Amelia

【寮周辺の湖畔】

Licht
Amelia

《Licht》
 祝福を願って。

 運命を恨んで。

 そしてこの湖畔は今日も、静かに声のない悲鳴を飲み込んでいる。大粒の雨と一緒に。

 昼下がりの湖畔をぼうっと見つめる、リヒトはまた、まだ、誰かを待っている。傘の柄を引っ掛けるようにだらんと持っているから、ほとんど雨を凌げていない。短い髪を濡らす水と、孤独を鞄ごとぎゅっと抱き締めて。振り返る。

「…………来た、?」

 希望と絶望が綯い交ぜになった銀河のような気持ちを飲み込んで、寮の方からやってくる傘を見つめていた。あの日の黒い雨でなければいいと、思う。

「……ええ、来ましたよ」

 昼下がりの重苦しい雲に押しつぶされないようにしながら、彼女はゆっくりと湖畔に向けて歩いてきた
 雨だから……というのは分かるが傘をさして二人っきりというシチュエーションに少しドギマギしながらも、彼女はリヒトの問いかけに答える。

「きっと、アストレア様……というよりお披露目についての事でしょう?」

 そうして、朝の宣言で呼び出された理由を半ば察していた彼女は先回りをするように問いかける。
 お披露目について、何か知っているのでしょう? と。

《Licht》
「……はは。なーんだ、分かってんのかよ」

 ひとつひとつ、絡まった糸を解くように、星を繋いで星座を見るように、この玩具箱について語ることは……リヒトには荷が重い。だから、正直助かった。
 この聡明なデュオドールはどこまで辿り着いて、どこを見据えているのか。リヒトには分からない。コワれた彼には分からない。だからこそ。

「……アメリア、さあ」

 二度、三度。目線を動かし、傘を揺らして一歩近づく。水の匂いがする。葉が揺れる音と、命の無い森のざわめき。今から言うことの情けなさに、自分でも訳が分からなくなりそうだ。ソフィア姉と、アティスさんと、目の前の青い瞳がもし、叡智の証明だとするならば。リヒトはあくまで自然に、軽く口を開く。

 コアがギリギリ苦しいような痛みと、それでも前を向け。

「『助けて』って言ったら、助けてくれるか?」

 つぎはぎの、笑顔で。

「へ……?
 リヒト様が、アメリアにですか?
 うふふ、ええ、ええ、助けられる物ならば幾らでも。
 ですが一つだけ訂正しましょうか。
 アメリアは助けるのではなく、リヒト様と一緒に助かるのですよ。
 なんたってたった一人の落ちこぼれ仲間なのですから。
 アメリアだけで助けるなんて土台無理なお話なのです。」

 何処か苦しみを伴った、つぎはぎの笑顔にアメリアは小さく、けれど確かに笑う。
 なんたって「助けて」だ。
 お互いこの世に三つもない超弩級の落ちこぼれ、何ならばリヒトの方が優れているとまで思っているアメリアにそんな風に請うというのだから、笑ってしまう。
 だから、アメリアはどこか吹っ切れたような柔らかな笑顔のまま、何処か絶望的な事をさらりと答える。

「では、どこからお話しましょうかリヒト様。
 ひとまずは……トイボックスが地下……ないし日の光の届かない海の近くにある、という所からなんて如何です?」

《Licht》
 言葉を聞いて、理解するのに少しだけの時間と、強くなる雨足と、強ばった体と、軽く吹き飛ばされて地に落ちる傘があった。

 一緒に、なんて。

(……考えたことも、無かった)



「あ……違う、違う。……オレじゃ、なくて」

 一瞬、息を飲んだ後、震えた言葉がことこと落ちていく。拍子抜けしたように、ちゃんと否定しなきゃ、勘違いがあったら困るし、と気をしっかり保ちながら……それでも、ツギハギの糸が少しだけ、優しくほぐれたように。

「『アストレアさんを、助けて』って、言う、つもり、だっ……だったん、だけど、さあ」

 期待するな。真面目にするな。こんなものをよすがにするな。こんなものを頼りにするな。いつか絶対、こんなコワれたものは要らないって言われるし。いつか絶対、ボロが出て置いていかれるさ。

 あの夕日のように。

 ……それでもいいと、思ってただろ。夜明けをただ待つしか無かった、数える程あったあの夜に。それでもいいから走らなくっちゃ、って。硬い蓋の向こうで考えただろ、何度だって。

 傘を取り落とした雨の中でひとつふたつ、大きく息をして。きっと、眦に滲んだ宝石が隠れていたらいい。ジャンクの中のジャンクにかけるにはあまりにも嬉しかったから、きっとあの言葉はリヒトにとって、遠く輝く流星だ。

 その後、さらりと話された絶望の一欠片に、もはや驚くことも出来ずにリヒトは呆れる。

「ほ、ほんとにお前ドコまで……」

 それでも伝えなくちゃいけないことがあった。何より、やらなくちゃいけないと決めたことのために。濡れそぼった手で鞄からいつものノートを差し出して……受け取ってもらえたら、リヒトはふいっと後ろを向くだろう。アメリアの方を見ないように。それから、情けない顔がバレないように。……かっこ悪いからな。

「ふうむ……必ず、とは言いませんよ。ですが、アメリアは出来る限りの事をしましょう。」

 リヒトの言葉に、アメリアは顎に手を添えて少し考え込んでから言葉を返す。
 実際、彼はアメリアにとって旧知の中で、お披露目がろくでもない事を考えると……お披露目には行かせたくない。
 しかし、どうにかするべき相手も分からない上、どうしようもない落ちこぼれのアメリアとしては必ずとは言えない。
 だからこそのかなり弱気な返事だったが、結局、その問いへの返事が帰ってくる前に押し付けるようにノートが渡されてふいっと後ろを向かれてしまった。

 随分と動揺していたのだろうか? 取り落とした傘を転がしたまんまにしているリヒトに少しの間ぽかーんと間抜けに口を開けていた彼女は、そっとノートを開き、読み進める。

 記憶がおかしい。
 ルートゼロ。
 隠し部屋の示唆。
 樹木。
 虫のような怪物。
 実験。
 鍵が開いていた。
 処分。
 二足歩行の怪物。
 ロゼットの異変。
 ドロシーというドール。
 テーセラのジャック。
 ダンスホールの水音。
 蜘蛛のような怪物。
 海中のトイボックス。
 柵越えの発覚。
 そして……決意。

 そんな、長い長い苦悩の記録を見て、彼女はノートを閉じた後にそっと傘を下して天を仰ぐ。
 たとえ偽物の空だったとしても、今だけはこの感傷を捨てたくは無かった。

 あなたは手に握り締めていた傘を下ろし、黒い煙のように重く立ち込めている曇り空を見上げる。降り頻る雨があなたの白い頬をしとどに濡らして、あなたは頭が急速に冷えていくのを自覚していた。

 ─ー思い返すのは、あの寒い雪の日だった。あの日もあなたは、このように傘をさしながら、どこかの街道を歩いていた。『あの人』と一緒に。

 ズキ、と側頭部が鈍く痛むのを自覚した瞬間。
 あなたはそのままの姿勢で受け止めるにはとても耐え難いほどの、凄まじい頭部への衝撃にその場へ頽れる。
 記憶を封じ込める鉄の扉が、強引な力で引き剥がされる。そんな激痛と共に、ぶわりと溢れかえるような光景があった。

《Licht》
 どこか暖かい気持ちは雨ですっかり冷めてしまって、むしろそれをいいと思えた。期待と希望に舞い上がっていたら、直ぐに業火が誰かを焼く。今のように。

「……もちろん、その、信じられるようなもんじゃない……けど、さ」

 そう付け加えて、リヒトはアメリアの意見を聞こうとして振り返る、その時。

「───っ! アメリア……?!」

 慌てて駆け寄って、グッと息を飲んで周りを見る。そして落ちた傘を手に取って、せめて寮からアメリアが隠れるように差して、でも分からない、どうすればいいか分からない。ここから先が。

 コワれた頭は不器用に軋む他無い。コワれた体は背中を撫でてやることすら思いつかずに傘の柄を持って固まっていて。声が上手く出ないし、言葉がちぎれて飛んでいくし、ああ、くそ、どうしよう、どうすりゃいいんだ、これ何だ、何とか、助けたいけど、でも、でも、ああ、

 ……この、役立たず!

「あ”ぐッ……!?」

 走ったのは脳の奥の奥、大脳新皮質の向こう側をまさぐられるような耐え難い激痛。
 彼女は咄嗟に頭を庇う事すら出来ずに、どこか滑稽なうめき声を上げて地面にうずくまる。
 痛みによってこじ開けられた彼女の視界に色とりどりの記憶が踊った。

 お披露目の時。
 美しいドレス。
 カメラで撮ってもらった写真。

 どこか疲れているあの人。
 口から溢れる燃料。
 汚れていくドレス。

 あれは本当に……お披露目だったのだろうか?

「リひ……様……?
服は……汚れておりませんか……?」

 混濁する記憶の中、痛みが落ち着いてきた彼女は弱弱しくリヒトを見上げて自分の吐いてしまった燃料で服を汚していないかと問いかける。
 実際には燃料など吐いては居ないのだが。

《Licht》
「……え、服?」

 弱々しい声が返ってきたとき、リヒトは心の底から安堵して……続く質問に、首を捻った。

 お互い傘をうっかり取り落として、少なくとも濡れてるし、見えてないけど土もついてるかもしれない。だから汚れていない、なんて断言はできないけれど、同時に。

「あ、あー……とりあえず落ち着けよ。そんなヒドイもんじゃ無いと思うし、さ」

 汚れてる、なんて言うのは違う気がした。だからとりあえず濁して、立ち上がれるように手を差し伸べながら待っていた。

 急にしゃがみこんだのも、すごく苦しそうなのも気になるけれど、何より、それがセンセーにバレるのがいちばん怖かったから。早く戻ってくれないかと、心の底で切に願って。


 (……オレの、役立たず)

 これは、特に何でもない所感。いずれ彼が今日を振り返った時、大きな傷になるであろう、いつもの出来損ない。だから割愛、意味は無い。

「は……はっ……ああ……。
 そう……そうですね、きっと。」

 リヒトの冷静な声掛けに、やっと現実で燃料を吐いた訳ではない事に気付いたアメリアはよろよろと体を起こす。
 ……が、立ち上がり切る事は出来ずにリヒトの肩を借りて立ち上がろうとするだろう。
 肩を借りれなければアメリアはそのまま座ったままだし。
 借りれたならば、立ち上がってから言葉を続ける筈だ。

「それでは、アメリアの知るところを、語りましょうか。
 そうですね……先程のノートに書いていなかった内容ですが……。
 恐らく、我々ドールズの疑似記憶は普段見えているものだけではありません。
 なにがしかの行動を鍵として知らない記憶を見ることが出来ます。」

《Licht》
「………え」

 擬似記憶の、見えていないところ。アメリアを支えながら立ち上がらせて、その言葉を聞いた。

「そ、そうなのか?! 忘れてる部分があるってことか…」

 行動をカギにして、何かを思い出す。首を捻りながらも、とりあえず受け止めた。行動をカギにして、何かを思い出す。……メモしておかなくちゃ、と思ったところで、リヒトはノートを返してもらおうとするはずだ。

「ならナットクかもな。……その、オレ、最近なんか覚えんの苦手だからさ、書いてた通り」

 どこか気後れするように、リヒトは眦を下げた笑顔で誤魔化して告げる。自分の欠陥を語るのは、分かっていることとはいえ少し、苦しいけれど。まあ何かの役には立って欲しい、星座を繋げるために必要な、星と星の間の塵のように見にくい、六等星くらいには。

「ええ、そうです。
 これが本物の記憶なのか、作られた記憶なのかは分かりませんが……あるならば役に立つ筈です。
 先ほどのアメリアのように頭痛が起きて……知らない場所……例えば雪景色とか部屋とか、或いはドレスとか、そういった物が思い出せたのならきっとソレです。」

 誤魔化すように笑ったリヒトの言葉をひとまず聞き流して、自分が今まで見た記憶の一端を語る。
 あの人との記憶を語るのは心の一部を切り裂いて差し出すような苦痛を伴ったけれど、今は仕方がない。

「それと、最後に。
 恐らくオミクロン寮には誰か……第三者が忍び込んでおります。
 それが隠し部屋の向こうの誰かか、或いは件のドロシー様かは分かりませんが……お気をつけて。」

 そうして我慢しながら語り切った後、警告を投げかけてノートをそっと差し出す。
 ノートを受け取って貰った後、相合傘になってしまっている事に気付いたアメリアは顔を真っ赤にしてその場を走り去ろうとするだろう。

《Licht》
「お、おう。なるほど、嘘かホントかは分からないけど、情報にはなる……かも、そうだな。もしかしたら、大事なコト忘れてたりするかもだし、な!」

 これもメモに取っておこう、と決めて、続くアメリアの言葉を、警告を聞く。

「……だい、さんしゃ?

 だいさんしゃ……第三者。なんだっけ、他人って意味だっ……あっアメっ……あ〜……」

 確認しようとしたその瞬間、アメリアはかーっと真っ赤になって、ぴゃっ、と逃げて行ってしまった。リヒトはただ、首を捻る。さっきまでの相合傘には気づけないあたり、リヒトはしっかりテーセラモデルなのだった。

【学生寮1F 洗浄室】

「はあ……はあ……はあ……」

 逃げてきてしまった後、学生寮に帰って来たアメリアは火照った頬がまだ真っ赤になっていないかと気にしながら歩き出す。
 ひとまずは……体を乾かすために寮の中を歩き回ろう。
 そう決めたアメリアはそのままの足で寮の中、普段余り訪れない洗浄室へと向かった。

 洗浄室は二つの区画で分かれている。
 手前側の区画はドールズが制服を脱いで皺がつかないように保管しておく場所。この区画はリネン室も兼ねており、シーツやタオルの替えも何枚も棚に収められている。

 奥には洗浄室がある。ドールズが自身の体内に巡る燃料の老廃物を摘出し、洗い流すための区画だ。中央にはドールが横たわるための作業台が一台設置されている。

 あなたが以前見た時とほとんど同じで、特別散らかっていたりはしない。この場所は常に清潔が保たれているからだ。

「ああ、そうです。ここならタオルがありましたね」

 洗浄室を訪れた彼女はそういえばここならばタオルがあった、という事を思い出す。
 そこで濡れてしまった体を拭くついでにもう一度調べておこう、と洗浄区画へと入った彼女は、そこで顔をしかめることになった。

「汚れて……これは?」

 汚れた作業台、そこには青い液体がこびりついていた。

 ドールの洗浄を行うための奥の区画には、赤黒い汚れがこびり付いた作業台が置いてある。これはドールが洗浄の際横たわるためのもので、この汚れは洗浄の末に排出する老廃物であるとあなたは知っている。

 そんな作業台の上に、僅かに青い液体が付着していることにあなたは気がつく。それは乾いたインクのように作業台に定着していて、拭っても取れないものだった。無臭であり、青いということ以外に特徴が見られない。

 ……これもドールの身体から出てきたものなのだろうか?

 また、あなたが作業台に近付くなら、その足元に大きな傷が残っていることに気が付く。まるで作業台に乗ったドールが激しく暴れたかのような、怖気の走る生々しい傷だった。

「青い液体……そんなものがあったでしょうか……?」

 ドールの体にそんなものがあっただろうか?
 そんな風に考えてから脳裏を過ぎったのは怪物の存在。
 もしかしたら……それがここで傷を残したのはソレなのではないだろうか?

「今は考えていても仕方がありませんね」

 が、今は材料が足りない。
 ひとまず彼女は他の場所を調べに行く事にした。

【学園1F デュオドールズ控え室】

 踏み入った控え室は、まるで輝かしい宝石箱に迷い込んだように絢爛豪奢な空間だった。
 大きなウォークインクローゼットが部屋の奥に存在し、色とりどりのドレスやタキシードなどの正装がハンガーに掛けられて並んでいる。化粧台が三つほど並んでおり、あなた方はこの場所でお披露目の支度を入念に整えるのだ。
 控え室の右手側には、エーナドールの控え室に続く扉がある。ダンスホールへ続く扉があるのはあちらである。

 特段、この空間にあなたの目に留まるようなものはなさそうだ。

「あれ……?」

 頭痛の傾向からして今度はドレス……かと思ったが、どうやら違ったらしい。
 この控え室には目に留まるようなものは見当たらず、別にドレスを見たからって頭痛が走る……なんてことも無い。

「ううむ……ハズレでしょうか」


 どうも拍子抜けな結果に、彼女は少し残念そうにしながらもダンスホールへと向かうためにエーナドールの控え室へと向かう。

「ここから先がダンスホール、でしたね。」

 エーナドール控え室へと移動した彼女は、部屋の中を一通り見回してから、鉄扉の所在を確認する。
 そして、そのまま向かおうとしたが……小さな違和感が彼女の足を止めた。

「あれ……?
 確かアストレア様はエーナモデル……でございましたよね?」

 確か、アストレア様はエーナモデルだったはずだ。
 だと言うのに彼女の名前が書かれたドレスがここには無いのである。

 あなたは広々としたウォークインクローゼットに立ち入る。一歩踏み入れば周囲は極彩色のカーテンで取り囲まれているようで、普段素朴な学生寮で生活しているあなたは少し落ち着かない気分になるかもしれない。授業の一環でこの部屋を利用することもあるエーナやトゥリアと違い、デュオやテーセラは控え室に用事があることも少なかった。

 周囲に立ち並ぶドレスやタキシードには、ネームプレートが付いているものがある。お披露目参加者がどの衣装をあてがわれているか、一目でわかるようにするためだ。
 だがこの控え室に、何故か『Astraea』と刻印されているネームプレートがどこにも見つからなかった。アストレアはお披露目に選ばれていたはずだが……もしかすると、彼女のお披露目は決まったばかりでドレスがまだ届いていないのかもしれない。

 ネームプレートの中には、『Wendy』と以前あなたが資料の中に見かけた名前が付いているドレスもある。なので、アストレアのドレスだけが存在しないというのは違和感を感じるものだった。

「やはりありませんね……確か、ミシェラ様はお披露目に参加せずに殺されておりましたから……。
 恐らくそもそも必要ないのでしょうね」

 ドレスが無い、という事実から、最早隠す気もなくなったのだろうか? と嫌な予感に背筋を撫でられながら彼女はクローゼットを後にする。

「まあ……今はどうしようもないですか」

 そうして、ウォークインクローゼットを見終わった彼女はダンスホールへと移動をする為にそっと扉を開けて中を覗き込もうとする。

学園1F ダンスホール

 あなたはダンスホールに移動するため、控え室の奥に取り付けられた鉄扉の元へ向かう。
 ドアノブは問題なく動く。だがあなたが気になったのは、この扉には何故か鍵が取り付けられていることだった。しかもこちらが鍵を施錠する側。この扉を閉めたら、ダンスホール側からはこちらに戻ってこられなくなる。……あなたはこの鍵の理由に既に予想を立てられるはずだ。お披露目に出たドールをこちら側に戻ってこさせないため、或いは怪物をこちらにやってこさせないための錠前なのだろう。

 控え室の先は舞台袖だった。つるつるとした質感のステージが先にまで続いている。
 ステージは広く、ダンスホールの名の通りにこの場で社交ダンスをしても事足りそうだった。現在、客席へ続く真っ赤な緞帳は降ろされていて、スポットライトも点灯していないため、ステージはとても暗い。

「リヒト様のノートを全面的に信じるのなら……多分ここで洗っているのですよね」

 ダンスホール、アメリアが最初に目を付けたのはピカピカ光る排水溝だった。
 もしもここでドール達が殺されて、燃料がここに流されたのなら、前のドールの落し物……もといなにがしかの証拠があるんじゃないだろうか?

 と、そんな風に考えて彼女は排水溝へと近寄って覗き込もうとする。

 ダンスホールの隅の床に嵌め込まれた鉄製の格子状の蓋は、釘によって打ち込まれており、取り外すことが出来ない。
 ダンスホールと排水溝。一見結びつかない奇妙な組み合わせだが、万一この場所でドールが惨殺されているという話が事実なら。洗浄室と同じように、ドールの内側に流れている赤色をした燃料を洗い流すための排水溝であるとしか思えない。
 ダンスホールは既に殺戮劇があったなどとは思えないほど清潔に清掃されており、あなたの見慣れた景色が広がっている。

 排水溝の蓋の向こう、穴の内部は薄暗いが底が見えないのでかなりの深さがあるのではないかと感じる。
 そしてあなたは複数ある排水溝のうちのひとつに、流されきれなかった青白い輝きを見つけるだろう。それはあなたが見たコゼットドロップの輝きに酷似した青い花弁だった。薄暗いホールで、コゼットドロップの花弁は静かに優しい光を放っている。


 ダンスホールの排水溝を確認していたアメリア。あなたは舞台袖にある、トゥリアドールの控え室へ続く扉──それが音を立てて開かれたことに気付くだろう。

 向こう側からやってきたのはディアだった。荘厳なダンスホールに足を踏み入れたディアとアメリアは、自然とステージ上で邂逅を果たすだろう。

Dear
Amelia

《Dear》
 キィ、というドアを開く音と共に、ディア特有の浮き足立ったブーツの音が、荘厳なダンスホールに響く。途端、視界に入ったその鮮やかな水色に、ディアの足音はもっと軽く、激しくなった。アメリア、アメリア! 満面の笑みを浮かべ抱きつこうとするも、寸前。
 ぴたり、とその愛しげな靴音は鼓動を止める。あの日、止まったままの二人の時間が、カチリと音を立てて動き出す、そんな予感。伝えたいことが、たくさんあった。ずっとずっと、この一瞬を待ち望んでいた。薄い唇が、開く。

「アメリア、好きだ」

 キィ、というドアの音。
 続いた軽やかな足音にアメリアは排水溝から顔を上げて振り返る。
 蒼い瞳に桃色がかった髪。
 そこにいたのは一週間程前に森の傍で仲違いをした彼だった。

「…………は?」

 そうして、彼が発した第一声に彼女は盛大に首を傾げる事となる。
 突然の告白、彼女からすると完全に意味不明であり、何がしたいのかまったくもって謎であった。

「それでディア様、どうなさったのです?」

 ……が、同時に前回の邂逅で彼がありとあらゆる物に愛をささやく(彼女視点では)不埒ものだという事を踏まえて。
 ひとまず、突然の告白で受けた衝撃を押し込めて意図を問いかける事にした。

《Dear》
「どうもしないよ、キミに話があるんだ。愛するキミに。好きなんだ。知識を吸い込んで、その知識を振り翳し、鼓動を続けるコアのずっとずっと奥まで。キミの全部が、ずっと好きだ。

 ——でも、きっとこれじゃ伝わらない。きっと、この感情をキミだけにすることは、できないんだ。ずっとずっと、考えてた。キミの願いに応えるために、どうすればいいのか。キミだけに贈りたいと思える約束を、愛を。本当に好きで、好きで、たまらないんだ」

 伝えたかったことが、唇からまろび出ていく。ゆっくり、ゆっくり、アメリアの下へと、歩む。

 この感情を、キミだけのものにすることはできないけれど。それでも、キミの笑顔が見たい。キミの願いに応えたい。キミを特別にする方法を、ずっとずっと考えていた。ディアは、この世界の全部が好きだ。誰かを特別視することは、できない、許されない。

 それでも、今度こそアメリアに証明する。誰かを特別にできないことが、誰かを蔑ろにする理由にはならない! キミを愛す、キミの願いを叶えてみせる!

