Licht

 それは、よくある平穏で、幸せで、暖かい午後の幕間。少しだけ有様を変えた世界のなかで、ほんの少しの寂しさを抱えたドールズは、今日も、そしてこれからも、慎ましく幸せにお披露目を待つ────。

 ……なんて、継ぎ接ぎされたグロテスクなまやかしに浸ることを、この世界は許してくれなかった。

 寮周辺、湖畔。さらさらと涼やかに風が立たせる波の向こうにいつもの寮を見遣りながら、リヒトはノートを固く握りしめていた。遠くからやってくる待ち人の影に、うるさいほど鳴るコアの緊張を飲み込んで。

 背中の後ろまで、あの赤い火が迫っているような、そんな、ありもしない妄想がいつも、瞼の裏を焼いている。一歩でも立ち止まれば、後悔に足を取られて振り返れば、そこにはきっと、あの業火が待っている。

「……ストーム」

 (コワされる前に、)
 (コワれる前に、)

 待ち人の名前を呼ぶ。誰も知らない六等星は、見にくい光を体に隠して、無二の友人と相対する。単刀直入に尋ねるその無遠慮さえ、薄氷の上で成っていた。

「お前さ。昨日の夜────どこ行ってたんだ?」

【寮周辺の湖畔】

Storm
Licht

《Storm》
 希望に満ちていると見せかけられた悲劇の夜が明けた。
 大袈裟に鳴り響く明るい曲調がピタリと止む、あの感覚がストームのメモリーを永遠に巡回している。
 音だけで造設された惨劇を、何度も何度も……何度も何度も何度も何度も頭の中を駆け回るのだ。
 ソフィアは言った。
 “あたし達は惨めに殺される為に生まれてきたの?”と。

 違う。そんなことさせるわけが無い。そんな、あんな終わり方。美しくない。

 静かなる苛立ちをコアへ今朝もストームを徹底した。些細な変化、動揺から悟られることを防ぐ為に。
 そうした時に珍しい誘いがストームに飛び込んでくる。ソフィアやアティス、そしてディアよりも長い長い付き合いで今となっては相棒と呼び合う程の、親友リヒトからの呼び出しだった。
 先に行ってると伝えられたのみ、彼はさっさと行ってしまった。
 指定場所である広い湖に着くや否や、聞かれたの答え難いものだった。

「……何処へ、夢の世界。とでも答えるのが適切ですか?」

 隠さねばならぬ、何としても。
 ストームはリヒトの問い掛けに動揺するような兆しすら見せずに答えた。
 なぜ? リヒトはなぜ知っている?
 自身の相棒を見る目は、信頼だけであると思いたい。が、そんな訳にもいかなそうだ。

「……とぼけんじゃねえよ」

 夢の世界、だったら良かったんだよな。何度も何度もそう思って、そうじゃないからここにいる。リヒトは感情を誤魔化すように自分の腕を握った。爪が布越しにぐっと食い込む。

「ディアさんも居たよな。箱の格子から見えた。センセーが鍵かけてたのに、どうやって開けたんだ? 昇降機のトンネルのとこにロープ降りてたの、あそこの昇り降りなんてさ、お前くらいにしか出来ないよな。めちゃくちゃ高かったもんな。ああ、昇降機の扉を開けるのだって、めちゃくちゃ重くて難しいだろ、テーセラモデルじゃない限り!!」

 リヒトに、駆け引きが出来るほどの思考能力は無い。同時に、現状に満足できるほど無知であることは出来ない。
 リヒトに、嘘をつけるほどの論理的思考力は無い。同時に、焦りと不安に見て見ぬふりをすることも出来ない。彼は、何処までも“出来ない“、オミクロンの六等星。

 だから彼は、コワれかけの頭と身体でガムシャラに突っ走るしかないのだ。弱みと痛みで繋がる、親友へのか細い繋がりに、全力で縋り付いて。

「……答えてくれよ、ストーム」

 リヒトは、絞り出すようにこう零した。真っ先に、伝えなくてはと名前が思い浮かんだのが、君だった。疑いを、不安を、恐怖と後悔を抱えたままで、リヒトはストームを信じたかった。

《Storm》
 初めは消え入りそうな声から始まった。
 “それ“はストームの愛してやまないリヒトの激情。もしくはそれに近しい荒々しい感情を真っ向にぶつけてくる。
疑う余地のない、真っ直ぐでそれでいて歪なリヒトからの信用にちぐはぐな瞳を閉じた。

 やはり、リヒトは眩しい……。自身では気付いていないのが惜しいほど

「着いてきていたんですね。貴方様も夜遊び仲間ですか。そうですか……」

 ロープを知っているのも、昇降機の扉の重さを知っているのも昨晩規則を破り学園に赴いたドールのみしか知らない事だろう。
 リヒトは嘘を付けるほど器用では無い事を、よく知っている。リヒトはとてつもないお人好しなのを、よく知っている。
 リヒトは見捨てる事が出来ないことを、よく知っている。
 ちぐはぐな双眸をゆっくりと開け、自身とは真逆を必死に生きているリヒトを瞳の水晶に映した。

「リヒト、お披露目に行きたいと願ってますか?」

「……それは」

 お披露目に行きたいか、と問われた。リヒトは怯えたようにはっと目を見開いて、やがてその虹彩はゆるりと揺れる。お披露目………あの暗い塔では無い、真っ当なお披露目のことを指しているんだろうか。

「それは、お前。みんな、行きたいに…決まってるだろ。誰かに、ヒトに、認められて、愛されて、支えて、友になって……その為に、みんな、みんな」

 その為に。

 ミシェラだって、ずっと、その為に────!

 コアをギュッと握られたような気がして、リヒトはぐっと俯いた。
 昨日の夜、一睡も出来なかった闇の中。恐怖と不安と後悔でめちゃくちゃに掻きむしった、腕が少し、痛む。

「……何を、見てきたんだ?」

 ちょうど、闇の中で過ぎった藍色の髪を追いかけて、箱を押し開けた時と同じだ。

 胸騒ぎが、する。

《Storm》
 ドールらはお披露目を目標に日々勉学に取り組んでいる。
 そう、あの殺戮の舞台を目標に。
 愛される為、支える為、良き友になる為。
 そして……ヒトの為。
 何度聴いてきた言葉だろう。メモリーに強くすり込まれて離れそうもない自分たちドールの存在意義。
 その強すぎる輝きを放った存在意義の光を断ち切らせる。

「リヒト、貴方様が憧れを抱き焦がれているお披露目なんて存在しないんですよ」

 リヒトの不安を他所にストームは事務的に、淡々と事実を伝えた。俯くリヒトをただ真っ直ぐ見つめて。
 スクラップに興味は無いからこその非情な言い方だった。

「詳細は伝える事はまだ出来兼ねます、ご容赦ください」

 まだはっりきとは分かっていない情報だらけ、おまけにリヒトは隠し事や演技が得意では無いので今全てを伝えて恐怖の奥底へ閉じ込めるより、得策だと考えた。
 だってそうだろう。今だって彼は何か恐怖を抱え込んでいる。その上に惨劇を知ってしまえばリヒトはまともに笑う事はおろか、喋ることは出来るのだろうか。
 少なくともストームのよく知るリヒトは、そんな器用なドールだとは考えられない。

「貴方様の言い草から察するに、お披露目は見ていないのでしょう? それにジブンやディアの行動を咎めるだけなら、こんな場所には呼ばないはずだ。
 なにかもっとほかに、話すことがあるのでしょう?」

 いつもとは違う息遣いやら、瞳孔の動きやら、五感が特に優れているからこそ気付く些細な変化をストームは見逃すはずがない。
 ストームは自身を壊れてしまうんではないかと言うまでに抱きしめているリヒトの腕に触れる。

