《Felicia》
ドールたちの憧れ、お披露目会。
会に向けて努力する友達を横目にフェリシアは意思の固まった瞳を燃やしていた。
あの夜みた光景を、私たちのミシェラちゃんを絶対に忘れてはいけない。そして知った。そこら中に敵は潜んでいるかもしれないと。
開かずの扉の正体、ミシェラちゃんの末路、覚えていることを全てノートに書き出す。拾った資料とミシェラちゃんの赤いリボンをノートに挟んだら、ペンと一緒にバックへ入れてある場所へと歩き出した。
先ずは、なぜあの日アストレアちゃんとソフィアちゃん、元プリマのみんなが外に出ていたのか。
その真相を知ろうと学園2階備品室、人気の少ないその場所に相棒であるアストレアちゃんを呼び出す。一瞬、フェリシアは愛すべき相棒が来てくれたことにほっとして安堵の笑顔を見せるが、ハッとなって顔を強ばらせるのだった。
「ねぇアストレアちゃん。
昨日の夜、何してた────?」
その問いかけは重かった。
もう、後戻りはできないのだ。
あの夜の事は現実である。些か信じ難い、悪い夢かの様なその真実は、彼女の繊細で鬱くしいコアを強く締め付けた。
自分たちが今まで信じて居たものが、憧れてきたものが、偽りであったと言う現実。彼女は、アストレアは、決して馬鹿では無い。彼女は、誰よりも現実を真っ直ぐに見詰めるドールであった。分かっている、あれは夢なんてものじゃないことを。
目を閉じれば浮かぶのは赤、赤、赤。夢ならばどんなに幸せだったでしょう。御伽噺であれば、どんなに幸せだったでしょう。
自分たちがこの平和で安全な箱庭でただ単調に飼い殺されている事を知ったとき、彼女は──今までで一番上手く笑った。それはエーナの設計。周りを欺くための、美しい仮面。彼女は嘘の得意なドールであった。御義父様に悟られてはいけない。何がなんでも、絶対に。次にああなるのは自分かもしれないのだから。
「ごきげんよう、フェリシア。」
そんな考え事をしながら、相棒の呼び出しに応えるべく備品室へとそのかんばせを覗かせた。アストレアは、オミクロンに来る前から仲良くしてくれて居た彼女、フェリシアを信頼していた。その顔に安心感を覚えつつ、呼び出しの理由を悟れずに、微かな違和感を感じたままで居たのだった。
「…………My Dear Hero,見ていたのかい?」
何してた? そんな問いに、表情1つ変えずに、否、微かに口角のその緩やかな傾斜を下降させ、そう訊ねた。まさか見られて居ただなんて。彼女はどこまで知っているのか? 出来ることなら、彼女の可愛らしい笑顔を奪う様な真似はしたくなかった。だから、どうか何も知らないでいて。
《Felicia》
アストレアちゃんは恐ろしい程に“いつも通り”だった。
緩やかな弧を描く口元も、見ていたのか、と尋ねる声音も。
それに対してフェリシアはどうだろうか。緊張した面持ちで王子と呼ばれる彼女の前に立っている。
── 今なら知らなかったフリをして引き返せるかもしれない。
だけど、だけどダメなんだ。
私は……私は、“ヒーロー”だから。
暫くしてフェリシアは、ふわっとおどけるように笑ってみせた。
「へへ、実は見ちゃってました。
危ないことをしようとしてるのかと思って止めようとしたんだ。
そしたら自分のベッドの蓋も開いちゃってることに気づいて。
ほら、夜に出るのは規則で禁止されてる訳だからさ!」
ごめんごめん、なんて謝りながら話を続ける。しかしその頭の中には、未だにミシェラちゃんを無惨にも包んだ紅い炎が渦巻いているのだった。その炎は大きく上がったかと思うと、先生の不気味な笑顔をありありと映し出したのだ。
「ねぇ、なんであのときお外に出たの? 私探したんだよ! みんなを連れ戻そうって、リヒトくんと。」
探そうとしたところまでは事実である。その後にミシェラちゃんのリボンを見つけたことで状況が大きく変わったのだが、それは後で話せばいい。
「………ねぇ、アストレアちゃん、もしかして───」
フェリシアがそこまで言うと、アストレアちゃんは自身の言葉を遮るだろう。そして話し始める彼女の言葉に耳を傾けるのだった。
目の前のドールの引き攣った様な、緊迫した様な表情をその硝子の瞳で射抜きながら、アストレアはその仮面を外すことなく、暫く黙って話を聞いていた。彼女は考えた。昨晩の惨状を、伝えるべきか否か。
アストレアは、物事を能動的に考える能力に少し欠けたドールであった。一見、頭の回転が早くなんでもできる完璧ドールな彼女だが、その行動はほとんど全てが彼女の中に造り上げられた"王子様"マニュアルに沿った物。イレギュラーな物事を考えるのはあまり得意では無かった。しかし今、其れを判断できるのは彼女本人にしか出来ないこと。
今、僕がするべきは──────
「フェリシア達のベッドも開いていたのかい? 僕達は君のベッドの施錠は解いていない……」
フェリシアのベッドの蓋が開いていた? そんなはずはない。だってソフィアも自分も"お互いの錠を開ける事しかしていない"のだから。
