《Campanella》
カンパネラは佇んでいた。
エントランスホールの壁に背中をもたれながら、浮かない顔をして。彼女が両腕で胸に押し立てるようにして大切そうに抱えているのは、随分と分厚いヴォカリーズの練習の教本だ。表紙は所々が破れ、インクのシミのようなものがぽつぽつと水玉模様のように付着している。
「………」
彼女は無言だ。当然ながら同行者はいないし、誰かを待っている様子でもない。しかし、迷子の子供のような顔でただ立っていた。前髪がその相貌に影を落とし、その潤んだ瞳を隠している。
悪夢のように鮮明な現実。脳に住み着いて離れないメモリ。重い呪いに取り憑かれたまま、ソフィアはエントランスホールの床を踏みしめ歩く。特にどこかへ向かいたい訳でもなかったが、無意味な歩みは濃霧のごとき憂いを晴らすのに少しは役に立ったらしかった。
──つまり、ここで『彼女』に出会ったのは偶然のことで。示し合わせたとか、二人で何かをする予定だったとか、断じてそんな事はなくて。けれどもソフィアは心優しいドールであったから、彼女の今にも風に負けて倒れてしまうか弱い細い花のような姿は見ていられなくて、そっと声をかける。
「……カンパネラ? そんな所にひとりでどうかした?」
ソフィアはカンパネラよりも断然背が低い。故に、厚い前髪で覆われた表情も、少しだけ下から覗き込むことが出来た。自分と似通った色の澄んだ瞳が潤んでいるのを、見逃すはずもなくて。
「……何があったのか、教えてくれない?」
《Campanella》
「ッヒ、」
臆病なカンパネラは、ただ声をかけられただけであるというのに、反射的に喉でそんな音を鳴らした。目を見開けば自然と涙がこぼれ出る。それを慌てて拭いながら、
「あっ、あ………ソ、ソフィア……さん」
と、どうにかして相手の名前を思い出し、呼んだ。全ての光を反射し輝く、エメラルドの海を思わす瞳がこちらを見上げている。相変わらず、彼女は全てが煌めいている。……ほんの少し、翳りが見られたような気がしたが。きっと気のせいであろうと、言及することはなく。
「…………あ、あの。だいじょぶです。べつに、そ、その……大したことでは、ないので………」
教本を抱える腕に僅かに力が籠る。宝石のようなソフィアの瞳から逃れるように、カンパネラはそっと彼女から視線を離した。
「はあ〜〜〜………………」
いつもの通り、他人に怯えたような声。脳に刻み込まれてでもいるのだろうか、反射的な悲鳴はもはや聞き慣れたものであった。そして、瞬間的に目を逸らされてしまうのも、 状況を誤魔化すであろうことも想定通りだ。しかしながら、当然それで引くほどソフィアは弱くはなかった。
「あのねえ、大丈夫な奴がそんな風に泣いたりする訳ないでしょ。大したことじゃなくてもなんでも良いから言ってみなさい、このままじゃ気になって夜も眠れないわ。」
視線を逸らした先に回り込むように移動すると、むんと頬を張り腕を組んだ。それはいかにも不満だという態度であった。若干怒ったような表情ではあるものの、大袈裟でいっそコミカルな態度は、本当に怒っている訳では無いと言う事が察せる物だ。
《Campanella》
「んええ………で、でも……ほんとに、大したことじゃ…………」
視線の先に回ってきたソフィアの不満げな表情に怯む。心の底からの怒りでも、恐怖を与えるような圧力でもなかったが、しかしカンパネラはそれでもなお怯えるのだ。眉が八の字に下がり、空を堪えた瞳がまた潤む。
カンパネラはしばらく考えるように視線を泳がせたあと、「……あう………」と阿呆のような声をこぼしながら、遂に観念したようにぎゅっと目をつむった。
「……が、合唱室に行きたくて……。歌のれ、練習、したくて……でも、そ、その……あの…………」
ひ、ひっ、と呼吸がおかしくなる。頭に響くのは、あのめちゃくちゃで怖い大音量の不協和音と笑い声。
「………こわいひと、いてぇ………入れなくってぇ…………」
実に情けない顔を必死に教本で隠しながら、実に情けない蚊の鳴くような声を出す。
「……怖い人?」
すっかり怯えきった様子で呼吸を荒らげるカンパネラの様子を見ながら、最初に頭に浮かんだのはつまらない人形達のテンプレートのような台詞。自分の低脳を棚に上げてオミクロンに噛み付いてくる頭の悪い恥晒しドールの常套句。その中でも性格や口のキツい人物にでも当たったのだろうか、とソフィアは推測した。そんな出来事があったなら、この怯えようにも納得がいく。
「……カンパネラは歌が好きだものね。良いわ、それならあたしと一緒に行きましょう。そんな奴追い返してあげる、そうしたらあんたは自由に練習出来るでしょ? ね、カンパネラ。ほら行きましょ。」
気丈にニコ、と微笑んで見せれば、素早くカンパネラの片手を取り、そのまま歩き出す。有無を言わさぬその流れにはある種残酷さがあったやもしれない。が、無理矢理連れ出すくらいでなければきっと断られ、カンパネラは永遠に合唱室を使うことが出来ないだろう。と考えての行動だった。
合唱室の内部は、あなたがよく知るものと大差ない。コーラスごとに分かれて立つことが出来るよう、部屋の奥の床は階段上になっている。
ドールズは基本、こちらの階段側に立ち、ドールズに音楽を教えるトゥリアクラスの先生は、部屋の手前側の教卓の前か、部屋の奥に置かれたピアノで伴奏をする。
合唱の授業の基本形、だ──……
──ダン!!!!
常々静謐に満たされているはずの合唱室に、耳をつんざくほどのやかましい乱暴なピアノの旋律が流れている。高音と低音を滅茶苦茶に行き来しているのだが、それでも音程から辛うじてその曲がフェリックス・メンデルスゾーンの『結婚行進曲』であると察せられる。
「ジャーン、ジャーン、ジャジャンッジャンジャンジャン! ギャハハハ!! ギャハハ! ギャハハ! ジャーンジャジャジャジャンッジャッジャジャーーーー………」
合唱室の奥に設置されたピアノを陣取るのは、赤いスカートタイプの制服を身に付けた奇妙な不審者である。頭でっかちな古臭いビスクドールを模した被り物をぐらぐらと揺らがせた、辛うじて女性であると察せられる未知のドールだ。
彼女は壮絶な演奏を奏でながら、何が面白いのか爆笑していた。ペダルを踏んでいた足を時折バタつかせながら、異様な空気を醸していたが、それも唐突に停止する。
グリン、と部屋の入り口に立つあなた方を座ったままものすごい首の角度で振り返り、更にその首を傾けながら。
「あ゛はは♡ ワタシのお友達だァ、わざわざ会いに来てくれたのかい? ……フーン……余計なオマケも付いてるけど。もしかしてワタシに紹介してくれンのかよ! みじめな欠陥ウサギちゃん達!」
《Campanella》
「ヒィッ……………」
ドロシーと目が合った──本当に合ったかは彼女にはわからないが──カンパネラの顔は可哀想なくらいに真っ青であった。彼女の虹彩が肌に溶け出したのかと錯覚させるほどに、真っ青であった。
笑い声と不協和音は、合唱室の扉を開ける前からもう既に響き渡っていた。防音のはずの壁に大穴でも空いたかと錯覚するほどだった。
扉を開けば案の定、“彼女”はいた。
「あ、あああ…………あう………………」
酔ったかのように涙の滲む目をぐるぐるさせたカンパネラは、その声からさっと逃れるようにふらふらと二、三歩後退し、そしてソフィアの背中に隠れるようにして身を縮こませた。
「か、かかか、帰りましょう、やっぱいいです、いいですから………」
決してドロシーには声が届かないようにと全力で声を潜めつつ、ソフィアに向かって囁きかける。糸のような声だ。すぐ側のソフィアにすら届くか定かではない。
異常だ。思っていたのと違う。てっきり矮小で哀れな存在が居るものだと思い込んでいたソフィアは、ピアノが可哀想になるくらい暴力的な音色を奏でる一体のドールの存在に当惑せざるを得なかった。同時に、確かにカンパネラという気の弱い子がコレに怯える気持ちも良く理解出来た。
しばらく言葉を失い呆然としていたソフィアだったが、自分の後ろで縮こまるカンパネラの細い声と、あの奇怪なドールの発した『ある言葉』に反応して、ひとつの決意を固めたようであった。
「──ごきげんよう、随分とうちのカンパネラが世話になったみたいね。生憎だけど、あたし達出会ったばかりのドールに『みじめ』なんて言われる筋合いはこれっぽっちもないの。ブランドに惑わされて虚を語る……実に愚かで笑えてくる。欠陥はどっちかしら? 節穴ドールさん。」
震えるカンパネラを下がれとでも言うように手で庇った後、ソフィアはひとりで未知なる奇怪なドールの元へと歩き出す。一定のテンポを刻んでつかつかと音が鳴る。それは早足であった。ドールの元へ辿り着くのにさほど時間は要さないだろう。
よくあるピアノの授業では、締めに聴き心地の良い和音を奏でてフィニッシュを迎えるのだという。だが彼女の締めはあまりにも豪快で乱暴だった。ダン!!! とまたしても耳障りな、破裂音みたいな騒々しい・ぐちゃぐちゃな音を響き渡らせて演奏を締め括った女は、ゆらりと立ち上がった。
この異質を前にたじろがず、威風堂々と同胞を守るソフィアは勇敢だ。そんなあなたがこちらに歩み寄るに併せて、ドロシーもまた鏡合わせの存在のようにそちらに歩み寄る。
距離感など彼女にあってないようなもの。小柄なあなたを首が直角になるほどに威圧的に見下しながら、その首をこてん……とまた傾けた。
はて? とでも言いたげだ。
「これはこれはご丁寧に。ご機嫌よう、愚直なるファーストペンギン! ワタシ・ドロシーって言うの。
お前のことはよおく知ってる。玉座からオミクロンに転落したプリマドールどもはこっちでも有名人だから。ギャハハハ!
なァ虚飾のクイーン。
ワタシはねェ、川のほとりでずっと水に問いかけていたのさ。どうすればお披露目に行けますか? どうすれば正しいドールになれますか? どうすればプリマドールになれますか? どうすればあの人に逢えますか?
水はワタシに教えてくれた。ドールには幸せになる権利などないってサ。だからワタシはなりたいワケ。お前たちみたいに。
愚カワイイそこのミザリーはワタシのファースト・オミクロン・お友達! これからめくるめく友情のハープを奏でるところ! キャッ! べつにいじめてないぜ? ヤツがバカみたいにビクビクしてるだけェ。
だろ? カンパネラ。ワタシのお友達になるって言ったよネッ。」
彼女の視線が唐突に遥か後方のカンパネラへ向く。その言葉尻には有無を言わせぬ迫力を感じるだろう。
《Campanella》
そのフィナーレはもはやピアノへの虐めであった。弦が一本や二本、弾き飛んでいても不思議ではない。鍵盤が割れていても驚かないだろう。無論、恐怖は増すが。
ソフィアの腕に庇われると、彼女がドロシーの方へ進むのと同時にカンパネラはおずおずと少しずつ後ろへ歩き、遂には足がドアの枠からはみ出てほとんど廊下に出てしまった。壁に触れ、そっと中を覗き込むようなポーズで固まる。
ドロシーから発せられる訳のわからない言葉の濁流も、ここまで距離を置けば恐怖は薄れるような気がした。
嘘である。
普通に怖かったので、カンパネラは遠くで「ヒ………」と喉をひきつらせた。
「えっ!? あっ、あ……………」
ドロシーからの視線を感じると、俯いていた顔を反射的に上げてしまった。同意を求めるような言葉はしかし、確かな圧をはらんでいる。
カンパネラはいつの日にか言われた「小指折っちゃうから」という脅し文句を思い出して顔を真っ白にし、教本を盾にするように顔の前に掲げて。
「は…………はい……………っ言いました、言い………ご、ごめんなさい………ごめんなさい………」
もはや何に謝っているのか、当人も分からなかった。きっと二人にも分からないだろう。
「……どうせ脅しでもしたんでしょ。確かにカンパネラは気の弱い子だけど、そうじゃなきゃあそこまで怯えることなんて無いもの。」
ドロシーと名乗るドールがカンパネラへ視線をやるの同時に、ソフィアもまたそちらを見やる。既に恐怖でいっぱいいっぱいになっているのだろう、彼女の口から溢れてくる謝罪の言葉にいたたまれなさを覚える。ドロシーの目線に含まれた威圧は第三者目線でも充分察知し得るもので、キッと睨みつけては怒りを孕んだ声を上げた。
……けれど。その怒りと同等に、ドロシーの言葉には気にかかる部分があった。
「……ドロシーとか言ったかしら。幸せになる権利がないなんて、随分悲観的な事を言うのね。お披露目に出られる事はドールの一番の誉れじゃなかったかしら。……ついさっき『みじめ』とかいう言葉で揶揄した相手になりたいだなんて、一体どういうつもり?
──あなた、何を知ってるの?」
ソフィアは、静かにドロシーを見上げる。真っ直ぐな視線だ。しかし、その瞳は自分の感情を気取らせない無機質なものでもあった。
「ハ〜? 脅してねーよ、ナカヨクお話ししてただけェ。
デショ! 空想上の二重螺旋構造プリンセス!
ワタシはお前にみつけた楽譜を返してやった。お前はその代わりにワタシの友達になってくれた。ホラァ、解剖すれば単純明快! ギブアンドテイク! 対等なトレードをしたダケ! ギャハハハ!」
自身よりも遥かに低い場所から、肌を刺し貫くような苛烈な視線を感じて、ドロシーはまるですっとぼけるように何度も首を捻った。実際には『楽譜をビリビリにする』だの『小指を折る』だの様々をやらかしていたわけだが、彼女が密告しなければそんな事実は存在しない。そして報復を過剰に恐れる彼女がそれを口にするはずがない。
ドロシーはあくまでフランクに、フレンドリーに、ニコニコ! と効果音がしそうな様子で無表情の首を揺らす。両手を胸の前で組んで、清純な乙女のように。
「みじめ? そんなこと言ったかなァ、ギャハハ! ドロシーちゃんすぐ忘れちゃうの、都合の悪いこと! 人間どもがそうするみたいにネッ!