 ─落ち着いて教えてくれ。
 そう瞳で訴えかけて。

「は────?」

 ストームから告げられた、端的で衝撃的な事実に、リヒトはひどく動揺した。まるで、頼りにしていた足場が一気に崩れ去ったみたいに。

「……やだ、ね」

 ご容赦ください、なんて言葉に、しばらく躊躇ったあと言い放つ。そんな言葉で納得できるものか、そんな言葉で沈黙できるものか。リヒトはふっと寮の方を見た後に、自分の体で今から見せるものが隠れるように移動した。

「なあ、ストーム。
 “ミシェラの居ないお披露目”で、お前が、何を、見たかは、分かんない……けどさ。

 ……オレは、あの夜。
 ミシェラに、会いに、行ったんだ。あの子が、寮のホールに、リボンを落としてた……から」

 『届けて、やろうと、思って』と、後悔の色濃く滲んだ、潜められた声が響く。自分の腕に添えられた、ストームの手をそっと離して、リヒトは自分のノートを開いた。

 ストームに向けて突き出された、ノートの見開きのページ。夜闇の中で、狭い箱の中で、震えた文字で月光を頼りに書き殴られたそれは、紛れもない、彼の罪と罰だった。

「お披露目が……“ホントのお披露目“が。オミクロンのミンナが助かるための、たった一つの方法だと思ったんだ……思って、たんだよ」

 存在しないってどういうことだよ、言えないって、どういうことだ、と、続けて問い詰める。リヒトにとって、お披露目は文字通りの死活問題だった。本当に、唯一の道だと思っていたのだ。あの、開かずの塔の業火から逃れるための。

 ミシェラを助けられなかった、その後悔を拭うための、唯一の、道。

《Storm》
 間の抜けた声、そして拒否。
 やんわり伝えたとしてもやはりリヒトは動揺した。
 当たり前だ。普段、冠を付けていた時の何ら変わらない気丈で麗しい姿で振る舞っているアティスやソフィアでさえ惨劇を目撃すると酷く脅えていたのだ。
 リヒトは優しい。そして感情豊かで感傷的、無理もない。

 そう判断したストームは続くリヒトの言葉に言葉を失う事だろう。

「ミシェラの居ないお披露目」
「リボンを落としていた」
「届けてやろうと思った」

 リヒトはぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。怯えや怒りを含んだ声色で紡がれる言葉の羅列はストームたちの抱いた微かな希望でさえ嘲笑うようにかき消すような雰囲気を漂わせる。
 リヒトが突き出してきたノートに目を落とせば、彼の感情をそのままに写し出した字体で書かれてる言葉の数々。
 飛び込んでくる言葉から導き出された現実。

『ミーチェは死んだ』
『壊された』
『先生に』

 ストームは思わずノートを奪い取り恐怖に染まった字体を血眼で読み、指で字をなぞった。
 違う。違う違う違う違う違う違う。
 話が違う!!!
 ソフィアは言った。あの場にミーチェは居なかった、と。
 アティスは信じた。きっとどこかで生き長らえてる、と。
 きっとミーチェは今も恐怖で自身らの名前を呼び、助けを求めているに違いない。
 唯一の希望が、蜘蛛の糸が燃やされるなんて事あってはならない。

 奈落の底を見てきた相棒の両肩を掴み、沸き上がる感情のままに力を込める。
 怒りのままに。

「どういう……つもり、です? うそ、嘘ですよね。
 ミーチェはあの舞台上には居なかった……確かにそう、言われたんだ。
 無事……だよね」

 瞳孔の開ききった瞳でリヒトを射貫く。ストームの表情は怒りで埋め尽くされてるだろう。向き出された憎悪は相棒に向いたものではないのは確かで。
 いつもの紳士的な口調は何処へやら、取り乱し陶器のような頬に涙まで伝らせる。

 今更壊されたドールは戻らないというのに。

 ストームが、取り乱している。
 あの、ストームが。

 がっ、と自分よりも上背のある相手に肩を掴まれて、思わず身が竦む。動揺と、怒りと、不安に揺れたような彼のちぐはぐの虹彩が、リヒトを捉えている。ひ、と一瞬、息を飲んだリヒトは、しかし、逃げることは許されない。

「オレが、嘘つけるほど頭良いワケ、無いだろ」

 焼かれるような激痛を抱えて、リヒトは伝えた。確かに、伝えた。いま逃げ出せばその背後に、あの業火が迫っている。
 今は、誰の手だって欲しいのだ。

「オレは逃げた。センセーが怖かったから逃げた。この絵のバケモノが怖かったから逃げた。あの炎が怖かったから逃げた。あの子がこっちに手を伸ばしていた、それも全部見えてた。知ってた。分かってた。オレは、逃げた。

 ……オレのせいだよ、ゼンブ」

 咎めるのはオレにしてくれ。詰るならオレにしてくれ。そして永劫、恨んでいいから、どうか立ち直ってくれ。

 あの夜、確かにリヒトは痛感したのだ。自分を含めたオミクロンクラスの命運が、不確かに軋んで揺れているあの鉄籠のように、不安定に保たれていることを。まるで実験ラットのように、あっという間に燃え上がってしまう果敢ないモノであることを。

「……お前が何を見てきたのかとか、今は、聞かないでおくよ」

 動揺している様子のストームを見上げて、リヒトはそっと笑った。継ぎ接ぎで毀れた微笑みは、まるでコワれかけた人形のように歪んでいた。それでも、親友の動揺と不安を落ち着かせようと作ったものなのは、確かだ。

「でも、知っちまったもんは戻れないんだ────なあ、手を貸してくれ、相棒(ストーム)。あの地獄みたいな真っ暗な塔から、あの炎から、あのバケモノから、ミンナを助けるために」

《Storm》
 リヒトからの励まし、微笑みは果たしてストームに届いているのだろうか。
 確かに届いている。届いた上でストームは戻らない“ガラクタ“をあっさりと切り捨てる。激情に歪んだ顔もすぅ……と、消えていく。
 壊されたものに興味は無いから。
 次に瞬きをした瞬間には、天使の声を持つ特別を愛したドールはストームの記憶から塵のように消えていった。

「……賢明な判断です。ジブンも貴方様の力が、相棒(リヒト)が必要だ」

 ミシミシと壊れてしまう程に掴んでいた彼の肩から手を離し、乾ききった涙を拭う。そして、口端を微かに上げ自身も相棒へと微笑みを向ける。

 と、同時に彼の額へ軽くデコピンを食らわせた。
 まとまったかのように思われた話し合いだが、ストームには気に入らない事がいくつかあったようだ。

「阿呆ですねリヒト。恨まれるべきは貴方様じゃない。自身を呪うのなら、いつも通りご自身を傷付けるなりなんなりしてください。ジブンに望むのは約束だけで結構です」

 ストームは目を細め、つらつらと説教をし始めた。
 リヒトの持つ感情は好きだ。ドロドロとしていて魅力的。
 だが、それゆえに彼は彼自身に負の感情を受け止めようとする。ストームはそれが気に食わないらしい。

「少なくともリヒトとフィリーは賢い判断をしてくださったとジブンは思います。今も、真っ先に伝えてきて下さったこと心から感謝しているんですよ?
 どうか悲観なさらず。これからは、少しでも引けば先生に勘づかれ、全てが水の泡になりますから」

 お世辞でもなんでもない。
 コアの底からの言葉。一時は千切れてしまいそうだった信頼は自身達の思うよりずっとずっと固く強く結ばれているようだ。

(────お前、コワいな)

 乾ききった涙を拭った、その虹彩の奥が妙に片付いていたような気がして、リヒトはめちゃくちゃな笑顔のまま固まった。

 そうだ、相棒はこういう奴だ。それを知った上で、その歪みや、掛け違いや、狂いを知った上で、痛感した上で、リヒトは彼と約束をした。もう後戻りの出来ない、踏み外した階段。恐怖と、信頼の綯い交ぜになった、蜘蛛の糸のような感情の螺旋は────

