Storm

【寮周辺の湖畔】

Storm
Licht

《Licht》
 それは、よくある平穏で、幸せで、暖かい午後の幕間。少しだけ有様を変えた世界のなかで、ほんの少しの寂しさを抱えたドールズは、今日も、そしてこれからも、慎ましく幸せにお披露目を待つ────。

 ……なんて、継ぎ接ぎされたグロテスクなまやかしに浸ることを、この世界は許してくれなかった。

 寮周辺、湖畔。さらさらと涼やかに風が立たせる波の向こうにいつもの寮を見遣りながら、リヒトはノートを固く握りしめていた。遠くからやってくる待ち人の影に、うるさいほど鳴るコアの緊張を飲み込んで。

 背中の後ろまで、あの赤い火が迫っているような、そんな、ありもしない妄想がいつも、瞼の裏を焼いている。一歩でも立ち止まれば、後悔に足を取られて振り返れば、そこにはきっと、あの業火が待っている。

「……ストーム」

 (コワされる前に、)
 (コワれる前に、)

 待ち人の名前を呼ぶ。誰も知らない六等星は、見にくい光を体に隠して、無二の友人と相対する。単刀直入に尋ねるその無遠慮さえ、薄氷の上で成っていた。

「お前さ。昨日の夜────どこ行ってたんだ?」

 希望に満ちていると見せかけられた悲劇の夜が明けた。
 大袈裟に鳴り響く明るい曲調がピタリと止む、あの感覚がストームのメモリーを永遠に巡回している。
 音だけで造設された惨劇を、何度も何度も…何度も何度も何度も何度も頭の中を駆け回るのだ。
 ソフィアは言った。
 “あたし達は惨めに殺される為に生まれてきたの?“と。

 違う。そんなことさせるわけが無い。そんな、あんな終わり方。美しくない。

 静かなる苛立ちをコアへ今朝もストームを徹底した。些細な変化、動揺から悟られることを防ぐ為に。
 そうした時に珍しい誘いがストームに飛び込んでくる。ソフィアやアティス、そしてディアよりも長い長い付き合いで今となっては相棒と呼び合う程の、親友リヒトからの呼び出しだった。
 先に行ってると伝えられたのみ、彼はさっさと行ってしまった。
 指定場所である広い湖に着くや否や、聞かれたの答え難いものだった。

「…何処へ、夢の世界。とでも答えるのが適切ですか?」

 隠さねばならぬ、何としても。
 ストームはリヒトの問い掛けに動揺するような兆しすら見せずに答えた。
 なぜ? リヒトはなぜ知っている?
 自身の相棒を見る目は、信頼だけであると思いたい。が、そんな訳にもいかなそうだ。

《Licht》
「……とぼけんじゃねえよ」

 夢の世界、だったら良かったんだよな。何度も何度もそう思って、そうじゃないからここにいる。リヒトは感情を誤魔化すように自分の腕を握った。爪が布越しにぐっと食い込む。

「ディアさんも居たよな。箱の格子から見えた。センセーが鍵かけてたのに、どうやって開けたんだ? 昇降機のトンネルのとこにロープ降りてたの、あそこの昇り降りなんてさ、お前くらいにしか出来ないよな。めちゃくちゃ高かったもんな。ああ、昇降機の扉を開けるのだって、めちゃくちゃ重くて難しいだろ、テーセラモデルじゃない限り!!」

 リヒトに、駆け引きが出来るほどの思考能力は無い。同時に、現状に満足できるほど無知であることは出来ない。
 リヒトに、嘘をつけるほどの論理的思考力は無い。同時に、焦りと不安に見て見ぬふりをすることも出来ない。彼は、何処までも“出来ない“、オミクロンの六等星。

 だから彼は、コワれかけの頭と身体でガムシャラに突っ走るしかないのだ。弱みと痛みで繋がる、親友へのか細い繋がりに、全力で縋り付いて。

「……答えてくれよ、ストーム」

 リヒトは、絞り出すようにこう零した。真っ先に、伝えなくてはと名前が思い浮かんだのが、君だった。疑いを、不安を、恐怖と後悔を抱えたままで、リヒトはストームを信じたかった。

 初めは消え入りそうな声から始まった。
 “それ“はストームの愛してやまないリヒトの激情。もしくはそれに近しい荒々しい感情を真っ向にぶつけてくる。
 疑う余地のない、真っ直ぐでそれでいて歪なリヒトからの信用にちぐはぐな瞳を閉じた。

 やはり、リヒトは眩しい……。自身では気付いていないのが惜しいほど

「着いてきていたんですね。貴方様も夜遊び仲間ですか。そうですか……」

 ロープを知っているのも、昇降機の扉の重さを知っているのも昨晩規則を破り学園に赴いたドールのみしか知らない事だろう。
 リヒトは嘘を付けるほど器用では無い事を、よく知っている。リヒトはとてつもないお人好しなのを、よく知っている。
 リヒトは見捨てる事が出来ないことを、よく知っている。
 ちぐはぐな双眸をゆっくりと開け、自身とは真逆を必死に生きているリヒトを瞳の水晶に映した。

「リヒト、お披露目に行きたいと願ってますか?」

《Licht》
「……それは」

 お披露目に行きたいか、と問われた。リヒトは怯えたようにはっと目を見開いて、やがてその虹彩はゆるりと揺れる。お披露目………あの暗い塔では無い、真っ当なお披露目のことを指しているんだろうか。

「それは、お前。みんな、行きたいに…決まってるだろ。誰かに、ヒトに、認められて、愛されて、支えて、友になって……その為に、みんな、みんな」

 その為に。

 ミシェラだって、ずっと、その為に────!

 コアをギュッと握られたような気がして、リヒトはぐっと俯いた。
 昨日の夜、一睡も出来なかった闇の中。恐怖と不安と後悔でめちゃくちゃに掻きむしった、腕が少し、痛む。

「……何を、見てきたんだ?」

 ちょうど、闇の中で過ぎった藍色の髪を追いかけて、箱を押し開けた時と同じだ。

 胸騒ぎが、する。

 ドールらはお披露目を目標に日々勉学に取り組んでいる。
 そう、あの殺戮の舞台を目標に。
 愛される為、支える為、良き友になる為。
 そして……ヒトの為。
 何度聴いてきた言葉だろう。メモリーに強くすり込まれて離れそうもない自分たちドールの存在意義。
 その強すぎる輝きを放った存在意義の光を断ち切らせる。

「リヒト、貴方様が憧れを抱き焦がれているお披露目なんて存在しないんですよ」

 リヒトの不安を他所にストームは事務的に、淡々と事実を伝えた。俯くリヒトをただ真っ直ぐ見つめて。
 スクラップに興味は無いからこその非情な言い方だった。

「詳細は伝える事はまだ出来兼ねます、ご容赦ください」

 まだはっりきとは分かっていない情報だらけ、おまけにリヒトは隠し事や演技が得意では無いので今全てを伝えて恐怖の奥底へ閉じ込めるより、得策だと考えた。
 だってそうだろう。今だって彼は何か恐怖を抱え込んでいる。その上に惨劇を知ってしまえばリヒトはまともに笑う事はおろか、喋ることは出来るのだろうか。
 少なくともストームのよく知るリヒトは、そんな器用なドールだとは考えられない。

「貴方様の言い草から察するに、お披露目は見ていないのでしょう? それにジブンやディアの行動を咎めるだけなら、こんな場所には呼ばないはずだ。
 なにかもっとほかに、話すことがあるのでしょう?」

 いつもとは違う息遣いやら、瞳孔の動きやら、五感が特に優れているからこそ気付く些細な変化をストームは見逃すはずがない。
 ストームは自身を壊れてしまうんではないかと言うまでに抱きしめているリヒトの腕に触れる。

 ─落ち着いて教えてくれ。
 そう瞳で訴えかけて。

《Licht》
「は────?」

 ストームから告げられた、端的で衝撃的な事実に、リヒトはひどく動揺した。まるで、頼りにしていた足場が一気に崩れ去ったみたいに。

「……やだ、ね」

 ご容赦ください、なんて言葉に、しばらく躊躇ったあと言い放つ。そんな言葉で納得できるものか、そんな言葉で沈黙できるものか。リヒトはふっと寮の方を見た後に、自分の体で今から見せるものが隠れるように移動した。

