Licht

 祝福を願って。

 運命を恨んで。

 そしてこの湖畔は今日も、静かに声のない悲鳴を飲み込んでいる。大粒の雨と一緒に。

 昼下がりの湖畔をぼうっと見つめる、リヒトはまた、まだ、誰かを待っている。傘の柄を引っ掛けるようにだらんと持っているから、ほとんど雨を凌げていない。短い髪を濡らす水と、孤独を鞄ごとぎゅっと抱き締めて。振り返る。

「…………来た、?」

 希望と絶望が綯い交ぜになった銀河のような気持ちを飲み込んで、寮の方からやってくる傘を見つめていた。あの日の黒い雨でなければいいと、思う。

【寮周辺の湖畔】

Amelia
Licht

《Amelia》
「……ええ、来ましたよ」

 昼下がりの重苦しい雲に押しつぶされないようにしながら、彼女はゆっくりと湖畔に向けて歩いてきた
 雨だから……というのは分かるが傘をさして二人っきりというシチュエーションに少しドギマギしながらも、彼女はリヒトの問いかけに答える。

「きっと、アストレア様……というよりお披露目についての事でしょう?」

 そうして、朝の宣言で呼び出された理由を半ば察していた彼女は先回りをするように問いかける。
 お披露目について、何か知っているのでしょう? と。

「……はは。なーんだ、分かってんのかよ」

 ひとつひとつ、絡まった糸を解くように、星を繋いで星座を見るように、この玩具箱について語ることは……リヒトには荷が重い。だから、正直助かった。
 この聡明なデュオドールはどこまで辿り着いて、どこを見据えているのか。リヒトには分からない。コワれた彼には分からない。だからこそ。

「……アメリア、さあ」

 二度、三度。目線を動かし、傘を揺らして一歩近づく。水の匂いがする。葉が揺れる音と、命の無い森のざわめき。今から言うことの情けなさに、自分でも訳が分からなくなりそうだ。ソフィア姉と、アティスさんと、目の前の青い瞳がもし、叡智の証明だとするならば。リヒトはあくまで自然に、軽く口を開く。

 コアがギリギリ苦しいような痛みと、それでも前を向け。

「『助けて』って言ったら、助けてくれるか?」

 つぎはぎの、笑顔で。

《Amelia》
「へ……?
 リヒト様が、アメリアにですか?
 うふふ、ええ、ええ、助けられる物ならば幾らでも。
 ですが一つだけ訂正しましょうか。
 アメリアは助けるのではなく、リヒト様と一緒に助かるのですよ。
 なんたってたった一人の落ちこぼれ仲間なのですから。
 アメリアだけで助けるなんて土台無理なお話なのです。」

 何処か苦しみを伴った、つぎはぎの笑顔にアメリアは小さく、けれど確かに笑う。
 なんたって「助けて」だ。
 お互いこの世に三つもない超弩級の落ちこぼれ、何ならばリヒトの方が優れているとまで思っているアメリアにそんな風に請うというのだから、笑ってしまう。
 だから、アメリアはどこか吹っ切れたような柔らかな笑顔のまま、何処か絶望的な事をさらりと答える。

「では、どこからお話しましょうかリヒト様。
 ひとまずは……トイボックスが地下……ないし日の光の届かない海の近くにある、という所からなんて如何です?」

 言葉を聞いて、理解するのに少しだけの時間と、強くなる雨足と、強ばった体と、軽く吹き飛ばされて地に落ちる傘があった。

 一緒に、なんて。

(……考えたことも、無かった)



「あ……違う、違う。……オレじゃ、なくて」

 一瞬、息を飲んだ後、震えた言葉がことこと落ちていく。拍子抜けしたように、ちゃんと否定しなきゃ、勘違いがあったら困るし、と気をしっかり保ちながら……それでも、ツギハギの糸が少しだけ、優しくほぐれたように。

「『アストレアさんを、助けて』って、言う、つもり、だっ……だったん、だけど、さあ」

 期待するな。真面目にするな。こんなものをよすがにするな。こんなものを頼りにするな。いつか絶対、こんなコワれたものは要らないって言われるし。いつか絶対、ボロが出て置いていかれるさ。

 あの夕日のように。

 ……それでもいいと、思ってただろ。夜明けをただ待つしか無かった、数える程あったあの夜に。それでもいいから走らなくっちゃ、って。硬い蓋の向こうで考えただろ、何度だって。

 傘を取り落とした雨の中でひとつふたつ、大きく息をして。きっと、眦に滲んだ宝石が隠れていたらいい。ジャンクの中のジャンクにかけるにはあまりにも嬉しかったから、きっとあの言葉はリヒトにとって、遠く輝く流星だ。

 その後、さらりと話された絶望の一欠片に、もはや驚くことも出来ずにリヒトは呆れる。

「ほ、ほんとにお前ドコまで……」

 それでも伝えなくちゃいけないことがあった。何より、やらなくちゃいけないと決めたことのために。濡れそぼった手で鞄からいつものノートを差し出して……受け取ってもらえたら、リヒトはふいっと後ろを向くだろう。アメリアの方を見ないように。それから、情けない顔がバレないように。……かっこ悪いからな。

「ふうむ……必ず、とは言いませんよ。ですが、アメリアは出来る限りの事をしましょう。」

 リヒトの言葉に、アメリアは顎に手を添えて少し考え込んでから言葉を返す。
 実際、彼はアメリアにとって旧知の中で、お披露目がろくでもない事を考えると……お披露目には行かせたくない。
 しかし、どうにかするべき相手も分からない上、どうしようもない落ちこぼれのアメリアとしては必ずとは言えない。
 だからこそのかなり弱気な返事だったが、結局、その問いへの返事が帰ってくる前に押し付けるようにノートが渡されてふいっと後ろを向かれてしまった。

 随分と動揺していたのだろうか? 取り落とした傘を転がしたまんまにしているリヒトに少しの間ぽかーんと間抜けに口を開けていた彼女は、そっとノートを開き、読み進める。

 記憶がおかしい。
 ルートゼロ。
 隠し部屋の示唆。
 樹木。
 虫のような怪物。
 実験。
 鍵が開いていた。
 処分。
 二足歩行の怪物。
 ロゼットの異変。
 ドロシーというドール。
 テーセラのジャック。
 ダンスホールの水音。
 蜘蛛のような怪物。
 海中のトイボックス。
 柵越えの発覚。
 そして……決意。

 そんな、長い長い苦悩の記録を見て、彼女はノートを閉じた後にそっと傘を下して天を仰ぐ。
 たとえ偽物の空だったとしても、今だけはこの感傷を捨てたくは無かった。

 アメリアは手に握り締めていた傘を下ろし、黒い煙のように重く立ち込めている曇り空を見上げる。降り頻る雨が彼女の白い頬をしとどに濡らしていき、そして。

 彼女は唐突に、脈絡もなく頭部を押さえて、その場に頽れてしまう。尋常ではない様子で彼女は苦しんでいた。

 どこか暖かい気持ちは雨ですっかり冷めてしまって、むしろそれをいいと思えた。期待と希望に舞い上がっていたら、直ぐに業火が誰かを焼く。今のように。

「……もちろん、その、信じられるようなもんじゃない……けど、さ」

 そう付け加えて、リヒトはアメリアの意見を聞こうとして振り返る、その時。

「───っ! アメリア……?!」

 慌てて駆け寄って、グッと息を飲んで周りを見る。そして落ちた傘を手に取って、せめて寮からアメリアが隠れるように差して、でも分からない、どうすればいいか分からない。ここから先が。

 コワれた頭は不器用に軋む他無い。コワれた体は背中を撫でてやることすら思いつかずに傘の柄を持って固まっていて。声が上手く出ないし、言葉がちぎれて飛んでいくし、ああ、くそ、どうしよう、どうすりゃいいんだ、これ何だ、何とか、助けたいけど、でも、でも、ああ、

 ……この、役立たず!

《Amelia》
「あ”ぐッ……!?」

 走ったのは脳の奥の奥、大脳新皮質の向こう側をまさぐられるような耐え難い激痛。
 彼女は咄嗟に頭を庇う事すら出来ずに、どこか滑稽なうめき声を上げて地面にうずくまる。
 痛みによってこじ開けられた彼女の視界に色とりどりの記憶が踊った。

 お披露目の時。
 美しいドレス。
 カメラで撮ってもらった写真。

 どこか疲れているあの人。
 口から溢れる燃料。
 汚れていくドレス。

 あれは本当に……お披露目だったのだろうか?

「リひ……様……?
服は……汚れておりませんか……?」

 混濁する記憶の中、痛みが落ち着いてきた彼女は弱弱しくリヒトを見上げて自分の吐いてしまった燃料で服を汚していないかと問いかける。
 実際には燃料など吐いては居ないのだが。

「……え、服?」

 弱々しい声が返ってきたとき、リヒトは心の底から安堵して……続く質問に、首を捻った。

 お互い傘をうっかり取り落として、少なくとも濡れてるし、見えてないけど土もついてるかもしれない。だから汚れていない、なんて断言はできないけれど、同時に。

「あ、あー……とりあえず落ち着けよ。そんなヒドイもんじゃ無いと思うし、さ」

 汚れてる、なんて言うのは違う気がした。だからとりあえず濁して、立ち上がれるように手を差し伸べながら待っていた。

 急にしゃがみこんだのも、すごく苦しそうなのも気になるけれど、何より、それがセンセーにバレるのがいちばん怖かったから。早く戻ってくれないかと、心の底で切に願って。


 (……オレの、役立たず)

 これは、特に何でもない所感。いずれ彼が今日を振り返った時、大きな傷になるであろう、いつもの出来損ない。だから割愛、意味は無い。

《Amelia》
「は……はっ……ああ……。
 そう……そうですね、きっと。」

 リヒトの冷静な声掛けに、やっと現実で燃料を吐いた訳ではない事に気付いたアメリアはよろよろと体を起こす。
 ……が、立ち上がり切る事は出来ずにリヒトの肩を借りて立ち上がろうとするだろう。
 肩を借りれなければアメリアはそのまま座ったままだし。
 借りれたならば、立ち上がってから言葉を続ける筈だ。

「それでは、アメリアの知るところを、語りましょうか。
 そうですね……先程のノートに書いていなかった内容ですが……。
 恐らく、我々ドールズの疑似記憶は普段見えているものだけではありません。
 なにがしかの行動を鍵として知らない記憶を見ることが出来ます。」

「………え」

 擬似記憶の、見えていないところ。アメリアを支えながら立ち上がらせて、その言葉を聞いた。

「そ、そうなのか?! 忘れてる部分があるってことか…」

 行動をカギにして、何かを思い出す。首を捻りながらも、とりあえず受け止めた。行動をカギにして、何かを思い出す。……メモしておかなくちゃ、と思ったところで、リヒトはノートを返してもらおうとするはずだ。

「ならナットクかもな。……その、オレ、最近なんか覚えんの苦手だからさ、書いてた通り」

 どこか気後れするように、リヒトは眦を下げた笑顔で誤魔化して告げる。自分の欠陥を語るのは、分かっていることとはいえ少し、苦しいけれど。まあ何かの役には立って欲しい、星座を繋げるために必要な、星と星の間の塵のように見にくい、六等星くらいには。

《Amelia》
「ええ、そうです。
 これが本物の記憶なのか、作られた記憶なのかは分かりませんが……あるならば役に立つ筈です。
 先ほどのアメリアのように頭痛が起きて……知らない場所……例えば雪景色とか部屋とか、或いはドレスとか、そういった物が思い出せたのならきっとソレです。」

 誤魔化すように笑ったリヒトの言葉をひとまず聞き流して、自分が今まで見た記憶の一端を語る。
 あの人との記憶を語るのは心の一部を切り裂いて差し出すような苦痛を伴ったけれど、今は仕方がない。

「それと、最後に。
 恐らくオミクロン寮には誰か……第三者が忍び込んでおります。
 それが隠し部屋の向こうの誰かか、或いは件のドロシー様かは分かりませんが……お気をつけて。」

 そうして我慢しながら語り切った後、警告を投げかけてノートをそっと差し出す。
 ノートを受け取って貰った後、相合傘になってしまっている事に気付いたアメリアは顔を真っ赤にしてその場を走り去ろうとするだろう。

「お、おう。なるほど、嘘かホントかは分からないけど、情報にはなる……かも、そうだな。もしかしたら、大事なコト忘れてたりするかもだし、な!」

 これもメモに取っておこう、と決めて、続くアメリアの言葉を、警告を聞く。

「……だい、さんしゃ?

 だいさんしゃ……第三者。なんだっけ、他人って意味だっ……あっアメっ……あ〜……」

 確認しようとしたその瞬間、アメリアはかーっと真っ赤になって、ぴゃっ、と逃げて行ってしまった。リヒトはただ、首を捻る。さっきまでの相合傘には気づけないあたり、リヒトはしっかりテーセラモデルなのだった。

 雨足の中。傘の下。寒い風に吹かれたジャンクドールは、傷だらけの体で確かに鼓動していた。

「……探して、みようかな」

 何も出来ない自分にも、コワれたオレにも、何かがあるとしたら。そうだ、コワれた記憶の残骸の向こうに、鍵があるかもしれないじゃないか。

 もし、擬似記憶の「あいつ」と相対しなくちゃいけないとしても、そこに何かがあるのなら……コワれた体を動かさなくちゃ。黒雲のような寮の方へ、遅ばせながら足を向ける……出来損ないのオミクロン・ドールのコアは、確かに鼓動している。

【学生寮1F キッチン】

「探してみる、っつっても……」

 なんだか具合の悪そうだったアメリアを見送って、しばらくの後。リヒトは寮に戻って、傘を閉じた瞬間に呟いた。

「そもそも忘れてるモンを、どうやって探したらいいんだ……?」

 そう。リヒトのノートには今までの事を可能な限り書いているが、どうやらアメリアの言っていたものは、このノートに書いてないやつらしい。困った。忘れているものの探し方を、このコワれた頭は知らない。

 ……でも、立ち止まっても居られない。誰かに何かを言われなければ動けない、そんなままじゃアティスさんに手は届かない。水でも飲んで、とりあえず学園の一番上の階から探してみようか。リヒトは黒い雨から、背を焼く火から逃げるように、それでも前を向いて、キッチンに向かった。

 キッチンは広々とした他の空間に比べて、大きな家具が敷き詰められているためか、少し手狭な印象を覚えるだろう。
 こじんまりとしたシンクとコンロ、調理スペースを十分に確保出来る広い机がある。そして奥には、パントリーに続く木扉も取り付けられていた。

 それは鈍重な空から逃れるようにたった一片落ちてきて、水を飲もうとコップを探すリヒトの視界端を掠めて行った。

「……あ」

 振り返って目で追った先。
 ひらり、青い燐光が舞う。

「すっげえ、青い蝶なんて居るんだな」

 ソフィア姉の目のようで、アメリアの髪のようで、ストームの三つ編みのようで、そのどれとも違う、手のひらの空。捕まえてみよう、とリヒトは思い立って、そっとその蝶を追って窓辺に向かった。捕まえて、そうだ。すっかり消沈しているみんなに見せて……そんなことをして、元気になってくれるかは分からないけれど。その時は、その時だけは、妙案に思えたのだ。

 キッチンへ踏み行ったあなたのすぐ傍をすり抜けて、軽やかに翅を震わせながら舞う青い蝶。仄かに青い光の軌跡を残しながらふわふわと窓辺へ向かう様は、何気ないキッチンの風景を幻想的に見せてくれることだろう。

 蝶は窓辺の周辺をふんわりとした挙動で旋回したかと思えば、観察しようと目を凝らしたあなたの方へ方向転換し、甘い花蜜を滴らせる花を見つけたかのように迫り来る。


 ぴと、と蝶の細い多足があなたの鼻先に留まった瞬間。


 ──バチン! とあなたの脳回路の奥で何かが弾けるような音がして、唐突にあなたは目の前が眩む感覚を覚える。神経に電流を通されたかのような鈍い痛みと共に、あなたは眼前に一時の白昼夢を垣間見た。

 それはどこか覚えのある、暖かな一幕であった。

 まるで、夢を見るように。リヒトは眩しいものを見るように目を細めて、そっとキッチンの窓を開けた。

「あ、ぁ……」

 さっと雨が吹き込むけれど、気にせず、数秒。彼は陽だまりの中にいた。

「だよな、お前らずーっと、そんな感じだからさあ」

 高い木を難なく登っちまうところも、呼ぶより先にとっとと屋台に買いに行っちまうところも、どこまでも自由で、奔放で。そっと押し開けた窓の外の世界へ、どこまでも一緒に行けるような気がして、そんな気がした、瞬間。

「いつか……置いてかれるんじゃないかってオレ、ずっとさ、心配で、心配で……」

 吐きそうなほど、苦しかった。

 心配が現実になってしまったことが、その背が遠く消えていってしまったことが、例え、作り物であろうと。……そうだ、そうだ。これは作り物だ。擬似記憶、ヒトの友になる為に植え付けられた記憶で、だからこの苦しさはきっと、演算されたやるせなさで。演算された悔しさで。

「…………アイスクリーム、食いてえなあ」

 なんで、こんなに────。

【学生寮3F 図書室】

 階段を上り詰め、寮の最上階に位置する埃臭い書物の蔵に辿り着く。図書室の天井は四階部分までを突き抜けているためか、とても高い。そして、木製のロフトを介して上階にも数多の書物がところ狭しと保管されているようだ。

 図書室はほの暗く、壁に取り付けられた卵型の照明をつけてもまだ暗い。屋根裏の部分に切り取られた小窓から差し込む陽光が、空気中に舞う埃を幻想的に煌めかせていた。

「……行動をカギにして、何かを思い出す。

 ってなると、やっぱりここか?」

 リヒトは図書館のロフト上、より屋根裏に近い場所を目指して、周りに誰かが居ないかを確認し……そっと登ろうとした。

 さっきの青い蝶も気になった。結局、捕まえることはできなかったけれど、なんだか、記憶と無関係だとは思えない。テーセラモデルの強い五感は、蝶が細い多足で自分に触れた、その感触まで思い出せる。

 これはいずれ、あの夕日へ至る道。こんなものあってもどうしようもないじゃないか、という独白を塗り潰すくらい、その記憶は愛おしかった。ただ、ただ、焦がれていた。誘蛾灯に吸い寄せられるように。

 だから、少しだけ。
 あと少しだけ。

 もうすぐ、現実に戻ってちゃんと業火と向き合うから。黒い雨と学園について考えるから。アストレアさんについて考えるから。

 ロフトへ登る為の木製の梯子が存在する。梯子の先端はやや高い位置に存在したが、テーセラの身体能力であれば問題なく指先が届き、上り詰めることもできるだろう。

 高所から見下ろす図書室はいつもより鬱屈として見えた。しかしロフトの上は、そばに取り付けられた小窓から溢れる陽の光によって、下よりも明るい。
 斜陽に照らされたところに、一冊の本を見つける。こんなところにある本は、当然読んだことがないものだった。

 題名は『ノースエンド』というシンプルなもの。装丁は古く、かなり昔の本であることが見て取れる。

「……っしょ、い」

 ロフトにぐっと登って、リヒトは雨上がりの光に縁取られた古い紙の香りの中にあった。きらきらと舞う埃は風化した大切な思い出ように、忘れられた過去のように。

「やっぱ、似てるな」

 記憶にある窓枠と、ここにある小窓は確かに似ている。本を読むのは苦手なリヒトは『ノースエンド』というタイトルをちらりと見た後に、自分のほほをぱん、と叩いた。

「おーし……どっからでも、かかってこい!!」

 それがただの逃避だって、なんだって。

 雨足はいつしか弱まっていたようだ。また降り出すかもしれないが、雲間から差し込んだ天使の梯子から降り注ぐ陽の光が薄暗い図書室に差し込んでいる。
 あの空も、全て偽物であるとあなたは知ってしまった。あの陽の光も、垣間見る幸せな記憶も、紛い物であると分かっているのに、それでもあなたは手を伸ばしてしまう。

 木製の窓枠に縁取られた小窓の向こう側には、見慣れた平原が広がっている。少し距離を置いた先には学園へと通じる門があって、その周囲はずっと森林が続いていた。

 ──あなたはあの窓から、狭い世界を眺めていた。ずっと、そこから掬い上げられるまでは。

 記憶を引き摺り出すとともに、ズキ、と誘発される頭痛にあなたはこめかみを抑えるだろう。ちかちかと目の前が瞬き、あなたはその時、ドグンとコアが脈打つ音を聞いた気がした。

「……だよな、オレたちは──」

 甘い夢に耽溺するように、朽ちゆく舞台で踊るように、リヒトは白昼夢に微笑んだ。閉じた屋根裏の世界から飛び出す、自由な時間を連れてやってきた、君は一番星。お披露目も、業火のことも、蘇った君の記憶に暖かくぼかされて、あの朝日を飛び越える程の万能感に浸る。

 だから多分、罰が当たったんだろうね。

 途端、コアを潰されるほどの激痛が走って、リヒトは制服の胸のあたりを握りしめてロフトの床に蹲った。いたい。いたい。床の埃が舞う。視界が半分欠損したかのような、深い衝撃が想起する。


 まるで、何か大切な忘れ物をした時みたいな、空白。


「っ、ゔ……」

 あれ? と思う。

「……いや、」

 あれ? あれ? ……あれ?

「うそ、だ」



 ──あの金色の髪をした幼い少女の名前はなんだったっけ?



「うそ……だろ。なあ……さすがに、じ、冗談、これ、おい、待っ、待って、待って待って待って嫌だ嫌だなんでお願い嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!」

 縋る。ように。ノートを。雨で歪んだ。ページを。二枚。三枚。殴り書き。無音の悲鳴。追憶。忘れ書き。8歳設計。エーナモデル。一緒に外で遊んだ。頭がコワれてた。花かんむりを作るのが上手かった。オレの大事なトモダチ。

「────ミシェラ?」

 そこにあったのは、たった8文字のアルファベット。


 それ以外の意味は、もう亡い。

【寮周辺の森林】

Mugeia
Licht

《Mugeia》
 雨は変わらず降り続けている。
 寮周辺の森林は雨の音がぶつかってとても騒がしい。
 うるさい音はミュゲイアの耳を劈くように鳴り響き続けている。
 ミュゲイアは持ってきた傘もささずにただ空を見上げていた。
 重厚なベルベットのように広がる雲のせいで太陽は見えず、星も見えない。
 時間も時間なので星が見えないのは当たり前かもしれないけれど。
 ただ、濡れたまま空を見る。
 北斗七星も見えない。
 ブラザーとの話の後ミュゲイアはグルグルと考えた。
 お披露目、アストレア。
 もう、会えない笑顔。
 空は笑ってくれない。
 どれだけミュゲイアが笑いかけても答えてくれない。
 濡れた三つ編みを解いて、ブラザーに触れられた痕を消すようにただ濡れる。


「笑ってくれないと分からないよ。」


 それは空に向かってかも分からない独り言。

 雨は変わらず降り続けている。

 リヒトは図書館の窓から見えた歩いてゆく影を追って、いつの間にか動き出していた。体の埃を落として、皺を直して、ロフトの様子をあらかた戻して、鞄とノートをいつもの通り持って、それでも戻らない何か。玄関に向かって傘を2本取って、夢のようだった一瞬の晴れ間を思い出せないほどの、雨間を進む。

 ソフィア姉と一緒に歩いた道を思い出す。長い草には気をつける、踏み跡が残らないように軽く。ここまで来てようやく、人影を追いかけたのは、その人影が黒い雨に見つかることが恐ろしかったからだと気づいた。こんな、情けない恐怖は無くせないのに、大きな何かを無くしてしまった気がして。

「……傘」

 本当に、傘が欲しいのは。

 近づいて、二歩、三歩、人一人分の間隙の向こうになんとも久々に思える人影がいる。それ以上進んでしまえばこの欠陥がバレてしまうような気がして、リヒトは柄の方を差し出したまま固まった。

 きっと今、笑えていない。

《Mugeia》
 星空も見えない暗がりにミュゲイアは星と出会った。
 大好きな大好きな輝かしい笑顔の星。
 ザーザーと降り止まない雫の隙間に鮮烈な太陽の色がきらめいている。
 パッと後ろを振り向いた。
 傘に隠れて見えない顔が今どんな顔をしているのかは分からない。
 いつも通りの笑顔を髪の隙間から覗けさせながら星を眺める。

「……空にね、笑顔になってもらおうとしてたの。ねぇ、そっちの傘に入ってもいい?」

 星を掴もうとするように傘を受け取ってから、ミュゲイアはそんな話をいきなりし始める。
 傘は嫌い。
 笑顔が見えないから。
 傘は嫌い。
 独りぼっちにさせるから。
 雨に濡れて頬を撫でる目元の雫を指先でのけながら、一歩其方の方へと近づいた。

「……訳、わかんねえ」

 そう言いながらも、リヒトは自分の差している傘を傾けて、ミュゲが近寄れるようにした。それでも自分から傘に入れようと近づくことは無い。自分がどんな顔をしているのかさえ、分からない。

「…………………そうだ、伝えとかないと、いけないことが」

 あった。
 あったんだ。
 あったかもしれないんだ。
 あったはずなんだ。

 あった、のに。

 ぼんやりとつぶやいた後、鞄からノートを取り出して、ミュゲに見せようと差し出す。まるでしばらく油をさしていない機械のようにその動きはぎこちなく、大事なパーツを落とした絡繰のようにおぼつかない。

《Mugeia》
「えへへっ、そんな事ないよ。でも、やっぱり天気は笑顔になってくれないね。ミュゲには、天気の笑顔なんてわかんない。」

 傾けられた傘の中に入って、傘を持つリヒトの腕にギュッとつかまった。
 きっと、嫌がられなければ腕を組むだろう。
 そして、ミュゲイアは笑った。
 空は笑顔になってくれなかったと。
 やっぱり、空に笑顔なんてなかったと。
 そして、彼の伝えとかないといけないことという言葉と共に渡されたノートをミュゲイアはゆっくりと読み始めた。
 書き殴られたようなそのノート。
 リヒトの心を覗くようなもの。

「ミュゲね、ロゼットからお披露目の事少しだけ聞いたの。お披露目はないの? お披露目は外に行ける物じゃないってこと? ……それに、頭が痛くなるのミュゲもなった事あるよ。しらない記憶がね、ブワーって流れ込んでくるの。
 ミュゲね、あの子のお披露目の日にブラザーとベッドを飛び出たの。何故か鍵がかかってなかったんだって。それでね、開かずの扉の事もブラザーと聞きに行ったんだって。でも、全部覚えてないの。」

 ポツポツとミュゲイアは話し始める。
 ポツポツと静かに。
 覚えてない記憶、お披露目という無意味な死の道。
 幸せなトイボックスが崩れてゆく気がした。

「海の中なんだよね。じゃあ、あの星も嘘ものなの?
 あれ? アストレアはじゃあどうなっちゃうの? でも、みんなアストレアのお披露目の事喜んでたよね? 笑顔だったよね? 幸せなの? 笑顔なら幸せってこと?」

 煌めく北斗七星。
 あれもまがい物だったのだろうか。
 あれもこれも全部嘘で塗り固められた偽りの箱庭。
 全部、全部、嘘ばっかり。
 嘘ばかりの幸せ。
 けれど、笑顔があるなら幸せ。

 腕を掴まれながら、ミュゲの話を聞いていた。ミュゲとブラザーが二人で、お披露目の日に飛び出したこと。その日も鍵が開いていたこと。それは静かだがきっと、コワれてない誰かにとっては強い証拠なのだろう。コワれた自分に出来ることは、あまり無いのだから、だから。そして。

 アストレア、という名前を聞いた時────、愕然とした。

「うそ、だろ」

 ばっと顔を上げたリヒトの顔に、微笑みの色は欠けらも無い。ぎゅっとコアを踏み潰されるような感覚に覚えがあって、リヒトはミュゲに渡したばかりのノートをひったくるように取り返した。

「………返せっ!!」

 嫌だ、とか、違う、とか、そんな、とか。ぶつぶつ何かを呟きながら、リヒトはノートを覗き込む。手から離れた傘は、腕を組むミュゲとリヒトの傘の間に引っかかった。

 ああ、当事者になれたことが、特別感を付与していたのか。頼って貰えたことが、優越感を助長していたのか。黒い雨に気を取られ、業火に足を取られて気づかなかった、崩れゆく砂上の楼閣で、誰かの役に立てていると本気で思っていたらしい。

 この、出来損ないの星は今まで気づかなかった。もうひとつの欠落に。

「…………」


 ────あの、白銀の髪を流した誰よりも優しい彼女の名前は、なんだったっけ?


 今度こそ、リヒトは笑えない。

《Mugeia》
「……うそ、なんかじゃないよ?」

 ミュゲイアは分からなかった。
 彼の驚愕とした言葉の意味を。
 うそ、という言葉はミュゲイアの言葉に対するものだと思ってしまった。
 ひったくるようにノートを取られればやり場のない手だけが残ってしまった。
 ブツブツと何かを頷いている彼の言葉に耳を傾けながら、ミュゲイアは引っかかった傘を持った。

「どうしちゃったの、リヒト? 笑ってよ。いつもの笑顔は? ねぇ、笑って? 何かあったの? 笑えば幸せになれるよ?」

 リヒトの顔を見てミュゲイアは目を大きく見開いた。
 いつもの。
 いつもの笑顔がなかった。
 長い沈黙の末にミュゲイアは笑ってと述べた。
 ギュッと腕を掴んで。
 笑顔を求める。
 それしか出来ないドールは笑顔を求める。
 何があったのかも分からないままに。
 ただ、笑顔を求める。

「笑えるか、笑えるかよ!! こんなっ……!!」

 腕を掴もうと伸ばされた手をぱしっと跳ね除けて、リヒトは急かされるように記憶を辿る。ボロボロになって、崩れかけて、それでもそれが最後の希望だと言うように、絶望に色濃く縁取られた、穴だらけの記憶を辿っていく。

「あぁ“、くそ、くそっ……なんで、なんでオレ、こんなに、なんで、なんでっ……」

 罵倒の言葉が、自嘲の言葉が口をついて出ないことすら、コワれていることの如実な証明だ。浅い呼吸のままノートをぎゅっと握りしめて、ぐらぐらした頭で顔を上げた時……笑顔のミュゲが、そこに居た。

 笑わなきゃ。

 笑顔が、笑顔が求められている。笑顔でいなければミュゲはきっとガッカリする。笑顔でいなければ置いていかれる。笑わなくちゃ。笑わなくちゃいけない。リヒトは不格好に口角をあげようとした。上手く出来ない。出来ない。出来ない。出来ない。出来ない。出来ない。出来ない。出来ない。

 ────ああ、もう、全部、

《Mugeia》
「なんで? なんで笑えないの? リヒト、辛いの? 苦しいの? 笑ったら良くなるよ! ほら、早く笑って! 笑って! リヒトはあの空とは違うんだから! 笑える子なんだから!」

 伸ばした手はパシッと跳ね除けられてしまった。
 雨の音に混ざって彼の雷のような言葉が響く。
 雨はまだ止まない。
 それどころか酷くなる一方で、何も良くはなってくれない。
 ただ、ずっと怒るように泣くように降り続けるだけ。
 それでも、ミュゲイアは言い続ける。
 雨が止まないようにただずっと間違った寄り添い方をする。
 手に持っていた2つの傘を地面に落として、彼の口元に手を伸ばす。
 拒まれるかもしれないのに学びがないままに。
 混乱する彼の口を塞ぐように、手を伸ばす。
 不格好にチカチカと光る星に手を伸ばす。
 その光を消さないように。
 貴方は2人を見下ろす空とは違う。
 虫とは違う。
 木々とは違う。
 笑うことの出来る存在。
 星のように煌めく笑顔を灯せる存在。
 燃えるように。
 鮮烈に。
 鮮明に。
 消えてはいけない明かりである。


「……ねぇ、笑って? リヒトは笑えるよね?」


 不気味なまでに綺麗な笑顔は雨に打たれながら笑った。
 ガラクタはただ笑顔を求める。
 貴方の欠陥なんて無視して。
 いつも自分の欲ばかり見ている。

「────」

 笑える子じゃない。笑える訳ない。そんなマトモじゃない。星じゃない。星じゃない、オレはそんなキレイなもんじゃない。いつも、いつも、『あなたは壊れてなんかいないよ』ってキレイな体で。キレイな分際で。キレイなくせに分かったような、傷ついたようなことばっかり言いやがって。どうせオレのことなんて出来損ないの役立たずだと思ってるくせに。頭もキレイで体もキレイで、ちょっとおかしなだけでジャンクになった気になりやがって。眩しい星みたいに輝いてるくせに自分のこと傷ついたスクラップだって。星にすらなれない土塊の気持ちなんて、何も分かってないくせに!!! 