それにリヒトも外に出られていた、と言う状況、あまりにも不可解であった。あの緊迫した状況で、誰かが悪戯で2人の鍵を開けたとも考えにくい。
では一体誰が……。
悪い予感に見て見ぬふりをして、きっと閉め忘れだ、とそう自身に言い聞かせた。あの先生が、そんなミスを犯すはずはないと分かっていながら。
「Shh、誰かに聞かれていては困るからね。僕達の後をつけていたのかい? 全く気が付かなかった、君達は凄いね。
そう、昨晩僕達は──お披露目を見たんだ。」
フェリシアの言葉を遮ってはその麗しい顔を寄せ、相手の唇に人差し指を当てるジェスチャーをしてはふ、と息を潜めた。その長い睫毛を伏せ、斜め下に視線を遣る。扉の外の物音を聞き取ろうとしたのだ。少なくとも、エーナドールに分かる範囲では、物音がしないと分かると、ゆっくりと、一言ずつ言葉を紡いでは、その真実を、話し始めた。
《Felicia》
表情がくるくると変わるフェリシアを目の前の王子は優しく見つめていた。それは彼女が、何かを悟られないようにするために行う行動だということをフェリシアはよく知っている。オミクロンクラスに所属前から2人は仲が良く、アストレアちゃんに対しては絶大な信頼を置いていた。
だからこそ緊張しているのだ。
もしかしたら彼女は自身のことを慮って何も話してくれないかもしれないと。
フェリシアは優しくも愚かである。
元プリマドールを前に挑戦するような態度を取っている訳だ。
しかしその分、“ヒーロー”として真正面から物事を見据えることができるドールだった。
彼女の言葉に目を見開いたフェリシアは後に続ける。
「そうなの? てっきり2人のどちらかが鍵を開けてくれたのかと思ってた。よくよく考えればソフィアちゃんもアストレアちゃんも、普段悪戯をするような子じゃないもんね。
……はは、誰が開けてくれたんだろ」
アストレアちゃんが言うのなら本当なのだろう。他の子が出ていったのならともかく、元プリマドールである抜きん出て優秀なドールがそんなことをするとはフェリシアにも到底考えられなかった。
だからこそ驚いて自身のベッドの蓋に手を伸ばしたのだが──
フェリシアには暫く沈黙が走る。その後にでてくるのは乾いた笑いだけだった。鍵がかかったベッドの蓋。開けたのがふたりじゃないのなら一体誰なのだろう。
嫌な考えが頭の中を駆け巡っては消えていく。
だが先生が、……怪物が、自身の棺を開けたとしても、彼にとって何のメリットも考えられないのだ。
これは、調べる必要がありそうだ。
「………! そうなの。お披露目会を」
普通のドールなら彼女の振る舞いに頬を染めるのだろうが、フェリシアはその言動にも慣れているかのように、にっこりと笑う。
そして周りを見渡すアストレアちゃんを見て、何か重要なことを話してくれるのだろうと自身の声を落とした。
─── 彼女の言葉で紡がれるその実態が、地獄であるとも知らずに。
「開けていないよ、そんなこと一体誰が、
…………否、考えても仕方ないね。」
嗚呼、これ以上、深淵に踏み込みたくない。逃げてしまいたい。何も知らないあの頃に、戻りたい。コアの底からいくら願えども、既に知ってしまったからには後戻りなど出来ない。見捨てる事など、出来ない。皆を助けたい。そう思うのは当然の事で、アストレアも例に漏れずそう考える1人であったのだ。
ふと気を抜けば脳裏を過ぎるのは目を瞑りたくなるほどの惨状であり、本能的に恐怖を感じるほどに醜悪な怪物の姿。考えても仕方がない、そこに有る真実は、今では理解の出来ない、きっと想像を絶する物であるから。
乾いた笑いを零したフェリシアに、いつもの慈悲の笑みを投げかけたと思えば、憂いた表情で溜息を一つ零した。
「嗚呼、僕達は確かにお披露目を見たよ、見たんだ。
……ねぇフェリシア、君は、お披露目をどんな場だと心得ているのかな、少し教えてくれないか?」
彼女にしては珍しい、歯切れの悪い言葉。見た、と言う事実だけを伝え、その内容や感想までを伝える事は無かった。彼女は渋っていたのだ、フェリシアの、親愛なる相棒の夢を、憧れを、信じてきたものを、裏切りたくなかった。
真実を伝えてしまうのは容易、だからこそ、彼女を傷付けないためには一体どうすれば良いのだろう。
足りない頭で考えろ、アストレア。御前の語彙ならば、エーナドールの御前ならば、きっと上手く言える。上手く伝えられる。
フェリシア、君は、君達は、僕らを追い掛けて、一体何を見たんだい?
《Felicia》
「確かにそうだよね。誰か分からないうちは、とりあえず前向きに考えることにする!
……えへへ。アストレアちゃんありがとう!」
そんなことを言いながらもフェリシアの脳内は「開けたのは誰?」という言葉、そして背筋が凍るような恐怖で溢れていた。
開けたのは誰が何のために?
私に地獄を教えたのは一体?
開けたのが先生だったら……。
わたし、わたしは───
まだ、生きていたいのに……!!
