を真っ白にし、教本を盾にするように顔の前に掲げて。
「は…………はい……………っ言いました、言い………ご、ごめんなさい………ごめんなさい………」
もはや何に謝っているのか、当人も分からなかった。きっと二人にも分からないだろう。
《Sophia》
「……どうせ脅しでもしたんでしょ。確かにカンパネラは気の弱い子だけど、そうじゃなきゃあそこまで怯えることなんて無いもの。」
ドロシーと名乗るドールがカンパネラへ視線をやるの同時に、ソフィアもまたそちらを見やる。既に恐怖でいっぱいいっぱいになっているのだろう、彼女の口から溢れてくる謝罪の言葉にいたたまれなさを覚える。ドロシーの目線に含まれた威圧は第三者目線でも充分察知し得るもので、キッと睨みつけては怒りを孕んだ声を上げた。
……けれど。その怒りと同等に、ドロシーの言葉には気にかかる部分があった。
「……ドロシーとか言ったかしら。幸せになる権利がないなんて、随分悲観的な事を言うのね。お披露目に出られる事はドールの一番の誉れじゃなかったかしら。……ついさっき『みじめ』とかいう言葉で揶揄した相手になりたいだなんて、一体どういうつもり?
──あなた、何を知ってるの?」
ソフィアは、静かにドロシーを見上げる。真っ直ぐな視線だ。しかし、その瞳は自分の感情を気取らせない無機質なものでもあった。
「ハ〜? 脅してねーよ、ナカヨクお話ししてただけェ。
デショ! 空想上の二重螺旋構造プリンセス!
ワタシはお前にみつけた楽譜を返してやった。お前はその代わりにワタシの友達になってくれた。ホラァ、解剖すれば単純明快! ギブアンドテイク! 対等なトレードをしたダケ! ギャハハハ!」
自身よりも遥かに低い場所から、肌を刺し貫くような苛烈な視線を感じて、ドロシーはまるですっとぼけるように何度も首を捻った。実際には『楽譜をビリビリにする』だの『小指を折る』だの様々をやらかしていたわけだが、彼女が密告しなければそんな事実は存在しない。そして報復を過剰に恐れる彼女がそれを口にするはずがない。
ドロシーはあくまでフランクに、フレンドリーに、ニコニコ! と効果音がしそうな様子で無表情の首を揺らす。両手を胸の前で組んで、清純な乙女のように。
「みじめ? そんなこと言ったかなァ、ギャハハ! ドロシーちゃんすぐ忘れちゃうの、都合の悪いこと! 人間どもがそうするみたいにネッ!
何を知ってるか? ワタシは何でも知ってる。第三の壁、宇宙の真理、懐古主義、豚小屋のラブロマンス、ジャズバーの懐メロ、花言葉、乙女の純情。
なんでも、なんでも知ってるよ。ワタシの将来の夢は全知全能の観客席だから。ギャハハハ! ギャハハハハハハ!! ゲハハハハハハ!!!!!」
ドロシーは狂ったような哄笑を奏でる。それはまるきり先程の騒々しいピアノの旋律と同じだった。
ここまで来るともう涙も出てこない。初めて会ったときもそうだった気がする。ただただ奇妙で、ただただ怖くて、カンパネラは彼女に逆らえない。津波のような、嵐のような彼女に。
「は、はいぃっ…………そうです………ゆるして…………」
脅しでもしたんでしょうというソフィアの言葉は全くもってその通りであって、しかし脅されておともだちになりましたなんて、カンパネラに言えるはずがないのであった。縋るように教本を抱き締め、こくこくと真っ白な顔で繰り返し頷く。例えるならば、鳥の死骸を無理やり食わされているような、そんな顔で。
ソフィアの目に写るそれは、平和な友情の上に成り立つやり取りとは随分かけ離れているだろう。
「……………?」
鋼みたいにやけに真剣そうに響くソフィアの問いを耳にすると、強い恐怖に押し潰されそうな彼女の表情に少しの緩みと戸惑いが入り交じる。ドロシーとの対話という舞台から逃れられそうだということへの安堵と、ソフィアは一体今の言葉の濁流の何を拾い上げて反応しているのか、という困惑だ。カンパネラはドロシーの言葉をあまりちゃんと聞いていなかったので尚更分からなかった。
慎重に糸を張り詰めたような、何を知っているの、という問い。その糸を戯れに指に巻いて緩めるような、何でも知ってる、という答え。
ドロシーの狂笑に肩を強張らせながら、カンパネラはなんとも言えない違和感のような、違和感とも呼びがたい何かをソフィアから感じていた。
《Sophia》
「なるほどね、あなたが『返してやったんだから友人になれ』と言ったのかしら? そしてカンパネラは従わざるを得なかった。そんな所でしょ、どうせ。脅しと変わりやしないわ、何が対等よ。……ま、あの子に危害を加えないならそれでいいけど。」
ソフィアは呆れた様子で吐き捨てる。ドロシーの振りまく狂気に順応しきってしまったようにも見えた。ここまで早く慣れてしまえるのは、ソフィアも狂っているからなのだろうか。
「……『人間どもがそうするみたいに』。『第三の壁』。『全知全能の観客席』。……ドロシー、あなたの話に興味があるの。あなたはいつもここにいる? 迎えに来てあげるから、次の機会はじっくりとお話をしましょう。構わないわよね?」
特定の単語群に反応して、ソフィアは重く思案する素振りを見せた。ドロシーの乱雑な旋律など気にも留めずに。そして、奥で縮まるカンパネラとは対照的に、全くひるまずに約束まで取り付けてしまう。いつもの通り、ソフィアの言葉には有無を言わさぬ圧力があった。
「あと、カンパネラにここを使わせてあげてくれる? ここは合唱室、歌う人の為の教室でしょ。本来の用途で使う人を優先しなきゃ……だから、ここに居るなら居てもいいけど大人しくしてて。……というか、ピアノが出来るならもう少しまともな伴奏でもしてくれれば良いのに。なんでわざわざ殴るみたいに演奏してるの? 疲れない?」
ピアノが出来る。ソフィアはそれを見抜いていた。暴力的な音色が、しっかりとひとつの旋律を奏でていることが聞いて取れていた。乱雑な演奏が敢えてのものであろうことは判っていたし、更に言うなれば──ドロシーが『まともな人物』であると言うことも、ソフィアは充分に察知していた。
「……ギャハ♡」
また。ニコ、と音がつきそうな、ねっとりと重苦しい響きの笑い声が合唱室に響く。もはや、前半の『自分に都合が悪い話』など耳にすら入っていないらしい。
“あなたの話に興味がある”。その言葉を待っていたと言わんばかりの、おもむろに傾がせた頭部の艶やかで無機質な眼球部分が煌めいたように見えた。
「フーン、ドロシーちゃんに聞きたいコト? あれやこれやと教えてほしいワケ……?
ギャハハハ、ギャハ! 踊らされる愚かなデュオドール! バカな知識人!
