Amelia

「そういえば……結局時間を聞いていませんでしたね」

 お披露目の次の日、丁度……彼女が謎解きと手紙を仕掛けた三日後位の事。
 朝食を終えて普段だったら図書室で本を読んでいる時間に彼女は寮の周辺、柵の近くを訪れていた。
 勿論、知識を愛しつつも恥じる彼女としては珍しいこの行動には理由がある。

 時は遡り数時間前、いつも通りの……いやミシェラが居ないちょっと寂しい朝を終えて、図書室に向かった時。
 彼女はそこで寮の入口から真っ直ぐ歩いた森の近く、柵の辺りに来てほしいという誘いを受けた。
 すれ違い様にささやくような言葉で持ちかけられたそれに、いつになく真剣なトーンを感じ取った彼女は幾ばくかの不安と、それを覆い尽くすような好奇心に手を引かれて暗い森へと歩き出したのだった。

 そうして待つこと十数分。
 サクリ、サクリと芝生を踏む軽やかな音に気付いた彼女はそちらを向くと、訪れたドールに向けて問いかける。

「それで、どうなさったのですか?

 ……ディア様」

【寮周辺の森林】

Dear
Amelia

《Dear》
「ごきげんよう、愛しきアメリア! 来てくれてとっても嬉しいよ! ……待たせてしまった、かな?」

 たん、たん、と楽しそうにステップを踏み、浮き立つ気持ちのままに降り注ぐブーツの雨を受け止める柔らかな芝生の音に耳を傾けながら、約束をしていたかわいい恋人の元へと駆け寄る。その様は、昨日の惨劇などまるで覚えていないかのようにいつも通りだった。アメリアの美しい顔をじい、っと覗き込み、感謝と愛と謝罪を述べる。その様はまるで、プロポーズの如き甘さを孕んでいた。愛しき彼女の問いに答えようと、素直に口を開く様も。全てがあまりに軽やかで、歪だった。

「ここには、あの美しい空を映し取ったキミの瞳のように可愛らしい花が、たくさん咲いているだろう? あんまりにも可愛らしいものだから、気になってしまってね。キミの瞳は知識の海、キミの心は皆の盾——誰より聡いアメリアなら、この花について私が知らないことをたくさん知っているんじゃないかなと思って!」

 今はまだ、彼女の美しい瞳を曇らせる訳にはいかない。そう判断したのか、お披露目での話は伏せたままに問いかける。元々、道端に咲く花にさえ愛を囁くのはディアにとって日常茶飯事だ。疑われるような理由でもないだろう。
 花とお揃いの美しいアメリアの髪にそっと口づけ、ふわりと微笑んでみせる。その可愛らしい笑みからは、アメリアとアメリアの努力への信頼と愛が、これでもかと言うほど伝わってくるだろう。いっそ、狂気的なほどに。

「ね、お願い。教えておくれ——アメリア」

「いとっ……いっいいえ、待ってはいませんよ」

 いつも通りの様子のディアによる愛の波状攻撃に彼女の頬は一瞬紅色に染まり、動揺から言葉に詰まる。
 ……が、ギリギリ、すんでの所で、危うく、持ち直した彼女は平静を装って言葉を返す。

「へっあっえ? なんっなんのつもっおつもりで!?!?!?
 その、えっと、その、私には心に決めた殿方(居ない)がですね!?」

 ……が、相手は世界の恋人、愛のドール。
 恋愛偏差値オミクロンなアメリアで太刀打ち、いや、受け止める事すら片腹痛い。
 どう考えても愛を含んだ意図で行なわれた髪への口づけに耐え切れなかった彼女は素っ頓狂な叫びと意味のない疑問と、居もしないご主人様の話を五月雨のようにぶちまけて動揺する。
 その動揺は、デュオモデルの正確な時間感覚にして丁度十分続いたのだった……。



 ディアがその間何をしていたかは分からないが、ともかくその間アメリアは話が通じなかった。
 そうして落ち着いた彼女は、疲労か、或いは動揺からか、頬を上気させたままだが、とにかく問いかけてみる事にした。

「それで、ええと……青い花ですね。
 ディア様、見た目の特徴などは覚えてらっしゃいますか?」

《Dear》
 可愛らしい動揺に嬉しくなって、思わず抱きついてしまいたい心地になる。抱きついて、愛を囁いて、許されるならばその柔い頬にキスを落としたい。腐っても元トゥリアプリマドール、それを実行することは呼吸するよりも容易い。でも、アメリアの恋人として、これ以上愛しい人を困らせる訳にもいかなかった。それに、愛しき彼女が自らの問いに応えようと頑張ってくれているのだから! それを邪魔するほど、世界の恋人はヤワじゃない。

「ええっと、そうだね…ふふ、見た方が早いよ。ここに咲いている、アメリアみたいにかわいい花のこと。青くて、きらきらで、愛しい【ヒト】に元気をあげられるかもしれないお花。素敵だね……キミみたいに可愛くて、キミみたいに強い」

 ——その愛しい【ヒト】というのは、きっと、あの一つ目の化け物のことを指しているのだろう。
 小さく可愛らしい花弁を傷つけぬよう、指先でそっと彼の花を撫でる。きゅう、とくすぐったそうに縮こまる花が愛おしくって、くすくす笑いながらその美しさに見惚れていた。その様は、その化け物にドールたちが喰われるのを誰より間近で目撃したドールとは、とても思えない。きっと、嘘をついているつもりすらないのだろう。ディアは、ただ目の前の希望に向かって走って行くことしか出来ぬドールだ。

「ああ、そういえば。ふふっ、この間、アメリアの口の中が真っ青になる事件が起こっただろう? それってもしかして、この花の妖精さんが悪戯をしてしまったから、なのかな」

「ここに咲いている……青くてキラキラした花……ですか。」

 ディアの言葉に少し考え込む。実際問題、青い花と言って探しに来るなら花畑に行くはずで……
 恐らくディア様は十中八九あの青ざめた花のことを聞こうとしているのだろう。
 それなら、と答えようとしたところで続いた問いに小さな違和感が走る。

 口の中が真っ青になった、それは間違いなくあの花によるものだが……あの花を口に含むと──恐らくは水に漬けたりすると──青い色素が出てくる。
 という事実を知るには実際に採集して、愛でる以上の実験をする必要がある。
 自分がそういうことをしそう、と思われているのはまあともかく。
 ディア様がそういう実験をする……とは正直思い難い。
 勿論、青と青を重ねて連想してしまっただけ、なのかもしれないが……
 どちらにせよその言葉には言動に見える余裕とは正反対の、何処か焦りのような感情が伺えた。

「なっ! なんでそれを!?
 ……コホン、取り乱しました。
 ではそうですね……丁度いいですから、実物を見に歩いて行きましょうか。
 それで……そのう……あの青い花は誰かへの贈り物……ですか?」

 けれど、今それを出してもきっと目の前のドールは揺るがないし、寧ろ真実を追求しようとする様を咎められて困るのはこちらだ。
 だから、そう……慎重に、相手がもしかしたらうっかりヒントを残してくれそうなそんな問いを動揺してうろたえる自分の様子に隠して投げかける。

《Dear》
「ふふっ、あれだけ大きな声を挙げて驚いていたんだもの! そりゃあわかるよ。……それに、私は愛しきアメリアのすることを全部そばで見ていたいし、愛していたいし、ずっとずっと覚えていたいと思っているから、ね」

 アメリアの思考を押し流すように、次々に愛の言葉を囁く。アメリアの知は強さだが、それは同時に責任を伴う。アメリアの努力を誰より愛する者として、ディアにはそれを守る責任があった。本人が意図して取った行動ではないだろうが……その矢継ぎ早な愛の告白には、どこか牽制の色が滲んでいた。ディアには、自らの愛以外の感情を感知することができない。いなくなったらどうしよう、バレたらどうしよう、そんな感情は、ディアがその輪郭を掴む前に霧のように霞んでしまう。世界の恋人に、そんな感情は必要ないから。希望を見ることをやめた瞬間、ディアはディアの体を成せなくなる。とっくに壊れた欠陥ドールは、そのターコイズブルーにただ、希望の光を宿していた。彼女の努力を知っている、彼女の脳を知っている。だからこそ、愛しきアメリアを守るためにも、ディアは絶対に。今ここで、愛で負ける訳にはいかない。

「案内感謝するよ、愛しきアメリア! 贈り物……そうだね、贈り物といえば贈り物かな。例えば……キミと私の未来のための、なんてね」

 アメリアの整ったかんばせをくっついてしまいそうなほどに覗き込み、アメリアの強い眼差しを一身に愛しながら。ディアは静かに、アメリアの願いを切り捨てた。

「に”っ!
 そういうのは好きな人にする事で……。
 って、ディア様! それでは答えになっていませんよ!?」

 ディアに投げかけられた愛の言葉に尻尾を踏んづけられた猫のような悲鳴を上げた後、動揺を誤魔化す為に苦し紛れの言葉を返して歩き出す。
 ……が、顔を覗き込んできたディアに遮られた。
 歩こうとした足をびくりと止めて一歩後ずさる。それは半ば反射的な物で、単にぶつからないようにしたというだけの物だったが……。
 その間に彼女は先程のディアの言葉を吟味する。
 贈り物と言えば贈り物、キミと私の未来のための。
 なんて、一見すれば普段のディア様らしい、キザったらしい甘い言葉。
 けれど、違和感のスパイスが混じった今ではまるで違う物に聞こえる言葉。

 ……種明かしをしよう。
 本来、アメリアは二つの答えを想定して問いを投げかけていた。
 一つ目は贈り物だと、問いに合わせて誤魔化しに来るパターン。
 これは森周辺に呼び出した以上、当然ながら嘘だし……生えている場所を知っているなら聞く必要が無い。そうやって違和感を補強するつもりだった。

 二つ目が、贈り物ではなく純粋にその青い花を調べようとしているパターン。
 例えば、青い花の生えている場所と特徴だけを知っていて、偽物では困るからとデュオモデルに同定をお願いしようとした。
 みたいな、そんな答えであれば奇妙には思いこそすれ、確実に現物を見たことがある自分に話す事もエピソードに触れる事も違和感はない。

 そんな、2つの答えのうち1つが来るだろうと、彼女はそう思っていた。
 けれど、ああ、帰って来たのは違和感どころではない、致命的な言葉だった。
 返答を誤魔化し、あまつさえキミと私の未来の為だからというのだ。

 つまり、導き出されるのは『調べなければいけない理由は言えないが自分とアメリアの為にその花の事を知らなければならない』という明らかに怪しい動機だった。
 となれば、動かなければならない、声の抑揚にも、表情にも、どちらにもひとかけの怪しさも無かったとしても。
 その言葉は如実に隠された──しかも自分が関係する──話してはならない何かの存在を示しているのだから。

「ディア様……貴方様は、あの花について何かをご存知ですね?
 それこそ、この辺りに生えているというだけではない何かを。」

《Dear》
「……困ったな、キミは私よりもずっとずっと賢いし、私だって愛しいキミの問いを誤魔化すようなことはしたくない。強引な方法に出てしまってごめんね、目的が不明瞭なままでは、きっとキミもお話はしたくないだろう。だけど——」

 へにゃ、と困ったように笑いながら、ディアの脳はそれほど驚きはしていなかった。アメリアは賢く、聡く、何より真実に飛び込む勇気のある少女だ。こんな小手先の言葉では誤魔化されてくれないだろうと、きっと頭のどこかでわかっていた。それでも、誤魔化されて欲しかった。アメリアを誰より信じている、愛している、だからこそ、嘘がつけなくて、困る。ふう、と小さく息を吐いて、顔を伏せた。アメリアは強い、アメリアと一緒なら、きっと希望のその先へ行ける。でも、彼女が誰より優しくて、不器用なことも知っているから。——今必要なのは、トゥリアドールとして教わってきたことじゃない。
 顔を上げ、強く息を吸った。ディアは初めて、愛する人の心からの問いに、答えないことを選ぶ。

「——ごめんね、今は言えない。それでも、キミと私……ううん、世界の未来のために、キミの努力が必要だ。わがままを言っているのはわかってる、でも、私は……!」

 必死な響きを隠そうともしない、そのまっすぐな言葉は。トゥリアドールでも、世界の恋人でもない、紛れもないディア・トイボックスの言葉であった。

「……そうですね、ええ、その謝罪は受け取ります。
 その上で、何も言わずに今は教えてくれと、そう言うのですね。」

 へにゃり、といつもなら見せないような笑顔。
 甘さで溶かしてしまうような、愛という名の誤魔化しに満ちた言動とは違う言葉。
 なんとも厄介な話だ、元プリマの彼がこうして焦り、取り乱し、騙してでも利用しようとするような事態。
 そこに情報も無しで飛び込まなければならないのだから。

