Brother

 誰かの笑い声。
 ここは、いつもの花畑だ。

 無邪気な声に重なって、誰かが名前を呼んでいる。小さな頭に花冠を作ってあげた。輝く金色によく似合って、まるでお姫様みたい。ずるい、って“妹”が言うから、あの子にも花冠を作ってあげた。そうしたら、君にもあげないとだよね。花冠がいい? ふふ、指輪にしてあげようか。コゼットドロップの指輪! 素敵だと思わない?

 ああ、それから。
 君にも、ちゃんと作ってあげる。

 僕のかわいい妹。
 月を編んだような銀髪に、愛おしい煌めきを放つ玻璃の瞳。そんな美しい君に似合う、とびきり素敵なお祝いをあげる。

 おめでとう!
 愛しているよ、ずっと!



「……アストレア」

 馬鹿げた夢から覚めて、ブラザーは重い体を起こした。いつの間にか眠っていたようだ。
 作っていたはずの冠も、指輪も、どこにもない。あの子は花冠をつけることは出来なかったし、あの子がコゼットドロップを育てることもなかった。

 それでも、時は止まらない。

「行かなきゃ」

 軋む体を叩き起す。
 地獄へ続く道だとしても、せめてその全てを幸福で埋めつくそう。それが、“おにいちゃん”のやるべきことだ。

 重くて、小さくて、弱々しくて。
 怪我だらけのその足で、ブラザーは幸せに会いに行く。


「ミュゲ、いるかい?」

 部屋の扉をノックして、外から“妹”の名を呼んだ。

【学生寮2F 少女たちの部屋】

Mugeia
Brother

《Mugeia》
 曇った窓の外側は泣いていた。
 大粒の雫は地に着く度に悲鳴をあげて、劈くような棘はだれも近づけようとしない。
 そんな日の嬉しいお知らせ。
 オミクロンクラスからまたお披露目に出るドールが決まった。
 そのお知らせをみんながお祝いして喜んでいるのを見てミュゲイアも笑顔を浮かべた。
 不確かなお披露目の真相をミュゲイアはまだ上手く掴めていない。
 みんなが笑っているからやっぱりお披露目は良いものなのだと思ってしまう。
 だって、ミュゲイアは目先の笑顔しか見ていないから。
 唯一の大人である先生も幸せになれると言うから、何も知らない純粋無垢な白い小鳥はそれを鵜呑みにして啄む事すら出来ない。
 ただ、みんなが笑顔でいてくれるならそれでいいから。
 だって、もうミュゲイアはミシェラの笑顔を求めていないから。
 もう居ないドールの笑顔は求めない。
 興味が湧かないから。
 笑顔だったと決めつけて、彼女の笑顔だけしか覚えていない。
 きっと、素敵な王子様の事も幸せな御伽噺に閉じ込めて終わってしまう。
 蓄音機が流すジャズのように、ミュゲイアに御伽噺を語ってくれていたあのドールの笑顔もこれで見納めになってしまう。
 じめついた湿気はべっとりとミュゲイアを撫でて悴む指先は手を伸ばすこともさせない。
 湿気のせいで膨らんだ髪の毛を三つ編みにして、女子部屋の曇りガラスにニコちゃんマークを描いてみた。
 笑顔になってくれない雨はつまらない。
 笑顔を隠す傘は邪魔だった。

「……いるよ! どうしたの、お兄ちゃん?」

 コンコンと扉がなった。
 聞き慣れた声がミュゲイアの名前を呼ぶ。
 その声にピクリと肩が跳ねた。
 扉の方へと歩いていき、扉を開けて笑顔で出迎えた。
 曇りガラスに描いた笑顔は雫が垂れて泣いている事にも気が付かず。