何を知ってるか? ワタシは何でも知ってる。第三の壁、宇宙の真理、懐古主義、豚小屋のラブロマンス、ジャズバーの懐メロ、花言葉、乙女の純情。
なんでも、なんでも知ってるよ。ワタシの将来の夢は全知全能の観客席だから。ギャハハハ! ギャハハハハハハ!! ゲハハハハハハ!!!!!」
ドロシーは狂ったような哄笑を奏でる。それはまるきり先程の騒々しいピアノの旋律と同じだった。
《Campanella》
ここまで来るともう涙も出てこない。初めて会ったときもそうだった気がする。ただただ奇妙で、ただただ怖くて、カンパネラは彼女に逆らえない。津波のような、嵐のような彼女に。
「は、はいぃっ…………そうです………ゆるして…………」
脅しでもしたんでしょうというソフィアの言葉は全くもってその通りであって、しかし脅されておともだちになりましたなんて、カンパネラに言えるはずがないのであった。縋るように教本を抱き締め、こくこくと真っ白な顔で繰り返し頷く。例えるならば、鳥の死骸を無理やり食わされているような、そんな顔で。
ソフィアの目に写るそれは、平和な友情の上に成り立つやり取りとは随分かけ離れているだろう。
「……………?」
鋼みたいにやけに真剣そうに響くソフィアの問いを耳にすると、強い恐怖に押し潰されそうな彼女の表情に少しの緩みと戸惑いが入り交じる。ドロシーとの対話という舞台から逃れられそうだということへの安堵と、ソフィアは一体今の言葉の濁流の何を拾い上げて反応しているのか、という困惑だ。カンパネラはドロシーの言葉をあまりちゃんと聞いていなかったので尚更分からなかった。
慎重に糸を張り詰めたような、何を知っているの、という問い。その糸を戯れに指に巻いて緩めるような、何でも知ってる、という答え。
ドロシーの狂笑に肩を強張らせながら、カンパネラはなんとも言えない違和感のような、違和感とも呼びがたい何かをソフィアから感じていた。
「なるほどね、あなたが『返してやったんだから友人になれ』と言ったのかしら? そしてカンパネラは従わざるを得なかった。そんな所でしょ、どうせ。脅しと変わりやしないわ、何が対等よ。…ま、あの子に危害を加えないならそれでいいけど。」
ソフィアは呆れた様子で吐き捨てる。ドロシーの振りまく狂気に順応しきってしまったようにも見えた。ここまで早く慣れてしまえるのは、ソフィアも狂っているからなのだろうか。
「……『人間どもがそうするみたいに』。『第三の壁』。『全知全能の観客席』。……ドロシー、あなたの話に興味があるの。あなたはいつもここにいる?迎えに来てあげるから、次の機会はじっくりとお話をしましょう。構わないわよね?」
特定の単語群に反応して、ソフィアは重く思案する素振りを見せた。ドロシーの乱雑な旋律など気にも留めずに。そして、奥で縮まるカンパネラとは対照的に、全くひるまずに約束まで取り付けてしまう。いつもの通り、ソフィアの言葉には有無を言わさぬ圧力があった。
「あと、カンパネラにここを使わせてあげてくれる? ここは合唱室、歌う人の為の教室でしょ。本来の用途で使う人を優先しなきゃ……だから、ここに居るなら居てもいいけど大人しくしてて。……というか、ピアノが出来るならもう少しまともな伴奏でもしてくれれば良いのに。なんでわざわざ殴るみたいに演奏してるの? 疲れない?」
ピアノが出来る。ソフィアはそれを見抜いていた。暴力的な音色が、しっかりとひとつの旋律を奏でていることが聞いて取れていた。乱雑な演奏が敢えてのものであろうことは判っていたし、更に言うなれば──ドロシーが『まともな人物』であると言うことも、ソフィアは充分に察知していた。
「……ギャハ♡」
また。ニコ、と音がつきそうな、ねっとりと重苦しい響きの笑い声が合唱室に響く。もはや、前半の『自分に都合が悪い話』など耳にすら入っていないらしい。
“あなたの話に興味がある”。その言葉を待っていたと言わんばかりの、おもむろに傾がせた頭部の艶やかで無機質な眼球部分が煌めいたように見えた。
「フーン、ドロシーちゃんに聞きたいコト? あれやこれやと教えてほしいワケ……?
ギャハハハ、ギャハ! 踊らされる愚かなデュオドール! バカな知識人!
いいよォ、『お話』なら喜んでしてやるよ。ただしそこの愚図なカンパネラも同席させな。
ワタシ、お友達を仲間はずれになんて残酷な真似はしない主義なんだよネッ。それにソフィアチャンはドロシーちゃんのこと睨んできて怖いんだモン……二人っきりなんて何されるか分かんないしィ 。シクシク」
ドロシーは目元らしき部分を覆って涙する真似をした。有無を言わせぬあなたの誘いに構わず条件を投げつける。
「別に使いたきゃ使えよ! ギャハハ、ワタシは好きにピアノ弾いてるだけェ。まともってナニ? 正しいってナニ? 落ちこぼれはダメなこと? みじめはいけないコト?
ギャハ、お前はよく分かってんだろうが。バカな女。」
《Campanella》
どうしてソフィアさんは、あんなに堂々とした態度で彼女と対話できるんだろう。
カンパネラにとってそれは甚だ不思議であった。このドールはきっと、製造過程で他のドールより多くの勇気やら胆力やらを与えられていたに違いないと思った。
「……はえ、あ、わた、わたし…………?」
言葉を交わす二人を呆けた顔で見ていたカンパネラは、突然名前を述べられ動揺した。
何故自分を同席させるのだろう。仲間外れなんてむしろ歓迎なぐらいだし、自分が抑止力になれるような存在でないことは明らかだろう。なんなの、という困惑は消えることがない。
ソフィアの方もソフィアである。ドロシーに何を聞くというのか。
カンパネラの目は彼女のように聡明ではない。ドロシーが何か知っているかもしれない、なんて発想はない。そもそもソフィアのようなドールが、他のドールに情報を求めるのはなぜだろう。
もんもんと考え、しかしすぐにカンパネラは考えるのをやめた。こんな愚図が、欠陥品が、難しそうなことを考えるなんて無意味だ。
「…………あう…………」
言われればその通り、使いたければ使えばよいのだ。ドロシーがここを独占しているわけでも、立ち入りを禁じているわけでもない。
ただ、カンパネラが一方的にドロシーのことを怖がって入れないだけ。
わたしが悪いだけの話。
カンパネラは勝手に自己嫌悪を加速させる。彼女は背中を丸めて身を守るように俯き、何も言わず、部屋から出ることも入ることもしなかった。
「はあ……? カンパネラは別に関係無…………ああもう、悪かったわよ! あんたみたいな乱暴そうなヤツ多少怪しんだって睨んだって仕方ないでしょ、カンパネラだって怖がってたんだもの。あの子が怖がりなのは認めるけど、どっちにしたってあの子を怖がらせたのはあんたなんだからね!?
は〜〜……どうしてもカンパネラがいなくちゃダメ?」
……不本意だが。至極不本意ではあるのだが。確かに今の状況下、先に敵意を出したのはこちらで。そのように言われては折れるしかない、という程度の倫理やら常識やらは弁えている。その為、一旦は謝るしかないわけで。
……にしても、嫌な所を突いて来るのが本当に上手い。ドロシーが『お披露目』について何かを知っているのはきっと確実で、けれどそれは普通のドールが知り得る情報では到底なくて。……そう。カンパネラも普通のドールと同じように、お披露目に純粋な夢を見るドールのひとりなのだ。ソフィアはとうに夢を捨てたドールであり、現実さえも目に焼き付けてしまったドール。だから、いくら何を知ろうとも、今更どうでもいい。けれど、美しい夢を壊すべきではない。まだその時ではない、そう思うのだ。
故に、ソフィアはドロシーの条件に渋い顔をした。この箱庭の幻想の裏を、……『お披露目』のことを、カンパネラの耳に入れたくはなかったからだ。
こちらの思惑を気取られているのかいないのか、ドロシーの正体さえも全くの謎だ。ソフィアは、奇妙な感覚に浸っていた。見抜けない、見通せない事象なんて初めてだったから。狂人の皮を被るドロシーは、鋭いほど聡明な人物であることに間違いないと思った。故に、ただの友人として話せたら楽しかったろうに、という心惜しさにも浸っていた。
「……!」
『バカな女』。全くもってその通りだ。まともだとか、異常だとか。そんなつまらない言葉で、規範とかいう角ばった箱の中に押し込んで、挙句あぶれた者は勝手に不良品のレッテルを貼り付けて。そんなのは、自分自身が一番嫌っていたはずなのに。
「……そうね。あなたの言う通りだわ、ドロシー。ごめんなさい、間違っているのはあたしだった。でも……その力の強さ、あなたはきっとテーセラの子でしょ? 元気なのはいいけど、ピアノは壊さないようにね。
──カンパネラ! 使ってもいいみたいだけど、練習していくの?」
ふ、と口元を綻ばせた。聡明なソフィアは、会話のレベルが合致する同じく聡明なドロシーの事を少し気に入ったらしかった。先程とは変わって、友好的に取れる微笑みを向けている。ドロシーを強く恐れるカンパネラにとって、きっとこれ程奇怪な光景はないだろう。
そんな事は気に留めず、ソフィアは声をかける。なんだか更に縮まってしまったように見えるカンパネラが何を考えているかなど、ソフィアには知る由もない。
剣呑なため息の後、困ったように、何処か縋るような眼差しをこちらへ向けながら問うソフィアに、ドロシーは人差し指を立てた両手を被り物の頬に添え、片足を持ち上げた所謂“カワイコぶった”ポーズを取りながら、言い放った。
「ダメ〜〜〜♡♡♡ ギャハハハハハハ!! ダーリンがいなきゃ教えたげない。ドロシーちゃん、今ちょっと意地悪な気分だからァ。
と・こ・ろ・でェ。どうしてそう頑なにタイニーホワイトを仲間外れにしようとするワケ? あの子に聞かれちゃマズいコト……内緒にしたいコトでもあるのかしらん? ギャハハハ!
ワタシはファーストお友達とお茶したい。お前はワタシのお話が聞きたい。だったら一緒の方が効率的だし時間も無駄にならないだろうが。
ウン!って言わなきゃワタシ一人でコイツを連れてくよ? 愚図な泣き虫だから泣いちゃうかもネッ! 泣いてもやります。ギャハハハ!」
彼女を連れてくることを絶対条件とするのは意地悪だと公言しながら、ドロシーはその指先を、剣でも差し向けるかのようにピン、とカンパネラに向けた。彼女を人質にでもするかのような傲慢な言い分だ。
こう言えば頷くのだと分かっているのだぞ、という意図を聡明なあなたは感じ取れるかもしれない。
「マ、今のところワタシはお邪魔みたいだしィ? ギャハハ、子ウサギさんを仲間はずれにする気がなくなったら、ガーデンテラスに来いよ。いくらでもお茶してア・ゲ・ル♡
あと間違いだかどうだかは別にどうでもいいぜ、だってワタシ変な人なんだもん! ギャハハ! ゲハハハハ! 海底2万マイルの輝く秘宝を狙うトレジャーハンター、詩の上の役者、ドロシーちゃんがお送り致しました! それじゃあバイナラ〜!」
ドロシーは捲し立てるように告げると、ビヨンビヨンと飛び跳ねながら合唱室を去り、あなた方に譲ってくれるだろう。
……ピアノの楽譜台の上には、彼女のものと思しき楽譜が放置されている。『届けに来い』とでも言っているかのようだ。
《Campanella》
『どうしてもいなくちゃダメ?』というソフィアの言葉は、カンパネラがとてもとても言いたかったことだった。言えなかったが。そしてあっさりと拒否されてしまったが。
ピ、と鋭いレイピアが喉を突き刺ささんとするように向けられたドロシーの指に、カンパネラは冷や汗をかいた。
カンパネラは感じる。たぶんこれ、何を言ったって逃げられない。
ドロシーからは言うまでもなく。ソフィアも、恐らくカンパネラを巻き込まないために茶会を断るなどということはしないだろう。引けはあるように見受けられるが、それでもやはり何をしてでも、ドロシーから情報を欲しがっているように思えた。
猛烈に嫌な予感がしていた。姉の言葉を借りるならば、“天秤が大きく揺れている”。警鐘のように鼓動が早くなる。一体自分は、これから何に巻き込まれようとしているのだろう。
とっくに問題の渦中にいることを知らずに、カンパネラは不信そうに眉をひそめている。
そうして何も言えぬまま、ドロシーの騒がしい退場によって会話は終了してしまった。彼女が去り、ソフィアに呼び掛けられたことで、やっとカンパネラは合唱室に足を踏み入れた。
「………あ、あの。練習、します。……ありがとう、ございます……」
消え入りそうな声であるが、静寂を取り戻した合唱室では、きっと無事にソフィアの耳に届いたことだろう。
ピアノの楽譜台に教本を開いて置こうとして、彼女が置いていった楽譜に気付いて戸惑うが、もう今更彼女を追いかけることはできまい。どうやらまた会う予定を取り付けたようだしと、カンパネラは「あの……」とソフィアに半ば押し付けるように楽譜を渡そうと差し出した。
嵐は去った。瞬きのうちに、目眩がするような鮮烈さを残して。「……あっ、ちょっと……!」なんて声だけが伽藍堂の合唱室に置き去りにされる。最初から最後まで、完全にあのドールのペースに呑まれてしまった。初めての経験である。
──きっと有益な話をする為には、カンパネラを連れていかなければならないのだろう。けれど、当然カンパネラはそんなの怖くて嫌でたまらないはずだ。かといって、彼女との話を諦めるという訳にもいかない。……きっとお願いすればカンパネラは着いてくる。でもそれは、カンパネラにとっては『断れなかった』ということでしかない。そんなの、弱みに漬け込んだり脅したりすることと何ら変わりない訳で。
「………ううん、お礼なんていい。ごめんねカンパネラ、怖かったでしょ? 結局あたし、何にも出来なかったわね。……はあ………」
ソフィアは難問に顔をしかめる。大きなため息の原因は、きっとカンパネラにも察せるものだろう。ソフィアは優しい心の持ち主だ。それ故、『情報を聞き出さなければならない』という理性と、『仲間を嫌な気持ちにさせたくない』という感情とが、天秤を不安定に揺らしていた。
──天秤。 カンパネラの『天秤』も、揺れているのだろうか。ソフィアの脳内に策が溢れる。それはまさしく一筋の雷鳴であった。
「……ねえ、カンパネラ。お願いがあるんだけど……
──あなたの『お姉さん』に会えないかしら?」
ドロシーの残した楽譜をしっかりと受け取ったソフィアは、真っ直ぐカンパネラを見据えた。
