とうに温もりの失せた椅子の上。ロゼットは腰掛けたまま、天井を見つめている。
膝の上には花入りの巾着、手の中には青い液体の詰まった小瓶。
擬似記憶の中の“花”を見つけようとは思ったものの、どうにも答えは見出せない。
「そこそこ物知りのつもりだったんだけどなあ」
デュオクラスの仲間に訊けばよかったのだろうか。それとも、素直に先生を頼るべきだったのか。
それは何かが許さない気がして、ロゼットはひとりでぼんやりし続けている。
まともなドールのお歴々は避けていくだろうが、誰かに声をかけられれば、きっと薄い笑顔を向けるはずだ。
《Brother》
学生寮、ラウンジにて。
授業が終わり、ブラザーは最近新しく増えた日課をこなしてから寮に戻ってきた。図書室にでも行こうかと思っていれば、見覚えのある深紅が見える。
「やあ、ロゼット。こんにちは。
日向ぼっこしてるの? おにいちゃんも混ぜてほしいな」
扉の隙間から見えた、薔薇のように赤く燃えるうねった髪。持ち主はもちろん、ブラザーのかわいい妹の1人であるロゼットだ。
扉を開け、にっこりと微笑みながら軽く手を振ってみせる。窓から差し込む陽光に照らされるその姿を見て、兄はくすくす笑った。いつもの甘いテノールでお願いをひとつ、のんびりとした足取りでロゼットの隣に向かう。特に否定がなければ、ブラザーは隣にその細い腰を下ろすはずだ。
「おにいちゃん」
“兄”を名乗る不審者を前に、彼女がたじろぐことはない。
目を細め、猫のように笑ってみせるだけである。
ブラザーが隣に座るなら、少しだけ端に寄るだろう。兄を名乗るだけあり、彼の体躯はロゼットよりも少し大きい。邪魔になってはいけない、という配慮である。
「花を見ていたんだ。変な花と、変な花を浸した水」
巾着の口が、ゆっくりと開かれる。
中には見覚えのあるであろう花が入っている。花弁が少し欠けているが、大きく損傷はしていない。
巾着を膝の上で安定させると、小瓶も手渡そうとするだろう。受け取らなくても、また膝の上に乗せるだけだ。
《Brother》
「花?」
ブラザーもまたロゼットが座りやすいように寄れば、その手に巾着があることに気づいた。最近は花に縁があるなあ、なんて思いながら、大人しく開かれていく口を見ている。中から宝石のように美しい青の花弁が見え、ブラザーは驚いたように瞳を瞬かせた。渡された小瓶を受け取り、光にかざす。ちゃぷちゃぷ揺れる水に目を細め、ロゼットに視線を戻した。
「コゼットドロップ、だね。僕も持ってるよ。柵の近くで見つけたんだ。
ロゼットも、そこで見つけたの?」
あの時のことを思い出すと、薄らと足が痛くなるような心地がする。けれども、その後に見たどんな花よりも美しい笑顔を思い出せば、自然と顔が綻んでしまうのだ。
どうやら、ブラザーの方がこの花に詳しかったらしい。思わぬ収穫だ。
「違うよ、くるみ割り人形の本に挟まっていたの。水は花を浸したら色が変わったんだ」
柵の方まで行く理由はないし、ひとりでは行ったとて危険なだけだろう。
首を横に振り、上記の言葉を返す。関係もなさそうだから、食べるつもりだったことは言わなかった。
「お兄ちゃんは、どこでこの花の名前を知ったの? 私、初めて見たよ」
花壇のどこにも、コゼットドロップの居場所はなかった。
今度、探しに行くのも悪くないかも──なんてぼんやり考えながら、ロゼットは問いかける。
《Brother》
「本に……? 誰かがはさんだのかな」
不思議そうにロゼットの言葉を繰り返す。この花は弱々しく咲いていたはずだが、本に挟んでおけるものだろうか。そもそも、誰が何の目的でそんなことを。
流れ始めた疑問を止めたのは、かわいい妹の問いかけだ。
「トゥリアクラスの子から聞いたんだ。架空の美しい花って言われていたんだけど、この学園のどこかに咲いているって噂があったんだって」
瞬いていた瞳を柔らかく細めて、ブラザーは笑いかける。そういえば、あの子はこの花の名前をどこで知ったのだろう。噂を流したのは、誰からだったのだろうか。
……この学園は、分からないことだらけだ。
「色が変わるのは初めて見たよ。不思議だねぇ」
「うん。萎れてもいなかったから、誰かが隠してたのかも」
そうだったらちょっと面白いね、なんて。
冗談めかして、ロゼットは口にした。
疑いも、不安も、彼女の中には存在しない。智慧を知らぬイヴのように、ただ微笑むだけである。
「でも、ここにあるのは本当だもんね。色が変わることも教えてあげたいけど……その子はどこにいるの?」
トゥリアクラスの面々は、顔こそぼんやりしているものの、何となくであれば容姿を思い出せる。
純粋な善意から、ロゼットは問いかけた。心を苛む一切合切と、彼女は無縁なのだ。
《Brother》
冗談めかして笑うロゼットに、ブラザーも口角を緩める。穏やかな兄のような微笑みは彼の常だが、こういう時なら、妹に同意してもっとおかしそうに笑うはず。しかしブラザーは、ただニコニコとしているだけであった。とても冗談のように思えなかったから。
「ラプンツェル、って子だよ。覚えてる? トゥリアクラスの子で、若草色の髪を刈り上げたのんびり屋さん」
元々トゥリアクラスであったロゼットも、その姿は見たことがあるだろう。甘い茶色の瞳を瞬かせる、花好きな少年を。
「ラプンツェルは前回のお披露目に選ばれたんだ。だから今は、どこかで幸せに暮らしているよ」
今度は心の底から幸せそうに、ブラザーは顔を綻ばせる。なにか奇妙な陰謀が渦巻いていると疑い始めても、兄はまだ、お披露目が素晴らしい夢だと信じていた。
草原のような髪、キャラメルのようなまなこ、羊のように穏やかな精神。
言われればわかるような、わからないような。
小首を傾げ、ロゼットは曖昧に微笑んだ。
「そう。よかった、幸せになるのはいいことだからね」
知らない場所で、知らないヒトと、いつまでも幸せに暮らすであろう妹。
その中に、ぼんやりとしたシルエットが混ざる。不快なものではなかった。
幸せを願える相手など、多くて困ることはないのだから。
「私たちも、いつかお披露目に行くのかな。オミクロンは中々選ばれなさそうだし、プリマだった子の方が早いかもしれないけれど」
《Brother》
「うん、いいことだね」
にこにこ、中身のない発言を繰り返す。誰かのお披露目に対して、ブラザーは負の感情を何一つ抱かない。それが兄だからだ。
「そうかな、ロゼットは優しくて綺麗な子だからね。きっとすぐにお披露目も決まるよ」
そのまま、ブラザーは優しく微笑んでいる。拒まれないのなら、ロゼットの頭をそっと撫でるはずだ。安心させるような手つきでもあったし、褒めるような手つきでもある。少なくとも、エーナドールでなくとも、その言葉に嘘や悪意があるようには感じないだろう。
──ブラザーは、私がいなくなったら寂しい?
