「えぇと、フルートはどこだったのよ………」
楽器保管室で、棚を見て回る白髪の少女が1人。彼女の言葉からして、探しているのはフルートであるらしいと推測できるだろうか。
あの日、ミシェラが居なくなってからずっとずっと、あの子の事が頭を離れない。いつか居なくなった兄も、あの子も、リーリエを置いて行ってしまった。ミシェラに至っては、お別れすらろくに言えていないのに。そのせいだろうか。寝ても醒めても、何をしてもミシェラの笑顔が頭を離れなくて。「お姉様!」と可愛らしく呼んでくれたあの子の声が離れなくて。無心で楽器に触れていれば忘れられるだろうか、と楽器保管室に足を運んだ。
しかし、最近は、ここに足を運んでいなかったからか楽器の配置を忘れてしまった様だ。
演奏室は閑静だった。幸い、今は誰も使っていなかったらしい。教室を抜けて保管庫の扉を開くと、その先には狭苦しいながらもきちんと磨き抜かれた数多の楽器が保管されていた。
照明を灯してから一帯を見回すと、ヴァイオリンやチェロ、コントラバスなどの弦楽器や、クラリネット、オーボエをはじめとした管楽器も、打楽器も多様な楽器が収まっている。
色々な楽器が棚に収まっている。お目当てのフルートはどこかしら、と辺りを見回すと奥の方に筒があった。ぼんやりと覚えている記憶では、あんなものは無かったはずだ、と。
近づいてみれば、何やら意味ありげな「触るなキケン」の文字が。楽器保管室にあって、触るなキケン。扱いの難しい楽器なのだろうか。それとも、備品室に置くはずだったものを間違えてこちらに置いてしまっただけ? 疑問は加速し、好奇心が芽生え始める。でも、触るなキケン、と書かれてある。これで怪我でもしてしまったら? 取り返しかつかないことになってしまっては、どうしようも無い。一時の好奇心に任せ、危険な橋を渡るべきなのか否か、リーリエは頭を悩ませていた。
《Sarah》
大きくもない背にはギターケースが2つ、左腕にトランペットケースを握り右肩にはオーボエケースを2個かけている。よろけるような様子を少しも見せないのはサラの体感の良さや力持ちなおかげもあるが頼まれた大切なものを落っことしてしまっては大変だからだ。
遡るは数分前、カフェテリアに楽器をもったドールが数人おりが楽器を重そうに持っており楽器保管室まで運ぶことを渋っていた。ドールの中でも一番脆いトゥリアの子たち。特に用も無くカフェテリアをぶらついていたテーセラのサラは目をつけられ異を唱える間もなく楽器をすべて押し付けられてしまったのだ。壊れることを何よりも怖がるサラはよく人のものを持ちに行くことがあるため「お節介ドール」「都合のいい子」と認識されている節がある。サラ自身特にそれを害とも思っていないため構わないが。そんなことがあり5つの楽器を抱え楽器保管室に向かっている。他にも数名持てなかった楽器があったのが残念。
「……持ちすぎたかな」
そうぼやいては左腕を少し持ち上げる。重たいものだとは思わないが万が一、万が一にでも体に痣が出来たら嫌だ。少し楽器保管室へ向かう足を早める。
「ついた、あっリーリエサン。」
楽器保管室を足で開けて持ってきた楽器をゆっくり床に降ろすために頭を下げる。上げたときに彼女に気づき彼女に聞こえない程度の声をこぼす。自分が楽器保管室にあまり来ないからかここでリーリエサンを見るのは久しい、子供ながらの悪戯心が疼きゆっくり近づき彼女を驚かせたくなったが我慢我慢。驚い拍子に彼女が転んだりしてしまっては大変だ。決して驚かせぬように頭を悩ませるリーリエサンに近づき肩を叩く。
「……きゃ!」
とんとん、と肩を叩かれる感触に驚いたように声を上げては後ろを振り向く。そして、手の持ち主が見知った彼女であることを確認すると安心したようにほっと息をついた。驚いた声を上げつつも、なんでもないような振りをして振り返ったけれど本当は怖かったのだ。