「………は」

 ぐっ、と息が詰まって、ようやくリヒトは我に返った。浅く切羽詰ったように繰り返される自分の呼吸、手が柔らかい何かに触れている、と遅ばせながら気づいた時には、そう。口を塞ごうと伸ばされていたミュゲの手を、自分の手で引き剥がしていて。反対側の、反対側の手で、ミュゲに向かって。


 ──拳を、振り上げていた。


「……あははっ、……はは、っあ、あはっ、は、はははっ、あはははは!!」


 コイツ、コワれてる。


 その感想が、ミュゲに向かってなのか、自分に向かってなのか、ついぞ彼のコワれた頭は結論に至らなかった。

 ただ、ただ、なんだかすごく可笑しくなって、リヒトは崩れ落ちるように笑っていた。口角もきっちり上がった、完璧な笑顔。きっとミュゲも満足してくれる、100点満点の笑顔。

 ……コアに穴が空いたような空白は、いつまで経っても、どれだけ笑っても埋まらない。

(全然、良くならねえじゃん。
 ……ミュゲの嘘つき)



「よし、帰ろうぜ」

 しばらく、笑った後。

「ここにずっと居たらセンセーに見られるかもだし。ノートに書いてたことに関しては……そうだな、ソフィア姉とか、フェリとか。それからアメリアとかにカクニンで聞いてみてくれよ」

 『アイツらの方がよっぽど、上手く話してくれるさ』と話を続けて、リヒトは落ちてしまった傘を拾って立ち上がる。許してくれるなら、自分とミュゲの体に怪我や目立った汚れが無いかどうか確かめて。殴らなくって良かったと、潰れたリンゴを見るような気持ちで考えて。

「それから……みんな笑ってたとしても、お披露目の笑顔は嘘の笑顔だ。嘘ものの笑顔だから、全然幸せじゃない。“アストレア”も、きっとそう、の、はず」

 だから助けてあげないとな、“アストレアさん”を。他人事になってしまった決意を口にして、リヒトはミュゲを待って、寮に向かって歩き出すだろう。

《Mugeia》
 また、引き離された。
 これも拒絶?
 リヒト、貴方は笑える子だよ。笑える子なの。とっても綺麗な笑顔の星の子。ただ笑ってさえしていればいい。貴方の欠陥に興味なんてない。貴方の笑顔にしか興味ない。貴方の笑顔だけでいい。壊れたアタマでも笑えるでしょ? 壊れたカラダでも笑えるでしょ? 何かを忘れても笑えるでしょ? 良い子なんだよね。笑顔の素敵な子なんだよね。笑顔が素敵なお星様なんでしょ。一番星は何よりも輝いていて笑顔なの。キラキラの笑顔はみんなの注目を集めるでしょ。笑顔なの。笑顔でさえいればそれで良い。マトモじゃなくても笑えるでしょ。笑えないなら手を貸してあげる。笑えないのは踊るようにその口角を吊り上げよう。貴方の思いなんてどうだっていい。どう思っていても笑ってくれていたらそれでいい。そしたら、幸せでしょ? ただ、笑わせれたってだけでいい。
 ミュゲイアはそれだけしか見ていない。
 ミュゲイアが誰かを笑わせれたという事しか見ていない。
 笑顔しか見ていない。
 だから、みんなの欠陥もどうでもいい。
 拳を振り上げられても笑ったまま。
 ただ、咄嗟にグレーテルに打たれた方の頬を手でおさえた。
 次は壊れちゃうかもしれないから。
 けれど、そんな小さな不安もすぐに掻き消された。
 リヒトが笑ってくれた!
 素敵な笑顔! お星様みたい! キラキラね! とっても素敵!とっても愛らしい!愛おしい笑顔! 笑顔! 笑顔! 笑顔! 笑顔! 笑顔! 笑顔! 笑顔! 笑顔! 笑顔! 大好きな笑顔! お星様の笑顔! ミュゲイアの大好きな笑顔! 幸せにしてくれる笑顔! 嗚呼、とっても幸せ。
 コアは満たされてゆく。空いたグラスに幸せが注がれてゆくみたいに。
 幸せが溢れて止まらない。
 コアは満たされている。


「リヒト! とっても素敵な笑顔! やっぱり、リヒトは良い子だね! ミュゲ、リヒトの笑顔大大大好き! 幸せそうでとっても嬉しい! どうしてミュゲがオミクロンになったのかよく分かってなかったけどリヒトの笑顔を見るためだったんだね! その為なんだよ! あはははっ!」

 どっちがコワれているかなんて分からない。
 最初から壊れてなんかいないのかも。
 壊れていたって笑えばいいよ。
 笑って吹き飛ばすようにミュゲイアも笑う。
 リヒトに近づいて、雨なんか気にしないで。
 ただ、笑う。
 きっと、二人の間だけは晴れだから。
 偽りの空の外側は晴れているかもしれないのだから。
 ただミュゲイアはこの時を愛する。恋人とのひと時を抱きしめるように。

「うん! 一緒に帰ろ! 手も繋ご! うん! じゃあ、他の人にも聞いてみるね!
 ふふっ、リヒトってば嘘の笑顔なんてあるの? でも、幸せじゃないのは嫌だね。ミュゲが幸せなお披露目に出来たらいいのにな!」

 ミュゲイアの事を待つリヒトの方へと嬉しそうに駆け寄って手を繋ごうとする。
 仲良く帰ろう。
 笑顔で帰ろう。
 甘いひと時に雨の音をのせて。

《Mugeia》
 雨にずぶ濡れになりながら笑っていたあの子の笑顔をミュゲイアは未だに恋する乙女のように覚えている。
 寝る時も朝起きても思い出すのはあの笑顔だった。
 濡れて萎れた花冠を頭に乗せたまま、煌めく満天の星のようにあの子は笑っていた。
 あの笑顔を思い出すと今でもコアが満たされてゆく。
 ドバドバと溢れるように。
 恋人とお互いの熱を分け合う夜のように。
 体中が満たされてゆく。
 ただ、笑顔のまま。
 ただ、笑ったまま。
 ミュゲイアは今とても満たされている。
 ずっとずっと遠かった星を手にしたように。
 流れ星が手の中に落ちてきてくれたように。
 流れ星の落ちる先をただ探している。

「あっ! リヒト! ちょうど探してたの!」

 有象無象のドールたちの中から一等煌めく星をミュゲイアは見つけた。
 そちらへと駆け寄ってミュゲイアはその手に触れるだろう。
 もし、足を止めてくれるならミュゲイアはお星様の耳元で囁く。


「ミュゲね、開かずの扉に行きたいの。案内してくれる?」

 有象無象のドールたちに紛れるように、その土塊は歩いていた。あの日からコアはどうにも空いたまま、ただ実感のない焦燥だけが、ノートの中から訴えかけてくる。成すべきことがあるのだと。やらなきゃいけないことが、あるのだと。

 罪を償え。陥欠を直せ。代償を払え。責任を果たせ。甘い記憶に耽溺した怠惰と、認められたと舞い上がった傲慢と、逃げ出した臆病を贖え。

 さもなくば────、

「……おう!」

 春風のように唐突に現れた囁きを聞いた、その途端。上手に作った満面の笑みで頷いて、断る選択肢は、リヒトには無い。

「開かずの扉は、2階から3階へ登る階段の踊り場。……でも怪しまれるといけないからさ、あくまで、そう言う“噂”を追いかけてたことにしよう」

 な、と念を押しながら、リヒトはふいっと階段の方を向き……笑顔がまた抜け落ちてしまわないよう、より一層、注意した。

 ミュゲを連れ立って、いかにも教室を移動していますよ、と言った態度を崩さないまま……リヒトは進む。コワれた記憶のざらつく感触に、疲れきった体を動かして。

【開かずの扉】

 あなた方は、リヒトの先導によってその場に辿り着く。

 二階と三階の間に位置する踊り場。あのお披露目の日、リヒトはこの場所からこの世の地獄へ至った。ミシェラが赤い炎に焦がし尽くされた、あの──黒い塔への限られた入口が、そこにある。


 あの扉は、踊り場の壁にぴったりと馴染むように存在した。一見何もないように見えるため、多くのドールはその扉の存在に気が付かず、前を通り過ぎてしまう。

 まるで、ドールの生活には不要な区画だから、巧妙に隠されているかのようだ。
 しかしよく観察すると、扉枠はきちんと存在している。ドアノブなどは存在せず、故に開き方が定かでない扉だった。


 ──そして、開かずの扉の前には先客が居た。

 ブーゲンビリアの瞳を真剣に細めて扉を見据えるのは、少年型のドールだ。星々を映しとったように煌びやかに瞬く銀色の長髪を三つ編みに編み込んで流した、美麗な好青年である。

 彼は階段を登ってきたあなた方に気付くと、「ああ、悪い」などと言って道を開けようとして──はた、と。

「……あっ、ミュゲ? こんなとこで会うなんて奇遇だな!」

 あの気のいい笑顔で、アラジンはミュゲイアに笑いかけた。

Aladdin
Mugeia
Licht

《Mugeia》
 そういう噂を追いかけている。
 そういう事にしようと言われれば、ニッコリと笑って頭を縦に振る。
 そのまま、リヒトに連れられてミュゲイアは開かずの扉があるらしい2階と3階の間の階段の踊り場の方へと歩いて行く。
 そんな場所に扉なんてあったのかよく分からない。
 そんな場所を注意深く見ることがないからなのか、はたまた隠されているからなのかそれは分からない。
 だって、ミュゲイアは開かずの扉について一切知らなかったから。
 グレーテルから聞いた話でしかミュゲイアはそこを知らない。
 だから、開かずの扉には魔女と怪物がいるとかいないとかその位でしか何も知らない。
 一度、開かずの扉について聞きに行った事も知らない。
 開かずの扉のある場所についてミュゲイアの目に飛び込んできたのは扉ではなかった。
 星屑を散りばめたような銀色の長髪を三つ編みに編み込んで流している美麗な少年型ドール。
 ブーゲンビリアの鮮烈な瞳の同志だった。

 それと同時にドクンとコアが高鳴った。

 ここに居たくない。
 ここに居たくない?
 ここに居たくない!
 警報がうるさくなるようにミュゲイアは何故かこの場に居たくないとそう思ってしまった。
 何故? なぜ?
 何故か此処に居たくない。
 早く、風よりも早く、秒針が進むよりも早く。
 もっと、春風が吹く前に。
 一刻も早く、この場所から離れたい。
 恐ろしい何かがミュゲイアを抱きしめてしまう前に。
 恐怖に撫でられる前に。
 ミュゲイアは開かずの扉の場所に着いてすぐに2、3歩後ろへと後ずさりをした。
 浮かべた笑顔を固まらせたままに。


………いや。


 そんな弱々しい言葉を一つ声に出して、走り出そうとした足はもつれてミュゲイアはその場に転んでしまう。
 それでも起き上がろうとせず、ベッタリと寝そべったまま動こうと手を伸ばした。
 まるで助けを求めるように。

 一段、一段、階段を登る度に何か苦しくなって行って、動揺と恐怖が作り物の体を支配する。足から染み上がるようなあのトラウマが、背を焼くようなあの業火が、逃げ道を丁寧に崩していった。知らず、リヒトは肩で息をしながら開かずの扉に辿り着く。

 ───でも、募った感情が爆発したのは、リヒトでは無かった。

「み、ミュゲ?! ちょ、待っ」

 おかしい。

 ミュゲはここに初めて来たはずだ。話を事前に聞いていたとしても、ここまで強烈な反応を示すのは、明らかにおかしい。

 まるで、『行動をカギにして、何かを思い出した』みたいな。

「……ご、ごめ」

 ミュゲの知り合いらしいブーゲンビリアの輝きをちらりと見て、申し訳無さそうに目線を下げ、リヒトは転けたミュゲに手を伸ばす。

「……大丈夫? ど、どうした?」

 出会った途端、みるみるうちに可愛らしい笑顔を強張らせていったミュゲイア。彼女の細い足がもつれて転げてしまう様を、アラジンは驚いて瞠目しながら見ていた。
 彼女の細い指先が伸ばされる。その救いを乞うような手付きに、連れ立っていたリヒトが一も二もなく駆け寄るのを彼は見ている。

 そして彼もまた、見逃す道理などはなく、当然そちらへ駆け寄っていくだろう。

「ミュゲ、どうした? ……顔が強張ってる。何か怖いのか? そうだな、ちょっと……ここから離れよう。ここに居ると目立っちまうしな」

 アラジンは至って冷静にそう助言すると、周囲を軽く見回し、「ロビーの方に行こう、座れる場所があるはずだから」と提言した。
 その後はミュゲイアの身体を支える手伝いをして、「起き上がれるか?」と気遣うような優しい声を投げ掛ける。

《Mugeia》
 とても怖い。
 何故怖いのかも分からない得体の知れない恐怖がミュゲイアを追いかけてくる。
 転んでしまったせいで膝はズキズキと痛んでいるのにそれすらも頭の隅に追いやってしまうほどの嫌な感じがミュゲイアを抱きしめる。
 どうしたらいいのか、この感情はなんなのかミュゲイアには分からない。
 マイナスな感情なんて感じたくない。
 嫌な思いはしたくない。
 そんなの幸せじゃない。
 助けを求める手はミュゲイアの唇に触れた。


「……ミュゲ、ミュゲ怖いの? ……ねぇ、ミュゲは笑えてる? 笑顔だよね? ねぇ、リヒト? アラジン? ミュゲは笑顔だよね?」


 三日月を浮かべる口角で、笑ったままの口元で、魚のようなギョロっとした目でリヒトとアラジンの事を見た。
 まるで縋るように。
 だって、ここは怖いから。
 だって、ここはずっと無意識のうちに避けてきたから。
 2人に助けられながらヨロヨロと起き上がってもミュゲイアは開かずの扉の方を見れない。
 リヒトの手をギュッと握って、身体を支える手伝いをしてくれたアラジンの事もギュッと握って。
 ミュゲイアはただ子鹿のように震える足取りでこの場を離れようとするだろう。
 アラジンの言っていたロビーへと向かうために。

「……ミュゲは……」

 もし、以前までのリヒトだったら。きっと膨れ上がった忌避される未来に恐怖して、必死に“笑えているよ”と伝えるだろう。もし、忘れる前のリヒトだったら。きっとミュゲの中の恐怖心を哀れんで、何とか彼女に“笑顔以外の大切な感情について”を伝えるだろう。

 でも、今は、なんというか、それどころじゃなかった。

 だってミュゲは、きっと、リヒトが笑顔でいようが、笑顔のお面を被っていようが、その差に興味は無いみたいだから。

「笑顔だけど、幸せじゃないな」

 淡々と、淡々と。

 どう取り繕ったって隠しようのない、恐怖の滲んだ笑顔を伝える。それでいて震えるミュゲの体を、テーセラモデルの体でしっかり支えながら、ロビーまで降りていった。

《Mugeia》
 ただ、笑っていた。
 ただ、笑えていると言って欲しかった。
 その言葉がミュゲイアを励ますから。
 その言葉がミュゲイアを包み込むから。
 その言葉がミュゲイアを安心させるから。
 ただ、ミュゲイアは笑えているという言葉を求めていた。
 笑えているなら大丈夫だから。
 笑えているなら幸せだから。
 笑えているなら。
 笑えているなら。
 笑えているなら。
 なにも怖くない。

「え? なにそれ? 笑顔なら幸せでしょ? それならリヒトが笑って! 今すぐ笑ってよ! ミュゲを幸せにして! あの時みたいに笑って! ……幸せじゃないなんて言わないでぇ。」

 淡々と。
 淡々と吐かれた言葉は煙のようにボヤけてミュゲイアを包み込み、鐘の音のようにミュゲイアの頭の中に鳴り響く。
 それを聞いてミュゲイアはガバッとリヒトの方へと身体を近づけた。
 笑えているなら幸せでしょ?
 幸せじゃないってなに?
 幸せじゃないといけないの。
 笑っていないといけないの。
 ミュゲイアはそういうドールだから。
 ミュゲイアにはそれしかないから。
 それなのにかのドールは残酷にも現実を見せてくる。
 とても残酷に美しくその瞳はミュゲイアの顔を映し込む。
 嗚呼、嫌だ。
 その笑顔と目が合ってしまったら。
 きっと、もう戻れない。
 だから、ミュゲイアはリヒトの顔から目を背けた。
 そして、そのままロビーへと行ってしまう。

 笑顔に執心して、恐れを包み隠そうとする、痛ましいミュゲイアの姿。アラジンはそれを見て、何か伝えようと口を開きかけた。
 だがどこか深刻な様子でミュゲイアに告げるリヒトの言葉を聞くと、それ以上に添える言葉はないと判断したのか。何やら只ならぬ空気の漂う二人を気遣って、彼はそれきり口を閉ざし、ミュゲイアを支えてロビーに向かうだろう。

【学園1F ロビー】

「……オレはリヒト、ごめん。その、手伝ってもらって。……“アラジン”、だよな」

 ロビーに辿り着いたら、ミュゲのことを宥めつつ、困ったように口角を上げて『アラジン』に挨拶をする。

「……そいや、アラジンはどうして、あんなとこに居たんだ?」

 どこもかしこも重たい緋色で塗りたくられた、窓のない大広間。行き交うドールズは言葉少なで、気分も重く沈殿していくような圧迫とした空気が流れている。

 アラジンはあなた方をその一角のソファに誘ってから、リヒトの自己紹介を耳に入れ、快活な笑顔を向ける。

「リヒト、宜しくな! そう、オレはトゥリアクラスのアラジンって言うんだ。ミュゲとは芸術クラブの同志で、芸術活動を一緒にしてるんだ。

 それで、オレがあそこに居たのは……知りたいことがあったんだ。開かずの扉のことは噂になってるからな、その噂の真偽を確かめたかった。

 オレ、外のことが知りたいんだ。あの扉の先が外の手掛かりになってる気がして。お前達も噂を聞いて来たのか?」

《Mugeia》
「……そうだよ。ミュゲもその噂を聞いてやってきたの。でも、ちゃんと開かずの扉の事見れなかった。開かずの扉の事何も知れなかった。ちょっと残念。……リヒト、ごめんね? 連れて来てもらったのに!」

 先程よりも落ち着いたようで、ミュゲイアはゆっくりと語り出す。
 ニッコリと貼り付いた笑みで。
 無理にでも幸せそうにするように。
 元気でいるように。

 オレは笑ってるだろ、最初から。しっかり口角も上げてるし、さっきまでお前、ご機嫌だったじゃん。

「別にいいぜ、大丈夫。……でもさ、正直、初めて来たんなら、ミュゲがこんな感じにはならない気がするんだよな」

 ごめんね、と謝ったミュゲに大丈夫、と返す。ロビーのふかふかしたソファと深紅の絨毯はよく音を吸うようで、ちゃんと聞こえているかは少々不安だった。

 アラジンの快活な笑顔に、困ったような疲れたような笑みを絶やさないまま……リヒトは少しの間、言葉を詰まらせる。

「……開かずの扉の向こう、か。

 とりあえず、あの部屋からじゃ、多分外には出られないんじゃないかな。……こう言うだけじゃ、だめか?」

 何度も何度も言葉を選ぶように、口を開いては閉じ、言いかけてはやめて、ようやく。ほとんど信用は難しそうな証言を、申し訳無さそうにリヒトは伝えた。

「……ああ、忘れる。ミュゲの怖がり方は尋常じゃなかった、それはオレにもわかったから。忠告してくれてありがとな、リヒト。

 ……なあミュゲ、今はちょっと気分が動転してるだけだ!」

 リヒトが発する言葉の重みを、アラジンも察したらしい。あなたへ感謝を告げつつも、彼はミュゲイアへ目を向ける。
 何かに追い立てられるように、自分が笑顔で幸福であることを言い聞かせようとするミュゲイアを、いよいよ我慢ならないといった様子で元気良く励まし始めたのだ。

「大丈夫、少し休んだらまたいつもの笑顔になれる! お前は笑顔になるのと、誰かを笑顔にするのが大の得意だもんな。

 誰にだって不調な時はあるさ! 今がちょうどその時ってだけだ。落ち着いて深呼吸して、あの扉の事は……今は忘れよう。」

 彼女が何かの妄執に取り憑かれている気配は、アラジンだって感じていた。とにかく今は落ち着いてもらおうと、その一心で言葉をかける。

《Mugeia》
「ありがとう。リヒトは優しいね。とっても、優しい!
 ……来たことあったのかな? グレーテルはね、ミュゲがベンゼンの所に開かずの扉の事聞きに来たって言ってたから、もしかしたら来たことあるのかも。でも、ミュゲその事覚えてないの! でも、今まで開かずの扉がある階段使ってなかった。何故か避けてたの。」

 頭の中がグルグルと回ってゆく。
 知らない自分がいるみたいに、身に覚えのない事が起きてゆく。
 何故、あの場所を避けていたのか。
 何故、あの扉を恐れてしまうのか。
 何故? 何故?
 まだ、その答えは分からない。
 どうしようもないオミクロンのガラクタには分からない。
 何も分からない。

「そうだよね! アラジンの言う通り、ミュゲはみんなを笑顔にするの大好き! 今はちょっと不調なだけだよね! 今だけは扉の事忘れた方が幸せだよね! みんな笑えるよね! ね?」

 ニコニコとグルグル回った頭のままでミュゲイアは頑張って幸せそうにしてみた。
 いや、ミュゲイアはいつだって幸せ。
 けれど、ミュゲイアはアラジンの言葉を聞いて落ち着いた。
 求めていた言葉を聞けたように。
 ただ、ミュゲイアを肯定するようなその言葉。
 それを聞いてミュゲイアはニッコリと笑った。

「もう開かずの扉の事はみんなで忘れて笑顔になっちゃお!」

 そうやって白い小鳥は笑ってみせた。
 幸せを押し付けるみたいに。
 鈴蘭が落ちてしまわぬように。

「……覚え、て……」

 オミクロンじゃない、つまり、コワれていないドールの記憶の中に、ミュゲの事が残っている。そして、ミュゲ自身は覚えてないのに、恐怖がそこに“在る“。

 なんだか、震える寒さが背を撫でた。コワれた自分の頭と、事情が絶対に違うであろうことは理解しているが……ノートに取ろうと、心に決めた。不気味な行動を、信じられない絶叫を閉じ込めた紙片にまた、不信と共に軌跡を書き込もう。

 快活に話しかけるアラジンの声に、ぱっとリヒトは顔を上げて、ミュゲの声を聞いた。笑って。笑えるよね。笑顔になっちゃお。

「っはは! まあそうだな、気にしない方がいいに決まってら。忘れておこう、な」

 ……ああ、笑えるさ。

 幸せで塗りつぶされるように。
 落ちた鈴蘭を拾うように。


「……とにかく、あそこは外には繋がってない。でも、でもさ」

「学園のどこかには、必ず、外に出られる場所があると思う。オレの方でも探してみるよ、アラジン」

 ひとしきり笑った後、リヒトはアラジンに向けてそっと話しかける。ブーゲンビリアを、その輝きを直視する勇気はまだ無いけれど……添えるような声は確かに、役に立ちたいのだと語っていた。

「まあ、開かずの扉にはおっかねえ怪物の噂もあるからな。ミュゲは知らずのうちにそれを聞いて、無意識に怖がってたのかも知れないぞ。
 本当に怪物が出てきたらオレらにはなすすべもねーしな! ハハハ!」

 不思議そうに首を傾げるミュゲイアへ、その彼女が取ったあまりに異様な拒絶反応について、アラジンは自身の解釈を告げた。彼が知る事は思いの外少ないのだとあなた方は悟るだろう。
 少なくとも、怪物の姿を目視しているリヒトと、その話を聞いているミュゲイアと違い、アラジンは開かずの扉の先に何があるかをまだ知らないらしい。

「外に出る道が……あるといいよな。お披露目に選ばれればどのみち外には行けるって分かってるけどさ。

 何か分かったら教えてくれ、リヒト。……あ、なあ、もし良かったらお前も秘密の芸術クラブに入らないか!? 自分のやりたいことをする芸術活動なんだ!」

 ふと、彼は名案だとばかりにリヒトへ向けてクラブ活動をしないかと明るく誘いかけた。無論強制はしていない。返答はあなた次第である。

「ひ、秘密の、芸術クラブ?」

 ぱち、と土塊は瞬いた。

「ええと、お、オレ絵とか上手くねえし、器用じゃねえよ。コワれてるし、歌とか、文とか、そんな……」

 明らかに話題の渦中が自分になったことで、リヒトは明らかに動転してしまった。見てもらえている、という高揚とは裏腹に、じくじくと滲む痛みが腹の底から立ち上る。

 手癖で、理由もよく分からないままに作った不格好な花かんむりを触った。ほどけてずるりとずれた。

 上手くないし、器用じゃない。
 やりたいことも、ない。

「……だからさ、出来るようになったら、行く!」

 誘いに乗って、のこのことその秘密の芸術クラブとやらに行ったとして。コワれてないキレイなドールたちと、一緒に、芸術をやることになったとして。歌って、描いて、書いて。

(そこでもし、めちゃくちゃな失敗をしてしまったら……)

 それはどんなに、惨めだろう。


 だからリヒトは精一杯に取り繕って、ミュゲを誘って寮にもどろうとした。ブーゲンビリアは輝いて、それを見つめる勇気はまだ、無い。つかの間、あったはずの自信も、今は欠けてどこかに消えて。ただ進まなければならない道だけを追って、リヒトはとりあえず、逃げた。差し伸べてくれた、アラジンの手から。

 誰もいないダイニングの椅子を借りて、さも復習をしているようなフリをして、リヒトはいつものノートを書いていた。ミュゲのことも、アラジンのことも、開かずの扉のことも…。その、途中。

「『行動をカギにして、何かを思い出す』」

 ノートに書き込む手を止めて、ページをめくって、文字をなぞる。一文字一文字、確かめるように、虫食いのように穴だらけになった、記憶を何とか揺り起こすように。

 M-i-c-h-e-l-l-a
 A-s-t-r-a-e-a

「分かんない、不気味、怖い、何なのか知らない、思い出せない……」

「……思い、出したい」

 例え、どれだけ、かつての自分が気味悪く、困惑するようなものだったとしても。もう誰かも分からない少女人形に対して、助けたかったと思っていたのは、助けたいと思っていたのは。

 忘れようもない、確かな文字列だから。

「……よし」

 どんな行動がカギになるか分からない。悠長にしている暇があるかどうかも分からない。思い出して意味があるかも分からない。思い出さない方がいいのかもしれない。

 それでも、手を伸ばさなくちゃいけない。背を焼く業火がそう叫んでいる。

 とりあえず、寮と学園を丸ごと見て回ろう、と思って、リヒトはノートを鞄に入れて立ち上がった。目に付いた扉に手を伸ばして、開ける。

 そこは、洗浄室だった。

【学園1F 洗浄室】

 洗浄室は二つの区画で分かれている。
 手前側の区画はドールズが制服を脱いで皺がつかないように保管しておく場所。この区画はリネン室も兼ねており、シーツやタオルの替えも何枚も棚に収められている。

 奥には洗浄室がある。ドールズが自身の体内に巡る燃料の老廃物を摘出し、洗い流すための区画だ。中央にはドールが横たわるための作業台が一台設置されている。

 頭がぎっと擦られるような、ギリっと絞られるような、そんな感覚は無い。……今のところ。
 アテが外れたかな、と首を傾げて、真っ白なタオルやシーツの変えが並ぶ中を歩いて、洗浄室の中へ向かった。

 その途中、入口に立って中に入ろうか逡巡していた、その時。

「青? 青い……なんだこれ」

 赤い燃料が循環しているはずのドールの体にはそぐわない、青色の跡が見えた。赤黒い腐敗物の中に。
 うっ、とたじろぎながらも、洗浄室の台の上まで近づいてみる。

 ドールの洗浄を行うための奥の区画には、赤黒い汚れがこびり付いた作業台が置いてある。これはドールが洗浄の際横たわるためのもので、この汚れは洗浄の末に排出する老廃物であるとあなたは知っている。

 そんな作業台の上に、僅かに青い液体が付着していることにあなたは気がつく。それは乾いたインクのように作業台に定着していて、拭っても取れないものだった。無臭であり、青いということ以外に特徴が見られない。

 ……これもドールの身体から出てきたものなのだろうか?

 また、あなたが作業台に近付くなら、その足元に大きな傷が残っていることに気が付く。まるで作業台に乗ったドールが激しく暴れたかのような、怖気の走る生々しい傷だった。

「え」

 息を、飲む。

 思わず洗浄室の入口の方をばっと振り返って、人影が居ないことを確認する。そして、慎重に警戒しながら、傷口の近くにしゃがみこんで観察してみた。

「……誰だ、これ……!」

 ここまで傷がつくなんて、相当暴れたに違いない、なんて明確な結論は、思考機能の壊れたジャンクでも手繰ることができる。じゃあ、誰が。事実の向こうに手を伸ばせないリヒトには分からない。テーセラの、誰かか? 何を、何かをされたのか。洗浄の時? 