──ブラザーも優しくて綺麗だから、すぐにお披露目に行ってしまうの?
──優しくて綺麗でなければ、誰にも選ばれないの?
頭蓋の内から溢れる疑問は、兄の手により押し留められた。
相手にそのつもりはないだろう。ロゼットだって、そのことに気付きやしない。
ただ、意識がいくつかの問いよりも、温かな快を優先しただけなのだから。
「ありがとう。私がいなくなっても泣かないでね」
目を細める。
兄と呼ぶには甘やかすぎる仕草だ。嬰児にとって、親愛か否を区別するのは難しい。
「お披露目に行くところ、みんなにも見てほしいな。どんなヒトが私を選ぶのか、気になるもの」
実際にお披露目を見た者はいないと知りながら──いないと思いながら、そんなことを呟いた。
《Brother》
「難しいお願いだねぇ」
今度はブラザーが冗談めかして笑った。なでなでと手を動かしながら、肩を竦めて笑ってみせる。茶目っ気たっぷりにおどけているが、もし本当にお披露目が決まったら、彼は泣くどころか全身で喜びを表現するはずだ。
「僕も見てみたいな。可愛い妹を任せられるヒトか、おにいちゃんが確かめないと」
椅子の背もたれに体を預け、ブラザーは調子よく続ける。頼まれれば、兄はお披露目会場に乗り込むことだって辞さないだろう。
嬉しいような、うざったいような。
何とも言えない気持ちのまま、ロゼットは愛撫から逃れた。
「怒って喧嘩したら、嫌いになっちゃうから。するならハグだけにしてね」
するりと、猫のように立ち上がる。このまま立ち去るつもりなのだろう。
巾着も口を閉じて、小瓶をブラザーの前に差し出して。ロゼットは問いを投げる。
「これ、いる?毒かもしれないよ」
いると言われたら、彼女はあっさり手渡すだろう。
いらないと言われれば、巾着の中にしまって、颯爽と部屋を出ていく。
どちらにせよ、彼女は兄を嫌わない。日常の一環である、会話の綴じ目として扱うだろう。
《Brother》
「ふふ、もちろん」
くすりと笑って、ブラザーは大人しくロゼットから手を離す。結局はただの冗談で、そんな気なんてないのだ。
「一応貰っておこうかな。毒なら尚更さ。
ありがとう」
揺れる小瓶を受け取り、軽く微笑む。大人しく座ったまま、ブラザーはロゼットの背中を見送った。
1人になってから、小瓶を揺らす。ちゃぷちゃぷと揺れる色水を見つめ、ため息をこぼした。
本当に、毒薬なら。そんな期待を小瓶と共にポケットに入れて、ブラザーも立ち上がる。兄はそのまま部屋を出ていった。
噴水付近、やってきたのは燃えるような髪のドールだ。
鼻歌混じりなのは、きっと過ごしやすい気温だからだろう。巾着だけを片手に、ロゼットは散策している。
「あ」
ふと、見つけたのは知っている後ろ姿だ。
エーナではなく、デュオでもなく、ましてやトゥリアでもない。
テーセラらしく利発で、獅子のような髪を持つ、やさしい少年だ。
「だーれだ?」
後ろから近寄って、そっと手で目を隠す。
きっと気付かれているだろうが、これも馴れ合いのひとつだと聞いた。
ならば試してみるより他にないだろうと、ロゼットは上記の行動を行うだろう。
避けられたなら、もちろん普通に挨拶をするはずだ。
《Licht》
お兄さま、と呼びかける声を、リヒトは今も忘れられない。花畑の中で。あの夜のホールで。
お兄さま、と手を伸ばしていたのだと、リヒトは今も思っている。あの鉄籠から。業火の上から。
リヒトは、噴水近くの花畑にあぐらをかいて、今日も花かんむりを作っていた。彼にそれの作り方を教えてくれた彼女はもう居ないが、彼はそれを続けていた。手先を動かすのは頭にいいって読んだんだ、なんて取り繕いながら、ホントは、ホントは。
「ぅおお?!?!」
急に視界が真っ暗になって、大袈裟に驚いてリヒトは作りかけの花かんむりを落とした。ドキンとコアが大きく跳ねるが、その次に響いた呑気な声に、大きなため息がひとつ。
「……ろ、ロゼだろ。分かってるぞ、つーかそのくらい分かるからな!! やっぱ小さい子扱いしてるだろ……?!」
冗談めかして笑いながら、少し悔しげに彼は背後のロゼに、視界を塞ぐ柔らかな手の持ち主に語りかけた。……同時に、心の中で密かに、言葉が整理されていく。
そうだ。
彼女に、ロゼに、伝えなくちゃいけないことがある。
「……ロゼ、今、時間ある?」
「ばれちゃった? よかったー」
名前を呼ばれると、パッと手を離した。そこに躊躇はない。
驚いてもらえたし、レスポンスももらえた。遊びとしては中々悪くないものだ。
いつもよりご機嫌に、微笑みを湛えたまま、ロゼットはしゃがみ込む。
「あるよ。すごく退屈だから、あなたと話したかったの」
落ちた花冠を拾い、リヒトに差し出す。
「どうしたの?」
小首を傾げているあたり、他の誰かから何かを聞くこともなかったのだろう。
あなたが話そうと、話すまいと、彼女はそこにいる。
《Licht》
「……………」
リヒトは振り返って、口を開いて何かを言おうとして……次の瞬間、閉じて顔を振り、また言おうと口を開いて……今度は噴水の方を見る。何度も何度も、言おうとして、躊躇って……結局、口から溢れ出たのは、要領を得ない、言葉。
「今から、言うことは、すっごいヒミツで、センセーに言っちゃいけないし、バレちゃいけないことだ」
勇気が出ないのだ。
あの夜、出歩いていたストームはともかく、ロゼはきっとまだ、何も知らない。何も気づいていないまま、優しく、今もちょっとのんびりしているくらいに、穏やかに、ゆっくりと活動している。
「それでも、いつかみんなが知らなきゃ行けなくて、いつかみんなに伝えなくちゃいけないことだ。……オレは、上手く、伝えられる気が、しないからさ」
勇気が出ないのだ。
その安寧を壊す勇気が。
でも、逡巡している間にきっと、業火は背後に迫り来る。リヒトは走らなければならない、たとえ勇気が出なくとも。
「オレの日記。オレが見たものとか全部書いてる。……だから、お願い。信じて欲しいんだ」
そう言って、花かんむりを差し出してくれたロゼの手をそっと掴もうとした。掴めたら優しく引っ張って、自分とロゼの距離が近づくようにして……その間に隠すように、彼女にだけは見えるように、ノートを開いた。ストームにも見せた、あの夜のページを。
秘密。
今まで耳にしたことのないものが、リヒトの中に確かに存在している。
