お披露目の実態。ジャンクドールの残酷な末路。
トイボックスに蔓延る薄暗い真実の片鱗を垣間見てしまったあなた方は、しかし、このまま黙ってお披露目、或いは処分を待っているわけにはいかなかった。
この閉鎖された玩具箱から、何があろうと抜け出さなければならない。
その為に、あなた方は規則破りの『柵越え』を実行することにした。
Chapter 1 - 『Apple to Appleを誓え』
《An Example of Escape》
人気が少なく、閑静な薄暗闇が広がる寮三階の図書室。
この場所は普段先生があまり仕事で立ち寄らないという事もあり、ドールズだけで秘密の作戦会議を行うにはおあつらえ向きのスポットであった。
事実、あなた方元プリマドールの面々は、つい先日のお披露目潜入の折、作戦会議室として用いていた前例もあろう。
某日、とある朝。ソフィアとアストレアは、図書室の奥まった場所で『先生には秘密にしなければならない話』をしに来ていた。
残り二名の元プリマドールは、この場に居ない。
それは先生からの疑惑を集中させないための対策であった。プリマドール四名がいつまでも同じ場所に集まってコソコソと動き回っていれば、否が応でも目立ってしまう。そのため、『あの日』以来あなた方は共に行動する事を控えるようになった。
しかし、あの事実を知ってなお、ただ悠長にお披露目を待つわけにはいかない。あなた方は次のお披露目が訪れるまでに、この偽りの箱庭、残酷な玩具工場であるトイボックスから逃げ出す算段を立てなければならなかった。
──そのためには人手が必ず必要だ。
そのため、アストレアは先日情報を共有したフェリシアと、ストームと情報を共有したリヒトを、同じように図書室に呼んでいた。
あなた方は脱出の為に手を取り合う、協力関係を結ぶための話し合いを行わなければならない。
やがて階段が軋む音がして、図書室に目的の人物が現れるだろう。平穏の皮を破り、現実と向き合わなければならないのは、一堂に会するところからだ。
《Sophia》
「……準備は出来てるわよね、アストレア。そろそろアレを実行するとき────、え、あ……は……?」
革命家の卵は、毅然とした表情で淡々と語る。静かに燃えたぎる決意を宿したアクアマリンの瞳は、冷たく光を帯びていた。感情を削ぎ落としたようなその声で、いざ新たなる戯曲の幕開けを誓おうと、そんな所だった……が。
開幕は、思わぬ客人によって遮られる。軋む階段に立っていたのは、クラスメートであるフェリシアとリヒト。純粋無垢な心を持つ、ソフィアが惨劇を知らせたくはないと願っていた二人の姿が、そこにはあった。
本を探しに来るだけなら、わざわざ埃を被ってまでこんな奥には来ない。このタイミング、ここに来たということは、その理由は明らかなのだ。アクアマリンに焦燥が滲む。
「ふ、二人とも……なんで、なんでここにいるのよ、どういうこと……?」
ちら、と目線をアストレアの方へやる。説明を求める物であることは、エーナドールでありかつ親友であるアストレアにとっては一目瞭然であっただろう。
《Astraea》
我らが根城、いつもの図書室の奥にて、アクアマリンとラピスラズリ、トーンの違う青い視線が交差する。視界の端にきらきらと舞う埃は、見た目には綺麗であったが、息を吸えば少しの不快感を感じるものであった。
同胞の意思の強い語り口に耳を傾けながら、アストレアその人はいつもの笑みを崩さない。それは、そう、
──────客人の来訪にも。
「嗚呼、ソフィア。説明をしていなかったことを許してくれ。
二人が此処に居ること、さぞ驚いているだろう。」
説明を求める視線に気が付けば、肩を竦めて謝罪の言葉を述べた。彼女が、ブレインたるソフィアに隠し事をすることは中々に珍しい事で、然しながら表情一つ変えぬままやってのけるのは、流石エーナモデル元プリマドールと言ったところであろうか。
客人二人に空いた座席を進める様に視線を投げれば、古びた机の天板の上に手を組んで、落ち着いた口調で説明を始めた。
「まず、端的に言ってしまえばフェリシアとリヒトは"あの事"について知っている。勿論全てでは無いけれど。君に指示を仰ぐ前に情報共有を進めてしまって申し訳無いね。
今回作戦を進めるに当たって、元プリマドール四人では懐疑が掛けられるから、と二人で行動することにしただろう? でもやはり人手は居るに越したことが無いからね、事情を知っている二人に協力してもらうことにしたんだ。」
勝手に話を進めてすまないね、とまたも謝罪の言葉を添えれば、確認する様に視線を客人二人の方へと投げて。
《Licht》
「……な」
アクアマリンとラピスラズリの鋭く輝く視線を一身に受け、くすんで汚れて欠けたトパーズは体を強ばらせる。提げた学生鞄の紐をギュッと掴んで、図書館の埃から目をそらすように…それでも足は一歩前へ、元プリマ達の元へ。
出来損ないが、何も出来ないジャンクが、ここに居るのはおかしい。脳裏が叫んで、それでも、それでも。
「あ、その、うん。……知ってる。オレは、その、ストームに聞いた。聞きに行ったんだ」
わたわたと手を振りながら説明しようとして、リヒトは困ったように頭をかいた。コワれた頭じゃ説明すら覚束無いが、一つ一つ確かめるように話していく。
「『お披露目の夜、どこに行ってたんだ』って。ストームとディアさんが見えたんだ、その、箱の格子から。
……で、空いてたんだ。箱の蓋が。だから、その、気になって」
どこまで言っていいのだろう。どこまで言ってはダメなのだろう、不安要素を抱えたままで、リヒトはいつになく真剣な顔で言葉を続けた。その途中、間違えたことを言っていたら訂正してくれるように、と、そっと一緒に来たフェリに目線をやって。
出来損ないはひた走る。背を焼く業火に追われるように。ああ、何度も何度も反芻した通りに、彼はずっとあの炎から逃げようとして、逃げられない。
「……お披露目で、何があったんだ? ソフィア姉」
『ストームは、教えてくれなかったんだ』なんて、ソフィア姉に縋るように尋ねた。何かあると分かった今でさえ、お披露目こそが、あの火から逃れる唯一の手段だと信じて疑えない。
《Felicia》
「いきなり出てきて、びっくりさせちゃったよね。……ごめんね。」
軽く謝りながら、アクアマリンの瞳を持つその聡明なドールに微笑みかける。アストレアちゃんに呼び出された理由を何となく察していたフェリシアは自身が以前彼女に見せたノート、資料、そしてミシェラちゃんのリボンを鞄の中に入れてその手に握っていた。
ラピスラズリ色の瞳が瞬いたかと思うと、ヒーローを自称するそのペリドットは気を引き締める。
リヒトくんがあの日見た状況の事をひとつずつ丁寧に説明しているとき、綺麗に形作られたトパーズの瞳が不安そうにちらりとこちらを覗けば、"合ってるよ!"なんて伝えるように、目を合わせて軽く頷いた。続きは、私が話そうか。
「ミシェラちゃんがお披露目会に出たあの夜。何故か私とリヒトくんのベットの蓋が開いていたんだよね。私はその時、アストレアちゃんとソフィアちゃんが寝室を出ていったのを見たから貴方たちふたりを追いかけたの。
……追いかけた先、私たちは地獄
を見た。その、その……」
そこまで言うと、フェリシアは口を噤んだ。その話は、以前アストレアちゃんにそのことを話した際に、ソフィアちゃんには伝えない様にと言われていたからだ。
もし知りたいと、どうしても知らせなければいけないと判断した時には、フェリシアはまず、その夜に拾ったミシェラちゃんのリボンを取り出すだろう。
だが、できれば聡明ながら優しい彼女には、残酷な事実を知らせたくない。
「それに、お披露目のことも、ね」
お披露目の事実を全て知っているわけでは無いが、既に彼女はこの学園に希望がないことくらい分かっていた。
時間が止まったように感じる。
しかし、そんな筈はない。その証拠にきらりと、光を浴びて埃だけが舞っていた。
《Sophia》
「……、そう、それで。知っちゃった、んだ。」
アクアマリンに陰りが差した。単にクラスメートという言葉だけでは足りない、家族のような交流を築いた相手だったから、こんな話は知って欲しくなかった、のに。突然彼らの蓋を開けた覚えなんてない。この奇妙な『偶然』を呪わずにはいられなかったし、その偶然は悪趣味な者によって仕組まれた物のようにすら見えた。
二人がこの話を知ってしまった経緯は仕方のないもので、かと言って巻き込みたくはなかったがアストレアの言う人手不足が不安だという意見も真っ当で。ソフィアは、その場の誰を責める事は出来なかったし、しなかった。
「……お披露目は、……いえ。先に教えて、二人は何を見たの?」
真っ直ぐに二名を貫く視線には、確かに恐怖の念も混じっていた。けれども、だからと言って見ないふりをする訳にも行かないのだ。
「アストレアも、知ってるのよね。……ねえ。三人とも、何を隠してるの?」
《Astraea》
「流石ソフィア、聞き分けが良くて助かるよ。」
陰りの差したアクアマリンに見て見ぬふりをして、白糸に縁取られたラピスラズリは深い煌めきを湛える。長い間一緒に居れば当然、ソフィアの抱く感情にも気が付いて居たが、それを何でもなかったかの様に受け流すのもまた、ソフィアへの深い信頼。喩えそれがどんなに重いものだとしても。
「嗚呼、My Dear Wisdom! やはり君には敵わないね。君には隠し事など出来ないよ!
