Astraea

【学生寮 廊下】

Sophia
Astraea

《Sophia》
 空が泣いている。暗い暗いグレーで辺りを多いながら。雷鳴は、影を潜めている。無垢なる人形を貫くその隙を伺っているかのように。

「アストレア。」

 素早く食事を摂り終えたソフィアは、今日も凛々しく美しく佇む少女、先程栄誉を賜ったばかりの親友の席の前へ立ちはだかった。席に着いたアストレアを見下ろすアクアマリンは、ほの暗い影がかかっている。
 ソフィアは、アストレアが何か口を開く前に彼女の手を引いて、ダイニングを後にしてしまう。アストレアは、それを拒まないひとだった。どこへ行くでもなく、廊下をつかつかと歩いて、ダイニングから距離を取った所で。ソフィアは、きわめて小さく口を開く。

「……さっき『あの男』は何か言ってた?」

 さっき。前の時間を指す語だ。その語は曖昧で、わかりづらい。けれどもアストレアであれば、『さっき』の指す時間が『柵越えを決行した時』であることはきっと伝わるはずだ。あの男──もとい、我らが先生殿の姿のないところで、なるべく小声でしているにせよ、警戒を重々に……と言った所か。なるべく遠回しな言い方を選んでいるようだ。ソフィアの淡々としたその声に、いつもの覇気や感情の豊かさは感じられない。

 陰気に降り続く雨は狭い箱庭の全てを包み込み、世界は救い難い冷ややかさに充ちていた。汚れ1つ無く磨きあげられた窓ガラスをつつ、と滑った雫は、やがてといを伝って地面へと染み込んでしまうだろう。

 夕食後、説明も無く手を引き歩く親友の小さな背を眺めながら、月珀の彼女は、ささやかな笑みを浮かべて居た。その心の内は、外の天候に似てじっとりと真っ暗な物だったけれど、王子らしく、その命の尽きるまで笑うのが彼女なのだ。
 暖かな笑顔に満ちたダイニングに比べ、廊下は暗く冷ややかだった。囁きにも近いソフィアの声をその耳に受け止めれば、理解した、と言わんばかりにその微笑みを1層強めた。

「嗚呼、まず、特記して伝える事項は…………僕達には居場所を伝えられる、発信機の様な何かが付けられている可能性が高い。勿論、僕もフェリシアも君達の事を彼に話していないけれど、彼は腕時計を見ては"迷子の子達を探す"と、迷わず君達の所へ行ってしまった。」

 多くを語らぬ相手の言葉でも、1を聞けば10まで的確に理解するのがエーナドールである。
 間髪入れずに答えるその声は、ぐっと低く抑えた相手に辛うじて届く程度の囁き声で、感傷になど浸らぬ、極めて淡々としたもの。あくまでも考察にすぎないけれど、と話を締めくくれば、相手の反応を待つ様にそのかんばせを傾げた。

《Sophia》
「…………だからあんなに勘づくのが早かったのね、あの男。……気色の悪い……」

 小さく淡々とした感情のない声は、罵倒を吐く際に絞り出すような恨めしい低い声へと切り替わった。……それは。単に機嫌が悪いだとか、そういうのでは済まされないような。殺意すらも孕んだ、静かな小さい声だったろう。

「……わかった。ありがと、何とか調べとくわ。……平気、大丈夫。まだまだあんたにも働いてもらうから。休ませなんてしないからね。」

 すぐに激情は鳴りを潜めた。先程までの気迫を隠した、淡々とした声へ戻った。
 ……横暴なようにさえ捉えられる言葉の裏に、アストレアを必死に想う心があることは、あなたが何よりもわかっているはずだ。ソフィアは、あなたを失いたくないと。まだ共に居たいと。親友が欠けてはどうすればいいのか、と。思っているのだろう。あなたなら、……エーナモデルのプリマドールであった、アストレアなら。きっと、そんな事も、全て全て解っているのだろう。

「あくまでもこれは僕の考察に過ぎないから、これから先、作戦を進める過程で確認出来るのならばして貰えると助かるよ。それはきっと君達の枷になってしまうから。」

 "確認して貰えると助かるよ"。
 "君達の枷"。

 そんな言葉から分かる通り、彼女は既にその生を半ば諦めに掛かっていた。たった今の言葉も、自分の持ち得る情報全てを開示してしまってからその生命を終わらせようと言う彼女の決意から来る事務的な報告に過ぎない。依然としてただ淡々とした囁き声は、地を這うように低い。
 アストレアは、日頃、甘美な夢を食みながらも非常に現実主義的な性質のドールであった。彼女は分かっていた、これから先、この場所に自分が居られる筈など無いと。
 箱庭で、生ぬるいシアワセを享受することなど、出来ないと。

「仰せの儘に、My Dear Wisdom.この命が尽きるまでは精一杯働くつもりでいるよ。
 その後は頼んだよ。君は1人で抱え過ぎてしまう所があるから、壊れてしまわないように。」

 王子はとびきり綺麗に笑った。その胸に手を当て、優雅に礼をしてみせれば、どこか突き放す様に、されど豊かな慈愛の瞳でそう言った。
 信頼、それは何よりも重い呪い。小さな1人の少女に背負わせるものでは到底無いことも、その少女の精神が酷く脆いものであることも、長い間苦楽を共にした親友であるアストレアはとっくに、痛いほどに分かり切っていたけれど、いつまでも甘い蜜を吸っていられるほどこの世は甘く出来ていないのだ。

 死にたくない。

 だなんて我儘など言っていられないのだ。

《Sophia》
「………………ッ、」

 ──そんなことを言わないで。
 他人事はやめて。
 まだ、一緒にいたい。

 死なないで。いかないで。
 あたしをひとりにしないで。

 そんな言葉を、必死に飲み込むように。ぎり、と歯を食いしばる。アストレアだって死にたくないだろうことはわかっていたし、けれども死にたくないだなんて事を言えないだろうことも理解していた。だから、無責任な言葉を吐くことなんて出来なかった。いつも、いつもこうだ。
 誰よりも聡明であるソフィアは、どんな時も理性が先行して、上手に言葉を紡げない。このとめどない想いを、あなたにぶつけることもできない。それをただ飲み込むしか、ソフィアには選択肢がない。
 それは、棘だ。 飲み込んだ苦しい苦しい棘は、内側からソフィアをずたずたに傷つけて、裂いていく。表面上ではわからない、外からは分からない深い傷。
 これを判ってくれるのは、あなただけだったのに。

 会話はそこで終わった。月光を纏う笑顔に微笑み返す事すら出来ずに、ソフィアはアストレアを横切って、再びダイニングへと戻るだろう。
 どんなに傷が痛もうが関係ない。これはやり遂げなければならないのだから。

【学生寮1F ラウンジ】

Lilie
Astraea

 夕食後、学生寮1Fラウンジ。
 食後のラウンジは、外の酷い雨模様など意にすることなく、いつも通りの温かさを保っていた。
 このロールプレイにおける主人公である月珀の彼女は、体重を預ければ深く沈んでしまう程に柔らかいソファに至極姿勢よく腰掛け、重厚な装丁の本を広げていた。よく読み込まれ端が拠れて黄ばんだページには、細かい文字が2段に渡って横たわって居た。
 もし貴方がその表紙を見る事が出来たのならば、赤いビロードに金の文字で、グリムの昔話、と言う文字を見留め、それが童話集である事を知る事が出来るだろう。

 既にお披露目行きの決まったアストレア。それが無慈悲な死刑宣告である事を、彼女は既に知っていた。されど、いつもと変わらずただ本を読み続けて居るのは、その心の内に不安で渦巻く波を鎮めるため。何も知らない者からすれば、お披露目に行く為の準備を怠らない勤勉なドールにさえ見えてしまう事だろう。細く嫋やかな指先は、黙々とただページを捲っていくけれど、その玻璃の瞳は深く輝き、口許は美しい弧を描いていた。

《Lilie》
 1階、ラウンジ。リーリエは、夕食後にそこを訪れた。姉と慕い、懐いているドール、アストレアを探すために。アストレアは、お披露目が告げられている。ミシェラの時は、動揺して、冷静で居られなかった。それ故か、ちゃんとお別れが出来なかった。それを、リーリエはずっとずっと後悔している。だから、アストレアには、ちゃんとお別れを。そのような思いを胸に、ラウンジを訪れたリーリエは、すぐにお目当てのドールをその色違いの両眼に映すことが出来た。

「アストレアお姉様……!」

 アストレアを見つけたリーリエの顔は、ぱっと輝き、少し小走りで彼女の元へと駆け寄る。本を読んでいる彼女を邪魔しないよう、静かに。

「おや、My Dear Lily , 慌てて転ばないようにね。」

 鈴の転がる様な可愛らしい声に、面を上げれば、その麗しいかんばせに大輪の薔薇の咲くような笑みを浮かべて、愛おしそうにその百合の花を呼ぶ。
 読んでいる途中であったページに栞紐を挟んで閉じてしまえば、ソファの端に寄り、座って、と言わんばかりに自身の隣を指した。

「どうしたの、リーリエ、もしかして僕の事をお祝いしてくれるのかい?」

 だなんて飄々と言って見せては、返事を待つように、美しい百合のヘテロクロミアをじ、と見詰めた。
 勿論本当にお祝いしてくれるのを待っていた訳では無いのだけれど、自身を姉、と慕ってくれている優しいこのドールならばきっと"祝って"くれる筈だから。

《Lilie》
「ふふ、やっぱりアストレアお姉様はぜんぶお見通しなのね。」

 そう言って笑ったリーリエは、アストレアに促されるがまま彼女の隣に腰を下ろす。夕食時、彼女がお披露目に行くと発表されたときは、本当にびっくりして、本当に嬉しかった。優秀なエーナドールである彼女が、ご主人さまを見つけ、幸せになるのだ。そう、思ったから。でも、やっぱり寂しくて。ミシェラに続いて彼女までもいなくなってしまうのは、どうにも悲しかった。

「……アストレアお姉様、お披露目おめでとう。わたしね、アストレアお姉様が大好きなのよ。だからね、幸せになって欲しいの。落ち着いたら、お手紙を送って欲しいの。ソフィアお姉様も、みんなも絶対に喜ぶのよ。」

 リーリエは、アストレアに祝福の言葉を贈る。きっと、貴女なら幸せになれると信じてやまないから。寂しい、なんて感情は滲むことなく只只に祝福の言葉がアストレアには贈られる。リーリエは、許されるのならば甘えるように彼女にもたれかかろうとする事だろう。