「先ず、お答えしましょうか。
 ディア様、恐らくディア様のその隠そうとする努力は既に遅いです。
 アメリアは既にディア様が何かを知ってしまった事に気付いておりますし、それがアメリア…いいえ、場合によっては同じドールの皆様全てに影響するだろうというのも……もう知っています。
 そして、それがディア様1人ではどうしようもない事も。

 その上でお聞きしますよ。
 アメリアに話して下さらないのは、アメリアが頼りないからですか? それとも、話す事自体が……いえ、そうだとしたら既に手遅れですね。
 訂正します。それとも、まだ自分だけでどうにかなると思っているからですか?」

 だから、せめて話せない理由だけでもと問いかける。
 その裏に自分では……アメリアではその秘密を……苦痛を共有するには足りないかとそんな悲鳴じみた懇願を隠しながら。

《Dear》
「——違う、キミが大切だからだ。キミは強い、いつだって私たちを強くしてくれる。

 ——わかるでしょ、賢いキミになら。私は弱いし、幼いし、頑固だから、キミ”だけ”を選べない。キミを含めた世界の全部、諦めたくない。そのために、キミの秘密が必要だ。私が捧げられるものなら、なんだってあげる。私は折れない、諦めない。

 だから、キミが諦めて! キミが必要ないなんて、頼りないだなんて、そんなことあるわけがない。私たちにとって、キミはいつだって必要で、大切だ。キミの強さが、努力が必要になる時が、絶対に来る。キミの努力を世界で一番に愛しているのは、この私なんだから! 約束するよ、このコアに誓って。だから、覚悟を決めて。私たちの泥舟に、飛び込んで。ずーっとそばで見てきて、愛してきたから知ってるよ。これからもずっとそばで、キミを愛したい。動揺して、真っ赤になって、そんなキミが可愛いなって笑える、そんな日々がずっと欲しい。そのために、キミの選択が必要だ。

 ——キミは誰より賢いから、時に愚かな選択ができる。強い人だ。だよね、アメリア」

 ディアには、エーナの子たちのように上手に嘘をついたり交渉することはできない。デュオの子たちみたいに、たくさんたくさん考えて答えを出すのも、テーセラの子たちみたいに、答えに向かって無理矢理突き進んでいくのも苦手だ。ディアにできるのは、ただ一つ。希望を見ること。その希望に、愛しい人を連れて行くこと。
 ああ、なんてらしくないことをしていたんだろう。ディアは誰も諦めない、誰も否定しない、誰も特別視しない。希望や信頼、愛という舞台に於いて、ディア・トイボックスに勝てる者など、世界中探したっていやしない!
 駆け引きも、嘘も、全然得意じゃないけれど。ここが、ディアの戦場だ。

「そう、そうですか。
 大切だから、アメリアだけは選べないから、アメリアに諦めてくれと、そう言うのですね。

 ──ずるいお方」

 ディアの言葉に、高揚と動揺によって上気していたアメリアの表情がスッと冷める。
 夢から、覚める。目の前の美しい姿が、褪める、冷める、覚める、褪める、さめる。

 ああ、
 この方はアメリアだけを愛してはくれないと、気付いてしまった。
 この方はアメリアを隣には置いてくれないと、理解してしまった。
 この方と並んで戦うことすら許してはくれないと、分かってしまった。
 だから、この楽しいお遊びももうおしまい。

「なら、ええ、そうですね。
 楽しかったですよ。ディア様との恋人ごっこ。
 けれど、結局はただのごっこ遊びなのですね。
 ならば、私は黙して語らずに大人しくお披露目を待つことにします。
 もしも、それが私をも殺すのだとしても。
 まだ夢があるでしょう?」

 きっと、大切だから関わらせないと、諦めてくれと言った貴方様の無意識の暴力性には一生気付かなないのでしょうねと。
 心の中で小さく嗤って。

《Dear》
「……? 意外だね、キミは知りたがると思ってた。自分の瞳で映して、海を飲み込んで、その先を欲する人だと思ってた。そのためなら、忍べる強さを持った人だって。少なくとも、私が知って、愛したアメリアはそうだったのだけれど……」

 心底不思議だ、というように首を傾げる。アメリアの冷たい声とは裏腹に、その様はあまりにも気楽だった。自分の言葉の強さなんて、何一つ理解していない。ディアの恋人扱いは、遊びじゃないから厄介なのだ。本気で、世界中を全部知り尽くして愛したいと願っている。それができると、ただひたすらに信じている。——正気じゃない
ディアは、アメリアも同じ畑のドールなのだと思っていた。もっと深く、深くと知り尽くして、それを全て愛したい。そんな努力を、ディアは何より愛していたから。どうして? とクイズの答えを聞くみたいに問いかける。心のずっと奥に、躊躇もなく踏み込んでくる。その光は、アメリアの深海に何をもたらすのだろう。

「ふっふふふ、あはは! そうですよねえ、私は私の疑似記憶について、愛について、誰一人にだって話したことがありませんから。
 きっと、私は知ることを愛しているのだと、知ることを欲するのだと、そう、思いますよね」

 なんとも気楽にこちらに問いかけてくるディアに対して、蒼色は耐え切れず軽やかに笑った……いや、嗤った。
 嘲るように、ふざけるように、もはや何を言ったって関係のない相手にするような気楽さで。
 いつもの弱い弱い、オミクロンのアメリアには想像も出来ないような力強さで、精一杯に退けてみせる。

「別に私は知ることを愛している訳ではありませんよ。
 ただ、知ることが私の愛なのです。
 未だ見ぬたった一人のご主人様に捧げる愛の形なのです。

 それにディア様、特別になどなれやしないと、隣には立たせないと、そうのたまった口で忍べと言われて忍ぶほどアメリアは安い女ではございません。
 最後に、忍んだ所で話す気など欠片も無いのでしょう? 大切なのだから」

《Dear》
「なら、やっぱり私たちはお揃いだよ、アメリア。アメリアの大切なものは、私にとっても大切だ。絶対に守る、そのためにキミの力が必要だよ。キミは安い女なんかじゃない。キミに信じてもらうためなら、私はなんだってする。今ここで、首を掻っ切って死んでみせても構わない。これは理屈で収まる話じゃないけれど、キミが望むなら理屈を、対価をあげる」

 そう言って、ひた、と自らの爪をその柔い首に押し当てる。もちろん、ここで思い切り爪を滑らせたからといって死んでしまうほど、トゥリアドールは脆くない。でも、たとえ死んだとしても。——ディアなら、やる。
 ディアは狂っている、その選択を迷えない。アメリアの返答によっては、本当に死んでしまいそうなほどにディアの瞳は真っ直ぐだった。海は凪ぐ。真っ直ぐに、静かに、アメリアの選択を待っている。つう、と細い首筋を赤が伝った。

「駄目ですよディア様。払えない対価を傷と苦痛で埋め合わせようとした所で、貴方様の愛では埋め合わせられない以上アメリアが納得するのは隠している事を全て話した時だけです」

 覚悟を以って首に爪を当てたディアに対して、蒼色は冷たく言い放つ。
 なんだってすると言いながらこちらが最初から提示している条件には触れないでそんなものを対価にしようと言うのだから。
 愛を囁き、されど特別にはせず、隠し事をしながら利益も無く助力を求め、隠すのも大切だからなどという理由で、その隠し事は自分にも関わる。
 挙句の果てに自分を人質に、というディアの一連の行動に対して、

「それと、一緒にしないで下さい。
 確かに私にも他のドールズを大切だと思う感情はあります。
 けれど、既に巻き込んでおいて、何もかも秘密だけど大切だから守る為に力を貸してほしい、などと言って利用するような真似はしませんよ。」

 端的に言えば怒っていたのだ。

《Dear》
「——ミシェラを守りたい。キミが素敵なものだと、行きたいと思っているお披露目から。お披露目は、キミが思っているようなものじゃない。ミシェラを、特別に思ってみたい。約束を守りたい。大好きだって言いたい。抱きしめたい。もっともっと、あの子のことを知ってみたい。あの子だけに贈りたいと思える言葉が欲しい。愛が欲しい。私の命と引き換えにあの子が笑ってくれるなら、私はそれだけで幸せだ。怖い思いをしていなければいいと思う、どうか生きていて欲しいと思う、そのために、キミの努力が欲しかった。本当はずっと、それだけなんだ」

 アメリアの怒りは最もだ。愛し合っていることは、必ずしも良いことじゃない。愛は身勝手だから、こんなことは全部無意味だ。アメリアを笑顔にしたい。でも、そのためにアメリアが怒るのは全然、本意じゃない。ディアは弱い、誰よりも。それでも、頭を下げられる強さがあった。迷って、間違えて、今だってずっと迷ってる。知るというのは、そういうことだ。でも、キミにそんな顔して欲しかった訳じゃない。本当はずっと、幸せでいて欲しいと願っているだけだ。誰にも、傷ついてほしくないだけだった。

「ごめん、もっと早くこう言えばよかった。もっと早く、謝れればよかった。あの時はずっと状況が切迫していたから、情報と呼ぶにはきっと正確性が足りない。キミまで無為に危険に晒す訳にはいかない。キミはまだ、守れると思ったんだ。でも、アメリアを傷つけるのは、好きじゃない」

「はああああ、ええ、ええ、癪ですが今は良しとしましょう。良いですよ、花だけどころか手持ちの謎を全部ぶちまけてやります。」

 ミシェラを特別だと思いたいと、そう言って、その上でお披露目が、一見すると花に関係のない事を持ち出した時点でつながりがあるのだと判断した彼女はその対象が自分じゃないのはまあ……癪だとしても。
 ともかく、特別を語り、隠し事を出されては彼女としてもずっと怒っている訳にはいかない。
 大きくため息を吐いてからディアに向き直り。

「ミシェラ様はお披露目に出てたんじゃ無いか、とか買われていったなら守るも何もないんじゃないか、とか、聞きたい事はありますが……。
 先ず花についてですね。
 分類も出来ず、食べてみても毒性は無し。
 かと言って貴方様がそうまでして気にするという事は恐らく飾られていたとかその程度の話ではないのでしょう?
となれば何かに生えているのを見た……という所でしょうか。
 その何かは……想像の余地が余りにも広すぎて困りますが」

《Dear》
「! ありがとう、愛してるよアメリア! ……あ、こういうのが良くないのかな……?」

 アメリアは真面目で、とても強い子だ。色んな疑問や怒りを飲み込んで、信じることを選んでくれたのが、ただたまらなく嬉しかった。勢いのままに抱きつこうとして、ギリギリの所で踏みとどまる。今までのディアにはなかったものだ。それは、些細な変化かもしれない。けれど、この喧嘩はきっと、ディアにとって大きな意味を持つ。情報とか、未来とか、そういうものをすっ飛ばしても。

「とにかく、キミがせっかく贈ってくれた情報に報いるべきだね。ふむ……毒性はナシ、というのはアメリアが自分の体で実験してくれたものだよね? 例えば、ドールではないヒト相手なら、何か反応が変わるかもしれない。そういう認識でいいかな?」

 ディアの脳裏には、一人の愛するヒトの顔が浮かんでいた。私たちのすぐそばにいて、優しくて、私たちを疑ったりしない、【ヒト】。例えばとっても綺麗なお花を戯れに贈っても、きっと違和感は残らないだろうヒト。ディアの頭は、また新たな希望の可能性を弾き出していた。

「ええ、そう、そういう所です!
 で、続きですね。実際自分の肌が何で出来ているのかすら分からない以上ヒトだと反応が違う可能性は大いにありますが……。
 そもそも周りにヒトが居ない以上検証不能でしょう?」

 踏みとどまったディアをビシッと指さして指摘した後、何かを考えているらしいディアに補足をおこなう。
 その上で彼女は言葉を……というか問いを続ける。

「で、恐らくディア様はどうにかしてお披露目を見に行って、そこでミシェラ様は買われなかった、或いは行方不明になったという所でしょうか?
 その過程で花を見かけたのでしょうが……自分で摘んだりはなさらなかったのですか?」

《Dear》
「? ヒトならいつだって私たちのそばにいてくれているよ! もちろん、無駄足になる可能性の方が高いけれど……情報が不確かだからこそ、今はあまり踏みとどまっている訳にも行かないんだ。キミのその問いに答えるためにも……あえて今答えるとするならば、そんな余裕がある状態ではなかった、かな」

