《Brother》
誰かの笑い声。
ここは、いつもの花畑だ。
無邪気な声に重なって、誰かが名前を呼んでいる。小さな頭に花冠を作ってあげた。輝く金色によく似合って、まるでお姫様みたい。ずるい、って“妹”が言うから、あの子にも花冠を作ってあげた。そうしたら、君にもあげないとだよね。花冠がいい? ふふ、指輪にしてあげようか。コゼットドロップの指輪! 素敵だと思わない?
ああ、それから。
君にも、ちゃんと作ってあげる。
僕のかわいい妹。
月を編んだような銀髪に、愛おしい煌めきを放つ玻璃の瞳。そんな美しい君に似合う、とびきり素敵なお祝いをあげる。
おめでとう!
愛しているよ、ずっと!
「……アストレア」
馬鹿げた夢から覚めて、ブラザーは重い体を起こした。いつの間にか眠っていたようだ。
作っていたはずの冠も、指輪も、どこにもない。あの子は花冠をつけることは出来なかったし、あの子がコゼットドロップを育てることもなかった。
それでも、時は止まらない。
「行かなきゃ」
軋む体を叩き起す。
地獄へ続く道だとしても、せめてその全てを幸福で埋めつくそう。それが、“おにいちゃん”のやるべきことだ。
重くて、小さくて、弱々しくて。
怪我だらけのその足で、ブラザーは幸せに会いに行く。
「ミュゲ、いるかい?」
部屋の扉をノックして、外から“妹”の名を呼んだ。
曇った窓の外側は泣いていた。
大粒の雫は地に着く度に悲鳴をあげて、劈くような棘はだれも近づけようとしない。
そんな日の嬉しいお知らせ。
オミクロンクラスからまたお披露目に出るドールが決まった。
そのお知らせをみんながお祝いして喜んでいるのを見てミュゲイアも笑顔を浮かべた。
不確かなお披露目の真相をミュゲイアはまだ上手く掴めていない。
みんなが笑っているからやっぱりお披露目は良いものなのだと思ってしまう。
だって、ミュゲイアは目先の笑顔しか見ていないから。
唯一の大人である先生も幸せになれると言うから、何も知らない純粋無垢な白い小鳥はそれを鵜呑みにして啄む事すら出来ない。
ただ、みんなが笑顔でいてくれるならそれでいいから。
だって、もうミュゲイアはミシェラの笑顔を求めていないから。
もう居ないドールの笑顔は求めない。
興味が湧かないから。
笑顔だったと決めつけて、彼女の笑顔だけしか覚えていない。
きっと、素敵な王子様の事も幸せな御伽噺に閉じ込めて終わってしまう。
蓄音機が流すジャズのように、ミュゲイアに御伽噺を語ってくれていたあのドールの笑顔もこれで見納めになってしまう。
じめついた湿気はべっとりとミュゲイアを撫でて悴む指先は手を伸ばすこともさせない。
湿気のせいで膨らんだ髪の毛を三つ編みにして、女子部屋の曇りガラスにニコちゃんマークを描いてみた。
笑顔になってくれない雨はつまらない。
笑顔を隠す傘は邪魔だった。
「……いるよ! どうしたの、お兄ちゃん?」
コンコンと扉がなった。
聞き慣れた声がミュゲイアの名前を呼ぶ。
その声にピクリと肩が跳ねた。
扉の方へと歩いていき、扉を開けて笑顔で出迎えた。
曇りガラスに描いた笑顔は雫が垂れて泣いている事にも気が付かず。
《Brother》
「……良かった。良かった……」
いつも通り、“妹”が出てくる。
たったこれだけの日常に、ブラザーの胸の中を覆っていた重苦しい何かが僅かに軽くなる。全てを受け入れ愛する、まだ幼いその笑顔。ミュゲイアがそれを浮かべていることがたまらなく嬉しくて、たまらなく安心した。“妹”が笑顔でいてくれる。まだ雨はやまないが、ずぶ濡れよりは傘がある方がまだマシなはず。
掠れきった声で呟いて、拒まれないのならブラザーはその小さな体を抱きしめようとした。膝をついて、ミュゲイアよりも少し小さな位置から抱き寄せるはずだ。
ヒトを愛するために作られた骨ばった手で、いつもよりふんわりした“妹”の髪を撫でる。その質感を確かめるように、その体温を確かめるように。ぎゅうぎゅうと強く、けれど宝物に触れるみたいに優しく。
「……おにいちゃんと、内緒のお話をしよう」
髪の一本一本に惜しみない愛情を伝えながら、耳元で囁いた。体を離してから、ブラザーはミュゲイアの手を引いて学習室へと向かおうとする。
彼に何があったのかはミュゲイアは全く知らない。
ただ笑顔があればそれだけでいいから。
2人の歪んだ関係だってきっとそうだ。
ただ、お互いがお互いを押し付けているだけ。
お互いのことをちゃんと見た事なんてない。
だから、彼の小さな安堵の言葉も雨の音に掻き消されて聞こえない。
ただ、笑うだけだった。
純粋無垢に汚れを知らない純白のカーテンの裏側の汚れにも気付かずに。
カーテンの裏を覗こうとはしない。
「どうしたのお兄ちゃん? 寂しいの? ミュゲいっぱい笑うよ?
……秘密のお話? いいよ、それでお兄ちゃんが笑顔になるなら!」
ギュッと抱きしめられた。
ミュゲイアがそれを拒む隙も与えずに。
ミュゲイアよりも低い位置にいるブラザーの背中に手を回してミュゲイアはその背中をゆっくりと撫でた。
恋人を愛するように、母親が我が子を慈しむように、優しい手つきでトゥリアの小さな柔らかい手でそっと撫でた。
秘密のお話に誘われて落っこちた穴がワンダーランドかも知らぬまま。
少女ドールは手を引かれて歩いて行く。
《Brother》
「……うん。
きっと、笑顔になるよ」
そう言ったブラザーは、既に後ろを向いていた。だからミュゲイアは、彼がどんな顔をしていたのか見えなかっただろう。しかし、その声はやはり貴女にしか向けられることのないとびきり甘い声だった。
……さて、学習室。
この時間帯は使われることの少ないこの場所に、2人はやってきた。扉を開けてミュゲイアを先に入れてから、ゆっくりと閉める。鍵はきっとないだろうから、仕方なく椅子を一脚扉の前に置いた。
「ミュゲ、最近何かいいことはあった?
おにいちゃんに聞かせてほしいな」
くるり、振り向いた。
甘やかすような慈愛の笑みを浮かべて、いつもの穏やかでのんびりすぎる口調。響くテノールは“妹”の名前を愛おしそうに呼び、最後にはにっこりた笑った。よく2人がする、ただのお茶会のような会話だ。しかし、その割には温かい紅茶も甘いスイーツも用意されていない。
適当な椅子を引く。ミュゲイアの座る椅子を引いたのだろう、自分はその対面に腰を下ろした。すらりと長い足を優美に組んで、大きな両目を見つめたまま返事を待つ。
きっと、笑顔になるよという言葉を聞いてミュゲイアも笑顔になった。
その甘い言葉だけでミュゲイアはルンルンと軽い足取りでブラザーについて行った。
その言葉をどのような顔で言っているかも分からないまま、笑顔という言葉に誘われしまう。
それは何よりも馨しい甘さを垂らして、ミュゲイアの手を引いてしまうのだから。
学習室にはブラザーとミュゲイア以外はおらずとても静かであった。
その中に入ってからブラザーの用意してくれた椅子に座った。
垂れた三つ編みを手で撫でながら秘密の話というのが何かとワクワクしながらブラザーが口を開くのを待っていたが、ブラザーの放った言葉に少しキョトンとしてしまった。
その話はいつものお茶会でするような何気ない話で秘密の話という程のものでもなかった。
「最近? ……あっ! ミュゲね、同志が出来たよ! アラジンっていう子でね、その子の芸術クラブに入ったの! 一緒にお星様を見てね、それで、………あっ、それからね、ロゼットとお話もしたの! あとはね、グレーテルってゆうお友達も出来たの! でも、お兄ちゃんはグレーテルの事知ってるよね!」
甘やかな慈愛の笑みを向けられればとろんと何も考えられないみたいに言葉が口から漏れてゆく。
アラジンとの天体観測、ロゼットに誘われた秘密の仲間、グレーテルとのいざこざ。
その全てが疑惑の目を向けるに等しいものばかり。
アラジンと居たら頭を痛めたことは話せなかった。
いい事か分からないし、アラジンはその事を覚えていなかったから。
けれど、この話もいつかはきっとしないといけないこと。
だって、見覚えのない記憶にはいつも目の前のとびきり甘いドールが存在するから。
《Brother》
「そっか、たくさんお友達が出来たんだねぇ。みんな、ミュゲの可愛い笑顔が見られて嬉しいと思うよ」
次々と思い出を語るミュゲイアに、ブラザーの瞳は自然と細められた。歌うように漏れていく言葉を聞いて、最後には嬉しそうな声が零れる。友達ができたのはミュゲイアなのに、何故かブラザーの方が喜んでいた。うんうんと頷き、椅子に座るミュゲイアの頭に手を伸ばす。今度も薄い膜を触るみたいな手つきで、白銀の髪をかき混ぜるように撫でた。
「ミュゲは最近、クラブ活動してるの? ここにクラブがあるなんて知らなかったな」
頭を撫でて、そのまま手を三つ編みに滑らせる。目で指先を追いかけ、毛先まで指を添えさせてから、白蝶貝のように煌めく双眼に視線を戻した。かわいい“妹”の話を聞くのが楽しくて仕方がないらしいおにいちゃんは、口元を柔らかく緩めたまま話の続きを促す。
聞いたことの無い、アラジンというドールの名前。芸術クラブという存在も初めて知った。一緒に星を見る、なんてロマンチックだ。もしも叶うなら、いつか3人で一緒にやってみたいなぁ、なんて。まだ見ぬ弟か妹のことを考えて、ブラザーは思考を蕩けさせる。
「うん! そうだと嬉しいな! ミュゲも色んな子達の笑顔が見れてとっても嬉しいの!」
目の前のドールはまるで自分の事のように喜んでくれていた。
ミュゲイアの長い話を聞きながら、相槌を打ってはミュゲイアの頭に触れた。
柔らかい繭を撫でるようなそんな手付きで頭を撫でられる。
その手は先生と同じように優しく、ミュゲイアの頭を撫でてくれている。
紛うことなき兄らしいものであった。
兄であることを求められて作られたわけではないのに、その甘い手つきはお兄ちゃん役としてとてもはまったものである。
「うん! ミュゲもチラシを見つけるまで知らなかったんだけど、アラジンが作ったの! ヒトみたいにクラブ活動をしようって!
そういえば、お兄ちゃんの事も連れて来てってアラジン言ってたよ!」
撫でていた指先はミュゲイアの三つ編みの先まで伸びていく。
今日のブラザーはまだ痛いことをしない。
機嫌がいいのかなんなのかとりあえずはそういったことをしてこないのを見て、ミュゲイアも気が緩む。
どちらにせよ、ブラザーの笑顔を見てしまえば緩んでしまうのだけれど。
芸術クラブのことを聞かれれば、ツラツラとその事を話す。
アラジンが彼のことを連れて来てと言っていたことも。
「それで、秘密の話ってなんだったの? ミュゲ、お兄ちゃんの話も気になるよ!」
そして、ここに来た本題である秘密の話についてミュゲイアはニコニコのまま小首を傾げて聞いてみた。
《Brother》
「そうなの? じゃあ今度、連れて行ってほしいなぁ」
ふわふわと綿菓子のような夢を描いていれば、まさかすぐにそれが叶うことが決まるとは。ブラザーはぱちりと瞳を瞬かせて、すぐに嬉しさを瞳に見せる。口角をゆるゆると感情のままに緩めて、ミュゲイアに微笑んだ。何を話そうかな、なんて今からニコニコ考えてしまう。
けれど。
綿菓子がいつかは溶けてしまうように。夢がいつかは覚めてしまうように。
もうこの箱庭で、永久の甘さは求められない。
「……あのね、ミュゲ」
だとしてもその馬鹿げた甘さを注ぎ続けてしまうのが、ブラザーというおにいちゃんである。
「ミュゲは、この学園が好き?」
溶けない甘さを浮かべて、ブラザーはミュゲイアの両手を両手で包み込んだ。体温を分けるように、ずっと温もりが消えないように。
「うん! 任せて! また、行く時に誘うね!」
また、嬉しそうに笑った。
ぱちぱちと蕾が咲くように、ブラザーは喜んでくれる。
口角をゆるゆると緩めて、微笑むその姿にミュゲイアも微笑む。
これだけでよかった。
痛いのも苦しいのもなく、ただ笑っているだけ。
それだけの方が健全で豊かで繭のその先を見ないで済む。
けれど、繭はとても柔くて少し触れてしまっただけで割れてしまうシャボン玉のようである。
甘さで吐いちゃう程に胃液が口の中を舐めるように。
甘いだけでは世界は回ってくれない。
「変なことを聞くんだね。ミュゲはみんなの笑顔がある限りずーっと此処が好きだよ。お兄ちゃんは嫌いなの? ……もしかして、頭が痛くなっちゃうから? それとも、お披露目のせい?」
ギュッと両手を包み込まれた。
温度を分け合うようにブラザーの体温がミュゲイアに伝わってくる。
白蝶貝の瞳が大きく揺らいだ。
アメジストの瞳を見つめながら、ミュゲイアは答える。
トイボックスは笑顔溢れる場所。だからミュゲイアはここが好きだ。
ドール達の笑顔を見るためには此処しかないから。
もし、此処に笑顔がなかったのならミュゲイアはどうでも良くなってしまうだろう。
けれど、ここには笑顔がある。
ここには幸せがきっとある。
ずっとここに居たからか此処に疑問も思っていなかった。
このおもちゃ箱だけがミュゲイアの世界だったから。
それが歪み始めたのはつい最近のこと。
だから、ブラザーがそんな事を聞いてくるのも何かあるのかもしれない。
もしかしたら嫌いになっちゃったのかもしれない。
《Brother》
「ふふ、そんなことないよ」
にっこり。
静かに首を振って否定する。
これは嘘じゃない。
疑惑も不信も、全てひっくるめても、まだブラザーはここを愛している。
ここの平穏を。
平和を。日常を。夢を。
「おにいちゃんは、ここが好き。みんなのことが大好き。
だから、ずっとずっと幸せでいてほしいんだ」
“妹”の手を掴む力が強くなる。
それでもまだ充分すぎるくらいに優しくて、ブラザーはいつも通りだ。
「……ミュゲ。
お披露目が決まったら、僕と二人でピクニックをしよう」
ツリーハウスで知った真実。
彼はまだ、それを誰にも言う気はない。
彼は静かに否定した。
にっこりと笑って。
それが真意かどうかはミュゲイアには分からないけれど、笑って否定された言葉に対してこれ以上何かを言うこともなかった。
みんなの事が大好きで、幸せでいて欲しいという言葉を疑うなんてことミュゲイアに出来るはずがない。
「ミュゲもみんなの事が大好きだよ。みんなの笑顔が大好きなの。みんなを笑顔にしたいし、幸せにしたい。」
これは本心。
ミュゲイアはみんなの事が大好きで大好きで堪らない。
笑顔という表情を持つみんなが大好きなのだ。
ギュッと強く握られた手を見つめながらミュゲイアは答える。
いつも通りのブラザーに賛同して。
いつも通りにミュゲイアも話の節々に笑顔を散りばめる。
そして、ミュゲイアは彼の手を振りほどいた。
するりと抜けるように。
指の隙間から落ちる砂糖の様に。
顔を上げて笑いかけた。
アメジストの瞳を吸い込んでしまうように。
瞬きもせず、ただ口角をあげて。
「……お兄ちゃんはミュゲにお披露目に行って欲しいの?」
《Brother》
「…………」
その無言が何を意味するかは、あまりにも明確だった。
「ミュゲ」
手が離れる。
瞳を伏せたブラザーの長い睫毛が、陶器のような肌に影を落とした。振り解けた手を、自然と追いかけてしまう。垂れた三つ編みに指先を触れさせて、深い息を吐いた。
「おにいちゃんは、ミュゲのことが大好きだから……お披露目に行っちゃったら寂しいなって思ってるんだ。もちろん、すっごく嬉しいとも思うけどね」
ゆっくりと視線をあげる。
お披露目に行ったら寂しい、なんて。もっと大きな理由があるくせに、嘘ではない嘘をつく。眉尻を下げて儚げに微笑んでは、零れた砂糖を掬おうとする。それがないと、安心できない。
「おにいちゃん、ミュゲには幸せでいてほしいよ」
自分に言っているのか、“妹”に言っているのか。
零れた呟きは、誰の幸せだろうか。
無言だった。
雨の音がひどく煩く聞こえる。
まるで誰かの心情のようで、この時がゆっくりと加速してゆく。
ぐちゃぐちゃになった糸をハサミで断ち切るように、ブラザーがミュゲイアの名前を呼ぶ。
三つ編みに指先を触れさせて、寂しいと言う。
けれど、お披露目という言葉を聞く度に真っ赤な薔薇の囁いていた言葉が脳裏をチラつく。
お披露目、ミシェラ。
お披露目は悲しいこと。
お披露目は嬉しいこと。
目の前のドールが何を知っているかなんて知らない。
けれど、あの時の頭痛を忘れたわけじゃない。
ヘンゼルのところに行ったのも知っている。
二人はあのお披露目の夜、抜け出したんでしょ?
二人で何を見たの?
もう夢なんて見ていられないのかもしれない。
「…………。
……………………。
………………………そっか。
ミュゲは幸せだよ。いっつも幸せ。」
ミュゲイアは椅子から立った。
ゆっくりと長い沈黙の末に出た言葉は幸せという言葉。
彼の幸せでいて欲しいという言葉にぐちゃぐちゃと訳の分からない感情が浮かぶ。
いっつも自分勝手なドール。
ごっこ遊びに夢中のドール。
「お兄ちゃんは何も知らないんだね。なら、ミュゲもお兄ちゃんがお披露目に行けるの願ってるよ。
あと、やっぱり芸術クラブには行かない方がいいよ! 星とか見ない方がいいよ!」
ミュゲイアは椅子から立ち上がって扉の方へと歩き出した。
そして、お披露目に行けることを願っていると伝える。
これはきっと本心。
貴方から解放されたいから。
お披露目が善か悪かは分からない。
けれど、真っ赤な薔薇はお披露目を良くないと言う。
それが本当かは分からない。
けれど、今ミュゲイアの一番知りたいこと。
星を眺めているままでは、その星の名前は知れないだから。
ミュゲイアはきっと、ブラザーに引き止められなければこの部屋を出て行くだろう。
《Brother》
長い、長い、沈黙。
ミュゲイアがここまで黙ったところを、ブラザーは初めて見た。
席から立つ“妹”は、どんな顔をしていただろうか。
触れていたはずの指先になんの体温も残っていないのは、どうしてだろうか。
扉に向け歩き出すミュゲイアを、ブラザーはただ見ていた。自分が立ち上がらないことが、自分自身にとっても疑問だった。
本当は、今すぐに席を立ってその真意を確かめたい。体温を忘れないように抱き締めて、何も知らないまま二人で溶け合ってしまいたい。月がよく見える花畑で、ずっと、2人で、……。
雨が窓を叩きつける。
全てが作り物なら、ずっと晴れにしてくれたらいいのに。
柵なんか越えられないままにしてくれれば良かったのに。
記憶なんて戻らないままにしてくれれば、どんなに。
……どんなに、良かったか。
「……きっと」
扉はもう閉まってしまう。
零れた呟きは、ミュゲイアには聞こえなかったかもしれない。
掬ったはずの日常は、もう見えない。砂糖に浸るだけの関係ではもう居られないのかもしれない。きっともう、ピクニックも出来ない。星に手を伸ばすその姿が、鮮明に思い描けてしまうから。
「きっと君を、幸せにしてあげる」
例えそれが、毒々しいエゴだとしても。
脳裏で笑う君を、愛しているから。
雨は変わらず降り続けている。
寮周辺の森林は雨の音がぶつかってとても騒がしい。
うるさい音はミュゲイアの耳を劈くように鳴り響き続けている。
ミュゲイアは持ってきた傘もささずにただ空を見上げていた。
重厚なベルベットのように広がる雲のせいで太陽は見えず、星も見えない。
時間も時間なので星が見えないのは当たり前かもしれないけれど。
ただ、濡れたまま空を見る。
北斗七星も見えない。
ブラザーとの話の後ミュゲイアはグルグルと考えた。
お披露目、アストレア。
もう、会えない笑顔。
空は笑ってくれない。
どれだけミュゲイアが笑いかけても答えてくれない。
濡れた三つ編みを解いて、ブラザーに触れられた痕を消すようにただ濡れる。
「笑ってくれないと分からないよ。」
それは空に向かってかも分からない独り言。
《Licht》
雨は変わらず降り続けている。
リヒトは図書館の窓から見えた歩いてゆく影を追って、いつの間にか動き出していた。体の埃を落として、皺を直して、ロフトの様子をあらかた戻して、鞄とノートをいつもの通り持って、それでも戻らない何か。玄関に向かって傘を2本取って、夢のようだった一瞬の晴れ間を思い出せないほどの、雨間を進む。
ソフィア姉と一緒に歩いた道を思い出す。長い草には気をつける、踏み跡が残らないように軽く。ここまで来てようやく、人影を追いかけたのは、その人影が黒い雨に見つかることが恐ろしかったからだと気づいた。こんな、情けない恐怖は無くせないのに、大きな何かを無くしてしまった気がして。
「……傘」
本当に、傘が欲しいのは。
近づいて、二歩、三歩、人一人分の間隙の向こうになんとも久々に思える人影がいる。それ以上進んでしまえばこの欠陥がバレてしまうような気がして、リヒトは柄の方を差し出したまま固まった。
きっと今、笑えていない。
星空も見えない暗がりにミュゲイアは星と出会った。
大好きな大好きな輝かしい笑顔の星。
ザーザーと降り止まない雫の隙間に鮮烈な太陽の色がきらめいている。
パッと後ろを振り向いた。
傘に隠れて見えない顔が今どんな顔をしているのかは分からない。
いつも通りの笑顔を髪の隙間から覗けさせながら星を眺める。
「……空にね、笑顔になってもらおうとしてたの。ねぇ、そっちの傘に入ってもいい?」
星を掴もうとするように傘を受け取ってから、ミュゲイアはそんな話をいきなりし始める。
傘は嫌い。
笑顔が見えないから。
傘は嫌い。
独りぼっちにさせるから。
雨に濡れて頬を撫でる目元の雫を指先でのけながら、一歩其方の方へと近づいた。
《Licht》
「……訳、わかんねえ」
そう言いながらも、リヒトは自分の差している傘を傾けて、ミュゲが近寄れるようにした。それでも自分から傘に入れようと近づくことは無い。自分がどんな顔をしているのかさえ、分からない。
「…………………そうだ、伝えとかないと、いけないことが」
あった。
あったんだ。
あったかもしれないんだ。
あったはずなんだ。
あった、のに。
ぼんやりとつぶやいた後、鞄からノートを取り出して、ミュゲに見せようと差し出す。まるでしばらく油をさしていない機械のようにその動きはぎこちなく、大事なパーツを落とした絡繰のようにおぼつかない。
「えへへっ、そんな事ないよ。でも、やっぱり天気は笑顔になってくれないね。ミュゲには、天気の笑顔なんてわかんない。」
傾けられた傘の中に入って、傘を持つリヒトの腕にギュッとつかまった。
きっと、嫌がられなければ腕を組むだろう。
そして、ミュゲイアは笑った。
空は笑顔になってくれなかったと。
やっぱり、空に笑顔なんてなかったと。
そして、彼の伝えとかないといけないことという言葉と共に渡されたノートをミュゲイアはゆっくりと読み始めた。
書き殴られたようなそのノート。
リヒトの心を覗くようなもの。
「ミュゲね、ロゼットからお披露目の事少しだけ聞いたの。お披露目はないの? お披露目は外に行ける物じゃないってこと? ……それに、頭が痛くなるのミュゲもなった事あるよ。しらない記憶がね、ブワーって流れ込んでくるの。
ミュゲね、あの子のお披露目の日にブラザーとベッドを飛び出たの。何故か鍵がかかってなかったんだって。それでね、開かずの扉の事もブラザーと聞きに行ったんだって。でも、全部覚えてないの。」
ポツポツとミュゲイアは話し始める。
ポツポツと静かに。
覚えてない記憶、お披露目という無意味な死の道。
幸せなトイボックスが崩れてゆく気がした。
「海の中なんだよね。じゃあ、あの星も嘘ものなの?
あれ? アストレアはじゃあどうなっちゃうの? でも、みんなアストレアのお披露目の事喜んでたよね? 笑顔だったよね? 幸せなの? 笑顔なら幸せってこと?」
煌めく北斗七星。
あれもまがい物だったのだろうか。
あれもこれも全部嘘で塗り固められた偽りの箱庭。
全部、全部、嘘ばっかり。
嘘ばかりの幸せ。
けれど、笑顔があるなら幸せ。
《Licht》
腕を掴まれながら、ミュゲの話を聞いていた。ミュゲとブラザーが二人で、お披露目の日に飛び出したこと。その日も鍵が開いていたこと。それは静かだがきっと、コワれてない誰かにとっては強い証拠なのだろう。コワれた自分に出来ることは、あまり無いのだから、だから。そして。
アストレア、という名前を聞いた時────、愕然とした。
「うそ、だろ」
ばっと顔を上げたリヒトの顔に、微笑みの色は欠けらも無い。ぎゅっとコアを踏み潰されるような感覚に覚えがあって、リヒトはミュゲに渡したばかりのノートをひったくるように取り返した。
「………返せっ!!」
嫌だ、とか、違う、とか、そんな、とか。ぶつぶつ何かを呟きながら、リヒトはノートを覗き込む。手から離れた傘は、腕を組むミュゲとリヒトの傘の間に引っかかった。
ああ、当事者になれたことが、特別感を付与していたのか。頼って貰えたことが、優越感を助長していたのか。黒い雨に気を取られ、業火に足を取られて気づかなかった、崩れゆく砂上の楼閣で、誰かの役に立てていると本気で思っていたらしい。
この、出来損ないの星は今まで気づかなかった。もうひとつの欠落に。
「…………」
────あの、白銀の髪を流した誰よりも優しい彼女の名前は、なんだったっけ?