吹っ切れた生存戦略は、身体的になんの平凡もないドールの私がみんなの為にできることは、話術を駆使して危機を未然に防ぐことだ。アストレアちゃんほど上手く取り繕えなくても、そのためなら私は“いつものお人好しなフェリシア”の笑顔で作ってやる。
もう誰にも、辛い思いをさせないと誓ったばかりではないか。
フェリシアは屈託なく笑った。
目を背けたくなるような地獄の中でも、狩られる側の私たちにも、屈する権利は必ずある。
ならば全身全霊で抗いたい。
溺れかけた立場の中、声を潜めて。
物語に出てくる「王子様」を体現したようないつもの完璧な微笑みはその言葉と共に憂いに変わる。
きっとアストレアちゃんは何かを見てきたんだ。そう確信した。
あの惨劇をみた私は、彼女がその夜何を見ていようと、驚くことはあまりないだろう。
「お披露目会の実態、そっかぁ。
今までの“フェリシア”なら、夢のある言葉をたくさん並べられていたと思うんだけど、「ご主人様に私たちを見つけて貰う場所」だと思ってるよ。
みんなは……あのおっとりした子もいいご主人様と出会えてた??」
憧れなんて、夢なんて、あの紅い炎に焼かれて一瞬で消えて無くなってしまっている。通常どおりのお披露目会が行われていたのなら良かったと思うべきだろう。
ミシェラちゃんの“お披露目会”を知っている私は、今までの自分と比較するような言葉を並べる。
その不審さに、アストレアちゃんなら直ぐに気づくだろう。
今更何を言われても気にしない。
私たちの大切なミシェラちゃんはもうこの世にいないのだから──
アストレアちゃんの悩んでいる姿を見るのは初めてに近しかった。そんなに話しづらい現状だったのか。大丈夫というように、相棒と呼んでくれる王子に笑いかけた。
「ふふ、どういたしまして。」
感謝の言葉に形式上では言葉を返しながら、彼女の脳裏は今も赤く染まり、ただ怪物の姿が醜く駆け巡る。
嗚呼、嗚呼、分かっているさ、考えても仕方ないもの。僕は王子で君はヒーロー。ねぇ、相棒、ならば僕達は、皆を、護ってやるべきじゃあないか。
「そうだよね、僕らの教わったお披露目は"そういうものだ"。
僕達だって、そう思っていたよ。昨晩見るまではね。
僕が見た光景はあまりにも異怪で、グロテスクで、夢であるにしたって奇態すぎる。何よりも鮮やかで、何よりも恐ろしくて、その真実は君の笑顔を奪ってしまうかもしれない、だから詳しくは話せない、話さない。My Dear Hero , それを赦してくれ。端的に話してしまえばね、僕らの習ってきたお披露目なんて存在しない。ご主人様に見付けて頂く、だなんて全くの嘘なんだよ。
……はは、なんて茶番なんだろうね、僕たちが受けてきたのは何のための教育……"調教"だったのだろう。
ねぇフェリシア、君達はお披露目を見ていないんだろう? 昨晩、一体何をしていたの?」
お披露目は、トイボックスドール皆の憧れる素敵なもの。夢の様なフリルとレースのドレスで身を包み、スポットライトの差す舞台の上で可愛らしく踊っては未来のご主人様に選んで頂く、そんな場。此処、トイボックスアカデミーでは当たり前にそう教えられる。情報の少ない閉鎖的なこの箱庭で、その常識を疑うには大変な覚悟と心労を伴う。しかしながら事実を目撃した彼女にはそれが出来た。それを伝える義務があった。詳しくは話さない、されど、愛する相棒に、真実を述べる。
なんて茶番、乾いた笑いを零してはかんばせを軽く傾げ、揺れる瞳に気づかれぬ様、前髪にその表情を隠した。
《Felicia》
「つまり……その……、もしかして…」
口を噤む。全身から力がふいっと抜けていくような浮遊感に、身を任せたくなった。つまり信頼していた先生も、私たちの希望だったお披露目会ですらまやかしに過ぎなかったのだ。
トイボックス・アカデミーという閉鎖された美しい箱庭の裏では、何も知らず星を求めて努力してきたドールたちの、声のない悲痛な叫びがこだましているのだ。
── フェリお姉さま〜! あの時読んでもらったお話を覚えたの! 聞いて聞いて!
愛おしかったみんなの特別も、
── きみ達も忘れもの、届けられるといいねぇ、頑張って!
応援してくれたおっとりしていたあの子も、
つまり、つまり────
駆け巡る赤い燃料が沸騰するように暑く感じた。まだ生きているのだと実感させられるそれをどう使うのが正解なのか。もう間違えたくない。後悔なんてまっぴらだ。
微笑んだフェリシアは続ける。
「アストレアちゃん、まずは教えてくれてありがとう。嬉しかった。
お披露目会は、ドールたちに残酷なことをするためのものだったんだね。ご主人様って言うまやかしはいなくて、学園に見せられていた“夢”に過ぎなかったんだ。」
フェリシアはもう止まれない。
ねぇ王子様、貴方ならヒーローの気持ちがわかるよね?