 ディアの言葉は、覚悟は、ずっと強い。世界の全部を本気で愛するなんて、不可能だ。それなのに、信じさせてしまうその輝きは、正に。暗い暗いダンスホールを、ターコイズブルーが照らしていく。苦しみも、悲しみも、全部全部愛していく。その輝きは正に、一等星の晴れ舞台。

「だから、証明するチャンスをちょうだい」

「ええ、知っています。
 貴方様はアメリアを愛しておりますが、それは特別などではない。
 普遍的な愛でございましょう。
 だから、アメリアは貴方様の愛では動けないとお答えしました。」

 仲違いの原因、根本的な愛への認知の相違。
 それに対してなおも愛していると伝えてくるディアに彼女は何処か憐れみのような感情を抱きそうになりながらも……それを強く自制する。
 憐れむ事はこれ以上ない侮辱だったから。
 だから……彼女は代わりに答える事にした。

「その上で、貴方様が愛を証明して見せると言うのなら。
 良いでしょう。
 けれど、愛に狂う者同士、欺瞞が通じる等とは思ってはいけませんよ?」

《Dear》
 ——ちゅ、と不器用な愛の音が、空を揺らした。

 いつもよりもずっと拙いキスが、アメリアの頬に痕を残すこともなく離れていった。こんな局面でさえ唇を選ばない所が、なんともディアらしい。言葉や心じゃ、特別を証明できないと言っているようなものだった。それでも、ミシェラの時とは明らかに違うそれは、成長と呼ぶべきか。

 ディア・トイボックスは、空っぽだ。随分と長い間、空っぽだった。太陽の輝きを満たしただけの、伽藍堂のドール。何の救いにも、慰めにもならないその柔らかい感触は、笑ってしまうほどに優しかった。
 トゥリアドールだから、というだけではないだろう。いつものスマートさも、甘い笑みもない。特別という感情を理解できないなりに、守りたいと願っている。

 特別に思ってみたい。約束を守りたい。大好きだって言いたい。抱きしめたい。もっともっと、アメリアのことを知ってみたい。アメリアだけに贈りたいと思える言葉が欲しい。愛が欲しい。私の命と引き換えにアメリアが笑ってくれるなら、私はそれだけで幸せだ。怖い思いをしていなければいいと思う、どうか生きていて欲しいと思う。
 本当はずっと、それだけなのに。どうしていいかわからない、というような、迷子の子供みたいな顔。残酷で、頼りなくて、ただひたすらに優しい指先が、アメリアの頬を撫でる。
 アメリア。声にならなかった声が、ディア・トイボックスには、世界の恋人には必要のない感情が、宙に溶けて死んでいった。

「——ほっぺたへのキスは、まだ誰にもしたことなかった、から。これからも、アメリア以外にはきっとしない。絶対しないって、約束する。初めても、これからも、全部全部アメリアのものだよ。ずっと続く“これから”を、絶対に作ってみせる。アメリアだけに贈りたいと思える、ただ一つの愛だ。……えと、これじゃあ、特別の証明には、ならないかな……?」

「……へ?」

 一度立ち去って、何か準備をしてから戻ってくるのだろうな。
 と、そう思っていた。
 ディアの前に立ちふさがり、試すように問いかけた彼女は、その実この場で何かをされるだなんて想像もしていなかった。
 だから、だから、だから、どこまでも不器用な、ディアらしくなんて欠片もないその行動に、彼女は間抜けに声を漏らす事しか出来なかった。

「……そっ……そのう……それはですね……。
 なんというか、随分と情熱的というか……ですね……」

 だから、だから、彼のアメリア以外にはきっとしないと言い切った特別の表明にも、彼女は顔を真っ赤にして、うつむき気味に答える。
 そこに先ほどの堂々とした様子なんて欠片もなく、動揺の塊になっていて……。
 けれど同時に、ディアにとっては以上とも言える物だと、そこだけは今までの会話から理解していた。

「だから、ええ、認めます。
 こんな事貴方様は普通じゃ出来ないでしょう。
 愛する為に誰かを愛する方法を減らすなんて、貴方様の在り方からは矛盾しております。
 きっと、貴方様はアメリアを特別だと思ったのでしょう。

 ですから……ええと、ご褒美です。
 目を、閉じて下さいますか?」

《Dear》
「……うん、うん、わかった。いいよ、おいで」

 一人一人を、本気で愛する。
 いつだって、全ての願いに応え続ける。

 悲しませたくなかった、怖い思いをさせたくなかった、そのために嫌われたって、構わないと思っていた。

 でも、全てを救うためのその選択が、ディアにとってどんなに心苦しいものだったか。愛の相違で喧嘩をしてしまったアメリア相手に、愛で仲直りを挑むことが、どんなに勇気のいる行動だったか。どうしようもなく強くて、どうしようもなく残酷で、誰かを特別視なんてできない。そんなディアをディアのまま、ほんの少し伝わりやすくしてくれる。アメリアはきっと、そんな存在だ。無駄じゃない。無駄なんかじゃないよ。甘い、甘い、モラトリアム。薄い瞼を、そっと閉じる。
 ——夢じゃないよ。

「何されても、いいよ」

「……ええ」

 そっと瞼を下したディアに、呼吸さえ忘れてしまいそうな緊張の中で一歩近づく。
 こんなはしたない真似、運命の人以外にはするまいと思っていたけれど……今だけは、この愛に応えたいと、そう思った。

 だから、彼女はそっと、触れるかどうかというような小さく不確かな口付けをディアの頬に返す。
 産毛すらないその滑らかな肌の感触を、きっと彼女は忘れる事は無いだろう。

「もう、目を開けても良いですよ。
 ディア様」

 そうして、目を開けてもいいと言う頃には彼女はディアのそばを離れてダンスホールの緞帳を調べ始める筈だ。

《Dear》
 ああ、この優しい感触はきっと、『これから』を歩む道になる。愛を通わせた瞬間が、私をもっと強くする。この初めても、きっとアメリアだけにしよう。彼女が自分に歩み寄ってくれた瞬間を、ずっとずっと愛していよう。そんな甘やかな予感に満たされながら、そっと瞼を開く。薄い瞼の幕を上げ、現れる鮮烈なターコイズブルー。そこにはもう、迷い子のような揺らめきはなかった。全部全部、嘘じゃなかったよ。

「ありがとう、アメリア! 愛しているよ!」

 そのいつも通りの言葉はきっと、あの日とは違う。恋ではなくても、特別ではなくても、人はきっとそれを、愛と呼ぶのだ。知識を貪欲に求め始める、いつも通りの愛しいアメリアの姿に目を細めながら。自分にも何かできることはないかと、辺りを見回した。

 あなたは緞帳を下から持ち上げようとする、……が、高い天井までの全てを覆う緞帳はずっしりと酷く重たく、あなたのその細腕ではとても持ち上がらないほど重い。

 あなたは必然と、左右から閉じられた緞帳の合わせ目から覗き込むような形で客席の方を見るだろう。
 プロセニアム・アーチで区切られた先の客席フロアは、ステージよりもさらに天井が高い。恐らく学園の二階部分までもを使って吹き抜けにしているのだろう。客席は階段状となって後方が高くなっており、バルコニー席までが遠方に見られた。
 ダンスホールというよりは、劇場、さらに言えばオペラハウスに近い構造である。
 お披露目でドールズは歌ったり踊ったりするからこそのステージの構造なのだ、と予想する者もいた。

 そして客席の一番奥には、こちらもアーチに囲われた大きな扉が見えた。しかし扉はあまりに大きすぎて、恐らく手動で開けるものではないのだろうと感じる。

「頭が……痛みませんね……」

 緞帳からステージを覗き込んだ時、意外にも彼女の頭は痛まなかった。
 やはり……あれはお披露目では無いのだろうか。
 という疑念を強めながら、ここには得るべきものは無い、と判断する。

「次の手を探さないと行けませんね」

 ……が、あいにくこのトイボックスでカメラの心当たりなどという都合のいいものは無い。
 だから、リヒトのノートで触れられていたジャックとドロシーというドールを探しに行く事にする。

【学園1F ロビー】

Dorothy
Amelia

 このロビーは窓が無いので採光は等間隔に設置された燭台の灯火のみ。火に浮かび上がるようにぼんやりと照らし出される通路は、壁も床も赤一色で統一され、気品は感じられど健全な学園らしい活発さは感じられまい。
 行き交うドールズも俯いて教本を眺めているか、小難しい授業内容について談義しているか、あるいは足早に次の授業場所に向かっていくかのいずれかで、ロビーはドールズの交差する中央広間というには、嫌に閑静な空間であった。

 あなたがそこでそれとなく待っていると、あなたの視界にやたらと悪目立ちする巨大な作り物の頭部を被った異様なドールがフラフラとした足取りで二階から降りてくるのが窺えるだろう。
 金色の巻き毛をした不気味なビスクドールの被り物。その隙間からは黒のメッシュが入った金髪が零れ落ちており、スカートタイプの制服を身に付けている。体つきから想定するに、彼女は少女ドールだ。

 彼女がドロシーだろうというのは、ひと目見れば分かる。彼女は一人で階段を降りて、テーセラ寮へ続くエレベーターホールへ向かおうとしている。

「うわあ……」

 見た目に関する情報が無い以上、彼女が知っていたのは相手がただ他の寮に侵入するわ他のドールを柵の外に誘うわとやりたい放題する変わったドールということしかアメリアは知らなかった。
 しかし、待ち伏せしてみればなんという事だろう、そのドールは我こそ変わり者でございとばかりに被り物を被っている。

 正直言ってこんなに変わったドールをアメリアは知らない。それ故に、彼女は息を殺して他のドールズに紛れるようにした近付いたうえで、彼? 彼女? の耳元でささやく。

「ドロシー様、でございますね?」

 ドロシー、とその名を呼び掛ければ、危うい足取りで寮への帰路へ向かいかけていた彼女の足はすんなりと止まる。彼女は茫洋とそこに突っ立っていたが、唐突にグリン、と勢いよくあなたの方へ振り返ると、ガタガタと薄気味の悪いデザインの被り物を揺らしながら、みるみるあなたの方へ迫りくるだろう。

「グッ! モーーーニン! 太陽が燦々と降り注ぐ希望の朝だネッ、ご機嫌よう! って土砂降りだっつーーの、ギャハハハ!
 寝ても覚めても地獄の表通り三丁目! 前世で救いようのない罪人だったに違いない! 豚小屋で繰り広げられる意味のないラブロマンス! 懐古主義! フィルム映画の騒めき! モルグの黒曜石! 第三の壁の監視者!
 トイボックス茶番劇場、詩の上の役者ドロシーちゃんを偉っそーに呼び止めたのはお前かよッ! 何か用? 不条理的移動図書館!」

「…………ええー……」

 声を掛けたは良いものの……出て来たのはホラーにでも出てきそうなやべーやつであった。
 話しかける相手を間違えただろうか……と大いなる後悔に沈みそうになったその時、彼女の中に天啓のように閃きが下りてきた。
 そう、もしや……このドールは意味が通じているのではないか?
 というシンプルな疑いだ。
 希望の朝と見せかけて土砂降りなのは比喩的にも現実としても正しいし、なるほど、確かにここは地獄の表通りだし、前世という話にも理解できる。
 意味のないラブロマンスというのも……腹は立つが分からないでもない。
 懐古主義とフィルム映画のざわめき、モルグ街の黒曜石は分からないが、第三の壁の監視者はメモで見た覚えがある。

 そして……まあ確かにアメリアは不条理だし移動するし図書館だ。
 だから、ひとまず頭の中で翻訳して。

「ええ、そうですね。質問を質問で返すようですが……。
 皮肉屋の少女様、この話し方は必要な事でございますか?」

 と、質問に質問で返す事にする。

 困惑を示すあなたを、まるで凝視するように圧の強い被り物の無機質な目が向けられる。実際に彼女があなたへ目線を向けているかどうかは定かではないのだが。
 そんなあなたが、当惑を飲み込んでどうにかこちらの言葉を一度スルーする様に、ドロシーはこてん、と巨大な首を傾ける。零れ落ちる金髪がさらりと滑って、そして。

「え〜ッ!? も、もしかしてドロシーちゃん、出会い頭にいきなりディスられてるの〜〜ッ!? コミュニケーション能力終わってンだろ、ギャハハ! 全然ワタシが言えたことじゃないケド、棚にあげます。自分に優しく他人に厳しくがドロシーちゃんのモットーなので。

 でェ、この話し方が必要かって? そんなモン不要に決まってンだろいちいち詩的且つ哲学的且つ意味深且つ理知的なテキストメッセージ添えるのも疲れンだよボケッ! でもこれってさぁ、ワタシの大事なアイデンティティだから捨てらんないっていうかァ。それにィ、木の葉を隠すなら森の中って言うだろがッ。あ、ちなみにこの慣用句の出典はイギリスの作家チェスタートンの作品に登場する探偵ブラウン神父が口にした格言から来てるらしいよ。また一つ賢くなったネッ! お前にはどーでもいっか!」

 ドロシーはまた、濁流のような無数の言葉であなたを押し流すように捲し立てた。その指先は被り物の口元に添え、堂々と仁王立ちしながら。

「で、お前はこのドロシーちゃんに喧嘩売りに来たって……コト!? そんな暇ないだろ、お前ら! ギャハハ!」

「いいえ、そんなことはございません!
 まさかそんな……批判の意図は……あんまり……」

 機関銃のごとく言葉を投げつけてくるドロシーに対し、アメリアは(不審人物を見る目で見ていたのは事実なので)少しばかりおどおどしながら答える。
 ……が、同時に彼女はこの行為に意味があると確信(もとい勘違い)した。
 そう、本当に意味が無いのなら木を隠すなら森の中などと言う必要は無い。
 それこそコミュニケーションのトマソンだとでも言っているだろう。
 だからこそ、これには意味があると確信して……。

「こほん! ともかく、それもそうですね……。
 では、問いましょうか。
 我々はテセウスの船か、或いは七兆分の一の向こう側から来たものか……それとも泉に投げ込まれた泥人形か」

(訳:我々はドールの死体をリサイクルして作られているのか、或いは偶然全く一致する外見のドールが作られるのか……それとも意図して改良され続けている人形なのか?)

 と、わりと妙な言い回しで問いを投げかける。

 あなたが口籠るのは無理もない。ドロシーはそれほど奇異な不審者でしかなかったし、挙動の一から十に至るまでが異常で不気味なものである。一見関わり合いになりたくない手合いであることは間違いないのだ。
 こんな不審人物と真っ当な対話などできようはずもない──と、あなたは投げ出すこともなく。むしろ逆にこちら側のワードセンスに則るような形で、郷に入れば郷に従えといったふうに、気を衒った言葉遣いで問いかけてくるさまにドロシーは一瞬キョトンとして。
 それからギャハハハハハハ! とざりざりと耳障りで不快な笑い声を上げるだろう。

「ギャハハ、異文化コミュニケーションするみたいな顔してさァ、カワイーねェティファニーブルー。

 ドクター、カウンセリングでもしてくれるのかい? ワタシと奇天烈な対話がしたいなら望み通りにしてやるよ」

 ドロシーは嫌な声でそう告げると、少女モデルにしては大きな、蜘蛛のような指先をあなたに伸ばして。
 振り払われるまであなたの頭をバシ、バシ、と粗雑過ぎる手付きで撫で──叩き始める。相当迷惑な手付きであることは間違いない。
 そんな中で彼女は言った。

「その問いに解答するなら、ワタシたちは終局のテセウスの舟と呼べるでしょう。なにせ我々は模造品、遺伝子構造ならぬパーツ組み換えでいくらでも量産出来る量産型ドール! 全てがマガイモノ! 生命と意識の境界を割り開いたとて、ワタシたちが直面する結論は結局の所変わらないでしょう。ドールズは神に設計された特別などではないのです。模造品。粗悪品なのです。ギャハハ!」

 彼女は曖昧かつ煙に巻くような胡乱な物言いであなたに告げると、しかし。おもむろにあなたに顔を近付けてささやく。

「だけどワタシたちはただのテセウスの船じゃない。『設計図』と『一定の規範』があって、どこかに隠されてる。勤勉なヴィルゴ、お前だけに教えてやるよ。
 ギャハハ! お気に召したか? ヒントはおしまい!」

 サッと彼女は直ぐに離れて首を傾ける。おしまい、というがまだ留まってはくれているようだ。

「ええ、ええ、正に。
 ガラス玉と宝石を交換するような所業をしようというのですから。
 地球を半周せねば割に合いません。
 それと……! アメリアは医者でも博士でもございませんから!」

(訳:訳の分からない存在に情報を一方的にねだるのだから。話し方位は合わせないと行けません。
 アメリアは医者でも博士でも無いです!!)

 バシバシと耳障りな声で笑いながら叩いてくるドロシーに目を半ば閉じながら抗議する。
 そこそこ苛立ちは感じるものの……目の前の奇妙奇天烈なドールが語る情報は正に値千金であった。
 テセウスの船、死体をリサイクルするどころか量産品であると断じ、その上で設計図と一定の規範を持って作られたと言われる。
 ならば……そう、つまり……確認が必要だ。

「ヒントはおしまい、ですか。
 ですが……そう、テセウスは五幕構成でございましょう。緞帳を下すには早すぎますよ。
 では……第二幕。
 つまり、何者かが雷に打たれ、醜悪なスワンプマンは無数に世に放たれたと、そう申すのですか?」
(訳:もうちょっと粘りますよ。
 では、二つ目の問いです。
 人間を元にして大量のドールが作られ、しかもドール一人一人に元になった人間は居るという事ですか?)

 自身の言葉を正確に噛み砕いているらしいあなたの聡明さを、ドロシーはどのような眼差しで見ていたか定かではない。だが何度か頷いて、ぐらぐらと頭を揺らがせていた。

 もう充分にヒントは与えた。しかし尚も情報を得ようと食らい付くあなたのデュオらしい知的探究心に、ドロシーはふす、と被り物の下で微かに笑いを零す。
 あなたの頭をダムダムと叩いていた手でさらりとその綺麗な青髪を一度優しく撫で下ろすと。

「素晴らしい仮説だな、学者くん。やっぱり博士号を取った方がいいぜ。

 もしそうならトイボックスは一層ろくでもない場所ってコトになるから、ワタシはあんまり信じたくないケド。そうであったら救われるヤツも居るだろうネッ、なんつて……キャハッ!」

 ドロシーは否定も肯定もしない。あなたに解釈は委ねるとばかりに己の所感だけを告げ、トントン、と自身の被り物のこめかみを叩いて見せた。

「で──あぁ、まだ第二章だっけ? 五幕編成のフィナーレまでは付き合いきれないかなっ、だってドロシーちゃん致命的な飽き性なんだモン! もう弁論大会には飽きちゃった。それにこれから愛しのダーリン♡ と会いに行く事に決めたから、楽しいお話はここまで。

 気が向いたらまた言葉遊びに付き合ってやるよ。ドロシーちゃん、ジャンククラスのドールがだーいすきだからァ、他の量産型ドールよりもシンセツに対応してあげる。それじゃ、バーイ♡」

 ドロシーはそれからもう何を言っても止まらず、元々は寮へ向かうはずだったその足取りを上階の方へ戻して、足早に去っていった。

「んなっ……!
 ……ええ、ご親切に。今度会ったときは案山子の頭をダースでプレゼントして驚かせてあげますよ」

 今までの強烈な言動からは想像も出来ない、小さな笑みとやさしさにあふれた手つきにアメリアは動揺し、一歩後ろに下がる。
 そうして気を取り直した彼女はドロシーの残した否定でも肯定でもない、けれど糸口となりそうな言葉を受け止めて嚙み砕く。
 余りにも言葉足らずだが、ヒントとするにはちょうどいい情報達に彼女はある種お礼のつもりで去りゆくドロシーの背中に声を掛けて踵を返す。

「観劇中に会いに行く程とは……愛しのダーリン様は随分愛されてございますねえ」

 なんて、独り言をこぼしながら。

【学園2F 備品室】

Rosetta
Amelia

「さて……調べなければ行けない事がまた増えましたね。」

 ドロシーとの対話の後、アメリアはまたこの学園を調べる為に歩き出す。
 向かった先は備品室。
 訪れた事のない場所だ。

「ここにカメラがあれば良いのですが……」

 この場所は主に講義室での授業に用いる雑多な教材備品を保管して置くスペースだ。黒板に図形を描く為の巨大な定規や、人体の構造を学ぶ為常設された人体模型、スチールラックには所狭しとチョークの替えや過去の教材を束ねて置いたものなどがまとめて置かれている。

 清掃は欠かしていないのか、多少手狭でも埃っぽくはなく、清潔な倉庫であると分かる。

 現在はあなたの目に留まるものはなさそうだ。

《Rosetta》
 「何をしているの?」

 入り口から、呼び声が聞こえる。
 部屋と外の間、境のふちに、ロゼットが立っていた。

 「入っていくところが見えたから、来ちゃった。悪巧みなら手伝うよ」

 表情は相変わらず、描かれたような微笑みだ。
 何が目的なのか、それとも何も考えていないのか。本人にだって分かりやしない。
 美しくなるよう作られたそれは、アメリアへと歩みを進める。
 特に拒絶されなければ、手が届くほどの距離で立ち止まることだろう。そうして、相手が何かしらのアクションを起こすのを期待するのだ。

「おや、ロゼット様。
 悪だくみとは……中々に不良でございますね。」

 入口から聞こえた声に扉を閉め忘れていた……と自省しながら振り返る。
 そこに居たのは花とガラスのトゥリアドールだった。

「ですが……そうですね、一つ聞いておきましょうか。
 ロゼット様はアストレア様がお披露目に選ばれたことについてどう思っていらっしゃいますか?」

 悪だくみなら手伝うよ。
 という貼り付けたような笑みに、彼女は普段の友人に対する物としては少しおかしい慎重な問いかけを行なう。

《Rosetta》
 不良、という言葉に小首を傾げる。
 確かにオミクロンクラスには在籍しているが、初期不良以外に破損した記憶はないのだが。

 「そうだね……嬉しいことだと思うよ。ドールの本懐はヒトに仕えることなんだから、それを果たせる機会は捨てちゃいけないと思うけど」

 でも、あなたが聞きたいのはこれじゃないでしょう?
 青い瞳に、うっそりとした表情が映る。
 見透かしたわけではない。彼女が知らなかったとしても、元々教えるつもりだった。
 ロゼットはあなたが思うほど、優しいドールではないのだ。

 「特に何も……っていうのが、正直なところかな。今のところ、お披露目は天災みたいなものだから。私がやり過ごすことはできても、被害を受ける子のことはどうしても助けられないでしょう? だから、そんなに思うところはないよ」

 一歩、前に出る。
 淑やかなデュオドールを、上から彼女は見下ろした。

 「アメリアは、どうかな。あなたにとって、お披露目はどんなもの?」

「天災、ですか。
 確かに災いというには十分かも知れません。
 ですが……アメリアは雨に濡れるなら屋根を建て、柔らかなタオルで体を拭きたいと、そう思います。
 ですから……ええ、確かな脅威であると、アメリアはそう考えます」

 何だかいつもよりも圧力を感じるロゼットの様子に少し戸惑いながらも真摯に答える。
 肌が触れてしまいそうな近さで、けれど同時に距離を取ろうとしては行けないという確信にも似た予感から踏みとどまった彼女は言葉を続けた。

「ですが……アメリアはまだ雨が降っている事に気付いたばかりで、屋根もタオルも持っておりません。
 なので、今は雨を凌ぐ仲間と手段を探している所ですよ」

 精一杯の余裕の笑みを添えて。

《Rosetta》
 「ふうん」

 アメリアはちいさな身体で、ちいさな頭を回して、その全てに打ち勝とうとしている。
 何とも殊勝なことだ。満足げに、もう一度ロゼットは呟く。

 「ふうん、なるほどね」

 デュオのドールらしく、理知的で、無謀で、勇敢な子だ。
 少し意地悪をしてしまったが、これなら心配はいらないだろう。彼女はきっと、真実を知ったとしても動揺しない。

 「ありがとう、ごめんね。あなたが何も知らないかもしれないと思って、ちょっとからかっちゃった。私もこの雨はどうにかしたいと思ってるから、力になれるよ」

 皆が押し流されないように、ひとりでも多く逃がしたい。
 ついでに、どこかで見た花を見つけたい。
 彼女が考えていることは、つまるところそれらだけだ。
 他にも細々とした願望はあるが、今は置いておいて問題ないだろう。

 「お披露目のことは知ってるんだよね。じゃあ、他に知っていることはある?」

 垂れてきた髪を耳にかけながら、彼女は改めて問いかけた。

「……はあああ。
 もう、何があったのかと身構えてしまいましたよ!」

 満足気に頷いて、先ほどまでの何だか異様な圧力が薄れた気がするロゼットに少し頬を膨らませて彼女は怒ったようなふりをする。
 その上で投げかけられた問いについて、彼女はしばし考え込んだ後。

「√0という存在。
 謎の青い花。
 二種類の怪物。
 トイボックスの位置。
 寮の隠し部屋。
 オミクロンドールの処分方法。
 なんらかの実験の示唆。
 アメリア達ドールを監視する存在の可能性。
 ドールの記憶について。
 見るはずのない夢。
 寮への侵入者。
 管理者の存在。
 ……こんな所でしょうか」

 知識をひけらかすようで嫌だ、という気分を表に出さぬように努めて冷静に一つづつ語っていく。

《Rosetta》
 知っているものもあるが、知らないこともそれなりに存在するようだ。
 頷きながらそれを耳にして、ロゼットは口を開いた。

 「じゃあ、私が出せる情報は三つかな。恐らくあなたも知らない怪物、ツリーハウスでの出来事……あとは、夢の話。まずは怪物の話から、始めてもいいかな」

 問いかける形になりながらも、有無を言わせる気はないらしい。
 指折り数えた一番目、親指をトントンと叩いて、彼女は話を続けた。

 「怪物は私の夢にいたもので、多分ドールを食べるんだ。白い……なんて言うんだろうね。石みたいな素材でできた、泣く巨人なの。話が通じるかは分からないけど、まあ泣くだけの情緒はあるみたい」

「怪物と夢……ですか。
 仮に我々の夢が記憶にある物だと仮定して……その時ロゼット様は豪奢なドレスを着ていたのではございませんか?」

 怪物と夢の話をまとめて始めたロゼットにアメリアは問いかける。
 もしも、アメリアのあの記憶と同じようなものだったとしたら、ある仮説が補強されるし、そうでなければそれはまた新しい謎が増えるというだけだ。

