Chapter 1

A TreeHouse of Memories

Secret event

 ──カンパネラは、友人を名乗る頭の調子が外れた少女ドール・ドロシーに、訳も分からず手を引かれていた。
 彼女は問うた。『作り物のドールが見るはずのない夢』について。
 その解は、オミクロン寮の外れに存在するのだと言う。

 青い花が導く。あなた方を過日の夢へと。

Chapter 1 - 『Apple to Appleを誓え』
《A TreeHouse of Memories》

【学生寮1F ダイニングルーム】

Rosetta
Campanella
Brother

 ──それはある日の正午過ぎのこと。

 定時に行う昼食を済ませて、今日もオミクロンのドールズは各々すべき勉学や、或いは時間潰しのためにダイニングから立ち去っていく。
 閑静になりゆくダイニングルームで一人ぽつん、と座席に腰掛けていたカンパネラは、以前にドロシーから受け取った手紙について、どうすべきか考えあぐねていた。

 このメッセージを“カンパネラ”に。

 まず、これを誰にも見せるな。人が居るところなら直ぐに場所を変えろ。
 既にそうしていると考えた上で、重要なことをオミクロンの親愛なるワタシの友人に頼みたい。

 明日の昼、ワタシは友人と共にオミクロン寮に出向く。柵の外に出てとある事実を確認する為だ。
 お前はそれに同行しろ。勿論メリットも提示出来る。


 “正体不明の夢”
 と聞いたら心当たりがあるはずだ。

 ワタシの目的地はお前の夢にも深く関係している。行ってみる価値はあると思うけど。不安なら知人を誘致してもいい。三人ぐらいなら問題無いだろ。

 では、昼食後、十四時丁度に柵の前で待っている。10分を過ぎたら来ないものと判断して柵越えをするからそのつもりで。

 詩の上の役者・ドロシー

 ……ダイニングルームに設置された時計を見上げると、もう時刻は十三時半を回ろうとしていた。

 ドロシーからの招集の時間まで、もう間も無い。
 あなたはまず、この手紙について──そして、正体不明の夢について探求する決心をしなければならないだろう。

《Campanella》
 正体不明の、夢。
 思い当たりは当然ながらあった。この頃見る不思議な夢。知らないドールと話をする、ただそれだけの夢。
 ……そして。

 あの、謎の白昼夢。

「…………」

 カンパネラは、いつも暗い顔を更に暗くして考え込んでいた。紛い物の鼓動が大きく跳ねて、みぞおちが心なしか苦しい。

『カンパネラ。貴女が決めるのよ。』

 蘇る姉の声。彼女は勧めも止めもせず、ただ『貴女が決めて』と言った。柵越えなんて危ないし、規則を破るのはよくないし、この手紙の差出人のことを、姉も警戒していたはずなのに。てっきり止められるとばかり思っていたのに。

『求めるのなら、行きなさい。求めないのなら無視なさい。彼女は同行を強制していない。私も決して、何事も強制しない。』

 行きたくない。わたしは姉に言われて、すぐにそう思った。しかしわたしはまだ迷っている。行くか、行かないか。知るか、知らないか。

 わたしはあの白昼夢たちを思い出す。
 夕陽に照らされたこの箱庭で、オルゴールを差し出す彼。寮の庇から手を引いて、日向の方へ連れていってくれた彼女。
 知らないはずの……でも、確かに“知っている”彼らのことを思い浮かべると、わたしはどうにも落ち着かなかった。

 時計を見上げる。ドロシーとの約束の時間まで、あと少しだ。

 ──そして、カンパネラは席を立った。肩をこわばらせ、胸を抑えながら。

「………行かなきゃ」

 行きたくない。知りたくない。でも、行きたい。知りたい。
 矛盾に頭がぐちゃぐちゃになる。それでも、カンパネラは一歩踏み出す。
 行かなければ、いつか後悔するような、そんな気がした。

 あなたは深く思い悩み続け、やがて夢の正体を確かめることを選んだ。未だに胸中にはこびりつくような恐れが残っていよう、払い除けられる筈もない。

 それでもあなたは霧を掻き分けるように、席を立った。

 ドロシーは柵の近辺で待っていると手紙に綴った。であれば、まずは柵まで辿り着かなければならない。

 あなたは踵を返して、重苦しい不安で凝り固められた決心を胸に、神妙な面持ちでダイニングルームの出口へ踏み出す。
 そんなカンパネラの様子を、ダイニングルームに残っていたブラザーは見ていた。いつも表情が悪い彼女であるが、今日はいつにも増して深刻そうだ。

 彼女はまるでこれから飛び降りるのではないか?と言った重い足取りでダイニングルームを出ようとしている。
 不安しかない足取り。もしかすると、声を掛けるべきかもしれない。

《Brother》
「……カンパネラ」

 席を立った。
 立たずにはいられなかった。

 ブラザーは普段よりも声を潜めて、カンパネラの名を呼ぶ。穏やかな微笑みがその顔には浮かんでいるが、いつもの彼女に向けるようなものではない。

「これは、単なるお節介なんだけれどね?
 ……もし、もしも君が何か考えていることがあるのなら、僕にも話してほしいな。何か出来ることがあるなら、協力したい」

 歩き出したカンパネラの元に、寄り添うように近づいていく。柔らかい声でゆっくりと言葉を紡ぎ、最後に薄く笑いかけた。これでいいのかは分からない。けれど、その足を少しでも軽くできたのなら。この部屋に残っていて良かった、と、ブラザーは心から思う。

「おにいちゃんは、いつでも君の味方だよ」

 ね、と短く付け足す。
 許されるのなら、その背中に手を添えようとした。安心させるように、落ち着かせるように、優しくさすろうとするだろう。悩んでいる妹を放っておくのは、兄のすることではないからだ。

《Rosetta》
「ふたりとも、話してるなんて珍しいね。いいことでもあったの?」

 ばったり。
 そう形容するのが正しいだろう。部屋に元々いたでもなく、本当に通りがかかっただけのロゼットは、上記を口にした。
 引っ込み思案のカンパネラと、押しの強いブラザー。
 普段見ない二人が話しているのを見てしまえば、ちょっかいを出したくなるのがドールというものである。

 「何かするなら、私も混ぜてほしいな。今はすっごい秘密を抱えてるから、言いたくて仕方ないし」

 加えて、リヒトより耳にした例の件についてのこともあるのだろう。手に持った巾着の中身がまだ分からないこともある。
 今の彼女は冒険をするロマンチストさながらであり、完璧に浮かれていた。
 これがまだままごとのような冒険で終わると、本気でそう信じていたのだ。
 無責任にピースをしてみせると、ロゼットは継ぐ言葉を待つことだろう。

《Campanella》
 聞こえたのは、甘くまろやかで、至極穏やかな声であった。
 相手を気遣う優しい言葉。柔らかに名前を自身の名前を呼んだのは、ブラザー……姉が一方的に敵視しているドールだ。相手のことを勝手に弟や妹にしてくる、おかしなドール。
 しかし今の彼の言葉や声色には優しさが満ち溢れ、警戒の対象にはとてもならないようなそれであった。

 背中に手を添えられ、さすられる。トゥリアモデルらしい、包容力のある行動だ。顔色がいつもの五倍は悪いカンパネラのことを心配しているのだとすぐに分かる。
 しかし、

「………ひい……………」

 しかしカンパネラは、まるで首を絞められたような声を出して怯えたのだった。
 声をかけられる、優しい言葉をかけられる、背中を撫でられる……。臆病なあまりに、それだけでカンパネラは恐怖を増幅させたのだった。


「……ぁ、あう……………えと…………そ、そんな大したことじゃ、ないです……。だ、だいじょぶです。ほんとに。協力とか………あの、別になんか、そういうんじゃなくて……ただ、待ち合わせを、ですね………」

 怖いからと言って、何にも返答しないのは流石に良くない。良くないので、カンパネラは精一杯に返答しようとする。
 少女の声が聞こえたのは、そんな最中であった。

「えっ、あっ、えっ? い、いやその、な、何かするとかじゃなくて……ほんと、ほんとに、森の方で、ドロっ……………し、知り合いの方と待ち合わせを………」

 今はすっごい秘密を抱えてる。……突然投げ掛けられたそんな言葉と見事なピースサインに動揺しつつ、カンパネラは後ずさる。

「……その…………………」

 何やら心配してくれている様子のブラザー。何故だか浮かれている様子のロゼット。
 ふと、『知り合いを誘致してもいい。三人ぐらいなら問題無い』というドロシーからの手紙の一文が頭をよぎるも、同行を彼らに提案する決断ができず、カンパネラはただ口ごもってしまう。

《Brother》
「……ドロ?」

 顔が歪む。
 一方的であっても、ブラザーはここまで親愛に満ちたドールだ。

 しかし、その親愛が向かない相手が、たった1人。
 この箱庭には、存在する。

「ドロシーと会うの?」

 露骨に怪訝そうな顔。
 ブラザーは眉根を寄せ、自然と声が低くなる。つい先程まで出していた甘いテノールの響きはどこへやら、冷えきった声が喉の奥から出た。妖艶なアメジストは不信感に細められ、白銀のドールから初めて敵対の意が溢れ出る。

「……もしかして、あの子に来いって脅されたのかい?」

 敵対視している相手というのは、それだけで考えが悪い方に進むものである。すっかり冷めた目でカンパネラをじっとりと見つめたまま、ブラザーは言葉を待っていた。

《Rosetta》
 ドロシーとは、誰だろう。
 目の前で悪くなる空気を、ロゼットは微笑みながら見ていた。
  カンパネラの知り合いではあるらしいが、ブラザーにはいいドールと思われていないらしい。
 ロゼットは、どちらでもいい。
 何か怒るようなことをされた覚えもないし、行くならついていけばいい。
 だが、ブラザーはそういうわけにもいかないらしい。

 「待ち合わせなら、行けばいいんじゃない? 嫌なことがあるなら、会って言えばいいでしょ」

 頭が軽い彼女は、思ったことをそのまま口に出した。

 「お兄ちゃんもだよ。ドロシーはカンパネラが来なくて困っちゃうかもしれないし」

 意地悪は駄目。
 そういうことではない気もするが、ロゼットは普通のことを口にした。

《Campanella》
「……ヒッ…………」

 暖かかったはずの目が、突然冷たくなった。背筋が凍るような思いをした。
 カンパネラはびくりと肩を震わせ、顔をもっともっと青くして飛び上がった。名前を少しこぼしただけで、さっきまで優しかったはずのドールが変貌してしまった。ドロシーとの間に、何か因縁でもあったのだろうか。どの道彼女には知ったことではない。ただただ、まずいことを言ってしまったと後悔するのみだ。

「ちが、おどッ、脅されたわけじゃ………」

 瞳を潤わせながら弱く首を振り、否定する。しかしその言葉が彼にちゃんと届くのだろうか。……不安でしかない。ブラザーの瞳は鋭くて、空を睨んでいるように見えた。こわい、こわい、という感情がカンパネラの頭を占め、彼の言葉の裏側にある心配の気持ちに気付くことなどなかったのである。

「あ、あ、あう、あぁ………」

 ロゼットのどこか呑気な言葉は、本来であればそれなりの助け船にさえなったはずである。しかしカンパネラの背中を押し、ブラザーを窘めるような言葉は、彼女の耳にはてんで届かず。

「わ、わぁん、ご、ごめんなさいぃ…………っ!」

 と、カンパネラは涙をこぼしながらダイニングルームから逃げていってしまう。いつもならこういう時、姉がすぐさま飛び出てきてくれるものなのだが……どうやら出てくるつもりがないらしい。ならばもう、カンパネラ自身が“こわいところ”から走って逃れるしかなかった。どんな声をかけられたとしても、彼女は何の反応もせずに行ってしまうだろう。

 後ろを振り返るようなこともせず、カンパネラは寮から外へ出る扉の方へ駆けていく。しかし残念ながらカンパネラの動きは非常にとろく、なんなら体力がないので玄関前にたどり着いた時点ではもうゆっくり歩きだしていた。同じトゥリアモデルの二人であろうとも、すぐに追い付けてしまうことだろう。 

《Brother》
「ロゼット、君はドロシーと会ったことがないんだね。彼女は人の話をまともに聞くようなドールじゃないんだ。カンパネラを脅して、なにかに利用しようとしてるのかもしれない」

 ブラザーはロゼットに向き直る。咎めるように眉を寄せてはいるが、その顔は先程より随分と穏やかだ。子供のイタズラを注意するような、そんな顔で首を左右に振る。宥めるように目を細めてから、ドロシーに対してだろうため息を零した。その大きさから、余程ドロシーのことをよく思っていないことが伝わるだろう。ブラザーがこんな態度をとるのは、トゥリアにいた頃から数えても初めてのことだ。

「カンパネラも、そう言えとドロシーに言われてるんだろう?
大丈夫、おにいちゃん分かってるからね」

 ぐるん、なんて勢いよく。
 弱々しく否定したカンパネラにブラザーは向き直る。本心から心配しているのだろう、カンパネラに向ける視線は随分と優しい。うんうんと何回か頷いて、分かってるなどと恩着せがましく付け足している。本人としては悪い子に騙された妹を助けようとしているだけなのだが、如何せん押しが強い。彼の良いところでもあるが、今回は悪いところだ。

 さて、そんなことをしたからか。

「カンパネラ!?」

 心配していた妹は走り出してしまった。ブラザーはギョッとして走っていった方を見つめていたが、ドロシーの方に行くのかもしれないと思えば、すぐに後を追う。横目でロゼットに一言だけ添えて、ブラザーは走り出した。
 しかし、ブラザーもまた体力のないトゥリアドールだ。そこそこの時間をかけてから、カンパネラに追いつくことだろう。

「ロゼット、僕は着いていく! 君も来るなら着いておいで!」 

《Rosetta》
「でも……」

 ロゼットは緩慢な口で反論を述べようとしたが、それは叶わなかった。
 まさかカンパネラが逃げ出すなんて、誰も思わなかったのだから。

 「待って!」

 彼女は何だか泣いていたし、ブラザーも走っていってしまった。
 よく分からない状況ではあったが、動かなくてはいけないことならよく分かる。
 ロゼットは二人を追いかけるべく走り出した。
 ブラザーより先に追い着ければ、「カンパネラ」と相手を呼ぶ。

 「私は、お兄ちゃんじゃなくて、あなたから話を聞きたい、よ。だから……よければ、ついていくか、話すか、してくれると、うれしい」

 肩で息を切りながら、ゆっくりと、彼女は口にする。
 それを耳にしたカンパネラが、どうするかは分からないが。

《Campanella》
 この短距離でずいぶんバテたらしいカンパネラは、ついにロゼットに追い付かれると、「ひーん……」とこれまた情けない声を上げて涙と汗を拭った。ふうふう息をして、それでもわたわたと足を動かして逃げようとするが、もう先程の速度すら出てはいないだろう。実にのろのろとした足取りである。そして彼女はやがて、足裏に柔らかな土の感触を覚える。

「ほっ、ほんとに……おどされたんじゃ、ないん、っですぅ……ちがうの………っ、はぁ…………」

 カンパネラはそこでずるずるとへたり込んでしまった。カンパネラは肩で息をしながら地面を見つめる。
 そろそろブラザーも追い付いてくる頃だろう。少しずつ息を整える。ぎゅ、と胸元のリボンを握りしめて、彼女は必死に二人に向かって言紡ぐ。

「………わた、わたし、知りたいことが……あって。ドロシーさんは…それを、教えてくれようと、してて、……たぶん…。それでっ……あの………」

 涙は絶え間なくこぼれ落ちる。彼女の胸の中には迷いがあり、恐怖がある。しかしカンパネラの眼に籠る、いつもとは違う何か。前髪の奥に隠されたそれに起きている異変のようなものに、二人は気付くかもしれない。まるで何かの芽生えのような。