《Campanella》
ごめんねと謝られ、カンパネラはそれを否定するようにふるふると首を振った。ドロシーとの一対一での対話をするのは怖かったし、彼女がここを譲ってくれたのもソフィアのお陰である。それを咄嗟に言葉にする能力はカンパネラにはなかったが。
「おね……あ、姉とですか」
ずっと抱えていた教本、コンコーネ50番のページをぱらぱらとめくるのを中断し、カンパネラは首をかしげた。太陽を直視できずに目を閉じるように、視線を徹底的にソフィアから逸らしながら。
耳にかけていた髪がはらりと降りて、カーテンのようにカンパネラの顔を隠してしまう。彼女の逃げ場を作り出してしまう。
「……えと……問題ないって、言ってます。姉が……。い、今すぐですか?それともあの、……ドロシーさんとの、お話の時に……?」
姉が問題ないというのだから、不安を感じる必要はないのだろうが。しかしカンパネラは、交代に対し了承しつつも、あまり積極的でないように見えるかもしれない。
このまぶしい人に、大好きなお姉ちゃんを取られてしまうのではないかという漠然とした恐れ。
自分の代わりに、大好きなお姉ちゃんがおかしなことに巻きこまれはしないかという恐れ。
そういう幼い恐怖が、彼女を少しだけ惑わせている。
優しい子、カンパネラ。声をあげて意見するのは難しかったのだろう、それでも彼女なりにこちらの『何にも出来なかった』という言葉を否定してくれる。それを期待していたという訳では無いものの、優しさに触れてコアが暖かくなるのは不可抗力とでも言うべきだろうか。
「そう、お姉さんと。彼女と話す時で構わないわよ、今はあなたが練習する時間でしょう? せっかく教室が空いたんだもの、独占できる時に使わなきゃね。」
にこ、と柔らかくソフィアは微笑んだ。どうやら何か思うところがあるらしいカンパネラの態度が気に留まったのか、ソフィアは更に言葉を続ける。
「……そんな顔しなくても大丈夫よ、カンパネラ。このあたしがついてるのよ? アイツがどんな事してきたって、あんたのお姉さんを危険な目になんて遭わせないわ。安心してちょうだい。」
ふっ、と笑ったソフィアは、実に明るくはきはきとした声色で自信に溢れた台詞を述べた。その言葉は、実に『らしい』ものだ。後光の差すような眩しさは、あなたが幾度も焼かれたものだろう。
「それじゃ──あたしが居たらお邪魔よね? せっかくなら聞いてみたかったけど……また後で迎えに来るわ。頑張ってね、カンパネラ。」
楽譜を手にしたまま、ソフィアはゆるりと手を振り、背を向ける。そのままスタスタと立ち去っていく……と思われたが、教室を出る前にくるりと振り向いた。
「……ごめん、どれくらい後に迎えに来たらいいかしら?」
《Campanella》
「わ、わかり、ました」
髪で表情は隠れているがしかし、カンパネラが頷いたのが分かるだろう。
カンパネラはその白魚の指で鍵盤に触れる。白鍵も黒鍵も、割れてもいないし傷もなくてほっとした。
彼女にとって、楽器は仲間であった。自分と違う音が出せる仲間であった。
カンパネラがこの無機物に対し抱く親愛を、目の前のソフィアというドールは躊躇いなく、生きているものに向けられる。例え自分のような欠陥品にさえ。相手に悟られないよう逃げ回り、関わりを避けてくるような相手にさえ。
……それが少し羨ましくて、少し苦手だ。
安心して、と笑むソフィアに、「……はい……ありがとうございます……」と一瞥もせずに短く返事をしながら、そんな下らないことを思った。
ソフィアがここを去ろうとしてすぐ戻ってくると、カンパネラは、
「……三時間ほど、ですかね……」
と。伴奏者も合唱団もない独唱の練習にそれほどの時間を溶かすことが当然とでも言うかのように告げた。
言い終えれば、ソフィアからの反応を待つこともせず、カンパネラはピアノの鍵盤を叩いて軽く伴奏をさわり、そして口を開く。
ソフィアがそのままそこから去れば、扉が閉まるまでの間、彼女の少女らしい小さな背中で歌声を受け止めることだろう。カンパネラには似合わないような明るい旋律を、朝の露が連なったような、繊細でありながらよく伸びる声が辿るのを。
「そう、それじゃあ三時間後。またね。」
カンパネラの返事を聞くと、再びソフィアは踵を返す。素早いその動きには、彼女の邪魔をしたくないという心遣いが込められている。
三時間。ソリストの練習時間には少々長すぎるのではないか、などという無粋な念はソフィアの中には一片もない。大切な仲間のひとりである彼女が、好きなことに時間を費やせているという事実が存在するだけで、ソフィアは充分だったからだ。
教室を後にする。段々と小さくなっていく美しい歌声を聴きながら。
──さて。三時間という短いようで長い時間をどうやってどうやって潰そうか、問題はそこだった。プリマの冠を被っていた頃も、オミクロンのドールとして後ろ指をさされる立場である今も、不思議なことにソフィアの周りには常に誰かがいた。一人の時間、というのは珍しい物で、いつの間にやら暇の潰し方というものを忘れてしまったようだ。
ソフィアは、ただ辺りを彷徨く。オミクロンのドールがそこらを歩けば卑しい囁きが飛び交う……など、誰もがわかること。しかし、ソフィアがこうして目的もなく歩き回るという行動を取れるのは、恐らく彼女の心の強さ故だろう。
そうして宛もなく歩みを進めるうちに、やがて人の気配のする講義室へと辿り着く。
あなたが踏み入れた講義室は、各クラスの先生による座学を中心に使用されている。部屋の左手側の壁には広い黒板が張り付けられており、教壇と、揃えられたドールのための机と椅子が存在する、シンプルな教室といったところか。
この部屋の手前側の壁には、教材などをしまっておく備品室へつながる扉も存在する。
現在は授業の予定が無いのか、講義室はひどく閑静だ。
だからこそ──で、あろうか。
講義室に踏み入る前に、あなたの耳には二人のドールが言い争うような声が聞こえた。
言い争うというより、一方が怒鳴り、一方がそれを宥めるというような、そんなやりとりが。
「……──ねえ、ヘンゼルってば、い、いつまで勉強してるの」
「俺が満足するまで。邪魔するなよ、お前には関係無いだろ」
「か、関係、ある。だって、わ、わたし、その」
「どうせエーナの姦しいグループから弾かれて来たんだろ。愚図で話の出来ないお前には出来ないって何度言ったら分かるんだよ。これ以上俺に恥をかかせるなよ、鬱陶しくて仕方がない。さっさと観念して欠陥を自己申告しろよ」
「あ、う、……」
──それは。あなたが日頃目撃するような、ありふれた、オミクロンクラスへの冷遇と酷似した、冷ややかなやりとりであった。
講義室を通りがかったソフィアの耳は、漏れ聞こえてくる声を鋭敏に聞き取った。そのデュエットは実に荒々しいもので、同時に退屈で飢えたソフィアの興味心をくすぐるには充分な火種となったようだ。
「──あら。随分騒がしいと思ったら、おしゃべりなニワトリが鳴いてるじゃない。」
つかつかと足音を鳴らしながら、堂々と講義室へと踏み入り、その人影へと近寄っていく。単なる暇つぶし、としてこれをやってのけるソフィアは、気の弱そうなドールにはどう映った事だろうか。
「なんだか楽しそうね? あたし丁度暇してたの、混ぜてもらえるかしら。」
ニッコリ。そんな効果音の付くような満面の笑みを浮かべた。作り物らしいその笑顔は、小悪魔のような残忍さをも孕んでいるようだった。
「でも、ヘンゼル──」
あなたの講義室への入室は、揉めていた内の一方が何事か続けようとした瞬間になるだろう。
白鳥のように凛々しく、気高いあなたは、それが決して内輪揉めの最中であろうと臆さず舞台に上がる。否が応でも自身に脚光を浴びせさせ、多くの者の視線はプリマドールに釘付けになる。たとえあなたにその気がなくとも。
「──ソフィア、」
講義室の前方の席で、渦高く教本を積んでそこに半ば顔を突っ込み、埋もれるようにしてペンを走らせていたその少年ドールは、こぼれ落ちるのではないかというほど目を瞠り、その衝撃にペンを滑り落とす。
そこに居た二人のドールは、まるで瓜二つの顔立ちをした少年と少女だった。ワインレッドの上品な赤毛と、ラズベリーカラーのお揃いの瞳。深紅に白い肌が眩く映ゆるようで、ほとんど同一個体のドールが二人並んでいる様は奇妙にも映るだろう。
二人の違いは、髪型と制服だけ。一方は短髪の鋭い眼差しの少年であり、一方は三つ編みの気弱そうな少女であった。
「お前、何でここに。……はは、は、オミクロンクラスはどうも暇みたいだな、欠陥ドールに施すものはろくにないらしい! お前がガラクタに埋もれている間に、俺はさらに優秀になった! き、きっと落ちぶれたお前よりも、ずっと──!」
少年ドールが立ち上がり、ほとんど吠えるみたいに叫ぶ。彼は当然彼女が自分を覚えているものと思い、名乗ることも、挨拶さえもしない。
その形相は必死めいていて、口角は歪に吊り上がっている。そんな少年を怯えたように見つめる少女のことは、もはや眼中にないように見えた。
「──うるさい。下品な男、人様とお話する時の行儀がなってないのね。」
ぴしゃり。と、言い放った。まるで窓サッシの隙間の埃でも見るかのような目で。
必死な鳴き声を止めさせるだけというには、あまりにも冷たい声だった。
「あたし、犬の言葉なんて学んだ事がないのよね。そんなに吠えられても困るわ。勉強くらいしかする事のないみたいな、ろくに躾のされてない動物に見下される覚えなんてないんだけど?
──で、どちら様?」
朝から放置されたポタージュのように、ソフィアの瞳は冷えきっている。身長は、赤毛の少年ドールの方が遥かに高かった。が、本当に見下しているのは、どちらであったのだろう。
──だから、いつまでも底辺を這っていないで、いい加減戻ってきたらどうだ。
きっと、彼のこの後に続く言葉はこうだった。挑発して、焚き付けるつもりだった。
それがこの有り様。
あなたと同じデュオクラス。少年型として造られたヘンゼルは、非常に優秀なドールであり、何処までも勉学にのめり込んで貪欲に知識を吸収する、所謂“ありふれた”デュオモデルの構造をなぞらえていた。
彼は常に、頂きに君臨する輝かしいソフィアを拝し、あなたを好敵手として、目標として、普遍の憧れとして──そんな特別な額縁に納めて接してきた。ヘンゼルは自分があなたに認められているものと思っていたし、自分があなたの次点であると信じて疑ってこなかった。
それをあの男が奪い去った。今まで表舞台におくびも顔を出さなかった、忌々しい、あの男が。
その上、当のソフィアには己を認知されておらず。冷徹で、他人行儀な、そんな眼差しに晒されながら残酷な言葉を投げかけられ。
ヘンゼルは自ら処刑台に上がっていたことにも気付かず、自尊心を徹底的に殺し尽くされた。こんなに残忍な血祭りがあろうかというほど、派手に。
「…………、は……?」
彼の声は掠れて震えていた。浅い呼吸が講義室にこだまする。
「ば、……馬鹿なことを言うな。お前はプリマドールだったんだぞ、俺のことを忘れてる訳がない。俺を見ろ! 分かるだろ……おい!」
「へ、ヘンゼル、もうやめようよ、これ以上はあなたが傷付くだけだよ」
「うるさい! お前は黙ってろ! 何も出来ない愚図がしゃしゃり出るな、俺と同じ顔で!! 面汚しが!!」
「う、」
ヘンゼルは怒号をあなたに浴びせかける。それを止めようとした少女を払い除けて、痛罵しながら。
少女はヘンゼルの後ろからあなたを見て、眉尻を下げる。
あなたがデュオクラスの片隅のことまで覚えているならば、彼女はその窓際をいつも陣取っていた、双子のドールの片割れ。グレーテルという名の少女であると分かるだろう。
「──ヘンゼル? ヘンゼル、ヘンゼル……………ああ、確かにそんな奴もデュオクラスに居たかしら。悪いわね、興味のない事は忘れるようにしてるの。」
三つ編みの少女が呼ぶ名を聞いて、ソフィアはようやく記憶を取り戻したらしく、少しだけ大粒の瞳を開いてみせた。少しは合点が行った、という表情であった。
そして。吠える赤毛のドール………ヘンゼルの必死さを、まるでただのノイズのように、『興味がない』という言葉で切り捨ててしまう。
残酷な言葉だった。けれども、ソフィアに悪気などはない。本当に興味がなかったのだ。つまらないお人形ばかりだったあの教室に、ソフィアが興味をそそられたことなどこれっぽっちもなかった。それだけが、揺るがぬ真実で。
けれども、辛うじて記憶に残っているドールも中には居て。
「そちらのお嬢さんは……確かグレーテルってお名前だったかしら? 可哀想に、ぎゃあぎゃあと喚き散らされて耳が痛いでしょう。あたしの目にはひとりで吠えてデュオの名に泥を塗るような下品な犬の手網を握ろうと試みる懸命なお嬢さんよりもあなたの方が余程面汚しに見えるけど。」
グレーテル。ソフィアは、ハッキリと少女の名を口にした。特に自分から名乗った訳でもない、いつも窓際で静かに佇んでいた目立たない彼女の名を。ヘンゼル、というドールの存在を思い起こすのには、あれだけの時間を要したのに。
既に無惨に切り刻まれたなけなしの自尊心を、更にその上から火で炙るような容赦のない、『興味のない事柄』呼ばわり。事実、プリマドールに君臨していたあなたにとって、ヘンゼルは確かに『その他大勢』の枠組みに入ったことだろう。あなたは頂点に立つが故に、その下々であなたを見上げ、その身を焦がす者の苦悩だけを理解出来ないのだろう。
ヘンゼルは絶句して、今しがたグレーテルを振り払った腕をガクン、と落とした。消沈したように静まり返って、その真紅の瞳にはぐるぐる、ぐるぐると激情が渦巻く。誰が見てもそれは色濃い絶望であると悟るだろう。
「……え、……あ、う……」
一人の少年を悪意なく地獄へ叩き落とした可憐なソフィアが、その目線をグレーテルの方へ向けると。名を呼ばれた彼女は目を瞬いて、動揺したように、当惑したように声を漏らす。
そして、困ったようにその目をヘンゼルへ向け──
──ヘンゼルは、自分よりも出来損ないの片割れを覚えられていたことがトドメだったらしい。頭を掻きむしって、その美しい艶めく赤毛をぐちゃぐちゃにかき乱すと、「ックソ!」と叫んで講義室を飛び出して行ってしまった。