 嫌な予感をぐっと飲み込んで、リヒトは傷をしばらく観察して……そのまま、吹っ切るように歩き出す。宛先は決まっていないけれど、上げた足をどこに向ければいいのかも分からないけれど、歩かなければいずれ、崩落と地獄に追いつかれるから。

 床を爪で引っ掻いたような傷であったり、作業台自体が倒れてしまったかのような激しい争いの痕跡が残っている。傷の深さも相当根強いもので、ここに居たものは力の限り暴れたのだろうと想像に容易かった。
 もしこれほど暴れたのであれば、少なからず体が脆弱にできているトゥリアの指先には何かしら痕跡が残っている筈だ。しかしあなたの覚えている限りではそんな異変はなかったように思う。それ以上の手がかりは見当たらない。

【寮周辺の森林】

Rosetta
Licht

《Rosetta》
 偽物の空に、雲が満ちている。
 太陽が隠れた曇天の日、ロゼットは森林に向かっていた。
 理由は特にない。コゼットドロップの採取としてもよかったし、心を落ち着けるためでも構わない。
 特段することもなかったので、何の気なしに向かった──というのが一番正しいだろう。
 ツリーハウスのことは、まだ夢のように思っている。
 同伴した彼らの顔を見ることこそあれど、あの時のことが現実とは未だに思えない。
 ドールズを苛む一切が、夢であるような気さえしているのは、現実逃避に過ぎないのだろうか。

 「あ」

 草を踏む脚が、歩みを止めた。
 見覚えのある姿が視界をよぎった気がして、そちらを一旦中止してみる。
 前にいたのだろうか、それとも後ろにいたのだろうか。どちらにせよ、彼女はのんきに手を振って、「おーい」と呼びかけるのだろう。

 森林で授業をするのは、もっぱらテーセラモデルだから、彼にとって森は馴染みある友人だった。………例えデザインされたものだとしても。

 だから、涙を擦って擦って無かったことにしてしまうには、その木漏れ日は一番だった。木に隠れるように座り込んで、後悔を擦り付けるようにノートを書いて。その時、のんきな声が、遠くから響く。

(……や、べ)

 人工宝石の涙は隠されなければならない。欠けたクリスタルガラスに価値が見出される日は来ない。だからそんなもの土に染み込ませて、拭って笑って、やることをやらなきゃ。

 みんなの役に、立たなくちゃ。

「……ロゼ!」

 振り切るように立ち上がり、おーい、と手を振る彼女の方に木々の間から姿を出して、こっちも手を振る。そうだ、言いたいことがあるんだった。柵越で得た情報を伝えなくてはならない。

 でも、その先は? 
 事実()の先は?

 その先に希望を示せないなら、残酷な現実を伝えるべきかどうか。すっかり自信を欠いてしまった土塊は、答えを持たないまま、神出鬼没な真紅の彼女をどこか居心地悪そうに待っているだろう。もし、彼女がこちらに歩み寄るのなら。

《Rosetta》
 目の端に残った雫が、紛い物の陽光に照らされて輝いている。
 本人が何も言わないのであれば、触れない方がいいのだろう。顔色ひとつ変えないまま、ロゼットは彼に駆け寄る。

 「リヒト、こんな所にいたんだね。何をしているの?」

 忙しいようには見えないが、何か事情でもあるのだろうか。
 コゼットドロップを探しているのであれば、自分のモノを渡せるかもしれない。
 そんな軽い気持ちで、彼女は小首を傾げる。何を告げられたとしても、そのまま受け入れようとすることだろう。

「森の中に何か面白いものがないか、探してた。何って言われると……わかんないけど」

 今日は日差しが眩しいし、と理由をつけて、リヒトは森の中の……寮からは木々で隠れる場所に、ロゼを手招いた。

「……会えてよかった。話したかったんだ」

 『きっと、信じられない話を』と前置きして、リヒトはいつものノートを開いて、ページをめくる。目的のページが出てきたら開いて、まるで勉強で分からない部分を尋ねるように、ロゼに差し出した。

(一枚ページが千切られた跡がある。)

「ロゼは、その、何か見つけたりした?」

 尋ねる目は、少しだけ震えながら、ずっと寮の方を見ている。あの日の、あの黒い雨を恐れてか、人影がこちらに向かって来ないかどうか確認しているらしい。

 傍から見たら、散歩の後に少しの休憩をしながら雑談する2人。ときどき勉強について聞いたり、なんでもない話をしたりする、落ちこぼれのドールズ。
 ただ、これがそんな平穏な風景でないことを、牧歌的に描かれた2人は知っている。

《Rosetta》
 ぺらり、ぱらり。
 軽い音を立てて、紙が捲られていく。
 口元は歪みもしない。三日月のような微笑みは、薄い唇のどこにも見られなかった。

 「……今回も、大変な目に遭ったんだね」

 同情でもなく、かと言って突き放すようでもない。
 いつもの調子で、ロゼットは口にした。
 ツリーハウスに向かう間、柵を越えようとしていたのは、彼らだ。
 フェリシアと、リヒトと、ソフィアと、アストレア。
 恐らく、この四体と見て間違いない。
 動機は分からないが、見つけたものはほぼ同じらしい。違ったのは、運の悪さ──否。手段の違いだろう。

 「見つけたよ。あなたたちと同じタイミングで、越えたから」

 ぴったり、リヒトに身体を寄せる。
 何を──とは、言う必要もないだろう。
 森の遥か、遥か向こう。リヒトとは正反対の、柵の方を、銀の眼は示した。

 「ツリーハウスがあったの。他のクラスのドールに、連れて行ってもらったんだ」

 作り物は、割れかけのドールの目を捉える。
 散々聞いた事実に対して、震えひとつも見せなかった。ただ、誰かに聞かれぬように、逢引きもかくやという声量で呟くのみである。

 あまりに、あまりに。ロゼの表情が変わらないものだから、リヒトは不安になって振り返り、その、薄く弧を描いた唇を見た。思えば最初からそうだった。信じられないから表情が動かないのかとも思っていたけれど、これは、なんだか……。

 その時、ごく普通の、変わる隙もないような平坦な声が、聞き馴染みのない言葉を紡ぐ。

「えっ………?!」

 つりー、はうす?

「あ、そっか、ええと…そういうことか! ドロシーってやつ、そっち居なかった? 割となんというかこう……優等生な感じの、ちゃんとしてるやつ」

 千々に散らばった記憶の中に、そういうものがあった気がして、リヒトはノートを返してもらって、読み返す。やっぱり、記載があった。

 ピタリと身体を寄せられた時、びっくりして肩が跳ねるけれど、意図するところは分かっている。合わせて自分も息を潜めて、草原を吹き抜ける風に隠れるように息を潜めた。

「ジャックってテーセラのやつにこの前、聞いた。ドロシーと、柵を越えようとしてるって……そっか、きっとそれにロゼも一緒だったんだな」

 何があったんだ、と目だけで尋ねて、凪いだ硝子の瞳の奥を見つめる。そのつるりとした反射光に映る虚無に、石を落とすように、問いを投げた。

《Rosetta》
 どうやら、彼はドロシーとジャックのことも知っているらしい。当然だ、同じテーセラのドールだったのだから。
 引っかかる言葉はあったけれど、些事であると判断したようだ。質問に答えるために、浅く息を吸う。

 「コゼットドロップを追いかけて、ツリーハウスに行ったの。中には上半身だけのドールと、誰かのノートと、カメラとかおもちゃがあってね。カンパネラが泣き出したり、お兄ちゃんがイライラしてたり……色んなことがあったよ」

 波紋ひとつ起こらないまま、ドールアイは光を透かしている。
 どんなことがあったのか、具体的に説明するのは得意ではない。究極何も起こっていないと言えるし、そこにあった全てのモノに起因して様々なことがあったと言ってしまうこともできる。
 だから、ひとまずあったことだけを口にした。詳細な説明が必要なら、他のドールが話してくれるだろう。

「こぜ、こぜっ……コゼット、?」

 ツリーハウスに続く、聞きなれない言葉。人の名前か、と一瞬思ったけど、どうやらそれは追うものらしい。疑問を挟もうとしたその瞬間、音もなく曲線を描くロゼの言葉はよどみなく流れる。

「ま、待て待てっ、い、いっぺんに……!!」

 だから慌てて、メモを取るしかなかった。

「えっ、と。まずその、森の中のツリーハウスってやつに……ドロシーと、ジャックと、ロゼと……それからカンパネラと。お兄ちゃん……だから多分、ブラザーさんも居た、ってことか……」

 いつものペンを取りだして、ノートのページにもくもくと書き込んでいく。思考能力がコワれているから、段階を踏んでいかないと分からない。歯痒いが、それがリヒトだ。どれだけ悔やんでも呪っても、欠けた歯車は回らない。

「あのさ、この……こぜっと? どろっぷ、って……何? それからその、は、半分のドールって……」

 一段落した後、とりあえず走り書きした単語たちを読み返して、リヒトはロゼに質問を重ねた。

《Rosetta》
 ペンを動かす音と、草を踏む音。それから、二種類の話し声がする。
 森林の中だというのに、他の生物の息遣いすら聞こえない。
 ヒトもどきの発する音だけが、緑の空間を構成していた。

 「コゼットドロップは、青い花だよ。手触りがツルツルしてて、水に浸すと水が青くなるの。ツリーハウスの周りにたくさん咲いてたかな。
 半分のドールは、昔“お披露目”で焼かれた子みたい。オミクロンじゃなかったみたいだけど、ミシェラと同じ目に遭ってたんだ」

 先ほどよりは、ゆっくりと。書き留めるのには遅すぎるほどのスピードで、彼女は口にする。
 彼が妹分を忘れたことは、まだ知らない。聞き返されても、きっと意図を掴むことは難しいだろう。

《Brother》
 話し声に、もう一種類。

「こんにちは、二人とも。
 なんの話してたの? 良かったら、おにいちゃんも混ぜてほしいな」

 嫋やかな笑みを浮かべた銀糸のドールが、ゆっくりと二人に近づいてきた。声の方を向くなら、ブラザーは軽く手を振ってみせるだろう。
 のんびりした声はいつもより甘く聞こえるかもしれない。“おにいちゃん”の顔はいつもより青白く、わざとらしいくらいに二人を溺愛する感情が漏れていた。

 ダンスホールからの帰り道。
 見かけた二人のかわいい弟妹の元に、自然と足は動いていた。

Brother
Rosetta
Licht

 ミシェラ、さん。

 備忘録数ページに渡り、自分が謝罪を向けていた相手。助けたかった、らしい、相手。大切に思っていて、友達として仲良くしていて、その全てが、身に覚えのない相手。

 それでしかない少女。
 それ以外が亡い少女。


 記憶にない喪失感に襲われて、言葉がぐっと止まる。きっとバレちゃいけない。忘れてしまったことを。バレてしまったら、きっと、ミシェラさんを大切に思う全てから────。そのくらい、コワれていてもわかる。

「青い花、つるつる」

 だから、なんでもないようなフリをして、ノートを取っていた。ペンが走る滑らかな音の向こう、その時ふっと、声が来る。

「…………うげ」

 お兄ちゃん、とは呼びたくないので、目線をさ迷わせて『ブラザーさん』と呼んだ。見下ろす、影に入った彼の目を見るのは少し気恥しい気がした。距離感を測りかねている。

「え、ええと……」

 どこまで話したらいいだろう。どこまで知っているんだろう。ツリーハウスには居たらしいけど、そうしたら何処まで。
 知らず、備忘録を胸にぎゅっと抱きしめて、リヒトは後ろめたいように少し後ずさった。

《Rosetta》
 「お兄ちゃん」

 甘ったるい声を耳にして、ロゼットは振り向いた。
  ブラザーがこんな所にいるとは、珍しい。ぱちぱちと瞬きをして、小首を傾げた。

 「お兄ちゃんも珍しいね。今、リヒトと王子様のお披露目を知った日の話をしてたの」

 ちらり。
 視線はまた、柵の方へと向けられる。
 暗に示しているのは、温かな食卓ではない。寒々しいツリーハウスの帰り道、葬儀のような空気の中で耳にしたものである──ということだ。
 兄が汲み取ろうと、汲み取るまいと、彼女は話を続けるだろう。

 「それで、どこまで話したっけ。上半身だけのドールの正体は話してないかな?」

《Brother》
 ふらり、目眩がする。
 どこに行ったって、誰と話したって、何も変わらない。

 この学園で吸う息は、こんなに重かっただろうか。愛する箱庭で、ただ穏やかな日常を送ることすらもう叶わないなんて。

「……待って」

 崩れ落ちそうになる脆い足を制して、口を開く。そうだ、感傷に浸る暇なんてない。思考を止める甘えも、現実逃避に使う時間も、全部、全部、全部!

「無闇にその話をすべきじゃないよ、ロゼット。まだこの場所をどうにかする算段すらないんだから、何も知らない子に絶望だけ与えるのはよくないと思う」

 柔らかく目を細めたまま、静かに首を振る。その動きはロゼットを責めるものではなく、諭すに近い。同意を求めるように深紅を見つめるアメジストは、リヒトが何を知って何を知らないのか分かっていない。故に、無知な弟を守ろうとしている。

「大丈夫……その、ええと、えーーーっと………お、“おにいちゃん”」

 諭そうとする言動に待ったをかけたのは、その場で一番、無知で愚かだとされた子供。悩みに悩んで、躊躇いに躊躇って……それでも話を聞いて欲しかったから、こっちを見て欲しかったから、あえて『おにいちゃん』と呼んだ。ほんとはすごく恥ずかしかったのは、ここだけの話。

「分かってる。知ってるよ、聞く前から。ミシェラさ……ミシェラ、のことも、お披露目のことも」

 『へへ。上手く、隠せてただろ』なんて、冗談めかして笑ってみて。ミュゲも誤魔化せたコワれた笑顔は、雰囲気が重くならないように努めている。これは、暖かく柔らかい日々の一幕。継ぎ接ぎの平穏。嘘つきの午後。悟られてはいけない。こんな所で。こんな、所で。

「サンダンがないから、話すんだ。オミクロンは落ちこぼれなんだから、たった独りで何とか出来る訳ないだろ……って、思う。
 だから教えて、ロゼ。そのドールの正体について」

 だから、の所でロゼに向き直る。知らなくていい、なんて言わせない。知らなくていい訳が無い。ちょっとだけ申し訳ない気持ちを風に流して、真紅の声を待った。 

《Rosetta》
 微笑みを称えたまま、深紅の薔薇は口を開く。
 言葉の重みも、現実の苦しみも、何にも実感を持たないまま。 ブラザーに何を与えるか、自覚せずに言葉を放った。

 「私が話したことをどう受け止めるかは、聞いた子次第でしょう? 知りたい子がいるなら教えてあげたいし……お兄ちゃんが嫌なら、お兄ちゃんがいるところではしないよ」

 リヒトが真実を知っている、という前提は共有しないまま。紫水晶が煌めくのを、銀の目は映していた。
 少年ドールが話したことについては、ちいさく頷いて返した。
 ドール一体で解決できることなら、とっくにノートを書いたドールたちがどうにかしているだろう。
 どうにもならないことだからこそ、予防線を張るという意味でも、伝える必要があるわけで。
 後付けの理由を考えながら、彼女は「いいよ」と返す。

 「彼女は昔、お披露目で焼かれてしまったドールみたい。名前はあんまり覚えてないのだけど……カンパネラが苦しんでいたから、多分知り合いだったのかな。誰かがもう一度動かそうとして、失敗したっていうのが書かれていたよ」

 そんな感じかなあ、と。
 ブラザーの方をちらりと見たのは、訂正を求めるためだ。
 決して嫌味が言いたいだとか、そんなことはない。かかしの頭には、何も詰まっていないのだから。

《Brother》
 二人のときにしか呼ばれない呼び方に、ブラザーはリヒトの方を見る。驚いたような顔でそちらを見つめていれば、弟は笑った。ロゼットの言葉も耳に流れ、薄く開いていた口を閉じる。

 たった一人ではどうにもならない。
 それはその通りなのだろう。

 けれど“おにいちゃん”は、そう在れない。

「……そう。
 もう知ってるんだ。なら言えることはあるかもしれないね」

 曖昧に笑って、ロゼットの目配せに答えるように続ける。これはブラザーにとって、“言ってもいい”こと。一番大事な事実には触れぬまま、やんわりとロゼットから話の進行権を奪っていく。

「その子はシャーロットって名前だった。エーナクラスのプリマドールをしていた子で、お披露目直前に怪我をしたらしい。それできっと……オミクロンと同じ、末路になった。

 ツリーハウスのことはもう聞いたのかな。あと他に、空のことは知ってる?」 

「知ってる。空は偽物って、他でもないセンセーに教えてもらって……そうだ」

 促されるままに、答える。答えられる、という経験はあまり無かったために、密かな喜びが満ちて罅から零れていくが、そんなことを気にしている余裕は無い。考えたことが、あの日のセンセーの動きの中で、不思議で不自然なところがあったんだった。
 ノートを手繰って、お目当てのページを見つければ改めて、二人を見る。

「聞きたいことがあった!
 その……ええと、ブラザーさんにはまだ言ってなかったな。うん。オレと、ソフィア姉と、フェリと、アストレア、さん、で……柵を超えて。脱出する道が無いか探したことがあったんだ。

 もともと30分の、短い時間でやる予定だった。フェリと……アストレア、さんが、足止めで。オレとソフィア姉でパッと見て帰ってくる形で……。でも、センセーは、真っ直ぐ、オレたちのとこに来た。この広い森で、めちゃくちゃな短時間で、すこしも間違えることなく。だから……」

 オレ、考えたんだ、と前置きして、ひとつ咳払い。リヒトは、至極真剣な顔をして言った。

「センセーは、“魔法使い”なんじゃないかって」

 『……なんで、その。ツリーハウスの方には行かなかったのかな』と、これが聞きたかったらしい彼は真面目な顔で二人に尋ねる。

《Rosetta》
 ふたりの話が流れていくのを、ロゼットは黙って見ている。
 気分は悪くない。仲間たちが喧嘩にならず、普通に話せているならそれでいいのだ。
 ただ、まあ。リヒトの疑問については、ちょっとばかり考え込んだ。

 「魔法使いなのかもしれないけど……ツリーハウスって、色んなモノが隠してあったよね。先生も、見つけてほしいモノがあったんじゃないかな?」

 流石に飛躍しすぎているかもしれないが、彼女はそう考えた。
 居場所を知ることができるなら、お披露目の日に外に出たドールも用意に把握できるだろう。
 だが、そうなっていないのであれば。そうしないだけの理由があるのではないかと、そう思いたいのだ。

 「ほら、先生って優しいし」

 論理とは程遠いことを言ってから、ブラザーの意見を求めるだろう。

《Brother》
「ん、と……ちょっと待ってね。
まず、そのノートって僕も見ていいのかな。良いなら読ませてくれると嬉しいな」

 二人とも、話が飛躍している気がする。
 けれどそれを直接伝えることはせず、ブラザーは困ったように眉尻を下げながらこめかみを抑えた。順番に、ひとつずつ考えていこう。まず事実を咀嚼しつつ、リヒトが捲るノートに視線を落とした。何やら情報が纏めてありそうだし、読ませてもらえるのなら有難い。

「それで、間違えることもなくっていうのについてなんだけど……。

 僕も同意見だよ、僕らの居場所を知ることが出来る方法があるかもしれないね。その方法があるなら、それは……」

 言いかけて、止まる。
 “それ”はあまりにも非現実的で、合理的で、理不尽だ。

 ───…だから、言えない。

「……それは、まだ分からないけど。

 疑問なのは、どうして僕らの方には来なかったか。居場所がわかるなら、ソフィア達だけじゃなくて僕らのところにも来るんじゃないかな」

「あ、う、ん。ちょっと待って……ここ! ここだけ読んで、な!!」

 『他んとこ読んだらダメだから!!』と、ロゼにも見せたページを開いて、見せる。彼が読み終わったと思ったタイミングで、自分の方に戻すだろう。

「だよな。……やっぱり、ロゼの言う通り、センセーがみんなに見つけて欲しいものがあんのか? でも、そうしたら……なんだかセンセーが、オレたちのこと応援してるみたいな……」

 その発想に一番、自分がゾッとして。リヒトは真っ先に口を噤む。そしてそんなことを考えてしまった、自分がいちばん嫌いになった。

 コワれた頭のせいにして、コワれた自分のせいにする。そんなこと、そんなこと、どれだけコワれていても、考えちゃいけない。だってそんなこと、ありえない。ありえちゃいけない。

「ち、違うよな。そんなこと。違う、違う、絶対……」

 違ってくれないと、この感情を、どう扱えばいいか分からないんだ。
 身に覚えのないこの、罪を。

《Rosetta》
 「応援してても、いいと思うけどなあ」

 口元に手を当てて、考えるような素振りを見せながら。
 リヒトの方は見ず、ロゼットは口にした。

 「先生はツリーハウスを見てほしくて、それで、壁の外について誤解されたくなくて。あなたたちが壁の外をどう思うか分からなかったから、声をかけた……とか?」

 目を閉じて、ゆっくりと思い出す。
 嘘か真か、ドールか否かも分からない、過日の夢を。

 「ツリーハウスには、色んな証拠が残ってたよね。ノートに、ドールに……あと、√0。リヒトたちが向かう方には√0もなかったから、見つけようとしたのもあると思うの」

  ブラザーがそれを聞いてどう動いても、特段文句は言わないはずだ。
 彼女は痛みを感じない。痛みから涙を流したり、嫌ったりすることはまずないだろう。

《Brother》
「……」

 白い肌に影を落とすほど長い睫毛に囲まれた両目は、穴が空くほどノートを見ていた。全てを読み終えて、ふ、と視線が下がる。ちょうどそのタイミングで、ノートが引かれた。

 海の中。
 知られたくない、知らせたくなかった真実。

 あぁ、何をするにも遅すぎる。

「……その可能性も、あるね。
 他にも、希望的観測にはなるけど……僕らの場所が分からなかった可能性だってある。分かるのは、ソフィア……いや、プリマの子達のものだけなのかも」

 負の方向に進む思考を無理矢理戻して、ブラザーは空虚に微笑んで頷いた。右手の人差し指をピンと立てて、それを自分のコア部分に運ぶ。

「う、うーん………そうかもな。そんな気もしてくるから、分かんねえな……クソ、コワれてさえなければもっと、何か」

 希望的観測を踏まえて、リヒトはリヒトで考えてみる。もし、分からなかったとしたら。逆にもし、見て欲しいのだとしたら。それぞれの道に先生の意図があり、それぞれの道にオミクロンの策がある。きっと。……コワれた頭では、思い至れないけれど。

 頭を振って、今度は別のことについて考えた。

「……√0って、何だろう。オレは知らなかったけど、ミュゲも知ってるし、他の、お披露目に行ったドールも知ってたって聞いた。それに、医務室のベットの、蓋にも彫ってあった。√0って、何だろう……」

 ノートのページを捲って確かめながら、リヒトは言葉を重ねる。彼らの前に横たわる謎はあまりに多く、彼らが為さねばならないことはその先に。

 見つけて欲しい、のだとしたら何となく、分からないことは無いかもしれない。蓋の裏のあれを消していないところとか。ただ、どうして直接教えてはくれないんだ?

「……ロゼ、ブラザーさん、ツリーハウスの方には何て書いてあった? その、√0について」 

《Brother》
「……『第三の壁 お前は監視されている 屍を喰らう獣 √0』
 こう演奏室の黒板に書いてあった。筆跡からしてドロシーの落書きだろうけど、詳しいことは僕も分からない」

 躊躇うように口ごもってから、ブラザーは溜息と共に言葉を吐き出した。ドロシーと口にする顔は、博愛のおにいちゃんにしては随分と不機嫌だ。露骨に眉を寄せてから、こほんと一つ咳払い。

「それと……覚えてるかな。
 前にオミクロンクラスにいた子が、しきりに√0って繰り返してた。√0はドールを救ってくれるんだってさ。

 あの子がお披露目に行った日、僕とミュゲのベッドの鍵が開いていた。僕らは二人で、学園の方に向かっていたことを覚えている。……いや、“思い出した”。

 ここからは推測になるけど、僕らは……多分、開かずの扉の先、ミシェラが燃やされた場所に行ったことがあるんだと思う」

 どうしてそれを忘れてるのかは分からないけど、と繋げて、ブラザーは黙る。何を言えばいいか───“何を言っていいか”を迷うように、口を開いては閉じるを繰り返した。

 不機嫌そうな雰囲気は、苦手だ。例え誰に向けられていようと、それが自分に向いているように思えるから。全ての悪意の矛先が、コワれた自分の歯車の隙間に突き刺さるように思えるから。

 ……なんてね。

「ブラザーさんも、ミュゲも、忘れてたってことか……」

 ブラザーさんの話をノートに書き込む端で、自分の塔の記憶について、記述がふっと目に入った。実感の欠ける、宙ぶらりんの記憶。下手に話に出してつつかれたらどうしよう、なんて憂慮が背後から抱きついて、声をそっと縫い止める。

 その代わりに、と言うように。ぱちん、と思考にひらめきが走った。

「……なあ、ロゼ! もしかして√0ってお前が言ってた巨人じゃないか?! ほ、ほら。お披露目のバケモノとはまた別なんだ………あっ」

 コワれた頭が弾き出した、欠けたネジのような回答を意気揚々と口にしようとした、その瞬間。階段を一段踏み外したみたいに、リヒトは反射的に自分の手で口を覆った。

 あれは花畑と陽だまりの中で零された囁き声だった。風がそっと届けた、硝子の秘密だった。軽々に言っていい、はずが……。

 もごもごと口元を押さえながら、そうっとブラザーさんの方を見て、そうっとロゼの方を窺う。…………バレて、ないかな?

《Rosetta》
 “前に”、オミクロンクラスにいた子たち。
 どうにも思い出せない──というか、自分と彼らの思い出したことは毛色が違う気がした。

 「お兄ちゃんの覚えているようなことは、どうにも思い出せないけれど……√0が巨人かもしれないっていうのは、違うみたい。ごめんね」

 申し訳なさそうには聞こえない口調で、彼女は謝罪する。
 リヒトが口を滑らせたことは、そう気にしていないようだ。表情が憤怒や失望に変わることもなく、予兆さえ見られない。

 「巨人は……多分、お披露目の時に出てくる“ヒト”なんじゃないかって思うな。私のお腹を食べちゃった、泣いてる巨人なの」

  ブラザーは知らないだろうから、念の為。簡単に彼女は説明したが、伝わるだろうか?