「っだ、だから……わたし、行かなきゃ………」

 早く行かないと時間になってしまう。カンパネラはよろよろと地面に手をついて立ち上がろうとした。しかし、体の震えと疲労とで中々うまくいかない。 

《Brother》
 ぜえぜえと息を切らし、後から出発したロゼットにまで追い抜かれた兄は、地面にへたり込むカンパネラの姿をようやく見つけた。まるでロゼットが泣かせたような光景にブラザーはギョッとして、目を見開いては速度をあげる。あげたところで微々たるものであったが、おかげでカンパネラの言葉を聞くことができた。

「……知りたい、こと…」

 足を止め、肩で息をしながら繰り返す。懐疑に濁ったアメジストで、座り込んだカンパネラを見つめていた。はらはらと零れ続ける涙は、いつものカンパネラだ。ブラザーと喋るときは少し違うようだが、それでも一般とするカンパネラは、オドオドしていて気の小さい少女型のドールだろう。

 そんな彼女が、何かを知ろうとしている。
 トゥリアのか弱い体を動かして、それでも尚立ち上がろうとしている。


 兄に、それを止める理由があるだろうか。


「……ないね」

 ……立ち上がろうとするカンパネラの手をとる。
 もうブラザーもかなりバテてしまったが、それでも震える少女を起き上がらせる力くらいは残っているだろう。

「僕もドロシーには聞きたいことがあるんだ。
カンパネラがいいなら、僕も連れて行ってほしい」

 深い夜のような前髪の奥。
 スカイブルーの鮮やかな瞳を見つめる。

「君も行きたいよね? ロゼット」

 ふ、と顔を上げた。
 ロゼットが見ることになるだろうその顔は、もうすっかり貴女の優しいおにいちゃんだ。

《Rosetta》
「うん。ふたりがよかったら、是非」

  カンパネラも、ブラザーも、もういつも通りだ。
 彼女はひんひん泣いているし、ブラザーは優しく手を引いてくれる。
 もう心配いらないだろう。ロゼットは微笑んだ。
 カンパネラがまだ涙を溢すなら、制服の袖で拭ってやることだろう。ケーキに乗ったフルーツの位置を直すように、できるだけ繊細に。

「じゃあ、行こうか。ドロシーも待ちくたびれているかもしれないしね」

 歩みの遅い二人より先に、彼女は一歩を踏み出す。
 それから、くるりと振り返った。

「……そういえば、待ち合わせってどこなんだっけ?」

《Campanella》
「っわ、」

 ブラザーに手を取られると、その手に支えられてカンパネラは立ち上がった。ころころと表情や雰囲気の変化する彼に困惑しつつも、控えめに「あ、ど、どうも………」と頭を下げる。

「っえ? あ、はあ………あの、ぜんぜん、だいじょぶですが……」

 先程の目つきから、もう話したくない相手なのかと思っていたが。ブラザーからの予想外の言葉に、カンパネラはおずおずと頷いた。ロゼットの同行もその流れで受け入れる。知り合いを連れてきても大丈夫、三人ぐらいなら……と手紙の文章を反芻するのは忘れずに。

「あ、えと…………森の奥、……柵の近くで待っている、と……」

 こちらへ振り向いたロゼットの問いに答えつつ、カンパネラはここでハッと気付いた。
 規則を破る。自分はこれから、柵を越えるのだ。決して越えてはならないという決まりだった柵を、他寮のドールたちと共に。

「…………あの。
 ……これから、何を見ても、誰にも……先生にも、言わないでくださいましね……」

 消え入るような声と共に、カンパネラはロゼットの後を着いていくようにして、また歩き出した。

 胸の高鳴りは収まらない。
 ドロシーさんは、何を探して、わたしに何を見せようというのだろうか。わたしは何を見るというのだろうか。

『いいよね、カンパネラ! ほらほら、笑ってよ~!』

 頭をよぎる明るい声。彼女の脳裏で眩い金色の髪が流れ、広大な海をこらえたマリンブルーが瞬いた。美しい、美しいドール。
 ……あなたは、一体何者なの?

 森へ踏み入り、カンパネラはブラザーとロゼットと共に進んでいく。ドロシーとその友人が待つという、柵の方を目指して。

【寮周辺の森林】

 あなた方は紆余曲折ありながらもおっかなびっくり事態を共有し、共に連れ立ってドロシーとの集合場所に向かうこととなる。

 今日も寮周辺は、楽園のように煌びやかな晴天だ。太陽が燦々と平原に眩い光と温もりを落としている。だが、西の空に立ち込める雲が窺えたので、夕頃には少し降り出すかもしれない、そんな気がした。

 草地を踏み締めて鬱蒼としげる森林に踏み込んでいく。寮の敷地を囲う柵は、森林の半ば程に巨大な円を描くように立っていた。あなた方はただひたすらに森の外へ、寮から離れるように進んでいく事だろう。
 やがて正面には、あなた方を外へ出て行かせない為に格子状となった柵が見えてくる。2mを超える高さの柵は、道具無しでは登れないよう聳えており、あなた方はただそれを見上げるほかないだろう。
 それに、柵越えは規則でも禁止されている。故にドールズはこれまで進んで柵のあたりに近付くことが少なかったのだが──



「ご機嫌よう!」

 突如、柵を見上げるあなた方の背に声が掛かる。周囲を見渡すならば、柵の延長線上の手前側に、同じように見慣れないドールが立っていた。
 彼女は──一言で言うなれば異様だった。首から下までは模範的なスカートタイプの制服を身に付けた少女ドールなのだが、頭に明らかにサイズが見合っていない巨大なビスクドールを模した被り物を被っている。彼女の不自然な頭部はガタガタと揺れ動き、不審極まりない様子だ。
 カンパネラとブラザーは知っている。彼女が目的のドロシーという少女ドールであると。

「本日は素晴らしい晴天! 大変お日柄もよく、絶好のピクニック日和で御座います。ハーブティーと鉄製の小箱の用意は宜しくて? ワタシは鏡の中と、夢の中のお友達と。ライオンさん、カカシさん、ブリキさんと。わくわくうきうき化け物退治、あのラジオからはささやかな、擦り切れた、思い出が29.05秒間流れ続けるでしょう。身体的な痛みは覚悟して。試験中は聞き逃さないようにしてください。神話。法則。心を持ったアレコレ。
 ギャハハハ! よォ、オミクロンの欠陥ドールども。詩の上の役者・ドロシーちゃんです♡ あんまり遅いから怖気付いて逃げ出したかと思ったぜ、ミ〜ザリィ〜♡」

 彼女はただ茫洋と突っ立って、それこそ壊れたラジオのように脈絡も繋がりもない科白を延々と吐き出し続けていたのだが、くるりとあなた方を向き直って頬に人差し指を突き付けると、かわいこぶったポーズで挨拶をした。

「それで? お友達も連れてきたってワケ? そっちの赤毛のヤツは初めましてェ! お淑やかな方のテーセラドールです♡ ギャハハハハハ!
 そっちのスノウホワイトはなぁにィ 、監視でもしに来たかしらん? 二重監視でウケる、ギャハハハハハハ!」

《Brother》
「久しぶりだね、ドロシー。会いたかったよ」

 思ってもいないことを。

 ───道中、ブラザーは二人に対して話題を提供する側だった。二人の反応が微妙でも嫌な顔ひとつせず、にこやかに目的地までの談笑を楽しんでいたはずだ。社交的かつ愛情深い兄にとって、妹ふたりとの“お散歩”はご褒美に等しいものである。

 さて、そして今。
 にこにこ森林を歩いていた“おにいちゃん”は、どこに行ったのか。

「僕らも同行させてもらうよ。いいよね?」

 温度の消え去った涼しい声で、威圧的にブラザーは吐き捨てる。誰にでも向ける微笑すらその顔にはなく、感情の抜け落ちたような顔でドロシーを見ていた。見ていた、というより、睨んでいる。いつも甘やかに細められているはずのアメジストは、警戒と侮蔑を込め毒々しい色しか浮かべていない。

「君がカンパネラをいじめかねないからね。会話は僕を挟んでもらうよ」

 露骨に刺々しい態度をとったまま、ブラザーは一歩前へ出る。カンパネラとロゼットを守るような仕草だが、これが余計なお世話であるのは言うまでもない。

《Rosetta》
 ロゼットはドロシーに言われたことの八割も理解できなかった。
 饒舌に語られる戯言や、何に準えているかも分からない例え話。急に向けられた話の内容も、あまりに早すぎて追えなかったらしい。
 「うん。私はロゼット」として言い返せず、にこにことしながら、ドールはその場に立っていた。
  カンパネラの知り合いらしいが、それにしてはアッパー系すぎるような気もする。

 「じゃあ、ブラザーに話す前に私を通してもらおうかな。面倒ならそのままカンパネラに話してもいいよ」

 意味をよく理解しないまま、ロゼットはふざけたことを真面目に口にした。

《Campanella》
 彼女はそこにいた。異様、奇妙、理解不能。狂気と正気のパッチワークのようなドール、ドロシー。あの手紙の差出人だ。
 脳が理解を拒むような支離滅裂な言葉を浴びせられ、カンパネラは「ヒィ……」と喉をひきつらせる。

「ご、ごめんなさい………」

 己の二の腕をぎゅっと掴みながら、目を瞑ってカンパネラは怖々とちいさく謝った。そんなに待たせた覚えはなかったのだが。
 ……と、傍らの青年ドールの声の固さに、カンパネラは目を見開くこととなる。
 敵意、警戒、懐疑……トゥリアとしての、敏感すぎるぐらいに洞察力に優れた耳や目が、そんな情報を拾ったのである。あんなに朗らかに話していたブラザーから。
 瞬間、カンパネラは少し後悔した。先程ドロシーの名前をうっかり出したときのブラザーの表情の怖さからして、会わせてもろくなことにならないなんて分かっていたのに、なぁなぁでそれを流してしまっていたのであった。やっぱり断るべきであったのだろうか……。

「………んえぇ……………?」

 カンパネラがうじうじしている間に、いつの間にか自身とドロシーとの間に伝言係が挟まった。それも二人である。片方は即刻職務放棄をしている様子だが……。
 ……どうして……?と、カンパネラは心の中で呟く。
 ブラザーはまだ文脈的に理解できたが、ロゼットに関してはもう突拍子がなさすぎて困惑してしまった。
 もしかして、この人たちなりに守ろうとしてくれているのだろうか。
 いや、そんなのはあり得ないだろう。わたしなんかを守ったところで、彼らにもたらされるメリットなんて何にもないのだし……。
 と、この謎すぎる状況に首を傾げつつ、カンパネラは二人の間からなんとか顔を出そうとする。「あの、わ、わざわざそんな、だ、大丈夫ですから………。」とおどおど言いながら、なんとかしてドロシーの方へ向き合う。

 彼女との会話は、本来カンパネラにとって避けたいものであった。支離滅裂な言葉は聞くだけで頭が痛くなるし、あのガシャガシャした笑い声は苦手だ。
 それでもこうやって呼び掛けるのは、姉が『私は貴女と、あのドールのことを信じます』と言ったからだ。
 あの心配性で、ひどく“臆病”なはずの姉が。

「あ、あの……………! きっ、聞きたいこと、その、いっぱい、あるんですけど………えと、まず……こんな柵、どうやって越えるんですか………?」

 カンパネラがドロシーの目──被り物のビスクドールのそれであるが──を見て物を言ったのは、これが初めてかもしれない。

 こちらをひと睨みするブラザーに、ドロシーはしばし無言でそちらを見遣ったものの、至極不満ですと言った低い声色で応答し始める。

「ハ〜? いじめねーよバーカ。てか何それ! ギャハハ! ソイツと話すためにはまず事務所挟めってコトぉ? 接触NGのアイドルですかァ? みじめなミザリーの癖に? ギャハハハハハハ!!
 でもそっちの赤毛のガーデニアはOK出してるっぽいんでェ、無視するネッ! ワタシはお前が嫌でもやります。楽しいので。ギャハハ!」

 ドロシーは腹を抱えて青空を見上げながら、けたたましく笑った。閑静な森林にざりざりと耳に不愉快なラジオのノイズが響き渡り、長閑さが台無しである。それでも彼女がこのスタンスを取りやめる事はないのだろう、相手が不愉快でも貫くつもりらしい。

 ──しかし。意外にもカンパネラがこちらを真っ直ぐに見据え、柵越えを積極的に後押しするような質問を投げ掛けてくると。ドロシーは調子外れの甲高い笑い声をピタリと中断し、逸らしていた背をピンと伸ばして真面目ぶった態度であなた方に向き直った。

「あー、それはねェ。トゥリア三人衆にはちょっとキツイかもだけどォ……人間には気合があれば何でもできるって考えもあったしィ、お前らにも頑張ってもらいます!」

「ドロシー、騒々しいぞ。鳥が驚いて騒ぎ出す……」

 そんな彼女の背後から、もう一人のドールがのそのそと歩み寄ってきた。そのゆったりとした歩幅や優れた体格から、彼は一見熊のようにも見えたが──なんてことはない、ドロシーと同じテーセラのドールだとすぐ気付けるだろう。
 健康的に焼けた小麦色の肌に、爽やかな茶髪とコメットブルーの双眸が輝かしい、精悍な少年だ。オミクロンに当然こんなドールはいなかったため、他クラスのドールなのだろう。

「よォ、ワタシの親愛なるトト! 準備は出来たかい? お前に丸投げしていたロープの準備だよ! 出来てねーなんて言わせねーぞ、ギャハハ! それはそうとロープって色んな遊びに使えますよね。巷では一本のロープを用いた独創力のテストが実施されたりなんかして、ロープには無限大の可能性があると言うワケです。特に肉体を使ったサバイバル脱出ゲームなんかでは必需品とも呼ばれてい」

「俺は……ジャックだ……テーセラクラスに属している。ドロシーから話は大体聞いてる……お前達の柵越えを補佐する為に……来た。……準備はもう終わっている。急いで済ませよう……こっちだ、着いてこい。」

 ジャックと名乗ったドールは、エンドレスに捲し立て始めるドロシーの現状に関係のない話を思い切り遮ると、あなた方に背を向けて柵に沿って少し歩き始めた。
 移動距離は大したものではなかった。柵の一角、その一番高い位置に、シーツなどを結び付けて作ったのだろう二本のロープが括り付けられていた。ロープは等間隔に輪っかを作るように結ばれており、あなた方はこれを見て足を引っ掛ける為にこうしたのだろうと察する。

 ジャックはそれを見上げると、ロープを軽く引いて強度を今一度確認してから、鉄柵に足を引っ掛けて飛び乗り、高いハードルを容易く飛び越えるように向こう側へ降り立った。
 ドロシーもまたジャックに続き──その場で身構えながら膝を折ると、バネのような凄まじい跳躍力で一気に柵の天辺に手を掴み、軽やかに跳びこえてみせた。

「結構腕と足の力要るけどォ、ロープの補助があればマア大丈夫デショ。体勢崩したらこっちの番犬が受け止めてくれるしィ、ヒイヒイ言いながらこっちまで来てみろよ!」

Rosetta
Campanella
Brother
Dorothy
Jack

《Brother》
「……柵越え?」

 流石に、耳を疑う。
 ロゼットのおかしな発言も、しゃべり続けるドロシーも、一先ずブラザーは置いておいていた。だが、これは看破できない。ブラザーはカンパネラを心配がって着いてきただけで、その内容を何一つ聞いていなかったのだ。今は落ちこぼれのオミクロンとはいえ、元々は学習面でも態度でも優秀なドール。そして今でも、ブラザーは“妹”への執着を除けば優等生だ。尤も、その唯一が除けない理由だからオミクロンなのだが、ブラザーは自分から決まりを破るようなドールではなかった。