オミクロンは、他のクラスから虐めを受けがちなことは重々承知している。ミシェラのお披露目の時だって、彼女のドレスはエーナのドールに破られてしまったそうだから。涙を流している彼女を、寮で見てしまったからそれを知っていた。だから、一緒にいるのがサラであると知って、とてもとても安心したのだ。それこそ、思わず涙が溢れそうになってしまう程には。
「……もぅ、驚かせないで欲しいのよ。サラちゃんは、楽器の片付けなの?」
こぼれそうになった涙を引っ込めて、ちょっとした文句を言いながらサラへと微笑みかける。彼女の持っている楽器から見て、そう問いかけた。彼女がここにいるのは、珍しい。そう、思いながら。
《Sarah》
「ごめん。驚かせたつもり、はなかった。大丈夫? 怪我してない? どこも割れてない?」
表情はいつもと変わらず無を貫いているが肩を叩いた手は弱々しく握りしめられ不安に満ちている。さっと彼女のそばに屈んだ後、許可なく手を取り手のひらや甲を穴が空くのではないかと心配するほど観察しては傷の確認をする。幸いサラに見つけられる傷はどこにもない、軽く叩いた肩にもなさそうだ。
それでも悲しそうな表情をするリーリエサンにサラは何をすべきかわからずオロオロしたまま。
「さわるな、きけん? なんだろこれ」
はっと彼女が注目していた方に話をずらし自分も見入る。もとから合ったものなのだろうか。さわるな危険。やれと言われればやりたくなる。やめろと言われれば触りたくなる。好奇心には勝てないものだ。それに指先で触る。
楽器保管庫の奥の方はやや埃っぽかった。あまり出される機会の少ない大型の楽器がいくつも埃を被っている。その更に奥に、筒状の何かが転がっているのを見つけた。『触るなキケン』とご丁寧な注意書きまで貼られている。
得体の知れない置きものは随分巨大だった。あなたの背ほどとは言わないまでも、腰の辺りまでの高さを持っているようだ。
その筒はどうやら入れ物らしく、蓋を取り外すことで本体を拝むことが出来る。
先端に煌めくレンズが取り付けられた謎の装置に見える筒は、少なくともこの場所に数多置かれている楽器と同じ用途とは思えないことだろう。工作用紙で固められた筒の端には、『Aladdin』と豪快な筆跡で名前が書かれていた。
「大丈夫なのよ、ちょっとびっくりしただけなの。怪我なんてしてないのよ。」
オロオロとするサラを見ては、落ち着かせるように大丈夫、と繰り返す。どこにもぶつけてなんて居ないのだから、怪我をしている筈が無い。テーセラモデルのサラに敵いはしないけれど、幾ら脆いトゥリアモデルとて、何もせずとも直ぐに壊れてしまうほど柔でもないのだから。
「お名前が書かれてるのね……?」
少しだけ、視線を筒の方へと寄越してはそう呟く。うっすら見えた文字は「Aladdin」と綴られていた。楽器のようには見えないが、一体何故ここに。疑問は深まり、リーリエは首を傾げた。
あなたは『アラジン』という名を見ても、いまいちピンと来ないことに気がつくだろう。
他クラスのドールか、或いは──お披露目で空きが出たクラスに補充された、新しいドールなのかもしれない。
とにかくアラジンの名を冠するドールに心当たりはなく、顔も思い出すことが出来ないことだろう。
《Sarah》
「あら、じん。アラジンサンのだ。」
よっこらしょ、と呟き筒を持ち上げてみれば重くはない。蓋は容易く外れ中身を取り出すことができた。アラジンという名に覚えは微塵もないが触る危険とあれば触りたくなる。
このような形状の楽器は見たことがない、見たことがないだけで自分の知らないものなのかも知れないが。
サラが持ち上げた何らかの道具かと思われる筒を、降ったりしても音は聴こえない。
そこであなたは、先端にレンズが取り付けられていることから、もしかするとこの巨大な筒は虫眼鏡のような役割を果たすのでは? ──と感じるだろう。
しかしこの場所で虫眼鏡があっても恐らく何の意味も無いので、別の場所、別の用途で使うものであろうことは間違いない。しかしあなたには見当も付かないことだろう。
「アラジンくん………。」