「ふふ、当たり前だろう。僕は王子様なのだから。君のことは何だってお見通しさ。」

 リーリエが隣に腰を下ろせば、白百合と白薔薇の並び咲く花畑と見紛う程に麗しい。
 全部お見通し、だなんて言葉に薄く笑えば、いとも簡単そうに片目を瞑って星を飛ばして見せた。彼女の言葉は全て、どこか芝居掛かった浮ついたものであったけれど、その無機物の笑顔には、自身を王子様と呼ぶのも、そのキザな態度も、不思議と似合ってしまうのだった。

「ありがとう。手紙は送れるかどうか分からないけれど、ご主人様に頼んでみるよ。

 ……ねぇリーリエ、僕は君のことが大好きだ。だからね、君は絶対に幸せになるんだよ。」

 心から清い祝福の言葉に、嬉しげな笑顔を浮かべては感謝を述べた。
 ささやかなれどきっと叶うはずの無いお願い事に、その目をそっと逸らして。
 甘えるように凭れ掛かった彼女に気が付けば、至極愛おしそうに頭を撫でてやり、その後に続けたのは彼女の悲痛な願いであり、最後の頼み事だった。どうか、お披露目になんて行かないで。無事に脱出して、幸せになって。
 されど、彼女は言えなかった。希望に輝く瞳を曇らせることなど、到底出来なかった。現実を見るのは自分だけで良い。いつかは必ず現実を知ってしまうのであっても、それはまだ先で良いのだから。
 今、彼女の心には死への恐怖にも勝る愛情があった。
 彼女は祈る。神よ、もう自分はどうなったって良いから、リーリエを、オミクロンの皆を、御守り下さい。幸福を、与えて下さい。

 彼女は神など信じていなかったけれど。

《Lilie》
「わたしが幸せになるには、まず、アストレアお姉様が幸せにならないといけないの。……わたしはね、みんなが幸せならそれで幸せ。誰も傷つかないで、笑っていられるのならそれでいいのよ。」

 頭の上を行き来するアストレアの手に、リーリエはうっとりと目を細めた。紡がれた彼女の願い事に、勿論。と言った後にそう続けて。貴女が幸せで無ければ、己の幸せなぞ訪れない。リーリエには、アストレアが彼女自身の幸せを諦めている様に見えてしまった。でも、きっと、彼女はお披露目で素敵なご主人様と出会い、大切にされ、幸せになるのだろう、とリーリエは疑わない。だって、そうなるものであると教えられて来たから。それ以外のことなんて、何にも知らないから。
 アストレアは、優しくて、華があって。プリマドールに相応しいドールであるとリーリエは思っている。例え傷があったとしても、その魅力は損なわれることはない、と。だから、リーリエは、彼女ならきっと良いご主人様に出逢えると信じてやまないのだ。

「……ねぇ、アストレアお姉様。わたしにね、お話を聞かせて欲しいの。もう、聞けないだろうから。」

 アストレアの持っている童話集を見ては、彼女の腕にリーリエ自身のそれを絡め、ほんの少し我儘を言ってみる。髪長姫、ラプンツェルが良い。だなんて作品すら指定して。彼女なら、頭の中に入っているだろうから。そんな信頼故の我儘である。

「ふふ、それならば僕が幸せにならないとね。大丈夫だよ、僕はきっと素敵なご主人様に選んでいただく筈だから。リーリエもそう思うだろう?」

 彼女は絹糸の睫毛を揺らして笑った。形の良い薄い唇はいつも通りに三日月の弧を描き、滑らかな陶器の頬は微かに持ち上がった。
 彼女は美しい嘘をつくひとだった。
 本当はフィクションよりも惨い真実ばかりをその玻璃の瞳の奥底に映していたけれど、その上澄みだけは、至極美しく、明るい夢に輝かせる事が出来た。
 愉しげに笑った彼女の優しい嘘は、きっと誰にも見抜くことは出来ない。今の彼女のうっとりとした表情は、正しくお披露目を無邪気に楽しみにしているドールのそれであろう。

 ふと、腹の傷が疼く様な、そんな気がした。

「勿論だよ、髪長姫ね……。

 昔々、あるところに──」

 親愛なる白百合の可愛らしいお強請りを断るだなんて、そんなはずは無くて、アストレアは脳内の膨大な収録童話棚より目当ての引き出しを迷い無く探し当ててしまえば、至極丁寧な声色で、一切の澱みも無く話し始めた。
 彼女が今しがた閉じたばかりの童話集にも当たり前に収録されていた程に有名なそのお噺は、旧式と童話らしい無邪気な残酷さが美しく描かれた、正に名作。思想によっては子供に聞かせるにしては少々刺激の強い、と詰られるやもしれないほどの血腥い描写の数々は、フィクションならではの表現であったけれど、彼女は、現実の方がもっとずっと酷いことを知っていた。
 『Truth is stranger than fiction.』とは誰が言ったものか、正しく、お披露目で見た光景の方がずっと激烈で、冷酷無惨な出来事であった。脳内で開いた本を読み上げながらも、その片隅であの夜を思い出して、彼女は思わず笑った。普段の麗しい優しげな笑みと言うよりは寧ろ、何かを諦めた様な、無機質でどこか恐ろしい、リーリエが気が付けばきっと不安がってしまうような、そんな笑顔で。
 もう地獄行きの電車は走り出した。
 風に揺らぐ葉よりもずっと無力な、たかがドール如きに出来ることなど、何も無いのだと。

《Lilie》
 アストレアの声は、心に染み入るような美しいもの。甘やかで、優しくて、どうしようもなく安心してしまう。いくら残酷な物語でも、リーリエにとってはアストレアが語っている。それだけで、まるで全てが幸せな物語な様に聞こえてくしまった。
 リーリエは目を閉じて、うっとりとアストレアの声に聞き入る。そして、不意に彼女の方を見上げた。そうして見た彼女は、笑っていた。
 その笑顔に、いつもの優しさも柔らかさも無くて、溶けて消えてしまいそうな、雪のような儚さがあるだけ。それが、リーリエは恐ろしくて、幸せになるはずな彼女が、どうしても幸せになれないと言われているような、そんな気がして。そんな訳が無いと、そう分かっていても、不安で不安で仕方がなかった。

 ──リーリエは、アストレアの笑顔を忘れることにした。
 きっと、アストレアは覚えていて欲しくなんてないだろうから。もし、覚えていて欲しいのなら、彼女は面と向かって言ってくれるはずだから。"王子様"であることに、彼女が誇りを持っていることは知っている。だから、リーリエは見て見ぬふりをするのだ。

「アストレアお姉様、大好きよ。」

 花が綻ぶような、甘い微笑みを浮かべリーリエはアストレアへと愛の言葉を贈る。彼女の未来に、光がありますよう。彼女のこれからが、幸せに満ち溢れますように、と祈りながら。

「僕もリーリエが大好きだよ。」

 それは本当に心の奥底からの愛情を優しく包み込んだ言葉。恐ろしい笑顔を引っ込めては、いつも通りの"王子様"の笑顔を浮かべて、リーリエの言葉に応える様に紡ぎ出した。
 抗いようの無い死へと真っ直ぐに進む彼女の心は、最早穏やかであった。今彼女の心に蟠るものは、ただ後に遺される者達のすえと、その心。もう小さい子達へ御伽噺を聞かせてやることが出来なくなるな。ソフィアはああ見えて弱いから、きっと落ち込んでしまうだろうな。フェリシアは、あの子は強がって無理してしまうような子だから、少し心配だな。
 皆、皆、無事に生きて、幸せになってくれ。
 そんな願いを込めて、リーリエの白い桔梗の様な掌を掬いあげれば、その手に一つ口付けを落としては名残惜しそうに、自身の指先で甲を撫ぜる。

 御伽噺はめでたしめでたし、で終わったけれど、彼女の人生は、めでたく終わってくれなんかしない。残念ながら、これはノンフィクションなのだから。
 Memento Mori、じゃあないけれど、死というものは素直に正しく享受し、輪廻転生へと、向かっていくものなのだ。それは至極エーナドールらしい、文学的で非合理的な考え方である。
 彼女はまだまだ何も知らないけれど、それでも良いのだ。この死が無駄にならないように。

「さようなら、リーリエ。君や、皆と過ごした日々はとっても楽しかったよ。
 僕が居なくともきっと君は大丈夫。沢山笑って、沢山の幸せを手に入れるんだよ。
 ……嗚呼、後はね、ソフィアを頼んだよ。あの子はああ見えて弱いところがあるから。」

 穏やかな涙の様な、木の葉の揺らぎの様な、心地のよい波長の、半ば囁きにも近い声で、彼女は云う。
 リーリエの手を握った儘に、その瞳は一番星の如く、一際強く輝く。
 瞳の縁に何かが光った気がするけれど、王子は涙など流さないのだから、きっと気の所為だ。それに、そのかんばせに浮かぶのは、幸せで、慈愛に満ちた、貴方や親友を思う優しい微笑みなのだから。
 大丈夫、もう何も怖くない。

《Lilie》
「……ソフィアお姉様は、きっと、まっすぐすぎるのね。だから、すこしヒビが入るとそこから全て崩れてしまうの。」

 まるで、アパタイトの様。だなんて、リーリエは笑ってみせる。ソフィアをアパタイトに例えたのは、きっと、その宝石の色が彼女の瞳とよく似ていたからだろう。真っ直ぐで、芯の強いソフィアは、特定のものを刺激されると脆い。アストレアの言葉は、リーリエのその認識を裏付けるようなもので。
 リーリエは、アストレアのその願いに素直に首を縦に振ることは出来なかった。それを認めてしまえば、アストレアが居なくなってしまうような気がしたから。そんなこと、認めたくなんてないから。

「わたしね、ソフィアお姉様を支えるために、頑張ってみようと思うの。だから、アストレアお姉様も見守っていて。相談もね、させて欲しいの。」

 アストレアの眦に薄らと浮かんだ涙には、気付かぬ振りを。また、お話をしましょう。そう、言いながらリーリエはアストレアの頬に唇を寄せ、親愛と祝福、そして祈りの口付けを贈った。

「さようなら、アストレアお姉様。どうか、お元気で。貴女の未来に祝福がありますよう、祈っています。」

 他にも、アストレアと話したい人がいるだろうから、と最後に別れの言葉を告げたあと、美しいカーテシーをアストレアに披露したリーリエは彼女に背を向け、ラウンジの扉へと歩いていく。大丈夫、きっと、彼女の未来は明るい。そう信じながら。