今度こそ、リヒトは笑えない。
「……うそ、なんかじゃないよ?」
ミュゲイアは分からなかった。
彼の驚愕とした言葉の意味を。
うそ、という言葉はミュゲイアの言葉に対するものだと思ってしまった。
ひったくるようにノートを取られればやり場のない手だけが残ってしまった。
ブツブツと何かを頷いている彼の言葉に耳を傾けながら、ミュゲイアは引っかかった傘を持った。
「どうしちゃったの、リヒト? 笑ってよ。いつもの笑顔は? ねぇ、笑って? 何かあったの? 笑えば幸せになれるよ?」
リヒトの顔を見てミュゲイアは目を大きく見開いた。
いつもの。
いつもの笑顔がなかった。
長い沈黙の末にミュゲイアは笑ってと述べた。
ギュッと腕を掴んで。
笑顔を求める。
それしか出来ないドールは笑顔を求める。
何があったのかも分からないままに。
ただ、笑顔を求める。
《Licht》
「笑えるか、笑えるかよ!! こんなっ……!!」
腕を掴もうと伸ばされた手をぱしっと跳ね除けて、リヒトは急かされるように記憶を辿る。ボロボロになって、崩れかけて、それでもそれが最後の希望だと言うように、絶望に色濃く縁取られた、穴だらけの記憶を辿っていく。
「あぁ“、くそ、くそっ……なんで、なんでオレ、こんなに、なんで、なんでっ……」
罵倒の言葉が、自嘲の言葉が口をついて出ないことすら、コワれていることの如実な証明だ。浅い呼吸のままノートをぎゅっと握りしめて、ぐらぐらした頭で顔を上げた時……笑顔のミュゲが、そこに居た。
笑わなきゃ。
笑顔が、笑顔が求められている。笑顔でいなければミュゲはきっとガッカリする。笑顔でいなければ置いていかれる。笑わなくちゃ。笑わなくちゃいけない。リヒトは不格好に口角をあげようとした。上手く出来ない。出来ない。出来ない。出来ない。出来ない。出来ない。出来ない。出来ない。
────ああ、もう、全部、
「なんで? なんで笑えないの? リヒト、辛いの? 苦しいの? 笑ったら良くなるよ! ほら、早く笑って! 笑って! リヒトはあの空とは違うんだから! 笑える子なんだから!」
伸ばした手はパシッと跳ね除けられてしまった。
雨の音に混ざって彼の雷のような言葉が響く。
雨はまだ止まない。
それどころか酷くなる一方で、何も良くはなってくれない。
ただ、ずっと怒るように泣くように降り続けるだけ。
それでも、ミュゲイアは言い続ける。
雨が止まないようにただずっと間違った寄り添い方をする。
手に持っていた2つの傘を地面に落として、彼の口元に手を伸ばす。
拒まれるかもしれないのに学びがないままに。
混乱する彼の口を塞ぐように、手を伸ばす。
不格好にチカチカと光る星に手を伸ばす。
その光を消さないように。
貴方は2人を見下ろす空とは違う。
虫とは違う。
木々とは違う。
笑うことの出来る存在。
星のように煌めく笑顔を灯せる存在。
燃えるように。
鮮烈に。
鮮明に。
消えてはいけない明かりである。
「……ねぇ、笑って? リヒトは笑えるよね?」
不気味なまでに綺麗な笑顔は雨に打たれながら笑った。
ガラクタはただ笑顔を求める。
貴方の欠陥なんて無視して。
いつも自分の欲ばかり見ている。
《Licht》
「────」
笑える子じゃない。笑える訳ない。そんなマトモじゃない。星じゃない。星じゃない、オレはそんなキレイなもんじゃない。いつも、いつも、『あなたは壊れてなんかいないよ』ってキレイな体で。キレイな分際で。キレイなくせに分かったような、傷ついたようなことばっかり言いやがって。どうせオレのことなんて出来損ないの役立たずだと思ってるくせに。頭もキレイで体もキレイで、ちょっとおかしなだけでジャンクになった気になりやがって。眩しい星みたいに輝いてるくせに自分のこと傷ついたスクラップだって。星にすらなれない土塊の気持ちなんて、何も分かってないくせに!!!
「………は」
ぐっ、と息が詰まって、ようやくリヒトは我に返った。浅く切羽詰ったように繰り返される自分の呼吸、手が柔らかい何かに触れている、と遅ばせながら気づいた時には、そう。口を塞ごうと伸ばされていたミュゲの手を、自分の手で引き剥がしていて。反対側の、反対側の手で、ミュゲに向かって。
──拳を、振り上げていた。
「……あははっ、……はは、っあ、あはっ、は、はははっ、あはははは!!」
コイツ、コワれてる。
その感想が、ミュゲに向かってなのか、自分に向かってなのか、ついぞ彼のコワれた頭は結論に至らなかった。
ただ、ただ、なんだかすごく可笑しくなって、リヒトは崩れ落ちるように笑っていた。口角もきっちり上がった、完璧な笑顔。きっとミュゲも満足してくれる、100点満点の笑顔。
……コアに穴が空いたような空白は、いつまで経っても、どれだけ笑っても埋まらない。
(全然、良くならねえじゃん。
……ミュゲの嘘つき)
「よし、帰ろうぜ」
しばらく、笑った後。
「ここにずっと居たらセンセーに見られるかもだし。ノートに書いてたことに関しては……そうだな、ソフィア姉とか、フェリとか。それからアメリアとかにカクニンで聞いてみてくれよ」
『アイツらの方がよっぽど、上手く話してくれるさ』と話を続けて、リヒトは落ちてしまった傘を拾って立ち上がる。許してくれるなら、自分とミュゲの体に怪我や目立った汚れが無いかどうか確かめて。殴らなくって良かったと、潰れたリンゴを見るような気持ちで考えて。
「それから……みんな笑ってたとしても、お披露目の笑顔は嘘の笑顔だ。嘘ものの笑顔だから、全然幸せじゃない。“アストレア”も、きっとそう、の、はず」
だから助けてあげないとな、“アストレアさん”を。他人事になってしまった決意を口にして、リヒトはミュゲを待って、寮に向かって歩き出すだろう。
また、引き離された。
これも拒絶?
リヒト、貴方は笑える子だよ。笑える子なの。とっても綺麗な笑顔の星の子。ただ笑ってさえしていればいい。貴方の欠陥に興味なんてない。貴方の笑顔にしか興味ない。貴方の笑顔だけでいい。壊れたアタマでも笑えるでしょ? 壊れたカラダでも笑えるでしょ? 何かを忘れても笑えるでしょ? 良い子なんだよね。笑顔の素敵な子なんだよね。笑顔が素敵なお星様なんでしょ。一番星は何よりも輝いていて笑顔なの。キラキラの笑顔はみんなの注目を集めるでしょ。笑顔なの。笑顔でさえいればそれで良い。マトモじゃなくても笑えるでしょ。笑えないなら手を貸してあげる。笑えないのは踊るようにその口角を吊り上げよう。貴方の思いなんてどうだっていい。どう思っていても笑ってくれていたらそれでいい。そしたら、幸せでしょ? ただ、笑わせれたってだけでいい。
ミュゲイアはそれだけしか見ていない。
ミュゲイアが誰かを笑わせれたという事しか見ていない。
笑顔しか見ていない。
だから、みんなの欠陥もどうでもいい。
拳を振り上げられても笑ったまま。
ただ、咄嗟にグレーテルに打たれた方の頬を手でおさえた。
次は壊れちゃうかもしれないから。
けれど、そんな小さな不安もすぐに掻き消された。
リヒトが笑ってくれた!
素敵な笑顔! お星様みたい! キラキラね! とっても素敵!とっても愛らしい!愛おしい笑顔! 笑顔! 笑顔! 笑顔! 笑顔! 笑顔! 笑顔! 笑顔! 笑顔! 笑顔! 大好きな笑顔! お星様の笑顔! ミュゲイアの大好きな笑顔! 幸せにしてくれる笑顔! 嗚呼、とっても幸せ。
コアは満たされてゆく。空いたグラスに幸せが注がれてゆくみたいに。
幸せが溢れて止まらない。
コアは満たされている。
「リヒト! とっても素敵な笑顔! やっぱり、リヒトは良い子だね! ミュゲ、リヒトの笑顔大大大好き! 幸せそうでとっても嬉しい! どうしてミュゲがオミクロンになったのかよく分かってなかったけどリヒトの笑顔を見るためだったんだね! その為なんだよ! あはははっ!」
どっちがコワれているかなんて分からない。
最初から壊れてなんかいないのかも。
壊れていたって笑えばいいよ。
笑って吹き飛ばすようにミュゲイアも笑う。
リヒトに近づいて、雨なんか気にしないで。
ただ、笑う。
きっと、二人の間だけは晴れだから。
偽りの空の外側は晴れているかもしれないのだから。
ただミュゲイアはこの時を愛する。恋人とのひと時を抱きしめるように。
「うん! 一緒に帰ろ! 手も繋ご! うん! じゃあ、他の人にも聞いてみるね!
ふふっ、リヒトってば嘘の笑顔なんてあるの? でも、幸せじゃないのは嫌だね。ミュゲが幸せなお披露目に出来たらいいのにな!」
ミュゲイアの事を待つリヒトの方へと嬉しそうに駆け寄って手を繋ごうとする。
仲良く帰ろう。
笑顔で帰ろう。
甘いひと時に雨の音をのせて。
雨にずぶ濡れになりながら笑っていたあの子の笑顔をミュゲイアは未だに恋する乙女のように覚えている。
寝る時も朝起きても思い出すのはあの笑顔だった。
濡れて萎れた花冠を頭に乗せたまま、煌めく満天の星のようにあの子は笑っていた。
あの笑顔を思い出すと今でもコアが満たされてゆく。
ドバドバと溢れるように。
恋人とお互いの熱を分け合う夜のように。
体中が満たされてゆく。
ただ、笑顔のまま。
ただ、笑ったまま。
ミュゲイアは今とても満たされている。
ずっとずっと遠かった星を手にしたように。
流れ星が手の中に落ちてきてくれたように。
流れ星の落ちる先をただ探している。
「あっ! リヒト! ちょうど探してたの!」
有象無象のドールたちの中から一等煌めく星をミュゲイアは見つけた。
そちらへと駆け寄ってミュゲイアはその手に触れるだろう。
もし、足を止めてくれるならミュゲイアはお星様の耳元で囁く。
「ミュゲね、開かずの扉に行きたいの。案内してくれる?」
《Licht》
有象無象のドールたちに紛れるように、その土塊は歩いていた。あの日からコアはどうにも空いたまま、ただ実感のない焦燥だけが、ノートの中から訴えかけてくる。成すべきことがあるのだと。やらなきゃいけないことが、あるのだと。
罪を償え。陥欠を直せ。代償を払え。責任を果たせ。甘い記憶に耽溺した怠惰と、認められたと舞い上がった傲慢と、逃げ出した臆病を贖え。
さもなくば────、
「……おう!」
春風のように唐突に現れた囁きを聞いた、その途端。上手に作った満面の笑みで頷いて、断る選択肢は、リヒトには無い。
「開かずの扉は、2階から3階へ登る階段の踊り場。……でも怪しまれるといけないからさ、あくまで、そう言う“噂”を追いかけてたことにしよう」
な、と念を押しながら、リヒトはふいっと階段の方を向き……笑顔がまた抜け落ちてしまわないよう、より一層、注意した。
ミュゲを連れ立って、いかにも教室を移動していますよ、と言った態度を崩さないまま……リヒトは進む。コワれた記憶のざらつく感触に、疲れきった体を動かして。
あなた方は、リヒトの先導によってその場に辿り着く。
二階と三階の間に位置する踊り場。あのお披露目の日、リヒトはこの場所からこの世の地獄へ至った。ミシェラが赤い炎に焦がし尽くされた、あの──黒い塔への限られた入口が、そこにある。
あの扉は、踊り場の壁にぴったりと馴染むように存在した。一見何もないように見えるため、多くのドールはその扉の存在に気が付かず、前を通り過ぎてしまう。
まるで、ドールの生活には不要な区画だから、巧妙に隠されているかのようだ。
しかしよく観察すると、扉枠はきちんと存在している。ドアノブなどは存在せず、故に開き方が定かでない扉だった。
──そして、開かずの扉の前には先客が居た。
ブーゲンビリアの瞳を真剣に細めて扉を見据えるのは、少年型のドールだ。星々を映しとったように煌びやかに瞬く銀色の長髪を三つ編みに編み込んで流した、美麗な好青年である。
彼は階段を登ってきたあなた方に気付くと、「ああ、悪い」などと言って道を開けようとして──はた、と。
「……あっ、ミュゲ? こんなとこで会うなんて奇遇だな!」
あの気のいい笑顔で、アラジンはミュゲイアに笑いかけた。
そういう噂を追いかけている。
そういう事にしようと言われれば、ニッコリと笑って頭を縦に振る。
そのまま、リヒトに連れられてミュゲイアは開かずの扉があるらしい2階と3階の間の階段の踊り場の方へと歩いて行く。
そんな場所に扉なんてあったのかよく分からない。
そんな場所を注意深く見ることがないからなのか、はたまた隠されているからなのかそれは分からない。
だって、ミュゲイアは開かずの扉について一切知らなかったから。
グレーテルから聞いた話でしかミュゲイアはそこを知らない。
だから、開かずの扉には魔女と怪物がいるとかいないとかその位でしか何も知らない。
一度、開かずの扉について聞きに行った事も知らない。
開かずの扉のある場所についてミュゲイアの目に飛び込んできたのは扉ではなかった。
星屑を散りばめたような銀色の長髪を三つ編みに編み込んで流している美麗な少年型ドール。
ブーゲンビリアの鮮烈な瞳の同志だった。
それと同時にドクンとコアが高鳴った。
ここに居たくない。
ここに居たくない?
ここに居たくない!
警報がうるさくなるようにミュゲイアは何故かこの場に居たくないとそう思ってしまった。
何故? なぜ?
何故か此処に居たくない。
早く、風よりも早く、秒針が進むよりも早く。
もっと、春風が吹く前に。
一刻も早く、この場所から離れたい。
恐ろしい何かがミュゲイアを抱きしめてしまう前に。
恐怖に撫でられる前に。
ミュゲイアは開かずの扉の場所に着いてすぐに2、3歩後ろへと後ずさりをした。
浮かべた笑顔を固まらせたままに。
「………いや。」
そんな弱々しい言葉を一つ声に出して、走り出そうとした足はもつれてミュゲイアはその場に転んでしまう。
それでも起き上がろうとせず、ベッタリと寝そべったまま動こうと手を伸ばした。
まるで助けを求めるように。
《Licht》
一段、一段、階段を登る度に何か苦しくなって行って、動揺と恐怖が作り物の体を支配する。足から染み上がるようなあのトラウマが、背を焼くようなあの業火が、逃げ道を丁寧に崩していった。知らず、リヒトは肩で息をしながら開かずの扉に辿り着く。
───でも、募った感情が爆発したのは、リヒトでは無かった。
「み、ミュゲ?! ちょ、待っ」
おかしい。
ミュゲはここに初めて来たはずだ。話を事前に聞いていたとしても、ここまで強烈な反応を示すのは、明らかにおかしい。
まるで、『行動をカギにして、何かを思い出した』みたいな。
「……ご、ごめ」
ミュゲの知り合いらしいブーゲンビリアの輝きをちらりと見て、申し訳無さそうに目線を下げ、リヒトは転けたミュゲに手を伸ばす。
「……大丈夫? ど、どうした?」
出会った途端、みるみるうちに可愛らしい笑顔を強張らせていったミュゲイア。彼女の細い足がもつれて転げてしまう様を、アラジンは驚いて瞠目しながら見ていた。
彼女の細い指先が伸ばされる。その救いを乞うような手付きに、連れ立っていたリヒトが一も二もなく駆け寄るのを彼は見ている。
そして彼もまた、見逃す道理などはなく、当然そちらへ駆け寄っていくだろう。
「ミュゲ、どうした? ……顔が強張ってる。何か怖いのか? そうだな、ちょっと……ここから離れよう。ここに居ると目立っちまうしな」
アラジンは至って冷静にそう助言すると、周囲を軽く見回し、「ロビーの方に行こう、座れる場所があるはずだから」と提言した。
その後はミュゲイアの身体を支える手伝いをして、「起き上がれるか?」と気遣うような優しい声を投げ掛ける。
とても怖い。
何故怖いのかも分からない得体の知れない恐怖がミュゲイアを追いかけてくる。
転んでしまったせいで膝はズキズキと痛んでいるのにそれすらも頭の隅に追いやってしまうほどの嫌な感じがミュゲイアを抱きしめる。
どうしたらいいのか、この感情はなんなのかミュゲイアには分からない。
マイナスな感情なんて感じたくない。
嫌な思いはしたくない。
そんなの幸せじゃない。
助けを求める手はミュゲイアの唇に触れた。
「……ミュゲ、ミュゲ怖いの? ……ねぇ、ミュゲは笑えてる? 笑顔だよね? ねぇ、リヒト? アラジン? ミュゲは笑顔だよね?」
三日月を浮かべる口角で、笑ったままの口元で、魚のようなギョロっとした目でリヒトとアラジンの事を見た。
まるで縋るように。
だって、ここは怖いから。
だって、ここはずっと無意識のうちに避けてきたから。
2人に助けられながらヨロヨロと起き上がってもミュゲイアは開かずの扉の方を見れない。
リヒトの手をギュッと握って、身体を支える手伝いをしてくれたアラジンの事もギュッと握って。
ミュゲイアはただ子鹿のように震える足取りでこの場を離れようとするだろう。
アラジンの言っていたロビーへと向かうために。
《Licht》
「……ミュゲは……」
もし、以前までのリヒトだったら。きっと膨れ上がった忌避される未来に恐怖して、必死に“笑えているよ”と伝えるだろう。もし、忘れる前のリヒトだったら。きっとミュゲの中の恐怖心を哀れんで、何とか彼女に“笑顔以外の大切な感情について”を伝えるだろう。
でも、今は、なんというか、それどころじゃなかった。
だってミュゲは、きっと、リヒトが笑顔でいようが、笑顔のお面を被っていようが、その差に興味は無いみたいだから。
「笑顔だけど、幸せじゃないな」
淡々と、淡々と。
どう取り繕ったって隠しようのない、恐怖の滲んだ笑顔を伝える。それでいて震えるミュゲの体を、テーセラモデルの体でしっかり支えながら、ロビーまで降りていった。
ただ、笑っていた。
ただ、笑えていると言って欲しかった。
その言葉がミュゲイアを励ますから。
その言葉がミュゲイアを包み込むから。
その言葉がミュゲイアを安心させるから。
ただ、ミュゲイアは笑えているという言葉を求めていた。
笑えているなら大丈夫だから。
笑えているなら幸せだから。
笑えているなら。
笑えているなら。
笑えているなら。
なにも怖くない。
「え? なにそれ? 笑顔なら幸せでしょ? それならリヒトが笑って! 今すぐ笑ってよ! ミュゲを幸せにして! あの時みたいに笑って! ……幸せじゃないなんて言わないでぇ。」
淡々と。
淡々と吐かれた言葉は煙のようにボヤけてミュゲイアを包み込み、鐘の音のようにミュゲイアの頭の中に鳴り響く。
それを聞いてミュゲイアはガバッとリヒトの方へと身体を近づけた。
笑えているなら幸せでしょ?
幸せじゃないってなに?
幸せじゃないといけないの。
笑っていないといけないの。
ミュゲイアはそういうドールだから。
ミュゲイアにはそれしかないから。
それなのにかのドールは残酷にも現実を見せてくる。
とても残酷に美しくその瞳はミュゲイアの顔を映し込む。
嗚呼、嫌だ。
その笑顔と目が合ってしまったら。
きっと、もう戻れない。
だから、ミュゲイアはリヒトの顔から目を背けた。
そして、そのままロビーへと行ってしまう。
笑顔に執心して、恐れを包み隠そうとする、痛ましいミュゲイアの姿。アラジンはそれを見て、何か伝えようと口を開きかけた。
だがどこか深刻な様子でミュゲイアに告げるリヒトの言葉を聞くと、それ以上に添える言葉はないと判断したのか。何やら只ならぬ空気の漂う二人を気遣って、彼はそれきり口を閉ざし、ミュゲイアを支えてロビーに向かうだろう。
《Licht》
「……オレはリヒト、ごめん。その、手伝ってもらって。……“アラジン”、だよな」
ロビーに辿り着いたら、ミュゲのことを宥めつつ、困ったように口角を上げて『アラジン』に挨拶をする。
「……そいや、アラジンはどうして、あんなとこに居たんだ?」
どこもかしこも重たい緋色で塗りたくられた、窓のない大広間。行き交うドールズは言葉少なで、気分も重く沈殿していくような圧迫とした空気が流れている。
アラジンはあなた方をその一角のソファに誘ってから、リヒトの自己紹介を耳に入れ、快活な笑顔を向ける。
「リヒト、宜しくな! そう、オレはトゥリアクラスのアラジンって言うんだ。ミュゲとは芸術クラブの同志で、芸術活動を一緒にしてるんだ。
それで、オレがあそこに居たのは……知りたいことがあったんだ。開かずの扉のことは噂になってるからな、その噂の真偽を確かめたかった。
オレ、外のことが知りたいんだ。あの扉の先が外の手掛かりになってる気がして。お前達も噂を聞いて来たのか?」
「……そうだよ。ミュゲもその噂を聞いてやってきたの。でも、ちゃんと開かずの扉の事見れなかった。開かずの扉の事何も知れなかった。ちょっと残念。……リヒト、ごめんね? 連れて来てもらったのに!」
先程よりも落ち着いたようで、ミュゲイアはゆっくりと語り出す。
ニッコリと貼り付いた笑みで。
無理にでも幸せそうにするように。
元気でいるように。
《Licht》
オレは笑ってるだろ、最初から。しっかり口角も上げてるし、さっきまでお前、ご機嫌だったじゃん。
「別にいいぜ、大丈夫。……でもさ、正直、初めて来たんなら、ミュゲがこんな感じにはならない気がするんだよな」
ごめんね、と謝ったミュゲに大丈夫、と返す。ロビーのふかふかしたソファと深紅の絨毯はよく音を吸うようで、ちゃんと聞こえているかは少々不安だった。
アラジンの快活な笑顔に、困ったような疲れたような笑みを絶やさないまま……リヒトは少しの間、言葉を詰まらせる。
「……開かずの扉の向こう、か。
とりあえず、あの部屋からじゃ、多分外には出られないんじゃないかな。……こう言うだけじゃ、だめか?」
何度も何度も言葉を選ぶように、口を開いては閉じ、言いかけてはやめて、ようやく。ほとんど信用は難しそうな証言を、申し訳無さそうにリヒトは伝えた。
《Licht》
「……ああ、忘れる。ミュゲの怖がり方は尋常じゃなかった、それはオレにもわかったから。忠告してくれてありがとな、リヒト。
……なあミュゲ、今はちょっと気分が動転してるだけだ!」
リヒトが発する言葉の重みを、アラジンも察したらしい。あなたへ感謝を告げつつも、彼はミュゲイアへ目を向ける。
何かに追い立てられるように、自分が笑顔で幸福であることを言い聞かせようとするミュゲイアを、いよいよ我慢ならないといった様子で元気良く励まし始めたのだ。
「大丈夫、少し休んだらまたいつもの笑顔になれる! お前は笑顔になるのと、誰かを笑顔にするのが大の得意だもんな。
誰にだって不調な時はあるさ! 今がちょうどその時ってだけだ。落ち着いて深呼吸して、あの扉の事は……今は忘れよう。」
彼女が何かの妄執に取り憑かれている気配は、アラジンだって感じていた。とにかく今は落ち着いてもらおうと、その一心で言葉をかける。
「ありがとう。リヒトは優しいね。とっても、優しい!
……来たことあったのかな? グレーテルはね、ミュゲがベンゼンの所に開かずの扉の事聞きに来たって言ってたから、もしかしたら来たことあるのかも。でも、ミュゲその事覚えてないの! でも、今まで開かずの扉がある階段使ってなかった。何故か避けてたの。」
頭の中がグルグルと回ってゆく。
知らない自分がいるみたいに、身に覚えのない事が起きてゆく。
何故、あの場所を避けていたのか。
何故、あの扉を恐れてしまうのか。
何故? 何故?