「ぃでっ」

 テーセラモデルの容赦ないデコピンに、ぱっと霧散した。

「んな事言われたって………分かってるよ。約束、な」

 むすっとデコピンの跡を撫でながら、リヒトは黙ってストームの説教を神妙に聞く。
 ……誰かに話せて、落ち着けたのだろうか。誰かに伝えられて、安堵したのだろうか。リヒトは粉々に割れてコワれたココロをもう一度、見つめて拾い上げて、覚悟することが出来た。ストームの言葉に無言で頷きながら、自分のやるべき事を静かに痛感していく。

 それは、明かりひとつ無い暗夜に見つけた、星の輝きのように。

「……そう、お前を呼んだのは、昨日のことだけじゃなくて、伝えたいとか言いたいこととか色々あったんだ。
 まず、“るーとぜろ“って単語が、医務室の箱の蓋の、裏にあった。ミュゲも聞いたことあるらしいけど、何のコトか分かんないって。……オレもわかんない。
 それから……センセーの部屋の本棚に、隠し部屋っぽい扉があった。テーセラだったら動かせると思う。……多分、どっかで聞いた……『物置』に繋がってるんじゃねえかな。カギは……ここ、こんな感じの。お前、箱のカギ開けられるんだから、これも行けるんじゃないか?」

 ひったくられた自分のノートをこちらも覗き込むように引っ張り、数ページ捲って例のページを示す。センセーの部屋の隠し扉を見た時に写した、シリンダーの鍵の絵だ。

 そして、最後に。

 これは些細な、本当に些細ななんでもない疑問。でもあの夜から引っかかっていた、何かの足掛かり。

「あと………なんで昨日の夜、オレの箱も開けたんだ?」

《Storm》
 るーとぜろ、その単語には見覚えがある。
 そう我らの天使エルのベッドの蓋に恐怖すら覚えるまでの単純な単語。‪√‬0……。
 加えて興味深い内容を聞くことが出来た。
 『物置』なんて噂の産物とばかり思っていたが、こうも手がかりが出てくるとそんな事もなさそうだと感じさせられる。

 そして最後の問い。
 ストームは空を仰ぎ見て、再びリヒトに視線を戻す。

「大事な方々を護る為です。
 申し訳ない。貴方様を容疑者とし少しでもジブン達への疑いを分散させようかと思いまして……。
 まぁ結果的には共犯者ですが」

 リヒトをじっと見てはそう返した。
 先生の疑いの目は極力分散させなければならない。非常に身勝手ではあるが、些細な事を気にしている時間も無いので手段は選べないのだ。
 それに、きっとリヒトは許してくれる。
 ストームにはそんな絶対的な確信があったから。

「‪√‬0、でしたっけ。
 実は……エルのベッドの蓋にもびっしりその単語があったのですよ。エルに聞いてみたいものですが………彼がその存在をしっかり認知しているとは言えません。
 先生の部屋の本棚についてはジブンが可能でしたら調べてみます。
 それともどうします? リヒトも共に来ますか?
 ジブンはソフィアでは無いので鍵を開けられるかどうか分かりませんが」

 数日前に目撃してしまったなぞの記号、‪√‬0は至る所にあるらしい。『物置』にその手がかりがあればいいのだが、ストームのピッキングは全知全能では無いのだ。
 もしやるとしたらソフィアか、形状をしっかり理解出来てその上手先が器用なドールが必要だろう。

「い、いや、まあ、オレならいいけど……フェリまで巻き込むのはどうかと思うぞ、ホントに。アイツ真っ直ぐなヤツだから……」

 箱が開いていなかったら、彼らは外に出なかった。昇降機にロープが下がっていなかったら、彼らは学園に向かわなかった。あの時、ミシェラの行方を追いさえしなければ、直面することは無かった。

 ありもしない妄想が過ぎって、たらればが甘くリヒトを誘う。きっと『お前がそんなことをしなければ』なんて詰ることが出来たら、幾分か、この罪悪感を軽くすることが出来るだろうが────

「……いいや、これに文句言うのは今更だな。もう共犯者なんだ」

 もう、後戻りは出来ない。

 現実から逃避したその瞬間、あの業火がきっと追いついて、全てを呑み込んでしまう。

「センセーにバレたくないから、辞めとく。数は多くない方がいいだろ。
 ……他の子にも、塔のこととか、何があったかは知らねえけど、お披露目になんかあったこととか、話しといた方がいいよな。……あの、ここはえっと……ミシェラが連れていかれた、部屋に落ちてた紙の、写しなんだけどよ。この、『てきごうしゃ』ってやつ、何かわかるか?」

 なんとか、もう誰も失わない道を。自分のノートをひょいと回収して、エルについての話を書き込み、話しながらストームに見せる。コワれた頭を不器用に回しながら、リヒトは必死に考えた。

「ミシェラが……選ばれた理由って、これに名前がなかったからじゃないかな、って。もしこれが何か分かれば、お披露目はともかく、センセーに連れて行かれることは……」

《Storm》
「……くれぐれも、伝え方には気を付けてください。
 変に怖がらせるだけでは日常生活が挙動不審なものになり、先生に勘づかれます。
 それから………。

 ミーチェの件、ソフィアにはなるべく最後に、せめてジブンかアティスがいる時に話して頂けると幸いです。
 ソフィアは特にミーチェに希望を掛けていましたから」

 ストームは深々と頼み込むように頭を下げる。
 ソフィアは強い、そんな事は分かってるがあの時微かな希望を見出すことで立ち直れたようにも見えた。
 今となってはその希望の光も断絶され、一寸先は闇状態。その中ですら我らのブレインには道筋を見出してもらわねば困るのだが、今の彼女に伝えるにはあまりにも残酷過ぎるのは頭のネジを外したストームにすら分かった。

「今はとにかく情報を集める事に専念致しましょう。
 オミクロンクラスについて、『てきごうしゃ』について、運が良ければ何か得られるかもしれませんから」

 憶測だけで動いてはならない、今回のを持って改めて痛感した。あの場にミシェラが居なかったという情報だけで、ミシェラは生きていると勝手に決めつけてしまったツケが回ってきたのだ。

「情報共有は任せました。新たな事が分かり次第またこの場所に。その時までどうかご無事で居てくださいね」

 手を胸に添え、丁寧な所作で相棒へとお辞儀をすると彼に背中を向け歩み出す。
 やることが明確に決まったが、何から手を出すべきだろうか。ひとまず、あの会場もある学園へ戻ろうか。

【寮周辺の平原】

Rosetta
Licht

《Rosetta》
 噴水付近、やってきたのは燃えるような髪のドールだ。
 鼻歌混じりなのは、きっと過ごしやすい気温だからだろう。巾着だけを片手に、ロゼットは散策している。

 「あ」

 ふと、見つけたのは知っている後ろ姿だ。
 エーナではなく、デュオでもなく、ましてやトゥリアでもない。
 テーセラらしく利発で、獅子のような髪を持つ、やさしい少年だ。

 「だーれだ?」

 後ろから近寄って、そっと手で目を隠す。
 きっと気付かれているだろうが、これも馴れ合いのひとつだと聞いた。
 ならば試してみるより他にないだろうと、ロゼットは上記の行動を行うだろう。
 避けられたなら、もちろん普通に挨拶をするはずだ。

 お兄さま、と呼びかける声を、リヒトは今も忘れられない。花畑の中で。あの夜のホールで。

 お兄さま、と手を伸ばしていたのだと、リヒトは今も思っている。あの鉄籠から。業火の上から。

 リヒトは、噴水近くの花畑にあぐらをかいて、今日も花かんむりを作っていた。彼にそれの作り方を教えてくれた彼女はもう居ないが、彼はそれを続けていた。手先を動かすのは頭にいいって読んだんだ、なんて取り繕いながら、ホントは、ホントは。