不謹慎かもしれないが──ロゼットは、少しだけ期待していた。
先生にさえ言ってはいけないことなのに、全ての者が知るべきことで、伝達する必要があること。
大変矛盾している。だが、矛盾こそが神秘の輪郭を際立たせ、情報の価値を引き上げるのだ。
「いいよ」
引き寄せられる──と言うよりは、身を乗り出すように。
少年の耳元で、薔薇の木は囁く。
花弁のような頭は、目線を下に落としていた。抱擁にも近い距離感は、トゥリアだからこそ疑われないものだろう。
ノートに記された秘密を見終えても、彼女はリヒトの傍から離れようとはしなかった。
「信じてあげたいのは山々だけど……急に言われても、信じられないところの方が多いよ。このノート、他の人にも見せた?」
話の内容が内容だからだろう。髪さえ触れそうな距離から、質問が飛んでくる。
《Licht》
「……分かってる。向こうのものは何も持ってこれなかったし、ショーコなんて、無い」
動揺なんて欠片も感じない浮世離れしたような声は、さらさらと揺れる薔薇の木の隙間から降ってくる。
「信じられないのも、分かってる」
髪さえ触れそうなほどの密やかな距離で出来るとは思えないが、出来るだけ俯いて、 影に顔を落とす。不安とか、焦燥とか、落胆とか、そういう、情けない表情を隠していたかった。
「……だからさ、いま見たコトも、全部忘れていいからさ。
オレが何かしようとしてたら、センセーにバレないように、出来ればでいいから、ちょっとでいいから……手伝って欲しいなーって、思う。あと気になるコトとかあったら、教えて欲しかったり……」
『……さすがにワガママかな〜?!』なんて、リヒトは茶化した。花かんむりをぎゅっと、握りしめながら。花びらが一枚散る。
分かってる。分かっているんだ。 あの火のことも、あの塔のことも、ミシェラのことも、センセーのことも、あの地獄も、全部、全部………痛感しているのは、自分たち二人だけ。あれを忘れられないのは、毎夜、センセーが鍵を閉めに来る度に拳を握って耐えているのは、 あの業火を心から恐れている、のは。
「これを知ってるのは、一緒に行ったフェリと、話したストーム。……ストームの方は、元プリマの子たちとなにかやってたみたいで……お披露目は存在しない、とか言ってたな。何を見たんだろう」
そのまま、続けて見せた人についても話した。疑問は尽きない。捻れた信頼を託している藍髪の彼にすら、秘密が存在するらしいから。
おひさま色の髪が、力なく項垂れる。
きめ細やかなうなじは、快活な彼に反して繊細だ。今にも壊れそうな首筋が、何故か目に焼き付いた。
「傷付くことに怯えなくてもいいんだよ。内容を信じることは難しいけど、リヒトを信じることはそう難しくないから」
きつく握られた拳を、柔らかな手のひらが覆う。
絹のベールを撫でるように、ロゼットは花冠とテーセラドールの手に触れた。
「他の子には後で訊いてみるよ。それから……私も、君に秘密を教えてあげるね」
こっそりと、甘やかな声が少年の耳をくすぐる。
伝えたいことだけを伝えると、ようやく彼女は身体を離すことだろう。
囁きの中身を問いただしても、きっと悪戯っぽく笑うだけ。そのままするりと、どこかへ消えようとする。
《Licht》
「え」
リヒトの目が思わずまあるく見開かれ、隠れるように俯いていた顔も、パッと上がる。その間にロゼは悪戯っぽく笑って、するりと去っていく。
「っホントに……危ないコトあったらすぐ言えよ! 変なの見つけてもすぐ言えよ! ここ、ワケわかんないんだからな────!!」
ああ、この神出鬼没な深紅の薔薇は、いっつもこう、なんというか……危なっかしい。立ち上がって呼び止めたって花弁が風に吹かれるように、そっと立ち去ってしまうのだから、その代わりにリヒトは下手くそに呼びかけることにした。
「ありがとな、ロゼ。
信じられなくても、信じてくれて」
その少し後、赤い髪がちらりと輝いて消える頃。ちょっとだけ、弱音の滲んだ情けない声で、花々の影に隠れるように、吹き抜ける風に隠れるように、そっとリヒトは感謝をつぶやく。
さあ、行こう。
不出来な花かんむりを被って。仮初の日常の影に隠れて。コワれていてもやるしかない、秘密の作戦へ。
その日、ミュゲイアと出会ったのはほんの偶然だった。
特筆すべきこともない日だ。何か行動をした後だったかもしれないし、何もない日だったかもしれない。
自分のベッドがある部屋──少女型ドールたちの部屋に、ロゼットは何の気なしに入室した。
相手が先に部屋にいたのか、それとも後から入ってきたのか。
どちらにせよ、彼女は「や」と言って手をひらひらさせるだろう。
ミュゲイアの大好きな、口角を上げた表情を浮かべながら。
《Mugeia》
ミュゲイアは昨日のこともあってか今日は自分のベッドがある少女型モデル用の部屋にいた。
ぽわぽわと笑顔のことしか考えていない顔でミュゲイアは自分の持っているノートに棺のベッドを机替わりにして絵を描いていた。
ミュゲイアなりの芸術活動である。
分かりやすくあのドールの影響を受けているミュゲイアはいつもの変わらぬ笑顔を浮かべたままに鉛筆を走らせた。
拙い絵は幼子の書いたもののようで描かれているのはアラジンらしきドールだった。
ニコニコとわかりやすく半円を書く目元と半月のように縁取られたニコニコスマイル。
その周りにはキラキラの星を描いていた。
絶賛芸術活動中のミュゲイアは部屋に入ってきた1人のドールに気がつくのがやや遅れてしまった。
「や」と言う言葉が聞こえてから顔を上げれば目に入ったのは真紅の薔薇のような髪の毛のドール。
顔に浮かべているのはミュゲイアの大好きな笑顔だった。
この子も愛すべきオミクロンの1人。
ミュゲイアはパタリとノートをその場に置いてから地べたに座るのをやめて立ち上がり、目の前のドールの元へと駆け寄った。
「ロゼットだ! こんにちは! 今日も元気? ロゼットは今日も素敵な笑顔だね!」
「元気だよ。ミュゲイアにそう言ってもらえると、私も嬉しい」
何を描いていたのかは知らないが、それなりに楽しいことをしていたのだろう。
彼女の頭を優しく撫でながら、ロゼットは返事をする。
見た目こそ可愛らしいが、相手は昔からオミクロンにいる先輩ドールだ。あまり子ども扱いをするべきではないが、そんなことは考えてもいないのだろう。