まだ、その答えは分からない。
どうしようもないオミクロンのガラクタには分からない。
何も分からない。
「そうだよね! アラジンの言う通り、ミュゲはみんなを笑顔にするの大好き! 今はちょっと不調なだけだよね! 今だけは扉の事忘れた方が幸せだよね! みんな笑えるよね! ね?」
ニコニコとグルグル回った頭のままでミュゲイアは頑張って幸せそうにしてみた。
いや、ミュゲイアはいつだって幸せ。
けれど、ミュゲイアはアラジンの言葉を聞いて落ち着いた。
求めていた言葉を聞けたように。
ただ、ミュゲイアを肯定するようなその言葉。
それを聞いてミュゲイアはニッコリと笑った。
「もう開かずの扉の事はみんなで忘れて笑顔になっちゃお!」
そうやって白い小鳥は笑ってみせた。
幸せを押し付けるみたいに。
鈴蘭が落ちてしまわぬように。
《Licht》
「……覚え、て……」
オミクロンじゃない、つまり、コワれていないドールの記憶の中に、ミュゲの事が残っている。そして、ミュゲ自身は覚えてないのに、恐怖がそこに“在る“。
なんだか、震える寒さが背を撫でた。コワれた自分の頭と、事情が絶対に違うであろうことは理解しているが……ノートに取ろうと、心に決めた。不気味な行動を、信じられない絶叫を閉じ込めた紙片にまた、不信と共に軌跡を書き込もう。
快活に話しかけるアラジンの声に、ぱっとリヒトは顔を上げて、ミュゲの声を聞いた。笑って。笑えるよね。笑顔になっちゃお。
「っはは! まあそうだな、気にしない方がいいに決まってら。忘れておこう、な」
……ああ、笑えるさ。
幸せで塗りつぶされるように。
落ちた鈴蘭を拾うように。
「……とにかく、あそこは外には繋がってない。でも、でもさ」
「学園のどこかには、必ず、外に出られる場所があると思う。オレの方でも探してみるよ、アラジン」
ひとしきり笑った後、リヒトはアラジンに向けてそっと話しかける。ブーゲンビリアを、その輝きを直視する勇気はまだ無いけれど……添えるような声は確かに、役に立ちたいのだと語っていた。
「まあ、開かずの扉にはおっかねえ怪物の噂もあるからな。ミュゲは知らずのうちにそれを聞いて、無意識に怖がってたのかも知れないぞ。
本当に怪物が出てきたらオレらにはなすすべもねーしな! ハハハ!」
不思議そうに首を傾げるミュゲイアへ、その彼女が取ったあまりに異様な拒絶反応について、アラジンは自身の解釈を告げた。彼が知る事は思いの外少ないのだとあなた方は悟るだろう。
少なくとも、怪物の姿を目視しているリヒトと、その話を聞いているミュゲイアと違い、アラジンは開かずの扉の先に何があるかをまだ知らないらしい。
「外に出る道が……あるといいよな。お披露目に選ばれればどのみち外には行けるって分かってるけどさ。
何か分かったら教えてくれ、リヒト。……あ、なあ、もし良かったらお前も秘密の芸術クラブに入らないか!? 自分のやりたいことをする芸術活動なんだ!」
ふと、彼は名案だとばかりにリヒトへ向けてクラブ活動をしないかと明るく誘いかけた。無論強制はしていない。返答はあなた次第である。
《Licht》
「ひ、秘密の、芸術クラブ?」
ぱち、と土塊は瞬いた。
「ええと、お、オレ絵とか上手くねえし、器用じゃねえよ。コワれてるし、歌とか、文とか、そんな……」
明らかに話題の渦中が自分になったことで、リヒトは明らかに動転してしまった。見てもらえている、という高揚とは裏腹に、じくじくと滲む痛みが腹の底から立ち上る。
手癖で、理由もよく分からないままに作った不格好な花かんむりを触った。ほどけてずるりとずれた。
上手くないし、器用じゃない。
やりたいことも、ない。
「……だからさ、出来るようになったら、行く!」
誘いに乗って、のこのことその秘密の芸術クラブとやらに行ったとして。コワれてないキレイなドールたちと、一緒に、芸術をやることになったとして。歌って、描いて、書いて。
(そこでもし、めちゃくちゃな失敗をしてしまったら……)
それはどんなに、惨めだろう。
だからリヒトは精一杯に取り繕って、ミュゲを誘って寮にもどろうとした。ブーゲンビリアは輝いて、それを見つめる勇気はまだ、無い。つかの間、あったはずの自信も、今は欠けてどこかに消えて。ただ進まなければならない道だけを追って、リヒトはとりあえず、逃げた。差し伸べてくれた、アラジンの手から。
今日もトイボックスは少し暗いです。
けれど、そんなものすらも蹴り除けてしまいそうな程に純白の鈴蘭は笑っている。
ロビーはいつもと変わらない。
挨拶はあまり返ってこない。
笑顔はあるけれど、それはミュゲイアを見ていない。
ミュゲの求める笑顔はいつだってそこにあるのにミュゲイアを見てくれるかは分からない。
笑顔の中心にたちたい。
全ての笑顔に見られて見たい。
ルンルンと綿菓子のツインテールを揺らしてミュゲイアは歩いている。
ここにグレーテルはいるのかな?
謝らないといけないから。
ごめんなさいをしないといけないから。
仲直りをしないといけない。
だって、お友達だから。
だって、笑顔が見たいから。
開かずの扉の怪物も魔女も消せなかったのを謝らないと。
開かずの扉のことを知らないと。
グレーテルのために。
あなたはいつも通り、後ろ暗い湿度を感じる大広間へと足を踏み入れていく。すれ違うドールは皆、不気味なほどの満面の笑みを浮かべているあなたを不審がりながら遠ざかっていた。
故にあなたは孤独に廊下を歩き進んでいる。
ロビーの中央には、大きな掲示板があった。この場所に日頃のドールズの成績や試験の結果などが掲示されるのである。
あなたはその場所で、グレーテルとまったく同じ、あの赤毛をしたドールの後ろ姿を見掛けるだろう。
背丈はすらりと高く、深紅の頭髪は短く切り揃えられている。少年用のズボンタイプの制服を纏っている、それらの特徴を除いて、その後ろ姿はグレーテルの背格好と全く同じであった。
ミュゲイアの周りにドールは来てくれない。
不気味なほどの満面の笑みを浮かべれば浮かべるほどにみんなは離れてしまう。
けれど、ミュゲイアにそんな事は分からない。
ただ、グレーテルを探していた。
その時、あの時と同じように掲示板の傍に真っ赤な林檎が見えた。
それに吸い寄せられるように。
齧ってしまいそうに、ミュゲイアは近寄っていく。
嗚呼、お友達。
嗚呼、素敵な笑顔。
ミュゲイアがオミクロンであればあるほどに笑ってくれるミュゲイアの大切なお友達。
あの子の真っ赤に触れてしまうように、ミュゲイアは近寄って手を掴もうとした。
その時だった、服装が違うのに気づいたのも。
同じなのに違うことに気がついたのも。
けれど、伸ばした手を止めることは出来なくてそのままならきっとミュゲイアは真っ赤な林檎を掴んでしまう。
あなたは背を向けたままのドールの投げ出された掌に嫋やかな指先を伸ばす。無垢な原動力に突き動かされるようにしてその手を握り取れば、あなたは漸くその手が少女ドールのものではないと気がつくだろう。
あなたが握ったのは、骨張った痩せた手──トゥリアモデルであるあなたの柔らかくしっとりとした手とは似ても似つかぬ少年のそれである。
「──は?」
直後、あなたは勢いよく振り返った当のドールによって、握り取った手は振り払われているだろう。
「……なんだよ、お前。誰だ?」
警戒心を剥き出しにしたような低い声。
あなたがそのドールの顔を見上げるなら、グレーテルと全く同じ顔をしていながら、気弱な彼女とは似ても似つかぬ偏屈な相貌が映り込むだろう。
「いきなり人の手に不躾に触れるような礼儀作法に欠けたドールが、まさかこの学園にまだ存在したとは恐れ入る……頭の不出来を逸早く治療してもらうべきだ。紹介状を書いてやろうか?」
グレーテルとよく似た少年は、自身の掌を神経質な様子でさすりながら、あなたをじっとりとした目付きで見下す。止め処なく溢れ出る皮肉があなたの周囲を取り巻くことだろう。
その声は。
その手首は。
その目つきは。
その言葉は。
その真っ赤な林檎は齧られるのを嫌う。
その真っ赤な林檎はまるで毒林檎。
鋭い眼光がミュゲイアを貫く。
振り払われた手は行き場をなくしてその場で迷子になっている。
グレーテルと同じような顔なのに、その声はとても低くグレーテルのように弱々しいものでは無い。
悲鳴も上げない。
グレーテルと似ているのに。
その時、ミュゲイアはハッとしたようにまるで気がついたみたいに目の前のドールのことを見上げて口を開いた。
「ヘンゼルだ! 貴方ヘンゼルでしょ! グレーテルの双子の! だから、グレーテルと似てるんだね! ミュゲわかっちゃった! グレーテルと似て綺麗なお顔! グレーテルみたいに笑ったらきっと素敵! 笑って!」
煙が広がるようにミュゲイアに向けられた皮肉に対して答えるでもなく、ミュゲイアはまるで答え合わせをするように言葉をなげかける。
グレーテルと似たその姿に。
その真っ赤な毒々しい赤に。
「ミュゲね、グレーテルを探してたんだけどヘンゼルにも聞きたいことあったの! ねぇ、ちょっとだけお話しよ? グレーテルの事でお話があるの!」
ミュゲイアは笑顔で言葉を吐く。
雲のように広がる言葉はきっと甘ったるい綿菓子。
グレーテルなんて言葉で誘って、お菓子の家に連れて行ってしまうみたいに。
ヘンゼルが着いてきてくれるならミュゲイアは今の時間は使われていない講義室Aに移動するだろう。
手酷くあしらって、冷たい言葉で突き放したというのに。当の華奢な少女は、こちらを見上げて華やぐ美麗な微笑みを浮かべるのだろう。いまこの瞬間、素晴らしく幸福であるかのように、状況と噛み合っていないチグハグな笑顔を。
皮肉を打ち返すように、あなたが至ってフレンドリーに暴風雨のようなポジティブシンキングを投げかけてくるため、ヘンゼルはその時たじろいだように見えた。口端を引き攣らせて、眉間の皺を深くする──あなたを気味の悪いものを見る目つきで見ていた。
「またあいつのせいか……近頃は本当に……クソ。」
ヘンゼルはなんとも忌々しそうに吐き捨てる。あいつというのは、言うまでもなくグレーテルの事であろう。彼女を経由していかにも厄介に巻き込まれたと、疎んでいるのである。
しかしヘンゼルがあなたを見る冷たい睥睨もまた、変わらない。
ひらひらと軽くあしらうように手を振ると、彼は口を開いた。
「生憎、俺には悠長に過ごしている時間なんて一分たりとも無いんだよ。特に、お前みたいな何も考えていなさそうな間抜けなドールに割く時間はまったく無い。
仮に俺がお前と話をして、なにかメリットでもあるのか? それも、あの愚図……グレーテルの件なら、余計付き合っていられないな。」
彼はわざとらしく肩を竦めて、あなたの提案を一笑に伏す。少なくとも現段階では、彼はあなたに付き従うつもりはなさそうだ。
着いてきてくれるかは分かりやすく誘いを断られた。
双子なら仲良いはずなのに、この2人はやはり先生が言っていたように複雑なようだ。
仲の良さは微塵も感じられない。
軽くあしらうようにヒラヒラと手を振って目の前のドールは厄介事を跳ね除けようとする。
「ダメだよ。ミュゲは開かずの扉を知りたいの。そうじゃなきゃグレーテルと仲直り出来ないの。じゃないとグレーテルがミュゲのせいで先生に怒られちゃう! そんなのグレーテルの笑顔が見れないから嫌なの! だから、お話して。ミュゲとお話して。」
グッとミュゲイアはヘンゼルの言葉に食い気味で言葉を重ねる。
ダメなのだ。
仲直りしないとダメなのだ。
悪い怪物も魔女もグレーテルの為に消してあげないといけない。
だって、笑って欲しいから。
笑ってくれないとダメだから。
あの子が先生に怒られて笑顔じゃないのも嫌。
仲直り出来ないのは嫌。
真ん丸な硝子珠のような瞳はグレーテルをただ見つめる。
瞳が真っ赤に染まってしまいそうな程に。
「おい、しつこいぞ、いい加減に、…………!」
尚も食い下がっては諦めずに詰め入ろうとするあなたに対して、ヘンゼルは鬱陶しいという感情を隠しもしない顰めっ面であなたを更に威圧的に睨め付けようとする、──が、開かずの扉という単語を聞いて眼を瞬かせた。
「開かずの扉……」
彼は一度瞬きをして、気難しげな顔を浮かべた後。あなたの顔をジッと確かめては、一体なんの心変わりか、「……分かった」と意外にもすんなりと頷くことになるだろう。
「グレーテルについては心底どうでもいいが、開かずの扉の話は聞いてやる。……お前、以前に俺のところにその件について話を聞きに来ただろ。
あの扉の先に出たものと考えてる。なにを見たか洗いざらい話してもらうぞ。」
ヘンゼルは一方的にあなたにそう捲し立てると、今度は彼の方からあなたの手首をむんずと掴み、引っ張っていこうとするだろう。あなたが抵抗しないならば、彼の足は二階へ続く階段にかかる事になる。
また、断られるのかと思ったが目の前の彼は意外にも開かずの扉の話に食いついた。
そんなにも開かずの扉が気になるのだろうか。
やはり、怪物の件に関して彼も気になるものがあるのかもしれない。
彼がすんなりと頷いてくれた事にミュゲイアはその場で飛び跳ねて喜ぶ。
「ヘンゼルって優しいんだね! ミュゲヘンゼルのこと大好き! 笑って!
その事なんだけどミュゲって前にもヘンゼルに開かずの扉のこと聞きに来たの? それ、グレーテルも言ってたんだよね。ブラザーと一緒に聞きに来たって。」
手首を掴まれ引っ張るように連れて行かれるのをミュゲイアは止めることなく引っ張られるままについて行く。
彼について行きながら、前にもヘンゼルに開かずの扉のことを聞きに来たという事について質問をした。
ミュゲイアはヘンゼルに開かずの扉のことを聞きに来たという事に心当たりがない。
なんなら、グレーテルから話を聞くまで開かずの扉の存在すら知らなかった。
だから、ミュゲイアは何故開かずの扉を前にしてあんなにも怖がってしまったのかも、なぜあの階段を避けていたのかも分からないのだ。
自分のことがまるで分からない。
知らないミュゲイアが存在しているように思えてしまう。
半ば強引にヘンゼルが無抵抗のあなたを連れ出したのは、二階の一角に存在する講義室である。彼は扉を開いた後、室内に他のドールが居ないことをまず確認すると、あなたを押し込んでからぴしゃりと扉を閉ざす。
閑静で鬱屈とした教室で、ヘンゼルは一度教室の照明を点灯すると、改めてあなたに向き直るだろう。
何から話すべきか、と迷うような面持ちは、あなたの言葉によって変じる。
「は? お前も忘れた?」
あなたが綺麗に忘れ去っているという事実に対し、ヘンゼルはあなたを非難するかと思われたが、意外にも彼は冷静だった。口元に手を寄せて、眉間には皺を刻んでいるが。
「……以前、ブラザーという男にも同じことを聞かれた。あいつも開かずの扉について俺に話を聞きに来たことを全て忘れていたと。
一人ならまだしも、二人も忘れるなんて偶然ではあり得ないだろ。いくらデュオクラスじゃないからって……」
彼はあなた方の様子について、何か異常なものを感じ取ったようだ。
ジ……とあなたの顔を見据えながら、一度腕を組むと。
「開かずの扉で何があったのかも、何も覚えてないのか」
と、静かな低い声で問いただすだろう。
ピシャリと閉じられた部屋は窮屈で、嫌な静けさをしている。
ミュゲイアの歩く音が、スカートの擦れる音が、その一つ一つが大きな音のように感じてしまう。
押し込まれて数歩前へと歩いてからミュゲイアはヘンゼルの方へと身体を向ける。
眉間に皺を寄せている割れた硝子のような顔がよく見える。
「ブラザーも忘れてたんだ。ミュゲね、時々頭が痛くなるの。頭が痛くなるとミュゲの知らない記憶がぶわーって流れてくるの!
開かずの扉のことも覚えてない。何も分からないのにね、開かずの扉のところに行くと何故か怖くなるの。幸せそうに見えないんだって。」
ニコニコとした顔でミュゲイアは語る。
自分のおかしな事を。
知らない自分の記憶を。
ポツリ、ポツリと語り出す。
記憶力は確かにデュオモデルほど良くはない。
頭の出来だってそうだ。
けれど、だからといってこんなにも覚えてないことがあるものだろうか?
「開かずの扉のことはね、友達から聞いたの。開かずの扉にはバケモノがいるんだって。その子は開かずの扉の中を見たみたい。
ヘンゼルは開かずの扉の何を知ってるの? 何があったのかってなぁに? 開かずの扉には何があるの? どうしてミュゲは開かずの扉のこと覚えてないの? ……ヘンゼルはデュオなんでしょ? 賢いヘンゼルなら何かわかる? 教えてよ、じゃないとミュゲ幸せそうに見えなくなっちゃうの。」
問いただされたことに対して、ミュゲイアはリヒトのノートに書いていたことを答えた。
そして、ミュゲイアはヘンゼルの方へと近づいた。
賢い貴方の言葉が欲しい。
賢い貴方の教えが欲しい。
この謎の答えが欲しかった。
何故、覚えていないのかを知りたい。
ミュゲイアの知らないところで何があったのかを知りたい。
この知らない記憶を知りたい。
ミュゲイアはただヘンゼルに縋るように笑って言葉を求める。
まるで、知恵の実を齧るように。
白蝶貝の瞳に彼の赤い林檎が映り込む。
目の前の景色を、つまりはヘンゼルの神妙な顔を純に映し出すあなたの漂白されたホワイトの瞳。ただ無垢にこちらへ解を求めようとするあなたの言葉を受け止めて、ヘンゼルは眉に皺を寄せながら、口元に手を添えて何事か思案する顔付きをした。
しかし思考は瞬きの間である。彼女が知り得るのは、人伝の情報だけ。つまりはトイボックスの異変に気付き、探りを入れ始めているでだろうオミクロンの何者かからの入れ知恵と考えるのが自然。
彼女自身の記憶は期待出来ないということに、彼は溜息を吐いて、しかし口を開くだろう。
「俺もあの先を実際に見たわけじゃないから本当の所は知らない。それをお前に聞きたかったんだがな。
だが、バケモノなら見た。
それは虫のような特徴を持っていた。見上げるほど巨大だった。だが、恐らくあれは『ガワ』だ……間接部位が擦れるギイギイという金属音もしたからな。誰かが怪物の皮を被っているに違いない。
あの怪物は夜に現れた。学園から出なければならない夜19時ごろだった。俺はその日、調べ物のために残っていたから偶然そいつを目撃した。
アイツは開かずの扉の向こうに消えていったから、あそこにいつも居るんだと思う。」
──あなたは、ヘンゼルのその説明を聞いて、頭の中で怪物の姿を思い描こうとするかもしれない。
その瞬間。ドクン、とコアが激しく脈動して、あなたの頭は真っ白になった。
これは、あの開かずの間の前に立った時と同じ、拒絶反応だった。
怪物のことを思い出したくない。
開かずの扉のことを思い出したくない。
『あの先の出来事』を思い出したくない。
──何故だろう。
思い出したくないということは、あなたは知らないはずのそれらを本来ならば知っているということに他ならない。
だがそれを思い出すのは、泣きたくなるほど恐ろしかった。生々しい恐怖をあなたは感じていた。
真っ赤な知恵の実は教えてくれる。
貴方の知っている開かずの扉を。
ミュゲイアも知ろうとしていたそのことを。
バケモノ。
恐ろしいバケモノの話。
得体の知れないその姿をミュゲイアは彼の言葉を元に姿を思い描こうとした。
バケモノ。
ギイギイと擦れる金属音。
怪物の皮を被った何か。
それはなんなのか?
なんなんだろうか。
ミュゲイアは思い出そうと頭の中で描くけれど、それは出来なかった。
思い出そうとするほどに頭は真っ白になり、何も浮かばない。思い出せないのではなく、思い出したくない。
思い出したくないだなんてまるで、知っているみたいだ。
思い出そうとする程にポツポツとミュゲイアの頬を一滴の雫が撫でた。
怖い。恐ろしい。
また、あの時と同じように。
まただった。
また、開かずの扉の時と同じように怖いと思ってしまった。
「……思い出せないの。怖いの! ミュゲ、怪物のこと考えるとおかしくなるの! なんで? ……ねぇ、ヘンゼル教えてよ。ミュゲ笑えてる?」
ポツポツと涙を零しながらミュゲイアは述べる。
この謎に怯えるように。
なぜ、思い出そうと出来ないのか。
知らないはずのことを恐れてしまうのか。
いつものように浮かべた三日月の口角でミュゲイアは問いかける。
今は、幸せそうに笑えているだろうか。
いつもと変わらない笑顔だろうか。
指先で触れた唇はいつもと同じように微笑みを象っている。
「……そんなこと、俺が知るわけないだろ。」
美しく煌めく涙を滴り落とすあなたの顔は、それでも口角を無理矢理に吊り上げた笑顔の形をしているのだろう。ヘンゼルは異常な様相のあなたを前にして顔を顰め、僅かに目を逸らして吐き捨てる。
頑なに笑顔であろうとするあなたの姿は、何も知らぬヘンゼルからすると不気味でならないのだ。目元を歪めながら、しかしヘンゼルは少し思案した後に。
「だがお前みたいな様子のやつを前にも見た。ブラザー……以前にお前と一緒にここに来た男だ。
あいつもまた俺のところに来て、まったく同じ話を聞きに来た。だから同じ話をしてやったら、お前のような反応を示した。
あれは言うなれば──トラウマからの拒絶反応に見えた。だからお前たちは、あの開かずの扉の先で、記憶を失いたくなるほどの恐ろしい体験をしたんじゃないか。例えば、化け物に殺されかけるとか……あるいは、『処分』されかけたとか。
まあ、造られたドールの脳がトラウマによって記憶を書き換えるなんて事があるかは甚だ疑問だがな。」
ヘンゼルは己の推測をあなたに述べ立てる。
しかし結局それも推測の域を出ず、彼は肩をすくめる。
「……以上。俺が話せるのはこれぐらいか。お前から話を聞きたかったが、忘れているんじゃ仕方がない。
思い出せないのが怖いなら、無理矢理にでも思い出すしかないだろ。開かずの扉に行ってみるとかな。ハ、リスクは高いだろうがお前の高尚な悩みを解決する糸口ぐらいは見つかるだろうさ。」
彼は自分に助けられることはないとあっさり話を締めくくり、踵を返す。あなたが止めなければそのまま講義室を出ていくことだろう。
ミュゲイアはこんなにも涙が出たのは初めてだった。
こんなにも何かを恐れたのも、今まで自分のことでこんなにも気になったことなんてなかった。
笑顔しか見てこなかったから。
自分のことが分からないだとか、笑顔と関係の無いことはいつも適当で、雲が流れるように思うがままに流れるままだった。
涙なんてミュゲイアにはいらない。
笑顔のドールであるミュゲイアが泣いていたらいけない。
幸せって思って貰えない。
幸せでいるべきであり、いつまでも無償の愛のように笑顔を振りまくのだから。
「………ブラザーも?
ブラザーも怖がってたんだ。
じゃあミュゲ、怖くなくなるまで開かずの扉に行ってみる! それでね、何か思い出せたらヘンゼルに教えるね! だから、その時は笑って! ミュゲ、ヘンゼルの笑顔も大好きだからその為に頑張るね!」
トラウマ。
これがそうなのであれば、開かずの扉の先で見たものはきっと地獄のようなものだったのだろう。
それこそ、リヒトのノートに書かれていたくらいの。
どこか他人事のように読んでいたノートであったけれど、ヘンゼルからそう言われてしまうと他人事でもないような気がしてしまう。
だから、ミュゲイアはヘンゼルの笑顔の為に頑張ると述べた。
笑顔の為だったら頑張れるから。
潤んだ瞳を細めてミュゲイアは笑って講義室を出ていくヘンゼルを見送る。
ヘンゼルとの話を終えたあとミュゲイアは一度寮に戻ってからまた、学園の方へとやって来た。
手にはノートを抱えていた。
静かな薔薇と会話した時に持っていたあのノート。
ミュゲイアがたくさんの星と笑顔を描いた空想の理想。
同志に見せないといけないもの。
かの同志と会ったのは開かずの扉の時。
あの時は楽しめなかったから、ちゃんといつもの集合時間に会いに行かないといけない。
彼の笑顔もまたミュゲイアにとっては特別なのだから。
泣いていた目を擦って、少し赤くなった目元はウサギのようであり、薄紅色に染まっている。
けれど、そんな事はお構い無しにミュゲイアはロビーを歩いていた。
ガーデンテラスへと行く為に。
「アラジン、ミュゲの絵をみたらいっぱい笑ってくれるかな? きっとお月様みたいなまんまる笑顔になってくれるの! 早く見たいなぁ、アラジンの笑顔。」
スキップまじにり軽い足取りで、ミュゲイアは踊るように歩き出す。
歩く度に揺れるツインテールは楽しげであり、抱きしめているノートを今よりもギュッと大切に抱きしめている。
彼の笑顔を想像する度にミュゲイアは楽しくなって、幸せを感じる。
笑顔の事を考えていれば、幸せで笑顔で心地がいい。
どれだけ地獄の中で笑っていたとしても、ミュゲイアにとってはそこは春の丘の花畑になってしまう。
春の伊吹のような笑顔を浮かべたミュゲイアはただ歩く。
同志との幸せな時間を邪魔されるなんて思ってもみないままに。
《Brother》
「……やぁ、ミュゲ」
彼は、ミュゲイアがガーデンテラスの扉を開いた先にいた。
ブリキのジョウロを持ち、爛漫と咲き誇る花壇の前に立っている。ドアの開く音に振り向いたのだろう、体は斜めになっていた。
夕暮れのガーデンテラス。
水を浴びた花は、西日を受けてきらきらと輝いている。甘く揺れるアメジストを細めたまま、ブラザーは立っていた。陽の光が影を作って、彼の表情を隠していく。
───あれから、どれくらい経っただろうか。
学習室の一件があってから、2人が会話を交わすことは少なくなっていた。もちろん、ブラザーは今まで通りミュゲイアに微笑みかけ手を振る。しかし、2人だけのお茶会を開いたことは? 一日の出来事をミュゲイアから聞く、夕食後の戯れは? 自分とよく似たその白銀の髪を撫でたことは、あっただろうか。
「こんな時間にどうしたの?
もうそろそろ日が暮れちゃうよ」
逆光に表情を隠した貴女の“おにいちゃん”は、ジョウロを置いた。日課を終えたため、ブラザーの予定はもう部屋に戻るだけだ。だが、ミュゲイアは今やってきた。浮かぶのは、ブーゲンビリアの一等星。“妹”本人からやんわりと拒絶を受けたことを、忘れたわけではない。
いつも通りの柔らかく包むような声が、人の少なくなったテラスに響いていた。
ガーデンテラスの扉を開けた。
ここで待っていればあの子はやって来てくれると思うから。
笑顔を待っている時間も長くなければ楽しいものである。
人の少ないガーデンテラスには来ることがあまりない。
だって、植物は笑ってくれないから。
ミュゲイアが花を好きなのは笑顔を作る道具であるから。
別に植物に笑顔を求めたところで何もないのは分かっているし、それに対して笑顔になってなんて無駄なことをすることもない。
けれど、今日はそんな植物の絵も描いて見ようなんて思った。
待っている間にたくさんの絵を描こう。
そう思って扉を開いた先にいたのは白銀の髪の毛を揺らしたドール。
ミュゲイアの大好きで大っ嫌いなお兄ちゃんだった。
「……お兄ちゃんには秘密! お兄ちゃんこそ早く帰らないとダメだよ。日が暮れちゃうとお兄ちゃんの笑顔も見えなくなっちゃうから。」
ミュゲイアはガーデンテラスの中へと入って、ブラザーの言葉に返事をする。
もう、日が暮れてしまう。
辺りが暗くなればきっとお兄ちゃんの笑顔が見れなくなる。
笑顔が見れない。
お兄ちゃんの大好きな笑顔が見れなくなったら何が残るのだろうか。
ミュゲイアは笑ったままにお兄ちゃんを見る。
《Brother》
「ふふ、兄妹に秘密はなしだって自分から言ったじゃないか」
顎に手が添えられて、ブラザーの細い肩が軽く上下する。冗談を言うみたいに弾んだ声は、以前言われた言葉を繰り返した。
笑っているのだろうか。表情は未だ見えない。“妹”にのみ向けられる、ひたすらに甘くひたすらに優しい、あの笑顔は。
「アラジンに会うなら、僕も一緒にいていいかな。次に会う時は三人で、って約束したんだ」
歩き出すミュゲイアの背中に、甘いだけの声がする。アラジンと会ったことを、このとき貴女は初めて知るだろう。人を巻き込んで結ばれた勝手な約束も、このとき初めて聞くはずだ。言ってもいないのにアラジンの名を出すブラザーが、体の向きを僅かに直す。その場から動かないまま、顔だけがそちらを向いていた。暗闇の中から視線だけが投げられて、二人の間を何人ものドールたちが歩いていく。いつの間にか、部屋には二人だけになっていた。
「……ね?」
ゆっくり、静かに。
靴が地面に触れる音がして、ブラザーが歩きだす。何歩か貴女に近づいて、ようやく隠れていた表情が見えた。首を傾ける彼の背後に、オレンジが光る。
にこやかに微笑む姿は、いつもと何も変わらない。きっと、ミュゲイアにはそう見える。
だって、ブラザーは笑顔なのだから。
秘密。
そう、兄妹に秘密はなし。
それはお互いに秘密なんて作らなければである。
話してくれればきっと良かったのに、 先に秘密を作ったのはそっちだ。
秘密を匂わせた身体でそんな甘いことを言われても困る。
「そんな事ミュゲ言ったっけ?