いいよォ、『お話』なら喜んでしてやるよ。ただしそこの愚図なカンパネラも同席させな。
ワタシ、お友達を仲間はずれになんて残酷な真似はしない主義なんだよネッ。それにソフィアチャンはドロシーちゃんのこと睨んできて怖いんだモン……二人っきりなんて何されるか分かんないしィ 。シクシク」
ドロシーは目元らしき部分を覆って涙する真似をした。有無を言わせぬあなたの誘いに構わず条件を投げつける。
「別に使いたきゃ使えよ! ギャハハ、ワタシは好きにピアノ弾いてるだけェ。まともってナニ? 正しいってナニ? 落ちこぼれはダメなこと? みじめはいけないコト?
ギャハ、お前はよく分かってんだろうが。バカな女。」
どうしてソフィアさんは、あんなに堂々とした態度で彼女と対話できるんだろう。
カンパネラにとってそれは甚だ不思議であった。このドールはきっと、製造過程で他のドールより多くの勇気やら胆力やらを与えられていたに違いないと思った。
「……はえ、あ、わた、わたし…………?」
言葉を交わす二人を呆けた顔で見ていたカンパネラは、突然名前を述べられ動揺した。
何故自分を同席させるのだろう。仲間外れなんてむしろ歓迎なぐらいだし、自分が抑止力になれるような存在でないことは明らかだろう。なんなの、という困惑は消えることがない。
ソフィアの方もソフィアである。ドロシーに何を聞くというのか。
カンパネラの目は彼女のように聡明ではない。ドロシーが何か知っているかもしれない、なんて発想はない。そもそもソフィアのようなドールが、他のドールに情報を求めるのはなぜだろう。
もんもんと考え、しかしすぐにカンパネラは考えるのをやめた。こんな愚図が、欠陥品が、難しそうなことを考えるなんて無意味だ。
「…………あう…………」
言われればその通り、使いたければ使えばよいのだ。ドロシーがここを独占しているわけでも、立ち入りを禁じているわけでもない。
ただ、カンパネラが一方的にドロシーのことを怖がって入れないだけ。
わたしが悪いだけの話。
カンパネラは勝手に自己嫌悪を加速させる。彼女は背中を丸めて身を守るように俯き、何も言わず、部屋から出ることも入ることもしなかった。
《Sophia》
「はあ……? カンパネラは別に関係無…………ああもう、悪かったわよ! あんたみたいな乱暴そうなヤツ多少怪しんだって睨んだって仕方ないでしょ、カンパネラだって怖がってたんだもの。あの子が怖がりなのは認めるけど、どっちにしたってあの子を怖がらせたのはあんたなんだからね!?
は〜〜……どうしてもカンパネラがいなくちゃダメ?」
……不本意だが。至極不本意ではあるのだが。確かに今の状況下、先に敵意を出したのはこちらで。そのように言われては折れるしかない、という程度の倫理やら常識やらは弁えている。その為、一旦は謝るしかないわけで。
……にしても、嫌な所を突いて来るのが本当に上手い。ドロシーが『お披露目』について何かを知っているのはきっと確実で、けれどそれは普通のドールが知り得る情報では到底なくて。……そう。カンパネラも普通のドールと同じように、お披露目に純粋な夢を見るドールのひとりなのだ。ソフィアはとうに夢を捨てたドールであり、現実さえも目に焼き付けてしまったドール。だから、いくら何を知ろうとも、今更どうでもいい。けれど、美しい夢を壊すべきではない。まだその時ではない、そう思うのだ。
故に、ソフィアはドロシーの条件に渋い顔をした。この箱庭の幻想の裏を、……『お披露目』のことを、カンパネラの耳に入れたくはなかったからだ。
こちらの思惑を気取られているのかいないのか、ドロシーの正体さえも全くの謎だ。ソフィアは、奇妙な感覚に浸っていた。見抜けない、見通せない事象なんて初めてだったから。狂人の皮を被るドロシーは、鋭いほど聡明な人物であることに間違いないと思った。故に、ただの友人として話せたら楽しかったろうに、という心惜しさにも浸っていた。
「……!」
『バカな女』。全くもってその通りだ。まともだとか、異常だとか。そんなつまらない言葉で、規範とかいう角ばった箱の中に押し込んで、挙句あぶれた者は勝手に不良品のレッテルを貼り付けて。そんなのは、自分自身が一番嫌っていたはずなのに。
「……そうね。あなたの言う通りだわ、ドロシー。ごめんなさい、間違っているのはあたしだった。でも……その力の強さ、あなたはきっとテーセラの子でしょ? 元気なのはいいけど、ピアノは壊さないようにね。
──カンパネラ! 使ってもいいみたいだけど、練習していくの?」
ふ、と口元を綻ばせた。聡明なソフィアは、会話のレベルが合致する同じく聡明なドロシーの事を少し気に入ったらしかった。先程とは変わって、友好的に取れる微笑みを向けている。ドロシーを強く恐れるカンパネラにとって、きっとこれ程奇怪な光景はないだろう。
そんな事は気に留めず、ソフィアは声をかける。なんだか更に縮まってしまったように見えるカンパネラが何を考えているかなど、ソフィアには知る由もない。
剣呑なため息の後、困ったように、何処か縋るような眼差しをこちらへ向けながら問うソフィアに、ドロシーは人差し指を立てた両手を被り物の頬に添え、片足を持ち上げた所謂“カワイコぶった”ポーズを取りながら、言い放った。
「ダメ〜〜〜♡♡♡ ギャハハハハハハ!! ダーリンがいなきゃ教えたげない。ドロシーちゃん、今ちょっと意地悪な気分だからァ。
と・こ・ろ・でェ。どうしてそう頑なにタイニーホワイトを仲間外れにしようとするワケ? あの子に聞かれちゃマズいコト……内緒にしたいコトでもあるのかしらん? ギャハハハ!