《Brother》
「巨人?」

 残念ながら、ブラザーには伝わらない。リヒトが口を覆う理由も、ロゼットがのんびりと説明した内容も。驚きそのままに目を丸くして、飛び出した単語をオウム返しした。

「ま、待ってね。巨人ってなに? ロゼットのお腹は食べられちゃったの? 泣いてるってことは見たのかな。リヒトもそこにいたの?」

 深く息を吐いて、目を閉じた。再びこめかみを長い指で抑え、冷静さを取り戻そうとする。しかしまあ、内面的にそこまで器用でないブラザーの冷静なんて限界があるのだ。
 声はいつも通り和んでいるが、矢継ぎ早な質問攻めは彼の混乱を示していた。困り眉のまま目を開けて、2人を見つめている。

「え、ええと。見たワケじゃなくて、オレはそこの、ロゼに聞いて」

 質問攻めにあったリヒトは身を竦めて、言い訳をするように目線を泳がせた。

「それだけ、ほんとにそれだけ!」

 巨人、なんて。抽象的な言葉すぎて分からない。エーナモデルの子なら巨人の話をいくつも出してくれるだろうが、リヒトの手の中に物語のカードは無いから、必死に無い頭を回す。

「……もしかして、“ヒト“ってその、大きなバケモノみたいな見た目してんのかな……」

 ダメだ、違う気がする。推論を立てては、ガラガラとそれが音を立てて崩れていくものだから、まるでずっと終わらないつみきをしている気分になった。終わらない上に、途中で柱が消える、永遠のつみき。

《Rosetta》
  ブラザーは、そういえば知らなかったのだっけ。
 小首を傾げ、ロゼットは瞬きをした。
 どうにも関心がなくていけない。もうすっかり彼に話したつもりでいたが、間違いだったようだ。

 「これは私が夢で見たことなんだけど……夢の中で、私は巨人にお腹を食べられてるの。あちこちに体液が飛んでて、石でできた巨人が泣いてて……洗浄室で起こったことなのかな〜って思ってたんだけど、どうやら違うみたいでね。リヒトはいなかったよ、私だけ食べられてたんだ」

 特に咎められなければ、彼女はリヒトの頭を軽く撫でようとする。
 調子の悪い少年ドールを、ちょっとばかり励ましたいのだろう。
 「訊きたいことがあれば、聞くよ」なんて言って、彼女はブラザーを見ている。

《Brother》
「……」
「…………」
「………………」

 沈黙。
 フリーズと言ってもいいかもしれない。

「ん、と……」

 こめかみの指をゆっくり下ろして、シュッとした形のいい顎に添える。情報を少しづつ整理しながら、ゆっくりと口を開いた。

「夢っていうのは、ドロシーが言ってたみたいな……過去の記憶ってやつのことかな。それで、その石の巨人はロゼットのお腹を食べてたんだ」

 ───あながち、魔法使いも間違いじゃないのかもね。
 ……なんて、冗談ぽく笑った。冗談じゃない可能性が不吉で、背筋がぞわりとする。

「うん、だいたい分かった。
 あと僕から共有しておきたいことと言えば……青い蝶のことかな」

 誤魔化すみたいに微笑んで、ブラザーは青い蝶の話をする。ツリーハウスで見た、シャーロットの傍にとまった蝶と不思議な声の話を。

「青い、チョウ────」

 その言葉に目を開いて、言葉をなぞるように繰り返す。……その時、ロゼののんびりとした優しさが短い彼の髪を撫でた。『わ、ちょ。ロゼお前ホント…!!』ぽん、と頭の上に重ねられた手に驚いて、わたわたと手を振る。

 また小さい子扱いされている、とむくれて、リヒトは草の上で四つん這いになり、ちょっと後ずさった。

「お、オレ見た事ある。寮の中で。一瞬で消えちゃったけど……」

 なんとか手の下から這い出たら、ブラザーにそう言うはずだ。食堂の窓の辺りで、ふわりと飛んでいた青い蝶。

 彼がどんな話をしてくれるのか、リヒトはノートを開いて次の言葉を待っているだろう。

《Rosetta》
 リヒトの頭が手から抜けて、生温いぬくもりだけが残る。
 手のひらを数秒だけ眺めてから、 ブラザーの言葉に対する感想を口にした。

 「青い蝶って、何? コゼットドロップとか……洗浄室にこびりついてた液体にも似てるね。見てみたいな」

 見覚えがあるのは羨ましいが、すぐ消えたならそれは幻覚ではないのだろうか。 植物に関心はあるが、青い蝶など今まで見たこともない。海底でどう育ち、何を食べて生きているのか、全くもって想像がつかなかった。

《Brother》
「……僕が見たのはツリーハウスだった。シャーロットの傍にとまってたんだ。青白く光るような、それこそコゼットドロップみたいな蝶だった。
 ……あ、見る?」

 静かに口を開く。
 寮で見たと言うリヒトにぱちりとひとつ瞬きをしてから、目を伏せてゆっくりと語りだした。途中でふと気づいたように眉をあげれば、ポケットから丁寧にハンカチに包まれたコゼットドロップを取り出す。そっと中を開いて、青白く輝く花弁と花を二人に見せるはずだ。

「蝶を見ると、色んな人の声が重なったみたいな声が聞こえて……だんだん頭が痛くなってきた。倒れそうになると声も蝶もいなくなってたんだ。
 リヒトは、何か聞こえたりした?」

 二人に向けて花を見せたまま、あの時のことを思い出す。声がなにを話していたかを黙っているのは、特に関係ないと思っているから。言いたくない感情を隠すように理由付けして、二人の反応を待つ。その先を聞かれれば、少し躊躇いつつも口を開くだろう。

 青白く輝くコゼットドロップを、リヒトは初めて見た。ほう、と息をこっそり吐いて、ノートに取るのも忘れて束の間、見蕩れていた。

「聞こえは、しなかったけど……思い、出した。その、擬似記憶の忘れてた部分みたいなとこ。なんだろ……思い出の人、との、追加の、思い出……? みたいな」

 しばらく花を見つめながらブラザーの話を聞いて、リヒトは思い返しながらつっかえつっかえ言葉を重ね……急に不安になったのか、寮の方を振り向いた。

「そろそろ戻ろうぜ。散歩の休みにしちゃ、長くなっちゃったかもだし」

 テーセラモデルの良い目をもって、寮の方をまた見やる。黒い雨が足音も無く忍び寄っているような、そんな様子は無かったけれど、いつだって焦燥の中にいた。
 ノートをいつもの鞄にしまって、戻ろう、とそう促して、残りの二人をそろそろと交互に見ながら待った。その途中、躊躇いがちにタイミングを考えて、確かめるように口を開いて、閉じて、開いて、ようやく、声にする。

「……あのさ。ヨユーがあったらとか、気が向いたらとか、ふと思い出したからとかでいいからさ。
 ソフィア姉とか、フェリとか、みんなとか、気にかけてやってくれよ。……やっぱ、どうしたって、コレは、つらいコトだから」

 『もちろんロゼも、ブラザーさんもな!』と、ぴっと2人を指して、笑った。頼れる2人の前で少し話して、落ち着いた部分もあるのだろうか。大丈夫、ちゃんと笑えている。

 コワれた頭で考えて考えて、そのどれもがきっと間違えていたけれど。コワれた心で見つけられる、みんなの傷には限界があるけれど。このささやかな発見だけは、真実なんだと願いたいのだ。

 オミクロンクラスは、みんなで幸せになるってことを。

《Rosetta》
 声の聞こえる蝶。
 蝶にまつわる思い出。
 まだ少し遠い出来事を聞きながら、少女型ドールは目をパチパチしている。
 これから、自分たちはどうなってしまうのだろう。
 過去の出来事を思い出して、先生たちとも決別するのだろうか。それとも、海を超えて地上に戻るのだろうか。
 とりあえず今は、リヒトのお願いに頷くだけで済ませておきたかった。

 「いいよ。あんまり分かってあげられないかもしれないけど、頑張るね」

 人の痛みも、自分の痛みでさえ分からないが、慰めはトゥリアの専売特許だ。
 できることなら、可愛い弟分のためにこなしてみせよう。

 「お兄ちゃんも、帰ろう」

  ブラザーに向けて、手を差し出す。
 それが握られなくても、彼女はそこそこ元気に歩いていくだろう。

《Brother》
「うん、もちろん。
 僕はおにいちゃんだからね」

 リヒトの言葉に柔らかく微笑んで、ブラザーはしっかりと頷いた。トゥリアドールの動きは相変わらず優雅で上品で、とても頼り甲斐があるとは思えない。けれど確かに、ブラザーはおにいちゃんである。

 ロゼットの手をそっと握って、指先を手の甲に滑らせた。感触を確かめるようなそれは、触られた本人にとっては擽ったいかもしれない。そんなことを気にせず、ブラザーは続けて口を開く。

「……僕、みんなのこと幸せにしてあげたいんだ。そのためなら何でもする。
 だから、何か困ったことがあったらいつでも頼ってね。君たちが幸せになることなら、僕は喜んで協力するから」

 にっこり。
 とびきり甘ったるく笑って、ブラザーは2人の返事を待たずに歩き出した。一方的に、分かりにくく、自分の立場を示してはのんびり帰っていくだろう。不信のやさしい業務提携を、勝手に結びつけて。

【学生寮1F 学習室】

Campanella
Licht

 では、オレたちは、こんな風に大切な人だと思ったり、友だと思ったりしていた、造り物のドールズにとっての『思い出』……『擬似記憶』というものが、本当は何か、知っているだろうか。

 リヒトは、学習室の一番前の机の上に、黒板を背に腰掛けて、誰もいない机の海に問いかけたい気持ちになった。さっきまでの授業の間も、その問いが頭を過ぎって仕方なかった。成績は元より地を這っているが、そこから飛び立つための焦りさえ、今は持つ元気が無かった。なんだか、どんなこともよくわからないという気持ちがした。

 立ち上がって去ることも出来ないまま、リヒトはまたノートを捲る。思考は、小石の挟まった歯車のようにぎちぎちと唸って、まとまらない。わざと、思考をまとめていないことに、彼はまだ気づいていない。

「……君は」

 自分たちは何処から来て、何処へ行くのか。行き先不明の汽車にいつの間にか乗り込んでいたような気分は、晴れない。擬似記憶の彼に思いを馳せて、ふらりと揺らした足は、あの日朝日を走ったはずのもの。

 ……こんな散漫な注意ではきっと、もう一人の迷子のことに気づくのは遅れるはずだ。小さな教室の何処に居たってきっと、テーセラの耳には届くけれど。

《Campanella》
「…………あ、」

 誰もいないと思って足を踏み入れた学習室。そこにあの心の柔らかい星が一人佇んでいたのを、夜空の少女はすぐ視認する。か細い声はしかし、テーセラドールの耳になら簡単に届くことだろう。
 彼女は教材を抱えてはいなかった。復習や予習のためにここに足を運んだわけではなかったからだ。代わりにカンパネラの手の中には、小さな木の箱が収まっていた。

「リ、リヒトく……さん。……あの、ごめんなさい。……お邪魔でしたか」

 恐々と紡ぐがしかし、カンパネラにしては滑らかな言葉だった。相手はカンパネラの恐怖対象からすっかり外れた、あの愚かしく優しい、同じ傷を持った隣人なのだから。
 拒まれなければ、カンパネラは少しずつリヒトの方へと歩み寄るだろう。

「……ちがうちがう、ぜんぜん邪魔じゃない、大丈夫」

 もう一人の迷子が夜の色をして、恐々と声を掛けてきたものだから、星はいつものようにちかちかと笑って応えた。

「大丈夫……」

 いつものように、は出来なかったみたいだ。それもそのはず、だって星では無いのだから、輝けるわけがない。言い聞かせるように繰り返して、リヒトはまた、黒板の夜を背にする。
 今日の彼の授業の出来は、散々だった。傍から見れば、リヒトはそれに落ち込んでいるように見えるだろう。そう見えていて欲しい、と思う。

「なあに、それ。……って、聞いていいか? うん、答えなくてもいいからさ」

 カンパネラの手の中にある、木の箱をそっと見つめて、また目を逸らして尋ねる。目を合わせないようにしているのは、ささやかな心配だ。きっと目を見つめられるのは、コワれた己を見透かされているようで、辛いだろうから……なんて、自分勝手な配慮だ。
 歩み寄ってくるカンパネラを拒みもせず、ただ、リヒトは考えた。擬似記憶と、学園の秘密と……それを彼女に、カンパネラにどう、伝えるか。コワれた自分に出来る、たった少しのこと。

《Campanella》
「…………そう………」

 力なく歩み寄る、少女の目元は赤く染まっている。何度も服の袖で擦った、その跡だった。ぱちりと瞬く瞳はリヒトのことを見つめている。大丈夫そうにはとても見えない。
 何か、あったんだろうか。カンパネラは思うけれど、それを追及するような勇気はなかった。下手に手を出すと、彼の中の何かが、或いは二人の間に通う何かが壊れてしまうような気がした。
 星は、弱っている。それだけは分かる。

「……………えと……」

 答えなくても良い。そうやって逃げ場を作ってくれるのは、彼も逃げ場を求めることがあるからなのだろうか。
 カンパネラは改めてきょろきょろと学習室を見渡す。人の気配はない。扉の向こうにも、誰もいない。それを確認すると、彼女はリヒトの隣に一席分の空白を開けて、そっと席に着いた。小箱を机の上に置き、少し言葉を放つのを躊躇うように呼吸をして、そしてゆっくりと口を開く。小箱は木製で、その材は継ぎ接ぎであった。

「………ちょっと前に、備品室で……見つけ、ました。なんであんなところにあったかは、分からないけど……。
……オルゴール。音楽を奏でるからくりです。誰かの……手作り、みたい。」

 ぽつ、ぽつと答える声はごく静かだ。リヒトの有する苦悩を知らない、穏やかであると共に、ひどく沈んだ声。言い終えれば、彼女はしばし沈黙した。
 ストームの言葉を思い出したのだ。リヒトとフェリシアが、ミシェラの“最期”を見たという話。……ならばきっと、アストレアがこれから見る地獄のことも知っている。
 何と声をかけて良いのか、分からない。ただささやかな応答しかできずに、カンパネラはそのまま口ごもる。

「……すごいな」

 価値を低く見られないように隠しておいたダイアモンドの原石を、うっかり零してしまったような。そんな純粋な感嘆が、零れる。

「楽器でもないのに、音楽が流れるんだ! しかも、手作りとか。作ったドールはきっと、すごく器用なんだろうな」

 きっと授業で関連の文化について学んだことはあるが、リヒトのコワれたメモリーからうっかり欠けてしまっているのだろう。
 素直な驚きを言葉にして、リヒトはまた箱を見つめた。見つめて、何かを思いついたようにはっとした。

 そして、しばらくの時間の後、ようやく。誰かに口のチャックを開けることを許されたかのように、リヒトは口を開いて、話し始めた。

「……最近、思い出したんだ。擬似記憶の、スキマ。オレの記憶は、オレの……親友との記憶、なんだけど。アイツ、あんな高い木に登ってオレのとこまで会いに来て、アイスクリームの屋台がーって。ほんとに、何処にでも行けそうな顔で、言うんだよ」

 そこで、言葉を溜めた。今、自分は何をしようとしたのだろうか。こんな、カンパネラには何の関係も無い話をして。


 ああ、そうか。

 シャーロット、という人の事で酷く傷ついたらしいカンパネラを、励まそうとしたのか。

 こんな、ジャンクが。


「だから、その。
 大事な人との大事な記憶って、いいよなって。きっと何があったって、星みたいに、きらきらしてて………違う、そんなこと言いたいんじゃ、なくて」

 だから、オレは、コワれてるんだよ。距離感も間合いも分からなくて、話一つ出来ないんだ。これじゃあ、テーセラの『友』としての機能すらまともに働いてないじゃないか。
 呵責に責め立てられ、あっという間にチャックを閉じられてしまったように、リヒトは押し黙った。続く言葉はもう、無いようだ。

《Campanella》
 器用、だったんだと思う。思うだけ。カンパネラは彼のことをよく覚えていないし、そもそも友達だったのかも分からない。誰か、と濁したのはそのためだったのかもしれない。

「………うん……」

 曖昧に頷いて、それで対話は一旦止まって。

 リヒトは、特に関係のない話を始めた。疑似記憶の隙間。曖昧な偽物の記憶に隙間があるというのは不思議な話だったが、特に遮ることもなくカンパネラは話を聞いていた。木に登って会いに来て、お菓子の話をする親友。空想上の話みたいだ。実際、疑似記憶ってそういうものだけれど。

「大事な人の、大事な、記憶………」

 どんな暗い夜でも、それは彼が言うように、星が煌めくように道を示すだろう。カンパネラは記憶の中の……今は、傍にいるけれど。姉とのぼんやりした思い出が、自分にとっての星であったことを自覚する。
 自覚して、そして。
 その星々のひとつに、金色のあの子がいることに、気付く。

「………あのね。聞いてほしいことが、あるんですけど………良い、ですか?」

 リヒトは、どぎまぎしながらカンパネラの言葉を待った。怒られるだろうか、馬鹿にしたって。呆れられて、もう見向きもされなくなるだろうか。
 一瞬のうちに、彗星のように駆け巡った憂慮は、しかし現実に襲いかかることは無かった。

「! ……うん、聞く。話して」

 そっと、流れ星に願い事をするように囁かれたお願いに、リヒトはパッとカンパネラの方を向いた。そして、大きな安堵がコアから溢れる。
 リヒトは、今度は間違えることのないように、しっかり教室の向こうの方を向いて、カンパネラの囁かで綺麗な、星の声に耳を傾けて、ただ待った。待つ時間でさえ、静かだった。

 沈黙が、彼らの間で静まりかえっていて、それはまるで大きく深く暗い、あの偽物の空が夢見た本物の空のようで。二人の迷子のコアはただ、蠍の火のように燃えていた。

《Campanella》
「………わたし。……長い間、ずっと、無かったことにしてしまったんです。大事なひととの、……大事な記憶。」

 罪の告白のような響き。声には息が多く混じり、抑えられているのが分かるだろう。
 頭の中で言葉を組み立てないよう気を付けた。さっきみたいに、あの陰惨な光景に呪われて、口を開けなくなってしまうから。
 どんなにめちゃくちゃで不明瞭な話でも、彼なら聞いてくれるって、信じて。

「疑似記憶じゃ、なくて……ここでの記憶なの……。……たくさん、忘れているみたい……思い出せたことも……まだ、少なくて………忘れちゃってたんだって分かったのも、本当につい、最近で。」

 ただの都合の良い夢だって思ってた。あんなに暖かくて優しい場所に、わたしなんかが辿り着けるわけないから。
 ただの悪い夢だって思いたかった。あんなに素敵な女の子が、あんな目に遭っていいはずがないから。

「………現実だった。ほんとうに、あった……。
……これもね。この、オルゴール………備品室で見つけたって、言ったけど……本当はね、贈り物だったみたい……。」

 『お前のために作ったんだ』。そう言ってくれたのを覚えている。知っている。声を、不器用な笑顔を、あの夕暮れの光を。

「………でも、彼の名前が……顔が、……分からない。わ、忘れて、しまって。思い出せないの。どうしよう、……思い出せないのが。………苦しい……」

 長く、短い、夜の涙を静かに聞いた。それは要領を得なかったけれど、代わりに押し流されてしまいそうなほどの深い感情に包まれていた。流されてしまわないように、絶対拾わなくちゃいけない、大切な感情を間違えないように。リヒトは声を出す。

「……カンパネラ、は」

 迷って、迷って、迷って、
 迷って、迷って、迷って、

「ちゃんと、がんばってる。思い出せなくても、思い出そうとしてるし。忘れてたことを、ほんとに……後悔、してるし。苦しくって、分かんなくても、ちゃんと、大切な記憶を、大切にしよう、って、してて」

 迷って、迷って、迷って。

 リヒトは戸惑いながら、少ないメモリーの中で煌めく、星屑のような言葉たちを、いつか誰かに与えられ、一生懸命に飲み込んだ言葉たちを、一つ一つ、拾って、集めて。星座を作るように、繋げて、迷って、拾って、迷って。



「…………きっと、それって。
 “つぐない“、なんだと思う」

 そして、この言葉を選んだ。



「出来なくて、コワれてて、だから忘れてしまうのが、オレたちの罪で、罰で。……出来なくても、コワれてても、頑張ろうとするのが、つぐないで。だから、ええと……」

 『……ダメだ、全然上手く言えねえな……』と申し訳なさそうに呟いて、その瞬間、ぎゅっと握ったままだった、リヒトの拳の上にはたりと、光が落ちる。それはきっと、価値を低く見られないように隠しておいた、ダイアモンドの原石。

 わかっていた。この言葉を、誰が1番欲していたか。それでも、この言葉を彼は、カンパネラに贈る。

「大丈夫。カンパネラは、頑張ってる。ちゃんと、つぐない、出来てるよ」

 どうか、伝わりますように。

《Campanella》
 少しずつ線を結ぶ言葉に、カンパネラはその茨の檻みたいな前髪の奥で、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。頬を撫でる涙は温かい。

「……償い?」

 想像し得なかった言葉を、そうおうむ返しして反芻する。償い。忘却を罪と、そしてそれに抗おうとすることを、彼は償いと呼んだ。その少年の頬を伝う水滴は、自分のものよりも何百倍も美しい。

「………そう、かな。……そうなのかな………」

 言いながら、カンパネラはオルゴールの表面をまた指先で撫ぜた。
 備品室で見つけたあの日から、このオルゴールが奏でる音色を聞くことはできていない。なんとなく怖かった。

 それは夕暮れ時。
 それは淡いきらめき。
 それは、とても大切な思い出だったはずだった。道を照らす星々のひとつに数えられる、ひどく美しい光景だ。
 その光景が怖く思えて、封じ込めたくて、旋律を聴くことができない。本当は逃げたいんだ。ただ逃げられないだけ。
 そうだよ。リヒトさん。わたし、頑張るとか、そんな立派なことできてないよ。

「………そうだったら、良いですね。」

 自己否定にシフトし始めた心に反し、カンパネラはそう言った。すぐにぎょっとした。どうして今、わたしは彼の言葉を受け入れたのだろう?

 出来なくて、壊れていて、だから忘れてしまう。そのことを、リヒトは“オレたち”の罪だと、そう言った。単なる言葉の綾というやつなのかもしれなかったけれど。
 思考する。欠けた頭が考える。もしも、その罪さえも、わたしたちの間に横たわる橋の上にあるものなのだとしたら。
 ねえ、あなたも何か忘れたの?
 そう問うのは簡単だ。でもできない。カンパネラは臆病だから。無理に罪と呼ぶものを暴かれて、嫌われるのが嫌だから。
 もし、暴くのならば。

「……聞いてくださって、ありがとうございます。
………あの。……あなたも何か、その……聞いてほしいこと、とか。……ありますか?」

 暴くのならば、そういう形がいい。望むなら言ってくれればいいし、望まないなら話はそこでおしまいで構わない。
 彼がしてくれたように、逃げ道を提示する。むろん、罪の話でなくたってカンパネラは構わなかった。ここは懺悔室じゃない。彼だけが、聞き手じゃない。

 次は自分の番であることも、薄々わかっていた。二人の蠍の火は、近くにいるようで、何光年も遠いような距離に居る。夜空を渡るか細い糸電話ひとつで、微かな振動を頼りに互いの心を感じるような。その間隙を選んだのは、彼らだった。
 また言葉を拾うために、リヒトは俯いた。

「オレは、きっと……カンパネラと、一緒なん、だ」

 続きを話そうとして、口を開いて、言葉が……見当たらない。リヒトは軽く目を見開いて、そうして気づいて、諦めたように、笑った。怖いのだ。わかっていた、勇気を出して自分のことを話してくれたのに、自分は怖くて話せないような、そんな情けない弱虫が……出来損ないのリヒトだ。

 もし、ミシェラさんのことを、アストレアさんのことを、忘れたって、バレたら。薄情だって詰られるかも。冷酷だって責められるかも。無能だって嗤われるかも。不出来だって失望されるかも。無駄だって諦められるかも。不要だって置いていかれるかも。しれない。

 もし、もし。そうだと、して。そうなった、として。皆にそう、言われたら……。
 その瞬間、リヒトはきっと、リヒトの心をコワすから。

「……それ、しか、言えなくて。あはは……情けねーけどさ! ……すごく怖くて、怖くて、それしか、言えない。
 ……だけど、だけど」

 ワガママな、言い訳だ。そんなこと自分でも思う。両手を、ぎゅっと握り締めた。やってしまった後で、『そんなつもりは』なんて、なんて身勝手で、都合のいい、無責任な。


 それでもコアが鼓動するのだ。

 ────オレだって!


「オレはきっと、忘れたくなかった。オレはきっと、亡くしたくなかった……! あの子の、ことも、あの人の、ことも……忘れる前のオレはきっと、『忘れたくない!』って叫んでた」

 『…………と、思う。以上!』と締めて、顔を上げた時、きらめく原石のような少年ドールの涙は影も形も無い。彼は一時表に出したそれを完全に、心の奥にしまいこんでしまった。これ以上、自分の価値が低くならないように。弱さをさらけ出して、失望されないように。

《Campanella》
 ああ、やはり彼も、同じ罪を。返答は何も意外ではなくて、カンパネラは机の上に視線を落としながら、一人分の空白の向こうの悲鳴にただただ耳を傾けていた。
 彼がいったい何を忘れたのか、気になりはしても追及することはなかった。情けなくなんかない、と否定してやることができないのは、カンパネラの弱さだ。

「………そっか。」

 “わたし”も、そうだったんじゃないだろうかと思った。あんな大切なものたちのことを、忘れたくて忘れたわけがない。だから今、必死になって思い出そうとしているんだ、きっと。逃げ出したいと思ってしまうのも本当だけど。何億光年の距離のさなか、薄皮一枚の共感を覚える。これで良いと思う。

 リヒトの美しい涙は、いつの間にやらどこかへ消えた。でも、カンパネラの涙がまだ彼女の眦をふやかしているように、彼もまだ泣いているに違いないと思った。傷跡を手のひらで覆っただけで、泣き止んだなんて言葉とは程遠い。……いたたまれない。

「……思い出せると、いいですね。お互い……その人たちのこと。」

 当たり障りのないことを言って、また言葉を終えた。でもそれは誤魔化しから出たのではなく、まごうことなき本心だ。
 忘れるのは辛い。そしてそれと同じくらい、忘れられるのも辛いだろうから。

「そうするんだ、そのために頑張るんだ……きっとそれが、つぐないだ」

 確かめるように、瞬きをゆっくりしながら、言葉を体に染み込ませる。自分で言い放った言葉が、今更になって深い実感としてリヒトの中に広がっていく。

 つぐない。
 彼の辿ってきた線路の上に転がった、無数の罪と罰に対する、つぐない。この旅路はつぐないだ、おそらく、出来損ないの体で、生まれ、生きてしまったことへの。

「話聞いてくれて、ありがとな。……オレ、行かないと。どこに行けばいいか分からないけど、何かしなくちゃいけないような、気がするんだ」

 それは、常に彼をつき動かしていたものだった。どれだけ傷ついても風を打つ翼のように、星を目指す醜い体は、業火から逃げながらいつのまにか、ちりちりと燻り出していた。
 どこか遠いところを見つめるように目を細めて、リヒトは小さな頼み事をする。

「……次。もし、次、今みたいに話せたら。その時は……子守唄を歌ってくれよ、カンパネラ」

 天鵞絨の席を飛び降りるように、軽い身のこなしで机から降りて、たくさんの疑問とたくさんの傷と、共に見つけたひとつの言葉を手に、リヒトはひらりと学習室を去っていった。

 白鳥の停車場につかなくても。新世界交響曲を聞けなくても。ケンタウルの露を知らなくても。サウザンクロスに行けなくても。
 一人と一人のコアは、何度も傷つき、血を流しながら、確かに蠍の火のようにうつくしく燃えている。ちかちかと、鼓動している。

《Campanella》
「はい。…………」

 行かないと。同じことを思った。わたしも、もう行かなくちゃ。償うために、この乗り込んだ列車が、どこへ辿り着くかを知るために。
 カンパネラの心は、絶えず燃えている。水晶のように透き通り、その内に火を飼っている。火の正体は、やっぱりまだ彼女には分からない。けれどいつか、すぐに知るだろう。臆病なカンパネラ、愚かしきカンパネラ、その原動力たる炎の名前を。

 リヒトが青いビロオドの席を発つのを、眺めた。眩しいものを見るみたいに思った。

「………うん。……いくらでも、歌いましょう。」

 もうこの箱庭に夢を見られない少年ドールのために、カンパネラは歌おう。母でも恋人でもなく、隣人として。或いはそう、ひとりの……友人として。
 その返答はきっと、テーセラドールのリヒトにならば届いたはずだ。か細いカンパネラの声を拾うのに、きっと慣れているであろう彼ならば。

 カンパネラはオルゴールの上蓋を開く。金属製の天使像に触れる。回す勇気はやっぱり、出なかった。

「………ごめんね。

 ……きっと、思い出してみせるから。……待っていて」

 償いをしよう。この残酷な忘却を、贖おう。リヒトが見つけてくれた言葉と向き合う。視界を赤く塗り潰す情動が、何度も何度も座り込む彼女をいつものように立ち上がらせる。
 ずっと忘れていた、太陽みたいなシャーロットのことも。贈り物をくれた、名前も分からぬ少年ドールのことも。
 思い出してみせる。赦されなくたって、構わない。

 泣いてばかりで、ろくに情報を与えられなかったカンパネラに、優しいソフィアがそっと差し出してくれたヒントを思い出す。図書室の『ノースエンド』、シャーロットを追うディア。

 オルゴールの天使像は再び、影の中に埋もれた。

【学園3F ガーデンテラス】

 学園、三階。両開きの扉を前にして、たじろぐジャンクドールが一体。

 リヒトは元々、ガーデンテラスが苦手だった。少しだけ。くもりなく眩い陽の光に包まれていて、キズひとつ無い完璧なドールたちが歓談する楽園は、ジャンク如きが行っていいものでは無いように思えたから。コワれたこの体が、その完全な午後をコワしてはいけないと、思い込んでいたから。俯きがちだったテーセラクラスの時も、ついに落第したオミクロンクラスの時も。

 しかし、今は違う。彼はこの太陽が偽物だって知っているし、この学園が二万里の海の底にあることも知っている。
 そして、何より。何億光年の果てから、見つけた言葉がある。

「……大丈夫。ちょっと見て、帰るだけ。すぐだから、大丈夫」

 欠陥した自己を恥じ入る気持ちを、グッと飲み込んで。偽物の日向に向かって、一歩、足を踏み入れた。

 あなたは両開きのガラス製扉を開いて、ドールズの箱庭へ踏み入る。
 球形の天井からは、麗かな春の日差しが降り注ぐ。先ほど寮でも見た晴天が、一面に大きく広がっていた。
 陽光を浴びて、テラスに敷き詰められた芝地と花壇に植わった可愛らしい花が咲き誇っている、が、花弁はやや渇いているように見えた。ちらほらと点在する真っ白なガーデンテーブルと椅子では、優雅にお茶会をするドールズの姿も見られた。

 そこは、完全な“トイボックスの春日の午後“。……と言うにはいささか、違和感があった。それは乾いてしまった花弁の隅や、ぽっかり残された空席の陽だまりの中に。とりあえず、ひとつ。リヒトは確かめる。

……変な、音?