「なあ、ストーム。
 “ミシェラの居ないお披露目”で、お前が、何を、見たかは、分かんない……けどさ。

 ……オレは、あの夜。
 ミシェラに、会いに、行ったんだ。あの子が、寮のホールに、リボンを落としてた……から」

 『届けて、やろうと、思って』と、後悔の色濃く滲んだ、潜められた声が響く。自分の腕に添えられた、ストームの手をそっと離して、リヒトは自分のノートを開いた。

 ストームに向けて突き出された、ノートの見開きのページ。夜闇の中で、狭い箱の中で、震えた文字で月光を頼りに書き殴られたそれは、紛れもない、彼の罪と罰だった。

《Licht》
「お披露目が……“ホントのお披露目”が。オミクロンのミンナが助かるための、たった一つの方法だと思ったんだ……思って、たんだよ」

 存在しないってどういうことだよ、言えないって、どういうことだ、と、続けて問い詰める。リヒトにとって、お披露目は文字通りの死活問題だった。本当に、唯一の道だと思っていたのだ。あの、開かずの塔の業火から逃れるための。

 ミシェラを助けられなかった、その後悔を拭うための、唯一の、道。

 間の抜けた声、そして拒否。
 やんわり伝えたとしてもやはりリヒトは動揺した。
 当たり前だ。普段、冠を付けていた時の何ら変わらない気丈で麗しい姿で振る舞っているアティスやソフィアでさえ惨劇を目撃すると酷く脅えていたのだ。
 リヒトは優しい。そして感情豊かで感傷的、無理もない。

 そう判断したストームは続くリヒトの言葉に言葉を失う事だろう。

「ミシェラの居ないお披露目」
「リボンを落としていた」
「届けてやろうと思った」

 リヒトはぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。怯えや怒りを含んだ声色で紡がれる言葉の羅列はストームたちの抱いた微かな希望でさえ嘲笑うようにかき消すような雰囲気を漂わせる。
 リヒトが突き出してきたノートに目を落とせば、彼の感情をそのままに写し出した字体で書かれてる言葉の数々。
 飛び込んでくる言葉から導き出された現実。

『ミーチェは死んだ』
『壊された』
『先生に』

 ストームは思わずノートを奪い取り恐怖に染まった字体を血眼で読み、指で字をなぞった。
 違う。違う違う違う違う違う違う。
 話が違う!!!
 ソフィアは言った。あの場にミーチェは居なかった、と。
 アティスは信じた。きっとどこかで生き長らえてる、と。
 きっとミーチェは今も恐怖で自身らの名前を呼び、助けを求めているに違いない。
 唯一の希望が、蜘蛛の糸が燃やされるなんて事あってはならない。

 奈落の底を見てきた相棒の両肩を掴み、沸き上がる感情のままに力を込める。
 怒りのままに。

「どういう……つもり、です? うそ、嘘ですよね。
 ミーチェはあの舞台上には居なかった……確かにそう、言われたんだ。
 無事……だよね」

 瞳孔の開ききった瞳でリヒトを射貫く。ストームの表情は怒りで埋め尽くされてるだろう。向き出された憎悪は相棒に向いたものではないのは確かで。
 いつもの紳士的な口調は何処へやら、取り乱し陶器のような頬に涙まで伝らせる。

 今更壊されたドールは戻らないというのに。

 ストームが、取り乱している。
 あの、ストームが。

 がっ、と自分よりも上背のある相手に肩を掴まれて、思わず身が竦む。動揺と、怒りと、不安に揺れたような彼のちぐはぐの虹彩が、リヒトを捉えている。ひ、と一瞬、息を飲んだリヒトは、しかし、逃げることは許されない。

「オレが、嘘つけるほど頭良いワケ、無いだろ」

 焼かれるような激痛を抱えて、リヒトは伝えた。確かに、伝えた。いま逃げ出せばその背後に、あの業火が迫っている。
 今は、誰の手だって欲しいのだ。

「オレは逃げた。センセーが怖かったから逃げた。この絵のバケモノが怖かったから逃げた。あの炎が怖かったから逃げた。あの子がこっちに手を伸ばしていた、それも全部見えてた。知ってた。分かってた。オレは、逃げた。

 ……オレのせいだよ、ゼンブ」

 咎めるのはオレにしてくれ。詰るならオレにしてくれ。そして永劫、恨んでいいから、どうか立ち直ってくれ。

 あの夜、確かにリヒトは痛感したのだ。自分を含めたオミクロンクラスの命運が、不確かに軋んで揺れているあの鉄籠のように、不安定に保たれていることを。まるで実験ラットのように、あっという間に燃え上がってしまう果敢ないモノであることを。

「……お前が何を見てきたのかとか、今は、聞かないでおくよ」

 動揺している様子のストームを見上げて、リヒトはそっと笑った。継ぎ接ぎで毀れた微笑みは、まるでコワれかけた人形のように歪んでいた。それでも、親友の動揺と不安を落ち着かせようと作ったものなのは、確かだ。

「でも、知っちまったもんは戻れないんだ────なあ、手を貸してくれ、相棒(ストーム)。あの地獄みたいな真っ暗な塔から、あの炎から、あのバケモノから、ミンナを助けるために」

 リヒトからの励まし、微笑みは果たしてストームに届いているのだろうか。 確かに届いている。届いた上でストームは戻らない“ガラクタ“をあっさりと切り捨てる。激情に歪んだ顔もすぅ……と、消えていく。
 壊されたものに興味は無いから。
 次に瞬きをした瞬間には、天使の声を持つ特別を愛したドールはストームの記憶から塵のように消えていった。

「……賢明な判断です。ジブンも貴方様の力が、相棒(リヒト)が必要だ」

 ミシミシと壊れてしまう程に掴んでいた彼の肩から手を離し、乾ききった涙を拭う。そして、口端を微かに上げ自身も相棒へと微笑みを向ける。

 と、同時に彼の額へ軽くデコピンを食らわせた。
 まとまったかのように思われた話し合いだが、ストームには気に入らない事がいくつかあったようだ。

「阿呆ですねリヒト。恨まれるべきは貴方様じゃない。自身を呪うのなら、いつも通りご自身を傷付けるなりなんなりしてください。ジブンに望むのは約束だけで結構です」

 ストームは目を細め、つらつらと説教をし始めた。
 リヒトの持つ感情は好きだ。ドロドロとしていて魅力的。
 だが、それゆえに彼は彼自身に負の感情を受け止めようとする。ストームはそれが気に食わないらしい。

「少なくともリヒトとフィリーは賢い判断をしてくださったとジブンは思います。今も、真っ先に伝えてきて下さったこと心から感謝しているんですよ?
 どうか悲観なさらず。これからは、少しでも引けば先生に勘づかれ、全てが水の泡になりますから」

 お世辞でもなんでもない。
 コアの底からの言葉。一時は千切れてしまいそうだった信頼は自身達の思うよりずっとずっと固く強く結ばれているようだ。

《Licht》
(────お前、コワいな)

 乾ききった涙を拭った、その虹彩の奥が妙に片付いていたような気がして、リヒトはめちゃくちゃな笑顔のまま固まった。

 そうだ、相棒はこういう奴だ。それを知った上で、その歪みや、掛け違いや、狂いを知った上で、痛感した上で、リヒトは彼と約束をした。もう後戻りの出来ない、踏み外した階段。恐怖と、信頼の綯い交ぜになった、蜘蛛の糸のような感情の螺旋は────

「ぃでっ」

 テーセラモデルの容赦ないデコピンに、ぱっと霧散した。

「んな事言われたって………分かってるよ。約束、な」

 むすっとデコピンの跡を撫でながら、リヒトは黙ってストームの説教を神妙に聞く。
 ……誰かに話せて、落ち着けたのだろうか。誰かに伝えられて、安堵したのだろうか。リヒトは粉々に割れてコワれたココロをもう一度、見つめて拾い上げて、覚悟することが出来た。ストームの言葉に無言で頷きながら、自分のやるべき事を静かに痛感していく。