後に残されたのは、静まり返る講義室に立ち尽くすグレーテルと、あなただけ。
グレーテルは、自信なさげな相貌を伏せて、ヘンゼルが置き去りにした教材を集め始めた。中には彼が衝動によって床へと薙ぎ払われた書物もあり、それらをしゃがみ込んで黙々とかき集めている。
「…………………」
「あーあ、つまらない男。これだから意気地無しは嫌なのよ。」
逃げ出して行ったヘンゼルを追うこともなく、その背中をふんと鼻で笑った。罵声の中に悪意が込められていなかった、と言えば嘘になるが。でも、それも三割程度の話で、彼を覚えていないとかは仕様のない事であったし、そもそもこちらを先に貶してきたのは彼の方だ。自分に非はない、と信じきっている様子のソフィアは、やれやれと言ったふうにそこらに散らばった資料を拾って──
「……ほら、手伝うわ。さっき乱暴にされてたけど怪我はない?」
笑顔でグレーテルへ差し出した。それは先程までの高圧的な様子は少しもない、友人に向ける笑顔と同等のもの。グレーテルの瞳を覗き込むような仕草は、乱雑に振り払われたことについて心配しているようだと直ぐにわかるはずだ。
「……ソフィアさん。久し振り、だね、わたしのこと、お、覚えてくれてないと、思ってた……」
──あなたが名を呼んだグレーテルという少女ドールは、先刻あなたへ激情を叩きつけたあの少年とそっくりそのまま、同じ顔の造りをしていた。だからこそ恐慌に歪んだあの顔が、内気に俯くその様が一層奇妙に映るかもしれない。
あなたがグレーテルの身を案じて優しく資料を差し出してくれると、グレーテルは赤毛を垂らして消沈した様子で俯きながらそれを受け取る。
怪我は、の問いにゆっくりと首を横に振りながら、グレーテルは小さな、吃り混じりの不安定な声で応えた。思えばあなたは、彼女の声をまともに聞いた覚えがないことを思い出すだろう。彼女はデュオクラスにいた時も、常に端っこに留まり、自己主張を強めるようなタイプではなかったから。
資料を纏めて、グレーテルは机にそれらを束ねて置く。そうして手が空くと、彼女はあなたに向き直った。
「あ、あの、さ。わたしなんかに意見されるって、嫌かもしれない、けどさ」
あなたを正面で見据えるグレーテルは──ヘンゼルのそれと同じように、その瞳をぐるぐる、ぐるぐると黒く染めて。
突然、あなたの喉笛を掴もうとする。その鋭い指先が、あなたの首を絞めようとするだろう。
大人しく、内向的な彼女の突然の凶行に、あなたと言えど対応出来るものだろうか。
「あなた変わらないんだね、高慢ちきなあの頃のあなたとずっと同じ。わたしあなたのことずっと嫌いだった。憎くて憎くてたまらなかったよ、またのうのうとヘンゼルの前に顔を出してくれたんだね。気安く呼ばないで。ヘンゼルを傷付けたその口で。ヘンゼルを蔑ろにしたその目で。ヘンゼルを釘付けにしたその姿で。ヘンゼルを狂わせたあなたのこと、わたしはずっと呪ってやりたかったんだよ。
ヘンゼル。わたしの可哀想な弟。
わたしがあなたをこの悪魔から救ってあげるから……」
「ええ、久し振りグレーテル。覚えてるに決まってるでしょ? 元々クラスメートだったんだから。」
元々クラスメートで、グレーテルよりもずっと目立っていたであろうヘンゼルの事はろくに意識していなかったその口で。当然覚えている、と言った。人を狂わせる、残酷な魔女の微笑みはとてもやわらかで。
教材を集め終わり、一息ついた。何かを伝えようとしてくれるらしい、自信のなさそうな声に、ソフィアはふっと笑う。
「なあに? ……もう、自分なんかが〜なんてあんまり言うものじゃないわよ、もっと自信持ったら? あたしはそんな事全然思って、な……………………
…………ッかは、」
それは一瞬の出来事だった。瞬きのうちに、グレーテルの細い指がキリキリと己の首を絞め付ける。ひゅ、と浅い呼吸が漏れる。そして浴びせられる重い憎しみに、呪詛に。流石にひどく驚愕したらしく、丸い目を見開いていた。
「ッは…………離し、なさいよ…………!」
けれども、ソフィアは無力に淘汰されるだけの小動物などではない。やがて我に返れば、グレーテルの細い腕を掴み、負けじと力を込めて引き剥がそうと必死に試みる。殺意に満ちた瞳に、腕に込められた力に、華奢なソフィアが対抗できるかは定かではない。
あなたからの懸命な抵抗を受けようとも、グレーテルは怖気や動揺などを見せて手を離す事は無かった。地下室の暗がりを思わせる陰気な殺意にラズベリーの色をした瞳を照らつかせ、この魔女を殺す事こそ救いになるのだと信じて疑わぬ信仰を浮かべた形相で。
グレーテルはあなたに片足を引っ掛けて、講義室の机の上へ勢いよく押し倒そうとする。小さな体格のあなたに優位を保ちながら、グ、とその凛々しい鼻先を、苦しみ喘ぐその顔を覗き込もうとする。
彼女の手は、細く生白いあなたの首を、脊椎から軋ませ、圧し折らんと言うほどに力強かった。引き剥がせばくっきりと痕が残るのではないかという程に。
耳の側で何かが軋む様な音が聞こえ、あなたの目の前が眩み始めたであろう頃合いに。遠くから動揺した様な声が聞こえた。
「な、何してるの!」
と細い声で叫ぶ、それは乙女の声である。
乱暴な革靴の足音が迫り、闖入者はあなたに毒牙を迫らせるグレーテルへ力一杯突撃した。グレーテルの手はその衝撃であなたの首を離れ、遠ざかり、彼女は講義室の床へ転がる。
「──だ、大丈夫? あなた、しっかりしなさいな、ねえ! わ……わたくしの声が聞こえる!?」
焦燥の滲む取り乱したような声があなたを揺すり起こそうとする。震える指先があなたの頬に触れようとして、あなたは眼前に、黒髪の少女が佇んでいるのが分かるだろう。
「ッぐ、ぅ…………………………」
足をかけられ、半ば踏みつけられるような形で机へと押し倒され、がたがたと荒々しい音が鳴る。その明晰な頭脳や達観した物言いから忘れそうになるが、ソフィアの設計年齢は10歳。同じデュオドールと言えど、幼子の力と比べては天と地ほどの差がある。必死に抵抗を試みたものの、ソフィアに成す術はなかった。
苦しみと脊髄の軋む痛みに呻く。その力と、ソフィアが経験した事の無い──臓腑を焼くような憎しみの前に、ただの弱者と成り下がるしかなかったソフィアは、やがて抵抗の力もゆるり、ゆるりとなくなって行った。
──チカ、チカ、と視界が点滅して、輪郭がぼやけ出した頃だった。まさにそれは、メシアのごとく。遠のいていく意識にかわいらしい声が届いた頃には、もうグレーテルの指は首から離れていた。ようやく酸素を取り込める様になった事に気が付いた脳は、防衛反応で多量に息を吸うよう反射的に身体中へ命令を巡らせる。荒く息を吸った細い喉からかひゅ、と音が通り抜けた。
「………ッげほ、ゴホッ…………は……ッ、はぁ……あ、りがと……だいじょうぶ、聞こえるわ……。」
ひどく焦った声でこちらを揺すり起こす彼女は、どうやらこちらを助けてくれたらしく。不規則な深呼吸のまま、なんとか礼を紡げば、しかしこのまま安堵している場合でもないだろうと己の頬に触れようとする彼女の手を掴み、そのまま強引に飛び起きてはグレーテルとなるべく距離を取るだろう。その一瞬の出来事が済めば、ソフィアは膝から脱力してへたり込んでしまう。
「よかった……壊れてしまっていたらどうしようかと思っ、ッきゃあ!」
黒髪の乙女は息も絶え絶えながら、どうにか反応を見せてくれたあなたを見て張り詰めた表情を緩和させて、安堵を浮かばせた。しかし素早いあなたの判断と対応により、腕を掴まれれば、細い悲鳴を上げてふらつきながらも、脱力するあなたの身体をその細腕で支えようとしてくれた。
講義室に現れた黒髪の少女は、顔色悪く床に倒れ伏せたグレーテルを見据えた。グレーテルは操り糸のほどけた人形のように動かないでいたが、やがて身動ぎし、起き上がる。
その頬を、美しく輝く涙が伝っていた。
「わたし……わたし、欠陥品なんだ。この悪魔を殺すことすらできないの? このままじゃヘンゼルに嫌われちゃう、やだ、や、やだよ……わたしの、かわいそうなヘンゼル……」
震えた声で、怯えるようにそう呟いた後。さめざめと涙しながら、グレーテルは教材を抱えて足早に講義室を出て行ってしまった。
「あ、ちょっとあなた、待ちなさ──」
黒髪の乙女はその背に思わず手を伸ばしかけたが、彼女の様子が普通ではなかったこと。それから、あなたの容態が心配であったことも相待って、その場に留まることにしたようだ。
へたり込んでしまったあなたの前に同じようにかがみ込み、懐から上品なレースのハンカチを取り出すと、あなたへ差し出してくれる。
「平気? 身体は大丈夫かしら、念の為先生を呼んでおく? あなた、……やだ嘘、もしかしてプリマドールのソフィア様……? ごめんなさい、わたくしったら無礼なこと……」
「……っはあ、行ったみたいね……どうなる事かと思ったわ……」
うわ言を呟いたかと思えば去っていったグレーテルの背を目で追って、ようやくソフィアは胸をなで下ろし安堵する。こうして静かに顛末を眺めている間に、だいぶ呼吸も整ってきた様子であった。はあ、ともう一度深く呼吸をするのと同時に、上品なハンカチーフが差し出されたのが目に入る。こちらを案じてくれる暖かい言葉は、ソフィアという存在に気付いた時点で声色が変わっていった。
……ああ、けれどもこの子は優しい。他のドールとは違い、珍しく『オミクロンの生徒』という目を向けてこないまともな人物であるようだった。少々焦ったように謝罪を述べる彼女にソフィアは笑う。
「〝元〟プリマドールね。無礼だなんて何言ってるの、あなたのお陰で助かったわ。ありがとう。その綺麗なハンカチはしまってちょうだい、あたしは大丈夫だから。」
これ以上心配はかけさせまい、とゆっくりと立ち上がり、制服についた埃をパッパッと手で払う。柔らかい声色とともに、優しき彼女に微笑みかけていたが、……ソフィアはある一点を思い出し、目の色を変える。
「…………………ちょっと待って……くび、首元に何か、痕とか……ついてないか見て貰えないかしら……?」
その瞳には、確かな焦りが浮かんでいた。ソフィアは別に、ドールとして身体に傷が残ることを避けたいなんて事は断じて考えていない。が、状況を踏まえて、もしも外傷が先生に見つかったら何か言われるかもしれないというのが恐ろしかった。……なるべくなら、今はあの人と話したくない。当然の思考だ。
それに、万一傷や痕が付いていたとして、そこからグレーテルの事がバレてしまったら? きっと彼女もオミクロンクラスへとやってくる。そうすれば、彼女はあの男──ヘンゼルからどんな叱責を喰らう事だろう。想像に容易いことだ。己の首を絞め殺そうとしてきた相手を思いやる、だなんてバカバカしいやもしれないが。
「ソフィア様、何を仰っているんです。例え今はなにか故あってオミクロンクラスにいらっしゃると言えども、あなたはドールとして規範となるような素晴らしい成績を納めたことに変わりはございませんことよ。
わたくしは……あなた方のことを心から尊敬しています。プリマドールの皆様は、わたくしの“斯く在りたい”という理想の姿。特に、わたくしはエーナクラスの所属ですから、アストレア様を畏れながら目標として仰いでおります。けれど、ソフィア様の冷静沈着な立ち居振る舞いも、勿論わたくしの密かな目標でしてよ。……い、言ってしまいましたけれど。」
無事立ち上がってくれたあなたの様子を見て、彼女はほっと息を吐いてハンカチを懐に仕舞う。
それから、焦ったように声を上げる姿に、こちらもまたハッとしたような顔をして、すぐに「失礼いたします」とあなたに顔を寄せ、首の痕跡を確認してくれた。
彼女の細い指があなたの首にかかる。その場には、うすらと指の痕がついていた。それを見据えた彼女は、眉尻を少し下げる。
「微かにですが……あの子の手指の痕が残っています。けれど本当に薄いものですし、引っ掻き傷も残っていませんから、きっと数日ほどで消えるのではないかしら……そう、思いますけれど。もし何か不都合がございましたら、わたくしからも先生に証言致します。頼ってくださいませ。」
「………っ、ふふ……あはは! あなた……っふふふ、面白い子ね。わかった、わかったわ、ありがとうね。なるほど、アストレアの所の……見る目のある子って……こう、やっぱりしっかりしてる物なのね。……アストレアの……確かに前見た事があるような、ないような……まあいいわ。
そうね、あなたがそこまで言うなら──このあたしを助けた事を十二分に誇りなさい、褒めてあげるわ。あなたならそのうちプリマドールにだってなれるわよ。未来のプリマさん、お名前、教えてくれる?」
真剣な眼差しで強く語りかけてくれる彼女の言葉に、しばしぽかんと口を開いたまま静かに聞いていた。が、最後の茶目っ気のある言葉を聞いて、ついには吹き出し、思い切り笑い出す。こうして誰かに真っ直ぐな敬意を向けられたのはいつぶりだろう。この可愛らしい少女の言葉のいずれにも邪念は見受けられず、真にこちらのことを想ってくれているのだと言うのが伝わってくる。それがなんだかこそばゆくて、嬉しかった。自分の優秀さは充分心得ているし、尊敬を集めるのにも慣れていたはずなのに、不思議なものだ。
……かつて同じくプリマドールであったアストレア。彼女はその天性の人を惹き付ける魅力から、プリマドールの中でも特にドールからの支持が高かった気がする。……特にガールモデルの。その内の一人であろう彼女の事を、ちらりと見た事があったがため、思い出せば記憶にはうっすらと残っているものの、流石に名前などは知る由もない。さらりとパフォーマンスのように高慢な振る舞いをしてみせては、名前を尋ねてみた。恩人の名を知りたいと思うのは当然のことだ。
「ああー……やっぱり……。傷になってないならよかったけど……まあ、何か言われたらその時はあなたに頼るわね。はあ……ファンデーションで誤魔化せるかしら。こういうトラブル、先生にバレたらオミクロンになっちゃうかもしれないものね、あの子。わからないけど。」
彼女の困ったような顔と声に、やはりかと落胆の息を漏らす。彼女もこう言ってくれていることだ、特にこちらが怒られることはないだろう。が、けれどやはりグレーテルの処遇が気がかりのようで眉をひそめた。少し面倒ではあるが、合唱室に戻る前に控え室にでも行って、どうにか誤魔化すしかないだろう。