 ドーム状のガラスの向こう、そこに広がる嘘の空。そちらの方から確かに、何かの音が聞こえた気がした。

 ガーデンテラスの隅の空席に後ろ髪を引かれながら、リヒトは異音の元へ向かう。

 予想は、外れた。
 ────ほんの少しだけ。

「……?」

 ガラスのドームの隅に移って、ジョウロを探している振りをしながら耳をそばだてて。そこで聞こえた異音の正体は、鈍く響き渡るような、機械の駆動音。想定していた、……水の音とはまた、別のもの。

 ノートを取りだして軽くメモを書き、少しだけ、考えてみた。
 この機械音は、何だろう。トイボックスを動かす不思議な装置。もしくは、嘘つきの空を映し出す、魔法のからくり。

 自分が考えた答えはやはり、どうにも下らないような気がしてしまって、リヒトは首を振った。気を取り直そう、ここに来たのは……このどん詰まりのノーチラスから抜け出す道を探すためなのだ。少なくとも、寮の方には無かったそれを。

 またジョウロ探しに戻りながら、花壇のそばをゆっくり歩いて、今度はドームの外側をテーセラの目で見つめてみる。

 ドーム状に形作られたガラスの向こうには、相変わらずのどかな晴天と遠くまで広がる森林が映し出されている。眼下には階下のダンスホールの天井と思しき白い屋根が見えていた。
 だがこれらは全て映像に過ぎないとあなたは知っている。

 どれだけ目を凝らそうとも、その先の景色が見えてくることはない。延々と同じ平穏な空が見えるだけだった。


 また、あなたがガーデンテラスの花壇の方へ向かうならば、花壇へ水を撒く為に設置されているであろう真っ白な立水栓が視界に入る。蛇口部分の側には、エバーグリーンのジョウロがポツンと置かれていた。

 目を伏せ、気づかれないような些細な嘆息を、見つけたエバーグリーンのジョウロの底にこぼす。だけど、下手でも誤魔化そうと思ってジョウロを探していた、その動きを止める訳にはいかない。水を汲んで、辺りをさっと見渡して……咎めようとしてくる影が無いことを確認。そして、やや乾いた花弁たちに、覚束無い手で水をやった。

 こうしていると、なんだか自分がここに居ていいような気がして、不思議だ。そんな事ないのに。

 そこそこ時間を掛けて、花壇の端から端まで、水をやる。花は水をやったことに対して感謝しないし、掛け方が下手だったことに対して激怒したりもしない。それがなんだか、心地いい気がして。エバーグリーンのジョウロの主も、きっとこの距離感が好きなのだろうな、と思った。

 ────さあ、向き合おう。

 ここに来た時からずっと気になっていた、テラス席の空白に。

 その席は、まるで日向に愛されたような心地よい陽だまりに当たっていた。他のドールがこの席を使用していないことが不思議なほどに、優しげな暖かさの漂うこの席に、あなたは無性に心惹かれていた。

 真っ白なガーデンテーブルとチェアが一緒くたになったちいさな席だった。あなたがそっと腰掛けると、対面の空席で光がちらつく。

 その椅子に、青い蝶が軌跡を描いて留まった瞬間を目撃する。

 ──次の瞬間、あなたは脈絡もなく襲い掛かる苛烈な頭痛に苛まれることになるだろう。こめかみから針を刺し貫かれたかのような衝撃的な痛みに、あなたは呻き声を溢さないではいられないはずだ。

 テーブルに寄りかかりながら、あなたは幻の風景を垣間見る。それと同時に、あなたのコアがドクン、と嫌な脈動をした。

 青い、チョウだ。目で追った。体が自然と、一歩前に動いて。きっと“つぐない“だと話したなら、それはミシェラさんとアストレアさんだけでない。擬似記憶の、彼に関してもそうだろう。きっとそうだ。取ってつけたような言い訳が脳裏に過ぎる。そしてただ、高尚な言葉も億光年の発見も無い、甘いだけの記憶を追いかけるように、完全な世界に腰掛けた。きっとまた、あの日のとろけるくらい美味しいアイスクリームみたいな、優しい記憶に溶けてしまえると、欲張って。

「────!!!」

 さあ、罰の時間だ。

「ぁ、ぐ……ぃ゛っ───!!」

 激痛と共に、シロップ漬けの苦い果実のような記憶が蘇る。それはもう、窓辺で溺れた時のように甘くはない。耽溺と幻覚に味を占めた愚者を搦めとる、蜘蛛の巣のようだ。
 そして孤独は、惜しんだって素知らぬ顔で去っていく夕日のようにリヒトに迫った。逃れようのない喪失は、今よりずっと体の弱かった“記憶のリヒト“の首を絞める。そうだ。そうだ。君がもう行ってしまう。君がもうずっと遠くに行ってしまう。あんなに強がって親友だなんて言うんじゃなかった。みっともなくても縋るんだった。こうして何もかもが不出来だから、今でさえ『置いていかないで』と声に出せないから。だから、遠く、遠く、どんどん遠く、昨日が追いつけない時間へ、今日の手が届かない場所へ、明日の背を超えたずっと先へ、君が────。



「『いたい』」

 痛いんだ、胸が。



 ……あ。
 君が、戻ってきてくれた。

 罪悪の味のする、よろこび。







「…………いたい、いたい。いたい…いたい、いたいよ。いたいから、いたいんだ、だから……いたい、いたいんだよ、お願い。いたいんだ、いたい、いたい……」

 ガーデンテラスの机に突っ伏した状態で、リヒトはただ、浅い呼吸混じりに『いたい』と繰り返していた。自分のコアが酷い熱を持って、激しく脈打っているのを感じていた。拍動に突き動かされながら、喘鳴と嗚咽の間に言葉を繰り返す。取り憑かれたように、こうしなければいけないと、深く自分に刻み込むように。

 ────「いたい」と言ったら、戻ってきてくれる気がしたのだ。


 たった今、コワれたばかりの
 もう意味の亡い、空白。

 そこにいたはずの、何かが。



「いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい……」

【寮周辺の平原】

Amelia
Licht

 ノートのページを、指でなぞる。書き込まれた文字と、乾いたインクと、雨跡の薄い凸凹に触れる。その、コワれた頭では思い至るのも難しいほどの、情報的な価値を思う。このノートはとっくに、個人的な領域を超えて、大きな爆弾のようになってしまった。

 だから、このページは要らないな。心の中でそうひとりごちて、リヒトはある日のページをゆっくりとちぎって、取った。

 ……あと、もう一つ。数枚めくった先の記述を見て、リヒトはインク壺に指を突っ込んで、指でインクを広げて、その内容を塗りつぶしてしまった。
 そうして、その記録と記憶はぐちゃぐちゃな黒インクの染みの向こうに消えてしまった。もう読み取ることさえ難しくなってしまったことを、ちゃんと無くなったことを確認して、リヒトは短く、息を吐く。

 大丈夫。
 これは、誰にも関係ない。

 オレが覚えていた時と同じようにやれば、ゼンブ上手くいく。忘れたなんて、無くしたなんて、そんな自分勝手なことでメイワクをかけちゃいけない。というかそんなこと、言えない。気づかれたくない。バレちゃいけない。こんな、時に。

 大丈夫。
 オレがバレないように演れば、ゼンブ上手くいく。


 噴水の水で手を洗って、ちぎったページは鞄の底に突っ込んで、ノートとインク壺とペンも、一緒に入れる。それから、リヒトは青空を見ないように俯いて、その場に座り、花冠を作り始めた。これもきっと、つぐないだ。

 覚えてないのに、もうここには亡いのに、手は勝手に動く。ありえないくらいに優しく、穏やかな動きで、祈りを込めるように。

「……よお、アメリア」

 なんとか形になった花冠を持ち上げて、形を見ている時……その奥の方から、馴染みの青色が姿を現したから。ふっとそっちから目を逸らして、ぶっきらぼうに名前を呼ぶ。不格好な花かんむりは、未だに手の中に。被せてもらう小さな頭も、見失ったままに。

《Amelia》
「おや、リヒト様。」

 その日、いつもと同じように探検の為に寮から出て来た彼女は、偶然にも良く見知った顔のドールと行き会った。
 彼の名はリヒト、数日前にノートを見せてくれて、多大な情報を共有してくれたドールにして愛しい友人。
 丁度花冠を作っていたのだろうか?
 土を落とした時に汚してしまったのか、或いはそもそも噴水を調べていたのか、どちらかは分からないが濡れた手に一瞬ちらりと目線を向けてから近寄っていき。

「あの後、ノートを見せて頂いてから幾つかの情報を得ました。
 良ければそれらを共有したいと思うのですが……隣に座っても?」

 と、気軽に問いかける。

「……いいけど、そーだな…」

 花かんむりはとりあえず、自分の頭に乗せることにした。乗せた弾みで茎がズレた気がするが、気にしてはいられない。雑にズボンで寝れた手を拭いて、すっと、寮の方を見やった。アメリアからまた、目を逸らすように。

「ほら、寮から近いじゃん。見、られねえかな」

 鞄に突っ込んだばかりのノートを取り出して、せめて遮蔽を、寮から人目で見られない、噴水の裏とかを提案してみた。もちろん、この場所で話す分にも彼は構わない。構うだけの余裕が無い、とも言えた。

《Amelia》
「ふむ……そうですね。
 では、楽しい歓談をしましょうか。」

 窓を見た後、彼女はリヒトの言葉に対して少し考える。
 確かに……移動すれば話している瞬間は見られないかもしれない。
 けれど、本質的に連れだって行動していた事実からは逃れられないだろう。
 その為アメリアは情報共有は諦めて楽しい話をしよう。と、提案する。

「それで……ええと……」

 が、そこで気付いた。
 アメリアは口が上手い方ではないし……更に言えば沢山の話題を持っている訳ではない。
 というか知識の話が出来ないデュオモデルが何を話すというのだろうか。

 ……だから、彼女はおずおずとリヒトの隣に座りながら、必死に自分の持っている話題を考えて……。
 考えて……最後に残った小さな星屑の話をする事にした。

「先ず……アメリアには、夢があります。

 お披露目に選ばれて、愛するお方と出会い、結ばれて、幸福な日々を送る。
 そんな夢が、ありました。」

 カン、ダン。

 きっと「階段」じゃ無いって事は、薄々分かっている。でも、音と言葉が上手く結びつかない。リヒトの頭はコワれている。さながら、星座図を書き忘れた上に穴だらけの、星見表のように。
 だから、ぱちぱちと目を瞬かせて、変に開いた間の中、ずっと。アメリアの言葉が続くのを待っていた。

 そして、星屑は。誰も彼もが見逃すくらい小さな星屑は、一人と一人の間にふわりと、舞い落ちる。

「────うん……なんか、“らしい“な! アメリアなら、なんでか分かんないけど、そう言うと思った」

 それで、と促しながら、リヒトはメモを取ろうとしていたノートも、ペンも、またまた鞄にしまった。一人のテーセラドール……貴女の忠実な友人として、“カンダン“しよう。
 
 そして、今更、少し思い出した。かつての……ツギハギだらけのはかない夢の中で、踊っていた自分たちのこと。きっと幸せになるはずだった彼女のこと。きっと置いていかれるはずだった自分のこと。

《Amelia》
「ええ、ですが……本当に会えるとは限らないと、そう思ってしまったんです。
 それでも、会いに行こうと決めたんです。」

 静かに、ぽつりぽつりと語り出す。
 それは雫が落ちるような、どこか深刻さをまとった物で……慎重に選ばれた言葉だった。

 ……が、次の言葉で急激に話の内容が変わる。

「けれど……そのう……会いに行くと、決めたのは良いのですが……。
 こう……運命の人が具体的にどういうお方なのか分からない……と、言いますか……。
 そもそも、運命のお方はお披露目で会った方が自動的に運命の方だと思っていたと言いますか……。
 その……好みのタイプ……なるものがわからなくって……ですね」


 そう、恋バナである。
 ここらへんでご機嫌なBGMでも流れていそうな、甘ったるい恋バナであった。

「……あ〜……」

 深刻で、息すら出来ない宇宙で遥か彼方の星に手を伸ばすような……そんな、悲壮な決意に息を飲んだ、はずだったのに。

 いつからここは恋愛相談所になったんだろう……。

 おそらくアメリアからふわふわと放出されているであろう、ハート型の恋のかけらがリヒトの頭でバウンドする。してる。

 跳ねて飛んでゆくハートを呆けたように見つめて、リヒトはやっとこさ口を開く。……オレは友人として設計されたドールで、愛だ恋だは専門外だ! なんて。そんな野暮なことは言えない、雰囲気。

「えっと、そ、そうだな。そうだな……なんかこう、ほら。今まで話したことのあるドールの中でさ、えっと、こう……『びびっ!』と来たやつ、とか。いる?」

 そこまで話して、リヒトはぐっと前のめりになった。自分よりちょっと低めの設計になっている、アメリアに合わせて。まるで秘密の話のように。
 だって────

「そいつの特徴が、よーはほら。アメリアの『運命』と一緒、ってことじゃねえかな」

 ────そう、いつだって、どこだって、ヒトだって、ドールだって。
 恋バナというものは、秘められるべきなのだから。

《Amelia》
「ドールの中で……ですか?」

 リヒトの上でバウンドする形而上のハートに気付かずに……というか恐らく意識すらせずに彼女は考え込む。
 それはもう、ミレニアム懸賞問題に挑むかのように真剣に。
 円周率の答えを導き出そうとするかのように根気強く。
 ……が、残念ながら思い当たらない。

 彼女にとってドールは同志や友人であって恋人ではないのだから。
 そもそも意識をした事のない相手にびびっとくる……と問われても分からないのだ。
 しかも、疑似記憶すらドール相手では当たった事が無いのだから、そりゃあそう、というものだろう。

「そう……ですね。
 びびっとくる……というのを他のドールと違う感覚を抱いた事がある……と定義するなら……リヒト様、でしょうか。

 ほら、目の前で頭が痛くなったことがあったでしょう?」

 だが、彼女は勤勉の名を与えられたドールとして答えを出して見せた。
 ……その答えが致命的に間違えていたとしても。

「……ち」

 許して欲しい、つぐなうから。

 今この瞬間、リヒトは不躾にも心から確信した。こいつは、
         ────恋愛馬鹿だ。

「違うだろ!! それ!! な、何とは言えないけどゼッタイ何か違うだろ!!!」

 そもそも“テイギ”が間違ってる! と、リヒトは躍起になって主張して、コワれた頭を回し出す。どうにかしてこの恋に恋してピンクになったやつに、元に戻ってもらわねばならない。

「そ〜〜〜〜〜〜うじゃなくて……ええと、その。思い出す系の頭痛くなるやつじゃなくて。あ〜……例えばさ。ディアさんとか、あと、おに……ブラザーさんとか。あと、会ったことあるか? トゥリアのアラジンってやつとか、テーセラのジャックとか……ともかく」

 思いつく限りの、なんだかカッコイイ奴らを指折り挙げる。特にアラジンなんかいいんじゃないか、と思う。

「こう……なんだっけ、会った時、ココロがどきどき? したり、ふわふわ? したりするやつ。そんな風に感じるやつ。ほら、テイギ変えて、もう一回!」

《Amelia》
「むむむ……他のドールと違う……中でもどきどきしたりふわふわする……ですか……」

 内心呆れかえりつつも懸命に付き合ってくれるリヒトに感謝の念を感じながら、アメリアは再定義された条件を元に、新たな計算式を導き出す。

「そうですね……お父様に疑われたとき……ソフィア様に秘密を暴かれた時……デュオクラスで普段より高い点数を取ってしまって先生に声をかけられた時……。
 ふわふわするなら……こう、干したてのお布団に……いえ、これは恋愛の対象ではございませんか。」

 随分と無駄すぎる変数の果てにこんがらがったスパゲティコードの中でアメリアは一つずつ言葉を紡ぎ、最後に。

「後は……アラジン様の言葉を思い出した時。
 あのお陰で、アメリアは今も歩いていこうと思えています。

 後思いつくとすれば……ディア様に頬にキスをして頂いた時でしょうか。
 ああいった愛し方は慣れないでし、主義に反するでしょうに……アメリアに合わせて頂いた事は……嬉しく思いました。」

 と、締めくくった。

 干したてのお布団に関しては、少しだけ同意した。そういえば、太陽の匂いのする布団で眠りにつく、そう何度もある訳では無い日のことが、自分は好きだった。
 アメリアの話を頬杖をついて聞きながら、リヒトは些細な毎日がそこにあったことを思い出した。そういえば、オレたちは幸せだった。例えそれが、嘘の中で紡がれたものだとしても。難しい問題を解くように、真剣に自分に向き合うアメリアのことを見て……途中。あまりにその、なんというか………びっくりするような行為を聞いて、ずっこけるようにガクりと、頭を落とす。

「もうそれでいいじゃん……」

 ああ、ディアさん、ほんとに……あんたって人は!

 リヒトは一瞬でてんてこ舞いになって、既に答えが出たこの話を締めようと……というより、き、キスに関して真剣に、真剣に考えるなんてどうにも頭がゆだりそうで、なんというか。もうこの話終わりで良くないか、とぐるぐる閃いたリヒトは、手当たり次第に言葉を選ぶ。

「じゃあ、あれだな。アラジンみたいな、思い返すと嬉しい言葉を言ってくれる。それと、ディアさんみたいに、その……ええと……………してくれる。アメリアに合わせてくれる、人。だよな、だよな! もうそれでいいだろ!! それがお前の『運命のお方』ってのだよ!!」

《Amelia》
「む……なんだか適当になった気がしますが……。
 けれど、そうですね、寒い寒い星空を歩く中だったとしても思い出すだけで暖かくなるような言葉をくれる方がアメリアと同じように在ってくれるなら……ええ、きっとこれ以上の幸福は無いのでしょうね。」

 ずっこけたリヒトに対して、彼女はめざとく反応が適当になった事を指摘しながら、ゆっくりと考える。
 自分と同じように合わせてくれるアラジンとコーヒーを飲む姿を。
 暖かい言葉をくれるディア様と傘を差して歩く姿を。
 想像する……想像して。

 気付く。

「ですが……きっとそれはアメリアの背中を押すものです。
 共に歩く同志ではあるでしょうが……きっと、愛をする対象ではございません。」

 そう、それはアメリアの愛の対象では無い。
 だって、きっとディア様の特別にはアメリアは成れないし、アラジン様の言葉は暖かいが、それは歩く理由であって止まる理由には成りえない。

「ですから、遠い遠い旅路の果て、擦り切れたアメリアを抱きとめる誰かが……もしかしたら愛する人なのだ。
 ……なんて、それは少し都合が良すぎますかね?」

「……いいと思う、ちょっと都合が良すぎるくらいで」

 何かに気づいたように、はっと目を上げたアメリアを見て、リヒトは口を噤んで……今度は真剣に、言葉を選んだ。迷って、迷って、迷いながら、さっきみたいに投げやりでなく、真剣に、迷って、迷って。選んで、重ねて、外して、並べて。

「だって、そういうもんだろ。アメリアは、だって今。……ええと、そうだな、ココロで、探したんだ。目に見えない、もの。その、自分にとって……いちばんたいせつなこと、を」

 多分、と付け加える自信の無さとは裏腹に、ひとつ、決めたことがある。最近、やりたいことがどんどん出来てきて、困る。

 ……六等星だって、それは輝く恒星だ。ぐるぐると苦痛を飲み、ぼろぼろと悔恨を吐いていても、星である以上。万有の引力を持っている。

 だから、さ。ほら。

 仕方ないから手助けしてやるよ、少しだけ。この小さな旅人が4.2光年先のペイルブルードットに辿りついて、暖かな腕の中で傷を癒す、その時のために。こんなコワれた手でいいのなら、引っ張って、スイングバイしてやるから。

「だからそれは、アメリアなりの星だ。星なら、きらきら眩しく光ってる方が、ずっといい。道を間違えないし、なにより、手が届きそうだからな!」

 コワれた頭で、コワれた体で、精一杯に紡いだ感情が、彼の万有引力だ。目に見えないたいせつなこと、見つけたならさっさと飛び立って、幸せになれよ、ずっと、ずっとな。

《Amelia》
「リヒト様……ええ、ええ、そうですね。
 確かに、星は輝いている方が良いでしょう。」

 リヒトのゆっくりと紡がれた言葉に、彼女はじっっと聞き入って、穏やかに微笑む。
 きっと、それでいいのだ。
 遠くで導くなら、明るくて損など無い。
 それに、惹かれ続けている限り、きっといつかたどり着くのだから。

 そんな、リヒトの示した答えに対して、彼女は何を思ったのかそっと手を伸ばし、抱きしめようとする事で応えようとするだろう。
 もしも、その弱々しく不安定な抱擁を受け入れるなら、彼女はそっと、

「とても、暖かい言葉です。
 温度の無い世界であっても、歩き続けられる程に。

 だから、お礼です」

 囁く筈だ。

「…………そーゆーの」

 固まった体をそっとくるまれて、逃げる間もなく柔らかくて暖かい声が響く。この、恋愛バカ。距離感までおかしくなっちゃって、どうするんだよ。

「取っとくべきだと思うぞ、例の“お星さま“に。こんなオレじゃなくて、さ」

 『ほら、ウワキになるかもだぞ』なんて、どこかの本で聞きかじった単語で遊んで。する、っと不安定な抱擁から抜け出して、リヒトは冗談めかして手を広げて言った。

「はい。リヒト恋愛相談所、閉店でーす、がらがら」

 自分はアメリアの腕の中にはいられない。ここに居るべき何かは、誰かは、4.2光年の先……彼女がいつか辿り着く、そこにしかいない。そして自分にはやらなくちゃいけないことがあって、それが終わるまできっと、本来なら、隣に居るのも許せなくて。
 だけど、ああ、なんだか拍子抜けするくらい、なんでもない会話だったな。この先ずっと、大事にしていたいくらい。無くしたくない、無くしたくない。くらい。きっとこの穴だらけの旅路の中に、たくさん下がっていたはずの、思い出のカンテラたちと同じように。

【学園3F 文化資料室】

Felicia
Licht

《Felicia》
何かを捨てないと前に進めない
        ── スティーブ・ジョブズ


 ウィスタリアの髪は、憂愁な気分と反して今日も元気そうにたなびいてる。陽の光に照らされて、その髪はふわふわと軽い風を浴びるようだった。鬱屈した気分を晴らそうと特に取り留めもなく昇降機に乗り到着したのは文化資料室。
 その手には、いつものように鞄がある。大事なノートもリボンも、それからレコードも入っているため、あまり人目につく場所に置いておきたくないというのが本心だった。

「よいしょ、……っと。」

 資料室の椅子に腰かけたフェリシアは深い、深いため息をついた。
 後ろで誰か見ていることに気づくことなく。

 腰を下ろして休むことは、絶対に勧められない。


 だとしても、と醜い自分が両目を塞いで泣きわめく。その弱さを許して欲しい。つぐなうから。何かを見つけなければ、と文化資料室に訪れても、冊子ひとつ開けない怠慢を、どうか許して欲しい。
 金の地球儀のその向こう、知り合いの姿が見えた気がして、リヒトは周りの人を伺い、目立ってないことを確認してから、そっと話しかけた。

「……フェリ」

 安心した。フェリの髪は青くないから、ちゃんと見つめられる。よお、と軽く声を掛けて、フェリの前の椅子に座った。
 座って……から、どうすればいいか分からなくなる。ノートを見せる、選択肢はあった。あの日から情報は増えたから。それでも……躊躇わせるだけの傷が、あの日からずっと横たわっている。

 きっと、彼女は傷ついている。コワれた頭が記憶している、あの日の黒い雨はそれほど冷たく苦しかった。だから。

「……あの地球儀、凄いよな」

 苦し紛れの、ココロを。なんでもない日常の隅に添えて。

《Felicia》
「………!?」

 勢いよく振り向いた。しかしその顔をみた途端、ため息を聞かれていたことに気づく。話しかけてくれた彼の顔には陰りがさしていたから。心配をかけてしまったかもしれないと反省した。こうしちゃいられない状況だと分かっているハズなのに。……つい。ついなのだ。

「ぁ……お、おつかれリヒトくん!」

 ペリドットは咄嗟に作り笑いを貼り付けてみた。無駄だと分かっているのに。どうしても内に秘めたヒーローが“弱さを見せるな”、“真実から目を逸らすな”と強く訴えてくる。

 大丈夫だよヒーロー。
 私なら、私ならできるから。
 だから、こっちを見てて。

「だね〜、綺麗な地球儀! 世界中を旅できたら、きっと素敵だね!

 あっ、そういえば! この前寮のラウンジで綺麗なお花見つけたの! 特別にみせてあげる!!」

 話をすり替えよう。そう。私は元気だからそんなことは元気な私なら簡単に出来るはず。ノートを開いたフェリシアは「えへへっ、綺麗でしょ〜!」なんて言いながら挟んでいた青い花を見せるだろう。

「えへへ……へへ。……ね?」

 何が“ね?”だろう。辛い気持ちに浸っているに気づいてくれとでも言っているのだろうか。目の前の彼も限界なのに。甘い自分を否定しそうになる。きっとリヒトくんなら優しくしてくれると、知っていて、どこかで甘えているのだと見て見ないフリはできないのに。

 ────やっぱり、な。

「……えい」

 ぐっ、と手を伸ばして、青い花……の奥の、フェリの額の中心にべちっと、軽くデコピンをした。傷がつかないように、軽く。あの日の湖畔の、小さなおしおきに、彼はまだ照らされているから。

「この花の名前。知ってるけど……これ以上、ニコニコすんなら、教えてやんない。やめたら教える」

 青い花を一度も見ることなく、リヒトはそう言った。目線が揺らぐ。フェリの笑顔も、青色も、何もかも見たくないと閉じこもるように。

 それでいて、一緒に沈んで来てくれることを、信じていると……そう言うように。

「オレも、やめるから」

 そうやって、周りの全ての情報をシャットアウトするようにリヒトは俯いて。そっと目線をあげた時、彼は間違いなく、笑っていなかった。
 それは悔恨。それは後悔。それは絶望。それは渇望。それは自嘲。それは自愛。全ての罪と、全ての罰に繋ぎ止められた……あの夜の咎人の、表情。

《Felicia》
 言えることは、無かった。
 ひとこと言うとすれば────

 お願いだから切実にやめて。
 もうこれ以上、乱さないで。

「〜〜〜っ!」

 デコピンをされたショックより、元気がないことを指摘されたほうが堪えた。鈍器で殴られたみたいに痛みがじぃんと響いていく感覚は新鮮で、それでも痛くて。
 分かっていたとしても、やっぱり衝撃は大きくて。ただ、和らげるための笑顔を使えないその状況が自分の空っぽさを象徴してるみたいで息苦しかった。

「……ごめん。」

 漏れるように出したそれは、フェリシアがずっと言いたかった本心からの言葉だった。あの時何もできなかったこと、ミシェラちゃんを助けようと駆け出そうとした手を止めたこと、先生を止められなかったこと。ぜんぶ、ぜんぶ謝りたかった。一旦それを言ってしまえば間違いなく止まらなくなると思ったから。フェリシアの中で、希望で絡めて見えなくしていた罪の意識が、滴り始めた。

「ごめんなさい。」

 もう一度、笑顔のない、貴方に。
 許してくれと懇願するような、罰受けながら縮こまる咎人のような。

 ─── 同じ罪を持った同士を見るような。

 真っ直ぐに見つめてそう言った。
 決意でも何でもない。何も出来ない無力な自分をさらけ出すように。

 ただ、ただ。コアの奥深く。眠ったままの自分のヒーローだけは、否定できなかった。

「……笑ってどうにか出来ないくらいのことをしたって分かってる。
 いつか絶対報復が来るってことも。

 だけど、私はそれを受けるまで。みんなで逃げるまでは、知らない顔して生きていかなきゃいけないって、そう思うの。」

 そう。

「だから、私は私の意思で笑顔を止めない。『誰にでもにこにこ』な私がいることで、みんなが明日を生きられるのなら。」

 自分勝手に、笑う。そんなことを言いきられて彼は憤るだろうか。罪を一生背負えなんて、言うだろうか。いや。言う権利はある。

「……それで、このお花のお名前、教えてくれる?」

 ペリドットの口角は、厄介な戯れに舞う幼子のように上がっていた。

「……謝んなよ、むしろ謝んの、こっちだし」

 無理に笑うな。見てる方が辛いんだ。その傷の深さも、痛みもなんにも分からないけれど。同じ時に傷ついたものとして、少しは、少しくらいは話してくれたって。荷物を分けてくれたって。頼ってくれたって。一緒に来てくれたって。そう思って、暗闇の記憶に一歩踏み込んで振り返った先。傷だらけの情けない体で真っ直ぐ立って笑う、カッコイイくらい自分勝手なフェリが、そこに居た。

(────そっか、全部、オレのうぬぼれだったのか)

 だから、

「なんだよ〜、ってことは、オレが勝手にヘンな顔しただけになっちまった。あはは! カッコ悪ぃ」

 フェリはきっと、泣き言を言ってくれない。これ以上、辛いって泣いてくれない。ごめんなさいって喚いてくれない。フェリが強くて、オレが弱くて、ただそれだけの、一人と一人で。

(フェリのそういうとこが、オレはやっぱり、心配なんだよ)


 お前より、ずっと、ずっと……コワれてるから。

 


 ひとしきり笑って、リヒトはいつも通りノートを開く。

「了解。ええと……うん、ここだ」

 森の近くで、ロゼとブラザーさんと話した時の記録を引っ張り出して、コゼットドロップについて書いてあるページを開いて、見せる。
 きっとコレだと思う、なんて言葉を添えて……やっぱり、花は一瞥もしないまま。

《Felicia》
「ふっふっふ! 私にデコピンかました分、いっぱい謝って貰うぞ!
 このこの〜!!」 

 貴方が笑うのを見ると、そう言いつつフェリシアも楽天的に笑うだろう。笑いながら、悪戯するようにリヒトくんの頬を軽くつつき回し始めた。

「リヒトくんテーセラだからかな?
 ほっぺたが凝っていらっしゃいますねぇ〜」

 ぷにぷに。指を止めることなくにんまりと笑ってみせた。困ったような顔も、行き場のない手も、全部私の知ってる“リヒトくん”でフェリシアは安心するのだった。
 さっきまでのリヒトくんの顔は、間違いなく今まで知らなかった物だったから。

「へぇ……このお花、コゼットドロップって言うんだ。すごい綺麗な名前。ドロップって雫、みたいな意味だけど、コゼットって……。
 確か、小説に出てきてた女の子にもそんな名前付いてた気がする! リヒトくん知ってる? レ・ミゼラブルって言うんだけど。」

 ひとしきり笑ったあと、ノートに目を落としたフェリシアはその花の名前に自分が知ってる物語の類似点を編み出していた。 レ・ミゼラブル。記憶にある主人公ジャンは罪人だったか。罪や罰を耐える姿は、今の私たちと似ているところがあって。リヒトくんは先程からずっとその花を見ていない。それに気づいたペリドットは不思議そうに尋ねるのだった。

「……もしかして、このお花ってあんまりいいお花じゃない……?
 黒い薔薇みたいな花言葉があるとか?」

「なっ、やっひゃなほのやひょ(やったなこのやろ)〜!!」

 頬をつつかれ、ふにっと引っ張られながらリヒトも笑う。やり返そうと自分も、ちょっと下の方にあるフェリの頬をつまもうと手を伸ばす。もし素直につままれてくれるなら、同じようにふにふにといじるはずだ。

 ささやかな触れ合いが終わったあと、フェリが教えてくれた名著のタイトル。世界中に知らない者の方が少ないだろうそのタイトルを、果たしてリヒトは……。

「れ・みぜらぶる」

 ……知らなかった。聞いた事があるかもしれないけれど、コワれた頭が取り落としていたらしい。実感のないその言葉はまるで魔法の呪文みたいだ。ビビデバビデブー。オープンセサミ。イニミニマニモ。

 頭の上でふよふよ浮かぶ不思議な音の並びが消えないままに、今度はフェリが花について尋ねる。一瞬、目線を向けようとして、リヒトはまた、逸らした。

「い、や。そんな、悪い意味、とかは、無いと思う。ただ……その」

 ぎゅっと胸が痛んだような気がして、でもそれはきっと気の所為で、あの時のアレがまだ、まだ消えない恐怖として身体中に染み付いている証拠で。

           ────いたい。

 つまり、だから、だからこそリヒトは笑わなければならない。忘れたことは隠したままで、無くしたことは言わないままで、きっとみんなの矛先が自分に向くのが怖いから、何も無かったことにして。

           ────いたい。

「ほ、ほら。ここに書いてある、柵の向こうのツリーハウス!! そこにめちゃくちゃ咲いてたらしい。学園内にはどこにも無かったのに。あそこにしか咲けないのかな」

 『ツリーハウスの周りに咲いてた』というノートの記述を指さして、慌てて根拠もない話を繰り返す。目線は相変わらず青い花には向かないまま。それが答えにならなくても、リヒトはこの話を続ける。

           ────いたい。

《Felicia》
「わっ……むっ、むー!!」

 リヒトくんから頬をつつかれながら、ペリドットは楽しそうに返すのだった。

 しばらく経った後──

 出した小説を知らないと言った彼の様子をじっと見つめていたペリドットの瞳は、何か嫌な予感がしていた。その時には既に後悔していた。見せなきゃ良かった、と。彼の反応は、間違いなく花によるものだろうから。ペリドットは、そわそわしているトパーズが書いたツリーハウスのノートを一瞥しただけで貴方を真っ直ぐに見つめているだろう。

「……あの、リヒトくんも無理に笑わなくていいよ? 私は笑いたいから笑ってるんだもん。貴方は貴方がしたいことをしていいと思う。
 少なくとも、私はリヒトくんをぜったいに否定しないからさ!」

 口を開いたフェリシアは彼に「何かあったの?」とは聞けなかった。
 彼の言動は恐らく自分の苦しみを懸命に隠すような、きっとそんなものだと思ったから。辛さをひけらかすのは、自分でも驚くくらい勇気がいることを身に染みて理解できたからである。

「生きるのって結構体力使うよね〜
……辛かったら、多分逃げてもいいんだよ? リヒトくんが頑張ってること知ってるから。

 辛いことって分け合うといいんだって。何か困ったことがあるなら私で良ければ何時でも話聞くし。
 臨時でフェリシア相談室みたいな……お客さん来なさそうとか言わないでよ?」

 興味は抑えきれなくて、茶化すようにして聞いてみた。言いたくなければ、それでいいんだ。きっと彼の相棒のストームとかに話すだろうから。覚えて欲しいのは、リヒトくんの味方は絶対にいるってこと。それが、頼りがいのない、小さなヒーローでも。

           ────いたい。

「そ」

           ────いたい。

           ────いたい。



          ────きこえた?


