《Amelia》
「そういえば…結局時間を聞いていませんでしたね」
お披露目の次の日、丁度…彼女が謎解きと手紙を仕掛けた3日後位の事
朝食を終えて普段だったら図書室で本を読んでいる時間に彼女は寮の周辺、柵の近くを訪れていた。
勿論、知識を愛しつつも恥じる彼女としては珍しいこの行動には理由がある。
時は遡り数時間前、いつも通りの……いやミシェラが居ないちょっと寂しい朝を終えて、図書室に向かった時。
彼女はそこで寮の入口から真っ直ぐ歩いた森の近く、柵の辺りに来てほしいという誘いを受けた。
すれ違い様にささやくような言葉で持ちかけられたそれに、いつになく真剣なトーンを感じ取った彼女は幾ばくかの不安と、それを覆い尽くすような好奇心に手を引かれて暗い森へと歩き出したのだった。
そうして待つこと十数分。
サクリ、サクリと芝生を踏む軽やかな音に気付いた彼女はそちらを向くと、訪れたドールに向けて問いかける。
「それで、どうなさったのですか?
……ディア様」
「ごきげんよう、愛しきアメリア! 来てくれてとっても嬉しいよ! ……待たせてしまった、かな?」
たん、たん、と楽しそうにステップを踏み、浮き立つ気持ちのままに降り注ぐブーツの雨を受け止める柔らかな芝生の音に耳を傾けながら、約束をしていたかわいい恋人の元へと駆け寄る。その様は、昨日の惨劇などまるで覚えていないかのようにいつも通りだった。アメリアの美しい顔をじい、っと覗き込み、感謝と愛と謝罪を述べる。その様はまるで、プロポーズの如き甘さを孕んでいた。愛しき彼女の問いに答えようと、素直に口を開く様も。全てがあまりに軽やかで、歪だった。
「ここには、あの美しい空を映し取ったキミの瞳のように可愛らしい花が、たくさん咲いているだろう? あんまりにも可愛らしいものだから、気になってしまってね。キミの瞳は知識の海、キミの心は皆の盾——誰より聡いアメリアなら、この花について私が知らないことをたくさん知っているんじゃないかなと思って!」
今はまだ、彼女の美しい瞳を曇らせる訳にはいかない。そう判断したのか、お披露目での話は伏せたままに問いかける。元々、道端に咲く花にさえ愛を囁くのはディアにとって日常茶飯事だ。疑われるような理由でもないだろう。
花とお揃いの美しいアメリアの髪にそっと口づけ、ふわりと微笑んでみせる。その可愛らしい笑みからは、アメリアとアメリアの努力への信頼と愛が、これでもかと言うほど伝わってくるだろう。いっそ、狂気的なほどに。
「ね、お願い。教えておくれ——アメリア」
《Amelia》
「いとっ……いっいいえ、待ってはいませんよ」
いつも通りの様子のディアによる愛の波状攻撃に彼女の頬は一瞬紅色に染まり、動揺から言葉に詰まる。
……が、ギリギリ、すんでの所で、危うく、持ち直した彼女は平静を装って言葉を返す。
「へっあっえ? なんっなんのつもっおつもりで!?!?!?
その、えっと、その、私には心に決めた殿方(居ない)がですね!?」
……が、相手は世界の恋人、愛のドール。
恋愛偏差値オミクロンなアメリアで太刀打ち、いや、受け止める事すら片腹痛い。
どう考えても愛を含んだ意図で行なわれた髪への口づけに耐え切れなかった彼女は素っ頓狂な叫びと意味のない疑問と、居もしないご主人様の話を五月雨のようにぶちまけて動揺する。
その動揺は、デュオモデルの正確な時間感覚にして丁度十分続いたのだった……。
ディアがその間何をしていたかは分からないが、ともかくその間アメリアは話が通じなかった。
そうして落ち着いた彼女は、疲労か、或いは動揺からか、頬を上気させたままだが、とにかく問いかけてみる事にした。
「それで、ええと……青い花ですね。
ディア様、見た目の特徴などは覚えてらっしゃいますか?」
可愛らしい動揺に嬉しくなって、思わず抱きついてしまいたい心地になる。抱きついて、愛を囁いて、許されるならばその柔い頬にキスを落としたい。腐っても元トゥリアプリマドール、それを実行することは呼吸するよりも容易い。でも、アメリアの恋人として、これ以上愛しい人を困らせる訳にもいかなかった。それに、愛しき彼女が自らの問いに応えようと頑張ってくれているのだから! それを邪魔するほど、世界の恋人はヤワじゃない。
「ええっと、そうだね……ふふ、見た方が早いよ。ここに咲いている、アメリアみたいにかわいい花のこと。青くて、きらきらで、愛しい【ヒト】に元気をあげられるかもしれないお花。素敵だね……キミみたいに可愛くて、キミみたいに強い」
——その愛しい【ヒト】というのは、きっと、あの一つ目の化け物のことを指しているのだろう。
小さく可愛らしい花弁を傷つけぬよう、指先でそっと彼の花を撫でる。きゅう、とくすぐったそうに縮こまる花が愛おしくって、くすくす笑いながらその美しさに見惚れていた。その様は、その化け物にドールたちが喰われるのを誰より間近で目撃したドールとは、とても思えない。きっと、嘘をついているつもりすらないのだろう。ディアは、ただ目の前の希望に向かって走って行くことしか出来ぬドールだ。
「ああ、そういえば。ふふっ、この間、アメリアの口の中が真っ青になる事件が起こっただろう? それってもしかして、この花の妖精さんが悪戯をしてしまったから、なのかな」
《Amelia》
「ここに咲いている……青くてキラキラした花……ですか。」
ディアの言葉に少し考え込む。実際問題、青い花と言って探しに来るなら花畑に行くはずで……
恐らくディア様は十中八九あの青ざめた花のことを聞こうとしているのだろう。
それなら、と答えようとしたところで続いた問いに小さな違和感が走る。
口の中が真っ青になった、それは間違いなくあの花によるものだが……あの花を口に含むと──恐らくは水に漬けたりすると──青い色素が出てくる。
という事実を知るには実際に採集して、愛でる以上の実験をする必要がある。
自分がそういうことをしそう、と思われているのはまあともかく。
ディア様がそういう実験をする……とは正直思い難い。
勿論、青と青を重ねて連想してしまっただけ、なのかもしれないが……
どちらにせよその言葉には言動に見える余裕とは正反対の、何処か焦りのような感情が伺えた。
「なっ! なんでそれを!?
……コホン、取り乱しました。
ではそうですね……丁度いいですから、実物を見に歩いて行きましょうか。
それで……そのう……あの青い花は誰かへの贈り物……ですか?」
けれど、今それを出してもきっと目の前のドールは揺るがないし、寧ろ真実を追求しようとする様を咎められて困るのはこちらだ。
だから、そう……慎重に、相手がもしかしたらうっかりヒントを残してくれそうなそんな問いを動揺してうろたえる自分の様子に隠して投げかける。
「ふふっ、あれだけ大きな声を挙げて驚いていたんだもの! そりゃあわかるよ。……それに、私は愛しきアメリアのすることを全部そばで見ていたいし、愛していたいし、ずっとずっと覚えていたいと思っているから、ね」
アメリアの思考を押し流すように、次々に愛の言葉を囁く。アメリアの知は強さだが、それは同時に責任を伴う。アメリアの努力を誰より愛する者として、ディアにはそれを守る責任があった。本人が意図して取った行動ではないだろうが……その矢継ぎ早な愛の告白には、どこか牽制の色が滲んでいた。ディアには、自らの愛以外の感情を感知することができない。いなくなったらどうしよう、バレたらどうしよう、そんな感情は、ディアがその輪郭を掴む前に霧のように霞んでしまう。世界の恋人に、そんな感情は必要ないから。希望を見ることをやめた瞬間、ディアはディアの体を成せなくなる。とっくに壊れた欠陥ドールは、そのターコイズブルーにただ、希望の光を宿していた。彼女の努力を知っている、彼女の脳を知っている。だからこそ、愛しきアメリアを守るためにも、ディアは絶対に。今ここで、愛で負ける訳にはいかない。
「案内感謝するよ、愛しきアメリア! 贈り物……そうだね、贈り物といえば贈り物かな。例えば……キミと私の未来のための、なんてね」
アメリアの整ったかんばせをくっついてしまいそうなほどに覗き込み、アメリアの強い眼差しを一身に愛しながら。ディアは静かに、アメリアの願いを切り捨てた。
《Amelia》
「に”っ!
そういうのは好きな人にする事で……。
って、ディア様! それでは答えになっていませんよ!?」
ディアに投げかけられた愛の言葉に尻尾を踏んづけられた猫のような悲鳴を上げた後、動揺を誤魔化す為に苦し紛れの言葉を返して歩き出す。
……が、顔を覗き込んできたディアに遮られた。
歩こうとした足をびくりと止めて一歩後ずさる。それは半ば反射的な物で、単にぶつからないようにしたというだけの物だったが……。
その間に彼女は先程のディアの言葉を吟味する。
贈り物と言えば贈り物、キミと私の未来のための。
なんて、一見すれば普段のディア様らしい、キザったらしい甘い言葉。
けれど、違和感のスパイスが混じった今ではまるで違う物に聞こえる言葉。
……種明かしをしよう。
本来、アメリアは二つの答えを想定して問いを投げかけていた。
一つ目は贈り物だと、問いに合わせて誤魔化しに来るパターン。
これは森周辺に呼び出した以上、当然ながら嘘だし……生えている場所を知っているなら聞く必要が無い。そうやって違和感を補強するつもりだった。
二つ目が、贈り物ではなく純粋にその青い花を調べようとしているパターン。
例えば、青い花の生えている場所と特徴だけを知っていて、偽物では困るからとデュオモデルに同定をお願いしようとした。
みたいな、そんな答えであれば奇妙には思いこそすれ、確実に現物を見たことがある自分に話す事もエピソードに触れる事も違和感はない。
そんな、二つの答えのうち一つが来るだろうと、彼女はそう思っていた。
けれど、ああ、帰って来たのは違和感どころではない、致命的な言葉だった。
返答を誤魔化し、あまつさえキミと私の未来の為だからというのだ。
つまり、導き出されるのは『調べなければいけない理由は言えないが自分とアメリアの為にその花の事を知らなければならない』という明らかに怪しい動機だった。
となれば、動かなければならない、声の抑揚にも、表情にも、どちらにもひとかけの怪しさも無かったとしても。
その言葉は如実に隠された──しかも自分が関係する──話してはならない何かの存在を示しているのだから。
「ディア様……貴方様は、あの花について何かをご存知ですね?
