Sophia

 空が泣いている。暗い暗いグレーで辺りを多いながら。雷鳴は、影を潜めている。無垢なる人形を貫くその隙を伺っているかのように。

「アストレア。」

 素早く食事を摂り終えたソフィアは、今日も凛々しく美しく佇む少女、先程栄誉を賜ったばかりの親友の席の前へ立ちはだかった。席に着いたアストレアを見下ろすアクアマリンは、ほの暗い影がかかっている。
 ソフィアは、アストレアが何か口を開く前に彼女の手を引いて、ダイニングを後にしてしまう。アストレアは、それを拒まないひとだった。どこへ行くでもなく、廊下をつかつかと歩いて、ダイニングから距離を取った所で。ソフィアは、きわめて小さく口を開く。

「……さっき『あの男』は何か言ってた?」

 さっき。前の時間を指す語だ。その語は曖昧で、わかりづらい。けれどもアストレアであれば、『さっき』の指す時間が『柵越えを決行した時』であることはきっと伝わるはずだ。あの男──もとい、我らが先生殿の姿のないところで、なるべく小声でしているにせよ、警戒を重々に……と言った所か。なるべく遠回しな言い方を選んでいるようだ。ソフィアの淡々としたその声に、いつもの覇気や感情の豊かさは感じられない。

【学生寮 廊下】

Astraea
Sophia

《Astraea》
 陰気に降り続く雨は狭い箱庭の全てを包み込み、世界は救い難い冷ややかさに充ちていた。汚れ1つ無く磨きあげられた窓ガラスをつつ、と滑った雫は、やがてといを伝って地面へと染み込んでしまうだろう。

 夕食後、説明も無く手を引き歩く親友の小さな背を眺めながら、月珀の彼女は、ささやかな笑みを浮かべて居た。その心の内は、外の天候に似てじっとりと真っ暗な物だったけれど、王子らしく、その命の尽きるまで笑うのが彼女なのだ。
 暖かな笑顔に満ちたダイニングに比べ、廊下は暗く冷ややかだった。囁きにも近いソフィアの声をその耳に受け止めれば、理解した、と言わんばかりにその微笑みを1層強めた。

「嗚呼、まず、特記して伝える事項は…………僕達には居場所を伝えられる、発信機の様な何かが付けられている可能性が高い。勿論、僕もフェリシアも君達の事を彼に話していないけれど、彼は腕時計を見ては"迷子の子達を探す"と、迷わず君達の所へ行ってしまった。」

 多くを語らぬ相手の言葉でも、1を聞けば10まで的確に理解するのがエーナドールである。
 間髪入れずに答えるその声は、ぐっと低く抑えた相手に辛うじて届く程度の囁き声で、感傷になど浸らぬ、極めて淡々としたもの。あくまでも考察にすぎないけれど、と話を締めくくれば、相手の反応を待つ様にそのかんばせを傾げた。

「…………だからあんなに勘づくのが早かったのね、あの男。……気色の悪い……」

 小さく淡々とした感情のない声は、罵倒を吐く際に絞り出すような恨めしい低い声へと切り替わった。……それは。単に機嫌が悪いだとか、そういうのでは済まされないような。殺意すらも孕んだ、静かな小さい声だったろう。

「……わかった。ありがと、何とか調べとくわ。……平気、大丈夫。まだまだあんたにも働いてもらうから。休ませなんてしないからね。」

 すぐに激情は鳴りを潜めた。先程までの気迫を隠した、淡々とした声へ戻った。
 ……横暴なようにさえ捉えられる言葉の裏に、アストレアを必死に想う心があることは、あなたが何よりもわかっているはずだ。ソフィアは、あなたを失いたくないと。まだ共に居たいと。親友が欠けてはどうすればいいのか、と。思っているのだろう。あなたなら、……エーナモデルのプリマドールであった、アストレアなら。きっと、そんな事も、全て全て解っているのだろう。

《Astraea》
「あくまでもこれは僕の考察に過ぎないから、これから先、作戦を進める過程で確認出来るのならばして貰えると助かるよ。それはきっと君達の枷になってしまうから。」

 "確認して貰えると助かるよ"。
 "君達の枷"。

 そんな言葉から分かる通り、彼女は既にその生を半ば諦めに掛かっていた。たった今の言葉も、自分の持ち得る情報全てを開示してしまってからその生命を終わらせようと言う彼女の決意から来る事務的な報告に過ぎない。依然としてただ淡々とした囁き声は、地を這うように低い。
 アストレアは、日頃、甘美な夢を食みながらも非常に現実主義的な性質のドールであった。彼女は分かっていた、これから先、この場所に自分が居られる筈など無いと。
 箱庭で、生ぬるいシアワセを享受することなど、出来ないと。

「仰せの儘に、My Dear Wisdom.この命が尽きるまでは精一杯働くつもりでいるよ。
 その後は頼んだよ。君は一人で抱え過ぎてしまう所があるから、壊れてしまわないように。」

 王子はとびきり綺麗に笑った。その胸に手を当て、優雅に礼をしてみせれば、どこか突き放す様に、されど豊かな慈愛の瞳でそう言った。
 信頼、それは何よりも重い呪い。小さな一人の少女に背負わせるものでは到底無いことも、その少女の精神が酷く脆いものであることも、長い間苦楽を共にした親友であるアストレアはとっくに、痛いほどに分かり切っていたけれど、いつまでも甘い蜜を吸っていられるほどこの世は甘く出来ていないのだ。

 死にたくない。

 だなんて我儘など言っていられないのだ。

「………………ッ、」

 ──そんなことを言わないで。
 他人事はやめて。
 まだ、一緒にいたい。

 死なないで。いかないで。
 あたしをひとりにしないで。

 そんな言葉を、必死に飲み込むように。ぎり、と歯を食いしばる。アストレアだって死にたくないだろうことはわかっていたし、けれども死にたくないだなんて事を言えないだろうことも理解していた。だから、無責任な言葉を吐くことなんて出来なかった。いつも、いつもこうだ。
 誰よりも聡明であるソフィアは、どんな時も理性が先行して、上手に言葉を紡げない。このとめどない想いを、あなたにぶつけることもできない。それをただ飲み込むしか、ソフィアには選択肢がない。
 それは、棘だ。 飲み込んだ苦しい苦しい棘は、内側からソフィアをずたずたに傷つけて、裂いていく。表面上ではわからない、外からは分からない深い傷。
 これを判ってくれるのは、あなただけだったのに。

 会話はそこで終わった。月光を纏う笑顔に微笑み返す事すら出来ずに、ソフィアはアストレアを横切って、再びダイニングへと戻るだろう。
 どんなに傷が痛もうが関係ない。これはやり遂げなければならないのだから。
 故に、この箱庭の継ぎ目を見つけようと足掻くため、親友であり協力者である彼の名を呼んだ。第六感と言うやつか、彼がここに居るのは確信していたのだ。

「──ストーム。居るんでしょ、出てきてちょうだい。」

【学生寮1F ダイニングルーム】

Storm
Sophia

《Storm》
「はい、こちらに」

  短く返事をする。
 その声色は落ち着きを帯びているが、先程発表された“素晴らしいお知らせ“によって焦燥からの煮え滾る感情を抑える為に冷ややかさを含んでいる。
 彼女の見立て通り、彼、ストームはそこに居た。
 スラリと伸びた体躯を屈ませ、お辞儀。彼女への敬意を示した。
 二人の話す姿を見ていたのだろうか、顔を上げると廊下の方へ目線を向け目を伏せつつ口を開く。

「……ホームズの冒険、アティスの語りがあるのと無いのでは天と地の差があるんですよ。
 ジブンはまだ、全ての冒険を聞けていない。冒険をしながら聞いてやろうと思っていましてね。
 なかなかに趣深いでしょう」

 あの日、冠を授かった仲間の1人である美麗な彼女から、同じく冠を授かった1人の高雅な彼女へ目線を戻した。
 いつに無く柔らかな声色、表情。少し遠い未来の話。
 ソフィアに対するストームなりの気遣いだった。
 ソフィアは張り詰めている事だろう。心を通わせた親友をあの処刑の場に送らねばならないのだから。その処刑を回避する為の準備も計画もままならないのに。
 焦り、苛立ち、憎しみで埋め尽くされているのはストームも同じだった。しかし、中核を担っているソフィアが壊れてしまっては元も子もない。


 抗うことを辞めてしまうソフィアなんて必要ない。


 ソフィアがストームを利用するように、ストームもまたソフィアを利用する。
 彼女に利用されることなんて慣れっこだ。
 はけ口にならいくらでもなってやろう。
 それで彼女がまた歩みを進ませることが出来るのなら。
 大方、ソフィアはアストレアに吐き出したい事は沢山あっただろうにそれを飲み込んできたのだろう。
 長年の付き合いから察することは容易だった。

「言いたいことがあるのでしょ? アティスに。それからシブンにも伝えなきゃならない事があるはずです。
 “全て”話してください」

 ストームが語るのは、未来の展望。ほんの少し遠い日の話。長いホームズの冒険を全て聞きたいのだ、と言う言葉は、きっと憔悴したソフィアを気遣ってのものだろう。
 ……けれど、ソフィアはそれに言葉を返すことはなかった。ただ静かに、その話を聞いている。機械的な無表情を浮かべたままのソフィアは、実に『デュオドール』らしい姿をしている。

「……いいわ。情報共有にしましょう。まず、空の風景は全て偽物で、トイボックスは海底に沈んでる。壁に空の映像を映し出してるみたいね。
 そして、アストレアが言うにはあたし達には発振器がついてる可能性があるらしいわ。確証はないけどね。

 得られた情報はそんなものよ。あんたにも聞きたいんだけど、ドロシーってドールの事は何か知ってる?」

 傍で話しているストームにしか聞こえないであろう小さな声は、どこまでも淡々としていた。いっそ冷たいくらいに。『事務報告』を無感情で済ませたソフィアは、自分の番だと言わんばかりに問う。……アストレアに伝えたい事、という文言については、全く触れられていない。それが意図的な無視であろうことは明らかだった。眩い屈折光と勢いの消沈したアクアマリンの瞳は、本物の鉱物へと成り果てているようである。

《Storm》
 ストームが見せた逃げ道をソフィアはあたかも無かったかのように振る舞う。
 それも、機械的に、まるでドールのように。
 彼女は1度決めたことは絶対に曲げない真っ直ぐな性分で、ストームもそれを深く理解している。
 ソフィアが決めた事だ。執拗に突っかかる必要性なしと判断したストームは、彼女に提示した貼りに糸を通すほどの逃げ道に封をした。

 光の灯らないアクアマリンを右のアメジストは酷く嫌うらしい。彼女の目から目線を外し、問われた質問に答える。

「勤勉で模範的なドールでした。クラスメイトには慕われる方、のはずですが……。

 実は先日、我々テーセラドールの控え室に出向いた際、彼女のドレスが無惨な姿で隠すように置かれてしまして。
 その隠され方といい、以前までの彼女の振る舞いと言い、反感を買うことは少なくとても彼女を妬んでいるドールの仕業とは思えなかったんですよ。
 今の彼女は噂でしか聞きませんが、だいぶ雰囲気が変わったようなので断定はできません」

 彼女について知っている事、ドレスの件、自身の見解を述べたストームは口に添えていた指を下ろし目を伏せ気味にソフィアに目を向ける。
「彼女がどうかしましたか?」

 そう付け加えて。

「……ドレスが?」

 ストームが言うには、ドレスが無惨な姿になっていた、と。奇怪で奇天烈で、けれど確かな理性と知性の宿ったドール、ドロシー。……やはり、〝アレ〟は演技だったのか。聡明な彼女が慕われるドール、というのは腑に落ちた。ソフィアは、静かに思案する。
 ──ドレスが搬入されているというのは、あるいは、彼女もお披露目が近いのやもしれない。彼女はトイボックスの実態を深く知っているようだったから、お披露目の時期を伸ばすために、ドレスを引き裂いた……というのも、考えられない話ではない気がする。そこまで考えついた途端、ソフィアはストームの腕を引いて合唱室へと向かおうとするだろう。きっと、ストームの手に抵抗の力は込められないはずだ。

「ストーム、合唱室に行くわよ。多分だけど、ドロシーがいるはずだから話を聞きたいの。
 ……彼女、あたし達よりも随分〝ココ〟について詳しいみたいだから。」

【学園2F 合唱室】

Dorothy
Campanella
Storm
Sophia

「──中々収穫はあったよ、ギャハハハ!
 あんまり知りたくなかった事実ではあったケド。」

 ドロシーはそこでようやく、カンパネラからすんなりと離れてくれた。

 彼女は扉の向こう側を見据えていた。ドロシーはテーセラモデル。聴覚に優れた彼女は、扉の外から響く合唱室にやってくる足音に気が付いたらしい。

「来客だぜ、カンパネラ。ジングルでも鳴らしてやったらどう? リンゴーン! ギャハハハハハハ!」

《Campanella》
「っえ、」

 来客の存在を告げられると、カンパネラは慌ててドアから背中をひっぺ返すように前へ進んでいった。扉から見て、ドロシーより少し手前の方に立つ。恐る恐るといった風に振り返る。
 カンパネラはトゥリア、それも欠陥品。彼女の五感は来客の気配を感知しなかった。しかし、彼女の第六感……もとい“天秤”が、じんわりと嫌に揺れていた。

《Storm》
 カンパネラの第六感は彼女を守ろうと正しく機能している。
 なぜなら、彼女の真髄に眠る”カンパネラ”は猟奇犯の気配を感じ、警報を出しているのから、それがはっきりわかる。

 一方、猟奇犯は旧学友とカンパネラの姿を見るなり数回瞬きをして見つめる。心底意外そうに面白いものを見るかのように。

「久しぶりですドロシー。カンパネラと仲良くなっていらしたのですか。彼女、素敵でしょ?」

 カンパネラの方を見ながら”彼女”を褒め称えた。しっかりこの声が届いていればいいが、とストームは想いながら。
 さて、面白い関係性を垣間見たストームは目的にへと思考を切り替える。
 ストーム自身ドロシーへ聞きたいことはいくつかあるが、レディーファーストをする事は紳士として当たり前。
 そして、聞きたいことのほとんどはソフィアが質問するだろう。自身をこの場に連れて来た女王の側近となる位置に身を引く。

「ごきげんよ──って、カンパネラ?」

 ストームの手によって扉は開かれた。その先には、予想通り歪なビスクドールの姿……と、守るべきクラスメイトの姿も見える。記憶の中では、確かにカンパネラはドロシーに酷く怯えていたはずだから、ひとりでわざわざこの場所へと足を運び、しかも彼女と話をしていたらしい……なんて全くの予想外だった。
 ドロシーには、柵の外を見回ってきたこと、そしてそれで得られた情報について伝えておこうと思っていた。しかし、カンパネラが居るとなるとそんな話もできない。彼女をまだ巻き込みたくなかったからだ。故に、ソフィアは歪に顔を顰める。ばつの悪そうな表情である。

「あー……二人とも、話してたのね。ドロシーに用事があったんだけど、邪魔しちゃ悪いしまた後で来るわ。」

 そこまで言って、ソフィアは踵を返そうとするだろう。だって、カンパネラがこの学園の闇の片鱗を掴んでいることなど、ソフィアには知る由もないのだから。聡明なドロシーのことだ、ソフィアが何を言おうとし、何故退散しようとするのか、検討がつくことだろう。ストームの首元のタイを引き、自分の目線に彼の顔を持ってくれば、「後にしましょう」と耳元に囁いた。

 やがて合唱室の扉を開いたであろう二人の来訪者を前にして、ドロシーが微かに「……ゲ。」と疎うような声を溢したのを、彼女の最も直近に立っていたカンパネラであれば聞き取れたかもしれない。
 彼女はソフィアとストームを見据えて、被り物の側頭部を押さえながら僅かに項垂れたが。直ぐに顔を上げて、僅かにそれを傾ける。

「ギャハ、ギャハハハハ……あーあ。来たのかよ、台風の目! まったく魅力的過ぎて参ってるぜ〜〜、オミクロンのジャンクドールどもはさァ。」

 ドロシーは会いたくなかった旧友と出くわしたような気不味い声を出して、ストームに応答した。
 ストーム。あなたは彼女がドロシーであると分かる。声や体格は覚えている限り同級生である彼女そのものだった。

 だが、いくら様子がおかしくなった事を知っていたとはいえ、以前の彼女はこのように悪目立ちする醜悪なビスクドールの被り物など被っていなかったのだ。
 もともと、ドロシーは黒いメッシュを入れた金髪を邪魔にならないよう後頭部で結い込んだ、模範的なテーセラモデルらしいいかにも快活そうな見目をしていた。それが今ではその顔の全てを奇妙な覆面で覆い隠している。凄まじい変貌ぶりである。

 以前の自分をよく知るあなたと鉢合わせてしまったことを厭っているのか、ドロシーはストームから早々に顔を背けてソフィアの方を向いた。

「へえ? 虚飾のクイーン様はドロシーちゃんに用事なワケ? 今まさにオハナシしてやる気分なんだケド、今立ち去られたら気が変わっちゃうかもネッ。

 タイニーホワイトも折角健気になけなしの勇気で来たんだし、聞いてけば? 別に構いやしないだろうが、コイツはもう大体の事は知ってるし。

 オイ、ミザリー。返事はァ〜〜? ワンって言えよ。ギャハハハ!」

 ドロシーは今ここで話せとソフィアに命じつつ、この場に立つカンパネラをしれっと巻き込もうとする。またしても気弱な彼女を上から押し潰すような威圧感のある問いを投げ掛けながら。

《Campanella》
 突然やって来た来訪者の姿が見えると、カンパネラは今度こそ顔をしわくちゃにして「ヒィッ………」と悲鳴を漏らした。ドロシーの苦々しい反応とはほとんど同時だっただろう。
 まず見えたのは藍髪の青年。臆病なカンパネラの、最大級の恐怖対象であるストームだ。いつものように彼は、カンパネラの内側の“彼女”へ言葉を届けようする。いつもいつも、こちらを見ているようで見ていない、カンパネラにとってひどく恐ろしい人物……。
 彼の表情にはある程度の愛嬌があるようにも見えるが、そんなのは関係ない。カンパネラは真っ白な顔をしてどんどん後退していき、遂にはドロシーの陰に隠れでもするかのように背中を丸めて縮こまる。彼女の覆面の下に隠された複雑そうなあれこれには、鈍感にも一切気付くことなく。
 そして、次に見えたのはソフィアだ。長身のストームと並ぶと、その小柄さが際立つ。
 ──カンパネラが硬直したのは、その時だった。

 彼女のアクアマリンは、金色の髪とのコントラストは、きっと永遠に色褪せず、鮮やかで、ああそれは、それはまるで、まるで、記憶の中のあの子にも似ていて。そしてその幸福に満ちた光景は、残酷にも──
 ……唇が震える。指先が冷たくなる。カンパネラの真っ暗な瞳は、ソフィアたちには見えただろうか。