 それは、明かりひとつ無い暗夜に見つけた、星の輝きのように。

「……そう、お前を呼んだのは、昨日のことだけじゃなくて、伝えたいとか言いたいこととか色々あったんだ。
 まず、“るーとぜろ“って単語が、医務室の箱の蓋の、裏にあった。ミュゲも聞いたことあるらしいけど、何のコトか分かんないって。……オレもわかんない。
 それから……センセーの部屋の本棚に、隠し部屋っぽい扉があった。テーセラだったら動かせると思う。……多分、どっかで聞いた……『物置』に繋がってるんじゃねえかな。カギは……ここ、こんな感じの。お前、箱のカギ開けられるんだから、これも行けるんじゃないか?」

 ひったくられた自分のノートをこちらも覗き込むように引っ張り、数ページ捲って例のページを示す。センセーの部屋の隠し扉を見た時に写した、シリンダーの鍵の絵だ。

 そして、最後に。

 これは些細な、本当に些細ななんでもない疑問。でもあの夜から引っかかっていた、何かの足掛かり。

「あと………なんで昨日の夜、オレの箱も開けたんだ?」

 るーとぜろ、その単語には見覚えがある。
 そう我らの天使エルのベッドの蓋に恐怖すら覚えるまでの単純な単語。‪√‬0……。
 加えて興味深い内容を聞くことが出来た。
 『物置』なんて噂の産物とばかり思っていたが、こうも手がかりが出てくるとそんな事もなさそうだと感じさせられる。

 そして最後の問い。
 ストームは空を仰ぎ見て、再びリヒトに視線を戻す。

「大事な方々を護る為です。
 申し訳ない。貴方様を容疑者とし少しでもジブン達への疑いを分散させようかと思いまして……。
 まぁ結果的には共犯者ですが」

 リヒトをじっと見てはそう返した。
 先生の疑いの目は極力分散させなければならない。非常に身勝手ではあるが、些細な事を気にしている時間も無いので手段は選べないのだ。
 それに、きっとリヒトは許してくれる。
 ストームにはそんな絶対的な確信があったから。

「‪√‬0、でしたっけ。
 実は……エルのベッドの蓋にもびっしりその単語があったのですよ。エルに聞いてみたいものですが………彼がその存在をしっかり認知しているとは言えません。
 先生の部屋の本棚についてはジブンが可能でしたら調べてみます。
 それともどうします? リヒトも共に来ますか?
 ジブンはソフィアでは無いので鍵を開けられるかどうか分かりませんが」

 数日前に目撃してしまったなぞの記号、‪√‬0は至る所にあるらしい。『物置』にその手がかりがあればいいのだが、ストームのピッキングは全知全能では無いのだ。
 もしやるとしたらソフィアか、形状をしっかり理解出来てその上手先が器用なドールが必要だろう。

《Licht》
「い、いや、まあ、オレならいいけど……フェリまで巻き込むのはどうかと思うぞ、ホントに。アイツ真っ直ぐなヤツだから……」

 箱が開いていなかったら、彼らは外に出なかった。昇降機にロープが下がっていなかったら、彼らは学園に向かわなかった。あの時、ミシェラの行方を追いさえしなければ、直面することは無かった。

 ありもしない妄想が過ぎって、たらればが甘くリヒトを誘う。きっと『お前がそんなことをしなければ』なんて詰ることが出来たら、幾分か、この罪悪感を軽くすることが出来るだろうが────

「……いいや、これに文句言うのは今更だな。もう共犯者なんだ」

 もう、後戻りは出来ない。

 現実から逃避したその瞬間、あの業火がきっと追いついて、全てを呑み込んでしまう。

「センセーにバレたくないから、辞めとく。数は多くない方がいいだろ。
 ……他の子にも、塔のこととか、何があったかは知らねえけど、お披露目になんかあったこととか、話しといた方がいいよな。……あの、ここはえっと……ミシェラが連れていかれた、部屋に落ちてた紙の、写しなんだけどよ。この、『てきごうしゃ』ってやつ、何かわかるか?」

 なんとか、もう誰も失わない道を。自分のノートをひょいと回収して、エルについての話を書き込み、話しながらストームに見せる。コワれた頭を不器用に回しながら、リヒトは必死に考えた。

「ミシェラが……選ばれた理由って、これに名前がなかったからじゃないかな、って。もしこれが何か分かれば、お披露目はともかく、センセーに連れて行かれることは……」

「……くれぐれも、伝え方には気を付けてください。
 変に怖がらせるだけでは日常生活が挙動不審なものになり、先生に勘づかれます。
 それから………。

 ミーチェの件、ソフィアにはなるべく最後に、せめてジブンかアティスがいる時に話して頂けると幸いです。
 ソフィアは特にミーチェに希望を掛けていましたから」

 ストームは深々と頼み込むように頭を下げる。
 ソフィアは強い、そんな事は分かってるがあの時微かな希望を見出すことで立ち直れたようにも見えた。
 今となってはその希望の光も断絶され、一寸先は闇状態。その中ですら我らのブレインには道筋を見出してもらわねば困るのだが、今の彼女に伝えるにはあまりにも残酷過ぎるのは頭のネジを外したストームにすら分かった。

「今はとにかく情報を集める事に専念致しましょう。
 オミクロンクラスについて、『てきごうしゃ』について、運が良ければ何か得られるかもしれませんから」

 憶測だけで動いてはならない、今回のを持って改めて痛感した。あの場にミシェラが居なかったという情報だけで、ミシェラは生きていると勝手に決めつけてしまったツケが回ってきたのだ。

「情報共有は任せました。新たな事が分かり次第またこの場所に。その時までどうかご無事で居てくださいね」

 手を胸に添え、丁寧な所作で相棒へとお辞儀をすると彼に背中を向け歩み出す。
 やることが明確に決まったが、何から手を出すべきだろうか。ひとまず、あの会場もある学園へ戻ろうか。

【学園1F テーセラドール控え室】

 踏み入った控え室は、まるで輝かしい宝石箱に迷い込んだように絢爛豪奢な空間だった。
 大きなウォークインクローゼットが部屋の奥に存在し、色とりどりのドレスやタキシードなどの正装がハンガーに掛けられて並んでいる。化粧台が三つほど並んでおり、あなた方はこの場所でお披露目の支度を入念に整えるのだ。
 控え室の左手側には、トゥリアドールの控え室に続く扉がある。ダンスホールに入れるのはあちらからである。

 昨晩通過した控え室はどの部屋だっただろうか。まるで覚えていない。とにかく逃げる事に必死で。
 自身は見ていないが、3人、特にソフィアから感じ取った恐怖の感情は凄まじいものだった。

 煌びやかな服が所狭しと並ぶ中、クローゼットの片隅には見るも無惨なドレスだったものが。
 それを見つけてしまった瞬間、ストームのコアは大きく脈打った。
 昨晩スクラップになった子のやつ、か?
 興味本位で近寄るとそばにはネームプレートが落ちている。
 昨晩掲示板に載っていた元クラスメイトはヴァージニア、彼女のでなければいいのだが。
 ストームはゆっくりネームプレートに近付き、記された名前を確認した。

 テーセラドール専用の控え室は人っ子一人居ない。エーナやトゥリアは授業の一環でこの部屋を使うこともあるようだが、テーセラは授業内容から見てもドレッサーや正装などとはあまり縁が無いのである。

 あなたが部屋を見渡していると、ウォークインクローゼットの奥に隠されるように、グチャグチャに引き裂かれたドレスが落ちていた。
 そしてそのそばには、ドレスには必ずあてがわれる持ち主の名前が刻まれたネームプレートが落ちている。

 あなたはそれを拾い上げ、名を確認するならば。

 そこには『Dorothy』という名が刻まれていた。

 あなたはドロシーを知っている。以前、テーセラクラスに在籍していた時に同級生だった、少女型のテーセラモデルである。一時はプリマたるあなたに並ぶほど優秀で、物覚えもいいドールであったが、ある時を境に豹変し、狂人のような振る舞いをし始めたのを覚えている。

 このドレスの惨状も、彼女の手によるものなのだろうか。

 ドロシー。
 この名前には親しみがある。
 以前、テーセラクラスで共に勉学を共にしていた旧友。
 最近では優秀で勤勉な彼女の姿は無く、突飛押しもない事を言っては高笑いする不気味なドールへと変貌していた。

 察するに既にお披露目に出たドールズのドレスは無く、これからお披露目に出されるドールズのドレスが並べられているようだ。
 そして、お披露目に出る為に欠かせないドレスの無惨な有様。
 ドロシーは他のドールとは雰囲気は確かに違う。異型なものだ。しかし、彼女にこんな大胆な嫌がらせが出来るドールなんて存在するだろうか。いや、居ない。
 間違えて? そうだとしたら杜撰過ぎやしないか?