それこそ、この辺りに生えているというだけではない何かを。」
「……困ったな、キミは私よりもずっとずっと賢いし、私だって愛しいキミの問いを誤魔化すようなことはしたくない。強引な方法に出てしまってごめんね、目的が不明瞭なままでは、きっとキミもお話はしたくないだろう。だけど——」
へにゃ、と困ったように笑いながら、ディアの脳はそれほど驚きはしていなかった。アメリアは賢く、聡く、何より真実に飛び込む勇気のある少女だ。こんな小手先の言葉では誤魔化されてくれないだろうと、きっと頭のどこかでわかっていた。それでも、誤魔化されて欲しかった。アメリアを誰より信じている、愛している、だからこそ、嘘がつけなくて、困る。ふう、と小さく息を吐いて、顔を伏せた。アメリアは強い、アメリアと一緒なら、きっと希望のその先へ行ける。でも、彼女が誰より優しくて、不器用なことも知っているから。——今必要なのは、トゥリアドールとして教わってきたことじゃない。
顔を上げ、強く息を吸った。ディアは初めて、愛する人の心からの問いに、答えないことを選ぶ。
「——ごめんね、今は言えない。それでも、キミと私……ううん、世界の未来のために、キミの努力が必要だ。わがままを言っているのはわかってる、でも、私は……!」
必死な響きを隠そうともしない、そのまっすぐな言葉は。トゥリアドールでも、世界の恋人でもない、紛れもないディア・トイボックスの言葉であった。
《Amelia》
「……そうですね、ええ、その謝罪は受け取ります。
その上で、何も言わずに今は教えてくれと、そう言うのですね。」
へにゃり、といつもなら見せないような笑顔。
甘さで溶かしてしまうような、愛という名の誤魔化しに満ちた言動とは違う言葉。
なんとも厄介な話だ、元プリマの彼がこうして焦り、取り乱し、騙してでも利用しようとするような事態。
そこに情報も無しで飛び込まなければならないのだから。
「先ず、お答えしましょうか。
ディア様、恐らくディア様のその隠そうとする努力は既に遅いです。
アメリアは既にディア様が何かを知ってしまった事に気付いておりますし、それがアメリア……いいえ、場合によっては同じドールの皆様全てに影響するだろうというのも……もう知っています。
そして、それがディア様1人ではどうしようもない事も。
その上でお聞きしますよ。
アメリアに話して下さらないのは、アメリアが頼りないからですか? それとも、話す事自体が……いえ、そうだとしたら既に手遅れですね。
訂正します。それとも、まだ自分だけでどうにかなると思っているからですか?」
だから、せめて話せない理由だけでもと問いかける。
その裏に自分では……アメリアではその秘密を……苦痛を共有するには足りないかとそんな悲鳴じみた懇願を隠しながら。
「——違う、キミが大切だからだ。キミは強い、いつだって私たちを強くしてくれる。
——わかるでしょ、賢いキミになら。私は弱いし、幼いし、頑固だから、キミ”だけ”を選べない。キミを含めた世界の全部、諦めたくない。そのために、キミの秘密が必要だ。私が捧げられるものなら、なんだってあげる。私は折れない、諦めない。
だから、キミが諦めて! キミが必要ないなんて、頼りないだなんて、そんなことあるわけがない。私たちにとって、キミはいつだって必要で、大切だ。キミの強さが、努力が必要になる時が、絶対に来る。キミの努力を世界で一番に愛しているのは、この私なんだから! 約束するよ、このコアに誓って。だから、覚悟を決めて。私たちの泥舟に、飛び込んで。ずーっとそばで見てきて、愛してきたから知ってるよ。これからもずっとそばで、キミを愛したい。動揺して、真っ赤になって、そんなキミが可愛いなって笑える、そんな日々がずっと欲しい。そのために、キミの選択が必要だ。
——キミは誰より賢いから、時に愚かな選択ができる。強い人だ。だよね、アメリア」
ディアには、エーナの子たちのように上手に嘘をついたり交渉することはできない。デュオの子たちみたいに、たくさんたくさん考えて答えを出すのも、テーセラの子たちみたいに、答えに向かって無理矢理突き進んでいくのも苦手だ。ディアにできるのは、ただ一つ。希望を見ること。その希望に、愛しい人を連れて行くこと。
ああ、なんてらしくないことをしていたんだろう。ディアは誰も諦めない、誰も否定しない、誰も特別視しない。希望や信頼、愛という舞台に於いて、ディア・トイボックスに勝てる者など、世界中探したっていやしない!
駆け引きも、嘘も、全然得意じゃないけれど。ここが、ディアの戦場だ。
《Amelia》
「そう、そうですか。
大切だから、アメリアだけは選べないから、アメリアに諦めてくれと、そう言うのですね。
──ずるいお方」
ディアの言葉に、高揚と動揺によって上気していたアメリアの表情がスッと冷める。
夢から、覚める。目の前の美しい姿が、褪める、冷める、覚める、褪める、さめる。
ああ、
この方はアメリアだけを愛してはくれないと、気付いてしまった。
この方はアメリアを隣には置いてくれないと、理解してしまった。
この方と並んで戦うことすら許してはくれないと、分かってしまった。
だから、この楽しいお遊びももうおしまい。
「なら、ええ、そうですね。
楽しかったですよ。ディア様との恋人ごっこ。
けれど、結局はただのごっこ遊びなのですね。
ならば、私は黙して語らずに大人しくお披露目を待つことにします。
もしも、それが私をも殺すのだとしても。
まだ夢があるでしょう?」
きっと、大切だから関わらせないと、諦めてくれと言った貴方様の無意識の暴力性には一生気付かなないのでしょうねと。
心の中で小さく嗤って。
「……? 意外だね、キミは知りたがると思ってた。自分の瞳で映して、海を飲み込んで、その先を欲する人だと思ってた。そのためなら、忍べる強さを持った人だって。少なくとも、私が知って、愛したアメリアはそうだったのだけれど…」
心底不思議だ、というように首を傾げる。アメリアの冷たい声とは裏腹に、その様はあまりにも気楽だった。自分の言葉の強さなんて、何一つ理解していない。ディアの恋人扱いは、遊びじゃないから厄介なのだ。本気で、世界中を全部知り尽くして愛したいと願っている。それができると、ただひたすらに信じている。——正気じゃない。
ディアは、アメリアも同じ畑のドールなのだと思っていた。もっと深く、深くと知り尽くして、それを全て愛したい。そんな努力を、ディアは何より愛していたから。どうして? とクイズの答えを聞くみたいに問いかける。心のずっと奥に、躊躇もなく踏み込んでくる。その光は、アメリアの深海に何をもたらすのだろう。
《Amelia》
「ふっふふふ、あはは! そうですよねえ、私は私の疑似記憶について、愛について、誰一人にだって話したことがありませんから。
きっと、私は知ることを愛しているのだと、知ることを欲するのだと、そう、思いますよね」
なんとも気楽にこちらに問いかけてくるディアに対して、蒼色は耐え切れず軽やかに笑った……いや、嗤った。
嘲るように、ふざけるように、もはや何を言ったって関係のない相手にするような気楽さで。
いつもの弱い弱い、オミクロンのアメリアには想像も出来ないような力強さで、精一杯に退けてみせる。
「別に私は知ることを愛している訳ではありませんよ。
ただ、知ることが私の愛なのです。
未だ見ぬたった一人のご主人様に捧げる愛の形なのです。
それにディア様、特別になどなれやしないと、隣には立たせないと、そうのたまった口で忍べと言われて忍ぶほどアメリアは安い女ではございません。
最後に、忍んだ所で話す気など欠片も無いのでしょう? 大切なのだから」
「なら、やっぱり私たちはお揃いだよ、アメリア。アメリアの大切なものは、私にとっても大切だ。絶対に守る、そのためにキミの力が必要だよ。キミは安い女なんかじゃない。キミに信じてもらうためなら、私はなんだってする。今ここで、首を掻っ切って死んでみせても構わない。これは理屈で収まる話じゃないけれど、キミが望むなら理屈を、対価をあげる」
そう言って、ひた、と自らの爪をその柔い首に押し当てる。もちろん、ここで思い切り爪を滑らせたからといって死んでしまうほど、トゥリアドールは脆くない。でも、たとえ死んだとしても。——ディアなら、やる。
ディアは狂っている、その選択を迷えない。アメリアの返答によっては、本当に死んでしまいそうなほどにディアの瞳は真っ直ぐだった。海は凪ぐ。真っ直ぐに、静かに、アメリアの選択を待っている。つう、と細い首筋を赤が伝った。
《Amelia》
「駄目ですよディア様。払えない対価を傷と苦痛で埋め合わせようとした所で、貴方様の愛では埋め合わせられない以上アメリアが納得するのは隠している事を全て話した時だけです」
覚悟を以って首に爪を当てたディアに対して、蒼色は冷たく言い放つ。
なんだってすると言いながらこちらが最初から提示している条件には触れないでそんなものを対価にしようと言うのだから。
愛を囁き、されど特別にはせず、隠し事をしながら利益も無く助力を求め、隠すのも大切だからなどという理由で、その隠し事は自分にも関わる。
挙句の果てに自分を人質に、というディアの一連の行動に対して、
「それと、一緒にしないで下さい。
確かに私にも他のドールズを大切だと思う感情はあります。
けれど、既に巻き込んでおいて、何もかも秘密だけど大切だから守る為に力を貸してほしい、などと言って利用するような真似はしませんよ。」
端的に言えば怒っていたのだ。
「——ミシェラを守りたい。キミが素敵なものだと、行きたいと思っているお披露目から。お披露目は、キミが思っているようなものじゃない。ミシェラを、特別に思ってみたい。約束を守りたい。大好きだって言いたい。抱きしめたい。もっともっと、あの子のことを知ってみたい。あの子だけに贈りたいと思える言葉が欲しい。愛が欲しい。私の命と引き換えにあの子が笑ってくれるなら、私はそれだけで幸せだ。怖い思いをしていなければいいと思う、どうか生きていて欲しいと思う、そのために、キミの努力が欲しかった。本当はずっと、それだけなんだ」
アメリアの怒りは最もだ。愛し合っていることは、必ずしも良いことじゃない。愛は身勝手だから、こんなことは全部無意味だ。アメリアを笑顔にしたい。でも、そのためにアメリアが怒るのは全然、本意じゃない。ディアは弱い、誰よりも。それでも、頭を下げられる強さがあった。迷って、間違えて、今だってずっと迷ってる。知るというのは、そういうことだ。でも、キミにそんな顔して欲しかった訳じゃない。本当はずっと、幸せでいて欲しいと願っているだけだ。誰にも、傷ついてほしくないだけだった。
「ごめん、もっと早くこう言えばよかった。もっと早く、謝れればよかった。あの時はずっと状況が切迫していたから、情報と呼ぶにはきっと正確性が足りない。キミまで無為に危険に晒す訳にはいかない。キミはまだ、守れると思ったんだ。でも、アメリアを傷つけるのは、好きじゃない」
《Amelia》
「はああああ、ええ、ええ、癪ですが今は良しとしましょう。良いですよ、花だけどころか手持ちの謎を全部ぶちまけてやります。」
ミシェラを特別だと思いたいと、そう言って、その上でお披露目が、一見すると花に関係のない事を持ち出した時点でつながりがあるのだと判断した彼女はその対象が自分じゃないのはまあ……癪だとしても。
ともかく、特別を語り、隠し事を出されては彼女としてもずっと怒っている訳にはいかない。
大きくため息を吐いてからディアに向き直り。
「ミシェラ様はお披露目に出てたんじゃ無いか、とか買われていったなら守るも何もないんじゃないか、とか、聞きたい事はありますが……。
先ず花についてですね。
分類も出来ず、食べてみても毒性は無し。
かと言って貴方様がそうまでして気にするという事は恐らく飾られていたとかその程度の話ではないのでしょう?