「ま……待ってよ。カンパネラにそんなことをさせようとしてたの? 柵越えはルール違反だよ。
 ちょっとドロシー、何考えてるのか一回聞かせ……あっ!!」

 困惑そのままに口を開き、信じられないものを見るような目でドロシーを見る。隣にいる体格のいいドールはまだ話が通じそうだが、柵越えを手伝っているあたりマトモとは思えない。言葉を捲し立てていたブラザーだが、ジャックが飛び立ってしまえば慌ててドロシーに詰め寄った。優雅の欠片もない大股で詰め寄るも、すぐに憎きテーセラドールも向こう側へ行ってしまう。

「……カンパネラ、君は柵越えをするって知っていたの? いや、この際どうでもいい。
 知ってるよね、柵越えは禁止されてる。君の知りたいことは、もっと別の方法で知ればいい。おにいちゃんも協力するよ。

 ……だから、一回帰ろう」

 怨念の籠った眼差しで柵の向こうを睨んで、すぐに振り返る。カンパネラを見つめる眼差しは変わらず温かく、心配の色を浮かべていた。ロゼットをちらりと見てから、一歩二人に近づく。

 穏やかな声は諭すように、撤退を提案した。

《Rosetta》
 ブラザーの言葉の後、ロゼットは銀の目で瞬きをした。
 小首を傾げると、赤い髪が揺れた。風がそよいでいる。
 話を咀嚼しているのだろう。空っぽの頭の中で、ピンボールのように情報が飛び交っていく。

 「いいよ」

 永遠に思える逡巡ののち、彼女はそう言った。  カンパネラたちの横をすり抜け、ジャックの結んだロープをなんとなく引っ張る。
 そうして足をかけると、えっちらおっちら登ろうとし出した。
 恐らく、兄の話よりもドロシーの話に興味が出たのだろう。時間はかかるだろうが、危なげながらもなんとか彼女は柵を乗り越えるだろう。

《Campanella》
 ジャック。手紙にドロシーが書いていた、同行する友人か。ずいぶん上背があり、獣のたぐいかと見間違えてカンパネラは「ヒ」と怯えたが、その巨木のような静かで穏やかな雰囲気に少しだけ安堵した。

 ……ロープで、ここを越える。テーセラモデルの優れた身体能力によって悠々と柵を越えたジャックとドロシーの方を、信じられないものを見るような眼で呆然と眺めた。カンパネラにはその高さ2mぐらいの鉄製の柵が、200mにも2000mにも思えた。
 二人はテーセラモデルだ、それも欠陥の一つもない。対してこちらは欠陥品の脆い脆いトゥリアモデル。足を滑らせたらきっとすぐに壊れてしまう。や、やっぱ帰ろうかな……という弱音が頭をよぎるのも当然であった。

「…………えっ?」

 と、ブラザーの言葉がやっと頭に入ってきたらしい。カンパネラは目を見開いて固まり……そして、最悪なことに気付いた。
 柵の側にまで行くとは言った。何を見ても誰にも言わないでくださいね、とも言った。

「あっ、あ、……あーっ」

 ……柵を越えるって、一言も二人に言ってなかった。
 カンパネラは頭を抱えた。やっちゃった、と表情が何よりも饒舌に、シンプルなことを語っていた。
 知っていたの? とブラザーに問われ、カンパネラは目を瞑った。その視線は至って優しいものだったが、またもや深い自己嫌悪に陥った彼女には、その言葉の全てが突き刺さるようだ。ブラザーのこともそうだし、ドロシーたちの方もとても見れない。

「……ごっ、ごめんなさ、ごめんなさい……ごめんなさい……ごめ、ごめんなさいっ、ごめんなさい………」

 嗚咽を漏らしながらカンパネラは繰り返し謝る。ブラザーに、ロゼットに、ドロシーとジャックに。自分のうっかりで二人に柵を越えることを言い忘れてしまったこと、それで騙したみたいな風になってしまったこと、そのせいで事態を一気に複雑にしてしまったこと、それと…。

 と、そんな彼女の横を通りすぎる気配があった。見れば、ロゼットがロープを使って柵を登っていたのだ。

「あ。…………あ、う。」

 動揺して口をあんぐりさせている間に、無事に柵を乗り越えてしまったロゼット。彼女には何の躊躇いもなかったように見える。なんとマイペースな。
 その姿を見て、カンパネラはどこかが吹っ切れてしまったのかもしれなかった。

「………あ、あの………ご、めんなさい……ほんとに………」

 きっと同じくロゼットの行動を驚きながら見ていたであろうブラザーに対し、カンパネラはまたひとつ謝った。

「………ごめんなさぁい!」

 その謝罪は、決して寮へは戻らないのだと自分勝手に決めてしまったことへの謝罪であった。

 引き留める手が届かなければ、カンパネラはブラザーから全力で身をよじって逃れ、ロープをしかと掴むだろう。「うあーん」と馬鹿みたいに泣きながら柵を登り、天辺から転がり落ちるように……というか、ほぼ落下という形で越えていく。

「ハ? ギャハハハ、お前は今更何言ってンだよ、寝言かァ? 遠足に出かけることを一人知らされてなかった連絡網外の哀しい幼稚園児か?
 ハニーブランチはハナから柵を越えるつもりでここに来てるンだっての。つまりワタシらと規則破り同盟の一連托生ってワケ。ここまで来たんならお前にも片棒担いでもらう必要がありますけどォ?」

 ブラザーの至極真っ当な正論に対し、お前が一人可笑しいのだと豪語するドロシーは、格子の向こう側で両手をパッと開きながら肩を竦めた。
 こちらを同じように柵の合間から物凄い目つきで睨め付けてくるあなたの憤りは、まるで彼女に響いていないらしい。哄笑を跳ね回るテニスボールみたいに肺から引き起こして、ドロシーはブラザーと対話をしている。

 一方で、こちら側へと迷いなくロープを伝ってやってきたロゼットの身体を、柵の真下で待ち構えていたジャックが支えて紳士的な手付きでそっと草地へ下ろしてくれた。補佐をするという話は本当だったのだろう。

 しかし勢い良く謝罪を垂れ流しながらものすごい勢いで、不安定な姿勢でロープを登り始めるカンパネラの方に補佐に行くには、丁寧な仕事をする分一手遅かったらしい。

 2mを超える高さからこちら側へと転落するカンパネラを腕を伸ばして支えたのは、「どわ〜〜っ」と気の抜けた声を発するドロシーだった。
 ガタイの良いジャックと違い、ドロシーは華奢である。なので半ばあなたの下敷きとなる形で草地に尻餅を付きつつ支えになったドロシーは、カンパネラに向かって「オイ、愚図の間抜け! 小指折って欲しいか? 尻でも叩いてほしいのかよ、ギャハハハ!」と流れるようにフラットに罵倒をかました。

「そこの頭が硬い四角四面の規則人間お兄ちゃんに話も通してないしよォ、このお馬鹿ちゃん♡

 ──でェ? もうこの二人は後戻り出来ないけど。寮に帰って規則違反を報告してこいつらも突き出すか、それとも一緒に来るか。どうするワケ〜?」

《Brother》
「ロゼット!?」

 まさかの無視。
 一足先に登ってしまうロゼットにブラザーは目を丸くし、その姿を目で追うことしかできない。そよ風のように登ってしまう後ろ姿をポカンと見つめていれば、カンパネラが横で謝り始めた。その理由がわからず見つめていれば、まさかまさかカンパネラまで動き出す。

「カンパネラ!?」

 二回目。
 なんの説明もなく動いてしまう妹たちに、ブラザーは完全に混乱している。飛び落ちるような形だったが、ドロシーのおかげで無事に着地できたことだけ分かった。しかし、ドロシーが身を呈して助けたことについては更なる驚きを受けることになったのだが。  

 さて、そうして。
 柵の前に残るのは、ブラザー一人になったわけである。

「……、…………、……………………、~~~~…っ!!!」

 ドロシーに煽られ、不愉快を惜しみなく顔に出す。優しくてのんびりしたおにいちゃんの面影はなく、敵意を剥き出しにしてブラザーは声もなく唸っていた。

「……行くよ!
 妹を裏切るなんて、おにいちゃんじゃないからね!!」

 やけくそ。
 ブラザーには似合わない態度で叫んで、ロープを掴む。気が動転しているのか、動きはカンパネラよりもたどたどしく危なっかしい。けれども乱暴に、細い指をシーツに絡め続けた。何度も落ちそうになりながら、それでも情けなく踏ん張って、息も絶え絶え柵を超えるだろう。

 危険があるかもしれないのに、兄だけのこのこ帰るなんて出来るはずがないのだ。
 ブラザーは、おにいちゃんだから。

「はあっ……はあっ……!!
 ほら、ッ、行こう、か……っ!!」

 肩で息をして、汗をだらだら垂らして。
 中腰で膝に手を着いたまま、睨むようにドロシーを見た。

《Campanella》
 「んぎゃあ!」と犬の鳴き声のような悲鳴を上げ、カンパネラはドロシーを下敷きに柵の天辺から落下する。彼女に支えてもらったお陰で落下の痛みは非常に少なく、怪我のひとつも見当たらない。
 まぁ、カンパネラにとっての問題は明らかにそこではないが。

「……あっ、あっあ、ごッごごごごごごめんなさいいぃっ!! い、今どきますすみませんごめんなさいごめんなさ、あ痛゛っ!」

 あのドロシーが自分なんかに腕を伸ばして助けてくれたことには強い驚きがあった。しかし彼女による『小指折って欲しいか?』という冗談みたいな軽さの脅し文句と、無茶をした挙げ句人を下敷きにしたことへのシンプルな申し訳なさがすぐに代わって頭を占めた。
 ずいぶんと忙しない様子でカンパネラは彼女の上から退こうとする。と、結果的にカンパネラは後頭部と背中をそれなりの勢いを伴って、硬く冷たい材質の何かにぶつけたのだった。
 衝撃に目をぎゅっとさせてずりずりその場に座り込みながらも、「ば、馬鹿でごめんなさとぁい……」と力なくぼやく。

 カンパネラが身体をぶつけた何かとは、語るまでもない。先程まで目の前に聳えていた鉄製の柵であった。カンパネラはぴいぴい泣きながら、本当に自分は柵を越えたのだなと頭のどこかで実感する。柵の向こう、寮がひどく遠く思えた。

 ブラザーが汗だくで柵を越えて来たのを視認する。結局、彼も着いてくることにしたらしい。巻き込んでしまったことについて心の中で謝りながら、鉄の冷たさを背中で感じ、森の更に奥の方を見据えた。

「フーン、妹の前だからって男を見せたってワケぇ? ギャハハハ! みっともねーけどヒイヒイ言ってンのは面白いね。
 じゃあこれから共犯者ってコトで。出遅れた可哀想なデカダン主義者に今からやる事を説明してやるよ。ドロシーちゃん、シンセツだからさァ」

 無事柵を超えた事を確認して、ドロシーは草地から予備動作のない軽やかな動きで立ち上がると。とてつもない勢いで平謝りするカンパネラへの叱責を見逃し──と言うよりスルーして──ブラザーへ向けて口を開いた。

「ワタシと懐刀のトレジャーハンター、あー、ジャックが何でまた柵越えを目論んだかっつー話だけどォ。

 別にトイボックスから脱走しようって話じゃあない。そうだったらお前ら着いてこないだろ、特にそこのワタシを親の仇みたいに睨んでくるサノバビッチとかァ。ギャハハ!

 ワタシは鏡の中の自分に問いました。自己を知るにはどうすればいいの? ワタシの存在意義って何なんだろう? クソッタレ──ああいや、顔も知らない人類様の為に奉公し続けるのがドールなの?
 鏡の中のワタシは言いました。己も知らぬ己が居る、無意識領域に真実を問いかけなさいと。脳神経の中枢、海馬のダークスペースに宇宙の真理は眠っているのです。己も知らぬ自己を追えば、ワタシ達は√0と邂逅出来るのです」

 ドロシーは途中まで比較的理知的に、しかし下賤な言葉遣いで語っていたが、途中から何やら先行きが不透明で曖昧なことばかり話し始めた。
 ラジオが狂った周波数を受け取ったような滑らかな豹変は、彼女の常なのだが──延々と虚空を見上げて語り続けるドロシーの言葉を継いだのは、ロープを回収して付近の木のウロに隠していたジャックだった。

「悪いな……ドロシーが、理解出来ない事を喋り続けるのは、いつものことだ……、以前は……もう少しまともなやつだったんだが、ある時急に……こうなってしまった……。

 ドロシーはドールが垣間見る夢というものに、俺たちドールが通常では知り得ない真実が宝のように埋まっていると語っていた。これから向かう場所も、ドールの無意識領域という場所に密接に関わってくるんだと……お前達も、夢については心当たりがあるんじゃないか。俺にもあるからな……。
 だが俺はそれよりも、この柵の外がどういった地形になっているのかを確認したいと思っている……目的地までは同行するが、俺は途中で離脱するから、それだけ知っておいてくれ……」

「第三の壁。黒い塔。青い花。それは、禁忌への道標なのです。

 さあ行こうぜフーリガンども、道程はカンタン! コゼットドロップがいざなってくれる!」

 ドロシーはズカズカと大股で歩くと、柵の向こう側に転々と自生している、青い花を指した。それは水の波紋が広がったような形の花弁を持つ、仄かに青く発光する珍しい花だった。少なくとも、図鑑では見たことのない花だ。
 ブラザーとロゼットはその花について知っている。コゼットドロップ──未知の青い花の存在を。

《Brother》
「…………」

 先程からずっとペースの乱れている兄は、無理矢理な深呼吸で呼吸を落ち着かせながら話を聞いていた。ドロシーに向ける顔つきは依然として攻撃的で、腕を組んだまま黙りこくっている。ここまで斜に構えた態度で聞いているが、特に口を挟むことはなかった。理由は遠慮でも困惑でもない。ただ疲れていたから。
 ジャックが口を開きだせば、僅かながらに視線が和らいだ。警戒してこそいるが、ジャックに対してはそこまでの敵意を向けるつもりはないらしい。

 話が不格好にもまとまって、ドロシーが歩き出す。指さされた先に見える青の美しい花に、ブラザーは目を伏せた。

「……コゼット、ドロップ」

 こぼすように繰り返す。
 自己分析の始まりに、ブラザーが最も見たくない花。

「ここまで来たら最後まで付き合うよ。妹を見捨てるなんて有り得ない。

 よろしく、ジャック。僕はブラザー。おにいちゃんって呼んでね」

 ハンカチで汗を拭って、ドロシーに続くように歩き出す。ちらりと横目でジャックを見ては、彼にしてはやや淡々と、けれども甘いテノールで挨拶した。

《Rosetta》
 夢については、非常に心当たりがある。
 ロゼットにとって馴染み深いものであり、最大の謎のひとつだ。だが、ドロシーにとっては無意識だとか存在意義だとか、まあそんなものらしい。
 小難しいことは分からないが、その辺を教えてくれるならそれに越したことはないだろう。

 「なあんだ、みんなも夢を見てたの? 普通のドールは見ないって言うから、私がおかしいのかと思ってたんだ」

 ちいさく頷いて、「奇遇だねえ」なんて口にした。
 √0──禁忌らしいものたちには、少しも触れないまま。彼女はドロシーについていく。
  カンパネラとブラザーに、「コゼットドロップってここに生えてたんだね」なんて言いながら。

《Campanella》
 ドロシーの言っていることが何一つ理解できず、潤んだ目のままどこか渋い顔をした彼女の頭の中にはたくさんのクエスチョンマークが浮上している。できる限り彼女の言葉を追ってみようと努力はしたが、カンパネラの弱い頭では無駄であった。