「何をしていたの? よかったら、私にもさせてほしいな」
ドールとして何かしなければいけない、という使命感を抱きているわけでもないし。
時間は腐るほどあるのだから、共に何かをするのも悪くないだろう。
《Mugeia》
「えへへっ! ミュゲもね、ロゼットの笑顔見たら嬉しくなるよ! だからもっと笑って!」
彼女に頭を撫でられれば柔らかく目を細めて心地よさそうにする。
頭を撫でられるのは嫌いじゃない。
撫でるのも嫌いじゃない。
どっちにもその行動には笑顔が伴うから。
ミュゲイアは笑顔が大好きだから、ロゼットにもっとを求める。
もっと、もっと、笑って欲しい。
ロゼットはもっと笑ってくれる子だから。
「えっとね、絵を描いてたの! ちょっと待ってね。
じゃじゃーん! どうかな! ちゃんと笑顔に見える!?」
何をしていたのかと聞かれればベッドの上に置きっぱにされたノートを取ってきてから先程まで描いていたイラストのあるページを見せる。
拙いその絵は上手いとはお世辞にも言えないものであり、やけに気持ち悪いほどの笑顔の主張されたイラストである。
周りに描かれたキラキラのお星様たちにもなぜたニコニコスマイルを描いている。
なんとも子供が描いたようなイラストだ。
笑顔らしい笑顔を薄く浮かべることこそできるが、あまり言われてしまうと嘘臭くなってしまう。
事実、笑顔を“深めた”ロゼットの表情は芝居がかったものになっていた。
だがまあ、きっと相手も気にしないのだろう。間違いなく、このドールは笑っているのだから。
「へえ、すごいね。お星様がたくさんあるけれど、これは夜に描いたものなの?」
絵の技巧についてはよくわからない。だから、とりあえずそれが関係ないところから話してみることにした。
オミクロンの生徒──では、ないのだろう。特徴には見覚えがない。
「新しくできたお友達?」なんて、耳に髪をかけながら問いかける。
《Mugeia》
もっと笑ってと頼めば目の前のドールは芝居がかった笑顔を見せた。
操り糸で吊るされたような笑顔であるけれど、ミュゲイアはそんなの気にしなかった。
笑顔は笑顔だから。
それ以上でも以下でもないから。
笑顔ならそれでいい。
その笑顔の裏なんて見ない。
それがミュゲイアだから。
何も気にすることなくミュゲイアは満足気に笑う。
とても素敵と言わんばかりに笑顔に対して笑顔で返した。
「そう! 天体観測! これがニコニコの星! こっちはスマイルの星! それでね、こっちの7つの星は北斗七星って言うの!
うん! ミュゲの同志なの! アラジンって言ってね笑顔が素敵! ちょっと変わったドールだけどとっても素敵な子なの!」
絵のことで質問をされればニコニコと答えた。
星を一つ一つ細い指で指しながらありもしない星の話をする。そして、アラジンに教えてもらった星の話。
7つの列なる星のお話。
ミュゲイアとアラジンが見たあの星座のこと。
そして、アラジンのことを聞かれればノートに向けていた視線をロゼットに戻してからにっこりと答えた。
大切な同志と。
わざわざ星など見上げたこともないから、ロゼットは「へえ」とだけ返事をした。
ニコニコの星と、スマイルの星は実在するもののようには見えない。
しかし、北斗七星はやけに具体的な名前だ。これはきっと実在するものなのだろう。
「アラジン……って子は、聞いたことがないね。でも、ミュゲの同志ならいい子なんだろうね」
友達も同志も、ロゼットにとっては区別し難いものだ。
敵意がなく、友好的な存在なのであれば、どちらも味方としてカウントできる。友達だろうが同志だろうが、呼び名が違うだけでそう違いはない。
ミュゲイアだってきっとそうだろうから、彼女は適当なことを抜かした。
「そういえば、私も秘密の仲間を作ったんだ。先生には言っちゃ駄目みたいなんだけど……知りたい?」
《Mugeia》
ミュゲイアもロゼットと似たようなもので、今まで星なんて見上げたことはなかった。
星に笑顔なんてないから、あまり興味を持てなかった。
けれど、それが変わったのも例の同志と知り合ったから。
同志と真似して呼んでいるけれど友達と同じとしてでしか思っていない。
同志も友達も笑顔なら一緒のものである。
そこから笑顔が溢れるなら変わりないもの。
同志であれお友達であれミュゲイアはいっぱい作りたいものだから数いて困ることもない。
「最近トイボックスに来たんだって! うん! とっても笑顔が素敵だよ! キラキラなの! 二カッて笑うの! こんな感じ!」
笑いながらミュゲイアは答えた。
とってもいい子でとっても笑顔の子。
笑顔が素敵な新しいお友達。
新しい笑顔。
アラジンの笑顔を真似するように真っ白な歯を見せてミュゲイアは笑って見せてからロゼットの言葉に耳を傾けた。
「なになに〜! 知りたい! 秘密の仲間ってどんなの? わかった! 笑顔の仲間でしょ!」
秘密のお話。
先生には内緒のお話。
それを笑顔の話と思い込んでミュゲイアは茨に触れる。
「新しい子なんだね。もう仲良くなれるなんて、ミュゲはとってもすごいよ」
年齢で言えば逆だろうに、姉のような口調でロゼットは告げた。
誤解されやすい彼女とは違い、ミュゲイアは真っ直ぐ相手に向かっていけるドールだ。
新しく素敵なものを見つけて、同志にもなったことを、「すごい」と思ったのはお世辞でも何でもない。
「トイボックスの先輩だから、色んなことを教えてあげなきゃね。門限のこととか、学園の構造とか……お披露目のこととか」
満面の笑みから、活力が抜ける。
言われた当初は呑み込めなかったが、冷静になってから振り返ると、中々おぞましいことを言われたものだ。
銀の目を眠たげに細め、「笑顔の仲間じゃないんだ。残念だけど」とロゼットは呟いた。
「ミシェラがお披露目に行っちゃったでしょう? あれ、本当はヒトにお迎えされたんじゃないらしいの。詳しくはリヒトかフェリシアに訊くといいよ」
ぽそぽそと、叱られた子どものように口にする。
聞き取れたかは分からない。だが、リヒトとフェリシアが何かを知っているのは間違いないわけだ。
「困ったら、彼らに話してみるといいよ」と付け足す頃には、ロゼットもすっかり満面の笑みに戻っていた。
《Mugeia》
「えへへっ! 今度ロゼットにも紹介するね!