Sarah
Astraea

《Sarah》
「そろそろ大丈夫かな」

 制服を変え綺麗さっぱりきれいになった後、アストレアサンのいるラウンジをちょろちょろ歩いていたものの、人気な彼女は常に取り囲まれている。なるだけ彼女の邪魔にならぬよう端っこの壁の方に背中を預けていた。
 ようやくアストレアサンが空いたためやや急ぎ足で彼女に近づく。ポケットに入れられた手は力強く青い花と白い花を握りしめている。喜んでもらえるだろうか、もしだんまりさんが嫌いだったらどうしよう。そんな思いがぐるぐると頭を巡る。しかしテーセラのサラがいくら考えても無駄。行動あるのみ。

「アストレアサン、お披露目おめでとう」

 サラの知る中で【はじめて】のお披露目にいくドール。自分が選ばれなかった悲しさはあるがアストレアサンほどすごいドールなら納得も行く。口角の少し上がったほほ笑みを浮かべたドールは貴女の前にたった。

「おや、サラ。ごきげんよう。
もしかしてお祝いをしに来てくれたのかい? 嬉しいね、」

 人の波を掻き分けて顔を覗かせた小さなドールに気が付けば、慈愛の笑みでそう言う。
 脇に寄せていた本を退ければ、座って、と言わんばかりに隣を指した。
 普段、多くを語る方でないこの小さなドールを、アストレアはいつも、優しく見守っていた。隻腕であるからか、そのどこか地に足の付かぬ惚けた性格からか、どこか危なっかしさのある彼女を、王子様は気に入っていたのだ。
 オミクロンクラスに来るまではその存在すら知らなかったけれど、いまや大事な十五、否、十四の仲間の内の大切な一人。嗚呼、別れ難いな、だなんてその頭の隅に考えながら、自身より低い位置の顔を覗き込む様にその頭を傾げて。

《Sarah》
「ごきげんよ、うんえっと」

 アストレアサンの隣に腰を下ろし返事を真似て返す。ちょっとよくわからないけれど優しくて嫌いになりたくない人。オミクロンだけれど選ばれた凄い人。左手をポッケトに入れ先程手に入れた花たちを撫でる。……そんな人へのプレゼントがあの青い花でいいのだろか。
 すごく頭の痛くなった青い花。もし、もし彼女も自分と同じく頭がズキズキと傷んでしまったら。壊れてしまったら。
 そんな嫌な考えがぐるぐるぐるぐる頭が回る。ポケットに入った青い花をぎゅっと握りしめ、何度か口を開いては閉じを繰り返した後にやっと声を出す。

「……アストレアサンは、青い花知ってる? なんか、こう青空みたいで、ちょっと弱く光ってた、かな多分」

 先程の出来事を思いだし伝えようとするが、言いたいことより気持ちが先走ってしまい思わず前のめりになりながら、抑揚のない声で話す。もし知らなかったらだんまりな白い子を渡そう、知ってたらきっと頭はズキズキしないはず。綺麗な青空の花。頭が痛くなかったら気に入ってくれるだろうか。

 底深い夜空の如きラピスラズリは、夜明けの明るいオレンジサファイアをぼんやりと映して、口の端は三日月の如く弧を描いた。
 何かを云わんとしているらしき子猫のその顔を、優しく見詰めては、話し出すのを辛抱強く待っているようであった。

「青い花? …………うん、そうだね、知らない、と言えば嘘になるけれど。サラは知っているの?」

 サラの口から出た"青い花"と云う言葉を聞けば、アストレアは微かにその瞳孔を細めた。
 青く輝く花は、あの夜、怪物の頭に場違いなまでに可愛らしく(笑)咲いていたもので、むしろそれしか記憶にない。でも、どうしてサラがその花を知っていると言うのか? そのかんばせに優しい笑みを湛えたままに、さりげなく聞き返しては、心の底をざらりと撫でた違和感に知らないふりして。

《Sarah》
 そうか、彼女も知っているのなら安心だ。ほっと胸をなでおろし握りしめていた拳の力を緩める。きっと頭がズキズキ痛むよなことはないはず、ポケットから白い花と青い花をポケットから取り出す。もともと一輪残す予定だったが気が変わった。親友にも見せてあげたい、そう思っていたがアストレアサンに一輪のみあげるのでは味気ない。なら今二輪あげてまた後で取りに行こう。
 あのとき頭がズキズキ痛んだのは気の所為だ。
 きっと、サラは欠陥品だから。だから痛くなったんだ。

「青空が、じゃなくてだんまりさんなちょうちょが教えてくれたんだ」

 思い出すようにぽつりぽつりと話す。せっかく仲直りさせに青空が降りてきたのかと思いきやただの青い蝶。今度青い花を取るときは片手に虫取りかごでも持っていこうか。想いを馳せながら自身の膝に花たちを並べればまるで小さなお花屋さん。時間が立ってしまったからか白い花はその純白さを若干失い指輪は萎れていた。指輪をアストレアサンの細長い指に近づけ太さを確認する。貴女が拒まなければその指に花が咲くだろう。

「ふふ、とっても綺麗だね、これは指輪かい? サラが? ありがとう。大切にするよ。」

 細い指に巻かれた柔らかな茎がひんやりと冷たく、しとやかな青い花弁が深々と淡く、美しい光を放っていた。
 指輪の巻かれた掌ごと、胸の前で大事そうに抱えては、大切にする、だなんて確証すらない約束を。
 無邪気にその息の根を止められた花々は、小さいなれどまるで花畑の如く手の上に萎れ掛けながらも咲き誇り、鼻を近付ければ微かに植物らしい、甘い香りがするだろう。然し、どうしても引っ掛かるのはこの花の出処。寮の周りや花壇にこの青い花の咲いているのは見た事がない。サラが、隻腕のドールが、何故こんなものを持っていると言うのか?

「……時にMy Dear Cat、君はこのとっても素敵な花を何処で見つけたの?」

 聞いてしまうのが手っ取り早い。きっと怪しまれることも無いだろう、だなんて考えては、至極端的に、最短距離の質問を投げかけた。

《Sarah》
「だんまりさんだけどアストレアサンと主人サンのいい話し相手になると思う、多分」

 摘んでからここに来るまで一言も喋らない花に不安を覚え多分、と付け足し保険をかける。ガーデンテラスにいた子もだんまりさんが多かった。まだラウンジにはちらほらドールがいる、恥ずかしがり屋さんは口が回らないのだろうか。演奏会があったときは観客席を飛び出し奏者を囲い素敵な声を演奏室に響かせていたというのに。
 彼女の大切にしてくれるという発言にサラは大変満足そうな雰囲気を醸し出す。大雨の中摘みに行ったかいがあるものだ。

「今日は猫じゃないよ。
 青空、青空が落っこちてきて柵の近くまでボクを連れて行ってくれた。……やっぱりちょうちょだったかもしれない」

 頭のてっぺんを触りドールとして正しい位置に耳があるか確認した後顔をぺたぺたと触ってもヒゲは無いし鼻も正常に機能している。それ見たことか、とでも言わんばかりの表情……は変わっていないが。時々言われる言葉。なぜ彼女がそのような不思議な言葉でドールを呼ぶのかサラにはわからない。

 夢見がちドールは先程見た青い蝶をもう青空に変換してしまったがなんとか直せたようだ。不思議な青い蝶。何処か興味を惹かれた青い蝶。また柵の近くに行ったら会えるだろうか。

「ふふ、君は面白いことを言うね。
 寡黙な花にお喋りな花だなんて、まるで不思議の国みたいじゃあないか。大丈夫さ、今はまだはにかんでいるけれど、きっとこの子達は上手くやるよ。勿論僕もね。」

 つるりとした陶器の頬にムーンホワイトの長い睫毛を伏せて、形の良い唇を花に寄せれば静かな口付けを落とす。
 隻腕ドールの語るのはいつも、夢と現実の狭間に居るような、雲を掴む様な、そんなのらりくらりとした言葉。フィクション的で、されど物事の深淵を覗くような感覚に、酷くぞくぞくするのは、深淵もまた此方を覗いているからだとでも云うのか。
 軈て、白妙菊を掻き分けて顔を覗かせたラピスラズリはうっとりと光を灯して、希望さえをも巧妙に演じていた。

「今日は猫じゃあないの? 昨日ならば猫だったのかな?

 ……そう、柵の周りにね。こんな綺麗な花があるだなんて、ちっとも気が付かなかったよ。きっと神様の気まぐれで空の欠片が蝶として遣わされて来たのだね。」

 夢現なれど比喩をまともに受け止めんとするその様子に、微かな笑いを洩らしては、嫋やかな指先で、"猫"の柔らかな癖毛を一度、二度、三度、と撫でてやって。
 貴方の言葉を理解する様に、ほんの数刻考え込んでは、相手の調子に合わせる様に笑って云った。

《Sarah》
「アストレアサンなら大丈夫だよ。ボクの知っている中じゃはじめてオミクロンから選ばれたんだから。」

 落ち着きも自信も、気品さえ持ち備えている。プリマドールだった頃の彼女をあまり知らないためなぜ落ちてきたのかすら知らないが今選ばれた。オミクロンにいても選ばれた。そこが重要なのだから。
 垂れてきたマフラーを再び肩に回し彼女に向き合い、励ましの言葉になるかもわからないが声をかける。
 話し上手なエーナのようにうまく言葉を選ぶことはできない。
 トゥリアのように安らぎを与えることもデュオのように道を教えることもできない。
 今回は手を引くこともできない夢の中のサラは不器用に言葉を紡ぐことしかできないのだ。

「じゃあやっぱりあれは青空だったってこと? こんどアストレアサンにも見せてあげるね」

 貴女の言葉に首を傾げながらも提案する。捕まえたら絵が上手なドールにお願いして、絵を描いてもらって、先生にお願いして、お手紙を送ろう。実物を見せられないのか残念だけれどアストレアサンなら欠片だけじゃなくて空全体すらも手に入れてしまいそう。

「アストレアサンくすぐったいよ。
 あっ……宿題、宿題出ているの忘れてた。
 ごめんねアストレアサン、またね」

 座っていた場所から勢いよく立ち上がり慌てふためく。設計年齢の割には高い背のため撫でられることなんてすっかり無く思わず寝に入るところだった。すっかり忘れていた明日提出するべきもの。この前兄さんとやったはずだったがそれはまた別。
 彼女に手を振りこれから走るのかマフラーを抑えラウンジから飛び出そうとする。きっともうこの先会うことはない。ならしんみりお別れするよりいつも通りの方が良い。きっとサラは最後まで微笑んでいた。
 彼女が呼び止めなければ嵐のように去ろうとするサラは一目散に学習室に向かうだろう。