ワタシはファーストお友達とお茶したい。お前はワタシのお話が聞きたい。だったら一緒の方が効率的だし時間も無駄にならないだろうが。
ウン! って言わなきゃワタシ一人でコイツを連れてくよ? 愚図な泣き虫だから泣いちゃうかもネッ! 泣いてもやります。ギャハハハ!」
彼女を連れてくることを絶対条件とするのは意地悪だと公言しながら、ドロシーはその指先を、剣でも差し向けるかのようにピン、とカンパネラに向けた。彼女を人質にでもするかのような傲慢な言い分だ。
こう言えば頷くのだと分かっているのだぞ、という意図を聡明なあなたは感じ取れるかもしれない。
「マ、今のところワタシはお邪魔みたいだしィ? ギャハハ、子ウサギさんを仲間はずれにする気がなくなったら、ガーデンテラスに来いよ。いくらでもお茶してア・ゲ・ル♡
あと間違いだかどうだかは別にどうでもいいぜ、だってワタシ変な人なんだもん! ギャハハ! ゲハハハハ! 海底2万マイルの輝く秘宝を狙うトレジャーハンター、詩の上の役者、ドロシーちゃんがお送り致しました! それじゃあバイナラ〜!」
ドロシーは捲し立てるように告げると、ビヨンビヨンと飛び跳ねながら合唱室を去り、あなた方に譲ってくれるだろう。
……ピアノの楽譜台の上には、彼女のものと思しき楽譜が放置されている。『届けに来い』とでも言っているかのようだ。
『どうしてもいなくちゃダメ?』というソフィアの言葉は、カンパネラがとてもとても言いたかったことだった。言えなかったが。そしてあっさりと拒否されてしまったが。
ピ、と鋭いレイピアが喉を突き刺ささんとするように向けられたドロシーの指に、カンパネラは冷や汗をかいた。
カンパネラは感じる。たぶんこれ、何を言ったって逃げられない。
ドロシーからは言うまでもなく。ソフィアも、恐らくカンパネラを巻き込まないために茶会を断るなどということはしないだろう。引けはあるように見受けられるが、それでもやはり何をしてでも、ドロシーから情報を欲しがっているように思えた。
猛烈に嫌な予感がしていた。姉の言葉を借りるならば、“天秤が大きく揺れている”。警鐘のように鼓動が早くなる。一体自分は、これから何に巻き込まれようとしているのだろう。
とっくに問題の渦中にいることを知らずに、カンパネラは不信そうに眉をひそめている。
そうして何も言えぬまま、ドロシーの騒がしい退場によって会話は終了してしまった。彼女が去り、ソフィアに呼び掛けられたことで、やっとカンパネラは合唱室に足を踏み入れた。
「………あ、あの。練習、します。……ありがとう、ございます……」
消え入りそうな声であるが、静寂を取り戻した合唱室では、きっと無事にソフィアの耳に届いたことだろう。
ピアノの楽譜台に教本を開いて置こうとして、彼女が置いていった楽譜に気付いて戸惑うが、もう今更彼女を追いかけることはできまい。どうやらまた会う予定を取り付けたようだしと、カンパネラは「あの……」とソフィアに半ば押し付けるように楽譜を渡そうと差し出した。
《Sophia》
嵐は去った。瞬きのうちに、目眩がするような鮮烈さを残して。「……あっ、ちょっと……!」なんて声だけが伽藍堂の合唱室に置き去りにされる。最初から最後まで、完全にあのドールのペースに呑まれてしまった。初めての経験である。
──きっと有益な話をする為には、カンパネラを連れていかなければならないのだろう。けれど、当然カンパネラはそんなの怖くて嫌でたまらないはずだ。かといって、彼女との話を諦めるという訳にもいかない。……きっとお願いすればカンパネラは着いてくる。でもそれは、カンパネラにとっては『断れなかった』ということでしかない。そんなの、弱みに漬け込んだり脅したりすることと何ら変わりない訳で。
「………ううん、お礼なんていい。ごめんねカンパネラ、怖かったでしょ? 結局あたし、何にも出来なかったわね。……はあ………」
ソフィアは難問に顔をしかめる。大きなため息の原因は、きっとカンパネラにも察せるものだろう。ソフィアは優しい心の持ち主だ。それ故、『情報を聞き出さなければならない』という理性と、『仲間を嫌な気持ちにさせたくない』という感情とが、天秤を不安定に揺らしていた。
──天秤。 カンパネラの『天秤』も、揺れているのだろうか。ソフィアの脳内に策が溢れる。それはまさしく一筋の雷鳴であった。
「……ねえ、カンパネラ。お願いがあるんだけど……
──あなたの『お姉さん』に会えないかしら?」
ドロシーの残した楽譜をしっかりと受け取ったソフィアは、真っ直ぐカンパネラを見据えた。
ごめんねと謝られ、カンパネラはそれを否定するようにふるふると首を振った。ドロシーとの一対一での対話をするのは怖かったし、彼女がここを譲ってくれたのもソフィアのお陰である。それを咄嗟に言葉にする能力はカンパネラにはなかったが。
「おね……あ、姉とですか」
ずっと抱えていた教本、コンコーネ50番のページをぱらぱらとめくるのを中断し、カンパネラは首をかしげた。太陽を直視できずに目を閉じるように、視線を徹底的にソフィアから逸らしながら。
耳にかけていた髪がはらりと降りて、カーテンのようにカンパネラの顔を隠してしまう。彼女の逃げ場を作り出してしまう。
「……えと……問題ないって、言ってます。姉が……。い、今すぐですか?それともあの、……ドロシーさんとの、お話の時に……?」
姉が問題ないというのだから、不安を感じる必要はないのだろうが。しかしカンパネラは、交代に対し了承しつつも、あまり積極的でないように見えるかもしれない。
このまぶしい人に、大好きなお姉ちゃんを取られてしまうのではないかという漠然とした恐れ。
自分の代わりに、大好きなお姉ちゃんがおかしなことに巻きこまれはしないかという恐れ。
そういう幼い恐怖が、彼女を少しだけ惑わせている。
《Sophia》
優しい子、カンパネラ。声をあげて意見するのは難しかったのだろう、それでも彼女なりにこちらの『何にも出来なかった』という言葉を否定してくれる。それを期待していたという訳では無いものの、優しさに触れてコアが暖かくなるのは不可抗力とでも言うべきだろうか。
「そう、お姉さんと。彼女と話す時で構わないわよ、今はあなたが練習する時間でしょう? せっかく教室が空いたんだもの、独占できる時に使わなきゃね。」
にこ、と柔らかくソフィアは微笑んだ。どうやら何か思うところがあるらしいカンパネラの態度が気に留まったのか、ソフィアは更に言葉を続ける。
「……そんな顔しなくても大丈夫よ、カンパネラ。このあたしがついてるのよ? アイツがどんな事してきたって、あんたのお姉さんを危険な目になんて遭わせないわ。安心してちょうだい。」
ふっ、と笑ったソフィアは、実に明るくはきはきとした声色で自信に溢れた台詞を述べた。その言葉は、実に『らしい』ものだ。後光の差すような眩しさは、あなたが幾度も焼かれたものだろう。
「それじゃ──あたしが居たらお邪魔よね? せっかくなら聞いてみたかったけど……また後で迎えに来るわ。頑張ってね、カンパネラ。」
楽譜を手にしたまま、ソフィアはゆるりと手を振り、背を向ける。そのままスタスタと立ち去っていく……と思われたが、教室を出る前にくるりと振り向いた。
「……ごめん、どれくらい後に迎えに来たらいいかしら?」
「わ、わかり、ました」
髪で表情は隠れているがしかし、カンパネラが頷いたのが分かるだろう。
カンパネラはその白魚の指で鍵盤に触れる。白鍵も黒鍵も、割れてもいないし傷もなくてほっとした。
彼女にとって、楽器は仲間であった。自分と違う音が出せる仲間であった。
カンパネラがこの無機物に対し抱く親愛を、目の前のソフィアというドールは躊躇いなく、生きているものに向けられる。例え自分のような欠陥品にさえ。相手に悟られないよう逃げ回り、関わりを避けてくるような相手にさえ。