ごっこ遊びで言ったことなんてミュゲ覚えてないよ!
……会ったの? アラジンに? ……お兄ちゃんって悪い子なんだね。ミュゲ、お兄ちゃんの笑顔は好きなのになんでそんなことするの?」
甘く囁く微笑みでこの男は告げる。
嘘で塗り固められた口紅をミュゲイアに塗ってお兄ちゃんと呼ばせる。
兄妹ごっこ。
これは単なるごっこ遊びだ。
笑顔を見るための手段に過ぎない。
笑顔を得るための手段に過ぎない。
本当に目の前のドールをお兄ちゃんだなんて思ったことはない。
だって、ミュゲイアとブラザーはヘンゼルとグレーテルのような事を望まれていないのだから。
秘密はなしなんて言ったこと覚えてないと嘘をつく。
この嘘だって秘密。
オレンジが染まる。
嘘つきのオレンジ。
ブラザーの笑顔を見てミュゲイアも笑顔になる。
悪い子に向ける笑顔。
どこまでもこのドールはミュゲイアを掻き回す。
お兄ちゃんと言ってまとわりついて、ミュゲイアの事は何も考えていない。
ブラザーの笑顔に手を伸ばす、もし触れてしまうのであれば彼のその幸せな笑顔を歪ませてしまうようにもっと口角をあげるだろう。
幸せそうな顔をするブラザーにミュゲイアも幸せそうにその幸せを奪おうとする。
《Brother》
夕日はもうすっかり暮れていた。
徐々に夜の帳が降りてきて、小さな箱庭に眠る時間を告げる。もうおやすみの時間。もう良い子は眠る時間。こんな時間に起きている2人は、悪い子なのだろうか。オミクロンの欠陥品。トイボックスの面汚し。お披露目にももうずっと出られない、ジャンク品のがらくた。だからこんな下らない猿芝居をいつまでも続けているのだろうか。だからブラザーは、いつまでもこんな関係に縋っているのだろうか。
ブラザーはミュゲイアを見ている。
“妹”を見ている。
それはミュゲイアを見ていることに入るのだろうか。
演者が誰かなんて、本当はどうでも良かったのかもしれない。ソレがミュゲイアじゃなくても、本当は、きっと。
「……ごっこ遊び?」
ぱきり。
ブラザーの笑みにヒビが入る。
こんなものは、兄妹喧嘩じゃない。
ただの押し付け合い。ただ、それだけ。
ミュゲイアが伸ばした腕が触れる前に、ブラザーがそれを掴もうとする。ガーデンテラスの扉が開いたのは、その時だった。
──学園3階、ガーデンテラス。
夜18時ともなると、ドールはほとんど寮へ帰り着いて夕食の支度を手伝うため、学園はすっかりがらんどうとなる。
静謐な星空の下、あなた方の合間にだけ暗雲が差し掛かっていたのだろう。徐々に強さを待つ不快な耳鳴りのように、軋轢が明確な実像を伴ってあなた方を引き裂きかけたとき──闖入者がひとり、ガーデンテラスの扉を開け放って踏みいってくるだろう。
編み込んだシルバーブロンド長髪を軽やかに揺らしながら、やってきた青年はガーデンテラスを見回して、眼を瞬く。
「……ああ、ミュゲ!? それにブラザーじゃないか! もしかして……オレとの約束を覚えててくれたのか!?」
アラジンは緋色の瞳に星雲を宿して綺羅綺羅しく瞬かせ、だっと跳ねるように駆け出してはそちらへ歩み寄るだろう。
「オレは感動してる……! これで念願の三人での芸術活動が出来るな!
その為に来てくれたんだろ? ……違うのか?」
そこで漸く、アラジンは二人の間に走る不穏な空気を感じ取ったのか、片眉を上げた。視線を右往左往させてから、ミュゲイアの方へその矛先を向ける。
そう、これはただの押し付け合いである。
お互いの事なんて気にしていない、自分の意志の押し付け合い。
この二人はオミクロンクラスに来てからよく一緒にいた。
お茶会だってした。吐息を食べてしまえそうな距離感にもなっていた。夕食後は温かいホットミルクを飲みながら談笑に花も咲かせた。
けれど、その全てにおいてお互いの事を見たことなんて一度たりともなかった。
吐息を感じる距離にいても、その瞳を舐めれる距離にいても、きっとお互いの瞳にはお互いなんて写っていなかった。
ミュゲイアはブラザーの笑顔だけを。
ブラザーはミュゲイアというガワを被った妹を。
だから、ミュゲイアにはどうしてブラザーがミュゲイアの事を妹といったのか分からない。
けれど、彼が妹と言ってミュゲイアに近寄り微笑んでくれるというのを利用していたのは変わらない。
お互いがお互いのことを都合良く利用していただけ。
トゥリアの溶けてしまいそうな程に甘い言葉で、甘い思考で。
熱く燃え上がったものはいつの日か消えてしまう。
これは愛でも恋でもないのだから、勝手に冷めてしまう。
「違うの? これを言うとね、グレーテルも怒ったの。でもそれってグレーテルとヘンゼルが本当の姉弟だからだよ? ミュゲとお兄ちゃんはなぁに? ……笑って答えて?」
ブラザーの微笑みを兄らしい笑顔だなんて思ったことはない。
笑顔はどれも一緒でどれも幸せなものだから。
ミュゲイアはブラザーの耳元で囁く。
まるで愛を囁く小鳥のように。
恋を知らない恋人よ。
その思考では優秀なドールにはなれない。
貴方は兄ではない。
貴方は恋人である。
いつまでも兄のままでは恋人になれない。
いつまでも壊れたまま。
ミュゲイアの伸ばした手は確かにブラザーの頬に触れ、ミュゲイアはブラザーをギュッと抱きしめようとする。
悪い子のブラザーの唇の片側だけをグッと少しだけ引き上げながら。
腕を掴めなかったお兄ちゃんの耳元で妹は囁く。笑って答えて。ただ笑っていて。
「……お兄ちゃんの笑顔ミュゲだぁいすき。
……アラジン! ミュゲとってもアラジンに会いたかったの! ミュゲね、芸術活動で絵を描いたんだよ! アラジンもみて! アラジンの笑顔を想像して描いたの!」
ミュゲイアはブラザーから離れる前にそれだけを告げて、小さくブラザーの耳にチュッとキスを落とす。
答えは要らないとでもいうように、ブラザーの笑顔を惑わすように。
笑顔を落とすように。
それからアラジンの方へと体を向ければミュゲイアはアラジンの方へとよっていき、何もされなければアラジンの事を抱きしめてニコニコといつも通りの笑顔で話し出す。
貴方との楽しい芸術活動のことを。
《Brother》
鈴蘭の甘い香りに包まれる。
開いた扉の音にぴくりと体を止めたブラザーは、ミュゲイアの腕を掴めなかった。代わりに、“妹”に抱き締められていた。艷めくヴェールのような髪が顔をくすぐる。天使の羽根にくすぐられるような感覚。感じるのは自分と同じような体温。このまま抱かれていればチョコレートのように溶けて、ドロドロに混ざりあってしまいそうな体温。トゥリアのあたたかさ。恋人のような温もり。柔らかな手が口角を引き上げる。耳元に落とされた口付けに、囁かれる甘言に、ブラザーの瞳は冷めきっていた。鈍く妖しく煌めいたアメジストは、白銀の向こうで何を考えているのだろう。
「あのね」
薄い唇が開かれる。
桜色に染まった小さな口。伸びやかなテノール。紡がれた言葉は、きっとアラジンの方に向かうミュゲイアには聞こえない。離れた体から与えられた体温が徐々に消え、二人の間に再び闇が訪れる。ブラザーがミュゲイアの体を抱き返さなかったのは、この時が初めてだった。だって彼が抱き締めるのは、家族だけだから。
ブラザーの口角は少しも上がっていない。幾重にも絡まった瞳の奥で、“妹”の姿を見ている。
“彼女”は今日も、花畑に座り微笑んでいる。
「僕の“妹”は、そんなこと言わないよ」
ブラザーは、にこりともしない。遠くなった知らない女の背中を見つめて、無機質に拒絶を示す。そんな温度も、そんな態度も、そんな甘さも、“おにいちゃん”には必要ない。家族にはいらない。兄妹にはいらない。
熟れた果実に興味はない。枝から落ちた実は潰れてしまうだけ。這い寄る蟻が喰い尽くすだけ。醜く潰れた姿に花は似合わない。あの子に似合うのは手向けの花じゃない。辺りに咲き誇る色とりどりの花。頭の上に乗る小さな冠の花。細い指を巡る指輪の花。まだ青々とした、苦くて硬い果実があの子。膨らみ始めたばかりの小さな宝物。無数の未来を孕んだ幸せの象徴。花に囲まれる愛しの“妹”。
かわいい弟に抱きつく君は誰?
僕のかわいいあの子はどこ?
ねえ、ほら。
はやくあの子に会わせて。
僕の“妹”を、返して。
君は僕に、必要ないのだから。
「……やあ、アラジン。
もちろん、そのために来たんだよ。今度はちゃんと、三人で星を見よう」
夜空に映える活発な微笑み。星々を編み込んだように輝く三つ編みに、ブラザーは眩しそうに笑った。長い足を動かして2人の方に近づけば、軽やかに手を振る。片眉をあげたアラジンの問いかけに頷いて、楽しそうに声を弾ませた。優しく上品な動きは、以前アラジンと話したときと何も変わっていない。ただ微笑ましそうに、2人の様子を見ているだけである。
ふわり、と、綿菓子に包まれるように。少女のたおやかな腕が、アラジンに甘ったるい抱擁をなす。彼はそれをおっと、なんて漏らして瞬きながらも、真正面からしっとりと抱き留めた。自然とその腕があなたの背と腰へ回るのは、『恋人らしさ』を乞われるトゥリア故か。
その手付きに色欲もなにもないが、否が応でもそう映させるのはトゥリアドールの華やかさのせいであろう。
「ミュゲ……もしかしてオレが前に言ったアドバイスを覚えててくれたのか? それでわざわざ芸術活動を? おおお……! こんなに熱心に動いてくれる同志に恵まれて、オレはなんて幸せ者なんだろう!
オレがモデルなんてなんか照れ臭いけど、お前の芸術を是非とも見たい。見せてくれ!」
アラジンは弾ける笑顔を浮かべながら、あなたに友好のハグを返す。華奢な背に腕を回して、もろいガラスの身体が砕けないように優しく。
それから、ゆったりとこちらへ歩み寄り、穏やかな眼差しで見守っているブラザーの方を、ミュゲイアの肩越しに見据える。共に星々を見上げる約束をした同志。彼はあなたにも、感激に瞳を輝かせながら笑みを向けた。
「ブラザー、ありがとう。ミュゲをここに連れてきてくれて! オレがあんなに言ったから忖度してくれたんだろ?
お前とはまともに芸術活動出来なかったから、また来てくれて嬉しいぜ。なあ、二人とも、座って話さないか?」
アラジンはミュゲイアの背をそっと撫で下ろして合図しながら、目線をテラスの中央のガーテンデーブルへ向ける。そちらへ二人を誘うように。
柔らかく細い腕が背中と腰に回される。
それは恋人らしいもの。
トゥリアらしい甘ったるくて噎せかえりそうになるような行動。
それを受け入れるミュゲイアもトゥリア。
甘ったるいばかりの女。
笑顔にしか興味のない女ではあるけれど、笑顔を得るためには恋人であることだって必要。
トゥリアは産まれた時から熟れている。
真っ赤にぷっくりと実った果実。
口付けを落とすように齧れば甘く、禁欲さを解放するように誘ってしまう。
熟れていないつもりなのはあのドールだけ。
夢を見ているのだってあのドール。
熟れない果実は食べてさえもらえないで捨てられる。
それに気づけない可哀想なドール。
「わぁ! とっても素敵な笑顔! ミュゲね、アラジンの笑顔大好き! もっと見せて!
見せるよ! アラジンに見てもらいたくて描いたんだもん!」
ミュゲイアはその笑顔に蕩ける。
甘美なその笑顔に釘付け。
マシュマロが溶けてしまうほどに、その甘さがお気に入り。
芸術活動でこんなにも素敵な笑顔を見れるなら嬉しい限りである。
友好のハグに対してミュゲイアもギュッと彼の背中に腕を回す。
柔らかく標本の蝶を撫でるように。
脆い身体を大切に大切にするように。
良い子のアラジンを抱きしめる。
「じゃあ、あっちで見せるね! 早くアラジン行こ! ……お兄ちゃんも早く!
ミュゲね、今日の芸術活動も楽しみ!」
背中を撫で下ろされればアラジンから離れ、アラジンの手を取り早く! 早く! と言わんばかりにガーデンテーブルの方へと進んで行く。
ブラザーの事も早く! と急かしながらミュゲイアは進む。
ずっと、熟れないまま鳥に啄まれて終わりそうなドールを見据えるその目はどこまでも白く純白で、ぷっくりとした艶かしい唇がその名前を呼ぶ。
早く熟れちゃえとその実を食べろと唆すヘビのように。
《Brother》
「あはは、忖度なんてしてないよ。僕もまた、君に会いたかったから」
アラジンの言葉に肩を竦め、おかしそうに笑ってみせる。口元に添えられた手は優雅で美しく、ガーデンテラスを甘やかに彩っていた。本心だと伝えるようにゆっくりブーゲンビリアの瞳を見つめて微笑んでは、愛おしそうに三つ編みを撫でるだろう。丁寧に編まれた髪を崩さないよう、慈しみを込めた指先は正しくトゥリアというのに相応しい動きだった。親愛を込めた笑みを浮かべたままアラジンの視線の方を向けば、“妹”がこちらに呼びかける。
こちらが口を開く前に急かすその無邪気さが可愛らしくて、ブラザーは自然と口角を緩めた。全くもって、いつも通り。“妹”に向ける優しくて甘いだけの笑み。底なしに柔らかく響く声。貴女の“おにいちゃん”は、少しも変わらない。ただ幸せそうに、最愛の“妹”と弟がくっついているのを眺めているだけである。上がった口角は、いっそ満足しているようで。これが正しいのだと、言外に語っているようで。
「ふふ、分かってるよ。ミュゲはかわいいねぇ」
白蝶貝のような両目を見る。きらきらで純粋で、なんの邪気もない瞳。染まりやすい真っ白。
ブラザーは楽しそうに微笑んで、急かすミュゲイアに答える。弾む声はいつものようにミュゲイアを猫可愛がりして、貴女の嫌がることを一切言わない。ただ甘やかすだけ。ただ甘さを与えるだけ。ただそれだけの関係。いつも通りの2人。
本心から愛情を伝えているのだ。さっきの今であっても。さっきブラザーに抱きついたのは、かわいいかわいい“妹”ではないのだから。
こびりついた誰かの鈴蘭の香りなんてすっかり忘れて、相変わらずのんびりした、けれども小走りにテーブルへと向かった。
コツコツと地面を鳴らす音が、“おにいちゃん”には幸福のリズムに聞こえていた。
明るく駆け出していくミュゲイアの後を追って、アラジンは一度手放していた細長い大きな筒を抱えて今しがた指し示したガーデンテーブルの方向へ向かう。
あなた方の合間に渦巻く確執など、アラジンはなにも気が付いていない。渦中を目撃するより前に、あなた方が仲睦まじい兄弟の仮面を被ってしまったから。故にミュゲイアからブラザーへの嫌悪も、ブラザーからミュゲイアへの拒絶も、いびつに絡み合う倒錯とした関係性の糸もアラジンは悟ることが出来ない。
だからこそ、こんなにも歪んだ邂逅の場が生まれてしまったのだろう。
二人が真白のチェアに腰掛けたとき、アラジンはその目線をミュゲイアの方へと向ける。爽やかな様子で首を傾けては、口角を緩く持ち上げる。
急かすでもなく、あくまで優しく。
「さっそく、ミュゲの芸術を見せてくれよ。オレも一緒に見せるからさ。」
彼は手製の望遠鏡をテーブルに寄りかけてから、鞄の中から一冊のノートを取り出した。それは何気無い学習ノートのように見えたが、恐らくこちらにも彼の芸術が書き込まれているのだろう。
頁を開く前に、まずはミュゲイアのものを確認したい、とアラジンは希う。
ミュゲイアは駆け出す。
この星空に見下ろされながら、偽りの関係を明るみに晒しながら。
今はこの星空に溶かされていく。
同志と共に。
愛する笑顔と共に。
この関係はきっと誰にも分からない。
ブラザーの拒絶もミュゲイアは知らない。
ミュゲイアの幸せに包まれた嫌悪もブラザーは知らない。
アラジンもこの二人の歪な関係を知らない。
みんな仮面を被ったように踊るだけ。
踊らされるだけ。
ブラザーの言葉にはただ微笑むだけでミュゲイアはアラジンの隣に腰かけた。
「うん! 見せるね! 笑顔になる絵を描いたの! お星様もアラジンもみんな笑顔なの!」
持ってきたノートをガーデンテーブルの上に置いて、絵の描かれたページを開く。
そこにはニコニコ笑顔の星とアラジンらしく人物が笑っている。
上手いわけでもないその絵。
全てのものに笑顔の顔を描いてしまうあたりはまるで幼稚園児のようである。
「アラジンのも早く見せて!」
ノートを見せてから、ミュゲイアはアラジンの方へと目線を向けて笑顔で催促する。
得意げなミュゲイアに、こちらの期待も募っていた頃。
彼女が意気揚々と開いたページに、アラジンはぱちっと自身のブーゲンビリアの花を瞬かせて釘付けになった。
それは児戯のたわむれかのような拙い絵だったかもしれない。しかし、その満点の星空──ならぬ、満点の笑顔が主役のそのイラストを覗き込んで、アラジンは至高の芸術に出会ったかのように感激に拳を握りしめた。
「こ、これはオレじゃないか! ……オレだよな? 髪も眼の色も、オレのだ。見ただけですぐ分かった! カッコよく描けてる、嬉しいぜ! それにこれ、北斗七星だろ? オレとの芸術活動のこと、覚えててくれたんだな……!」
アラジンは、あなたの絵画を甚く誉めそやした。瞳をきらきらと希望で輝かせながら。また、空で瞬く星々の整列の様子を指さしては、喜色一面で頬を弛ませる。
「やっぱりこれがお前の芸術なんだよ、ミュゲ。みんなを笑顔にできるお前にしか出来ないことだ。
なあ、今度はブラザーとか、お前の友達の絵も見せてくれよ。オレ、楽しみに待ってるから!」
明るくあなたの芸術をもっと見たいと乞うアラジンの言葉は、優しい響きであれ、ミュゲイアが日頃口にする『笑って』という願いと毛色が似ていた。
早く見せて、とこちらの芸術を鑑賞することを願うミュゲイアに、アラジンもしかと頷いて、ブラザーの方へ目を向けた。
「ブラザーも見てくれよ。オレも三人で集まった時のために、描きあげてたんだ。……ほら!」
非常に勿体ぶった様子で口角を釣り上げると、持っていたノートをテーブルの上に広げる。
見開きのページ一杯には、煌めく銀河と星屑の群れが執念深く描き込まれていた。ありったけの砂金を撒いたような豪奢な星空の下、向かって左側の頁には綿菓子のような銀糸を靡かせる少女が、右側の頁にはアメシストの双眸を妖しく艶めかせる好青年がそれぞれ見返りながら夜空の財宝を見上げている。
「三人で集まれるの、オレ、本当に楽しみにしてたんだ。二人が芸術クラブに来てくれて嬉しいぜ。
なんか、お前達とは初めて会った気がしないんだ。何でだろうな……」
──アラジンの言葉通り。
あなた方は不思議と、こうして一堂に介することが初めてではないと、そんな予感がしていた。
それと同時に。この飲み込まれそうな銀河を眺めていると、奇妙なほどに強烈な違和感がやってくるのだ。──覚えのある激しい頭痛と重なって、それはあなた方に襲い来る。いずれ必ず訪れる闇夜のように。
《Brother》
にこにこ、ブラザーは笑う。
弟と“妹”が楽しそうに芸術活動をする姿を見つめ、何も言わずに目を細めた。可愛らしいミュゲイアの絵。それを嬉しそうに見るアラジン。例えこの箱庭が偽物であっても、今この瞬間だけは3人のものだ。もしも許されるのなら、3人の芸術家のものだと思わせてほしい。自然と綻ぶ口角は柔らかく、優しく、口出しをせずともブラザーもこの空間を楽しんでいた。
アラジンがこちらを向けば背もたれに預けていた背を離し、前のめりになる。ガーデンテーブルに置かれたノートと、アラジンを交互に見た。焦らすように笑ってから開かれたノートに、ブラザーは目を奪われる。
広がる、満点の星空。
思わず「わぁ……」なんて感嘆の声を漏らし、華やかな銀河を見る。空の下に描かれているのは、きっとブラザーとミュゲイアだ。いつもは妖艶に細められている瞳をいっぱいに広げて、少しも見逃さないように絵を見つめる。
聞こえたアラジンの言葉に、ブラザーは嬉しそうにはにかんだ。名残惜しそうに絵から顔を上げ、うっとりなんて表現が似合うように微笑む。うすらと紅潮した頬は、彼にしては珍しい。またすぐに、堪えきれないといった様子でノートに視線を戻す。
なんだか、とても嬉しい。
コアの奥底からじんわりと喜びが広がって、元々高い体温が更に上昇するのを感じる。柄にもなく踊り出してしまいそうな、そんな。
「うん……僕もだよ。アラジンに出会えて、本当に───」
ばちり。
突如、暗転したように。ブラザーの視界の奥がばちばちと焼け焦げて、あの苦々しい頭痛がやってくる。幸せなひとときを奪い去るように、不和へと強引に手を引かれる。
前頭葉の当たりを手で抑えて、ギリと奥歯をキツく噛んだ。ぐしゃりと前髪を乱暴に掴む仕草は、普段の気品溢れるブラザーとはかけ離れている。
ああ、なんで。なんでこんなときに。
邪魔しないでよ。
せっかく、せっかくまたアラジンに会えたのに───!
「……っ、え」
激しい頭痛の合間。
確かに見たのは、輝く星空。
寂しそうに笑うアラジンと過ごした、最後の夜。ミュゲと、僕と、アラジンと、最後に星を見た日。
そうだ、あれは。
あれは──────アラジンがお披露目に行く、前夜だった。
「…………」
前髪を掴んだまま、目を見開いてブラザーは硬直する。か細く喉の奥から締め出される息は、疑問と絶望に震えていた。
存在しない、ありえないはずの記憶。
実在感のない幸福の日々。
あの日見た平原の星空。
なにも思い出せないのに、何もかもが、きっと本当だった。
きらきらと瞳を輝かせて喜ぶその姿がどんなにも綺麗な星よりも輝いて見えた。
キラキラのこのひと時がとても幸せで、アラジンの笑顔がミュゲイアを幸せそのものにしてくれる。
不穏なことに目を背けて、今この時だけをミュゲイアは楽しむ。
あとから思い出したとして幸せだったと言えるあの笑顔を愛する。
アラジンの笑顔はとてもとても幸せなものだ。
ミュゲイアの行動で笑ってくれる彼が好きだ。
アラジンが喜んでくれるのをミュゲイアはニコニコと見ていた。
ミュゲイアの顔は笑顔そのもので、ただただ幸せそうである。
「……ミュゲにしか出来ないこと。じゃあ、ミュゲもっとする! もっとしたらアラジンももっと笑ってくれる? ミュゲね、色んなものを見て色んなものを絵に描くよ! その度、アラジンに見せるよ!」
これはミュゲイアにしか出来ないことだと言われれば笑顔で喜ぶ。
花が咲くように、日差しに照りつけられた向日葵のように。
ただ、ミュゲイアは笑う。
これがミュゲイアにしか出来ない笑顔の作り方なのであれば、もっと色んなものを見てもっとそれを絵に起こしたい。
そして、絵を描く度にそれをアラジンに見せる。
とっても幸せなミュゲイアの夢。
繭に包まれた淡い夢。
ミュゲイアはアラジンの絵をワクワクと待ちながら目を輝かせた。
見えた絵を見てミュゲイアの笑顔は固まる。
なんだ、ブラザーか。なんて思ってしまう間もなくその絵を見て、アラジンの言葉を聞いて、割れた硝子が突き刺さったような痛みを感じる。
────繭が膨らんで弾けた。
その痛みを嫌がるようにミュゲイアは自分の頭を抑える。
「……やだ、痛いよ。」と小さく呟きながら。
視界がチカチカと激しく色付いてぼやけてしまう。
嗚呼、やっとまた会えたのに。
アラジン、大事な笑顔のアラジン。
思い出したことは信じられないようなこと。
なぜ、ここに来たばかりのアラジンなのだろうか。
この前だってミュゲイアはアラジンと天体観測をして頭を痛めた。
その時だってアラジンがいた。
じゃあ、この知らない思い出は?
アラジンがお披露目?
どうして、そんなに寂しそうに笑うの?
どうして、覚えていないの?