となれば何かに生えているのを見た……という所でしょうか。
その何かは……想像の余地が余りにも広すぎて困りますが」
「! ありがとう、愛してるよアメリア! ……あ、こういうのが良くないのかな……?」
アメリアは真面目で、とても強い子だ。色んな疑問や怒りを飲み込んで、信じることを選んでくれたのが、ただたまらなく嬉しかった。勢いのままに抱きつこうとして、ギリギリの所で踏みとどまる。今までのディアにはなかったものだ。それは、些細な変化かもしれない。けれど、この喧嘩はきっと、ディアにとって大きな意味を持つ。情報とか、未来とか、そういうものをすっ飛ばしても。
「とにかく、キミがせっかく贈ってくれた情報に報いるべきだね。ふむ……毒性はナシ、というのはアメリアが自分の体で実験してくれたものだよね? 例えば、ドールではないヒト相手なら、何か反応が変わるかもしれない。そういう認識でいいかな?」
ディアの脳裏には、一人の愛するヒトの顔が浮かんでいた。私たちのすぐそばにいて、優しくて、私たちを疑ったりしない、【ヒト】。例えばとっても綺麗なお花を戯れに贈っても、きっと違和感は残らないだろうヒト。ディアの頭は、また新たな希望の可能性を弾き出していた。
《Amelia》
「ええ、そう、そういう所です!
で、続きですね。実際自分の肌が何で出来ているのかすら分からない以上ヒトだと反応が違う可能性は大いにありますが……。
そもそも周りにヒトが居ない以上検証不能でしょう?」
踏みとどまったディアをビシッと指さして指摘した後、何かを考えているらしいディアに補足をおこなう。
その上で彼女は言葉を……というか問いを続ける。
「で、恐らくディア様はどうにかしてお披露目を見に行って、そこでミシェラ様は買われなかった、或いは行方不明になったという所でしょうか?
その過程で花を見かけたのでしょうが……自分で摘んだりはなさらなかったのですか?」
「? ヒトならいつだって私たちのそばにいてくれているよ! もちろん、無駄足になる可能性の方が高いけれど……情報が不確かだからこそ、今はあまり踏みとどまっている訳にも行かないんだ。キミのその問いに答えるためにも……あえて今答えるとするならば、そんな余裕がある状態ではなかった、かな」
先の見えないこの状況で、ただ希望を見続けるディアは自分なりに誠実に問いに応えようともがいていた。アメリアが遠慮なく指摘してくれるのが嬉しくて、また抱きしめたくなるのをグッと堪える。アメリアが強くて愛おしすぎるのも問題だと思うのだ、うん。ディアとアメリアは全く違う、モデルも、価値観も、愛し方も。これからもきっと何度もすれ違いを起こすだろうけれど、その度に歩み寄りたいと願っていく。強大な真実に打ち勝つためにも、二人にとってきっとこの穏やかな時間は必要だ。
《Amelia》
「??? ……ともかく、心当たりがあるなら良いでしょう。
それで、余裕が無かったと言うと見咎め……られた訳ではないでしょうね。そうでしたらディア様は今頃ここに立ってないでしょうし。
だとしたら花自体にリスクが…って何で私が推理しながら話してるのですか!
話を進める為にも何処に、どのように生えていたのか。そして、シレっとスルーしているミシェラ様がどうなったのかを聞きましょうか!?」
誠実に答えようとするディアに対し、彼女もまたその答えを察しようとはするが……。
余りにも情報が足りない、強引な推理をするにしても全て仮定しかできないのでは余りにも馬鹿馬鹿しい。
そう考えて応えるように発破を掛けることにした。
「う、そうだよね、話しておくべきなのはわかってるんだけど……賢いキミは素敵だよ……」
困ったように笑いながら、堪えきれずに一つ愛の囁きを落とす。勢いに押され気味なディアは珍しいが、かわいい、愛おしい、好きだよと口に出して怒られてしまうのを避けたい故だろう。あのアメリアとの会話があってから、ディアは一段と健気になった気がする……誰だって、愛しい人に誤魔化すような真似はしたくない。でも、愛しい人を危険に晒したくないのもまた事実だ。うんうん唸って、解決策を見出そうと小さな体でディアはもがく。
「ええっと、きっとミシェラは大丈夫だよ。詳しいことはまだ言えないけれど、私はそれを信じてる。私は、無為に慰めを言ったりしない。だから、ミシェラを助けたい。その、キミも信じてほしい、ミシェラの強さを。私のことは、信用できなくても」
《Amelia》
「ぬぬぬぬぬ、どうやらディア様には現状認識が足りていないようですね。
良いですか。
先ず現時点で私が分かっている情報として、お披露目には何か仕込みがある事。
青い花が関わっていること。
そして、お披露目に行ったミシェラ様が行方不明であること。
この三つがあります。
そして、我々ドールズは最終的にお披露目に行きます。それこそ何らかの理由で処分されない限りは。
その上で準備も対策も無くお披露目に行ったらどうなるか、はディア様が一番よく知っているでしょう?
つまり、本質的に私たちは危険の中に居ますが、ディア様が事実を伝えることでその危険を減らせるのです。
お分かりですか!?」
なおも誤魔化そうとするディアに対して、しばらく唸って囁きを頭の中から追い出しつつ。
詰め寄るように現状をどのように把握しているのか、と問いただす。
「う゛う゛う゛ぅ……もちろん、それで済む話ならとっくに話しているよ。話すことでキミたちに降りかかる危険がなくなるのであれば、私だって迷わずそれを選べる。だけれど——ねえ、本当に危険を減らせると思う? 毒林檎を皆で分け合っても、王子様は一人だけだ。キスで夢は覚めないし、魔法の鏡もここにはない。つまりはね、七人の小人が必要なのさ。白雪姫を心から愛し、サポートしてくれた彼らがね。彼らがいなければ、王子様と白雪姫は結ばれていなかった。必ずしも、毒を共有するだけが家族じゃないし愛じゃない、そうだよね」
アメリアの理論づいた強い口調とは裏腹に、小さな子供に御伽噺を語り聞かせるような口調で滔々と話し始める。優しく、諭すような声にはどこか強さが宿っていた。強さの種類は違えど、愛故なのは変わりない。怒りん坊な人がいれば、眠たがり屋の人がいる。先生みたいな子もいれば、恥ずかしがり屋の人もいる。世界は色んな人で溢れていて、皆がそれぞれ美しい。姿形が違ったって、忘れたくない人がいるのはみんな同じだ。相容れなくても、歩み寄れる。愛し合って、抱きしめ合える。王子様だけがヒーローじゃないし、女王様だけがヴィランじゃない。毒を共有するだけが、家族じゃないし愛じゃない。ねえ、それとも——
「それとも、キミは王子様にでもなりたいのかな」
《Amelia》
「ええ、ええ、アメリアはせめて毒りんごが毒りんごであると知ったうえで食べるのと、知らずに食べるのとでは話が大きく異なると、そう言っているのですよ。
それに、そもそも白雪姫は自分を殺しに来たのが王女であるとも、これから毒りんごを食べることになるとも知らなかったでしょう。
仮に、その例えが正しくて情報自体が毒であったとしても。
既に半ば飲みかけているアメリアにそれは当てはまらないでしょう。
何も知らず、無辜なままに力だけ貸してお披露目に行けというのであれば、何も語らずにお披露目に行った方がまだマシだと、アメリアは先ほど申しましたよ?」
なおも隠そうというディアに、歩み寄った結果話すべきだとそう主張する。
確かに、話せば全て解決とは行かないだろう事は現在アメリアを頼っている時点で、何も知らせないまま危険の中にいる自分を利用しようとしている時点で、当然だ。
だから、せめて利用する相手位にはその利用する対価として危険を話せと、そういう交渉なのだから。
「後、付け足しますが!
アメリアは王子様とお姫様ならお姫様になりたい方です!!
誰がミシェラ様を助けようが最終的に助かるなら良いですが、白雪姫を自力で起こせない王子様に全てを捧げて仕えたい訳でもありません!