……それが少し羨ましくて、少し苦手だ。
安心して、と笑むソフィアに、「……はい……ありがとうございます……」と一瞥もせずに短く返事をしながら、そんな下らないことを思った。
ソフィアがここを去ろうとしてすぐ戻ってくると、カンパネラは、
「……三時間ほど、ですかね……」
と。伴奏者も合唱団もない独唱の練習にそれほどの時間を溶かすことが当然とでも言うかのように告げた。
言い終えれば、ソフィアからの反応を待つこともせず、カンパネラはピアノの鍵盤を叩いて軽く伴奏をさわり、そして口を開く。
ソフィアがそのままそこから去れば、扉が閉まるまでの間、彼女の少女らしい小さな背中で歌声を受け止めることだろう。カンパネラには似合わないような明るい旋律を、朝の露が連なったような、繊細でありながらよく伸びる声が辿るのを。
《Sophia》
「そう、それじゃあ三時間後。またね。」
カンパネラの返事を聞くと、再びソフィアは踵を返す。素早いその動きには、彼女の邪魔をしたくないという心遣いが込められている。
三時間。ソリストの練習時間には少々長すぎるのではないか、などという無粋な念はソフィアの中には一片もない。大切な仲間のひとりである彼女が、好きなことに時間を費やせているという事実が存在するだけで、ソフィアは充分だったからだ。
教室を後にする。段々と小さくなっていく美しい歌声を聴きながら。
ソフィアが合唱室の扉を開けば、彼女はもう既に姿を現しているだろう。
見目こそカンパネラと同一のものであるが、指揮棒のような凛とした立ち姿は、その“中身”が異なることを物語っている。
「ソフィア様。」
そのまっすぐな声色は、そのボディに備わった質の良い声帯を十分に活かしている。
「ご機嫌よう。妹を通して、状況は把握しております。」
カンパネラ──否、彼女の姉なるものは礼儀よく両の手を下腹部の辺りで重ね、まっすぐにソフィアのことを見据えていた。その目は眠るように閉じられているが、不思議と彼女からの視線を感じるだろう。
「参りましょう。」
教本を脇に持ち、姉なるものは歩き出す。
あなた方は滞りなく合流し、共に連れ立って三階へ向かうだろう。ガラス製の観音開きの扉を開くと、球形の天井の向こうには美しく晴れやかな青空がいつものように広がっている。
今はテラスも混み合う時間帯なのだろう。授業を終えたドールズが茶菓子と紅茶を持ち寄って、きゃらきゃらとささやかな談笑のひとときに浸っている。
──ドロシーが座っていたのは、一番奥。目の前の青空と外の風景をもっとも近くで一望出来る特等席だった。そも、彼女の周囲をドールが避ける。異様な雰囲気を纏う不審者極まりない彼女には、誰も近づきたがらないのだろう。
ドロシーはガーデンテーブルの机上に両足を乗せて組み、両手を腹部で組んで、抜け掛けの歯みたいに椅子をぐらぐらさせながらあなた方を律儀に待っていた。その眼差しの先には、流れる雲が映っている。あなた方の到来に気付いていないようだ。
《Sophia》
〝カンパネラ〟と無事合流を果たしたソフィアは、人……もといドールズの波を通り抜け、最良の席に不安定に座すドロシーの元へと容易く辿り着く。カンパネラもしっかりと着いてきていることを確認すれば、退屈そうなドロシーへ声をかけた。
「ドロシー、約束通りカンパネラも連れてきてあげたわよ。これで満足でしょう? さ、お茶会といきましょ。」
ぱさ、とテーブルに乗っかったドロシーの脚の隣に彼女の楽譜を置き、空いた席に腰を掛けた。
姉なるものはソフィアと共に、静かにテーブルに歩み寄ってきた。人混みに怯えることも、流されることもなく。
妹と違い、他人に顔を見られることに抵抗のないような凛とした佇まいである。
「……ご機嫌よう。」
声色は、少し冷たさを帯びていたかもしれない。
何食わぬ顔でドロシーに短く挨拶の言葉をかけ、軽い一礼をして、ソフィアに続いて空いた席につく。背筋がピンと伸びているので、いつもの20cmは身長が伸びたように見えるだろう。テーブルの下で、妹の教本を膝に置いた。
丁寧に隣に添えられた楽譜。そして先刻も耳にした自信に満ち溢れた凛々しい少女の一言。ドロシーはそれを聞いて、取ってつけたかのような頭部のズレを両手で直し、あなた方二人を見据えた。「待ちくたびれたァ」なんて言いながら机上で組んでいた両足を下ろし、双方の面々を緩やかに見渡すと、ググ、と伸びをして背筋を伸ばし──
「って誰なンだよオメーはよ!! どう見てもワタシが招待したダーリン♡ のビクビクオドオド系とキャラ違いすぎだろーがバカがよ! ……嘘やだ、この短時間で、い、イメチェン〜〜!?!?!?」
と、やかましい声で怒号をあげた。
かと思えば片腕を椅子の背もたれに引っ掛けて、いささか行儀悪く席に座しながら、肩を大袈裟にすくめてみせる。
「ワタシはみじめなミザリーのが好みだケドぉ……マ、別にいいよ、連れてこいって約束は忘れてなかったみたいだしィ?
で? オイ、マリーアントワネット。ワタシと一体何の話がしたいんだよ、シンセツなドロシーちゃんが聞いてやるよ。ほ〜ら。」
と、高慢な態度でソフィアに話を次ぐことを要求してみせた。
《Sophia》
「友人の新たな一面が見られて良かったじゃない。こういうのは興味深いものでしょ? 喜びなさいよ。」
ふ、と小さく笑う様は、さながら高潔な女王のごとく。小洒落たチェアで脚を組むそのさまは、さながら絢爛な王座から人々を見下ろしているかのような、近寄り難いオーラを放っている。
何の話がしたいのか、と話を急かすような言葉を聞いては、ソフィアはやや間を置いた後に。……顔だけはドロシーへ向けたまま、カンパネラの方へと視線をやった。
「……カンパネラ。これからあなたには、残酷な事を聞いてもらわないといけない。それは……あなたにとっても、『あの子』にとっても、泣きたくなるような話。けれど、あなたには聞いていて欲しい。そして、『あの子』を守る為にあたしに協力してちょうだい。あなたのこと、信じてるから。」
ドロシーの異様な存在感のお陰か、ソフィアの近寄り難い威圧感のお陰か、良い眺めであるはずのこの付近にドールは見られなかった。けれど、ソフィアは声を落とす。この歪んだ茶会の参加者以外に気取られぬよう、悟られぬよう、細心の注意を払っているようであった。
「……それじゃあ、本題に移りましょうか。全員ここからは声を落としてちょうだい、周りの誰にも聞かれないように。
──ドロシー。あなたは、お披露目……いえ、この学園について、どこまで知ってるの?」
「初めまして。妹がお世話になっております、カンパネラの姉です。まあ、私達は同一の存在とも言えますから……ええ。イメチェンという認識で構いません。よろしくお願いいたします。」
姉なるものはなんとも大雑把な理論を並べ、ぺこりと再びドロシーに頭を下げた。丁寧な所作はどこぞの使用人のような印象を与えるだろう。ソフィアとはまったく対照的である。
「理解しています。少なくとも、彼女や貴女の不利益となるようなことはいたしませんので、ご安心を。」
返答は淡々としていたため、ソフィアの気遣いが滲む前置きを受け止めきれていないかのように思われるかもしれない。
しかし、姉なるものは理解している。恐らく、少なくともソフィアにとっては、ひどく残酷な話なのだろう。彼女の天秤の傾きは、常にこの箱庭への警鐘を鳴らしていた。
受け止める。そして判断するのが彼女の役目である。愛しき妹、カンパネラに伝えるべきであるか、そうでないか。
それ以上自分が何かを口にするのは無駄であるというように口を閉じて、ソフィアに問いを投げ掛けられたドロシーへ視線を移した。
「正直かなり半信半疑だったケドぉ……フーン、マジだったんだ。ドールでも乖離性同一性障害なンてあるんだねェ、まるで別人! 憑依してるみたい!