《Rosetta》
 ドレス──ドレス?
 着ていたら記憶に残るはずだが、ロゼットの夢にそれが出てきた覚えはない。

 「残念だけど、違うね。着ていたら覚えていると思うし……わざわざ怪物に食べられるのに、服を着ているというのもおかしな話じゃない?」

 怪物側の目線になる、というのも妙な話だが。想像するならそういうことになるだろう。
 それが起こった場所についても、予測は立てられるようになってきた。あとで向かってみることにしよう。

 「それより、あなたも過去の夢を見ていたの? その時はドレスを着ていたってこと?」

 アメリアが自分から話すことを好まない、ということはうっすら察している。
 それでも、今は知識の共有が必要なのだ。「難しいなら話さなくてもいいけど……」と一応言いながら、彼女は返事を待つ。

「おや……寧ろ違うのですか?
 アメリアは……夢とは違うかもしれませんが、空を見たら頭が痛み出して見た物で、ドレスを着ていて燃料を吐くという物を。
 だから、我々が過去に壊れた時の記憶を見ている物と思っておりました。」

 ロゼットの指摘に対して、アメリアは意外そうな顔をする。
 そして、恐らく自分の推測が間違っていたという旨を伝える。
 何だか気を遣って貰っているようだが、幸い今回はアメリアが間違えている上に命にかかわるかもしれない事だ。
 恥ずかしい事ではあるものの……それで協力を惜しんでいては運命の人など夢のまた夢なのだから、我慢もしようという物だ。

「それで……次はツリーハウスの事でしょうか?」

《Rosetta》
 「なるほどね。ドレスって聞くとお披露目を思い出すけど……アメリアが一回お披露目に行ったことがあるってことだったら、面白いね」

 他人事のように口にしているが、面白くも何ともないだろう。
 もしこの与太話が真実だとしたら、自分たちは何度も苦しみを繰り返しているということになるし。違ったとしても、また別のろくでもない真実が現れるだけだ。

 「そうだね。ツリーハウスの中には損壊したドールの上半身と、カメラやノート、あとは枯れた植木鉢があったんだ。ノートの中には、かつてお披露目を見たドールの話が載っていてね。私は何も思いつかなかったけれど、一緒に行ったドールは苦しむほど思い当たるところがあったみたい」

「どうなのでしょうね……。
 この手の記憶は大体関係のある場所に行けば分かるものなのですが……。
 ダンスホールに行っても控室のドレスを見ても何も思い出しませんでしたから、どうも怪しいですよ」

 ロゼットの言に疑いの言葉を返した後、続いた言葉に推察を行なう。
 損壊していた……とわざわざ表現するという事はもしや……そのドールは食べられていた訳ではないのではないだろうか?
 そして、食べられる以外の壊れ方などアメリアはこれしか知らない。

「損壊……ということは、もしやそのドールは食べられていたのではなく焼け焦げていたのではありませんか?」

《Rosetta》
 「ドレスが出てくる場所って、他に思いつかないもんね。お披露目が今後も続けば、あなたが着ていたものを見る機会があるのかもよ?」

 それはアメリアがお披露目に行く時ではないか──ということは、まるで頭にはないらしい。
 名案であるかのように口にして、ロゼットは質問に肯首で返した。

 「そうだよ。焼けていたの。ミシェラみたいな目に遭った子を、どうやって回収したかは知らないけれど……まあ、凄いことになってたね。この子については、カンパネラに訊くのがいいと思う」

 ツリーハウスに行った時は相当傷ついていたが、今は治っていると過信しているのかもしれない。
 アメリアが何かを思い出そうとしているなら、とりあえず思い出し切るまで待つことだろう。

「それは出来れば勘弁願いたいですね……」

 お披露目にいくことを示唆するような言葉に彼女は少し嫌そうにしながら目を逸らして言葉を返す。
 そこには、ある種いずれ来る現実から目を逸らすような弱々しい心の動きがあった。

「カンパネラ様もツリーハウスには訪れたのですね。
 お父様の監視については……大丈夫だったのですか?」

 その為か、彼女は気を取り直すように、或いは話を変えようとするかのようにロゼットに新たな疑問を投げかける。

《Rosetta》
 可能性は可能性に過ぎないと、まだある種の楽観を続けているためだろう。
 辛そうにするアメリアの心情こそ感じ取れど、ロゼットがそれに対してフォローすることは何もなかった。
 助けを求められれば話は別だが、今はそのような時間ではないのだ。

 「監視……そういえば、何も言われなかったね。同じタイミングで柵を越えた子たちは見つかっていたから、何か細工があったのかも。全然思いつかなかった」

 監視と言われれば、銀の目は大きく開かれる。 決まりごとを破ったことを、今初めて彼女は自覚した。頭の片隅にはあったが、意識したのはかなり久しぶりだ。

 「そうだよね。もう一回行きたくなったら、道も探さなきゃいけないし……大変なことをしてたんだね、私たち」

 何だか他人事のように、ロゼットは呟いた。

「ううむ……なんだか現実感が無いのが気になりますが……。
 まあ、ともかくツリーハウスに行ったメンバーは何かを言われた訳では無いのですね。」

 ロゼットの随分と他人事のような……いや、事実他人事なのかもしれない言葉に一抹の不安を覚えながらも、リヒトとの違いを考える。
 偶然だろうか、あるいは気付いた上で見逃されたのだろうか……。
 それとも……何かかいくぐる手があったのだろうか。
 何もかもが分からない中、浮かび上がってくる無数の可能性を頭の片隅に押し込んで、彼女は話を続ける。

「それでは、逆にアメリアに聞きたい事はございますか?」

《Rosetta》
 「何にも言われてないよ。自分でもびっくりしちゃうくらい」

 デュオのドールである彼女とは違い、トゥリアのロゼットが物事を深く考えることは早々ない。
 だからまあ、可能性を深掘りしたりするのはアメリアやソフィアの仕事なのだろう。
 なんてことない風に口にしてから、数秒考える。そうして、「あ」と息のような声を吐き出した。

 「最後に話したかった、夢の話にも繋がるんだけどね。“ヒト”と“人類”って、どこが違うんだと思う?」

 小首を傾げながら、そう口にする。
 “人類”が何故追い詰められていたのか、彼女はまるで知らない。この星の現状も知り得ない以上、問うことができるのは観念的なものしかなかった。

「ふむ……?
ヒトと人類の違い……ですか?」

 ロゼットの問いに、彼女は首を傾げる。
 何故唐突にそんな事を? と思うが……そこで一つ思い当たる。
 そう言えば、文化資料室で見た資料ではホモ・サピエンスを人類と表現していたし、ヒトとは書いていなかった。

 それこそ普段なら主人となる者をヒトと呼び分けているのだろうなと思う事も出来ただろうが……お披露目の向こう側を知った今ならそれを疑う事が出来る。
 故に。

「そうですね……もしも、ヒトと人類を呼び分けねばならない瞬間があるとすれば、人のようでいて決して人では無い存在がこの世に居る時でしょうね。
 それが……なんなのかまでは分かりませんが」

 彼女は恐ろしい推論を怯えながらも口にする事が出来た。
 それが……良いことかどうかはともかくとして。

《Rosetta》
 恐怖を感じるほど想像力がないのか、それとも無痛症がここまで及んでいるのか。
 どちらにせよ、実感をもって言葉を受け止められていないまま、ロゼットは頷いた。

 「ありがとう。夢にね、人類のシンポについて研究する人が出てきたの。だから、何か関係あるのかと思って気になっちゃった」

 先ほどより声を抑えて、そんなことを囁く。
 何故だろうか、これについては大きな声で言ってはいけないような気がした。

 「答えてくれてありがとう。あとは……そうだね。強いて言うなら、寮への侵入者について聞きたいな」

 その子がドールなのか“ヒト”なのか気になるじゃない?
 そんな風に、軽い調子で質問を投げかける。あまり長居しても怪しいだろうし、問いかけるのはこれで最後だろう。

「人類の進歩……ですか……」

 ロゼットの言う人類の進歩という言葉とヒト、もしもこの言い分けを夢の中で聞いたのだとしたら、それはまたろくでもない話だろう。
 そんな予感からか、いささかげんなりした様子のアメリアは続く問いに対して「確証はないのですが……」と前置きをして話し出す。

「寮のパントリーや食器棚が度々荒らされているのです。
 それもどうもアメリアがオミクロン寮に来る前から。
 お父様はオミクロンのドールが関わっていると見ておりますが……それではパントリーが荒らされている事の説明がつきませんから」

《Rosetta》
 先生がそこまで厄介なモノを放っておくとは、何か余程の理由があるのだろうか。
 あるいは、それを厄介とは思っていないのだろうか? ロゼットであれば後者だが、先生がどう思うかは流石に分からない。

 「荒らした後に意味があるのかな。それとも、荒らすこと自体に意味があるの? 難しいね」

 アメリアよりも前にオミクロン寮へ来たのは、いったい誰だっただろうか。
 そもそも、自分はいつ来たのだったか?
 そこの時系列は覚え直すべきなのだろう。もしかしたら、昔からいるドールが手掛かりを握っているかもしれない。

 「うん、他に訊きたいことはないかな。あなたからも何もなかったら、今日はこの辺にしようか」

 ちいさく頷きながら、そう提案をする。
 特に何もなければ、一緒に備品室を出るつもりだ。「置いてなかったね」とかなんとか、そんなことを言いながら。

「そうですね、アメリアも今はありません。
 また、何かあったら会いましょう」

 ロゼットの言葉に、彼女も一度別れる事を同意して共に備品室を出る。
 暫く歩いた後、彼女は方向を変えて寮へと歩き出すはずだ。
 特についていくという事でなければ、彼女は一人で夕焼けの中、学生寮の図書室に行く事だろう。

【学生寮3F 図書室】

 階段を上り詰め、寮の最上階に位置する埃臭い書物の蔵に辿り着く。図書室の天井は四階部分までを突き抜けているためか、とても高い。そして、木製のロフトを介して上階にも数多の書物がところ狭しと保管されているようだ。

 図書室はほの暗く、壁に取り付けられた卵型の照明をつけてもまだ暗い。屋根裏の部分に切り取られた小窓から差し込む陽光が、空気中に舞う埃を幻想的に煌めかせていた。

「夢の……!!」

 図書室に踏み入ったアメリアは、一冊の本が目に留まった。
 このトイボックスの不可解さを調べるようになったせいだろうか? 普段なら無視していた筈のその本の名は、『夢の研究』。
 正に今この瞬間求めていた謎の答えを握っているかも知れない物だった。

 それ故に、彼女は考えるまでもなく、ウキウキで本棚から引き抜き、良く夕日の当たる窓際で読み始める。

 【夢の研究】
 人が睡眠状態にある際、しばしば安定した脳波に覚醒時に近い乱れが見られる事があります。これは人が夢を見ている時間、『レム睡眠』と呼ばれている状態です。
 レム睡眠の際には、睡眠状態にある人の瞼の裏側で眼球が小刻みに動きます。レム睡眠とはこの事から、『Rapid Eye Movement』の頭文字を取って名付けられました。

 人が覚醒状態にあるとき、脳内には『ノルエピネフリン』と『セロトニン』と呼ばれる神経伝達物質が分泌されています。これらは人が覚醒状態にある際、学習能力や判断力、記憶能力に貢献する重要な役割を果たしているのです。
 一方人が眠りについたとき、脳は休息状態に入りますので、上記二つの神経伝達物質の循環が低下します。その代わりに『アセチルコリン』と呼ばれる物質の分泌が増加し、脳の感情中枢を刺激します。こちらの物質の影響で、人はレム睡眠時に景色が鮮明に見える事があったり、感情の発露を促されたりするのです。ただし脳からの運動神経への電気信号は睡眠時遮断されている為、現実で体が動いたりすることは殆どないでしょう。

 人は夢を見ている間、『日常生活で知覚した様々な体験の記憶を整理・統合』しています。生存の為に必要な情報を膨大な記憶の中から選別し、脳に定着させるこの作業を行う事で、人は滞りなく日常生活を送るということが可能になっています。
 また夢は人の心を癒すという役割が持つことも判明しています。レム睡眠中、人はストレスとなる感情を処理することがあるようです。トラウマになるようなショックな体験をした時、それらを思い返した脳が夢を見させます。そこに現実にはなかった要素が付加されていき、悪夢はその形を変え、その出来事に付随するネガティブな感情を忘れていくと言われているのです。

 脳の休眠時に見る夢が持つ大切な役割というものは荒唐無稽に思えて、存外に侮れないものです。自我がある生物であれば、生存の為に必ずや必要となるのも頷けることでしょう。

「人が睡眠状態にある際……」

 本を開き、彼女は内容をつぶさに観察する。
 レム睡眠に神経伝達物質、記憶の整理と統合。
 或いは……ドールにもまた神経伝達物質に相当する物があるのだろうか。
 なんて考察をしていたが……。
 残念ながら彼女の疑問の応えになるような物は無かった。

 そのうち、暖かい西日の中、目当ての情報が得られなかった彼女はその日の疲れもあってか、ゆっくりと眠りに落ちるだろう。

「自我が……ある……せいぶ……ふあ……」

 あなたが見る夢は、これまで当初の擬似記憶から再生される、幸せで満ち足りたものばかりだった。
 だが近頃あなたが垣間見てしまった雲行きの怪しい悲劇的な白昼夢の一幕が、あなたの幸せな夢を阻害する。あの光景がどうしても脳裏をちらついてしまうせいか。

 特に新しい夢を見られたとは言い難い。そして夢から幸せな気分を得られたとも言い難い。
 あなたは漠然と、以前のようにもうただ幸せなだけの夢は見られないのかもしれないと感じるだろう。

「……いつもよりはマシ、と思う事にしましょうか。」

 少しの肌寒さで目を覚ました頃、日はすっかり落ちてしまっていた。
 そろそろ夕食の時間だろうか?
 小さなあくび一つを残して彼女は図書室を後にする。

 後はいつも通り、平和な夕食を終えて眠りに着き、また目覚めて歩き出すだろう。
 次の日、彼女が最初に訪れたのはスタディルームだろう。

【学生寮1F 学習室】

 部屋の扉を開けると、無秩序に並べられた机と椅子の組み合わせが十六存在した。机が向かい合うのはいわゆる教卓であり、先生があなた方へ何か教えるときはもっぱら学園ではなく、この学習室を用いることが多かった。

 教卓の背後の黒板には、昨日学びを受けた内容の板書がまだ残されている。いつもこうして、先生は授業内容を簡潔に纏めては、暫く残しておいてくれることが多かった。学習に遅れを取ってしまうドールへ配慮してのことだろう。

「あれ……珍しいですね」

 昨日学びを受けた内容が残っている……と思ったのだが、意外にもそこにあったのは別のものだった。
 隅の方に描かれた青い蝶々のイラスト。
 おそらくキッチンで見たものだろうか……?

「先生が残したものでしょうか……?」

 ともかく、いつもと違った事態に興味を惹かれた彼女は、それをじっと見てみる事にした。

 学習室に設置された黒板。授業内容について書き込まれていた板書は既に綺麗に消されているが、一箇所だけ消されずに残っている部分があった。
 黒板の隅にそっと留まるのは、ゆるりとした雰囲気の青い蝶のイラストである。青い色のチョークで書き込まれたその落書きには吹き出しが添えられており、蝶は何かを語りかけているようだった。

 その内容は以下の通りである。


『ゆめでつながり』

『あなたにいたる』

『それらはいつわり』

『あなたではない』

「ええ……?」

 夢で繋がり、貴方に至る……けれど偽りであって貴方ではない。
 というのは何なのだろうか。
 ゆるゆるとした可愛らしいイラストに反して余りにも示唆的な言葉に、アメリアは困惑する。
 もしも、これを無理矢理考察するのなら。

 我々ドールズは元になった人間が居る、という前提で、夢を見るごとに元になった人間へと近付いていく。
 けれど、極限まで似ついたとしてもそれは元になった人間ではない……とかだろうか。

 なんとも分かりづらい内容に首を傾げながらも、彼女は調査を続ける事にした。

【学生寮1F 医務室】

 医務室の扉をくぐると、これまでの温もりを感じる木製の床から一転、清潔な白い壁と床の空間があなたを出迎える。
 ドールが収まるための棺のような箱型のベッドが三つ、壁に沿って並んでいる。作業台と思しき広い机には何も置かれていない。当然だ、近頃は誰も目立った怪我をしていないから。
 奥に置かれた棚には、怪我をしたドールズに処置をするための医療道具が収められていたはずだ。

 医務室の状態は以前と変わりないように見える。

「あれ……?
いえ、気の所為と断ずるには少し疑いが多すぎますね。」

 真っ白な医務室と、薄い薬品の匂い。
 今までは何も感じなかったそれらにアメリアは一瞬、既視感を覚える。

 何度か訪れた場所だから、見たことがあるのは当然なのだが……それでも、忘れていた過去の記憶に触れ始めた彼女からしてみれば、今のこの既視感は気にかけるのに十分過ぎる違和感だった。

 ……が、どうやら今はまだなにも見つけられそうにないらしい。
 彼女は部屋の中を一通りみて回った後に、少し悔しそうに後ろ髪引かれながら、医務室を後にする。

【学生寮1F ラウンジ】

 この場所は、ドールズが楽に寛ぐことが出来る憩いのスペース。柔らかなソファとふかふかのクッションが無数に置かれていて、寮内では唯一暖炉があるので凍えずに済む。冬場はラウンジに皆が集まりごった返すことが多かった。
 壁際には軽い読み物が収まった本棚が陳列しており、くつろぎながら退屈を潰すことも出来る。

「今度は……人魚姫ですか」

 ロッキングチェアの上に置かれていたのは、これまた一冊の絵本だった。
 『人魚姫』、やろうと思えば簡単に内容を諳んじられるような……そんな子供向けの物語。

「あれ? ですが今はミシェラ様は……。
 つまり、誰が?」

 ……だが、今は違和感があった。
 ミシェラ様は……既に亡くなっている。
 つまり前の物のようにミシェラ様が読んでいた物を置きっぱなしにしていたとは考えづらいし、エーナドールはそんなに多くない。
 そんな違和感を考えながら、彼女は本を手に取る。

【人魚姫】
『とある嵐の晩、人魚姫は海に転落して溺れた王子を助け、陸に返してあげました。王子に一目惚れした人魚姫はいつか人間となり、王子と結ばれることを夢に見ます。』

 という枕詞から始まる、児童向けの優しい挿絵がついた『人魚姫』という題の絵本。エーナクラスのドールでなくても知っているような有名なタイトルだ。
 あなたがぱらぱらとページを捲っていくと、そのページの途上からぱらぱらと青色の花弁がこぼれ落ちる。仄かに光を蓄えるその花は間違いなくコゼットドロップである。

 コゼットドロップが挟まっていたのは、地上を目指す人魚姫が魔女と取引を行う一場面。

『地上を目指すのならば、代価と犠牲はやむを得ない』

 というメッセージが伝わるような頁であった。

「……こうして思うと、今のアメリアは人魚姫に近いのかも知れませんね。」

 人魚姫の物語に、彼女は小さな感傷のような物を抱く。
 確かに、愛する誰かと結ばれる事を願うが故に、海の泡となるかもしれないなんて危うい取引をも今のアメリアは受け入れてしまいそうだった。

「なんて……浅ましい獣が重ねるのは虚飾がすぎますね。」

 少しして、気分が落ち着いた彼女は自嘲的な言葉を呟いて、今度はエントランスホールへと向かった。

【学生寮1F エントランスホール】

 エントランスホールはだだっ広い大広間になっていた。三階までが吹き抜けになっており、天井からぶら下がっている古いシャンデリアがきらきらと優しい光を落としている。
 薔薇の花を描いたボタニカル柄の大きなカーペットが足元には敷かれていて、階段と出入り口に挟まれた構造になっている。

 エントランスホールの出入り口の傍にある壁には、ドールズが守らなくてはならない大切な『決まりごと』が一覧となって掲示されていた。

 現状、何かが特別に変化しているというようなことはなさそうだ。

「まあ……エントランスホールに変化があれば誰かしらが気づいていますか。」

 ラウンジの後に立ち寄ったエントランスホールには、やはりと言うべきか、先週と変わった様子は無かった。
 何か変化があれば外を歩き回っていたアメリアよりも先に誰かが気づいているでしょうね、なんて想像をしながら、彼女は階段の前を横切り、扉に手をかける。

 そのまま、彼女はダイニングルームへと足を踏み入れるだろう。

【学生寮1F ダイニングルーム】

David
Amelia

 今朝も全員で一緒に朝食を取ったばかりであるこの空間は、今は閑散としている。長い机が二つに、人数分の椅子。特に席順は決まっていないが、皆それとなくいつも同じ席に着くことがお決まりだった。
 また、先生は皆の顔が見られる一番手前側の席にいつも腰掛けている。

 部屋の奥には柱時計が置かれている。今も滞りなくカチコチと時を刻んでいるようだ。


 ──先生は、その静かな空間で、いつもの指定席に腰掛けていた。柱時計の音だけが響く閑静な広間で、先生はどうやら授業の課題の確認をしていたようだった。
 しかしあなたが踏み行ったことに気付くと、彼は笑顔で出迎える。

「やあ、アメリア。ご機嫌はいかがかな。……ああ、そうだ。アストレアにお別れは言えたかい?」

「ええ、御機嫌よう。
 お父様は……課題の確認でございますか」

 扉を開けると……そこにはお父様が居た。
 普段は先生の部屋にいる物と思っていたからそれが彼女には少し意外で、僅かに開いた瞳孔がそれを確かに示していた。
 ……が、いつまでもそうしている訳にも行かない。
 初めての事に対する衝撃から帰ってきたアメリアは、自然に向いた目線でチラリと課題に目を向けてから普段自分が座っている席に座って話し出す。

「アストレア様は……今朝の朝食以来会えておりませんから……まだ……」

 とは言ってもアストレアの話は気が重い。
 お披露目の件を抜きにしても仲良くしていたドールともう会えないのだから、あの歯の浮くようなセリフをもう聞けないのだから、彼女の喉奥には重苦しい暗雲のような寂しさがわだかまっていた。

「そうだ。部屋に篭りきりでは中々皆の様子を確かめられないし、たまにはこちらで仕事をするのも悪くはないね。」

 先生は課題の用紙から顔を上げて、あなたと向き合いながら微笑み掛けるだろう。
 通りすがりざまに彼の手元を確認するのであれば、問題なく行える。彼が採点しているのは、なんてことのないヒトの文化に関する知識量を試す課題のようだった。あなたも以前授業を受け、提出した覚えのある代物だ。ヒトの文化について学んでもただ無意味なだけであると、トイボックスの真相に薄々ながら気が付いているあなたにとっては虚無感すら覚えるかもしれない。
 だが先生はそんな無意味な作業にただ打ち込んでいるようであった。

 彼はあなたの澱みない声色と、普段通りのやや控えめな態度を見せるあなたに安堵しているようだ。とはいえこちらが投げ掛けた問いに、僅かながら表情が曇るのは致し方無しであろう。

「……ふむ。アストレアとの別れが悲しいかな。けれど彼女はもうじきに外へと旅立ち、この場所に帰ってくることはない。大切に思うなら、一言でも声を掛けておく事をお勧めするよ。その方がきっと彼女も喜ぶだろう。」

「確かに、そうだとは思います。
 それに、アメリアがこう感傷に浸っていても無駄だと言うのも……何となく分かります。」

 お父様のどこか心配混じりの言葉に、アメリアは落ち着いた……けれど、気の重さを感じさせる声音で言葉を紡ぐ。

 きっと、それはお披露目の内容を知らなかったとて同じように思っていただろうが、知ってしまった今となってはより気の重い話であった。

「いけませんね。
 ミシェラ様の時もお披露目の直前までこうして話せなかったんですから。
 もう少し、明るい話をしませんか?」

 そんな話から……或いはアストレアを素直に見送れない自分自身から目を逸らす為か、アメリアは無理に声を明るくして別の話をしませんか? と問いかける。

「アメリア、お披露目は華々しい話であっても、暗い話などではないよ。……けれど、そうだね。去り行くアストレアを恋しがる君の気持ちも痛いほど理解出来る。

 明るい話。明るい話か……」

 先生はあなたの一言をひとつ、わざわざ訂正した。話を聞くに、お披露目の残酷な実態を全て知っているであろう彼のこの物言いは、あまりに不条理──どころか、どこか盲信的な様子すらも感じられるかもしれない。

 あなたの要望を受け止めて、先生は傍らに置いていた珈琲の注がれたマグカップをひと口啜る。その香りは、あなたの脳に痺れるような感覚を発するが、微々たるものであなたが表情を歪めるほどでもないだろう。

近々、このクラスに新しい仲間が増えるかもしれない。オミクロンは他のドールズに蔑ろにされることが多く、諸手を挙げて喜べるものではないが……君達にとっては喜びも悲しみも共にする家族にもなる存在だ。
 アメリアも、仲良くしてあげてくれ。」

 先生はこともなげににこやかに告げる。
 オミクロンクラスに、『新しい仲間』。それはすなわち、このクラスにまた落第者がやってくると言うことを示している。
 この状況での新たな出来事に、あなたは不安な予感めいたものを感じるかもしれない。きっとそれは間違いではないのだ。