…………で、本当に、聞くかい?」
何かを勘づいたらしいソフィアに気が付けば、わざとらしく、芝居掛かった口調で褒め言葉を並べ上げる。薄い唇を美しく吊り上げて居たと思えば、旧びた机に頬杖をついて、その白糸の睫毛を伏し気味に、宝石の如き瞳を細める。その奥底に微かな笑みを湛えたまま、されどその双眸に笑みは無い。
刹那、張り詰めた空気の走る空間は、元プリマドール同士の対峙に近い雰囲気の所為であろうか。脅しにも近いその"確認"であったが、アストレアには、誰よりも知識欲に飛んだ親愛なる英智たるその人が、断る筈が無いだろうと言う自信があった。
詳細を話すには自身の持ちうる情報では到底足りない。心苦しくはあるが当事者に任せるが得策であろう。そのラピスラズリをトパーズへと真っ直ぐに向ければ、"話せるかい?"と訊ねて。
《Licht》
ラピスラズリの訊ねる声が真っ直ぐ響いた時。声にならない、か細い悲鳴が頭の先からつま先までを貫いた。分かっていた、最初から。それはまるで、全員の目の前で成績不振を叱られる時みたいな、そんな後ろめたい罪悪感。出来損ないの欠けた欠片を全て暴かれるような恐怖。
それでも、自分は当事者なのだ。何度恨んでも何度悔やんでも何度忘れようとしても、自分は当事者なのだ。
「……これ、見て。オレは頭がコワれてるから、説明とか、苦手だから」
リヒトに、十分丁寧に説明できるような思考能力は無い。コワれている。
だから代わりに、一冊の、自分のノートを開いて、見せた。ストームにも見せた、あのページを。
「目の前に居た。走れば間に合うかもしれなかった。フェリはきっと助けたかった。それでも……抱えて逃げたのは、オレだ。怖くて、分かんなくて、逃げ出した」
開いて見せている間、だんだんと堪えるように、耐えるように、リヒトはどんどん俯いていく。うろうろと目線は足元をさまよって、図書館の埃とかカーテンに揺れる光とか、そういうものを瞳には映さなかった。その虹彩に焼き付いた、赤がいつまでも拭えない。
《Felicia》
恐怖に耐えるように俯いた完璧な形をしたトパーズを不安げな表情を浮かべて見つめるフェリシア。当時動くことが出来なかった自身のことを彼はそう言ってくれているが、分かっているのだ。あの時すぐに動けなかった理由は、単純に"助けたい"という心情じゃなかったこと、そして、"恐怖"という感情が確かにそこにあったこと。ヒーローになれなかった、あの夜のこと。
内容を詳しく見せてもらった訳ではないが、リヒトくんが見せたノートにはその夜ふたりで見た全てが書いてあるのだろう。
賢いソフィアちゃんならその内容を一瞬で理解できるだろうとも。
フェリシアは意を決して陰りのさしたアクアマリン色の瞳を持つ彼女に近づく。
「…………ソフィアちゃん、これ」
フェリシアはそう言うと、握っていた肩掛けの鞄から取り出したリボンをそっと彼女に見せた。
嗚呼、知らせてしまった。
……遂に知られてしまった。
その事実を知った彼女の反応を、フェリシアは容易に想像できた。
想像できたから、どうしても知らせたくなかった。
「ソフィア、ちゃん……」
小さな声でまた彼女の名を呼ぶと肩にそっと手をおいた。
《Sophia》
自責の滲むトパーズが差し出したノートには。
『先生がレバーを下げた』、『火が噴き上がって』、『ミシェラが』。なんて事が、書かれていた。
憂い気なペリドットは、赤い愛らしいリボンをこちらへ見せる。自分も同じ物を持っているから判る。それは、紛れもなくミシェラの物だった。
「うあ、ぁ、ああぁ………」
フェリシアの手から、ソフィアの肩は離れていくだろう。支柱をなくしたアサガオの花のように、ソフィアは萎れた。酷い頭痛に耐えるように、震えながら、両手で頭を抱え込んで。埃臭い床に着いたスカートがすぐに汚れた。力のないうめき声が静寂に吸い込まれていく。
「………………………ほんとは、」
長い時間が経って。そのうめき声は、少しづつ嗚咽に取って代わった。それと同時に、少しづつソフィアの背中は丸まって、最終的には無力なダンゴムシのようにうずくまる形になった。
地を這うような、引きずるような。普段の凛とした音はどこにもない、苦痛を堪えるような声を振り絞って。
「………ッ、ほんとは……わかってた、きっと救いなんてないんだって、はじめから、『あれ』を見たときから……
………でも、きっとあの子は無事だって、そう、おもわないと、苦しくて、つらくて、ずっと…………」
頭を抱える手に力が込められる。きらめく艶やかな金糸の編み込みは、細い手に握り潰されてくしゃりと歪む。埃と、隙間から入る光の中で。醜い泣き声がただ響くだろう。
「……あたしが……あたしが、もっと早くお披露目を見られてたら、もっと早く動いてたら、気づけてたら……あたしが、あたしが……。
……たすけるって、言ったのに………」
《Astraea》
「嗚呼、ソフィア、辛いね、辛いね、あの時信じたものは、今まで信じてきたものは一体なんだったんだろうね。
でもソフィア、もう分かっただろう。僕達は、現実を見なくてはならない。どんなに嘆こうがミシェラはもう戻らない。それならば、今残った皆を護らなくてはならない。
身震いがするほど恐ろしいけれど、いつまでも幸せだなんて、御伽噺の中だけの事なんだよ。嗚呼、"責任"だなんて放棄して、"真実" だなんて知らないフリをして生きられたらどれほど良かったことか。」
崩れ落ちるソフィアの姿は本来のドールらしく力の無い無機物のそれで、アストレアの目には鮮やかに、されど燻んでスローモーションの如く見えた。
腰を抜かして床にへたりこんだ彼女に寄り添って、肩を抱く。刹那、脳裏を過ぎる既視感はあの晩の出来事。あの晩の出来事をなぞる様に、小さく震える背を摩り、柔らかいブロンドをその靱やかな掌で何度も撫でる。諭す様に、至極穏やかな語り口で言えば、前向きながらどこか圧すらも感じる"責任"を語る。彼女の言葉に嘘は無い。痛いまでに真実としてそこに有る言葉の数々は、それを聞く物にどう響くであろうか。善も悪も纏めて抱擁し、肯定し、昇華させてしまう彼女の詞は、ある者には蜘蛛の糸に思え、ある者には知恵の実に思えるだろう。
アストレアは語る。腕の中で小さく震える彼女に、それがどう働くのかも知らずに。
《Licht》
それを、リヒトは見ていた。
ただ、見ていた。
抱擁と慈悲の輪の外で、その暖かい腕に抱かれることはなく、その震える背を撫でることもなく。寄り添うもの、ドールとしての機能がコワれているから、上手く声が出ない、体が動かない。悲嘆にくれる誰かに掛ける、上手な言葉がコワれて見えない。
(オレじゃなかったら。オレでさえなかったら。きっと、もっと、全てが上手くいったんだろうな)
「……オレのせいだよ。オレのせい。あの時逃げたのも、助けられなかったのも、全部オレのせい」
独り言のようで、聞こえてなくてもいいや、と諦めていて、その実、聞こえて、届いて欲しいと小さく欲深い願いをこめて。
「……だから、オレは。考えなくちゃいけないし、進まなくちゃいけないし、どれだけコワれてたって、何も出来なくたって…頑張らなきゃいけない。
あの時、あの場所にいたのは……ソフィア姉じゃなくて、オレなんだから」
リヒトは震えた声を出す。
抱擁と慈悲の輪の外で、確かに星は輝いている。暖かい腕に抱かれなくても、震える背を撫でることが出来なくても。
「だからさ、手伝ってくれよ、アティスさん。それから……ソフィア姉。
オレは、何をすればいい? 」
呼び出された時に、そっと心を決めていたのだ。きっとこれから自分は、ボロボロの体で何かに立ち向かわなければならない。それはセンセーかもしれないし、もっと大きな何かかもしれないし。それでも。
こんなにコワれたジャンクでも、どんなに出来ないスクラップでも、きっと。
この人達なら上手く“使って“くれると信じている。
《Felicia》
「……リヒトくん“だけ”のせいじゃないでしょ。あの時助けてあげられなかったのは、ヒーローになれなかったのは、私も一緒にだから。」
嗚咽する声が響く中、リヒトくんの言葉を遮るように呟いた。二人が犯した罪は、一生消えない大きなものだ。だから、だからこそ、もう二度と悲しむ友だちを、ドールを出しちゃいけないんだ。
後悔を忘れちゃいけないけれど、
絶対に忘れちゃいけないけれど、
前に進むしか、私には無いから。
だから、だから、私は強くならなきゃいけないんだ。
「顔を上げてソフィアちゃん!!
プリマドールの貴方がそんな姿を見せないで! ……見たくないよ。」
この気持ちを目の前で震えているドールに届けることができるだろうか。伝えなきゃ、伝えなきゃ……。
はやる気持ちが、その言葉を加速させる。
「気持ちは分かるの! 何より私の
せいなんだから。助けられなかった私の罪だから!!!
……だけど、いちど遠くに行っちゃったあの子はどんなに嘆いたって戻ってこない。だから、責めるなら私を責めて。罵って!! お前は弱虫だって!! ヒーローじゃないって!!!」
ぎゅっと心が締め付けられるような心地がした。目の前のアクアマリンに本当にそう言われたら、フェリシアはきっと分かっていつつも、傷つくだろう。だけど伝えないといけないのだ。
「夢だったら本当に良かったのにね、これは現実なんだもんね。
ホントは……ミシェラちゃんは素敵なご主人様と笑いあってて、幸せだって私も思いたいよ。
だけど今ある事実から目を背けたら、絶対にまた悲しむ人が増えるって、そう思うから。」
「頑張るしか、ないの。」
絞りだした言葉、アストレアちゃんならもっと上手に話せていたのかな。伝えられたかな。
「学園から、出なきゃ。
みんなで。」
もう、後悔したくないから。
《Sophia》
みし。脊髄が軋む感覚がした。
現実を見なくてはならないという責任に。地を這うような姿を晒している罪に。
醜く丸まった背を押し潰されて、骨が悲鳴をあげるような。そんな感覚。
酸素を上手く取り込むことの出来ない口を、誰にも見えないようにはくはくと動かしてから。
苛烈な重力に耐えるように、ようやく。ソフィアはゆらりと上体を起こした。
「……。そう、そうよね。ご…ごめん、なさい。大丈夫、だ………大丈夫…もう、大丈夫、だから……ごめん……ごめんなさい………悪くない、みんなは悪くないわ。だから……あー……そう、これからのこと、考えないと。」
何とか、立ち上がって。くしゃりと微笑んだ。最近、作り笑いという物が上達した気がする。
みんな〝は〟。それはまるで、他に罪を負うべき者がいるかのような言い回しだ。けれど、この全員が追い詰められた状況下で、そんな事に気付く者は本当にいるだろうか。
みし、みしり。重力がかかって、身体の骨がひしゃげていくような音を、聞いたような。そんな、そんな気がする。
あなた方は事態の重みを互いに共有し合い、ひとまずは協力体制を結ぶに至る事が出来るだろう。
無論、殆ど命を賭けるのと同じ事をこれから行う事になる。危険を分かち合う事にもなるだろう。心を持っているから、その重みに耐えかねて疲弊していくだろう。
だがあなた方は、不本意にも真実を知ってしまった。パンドラの箱を明けてしまったのだ。そうしてしまったなら、もう後戻りは出来ない。
時を巻き戻す術などはなく、知らなかった幸せな頃には戻れないのだから、あなた方にはもう行動する以外に道は無い。
互いの間の叱咤激励を経て、次の動きについて話し合う流れとなるだろう。
話し合い──と言えども、既にプリマドール二名の間で、次に行うことは決まりきっていた。
このトイボックスから逃げ出したいのならば。
決まりごとで外に出る事を固く禁じられた、寮の周囲を取り囲むあの高い柵。アレを超えて、脱出経路の確認をする事が第一だ。
あの柵の意義は、先生の弁によると、あなた方が入り組んだ森で迷わないようにする為なのだという。森の中には獣も居るし、あなた方の身に危険が迫ってしまう。
だから柵で塞いで、安全を確保しているのだ、と。
しかし今のあなた方にとってあの柵は、商品を逃さないようにする監獄の檻でしかない。
だからこそ越える術を模索し、周辺の地形を下見しなければいけない。
あなた方はこの柵越えを実施するに当たって、二手に分かれる事にした。
まず周辺の地形をチェックし、脱出経路の最善を模索するため、ドールのブレインたるソフィアは柵越えを実行する事になる。
そんな彼女を補佐するのは、身体能力に秀でたテーセラモデルのリヒトである。柵越えの際、万一でも手間取って時間を掛けないようにしなければならないので。
この二名だけでまず柵を越える。
その間、不審な動きを先生に気取られないように、彼を惹きつけておくデコイの役も必要だった。
それには当然、話術に秀でたエーナモデルであるアストレアとフェリシアが適任だった。
彼女達が先生を惹きつけている間に、手早く下見を終えて帰還する。
その後は波風を立てぬよう、元の平穏な暮らしを演じつつ──模索した脱出経路で逃げ出す準備を整える。
諸々の準備と作戦会議を経て、作戦実行は翌日の午後14時頃に行うこととなった。
下見はどんな事があろうとも30分。必ずそこで切り上げて、下見を中止する。
あなた方の脱出計画は、まずそこから始まった。まだ単なる第一歩、第一段階に過ぎない。
だがここで躓けば、全てが水泡に帰す重要な起点でもあった。
──翌日。
いつもと変わらぬ平穏な朝の風景に馴染むように演じ、あなた方は午前の授業を経て、寮での昼食を終えた。
オミクロン寮のドールズは、皆が各々のすべきことのために席を立っていく。その多くは、きっとお披露目のためなのであろう。
だがあなた方だけは、お披露目を否定する為だけに行動を起こす。
ダイニングルームで緊迫に視線を交わし、互いに示しを合わせたあと。
元々定めていた二組に分かれて、あなた方は動き始める。
昼食後、あなた方はすぐにでも席を立つ。
目的の人物は、同じ室内に立っている。ダイニングルームでの食事の片付けを終えた先生は、洗い物により濡れた手を拭いながら、キッチンから出てきていた。
間違っても柵を越えに行ったリヒトとソフィアに意識を向けさせることはあってはならない。
30分間だけ、先生に異変を気取られないよう、自然な会話を持たせ続けなければ。
先生はいつも、あなた方に優しく穏やかだ。
だからあなた方が声を掛ければ、すぐに応答してくれるはず。大切なのは、そこからだ。
《Astraea》
「ごきげんよう御義父様。もうお片付けは終わった?」
昼食後、その御手を後ろ手に組み、含み笑いで"先生"に近付く一体の麗しきドール。銀河の如く深い瞳を輝かせ、愉しげに弧を描く唇から紡がれる言葉は、"何かを隠している"と言うことをあからさまであるまでに滲ませた物で、麗しきかんばせはキラキラと希望に萌ゆる。
「ねぇ、My Dear Dad , この後少し、時間を貰えたりするかい?