「……! ええ、ええ! ソフィア様がご無事で本当に心から安心いたしました。わたくしなど、本当はあなたの記憶に残るのも、おこがましいのですけれど……ウェンディと。
プリマと呼ばれるほど上質な、ドールの相応しい働きをヒトに献上出来るよう、精進しなくてはいけませんね。」
遥か高みから見下ろす竜のように尊大な言葉選びは、きっと彼女の演出でありサービスであるのだろう。ウェンディはそれを察して嬉しそうに頬を上気させると、何度か頷いてから微笑んで見せた。
ドールらしく生きられること。真面目な彼女はそれを自身の幸せであると、信じて疑っていないようだ。
「ええ……お化粧道具であれば、控え室の方に幾分お披露目の予備が備えてあったかと。目に見える位置に絞首痕だなんて、ドールとして致命的ですものね。
あの子……デュオクラスのグレーテルだったかしら。なんてことをするんでしょう、わたくしはきちんと責任を取らせるのがあの子の為にもなると思いますけれど。ソフィア様が黙秘を選ぶと仰るのなら、わたくしもそのように」
ウェンディはグレーテルの非道な行いに、真っ当な怒りを見せて白日の元に晒すべきだと考えているようだが、あなたの意向に従うとも述べた。
──そこで。ウェンディは現在時刻を講義室の時計で確認すると、「ああ、」と惜しむような声を漏らす。
「ごめんなさい、ソフィア様。わたくしはそろそろ予定がございます。けれどあなたを蔑ろにしたいわけではなくて、その……先生に招集を受けていて、どうしても外せない用なのです。
お暇してもよろしいでしょうか。」
わざわざすまなそうにお伺いを立てた彼女は、眉尻を下げてあなたを見据えるだろう。
「ふふ……そう、ウェンディね。かわいいお名前。おこがましいだなんて言わないで、自信を持ったら?あなたは覚える価値のある優秀なドールだわ。……ええ、頑張ってね。応援してる。アストレアも自分を慕う子の中にあなたのような子がいるなんてさぞ鼻が高いでしょうね。」
心の底から嬉しそうな微笑ましい表情に吊られ、口元がゆるむ。けれど、……ヒト。という単語に、すぐに言葉を返すことが出来なかった。観察力のあるドールならば、一瞬ソフィアのやわらかな表情にぴしりと亀裂が入ったのが分かるだろう。しっかりと元の声色を取り戻し、にっこりと微笑んでこの場では激励をしてみせた。
「そうねえ………ま、今更傷くらいは気にしないけど…………はあ。なあに、あたしの為に怒ってくれるの? 大丈夫よウェンディ、ありがとうね。あの子ったら随分怒ってたみたいだし、あたしがこうして元気にやってるだけでも仕返しには充分でしょ。ハ、次会った時の顔が楽しみだわ。」
いたずらっぽく………と言うより、最早それは性悪な台詞であった。その言葉にお似合いの、何かを企むような目を隠すこともなく、ソフィアはくすくすと笑う。
そんな頃、ウェンディが声を漏らしたのを聞いて、彼女の視線の先と同じ方向を見やれば、時計の針はかなりの時間の流れを示していた。
「あー、随分引き止めちゃったわね。ごめんなさい、あたしに構わずいってらっしゃいな。またね、ウェンディ。」
丁寧にこちらへ伺いを立てる彼女が申し訳ない心情を抱かぬよう、軽い調子で行ってくるように促す。そして彼女が教室を去れば、その背にひらひらと手を振って見送るだろう。
そうしてウェンディを見送れば、首元の痕を隠すためにデュオドールの控え室へと向かう。
他人との対話に長けたエーナモデルなら。他者の感情により強く共感し、影響を受け止めることが出来るエーナモデルであれば。あなたの微かな表情の翳りや、その反応に付随する複雑な思いまで読み取れたのかもしれない。
だがウェンディは何処か気もそぞろといった様子で、「……?」と首を傾けるだけで、あなたに何か詮索を仕掛けようなどともしないだろう。あんな事があった直後で動転している、というわけではないようにも感じた。
「ありがとうございます、ソフィア様。本当に、くれぐれもお気をつけくださいましね。わたくしはお暇いたします、ご機嫌よう……!」
ウェンディは慌てた様子でそう言い残し、ぱたぱたと制服の裾を柔らかく揺らしながら立ち去っていく。
あなたもまた、無人の講義室を出て控え室へ向かう事だろう。
踏み入った控え室は、まるで輝かしい宝石箱に迷い込んだように絢爛豪奢な空間だった。
大きなウォークインクローゼットが部屋の奥に存在し、色とりどりのドレスやタキシードなどの正装がハンガーに掛けられて並んでいる。化粧台が三つほど並んでおり、あなた方はこの場所でお披露目の支度を入念に整えるのだ。
控え室の右手側には、エーナドールの控え室に続く扉がある。ダンスホールへ続く扉があるのはあちらである。
きらきらと目に眩しい控え室に何を思うことも無く、慣れきったように真っ直ぐとドレッサーのうちの一つに近づき、引き出しの中の化粧道具からファンデーションを探り取っては器用に首元の僅かな痣を覆い隠した。その痣を完全に隠し切り、見ても分からない様になった事を確認してから、ソフィアは一息ついてファンデーションを元の位置と全く同じ場所になおし、ぱたんと引き出しを閉じる。
「………まさか、このあたしの首を絞めてくる奴が居るだなんてね。本当にいい度胸だわ……今頃何してる事やら。………って、あれ……靴?」
先程の事件──グレーテルの殺意の籠ったラズベリーの瞳を思い出しては、ソフィアはくすりと笑う。よそのクラスのドールなんて皆つまらないものだとばかり思っていたが、あのようにタガの外れた人物もいる。その事実が、ソフィアにとっては愉快だった。可愛らしい子うさぎにも出会えたし、大きな収穫だったと言えるだろう。満足げにひとつ伸びをすれば、その視界の端に、ドレッサーのうちの一つの付近に赤い靴が落ちているのを見つける。一体誰のものだろうか、そっとそれを拾い上げて観察する。
ドレッサーの足元に無造作に転がされた赤い靴。磨き抜かれた光沢がなんとも美しい、鮮やかなミュールだった。裏返しても靴の持ち主の名は底には書かれていない。
誰かのお披露目の衣装に合わせるための靴が放置されているのだろうか。ポツンと残された靴の真意を読み取る事が出来ない。
並べて丁寧に置くと、これが正解と言わんばかりに一層、ミュールが見栄え良く映った。出来栄えが良いだけに、なぜ脱ぎ捨てられていたのかあなたは疑問に思うだろう。
──それにしても、何だかこの靴、見覚えがある。似たようなものをどこかで見た気がする。
ソフィアはこの既視感の正体を探ろうとして、こめかみの鈍い痛みに気がつくだろう。ギ、と脳神経が軋むような感覚と共に、あなたはとある光景を夢に見る。
「ッぁ゛、が……………………………………」
それは、脳に、神経に、大きな亀裂が走るような。断裂されるような。少女の身体で耐えるには、あまりにも酷な痛みだった。ふらりと足の力が抜けて、その場に倒れ込む。
痛い。痛い。必死になって頭を抑えた。そんなことで痛みが収まるわけがないのに。
──やがて。何分経っただろうか、気味の悪いまやかしと痛みとに踊らされたソフィアは、覚束無い足取りでなんとか立ち上がった。
悪趣味な幻だ。あんなものは偽物だ。頭の中で、必死に唱える。違う、違う、違う。まるで餌で家畜を手懐けるように、ルアーで魚を釣り針にかけるように、都合の良いようにドールを利用するための幻覚でしかないんだ、『アレ』は。
──お母さん、なんて、そんなのは。
「……全部、偽物よ。」
長く息を吐いたソフィアは、先程手ずから綺麗に並べたばかりの靴を、部屋に入ってきた時の状態を思い出して……同じように、転がして置いた。それ以上靴を見ていたくはなかった。無造作に転げる赤い靴の光沢から目をそらすようにして、控え室を出ていってしまう。……もうそろそろ、合唱室へ行っても良い頃合いだろう。ソフィアは静かに合唱室へと向かう。無人の控え室は、まるで最初から何事も無かったように閑散としていた。
《Campanella》
ソフィアが合唱室の扉を開けば、彼女はもう既に姿を現しているだろう。
見目こそカンパネラと同一のものであるが、指揮棒のような凛とした立ち姿は、その“中身”が異なることを物語っている。
「ソフィア様。」
そのまっすぐな声色は、そのボディに備わった質の良い声帯を十分に活かしている。
「ご機嫌よう。妹を通して、状況は把握しております。」
カンパネラ──否、彼女の姉なるものは礼儀よく両の手を下腹部の辺りで重ね、まっすぐにソフィアのことを見据えていた。その目は眠るように閉じられているが、不思議と彼女からの視線を感じるだろう。
「参りましょう。」
教本を脇に持ち、姉なるものは歩き出す。
あなた方は滞りなく合流し、共に連れ立って三階へ向かうだろう。ガラス製の観音開きの扉を開くと、球形の天井の向こうには美しく晴れやかな青空がいつものように広がっている。
今はテラスも混み合う時間帯なのだろう。授業を終えたドールズが茶菓子と紅茶を持ち寄って、きゃらきゃらとささやかな談笑のひとときに浸っている。
──ドロシーが座っていたのは、一番奥。目の前の青空と外の風景をもっとも近くで一望出来る特等席だった。そも、彼女の周囲をドールが避ける。異様な雰囲気を纏う不審者極まりない彼女には、誰も近づきたがらないのだろう。
ドロシーはガーデンテーブルの机上に両足を乗せて組み、両手を腹部で組んで、抜け掛けの歯みたいに椅子をぐらぐらさせながらあなた方を律儀に待っていた。その眼差しの先には、流れる雲が映っている。あなた方の到来に気付いていないようだ。
〝カンパネラ〟と無事合流を果たしたソフィアは、人……もといドールズの波を通り抜け、最良の席に不安定に座すドロシーの元へと容易く辿り着く。カンパネラもしっかりと着いてきていることを確認すれば、退屈そうなドロシーへ声をかけた。
「ドロシー、約束通りカンパネラも連れてきてあげたわよ。これで満足でしょう? さ、お茶会といきましょ。」
ぱさ、とテーブルに乗っかったドロシーの脚の隣に彼女の楽譜を置き、空いた席に腰を掛けた。
《Campanella》
姉なるものはソフィアと共に、静かにテーブルに歩み寄ってきた。人混みに怯えることも、流されることもなく。
妹と違い、他人に顔を見られることに抵抗のないような凛とした佇まいである。
「……ご機嫌よう。」
声色は、少し冷たさを帯びていたかもしれない。
何食わぬ顔でドロシーに短く挨拶の言葉をかけ、軽い一礼をして、ソフィアに続いて空いた席につく。背筋がピンと伸びているので、いつもの20cmは身長が伸びたように見えるだろう。テーブルの下で、妹の教本を膝に置いた。
丁寧に隣に添えられた楽譜。そして先刻も耳にした自信に満ち溢れた凛々しい少女の一言。ドロシーはそれを聞いて、取ってつけたかのような頭部のズレを両手で直し、あなた方二人を見据えた。「待ちくたびれたァ」なんて言いながら机上で組んでいた両足を下ろし、双方の面々を緩やかに見渡すと、ググ、と伸びをして背筋を伸ばし──
「って誰なンだよオメーはよ!! どう見てもワタシが招待したダーリン♡ のビクビクオドオド系とキャラ違いすぎだろーがバカがよ! ……嘘やだ、この短時間で、い、イメチェン〜〜!?!?!?」
と、やかましい声で怒号をあげた。
かと思えば片腕を椅子の背もたれに引っ掛けて、いささか行儀悪く席に座しながら、肩を大袈裟にすくめてみせる。
「ワタシはみじめなミザリーのが好みだケドぉ……マ、別にいいよ、連れてこいって約束は忘れてなかったみたいだしィ?
で? オイ、マリーアントワネット。ワタシと一体何の話がしたいんだよ、シンセツなドロシーちゃんが聞いてやるよ。ほ〜ら。」
と、高慢な態度でソフィアに話を次ぐことを要求してみせた。
「友人の新たな一面が見られて良かったじゃない。こういうのは興味深いものでしょ? 喜びなさいよ。」
ふ、と小さく笑う様は、さながら高潔な女王のごとく。小洒落たチェアで脚を組むそのさまは、さながら絢爛な王座から人々を見下ろしているかのような、近寄り難いオーラを放っている。
何の話がしたいのか、と話を急かすような言葉を聞いては、ソフィアはやや間を置いた後に。……顔だけはドロシーへ向けたまま、カンパネラの方へと視線をやった。
「……カンパネラ。これからあなたには、残酷な事を聞いてもらわないといけない。それは……あなたにとっても、『あの子』にとっても、泣きたくなるような話。けれど、あなたには聞いていて欲しい。そして、『あの子』を守る為にあたしに協力してちょうだい。あなたのこと、信じてるから。」
ドロシーの異様な存在感のお陰か、ソフィアの近寄り難い威圧感のお陰か、良い眺めであるはずのこの付近にドールは見られなかった。けれど、ソフィアは声を落とす。この歪んだ茶会の参加者以外に気取られぬよう、悟られぬよう、細心の注意を払っているようであった。
「……それじゃあ、本題に移りましょうか。全員ここからは声を落としてちょうだい、周りの誰にも聞かれないように。
──ドロシー。あなたは、お披露目……いえ、この学園について、どこまで知ってるの?」
《Campanella》
「初めまして。妹がお世話になっております、カンパネラの姉です。まあ、私達は同一の存在とも言えますから……ええ。イメチェンという認識で構いません。よろしくお願いいたします。」
姉なるものはなんとも大雑把な理論を並べ、ぺこりと再びドロシーに頭を下げた。丁寧な所作はどこぞの使用人のような印象を与えるだろう。ソフィアとはまったく対照的である。
「理解しています。少なくとも、彼女や貴女の不利益となるようなことはいたしませんので、ご安心を。」
返答は淡々としていたため、ソフィアの気遣いが滲む前置きを受け止めきれていないかのように思われるかもしれない。
しかし、姉なるものは理解している。恐らく、少なくともソフィアにとっては、ひどく残酷な話なのだろう。彼女の天秤の傾きは、常にこの箱庭への警鐘を鳴らしていた。
受け止める。そして判断するのが彼女の役目である。愛しき妹、カンパネラに伝えるべきであるか、そうでないか。
それ以上自分が何かを口にするのは無駄であるというように口を閉じて、ソフィアに問いを投げ掛けられたドロシーへ視線を移した。
「正直かなり半信半疑だったケドぉ……フーン、マジだったんだ。ドールでも乖離性同一性障害なンてあるんだねェ、まるで別人! 憑依してるみたい!