「ぅおお?!?!」

 急に視界が真っ暗になって、大袈裟に驚いてリヒトは作りかけの花かんむりを落とした。ドキンとコアが大きく跳ねるが、その次に響いた呑気な声に、大きなため息がひとつ。

「……ろ、ロゼだろ。分かってるぞ、つーかそのくらい分かるからな!! やっぱ小さい子扱いしてるだろ……?!」

 冗談めかして笑いながら、少し悔しげに彼は背後のロゼに、視界を塞ぐ柔らかな手の持ち主に語りかけた。……同時に、心の中で密かに、言葉が整理されていく。

 そうだ。
 彼女に、ロゼに、伝えなくちゃいけないことがある。

「……ロゼ、今、時間ある?」

《Rosetta》
 「ばれちゃった? よかったー」

 名前を呼ばれると、パッと手を離した。そこに躊躇はない。
 驚いてもらえたし、レスポンスももらえた。遊びとしては中々悪くないものだ。
 いつもよりご機嫌に、微笑みを湛えたまま、ロゼットはしゃがみ込む。

 「あるよ。すごく退屈だから、あなたと話したかったの」

 落ちた花冠を拾い、リヒトに差し出す。

 「どうしたの?」

 小首を傾げているあたり、他の誰かから何かを聞くこともなかったのだろう。
 あなたが話そうと、話すまいと、彼女はそこにいる。

「……………」

 リヒトは振り返って、口を開いて何かを言おうとして……次の瞬間、閉じて顔を振り、また言おうと口を開いて……今度は噴水の方を見る。何度も何度も、言おうとして、躊躇って……結局、口から溢れ出たのは、要領を得ない、言葉。

「今から、言うことは、すっごいヒミツで、センセーに言っちゃいけないし、バレちゃいけないことだ」

 勇気が出ないのだ。

 あの夜、出歩いていたストームはともかく、ロゼはきっとまだ、何も知らない。何も気づいていないまま、優しく、今もちょっとのんびりしているくらいに、穏やかに、ゆっくりと活動している。

「それでも、いつかみんなが知らなきゃ行けなくて、いつかみんなに伝えなくちゃいけないことだ。……オレは、上手く、伝えられる気が、しないからさ」

 勇気が出ないのだ。
 その安寧を壊す勇気が。

 でも、逡巡している間にきっと、業火は背後に迫り来る。リヒトは走らなければならない、たとえ勇気が出なくとも。

「オレの日記。オレが見たものとか全部書いてる。……だから、お願い。信じて欲しいんだ」

 そう言って、花かんむりを差し出してくれたロゼの手をそっと掴もうとした。掴めたら優しく引っ張って、自分とロゼの距離が近づくようにして……その間に隠すように、彼女にだけは見えるように、ノートを開いた。ストームにも見せた、あの夜のページを。

《Rosetta》
 秘密。
 今まで耳にしたことのないものが、リヒトの中に確かに存在している。
 不謹慎かもしれないが──ロゼットは、少しだけ期待していた。
 先生にさえ言ってはいけないことなのに、全ての者が知るべきことで、伝達する必要があること。
 大変矛盾している。だが、矛盾こそが神秘の輪郭を際立たせ、情報の価値を引き上げるのだ。

 「いいよ」

 引き寄せられる──と言うよりは、身を乗り出すように。
 少年の耳元で、薔薇の木は囁く。
 花弁のような頭は、目線を下に落としていた。抱擁にも近い距離感は、トゥリアだからこそ疑われないものだろう。
 ノートに記された秘密を見終えても、彼女はリヒトの傍から離れようとはしなかった。

 「信じてあげたいのは山々だけど……急に言われても、信じられないところの方が多いよ。このノート、他の人にも見せた?」

 話の内容が内容だからだろう。髪さえ触れそうな距離から、質問が飛んでくる。

「……分かってる。向こうのものは何も持ってこれなかったし、ショーコなんて、無い」

 動揺なんて欠片も感じない浮世離れしたような声は、さらさらと揺れる薔薇の木の隙間から降ってくる。

「信じられないのも、分かってる」

 髪さえ触れそうなほどの密やかな距離で出来るとは思えないが、出来るだけ俯いて、 影に顔を落とす。不安とか、焦燥とか、落胆とか、そういう、情けない表情を隠していたかった。

「……だからさ、いま見たコトも、全部忘れていいからさ。
 オレが何かしようとしてたら、センセーにバレないように、出来ればでいいから、ちょっとでいいから……手伝って欲しいなーって、思う。あと気になるコトとかあったら、教えて欲しかったり……」

 『……さすがにワガママかな〜?!』なんて、リヒトは茶化した。花かんむりをぎゅっと、握りしめながら。花びらが一枚散る。

 分かってる。分かっているんだ。 あの火のことも、あの塔のことも、ミシェラのことも、センセーのことも、あの地獄も、全部、全部………痛感しているのは、自分たち二人だけ。あれを忘れられないのは、毎夜、センセーが鍵を閉めに来る度に拳を握って耐えているのは、 あの業火を心から恐れている、のは。

「これを知ってるのは、一緒に行ったフェリと、話したストーム。……ストームの方は、元プリマの子たちとなにかやってたみたいで……お披露目は存在しない、とか言ってたな。何を見たんだろう」

 そのまま、続けて見せた人についても話した。疑問は尽きない。捻れた信頼を託している藍髪の彼にすら、秘密が存在するらしいから。

《Rosetta》
 おひさま色の髪が、力なく項垂れる。
 きめ細やかなうなじは、快活な彼に反して繊細だ。今にも壊れそうな首筋が、何故か目に焼き付いた。

 「傷付くことに怯えなくてもいいんだよ。内容を信じることは難しいけど、リヒトを信じることはそう難しくないから」

 きつく握られた拳を、柔らかな手のひらが覆う。
 絹のベールを撫でるように、ロゼットは花冠とテーセラドールの手に触れた。

 「他の子には後で訊いてみるよ。それから……私も、君に秘密を教えてあげるね

 こっそりと、甘やかな声が少年の耳をくすぐる。
 伝えたいことだけを伝えると、ようやく彼女は身体を離すことだろう。
 囁きの中身を問いただしても、きっと悪戯っぽく笑うだけ。そのままするりと、どこかへ消えようとする。

「え」

 リヒトの目が思わずまあるく見開かれ、隠れるように俯いていた顔も、パッと上がる。その間にロゼは悪戯っぽく笑って、するりと去っていく。

「っホントに……危ないコトあったらすぐ言えよ! 変なの見つけてもすぐ言えよ! ここ、ワケわかんないんだからな────!!」

 ああ、この神出鬼没な深紅の薔薇は、いっつもこう、なんというか……危なっかしい。立ち上がって呼び止めたって花弁が風に吹かれるように、そっと立ち去ってしまうのだから、その代わりにリヒトは下手くそに呼びかけることにした。

「ありがとな、ロゼ。
 信じられなくても、信じてくれて」

 その少し後、赤い髪がちらりと輝いて消える頃。ちょっとだけ、弱音の滲んだ情けない声で、花々の影に隠れるように、吹き抜ける風に隠れるように、そっとリヒトは感謝をつぶやく。

 さあ、行こう。

 不出来な花かんむりを被って。仮初の日常の影に隠れて。コワれていてもやるしかない、秘密の作戦へ。

【寮周辺の森林】

Odilia
Licht

 さて、所変わって寮周辺の森。いつもテーセラモデルの運動に使われている木々の下に腰掛けて、リヒトは森の奥を睨みつけていた。

「……まあ、どうしたってこの先の柵を、越えなくちゃいけないか」

 いつものノートに今までの事を書き加えながら、リヒトはゆっくり暗くなっている、木々のあわいを見つめながら、暇つぶしにこの辺りの木の葉っぱの絵も書いていた。

 そう、彼は待っている。
 時々寮の方を振り返りながら、これから来るはずの妹分を。

「さーて、オレたちのオオカミちゃんは来てるかな」
 
 今日は、もちろん森と柵を調べたいのもあるけれど……同じモデルの妹分と遊ぶのも目的だ。やりたいコトや、やらなきゃいけないコトは、“いつもの日々“に隠さなければいけないのだから。