全てを伝えてくれなくとも、会話することに長けたエーナであるフェリシアには何となくその状況が分かっていた。アストレアちゃんの笑顔を取りたくないという気遣いに静かに喜びつつ話を続ける。
「私、私ね、地獄がどんなものなのか知ってるんだ。
── ねぇアストレアちゃん、
“開かずの扉”って知ってる?」
彼女ならきっと分かってくれる。
ミシェラちゃんの最期を告げられるのは、その状況をみた私しかいない。私たちの大好きなあの子の“声無き叫び”を伝えるのだ、フェリシア。さぁ、笑って?
「ごめんね、フェリシア、君の夢を奪う様な事を。」
そう、述べはしたものの、彼女は信じていた。相棒の、親友の強さに。フェリシア、君は強い。奇麗な笑顔を浮かべる目の前のドールのペリドットは、真実を知っても尚明るい。流石は親愛なるヒーロー、僕の親友。勿論、分かっているさ。"知ってしまった"僕達が今、するべき事は──
「開かずの扉……?
それは御伽噺の噺かい? それなら幾つか該当する御噺があった筈だけれど、それがどうかしたの?」
地獄、開かずの扉、該当する御伽噺が幾つかあった筈。特に御伽噺の収録に長けた彼女のメモリでは、and検索を駆使すればそれは直ぐに見付かった。されど、この状況下で彼女がその話をする意味が理解できず、底深い玻璃の瞳に困惑の色を灯しては疑問を呈した。
《Felicia》
「アストレアちゃんが謝ることじゃないよ。えへへ……大丈夫! 何となくだけど分かってるから。」
諦めたような笑顔で答えるフェリシア。自身の中のヒーローはどんなときも希望に溢れている。つまりそれを目指す自身も絶望してはいけないのだ。そしてプリマドール経験のある相棒が、自身の根の強さを信じてくれている。
──── この場所を終わらせる。残酷な運命に涙を流す子を、もう見たくはないから。
「残念ながら御伽噺や、空想の話じゃないの。ほら……エーナにいた時にみんな噂してたでしょ、学園にある『開かずの扉』の話。」
話の舵を無理やりに切って降り出したのだ。優秀な彼女でも困惑の色を示すだろう。それはフェリシアにも分かっていた。それでも構わず、静かに鞄からノートを取ると、彼女の前で開いた。あなたがノートに書き留めてある文字に目を走らせている間、はらりとミシェラちゃんのリボンと共に資料が落ちてくるだろう。
そのノートには、フェリシアがみた"あの夜"の出来事が乱雑にメモされていた。
「嗚呼! 噂、それなら何度か聞いた事があるよ。」
噂、そう聞けば、メモリの奥深く、古い引き出しが音もなく開く。それは彼女がエーナクラスに居た時代に聞いた噂話。お喋りや噂話が何よりの娯楽であったエーナクラスでは、日々多くの真偽も分からぬ話がまことしやかに噂されていた。その中のひとつである、"開かずの扉"の話は、それなりに有名な話で、勿論元プリマドールであるアストレアも例外無く何度も耳にした噂話であった。
漸く合点が合ったとどこかスッキリとした気分で居る彼女であったが、目の前に開かれたノートに目を通せば眉根を寄せる。落ちた資料とリボンを拾い上げては、硝子の瞳で罫線の上を乱雑に躍る文字の上を何度もなぞる。これは一体何だ? 知らない噺、フェリシアの作った噺? それにしてはあまりにも悍ましく、血腥い。小首を傾げては問うた。
「フェリシア、これは?」
《Felicia》
「そう、その噂。最初は私も噂程度のお話だから半信半疑だったんだけど……煙のないところに火は立たないって言うし……あの……」
ノートをアストレアちゃんに渡して言い淀みつつ話を続ける。
"開かずの扉"、その噂はドールズのみんなが知っているだろう。
不思議そうな様子のアストレアちゃんに、フェリシアは今更迷っていた。本当にこの事実を教えてもいいのだろうか。これがホントウにあった出来事なのだと、信じて貰えるだろうか。
──── それでも、貴方なら。
アストレアちゃんなら絶対に協力してくれる……ハズ。
誰も聞いていないか、誰かこちらを見ている者はいないか。
フェリシアは周囲を静かに確認するとその重たい口を開いた。
「これはね、これはね……。
私が"昨日の夜見た事"のメモなの。
アストレアちゃんを懸命に追いかけた先、私が見た地獄。」
しぃ、と指を口元に当てて静かにするように合図する。ここで大きな声を立てられてはたまらない。
お願い。信じて。──相棒。
「地獄……フェリシア、僕達もね、怪物を、見たんだ。詳しくは言えないけれど、話が広まりすぎては困るからね。それとこの怪物は同じなんだろうか、兎に角、僕達ドールズがヒトの物になると言うのは真っ赤な嘘なんだろうね。」
ノートに綴られた地獄の"記憶"。炎、外された足、先生、ミシェラ、籠、燃やされる、そして、
────────怪物。
フラッシュバックした昨夜の光景に視界がちかちかとする。息が上がる。知っている、僕は、怪物を、知っている。これとそれが全く同じものかは分からないが、この世界には本のも載らぬ何らかの人外が存在することは確かで、ドールズが教わって来た様な有用な活用の仕方をされる事は無いのだと推測できた。
「それにしても、嗚呼、ミシェラ、My Dear Princess……僕は祈っていたんだ、お披露目の場に居なかったあの子が、どこかで生き長らえていると言う可能性を。駄目だったか、そう、そうだよね、この世界はそんなに甘くないんだ、嗚呼、本当はどこか分かっていた筈なのに。