 先の見えないこの状況で、ただ希望を見続けるディアは自分なりに誠実に問いに応えようともがいていた。アメリアが遠慮なく指摘してくれるのが嬉しくて、また抱きしめたくなるのをグッと堪える。アメリアが強くて愛おしすぎるのも問題だと思うのだ、うん。ディアとアメリアは全く違う、モデルも、価値観も、愛し方も。これからもきっと何度もすれ違いを起こすだろうけれど、その度に歩み寄りたいと願っていく。強大な真実に打ち勝つためにも、二人にとってきっとこの穏やかな時間は必要だ。

「??? ……ともかく、心当たりがあるなら良いでしょう。
 それで、余裕が無かったと言うと見咎め……られた訳ではないでしょうね。そうでしたらディア様は今頃ここに立ってないでしょうし。
 だとしたら花自体にリスクが…って何で私が推理しながら話してるのですか!
 話を進める為にも何処に、どのように生えていたのか。そして、シレっとスルーしているミシェラ様がどうなったのかを聞きましょうか!?」

 誠実に答えようとするディアに対し、彼女もまたその答えを察しようとはするが……。
 余りにも情報が足りない、強引な推理をするにしても全て仮定しかできないのでは余りにも馬鹿馬鹿しい。
 そう考えて応えるように発破を掛けることにした。

《Dear》
「う、そうだよね、話しておくべきなのはわかってるんだけど……賢いキミは素敵だよ……」

 困ったように笑いながら、堪えきれずに一つ愛の囁きを落とす。勢いに押され気味なディアは珍しいが、かわいい、愛おしい、好きだよと口に出して怒られてしまうのを避けたい故だろう。あのアメリアとの会話があってから、ディアは一段と健気になった気がする……誰だって、愛しい人に誤魔化すような真似はしたくない。でも、愛しい人を危険に晒したくないのもまた事実だ。うんうん唸って、解決策を見出そうと小さな体でディアはもがく。

「ええっと、きっとミシェラは大丈夫だよ。詳しいことはまだ言えないけれど、私はそれを信じてる。私は、無為に慰めを言ったりしない。だから、ミシェラを助けたい。その、キミも信じてほしい、ミシェラの強さを。私のことは、信用できなくても」

「ぬぬぬぬぬ、どうやらディア様には現状認識が足りていないようですね。
 良いですか。
 先ず現時点で私が分かっている情報として、お披露目には何か仕込みがある事。
 青い花が関わっていること。
 そして、お披露目に行ったミシェラ様が行方不明であること。
 この三つがあります。
 そして、我々ドールズは最終的にお披露目に行きます。それこそ何らかの理由で処分されない限りは。

 その上で準備も対策も無くお披露目に行ったらどうなるか、はディア様が一番よく知っているでしょう?
 つまり、本質的に私たちは危険の中に居ますが、ディア様が事実を伝えることでその危険を減らせるのです。
 お分かりですか!?」

 なおも誤魔化そうとするディアに対して、しばらく唸って囁きを頭の中から追い出しつつ。
 詰め寄るように現状をどのように把握しているのか、と問いただす。

《Dear》
「う゛う゛う゛ぅ……もちろん、それで済む話ならとっくに話しているよ。話すことでキミたちに降りかかる危険がなくなるのであれば、私だって迷わずそれを選べる。だけれど——ねえ、本当に危険を減らせると思う? 毒林檎を皆で分け合っても、王子様は一人だけだ。キスで夢は覚めないし、魔法の鏡もここにはない。つまりはね、七人の小人が必要なのさ。白雪姫を心から愛し、サポートしてくれた彼らがね。彼らがいなければ、王子様と白雪姫は結ばれていなかった。必ずしも、毒を共有するだけが家族じゃないし愛じゃない、そうだよね」

 アメリアの理論づいた強い口調とは裏腹に、小さな子供に御伽噺を語り聞かせるような口調で滔々と話し始める。優しく、諭すような声にはどこか強さが宿っていた。強さの種類は違えど、愛故なのは変わりない。怒りん坊な人がいれば、眠たがり屋の人がいる。先生みたいな子もいれば、恥ずかしがり屋の人もいる。世界は色んな人で溢れていて、皆がそれぞれ美しい。姿形が違ったって、忘れたくない人がいるのはみんな同じだ。相容れなくても、歩み寄れる。愛し合って、抱きしめ合える。王子様だけがヒーローじゃないし、女王様だけがヴィランじゃない。毒を共有するだけが、家族じゃないし愛じゃない。ねえ、それとも——

「それとも、キミは王子様にでもなりたいのかな」

「ええ、ええ、アメリアはせめて毒りんごが毒りんごであると知ったうえで食べるのと、知らずに食べるのとでは話が大きく異なると、そう言っているのですよ。 それに、そもそも白雪姫は自分を殺しに来たのが王女であるとも、これから毒りんごを食べることになるとも知らなかったでしょう。
 仮に、その例えが正しくて情報自体が毒であったとしても。
 既に半ば飲みかけているアメリアにそれは当てはまらないでしょう。

 何も知らず、無辜なままに力だけ貸してお披露目に行けというのであれば、何も語らずにお披露目に行った方がまだマシだと、アメリアは先ほど申しましたよ?」

 なおも隠そうというディアに、歩み寄った結果話すべきだとそう主張する。
 確かに、話せば全て解決とは行かないだろう事は現在アメリアを頼っている時点で、何も知らせないまま危険の中にいる自分を利用しようとしている時点で、当然だ。

 だから、せめて利用する相手位にはその利用する対価として危険を話せと、そういう交渉なのだから。

「後、付け足しますが!
 アメリアは王子様とお姫様ならお姫様になりたい方です!!
 誰がミシェラ様を助けようが最終的に助かるなら良いですが、白雪姫を自力で起こせない王子様に全てを捧げて仕えたい訳でもありません!
 よろしいですか!?」

《Dear》
「……ずるい人だね、キミは。キミは強い、毒だとわかっている林檎を吐き出すことはせず、飲み下す判断のできる人だ。困るよ、話せば話すほどに私はキミを傷つける。私は諦めないし、キミも諦めない。お披露目には行かせないよ、そのためにキミの知恵を借りたんだ」

 その言葉は、どこか淡白ながら確かな熱を持っていた。皆を守りたい、皆のことをもっと知りたい。もっともっと深くまで、ずっとずっと続くよう。パイを作ったり、お仕事をしたり、そんな日々が続くなら、自分の役名なんてどうでもいい。アメリアに悲しい顔をして欲しくないし、アメリアが望むものならなんだって与えたい。でも、アメリアがいなくなってしまったら、その先は? “今”、幸せが手に入ったとして、その後どうする? アメリアの人生は、アメリアのものだ。これからずっと先、生きてさえいればごめんねが言える。その先のさよならも、いいよも、生きているから手に入るものだ。私たちは物語の登場人物じゃない。ハッピーエンドのその先も、ずっとキミたちと共にいたい。そのために、交わしてきた約束が、愛がある。

「教えてくれてありがとう、アメリア。キミを守るためにも、少し、お互いに時間が必要だね」

 未だ鼓動を続けるコアに手を当て、一度深くお辞儀をしてからディアは花の方へと自分の足で踏み出した。毒の方へ、もっと深く溺れる方へ、希望を探して。その青白い深海へ。

「またね、アメリア!」

「はあ、どちらの事だか。」

 結局、目的の場所に向かおうとして歩き出すところを顔を覗き込まれてしまったから案内は出来なかったのだが……まあ、話して貰えない以上は仕方がない。
 またね、と言って歩いて行ってしまったディアに肩を竦め、そのまま歩いて立ち去ろうとする。

「さて……この状況で狙うとすれば……まあ、先ず間違いなくディア様の協力者でしょうね。
 トゥリアモデル一人で脱出が出来るほどベッドの守りは甘くないでしょうし……。
 さて……どうしたものでしょうか」

【学生寮2F 先生の部屋】

David
Amelia

 あなた方は先生に用がある時、まず彼の部屋を訪ねるようにしている。彼は仕事のため、基本的に普段は先生の部屋に籠っている。今回もまた、あなたは先生が居るとすればこの部屋だろうとあたりをつけて、室内に踏み入るだろう。

 先生は執務机に腰掛けて、何かの資料を確認していたようだ。眦を垂れて、感傷に浸っているかのような、そんな優しい眼差しで。

 しかしあなたの来訪に気がつくと、資料を下ろしながらあなたを見据えて、ふっと穏やかな微笑を見せる。

「やあ、アメリア。こんにちは。先生に何か用かな、困ったことでもあったかい?」

「ああ、良かった。やはりここにいらっしゃいましたね」

 扉を開きながら、一度部屋の中を見渡した彼女は、そこにデイビッドの存在を認めると何処か安堵の混じった声を漏らす。
 これも前回ミシェラを探しに行った時に中々見つからなかったせい……というのが大きいがまあともかく、穏やかな微笑で出迎えられた彼女はデイビッドの問いに対して言葉を返す。

「ええ、こんにちはお父様。
 困った事……というよりは気がかりな事とその確認に着いてきて欲しいのです。
 おそらくお父様ならお気づきだとは思うのですが……キッチンのカトラリーについて。」

 あなたの発言に、先生はゆるりと首を傾けて、柔らかな茶髪を滑り落としながら「もしかして、随分探させてしまったかな」と呟く。資料を引き出しに仕舞ってから改めてあなたに向き直ると、その理路整然とした要求を受けて頷き、口元に拳を近付けるような仕草をとった。

「カトラリーや食器がぐちゃぐちゃに置かれていたことかな。君なら気が付くと思っていたよ。今もそうなのかい?」

 確認に着いてきてほしい、ということは、既に彼女の目であの惨状を見ているか否かか。あなたの求めることを検めるように、先生は重ねて問いを掛けた。


 先生の部屋はあなたが知る範囲でいつもと同じ。彼らしく丁寧に整頓された本棚と、完璧なベッドメイキングが施された、あなた方とは違う四つ足のベッドと執務机が置かれたのみの、簡素な部屋の作りになっていると分かる。

「はい、それを今から確認しに行こうと思って。多分誰かの悪戯だとは思うのですが……そうでなかったら困ってしまいますから。」

 今もそうなのか? というお父様の問いに対してまだ見ていないから確認に着いてきて欲しい、というお願いを伝える。
 ……と、同時に視界に一冊の本が入った。
 普段物はしっかりと片付ける几帳面な先生には珍しくベッドの上に置きっぱなしになった一冊の本。
 ちらりと見えた『サウスウッド』というタイトルに、先日先生の部屋の本を一冊づつ調べた時の記憶を思い起こす。
 あの本は本棚にあっただろうか?そして、有ったとしたら内容はどんなものだっただろうか?

「お父様のお時間が有ればで良いのですが……。
 一緒に来てはくださいませんか?」

 と、そんな風に考え込んでもいられない。
 なにより本に気を惹かれたのは単なる趣味で、自分の安全だとかそう言った建前が無いのだから。
 不自然に言葉が詰まって先生に気にかけられては余りにもいたたまれないのだから。

 『サウスウッド』と題されたその本は、室内のベッドに出しっぱなしとなっている。使ったものは必ず元の位置に戻す几帳面な先生にしては珍しいことであった。
 あなたはあの本に一切の見覚えがないことに気が付くだろう、当然読んだこともないため内容も知らない筈だ。元々先生の本棚にも確認出来なかった書物だろう。

 あなたからの要求に、先生は薄く笑って「ああ、勿論」とここで立ち上がる。そうしてあなたの目前までゆったりと歩み寄っては、行こうか? と優しく促すように眼差しを向けるだろう。

「アメリアには気になることがあるんだろう。私も付き添うよ、カトラリーの置き場所にばらつきがあったなら直さなくてはならないしね。」

「はい、心配のしすぎ……かもしれませんが」

 やはり記憶にはない。
 恐らくタイトルの傾向からしてシャーロットなる人物の書いたノースエンドと同じような作品群だろうか?
 そういった本をベッドの上で先生が読んでいたかもしれない、というシチュエーションにどこかおかしみを感じながら、立ち上がった先生に促されて一階のキッチンへと向かう。

「いや、そんなことはないよ。それに……アメリアと話す機会はあまり無かったからな。些細なことでも、相談をしてくれて嬉しく思う。私に遠慮を感じる必要は無いからね。」

 あなたの欠陥を──先生は誤りなく把握している。デュオモデルの行動傾向に組み込まれている果てなき知識探求欲を、彼女は恥ずかしいものとして認識してしまうことを。先生は、『先生』であるからこそあなた方にたくさんの物事を教えなければならないが、だからこそあなたと言葉を交わす機会は稀であっただろう。
 先生の声色は確かに僅かに弾んでいるようで、あなたと話せることを喜ばしく思っているらしいことが伝わる筈だ。