 だから、全力で遊ぼう。

《Odilia》
「わーいリヒトお兄ちゃん〜!!」

 元気よく白くてふわふわの子が走ってくる。
 木々の隙間を通り抜け、寮の方から。

 どうして森の中に来たのか、それはお兄ちゃんと遊ぶためである。
 お兄ちゃんと遊ぶためなら例え火の中水の中どんなところまででも頼まれればいくのが自分である。
 だってお兄ちゃんと遊ぶのは楽しいから。

 そんなワクワクとした気持ちを抱えながら全速力で走りここまで来た。

「おっとと……セーフ!」

 通り過ぎないように急ブレーキをかければ、少し転びそうになるもちゃんと体制を整え転ばないようにする。

 普通のドールなら疲れていそうなところだが、テーセラのため全然疲れておらず、むしろ元気いっぱいなオディーは貴方にむかって明るい声で言うだろう。

「お兄ちゃん〜遊ぼ〜!!」

「おっ、来たな〜!!」

 柔らかな草原を、花畑と噴水を越えて、真っ白モコモコな塊が……もとい、オディーがやってくる。明るい声とは裏腹の、ちょっとムスッとした顔で。もちろん、リヒトも彼女の‪コワれた部分は知っている。その不器用さも、不出来な部分も。

「よく来たオディー! 今日は〜、森で鬼ごっこしようと思って!!」

 だから、彼は弾けたように笑うのだ。まるで年上の子がお手本を見せるように。……本人に、その気はまるで無いけれど。

「まずはキョーソー!! 先に柵の近くまで着いた方の勝ち、な!」

 もし了承が得られたら、よーい、どん! という掛け声と共に、ぱっとリヒトは森の奥に向けて走り出すはずだ。自分よりも一回り年下の設計であるオディーに合わせて、多少は加減した速度だが……もちろん、手を抜いたからオディーに追いつかれて、抜かれる可能性も大いにある。

《Odilia》
「鬼ごっこ!! やりたいやりたーい」

 鬼ごっこという単語に目をキラキラと輝かせ、本当に楽しみでワクワクが止まらないとぴょんぴょんと飛び跳ねクルクルと回る。

 鬼ごっこ! いっぱいここを駆け回りお兄ちゃんを捕まえたりお兄ちゃんがオディーを捕まえたりする遊び!
 他の子ともやった事あるけどすっごい楽しい遊び。
 記憶の中のお姉ちゃんともやってたこと。
 すっごく楽しくてすっごく面白くってワクワクが止まらない遊び。
 2人より大勢でやった方が本来は楽しいのだが、オディーはそんなこと気にしない。
 2人でも面白いと感じるからだ。

「うん! わかった競走する!! オディーいっぱい走る〜!」

 でも先に競走という単語が聞こえ競走するということに切り替える。
 競走もものすごく楽しい遊び。
 びゅーんって風を切って、早く着いた方が楽しいけど、2番目でも面白い遊び。

 そんなことを考えていればスタートの合図が響き渡る。

 その合図と共に、先程まで走っていたと言うのにその疲れなんてどっか行ってしまったように、疲れなんて見えない全速力の走りでリヒトお兄ちゃんを追いかけるだろう。

 小さな森の中を走って、大きな根は飛び越えて、樹皮に手を触れて。テーセラモデルの設計か、否か、運動は心地よい。何より気分を切り替えるには、一度限界まで疲弊したほうがいい。あの日の冷たい湖の水のように、きっと体と心を冷やしてくれる。

 ……なんて物思いしているうちに、真っ白な毛玉は遥か先へ。

「はっ────ちょ、待っ早〜っ?!」

 今度こそ手は抜けず、リヒトは全力でオディーを追い掛けるが、踏みしめる足よりもずっと早く、真っ白な影は遠のいていく。コアが痛む、ズキズキ痛む。気のせいだと、思う。
 ……先に着いたのはやっぱり彼女の方だった。

「はっ、っ、はぁっ、はっ……っはは!! 早いなー! お、オディーすっげ……!!」

 適度に調節された疲弊が出力されて、リヒトはグッと背伸びをして先に着いたオディーに話しかける。コアはズキズキ。それでも笑って、柵の近くを見て回った。

 ……思い出したくないんだ。擬似記憶の“君”は。君がオレを置いていったんだから、もう、頭の中に来ないでくれよ。

「なんか見えるかな、柵の奥。……なあオディー、いつか走って行ってみたいよな。この柵の向こうまで」

 疲労と共に付きまとってくるじっとりした記憶を振り払うようにリヒトは首を振って、オディーを誘って柵の近くを歩いて回って、同じように柵の奥を見つめた。日常に隠れた、秘密の作戦。コワれた体で出来ることは、精一杯やらなくちゃ。たとえば……逃げ場所探し、とか。

《Odilia》
「あれれ? オディーお兄ちゃん置いてっちゃった!」

 軽快に風を切り、目指すは指定された柵。
 この先には行ってはダメと言われてるしそもそも行けない。

 とはいえ行きたい。こうやって制限されない世界で走り回れたら楽しいのかな? と思いつつ走っていたらいつの間にかリヒトお兄ちゃんを置いて言ってしまっていた。

 柵の先に広がるのもまた森であり、そよ風が吹いてくる。
 そのそよ風が頬を撫で、お疲れ様と言ってるように感じる。

 自分が柵に着いて数秒後、リヒトお兄ちゃんもその場所に着く。

「ご、ごめんねお兄ちゃん。
 オディー楽しくってつい置いて行っちゃった。」

 悪気はないんだよ。
 と困った顔をしながら貴方に謝る。
 そうやって謝るオディーを褒めてくれるリヒトお兄ちゃんは優しい。
 早く走れることは凄いことなのか実感はないけれど、褒めてくれるから好き。

 森の奥……柵が邪魔で行けない世界。
 自由な世界。
 もしこの柵を超えれたらもっと自由に走れるのかなと疑問に思う。
 そのためにもお披露目会にでなきゃいけない。

「オディーね、この柵の先に行くために、頑張って笑顔の練習とかしてお披露目会に出るの。
 そうしたら自由にこの森の中とか走れるよねきっと!」

 彼女は求む自由を、この世界を走り回れるときめきを。
 きっと草原を走るのは気持ちいんだろうな、ノースエンドに出てきた雪いっぱいの世界を走るもの楽しいんだろうな、人魚姫に出てきた砂浜もきっと。

 そんな純粋な気持ちを持って貴方に言うだろう。

 あなた方は無事、寮の外周を取り囲む柵の前に辿り着く。あなた方が踏み出したことのない、柵の『外側の世界』。まるで檻のように重苦しく設置された格子の向こう側にも、穏やかな森林が続いている。

 先生は、この先を入り組んで複雑な森だと言っていた。ひとたび外に出てしまえば、元の道を見失って迷ってしまったり、獣に襲われてしまう可能性もある。そんな危険からあなた方を守るのが、この柵なのだと。

 現在地の周辺には、特に目に留まるものは見当たらない。──“もの”は。


「……………」


 あなた方は目を疑うだろう。ふと目を向けた先に、同じように鉄柵の向こう側を見据える、赤い制服を着た見慣れないドールが突っ立っているではないか。
 癖のある茶髪を後頭部で結い込んだ、険しい表情をした堅物そうな青年ドールだ。彼の上背はあなた方が見上げる程に優れており、その身体つきも精悍だった。