実はね、いつもお世話になっている御義父様に何かしてあげたいと思って、僕と、フェリシア、2人で色々考えたんだ。僕達2人からの恩返しだよ。」
義父と慕う男の、自身のものよりも逞しい腕に甘える様に自身の腕を絡ませては、その長い睫毛をぱちりと開いてにこにこと笑う姿は、年長者に甘える子供のそれで、普段落ち着き払って至極大人っぽい彼女にとっては珍しいと言えるだろう。
"恩返し"と言っては「ねっ、フェリシア、」なんて相棒の方にその輝く顔を向ければ、愉しげにぱちりと片目を瞑って見せた。
《Felicia》
「うんっ! アストレアちゃん!!」
ラピスラズリ色の煌びやかながら意味ありげなウインクに悪戯っ子のような笑みで返せば、「ねぇ先生! 私がお話するから少ししゃがんで?」なんて言いながら、相棒が腕をとっている先生の反対側に立つ。
するとにっこり笑ってその内容を耳打ちするのだった。
「あのね! 今からアストレアちゃんとふたりで、先生が好きなお菓子を作ろうと思ってるの……!!」
始終わくわくした様子でそれを告げたフェリシアは先生の反応を待った。もし断られたら悲しそうな顔をしそうなくらい、クリスマスのプレゼントを待つ子供のように無邪気に笑うのだった。
「ねぇ先生、いま忙しいかな?
忙しかったら……うぅ、悲しいけど。
……でも! だめ、かなぁ?」
心配そうに小首を傾げる。
さて、先生の反応は如何に?
「やあアストレア、フェリシア。……うん?」
先生は声を掛けて歩み寄るあなた方に気付いて、目線をそちらに合わせようと片膝をつこうとする。しかしそれよりも早く滑り寄ったアストレアによって、しとやかに甘えるように腕に絡みつかれると、先生はその姿勢のままにこやかに首を傾けた。
共にやってきたフェリシアに屈むよう強請られれば、アストレアを一瞥してから改めてその場に膝を折るだろう。幼い子供を相手にするかのように穏やかに耳をそちらに向けて、あなたの言葉を聞き受ける。
「……お菓子か、いいね。私のために作ってくれるのかい? ああ、とても嬉しいよ。……うん、少し待っていなさい。」
先生は心から喜ばしそうな顔で再度立ち上がると、ダイニングテーブルに置いてあるボードを手に少し考えたような顔をする。予定を鑑みているのだろう。
しかし子犬のような眼差しで懇願するフェリシアに、しっかり者であるアストレアの甘える姿に、断るつもりも無かったのか。
先生は改めてにっこりと笑うと、「構わないよ。先生が付き添おう。何を作るかは決めているのかい?」と首を傾げた。
《Astraea》
予定を確認する様子を、口許は弧を描いたままに、その何処までも深い瞳で見詰める。
「実はまだ決まっていないんだ、貴方が何を食べたいのか分からないから。良かったら一緒にレシピ本を探すのを手伝ってくれないだろうか?」
"構わない"と言う言葉に、花の咲く様に優しく華やかに笑えば、同意を求める様に頭を少し傾げて"お強請りの顔"をする。
彼女は解って居た。こう言う時、先生は断らないのだと。先生の為と言う名目上、信頼を得たい彼が断る事はまぁまず殆ど無いに等しいだろう。それに、広い図書室から目当ての本を探すには人手があるに越した事は無い。アストレアとフェリシア、可愛い可愛いエーナモデルの2人でねだれば、きっと。さて先生、貴方はどう答える? お得意の自信に満ちた笑みで返事を待った。
《Felicia》
「ほんとう! やったぁ!!」
不安そうな様子から一転。彗星が煌めいて流れていくように瞳を輝かせたフェリシア。ひとしきり嬉びを口にしたあと、アストレアちゃんの言葉に続けて話した。
「そうそう! 先生は私の好きな物いっぱい知ってるのに、私は先生の好きなもの知らないんだもん!
図書室には美味しそうなおやつやご飯のレシピが載ってる本が沢山あるし、一緒に探したいな!!」
ほほを軽く膨らませて不機嫌そうに言う。もちろん本当に不機嫌になっている訳では無いため、先生にはフェリシアが不機嫌そうな"ふり"をしているのだと直ぐに分かるだろう。軽くおどけてみせるのと変わりは無いのだ。
無邪気な子どものようにくるくると変わる表情。今度はにっこりと笑って"一緒に行こう?"なんて。
もちろん先生は断らないだろう。
「そうか、分かった。レシピ本なら、この間私も探していたから、場所を覚えている。一緒に行こうか。」
あなた方二人の誘導にあっさり応じた先生は優しく頷き、三人連れ立って三階までの階段を登り詰める事になるだろう。もう、エントランスホールにもソフィアとリヒトの姿は無かった。足早に柵の方へ向かったのだろう。
だが30分が経過するにはまだ早い。30分は短いようでいて、緊張の中に在るあなた方にはまだまだ途方もない時間であったのだ。
アストレアとフェリシアは、ダイニングルームで食事の片付けを行なっていた先生に、自然を装って声を掛けに向かった。
確かに会話が始まった事を視認して、あなた方はダイニングルームを離脱し、寮の外へと出て行くだろう。
あなた方が向かうのは、迷いもなく森の方角だ。
ソフィア、あなたは以前お披露目に侵入した際に使用したロープの隠し場所を、森の入り組んだ一帯の木のウロに移していた。
デュオクラスのあなたならば、その隠し場所も淀みなく記憶している。
《Sophia》
「確か……ここだったかしら。」
さくさくと小さな草を踏みしめる音を立てながら、背の高い草に跡や傷を付けぬよう避けながら。入り組んだ森の中を迷いなく進んでいく。足跡はきっと、傷つけないようにした背の高い草が覆い隠してくれるだろう。時々リヒトの方を振り返り、自分と同じように歩いていることを確認しながら。
「……よし、あった。じゃ、このロープはあんたに持ってて貰うからよろしく。はい、取ってちょうだい。」
迷いなく進んだ先に、やがて木のうろにたどり着く。何の変哲もないそれは、聡明な頭脳がなければ記憶が難しい……言い換えれば、隠し場所としては最適な場所だった。余裕げに息を吐いて、図々しくリヒトに指図をする様は、まさしく女王様と言ったところか。ソフィアを姉のように慕うリヒトからすれば、これも頼りがいのある姉の姿にでも見えているのかもしれない。
《Licht》
「えっ、ここ?!」
足跡に警戒すること、出るのを見られていないか気をつけること、草原は視界が通るからごく自然に振る舞うこと……細々とした、しかし大切な指示を念頭に恐る恐る歩いた先。なんの違和感もないただの木の麓までついた時、リヒトは小さく声を上げた。そしてすぐ、しまった、と言うように口を塞ぐ。少々大袈裟である。
「お、おう。リョーカイ」
全く分からないものだな、と密かに嘆息して、リヒトはちょっとだけ寮の方を見やって……そして木のうろの中に手を突っ込んでロープを取りだした。
気にしちゃいけない。気にしちゃいけない。あくまで自然に……なんて思えば思うほど、センセーの目の前に向かった二人のことが気にかかるというものだ。その憂慮すらおくびにも出してはいけないから、ぐっと息を飲む。
《Sophia》
「ふふ。中々上手く隠せてるでしょ。」
驚いたような声を上げたのち口元を抑える大袈裟な姿を見ていたずらっぽく笑ってみせる。脱出へのしるべ、蜘蛛の糸たらん重要なアイテムが普遍に紛れていることは、誰にとっても意外性に満ちているものだ。リヒトから予想通りの反応が得られたことが愉快だったらしい。
「……アストレア達なら大丈夫。きっと今頃うまくやってるわ。さ、あたし達も早く行きましょ。」
それはまるでリヒトの憂慮を読んだかのように、きっぱりと言い切った。強く、確かな信頼を感じられるだろう。リヒトがロープを取ったのを確認すれば、先程のように足跡に警戒しつつ柵の方へと向かっていく。
《Licht》
「……だよな、きっとそうだよな」
きっぱりと言い切るその姿勢に、リヒトはパチリと目を瞬かせ、そしてぐっと手の中のロープを握りこんだ。お披露目の日と同じように、しかしあの日よりもずっと、強い気持ちで。
「なあ、ソフィア姉。結局、お披露目には何があったんだ?」
柵への道すがら。きっとこの森に関してはテーセラモデルの方がよく知っているから、と、デュオモデルのソフィア姉の歩みをを見遣りながら、リヒトは根を跨いで尋ねた。
「知らなくていいとは言わせねーよ。もう、ここまでオレのことつれて来たんだから」
樹皮に触れる、木漏れ日が揺れる。お披露目は、たとえ今だってリヒトの希望なのだ。あの塔から、あの業火から逃れるための。だから誤魔化されたくない、直前になって知るくらいなら、最初から、もうどん詰まりだって知っておきたい。
それに。
(……あれじゃ。あんな様子じゃ、きっと“ソフィア“がコワれちまうから)
こっちは、口に出したら余計話してくれなさそうな気がしたから、そっと木々のあわいに隠しておく。
目線を戻して、その先。そろそろ柵が見えてくる頃だ。
春先の森林の気候は穏やかだ。涼やかだが肌寒くはない優しい風が吹き込んで、あなた方の合間を通り抜けていく。後ろ髪をくすぐる清涼とした風を浴びながら、あなた方は散歩でもするかのような足取りで柵へ向かう。
二人の様子は一見平穏で、これから危険な下見を行うようにはとても見えなかった。
そんなあなた方の目の前に、ようやく目当ての柵が見えてくる。寮の外周を取り囲むように巨大な縁を描く、高さ2mを超える高い格子状の鉄柵である。表面はツルツルしており、握り込むと滑り出してしまうため、道具がなければ登れない。そもそも決まり事で禁じられているため、あなた方は滅多にこの場所へ立ち寄ることはなかった。
──しかし、今は違う。
リヒトはひとまず、足掛かりにするロープを鉄柵の頂点へ結びつけるため、ロープの先端に小石を括り付け、柵の向こう側へ投げ込むだろう。
柵の上部を囲む形でロープの両端を手繰り寄せると、手元でロープを緩く結び、すぐにギュッ、と引っ張って頂点に近い位置で固い結び目を作っていく。
その後、等間隔に輪っかを作る形でロープを縒れば、ロープ自体が足掛かりにはなるはずだ。
あなたはロープの強度を確認するため、先に登ることを決めるだろう。その後、降りてくるソフィアを補佐する形となる。
《Licht》
ソフィア姉の説明の通りに、やっとこさロープを結ぶ。コワれた頭では思いつかなかった方法に舌を巻きながら、途中でうっかり絡まるロープに時々むっと顔を顰めて。
その間、テーセラクラスの同窓がここに来ていたことを思い出していた。そうだ、確かドロシーも、柵を登る下見に来ていたはずだ。何のため、だったっけ。
柵を越えたら、言わなくちゃ。
「……よし、オレが登って、それからソフィア姉な」
コワれていてもテーセラモデル。ぐっとしっかり結ばれたロープを引っ張って、設計された運動神経が器用に登っていく。自然に、いっそ軽々と、学園の禁は破られた。拍子抜けよりも遥かに重い、不安と後悔が胸を掠め、かさりと草を踏む音がする。リヒトはソフィア姉の方を振り向いて頷き、無言で次を示した。
沈黙は、さっきからずっと続いている。
《Sophia》
「…………………………んん……」
ぐらぐらと揺れる不安定なロープの輪に必死で足をかけ、登る。こういうものは普通、小柄である方が有利に動けるのが物理的には正しいのではなかろうか。なんて事を先駆していったリヒトの姿を思い返しながら、己が身体を振り落とさんと揺れるロープにしがみつく。リヒトよりも長い時間を費やし、ようやく柵の頂点へとたどり着いた。
「……リヒト、着地お願い!」
ひょいと柵の頂点から飛び降りる。当然このまま地面と墜落しては、トイボックスの手にかかるよりも先にスクラップになってしまう……ので、リヒトに一声かけて、テーセラモデルである彼に受け止めてもらう事で無事に着陸することに成功するだろう。
《Licht》
「ぅおっ待っちょ………っ!!」