よろしいですか!?」
「……ずるい人だね、キミは。キミは強い、毒だとわかっている林檎を吐き出すことはせず、飲み下す判断のできる人だ。困るよ、話せば話すほどに私はキミを傷つける。私は諦めないし、キミも諦めない。お披露目には行かせないよ、そのためにキミの知恵を借りたんだ」
その言葉は、どこか淡白ながら確かな熱を持っていた。皆を守りたい、皆のことをもっと知りたい。もっともっと深くまで、ずっとずっと続くよう。パイを作ったり、お仕事をしたり、そんな日々が続くなら、自分の役名なんてどうでもいい。アメリアに悲しい顔をして欲しくないし、アメリアが望むものならなんだって与えたい。でも、アメリアがいなくなってしまったら、その先は? “今”、幸せが手に入ったとして、その後どうする? アメリアの人生は、アメリアのものだ。これからずっと先、生きてさえいればごめんねが言える。その先のさよならも、いいよも、生きているから手に入るものだ。私たちは物語の登場人物じゃない。ハッピーエンドのその先も、ずっとキミたちと共にいたい。そのために、交わしてきた約束が、愛がある。
「教えてくれてありがとう、アメリア。キミを守るためにも、少し、お互いに時間が必要だね」
未だ鼓動を続けるコアに手を当て、一度深くお辞儀をしてからディアは花の方へと自分の足で踏み出した。毒の方へ、もっと深く溺れる方へ、希望を探して。その青白い深海へ。
「またね、アメリア!」
《Amelia》
「はあ、どちらの事だか。」
結局、目的の場所に向かおうとして歩き出すところを顔を覗き込まれてしまったから案内は出来なかったのだが……まあ、話して貰えない以上は仕方がない。
またね、と言って歩いて行ってしまったディアに肩を竦め、そのまま歩いて立ち去ろうとする。
「さて……この状況で狙うとすれば……まあ、先ず間違いなくディア様の協力者でしょうね。
トゥリアモデル一人で脱出が出来るほどベッドの守りは甘くないでしょうし……。
さて……どうしたものでしょうか」
お披露目の会場で、ディアが目撃したあの悍ましい化け物。信じられない得体の知れない存在の出没と、それらが起こした殺戮劇はあまりにも怒涛であり、その光景は今や悪夢のような曖昧なものになりつつあった。
だがそれでも記憶を思い起こしてみると、ほのかに光を放つこの青い花の特徴と、あの化け物の身体から咲き誇った巨大な青い花は、およそ合致する点があることに気がつくだろう。
あの化け物から生え出ていたのはこの青い花かも知れない。自然に自生していた驚きと共に、ディアは花を一輪摘み取ることができる。
「ふふ、当たりだね。やっぱりキミは、愛しい【ヒト】への贈り物に相応しい花だ! アメリアと一緒、とっても綺麗」
その小さな花弁に顔を埋め、愛おしそうに笑ってみせる。青白く煌めき、ディアの白い頬に柔い光を落とす花は。あの日、お披露目会場で可愛らしい花を身に纏って現れた【ヒト】の冠と似ている点が多いように見える。まさかこんな所にあの愛しい愛の結晶が花を咲かせていたなんて! という驚きと喜びのままに、ディアは慎重に、優しくその花の茎を爪で手折った。コアに渦巻く歓喜とは裏腹に、ごめんね、なんて小さく呟きながら。あの【ヒト】もこんな気持ちだったのかなあ、なんて思いを馳せる。美しく咲き誇っている花を手折るのも、それを編んで可愛らしい花冠を作るのも、別に悪いことじゃない。命を束ね、誰かに贈る。私たちは花と一緒だ、花を手折る立場にいる以上、手折られることに文句は言えない。それでも、私たちは【ヒト】と同じ言語を使う。手折らないで、と願うことができる。それってきっと、すっごく贅沢なことだから。言葉が通じる、抱きしめられる、愛を囁くことができる。会話を、未来を、希望を諦めるには、私たちは与えられすぎだ。ごめんねなんて届かなくても、伝えるべきだと思った。そして私たちには、身近に愛を囁ける【ヒト】がいる。
「ソフィアにも見てもらいたいし、本当は、もう何本か摘んでおくべきなのだろうけれど……だめだなあ、私にはできない。もっともっと、強くならなきゃね。そのためにも……私たちの愛しき先生に、贈り物でも届けに行こうか」
あなたが外から寮内へと戻り、エントランスホールを経由して階段を踏みしめながら上階へ向かうところ。二階からアメリアと、彼女に連れ立って部屋から出てきた先生の姿が目に入るだろう。
すれ違う間際、先生はあなたの方を見て優しく微笑んだ。
「こんにちは、ディア。怪我のないようにね。」
──単なる挨拶であろうか。先生は穏やかな声色で一言、そのままアメリアと共に一階のダイニングルームへと消えていくだろう。
「おや……? ご機嫌よう、アメリア、先生! 何かお用事かな? 二人も気をつけて!」
いつものように元気いっぱいに手を振り、すれ違う二人をニコニコ笑顔で見送る。先生に渡したいものがあったのはその通りだが、特に急ぐような用事でもない訳だし……と、ディアは瞬時に割り切った。ディアが併せ持つどこか淡白な一面は、こういう時には役に立つ。踊るみたいに階段を鳴らして、青白い光はポケットの中に仕舞い込んで、ディアはすぐさま、次の希望へと一歩を踏み出した。
先生の部屋は特に施錠されていない。しかし扉を開いても、当然そこにいましがたすれ違ったばかりの先生は居なかった。
先生の部屋はあなたが知る範囲でいつもと同じ。彼らしく丁寧に整頓された本棚と、完璧なベッドメイキングが施された、あなた方のものとは違う四つ足のベッドと執務机が置かれたのみの、簡素な部屋の作りになっていると分かる。
生がいない部屋というのもまた一興、ちょっとしたルームツアーと洒落込もうじゃあないか! なんて、むしろちょっとワクワクしながら扉を開けて。
——その瞬間、踊るようなステップが、止まる。ターコイズブルーの鋭い瞳は、ベッドの上のわずかな光へと吸い込まれていく。
「『サウスウッド』……ノースエンドと名前の響きが似ているけれど、もしかしてミズ・シャーロットが……?
——ふふっ、ああ、ああ! キミの深淵へと飛び込む機会に、まさかこんなにも早く巡り会えるとは! 今度こそ、全部喰らうよ、ミズ・シャーロット!」
ずっとずっと、我慢していた。焦らされて、届かなくて、ずっとずっと夢見ていた。愛に飢えた捕食者の前に現れた、絶好の餌。きゅう、と、ターコイズブルーの瞳孔が細まった。彼方の愛の結晶を、喰らい尽くさんと吠えている。
『サウスウッド』と題された本。装丁も中身も経年劣化による傷みが深刻化しておりかなり古いものであろうと予想されたが、それでも文字は最低限読めるような状態が保たれており、相当大切に扱われていると察することが出来た。
黄ばんで褪せた紙面に躍るのは、執念とまで感じられる手書きの文字の羅列。かなり内容も豊富であるだけに、全てを細かい文字で纏めるのは相当な苦労を要したのではないかと予想出来る一冊であった。
物語の内容は、所謂冒険記といった類いであった。南の孤島で生まれ育ったとある少年は、『外の世界』に強い憧れを抱いていた。遂に彼はたったひとり、いかだを漕ぎ出して水平線の彼方を目指し始める。
やがて辿り着いたのは、密林が犇めく幻の黄金大陸。数々の危険をかわしながらも青き花の道標に従って密林の奥地へ至ると、そこには大陸の至宝が眠っていた──と、最後のページにはキラキラと輝く宝石に埋もれて笑顔を浮かべる少年の挿し絵が存在した。
改めてあなたは本の表紙を確認する。『サウスウッド』の文字と鬱蒼とした森林が描かれたその隅っこに、擦り切れた文字で『Charlotte』と、おそらく筆者と思しき人名が残されていた。
「……ああ、愛おしいな」
外の世界に憧れを覚える少年、青き花の道標、その先の至宝……まるで今の私たちのような状況を連ねる物語の内容など、気になることはたくさんある。でも、ディアにとっては。表紙に描かれた『Charlotte』の文字、先生が大切だと、忘れたくないとこぼしていた名前。時の流れに晒されて、それでも確かに生きていた。彼女の生きた証が、今もあの優しい手で生かされてる。それだけが、ディアにとっては大切だ。
自分はここにいる、物を考えて、誰かを愛して、この場所で確かに生きている! そう懸命に叫ぶコアの鼓動を、ディアは誰よりよく知っていた。それを守りたいと願う、この胸から溢れる衝動も。ぎゅう、と一度強く本を抱きしめて、そっとベッドの上へと戻す。先生が、ミズ・シャーロットをどれだけ大切にしているか。ディアは、その愛情を深く深く知っていく。ずっとずっと、愛していく。その愛が、ディアの鋭い刃を研いでいく。オミクロンの子たちも、学園にいる他のドールたちも、先生たちも、外の世界も、あの一つ目の【ヒト】も。全部全部、諦めたくないから。
「さて、まだまだ闘わないと、だね! お腹いっぱいにならないよ、先生。もっと、もっと、もっともっともっと、もっと、欲しい」
ふう、と一つ息を吐き、ディアの足は先生の机へとまっすぐに向かっていった。確かあの、彼の努力の宝箱……引き出しの中には、先生が授業で使う資料類がファイリングされて仕舞われていたはずだ。もしかしたら、お披露目に関する資料が残されていたり——なんて、馬鹿げた希望を謳いながら。飢えた愛の猛獣は。ディアは決して、歩みを止めることはない。
先生の執務机、その引き出しには、思った通り無数のファイルが収まっている。かなり分厚く、手に取るとずっしりと重たい。綴じられているのはあなた方がこれまで取り組んだ勉強に関する課題や、丸付けが終わったテストの答案用紙などが収まっている。そのどれもがあなたには見覚えのある内容だ。
あなたはそのファイルの群れから、数日前に課された課題の用紙を見つけ出す。一番上の用紙には『Astraea』との記名。どうやら彼女がどのように周囲と人間関係を築いているのか、ざっと纏められた書類のようだ。
これはあなた自身も数日前、先生に課せられた課題で取り組んだものだ。自身と、他者への印象を聞かせてほしいと彼に請われ、言われるがまま記載したのを覚えている。
どうして先生があのような要求をしたのかは未だに分からないでいる。
数日前の課題は16名分存在した。あなたもよく知るオミクロンクラスのメンバーの人数分である。時折他者に悪印象を抱いているドールもいるようだが、概ね親密な関係を築けているあなた方の記録だ。
そしてその用紙には、見慣れぬ書き込みが追加されていた。それは先生の筆跡であるとあなたは容易に気付けるだろう。人間関係を事細かに記された書類の上から、それに対する先生の所感やら分析などが細かく記載されている。テストの採点のようにも見えるが、あなたはどうにもこれらが異様にも見えた。
まるで人格をプロファイリングされているような、そんな感慨を覚えたからだ。
「これは……この間の課題? すごいなあ、先生は……もっともっと、キミのことが知りたいよ! もっともっともーっと、キミのことを喰らえたならいいな」
細い指を書面に滑らせ、ターコイズブルーの視線を分厚い書類の上で踊らせていく。愛し子たちが愛し子たちへ向ける、感情の矢印。あまり勝手に覗いて良いものではないだろうが、やっぱり愛おしくてたまらない。ディアにとってはこの世界に存在するもの全てが愛情の対象なのだから、当然と言えば当然だが。そしてその対象は、明らかに異質な先生の書き込みにまで及ぶ。ドールたちの『人格』とやらを分析するその文字列には、ある種の執念が感じられた。先程ミズ・シャーロットの手書き文を読んだ時とはまた違う、まとわりつくようなそれを。