「そう、いう、とこ。ほんとにそういうとこ。ほんとのほんとのほんとに、そういうとこ。フェリって、すごく、キレイなやつなんだよな……」

 リヒトは思わず、フェリの顔を見上げた。春風に呼ばれるように。閉じられたこの学園では有り得ないくらい、優しい風に呼び起こされるように。

 欲しかった。そう言って欲しかった。わがままが一瞬で叶う、手品みたいな奇跡の言葉。都合が良すぎて、信じられなくて、あまりにびっくりして、そして何より、嬉しくて。ただ、その言葉を受け取るために手を伸ばすことさえ忘れて、リヒトはそれをぼうっと眺めていた。眩しい光を、見上げるように。ああ、ああ。眩しくて暖かくて仕方がない。

 これ以上を求めたら、この温もりが去ってしまうような気がして。置いていかれてしまいそうな気がして。リヒトは惜しんで、目を閉じた。がんばってる。オレって、がんばってるんだな。


 もう、十分だ。
 そう……思わなきゃ。


「……いや、お客さん、いっぱい来るだろ。まず〜、ロゼだろ、ソフィア姉だろ、アメリアだろ、オディーだろ、ミュゲだろ、おに……ブラザーさん、ストーム……は、来るのかな?」

 フェリシア相談室に来そうな人を、指折り挙げていく。相談場所に見立てた長机に、ちょこんとフェリが座って、その周りに一人、二人とオミクロンの面々が集まって。空白にもきっと、誰かが居た。きっとわちゃわちゃ盛り上がって、収拾がつかなくなりそうだ。それがどうにも、どうにも輝いていて……星々がみんな、笑っているみたいで。

 だから、大丈夫。これは全部、独りで持っていく。罪も、罰も、つぐないも。情けない恐怖と弱虫な疑念と、そんなもの全部持っていく。そうして、どんなにコワれていても負けない、小さな勇気がこの春の中で芽吹いたら。

 一緒に、助かろうって。
 言うんだ、皆に。

「ありがとう、フェリ。お前がヒーローでいてくれて、よかった」

《Felicia》
「きれい、なのかな。純粋かって聞かれたら、意味合いは少し違うかもしれないけど。私ってすごく欲張りだから。」

 そう。私は綺麗なんかじゃない。欲張りで、意地っ張りで、どうしようもない。だけど、そんな不完全な自分を求めてくれる友だちが居るのなら、手を差し伸べたい。
 「大丈夫だよ」「ひとりじゃないよ」って伝えてあげたい。もちろん、目の前の一等星にも。不出来な私を認めて欲しいっていう下心は、お砂糖で上手にくるんであげよう。

 そういう私も、認めてあげたいから。

「わぁ! 逆にそんなにたくさん来ちゃったら忙しくなるね! みんなからいっぺんに相談が来て、ひとつづつ解決していくの。聖徳太子にはなれないけど、できることからやってくの! とっても素敵!!」

 次々に、知ってる名前が上がる。

 ── ロゼちゃんは、お花がしおれちゃったみたいに悩むのかな。
 ── ソフィアちゃんは頑張り屋さんだから、お話聞いてあげたいな。
 ── アメリアちゃんからは運命の人のお話でドキドキするのかな。

 たくさん、たくさん。聞きたい。
 たくさん、たくさん。話したい。

「ふふ、どういたしまして?
 まだまだ未熟なヒーローだけど、これからもどうぞ末永くよろしくね、一等星。」

 ありがとう、認めてくれて。

【寮周辺の湖畔】

■■■
Licht

 その日。
 リヒトは、いつもの備忘録を抱えて、湖畔まで赴いていた。

 本当は、何よりもやらなければいけないことがあった。そうしなければいけないことがあった。それでも、どうにも足が動かなくて、リヒトは逃げるように北の昇降機から踵を返したのだった。
 少しの勇気と、正直な心さえあれば、彼の旅路は変わっていただろうに。

 水面を目の前にして、ノートを開く。あの花畑の隅で、咲き誇る春から置いていかれながら、たった1人で決めた“作戦“のために。ページをめくる。

「……誰だ、何だ」

 嘘をつこう。上手に嘘をつこう。この欠陥がバレないように。逃げ出そう。上手に離れよう。あの青色から逃げるように。ページをめくる。

「何が、無くなったんだ」

 ほんの少しの勇気さえ無くし、誰よりも傷ついた者のフリをした、嘘つきの少年型ドール。さぞかし誤魔化しに熱中していたから、意識が向かなかったのだろう。近づいてくる彼に。

 だから、声を掛けるまできっと、気づかなかったんだ。


 ────本当に、それだけ?

《■■■》
「……リヒ、なのです? どうしたのです?」

 ノートを抱えて湖の前で立ち尽くすドール。それは紛れもなくリヒトであった。
 先客がいるとはこれっぽちも思っていなかったエルは驚きながらも声をかけた。エルが湖に来た理由、それはいつもの散歩だけではない。この前の、頭がバチンと鳴ったあの音、そして、発せられた声。なぜか忘れられないこれのことを考えてばかりで自分がまるで自分じゃないみたいに思えた。そこで、湖に映る自分を見てみたいと思ったのだ。

 可哀想な記憶喪失のドールは、自分の顔すらしっかりと覚えきれていない。鏡を見ても、特別感がないように感じて仕方がなく、湖の美しい反射なら違うのかも、なんて思い立ったのだ。……もう、そんなことは忘れていたが。

 いつものノートは、今回は忘れずに持ってきている。というより、持っていることを忘れてずっと握ったままなのだ。ノートの握った場所は少し湿っており、温もりがあった。

 彼にコオロギは居なかった。
 彼に良心は居なかった。
 彼に正直な言葉は無かった。
 彼に少しの勇気は無かった。

 あるのは欠陥だらけのコワれた頭と、上手くいかないコワれた体と、醜く爛れたコワれたココロ。誰かが星に願ったならばそれは幾分かマシになったかもしれないが、誰もが眩しい星を見ていて、暗い六等星には気づきもしない。

 これは、嘘つきの悪い人形に課された、罪と罰なのです。



 だから、ごめんなさい、
 ブルー・フェアリー。

 彼は、貴方が分からない。



「う」

 青い、チョウだ。

 声の方に振り向いた、その瞬間。リヒトはばっと視線を変えて、湖面の方を向いて青ざめた。あの、綺麗な瞳を持った天使みたいな子の名前は、何だっけ。その子の上を蝶が、飛んでいて、胸が、嫌な音を立てて軋んでいた。

           ────いたい。

「う、うん。大丈夫……だよ」

 嘘つき。

 コワれたココロがそう言うけれど、気に出来ない。気にしちゃいられない。嘘をつけ。嘘をつけ。大丈夫。覚えてる。覚えてる。覚えてる。オレはこの人とどんな関係だったか覚えてる。覚えてる。空っぽのオレの体を揺さぶって、欠片でいいから思い出さなきゃ。それがつぐないだ。つぐないだ。たった一人でやらなきゃいけない、つぐないだ。つぐないなんだ。だからさっさと、思い出せ!!

           ────いたい。


「どうしたの、何か、用……か?  その……」

 気を取り直して、と言ったように彼は切り出すが、青ざめた顔も震えた手足も、決してそちらを向かない目線も、何もかも変わっていない。その詰めの甘さが、欠陥品。どれだけ痛がっても、今は誰も聞き届けてはくれないのに。鯨の腹で、人形小屋で、遊びの島で、ひとりきり。それがリヒトだと言うのに。

《■■■》
「リヒ、リヒ……本当に、本当に大丈夫なのです? いや、エルには大丈夫そうには見えないのです………顔色が、とても悪いのです……リヒ、エルにできることは何でもするのです、だから、落ち着いてほしいのです。」

 何でだろう、青ざめた彼はさらに体調を崩した様だ。エルは、記憶を犠牲にしてこのドールの心情を必死に汲み取った。誰よりも早く、緻密な脳みそを駆使して。……辛いんだ。このドールは、リヒトは、辛いんだ。心身共に、苦しいと、辛いと声をあげたがっているのに、それを塗りつぶしている。そんな思いを、天使の前でさせるわけにはいかない! 天使は、誰に対しても天使であるべきなのだ! 自分より背の高い彼の背中を優しく撫でながら、できることは何でもすると言い、優しくかたりかける。

「大丈夫、天使はここにいるのです。全部、辛くても、天使が……エルが、護るのです。辛いなら、辛いと言って良いのです。………全部、天使に、エルに教えてほしいのです。何を言っても、エルはリヒのことを否定しないのです、絶対に、約束するのです。」

 何だか彼が自分に似ている気がする。そんな確証などどこにもないけど、彼はきっとどこか自分と似ているところがあるのだ。撫でていた手を止めて、両手で彼を正面から抱きしめる。大丈夫だよ、と子守唄を歌うように。

「だ、っだい、大丈夫! 大丈夫! オレ、何、にも、ないから、気にしなくて大丈夫! 大丈夫、ほら、どこも……どこもコワれてとか、ないだろ、ほら! な!」

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…………。

 心の中で何度も何度も繰り返し、相反して口はつっかえながらも嘘を話す。まるでおしゃべり人形になったような気分だ。浅ましい恐怖と自己防衛、愚かしい言葉と自己嫌悪。リヒトは、糸の絡まった操り人形が跳ねるような、滑稽な作り笑顔を浮かべていた。

 何も言えない、言えるわけが無い。ただでさえ、誰の、何の役にも立てなかったジャンクが。罪ばかりを重ね、甘えと怠惰で上塗りを続けるスクラップが。その上更にコワれているなんてバレたら……今度こそ。

 だから、福音を与えないで。

「…………エル、さ」

 跳ねるような言葉が、解れて、解けて、分からなくなって。ついに沈黙してしまったリヒトを、天使の両手が優しく抱きしめた。同じようにどこまでも焦って、それでもよっぽど、天使の方が純粋で、キレイな感情に満ちた…………雨雲の切れ間から差す、天のハシゴのような声が降る。

 お願いです、天使さま。
 もう福音を与えないで。

 思わずその足元に縋りついて、何もかも吐いて、泣き喚いて、そして忘れてしまいそうだから。

「……っち、違う。伝え、伝えなくちゃいけないことがあって、だから、その、ほら! このノート、読んで!!」

 青色の美しい髪から目を逸らして、リヒトはどっと尻もちをついて、天使の優しい腕の中から離れる。名残惜しく覚えのない温かさに、胸がギリギリと痛むのを感じながら………ばっと、苦し紛れにノートのページを開いて、差し出した。

《■■■》
「っわぁ! 大丈夫なら良いのです……無理、無理はしないでほしいのです……」

 どこか取り憑かれた笑いを浮かべて、何かを言おうとしたドールによって、慌てるように剥がされた身体。代わりに、差し出されたノートを受け取って数分程で全部に目を通す。エルの脳みそはそれを全て理解し、そして…………。

 パッ。

 溢れた。ミシェラ、るーとぜろ、てきごうしゃ、すくらっぷ、コワれる、お披露目…………全てが、全てが!
 湖に溶けてなくなってしまうように、何もかもが消え去る。インプットされた全てが引き水となって、全部流れ出すように──

「……………あ、あ……ここ、は、……あなたは、だれ……なのです……?」

 声にもならない声を出して、そして、やっと音になった言葉。それは、同時に涙を溢した。忘れたくなかったと言う感情が、どこからともなく込み上げる。いやだ、いやだ、いやだいやだやだやだやだやだやだやだやだやだ!!!!!!
 自分が誰であるかさえも、ここがどこであるかさえも、わからない。なんで? どうして? パニックになったドールは、目の前の"誰か"としか形容できないドールに縋り付くように、頬に手を伸ばした。何かが思い出せる気が、して。

「…………あ」

 バチン!

 と、糸が切れるように。天使が震えて、福音も途切れて、雨間の光も掻き消えた。代わりに大粒の雨が、美しい瞳から降り出す。それは天使でも何も無い、等身大の『エル』だった。

 だから、その涙の色がはっきりわかったんだ。コワれているけど、────コワれているから。

(…………ああ、)


 頬に伸ばされたキレイな手を取って、自分の頬に導いて。嘘つき人形は項垂れた。

 彼にコオロギは居なかった。
 彼に良心は居なかった。
 彼に正直な言葉は無かった。
 彼に少しの勇気は無かった。

 だけど、彼には鼓動がある。

「オレ、は、リヒト」

 崩れた積み木の山、その真ん中。かつて意味があったはずの、身に覚えのない過去の只中。ばらばらに崩れて繋がりを無くした、忘却の暗い海の底。

 全て、無くして、
 そして、ここから。

「ごめん、なさい」

 涙を一筋零すように、コアから落ちたこの言葉の真意を分かるものが居ないとしても。リヒトはようやく、ちゃんと声に出した。

 そして一人と一人はまた、もう一度、いつか崩れると分かっている積み木を、分かっていながら重ね始める。それがいつか炎になり、筏になり、巨大な鯨の腹のようなトイボックスから飛び出すその日まで。

「……ノート」

 自分のノートでは無いもの……さっき、エルが持っていたものを近くに探す。見つけたら、きっとエルに渡すだろう。さっきから軋んでやまない、コアの痛みに少しだけ、見ないふりをして。

《■■■》
「り……ひと、リヒト………リヒ………」

 名前を聞いて、それを噛み砕く。りひと、リヒト。大切な、大切なドール。……ここは、トイボックスアカデミー、自分の名前は、名前………それは、エル、天使の、エル。

「っごめんなさい、ごめんなさいなのです! ……リヒ、リヒ、わすれちゃって、ごめんなさいなのです……!」

 溢れて溶けた記憶を、集めて頭に留める。全部思い出すのは難しいが、エルは忘れることのない記憶があることを思い出した。ノート、それに書かれてあることは事実であり、正しい。
 ──リヒトという存在を、ドールという存在をひとときでも忘れてしまったことに、大きな罪悪感がのしかかる。溢れたごめんなさいは、エルを取り戻して涙と共に落ちた。でも、その時のためにあるものを、地面に置いたそれを拾う。

「……えっと、これは、たしか……スト、ストがかいてくれた……かいてくれたのです、みんななのです。」

 嬉しそうにそれをリヒトと名のついた大切なドールに見せながら一人一人の名前を呼んで愛おしそうに似顔絵を撫でる。少し温もりの残った、大丈夫なノートを。

「大丈夫、ほら。
 ……エルは、思い出しただろ?」

 一際、ギリギリと胸が傷んだような気がして、リヒトは密かに拳を握る。耐えるために。
 ブルー・フェアリーの心からの謝罪が、嘘つき人形の首を絞めた。詰めが甘くても、出来てなくても、コワれていても、一度始まったものは止まらない。滑稽に踊る星紛いは、まるで罪のない者の顔をして、その懺悔を赦さなければならないのだ。
 ────烏滸がましいほど、優しい笑顔で。

「大丈夫、大丈夫。オレはリヒト、お前はエル。エルは、ちょっと忘れん坊なだけで……コワれてなんかない、キレイなやつだよ」

 心がぐちゃぐちゃに踏み躙られた時、どんな顔をすればいいのか……笑う鈴蘭が教えてくれた。誰のことも責め立てられない深い絶望を、この衝動をどうすればいいか、心の底まで刷り込まれたから。

 だから笑って。
 心から笑って。
 コワれた笑顔で、骨の髄まで。

「……だから、エルに秘密のお願いを、頼みたいんだ」

 開いて見せてくれたノートのページの、その隅に。みんなの絵と、名前と被らない場所を選んで、リヒトはカバンからペンを取り出して、走らせる。

『自分の信頼できる人に「学園のヒミツについて」聞くこと』『どれだけ信じていても、先生には全部ヒミツにすること』

 書ききった後、お願い、と付け加えて目線を上げる、リヒトはきっと、上手に笑えている。

《■■■》
「コワれて……? そんなの、リヒもなのです、リヒも、とってもキレイなのです。エルだけじゃないのです、おそろいなのです!」

 キレイだと言われては思わずそう返した。
 リヒトだって、素敵でキレイな立派なドール。コワれる、それが何だかエルにはよく理解しきれていないが、リヒトがコワれているだなんてちっぽけも思えなかった。リヒトは、たとえどうなったとしてもリヒトで、エルも同じ。心のどこかで何を思っても、身体が傷ついてしまっても、エル達、オミクロンだって、コワれてなんていないのだから! みんなみんなキレイで素敵なだったひとりのビスクドール。欠陥なんて、何にもない。
 心の底から根付いて、取れなくなったような優しい笑顔を向けるリヒトから受け取ったヒミツのメッセージ。それを見て一つしかない目を見開いては彼の愛らしい笑顔が、脳裏に焼き付く感覚がした。……あぁ、本当に、このドールは。

「かわいいのです」

 不意に漏れたその言葉は、まるで兄の様な目線で、エル自身は何も言葉にできない事だった。くすり、一つ笑っては元気に。

「はいなのです! エルにおまかせなのです!」

 と敬礼のポーズをした。愛らしく、どこか少年のように。

「……か、かわ?!」

 焦ったような、驚いたような声が出て、その後、リヒトはびっくりした。そして、酷く深く痺れるような、安堵。
 ああ、今、上手く演れてる。

 自分の外側の自分と、自分の内側の自分が、分かれているような気がした。外側の自分は全てを取り繕うために、壊れたオルゴールみたいに音楽もなくくるくる回っていて、内側は、分からない。見たくもない。
 青い天使の灼かな庇護は、はるか高みから平等に降り注ぐ。その高潔で慈悲深い言葉が、その優しい励ましが、『おそろい』だと笑う綺麗なココロが、誰を焼くとも知らずに。

 だから天使さま。
 福音を与えないで。

 あったかくて、こわれてしまいそう。

「お、オレは一応13歳設計だぞ!! どっちかってーとかっこいいの方が、その……」

 舌はよく回る。くるくる、くるくる。朗らかに。道化のように。人形小屋のピノッキオのように。戻りたくても戻れない。かつてのリヒトをなぞるように、実感のない焦りと困り眉を紡いだ。今も昔もリヒトはリヒトで、コワれた出来損ない以外の何物でもないのだが。

「とっとにかく、お願いはお願い。大事でヒミツなお願いだから……バレないように、気をつけて」

 ぴん、と人差し指を立てて、忠告するようにそう告げる。そして一足先に、ノートとカバンとペンをまとめて立ち上がった。これ以上ここにいたら、また“かわいい“って言われそうだし……何より、ボロが出そうだった。一歩だって間違えちゃいけないから、リヒトは『それじゃ、また』とか何とか言って、自分から離れて一人になっていく。

「あとオレ、“かわいい“じゃ無いからな!!」

 しばらく草原を進んだ先。バッと振り返って、リヒトはエルに向かって叫んだ。“エルの知ってるリヒト”なら、きっと、こう言うと思って。

《■■■》
「はいなのです、えへへ、やくそくなのです!」

 あれ、何かよくないことを言ってしまったのだろうか? 焦った声の目の前のドールはかっこいいの方が……何て言うものだから、エルは不思議に思った。何でそんなことを言うのか、理解できなかったのだ。全てが愛らしくて愛おしくてたまらない世界を可愛いと形容してしまって良いじゃないか。
 とにかく秘密のお願いだから、と彼に念を押される。ヒミツ、ヒミツ。何だかワクワクしてしまう。エルにとって、そんなのは初めての経験だから。メモリーに刻まれた映像は、やくそくをしたお揃いのドールがいちばん新しい。嬉しそうに、いちばんの思い出にリボンを飾る様に瞬きした。

「……かわいいのです、みんなみんな、ぜんぶ。エル、だいすきなのです!」

 別れを告げるキラキラ光るいちばん星。まるで流れ星みたいに視界から消えていく、リヒト。いつかはエルのメモリーからも、そうやって消えてしまうのだろうか? じゃあね、またね、大事ないちばん。エルは、天使は、キミの、みんなの、すべてが、全てが愛おしくて、かわいくて、だいすきだよ。

【学園1F ロビー】

Rosetta
Licht

《Rosetta》
 エントランスホールで、ロゼットはリヒトを見つけた。
 それは軽い絶望を味わった後だったかもしれないし、平次の授業後だったかもしれない。
 どちらにせよ、彼女は中々悪くない気分だった。弟分のドールをからかってやるくらいの元気はあったのだ。

 「リヒト、今帰ってきたところなの?」

 表情を窺いさえせずに、ドールはにこにこしながら声をかける。
 相手がいつも通り「ロゼ!」と呼んでくれることを期待しているようだった。

 最近、顔を上げて歩けない。青色がいつ目の前に飛び込んでくるか分からないから。それに、通りかかった誰かの顔を見て……その人の事が分からないのが、コワイから。なんて、怠惰。そのくらい、そんな傷くらい、誰にも気にされないから自分でも無視したいのに。そんな場合じゃないって、何度も思い込んでいるのに。

「……ぁ」

 俯いて歩いていたから、だから、通りすがったはずの彼女に気づけなかったのだろう。そう、思いたい。

「……ロゼ。ロゼ、だな」

 確かめるように、1度、2度。リヒトは名前を口にする。違和感は無い。空虚な風もない。胸の痛みも無い。青い蝶も無い。大丈夫、大丈夫。彼女はまだここにいる。ちゃんと、覚えている。覚えている。

「その、どした?」

 去来した不安感をぬぐい去るように、リヒトは笑った。いつものノートはまだ持っている。新しい情報でも見つけたのか、と気を紛らわせて、ロゼに問いかけた。途中、ちらりとロビーの隅のソファの方を見て、長くなるならそっちに行こうと促しながら。

《Rosetta》
 緑の瞳に活気がないのを、一瞬見間違いだと思った。 銀の鏡は瞬きをして、利発なテーセラをじっと見つめる。小首を傾けた拍子に、赤い髪が少し乱れた。

 「リヒトがいるなあ、って思ったから声をかけたの。リヒトも……どうしたの?」

 元気少ないよ、なんて。
 薄々理由を察しているのに、わざとらしく声をかけた。
 話というのは、トゥリアにとっては長引かせるものだ。彼女は返事をしながら、既にソファへ向かって歩き出している。

 「何かあったなら、聞くよ。楽しかったことでもいいし、楽しくなかったことでもいいから」

 クッションに腰を下ろすと、隣の席をぽんぽんと叩く。
 平穏な時間は、まだ彼らにも残されている。少しぐらい、弱音を吐いたっていいんじゃないか?

「な、んでもない」

 元気少ないよ、なんて言われて肩が跳ねる。上手くやらなきゃ。上手くやらなきゃ。大丈夫、笑える。ごまかせる。

「…………そ、うだ。そう。共有! 前さ、擬似記憶について話しただろ……それ、それについての」

 話。と付け加えた頃にはもう、ロゼは向こうのソファに行っていて、拍子抜けしたような安堵したような気持ちになった。調子が狂うけど、それがロゼだ。頭をかいて、リヒトもついていく。

 叩かれた席……から、少しだけ離れたところに座って。秘密の話をするように声を潜めて、リヒトは話し出した。回りをちらちら見ながら、誰かがこっちを見ていないか、過度に心配しながら。

「その、あれから加えて、思い出したことがあってさ。詳しくは言えないけど、その。擬似記憶のオレ……なんて言うんだろ。ヒトの、故障みたいなやつ、ええと、調子悪くなる……なんだっけ、び……」

 たった一つのワードすら出てこない、コワれた頭を捻りながら、懸命に話を続ける。

「とにかく、めちゃくちゃ、調子悪かった。その、胸の辺りがぎゅーーって痛くなる、“故障”をしてたんだ。……それを、思い出した」

 『ああ、いや、まあ。その、それがどうって、訳でもないんだけど』と締めて。苦し紛れの誤魔化しにも似た、彼の言葉は宙で途切れた。

《Rosetta》
 ちいさな星から、ぽつぽつと言葉が零れるのを、ロゼットは見ている。
 辿々しさは、どこからきているのだろう。どうしてそんなに離れたところに座るんだろうか?
 たった数日経っただけだけなのに、何光年も離れたところに来てしまったみたいで、彼女はなんだか寂しくなった。

 「そっか」

 みんなが──友達が苦しんでいるのだから、楽しい顔なんてできない。
 あまり柔らかくない調子で、赤薔薇は呟く。その色は少しだけ、翳りを帯びている。

 「それは……“故障”、っていうのは、悲しいことだったんだね」

 行き交うドールたちを眺めながら、ゆっくりと、体を動かす。
 布の上を滑るように、その持ち主はリヒトに近付いた。
 触れはしない。ただ、手を伸ばした。彼が望めば届く場所に動いただけだ。

 「今のリヒトは、“故障”してない? まだ、胸がぎゅーって痛くなる?」

「してない」

 即答。
 だいぶ、慣れてきたよ。

「大丈夫、もう何処も痛くねえし……ヒトの故障と、ドールのコワれてるのって、違うだろ」

 この連関だけは、他の何よりも否定したかった。話は終わり。ここで終わり。こんなもの、今はどうだっていい。この記憶の価値はきっと、この話を聞いたロゼや他の、コワれてない誰かが決める。だから終わり。この話はここで、終わり。

 ……これ以上、考えたくない。また何かを思い出したら、何かを無くしてしまいそうだ。

「ロゼの方は、なんかあるか? こう、なんというか……ビビっと思い出した、何か」

 ピンと立てた人差し指を自分のこめかみにとん、と当てて、少しおどけたように尋ねる。話題を逸らすためだったけれど、あながち間違った話でもないような気がした。記憶に関しては、あのアメリアが、共有で話していたことだ。きっと、何かの手がかりになるのかもしれない。コワれた頭では、分からないけれど。

 ……リヒトは、その場に座ったままだった。望めば届く距離。けれど、馬鹿らしく望んでしまえば、まるで蜃気楼のように遠ざかってしまう距離。自分にまだ、それを望む権利がないことくらい、分かってるから。だから今はまだ、この距離の中にいてくれよ。それだけで十分だと、思いたいから。

《Rosetta》
 何も望まないというのは、本当に正しいことなのだろうか。
 否応なく進み続ける流れの中で、立ち止まろうとするモノは、本当にそこに留まれるモノなのだろうか。

 「ドールとヒトは、同じように作られてるんだよ。リヒト」

 銀色が六等星を捉えた。さながらそれは望遠鏡のように。
 距離など関係はないのだと、そう言い切りたい少女が相手を見ている。

 「私の話は、また後で。あなたが痛い思いをしてる話の方が、大事だから」

 ロゼットは、少年の手を握り締めようとする。彼はテーセラだ。その気になれば、ぬるい温度など容易に振り払ってしまえる。
 そうされても、されなくても。赤薔薇の零す言葉は、きっと変わらない。

 「ドールとか、ヒトとか、関係ないよ。リヒトの痛みだから興味があるの。どうして痛かったの?」

 ぱちり。
 レンズを切り替えるように、また瞬きをした。

「……フェリも、さぁ。エルも、さぁ。ロゼだって、さぁ…」

 なんでこう、オレの方ばっかり見てくれるんだろう。自分だって大変だろうに、自分の方が大変だろうに。もっと目をかけるべき他のドールとか、もっと優しくしてやるべき他のドールとか、いるだろうに。

 そんなに、そんなに……オレって、コワれてたかな。

 温もりに縋ることの、愚かしさを。彼は痛いほど知っていた。優しい言葉に微笑むことの、火傷するほどの代償を。彼は痛いほど知っていた。もう身に染みた、懲りたんだ。これ以上、大切な何かを支払ってまで温かい何かに縋るのは……怖い。怖いんだ。

 早く手を離してくれ、青いチョウがやって来る前に。

「……思い出した。『ビョーキ』。擬似記憶のオレ、きっと『ビョーキ』だったんだ。だから胸が痛かったんだよ」

 だけど、ドールは病気にはならない。だから大丈夫だ、なんて付け加えて、リヒトは俯いて、握られて離せないままのぬるい温度を眺めていた。拒絶も、許容も出来ないどっちつかずの態度が、いつだって彼を苦しめて来たことは明らかなのに。それを直すことが出来ないのが、コワれたドールの限界値。

「……擬似記憶に、ビョーキ、出てくるなんて変だよな。それに、そのビョーキがドールの方にも……なんだろ、故障みたいに出てくるのも変だよな。もう痛くないけど。コワれてるからかな、オレが」

《Rosetta》
 どうして他のドールのことを呼び出したのか、ロゼットにはわからない。
 誰かに近付いて、棘を取り除こうとして、それを繰り返すばかりだ。
 だって、大切な相手にはそうするべきなのだということしか知らないから。
 放っておいた方がよいことなんて、疑似記憶の中ですら見たことがないのだ。

 「動作不良を起こしているかは、検査しないと分からないけど……でも、私はリヒトが病気だから痛くなるわけじゃないと思うよ」

 握り締めた手は、動きもしない。
 まるで本物の人形みたいだと、ロゼットは思う。
 人形はヒトとは違う。考えたりしないし、苦しみもしない。壊れたら、それまで。
 考えて、苦しんで、壊れそうになるドールは、一体どちらに近いのだろう。

 「苦しいって思うから、痛いって感じるんだよ。壊れてても、壊れてなくても……あなたがヒトでも、前を向くなら、きっと痛むよ」

 ロゼットとは違う。
 都合のいい理想だけを見て、都合の悪い現実は切り捨てて。
 温かな揺籃に浸かっているから、記憶を呼び起こすことでしか痛みを思い出すことができない。
 みんな、ちゃんと傷付けているのに。

 「信じなくてもいいよ。ぜーんぶ妄想だもの。でも……私は疑似記憶のリヒトも、壊れてるリヒトも、全部私の好きなリヒトだと思うからさ。除け者にしちゃうのは、悲しいよ」

 握り込んだ手の指の間に、自分の指を通す。
 抱擁はできないけれど、代わりに身体の端で抱き締めたかった。
 こんな時、プリマなら上手く説得できたのだろうか。思い詰めた少年の心をほぐすことさえ、ロゼットには上手くできない。


 つぐないだ。
 つぐないなのだ。

 だから、情けなく泣くことも、みっともなく蹲ることも、罪を擲って、罰をひけらかして、そうして許されていいはず、無いのに。どうしてこう、今になって、よりにもよって、たった一人でやろうと決めた時になって、ようやく。今まで吐くほど欲しかった他人の目が、こちらに向いているんだろう。