ねぇMy Dear Hero、これを誰か他に話した? 例えば……ソフィアとか。」
ミシェラ、あの子は無事だ、なんて心を騙しては来たが、正直助けられる理由も分からないし、本当は分かっていた。
真っ先に思い浮かぶのはソフィアの顔だった。彼女にこの話が伝われば? 昨晩、激しく動揺した彼女を抱き締めた感覚は未だ鮮明で、そんな彼女がミシェラの最期を知れば? 話していないでくれ。伝わっていないでくれ。そんな願いを込めて、問い掛けた。
《Felicia》
「あはは、今更怖くなってきちゃう。
今まで送れていた幸せな日常も、ぜんぶ先生が見せてくれてた幻だったなんて。……信じたくないな。
アストレアちゃんもアレを見たんだ。私が見たのは、羽と触覚が付いてたっけ。怪物は複数……少なくとも2体以上はいるんだね」
呼吸が荒くなったアストレアちゃん。フェリシアが知る限り、余裕のある彼女がここまで動揺する姿を見せたのは初めてだった。
……当然だろう。自身も昨晩のことを思い出すと、また後悔と涙が止まらなくなってしまいそうになるのだから。
大好きな彼女に辛い思いをさせてしまった。ぴし、と脳を伝う後悔を背中に、心配そうに彼女の肩に手を置くのだった。
「私は、ミシェラちゃんのヒーローになれなかった。助けてあげられなかった! 可愛いあの子が悲痛な声をあげていたのに、何もしてあげられなかったの……!」
フェリシアの静かな叫び。
これは、私の罪。
それを背負って生きていく覚悟は既に出来ていた。だが悔しそうに歯を食いしばる私を、絶対に忘れない。
「……ううん、最初はアストレアちゃんに話そうと思ってたから。
誰が蓋を開けたのか知りたかったって言うのが理由なんだけど。」
なるほど。ソフィアちゃんはアストレアちゃんと同じように"地獄"を見たんだ。彼女たちがどんな惨劇を見たのかフェリシアには大体想像が付いていた。またソフィアちゃんはミシェラちゃんを真綿で包むように大切にしていた友だちの一人だ。彼女が知れば…どんなに傷つくのだろうと想像するのは容易かった。……やっぱり、最初に話したのがアストレアちゃんで良かったと、フェリシアは思うのだった。
「うーん、それなら少し違う気がする。僕が見たのは一つ目の大きな蜘蛛みたいな物だったから。なんにせよ怪物が居るって言う事実は変わらないだろうし不気味な事にも変わりは無い。」
大丈夫と云わんばかりに肩へと置かれた相棒の手の暖かさを感じれば、ゆっくりと深呼吸を一つし、いつもの落ち着きを取り戻して怪物の分析をしてみる。形の良い小さな顎にその嫋やかな指先を当て、綺麗な角度にかんばせを傾げては呟いた。
自分が見たものには羽と触覚など着いていなかった。彼女の言う怪物と自分の見たものとでは別なのだろうか。そもそも、無機物である筈のドールなどを喰らって充分な栄養足り得るのであろうか。如何せん情報はまだまだ少なくて、謎は増えるばかりであった。
「嗚呼、フェリシア、どうかそう自分を責めないで。現実的に言ってしまえば、君がその状況で彼女を救える確率は殆ど無に等しいだろう。君は、ヒーローである前に一人のドールで、僕にとって大事な存在さ。勿論、ミシェラの犠牲は筆舌に尽くし難い程に辛いことだよ。僕だって彼女を可愛がっていたから。それでもね、君たちが無事に戻って来て、今こうしてその体験を僕に話してくれていると言う事実はとっても有意義なことだと思うんだよ。これから僕らはどうするべきか、それを決める、重要な事実を持ち帰ってくれた。これは大きな進歩だ。ありがとう、My Dear Hero.」
これは、彼女の本心。心からの、賛辞。僕達は唯一無二の相棒。お互いの弱いところも、綺麗で無い所も見せられる、大切な存在。弱音だって、泣き言だって、全て受け止めるから、そう背負いすぎないで。
アストレアは自然と腕を広げ、目の前のドールの肩を優しく抱いた。周りの空気が揺れれば、艶々と美しい白銀の髪の毛からは、爽やかな石鹸と麗しい薔薇の香りが微かに鼻を擽るだろう。相棒へ、心からの感謝と深い友愛を込めて。
《Felicia》
「そうなんだ。……少なくとも怪物は二種類以上いるってことかぁ。
話を聞く限り単に私たちの力じゃ及ばないと思うし。うぅ、勝てるのかなぁ……」
アストレアちゃんが怪物がドールを"食す理由"を考えている間、フェリシアはその怪物への勝ち方を考えいた。デュオドールだったら何かしら案が出たのかもしれないが、エーナドールのフェリシアには今のところ勝てそうなやり方は考えつかなかった。
「……うん、ありがとうアストレアちゃん。えへへ、アストレアちゃんはいつも冷静で優しいなぁ。最初に知らせたのが貴方で良かった。
でもね私、この悔しさを生涯忘れることはないけど、このまま涙をのみながらお披露目会までびくびくしてようとも思ってないの。
どんなことをしても……地を這いつくばってでも、絶対に! みんなで学園から脱出してみせる。」
ほんのりと、咲きたての薔薇の香りが鼻をかすめる。嗚呼、これは知ってる香り。言わずもがなアストレアちゃんの香りだ。優しく抱きしめられた腕、いつも変わらぬ微笑みで見守ってくれる相棒が、フェリシアは大好きだった。
強くて、大切な私の友だち。
だからこそ遂行してみせる。
学園からの脱出を。絶対に。
「ん、元気でた。ありがとね!