「………シャ、ロ……」

 五感に優れたテーセラモデルである二人には辛うじて届くか届かまいかというその極小の声は、ドロシーの声によって完全にかき消された。はっとカンパネラの意識が現実に呼び戻される。

「あっえ、あっ、え!? ………わっ、わぁん…………」

 どこか虚ろだった目になけなしの光が戻ってきたかと思えば、圧をかけられるがままに応答する。巻き込みたくないというソフィアの意思は、当人には少しも通じていない様子である。

《Storm》
 ソフィアの意見が最もだ。ストームはカンパネラを見ながらそう納得した。
 今の彼女は怖がりであり、ストームの姿を見た時の反応が全てを物語っていると言える。お披露目の事や金髪赤眼の可愛らしい声で泣く”あのドール”の末路、きっと教えたら挙動不審さが増して隠し通せる未来が見えない。

 ……はずだった。

 ドロシーの言葉で状況が一気にひっくり返されるまで。

「大体の事は知ってる……? と、言いますと?
 お披露目やそれ以外の事も……」

 下唇を親指と人差し指で弄り、熟考する。
 もしかしたらカンパネラは想像しているよりももっと強いのかもしれない。それが”彼女”の影響か、それともカンパネラ自身の精神力なのかはストームには分からない。
 が、彼女の勇気に賭けてみるのもありかもしれない。

 ストームは屈んでソフィアにそっと近づき耳打ちする。

「案外カンパネラは守らねばと気を張るより、力を貸して頂いた方が良いのかも知れませんよ?
 それにお気付きかもしれませんが、彼女様子が変です。
 何か知っているのかもしれません。

 最終判断は貴方様にお任せします」 

「いやっ、今話せない事くらいわか……は!? 何、大体のことは知ってるってどういうことよ。……まさか、巻き込んだの? カンパネラのこと。」

 ドロシーを貫く視線は、まるで初対面の日のように驚きで丸くなり、そうして次第に怒りを帯びて鋭く睨むように変貌していくだろう。ソフィアはカンパネラの事情について知る由もないし、まだこの話を知らせるには時期尚早である筈だと思っていた。この歪んだ箱庭の闇に触れることが、どれほど危険な事かも理解していたから。ドロシーからすれば、巻き込んだと言う言葉は心外でしかないだろう。

 そして、その憤りを放出するよりも早く、カンパネラの瞳が色濃く絶望を纏ったのに気が留まったようであった。

「……カンパネラ……ちょっと、大丈夫?」

 ストームの囁きには、言葉ではなくなんとも言えぬ複雑な心境を纏った視線を返答とした。そうしてアイコンタクトを交わしたのち、ソフィアは合唱室内部へと足を踏み入れ、カンパネラの元に駆け出すだろう。

「巻き込んだァ? 人聞きの悪いこと言うなよジャンヌ、ギャハハハハハハ……ええマア、はい。巻き込みました。た・だ・しィ、あくまで双方合意の上だ。

 確かにコイツに真実を知る権利を与えたのはワタシだケド、コイツは自ら望んでノコノコとここまでやってきたんだよ。
 危険を承知でも真実を知りたい。ワタシには泣けるほど共感出来る至極当然の欲求だと思います!」

 ドロシーはあなたから発される正義の怒りを受け止めて、悪びれる様子もなく肩を竦めながら白状した。
 確かに彼女を家中へ引き込んだのは自分だ。だがそれは彼女の望みでもある。自らに置かれた状況が何であるか、自分はなにを知らないのか。真実を追求しようとするカンパネラを、自分はあくまで支援しただけだ──と、ドロシーはざらざらとした不協和音の笑声を奏でながら告げる。

「で、どこまで、だっけ。

 少なくとも、お披露目に未来はないことはもう知ってる。この学園が海底に沈んでいて、現状最速で実施出来る脱走方法が無いことも。
 それ故に絶望の写し鏡、お披露目から逃げられずに窮地にあること。ワタシ達は知ってる……」

 そこまで語ると、ドロシーは一度カンパネラに目を向けた。そして彼女に駆け寄るソフィアのことも。
 しかしその行動に特に言及はせず、あなた方の現状を澱みなく語る。 

《Campanella》
 知りたい、知らなきゃ、知るべきだ。そう決意してツリーハウスへ行ったことは、カンパネラは少しも……いや、少ししか後悔していない。
 真実を目にした結果はどうあれ、ドロシーの発言に嘘のないことは、聡明なソフィアには容易に理解できただろう。彼女が知ったことの内容も、淀みなく真実である。
 心配してこちらへ駆け寄ったソフィアに対し、カンパネラはドロシーの発言を否定するような素振りを一切見せなかった。ただうわ言のようにぽそぽそ言葉を吐いて、執拗に己の二の腕をさする。彼女の善意を理解しつつ、カンパネラは涙を溢し続ける。幽霊でも見たかのような顔をして。

「…あっ、あ……! ご……ごめんなさ………ごめ………ああぁ、……嫌……み、見ないで、その目で………目………うあぁあ………」

 カンパネラは更に後退したかと思えば、不意に膝を崩して座り込み、一度ソフィアのことを見上げるとそれきり、目を手のひらでふさいでしまった。誰がどんな声をかけても何をしても、苦しげな嗚咽しか返っては来ないだろう。 

《Storm》
 やはりカンパネラの様子は明らかに、おかしい。
 怯えているような、いや、彼女はいつも怯えている事には変わりないのだが……いつものソレと違う。
 なにか、信じられないものを見たかのような。信じたくないものを見たかのような。

 今、カンパネラに話を聞くのは不可能だろう。

「ドロシー、いくつか質問を。
 “ワタシ達”とはドロシーとカンパネラのみでしょうか?
 それと、過剰とも言えるカンパネラのこの反応に対し随分寛容的なんですね。少し意外です。
 彼女の反応から察するに、ソフィアに何らかの因果関係があると思うのですが貴方様なにかご存知なんですか?」


 酷い過呼吸にまで陥ってしまったカンパネラを横目に、ストームはドロシーに問いかける。
 今の状況を俯瞰した結果の質問だった。 

「……!そんな、全て……」

 ──合意の上で。自ら望んで。そんな弁明に次いで連なる説明は、今まで手に入れた情報の全てであると言っても過言ではなかった。ドロシーの言葉の中にも、カンパネラの様子からも、合意であると言うのが嘘であるようには感じられなかったため、ソフィアは誰も責めることが出来ない。
 カンパネラは、顔を隠したきり何も話してくれなくなってしまった。小さな嗚咽のみが漏れ出る様子に、うまい言葉を探すことは出来なかった。当然だ、エーナモデルとは違ってそんな機能は備わってはいないのだから。
 ……アストレアだったら、こういう時にどうするべきか分かるんだろうなあ。このままやっていけるのかな。なんて思いは、そっと心の奥にしまっておいて。

「……外の事、もう知ってるなんて思わなかった。ドロシーもカンパネラも、外に出たの?」

 ストームの冷静な問いを追いかけるように、ソフィアもまた疑問をぽつぽつと漏らした。

「……ああ。外ってのはさァ、海底に沈んだくだらないジオラマの、あのチンケな柵の外だってお話なら。答えはYESだな、ワタシ達はあの柵を越えた先の敷地を見てきた。

 と言ってもお前らの調査とはまるきり違う方向だったケド」

 被り物をしっかりと被り直す動作を挟んで、ドロシーは大きな身振りを交えつつ語る。その大袈裟な動きはまるで道化を演じているようで、役者を気取っているように見える事だろう。

「誰が知ってるかは黙秘しておく、プライバシー保護の観点からカナ? あと、ワタシ達の調査したこともネッ。キャハッ、理由は虚飾のクイーンにはもう教えてるから割愛しまーす。どうせお前らの間でスグ明らかになると思うし。

 なあマグノリア、気付かないうちにもうスッカリ広まってるみたいだな、ギャハハハハハハ……」

 彼女は意味深長に呟くと、適当な教室内の机に乱暴に腰掛けて、足を組んだ。ドールに教え込まれているであろう気品などを無視した、粗野な態度であった。
 恐慌を示すカンパネラをまた改めて見据えたドロシーは、緩やかなため息を吐き出して。

「で? ワタシはシンセツだから、お前らがワタシを頼りにしたいなら相談に乗ってやるケド。
 ちょうどミザリーの質問も聞いてやってたところだし。なあオイ、そうだろ? ギャハハ!」 

《Campanella》
「………うぅ…………っぐ、……ごめんなさ………嫌ぁ………」

 カンパネラは顔を伏せ、ただ涙を溢し続ける。ストームとソフィアの問い、ドロシーの答えをどこか遠くで聞いている。
 朝日の下で輝くマリンブルーが、虚ろに暗闇を見つめる様が脳裏に何度も何度も蘇る。フラッシュバックする。あのがらんどう。頬と呼べない頬の感触。ノートを読んだときの、首を強く強く絞められたような心地……。
 ああ、どうしてこんなに苦しいのだろう?シャーロットという少女の死が、出会ったことのないはずの友人の無惨な死が。カンパネラには、分からない。
 この頭を焼く衝動は、一体なんだというのだろう? 哀しみに近くて決定的にそうではない、抱いたことのない感情は。分からない、分からない、分からない。この涙は、わたしのどこから溢れ落ちている?

「…………ひっく……」

 びくりと肩を震わせたかと思うと、カンパネラはカーディガンの袖でどうにか涙を拭おうと目元を擦った。しかし涙は止めどなく流れ続ける。口から漏れるのは言葉にならない嗚咽だけ。返答を求めるようなドロシーの声に「ぃ」とどうにか発しながら、ひとまず深く頷いた。
 どくどくと鼓動が頭に響いて聞こえ、聴覚はくぐもっている。あの偽物の空を覆う厚い雲がかかっているようだった。まだ聞きたいことはあったけれど、どうにも涙が止まらない。会話にはまだ参加できる状態でないと分かるだろう。そのような状態になってなお頑なにその場を去らないのは、どうしてなのだろう。カンパネラにもそれは分からない。ただ、少女は耳を傾けている。 

《Storm》
 道化となったドロシーの呼び掛けと同時にカンパネラの方を向く。彼女はボロボロと大粒の涙を流していた。
 ストームはカンパネラに近付き片膝を着く。彼女の目の前で何をするかと思えば、懐からハンカチを取りだしたのだ。何を言う訳でもなく、黙って彼女の細く小さな白い手に持たせた。

 スっと立ち上がるとドロシーに目線を戻す。

「えぇ、貴方様の事は以前より親切だと存じておりますしとても頼りにしてますよ。
 なので、今から言うことは親切で優しい貴方様を傷つけるかもしれません」

 ドロシーが道化ならストームはジョーカーと言ったところか。舞台上ようなドロシーの大袈裟な動きとは打って変わって、ごく自然にそれでいてコミカルに紳士的に身体を操る。彼女の大きな身振り手振りに乗っかるようにコアの辺りを抑え、心底辛いと言ったような表情を作った。
 一瞬チラリとソフィアに目配せをし、合図を送る。


「ドロシー、貴方様のドレスボロボロになっていました。
 最後の晴れ舞台への衣装だと言うのに……。
 ご自身で破かれたのでしたら話は別ですが」

 少々回りくどい言い方をしたがソフィアには意図が伝わるだろう。ドレスを破き隠す程度でアティスのお披露目を延期できるのなら万々歳だ。

 伏せられた内容を深く追いかけることはせずに、納得したらしい反応で特に返答はしないでおいた。ストームがハンカチをカンパネラに預けるのを見て、ソフィアはそっとカンパネラから離れ、ストームの傍につくだろう。

「……そう。あなた、あたし達よりも情報を手に入れるのが早いのね。……情報の出処はわかってる。けど、もう遅かったみたい。責められることでもないし。」

 広まっている。その言葉に、ソフィアは静かにため息を落とす。
 ──内通者。ドロシーに告げられた、一つの説。大いに視野を向けるべき事象ではあるが、けれどそれに探りを入れるには手段も時間も足りなすぎた。難儀そうな面持ちで、静かに視線を落とすだろう。
 ドロシーへ問うたストームの演技がかった仕草を静かに見届けて、何も言わずにドロシーの答えを待った。
 ──お披露目を回避する方法。要は、それを聞き出そうとしているらしい。

「あぁ……弁解しておくとこのミザリーの様子はワタシが虐めたわけじゃねーよ。マ、真実を知るには痛みも伴うってコトデショ……お前らがそうだったように。キャハハッ」

 極度の恐慌状態に陥って体を強張らせているカンパネラのことを、ドロシーは漸く言及した。しかしその事情を深くは語らない。こちらが暗に彼女を口止めしたのと同じで、ドロシーもまた彼女の口から語るまではこちらから事実を明かすつもりはないのだろう。

 しかしそれは彼女に関する事柄だけに限った話。
 ストームが不意に、話の主題をドロシー自身の件についてシフトすると。

「………………」

 ドロシーは突然、水を打ったように静まり返った。被り物の内側で、浅い呼吸音だけが溢れているのをストームの優れた耳は拾い上げるだろう。
 彼女は暫しの沈黙を経て、「……あぁ。」と嘆息を零す。

「見つけちゃったんだ、それ。」

 ドロシーは足を組み直して、何か考えるように被り物の正面をずらして虚空を見据えた。何かから答えを得たがっているような空白にも思える。
 しかしやがて、彼女は諦めたように肩を竦めた。

「それは前の……前の前ぐらいのお披露目の衣装だよ、ワタシの。お前がもうテーセラからオミクロンに落ちた後の話だ、ピーター。だから知らなかっただろうケド。

 ご心配には及ばねーよ!
 お前の言う通り、アレはワタシが自分でやったこと。こうすれば着る服が無くなって、お披露目に出ずに済むかと思ったからそうした。

 結果どうなったか? ギャハハ、ワタシを見りゃわかんだろ!」

 ドロシーは自身の両腕を広げて、自らを誇示するように吼えてから嗤った。

「晴れ着は『奴ら』にとって重要な要素らしいネッ、無事ワタシはお披露目を保留にされた。で、今もテーセラクラスの底辺でくすぶってるってワケ……参考になった?

 知ってるよ、オミクロンのプリマドールの一人の地獄行きが決まったって。スノウホワイトと一緒に聞いたから。ギャハハハ……お気の毒様。」

《Campanella》
「ぁえ………」

 ストームが突然こちらへ歩み寄ってきたものだから、何かまた意地悪を言われたりするのだろうかと身構えたが。彼は紳士的にも、こちらへハンカチを持たせてくれた。目に染みる薬品でも染み込んでいるのだろうかと思ったがそんなことはなく、単純な親切のようだった。とは言えども、他人の私物を自分なんかの涙で汚していい理由がなくて、カンパネラはただハンカチを握りしめるのみであったが。

 最後の晴れ舞台。沈黙。ずっと前のお披露目、ズタズタになった晴れ着……。カンパネラは嗚咽を押さえ付けるように呼吸を何度か止めながら黙って、そのやりとりを聞いていた。理解できなくても流して、何となく頭に情報を詰め込む。頭が欠けているので、じきに少しずつそれらは溢れ落ちていくだろうが。
 混乱でぐるぐると目を回す。回しながら考える。呪いのように頭に張り付く焼死体は、何を考えていようとカンパネラの思考に乱入する。凄惨で、生の気配の欠片もない、人工の皮膚と肉と骨の塊。

「……あはは、は………」

 そんな嘲笑にも似た息を吐いた。いつの間にやら顔を上げていた。意味もなく、ソフィアを一瞥する。見開かれた空色の瞳はすっかり濁りきっている。

「……晴れ着なんて。馬鹿みたい。……どうせ火をつければ、燃えるのに……」

 そんなことでお披露目が回避できるのなら。そう思うと、なんだか馬鹿らしくなってしまった。
 もしもお披露目の異常性に気付いていたなら、もしもわたしたちが彼女のドレスを裂いていたなら、あの子は死ななかったのだろうか?

「……あの子は………あはは………。……もし、わたし、……わたしが………
……ああ。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…………」

 笑いながら泣いて、すぐにまた呼吸は荒れた。
 アストレアのお披露目は、それで回避できるかもしれないという可能性が浮上した。それは喜ばしいことだった。しかしカンパネラは今、過去を見すぎている。輪郭も分からない過去に囚われすぎている。
 どこへ宛てたものかも不明瞭な謝罪を繰り返し、自身の首筋に爪を突き立てる。手の震えが止まらない、いつも以上にひ弱な彼女の力では、その体に傷一つ残せないだろう。 

《Storm》
 空気が凍る沈黙。その中に追い詰められた小動物の息遣いにも似た呼吸音をストームの耳は微かに拾う。
 ドロシーのものだ。
 カンパネラが落ち着くまでと思い別の話題を挙げたが、想像していた以上の反応が返ってきた。ソフィアすら騙し通せる言い訳が見つからないのか彼女は、ドレスに起きた悲劇を語ってくれた。

 最後まで一語一句聞き漏らさずに頭に入れる。
 納得したのか驚いたのか、目にかかるほどの前髪から夜と朝の色をした瞳を覗かせるほどに見開いた後、堪らずに口を手で覆った。
 恐らくストームはほくそ笑んでいる。確認すべき事はあるが、思いのほか想像通りだったから。
 咄嗟に口を隠したはいいがソフィアやドロシーにはその不気味な笑みが見えてしまっただろう。

 手を口から外しながらゆらりと、その手を左胸に添えドロシーへ一礼する。

「とても参考になりました。ありがとうございます。
 ご安心を。あのドレスはそうそう見つかりにくい所へ置いたので簡単には見つからないかと」

 ストームが意気揚々にドロシーへお礼を言った時、カンパネラは焦点の合っていない目をソフィアに向けて吐き捨てるように言葉を放つ。
 その目はまるでソフィアを見ていないようで、恐ろしく不気味だ。その後の謝罪に至るまでカンパネラはその不気味さを纏っている。
 しかし、カンパネラの異質さはストームにとって好餌か些細な変化にしかならなかった。

「良かった。ずっと取り乱したままに言葉すら交わせないと思っていましたよ。

 あの子……ミーチェの事ですか?
 おかしいですね。ジブンの記憶ではミーチェの最後を見たのはリヒト、フィリー、それから先生のみだと認識しておりました。
 ねぇカンパネラ、教えてください。あの子とは一体どなたのことを言っているのですか?」

 カンパネラがようやく話したのをいい事にストームは一歩、また一歩と彼女に詰め寄る。
 目の前まで行けば謝罪を繰り返し首を掻き毟る彼女の手を取り、自身の声を彼女の意識に届かせるようもう一度質問するだろう。
 誰かが止めなければストームはきっと。 