 それらとは対照的に、ジャックの話はちゃんと頭に入ってきた。
 ドールの、夢。謎の夢を見ているのは、どうやら自分だけではなかったらしい。
 心当たりがあるどころか、カンパネラはそれについてどうしても知りたくて彼女らしからぬ強行突破にまで踏み出したのだ。無言で頷く。

「………こわいなぁ……」

 ほとりと枯れ葉が舞い落ちるように言葉はこぼされた。でも弱音は一旦それっきりで、カンパネラは凍った道を歩くように慎重な足取りで先を行くドール達のあとを着いていく。
 と、彼女は視界に淡い光を捉えた。

「コゼット、ドロップ……。わたし……は、はじめて見ました。……きれいですね……」

 ロゼットののんびりした声に答える形で、カンパネラは息をついた。どうやらロゼットはこの花のことを知っているらしい。名前をそっと呟いたブラザーも同様だろう。カンパネラにとっては初めて聞く名前だったし、初めて見る花だった。
 おとぎ話の中に出てくるような不思議で美しい花の姿に、自然と見とれてしまう。ブラザーの少し陰りのあるような反応には気付かずに、幼子のように純粋に。

《Campanella》
「…………あ、あれ?」

 はじめて見た、と言い終えて、改めてまじまじと花を見下ろして。カンパネラはその時、何かを言い間違えたかのように息を詰まらせた。

 コゼットドロップなんて初めて見る。それは本当のはずだ。カンパネラは積極的に寮の周辺に飛び出して景色を眺めながら歩き回ったり、可愛らしい花を摘むような性ではない。植物の図鑑なんて開いた覚えもない。

 だのに、この強烈な既視感は一体何なのだろうか。

「…………?」

 気のせいだろうかと小さく首を傾げる。疲れが出ているのかもしれない。もしかしたら前に、どこかでちらりと見かけたことがあったのかもしれない。そう心の中で自分に言い聞かせるように繰り返す。

 ……知らないはずなのに、“知っている”………。パントリーであの写真を見たときの感覚と同じだ。

 カンパネラはくしゃりと自分の髪を掴む。辿った道、これから辿る道に点々と咲くコゼットドロップの色に鼓動を僅かに乱されながら、自然と止まっていた歩みを慌てて再開する。

「……ああ。よろしく、頼む……ブラザー。……兄とは呼ばないが、俺のことは好きに呼んでくれたらいい……」

 丁寧にこちらへ自己紹介をしてくれたブラザーへ、ジャックは取っ付きにくそうな仏頂面をそちらに向けてから、僅かに雰囲気を和らげつつ良しなに返答した。あなたの恒例のお兄ちゃん呼びには応じなかったが、彼は強面やガタイとは違い、温厚な性格なのだと伝わるだろう。

 ドロシーは先陣を切って森林をふらふらと突き進んでいく。時折木々の合間を潜ったり、足場が悪い道も当然あったが、何ら意に介す事もなく身軽に飛び越えていく。トゥリアであるあなた方は着いていくのも精一杯であろうが、そんなあなた方を気遣う様子もない。

 彼女はただ足元に転々と咲く青い花を見ている。それは二人の兄妹が家路を見失わぬよう落としていったパン屑のように、どこかへの道筋を差し示す指標のように道なりに続いているのであった。

 ドロシーは足を進めるまま、ロゼットの呟きに応える。

「大真面目に授業を受けて何もせず、当たり障りない生活を送るクソつまんねー量産型ドールズなら、おかしな夢は見ない。ワタシ達が見る夢ってのは、植え付けられた擬似記憶から発する幸せな夢というのが殆どなワケ。

 だが時々、夢にはノイズが混ざる。ドールが本来知り得るはずのない、記憶にない“記憶”が脳内に再生されるコトがある。それこそ、多くの量産型ドールズが本来なら触れられない、無意識領域に沈んだ記憶なンだよ。

 そして大抵、そういう記憶は擬似記憶と違って、事実である場合が多い。──あ゛は。」

 暫く歩いてから、ドロシーは濁った笑い声を零して立ち止まる。

 あなた方が前を見据えるならば、その先には周囲の木よりもよっぽど巨大で背の高い大樹が立っていた。

【寮の外縁 ツリーハウス外】

 無数の木を飲み込みながら成長したと思われる入り組んだ大樹の太い枝の上には、小さなログハウスが乗っかっている。絵本の挿絵の一つと言われれば違和感がない、可愛らしいその小屋は、正しく立派な『ツリーハウス』であった。

 森林の奥地にひっそりと佇むツリーハウスの周囲には、美しく輝く青い花が無数に咲き誇って、群生地となっているようだった。樹々が鬱蒼としており陽光を遮って一帯が薄暗い代わりに、青い光が茫洋と浮かんでなんともロマンチックな風景であった。

《Brother》
「はあ……」

 目的地に辿り着いた頃には、ブラザーは案の定クタクタだった。体力がないのは言わずもがな、真面目な彼にとって、規約違反というのが思いのほか心理的疲労に繋がっているようだ。もちろん、疲労の原因と行動を共にしていることにも理由はあるだろうが。

 息をあげながら前方に見えるツリーハウスを眺める。恐らくここが目的地。ドロシーの語る“夢”と関わり深いと聞いているが、やって来ても記憶を再生されたときのような痛みはない。むしろ薄暗いツリーハウスと青い花とで、何も考えなければ気分が良くなる光景だ。尤も、ブラザーの気分が全く良くないことは最早言うまでもない。
 こめかみの辺りを指で抑えながら、ゆっくりと歩き出す。追い求めている答えは、一体どこにあるのだろうか。

「……これ……」

 辺りを見回して、ブラザーは枝にかかる布を見つけた。以前、コゼットドロップの花弁を見つけた時と似ている。あのときも布が枝にかかっていたはずだ。もう考えたくもないのに、足が自然と動く。ジョウロの傾く音が耳鳴りみたいに聞こえて、ブラザーは眉を寄せた。

 ツリーハウスの周辺の成長した高木は鬱蒼と枝葉を繁らせており、それらは地表を覆って陽光を遮っているため、この近辺は昼間だというのにやや薄暗かった。また、それらの木々の枝には、大量の白い布が引っ掛かっているようだ。

 あなたは以前にも同じようなものを寮の周辺で見掛けている。あの木に掛かった古い布には、コゼットドロップの花弁が巻き込まれていた。この場所から風に飛ばされてやってきたのだと考えるべきだろう。

 白い布は以前のように、地面に落ちていた枝を使って引っ掛ければ落とすことが出来る。あなたがそうして回収するならば、それらの布は相当古く、黄ばんで褪色しているだけでならともかく、雨風に晒されたせいかズタズタの襤褸布といった有り様であった。

 ……しかし。それらが寮で日々用いている無地のシーツであることと、また、無数のシーツを結び付けて、ロープのようにしてあるという事実をあなたは察せられる。道中、柵を越えるために用いた、ドロシーらが用意した手製のロープと酷似しているのだ。

 何故こんなにも無数のロープが、樹々に引っ掛けられているのだろうか。遊び場を作ろうとしていたにしては、少し執拗な気もするだろう。

《Brother》
「……前にも、トイボックスから誰かが?」

 これは間違いなく、寮で使っているシーツ。黄ばんでボロボロになってしまっても、コゼットドロップの花弁を見つけた物と同じように思えた。であれば、ずっと前に誰かがここに来たのだろうか。ただ同じ製品が使われていただけ、と考えることは、どうしても出来ない。
 ロープのように結ばれている点も不可解だ。一体なぜ、ここまでの数を用意したのだろう。何が目的で、結びつけたのか。

「……?」

 ロープがかけられた枝の、上。
 もしもこの木に登るためにこのロープが作られたなら、この上に何かがあるはずだ。このボロ布では、トゥリアのブラザーじゃ到底もう登れない。目視になってしまうが、ロープがかけられた木の上に何かがないか確認してみる。

 ロープが引っ掛かった木の上には、特に何かが見つかるということはなかった。周辺の木々も同様。あなたは木と言うよりも、ロープが木から垂れ下がっている状態そのものに何らかの意味があるのではと予想するだろう。

《Campanella》
 先生の言う通り、柵の向こうの森はずいぶんと入り組んでいた。体力の無いトゥリアの三人を気にもせずに置いていくドロシーの後ろ姿を、カンパネラは半泣きでなんとか追っていた。

 息を切らしながら、どうにか辿り着いた地。まだ空は青く明るいはずなのに、そこだけ夜が訪れたみたいだった。
 可愛らしいツリーハウス。来たことの無い森の奥地。暗いけど、足元にいくつも咲く青い花の光が星のようにそこを照らしていた。

「……きれい。」

 道標であったそれよりも大きなコゼットドロップが咲いているのを、カンパネラは見下ろしていた。その感想は変わらない。見たことがなくて、美しくて、綺麗で………どうしようもなく、“知っている”。

 パントリーで見つけたあの写真は、結局元の位置に戻してしまった。それ以上見ていたら、頭が壊れてしまうのではないかと怖かったのだ。
 あの痛みを忘れられない。意識が飛んでしまうかもしれないと思ったぐらい痛かった。脳の中の何かを、ギリギリと剥がされるような激痛。蹲る己の脳裏にて照る穏やかな陽光と春の気配。

 朗らかな少女の声が降りてくる。ぶっきらぼうな少年の声も。

『──カンパネラ、■■■■■、恥ずかしがらないで! 大丈夫、ただのカメラだから。怖くないんだよ〜!』
『怖がってねえよ』
『またまた。そんなこと言っちゃって!』



 ……そういう記憶は疑似記憶と違って、事実である場合が多い。
 先程のドロシーの言葉に、カンパネラは妙に納得していた。
 カンパネラはずっと、あの写真を見たあとの白昼夢を、ただの幻だと自分に言い聞かせていた。
 けれど彼女は確かに、あの写真を手に取って見ていたのだ。見つけたのだ。あの夢の中で撮ったはずの写真が、パントリーにそっと隠されていたのを見つけたのだ。

 カンパネラは確信する。あれは、きっと──。

 ふわり、と少女はその場に膝をつく。大ぶりなコゼットドロップの群生をじっと見つめる。カンパネラは、あの強烈な既視感の正体を探る。

 ツリーハウス一帯には、寮周辺には僅かとも咲いていなかったコゼットドロップが多く群生していた。それも、道中に咲いていた小ぶりなものよりも、大きく花を開き、美しく咲き誇っている。

 この一帯が高木のよく茂った枝葉によってやや薄暗いためか、コゼットドロップの蓄光性、あるいは恒常に光を発する特質がよく輝いていると言える。暗がりにぼんやりと浮かび上がる青い煌めきは幻想的で、可愛らしいツリーハウスをそれらが取り囲んでいることから、この周辺の景色自体が追い求めていた夢の景色なのではないかとすら思えるほど、あまり現実味が感じられなかった。

 あなたがコゼットドロップに触れたり、香りを確かめたりするならば、分かるのは『特になんら異常はない』ということだけ。当たり前に道端に咲いている花のように、毒があるわけでもなければ、特別な香りもしない。コゼットドロップはただそこに咲いていて、光を放っているだけだ。

 だがあなたはそれらの青い花の傍に、あるものが落ちている事に気がつく。
 光に照らされてぼんやりと浮かび上がるのは何か細長い物体だ。あれは何だろうか。

《Campanella》
 頭の痛みに構えつつ、ジ……とコゼットドロップを観察する。何も起こらない。波紋のような形状の花びらに触れてみたり、顔を近づけて香りを嗅いだりしてみる。……何も起こらない。

「あ、あれ〜……?」

 間抜けな声がこぼれる。写真を見たときは一目であんな目に遭ったのだから、この花もきっと…と期待を込めての行動だったのだが、そんなうまくはいかないようだ。感想も更新されることはない。ただ花はきれいなままだ。既視感も消えることはなく、それはとても無視できるものじゃない。
 でもこんなに近くで花を見ているのに何にも起こらないということは、やはり自分の勘違いなのだろうか。知っている、という自分の感覚にさえ自信がなくなってきたところで、カンパネラは何かを見つける。

 花の傍に、何か、何かが見える。ミミズかと思ってビクリと肩が震えた。

「な、何………」

 う、動いたらどうしよう。恐る恐る、カンパネラはそれに手を伸ばしてみた。

 暗がりにポツン、と取り残された、草地にあるには少々違和感のある細長い物体。コゼットドロップの青い光に照らし出されて漸く発見するに至ったそれを、あなたは手に取ってしまった。

 そっと顔を近づけてみれば、その物体がなんなのか分かった。


 これは“指”だ。
 あなた方ドールズに用いられた人工皮膚が張られた、紛れもない、人差し指だった……。

 人差し指のつま先からその付け根までが『本体』から千切れて、地面に落ちていたようだ。赤黒い汚れが付着していて見るも悍ましかった。
 指自体には、何故か火傷の痕跡が色濃く残っている。黒く焦げた表面はあまりにグロテスクで、あなた方ドールズが『本物のよう』をいかに追求されたかがよく分かる。

 また、その指は細さや爪の丸みから、おそらくは──少女モデルのドールなのだろうと推察出来る。

《Campanella》
 見間違いだと思った。そんなはずはない。こんなところに、そんなもの、あるはずがない。
 木の枝だ。それか、何かの破片やがらくた。ただのゴミだ。だってそんなの、ありえない。

 現実逃避を試みる。でも、頭が上手に働かない。逃げられないのだ、カンパネラはそれを手に取った瞬間に理解してしまったから。
 指だ。

「────ヒュッ、」

 誰かの焼け焦げた指だった。
 カンパネラは悍ましさに吐き気を催した。これではミミズの方が何百倍もマシだ。本当に、本当に、理解したくなかった。
 指がカンパネラの手から落ちて、再び美しい花の群生に埋もれる。光によって浮かび上がるシルエット。誰かの指。切り離された。部品。…実に精巧な、ドールの……。

 カンパネラは可哀想なくらい真っ青な顔をして口元を抑え、その場から逃げた。頭が痛い。でも痛いだけで、彼女には何の情景も見えなかった。
 ただ、自分の脳の奥深くに、思い出してはいけない何かの存在を感じていた。


「う゛、うえ゛……」

 カンパネラは身体を縮こまらせ、しばらく木の根元で呻いていた。しかし、結局涙以外の何も出せないまま吐き気が止む。心底しんどい、という顔のまま、しかしどうすることもできずによろよろと立ち上がる。

《Rosetta》
「ドロシー……で、よかったかな。質問したいことがふたつあるんだけど、いい?」

 他のトゥリアが探索をする中、ロゼットはテーセラのドールたちに声をかけた。 話を遮ってしまうのは失礼かもしれないが、彼らが揃っているのは今しかない。
 質問するのに一番適しているのは今だと、彼女はそう判断したのだ。

 「まず、コゼットドロップについて。私もこの花を持ってるんだけど、これはくるみ割り人形の本に挟まっていたんだ。一度水に浸してみたら、色が水の方に移ってしまって……これについては、何か知ってる?」

 巾着から花を取り出すロゼットは、いつになく饒舌だった。
 状況や経緯を説明する以上、どうしても長ったらしくなってしまうのは仕方ない。
 柵を越え、歩き通しだったのもあり、口頭で耳にするともう少し聞きにくくなっていることだろう。
 どうかな──とドキドキしながら、彼女は二人の返事を待つ。

 ドロシーとジャックは、見るからに森林の中で目立った人工物であるツリーハウスに近付かずに、付近で言葉を交わしていた。
 あなたはそのやり取りの片鱗がまず耳に入るだろう。

「恐らく今、下見に向かっているはず。それになるべく合わせろ」
「周辺の地形を……確認するだけだな……」
「離れ過ぎると不味いかもしれない。何が埋め込まれているか」
「ひとまず三十分後……もしくは何か向こうで動きがあったら戻ってくる……」
「そうしろ。……ハ?」

 何やら今後の段取りについて相談し合っていたようだ。真剣な様子はしかし、あなたが歩み寄って声を掛けてきた事に二者が気が付くと途端に和らいでいくだろう。

「へェ、ドロシーちゃんに聞きたいコト? 空気読めバーカ! と言いたいトコだけど、ノワゼットローズはどっかの誰かさんと違って文句も言わずずうっとお利口だったから、シンセツなドロシーちゃんが聞いてやるよ」

 どうやら、あなたの質問に応える気概があるらしい。ドロシーは格好を崩して被り物を僅かに傾け、そんな彼女の斜め後ろに沈黙したジャックが控えた。

「くるみ割り人形の本は知らねーけどォ、色が移った件についてはアントシアニンみてーな……あー、お花の色素が水に溶け出たんじゃネ? ちなみにその水溶液、触れたり舐めたりした?」

 ドロシーは握り拳を作ってそれを被り物の口元に添えると、トントンとその付近を軽く叩きながら見解を述べた。恐らく彼女の思考の癖のようなものだろう。

《Rosetta》
 他にも冒険をする仲間がいるのだろうか。それにしては、やや剣呑すぎる空気のような気がするが。
 空気が少し柔らかくなったのを感じながら、ロゼットはドロシーの返事を聞いていた。
 難しい言葉まで扱えるなんて、ドロシーは実はデュオクラスでもあったりするのだろうか?