なァユースティーティア。おもしれー女〜! ワタシのす〜ぐ落とし物する海馬に刻んどくよ、数分ぐらいは。ギャハハハ!」
ドロシーは腕を組んで興味深そうにカンパネラを眺めていたが、しかしすぐに普段の通常運転──下賤な笑い声を上げて、ガタガタと被り物を不気味に揺らし、不審な人物となる。周囲を寄せ付けぬソフィアの威圧も相待って、ちょうどいいぐらいにドールズも捌けたところで。
途轍もなく重いクエスチョンを投げかけるソフィアへ、ドロシーは艶めく無機質な相貌を向けた。
「あ゛は。何もかも。この茶番劇場のコトはァ、何でも知ってる。だってワタシは詩の上の役者ドロシーちゃん。そしてお前らは舞台の外側に行ける。いる。だからァ、なんにも知らないの。でも操り糸を取る権利だけは与えられてる。ギャハハ! 融通効かねーの!
ご機嫌よう新たなる革命家! お披露目をその目で見たのかい? そうでもなけりゃ、ンなこと聞かねーだろーがヨッ。
お披露目はどうだった? 楽しいものだった? 心踊るものだった? ドールの夢そのものだった? 希望溢れるものだった? ヒトはどうだ、優しかったか? 愛情に溢れていたか?
全部ノーだろうが。ギャハハ、だから茶番なんだよ。コイツはそういうことを知ってる。ワタシはねミザリー、お前にそれを知らせたかったワケ。ソフィアはナイショにしたかったみたいだケド?」
「……あなたは賢いわね。全て言うとおりよ、『お披露目でご主人様に出会う』なんて全部嘘だった。……残酷な物だったわ、アレは。
……あたしは、クラスメートの純粋な夢を奪いたくはなかった。これは、いずれ全員が知る事になるけれど…でも、なるべく夢は夢のままで、そっとしておきたかった。だから、カンパネラには聞かせたくなかったんだけど……うん。綺麗事も言っていられないものね。」
ドロシーは変わらぬ調子で、異様な雰囲気を纏ったまま、語る。けれど、それが異常なものではないのは良く伝わる。ドロシーはこの箱庭の事を悟り切っている様子で、そして『友人に知らせたかった』との気持ちに嘘もないように見えた。聡明なドールだ。
「あなたは前自分のことを『変な人』と自称したわね。……そう在ろうとするのは、お披露目を回避する為?
……あたしはね、オミクロンのクラスメートの事が大好きなの。変な奴も居るけど、それでもみんなの事が好き。それに、他のクラスにだって失いたくない子が居る。
……このまま皆が酷い目に遭うのを見ないフリなんてしたくない。あたし達、あんな目に遭う為に生きるなんて嫌なの。
──だから、戦う。このままじゃ終われない。ねえドロシー、あなただってきっと、同じ気持ちでしょう。……だからこうして話してくれているんでしょう。
ドロシー、あたし達に力を貸してちょうだい。あなたの知っていること、全て教えて。そうしたら、あたしも全てを教える。」
それは、まっすぐで真剣な瞳だった。敢えてぼかした言い方を選んでいるのも、こうして誓いを立てる為。ソフィアの気持ちに偽りなどないことは、その瞳から見て取れることだろう。
「フーーン……」
ドロシーは、騒々しかった先程と一転して、意外にもあなたの話を黙して聞いていた。巫山戯た被り物をしているせいで表情は読めないが、組んだ片手の指をトントン、と二の腕にぶつける、まるで思考を整理する為の予備動作みたいな仕草を取るので、真剣に話を聞いてくれているのかも知れない。
「ワタシが今こうしてるのは量産型ドールズとは一線を画すためェ。ほうら見てみろよマグノリア、ワタシがその他大勢と同じドールに見えるか? 見えねーだろッ! ギャハハ!」
自身の被り物の両頬に指先を添えて、またしてもカワイコぶるような素振りを見せてから。また片足を組んで、ドロシーは語る。
「ダメ〜〜。全部は教えない。リスクマネジメントってヤツ? お前がお披露目の実態を知ってるコトは分かったし、お前が革命家の卵ってコトも理解したケド。
それはそれとして情報を全部流す気は無い。
お前と……お前以外に何人が真実を知ってるか知らないケド。間違いなく管理者側が放った従順な飼い犬がいる。そいつらにワタシのコトが流されたら、ワタシは一貫の終わり。まだデスオアデッドのお披露目に行くワケに行かないんだよね〜やるコトもあるしィ ?
──ワタシが何が言いたいか分かる? 学者さん?」
「量産型。実に言い得て妙ね。周りの〝お人形〟とは違う様に在りたいのは……………まあ、なんでもいいけど。ええ、全く見えない。あなたの方が100倍興味深いし、面白いわ。」
ソフィアは笑う。ただの人形で終わりたくない、と言論で抗った末に不良品のレッテルを貼られる事となった身であるが故、ドロシーの言う『量産型』という語に滑稽さを感じたのだろう。そんな調子であった。
けれども、そんな様子もドロシーの言葉を聞いて、みるみる変わっていく。
「…………、は……?」
ドロシーは被り物をしているのだから、当然目が合うなんてことはない。だのに、それなのに。見据えられたような、視線に捕えられたような感覚に陥るのは、何故だろう。
「……ッ、まさか、……内通者ってこと……………? そん、なわけが…………」
狼狽える。オミクロンのクラスメートを、全員好いているから。……ドロシーの様子を見るに、こんな所で嘘をつくような事はしないだろう、きっと。彼女が愚者でない事もわかっていたし、その言葉は異様な信憑性を帯びていた。だから、信じるしかない。それは分かっている。けど、脳は理解を拒んでいた。漏れる声はか細く、弱々しいものだ。
「…………。〜〜〜ッ……わかっ、た。あなたの言うことも一理あるわ。信用も……一応、してる、し。
……もし本当だったとしたら、これ以上有益な情報はないわね……、あはは……はあ……。」
長い沈黙の後で、ソフィアは顔を歪めながら、ドロシーの言葉を受け入れる事にしたようだ。鬱屈な溜息を漏らしたのを最後に、態度を切り替えて、俯いていた顔を再び持ち上げる。
「……なら、そうね……。
……この間、オミクロンの……ミシェラっていう子がお披露目に出されたの。他のドール達は、お披露目のステージ上で……あの『怪物』にみんな殺された。けど、ミシェラは、ミシェラだけはそこにはいなかったわ。
もしかしたら、今もどこかに居るのかもしれない。学園内に居るなら見つけ出してあげたいの。あの子、ひとりじゃ怖いでしょうし。ねえドロシー、ミシェラのこと……何か知らない? オミクロンのドールは、お披露目に出ないの? それなら一体どこに行くの? それだけでいい、お願いよ、何か知ってるなら教えてちょうだい。」
眉尻の下がった、弱々しい…けれども必死な、ソフィアにとってはかなり珍しい顔で、懇願する。じっとビスクドールの頭部を見つめながら。
「お前らみたいなのが出てくることは、管理者側は容易に想定してくるに決まってるだろーが。
幸いにして、ドールは量産型だしィ? おあつらえ向きに“ヒトの為に尽くす”って思想をあらかじめインプットされてるワケだ。だったらトイボックスに背くドールや、脱走を企てるドールを監視する役割が与えられてるのが居ても全然おかしくないの。
……特に? オミクロンクラスはお前が最たる例になるような、ヒトへの献身に疑問を抱く“精神的欠陥を持つドール”も抱えてるデショ? だったら脱走を警戒するのは管理者からしたらアタリマエ。まず第一にお前らが気を付けなきゃいけないコト。友人を愛するコトは大いに結構だケド、これからはクラスメイトと話すときにも細心の注意を払えよ革命の前頭葉チャン、そうじゃなきゃ初っ端ドボンもあり得るぜ? 出鼻ボッキン! チェックメイト! ギャハハハハハハ!」
友を疑い、最悪にして切り捨てなければならない。内通者の存在を仄めかされたことは、あなたにとって大いなる頭痛の種となった事だろう。ドロシーは相変わらずゲラゲラと腹を抱えて、こちらから寄越せる情報はこれで充分だろうと鼻で笑う。
特にこれで、彼女が他者に迂闊に情報を流す危険性もきっと容易く理解するだろうと考えて。
「ミシェラ、ミシェラねェ。オミクロンの典型的なエーナジャンクドール。成績不振で堕とされた可哀想なオデット。確かにお披露目に出たって知ってる。
……お披露目にオミクロンが選ばれること。それは本人の欠陥が改善された場合に稀に起こるケースだケド。ソイツ、欠陥治ってた? どうなんだよクイーン。」
「そう、だけど、あなたの言う通り、だけど……でも……。……確かにお披露目を楽しみにしている子だっているし、ここに抗うことに否定的な子だっているでしょうけど。でもそんな、あの子達を疑わないといけないなんて………。
……とにかく、わかった。理にかなった意見だし、頭に留めておくわ。……あまり情報を広めなくて正解だったわね…」
重たい頭を片手で抑えて、鈍く返事をする。さながら鈍痛にでも耐えるかのごとく、美麗なドールの顔の造形を歪ませながら。こちらを嘲りでもするような狂人の笑い声に文句を言う余裕もなかった。
「……あなた、ミシェラのこと…………いえ。オミクロンのクラスのドールのこと、わかってるのね。
あの子の欠か──勉強が苦手な所は、治らないままだった。に通常のクラスに通常のドールとして戻れるレベルではなかったわ、確実に。」
ミシェラの名は初めて出したはずだ。それなのに、ドロシーはミシェラのことを知っている。クラスすらも違うだろうに、詳細に事情を把握している。ドロシーは、オミクロンのドールの内情を把握しているのだろう。一体なぜなのかは定かではないが、ドロシーがオミクロンの生徒に何かしら思うところがあるのは間違いなさそうだ。そして、それは決して悪い意味ではないのだろう。信用のもと、ソフィアはたんたんと語る。欠陥、という語をわざわざ避ける辺りから、ミシェラというドールに対しての愛情を伺えるだろう。
「ギャハハ! ご機嫌よう、馬鹿正直なインデックス! 愚かな幻想図書館! ……疑えよ変革の申し子、じゃなきゃ無関係なドールまで諸共死ぬだけだ。合理的に考えるのはお前らデュオの得意分野だろうが。」
あなたの美しい双眸が悩ましげに歪み、頽れる様を見て。ドロシーは緩やかに頭を下ろし、あなたの耳元で囁くように重く忠告する。机に乗せた細い指先を滑らせてカクン、と頭を傾けながら、あなたと周囲の様子を確認したドロシーは、その返答を聞いて「フ〜〜〜ン…」と言葉を漏らし。
「ドロシーちゃんさァ、確証もないことをベラベラと喋りたくないんで、断言は避けますけどォ。
欠陥を残したままのドールがお披露目の舞台にも居なくて行方不明、なんてさァ。その上どこかで生きているなンて滑稽な希望的観測は自分の首を絞めるだけだぜ。
ワタシたちは神様に設計されたんじゃない。人間の手によって模倣されたマガイモノなんだよ。お披露目のたびに新しいドールにすげ替えられるワタシたち個人に、特別に残しておかなきゃならない価値なンてないワケ。
期待しすぎない方がいいぜ、その方が絶望の総量は抑えられる。」
返答はこんなところでいいだろ、なんてドロシーは支離滅裂な言動がなりを顰めた理知的な言葉遣いで、あなたをこんこんと諭すように告げた。
断言を避けたのは本当に情報不足か、あるいは彼女の慈悲かは定かではなかったが。
「……合理、的……」
デュオドール。それは、誰より聡く、その頭脳を以て合理的な判断を下すことの出来るモデル。けれども、ソフィアにはその『合理的な判断』とやらが苦手であるきらいがあるようだ。
デュオドールのプリマの栄冠に相応しい、他を凌駕する圧倒的な叡智。そして、他のモデルのドールと遜色ない程の豊かな情緒と、それから生まれる愛情。何よりもヒトらしく、ある意味デュオモデルらしからぬドール。それがソフィアだった。
自分のすべきこと、抱くべき感情。それらは理解しているはずなのに、どこかに踏ん切りのつかないものがある。豊かな情緒と深い親愛故のそれは、デュオドールのものと言うには育ちすぎた。それは、ソフィアがオミクロンのドールとして在る所以なのやもしれない。
「……………………………ッ、」
やがて、ソフィアはすっかり言葉を止めてしまった。普段纏う剣のような高潔さは全く見られない。金糸を垂らして、顔が覆われてしまっている。その様子はまさしく、暴風に襲われ生気なくしおれた花のようで。僅かに髪の間から覗くアクアマリンが絶望で濁ってしまっていることは誰の目から見ても明らかだったろう。
ドロシーの言うことは全て、端から端まで合理的で、確かな説得力を帯びた言葉だった。諭すような声が、僅かに濁され断言を避けた声が、ドロシーの知性を証明している。けれどもその言葉群は、ソフィアを絶望の海へと沈めるにはあまりにも充分すぎたのだ。
……いや。あるいは、もうとっくに絶望していたのかもしれない。あの日、あの夜、誰より聡い脳が弾き出した答えから、自分で目を逸らして。そして、封をしていただけなのかもしれない。作り物の臓腑を絞め付けるような激情から、逃れるためだけに。無力で弱虫なドールには、あの太陽の様な笑顔にもう一度会えると信じて、目を塞ぐことしか出来なかった。そうしてきっと、今日までこの喉を劈く叫び声を封じ込めて、のうのうと生きていたんでしょう? 愚かなあたし。
「…………………………あたし、お披露目の前にあの子と約束をしたの。もしも怖い事があったら、辛い事があったら、必ず助けに行くって。それで、リボンを交換した。あの子はすごく喜んでくれた。あの子はね、太陽みたいに笑う子なの。
……きっと、ずっと……そんな風に笑って、あの子は幸せになるんだって。そう、思ってた。思ってた、のに……」
アクアマリンの端から、きらめく宝石のひとしずくが、頬の曲線に沿ってこぼれ落ちる。
「……あたしって、酷い嘘つきね。」
か細く震えた声は、風の音に吸い込まれて行った。
「…………」
ドロシーは瞬きをしない・表情が移ろわない・所謂無機質を極めた作り物の頭部の正面をじっとあなたに向けて黙していた。
親しいドールを救ってやれなかったと悔やみ、懺悔するあなたをドロシーはどう見ているのか。哀れな姿で、絶望に打ちひしがれるあなたを、被り物の下でどんな表情をしているのか。
定かではなかったが、しかし。彼女は机上に載せていた、恐らく果実を搾った透明感のある煌めくジュースをグラスから一口呑んで、足を組み直した。暫くの沈黙の後に零した。
「ワタシには、」
……と、何か言葉を吐こうとして、一度飲み込んでから。
「ドールは決して幸せになれない。トイボックスの永久機関の歯車として甘んじている間は。
例えばワタシや、そのミシェラとかいうドールは駄目だった。歯車に埋もれたまま、ここから抜け出せない。
でもォ、今だけスペシャルキャンペーン! お客様はとっても運が良い! お前らだけは量産型ドールズとは違う、オムニバスに乗り合わせる特別な切符を持っている!