リーリエは、その名前に聞き覚えが無かった。となると、自分がオミクロンに堕ちたあと、若しくは他のクラスのドールなのだろうか。でも、このような備品は見たことがない。そのドールが自分で作ったのだと言われた方が納得出来る。これだけのものを作れるのなら、アラジンの名を冠するドールは、トゥリアモデルと考えるのが妥当であろう。
サラの後ろから筒を見る。レンズのようなものと、長い筒。望遠鏡に近いものなのだろうか、とリーリエは考えた。昔、兄と慕っていたドールがこのような物で人間は星を観察するのだと、教えてくれた記憶が脳裏を過ぎる。
リーリエは筒全体を詳細に確認する。細長い筒の先端にはレンズが取り付けられており、その内側は黒い素材で固められているため、なるべく外部からの光を遮断するような造りとなっているようだ。
試しに口径が細い方から筒を覗き込んでみると、驚くべきことに遠方にあるものが拡大して映っている。
あなたは心当たりがあった事もあり、これが天体を観測する際に用いる天体望遠鏡を模したものではないか? と考えられるだろう。見るからに手作り感満載で本格的なものではないが、アラジンという名のドールが手ずからこさえたのだと予想出来る。
《Sarah》
「これなんだろう。授業で似たようなのは使ったけどもっと小さかったな。
リーリエサンも見る?」
逆さまにしたり持ち上げたり小さい方や多いきい方のレンズを覗き色々試すがサラにはわからない。虫眼鏡の巨大バージョンなのだろうか。それに持ち手がない、作った人はきっとつけ忘れたのだろう。後ろから覗き込んでくるリーリエサンに手渡す。あまり面白そうなものでないと認識し扉の方に置いてきてしまった楽器達を今一度運び正しい場所に戻す。片手では大変だがもう慣れたことだ。
「よし、終わった。それ何かわかる?」
聡い彼女ならわかるだろうと期待を込めた眼で見る。それにしてもなぜこんなものがここに置いてあるのだろうか。楽器とは関係ない、先生が持ってきたものではなくアラジンサンのもの。きっと新しい楽器を作ろうとしていたのだろう。
「……ええとね、たぶん、これは望遠鏡だと思うのよ。星を、細かいところまで見る為の道具なの。」
リーリエは、昔、お兄様から聞いたお話だけど。と前置きをしてはサラの疑問に答えた。楽器では無いのに、何故ここにあるのか。それは分からないけれど、端々から溢れる手作り感に、やっぱり、アラジンという名のドールが作ったものだと予想が着いた。
でも、この望遠鏡を何時使うのだろうか。星が綺麗に見えるであろう真夜中は、鍵が掛けられているから外には出られない。かと言って、わざわざ望遠鏡を作ってしまうまで星を見たかったのならば、きっと、ほんの少しの星を観察しただけで満足するはずも無い。ひとつが解決されたと思ったら、また疑問が溢れてくる。リーリエは、首を傾げ黙りこくっていた。
《Sarah》
「望遠鏡、星を見る道具……必要あるのかな。そうしなくても来てくれるのに」
左腕を上に掲げればちょうど照明に被り視界が少し暗くなる。星と戯れたときもこんな感じだったっけ。触れるとバチってして、でも痛くない。
ドールは、ボク達は夜、星を見る前に床につかなきゃいけない。星が輝く時間まで起きていちゃいけない。でも夜星たちはボク達のところに降りてくる。くるくる周りを回っては火花を散らしてからかってくる。花火みたいにぱーんと弾けてもクスクスとまた集まってぎゅっとなって星となるのだ。
自分の中で噛み合っていないことにも気づかずサラは話続ける。
「他にもアラジンサンが作ったものとかあったりするかな」
腕を降ろしあたりを見渡す。本来なら楽器保管室にあるべきものではない望遠鏡があるなら他にも何か面白いのがあるのではないか。幸いこの後授業はないためゆっくりできる。
「そういやリーリエサンはどうしてここに?」
ふとキョロキョロ見渡す頭を止め彼女の方へ振り向くもしかして彼女も何かを置きに来た、又は持っていくのだろうか。自分に言ってくれれば彼女のためならば喜んでて持つのに。
「わたしは、フルートを探しに来たのよ。ミシェラちゃんが居なくなってから、一回も吹いていないの。だから、腕が鈍らないようにしないと、って思ったのよ。」