 ──ああ、そうだ。
 一瞬見覚えがないと思ったが、あなた方は知っている。彼は元々、テーセラクラスで共に学びを得ていた、ジャックという名のドールであると。

 彼はあなた方に気付いていない様子で、柵に手を掛けて軽く揺すっては、何かを確認しているように見えた。

■■■■
Odilia
Licht

「いーの、いーの。オディーが楽しかったらそれでいい!」

 走ってる最中見えた背中は、楽しそうに飛び回っていた。表情を作るのが苦手でも、体全体から嬉しそうで楽しそうなのが伝わってくる。オディーはコワれてなんかいない、キレイな心だ。

「……そう、だよな。オレたちはみんな色々、やりたいことがあって、したいことがあって、だからお披露目を待ってて……」

 純粋に煌めく気持ちで話しかけるオディーに、リヒトは目を伏せて答えた。……答えた、と言うよりは、それは酷く自分勝手な独り言のようにこぼれ落ちた。

 お披露目は、存在しない。

 それしか知らない。何かあることだけは感じるが、エーナモデルほど彼は機微に敏感では無い。何かある、少なくとも、望まれない何か。

 なんだか希望を持つのも辛くてふっと目をそらすと、制服の赤がそこにあった……森の、中に? 思わず注視する、もしかしたらサラがまた夢うつつのままにここまで来ちゃったのかも、と推測して……。

「…………あれ、ジャック……?」

 それは独り言のようで、ことの他、大きく響いた。きっと彼にも届いている。

「どうして、ここに?」

《Odilia》
「お兄ちゃんがそう言うならいいんだけど……。」

 まだまだ少し納得がいかず、しょんぼりした顔になる。

 まさか置いていっちゃうことになるとは思ってもなかった。
 お兄ちゃんは早くて優しくてオディーに色んなことを教えてくれるから。
 ずっと前を行ってくれると思ってたらいつの前にか追い越してたみたいで、なんか少し寂しい。

 ふとお兄ちゃんの顔を少し見れば、目を伏せて返答している。
 なんで? どうして?
 なんというか悲しい、辛い?
 そんな感情を感じ取っていた。

「お兄ちゃんどうしたの? 何処か寂しいの?
 オディーここにいるよ」

 なんて心配したのか優しく手を握ってあげる。

 なんというかキラキラした希望、温かさを何となく感じなくなってお兄ちゃんからそういう明るいものが消えちゃったように感じた。

 大丈夫かなお兄ちゃん、自分にはどうすることもできない。せめてここにいてあげることしか。

「え? ジャック……?」

 お兄ちゃんが声をあげる。
 その声は1人のドールの名を紡いでいた。
 その名はジャック、オディーやリヒトお兄ちゃんと同じテーセラのお兄ちゃん。
 一緒に勉強してたお兄ちゃん。
 お兄ちゃんが向ける先にきっといるのだろうと、自分もそちらの方を向きジャックお兄ちゃんを見つける。

「あ、ジャックお兄ちゃん! そこ危ないよ、お兄ちゃん〜。」

 聞こえているのか分からないため少しだけ声をあげて、危ないことを伝えるのと自分達がここにいるのを伝えるだろう。

 静かな森に響くような声で名を呼ばれたジャックは、眼を見開いてあなた方の方を振り返る。健康的に日に焼けた肌と、コメットブルーの鮮やかな碧眼が視界に眩い、テーセラドールのお手本のような見目の精悍な青年である。

「お前達……リヒトに、オディーリアか……。

 ……、……故あって言いつけを破り、この場所にいるが…オミクロンのドールに良からぬことをしようとしている訳じゃない。……だから、俺がここにいると言うことは……どうか、内密にしてほしい。」

 ジャック。彼は以前から、口数が多いドールでは無かった。寡黙で、大らかな樹木のように静かにそこに立っている。現在は弁明の為に言葉を幾つか連ねているが、低く響く声はさほど大きくもなく、耳馴染みのあるものである。

「あっ、いや、その……いい。言わない。つーか、言うリユーもねえし」

 耳馴染みのいい低い声に、大樹のようにどっしりと構えた静かな態度。変わりない、ジャックだ。

「ジャック……久しぶり。……元気?  ……テーセラクラスは……その、なんというか……ああ分かんねえなあ! こういう時どう言うべきか!!」

 方や、オミクロンクラスの中でも出来損ないの、ジャンクドール。方や、テーセラモデルの立派なドール。かつて同窓ではあったが、今はもう話すことすら覚束無い。オミクロンに落ちる前、テーセラクラスにいた頃の記憶が……その焦りさえ、思い出せそうだった。

 『とにかく会えてよかった! な、お、オディー!』と同意を求めて振り返り、気まずさを拭おうと何度も言葉を重ねる。

「……と、言うか。なんでオミクロン寮の森の……柵近くなんかに居んの? どうやって来たの?」

 気まずさを拭おうと重ねる度にちぐはぐとズレていく距離感に気づかないまま、リヒトは焦ったように続けた。

《Odilia》
「お、お兄ちゃんのことは絶対に言わないよ!
 とりあえず何してるのか気になっただけだから……。
 危ないことしてないなら良かった。」

 低く穏やかな声はオディーの耳に優しく届いた。

 ジャックお兄ちゃん、自分がテーセラのクラスにいた時からあまり喋らない、口数の少ない明るい子が多いテーセラドールの中ではちょっと異質だったドール。
 でも、それでも他のお兄ちゃん達と同様に優しかったことは覚えてる。
 その声のトーンが証明していた。

「お、リヒトお兄ちゃん落ち着いて?
 オディーもジャックお兄ちゃんに会えて嬉しいよ!」

 顔で表現すると怖くなってしまうから身振り手振りで嬉しいという感情を表現しリヒトお兄ちゃんとジャックお兄ちゃん、両方がわかってくれるよう表す。

 オディーだってジャックお兄ちゃんに会えて嬉しい。
 元とはいえ同じクラスメイトだったドール、久しぶりに会えたのだから嬉しい。

 するとリヒトお兄ちゃんから質問がジャックお兄ちゃんへいく。

 そういえばそうだ、なんで普通のドールがオミクロン寮のしかも柵の近くになんかいるのだろう。
 普通のドール達ならカフェテリアとかあるだろうに……。
 そう疑問に思い首を傾げる。

 どうやら彼らが、己の不法侵入を不問にしてくれるらしいと分かると、見る者を緊張させるような険しい顔をしていた彼は、ふっと僅かずつ、眦を緩めた。それでも仏頂面であることには変わりないが、幾分強張った空気が和らいだように感じるだろう。会えて嬉しいだとか、久しぶりだとか、旧友との再会を喜ぶ素直な言葉は吐かないが、気の置けない雰囲気を感じ取れるのではないだろうか。

 警戒せずに快諾してくれたあなた方に、ジャックは深々と一礼をした後、目の前の高い柵を見上げた。彼はかなり体格に優れているのだが、それでも彼が見上げるほどに柵は高かった。

 多くは語らず、彼の目的がこの柵であることを目線で示しながら、再びジャックはあなた方の方へ向き直る。

「…………夢……トイボックスの、真実……、……ドロシーに、頼まれたんだ。下見を頼むと。この先に、知りたい事実があるらしい。」

 彼が零した、ドロシーという名。これも、あなた方は聞き覚えがあった。
 彼女は所謂、テーセラクラスの模範的な優等生であった。当時のプリマドールであったストームに並ぶほどの成績を優に収め、生真面目に勉学や鍛錬に打ち込んでいた姿を今も思い返せる事だろう。

「この柵は……俺なら、越えられるが……、……、……規則を破る事になる。だから、様子見だけを……していた。」

「夢、トイボックスの、真実。ドロシー、 が? ……どんな? もしかして、お披露目とか───?!」

 取り乱しかけた言葉に自分でハッとし、思わずぐっと口を噤む。結局ストームからは聞けなかった、お披露目についての事かと先走ったが……トイボックスには謎が多い。どの真実についてのことかは分からないし、話してくれるかも分からない。