「……良かった。良かった……」

 いつも通り、“妹”が出てくる。
 たったこれだけの日常に、ブラザーの胸の中を覆っていた重苦しい何かが僅かに軽くなる。全てを受け入れ愛する、まだ幼いその笑顔。ミュゲイアがそれを浮かべていることがたまらなく嬉しくて、たまらなく安心した。“妹”が笑顔でいてくれる。まだ雨はやまないが、ずぶ濡れよりは傘がある方がまだマシなはず。
 掠れきった声で呟いて、拒まれないのならブラザーはその小さな体を抱きしめようとした。膝をついて、ミュゲイアよりも少し小さな位置から抱き寄せるはずだ。
 ヒトを愛するために作られた骨ばった手で、いつもよりふんわりした“妹”の髪を撫でる。その質感を確かめるように、その体温を確かめるように。ぎゅうぎゅうと強く、けれど宝物に触れるみたいに優しく。

「……おにいちゃんと、内緒のお話をしよう」

 髪の一本一本に惜しみない愛情を伝えながら、耳元で囁いた。体を離してから、ブラザーはミュゲイアの手を引いて学習室へと向かおうとする。

《Mugeia》
 彼に何があったのかはミュゲイアは全く知らない。
 ただ笑顔があればそれだけでいいから。
 2人の歪んだ関係だってきっとそうだ。
 ただ、お互いがお互いを押し付けているだけ。
 お互いのことをちゃんと見た事なんてない。
 だから、彼の小さな安堵の言葉も雨の音に掻き消されて聞こえない。
 ただ、笑うだけだった。
 純粋無垢に汚れを知らない純白のカーテンの裏側の汚れにも気付かずに。
 カーテンの裏を覗こうとはしない。

「どうしたのお兄ちゃん? 寂しいの? ミュゲいっぱい笑うよ?

 ……秘密のお話? いいよ、それでお兄ちゃんが笑顔になるなら!」

 ギュッと抱きしめられた。
 ミュゲイアがそれを拒む隙も与えずに。
 ミュゲイアよりも低い位置にいるブラザーの背中に手を回してミュゲイアはその背中をゆっくりと撫でた。
 恋人を愛するように、母親が我が子を慈しむように、優しい手つきでトゥリアの小さな柔らかい手でそっと撫でた。
 秘密のお話に誘われて落っこちた穴がワンダーランドかも知らぬまま。
 少女ドールは手を引かれて歩いて行く。

【学生寮1F 学習室】

「……うん。
 きっと、笑顔になるよ」

 そう言ったブラザーは、既に後ろを向いていた。だからミュゲイアは、彼がどんな顔をしていたのか見えなかっただろう。しかし、その声はやはり貴女にしか向けられることのないとびきり甘い声だった。

 ……さて、学習室。
 この時間帯は使われることの少ないこの場所に、2人はやってきた。扉を開けてミュゲイアを先に入れてから、ゆっくりと閉める。鍵はきっとないだろうから、仕方なく椅子を一脚扉の前に置いた。

「ミュゲ、最近何かいいことはあった?
 おにいちゃんに聞かせてほしいな」

 くるり、振り向いた。
 甘やかすような慈愛の笑みを浮かべて、いつもの穏やかでのんびりすぎる口調。響くテノールは“妹”の名前を愛おしそうに呼び、最後にはにっこりた笑った。よく2人がする、ただのお茶会のような会話だ。しかし、その割には温かい紅茶も甘いスイーツも用意されていない。
 適当な椅子を引く。ミュゲイアの座る椅子を引いたのだろう、自分はその対面に腰を下ろした。すらりと長い足を優美に組んで、大きな両目を見つめたまま返事を待つ。

《Mugeia》
 きっと、笑顔になるよという言葉を聞いてミュゲイアも笑顔になった。
 その甘い言葉だけでミュゲイアはルンルンと軽い足取りでブラザーについて行った。
 その言葉をどのような顔で言っているかも分からないまま、笑顔という言葉に誘われしまう。
 それは何よりも馨しい甘さを垂らして、ミュゲイアの手を引いてしまうのだから。
 学習室にはブラザーとミュゲイア以外はおらずとても静かであった。
 その中に入ってからブラザーの用意してくれた椅子に座った。
 垂れた三つ編みを手で撫でながら秘密の話というのが何かとワクワクしながらブラザーが口を開くのを待っていたが、ブラザーの放った言葉に少しキョトンとしてしまった。
 その話はいつものお茶会でするような何気ない話で秘密の話という程のものでもなかった。