なんて軽く言うのだろう。振り仰いだ先に煌めく金糸とアクアマリンが、自信ありげに落ちてくる。リヒトは慌てふためいて手を広げた。軽い衝撃。ふわっとした重力。ぐっと食い込む足。
そして、やっぱり、ちょっとした不平。
「フェリもソフィア姉も……! 一度コワれたら戻らないんだからな、ほんと!!」
響かないように抑えた声で、それでもむっと抗議して、ゆっくりソフィア姉を地面に下ろす。全く、毎度コアが壊れる勢いで心配してしまうのだから、少しは気をつけて欲しい、なんて思いつつ。
……その裏で、痺れるような快感が恐ろしい程にコアを満たして、そして汲もうとしたそばから涸れていく。ああ、当事者でなかったら頼られることなんてなかった、誘われることも、身を任せられることも、見てもらえることも、全て。
愚かな承認欲求で身を滅ぼす前に、稚拙な自尊心で誰かを滅ぼす前に、素早く行動しなければ。リヒトは忍び寄る耽溺を振り払うように、柵を背にソフィア姉の方を振り向いて、それから森の奥を見た。
これは、たった30分の作戦なのだから。
階段を登り切り、あなた方は埃がきらきら舞う薄暗い図書室に到着する。
「食後だからね、軽いおやつに留めておこうか。
ミシェラを送り出した時に、君達にアップルパイを振る舞ったろう? その時から場所を覚えておいて正解だった。」
先生は本棚の合間を縫って、一冊の本を取り出した。鮮やかなインクで印刷された本の表紙には、なんとも甘やかで美味しそうなスイーツの写真が掲載されている。
──ミシェラを送り出した時に、アップルパイを食べた。それはあなた方の記憶にも新しい。
ミシェラは先生からの祝いのパイを皆と共に食べられて、心から幸せそうに、無邪気に笑っていた。あの頃は、ミシェラもあなた方と同じように生きていたのだ。
フェリシア。あなたはミシェラの最期を今も鮮明に思い返せる。先生はこの穏やかな笑みを浮かべながら、ミシェラを炎の中に突き落としたのだ。
ミシェラにあの末路を辿らせる事を決めていながら、アップルパイを焼いて、皆とお祝いして。
“先生は幸せな時も、ミシェラの最期の瞬間も、ずっと変わらないあの笑顔だった。”
その事実に悍ましさが込み上げるだろう。
「さあ、どれにする? 君たちの好きなものにするといい、私はどれでも嬉しいよ。」
──先生はあなた方の顔をじっと見据えている。
《Astraea》
「嗚呼! あのアップルパイはとても美味しかったよ。また食べたいな。
でも今日、僕達は先生の為に作るんだ、先生の好きな物でないと。」
アップルパイ、と聞けば、うっとりと、その味を思い出す様にほうっ、と溜息をひとつ吐く。歯に当たれば心地の良い音のするパイ生地に、舌触りの良いクリーム、リンゴの甘さを引き立てるシナモンが香り高い、絶品の1品。頭の奥底で真綿に包まれた心地の悪さに微かな胸焼けを憶えつつ、靱やかな指先でレシピ本のページを1つずつ捲って行けば、恐らく先生が参考にしたであろうアップルパイのページに辿り着く。レシピの字をなぞってはまた食べたい、だなんて上目がちに口にする。
でも、と前置きするのは、今日作るのは自分の食べたいものでは無くて、先生の食べたい物でないと、と言う思いから。成る可く時間のかかるもの、だなんて本心は隠したままに、どれが良いかな、なんて呟いては楽しげに、そのページを先生、そして相棒へと見せて。
《Felicia》
「先生の作ってくれたアップルパイも美味しかったなぁ、一口食べたらほっぺた落ちちゃうくらい美味しくて! 思わず、絶対に美味しくなる魔法でもかかってるのかなって思っちゃったよ〜!」
ほわわん、とした顔を作る。確かに作って貰ったアップルパイは美味しくて。当時思ったその感想に嘘はない。知らなかった前と後ではこんなにも印象が違うなんて。ミシェラちゃんと食べた最後のおやつ。あの天使のような笑顔が彼女の最後だったなんて未だに信じられない──いや。信じたくない。
だが、現実は理想とはかけ離れている。……今までの当たり前が、日常が崩れるとき、"私"という存在意義も変わったのだ。
フェリシアは笑っていた。今までの純粋な私なら、彼を、先生を、睨んでいたかもしれない。
だが今は守らなきゃいけない友達が、約束があるから。
アップルパイをまた食べたい、なんて口にする相棒に、確かに! あんな上手に作れるなんて憧れちゃうね! なんて返す。……この返しは正解かな? アストレアちゃん。
── 私、上手く笑えてるよね?
「わー! みてみて先生!!
これとか、すっごく美味しそう!」
アストレアちゃんから渡された会話のバトンを落とさないように。向けられたページ、時間のかかりそうなレシピをを指さして、無邪気にこれなんてどうかな! と。
その先には、チョコレートで可愛らしく飾り付けがされた絞り出しクッキーだった。
クッキーだからレシピは簡単そうに見えるが、実は型抜きクッキーよりも作るのは難しい。このレシピ飾り付けの時間も取れるだろう。
「これいーっぱい作れたら、先生へのお土産にもなるし、余ったら、紅茶のお供にどうぞ! ってみんなへのプレゼントにもできるもの!」
えへへ! いい考え! と言わんばかりの笑顔だ。我ながら"私らしい"回答だな、と思った。
「…………」
先生はしばし、変わらぬ様子であなた方の表情を眺めていたようだが、あの日を懐かしんでは親しげに笑い合う様子を見て、彼もまた口元を弛めてくれた。
あなた方と共にかつてを懐かしんでくれているようだ。
先生の好きなものでないと、日頃の感謝の気持ちにはならない。
アストレアの言葉にふむ、と先生はひとつ息を吐いて、考えるような表情を浮かべる。
「私は特別際立った嗜好はない……なんでも好ましく思うけど、君たちが色々考えて作ってくれたものは何より美味しく感じるだろうね。
……なるほど、絞り出しクッキーか。いろんな味もあって、皆も喜ぶかもしれないね。ふふ、これにしようか。でもまずは道具を探さなければね」
先生はフェリシアの問いに頷き、階段の方へ目を向ける。あなた方が着いてくるならば、レシピ本を手に階段を降りて行こうとするだろう。
「──ところで、アストレア。突然で済まないけれど、一つ聞きたいことがあるんだ。君はあのお披露目の日、寮を出たかい?」
あなた方は、結構な苦労を要しつつもどうにか柵を乗り越える事に成功する。ロープは帰ってきた時に手間取らないよう、一時的にこの場所に残しておく事になるだろう。
ここまでで、寮を抜け出してから10分は経過しただろうか。いつまでもアストレアとフェリシアに先生を任せきりにする訳にもいかない。あなた方は大事を考え、先を急ぐことにする。
──柵の外。先生によると、鬱蒼としているせいで道が入り組んでいて複雑であり、迷ってしまう可能性があるらしい。しかしその点については、デュオのプリマドールであるソフィアが完璧に道を覚えている事が出来るため、問題はなかった。
もうひとつ。近辺の森には危険な獣が徘徊している、という言葉については無視が出来ないだろう。また商品であるドールズを逃がさないため、何らかの罠や警報などが取り付けられている恐れもある。あなた方は周囲に十全の警戒をしながら、森林をなるべく寮から遠ざかる方角で進んでいくことになるだろう。
暫くは当たり障りない景色が続く。何か話をしておく事があるならば、この段階が最適だ。
──リヒトはお披露目について知りたがっていた。ソフィア、あなたは彼に真実を話すだろうか?
《Sophia》
「構わないでしょ? 別に。あたしは簡単にジャンクになるほどヤワじゃない。それに、そうさせない為にあんたがいるんでしょ。守ってくれるわよね?」
──かくして。承認欲に取り憑かれた子供の、その魂の炎を煽るような物言いをしてみせた美しく狡い魔女は、新たな世界の草を踏みしめる。禁忌を犯して、踏み入れた世界。だと言うのに、ソフィアは酷く落ち着き払った様子である。罪人とは思えないほど、その横顔は凛々しかった。
「こうも平凡な光景だと拍子抜けね。早く行くわよ、リヒト。迷わないでよね。」
その行動はあっさりとしていて、寧ろ清々しいくらいであった。機能性を重視したモデルであるデュオドールらしい姿と言えば姿であるのだが。さくさく、軽快に草を踏みしめる音が連続する。歩みを進めて少し経った頃、ソフィアは後ろに着いてきているだろうリヒトの方を振り向いた。
ソフィアは口を開く。それは、先程沈黙で押し流した、リヒトの問いについてのこと。
「……ねえ。お披露目の事、本気で……本当に、知りたい?」
きっと、あなたはこの緊張感で圧迫された空気に、固唾を呑むだろう。それは、それ相応の覚悟を決めろ、とでも言うような口振りだった。
《Licht》
「オレは、オレじゃ、オレなんかじゃ……」
どれだけ星を読み、夜を占い、眩い朝日のように全てを照らせる魔女だとしても、灯のない星を見ることは難しい。愚かな自尊心のために、灼かな羞恥心のために。今だってほら、名指しで自分を呼んでもらえなかった擦り傷が膿んで、かさぶたにすらなり得ないのだ。
「……いんや、ストームに怒られるから辞めてくれって言ってんだよ。オレが守るどーこうじゃなくて」
他人の名前を出して話をそらすのは、彼のか弱い防壁だ。もういっそ気持ちのいいほどに真っ直ぐなソフィア姉の眼差しに、『おう』なんてぶっきらぼうに返して、凛と草地を踏み進む革命の足取りを追った。
途中。追い続けた秘密が、微かな期待が、あまりに呆気なく、そして重く振り返ったから。リヒトの足取りはくっと止まって、間隙が静かに横たわる。二歩、三歩の距離。
「……知りたい」
覚悟なんて、決まってるわけないじゃないか。勇気なんて、ここにある訳ないじゃないか。だから嘘をつけ。虚勢を張れ。自分のせいだと背負い込んで、自分の罪だと思い込め。一歩詰めて、拳を握って、固唾を飲んで答えるんだ。
そうしないと、コワれた体が今すぐにでも全てを忘れて、立ち止まってしまいそうだから。
《Sophia》
「…………………………そう。」
トパーズの光は、複雑に屈折した。それを見届けて、その言葉を聞き届けて。ソフィアは短く返した後、再び前を向いて、何事も無かったかのように歩き出す。その声色は冷たく沈んでいた。あるいは、敢えて沈めているのやもしれない。それは、平静を装うとしているようにも聞こえた。
再び歩き出してから3、4歩した所で、風になびくブロンドイエローの糸をリヒトに向けたまま、語る。
「……お披露目は、」
「お披露目は、地獄だった。ヒトに買われて幸せになるだとか、そんなのは全部嘘。ヒトなんていなかったわ。
居たのは、怪物だけ。
一つ目の、蜘蛛みたいな化け物。あんた達が見た奴とは違う奴でしょうね。お披露目に出たドールはみんな殺されたわ。頭から喰われたり、引き裂かれたり、散々だった。」
「……みんな、お披露目は素晴らしい事だって、まだそう思ってるだろうから。言うべき時が来るまで秘密にしておいてあげてね。」
さく、さく。そこまで語り終えた後は、足音ばかりが響いた。こうして歩いていれば、もうじき、何かが見えるだろうか。
《Licht》
きづい、たら。きんのきらめきはとおく。だから。さくさく。くさのおと。ないらしい。くもみたいな。ばけもの。ころされ。くわれ。もうすこし。もう少しだけ。じかんを。コワれた頭で理解する、時間を。
進まなきゃ。
ぎゅっと握りしめたペンが、いつの間にかノートに走り書きしたぐちゃぐちゃの文字を、表紙と表紙に閉じ込めて、鞄に突っ込む。凛と飛び込んできた言葉が、コワれた頭でちりちりと揺れて、解けて、理解を通り越したまま消えていく。ああ、若緑の穏やかな笑顔を思い出したけど、彼の名前はなんだっけ。
(そうか、ないんだ。お披露目)
今は事実だけ、叩き込め。
理解するな。
そして、進まなきゃ。
(でも、どこへ?)