 『お気の毒様』。ドロシーの言葉には、確かに感情がこもっている。ように聞こえた。日頃ガタガタと頭部を揺らして、歪な笑い声を上げる奇怪なドールが発した声とは考えられないほど。ストームと出くわした時の先程の態度から思うに、あまりこんなことを本人に言っては嫌がられるのだろうけど。
 ともかく、ドレスをダメにしてしまえばお披露目が延期できるらしいという有力な情報を手に入れることが出来た。静かに、コアが脈打つ。希望の光を吸収するかのように。
 ……けれど。
 胡乱な目を見開いたカンパネラは、吐き捨てる。
『どうせ火をつければ燃えるのに。』
 ……オミクロンのドールにとって、晴れ着とはそこまで重要なものなのだろうか。本当に、同じ方法で。アストレアのお披露目は回避できるのだろうか。

「──ストーム! 品のない男を連れにした覚えはないわよ。
 ……それじゃ、ドロシー。話してくれてありがとうね。今これ以上話せることもないと思うし……また何かあったら話に来るわ。」

 亡霊でも見たかのように怯えたカンパネラを問い詰めるストームに一喝を。そして、会話を切り上げるように言葉を連ね──この場所を後にする気らしかった。ストームにそっと近寄れば、入口の方へと腕を強引に引っ張って行くだろう。
 そして。たとえテーセラの聴覚を以ってしても一人にしか聞き取れないような小さな声で、彼にそっと耳打ちをする。

『エーナにもプリマを強く妬むようなドールが一体はいるはず。それを見つけてコンタクトを取って、アストレアのドレスをダメにさせるように仕向けて。』

『──あと。クラス内に内通者がいる。あたし一人じゃ手が足りない、あなたが探りを入れて。』

 そこまで言い終わると、ストームの腕を解放する。合唱室とは反対の方向に押すように乱雑に腕を離したのは、きっと「行け」という合図だろう。従順なストームが相手なのだ、恐らくすんなりとそれまでの動作が完了するはずだ。
 意図通り、ストームが無事その場を去れば。忘れ物を取りに戻るように、ソフィアは再び合唱室内部へと踵を返す。今度は、カンパネラに歩み寄って。

「カンパネラ、悪いけど……今少しいい? 話したいことがあるの。」

 カンパネラが、瞬く青色に怯えていたのを、ソフィアは見ていた。故に、目を閉じたまま。そっと手を差し出した。

 目立たぬ場所に隠しておいたと述べるストームに、変わらずドロシーは非常にやりづらそうな様子でひらひらと適当に手を振り、「アッソ……」とゲンナリした声を出した。
 彼女からするとこの話題は、あまり歓迎出来るものではないらしかった。しかし厭悪しながらも、ソフィアの表情が僅かでも明るくなったのを見て、彼女は苦言を呈す。

「あー、ワタシの方法を模倣するのはいいケドさァ……前も言ったケドぉ、そいつの欠陥が修復されてなけりゃ、そいつは十中八九火刑場行きなんだから、ドレスを裂いたってどうにもならねーカモ。
 どーせ脱出の算段もまだ整ってないんだろうが。今お披露目を免れても生き残れるかは正直賭けだよ。

 無駄に希望的観測を抱くと痛い目見るよ。あのジャンクドールの件で痛いほど思い知っただろーが……馬鹿な女……。」

 ドロシーは最後に一言そうごちると、ストームとソフィアの脇をすり抜けてあっさりと部屋を去り行く。話は終わったと判断したのだろう。後にあなた方が何を話そうとも、彼女は気にしないはずだ。 

Campanella
Sophia

《Campanella》
 カンパネラの言葉を拾い、目の前まで迫った嵐は、悲鳴を上げる前に去り。その手に持っていたハンカチを返すような間もなく、彼女が俯いているうちに、部屋からは人の気配が消えていた。

「…………ぐす……」

 視界が真っ黒になるような感覚に溺れて、ドロシーを引き留めるような気も起こらない。聞きたいことがあるのだと勇気を出してここへ赴いたのに、結局聞けたのは一つだけだった。√0が、わたしをツリーハウスへと呼んだ……。

 先程までのやり取りを反芻する。ミーチェの最後。ミシェラのことか。……あの子も、死んじゃったんだ。先生は目撃者の一人…というよりは、執行人なのだろう。信じていた、仮初ではあるけれど、父と呼んでいたひとに殺されて、無垢な彼女は最後に何を思っただろう。シャーロットを殺した『先生』も……彼なのだろうか。
 ドロシーさんのドレス、お披露目の回避方法……。そういえば彼女はストームに問われたときから、いつもの調子を失っているように見えた。彼女は変な人だけど、それでもやっぱり、怖かったのだろうか。白く輝く地獄への扉が、目の前に提示された瞬間は。
 ……アストレアさんは。

「…………何ですか……」
 
 目の前の少女、ソフィアさんは。ストームさんは。真実を知った上で、友人に死刑宣告が下されたのを、笑って祝わなくちゃいけなかったあの人たちは。ミシェラさんの最期を見届けたという二人は。ノートの持ち主の子は。……“わたし”は。
 どうして、こんな目にあわなければいけないのだろう。あんな目にあわなければいけなかったのだろう。

 目元を執拗に擦りながら、ふい、と金糸から視線をそらす。こちらの恐怖を察し、目を閉じてくれた優しいソフィア。しかしカンパネラは、彼女の手を取らなかった。……取れなかった。

 教室の主はするりと去っていった。その背を見遣ることもせず、ソフィアは呟く。それは、蝶の展翅の音よりも小さな、空気が微かに揺れるような音で。

「……そんなこと、分かってるわよ……」

 掴もうとしている光の糸は、きっと偽物で。鋭いピアノ線と同一の物で、握れば手が傷ついてしまうような光明で。けれど、されど。それを追いかけていなければ、壊れてしまう。そうわかっていたから、盲目に進み続けるのだ。
 まだ、壊れてはいけないから。

「……カンパネラ、よく聞いて。少なくともあたしはあなたを巻き込む気はないし、巻き込みたくもない。危険な目に遭って欲しくないし、……当然、『父』を騙るあの男の手にも掛かって欲しくはないの。
 だから、あたし達はこの箱庭を抜け出さなくちゃいけない。その為に、あなたが何を見たのか教えて欲しいの。」

 取られることのなかった手を、仕様ないとそっと引いた。ソフィアはカンパネラに背を向けて、顔を見せないまま抑えられた声で語り出すだろう。静かな合唱室に、小さい声が控えめに響く。
 先程から、ソフィアはぎちぎちと拳を握りしめ、手のひらに爪がくい込んでしまっている様子だった。人間が激情をおさめるために行うような自傷の動作は、カンパネラの目にはどう映るだろう。
 何よりも愛していた子に助けてみせると虚言を吐き、残酷な運命を告げられた親友にロクな言葉を掛けることも出来なかったような、そんな無力な少女の力では、その爪が傷を作ることはない。脆い力だ。何も変えることの出来ない人形にはお似合いの。

《Campanella》
 可哀想に。
 自身の身体を傷付ける彼女の様子にカンパネラは、率直な哀れみを抱いた。シャーロットと似た、しかしそれよりもどこか凶悪なものさえ感じさせる、あの激しい輝きは……文字通り、海底に沈み、沈黙しているかのよう。
 燃え盛る真っ黒な炎が覆う世界で、どこからか下ろされた蜘蛛の糸を掴もうとする少女。その糸が容易に切れてしまうような脆さであることも、偽物である可能性も、聡明な彼女ならば考え付かない訳がないのに。

 あの時よりもずいぶん小さく見える背中を、カンパネラは眺めていた。手のひらに冷たい床のつるつるした感触を覚えながら。
 未だ呼吸は整わぬまま。それでもどこか冷静に、ソフィアのことを哀れんで。

「…………あはは………」

 目は、笑っていなかった。

「……わたしたちが知ったことは、さっき……ドロシーさんが、言ってたでしょう。あれでだいたい、ぜんぶ、ですよ。……お披露目はまやかし、空は偽物。ここは海の底。どれだけ走ったって、外へは出られない。………抜け出すなんて、で、できるわけない…………。」

 少しだけ、そうやって嘘をついた。カンパネラにはまだ語っていないことがあったけれど。脱走のためのヒントになるわけはない、更に絶望を深める情報だと思ったのだ。

「──いいえ。あたし達が外に出たのは、脱出の下準備として視察する為だった。けど、カンパネラ。あなたはそんな事のために外に出るような子じゃないでしょ? 合意の上で、自分からドロシーに同行したと、そう言っていた。……他の目的があったんでしょう。」

 淡々と、語る。臆病なカンパネラが自発的に外に出るだなんてこと、相当な事があったに違いないと、そう確信があった。背を向けたまま、冷えた声色で。述べられた論理は、全てあなたの図星であったろう。

「…やらなくちゃいけない。できるできないの話じゃない……これ以上奪わせたくはない。やらないと、あたしが……。

 ……さ、カンパネラ。もう一度聞くわ。何があったのか、何を見たのか。詳しく教えてくれる。」

 ソフィアは、ふたたび。展翅の振動よりも小さな、風のささやく声で、呟いた。繊細なトゥリアの耳にそれが届いたかどうかは定かではない。独り言が終われば、改めて声を張って、けれども静かなままの声で、説明を求めた。

《Campanella》
 全部当たりだった。そうだ、彼女には目的があった。脱走なんて無謀はしない。そんなことのために危険を侵したのではない。
 は、は、と細かく息をする。追い詰められた獣の呼吸音だ。罪を突き付けられた囚人のような顔は、ソフィアには見ることが叶わないだろう。カンパネラは自分の顔を手で覆う。

「…………し、知りたいことが……あったんです……。そのことを、あのひとは……ドロシーさんが………分かるって。着いていったら分かるって、言って………だから、柵を越えて………」

 震えた声で応答する。ソフィアの冷たい声が、小さな声が怖かった。ただ説明を求めている彼女の声は、カンパネラには責められてるみたいに思えた。そして、あれを改めて言葉にするのが、怖かった。

「………コゼット、ドロップ……花を辿って……柵の外には、ツリーハウスが、……あって。そこで……わた、し………あ、あの子が………」

 だって言葉にしたら、現実になってしまうと思った。沈黙は最後の抵抗だった。
 ……否。逃避であった。自分が事実から逃れようとしていたことを、カンパネラは今自覚した。それこそ無駄なことなのに。あれはどうしようもなく現実だったのに。

「あの子、あの子は……夢で出会って……ち、違う、ちが………お披露目………お、お披露目に、選ばれ……行ったはずで………わたし、花束を……しあわせ、に……なるはずだった、のに………あの子は……あの子は……!」

 もう自分が何を言っているのか分からない。とりとめのない言葉を吐いてしばらく押し黙ったかと思えば、錯乱したように声を上げて何度も何度も首を振る。

「し、死体が! ツリーハウスに! あの子、しん、で………い、いやだ。やだ、……やだやだっ、違う……! ……ちが………だって、だって、幸せ……しあわせに! 笑ってたのに! で、でもあの子、あの子は、………シャーロットは……先生に、……殺されて………」

 ツリーハウスに行って、見たものはたくさんあった。コゼットドロップ、ぼろぼろの謎の布、壁に飾られた絵画、刻まれた「√0」という傷、おもちゃやカメラ。
 しかしあの日のことを思い出そうとすると、“彼女”の焼死体とノートの内容だけが強く強く蘇る。ゆえにカンパネラは、それしか語ることができなかった。彼女のトラウマ、その断片しか。

「は……………」

 途切れ途切れ。断片的に、どもりながら語られた事は、耳を疑うような内容で。ソフィアは目を見開いて、咄嗟にカンパネラの方を振り返る。苦しげに顔を抑え、佇む少女がそこにいた。
 今まで得た情報と照らし合わせると、ピースが合致するような、そんな情報だった。柵の向こうのツリーハウスに、死体が。そのドールは、お披露目で……『先生』に殺されたと言うことは、焼き殺されたのだろうか。夢で出会ったとカンパネラは語るが、実際に死体が存在したということは、夢の中の存在でない事は確かだろう。そうして、カンパネラがそのドールと親しくしていたのであろうことも間違いないはずだ。
 ……あのカンパネラが、他のドールと仲良くしている姿なんて想像しがたいし、見た事聞いた事もないのだが。

「……もういい。わかった、わかったわ……ごめんなさい。辛い事を思い出させた、わね……まさか、そんな事があったなんて……」

 もし。もしもだ。自分が同じ目に遭っていたら……放置されたミシェラの焼死体を、幸せを願ったあの子の無惨な姿を見せられたりしたら。正気ではいられないだろう。痛いほどカンパネラの苦しみがわかってしまう。ソフィアは顔を歪め、痛々しく謝罪を漏らす。

「……本当に、ごめんね。

 ……えっと、申し訳ないんだけど……ドロシーとあなた以外に、それを見に行った人はいたかだけ、教えてくれない? それが誰だったかも。……ごめんなさい、カンパネラ。」

 守るべき子の心を傷つけてしまった、という自覚があった。だから、何度も詫びる。目の前の少女の人格を借りたかのように。最後の謝罪は、〝カンパネラ〟に向けてだけの謝罪ではなかったようにすら思える。

《Campanella》
「……………………」

 痛いくらいの謝罪を受ける。ぺったり座り込んだまま、ソフィアの声を聞いていた。謝らないでとも、あなたは悪くないとも言うことはできずに。
 問いかけられ、しばらく黙って、そして顔を覆っていた手を下ろした。沈黙の末に、嗚咽は少し落ち着いた様子だった。心を切り離したようにも見えるかもしれない。相変わらずソフィアの顔を見ることはできなかった。赤くなった目は床を見つめていて、そのままカンパネラは答える。
 姉は、何も言わない。妹にも、ソフィアにも。

「…………ご、ごめんなさい、……ブラザーさんと、ロゼットさん………わた、し………巻き込んじゃって…………。あの……あと、ドロシーさんのご友人の、……えっと……ジャックさんが、途中まで………。
 ……オミクロンのふたりとも、同じことを………知って、います。………ご、ごめんなさい………ごめんなさい………」

「……ブラザーと、ロゼット。それにジャック……なるほどね、わかった。」

 か細い声が、ぽつりぽつりと漏れれば。聞き逃すことのないようしっかりと耳を傾け、それを全て聞き届けるだろう。熟考するように顎に手を添え、静かに、独り言のようにカンパネラの言葉を反芻した。
 やがて、謝る事しか出来なくなってしまったカンパネラを窘めるように、柔く言葉を連ねていくだろう。たとえそれが、カンパネラの耳に届かなくとも。

「……謝らなくていい、悪いことなんてしてないでしょ。……あなたが無事で良かった。教えてくれてありがとうね、カンパネラ。

 ……それと、」

 ソフィアはそこで言葉を切った。聞き手であるカンパネラの注意を惹き付ける意図でもあるのだろう。何かしらカンパネラが興味を持つ素振りを見せたのならば──いいや、そうでなくても、あくまで独り言として。ソフィアは語る。

「……図書室に、『ノースエンド』っていう本があるの。表紙にね、かすれた文字で『シャーロット』って書いてあった。確かロフトの上だとか言ってたかしらね……ま、気になるなら行ってみて。それを抜きにしても図書室は知識の宝庫だし、色々見てみるのがいいと思うけどね。そういえばディアもその本をきっかけにシャーロットさんの事を色々嗅ぎ回ってたみたいだし、聞いてみたら?」

 誰かに向ける事の無い、独り言を言うように気取ってみても、どうしても聴者という存在が居るような口調になってしまうのは、語り下手なデュオドールのさだめか。そこまで言い終われば、「それじゃあ、またね。」とだけ残して、一人合唱室を去っていくだろう。足音ばかりが響いた。

《Campanella》
 柔らかに聴覚を撫でる声は優しさに満ちていた。卑屈な少女の胸を、強く締め付けるほどに。
 途中で、言葉が切られる。カンパネラは何も反応を示さなかったが、確かにその不自然な途切れ方から何かを感知していた。
 ソフィアの美しい声は、彼女の持つ金糸の髪を思わせた。揺らぎ、輝き、人の目を惹く。カンパネラの鼓膜を軽やかに叩く。

 ───彼女が勢い良く顔を上げたのは、ソフィアが合唱室を去った後だった。足音が遠ざかっていく。

「…………ノースエンド……?」

 覚えがある。ノースエンドというタイトル、シャーロットの名前が書かれた……そうだ、ツリーハウスのノートにあった。彼女が書き、日記の主が受け取ったという本のタイトルに違いなかった。なぜそれが、図書室に?