「最近? ……あっ! ミュゲね、同志が出来たよ! アラジンっていう子でね、その子の芸術クラブに入ったの! 一緒にお星様を見てね、それで、………あっ、それからね、ロゼットとお話もしたの! あとはね、グレーテルってゆうお友達も出来たの! でも、お兄ちゃんはグレーテルの事知ってるよね!」

 甘やかな慈愛の笑みを向けられればとろんと何も考えられないみたいに言葉が口から漏れてゆく。
 アラジンとの天体観測、ロゼットに誘われた秘密の仲間、グレーテルとのいざこざ。
 その全てが疑惑の目を向けるに等しいものばかり。
 アラジンと居たら頭を痛めたことは話せなかった。
 いい事か分からないし、アラジンはその事を覚えていなかったから。
 けれど、この話もいつかはきっとしないといけないこと。 
 だって、見覚えのない記憶にはいつも目の前のとびきり甘いドールが存在するから。

「そっか、たくさんお友達が出来たんだねぇ。みんな、ミュゲの可愛い笑顔が見られて嬉しいと思うよ」

 次々と思い出を語るミュゲイアに、ブラザーの瞳は自然と細められた。歌うように漏れていく言葉を聞いて、最後には嬉しそうな声が零れる。友達ができたのはミュゲイアなのに、何故かブラザーの方が喜んでいた。うんうんと頷き、椅子に座るミュゲイアの頭に手を伸ばす。今度も薄い膜を触るみたいな手つきで、白銀の髪をかき混ぜるように撫でた。

「ミュゲは最近、クラブ活動してるの? ここにクラブがあるなんて知らなかったな」

 頭を撫でて、そのまま手を三つ編みに滑らせる。目で指先を追いかけ、毛先まで指を添えさせてから、白蝶貝のように煌めく双眼に視線を戻した。かわいい“妹”の話を聞くのが楽しくて仕方がないらしいおにいちゃんは、口元を柔らかく緩めたまま話の続きを促す。

 聞いたことの無い、アラジンというドールの名前。芸術クラブという存在も初めて知った。一緒に星を見る、なんてロマンチックだ。もしも叶うなら、いつか3人で一緒にやってみたいなぁ、なんて。まだ見ぬ弟か妹のことを考えて、ブラザーは思考を蕩けさせる。

《Mugeia》
「うん! そうだと嬉しいな! ミュゲも色んな子達の笑顔が見れてとっても嬉しいの!」

 目の前のドールはまるで自分の事のように喜んでくれていた。
 ミュゲイアの長い話を聞きながら、相槌を打ってはミュゲイアの頭に触れた。
 柔らかい繭を撫でるようなそんな手付きで頭を撫でられる。
 その手は先生と同じように優しく、ミュゲイアの頭を撫でてくれている。
 紛うことなき兄らしいものであった。
 兄であることを求められて作られたわけではないのに、その甘い手つきはお兄ちゃん役としてとてもはまったものである。

「うん! ミュゲもチラシを見つけるまで知らなかったんだけど、アラジンが作ったの! ヒトみたいにクラブ活動をしようって!
 そういえば、お兄ちゃんの事も連れて来てってアラジン言ってたよ!」

 撫でていた指先はミュゲイアの三つ編みの先まで伸びていく。
 今日のブラザーはまだ痛いことをしない。
 機嫌がいいのかなんなのかとりあえずはそういったことをしてこないのを見て、ミュゲイアも気が緩む。
 どちらにせよ、ブラザーの笑顔を見てしまえば緩んでしまうのだけれど。
芸術クラブのことを聞かれれば、ツラツラとその事を話す。
 アラジンが彼のことを連れて来てと言っていたことも。


「それで、秘密の話ってなんだったの? ミュゲ、お兄ちゃんの話も気になるよ!」


 そして、ここに来た本題である秘密の話についてミュゲイアはニコニコのまま小首を傾げて聞いてみた。

「そうなの? じゃあ今度、連れて行ってほしいなぁ」

 ふわふわと綿菓子のような夢を描いていれば、まさかすぐにそれが叶うことが決まるとは。ブラザーはぱちりと瞳を瞬かせて、すぐに嬉しさを瞳に見せる。口角をゆるゆると感情のままに緩めて、ミュゲイアに微笑んだ。何を話そうかな、なんて今からニコニコ考えてしまう。