そっか! ミュゲの方がお姉さんなんだ! ……あれ? ロゼットどうしたの? 笑って?」
いつだってロゼットはミュゲイアにとって姉のように言葉をかけてくれる。
ミュゲイアのお願いを沢山聞いてくれて、受け止めてくれる優しい存在。
オミクロンクラスに来たのはミュゲイアの方が先ではあるけれど、それでもロゼットの方が落ち着きがあって姉のようである。
優しい優しいお姉さん。
そんな彼女が満面の笑みで話してくれてミュゲイアもニコニコと話を聞いていたけれど、ふと笑顔が消えた。
いきなり緞帳が落とされたみたいに。
暗転するように、さっきまでの笑顔はどこかえ消えて、ドクンと一際大きくコアが燃える。
「……え? えっと、じゃあミシェラはどこに行っちゃったの? でも、お父さまはミシェラもお披露目に選ばれたって言ってたよ? ……あれ? じゃあ、なんでお父さまはあんな事言ったの? ミュゲ達に嘘ついたの? 意地悪してるの? でもお父さまは笑ってたよ。」
ポソポソと語られた内容はなんとも信じ難いような事であった。
ミシェラがヒトに迎えられたのでないというのなら、ミシェラはどこへ行ったのか。
あの子はお披露目に選ばれたのに。
唯一の大人であるお父さまもそう言っていたのに。
ミュゲイアの頭の中はグルグルと混ぜられた。
笑ったままの口元を触る。
やっぱり、ミュゲイアは笑っている。
そして、お父さまも笑っていた。
ドールがヒトに迎えられる以外の道なんてミュゲイアは知らない。
だって、今までなんの疑問も持ち合わせていなかったから。
訳の分からないミュゲイアはブツブツと呟くように言葉を返した。
飲み込めないというようで、笑いながらロゼットを見つめた。
どこに行ってしまったのかは、ロゼットにも分からない。
実際に見ていない彼女では読み取れなかった、という方が正しいだろう。
「ミシェラにとっては嫌なことでも、先生にとってはいいことだったのかもしれないよ。秘密にしてって言われたから、先生には訊かない方がいいかもしれないね」
今まで植え付けられてきた常識を否定する、というのは非常に難しい。
ロゼットはまだ作られて日も浅いため、「そういうことだったのか」と受け入れられたが、ミュゲイアもそうかはまた別の話だろう。
「ごめんね」
何について謝っているのか、自分でも分からないまま。赤毛のドールは苦笑しながら口にした。
《Mugeia》
「……そうなんだ。でも、お父さまが笑ってるなら何か理由があるのかも! いい事ならミシェラは笑ってたかも! だって、ミュゲも笑ってるし、ロゼットもわらった! ……お披露目に笑顔はあるよね? なかったら、ミュゲすっごく残念だよ。」
クルクルと頭は動く。
お披露目以外の何かがあるのかもしれない。
それこそ、√0だとか。
ミュゲイアには分からないけれど、お父さまにとってはいい事で笑っていたのならミシェラも笑っているかも。
それもいい事なのかも。
だって、ミュゲイアは笑っている。
ロゼットもごめんねと言いながら笑っている。
そうやってまた自分の感情を誤認する。
実際に見ていないからなんとでも言えてしまう。
ただ、ミュゲイアが怖いのはお披露目に笑顔がないこと。
ヒトにお迎えされなかったのは何かのアクシデントだとしても、笑顔がないなら嫌だ。
笑顔がないからミシェラはヒトのところに行かなかったのかも。
ねぇ、お披露目に笑顔はありますか?
ミュゲイアはただそれが気掛かりだ。
笑顔がないならお披露目は嫌。
笑顔のないところに行くのは嫌。
「そうだったらいいね。話してくれたリヒトは、全然笑顔じゃなかったけど……」
気分を下げるようなことを言ってはいけない、とは思っている。
しかし、口は頭に反して勝手に回る。
何故こんなことを口走ってしまうのだろう。ミュゲイアを悲しませることは、ロゼットの本意ではないというのに。
「お披露目について、調べてみるのはどうかな。調べてみたら、みんなが笑顔になれそうか分かると思うよ」
ね、と小首を傾げる。
結局、最終的に判断を下すのは自分の心なのだ。
誰が何と言おうと、笑おうと笑うまいと、真実は間違いなくどこかに存在する。
「もしよかったら、一緒に調べよっか。ついでに探したいものもあるの」
ミュゲイアの手を握る。安心させるように、ぬくい両手で温度を揉み込むように。
ロゼットは、今度こそ美しい笑みを湛えてみせた。
《Mugeia》
「……リヒト、笑顔じゃなかったんだ。ミュゲ、リヒトが笑顔じゃないのヤダな。」
お披露目がどうかは分からなかったけれど、その話をしてくれたドールは笑顔でなかったようだ。
それをミュゲイアは残念に思った。
リヒトには笑っていて欲しい。
どのドールに対しても思っていることではあるけれど、笑っていてくれないと困るのだ。
笑顔しか見ていないから。
笑顔しか欲しいと思えないから。
笑顔を作れるドールが笑顔じゃないのはとても悲しいことである。
「そっか、ミュゲが調べればいいんだ! そうしたら笑顔かわかるもんね! ロゼットは頭いいね! 天才!
ミュゲも気になることあるし、いいかも!
ロゼットが手伝ってくれるなら嬉しいな! 秘密の仲間っていうのも誰がいるのか気になるし、ロゼットは何を探したいの?」
分からないなら調べればいい。
その答えは単純明快で、分からないなら見ればいい。
箱の中身が何かわからないならそれを自分で開ければいい。
ピンときたようにミュゲイアはその提案を飲み込んだ。
分からないことは分かればいい。
ミュゲイアの手を握ったその手は繊細で温かくじんわりとそれが伝わってくる。
ロゼットの笑顔を見て、ミュゲイアもこの選択は間違っていないんだと思い込み微笑んだ。
どうやら提案はお気に召したらしい。
はしゃぐミュゲイアを見て、ロゼットは安堵した。
落ち込み続ける相手への対応など知らないし、先生に秘密にしていたことがバレては怒られてしまうかもしれない。
「そうだねえ」なんて返しつつ、彼女は薄ぼんやりとした記憶の輪郭をなぞった。
「秘密の仲間は、リヒトとフェリシアだよ。あと、プリマドールだった子たちも何か知ってるみたい。私は花を探したいんだけど、あんまり上手く思い出せなくて……思い出したら、またみんなにお願いするよ」
ミュゲイアの手が温かくなってきたあたりで、ロゼットは手を離す。あまり触っているのも申し訳ないからだ。
これ以上伝えられることも思いつかないし、あと数個ほど質問に答えれば、彼女は自分のベッドに戻るだろう。
《Mugeia》
「えっ、ストーム達も知ってるの? 割と知ってる子多いんだね! プリマドールだった子達は秘密の仲間じゃないの?」
秘密の仲間というのは楽しそうに思えてしまう。
好奇心をくすぐるというか、冒険しているような探検隊のようなそんな感じになる。
元プリマドールであるあの4人も何か知っているらしいと言われればミュゲイアは目を見開いた。
もしかしたら、このお披露目が危ないという話はもうオミクロンクラスにじんわりと広がっているのかもしれない。
呑気なミュゲイアが知らなかっただけで。
手を離されてもミュゲイアは何も言わなかった。
自由になった手は何をするでもなくただ垂れている。
「そうみたいだね。でも、プリマドールの子たちは違うところに行っていたみたいで……はっきりとは知らないのかな。嫌なものを見たのは、多分同じだと思うけれど」
ソフィア、アストレア、ストーム、ディア。
彼ら彼女らとは、お披露目以降話をしていない。
それがいいことなのか、悪いことなのかは、正直まだ判別がつかなかった。
「変な話ばっかりしてごめんね。ミシェラがお披露目に行ったばっかりで、みんな浮き足立っちゃってるのかも。私は一旦寝るよ」
手を離したロゼットは、相手の煩悶などまるで気付かないようだった。
何も言われなければ、さっさと自分の棺桶に向かい、「じゃ」と横になってしまうことだろう。
それからは、安置室のような静寂が残るばかりだ。
《Mugeia》
「そうなんだぁ。ミュゲもプリマドールの子達と喋れてないけど、なんか忙しそうだよね!」
元プリマドールであるあの4人も何かを知っているとしても、ミュゲイアにはあまり食い付きのない話に思えてしまった。
そうなんだとしか言えないところがあり、みんなで何かをしているのかなんなのかも分からない以上どうとも言えない。
正直、笑ってさえいてくれればどんな境遇にあっていてもいい。
極論のような話ではあるのけれど、ミュゲイアは笑ってさえしてくれてたら良いのである。
ミュゲイアだって笑うためにお披露目を知りたいのだから。
「ううん! ミュゲはロゼットが笑ってくれたらそれでいいよ!