ディアは、抱きしめられているみたいだと思った。先生の努力の痕跡を垣間見れたのがただ嬉しくて、鼻歌を歌いながら資料を元あった場所に丁寧に戻す。動揺も、恐怖も、一欠片の焦燥さえも、ディアには存在しない。ただ、守りたいと思う。抱きしめたいと思う。その先の幸せを、心の底から願っている。そのためなら、なんだってする。狂った箱の狂ったドールは、楽しそうに歌いながら、愛する人の帰りを待っていた。
先生がその居室へ戻ってくるのは、存外のこと早かった。扉を開いた彼は、執務机のそばに立つあなたをじっと見据えたかと思えば、にこ、と微笑みを浮かべる。
「ディア。私の部屋に居たとはね、何か用事だったかい。それとも、面白いものが見つかったか?」
先生は室内を横断してあなたの側まで歩み寄ると、「私の部屋はあまり面白味はないだろう。もう少し暇を潰せるものがあればいいのだけどね」と苦笑を浮かべながら、本棚の小難しそうな本の背表紙をなぞって、息を吐いた。
「先生! お帰りなさい、随分と早かったようだけれど、アメリアとのお用事は終わったのかな?」
その優しい微笑みを受け、ぱぁ、と執務室に花が咲く。たん、たん、と小さな体を跳ねさせながら駆け寄り、にこにこと笑みを浮かべて問いかける様はいっそ甲斐甲斐しい。さっきまで先生の異常性を垣間見ていたと言うのに、先生に向ける視線は柔らかかった。むしろ、先程までより柔くて、脆そうで。愛おしさを煮詰めたターコイズブルーは、先生の努力の跡を吸い込んで甘く蕩けている。こちらへ歩み寄る様を、笑う様を、息を吐く様を、全部全部、覚えていたくて仕様がない。もっと、もっと。ポケットから花を取り出して、指先で受け取るように差し出してみせる。これは、キミとの未来の贈り物。
ねえ先生、もし、私が今からする選択で、キミという花を手折ってしまったら。悲鳴、絶叫、断末魔。赤、赤、赤。もし、枯れ落ちてしまったら。ちゃんと、ごめんなさいを言うからね。
「えっとね、今日はね、先生に贈り物があってきたんだ! これなんだけれど……とっても可愛らしい花だから、大好きな先生に贈りたくって!」
あなたの軽やかな足取りが、跳ねるように、踊るようにこちらへ迫ると。先生は仕事を始める事なく、体ごとあなたの方へ向けた。先生はいつも、あなた方に何か用や、話があると分かるや否や、取り組んでいた仕事を一度置いてでも向き直ってくれる。どんな時でも真剣に話を聞いてくれるのだった。
ゆえに此度も。頼りになる大人に対するものではなく、恋人に接するような甘やかな視線を受け止めて、先生は首を傾ける。
「贈り物? ……ああ、なるほど。美しい青い花だね、寮の周囲に咲いていたのかな。このあたりには自生していないはずだけど。」
先生は花を目に写して、その目を細める。あなたが差し出すなら、躊躇う事なくその手に受け止めるだろう。宝石のように仄かに輝く美しい小さな花が一輪、彼の無骨な掌に転がっている。
特に彼に何か異変などは見られなかった。
「わざわざ遠くまで……探しに行ったのかい?」
先生の無垢で優しい指先が何にも蝕まれなかったことに、そっと息を吐く。何も殺したかった訳ではない。先生を守るためにそうなってもやむを得ないとは思っていたし、そうなったからと言ってディアの先生に向ける愛情が変わる訳ではない。それでも、恋人が傷つかなかったことを喜ばない恋人などいないだろう。その愛しい手のひらを両手で包み込むようにきゅっと握って、真っ直ぐに先生の瞳を見つめる。
「いいや? 遊んでいたらたまたま見つけただけだけれど……それが何か?」
当たり前のようにその薄い唇からこぼれた言葉からも、底の見えない深海のようなターコイズブルーからも、嘘を吐く時特有の動揺や焦燥は感じられない。本当に感じていないのだから、誤魔化す必要など一つもないのだ。ディアはいつだって正気ではない。ディアはただいつも通りに、愛する世界のことを、もっともっと知りたいと願っているだけ。
「この辺りには自生していないはずってことは、先生はこの花のことを何か知っているのかな?」
「……ふむ、そうか。いや、楽しんでくれているようで何よりだよ。
ディア、君は以前から好奇心と活力に満ち溢れているからね。けれどそれで怪我をしたり、猫を殺すような事態を招くこともある……ゆめゆめ忘れないようにね。」
先生は納得したように微笑んで、青い花を窓から差し込む明るい陽光に翳した。光に透かすと花は煌めく宝石のように一等強い輝きを見せ、大層美しいものであった。
「いや。だが少なくとも寮周辺には咲いていない花だ。森の中で偶然見つけたのなら、君は素晴らしい強運の持ち主だね、ディア。私に贈ってくれてありがとう。花はありがたくいただくよ、君の気持ちなのだから。」
「ご忠告感謝するよ、先生! お仕事で忙しいだろうけれど、少しでも暇ができたなら遊んでほしいな……先生とお話するのも、遊ぶのも、先生と一緒にいる時間なら、いつでもどこでも私たちは幸せだから」
ふふ、と愛おしそうに笑うその瞳は、ドールらしからぬ生命力に満ち満ちていた。鋭い光を惜しげもなく放ち続けるそのコアは、猫どころか世界さえも焼き尽くしてしまいそうで。静かに、ただ秘めやかに、狂っている。その真っ直ぐな光は、今はただ先生と、先生のその先にある希望へと向けられて。忙しい親に寂しいと強請る子供のような口調とは裏腹に、その言葉は恋人の愛に溢れていた。年上だろうが、【ヒト】だろうが先生だろうが、ディアの純なる毒牙から逃れることはできない。そしてそれは、もう失われた人の痕跡相手であっても。
「そういえば、ベッドに本が置いてあるよね? 『サウスウッド』というタイトルの! あのね、あのね、これは、ミズ・シャーロットの著書なのだろう!? この間先生にお話したものはノースだったけれど、今回はサウス! やっぱりあの一冊だけじゃなかったのだね、ミズ・シャーロットの著書! もしかしたらイーストもウエストもあるかもしれない! これって幸せなことだよ先生! どうして色んな所に散らばっているの?先生がベッドの上に置いておくなんて珍しいね! ねえねえ先生、もっともっと読みたいよ! もっともっと知りたいよ!!!」
先生の服の裾をぐいー! と引っ張り、もっともっと、と愛する人の生き様を強請る。ディアはいつだって、愛する人のことをもっと知ろう、もっと愛そうと精一杯だ。この前話した時の再放送のように質問を矢継ぎ早に口にするディアは、あまりにもいつも通りの、世界の恋人だった。
「そうだね、今度また皆で遊ぼう。何がいいかな、チェスか何か……室内での遊びでもいいし、外で思いっきり駆け回るのもいいね。何がいいか、決めておいてくれ。」
無邪気な子供のような当たり障りない要望に、先生のどこか張り詰めたような忠告も、ふっと糸が解けるように和らいでいく。ドールズみなで全てを忘れ、精一杯に遊ぶ──先生と共に。それらを一部のドールが笑顔で享受出来るかは、定かではない事だろう。
「ああ、あの本を見つけられてしまったか。ディアはめざといね、この物語の魅力にも気付いてしまったようだ。
……ああ、その通り。この本の筆者もシャーロットなんだ。彼女はね、昔から物語を自分で創作するのが好きで、必死になって、それでも楽しそうに執筆していたね。昔を懐かしんでいたのだけれど……片付けるのを忘れてしまっていたようだ。」
先生は目線をベッドの上に向けて苦笑を浮かべる。好奇心の塊かのようにいくらでもこちらに話をねだるあなたを訝しむ様子はない。しかし彼はやがて口元に人差し指を添えて、宥めるように小さく息を吐いた。
「もっと知りたい? そうだね、君の好奇心に歯止めが効かないところも長所だしね。でもこのお話はここまで。前も言ったけれど、先生の大切にしたい思い出なんだ。もしも気になるなら、また彼女の著書と巡り合った時に先生の元を訊ねてくれ。なんてね。」
「うん、うん! とっても楽しみだよ、先生! 愛しい先生のお話を聞くのも、先生の愛しい人のお話を聞くのも。未来って素敵だね、きらきらしたもので溢れてる!」
ずっとずっと、みんな一緒に。ミシェラも、オミクロンの子たちも、他クラスの子たちも、先生も、ミズ・シャーロットも、グレゴリーくんたちも、一つ目の子も、外の世界の人たちも、みんなみんな、一緒に。喧嘩したり、辛いことを分かち合ったり、たくさんたくさん話して、たくさんたくさん愛して。そんな、何気ない素晴らしい日々を、当たり前に手に入れられると思っている。ずっとずっと、信じていく。ディアはもう、無知で無垢な子供じゃない。そしてこれからもっともっと、残酷な真実を知っていく。それでももっともっと、その真実さえも愛していく。ディアの笑顔に咲いたターコイズブルーの花が、獣のように獰猛に光る。ぴょんぴょんと跳ねながらドアへと向かい、くるりと振り返った。美しい青き花々を辿り、いつか本当の光の中で、愛しいキミと。
「それじゃあ、私はミズ・シャーロット探しの冒険に出るよ! またね、先生! 絶対絶対約束だよ、愛しい人のお話、もっといーっぱいずーっとしようね!」
「……そうだね。君たちの未来はきっと明るい。私も常々、それを祈っているし、その助けになるのなら何でもしよう。」
──先生は。ミシェラや他のドールを暗澹たるお披露目に送り出したその口で、神妙に、重々しい口振りでそう告げた。その表情は慈しみに満ちており、虚言を吐いているようには見えなかった。
このトイボックスのサイクルを、あなた方のためになると考えているかのような口振り。
あなたがそれに気を留めるか否か定かではないが、先生はあなたを見送る姿勢に入り「ああ。それではまたね、ディア。」とまたあたたかな微笑みを浮かべる。
そうしてあなたは軽やかに図書室へ向かうだろう。
階段を上り詰め、寮の最上階に位置する埃臭い書物の蔵に辿り着く。図書室の天井は四階部分までを突き抜けているためか、とても高い。そして、木製のロフトを介して上階にも数多の書物がところ狭しと保管されているようだ。
図書室はほの暗く、壁に取り付けられた卵型の照明をつけてもまだ暗い。屋根裏の部分に切り取られた小窓から差し込む陽光が、空気中に舞う埃を幻想的に煌めかせていた。
「おや、これは……? 『夢の研究』……? もしかして、新しい本かな!? ああ、ああ、とっても素敵だね! 過去の証を愛でに来たら、新しい愛を見つけてしまった!」
たん、たん、とステップを踏みながら階段を駆け上り、舞い散る埃さえ天使の羽のように魅せてしまう元トゥリアプリマドール。未だ耳に残る先生の愛おしい声を頭の中で反芻しながら、真っ先にあの愛に溢れた絵の方へと駆け寄ろうとする……が。ふと、鋭い瞳が獲物を捕らえた。『夢の研究』とタイトルのついた、一冊の本。比較的真新しいように見えるその本は、推測するに最近追加されたものだろう。新品の紙の匂いにコアを躍らせながら、その柔い指先で恋人の頬に触れるかのように優しく本を手に取る。愛に溢れたその輝きを、早くこの瞳に映したくてたまらない! 愛しいキミのこと、全部全部喰らってみたい!