なァユースティーティア。おもしれー女〜! ワタシのす〜ぐ落とし物する海馬に刻んどくよ、数分ぐらいは。ギャハハハ!」
ドロシーは腕を組んで興味深そうにカンパネラを眺めていたが、しかしすぐに普段の通常運転──下賤な笑い声を上げて、ガタガタと被り物を不気味に揺らし、不審な人物となる。周囲を寄せ付けぬソフィアの威圧も相待って、ちょうどいいぐらいにドールズも捌けたところで。
途轍もなく重いクエスチョンを投げかけるソフィアへ、ドロシーは艶めく無機質な相貌を向けた。
「あ゛は。何もかも。この茶番劇場のコトはァ、何でも知ってる。だってワタシは詩の上の役者ドロシーちゃん。そしてお前らは舞台の外側に行ける。いる。だからァ、なんにも知らないの。でも操り糸を取る権利だけは与えられてる。ギャハハ! 融通効かねーの!
ご機嫌よう新たなる革命家! お披露目をその目で見たのかい? そうでもなけりゃ、ンなこと聞かねーだろーがヨッ。
お披露目はどうだった? 楽しいものだった? 心踊るものだった? ドールの夢そのものだった? 希望溢れるものだった? ヒトはどうだ、優しかったか? 愛情に溢れていたか?
全部ノーだろうが。ギャハハ、だから茶番なんだよ。コイツはそういうことを知ってる。ワタシはねミザリー、お前にそれを知らせたかったワケ。ソフィアはナイショにしたかったみたいだケド?」
《Sophia》
「……あなたは賢いわね。全て言うとおりよ、『お披露目でご主人様に出会う』なんて全部嘘だった。……残酷な物だったわ、アレは。
……あたしは、クラスメートの純粋な夢を奪いたくはなかった。これは、いずれ全員が知る事になるけれど…でも、なるべく夢は夢のままで、そっとしておきたかった。だから、カンパネラには聞かせたくなかったんだけど……うん。綺麗事も言っていられないものね。」
ドロシーは変わらぬ調子で、異様な雰囲気を纏ったまま、語る。けれど、それが異常なものではないのは良く伝わる。ドロシーはこの箱庭の事を悟り切っている様子で、そして『友人に知らせたかった』との気持ちに嘘もないように見えた。聡明なドールだ。
「あなたは前自分のことを『変な人』と自称したわね。……そう在ろうとするのは、お披露目を回避する為?
……あたしはね、オミクロンのクラスメートの事が大好きなの。変な奴も居るけど、それでもみんなの事が好き。それに、他のクラスにだって失いたくない子が居る。
……このまま皆が酷い目に遭うのを見ないフリなんてしたくない。あたし達、あんな目に遭う為に生きるなんて嫌なの。
──だから、戦う。このままじゃ終われない。ねえドロシー、あなただってきっと、同じ気持ちでしょう。……だからこうして話してくれているんでしょう。
ドロシー、あたし達に力を貸してちょうだい。あなたの知っていること、全て教えて。そうしたら、あたしも全てを教える。」
それは、まっすぐで真剣な瞳だった。敢えてぼかした言い方を選んでいるのも、こうして誓いを立てる為。ソフィアの気持ちに偽りなどないことは、その瞳から見て取れることだろう。
「フーーン……」
ドロシーは、騒々しかった先程と一転して、意外にもあなたの話を黙して聞いていた。巫山戯た被り物をしているせいで表情は読めないが、組んだ片手の指をトントン、と二の腕にぶつける、まるで思考を整理する為の予備動作みたいな仕草を取るので、真剣に話を聞いてくれているのかも知れない。
「ワタシが今こうしてるのは量産型ドールズとは一線を画すためェ。ほうら見てみろよマグノリア、ワタシがその他大勢と同じドールに見えるか? 見えねーだろッ! ギャハハ!」
自身の被り物の両頬に指先を添えて、またしてもカワイコぶるような素振りを見せてから。また片足を組んで、ドロシーは語る。
「ダメ〜〜。全部は教えない。リスクマネジメントってヤツ? お前がお披露目の実態を知ってるコトは分かったし、お前が革命家の卵ってコトも理解したケド。
それはそれとして情報を全部流す気は無い。
お前と……お前以外に何人が真実を知ってるか知らないケド。間違いなく管理者側が放った従順な飼い犬がいる。そいつらにワタシのコトが流されたら、ワタシは一貫の終わり。まだデスオアデッドのお披露目に行くワケに行かないんだよね〜やるコトもあるしィ ?