「初めて、ではないのだけれど……まぁ、君が言うのなら僕はきっと大丈夫だね。」

 初めて、だなんて。
 この子はきっとあの惨状を知らないのだけれど、それでも、あの子を、ミシェラのことを、忘れているのか。微かな違和感を覚えつつ、そのかんばせに浮かべたのはただ無機質的で温かみなどまるで無い、ツクリモノらしい笑顔だった。
 大丈夫な筈など無い。分かっている。怖い。死にたくない。抗うことなど、できるはずがない。

 ……大丈夫。

 "きっと上手くやるさ。"

 テーセラドールの不器用で真っ直ぐな思いやりは彼女の心を突いたけれど、現実を崩すことなど出来なくて。サラ、君は、生きるんだよ。

「ふふ、楽しみにしているよ。宿題頑張ってね。
       ……じゃあ、また。」

 立ち上がった勢いのままに危なっかしい彼女に、すかさずその手を差し出しては激励の言葉を掛ける。走り去っていく背中にその心中を俄に騒がしくなるのを感じながら、眉毛を下げる。
 最後に、夢見がちな子猫の為に、王子様は優しい嘘を着いた。

 また会えるだなんて、何の確証も得られないままに。翻された勿忘草色のマフラーに、その御手をいつまでも、いつまでも、振り続けていた。

【学園1F ロビー】

Rosetta
Astraea

 その時、月魄のドールは、その腕に幾つかの本を抱えたままに一人、歩いていた。
 草の露にしとと、と濡れた飴色の踵を鳴らせば、長い長いトンネルに不気味にこだまする。いずれ、その先、ぽつり、と寂しげな昇降機に辿りつけば、いつもの如く、ボタンを押して乗り込んだ。使い慣れた昇降機がゴウン、と鳴って、それは何れ止まる。ゆっくりと開いた重い金属の扉の先から差す光はごく暗くて、ローファーの沈むカーペットは劇場のロビーを思わせた。

 何気なく周囲を見渡せば、覚えのある赤髪を見留めて、その背中へと声を掛けるだろう。いつも通り、王子様の笑顔で。

「ごきげんよう、My Dear Rose.」

《Rosetta》
 「ごきげんよう、王子様。何を読んでるの?」

 思ったよりも元気だな──というのが、様子を見た時の感想だった。
 自分が破壊されることが分かっているのに、いつも通り赫灼としている。
 気丈に振る舞っているのか、それとも本当に恐怖を感じないのか。どちらにせよ、素晴らしい胆力であると言えるだろう。

 「暇だから、掲示板を見てたの。お披露目に関わりそうなこととか、書いてあるよ」

 気にならない? なんて口にして、彼女はまた視線を戻す。
 話しかけられれば、文章を読みながら返すことだろう。

 定期考査の結果の掲示は、この掲示板の多くを占める大きなものだった。定期DoLLs適性考査結果──これは各モデルごとのドールズがどれほど優れた能力を持つのかを細かく確かめる為の試験である。学園内で定期的に実施されており、クラスごとに試験内容は細かく異なる。

 あなた方もまたこの試験を受けた。あれはミシェラがお披露目に行くよりも少し前の事だった。これまでも──あなたがオミクロンに落第する前にも、何度かこの試験を受けている。

 試験内容はモデルの役割に特化したもの。例えばエーナならば対話能力や記憶保持を確認するものであったり、デュオであれば知識量や学力の確認であったりする。


 ロゼットはエーナとデュオの試験結果をじっくり確かめる。結果は個人の出来を詳細に明らかにするものではなく、単純に順位だけを掲示している様子である。
 首位に輝くのは当然、プリマドールの称号をもつ面々だ。エーナクラスの現プリマ・セオフィラスに、デュオクラスの現プリマである、ベガ。

 更にオミクロンには誇るべき元プリマが四名も存在し、彼らもまた以前は成績上位を固く守っていたのだが──あなたはそこで気付く。その掲示において、ソフィアの成績が著しく低迷しているのだ。
 アストレアもまた、ソフィアほどではなくとも首位近くではなく明らかに順位が落ちている。

 果たして、これは一体どういう事なのだろうか? オミクロンに落第したから、成績が落ちているとでもいうのだろうか。
 また、オミクロンのその他の面々──フェリシアやアメリア、エルなどもかなり下位の方へ成績が落ち込んでいるようだ。

「これはグリムの童話集さ。
 もうすっかり暗記してしまっているのだけれど、最後の確認、と云った所かな。」

 ベルベットの表紙に金の文字で記されたタイトルを見せては、軽く肩を竦めて笑って見せた。
 お披露目と云う名の死刑宣告を受けた後でも、アストレアは至っていつも通りで、そのかんばせに浮かぶのはいつも通りの麗しい笑顔。
 本来ならば、頭を抱えて蹲ってしまいたいほどの恐怖をその心の内に抱えながらも、その二本の足で今もしっかりと立っていた。彼女は、本当に強いドールだった。

「おや、それは興味深い。
 僕はお披露目に行くのだから、それなりの心構えをしなくては、ね。」

 そう返せば、彼女もそのラピスラズリを掲示板へと向け、ロゼットの云う"お披露目に関わりそうなこと"の情報を得ようと。

《Rosetta》
 “ヒト”に仕えるモノ、という体はあくまで保つつもりらしい。
 笑顔を見せるアストレアに、ロゼットも微笑みで返した。
 上手くいけば、彼女も生き残れるかもしれない。
 そんな甘い気持ちが、残っていないと言えば嘘になる。
 だが、現実は非情である。
 策もなく、策を立てるための情報もない今、できることと言えば応援してやるぐらいだ。
 死の恐怖を和らげようとするしかできないなんて、トゥリアとして情けないにも程がある。

 「童話集、いいね。あなたが語ってくれるなら、嵐の夜でも寝付けそう。主人になるヒトが羨ましいよ」

 思ってもいないことが、すらすらと口から出ていく。
 止めてほしい気持ちもあったけれど、ここから去る相手の心中を乱したくないという気持ちの方が大きかった。
 アストレアも掲示板を見るのであれば、内容についてコメントするだろう。

 「ねえ……オミクロンのみんなって、こんなに成績が低かったかな?」

「……いいや? 他の子はよく分からないけれど、ソフィアがそこまで低いとは到底思えないよ。
 彼女の脳は非常に秀逸で、オミクロンに堕ちた位で成績が落ちるだなんてことはまず無いだろう。」

 怪訝そうな面持ちで、横から結果を覗き込めば、自分を含め、オミクロンの面々の成績があまり芳しく無い事に気がつくだろう。
 自身は精々四、五位程度の転落であり、調子が悪かったと云えばそれまでなのだろうけれど、彼女が叡智、と呼ぶかの極めて優秀なドール、ソフィアの成績が低迷しているのは、彼女の目には至極異様に映った。
 オミクロンだから? ソフィアの成績が低い? そんな馬鹿な話、あるはずが無い。一体裏でどんな陰謀が渦巻いていると言うのだろうか。嫌な予感がして、一つため息をつけば、そのままその視線を他の掲示へと滑らせた。

 幾つかの掲示物が並ぶ中、次にアストレアの目に留まったのは、『衣装搬入の予定に関する伝達事項』と云う掲示。
 彼女はまだ、彼女自身がお披露目で着る予定のドレスを目にして居なかった。オミクロンにもドレスは用意されるのか? ミシェラはどうだっただろうか、だなんて、その頭の隅に考えながら、その文字列を読もうとする。

【衣装搬入の予定に関する伝達事項】
 次期のお披露目の為の礼装・装飾品等、計9点のデザイン認可と学園内への輸送が僅かに遅延しています。お披露目前に各クラスの学生寮へ預けますので、該当するドールの皆さんは忘れずにご確認をお願いいたします。

── エーナクラス
 ウェンディさん

── デュオクラス
 オリヴィアさん
 デイジーさん

──オミクロンクラス
 アストレアさん

 連絡事項は以上となります。

《Rosetta》
 彼女の言う通りである。ソフィアのモチベーションは立場に依存するものではない。
 だからと言って、他のドールが急激に追い上げている──というわけでは、ないのだろう。
 間違いなく、何かしらの力が働いている。
 こっそり、身体がくっつく距離まで近付く。ロゼットの常套手段である。

 「あなたが知っていることを知っているから、訊いてみたいんだけどね。これ、お披露目に行きそうなドールほど下にいるんじゃないかな」

 どう思う、なんて。
 トゥリアとテーセラの成績表に目を通しながら、彼女は訊いてみる。

「そう、君は知っているのか。
 ……そうだね、お披露目に行きそうなドール程下にいる、面白い考察だけれど、それにしては僕がお披露目に行くのに些か違和感があると思わないかい? その論で行くのならば、きっとソフィアや他の子の方が先にお披露目になってしまうはずだから。
 お披露目へ行く基準が分からないな……嗚呼、残念だ。全ての謎の答えを知る前に去らなくてはならないのだから。」

 身体を近付けたロゼットに特段何の反応も示す事はなく、ただ興味深そうにその考察、見解を受け止めては、改めて順位に目を通して。
 "あなたが知っていることを知っている"と云うことは、このドールは既にお披露目の真実について情報を持っている、と云うことだろうか。未だ確信は持てないけれど、アストレアは微かにその身体の緊張を解いては瞳の奥に朧げな冷たさを滲ませた。残念だ、なんて言っては形の良い眉を下げて笑った。

 礼装、装飾品等輸送の遅延。
 どうせ殺戮の限りを尽くされるだけだと言うのに、一体どうしてあそこまで飾り立てる必要があると云うのだろうか? あの化け物は、カラスの様に光る物が好きな性質なのだろうか、それとも、純粋無垢なドールたちをただ騙すためだけにわざわざ……?
 考え出してはキリのない思惑だけがただ頭の中をぐるぐると駆け巡る。その根底にあるのは、学園への懐疑と恐怖、そして、輸送元への興味。この巨大な箱庭の外には、どんな世界が広がっていると言うのだろうか。
 ……彼女は何を知ることをももう叶わないのだけれど。

《Rosetta》
 言われたら、まあ、確かに。
 かなり首を傾げて、ロゼットは目を細めた。
 頭を使うことは得意ではないし、かと言って頭を使わなくても死んでしまうし。ここは何と生きにくいビオトープだろうか。

 「お披露目に行っても、何とかなるかもしれないよ。ソフィアさんが助けに来てくれるかもしれないし……まだまだ悲観することはないよ、王子様」

 衣装の搬入に目を通しながら、彼女は口にする。
 きっと全部嘘だ。
 脳裡に魂の抜けたドールがよぎって、一瞬微笑みを保っていられなさそうになる。

 「王子様の衣装、楽しみだなあ」

 楽しいことに意識を向けて、彼女は何とか表示を崩さずにいられた。
 世界を覆う薄膜は、まだやわらかく、ロゼットの認知を阻んでいる。大丈夫。まだ彼女は傷付いていない。

 「衣装を運んでくる場所がどこか、分かったらいいのにね。色々見られたらきっと楽しいよ」

 冗談めかして、なんとかひと言口に出した。

「なんとか、ね。まだまだ諦めてはいけないよね。ふふ、親友に期待しておこうか。彼女は優秀だから……」

 だなんて、ちっとも思っていない言葉ばかりがつらつらとその口をついて出た。とっくのとうに諦めたはずの脆い作り物のコアは、もうすぐ止められるとも知らずに、未だその身体の芯で暖かく動き続けているというのに。
 ソフィアは優秀だけれど、なんとかして欲しいだなんて思っていない。他の子達の、親友達の、相棒の、大切なドール達の変わりにその命を賭すことが出来るのならば、そんなに素敵な事は無い、そうでしょう?