行動はなるべく早い方がいい。その方が悟られにくい。ダラダラと長引かせるほどにお前達は消耗していく。
犠牲は覚悟しろ。だけど突破口はある。√0の標を辿れば、少なくとも間違えることはない。今のところワタシから言えるのはこれだけ」
ドロシーは小さく潜ませるような声で最後にそう告げると、空になったグラスはそのままに、楽譜を手に取って立ち上がった。
「さーてとっ! ワタシはそろそろ日課のDIYのお時間なので帰りまァす。有意義な時間になっただろ? なったって言えよ♡
せいぜい足掻けよ虚飾のクイーン、みじめなスクラップ! ジャンクに成り下がってなければまた話してやってもいいぜ。ドロシーちゃん、シンセツだから。
それではトイボックス通り三丁目より、街角リポーターは詩の上の役者・ドロシーちゃんがお届け致しました! BYE♡」
《Campanella》
姉なるものは沈黙を守っていた。如何なる話をされても、動揺を表に表すようなことはせずに、徹底的に透明になっていた。目を閉じ、足を閉じ、教本の上に両手を置いて……。
「……」
そして姉なるものはふと、着ていたカーディガンの袖のまくれや、内側を整えるような仕草をして。
「……ソフィア様。顔色が悪うございます。水を取って参りますから、しばらくお待ちください」
と、そっと声をかけて席を立った。
相手からの返答も待たずに立ち上がり、そのままどこかへ行こうとして……姉なるものは立ち止まり、そして引き返してきた。
跪くように膝を折ると、姉なるものはソフィアの背中にそっと触れる。柔らかな手のひらが、彼女にその熱を伝えるように。そっと、労るように。
「……慰めの言葉の一つもかけられず、申し訳ありません。どうか、気を確かにお持ちください。道はまだ開かれているはずです。」
私の天秤も、そう告げております故。
そして姉なるものは再び立ち上がり、指揮棒のような姿勢を美しく保ったまま、ガーデンテラスの扉を通って行った。
──嵐は去った。それにより、辺りは閑散としていた。カンパネラと二人、ぽつんと取り残されてしまったソフィアは、うわ言のように呟く。
「……√、0」
√0。それは、聞き慣れないものでは、決してない。お披露目の前、ストームから聞いたこと。エルのベッドに、異常なほどその文言が刻まれていた、と。数式上では0以上でも以下でもないそれが一体何を意味するのか、あの時もこの瞬間も、理解ができなかった。
カンパネラの申し出に、「ええ」と生返事を返した。そちらを見やることもなく。
今のソフィアには、ドロシーの言葉の全てが気がかりであったようだ。
あなたは一体、何を言いかけたの?
どうして自分が助からない、なんて言い切ってしまうの? あなたとも一緒に戦いたいのに。
√0の標ってどういうこと?
正答を導き出せない難解な方程式は、知能のみで解ける問題ではないのだろう。それはまるで、人智を逸した真理そのものと対話しているような感覚で。今なお網膜にこびり付く彼女の言葉に、ぐるぐる、ぐるぐると頭を回して。それに夢中になっていた。
「……! あ、ああ……気を遣わせてごめんなさい、ありがとうね。」
その熱に、言葉に反応して、ハッと我に返る。思い詰めた表情をしていたであろうことは容易に自覚できた為、これ以上心配をかけさせまいとなんとかニコリと微笑みかけた。離れていく背に小さく手を振って見送る。
「……ブラザー?」
カンパネラと何やら会話を交わしていたらしきソフィアは、なめらかな銀糸としっとりとした紫の瞳を持つ美青年──ブラザーへと不意に視線を向けた。
椅子がかたん、と小さな音を鳴らす。立ち上がったソフィアは、普段通りのきびきびとした動作で、ブラザーの方へと歩み寄って行くだろう。彼女達がどんな会話をしていたかは、彼女達のみ知り得ない事で。内容の予測を立てる事など不可能だが、ソフィアのつんと凛々しい表情から、悪い話をしていた訳では無い……と言うふうにでも思いつくだろう。
「こんな所で会うなんて奇遇ね。どうしたの?」
《Brother》
「ソフィアにカンパネラ。二人がここに居るなんて珍しいね」
ブラザーは踊るように軽い足取りでここへやってきた。ヘンゼルとの会話を経て、考えたくないことばかりだったから。この部屋だけでは、重苦しいことは考えたくなかったのだ。つまり、現実逃避である。
故にブラザーは機嫌が良く、2人の姿を見つければ嬉しそうに顔を綻ばせた。あまり見かけない2人組だが、お茶でもしているのだろうか。妹たちが仲良しで嬉しいなぁ、なんて勝手に浮かれて、ブラザーは軽く手を振ってみせた。
「ここの花壇のお世話をしているんだ。
ふふ、弟から任されていてね」
嫋やかに微笑んで、ブラザーは近くに置かれたジョウロを手に取る。世話している花壇に視線をやり、それからソフィアのことを見た。和やかな談笑。それ以上でも、それ以下でもない。
……………弟……。ソフィアは静かに額を押さえた。何でもかんでも妹弟にするなだとか文句を付けてやるべきかと悶々と悩み果てた末、一旦ノーコメントを通すことにした。この時のソフィアは随分と疲弊したようであった為、無理もないだろう。
「弟………………………はあ、まあいいわ。花壇の世話を任されるだなんて、随分仲が良かったのね。どんな子?」
彼の言葉を信じるならば、良好な関係を築いていたようだし、『弟』と呼ばれた人物もそれを嫌がる事はしなかったのだろう。と推測しきったところで、額から手を離した。クラスメートに花壇の世話を甲斐甲斐しく行うようなドールは居なかっただろうし、彼の弟とは他クラスなのだろうか。己の記憶では、やはり他クラスのドールは総じてオミクロンを冷遇する物であるという印象が強く、ブラザーと仲の良かったのであろうドールに良い方向での興味を抱く。故に、この質問は単なる好奇心であった。
それが、えずくような罪悪感を呼び覚ますものだとも知らずに。
少し先の未来を知らぬソフィアは、口元で緩やかな弧を描いたまま「手伝うわよ」なんて言いながら、余りのジョウロを手に取る。
《Brother》
「ラプンツェルっていう、トゥリアの子だよ。花が大好きで、のんびり屋さんな子でね」
ジョウロを手にするソフィアに微笑んで例を言えば、ブラザーは花に水をまき始めた。ソフィアの悶々とした悩みなど露知らず、兄は妹とのお喋りに夢中である。しかも、その内容が弟のことなら尚更だ。
爽やかな朝、ここでラプンツェルに出会った日のことを思い出す。コゼットドロップを渡したときの、あの笑顔。自然と表情は綻び、兄は深い親愛の笑みを浮かべている。
「ふふふ、ラプンツェルは前のお披露目に選ばれたんだ。
あの子、いま何してるのかなぁ」
それから、少し得意気に。
爛漫と咲く花々を見つめたまま、ブラザーは楽しそうに語る。「きっと向こうでも、花壇のお世話をしてるんだろうね」なんて、冗談みたいに付け足した。
ブラザーは何も知らない。
開かずの扉により箱庭への懐疑は生まれても、お披露目という夢は疑わない。疑うはずがない。
兄は、弟の幸せを信じている。
花が大好きで、のんびり屋。ニコニコと、機嫌の良さそうな柔らかな声色のそんな話を、ソフィアも穏やかな気分で聞いていた。花びらが濡らされて、露がきらめいて。そんな美しい光景を楽しめたのは、一瞬のことだった。
「……………っえ、」
ガシャン。取り落とされたブリキのジョウロは、中身の水をそこらに散らしながら自重で地に叩きつけられる。
油断していた。疲弊しきった心を押し殺して、気取られぬ様に浮かべていた穏やかな笑顔は、たった今この瞬間に全て壊れてしまった。
『前のお披露目』。その短い単語は、ソフィアの心を壊すには充分すぎたのだ。花が好きな、……『弟』と言うことは少年モデルだろう。ぐるぐると、あの日の光景が頭で巡る。
お披露目では、浮き足立ったドールばかりだった。けれど確か、一人だけ浮かない顔をした、若草色の髪の少年ドールが居たはずだ。彼は、何やら花を探していたらしい様子で。そうして、最後に呟いた。
『ごめんね、ブラザー』、と。
「………………あ、……ねえ、あの……その子、若草色の髪の毛だった…?」
震える声、絶望に濁った瞳。先程までの様子とは変わり果てたソフィアの表情に、思考に異常のあるドールでもなければ、きっと一体どうしたのだろうかなんて疑問は直ぐに生まれるだろう。
《Brother》
ジョウロが落ちる。
重い音と共に水が撒かれて、2人の靴を濡らした。澄んだ空から降り注ぐ光が、濡れた靴を照らしていく。花はたっぷりの水を受けて輝き、ガーデンテラスを彩っていた。他のドールたちの笑い声が響き、紅茶の匂いが辺りには漂っている。
ここは幸福の庭。ブラザーにとって思い出深く、愛おしい記憶の場所。
「ソフィア?」
……ブラザーは水をかける手を止めて、ジョウロを落としたソフィアの方を見た。凛とした彼女にしては珍しい、弱々しい表情。ブラザーは妹の異変に気づき、足元にジョウロを置いた。ソフィアの元に一歩近づいて、奇妙に濁る瞳を見つめる。彼女が口を開いたのは、そのときだった。
「え……うん、そうだよ。知り合いだったの?