 先生はこの件について詳細を伏せるつもりらしく、「楽しみにしておいてくれ」と柔らかく会話の締めくくりを告げるだろう。

「そう……ですね。
 もっと、明るく送り出さねばならないのですが……アストレア様に会えなくなると思うとそれが出来ないアメリアは出来損ないなのでしょう……」

 訂正するお父様の言葉に、アメリアの表情は暗く沈む。
 それは本質的には先生の目の前では明るく誤魔化さなければならないという意味合いなのだが……。
 自己否定を多分に含んだその言葉は期せずしてアメリアの本意を覆い隠す。

「……と、新しい方がいらっしゃるのですか?
 それは、なんだか喜んでいいやら悲しむべきなのやら……なんだか複雑な気分になりますね。」

 そうして、変わった話題に対して、アメリアは何とも言い難い微妙な表情をする。
 確かに友人となるべきドールが増えるのはうれしいのだが……その場所がオミクロンとなると、素直に喜びづらかった。

「アメリア……自分のことを出来損ないなんて言うものではないよ。大丈夫、君はジャンクなんかじゃない。アストレアとの別れを惜しむ気持ちは限りなく人間に近しいものだ。だから……心配はいらない。」

 頭上に雨雲が立ち込めていくように、みるみる表情が曇っていってしまったあなたの様子を見て、先生は眉尻を下げて優しく諭すように告げた。先生はよく、あなた方を出来損ないなどではないと励ますことが多かった。
 事実、問題のあるドールばかりをこのクラスに集められておいて何を、と思うかもしれない。だが先生は懲りずに同じことを述べるのであった。

 オミクロンのクラスに新たなジャンクドールがやってくる。あなたがその事実に複雑な表情を浮かべても、先生は穏やかな笑みを崩さない。

「ああ。ふふ、喜ぶべきことだよ。君たちの生活ももっと楽しいものになるだろう。
 さて……私はそろそろ部屋に戻るとしよう。アメリアもゆっくりしておいで。話に付き合ってくれてありがとう。」

 先生はあなたと言葉を交わして満足したらしく、採点を終えた課題の束を抱えて席を立つ。にこやかにあなたに別れを告げると、そのままダイニングルームを去っていくだろう。

「そう……ですか。
 ええ、それならきっと喜ぶべきなのでしょうね。
 楽しみにしております。」

 先生の穏やかな笑みとともに告げられた喜ぶべきだ、という言葉に彼女はなんだか納得していないようだ。
 しかし、そこまで言うのなら、とぎこちない笑みを浮かべて見せる。
 そうして、先生が部屋を出ていくまで見守ってから小さく安堵か……或いは疲れからかため息を吐いて、一度ノートとペンを取り出して、ノートだけを机に置き、ペンを部屋の隅に転がしてから部屋を調べ始める。

 先生が居て調べられなかったが……今度はどんな謎が見つけられるだろうか。

Sophia
Rosetta
Amelia

《Sophia》
 ──友人達との会話を終えたソフィアは、ダイニングへと戻ってきていた。とはいえ、無目的でここまで来た訳ではない。ソフィアが本当に用があったのはキッチンだ。故に、ダイニングに留まる理由はない。……が。

「……あら?」

 澄んだアクアマリンが目に留めたのは、同じく澄んだ色彩のペイルブルーの髪を揺らすドールだった。
 そこで。その鮮やかな青をきっかけに、ソフィアの脳にはある記憶が蘇ってくるだろう。

 それは、危ういもの。ただの一枚の紙切れだけれど、下手を踏むと『処分』を受ける可能性のあるような。けれど、その紙片に踊る文字には、探究心のみが詰まっているような。謎をくすぐり、ドールを脅かす、純情のパンドラ。
 知るべきではない。誰の目にも入れるべきではない。そう判断したソフィアは、あの日。その紙片を、破り捨ててしまっていた。
 それと同時に、この瞬間を待ち侘びていたのだ。ドールへの脅威となりうる、はたまた我々の鍵ともなるであろう、好奇心の塊と相対する時を。

「──ご機嫌よう、『ペイルブルードット』。

 ……ああ、アメリア…って呼んだ方が良かったかしら?」

 するり、と近づいて。ひどく冷静な、落ち着いた声色で、声をかける。我が主張であることを覆い隠したはずだのに、こうして解き明かされて偽の名前で呼ばれること、アメリアのならば恥ずかしくて仕方がないはずであると、ソフィアは理解していた。だがわざわざその呼び方を取るのは、彼女の悪戯心ゆえだろう。

「悪いけど、あの『メモ』は処分させて貰ったわ。お・は・な・し、付き合ってくれるわよね? 何の話かはもうわかってると思うけど。」

「んなっ……!!!!」

 扉が開く音、お父様が戻って来たのか……或いは他のドールか、どちらにせよ予定通りペンを落として探しているふりをしよう、とかがみこんだ彼女はしかし、直ぐに立ち上がる事となる。
 聞こえてきたソフィアの声と、そしてペイルブルードットという名前、一番知られたくないドールに全てを知られた上で目の前に晒し上げられたのだ、アメリアの反応は想像に難くない。
 その頬は分かりやすく真っ赤に染まり、怒りだか恥ずかしさだか分からない感情が頭の中をぐちゃぐちゃにかきまわしていた。


「……っ! ソフィア様はアメリアにそれを言う意味を……いえ、愚問でした。
 分からない筈がございませんね。」

 ……が、それを上回る言葉が彼女の頭の中に氷で出来た刃の如く突き刺さった。
 メモを処分した、その上で話をしたい、と。
 つまり、「お前が何かをしている事を知っている。その上で、そのしている事を邪魔しようとしている。さあ、話をしようか」という事実上の宣戦布告宣言として受け取ったアメリアは急速に冷えた頭で問いかけようとして……。
 愚問だったと訂正して話の続きを待つ。
 そんな一触即発の空気が流れるダイニングルームに……。

《Rosetta》
 「ふたりとも、こんな所で何してるの?」

 ひょっこり現れたのは、知性とかけ離れたトゥリアのドール・ロゼットである。
 剣呑な空気も厭わずに、ソフィアとアメリアの側まで行くと、薄く微笑んでみせた。

 「あなたたちが話してるの、珍しいね。デュオのドールだし、頭のいい話とかしてるの?」

 見たところ、ふたりがどのような話をしていたのかは聞こえなかったらしい。
 文字通り傍観者らしい爛漫さでもって、小首を傾げて答えを待つだろう。

《Sophia》
「ぷっ……あはは! かおっ……まっか! あはは、あははは……はーあ、そんなに睨まないでよ。喧嘩をしたい訳じゃあるまいし………。
 ──って、ロゼット?」

 ぬるりと間に割って入った第三者は、艶やかな赤薔薇のごとき髪を静かに揺らす少女ドール、ロゼットだった。今日も今日とて、彼女は花弁のようにひらひら、ふわふわと舞うような居振る舞いを見せる。
 予想外の人物の姿に、ソフィアは一瞬だけ目を丸くした。しかし、そのアクアマリンは直ぐにいつものような賢明な鋭さを取り戻す。

「……ちょうど良かった。あなたにも聞きたいことがあったのよ、ロゼット。」

 そこまで言い終わると、ソフィアは周りを見渡して、誰もいないことを確認した後。声を小さく小さく潜める。

「……ここからは、声を落としてちょうだい。──このトイボックスについて知ってる事、教えてちょうだい。あなた達は、この箱庭の裏に触れているはず。」

「頭がいい……というよりは頭の痛いお話ですね。」

 ソフィアの笑い声に不機嫌そうにしながら、やってきたロゼットに言葉を返す。
 実際、頭の痛い話だ。
 なんたってプリマの、しかも同型のソフィアが気付いたら敵対していたのだ。
 完全なる上位互換相手が気付いたら敵だったなんて悪夢でも足りない。

「つまり、ソフィア様はこのトイボックスについて知りたいけれど他のドールには知られたくない。
 そういう立場なのでございますね?」

 その為、ソフィアの喧嘩をしたい訳じゃないという言葉に警戒を緩めないようにしつつ、状況を確認する為に慎重に質問を行う。
 そして、答えを聞く前に。

「その上で、話をしたいと言ったなら。
 何か言いたい事があるのでしょう?」

 直ぐには情報を渡すつもりはないという意思を込めて問いを重ねる。

《Rosetta》
 「今まで見えていなかった事実を裏って呼んでるなら、そうだよ」

  ソフィアの言葉に、あっさりとした肯首で返事をした。
 聡明なアクアマリンは冷静であろうとしている。情報の伝播による混乱を防ごうとしているのだろう。
 だが、そもそもその裏というものに情緒を揺さぶられることのないドールも存在するのだ。
 ロゼットは悪怯れる様子もなく、「アメリアも知ってるよね」と声をかける。
 何やら神妙な話が始まっている、というのは分かるが──頭を使うドールがふたりもいるのだ。トゥリアができることなど、茶々を入れるくらいだろう。
 どこか悪巧みをするように、彼女はふたりの話に耳を傾ける。

《Sophia》

「………………」

 アメリアの重みを含んだ問いには、返答をせず。静かにロゼットの言葉を聞き届ける。
 少し経って静まってから、ソフィアは改めて口を開くだろう。

「……場所を変えましょう。ここで話を続けるべきじゃない。二人とも着いてきてちょうだいね。」

 ぶっきらぼうにそれだけ言って、スタスタとダイニングの出入口へと足を運ぶ。そうして、そのままソフィアはあの埃臭い図書室の、一番奥の──秘密の話をするには最適なあのスペースへ向かう。あなた達ならば、きっと着いてくるだろうと信じて。

【学生寮3F 図書室】

「……良いですよ。」

 慎重に、ソフィアの提案を受けて、歩き出したソフィアの背後でノートとペンを鞄に仕舞い、代わりにパームマジックの要領で袖に隠しながらナイフを取り出して歩き出す。
 階段を上り出し、三階まで至った辺りで彼女は先程よりも警戒を強め、ちらりと窓を見て……逃走経路には使えなさそうな高さである事に歯嚙みをしてから。

「それで、先程の問いに応えずにこの場所を選んだという事はそういう事なのでしょう?」

 図書館の隅で足を止めたソフィアに問いかける。

《Rosetta》
 散々話してきたロゼットとしては、ここで話し合いをしても構わないのだが、特段断る理由もなかった。
 「いいよ」と口にして、彼女はのんびりふたりについていった。
 図書室の隅まで来たことはあまりなかったためか、あちこちを見回すが、まあ一応聞くつもりはあるだろう。
  ソフィアが何を言い出すか、のんびりした調子のまま佇んで待つことだろう。

《Sophia》
「………そうね。さっきあなたが言ったことは、全て合ってる。
 あたしはトイボックスのことを調べてるし──その情報を、なるべく行き渡らせないようにしたいのも、事実。」

 きらきら埃が舞う図書室は、水を打ったようにしんとしている。ごくごく小さな話し声は、空気の振動に巻き込まれてかき消されてゆくだろう。
 ソフィアは控えめなため息を吐いた後、たんたんと事実を述べてゆく。アメリアを真っ直ぐと見据えるそのアクアマリンに、虚偽が含まれていないのは明らかだ。

「……二人とも、もう薄々わかってるんでしょう。このトイボックスは、ドールを幸せな道に送り出す為のあたたかな箱庭じゃない。
 けれど、それを知っても尚……『トイボックス』という夢の中で生きてると、その振りをしないと、箱庭はきっとすぐに牙を剥く。」

 その声は、ただ静かに、しかし力強く。両名の耳に、しっかりと届くはずだ。芯の通った、何よりも真剣な声であった。

「ロゼットが何を見たのかはあたしも何となく知ってる……だから後で聞くわ。
 アメリア。あなたは好奇心旺盛な子だから、きっとこれからも……何も言わなければ、謎を求め続けるでしょうね。だから、今の内に言っておかないといけないことがある。……でもその前に、教えて。あなたは一体、どこまで知ってるの?」

「その為に、情報は選ばれた者にだけと、そう申したいのですか?
 傷つくかも知れない、或いは死ぬかもしれないのだから調べるなと、そう申したいのですか?
 ディア様とおな……いえ、恐らくお披露目の舞台に忍び込んだメンバーからしてそもそもプリマドールで共有された考えということですか」

 箱庭に牙を剝かれないように情報をなるべくいきわたらせないようにしている。
 そう言ったソフィアの言葉からアメリアはほんの少しだけ相手が密告を狙っている訳ではないと考え警戒を緩める。

 ……と、同時にお披露目に潜入したのはプリマドールの四人だった。
 と、過去のディアの言動と、リヒトから見せられたノートから推測し、この情報統制はその四人が協同して行なっているのでは? と考え、問い、というよりは確認に近い言葉を返した上で。

「では簡単に行きましょう。
 リヒト様のノートに書かれていた内容と、追加で2、3と言った所でしょうか」

 曖昧に、けれど最低限伝わる形で答える。

《Rosetta》
 ソフィアも、アメリアも。きっと悪意なんて一ミクロンもなくて、オミクロン全体のことを考えた結果、こんな空気になっているだけなのだろう。
 疑念とはおぞましいものだ。これほど簡単に空気をひりつかせることができる。
 クラス中に広まってしまえば、学園全体が針の筵となることも想像に難くない──と、耳を傾けたトゥリアは思う。
 言いたいことこそあるけれど、彼女が口を挟む時間ではないのだろう。まだ少し、トゥリアのドールは黙っている。

《Sophia》
「……知ってしまったあなたを止めても無駄でしょ? 調べるな、なんてことは言わない。……けど、まだこの事を知らない子に簡単に伝えてしまうのは、ダメ。だからメモも処分したの、何も知らない子が知らなくていい知識を得てしまわないように。
 ……閉鎖的な箱庭で、絶望だけ与えても意味が無い。まだあたし達はそれを回避する術を得ていない。リスクのみ与えるのは、合理的とはとても言い難い……わかるでしょ。
 ……はあ、ディアから何か聞いたからこう詳しくなってるのね……」

 無機質な声で答えていたソフィアは、最後に呆れたような、苦言をこぼすような声色で、ため息とともに言葉を吐き出した。

「リヒトのノート……そう。いつ見たものか分からないけど、お披露目についてはどっちも知ってるの?
 ……それじゃ、その追加の情報について、先に話して貰おうかしら。」

 どっちも。伝わる者には伝わる……と言った風な言い方をするのは、なるべく周囲に警戒を払い、言葉をぼかすような意図があるのだろうということを、賢いアメリアは察知できるはずだ。……この話が、本当に伝わるならば。
 ガラスの切っ先のように鋭さを増した視線が、ゆっくりアメリアの瞳に向けられる。それは、選択権はないと言うように。僅かな威圧を孕んだ視線だ。

「絶望、ですか。
 ソフィア様が絶望するのは勝手でございますが……アメリアをそれに巻き込まないで下さい。
 それに、知ることによるリスクと知ることによるメリットはトレードオフでしょう。
 自分一人で何とかなるのでもない限り、その答えは結果論でしか語れませんよ」

 ソフィアの言葉に対して、アメリアは突き放すように答える。
 絶望するかどうかは余りにも不確かな話だし、更に言えばリスクのみではなく情報を知り、行動を起こせるようになるというのは明確なメリットだろう。
 それに対処法を見つけるまで何も教えないというのは、それこそ甘いジュースで毒薬の苦味を誤魔化すような、余りにも現実逃避じみた苦痛の緩和にしかなりはしない。
 何故なら……このトイボックスは根本的にドールズに違和感を抱かせるように作られているのだから。

「それで、リヒト様のノートに書かれていなかった情報について、ですか。
 嫌です。というか、自分のやりたい事を納得の出来ない理由で邪魔すると宣言し、あまつさえ交換をする気すらないように見えるお方に何もなく従いますか?

 そんな訳がないでしょう。」

 だから……星を見つめ、4.2光年の彼方まで歩き続けると決めた小さな惑い星は強い意思を以ってソフィアの要求を突っぱねる。
 もしも、情報を提供する理由がこのまま提示されなければアメリアはこの場を立ち去ろうとするだろう。

《Sophia》
「あなたは、そうかもね。……けれど、そうじゃない子もいる。
 ……どうやらちゃんと伝わってないみたいね? デュオドールさん。分かりやすくもう一度教えてあげるわ。『ここで話した事は、気軽に人に漏らさないこと』。
 ……愛してきた箱庭に裏切られて。それに気付かないフリをして、あの男に……先生に悟られないようにしないといけない恐ろしさを。奴と顔を合わせる度、コアが嫌に脈打って、背筋が凍る気味の悪さを。味合わせるにはまだ早いって、そう言ってるの。」

 はあ、とため息を吐いて。アメリアを貫くアクアマリンは、よりいっそう鋭さを深める。それはまるで、研ぎ澄まされた鋼の刃のように。

「やりたい事、ねえ。あなたがやりたい事っていうのは謎をお友達に教えてあげること? ハッ……。
 聞きなさい、アメリア。これはみんなで解くための謎解きパズルなんかじゃない。一挙手一投足が常に監視される、命がけの戦い。
 ──この箱庭から全員で逃げ出せるように光明を見つけ出すのがあたしの使命。その為に、どんな些細な事でも情報は掴まないといけない。
 だから、これはお願いじゃないわ。──話して。
 ……安心なさい、ここまで聞いて貰ったんだから当然あなたにも手伝ってもらうつもりだし……あたしの知っている事も教えてあげる。あなたが話してくれれば、の話だけど。」

 馬鹿にするような口調と、嘲るような笑いの後に。それは斬撃のごとく強い口調であった。……あのお披露目が、妹のように愛しいあの子を奪ったお披露目がある前のソフィアは。いつも太陽みたいな笑顔を振りまいて、欲望に抗えないと嘆くアメリアのことを、簡単に……されど強く、意志を以って肯定できるような、心に握った剣を、決してクラスメートに向けることは無い、そんな人物だった。
 ソフィアは今、ただあなたに、刃のように鋭い視線を突き付けている。本気であるのが伝わる──と言うのは、あくまでも贔屓目な形容にしかすぎなくて。……優しさという名の、強さは、どこへ行ってしまったのだろう。あなたがもしソフィアをほんの少しでも理解し、歩み寄り、幾分かの情を抱いていたのなら。余裕のない──弱っているソフィアを見て、何を思うだろうか。

「同じ言葉を先程言いましたよ、ソフィア様。
 絶望をするのもしないのも、怯えるのもそうでないのも、それは皆の自由であってソフィア様が決める事ではございません。
 それに、その理由では知ることによって処分されることよりも怖がらせる事を気にしているように聞こえてしまいますよ。」

 鋼は更に鋭くなる。
 それは切りつけるようで、突き刺すようで、恐ろしい代物だった。
 けれど……今アメリアの心を動かすのには向いていない。
 何故なら、それは傷つける物であって押すものでは無かったから。

「また決めつけましたね、ソフィア様。
 それに、お願いではないと来ましたか。
 知っている事の概要が予測出来る物をアメリアは話している。ソフィア様は話していない。
 アメリアのやりたいことをソフィア様は決めつけた。アメリアは問いかけた。
 そして、お互い何があろうとやりたい事はやり通すでしょう。
 以上です。
 ソフィア様の言葉にアメリアは従えません。」

 そうして、極めつけに飛んできたのは嘲りだった。
 ソフィアらしくない、怯えた手負いの獣じみた言動にアメリアは冷たく断じる。
 「アメリアはそれでは動かない」と。勿論、アメリアがソフィアやフェリシアや、或いはディアのようであったらこの時、「どうしたのですか、ソフィア様らしくない」と言えただろう。けれど……アメリアは哀れまない。
 その痛みを知っているから。
 アメリアは助けない。
 自分が強くなどないと知っているから。
 だから、アメリアはソフィアから視線を外さないようにゆっくりと歩いて、後ろ歩きで通い慣れた図書室を出て行こうとするだろう。

「それでは、アメリアを話させる用意が出来たら、またお会いしましょう。」

 けれど、同時にアメリアは見捨てない。
 助けるというのは、共に助かるものなのだから。

《Sophia》
「それはあなたが謎解きを広めたいっていうエゴを貫く理由にはならないんじゃなくて? 恐怖に震えながら態度には一切出さないなんて難しいことでしょ。……どうしてそうあたしを言い負かす事に躍起になるのかしらね。つまりあなたは、そうまでして呪いを与えたいの?」

 攻撃的な言葉だ。心を抉り取ることを目的とした、まさしく脅しのような。 
 そうして、長くため息を吐いた後──後ずさり、この場から去ろうとするアメリアを引き止めることもせず……いや、できずに。静かに視線をアメリアから逸らし、伏せる。
 ポツリと、一言。「……馬鹿な子。」と、呟いた。

「結局、目的は問われませんでしたね。
 ……あの調子では、聞かれても答えたか怪しいですが」

 最後までアメリアの目的を決めつけたままだったソフィアを置いて、あの空間にロゼットを置いていったしまった事だけを悔みながら図書室を離れる。
 最後に投げかけられた言葉は聞こえたのか、聞こえなかったのか。
 或いは聞かなかったことにしたのか。
 ともかく、彼女はそのままの足で探索を続ける。足を止めるには、まだゴールは遠すぎるから。

【学生寮2F 少女たちの部屋】

 あなたはそっと室内へ足を踏み入る。可愛らしい花柄の壁紙と、それにはいささか不釣り合いの漆黒が塗ったくられた柩型のベッドが立ち並ぶあなた方の寝室。

 見回してみても、特段今朝見たときと変わりはないように見えた。

「何もない……という事は……行くしかないですね。」

 少女たちの部屋、そこに踏み入った彼女は直ぐに気付く。
 「何も変化がない」……と。
 こうなってしまっては最早行った事がないのは男子部屋のみ、一度は「はしたない!!」と断念したが、この状況では覚悟を決めるしかないだろう。
 そんな風に意思を固めた彼女はそーっと扉を開く。

「これが男の子の部屋……」

【学生寮2F 少年たちの部屋】

 あなたがたが今朝も就寝し、起床した生活空間だ。暗いゴシックレース柄の壁とふかふかのカーペットが敷き詰められている……が、部屋の大部分を占めているのは重厚な棺桶型のベッドである。
 現在、オミクロンクラスの男子の人数は5名。ベッドは余裕があるようにと十個分、二段に積み重なったりしているが、その半分は空っぽという状態である。

 部屋の入り口から左手には大きなワードローブが置かれており、恐らくこちらに皆の制服などが収められているのだろう。

「ベッ……ベットを……!」

 少年たちの部屋に、音を立てないように忍び込んだアメリアは、しかし、調べられる物が余りにもない事に驚く。
 なんということだろう。
 ベッドしか気になるところが無い。
 しかも……男の子の寝る場所だ! なんとインモラルな事だろう!