 そしてあなた方が一階のキッチンへ向かうその道中。階段を登るディアとすれ違うが、先生は薄く微笑んで「こんにちは、ディア。怪我のないようにね。」──と、残すのみであった。

【学生寮1F キッチン】

 ダイニングを通り過ぎてキッチンへ。キッチンの様子は今朝とそう大きく変わりはない。優しい陽光が一角に取り付けられた窓から美しく注いでおり、居心地が良かった。
 室内にはこじんまりとしたシンクとコンロ、調理スペースを十分に確保出来る広い机がある。そして奥には、パントリーに続く木扉も取り付けられていた。

「さて、食器棚だったね。早速見てみようか?」

「ディア様? 忘れ物でしょうか」

 階段を上るディアに……もしかして青い花関係……? と内心勘繰りながらも、まさかそんなことは無いか、と一旦見なかった事にしてそのままキッチンへと向かう。

「はい、そうしましょう」

 キッチンに着いたならば、先ず彼女は一度部屋の中を見渡して前回訪れた時と変わった点が無いか。
 そして、何があろうと食器棚を見に行き、前回訪れた時と同じように食器棚の物の配置が変わっているかを確認しようとする。

「アメリア、随分周囲を気にしているようだけれど、どうかしたかな。何か気になることでもあったかい?」

 キッチンに入室して早々、頻りに周囲を気にしている彼女の様子を気掛かりに思ったのか。
 先生が案ずるような言葉を一言。

 その瞳はジ、とあなたを見ていたが、やがて彼の視線はあなたの同意の後に食器棚に向けられるだろう。

「ふむ……時間帯を考えると、朝食の後からか。ここのところはもうずっとだな。……もしかして君も戻してくれていたりしたかな。アメリアは色んなことによく気がつくからね。」

 先生が見据えた食器棚は、確かにあなたが以前見受けた通り、食器やカトラリーの配置がごちゃついているのが分かる。
 しかしその変化はやはり無秩序なものであり、以前の配置ともやはり違うことが分かるだろう。

 先生は食器棚の扉を開いて皿を元の位置に戻し始めながら、「アメリア、この件については、あまり犯人探しをしないであげてくれ。」と先生は優しく慈しむような声で告げる。

「ここはオミクロンクラス。このクラスは、他のドールに追いつくことが少し難しい子が集められている。こういうことは、実は君がここにやってくる前から時折起こっているんだよ。どういうことかは、分かってくれるかな。」

「……? そりゃあ、ここが現場ですから。
 見るべきは食器棚だけではないでしょう?」

 周囲を見た後、かけられた声に一度確認を中断した彼女は首を傾げる。
 実際、彼女からすると食器棚以外を見ない方が不自然であるため、その質問の意図にすら気付けない。

「ああ、そういう事だったのですね。
 それなら確かに……別のクラスからのいやがらせという線は薄そうです。」


 続いて、ぐちゃぐちゃに置かれたカトラリーを戻す先生を手伝いながら、アメリアがここに来る前からこういうことが起こっていたと聞いて、ホッと胸を撫でおろす。
 そう、いたずらや暗号ではなかった場合、彼女が考えていたもう一つの可能性は他クラスからのいやがらせであった。
 先生に声をかけたのもアリスのあの行動を見たせいで不安を感じたのが主な原因だったのだから。

「お父様と見に来て良かったです。
 アメリアがここに来る前から起こっていたというのは知りませんでしたから……」

「ふむ。確かにそれもそうだ。

 だけど私の部屋にいた時も、何処か周りを気にしているように見えた。いつもの君の知的好奇心なら頷けるが、気掛かりがあるのなら……と思ってね。」

 不思議そうな反応を見せるあなたを、彼は僅かに一瞥する。同じようにカトラリーの整理を手伝ってくれるその行動へ、「ありがとう」と感謝を述べながら。
 先生は納得したような素振りを見せたが、しかし、続けて言葉を重ねる。あなたの様子を案じているらしかった。

「他クラスのドールにも、基本的にこの寮を訪ねることは禁じている。残念ながら、ドールの間にはあまり良いものとは言えない複雑な確執があるようだからね。だがそれは、君たちドールがヒトと見まごうほどの豊かな情動を持っているからこそ生まれるものだ。

 寮に何か悪さをされる……と言うことはない筈だが、もしトラブルに発展しそうなら、相談しにきてくれ。私は君たちの力になってあげられる。『先生』なのだから」

 食器棚の異常を最後まできっちり整えると、先生は微笑みを浮かべ、その扉をパタンと閉ざす。

「ところで、近頃勉強の様子はどうかな、アメリア。誰かと一緒に勉強出来るようにはなったかい?」

「それはお父様を探しに来たんですか……って! その! アメリアが普段からはしたないのは認めますがこう……単刀直入に言われるとですね……」

 こちらを暗じて来る先生にやはり不思議そうに答えよう……としたら直後、いつもの知的好奇心などと言われた彼女は動揺し、慌てて声を上げる……が、途中で冷静になってきたのか言葉尻は何処か蚊の鳴くような小さな声だった。

「はい、はい! ええ! そうですね。
 お父様に相談させて頂きます。
 また何かあれば、是非に」

 そうして片付け終わった先生が言った言葉に強く同意する。
 自分がはしたない女であると言われるような会話は早く終わらせたかったし、先生の側から話を変えてくれたのは大きな助け舟だった……が、それは泥舟だったらしい。先生はすぐに近頃の勉強の様子に話を切り替えてしまい、また嫌な所を突っ込まれた彼女は踏みつけられたカエルのような呻き声で「うぎゅぅ」と答えることとなってしまった。

「……っと、ああ、すまないね。どうやらまだ難しかったみたいだ。デリカシーのないことを言ってしまった。許してくれるかな、アメリア」

 先生としては、彼女にも他のドールと同様に授業を受けてもらうことが出来たらどんなにか、と考えているに違いないのだろう。しかし自らで自らのことをはしたないなどと卑下しながら、自己主張を弱め、顔を顰めて俯いてしまう彼女の様子に、眉尻を下げると。

 彼は心からの謝罪を述べて、あなたと目線を合わせるべく少し屈みながら表情を窺う。彼は常々、ドールズの欠陥について胸を痛めては、親身になってくれる事が多かった。彼としても、極力欠陥のままでいさせたくはないのだろう。

「いつでも構わない。君が知識を得ることを恥と感じても、それすら受け入れてくれるヒトはきっと……いや、必ず居るからね。だから……焦らなくてもいいんだ、ゆっくり行こう。」

「いいです。
 お父様のそういう所は前からですから。」

 少しかがんで表情を伺ってくる先生にちょっと拗ねた様子で返事を返し、プイっと顔を横に向ける。

「それと、アメリアは別にヒトと学ぶことは好きです。
 見られるのは好きではありませんが、きっと、その時間は愛しいものですから。
 ……あーもう! なんだか恥ずかしいのでそろそろお父様はお戻り下さい!」

 その後、続けて親身に、諭すように励まされた事で彼女の羞恥心は限界に達したのか、今度は先生に向き直ってその体を両手で緩く押そうとする。
 殆ど力のこもっていないそれは抵抗しようとすれば簡単に抵抗できるだろうし、彼女も去って欲しい意思を示すだけで突き飛ばしたりはしないだろう。

「そうか。……まだ学ぶことを嫌いにはなっていないんだね、君は。良かった。

 はは、そう拗ねないでくれ、すまないねアメリア。」

 あなたの口から、学ぶことが好きだと、他者とその時間を共有するのは愛しいものだと聞けると、先生はふっと表情を和らげて、安堵したようにつぶやく。
 しかしあなたの突っぱねるような物言いに、いよいよ彼女の羞恥心を追い詰める真似をきちんと詫びると、言われた通りに立ち上がり、苦笑しながらダイニングルームの入り口へ向かう。

「それじゃあアメリア、先生はもう行くけれど、あまり根を詰めすぎないように。ではまた。」

 そして彼はその場から姿を消すだろう。

「もう……
 それではお父様、また夕食の頃に。」

 去り行く先生に小さな微笑みを浮かべてから頭を下げて見送る。
 さて、これでキッチンの謎は…恐らく解けたのだろうか?
 まるで真っ赤なニシンを掴まされたような嫌な予感を背筋に感じながら、彼女はキッチンの中を見渡して変わった所が無いかと見てみる事にする。

(秘匿情報)。

「……? 今のは?」

 一瞬、窓の外に何かがちらついた。
 何か青い、一瞥するだけでは何かわからないそれに、彼女は興味を惹かれ、急いで駆けだして窓を開け外を見る。
 さあ、何があるだろうか? 

 キッチンに留まる間、ふと視界の端をちらついた青くひらめく何か。あなたはそちらに意識を吸い寄せられるまま、キッチンの窓辺に近付くだろう。シンク越しに取り付けられた窓であるため、身を乗り出すことまでは難しかったが、問題なく外の様子を確認出来る。

 窓枠に切り取られた寮の外の青々とした美しい平原。陽光が降り注ぐ花畑が見えるその周辺を、青い蝶が羽ばたいていた。透き通るような翅が陽の光を反射して、時折ちかちかと青く瞬くのである。

 あなたはデュオモデルの知識層から、あの蝶の名前を引っ張り出そうとするだろう。だが不思議なことに、蝶は瞬きをすると忽然とその場から消えてしまったのである。

 白昼夢でも見たのだろうか。森で見たあの青い花に似た輝きが脳裏に焼き付く。

「蝶々ですか。蒼色ですから名前は……ってあれ? え? 消え……」

 忽然と消えた蝶々に彼女は動揺して後ろに下がる。
 さっきまで飛んでいた生き物が一瞬で消える、そんな異常事態に彼女は慌てて思考を巡らせるが……
 今は余りにも証拠が少なさすぎる。

「はあ……また謎が増えましたね」

 故に、頭が痛くなってきた辺りで窓を閉めて、考察を諦めて、先ほどから気になっていた作業台の上に置かれた紙を見ることにする。

 鮮やかなインクをそのままぶちまけ、ビビッドで明るい印象を見る者に与えるチラシ──のような紙が、キッチンの作業台の上にぽつんと取り残されている。誰かが受け取って放置していったのだろうか、少なくともあなたは見覚えがないものだった。

 チラシには、絵筆で書き殴ったような太めの筆跡で、『秘密の芸術クラブ』と記されている。チラシが堂々と置かれている時点で秘密も何もないだろうとは感じるかもしれないが……その片隅には、以下のような活発な文字が綴られていた。
 また、裏面には特段何も残されてはいないようだ。

 トイボックスの見慣れた景色にも、まだ見ぬ芸術が隠れている!

 君もヒトの文化に倣い、学生らしく“サークル活動”と呼ばれるコミュニティを体験してみよう!

 興味のある同志は夜の18時、ガーデンテラスにこっそり集合だ!