おやすみ、ロゼット!」
ミュゲイアは眠るという彼女のことを止めはしなかった。
おやすみと言葉を返してから、ミュゲイアは先程と同じように芸術活動をし始める。
トイボックス・アカデミー、講義室A。生徒たちにとって、非常に馴染み深い場所のひとつだ。
講義に耳を傾けたり、陸に居ながら舟を漕ぐことができたり。その用途は多岐に渡る。
その日、ロゼットがやってきたのは偶然だった。
講義後、うっかり置きっぱなしにしてしまったノートを取りに来たのである。
誰かが間違えて持っていってしまっても大変だし、落とし物として届けてくれるような優しいドールもそう多くない。
とりあえず、自分の座っていた席や、その周囲を覗き込み、落とし物を探してみることにしよう。
あなたは珍しく授業の予定もなく、閑静な講義室に踏み込む。大抵は残って勉強している熱心なドールが滞在していることの多いこの場所だが、今はもぬけの殻のようだった。
見渡す限りドールの気配はない。
講義室は、各クラスの先生による座学を中心に使用されている。部屋の左手側の壁には広い黒板が張り付けられており、教壇と、揃えられたドールのための机と椅子が存在する、シンプルな教室といったところか。
この部屋の手前側の壁には、教材などをしまっておく備品室へつながる扉も存在する。
「あん、べー、りんぐ」
Unveiling。
板書の白い文字がこちらを見ている。
確かお披露目とか、そんな感じの意味だった気はするが、それに気を取られることもなかった。
ロゼットの頭に、大したものは詰まっていない。幕が上がったところで、照らされていることにさえ気付かないのだ。
今一番大切なのは、ノートを見つけることである。
「あれ?」
しゃがみ込んだ矢先、前方の机の下で何かがきらめく。
鏡だろうか。それとも、誰かの落としたペン?
どちらにせよ、拾ってあげた方がいいかもしれない。一旦立ち上がると、ロゼットはそちらに向かい、キラキラした何かに手を伸ばした。
講義室の前方の座席の下にあなたがめざとく見つけた、何かきらきら輝くもの。あなたは興味を惹かれてか、それに手を伸ばす。
暗がりにひっそりと落ちていたのは、鈍色に輝く美しい細工が施されたペンダントだった。銀製のチェーンが途中で潰れて途切れており、実際に身に付ける事は難しそうであったが。装飾部分にはロケットが取り付けられているが、硬くて蓋を外すことは難しそうだった。
また、ロケットの裏側には、『H.Schreiber』という刻印がされているのを見付けた。
誰が落としたのだろう。
ペンダントを手のひらに乗せて、ロゼットは首を傾げた。
こんなに綺麗な物を落としてしまうとは、余程不注意な者がいたらしい。刻印を目で追いつつ、そんなことを考える。
「H……Hから始まる子、いたっけ」
そもそもドールだというのに、よく分からない苗字がついているのも不思議な話だ。
それをポケットにしまい、ロゼットは顔を上げる。
──備品室に、持ち主がいたりしないだろうか。
ふんわりと浮かんできたアイデアが、長い四肢を動かす。
ドアノブを握り締めて、彼女は備品室に繋がるであろう扉を開けようとした。
開けようとした──が。
『あの、魔女。ヘンゼルを狂わせた……許せない悪魔。──ソフィア! 絶対に許さない、あの女……殺してやる、殺してやる……!!!』
聞こえてきたのは、誰かの言葉であった。
弾かれたように、ロゼットは手を離す。誰かが聞いていたかもしれないが、そんなことは気にもならなかった。
「悪魔……」
まるで電気が流れたかのようだ。ノブを握っていた手を、もう片方の手でたださする。
剥き出しの悪意を、怨嗟を、ロゼットは知らない。ましてや、抱いたこともない。
──悪魔なのは、あの子の方じゃない?