──ワタシが何が言いたいか分かる? 学者さん?」
《Sophia》
「量産型。実に言い得て妙ね。周りの〝お人形〟とは違う様に在りたいのは……………まあ、なんでもいいけど。ええ、全く見えない。あなたの方が100倍興味深いし、面白いわ。」
ソフィアは笑う。ただの人形で終わりたくない、と言論で抗った末に不良品のレッテルを貼られる事となった身であるが故、ドロシーの言う『量産型』という語に滑稽さを感じたのだろう。そんな調子であった。
けれども、そんな様子もドロシーの言葉を聞いて、みるみる変わっていく。
「…………、は……?」
ドロシーは被り物をしているのだから、当然目が合うなんてことはない。だのに、それなのに。見据えられたような、視線に捕えられたような感覚に陥るのは、何故だろう。
「……ッ、まさか、……内通者ってこと……………? そん、なわけが…………」
狼狽える。オミクロンのクラスメートを、全員好いているから。……ドロシーの様子を見るに、こんな所で嘘をつくような事はしないだろう、きっと。彼女が愚者でない事もわかっていたし、その言葉は異様な信憑性を帯びていた。だから、信じるしかない。それは分かっている。けど、脳は理解を拒んでいた。漏れる声はか細く、弱々しいものだ。
「…………。〜〜〜ッ……わかっ、た。あなたの言うことも一理あるわ。信用も……一応、してる、し。
……もし本当だったとしたら、これ以上有益な情報はないわね……、あはは……はあ……。」
長い沈黙の後で、ソフィアは顔を歪めながら、ドロシーの言葉を受け入れる事にしたようだ。鬱屈な溜息を漏らしたのを最後に、態度を切り替えて、俯いていた顔を再び持ち上げる。
「……なら、そうね……。
……この間、オミクロンの……ミシェラっていう子がお披露目に出されたの。他のドール達は、お披露目のステージ上で……あの『怪物』にみんな殺された。けど、ミシェラは、ミシェラだけはそこにはいなかったわ。
もしかしたら、今もどこかに居るのかもしれない。学園内に居るなら見つけ出してあげたいの。あの子、ひとりじゃ怖いでしょうし。ねえドロシー、ミシェラのこと……何か知らない? オミクロンのドールは、お披露目に出ないの? それなら一体どこに行くの? それだけでいい、お願いよ、何か知ってるなら教えてちょうだい。」
眉尻の下がった、弱々しい…けれども必死な、ソフィアにとってはかなり珍しい顔で、懇願する。じっとビスクドールの頭部を見つめながら。
「お前らみたいなのが出てくることは、管理者側は容易に想定してくるに決まってるだろーが。
幸いにして、ドールは量産型だしィ? おあつらえ向きに“ヒトの為に尽くす”って思想をあらかじめインプットされてるワケだ。だったらトイボックスに背くドールや、脱走を企てるドールを監視する役割が与えられてるのが居ても全然おかしくないの。
……特に? オミクロンクラスはお前が最たる例になるような、ヒトへの献身に疑問を抱く“精神的欠陥を持つドール”も抱えてるデショ? だったら脱走を警戒するのは管理者からしたらアタリマエ。まず第一にお前らが気を付けなきゃいけないコト。友人を愛するコトは大いに結構だケド、これからはクラスメイトと話すときにも細心の注意を払えよ革命の前頭葉チャン、そうじゃなきゃ初っ端ドボンもあり得るぜ? 出鼻ボッキン! チェックメイト! ギャハハハハハハ!」
友を疑い、最悪にして切り捨てなければならない。内通者の存在を仄めかされたことは、あなたにとって大いなる頭痛の種となった事だろう。ドロシーは相変わらずゲラゲラと腹を抱えて、こちらから寄越せる情報はこれで充分だろうと鼻で笑う。
特にこれで、彼女が他者に迂闊に情報を流す危険性もきっと容易く理解するだろうと考えて。
「ミシェラ、ミシェラねェ。オミクロンの典型的なエーナジャンクドール。成績不振で堕とされた可哀想なオデット。確かにお披露目に出たって知ってる。
……お披露目にオミクロンが選ばれること。それは本人の欠陥が改善された場合に稀に起こるケースだケド。ソイツ、欠陥治ってた? どうなんだよクイーン。」
《Sophia》
「そう、だけど、あなたの言う通り、だけど……でも……。……確かにお披露目を楽しみにしている子だっているし、ここに抗うことに否定的な子だっているでしょうけど。でもそんな、あの子達を疑わないといけないなんて………。
……とにかく、わかった。理にかなった意見だし、頭に留めておくわ。……あまり情報を広めなくて正解だったわね…」
重たい頭を片手で抑えて、鈍く返事をする。さながら鈍痛にでも耐えるかのごとく、美麗なドールの顔の造形を歪ませながら。こちらを嘲りでもするような狂人の笑い声に文句を言う余裕もなかった。
「……あなた、ミシェラのこと…………いえ。オミクロンのクラスのドールのこと、わかってるのね。
あの子の欠か──勉強が苦手な所は、治らないままだった。に通常のクラスに通常のドールとして戻れるレベルではなかったわ、確実に。」
ミシェラの名は初めて出したはずだ。それなのに、ドロシーはミシェラのことを知っている。クラスすらも違うだろうに、詳細に事情を把握している。ドロシーは、オミクロンのドールの内情を把握しているのだろう。一体なぜなのかは定かではないが、ドロシーがオミクロンの生徒に何かしら思うところがあるのは間違いなさそうだ。そして、それは決して悪い意味ではないのだろう。信用のもと、ソフィアはたんたんと語る。欠陥、という語をわざわざ避ける辺りから、ミシェラというドールに対しての愛情を伺えるだろう。
「ギャハハ! ご機嫌よう、馬鹿正直なインデックス! 愚かな幻想図書館! ……疑えよ変革の申し子、じゃなきゃ無関係なドールまで諸共死ぬだけだ。合理的に考えるのはお前らデュオの得意分野だろうが。」
あなたの美しい双眸が悩ましげに歪み、頽れる様を見て。ドロシーは緩やかに頭を下ろし、あなたの耳元で囁くように重く忠告する。机に乗せた細い指先を滑らせてカクン、と頭を傾けながら、あなたと周囲の様子を確認したドロシーは、その返答を聞いて「フ〜〜〜ン…」と言葉を漏らし。
「ドロシーちゃんさァ、確証もないことをベラベラと喋りたくないんで、断言は避けますけどォ。
欠陥を残したままのドールがお披露目の舞台にも居なくて行方不明、なんてさァ。その上どこかで生きているなンて滑稽な希望的観測は自分の首を絞めるだけだぜ。
ワタシたちは神様に設計されたんじゃない。人間の手によって模倣されたマガイモノなんだよ。お披露目のたびに新しいドールにすげ替えられるワタシたち個人に、特別に残しておかなきゃならない価値なンてないワケ。
期待しすぎない方がいいぜ、その方が絶望の総量は抑えられる。」