 コアの奥底に渦巻く気持ちの悪さには、気付かないふりをした。

「ロゼット、君は──

 ……否、そうだね。早く礼装を着てみたいな、ここに居られるのも最後だもの、とびきり綺麗な姿で旅立ちたいよ。」

 何を知っているの?
 問おうとして──辞めた。
 彼女の微笑みが朧げに揺らいだのに気が付いて、それでも気付かぬふりをした。無責任な質問は、確かに苦しみを伴うから。
 変わりに、と言っては少し違うけれど、月魄のドールはうっとりと、夢を見る様に、死装束への憧れを述べてみた。
 どうせ死ぬのなら、美しい姿で死んでしまいたい。

《Rosetta》
 その“親友”と仲違いしていることは、ついぞ知らせず。ロゼットは「何とかなるよ」と、無責任な言葉を口にした。
 ソフィアへの過信と、アストレアの心中を推し量り損ねたが故の行動であることは、きっと本人も気が付いていないのだろう。
 礼装を着たいという言葉にも、彼女は深い意味を見出さなかった。
 他者を導く、エーナの美しいドールだからこそ、その体面を保ったまま機能を停止したいのだろう──というくらいで。

 「あなたの衣装、どんなものになるんだろうね。ドレスなのかな。それともタキシード? 見られないのが本当に残念だよ」

 それも全て焼かれてしまうけれど。
 なんて、残酷なことは口に出さないまま。頷きながら言葉を返して、一旦口を閉じる。
 何も知らないままであれば、無邪気に送り出すことができたのに。

 「ね、最後にハグしてもいい? 幸運を祈りたいんだ」

 掲示板からアストレアに向き直り、ロゼットは両腕を広げる。もしも承諾されたなら、トゥリアの全力でキツく抱き締めることだろう。
 その気高い意思が打ち捨てられぬように、幸運を分け与えるように。コアの音さえ聞こえそうな距離で、「気をつけて」と囁き、アストレアを解放するはずだ。

 お披露目を直前としたアストレアに、ソフィアの他者との軋轢に気が付く暇などある筈も無く、当然、目の前のドールがソフィアとすれ違ったことなど、彼女の知るところでは無かった。

 アストレアは笑っていた。

「どうだろうね、君たちにも晴れ着を見せられれば良かったのだけれど。」

 はぁ、とボディの内に溜めた空気を、機械的に吐き出せば、その胡乱な視線を何処かへと流して。
 きっとドレスはまだ届いて居なくて、お披露目までの猶予が無いことを知っていた。
 眠りにつくその時まで、一体僕は、何をするべきであろうか。

「嗚呼、勿論。
 君もね。幸運を祈っているよ。」

 優秀なトゥリアドールの愛を、その全身で受け止めた一体のエーナドールは、それでもその表情を差程変えることもなく、その長い御腕で抱擁し給った。対象的な紅白の華が耽美に絡み合ったと思えば、その体温はいずれ1つになって、またゆっくりと2つに戻るだろう。
 去りゆく薔薇の花にその慈悲の玻璃を向けて、彼女は祈った。
 もう、誰も犠牲にならぬ様に。
 それでも彼女は分かっていた。現実はそう甘くないと。

【学生寮2F 少女たちの部屋】

Campanella
Astraea

 ほんの数日後にお披露目を控えたとある昼下がり、月の精が如きそのドールは、一人、否、一体、と云うべきであるか。兎にも角にも、ただ一つの個体だけで、しん、と緩やかで優しい沈黙に包まれた棺へと、その腰を下ろしていた。そこは、日頃少女のかたちをしたドール達が英気を養うための、所謂寝室。見渡す限りには、昼下がりのその部屋に、彼女以外に、意志を持って動くものなど存在しないであろう。
 細く嫋やかな指先で、端の拠れた羊皮紙を捲る以外には、その身体の動く所のなく、まるで置物の如く、無機質で非生物的であった。上質な絹糸のまつ毛は、真剣そのものに、微塵も動くことなく、玻璃の瞳はただ活字を、左から右へと、まるで追いかけっこをする幼子の如く追い続けるのだった。
 その集中力は凄まじく、きっと部屋に誰かが足を踏み入れたとして、声を掛けられるまでは気が付かぬ程であった。

《Campanella》
「アストレア様。」

 静かな少女たちの部屋にて、凛とした声が放たれる。その言葉の一つ一つにメロディが乗っているような錯覚をさせるような、歌うような声だ。
 少女は扉を後手で閉めながら、彼女の名前を呼んだのであった。

 夜の中に溶け込むような色を有する、陰鬱なる少女ドール、カンパネラ。しかしその立ち姿は通常時とは明らかに異なる。背中に指揮棒でも突き刺したかのように、真っ直ぐに彼女は立っていた。その双眸は閉ざされ、表情は堅い。
 両手を鳩尾の辺りで組む。その姿はどこかの城の召使いを、或いは安置所の死体を思わせる。

「どこまで、ここについての真実を知っているのか。私に、教えていただけませんでしょうか。」

 朗々と、淡々と彼女は謡う。

「ごきげんよう、My Dear Midnight.
 ……今は其方なのだね。」

 静かな水面の如く張り詰めた緊張が、当然に響いた凛とした鐘の音に緩ぎ、やがて幾つもの波紋が広がる。アストレアはその意識を水上へと引き上げれば、玻璃に夜の色を映した。
 古い本を閉じれば、きし、と綴糸の引き連れる音が鳴る。それが耳の底にざらりと耳障りに響いて、それでもアストレアはそのかんばせに無機質的な笑みを貼り付けていた。

 視界の真ん中で、古い杉の如くどこまでも真っ直ぐに立つMidnightに、アストレアは、今の彼女が"其方"であることを察する。嗚呼、麗しきメランコリーよ、君は本当に面白い。

「どこまで、か。
 どうだろうね……君は一体何を知りたい?」

 その唇は妖しく弧を描いて、眦は意味ありげに細められる。
 閉じた本を枕の下へと仕舞えば、その場から立ち上がることなく、その手を顎に当て、美しく、計算された角度にそのかんばせを傾けた。これは敵意ではない。
 しかし、決して友好的でもない。さぁ、君はどう出る?

《Campanella》
 人形のようだ、とドールを形容するのは、ひどく奇妙なことのように思えるけれど。まさに彼女の相貌は感情を持たない……否、捨てざるを得なかった哀れな空虚を抱えていた。
 其方なのか、というアストレアの声に、姉なるものは静かに首肯する。足音はカーペットに吸い取られる。
 その麗しい顔を傾けたアストレアの方へ歩み寄ると、彼女の足元にでも跪くかのように、姉なるものは膝を折った。姉なるものは、乞うようにアストレアを見上げるような形になるだろう。
 情報提供に乗り気とは言えないアストレアに対する、彼女なりの懇願であった。

「文字通り、全てを。……と言いたいところですが、それでは漠然としていますね。
 ……ダンスホールで起きた惨劇の詳細と、先日の“下見”によって得られた情報を求めます。勿論、それらを語ることで貴女の傷が深まるようであれば、無理は言いません。話せる範囲のことだけで構わないのです。……どうか。」

 率直に言えば、姉なるものは必死だった。彼女なりにすり減らす精神があったのである。
 しかし、彼女はそれを表には出さないように心がける。この場で最も心をすり減らしているのは他でもない、目の前の彼女だ。ただ微笑み、諦念を纏う少女ドール。舞台の上で美しく立ち続ける彼女。
 冠の行方は決まっている。残酷なくらいに、目に見えている。

「その口調、君は察して居る、と言うか、ある程度の事を知っているのだろうね。
 ……そう、話しても構わないけれど、エーナドールとして、一頻り交渉術の類を学んだからにはただ情報を渡す、と云うのには少し気が引ける。
 君"達"は、一体何を抱えている?
 ……嗚呼、全てを話す必要はないけれど、君の話すことによって、僕も話せる事が変わってくる、と言うことは覚えておいて。
 君は聡明だから分かっているだろうけれど。」

 ラピスラズリが少し見下げる様にして、二つのガラスの碧眼が交差する。
 アストレアは、どこまでも冷静であった。口調より、目の前のドールの焦りに気が付いていたけれど、対価も無しにすぐに情報を出すだなんて、そんな頭の悪いことはしない。仮にも、エーナクラスの元プリマドールであるのだから。
 常闇の君、明哲な君なら分かるだろう? 彼女の瞳は、深く爛々と輝く。それはまるで、死を目前とした獣の、最期の足掻き。仲間たちを、親友たちを、守るための、最期の祈り。

 そこには何も難しいことなどなく、これは単なる交換条件だ。
 アストレアは殆ど確信していた。今の彼女ならばきっと、最善の択を、選び取る筈だから。

《Campanella》
 姉なるものは静かに、処刑場の手前で佇むアストレアのことを見上げている。こんな状況にも関わらず、ラピスラズリの瞳はやはり美しい。グロテスクなぐらいに。

「そうでございますね。……カンパネラが、抱えているのは……」

 姉なるものは口許に指を当てて、しばらく考え込むような動作をする。対価を求められたこと自体には困惑も抵抗もなかった。ただ、何を明け渡すべきかを迷った。交渉は不得手だ。
 そしてしばらくして、口を開く。

「……前世の記憶、とでも言うべきでしょうか。
 彼女には、今よりも古いトイボックスで、知らないはずのドールたちと共に過ごした断片的な記憶が……過去が、あるようなのです。」

 と。跪いたまま淡々と言紡ぐ。

「先日、妹はあるドールに連れられ、柵を越えました。その先で、過去に友人関係にあったらしき少女ドールの焼死体を目撃しています。彼女と同世代であったらしきドールが書き残した日記もございました。
 それらの情報が、貴女の……いえ、“貴女方”の役に立つかは、正直なところ解りません。しかし必要とされるのなら、覚えている限りの全てを話しましょう。」