 「してないよ。水はブラザーにあげちゃったけど、水に浸した花なら舐めたんだ。つるつるしてるだけで、何にも味がしなかったね」

 従順なモルモットのように、ドールは答えを口にする。
 視線は拳の辺り、被り物の表面をなぞる。その中身は、一体何をどこまで知っているのだろうか。

「アッソ、マァドールだし。当たり前か……」

 ドロシーはあなたの返答に納得したのかしていないのか。生返事を返しながら、虚空を眺めるかのように被り物の正面を明後日の方向に向けていたものの。「コゼットドロップは少なくともドールには害のある花じゃないぜ、別に舐めたかとかで死ぬコトはない」という返答する事で、会話を一時締め括るだろう。

「ドロシー、俺はそろそろ行く……見失うかもしれない」
「さっさと行け〜〜。そんじゃ、30分見て回る時間があることを祈ってるぜ、ギャハハ!」
「そうだといいな……。……ロゼット。俺はあらかじめ言っていた通り、トイボックス外の周辺の地形を軽く見て回ってくる……30分程したら戻る予定だ、他の奴らにもお前からそう伝えろ……ドロシーでは、不安だからな……」
「何が不安だってんだよ、お? 大腿筋潰すか?」
「それじゃあ行ってくる……」

 ジャックはドロシーの喧嘩腰を軽くスルーして、ツリーハウスの周辺を離れ、木立の向こうへと姿を消した。言葉通り、一帯の地形を確認してくるつもりなのだろう。
 そして30分後に再集合する予定だと言った。察するに、その30分が探索のタイムリミットと考えた方がいいだろう。

「で、もう一つの質問は? さっさと言えよ〜〜荊姫。実際、時間の余裕はそこまで無いので。ギャハハ! 規則違反がバレて怒られるのは面倒デショ!」

《Rosetta》
 立ち去るジャックに手を振りながら、ロゼットはドロシーに向き直る。

「うん、これはさっきの話にも関係があると思うんだけど」

 細い足が草を踏む。
 被り物の顔に、ロゼットは己の顔を寄せた。ラジオのアナウンスのように、平坦な声がドロシーの耳をくすぐっていく。
 作り物めいた微笑みのまま、彼女は小首を傾げた。
 是であろうと否であろうと、返答が得られればドールは満足するだろう。そこで話を終わりにして、また雛鳥のようについていくはずだ。

「……………………」

 徐ろに淡麗な顔を近付けたあなたとの、秘密めいたやりとりは。ドロシーからのボソボソとした応答の後に──「ギャハハハハハハ!」という耳障りでざりざりとした哄笑で打ち切られる。

「エーでは、フラワーバケットの満足そうなカワイイお顔も頂けたコトですし、そろそろ本題のツリーハウス内見学といきましょう。

 オイジャンクども、集合しろ! まさか一番重要そうなあの家を放置して、周辺だけで腹一杯になってねーだろうな、クソッタレなヴィーガンめ、ギャハハハ! 引率の先生はココから世界一頼りになるドロシー大先生に代わります♡ 奇跡の九回裏表ファンファーレが鳴り響きまして、ワタシ・詩の上の役者・ドロシーによるスリル満点バスツアーガイドの始まり始まり〜!」

 ドロシーは細い両腕を高らかと持ち上げて、大声で騒ぎ立てながら大股に中央の大樹の根元へ歩み寄った。その招集の声は、一帯を見回っていたブラザーやカンパネラにも届くだろう。

《Brother》
 木々に繋がれたロープやその周辺を探索していたが、高らかな招集に足を止める。顔をそちらに向けてみれば、もうツリーハウスの中に入るらしい。近くを見てもジャックの姿はなく、どうやらもう離脱したようだった。
 ブラザーは軽く息を吐いて、ぐるりと周辺を見回す。学園のものと同じ古い布。多すぎるように感じるロープ。大きく美しく咲くコゼットドロップ。ここは愛する箱庭を瓦解させかねない物ばかりだ。

 深く息を吸う。
 柵の外の、青白い空気。

 “おにいちゃん”は、自分が何をするかもう決めている。

「ドロシー、ここは君が言う言う夢とちゃんと関係があるんだろうね。カンパネラが望むものを見せてくれるんだよね?」

 ブラザーは大樹の方に足を運びつつ、余計な棘を一言。じっとりと目を細めては、嫌味な視線をドロシーへ送った。足元に気をつけながら根元まで来れば、今度もやはり妹二人を守るように、少し前に出るだろう。

《Campanella》
 カンパネラはドロシーの声に応じて、鬱蒼とした木々の柔らかな闇の中から、どこかふらふらと不安定な足取りで歩み出でた。木々に引っ掛かっていたロープの謎を知ることはなかったが、少し心を落ち着かせられたようで、その哀れなかんばせから青の色彩が引いてきている。

「…………はい……」

 雪の結晶のように美しく脆い、極小の声を放つ。怯えているのだと分かるだろう。しかし、それを必死に耐えていることも伝わるはずだ。
 自分に出せる限りの強い力で、カンパネラは己の二の腕を握り、体の震えを押さえ付ける。怖がっていつものように隅っこで丸まっている場合ではないのだ。

 あの焼け焦げた指を見てから彼女の頭を蝕んでいた痛みはとっくに引いている。それよりもよほど心臓が痛い。覚悟はもう決めたはずなのに、今ここには、ブラザーの背に庇われ、安堵する自分がいる。

 気をつけてね。
 姉の声が聞こえた。弱音がこぼれ落ちそうだったので、口は開かず、静かに頷いた。

 ブラザーから投げ掛けられた辛辣な眼差しと不遜な言葉に、ドロシーはあろうことか鼻で笑って肩を竦めると、「さァ?」などとここに来て話をはぐらかした。

「ソイツの望むものかどうかなンて、ワタシはソイツじゃないんだから分かるわけねーだろ。ギャハハ!
 でもこのツリーハウスに、ワタシ達ドールズの在り方を揺るがすような、重大な事実が眠っているコトは保証してやるよ。何せ、√0がここを指し示していたンだから」

 また、√0。
 あなた方が実在すら疑うような正体不明の存在を崇拝するようにドロシーは告げると、大樹の裏側に歩み寄って、何かに手を触れさせた。
 あなた方が死角になっていたその場所へ回り込むなら、ドロシーは樹幹に添うように木々を組み合わせて作ったと見られる梯子を握り締めている。

「結構古そうだしィ、ワタシが先に登って強度を確かめる。テーセラのワタシなら落ちても別にモーマンタイ。お前らは指咥えて見てな。」

 彼女はそう言い残すと、いかにも古そうな梯子に足を引っ掛けて登り始める。上へ向かうたびにギシ、ギ、ギ……と不安な音を奏でている梯子だが、ドロシーが一番上まで登り切るまでに崩れ去ることはなかったようだ。

 頭上を見上げると、梯子に繋がるようにしてツリーハウスの玄関扉の前、木製の足場に辿り着くようになっているらしい。
 あなたは老朽化が激しく半ば苔むした梯子を慎重に登っていかねばならない。

《Rosetta》

 “ドールの在り方”を揺らがしかねないものを、こんな簡単に見てしまっていいのだろうか?
 ふんわりと疑問を抱きながら、ロゼットは微笑んでいる。
 自分自身の在り方を規定した覚えはないし、規定された覚えもない。
 無知は檻の中にいることを自覚していない状態を指すが、同時に檻から最も容易く脱することができる状態でもある。

 「行こう、ふたりとも。√0についてはよく知らないけど……ちょっと楽しそうだし」

 ドロシーが登り出った後、真っ先にロープを握ったのはロゼットだ。
  ブラザーとカンパネラを一瞬振り返ってから、躊躇なく梯子に足をかけた。

《Brother》
「……また、それ。
√0がなんなのか、最後に教えてもらうからね」

 嫌味ったらしい視線を向けたままのブラザーは、ドロシーの言葉にまた噛み付く。けれども彼女が裏側に移動したのなら、警戒しつつもそれに続いた。ツリーハウスへ入るために用意されたであろうハシゴ。見たところかなり古そうだが、これはちゃんと使える物だろうか。他の通路がないか見回していれば、ドロシーはさっさと登り始めてしまった。

 先程の布といい、ハシゴといい、どうやらこの場所はかなり前からあるらしい。ドロシーは登り終えられたが、この後に続く三人分に耐えうるハシゴかどうか分からない。再び躊躇いなく登り始めるロゼットに肝を冷やしながら、カンパネラの方をブラザーは見た。

「先に僕が登るよ。
 怖かったら言ってね。カンパネラのこと、上から引っ張るから」

 深呼吸して、ハシゴを見る。
 今日だけで今月の運動量をゆうに超えてしまっただろう。しかし、止まることはできない。ブラザーは意を決してハシゴをつかみ、危なっかしくもそれを登ってみせるはずだ。息を切らして、カンパネラを上で待とう。

《Campanella》
 √0。彼女の口から度々放たれるそれは、まるで魔法の呪文みたいだ。或いは、神様みたいな。天秤のような。
 到底理解できなさそうな単語に疑問符を浮かべつつ、カンパネラは古びた梯子と、その先にあるツリーハウスを見上げた。
 ………怖い。どうしてロゼットは同じ脆いモデルのドールなのに、あんなに躊躇いなくここを上れるのだろうか。

「………ぁ、は、はい。…ありがとう、ございます……………」

 ブラザーの、まさに兄らしい慈愛の言葉にこてりと小さく頭を下げる。
 そして彼がなんとか上りきったのを見届けると、カンパネラは大きく息を吸った。腹にまで空気を取り込むかのように深く吸い、吐く。発声練習を思わすその呼吸を終えると、カンパネラは慎重に、でも確かに梯子を上り始めた。

 梯子が壊れるようなことがなければ、カンパネラはひぃこら言いながら何事もなく、ブラザーの手を自分から借りようとすることもなく梯子を上りきるだろう。

「トゥリアはほんっとうにトロくてどうしようもねーな、ギャハハハ! 登り切るのを待つ間にインスタント麺が三つぐらい出来るでしょうね。ギャハハ!

 マア梯子を壊さずに登れたのは及第点だネッ、帰りもあるしィ? サッ、時間も無いしササっと家探ししちゃうよん」

 恒例のようにあなた方トゥリアの身体能力の無さ、脆弱性などをフラットに罵ってゲラゲラと笑い声を上げながらも、ドロシーはあなた方が登り切ったことをきちんと確認してから、後方の木製扉を見据える。

【寮の外縁 ツリーハウス内】

 扉はかろうじて扉枠に収まっているといったところで、蝶番は外れ掛け、中途半端に開きっぱなしになり風に揺られてキィキィとか細い音を鳴らしている。まるで抜け掛けの歯のような有様の扉の向こうには、薄暗い小部屋が広がっていた。小屋程度のサイズなのだ、手狭な部屋なのは致し方が無いだろう。

 全て木製のログハウスらしい内装だが、組み込まれた木材は年月が経過したことによる経年劣化で朽ち始めており、あまり派手に動き回ると倒壊の恐れすらあろう状態だった。そして内側にまで成長した大樹の枝葉や苔が侵食しており、半ば緑化しつつあるのも分かった。

 天井からは枝垂れた葉がカーテンのように降りてきており、陰鬱さを更に醸しているように見える。

 小部屋の中央には天板が広く、支えとなる脚は低いテーブルが一つ置かれている。テーブルの上には、幼な子が遊びで用いる雑多な玩具が転がっていた。

 部屋の隅や、取り付けられたガラスのない窓枠には植木鉢がいくつか置かれていたが、植物は植えられていなかった。

 そして、室内で何よりも目立つのは。


 入口から最も遠い奥の壁に沿って置かれた作業台にぽつん、と取り残された──少女の姿をしたドールだった。

《Rosetta》
 ツリーハウスの中は、想像よりも生活感のある場所だった。
 持ち主の不在により、大樹に侵食されかけてはいるが、それでも確かにドールの生活の痕跡がある。

 「あの子、誰なんだろう……」

 生きているのか、静止しているのかも分からないドールに、ロゼットはひと言呟いた。
 見覚えはあっただろうか。あったとしても、きっと名乗られなければ分からないだろう。オミクロン以外のドールに対する関心なんてそんなものだ。
 だが、薄っぺらい親近感を見透かされるのは、少し怖い。顔も覚えていない相手なら、なおさらである。
 少女型ドールから目を離し、植木鉢の方へと向かった。まだ知っていることがあるかもしれないと思ったのだ。

 窓辺にいくつか植木鉢が並べられているのを、あなたは見つける。
 植木鉢の上には、すっかり乾ききった土と、腐葉土にすらなれずに朽ちた葉の残骸が僅かに残っていた。植物は植わっていないが、元々この植木鉢で何かを育てていて、世話が無くなってしまったために枯れてしまったのだと想像出来る。
 種子すらも死滅したであろう植木鉢に、新たな植物が生え出ることは期待出来ない。


 ロゼット。あなたが植木鉢を手に取ってみるならば、覚えのあるこの感覚、強い既視感に反応してか、こめかみがズキ、と脳内に響くように痛み始める。
 立ちくらみのような感覚にあなたは一時視界を奪われ、またしても不可思議な夢を垣間見るだろう。

《Rosetta》
 本来感じないはずの痛みが、脳髄を乱反射する。
 宙に放り出されるような浮遊感、時空間を無視して流れ出す幻灯。
 これが夢だと言うのなら、あれは誰で、ロゼットに何を託したのだろう。

 「わた、しは」

 ただでさえ疲労していたのに加えて、普段は使わない感覚まで刺激されて。
 どうしようもなく疲れた彼女は、背中を壁に預け、ずるずると座り込む。

 「……“人類”と“ヒト”って、違うの?