返答はこんなところでいいだろ、なんてドロシーは支離滅裂な言動がなりを顰めた理知的な言葉遣いで、あなたをこんこんと諭すように告げた。
断言を避けたのは本当に情報不足か、あるいは彼女の慈悲かは定かではなかったが。
《Sophia》
「……合理、的……」
デュオドール。それは、誰より聡く、その頭脳を以て合理的な判断を下すことの出来るモデル。けれども、ソフィアにはその『合理的な判断』とやらが苦手であるきらいがあるようだ。
デュオドールのプリマの栄冠に相応しい、他を凌駕する圧倒的な叡智。そして、他のモデルのドールと遜色ない程の豊かな情緒と、それから生まれる愛情。何よりもヒトらしく、ある意味デュオモデルらしからぬドール。それがソフィアだった。
自分のすべきこと、抱くべき感情。それらは理解しているはずなのに、どこかに踏ん切りのつかないものがある。豊かな情緒と深い親愛故のそれは、デュオドールのものと言うには育ちすぎた。それは、ソフィアがオミクロンのドールとして在る所以なのやもしれない。
「……………………………ッ、」
やがて、ソフィアはすっかり言葉を止めてしまった。普段纏う剣のような高潔さは全く見られない。金糸を垂らして、顔が覆われてしまっている。その様子はまさしく、暴風に襲われ生気なくしおれた花のようで。僅かに髪の間から覗くアクアマリンが絶望で濁ってしまっていることは誰の目から見ても明らかだったろう。
ドロシーの言うことは全て、端から端まで合理的で、確かな説得力を帯びた言葉だった。諭すような声が、僅かに濁され断言を避けた声が、ドロシーの知性を証明している。けれどもその言葉群は、ソフィアを絶望の海へと沈めるにはあまりにも充分すぎたのだ。
……いや。あるいは、もうとっくに絶望していたのかもしれない。あの日、あの夜、誰より聡い脳が弾き出した答えから、自分で目を逸らして。そして、封をしていただけなのかもしれない。作り物の臓腑を絞め付けるような激情から、逃れるためだけに。無力で弱虫なドールには、あの太陽の様な笑顔にもう一度会えると信じて、目を塞ぐことしか出来なかった。そうしてきっと、今日までこの喉を劈く叫び声を封じ込めて、のうのうと生きていたんでしょう? 愚かなあたし。
「…………………………あたし、お披露目の前にあの子と約束をしたの。もしも怖い事があったら、辛い事があったら、必ず助けに行くって。それで、リボンを交換した。あの子はすごく喜んでくれた。あの子はね、太陽みたいに笑う子なの。
……きっと、ずっと……そんな風に笑って、あの子は幸せになるんだって。そう、思ってた。思ってた、のに……」
アクアマリンの端から、きらめく宝石のひとしずくが、頬の曲線に沿ってこぼれ落ちる。
「……あたしって、酷い嘘つきね。」
か細く震えた声は、風の音に吸い込まれて行った。
「…………」
ドロシーは瞬きをしない・表情が移ろわない・所謂無機質を極めた作り物の頭部の正面をじっとあなたに向けて黙していた。
親しいドールを救ってやれなかったと悔やみ、懺悔するあなたをドロシーはどう見ているのか。哀れな姿で、絶望に打ちひしがれるあなたを、被り物の下でどんな表情をしているのか。
定かではなかったが、しかし。彼女は机上に載せていた、恐らく果実を搾った透明感のある煌めくジュースをグラスから一口呑んで、足を組み直した。暫くの沈黙の後に零した。
「ワタシには、」
……と、何か言葉を吐こうとして、一度飲み込んでから。
「ドールは決して幸せになれない。トイボックスの永久機関の歯車として甘んじている間は。
例えばワタシや、そのミシェラとかいうドールは駄目だった。歯車に埋もれたまま、ここから抜け出せない。
でもォ、今だけスペシャルキャンペーン! お客様はとっても運が良い! お前らだけは量産型ドールズとは違う、オムニバスに乗り合わせる特別な切符を持っている!
行動はなるべく早い方がいい。その方が悟られにくい。ダラダラと長引かせるほどにお前達は消耗していく。
犠牲は覚悟しろ。だけど突破口はある。√0の標を辿れば、少なくとも間違えることはない。今のところワタシから言えるのはこれだけ」
ドロシーは小さく潜ませるような声で最後にそう告げると、空になったグラスはそのままに、楽譜を手に取って立ち上がった。
「さーてとっ! ワタシはそろそろ日課のDIYのお時間なので帰りまァす。有意義な時間になっただろ? なったって言えよ♡
せいぜい足掻けよ虚飾のクイーン、みじめなスクラップ! ジャンクに成り下がってなければまた話してやってもいいぜ。ドロシーちゃん、シンセツだから。
それではトイボックス通り三丁目より、街角リポーターは詩の上の役者・ドロシーちゃんがお届け致しました! BYE♡」
姉なるものは沈黙を守っていた。如何なる話をされても、動揺を表に表すようなことはせずに、徹底的に透明になっていた。目を閉じ、足を閉じ、教本の上に両手を置いて……。
「……」
そして姉なるものはふと、着ていたカーディガンの袖のまくれや、内側を整えるような仕草をして。
「……ソフィア様。顔色が悪うございます。水を取って参りますから、しばらくお待ちください」
と、そっと声をかけて席を立った。
相手からの返答も待たずに立ち上がり、そのままどこかへ行こうとして……姉なるものは立ち止まり、そして引き返してきた。
跪くように膝を折ると、姉なるものはソフィアの背中にそっと触れる。柔らかな手のひらが、彼女にその熱を伝えるように。そっと、労るように。
「……慰めの言葉の一つもかけられず、申し訳ありません。どうか、気を確かにお持ちください。道はまだ開かれているはずです。」
私の天秤も、そう告げております故。
そして姉なるものは再び立ち上がり、指揮棒のような姿勢を美しく保ったまま、ガーデンテラスの扉を通って行った。
《Sophia》
──嵐は去った。それにより、辺りは閑散としていた。カンパネラと二人、ぽつんと取り残されてしまったソフィアは、うわ言のように呟く。
「……√、0」
√0。それは、聞き慣れないものでは、決してない。お披露目の前、ストームから聞いたこと。エルのベッドに、異常なほどその文言が刻まれていた、と。数式上では0以上でも以下でもないそれが一体何を意味するのか、あの時もこの瞬間も、理解ができなかった。
カンパネラの申し出に、「ええ」と生返事を返した。そちらを見やることもなく。
今のソフィアには、ドロシーの言葉の全てが気がかりであったようだ。
あなたは一体、何を言いかけたの?
どうして自分が助からない、なんて言い切ってしまうの? あなたとも一緒に戦いたいのに。
√0の標ってどういうこと?