 ぐむむ……と口を噤んで、リヒトは仕方なく話題を変えた。

「……っ、ジャック、どうやって柵登るの? つーか登れるの? すげえな……」

 ドロシーの話を聞きたいのは山々だが、エーナモデルでない彼が上手く聞けるとは思えない。代わりに、今後絶対必要になるだろう、柵越えについての情報を聞こうとした。自分よりも上背のある彼がどうやってこの2mの柵を越えようとしているのか、その方法が分かれば、きっとストームが出来るような気がして。

《Odilia》
「お披露目会に何かあるの? お兄ちゃん……」

 自分は何も知らなかった、知る由もなかった。
 真実? 夢? 分からない。
 オディーにとってお披露目会というものは憧れであり自由を噛み締めれる場所。

 それなのになんというかお披露目会に何かが隠されてるような言い草だ、それに急にリヒトお兄ちゃんが口を閉じる。
 何かがおかしい、それにお披露目会があるダンスホールから変な水音がしたし、扉はあかなかったしそれに謎にこっち側に鍵があったし、わかんないことがいっぱいだ。

 ひとりで考えても仕方ないかもだけれど、心にモヤが残る、ぐるぐるとした毛玉のような。

「本当だ、お兄ちゃん向こう側いけるの?
 柵、あんなに大きいのに、ぴょんって飛んだらオディーも行ける?」

 柵を超えるということはリヒトお兄ちゃんを置いていくくらい足が早い自分でもすごいと思えることだ。自分じゃ手は届かないし、ジャンプしてもきっと届かないだろう。

「ジャンプか……流石にオディーリアの背丈では、ジャンプだけだと厳しいな。だが、ロープが一本あれば、誰でも越えられる……はずだ」

 暗にジャックは自身の身体一つで越えられることを示唆しつつ、再度鉄柵の格子を掴んだ。また軽く揺すって強度を確かめるような動作を取りつつ、またあなた方の方を向き直る。

「俺も、外の世界には前から興味があった……。外に出てヒトに奉公しなければならないのに、ドールはお披露目まで外を見ることは許されていない。この『決まりごと』に疑問があったのは……昔からだ。

 これはドールを守る為の柵ではなくて、商品を逃さないための柵……だとしたら。頷ける理由がある……。

 その内、柵越えをしにくる。なぜオミクロン寮でなければならないのかは、ドロシーにしか、分からない事だが……」

 ジャックは踵を返し、学園の方角へと歩き始める。その途中、リヒトとすれ違う間際。「柵越えをするのなら、先生の監視に気を付けろ。何か足止めをしておけ」──と、あなたに囁いて、そのまま彼は立ち去っていくだろう。

「……そっか。守るための柵、逃がさないための柵。ロープが、一本」

 ジャックと同じように自分を柵を掴んで、揺すって強度を確かめ、リヒトは言葉を反芻する。自分じゃ思いつかない、ストームに伝えよう、と思いながら。
 それから、ノートを開いてメモを取り、囁かれた言葉にはっと目を開いて……丸い瞳に、去っていく制服が映った。

「わかった、ありがとな。────ジャック!! その……」

 コワれた自分に、言えること。
 コワれた自分に、出来ること。

「気を、つけて」

 ──それしか、言えなかった。

「……オディー。オレたちの目標は、お披露目会に行く事じゃない。自分の、自分だけのご主人様に、会うことだ。……そうだろ? 」

 立ち去っていくジャックを見つめながら、彼の姿が先生に見咎められないよう心配しながら、リヒトは確認する。出来れば、声が軽くなるように、本当になんでもないように。

《Odilia》
 柵……。
 守る為じゃなくて、逃がさないための柵。

 逃がさない?
 ダンスホールの扉もまるで向こう側に行った存在を逃がさないように、向こう側では開けれないようにこちら側に鍵があった。

 先生は優しい……でも逃がさない?
 自分はソフィアお姉ちゃんや、アメリアお姉ちゃんより頭がいいわけじゃない。わかんないけど色んなことにより疑問が増えていく。
 お兄ちゃんは何か知ってそうだけれど隠してくるから分からない。
 アリスちゃんと会った時にも言ったけれど心が読めない、読めれたら今の状況も理解できるのだろうか。

「あ、ジャックお兄ちゃんじゃあね! また遊んでね!」

 と手を振りジャックお兄ちゃんの背中を見つめることしか出来なかった。

「そ、そうだけど……」

 お披露目会に何かあるのか聞いた返事は、お披露目会に行くことが目標じゃなくてご主人様に会うこと。
 そ、そうだけど……だけど、そんなに内緒にされちゃオディーも知りたいよ。
 なんて言おうとしたのに続きは出てこない。

 オディーにも話せないことなのかな……やっぱオディーがまだお姉ちゃんやお兄ちゃん達みたいに立派じゃないから……。
 しょんぼりしながら自分はそんなことを考えるのだった。

「……うん、そう。そうだよな。オレたちはまだ見ぬダレかのために、ずっと頑張ってるんだ……お披露目のためじゃない」

 もうジャックの背中も見えない草原を見つめる。隠しちゃいけないかな、と心のどこかで鍵が揺れる。遊ぼうと思っていた、どこか逃避気味な気持ちは既に、あの業火に追いつかれ、囚われていた。

「いいか、オディー。ヒミツにしようかとも思ったけど、やっぱりお前だから、言うよ。オレはコワれてるから、カクシゴトは苦手なんだ」

 そう言って、リヒトは真っ白でモコモコな大切な妹分を見つめた。今から大事なことを言うよ、というに、二三度深く瞬いて、口を開く。

 ああ、ミシェラも大事だったんだ。かわいい、オレたちのミシェラだったんだ。

「お披露目は、オレたちが想像してるより、もっと酷いものなんだ。お披露目に行ったミシェラは……今、幸せなんかじゃない。オレ、ミシェラを助けられなかったんだ。目の前で、見たんだ。

 ……なあオディー。ヒミツの作戦をしよう。学園の謎をオレたちオミクロンで解いちまおう。そうして自分たちで、ご主人様に会いに行こう」

 お兄ちゃんとしてはあまりにカッコ悪くて、年上設計としてはきっと脆い言葉。それでも真面目だ、真剣なんだ。

 リヒトは真っ直ぐオディーの不器用で素敵な顔を見つめた。

「センセーは、こんなこと聞いたらきっとジャマするから、センセーには絶対、バレないように」

 ────さすがに、信じてもらえないかな。少しだけ後悔が滲む。

《Odilia》
 お披露目会、オディーの目標はそれだったけれど理由はご主人様あの記憶の中のお姉ちゃんのようなご主人様に会うため、それが目的だった。
 赤色の髪のお姉ちゃん、隣に立ってバレエを踊ることそれが幸せだと信じて。

 でもリヒトお兄ちゃんが次に喋ったことは自分にとってショッキングな事だった。

 目標としていたお披露目会が思ってるあのキラキラしたお披露目会では無いということ、あんなに一緒に勉強したミシェラが幸せじゃないということ、そしてお兄ちゃんはミシェラを助けられなかったこと。

 きっと助けられなかったということは悪い人が邪魔したのか、見れたけど遠かったとか色々理由はあるだろう。

「ミシェラを助けられなかったのは、仕方なかったんだよね、多分。
 だからリヒトお兄ちゃんは自分を責めなくていいよ。」

 ミシェラを助けられなかったのはオディーもそうだから。
 自分のせいでもあるから、例え事情を知らなくてもお兄ちゃんお姉ちゃんは悪くないってわかるから。
 助けられなかったとしてもオディーにとって最高なお兄ちゃんお姉ちゃんだから。

 お披露目会がそういうことだということ、昔の自分だったら信じてない。
 でもダンスホールの扉、水音、この柵、ジャックお兄ちゃんの言葉。
 怪しいことだらけのこの世界、本気で信じていいのかは分からないけれど、でもそれでもお兄ちゃんの言うことは信じてみたい、助けになってあげたい。