じゃあ私はそろそろ……こっそり2人でいるところを誰かに見られちゃったら怪しまれそうだし。」
貴方が拾ったリボンと資料を、"受け取るよ"というようににっこりと笑って手を出した。
それらを手渡せば、フェリシアはノートと共にそれらを鞄に入れて立ち去るだろう。
「全くうっかりしていた、"王子様"は忘れ物なんてしないのに。」
そんな台詞が薄暗い螺旋階段へと微かに響く。こつり、こつりと一定の間隔で鳴るローファーの踵が心地よく、それはやがて二つ目のフロアに上がった所で止まった。
月魄が如き白髪の美しきドール、アストレアその人が向かっている先は学園2F、演奏室。先の授業でうっかり忘れて来たであろう楽譜を探しに来たのである。普段はしっかりしている故に殆ど忘れ物をすることの無い彼女にとって、それは珍しいことであり、彼女の掲げる王子様道から外れる事。心做しか気分も沈みこんで居る様な気がしないでも無いのだった。
授業でも無い限り楽譜を使う事は殆ど無いのではあるが、忘れ物を誰かに気付かれれば完璧な王子様を目指すアストレアにとっては少し恥ずかしさを感じる物。
まだ誰かに拾われて居なければ良いが、なんて祈っては演奏室の扉を開き、部屋の中へと踏み入れた。
演奏室はもう授業を終えたドールも殆ど残っておらず、閑静な空間が広がっている。
部屋の大きさは講義室と変わりない。しかし机の数はこちらが少なかった。代わりにグランドピアノ、コントラバスやハープ、打楽器類など、運び出すことが煩雑だが使用頻度がそこそこ高い楽器があらかじめ部屋の端に寄せられるようにして出された状態になっている。
その他の楽器は全て奥の楽器保管庫に収められているのだろう。
あなたが室内を軽く見渡すと、幸いなことに、探している楽譜はあなたの席の上に変わらず残っている。Astraeaと、元プリマドールの名が残った楽譜を誰も触れられなかったと言った方が正しいが。
あなたがそれを回収するならば、その背後で慌ただしく扉が開かれる。
「いけないっ、わたくしったら大事な忘れ物を……ってはぁああ……!!!?」
慌てた様子で駆け込んできたのは、夜空を映し取ったような艶めく黒髪をひるがえした、見覚えのある乙女である。
彼女は息を切らせて演奏室に突撃したかと思えば、予想だにせぬ先客に息を呑んで声にならぬ悲鳴をあげ、入り口で石化したように停止してしまった。
「嗚呼、良かった。」
捜し物は想定通り、席の上にぽつりと置かれていた儘で、安堵する様に息を吐けばいつもの微笑みを湛えてそれを手に取った。端の少し拠れた紙には、五線譜と美しい手書きの文字が踊り、しっかりと名前の記入してあるのも分かる。
と、後ろの扉の慌ただしく開く音に、その麗しいかんばせを後ろへと向けた。
「おや、そんなに慌てて一体どうしたんだい? 落ち着いて、君が怪我をしてしまえば僕も辛いからね。」
フレームの如く視界へと映り込む白い睫毛の間に見えた、自身と正反対の漆黒の髪の毛は、見覚えのあるもの。息を切らす相手に労る言葉をかけては近付いて、石の如くピタリと止まってしまった可愛らしい顔を、心配する様に覗き込んだ。
「あ……ア、あ……アストレア様──」
宇宙の彼方へと羽ばたき去る寸前だった彼女の意識は、貴方の呼びかけによってどうにか舞い戻ってきたらしい。硬直から我を取り戻した黒髪の乙女──ウェンディは、こちらを覗き込む、大粒の宝玉をあしらった絢爛なティアラでさえも霞み消し飛ぶほどの鋭い美顔に呼吸も忘れた。
辛うじてあなたも名前だけを呼んだ彼女は、カッカ、と今にも破裂しそうなほどに真っ赤に染め上げた顔を背けて、瞳を泣きたそうに潤ませていた。哀しいのではない、許容オーバーの事態に錯乱して脳が過負荷を起こしているのだ。
「わ、……忘れ物を、してしまいまして、そ、そちらの楽譜を回収しに参りましたの。アストレア様の前でこんな、恥ずかしい姿……み、見られたくなかった……お見苦しいものを見せてしまい、申し訳ありません。
こんなところでお会い出来るなんて、光栄の至りですわ。あ、アストレア様はその……何をされていたのでしょうか」
いつまでも至近距離にいては身が持たないと判断してか。一礼してからウェンディはあなたから距離をとり、今しがた指したばかりの、机上にぽつんと残された楽譜を回収して、問い掛けた。
「ふふ、見つかったかい?