「………アラジン。イヤ! どこにも行っちゃダメ! 寂しそうに笑っちゃダメ! ……アラジン……アラジン。……笑って。」
遠のいて行く背中を掴もうとするようにミュゲイアはアラジンの方を向いて手を伸ばす。
この言い表せない感情はなんだろうか。
分からないから怖い。
覚えていないから怖い。
どうして、アラジンがオミクロンに?
分からないままにミュゲイアはアラジンの名前を呼ぶ。
ただ、必死に笑ったまま名前を呼ぶ。
閃光のようにあっという間に過ぎ去っていった記憶の回帰が終わっても、脳神経を張り詰めさせた頭痛がすぐに引くわけではない。暫くはじっとりと不快感のある痛みが残るだろう。だが、少しずつでもそれは弱まりつつあった。
先程まで普通に会話をしていたというのに、ノートを開いて渾身の力作を披露した途端に、突如として苦しみ始めてしまったあなた方を、彼は一瞬惚けて見ていた。しかしすぐにハッと我に帰ると、アラジンはガタンと立ち上がって、顔を顰めている対面席のブラザーの元へ歩み寄り、「大丈夫か!?」と声を掛け始める。
「ミュゲまで……ミュゲは、前も苦しそうにしてたよな。もしかして、病気、なのか……?」
ミュゲイアまで表情を曇らせてしまう様に、アラジンは原因も分からず何度も瞬きを繰り返した。
ひとまずブラザー、あなたが落ち着くようにアラジンは背中をさすろうと腕を伸ばしながら、彼は目線をミュゲイアに向けていた。
「どこにも行くなって……どういうことなんだ? オレは、……オレは、どこにも行かない。もう少ししたらトゥリアクラスに戻らないといけないけど、そういうことじゃ……ないんだよな?
なあミュゲ、お前たちが大変な状況じゃ、笑おうにも笑えねえよ。
一体何があったんだ? ……ブラザー。」
恐れ慄いたようにつぶやくミュゲイアに応えて、アラジンは困惑しながらも首を横に振って見せる。
笑って、と請われても、彼らへの心配がどうしても優ってしまう。心苦しく思いつつも、ミュゲイアよりも冷静そうなブラザーに彼は状況を訊ねてみる。
《Brother》
「……、…… ………」
頭が痛い。ミュゲが怖がっている。身に覚えのない記憶が不愉快だ。アラジンが心配している。訳が分からない。アラジンが背中をさすってくれている。思い出したいのに思い出せない。星が綺麗。頭がぐちゃぐちゃになりそうだ。絵を描いてくれた。目の前の彼がなんなのか分からない。ミュゲが嫌がっている。アラジンが困っている。ああ。
───愛する人を、不安にさせてはいけない。
微笑んで、Brother。
貴方は手を差し伸べられる存在じゃない。
さあ、笑って。
甘く、艶やかに、美しく。
「……ごめん、ね。僕ら、最近……偏頭痛が、酷くて。心配させちゃったね、ごめん。
今度だれかに診てもらうよ」
それは、トゥリアモデルとして製造された人形の本能。欠陥品になってでも尚消えない、『Brother』というドールの本質。常に誰かを愛し、常に微笑む人形。瓦解した在り方であろうと、これだけは歪むことのない軸。
別れの記憶も覚えていられない失望も、大好きな弟に恐怖心を抱いてしまった失望も、最愛の“妹”を安心させられない失望も。全てがぐちゃぐちゃになって、コアが壊れてしまいそうになって。
けれどもコレは、壊れられない。ヒトを愛することを強制されたラブドールは、思考が止まったって動き出す。
愛すべき強迫観念で浮かべた笑みは、遍く星々に照らされいっそ芸術的なまでに美しかった。
そう、全くもって、いつも通りに。
「……ねえ、アラジン。
君の擬似記憶を、教えてほしいな。
僕ら、もしかしたら……ずっと前に、会ったことがあるのかもしれない。きっとミュゲも、そんな気がしているんじゃない?」
躊躇うように瞳を伏せて、やがて長い睫毛を持ち上げる。不安げに揺れる紫水晶はミュゲイアを一瞥してから、アラジンを見つめた。濡れたような瞳は、触れたら消えてしまいそうなほどに儚く光っている。
伸びのあるテノールが紡ぐのは、幸せへの小さな小さな一歩。
なんの意味もなかったとしても、止まることは許されないのだ。
さあ、動いて。
愛する全てのために。
幸せの繭が割れて満天の星空が覗いた。
ミュゲイアの知らないミュゲイアの幸せな記憶。
痛みを伴わないと思い出せない刹那的な快楽。
ミュゲイアには分からなかった。
この痛みはどうして現れるのか、まるで映画を見ているように流れ込んでくる記憶の正体も、どうして幸せをミュゲイアが忘れていたのかも。
全部、思い出せない。
ただ、向こうから唐突に現れて噛み付くようなキスで目覚めさせてくるだけ。
チラリとブラザーの方へと目線を向ければ、ブラザーも頭を抱えてアラジンに背中をさすられていた。
アラジンは心配そうにしている。
嗚呼、笑わせてあげないと。
こんな顔が見たかったわけじゃない。
ずっと、ずっと、一緒に笑っていたかったの。
幸せそうな笑顔を浮かべていたかったの。
「……わかんない。でも、笑えば平気だよ。だから、笑って? ………ずっと笑っていたいの。ずっとみんなで笑っていたいの。」
だから、流れ星を掴もうとする。
逃げていかないで、流れ星。
キラキラと輝いて、この手の中に落ちてきて欲しい。
この痛みが病気かもわからない。
病気を患っているからオミクロンなのか、オミクロンに落ちたから患ったのか。
ミュゲイアにはわからない。
ブラザーの言うような偏頭痛かも分からない。
ただ、ミュゲイアには笑うしかできない。
笑うことだけが特効薬であるから。
紫の星が問う。
もっと前から出会っていたのかもしれないと。
嗚呼、同じなんだと思ってしまう。
きっと、このドール達はどれだけ歪でも絡み合ってしまっているのだ。
蜘蛛の糸に絡んでしまったみたいに。
どこに行こうとしてもきっと同じ道を辿ってしまうのかもしれない。
「………ミュゲもそんな気がするの。ミュゲ達ずっと前に出会ったことがきっとあるんだよ。」
口だけで言うならロマンチックな話。
ロマンチックに堕天する夢。
ミュゲイアはブーゲンビリアの瞳を見つめる。
鮮烈なほどのその煌めきを追いかけるように。
「そうか、偏頭痛……それなら早く先生に診てもらえよ。あんな苦しみよう──いつ身体を壊すかって思ったら、心配で心配で見てられない。」
こちらを安心させようと必死に努めるブラザーの言葉に、アラジンは困惑混じりにもどうにか納得を示したようだった。まだあなた方を案ずるような眼差しは取り止めてはいないものの、確かに少しずつ落ち着き始めているようにも思える症状を確認し、ひとまず手を引くだろう。
何となく、彼らの頭痛の種になったような気がして──広げていた群青色のノートを、彼はさっと机上から引いていく。
ミュゲイアにそれでもと笑顔を乞われれば、確かにこちらが不安そうにしていれば不安も伝播するだろうと、彼は形だけでも美しい微笑みを浮かべてくれるはずだ。
「オレの擬似記憶? ああ、別に構わねえけど、……前にも会ったことがあるって、ミュゲもオレに言ってたよな。
オレは本当についこの間学園に来たばかりで、それについては分からねえし、覚えも無い。でもお前たち二人が同時にそう感じるなんて……普通ならあり得ない、よな。」
彼は少し悩ましげに唸った後、再度席に腰掛けると。まるで絵画や物語の人物を恋しむような空想的な瞳を星空へ向けて、口を開く。
「オレの擬似記憶は、大好きなエメラルドの少女と夜通し星を眺めた記憶だ。見晴らしのいい丘に二人で寝っ転がって心地よい風を感じながら、ずっと眠くなるまであの子と話してた。絵本みたいに綺麗な記憶だろ?
だからオレは誰かと星を見るのが好きで……こんなサークル活動をしてるって訳だ。
でも、不思議だよな。……オレもお前たちとは初めて会った気がしない。お前たちが前に会ったことがあるって言うなら、なんかそうなのかもしれねえ。どういう訳かは分からないけど。」
あり得ないことでも、不条理でも、彼らがその可能性を信じているのなら。
それらを頭ごなしに否定するのは、アラジンの芸術ではなかった。
《Brother》
「……そっか。素敵な擬似記憶だね」
アラジンの言葉に微笑む。
ほんの少しの落胆、けれどそんなものは弟の慈しむような瞳を見ればどうでもいいことだ。ブラザーはあまりにも素早く切り替えて、続く言葉に曖昧に笑ってみせる。閉じられたノートに体の奥がズキリと傷んだが、今のブラザーには気づけないことだった。
ミュゲイアも同じだと言っていて、アラジンすらもそんな気がすると言っていて。きっとこれは、不確かな本物の記憶。
なら、することは決まっている。
「僕ら、ずっと昔に……夢で出会っていたのかもしれない。そのぐらい、君と星を見るのを楽しみにしてたのかも。
……ふふ、折角だしさ、みんなで星を見ようよ。
僕、あんまり星座とか分からないから……サークル先輩のふたりに、教えてほしいな」
ロマンチックな幻想を語るみたいに、緩めた口角から言葉が零れた。甘美に細められた双眼が二人を交互に見て、最後に夜空に向けられる。うっとりと見つめる眩い星の輝きに、ブラザーの心はもう揺れ動かない。それなのに、こんなにも楽しそうに表情が動いた。
椅子から立ち上がって、優雅でありながらも無邪気に、ガーデンテラスを歩きだす。踊るようなステップで星がよく見える位置に移動し、2人の方を向いて急かすように笑いかけた。冗談っぽく声をはずませては、二人がやってくるまで空を見上げて待つだろう。
「綺麗だねぇ」
まるで舞台の上で、役者が愛を囁くように。人形はコアに刻まれた台本を読み上げる。
二人が幸せじゃなさそうだから、この話はもうおしまい。
さ、ほら、もっと楽しいことをしよう!
ブーゲンビリアの花が咲いた。
やっと、アラジンが笑ってくれた。
それを見てミュゲイアもゆっくりと微笑む。
暗くなってきたガーデンテラスの中で一等輝く笑顔はまるで星々の煌めきのようであり、熱砂の夜を灯すランタンのようでもある。
とても熱くてそれでいて心地の良い静けさ。
アラジンの言葉にミュゲイアは笑う。
なんの根拠もないことではあるけれど、ミュゲイアはアラジンと会ったことがあるとそう思っている。
アラジンと一緒にいて感じたこの痛みは、流れてきた記憶はそれを確信させてしまうほどに鮮明でそう思ってしまう。
何故、それをお互いに覚えていないのかはわからない。
けれど、確かにこうやって星を眺めたのは初めてではない気がしてしまう。
また、ミュゲイアは自分がわからなくなるだけである。
「とっても綺麗! 素敵な疑似記憶だね! とっても幸せ!
………夢。ミュゲたち夢で会ってたならとってもロマンチックだね!」
アラジンの語る疑似記憶は甘すぎるほどに美しく、蕩けてしまいそうなものであった。
疑似記憶を語るアラジンの瞳が綺麗で、御伽噺のようであった。
うっとりしたようにミュゲイアは両手で頬杖を付いてアラジンを見つめる。
とても幸せなこの話と笑顔に溺れるように。
そして、ブラザーの方へと目を向けた。
夢。もし、そうだとするならばとてもロマンチックな事であった。
ミュゲイアがその言葉を信じているかどうかで言われれば、それは微妙である。
けれど、そのロマンチックな言葉にミュゲイアは頷いてしまった。
夢だと思えばこの痛みも可愛らしくみえる気がしたから。
夢なんて馬鹿馬鹿しいものを上から被さるしか今は出来ないのだから。
「……ミュゲね、今度はもっと広い場所で星を見たいの! ガーデンテラスよりも広くてお星様にもっと近い場所で星を眺めるの! そうしたらきっともっと笑顔になれるでしょ? ……それでね、星を眺めるアラジンの事を絵に描くの! お兄ちゃんの笑顔も描くね! だから、もっと笑って!」
白銀が踊るように語る。
踊るように星に照らされる。
無邪気に笑った笑顔がとても綺麗であった。
嗚呼、好きだと思ってしまう。
この笑顔だけは嫌いにはなれない。
この笑顔にも釘付けだから、ミュゲイアはブラザーとの関係を切ることが出来ない。
どこまでもふざけていて馬鹿げたごっこ遊びだとしても、続けてしまう。
だって、笑顔がないとミュゲイアはただのガラクタになってしまうから。
その笑顔を追いかけるようにミュゲイアも椅子から立ち上がれば軽やかな足取りで、踊るようにブラザーの方へと寄っていく。
まるで、甘い花の蜜に吸い寄せられる虫のように。
煌めく星を反射させてキラキラと輝く髪の毛を揺らせて、ミュゲイアは語る。
今度は、いつか、もっと広くて星を掴めてしまいそうな距離の場所で星空を眺めようと。
その美しい砂金の空をみんなだけのものにしてしまおうと。
もう、彼らの顔に暗雲は差していなかった。
ブラザーは包み込むように甘くどこまでも優しい微笑みを浮かべているし、ミュゲイアは己の形ばかりの笑顔を見据えて、やっと安心してくれたように心地良く笑っている。
アラジンはミュゲイアのように、あなた方の笑顔によって混乱や不安から掬い上げられた。こんな感慨を受けて、やはりミュゲイアの芸術は素晴らしいものだなと純粋に感心するのである。
そんな彼女の、夢見がちなロリポップのようなきらきらした言葉を聞いて、彼は瞬きをしていた。
「ガーデンテラスよりも広い、星に近い場所──」
喉を反らして、瞬く星芒の散らばりを見上げる。
瞬き合う星屑の、光の強いものから燃え尽きて朽ちかけた暗いものまで。愛おしいあれらは全て虚飾のマガイモノに過ぎず、ドールをどこまでもまやかしに耽らせるものだった。
この空を打破して、本物の星空を見たい。
それはアラジンの希望だった。
√0の導きだった。
「──それ、いいな、ミュゲ! お前が俺と同じことを考えてくれて嬉しいぜ。
いつか……必ず。もっと良い場所で星を見よう、三人で。そしたらその時は、お前がオレ達を描いてくれ。」
先で待つブラザーの元へ向かう前に、傍に立つミュゲイアに笑い掛ける。自身の希望を映し出したように述べる彼女の気持ちが染み入るように嬉しかったのだ。
だが今は、このまやかしの星空ででも、あなた方とのひと時を楽しんでいたい。
「今行く、ブラザー! アハハ、オレに任せろ、見える範囲の全部の星座を教えてやるから!」
アラジンもまた、ミュゲイアの後を追う形でロマンチックなプラネタリウムの中心へ向かう。
心は浮き立っていて晴れやかだった。
全てが閉ざされた鬱屈とした学園ではあり得ないぐらいに。
《Storm》
ソフィアが去った。
モノクロに近かった瞳に微かに色彩を取り戻して。
──彼女はあとどれ位持つだろうか……。時間の問題じゃないか?
去って行くソフィアにお辞儀をしてる中、アメジストは問い掛けてくる。ストームは自身の中に出た答えを唾と共に飲み込み思考を新しいものにした。
次の仕事に向かうとしよう。
ストームは足早に移動した。リヒトのノートに記された『二階と三階の踊り場に扉があった』という文字を思い出し一階の階段の前まで来てしまった。
周りにどの程度、監視の目があるか。それによっては日にちのかかる作業になるかもしれない。
覚悟を決めると、ゆっくり階段を一段ずつ踏みしめて行った。
まさか決めた覚悟とは別の厄災が自分に降り掛かることになるとは……ストームは微塵も思っていなかっただろう。
ストームの忌み嫌う道化の影が彼を捕らえるその時まで。
いつものようにミュゲイアは学園にいた。
変わりのないその風景ではあるものの、この場には笑顔がある。
不気味なほどに整った笑顔に対して笑顔を返してくれる人は少ない。
軽い足取りでミュゲイアは歩くばかり。
今日も笑顔を求めて歩いている。
その純白の瞳はキラキラと七色の彩色をしていて、綺麗な笑顔だけを吸い上げてしまう。
グルグルとミュゲイアが自分のことを考えても答えはでない。
いつまで経っても終わらない悩みに頭を抱えつつも、どこか楽観的な思考はフワフワとしていて綿菓子のように膨らんでは溶けていく。
そんな中でミュゲイアは見知った後ろ姿を見つけた。
同じクラスのストームである。
彼もまたミュゲイアの大好きな笑顔の一人。
ミュゲイアを笑顔のある場所に連れて行ってくれる頼もしい友人。
その後ろ姿を追いかけて後ろからミュゲイアは声をかける。
「ストームだ! ねぇ、ねぇ! 何してるの! 笑顔のあるところに行くの? それだったらミュゲも連れて行って!」
かのドールが忌み嫌う道化のドールはそんなことも露知らず、風船を渡すように話しかける。
いつもと変わらない貼り付けの笑顔は完璧に計算されたような機械的な笑顔をしている。
そんな顔でミュゲイアは彼に話しかけるが、彼があの開かずの扉へと続く階段を登っているのを見てそれ以上近づこうとはしなかった。
《Storm》
毛のよだつような悪寒を感じた時には既にストームは袋の鼠さ。脳に響く声色。ズンズン大股で近付いてくる道化、いや、悪魔はストームの背後を突き刺すような衝撃を与える事だろう。ぐるりと目を大袈裟に回し、肩でため息をつく。
感情表現の乏しいストームがここまで感情を露わにするのはこのトイボックスの中では、愛しのディアとこの悪魔しか居ない。
「……ノイズが酷いな。先生に後で点検してもらわないと」
顔すら向けず自身の頭を軽く叩いた。
話し掛けられた事実なんて無かった。
そもそもミュゲイアになんて会っていない。
そうしよう。
けれども彼女が執拗に、それも笑顔と同じくして機械的に話しかけてくるのであれば話は別。
「欠陥品は口を閉ざす術を持ってないので──」
ストームの脳内にキンキン響いた彼女の声に痺れを切らすのは早かった。それはちょうど三階に上がる階段に足をかけた時だった。
作業をするためにミュゲイアの存在は邪魔でしかない。邪魔なものを排除しようとようやく彼女に声をかけた瞬間、すぐ後ろから聞こえていた足音が止んだ。
ようやく、ここでようやくストームはミュゲイアの方を振り返るだろう。
ニコニコ。
羊の皮を被った山羊はただ笑う。
その真っ白のシルクの瞳を細めて、月明かりが照らすだけの夜空の色の髪の毛を見つめてただ笑う。
目の前のドールが自分のことを嫌っているなんて全く知らないミュゲイアはただいつもと変わらずニッコリ笑う。
鈴蘭の匂いをほのかに香らせて、ストームの側へと寄っては下から顔を覗くように見つめる。
「ストーム壊れちゃったの? 大変! 早く笑って! 笑えば元に戻るよ! 元気いっぱいの優しいストームに戻れるよ! だから頭なんて叩いちゃメッ!」
パーに広げた手を口元に持ってきてノイズが酷いという彼の言葉に彼のことを心配する。
もちろん、それが嫌味だとも気づかずに。
軽く頭を叩くその姿を咎める。
「ストームとお話するの楽しいからついついいっぱい喋っちゃうの! いっぱい笑顔になれちゃうね! ……ストームは此処で何してるの? 今日もミュゲを笑顔のところに連れてって!」
ミュゲイアの方を振り返ったストームの二種類の宝石を見つめてミュゲイアは笑う。
お喋りな口は黙ることを知らずに、ズケズケと話しかける。
今日もいっぱい笑顔のところに行こう!
2人で仲良くお散歩をしよう!
《Storm》
視界の中に蚕で編まれた白が入り込んでくる。
鼻を掠める鈴蘭の香りは癒しとはかけ離れた感情を抱かせてくる。
相変わらず鼓膜を突き抜け脳に金属音のような衝撃を与える声。
そして他のどんな要素より、何よりも、張り付けの笑顔。
不快……不快不快不快……不快だ。
ミュゲイアと関わる時、何度このテーセラの五感を恨んだだろう。何度感覚を殺そうとしただろう。
ストームは長い前髪を触り、視界を暗くする。
けれど映り込んでくる白は消えない。
むしろギョロりと見開かれた眼がじっとりちぐはぐの瞳を掴んで逃さない。
訴えかけてくる白い眼がどうしようもなく気持ち悪いんだ。
「カフェテリアに行ってみたらいかがです? あそこには貴方様の大好きな笑顔が溢れかえっていますよ」
一瞬、ミュゲイアの足が止まったようにも思ったが未だに話しかけて来る彼女を見ると勘違いだったのだろう。と、再び足を進める。
散歩? 笑顔の場所? バカバカしい。
開かずの間はもう目と鼻の先だ。
出来ることなら手早く調査を終わらせたいと、足を進めるだろう。
止められなければ扉の前まで到着してることは間違いない。
落ち着いた静かな声がミュゲイアの耳を撫でる。
いつもと変わらないストームの声。
貼り付けたような笑顔は変わらない。
これでも、ミュゲイアは心の底から笑っているのである。
造られたドールの笑顔はいつも完璧で、愛する人を虜にする。
トゥリアらしい甘ったるい笑顔。
それを不快に思われているなんて全くもって思わない。
笑顔を不快に思う存在がいるなんて思わない。
だって、いつだって笑顔はみんなを幸せにする。
不快にするのは笑顔じゃない表情の役割だ。
笑顔はみんなを照らして幸せにするものなのだから。
「じゃあ、ストームも一緒に行こ! ミュゲね、ストームの笑顔が見たいの! こんな所にいるより笑顔になれるよ! だから、ここから離れよ!」
また、ストームが足を進めようとすればそれを阻止するようにストームの腕を掴もうとするだろう。
もちろん、振り払われてしまえば何も出来ないけれどか細い腕でギュッと掴んでしまうだろう。
トゥリアの非力なその力で。
だって、その先は怖いから。
その先は笑顔になれないから。
きっと、ミュゲイアの手は微かに震えているだろう。
あの時の底知れない恐怖を思い出して。
いつもと変わらない笑顔でミュゲイアは問いかける。
ここはやめようなんて。
《Storm》
ミュゲイアの小さな手に捕まった。
しかし柔らかくて白くてすぐにでも捻り潰せるような手を、乱暴に振り払うことはしなかった。
ストームは大きく少し筋の浮き出た手を重ね引き剥がす。
振り払いたい衝動を沈めてか、手つきが妙に優しくなるのを感じるだろうか。
彼女はトゥリア。
繊細で脆いモデル。
簡単に壊れてしまう。
彼女傷つけてしまったら、彼女のお披露目が長引いてしまうかもしれない。
だから、きっとストームはミュゲイアには酷い手出しはしない。……違うな、出来ないだろう。
だがミュゲイアは辞めなかった。
再度ストームが歩み出そうとすれば細腕で彼の腕に絡み付き意図も簡単に捕まえた。
本当に彼女の執念深さにはため息が出るよ。
ストームも苛立ちが顕著にではじめる頃だろうね。
でも、違和感に引っかかった。
捕まった腕を抜こうとしたその時。彼女の手が震えている事に気付く。
話半分にしか聞いていなかったがミュゲイアは確かに「こんな所」と言った。
おかしいよね。何の変哲もない階段の踊り場にミュゲイアは怖がっているらしい。
依然として不気味な笑顔が張り付いたままだったが、少し強ばった笑顔がストームの目の前にあった。
知らないフリをしておけばミュゲイアは怖い所に行かなくて済んだのかな?
不幸にも猟奇犯は怯える道化を目の前にドクンと本能を呼び起こしてしまった。
絡められた腕からスルスルとミュゲイアの手を取り指を絡める。非力な彼女が簡単に逃げられないように。
抵抗すればするほど彼女の小さな手を握る拘束が強くなっていくだろう。
「では共に行きましょうかミュゲイア」
ギュッと掴まえた手はいとも簡単にストームの大きな手によって引き剥がされる。
テーセラというに十分な大きな手。
少し筋の浮き出た頼もしい手。
その手で優しくミュゲイアの手を引き離す。
まるで、トゥリアであるミュゲイアのことを気にしてくれるように。
壊れやすいシャボン玉を扱うように。
手を離されてもミュゲイアは負けじとまた、ストームを捕まえた。
こっちも折れる気はないらしい。
フルフルと震えるの力込めているからか。
それとも、この先が怖いからか。
けれど、そんな恐怖も続かなかった。
ストームが手を握ってくれた。
それを見てミュゲイアは笑顔になる。
もちろん、ミュゲイアはカフェテリアに行くつもりなのだから、抵抗もせずにストームに話しかける。
「やったー! ねぇねぇ、カフェテリアで何する? あっ! ミュゲがホットミルクいれてあげる! 蜂蜜たっぷりのやつ!
……だから、そっちじゃないよ、ストーム?」
目の前のドールが階段を登ろうとするのを見てミュゲイアはグッと足を止めて、ストームのことを見上げる。
こっちじゃない。
あっちの階段から行こう。
その先には怪物がいるんだから。
《Storm》
ストームが手を握るとたちまちミュゲイアは笑顔になった。元から笑顔だと言うのにこう表現するのは変かもしれない。だが、笑ったのだ。嬉しそうに。
不気味。でもストームには都合が良かった。
抵抗せずに着いてきてくれるから。
再び歩き始めると、ミュゲイアはピタリと足を止めた。
やはり、見立て通り。
ミュゲイアは開かずの間について何か知っている。そして恐れている。
好都合も好都合。なんて素晴らしい豪運なんだ。
ストームは高笑いしてしまいそうになるのを抑え込むのに必死だった。
「いいえ、こっちですよミュゲイア。
気分が変わったので一緒に遊びましょう。
………あの場所ついて何か知っていますよね?」
ミュゲイアの細腕を軽く引っ張り、一段、また一段踊り場に近寄っていく。全力で彼女が嫌がったところでストームは踊り場の壁を指さし問い掛けるだろう。
これ以上はダメなそんな気がした。
また、怖い思いをしてしまう。
また、恐ろしくて走ってしまうかも。
また、泣いてしまうかも。
ミュゲイアは警告を鳴らす。
これ以上はダメ。
「ヤダよ! 遊べないよ! ここじゃない所で遊ぼ? ……開かずの扉はミュゲ、イヤなの! 幸せそうじゃないって言われちゃうの!」
ミュゲイアはブンブンと首を振る。
遊びたいというのはとても嬉しいけれど、この先に行くというのにミュゲイアはついて行くことが出来なかった。
フルフルと首を振るけれど、トゥリアのミュゲイアがテーセラであるストームに力で勝てる訳もなく半ば引き摺られるように階段を一段、また一段と登ってゆく。
「………ヤダ! ヤダヤダ! ミュゲ怖いの!」
指を指されたその先を見てミュゲイアはとうとうしゃがみこんでしまった。
笑顔のままに怖がる子羊。
今にも食われてしまいそうな小動物はただ訴える。
怖い。とても怖いと。
《Storm》
果たしてしゃがみこんでしまった子羊を猟奇犯はみすみす見逃すだろうか?