ちゃんとしたお披露目の方なら大丈夫だと思っていた。コワれてさえ居なければ大丈夫だと思っていた。直ればみんな幸せになれると思っていた。あの火から逃れられると思っていた。思っていた。思っていた。思い込んでいた。大丈夫だと、思っていた。でも違った。何か違った。何かが。何かが違ってしまった。
リヒトは、頭を振った。
そして、ソフィア姉を追いかけて草を踏み歩く。
進まなきゃ。
たとえ、何があろうとも。
あなた方は、真っ直ぐと道を突き進んでいく。周辺は青々とした変わり映えのない森林の景色がずっと続いており、方向を見失いそうになったが、来た道を完璧に記憶しているソフィアが居ればそれも問題にはならなかった。
あなた方は道中、不思議に思うことだろう。
道中の地形は、不思議なぐらい起伏が無く、平坦だった。なだらかな草地がずっと続いており、地面が割れていたり、極端な高低差のある地形が無いのだ。
まるで初めからフラットなテラリウムに、森林を形成するために植樹していったかのような。
また、森林には水場も無かった。あなた方を襲うような獣の影も遠吠えも息遣いも、通った形跡のある獣道も見当たらなかった。
時折小鳥たちの囀る声が聞こえるのだが、その姿はどこにも見られない。生き物の気配がない。
あなた方はやがて少しずつ、周辺の木々が少なくなってきていることに気が付く。
森林の中にポッカリと空いたギャップというわけでもない。ただオブジェクトが少なくなっていくように、周辺の景色が少しずつ簡単な造形に移り変わっていくのだ。
やがてあなた方は、空を見上げても遮るものが何も無い土地に辿り着く。
足元には草地すらない。
自然を感じられぬ砂利道がしばらく続き、やがて──あなた方は足を止めるだろう。
注意散漫になっていたなら、そこに頭をぶつけたかもしれない。
──壁。
目の前には高い壁がある。周辺の景色と同化するように、極めて自然な青空を映し出した、壁が、ある。
そう、壁。
トイボックスの最果てには、どこにも繋がっていない、どん詰まりの、壁が、ある。
そして他には何もない。
《Astraea》
あの日食べたアップルパイは、思い出せば胸焼けするほどに、甘美で美味しかったんだ。それは、未だに脳裏にこびり付く地獄の記憶も相まってだろうか、いつまでも、永遠に忘れられないことのような気がした。
ああ、 また食べたいな。
「クッキー! 素敵じゃないか。
紅茶を入れて、出来たら皆で食べられれば嬉しいね。
先生も良いならそれで決まりかな。材料はパントリーにあるのかな。行こう、フェリシア!」
絞り出しクッキーだなんて、なんて素敵な響きだろう。指さした先のレシピを覗き込めば、耳にかけた白髪がはらりと顔を隠した。フェリシアの選んだそれは、きっとそれなりに時間のかかるらしいレシピで、前髪のカーテンの下、アストレアは思わずその顔を綻ばせる。落ちて来た長い髪を払い除けながら顔を上げれば、嬉しそうに、素敵、だなんて。
そうと決まれば! と相棒の手を引けば、長い手足を揺らして、楽しげな笑顔と共に階段を降りんとする大きな背を追った。
「……お披露目の日? というのは、昼間の話だよね? そんなの訊ねるまででも無いだろうけれど。」
それはまさに晴天の霹靂。突然投げ掛けられたその質問にぴたりと足を止めれば、どうして? だなんて尋ね返して。彼女は霹靂など知らず、依然として晴天であるかの様に粧うのが得意であった。そのかんばせに浮かぶのは余裕たっぷりの笑顔で、傍目にはまったくの平静、いつも通りに見えるだろう。
然し、表情や身の熟しにまで気を配れたとて、その緊張はその身体へと伝わっていた。細い手足はほんの微かに強ばって、その手で握られた本人ならば、握る力の少し強まったのに気が付くだろう。
やはり気が付いて居たのか。まず、此処を乗り越えられれば、否、乗り越えなければ。僕にはまだまだやるべき事があるのだから。
《Felicia》
(際立った嗜好はない、か……)
アストレアちゃんと楽しげにレシピ本を見つつ、脳内ではそんなことを考えていた。つまり先生は、好きなものを即答することが出来ないのだ。人間に似せて作られたとはいえ、私たちは所詮ドールである。その無機物すらも、好みを聞かれれば迷わず答えられるというのに、だ。
「うん! クッキーなら美味しいし、お裾分けできるから素敵だと思うの! さっそく行こ行こー!」
アストレアちゃんならきっと自身の考えを理解してくれているだろう。彼女の綻んだ顔にフェリシアは屈託のない笑みを見せて答えた。
……問題はクッキーを焼いている時間に何を話すか、なのだが。
それは作りながら考えればいい。
何ならクッキーに関する物語でもその場で作ってみせようか。会話に優れた私たちならきっと……その時間も過ごすことができる。
そんなことを考えつつも、笑顔は絶やさなかった。私が演じるのは、事実を知り得る前の明るいフェリシアというドールだ。アストレアちゃんに手を引かれ、彼女に倣うように楽しげな面持ちで階段のほうへ向かうだろう。
「……? 先生、変なこと聞くね?」
アストレアちゃんに続くように、小首を傾げつつきょとんとして答える。フェリシアの頭に、はてなマークがいっぱい。希望としては先生がそんな風に捉えられるだろうことを祈って。
その瞬間、先生がアストレアちゃんに投げかけたのは爆弾だった。きっと最初が、私に対してだったらきっと自分は顔を強ばらせているだろう、そんな爆弾。きゅっと握られた手。彼女と手を繋いでいて良かったと、そう思った。握り返すと先生に気付かれてしまうかもしれないため、出来ないという判断をした。きっと、アストレアちゃんならちゃんと冷静に返すことが出来るだろう。しかし、彼女は決してひとりじゃない。
── 手を繋いだ先には、貴女の相棒がいるからね。
「……そうか。うん、そうだね。先生がおかしなことを聞いてしまったね。」
フェリシアの疑問はもっともだ。先生は今、このタイミングで問うには些か不自然な、奇妙な質問を投げ掛けた。
そんなもの、全てのドールが否と答えるであろう、分かりきった質問。
──しかしあなた方にとっては、いつ起爆するかわからぬ不発弾ともなろう、得体の知れない質問を。
アストレアは完璧な無知の仮面を纏っていた。それは言うまでもない。先生もそれに納得したように目を伏せて、フェリシアの言葉に頷いている。
互いが拠り所であるからこそ、手を繋ぎ合うあなた方の目の前で。
先生は、徐ろに手首を捲って、そこに巻いてあった古いアンティークのように見える腕時計を確認した。
「そうだ、君達に素晴らしい知らせがあるんだよ。折角だ、クッキーはそのお祝いにしようか。
でもまずは、『迷子の子達』を迎えに行かなければね。君達も、何も知らないなら心配だろう? 着いてくるといい。」
先生はにこやかに微笑むと、あなた方の脇をすり抜けてエントランスホールへ降りていった。
クッキーを作るなら、その足先はキッチンの方へ向かわなければならないのに。彼は迷いもなく寮の扉を開けて、外へ出ていってしまった。
──穏やかなバラードを響かせながら。
《Astraea》
「大丈夫だろうか、もしかして体調が悪いのかい? 僕は少し心配だよ。」
その瞳の根底に心配の色を滲ませて、自身のものよりも20cm程上の顔を上目がちに仰いだ。
彼女は、自身の表情を的確に操ることが出来た。それはその瞳の奥底も例外でなく、今の彼女は誰がどう見ても、心から先生の心配をする優しい子であるだろう。彼女は、"何も知らない"。ただ、どこか様子の可笑しい先生を、"心配している"のだ。そのかんばせに、労りの笑顔を美しく貼り付けて、長いまつ毛を少し伏せた。
──その心の奥底に、恐怖を埋めて。
「素晴らしいお知らせ? なんだろうね、楽しみだ。
……迷子? それは心配だけれど、この狭い敷地の一体どこで迷子になると言うの? クッキーは?」
"素晴らしいお知らせ"。今となってはもう素直に楽しみに出来るはずの無いそんな言葉にも、にっこりと笑って楽しみだ、だなんて言わなければならなかった。かの偉人による名言ではないが、今は全てを疑うしかなかった。
今まで信じてきた全ての常識が覆った時、一体何を信じれば良いのだろうか。
極めて順調であったはずの風向きががらりと変わった。まずい、この人は気が付いている。彼は時計を見た。通常であればただ時間を確認しただけ──であるのだが。
アストレアは一つの仮説を立てる。これが時計で無いとすれば? ドールの身体に、居場所を報せる発信機が着いているとすれば? もし本当にそうなのならば、先生が急に探しに行こうとするのも、迷いなく歩き出したのにも説明が着くのではないだろうか。
経過時間は、未だ目標の30分には届かない。彼女は、瞳を困惑の色に染め上げて、歩き出した先生に追い付いて、袖をつ、と掴んでは引き止める様に、"クッキーは?"だなんて。
嗚呼、怖いよ、怖い、本当に怖いんだ。きっと引き止めれば疑われる。それでも、ソフィアとリヒト、二人を守れないよりも、自分だけが怪しまれた方が良いと、そう思った。約束は、果たさなければいけない。
《Felicia》
「………先生……」
納得するように頷く先生に、アストレアちゃんと同じく心配そうな瞳を向ける。まるでフェリシアが“先生が本当におかしくなってしまったんじゃないか!”なんて考えているように見えるように。
しかしペリドットの瞳の奥では、見せかけの心配とは別の、恐怖という名の黒い感情が渦巻いていることを消して悟られないように。
「え、迷子? ん? 迷子って言った?
アストレアちゃんの言うとおり、こんな狭いところで迷子になる?
……ねぇ先生、ちょっと待って。
わ、待ってってばぁ!!
えーっと。さっきから凄く気になってたんだけど……」
素晴らしい知らせ、先生が放ったその言葉の意味には知らないふりをした。その知らせが"本当に素敵な知らせ"だと思いたかったが、きっとそうじゃない。なんて嫌な予感が過ぎっていたから。
当たり前だと言われればそうなのだが、今までの様にすんなり信じることが出来なくなっていた。
突然、先生はアンティークの時計を見ると別の方向へと歩き出していた。その時計を見た瞬間、先生の行動が変わった。恐らく先生のそれには何かあるのだろう。迷子と判断できる何か、が。軽く考えてみるとフェリシアにはそれが何なのか、予想がついていた。見た瞬間の行動、そして何故か楽しそうな先生。確信しているのだ。自信があるということだ。
……つまり、それは───
(発信機。)
まずいと思ったのだろう、アストレアちゃんは咄嗟に先生の袖を引っ張っている。ふたりが帰ってくるまで、30分までまだ経っていない。ここで食い止められなければ作戦は終わってしまう。先生には私たちがお披露目会の実態を知っていることを知られていない。
ではするべきは……そう。
「先生、お熱があるんじゃない?