正答を導き出せない難解な方程式は、知能のみで解ける問題ではないのだろう。それはまるで、人智を逸した真理そのものと対話しているような感覚で。今なお網膜にこびり付く彼女の言葉に、ぐるぐる、ぐるぐると頭を回して。それに夢中になっていた。
「……! あ、ああ……気を遣わせてごめんなさい、ありがとうね。」
その熱に、言葉に反応して、ハッと我に返る。思い詰めた表情をしていたであろうことは容易に自覚できた為、これ以上心配をかけさせまいとなんとかニコリと微笑みかけた。離れていく背に小さく手を振って見送る。
姉なるものは、ガーデンテラスへの扉を通ると、そのまま学園の廊下に出て、ドールの比較的少ない場所を探した。さくさくと足早に歩き、とす、と壁に背中を凭れる。
「………」
姉なるものは、カーディガンの袖の中から、あるものを取り出した。
それは、折り畳まれた紙片であった。先程ドロシーが去り際に、その手のすぐ近くに落としていったものだ。ソフィアには悟られないよう、こっそりと。
姉なるものはそれを、カーディガンを整えるようなふりをして袖の中に忍ばせていたのである。
「……………」
姉なるものはしばらく紙片の外側に書かれた『To Campanella』という文字を無言で見つめていた。丁寧な筆跡であった。
かさり、と乾いた音を立て、姉なるものはそれを開く。
『これを“カンパネラ”に。』
そう前置きされたドロシーからの手紙に、姉なるものは目を通す。隅々まで精査するように。……鋭く睨むように。
そして読み終えると、彼女の手の中で、紙片はビ、と音を立てた。勢いよく切れ目がつく。
姉なるものは、紙を破ろうとしたのであった。
柵越えを実行する。それを読んだ瞬間に、彼女の天秤は傾いた。危険だ、と。
副人格としてしか存在できない姉なるものに、妹のためにできることは少ない。迂闊な行動も詮索も。彼女ができる数少ないこととは、判断と警告だ。可愛くて堪らない大切な妹を危険から遠ざけ、彼女の平穏を守ることが姉なるものの役割。唯一姉なるものが妹にしてやれること。そして彼女は、このドロシーからの伝言を危険と見なし、削除しようとしたのである。
……しかし。
しかし彼女は躊躇いを見せた。紙を完全に引き裂くことは、できなかった。他ならぬ妹が、自分の見る『正体不明の夢』について知りたがっていたのを思い出したのだ。
近頃見る、見知らぬドールと会話する夢。そして、あのオルゴールの音色を聞いた際に見た、跳ねた黒髪の少年ドールの白昼夢。
カンパネラはそれらを不気味がって怖がり、目を逸らそうとしていた。しかし同時に、その謎を追うか否か迷っていた……僅かながら、恐れながら、知りたいという意思が存在した。
守るためとは言えど、彼女の意思を尊重しないようなことをしていいのだろうか。答えはとうに出ていた。
「……フー……」
細く、長く息を吐き。姉なるものは、紙片を再び折りたたんで、胸元のポケットにしまい込んだ。
この判断は、妹に委ねるべきだ。ドロシーの文章は決して同行を強制してはいなかった。ただメリットを提示しているだけだ。『正体不明の夢』について、何か分かるかもしれないと。
それにドロシーはきっと、妹に致命的な危害を加えるような人物ではない。初対面の際は妹を虐める精神異常者として警戒していたが……先程のソフィアとの対話を眺め、彼女は自分が思うより“まとも”な人物であることを理解した。考えなしに人を危険に巻き込むような人物ではないだろう。
彼女を、彼女たちを信じよう。
……しばらくして、姉なるものは水の入ったグラスを片手に席へと戻っていった。
キッチンは広々とした他の空間に比べて、大きな家具が敷き詰められているためか、少し手狭な印象を覚えるだろう。
こじんまりとしたシンクとコンロ、調理スペースを十分に確保出来る広い机がある。そして奥には、パントリーに続く木扉も取り付けられていた。
逃げるように歩いて、カンパネラはキッチンに辿り着く。ひとまず水を飲もうと、グラスを探そうと辺りを見渡したところで、カンパネラは作業台の上に置かれたあるものに気付いた。
「……あれ。なんだろ、これ」
ひどくカラフルな……プリント、だろうか。カンパネラは首を傾げながら、紙を手に取り読んでみた。
鮮やかなインクをそのままぶちまけ、ビビッドで明るい印象を見る者に与えるチラシ──のような紙が、キッチンの作業台の上にぽつんと取り残されている。誰かが受け取って放置していったのだろうか、少なくともあなたは見覚えがないものだった。
チラシには、絵筆で書き殴ったような太めの筆跡で、『秘密の芸術クラブ』と記されている。チラシが堂々と置かれている時点で秘密も何もないだろうとは感じるかもしれないが……その片隅には、以下のような活発な文字が綴られている。
トイボックスの見慣れた景色にも、まだ見ぬ芸術が隠れている!
君もヒトの文化に倣い、学生らしく“サークル活動”と呼ばれるコミュニティを体験してみよう!
興味のある同志は夜の18時、ガーデンテラスにこっそり集合だ!
──トゥリアクラス・アラジン
「トゥリアクラス……」
オミクロンクラスに、誰か勧誘された人がいるのだろうか。そうだとしたら、このアラジンという名のドールは随分と物好きなのだなと思う。だって、わたしたちは欠陥品なのに、交流を持とうとするなんて……。
カンパネラは眉をしかめながら、そっとチラシを机の上に置いた。
グラスに水を注ぎ、飲む。……牛乳を温めるような気分ではとてもなくなってきた。蜂蜜だけ食べて、夕食まで寝具の中に横たわって過ごしていようと考える。
カンパネラは蜂蜜を探すために、ふらりとパントリーへの扉を開いた。いつもの通り、誰もいませんようにと祈りながら。
パントリーは食糧庫の名の通り、野菜や果物などがうず高く積まれた木箱がいくつか並べられていた。壁に沿って置かれた木製の棚には、調味料やハーブなど調理で使う素材が所狭しと詰め込まれている。
そして雑多な食材で溢れかえり、手狭な印象を受ける部屋の奥には、地下へと続く階段があった。
そうっとパントリーの中へ入る。人の姿は見当たらなかったので、カンパネラはほっと安堵の息を吐く。これでもし奥から人がやって来たら……想像するだけで悲鳴を上げそうだ。
「えっと……蜂蜜、どこだろう……」
きょろ、と辺りを見渡してみれば、棚に目がついた。調味料が多く並んでいるため、蜂蜜もきっとここにあると思ったカンパネラは、すたすたと歩いて棚の方へ近付く。
あなたが蜂蜜を探すべく、棚の内部を探り始めたとき。
ふと、あなたの指先が、棚の奥の木板に触れて、カタン、と小さな音を立てた。薄くだが木板に切れ目が走り、僅かにずれていることに気がつくだろう。
その木板を外せば、棚の最奥に小さく薄い空間が出来ていることが分かる。切り取られたそのスペースには、一枚の紙切れが挟まっていた。まるで人目から隠されるように、誰も見向きもしない埃を被った棚の奥に収まっていた紙片。
裏返せば、どうやらそれは一枚の写真だった。
「─────ぁ゛、」
カンパネラは写真を裏返したその途端に、その場に膝から崩れ落ちた。蹲り、彼女は頭を抑えて呻く。写真がひらりと落ち、彼女の傍らに辿り着く。
まるで何かの呪いのように。
「ガッ、うぁ、あぎ───ッッ!!!」
軋むような脳の痛み。何か、頭の中の何かを、無理矢理こじ開けられているような、乱暴な痛み。金属音が絶えず鳴り響く。彼女の中の天秤が、激しく警鐘を鳴らす。
痛い!!! 痛い!!!!!
そう声を上げているつもりだったが、喉がきつく締まって、彼女から溢れるのは言葉として成立していない異音だけだった。
写真の中には、活発そうな少女の姿がある。金色の髪と青色の瞳。その隣には、気恥ずかしげな“わたし”の姿がある。
あの夢と同じだ。カンパネラは、何も知らない。
───しかし、“知っている”。
それは幻。それは白昼夢。それは夢。記憶にない、──夢。
「ぁ、いあぁ、あ…………」
虚ろな目で声を漏らす。カンパネラは傍らに落ちてきた写真に、咄嗟に隠すように手を勢いよく置いた。……わたしはこれを、守ろうと、したのかもしれない。
「っ、ああ………っ」
涙が溢れた。痛みのせいなのか、また別の理由なのかは、カンパネラには分からない。写真に覆い被さるようにして、カンパネラは蹲り、泣いている。
日だまりのような貴女。美しい貴女。
あの日、贈り物をしてくれた貴方。写真を撮ってくれた貴方。
わたしは貴女を知っている。貴方のことも、知っている。
「──────」
カンパネラは、その美しい響きの名前を、激しい呼吸と嗚咽混じりに、小さな小さな声で呼んだ。きっと、それは彼女以外の誰にも聞こえない。そういう、響きだった。