サラの疑問に簡潔に答える。楽器を1日吹かなければ、取り戻すのに3日。2日吹かなければ1週間かかると言われているほどなのだから。それに、いつまでもミシェラのことばかり考えていては良くない。ミシェラは、何とかして連絡を取れるようにご主人様に頼む、と言っていた。彼女を信じて、今は勉学に励まなければならない。いつか、またミシェラと会えた時に笑って会えるように。きっとまた、会えるのだろうから。
「それでね、サラちゃんは何処にフルートがあるか知っているの? わたし、少しの間来ていなかったから楽器の場所が分からなくなってしまったのよ。」
先程、色々な楽器を片付けていたサラにそう問う。まだ見ていないところもあるから、きっとそこにあるのだろう、なんて思いながら。
《Sarah》
「ミシェラチャンが居なくなった? 迷子にでもなったのかな。昨日会ってからボクはわからないや。」
残念ながらお目当てのものは見つからず、ギターケースをかき分け棚の下から這い出る。服についた埃を軽く落としてからリーリエサンの言葉に疑問を持ち思わず首を傾げながら返す。まるで彼女がお披露目に行ったことを覚えていないとでも言うように。
ミシェラチャンは昨日川で兄さんと一緒にピクニックをしてた。その後解散してからは覚えていないから、きっと各々部屋に帰ったはず。夜は絶対にいるはずだから森にでも遊びに行ったのだろうか。
「えっと、フルートってこれぐらいの大きさのケースに入ってる?」
手を広げ大きさを訪ねた後必死に記憶を遡る。あまり小さいものは運ばないため記憶が曖昧なのだ。多分、多分と呟きながら店をあちらこちら開けていく。最終的にやっとそれらしき場所を見つけたのか彼女を手招く。
サラの、ミシェラはお披露目になんて行っていなかったかのような言葉に、リーリエはほんの少しだけ、恐怖を覚えた。ミシェラはもうトイボックス・アカデミーには居ないのに、迷子になっただなんて、少し……否、大分おかしい。だって、お見送りこそ出来なかったけど、あの子は、みんなの前でお披露目に行くと言っていたのだから。先生も、お父様もそう行っていた。
「……それなのよ。ありがとう、サラちゃん。」
何を言おうかと逡巡して、結局言葉を飲み込んだ。そうして、ようやく見つかったフルートを前に、サラへ礼を告げる。百合の花が咲いたかのように笑うリーリエは、先程まで沈んだ表情を浮かべていたとは思えない。それほどに、美しいものだった。
「ねぇ、サラちゃん。お礼になるかは分からないのだけど、演奏を聞いて行って欲しいの。」
駄目? とサラの瞳を覗き込むように彼女を見遣った。
《Sarah》
「そっか、後で帰るついでにラウンジにミシェラチャンがいるか見ておくよ。」
あまり自信は無かったが合っていて一安心だ。軽く微笑めば彼女は自分の何倍も素晴らしい笑顔をかえしてくれた。先程の壊れそうな顔とは大違い。トゥリアの笑顔はいいものだ。川が思わず閉じ込めてしまいそうになる理由も頷ける。
「もちろん。リーリエサンの演奏は嫌いだけど好きだから。」
切なくもあり力強い彼女の演奏は幾度か聞いたことがある。エーナやデュオ、上手く言葉にできて言葉選びが上手い彼らならもっと上手に褒められるのだろう。だがあいにく自分はそこまでの語彙力や表現力がないため彼女の演奏が好きな気持ちを上手く伝えられないのがもどかしい。花でさえ喜びを露にし楽譜は褒めちぎるというのに。
演奏室への扉を先に開け彼女を中に入れる。今日は一体どんな演奏を聞かせてくれるのだろう。
演奏室は先ほど授業を終えたばかりなのか、疎らにドールが留まって談笑などを行なっているようだった。皆あなたにはさして意識を向けていないように見える。
部屋の大きさは講義室と変わりない。しかし机の数はこちらが少なかった。代わりにグランドピアノ、コントラバスやハープ、打楽器類など、運び出すことが煩雑だが使用頻度がそこそこ高い楽器があらかじめ部屋の端に寄せられるようにして出された状態になっている。
その他の楽器は全て奥の楽器保管庫に収められているのだろう。