「シャーロット………」

 太陽のような少女の名前を、呪われたように呼びながら。カンパネラはふと、その景色たちの中から、その橙色を拾い上げる。ノースエンドの本来の持ち主……と、思われる少年。

 しばらくして。カンパネラはゆっくりと、ゆっくりと立ち上がる。合唱室の扉を開ける。部屋には静寂が残された。床に残された、拭われた涙の跡、それ以外はもう何も、何一つとして。交わされた声の残響も消え失せて。

【学生寮1F ダイニングルーム】

Amelia
Rosetta
Sophia

 ──友人達との会話を終えたソフィアは、ダイニングへと戻ってきていた。とはいえ、無目的でここまで来た訳ではない。ソフィアが本当に用があったのはキッチンだ。故に、ダイニングに留まる理由はない。……が。

「……あら?」

 澄んだアクアマリンが目に留めたのは、同じく澄んだ色彩のペイルブルーの髪を揺らすドールだった。
 そこで。その鮮やかな青をきっかけに、ソフィアの脳にはある記憶が蘇ってくるだろう。

 それは、危ういもの。ただの一枚の紙切れだけれど、下手を踏むと『処分』を受ける可能性のあるような。けれど、その紙片に踊る文字には、探究心のみが詰まっているような。謎をくすぐり、ドールを脅かす、純情のパンドラ。
 知るべきではない。誰の目にも入れるべきではない。そう判断したソフィアは、あの日。その紙片を、破り捨ててしまっていた。
 それと同時に、この瞬間を待ち侘びていたのだ。ドールへの脅威となりうる、はたまた我々の鍵ともなるであろう、好奇心の塊と相対する時を。

「──ご機嫌よう、『ペイルブルードット』。

 ……ああ、アメリア……って呼んだ方が良かったかしら?」

 するり、と近づいて。ひどく冷静な、落ち着いた声色で、声をかける。我が主張であることを覆い隠したはずだのに、こうして解き明かされて偽の名前で呼ばれること、アメリアのならば恥ずかしくて仕方がないはずであると、ソフィアは理解していた。だがわざわざその呼び方を取るのは、彼女の悪戯心ゆえだろう。

「悪いけど、あの『メモ』は処分させて貰ったわ。お・は・な・し、付き合ってくれるわよね? 何の話かはもうわかってると思うけど。」

《Amelia》
「んなっ……!!!!」

 扉が開く音、お父様が戻って来たのか……或いは他のドールか、どちらにせよ予定通りペンを落として探しているふりをしよう、とかがみこんだ彼女はしかし、直ぐに立ち上がる事となる。
 聞こえてきたソフィアの声と、そしてペイルブルードットという名前、一番知られたくないドールに全てを知られた上で目の前に晒し上げられたのだ、アメリアの反応は想像に難くない。
 その頬は分かりやすく真っ赤に染まり、怒りだか恥ずかしさだか分からない感情が頭の中をぐちゃぐちゃにかきまわしていた。


「……っ! ソフィア様はアメリアにそれを言う意味を……いえ、愚問でした。
 分からない筈がございませんね。」

 ……が、それを上回る言葉が彼女の頭の中に氷で出来た刃の如く突き刺さった。
 メモを処分した、その上で話をしたい、と。
 つまり、「お前が何かをしている事を知っている。その上で、そのしている事を邪魔しようとしている。さあ、話をしようか」という事実上の宣戦布告宣言として受け取ったアメリアは急速に冷えた頭で問いかけようとして……。
 愚問だったと訂正して話の続きを待つ。
 そんな一触即発の空気が流れるダイニングルームに……。

《Rosetta》
 「ふたりとも、こんな所で何してるの?」

 ひょっこり現れたのは、知性とかけ離れたトゥリアのドール・ロゼットである。
 剣呑な空気も厭わずに、ソフィアとアメリアの側まで行くと、薄く微笑んでみせた。

 「あなたたちが話してるの、珍しいね。デュオのドールだし、頭のいい話とかしてるの?」

 見たところ、ふたりがどのような話をしていたのかは聞こえなかったらしい。
 文字通り傍観者らしい爛漫さでもって、小首を傾げて答えを待つだろう。

「ぷっ……あはは! かおっ……まっか! あはは、あははは……はーあ、そんなに睨まないでよ。喧嘩をしたい訳じゃあるまいし………。
 ──って、ロゼット?」

 ぬるりと間に割って入った第三者は、艶やかな赤薔薇のごとき髪を静かに揺らす少女ドール、ロゼットだった。今日も今日とて、彼女は花弁のようにひらひら、ふわふわと舞うような居振る舞いを見せる。
 予想外の人物の姿に、ソフィアは一瞬だけ目を丸くした。しかし、そのアクアマリンは直ぐにいつものような賢明な鋭さを取り戻す。

「……ちょうど良かった。あなたにも聞きたいことがあったのよ、ロゼット。」

 そこまで言い終わると、ソフィアは周りを見渡して、誰もいないことを確認した後。声を小さく小さく潜める。

「……ここからは、声を落としてちょうだい。──このトイボックスについて知ってる事、教えてちょうだい。あなた達は、この箱庭の裏に触れているはず。」

《Amelia》
「頭がいい……というよりは頭の痛いお話ですね。」

 ソフィアの笑い声に不機嫌そうにしながら、やってきたロゼットに言葉を返す。
 実際、頭の痛い話だ。
 なんたってプリマの、しかも同型のソフィアが気付いたら敵対していたのだ。
 完全なる上位互換相手が気付いたら敵だったなんて悪夢でも足りない。

「つまり、ソフィア様はこのトイボックスについて知りたいけれど他のドールには知られたくない。
 そういう立場なのでございますね?」

 その為、ソフィアの喧嘩をしたい訳じゃないという言葉に警戒を緩めないようにしつつ、状況を確認する為に慎重に質問を行う。
 そして、答えを聞く前に。

「その上で、話をしたいと言ったなら。
 何か言いたい事があるのでしょう?」

 直ぐには情報を渡すつもりはないという意思を込めて問いを重ねる。

《Rosetta》
 「今まで見えていなかった事実を裏って呼んでるなら、そうだよ」

  ソフィアの言葉に、あっさりとした肯首で返事をした。
 聡明なアクアマリンは冷静であろうとしている。情報の伝播による混乱を防ごうとしているのだろう。
 だが、そもそもその裏というものに情緒を揺さぶられることのないドールも存在するのだ。
 ロゼットは悪怯れる様子もなく、「アメリアも知ってるよね」と声をかける。
 何やら神妙な話が始まっている、というのは分かるが──頭を使うドールがふたりもいるのだ。トゥリアができることなど、茶々を入れるくらいだろう。
 どこか悪巧みをするように、彼女はふたりの話に耳を傾ける。

「………………」

 アメリアの重みを含んだ問いには、返答をせず。静かにロゼットの言葉を聞き届ける。
 少し経って静まってから、ソフィアは改めて口を開くだろう。

「……場所を変えましょう。ここで話を続けるべきじゃない。二人とも着いてきてちょうだいね。」

 ぶっきらぼうにそれだけ言って、スタスタとダイニングの出入口へと足を運ぶ。そうして、そのままソフィアはあの埃臭い図書室の、一番奥の──秘密の話をするには最適なあのスペースへ向かう。あなた達ならば、きっと着いてくるだろうと信じて。

【学生寮3F 図書室】

《Amelia》
「……良いですよ。」

 慎重に、ソフィアの提案を受けて、歩き出したソフィアの背後でノートとペンを鞄に仕舞い、代わりにパームマジックの要領で袖に隠しながらナイフを取り出して歩き出す。
 階段を上り出し、三階まで至った辺りで彼女は先程よりも警戒を強め、ちらりと窓を見て……逃走経路には使えなさそうな高さである事に歯嚙みをしてから。

「それで、先程の問いに応えずにこの場所を選んだという事はそういう事なのでしょう?」

 図書館の隅で足を止めたソフィアに問いかける。

《Rosetta》
 散々話してきたロゼットとしては、ここで話し合いをしても構わないのだが、特段断る理由もなかった。
 「いいよ」と口にして、彼女はのんびりふたりについていった。
 図書室の隅まで来たことはあまりなかったためか、あちこちを見回すが、まあ一応聞くつもりはあるだろう。
  ソフィアが何を言い出すか、のんびりした調子のまま佇んで待つことだろう。

「………そうね。さっきあなたが言ったことは、全て合ってる。
 あたしはトイボックスのことを調べてるし──その情報を、なるべく行き渡らせないようにしたいのも、事実。」

 きらきら埃が舞う図書室は、水を打ったようにしんとしている。ごくごく小さな話し声は、空気の振動に巻き込まれてかき消されてゆくだろう。
 ソフィアは控えめなため息を吐いた後、たんたんと事実を述べてゆく。アメリアを真っ直ぐと見据えるそのアクアマリンに、虚偽が含まれていないのは明らかだ。

「……二人とも、もう薄々わかってるんでしょう。このトイボックスは、ドールを幸せな道に送り出す為のあたたかな箱庭じゃない。
 けれど、それを知っても尚……『トイボックス』という夢の中で生きてると、その振りをしないと、箱庭はきっとすぐに牙を剥く。」

 その声は、ただ静かに、しかし力強く。両名の耳に、しっかりと届くはずだ。芯の通った、何よりも真剣な声であった。

「ロゼットが何を見たのかはあたしも何となく知ってる……だから後で聞くわ。
 アメリア。あなたは好奇心旺盛な子だから、きっとこれからも……何も言わなければ、謎を求め続けるでしょうね。だから、今の内に言っておかないといけないことがある。……でもその前に、教えて。あなたは一体、どこまで知ってるの?」

《Amelia》
「その為に、情報は選ばれた者にだけと、そう申したいのですか?
 傷つくかも知れない、或いは死ぬかもしれないのだから調べるなと、そう申したいのですか?
 ディア様とおな……いえ、恐らくお披露目の舞台に忍び込んだメンバーからしてそもそもプリマドールで共有された考えということですか」

 箱庭に牙を剝かれないように情報をなるべくいきわたらせないようにしている。
 そう言ったソフィアの言葉からアメリアはほんの少しだけ相手が密告を狙っている訳ではないと考え警戒を緩める。

 ……と、同時にお披露目に潜入したのはプリマドールの四人だった。
 と、過去のディアの言動と、リヒトから見せられたノートから推測し、この情報統制はその四人が協同して行なっているのでは? と考え、問い、というよりは確認に近い言葉を返した上で。

「では簡単に行きましょう。
 リヒト様のノートに書かれていた内容と、追加で2、3と言った所でしょうか」

 曖昧に、けれど最低限伝わる形で答える。

《Rosetta》
 ソフィアも、アメリアも。きっと悪意なんて一ミクロンもなくて、オミクロン全体のことを考えた結果、こんな空気になっているだけなのだろう。
 疑念とはおぞましいものだ。これほど簡単に空気をひりつかせることができる。
 クラス中に広まってしまえば、学園全体が針の筵となることも想像に難くない──と、耳を傾けたトゥリアは思う。
 言いたいことこそあるけれど、彼女が口を挟む時間ではないのだろう。まだ少し、トゥリアのドールは黙っている。

「……知ってしまったあなたを止めても無駄でしょ? 調べるな、なんてことは言わない。……けど、まだこの事を知らない子に簡単に伝えてしまうのは、ダメ。だからメモも処分したの、何も知らない子が知らなくていい知識を得てしまわないように。
 ……閉鎖的な箱庭で、絶望だけ与えても意味が無い。まだあたし達はそれを回避する術を得ていない。リスクのみ与えるのは、合理的とはとても言い難い……わかるでしょ。
 ……はあ、ディアから何か聞いたからこう詳しくなってるのね……」

 無機質な声で答えていたソフィアは、最後に呆れたような、苦言をこぼすような声色で、ため息とともに言葉を吐き出した。

「リヒトのノート……そう。いつ見たものか分からないけど、お披露目についてはどっちも知ってるの?
 ……それじゃ、その追加の情報について、先に話して貰おうかしら。」

 どっちも。伝わる者には伝わる……と言った風な言い方をするのは、なるべく周囲に警戒を払い、言葉をぼかすような意図があるのだろうということを、賢いアメリアは察知できるはずだ。……この話が、本当に伝わるならば。
 ガラスの切っ先のように鋭さを増した視線が、ゆっくりアメリアの瞳に向けられる。それは、選択権はないと言うように。僅かな威圧を孕んだ視線だ。

《Amelia》
「絶望、ですか。
ソフィア様が絶望するのは勝手でございますが……アメリアをそれに巻き込まないで下さい。
 それに、知ることによるリスクと知ることによるメリットはトレードオフでしょう。
 自分一人で何とかなるのでもない限り、その答えは結果論でしか語れませんよ」

 ソフィアの言葉に対して、アメリアは突き放すように答える。
 絶望するかどうかは余りにも不確かな話だし、更に言えばリスクのみではなく情報を知り、行動を起こせるようになるというのは明確なメリットだろう。
 それに対処法を見つけるまで何も教えないというのは、それこそ甘いジュースで毒薬の苦味を誤魔化すような、余りにも現実逃避じみた苦痛の緩和にしかなりはしない。
 何故なら……このトイボックスは根本的にドールズに違和感を抱かせるように作られているのだから。

「それで、リヒト様のノートに書かれていなかった情報について、ですか。
 嫌です。というか、自分のやりたい事を納得の出来ない理由で邪魔すると宣言し、あまつさえ交換をする気すらないように見えるお方に何もなく従いますか?

 そんな訳がないでしょう。」

 だから……星を見つめ、4.2光年の彼方まで歩き続けると決めた小さな惑い星は強い意思を以ってソフィアの要求を突っぱねる。
 もしも、情報を提供する理由がこのまま提示されなければアメリアはこの場を立ち去ろうとするだろう。

「あなたは、そうかもね。……けれど、そうじゃない子もいる。
 ……どうやらちゃんと伝わってないみたいね? デュオドールさん。分かりやすくもう一度教えてあげるわ。『ここで話した事は、気軽に人に漏らさないこと』。
 ……愛してきた箱庭に裏切られて。それに気付かないフリをして、あの男に……先生に悟られないようにしないといけない恐ろしさを。奴と顔を合わせる度、コアが嫌に脈打って、背筋が凍る気味の悪さを。味合わせるにはまだ早いって、そう言ってるの。」

 はあ、とため息を吐いて。アメリアを貫くアクアマリンは、よりいっそう鋭さを深める。それはまるで、研ぎ澄まされた鋼の刃のように。

「やりたい事、ねえ。あなたがやりたい事っていうのは謎をお友達に教えてあげること? ハッ……。
 聞きなさい、アメリア。これはみんなで解くための謎解きパズルなんかじゃない。一挙手一投足が常に監視される、命がけの戦い。
 ──この箱庭から全員で逃げ出せるように光明を見つけ出すのがあたしの使命。その為に、どんな些細な事でも情報は掴まないといけない。
 だから、これはお願いじゃないわ。──話して。
 ……安心なさい、ここまで聞いて貰ったんだから当然あなたにも手伝ってもらうつもりだし……あたしの知っている事も教えてあげる。あなたが話してくれれば、の話だけど。」

 馬鹿にするような口調と、嘲るような笑いの後に。それは斬撃のごとく強い口調であった。……あのお披露目が、妹のように愛しいあの子を奪ったお披露目がある前のソフィアは。いつも太陽みたいな笑顔を振りまいて、欲望に抗えないと嘆くアメリアのことを、簡単に……されど強く、意志を以って肯定できるような、心に握った剣を、決してクラスメートに向けることは無い、そんな人物だった。
 ソフィアは今、ただあなたに、刃のように鋭い視線を突き付けている。本気であるのが伝わる──と言うのは、あくまでも贔屓目な形容にしかすぎなくて。……優しさという名の、強さは、どこへ行ってしまったのだろう。あなたがもしソフィアをほんの少しでも理解し、歩み寄り、幾分かの情を抱いていたのなら。余裕のない──弱っているソフィアを見て、何を思うだろうか。

《Amelia》
「同じ言葉を先程言いましたよ、ソフィア様。
 絶望をするのもしないのも、怯えるのもそうでないのも、それは皆の自由であってソフィア様が決める事ではございません。
 それに、その理由では知ることによって処分されることよりも怖がらせる事を気にしているように聞こえてしまいますよ。」

 鋼は更に鋭くなる。
 それは切りつけるようで、突き刺すようで、恐ろしい代物だった。
 けれど……今アメリアの心を動かすのには向いていない。
 何故なら、それは傷つける物であって押すものでは無かったから。

「また決めつけましたね、ソフィア様。
 それに、お願いではないと来ましたか。
 知っている事の概要が予測出来る物をアメリアは話している。ソフィア様は話していない。
 アメリアのやりたいことをソフィア様は決めつけた。アメリアは問いかけた。
 そして、お互い何があろうとやりたい事はやり通すでしょう。
 以上です。
 ソフィア様の言葉にアメリアは従えません。」

 そうして、極めつけに飛んできたのは嘲りだった。
 ソフィアらしくない、怯えた手負いの獣じみた言動にアメリアは冷たく断じる。
 「アメリアはそれでは動かない」と。勿論、アメリアがソフィアやフェリシアや、或いはディアのようであったらこの時、「どうしたのですか、ソフィア様らしくない」と言えただろう。けれど……アメリアは哀れまない。
 その痛みを知っているから。
 アメリアは助けない。
 自分が強くなどないと知っているから。
 だから、アメリアはソフィアから視線を外さないようにゆっくりと歩いて、後ろ歩きで通い慣れた図書室を出て行こうとするだろう。

「それでは、アメリアを話させる用意が出来たら、またお会いしましょう。」

 けれど、同時にアメリアは見捨てない。
 助けるというのは、共に助かるものなのだから。

「それはあなたが謎解きを広めたいっていうエゴを貫く理由にはならないんじゃなくて? 恐怖に震えながら態度には一切出さないなんて難しいことでしょ。……どうしてそうあたしを言い負かす事に躍起になるのかしらね。つまりあなたは、そうまでして呪いを与えたいの?」

 攻撃的な言葉だ。心を抉り取ることを目的とした、まさしく脅しのような。 
 そうして、長くため息を吐いた後──後ずさり、この場から去ろうとするアメリアを引き止めることもせず……いや、できずに。静かに視線をアメリアから逸らし、伏せる。
 ポツリと、一言。「……馬鹿な子。」と、呟いた。

 顔を上げたソフィアは、改めてロゼットを向き直る。

「待たせて悪いわね、ロゼット。……それじゃあ、話を聞かせてくれる? 柵の外に出て、ツリーハウスを見たのは知ってる。そこで一体、あなたは何を見たの。」

《Rosetta》
 沈黙を保つ赤薔薇は、何も考えていないような顔でプリマを見ていた。
 いつものような微笑みを浮かべることもなければ、疑念や不信のこもった無表情を貼り付けるでもない。
 ただ、感情の抜け落ちたかんばせを相手に向けている。

 「色々見たよ。でも、教えない」

 銀の双眸に映るあなたは、どんな顔をしているだろうか。
 ぱちり、シャッターを切るように瞬きをする。

 「今のお姉ちゃん、何だか怖いんだもの。アメリアに酷いことを言ったり、私たちのことを決めつけたり……私たちが性能の低いドールだから、そんなことを言うの?」

 あなたたちが“ヒト”について隠してるの、知ってるよ──。
 淡々と、彼女は話を続ける。
 トゥリアは話を聞く力が高いというが、決して自分から話をする能力がないわけではないのだ。
 ただ、それが他者に寄り添う形であるとは限らないだけで。

 「手伝ってあげたい気持ちはあるんだ。でも、それは使命のためじゃなくて、対等な仲間だからだよ。あなたが一方的に助けて“あげる”って言うのなら、私は何もしない。“ソフィアお姉ちゃん”はそんなこと言わないもの」

 音も立てず、彼女も席を立った。
 つまらなさそうな視線は、冷ややかにデュオドールを撫でていく。
 それはすぐにそっぽを向いて、身体ごと出口の方を向いた。

 「みんなあなたが思うほど弱くないし、先生や“ヒト”だって悪い子じゃないと思うよ。もう少し頭を冷やしてから、また話をしよう。じゃあね、ソフィアさん」

 彼女もまた、テーブルから離れて行こうとする。
 さほど歩みは早くない。止めることだって、そう難しいことではないだろう。

「……………は、」

 ムーンストーンのシャッターは、歪にひしゃげたアクアマリンのひと刹那を切り取るだろう。ソフィアは、至極勝手に、無意識のうちに、『あの』ロゼットが断るはずがないと思い切っていたのだ。その歪な眼は、信じられないものを見たかのような物だった。日頃、他人に何でも流されるなとロゼットに言うのは、ソフィアなのに。ソフィアは、傲慢にもこんな時には『それ』を利用しても許されるのだと、無意識下で信じていたらしかった。
 真っ当な意見を述べ立てるロゼットに、言いたいことも言うべきこともいくつもあったが。それを口に出す事も出来ずに、またゆっくりと去るロゼットを呼び止めることも出来ずに。咄嗟に伸ばした手は虚空を掴んで、そのまま緩やかに埃の積もったテーブルに着地する。