 そうして、どこかに向けて独りごちた。
 少し茫然とした後、彼女は植木鉢を元に戻すために立ち上がる。特に話しかけられるでもなければ、机の上の玩具を見ようとするだろう。

 あなたは部屋の中央に据えられた、脚が低く天板が広い大きめの机に歩み寄る。机の上やその周囲には、沢山の子供の玩具が散らばっている。トランプにヨーヨー、ミニカー、ぬいぐるみ、平面構成のパズル、シャボン玉など……あなた方の寮にも見掛けない雑多なものが色々と。
 幼い子供たちの集団がこのツリーハウスを溜まり場にしていたかのような、そんな印象を与えてくる。

 あなたはその中に、無造作に放り出されて横倒しとなった四角い箱のような装置を見つける。寮で見掛けないため、一瞬何の装置かと首を傾げるが、正面の大きなレンズや覗き窓などの構造から、それが人物や景色を切り取るといわれる、所謂『カメラ』なのではないか?と予測出来る。

 カメラの近辺には何枚かの写真が散らばっていた。このツリーハウスを外から撮影した写真、森林のどこかの風景を切り取った写真、星空を映し取った写真など、風景を捉えたものが多い。
 そのうち一枚に、人物が映った写真を見つける。

 ロケーションはこのツリーハウス内。窓を背に、一人のドールがにこやかに映り込んでいる。黄金のヴェールのような眩ゆい頭髪に、マリンブルーの輝かしい瞳をした、快活そうな少女のドールだ。
 彼女は満開の花束を持って笑っていた。この世で一番幸福なのだと信じて疑わない、そんな顔で。

《Campanella》
 は、は、と細かく荒く息をしていた。梯子を上って体力が切れたのもあるし、何より、何とも言えない緊張が彼女の鼓動を早めていた。
 そこにカンパネラの望むものがあるかは分からないと、ドロシーは言った。しかし、自分たちドールを揺るがす重大な事実が眠っているとも言った。
 √0が指し示す場所。

 意外にも、カンパネラはツリーハウスへ入ること自体を少しでも拒むような動作は見せなかった。佇まいは情けなく弱々しく、それでもどこか躊躇いを捨てて、カンパネラは歩みを進めた。


 ───なに、あれ。

 そうしてカンパネラはツリーハウスに入って早々、「ヒ………」といつものように得体の知れないものへの恐怖を示していた。
 室内が薄暗かったのと、即座に目を逸らしたことで少女の姿を明確に視界に捉えることはなかった。

 彼女の視線を壁の方へ、色褪せた水彩画の方へと逸らさせたのも、未知のものへの単純な恐怖だ。

 ……本当にそうだろうか。

 カンパネラは壁に釘を打ち、紐によって掛けられた額入りの絵画に歩み寄る。経年劣化によって褪せてしまってはいるものの、水彩絵の具で描かれた絵画は淡い色合いが美しく、今なおその繊細な魅力を感じさせるものである。

 描かれているのは、おそらくあなた方が日頃寝泊まりしている寮の外観だ。周辺は青々とした平原に囲まれて、寮のそばには花畑と噴水もある。
 そして噴水のそばで、小さくはあるが赤い制服を着た数名の──恐らく生徒であるドールと、それを監督していると思われる先生が描かれていた。だがその先生は、少なくともあなた方の先生では無さそうに見える。

 そして、この学生寮は、あなたの知るものと違い、三階の窓が塞がれていなかった。あなたは自分の寮の三階が、物置として使われており立ち入りが出来ないことを知っている。その一環で窓も塞がれていたのだが、この寮はどうやら違ったらしい。


 絵画の右下には、おそらく描いた人物の名が記されていたのだろうが、絵の具が掠れて読めなくなっている。トゥリアの繊細な洞察力を持ってしても、読解は難しかった。

《Campanella》
 そこにはカンパネラにとって、というか、ドールたちにとって見慣れた風景が描かれていた。色褪せてなお美しく、カンパネラは寮の周辺に出て爽やかな風を感じるような夢想をする。一体誰が描いたのだろうか。絵の中には先生──カンパネラがそう呼んでいる人物とはまた別人のように見受けられる──も描かれていたため、前の世代のドールが描いたものなのだろうかと推察する。絵画の端に刻まれた名前らしきそれは、上手く解読できない。

 なんとなく違和感を覚えてよく絵を見てみると、寮の三階の窓が塞がれていないことに気付いた。先生らしき人物の特徴も異なっていたので、他の寮にて描かれた絵なのだろうかと思う。

 ……いや、それはさておき、何故こんなところにドールが描いたらしき絵が飾られているのだろう?
 古び、廃れつつ、確かに人の過去の気配を残して聳えるツリーハウス。規則を破って柵を越え、やっと辿り着いた場所。
 ここは、一体。

 カンパネラは更に辺りを見渡す。と、ある壁に傷が刻まれているのを視認した。またも少女から目を逸らすようにして、傷の方へ向かってみる。

 絵画が掛かっている壁とは別の、室内の一角。木製の壁一面に、何か鋭いもので削り取ったような傷が数多残っている場所を、あなたは見つける。室内の一等暗いところで、あなたはそこへ歩み寄ることで、傷の様子を確かめねばならない。

 壁の傷は全て、ひとつの単語であると分かる。

 ──『√0』

 ドロシーが度々溢すその単語が、執念深く壁に刻まれている。何度も何度も。何度も何度も。
 あなたはその執拗さに、ある種の信仰すら感じるかもしれない。異様であるのは間違いなかった。

《Campanella》
「…………これ…」

 壁にびっしり刻まれた傷。√0、√0、√0…………何かで削って残したらしき傷だ。

 カンパネラはその光景の異様さに戸惑う。ドロシーの口から数度放たれた単語。彼女は恐怖で顔を青くする。
 それ以上分かることはここからはないようだ。数歩退く。心を落ち着かせるためにと彼女は俯き、地面を見つめながらあの発声練習みたいな深呼吸を繰り返した。

《Rosetta》
 こんな所で、誰が写真を撮っていたのだろう。
 トイボックスでは見たことのないものの中、ロゼットは写真を手に取る。
 金色の髪、美しい青色の瞳。幸せそうな表情は、とてもではないが見覚えがない。
 こんなところで、こんな写真を撮ったことがあるドールがいれば、名前くらいは知っていてもおかしくなさそうなのに。
 小首を傾げながら、彼女はカンパネラに近づいていく。理由は単純、ドロシーもブラザーも話し込んでいたから、話しかけられそうなのが彼女しかいなかったためだ。

 「ねえ、カンパネラ。この子に見覚えはある?」

 後ろから優しく声をかけて、目線の位置に写真を持ち上げる。何か反応があれば、それを手渡すことだろう。

 あなたはロゼットが差し出した一枚の写真を、自然と覗き込むだろう。それは以前にも見つけた、パントリーのあの写真とサイズもフレームも映り具合も、経年劣化による褪せ方も殆ど同じだった。きっと、同じカメラで撮影されたのだろうと感じる。

 ツリーハウス内の一角を背にした一人の少女が、切り取られた世界の中でいっとう幸せそうに微笑んでいる。彼女は満開の花束を両腕で抱えて、無邪気にはしゃいでいるようだった。

 あなたは彼女を見たことがある。金色の髪に眩ゆい碧眼。──間違いない、『太陽のようなあの子』だ。

 カンパネラはこの写真を捉えて理解した瞬間、こめかみに刃物を突っ込まれるかのような痛みを覚える。閉ざされた記憶を強引にこじ開けられる感覚。あなたはあの時も、同じような痛みに苦しみ悶えた。

 けれどもその痛苦の合間に垣間見た。『過日の夢』を。

《Campanella》
「─────ぁ、」

 ロゼットに声をかけられ、くるりと素直に振り向いて。彼女の綺麗な手で示された写真を一目見る。

「……それを、どこで………」

 そう問おうとした瞬間に。
 カンパネラは自分の体が物凄い角度に傾くのを感じる。
 頭に走る激痛に顔を歪ませながら、カンパネラは声を聞いた。

 ───『お披露目に選ばれることになったの』。

 カンパネラはその時、シャッターを切る感覚を“思い出した”。

 喜ばしい日だった。素敵な笑顔だった。餞別の花束、これからの彼女の幸福を祈る言の葉。

 それは晴れ舞台であるけれど、わたしたちとのお別れを意味している。少し寂しいけど、それでもやっぱり、あの子があんなににっこり笑うから。
 これでよかったのだ。


 ……カンパネラは床にしばらく額をつけて痛みに耐えていたが、やがて顔を上げて目を覚ました。磨かれた水晶のような、汚れも不純物も何一つない美しい夢から覚めた。

「───ぁ。………ご、ごめんなさい、急に…………な、なんか、頭、痛くなっちゃって……」

 突然倒れ伏したのだから、ロゼットのことを驚かせてしまったことだろう。彼女に無事を示すように立ち上がり、カンパネラは頭を抑えながらそっと下げた。

 写真のことは、夢のことは言葉にしなかった。
 というかできなかった。理解が、追い付いていないのだ。
 もし彼女に何か問われても、カンパネラは頑なに答えないだろう。なんと言えばいいのか分からないので、無言で首を振るしかあるまい。

 “思い出した”?わたしは今、何を思い出した?
 晩にお披露目を控えた時間、ツリーハウス、選ばれた『あの子』、カメラ、花束、餞別、祝福。幸せだったあの頃。
 その全てを知らない。いいやその全てを知っている。思い出したのだ。否、そんな記憶あるわけない。
 混乱の最中、カンパネラは思う。あの少女はどんな人間に選ばれたのだろうかと。今、外の世界で幸福に生きているのかと。

 思考と思考がこんがらがって、自分が二人いるみたいだ。そんなことを彼女が思うのは、今更みたいで奇妙だけれど。
 そしてその混沌とした感情のまま、カンパネラは───どこか虚ろな瞳をして、遂に彼女は、ツリーハウスの最奥に目を向けた。

《Rosetta》
 倒れそうになるカンパネラに、ロゼットの手が伸びた。

 「危ないよ」

 眠るように意識が飛んだ、黒髪の乙女。その身体にわずかな傷も残らないよう、彼女は抱くように受け止めた。
 急に色々なものを見て、ショックだったのかもしれない。苦悶の表情に怒ることはなく、ただただ憐みだけを感じていた。

「いいんだよ。怪我はない? まだ痛いなら、手を握っていようか」

 相手が帰ってきたのなら、きっと優しく身体を離す。
 乱れた髪を少し直して、いつも通り微笑んでみせた。

「これはおもちゃの中に落ちていたんだけど……多分、それどころじゃないみたいだね」

 ツリーハウスの奥、無垢なる人形にとっての善悪の果実。
 焼け焦げた抜け殻に、銀の星も意識を移す。
 彼女がすぐ移動しなくても、ロゼットはさっさとそれに近付くだろう。

《Brother》
「……足元、気をつけてね」

 ボロボロの、扉とも形容しがたい木板。美しいものを好むブラザーは眉尻を下げるも、入ってみなければ何も始まらない。動き回れば抜けてしまいそうな床に視線をやってから、後ろに続く妹たちを心配しておいた。
 そっと中に入れば、狭く古びた印象を受ける。緑になっている場所もあり、想像以上に古そうだ。今まで長らく、誰もここを使っていなかったんだろうか。そんなことを考えながら部屋に入れば、作業台が目に留まる。ブラザーはぱちりと瞳を瞬かせて、その少女を見つめた。

 まるで、作りかけの人形。
 時が止まったようなこの場所で、彼女はひとり腰掛けている。

 ブラザーは二人の妹を見た。
 まず二人は周囲の探索を行うようだ。であれば、やることは一つだろう。

「……こんにちは。僕はブラザー。急に入ってきてごめんね」

 ここに燃料となる食べ物はない。このドールは動くのだろうか。

「聞こえるかな?」

 にっこり、人当たりよく笑う。
 美しく妖艶な彼はいつもと同じように、腰掛ける彼女に目線を合わせるようにしゃがみながら優しく声をかけた。

 最奥の作業台には、少女の形をしたドールがぽつん……と暗闇に浮かび上がっている。廃墟と化した薄暗がりのツリーハウスに取り残されているためか、どうもその様子は物淋しげにも見えたし、得体の知れない様子に不気味ささえ感じたかもしれない。

 少なくとも、ドールとして活動を維持するためのあらゆる物資が欠けている子供の遊び場でしかないようなツリーハウスに留まっているドールが、まともに動けるはずもない。

 あなたは彼女が、作業台に“腰掛けている”ように見えただろう。だが、歩み寄ってみるとそれは大きな勘違いだったことに気が付く。

 ──彼女は、腰から下のパーツを失っていた。下半身を丸ごとどこかへやってしまったらしい少女ドールは、上半身だけをごとんと無造作に作業台に置かれ、放置されていた。
 項垂れた頭から流れるのは、かつては絢爛で美しかったであろう金色の髪だ。だが現在は手入れもろくにされていないせいか劣化により傷んでおり、毛先は乱れてざんばらに、またところどころ焼け焦げたように黒ずんでいるのが分かる。頬や肌もまた、ドールが持ちうる滑らかな手触りなどとうに失われ、人工皮膚は中途に剥がれ落ち、見るも無残な有り様となっている。

 彼女はあなた方も身に付けている赤い制服を纏っていた。襤褸布と化したリボンが、寂しく吹き抜ける風に揺れていた。


「フーーン……」

 あなたの隣には、同行していたドロシーが歩み寄っていた。彼女の手には何やら古い冊子が乗っている。それを被り物で正しく見えているのか定かではない様子で、ページを流し見ているようだった。

 ノートはどうやら、作業台の上に置かれていたらしい。ちょうど四角く、埃が被っていない箇所があったためすぐ分かるだろう。

 ノートに目を通すならば、ドロシーに声を掛ける必要がありそうだ。

《Brother》
「───ッ……!」

 息を飲む。

 かつて人がいた痕跡だけを残した古いツリーハウスにいた人影は、確かに奇妙だった。作りかけのように見える人形も不気味だったし、ブラザーとて近づきたいわけではなかった。しかし、それは妹たちも同じことだろう。嫌な役を買って出るのが兄であり、ブラザーはその人形に自分が近づくべきだと考えた。だから、その動くかも分からない人形に近づいたのだ。

 そこにいたのは、下半身のないジャンク品。オミクロンなんかよりもずっと、スクラップという言葉が似合う人形。

「僕らと……同じ、制服……」

 流石に一歩後ずさって、ブラザーは呟いた。作りかけのようにも見える人形が、何故同じ制服を着ているのだろう。何故、遊び場のようなこの場所に人形がいるのだろう。下半身はどこへ。長時間の放置で、焼け焦げたような黒ずみや人工皮膚が剥がれることはあるのか?

 ぐるぐると疑問が頭を巡る。
 あまりに陰鬱とした目の前の光景に視線を奪われていれば、ドロシーの声にハッとした。慌てて自分よりも少し高いその顔に視線を向ければ、彼女は何かノートを持っている。

「……何が書いてある? 僕にも読ませてよ」

 人形から少し離れて、ドロシーに声をかける。何も考えたくないと、答えが知りたいが両立するのだと、ブラザーはこのとき初めて知った。

「……本当に読みたい?」

 ドロシーは素早いページ送りで全てを確認し終えたのか、軽い音を立ててノートの見開きを閉ざした。
 片手で握り締めるようにノートを掴んでいる。彼女はあなたの申し出に僅かばかり悩むように少しばかり沈黙すると、そう、一言問い掛けた。
 重い静寂が横たわるツリーハウス内で、何やらその声はシリアスに響くだろう。

「お前さァ、√0が嫌いだ、平穏を乱すものが嫌いだ……そういう態度が透けてンだよ。
 ああ泣くなよ愚かしいアダム。別に批判してるワケじゃない。ワタシはこれでもお前を支持してるンだよネッ、誰だって臭いモノには蓋をしたいし、苦しい現実からはなるべく目を背けたい。その気持ち、ワタシもよーく分かってやれるよ。ウソだよバーカ! 情けないクレイジー、臆病者のナポレオンがよ! ギャハハハ!