 ──トゥリアクラス・アラジン

「うわっ」

 見るからに怪しいチラシに、ドン引きしつつも、同時にオミクロンクラスへとこんなチラシを寄越すドールに興味がわく。
 なんとも悪い癖だ……と自分を戒めながら、彼女は丁度心当たりのあった『芸術』を取りに先ずは女子部屋へと向か……おうとしたが、その前に1つ気になる事があった。
 そう、パントリーだ。

 配置を覚えられないドールがカトラリーの配置を変えた……という論には納得するとしても、パントリーのあの状態は腑に落ちない。
 故に彼女は進路を変えて、食糧庫へと歩き出す。

【学生寮1F パントリー】

 パントリーは食糧庫の名の通り、野菜や果物などがうず高く積まれた木箱がいくつか並べられていた。壁に沿って置かれた木製の棚には、調味料やハーブなど調理で使う素材が所狭しと詰め込まれている。
 そして雑多な食材で溢れかえり、手狭な印象を受ける部屋の奥には、地下へと続く階段があった。

「はああ、またですか。
 ……やっぱり、誰かが来ているんですかね……?」

 やはり、また状態が変わっている。
 コーヒーミルが倒れ、扉は開きっぱなし、なんとも想像に難くなかった状態に、先ず、彼女は持つのを少し躊躇しながらもコーヒーミルを傷ついていないか調べてから元に戻し、地下へと歩いていく。

 あなたが倒れたコーヒーミルを元に戻すべく手に触れて、ゆっくりと起こした時。あなたの指先が、棚の奥の木板に触れて、カタン、と小さな音を立てた。薄くだが木板に切れ目が走り、僅かにずれていることに気がつくだろう。
 その木板を外せば、棚の最奥に小さく薄い空間が出来ていることが分かる。切り取られたそのスペースには、一枚の紙切れが挟まっていた。まるで人目から隠されるように、誰も見向きもしない埃を被った棚の奥に収まっていた紙片。

 裏返せば、どうやらそれは一枚の写真だった。

「おや……?
 写真……ですか」

 コーヒーミルを戻した際、丁度一枚の写真を見つけた。
 金髪に青い瞳の少女と……恐らくカンパネラであろう人物の写ったその一枚の写真がこんなところに隠されている事に疑問は感じるが……。
 恐らく隠されているということは隠した者がいる……ということなのだろう。
 用心の為に一度写真を元の場所に戻してから、木板を元に戻す。

 その後、彼女は予定通り地下室へと歩いていく。

 地下室へ続く石階段は薄暗い。あなたは以前と同様、足元に注意して、滑らないように気を付けつつ降りていくことになる。

 パントリーの地下階段を降りてすぐ目の前には鉄扉が待ち構えており、閂を取り外すと扉を開く事が出来た。

 重い扉を押し開くと、暗い空間には肌を刺す冷気が漂っている。遠目にはやはり、生鮮食品が腐らないように変わらず保管されている事が分かる。

 ……だがあなたが覚えている限り、食材の量が以前より増えている気がする。先生がいつの間にか補充していたのだろうか。だとしたらドールが全員寝静まって、外の出歩きが出来ない夜間に限られるだろう。一晩でたった一人で搬入するには無理のある量だが……。

「ふっ増えてる……」

 減っているか荒れているのだろうな……と思って入った地下室ではなんと驚くべき事に増えていた。
 それも一晩で運ぶには無茶な量が。
 この吊るした肉を先生が1人で運んでいる様を想像してみる……がいくら何でも無茶がある。
 というかシュール過ぎるし学園から昇降機を使って運び込むにしても運んでる最中に普通に溶けるだろう。

 まあ、こんな風に考えていても証拠が足りない以上は仕方がない。
 そう考えたアメリアは芸術を取りに行く為に、先ずは寮の女子部屋へと向かう事にした。 

【学生寮2F 少女たちの部屋】

 あなたはそっと室内へ足を踏み入る。可愛らしい花柄の壁紙と、それにはいささか不釣り合いの漆黒が塗ったくられた柩型のベッドが立ち並ぶあなた方の寝室。

 この部屋は今朝も見たため、普段と変わりはないことが分かる──ように見えたのだが。

鍵が……交換されていますね。

 部屋について最初に気付いたのは1つの異変だった。
 一見、普段と変わらないように見えた鍵の、錠前の形状が変わっている。
 何時の間に交換したのだろうか?
 正直寝てる間に交換したとは思い難いし、こんな無茶をする理由など一つしか思い浮かばない。

 恐らく、ディアがお披露目を見に行く際に錠前を壊すかピッキングをするかして開けた結果鍵が交換されたのだろう。
 けれど先生はそれを未だに話していないし、キッチンの時も触れなかった。
 ……つまり、先生はこの変化を隠したいのだろうか?
 ともかく、訳が分からない現実は置いておいて、彼女はワードローブから隠していた青い花を回収しようと試みる。

 土を落としたりしていないし根っこも付いているから、多少しおれては居れど誰かが捨てたりしていなければ残っている筈……と思いながら。

 あなたが青い花をワードローブに収めていたのなら、特段誰かに廃棄されているようなこともなく、以前と同じように残っていることに気がつくだろう。
 水に浸けられていないためか、多少元気がないように見えるが、まだまだ美しく咲き誇っていた。

「先ずは水をあげてから行くとしましょうか。」

 元気がない花を回収したあと、彼女は花を鞄に入れて出発することにする……。
 が、そのまま持っていては鞄が汚れてしまうだろう。

 そう考えて、先ずはキッチンで何か……水を留めて居られるような、根っこを包んでおけるような袋を回収した後に寮の外に出ることにした。

【寮周辺の湖畔】

 あなたは柔らかな草地を踏み締め、平原を越えて広い敷地内のちょっとした湖畔に辿り着いた。
 湖畔といっても、規模感は小さく、おおよそ2500㎡と言ったところか。
 湖の水は澄み渡っており、いつ掬っても澱みひとつ見られない。たまに近辺に自生している広葉樹から落ちた葉が浮いているぐらいである。

「おや?」

 湖畔にたどり着いた彼女は水をつける事で根っこを湿らせてから根っこを保護する為に巾着袋で青い花の根を包み始めた。

 その時、湖畔の一角でブクブクと泡が立つ。
 葉っぱが沈んだのだろうか?
 ともかく、興味が惹かれた彼女は見に行こうとするが……湖畔の畔を歩く事で辿り着ける距離だろうか?

 もしもそうでなかったとすれば、泳いで見に行くだろう。

 あなたは青い花の根を湖の水に浸し、その保護まで問題なく行える。

 この湖は、飲み水に出来るほどに水質が澄んでいるのだと以前先生が語っていたのを覚えている。テーセラモデルのドールたちが、この湖で水泳の訓練を行うところを見たことがあった。

 ……そんな湖畔の一角で、僅かにぶくぶくと泡が立ったのが見えた気がした。流れのないはずの湖畔で突如浮き立った不自然な泡の発生に、あなたの視線は釘付けになるだろう。
 もしも泡を確認しにいくならば、岸からやや離れた場所で上がったもののため、衣服などが多少濡れることを覚悟で湖に入っていく必要があるだろう。

「気になりはしますが……気になりはしますが……!
 ……うううん、行くしかない……ですよね。」

 泡は岸から離れた場所で上がっていた。
 湖畔は確かそんなに深いものではないが……まあ普通に入ればズボンが濡れてしまうだろうし、それはこれから行く学園で容易に見とがめられるだろう。
 かと言って好奇心の為にも、己の安全の為にも行かない理由は無い。

 そこで彼女は一度周囲を見渡して見ているドールが居ないかを確認した後に上着とズボンを脱いで下着姿になると、春先の冷たい水の中に足を踏み入れて件の泡の元凶を探し始める。

「早く! 早く見つかってくださいよ!」

 しかし、これは安全の為、だとか、全部は脱いでないから、だとか自分の恥ずかしさを抑えるような言い訳を頭の中で繰り返しても別に恥ずかしさが消える訳も抑えられる訳もなく、結局、誰かがこの湖畔を訪れないかと終始びくびくしながら調べる羽目になった。 

「わぷっ!」

 びくびくしながら調べていたせいだろうか。
 足元がおろそかになっていたアメリアは砂利に足を取られ体勢を崩してしまう。
 咄嗟に手をついた事でこけて全身べしょぬれ……なんて悲惨な事態は避けられたが下着は濡れるわ顔に水はかかるわと散々な目にあった。
 ……が、代わりに収穫もあった。
 顔に水がかかった結果口の中に飛び込んだ僅かな水はしょっぱかったのだ。

「っと……これは……?」

 明らかに淡水のそれではない特徴に首を捻りながら体勢を立て直し、念のため気のせいでないかを確認する為に湖畔の水を掬って舐めてみてから再度元凶を探そうとすると。
 躓いたせいだろうか? 砂利がめくれて露わになった下には何か硬い装置のようなものがあった。

 川が繋がっていない事からして……恐らくポンプのような役割を果たしている装置なのだろうか?
 だが、そうだとすると先程のしょっぱさが気にかかる。
 これは単なる事実だが、寮の水道は普通にしょっぱくなんて無いし、恐らく水を濾過したりといった事はどこか別の施設で行っている筈だ。
 ここもどこかから引いてきた水を濾過している筈なのだが……。
 海から水を引っ張ってきて、この湖畔で濾過でもしているのだろうか?
 そんな疑惑が頭の中を駆けまわる。

 ……が、いつまでもそうしては居られない。
 装置をまた砂利で埋め戻してから岸に戻り、手早く下着を脱いで制服を着てからノートにメモを行なう。

 あなたが砂利の合間から垣間見えた装置周辺の水を舐めとってみると、まだ微かに塩気を感じる。もしこの装置が大規模な濾過装置なのであれば、もしかすると濾過し切れていない水が汲み上がってきてしまったのかもしれない。

 砂利で剥き出しになっていた装置を再び隠すことが出来る。また、ノートにも発見出来たことを仔細に記録出来るだろう。

「先ずは……これを干すのが先ですね。」

 ノートに書き込みを終えた後、荷物を持ち直した彼女は濡れた下着を持ち上げて言葉をつぶやく。
 いくら何でも今から干しに行くのは目立ち過ぎるし、かと言って草原の上で干すのは……なんだか汚れそうで嫌だ。
 そう考えた彼女は森へと移動し、木に引っ掛けて下着を干すことにする。

Campanella
Amelia

 あなたは濡れてしまった下着を森林の手が届く低木の小枝に引っ掛けて天日干しをすることにする。幸にして本日も雲の方が少ない晴天。暖かな陽光が降り注いでいるため、少しすれば着られる程度には乾くだろう。

 あなたが森林を見渡すと、いつもと変わらぬ長閑な木立が遠くまで続いている。鬱蒼としていて広大なため、この現在地からでは柵は窺えない。寮周辺の森林はかなり深く、柵の向こう側の方がより複雑としているのだという。

《Campanella》
 ドルチェ。やわらかに。
 レガート。音と音をスムーズに接続する。
 ダンサン。踊るように、踊りながら。
 トランクィッロ。穏やかに。

「……んええ………」

 曲の雰囲気を掴むためにと、自然広がる寮の外へ飛び出したは良いものの。
 この曲は優しく穏やかで、しかし静かなのだ。あちこちから歓声が聞こえてきたり、ドールが元気に走り回るような草原を歌のイメージとして用いるのかと思うとピンと来なかった。
 黄色の表紙が特徴的な楽譜をぱたりと閉じると、カンパネラは木の根元に腰掛けていたのを、首を捻りながらゆっくりと立ち上がった。
 イメージが降りてこないし、なんだか喉が乾いてしまった。キッチンにでも行って、蜂蜜をたくさん入れたホットミルクでも飲もうか。

 カンパネラは背中を丸め、寮の方へトボトボと歩きだした。

「ほう……やはりシャーロットさんはここに居たのでしょうね。」

 森を見て、それがサウスウッドの背景によく似た構図である事に気付いtアメリアは、暫くの観察の後に恐らくこの森がモデルになったのだろうと結論付ける。
 次はシャーロットの尻尾を掴むべきか……と考えながらも、そろそろ乾いただろうと判断して、少ししっとりしている気がする下着を回収して着直す。

 その後、荷物を持ち直した彼女は予定通り学園へと歩き出す。
 本来ならそのまま探索に向かっていた所だったが、正面からあのカンパネラが歩いてくるではないか。
 お互い距離を置いている関係といえど、アメリアにとって彼女は尊敬すべき人物、というかドール物だ。
 それに対して余り余裕はないとはいえ、現在のトイボックスの異変を教えないのは余りにも不義理というものだ。
 その為、彼女はすれ違い様に、

「カンパネラ様。お披露目と、見ないはずの……記憶にない夢にお気をつけ下さい。
 どうやらこのトイボックスに何かが起きているようです。」

 と、目下自分たちを害しそうな情報と、自分しか知らないはずの情報の一端を伝えて立ち去る事にした。

《Campanella》
 はた、とカンパネラは歩みを止めた。

 前方から向かってくるドール……記憶が正しければ、彼女はアメリア。少女型のデュオモデルドール。ぐいぐい来るというわけではないが、度々彼女からなんとも言えない視線を感じるため、カンパネラが一方的に少しだけ苦手意識を持っているドールだ。
 とは言えども、彼女が話しかけてくることはあまりない。すれ違いざまに会話が始まる心配はあるまいと、少し顔を俯かせて、素早くすれ違った。……はずであったが。

「…………え、」

 カンパネラの時は停止した。その間に、アメリアは行ってしまったが。

「……お披露目……」

 全てのドールの憧れであるお披露目に対し気を付けろ、というのはひっかかったが、カンパネラが更に気にしたのは後者の方である。

「……記憶にない、夢?」

 カンパネラは近頃、不思議な夢を見ている。

 それは、誰かと楽しく談笑する、ただそれだけの夢であるが。カンパネラはその夢がなんだか怖かった。あれは一体なんなのか、考えない時はほとんどない。

 ──知らないドール。
 ──知らない“わたし”。

 胸騒ぎのようなものが身体の内側にふっと湧いて、それをカンパネラは封じ込めるように早足で歩き始めた。ただこの喉の渇きを潤したいのだと、どこに宛てたものかも分からない言い訳をして。