「…………ッッ!」

 ひとりきりの図書室に、バン! と轟音が鳴る。力の籠った殴打を受けて、古ぼけたテーブルの材質が歪む音だ。その衝撃を与えたのは、先程無意味に伸ばしたばかりの、ソフィアのか細い手だった。鼓膜を破るような激しい音に反して、そのてのひらが出来た事と言えば、机上に積もった埃を舞い上がらせることくらい。
 光が反射して、埃がきらめく。降り注ぐ星屑の中で、傲慢な少女はやがて体勢を保つ力を失い、へなりとその場にしゃがみ込むだろう。なにか運動をした訳でもないのに、異常に息を荒らげて肩を揺らす様は、まるで悪魔にでも取り憑かれたかの様だった。

「……ッなんで、わかってくれないの……」

 水面に拡がる小さな波紋のように、静かな声だった。自分が受け入れられない事の責任を転嫁して自分を護る。人間よりも愚かなドールは、果たしてドールとしての存在意義などあるのだろうか。無人の図書室に、幼い少女のすすり泣く声だけがこだました。

Storm
Sophia

《Storm》
 革靴を軽やかに鳴らし、捜し物をするようにストームは歩いていた。彼女を、自身のお仕えする本物の女王様を探している。
 図書館の前を通過しようとした時、微かな声を拾い足を止めた。泣き声だった。
 扉の前まで行けば声の主まではっきり分かる。分かってしまう。
 ──ソフィアだ。
 そして恐らく彼女はこの部屋で一人だろう。
 他のドールの前で簡単に涙を見せたりしないのが元プリマドールのブレインであるソフィアなのだから。

 ストームは扉の前でしばらく立ち尽くし込み上げてくる物を飲み込みながら意を決した。軽く図書館の扉をノックする。

「ソフィア、今お時間よろしいですか?」

「ッ、」

 少女の泣き声で、鬱屈な雰囲気に包まれた図書室の静寂を破るのは、軽いノック音。ソフィアはびくりと肩を揺らす。直後、響くのはストームの声。先程の会話を思い返す。状況を察するに、もう要件を終わらせてきたのだろう。感服するほどの手際の良さである。
 自分は何も出来ていないのに。

「……入って。」

 若干余った袖で、乱雑に頬を伝う雫を拭う。ここ最近で仮面を被る事だけは上手くなったソフィアは、扉が開いてあなたと顔を合わせる頃にはもう、目の潤みを感じさせることはないだろう。呼吸ももう落ち着きを取り戻していた。

《Storm》
 中からソフィアに呼ばれた。
 彼女は泣き止んだのだろう。心の痛みが理解出来ないストームは起こっている事柄をそのままに解釈する。
 撫でるようにドアノブに手をかけ、ゆっくり開けた扉に入って行く。

「失礼します」

 机を隔てソフィアの目の前に立つ。
 アストレアなら彼女の隣に座り真っ先に彼女を慰めたり、彼女を肯定したりするだろうが生憎様。今ソフィアの目の前に立つのはドールは光の宿らないちぐはぐな瞳で見下ろすだけ。断言しよう。それだけだ。
 成すべきことを成しに来ただけだから。

「ご報告します。
 プリマドールを酷く憎むドールへ接触し誘起させましたが、アティスのドレスは既に無かったようです。
 ご存知かもしれませんが、ミシェラは“制服”で焼かれたともフィリーから聞きました」

 博識で論理的なソフィアならこの言葉が何を意味するか理解出来るだろう。
 “アティスは火にあぶられるのが決定している“と。
 良い報せなんて無い。
 ソフィアを地の底に叩き付けるような報せしか無い。

 ストームは簡素な報告を終えると目を伏せる。
 ソフィアから目を背けるように。

「………そう。お疲れ様、ありがとう。」

 その声は、不気味なほど静かで。生命力を少しも感じさせない機械音声──人形の放つ作り物の声そのものだった。
 ストームがこちらを見ようとしないのと同じように。ソフィアは、色違いの眼を見ようとしない。お互いに目を伏せたままの空間は、まるで何かから逃げているかのようで、空虚感だけが渦巻いている。
 『ドレスは無かったらしい』。最初から、オミクロンには何も与えられないのか。あの月光をたたえたラピスラズリは、燃やされる為に生まれてきたのか。
 ……あのどこまでも澄んだレッドスピネルは、

「……ミシェラは最初から、ドレスを着る楽しみすら、与えられない運命だったのかしら。」

 独り言は、ちいさく風に流れる。そのまま掻き消されてしまってもおかしくないその振動は、きっと、ストームの五感は拾い上げられてしまうのだろうが。そんな事はどうでもよい。
 神様だとか、ヒトだとか、お披露目だとか、青空だとか。偽物だらけの箱庭で、唯一本物なのが、運命という禍星だなんて。少し前までは、それすらも叩き壊してやろうという強さがあったはずなのに。鋼の剣はもう、すっかり錆びてしまった。

「……もう、いいわ。行ってちょうだい。他に言いたいことがないなら。」

 視線は地に落としたまま、小さな声で解散を告げる。煌めいているのは埃だけだ。

《Storm》
 伝えなければならない事は全て伝え終わった。
 ソフィアの言う通りもうこの場を去っていいはずだが、ストームは動かなかった。
 微かに呟かれた独り言。どうしても引っかかる。
 ストームは彼女の耳に届くようなハキハキした声で呟き始めた。

「……ミーチェがドレスを着る機会すらなかったというのは違うのでは無いかと。確かに彼女はドレスを着れずにお披露目の日を迎えました。が、彼女がドレスを着れなくなったきっかけを作ったのはアリスです。
 彼女がドレスを破かなければおそらくは。

 アリスは怒り狂っていました。ご自身はお披露目に選ばれずにオミクロンに堕ちたアティスが選ばれたのですから。惨めで仕方なかったのでしょうね。
 そしてミーチェと同じように彼女はアティスのドレスを壊しに赴いたそうです。でも、ドレスは無かった。
 アリスは仰っていました、『アストレアはあの子のようにスクラップにされるしかない』と。
 変じゃありませんか? ジブン達も知り得なかった別のお披露目についてアリスが知っていること。それから、彼女が二度もドレスを破ろうとし二回目は未遂に終わったものの他のドールに目撃されている。または犯行予告を他のドールに言っている。それにも関わらず目立った処罰がなされていないこと」

 ストーム自身が持つ些細な引っ掛かりをソフィアに打ち明けた。なんの気なしに雑談をするように。
 疑問を払拭出来るかもしれないと言ったストームの浅はかな考えに過ぎない。

「ジブンの憶測ですがアリスはどなたかに唆されていたのかもしれません。消耗品とは言え備品の破壊行為になりますからね。」

 言葉を締めくくり、ストームはソフィアの見解を待つように彼女を見下ろしていた。
 不快で染まったアメジストが鋭くアクアマリンに突き刺さるまで。
 ──さぁ、前を向いてソフィア。

「…………アリス? エーナクラスのドール?」

 零した独り言を、ストームが拾い上げる。補足のつもりか、たんたんと述べられる新たな情報に、ソフィアは驚いたようにストームに向き直った。現に、信じられなかったのだ。『ミシェラのドレスが破かれた』ということが。そして、そんな輩がまだのうのうと暮らし、親友を罵倒していることが。怒りを通り越して、超常的な何かと対面したかのような錯覚を起こす。
 ……けれどすぐに。ソフィアの瞳は光を取り戻すだろう。それは暗い光だ。どこまでも黒い焔をゆらゆらと灯して、心の底からの憎悪を描いている。

「……わかった。そう──アストレアのドレスが無かったって言うのは、もしかしたら前回その女にドレスをダメにされたことで先生たちが対策を敷いたのかもね。……わざわざ対策をするってことは、やっぱり…ドレスを破壊出来れば、もしかしたら……。
 なんて、はあ。希望を持ちすぎるのも良くないんでしょうけど……」

 鋭いアメジストの刃を、突っぱねるように。ソフィアはもたれかかっていた壁から離れ、ストームの横を通って図書室の出口へと向かう。最後に漏らした言葉は弱気な物であったが、されどつい先程対面した時よりもアクアマリンに色彩が戻ったのを、ストームは見逃さないはずだ。

「情報ありがと。あとはあんたも好きに……あ、もう一つの方も宜しく頼むわよ。じゃあね。」

 特に呼び止められる事もなければ、ソフィアはそのまま小さくストームに手を振ってから、図書室から出ていくだろう。

【学生寮1F キッチン】

 ──ところ変わって、誰もいないキッチン。窓は締め切っていて、カーテンは靡かない。静かな空間だった。
 辺りに人が居ないことを確認して、ソフィアはキッチンへとそのまま足を踏み出すだろう。

 キッチンは広々とした他の空間に比べて、大きな家具が敷き詰められているためか、少し手狭な印象を覚えるだろう。
 こじんまりとしたシンクとコンロ、調理スペースを十分に確保出来る広い机がある。そして奥には、パントリーに続く木扉も取り付けられていた。

「……なにこれ……」

 なんだか久しぶりに入った気がするキッチンは、こう……気持ち悪い。食器棚に、なんとなく違和感があった。デュオドールの見つける『違和感』はまず間違いなく正しい物だろうと確信しているため、食器棚は確実に『おかしい』はずだ。
 ……でも、もう一つ。それよりも大きな違和感が、キッチンの作業台の上で待ち構えている。色をぶちまけた、チラシのような一枚の紙だ。気持ち悪さをひとつ放置して、大人しい雰囲気のキッチンの中で強烈な違和感を放つ紙を拾い上げた。

 鮮やかなインクをそのままぶちまけ、ビビッドで明るい印象を見る者に与えるチラシ──のような紙が、キッチンの作業台の上にぽつんと取り残されている。誰かが受け取って放置していったのだろうか、少なくともあなたは見覚えがないものだった。

 チラシには、絵筆で書き殴ったような太めの筆跡で、『秘密の芸術クラブ』と記されている。チラシが堂々と置かれている時点で秘密も何もないだろうとは感じるかもしれないが……その片隅には、以下のように活発な文字が綴られている。

 トイボックスの見慣れた景色にも、まだ見ぬ芸術が隠れている!
 君もヒトの文化に倣い、学生らしく“サークル活動”と呼ばれるコミュニティを体験してみよう!
 興味のある同志は夜の18時、ガーデンテラスにこっそり集合だ!

 ──トゥリアクラス・アラジン

「……『サークル活動』……??」

 やや乱雑──いや、元気の良い字……と言った方がいいのだろうか。そんな筆跡で綴られているのは、今までのドール生の中で類似した物を見たことがないような内容だった。確かに、ヒトは学び舎で勉強以外の活動を集団で行う文化があるらしいことは、知っているけれど。けれど普通、ドールはモデルごとに必要な勉学にのみ励む物では無いのか。まあ確かにトゥリアの繊細な情緒からすれば、芸術とやらは有用な要素なのかもしれないが、デュオドールの思考を持ったソフィアには驚くほど芸術という言葉が刺さらない。全く。1ミクロンも。
 よく分からない物を見た。感想はそれだけだった。顔を顰め、首を捻りながらそっとチラシを元の位置に戻──そうとしたのだが。

「……トイボックスの景色に芸術、ね。」

 ソフィアは冷笑する。このチラシを書いたであろう主ではなく、純真な心を持つドールを偽物の景色で欺き続けてきたのであろうトイボックスそのものに。……オミクロンのキッチンにこれが置いてあると言う事は、ドールには珍しく差別心を持たない良心的な人物なのだろう。
 ──18時。記憶したとて、行くかどうかはわからない。行くとしても、あくまでもする事がなかった時のための退屈しのぎだ。自分に、そう言い聞かせた。現状から逃げたいだけじゃないのか、なんて声は聞こえない。だって、ただ覚えただけだから。

 改めて、チラシを元の場所にきっちりと戻して。違和感を帯びた食器棚へ手をかけた。

 食器棚はいつも整頓された状態だ。清潔を保たれたグラスや皿、カトラリーなどが几帳面に収まっている。食事の支度はクラスの皆で分担して行うため、取り出しやすいように位置をあらかじめ決めているのだ。

 ……だが、マグカップのひとつがなぜかカップの棚ではなく、皿を重ねて置くスペースにぽつんと置かれている。
 それだけではなく、スプーンを置くための引き出しに何故かナイフがまぎれていたり、随分しっちゃかめっちゃかな配置となっている。

 昨晩はこのようにはなっていなかったはずだから、恐らく朝食の後に配置がおかしくなったのだろう。誰が使った食器なのだろうか?

 いつもは整頓されてあるべき場所に並んでいるはずの食器たちが、今日はすごくでたらめな配置をされている。デュオの観察眼がこれを見逃すはずもなく、むしろ前との相違点までもが簡単な間違い探しのように鮮明に思い起こせてしまうのだから、気持ちが悪くて仕方ない。あの男はこれをわかっているのだろうか? 放置しているのだとしたらズボラがすぎる気がするが。

 ……けれど。このぐちゃぐちゃな配置も、今のソフィアにとっては好都合だった。

「………………………………。」

 ──ソフィアは、静謐に銀色の光をたたえた、一筋の小型ナイフを抜き取った。なるべく気付かれにくいように、ぐちゃぐちゃに他の領域に飛び出た目立つものではなく、自分の持ち場で眠るものを。
 ……無事にナイフをくすねれば、音もなく食器棚の引き出しを閉じる。そのまま、寂然としたキッチンを後にした。

【学園3F ガーデンテラス】

Sophia
Aladdin

 ──ぐぐ、と伸びをする。作り物の空を映すガーデンテラスの、特等席とも言える中心の席。まるで我が王座とでも言わんばかりに、オミクロンの落ちこぼれであるはずのドールが腰掛けている、ちぐはぐな光景がそこにあった。
 時刻は17時59分頃。プログラムの陳腐な星が光り始める前の、夕暮れと夜の狭間のがらんどう。頬杖をついたクイーンは、もうすぐドールがやってくるはずの出入り口の方を見もせず、静かにため息を吐いた。アップルティーの香りが辺りを舞っている。

 ──時計の針は僅かに進んで、午後18時を刻む。
 その時、テラスの硝子扉が両開きに開かれ、その柔らかな草地に、足を踏み入れる者がいた。

 その日、星々が照らすプラネタリウムの中央は、麗わしの薔薇が支配していたのだろう。ただひとり、寂寞すらも漂わせず、気品ある装いでガーデンチェアに腰掛けるあなたを見据え──白銀の長髪を揺らす青年は、眼を瞬いた。

 どこか退屈そうに、どこか物憂げに……彼女はどこでもない場所を眺めている。いかにも邪魔出来なさそうなアンニュイな空気に、青年は一つ生唾を飲んで。

 それでも抱えていた大筒を一度地面にそっと置くと、臆することもなくその席へ歩み寄った。
 流れるような動作でガーデンテーブルの白い天板に繊細な指先を乗せると、あなたの宙ぶらりな視界に映り込もうとする。

「──どうも、陛下。ちょうど今だけは、ご機嫌斜めじゃないといいんだけど。」

 目が合うならば、彼の双眸に収まるブーゲンビリアの花は開くだろう。
 気品ある所作や、色のある眼差しから、彼がトゥリアクラスであるとあなたはすぐに悟るはずだ。
 そして彼が、件の『アラジン』なのだろうとも。

「これからここで、芸術活動がしたいんだ。お前が良ければ相席しても? ここが一番良い席だからさ、ハハ。」

 ──アラジンは。
 あなたの纏う唯ならぬ空気の重みから、まさか自分の芸術活動の為に足を運んでいるなどとは思っていなかった。
 故に下手に出るかのように、跪くようにあなたに問う。姿勢はガーデンテーブルに身体をよりかけるようなもので、小さなあなたを見下ろしていたが。

「駄目なら首を刎ねてもいいぜ。大人しく帰る。」

 ジョークのつもりか、自身の首を平らにした手で切り裂くジェスチャーをしながら、苦笑を浮かべた。

 星々の歌を。浮き足立つ夜風の声を聞いた。ガラス扉の開く音によって、瞬く間にガーデンテラスは、女王様の庭である事を辞めたようだった。

「ふぅん……混ぜてはくれないの? 存外薄情なのね、ダイヤモンド。ここは法廷じゃなくてよ──それとも、怖い女王様の方がお好きなら、お望み通りにしてあげても良いけど?」

 花は咲き誇る。見る者を釘付けて、けして離さないような魔力と共に。けれども銀糸がつややかに煌めくのに伴って、アクアマリンもまた負けじと光を帯びるだろう。紅と蒼と、銀と金とが、にせものの星の鼓動に混じりあって溶ける。
 クイーンは、ブーゲンビリアが想うよりも存外人格者だったことだろう。ぱちりと瞬きをしたのち、くすりと笑みをこぼす。そして、頬杖をついていた手をこちらも刃に見立てれば、あなたの真似をして首を切るジェスチャーをしてみせる。

「はあ……、エーナの真似事は疲れるわ……。
 ──改めてごきげんよう、初めまして。あなたがアラジンね。あたしはソフィア。チラシを見て来た元デュオプリマのオミクロンドールよ、どうぞよろしく。芸術活動とやらは当然付き合ってあげるけど、その代わりいくつか質問があるの。構わないわね?」

 ジョークを終え、ひとつまばたきをしたのを合図に、手短に自己紹介を始める。椅子から立ち上がることもなく、上から物を申すような口調もあり、やはりどこまでも女王然としている。

 ゴクリ、とアラジンは生唾を飲んでいた。彼女の放つ威光にトゥリアの柄にもなく緊張しているらしかった。言葉を探るように思案の間を作るも、しかし。それよりも早くあなたが女王然とした態度を取っ払って赤裸々に話してしまうので、アラジンは暫し瞬きを繰り返した。

「え……なんだって? 元デュオのプリマ? それってスゲー頭が良いって事なんじゃないのか!?
 それに……ああ、オレの芸術活動に参加するために来てくれてたのか! 嬉しいぜ、ごめんな、そんな風には見えなかったから! もちろん混ぜないなんて言わない、芸術の同志をオレはいつでも歓迎してるからな。」

 あなたが予想以上に凄まじい人物であったことに、アラジンは二度三度重ねて新鮮な驚きを見せた。だがオミクロンと聞いても、彼はあなたを軽蔑するような目を向けない。ただあなたを感心するように見据えたかと思えば、喜ばしい知らせには弾けるような歓待の笑顔を浮かべて見せるのだ。

 アラジンは最早顔色を窺うような事はしない。許されたとあっては、厚意を無視する方が無礼千万だろう。彼はあなたの対面ともなるガーデンチェアに優雅に腰を下ろして、天板に片腕を載せた。