演奏室には、沢山のドール達がいた。授業が終わったばかりなのだろうか。少し、タイミングが悪かったのか、それともちょうど良かったのか。大きな楽器は部屋の隅に。その他の楽器は、先程まで居た楽器保管室にあるのだろう。
譜面台を探そうと、グランドピアノの前を通った時、リーリエは違和感を覚えた。今しがた授業を終えたはずならば、閉まっているはずのグランドピアノの蓋が開いていたのだ。蓋は鍵盤の汚れを防ぐ為、閉めないといけないはずなのに、一体何故。ドール達は、それを目の前にしているにも関わらず、気にする様子も無い。
リーリエは、そこに何かがあるのか、とピアノの方へ足を向けた。
《Sarah》
「意外と人いるね、授業が終わったばっかだったのかな」
右腕が欠けてからはあまり演奏室に寄り付かなくなったからか、前に比べ見慣れないものも増えている。先生にいることがバレてしまっては楽器の練習に来いと叱られてしまう。そのためなるべく体を縮こませ、彼女の背中に隠れられるよう後ろをついていく。背がさほど変わらないためあまり隠れられてはいない。
それにしても片腕で演奏できる楽器は数少なくどれも自分は難しい。かといって足で演奏できるほどの器用さも持ち合わせていないのだからここに来る意味がない、と考え距離をおいている。楽器なんて演奏しなくとも兄さんのように歌えればいいのに。
心のなかで文句をこぼしつつもリーリエサンが立ち止まったのに釣られるようにサラも止まる。グランドピアノ、てっきりフルートを吹くのかと思っていたが心変わりでもしたのか。
「サラちゃん、サラちゃん。こっちに来て欲しいのよ。」
鍵盤を覗く。そこには、予想だにしていなかった無数の傷跡が。あんまりにも不気味なソレに、リーリエは小さく悲鳴を上げる。サラには、恐らく聞えてはいないであろう声量であった。
一呼吸おいて、サラを呼ぶ。流石にこれはおかしいのでは、と思ったからサラにも確認して貰おうと。自分では気がつけなかった事も、彼女ならば気がつくことができるかも、なんてことをリーリエは考えていた。
この痕は、きっと爪痕なのだろう。誰がこんな傷をつけたのかしら。そう考えながら、試しに爪を当ててみるとピッタリとこそはいかなかったが、嵌る感触がした。サラに対して、ここにね、と鍵盤を指差しながら状況の説明を。そこに、今しがた発覚したばかりのこの傷跡は爪痕であるとの事実を付け加えた。
《Sarah》
「わぁ、すごい跡だね。先生に怒られちゃう」
リーリエサンの後ろから覗き込むように検番を眺める。無数の傷跡、いったいどれほどの勢いで演奏したらこうなるのだろうか。そっと鍵盤を撫で、こんなことをして一体どれほど先生に怒られるのだろうと呑気なことを考えては、傷のついた鍵盤を遊び心を添えて押す。楽譜を読むことは得意ではない、ピアノも上手く弾けない。そのためサラが出した小さくはない音はなんのメロディにもならず悪く言えば騒音、よく言えばただのピアノの音。
さて自分の周りにこのようなことをする人がいるだろうか。数名か頭に浮かんでしまうのはやはりテーセラで。テーセラも他のモデルに引けず劣らずクセの強い物が揃っているからだろう。
ピアノ自体は、鍵盤の表面に傷が付いているだけなので壊れてはおらず、問題なくポロンポロンと音が鳴る。音質自体にも異常はなく、それ故に授業でもこのまま使用していると言ったところだろう。
これほどくっきりと傷が残るほどの力で鍵盤を叩けるのはテーセラモデルに違いない、と思うが、今のところあなたに犯人となる人物の心当たりは残念ながら無い。
「本当に、誰がこんなことをしたのよ? 優しい先生も、きっと怒ってしまうの。……ピアノだって、傷つけられる為に造られたのではないのよ。」
しゅん、と肩を落としながら鍵盤を押すサラを見つめる。その音は、お世辞にも綺麗な旋律とは言えない。それでも、ピアノの美しい音は健在で。表面が傷ついても、まだ内側は元の状態を保っている。それはまるで、心のようだと、リーリエは思った。幾ら表面上が変わってしまったのだとしても、内側の部分は中々変わらない心のようだ、と。