 ストームは思考を巡らせる。
 ドロシーはどんなドールだったか。ドロシーの考え付きそうな事は何か。
 ──まさか、自分で?
 ストームはそこまで考えた時にふと我に返る。
 決め付けや憶測で行動するのは良くない。先程、リヒトにも同じような事を言ってきたじゃないか、と思い出し猛省した。

 今判断出来るのは、ドロシーのドレスは使い物にならないという事。それからドロシーはお披露目が決まった可能性が高い、という事だけ。
 少し興味が湧いた。お披露目当日までに新たなドレスが作られなかったら、ドロシーはあの舞台に立たされることは無いのだろうかと。
 だとすれば当日までドレスの存在が見つからなければいい。幸運な事に普段テーセラモデルはこの場所を滅多に訪れない。目に触れるところに置かなければそうそうバレることは無いだろう。

 彼女に実験台になって頂こう。

 あなたは元の美しい姿が見る影もないほどの襤褸切と化したドレスを持ち上げる。そしてそれを、広いウォークインクローゼットの最奥、小物入れとなる目立たない棚の合間に押し込んで、なるべく誰にも見つからないよう隠しておくことが出来る。

 絶対に見つからないとは言えないが、少なくともすぐに気づかれるようなことはないだろう。

 棚の間に押し込めばすぐには分からなそうだ。
 ストームはクローゼットの小物入れとなっている隙間を確認すればドレスを丁寧に畳み、押し込む。
 さらに細かく破くことも考えたが音を聞かれてしまっては、自分に向く疑いが大きくなるだろうと思い断念した。

 立ち上がり控え室を見回す。
 自分もお披露目が決まった時、この場所で煌びやかに着飾られ壊されに行くのだろう。
 ここを通り抜けて……。

 あなたはダンスホールへ向かうため、テーセラドール専用の控え室から、隣室となるトゥリアドール専用の控え室へ移動した。

 こちらにも、先刻と同様煌びやかな衣装がウォークインクローゼットに並んでいる。とりわけトゥリアはドールの中でも華やかな者達が多いため、テーセラドールの衣装よりも一層装飾が豪華な様にも思えた。

 ダンスホールへ通じる扉の前には、劇場にあるような赤いロープパーティションが引かれているのが分かる。お披露目から前後数日は、こうしてドールズのダンスホールの立ち入りは禁止されているのだった。
 鉄扉に歩み寄り、扉に手を掛けるが、どうも扉は開かない。

 このダンスホールに続く鉄扉を施錠出来るのはこちら側であり、こちら側の鍵は閉まっていないが、向こう側から何らかの手段で封鎖されている事が分かった。


 また、この扉の前に立った瞬間、あなたは妙な音を聞く。

 水が流れるような音。何かを引きずるような音──ダンスホールから聞こえるには、いささか不自然な物音が。

 あなたはこれを聴いて、これが“一体何の音”か、容易に察せてしまっただろう。概ね、あなたが考えているような音で間違いないのだから。

 ドアの奥には案の定進むことは出来ない。
 だが、扉の前に立つといっきに血の気が引いていくような音を耳にする。
 今となっては、なぜダンスホールに繋がるこの扉が鉄製なのかも容易に予測できる。全く考えたくなかったが。

 ストームはドアノブから手を離し、扉を見つめる。
 この奥には同胞だったドール達を喰い殺したバケモノが、きっとまだ居るのだろう。
 邪魔だ……ディアの夢に。ジブンの夢に。
 扉の奥のバケモノへ向けた憎しみの目を伏せ、控え室を出てゆく。

 少し頭を整理しよう。
 どこか落ち着けるような静かな所で。

【学園3F 文化資料室】

 この部屋は、人間の歴史を出来る限り保管し、ドールズがヒトと接する指標と出来るようにと用意された一室だ。文化資料室と名を冠する通り、人間のさまざまな歴史や文化が資料、あるいはレプリカなどの形で保管されている。

 部屋の中央には年季の入った黄金色の地球儀が置かれており、各地にどのような国があるか、どのような人種のヒトがいるのか実際に学べるようになっている。
 地球儀を中心に据え、その周囲にはヒトが住まう街を模したジオラマや展示されていたり、模型の汽車が煙を上げてガラスケースの中で動き回っていたり、天井からモビールのように吊された飛行機や気球がクルクル円を描いていたり……とにかく豊富な展示品があり、眺めていて飽きない内装となっている。

 また部屋の奥には無数のファイルが収められた棚があり、こちらには数多の史料が保管されているようだった。

 ここはなかなかに夢がある。
 人の住まう世界を俯瞰して見ては、お披露目で良縁に巡り会えたあとの生活に思いを寄せるためである。
 だが生憎、ストームにヒトと住まうどころかお披露目で違う世界に行く思考を持ち合わせていなかった。
 ヒトには興味が無い。それに加え、昨晩の現実。
 煌びやかなステージの影の闇はあまりにも濃く、底無しだった。正当に出て行ったらこんな世界見ることは叶わないだろう。

 小さな世界を素通りすると、ストームは真っ先に部屋の奥へ足を進める。活字に触れたくなったのだ。
 だが、地を滑るように進んでいた足がピタリと止まる。
 最初に感じたのは違和感だった。いつも見ている風景と違う。ただそんな小さな違和感。
 その違和感の正体は直ぐに分かった。

 モビールの風船が外れているじゃないか。
 ストームはすぐに地面に目をやり外れてしまった風船の形の装飾品を探す。

 天井から吊るされたモビール。玩具の飛行機や気球、雲の飾りがくるくると旋回している。子供騙しの玩具と思えるかもしれないが、これでヒトの輸送技術の素晴らしさを説明する講義に役立っていたのを覚えている。

 ──その中にひとつだけ、風船の形の装飾が糸から外れている事に気がついた。

 装飾品は、傍の床にぽつんと転がっているのをすぐに発見出来る。
 モビールの途切れた糸の先端に装着し直せば、赤い風船の装飾が小さく揺れた。

 その時、あなたの側頭部が微かに痛みを訴える。僅かな頭痛は徐々に反響して痛みを増して、そこからあなたは奇妙な夢を見た。
 思い出していると言った方が正しいかもしれない。あなたは、■■■■■■、■■■■■■■■──

「あぁ……やはり、貴方様は唯一無二の存在なのですね」

 脳を支配してゆく痛みの中、ストームはその痛みすら快感と感じるような幸せな夢を見た。
 “お母様“と言われる人物に手を引かれる夢。目的地は…何処だったか。いや、何処だっていい。とにかく愛してやまないお母様と一瞬でも共に居られただけでいい。
 その夢の中、彼が「唯一無二」と称したものは、お母様では無かった。後に流れた記憶の一場面。

 綺麗な装いで、その美しさに拍車をかけていて、ストームと同じくお母様に手を引かれていた愛しい存在。
その存在はなんとも幸せそうで、希望に満ち溢れている。
 そう“彼女“は……。

「ソフィア」

 今までに夢の中で同胞に会うことなんて一切無かった。痛みの快楽の中、思わず声を掛ける。が、その場にソフィアが居るはずもなく声は消えていくだけだろう。
 ゆらゆらと揺れ動くモービルの風船はまるで催眠術器のようで、浮遊感すら覚える幸せな記憶にしばらく酔っていた。

 夢見心地な身体が直るまで床にへたりこんで座っており、ジオラマ汽車の甲高い汽笛で夢から目覚める。
 長い時間惚けてしまったが、つかの間の記憶はストームの精神を安定させるには十分過ぎた。
 ゆっくりと立ち上がると本来の目的である資料棚へと向かった。