 どうして。
 どうして、もっと早く──。

「ノケモノも、何も、オレはオレでしかないだろ」

 体の先端をぎゅっと抱擁されて、代わりにココロが触れられることの無かった底から冷えていくのが分かって。自分の考えをひどいと思う反面……安心した。安心したから、また、笑える。この冷たさも、罪も、罰も。消え去ったわけじゃない。まだ彼の中に、そしてノートの中に残って、今も尚、彼を責め立ててくれている。

(いまさら、いまさらそんなこと、いわれたってさあ)

(オレさえいなけりゃ、ぜんぶうまくいったんだって、ぜんぶうまくいくんだって、)

(そう、しんじてきたのに、さあ)



「……『後で』の話。気になるんだけど、まだヒミツ?」

 ちょい、と自分の肩にかけていたカバンを持ち上げて、尋ねる。中で軽くノートが揺れた音がした。内容によっては、メモを取るよ、という示唆で。つまり彼にはもう、これしか残っていなかったから。彼は興味津々、に似た目でロゼを見つめた。

《Rosetta》
 見えている傷にしか、ロゼットは絆創膏を貼れない。
 深くまで根差した棘を抜くことなんて、彼女にはできない。どこまでも教えてもらったことをなぞるだけで、他者のために思考することがないから。
 それに。例えリヒトを救えたとしても、彼女の隣の空席はフェリシアが埋めている。
 あまりにも無邪気で、無垢で、残酷な救世主だ。

 「そう。なら、いいよ」

 ぱっ、と突き放すように。
 崖の上で胸ぐらから手を離すように、トゥリアドールは口にした。
 少なくとも、ここから先は自分でどうにかできる領域だと判断したのだろう。
 ここから先はロゼットの話す時間だ。
 慰めではなく、情報伝達のために、今まで空けていた距離があっさり詰められた。
 重ねていた手のひらも、生ぬるさだけを残して退けられてしまう。切り替えが早いのはいいことだが、この状況では冷たく映るかもしれない。

 「大丈夫、今から話すよ。この前、ジャックと話をしたんだけど……あの子は私たちの身体に発信器がついてるんじゃないか、って思ってるみたい。探してみてもいいかもね」

 こそこそと、見つめ合いながら秘密を囁く。
 本当に大事なことは伝えないまま、話し終えた後は一旦身体を離すだろう。

 泣きそうになってしまった。優しい言葉をかけてくれたあの時も、手を取ってくれたあの時も、上手く、上手くやれていたのに。最後の最後に、手があっけなく離れて、温もりが溶けて消えてしまうその瞬間だけ、強く、強く後悔した。

 まったくもって、都合のいい、
 コワれたココロだ。

 崖に身体が舞っても、これさえあれば大丈夫、と縋るように。リヒトは残された自分の手を握りしめた。大丈夫。フェリが言ってた、オレはがんばってる。コワれた体と、コワれた頭が重ねたたくさんの罪を、まだ、まだつぐなおうと、出来ている。大丈夫、オレは、まだ。

「……はっ、しん、き」

 慌ててノートを開いて、走り書きをする。はっしんき、発信機。確か、ヒトの技術に関しての授業の中で聞いたような気がする。どんな効果があるのかは、覚えてないけれど。きっとついてること自体が大事で、問題なんだ。

「ってことは、オレにもついてる、ってこと? えっと、えーっと……」

 ぐるぐると体を回して、腕をぐっと回してみて、何か変なものがついていないか探す。止めない限りしばらくずっとぐるぐるしているが、やがて見つからなかったのか、諦めて『ホントにあるのか?』という目でロゼを見つめるだろう。

《Rosetta》
 身体のあちこちを見るリヒトに、思わずロゼットは失笑した。
 馬鹿にしたいわけではないのだ。ただ、尻尾を追いかける子犬に似ていると思って、つい。
 彼が諦めるまで、赤薔薇はその様子を眺め続けている。そうして、「ごめんね」と笑いながら口にした。

 「分かるところにあったら、すぐ取られちゃうでしょ。多分、ひとりじゃ確認しにくい場所についてるんだと思うよ」

 背中の方とか、服のどこかとか。
 細かく見なければ分からない場所に、きっとそれはあるだろう。

 「私も他のドールと探してみるから、見つけたら教えるね。見つからなかったとしても、身体の内側を探しちゃ駄目だよ。多分、痛いから」

 彼女自身もジャックに止められているし、良くないことは他人にもさせてはいけない。
 万が一を提示する時、ロゼットはちょっぴり無表情に戻ってみせるだろう。凄味というやつだ。

「む」

 ひとしきりクルクル回った後でそれを言われるのは、なんというか。ズルくないか。外側の自分。凄味というやつを受けて、ある種の悪あがきのようにリヒトは返す。

「ロゼもな。痛いことはしない。おーけー?」

 このたおやかな赤薔薇は、そのふわふわした歩みで大事なラインをひょいと飛び越えてしまいそうだ。そんな危うさがあって、ずっと、気がかりなのだ。よかった。この気持ちには、何があっても帰ってこれた。

「……ほ、ほかには。
 例えば、こう…………な、なんも思いつかないけど」

 ノートをもう一度たずさえて、またロゼに向き直る。

《Rosetta》
 「うん。他の子にも言われたし、気をつけるよ」

 リヒトはいつも自分のことを気にしてくれる。
 それをしっかり受け止めたことはなかったけれど、こんな状況になれば話は別だ。
 リヒトも、自分も、他の子も、痛いことはしない。お披露目に行く時どうなるか知っていれば、なおさら。

 「他には……そうだなあ。ガーデンっていう言葉が出てくるファイルを、探してみてほしいな

 立ち上がりながら、そう口にする。
 彼はこの真実をどう受け止めるのだろう。ロゼットにはとても想像できないが、まあ何とかなるだろう。
 おひさま色の髪に手を伸ばして、少しばかり撫で回して。「がんばろうね」なんて言葉を残すと、彼女は立ち去ろうとする。

 ふと、自分の頭を撫でてみて、リヒトはまたむっと顔を顰めた。また撫でられてしまった。いつもこう、絶妙に躱しきれないタイミングでロゼはリヒトの頭を撫でる。

 子供扱いされている。今でも。少しこそばゆいような、でも不満たっぷりな気持ちを押し込むように、あえて繰り返し呟いた。

「が、あ、で、ん……が、あ、で、ん……」

 先程、ロゼに頼まれたこと。『ガーデン』のファイル探し。お腹のお花に関してかな、と足りない頭で考えながら、リヒトは文化資料室を覗く。もし見つかったら、『おつかいならそう言えよ』と言い返してやろう、なんて。

【学園3F 文化資料室】

 この部屋は、人間の歴史を出来る限り保管し、ドールズがヒトと接する指標と出来るようにと用意された一室だ。文化資料室と名を冠する通り、人間のさまざまな歴史や文化が資料、あるいはレプリカなどの形で保管されている。

 部屋の中央には年季の入った黄金色の地球儀が置かれており、各地にどのような国があるか、どのような人種のヒトがいるのか実際に学べるようになっている。
 地球儀を中心に据え、その周囲にはヒトが住まう街を模したジオラマや展示されていたり、模型の汽車が煙を上げてガラスケースの中で動き回っていたり、天井からモビールのように吊された飛行機や気球がクルクル円を描いていたり……とにかく豊富な展示品があり、眺めていて飽きない内装となっている。

 また部屋の奥には無数のファイルが収められた棚があり、こちらには数多の史料が保管されているようだった。

「……ここまで」

 ここまで出来るなら、この学園を丸ごと海の……海の中に、入れるのも、出来るのか。文化資料室の入口から、中を呆然と見つめて、リヒトは次第に、俯いた。

 彼はまだ、学園が海の中にあることを実感出来ていなかった。そもそも、海の中にずっとあるなんて、実感が湧かない。モノを水に入れたら沈むように、あるいは浮くように。そのどっちかじゃないか?
 学園を外側から見ると、例えば、この気球のようにまるっこいのだろうか。例えば、この飛行機のようにとんがっているのだろうか。例えば、この列車のように細長いのだろうか。

 かるく、ひとつ。ふたつ。こきゅう、かるく。馴染みのある痛みをもう感じないように、よくよく気をつけること。……よし。恐れがにじり寄る前に、リヒトは俯きっぱなしだった顔を上げて、金の地球儀に向き合った。

 地球儀に近づいても、あの懐かしさが頬を撫でるような惹かれる感覚はしない。なんら無感情に近づくことが出来る。

 地球儀を回しながら、その構造を眺めて、以前この部屋で受けた授業内容を思い出す。

 現在、あなた方ドールやヒトが住まう母星である地球は、その陸地面積が全体の16%ほどであることをあなたは知っている。
大気構成は窒素(N2)78.4%、酸素が15.6%、アルゴン(Ar)が0.93%、二酸化炭素が4.7%、水蒸気その他が約1%。

 ヒトが生命維持を行うにはやや困難な環境になりつつある……という事実を、あなたは先生から聞かされている。無論ヒトはこの状況を改善するために開発を進めており、ドールズの役目はそんなヒトに寄り添う崇高なる使命であるとも。

 授業で出てきた数字や文字が、星のように脳裏に浮かび上がる。でもリヒトには、その数字が何を意味するのか上手く理解できなかった。なぜ大気の作りが変われば大変なのか。なぜ陸地面積が減れば大変なのか。ヒトはどうしてそれを困難とするのか。上手く結びつかないのが、リヒトのコワれた頭だ。

「ガーデン、無い。次」

 だから、とりあえずこれだけを確認して、また下を向く。次は、あの膨大なファイル棚。時間が掛かりそうだ、と思ったその時、模型の汽車がふっと目の横を掠めていった。

 あ、動いてる。きっと何度も見たことがあるだろうに飽きもせず、リヒトは恐る恐る動き回る汽車を覗いた。

 資料室の一角、ガラスケースに覆われたジオラマの街を横断するように敷かれた線路の上を、蒸気機関車の小さな模型が邁進している。機関車の煙突部分からは少量の煙が燻っているが、実際の煙と違い、ディスプレイの中でこもることはなくすぐ空気中に溶け合って霧散していく。

 この汽車は、かつてヒトがメジャーな乗り物として使用していた装置らしい。
 この部屋はヒトがどのような生活を日々送っているのかを、詳細にドールズに教育するために存在していた。

「ガーデン、無し。………あと少しだけ見るか」

 回る、回る。作り物の汽車は回る。回る、回る。どこにも行けないと知りながら、それでもどこかへと向かうという、自らの設計思想に従って。

 もし、ここから他の場所に行くことになったら……いや、そうしなければならないのだけど。もしそうしたら、汽車を見たい。飛行機も、気球も。そして、くたくたになるまで色んなものを見たあとに、アイスクリームを食べるのだ。擬似記憶の君じゃない、みんなと。

 うん、うん、よし。実感の無い遠い夢の手触りを夢想しながら、リヒトはぐっと立ち上がって、今度こそ膨大なファイルに向き合った。

「……ひゃー、多いな……」

 滲む恐怖は喉奥に。おっかなびっくりファイルを抜き取り、さもさっき見ていた汽車についてのページを探していますよ、と言ったふうに……少し覚束無い手でページを捲って、「ガーデン」を探す。

「………………は、はぁ」

 指を文字列の上に重ねて、行ったり来たりを繰り返して。何度も、何度も。辿るように、なぞるように、一歩、一歩、一文字、一文字……そして、リヒトはひとつ息をついて、ようやく自覚した。

 なるほど、理解らない。

「えーっと、えーーっと……?」

 繋げて考えることが苦手なら、少なくとも、書いてあることくらいはちゃんと、知っておきたい。他の誰かに託すために。
 世界連邦国家。薬学研究所・ガーデン。自然科学部門。農園科。人類救済。涙の園計画。

 それは真っ暗な夜に浮かぶ、星のようなもの。その連環も知らないまま星を見ることが、その記録が、どこに繋がるかリヒトには分からないけれど。ペンは走り、ノートに黒い海を作る。

 片手でファイルを捲って次を探しながら、ノートにメモを取っていく、その様子が。勤勉で無知な羊のように、他の全てに見えていたなら……いいのだけれど。

 あなたは更に特定のワードに絞ってファイルを検分していく……が、残念ながらガーデンに関わる更に深い情報はこの場所には保管されていないようだった。

 あなたが読んだ情報には、『ガーデンでの研究内容の多くは機密事項に指定されている』とあった。恐らくそのほとんどの資料は外部に公開されていないのかもしれない、と予想出来るだろう。

「……ここで、終わり?」

 まあ、なんだか重大そうな事実が書いてあったっぽいから、無いものは仕方ないのだろう。ファイルを手持ち無沙汰にペラペラめくって、ひっくり返して揺らしてみて……リヒトはひとつため息をついて、ファイルを元の場所にしまった。立ち上がって、寮に戻ろうと歩き出す。

 それにしたって、どうしてロゼはこれを探していたんだろう。これはヒトの記録で、作り物のドールズには、この先、お披露目に行くならヒトと関わることがついぞ出来ないドールズには、関係ないことのように思えた。……いや、外に出るなら関わることにもなるのかな。いやでも、そもそもこのガーデンさんとやら、何をやっているのか、さっぱり。ロゼのお花関係でも無さそうだし……。

「……まあ、オレじゃだめってことか」

 コワれてるしな、頭。
 彼の前には、ちかちかと輝く星々が散らばっているだけであった。

【学生寮1F ダイニングルーム】

Storm
Licht

《Storm》
 ストームは幽霊の足取りをしていた。
 ゆらゆらと体を揺らし、まるで生気を感じさせないような。
 きっと今日は疲れたんだ。
 そして無意識に辿り着いたのはダイニングルーム。
 ストームは端っこの席に座り、呆然とテーブルの木目を見ていた。

 話し掛ければ、きっと意識を戻すだろう。

「……」

 安堵。ため息。まだ大切に親友を覚えていることへの、記憶を抱えていることへの、果てしない徒労感。胸元でそっと拳を握って、まだ大丈夫だと言い聞かせて。
 きっとそれより深い、ゆらゆらとした足取りの背中を、リヒトは追いかけた。

「…………」

 無言で端っこの席に座る、その目の前の椅子を引いて、リヒトも座る。相手にも相手の呼吸があることを、友であるために知らねばならない、数少ないテーセラドールとしての機能が動いて、しばらくの時間を測りながら、ノートとペンを取りだして。

「よお、ストーム。聞きたいことあんだけどさ」

  『ここ。前やったとこなんだけど』なんて話しかけた。授業の質問めいたその声掛けは、我ながらいい案だと思う。ノートのページを開いて、柵越えの決行を書いたページから示した。どこまで伝わっているか分からないから、持っているもの、拾ったもの、どんな苦しみも全て。

《Storm》
 掛けられた声にぴくりと眉が動く。
 差し出されたノート、ペン、手、顔と順々に見ていくと、目の前にはリヒトの姿があった。
 なんということだ。
 ストームは今の今まで相棒の存在に気付いていなかったらしい。
 ノートには前に読んだ所とは違う記述がされている。

「……えぇ、拝見しますね」


 ストームはノートを手に取ると一語一句、目を通す。
 彼はストームの思ってる以上に色んなことを調べているようだ。


「よく出来ていると思います。
 ……ですが、“ここは”違います。正しくはいいえ、です」

 ストームが指さしたのは『一週間後のお披露目』の文字。
 そしてゆっくりとちぐはぐの目線を相棒に向けた。
 彼はきっと演習を解いた想定で話をしている。
 だから、ストームもそれに乗っかるように続けた。
 自身のポケットからペンを取り出したのだ。

「ジブンもこの問題には苦労しました。
次に解く時に便利ですので解法を書き足してもよろしいでしょうか?」

「……え、マジ?」

 お披露目じゃ、無い。希望的観測と絶望的事実がコアを走って、結局彼は業火から思考を振り解けない。楽観できるほどイグノランスでもなく、悲観できるほどイノセンスでもない。

「助かる、教えてくれよ」

 それでも、彼のコワれた頭は事実(そこ)から先を示さない。だから頷いて、話を促した。身を乗り出して、ノートを覗き込んで、インクの滲むペン先を見つめている。

 君の知る星を、星座を教えて。

《Storm》
 ストームは頷く。
 この健気な冒険家に道を教えられればと、小さく願いを込めてペンを走らせる。
 一通り書き終えると、一度顔を上げ相棒のオレンジトパーズの輝きを見た。

「ソフィアすら知らない解法です。素敵でしょ?
 どうです? ここまでは理解出来ましたか?」

 楽しげに声を弾ませた。
 リヒトが頷けばまた続きを書き始めるだろう。

(秘匿情報)。

「へ」

 書き込まれた文字を、見て、びっくりしたようにその文字列に指を添える。文字を注意深く読む時の癖のようなものだった。取りこぼさないように、書いてくれた言葉を拾い上げ……。

 ばっ、と顔を上げた。

 流れ星だ、と。大切な友人に伝えたくてたまらないような、無垢な歓喜の顔をして。

 ちぐはぐの美しい宝石を見つめる、オレンジトパーズが輝く。

「す、げえ! え、いや、嘘だろ……!!」

 イグノランスもイノセンスもすっかり掻き消えて、ノートに俯いてもう一度文字をなぞる。取り繕うことをうっかり忘れたきらきらとした声色が驚きを飾った。

 ああ、もう知り得ないと思っていた貴女。オレは、もう一度。

 ……その瞬間、リヒトは自分で口を塞ぐ。これ以上口を開いていたら、ボロを出すかもしれないから。もごもごと辺りを見渡して、一つ切り替えるように咳払いをして。

「お、おう。分かった、分かった………よし。つづき、どーぞ」

 すすっとノートの上から退いて、そわそわと続きを待った。今すぐ誰かに伝えたくてたまらないような、そんな風に体を揺らしながら。

《Storm》
 星に願いを込めた。
 願い通り、相棒は目に星を宿して輝いた。
 ストームは目を細め首を横に振る。

「正答法では無いので、他はどうにも……。
 ソフィアに今度聞いてみます。
 彼女が驚いたらジブン達の勝ちですね」


 まるで好青年かのような言葉を紡ぎ、またペンで『秘密』と書き足した。
 そして目を伏せる。
 「では続きを」それが合図のようにストームは、押し黙る。ペンはおしゃべりを再開したから。

 開かずの扉の中に行った。
 ドロシーが着いてきて一緒に調べた。
 踊り場のハイテーブルを退けると壁と同化したスイッチがある。
 それで開閉が可能。
 中にも鏡合わせの位置にスイッチがある。
 そこで資料を2枚見た。1枚はリヒトも知っている。
 もう1枚が
この情報。
 コンテナに大量の脚部。
 奥の部屋には進めなかった。

 書き出せば自然と頭の中もスッキリしてくる。
 メモを残すのは重要な事だと実感した事だろう。
 そして思い出したようにポケットから手のひらほどの紙を取り出すと、リヒトに提示した。
 字、なんて形をしていなくてそのメモ用紙はまるで抽象画を描いているような見た目をしている。

「実は先生から類題を貰っているんですよ。
 写しておくので良かったら解いてくださいね」


 ストームは自身のメモ用紙を見ながら、ペンを再び動かした。

 ■■■■実験の経過報告書。
 ■■■■が顕著に見られる個体、そうでない個体。
 選別して放逐の命令。
 ■■■■に影響を及ぼした場合の仔細報告。

 ここまで書くとストームの手が止まる。
 一瞬続きを書く手を躊躇ったようにも見えるだろう。
 だが、次にはページをめくる音がダイニングルームに響いた。いつの間にか一ページを使い終えてしまっていた。

「こちらに模範解答と解説も書いておきますね」

 ペンはまた喋り出す。
 ストームの得た情報を相棒に伝えるように。

 アリスと話した。
 アリスはアティスのドレスが無いことを知っている。
 懲りずにアティスのドレスを破りに行ったらしい。
 ミーチェの事も知っていた。

 ストームはリヒトが既にソフィアにそっくりな金髪を持ち、無垢な赤い宝石を輝かせてたドールの事を忘れてしまっていることを知らない。
 ペンのお喋りはリヒトの知らないドールを最後に記し、ここで終わった。

「なにか質問はありますか?」


 クルクル回るインクのトウシューズ、使い慣れたペンのピルエット。ちぐはぐな瞳が確かめるようにすっと上がった瞬間、リヒトはストームの手の中の小さなバレリーナを抜き取って……今度は不恰好なダンスを躍らせる。『開かずの扉の中に行った』と言う記述の近くに、その余白に、思いっきり書きなぐった。

 開かずの扉の中に行った。
 ↑ばか
 ばかばかばか
 危ないだろ!!
 いやお前なら大丈夫かもしれないけどでも危ないだろ!!!

 書き終わったあと、大きくため息を吐いて、軽く咎めるようにちぐはぐの目を見つめ……きっと素知らぬ顔でいるストームから呆れたようにまた目線を下ろし、ノートを読み返す。指先は行ったり来たり、ゆっくり進んで、そっと戻って。

 でも、そうか。そうか、もしかしたら。業火の化け物はまだ、あの塔の中で眠っていて、腹なんて空かせていなくって。オレたちにはまだ、猶予時間(モラトリアム)が────。

 ……“ミーチェ“という記述に引っかかること無く、リヒトは経過報告書の記述や、スイッチの情報に指を這わせて熟読する。 
 きっと大切なものだったはずの欠落よ。きっと愛するものだったはずの欠陥よ。君を『罪』と持ち上げて、もう見つめ直すことが出来ない弱さにはいつか、必ず罰を受けるから。だから今は、その猶予。

「さっきのコタエになったのって、えーーっと………あ、このあたりか?」

 『選別して放逐の命令』と書かれている場所を指先でとん、と軽く示す。うれしいことに舞い上がって、ふわふわと甘く溺れるだけでは、コアを劈く痛みにいつか貫かれてしまうから、あくまで慎重に確認した。

《Storm》
 リヒトがストームの手からお喋りバレリーナを抜き取ると、同じようにバレリーナは喋り出す。
 紡がれた言葉がなんともリヒトらしい。
 ストームと言う欠陥品も欠陥品、歩く狂気の身を案じるような言葉。
 思わずストームは口元を軽く抑えた。

 全てを書き終え、それをゆっくりなぞりながら読見終えるのを見ていれば勉強熱心な生徒さんは慎重に質問を投げかけた。ちぐはぐ目のセンセイはしばらく生徒さんの目を見て、ゆっくり瞬く。

「そうですね。
 先程の回答の解説部分になります。
 これに当てはまるので答えは“いいえ”です」

 ちぐはぐ目を細めて生徒さんを見つめる。
 こうして明るい表情を見たのは何時ぶりだろうか。
 心做しか視界が少し明るく感じるのは、ストームの幻覚だろうか。
 ストームは辺りに他のドールが居ないか確認すると、自身の唇に人差し指を添え『秘密』の文字をトントンと指先で軽く指さした。


「さすがはリヒトですね。理解力が高く素晴らしい。
 勉強熱心なのはいいですが詰めすぎても体に毒です。
 ここらで休憩にしましょう」

 パチ、と手を叩きストームはリヒトのノートのある場所に落書きしていく。

『発信機の場所の見当はついていますか?』

「……おっけ」

 とんとん、と軽く叩いて示される言葉を、再度読み取る。秘密、秘密だ、どれだけ嬉しくても、今すぐ飛ぶように駆けて、みんなに伝えたかったとしても。息を飲み込むようにリヒトも人差し指を立て、ストームに応えるように口元に寄せて、声もなくぱくぱくと口を動かした。『ひみつ』。

「そーだな、オレも疲れたし!」

 うん、と背伸びして、ずいぶんと明るい声で、生徒と先生は一人と一人のドールに戻る。その途中、ぱちんと響いた手を叩く音に、リヒトは目を丸くして……ノートの端に書き込まれた言葉に、リヒトは首を振るだけで答えた。

《Storm》
 首を振ったリヒトにストームは軽く頷いた。
 唇を片手で覆い、リヒトの上半身を観察し出す。
 ストームはきっとこう考えているだろうね。
 ──もし発信機を付けるとすれば体内、か?
 ぞくりと身の毛がよだつ高揚感がストームを襲った。
 約束────
 たった四文字、たった一つの単語がピシャリとストームをリヒトの相棒に戻す。

「……で、は……調べちゃいましょうか。
 さぁ立って相棒」


 リヒトが立ち上がればストームは彼の体を一周しながら注意深く見るだろう。日常で見ても違和感が無かった、人の目につきずらいところにあるのは確かだ。

「ばんざーい」

 掛け声と共に両腕を上げさせれば、しなやかに肉付いているが薄い腰から脇まで探る。

 ……ここでひとつ書き添えておくとするならば。

 リヒトは、ストームの相棒だ。求められたから真摯に応え、与えられたから素直に受け取っている。彼はこの関係を受け入れているのだ……例え、ストームの側にどんな歪みがあろうとも。

 だから、例え今から理由なくバラバラにコワされたって、文句は言わないだろうね。

「おう! ……ん? え、今から、え、ここで?! ま、待っせめてほらオレたちの部屋とかに」

 たった一言、短いながらも繕っていた歪な日常を割いてまでの提案を、リヒトは二つ返事で快諾して……ようやく、“つまりどういうことか”に気づく。今から、なんならこの瞬間から、ここで、ダイニングルームで。抗議しようとしてうっかり立ち上がるところまで、もしかしたら読まれていたのかも、しれない。

「ばんざーい………あっ……」

 悲しきかな。欠陥品とはいえ、『ばんざい』と促されたら流れで手を挙げてしまう、人間の文化的習性までしっかりデザインされたビスクドールは、細くバランス良く暑ら得られた自分の体を、その弱点を晒してしまった。

 もうここまで来たらヤケだ。覚悟なんて全然決まってないけれど、とりあえず目をぎゅっと瞑って、秘密を暴こうとする無遠慮な手を待った。

 ストームはリヒトの薄い腹や肋骨の近辺、脇に至るまでを入念に触れて確かめていく──が、触れて分かる範囲に怪しい発信機が埋められている痕跡は見つけることが出来ない。

 皮膚が盛り上がっている事もなければ、当然だが肌に取り付けられている事実もなさそうだ。人体の構造に出来るだけ沿うようにして造られた人工皮膚の完成度を目の当たりにするだけとなるだろう。

《Storm》
 リヒトの身体に触れる。
 実に精巧に作られた素体がそこにはあった。
 それに、暖かい。
 だがそこまで。それ以外には何も無い。
 そう簡単に見つかるわけが無い事はストームも知っている。
 目を固く閉じるリヒトを見つめる。
 いきなりのストームの行動にヤケになったのだろう。
 全身力んでいて不自然に立っている。

「リヒト、そう力んではダメですよ。
 何事も最も重要なのは力を抜くことです。

 そういえば、リヒトは投擲が得意でしたよね。
 どうやって身体を使っているんです? ご教授願います。」

 ストームは人差し指でリヒトの脇腹を軽くさした。
 どうやら先程の授業の延長。
 身体の使い方の教え合いや体の不調を同じモデルであり相棒のリヒトと相談しあっているていで話を進めるようだ。
 リヒトに目配せする。
 きっと彼は気付いてくれるから。
 猟奇犯からの信頼と脅迫。
 六等星めいいっぱいに輝い(応え)て。

「っふ、ん、まっ…!! ……ちょ、待っ、ふひ、っ、ん〜!! そう、カンタンに、言われたって!!」

  脇腹を擽るさわさわとした感触にぐっと息を飲んで、せめてカッコ悪く笑い出すことだけは避けようとした。でもまあ、そんな努力も虚しくくぐもった笑い声がぽろぽろと溢れている。

 しばらくして、ようやく嵐は去ったか……と思った瞬間、続く言葉に、思わず大声で抗議した。力んではダメだなんて、そんな。こっちは堪えるので精一杯で他のこと考えらんねえのに!