逸る気持ちをなんとか抑えながら、傷つけぬようにそっとページを捲った。
【夢の研究】
人が睡眠状態にある際、しばしば安定した脳波に覚醒時に近い乱れが見られる事があります。これは人が夢を見ている時間、『レム睡眠』と呼ばれている状態です。
レム睡眠の際には、睡眠状態にある人の瞼の裏側で眼球が小刻みに動きます。レム睡眠とはこの事から、『Rapid Eye Movement』の頭文字を取って名付けられました。
人が覚醒状態にあるとき、脳内には『ノルエピネフリン』と『セロトニン』と呼ばれる神経伝達物質が分泌されています。これらは人が覚醒状態にある際、学習能力や判断力、記憶能力に貢献する重要な役割を果たしているのです。
一方人が眠りについたとき、脳は休息状態に入りますので、上記二つの神経伝達物質の循環が低下します。その代わりに『アセチルコリン』と呼ばれる物質の分泌が増加し、脳の感情中枢を刺激します。こちらの物質の影響で、人はレム睡眠時に景色が鮮明に見える事があったり、感情の発露を促されたりするのです。ただし脳からの運動神経への電気信号は睡眠時遮断されている為、現実で体が動いたりすることは殆どないでしょう。
人は夢を見ている間、『日常生活で知覚した様々な体験の記憶を整理・統合』しています。生存の為に必要な情報を膨大な記憶の中から選別し、脳に定着させるこの作業を行う事で、人は滞りなく日常生活を送るということが可能になっています。
また夢は人の心を癒すという役割が持つことも判明しています。レム睡眠中、人はストレスとなる感情を処理することがあるようです。トラウマになるようなショックな体験をした時、それらを思い返した脳が夢を見させます。そこに現実にはなかった要素が付加されていき、悪夢はその形を変え、その出来事に付随するネガティブな感情を忘れていくと言われているのです。
脳の休眠時に見る夢が持つ大切な役割というものは荒唐無稽に思えて、存外に侮れないものです。自我がある生物であれば、生存の為に必ずや必要となるのも頷けることでしょう。
「夢、電気信号、記憶、自我、ドール……私たちが見てる夢、って」
新しい本特有の匂いを一身に受けながら、鋭い瞳は膨大な文章量をひたすらに吸い込んでいく。文字が、思考が脳を埋め尽くし、周りの音や光さえ全くディアの下には届いていないようだった。もっと深く、もっと深く。その愛しき本のことを全て知り尽くし、全て愛さんとするいっそ狂気的なまでの希望。夢の淵へと沈み込んでいくディアの愛を現実に引き戻したのは、愛しい恋人の声だった。
《Storm》
ソフィアを探して学生寮まで戻ってきた。
まさに興味と思いつきのまま足を運んでいる感じだ。
ストームは長い足を弾ませながら図書室へ入るだろう。
夢の事を話したらソフィアはきっと呆れる。所詮造られた記憶でしょ?と少し怒られるかもしれない。
が、夢にまでソフィアを見られたのが相当嬉しかったのだろう。そして同時に早く夢の中でディアに出逢いたい。
そうも思うはずだ。
お母様にそっくりなディアとお母様を同じ空間で見られるかもしれない。これ以上ない幸福だ。
考えるだけで……あぁ……ディアディアディア!!!
ストームの頭の中はディアという博愛を具現化にしたようなドールが埋め尽くす。
ディアに逢いたい。いつの間にかソフィアに夢の事を話すことを忘れディアを探してしまうのはストームにとって仕方の無いことだろう。
念願叶ってか偶然か、彼の抱く世界への愛を物語るにはぴったりな薄い桃色の髪にターコイズに宿した底なしの希望を持つドールが。何にも替え難い彼の姿が。
「ディア! こんな所にいたのですね。今朝はすみません、リヒトに呼ばれていたものでディアの身支度のお手伝いが叶わず……ですが今日のディアの御髪も流星群が降り注いだように輝いていて素敵です」
ディアの姿を見るなりストームは声色高々に謡い彼に近付く。もちろん、毎日ディアに頼まれ身支度を手伝っているのでは無い。ストームは毎日彼に身支度の手伝いをさせて貰えること要求し、彼から許可を得た時のみ“手伝わせて貰っている“だけだ。
だが今朝は、何やら物々しい雰囲気を纏った相棒に呼ばれ危機を感じたのでディアに身支度の手伝いがいるかどうかすら聞かずに出てしまったのだ。
だからこそのストームの常軌を逸した喜びようである。
彼の忠犬は表情さえ動かねど彼に懐いていることがよく分かるだろう。
「あ……ストーム! 来ていたのだね、ああ、愛しいキミの光に気付けないだなんて、自分が不甲斐ないよ! 身支度なら大丈夫だよ、私はむしろ尽くしたい方なんだ。もちろん、キミに尽くしてもらうのもとっても甘美で素敵だけれど……機会があれば、私にもキミの美しい宵闇の髪を飾らせてほしいな」
ぱちん、と弾かれたように顔を上げると、それはそれは嬉しそうに白い頬に朱を差してにっこりと笑う。ディアは、自分の愛情に見返りを求めない。それは言葉の通じない花や空気にまで等しく愛を注ぐ様からも読み取れるだろうが、自分の愛情に愛を返してもらえるのだってディアにとっては等しく愛の対象だ。自らを慕ってくれる愛しい恋人の髪を撫で、そのまま流れるように口付ける。結局、尽くされれば尽くされるほど尽くしたいと感情が向くのは流石トゥリアドールと言うべきか。あからさまなストームの態度とは正反対の、先程先生やアメリアにも向けていたのと全く同じ、愛おしそうな笑みを浮かべて。ディアの沈み込んでいた感覚はやっと、全方位に行き渡り始めた。
《Ael》
よいしょ、よいしょと頑張ってロフトへ登る。足りない身長を補うために椅子を用いて、ロフトから図書室を見渡す。ほんの少し鬱屈に見える図書室を、ワクワクしながら見渡す。太陽の光によって照らされ、明るくなっている場所に本があり、気になって手に取る。『ノースエンド』というシンプルな本だ。古く、昔の本なのだろうと思いページをめくろうとした。その時だ。2人分の声が別方向から聞こえてくる。あれは、もしかして! そう思って『ノースエンド』を抱え、気をつけながらロフトを降りる。椅子をよいしょと元の場所に戻して、ノートと筆記具もしっかり持ち、声の元へとてとてと歩いた。
「えっと、す、すと、スト! と、えっと……ディア、ディアなのです! 偶然なのです、会えて嬉しいのです!」
2人の姿を目で捉え、顔を交互に見る。えっと、確か、確か、と名前を必死に思い出す。エルの脳が、知っていると答えを出す。ディアとストーム、2人の名前を思い出してはきゃっきゃと嬉しそうに飛び跳ねる。水色の鮮やかな髪の毛が、ふんわりふんわりと揺れる。目に浮かぶ天使の羽も、羽ばたいて見えた。会えて嬉しいと愛を確かめるような2人を前にはしゃいだ。
《Storm》
「─────ッ!!!!!」
ディアの愛情表現に息を呑む。コアがピタリとその脈動を止めてしまったようだ。それとも全身を回る液体が一瞬にして固体になってしまったよう。
ストームの脳は考えることを放棄して今享受されている幸福過ぎる事実を受け止めるだけに全性能を注いでいた。
上手く息が吸えない。呼吸という動作が出来ない。
脳がクラクラして体温が上がっていく。
止まっていたかと思っていた脈動が今度はうるさいほどバクバクと大きな拍動を響かせている。
「ぁ、…………はぁ、貴方様はなんて、なんて──」
罪なお方。
心酔してクラクラとする頭は必死に意識を繋ぎとめようとする。ディアの行動はストームをおかしくする。
目を当てるには眩しすぎる光を目の前にストームは矛盾した感情しか湧いてこない。
羨ましい、愛してる、妬ましい、大好き、鬱陶しい、欲しい。
自問自答するように感情がぐるぐる回りようやく吐き出せた言葉は日常的なものだろう。
「コアからお慕い申しております。愛しきディア」
猫のように細い瞳孔がストームの特徴であるが、この時ばかりはちぐはぐな瞳を覆い隠すほど開ききった瞳孔が真っ直ぐにディアを見詰めている。
片膝を着いてお辞儀をし純粋な愛を今日も彼に伝える。
その時に微かな音がし、反射的に背中の後ろへやるように立ち上がる。警戒しながら音の出る方を見ていれば、危なっかしい足運びでロフトから舞い降りる天使の姿が。
エルだった。
強ばった表情が一気に柔らかくなる。ストームはエルに近付き落ちぬように手を添えて降りるのを手助けしてやった。床に着地するなり必死に思い出す仕草をする彼の姿を愛おしそうに見詰め、彼の背の高さに合わせるようにしゃがんだ。小さな飛び跳ねをし喜びを表現するエルの頭を壊れ物に触るように撫でる。
「えぇ、ストですよ。素晴らしいですエル。ちゃぁんと覚えていられましたね。
ジブンも貴方様に出逢えた幸福が身体中に満ちております」
エルの姿を見るなりストームの頭の中は正しく切り替わり、脳内でブレインストーミングを開始される。
エル……記憶障害を持つドール、天使の羽根を宿した瞳、ボーイズモデル、最近は簡単な事は記憶できる、棺の蓋、√0……と。そういえばエルは√0に関係していたと、ストームは思い出した。
だが、エルに√0のことを聞いたとしてもしっかりとした答えが得られるはずもない。半ば諦めの境地だが、問いただすことにしよう。
「……エル、今からジブンが聞くことですが、覚えていなければ無理に思い出すことはありません。
貴方様の棺の蓋にたくさんの√0が記されているのを見たのですが、なんの事だか分かりますか?」
《Ael》
「えへへ、スト、ちゃんと覚えていたのです! 嬉しいのです!」
ロフトから降りるのをストームは優しく手伝ってくれた。お陰で怪我もなく降りることができた。ありがとうなのです、と嬉しそうにエルはストームへ感謝する。覚えられていたと褒められれば、にぱにぱと笑顔を咲かせて嬉しい、と言葉にした。優しく、優しく頭を撫でられては、それが心地よくてまるで猫のようにすり、と軽く手に擦り寄った。