「──改めて、オレはトゥリアクラスのアラジンだ。毎日ここで『芸術活動』をしてる。

 まずはお互い仲良くなるところからだな。会話は大歓迎だ。質問を言ってみてくれ、ソフィア!」

 彼はあなたの問いに忌憚無く答えてくれる様子だ。答えを待つ空白の間を作る。

「ふ………まあ、否定はしないわ。あたしの事を知らないって事は……もしかして、新しく作られたドール? にしては行動が大胆だけど。」

 まっすぐな言葉と、丸く開かれたブーゲンビリアと、差別心を何処にももたない明るい笑顔に。ソフィアは釣られたように、小さく笑う。さりげなく自分の名が知れ渡っていて当然だという素振りを見せた事に関して、一体アラジンはどう思うか。なんてことは知りはしないが。ともかく、それは実にソフィアらしい態度であった。

「先に話させてくれるのね。そう、じゃあ……。
 あのチラシはクラス問わず置いてるの? それともオミクロンだけ? 他クラスのドールはオミクロン寮に近づく事が禁じられていたはずだけど、どうやって置いていったの?」

 小さく改まってから。ソフィアはこんこんと問いを投げる。『問い』という形を成すものを行う時、やはりデュオドールとしての性質が強く現れるらしかった。アラジンがなにか言葉を放つ前に、ソフィアは二つの問いを言い切ってしまうだろう。配慮という言葉を忘れてはいないか不安になる。

「ああ、そう、ご明察! オレはつい最近このトイボックスで目覚めたばかりなんだ。だから今はここでの生活に馴染むために頑張ってる……あと、芸術活動もな。

 勿論、ヒトに尽くすべきドールがこんな勝手なことをするのは良くないってのは自覚してる。でもさ、それでもオレはやっぱり、自分のやりたいことがしたいんだよな。」

 鋭い指摘に、彼はなんと話が早い事だろうと感動する。瞳に光を輝かせ、やはりデュオのプリマドールともなれば自分などより余程賢いものだと息を吐いた。
 同時に、大胆であるという苦言には苦笑いを浮かべる。彼自身、ドールとしては特異な行動をしている自覚はあるようだ。しかしそんな自分の行動を恥じず、忍んではいない様子である。

「チラシの話か? 確かにオレはオミクロン寮には近づいてないぜ。オレがチラシを渡してたのは、カフェテリアで偶然見かけたやつだけだから。」

 あなたの問いに、彼はどうしてそんな事をわざわざ問うのだろうと不思議がりながらも、淀みなく答える。

「オミクロンの寮にもあったってことは……あの時渡したのは──そうだ、そう言えば、サラっていう女の子にもチラシを渡したな。
 あの子はオミクロンクラスの所属だって聞いた。お前も、サラにチラシを見せてもらったんじゃないのか?」

 彼の言葉は純であり、あなたの目から見ても、嘘は言っていなさそうだ。

「なるほどね。別にいいんじゃない? あたし達みんな自我を設計されてるんだから、ただのお人形でいるよりも自分らしく生きる方が自然だわ。まあ、あたしはそれが過ぎてオミクロンに移されたんだけどね。 ……ハ、傲慢な奴ら。」

 若干だがしおらしくなってしまったアラジンに向け、ソフィアは語る。自分も同類である、と。それは彼女なりの励ましや応援のつもりだったのだろう、しかし現在オミクロンに所属している事実があってはそのような効果を成すかは不明であるが。
 ……そして。この場の誰でもない相手に対して、ソフィアは小さく嘲笑を漏らして。罵った。傲慢だと。それまでの温和な雰囲気は、一瞬消し飛んでしまって、瞳には鋭く光る刃が宿ったのが察せられるだろう。 それは、並大抵のことではありえない、確かな憎悪がなくては不可能な殺気であった。
 我が底に眠る本心が滲んでしまったのを隠し繕うように、ソフィアは再びパッと笑顔を作る。「まあどうでもいいけどね」と露骨な切り替えの言葉と共に。

「──サラに?」

 嘘の紛れていないであろうまっすぐな言葉。けれど、ソフィアはサラがそのようなものを持ち帰ってきた所を見た事がなかった。もちろんそんな話を聞いたこともない。あの子がわざわざ、キッチンのわかりやすい場所に置いておくなんてこと、するだろうか。意外な事だったらしい、ソフィアは目を丸くしたのちに黙り込んで、思案するように手を顎に当ててみせる。

「まあ……後で本人に聞いてみるわ。それは置いておいて、そろそろ本題に入りましょうか。『芸術活動』とやらについて教えてくれる?」

 悶々と思慮に耽っていたソフィアであったが、小さく息を吐いたのと同時にきっぱりと切り替え、いい加減行動の自由をアラジンへ返す事にしたらしい。芸術の紹介を促す声は、さあ話せと命令せんばかりの張りを帯びている。

「……! おう! 自分の為の人生なんだから、やっぱり自分の為だけに生きたいよな。例えそれがドールらしくなくても。
 なあソフィア、オレ達気が合うかもな。ドールの中でこの考えに賛同してくれる奴なんて、いないと思ってた。きっといい友人に……いや、同志になれる筈だ!」

 アラジンは、あなたと意見がぴたりと重なった事が喜ばしいようで、快活な笑顔を浮かべながらあなたとの出会いを喜んでいる。
 その言葉尻に、尋常ではないほどの怨みが募って僅かに低く、重く響いたことにも、アラジンは気付いていた。しかしあえてそれには触れず、ソフィアとのこれからの関係値に期待を込めて高らかに謳う。

 どうやら、サラからチラシを受け取ったわけではなさそうだ。思えばアラジンの芸術活動に、これまでサラが足を運んだ事はなく、とはいえ芸術は強要するものではないと、寂寞を感じながらも納得していた。
 彼女の随分引っ掛かっている様子は気に掛かったが、ともあれ芸術活動について問われれば、そのご命令に背けるはずもあるまい。

 アラジンはにっと笑って、しかしそれから少し消沈したように息を吐く。

「ああ! この世でもっとも楽しい活動にしてやるぜ! と思ったんだが……。

 なあソフィア、活動を始める前にオレからも一つ質問をさせてくれ。あまり肩肘張る必要はない、普通の質問だ。お前の考えを聞かせてほしい。
 お前にとっての芸術は……いや。お前の一番やりたい事はなんだ? ヒトをあまり快くは思っていなさそうだったし、まさかヒトに仕えること、じゃないだろ?」

「そうね………あたしも同感。何が楽しくてヒト様の奴隷になりたがるのかサッパリだもの。隷属欲でもあるのかしらね、気が知れないわ。

 ……同志には、ならない方がいいと思うけど。」

 まっすぐ、真剣に、高らかに。同志になれるはずだ、と希望に満ちた言葉を贈ってくれる心優しき青年、アラジン。漏れ出た本音にも触れず、そっとしておいてくれるような青年。ソフィアも気分がほぐれたのだろう、ズバズバと先生や他のドールの前ではとても言えない様な言葉すら述べ立ててしまった。あえて否定するようなことを言ったのは、落ちこぼれのレッテルを貼られた革命児の末路を思い返しての事か。けれど、あるいは、観察眼がしっかり備わっているならば、その言葉には別の意味もあるように取れるかもしれないが。

「……あたしの、やりたい……こと?」

 ──そんなの、決まってる。
 決まってる、けど。言えるわけがない。無関係なあなたに。
 そのような質問を受けることは予想外だったのだろう。一瞬戸惑ったように目が丸く開いたのが、気づかれていなければ良いのだが。

 アストレアともっと一緒にいたい。童話なんてつまらないけど、彼女の語りべなら飽きずに聞いていられた。
 ミシェラにお姉さまと呼ばれたい。明るく柔らかく、あのカナリアの鳴くような声で、もう一度あたしの事を呼んでくれたらそれだけでいい。

「………あいにくだけど、あたし芸術とかそういうのはサッパリなの。デュオドールにとっては未知の分野、って言っても過言じゃないと思うわ、知らないけど。だからこそその〝未知〟に興味を持ってここにいるんでしょ? というか、それを聞いてどうするのよ。」

 ソフィアは、話をはぐらかすことを選んだ。『やりたいこと』、という文言をスルーして、それらしい言葉をパッチワークのように繋ぐ。エーナの真似事。誰よりも話上手だったあの子の空真似。
 自由になりたいだとか、そんな事を言ったって今の話の流れではおかしくなかっただろう。けれどそれを口に出来なかったのは、今行っている計画が少しでも外部に漏れたら……と、危惧したから。どこまでも臆病者だった。だから、目の前の青年を、信用しきることが出来ないでいるのだろう。

「ソフィア」

 アラジンは、やんわりと言葉を慎むあなたを遮って、凛とした声でその気高き名を呼びかける。
 濃厚なココア色をした繊細な造りの指先が、対面に腰掛けるあなたの方へ伸びて、やさしく、包み込むようなあたたかさを伴って、あなたの深雪の如き白磁の手に重ねられようとするだろう。その動作は至ってなめらかに行われるはずだ。
 相手の不快を誘わない最適なボディタッチ──日々のトゥリアクラスの授業で行われていることであろうと、あなたは容易に察せられる。

 アラジンはジッと、削り抜いた至高の逸品である大粒のブルーサファイアのかがやきの屈折を覗き込むように、あなたの憂いを帯びた双眸を凝視する。
 弔いの花を投げやりに捧ぐような、雨が降り注ぐ墓を見下ろしような、鬱屈とした瞳の奥を。

「お前が本来理解出来ないはずの、芸術という未開拓の世界に──お前はわざわざ踏み込みに来てくれた。お前にとってそれが単なる退屈凌ぎだとしても、オレは構わない。

 オレは、ソフィア。お前と芸術活動がしたいと思った。オレにとっての芸術は、自己の表現者となることだ。

 ドールとしての運命をあるがまま受け入れずに──己の未来を切り開く。そんな同志をオレはずっと探し続けてる。」

 アラジンは芯のこもった煌びやかな声を発した。声に形がなくとも、光り輝いているように感じさせる。
 秘された財宝のように──銀河の瞬きのように。

「なんでもいいんだ。ヒトに尽くすというドール本来の役割を放棄しても、オミクロンに堕ちるきっかけとなったとしても、それでも守りたかったお前の“心”を──意志を、やりたいことを。

 オレに聞かせてほしい。どんな内容でもオレは聞き届ける。

 これがオレの芸術活動なんだ、ソフィア。トイボックスという閉ざされた世界でも、新たな発見がしたい──そうだろ?」

 ぎゅう、とあなたの手に重ねられた彼の手の力が、ほんの僅かに強まる。トゥリアの力など微々たるものだ。だが彼のあたたかな体温が、冷たいあなたの手に伝わるはずだ。

「…………っえ、は……な、なん……ッ!?」

 澄んだ水色は、憂いを帯びて。先程まで、そうして話をはぐらかすことに躍起になっていたのだから、手先に触れる体温に気付いたのは、凛とした声が響いたよりも少し遅れてからだ。
 あたたかいココアブラウンの肌の温度が重なり合って、眩しいブーゲンビリアの花と視線が絡み合って。温度のない雪原のような頬が、みるみるうちに紅潮して、明るく春色を灯す。
 されど初心な少女の胸の鼓動は、その後に続く芯の通った言葉に、さらわれてしまった。だって、春にはまだ早すぎる。ソフィアの心を掠めるのはいつだって、冷たい冷たい絶望だけなのだから。

「意、志……」

 酷く弱々しい声だった。
 当たり前だ。
 実際弱いのだから。

 鮮烈な紅に染まる正しさは、ソフィアの弱さをぐちゃぐちゃにかき乱す代物だった。だって、この人は。あたしと、……あたし『だったもの』と同じなのだから。……いいや、違う。間違いなのは『あたし』の方。
 アラジンは、『ソフィア』と同じだ。決して錆びず、決して折れない、玉鋼の剣だった、あの頃の『ソフィア』と。

 ねえソフィア。今のあなたはどう?

「……わ、から、ない……」

 こんな想いをするならば。
 いっそ、初めから何も知らず、何も考えず、従順に生きて。そして、──あの蜘蛛に食われてしまえば良かったのに。

 あの子を失ったのが苦しかった。あの子を助けられなかったのが苦しかった。
 あの子が奪われてしまうかもしれないのが怖い。未来なんて見えないから怖い。
 何も、知りたくなかった。

「……さあ、ね。はは……何がしたいのかなんて、決めてないから。わからない。あたしはただ誰かの奴隷になるのが嫌だっただけだから。」

 歪に笑顔を作る。目を逸らした。重なっていた手も強引に振りほどいてしまった。あなたに見られると、触れられると苦しいの。『ソフィア』が首を絞めてくるからね。斯くあれと、まだ。絞めてくるから。強く、強く。
 だってもう、あたしは『ソフィア』じゃないから。
 だけど、まだあたしはあたしじゃないといけないから。

 どんなに剣は錆びていても、折れさえしなければ使える物だ。過去の自分の亡霊にも、従わないとならないのだ。
 傲慢なソフィアには、守るべきものがいるのだから。

「……もうこの話はいいでしょ、終わり。芸術活動って……本当にこれだけなんてことはないでしょ? ほら、あの筒は? 時間がなくなっちゃうわよ。」

「……そうか。何をすればいいか、今は迷ってるんだな。迷えることもきっと、自我を持つオレ達の特権だな。

 それじゃあ、代わりにオレの芸術の話を聞いてくれよ。」

 戸惑いを露わにするあなたの表情を、目を背けずにじっと見つめ続ける。トゥリアクラスである彼は、他者と目を合わせ続ける事を基本的に苦としないのだろう。
 情熱的に、愛情深くさえ思える強い眼差しがあなたをただ無垢に射抜いている。あなたの煌めくブルースフィアが逸らされても、アラジンはなんら気にしなかった。

「オレは綺麗な星空が見たいんだ。あの銀河の隅から隅に至るまでを研究して、理解したい。実在を確かめたい。

 あの筒はな、望遠鏡って言って……星を細かく見るための道具なんだ。あの覗き穴から星を覗くと、肉眼で見るよりもよく星々を観測出来る。自作だからチンケだけど、これでも愛用してるんだぜ。」

 彼は目線をあなたも促した大筒の方へ向ける。望遠鏡。デュオクラスであるあなたはこの装置を知っている。天体観測に用いるための道具であり、レンズを通して遠距離にあるものが細かく見えるのだという構造までもを知識として有する。

「それで……何度もこのトイボックスから見える星空を覗くうちに、あることに気付いちまったんだ。
 デュオのプリマドールなら、もしかしたらもうとっくに気付いてるかもな。

 でもこの事を教えるとガッカリさせるかもしれない。……ソフィア。オレの芸術を話してもいいか? 無理強いはしないぜ。」

 ソフィアは、ただ黙って聞いていた。……正確に言うと、喋れなかったのだ。迷うことが特権? そんなわけがない。水底の迷路に囚われていたって、けして自分に迷っている暇なんてないのに。しるべがなくたって、導き出さなきゃいけない。これはプリマたる責務だ、と自分に戒めているから。
 無自覚の斬撃。無意識の毒牙。勝手に突きつけられた気になって、勝手に炎症を起こしている様は、なんと愚かだろう。迷いが許されるはずがない。ないんだ。

「……どうぞ、話して。」

 許可を求められれば、沈黙を破って。ようやく口を開いた。ぽつりと響く、小さな声だった。 
 アラジンの言うとおり、気付きというのは、大方察しがついている。……望遠鏡。使用目的も、その原理も知っている。自作だという望遠鏡がどれほどの造りをしているのかはわからないが、まあ、あの安っぽい光を見るには充分だろう。
 偽物だと気づくにも、充分だったのだろう。

 言葉を飲み込んだ。あなたには夢が、希望があっていいね。

「……分かった。じゃあ、話すな。」

 女王の静かな許しの声を受けて、アラジンは安心したように薄く笑う。あまり大きな声で言いふらしてはならない事実。彼は相談相手を常に選ぼうと考えていた。
 だがデュオの元プリマドールなのであれば、きっと、申し分無いだろう。

「分かった結果だけを言うと──この空は全部偽物だった。ガーデンテラスの空も、寮から見える空も、全部。この学園は、どうやら地下にあるらしいな。

 オレ、ずっとこの空が本物だと思ってたから、……ショックで。でも同じぐらい、ワクワクしたんだ。

 地上には見たこともない本物の美しい星空が広がっている。秘されたものを追い求めるほど胸が躍ることはない。

 オレは地上に出て、本物の星空を観測したいんだ! そしてその絵をきっと描く。その時、オレの至高の芸術は完成する──そう信じてる。」

 これがオレのやりたいことだ、と、アラジンは言葉を締め括って、照れ臭そうに頭を掻いた。眩ゆい希望も、追い掛ける夢も。あなたにとっては痛いし息苦しいだろうに、アラジンはそれに気付けるほどに聡くはなかった。

「……でもな、それ以来、この偽物の空の記録をつける事が馬鹿らしくなっちまった。前は毎日のように夢中で天体観測をしてたけど、きっと……その様子だと、お前もその無意味さを理解してると思うし。

 でも折角来てくれたんだ、何もしないで帰すには忍びない。そうだな……」

 彼は腕を組んで、口を引き結んで何かを考え始めた。──そんな彼の目の前の机上には、彼のものと思われるノートが置かれている。随分使い込まれてくたくたになっているように見えるだろう。

 この空は偽物だった。 ……ええ、もう知っているとも。こちらだって目で確かめたのだから。
 蒼い水晶は、揺るがない。真っ直ぐに、希望を追い掛けるアラジン。純に願いを述べる言葉に「……そう、」と小さく返事をしたきり、ソフィアは口を閉ざした。先程とは違って、少しの動揺も態度に出していないことから、ソフィアが既にこの事実を知っていたのだろう……と誰しもが推察を立てられるはずだ。

 くたくたに使い古されたノート。ああ、めいっぱいの希望を詰めて、どれだけ目を輝かせて、内容を書きあげたことだろう。中身を見るような無粋はしないけれど。そして、それが裏切られてもなお、まだ彼の瞳は、絶望を知ることはないのか。……地下、と言うだけだったらまだ良かっただろうけど。冷めた海の底で、あなたの想いだけが熱を帯びているようだ。と、思った。

「────気を遣ってくれなくていいわ。……そんな気も、起きなくなるから。」

 沈黙を置いたのち、ソフィアは堅い声色で切り出す。いい加減、刺さるような希望から逃げ続けるのは、嫌になったのだ。……そして、あなたにも。無根拠な『希望』に溺れ続けていて欲しくはなかったから。

「──アラジン。その夢は、きっと叶わない。希望は捨てなさい。」

 冷ややかな声色だった。先程同志と呼んだ存在が、唐突に裏切ってきたとき、夢追い人は何を思うだろうか。
 ……ダイヤモンドの心を持つ主人公を阻むヴィラン。配役は、そんな所だろう。でも、それでもいい。この言葉があなたの心を傷付けることとなっても、届いてくれればいい。もしくは、足掻いてくれればいい。ああでも、あなたにこんな呪いをおわせるのは嫌だな。策を間違えたかな。デュオのプログラムも、鈍ってきたような気がする。……それなら一体、何の為に生きているんだろう。