──否、きっと痛ぶり嬲る。弱りきったところで子羊の毛皮を剥いで悦に浸るのだ。
ミュゲイア、その笑顔の毛皮の下を見せて?
ストームは笑う事以外の幸せを彼女に教えたいだけなのです。
善意? 偽善? いいえ。見せかけの善意すら無い彼のほんの興味。
しゃがみこんでしまったミュゲイアと同じ目線までしゃがみ、彼女の耳に囁いた。
「時にミュゲイア、人それぞれ幸せを感じる事に違いがあります。
感じるんですよ。ジブンはあそこの部屋に入れたらきっと幸せになれます。笑顔になれます。
ねぇミュゲイア。
貴方様はジブンを幸せに、笑顔にしたいのでしょ?
そのためのお手伝いをしてください」
蚕で編まれたような白い横髪を彼女の耳にかける。
視界が広くなったであろう彼女の顔に覗き込み、首を傾げた。
ねぇ、ミュゲイア。その笑顔の下の感情が欲しいよ。
ドクン。
コアが一際大きく揺らいだ。
逃げることも出来ない子羊は狼に喰われて終わるだけ。
皮を脱がされ裸のままに晒されてペロリと骨の髄まで嗜まれてしまう。
茨に囲まれた子羊。
涎を垂らした子羊。
ほら、幸せが呼んでいる。
鐘の音がなる頃には飛び出さないと。
茨の道を歩かないと。
無駄なものは全て剥ぎ落として、生まれたままの姿で縋りましょう。
己の欲に飼い慣らされて。
首輪を引っ張られて。
アン、ドゥ、トロワで歩きましょう。
さぁ、吊るされた糸に動かされて。
そのブリキの足を進めて。
ガラクタの山をかき分けて。
メリーゴーランドを回せ。
幸せのために踊りなさい。
幸せのために裸体を晒しなさい。
愛おしい幸せを掴みなさい。
壊れた頭で、壊れた体躯で、犯された思考回路で。
幸せを掴みなさい。
笑いなさい。
羊飼いの言葉の通りに。
狼に渡された蜜を飲み干しさない。
笑顔は、幸せは、とても気持ちがいいでしょう?
欲しくて堪らないでしょう?
涎を垂らすばかりではご褒美はお預け。
さぁ、幸せの白い鳥。
早くその羽を広げて。
幸せを運んで墓地に帰りなさい。
「……幸せになってくれるの? 笑ってくれるの? ミュゲ、ストームの笑顔が見たいの。ストームを幸せにしたいの。
………ミュゲ、頑張るから笑ってね。大好きなストームの笑顔をちょうだい?」
待てはきっと出来ません。
美味しい餌には食いついてしまいます。
かのドールを見つめる純白の瞳は何よりも澄んでいてドス黒い。欲深い白色。
ミュゲイアはゆっくりと立ち上がった。
小鹿のような足取りで開かずの扉へと近付いて行く。
笑顔が見たいの。
幸せを掴みたいの。
プレゼントしたいの。
何よりも欲深く三日月を象った笑顔でミュゲイアは歩き出す。
裸のままに茨に攫われる。
この身を焦がしてもそのドールは求めてしまう。
一歩、二歩。
ストームの言葉に足が動く。
恐ろしいその先を。
手を伸ばしてしまう。
以前も見たあの扉は、踊り場の壁にぴったりと馴染むように存在した。一見何もないように見えるため、多くのドールはその扉の存在に気が付かず、前を通り過ぎてしまう。
まるで、ドールの生活には不要な区画だから、巧妙に隠されているかのようだ。
しかしよく観察すると、扉枠はきちんと存在している。ドアノブなどは存在せず、故に開き方が定かでない扉だった。
子羊は崖の傍。
きっと、一歩間違えればどこまでもゆっくりと下へ下へと落ちてしまう。
真っ暗な奈落の底。
ミュゲイアの足取りは一歩、一歩が重苦しく足を掴まれているように上手く動かない。
嗚呼、恐怖がミュゲイアを抱きしめる。
それなのにかのドールの言葉が背中を押してくる。
手を掴んで踊らせる。
まるで赤い靴を履いて踊るように。
壊れかけの硝子の上を踊らされる。
茨の道は追いかけてくる。
手を伸ばして、裸体を抱きしめて。
ギュッと蕾を踏み潰すように。
標本を大事に握るように。
開かずの扉が抱き締める。
開かずの扉に近づけば、その近くに置かれているハイテーブルの上の花瓶と目が合う。
真っ赤な茨に薔薇が咲いた。
どこまでも深紅の薔薇。
嗚呼、薔薇がミュゲイアを見つめる。
その瞳を抉るように。
刺してしまうように。
美しく恐ろしい薔薇がミュゲイアを嗤っている。
鮮明な深紅が純白の瞳を染め上げる。
ゾッとするようなその赤がミュゲイアを手招きする。
優しく触れて。
愛撫するように。
ピクピクと指先が震える。
触れてはいけない糸車のように、薔薇はミュゲイアを見つめる。
荒い吐息を漏らしながら、ミュゲイアは花瓶の薔薇に手を伸ばす。
それを触れたら眠ってしまうでしょうか?
茨に抱かれてしまうでしょうか?
長く感じてしまうほどに時の流れは遅く、全てがスローモーションに見えてくる。
薔薇に初めてを添えて、純潔を散らすように触れて。
ミュゲイアも知らないこの感情に名前をつけて。
額を撫でる汗を舐めとって。
壊さないでと願っているのは薔薇の方か、ミュゲイアか。
あなたがそれに一歩近づくたび、コアの発する模倣された鼓動が厭にその速度を増していく。あなたの脳内では常に警鐘が打ち鳴らされていて、恐怖に頭が喰い蝕まれてゆくようだった。
それでもあなたは必死にその恐怖を抑え込み、震える指先を赤い花瓶に添えるだろう。
あなたは何も分からないし、何も覚えてはいない。
それは、掘り起こしてはいけない記憶だ。
思い出さないようにしなければいけない。いけないのに、あなたはそれでも、手を伸ばしてしまう。
薔薇の生けられた花瓶が置かれたテーブルの側に、ミュゲイアだけは何があるか知っていた。
テーブルを押し退けた裏側には、隠されたスイッチがあるのだ。
それを押すだけで、扉の施錠が開かれる。
あなたはそれを“知っている”。
──だが、本当に開けてもいいのか?
この扉は、今は封じられている。怪物と共に。それでいいはずだ。これは、開けてはいけない扉なのだ。
ミュゲイアは、ハイテーブルのそばに立っている。
それを、ストームは後ろから見ているはずだ。きっと、このテーブルに何かがある──そう察するだろう。
ストームはどうするだろうか。
《Storm》
鈴蘭の欲を掻き立てる方法なんて簡単で、容易かった。想像通りに欲に駆られた鈴蘭は、ストームの価値すらない笑顔を求めてその足を一歩、また一歩と闇に進ませて行く。
ストームはその姿を後ろからじっと見つめていた。
ミュゲイアはそのうちにハイテーブルに飾られた一輪の薔薇に手を伸ばし始めた。
すっかり背景に溶け込んでしまって気付きもしなかった薔薇が鋭い棘を携えそこに存在していたのだ。カタカタと震える彼女の指先の揺れが何故だか大きく見えている。
心拍、息遣い、身体の強張り、汗……。
ミュゲイアは今かなりのストレス下に居る。
悲しきかな、彼女に手を差し伸べる騎士は居ないんだ。
居るのは、いつも能天気な彼女の違った反応を興味深そうに見つめるネジの外れた劣性ドールだけ。
彼は彼女をちぐはぐの瞳の奥に据え置き、観察している。
いよいよミュゲイアが花瓶に触れた。
双方が触れ合ってしまえば形を留めることが出来ずに崩壊の末路を辿る……なんてことはなかったが、それと同等の儚さ危うさを持っている。
その慎重な仕草から読み取れるのは壮絶もない恐怖。
ミュゲイアが普段見ないようにしている感情。
感情の芽生え、想像も絶する恐怖体験、素晴らしい!
今最もミュゲイアに必要だった。彼女にとって今日という日は転機となるだろう。
ストームはそんな高揚感で満たされているはずだ。
それと同時に、せっかく芽生えたその感情に飲み込まれて壊れられるのも厄介だとも。
エルの時は欲張りすぎたから、同じ轍は踏まない。そう、ゆっくりやればいいさ。覚えさせるのも。教えるのも。
ストームはゆっくりミュゲイアの伸ばした手に自身の手を重ねた。そして背後から小さな彼女の肩を抱き締める。
彼女の柔らかな身体を大きなストームの身体が包む事だろう。
「もういいですよミュゲイア。ありがとうございます。
ジブンは今凄く嬉しくて堪らない。
貴方様が幸せの他に感情を持ち合わせてたなんて……。
あぁ、ミュゲイア分かりますか?
貴方様も皆と共に泣けるという事ですよ。
それが知れて良かった……」
ストームは彼女を抱擁したままに告げた。
愛を囁くように、まるでディアのように。
心底安心したと言わんばかりの声色だが、妙に弾んでいるのは隠せない。
ミュゲイアが笑顔以外を不要だと切り捨てるのと同等に、ストームは彼女から笑顔を取り払いたい。その記念すべき一歩が今日更新された訳だ。
コロコロと表情が変わるようになれば彼女はきっといいドールになるよ。
ストームの勘がそう言ってるから従うまで。
そっと彼女の手を花瓶から離すと、ストームは立ち上がりハイテーブルを調べ始める。
遊びは終わり。職務に戻るとしよう、と。
恐怖がミュゲイアを抱き締める。
荒い吐息は苦しそうで、首を締め付けられているように浅くか細く漏れている。
ドクン、ドクン。
コアが酷くうるさい。
うるさく鳴り響くコアはこれ以上近寄るなと忠告しているようで、やけに身体が熱くなる。
嗚呼、知っている。
これは思い出してはいけない記憶。
これは呼び覚ましてはいけない記憶。
このスイッチを押してしまえばきっと硝子は割れてしまう。
恐ろしい恐ろしい怪物が目を覚ましてしまう。
いとも簡単に幸せを潰されてしまう。
ミュゲイアが確かに感じたこの感情は恐怖である。
この恐ろしい恐怖に勝つことなんてできっこない。
これは開けていいものではない。
覗き込んでいいものではない。
危ない。恐ろしい。怖い。嫌だ。幸せにならなくちゃ。不幸せには蓋をしなくちゃ。
早く、早く、早く。
笑顔にならなくちゃ。
笑顔を見つけなくちゃ。
ミュゲイアは真っ赤に薔薇に触れれば小さな悲鳴を上げて後ろに後退りをする。
震える指を、震える肩を、抱き締めたのはストームだった。
心底安心したように、まるで犬を愛でるように。
その狩人はミュゲイアに囁く。
「……あははっ、ははっ。……ダメなの……笑わないと。ねぇ、ストームダメだよ。ダメなの。此処はダメなの! イヤなの! ねぇ! ねぇ! 早く逃げなきゃ! 早く! 不幸せになるの! 幸せが逃げちゃうの! 早く捕まえて! 早く此処から逃げなくちゃ! ……ダメ、ダメ、ダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメ。こんなのダメなの。笑わないといけないの!」
ここは危ないの。
危ないところで遊んではいけないでしょ?
危ないところは遠ざけないと。
危ないところに笑顔を寄せちゃいけないの。
ポツリ、ポツリ。
ミュゲイアの頬を宝石の雫が撫でる。
いつもと変わらない笑顔は必死そうで、ギョロギョロとした目はどこを見ているのかわからない。
ただ必死にストームと此処を離れようとする。
もう、限界だった。
ミュゲイアはストームの腕をギュッと掴んでしまうだろう。
震える手に力を込めて、精一杯問いかける。
ガラクタは問いかける。
この恐ろしい場所から連れ出してと。
こんな危ないところに居てはいけない。
愛する笑顔を此処に置いてはいけない。
ねぇ、怖いのは嫌でしょ?
ねぇ、苦しいのは嫌でしょ?
全部、全部、忘れさせて。
「……ダメだよ、ストーム。助けて。笑って。ミュゲを幸せにして。」
《Storm》
テーブルに触れると背後から悲痛の叫びが耳を劈く。
叫び声は壊れたビデオテープを再生したようだった。
ストームは彼女の言葉をまるで理解出来ない。
仕方ないよね。修理の余地はあれど彼女はまだ欠陥品。
所詮ミュゲイアはミュゲイアだからね。
ストームは自分の中でそう納得させたんだと思う。
彼女の警報を鳴らす彼女に目もくれずにテーブルの調査を進めたからきっとそう。
それでもミュゲイアがストームの腕にしがみつけば、さすがのストームも手を止める。
トゥリアモデルとしては力強く掴まれ、ようやっとミュゲイアに目を向けたんだ。彼女は泣いていた。
泣いて笑って怯えて懇願して、彼女はぐちゃぐちゃだった。
「………貴方様を幸せに出来るのはジブンじゃない。
ジブンはクラスメイトを手助けするのが仕事です。だから、もちろん貴方様をお助けしたい。
けどね、ミュゲイア。
手助けにも優先順位があるんです。これ以上貴方様を苦しめたり怖がらせたりしない事を誓います。
ですからテーブルだけでも調べさせては貰えませんか?」
ちぐはぐの瞳でギョロギョロと焦点の合わない真珠を見つめる。控えめな手付きで頬を撫で、つたる雫を親指で拭った。
一度首を縦に振ってくれればいい。それだけでいい。
硝子の下には怪物がいるの。
万華鏡の裏からは怪物が覗いているの。
目を合わせちゃうと食べられちゃうの。
小さなドールなんてきっと丸呑みにされて胃液で溶かされちゃうの。
助けてって声すら出せずに終わらせられちゃうの。
だって、怪物だもの。
ドールを怖がらせる怪物だもの。
ジェヴォーダンの獣みたいに恐ろしいのよ。
怖い、怖い、存在なんだよ。
だから、この先を開いちゃいけない。
だから、この先を覗いちゃいけない。
怪物と目を合わせてはいけない。
その先は危険かもよ?
腕をもがれてしまうかもよ?
玩具みたいに扱われて腸を晒されちゃうかも。
だから、ダメなの。
その花瓶に触れてはいけない。
そのテーブルを起こしちゃいけない。
ずっと、眠らせておかないと。
薔薇と一緒にそのままに。
「ダメ! 触っちゃダメ! もう、今日は帰ろ? 不幸せになっちゃうよ! ……怖いの!」
テーセラの頼もしい手がミュゲイアの頬を撫でた。
それでも、ミュゲイアはストームのことを掴んで離さない。
此処は怖いから。プルプルと震えた身体でずっとミュゲイアはダメと言う。
もう、この脚は動かないだろう。
底知れない恐怖のせいで動かない。
腰を抜かしたように座り込んだまま荒い吐息でダメダメと繰り返す。
愛し子を危険から守る母親のように。
揺籃を壊されないよう抱きしめるように。
うわ言のように似たような言葉を繰り返しながらグチャグチャの目でストームに縋るばかり。
《Storm》
ミュゲイアは何を見ている?
ミュゲイアは何を感じている?
ミュゲイアは何故脅えている?
最初はストームのほんの興味に付き合わされただけのはずだった。
ストームは彼女が幸せ以外の感情をしっかり持っている事に感銘を受けた。
それを知れるだけで良かった。
けれど今なんでどうだろう。
ミュゲイアはストームがテーブルに触れる事でさえ拒んでいる。
テーブルに何か仕掛けがあったとしても、作動させるわけでも無ければ、テーブルに仕込まれた道具を使って彼女を襲おうとしてる訳でもない。
今は調べるだけにして、お披露目までにもう一度赴こうとしていたようだ。
──邪魔だな……。
ストームの口は確かにそう動いた。
幸い声は出さなかったものの、虚ろな目で空虚を見て思わずでた言葉に気付くのは数秒後。
ストーム自身も初めは自分が何を言いそうになったか分からなかった。けれどだんだん脳がストーム自身に教えていくと彼は理解した。
ミュゲイアが読唇術を持っていてストームの小さな口の動きに気づいたらきっと読み取られてしまうだろう。
彼女にそんな余裕あるようには思えないけど。
さすがに周りの目もある。
これ以上の調査は現実的では無さそうだ。
「そう、ですか……。残念です。
テーブルに触るのは辞めておきましょうか」
ストームはミュゲイアの拘束から体を引き剥がすと立ち上がった。すっかりへたりこんでしまった彼女は立てそうにも無いだろうね。ポケットに手を入れたが、あいにく今彼女の涙を拭けるようなものは持ち合わせていない。
仕方なく彼女の腕を自身の首にかけ、膝の下に腕を入れると軽々しく彼女を抱き上げた。
欠陥品相手にこんな丁寧に扱う必要性は無いのだが、今はこれが一番効率がいい。
「カフェテリアに行きましょうか」
今、この子羊の瞳には何が写っているだろうか。
何に怯えているのだろうか。
何も覚えていない、何もわからない謎に恐怖しているのだ。
今までに感じたことのない感情の芽生えにミュゲイアはどうする事も出来ない。
ただ幸せしかない箱庭で生きてきたミュゲイアにとって、それはとても大きく歪みになるには十分過ぎるものであった。
幸せを与え笑顔を贈る、それだけで良かった。
底知れない恐怖も謎もそれ等は要らないものだった。
なのに、それらを取り除くにはそれらを知る以外術はない。
見ないで蓋をするという選択もあるけれど、一度見てしまったものを忘れるのはとても難しい。
こうなるくらいならば、思い出させないで欲しかった。
ブラザーに対する思いも、この恐怖も全部感じさせないで欲しかった。
それらは全て笑顔に不要なはずなのに。
ドールであるはずなのに、人間のように感情を持ってしまう。
想いを持ってしまう。
都合良く出来てくれない。
こうなるくらいならいっその事、本当の人形でありたかった。
「………うん。」
ストームに抱き上げられれば、ギュッと肩に回した手に力を入れる。
今、ミュゲイアはどんな顔をしているだろうか?
笑えているだろうか?
虚ろな純白の瞳は輝いているだろうか?
その口元は笑えているだろうか。
それを見ることができるのは開かずの扉だけ。
けれど、その扉は何も口にはしない。
ギュッと彼の肩に顔を埋めて、ただミュゲイアは乾いた声で笑った。
そして、カフェテリアに着けばミュゲイアも落ち着いたようで先程までの荒い吐息も漏らすこともない。
「………ストームごめんね。ミュゲ、笑ってないとダメなのに。」
笑っていないとダメなのに、それをしっかりと出来たかわからないミュゲイアは謝ることしか出来なかった。
《Storm》
弱りきった子羊を抱き上げるのは簡単だった。
あろうことか子羊は猟奇犯の見せかけの慈悲に縋り付き、信用してる。
先程まで誰のせいで恐怖の底まで落とされたか、忘れてしまったのだろうね。
哀れな子羊。
可哀想なミュゲイア。
カフェテリアに着く頃にはミュゲイアは落ち着いていて、ストームに謝った。
ストームはミュゲイアの笑顔を剥がすのが目的だと言うのに、彼女は笑っていなきゃならないと言った。
おかしいよね。
ドールズの持つ感情は様々であっていいのに、ミュゲイアは人形であろうとしている。
ストームにはそれが受け容れられない。
「そうですね、貴方様が欠陥品だと言うことを再認識致しました。
けれど平気ですよ。
いずれ良くなる。ほんの少しの可能性ですが」
ミュゲイアを席に座らせ、ストームは彼女の前に片膝を着いて告げた。
たとえ彼女が矯正を望んでいなくとも、関係ない。
宣言を終えればストームは立ち上がりポケットに触れた。
無い……。ポケットに入れて置いたペンが無くなっている。
先程落としてしまったのだろうか。
「すみませんミュゲイア。
落し物をしてしまったみたいなのでジブンはこれで失礼します」
止められなければストームはカフェテリアを出ていくだろう。落としてしまったペンを探しに。
悪い夢を見ていたようだった。
今までの全てが悪夢で、今やっと目を覚ましたようなそんな気分である。
全てが微睡みの中で見た悪い夢であれば良かったのに。
ミュゲイアの指先にはまだ、あの薔薇の感触が残っている。
その感触が悪夢でもない、現実だと知らしめる。
悪夢によく似た顔の現実だと、ミュゲイアに告げる。
幸せにしてあげないといけなかったのに。
ミュゲイアはストームのお願いを叶えることは出来なかった。
笑顔にしないといけないのに、笑顔にしてあげられなかった。
笑顔にしてあげないといけないし、笑顔でいないといけないのに。
どんな感情を手にしても、きっとミュゲイアは笑おうとするのだろう。
笑うのがミュゲイアの仕事であり、存在理由なのだから。
「ミュゲ、別に欠陥品じゃないと思うよ? ストームは欠陥品じゃなくなるといいね! きっと、笑ってたら大丈夫だよ!」
片膝をついて告げるストームにミュゲイアは笑いかける。
自分のこの思考が欠陥とも分からずに、何故ここにいるのかも理解出来ずに、欠陥品は欠陥品に告げる。
まるで自分は何もおかしくないかのように。
オミクロンクラスにいる理由すら理解出来ない哀れなドールはまた、自分の欠陥を披露する。
「………ストーム、次はちゃんと開かずの扉をストームの為に開けるから! 上手に出来たら笑ってね? だから、一人で近づいたらダメだよ? 怖いところだから。……バイバイ!」
カフェテリアを出ようとするストームにミュゲイアは告げた。
次こそ、次こそはきっとちゃんと出来る。
今度こそ扉を開けてストームを笑顔にする。
ちゃんと出来たらご褒美を。
とっても甘くておかしくなりそうな程の笑顔を。
《Campanella》
学生寮一階、人のいないキッチンを抜けてまっすぐ目指したパントリー。窓の外は暗く、食事の時間からはもうずいぶんと遠い。
それは、カンパネラの秘密だった。いつかもわからない過日の夢が、現実で確かに流れた時であったと証明する、ただひとつのもの。
慣れたように棚の奥の木板に触れる。そっと外して、この場所に秘められていた紙片を手に取る。
「………シャーロット」
確かめるように名前を呼ぶ。麗しい金色、薔薇色の頬、全てを飲み込み抱き締めるような大海の色の瞳。まごうことなく生きている彼女の姿が、そこにはあった。
一人きりの孤独な少女が眉を寄せて佇む、食糧や調味料でごったがえすパントリー。そこに誰かが踏み入るならば、カンパネラはそれに少し遅れて気付き、はっとした顔でそちらの方を向くだろう。古い紙片を大切そうに手に持ったまま。
外はどこまでも暗く、静けさを纏ったヴェールがこの狭く果てしない小さな箱庭世界を包み込んでいる。
今日も変わらない日常がそこにあり、万華鏡の裏側には暗く淀んだ非日常が広がっている。
ただ、ドールのうなじを狙うように。
いつ、その美しい羽をもいでやろうかと涎を垂らしている。
微かに肌を撫でる冷たい風にミュゲイアは小さく手を握る。
パントリーにやってきたのは在り来りな理由だった。
眠りにつく前にホットミルクを飲みたくなったのだ。
暖かいミルクに黄金の蜂蜜を垂らした甘く優しいそれがミュゲイアのお気に入りである。
パントリーには夜闇のような艶やかな黒髪を垂らした一人のドールが居た。
先客にやや驚きつつもミュゲイアは大好きなその常闇に溶けるように近づく。
「……シャーロットってだぁれ? カンパネラのお友達?」
呟くように囁かれたその言葉にミュゲイアは誰の事かと聞いてみた。
後ろから覗き込むように、雲に隠れる月を見つめる。
にっこりと微笑むミュゲイアは三日月。
暗闇から現れた子羊は彼女の目にはきっと山羊のように写っているかもしれない。
あるいはいたいけな彼女を喰らってしまう蛇かもしれない。
恐れても逃がしてはくれない。
絡みつくようにその真っ白の糸は貴女を捕まえようとする。
《Campanella》
「…………ぁ、……」
見つかった、という風に。いたずらがバレた子供のように、或いは鬼に見つかった哀れな迷い子のように、夜の帳のうちがわの少女は月の光を拒絶して揺らめき、眉を寄せて後退する。
独り言を聞かれていた。秘め事をこぼしてしまった。きっとリーリエと同じように、先生のことを純粋に好いているであろうミュゲイアに。
「あ……え、えと……」
誤魔化しの言葉を探して、カンパネラはきょろきょろと辺りを見渡しては地面を見つめ、そしていつしか、懇願するようにミュゲイアを見た。白魚のような美しいトゥリアの手が己の頭皮を執拗に搔いた。
「とも、ッともだ……あ、あの……い、わないでください、誰にも………その………
…………えッ、ぁ、あッ……!」
言葉の続きを紡ごうとしたその時、手の力を変に緩めてしまったせいだろうか。彼女の手から写真がこぼれ落ち、薄い花びらのようにひらりと靡いてミュゲイアの足元に舞い落ちた。
その三日月の瞳には、過日の夢が。
カンパネラが何に憂うこともなく無垢に幸福に笑えていた、その瞬間が目に写るだろう。
カンパネラは動揺で、拾わないでと声を発することもかなわない。ただ様子を伺うように怖々と、ミュゲイアの方を見据えているだろう。
驚いたように慌ただしく焦った様子はいつもと変わらない。
アタフタとまるで丸呑みされないように懇願するように、その乙女は言葉を紡ごうとする。
壊れたオルゴールのようにその美しい声はしどろもどろで、噛み合わないゼンマイを無理に回そうとするようであった。
キョロキョロとクルクル回るその目はまるで時計。
時間を早く告げてしまう時計の針。
そして、最終的にはミュゲイアのことを見た。
ここで初めて、二人は目が合った。
パチリと目が合えばミュゲイアはただ笑う。
やっと、その瞳に写れたと言わんばかりに。
「え? 言わないよ! カンパネラが言わないで欲しいならミュゲそんな事しないよ! だから笑って!」
相手の焦りも何も知らないようにミュゲイアは笑いながら、言わないと述べた。
言われた困るようなほどのことにも今の段階では思えないけれど、言わないで欲しいなら言わない。
ただ、笑ってくれればそれでいい。
静かに眠りたい月を無慈悲に寝かせたい太陽はただ己の要求を述べる。
その時、彼女が持っていた写真がヒラヒラと花弁のように舞ってミュゲイアの足元へと落ちてきた。
それをミュゲイアは手を取った。
その写真には知らないドールと笑っているカンパネラが映っていた。
いつもは見せてくれない笑顔。
ミュゲイアの為に向けられたでない笑顔。
ミュゲイアが笑顔にした訳ではない一枚。
ミュゲイアには見せてくれない彼女の笑顔はまるで聖女の裸体のようであった。
キュッと写真を掴む手が強くなる。
これをミュゲイアも見たい。
ミュゲイアのためにその笑顔を見せて欲しい。
笑顔に依存する彼女は笑顔を求める。
自分がした訳でも自分に向いてるでもない笑顔は詰まらない。
ミュゲイアには笑顔にする才能があるのに。
これがミュゲイアの芸術なのに。
「カンパネラとっても素敵な笑顔! とっても可愛い! ねぇ、ミュゲもこの笑顔欲しい! カンパネラ笑ってよ! はやく! はやく!」
写真に写っているカンパネラのことを指さして彼女に見せながらミュゲイアは求める。
その笑顔が欲しいと、底なしの強欲を振りまく。
《Campanella》
「あ、あ…………」
それは壊れ物で、宝物だった。ミュゲイアの手に写真が渡っただけで、カンパネラは背筋が凍るような思いをする。誰も信じていないから。影も形もないはずの他人からの悪意だけを信じているから。力を入れれば呆気なく破ける大切な光景を他者に持たれるということは、不信なるカンパネラにとって、心臓を握られることに等しかった。
呼吸が勝手に荒くなる。パントリーに漂う空気が急激に薄くなったように。
「あぅ、ご、ごめんなさ………」
ミュゲイアの笑顔から徐ろに目を逸らして、カンパネラは涙ぐんだ。写真の中の自分を指さされて、ふるふると繰り返し首を横に振り、鈴の音が鳴るような「笑って」という 言葉から逃れるためにと両の耳をやわく手のひらで塞いでしまう。そうやって明確に、カンパネラはミュゲイアを拒んだ。 しかしこの鈴蘭のような愛らしい少女が、いくら自身が目の前で泣いたとて、簡単に諦めてくれるようなドールではないことをカンパネラは知っている。
彼女は、笑顔に強く執着している。日々を絶望をこめた相貌で過ごし、自然な笑みを浮かべることが非常に少ないカンパネラは、彼女と顔を合わせるたびに笑顔をせがまれていた。
「…………わ、笑えなくて、ごめんなさい…わたし、欠け……ゆ、ゆるして。ごめんなさ、ごめ……か、返して、お願いします、おねが……」
傷付いた仔猫が鳴くような声で懇願する。願いを叶えられなくてごめんなさい。けれど笑えぬ少女は、何を引き換えにするでもなく写真を返して欲しいと要求を投げ掛けていた。
壊れたオルゴールはただ踊る。
音の出ない壇上で。
音の出せないドレスで。
途切れ途切れの言葉が上手く紡がれることはない。 楽譜がないと歌えないように、その小さな口は微かに動くだけ。
ごめんなさいという謝罪の言葉だけを繰り返し、ポロポロと宝石のような雫を落としている。
この月はなぜ泣くなのか。
悲しいから泣くのだろうか?