 マア、そういうワケで。これはシンセツで思いやりのあるヤサシイドロシーちゃんからの最後通告だケド。
 本当に見る? ここにある事実を正しく受け止められるかい、偶像崇拝?」

《Brother》
「僕は」

 間髪入れずに口を開く。
 重苦しいこのツリーハウスの中に、ブラザーの凛とした声が響いた。いつもの甘やかすような伸びやかなテノールではなく、それは随分とはっきりした口ぶりだ。まるで、決意表明のような。

「僕は君の味方じゃない」

 ブラザーの顔は暗い。
 もうずっと思い詰めている。

「僕はヒトの味方でもない」

 ブラザーの顔は暗い。
 柔らかく細められているはずの双眼は不条理に濁って、理不尽に曇っている。

 けれど、足を止めてはいけない。
 思考を止めてはいけない。

「───僕は、妹や弟を幸せにしたい」

 それは混じり気のない本心。
 嘘偽りない言葉で、ブラザーの壊れた脳が考える生きる意味。

 白銀のドールは、美しい。
 恋人としてヒトを蕩かすために作られたトゥリアモデル。
 けれど彼は、自らを兄だと思い込む欠陥品だ。擬似記憶を誤って捉え、最愛の“妹”と弟妹に尽くすことを至上の喜びとする。

 ブラザーはオミクロンだ。
 間違った機能を持つ欠陥品で、行く先はスクラップかもしれない。

 けれど。
 ブラザーは、“おにいちゃん”なのだ。

「その為に知りたいんだ。
 トイボックスのことを。この世界のことを」

 知らなくちゃいけない。
 そう付け足すブラザーの眼差しは、やはり全く兄らしくなかった。砂糖菓子のように甘く、人を惹き込むほどに妖艶で、頼り甲斐があるようにはとても思えない。

 でも、それでも。
 例え兄でなくても、兄にはなれなくても。


 ……ブラザーは、“おにいちゃん”でいたい。


「君の言う正しい受け止め方じゃないかもしれないけど、僕はそれを読まなくちゃいけない。

 見せて、ドロシー」

 促すように近づいた。
 手のひらを突き出して、寄越せと相変わらず威圧的に要求する。

 覚悟も勇気も頭脳も力も。
 何も持っていないが、彼には愛情がある。

 これまでの甘さは消え去り、はっきりとした声色で決意表明をするあなたを、ドロシーは無機質な被り物のツルツルした瞳で一瞥すると。

 ひとつ鼻で笑って、ノートをあなたに投げて託した。ドロシーは軋む作業台に軽く腰掛けて、肩を竦める。

「コレが、トイボックスのくだらない茶番と、残酷な真実。まやかしの夢からも覚めるだろーな、キャハッ」

 あなたが受け取ったノートを開くと、一ページ目から他愛無い日々の記録が付けられていた。どうやら日記のようだ。

 自然とあなたは読み進めるだろう。ツリーハウスに残された誰かの記録を。

 トイボックスでの日々の勉強は、はっきり言って退屈だ。顔も知らん誰かの為に尽くすなんて、馬鹿らしく感じる。

 でも図画工作とか、独創力を伸ばす──そういう講義は結構興味深かった。眠らずに授業をこなせたので、僕には座学や身体を動かす授業よりもこれが向いているのかもしれない。
 図面を引いていると、無性に気分が上がる。入り組んだ構造のことを考えていると、いつしか時間が過ぎている。

 近頃は、本で読んだオルゴールの仕組みを分解して学んでいるところ。音楽の事なんてまるで分からねえから、シリンダーを作る工程が一番難しそう。だけど、こういう複雑な事を考えている時間は幸せだった。
 アイツは、音楽が好きらしい。アイツと一番仲が良いシャーロットから聞いた。まともな出来になったら、贈ってみるか。喜んでくれるだろうか。



・──────・


 シャーロットは近頃、執筆活動にのめり込んでいる。時折授業をおろそかにするから、プリマの座も危ういと先生に説教を受けていた。が、まったく懲りていないらしい。アイツはそういうヤツだ。

 でも少し導入を読んだら、呆れもどこかへ消えた。一文読み進めるごとに、その物語の先が気になって傾倒する。あの能天気なヤツに物書きの才能があるなんて思わなかった。

 ドールは作り物だ。だけど、得手不得手は個人によって大きく分かれる。商品として量産されているだろうに、なぜこうも細かく作り込むのか。

 僕はドールの脳の構造が気になる。どんなものを分解しても、自分の体の作りだけは何も分からないままだ。解剖なんてもってのほかだって分かってる。先生に聞いたら、教えてくれるだろうか?



・──────・

 オルゴールをアイツに贈った。喜んでくれたかどうかはわからない、反応を見る前に逃げ出してしまった。今更になって、最後の動作チェックの時に音が外れていたような気がした。

 アイツは耳が良いから、すぐに気付くだろう。そして、きっと呆れられる。ああ、もう少しきちんと仕上げてから渡すべきだった。最悪だ。今更悔やんでももう遅いけど。

 主よ。その御心が天に広まるように、日毎愚かとなりゆく私にも祝福を。
 私達の日毎の幸を今日もお与え下さいますよう。
 主の全能を信じます。御名に栄光があらんことを。


・──────・

 シャーロットがお披露目に行くことが決まった。ある日突然、先生がその決定を知らせたんだ。
 シャーロットはとても嬉しそうにしていた。沢山の祝福を受け止めて、笑っていた。

 アカデミーの外に出て行ったドールとは、もう会えない。

 ……アイツは大丈夫だろうか。シャーロットに手を引かれて、ようやく僕達とも話すようになってきた、孤立しがちなアイツは。静かに拍手を贈っていたアイツの横顔から、感情は読めなかった。一番優秀なエーナモデルのシャーロットならきっと分かったかもしれないが、ここ数日はお披露目の準備で忙しそうだ。



・──────・

 シャーロットと過ごす最後の日。アイツは今晩、学園を出て旅立っていく。

 いつものツリーハウスで集まって、僕達は密かに用意していた祝いの花束を贈った。シャーロットは心から嬉しそうにして、喜んでいた。はしゃぎすぎて勢いよくずっこけて、あろうことか腕に傷がついてしまっていた。アイツはそそっかしいところがあるから……しょうがない。

 傷のことは後で先生に謝っておこう。きっと先生ならどうにかしてくれるはずだ。

 シャーロットは僕達に一冊ずつ自分が執筆した本を託してくれた。僕が受け取ったのは、ノースエンドというラブストーリー。……どうせアイツはエーナだから、揶揄ってきているんだろう。内容は、面白かったから受け取ったけど。

 もう明日にはシャーロットが居ないっていうのは、いまいち実感がわかないな。

 全能の父よ。全てを見守る慈悲の神よ。
 あなたを信じ、敬います。日毎の幸を深く感謝致します。
 どうか太陽のような彼女に、惜しみなき祝福を。この命ある限り、彼女の旅路に不幸が降り掛からぬ事を祈り続けます。

 それは、幸福な日々の記録だった。雰囲気から察するに、書き手は少年のドールなのだろう。あなた方のように、アカデミーでの日々の生活を明るく享受し、満喫しているのを察せられる。
 だがその華やかな日々の記録は、この日を境に一変した。

 字体が歪んで上手く読めないページが現れたのだ。明らかに書き手が混乱しているのが分かる。

 いま何が■■た? 僕は何を■■? ■■■■■!? シ■■ロットはお披■■■■■■■■■■のか? ■■■■い。■■■■■、先生はこれを■■■■■■■? まさか■■■■■■!? ■じられな■。でもこの目で■■。

 ■■■ロ■■は■■■!! クソッタレ!!


・──────・

 冷静になれと言われた。アイツの目は真っ黒だった。アイツの方がどう見ても冷静じゃなかった。

 でも言っていることは確かだ。僕は取り乱しすぎた。この事が先生にバレたらどうなるか分からない。一度整理して落ち着いたら、このノートは処分しよう。


 シャーロットがお披露目に行った晩。アイツが大切にしていたカメラを忘れていることに気が付いて、三人で寮を抜け出した。

 お披露目会場のダンスホールにシャーロットは来ていなかった。それどころか、シャーロットはお披露目から除名された旨が記載されたリストまで見つけてしまった。
 何故? 先生は予定通りにシャーロットをお披露目に連れて行ったはず。それが何故。分から■■。なにも■■■。■■■。

 お披露目が決まったドールに話を聞けば、シャーロットはまだ搬入していない晴れ着に合わせるアクセサリを先生と受け取りに行ったと言っていた。
 真偽も怪しいその言葉を信じて、僕達は普段ドールが通れない通路へ向かった。


 そこは黒い塔のような巨大な空間だった。音からして、恐らく底が深い構造になった細長い塔だ。
 シャーロットは先生に連れられて、そして、あのカゴに入れられた。思い出すのも悍ましい、あの処刑装置!!
 シャーロットは逃げられないまま、燃え盛る炎の中に落ちていった。

 思い出したくもない、あの光景。先生はあろうことか、シャーロットをスクラップと呼んだ。理解出来ない。シャーロットは素晴らしい成績を収めて、栄光を授かったプリマドールだったはず。なのに何故。

 ──まさか、あの時にシャーロットが残した傷のせいか?

 決まりごとで、僕達は身体に傷をつける事を禁止されている。でもあの程度の傷、先生に謝罪すれば許してもらえると思っていた。
 その結果がこれならば。シャーロットがあんな末路を辿ったのは、僕達のせいなのか?

 僕達の■■■■■■■■■■■■■!!!!!


・──────・


 無気力なまま時間が過ぎた。先生は僕達の精神状態を案じたが、まともに受け取れなかった。どうせそれも、商品の品質管理の為なんだろうが。ふざけるな。■■■ッッタレが。

 特にアイツの状態は酷かった。憔悴して、日毎に朦朧となっていく様は見ていられなかった。

 そんなアイツがある日突然、ツリーハウスにシャーロットをどこからか連れてきた。

 シャーロットの全身は酷く焼けただれていた。足は外れてしまったのか既に無く、すっかり小さく、軽くなった身体を、アイツは背負ってきていた。まさかあの黒い塔から回収してきたとでもいうのか? 一体どうやって。アイツの考えることは分からない。

 アイツはシャーロットの死体を僕に押しつけて、直してくれと言った。
 無茶を言うな、と思った。僕はいまだに、ドールの構造が分からないままなんだ。それにこんな有り様になったシャーロットを直すのは、シャーロットへの冒涜だ。そんな真似は出来ない。

 アイツと激しく口論した。■■■■■は怯えて泣いていた。ごめん。僕だって、シャーロットの命を吹き返せるならそうしたいに決まってるだろ。
 僕が悪者だって言うのかよ。……ああそうだろうな。シャーロットが傷ついたのは僕達のせいだったんだから。



・──────・


 あれから、出来ることはしてみた。シャーロットの死体をいじくり回すのは吐き気がした。実際に何度も嘔吐反応を起こした。

 だがシャーロットは結局目覚めることはなかった。当たり前だ、体が半分だけになって、内側も焼け焦げて、どうやって生き返ると言うんだ。

 ある日、作業のためにツリーハウスに戻ったら、アイツがシャーロットの元で蹲っていた。様子が変だと呼びかけたら、アイツは不自然に目をきらきらさせて、
『√0』どうとか言っていた。

 いよいよ気が触れたのかもしれない。僕はアイツにかける言葉がなかった。

 その日のうちに、■■■■■の出荷が決まった。



・──────・


 アイツに先導されて、僕達はトイボックスからの脱出の算段を整えることになった。全ては■■■■■のお披露目を回避するため。

 今までの様子は見る影もなく、輝かしく意気揚々としたアイツは、はっきり言って異様だった。まるでシャーロットが取り憑いたかのようで。あの太陽に焦がし尽くされたかのようで……。


 僕達は脱出経路の確認のため、トイボックスの外がどうなっているのか見にいった。柵もなにもないトイボックスが、どうやって商品を逃さないようにしているのか確かめる。

 その先で見た事は、今も信じられない。まさか、
このトイボックスが■■■■■■■───

《Brother》
 お披露目。ノースエンド。除外。黒い塔。シャーロットの傷。処刑装置。炎。シャーロットの死体。先生。スクラップ。√0。トイボックスの外。


「か、ひゅッ」

 呼吸が上擦った。
 息が上手く吸えなくて、手からノートが滑り落ちる。ぱさぱさとページの捲れる音が、やけに頭の中に響いた。

「は、ッ、はあッ、……」

 彼には鼓動がある。
 彼には夢がある。
 彼には願望がある。
 彼には痛みがある。
 彼には恐怖がある。 

 彼には、愛情がある。

 あってしまう、から。

「………ミシェラ……」

 あってしまうから、あの子のことを思い出してしまう。

「み、しぇ」

 顔を覆う。
 耳鳴りがどんどん大きくなる。

『うん! えへ……わたしもね、おにいちゃんのことがだーいすき! ずっとだいすきだよ!』

 ミシェラはあたたかかった。
 柔らかくて、鼓動があった。

 それは。
 それは、ラプンツェルも同じだった。

『わくわくしてるよぉ、外にはどんな植物があるんだろう、どんな生き物がいるんだろう……って。アカデミーでは限られた植物の種しか貰えないから、図鑑に載ってた色んな花や植物を見てみたいし、コゼットドロップみたいな……誰も見たこともない植物も見てみたい。
 ご主人様も、お花が大好きな人だったらいいのになぁ、えへへへ』

 二人とも、お披露目を本当に楽しみにしていて。楽しみに、していて。


 ─────違う! シャーロットが炎に落ちたのは、恐らく傷がついたからだろう。規則に厳しく書かれたドールの傷について違反したから、彼女はお披露目を目前にオミクロンクラスに落とされたのだ。だから、ミシェラのように名簿から名前が消えていて、そうして────違う! オミクロンの生徒は同じように炎に落とされるんだろう。欠陥品は欠陥品らしくスクラップになる。これがオミクロンのお披露目だ。他のクラスは殺戮ショーで────違う! 二人とも死んだ。死んだ。死んだ? 死んだ! 違う! 違う! 死んだ! 違う! 違う! 違う!!!


「……ああ、違う」

 そうだ。何も間違っていない。
 ラプンツェルは死んだ。ミシェラは燃やされた。

 花が好きな弟も、甘えん坊の妹も、みんな死んだ。きっと今までお披露目に行った妹や弟も、みんな死んできたのだ。

「……」

 なにが、“おめでとう”だろう。
 なにが、“愛している”だろう。
 なにが、“君に会えて良かった”だろう。

 なにが! なにが! なにが!


「………少し、休ませて」

 ……まるで妹に笑いかけるようにドロシーに微笑んで、ブラザーはフラフラと壁際に寄った。置き去りにしたノートには見向きもせず、ずるずるしゃがみ込んで、虚ろな瞳で床を見つめ始める。

 彼は何度も思考を止めようとした。
 しかし、それは他でもない彼本人によって阻止される。


 ブラザーは、おにいちゃんだから。

 カンパネラとロゼットは、揃って最奥の作業台に腰掛ける少女のドールを見据える。

 ──だが、既にブラザーが確認している通り。少女のドールは腰掛けているのではなく、下半身をどこかへ無くして、腹から上だけの状態になって無造作に作業台に載せられているような有り様だ。どう見ても、生きて話が出来る状態には見えなかった。

 項垂れた頭の、ぐちゃぐちゃに乱れた金色の髪。ところどころ焼け焦げて醜い様を晒すこの少女は、一体誰なのか。あなた方は一瞬考え込むが──髪の長さや制服の着こなしからして、もしかすると、手元の写真の人物と一緒なのではないか? と一抹の予測が過ぎる。

 だが容易には信じられまい。あんなに美しい容貌をしたドールが、こんな無惨な様子になっているなどと、にわかには結び付かないだろう。

 しかしカンパネラ。あなたはあの様子のドールを見て、何だか嫌な胸騒ぎがした。先ほど見かけた焼け焦げた指と、先ほど見た幻の夢を思い返しながら。

 これこそが、あなたの脳が思い出してはいけない警鐘を発するほど悍ましく、恐ろしい記憶の一端なのではないかと──想像するのは容易かった。


 ……作業台に置かれたドールの前では、ブラザーとドロシーが一冊のノートを介して話しているのが見えた。一体何のノートだろうか?