 けれど。
 綿菓子がいつかは溶けてしまうように。夢がいつかは覚めてしまうように。

 もうこの箱庭で、永久の甘さは求められない。

「……あのね、ミュゲ」

 だとしてもその馬鹿げた甘さを注ぎ続けてしまうのが、ブラザーというおにいちゃんである。

「ミュゲは、この学園が好き?」

 溶けない甘さを浮かべて、ブラザーはミュゲイアの両手を両手で包み込んだ。体温を分けるように、ずっと温もりが消えないように。

《Mugeia》
「うん! 任せて! また、行く時に誘うね!」

 また、嬉しそうに笑った。
 ぱちぱちと蕾が咲くように、ブラザーは喜んでくれる。
 口角をゆるゆると緩めて、微笑むその姿にミュゲイアも微笑む。
 これだけでよかった。
 痛いのも苦しいのもなく、ただ笑っているだけ。
 それだけの方が健全で豊かで繭のその先を見ないで済む。
 けれど、繭はとても柔くて少し触れてしまっただけで割れてしまうシャボン玉のようである。
 甘さで吐いちゃう程に胃液が口の中を舐めるように。
 甘いだけでは世界は回ってくれない。

「変なことを聞くんだね。ミュゲはみんなの笑顔がある限りずーっと此処が好きだよ。お兄ちゃんは嫌いなの? ……もしかして、頭が痛くなっちゃうから? それとも、お披露目のせい?」

 ギュッと両手を包み込まれた。
 温度を分け合うようにブラザーの体温がミュゲイアに伝わってくる。
 白蝶貝の瞳が大きく揺らいだ。
 アメジストの瞳を見つめながら、ミュゲイアは答える。
 トイボックスは笑顔溢れる場所。だからミュゲイアはここが好きだ。
 ドール達の笑顔を見るためには此処しかないから。
 もし、此処に笑顔がなかったのならミュゲイアはどうでも良くなってしまうだろう。
 けれど、ここには笑顔がある。
 ここには幸せがきっとある。
 ずっとここに居たからか此処に疑問も思っていなかった。
 このおもちゃ箱だけがミュゲイアの世界だったから。
 それが歪み始めたのはつい最近のこと。
 だから、ブラザーがそんな事を聞いてくるのも何かあるのかもしれない。
 もしかしたら嫌いになっちゃったのかもしれない。

「ふふ、そんなことないよ」

 にっこり。
 静かに首を振って否定する。

 これは嘘じゃない。
 疑惑も不信も、全てひっくるめても、まだブラザーはここを愛している。

 ここの平穏を。
 平和を。日常を。夢を。

「おにいちゃんは、ここが好き。みんなのことが大好き。
 だから、ずっとずっと幸せでいてほしいんだ」

 “妹”の手を掴む力が強くなる。
 それでもまだ充分すぎるくらいに優しくて、ブラザーはいつも通りだ。


「……ミュゲ。
お披露目が決まったら、僕と二人でピクニックをしよう」


 ツリーハウスで知った真実。
 彼はまだ、それを誰にも言う気はない。

《Mugeia》
 彼は静かに否定した。
 にっこりと笑って。
 それが真意かどうかはミュゲイアには分からないけれど、笑って否定された言葉に対してこれ以上何かを言うこともなかった。
 みんなの事が大好きで、幸せでいて欲しいという言葉を疑うなんてことミュゲイアに出来るはずがない。

「ミュゲもみんなの事が大好きだよ。みんなの笑顔が大好きなの。みんなを笑顔にしたいし、幸せにしたい。」

 これは本心。
 ミュゲイアはみんなの事が大好きで大好きで堪らない。
 笑顔という表情を持つみんなが大好きなのだ。
 ギュッと強く握られた手を見つめながらミュゲイアは答える。
 いつも通りのブラザーに賛同して。
 いつも通りにミュゲイアも話の節々に笑顔を散りばめる。
 そして、ミュゲイアは彼の手を振りほどいた。
 するりと抜けるように。
 指の隙間から落ちる砂糖の様に。
 顔を上げて笑いかけた。
 アメジストの瞳を吸い込んでしまうように。
 瞬きもせず、ただ口角をあげて。