歌えないから泣くのだろうか?
愛を叫べないから泣くのだろうか?
何が怖くて泣くのだろうか。
紡ぎきれない言葉で必死に彼女は懇願する。
「どーして泣くの? 悲しいの? 笑えないから? それなら笑って! 笑ったら幸せになれるよ! カンパネラの涙も消えるよ! ……それとも、この写真がカンパネラを泣かせるの? 笑顔じゃなくするの? 写真のカンパネラは笑えてるのに?」
溢れる涙をミュゲイアは目で追った。
その雫が落ちてしまう前にと言葉をかける。
なぜ、目の前のドールが泣いているのかミュゲイアには分からない。
わかる気がないから分からないのか、分かってあげられないというのがミュゲイアの欠陥だからか、それすらも分からない。
ただ、泣いているのなら笑ってと言葉をかけるしか出来ない。
執着に写真を返してと言うカンパネラがひどく泣くものだから、ミュゲイアにはこの写真がカンパネラを泣かせているように見えてしまう。
笑顔の写真がカンパネラを泣かせている。
「これがそんなに大切なの? 返したら笑ってくれる? それとも、これのせいで泣くの? それならミュゲが捨ててあげる! だから笑って、カンパネラ!」
鐘の音が全身を揺らすように笑ってみせて、カンパネラ。
私の大好きな仔猫ちゃん。
その首輪の鈴を鳴らして。
《Campanella》
彼女の言う通り、写真のカンパネラは笑えている。彼女が確かに幸福に包まれていた時。隣にいるだけで笑顔になれてしまう、太陽みたいな友人と並んで、気恥ずかしげにカンパネラは笑っていた。笑えていた。
しかし全ては過ぎ去った。もう戻ることはない。
紙片の中に押し込められたカンパネラの心からの笑顔を、もう二度と、彼女は浮かべることができない。未だ記憶も不完全で、経緯も不確かな過去だけれど、それだけははっきりしている。失われ、奪われ、消えた。全てを置き去りにして、彼女は雨が降り注ぐように泣くことしかできない。
それでも。それでも、過去を見つめることだけは許されていたから。
幸福だったあの頃にすがり、朧気な少女の欠片を辿り、存在を確かめることは、まだ許されていたから。だから彼女はその脆い写真を、宝物とした。
だから。
「─────」
だから、カンパネラはその時、大いなる恐怖の渦に呑まれた。
哀れな仔猫は白い顔を青く染め、そして体がぐらりと傾く感覚を覚えた。奥底に押し込めていた宝石が煌めくように美しく、カンパネラの瞳は零れんばかりに見開かれた。
涙は止めどなく落ち続ける。ミュゲイアの願いはいつまで経っても叶わない。笑って、笑って、笑って。カンパネラはもう、心の底から笑えない。
紫がかった乾いた唇が震える。カンパネラは、その時、アストレアのお披露目の話をする夕食時の先生にも向けた、何度も何度も味わっていた感情を思い出していた。
叫び出したくなるような衝動を。
歯を食い縛るような思いを。
目の奥を赤く染めて、胸や腹の奥を熱く焦がす。その炎は、水晶のような透明な心臓を真っ黒にする。
カンパネラは。
カンパネラの、冷ややかで暗くて静かな青い相貌は。
ミュゲイアも、他のドールも、彼女の“姉”ですら見たことのない表情を浮かべ、口を開いた。
「───いま、なんて、おっしゃったの」
──黒い茨の森の奥から、鬼のような女の顔が覗く。
鐘が鳴るのを真横で聞いていたみたいに、グワングワンと何かの音が、頭の中で反響している。目の奥は熱く、しかし、驚くほどに冷たい涙が頬を伝って落ちていく。ふうふうと、走っているみたいに呼吸する。だくだくと項を汗が伝う。
「す、てるって、おっしゃったのね。今。あなた。」
地を這うような声で言う。考えていることの言語化が上手くいかない。頭がまともに動かない。彼女を強く縛る臆病な理性のタガが、どこかで外れている。
蒼星の瞳は必死そうに、しかし獣の威嚇のような圧を伴って、ミュゲイアを見つめていた。
「……返して。……早く。……お願いだから………」
ディミヌエンドするように、気迫は失われていく。しかし彼女の目は、無駄にぐっと力を込めて差し出した白樺の枝のような右手にその宝物が渡るまで、常に見開かれているだろう。
雨がいくら降ろうとも、太陽は沈まない。
どれだけ彼女が泣こうが、ミュゲイアが心配そうな顔を浮かべることもない。
ただ、期待しているだけ。
笑ってくれることを、ただただ笑いながら待っているだけである。
写真だってそうだ。
ミュゲイアにはその写真の価値が分からない。
その写真のせいで泣いているのならば、その写真を捨てるまでだ。
彼女を泣かすものがあるのならば、それを排除して笑わせるだけ。
笑えるのだから笑って欲しい。
泣いている顔よりも笑っている顔を見たい。
それはどこまでも純粋で底の見えない暗闇のような欲である。
自分の見たいものだけを追い求めて、相手の考えや思いなんて気にしない。
ミュゲイアの思考は至って普通であり、みんなも同じ考えだと思っているからである。
だから、この太陽が雲に覆われるなんて思ってもいなかった。
目の前のカンパネラが太陽に触れて逆らってくるとも思っていなかった。
「うん! カンパネラが笑えないならミュゲはその写真を捨てたら笑ってくれると思ったの! そうじゃないの? どうしたらカンパネラは笑ってくれるの? この写真みたいに笑ってよ! 写真も返すから笑って! カンパネラは笑えるでしょ? 笑える子だよね?」
カンパネラは変わったように、ミュゲイアを見る。
必死に、圧をかけるように。
いつものカンパネラとは思えないようなその眼差しがミュゲイアを覆い隠す。
ただ、ミュゲイアはカンパネラに近づいた。
鼻と鼻が触れてしまいそうな程の距離でミュゲイアは笑う。
その蒼星の瞳に自身の笑顔を映して。
その、細く白い手に写真を乗せてからギュッとその腕を掴もうとする。
鬼のような女の前にいるのは、天使のような怪物。
子羊の皮を被った悪い山羊。
「……はやく、笑って? 笑えないカンパネラには何もないんだよ?」
鈴蘭の香りを漂わせて、その女は耳元で囁く。
笑えないカンパネラは見たくないと。
草木と同じにならないでと。
無邪気に悪意なくその刃はカンパネラを突き刺そうとする。
オミクロンでダメダメな可愛いカンパネラ。
笑う事だけは出来るカンパネラ。
壊れていても笑えるのだから。
有象無象の石にならないで。
《Campanella》
なんというエゴイズム、なんという欲深さ。可憐な少女から滲み出す致死量の毒が、カンパネラの骨の髄までを蝕む。
涙で潤んだ瞳は、鏡面のように少女の笑顔を写したことだろう。写真に指先で触れられたのを知覚すると、爪を立てるかのようにミュゲイアの手から写真をひったくる。「ッ、」と喉に悲鳴を詰まらせて、詰められた距離の分だけ後退り、彼女の腕から逃れようとした。もしも触れられたならば、カンパネラはぱしんと弱々しい力を以て腕を払うことを試みるだろう。
「…っ………ごめんなさ………む、無理です、わ、ッ笑えない。……二度と………そんなの………」
ずっと騙されて生きてきて。大切だった友人を、無惨に殺されて。涙が出るぐらい眩しいかの夢は悪夢として、呪いとして、カンパネラの脳に残っていた。その仕組みも何も分からない脳に、強く強く刻まれて。
「だってそんなの、ぜったい赦されない……!」
笑えない。
笑えるはずがない。
もう二度と、表情のひとつも動かせない友人を置いて──笑っていいはずが、ないのだ。
「……何も、なんにもないなんて、知ってる………わたしに、………価値なんて、ないって、知ってます。知ってるから。……欠陥品で、………無意味なんだって……」
写真を胸に抱えるように持ち、自己否定の言葉を繰り返し、手の甲で何度も目元を擦る、彼女の姿は間違いなく痛ましい。けれど目の前の山羊は、そんなカンパネラを見たって、胸を痛めることはないのだろう。
ド、と背中に衝撃を感じる。壁だ。ミュゲイアから逃れるように後退っているうちにたどり着いたのだろう。足元で真っ赤な林檎が転がる。今のカンパネラには、それが毒を塗られたみたいに思えた。
うるうると涙で潤んだ瞳には太陽が写っている。
太陽のように笑うミュゲイアはいつだって、眩い光を放って皆を困らせる。
元通りになったカンパネラはいつものように謝るばかりで、先程のカンパネラの姿はなく夢でも見ていたのではないかと思わせるほどである。
弱々しく泣くばかり。
笑ってという言葉を拒否するばかり。
いつもと同じ。
笑って欲しいのに、そう思えば思うほどに拒否されてしまう。
「なんで? なんで赦されないの? 笑う事は悪いことじゃないよ? 誰が赦さないの? 笑えば幸せになるのにそれをダメって言うなんておかしいよ。笑うことを赦してくれないなんて、カンパネラに幸せにならないでって言ってるみたい! そんなのダメだよ。カンパネラ、笑って? ミュゲがカンパネラの笑顔を見たいの。赦されないなんてどうでもいいの! 笑えば赦されるよ!」
幸せになる権利は全員にある。
笑顔になる権利も全員にある。
それを赦されないわけがない。
そんな、呪いのような言葉が存在してはいけない。
ミュゲイアはただ、カンパネラを追う。
後退りするのなら、その分だけミュゲイアは前に出る。
いつしか、カンパネラは壁にまで追いやられてしまったようだ。
壁に当たったせいかコロンと真っ赤な林檎が転がった。
「カンパネラが欠陥品なのはミュゲも知ってるよ? でも笑う事はできるでしょ! だって、顔は壊れてないもん! ミュゲの可愛いカンパネラは笑えるよね? あんな林檎とは違うでしょ? 落ちて踏まれちゃうだけの林檎とは違うでしょ?」
落ちた林檎をミュゲイアはパンっと足で蹴った。
興味のないそれはカンパネラとミュゲイアの間にあって邪魔だったから。
壁に追いやられたカンパネラを逃がさないように、壁に手をついてカンパネラのことを見上げる。
はやく、笑ってカンパネラ。
ミュゲの大事なカンパネラ。
《Campanella》
カンパネラは、決してミュゲイアを太陽と思わない。彼女にとっての日の光とは、シャーロットであるから。思い出す度に目が細まる、あの少女だけがカンパネラの太陽だ。
『笑ってよ』。あの子もいつか、そんなことを言っていたっけ。呆れたような声を放つグレゴリー。繋いだ手の温度。春の風が身を包んでいた。幸せだった。
ミュゲイアの笑顔を乞う声は、カンパネラにとって、鋭い銀色のナイフでしかなかった。
「わ、わらっ、たら、つみ、罪なの、そんなの……あの子は………あの子は、もう二度と、笑えないのに………! わたしが、わたしなんかが笑顔になるなんてダメなの、ぜったいダメなんです、ぜ、ぜったいに、そんなのは…………!」
悲鳴のような声を上げたかと思えば、カンパネラはびくりと肩を震わせて「ヒ、」と怯えた。先程の獣のような気迫はどこへやら、またヒエラルキーの最底辺に座す仔猫の類いに逆戻りである。
臆病な彼女は、ミュゲイアの林檎を蹴飛ばす動作を、暴力だと認識した。充血した目がミュゲイアを見下ろしていて、そして、やがては見上げるかたちとなった。背中に壁をつけたまま、ずるずるとへたりこんでいったのである。
「ヒ、ヒッ、………い。………いや…………」
表情を隠すように、カンパネラは背中を丸めて縮こまる。写真をお守りみたいに胸に抱えて、この夢との再会を果たしたあの日のように蹲る。
カンパネラは笑わない。
笑えない。
彼女の笑顔はずっとずっと、硝子の棺の中に押し込められている。幸福は、笑みは、深い雪と氷の中に閉ざされている。
「………ごめんなさい…………ごめんなさいぃっ………………」
追い込まれた仔猫はただ泣くばかり。
痛々しいほどに涙を流し、怯えて謝るばかり。
彼女の口から謝罪の言葉は何度も聞いた。
何回も何回も、数え切れないほどに謝られた。
謝るばかりの女の子。
嫌がってもそれを口に出せない女の子。
謝罪の言葉はもう聞き飽きた。
謝罪が欲しい訳じゃない。
怖がって欲しい訳じゃない。
それらはどうでもいいことで、ミュゲイアが欲しいのは笑顔だけである。
笑顔だけしかいらない。
笑顔がミュゲイアの存在価値なのだから。
笑顔だけがミュゲイアを生かしてくれる。
「じゃあ、あの子が笑ったらカンパネラも笑うの? その子ってカンパネラがさっき言ってたシャーロット? ねぇ、その子はどこにいるの? ミュゲがその子を笑わせてあげる! そうすれば罪なんてないでしょ? ミュゲね、頑張るよ!」
ズルズルと怯えて座り込んでしまったカンパネラを見下ろしながらミュゲイアは喋る。
罪を背負うのならば、その罪を消してしまおう。
重たいものなんてかかえなくていい。
それで笑えないのなら尚更である。
今、カンパネラの重荷になっているのはシャーロットだ。
それをどうにかしてしまえばいい。
「だから、もう泣かないで!」
表情を隠すように縮こまったカンパネラの頭を触るためにミュゲイアはその場にしゃがみこむ。
もし、何もされないのであればそのまま頭に手を置いて少し力を入れてカンパネラの顔を上げてしまうだろう。
乱雑なその扱いはまるで玩具を持つようであり、ぐしゃりとカンパネラの髪の毛を持ってしまう。
《Campanella》
仔猫がいくら泣けども、その山羊の少女は鳴くのをやめない。笑って。呪いみたいだ。笑顔になって。何も、彼女には届いちゃいない。
互いの呼吸を食べ合える距離の少女たちの会話はしかし、決して交わることがなかった。悲鳴がミュゲイアに届くことはないし、祈りがカンパネラを笑顔にすることもない。平行線だ。
「っぁ、………うぅ…………」
青い顔を持ち上げられてもなお、カンパネラはむきになったように目を逸らし続けた。手を払いのける気力はなかったようで、頭皮を引っ張られる微かなつきりとした痛みを感じながら、カンパネラは頭の重さに委ねて首を曲げ、目を閉じた。宝石のような雨は止むことがない。
「……シャーロットは………」
きゅ、と下唇を噛む。こんなこと、こんな子に、教えたくなかったのに。
「………もう、いない。……どこにもいないの。………焼かれて、……しまったから。……もどって、来ないの………」
だから、もう、笑えない。
力なく放った言葉は、当て付けのように真実の欠片をこめて。
写真の中の笑顔はもうどこにもない。カンパネラからも、シャーロットからも、とっくのとうに奪われている。この箱庭に、奪われてしまっている。
ミュゲイアが、この場所の真実の片鱗を握っていることはつゆ知らず。カンパネラは涙に溶かして流してしまうように、そう告げた。
顔を上げてもその目とは目が合わない。
頑なに目を逸らしてばかり。
目が合ったのはあの時だけ。
きっと、この二人はずっとこのままだろう。
どれだけミュゲイアが友達だと近づいてもそれに応えてもらえることはない。
どれだけカンパネラが謝ってもその言葉がミュゲイアに届くこともない。
それでも、ミュゲイアはいつもカンパネラに笑ってと声をかける。
笑って欲しいから声をかける。
笑ってくれるまできっとずっと時間が許す限り続けることだろう。
どこかで聞いたような話だった。
カンパネラが口にしたその言葉は悲しいもので、果てしないほどの地獄だ。
焼かれてしまった。もう居ない。
キュッと下唇を噛んで語られたその話はあまりにも残酷だ。
もういない少女との写真をまるで遺影のように抱き抱え、黒色に身を包むその姿はまるで喪も付すようである。
その時、ミュゲイアは思い出した。
────嗚呼、ミシェラだ。
そういえばリヒトのノートにもそんな事が書かれていた。
焼かれたという言葉が書かれていた気がする。
シャーロットというドールも同じような末路を辿ったのだろうか。
カンパネラはリヒト達と同じようにその様を見てしまったのだろうか。
「もういないの? なら笑ってもいいじゃん! どうして、もういないドールの為に笑わないの? もういないなら関係ないでしょ? カンパネラは笑っていいんだよ! 良かったね、カンパネラ!」
この女はなにも考えていない。
もういない少女の為に笑わないという行動を取るカンパネラの気持ちも分からない。
もういない存在の為に何かをする理由も分からない。
もういない存在に思いを寄せる意味もわからない。
だって、いないのだから。
気にする必要なんてない。
「そのシャーロットって子もカンパネラに笑って欲しいと思うよ! だから、ミュゲに向かって笑って!」
もういない女の為じゃなくて!
《Campanella》
遂に、完全に壊れてしまったのかもしれないと思う。逆上せたように顔や頭の奥が熱くて、けれど指先はすっかり血が引いて冷えきっている。涙を流すなんて慣れっこで、むしろ一度も泣かなかった日はなかったぐらいで。しかしこの涙がこの身体のどこから生じたものなのか、カンパネラには分からない。ひょっとして血液が漏れ出ているのではないかという下らない錯覚さえした。しかしその水滴はどこまでも透き通っている。
がちがちと、噛み合わない歯と歯が繰り返し重なっては、音を鳴らしている。そんな異様な音は簡単に、ミュゲイアの明るく伸びる声に掻き消されていく。
「かッ、! てな、こと、……言わな………」
怒鳴るような声を放っては、それがしおしおと萎れていくのをどこか遠くで聞いていた。カンパネラはその醜い、なんとも醜い声を強く嫌悪する。彼女は自身の声帯をこのように乱暴に使ったことは今まで一度たりともなかった。
あまりにも不定形で制御できない未知の感情に、カンパネラはひどく振り回されている。哀れな仔猫はその一瞬のうちに何度も鬼となり、その度に仔猫に戻った。どうしてもそれを言葉に起こせない。
見目だけは天の使いのように美しいと思っていたこの少女が、今では真っ黒な悪魔に見える。
「…………あな、た……は。……あなたには、分からない………。だ、だいじな子、……奪われて……殺されて……そんな経験、したこと、ないから…………」
きっと彼女は、大切な人なんてできたことがないんだろうと思う。ミュゲイアはカンパネラを見ていない。泣いているカンパネラを見て、笑っているカンパネラの夢を見ている。きっと、ずっと、どんな人にもこうだったんだろう。だから分からないんだと、カンパネラは心のどこかでミュゲイアを見下した。
そして、哀れんだのだった。
「………あんな素敵な子が、笑えない世界で、……わたしは、笑っていたく、ない……。
…………出てって……」
ミュゲイアに蹴られて遠くに転がった林檎を見つめながら、哀れなる白雪は項垂れて、そうして冷たく言い放った。すっかり疲弊しきったような彼女の顔に、笑顔は少しも浮かばない。ミュゲイアの目には、彫像じみた美しい横顔だけが写るだろう。
また、このドールは余計なことを言ってしまったようである。
笑顔で他者にナイフを向けて、意図も簡単に躊躇もなく相手を刺してしまう。
なぜそれで相手を刺してはいけないのかもわからずに、ありのままを見せてしまう。
無知はどこまでも愚かであり、その純粋さはどこまでも汚く穢れている。
相手の気持ちも分からないままに何も考えずに踊りだす。
そのぷっくりとした薄紅色の唇は無邪気な悪で紅をひかれている。
今だって、なぜカンパネラが怒っているのか分からない。
グレーテルの時だってそうだ。
いつだって、ミュゲイアは相手の事なんて一切考えていない。
ポロリと零した言葉で相手の神経を逆撫でしてしまう。
怒っているのことは分かってもその理由までは分からない。
怒らせてやっと自分が何かをしてしまったと気づくせいでいつも手遅れになる。
「え? 分からないよ。だって、ミュゲはカンパネラじゃないもん。それに笑顔は殺されたりしないもん! どうしてカンパネラは怒るの? 笑ってよ。」
何も分からない。
何も知らない。
共感してあげることが出来ない。
トゥリアモデルのくせに出来損ないのガラクタは笑うしか出来ない。
だって、大事な人も笑顔しか教えてくれなかった。
もう、笑顔のことしか覚えていない。
そして、誰かのせいで笑えないカンパネラを哀れにしか思えない。
笑えないことが可哀想で仕方ない。
笑えないことが哀れで仕方ない。
壊れてしまったカンパネラが可哀想で堪らない。
可哀想で可哀想で堪らない。
これはきっと無意味な同情。
場違いな感情。
「笑えないなんて可哀想なカンパネラ。カンパネラは石と同じなんだね。……カンパネラが笑えるようになれるといいね、良い子になれたらいいね。分かってあげられなくてごめんね。」
──嗚呼、この子は笑えない。
そう思った途端にミュゲイアにはカンパネラが分からなくなってしまう。
石と同じで区別することができない顔なしに見えてしまう。
興味もなくなってしまう。
つまらない存在なのだと思ってしまう。
心の底からの同情を貴女に。
笑えない石がいつしか宝石になりますように。
大事なミュゲのカンパネラになれますように。
ちゃんとドールになれますように。
あの子のいない世界で笑えない可哀想な仔猫。
生きる場所を間違えた可哀想な子。
「バイバイ、カンパネラ。
はやくシャーロットに会えて笑えるといいね。」
シャーロットのいる場所で笑えるといいね。
笑顔じゃない子はトイボックスに、ミュゲイアの世界に、要らないのだから。
《Campanella》
笑顔は、潰え、奪われるものだということを、きっとミュゲイアは知らない。笑顔というものを不滅のダイアモンドのように想っているのだろう。その狂信が何処から来ているのか、カンパネラにはその一切が分からなかった。
ああ。わたし、やっぱりこの子のことが理解できない。この子もわたしを理解できない。
一生、こうなんだ。カンパネラは広い広い大河の向こう側に、純白の鈴蘭が咲いているのを見た。わたしたちはがらくた。わたしたちは欠陥品。手なんて繋げない。繋ぐ手が欠けているから、わたしたちはオミクロンなんだ。
哀れみが、謝罪が、失望と断絶が、ひたすらに鼓膜を叩いていた。透明な涙が時間をかけてカンパネラの手の甲を削らんばかりに滴り落ちている。
石と同じ。ああそうだ。わたしは笑わない。木々が笑わないように、小石が笑わないように、鬼が永遠に眉を吊り上げているように。
そして思う。可哀想なのはそっちだ。笑顔とかいう、本当の幸福がなくとも作り上げることのできる曖昧なかたちに縋る、あなたの方がよっぽど可哀想だ。ふてくされた子供の反論みたいに、カンパネラは思う。
愛らしい少女たちが、『きらい』の一言を交わすまでもなく互いを哀れみ合う、陰惨なモラトリアムのさなか。
願いと共に別れを告げたミュゲイアが去っていくのを、カンパネラは見つめて。
見つめて。
「…………………………………」
深い、沈黙を降ろす。窓の向こうはすっかり夜だ。そろそろ眠らなくてはならない。人形たちがおもちゃ箱の中に片付けられなければならない、そんな時間。
本当にそうなのか、時計の針さえ信じられないカンパネラには分からないけれど。
「………………………おこる?」
ミュゲイアがさらりと言った言葉を、慎重に拾い上げるように反芻する。
鐘が鳴る。
《Rosetta》
学生寮、エントランスホール。
特に思い悩むこともなく過ごしていたロゼットは、ロップイヤーに似たドールに声をかけていた。
「ミュゲも今帰ってきたの? 同じだね」
いつも通り、その顔には薄い笑みが浮かんでいる。
ミュゲイアに会えて幸せなのか、それとも笑顔でいたいから笑顔でいるのか。どちらかは分からないが、相手と話すことで不快になってはいないらしい。
「他の子から、前に話したことについては聞いた? 聞いてないなら、全然気にしなくていいんだけど……」
ちいさく零したのは、間違いなくお披露目関連の話題だろう。
あなたはこれを聞かなかったことにしてもいいし、そのまま話を広げてもいい。
真っ赤な薔薇が話しかけてきた。
鈴蘭はその声を聞いて、そちらへと顔を向ける。
いつもと変わらない笑顔で。
にこやかに、全てを燃やしてしまう太陽のように。
あの日の夜闇の事なんてさっぱり忘れたように、薔薇の微笑む蜜を口を開けて待っているばかり。
「ロゼットだ! 今日も素敵な笑顔だね! もっと笑って!」
ニコリ、笑いながらミュゲイアはロゼットに近づいてその腕を抱きしめて間近で笑いかける。
もっと、笑ってなんて。
「リヒトから聞いたよ。お話聞いたらね、リヒト笑ってくれたの! とっても素敵な笑顔でね、ロゼットにも見せてあげたかったなぁ!」
ミュゲイアは能天気に答える。
聞いた話のことよりもその時に見た笑顔の話。
何も見えていない。分かっていない笑顔の話。
一等きらめくお星様のお話。
《Rosetta》
舞台の裏で惨状が起きていても、ミュゲイアは変わらない。
それに関して、ロゼットは悪だと思わなかった。にこやかに接することができたのも、日常が彼女の周りに色濃く残っているからだ。
「ありがとう。ミュゲが喜んでくれるなら、いくらでも笑えるよ」
赤薔薇は相手の望む通り、彫像のように整った笑みを見せ続ける。
心がこもっていないのはどちらも同じだ。そもそも、込めるような感情もロクに理解できていないのだから。
「リヒトが笑ってくれたの? よかった。あの子は最近楽しそうじゃなかったから、心配してたんだ」
笑ってくれたという言葉を、文字通り受け取って、ロゼットはまた笑う。
言葉は紛れもない本心だし、笑顔だって幸せだから出ていることだ。
全て表面しか読み取れていないということを除けば、これは紛れもない温かな交流である。
「ミュゲはみんなを笑顔にする天才なんだね。これから王子様もお披露目に行っちゃうし、寂しくなっちゃう子も増えると思うけど……私たちで、元気にしてあげようね」
いつもと変わらない日常がここには流れている。
誰かの焦燥も、怒りも、悲しみも、ここには存在しない。
きっと、二人とも今の歪な現状を深く受け止めていないのかもしれない。
少なくともミュゲイアはそうだ。
自分が分からない時もあるけれど、その事についてずっと考えているわけではない。
自分の謎についての手掛かりもあまりないせいで手付かずという方が正しいかもしれないが、どのみちミュゲイアは笑顔のことを優先的に考えている。
怖いところには近寄らず、みんなの笑顔がある所にばかり近寄って。
「リヒト、楽しそうじゃなかったんだ。でも、笑えてたら大丈夫だよ! 幸せそうだった!