「とうてき、ってーと……物を、投げる? そんなのストームが聞かなくた………………………………あ。そ、そんなこともあるか」

 息を整え、改めて。純粋にして愚かな疑問を口にしようとした時、そっと唇に触れるような静かな目線に、ようやく気づく。なるほど、これはちぐはぐな色の恒星から、直截届いた無音のシグナル。猟奇と狂気と本気に満ちた、二進数の信頼。受け取ったその瞬間、きっと既に選択肢は無い。

 そんくらいがいい。
 真っ直ぐ進める。

「えーーっと………こう、ぐってして、ぐぐーーってして、ばーーん!! ってする。コツって言ったら…」

 投擲動作のコツは、ムチのように体を動かすこと。投げたものに後から触ることは出来ない以上、手を離す瞬間に、瞬間最高速度を込めなければならない。

 ……なんて理論、コワれた頭には無いけれど。右手で見えない何かを持つような動きをして、出来るだけ体が見えるようにゆっくり大きく引き、また大きく投げる動作をした。ここから彼が何を見つけるかは分からないけれど、きっと相棒のことだ。何かは必ず、見つけてくれるはず。

 《Storm》
 言葉を発さない伝言は無事に伝わった。
 リヒトが大袈裟に体を動かすのを、静かにストームが見ている。
 傍から見れば勉強熱心なテーセラモデルを無事に演出できているだろう。
 実際ストームは体の細部まで瞬間瞬間をフィルムに切り取るように見た。そしてリヒトの手を取った。

「指の使い方はどんな感じです?
 やはり人差し指と中指は最後まで残しておく、とかですか? 手首の返し方やスナップのタイミングは?」

 リヒトの指をなぞり、両手で彼の手を包む。
 手首を曲げさせ手の甲を撫でながら指の一本一本まで細かく見るだろう。
 それは逆の手も同様に。

「っ、手の、使い方は、えーっと……投げるもののかたちと、どう投げたいかによるんだよな」

 両手を取られた時、大袈裟にびくりと肩を震わせて、それでも平常心、平常心……と言い聞かせながら、リヒトは続ける。平常心……と呟くコアは、次の動きを警戒して嫌に高鳴っていた。というか、この、こいつ、絶対。遊んでる。絶対、こんなに調べなくていい。

「とっ、おくに投げたい時はほら、変にスナップ、きかせない方がいいっ……し」

 手の甲を撫でられる。手首をくっと曲げられて、手のひら、指、の関節。警戒しすぎたせいかどこもかしこも擽ったくて仕方がない。平常心、平常心。
 ……そろそろ終わってくれねえかな、この変な時間。

 ストームはリヒトの両手をなぞり、隈無く探るだろう。
 だが彼の指先はあなたのものと同様、皮膚や爪先、骨の形状に特段異常が見られる事もない事が分かる。

《Storm》
 ストームは何処と無く楽しそうにしていた。
 何も考えないように努める相棒の表情がストームの興味を惹き、悪戯心を擽られた為だ。
 怪しい挙動を少しでも悟られれば、下手したら明日にでも怪物の腹の中だと言うのに。

 当てずっぽうに探るのはやめにしよう。なんてストームはリヒトの手をパッと離した。

「なるほど、参考になりました。
 教えて頂き感謝します。

 ぃっ、……すみません。
 実は先程から目に違和感がありまして」


 ストームはちぐはぐの目を抑えた。
 数回瞬きをして、眉間に皺を寄せる。
 人差し指で目頭を押し、涙腺を刺激してみるがストームの不快な表情は変わらなかった。

 開かずの扉の先で何かが目に入ってしまったのだろうか。
 いいや開かずの扉では身体への影響は、大して無かったはずだ。
 無論、入ってしまったフリをしていた。

「御手数ですがリヒト、目が傷ついていないか見て貰えませんか?
 出来たらですが“異物”がないか確認して頂きたいです」

 リヒトの目線まで屈みゆっくりと瞳を開けた。
 ほんの小さな小さな声で「発信機」とつぶやく。
 テーセラの聴力でギリギリ聞き取れる程度の小さな声。
 リヒトに届いていればちぐはぐの目を相棒は調べてくれるだろう。

「は、お前それ大丈…………」

 手を離されて密かに一息ついていた時、ストームが目を抑える。本来なら傷一つ許されないドールの体だ、リヒトは一瞬焦って尋ねるが……交錯するように囁かれた言葉に、思わず手で目をおおった。

 心配、返せよ。ちゃんと焦ったんだぞ、こっちは。

「ああもう、こうなったらとことん付き合ってやるよ」

 覚悟を決めたようにひとつ大きなため息をついて、リヒトはずいっと前に出て、ストームの夜空のような前髪を持ち上げた。ちぐはぐにズレた、それでもしっかりと噛み合った美しい瞳が顕になる。設計された明眸は、夕から夜へ映る空のようにリヒトの視界に広がっていた。

 これくらいしかロクに使えない、テーセラドールとしての体。その機能。頼むから、何かは見つけ出してくれよ、と自らの目に願いながら、リヒトは自分の作り物の目に、ストームの瞳の輝きを映す。

 あなたはストームの両眼を覗き込む。左右で色の違う瞳──ヘテロクロミアの爛々とした瞳孔と視界がかち合う。
 ドールはその目鼻立ち、輪郭の形、頬の肉付きや瞳の輝きに至るまでが一級品だ。天から降りたと見紛うほどに精巧に、そして美しく設計されている。ストームの美貌は見れば見るほどに素晴らしいものであったが、しかし瞳を見据えても何らかの異常は見られないだろう。

「………………あ〜」

 神さまってのが、ヒトの文化の中には居たらしい。そんな授業もあった気がした。神さまってのが世界の全てを作っていたと、そんな授業もあった気がした。神さまってのは何でも出来て何でも叶えられると、そんな授業もあった気がした。

 そうか。
 こいつは、神さまに最高傑作として作ってもらえたんだな。

「よし。取れたぜ。ったく、気ぃつけろよな」

 『見当たるものは無かった』と言うように首を振って、そっとストームから離れる。眩しいなあ。眩しいなあ。……こんな小さな感情は、秘密にばいばいしておこう。今はそれよりも、そんなことよりも伝えたいことで、こころが溢れているはずなのだから。

「……おれ、ちょっとこのコタエをさあ、ほかのみんなにも言いに行きてえんだけど……ダメ?」

 ノートを抱えて、こてん、と首を傾げて尋ねる。

《Storm》
 お披露目で真っ先に喰い千切られたらしい頭部。
 そこになにかヒントがあるものだと思っていた。
 例えば、回収しなければならないパーツが沢山あるだとか。
 例えば、ドールズのメモリーを貯蔵する為だとか。
 例えば、発信機が埋め込まれたりだとか。
 だが、物の見事に玉砕した。

 ストームは傷付いたかもしれない、なんて思い切った発言の末の手掛かり無しに落胆した事だろう。
 恐らくね。ストームも落ち込む時は落ち込むらしい。

「…………ありがとうございます。恩に着ます」


 短く礼を言うと自身の指先を口元に持っていった。
 彼の思考が陥るのはきっと自己嫌悪。
 なんて不甲斐ない。役立たず。

 ソフィアなら、こんな回りくどいやりたかをせずとも見つける。
 アティスなら、他のドールも巻き込み言葉巧みにドール達にも自身の体の違和感を気付かせることが出来る。
 ディアなら……ディアなら、並外れた観察眼で一発で分かる。
 所詮は欠陥品。
 あの三人と並ぶ価値もないイカれたドール。
 ストームと言う、ただのテーセラドール。

 嫌悪感から爪を噛んでしまいそうになったその瞬間。
 リヒトの声にストームは引き戻された。

「えぇ、良いですよ。
 出来るだけ沢山の方にお伝えしてください。
 フィリーなんかはきっと飛び上がって貴方様を賞賛するかと思いますよ」


 ストームは深々とお辞儀をしてリヒトを送り出す事だろう。
 時間が無い。
 残された猶予期間、ストームは一体何ができるだろうか。去っていく相棒を見送り、静寂に包まれたダイニングルームに一人、猟奇犯は息を潜める。
 全てはターゲットの為に。

 テーセラモデルは、友のドールだ。かくあれかしと綴られた、脳裏のプログラムが回る。ストームが何を考えているかは未知数だけれど、叢雲のように夕空の目に掛かったその憂慮が、リヒトに分からないと思ったか。

 舐めるな。自分でもまだ信じられてないけど、オレはお前の相棒なんだよ。

「前から言いたかったんだよな。────オミクロンはひとりじゃないって。何でもかんでも、一人で抱え込むなよ。試しにみんなに話してみよーぜ、相棒」

 ノートを持って出ていこうとしていたリヒトは踵を返して、一歩、一歩、ストームに近づきながら言葉を重ねる。こんな単純な、ジャンクだって気づくような明白な事実に気づいてないやつが、どうにも多い気がする。オミクロンは、ひとりじゃないのだ。全員ぶっ壊れで、だけど全員、キレイなのだ。だから、みんなはすごいのだ。

 ぐっとストームの方に近づいて、さっきの彼の真似をする。つまり、テーセラドールの鋭敏な耳にのみ届く、微かな言葉。

「…………案外、オレと話したロゼットが、先に見つけてたりしてな。発信機」

 『それじゃ、行ってくる!』と、今度こそぱっと走り出した、リヒトの背は軽やかにドアの向こうへ駆けてゆく。

 彼にとってキレイなみんなへ。コワれた体で言葉を抱えて、メッセンジャーが今行くよ。

《Storm》
 リヒトは、六等星は輝いていた。
 ほんの僅かな、見えるか見えないか微量な光で。
 しかしストームにはそれがやたら眩しく見えるのだ。
 一歩一歩、彼が近付く度に。
 あまりの眩しさにストームは、一歩後ろに引く。
 “ひとりじゃない”。“抱え込むな”。


 ────────────“相棒”。



 眩しくていけない。

 返す言葉も無くストームは口を閉ざした。
 ストームは知らない。光なんて知らない。
 感じるだけでいい。暖かくて、強くて、眩しい光を。
 その中に入っていこうだなんて、知らない。
 だけど、ストームにも分かることがある。
 相棒が前を向くのだから、それを後押ししないでどうする?
 伝えるべき事だけ伝え、駆け出した相棒へ。
 ストームは少し大きな声で言った。

「頼りにしてます。……行ってらっしゃいませ」

 リヒトがストームを良く理解しているのと同じくして、ストームも彼を良く理解しているのを忘れてはいけない。
 無事に成果を上げて帰ってくる事を前提とした送り出しの言葉はダイニングルームに響くだろうね。
 良き友、ひっそりと輝きを増していく六等星に向けて幸運があらんことを。

 ────小さな夢見るドールだった頃の、リヒト・トイボックスに。

 人は、しゃれたことを言おうとすると、ついうそが混じってしまうことがある。だからきっと、それを真似て形作られたドールズにも、似たような失敗が付き物だ。……リヒトは、ストームと話した時のことを考えていた。

「オミクロンは、ひとりじゃない」

 リヒトはそう呟いて、花かんむりを編んでいた。茎をひとつ、ゆっくり曲げて、葉を脇によけて、輪っかを作って、また茎を通す。寮近く、噴水の傍の、花畑の陽だまりに。その日の中に、隠れるように座り込んで。

 指は誰かの柔い小さな手に導かれるように、引っかかりもなく滑らかに動いた。かつて点であったはずの花々は、いつの間にか鎖になった。自分が覚えたつもりもない、鮮やかな手の動きに……意識すらしなくても次の手順が分かる、慣れきった動作に、リヒトはただただ、困惑して。
 そして想起した胸痛が、罪と罰を教えてくれる。今でも。

(彼は、彼にとってかけがえのない、■■■■に責任があった────はずだったのだ)

「オミクロンは、ひとりじゃない」

 振り切るように頭を振って、最後の茎と最初の茎を繋げて輪にする。そして、それを被りもしないまま、手の中に持って、俯いた。この鮮やかな祝福を何故か、自分の頭に乗せる気にはなれないまま。だけど、その花を見つめていたら、見つめてさえいたら答えが帰ってきてくれると、そう傲慢に願ったまま。

 ……ことばは誤解のもとだから、だから貴方に来て欲しい。がまん強く、そして責任ある愛の人。いちばんたいせつなことを知っている、世界の恋人。

【寮周辺の平原】

Dear
Licht

《Dear》
「リーヒトっ!」

 愛しい恋人の呼ぶ声を、世界の端から聞きつけたみたいに。思い切り助走をつけて、勢いよく、されど、その鮮やかな祝福が、潰れてしまうことのないように優しく。リヒトの努力の結晶も、鼓動も、リヒトの全てを、丸ごと。トゥリアモデルの細い腕が、リヒトの背中を抱きしめた。寂しい背中を抱きしめた。大きな背中を抱きしめた。
 小さな男の子だった時のリヒト・トイボックスへ。いつまでも小さくて、無垢で、愚かにも可愛らしいディア・トイボックスより。甘やかで、幸福で、嫌になるほど正しい、希望の導きを。

「今日の空はまた一段と可愛らしいね、キミも、空も、やっぱり笑顔が一番だ! 絶好のお話日和だよ、何たる幸福!
 花冠、編んでたんだ? とってもかわいいっ、みんなみたいだ、ね、お話、お話しようか! 大事なお話だよ、きらきらで、ぱちぱちで、ぴかぴか光る愛おしいキミのように! ふふっ!」

 可愛らしい笑顔だった。ぎゅうぎゅう抱いて、くすくす笑って、ターコイズブルーが星を捉える。
 みんな。何千兆の概念を指すその言葉を、あまりにも軽やかに口にする。ああ、幸せそうだ。何処にでも行けそうだ。あの白銀の少女が地獄へ行くと、告げられる前のように。あの金色の少女の輝きが、潰える前のように。
 今日も、昨日も、一昨日も、一年前も、十年前も、百年前も、十万年前も、ディアは変わらず幸せだった。誰もが羨む、不変の愛。遥か遠く、全ての星々を呑み込んで、輝き続ける一等星は。ゆらゆら揺らめく海底からは、どう、見えるのだろう。

「っ、ディア、さ…………」

 抱きしめる手で、もう分かる。高らかな声で、もう分かる。
 救われる者がいても、コワされる者がいても、彼は何も変わりやしない。絶対的で普遍的な……リヒトは振り向いた。その人の方を。話がある、と言っていたから、自分と雑談なんかするわけないと少し思って。情報共有なら、応じないと、と思って。それが唯一残った、彼に出来ることだから。輝く宇宙のように、出来損ないを映していたその目は、

 ────ターコイズ、ブルー。

 咄嗟に、目を背けた。

「ちょ。待っ、近い近い……! 寄りすぎだって……!!」

 抱きしめられた腕の中から、デザインされた温もりが伝わって、リヒトはどうしようもないような気持ちになった。怖いのに、ここは暖かくて、焦がれたしあわせの匂いがする。煌めく宝石のような言葉がまた、宙をくるくると回る星のようにちらついている。いつもそこで笑っていながら、決して手の届かない祝福だ。見ているだけで幸せだ……なんて無欲になれたら良かった。

(笑顔。えが、お……)

 上手い? 上手いか、上手いよな。上手くやる以外の方法を、ミュゲに潰されてしまったから。

「あげるから。あげるから! 離れてくれって……お話、つきあうからさ」

 手の中に持っていた花かんむりを咄嗟にディアさんの頭に被せて、どうか離れてくれ、とそっと体を押す。目を合わせないよう、この太陽に見つからないよう、そっと俯きながら。このままくっついていたら、溶けてしまいそうだ。こんなジャンクの体よりも大切にしている、罪と罰でさえ。

《Dear》
「ん、」

 140cmの小さな体は、とさっ、と軽やかな音を立てて、あっけなく崩れる。吹けば飛んでしまいそうな、触れれば崩れてしまいそうな、ガラス細工のような感触だった。
 それから、数時間ほど経っただろうか。数分、数秒でさえあったかもしれない。眠るように倒れたきり、ぴくりとも動かないディアを見守って、花や風、光に隠れる星でさえも、息を止めているように思えた。

「っっっくれるのっっっ!?!?!?」

 がばっ! と、それはそれは大きな効果音がつきそうなほどに、ディアは勢いよく起き上がった。実のところ、この溢れんばかりの幸福を受け止めようと、一生懸命なだけだったのだ。
 ディアは可愛い。ターコイズブルーをいっぱいに見開いて、誰もが見惚れてしまいそうなほどに、くしゃくしゃとした笑顔を浮かべて。ごく自然的に不自然で、醜いまでに美しく。世界は全て、愛でできているのだと。苦悩も、焦燥も、恐怖も、死も、全てを乱暴に愛してしまえるその輝きは。
 暴力的で、盲目的で——殺戮的な夜明けだった。

「わ、わっ、わーっ、嬉しい……! ありがとうっ、リヒト、リヒト、愛しきリヒト! 私たちのエトワール! 大好き! ああっ、かわいい〜〜〜……っ!
 キミのコアを鼓動させる深い愛がシルクのように美しい天使の指先を伝い、編まれ、花が笑っているみたいだ……! 大事にするよ! 十億年後も、十兆年後も、絶対っ、ぜっっったいっ、大事にとっておくっ! ああ、愛して——って、抱きしめるのはだめなんだったね! ええっと、じゃあキス……いや、その前にお返しを考えないと! うーん……あっお話! お話もしたい!
 えっと、そうだなあ……風がゆるやかで気持ちいいねえ、今日もご飯は美味しいし、リヒトもいるし、ふふっ、とっても幸せだ! そう思わない? あっそうだ! お返し、お返し、私もお花で何か編むね!」

 ——ディアは、花を手折るのが苦手だ。人が人を殺すのが苦手なように、この星の地を踏むのでさえも苦手だった。彼の花は、恋人は、愛を囁けば可愛らしく笑うし、ひどいことをすれば悲鳴を挙げる。けれど、愛しいキミの見る世界は、そうじゃないものね。
 目の前の恋人のために、自己が作り替えられていく感覚。目の前の恋人が望むままに、鼓動を紡ぐプログラム。ディアの鼓動はいつも正しい、恋人に合わせ、ふらふらと彷徨い、星々は流れ、されどその核はいつだって愛だ。キミが望むのならば、空だって燃やしてあげる。キミが信じて欲しいことは信じるし、信じて欲しくないことは信じないよ。キミの望みを叶えるために、なんだってやるよ。
 柔い爪で、花を愛でた指先で、リヒトの鼓動を大事に大事に抱きしめているのと同じ、もう片方の腕で。ぶちりと、愛しい恋人の首を掻き切った。

 嬉しそうに笑ったかと思えば、うんうん唸りながら悩み出して、また嬉しそうに笑いかける。ころころ変わるディアの表情は、とても目まぐるしく愛らしい。一生懸命で、頑張り屋で、とっても素直で、誰より純粋で。ただ、キミを真っ直ぐに愛している。


 コワしてしまったかと、思った。

「…………え」

 軽い、軽い、本当に軽い。言葉と立場と俗的な感情で現実につなぎ止めているから何とかなってる、風船みたい。だから彼が倒れ込んで数秒、リヒトはぼうっと見つめていた。どの一瞬でさえ、完成されていた。彼は世界に祝福されていた。だから、焦り始めたのは、瞬きの後。

 ────連れていかれる。連れていかれちゃう。そう、取り留めも無い感情に焦った。矮小に、ちょっと独善的に。何に? 何に?  何になんて、そんなの……彼の恋人。“世界”をおいて、他にない。

 彼が、世界に、攫われる。

「う、ぉっ」

 目の前に、ターコイズブルーが光を増して輝いていて、青い蝶は居ないのに、コアのあたりが竦んで、震えて、怖くて、怖くて、でも、この目を離せない。強烈で、暴力的な魅力がリヒトを、誘蛾灯のように縫い止める。
 いいや、蛍光灯じゃ生ぬるい。彼は巨星だ。いずれ星を、太陽系の全てを飲み込む、殺戮的な太陽だ。……なんて。恐怖とも憧憬とも敬愛とも卑屈とも取れない、思考の途切れたコワれた頭で感じた感情の一端は、きっとこんなところだろう。

 嬉しそうに笑ったかと思えば、うんうん唸りながら悩み出して、また嬉しそうに笑いかけて、ころころと健気に可愛らしく笑うディアさんを見て、リヒトは思った。何億回も気づいて、何億回も逸らし続けた、たった一つの、現実の全て。だから苦手なんだ。彼が世界の恋人なら、彼が世界を愛しているなら、

(……じゃあさ、じゃあさ。じゃあ、もう、さ)

(この人、ひとりでいいんだな)


 そっか。


「……うん、気持ち、いいな、風。ご飯美味しかったんだ、そっかあ。幸せ………なんだな、ディアさんは。いいことじゃん」

 どっと話し始めたディアさんの言葉の最後の方に、遅れながらも返答をする。風が気持ちいいこと。相槌を打つ。ご飯が美味しかったこと。相槌を打つ。幸せなこと。相槌を打つ。花を手折るディアさんのことを視界から外して、俯いて。

「い、いいよ。そんな。オレだってそれ、その、全然下手なやつだし」

 お返し、お返し、と花を持って言うディアさんに、いいよ、と伝えて。でも、花かんむりを渡してしまった彼は今、手が空いている。もし彼が頼むなら、花かんむりの編み方なんかを教える。教えるだろう。教えるはずだ。教えるはずだ。教えられる、はずだ。かつて、教えられたように。

《Dear》
「うーーーむ………キミって子は、なかなかの強敵だよね! それに、ちょっと不思議なことを言う! ふふ、あはは、ちょっとおかしい。そういうところが、まじめさんでかわいいのだけれど。

 ——お返し、指輪にしようかな」

 ことばは誤解のもとだから。愛おしくてたまらなくて、幸せになってほしくて、尽くした言葉が。うまく、伝わらない時。もどかしくて、わからなくて、大好きだから、困ってしまう。
 愛を囁く度、遠く育っていく花の名前は。きっと一割だって、キミの心に届いていなくて。好きだ。キミのことも大好きだ。愛しているということばでは、おさまらないくらいに。でも、でもね、それでも。キミと、他でもないキミと。何気ない言葉を交わせることが、こんなにも幸せで。

「下手だからとか、上手だからとかじゃなくて、キミがくれたものだから、キミと共にいる時間だから、キミの愛がこもったものだから、幸せなんだって。キミといられる時間なら、それだけで全部、全部大事なんだって。キミにも、心の底から、そう思って欲しいんだって。病める時も、健やかなる時も、いつまでも変わらず、キミを愛し続けるって! 誓って、約束して、忘れないでって!
 ——絶対、次こそっ、ディアさんも幸せって、心の底から言ってもらえるように! 伝えてみせるから、ね」

 細く器用な指で、花々が芽吹くように編まれていく春を生む指輪。世界に祝福された手で、リヒトのコワれた頭を撫でる。
 全部ダメでも、ダメじゃないよ。間違ってても、間違ってないよ。特別なものがなくても、何もできなくても、全部素敵だよ。キミが好きだ。キミは美しいと、キミといる世界だから幸福なのだと、愛おしげに笑う。
 昨日が追いつけない時間へ、今日の手が届かない場所へ、明日の背を超えたずっと先へ。希望に向かい、走って、走って、走り続けて。あの朝日を、飛び越える。絶対に、キミを諦めてなんかやらないよ。太陽の光を一身に浴びて、きらきら輝く白い指は、ぴたり。風が踊る、ティアラが見守る、春色の上で眠る花冠が、そっと微笑む。リヒトを真っ直ぐ見つめるターコイズブルーには、いいことを思いついた! とでも言いたげな、眩い光が詰まっていた。

 作りかけの端正な指輪を大事にしまい、小さな花を新しく手折る。ディアの瞳と同じ色。呪いと希望の名の付いた、忘れないでと囁く花を。

「だから、ね? リヒト、指輪の作り方、教えて! 私、慣れていないからわからないの」

 彼の嘘はいつも、プログラムに、心に正直な輝きばかりで。

「おねがい!」

 息を呑むほど妬ましく、涙が出るほど美しく。

「“かわいい”は違うってぇ………」

 強敵だとか、不思議だとか。そういったことはこくりと飲み込んで、リヒトは最後の言葉だけを拾って、少しだけ不服そうにそう言った。あの青い天使といい、どうしてこう、手足をもぐような言葉選びをするんだろう。
 貴方が愛おしげに口にする、その『キミ』が。貴方が口惜しそうに紡ぐ、その『キミ』が。貴方が諦められないと誓う、その『キミ』が。

 自分以外の誰かのように感じて、口の中がからからに乾く。

「なんか、すごいな。ディアさん。……うん、そう……なったらさ」

 だけど同時に、洪水のように浴びせられる愛の言葉が、まるで足元から忍び寄る狡猾な幸福のように、体を暖めていくものだから。きっと諦めることすら、彼には許されなかった。撫でてくれるその手を、拒絶すら出来ずに受け入れてしまうことが、自分の弱さで、コワれている部分で。天災のようにどうしようもない、祝福だった。

「っ……、………し……かたないな!」

 だから、少しだけ震える手と、瞳孔を押さえ、恐怖をぐっと乗り越えて、彼は改めて小さな花をディアさんと同じように手に取った。大丈夫。大丈夫。まだ忘れない。まだ罪じゃない。蝶の形はしていないから、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、大丈夫。

「よし、オレに任せろ! えーと、ここを、こうして。たぶんこう、回して……あれ?」

 実の所、彼は花かんむりばかり作っていたものだから、花かんむりの作り方だけは手に馴染むほど知っていた。誰に教わった訳でもないのに、誰かに教わったかのように。だけど、花の指輪の作り方は、誰にも習っていなかった。任せろ、と言った手前、分からないと言うことも出来ず、リヒトは探り探り花をいじり始めた。その不格好な手つきが、不器用な力加減が花を壊すとも知らないままに。

「あ、あちゃー……」

 苦心しているうちに、二、三枚、花びらは散って落ちてしまって。茎は何度も曲げられたことでしなびて変色し、二つに裂けてしまっていた。もうどうしようもないくらいにコワれてしまった花を手に、リヒトは怒っていないか伺うように、ディアさんの方にそっと目線を上げた。いつもの癖のようなものだった。

《Dear》
「ふふ、怒ってなんていないから、どうかそんな顔をしないで? 私のお返しなのに、お願いしちゃってごめんなさい。つい、可愛くって! 頑張ってくれてありがとう! 愛しているよ! んふふ、キミってほんと、あったかくって素敵な子!
 ——ねえ、リヒト。キミ以上に花冠を上手に作れる子は世界中にたくさんいて、それでもきっと、リヒトの花冠がいいって何度でも思うよ」
 ぎゅう、と花冠を抱きしめて、ディアは笑った。燦然と輝く一等星に見惚れる、可憐な少女のように。深い深いターコイズブルーは、キミだけを映している。
 虹の橋を探しにいくのも、花のベッドで眠るのも、一緒がいいよ。リヒトとがいいよ。他の子じゃダメ、キミがいい、キミだけでいい、キミだけがいい。キミを幸福と呼びたい。キミの名前を呼ぶ度に、また一つ、キミが愛おしくなるの。ねえ、キミは私の光だよ。

「花冠も、この時間も、温もりも、光も、幸福も、リヒトにはたくさんもらってばかりで、リヒトのくれたものでもういっぱいいっぱいなのに……私、もっと欲しくなっちゃってる」

 キミだけの言葉、キミだけの愛、キミだけの星。ただキミを、キミだけを求めている。

「ねえ、このお花、もらってもいいかな? 指輪も編もうよ! 二人で、新しい編み方なんて考えちゃったなら、とっても楽しそうだと思わない? ふふっ、あとねあとね、リヒトの遠い遠い明日も、どうか予約させてほしいの! 私たちの、私たちだけの、世界で一つの指輪をみんなで編みながら! 今はすっごくスマートにかっこよく編めるけれど、こんなかわいい時期があったんだよって、笑い合える夜明けの日を!」

 墜落した花々を、一枚一枚拾い集める。しなびた茎にキスを落として、キミの全てをきっと認めて、キミの全てをずっと愛して。そっと、囁いた。

「……リヒトの、左手の薬指も、ね? 私だけのエトワール」

 ——ずっと、こう言って欲しかったのだものね?

 花が、愛しい恋人が、無惨にも命を絶たれた。意味もなく、意思のない人形みたいに。鼓動があった。夢があった。願望があった。痛みがあった。恐怖があった。それが、最低のジャンク品に成り下がった。けれど、今はそんなこと”どうでもいい”。

 だって、彼が、愛しいリヒトが、心配しているのは。

 “誰かに怒られないかどうかだけ”。
 いつだって、それだけだったから。

 愛してほしい。自分だけの言葉がほしい。誰かの特別になりたい。誰かの星になりたい。有象無象の星のままで終わりたくない。オレを、見て。

 ——その望み、叶えてあげる。

 はいって、くる。
 はいって、くる。
 はいって、くる。
 はいって、くる。
 はいって、くる。

 何も知らない愛が、
 はいって、くる。

 そう、わかった。


「うるさいっ!!!!」


 絶叫。絶叫。絶対。誰よりも欲していたから、誰にも気づかれたくなかった。気づかれるならご主人様ってやつだったし、それももう居ないと知っていた。誰よりも欲していたから、言葉にすらしちゃいけなかった。それなのにまるでワルツでも踊るような軽い足取りで入ってきて、白日の元に晒し出して勝手に叶えようとする貴方は一体なんなんだ。貴方が知りたがったリヒトの心は。貴方が欲しがったリヒトの心は。貴方が手を伸ばしたいいリヒトの心は。純粋で無垢が故に聡明で、慈悲深く愛らしいが故に憐憫に満ちた、貴方が愛したどうしようもないリヒトの心は。罪と罰とつぐないで、ぐずぐずに腐っているのに!

「うそつき、うそつき、うそつき!! 誰のことも、ホントの意味で愛したことなんてねえくせに────!!!」

 混乱したように俯いて、喚いて地面を殴りつける。だって貴方は殴れないから。殴ったってどうしようもないから。だってこれは最初から全てリヒトの罪で罰で、今更やってきた世界の最愛は祝福に見せ掛けた囮で。きっとこんなの嘘で。きっとこんなの罠で。微笑んで安堵して応えたが最後白日の元で磔になって内臓ごと晒されて。それでも入ってくる入ってくるその人は世界で一番の幸福の顔をして入ってくるそれを許したのはオレだオレの欲なんだ浅ましいから救いが来たんだ憐憫深い笑みを浮かべた青い目の祝福が。昨日が追いつけない時間へ、今日の手が届かない場所へ、明日の背を超えたずっと先へ。そこはリヒトだけの場所だ。どれだけ罪深い耽溺でも、どれだけ痛ましい記憶でも、それはリヒトだけの場所だ。はいってくるな、はいってくるな、はいってくるな、はいってくるな、はいってくるな!!

「そんな顔でオレのこと呼ぶなよ、誰にだって何にだって言うくせに。あんたの薬指は世界が埋めてるくせに! オレのこと何にも知らないくせに、オレに何もくれないくせに、オレから全部とっていくんだな!! ひどいやつだ、ひどいやつだ! ディアさんは、ひどい、やつ、だ……」

 嘘。嘘だよ。嬉しいよ。幸せだよ。待ってるよ。待ってたよ。愛して欲しかったよ。誰かの特別になりたかったよ。誰かの星になりたかったよ。有象無象の星のままで終わりたくなかったわ。見てほしかったよ。嬉しいくせに嫌いだよ。幸せなくせに苦しいよ。蹲って地面を掻きむしる、爪の中に土が入る。毒物のような多幸感で、頭がおかしくなる前に。ココロがコワれてしまう前に。もうひとつ積み重なってしまった、罪をまた数えよう。ひどいこと、言ったね。


 ────あ。


 狂いなく描かれた頭をばっと上げる。

「ち」

 設計された瞳孔が揺れる。

「ちが、う」

 調節された喉が震える。

「なし、今の、なし。なんでもない、ちがう。何も聞いてない、から、何も無かった、から、オレ、なんかには、なにもない、から、ない、ないから、なんでもない、なんでもない、から」

 あとはゴミ箱を待つだけの、出来損ないのリヒトは立ち上がる。
 うわ言をメトロノームのように、ぐずぐずの心を支える松葉杖のようにして。
 咲き誇る小さな花花を、いつか指輪になるはずだった数多の明日を、踏みながら。
 ふらり、ふらりと、一歩、一歩、その場から立ち去っていく。

 そして、振り返って口を開いて、それでも『こっち、こないで』とはいえなかった。最後の最後まで縋っていた。どれだけ突き放しても望んでいた。もし、貴方が声を掛けてきてくれたらきっと立ち止まるし、そうでないならゆっくり立ち去るだろう。
 カラカラの今も、まだ。どうしようもなくしあわせで、狂ってしまいそうだった。

《Dear》
「おや、そうかい? じゃあまたね、“私たちの”エトワール! キミのことも、ずっとずっと愛しているよ!」

 花冠を抱きしめて、殺された花をハンカチに包んで、花を踏まないように可愛らしく座り込んで。ディアは決して、キミを追いかけようとはしなかった。

 もう、ディアはキミの名前を呼ばない。キミの手に触れない。キミの孤独に触れない。キミの欲に触れない。キミの、鼓動に触れない。キミだけを愛しているだなんて、もう、二度と言わない。

 だって、突き放したのはキミだ。抱きしめないでくれ、離れてくれ、うそつき、ひどいやつ、そんな顔で、オレのことを呼ぶな。
 だって、誰よりも純粋で、誰よりも優しく、正しく、光り輝くその愛を、全部潰して、コワして、否定したのはキミだ。ディアは、キミのことを全部肯定したのに。キミの望みを掬い上げて、キミの全部を愛したのに。美しくて、可愛らしくて、世界に愛された彼が差し伸べた柔く暖かい手を、自分から振り払っておいて。また、そのコワれた手で縋ろうと言うの? やっぱり、キミは不思議なことを言うね。

 はいってくるな、はいってくるな、はいってくるな、ひどいやつ、うそつき、うそつき、うそつき! ——こっち、こないで。

 ——その望み、叶えてあげる。