奇遇だね、実を言えば僕も忘れ物をしてしまって、取りに来た所なんだよ。……嗚呼、恥ずかしいからこれは誰にも言わないでおくれよ。」
はにかむ相手をフォローする様に、自身の失態も明かしてしまう。それは彼女のエーナドールとしての真骨頂であり、自身の弱みまで開示して場を和ませる、華麗な技。
人差し指を立てて、口許に当てれば普段の落ち着いた大人っぽさとは雰囲気の違った、悪戯っぽく、年齢設計相応におどけてみせた。証拠、と云わんばかりに自身も持つ楽譜を見せれば、"お揃い"だなんて微笑んで。
「あ、アストレア様も、お忘れ物を?
そ、そんな! 恥ずかしいだなんて……そんなことは決してございませんわ。どれほど完璧なお方でも間違いはありますもの、ですからそう気を落とされないで……それにしても本当に、奇遇、ですのね……」
ウェンディは自身の過ちには恥ずかしい、見苦しい、と自責の言葉を述べるのに対し、あなたの過ちには大きく首を横に振り、両手を顔の前で振って擁護しようとする。それほどあなたを尊敬し、敬愛しているからこそ、アストレアに自身を貶めてほしくはなかったのだろう。
それに、いかにプリマと呼ばれる彼女も忘れ物をすることもあれば、こうして茶目っ気を見せてくれることもある。ウェンディはそのギャップと、破壊力の高い『お揃い』の言葉にカッ、カッ、と頻りに頬を赤らめて、もじもじとしているようだった。
彼女は自身の楽譜を握り締める手を強めて……そこで、はっとした顔をする。我に帰ったような、長い夢から覚めたような、そんな顔だった。
「……アストレア様、あの、そ、その、お話ししたい事が……あるんですけれど、き、きっと、お忙しい……でしょうし、無理に、とは」
ウェンディは、何か言葉を紡ごうと懸命になっているようだった。しかし踏ん切りが付かないのか、その表情には躊躇いを浮かべている。口元に楽譜を添えて、目線を落としながら、まごついているようだ。
「そう、ふふ、お揃いだね。
そうかい? それならばウェンディ、君も恥ずかしがらないでね。これは僕達2人だけの秘密だよ。」
目の前の熟れた林檎の如く赤い顔に愛おしさを感じながら、声を潜めて、"2人だけの秘密"を囁いた。それは、特別であって、特別でなんかない。貴女はあくまでも、お友達。"子猫ちゃん"の範疇を脱することは無いのだから。これは本当に偶然で、運命などではない。
白いレースに縁取られた玻璃の瞳はぺかぺかと輝いて、恐ろしい程に真っ直ぐに、ただライラックを貫き刺していた。
「お話? 大丈夫だよ、時間はたっぷりとあるからね。話してご覧。」
緩やかな弧を描く薄い唇と、細められた瞳は親しみやすさよりも寧ろ無機物の持つ美しさを煮詰めた様なそれであるが、穏やかで、それでいて芯の通った、頼りがいのある口調は、きっと相手から言葉を自然に引き出すだろう。「ゆっくりで良いからね、」なんて付け加えては、さぁ、と言わんばかりに小さく頷いた。
「ふ、ふたりだけの、……秘密……」
秘密は美しさを引き立てるエッセンスとも言うが、彼女が口にすると、なんて甘美な響きなのだろう。ウェンディは陶酔した心地で彼女を見据えて、喜びを噛み締めるように眦を蕩けさせる。こうして二人きりで話している時間が、ウェンディにとっては何にも代え難い至福で、どんな財宝にも敵わない贅沢だった。
ウェンディは指先を絡めて俯いては、話を聞く態勢をとってくれたあなたを前に、惑うように目蓋を伏せる。
わたくしの意気地無し、なんて、彼女の口元が微かに動いて。
「わたくし、──わたくし、その。アストレア様を、ずっと、尊敬して……お、お慕い、しておりました」
ウェンディの瞳は潤んでいた。耐え難い恥じらいに溺れながら、しかし、彼女は芯のある真っ直ぐとした視線を貴方へ向ける。
「初めてお姿を見た時から、わたくしの心にはあなたの凛とした眼差しが、蕩けるようなお声が、仕草が、お人柄が、どうしても焼き付いてなりませんでした。
ドール失格、となじられても栓無き事かも知れません。その通りですもの。プリマドールになれなくて、当然だわ……。
せめて影からあなたを見つめて、応援していたかった。けれどわたくし、もうすぐ学園を去ることになりますから、それすらも出来なくなる。だから……この気持ちを、ただ、あなたに聞いて欲しくて。」
彼女は小さく息を吸って、艶めく黒髪の毛先を指先に絡めながら。節目がちなライラック瞬く瞳を、じっとあなたへ向ける。
「色々と捲し立ててしまって、申し訳ございません。お時間を取らせてしまいましたわ……。本当はお別れだけでも、と考えていたのですが、つい、溢れてしまいました。
……どうか、このことは忘れてくださいまし。わたくしのためにも、どうか。」
そしてウェンディは深々と美しい一礼をする。あなたに対する海よりも深い敬意が感じられる所作であった。