ノートのこともすっかり忘れたまま、彼女は講義室Aから飛び出した。きっとガーデンにでも向かうのだろう。
刺々しい感情は、嬰児にはまだ早すぎた。──こんな調子で、この先どうやっていくつもりなのだろうか。
「これ、誰のか知ってる? 知らない? ならいいよ。ありがとう」
こんな言葉を、ロゼットは一日中繰り返している。
ペンダントを拾って数日。持ち主らしきドールは見当たらず、流石の彼女も重い腰を上げた。
なくした当人はきっと困っている。だから、渡してやらなければならない。
純粋な善意から聞き込みを行うが、誰からも心当たりを聞き出すことはできなかった。
そもそもオミクロンというだけで逃げられていた、というのが正しいところだが──まあ、ロゼットはそんなこと気にも留めないのだろう。
そして。やって来たのは、講義室A。
講義終わりのドールたちに、ペンダントのことを訊こうと思っているのだろう。
部屋の中を覗き込むと、「この中で頭文字がHのドールはいる? 落とし物だよ」なんて声を出してみるはずだ。
あなたは扉を開いた直後、藪から棒に講義を受けていたドールズに問い掛けただろう。室内に留まっていた彼らは少し動揺して、ざわざわとどよめき顔を見合わせる。
そして口々に、「わたしは違う」と返答しながら、彼女らはあなたの横をすり抜けて次の授業へと駆け出していく事だろう。
──そんな中。
あなたの目の前に一人のドールが歩み寄ってきた。あなたの鮮やかな深紅の髪色よりも幾らか暗い赤毛の短髪を流した、背の高い少年ドールだった。彼はあなたを胡乱げに見下ろしている。そこに付近で荷物を纏めたドールが、捕捉するように親切に述べた。「彼はヘンゼル。頭文字はHだよ。やあ君、落とし物なんかしたの?」なんて声を掛けるも──すぐに、急がないとと立ち去っていった。
「……それで? 俺に何の用だよ。早く言えよ、次の授業があるから。」
ヘンゼルと呼ばれた少年は、低い声であなたに訊ねる。大半のデュオがそうであるように、なんとも偏屈そうで取っ掛かりづらそうな印象を受けるだろう。
「こんにちは、ヘンゼル。時間がないならすぐ終わらせるけど……あなた、ここでペンダントの飾りを落とさなかった?」
単刀直入である。
彼の無愛想な態度は気にも留めず、ロゼットは薄く笑んだ。
取り出して、手のひらに乗せたのはペンダントの飾りだ。相手が手に取るようであれば、特段拒みもしないだろう。
「この前、探し物をしていたら見つけたんだ。色んな子に訊いてるんだけど、中々落とし主が見つからなくて……まあ、シュライバーって誰? って思うだろうしね。あなたはどう?」
小首を傾げると、深紅の髪が揺れた。
もしも持ち主だったら、ヘンゼル・シュライバーになるのか──なんて考えながら、ゆっくり返答を待っていることだろう。
ヘンゼルはあなたから差し出された物品を胡乱げに見下ろすだろう。そして眼を見開き、あなたが抵抗しないのを良いことに、即座にひったくるようにそれを奪い取るだろう。
いかにもなアンティークで、チェーンも千切れてしまっているような不良品だが、ヘンゼルはそれをまるで拠り所かのようにキツく握りしめて、じっとりとあなたを睥睨する。
「……どこで見つけた? ロケットの中身は見てないだろうな?」
敵愾心剥き出しの張り詰めた声で、彼はあなたに問い掛ける。それから彼は、ペンダントの状態を確認するようにじっと上下左右からよく確認し始めた。
「これは俺の私物だ。……この学園で目覚めた時から持たされていた。先生から決して無くしてはいけないと言われているものだ。
先生が……俺に期待している証だ。俺は他のドールとは違うんだ。これは返してもらうからな」
ヘンゼルは安堵したように息を吐いて、それを懐に仕舞う。彼自身もどうやら、ペンダントの詳細については知らないようだ。
乱暴に触れられたことは驚いたが、怒るほどでもないらしい。
目を猫のように見開いて、それから「何も見ていないよ」とロゼットは言った。
「そもそも、これって開くんだね。硬いからそういう風にできてるんだと思ってた」
へらり、柔らかな表情が面に浮かぶ。
持ち主のところに戻すことができたのを、嬉しく思っているのは間違いないようだ。
「大事な物なんだね。期待されたことないから、あなたの責任感は理解してあげられないけど……とりあえず、先生にバレる前に直しちゃったほうがいいと思うな」
他にこういうのを持ってる子はいるの?
相手の目を見ながら、ゆっくり瞬きをひとつ。問いかけたのは、何の気もない一言だ。
「歪んでいるから簡単には開かないだけだ。どうやっても開けないロケットがある訳ないだろ」
驚いた様子のあなたへ、謝罪もなければ届けに来てもらった感謝も口にしない。ヒトを慰め励ますような対話を主としないデュオモデルだからというには、ヘンゼルはいささか偏屈で不遜な印象を受ける少年だった。
言動の節々から他者への見下しが感じられる。同時に彼は周囲に敢えて刺々しく接して味方を作ろうとしていないようにも感じた。
「……このペンダントは元々こんなふうに壊れていたんだ。俺も直すべきか先生に確認したが、これはこのままが正しい形なんだと言って聞き入れてくれなかったんだ。
別に俺が壊したわけじゃない、当然だろ」
ヘンゼルは息を吐いて、机上に残していた自身の教材を回収する。次の授業場所へ向かう準備をしているのだろう。
「そうなんだね。なら、中身を見るのは大変だっただろうね」
馬鹿にされたとしても、気付かなければ傷付かないらしい。
表情を変えないまま、ロゼットは問いを投げ続ける。相手が立てた柵をすり抜けるようにも見えるが、これもまた跳ね返されてしまうのだろう。
「先生はそう言ってたみたいだけど、あなたはペンダントを直したくないの?」
視線は教材に向いていた。ノートが、教本が、一つの束へとまとめられていく。
そういえば次の授業はなんだっただろうか。そんなことを考えたが、予定を把握していないロゼットには思い出せなかった。
彼女はまるで押しても響かない、軽やかで重みもない、窓辺で揺れるカーテンのように掴み所のない振る舞いをしていた。ヘンゼルはそれに対して、どうにも相手にとってやりづらそうな、複雑そうな顔で眉を寄せている。相手に感情の機微が読み取りにくいのが気持ち悪いのだろう、そもそもあなたがそういったものへの関心が希薄であるとも気が付いていない様子だ。
「直さなくていい。先生がこの形で間違いないと言うんだから、それが絶対だ。人形風情が先生やヒトの言葉に疑問を抱くなんて、あってはならないことだ。
ドールはただ仕えるヒトに対して従順で献身的であらなければならない。授業で初めに習っただろ」
ヘンゼルは四角四面な優等生のドールが口を揃えて言う『従順』と言う言葉を使ってあなたの問いを否定すると、そのまま講義室を出ようとする。引き止められなければそのまま出て行ってしまうだろう。
何故そんな顔をするのだろう?
ヘンゼルの表情を見て、彼女はミュゲイアの顔を思い出した。
落としたものが見つかったのに、笑顔ひとつも浮かべはしないなんて。きっと他に悩みがあるのだろうと、トゥリアは思う。
「そうだね。でも、献身する子の方が嫌な気持ちになったら元も子もないと思うけどなあ……大事な物なのに、今みたいに落としてたら寂しいでしょう」
特にロゼットが追いかけることはない。
つまらなさそうなドールが出ていくのを、ただ見守っている。
「またなくしたら言ってね」なんて、親切心からの言葉を投げかけながら。
《Odilia》
リヒトお兄ちゃんと別れてから数十分後。
何をするのか、何をしようか、誰か居ないかふわりふわり、ゆらりゆらりと、小さな森の中を探索した。
綺麗な木陰、小鳥の囀り、変な模様の葉っぱ、全部全部楽しいけれど、飽きてしまった。
あとは何をしようかと考えてれば結局寮に戻ってきていた。
「う〜ん本当に何しようかな〜。
オディーが今したいこと」
頑張って可愛い頭を使い考える。
かけっこもした、本を読むこともした、鬼ごっこは独りだからできない。
ふとここで思い出す。
ダンスホールが空いてなくて、結局考えて踊ることを実行できないことを。
幸い寮前、お姉ちゃんお兄ちゃん達しかいない&広いステージが広がっていた。
そうだ! ここなら踊れるかもしれないと顔を喜ばせる。
「そうと決まれば早速準備運動……まぁかけっこしたし大丈夫かな?