さっきの質問も含めてなんだけど今日の先生はちょっと変だよ……? 疲れてるんじゃいかな。
ねぇ先生、座って? お熱を測ってあげる! お熱がなくても、今日はお菓子作りを諦めて先生は休んだほうがいいよ!」
先生の行動をまとめるとそうなるだろう。一連の流れは、先生の体調が悪かった、ということにしておけば理由付けになる。まずは彼の行動を止めなければ。アストレアちゃんが"お菓子"と言って先生を止めたのは、早くお菓子を作りたかったということにしておく。
そして、心配ゆえに座って? なんてドールに言われた先生は、無理に嫌だという人では無い。彼ならきっと座ってくれるだろう。
彼の袖口に伸ばされた細い手のひらは、まるで仕事へ向かおうとする父を引き留めたい娘が懸命に縋り付くようだった。そんな悲願が滲み出るあなたの手に手を重ね、先生は優しく安心させるように微笑んでから、そっと外す。疑惑を向けられることを恐れた、さほど力が入っていたわけではないだろうその指は、容易く離れるのではないだろうか。
「フェリシア、心配してくれているんだな。君は本当に心根の優しい子だ、先生は君のそんなところに期待しているんだよ。
だけど、私は大丈夫だ。迷子というのは、何も学園や寮内というわけではない。
うっかり柵の外に『迷い込んだ』子たちが居る。私は彼らを迎えに行くだけだ、心配はいらないよ。」
先生はただ、ララバイを歌うように、あなた方に怖いものはないのだと教えるように告げる。だが彼の言葉は言外に、『全て分かっているのだ』と知らせるかのようで。
彼はあなた方の引き留める声には応じずに、その足先は真っ直ぐに寮周辺を囲む森林へ向かっていく。
空には暗くて重い雲が立ち込め始めている。
穏やかな生活は、音を立てて狂い始めていた。
《Sophia》
「は、」
ソフィアは絶句した。自分の背丈よりも、ずっとずっと、遥かに高い壁に阻まれ、脱出路を見失った。自然を無くした地で、呆然と立ち尽くす。
────いや。
「……リヒト。ちょっと、あたしのこと肩車してちょうだい。」
脱走を試みるドールに対策を取るならば、この壁を目立たせなくするために、もっと木や草で覆い隠すべきなのではなかろうか。まさかここまで辿り着く訳が無いと過信しきるほど愚かでもあるまいし。
この辺りに草や……木がないのは。足場として利用されるのを防ぐため。そして、この壁は目で見えるより途方もない高さではなくて、木を登れば何とかなるような高さ……なのかもしれない。確証はない。けれど、調べることは無価値ではない。ともかく、ソフィアはその壁をくまなく睨みつけ、観察し始めるだろう。天に伸びるこの壁の途切れ目を探すためにも。
《Licht》
少しずつ、少しずつ。
異変のように忍び寄る現実はじんわりとリヒトの心を絞めながら、徐々に顕になっていく。一本、一本、ベールか剥がされていくように森が疎らになり、地面の草が薄くなっていく度に、ぐっとなんとも言えない恐怖を踏み越えて進んだ。進む他なかったから、今はただ、目の前を進むコワれていない彼女を頼りに。
「────あ」
そして、壁。
獣は無い。化け物も居ない。ヒトの住む地も、何も無い。
ただ、そこには、彼らを絶望に落とすには十分すぎるほどの暴力がそり立っていた。
「………あ、お、おう」
ソフィア姉の声から、数刻。ようやく我を取り戻したリヒトは、慌てて彼女を肩車しようとしゃがみこむ。
「で、でも時間」
ソフィア姉が間髪入れずに乗るのであったら、息を合わせて彼女を持ち上げるが……その途中、彼は心配そうに声をかけるはずだ。大切な仲間を待たせている、自分たちには、時間が無い。
《Sophia》
「大丈夫、すぐに終わらせる。」
その凛々しい声は、いつものような自信……とも少し違うような、別種の感情から来るもののようで、堅牢な信憑性が確かにそこに在った。すぐにリヒトの肩に体を預ければ、ふわりと浮かびあがるような心地に包まれる。約2mほど高くなった目線で、ソフィアは何を見つけ出せるだろうか。
もし仮に、この壁に何かあるのなら。先程のすぐに終わるという言葉通り、ソフィアの鋭いアクアマリンの光が素早く探し当てることだろう。
あなたは壁に手を這わせて、懸命に脱出の手がかりを手繰り寄せようとする。しかしあなたの手の届く限界まで必死に伸ばそうとも、その指先は希望の片鱗に掠めることも無く、ただ滑らかな表面を撫で付けるだけに終わるだろう。
あなた方の眼前で、恐ろしいほどに高度でリアルな、偽物の『空』の映像が動いている。雲は流れ、遠景で樹々はそよぎ、平穏な景色がどこまでも、何処までも続いている。
あなた方はその先の自由に手が届かない。
そんなものは存在しないのだから。
トイボックスは閉ざされた箱庭だった。
《Licht》
「ソフィア、姉」
───気の所為だと思った。
「音、が」
───気の所為にしたかった。
「海の水の、音が、する」
───気の所為じゃ、無かった。
コワれた頭が叩き出した、この答えを否定して欲しくて、リヒトはぐっとソフィア姉を支える手の震えを抑えた。
「……え、ど、どういうこと?! な、なあソフィア姉、壁の向こう何がある……?!」
きっとコワれてるから、突飛なことを考えつくのだ。きっとコワれてるから、変なことを考えちゃうんだ。頭が良くて、コワれてなくて、キレイなソフィア姉ならきっと、そんな訳ないって爽やかに笑ってくれる。焦って、それでも姿勢的にソフィア姉を見上げることは出来ないから、砂利を見つめて。
ああ、向こう側に池が、湖かなんかがあったりして、それだったらいいのに。それだったらいいのに。それだったらいいのに。
……世界はいつだって容易く、ジャンクドールの期待を裏切る。
《Sophia》
「…ッ、まさか…………」
『海の水の音』。希望の一片はどれだけ壁をなぞろうと見つかることはなくて、その矢先に投下された情報は、無力なドール達に更なる絶望を与えるには充分すぎた。五感に優れたテーセラの言うことだ、間違いはないだろう。
……壁に耳を当て、懸命に向こうからの音を探る。 そうすると、ああ。リヒトの言う通り、ささやかな波の音が聞こえてくる。いっそこれさえ作りものならよかったのに。
「ここ………海の上に、ある?」
どうやら乗り越えるべき障壁は、随分と規模が大きいようだ。
「……戻りましょう。もう時間がない。」
ソフィアの瞳は静かだった。絶望するべき状況下においても、それはひどく静かだった。それは厭な静けさではない。……もしかすれば。その頭脳によって、またひとつ光明を見出しているのやもしれないと、感じさせるような静けさだ。リヒトに降ろされれば、素早く走り出す。大体あと十分と言ったところだろう、タイムリミットに間に合うように。
《Licht》
「……ち、ちが」
海の上に。
その言葉を聞いた瞬間、コワれた設計頭脳が全力で警鐘を鳴らした。これは、たった一つの掛け違いで全てが狂ってしまう緻密な蜘蛛の糸。作戦を編めやしない出来損ないに出来ることは、それをせめて、歪めないことだけ。
「ちがう、中だ! どうして? ぶくぶくする、海の、水の中の、中の音……え?」
降ろしたソフィア姉の瞳に過ぎった一瞬の煌めきに縋るように、リヒトも遅れて駆け出しながら……懸命に、自分の発見を何度も、その背に投げつける。コワれた体が見つけた事実を、余すことなく、間違うことなく。
「ソフィア姉、海のっ中の、音だ、なんで…なんでっ?! あの空、何?!」
ただし、“事実”から先に彼は行けない。彼のコワれた頭と体じゃ、事実以降の真実には触れられない。足取りは先程と同じように進めながら、おかしな現実の海を泳ぐように、溺れるように彼は走った。星のないあらしのよるに、難破してしまったような気になった。
《Sophia》
「は!? 海中!? それじゃもっと面倒じゃない………………ああもう最悪……!」
リヒトが言うには、どうやら事態は思ったより深刻であるらしかった。息を切らしながら駆けるソフィアは、苛立ったように舌打ちをする。
学園は寮より低い場所に位置していて、トイボックス全体が海水に囚われているかどうかはわからない。けれども、それまで計画していた脱出例が全てふつんとちぎれてしまったのは事実だ。これが怒りを覚えずにいられるものか。
頭脳を主軸とするデュオドールに運動機能や身体強度はあまり備わっておらず、もうソフィアのスタミナはとうに地を這っている。どれほど走ったっけ? もうじき元の柵が見えてくる頃だろうか。
あなた方は息を切らして樹々の合間を走り抜ける。30分が経過するまでもう間もない。急いで寮に帰還し、また何事もないように振る舞わなければならないから。
空は、ずっしりと重たい曇天がひしめき始めている。偽物であると分かりきった空が、あなた方の合間に暗澹を陥す。
目の前には、待ち兼ねた柵が見えてきていた。
──そして、曇天から降り落ちてきたかのような、薄暗い一本の『雨足』も。
黒い衣服を吹き付ける強い風に靡かせて、先生が薄い微笑みを浮かべながらあなた方の方へ向かってきていた。
後方には、アストレアとフェリシアも追ってきている。
惹きつけに失敗したのだ、と。あなた方はすぐに悟るだろう。
「ああ、戻ってきていたんだね。良かった、すぐに見つかって。」
先生はいつも通りの穏やかな声をあなた方に投げ掛ける。それと同時に氷柱を背に落とされたかのような、怖気が走る事だろう。
《Licht》
ソフィア姉を追う形になっていた速度は、テーセラモデルの性能的に、どんどん並ぶ形になって行く。そして、平坦な森の向こうに柵が見えてきて……。
リヒトは、咄嗟にソフィア姉の前に出た。動いたあとで、設計はこちらの方が高め、隠せると思った。
────隠さなくちゃいけないと、思った。
「せ、センセー……」
柵の向こうからやってきた黒い風の雨に、リヒトは息を飲む。じっとりと足から忍び寄るような、業火を思い出す。それが照らす顔を思い出す。突き飛ばした手と、レバーを下ろした手が、ああ、オレたちを迎えに来た。何より恐れてやまない現実が、オレたちを迎えにやってきた。
リヒトは目線をウロウロと動かして、誤魔化したいけど理由が無いように焦って……
「………っ、ごめんなさい!!」
結果、真っ先に謝った。
「え、っと、その────」
上手い理由を作り上げられるほどの思考能力は存在しない。絶妙に誤魔化しはぐらかせるほど論理能力は動かない。それでも黙れないから、どもりながらも言葉は続くが……きっとそのうち、凛とした声が静かに響くはずだ。
《Sophia》
「──あーあ、バレちゃった。」
黒い雨は、確かに冷たく。か弱い身体を凍てつかせて、正気を奪うには充分すぎるものであった。けれども、少女の声は、なんとも軽くあっさりと響く。
それはまるで、イタズラの見つかった幼子みたいに。大袈裟な溜息を吐いて、顔をしかめて。裏の意図だなんて一切感じさせない、あどけない子供の表情だった。
「先生が獣だとかなんとかって言うから、あたしずっと気になってたの。だからリヒトにも手伝って貰って、柵を越えてみたはいいけど……そんなものいなかったわよ。拍子抜けだわ。
……それで? あたし達これから説教でもされるの? ちなみにリヒトはあたしが勝手に連れ出しただけだから、あんまり怒らないであげてよね。」
10歳の少女の言葉だ。実に好奇心旺盛な。少女は悪戯に笑う。まさか、父なるあなたが子供たちにむごいことをする訳でもあるまいと、無根拠な信用を孕んだ瞳だ。……そう。あたしは何も見てはいない。あなたが探しているであろう、闇の一端を掴んでしまったドールではないのだ。この頭の中には、勤勉な好奇心のみが棲みついているのだ。と、いうような。そんな瞳だ。
先生はうっすらと瞳を細めて、ただ穏やかに微笑んでいる。決まりごとを破って敷地の外へ出てしまったあなた方を叱ろうとしている訳でもないようだ。思い返せば、彼が本気であなた方に怒鳴っている姿は見たことがないことに気がつくだろう。
たとえ致命的な規則違反でも、彼は笑って少し叱るだけで見逃していた。だがその規則違反を犯したドールは、果たしてその後どうなるのだろうか?