【学園3F 文化資料室】

 この部屋は、人間の歴史を出来る限り保管し、ドールズがヒトと接する指標と出来るようにと用意された一室だ。文化資料室と名を冠する通り、人間のさまざまな歴史や文化が資料、あるいはレプリカなどの形で保管されている。

 部屋の中央には年季の入った黄金色の地球儀が置かれており、各地にどのような国があるか、どのような人種のヒトがいるのか実際に学べるようになっている。
 地球儀を中心に据え、その周囲にはヒトが住まう街を模したジオラマや展示されていたり、模型の汽車が煙を上げてガラスケースの中で動き回っていたり、天井からモビールのように吊された飛行機や気球がクルクル円を描いていたり……とにかく豊富な展示品があり、眺めていて飽きない内装となっている。

 また部屋の奥には無数のファイルが収められた棚があり、こちらには数多の史料が保管されているようだった。

「こういう場所は嫌いじゃないですね」

 さて、お披露目の調査の為古今東西を走り回る予定の彼女が学園で最初に目を付けたのがここ、文化資料室だった。
 単にこういった知識を集めた場所が嫌いじゃない……というのはあるのだが、ここの資料は図書室にある本を一通り読んだという自負のある自分でもまだ見終わっていない。
 その為、彼女はここに足を運んだのだが……。
 資料を読む前に、彼女は地球儀に歩み寄る。

 そう、もしかしたらこのトイボックスの所在が分かるかも知れないと考えたからだ。

 地球儀を回しながら、その構造を眺めて、以前この部屋で受けた授業内容を思い出す。

 現在、あなた方ドールやヒトが住まう母星である地球は、その陸地面積が全体の16%ほどであることをあなたは知っている。
大気構成は窒素(N2)78.4%、酸素が15.6%、アルゴン(Ar)が0.93%、二酸化炭素が4.7%、水蒸気その他が約1%。

 ヒトが生命維持を行うにはやや困難な環境になりつつある……という事実を、あなたは先生から聞かされている。無論ヒトはこの状況を改善するために開発を進めており、ドールズの役目はそんなヒトに寄り添う崇高なる使命であるとも。

「やや困難……というのはオブラートに包みすぎですよね」

 授業を思い出しながら、同時にこの酸素濃度の馬鹿馬鹿しさを思い出す。
 そもそも昔と比べて現在の酸素濃度は4分の3程度しかない。
 そんなエベレストよりはまあ……マシなんじゃない?
 みたいな所で生きていく事をやや困難と言い切るのは流石ヒトと感嘆すべきか呆れるべきか、彼女でも少し分からなくなる。
 そんな風に考えながら。

 今度は本命の資料棚へと手をかけた。

 人間が辿った様々な歴史が懇切丁寧に記録され、ファイリングされている。その資料の数は何とも膨大で、いかに勉強熱心なドールといえども全てに目を通し内容を覚え切ることは難しいと言える量だった。
 人類、ホモ・サピエンスの進化の軌跡、文明や宗教の芽生え、戦争と奪い合いの歴史、目覚ましい発展の道筋──そして、多様な文化についても。
 あなた方は、中世の時代において流行した美しい鑑賞ドールを元に設計されている。故に誰もがはっと息を呑むほどに美しく、輝かしく見えるのだ。

 また、こちらに残された最新の記録は、『西暦2240年』、『新種の青い花が発見された』……──という記述で最後である。

 (秘匿情報)。

「これは……誰かが持ち出したのでしょうか」

 一通り資料を見た時、1つの違和感が目に留まる。
 なぜか、6世紀と14世紀、19世紀ごろの資料が持ち出されていた。
 その頃は確か……黒死病が流行った時期で、別に何か特別な事は無かったような気もするのだが……。

 ともかく、気を取り直した彼女はファイリングされた資料の中から、

『環境の悪化から人が地下に住むようになった』

 というような記述を探そうと試みる。
 こんな状態の酸素濃度に陸地面積、そして学園の位置、寮には人が来ず、お披露目は学園でしか行われないという今までの情報から、恐らく、人間は何処かで生活の拠点を地表から地下や宇宙に移したのではないか? という推測だ。

 あなたは比較的現代に近しいファイルの中から、目的の記述を探そうとし始める。だが、最新の記述である『青い花が発見された』という一文より以前は、人間はまだ地上で開発や対策計画を続けていたらしく、シェルターを増やし始めたという記述はあれど、地下で本格的に生活を始めたと言った表記は見られなかった。

「おや……?」

 狙いが完全に外れてしまった。
 これが分かればやっと謎が1つ解けるという所だったのに……。
 困ったことにこのファイルがそもそも古い情報である可能性すら出てきてしまった。

 仕方なく、青ざめた花の謎に繋がる手がかりの一端を掴んだ事で満足する事にした彼女は、今度は人目を気にしながら講義室Bへと向かう事にする。

【学園2F 講義室B】

 講義室Bは、もう一方の講義室Aとは対になるような、鏡写しの部屋の作りをしていた。

 講義室は、各クラスの先生による座学を中心に使用されている。部屋の右手側の壁には広い黒板が張り付けられており、教壇と、揃えられたドールのための机と椅子が存在する、シンプルな教室といったところか。

 現在は人気も特になく、授業の予定も見たところ無さそうだ。

「やっぱりここは変わら……と、落し物でしょうか」

 デュオに居た頃から変わらない教室。
 黒板があって、机があって、生活感のない無機質なこの空間に暗くなった気分に引かれるように足元を見ると……。
 そこには一枚の丸められた紙があった。

 尊重すべき学び舎にゴミを置きっぱなしとは何事か、とさっきまで暗い気分になっていた奴が何を言ってるんだ的な思考と共にゴミを拾い上げた彼女は、それを開いて中を見てみる事にする。

 乱雑に丸められ、そのまま放棄された紙屑が足元に転がっているのを見つける。

 あなたはそれをそっと拾い上げ、広げてみた。皺くちゃになってかなり分かりづらかったものの、その紙片には確かに文字が書き記されていたようだ。

「……ふうん」

 広げたその紙に小さく息を吐く。

『第三の壁、お前は監視されている、屍を食らう獣、√0』

 どれも単体では何の意味も成さない言葉たち、けれど、アメリアは少なくとも√0に何かがある事も、隠し事にはそれを隠す存在が居る事も知っている。
 だから、多分これは意味のある言葉で、それを解く鍵が足りないだけなのだから。

「今は、置いておくとしましょうか。」

 そうして見終わった紙を丁寧に畳んで鞄の底に仕舞った後、残された数冊の冊子を見に行く事にする。

 講義室に踏み行った際、正面に見える教卓にぽつんと置かれた数冊の冊子。先生の忘れ物かも知れない。
 どうやらお披露目に選ばれたドールへ向けた案内が細かく記されているようだ。あなたも知っているような内容であることから、恐らく事前確認の為の説明会でも開いていたのかも知れない。お披露目に選ばれたドールズは、それまでの数日、どうも慌ただしくしていることが多いからだ。
 晴れ着の採寸やデザインを確認するカタログのようなもの、ヒトを前にした時の礼儀の尽くし方など──冊子にはそういった確認事項が記されているようだった。


 そしてそんな冊子の合間に、一枚の資料が挟み込まれている。どうやら実際に講義を受けた者の名と、ドレスのデザインの走り書きが残されているようだ。

【XXXVI 定期品評会 衣装について】
 
1-S Wendy──S-160
バイオレット A済
イヤリング搬入待
リッチブラック パンプス済

3-M Brittany──M-164
マリーゴールド ベル済
ネックレス済 デザイン案認可
バーミリオン パンプス済

3-B Clarence──M-165
ムーンレスナイト ホワイトタイ
テールコート済
ブラック ストレートチップ済

 こちらはどうやら、エーナ・トゥリアクラスのドールズの案内を行なっていたらしい。このようにしてお披露目用の豪奢な晴れ着を準備しているのだろう。

「これは……お披露目のリストですか。」

 知らない名前が並んでいるが、書いてある事は理解出来た。
 恐らくここで衣装の整理が行われていたのだろう。
 加えて、衣装は別に無から湧いてくる訳ではなく、搬入されてくるものなのだと言うことも分かった。

 もしも、ここから逃げ出さなければ行けなくなった時に役立つかもしれない、そう考えてこのリストをノートにメモした後、講義室を離れ、次の部屋へと向かう事にする。

 目指すはパフォーマンスルーム。
 もしかしたらお披露目に選ばれたドールが何がしかの痕跡を残しているかも知れない、そう考えて、やはり人目を気にしながら、授業中なら授業が終わってドールが居なくなってから入る事にする。

【学園2F 演奏室】

 演奏室は先ほど授業を終えたばかりなのか、疎らにドールが留まって談笑などを行なっているようだった。皆あなたにはさして意識を向けていないように見える。

 部屋の大きさは講義室と変わりない。しかし机の数はこちらが少なかった。代わりにグランドピアノ、コントラバスやハープ、打楽器類など、運び出すことが煩雑だが使用頻度がそこそこ高い楽器があらかじめ部屋の端に寄せられるようにして出された状態になっている。
 その他の楽器は全て奥の楽器保管庫に収められているのだろう。

「……タイミングが良くなかったですね……」

 入った後、アメリアは小さくため息を吐いた。
 確かに、人目を気にしていたお陰で目立っては居ない、目立っては居ないが……
 ドールが沢山いる場所というのはアメリアにとって少々呼吸し難い場所だ。

 彼女は逃げるように部屋の隅へと押し出されるように……或いは逃げるように歩いていく。
 そこで、人から逃れるように目線を向けた結果自然と机の隅に広げられた楽譜の束に気を惹かれた。

 何が書いてある楽譜だろうか?

 楽譜の束は、複数冊子存在した。エドワード・エルガーの『愛の挨拶』、シューマンの『美しい五月に』、ショパンの『ピアノ協奏曲第2番第二楽章』など……それらはいずれも、愛や恋情などをテーマにしたクラシックであると察せられる。楽譜はほとんど真っ黒になるまで几帳面な文字による書き込みがなされており、読み込まなければ一見何の曲かもわからないほど、熱心さが伝わるものであろう。

 楽譜の束をぱらぱらと捲っていると、その間に一通の封筒が収まっている事にあなたは気が付く。シンプルな無地の便箋には、仄かに花の香り付がされているようだ。
 表には、『To Astraea』と表記されている。見知った人物の名に、あなたはすぐピンと来るだろう。

「アストレア様への手紙……ですか。」

 楽譜の束を捲った後、見つけたのはどう考えても他人の手紙としか思えない封筒だった。
 これは自分の安全とは関係の無い事柄だし、それに触れられて気分の良いものでは無いだろう。
 流石にいたたまれない気分になった彼女はその手紙と楽譜の束をそっと置いて、気まずい気分に駆り立てられるように、逃げ出すように演奏室を後にした。

 向かったのはカフェテリア。
 行く予定のガーデンテラスの近くであるそこで時間を潰そうという考えだ。

【学園3F カフェテリア】

 たどり着いたカフェテリアは、時間帯が影響してか珍しく閑古鳥が鳴いて、人気がまるで無かった。いつも活気で賑わっているカフェテリアが静かというのは、少し慣れないものがあろう。

 一帯の広間の奥には、寮ほどの設備や少量の備蓄はないものの、簡易的なキッチンも存在しており、ドールズはこちらの区画で飲み物を用意して、授業後のコーヒーブレイクをおこなっていることが多かった。

 またこちらの隅の机にも、あなたが学生寮で見たような例のチラシが残されていたが、そのほかにカフェテリアに変化は見られないだろう。

「あれ……意外ですね」

 珍しく、カフェテリアには人影が無かった。
 なんだか見た事のあるチラシがドール避けにでもなっているのだろうか?
 なんて愚にもつかない事を考えながら、折角の待ち時間、折角の人が居ない好機を活かすことにする。

 そう、寮ではきっと在庫を把握されているし、隠れて飲む場所もそんなにないから……コーヒーを飲もうと思ったらビクビクしなければならない……。
 しかし! 今のこの環境ならば誰が飲んだか分からないし、直ぐには人が来ない……筈だ。

 そんな風に考えて、アメリアはまるで熟練のコソ泥の如く辺りを警戒しながら、コーヒーの一雫が立てる音にすら気を使って、キッチンでコーヒーを淹れようとするだろう。

 あなたはカフェテリアの簡易的なキッチンスペースで、手際良く珈琲を淹れる事が出来る。慎重過ぎる手付きが幸いしてか特に手法を違える事もなく、キッチンには芳醇でほろ苦い香りが広がっていくだろう。