「……お兄ちゃんはミュゲにお披露目に行って欲しいの?」

「…………」

 その無言が何を意味するかは、あまりにも明確だった。

「ミュゲ」

 手が離れる。
 瞳を伏せたブラザーの長い睫毛が、陶器のような肌に影を落とした。振り解けた手を、自然と追いかけてしまう。垂れた三つ編みに指先を触れさせて、深い息を吐いた。

「おにいちゃんは、ミュゲのことが大好きだから……お披露目に行っちゃったら寂しいなって思ってるんだ。もちろん、すっごく嬉しいとも思うけどね」

 ゆっくりと視線をあげる。
 お披露目に行ったら寂しい、なんて。もっと大きな理由があるくせに、嘘ではない嘘をつく。眉尻を下げて儚げに微笑んでは、零れた砂糖を掬おうとする。それがないと、安心できない。

「おにいちゃん、ミュゲには幸せでいてほしいよ」

 自分に言っているのか、“妹”に言っているのか。
 零れた呟きは、誰の幸せだろうか。

《Mugeia》
 無言だった。
 雨の音がひどく煩く聞こえる。
 まるで誰かの心情のようで、この時がゆっくりと加速してゆく。
 ぐちゃぐちゃになった糸をハサミで断ち切るように、ブラザーがミュゲイアの名前を呼ぶ。
 三つ編みに指先を触れさせて、寂しいと言う。
 けれど、お披露目という言葉を聞く度に真っ赤な薔薇の囁いていた言葉が脳裏をチラつく。
 お披露目、ミシェラ。
 お披露目は悲しいこと。
 お披露目は嬉しいこと。
 目の前のドールが何を知っているかなんて知らない。
 けれど、あの時の頭痛を忘れたわけじゃない。
 ヘンゼルのところに行ったのも知っている。
 二人はあのお披露目の夜、抜け出したんでしょ?
 二人で何を見たの?
 もう夢なんて見ていられないのかもしれない。


「…………。

 ……………………。

 ………………………そっか。
 ミュゲは幸せだよ。いっつも幸せ。」


 ミュゲイアは椅子から立った。
 ゆっくりと長い沈黙の末に出た言葉は幸せという言葉。
 彼の幸せでいて欲しいという言葉にぐちゃぐちゃと訳の分からない感情が浮かぶ。
 いっつも自分勝手なドール。
 ごっこ遊びに夢中のドール。

「お兄ちゃんは何も知らないんだね。なら、ミュゲもお兄ちゃんがお披露目に行けるの願ってるよ。
 あと、やっぱり芸術クラブには行かない方がいいよ! 星とか見ない方がいいよ!」

 ミュゲイアは椅子から立ち上がって扉の方へと歩き出した。
 そして、お披露目に行けることを願っていると伝える。
 これはきっと本心。
 貴方から解放されたいから。
 お披露目が善か悪かは分からない。
 けれど、真っ赤な薔薇はお披露目を良くないと言う。
 それが本当かは分からない。
 けれど、今ミュゲイアの一番知りたいこと。
 星を眺めているままでは、その星の名前は知れないだから。
 ミュゲイアはきっと、ブラザーに引き止められなければこの部屋を出て行くだろう。

 長い、長い、沈黙。
 ミュゲイアがここまで黙ったところを、ブラザーは初めて見た。

 席から立つ“妹”は、どんな顔をしていただろうか。
 触れていたはずの指先になんの体温も残っていないのは、どうしてだろうか。

 扉に向け歩き出すミュゲイアを、ブラザーはただ見ていた。自分が立ち上がらないことが、自分自身にとっても疑問だった。

 本当は、今すぐに席を立ってその真意を確かめたい。体温を忘れないように抱き締めて、何も知らないまま二人で溶け合ってしまいたい。月がよく見える花畑で、ずっと、2人で、……。