 そうして、アメリアはしばしの間躊躇していたが、意を決したのか……或いは欲に抗えなくなったのか、薄目の状態でそーっとベッドを調べていく。

 あなたは少年たちの部屋に置かれているベッドを一つずつ検分していく。
 どうやらどのベッドも、構造自体はほとんど同じ。量産品なのだろう。南京錠の仕組みも構造も、他のベッドと大差は無いことが分かった。

 更にあなたは一つずつ箱を開けていく。箱にはそれぞれどのドールが使用しているかが明確に分かるように、個別にネームプレートが貼り付けられている。
 そのうちの一つ。ネームプレートに『Ael』と記載があるベッドにだけ、(秘匿情報)。

「ひっ……」

 悲鳴とともに反射的に後退る。
 バタン、と蓋の閉まる音がする。

 エルのベッド、そこには無数の√0が、執拗に書き込まれていた。
 背徳的なドキドキと共に開けてみたら出てきたのは集合体恐怖症もびっくりの代物で、彼女は怯えと共に後ずさる。
 もしかして……エル様は何かを知っているのだろうか。
 そんな疑念を覚えながら、彼女は少年たちの部屋を飛び出す事だろう。

【学園2F 備品室】

 ある日の備品室、18:00。

 薄暗い部屋に細い光が差し込み、小さな人影が足を踏み入れる。
 薄い青色の髪をしたその少女は怯えた猫のように周囲を警戒しながら、誰も居ない事に安堵する。

「誰も……居ませんよね?」

 そう、浅ましい獣のアメリアである。
 彼女はそそくさと、厚紙、ハサミ、接着剤、裁縫用の針、を持って逃げるように去って行く。

【寮周辺の平原】

 すっかり暗くなった寮周辺の平原に、随分と大荷物を抱えた小さな人影が訪れる。

「確か、あのレコードはフェリシア様が持っているのでしたっけ……」

 そう、手癖の悪さに定評のあるアメリアだ。
 先程備品室から集めて来た材料を使い、星明かりを頼りに工作を始めた。

 今回制作するのはレコードプレーヤー。
 手回し式の、質素で簡素で最低限の代物。
 けれど……今は必要なもの。

 さて、そんなレコードプレーヤーに必要な部品は、
 レコードを置き、固定する台、
 レコードの溝をなぞる針、
 アンプ、
 の三つだ。
 台は接着剤とハサミ、厚紙で箱型にして置けば良いし、針はそのまま固定すればいい。
 けれど、問題になるのがこのアンプだ。
 これを用いて音を大きくして初めてレコードはまともに聞けるのだから。
 本来は電子機器を用いるパーツだが……最低限の音質でいいのなら別の方法もある。
 厚紙を折り曲げ、形を変えて歪んだ筒状にする。
 そうやって音が……正確には振動が伝わるようにする事で、ほんの少しだが音を増幅する構造を作り出すのだ。

 そうして、作り上げた部品たちを組み合わせてレコードプレーヤーとした彼女は森の片隅にそれを隠し、寮へと帰って眠りにつくだろう。

【寮周辺の森林】

Felicia
Sarah
Amelia

「……来て下さるでしょうか。」

 レコードを作った次の日。
 彼女は森で二体のドールを待っていた。
 一人はフェリシア。
 彼女が最も信頼を置くドールであり……そしてリヒトによるとレコードを持っているらしいお方。
 もう一人はサラ。
 ある時、よく自分の事を助けてくれるドールであり、そして今回の計画においてその鋭敏な感覚で正確にレコードを回して頂くテーセラのお方。

 そんな2人のベッドに、彼女は一枚の手紙を残していた。

 ──親愛なるお方へ。
 寮の外、森の近くにて、
 一番星の輝くころにレコードプレーヤーを持ってお待ちしています。
 青い髪のアメリアより。

 と、どこまでも簡潔な内容の手紙を。

《Felicia》
 お披露目会前のある夜、ベッドに置かれていた手紙。差出人は同じオミクロンクラスのアメリアちゃんらしい。 筆跡に目を通して、ペリドットのまやかしの心臓は強く波打った。そこに書いてあったのは、"レコードプレイヤー"。つまりヘンゼルくんが拾ったあれが再生できるわけだ。


「あっ! アメリアちゃんお待たせ! お待たせしちゃってたかな?」

 草の茂った森に足を踏み入れると見慣れた知的な青いロングヘアーが目に入る。既に彼女は来ているらしかった。慌てたように声を掛けた。もし待たせていたら、申し訳ない。
 肩から掛けているショルダーバッグの中には、ノートと、ミシェラちゃんのリボンと、それからレコード盤。アメリアがペリドットの存在に気づくと、ほっとしたように笑いながら手を振るだろう。

《Sarah》
「早く戻らないと、先生心配しないかな……あっ、こんばんは二人共。フェリシアサンも。」

 アメリアサンからの珍しいお誘い。ベッドに置いておくなんてそんなに隠したいことでもあるのだろうか。レコードプレイヤー、名前としては知っているが実物は多分見たことがない。珍しいものを拾ってそれを自分に見せたいのか、しかしなぜ自分なのか。
 頭の中を巡る疑問は一向に解決されぬまま足は森にたどり着きもう目の前には手紙の主アメリアサン。そしてエーナモデルのフェリシアサン。頭の中はハテナばかり。

「二人とも、いらっしゃいましたね。
 それでは、先ずはサラ様に今日お呼びした理由を伝えてもよろしいですか?」

 やってきたフェリシアに小さく手を振ってから、草むらの陰からちんけな紙製のレコードプレーヤーを取り出したアメリアは、これから行うことを半ば察しているフェリシアに目線を向けてから話し出す。

「先ず、そうですね。
 これはフェリシア様が見つけて下さったレコードを再生しよう、という集まりなのです。
 そこでサラ様にはそのテーセラとしての鋭敏な感覚を用いてレコードを回して欲しいのです」

《Felicia》
「あぁなるほど! 確かにテーセラのサラちゃんなら綺麗にレコード回せそうだね! サラちゃんパワーに感謝だね。」

 サラちゃんの挨拶に「サラちゃんもやっほ!」と軽く返したフェリシア。なぜ彼女がいるのだろうと疑問に思ったが、アメリアちゃんの説明を聴き、納得したようにぽんと手を叩いた。

「それにしても、すごいねアメリアちゃん。それ一人で作ったんだ!
 へへっ、さすがデュオって感じ! すごすぎ!!」

 光を反射したペリドットが指さした先にあるのは、紙で作られた再生機。フェリシアは彼女と目を合わせると、歯を見せて笑ったのだった。

《Sarah》
「えっと、……?
 ボクがこれを回せばいいの?」

 どうやら二人はこれが何か知っており全て分かりきっているようだ。何もわからないサラはひとりぽつんと置いてかれる。その状態はあまり気に食わないがそんなこと口に出しても何もならないだろう。
 アメリアサンが作ったという再生機。
 フェリシアサンが持ってきたレコード。
 そしてそれを動かすという役割の自分。

 仕組みはなんとなく理解している。できるかどうかはわからないが試す勝ちはあるだろう。なんでも知ってるアメリアサンがわざわざ再生機を作ってまで聞きたいレコード、興味なわかないと言えば嘘になってしまう。二人の会話を聞き流しつつ彼女の再生機に近づき回そうと試みる。

「もうやっちゃうからね」

 星が瞬く夜の密かな集い。
 先生に隠れてこっそりと集まったあなた方が取り囲むのは、手作りの蓄音機。

 フェリシアが手にするレコードには、テープによってラベルが貼られていた。ラベルには、乱暴に引っ掻いたような筆跡で『1-F Abigail』と記されている。

 アビゲイル──先生が言うには、以前にエーナクラスに所属していたドールだったらしい。
 彼女の名が残された、怪物が落としていったレコードに、一体どんな音が残されているのだろうか。

 サラが手動で円盤を回していくならば、針が表面を引っ掻いて、微かに、歪な音を奏で始める。
 手製であるからして仕方がない劣悪な音質。その奏でる音の機微は、テーセラのあなたなら辛うじて、聞き取ることが出来た。
 間違いでなければ、レコードからはこう聞こえた。
 (秘匿情報)。

《Sarah》
 流れてくるのは音楽と思いきやまさかの女性の声。さぞかし物珍しい音楽かなにかだと思っていたためがっかりしていないと言えば嘘になる。音質の悪いレコード、そもそも悪くなるように作られている気もするけれど経年劣化のせいかとしれない。

「これ、誰の声だろ……アビゲイルサン、の友だちかな」

 必死に語りかけるような声。何もわからないまま音声の再生は終わりサラは回すのをやめた。その声がテーセラのサラのみにしか聞き取れなかったことを理解せず、二人に説明する前に再生機からレコードを外す。レコードのラベルに書かれたアビゲイルという名前。そこでようやくこのレコードの持ち主? を知れた。
 このレコードの持ち主がアビゲイルというドールなら、なぜフェリシアサンが持っているのだろうか。アメリアサンがわざわざ再生機を作ってでも聞きたかったであろうレコードの内容。知りたいような、でも知りたくないような。デュオではないサラは深く考えたりすることが得意ではない。なんなら嫌いだ。だからサラは深く考えないようにした。

「これアビゲイルサンって子の落とし物? 届けてあげなきゃね」

 再生機をアメリアサンに、レコードをフェリシアサンに返しサラは二人に背を向ける。これ以上外にいては先生に叱られてしまいそうだから。ふりかえり彼女らに戻らないのかと目で訴える。一人で戻るつもりは無いようだ。引き止めなければサラは寮に戻るだろう。

「サラ様、聞こえたのですか?
ちょっちょちょちょ! 待ってください!」

 レコードが悪い点……というかレコードプレーヤーが致命的だったのだろう。
 音質は余りにも悪く、聞き取る事は出来なかった。
 勿論、そこまでは想定内、それでも聞き取る事が出来るようにテーセラモデルに声をかけたのだから。

「アメリアはよく聞き取れなかったのですが……サラ様はなんと、聞き取れましたか?」

 ……が、ここからが想定外だった。
 余りにも物わかりの良いサラがレコードプレーヤーを見せて直ぐに使いだしたのはともかく、聞こえたら内容を教えてくれ、と説明する前に始めてしまったが故に、彼女はそのまま立ち去ろうとしている。
 その為、アメリアは慌ててサラを呼び止めると、なんと聞き取れたのかと問いかける。

《Felicia》
「サラちゃんストーップ!!!
 私……いやたぶんアメリアちゃんも今の聞き取れてないから!
 聞こえたのサラちゃんだけだから!!!」

 懸命に耳を澄ませてみたはいいものの、レコードの内容は聞き取れなかった。アメリアちゃんがテーセラドールのサラちゃんを呼んだのは、そのためだろうと理解したフェリシアは慌てて彼女を呼び止めるのだった。

「それから……アビゲイル、ちゃんはもうお披露目会に行ってるっぽいんだよね。先生に聞いたら、彼女はエーナだったみたい。

 ねぇサラちゃん、このレコードは何を教えてくれた?

 それから……サラちゃん。これは答えたくないならそれでいいんだけど……サラちゃんは“お披露目”のことをどう捉えてる?
 先生のこと、好き?」

 彼女の口ぶりからして、おそらく、サラちゃんはお披露目の事実を知らない。もしそうなると、彼女が何の躊躇いもなく先生にこのことを話す可能性があった。できればそれは止めておきたい。レコードがあるという事実だけでも、先生はお披露目に出すだろうから。

 隠して、隠して、隠さねば。

「とっ、とりあえずサラちゃん座ろっか!」

 笑顔を作れば貴方が座れるスペースを確保するだろう。

《Sarah》
「あ、ごめん。そうなんだ。」

 寮に戻りたそうに一度あちらを見るが、引き止められたなら止まらない理由はない。再び二人の元へ戻り首からマフラーを外しては地面に広げ目の前にしゃがみ込む。マフラーを優しく手で叩くのは言葉はないがそれに座ることを求めているようだ。マフラーを引いたのはせめて二人の服が汚れぬように。

「レコードにはアビゲイルサンの友だちか、誰かわからない女の人の声がしたんだ。
 えーっと、それで確か女の人が、
 あの思い出の本を覚えてる?
 あと……どうかまた可愛い声で返事してねアビゲイル。
 また私に読み聞かせてね……だったかな。
 ボクがちゃんと覚えてたらこんな感じだった気がする。」

 覚える気があって聞いていたわけではないため、先程聞いた曖昧な記憶をたどりながらぽつりと話す。必死な声だった、とも付け足し。どちらかがアビゲイルサンの友だちだったのだろうか。ここまで知りたがるとはよほど仲が良かったのだろう。
 お披露目に行ったエーナモデル。優秀なドールだったのか。

「どう捉えるも何もそのままじゃない? 優秀なドールが行けるもの。アストレアサンとか。

 好きだよ。デイビッド先生サンのことだよね?」

 何かしら試されているのだろうか。学園で先生のことを嫌うドールは中々いないだろうに。念の為オミクロンの先生、デイビッド先生かの確認も入れる。サラ自身ほかの先生とは関わらないがエーナであるフェリシアサンはもしかしたら違う先生のことを言っているかもしれない。
 フェリシアサンも変な様子。急に聞いてきたり。確かにアビゲイルサンと友だちなら色々聞いてることもわかるが急にお披露目や先生の話になるとは。同じエーナモデル同士アストレアサンと仲も良かったしさみしいのかもしれない。フェリシアサンもアメリアサン達ならきっとすぐにお披露目に選ばれるだろう。

「……恐らく、シャーロット様ですか」

 思い出の本、また読み聞かせをという文言。
 そういったことをしそうなドール……それもオミクロンであろう個体となれば、恐らくシャーロットだろうか?
 ともかく、内容を聞いたアメリアはノートに、

『人物不明の女性の声
 思い出の本
 アビゲイルへの呼びかけ
 読み聞かせをしてもらっていた?』

 と記載したあと。

「そうですね……では、サラ様。
 もしもこのトイボックスに私たちに隠されている事があり、そして、秘密が必ず見つけるように作られているとしたら、サラ様は秘密に触れたいと思いますか?」

 ……と、フェリシアに一瞬目線を向けてから問いかける。

《Felicia》
「ん? シャーロット……? アメリアちゃんの知り合い〜……なのかな!」

 少し首を傾げたあと、レコード盤を鞄に入れた代わりに取り出したノートにメモをするだろう。サラちゃんが話した話を、文章を、そっくりそのまま。

"女の人があの思い出の本を覚えてる?→どうかまた可愛い声で返事してねアビゲイルまた私に読み聞かせてね"

 と。

 書き終わったあと、フェリシアは真っ直ぐに自身より少し背の低い彼女に向き合うだろう。先程より緊張したように声が強ばらせて。

「うん。デイビッド先生のこと。
 ……そういえば、サラちゃんって日記書いてたなぁって。それ、誰かに見せてたりする?
 例えば……先生とか。

 あのね! もしかしたらそれ、危ないことかもしれないの! アメリアちゃんが言ってる学園の秘密ってところに関係してるんだけど……。

 正直、それを貴女に教えていいのか分からない。貴女の希望を、夢を奪いかねないから。だけど、知りたいのなら……教える。」

 ぶつぶつ、ぶつぶつ。周りを警戒しながら言葉を零していく。学園の事実を彼女に話すのなら、アメリアちゃんじゃなくて私がいいと強く思うから。夢を壊す罪を犯すのは、きっとひとりでいい。

《Sarah》
「シャーロットサンはわからないけど……二人が満足したなら良いよ」

 何も追求する気がないのか肩をすくめ、しゃがみこんでいた足を伸ばし立ち上がる。そろそろ良いだろうか。帰らないと先生に叱られてしまうのではないかという心配ばかりが募っていく。
 二人共何かしら書いている間、サラは再生機を持ち上げてたり横から見たり突っついてみたりと自由に過ごしてれば、両者終わったようだ。

「……やだ。嫌だ。聞かない。聞きたくない。それに意味がわからない。二人して。
 二人共変だよ。……ボクの日記、は先生サンに見せてるけど、それがどうしたの?」

 夢を奪う。学園がまるで嫌なところだとでも言うフェリシアサン。
 いやだいやだと、まるで癇癪を起こした子どものよう。表情も、声色やトーン、音も一定で滅多に変わらないサラにしては珍しく嫌そうな声色。そんな風に何を言うんだ。夢物語の取り込み過ぎか、変な知識を仕入れたかは何か知らないが学園の秘密、夢を奪う、馬鹿なことを。意味がわからない。
 少し取り乱した姿とは打って変わって、ポツリと呟いたあと彼女の質問を肯定する。フェリシアサンにもアメリアサンにも何度か見せたことはあるサラの宝物。サラの夢がいっぱい詰まった宝物。それがどうしたのだろうか。それがまた【夢を奪う】ことにつながるとでも言うのか。
 これ以上サラはこの話題を続けたくない。しかしエーナほど器用ではないため、二人の方に空っぽではない腕を差し出す。口から出た声色はいつもと変わらなかった。

「家に帰ろうよ」

「ええ、サラ様がそう思うのなら。
 今日の……特にレコードに関する記述は書かないし、誰にも見せない方が宜しいでしょう。」

 強く拒絶したサラに対して、アメリアはそれならばと穏やかに伝える。
 関わりたくないならそれでいいし……寧ろ巻き込んでしまったのが申し訳ない位だ。

「出来る事なら、忘れて穏やかに過ごされる事を祈っております。
 なんたって、本来このトイボックスにレコードなど存在しませんから。
 それを持ち、見た事を知られれば、夢から覚めなければならなくなるでしょう。

 巻き込んでしまい、申し訳ありません。」

 だから、今日の事に関する忠告とそうしなければいけない理由を伝えて頭を下げる。
 代わりに帰ろうという手は取らなかったし……取れなかった。
 自分勝手に利用しようとした者がその手を取るのは、余りにも傲慢が過ぎたから。 

《Felicia》
「うん、うん。……そう。分かった。
 知りたくないなら、知らなくていいよ。何も知らないで過ごした方がきっと“楽”だろうから。

 だけどね、ずっと目を逸らし続けることはきっとできない。学園は貴方を裏切るかもしれない。

 忘れないで。私は、いつでも貴方の味方だからね。」

 いじらしく身体を揺するサラちゃんに、フェリシアはまるで学園の秘密が貴方の夢を奪うような、そんな話をするだろう。覚えて欲しいことは自身は友達誰しもの味方であること。それだけだ。

「レコードのことはすっかり忘れて欲しいな。貴方のためにもそれらを日記に書かない方がいい。他の人にも話さないで。……ね?」

 差し出された手を取り優しく触れながら、訴えるように見つめるペリドット。その言葉には、瞳には、有無を言わさずな何かがあるだろう。

「それじゃ。もうすぐ日が暮れそうだから、私は寮に帰ろうかな!」

 パッと明るく表情を変えたフェリシアは、繋いでいたサラちゃんの手を離しレコード、ノート、リボンの入った鞄を持って立ち去るだろう。

《Sarah》
 確かに知りたくないと拒んだのは自分だ。しかしなんだろう、この切り離されたような感覚は。一人置いていかれているような。片方には手を握られることもなく、もう片方にはぎこちなく握り直された手を一瞬にして離された。
 それよりも、この落ち着かないまま彼女らと分かれるのは忠実な友となるテーセラとして正しいと思えない。自分が悪かったのか、二人が悪かったのかなんてわからないけれど毎日会う仲なんだ。気まずいのは全員嫌なはず。

「大丈夫だよ、ボクも……ごめん。
 また明日。」

 立ち去る二人の姿が見えなくなるまで手を振る。先程まで一番帰りたがっていたというのに一人森に残る。見えなくなった途端サラは地面にしゃがみ込みわざと大きいため息を付く。モヤモヤした気持ちを吹き飛ばすため、拒むことが正しい選択と自分を納得させるため。
 アビゲイルサンの初めて見たレコード、学園の秘密、夢を奪う、夢から覚める。何がなんだかわからない。真剣な表情や二人の目を見ていると否定しにくい。
 ぐるぐるもやもや考えたってわからない。ぎゅっと握りしめたマフラーの感触、サラの頬を撫でる風、こびりつくレコードの音声、二人の声。
 これが夢だったらいいのに。もし夢だったら。でも日記にも書くな、他の人にも話すな。

「わがままー、ばーか。」

 じゃあこの思いをどうしろと言うんだ。誰もいない森に誰にも聞こえない精一杯の声がただ空に消えていく。誰かに向けた言葉かそれは自分かもしれないし彼女らにかもしれない。その時サラの脳裏によぎったのは信頼のおける彼女の先生と親友のミシェラ。どちらかに相談でもしたらきっと気が楽になる。フェリシアサンの忠告がずっと耳に残るが……バレなきゃ大丈夫。二人はサラの友だちではないから。裏切ってもいない。だってサラの友だちはミシェラチャンとヒトだけだから。
 握りしめていたマフラーを首に回し寮を目指し駆け出す。
 その日のことは日記に書けなかった。ただ単に筆を持つ気が起きなかっただけ。それだけ。

【寮周辺の平原】

Licht
Amelia

《Licht》
 ノートのページを、指でなぞる。書き込まれた文字と、乾いたインクと、雨跡の薄い凸凹に触れる。その、コワれた頭では思い至るのも難しいほどの、情報的な価値を思う。このノートはとっくに、個人的な領域を超えて、大きな爆弾のようになってしまった。

 だから、このページは要らないな。心の中でそうひとりごちて、リヒトはある日のページをゆっくりとちぎって、取った。

 ……あと、もう一つ。数枚めくった先の記述を見て、リヒトはインク壺に指を突っ込んで、指でインクを広げて、その内容を塗りつぶしてしまった。
 そうして、その記録と記憶はぐちゃぐちゃな黒インクの染みの向こうに消えてしまった。もう読み取ることさえ難しくなってしまったことを、ちゃんと無くなったことを確認して、リヒトは短く、息を吐く。

 大丈夫。
 これは、誰にも関係ない。

 オレが覚えていた時と同じようにやれば、ゼンブ上手くいく。忘れたなんて、無くしたなんて、そんな自分勝手なことでメイワクをかけちゃいけない。というかそんなこと、言えない。気づかれたくない。バレちゃいけない。こんな、時に。

 大丈夫。
 オレがバレないように演れば、ゼンブ上手くいく。


 噴水の水で手を洗って、ちぎったページは鞄の底に突っ込んで、ノートとインク壺とペンも、一緒に入れる。それから、リヒトは青空を見ないように俯いて、その場に座り、花冠を作り始めた。これもきっと、つぐないだ。

 覚えてないのに、もうここには亡いのに、手は勝手に動く。ありえないくらいに優しく、穏やかな動きで、祈りを込めるように。

「……よお、アメリア」

 なんとか形になった花冠を持ち上げて、形を見ている時……その奥の方から、馴染みの青色が姿を現したから。ふっとそっちから目を逸らして、ぶっきらぼうに名前を呼ぶ。不格好な花かんむりは、未だに手の中に。被せてもらう小さな頭も、見失ったままに。

「おや、リヒト様。」

 その日、いつもと同じように探検の為に寮から出て来た彼女は、偶然にも良く見知った顔のドールと行き会った。
 彼の名はリヒト、数日前にノートを見せてくれて、多大な情報を共有してくれたドールにして愛しい友人。
 丁度花冠を作っていたのだろうか?
 土を落とした時に汚してしまったのか、或いはそもそも噴水を調べていたのか、どちらかは分からないが濡れた手に一瞬ちらりと目線を向けてから近寄っていき。

「あの後、ノートを見せて頂いてから幾つかの情報を得ました。
 良ければそれらを共有したいと思うのですが……隣に座っても?」

 と、気軽に問いかける。

《Licht》
「……いいけど、そーだな…」

 花かんむりはとりあえず、自分の頭に乗せることにした。乗せた弾みで茎がズレた気がするが、気にしてはいられない。雑にズボンで寝れた手を拭いて、すっと、寮の方を見やった。アメリアからまた、目を逸らすように。

「ほら、寮から近いじゃん。見、られねえかな」

 鞄に突っ込んだばかりのノートを取り出して、せめて遮蔽を、寮から人目で見られない、噴水の裏とかを提案してみた。もちろん、この場所で話す分にも彼は構わない。構うだけの余裕が無い、とも言えた。

「ふむ……そうですね。
 では、楽しい歓談をしましょうか。」

 窓を見た後、彼女はリヒトの言葉に対して少し考える。
 確かに……移動すれば話している瞬間は見られないかもしれない。
 けれど、本質的に連れだって行動していた事実からは逃れられないだろう。
 その為アメリアは情報共有は諦めて楽しい話をしよう。と、提案する。

「それで……ええと……」

 が、そこで気付いた。
 アメリアは口が上手い方ではないし……更に言えば沢山の話題を持っている訳ではない。
 というか知識の話が出来ないデュオモデルが何を話すというのだろうか。

 ……だから、彼女はおずおずとリヒトの隣に座りながら、必死に自分の持っている話題を考えて……。
 考えて……最後に残った小さな星屑の話をする事にした。

「先ず……アメリアには、夢があります。

 お披露目に選ばれて、愛するお方と出会い、結ばれて、幸福な日々を送る。
 そんな夢が、ありました。」

《Licht》
 カン、ダン。

 きっと「階段」じゃ無いって事は、薄々分かっている。でも、音と言葉が上手く結びつかない。リヒトの頭はコワれている。さながら、星座図を書き忘れた上に穴だらけの、星見表のように。
 だから、ぱちぱちと目を瞬かせて、変に開いた間の中、ずっと。アメリアの言葉が続くのを待っていた。

 そして、星屑は。誰も彼もが見逃すくらい小さな星屑は、一人と一人の間にふわりと、舞い落ちる。

「────うん……なんか、“らしい“な! アメリアなら、なんでか分かんないけど、そう言うと思った」

 それで、と促しながら、リヒトはメモを取ろうとしていたノートも、ペンも、またまた鞄にしまった。一人のテーセラドール……貴女の忠実な友人として、“カンダン“しよう。
 
 そして、今更、少し思い出した。かつての……ツギハギだらけのはかない夢の中で、踊っていた自分たちのこと。きっと幸せになるはずだった彼女のこと。きっと置いていかれるはずだった自分のこと。

「ええ、ですが……本当に会えるとは限らないと、そう思ってしまったんです。
 それでも、会いに行こうと決めたんです。」

 静かに、ぽつりぽつりと語り出す。
 それは雫が落ちるような、どこか深刻さをまとった物で……慎重に選ばれた言葉だった。

 ……が、次の言葉で急激に話の内容が変わる。

「けれど……そのう……会いに行くと、決めたのは良いのですが……。
 こう……運命の人が具体的にどういうお方なのか分からない……と、言いますか……。
 そもそも、運命のお方はお披露目で会った方が自動的に運命の方だと思っていたと言いますか……。
 その……好みのタイプ……なるものがわからなくって……ですね」


 そう、恋バナである。
 ここらへんでご機嫌なBGMでも流れていそうな、甘ったるい恋バナであった。

《Licht》
「……あ〜……」

 深刻で、息すら出来ない宇宙で遥か彼方の星に手を伸ばすような……そんな、悲壮な決意に息を飲んだ、はずだったのに。

 いつからここは恋愛相談所になったんだろう……。

 おそらくアメリアからふわふわと放出されているであろう、ハート型の恋のかけらがリヒトの頭でバウンドする。してる。

 跳ねて飛んでゆくハートを呆けたように見つめて、リヒトはやっとこさ口を開く。……オレは友人として設計されたドールで、愛だ恋だは専門外だ! なんて。そんな野暮なことは言えない、雰囲気。