 カップを傾けて、淹れたての湯気が立つ珈琲を火傷しないようにそっとちまこく一口啜る。
 いつしか夢で垣間見た、あの愛おしい時間と愛おしい味わいが、ほんの一時でも懐古されるのが分かるだろう。

 あなたは脳裏に思い返そうとするはずだ。今や顔も朧げな、夢でしか会えないあの人のことを。

 その時、側頭部に電流が走ったように鈍く痛み、あなたは咄嗟に目の前のシンクを掴むだろう。それでも更に前傾姿勢となり、鋭い痛みに堪えなければならない状態で、あなたは過去の夢を垣間見る。

「居ません……よね?
 ほんとに居ませんよね?」

 そーっと、そーっと、誰にも見られないように。
 なんでか分からないけれど随分と上手く出来た自信のある珈琲を、キッチンの片隅で小さく啜る。
 いつか夢に見たあの味もこんな風に苦く、愛おしい物だったろうか……なんてはしたない懐古に浸ったその時。

「つぅ、う……あ”」

 側頭部へと鈍い痛みが走る。
 耐え難い痛みに咄嗟にシンク……を掴まずに命よりも大切な先程一口啜ったばかりの“思い出”をこぼさないように置いて後ろに倒れる。

 そんな耐え難い痛みと共に、自分の物なのか、或いは脳裏に走った一瞬のノイズなのか、何かの映像が流れ出す。
 雪が降りしきる寒い冬、あの人と共に出かけられる事を無邪気に喜んでいたあの日の事。
 自分の為に傘を差してくれる優しさを大切にかみしめていた時の事。
 ふと気付いた。気付いてしまった。
 あの人の顔が曇っている。
 と、この灰色の空みたいに曇った顔をどうにか晴らしたかったのだろうか?
 アメリアはどうしたのですか? と問いかける。
 すると、ああ、そんな風にするつもりは無かったのに、悲しませたくなどはなかったのに、苦しませたくは無かったのに。
 あの人は目の前で膝をつき、顔を伏せたまま「すまない……アメリア、すまない、」と、そう言ってしまった。

 苦い、苦い、呪いのような一幕だった。

「今……のは……
 すまない、なんで、何故、アメリアはそんな事を言われて…」

 悪夢の中から目覚めた彼女は混乱と共に立ち上がる。
 あの人は……あくまで疑似記憶の中の存在だった筈だ、実際には体験してなど居ない、ただ「ヒト」と……いや、『あの人』と、どう接すれば良いのかを明らかにするための物で。
 謝られることなど関係はないし、そもそもわざわざ雪の日だなんて指定する必要もない筈だった。
 けれど現実に彼女は二度も知らない疑似記憶を見て、しかも新しいものに至ってはこの有様だ。

 何処か、先程怪我をするかも知れない事を承知で庇った“コーヒー”が恐ろしい物に見えて。
 耐えがたくなった彼女は、逃げるように……まだチラシで告知される時間よりも少し早いというのにガーデンテラスへと走り出した。

【学園3F ガーデンテラス】

 球形の天井からは、麗かな春の日差しが降り注ぐ。先ほど寮でも見た晴天が、一面に大きく広がっていた。
 陽光を浴びて、テラスに敷き詰められた芝地と花壇に植わった可愛らしい花が瑞々しく咲き誇っている。水を撒かれてまもないらしい。ちらほらと点在する真っ白なガーデンテーブルと椅子では、優雅にお茶会をするドールズの姿も見られた。

「……馬鹿馬鹿しいですね」

 ガーデンテラスに着き、隅で一呼吸置いて落ち着きを取り戻した彼女は、ふと天井を見上げて小さく笑う。

 この学園は確か地下にあったはずだ。
 正確に測った訳では無いからもしかしたらガーデンテラスだけ飛び出している……なんて可能性も無くはないけれど……。
 随分とおかしな話だ。
 そんなふうに考えながら彼女はガーデンテラスのガラス張りの天井を見つめる。

 ガラス窓の向こうに広がるのは、この学園の“向こう半分”の天井だ。恐らくお披露目に使うダンスホールの先には、あなた方を求めてやってくるヒトへ向けた入り口があるのだろう。ドーム状の白くて平べったい屋根がずっと遠くまで続いている。

 またアカデミーの周辺には青々と茂る森林が続いており、視界の範囲に他の建造物などは見られなかった。

 何も考えずに見回すのであれば、何らおかしな点のない長閑な景色だが──学園と寮の位置関係を知るあなたからすれば、微かな違和感を感じるものであるだろう。

「やっぱりおかしいですね。
 ……けれど、まあどうしようもありませんか」

 ガラス窓の向こう、ドーム状の白くて平べったい屋根が広がっている様に、もはや学園本体は地下にあり、三階部分やガーデンテラスの上部分だけ飛び出している可能性すら否定された。
 となれば答えは単純明快、ガラス張りの天井は恐らくただのガラスではないし、そもそもこの晴天や星空も映像なのだろう。
 そんなどうしようもない事実を思いながら、彼女はガーデンテラスの片隅であの奇特なチラシを置いた人物を待つことにした。

Aladdin
Amelia

 ──午後18時。
 談笑していたドールズも、夕食の準備があるからと疎らに散り、人気が無くなっていくテラスで、あなたは待ちくたびれているかもしれない。
 天球から差し込む陽光は地平線の彼方に沈んで消え、代わりに群青色の空には星々が瞬く。いつも規則通りに早めに寮へ帰っていたあなたは、ガーデンテラスの星空を見た事がないことに思い至るだろう。

 眩い青空とは一転した美しい星空を一望出来る。そんな場所であなたが立ち尽くしていると、満を辞してテラスのガラス扉が開かれた。

 巨大な筒状の何かを片腕に抱えてやってきたのは、銀色のさっぱりした短髪を靡かせ、細い三つ編みを垂らした好青年だった。褐色の細い身体にその銀糸は美しく映えて、その顔立ちは甘い微笑みを湛えている。──教育されたと思しき立ち居振る舞いから、トゥリアクラスの青年だと察する事が出来よう。

「……!」

 青年はポツンとテラスの片隅に残っているあなたの姿を見つけて、たちまち目を輝かせる。しかしはっと我に帰ってひとつ大袈裟な咳払いをすると、大股に急いで歩み寄ってきた。

「ご機嫌よう! 今からここでサークル活動を始める予定だが、もしかして……もしかするとお前も、チラシを見て来てくれた同志か!? そうだと言ってくれ!

 オレはアラジン、秘密の芸術クラブの活動をいつもこの辺りでやってる。芸術活動を自分一人で繰り広げても意味がないから、同志を欲しているんだが…! どうだ!?」

「……早く来すぎましたね……」

 午後18時まで、カフェテリアから逃げてきたのは自分が悪いものの……
 チラシのドールを待つ時間は随分と長かった。
 こんなことなら図書室で本を読んでいけば……なんて後悔がチラつき始めた頃、陽光は沈み、空に星々がちらつき始めた。
 そういえば星空なんて寮からしか見たことが無かったな。
 なんて思いながら待っているとやっとと言うべきだろうか、或いは予定通りか、ガラス扉が開かれた。

 大きな筒状の……恐らく望遠鏡のような何かと思しき物を持ったそのドールのどこか人懐っこさを感じさせる甘い笑みにトゥリアか……コミュニケーションを得意とするエーナか……なんて予想していると、
 彼はこちらを見て明らかに目を輝かせ、わざとらしい咳払いの後に大股で……どこか威厳のある人物のように振る舞いながらやってきた。

「初めまして、アラジン様。
 デュオモデルのアメリアと申します。
 ええ、お気づきの通り秘密の芸術クラブと聞いて。
 このトイボックスはそういった営みは珍しいですから。」

 そうして、一言目で崩壊した(既に崩壊していた)威厳ある振る舞いにああ……この方多分フェリシア様とかオディーリア様に近いタイプのお方だ……。
 なんて謎の感慨を抱きながら立ち上がった彼女は余所行きと見栄の合わさった丁寧な物言いの自己紹介と共に一礼を行う。

 もしあなたが“そう”じゃないのであれば、ただ恥をかくだけだ──とやや前のめり気味の姿勢ではあるものの、平静を装いつつあなたに意向を確認したアラジンは。

 しかしあなたが礼儀正しく是の返答を成してくれたことを確認し、たちまち瞳を頭上の星々よりも満点に眩くキラキラキラキラ、と輝かせて、「本当か! 本当なんだな!? よおし!!」と盛大にガッツポーズをしてはしゃぎ始めた。先程の威厳を保とうとするような尊大な仕草はもはや一瞬で形無しである。

「アメリア、宜しく頼む! 同じトゥリアクラスのドールとなら話すが、デュオモデルと言葉を交わすのはオレにとって初めてだ。デュオモデルは頭が良いように作られてるんだろ? 対話するだけでいい刺激になりそうだな! へへ!
 お前を芸術の同志として歓迎するぜ!」

 アラジンは元より、快活で少々勢いで生きている嫌いがあるのだろう。あなたに払いのけられなければ、素早くもトゥリアらしく自然な手付きであなたの小さな手を掬い取り、怒涛の勢いで謝意を表明してみせよう。

「オレがやりたいのはチラシに書いてあった通りだ。トイボックスの教えはなんというか……何だ、おヒト様に奉公しよう! 忠誠心に疑問を持ってはいけない! って教育方針で、なんつーか息苦しいと思うんだ。
 でも、せっかく自我を持てたんだ。オレはオレがやりたいことをして生きたいと思ってる。その為にこのサークルを立ち上げた。ドールとしてあまり良くない考えなのは理解してるんだけどな。

 アメリアはどう思う? 他人のためではなく、自分のしたいことをすることを。ドールとして良くないと考えるか?」

「ええ、それは良かったです。
 それで、芸術というと……」

 前のめりに、何処までも真っ直ぐ距離を詰めてくるアラジンのデュオモデルは頭が良いという言葉に少し恥ずかしさを感じながらも。
 冷静に返そうとしたその直後、聞くものが聞いたら三秒でオミクロン送りなマシンガントークが浴びせかけられる。
 慌てて喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ彼女は他にドールが居ないかと辺りを見渡してから。

「まっ先ず、そうですね、
 アラジン様がそれを余り良くない考えだと思っているのは良いですし、息苦しさを感じるのも……また個性でしょう。
 ですが、そこを論点とするならば、アラジン様の感覚がズレている事はともかく行いそのものは間違いではないと言える……と、アメリアは考えます。
 ドールの個体によっては、奉公をする、忠誠心を捧げる事そのものが喜びである個体が居ます。
 その実例としては疑似記憶の存在が挙げられるでしょう。
 ヒトとどのようにかかわっていくか、それを規定する存在しない記憶。
 そこに人格形成の多くを依存する場合、例えば……その……ええと……理想とするご主人様とコーヒーを飲んだり……傘を差していただいたり……と言った事が大きな指針であるならば、疑問を持つな、も何もヒトと関わる事は喜び以外の何物にもなりえません。
 ですから……そうですね。
 ドールの多くは自分のしたい事をしている。
 そう、アメリアは考えています。
 だから、恐らくアラジン様が自分の行いをおかしい、良くないとおっしゃるのなら、したいことをする事ではなく、したいと思っている事はどうなのかに焦点を当てるべきではないでしょうか。」

 静かに、ゆっくりと語り出す。
 自分の考えを伝え、せめてこの愚かで蛮勇に包まれたドールが直ぐにオミクロン送りにならないように、自分の他と違う部分を理解して身を守れるようにと言葉を尽くす。
 まあ……勿論実例を挙げる時は露骨に目を逸らしてしどろもどろではあったが……。 

「……なるほど。つまりアメリアは、ここにいるドールのほとんどは、“ヒトに尽くす”という自分のやりたいことをこなしているだけで……やりたいことの中身が違うだけで、皆もオレと何ら変わりないと、そう言いたいんだな。

 おお……! なるほど、言語化されると確かにと思える! オレは他のドールと同じように、したいことをしていただけだったのか! オレもあんまり異常じゃない気がしてきたぜ、欲求に素直になることは感情を持つ生命体なら当たり前の行動原理だもんな」

 あなたの論理を正しく理解したような、していないような。勢い良く理解と納得を示したアラジンは、腕を組んで何度か目の前で頷いてみせた。

「それで、したいと思ってることはどうなのかについてだが。オレは自己の表現者になりたいという夢を叶える為に活動している。これを間違っているとは思わない。ドールの使命はまじめにこなせねぇけど、オレはこの為に生きたいからな。

 でもそれを馬鹿正直におっ広げたりはしない。オレ、お披露目に選ばれて外の世界が見たいんだ。だから一応、利口にはしてるぜ──まあ、サークル活動はするけどな。」

 それはそれ、これはこれ。ケースバイケース……とアラジンはそう理由づけをしながら、片腕に抱えていた大きな筒状の物体──あなたが予想する通り、望遠鏡の機能を有する工作品を一度地面に置くと、問い掛けた。

「アメリアは、ヒトに尽くしたいと思うか? 他にやりたいことは?」

「ええ、そうですね。
 隠すという事が出来るのは良いと思います。」

 理解……したのだろうか? ともかく言っている結論に齟齬が無い事を確認した彼女は、馬鹿正直におっ広げたりはしない。
 という言葉にうぐっとなりながらも、続けられた問いについて考え込む

「尽くしたい……ですか。
 アメリアは尽くす事ではなく……きっと、いえ、ここからはプライベートが過ぎますね。
 気軽に話すのははしたない事ですから……もう少し心の準備が出来てから。

 ……さあ、本題に入りましょうか!
 確か芸術活動を行なうのですよね?」

 そうして答えようとして……さすがにはしたない……と羞恥心が勝ったのか、穏やかに断った後勢いよく本題に入るよう促す。

「そうか、今は内緒にしたいけど、やりたい事は確かにあるんだな? ハハ、よかった! アメリアもオレと同じで、芸術活動に打ち込める! 一緒に自己の表現者になろう、探究心の赴くまま!