「……そう、ありがとう。ドール失格だなんて、そう悲しい事、云わないでおくれよ。大丈夫、君は素敵なドールだよ。きっと、きっと、素敵なご主人様に出逢えるから。
……君のことはいつまでも忘れないよ、ウェンディ。」
口から紡がれる真っ直ぐな言葉の数々は、乙女の恥じらいと恋する心にキラキラと輝いて、本当に眩しかった。その潤む瞳が、いじらしかった。それでも、思いに答えてやることなど出来無くて、せめてもと、激励の言葉を投げ掛けてやる事しか出来なかった。全て、分かっているのに。"学園を去る"ドールに、明るい未来など無い。
自分の無力さが悔しくて、苦しくて、そのコアをきゅうっと締め付ける。一人の、罪なきドールを見殺しにすると云う事実が、酷く辛い。この何処までも真っ直ぐで、自分を心から慕ってくれた可憐なドールを、僕には救うことが出来ない。
何を思ったのだろうか、その時、自然と身体が動く。王子ならば手の甲にでも口付けをしていた所であっただろうが、その細く嫋やかな指先は薄い掌をすり抜けて、深く下げられた小さな顎を掬い上げれば、長い睫毛を伏せ、薔薇と石鹸の混じった様な香りと共にその麗しい顔を近付けて、唇に一つ、口付けを落とした。それは、とても短く簡単な親愛のキス。王子としてでないアストレアの、心からの愛であった。彼女はその時、初めて歳相応の少女らしく笑った。それは、普段らしい大輪の薔薇の輝きと言うよりも寧ろ、可愛らしい野薔薇の煌めき。何処か淋しい、少し歪で不器用なその笑顔は、すぐに完璧な王子様の笑顔へと変えられてしまったけれど、瞳の奥底に慈愛と寂しさの滲むのは未だ変わらなかった。
ごめんねウェンディ、このことはきっと忘れることが出来ない。だって僕は、非常に優秀なメモリを持った、元プリマドールなのだから。
「──アストレアさま、
……!」
しめやかに告げられる励ましの言葉。あなたの綺麗な表情に、まるで翳りなど見られなかっただろう。だからこそウェンディはその言葉を額面通りに受け取って、何よりの栄光であると言わんばかりに、けれどどこか寂しそうな、そんな微笑みを浮かべようとした。
しかし。あなたのたおやかな指先が、滑らかに喉を伝って細い顎を掬い上げる動作に、ウェンディは驚いて目を丸くし、硬直する。
故に唇へ落とされたささやかなあなたの想いは、実に容易く、ウェンディの青い心を貫き響かせた事だろう。小鳥が啄むような唇の触れ心地は甘く、やさしく。目の前で静かに綻んだ可憐な少女の微笑みが、ウェンディの目に焼き付いて離れない。
見たこともない一瞬の素朴な笑みを見て、ウェンディは瞳に涙を浮かばせた。だがあなたがすぐに社交的でスマートな王子のかんばせを頬に浮かべたので、彼女もその雫を滴り落とすこともなく、大人びた少女の微笑を浮かべることとなる。その頬には熟れた果実の名残りのような赤みが残っていたが、もう彼女は先程までのように狼狽えるようなことはなかった。
「アストレア様。わたくしも……このことは絶対に忘れません。どうか、完璧なあなたの、誰も知らないあの顔を、わたくしだけが胸に秘めて旅立つことを、お許しくださいまし。あなたに縋れないわたくしが、密かに優越を抱く浅ましさを、どうかお許しくださいまし……。
──アストレア様、お慕いしておりました。この想いを、ご主人様にも抱けるように、わたくし、外でもきっと精進いたします。
想いを聞き届けてくれて……ありがとうございました。ご機嫌よう、アストレア様。」
最後に、ウェンディは見るも美しいカーテシーを披露して、晴れやかな微笑みを浮かべて演奏室を去るだろう。その姿勢は、あなたをリスペクトしたことが目に見えて分かる洗練された所作であった。
「さようなら、My Dear Doll。
これからの貴女の人生に、大きな幸運が訪れますように。」
アストレアは、相手の全ての言葉の終わるのを、少しの微笑みを称えたままに、まるで彫刻の如くじっと聞いていた。時折、肯定する為に頷くことで、初めてそれが意志を持ち動くものであると認識できるだろう。
話の区切りが付き、相手の浮かべた晴れやかな笑みに此方も大輪の薔薇の咲く様に笑えば、貴女のカーテシーに応える様に、とびきり綺麗なボウ・アンド・スクレイプをして見せた。それは心からの敬意と、愛と、そして、遺憾の意。その行先を知っていながら助けることの出来ないもどかしさは本当に計り知れない。向日葵のように真っ直ぐで、日陰に咲く小さな鈴蘭の様に可憐で、ライラックの様に美しいそのドールを、化物の毒牙から逃がすことが出来たのならどれほど良かったことか。
さりとて現実はどこまでも惨く、作り物の生命はどこまでも儚い。ドールたちの未来に、幸福などある筈が無い。さようなら、いじらしく可愛らしい、親愛なるお人形。さようなら、ウェンディ。
無情な死刑宣告がいずれ自身ににも告げられる事などは未だ露知らず、今だけは、そのかんばせに、本心を包み隠した麗しい微笑を浮かべ、去り行く黒髪の乙女の背をただ眺めていた。