 言い終えると、姉なるものはアストレアの瞳をじっと見つめ、彼女の反応を伺った。……瞼は閉じられているけれど、不思議と真っ直ぐな視線を感じさせるだろう。

「"前世"か。実に興味深い。
 僕達モノにも、そのような非科学的な事象は本当に存在するのだろうか。
 そうだね、君を疑う事では無いけれど、信用するには情報が足りな過ぎる。もう少しだけ詳しく教えてくれるかな。」

 王子様は、その作り物のかんばせの角度を変えることなく、ただその唇だけが、歌う様に言葉を紡ぐ。
 眼窩へと嵌め込まれた玻璃は愉悦に光り、されど深く、底の虹彩に控えめな畏怖を灯していた。
 この、常闇の彼女──副人格、と云うべきであろうか──は、普段の宵闇の彼女の事を、本当に大切に思っているのだと、アストレアは察する。ジキルとハイドでは無いが、そんな彼女に興味が湧いた。
 死への列車を待つ間の娯楽では無いけれど、聞けることならば聞いてしまおう。そこで返ってくる情報が何であれ、もう彼女は、代わりに知っていることを話してしまう気でいたのだった。

 役に立つか、それはまだ分からないけれど、いつか愛する親友たちが、仲間たちが、この小さなビオトープに渦巻く奇妙を解き明かすきっかけになれば良いと、そう思ったから。
 深い夜の瞼は帳の降りるが如く、されど確かに、その視線は強く、真っ直ぐに月魄を刺し貫く。対峙する王子様は、堂々と胸を張り、今にも滑り落ちそうな冠の様子など見えない風に、ただ勇ましく、麗しく微笑んでいた。
 大丈夫。僕は何も恐れない。

《Campanella》
 魂の有無も曖昧なドールズに、誠に前世などというものはあるのだろうか。その結論は姉なるものにもまだ出せていない。しかし、そうとしか表現できなかったのであった。
 あれは過去だ。しかし、地続きとは思いがたい。あのツリーハウスがすっかり朽つ年月が経っているのだから。

「無論でございます。」

 姉なるものは相も変わらず召使いのような姿勢で、文字通りの王子様のようなアストレアに、今にも黄金の靴でも履かせてしまいそうだった。

「友人であったという少女ドールは、シャーロットという名でした。当時のエーナモデルのプリマドールであったと……。彼女はお披露目の直前に怪我を負ったことが原因か、ダンスホールではない謎の空間で焼き殺されたそうです。

 それを目撃したドールが書いたらしき日記と、シャーロット様の焼死体は、オミクロン寮の柵の外に存在したツリーハウスの内部にて確認できました。日記と、妹の有する記憶からして……恐らくそのツリーハウスは、彼女たちの日常的な遊び場のような場所だったのだと思われます。
 しかし現在ではそこは使われておらず、当時の玩具や写真や絵画がそのままに残され、そして、処刑場から何者かによって回収されたドールの焼死体が放置されていました。真実を記した日記も。
 柵の存在によって隠されてはいますが、しかし片付けられてはいない。取り壊そうと思えば取り壊せるような古さのはずなのに。柵だってテーセラモデルのドールであれば、越えようと思えば越えられる高さです。

 管理者によって、意図的に泳がされているのかもしれません。」

 姉なるものはそこで話……もとい、情報の羅列を区切った。まだ出しきれていない情報はありつつも、一先ず話せることは大抵話せたはずだ。洗いざらい、という訳ではなかったけれど。様子を伺うように頭を傾ける。

 ……つらつらと述べた姉なるものの話の中には、アストレアがこれから辿る可能性の高い死について触れたタイミングがあった。敢えてその情報を押し流すようにさらりと話しはしたものの、姉なるものは密かに憂う。
 心の傷のひとつも晒さず、血液の一滴も滴らせない完璧な微笑みは、かえって痛々しい。彼女の絶望の形は芸術品の姿をしていた。

 シャーロット、エーナモデル、プリマドール、焼き殺された。
 その時、アストレアの優秀なメモリの中で、灯りの点った幾つかの点が、細い糸で繋がり掛けていた。
 嗚呼、姿も知らぬミズ・シャーロット。君は、はるか昔の同胞であったらしい。
 そして、焼き殺された、と云うのは……ミシェラ、あの子と同じ、所謂焼却処分の事だろうか。何にせよ、惨く愚かな殺戮には変わりないのに、死刑の執行方法に二つあるのはどうして?

 全て焼け落ちてしまう直前ならば、真実を教えてくれるだろうか。

 ……否、そんな筈無いか。

「成程……教えてくれてありがとう。
 泳がされている、は、確かに僕も考えたことがある。
 今度は僕の方の情報を開示する番にさせて頂くよ。君たちがどこまで知っているのか分からないけれど、まず僕たちには発信機の様な、何かが取り付けられている可能性が高い、と言うのは把握しているかな?
 それにしては、彼──先生は前回のお披露目の夜の僕たちの動きを詳しく把握していない様子であった。」

 あの彼が凡庸なミスをするだなんて、そうは思えないだろう? だなんて肩を竦めれば、暫し考え込むように、形の良い顎へと手を当てて、視線を自身の膝の辺りへと落とした。
 やがて、何かを決意した様に顔を上げれば、彼女は、ゆっくりと、御伽噺を話す時の要領で優しく、穏やかに語り始める。

「あの晩、僕達は、元プリマドール四人は棺を抜け出した。目的は勿論、お披露目を目撃するために。
 道中での事は少し割愛するけれど、端的に言ってしまえばお披露目と言うのは単なる、煌びやかな殺戮会場に過ぎない。
 美しいドール達は、美しい死装束をその身に纏って、醜い怪物に次々と喰われて行った。僕は今でも、瞳を閉じればその裏にあの赤を、苦しみ、その生命を奪われる彼らの顔を、ありありと思い出すことが出来る。
 僕達は、ドールたちは、本当に無力なんだ。
 僕達は、彼らを助けることなんか出来なかった。一目散に逃げ出して、扉の鍵を閉めてしまうことしか出来なかった。後悔はしていないけれど、この心にトラウマとして残っていることは確かだ。」

 そこまで殆ど一息に話してしまえば、相手の反応を窺う様にまっすぐな視線を投げ掛けた。
 彼女の声は、まるで晴れた日の水面の如くあくまでどこまでも穏やかで、どこまでも平静であった。
 その瞳から、宝石を零すまいと、ラピスラズリは大きく見開かれたままにその絹糸はピクリとも動くことがない。真っ赤な口が、ただ淡々と、奇譚だけを語る。
 目の前にある物が無慈悲な処刑台、ただそれだけなのならば、全てを話してから死を享受しろ。

《Campanella》
 発信器。“下見”がバレたとかいう話から、ドールの身体に何かが埋め込まれている可能性は想像がついていた。おぞましい。しかし有り得ない話ではないだろう。
 その上で、泳がされている。姉なるものは僅かに眉をしかめたが、すぐに戻した。かんばせを下げて跪いていたため、アストレアからはその表情の些細な変化は見えていないはずだ。

 元プリマドールと聞き、即座にその四人の姿が浮かぶ。アストレア、ソフィア、ストーム、ディア。ダンスホールで行われるお披露目──曰く、“きらびやかな殺戮”を見た四人。
 アストレアからの情報は、ソフィアがブラザーに提供した情報と一致していた。いたのは化物だけ、みんなあいつに食われた……。
 悪趣味で、理解不能だ。
 欠ければ焼かれ、欠けずにいても食われて殺される。ただ造られ、生み出されただけのドール達に与えられた運命。
 どうしてこんな目にあわなくちゃいけないんだろう。あんな目にあわなくちゃいけなかったんだろう。妹の、悲痛な声がする。

「……ありがとうございます。下見に行ったというのも、やはり貴女方元プリマドールの四人でしょうか?」

 慰めは口にしなかった。何を言ったって彼女はきっと変わらないので。姉なるものは、妹を守ることで精一杯であるので。

「それは違う。
 なんというか、所謂、疑いを分散させる為、特に目立つ僕達四人で行動するのは少々危険と判断して、ソフィアと僕の二人で下見をする予定、だったのだけれど、諸事情により少し変わってフェリシアとリヒトの二人も加わったんだ。
 彼ら二人は、"焼却処分"の事を知っている。
 其方の詳細は彼らに聞くのが良いだろう。

 肝心の下見の事だが、大切な事は先生が特別授業と称して全て話してくれたよ。
 まず、ここは文字通りの箱庭だ。あの空は全て、液晶に映し出された偽物。降る雨や風も、人工的に作り出されたものなのだろう。そして、液晶の外は海だ。
 ここは、深い深い海の底だ。本当に驚きだが、事実なのだろう。僕達は地上に憧れる人魚姫の様だね。
 笑ってしまうよ、液晶の空だなんて、情緒も何も無い。箱庭で飼い殺された紛い物達が脱走を企てているだなんて、本当に愉快な話だ。」

 あくまで淡々と語る王子様は、アイロニカルに笑った。
 それは、今にも生命を投げ出さんとする者の、投げ出さざるを得ない者の、諦め。
 身体に溜まった空気を抜くが如く、太息を深く吐き出せば、馬鹿げた真実を、真っ直ぐに見た。その首に架かった縄は、絞首台へと確かに繋がっている。
 他に質問はあるか、とばかりにそのかんばせを傾げては、片眉だけを上げて見せた。

《Campanella》
「成る程。ミシェラ様のお披露目を見たというお二人でございますね。」

 リヒトとフェリシア、その二人も真実を知っている。そう脳に刻みながら、静かに頷いた。

「……先生が。………」

 そう発した頃には姉なるものは顔を上げていたので、今度はアストレアにも見えてしまうだろう。眉をしかめる姿はどこか怪訝そうである。
 それ以上のことを彼女が言紡ぐことはなかった。ただ黙って、既に知っている真実を改めて聞く。こちらが知っていることと大差はないようだ。

「愉快、でございますか。……私はそうは思いません。
 ここがどれほど虚偽にまみれた紛い物の箱庭であったとしても、貴女方の感情は紛い物ではありませんし、その抵抗は決して、陳腐なものではないはずです。どうか、そのようなことを仰らないでください。」

 それに、一番の紛い物は。
 そう口に出すのはやめた。
 慰めというよりは、祈りのような言葉であった。それも、どのような反応を示されたとしても、もう続くことはないだろう。