「るーと、ぜろ……√0、ルートゼロなのです? えぇっと……うぅん……………
あっ!!! 知ってるのです、エル、この間見たのです! 眠る前に、√0があったのです、何なのでしょう、エルもよくわかっていないのです………でも、多分、きっと、きっとその…大事! とっても大事なことなのです。……ルートゼロは、エルたちを助けてくれる、えっと、救世主なのです。この先の、みんなの苦しみから解放してくれるのです。もう、目覚める……はずなのです、うぅん……とりあえず、ルートゼロ、√0とっても大事なのです! エル、忘れてないのです!」
ストームに、√0が棺の蓋にたくさん記されていた、そう言われては必死に思い出す。√0、それは目に焼きついて離れなかったあの、ルートゼロ。ふと眠る前に、薄暗い中存在していた√0。その時確かに何か答えを導き出した。当時のエルができたのなら、いまのエルならできて当然だ。ドールズを解き放つ、救世主の目覚め、ルートゼロは目覚め、自分達を解放しようとしている……そんな答えを、再度導き出した。答えを忘れないうちに、早口で、でも、辿々しく、伝わるように言語化する。
「えっと……ディアに、スト、わかった、のです? エルの言いたいこと、わからないならもう一度説明……できるかわからないけど、するのです! 2人とも、√0について他に何か知ってるのです?」
先ほどの笑顔とは反対の、必死の顔で、ストームに訴えかける。わかってほしいと、天使は目を見開いた。
「ふふ、かわいいねスト——エル! エル! ああ、覚えていてくれたんだね! キミの心に焼き付く存在となれたこと、とっても嬉しく……いや、今日も愛しているよ、エル!」
跪いたストームの髪を愛おしそうに撫で、目を細めて笑っていれば。クリアになった耳に届くのは、ころころと笑みをこぼす鈴の音のような恋人の声。嬉しそうに駆け寄り、いつものようにキザったらしい愛の言葉を囁こうとして、やめた。
どうやら、自分が誰かを愛することで誰かを怒らせたり、傷つけてしまうことがあるらしい。怒りとか悲しみとか、感じられないけど理解はできる。愛せる。でも、いざそれを自分で感じようと思うと、どうもだめだった。私には、ディア・トイボックスには、必要のない感情だったから。わからない。わからないけれど、わからないなりに、キミを心の底から愛したい。悲しんだり、傷ついてほしくない。私たちの天使が、いつまでだって輝き続けていられるように。エルが頑張って話してくれるその愛しい言葉に、安心させるように小さく頷きながら耳を傾ける
もっと知ろう、もっと愛そう、キミのことも、私は絶対に諦めない。
「救世主……私は√0について知っていることはないけれど、エルの言葉はちゃんとわかるよ。私たちの希望、エルと一緒だ。話してくれてありがとう! えらいね、エル。ストームも、聞いてくれてありがとう! 二人ともえらい、えらい!」
《Storm》
「えぇ、理解出来ましたよエル。√0はジブン達の架け橋となるかもしれませんね。ナイト様かもしれませんのでエルに見習い、忘れぬように√0を蓋に記しておこうかと思いましたよ」
ストームからの真顔で発せられるジョークは本気で遂行してしまいそうな危なげがあるだろう。“救世主“ストームの全く予期していない返答が返ってきて少々気後れしそうになった。
てっきり√0はカイブツの名だとばかり思っていた。そしてなぜエルのベットの蓋におびただしい程の数が書かれていたのも、昔のオミクロンドールがお披露目を見に行き見てしまった惨劇とリヒトのように聞いてしまった単語の√0をバケモノの名だと認識し、リヒトと同じように蓋に記したのだ、と。
救世主、引っかかってしまう。
ディアは伝えてくれたエルと、何故か自身も褒めるディアに対しストームは当然のように素直に言葉を受け取り、エルをめいいっぱいに褒めるだろう。
こんなふうに……。
「身に余るお言葉ありがとうございます。
エル、よく覚えていてくれましたね。貴方様は確実に成長しています。恐縮ながらジブンが証明しましょう。
自信を持ってください」
ストームはディアにお礼を言う時は立ち上がり、いつも通りにお辞儀をするが、すぐにまたエルと視線を合わせるようにしゃがみこみ柔らかい雰囲気で語るだろう。
本人は微笑むことが出来ていると思っているが、残念ながら全く口角は上がっていない。
このあからさまな態度の違いは仕方ない事なのだ。
エルはストームがオミクロンに堕ちてから彼の素性を知り手助けをするようになった弟のような存在。対するはストームが恋に焦がれたドール。憧れ、尊敬、幸福、嫉妬、憎悪、今までにほぼ全ての感情を向けてきても彼から返ってくるのは輝きを失わぬ希望。
その希望にあてられ今日もストームはディアに恋をしているから。
年齢設計がエルの方が上だろうと関係ないのだ。
「√0は目覚める……ふふ、目覚める日が楽しみですね。
目覚めると言えば、エル、ディア、貴方様達は夢の中でクラスメイトに出会ったことはありますか?
実は本当に先程の話なのですが、ジブンは白昼夢を見ましてその中でソフィアらしき人物とすれ違ったのですよ。いえ、らしきは失礼でしたね。あの麗しさと強かさを肌身に感じることが出来るのはソフィアしか居ない。あれは確実にソフィアでした」
エルが伝えてくれた事柄から自身も情報を共有する。
連想ゲームのように思い出した事だったが、その時の熱量をそのまま伝えるだろう。
エルが怖がらなければいいが。
《Ael》
「よかったのです! えへへ、ディア、ありがとうなのです! ストも、ディアもとてもえらいのです! √0、ストも蓋に書くのです? エル、お手伝いするのです!」
ディアに愛している、そう言われればいつものようにありがとうなのです! と微笑みをこぼし、偉い! と褒められては嬉しそうに顔を綻ばせる。理解できたという2人の言葉を聞き、よかったと胸を撫で下ろした。√0、まだ輪郭もはっきりしていない自分達のヒーロー。今のままでも充分幸せで、楽しいのに解放してくれるという√0は、何がしたいのだろうか。エルはその疑問をずっともっているが、解決するには√0に直接聞かないといけない。
ナイト、つまり騎士かもしれないから自分も蓋に√0と記そうかというストームに、エルも手伝うと冗談が伝わらずに健気に笑った。
「わぁ! エル、ちゃんと成長できているのです? とっても嬉しいのです! これもみんなのおかげなのです! もっとがんばるのです!」
エルに成長していると告げるストームに驚いた様子で嬉しいと感謝する。視線をしゃがみ込んで合わせて話す彼は、残念ながら口角は上がっていない。これがストームだ、仕方ないとエルはそれでもお構いなしにストームの分まで笑った。
「夢の中で……? えっと……夢……、エル、夢を見ても忘れちゃうのです、夢の中でソフィとすれ違ったのです? とっても羨ましいのです! エルも、いろんな人と会いたいのです!」
夢の中でソフィアとすれ違ったと、勢いよく告げられる。夢というものを体感したことがない、いや、していたとしても覚えていないエルは、そんなストームに対していいなと羨ましがった。
「ふふっ、それはいい案だね! 確かに忘れないで済むだろうし、二人とお揃いの景色を見ながら眠ることができるのはとっても幸せだろう……今日の夜にでも記そうか、何を使えば記せるかな?」
細い顎に指を当て、くすくすと笑いながら言うその様は冗談だと無闇に一蹴出来ないような言いようのない雰囲気があった。ストームと同様、ディアなら本当に今夜にでもやってしまいそうだ……。愛する人たちと同じ景色を見たい、愛する人たちのことをもっともっと知りたい、愛したい、ディアにはずっと、それだけだから。ストームの喜びが、エルの健気さが、じわじわディアの空っぽの器に注がれていくみたいに、にっこりと笑う。いっそ危ういほどに、人間的に。
「みんなと会う夢かぁ……私も見たことはないね。ああ、もし見られたのなら、夢の中でまでキミたちに愛を囁けたなら、きっとさぞ幸せなことだろう! そういえば、先程見つけたばかりの本に【ヒト】の夢の仕組みについての記載があったのだけれど、キミの愛しき問いへのお役に立てるかな?」
未だ両腕に大事に大事に抱えていた本——【夢の研究】をストームへと差し出し、恋人たちの幸福のための花束となれば、とターコイズブルーの瞳でただ願った。140cmの恋人は、あまりに強く佇んでいる。
《Storm》
参考文献を差し出すディアにストームは目を見開く。
しばらく石像になったように固まって、ようやく動きだした時には感極まった震え声で話し出す。
「あぁ良いのですか? ディアはまだ読み終わっていないのでしょう? 貴方様を差し置いてジブンがこの文献を読んでしまうなんてなんて烏滸がましい。
ですが、ジブンはとても嬉しいです。一時でもディアと同じ題材について異なる場所で同じ時に考える事になるなんて……。この感動、伝わっていると嬉しいです」
一息で言ってしまうと「もし読み終えていなければ、共に読みましょう」と誘い、差し出された本を押し返した。
ディアと同じ本が読める。それだけで幸福を使い切ってしまったようだが、幸せを感じられるなら取っておくより積極的に掴みに行った方がいいだろう。
ストームはひと呼吸おいて落ち着くと、エルの方へ目線を向けた。
エルの腕にもなにか大切そうに抱えられている。
「エル、それは【ノースエンド】ですね? 良い物を見つけて来ましたね。著書は確かミズ・シャーロット。既に読まれましたか?」
《Ael》
「ディアの本、エルも読みたいのです! とっても興味深いのです…!