「サラちゃん、ちょっと弾いてみても大丈夫なの?」
そう、サラに問いかけては椅子に座る。そっと、優しく鍵盤に指を乗せては、瞼を閉じた。
鍵盤の表面の無数の傷によるざらつきで、手触りは決して良いとは言えなかったが、あなたが指先を鍵盤に滑らせるならば、ピアノはあなたに応えて、繊細な音を演奏室に響かせるだろう。
内部構造が故障しているわけではなく、あくまで鍵盤のみの損壊のようだ。
《Sarah》
「待ってました」
近くから椅子を引っ張りピアノのそばに腰掛ける。体を背もたれに完全に預けリラックス状態。目はリーリエサンの指と顔、交互に見るサラの目は彼女の指に見惚れてもいるが何処心配の色も浮かんでいる。鍵盤の傷跡で指を傷つけてしまうほど脆くはない、そう頭では理解しようとしているがなかなか難しい。
だがそんな悩みは彼女の演奏の前では少しずつ薄くなり消えていった。
悩みは頭の片隅に。大半は彼女の演奏で埋められていく。
「手を両手とも違うふうに動かせるのすごいな」
腕を前に出し彼女を真似る。左手しか動いていないのを機から見れば滑稽なこと極まりない。サラは両手とも動いていると思っているのだから。
繊細に、美しく流れる旋律は、聞く人が聞けばショパンのノクターンであることが分かるだろう。8分の12拍子に、変化と装飾の多いメロディ。リーリエの指は、軽やかに動いていた。
演奏を続けていると、サラの言葉が耳に入る。すごい、だなんて。偶々、己は繊細な作業に適性があった。ただそれだけだと言うのに、あたかもリーリエ自身がすごいのだ、というように言われてしまっては、照れてしまうし、少し気恥ずかしい。
「わたしは、偶々、これが得意だっただけなのよ。わたしからしたら、サラちゃんの方がとってもすごいと思うの。だって、重い荷物だって軽々運んでしまうし、いつもわたし達のことを気にかけてくれているのよ。」
鍵盤に指を滑らせながらそう告げる。そろそろ曲も終盤。高い音から低い音へと移り変わり、フィニッシュ。椅子から降りたリーリエは、スカートの端を摘み、お手本のようなカーテシーを披露した。
《Sarah》
「きれい、やっぱりリーリエサンは音に好かれてんのかな」
椅子から立ち上がりぺちぺちと左手と右腕でリーリエサンに称賛を送る。淡々と言うサラの頭にはこの前暴れん坊のピアノをいとも容易く手懐けガーデンテラスで演奏していた貴女が思い浮かんでいた。あの時のリーリエサンもとってもいい音と踊っていて。
彼女のお辞儀には思わず自分も頭を下げる。乾いた笑いを零しては彼女の褒め言葉を素直に受け取らない。ただ自分は当たり前のことをしているだけなのだから。もう自分のような理由でオミクロンに落ちるドールがいないように。
椅子を元の場所に戻しては先程目に止まった机のそばに置かれているヴァイオリンの楽譜の束を手に取り、再びリーリエさんのもとへ行く。
「リーリエさんはヴァイオリンもできたりするの?」
誰かが置いていったものかもしれないため、曲げないようにシワをつけないように優しく持つ努力はする。授業で習ったある程度の知識はあるためサラでもヴァイオリンの楽譜だとわかることができた。右側が軽くなる前まではサラ自身もヴァイオリンを齧っていたため、一体どんな楽譜か眺める。わかったところで弾けやしないが。
「ヴァイオリン……? 一応、出来ないことは無いのよ。でもね、ちょっとだけ教えてもらっただけだから、あんまり上手では無いと思うの。」
ヴァイオリンはフルートやピアノと違い、きちんと勉強していた訳では無いから、それらに比べれば格段に腕は落ちる。しかし、それは高等技術を会得していないと言うだけであり、演奏に不協和音が混ざる訳では無い。只只に、比較対象が悪いだけである。
サラの手にした楽譜を目にしては、じぃ、と穴が飽きそうなほどに眺める。弾けないことは無さそうなものであったからか、リーリエは分かりやすく安堵の息を漏らした。
「えっとね、サラちゃん、弾けるとは思うのよ。でも、あんまり期待はしないで欲しいの。」