 雨が窓を叩きつける。
 全てが作り物なら、ずっと晴れにしてくれたらいいのに。
 柵なんか越えられないままにしてくれれば良かったのに。
 記憶なんて戻らないままにしてくれれば、どんなに。

 ……どんなに、良かったか。


「……きっと」

 扉はもう閉まってしまう。
 零れた呟きは、ミュゲイアには聞こえなかったかもしれない。
 掬ったはずの日常は、もう見えない。砂糖に浸るだけの関係ではもう居られないのかもしれない。きっともう、ピクニックも出来ない。星に手を伸ばすその姿が、鮮明に思い描けてしまうから。


「きっと君を、幸せにしてあげる」


 例えそれが、毒々しいエゴだとしても。
 脳裏で笑う君を、愛しているから。

【学園3F カフェテリア】

Campanella
Brother

 お披露目。アラジン。星。

「……」

 学園3階、カフェテリア。
 薄紫に染まった毛先を指でいじりながら、ブラザーはここにやって来た。談笑の声が聞こえるカフェテリアは、彼にとって癒しの場である。かわいい妹や弟たちの笑い声を聞きながら、紅茶を飲むことが出来るのだ。そんな素敵な場所なのに、今日のブラザーの顔はあまり明るくない。
 日課の水やりをしに行こうとしたのだが、どうにも気分が悪くなってしまったから。落ち着かせるハーブティでも飲もうと、この場所にやってきたのだ。

 重いため息をひとつ。
 曇ったアメジストを瞬かせて、ブラザーは部屋の中を歩いていた。そうして、見覚えのある黒髪を見つける。

「カンパネラ……!」

 小さく名前を呼んで、彼女の元に駆け寄った。ずきりと頭が痛むのは、もう仕方がないのだろう。

《Campanella》
 幸せになるべきだった少女。
 幸せになれなかった少女。
 人柄と名前と声と相貌という、断片的な情報だけが脳に焼き付いている現状に、カンパネラはずっと頭を捻っていた。
 シャーロットは、エーナモデルのプリマドール。隣にいるだけで笑えてしまうような、太陽みたいな女の子。そして、わたしの……友人、だったと思う。

 ……それは、一体いつの話?

「………うう………」

 考えても考えても分からない。弱くて、欠けている、欠陥品の彼女の頭では何も分からない。

「…………っあ、」

 ブラザーに声をかけられたことで、彼女の意識はふっと浮上した。
 カンパネラは、カフェテリアの隅の方の席に一人で座っていた。グラスに入ったアイスティーはすっかり空っぽだ。茨を思わす前髪の奥の相貌には、疲弊と焦燥が滲んでいる。
 姉には代わらなかった。

「………ブラザー、さん………あ、こ、……こんにちは」

「……隣、いいかい?」

 共に柵を越えたブラザーには、カンパネラの気持ちが少しは理解出来る。その深い絶望と悲しみを全ては受け止められずとも、受け止めたいと思うのが彼だった。
 柔らかい声と共に甘く微笑み、口だけの許可をとる。カンパネラがどちらの返事をしても、ブラザーは生返事を返して簡易的なキッチンの方に行った。アイスティを一杯と、ラベンダーのハーブティを一杯。手際よく作ってから、カンパネラの隣に座るはずだ。アイスティーをそちらに置いて、近くに砂糖とミルクを添えよう。

「……よく眠れてる?」

 ハーブティをかき混ぜながら、囁くような声で聞いた。カンパネラの方を見ないのは、彼なりの優しさだろう。

《Campanella》
「あ………は、はい…………」

 こくりと遠慮がちに頷く。どっち付かずな響きであっただろう。人嫌いのカンパネラは歓迎もしなかったが、拒絶もしなかった。一言伝えたいことがあったから。

 戻ってきたブラザーにアイスティーを差し出され、「ぁ………」と小さく声をこぼしたあと、きょどきょどしながらも無言で頭を下げた。
 視線を逸らしてもらっているからか、言葉を紡ぐ緊張感は少し薄れている。俯いて砂糖にもミルクにも手を付けず、机をただじっと見つめながら応答する。