「えっと、そ、そうだな。そうだな……なんかこう、ほら。今まで話したことのあるドールの中でさ、えっと、こう……『びびっ!』と来たやつ、とか。いる?」

 そこまで話して、リヒトはぐっと前のめりになった。自分よりちょっと低めの設計になっている、アメリアに合わせて。まるで秘密の話のように。
 だって────

「そいつの特徴が、よーはほら。アメリアの『運命』と一緒、ってことじゃねえかな」

 ────そう、いつだって、どこだって、ヒトだって、ドールだって。
 恋バナというものは、秘められるべきなのだから。

「ドールの中で……ですか?」

 リヒトの上でバウンドする形而上のハートに気付かずに……というか恐らく意識すらせずに彼女は考え込む。
 それはもう、ミレニアム懸賞問題に挑むかのように真剣に。
 円周率の答えを導き出そうとするかのように根気強く。
 ……が、残念ながら思い当たらない。

 彼女にとってドールは同志や友人であって恋人ではないのだから。
 そもそも意識をした事のない相手にびびっとくる……と問われても分からないのだ。
 しかも、疑似記憶すらドール相手では当たった事が無いのだから、そりゃあそう、というものだろう。

「そう……ですね。
 びびっとくる……というのを他のドールと違う感覚を抱いた事がある……と定義するなら……リヒト様、でしょうか。

 ほら、目の前で頭が痛くなったことがあったでしょう?」

 だが、彼女は勤勉の名を与えられたドールとして答えを出して見せた。
 ……その答えが致命的に間違えていたとしても。

《Licht》
「……ち」

 許して欲しい、つぐなうから。

 今この瞬間、リヒトは不躾にも心から確信した。こいつは、
         ────恋愛馬鹿だ。

「違うだろ!! それ!! な、何とは言えないけどゼッタイ何か違うだろ!!!」

 そもそも“テイギ”が間違ってる! と、リヒトは躍起になって主張して、コワれた頭を回し出す。どうにかしてこの恋に恋してピンクになったやつに、元に戻ってもらわねばならない。

「そ〜〜〜〜〜〜うじゃなくて……ええと、その。思い出す系の頭痛くなるやつじゃなくて。あ〜……例えばさ。ディアさんとか、あと、おに……ブラザーさんとか。あと、会ったことあるか? トゥリアのアラジンってやつとか、テーセラのジャックとか……ともかく」

 思いつく限りの、なんだかカッコイイ奴らを指折り挙げる。特にアラジンなんかいいんじゃないか、と思う。

「こう……なんだっけ、会った時、ココロがどきどき? したり、ふわふわ? したりするやつ。そんな風に感じるやつ。ほら、テイギ変えて、もう一回!」

「むむむ……他のドールと違う……中でもどきどきしたりふわふわする……ですか……」

 内心呆れかえりつつも懸命に付き合ってくれるリヒトに感謝の念を感じながら、アメリアは再定義された条件を元に、新たな計算式を導き出す。

「そうですね……お父様に疑われたとき……ソフィア様に秘密を暴かれた時……デュオクラスで普段より高い点数を取ってしまって先生に声をかけられた時……。
 ふわふわするなら……こう、干したてのお布団に……いえ、これは恋愛の対象ではございませんか。」

 随分と無駄すぎる変数の果てにこんがらがったスパゲティコードの中でアメリアは一つずつ言葉を紡ぎ、最後に。

「後は……アラジン様の言葉を思い出した時。
 あのお陰で、アメリアは今も歩いていこうと思えています。

 後思いつくとすれば……ディア様に頬にキスをして頂いた時でしょうか。
 ああいった愛し方は慣れないでし、主義に反するでしょうに……アメリアに合わせて頂いた事は……嬉しく思いました。」

 と、締めくくった。

《Licht》
 干したてのお布団に関しては、少しだけ同意した。そういえば、太陽の匂いのする布団で眠りにつく、そう何度もある訳では無い日のことが、自分は好きだった。
 アメリアの話を頬杖をついて聞きながら、リヒトは些細な毎日がそこにあったことを思い出した。そういえば、オレたちは幸せだった。例えそれが、嘘の中で紡がれたものだとしても。難しい問題を解くように、真剣に自分に向き合うアメリアのことを見て……途中。あまりにその、なんというか………びっくりするような行為を聞いて、ずっこけるようにガクりと、頭を落とす。

「もうそれでいいじゃん……」

 ああ、ディアさん、ほんとに……あんたって人は!

 リヒトは一瞬でてんてこ舞いになって、既に答えが出たこの話を締めようと……というより、き、キスに関して真剣に、真剣に考えるなんてどうにも頭がゆだりそうで、なんというか。もうこの話終わりで良くないか、とぐるぐる閃いたリヒトは、手当たり次第に言葉を選ぶ。

「じゃあ、あれだな。アラジンみたいな、思い返すと嬉しい言葉を言ってくれる。それと、ディアさんみたいに、その……ええと……………してくれる。アメリアに合わせてくれる、人。だよな、だよな! もうそれでいいだろ!! それがお前の『運命のお方』ってのだよ!!」

「む……なんだか適当になった気がしますが……。
 けれど、そうですね、寒い寒い星空を歩く中だったとしても思い出すだけで暖かくなるような言葉をくれる方がアメリアと同じように在ってくれるなら……ええ、きっとこれ以上の幸福は無いのでしょうね。」

 ずっこけたリヒトに対して、彼女はめざとく反応が適当になった事を指摘しながら、ゆっくりと考える。
 自分と同じように合わせてくれるアラジンとコーヒーを飲む姿を。
 暖かい言葉をくれるディア様と傘を差して歩く姿を。
 想像する……想像して。

 気付く。

「ですが……きっとそれはアメリアの背中を押すものです。
 共に歩く同志ではあるでしょうが……きっと、愛をする対象ではございません。」

 そう、それはアメリアの愛の対象では無い。
 だって、きっとディア様の特別にはアメリアは成れないし、アラジン様の言葉は暖かいが、それは歩く理由であって止まる理由には成りえない。

「ですから、遠い遠い旅路の果て、擦り切れたアメリアを抱きとめる誰かが……もしかしたら愛する人なのだ。
 ……なんて、それは少し都合が良すぎますかね?」

《Licht》
「……いいと思う、ちょっと都合が良すぎるくらいで」

 何かに気づいたように、はっと目を上げたアメリアを見て、リヒトは口を噤んで……今度は真剣に、言葉を選んだ。迷って、迷って、迷いながら、さっきみたいに投げやりでなく、真剣に、迷って、迷って。選んで、重ねて、外して、並べて。

「だって、そういうもんだろ。アメリアは、だって今。……ええと、そうだな、ココロで、探したんだ。目に見えない、もの。その、自分にとって……いちばんたいせつなこと、を」

 多分、と付け加える自信の無さとは裏腹に、ひとつ、決めたことがある。最近、やりたいことがどんどん出来てきて、困る。

 ……六等星だって、それは輝く恒星だ。ぐるぐると苦痛を飲み、ぼろぼろと悔恨を吐いていても、星である以上。万有の引力を持っている。

 だから、さ。ほら。

 仕方ないから手助けしてやるよ、少しだけ。この小さな旅人が4.2光年先のペイルブルードットに辿りついて、暖かな腕の中で傷を癒す、その時のために。こんなコワれた手でいいのなら、引っ張って、スイングバイしてやるから。

「だからそれは、アメリアなりの星だ。星なら、きらきら眩しく光ってる方が、ずっといい。道を間違えないし、なにより、手が届きそうだからな!」

 コワれた頭で、コワれた体で、精一杯に紡いだ感情が、彼の万有引力だ。目に見えないたいせつなこと、見つけたならさっさと飛び立って、幸せになれよ、ずっと、ずっとな。

「リヒト様……ええ、ええ、そうですね。
 確かに、星は輝いている方が良いでしょう。」

 リヒトのゆっくりと紡がれた言葉に、彼女はじっっと聞き入って、穏やかに微笑む。
 きっと、それでいいのだ。
 遠くで導くなら、明るくて損など無い。
 それに、惹かれ続けている限り、きっといつかたどり着くのだから。

 そんな、リヒトの示した答えに対して、彼女は何を思ったのかそっと手を伸ばし、抱きしめようとする事で応えようとするだろう。
 もしも、その弱々しく不安定な抱擁を受け入れるなら、彼女はそっと、

「とても、暖かい言葉です。
 温度の無い世界であっても、歩き続けられる程に。

 だから、お礼です」

 囁く筈だ。

《Licht》
「…………そーゆーの」

 固まった体をそっとくるまれて、逃げる間もなく柔らかくて暖かい声が響く。この、恋愛バカ。距離感までおかしくなっちゃって、どうするんだよ。

「取っとくべきだと思うぞ、例の“お星さま“に。こんなオレじゃなくて、さ」

 『ほら、ウワキになるかもだぞ』なんて、どこかの本で聞きかじった単語で遊んで。する、っと不安定な抱擁から抜け出して、リヒトは冗談めかして手を広げて言った。

「はい。リヒト恋愛相談所、閉店でーす、がらがら」

 自分はアメリアの腕の中にはいられない。ここに居るべき何かは、誰かは、4.2光年の先……彼女がいつか辿り着く、そこにしかいない。そして自分にはやらなくちゃいけないことがあって、それが終わるまできっと、本来なら、隣に居るのも許せなくて。
 だけど、ああ、なんだか拍子抜けするくらい、なんでもない会話だったな。この先ずっと、大事にしていたいくらい。無くしたくない、無くしたくない。くらい。きっとこの穴だらけの旅路の中に、たくさん下がっていたはずの、思い出のカンテラたちと同じように。

【寮周辺の湖畔】

Brother
Amelia

《Brother》
「失敗しちゃったなぁ」

 昼下がり、湖畔にて。
多くのドールが昼食を終え、食休みも終えたであろう頃。賑やかな笑い声が平原から遠く聞こえるその場所で、ブラザーはもそもそとサンドイッチを咀嚼していた。困ったように苦笑しつつ、多すぎたマスタードにも眉を下げる。

 普段ならダイニングでにこにこ食事をとるブラザーだが、今日は違った。しっかり者ではあれど、のんびりした彼は昼食前最後の授業後に散歩を始めたのだ。寮に戻るまでの道を遠回りして自然を楽しんでいれば、先日のアラジンとミュゲイアとした会話を思い出し、一人笑みをこぼす。そんなことをしていたら、とっくのとうに昼食の時間を過ぎてしまった。

 そうして、彼は人の少ないキッチンで自分用のサンドイッチを慌てて作り、それを持ってくることになったわけである。ベーコンとトマト、それにレタスの味がほとんどマスタードにかき消されるサンドイッチを小さなひとくちでかじった。湖畔の近くに体育座りで何かを食べている姿は、中々に異様である。

「おにいちゃん。
 珍しく一人でお昼ですか?」

 昼下がり、昼食を食べ終えた彼女はそういえばブラザーの姿を見なかったな。と考えた彼女は寮を出ていつもの調査に加えてブラザーを探そう……と決めたのだが、その目的は意外にも直ぐに達成された。

 そう、湖畔で体育座りをしている不審者を発見したのである。
 いつまで経っても慣れない呼び方に少し口ごもりながら、もそもそとサンドイッチを頬張る兄を名乗る異常者に声をかける。

《Brother》
「わあ、アメリア。こんにちは。
 うん、タイミングを逃しちゃってねぇ」

 すっぱい……と一人シワシワになっていたが、草を踏む音と共に聞こえた愛おしい声に振り返る。ブルートパーズの鮮やかな髪をなびかせる姿に、ブラザーはゆっくりと目を細めた。甘く微笑みながら体をそちらに向け、最後には冗談めかして肩を揺らす。ひと口が小さいブラザーでは、まだお昼の半分も食べ終えていなかった。

「アメリアは何してるの?」

 彼女の目的も行動理由もまだ知らないブラザーは、呑気に一緒に持ってきた水筒をあける。ホットのハーブティ。今日はカモミールだ。爽やかな味が口の中をリセットさせるのを感じつつ、返事を待とう。

「おや、そういう事でしたか。」

 タイミングを逃してしまった、という嘘か本当か分からない言動に少し疑いを抱きつつも、一旦追及はせずに聞き流す。
 そうして、続いた問いに対して、彼女は考え込んだ後。

「そうですね……アメリアは散歩をしていました。
 ほら、歩いていたら運命の方にぶつかるかもしれませんしね」

 おにいちゃんの現状を予想する為にそんな少し含みのある答えを投げかける。
 散歩と言っても実際は調査だし、運命の方なんてものは恐らくこのトイボックス内には居ないのだが……どうだろうか。

《Brother》
「ふふ、素敵だねぇ。アメリアならきっと運命の人と出会えるよ」

 残念、聡明な淑女よ。
 探りを入れられた本人は、妹が素敵な人と出会って幸せになる姿を想像して勝手に表情を綻ばせている。続けて応援と励ましを込めた笑みを浮かべて、うんうんと何度も頷いた。
 何も知らない愚かなドール。ただ与えられる平穏に甘んじるような、そんなふうにも見えるかもしれない。

 実際がどうなのか、まだアメリアは知らないはずだ。
 彼女がこの学園を疑っていること知っているのは、ブラザーの方なのだから。

「運命の方っていうのは、どこにいる人なの?」

 けれども、ブラザーはトゥリアモデルだ。いくら優秀だとはいえ、ディオたるアメリアには敵わない。
 どんな人なの、よりも先に場所を聞く不自然さを、きっと乙女は見逃さないだろう。

「そうですね……。
 きっと、遠い遠い旅路の向こう側だと思います。
 まあ、余りにも遠すぎて眩暈がしてしまいそうですが。」

 運命の方がどこに居るのか、という問いに苦笑混じりで答える。
 なんたってつい先日……ともすれば今朝まで運命の方がどんな方なのかを考えた事が無かったのだから。
 どこに居るのか、と問われても彼女には分かりやしない。

「それがオミクロンである事以上に、というのはおにいちゃんもよく知っているのではありませんか?」

 そして、同時にどんな人なの? に含まれた意味に対して誘いに乗る形で問いかける。
 もしかして、何かを知っているのでは? と。

《Brother》
「ふふ、どういう意味」

 ブラザーはにっこりと笑って、食べかけのサンドイッチを置いた。和やかな雰囲気のまま口にした質問に、アメリアはきっと答えない。質問者本人が、この質問に対する答えを待っていないのだから。
 含みのある質問、デュオモデルでなくともその意図に気づいた。いや、今のブラザーなら気づけてしまったのだ。

「ちょっとお話しようよ。隣においで。
 ここから見ると、水面がきらきらしていて綺麗だよ」

 ぽんぽん、自分の隣を手のひらで叩く。風そよぐ音に乗ったお誘いが、アメリアに対して利益のないメリットを提示した。

「ええ、勿論。
 楽しい歓談をしましょうか。」

 はぐらかしながらも誘ってきたブラザーに対して、アメリアは作り笑顔で返して隣に座り込む。
 こうして湖畔で体育座りをする不審者は二人に増えた。

 座り込んだ新しい方の不審者は間髪入れずに問いかける。

「そうですね……ダンスホールで踊る蜘蛛のお話をしましょうか、お仕事に忠実なアリのお話をしましょうか、それとも、壮大なエジプト神話のお話をしましょうか?」

《Brother》
 楽しい歓談。
 アメリアは楽しんでいて、この話が嫌ではないということ。

 じゃあ、この話はしていい話!

「アメリアは頭がいいだけじゃなくて、お話も上手なんだねぇ」

 ブラザーはにこにこ笑みを浮かべたまま、相変わらず底なしに甘い褒め言葉を口にした。一切の他意がない言葉は彼の常で、今日も少しだっておかしさはない。

「リヒトから教えてもらったんだ。君がこの学園は地下にあるって予測してたって。
 僕、それを聞いてすごいなぁと思ってね。どうしてそう思ったのか、教えて欲しかったんだよ」

 アメリアの問いかけを今度もはぐらかして、ブラザーは笑いかける。まるで、本当にただの歓談のように。

「おやまあ、かなり直球で来ましたね。
 このトイボックスが地下にある理由、ですか。
 それには幾つか理由がありますが……陸地に作る意味がない、というのが主ですね。」

 ブラザーの直球な問いかけにアメリアは目を丸くする。
 もうちょっと迂遠にしてくるかと思ったのだが……意外にもそんなことはなく、直接的な問いに対しての答えは少々曖昧な物だった。
 頭が良いという否定の言葉と、話が上手という誉め言葉でなんだか複雑な気分の彼女は続けて。

「その上で何故隠しているのか、とまでは分からないのですがね」

 と、自分の考えを潜める形で答える。

《Brother》
「陸地に?」

 きょとん、と。
 首を傾けてみせる。

「どうして意味がないって思ったの? 教えてほしいな」

 顎に手を添え、不思議そうに首を捻った。うーんと唸ってから苦笑し、肩を竦めてアメリアを見る。ギブアップ、と言うようにジェスチャーして答えを促した。

 芝居がかった行動。わざとらしい疑問。
 しかし、ブラザーとアメリアでは頭の作りが異なっている。不自然ではない。何より、貴女の優しい“おにいちゃん”が、情報を引き出すために演技をするなんてことは有り得ないのだ。

 ブラザーは思った通りに行動している。いや、実際にはそこに思考なんてないのだが、故に打算で動いているなんてこともないのだ。

「そっそれ以上は……その……。
 こう……身の安全の為とは言いきれないと言いますか……少々……その…はしたないと言いますか……」

 きょとん、と首を傾けて、どうして?と意味を問いかけるブラザーに、アメリアは頬を染め、顔を逸らし、口篭りながら答える。

 そう、トイボックスが海底にあり、それを彼らが何故か隠している。
 というところまではまだ情報を得ることを望んでいて、しかも相手の身の安全を確保する事に繋がる……。
 と言えたのだが、理由の説明となると、授業で語った大気組成の話やアラジンの語った観測データの話、エレベーターで感じた移動の感覚、などなど大変はしたない……もといえっちがすぎる行為を大義名分も無しにしなければいけないのだ。

 流石にそんな事を自称とはいえ兄にするというのは……彼女にとって4.2光年の先にたどり着くよりも難しい行為だった。

《Brother》
「わ……」

 アメリアがやめたがっている。
 じゃあこの話はおしまい!

「じゃあやめよっか。
 アメリアは頭がいいってことだねぇ」

 ブラザーはにっこり笑って、すぐに話を終えた。サンドイッチを手に取り、ひと口かじる。再びマスタードの酸味で舌を刺激され、しわしわの顔になりかけた。だが、隣にはアメリアがいる。ブラザーはサンドイッチを飲み込んでから、水面を指さした。

「見て、アメリア。太陽の光が反射して、アメリアの髪みたいに輝いて見えるよ」

 何気ない、日常会話。
 既に学園が地下にあることを知っていて尚、ブラザーはこんなにも平凡な会話ができる。

「うぐっ……。
 ええ、そうですね。やめましょうか」

 なんだか気まずくしてしまったような嫌な感覚と、続けて頭を褒められた事でなんとも言えないモヤモヤした気分を抱きながらも、一先ず提案に乗って話を変える。

「ええ、確かに、例え偽物であっても目の前にあるものの姿は変わりませんからね」

 そうして帰ってきたのは他愛のない日常会話。
 ついさっきこの太陽の光が偽物だという話をしたばっかりなのにどうなんだ……? と内心思いつつも、彼女は穏やかに応じる。

《Brother》
「星は見たことがある? ここ、星もとっても綺麗なんだよ。
 アラジンって子がいてね、その子と一緒に見たんだ」

 なんの意味もない会話が続く。
 アメリアにとってはもう顔見知りであろうアラジンの名を口にするとき、ブラザーの表情は緩んでいた。弟の話をするのだ、当然である。楽しそうに、幸せそうに。あの描かれた星空を思い出すとコアが奇妙な跳ね方をするのは、きっと幸福からなのだろう。

「アラジンには会ったことある? ポスターが色んなところにあったから、もしかしたら知ってるかな」

 ふと、あの絵の具を被ったようなポスターを思い出した。アラジンが作ったであろう紙は、いくつか学園内に貼られている。話している途中で注意深いアメリアなら、と思ったようで、軽く首を傾けては微笑みかけた。

「ええ、お会いしましたよ。
 とても素敵な方で……彼も良く星を観測して居られましたね。」

 確かに、描かれた星空は美しいのだろう。
 完璧で、歪みなく、どこまでも正確な星空はきっと美しいものだ。

 けれど何故だろう、今はなんだかロマンチックには思えない。
 そんな彼女は少し口篭りながらアラジンには会ったことがあると伝える。

「確か、寮のキッチンにも置かれて居ましたし……もしかしたら彼や……或いはそれ以外にも色んな方がオミクロン寮にはやってきているのかもしれませんね?」

 そのうえで、話題を広げ……かつ情報を伝えるために問いかけにも似た言葉を返す。
 実際にポスターを見て、会ったことがあると言うならおそらく寮にポスターが置いてあったのは気づいているだろうから……その先、誰かが寮に来ている可能性の方を伝えようと。

《Brother》
「あれ、オミクロン寮に来るのって禁止されてるんじゃなかった? 誰かが持ち帰ってきたんだと思ってたよ」

 アメリアの遠回しな情報共有に気づいているのか、いないのか。ブラザーはぱちりと瞳を瞬かせてから、にこにこ他愛なく笑った。穏やかな雰囲気のまま、会話が続く。

「アメリアは誰かがオミクロン寮に来たり、学園に知らない人がいるところを見たの?」

 穏やかに微笑んだまま、掴みどころのない人形は口を開く。風で水面が揺れて、青白く輝いていた湖畔が白く見えた。依然として互いに遠回しに、会話が続く。

「はい、荒らされているのは事実です。
 ですが……どうもアメリアが来る以前からこういった事は起こっていたそうですから……。
 相当長い間このトイボックスに居る方なのか、もしくは似たような性質の方が定期的に居るのか。
 どちらかの可能性が高いと思います。」

 問いかけてくるブラザーにアメリアは先ず事実と憶測を切り分けた後に考える。
 お父様の言葉を全面的に信じるならこの件は長い間ここにいる同一個体か、或いは作り直される度に同じような事をしている個体が居るのかという可能性が先ず真っ先に浮かぶ。
 その上で。

「更に、お父様は同じオミクロンクラス内の方だとお考えのようですが……そういった事になる異常を抱えた方は……いらっしゃいましたっけ?」

 と、今度はブラザーの意見を仰いでみる。

《Brother》
「僕が知る限りだと、そんなイタズラをする子はいなかったと思うなぁ……。今度、見に行ってみるよ」

 口元を覆うように手を添えて、考え込むようにブラザーは視線を落とす。妖艶に揺らめく双眸は水面を見つめていたが、低い呟きの後にアメリアを映した。にこりと笑ってから軽く頷き、水筒のハーブティをまた一口飲む。いつの間にか、サンドイッチは食べ終わっていた。

「アメリアは色んなところを見てるんだね。リヒトやソフィアも物知りだったけど、アメリアも物知りなんだねぇ」

 持ってきたナプキンで手を拭きながら、にこにこご機嫌にブラザーは続ける。アメリアが逃げないのなら、その小さくて丸っこい頭をそっと撫でるはずだ。幼子を可愛がるような手つきと、どろどろに甘い褒め言葉と共に。
 怪しく光るアメジストがアメリアを見つめていること、並べた褒め言葉たちに、きっとなんの関係性もない。そう、そのはずだ。

「ええ、それが良……い”っ」

 今度見に行く、と言ったブラザーに彼女はその方が良い……と勧めようとして、続いた誉め言葉に言葉を詰まらせる。
 そう、物知りというのは一般的には誉め言葉だ。
 だが、アメリアにとっては少々事情が異なる。
 何たってそれは愛の証左だ、それを分かりやすく振り回していると言われては、それこそまさにアメリアにとっては「はしたない女だ」と指摘されているに等しい。

 勿論、そんな事情をブラザーが知っているとはアメリアも思ってはいないし、知っているべきだとも知られたいとも思わない。
 けれど、そのある種機械的な愛情の向け方は席を立つ程気まずくさせるのに十分だった。

「ええと、そう……ですね。
 アメリアは、そろそろ学園の方に行こうと思います。それでは」

 そうして、誉め言葉と共に撫でようとしてきたブラザーから逃げるように彼女は立ち上がって学園へと向かおうとする。

《Brother》
「待って」

 頭に向け伸ばしかけた手は、アメリアの手首に進む。手を跳ね除けないのなら、ぱしりという乾いた音と共に手首を掴まれるはずだ。
 手首が掴めなくても、彼は一方的に話を続けるだろう。ブラザーは依然として、甘やかに微笑んでいる。

「ごめんね、アメリアと話しているのが楽しかったからついお喋りしすぎちゃった」

 持ってきた皿たちを片付けながら、ゆっくりと立ち上がった。足元の草が僅かに音を零して、柔らかな声をさらっていく。

「これは、僕の想像に過ぎないんだけれど。
 もしかしてアメリアは、この学園で何が起きているのか知ってるんじゃない?」

 鈍く光る紫は、今日も昨日と変わらず貴女を愛している。
 けれど、それをアメリアが機械的だと感じたのは、もう間違いではなかった。

「ダンスホールで踊る蜘蛛の話、聞かせてほしいな」

「……良いですよ。
 けど、アメリアのお話はタダではありませんから、知らないお話だったらお代を頂きますからね」

 立ち上がり、去ろうとしたアメリアだったが、ブラザーに注意を向けていた事もあって手を掴まれてしまう。
 そして、彼女には多少気まずいだけで手を払いのける程の気の強さは無かった。

 だから、精一杯不機嫌そうな声音で彼女は言葉を続ける。

「これは、ある子供たちの物語です。
 ある日、四人の……恐らく四人の子供たちは夜、ベッドを抜け出してダンスホールに忍び込む事にしました。」

《Brother》
「……ふふ、うん」

 にっこり。
 曖昧に微笑んだまま、ブラザーはアメリアの手を離した。じっと立ち止まって、静かに話を聞いている。表情が動くことはない。いつものような、穏やかな波のような雰囲気を纏ったままだ。

「それはすごいねぇ」

 驚くことも違反に顔を顰めることもなく、のんびりと相槌を返した。言葉の続きを促すように、ゆるく目を細める。

「彼らは……少なくともそのうちの三人は同じ学校に通う他の子供たちよりも優れて居ました。
 だからでしょう、ダンスホールには問題なく忍び込めたようです。
 そうして、忍び込んだ先で、その子供たちの知っている同じ学校の子供たちが蜘蛛に食べられる様を見たそうです。
 その日、ダンスホールで踊る筈だった友達を見に来たら友達は居ないし他の子供たちは食べられているしで、彼らは急いでその場から逃げ出したそうです。」

 続きを促すブラザーに、彼女はそのまま最後まで語り切る。
 それは、お話という形を取ってはいるが、知っている者が聞けばお披露目で何があったかを知っている、とそう示すのに十分な内容できっと、問いの答えには十分だと判断したのだろう。
 それきり、アメリアは押し黙ってブラザーの顔をじっと見つめる。

《Brother》
「……うん、知っている話」

 ブラザーは小さく頷いて、微笑んだままアメリアを見ていた。何ひとつ、最初にサンドイッチをかじっていたときと変わらない。「お代はいる? 撫でてあげようか」なんて、くすくす笑いながら冗談まで続けよう。

「忠実なアリのお話は? これも聞かせてくれるのかな」

 吹いた風に揺れた髪を手で整えながら、何気なく問いかけた。次は僕の番? なんて首を傾けているあたり、まだ話を続けるつもりらしい。
 アメリアがどう感じるか、何も気にしていないのだろうか。あの、ブラザーが?