 ぱちり、と。眼窩いっぱいに収まるブーゲンビリアの花を瞬かせる。
 彼女と行う芸術活動について思いを馳せていたところに、唐突に横入りで飛び込んできた、あまりにも鋭利で、重い一言。しかしただ取り上げようとしているわけではない、何か実体験に基づいた、鉛のような言葉にアラジンは一瞬言葉を失う。
 またひとつ、瞬きをして。しかしアラジンは、あなたから唐突の裏切りを受けようとも、あなたを非難することは無かった。

 それほどまでにあなたの研ぎ澄まされた相貌が、切り詰められて凄みを帯びていたから。
 だからこそアラジンはあなたに眼を向ける。

「そうか、学園が地下にあることも、お前は色々知ってるんだな、ソフィア。それを聞いて安心した。

 なあ、お前はこの事実を聞いて、外に出てやろうって思わないのか? それとも、もう思ったあとなのか。

 だから俺に、夢は叶わないって、忠告してくれてるのか?」

 あなたと同じ、静かな声だった。だが声色は暖かく、柔らかいものだ。聞くものの緊張を和らげる低い声だった。

 アラジンはあくまで優しく、あなたのやわい部分に触れようとしている。緋色の瞳孔であなたを真っ直ぐに射抜きながら。

「……あなたって、能天気ね。いきなり裏切りみたいなことを言われて、否定されて……少しくらい怒ったりしないの?」

 どこまでも、アラジンの声は温和でやさしい。他者の心の紐をほどくみたいな、氷を溶かされるみたいな、そういうのはきっとトゥリアドールとしての素質なのだろうけど、その暖かさが今は居心地が悪くて、まつ毛を伏せてツンと酷な言葉をまた使う。
 同志なんていう輝かしい言葉は、とてもとても、今のソフィアには似合わないだろう。

「そう……知ってる。色々。最近になって、ここについて知る機会が増えたの。……でも、内緒。
 ……だって、あなたは同志じゃない──ならなくていいもの。」

 長いまつ毛は伏せられている。ブーゲンビリアのきらめきを遮るように、水晶玉がその光に触れないように。そこまで言い終わると、ソフィアは一息を置いた。 短い休憩の意であった。

「……アラジン。あなたは今日、誰にも会わなかった。オミクロンクラスの元デュオプリマ、だなんて知らない。会ったこともない。……良いわね?」

「……そうか。おう、怒らない。だって、あえて厳しいことを言わねえといけないような相応の理由があることは、お前の顔を見れば、何となく察しがつく。」

 夢を、憧れを語る口を早々に裏切られ、その理由すらも聞く事が出来なかった。それでもアラジンは声を荒げなかったし、怒りを露わにする事もない。
 彼はただ、どこかあなたを憐れむ様な優しい眼差しであなたを見つめている。

「お前がそうして欲しいなら、オレはお前とは今日会わなかったと思うことにする。本当は同志になって欲しかったから、ちょっと残念だけどな。

 ──でも、ごめんな。お前の忠告は聞いてやれない。」

 その上で彼は、あなたの要望も受け止めた。きっと彼女はそうしてもらわないと不都合な身の上だろうことも彼は察していた。
 だが、先の忠告だけはキッパリと跳ね除けた。アラジンは微笑みを浮かべたまま、あなたの物憂げな鼻先を、光を遠ざける様な暗い双眸を見据え続ける。

「オレにとってこの夢は生きる理由だ。ヒトに仕えるって馬鹿馬鹿しい使命よりも、よっぽど大切にしたいと思えるものだから。そう簡単に捨てられないし、この学園が地下にあるからって、それぐらいのことで諦めるわけにはいかない。

 その果てに例え絶望することになったとしても、オレは自分を愚かだったとは絶対に思わない。」

 自身の考えを余す所無く吐露すると、彼は緩やかに息を吐いて彼女から目を逸らした。もうあなたのことは見ていないと言った素振りで満点の星空に視線を注ぐ。
 あなたはきっとそうして欲しいだろうと思ったから。

「ソフィア。もしも気が向いたらまたいつでもここに立ち寄ってくれ。今度はまた別の芸術活動をしよう。」

 彼はあなたに目を向けずに、独り言の様に呟く。そのまま立ち去るならば、彼は引き留めることはないだろう。先程まであなたを射抜き、縫い付けていた暖かな眼差しも、今はもう向けられていないから。

「……っ、なんで……それがわかってるなら、諦めてくれたっていいじゃない……!

 ………このまま……このままだったら。あたし……あなたのこと、見殺しにすることになる……」

 忠告は聞けない。
 『それぐらいのこと』。
 その言葉に鋭敏に反応して、伏せていた瞳は真っ直ぐ緋色と対面する。きらきらしい、灼けるような光を取り込んで、水晶玉は歪んだ。
 確かに、表面の言葉だけであなたが折れるようなひとじゃないとは、分かっているけど。それでも、こちらの事を察して尚前を向くのか。何よりも真っ直ぐに。ソフィアには、目の前の彼こそが英雄に見えてならなかった。だから、愚直なんていう形容をすることはとても……出来るわけがない。

 彼の緋色には、星のまたたきを散りばめられて、銀河を描いて。
 なにもかもが偽物であるはずなのに、ああ、こんなにも綺麗だな。それはきっと、あなたがなによりも強いからね。所詮ファーストペンギン風情には、あなたのようにはなれないな。

「…………あたしの、やりたい事は。」

 ……けれど、ようやく。自分が誰よりもずっとずっと弱い事を理解出来た気がする。──守るべきだと、守らなければと足掻いた、愛しい者たちよりも、ずっとずっと。無知の知とはよく言うけれど、まさにこういうことを言うのだろう。きっとそうだ。

「……あたしは、このトイボックスから逃げたい。脱出したい。ここにいる限り、幸せになることは出来ないって知ったから。」

 あなたが独り言を呟くのなら、あたしも。ぽつ、ぽつ、と。先程は言いそびれた──迷って見失った『希望』を、語りだす。

 ねえ、誰より聡いアメリア。あなたが言っていたのは、きっとこういうことだったのね。

「…………………ねえ。もしも──すごく嫌で、危険なニュースを目の前にぶら下げられたとして。その禁忌の知識が、夢を追う為には必要な事だったとしたら。あなた、知りたいと思う?」

 アラジンはどんな言葉で引き留められても、頑固なほどに強い意志で決して諦めたりはしない。いよいよ声を荒げてしまったあなたの水が、大きく揺らぎ始めているのが伝わる。
 ほら、彼が思う通り。彼女は何も、意地悪がしたいからアラジンの夢を否定したわけではないのだと。言葉が強くなってしまうけれど、彼女の行動原理には確かな優しさがあった。
 トイボックスに渦巻く、得体の知れない不気味な陰謀──彼女は絶望せざるを得ないその事実を知っているからこそ、アラジンを慮っている。

 ああ、彼女を感情任せに叱責しないでよかったと、アラジンは自分の判断に改めて安堵すると同時に。

 自分と限りなく近い思想を持つ彼女に、自分のかけがえのない同志になってほしかった。


 ──だから、あなたの口から堰を切ったように溢れ出す、光り輝く『芸術』に。
 アラジンはようやく銀糸を暴れさせて勢いよく振り返り、瞳を煌々と瞬かせる。

「……オレは。オレは……感動してる。お前の芸術は、やっぱりこんなに素晴らしかった。聞けてよかった。」

 アラジンは笑って、あなたの目を見据える。

「ソフィア。オレは芸術を成し遂げる為に必要なことなら、それが禁断の果実だとしても齧る。

 オレを撃て。オレが同志として申し分ないことを示してみせるから。」

 そうして、あなたの退路を緩やかに塞いでいく。揺るぎない意志によって。

「ふふ、っあはは……………そう。わかった。そうね。
 ──あたしの『同志』として生きるなら、これくらいは耐えて貰わないとならないもの。」

 ソフィアは、諦めたように笑いを漏らした。くしゃりとした笑顔は、決して歪んだものでは無かった。……二、三度、まばたきをするうちに、ブーゲンビリアの露の反射を受けて、アクアマリンは屈折光をともす。
 星の金銀を散りばめた、緋色と空色がもう一度相対した。秘密の『芸術』が重なり合う瞬間はきっと、おとぎ話の中だけの祝福のように、淡い月光を帯びている。
 白銀の剣は、ぼろぼろと錆をこぼしていく。錆の剥がれた所から、白い光が覗くだろう。
 アラジンの、──あなたの同志は、こんなにも強く微笑んでいる。

「──今からする話は、他のドールには絶対に内緒。あなたの身に、思考に、何か変化があったことも誰にも悟られちゃいけない。少しの情報でも漏れたら終わりだと思って。あくまでも、あなたは今まで通りを装うの。」

 アクアマリンはまず最初に、固い声色で重々しい前置きをする。そのなによりも真剣な瞳の光は、やはりこれからする話が絶望的であること──そして、紛れもない真実であることを如実に物語っていた。

「……よく聞いて。お披露目に出たドールは、みんな死ぬ。会場を見に行ったからわかるわ。お披露目会場にヒトなんて居なかった。居たのは、青い花を咲かせた蜘蛛みたいな化け物だけ。化け物がドールを殺すの。ダンスホールは、ただの殺戮ショーのステージだった。
 ……そして、オミクロンのドールはダンスホールじゃなくて、謎の空間で焼き殺されるみたい。……先生の手でね。二階と三階の間? に扉があるらしいわ。あたしは実際に見た訳じゃないけど。

 ……ここまで、頭に入った?」

 声を潜めて、すらすらと出来事を羅列していくソフィアは、もはや事務的だった。感情の見えない極小音の機械音声は、一区切り置いたのちに気遣ってみせるようなセリフを述べる。でもきっと、同志なら、ソフィアという人物の底の苦悩も、なんとなく察せるはずだ。察したって、何か特になるようなことは少しもないけれど。

 先程までは終ぞ交錯する事の無かった視線が、この時ようやく混じり合う。その瞳に力強い太陽のような光が発せられている事に、アラジンは気がつく。
 本腰を入れて、自らと『芸術活動』をするつもりになってくれたらしいソフィアの期待に答える為、アラジンは机上に両腕を乗せ、やや前のめりになって話を一から十まで刷り込んでいくだろう。

 ──果たして、アラジンはあなたの見てきた多くの絶望と、恐怖と、恐ろしい真実とをどう受け止めるのか。
 あなたが話し終えた時、さしものアラジンも表情が僅かに強張っていたようだ。このような悍ましく、事実を疑いたくなるような現実が、平穏にも思えたトイボックスに横たわっているなど。
 その事実を受け止めて何も感じずにいられるドールは、きっといかにも『人形』らしいに違いない。

 アラジンは──アラジンは、人形ではなかったからこそ、役目を放棄し、自由を懸想した。
 故に、まさしくこの身に『銃撃を受けた』かのような衝撃に、絶句していただろう。冷や汗がうなじを伝い、思わず生唾を呑んでいた。

 ──だが、こちらの理解を気遣うあなたの問いに、彼はゆっくりと頷く。

「お披露目、は……そうか、お披露目に未来は無いんだな。そして、青い花を咲かせた化け物か……それが、話に聞いていた『ヒト』の正体なのか?

 だとしたら……毎日の授業で語られている事は、ほとんど嘘だったんだな……」

 全てが茶番で形作られた、歪なトイボックスの実態。
 アラジンは衝撃を受けたものの、しかし、比較的冷静に事実を整理できていた。それというのも、彼がまだこの学園で目覚めて日が浅かったお陰だろう。この狭い世界をどういうものか定義付けるまえに、真実が明かされたから、大きな衝撃に打ちのめされずに済んだ。

 だがトイボックスで過ごした時間が長い彼女はどうだろう。
 全てに裏切られ、晴れ舞台に向かった友人がことごとく死亡していた事実を受けて、どれほど絶望しただろう。
 アラジンは想像に難くないそれらのどす黒い絶望を思い浮かべて、彼女を心底同情した。

 追い詰められても仕方がないと、そう思った。

「……理解した、大丈夫だ。
 まだ話は終わってないんだろ? ──続けてくれ。」

 銀の弾丸が、夢追い人のコアへと喰い込んだ。その表情は、鉄塊を嚥下させられたかのごとく堅く強ばっているように見える。少なくとも、ソフィアのアクアマリンにはそう映った。
 けれど、そんなあなたに手を差し伸べることなんて出来ない。だって、その引き金を引いたのはあたしなんだから。

「……そう、飲み込みが早くて助かるわ。それじゃあ続きといきましょう──

 ……それから、あたし達──あの夜地獄を見た子のうちの一人と一緒に、柵の外へ出た。脱出の経路が確認できるかもしれないと思ってね。

 その結果、わかった。この空が全部偽物だって。森を抜けた先は、壁があった。その壁は空と繋がっていて、ここが完全な屋内だって分かったの。……さっき、地下にあるとか言ってたかしら。それは半分間違ってるの。

 ──トイボックスは、海底にある。先生に柵を越えた事がバレて……そこで直接聞いたわ。壁の向こうから海の音もしたし、間違いない。そういう意味もあってさっきは星なんて無理って言ったの。」

 先程までと変わらず、それは機械音声のままであった。感情のない、ただただ情報を開示するだけの。表情にだって、余計な情が漏れないように気を使っている。けど、トゥリアの繊細な瞳には、やはりどこか沈んだ絶望に耐えるように目尻に力が籠っているのがバレてしまっているかもしれない。

 アラジンは、あなたからどのような事実が齎されたのだとしても、彼女の期待に応えられるよう毅然と振る舞う心の準備を固めていた。現状では、武装とも呼ぶべきか。
 生唾を飲み下して、しかし──あなたから投じられた重い一石には、やはり、言葉を失わざるを得なかったらしい。

「……海底──?」

 ポツリと、トイボックスを取り巻く厳しい現実を短くあぶくのように溢せば、彼は瞬きを幾度かして、途端に押し黙る。表情は青褪めて、頬は引き攣っている。海底と聞いて、事態の重さに気が付かない程に脳天気と言うわけではなかったらしい。
 とりわけ彼は、地上に飛び出して本物の星空を見ることを生き甲斐としていた。その為の障害が思ったよりも数多いことを知り、彼は唇に人差し指の甲を添え、暫し黙した後に、漸く咀嚼したかと思えば首肯した。

「……なるほどな。そりゃ、そんな事実を知ればオレの夢は絵空事と思っても仕方ねーよな。いま漸く納得した。

 でも、だからと言って壁の高さに屈するわけにはいかない。それに……このままこのトイボックスで安穏と過ごしていれば、多くのドールが犠牲になるんだろ?

 お前も、オレも、他の連中も。」

 彼は机上に乗せた掌を固く握りしめて、浅い呼吸を留めて表情を引き締めてからあなたに向き直る。
 彼女の直面した地獄。それを投影したかのような、暗い深海に落ち沈んだ蒼き瞳。アラジンは慮るような優しい眼差しを向けながらも、口角を緩く持ち上げて、励ますように力強く告げた。

「……ドールはヒトのために造られた道具に過ぎないのかもしれない。でも間違いなく、れっきとした心を持ってる。

 玩具みたいに手酷く捨てられていい筈がない。

 なあソフィア、オレもこの学園から抜け出せる術を一緒に考えてみる。苦しみは出来る限り分かち合おう。オレたちはもう同志だ。」

 水中でもがく様な小さなあぶくの音がひどく痛々しくて、ソフィアは咄嗟に目を瞑る。ブーゲンビリアをきらめかせる露が落ちてしまうのを見たくなかった。あなたの夢が砕け散る所を見たくなかった。トリガーの感触の、湿ったリフレインが、何よりの苦痛であったのだ。

 けれど再びまぶたを開けば、まだ星屑を追う瞳は生きている。その強さに射抜かれて、何を喋れるわけでもなく、ソフィアはただ気泡を吐くように口をはく、と動かした。
 あなたはやっぱり、すごく強いな。
 あなたみたいになりたかった。

 ……いや。あなたみたいに、なりたいな。

「……っ、うん……うん、そうよね……。ふふ、ふふふ……同志、だものね。」

 ようやく。しっかりと声をあげたソフィアのアクアマリンからは、角が消えていた。太陽が消えたあの日から、初めて。なによりも柔和に、慈愛を持って、瞳を細めて、アラジンを見据えている。
それは、美しいものを見た後の感動のような、幸福に満ちた光を屈折させた、輝きそのものであった。

「──アラジン、あのね。あたし……大好きだった子がお披露目に出されて、大切な親友がお披露目に行くことになって……もうダメかもって、思ってたの。
でも、あなたと話して少し気分が楽になったわ。
 ……それにね、やらないといけないこともわかった。

 だから、ありがとう。あなたに出逢えて良かったわ。」

 確認するように再度、己の言葉を反芻するソフィアを、アラジンは変わらない顔で見据えていたが。彼女の寄る辺ない絶望に強張っていた表情が確かに和らいで、暁を見たような光が差し込むと。彼はその頬や目元を引き締めて、真剣な表情で頷いて見せた。

 志を確認し合った“同志”であるならば、アラジンは何があろうとも手を貸す。彼女は自身の心のもっとも柔い部分を切り取って、畏れながらも、アラジンが望む通りに芸術として共有してくれたのだから。

「……そう、だったんだな。いや、お前の顔見て、何か大事なものを喪ったんだろうなとは、思ってた。
 ソフィア。前を向くのは素晴らしい事だ、前さえ向いてれば夢も希望も見える。でも目標を実現させるには、自分一人じゃ絶対無理だ、すぐ挫折する。
 だから、信頼出来る“同志”にも、持っている荷物を預けようぜ。オレでもいい、他の誰かでもいい。

 オレもお前に出逢えてよかった。ソフィア、これから一緒に頑張ろうな。」

 彼は瞳を綻ばせ、歯を見せて快活に笑った。
 そこで、周囲に鐘の音が鳴り響く。これはドールが学園を出て寮に帰らなければならない時間、19時を示す鐘の音だった。アラジンはこれを聞いて、「やっ……べえ、芸術活動に打ち込みすぎたな!」と時間を忘れていたことを噴き出すように笑う。

「急いで帰ろう、ソフィア。送っていくか?」

「ん、ふふ……うん。そうしてみる、ね。ありがと、アラジン……」

 真摯に、親身に、言葉を受け入れてくれるあなたの姿に、ブーゲンビリアがやわらかく綻ぶさまに、釣られたように。──少女もまた、ふにゃりと眉を下げ……アクアマリンをゆるめて。少し前までの女王然とした表情はどこにもない、幸せに満ちた笑顔だけがそこにはあった。
 ──『アラジン』。その名を呼ぶ声は、熟れたさくらんぼのようにどこまでも甘さの残る物であっただろう。

 そうして、親愛なる同志からの言葉を噛み締めるように間を置いてから。ソフィアは、革命家として旗を掲げるがごとき強さを瞳に灯し直す。

「アラジン。無意味な事をさせて悪いけど、あなたはこれからも変わらず天体観測を続けて欲しいの。トイボックスに変化を悟られちゃいけない──だから、18時のガーデンテラスにまた会いましょう。」