《Campanella》
 倒れ込んだカンパネラの身体を支えて、意識が戻ってきたらすぐに離してくれる。ロゼットとの距離感はやはりカンパネラにあまり恐怖を与えない絶妙なものであった。
 おもちゃの中に、と倒れる寸前の問いに答えてくれたロゼット。しかし彼女の言葉は既にカンパネラから遠くにあった。

 コゼットドロップの光によって浮かび上がる焼け焦げた指。ロゼットが差し出した写真、あの幸福な夢。
 忘れられない金色の髪が脳裏にちらつく。

「は…………は、……はー、………は………」

 心臓がざわざわしている。何かがずっと、さざめいている。波打ち際に立っているような気分だ。無意識のうちに呼吸は荒くなる。
 姉の声が頭に響く。でもうまく聞き取れない。引き留めていることは分かる。あれは危ないと、彼女の天秤が告げているのだろう。

 先に近付いたのはロゼットだった。その相変わらず躊躇いのない様子とは対照的に、カンパネラはそれに続くような形でゆっくりと歩みを進めていた。
 薄氷の上を渡り歩くように。
 断頭台へと進むように。

 ……ブラザーとドロシーの会話に興味がなかったわけではない。何かのノートを読んでいるらしいことが遠目でも分かった。ただそれよりもカンパネラは、それよりもその奥の少女ドールに気を取られていた。
 耳の中に水が入った時のように聴覚がくぐもる。自分の呼吸音と脈拍だけが響いている。

 ブラザーがふらふらと壁へ向かうのを横目に、カンパネラはその正面に立つ。
 決して彼女は勇気を得たわけではない。今、ここから逃れるという選択肢が、存在しないだけ。ただそれだけだった。
 唇が震えるのを感じていた。
 手を、伸ばしていた。

 作業台の上でピクリとも動くことのない少女人形。カンパネラはそれに、躙り寄るようにゆっくりと、危うい足取りで近寄っていく。
 正面に立つと、例え暗がりの中に浸った彼女と言えども、その姿がよく見えた。哀れにもぼさぼさに乱れきって、焼けて縮れてしまった、かつては滑らかな金髪であったと想像出来るドールの頭髪。
 ドールの首は力無く項垂れていて、その結果垂れ落ちる長い髪が顔を覆っていた。あなたはその髪に恐々と指先を通し、震える手で掻き上げるだろう。


 ああ、あなたはそこで。血の気の失せた、青褪めた少女の顔と正面からかちあう。
 薔薇色に染められていたこともあったであろう頬は、皮膚が溶けて剥がれ落ちかけていた。彼女の片目はどこかへ行ってしまっていて、がらんどうの黒ずんだ眼窩があなたをその深淵へ引き摺り込もうとしているかのよう。

 そしてもう一方の眼窩に埋められていたのは、あなたが鮮烈に思い返した、記憶の中の大海──あの眩しく煌めくマリンブルーであったことに気付くのは、もう間も無くであろう。

 あの美しかった碧眼に、もはや光も輝きも喪われていた。墜落した星が燃え尽きて消え去るのと同じように、彼女はツリーハウスの哀しい暗闇を凝視するばかりで、あなたを見てはいなかった。

 記憶の中の彼女は今ここでどうしようもなく死んでいる。そして息を吹き返すこともないのだと痛感する。


 ──彼女は、幸せと希望で満ち溢れた、あのお披露目に行ったはずなのに。

《Campanella》
 気付きたくなかった。
 理解したくなかった。
 けれど、けれども。その死んだ髪が、相貌が、瞳が。全てを物語り、示していた。
 しばらく、沈黙が流れた。そしてカンパネラは、少女の頬にそっと触れて。

「───シャーロット?

 彼女の名前を呼んだ。
 応答は、なかった。

 カンパネラはもう、何も信じたくなくて、それでも彼女から目を離すことができない。惨めに汚れ、焼き払われ、心臓を止められた少女ドール……記憶の中の友人、シャーロットから。

「あ、ぁ、うぅ、あ…………」

 あの綺麗な瞳にはもう何も写らない。何も、わたしのことも、写してはくれない。
 そう、気付いてしまった。
 理解してしまった。

「……ッああ゛あぁ、やだ、こんなのやだぁッ……! ………っ、うああ゛あ………!!!」

 なんで、どうして、シャーロット。幼子がすがり付くように繰り返す。
 作業台に額を付き、己の肩を抱き、まるで必死に祈るように、カンパネラはとめどなく流れる涙に溺れる。絶えず悲痛な声を上げる。思考が心に追い付かない。そんな中でカンパネラはただ、彼女の死を拒絶していた。

「……なんで…………?」

《Rosetta》
 落ち込むブラザー、絶望するカンパネラ。
 暗い空気の中、ロゼットだけが元気なままだ。

「お兄ちゃん。これ、借りるね」

 情報はまだまだ眠っている。
 落ち込むほどの情緒も、思い出もない彼女は、躊躇なくノートへ手を伸ばした。
 ぺらぺらとページを手繰る表情も、文字を追う目の色も、特段大きな変化はない。
 やや強張ってはいるけれど、まださほど重傷を負っているわけではないらしい。

 「ドロシーは、どこでここのことを知ったのかな」

 中程まで読みながら、彼女は問いかける。
 純粋な疑問だ。檻の外にこんなものがあることを、ドールは知る由もないだろう。
  であれば、やはり協力者がいるのだろうか。
 それとも。

「もしかして、これも√0の一環なの?」

 ドロシーは、ノートを読み進めるうちにみるみると壮麗な顔から血の気を失い、緩やかに絶望へと下っていくブラザーを見ていた。感情が悟られない被り物の下で、彼女が彼の落魄れをどのような目で見ていたのか、定かでは無かった。

 同じようにノートを見ても、ロゼットの反応は以前淡白なままであった。あらかじめ知っていたのか、それとも事態の重みを受け止めきれていないか──どこまでも他人事なのか。
 ドロシーは作業台に緩く腰掛けながら、ロゼットの方を向いた。不気味にビスクドールの頭部が傾いて、小屋に差し込む僅かな自然光がそれを照らす。

「ワタシはこの茶番劇のコトを何でも知ってるだけ。ワタシは受付窓口であり、案内人なンだよ。量産型ドールの生産ラインから外れたかったあの時のワタシは、オミクロンのジャンクドールのように、ただ特異であろうとしました。そんなワタシと√0がある時突然に繋がったのは、奇跡であったと言えましょう。

 ここの存在を知ったのは、√0のコトもあるケド。……何より、」

 ドロシーはまた相変わらず、全容を掴みにくい語り口で続けようとした。しかしその言葉が不意に止まる。彼女は、どうやらカンパネラと同様に、物言わぬドールを凝視しているようだ。

《Rosetta》
 物言わぬ人形が、一身に熱い視線を受けている。
 何か縁があるのだろうし、事の顛末は目に見えていいものではないのかもしれない。
 それでも、読み終えたロゼットは他人事のように口にした。

「ありがとう、ドロシー。興味深い内容だったよ」

 空気を読まないのか読めないのかは知らないが、彼女なりに事実として重く受け入れたらしい。
 絶叫し出したカンパネラの傍に近寄ると、ロゼットはノートを差し出した。

「読む? 嫌がるなら止めないよ」

 彼女はどちらでも構わない。嫌がるのであれば、それを近くに置くことだろう。

《Campanella》
 知らぬ間に身体が作業台の上からずるずる降りて、自分の頭を庇って踞るような体勢であったカンパネラ。ぐ、ひぐ、と哀れに喉をひきつらせて必死に呼吸をしていたところで、ロゼットから声をかけられた。カンパネラは過剰なほどに肩をびくりと震わせる。
 どこまでも平然としていられる彼女が羨ましくて、少し怖い。

 白い顔に残された涙の跡と真っ赤な目元、それを上塗りするかのような濃い隈。幽霊のような相貌をゆらりとロゼットに向けると、「あ……ぉえ………」とうわ言のように返す。呂律が回らなかった。
 カンパネラのスカイブルーの瞳は今や曇天のように濁り、大粒の涙は雨のように今も絶えず溢れ落ち続けている。

 そんな状態で、カンパネラは。
 ロゼットから差し出されたノートに、恐る恐る指で触れたかと思いきや、引ったくるように受け取った。その乱暴な手付きは、ぶるぶる震える手とひどく怯えたカンパネラの表情から、悪意をもってのことではなかったのだと伝わるだろう。

 警鐘は鳴り止まない。それどころか、更に強く響き渡る。
 カンパネラは恐怖した。知りたくない、もういい、何も見たくない。そう思うのに、なのに、どうしてこの手は動き、この目はノートの中身を拾い、この脳は。ここに記された情報を理解しようとするのか。

 少年らしき語り部。このノートは誰かの日記のようだった。
 シャーロット。そう書かれている。確かだ。あの子の名前。
 そして、何やら覚えのあるエピソード。

「はーッ、はッ、ヒューッ、はぁッ、ヒュッ、ゲホ、ッヒュウ、はー、は、ッカ、ヒュ、……う゛ぁ、」

 ……背中にだくだくと汗が滲み、これ以上は、これ以上はいけないと、本能が警告する。それでも読み進める。カンパネラを強迫観念のような謎の何かが襲い続け、呑み込み、嚥下している。首を絞められた時みたいに息をする。

 もう、どちらが上で、どちらが下か、ここは地面なのか空中なのか、なんにもわからない、なにも、なにも…………。

 そして、カンパネラは沈黙する。涙が落ちて、落ちて───不意に、ぱたりと止まった。

 小屋の片隅の暗闇の溜り場で沈み込むブラザーと、物言わぬドールと同じように力無く項垂れて蹲ってしまうカンパネラ。彼女の苦しげな嗚咽がこだまする、暗澹たるツリーハウスで、ドロシーは黙して作業台に腰掛けていたのだが。

 ふと、彼女の頭部がガタ、と大きく揺らぐ。ドロシーが唐突に作業台から降りた為だ。彼女が床を踏み締めると、腐りかけた木板が嫌な音を立てたが、彼女は気にすることもなく植木鉢が身を寄せ合う窓辺に歩み寄る。

「……まだ三十分経ってねーケド」

 彼女は窓の外を見下ろしてポツリと呟いた。
 ドロシーの目線の先には、こちらを見上げるジャックが居る。今なおこの場で立ち続けているロゼットの目線からでは見えるのではないだろうか。

 ジャックは剣呑な面持ちでこちらを見上げている。どうも、何か緊急事態があったのは明白なようだ。

「オイジャンクども、見学は切り上げだ。このドールと同じ目に遭いたくなきゃ、さっさと帰ンゾッ! ギャハハハハ!」

 ドロシーは最悪のブラックジョークを吐き捨てながら、ツリーハウスを急足で出て行く。
 事態を把握するならば、あなた方も彼女の後を追って梯子を降り、ジャックの元へ向かうべきだろう。

《Rosetta》
 どうしてこんな所にいるのだろう。そう思いながら、窓の外のジャックに手を振った。
 先生は一度森の方から歩いてきたことがある。もしかしたら、今同じ方向に向かってきているのかもしれない。
 だとすれば、一大事なのだろう。多分。

「カンパネラ、行こう。お兄ちゃんも、帰らないと怒られちゃうよ」

  カンパネラの手を握り、立ち上がる意思があるようなら、補助しようとするだろう。
 ブラザーは、まだ自分で立てると信じているのかもしれない。視線と声こそ向けはするが、特に手助けなどはしないだろう。

《Campanella》
 カンパネラは、暗い、暗い眼でノートを見つめている。
 これを記したのであろうドールのことも、彼女は知っていた。
 決定的だったのは、オルゴールに関する記述。

『──カンパネラ。』

 ぶっきらぼうな声が響く。夕暮れが綺麗な日だった。不器用な笑顔を浮かべる少年ドール。黒い髪が跳ねていた。

『お前が、まえに音楽を好きだって言ったから。お前のために造ったんだ、僕──』

 彼だ。
 このノートを書いたのは、あの少年だ。
 やっぱりわたしは、あの白昼夢の中の二人を知っていた。友人だったんだ。
 ……でも、そうだとしても、おかしい。何もかもが変だ。こんなの、こんなのは。

「っ、……………は、ぃ」

 ロゼットに声をかけられたことで、カンパネラは混沌とした思考の泥濘から無理矢理意識を引きずり出された。
 手を取られていた。足早にツリーハウスを出ていったドロシーを遅れて認識すると、ロゼットに支えられてふらふらと立ち上がる。

 去り際になって、カンパネラは振り向いた。
 あの美しかったシャーロットの無惨な亡骸。真実の記された、彼の書いたノート。
 置き去りにしていく、不明瞭な彼女の過去の痕跡。
 √0という謎。

「…………行きましょう」

 心に傷を負ったらしいブラザーに、最後にそう声をかけて。カンパネラはツリーハウスをしずしずと立ち去り、ロゼットの後を雛鳥のように着いていってジャックのもとへ向かおうとする。
 彼女の涙は、もはや枯れていた。

《Brother》
「……ああ、うん」

 意外にも、ブラザーはすんなりと立ち上がった。

「行こうか」

 ……表情は依然として暗い。
 しかし、ブラザーの足が止まることはないだろう。深呼吸をひとつして、危なっかしい足取りでツリーハウスを降りて。きっと合流するはずだ、おにいちゃんとして。

 ……彼の中で起きたのは、膨大なショックに対する恐怖と兄としての覚悟による殺し合いだった。構造から兄ではないブラザーでは、当然のように恐怖が存在する。自分が“こう”なったら嫌だとか、信じていたものが壊れるのが嫌だとか。そういう当たり前の自分と、おにいちゃんである自分。誰かの兄でいたい自分が、ブラザーの中にはいる。
 自分で自分を刺し合う苦痛の末に、兄は“妹”のことを考えた。爽やかな花の香りに満ちたあの場所で、太陽のように可憐に笑う“妹”。頬が甘やかに紅潮して、小さな唇が弧を描く。花畑の上にちょこんと座る“妹”が、こちらを見ていた。

『おにいちゃん』

 鈴の音のような声。
 その瞳が自分を見る限り、ブラザーは“おにいちゃん”だ。


 大丈夫、行ける。
 誰の力も、誰の手も、ブラザーはとらない。

 ただ幸福を捧げよう。
 幸せが何か、見つけに行こう。

「お待たせ。もう大丈夫」

 そう微笑む彼は、きっと誰よりも兄らしい。

 あなた方が急いでツリーハウスから降りて、コゼットドロップの花畑の間を踏み越えながらジャックの元へ向かうと。ジャックは穏やかさの欠片もない剣呑な面持ちで、来た道をサッと顎で指した。

「寮の方角へ戻りながら話す。あまり時間がない。急ぐぞ」

 ジャックは手短にそう告げると、木々の合間の道を駆け出した。
 ドロシーもまたそれに倣って走り出すので、あなた方はテーセラの走行速度に合わせて駆け出さなければならなかった。無論彼らはトゥリアに合わせてかなり手を抜いて走っているが、それでもあなた方には苦しい道行きとなるだろう。

 輝かしいお披露目など、どこにも存在しなかった。
 残忍な現実が色濃く残る思い出のツリーハウスから、あなた方が各々どのような思いを持ち帰ったのか、定かではないだろう。


 そしてその先で、彼らは重く苦しい事実を知らされることとなる。

 それをあなた方が望む望まないに関わらず、このトイボックスを取り巻く甘いまやかしから覚めるべき時が、着実に近付いてきていたのだ。