ほんの少しだけ眉を下げてはそう答える。流石に、楽譜を読みながら演奏する余裕は無い。取り敢えずとでも言うように楽譜全体に目をと通そうと。
楽譜の束は、複数冊子存在した。エドワード・エルガーの『愛の挨拶』、シューマンの『美しい五月に』、ショパンの『ピアノ協奏曲第2番第二楽章』など……それらはいずれも、愛や恋情などをテーマにしたクラシックであると察せられる。楽譜はほとんど真っ黒になるまで几帳面な文字による書き込みがなされており、読み込まなければ一見何の曲かもわからないほど、熱心さが伝わるものであろう。
楽譜の束をぱらぱらと捲っていると、その間に一通の封筒が収まっている事にあなたは気が付く。シンプルな無地の便箋には、仄かに花の香り付がされているようだ。
表には、『To Astraea』と表記されている。見知った人物の名に、あなたはすぐピンと来るだろう。
これはヴァイオリンの楽譜だが、メロディだけを追えば知識のあるあなたならばピアノで演奏することも出来るだろう。
《Sarah》
「えっと、つまり……? 弾け、る?」
できないことは無い、でも無い。これだけの文章量でもサラの頭はプチパニック状態。もとより音楽にあまり興味はないがリーリエサンが弾いてくれるというのならぜひとも聴きたい。彼女が騒音を奏でたことはサラのメモリー上一度もないはず。
「あ、すと、れあ、アストレアさんへの手紙だ。忘れて行っちゃったのかな、一人では飛ばないだろうし」
楽譜の中から顔を出した封筒を手に取り宛名を確認する。お相手はどうやら元プリマのよくわからないアストレアサン。甘い花の香が鼻をかすめ香水でもふりかけたのだろうか良い匂いがする。手紙を持ち主は飛ばさなかったのだろうか。差出人の名前が書かれていない、これを書いたドールは差出人の名前が無いと手紙が飛んでいかないことを知らないのだろうか。宛名と差出人の名前があれば手紙は勝手に相手の元へ届いてくれる。兄さんが教えてくれたのだ。
一通り封筒と楽譜を眺めた後リーリエサンに手渡す。
「アストレアお姉様へのお手紙? ……きっと、誰かの忘れ物なのよ。お姉様は、色々な子に慕われているから、きっと、その中の一人の子のものだと思うの。」
サラから渡された手紙と楽譜を見る。手紙の方には、よく知っている、リーリエが姉と慕っている彼女の名前が書かれていた。これが所謂ファンレター、若しくはラブレターと言うものなのだろう。それならば、勝手に動かしては持ち主が可哀想だ。こういうものは、目的の人以外には見られたくなんて無いだろうから。
もう一度、楽譜をじぃ、と穴が空いてしまいそうなほどに見つめる。パッと見でも薄々気づいてはいたが、やはり書き込みが多い。それはもう、音符すらも潰れてしまいそうになっている程に。この楽譜の持ち主は、本当にこの楽譜で演奏が出来ているのか? と疑ってしまうほどに。リーリエは、あまりの楽譜への書き込みに感服の息を漏らすと同時に、その読みにくさに小さく眉を寄せた。幸い、曲名を見れば見知ったものばかり。これならば、ヴァイオリンでなくともピアノで弾くことが可能であるのだろう。
「……サラちゃん、ヴァイオリンで弾くと言ったけれど、ピアノでも大丈夫なの?」
ごめんなさい、と少し沈んだ様な顔を見せながら、申し訳なさそうにサラへと伺いを立てる。リーリエの手は、不安そうにスカートの端を握り締めていた。
《Sarah》
「そうだね、人気者だ。
見るなって書いてないけど……見ないほうがいいのかな」
色恋、恋愛、恋、ファンまだサラにはよくわからない。手紙の内容には興味があるしあわよくば開けて読んでみたい。ふつふつと湧いてきた好奇心はリーリエサンが手紙から楽譜に興味を移したことにより落ち着いた。
こんなに真っ黒に近い楽譜は初めてだ。よほど音楽が好きなのだろうか。楽譜が歌うにもこれじゃあ窮屈じゃないのかとも思うけど、いつも自由な子のしか聞いていないけどこれもこんど聞いてみたい。
「うん、そんな顔しないでよ。
リーリエサンの音はボクの兄さんやピアノまで夢中にさせてるんだから」