「良いでしょう。
 これはダンスホールの夜と同じ日の話です。
 その日、ある子供は何故か開いていた開かずの間に足を踏み入れました。」

 なんだか変に機械的なブラザーの様子に少し戸惑いを感じながらも、ゆっくりと話を続ける。

「そこで、二つの衝撃的な物を見たそうです。
 一つは大きな人型の、硬い外骨格と虫じみた羽を持った生き物。
 もう一つは、今頃ダンスホールで踊っているはずの友達が焼却炉で焼かれる様。
 その二つです」

《Brother》
「……うん、これも」

 またひとつ、頷き。
 表情を変えずに髪を撫でたまま、ブラザーはぽつりと呟いた。ゆるやかに上げた口角から、次の催促がまた飛び出す。

「壮大なエジプト神話も聞かせてくれるのかな」

 髪から手を離し、背中で手を組んだ。シワひとつない制服がピンと張って、鮮やかな赤が背後の湖畔によく映えた。

「そうですね……これは物語というより、思考実験に近いのですが……。
 過去、同一の名前や見た目の生徒が存在したという話や、断片的で破綻してはいるものの思い出される記憶。
 そういった物から考えて、生徒たちは過去に同じ顔、同じ考え方の存在が居て、何度も死んでいるのではないか……と、そう考えるのです。」

 これも聞いたことがある、というブラザーに、彼女は事実を確認するように頷いてから次の話を語る。
 それは、ドロシーとの会話で確信を得た、ドールズが死んでは作り直されている可能性、恐ろしく、信じたくはないが、それでも必要な可能性だった。

《Brother》
「何度も死んで、何度も作り直されているのかもしれないってことか。確かにそうかもしれないねぇ」

 よく知る童話のあらすじを聞くような態度だったブラザーも、これには流石に納得の息を零した。ふむふむと数回頷いてから、アメリアに同意を示すように柔らかな表情を浮かべる。親愛から同調しているだけなのか本心から納得しているのか分からないのが、博愛人形の悪い点だった。

「大体分かったよ。ありがとう、アメリア。
 最後にひとつだけ、聞いてもいいかな」

 胸の前あたりで人差し指をたてて、まるでお伺いを立てるみたいに首を傾げた。下手な態度のわりに、アメリアが答えるよりも先に質問が飛んでくる。

「アメリアは、どうしたい?
 君にとって、何が幸せかな」

 これもまた、ある種の思考実験である。

「ええ、ですがあくまでそういう可能性がある、というだけですから。
 ……と、良いですよ?」

 単純な事に同意してくれたブラザーにアメリアは少し気分を良くしたのか、続く問いに快く答える
 それは、単純明快で、それでいて難しい、そんな願い事。

「アメリアは愛する人に出会いたいです。
 きっとこの世界の、或いはこの宇宙の何処かに居る誰かをアメリアは愛するのだと、アメリアは決めています。
 それがアメリアのさいわいなのです」

《Brother》
「……それは───……」

 愛する人。
 そんな人に、いつか。

「それは、とっても……とっても幸せなことだね」

 万物に愛を振りまくブラザーが、アメリアの幸せを本当に理解できたのかは分からない。
 けれども、愛する人の幸せを願う表情に───……大好きな妹の幸せを願っている表情に、間違いはなかった。事務的だった微笑みが、ほんの僅かにアメリアを見る。ほんの、僅かでしかなかったが。

「アメリア、僕はね、みんなを幸せにしたいんだ。だから、君の幸せのために僕は動くよ。

 君が何かしてほしいことがあったら、いつでも僕に頼ってね。それが君の幸せになるなら、なんだってしてみせるから」

 先程と何ら変わらぬ笑みでつらつらと言葉を並べ立て、ブラザーは一歩後ろに下がる。あくまでもフラットに、これまた一方的に契約をこじつけて。
 特に今すぐ何かを頼まないのであれば、ブラザーはこのまま軽く手を振って去っていく。“引き止めてごめんね”なんて笑いながら。

「うーん、もう一通り周ってしまいましたし……」

 その日、アメリアは学園を訪れていた。
 寮は一通り周ってしまったから……後は学園を見ていくしかないのだが……。
 そこで、彼女は訪れた事の無かった合唱室に向かってみる事にした。

【学園2F 合唱室】

 合唱室の内部は、あなたがよく知るものと大差ない。コーラスごとに分かれて立つことが出来るよう、部屋の奥の床は階段上になっている。ドールズは基本、こちらの階段側に立ち、ドールズに音楽を教えるトゥリアクラスの先生は、部屋の手前側の教卓の前か、部屋の奥に置かれたピアノで伴奏をする。合唱の授業の基本形だ。

 現在授業は行われていなかったらしく、合唱室の内部は恐ろしく静かだった。この部屋は壁に防音材が使用されているため、内部の音が中々漏れなければ、外部の音も聞こえにくいのである。

「次は……ガーデンテラスに行ってみましょうか」

 どうも何も収穫が無さそうな合唱室の様子に、小さくため息をついた彼女は部屋を出て歩き出す。
 今度向かうのは……ガーデンテラス。
 アラジンと出会い、トイボックスのヴェールを踏んだその場所に、彼女は足を伸ばした。

【学園3F ガーデンテラス】

 今日もテラスの天井の天球からは、柔らかな陽の光が降り注いでいる。広々とした芝地には無数のガーデンテーブルとチェアが設置されており、中には授業の合間の休息がてらお茶会に興じているドールも見られた。

 ガーデンテラスの周囲を彩る、虚飾の陽光を浴びる花壇の花々は、現在はやや渇き始めているように見える。以前は常に水を浴びて艶めいていたのを覚えているが。

 この場所も、特段以前見た時と様子が大きく変わっているようには見られなかった。平和そのもののトイボックスが存在するだけだ。

「この花も、きっと枯れたら同じような花が交換されるのでしょうね。」

 ガーデンテラスを訪れた彼女は、萎れ始めている花々に一瞥を投げかけて窓へと向かう。
 一見するだけでは何も変わった様子の無い窓。
 けれど、その裏に致命的な何かが隠れている事を知ってしまった窓に手を触れてうっすらと写る自分の顔を見つめる。

 自分は……アメリアは……今も、何も知らなかった時のように笑えているだろうか。

 あなたはガラスに映り込む自分の微笑みを見据える。意図して浮かべた笑顔はやはり薄っぺらいものとなることは避けられない。あなたは愛想笑いを求められるようなエーナやトゥリアモデルのドールではないから、仕方がないことであったが。

『笑ってくれ、アメリア』

 脳裏に反響するのは、愛しいあの人の声だった。
 彼は美しく着飾ったあなたを撮影していた。あのレンズはなんのために向けられていたのだろうか。
 彼の悲壮な表情の理由はなんだろうか。

 あなたの脳内に激しい衝撃は訪れない。依然、とんと静かなままだ。
 あなたはしばらく、空虚な微笑みを浮かべる自分と見つめ合うことになるだろう。

「……笑っちゃうくらい下手ですね」

 自分の浮かべたぎこちない笑みに皮肉じみた強がりを返してその場を離れる。
 結局、手掛かりは何も掴めないまま、今度は洗浄室で拾ったあの指輪について調べてみる事にする。

 向かう場所はエーナドール控室。
 こういった装身具の類は授業ではそんなに使わないだろうし……何より制服に指輪は無かった筈だ。

 そこで、衣装に近しい物があるのではないか? と考えたわけだ。

 子供が児戯で工作したような歪な指輪。あなたが以前発見したそれを、控え室で探そうとも、類似する品は見つからないだろう。

 なにしろこの部屋に保管されているのはどれも一級の値打ちがありそうな美しい宝飾具である。燻んだ鈍色に輝く、よく言えば素朴、悪く言えば粗悪品の指輪とは似ても似つかなかった。

【学園2F 合唱室】

Felicia
Amelia

《Felicia》
「そろそろ、伝えた時間……かな。」

 ちらり、横目で合唱室の時計の針を確認した。

 朝食後、アメリアちゃんとすれ違ったときに彼女の手に握らせたメモ。そこには"本日17時 合唱室に集合"と書かれてあるだろう。

 フェリシアは貴女が来てくれることを確信していた。何故なら自身が知っているアメリアちゃんは真面目で、とても律儀な子だから。
 またこの状況下で秘密裏に呼ばれたのであれば、何かしら表では伝えられないメッセージがあるのだと彼女が気づかないはずがない。

 時計の針が、回った。
 ── 17時、美しい水色髪を映したペリドットは、意味ありげに目を細めて軽くその手を挙げた。

「遅くなりましたか?」

 17時丁度、時計とノブが同時にかちり、と軽い音を立てる。
 まるで測ったかのように正確な時間にやって来た青い少女は不安を宿した目で先に待っていたらしい少女に問いかける。

「そのう……少し、移動に手間取ってしまって。
 いえ、違いますね、えーっと、フェリシア様、何かあったのですか?」

 ……が、返事を待たずに彼女はかなり無理目な言い訳を始め、それも勝手に終わらせる。
 動揺があったのだろう、一呼吸置いて落ち着きを取り戻した彼女は、何があったのか? と聞くことにした。

 なんたって、遅い時間に合唱室にという呼び出しだ。
 アメリアが無意識に纏っている緊張も自然な事だろう。

《Felicia》
「ううん、時間ぴったりだよ。流石アメリアちゃんだね。
 ふふ、なぁんて。アメリアちゃんなら絶対来てくれるかな〜って思ってたんだ。」

 そう言いながらフェリシアは背中で人差し指を絡め、照れたような表情を浮かべる。目の前の貴女は直ぐにでも何があったのか、と言いたげな表情だ。不安を身に着るのも当たり前だろう。

「ちょっと複雑で長い話になるかもしれないから、どこか座ろっか!
 ……それか、私のお膝くる?」

 話を始める前に、と。フェリシアは貴女に、近くにあった椅子を勧めるだろう。緊張を解して貰えるように冗談交じりに話しながら。じゃれあうように微笑みながら。

 もちろん貴女はペリドットの膝に寝転ぶなり座るなりしていいのだろう。彼女なら、アメリアちゃんの頭を撫でながら事の事情を話してくれるだろうから。

「ええ、勿論。遅れてしまっては申し訳ないですから。」

 少し照れくさそうに不安を解してくれるフェリシアに安堵の微笑みを浮かべながら傍まで行った後、少し考えこんでから傍の椅子に座る。
 正直、空振り続きの疲れもあるし、不安もあるから目の前の相手に思いっきり甘えたい所だったが……今そうしてしまうのは余りにも自分勝手が過ぎるから我慢して。

「お膝は……そうですね、また今度にしましょう。
 それで、複雑で長いお話というのは……多分」

 その複雑で長いお話の続きを促す。
 きっと、これまた気の重い話なのだろうなと思いながら。

《Felicia》
「そう、そうだね。とりあえず話しておきたいことは……

 ──貴女が、アメリアちゃんが私の夢に出てきたの。不思議な白い空間で、白い服……病気の人が着る入院服みたいなものを身に纏った、貴女が。

 アメリアちゃんが座るところを見るとその場で立ったフェリシアは一旦貴女に背を向けた。そして、ふわっと振り返って唱えるように話すのだった。

 それは、私が忘れていたかもしれない記憶の話。
 それは、あの夢の続き。

 それは、それは、それは───
 「あの人」に会いたい、私の願望。

「もしかしたら私が忘れているだけで、本物のヒーローがいるかもしれないの。
夢が夢じゃなかったとしたら、……ねぇアメリアちゃん、そういう夢とか見たことない?」
 こてんと軽く首を傾けたフェリシアの瞳はいつになく真剣だった。
 同時にそれは彼女が正気であると伝えているものであった。

「ふむ……入院服を身にまとったアメリアが……そうですね。
 夢、というよりは記憶……と考えるべきなのでしょうか、確かに、こう……何か景色や物を引き金として覚えのない記憶が脳裏を過ぎるというのはありますし、その中に治療が必要だろうな、と考える物もあります。」

 フェリシアの言う夢の話には心当たりがある。
 と、彼女は肯定する。
 その上で、フェリシアの続けた言葉も真剣な物だった。

「確か……フェリシア様の疑似記憶は、その、ヒーローに関する物でしたよね。
 そのお方は存在する、或いは存在した可能性が高い、とアメリアは推測します。」

 だからこそ、アメリアは慎重に前提を確認しながら言葉を紡ぐ。
 疑似記憶に根ざす感情はごく根源的な人格形成にも関わるというのは自分自身がよく知っているから。
 それが、推測ともなれば慎重にならざるを得なかった。

「そうですね、アメリアが見た記憶は三つ。
 そして、この推測を補強する証言と記録が一つづつ。
 先ずは、一番関係しそうな最後の記憶から申し上げますと……その時、アメリアは燃料……いえ、恐らく血を吐いていた記憶でした。」

《Felicia》
「夢でなく、記憶。やっぱり私たち何か忘れてるのかもしれなんだね。
 ……すごくすごく大事なナニカを。
 実は私にもそういうのあったんだ。

 あの時は、そうね。薬の投与云々で誰かが揉めてる夢」

 もしそれが現実であったならば、所詮希望的観測にしか過ぎないのだが、あの人に助けてもらえるかもしれないという、一筋の道ができるに等しい。あの人なら……ヒーローなら、絶対にみんなを救ってくれるから。

「実在するとしたら……その人は私のヒーローなんだよね。そういえば夢の中で争ってた人の中に、私のヒーローがいたの。あの人は言ってた。"増やした薬の投与は看過できない"って。えぇっと……そう。
 私たちのこと、治験者って呼んでた。何の実験をしてたのかまでは分からないし、投与されてた薬も身体にいいとは言えないと、思う」

 真っ白なあの記憶を蘇らせる。
 もし。もし貴女が私のヒーローなら、助けてくれるよね? 救ってくれるよね?? 手を差し伸べて、大丈夫だよって笑ってくれるよね?

 ねぇ。

 私のしていたことが間違いじゃなかったって、貴女ならそう言ってくれるよね?

 呼び起こした記憶は曖昧で、それでいて謎の浮遊感に見舞われる。

 それから───
 それから───

 あれ。■■■■■が、分からない。


「……血を? 血って血液のことで合ってる、よね。ドールズじゃなくてヒトに流れてるっていう、赤い液体のこと、だよね。あ、あれ? アメリアちゃんはドールズだよ? ヒトじゃ、ないよ?」

 なお、先程から思い出せない場所を探りながら、貴女の言葉に不思議そうに尋ねるのだった。

「薬の投与で揉めている……ですか。
 ……まだ、答えを出せる物ではないでしょうが、そうであるならば少なくとも私たちの治療……いえ、実験はまだ終わっていないのでしょうね。」

 薬の投与で揉めている、治験者というフェリシアの言葉に彼女は考え込む。
 少なくとも、薬を投与していて、状況が異なっているというのなら薬を投与した目的は病気などの治療ではなくその体になにがしかの変化を齎す事が目的だろう。
 ……が、少なくとも薬を投与する段階を終えている事以外、アメリアにはまだ分からなかった。

「ええ、そうです。
 アメリアは間違いなくドールズでしょう。
 けれど、同時にドールズは量産品でもあります。例えば、リヒト様が見つけた記録によればアラジン、というドールが過去に居たそうですし、つい最近同じ名前のドールがトイボックスにやってきたばかりです。
 そして、恐らく我々にはモデルに相当する方、或いは設計図が存在するのでしょうね。
 ですから、モデルに相当する方が居るなら、仮にこのアメリアの記憶が誰かの創作物でないのなら、きっと、それは人間なのでしょう。
 と、推測しております。」

《Felicia》
「……アメリアちゃんも知ってたみたいだね、私たちオミクロンクラスの子が何かしらの「適合者」であること。……あのとき見た夢が、本当に記憶だとしたら一体あの施設はなんのために作られてるんだろう」

 治験者、そして開かずの扉の奥で見つけた資料にあった適合者という文字。一先ず適合者を見つけるために治験をしていると考えていいのだろう。しかしドールズへの投薬がその実験内容だとすると、矛盾する点もある。……まず、無機物の人形に薬を投与するのは可笑しいからだ。またドールズの傷は直らない。ではなぜ注射針を腕に刺していたのに針によってできた傷がないのだろう。確認しようと制服の手首のボタンを外して腕をまじまじと観察してみた。それはやはりつやんとしていて、傷は見当たらない。

「ヒトが私たちのモデルって言うのは理解できるんだけど……だって"限りなく人間に近い形"で作られてるんだもんね。じゃあ……私たちが見た夢は、人間だった頃の記憶かもしれないんだ。

 でもでも! もし、設計図の方だったら、在籍してる時代は違えど同じタイプのものが量産される形で学園に存在してるってことになるよね。お披露目会で破棄されたあとまた同じ設計図のドールズが、生まれてる? ……とかなのかな。」

「ええ、少なくともお披露目や別の理由で壊れたドールと同一のドールがトイボックスに来ているのは間違いないとは思われます。
 そして、仮にフェリシア様やアメリアが見た記憶が元となった人間の記憶だったとしたら、その実験というのも矛盾はしていないでしょう。」

 手首をまじまじと観察するフェリシアにそうやって話を続ける。
 ……しかし、これはあくまで仮設でしかないし……では施設からトイボックスに実験の場を変えたのは何が目的なのか、だとか疑問は尽きない。
 けれど、少なくとも言える事があった。

「ですから、フェリシア様が会ったヒーローという方は居る、或いは居た可能性が高いです。
 勿論人間は老いて死んでいく寿命がある上に疑似記憶から今に至るまで何人のフェリシア様がいて、どれくらいの時間が経っているか分からない以上、会える……とは断言出来ませんが。」

《Felicia》
「私たちの、モデルの、記憶……。
 ……現実味がないや。フェリシアという女の子も、アメリアという女の子も、ドールズを作るためのモデルの人間として存在してて。

 沢山の薬を、強制的に投与されて傷んだもんね。まぁ、もしかしたらそれを望んでいたのかもしれないんだけど。

 モデルとなった人間がいると考えると、私たちドールズに個性があるのも頷けるわけだ。」

 モデルはどうやって決められていたのだろう。そもそもドールズに様々な個性があるのは、ヒトに寄り添うためだと教わっていたペリドットには衝撃でしかなかった。どれが本当で、どれが嘘か、見分ける方法をフェリシアは知らない。

 事実を突き詰めることでしか知り得ない情報が、多すぎる。

 疑問が膨らんでは、それ以上知ってはいけない、止まるんだと頭のどこかは警鐘を鳴らしている。
 正直、どちらを信じていいのか分からない。だけど、目の前の彼女は信頼出来る。大切なものを見失わないように、守れるように。

 迷ってなんか、いられないのだ。

「……既にヒーローは居ないと考えるほうが私は楽かな。誰よりも大好きなあの人に変に縋るのも辛くなるだけだろうし。……そっか。
 居ないかもしれないんだよね。」

「……と、フェリシア様はヒーローなる方には会いたくないのですか?」

 居ないかもしれない、と告げた矢先、帰ってきたのは予想外の言葉だった。
 擬似記憶、それは彼女にとって自分を決定づける根幹で、ある種の呪いで、今も手足を動かし続ける何ものよりも愛しい鎖だった。

 だから、擬似記憶に登場する人そのものに会えないかもしれないという可能性は少なからずフェリシアを傷つけてしまうかもしれないと思っていたのだが……。
 帰ってきたのは何処か受け入れるような反応で、だからこそ彼女は戸惑った。


「その……フェリシア様。
 これは、不躾ではしたない、誰の為でもなく、アメリアの為の問いなのですが……

 フェリシア様は、何をしたいのですか?」

《Felicia》
「……会いたいって気持ちが人と人を引き合せるのだとしたら、既にソフィアちゃんはミシェラちゃんと会ってるはずでしょ。」

 全てを分かつ死という概念は、どんなに偉大なヒーローでも変えることはできない。ならばそれは、諦めるほかないのだ。ドールズはきっと、擬似記憶の大切な人と出会うために生まれてきている訳ではないと考えているから。だからと言って会えないと決まった訳ではないにしろ、期待を期待で埋めるほど愚かなことはないとフェリシアは知っていた。だから会いたい会いたいとせがんではいけないと思うのだ。もしヒーローに会えたら、私はきっと"駄目"になる。
 だから、みんなと一緒に逃げるまで自分の欲求は抑えていた方がいい。きっと、それがいちばんだ。
 目を伏せたフェリシアは、吐き出すように口を開いた。

「私は、みんなと逃げたい。
 今まではずっと大好きなヒトに迎え入れられてその人に尽くそうって、思ってた。平和で暖かな日常がみんなへ影をおとす前に、逃げたいの。……まずは、アストレアちゃんをお披露目から助け出したい。生きるために、足掻きたい。

 だって私は、みんなを守るヒーローになりたいドールだから。」

 でも。

「あの人が……ヒーローが居るとしたら、絶対にみんなを救ってくれるとも、思ってる。居るのなら、会いに行きたい。是が非でも会いたい。会いたいよ……。でも居ないかもしれないでしょ? 身の丈に合わない大きな希望がのちのちアダになることを私は知ってるから。」

 だから、いま出来ることをするしかないんだ、と。

「……反論をしたいですが。
 それがフェリシア様の考え方なのなら、良いでしょう。」

 確かに、ソフィア様とミシェラ様は会えていない、けれど。
 人間は遺伝子的には7兆分の1の確率で同一の遺伝子を持った人間が生まれるというし、量産品のドールならその可能性はもっと高い。
 それを、再会と呼んでいいのなら、きっとまだ結論を出すには早すぎる。

 そんな思いが口調に出てしまったのか、アメリアは少し不満そうに話し始める。

「その上で、どうあれここからみんなで逃げ出したいと。
 何故なら、フェリシア様は皆を守る存在で居たいからと、そう願うのですね。
 ええ、良いと思います。」

 皆を守る存在で居たいから、そう在れるように生きて足掻く。
 それは、アメリアの好きな論理だし、そうやって足搔くフェリシアにはとても好感が持てる。

 だからこそ、続く問いには少しばかり力がこもっていた。

「ですが、ヒーローが居るかもしれない、居ないかも知れないという議論はすこし不満を感じます。
 助けてくれるかもしれないから、会いたいのですか。
 それとも、会いたいから会いたいのですか。