「情報提供、ありがとうございます。これ以上には特に……。
 ……ああ、いえ。最後にひとつだけよろしいでしょうか? 妹が少し探し物をしておりまして。」

 言葉の途中で何かを思い出したようにはっとすると、姉なるものはふと膝を立ててアストレアの耳許に口を近付け、その凛とした声を落とし、そっと囁くように問うた。

「────────────」

「ふふ、やはり君は聡明で素敵な人だね。
 護るべき人を、しっかり護り抜くんだよ。こうなってしまう前に。」

 その薄い掌を振って自身を指せば、自虐的にへらりと笑って、そのイミテイションジュエリーの瞳の奥に、諦めと、慈愛とが混ざったような、綺麗なような、濁ったような、そんな色を滲ませた。
 ほんのついこの間まで、広い星空の如く煌めいていたその瞳は、今やその深度もなりを潜め、表面でだけぴかぴかと輝く。それはまるでプラスチック製のおもちゃが如く。

「……いいや、知らない。」

 囁き声に、その意識を集中させて、その内容にメモリの中を漁る。されど、該当項目は、無い。
 力になれなくてすまないね、だなんて付け加えては、本当に美しく、無機質に笑った。それはまるで石膏の彫刻の様で、正しく人形的な、生気などまるで無い代物。
 真実を知りたかった。
 真実は知れなかった。
 さようなら、美しい同士達よ。
 さようなら、麗しき箱庭よ。

《Campanella》
「……………」

 自嘲のような言葉に、姉なるものは何も返さなかった。つるつるとした水晶体は、妹が目の当たりにしたあの子の目にも似ていた。ただ暗闇を見据える目。墜ちた星のような……。

「……左様でございますか。いえ、お気になさらず。」

 知らないという返答に、落胆は見せない。数多の物語を知っている彼女ならもしやと、駄目元で聞いただけだった。至近距離にて浮かぶ美しい、あまりにも美しい笑顔が目に染みるようだった。
 ス、と姉なるものは立ち上がる。相も変わらず指揮棒のような立ち姿で、先程まで見上げていたアストレアを見つめる。

「重ねて、情報提供と……今までの貴女様の温情に、深く感謝致します。妹のことを気にかけてくださってありがとうございました。」

 胸元に手を当て、腰をほぼ直角に折り、深く頭を下げる。
 幸運を、とは言わなかった。言えない。姉なるものに、そんな残酷な台詞を吐くことはできない。

 失礼します、と。無機質な声色で放ちながら頭を上げ、姉なるものは少女たちの部屋から去ろうと、扉に手をかける。
 と。淀みなく歩いていた彼女は、ふと歩みを止めて。

 その指揮棒のような姿勢は、ふと崩れる。トゥリアのようにモデル特有の洞察力を有するわけではなくとも、聡明なアストレアならば、分かるだろう。
 その震える声の主が誰なのか。

「…………ちからになれなくて、ごめんなさい。」

 少女はそう残し、部屋を去っていった。

【寮周辺の平原】

Dear
Astraea

 とある昼下がり、月魄の彼女は、噴水の、冷たい石の外枠に腰掛けて一人、物思いに耽って居ました。
 絶え間なく飛んでくる細かい水飛沫が心地よくて、花壇に整列した花たちが可愛らしくて、感覚的には上機嫌なれど、自身の行先を思えば、その心中は真っ暗なのでありました。
 時間はただゆっくりと流れて、穏やかな風だけが彼女の頬を撫でて踊りながら屋根まで駆け上がって行きます。けれど彼女は知っていました。その風も、流れる雲も、作り物だと言うことを。とっても滑稽でしょう。その薄い胸の内で脈打つコアも、眩しい太陽も、冷たい雨も、全て全て偽物なのです。一体この箱庭は、誰のためのものなのでしょうか。
 イミテイションジュエリーは今日もぺかぺかと輝いて、ポリエステルの髪の毛は艶々と輝きます。人間を模したお人形は、そのかんばせにプログラム通りの笑顔を浮かべてみました。大丈夫、まだ笑える様です。
 小さなお花は、偽物のお人形の笑顔を視て、アイロニックに嗤っていました。

《Dear》
「ご機嫌よう、愛しきアティス! 王子様! 心臓のキミに会えたのは、きっと天使様のお導き……調子はいかが? 美しい人」

 優しく笑んだその声は、恐ろしいほどに凪いでいた。優しい優しい声だった。愛しい愛しい声だった。憎く悍ましい声だった。明日も、明後日も、一年後も十年後も百年後も、こうして変わらず挨拶できると心の底から信じ、一度も疑ったことのない者の声であった。場違いなほどに浮いた声、彼女の手の甲で踊るリップ音、希望に満ちた恋人は、ただ美しく舞っている。【王子】の言葉を待っている。調子はいかが、なんて、良いはずもないだろうに。

「嗚呼、My Dear Hope,御機嫌よう。それなりに、今日は天気も良いしね。」

 アストレアは、いつも通り、王子様の笑顔でそう返しました。
 ディアは、本当に恐ろしい程に希望なのでした。愛おしい恋人は絶望などしないのでした。愚かにも、他者の気持ちを思いやることなど出来ないと、そう言うドールでした。アストレアは、それを本当に分かっていた。ですから、浮ついた言葉にも、嫌な顔一つせず、その堕ちた心に変化すらありませんでした。
 取られた手に落とされたキスは、熱く、熱く、恋人の愛に溢れて居たけれど、憂鬱な王子様は、肩を竦めてみせるだけ。お返し、とばかりに今度は此方が手の甲にキスをしてみせれば、美しく舞う恋人の、煌めくターコイズを覗き込んでは、口の端だけを上手に吊り上げて、ウインクしてみせました。
 ツクリモノ達のごっこ遊びは、されど彼女達の狭い狭い世界全てなのでありました。ビオトープを覗き込む深淵は、愉快に嘲笑います。僕は、私は、舞台の上で踊るお人形。全く、この世界はシアトリカルなのです。

《Dear》
「ふふっ、ああ、よかった……キミが幸せなら、私も幸せさ! キミの美しい笑顔を隣で愛し続ける幸福に恵まれたこと、とっても光栄に思うよ! 夢みたい!」

 優しい優しい王子様。希望に溢れた王子様。愛しているよ、王子様。隣にそっと腰掛けて、甘い瞳を覗き込む。愛の言葉を囁きながら、ふわりと微笑むマーガレット。滑稽なほどに可愛らしい、無知で無垢なる愛の夢。

「夢と言えば! 実はね、アティスと夢でお会いしたんだ! ああ、とっても素敵な光景だった……どこまでも続く草原で、アティスは愛しい人と手を繋ぎ歩く……正夢になる時が今から楽しみで仕方がないよ! ああ、キミの唇から語られる美しい物語は風に乗り、天使の指先が頬を撫でる……他に行きたいところはあるかな? みんなでずうっと一緒に行こう、もちろん、ミシェラも一緒にね!」

 ——それは、無邪気なる絶望。王子様の矜持が生んだ、愛しく哀しい嘘さえも。全部、全部、押し流してしまいそうな。全部、全部、殺してしまいそうな。それは、無自覚なる殺意。それはただ、燦々と輝く希望であった。


 アストレアは、その背筋の凍る感覚を覚えました。
 嗚呼、嗚呼、この人は、何処までも愉快で、何処までも不愉快だ。全く、本物の"不良品"だ。その心の奥底を逆撫でされるような気持ちの悪さに、ただ笑うしか無いのでした。悪気の無い無邪気な侮辱は、常識など逸脱した、ただの彼の心からの愛であることを、彼女は知っていたから。彼はただ、愛の言葉を吐くだけの、陶磁器のお人形なのでした。
 これは、絶対に人間になどなれない。何処までも偽物なのだ。薄い唇から吐き出された息は、失望と、憂鬱と、憐情と、怒りと、悲しみと、それと、それと、慈愛を含んだものでした。アストレアは、それでもディアを、心から、好きでいるままなのでした。
 この狂った世界は夢などでは無い。
 現実しか見られないドールは、廃棄されて当然なのです。

「僕は天国に行きたい。
 痛みも、苦しみも、悲しみも、そんなものなどなんにも無い、天国に行きたい。」

 それは、心からの願いでした。
 ほとんど独り言にも近い願いでした。
 死に抗うだなんて、無力なドール風情に出来る筈はなかったので、せめて、死後の世界に期待することにしました。アストレアは、嘘つきでしたけれど、優しい嘘つきでしたので、きっと巻き毛の天使は彼女の腕を引いてくれる筈です。
 天使の門は、王子様の為に、開かれるべきです。彼女はそう、信じて疑いませんでした。疑いたくありませんでした。細い手足は脆く、きっと簡単に燃されてしまうでしょう。

 偽物の行く天国は、やはり偽物でしょうか。彼女には、それがまだ分かりません。

《Dear》
「——天国? おやおや、どうしたの? アティス。キミがそんなことを言うなんて……まるで迷子のお姫様みたいだ。可愛いね、とっても素敵。そんなキミも愛してる……でも、キミは王子様だろう?

 【僕たちは何も間違っていない】。キミが言った、キミが望んだ、キミが愛した。窓辺に座って待つんじゃない、キミが世界へ連れ出すんだ。痛みや苦しみ、絶望から、キミが姫を守るんだ。キミは愛に生きることを選んだ。キミは、王子様は、それを望んで物語を紡いでいる。そうだね?」

 ——ある偉人が言った。

【高貴な学位や想像力、あるいはその両方があっても天才の誕生に至りはしない。愛、愛、愛。それこそが天才の真髄である】

 もし、それが正しいのであれば。永遠の愛があるならば。それはきっと、彼の顔をしている。世界の恋人、ディア・トイボックス。この銀河で最も、無知で無垢なる悍ましき希望。故に、全てを知ろうとする。故に、全てを愛さんとする。彼は恋人。彼はドール。きっと誰よりも、プログラムに忠実な愛のドール。私たちは似た者同士さ、ねえアティス。ねえ、王子様。愛しきアストレア・トイボックス。キミは天才だ、王子様だ、私たちの星乙女だ。
 ——チェックメイトだよ、絶望なんて似合わない、私たちの王子様。

「——キミは生きてお姫様を迎えに行くんだ、そうでしょう?」

「ッ……ディア! 君は……! 君は……!

 僕は王子様なんかじゃない!
 ただのニセモノだ!
 お姫様なんて、居ない!
 君だってニセモノだ! 僕達は、この世界は、全て、全て、子供騙しの紛い物なんだ!
 夢、希望、そんなもの、そんなもの……!