これ、なのです? さっきロフトの上に登って見つけたばっかりなので、読んでいないのです、スト、ディアはもう読んだのです?」
ディアの差し出した本に興味を持ち、キラキラとした眼をディアへ向ける。夢についての構造だなんて、気になって仕方がないのだ。夢を見ても忘れるエルにとって、夢はとても興味深い。
ストームにエルの持っている書物、ノースエンドについて触れられれば、この書物がミズ・シャーロットによって書かれたものだと知った。まだ読んでいないため詳しくはわからないが、彼らはもう読んだのだろうか? そう思って訊いてみる。どんなお話がエルを待っているのか、ワクワクする。ディアの持っている本のことを忘れてしまっているのは、ちょっと残念だが。
「ならみんなで一緒に読もうか! 愛する人と愛する知識を共有できる時間……ああ、とっても愛おしいね!」
ストームとディアにも見えるように、足早でありながら丁寧な所作で大きくページを開く。愛しくも賢い二人であれば、先程ディアが手に入れた知識を問題なく吸収してくれるだろうとただひたすらに信じ、ディアは鼻歌を歌いながらこの甘美なる一時を享受した。が、ノースエンドという言葉を耳にした瞬間。その小鳥の囀りのような美しい鼻歌は、子供のような歓声に変わる。
「ああ、そうだ! 【ノースエンド】と言えばね、さっき先生のお部屋で新しいミズ・シャーロットの著書を見つけたんだ! 【サウスウッド】というお名前なんだけれど、そちらもとっても素晴らしくて! あっ、私たちは読んだよ!」
愛のことになると周りが見えなくなるのは、世界の恋人であるディアも同じことである。ノースエンド、ミズ・シャーロット、その単語を耳にした瞬間、弾かれるように愛しき発見を口にする。きらきらとターコイズブルーが瞬き、薄い唇からは躍るように言葉が飛び出し、とにかく素晴らしいことは十二分に伝わるだろう。喜びのあまりエルの問いに答えることを一瞬忘れていたが、そこは流石世界の恋人。エルの問いにもしっかりと答え、楽しそうに微笑みをこぼす。
《Storm》
「おや、今お読みになりますか? それならディアはこちらに。エル、こちらへ」
本を広げた憧れの人を見るとストームはすぐに近くにある椅子を引き、彼をそこへ招いた。エルの事は抱えると自身の足の上へちょこんと座らせる。
無論ディアの方が小さいが、彼に頼まれなければ基本的に彼を支えるような行動は取らない。ディアはストームの手助けなんぞなくとも強く気高く生き、大地より広い愛でストームやエルを始めとするドールズを包み込む懐を持った模範的ドール。
ストームにはディアがそう映っているから。
席に招きながらふと話に持ち出すノースエンドの話。ディアはたまらずに目を輝かせた。てっきりミズ・シャーロットはここの元ドールだったのか? という答えを聞けるのかと思えば新たな本が見つかったのだという事実。
ストームは意外そうに瞬きするとすぐに思考を巡らせた。
【サウスウッド】……北は終わりで南は木と来た。
さて分からないがひとまず夢についての知識欲の方が勝ったストームはディアを宥めるだろう。
「ディアその話は後にしましょう。今は夢の世界のお勉強を所望します。
エル、貴方様の最近の成長は目覚しい。ジブンから挑戦して頂きたいことをお伝えしますね。この本に書いてある単語を覚えられるだけ覚えて欲しいのです」
エルはデュオモデル。本来ストームなんかよりメモリーが膨大であり処理能力にも長けている。だからこそ、いくら欠陥があれどエルの持てる力の全てを発揮して欲しいのだ。ディアを席に招き戻し、エルを膝の上にしてディアによって開かれている【夢の研究】に目を通してゆく。
《Ael》
「お、覚える……のです? ……エル、そんな自信はないのです……でも、ノートに書いてそこから導くことはできるのです! 自信は本当に、本当にないのです。でも、2人のためなのです、エル、頑張るのです!」
夢の勉強をしよう、そう言うストームの提案に乗る。エル自身としては覚えるなんて難しいが、ノートが付いているから大丈夫だろう。……きっと。すぅ、はぁ、深呼吸をする。頑張れる、2人のためであるならこの脳みそを使って答えをいつでも導き出せるように、できる。
「レム睡眠……Rapid Eye Movement……ノルエピネフリン、ネルエピネフリン……セロトニン! セロトニン、えっと……これらは人の学習能力や判断力、記憶能力に貢献……寝たら低下、代わりにアセチルコリン…………」
ノートにそうやって書き留めていれば、エルの脳内は何もかもでいっぱいいっぱいになってしまった。アセチルコリン、そう言葉を発してからぴくりとも動かなくなり、そして動いたかと思えばエルの目、手、身体、全てが震えていた。
「あ、あの………えっと……こ、ここ……は、どこ、なのです……? あなた、たちは……えっと……」
大事なことなのに、大事なことなはずなのに! 持っているノートに書いてあるものも読める余裕すらない。目の前にいる大事な大事な2人が、わからない。ほろり、ほろりと涙が出てくる。忘れたくない記憶と共に、涙がたくさん溢れ出した。
「エル!」
時間は無為に過ぎていく。日は落ち、月は昇り、今日も誰かの死が決まる。強大な運命の前に、ただただ押し潰されるしかない陶器の命。ああ、ああ——それがなんだ!
今、目の前で、愛しい恋人が泣いている以外に、優先すべきことがあるものか!
愛しい彼の涙を断ち切るように、大きな声で彼の名を呼ぶ。大事な大事な、仲間の名前。エル、エル、どうか、どうか、私の命が、キミの命が尽きたとしても。
愛していると、叫び続けよう。まだ見ぬ愛を、そばにある愛を、抱きしめ続けられるように。キミがどれだけ私たちを忘れても、その度にキミの心を愛す。ずっとずっと、愛しているよ、エル。ちゅ、と小さなリップ音が、エルの細い指先で踊る。エンジェルじゃなく、尽くす者でなく、ただ一人、私たちの愛した【エル】へ。キミの勇気に、最大限の賛美と感謝を。これだけ、これだけは、どうか許して。
「エル、よく聞いて。今はこれだけでいい、ずっとずっと、これだけでいい!
——私たちは、エルのことをずっとずっと愛してる。落ち着いて、息をゆっくり吐いて、大丈夫、ずっとずっと、ここにいるよ」
震える体を力いっぱいに抱きしめて、柔い髪を優しく撫でた。涙を拭って、その美しい瞳をまっすぐに見つめる。——今ここで、恋人の一人救えないで、何が元トゥリアプリマドールだ。
《Storm》
天使の輝きを埋め込んだ瞳から大粒の涙が零れる。
エルの瞳の輝きに反射するように流れ出る涙はまるで天からの恵みの雨のようにストームには見えている。
だがストームはいつものように「美しい」だなんて言葉を発しなかった。それどころか溢れる涙を見て目を伏せる。
──まだ、早かったようですね……。
無理な要求をしてしまった。
ストームは自身への嫌悪感からくる自己抑制からカチカチと爪を弾いてそのまま爪を手のひらに食い込ませる。
その嫌悪感も自分勝手な物。あまりに利己的な物。
ストームはそれを理解していた。
そして処理する。
「すみませんエル、ジブンが無理な要求をしたばかりに辛い思いをさせてしまいましたね。
平気ですよ、貴方様は賢い。また一から覚えていきましょう。持てる力全てで貴方様を支えさせて頂きます」
ディアに抱き締められているエルに対し、優しい手付きでエルの頭を撫でた。腫れ物に触る手つき。慣れたもの。
無償の愛にも似た手つきで撫で、そのまま彼の手から零れ落ちたペンを拾い上げ、涙が滲むノートを手にサラサラと文字を記していく。
「自己紹介から始めましょうか。
はじめまして、エル。ジブンはストームと申します。
貴方様へ抱き着いていらっしゃる方はディア。素晴らしいお方です。
それとここに他の皆様の事も書いておきましたし、それでも覚えられない方が居ましたら“貴方様の記憶”をご活用ください」
ストームはエルの手を取り彼の指先を自身に当てる。そして簡潔に自己紹介、その後にディアに触れさせてディアの紹介を終えた。
ディアについてはとてもとても話し足りない。が、今余計な言葉を言ってしまうとそれこそエルの記憶のキャパをまた越えさせてしまう可能性があるので一言で留まった。
そしてエルにノートを見せる。
そこにはクラスメイトの名前と特徴を完璧に捉えた簡単なイラストを添えたものが記してある。
ストームは自身の出来る精一杯の微笑みをして見せる。
依然として下手くそでぎこちの無いものだ。
「ジブン達以外のドールに会って思い出せなかった時に」と、ページの端を折り曲げながら付け加えて。
《Ael》
「っう、うぅ……すと、と、でぃあ……ごめんなさい、ごめんなさい……っ、でも、思い出したのです、もう、わすれないのです、ノートにも、かいてあるから、エル、ノートなくても、だいじょうぶになれるように、もっと、もっとがんばるのです……! ありがとう、ありがとうなのです、スト、ディア!」
意味もわからないまま抱きしめられる。でも、暖かな体温に確かに慰められ、愛された。優しい手つきにも、癒され、大切にされた。その事実が嬉しくて、なんだか涙が止まらない。もう一度自己紹介をされれば、うんうんとエルは頷いて名前を繰り返した。すと、でぃあ、すと、でぃあ。大事な大事なこと。わすれてはいけないこと。記憶にくっきり焼き付けるようにしてノートを見た。あぁ、あぁ、もっと、もっと大事なドールがいる! こんなにもわすれてしまっていたなんて。悔しくて眉を寄せた。
みんなみんな、エルにとってだいじなだいじなドール。ミシェラだって、わすれてはいけない一つの記憶。ストームの作ってくれた一つの記憶を大切そうに撫でて、ディアにぎゅっと抱きついた。そして、今度はストームの高い頭を頑張って撫でた。
「ディア、愛してくれてありがとうなのです、エルもディアをたくさん愛するのです! スト、ストも愛してくれてありがとうなのです、エルにできるお返しは、ちょっとしかないのです……でも、もっと成長して、たくさんお返しするのです!」
もう涙は浮かんでおらず、天使の笑顔が浮かんでいる。愛すること、愛されることを新たに記憶に刻み、ひとつ、エルは成長できたのだ。