「説教だなんてしないさ、そう怯えた顔をしなくていいよ、リヒト。デュオモデルならば秘されたものに興味を抱くのは必然だし、それにテーセラモデルの助けが必要になるのは自明の理だ。むしろ先生は嬉しいんだ、君たちが積極的に学びを得ようと動いてくれる事が。」
先生はさく、さく、と草地を踏み締めてあなた方の合間をすり抜けて、柵の向こう側、あの『壁』がある方角をまっすぐに見据える。
そして口を開いた。
「ああ、獣はいない。いや、むしろこの先には何も無い。ただ森林が続いているだけだ。
なのにどうして柵で囲って、この先に出ることを決まりごとで禁じたか──そうだね、ひとつ講義をしようか。」
軽やかな口振りで先生は語る。日頃彼があなた方へ授業を説くように、数歩ごとに行き来するように一帯を歩きながら、彼は『講義』を始めた。
「君たちドールが、ヒトにとって素晴らしい友であるために造られているのは、既に授業で語った通り。ヒトの心を癒し、慰めるには、君たちは何よりヒトらしい豊かな情動を育まなければならない。
思い出してごらん。今は生憎の曇天だが、この寮は日々燦々と明るい陽気が降り注いでいる。青々とした植物が君達の周囲には溢れている。広い敷地で駆け回る事が出来るというのは、それだけで幼く造られた君たちの感情を豊かに育んでくれる事だろう。
明るい太陽と、夜をやさしく照らす月、巡る四季と、身近な植物。これらの環境を形成することは、ヒトの友を造るにあたって、必須だった。
だが──」
先生は少しだけ目を伏せて、彼方の大空へ向け、掌を差し向ける。
「君たちは見ただろう。この寮の最果てには何も存在しない。ただ壁があるだけだ。そしてその壁は、空全体を覆っている。つまり、この空は全て偽物なんだ。
このトイボックスアカデミーは、海の下にすっかり沈んでいる。
だから太陽と月の巡りは無ければ、本来なら植物も育たない。それを可能にしているのは、尊ぶべきヒトの発達した技術だ。ヒトが暮らすにあたって最適な環境を形成する設備が、このトイボックスには完全に備わっているんだよ。
君たちはこの事実を知ってどう感じただろう。この空がまやかしのものだと知って、落胆したかな。そんなことで落ち込んで欲しくはなかったから、この事実は決まりごとを使って、巧妙に伏せていたんだ。」
先生は、この重大な事実を隠匿しているのは、ドールが何不自由なく無垢に成長するためだと語る。作り物の体に、本物の心が芽生えることを期待しての事なのだと。
だが、あなた方はドールズの悲惨な末路を知っている。ヒトの友となるため、栄光あるお披露目に出るために努力すべきと謳いながら。そのお披露目の実態は学んでいたヒトとは似ても似つかない、化け物の殺戮劇だったではないかと、遺憾に思うだろう。
だがそれを表沙汰に彼へ訴えれば、お披露目の真実を知っているという事が明るみに出てしまう。口をつぐむしか無いはずだ。
「アストレア、フェリシア。君たちも、不本意とはいえこの事実を耳に入れることになってしまって、すまなかったね。がっかりしただろう。
だけど、何も案ずることはないよ。
そんな落胆も吹き飛ばす、『素晴らしい知らせ』があるんだ。君達にだけ先に、こっそり教えてあげよう。」
先生はぴたりと足を止めると、にこやかに微笑んだ。
その瞬間、また。アストレアとフェリシアは、背筋に嫌な予感が犇めくことを自覚するだろう。
《Felicia》
フェリシアは、すらすらと講義をする先生をただ聞いていた。
トイボックス・ドールズという壁で囲まれている箱庭の外は海なのだと。その驚くべき事実を、先生はまるで物語の授業を説くように微笑みながらあっさり話しているのだ。……偽物の空は、まるで悲劇の前触れを知らせるように雲で覆われていた。
お披露目会の正体を知っているフェリシアの口は開いたままだ。
もちろん先生の話はまるっきり嘘に近しいだろう。だがそれを悟られる訳にはいかないのだ。
先生の話を聞いたあと、フェリシアは驚いたように、信じられないというように目をぱちくりとさせてみた。
「不本意というか……お空は偽物なんだね? そっか。……そうなんだ。」
上を見てみた。太陽はいつものように輝いている。これが……ニセモノなのだ───
しかしそんな感情は、素で驚いたフェリシアは、先生の続けた言葉で現実へと引き戻された。
「落ち込んでは無いけど……いい知らせってさっき言ってた素晴らしい知らせのことだね。あはは……どんな素敵なことなのかな?」
衝撃の事実を知ったあとの私なら軽く作り笑いを浮かべるだろう。しかし、その知らせというものに先程から嫌な予感がしていた。
フェリシアの思考に掠めたのは"お披露目会"のこと。
当たらなければいい、そう思った。
もう、誰も、行かせたくない。
空が偽物であると言う事実を、つい今しがた聞いたばかりのフェリシアの、戸惑いと驚きの感情を受けて、先生は頷く。
澱む空気の合間に、また黒い風が流れ込む。風に運ばれて雨のにおいがした。
あなた方の肌に、小雨が落ちる。
「きっと喜びで素敵な笑顔になるに違いないよ。私も知らせを聞いた時は喜んだものだ。皆も、素直にお祝いしてあげてくれ」
祝福をするにはあまりに暗すぎる天候の下で、先生は変わらず優しく微笑んでいる。
笑顔になるに違いないと、あなた方を言葉で戒めた上で、何のことはなく、告げたのだ。
「一週間後のお披露目に、オミクロンクラスからはアストレアが選ばれることになったんだ。」
──暖かく、栄誉ある、輝かしい装飾がなされた死刑宣告を。
「かつてのものとはいえ、アストレアはプリマドールだ。きっと外では、素晴らしい栄光を賜うだろうね。
どうかな、アストレア。嬉しいかい? 笑ってくれ、君の笑顔が見たいんだ。」
先生は静かな森林で、ささやかな拍手を打ち鳴らす。あなたの反応を見るためか、事実を知っているあなたにとっては、残酷で無情な言葉がかけられていく。
あなたは果たしてこの死刑判決に対し、微笑む事が出来るのだろうか。
いや、微笑まねばならない。あなたが笑わなければ、あなたが事実を知っていると先生に知られれば、共に行動していたフェリシアにも嫌疑がかかってしまうからだ。
《Astraea》
「へぇ! 面白いね! ヒトの技術と言う物は、思っていたよりもずっとずっと進歩していたんだ。
でも、信じられないよ、この空が偽物だなんて。輝く太陽も、僕達の肌を濡らす雨も、頬を撫ぜる風も、全て作り物なんだろう?全く、素晴らしいね。」
感激した様に、驚いた様に、そう言っては薄い掌をひらりと空に掲げ、愉しげに笑った。
面白いと思うのに何ら偽りは無くて、されど、この場所から逃げ果せられる可能性が減ったのもまた事実。正直に言えば、落胆した。それでも、そんな事実は隠して、笑うのがアストレアだ。
「……本当かい? この身に傷を負ってオミクロンになった時、もう僕はご主人様に出逢うことなど出来ない物だと思っていたよ!
勿論嬉しいけれど、ジャンクの分際でお披露目に選ばれてしまって本当に良いのだろうか? ……まぁ、選ばれた以上素直に喜ぶのが粋か。ありがとう、御義父様。」
お披露目? 誰が?
────僕が。
それは、無情で甘美な死刑宣告。
思わず息が止まる。時が止まる。宝石の様な瞳を見開いて、ひゅっと小さく息を吸う。刹那、胸に広がった雨の匂いは重く、何処までも暗い。空気が澱む。風が黒い。頬を濡らした作り物の雫は酷く冷たかった。
嗚呼、この世はなんて残酷なんだろう。その報せは想定以上に"素晴らし"かった。それはもう、口の端が自然と天に向かってしまう程に。瞳が三日月の如く細まってしまう程に。遂に、この時が来た。来てしまった。いずれ来るとは思っていた別れの日は、思ったよりも早かった様で、大いなる恐怖の前に、たかが1ドールに出来ることなど無い。未だ何も成し遂げられていない悔しさに、拳をぎゅ、と強く握りしめれば、意思の強いラピスラズリで、優しく微笑むアンバーを真っ直ぐに射抜き、麗しの笑顔と共に感謝の言葉を紡いだ。
王子様はね、如何なる時も上手に笑う物なんだ。
だから、綺麗に笑ってあげる。ねぇ、僕、笑うのがとっても上手でしょう?
《Licht》
動け。
コワれた頭が働く前に。
「────すげえ!!」
真っ先に声を出したのは、リヒトだった。たっ、と先生の近くまで走って駆け寄って、その勢いのままぎゅっと抱きつく。
「やっぱりな、アティスさんすごく、カッケェから!! なあセンセー、早くみんなに知らせようぜ! なあ!」
高い位置にある顔を見上げて、気づいて欲しい、こっちを見てほしい、というように言葉を重ねた。見てくれないなら飛んだり、手を振ったりして、見てもらえるように主張する。
たった一瞬でいい。
ほんの数秒でいい。
こっちを見てくれ、二人のことを見ないでくれ、絶対、気づかないでくれ。
ソフィア姉に、フェリに、
──そして、アティスさんに、
“傷ついていい隙“を作るんだ。
「なあセンセー、その、柵の向こうに行ったのは、ほんとに謝るからさ……戻ってミンナでお祝いしようぜ! いい案だろ、なあ?!」
何度も何度も話しかけ、喜色に滲んだような楽しげな声色で気を引こうと繰り返す。リヒトは日常的に、このような気を引こうとする行動が多かった。今の言動もきっと、とても自然だ。
……コワれた頭は、実は、あまり動いていない。衝撃的な事実は、まだ実感のない宙ぶらりんのままで、リヒトの脳裏に揺れている。意図的に、理解しないようにしている、今は。だから笑える。だから袖を引ける。今は全ての現実をシャットアウトして、忘れたように振る舞える。
楽しげな声は曇天の森に響いて、そして寮に帰るまで先生の周りをくるくると回り続けるはずだ。幼稚で愚かな子供のように。自分だけを見てもらえるように。
・
・
・
トイボックスから転げ落ちた、
誰も知らない六等星。
コワれた体で笑うほかない、
誰も救えぬ小さな光。
欠けたカラダにともる灯が、
残酷な死刑宣告に暮れる。
──さあ、現実を見て。
出来損ないの星。
モラトリアムの内側で。
《Sophia》
視界が狭窄する。後頭部をガンと殴られた。痛みはない。衝撃だけが尾を引いている。衝撃、だけが。その絢爛で美しい言葉の暴力は、苦しむ隙すらも与えてはくれない。
リヒトが黒い男に抱きついた。黒い男はリヒトを見た。造られた頭脳は、己のすべき事を即座に弾き出した。
その瞬間。親友たちと共に箱庭へ『ざまあみろ』と笑い合うような、歪な絵空事が黒いクレヨンでぐしゃぐしゃに塗りつぶされる。思い描いていた未来が、きっと成功できると無根拠に信じていた未来が。全て。
涙すらも流れないような、数秒の絶望。その後に、ソフィアは笑顔の仮面を被る。
「──そっか。まあ……みんなにとっては、嬉しくて喜ばしいことだものね。わかってる。
本当は離れたくないし、行って欲しくないんだけど……おめでとう、アストレア。応援してる。」
自分に嘘を吐く。
ぶち、ぶち。脳みそのずっと奥で、紐が一本ずつちぎれていくような音が聞こえる。
《Felicia》
脳天を突き抜けていく衝撃。いやそれ以上の、一瞬にして肉体の表面から内側にまで深く深く傷をつけていくような、そんな感覚。
先生が甘美な言葉を口にしたその瞬間、フェリシアにそっと触れるだけだったはずの雨は、シーグラスの破片に成り代わった。それは鮮やかで美しくも、どこまでも鋭い色ガラスだった。
痛みに抗うように、逆にその痛みに素直になるように。フェリシアは笑ってみせた。その瞳にムーンストーンの雫を煌めかせて。
「アストレアちゃん……おめでとうっ!」
そう言うと、自身よりも少し上背のある彼女の正面から思いっきり腕を回した。喜ぶ動作を見せないと疑われるからでは無い。ただ、悲しかった。苦しかった。
だけど、アストレアちゃんは更に苦しいはずだから。笑わなければいけない彼女のために、彼女の代わりに私は涙を流そう。今まで流したこともなかった嬉し涙という宝石を。決して心からの賛美ではない、感情の昂りを乗せよう。
「おめでとうおめでとうおめでとう……!」
─── おめ、でとう 。
ずっとずっと、その言葉を繰り返して。そんなことを思っている訳もないのに。それしか言えない自分を、一秒ずつ、一秒ずつ、嫌いになりながら。なにも出来ない自分自身にナイフを突き立てるように、呪いながら。
《Astraea》
自分に向けられた筈の"おめでとう"と言う言葉はどこか他人事の様に現実味が無い。アストレアはその時、自身を斜め上の、空中から見ている様な気分で居た。これは、全て悪い夢で、目覚めたらいつもの明るくて楽しい日常があるのだろう。そう、信じたかった。
されど、フェリシアのコアの暖かさが雨にしとと濡れた身体に酷く沁みて、現実に引き戻される。これは、夢幻なんかじゃない。時に、現実は小説より奇なりと云うのは全く本当で、それでも信じたくなくて、暗い暗い現実から目を逸らす様に、相棒の背をぎゅ、と抱いた。
「ありがとう。」
とだけ云うのは、他に何も言えないから。これ以上言えば、その瞳から大粒の宝石が零れ落ちてしまいそうだから。相棒が泣いてくれているから。今は、笑え、アストレアよ。王子よ、笑うんだ。
怪物の毒牙にかかるにせよ、熱い焔に炙られるにせよ、"お披露目"に出るドールに未来は無い。脱出計画はまだ始動したばかり。真実を知るドールも未だ僅か。志半ばで死ぬのか?本当に?ふと顔を上げれば、親友の笑顔が目に映る。アクアマリンとラピスラズリ、トーンの違う2つの青が交われば、えも言われぬ愛と絶望が合間を駆けた。
助けろだなんて言わないから、後は頼んだよ、戦友。