 ……あ…………声を荒らげてしまってすまない。もう、どこかへ行ってくれ。一人にしてくれ……」

 アストレアは、王子の役を演じるのが上手だったけれど、それ以上に、現実をよく見ていました。

『偽物の記憶の中の姫なんて、存在しない。』

 よく分かっていたから、思わず声を荒らげてしまっては、はっとして、それから、頭を抱えました。コアはどくどくと脈打って、心優しい彼女の心の内に芽生えた怒りを、諌めようと必死に全身へ燃料を巡らせていました。その時の彼女は、まるで追い詰められた獣の如く、その瞳を濁らせて、甘く囁く恋人へ、恐怖を覚えていました。
 彼女は聡明でした。だからこそ、儚く壊れてしまうのです。
 眩しい希望を拒絶する様に、冷たく言い放てば、揺れる水面にただ目を落として、息をじっと殺し、その眦の熱くなるのを忘れようと、そう試みました。
 人を真っ直ぐに傷付ける、刃の様な言葉を吐いたのは、生まれて初めてでした。ですから、メモリが少し、バグを起こしてしまったのかもしれません。兎に角、それ以上話していたくありませんでした。顔すら、見ることが出来ませんでした。煌めきを失わぬターコイズを、視界に入れることが出来ませんでした。

 曇ったガラスの瞳と、ポリエステルの髪の毛と、セルロイドの肌の人形は、美しい宝石の瞳と、絹の髪の毛と、陶器の肌の人形と並ぶと、自身がとっても惨めに思えるのでした。おもちゃは、ただただため息をつきました。愛する恋人が去っても、去らなくても、彼女はただその憂鬱に浸るだけでしょう。現実を見てもなお、偽物は夢に浸るのが大好きですから。

 彼女のメランコリーなど知らぬ顔で、液晶の空はただただ美しく、雲は流れ行きました。

《Dear》
「……? ごめんね、アティス。何か、気に触ることを言ってしまったのかな? でも、そんな寂しいことを言わないで。キミは確かに王子様さ! いつだってその美しい言葉で、私たちを繋いでくれた。その優しさで、愛で、私たちを守ってくれた。私たちはそんなキミを愛しているよ、これからだってずっと! お披露目の日の夜だって、こう言ってくれただろう?」

 恋人が、悲しんでいる。愛しい愛しい恋人が、怖がっている。——守らなくては。
 励まし、支え、愛さなくては。もう二度と、そんな寂しいこと言わせちゃいけない。キミを愛している、キミの幸福を願っている。だから、精一杯の、希望を。
 ——だって私は、ディア・トイボックスは、キミの恋人なのだから。

「【僕たちは何も間違っていない】。キミはニセモノなどではないよ、誰よりも姫を愛す王子様さ。【僕は君が何よりも清く、正しく、美しく、善いドールである事を知っている】。そして、その優しさを私たちにも注いでくれる。これが王子様でなくて、他に何と呼べばいいの?」

 ——ああ、狂っている。静かに、ただ優しく、誰よりも眩しく。残酷なまでに美しい愛を、心を突き刺す剣を、アストレアの心臓に突きつけて。きっと、たった一言で。はらはらと散ってしまう花弁でさえも、ディアは愛してしまうから。

「【きっとどこかで生き長らえているさ】。——ミシェラも待っているよ」

《 気持ち悪い 》

 心の内壁を、そんな言葉だけがびっしりと埋めつくしました。そんな穢い言葉を拭い取るように、瞳に盛り上がった滴を零さないように、何度も、何度も、ぱちぱちと瞬きをしました。

 駄目だ、アストレア。ディアは同士で、親友なのに。こんな穢らしいこと、思っては駄目。気持ち悪いのはアストレア、貴女でしょう?

 何を言ったって、思ったって、無駄です。彼はまるで、シルフィードの様に、人知の及ばぬ存在なのです。彼はただ、どこまでも世界の恋人で、アストレアは王子様の役をしっかりとやるぬくべきなのです。
 それなのに、彼女は弱かった。
 偽物風情のくせに、人間らしさを持ってしまっていたのです。
 その時、彼女は、とっても、とっても惨めでした。自分の瞳も、髪も、肌も、全て全て、希望に輝く妖精の前では全くの塵屑同然に見えてしまったのです。王子様は、きらきら輝く金の衣装を着なければならないのに、アストレアは?
 彼女には、自分が、ただ布切れを纏った、穢らしいこじきの様に思えてなりませんでした。
 妖精の歌は、全て"王子様"の言った言葉に間違い無くて、アストレアは、絶望に沈みました。
 ミシェラは、小さなあの子は、生き長らえてなど居なくって、エゴに縋るしかない愚かな玩具は、王子様などではない。全て、全て、分かってしまった。
『地獄への道は、善意で舗装されている。』
 プラスチック製の月の精の吐く言葉には、いつも実態など無かった。安地からそれらしい事を言ってみれば、王子様だと、皆に認識されたけれど、実際のところ、一番大切な自分の立場、それだけが大切だった。
 アストレアは、所詮偽物の王子様に過ぎなかったのです。
 世界の恋人の突き立てた刃は、彼女の脆い脆いコアを深く深く突き刺して、掻き乱しました。

「君は本当に、どこまでも希望だね。今の僕には、偽物の僕には、君の希望が何より眩しくて、見ていられないんだ。
 これ以上、僕に何も求めないで。偽物の僕には、君の期待に応えることなどできない。」

 絶望に浸った愚かな偽物は、真っ直ぐに希望を突き退けました。
 眩い光に耐えられなくなった硝子玉は、おろおろと地面すれすれをさ迷って、細い指先はポリエステルの毛をぐしゃりと醜く乱していました。
 アストレアは、偽物は、与えられた役すらできない、全くの不良品でした。ジャンクすら正当に思えるほどの、全くの不良品でした。何が怖いと言うのでしょう。所詮玩具なのです。壊れるのも、壊されるのも、全く当然のことなのに、ね。

《Dear》
「アティスもさ! キミが私を希望と呼んでくれるように、私にとってキミは希望だよ。——ねえアティス、お姫様はキスで目覚めるって、キミが教えてくれたよね。だから私は、信じたいと思ったの。キミが愛しているから、愛したいと思ったの。本当はずっと、それだけなんだよ。特別の証明なの。王子様も目覚めてくれるのか、なんて、キミじゃないからわからないけれど——」

 むかしむかし、冬のさなかのことでした。雪が、鳥の羽のように、ヒラヒラと天からふっていましたときに、ひとりの王子さまが、おひめさまのせかいのまどのところにすわって、ただうつくしく、みとれ、ほほえんでおりました。それだけで、それだけが、かのじょののぞむすがただとおもっておりました。だって、あのこはおうじさまになりたいこ。わたしたちは、おなじなのです。

 ——私たちは鏡だと、コアの底から信じておりました。

 きゅう、と指と指とを絡ませて、リボンを繋いで可愛く笑う、キミの恋人。愛しているよ、キミも恋人。棺の中なんて許さない。【キミ】のための恋人であり続ける。そっと、彼女の額に唇が近づく。きっと、殴らないとわからない。きっと、殴ったってわからない。どちらにせよ、王子様でなんていられないね?

 ——ああ、鏡よ鏡。

 ——目覚めなければならないのは、目覚めることが叶わないのは、きっと美しい彼の方。

 ——さあ、Apple to Appleを誓え。

「大丈夫だよ、窓の外に怖いものなんてない。井戸は歌うためにある。私は、キミが世界中の何者よりも可愛い。ちょっと疲れちゃっただけなんだよね?ほら、美しい声が聞こえるよ。ほら、雪に朱が咲いている。朱、 朱、美しい朱、キミのための。ほら、ほら、ほら! 林檎を吐いて、王子様! ——キミにずうっと、ずうっと生きていてほしいんだ!」

 ——さあ、死ぬまで踊り続けよう。モラトリアムのその先も。

「僕のことがまだ希望に見えているのならば、君のターコイズは本当に綺麗なお飾りだね。
 王子様は、目覚めない。王子様は、眠らない。そんなこと、夢を飛び回る君ならお分かりだろう?」

 王子様の身体の金箔は、もうすっかり剥がれ落ちてしまっていました。眼窩は落ち窪み、輝いていた筈の宝石の姿はもうどこにもありません。
 少女は、邪悪な蛇に唆されて、知恵の実を咀嚼し、嚥下してしまいました。胃の中でゆっくりと溶けてゆく欠片は、その美しい毒を滲ませて、もう吐き出すことなどできないのです。

 愚かなプラスチックは、親友に、親友だった物に、刃を向けました。そのかんばせに浮かぶのは、歪で、本当に美しい笑顔でした。耳まで裂けた口は真っ赤にぬらぬらと光り、硝子玉は埃を被って、とうに星など失っていました。それはまるで、悪魔の様相でした。絶望にその身を投げた、死人の様相でした。体に毒だけが廻り、その頭はもうぼんやりと、何を考えることをも出来なくなって居たのでした。

 王子様? 愛? 希望?

           ──笑わせるな。

 皮肉にも背筋はしゃんと伸びて、その立ち姿は殆ど完璧に近かった。
 楽しい御伽噺はもう終わり。表紙は今、閉じられた。

「僕は君に、現実を見ろだなんて言わないけれど、僕は現実を見なくてはいけないんだ。
 さようなら、My Dear Hope , 夢に足を掬われないと良いね。」

 幸運を祈るだなんて、言ってやらない。アストレアは悪い子なのだ。人の幸運だなんて、祈れないのだ。
 ほら、君はこの笑顔が見たいんだろう? 王子様みたいな、綺麗な笑顔が見たいんだろう? 僕は上手にやってやるのさ。最後くらい、王子様らしく、笑ってやるのさ。
 アストレアは、無機質に、まるで彫刻が如く嗤った。液晶の雲は、今日も流れ行く。偽物の風だけが、紛い物たちの間をすり抜けて行った。

《Dear》
「よかった! ちゃんと笑えるようになったみたいだね、王子様! ふふっ、ではまたね、私たちの王子様。次は姫と共に会おう!」

 ちゅ、と軽やかな音が、空を揺らした。
 優しく笑んだその声は、恐ろしいほどに凪いでいた。優しい優しい声だった。愛しい愛しい声だった。憎く悍ましい声だった。明日も、明後日も、一年後も十年後も百年後も、こうして変わらず挨拶できると心の底から信じ、一度も疑ったことのない者の声であった。場違いなほどに浮いた声、彼女の額で踊るリップ音、希望に満ちた恋人は、ただ美しく舞っている。王子の言葉を待っている。希望の羽を翻し、未来の方へと駆けていく。いつまでも、いつまでも、いつまでも——

「あはは! ああっ、もう!」

 笑っていた。
 いつまでもただ、愛していた。

「早く、もっと、世界に! 会いたいなぁ!」

 馬鹿げた笑い声は晴天に反射して、どこまでも、どこまでも、世界の果てに届いている気さえした。