 人間が辿った様々な歴史が懇切丁寧に記録され、ファイリングされている。その資料の数は何とも膨大で、いかに勉強熱心なドールといえども全てに目を通し内容を覚え切ることは難しいと言える量だった。
 人類、ホモ・サピエンスの進化の軌跡、文明や宗教の芽生え、戦争と奪い合いの歴史、目覚ましい発展の道筋──そして、多様な文化についても。
 あなた方は、中世の時代において流行した美しい鑑賞ドールを元に設計されている。故に誰もがはっと息を呑むほどに美しく、輝かしく見えるのだ。

 また、こちらに残された最新の記録は、『西暦2240年』、『新種の青い花が発見された』……──という記述で最後である。

 細い指先でファイルを撫でる。
 どこまで読んだだろうか。テーセラモデルでありながら知識欲は並以上にあるストームは、記憶と興味を頼りにファイルを1部抜き取った。
 それは最新のものだったらしく最後の資料には『青い花』についての記載で終わっている。

 そう、青い花。
 なぜ植物を最後に終わっているのだろう。
 それまではヒトの戦や革命や文化の発達が書かれていたというのに。不自然……。
 ヒトはその前までデュオモデルが読み切れないほどの膨大かつ複雑な歴史を事細かに記してきたというのに。
 青い花は確か外に咲いているはずだ。それが言われている新種のものかどうかは思い出せないがそれの何が歴史の上で訳を成すのかが全くもって分からないのだ。

 ……ソフィアなら分かるのだろうか。
 先程夢に出てきた、天才ドールの事を考える。彼女なら何かしらの見解を見出してくれるかもしれない。
 多少気になる文面も記憶して彼女を探しに行こう。
 ストームは手に持ったファイルをペラペラとめくり始めた。

 2240年の記述は、『新種の青い花が発見された』という簡素な一文のみで終わっている。というのもこちら、2240年の年の始めに起こっていた事らしく、以降の経歴の更新は存在しない。
 それより前年には、環境問題の悪化やそれに適応する設備の開発を適宜行なっているというような記述が散見された。ファイルからわかることはこれくらいだろうか。

 深刻な環境問題下で咲いた新種の花。
 以降の記載無し。
 これによって予測されたのは青い花はヒトに何らかの影響を与えたかもしれないという仮説。
 ストームはファイルを元に戻し、つい偏った考えによってしまいそうになるのを止めた。ストーム自身妙な思考回路を持っているので、偏りがちになってしまう。
 その都度ソフィアに、アンタはなんでそう極端なのよ。と何度言われた事か。
 学園を出る為に偏りきった思考は良くない。かと言って、順当な思考も良くないのは分かっている。

 だが、いい気分転換が出来た。
 ストームは擬似記憶の事や破かれていたドレスの事を我がブレインに、ソフィアに伝えなければ。と、彼女を探し始めるだろう。
 最近見つけたおあつらえ向きな場所に彼女は居るだろうか。

【学生寮3F 図書室】

Dear
Ael
Storm

 ソフィアを探して学生寮まで戻ってきた。
 まさに興味と思いつきのまま足を運んでいる感じだ。
 ストームは長い足を弾ませながら図書室へ入るだろう。
 夢の事を話したらソフィアはきっと呆れる。所詮造られた記憶でしょ?と少し怒られるかもしれない。
 が、夢にまでソフィアを見られたのが相当嬉しかったのだろう。そして同時に早く夢の中でディアに出逢いたい。
 そうも思うはずだ。
 お母様にそっくりなディアとお母様を同じ空間で見られるかもしれない。これ以上ない幸福だ。
 考えるだけで……あぁ……ディアディアディア!!!

 ストームの頭の中はディアという博愛を具現化にしたようなドールが埋め尽くす。
 ディアに逢いたい。いつの間にかソフィアに夢の事を話すことを忘れディアを探してしまうのはストームにとって仕方の無いことだろう。
 念願叶ってか偶然か、彼の抱く世界への愛を物語るにはぴったりな薄い桃色の髪にターコイズに宿した底なしの希望を持つドールが。何にも替え難い彼の姿が。

「ディア! こんな所にいたのですね。今朝はすみません、リヒトに呼ばれていたものでディアの身支度のお手伝いが叶わず……ですが今日のディアの御髪も流星群が降り注いだように輝いていて素敵です」

 ディアの姿を見るなりストームは声色高々に謡い彼に近付く。もちろん、毎日ディアに頼まれ身支度を手伝っているのでは無い。ストームは毎日彼に身支度の手伝いをさせて貰えること要求し、彼から許可を得た時のみ“手伝わせて貰っている“だけだ。
 だが今朝は、何やら物々しい雰囲気を纏った相棒に呼ばれ危機を感じたのでディアに身支度の手伝いがいるかどうかすら聞かずに出てしまったのだ。

 だからこそのストームの常軌を逸した喜びようである。
 彼の忠犬は表情さえ動かねど彼に懐いていることがよく分かるだろう。 

《Dear》
「あ……ストーム! 来ていたのだね、ああ、愛しいキミの光に気付けないだなんて、自分が不甲斐ないよ! 身支度なら大丈夫だよ、私はむしろ尽くしたい方なんだ。もちろん、キミに尽くしてもらうのもとっても甘美で素敵だけれど……機会があれば、私にもキミの美しい宵闇の髪を飾らせてほしいな」

 ぱちん、と弾かれたように顔を上げると、それはそれは嬉しそうに白い頬に朱を差してにっこりと笑う。ディアは、自分の愛情に見返りを求めない。それは言葉の通じない花や空気にまで等しく愛を注ぐ様からも読み取れるだろうが、自分の愛情に愛を返してもらえるのだってディアにとっては等しく愛の対象だ。自らを慕ってくれる愛しい恋人の髪を撫で、そのまま流れるように口付ける。結局、尽くされれば尽くされるほど尽くしたいと感情が向くのは流石トゥリアドールと言うべきか。あからさまなストームの態度とは正反対の、先程先生やアメリアにも向けていたのと全く同じ、愛おしそうな笑みを浮かべて。ディアの沈み込んでいた感覚はやっと、全方位に行き渡り始めた。

《Ael》
 よいしょ、よいしょと頑張ってロフトへ登る。足りない身長を補うために椅子を用いて、ロフトから図書室を見渡す。ほんの少し鬱屈に見える図書室を、ワクワクしながら見渡す。太陽の光によって照らされ、明るくなっている場所に本があり、気になって手に取る。『ノースエンド』というシンプルな本だ。古く、昔の本なのだろうと思いページをめくろうとした。その時だ。二人分の声が別方向から聞こえてくる。あれは、もしかして! そう思って『ノースエンド』を抱え、気をつけながらロフトを降りる。椅子をよいしょと元の場所に戻して、ノートと筆記具もしっかり持ち、声の元へとてとてと歩いた。

「えっと、す、すと、スト! と、えっと……ディア、ディアなのです! 偶然なのです、会えて嬉しいのです!」

 二人の姿を目で捉え、顔を交互に見る。えっと、確か、確か、と名前を必死に思い出す。エルの脳が、知っていると答えを出す。ディアとストーム、二人の名前を思い出してはきゃっきゃと嬉しそうに飛び跳ねる。水色の鮮やかな髪の毛が、ふんわりふんわりと揺れる。目に浮かぶ天使の羽も、羽ばたいて見えた。会えて嬉しいと愛を確かめるような2人を前にはしゃいだ。

「─────ッ!!!!!」

 ディアの愛情表現に息を呑む。コアがピタリとその脈動を止めてしまったようだ。それとも全身を回る液体が一瞬にして固体になってしまったよう。
 ストームの脳は考えることを放棄して今享受されている幸福過ぎる事実を受け止めるだけに全性能を注いでいた。

 上手く息が吸えない。呼吸という動作が出来ない。
 脳がクラクラして体温が上がっていく。
 止まっていたかと思っていた脈動が今度はうるさいほどバクバクと大きな拍動を響かせている。

「ぁ、…………はぁ、貴方様はなんて、なんて──」

 罪なお方。
 心酔してクラクラとする頭は必死に意識を繋ぎとめようとする。ディアの行動はストームをおかしくする。
 目を当てるには眩しすぎる光を目の前にストームは矛盾した感情しか湧いてこない。
 羨ましい、愛してる、妬ましい、大好き、鬱陶しい、欲しい。
 自問自答するように感情がぐるぐる回りようやく吐き出せた言葉は日常的なものだろう。