 ああ、そうだ! 話が逸れて悪かったな、早速何をするかについて話すぜ! と言ってもここ近日中はずっと同じことの繰り返しなんだけどな……」

 アラジンはあなたのやけっぱちな本題への促しに応じて大きく頷き、その目線を先ほど地面に置いておいた筒状の物体へ向けた。
 彼はそれを起こすと、地面に三脚の役割を成す木工の支えを立てて、その上に筒を置いた。

 あなたの予想通り、地面に立った手作り感満載の工作品は望遠鏡の用途を持つのだろう。アラジンはその手で望遠鏡の角度を調整しながら、そちらに向き直った。

「オレのここ暫くのやりたい事は、ズバリ天体観測。図鑑にあった星座の実在を確かめる事なんだ。だからここ数日はずっとガーデンテラスで張ってる。
 多分寮周辺でやった方がいいんだろうけど、トゥリアクラスのやつでオレの考えに同調してくれる友人がまだ見つかってなくてさ。それにチラシを配ったから、他クラスのやつが来てくれるかもしれないって可能性に賭けたくて……実際、お前は来てくれただろ?

 本当は星がよく見える真夜中に実施したいけど、規則があるからな……まだ星は見えにくいけど、どうにか頑張ってる所だ。退屈だと思うけど、少し待っててくれるか?」

 アラジンは自身の傍に、筒と同じく抱えていた一冊のノートを置くと、望遠鏡に取り付けたファインダーの役割を持つと思しき覗き穴を覗き始める。準備をしているのだろう。

「うぐっ……なんだか分かったように言われるのも癪ですが……。
 待って下さい。天体観測? 星を、見るのですか? ここで? 今?」

 こちらに応じたアラジンに何と無く見透かされたような気分になって小声でぼやいた後、話を聞こうとした彼女は、続いたアラジンの言葉に、彼が望遠鏡を見ていて良かったと、本気でそう思える程に顔をゆがめる。
 だって、ここで天体観測など……まともな結果を得られる訳がない。
 あの空が本物である可能性は……それこそディア様が見たというお披露目が想像通りのまともな物である可能性よりも遥かに低いのだから。

「……アラジン様。
 ここではなく寮の方で帰ってから星を見たことはございますか?」

 けれど、それが信じられないのもまた事実だ。
 だから、アメリアは先程の動揺を誤魔化すように先ずはまだまともに星が見えそうな場所から見たことがあるかと尋ねる。

「そうだ。ここで! 今!」

 アラジンは強い口調で断言して頷いた。あなたの戸惑いに気が付いているのかいないのか。彼はファインダーを覗き込みながら、真剣な様子で星々の位置を確認し始めている。

「ああ、勿論初めは寮の方で天体観測をしていた。でもさっきも言った通り、一人で芸術活動を続けるのは虚しかったから、こうしてガーデンテラスに位置を変えたんだ。……それに、最近は確かめたいこともできたからな。」

 あなたの問いに、アラジンは淀みなく答えた。あなたのその声色に呼応してか、彼はようやくファインダーから目を離し、そちらに向き直る。
 そして手元に置いたノートに視線を落とすと、それを徐に手に取って開き出した。

「そういう……事ですか」

 力強く断言するアラジンの様子に内心あちゃー……。
 と思いつつも、それなら遊びと割り切って付き合おう。と考え直し、歯切れの悪い様子で納得する。

「それで、確かめたい事とは?」

 その上で、彼女は「ここで見ていたら観測におかしな点でも見つかったのだろうか?」と、起こりそうな''確かめたい事''を考えながらアラジンの言葉尻を拾って問いを投げ返す。

「ああ、実は、……」

 アラジンは一瞬、その内容を口にすることを躊躇うように目線を落とした。手元のノートは変わらず彼の手に収まっており、きっとそこには彼の芸術活動の記録などがなされているのだろうと感じる。
 軽く覗いてみるならば、そこには星座の形が美しい星空として描かれていた。アラジンはどうやら芸術活動を行うことを宣言しているだけあって、描画に長けているらしい。

「……デュオのお前に確信のないことを話すのもちょっと迷いどころなんだが。何より、そのだな……こんなことあり得ないと思われるかもしれないが、……このことはむしろ、オレが表現者になりたいと豪語して回るよりも、あんまり表立って吹聴するのは悪いと思う。

 それでも……相談に乗ってくれるか? アメリア。」

「有り得ない……表立って吹聴するのは悪いこと、ですか。」

 他人の知識を勝手に見る事への罪悪感から、アラジンの手元のノートから努めて目を逸らしながら話し出すのを待っていた所、アラジンは妙に真剣な様子で問いかけて来た。

「そうですね。
 先ず、一つだけ訂正しましょう。
 そもそも知識とは……いえ、科学とは不確かな仮説を積み上げた砂上の巨塔です。
 そこに寄って立つデュオドールに確信がないから、と遠慮をする事は不要ですよ。

 ですから、もしもそう問うのならアメリアは勿論と、そう答えましょう。」

 それに対してつい最近そういった怪しい存在を示唆され、トイボックスを走り回っていたアメリアは渡りに船と、その相談に乗ることにした。

「……そうか。相談に乗ってくれるんだな。実は、頭が良い奴にいずれ意見を聞きたかったんだが、デュオクラスの奴はなんというか、取っ付きづらくて……友人にもなかなか恵まれなかったんだよな。
 だからアメリアが来てくれて良かったぜ! それで、確かめたいことについてなんだが……」

 アラジンはニカ、と巨万の財宝が光り輝くような微笑みを浮かべてから、ノートから目を逸らすあなたの様子に首を横に振って、むしろノートを見易いように広げてみせるだろう。

オレはこの学園で目覚めたすぐ後から望遠鏡をこしらえて、寮周辺で天体観測をしてたんだ。それで──

「ふっうふふっあはは! ああ、貴方様は自由を、その果てにある芸術を愛しておられるのですね。」

 少しの間押し黙っていたアラジンの何の屈託もない言葉に、彼女は楽しげに、親しみを込めて“笑った”。
 そうして、彼女は目じりに浮いた涙を拭って、優しく朗らかに言葉を続ける。

「それなら……何を犠牲にしてでも愛するのだと言うのなら、仕方がありませんね。
 困ったことに、アメリアの中の浅ましい獣も貴方様のその衝動を随分と気に入ってしまったようですから。」

 同類に向けるような、そんな親しみを込めた目線と共に、彼女は目の前の狂ったドールに協力の意を示す。
 なんたって、彼女は彼の根底にあったのは純粋な愛なのだと……そう仮定したのだから。
 ならば、愛に狂い、愛の為に己を罰し続ける彼女が彼の三千里よりもなお遠い恋路を応援しない訳がないだろう。

「それでは、アメリアは放課後秘密芸術クラブの一員として調べ物をしてくるとしましょう。
 貴方様の果て無き恋路に幸の有らんことを。-ボン・ヴォヤージュ-」

 そうして、最早ここに居る理由が無くなった彼女は一度アラジンに別れを告げて寮に向けて帰る事にする。

 弾けるように、蕾が花開くように。美しくありながらも高らかに、爛漫に笑い声をあげたあなたを、アラジンは茫然として見据えて、瞬きをしていたが、やがて。

「お……おおお……! もしかしてアメリアも、オレの芸術を理解してくれたのか!? か、感激すぎる……オレは感動している……!

 ああ、ああ! こちらこそ、お前の行く道を知恵の女神の微笑みが照らし出さんことを祈るぜ。また芸術活動しような、今度はクラブの仲間として!」

 彼は震える声で喜ばしそうに叫んでは、あなたの後ろ姿を快活に見送るだろう。

【寮周辺の平原】

 遠くで学園から響く鐘の音が聞こえる。間も無く、夕食どきの19時も近いのだろう。それはもうすっかり暗くなっていて、あなたは星空の瞬く帰り道を急いでいる。

 寮への帰り道に、その花畑は存在する。中央に天使を模した像を据えた噴水があり、その周辺に季節の花が咲き誇っているのである。
 寮に沿った場所には花壇もあり、あなた方が日々世話をしている花々が風に揺られていた。

 アラジンと別れた後、一先ず帰路に着いたアメリアはふと、マーガレットの甘い香りに足を止める。

「そろそろ……認めるべきなのかも知れませんね」

 実を言うと数日前、ディアを問い詰めた時にはもう材料は揃っていた。
 何故か頑なに秘匿されるお披露目の詳細。
 何故か行方不明扱いされている“ミシェラ様”。
 地下にあるというのに何も言われない学園。
 余りにも不完全な歴史資料。
 それは、お披露目という星空を偽物だと疑わせるには十分過ぎる状況証拠で……アメリアは安全のためなどと言いながら、それを否定する“証拠(ゆめ)”を求めていた。
 けれど、必死に調査を続けて出てくるのは欺瞞、謎、不審、夢とは程遠い現実ばかりだった。
 それを……運命の人などには出会えないという絶望をアメリアは直視してしまう。
 ガクン、視界が一瞬歪んだと思ったその時には彼女は花畑にうずくまり、こらえきれない涙を流していた。

「居ないのなら……出会えないというのなら、どうして、どうしてこんな思いを作ったのですか。」

 呻くように、震える唇で悲鳴にも似た問いを呟く。
 事実、疑似記憶さえ無ければアメリアは知識を恥じる事も、コーヒーが飲めなくなる事も、まともに雨の日に外を歩くことすら出来なくなる事も無かった。
 更に言うならば……こんな出来損ないのドールになってしまうほどに運命の人を求める事なんて無かったのだから。

 もしも、運命の人に会えないのなら、彼女にとって愛は苦痛の根源でしかない。なんて考えるのも普通の事だ。

「こんなに苦しいのなら……あの人との思い出なんて……愛なんて……」

 “無ければ良かった”。
 そう続けようとした時。アラジンの言葉が脳裏を過ぎった。

『……オレの夢は表現者になることだ。何にも縛られる事のなく、オレはただオレのやりたいことをし続けたい。
 もし■■■■■■なら。オレはまやかしから目覚めて、■■■■■■■■た上で、改めて作品を手掛けたいと思う。その方が……面白そうだ。実現困難な夢を目指すのはロマンがあるからな』

 叶う訳がないという事実を知って、その上で……迷いながらも夢を抱きたいと、そう言い切った彼の言葉に、アメリアは少しだけ思い直す。

「ーーーッ”。
 なんて、言えやしませんね。
 アラジン様は……それでも前を向いたのですから。」


 運命の人に出会う事も……いや、それどころか疑似記憶に刻まれた幸福も実現出来そうにないとしても、そして……その夢が自分を破滅に導くのだとしても。
 アメリアはそ夢を捨てられない。
 どうしようもなく、獣に堕ちる程に愛しているのだから。
 だから、今は顔を上げよう。
 どんなに目の前が暗くとも……きっと夢はそこで4.2光年の彼方で輝いているのだから。

「こうなってしまっては、そろそろ泣いている場合ではありませんね。
 なんたってこれからやらなければならないのはお披露目無しで運命の人に会う無理難題。
 誰よりもロマンチックな夢なのですから。」