……もしかして、喧嘩でもしちゃったのかな?」
呑気に。
何も知らない兄は、落ち着かせるように微笑んでいる。話なら聞くよ、とでも言いたげにソフィアを見つめていた。
悪魔の巣窟を見たソフィアと違って、まだブラザーの瞳には希望がある。甘く揺らめくアメジストは美しく、なんの濁りも持っていない。
「おにいちゃんに、話してごらん」
心の奥の、ずっとずっと柔らかいところ。穏やかな声が、貴女をつついている。
「あ、あ……………………………」
『そうだよ』。柔らかな声色の肯定を聞いた、顔面蒼白のソフィアは、もはや言葉になってすらいないうめき声を上げた。ぐるぐると渦を描く瞳からは、冷静さの一切が失せている。それは色濃い絶望か、或いは恐怖か、罪悪感か。ともかく仄暗い感情が渦を描いているのは間違いなかった。
けれど、ソフィアは語らない。顔を覆い隠すように手で抑え、ふるふると首を横に振った。その動きは必死に、ただ必死に。まるで取り憑いた何かを払うかのように。
「…………なん、なんでもない……なんでもないわ。大丈夫、なんでもない。た、たまたま話した事があっただけ……あーそれより、ごめんなさい、靴濡れたわよね。あー……まだ水やりも終わってないし……急がないと、よね、あはは…」
震えて強ばった手先で、先程落としたジョウロを拾い上げる。鈴の音のようなその声に、柔く脆い心の奥底を刺激されて。ソフィアはさらに殻を固くしてしまったようだ。
《Brother》
「……ソフィア」
血色の悪い、小さな顔。
聡明かつ明朗快活なソフィアでは聞たことの無い、今にも壊れてしまいそうなか細い声。
彼女の背丈よりもずっとずっと大きな影が彼女を飲み込んでしまいそうな気がして、ブラザーは更に足を動かした。ソフィアの近くで、片膝を着きしゃがむ。ジョウロを拾おうと伸ばした手を、そっと取った。きっと氷のように冷たくなってしまったであろう指先に、温もりを分けるようにぎゅうと握る。優しく、けれど力強く。ブラザーは顔を上げて、ソフィアを見上げた。煌めく紫の双眼に、小さな少女モデルのドールが映る。
ブラザーは知っていた。
ツンとすました顔で顔を背けてしまう彼女が、まだずっと幼いということを。
だって、ブラザーはソフィアの兄なのだから。
「おにいちゃんはいつでも、君の味方だよ。
何があっても、ソフィアのことを守ってあげる」
真っ直ぐ、その顔を見つめる。ぱちりと瞳がひとつ瞬けば、ふんわりいつものように微笑んだ。
自然と手を握る力が強くなる。きっと振り払おうとも、ブラザーは貴女の手を離さない。力の差で負けてしまっても、絶対にまた掴もうとするはずだ。例え何があっても、その手を離すことはない。
何度だって、ソフィアに言おう。
君の兄は、君の味方だと。
「〜〜〜〜〜ッッ…………」
ブラザーは、見逃さないだろう。ソフィアの大粒のアクアマリンが光を吸い込んで、宝石のしずくをこぼすのを。
〝兄〟の優しい声に、言葉に共鳴するように、そのしずくはきらめいて、ぽつぽつと地面を濡らした。なにかと気負いすぎるきらいのあるソフィアにとって、守られる側となるのは慣れない暖かみであったようで、小さな身体に見合わない不格好な『年長者の矜恃』は容易く溶けてしまったらしい。
「…………ッ、ごめ、んなさ……ごめんなさい、違う、違うの………あたし、味方なんてされて良いわけない………」
幼子は、すすり泣く。優しく、強く握られた手を離さず、こちらも握り返したまま、もう片方の手で必死に涙を拭いながら。
鼻を鳴らしながら、ソフィアは顔を上げる。ブラザーの柔らかく輝くマリアライトと視線が合った。
「………………ブラザー、あのね。きっとこれを話したら、あなたはあたしを憎んで、軽蔑する。それも、仕方ないと思ってるの。……でも、それでも聞いて──協力して欲しい。
……お話、聞いてくれる?」
《Brother》
「……うん、もちろん」
にっこり、と。
話す気になってくれたらしいソフィアの様子に、自分は力になれたのだと安堵する。ブラザーは依然として微笑んで、ソフィアの手を軽く撫でた。
トゥリアモデルで良かった。
この温もりを分けられて、良かった。
「少し座ろうか。おいで」
まだ何も知らないブラザーは、ソフィアの手を引いて立ち上がる。膝についた埃を軽く手で払って、近くの椅子まで歩き出した。拒まれなければ、その手を握ったままソフィアを椅子に連れていくだろう。彼女を椅子に座らせてから、ようやく手を離して自分も近くに座るはずだ。
それから視線で、彼女に話し始めを促すだろう。
「……その、ええと……取り乱して悪かったわ。あと、あたしはあんたの妹でもないから。勘違いしないでよね……」
大人しく座らされたソフィアは、少し息をついてから、本題に入る前に気まずそうにぽつぽつと呟いた。なけなしのプライドを護るように、顔を逸らしながらのその言葉は、最早ブラザーにとっては聞き慣れた言葉だろう。
そして、もう一度覚悟を決めるように息を吐いて。ブラザーに向き直り、口を開く。
「……あのね。あたし達……元プリマドールだった皆で、お披露目の正体を見に行ったの。前々から準備して、計画を練って。夜中にベッドを抜け出して。
……それで、分かった。お披露目に救いなんてなかった。アレは、地獄でしかなかった。」
途中、言葉を詰まらせながら。痛々しい表情だった。言葉に一区切りをつけたソフィアは、途中伏せていた視線を、再びちらりとブラザーの顔へと向けた。
《Brother》
同じように椅子に座って、ソフィアの言葉にニコニコ笑う。ブラザーは相変わらず照れ隠しとしか思っておらず、妹を愛でるような温かい視線を向けていた。それは、ソフィアが重い口を開いたときも変わらない。夜中に抜け出したと聞いたときは少し驚いたが、その先に続く言葉の方がもっと衝撃的だったのだろう。変わったのは、彼女がお披露目を地獄だと言ったその瞬間だった。
「……どういうこと?」
まだブラザーの声は柔らかい。多くのドールにとって夢であるお披露目をそんなふうに言われても、怒りの表情ひとつ浮かべなかった。あるのは困惑だけ。何故ソフィアがそんなことを言うのか分からないから。
ミシェラとラプンツェルの顔が浮かぶ。嫌に空気が重たくなった気がして、おもむろに前髪を触った。
その先は、聞きたくない。
自分でも理解できない警鐘を聞きながら、ブラザーはソフィアを見ている。
穏やかであったその表情が、目の色が、明確に変わったのを見て。はた、とまつ毛を伏せた。お披露目が、多くのドールの光明であり、救いであり、目標であることをソフィアはよく理解している。……きっと、こんな話は聞きたくないだろう。そんなことは容易に想像ができた。
けれど。
「……お披露目は。ヒトに出逢う為の、輝かしい式典なんかじゃないの。あそこに、ヒトなんていなかった。
……いたのは、化け物だけ。
みんな……みんな、アイツに殺された。クモみたいで気持ち悪い、青い花を咲かせた化け物に。……若草色の髪の子は、一番最初に、頭から、た、食べられて…………、ッ、あたし、すぐに逃げた。何も出来なかった、何も出来なかったの………! 逃げなきゃ殺されてたとか、そんなのは言い訳、分かってる……あたし、あたしが、みんなのこと……あなたの弟のことを、見殺しにしたの………」
それは、すり潰すような声だった。激情によって歪む美麗な顔は、まるで誰かを憎んでいるようだった。ぐしゃり、と片手で自分の髪を掴んで、ぎちぎちと握る。自分を傷つけたいのだろうか。苦悶に滲むその声が、瞳が物語る。この話は、嘘なんかじゃないということを。
《Brother》
誰が話しているのか分からなかった。
なんの話をしているんだろう。
今、なにしてたっけ。
ソフィアが苦しそうな顔をしている。何とかしなきゃ。
おにいちゃんとして!
「……」
あれ、おかしいな。
声が出ない。なんでだろう。
あぁ、泣かないで。
ソフィア、大丈夫だよ。おにいちゃんが着いているからね。
大丈夫。きっと、きっとみんな何とかなるよ。童話みたいに素敵なハッピーエンドが待ってるよ。
大丈夫、大丈夫、大丈夫……。
「……、」
『ありがとう、ブラザー。ぼく、このお花、ずっと大切にするねぇ。絶対に種を採取してまた育てるよぉ。それで、きっと花が咲くたびにアカデミーや、きみのことを思い出すね』
殺された。化け物。最初。頭から。食べられて。
『ご主人様も、お花が大好きな人だったらいいのになぁ、えへへへ』
ヒトなんて、いなかった。
「は、は……ふふ、ソフィアったら、何言ってるの。そんな、そんなことあるわけないよ。
疲れてたんだね、怖い夢でも見たのかもしれない。大丈夫だよ、もうなんにも怖くないから。おにいちゃんが着いてるから。ね、ソフィア」
席を立った。
椅子から立ち上がって、髪を掴む手を両手で包もうとする。怖い夢を見た子供を安心させるように、そっと目を伏せて囁いた。
……ブラザーは、恋人用のドールである。おにいちゃんでも、兄でもなく、ただのトゥリアモデルだ。
だから、存在しないはずの記憶を見ても、疑うことすらせずにミュゲイアと笑い合える。何か幸せな出来事だったのだと、馬鹿げた夢に浸っていられる。
彼は、兄ではないから。
自分が、兄が、何をすべきか分からないから。
偽物の優しさだけを持って、薄っぺらい愛情を振りかざす。
ほら、今だって。同じように、ソフィアにも夢を見せようとしている。
「ゆ、め……」
柔らかな指先に包まれて、手に籠った力は段々と抜けていく。荒い呼吸音も、ゆっくりと小さくなっていって。けれども、瞳は依然としてぐるぐると激情を描いたまま。亡霊でも見たかのような恐怖の表情は、凍りついてほどけない。それは、誰が何を言おうと紛れもない現実なのだから……。
……いや。或いは、夢だったやもしれない。そうであるべきだ。夜に抜け出すなんて無茶が成功するわけない。そんな方法はない。どうやって逃げ出したんだっけ? あの日、何を見たんだっけ? 全て、寂しさが見せた春先の幻影で、悪夢? そうあるべき、そうあるべきだ。
だってほら、夢なら。もう怖くない。こうして守ってくれる人が、手を握っていてくれる。ソフィア、きっとこの人は、あなたを、あたしを守ってくれる。頑張りすぎる必要なんて、怖いものと戦う必要なんてないよ。もういいよ、おやすみしましょう。すべてはあくむなんだから。
「……、ちがう」
そう、思えたら。
楽だったのに。
ソフィアは妹じゃない。そうあるべきじゃない。その証拠に、もう届かないあの小さな太陽の笑顔が、今でも脳を焦がすのだから。愛すべき仲間達の笑顔が、声が、姿が。いつでもソフィアを『ソフィア』として縛り付けるのだ。それは、今はまだ、呪縛ではないから。呪いと化す前に、戦わなければならない。
「……聞いて。ブラザー、これは夢じゃない。……残念ながらね。全部、本当のこと。このまま逃げちゃったら、また他のドールも犠牲になってしまう。いつまたオミクロンの子がお披露目に選ばれるかだってわからない。
あたしは、……あたしは大丈夫だから……だから、お願い。協力して、ブラザー。〝おにいちゃん〟なら、皆の事を助けるために手伝ってくれるでしょう?」
優しさを振り払う。これは、革命家としての選択。己の手に添えられていた手を取って、ブラザーの瞳をじっと見据えた。
《Brother》
手をとられる。
強く、凛とした瞳。ソフィアの、いつもの瞳だ。
ブラザーはこの瞳を、見つめ返せるだろうか。
美しく脆いだけの、ただのドールが。
「……ミシェラは」
口を開く。
これは時間稼ぎかもしれない。
「あの子は、どうなったの?」
ブラザーは知っている。
ソフィアはミシェラを可愛がっていたことを。妹たちが仲良く話しているのに微笑む彼が、それを知らないはずがない。
そんなミシェラが、この話にはまだ出ていないのだ。
ブラザーはソフィアの靴元に視線を落として、甘い声で聞いた。慰めるような声音だったかもしれない。未だに、夢を見ているかのような声音だったかもしれない。
「……お披露目の出席者名簿の中に、ミシェラの名前はなかった。そして、会場にもミシェラはいなかったわ。あの子が今どこにいて、どうしているのかはわからない。……けど……」
その先を言い渋る。少し前ならば、『きっと生きている』なんていう根拠の無い希望的な言葉を無責任にも吐けたのだろう。が、ソフィアの頭に巡るのは、先程対話したドール──ドロシーの言葉。甘い夢に居たソフィアの目を覚ました、鋭い現実。
……その現実は、痛々しいものだ。刃のようなものだっただから、言いたくなかった。
ドールとして優秀であった、デュオドールのようにとは行かずとも聡明な頭脳を持ったブラザーならば、ソフィアが言い渋ったその続きが分かるやもしれない。
「……もしもミシェラが生きていたとしても。その特別が、これからもオミクロンの子に適用されるかはわからない。他のクラスの子と同じようにお披露目に出て、守れなかった子と同じ顛末を辿ってしまうかもしれない。あたし、そんなのは嫌なの。
……だから、戦いましょう。この家畜小屋から逃げましょう。あたし達みんな、このまま終わっていい訳がないもの。
“兄弟”、着いてきて。
大切な皆を守る為、あたしと一緒に戦って。」
たとえブラザーが光に耐えられずとも、それでもアクアマリンはブラザーを捉え、逃がしはしないだろう。その言葉は、誘いは、いっそ拷問だ。何よりも眩しい残酷さが、ブラザーの華奢な身体を呑もうとしている。けれどもきっと、あなたはおにいちゃんなのだから。妹や弟を護る為に生まれてきたんでしょう。選択肢など、あってないようなものでしょう。
《Brother》
「……僕は」
ブラザーは、なんだろう。
自分は、一体なんだろう。
致死量の砂糖に浸って目を閉じるほど、彼は幼くない。幼子のように無力であれど、家畜のように無知ではない。
彼は悩んでいた。
一度は思考の奥にしまいこんでも、滲み出る疑問は拭いきれない。自分が見たものがなんなのか、その先に何があったのか。疑惑は箱庭全体に及び、大切な日常を蝕んでいく。
自分はどうするべきか。
兄は、どうするべきか。
どうあるのが、兄としての正しい姿なのか。
「僕は……」
言葉は続かない。
なにも分からない。
逃げるように落とした視線を、のろのろ持ち上げる。全てを焼き尽くすような青い光がそこにはあって、ブラザーを見ていた。煌めくアクアマリンは美しく、愛おしい。
……あぁ、そうか。そうだった。
「……僕は、君のことを愛している。
オミクロンのみんなのことも、この学園のみんなのことも」
何ひとつ、分からないわけではない。
道も記憶も分からなくても、これだけは揺るがないたった一つの事実。
顔を上げる。
揺らいでいたアメジストが、愛に蕩ける。
ブラザーは偽物の兄だ。
その優しさは盲目的で甘ったるくて、前に進むことは出来ないのかもしれない。
けれど、だとしても。
この愛情は、偽物ではないから!
「僕は、みんなのことを幸せにしたい。それが僕の幸せで、生きる意味で、やるべきことなんだ。
───ソフィア。君の行く先が、君の幸せとは限らない。
だから、その手はとらない。僕は僕のやり方で、君の幸せを模索する」
にっこり、微笑んだ。
聡明な乙女には理解できないかもしれない、一人ぼっちの茨道。押し付けがましいブラザーにできる、大好きな箱庭へのささやかなクーデター。
「君の行く先が幸せじゃないなら、僕は君の邪魔をするかもしれない。むしろ幸せなら、どんな手助けだってしよう。
僕は、君のおにいちゃんだからね」
とられた手を握り返す。
マイペースな貴女の“おにいちゃん”は、にこにこと交渉の決裂を告げた。
言っていることはめちゃくちゃだ。ソフィアの幸せをなぜブラザーが決めるのだろうか。
しかし、彼はこの道を進む。
誰の手も取らず、誰の力も借りずに、か弱いその足じゃとても進めない道を行く。
ブラザーは、“おにいちゃん”だから。
「安心して、しばらくは君の言う通りに動くよ。
一緒に頑張ろうねぇ、かわいい革命家さん」
ソフィアの髪を悪戯に撫でて、ブラザーは立ち上がる。そのまま手を振って、部屋から出ていこうとするはずだ。声をかけられればまだ足を止めるだろう。
それでもきっと、頑固な兄の考えは変わらない。
仄暗い白銀のシロップは、巨星をも蕩かす毒薬だ。
「…………、そう。わかった。……まあ、あんたの言ってることはわかるから。らしいって言えば、それらしいわね。」
〝おにいちゃん〟の言葉は、強い意志を帯びている。そう、彼の指針は、妹と弟の安全だとか、幸せだとか、いつだってそういうものに委ねられているのだろうから。破られ風化するこの交渉も、僅かな『想定通り』を既に持っていた。
「協力してくれるならまあ、それでいいわ。……あと、あたしは妹じゃないし、あんたに守られてやる気はないからね。」
兄の蜃気楼の背に、ぶっきらぼうな言葉を投げた。それがブラザーに届いていたかどうかは風すらも知り得ない事だ。けれど、その言葉が冷たいものではないというのは、なによりも明らかであったろう。