コア(こころ)からお慕い申しております。愛しきディア」

 猫のように細い瞳孔がストームの特徴であるが、この時ばかりはちぐはぐな瞳を覆い隠すほど開ききった瞳孔が真っ直ぐにディアを見詰めている。
 片膝を着いてお辞儀をし純粋な愛を今日も彼に伝える。

 その時に微かな音がし、反射的に背中の後ろへやるように立ち上がる。警戒しながら音の出る方を見ていれば、危なっかしい足運びでロフトから舞い降りる天使の姿が。
 エルだった。
 強ばった表情が一気に柔らかくなる。ストームはエルに近付き落ちぬように手を添えて降りるのを手助けしてやった。床に着地するなり必死に思い出す仕草をする彼の姿を愛おしそうに見詰め、彼の背の高さに合わせるようにしゃがんだ。小さな飛び跳ねをし喜びを表現するエルの頭を壊れ物に触るように撫でる。

「えぇ、ストですよ。素晴らしいですエル。ちゃぁんと覚えていられましたね。
 ジブンも貴方様に出逢えた幸福が身体中に満ちております」

 エルの姿を見るなりストームの頭の中は正しく切り替わり、脳内でブレインストーミングを開始される。
 エル……記憶障害を持つドール、天使の羽根を宿した瞳、ボーイズモデル、最近は簡単な事は記憶できる、棺の蓋、√0……と。そういえばエルは√0に関係していたと、ストームは思い出した。
 だが、エルに√0のことを聞いたとしてもしっかりとした答えが得られるはずもない。半ば諦めの境地だが、問いただすことにしよう。

「……エル、今からジブンが聞くことですが、覚えていなければ無理に思い出すことはありません。
 貴方様の棺の蓋にたくさんの√0が記されているのを見たのですが、なんの事だか分かりますか?」

《Ael》
「えへへ、スト、ちゃんと覚えていたのです! 嬉しいのです!」

 ロフトから降りるのをストームは優しく手伝ってくれた。お陰で怪我もなく降りることができた。ありがとうなのです、と嬉しそうにエルはストームへ感謝する。覚えられていたと褒められれば、にぱにぱと笑顔を咲かせて嬉しい、と言葉にした。優しく、優しく頭を撫でられては、それが心地よくてまるで猫のようにすり、と軽く手に擦り寄った。

「るーと、ぜろ……√0、ルートゼロなのです? えぇっと……うぅん……………
 あっ!!! 知ってるのです、エル、この間見たのです! 眠る前に、√0があったのです、何なのでしょう、エルもよくわかっていないのです………でも、多分、きっと、きっとその…大事! とっても大事なことなのです。……ルートゼロは、エルたちを助けてくれる、えっと、救世主なのです。この先の、みんなの苦しみから解放してくれるのです。もう、目覚める……はずなのです、うぅん……とりあえず、ルートゼロ、√0とっても大事なのです! エル、忘れてないのです!」

 ストームに、√0が棺の蓋にたくさん記されていた、そう言われては必死に思い出す。√0、それは目に焼きついて離れなかったあの、ルートゼロ。ふと眠る前に、薄暗い中存在していた√0。その時確かに何か答えを導き出した。当時のエルができたのなら、いまのエルならできて当然だ。ドールズを解き放つ、救世主の目覚め、ルートゼロは目覚め、自分達を解放しようとしている……そんな答えを、再度導き出した。答えを忘れないうちに、早口で、でも、辿々しく、伝わるように言語化する。

「えっと……ディアに、スト、わかった、のです? エルの言いたいこと、わからないならもう一度説明……できるかわからないけど、するのです! 2人とも、√0について他に何か知ってるのです?」

 先ほどの笑顔とは反対の、必死の顔で、ストームに訴えかける。わかってほしいと、天使は目を見開いた。

《Dear》
「ふふ、かわいいねスト——エル! エル! ああ、覚えていてくれたんだね! キミの心に焼き付く存在となれたこと、とっても嬉しく……いや、今日も愛しているよ、エル!」

 跪いたストームの髪を愛おしそうに撫で、目を細めて笑っていれば。クリアになった耳に届くのは、ころころと笑みをこぼす鈴の音のような恋人の声。嬉しそうに駆け寄り、いつものようにキザったらしい愛の言葉を囁こうとして、やめた。
 どうやら、自分が誰かを愛することで誰かを怒らせたり、傷つけてしまうことがあるらしい。怒りとか悲しみとか、感じられないけど理解はできる。愛せる。でも、いざそれを自分で感じようと思うと、どうもだめだった。私には、ディア・トイボックスには、必要のない感情だったから。わからない。わからないけれど、わからないなりに、キミを心の底から愛したい。悲しんだり、傷ついてほしくない。私たちの天使が、いつまでだって輝き続けていられるように。エルが頑張って話してくれるその愛しい言葉に、安心させるように小さく頷きながら耳を傾ける
 もっと知ろう、もっと愛そう、キミのことも、私は絶対に諦めない。

「救世主……私は√0について知っていることはないけれど、エルの言葉はちゃんとわかるよ。私たちの希望、エルと一緒だ。話してくれてありがとう! えらいね、エル。ストームも、聞いてくれてありがとう! 二人ともえらい、えらい!」

「えぇ、理解出来ましたよエル。√0はジブン達の架け橋となるかもしれませんね。ナイト様かもしれませんのでエルに見習い、忘れぬように√0を蓋に記しておこうかと思いましたよ」

 ストームからの真顔で発せられるジョークは本気で遂行してしまいそうな危なげがあるだろう。“救世主“ストームの全く予期していない返答が返ってきて少々気後れしそうになった。
 てっきり√0はカイブツの名だとばかり思っていた。そしてなぜエルのベットの蓋におびただしい程の数が書かれていたのも、昔のオミクロンドールがお披露目を見に行き見てしまった惨劇とリヒトのように聞いてしまった単語の√0をバケモノの名だと認識し、リヒトと同じように蓋に記したのだ、と。

 救世主、引っかかってしまう。
 ディアは伝えてくれたエルと、何故か自身も褒めるディアに対しストームは当然のように素直に言葉を受け取り、エルをめいいっぱいに褒めるだろう。
 こんなふうに……。


「身に余るお言葉ありがとうございます。
 エル、よく覚えていてくれましたね。貴方様は確実に成長しています。恐縮ながらジブンが証明しましょう。
 自信を持ってください」

 ストームはディアにお礼を言う時は立ち上がり、いつも通りにお辞儀をするが、すぐにまたエルと視線を合わせるようにしゃがみこみ柔らかい雰囲気で語るだろう。
 本人は微笑むことが出来ていると思っているが、残念ながら全く口角は上がっていない。
 このあからさまな態度の違いは仕方ない事なのだ。
 エルはストームがオミクロンに堕ちてから彼の素性を知り手助けをするようになった弟のような存在。対するはストームが恋に焦がれたドール。憧れ、尊敬、幸福、嫉妬、憎悪、今までにほぼ全ての感情を向けてきても彼から返ってくるのは輝きを失わぬ希望。
 その希望にあてられ今日もストームはディアに恋をしているから。
 年齢設計がエルの方が上だろうと関係ないのだ。

「√0は目覚める……ふふ、目覚める日が楽しみですね。
 目覚めると言えば、エル、ディア、貴方様達は夢の中でクラスメイトに出会ったことはありますか?
 実は本当に先程の話なのですが、ジブンは白昼夢を見ましてその中でソフィアらしき人物とすれ違ったのですよ。いえ、らしきは失礼でしたね。あの麗しさと強かさを肌身に感じることが出来るのはソフィアしか居ない。あれは確実にソフィアでした」

 エルが伝えてくれた事柄から自身も情報を共有する。
 連想ゲームのように思い出した事だったが、その時の熱量をそのまま伝えるだろう。
 エルが怖がらなければいいが。

《Ael》
「よかったのです! えへへ、ディア、ありがとうなのです! ストも、ディアもとてもえらいのです! √0、ストも蓋に書くのです? エル、お手伝いするのです!」