「いっぱい謎だらけで、オディーが力になるか分からないけど……!
 オディーお兄ちゃんの力になりたい。そしてみんなでご主人様のところに行きたい!
 だから手伝うよお兄ちゃん」

 リヒトお兄ちゃんの手を掴みぎゅっと握ってそう伝える。
 握ってるオディーの瞳はいくら感情表現が苦手でもわかりやすいくらい真剣な眼差しだった。

「先生には内緒ね……わかったよお兄ちゃん。
 頑張ってオディー隠し通すね!」

 嘘は苦手だけれど、本当は先生も騙したくないけれど、お兄ちゃんお姉ちゃんの力になれるならという気持ちを持ちお口チャックの動きをする。

「ありがとう……ヒミツ、ヒミツな。オレたちの、オミクロンの大事なヒミツだ!!」

 オディーの言葉を、優しい言葉を、棘としては行けない。傷にしてはいけない。覚悟とともにその言葉を受けて、リヒトはぐっと飲み込むように笑った。不器用だけど一生懸命伝えてくれる、大事な仲間に応えたくて。

 コワれた体で……大丈夫。
 ずっと戦っているよ。

 ごめんな、ミシェラ。

「よーし、そうと決まれば早速、学園の謎について話そう!  
 ええと、オレは……寮の中にいっぱいある『ルートゼロ』って記号について知ってる。これは、医務室の寝る箱の蓋の裏に書いてあって、ミュゲが聞いたことあるって……あとエルの箱の蓋の裏にもあったらしい。ストームに聞いた。
 それから、学園の『開かずの扉』の話。……これはとっても危ないから、一緒に行ったフェリ、フェリシアにも話を聞いてくれ、な。絶対に一人で行くんじゃないぞ。
 さらにさらに、センセーの部屋の本棚の秘密。……実はあの本棚、動くし、裏に扉があるんだ! だからオレはそこの鍵を探してみてる。見つけたら教えてくれ!
 あと、お披露目の秘密。お披露目で何があったかは、元プリマ……ええと、ストーム、ディアさん、アティスさん、ソフィア姉が知ってるよ」

 『この位かな、オディーはなんか、気になったことあるか?』と妹分に目線を合わせたまま、こてんと首を傾げて彼は尋ねた。

《Odilia》
「うん! 秘密だよお兄ちゃん」

 ミュゲお姉ちゃんに教わったように手でにーと、笑顔を作ってみれば、明るく貴方にそういうだろう。

 これが今の自分に出来る精一杯の笑顔。
 これでお兄ちゃんも責めないでくれると嬉しいけれど。
 もっと自分が笑顔が上手だったりしたら、もっとリヒトお兄ちゃんが背負わなくて済むかもだけれど、自分が出来るのはここまでだった。
 せめてリヒトお兄ちゃんの荷が自分が協力することで少しでも降りてくれればいいと願う。

「ルート……ゼロ、よくわかんないけどミュゲお姉ちゃんとエルお兄ちゃんとストームお兄ちゃんが知ってるんだね!

 開かずの扉はフェリシアお姉ちゃんが、それと1人で行っちゃダメ。

 リヒトお兄ちゃんが先生の部屋の隠し部屋の鍵を探してて。

 ストームお兄ちゃん、ディアお兄ちゃん、アストレアお兄ちゃん、ソフィアお姉ちゃんが秘密を知ってる……。
 わかった! 全部覚えた!」

 情報量は多かったが、これでも勉強は頑張ってしているため多少は記憶力も鍛えられた。
 そのためちゃんとリヒトお兄ちゃんが言った情報のことを記憶に入れガッツポーズをする。

「気になったこと…………?」

 何か不思議に思ったことだろうか……学校で。
 確証はないし直接見た訳では無いけれど、言うべきだろうか、いやせっかくリヒトお兄ちゃんが教えてくれたのだから言うべきだろう。

「えっとね……ダンスホールで今扉が閉まってるんだけど。
 変な水音がしたの、あと何かを引きずる音? かな。
 あと鍵が向こう側からは絶対開けれないようになってて、こっち側だけ閉めれるようになってた。」

 そのくらい…………かな。
 あ、でも関係ないかもだけど少し言うべきかもしれないと思い口を開く。

「あ、あとこれは個人的なことなんだけど……アリスちゃんっていうドールがね。
 少し寂しそうにしてたの、ちょっと引っかかっちゃってね。
 オディーはみんなと仲良くなりたいから、どうにかしてあげたいなって思ってたり?」

 なんて言うも……でもでも自分がやりたいことだから、脱出には関係ないから気にしないでね。

 と伝えたはいいものの気にしないで欲しいと貴方に伝える。

 みんなと出るって時にほかのドールなんて気にしてたらきっと出れなくなってしまう。
 目標はお披露目会じゃなくてご主人様に会うこと、他のドールは関係ない。
 それでも自分はみんなが幸せになって欲しいと願うくらいのお人好しなのだ。

「ああ、約束な」

 オディーがむにっ、と手で笑顔を作ったのを見て、こちらも自分の頬を手でむっと押し上げる。おそろい。きっとミュゲに習ったんだろう。

 オディーは、やっぱり、ちょっとだけ不器用なだけの、優しくてキレイな子だ。

「閉まってた扉、引きずる音、変な水の音……」

 オディーの教えてくれたことをちまちまとメモに取りながら反芻する。リヒトにはその点のような、星空のような様々な謎は分からないが……これを繋げて星座を見てくれる人を、彼は知っていた。

「コジン的な事でも、大事なことだろ。オディーはやりたいことやっていいんだ。……アリスってやつと仲良くするのも、もちろんな!」

 もしかしたらそのアリスってのはあいつかもしれないけど〜〜なんて、心の隙間でもやもやしながら、それでもぱん、と言葉でオディーの背を押す。やりたいことをやっていい、したいことをしていいのだ。彼らはいつか誰かの手を待つドールだが……確かに、自分の心を持っているのだから。

「……あーあ、なんか遊ぶ感じじゃなくなっちまったな……どうする? オディー。一旦解散にするか?」

《Odilia》
「オディー知らないことが多くてごめんね。
 少しでも力になればいいんだけれど。
 後で他のところも探索するからなにか見つけたら教えてあげるね!」

 自分が知っていた情報は少しでも役に立てただろうか?
 ダンスホール、図書室、カフェテリア。
 カフェテリアに関してはアリスちゃんがいたから調べられたとは言えないかもだけれど、調べたところはざっとこんな感じ、まだまだ行きたいところがたくさんだ。

「……! わかった、オディーしたいことする。
 アリスちゃんと仲良くなる!」

 リヒトお兄ちゃんの言葉で背中を押して貰えた。
 本当に踏み込んでいいのか。アリスちゃんが言っていた、お人好しは直した方がいいと。
 でもやりたいことをやっていいとお兄ちゃんが言うなら、お人好しでも構わない!
 やりたいことをやる、そう気合いが入った瞬間だったら。

「どうしようか、オディーはどっちでもいいよ。
 リヒトお兄ちゃんの手伝いもできるよ?」

「オレは……そうだな、柵について調べられたし、ジャックから話も聞けた……から……うん。ちょっと一旦寮に戻るよ」

 ジャックに出会えた事で、かたんと心の何かが、また蓋を開けて暴れ始めた。不安症とも言えない、バランスの悪い焦燥。せっつかれるように反射で足を出し、とにかく前に進まなければ。
 ぐぐっと伸びをして、少しばかりの悔しい気持ちと引き換えに、彼は一歩森から離れた。

「今度、今度な。今度遊ぼう!」

 未来の話をする度に、過去から業火が迫り来る。秘密に沈めておきたかった、後悔と罪が顔を出す。
 不安をふっと振り切るように、また今度、の約束をして、リヒトは大きく手を振ってその場からゆっくり立ち去った。