手なづけられたピアノと空で可憐に踊るリーリエサンは水だけでなく音、兄さんの瞳までも釘付けにさせていた。もちろんサラも例外ではない。最後のお辞儀、その指先までもあの時は見惚れていた。あれは夢だったか現実だったか、どちらだっけな。
握りしめるリーリエサンの手を取りスカートから離させる。いくらトゥリアの力とは言えずっと握っていればしわができてしまう。そうしたら先生サンに怒られちゃうかもしれない。違うかもしれない。
「きっと、見ない方が良いの。わたしは、誰かに宛てたお手紙を他の人に勝手に見られるのはとってもこわいの。だってね、きっとその人とわたしだけの秘密が書いているはずかのよ。」
手紙を机に戻してはそうサラへと返す。もしも、秘密事が書かれていたのなら、見てしまっては大変。わたしなら、きっと耐えられなくって泣き出してしまう、そうリーリエはぽつり、と呟いた。
「ありがとう、サラちゃん。」
サラの優しい言葉にリーリエの沈んだ表情は一転、華やぐような笑顔を浮かべた。スカートから離された手を2、3回閉じては開く。もう一度、椅子に座っては、鍵盤に指を乗せて目を閉じる。そして、すぅ、と息を深く吸った後には、美しい音色が響いた。それは、甘く、それでいて清廉な正に瑞々しい爽やかな恋の様な音色であった。
1曲目が終わるかと思えば、アレンジを加え曲を切らずに次へと繋げる。楽譜が頭に入り、引き込んだからこそできる技であった。
《Sarah》
「こわい、そっか、うん。
泣いちゃうのは嫌だな。」
自分に言い聞かせるようにリーリエサンの言葉を肯定する。日記と手紙は違うのだろうか。同じ自分の気持ちを書くもの、日記はよく人に見せるが手紙は滅多に書かない為わからない。きっとリーリエサンが言うのならそうなのかもしれない。呟かれた言葉も優れた聴覚で拾っては少し眉をひそめて返し、リーリエサンが机に置いた手紙に視線を移し、手紙が無事に差出人が望む場所へ届くことを祈る。
「夢でも、起きてもずっとこのままだったらいいのに。リーリエサンの音で寝たいな」
一度戻した椅子をまた持ってくるのは面倒くさくなってしまったのか、ピアノに背を預け片足重心で立つ。
寝るときはいつも何も聞こえないことが多い。そんな時にリーリエサンの音が聞こえたらどれだけいいのだろうか。きっと何十倍も楽しくなる。
「あっ、そうだ。ミシェラチャンを探しに行かないと」
リーリエサンの演奏が終わりぺちぺちと拍手を送っていれば、ふと思い出したようにピアノから離れる。迷子になった愛しの親友。愛されている子だからもしかしたらすでに誰かが見つけているかもしれない、しかしもし見つかっていなかったら。自分が一番に見つけられたら。そう思うと見つけに行くのが楽しみだ。
いそいそと演奏室の扉を開けては手を振る。自分から演奏をお願いしたにも関わらずさっさと出ていってしまうなんて礼儀が無いように見えるが子どもの興味の移り変わりははやいのだ。
「……。ミシェラちゃんは、もうここには居ないのよ……?」
パ、とピアノから離れ、演奏室から出ていったサラの言葉に不思議そうな、泣きそうな顔でそう呟く。前、ミシェラはお披露目に行ったばかり。居ないものはもう居ないのだ。折角、諦めが着いてきたと言うのにまた思い出してしまった。リーリエは、サラの発言に気を取られ、勝手に出ていってしまったことは気にする素振りすら見せない。
ふるふる、と首を振りサラの言葉を頭から追い出す。サラとミシェラは仲が良かった。故に、まだ受け入れることができていないのだろう、とそう考え、リーリエは己を納得させた。
そうして、静寂の演奏室に一人佇む。ピアノの蓋を閉めて、ヴァイオリンの譜面を片付ける。手紙は、楽譜の中に隠すように置いておく。ひとつ、深呼吸をした後にリーリエは譜面台を用意した。置く譜面は無いけれど、形上あった方が落ち着くから。
フルートを構えて息を吹き込む。奏られる曲は、ショパンの練習曲作品10第3番。通称は、別れの曲。あの、可愛らしい妹のようなドールに贈られたその曲は、名前に似合わない甘い旋律を、ずっと響かせていた。