 ディアに愛している、そう言われればいつものようにありがとうなのです! と微笑みをこぼし、偉い! と褒められては嬉しそうに顔を綻ばせる。理解できたという2人の言葉を聞き、よかったと胸を撫で下ろした。√0、まだ輪郭もはっきりしていない自分達のヒーロー。今のままでも充分幸せで、楽しいのに解放してくれるという√0は、何がしたいのだろうか。エルはその疑問をずっともっているが、解決するには√0に直接聞かないといけない。
 ナイト、つまり騎士かもしれないから自分も蓋に√0と記そうかというストームに、エルも手伝うと冗談が伝わらずに健気に笑った。

「わぁ! エル、ちゃんと成長できているのです? とっても嬉しいのです! これもみんなのおかげなのです! もっとがんばるのです!」

 エルに成長していると告げるストームに驚いた様子で嬉しいと感謝する。視線をしゃがみ込んで合わせて話す彼は、残念ながら口角は上がっていない。これがストームだ、仕方ないとエルはそれでもお構いなしにストームの分まで笑った。

「夢の中で……? えっと……夢……、エル、夢を見ても忘れちゃうのです、夢の中でソフィとすれ違ったのです? とっても羨ましいのです! エルも、いろんな人と会いたいのです!」

 夢の中でソフィアとすれ違ったと、勢いよく告げられる。夢というものを体感したことがない、いや、していたとしても覚えていないエルは、そんなストームに対していいなと羨ましがった。

《Dear》
「ふふっ、それはいい案だね! 確かに忘れないで済むだろうし、二人とお揃いの景色を見ながら眠ることができるのはとっても幸せだろう……今日の夜にでも記そうか、何を使えば記せるかな?」

 細い顎に指を当て、くすくすと笑いながら言うその様は冗談だと無闇に一蹴出来ないような言いようのない雰囲気があった。ストームと同様、ディアなら本当に今夜にでもやってしまいそうだ……。愛する人たちと同じ景色を見たい、愛する人たちのことをもっともっと知りたい、愛したい、ディアにはずっと、それだけだから。ストームの喜びが、エルの健気さが、じわじわディアの空っぽの器に注がれていくみたいに、にっこりと笑う。いっそ危ういほどに、人間的に。

「みんなと会う夢かぁ……私も見たことはないね。ああ、もし見られたのなら、夢の中でまでキミたちに愛を囁けたなら、きっとさぞ幸せなことだろう! そういえば、先程見つけたばかりの本に【ヒト】の夢の仕組みについての記載があったのだけれど、キミの愛しき問いへのお役に立てるかな?」

 未だ両腕に大事に大事に抱えていた本——【夢の研究】をストームへと差し出し、恋人たちの幸福のための花束となれば、とターコイズブルーの瞳でただ願った。140cmの恋人は、あまりに強く佇んでいる。 

 参考文献を差し出すディアにストームは目を見開く。
 しばらく石像になったように固まって、ようやく動きだした時には感極まった震え声で話し出す。

「あぁ良いのですか? ディアはまだ読み終わっていないのでしょう? 貴方様を差し置いてジブンがこの文献を読んでしまうなんてなんて烏滸がましい。
 ですが、ジブンはとても嬉しいです。一時でもディアと同じ題材について異なる場所で同じ時に考える事になるなんて……。この感動、伝わっていると嬉しいです」

 一息で言ってしまうと「もし読み終えていなければ、共に読みましょう」と誘い、差し出された本を押し返した。
 ディアと同じ本が読める。それだけで幸福を使い切ってしまったようだが、幸せを感じられるなら取っておくより積極的に掴みに行った方がいいだろう。

 ストームはひと呼吸おいて落ち着くと、エルの方へ目線を向けた。
 エルの腕にもなにか大切そうに抱えられている。

「エル、それは【ノースエンド】ですね? 良い物を見つけて来ましたね。著書は確かミズ・シャーロット。既に読まれましたか?」

《Ael》
「ディアの本、エルも読みたいのです! とっても興味深いのです……!
 これ、なのです? さっきロフトの上に登って見つけたばっかりなので、読んでいないのです、スト、ディアはもう読んだのです?」

 ディアの差し出した本に興味を持ち、キラキラとした眼をディアへ向ける。夢についての構造だなんて、気になって仕方がないのだ。夢を見ても忘れるエルにとって、夢はとても興味深い。
 ストームにエルの持っている書物、ノースエンドについて触れられれば、この書物がミズ・シャーロットによって書かれたものだと知った。まだ読んでいないため詳しくはわからないが、彼らはもう読んだのだろうか? そう思って訊いてみる。どんなお話がエルを待っているのか、ワクワクする。ディアの持っている本のことを忘れてしまっているのは、ちょっと残念だが。

《Dear》
「ならみんなで一緒に読もうか! 愛する人と愛する知識を共有できる時間……ああ、とっても愛おしいね!」

 ストームとディアにも見えるように、足早でありながら丁寧な所作で大きくページを開く。愛しくも賢い二人であれば、先程ディアが手に入れた知識を問題なく吸収してくれるだろうとただひたすらに信じ、ディアは鼻歌を歌いながらこの甘美なる一時を享受した。が、ノースエンドという言葉を耳にした瞬間。その小鳥の囀りのような美しい鼻歌は、子供のような歓声に変わる。

「ああ、そうだ! 【ノースエンド】と言えばね、さっき先生のお部屋で新しいミズ・シャーロットの著書を見つけたんだ! 【サウスウッド】というお名前なんだけれど、そちらもとっても素晴らしくて! あっ、私たちは読んだよ!」

 愛のことになると周りが見えなくなるのは、世界の恋人であるディアも同じことである。ノースエンド、ミズ・シャーロット、その単語を耳にした瞬間、弾かれるように愛しき発見を口にする。きらきらとターコイズブルーが瞬き、薄い唇からは躍るように言葉が飛び出し、とにかく素晴らしいことは十二分に伝わるだろう。喜びのあまりエルの問いに答えることを一瞬忘れていたが、そこは流石世界の恋人。エルの問いにもしっかりと答え、楽しそうに微笑みをこぼす。

「おや、今お読みになりますか? それならディアはこちらに。エル、こちらへ」

 本を広げた憧れの人を見るとストームはすぐに近くにある椅子を引き、彼をそこへ招いた。エルの事は抱えると自身の足の上へちょこんと座らせる。
 無論ディアの方が小さいが、彼に頼まれなければ基本的に彼を支えるような行動は取らない。ディアはストームの手助けなんぞなくとも強く気高く生き、大地より広い愛でストームやエルを始めとするドールズを包み込む懐を持った模範的ドール。
 ストームにはディアがそう映っているから。

 席に招きながらふと話に持ち出すノースエンドの話。ディアはたまらずに目を輝かせた。てっきりミズ・シャーロットはここの元ドールだったのか? という答えを聞けるのかと思えば新たな本が見つかったのだという事実。
 ストームは意外そうに瞬きするとすぐに思考を巡らせた。
 【サウスウッド】……北は終わりで南は木と来た。
 さて分からないがひとまず夢についての知識欲の方が勝ったストームはディアを宥めるだろう。

「ディアその話は後にしましょう。今は夢の世界のお勉強を所望します。
 エル、貴方様の最近の成長は目覚しい。ジブンから挑戦して頂きたいことをお伝えしますね。この本に書いてある単語を覚えられるだけ覚えて欲しいのです」


 エルはデュオモデル。本来ストームなんかよりメモリーが膨大であり処理能力にも長けている。だからこそ、いくら欠陥があれどエルの持てる力の全てを発揮して欲しいのだ。ディアを席に招き戻し、エルを膝の上にしてディアによって開かれている【夢の研究】に目を通してゆく。

【夢の研究】
 人が睡眠状態にある際、しばしば安定した脳波に覚醒時に近い乱れが見られる事があります。これは人が夢を見ている時間、『レム睡眠』と呼ばれている状態です。
 レム睡眠の際には、睡眠状態にある人の瞼の裏側で眼球が小刻みに動きます。レム睡眠とはこの事から、『Rapid Eye Movement』の頭文字を取って名付けられました。