 前者なら良いでしょう、失敗する可能性を想定するのは生きる事の常です。
 ですが、仮に、もしも、後者なのなら……アメリアはおこります、きっと、すごくおこります」

《Felicia》
「会いたいから会いたいに決まってるでしょ……至極単純に会いに行きたいよ! 私の憧れに、ヒーローに会いに行きたいよ!! 彼女が助けてくれるなんて、それは結果でしかない。会える可能性があるのなら、何だってしたい。どんな障害……時間すら超えて会いに行くよ。

 だけどね、それと同時に、私には守りたいものがあるの! どうしても今は独りよがりの考えができない。出来ない状況にあるの……!」

 その時のフェリシアは、いつになく感情的で、取り戻したはずの冷静さは見るも無惨に散り散りになっていた。それでもなお、いちど溢れ出した本音は止まらない。

 会いたい。

 知らなければ良かったと思った。この状況下でなかったら、きっとどんなことをしても一人で逢いに行くだろうから。

 でも、知って良かったと思った。
 何かしら大きな希望を見出せたのならそれが道しるべになることを知っていたから。愚かしい自分に背を向けさえすれば、輝きを失うことの恐怖を忘れれば一直線に進んでいけるから。

 だけど。

 それを知るのは、今じゃない。
 出来うる限りの可能性を吟味してひとつひとつ結んでいかなければいけないのだ。自分だけひとりで先に進むわけには行かない。行く時は、みんなで行かなきゃいけない。何より私自身がみんなで行きたい。お披露目会の正体を知った以上、絶対にひとりも置いて行けないから。

「ぜんぶ。

 全て終わったあとに、彼女を探しに行こうと思ってる。学園を出て、全てが終わったあとに。」


 近くに、居るのなら。

「ヒーローは、きっと……いや、必ず力を貸してくれる。もし、彼女の存在が既に確認出来れば学園から出る手助けをしてくれる。」

 そして決意を表すように、真っ直ぐに貴女を見つめ直した。夕暮れの合唱室。夕日に照らされたペリドットの瞳は、赫々と光を反射していた。

 静かに、聞いていた。
 じっと、見つめていた。
 目の前のいのちが何を考えて、どのように答えを出すのかを。
 答えを出さないつもりなら、よしんば言い訳などしようものなら、知らない、と言って部屋を飛び出してやるつもりだった。
 けど……帰って来たのは確かな熱だった。
 それならば、彼女の答えは決まっている。

「ええ、そうですね。
 会いに行くというのなら、さっさとこのトイボックスを飛び出して、気の利いたラブレターの一つでも考えねばなりませんね。
 なんたって、乙女の恋路を邪魔する輩は馬に蹴られるのが相場と決まっておりますから」

 叫ぶように思いを語って見せたフェリシアに、アメリアは余り普段浮かべないような、悪戯っぽさと不敵さを孕んだ笑みで言葉を返す。
 全てを捨てずにその手で掴もうというのなら、強欲などという言葉では足りないから。
 尊敬する誰かへ……というよりも共に悪戯を仕掛ける誰かへと浮かべるような笑みと楽し気な口調でアメリアは続ける。

「何か、アメリアに聞きたいこと、やって欲しい事はございますか?
 アメリアはフェリシア様の事が大好きですから、きっとどんな無理難題だってものの数にも入りませんよ」

《Felicia》
「伝わったみたいで、良かった。
 アメリアちゃんが言うならきっとその通りなのね!」

 半ば八つ当たりのように告げてしまった反面、自身の性格まで知ってくれている彼女ならば、本音までも論理的に受け入れてくれると自信があった。つまり私は全部を諦めたくないのだ。優先順位があるだけで。大切なものを胸を張って大切だと言うのは勇気がいる。度胸を持ち合わせていないと前には進めない。アメリアちゃんはきっと助っ人という名の悪戯仲間になる。一緒に、全部を叶えよっか

「うーん。ふふ。じゃあ、世界征服でもしてもらおうかな!」

 芽生えたイタズラ心と共犯精神。考える仕草をしたあと、面白いことを思いついた子どものように指をピンと立てたフェリシアは、親愛なる蒼色の林檎に屈託なく白い歯を見せる。

「なーんて、ね? ……隙ありっ!
 あはは! ぎゅうぎゅう……!」

 貴女が怯んだすきに素早く腕を回したフェリシアは、お互いの身体を寄せあって楽しそうに声を上げたのだった。

「むっ、それでしたら……!?」

 世界征服でもしてもらおうか、そんな提案をまじめに考え出した直後、咄嗟に体が動かない瞬間を狙ってフェリシアは抱きついてきた。
 声にならない悲鳴のようなものを上げて抱きしめられた彼女は一瞬驚いた表情をしたものの、すぐに落ち着きを取り戻して。

「もう、フェリシア様。びっくりしちゃいますよ」

 親愛なる友人の背中に腕を回して、心にもない抗議を投げ返す。
 彼女はそのまま、フェリシアが自分から離れようとするまで抱きしめている事だろう。

《Felicia》
「私もアメリアちゃんだーいすきだからね!! いつだってあなたの味方だよ!」

 悲鳴を上げられそうになったが、彼女が受け入れてくれることなんて分かっている。否定に似ているがしっかりとした肯定を受けて、更に花開くような笑顔を見せたフェリシアはより回した腕にほんの少しだけ力を入れるのだった。

「そろそろ戻らないと先生が"心配"するかな。帰ろっか!」

 わちゃわちゃ。ひとしきり抱きしめたあと、貴女から身体を離して時計を一瞥する。もちろん、心配というワードを使ったのは貴女もその意味を理解しているだろうと自信があったからである。夢に出てきた彼女に話してしまった、本音。

 ── 今はふたりだけのないしょ、だからね?

 崩した表情。きっと今は、柔らかい笑顔が浮かんでる。親愛なるイタズラ仲間に、「早くしないと怒られちゃうね」なんて。
 はにかみながら手を差し伸べた。

「ええ、そうしましょうか。
 ここでお父様に知られてしまっては興覚めですしね」

 フェリシアの言葉に穏やかに応えて差し出された手を取って歩き出す。
 「明日は何をしましょうか」なんて下らない雑談をしながら、偽物の星の下をこわれものの少女たちは歩いて行く。
 未来は分からず、過去も曖昧で、いましかないけれど、それでも夢を抱いて。

 そうして、寮の女子部屋前まで着いた頃。

「おやすみなさい、フェリシア様」

 そう言ってアメリアは名残惜しそうに手を離して別れる事だろう。

【寮周辺の湖畔】

「そういえば……アレを調べて居ませんでしたね」

 その日、朝食を終えた彼女は小さな思いつきがあった。
 インクをカバンに入れた事を確認した彼女は、最早腐ったリンゴを捨てて、湖畔へと歩き出す。


「あの時……ここは増水していたでしょうか」

 そうして歩くこと数分、湖畔までたどり着いた彼女はインクを取り出して考える。
 あの日……リヒト様と湖畔で話した時、湖の水は増水していただろうか。
 もしも、この湖が外から水を引いてきている人工の湖なら……何かがあった時に湖が溢れたり地形が変わったりしてしまわないように、排水を行う手段があるのではないだろうか。

 そう考えて彼女は行動を開始する。

 少し歩いた先で辿り着くこの湖は、いつものように長閑だった。穏やかな風が湖面を波立たせ、落ちた葉が浮かんで揺らいでいる。相変わらず澄んだ水中に生き物の姿は見られないが、心地の良い陽気が一帯を包んでいる事だろう。

 あなたが湖を覗き込んでも、一見、水位は増していないように見える。思えばこの湖は繋がる先がないというのに、雨が続いた日も増水して氾濫するということがなかった。
 今までは日常のものとして受け入れていたが、違和感として認識するとこれは根強いものだ。

 インクを垂らしての実験の結果は、しかし。薄墨は水に溶けて周囲にじんわりと広がるだけで、現在は湖に流れなどは存在しないことが分かるだろう。

「外れ……ですがなにも収穫が無い、という訳では有りませんでしたか」

 増水はしていない、けれど水が何処かに行っている訳でも無い。
 そんな矛盾に頭を悩ませながらも、とにかく、ここには何かがあると理解した彼女は湖畔を離れて歩き出す。


 こうして、湖畔を離れた後、彼女が訪れたのは文化資料室だった。
 前回、ここを訪れた際は地下としてファイルを調べたが……今度は「海中」、「水中」、「海底」に移り住んだだとか、建築物を建てたなどの記述に注目して調査を行う。

【学園3F 文化資料室】

 あなたの足先は迷いなく、資料室の奥の大量のファイルが内蔵された見上げるほど巨大な棚へ向かうだろう。
 全てに目を通すことは困難であろう程の蔵書量。それでもあなたはデュオモデルとしての優れた情報処理能力を駆使して、片っ端から条件に該当する資料を探し始める。


 人類が住まうための環境に著しく問題が見られ始めた頃、確かに彼等は地下シェルターや、海底のシェルターなどの数を増やし始めていたようだったが、それでも大々的に行われていた訳ではないように見えるだろう。

 少なくともこのトイボックスのように壮大な施設が海底に造られていた、などという記述は見られない。

【学生寮1F エントランスホール】

Felicia
Amelia

 まるで嵐の前のように穏やかな朝食を終えた彼女はエントランスホールを訪れていた。
 一見すれば何も変わったように見えない。
 それどころかお祝いムードすら漂うラウンジの空気は、彼女自身の色眼鏡のせいもあるのだろうか、どこか息苦しい緊張が漂っていて、居続けるのは余りにも耐えがたかったからだ。

 今日もいつも通りの制服に着替え、調査の為という言い訳を鞄いっぱいに詰めて。
 彼女は逃げ場など無いと言うのに、逃げるようにエントランスホールを横切り玄関のドアノブへと手をかける。

「さて、今日も調べに行きましょうか」

 それがここ数日の彼女のルーティーンだったのだが……。
 今日は、少し違うようだ。

《Sophia》
「──っ、アメリア……!!」

 水溶性の青色が、ドアの向こうに消えていくのを止めたのは、ただの少女の声一つであった。その声色は強く張っていて、芯が通っている。こんな声を持つ者は、オミクロンの学生寮に一人しかいないはずだ。
 ぱたぱたと軽い音と共に、少女が息を切らす細い音が、あなたにぐんぐんと近付いてくる。あなたが振り返る前にその足元は止んで、代わりに小さな力があなたの袖をくいと引くだろう。

 あなたが振り返るのなら、そこには。ぜえぜえと肩を揺らす、イエローブロンドの髪の少女が、──あなたが先日、手を振り払ったばかりの、傲慢なる『救済者』の姿がある。
 けれども、どうも今日の彼女の様子は先日とは違うようでだ。ようやく持ち上げられたドールフェイスにはめ込まれたアクアマリンには、焦燥とばつの悪さとが滲んでいるように見える。あなたの足を止めるために必死に走ったのだろう、息を切らしながらソフィアは語りはじめた。

「ちょっとお話……した……ゲホッ、したいんだけど………この間の、つづ、続き……」

「……?
 、ソフィア様。」

 こちらに向かってくる素早い足音に、彼女はゆっくりと後ろを振り向く。
 お父様辺りが何か声をかけに来たのだろうか? いや、それにしては足音が軽いな、と考え込んだ彼女の視界に入ったのは、あの日袂を別った鮮烈なる金色。
 さほど運動の得意なモデルでもないだろうに、慌てて走って来たせいで息を切らしているソフィアに向けて。

「この間の続き、ですか。分かりました。
 ……それなら、少し歩きましょうか」

 少し警戒を向けながらも扉を開けて一先ずこの場を離れてから離そうと提案する。
 ソフィアの返答がどうあれ、彼女はそのままゆっくりと湖畔へ向けて歩き出す。

《Sophia》
「……はあっ、はあ……わかった、ついていくわ。」

 まだソフィアの息は整わない。相変わらず肩を上下させたまま、とくに反抗することもなく大人しくアメリアの背を追う。繰り返すが、その様子は先日のソフィアとは打って変わったものである。故に、その従順な姿は奇妙にすら見えるやもしれない。
 抱えている心が善意であろうと悪いであろうと、他のドールの思考なぞは覗けるはずがないのだから。

「それで……えっと、どこまで行くの?」

 エントランスを数歩離れた辺りで、後ろを歩くソフィアは唐突に口を開くだろう。答え合わせの方法に何が選ばれようと──やがて、我々は時に誘われ、静けさに包まれた湖畔へと辿り着く。

【寮周辺の湖畔】

「湖畔まで、聞かれたくない話をするかもしれないでしょう?」

 ソフィアの問いに、彼女は簡潔に応える。
 「何かあってもお互い逃げられますからね」という意図は覆い隠して。

「さて、この前の、というのは図書室でのお話の続き、という事で良いんですね?」

 そうして、目的地にたどり着いた彼女は後ろのソフィアに向き直り、確認の為の問いを投げかける。
 そうでなければいい、けれど、もしも本当にお互いが切りつけ合った傷に触れるというのなら、準備は出来ているのかと確認する為に。

《Sophia》
「──ええ。その認識で間違いないわ。」

 それは、唯一の退路を断ち切るように。
 そよぐ風が、ソフィアのカナリアの糸を踊らせて、円舞曲を奏でるように。木の葉の縫い目を穿って降り注ぐ欺瞞の陽光が、どうして我々への福音だと言えようか?
 嗚呼──けれど。例え焼け爛れるような痛みを浴びたとしても、我々は、私は成し遂げなければならないのだと。その為に、この大地を踏みしめているのだと。
 ペイルブルーの水晶玉を深く深く射止めるアクアマリンは、そう語るだろう。
 この緊張感がたとえあなたにとって不快なものであろうと、受け取らざるを得ないのだろう。あなたが寄越した助け舟は、とうに沈んでしまった。


「……でも。前みたいに、そんなに嫌な話をするつもりはないわ。

 ……あなたに謝りたかったの。」

 ──そう。けれどメシアは要らないのだと、ようやく気づけたのだから。眩しいくらいに煌めく木漏れ日は、少しばかり冷静さを持ったようである。それはてらてらと万物に輪郭を与えては、静かに揺らいでいるばかりだ。あなたの声だけを待つように。

「謝る……ですか。
 分かりました。ソフィア様がそうしたいのなら。」

 退路を断つようなソフィアの一言により幕は上がった、最早舞台からは降りられない。
 目の前に立ついのちは熱を湛えた瞳で海を見る。
 だから、海は海らしく、燃えるいのちに対峙する。

「それは、アメリアの行いたい事には反しませんから。
 貴方様の行動を止めはしません。
 どうぞ、準備は出来ております。」

 目の前のいのちへと、何を、どう語るのか。
 それを見定めるように、或いは問いかけるように。

 さあ、ここが分水嶺だ。

《Sophia》
 水は流れゆく。革命家は、ありのままに。台詞なんかじゃない、ほんものを語り始めるだろう。開幕のブザーと共鳴するように。

「──あのね。あたし、勝手に自分のことを強いと思い込んでたの。浅慮で、愚かで、……だから。自分が思うより、『あたし』が弱いってことにも、みんなが強いって事にも、気づけなかった。」

 偽物の星が瞬いた日から、欺瞞と盲目の蛹を破ったのだから。恐るることはない。小川の流れのように、さらさらと言葉は続いていく。

「……みんなの事、大好きだから。傷ついて欲しくなくて、恐ろしい思いもして欲しくなくて、死んで欲しくなくて……守らなきゃって思った。
 けど。それは、傲慢よね。あたしは、勇者でも救世主でもないのに。みんなのこと、見下してた証拠だわ……。

 ……あなたは。最初から、分かっていたのよね。『仲間』であるべきだって。だから、教えてくれようとしていたのよね。
 あの時気づけなくてごめんなさい。酷いことを言ってごめんなさい。驕った態度をとってごめんなさい。許してくれなくたって構わない、けどどうしても伝えておきたかったの。
 アメリア、ごめんね。正しいのはあなただった。」

 さら、さらと。言葉は溢れるけれど。表情も、声色も、それが戯曲の一片ではないのだと物語っている。
 この水流がどこに辿り着くかは、全て。あなたの思惑のみに委ねられることだろう。目の前にいるのは、ただの無力な少女なのだから。

「先ず、そうですね。
 ソフィア様の行いに敬意を表しましょう。
 貴方様は自分が驕っていたと内省し、その行いを被ったアメリアに謝罪をしてくださった。
 それは、そう出来る事ではありません。
 その行いは正しく良いことなのでしょう。」

 目の前のいのちが、言葉を語り切る。
 罪を定義し、内省し、改善を試みて、そして懺悔した。

 正に見事な謝罪と言えるだろう。
 きっと、これが物語の中だったなら、アメリアは涙を流してソフィアを許し、抱きしめていたかも知れない。

「けれど、アメリアはただいいよ、と、許す、と言う訳には行きません。
 何故なら、アメリアは『仲間』であるべきだ、とも教えようともしてはいないからです。

 ただ、貴方様がどうしようとしているのかを聞いて、分かり合えぬと確信し、敵であると、そう定義しただけです。

 ですから、もう一度問いましょう。
 貴方様は、……いいえ、ソフィア様は、何がしたいのですか?」

 ……けれど、ここは舞台ではあれど物語ではない。
 アメリアは教えを授ける程偉い存在ではないし、いつでも正しい事が出来るほど強い存在でもない。
 だから、アメリアは、ソフィアにもう一度問う事にした。

《Sophia》
「ううん……謝る事なんて誰だってできる。それを今日まで先延ばしにしていたんだもの、褒められたものじゃないわよ……、……あれ?」

 続く声は、解釈の違いと、『あの夜』聞いたような言葉を象る。したいこと。あたしのしたいこと。芸術。意志。
 星々のまたたきが、『彼』の声が。今でも映像記録みたいに鮮明に浮かぶのは、耳の奥をベールが包むみたいにくすぶるのは。きっとデュオモデルの性能によるものだ。たぶん。きっと、それだけ。

「……あたしの、したいことは。」

 これが正しいのかなんて、わからない。けれど、正しくなくちゃいけないのだ。強く意志を持て、ソフィア。あたしが『正しさ』そのものになれ! そうして、芸術をあなたにも分かち合おう。恐れることはない。

「……みんなで一緒に、この箱庭から──牢獄(トイボックス)から抜け出したい。ここには幸せなんてどこにもありはしないから。」

「……分かりました。
 それならばアメリアの目的とは相反しません」

 ここには幸せなんてどこにもない、と、そう言い切るソフィアに内心疑問を覚えながら、それでも、きっと彼女はそうだった事にするのだろうと、その決意を読み取った彼女は言葉を続ける。

「ですから、ソフィア様は敵ではないと、そう、考え直すことにします。
 だから、そう……アメリアにも言う事がありますね。
 勘違いをしておりました。ごめんなさい、ソフィア様」

 つまり、少なくとも彼女はもう敵ではない。
 ならば、過去に敵であると決めつけて行なった事は謝らなければならないから。
 彼女は頭を下げて罪を贖おうとする。

《Sophia》
「えあっ、やだ……やめてよ、アメリアは悪くないじゃない。あなたのことを嫌な気分にさせたのはあたしよ。そう思われて当然なの、謝らないで。」

 律儀な子だ。頭を下げるアメリアを、慌てて止める。だって、それはおかしい。いや、アメリアがおかしいって訳じゃないけど……とにかく頭を下げるのはおかしいから!

 まあ、ひとまず。その行動が止められようと、止められなかろうと、ソフィアが次に喋ることは既に決まっていた。歩く図書室と言っても良いだろう、身体の隅々まで知識で埋め尽くされたようなあなたにとって、有意義な情報が差し出せるかはわからないけれど。

「……ね、アメリア。何か知りたいことはある? お詫び……って訳でもないけど、あたしが分かることなら、教えるから。……みんなと『仲間』でありたいから、隠すのはもうやめる。アメリアは、聞いてくれる?」

「いいえ、理由があれば何をしてもいい、という事はありませんよ。
 行いは行いですから。」

 ソフィアの言葉をやんわりと否定して彼女は頭を上げる。
 行いは行い、理由は理由、思いは思い、罪を悔い、償うのならそれは切り分けなくてはならない。
 だから彼女は謝るし、続いた言葉への返答は決まっていた。

「では……そうですね、ひとつ確認をしておきましょうか。
 ミシェラ様のお披露目の日、ダンスホールに向かったメンバーは、ソフィア様、アストレア様、ディア様、ストーム様、の四人で合っていますか?」

 お互い、半ば把握している情報の確認。
 情報交換を行うという意思の提示として、彼女は先ず簡単な問いを投げかけた。

《Sophia》
「……ええ。合ってる。そこで何があったかは、もう知ってるの?」

 情報よ確認。ただそれだけ。けれど、たったそれだけのことだけで、こんなにも空気はぴりぴりと頬にまとわりつく。分かっている、未だ緊張の糸がこの場で複雑に張り巡らされていることは。当然である。このペイルブルーは叡智と大賢の象徴であるのだから。言葉なら、誰にでも扱える。それだけで全てを判断してはならないと、彼女はよく理解しているのだろう。

「……あたしは。前々からトイボックスが嫌いだった。どうせ、ヒトなんて自分勝手でつまらない馬鹿ばかりなんだろうなって思ってた……だからお披露目を見てやろうと思ったのよ。……まさか、想像した以上に……って言葉で済まされないくらいにむごいだなんて、少しも思わなかった。」

「ええ、大まかにとはなりますが。
 となれば……ディア様は随分と大胆……いえ、あれはそもそもそういった勘定が無い類の行動ですか……」

 推測が正しかった事を確認した彼女は、顎に柔らかく片手を添えて、ブツブツと言葉を呟きながら考察の穴を埋める。
 鍵に細工をしたのは誰か。
 何故ディア様は花について聞きたがったのか。
 何故アストレア様がお披露目に選ばれたのか。
 その理由らしきものの推測に一先ずの答えを見出した後彼女は顔を上げて。

「ええ、それは十分に伝わっております。
 ……それでは、そう長く話し込んでいる訳にも行きませんから。ひとまずは解散と致しましょうか。

 最後に、ソフィア様からアメリアに聞きたいことはございますか?」

 幾らかの恐怖が入り交じったソフィアの言葉を肯定する。
 そうして 、ギラギラと輝く偽物の太陽を見上げながら、暗に「朝からこんなに時間を取っている訳にも行かないでしょう?」と伝えて、最後の問いを促す。

《Sophia》
「……ディア? そっか、あいつから何か聞いたのね。だからお披露目のこと……」

 何やら思慮に耽っているらしいアメリアが零した名に、ぴくりと眉が上がり、関心を示した。同時に、知識人……と言うだけでは済まされないようなトイボックスの裏の顔をなぜアメリアが知っているのか、ということにも合点が行く。無理矢理調べあげたのならば、なんて危険なことをするんだとでも叱ってやるべきかとも思ったが、その必要はないらしい。
 そうして、解散を提案する言葉に頷きながら、何か特別アメリアへ伝えたいことはないか思考のかけらを全てさらってみた。けれども、やはり特別言いたいことは浮かばなくて。

「……そうね。一旦は、ここまでにしておいた方がいいかも。あたしは特に知りたいことはないし……完全に信の置けない相手に情報を喋るなんてあなたもイヤでしょ。

 頼らせてくれてありがと、アメリア。」

 ──だから。この真っ直ぐな言葉は、特別でもなんでもなくて、ソフィアにとっては普通の言葉だったのだ。今、この瞬間。秘密の交換という時間を少しでも取ってくれて、かつ確認をしてくれたこと。ソフィア自身が今、お披露目に行ったという事実を明確に明かしたこと。それは、あなたを頼る行為だったのだ、と。ソフィアは、そう言っているのだ。
 おかしな話だと思われるかもしれないが、それでも。傲慢な救世主様の高台をおりて、同じ地面に足をつけている証明としては、充分な言葉だったろう。


 まあ。だからといって、あなたがそれをどう捉えるかなど、知りはしないのだが。

「特に知りたい事は無い、ですか。
 ええ、分かりました。」

 ディア様に……という言葉に反応したソフィアに「図書館での話し合いで話したような……?」と思いながらも、続いた言葉に少し驚く。
 知りたい事は無い、という言葉は彼女に一定の衝撃を与え、飲み下すのに時間は掛かった物の、完全に信用を置いていないと気付かれていたならそれも仕方のない話だと受け入れる。
 それは、幾らか縮まりはしたものの、未だに断絶が深く残る事の証明でもあった。

「では、また何かあればお伝えしますね。
 それと、そういう言葉はアメリアにではなくきっかけの方に言う方が喜ばれますよ。」

 だから、彼女はソフィアのお礼に少し気恥ずかしそうに自分以外の言われるべき誰かの存在を示してから学園へと歩き出す。
 金色の、たった一つの命は共に歩いてくるだろうか。
 或いは、蒼い海を見送って、一人で帰るだろうか。
 少なくとも、分水嶺を越えて喫水線の別たれた頃に、蒼い海はひとり誰にも聞こえぬように小さく言葉を漏らす。

「結局、問いかけてはくれませんでしたね、ソフィア様。」