……王子様? ……あぁ、アストレア! アストレアがお披露目に行っちゃうなんて残念。ミュゲ、もっとアストレアの笑顔見たかったのに。
ミュゲは笑顔のドールだからみんなを笑顔にするの! ミュゲとロゼットが頑張れば皆すぐに笑顔になるよ! 幸せいっぱいになるの!」
ミュゲイアが笑顔にしなければならない。
それは何よりも彼女の手足を動かすのに必要な言葉。
王子様がお披露目に行ってみんなが悲しむなら笑わせてみせる。
悲しかった事すら忘れさせてしまうほどに。
だって、王子様はお披露目に行っちゃうから。
もう、その笑顔はミュゲイアの手元から離れてしまうから。
《Rosetta》
「幸せそうだった」という相手の言葉を、ひとまずロゼットは信じることにした。
ふたりのいる空間だけ、時間がやけにゆっくりと流れているような気がしていた。
目まぐるしく進む悲喜劇の中で、赤薔薇と鈴蘭の咲く鉢だけがやわらかな日差しを浴びているかのような錯覚。
いつまでもぬるま湯に浸かっていたいと思わせる、魔力を浴びた安寧が、ここにはあった。
「私も、もっと彼女がいてくれたらいいのにって思うよ。今からどうにかするなんて、ほとんど不可能に近いと思うけど……私たちで、残りのみんなを幸せにできるように頑張ろうね」
誰にも言えない事実でも、ミュゲイアは笑っていれば受け入れてくれる。
もしかしたら事実として聞こえていないのかもしれないが、それでもよかった。そちらの方がよいのだ。
「ねえ。そういえば、ミュゲイアは擬似記憶の続きを見たことはある? 最近思い出すことが多くて、気になったんだ」
やにわに話題を変えたのは、そのことを今思い出したからだろう。
笑顔にこだわる彼女の記憶は、自分と違って幸せなものなのか。
そのことが、ロゼットには何となく気になった。
かの王子様をどうにかする。
ロゼットのその話にミュゲイアは首を傾げた。
どうすることも今の段階では出来ないというのはきっと薄々みんなが思っているのかもしれない。
ミュゲイアだって、どうこうしようとはしていない。
笑顔が見れなくなるというのが寂しいだけである。
「うーん、わかんない!
でも、みんなが笑顔ならミュゲはそれでいいかな!
ミュゲ達で残りのみんなを笑顔いっぱいにできるならそれが一番幸せだよ!」
笑顔があればそれでいい。
笑顔さえあればミュゲイアは生きていくことが出来る。
笑顔しか見ていないドールにとっては笑顔だけでいいのだ。
それだけで充分。
「擬似記憶の続き? うーん、ミュゲは見た事ないかな。
でもね、たまにミュゲの知らない事が頭に浮かぶの。覚えてないことがぶわーって頭に流れ込んでくるの! 不思議だよね。」
擬似記憶の続きなんてものは見たことがない。
けれど、見れるというのはそれは少し羨ましいことである。
擬似記憶の大事な人にまた会えるということなのだから。
《Rosetta》
笑顔。
ミュゲイアのよすがであり、原動力となる表情。
それだけあればいいと、屈託もなく言えてしまう彼女が今は羨ましい。
痛みを感じないことは、傷付かないこととは違うのだ。
上手く笑えているか分からないまま、曖昧にロゼットは頷き返した。
知らないことが頭に浮かぶ──というのも、おおよそ擬似記憶や過去の自分を思い出していると見ていいだろう。
「そうなの? それも不思議だね。どんなことを思い出したのか、教えてもらえるかな。どういう気持ちになったとか、それだけでもいいよ」
彼女に笑顔を見せたのは誰なのだろう?
少し期待しながら、そんなことを問いかけた。
あの、不可解で微睡みの中で見る悪夢のような何か。
けれど、確かに覚えている。
覚えていないはずなのに、その光景には見覚えがあった。
あの天体観測もそうだ。
ずっと、大好きだったはず。
ミュゲイアの愛おしく疎ましい柔らかい繭。
なのに、それに触れようとすると繭は割れてミュゲイアを悩ませる。
口付けを落とせば唾液が混ざるみたいにミュゲイアを絡めとっては惑わせる。
壊れているのか壊されたのかすら分からない。
ただずっと流れ星を追っている。
星座に名前を刻むように、星と星の間を走って何かを見つけようとする。
知らない感情を手繰り寄せて、描こうとする。
「うーん、前にロゼットに言ったアラジンってドールいるでしょ? ミュゲね、何故かその子と出会ったことがある気がするの。ミュゲの知らない記憶にはアラジンとブラザーが出てくるの。ブラザーなんかね、毎回出てくるんだよ! それでね、三人でお星様を観てたの。アラジンがお披露目に行く前に三人で観てたの。おかしいよね、アラジンはお披露目なんて行ってないし、新しいドールなのに。」
言葉にするとなると難しいこの話。
ポツポツと出てくる言葉はどこか曖昧で言語化するのが難しいようなもの。
《Rosetta》
ミュゲイアと、ブラザーと、知らないドールが一緒だった──というのは。
明らかに異常だ。
ブラザーはきっとそんなドールを知らないだろう。ロゼットだって見たことがない。
それなのに、記憶がある、というのは。
汗が背筋を伝う。ただの体液のはずなのに、それはいやにじっとりしていた。
「それは……ううん。そうじゃなくて……ミュゲは、それに続きがあるとしたら、思い出したい?」
自分で自分の手を握った。じんわりと手のひらが湿っている。
何を言いたいのかまとめられないのは、ロゼットがトゥリアだからだろうか。
「多分、思い出すことはできるんだと思う。私たちの昔のこととか、私たちが私たちじゃなかった時のこととか。……でも、その先を追いかけたらきっと笑えなくなっちゃう」
警告がしたいのか、提案がしたいのか。
口にした側から言葉がもつれていく。自分は何をそんなに恐れているのだろう。
大切な誰かが死んでいたという事実が、赤薔薇の根を腐らせてでもいるのだろうか。
「ミュゲは、どうしたい?」
これは異様な話である。
最近知り合ったドールとの知らない思い出があるのも、今現在トイボックスにいるドールのお披露目というのも、その全てはおかしなものである。
穴に落ちたみたいその先を見ているように全てが摩訶不思議である。
ブラザーとの知らない記憶も、その全てもロゼットの言う擬似記憶の続きとは違ったもの。
まるで知らない自分を上映された映画を見ているような感覚。
役者も観客もミュゲイア。
恐ろしいものでありながら、拒絶も出来ないもの。
「わかんないの。気になるけどね、思い出す度に頭は痛くなるし、怖くなるの。
開かずの扉のところにね、ミュゲ行ったの。ミュゲ、開かずの扉のことなんて知らなかったのに怖くて仕方ないの。知らないはずなのに何故か知ってて怖くなるの。
その先を知ったら笑えなくなるの? その先に幸せはないのかな。ミュゲ、わかんない。知れたらスッキリすると思うけど、笑顔がなくなるなら見たくない。……みんなが笑えなくなるなら知らない方がいいよ。ミュゲだけじゃなくてみんな。」
笑顔が消えるくらいなら知らないままの方がいい。
笑顔がなくなるのならこの場に留まる方がいいかもしれない。
けれど、きっとその結果を取っても誰かは笑えなくなるのかもしれない。
だからこそ、ミュゲイアが笑わせたくなる。
笑えない皆なんて見たくないから。
「ミュゲはきっとずっと笑顔だよ。みんなを笑顔にするのがミュゲだから! それがね、ミュゲの芸術なの! ……ロゼットは擬似記憶の続きを見ても笑えてるでしょ? それにね、みんなも笑えてる! アストレアのお披露目が決まってもみんな笑ってたし!
……ロゼットは擬似記憶の続きをどう思ったの? ロゼットの擬似記憶の続きミュゲ気になるな!」
自己中心的な幸福。
笑顔を飼い慣らして笑顔に飼い殺されるドールのおかしな答え。
目の前のロゼットは今も笑ってくれている。
それならば、もしかすると笑えるのかもしれない。
《Rosetta》
頭痛がする、というのはおおよそ同じ症状と見ていいだろう。
自分もガーデンのことを知らないのに知っていたし、他にも似たような症状を抱えているドールは少なくないはずだ。
自分ではない自分を恐れているのは、ロゼットだけではない。それはいくらか彼女を安心させた。
「私ね、大切な子が死んじゃったの」
ミュゲイアは赤薔薇が笑っているように見えるらしい。
それなら今もロゼットは幸福で、口にした言葉もなんてことない過去や誤解に過ぎないのだろうか。
「預かってた植木鉢から芽が出て……それがすごく嬉しくて。その人に見せに行こうとしたら、実験で亡くなったって言われて……そこからは思い出せないんだ」
ぐるぐると口が回る。
ちゃんと顔にパーツがついているのか分からない。意味のない独白を耳にするドールは、笑顔でないドールに飽きてどこかに行ってしまわないだろうか。
「そこで思い出した言葉を調べたら、本当にあった組織だったみたいでさ。じゃあ、私の記憶はどこまで現実なのかな。実験がミシェラを壊したモノと同じなら、私の大切に思っていた子は自分の実験で死んだのかな。もしかしたら……」
これ以上言うのはよすべきだと、そんな風に思って、口を閉じた。
世界の解像度が下がっていく。考え事は自分には向いていないから、何も考えないことにした。
「ごめん、長くなっちゃったね。大事な子がいて、その子が死んだんだ。それで終わり。みんなも記憶に出てきたら嬉しいけど、私のは違うみたい。不思議だね」
幸せなはずの擬似記憶。
大事な人との囁かな幸福の時間。
花弁が落ちるよりも早く、その時はきっと短いものであるけれど、ドールにとってはきっと何よりも大切なもの。
そのドールを形作るもの。
擬似記憶があるから、そのドールは自分の役目を分かるはず。
それだけ大切で幸せに満ち溢れたはずのものであるのに、目の前の赤薔薇が話す事は幸せなものというにはかなり過激であり、死というドールとは程遠いものが存在している。
実験というのも何のことだかさっぱりであった。
擬似記憶というには幸せを感じられないような内容。
擬似記憶というものの概念を覆すようなもの。
「それって本当にロゼットの擬似記憶なの?
だって、擬似記憶は幸せなものでミュゲ達ドールを形作るものでしょ? その擬似記憶で死ぬとか出てくるなんておかしいよ。それにロゼット笑顔じゃないもん。だから、笑って? 笑えば辛くなるなるよ。
……それに実験ってなぁに? 組織があるの? ……実験ってリヒトのノートにあったやつの事なのかな? ……ミュゲ達もいつかはミシェラみたいになるの?」
ドクン、ドクン。
コアがうるさい。
目の前のロゼットも笑えていない。
笑えていないのならば幸せじゃないのだろう。
なら、笑ってもらわないといけない。
笑えば幸せになれるから。
笑えないから辛い目にあう。
いつだって、ミュゲイアは自分の考えを誰かに押し付ける。
今だって、大事な人が死んだと語るドールの前で幸せそうに笑っている。
《Rosetta》
「そうだよ」
それはロゼットの脳の裏を温める記憶だ。
目の前のドールにとって、笑顔は幸せであることを示すモノだ。
過去に実験を行っていた組織があって、ミュゲたちもいずれはミシェラみたいになる。
全ての問いに対する肯定を、彼女はひとこと口にした。
死と同じくらい薄っぺらい、それでいて重い言葉だ。
「私は……ううん。私たちは、リヒトのノートで見た通り、何かの実験に使われているんだ。このままだと、あなたも、アストレアも、ミシェラみたいに死んじゃうの。逃げようとしても、トイボックスの外は深海だから、殺されるか溺れ死ぬかしかないんだ」
ミュゲイアには笑っていてほしかった。
全部笑って、嘘だと言い放って。
愚かな子どものように、駄々を捏ねる相手を前にして問題を先延ばしにしたかった。
いずれ傷付くとしても、それは今であるべきではなかったのに。
「でも、悪いことだけじゃないよ。頭が痛くなってから思い出すのは、きっと本当の記憶だから。それを辿っていけば、またみんなで笑えるようになるための答えが見つかるはずなんだ」
エメラルドの道の向こうに、魔法使いはいないのかもしれない。
妖精の粉も、道に落としたパン屑も、ハッピーエンドに繋がる筋書きなんてもうないのかもしれないけれど。
蒙昧でいた頃には戻れなくなってしまったから、いつもとは違う、雨気付くような憂いを帯びて。
赤薔薇は、柔らかく微笑んだ。
「嘘だと思うなら、信じなくてもいいよ。でも、気になるなら“ガーデン”っていう言葉を文化資料室で調べてみてほしいんだ。私の思い出した記憶にあった、組織の名前なの」
否定もない肯定がその柔らかい唇から零れた。
迷いなく言われたその言葉は現実的でどこまでも冷たい。
それに対してミュゲイアが何か反論をする事も馬鹿げた夢物語の希望を語ることもしなかった。
ただ、ただ、納得しただけである。
まぁ、そうだろう。なんて他人事にも近い感情。
ここにいても辿る結末はきっと、同じだろう。
順番が来たらお終い。
次は誰だろうかと怯えて暮らす他ない生活になるのだろう。
もしも、何も知らないままで居られたのならばきっと絶望はほんの少しだけだったのかもしれない。
けれど、知ってしまった以上もう何も知らないあの頃に戻るなんて出来ない。
「……笑えばなんとかなるよ。笑っていればね、幸せになれるの。幸せでいれば絶望なんてしない。ミュゲ達は笑えるから。最後まで笑ってるのはミュゲ達だよ。」
笑えばいい。
絶望する暇もないほどに。
笑い続けるしかない。
絶望の足音すら聞こえないほどに高らかに笑うのだ。
「……もしもね、外に行けたから星空が見たいな。トイボックスから見る星空じゃない星空。ミュゲね、一緒に星空を見たい子達がいるの。終わりのない天体観測がしたいの。」
あの時みたいに寂しくない天体観測。
星空に置いていかれないような、流れ星を掴めないようなそんな悲しいものではない天体観測。
『また、あの3人で。』
けれど、その言葉が口から出ることはなかった。
きっと、今の関係はミュゲイアのせいで歪に絡んでいる。
ミュゲイアとブラザーがお互いをちゃんと見れない限り訪れないかもしれない。
けれど、それでもミュゲイアはあの記憶に焦がれている。
今がどうであれあの頃のように天体観測がしてみたい。
その為にはドール達のネバーランドを探すしかないのだろう。
深海に沈んだ場所じゃなくて、もっと星空に近い場所で。
「信じてるよ。ロゼットの言うことだもん! だから、これからも笑ってね。」
ロゼットの言葉をミュゲイアは信じている。
嘘のような話でもあるけれど、信じるほかないのである。
信じ続けるからどうか笑っていて欲しい。
笑っていてくれないときっとおかしくなってしまうから。
ミュゲイアはロゼットの笑顔を見てまた笑う。
《Rosetta》
自分が思うより、目の前の少女は大人びていた。
過ごした歳月がそうさせたのだろうか。これも笑顔のおかげなのかもしれないが、どちらにせよ、彼女は絶望も悲観もしていない。
強い子だな、とロゼットは思った。
勝手にこちらが諦めそうになっていたのが馬鹿みたいだ。
「そうだね。何もしないで落ち込むよりも、笑ってる方がずっといいかも。まだ余裕があるように見えるしね」
辛気臭い雰囲気が抜けて、いつもの赤薔薇が戻ってくる。
湿り気のようなものは残っているけれど、今は雨に打たれて折れることもないだろう。
「天体観測かあ……楽しそうだね。みんなミュゲのことが好きだから、きっと一緒にしてくれるよ。話をして、それで駄目なら喧嘩して、言いたいことをちゃんと言えば、きっと分かり合えるもの」
沈むだけのモノなんてあっていいはずがない。
太陽も、気持ちも、トイボックスだって、上に向かう方法があるはずなのだ。
大丈夫、と呪文を口の中で転がした。
気の抜けたような笑顔で、ロゼットはミュゲイアの信頼に頷いて返すだろう。
「もちろん。あなたが喜んでくれるなら、いつでも笑うよ」
それが地獄の底だったとしても。
笑う理由がなくなって、ひとりぼっちになるまでは、きっと笑顔でいよう。
そう決意した後。彼女は鈴蘭の望む表情を残し、ちいさく手を振りながら立ち去ろうとするだろう。
おはよう、笑顔。
おやすみ、笑顔。
アナタが目を覚ませば春風が吹いて、蕾が芽吹く。
天使の息吹のようなその笑顔が蒲公英の綿毛を運ぶように笑顔を運ぶの。
幸せの白い小鳥ちゃん、アナタが幸せを実現するの。
幸せはそうあるべきなの。
幸せはそうしてくれるの。
さぁ、羽ばたいて。
ワタシの小鳥ちゃん。
幸せの笑顔がアナタを呼んでいる。
アナタは幸せに根を張る花なの。
真っ白な花なの。
ワタシの大好きなあの花のような小さな幸せなの。
それは御伽噺のような夢。
それは揺籃が揺れた後に見る夢。
微睡みの中で芽吹く夢。
続きを見ることも叶わない最愛の掟。
ミュゲイアというドールを抱きしめ産んで構築した一本の糸。
それをいつまでもミュゲイアは大切に抱き抱えている。
それだけが教えて、ミュゲイアにとっての白濁とした聖典であったから。
だから、今日も笑っている。
笑っていないといけないドールは全てを覆い隠して笑っている。がらんどうの体躯にそれだけを詰め込んで。
笑って歩いている。
目指した先は文化資料室。
真っ赤な薔薇の囁きに誘われて無垢なドールは歩き出す。
ガーデン。その言葉を頼りに歩き出す。
どれだけの絶望の影を踏んでも幸せを求めてしまうから。
絶望なんてないと思っているから。
愚かなドールはその扉を開けてしまう。
絶望は首を長くして待っている。
その扉の先で。
この空の先で。
この地の中で。
「……今日もいっぱい幸せ! ミュゲは今日も笑顔!」
白く細い指先が唇に触れてドールは語る。
空っぽの頭に金平糖のような笑顔だけを詰め込んで。
この部屋は、人間の歴史を出来る限り保管し、ドールズがヒトと接する指標と出来るようにと用意された一室だ。文化資料室と名を冠する通り、人間のさまざまな歴史や文化が資料、あるいはレプリカなどの形で保管されている。
部屋の中央には年季の入った黄金色の地球儀が置かれており、各地にどのような国があるか、どのような人種のヒトがいるのか実際に学べるようになっている。
地球儀を中心に据え、その周囲にはヒトが住まう街を模したジオラマや展示されていたり、模型の汽車が煙を上げてガラスケースの中で動き回っていたり、天井からモビールのように吊された飛行機や気球がクルクル円を描いていたり……とにかく豊富な展示品があり、眺めていて飽きない内装となっている。
また部屋の奥には無数のファイルが収められた棚があり、こちらには数多の史料が保管されているようだった。
代わり映えのしない場所。
ヒトの生活を知らないドールたちにヒトの生活を見せてくれる場所。
クルクルと回り続ける汽車が煙を上げ、飛行機や気球も円を描いてぶら下げられている。
いつ見ても飽きない空間。
このヒトの世界を眺めてミュゲイアはいつも目を輝かせていた。
外をこの瞳で見たことがないからこそ、ここにある場所が外に関する手掛かりそのものであり、お披露目に行くまでに此処で色々なことを予習しておこうという気持ちで何度か訪れたりもしていた。
けれど、ココ最近はこの場所にも足を運んではいなかった。
目まぐるしく変わっていく日々の中で此処に来ることが減ったのはきっとココ最近おかしな事ばかり起きていたからかもしれない。
今日のミュゲイアは汽車にも地球儀にも目を向けない。
チラリと見ただけで足も止めなかった。
そのまま部屋の奥へと向かって歩き出す。
無数のファイルが収められた棚からいくつかのファイルを取り出してミュゲイアはロゼットの言っていたガーデンという単語を探していた。
人間が辿った様々な歴史が懇切丁寧に記録され、ファイリングされている。その資料の数は何とも膨大で、いかに勉強熱心なドールといえども全てに目を通し内容を覚え切ることは難しいと言える量だった。
人類、ホモ・サピエンスの進化の軌跡、文明や宗教の芽生え、戦争と奪い合いの歴史、目覚ましい発展の道筋──そして、多様な文化についても。
あなた方は、中世の時代において流行した美しい鑑賞ドールを元に設計されている。故に誰もがはっと息を呑むほどに美しく、輝かしく見えるのだ。
また、こちらに残された最新の記録は、『西暦2240年』、『新種の青い花が発見された』……──という記述で最後である。
(秘匿情報)。
おびただしいほどのファイルはミュゲイアが目を通していないものも勿論存在しており、このファイルの内容もそう多く記憶しているわけではない。
デュオモデルでもないミュゲイアはどうしてもこの全てを覚えることも読むことも出来ず、いつも途中でやめてしまったり、読みたいものだけを読んで終わらせてしまっている。
一冊のファイルをパラパラとめくればロゼットの言っていた通りガーデンに関することの書いてあるページにたどり着くことが出来た。
ガーデン。言葉の意味ではそれが何を意味しているのかはわかっているがそういう組織の名前となると一切分からない。
「……涙の園計画?」
人類救済のための研究。
それの計画はもちろんのこと聞いた事のあるものではない。
これがロゼットの言っていた実験なのだろうかと思いつつも、ロゼットの言っていた実験の内容も知らないのでなんとも言えないままであり、ただその計画の名前だけがミュゲイアの脳内に刻まれる。
涙だなんて寂しげなその言葉の研究。
その研究の内容が書かれていないかとミュゲイアはまた情報の海へと身を任せる。
あなたは更に特定のワードに絞ってファイルを検分していく……が、残念ながらガーデンに関わる更に深い情報はこの場所には保管されていないようだった。
あなたが読んだ情報には、『ガーデンでの研究内容の多くは機密事項に指定されている』とあった。恐らくそのほとんどの資料は外部に公開されていないのかもしれない、と予想出来るだろう。
食い入るように読み漁ったのはほんのひと時。
ガーデンについての記述がこれ以上ないのだとわかった途端にミュゲイアはパタリとファイルを閉じた。
調べたはいいもののそれは味気ないもので、ガーデンについては何も分からなかった。
何も得ることが出来なかった。
つまらないというのが感想であり、ほんの暇つぶしに近い感覚で調べてみたものは暇つぶしにもならないものであった。
やはり、このドールにとって笑顔以外のものに興味がひかれるなんてなくガーデンもなんて事ないものであった。
「……笑顔の園の方がいいのに。」
なんて言葉をポツリと呟いてミュゲイアはファイルから手を離した。
その純白の瞳にファイルの文字が移ることはもうなく、クルリと地球儀を回してからフワリとスカートをひるがえして部屋を後にした。
そのままミュゲイアは学園から寮へと帰った。
もう、ここにガーデンに関してわかることはないのだから。