身体いっぱい動かしたし!」
大丈夫だと思い見切り発車とも言わんばかりだが大丈夫だろう。
頭の中に憧れの姉を思い浮かべる。
記憶の中のお姉ちゃん、バレエが上手で素直になれない赤髪のお姉ちゃん。
キラキラした姿に自分は憧れていた。
そのお姉ちゃんの動きを真似る。
「えっとここをこう構えて……。」
クルクルとつま先立ちをしながら回転し足を伸ばすタイミングでかかとをつける。
フェッテ・アン・トゥールナンという技である。
靴でよくできるなと他人は思ってしまうだろうが、これも練習の賜物で、まぁ裸足でやった方がやりやすい。
顔も真剣な眼差しで、これだけは譲れないという気迫を感じるであろう、近くに誰かがいるのなら。
真白く舞う姿は白鳥のようにきっと美しいであろう。
白銀の髪が、翼のように広がるのを見た。
「何をしているの?」
ロゼットが声をかけたのは、ほんの気まぐれであったのだろう。
美しいものを見た、というのもあったし。本人が単純に暇だったということもある。
まだ何もない日常の一幕だ。緊張感と呼べるようなものは、まるで持っていなかった。
「その動き、綺麗だね。どうやってやるの?」
機敏なテーセラとは違い、トゥリアは身体を動かすことに長けてはいない。
デュオのように、見ただけで物事の本質を理解し、再現することもまた難しい。
だが、ロゼットはその動きを真似したいと考えていた。
赤い鳥など早々居はしないが、可愛らしい同級生と同じことがしたかったのだろう。
教えてもらえずとも、いつもの薄笑みを浮かべ、オディーの動きを見ているだろう。
《Odilia》
ふと、優しい声が聞こえ白鳥は水辺に止まるように回転を止める。
止まる姿も優雅であり頭からつま先まで白鳥になりきってた彼女は声をかけられた方を向く。
そこには薔薇のような赤い髪をしたお姉ちゃんが。
「あ、ロゼットお姉ちゃん!
えっとね、ダンスホールが空いてなかったから、何処かで踊りたくって、ここでバレエを踊ってたの!」
そう質問に対して明るく答えるだろう。
そのあとどうやるのか聞かれる。
どうやるのか……説明が難しい、自分は記憶の中のお姉ちゃんを真似して踊ってるだけだから、でもお姉ちゃんにもバレエの楽しさを知って欲しいし。
「うーんと、まずは多分回転中に足を伸ばすのは難しいと思うから普通に片足でつま先立ちしながら回転できるようになればいいと思う。」
といいロゼットお姉ちゃんにお手本を見せる。
片足でつま先立ちをしながら4回程度クルクル回る、まるでオルゴールの人形のようにクルクルと。
お勉強を教えるのは少しはできるけれど、こうやって感覚でやってたバレエを教えるのは難しい、これで伝わってるかな、大丈夫かな、と心配になりながらも、できる? と貴女に聞いてみるだろう。
「バレエ……その踊りがバレエって言うんだ。すごくシャープでいいね」
褒め言葉として相応しいかはともかく、彼女はそう返した。
うっかり「コンパスみたい」とでも言えば怒られかねないが、これぐらいならまだシンプルな賛辞のラインだ。
そして。そんなオディーの動きを真似るのは、ロゼットには難しかったらしい。
片足で半回転をし、姿勢を崩してふらつく。
そんなことを数回繰り返したが、彼女は中々楽しんでいるらしい。
「ふふ……そのうち早く回って、コマみたいになったら面白いね。ねえ、コツはある?」
つむじから糸を引くように、自分の頭上に手を掲げる。
そうしてようやく一回転し、「こんな感じ?」とロゼットは目を輝かせた。
《Odilia》
「ロゼットお姉ちゃん上手だよ!
そんな感じで大丈夫だよ、その回ることを何回かできるようになればオディーみたいに踊れるようになるよっ!」
シャープでいいと言われてちょっと嬉しい。バレエはオディーにとって1番自慢できること。それを褒められるということは、今までの努力を認められたようでちょっと嬉しい。
擬似記憶の中のお姉ちゃんみたいにはまだまだできない、でもそれでも褒めて貰えたことに心が明るくなった。
ロゼットお姉ちゃんにももっとバレエの楽しさ面白さについて知って欲しい。
でもきっとお姉ちゃんには難しい、でもクルクル回ってるだけでも楽しいと言ってくれた。
「じゃあもっとクルクル回ろう〜お姉ちゃんもきっと楽しいよ?」
クルクルと数回回り、丁寧に貴族がしそうなお辞儀のようにふわりと止まる。
今も楽しいけれどもっとみんながいればもっと楽しい、でもロゼットお姉ちゃんと2人でも楽しいのだ。
みんなでいつかダンスパーティーしたいなと思いながら、練習のようにもう1回楽しくくるりと回る。
子犬のように喜ぶオディーリアを見て、ロゼットは目を細める。
自分の何を楽しんでいるかは分からないが、仲間が楽しんでいるならそれに越したことはないのだ。
「いいよ。どっちが綺麗に回れるか、見せ合いっこしようか」
花弁が風になびくように、ロゼットは舞う。
そのじつは回っているだけだったが、曲がなくても、舞台でなくても、彼女は楽しかった。
木の騒めきが聞こえてきて、木漏れ日が降り注いでいて。
何より、共演者が横にいる。今はそれだけでいいのだ。
回りすぎて目が回り出した頃、ロゼットは地面に座り込む。そうして、「楽しかったけど、つかれたね」なんて呟くだろう。
《Odilia》
音楽なんて流れてないのに流れてるように感じる空間。
狼は白鳥となり、地面を水面に見立て羽ばたくように飛んだり、水面を泳ぐように回る。
1種の演技のように……。
ふわりふわりと優しく。
とはいえ、走った後、長い間踊ったこともあり、ロゼットお姉ちゃんの疲れたねという言葉で、白鳥は水面で翼を休めるように止まる。
「流石に、テーセラのオディーでも疲れたかも。
踊る前に走ったりしたしでもでも久しぶりにちゃんと踊れたから楽しかった!」
そう言えば彼女は地面へ座り、見てくれたロゼットお姉ちゃんに感謝を込めたのか頑張って練習した笑顔を指で作り見せるだろう。
「まだまだ下手だけどバレエも笑顔も頑張らないと!
もっと上手になったらお姉ちゃんまた見てくれる?」
なんていう可愛らしい質問を首を傾げながら貴方に尋ねるだろう。
「うん、楽しかったね……でも、体力がないからついていけるように練習しないと」
かなり疲弊しているようだが、楽しかったという言葉に偽りはない。
いつも通り、本心からの微笑みで、彼女は口にした。
「もちろん、いいよ。上手にならなくても、別のことでも、いつでも見てあげる」
頭を撫でようとして、手を引っ込める。
彼女は触れられることを好まない。笑顔もさほど上手くはない。けれど、望めばきっと叶えようとしてくれるだろう。
ありのままの彼女が愛おしいから、無理はさせたくない。
「だから、また一緒に踊ろう」
希うように、それだけを約束のように口にする。
彼女は差し出した手の、小指以外を握り込んだ。