 人が覚醒状態にあるとき、脳内には『ノルエピネフリン』と『セロトニン』と呼ばれる神経伝達物質が分泌されています。これらは人が覚醒状態にある際、学習能力や判断力、記憶能力に貢献する重要な役割を果たしているのです。
 一方人が眠りについたとき、脳は休息状態に入りますので、上記二つの神経伝達物質の循環が低下します。その代わりに『アセチルコリン』と呼ばれる物質の分泌が増加し、脳の感情中枢を刺激します。こちらの物質の影響で、人はレム睡眠時に景色が鮮明に見える事があったり、感情の発露を促されたりするのです。ただし脳からの運動神経への電気信号は睡眠時遮断されている為、現実で体が動いたりすることは殆どないでしょう。

 人は夢を見ている間、『日常生活で知覚した様々な体験の記憶を整理・統合』しています。生存の為に必要な情報を膨大な記憶の中から選別し、脳に定着させるこの作業を行う事で、人は滞りなく日常生活を送るということが可能になっています。
 また夢は人の心を癒すという役割が持つことも判明しています。レム睡眠中、人はストレスとなる感情を処理することがあるようです。トラウマになるようなショックな体験をした時、それらを思い返した脳が夢を見させます。そこに現実にはなかった要素が付加されていき、悪夢はその形を変え、その出来事に付随するネガティブな感情を忘れていくと言われているのです。

 脳の休眠時に見る夢が持つ大切な役割というものは荒唐無稽に思えて、存外に侮れないものです。自我がある生物であれば、生存の為に必ずや必要となるのも頷けることでしょう。

「お、覚える……のです? ……エル、そんな自信はないのです……でも、ノートに書いてそこから導くことはできるのです! 自信は本当に、本当にないのです。でも、二人のためなのです、エル、頑張るのです!」

 夢の勉強をしよう、そう言うストームの提案に乗る。エル自身としては覚えるなんて難しいが、ノートが付いているから大丈夫だろう。……きっと。すぅ、はぁ、深呼吸をする。頑張れる、2人のためであるならこの脳みそを使って答えをいつでも導き出せるように、できる。

「レム睡眠……Rapid Eye Movement……ノルエピネフリン、ネルエピネフリン……セロトニン! セロトニン、えっと……これらは人の学習能力や判断力、記憶能力に貢献……寝たら低下、代わりにアセチルコリン…………」

 ノートにそうやって書き留めていれば、エルの脳内は何もかもでいっぱいいっぱいになってしまった。アセチルコリン、そう言葉を発してからぴくりとも動かなくなり、そして動いたかと思えばエルの目、手、身体、全てが震えていた。

「あ、あの………えっと……こ、ここ……は、どこ、なのです……? あなた、たちは……えっと……」

 大事なことなのに、大事なことなはずなのに! 持っているノートに書いてあるものも読める余裕すらない。目の前にいる大事な大事な二人が、わからない。ほろり、ほろりと涙が出てくる。忘れたくない記憶と共に、涙がたくさん溢れ出した。

《Dear》
「エル!」

 時間は無為に過ぎていく。日は落ち、月は昇り、今日も誰かの死が決まる。強大な運命の前に、ただただ押し潰されるしかない陶器の命。ああ、ああ——それがなんだ!

 今、目の前で、愛しい恋人が泣いている以外に、優先すべきことがあるものか!

 愛しい彼の涙を断ち切るように、大きな声で彼の名を呼ぶ。大事な大事な、仲間の名前。エル、エル、どうか、どうか、私の命が、キミの命が尽きたとしても。
  愛していると、叫び続けよう。まだ見ぬ愛を、そばにある愛を、抱きしめ続けられるように。キミがどれだけ私たちを忘れても、その度にキミの心を愛す。ずっとずっと、愛しているよ、エル。ちゅ、と小さなリップ音が、エルの細い指先で踊る。エンジェルじゃなく、尽くす者でなく、ただ一人、私たちの愛した【エル】へ。キミの勇気に、最大限の賛美と感謝を。これだけ、これだけは、どうか許して。

「エル、よく聞いて。今はこれだけでいい、ずっとずっと、これだけでいい!
 ——私たちは、エルのことをずっとずっと愛してる。落ち着いて、息をゆっくり吐いて、大丈夫、ずっとずっと、ここにいるよ」

 震える体を力いっぱいに抱きしめて、柔い髪を優しく撫でた。涙を拭って、その美しい瞳をまっすぐに見つめる。——今ここで、恋人の一人救えないで、何が元トゥリアプリマドールだ。

 天使の輝きを埋め込んだ瞳から大粒の涙が零れる。
 エルの瞳の輝きに反射するように流れ出る涙はまるで天からの恵みの雨のようにストームには見えている。
 だがストームはいつものように「美しい」だなんて言葉を発しなかった。それどころか溢れる涙を見て目を伏せる。
 ──まだ、早かったようですね……。

 無理な要求をしてしまった。
 ストームは自身への嫌悪感からくる自己抑制からカチカチと爪を弾いてそのまま爪を手のひらに食い込ませる。
 その嫌悪感も自分勝手な物。あまりに利己的な物。
 ストームはそれを理解していた。
 そして処理する。

「すみませんエル、ジブンが無理な要求をしたばかりに辛い思いをさせてしまいましたね。
 平気ですよ、貴方様は賢い。また一から覚えていきましょう。持てる力全てで貴方様を支えさせて頂きます」

 ディアに抱き締められているエルに対し、優しい手付きでエルの頭を撫でた。腫れ物に触る手つき。慣れたもの。
 無償の愛にも似た手つきで撫で、そのまま彼の手から零れ落ちたペンを拾い上げ、涙が滲むノートを手にサラサラと文字を記していく。

「自己紹介から始めましょうか。
 はじめまして、エル。ジブンはストームと申します。
 貴方様へ抱き着いていらっしゃる方はディア。素晴らしいお方です。
 それとここに他の皆様の事も書いておきましたし、それでも覚えられない方が居ましたら“貴方様の記憶(ジブン)”をご活用ください」

 ストームはエルの手を取り彼の指先を自身に当てる。そして簡潔に自己紹介、その後にディアに触れさせてディアの紹介を終えた。
 ディアについてはとてもとても話し足りない。が、今余計な言葉を言ってしまうとそれこそエルの記憶のキャパをまた越えさせてしまう可能性があるので一言で留まった。

 そしてエルにノートを見せる。
 そこにはクラスメイトの名前と特徴を完璧に捉えた簡単なイラストを添えたものが記してある。

 ストームは自身の出来る精一杯の微笑みをして見せる。
 依然として下手くそでぎこちの無いものだ。
 「ジブン達以外のドールに会って思い出せなかった時に」と、ページの端を折り曲げながら付け加えて。

《Ael》
「っう、うぅ……すと、と、でぃあ…ごめんなさい、ごめんなさい……っ、でも、思い出したのです、もう、わすれないのです、ノートにも、かいてあるから、エル、ノートなくても、だいじょうぶになれるように、もっと、もっとがんばるのです……! ありがとう、ありがとうなのです、スト、ディア!」

 意味もわからないまま抱きしめられる。でも、暖かな体温に確かに慰められ、愛された。優しい手つきにも、癒され、大切にされた。その事実が嬉しくて、なんだか涙が止まらない。もう一度自己紹介をされれば、うんうんとエルは頷いて名前を繰り返した。すと、でぃあ、すと、でぃあ。大事な大事なこと。わすれてはいけないこと。記憶にくっきり焼き付けるようにしてノートを見た。あぁ、あぁ、もっと、もっと大事なドールがいる! こんなにもわすれてしまっていたなんて。悔しくて眉を寄せた。
 みんなみんな、エルにとってだいじなだいじなドール。ミシェラだって、わすれてはいけない一つの記憶。ストームの作ってくれた一つの記憶を大切そうに撫でて、ディアにぎゅっと抱きついた。そして、今度はストームの高い頭を頑張って撫でた。

「ディア、愛してくれてありがとうなのです、エルもディアをたくさん愛するのです! スト、ストも愛してくれてありがとうなのです、エルにできるお返しは、ちょっとしかないのです……でも、もっと成長して、たくさんお返しするのです!」

 もう涙は浮かんでおらず、天使の笑顔が浮かんでいる。愛すること、愛されることを新たに記憶に刻み、ひとつ、エルは成長できたのだ。