 そこで。繊細なドールの鼓膜をつんざくのは、けたたましい鐘の音だった。会話の終わりを告げるそれが、ひどく耳障りにすら感じられる。けれどもあなたの優しい声色のおかげで、過剰に機嫌を崩すことはなかった。

「いえ、一人でも………ううん、途中まででいいわ。一緒に行きましょう。」

 少女は綻ぶ。花がめぶくように。もうじきつくりものの星すら闇に溶ける頃だから、この夜闇の中でもあなたに届くように。
 そうして、最後に一言呟いた。

「……もし本物の星空を見られるようになったら、その時はあたしを一番初めに連れて行ってね。」

 この小さな星くずのような呟きが、あなたに届くかはわからないけれど。

 あなたと二人、ばら撒いた砂金を拾い集めるような絵空事を理想として眺めていた。アラジンは自身の胸の奥で疼く決意と希望とを、暗く孤立した場所でひとり苦しむ彼女に切り分けるような気持ちで言葉を尽くしてきた。
 そんな尽力が花開いてか。あなたの相貌がゆるやかに和らいで、筋肉の強張りがほどかれ、年齢設計相応といった無垢な微笑みが漸くまろび出たことに、アラジンは確かに安堵を覚えていた。

 彼女はきっと、リーダーシップに溢れるあまりに責任感に押し潰されてしまうような、矛盾した繊細さをもつひとなのだ。絶海の孤島で訪れない援軍を顧みることもなく、ひとり刃を奮い続けるのは難しい。彼女にこそ支え合う為の同志が必要だというのに、それが叶わず、擦り切れていたのだろう。

 アラジンはニッ、とまた快活に笑う。ここに不変の同志は立っているのだと、諦めるには早すぎると伝える為に。

「分かった。そうだな、お前の話が真実ならこの学園の大人は信用ならねえんだろうしな。俺も先生に不審に思われないよう、今まで通りを貫くよ。ソフィアも、充分に気を付けてくれ。」

 冷静沈着に下される指示に、アラジンは反発することなく素直に頷いた。偽物の空を見上げ続ける行為は確かに無意味だが、カモフラージュには不可欠だ。真実に気づいたと悟られないように──。

 帳が降りて、本格的に夜の闇に包まれ始めるガーデンテラスで。あなたはその闇に潜めるようにひとつ、ささやかな願いを溢したのだろう。
 互いの顔すらも窺いにくくなる、群青のカーテンの向こう側で。アラジンは、応えるように囁いた。

「──本物の星空は、絶対に見られる。その時は、同志の俺が必ずお前の傍にいる筈だ。保証する。」

 そうして、トイボックスの“ありふれた”夜は更けていく。

【学生寮1F エントランスホール】

Amelia
Sophia

《Amelia》
 まるで嵐の前のように穏やかな朝食を終えた彼女はエントランスホールを訪れていた。
 一見すれば何も変わったように見えない。
 それどころかお祝いムードすら漂うラウンジの空気は、彼女自身の色眼鏡のせいもあるのだろうか、どこか息苦しい緊張が漂っていて、居続けるのは余りにも耐えがたかったからだ。

 今日もいつも通りの制服に着替え、調査の為という言い訳を鞄いっぱいに詰めて。
 彼女は逃げ場など無いと言うのに、逃げるようにエントランスホールを横切り玄関のドアノブへと手をかける。

「さて、今日も調べに行きましょうか」

 それがここ数日の彼女のルーティーンだったのだが……。
 今日は、少し違うようだ。

「──っ、アメリア……!!」

 水溶性の青色が、ドアの向こうに消えていくのを止めたのは、ただの少女の声一つであった。その声色は強く張っていて、芯が通っている。こんな声を持つ者は、オミクロンの学生寮に一人しかいないはずだ。
 ぱたぱたと軽い音と共に、少女が息を切らす細い音が、あなたにぐんぐんと近付いてくる。あなたが振り返る前にその足元は止んで、代わりに小さな力があなたの袖をくいと引くだろう。

 あなたが振り返るのなら、そこには。ぜえぜえと肩を揺らす、イエローブロンドの髪の少女が、──あなたが先日、手を振り払ったばかりの、傲慢なる『救済者』の姿がある。
 けれども、どうも今日の彼女の様子は先日とは違うようでだ。ようやく持ち上げられたドールフェイスにはめ込まれたアクアマリンには、焦燥とばつの悪さとが滲んでいるように見える。あなたの足を止めるために必死に走ったのだろう、息を切らしながらソフィアは語りはじめた。

「ちょっとお話……した……ゲホッ、したいんだけど………この間の、つづ、続き……」

《Amelia》
「……?
 、ソフィア様。」

 こちらに向かってくる素早い足音に、彼女はゆっくりと後ろを振り向く。
 お父様辺りが何か声をかけに来たのだろうか? いや、それにしては足音が軽いな、と考え込んだ彼女の視界に入ったのは、あの日袂を別った鮮烈なる金色。
 さほど運動の得意なモデルでもないだろうに、慌てて走って来たせいで息を切らしているソフィアに向けて。

「この間の続き、ですか。分かりました。
 ……それなら、少し歩きましょうか」

 少し警戒を向けながらも扉を開けて一先ずこの場を離れてから離そうと提案する。
 ソフィアの返答がどうあれ、彼女はそのままゆっくりと湖畔へ向けて歩き出す。

「……はあっ、はあ……わかった、ついていくわ。」

 まだソフィアの息は整わない。相変わらず肩を上下させたまま、とくに反抗することもなく大人しくアメリアの背を追う。繰り返すが、その様子は先日のソフィアとは打って変わったものである。故に、その従順な姿は奇妙にすら見えるやもしれない。
 抱えている心が善意であろうと悪いであろうと、他のドールの思考なぞは覗けるはずがないのだから。

「それで……えっと、どこまで行くの?」

 エントランスを数歩離れた辺りで、後ろを歩くソフィアは唐突に口を開くだろう。答え合わせの方法に何が選ばれようと──やがて、我々は時に誘われ、静けさに包まれた湖畔へと辿り着く。

【寮周辺の湖畔】

《Amelia》
「湖畔まで、聞かれたくない話をするかもしれないでしょう?」

 ソフィアの問いに、彼女は簡潔に応える。
 「何かあってもお互い逃げられますからね」という意図は覆い隠して。

「さて、この前の、というのは図書室でのお話の続き、という事で良いんですね?」

 そうして、目的地にたどり着いた彼女は後ろのソフィアに向き直り、確認の為の問いを投げかける。
 そうでなければいい、けれど、もしも本当にお互いが切りつけ合った傷に触れるというのなら、準備は出来ているのかと確認する為に。

「──ええ。その認識で間違いないわ。」

 それは、唯一の退路を断ち切るように。
 そよぐ風が、ソフィアのカナリアの糸を踊らせて、円舞曲を奏でるように。木の葉の縫い目を穿って降り注ぐ欺瞞の陽光が、どうして我々への福音だと言えようか?
 嗚呼──けれど。例え焼け爛れるような痛みを浴びたとしても、我々は、私は成し遂げなければならないのだと。その為に、この大地を踏みしめているのだと。
 ペイルブルーの水晶玉を深く深く射止めるアクアマリンは、そう語るだろう。
 この緊張感がたとえあなたにとって不快なものであろうと、受け取らざるを得ないのだろう。あなたが寄越した助け舟は、とうに沈んでしまった。


「……でも。前みたいに、そんなに嫌な話をするつもりはないわ。

 ……あなたに謝りたかったの。」

 ──そう。けれどメシアは要らないのだと、ようやく気づけたのだから。眩しいくらいに煌めく木漏れ日は、少しばかり冷静さを持ったようである。それはてらてらと万物に輪郭を与えては、静かに揺らいでいるばかりだ。あなたの声だけを待つように。

《Amelia》
「謝る……ですか。
 分かりました。ソフィア様がそうしたいのなら。」

 退路を断つようなソフィアの一言により幕は上がった、最早舞台からは降りられない。
 目の前に立ついのちは熱を湛えた瞳で海を見る。
 だから、海は海らしく、燃えるいのちに対峙する。

「それは、アメリアの行いたい事には反しませんから。
 貴方様の行動を止めはしません。
 どうぞ、準備は出来ております。」

 目の前のいのちへと、何を、どう語るのか。
 それを見定めるように、或いは問いかけるように。

 さあ、ここが分水嶺だ。

 水は流れゆく。革命家は、ありのままに。台詞なんかじゃない、ほんものを語り始めるだろう。開幕のブザーと共鳴するように。

「──あのね。あたし、勝手に自分のことを強いと思い込んでたの。浅慮で、愚かで、……だから。自分が思うより、『あたし』が弱いってことにも、みんなが強いって事にも、気づけなかった。」

 偽物の星が瞬いた日から、欺瞞と盲目の蛹を破ったのだから。恐るることはない。小川の流れのように、さらさらと言葉は続いていく。

「……みんなの事、大好きだから。傷ついて欲しくなくて、恐ろしい思いもして欲しくなくて、死んで欲しくなくて……守らなきゃって思った。
 けど。それは、傲慢よね。あたしは、勇者でも救世主でもないのに。みんなのこと、見下してた証拠だわ……。

 ……あなたは。最初から、分かっていたのよね。『仲間』であるべきだって。だから、教えてくれようとしていたのよね。
 あの時気づけなくてごめんなさい。酷いことを言ってごめんなさい。驕った態度をとってごめんなさい。許してくれなくたって構わない、けどどうしても伝えておきたかったの。
 アメリア、ごめんね。正しいのはあなただった。」

 さら、さらと。言葉は溢れるけれど。表情も、声色も、それが戯曲の一片ではないのだと物語っている。
 この水流がどこに辿り着くかは、全て。あなたの思惑のみに委ねられることだろう。目の前にいるのは、ただの無力な少女なのだから。

《Amelia》
「先ず、そうですね。
 ソフィア様の行いに敬意を表しましょう。
 貴方様は自分が驕っていたと内省し、その行いを被ったアメリアに謝罪をしてくださった。
 それは、そう出来る事ではありません。
 その行いは正しく良いことなのでしょう。」

 目の前のいのちが、言葉を語り切る。
 罪を定義し、内省し、改善を試みて、そして懺悔した。

 正に見事な謝罪と言えるだろう。
 きっと、これが物語の中だったなら、アメリアは涙を流してソフィアを許し、抱きしめていたかも知れない。

「けれど、アメリアはただいいよ、と、許す、と言う訳には行きません。
 何故なら、アメリアは『仲間』であるべきだ、とも教えようともしてはいないからです。

 ただ、貴方様がどうしようとしているのかを聞いて、分かり合えぬと確信し、敵であると、そう定義しただけです。

 ですから、もう一度問いましょう。
 貴方様は、……いいえ、ソフィア様は、何がしたいのですか?」

 ……けれど、ここは舞台ではあれど物語ではない。
 アメリアは教えを授ける程偉い存在ではないし、いつでも正しい事が出来るほど強い存在でもない。
 だから、アメリアは、ソフィアにもう一度問う事にした。

「ううん……謝る事なんて誰だってできる。それを今日まで先延ばしにしていたんだもの、褒められたものじゃないわよ……、……あれ?」

 続く声は、解釈の違いと、『あの夜』聞いたような言葉を象る。したいこと。あたしのしたいこと。芸術。意志。
 星々のまたたきが、『彼』の声が。今でも映像記録みたいに鮮明に浮かぶのは、耳の奥をベールが包むみたいにくすぶるのは。きっとデュオモデルの性能によるものだ。たぶん。きっと、それだけ。

「……あたしの、したいことは。」

 これが正しいのかなんて、わからない。けれど、正しくなくちゃいけないのだ。強く意志を持て、ソフィア。あたしが『正しさ』そのものになれ! そうして、芸術をあなたにも分かち合おう。恐れることはない。

「……みんなで一緒に、この箱庭から──牢獄(トイボックス)から抜け出したい。ここには幸せなんてどこにもありはしないから。」

《Amelia》
「……分かりました。
 それならばアメリアの目的とは相反しません」

 ここには幸せなんてどこにもない、と、そう言い切るソフィアに内心疑問を覚えながら、それでも、きっと彼女はそうだった事にするのだろうと、その決意を読み取った彼女は言葉を続ける。

「ですから、ソフィア様は敵ではないと、そう、考え直すことにします。
 だから、そう……アメリアにも言う事がありますね。
 勘違いをしておりました。ごめんなさい、ソフィア様」

 つまり、少なくとも彼女はもう敵ではない。
 ならば、過去に敵であると決めつけて行なった事は謝らなければならないから。
 彼女は頭を下げて罪を贖おうとする。

「えあっ、やだ……やめてよ、アメリアは悪くないじゃない。あなたのことを嫌な気分にさせたのはあたしよ。そう思われて当然なの、謝らないで。」

 律儀な子だ。頭を下げるアメリアを、慌てて止める。だって、それはおかしい。いや、アメリアがおかしいって訳じゃないけど……とにかく頭を下げるのはおかしいから!

 まあ、ひとまず。その行動が止められようと、止められなかろうと、ソフィアが次に喋ることは既に決まっていた。歩く図書室と言っても良いだろう、身体の隅々まで知識で埋め尽くされたようなあなたにとって、有意義な情報が差し出せるかはわからないけれど。

「……ね、アメリア。何か知りたいことはある? お詫び……って訳でもないけど、あたしが分かることなら、教えるから。……みんなと『仲間』でありたいから、隠すのはもうやめる。アメリアは、聞いてくれる?」

《Amelia》
「いいえ、理由があれば何をしてもいい、という事はありませんよ。行いは行いですから。」

 ソフィアの言葉をやんわりと否定して彼女は頭を上げる。
 行いは行い、理由は理由、思いは思い、罪を悔い、償うのならそれは切り分けなくてはならない。
 だから彼女は謝るし、続いた言葉への返答は決まっていた。

「では……そうですね、一つ確認をしておきましょうか。
 ミシェラ様のお披露目の日、ダンスホールに向かったメンバーは、ソフィア様、アストレア様、ディア様、ストーム様、の四人で合っていますか?」

 お互い、半ば把握している情報の確認。
 情報交換を行うという意思の提示として、彼女は先ず簡単な問いを投げかけた。

「……ええ。合ってる。そこで何があったかは、もう知ってるの?」

 情報よ確認。ただそれだけ。けれど、たったそれだけのことだけで、こんなにも空気はぴりぴりと頬にまとわりつく。分かっている、未だ緊張の糸がこの場で複雑に張り巡らされていることは。当然である。このペイルブルーは叡智と大賢の象徴であるのだから。言葉なら、誰にでも扱える。それだけで全てを判断してはならないと、彼女はよく理解しているのだろう。

「……あたしは。前々からトイボックスが嫌いだった。どうせ、ヒトなんて自分勝手でつまらない馬鹿ばかりなんだろうなって思ってた……だからお披露目を見てやろうと思ったのよ。……まさか、想像した以上に……って言葉で済まされないくらいにむごいだなんて、少しも思わなかった。」

《Amelia》
「ええ、大まかにとはなりますが。
 となれば……ディア様は随分と大胆……いえ、あれはそもそもそういった勘定が無い類の行動ですか……」

 推測が正しかった事を確認した彼女は、顎に柔らかく片手を添えて、ブツブツと言葉を呟きながら考察の穴を埋める。
 鍵に細工をしたのは誰か。
 何故ディア様は花について聞きたがったのか。
 何故アストレア様がお披露目に選ばれたのか。
 その理由らしきものの推測に一先ずの答えを見出した後彼女は顔を上げて。

「ええ、それは十分に伝わっております。
 ……それでは、そう長く話し込んでいる訳にも行きませんから。ひとまずは解散と致しましょうか。

 最後に、ソフィア様からアメリアに聞きたいことはございますか?」

 幾らかの恐怖が入り交じったソフィアの言葉を肯定する。
 そうして 、ギラギラと輝く偽物の太陽を見上げながら、暗に「朝からこんなに時間を取っている訳にも行かないでしょう?」と伝えて、最後の問いを促す。

「……ディア? そっか、あいつから何か聞いたのね。だからお披露目のこと……」

 何やら思慮に耽っているらしいアメリアが零した名に、ぴくりと眉が上がり、関心を示した。同時に、知識人……と言うだけでは済まされないようなトイボックスの裏の顔をなぜアメリアが知っているのか、ということにも合点が行く。無理矢理調べあげたのならば、なんて危険なことをするんだとでも叱ってやるべきかとも思ったが、その必要はないらしい。
 そうして、解散を提案する言葉に頷きながら、何か特別アメリアへ伝えたいことはないか思考のかけらを全てさらってみた。けれども、やはり特別言いたいことは浮かばなくて。

「……そうね。一旦は、ここまでにしておいた方がいいかも。あたしは特に知りたいことはないし……完全に信の置けない相手に情報を喋るなんてあなたもイヤでしょ。

 頼らせてくれてありがと、アメリア。」

 ──だから。この真っ直ぐな言葉は、特別でもなんでもなくて、ソフィアにとっては普通の言葉だったのだ。今、この瞬間。秘密の交換という時間を少しでも取ってくれて、かつ確認をしてくれたこと。ソフィア自身が今、お披露目に行ったという事実を明確に明かしたこと。それは、あなたを頼る行為だったのだ、と。ソフィアは、そう言っているのだ。
 おかしな話だと思われるかもしれないが、それでも。傲慢な救世主様の高台をおりて、同じ地面に足をつけている証明としては、充分な言葉だったろう。


 まあ。だからといって、あなたがそれをどう捉えるかなど、知りはしないのだが。

《Amelia》
「特に知りたい事は無い、ですか。
 ええ、分かりました。」

 ディア様に……という言葉に反応したソフィアに「図書館での話し合いで話したような……?」と思いながらも、続いた言葉に少し驚く。
 知りたい事は無い、という言葉は彼女に一定の衝撃を与え、飲み下すのに時間は掛かった物の、完全に信用を置いていないと気付かれていたならそれも仕方のない話だと受け入れる。
 それは、幾らか縮まりはしたものの、未だに断絶が深く残る事の証明でもあった。

「では、また何かあればお伝えしますね。
 それと、そういう言葉はアメリアにではなくきっかけの方に言う方が喜ばれますよ。」

 だから、彼女はソフィアのお礼に少し気恥ずかしそうに自分以外の言われるべき誰かの存在を示してから学園へと歩き出す。
 金色の、たった一つの命は共に歩いてくるだろうか。
 或いは、蒼い海を見送って、一人で帰るだろうか。
 少なくとも、分水嶺を越えて喫水線の別たれた頃に、蒼い海はひとり誰にも聞こえぬように小さく言葉を漏らす。

「結局、問いかけてはくれませんでしたね、ソフィア様。」