泣き止む事を知らぬ空は、どこまでも暗かった。
風のように駆け抜けて、誰よりもいち早く弾けるような喜びを示したリヒト。あなたの身体を抱き留めて、先生はただ喜ばしそうに微笑んでいる。
それは、ミシェラにお披露目を告げた時の、心からの祝福を謳う優しい微笑みと同じ温度がした。
黒い空から降り落ちる冷たい雨と、ほとんど同じ温度であった。
「そうだね。これからきっと、雨も強くなっていく。身体を冷やさないうちに、みんなで暖かい寮に帰ろう。
アストレアとフェリシアは、クッキーを皆に作ってくれると言っていたんだ。だから皆で、アストレアへのお祝いにクッキーを焼こうね。きっと楽しい時間になるだろう、皆と一緒なら。」
彼は、お披露目に向かう者の末路がどうなるか知っていながら、またそのような穏やかな青写真を謳う。
それはあなた方に取って、背を鞭でなぶられるような、ひどく残酷で甘ったるい現実であったに違いない。
じっとりとした雨に打たれながら、あなた方は共に連れ立って寮へと帰り着いていく。
──柵越えを実行したドールズは、もう一方が存在した。
カンパネラ達が寮への道を駆け戻る途中。その鼻先にぽつん、と雨粒が落ちた。晴れ渡っていたはずの頭上はいつしか曇天の空模様へと変わり、少しずつ雨が降り出し始めていた。
「それで? 周辺の地形はどうなってた? 真っ先に走って見に行ったんだろーが」
ドロシーは被り物を被っていると言うのに、一切呼吸を苦にしていない涼しげな様子でジャックに問いただす。その問いを受けて、彼は暫く押し黙った後に、曇った空を見上げて吐き捨てた。
「──海だ」
……その声は、雨音ばかりがこだまする周囲に嫌にこびりつく。
「海ィ? ギャハハ、この一帯は続く地面の無い孤島ですってか〜!? そりゃ笑えねーな、」
「いや、もっと最悪だ。考えうる限り一番最悪な立地だった。トイボックスアカデミーは地下の、それも海底にある。この空も、高度な技術で映し出されただけの偽物の空だ」
「……………………」
「少し走ったら行き止まりになっていた。それ以上進めないようになっていて、分厚い壁の向こうから微かにあぶくの音が聴こえた。テーセラモデルの耳だ、聞き間違いはあり得ない」
これには流石にドロシーも言葉を失ったようだ。
一帯には気味の悪い沈黙が漂うだろう。
「……それと、オミクロンのお前たちの耳に入れておかないといけない事実がもう一つ、ある……」
ジャックは少しの間を開けて、あなた方に向けて言葉を投げかけた。
果てしなく嫌な予感がする。そしてそれは、間違った直感ではないのだろう。
《Brother》
「ふふ……ここまで来ると笑えてくるね」
一人、呑気に。
ブラザーは眉尻を下げて、まるで子供のイタズラを見るように苦笑した。雨で滑りやすくなった足元に、慣れない走行。息はもうとっくに切れているし、何度も転びそうになっている。しかし、自分でも驚くほどに根拠の無い余裕があった。
カンパネラの涙が枯れたように。
ロゼットの腹部にガラスしか埋まらないように。
それらと同じような何かが、ブラザーにも訪れていた。
「僕らって、どうすれば幸せになれるのかなぁ」
切実で、浅はかな呟きだった。
変わらずのんびりした声だが、空虚なわけではない。苦い現実を逃避しているわけでもない。
ブラザーはただ考えていた。
自分たちの幸せがなにかを、ずっと考えていた。
「僕は聞くよ、ジャック。
ロゼットとカンパネラは、聞きたくなかったら聞かなくてもいい。おにいちゃんが聞いておくから」
死だけが蔓延る海底の箱庭。
僕らは、何を幸せだと思って生きてきただろう。
僕らは、何を幸せだと思えばいいんだろう。
ツリーハウスから出たときに見た、青い蝶。酷い頭痛と誰かの声。
あぁ、きっと。
シャーロットは、お披露目に選ばれたとき幸せだったんだろうなぁ。
《Rosetta》
「へ、え。それは、すごい、ね」
息を切らしながら、ロゼットは相槌を打つ。
海なら泳げばいいじゃない──とでも言いたげな顔だ。深海何メートルとか、そういう言葉を知らないのだろう。
顔色の悪い二人は見ないまま、彼女は好き勝手言葉を吐き出した。
「後で、答えてくれれば、いいけど。嘘の空から、何で雨が降るの? それも塩水、なのかなあ……」
他の誰かに聞こえないように、けれど鼓動に負けない程度には大きく。
微妙な声量は、ジャックに届いただろうか。
「私も、聞くよ。気になるから」
無知故のわがままも、ブラザーに聞こえるといいのだけれど。
「……あー、コイツは流石に信じたくねー笑い話だケドォ」
暫く沈黙していたドロシーは、しかし。直ぐに事態を飲み込んだのか、或いは諦めたのか。声色だけでは判別出来ないが、彼女は納得したように肩を竦めて、ロゼットの息も絶え絶えな質問に対して口を開く。
「別に室内で雨を降らす方法なんざいくらもある。人工降雨機とか、降雪機だか。そういう装置でも用意してンだろーが、あんな誰もが見間違う空を再現出来るンだから、あり得ない話じゃない。
ギャハハハ! ジャックは嘘を吐くのが一番苦手だもんネ〜ッ! 今の話が笑えない悪ふざけの可能性は0%! ウケる〜! ギャハハハハ!!」
ドロシーは耳障りな笑い声を張り上げた。曇天の憂鬱な空気の中で、彼女の声は歪に広がるであろう。
《Campanella》
「ゲホッ、ッカ、エフ、っはー、…ケホ……」
精神と体力の著しい消耗により、カンパネラは激しく咳き込んだ。咳のしすぎで吐き気までしてくる。
ジャックに問うドロシーの声を聞きながら、なんとか息を整えていた。
───ああ、雨だ。今の空の色と、カンパネラの瞳はお揃いだ。頭上にぽつぽつと降り注ぎ始める雨は、涙の代わりみたいに思えた。
「…………え?」
そしてカンパネラは、ジャックの言葉に耳を傾ける。
……彼は今、海底と言ったか。
ここが。この箱庭が、海の底に沈んでいると。この空は偽物だと。
ノートの少年が、あんなに筆跡に動揺を滲ませていた理由がなんとなく理解できた。
続いてカンパネラは、なんでこの二人はそんな風に流していられるのか、訳がわからないという顔をする。聞いた瞬間はドロシーだって言葉を失ったのに。
頭が更にぐちゃぐちゃでもう訳がわからない。なんにも、なんにもわからない。
なんにもわからないのに、また新たにジャックは言葉を紡ごうとする。
「……なん、な、なんですか…………」
歯をかちかち鳴らしながら、カンパネラは答える。正直死ぬほど何も聞きたくないが……気になる、という気持ちがないでもないのだ。
オミクロンのわたしたちに。
……オミクロンのドールの誰かに、何かあったのだろうか。
「………………」
あなた方三人に、事実を聞き届ける意志があることを確認しても、尚。ジャックはどこか言い淀むように、言葉にすることを躊躇うように深い息を吐いた。
そんな彼の背を、並走しているドロシーが平手でバチン!! と派手な音が鳴るほどに叩いて、早くしろと急き立てる。
ジャックは漸く口を開く気になったらしい。神妙な声色で、事実を吐露した。
「俺とドロシーは元々、この視察が先生に……いや、管理者にバレないように手を回していた。だがこのオミクロンの先生にだけは手が回らなかった。あまり話すような人じゃないからな。
だから──お前たちの同級生が、柵の外に下見に行くタイミングを狙ってここに来た。彼らは下見の際、必ず先生を引きつけるはず。それに乗じて出てきたんだ。
俺は万が一あちらに、管理者に動きがあった時にすぐに切り上げられるよう、下見側の偵察も併せて行っていた。……そこで、あいつらが話していた。」
ジャックは僅かに声をくぐもらせて。しかし少しだけ足を早めながら、また顔を上げる。彼の足元で小さな水溜まりが跳ねる音が響いた。
「管理者に下見がバレたんだろう、予想よりもずっと早かった。
彼らは、管理者と話していた。管理者はこの学園の外がどうなっているのかを、彼らに理解させるように丁寧に説明して、そして──……
──オミクロンの、元プリマドールのアストレアをお披露目に出す、と。
……そう、言っていたんだ。」
また、沈黙。
しかしこのトイボックスに渦巻く狂気の片鱗を感じ取り始めているあなた方にとって、その事実は、重く受け止めなければならないだろう。
《Rosetta》
管理者。
先生。
同級生。
言葉が耳をすり抜けて、虚空に消えていく。
腹の中はガラスだが、頭までもガラスの入れ物になってしまったのだろうか。
「お披露目、って、ことは」
リヒトの辛そうな顔が、目に浮かぶ。
ミュゲは笑えなくなっていた。
では、アストレアを喪うみんなは? アストレアを喪うロゼットは、どうなってしまうのだろう。
「そんな……」
ガラスのドールから、表情が消えた。
見るまでもないし、これ以上言葉を発する必要もない。彼女の抱いた心情は、この場の全員と共通したものだろう。
──プリマドールですら容易く手折られる世界で、何が私を護ってくれるの?
自らを包む安寧という殻に、大きなヒビが入った気がした。
《Brother》
「…」
「…は、」
「は、は!」
思わず笑った。
同時に、ブラザーの足は盛り上がった木の根にとられ、ぐらりと体が大きくふらつく。次の瞬間には鈍い音がして、ブラザーの体は地面に倒れていた。
痛い。体を強くぶつけたから。
冷たい。雨が降っているから。
寒い。体が濡れているから。
嫌だ。
ああ、もう。本当に。
「……僕らって、どうすれば」
体を起こす。
雨で滑りやすい木の根に手をついたからか、また転びそうになった。よろめきながら立ち上がって、それでも走った。制服は泥で汚れて、ブラザーの陶器のように白い肌にも汚れをつける。それを拭うこともなく、上を見上げて走り続けた。空は曇っていて、偽物なのに本物みたいで。
ブラザーはおにいちゃんだ。
これが足を止めない理由。
じゃあ、その先は。
走り続けたその先で、幸せを見つけられたとして。
そのとき、ミュゲは隣にいるだろうか。
「あはは! ああっ、もう!」
涙は出なかった。
今はただ、足が痛かった。
「ミシェラと、ラプンツェルに、会いたいなぁ!」
馬鹿げた悲鳴は雨音に消されて、きっとブラザーにすら聞こえなかった。
《Campanella》
同級生が、下見。それ自体が初耳だった。同級生……ソフィアなんかは、トイボックスに対する疑念が少し伺えるようなドールだったので、案外不思議でもないのかもしれない。
それよりも。
それよりもである。
管理者。先生。下見がバレた。
お披露目。
「……………………おひ、ろめ?」
思い出すのは、幸せを両手いっぱいに抱えて旅立っていったシャーロットの無惨な姿。空へ飛び立ったあの可愛らしい日だまりは、翼を焼かれて殺された。夢を見て、夢を見て、……殺された。
続いて、あのノートのあのページが頭に蘇る。ぐちゃぐちゃの筆跡には動揺と、絶望が滲んでいた。
思い出すのもおぞましい処刑装置。逃げられないまま、燃え盛る炎の中に落ちていった。
先生はあろうことか、シャーロットをスクラップと呼んだ。
彼女の姿が今も焼き付いている。弱くて欠けている頭に、ずっと。しつこいぐらいにへばり着いている。生きている姿と死んでいる姿が交互に浮かぶ。
だからだろうか。あの美しい月のようなドールが、あんな風になることも、カンパネラには容易に想像できてしまう。
「………アストレアさん、が、………おひろめ、に?」
現実を確かめるようなカンパネラの言葉は、彼女自身の首を絞めた。もしやすると、他の二人のことも更に追い詰めるかもしれない。
あのノートを読んだ三人にとって、お披露目が決まったとかいう華々しい話は、死刑宣告に等しいのだ。
晴れ舞台なんてわたしたちにはない。愛されることを確信して胸を高鳴らせ、そして炎の奥底に叩き落とされるのだ。
お披露目とは──処刑、そのものだ。
上げられる声もなく、放つことのできる言葉もなく。
カンパネラは深い、底無しの奈落のような絶望をその瞳に宿した。
雨の降り頻る道を、あなた方は息を切らして駆け抜けていく。
先生が戻ってくるよりも早く、柵など越えていないように振る舞わなければ、あなた方までもお披露目に出されてしまうかもしれない。
降りしきる雨があなた方の心身を凍てつかせていく。トイボックスのまやかしは緩やかに引いて、残酷な現実がそのかたちを顕にしようとしていた。
お披露目。それはドールズの最大の栄光とばかりに謳われているが、そんなものは名ばかりだった。
トイボックスは逃げ場のない深海に沈み込んでいた。
あなた方が地獄の釜の底へと突き落とされるのは、スクラップにされる瞬間などではない。
もう既に、封鎖された地獄の渦中に在りながら、その事実に気付くことなく、マガイモノの平穏に踊らされていただけだったのだ。
“ドールは幸せになどなれない。”
生まれたその時から、定められた破滅への道を歩かされているだけだ。
その事実が心臓を模しただけの塊に食い刺さる。
──アストレアのお披露目の件は、その後、夕食の時間に先生の口から皆へ知らされた。
その反応は、ドールによって様々であっただろう。しかしその概ねは、アストレアへの栄光を祝福するものだったはずだ。いまだ、お披露目の後ろ暗い現実に気付いている者は少ない。
鉛のような現実で、後のないあなた方は過ごしていく。
これから始まるのは、あなた方にとって初めての──閉ざされたドールハウスでの、辛く苦しい『“猶予期間”』だ。
Chapter 1 - Apple to Appleを誓え
『A TreeHouse of Memories』
『An Example of Escape』
── END ──