「……は、はい。……なんとか……」

 嘘であった。まるで眠れた気がしない。ツリーハウスへ行ったときから……いや、それよりももっともっと前から、カンパネラは眠れていなかった。ブラザーも……眠れていないんだろうか。

「………あの。……ごめんなさい。…………変なことに、巻き込んでしまって……わ、わたし、ちゃんと、ちゃんと……伝えなくて……」

 そうだとしたら、きっとそれは、わたしのせいでもある。
 作ってもらったアイスティーの冷たいグラスを両手で握って、カンパネラは改めて謝罪した。あの時は、結局なあなあにしてしまったから。

「そっか、良かった」

 嘘なんだろうなぁ。
 カップを見たまま口元だけで微笑み、ブラザーはそう思っていた。記憶の友人、その死体と真実。自分よりもずっと大きなショックを受けたであろう彼女が、眠れているはずがない。カンパネラが繊細であるということくらい、同じクラスであれば誰だってわかるものだ。

 しかし、それを口にすることはない。言われた通りに頷いて、カップに口をつける。ラベンダーの香りが口に広がり、じんわりと喉を潤した。リラックス効果があるものを選んだから、なるべく早く効果が出るといいのだが。温かいカップで冷えた指先を温めつつ、ようやく視線をカンパネラの方に滑らせる。その謝罪を看過することは、おにいちゃんには出来ない。

「そんなことないよ。僕も丁度、この学園について色々知りたいと思っていた頃だったから」

 カップを置いて、顔をそちらに向ける。にっこり安心させるように微笑んでは、長い前髪の下にある瞳を見つめた。鮮やかなスカイブルー。この瞳が曇ってしまうのは、身が焼けるように苦しい。

「むしろお礼したいと思ってたんだ。アイスティーのおかわりじゃ、ちょっと足りないかな?」

 冗談を言うように笑って、また視線を逸らす。カップをもう一度、口に押し付けた。

《Campanella》
 不意にかんばせを上げていた。自然と、彼のアメジストと視線がかち合った。穏やかで優しい“兄”の眼差しは、優しさゆえにすぐ遠ざかる。

「い、いえ、そんなことは………」

 控えめに首を振る。ブラザーにつられてアイスティーに口を付けると、カンパネラは乾いていた喉が潤う感覚をおぼえる。……それはまた、すぐに渇いた。

「………あの、ツリーハウスは……。ノートや、写真や、あの子のなきが………あ、あの、ドール。
 ………あれ、あれらは、……現実、なんでしょうか……」

 口をついて出たように、確かめるような言葉をかける。僅かに震えていた。

「どうだろうねぇ」

 肩を竦めてみせる。
 まるでただの、談笑のように。

「空も作り物だったし、記憶自体も作り物の可能性だってあるんじゃない?」

 きっともう、ドールズはどこにも逃げられない。終点がどこであれ、道に蔓延る苦痛は逃れられないのだろう。
 なら、せめて。せめて逃避先であろうとするのが、甘い甘いブラザーだった。

 逃げた後に出会う現実が、どれほど苦しかったとしても。瞬間的な幸せを選んでしまうのが、この不誠実で誠実なおにいちゃんだった。

「……ねぇ、カンパネラ。
 “青い蝶”って、知ってる?」

 カップを置く。
 伏せられた長い睫毛の奥にあるのは、なんの思考だろうか。

《Campanella》
「…………そっかぁ……」

 思えば、わたしたちはみんな、疑似記憶とかいう偽物の記憶を与えられているのだ。あの日見たものが何かの間違いだったりする可能性もあるだろう。誰かが見せたおかしな夢、ただの悪い……。
 と。カンパネラは彼の言葉に過剰に甘やかされて、現実から逃れようと、ぐるぐる回し続けていた頭をちょっとだけ止めた。
 彼女のことは……一旦。一時的に、ちょっとだけ。そっと置いておこう。考えても考えても、欠陥品には分からないのだ。

「……? ……青い蝶………あ、ご、ごめんなさい、……し、らない…………です」

 青い蝶。ぴんと来るものがなかった。言葉通り、カンパネラは何も分からない。その質問の、真意も含めて。

「……ど、どうか、したんですか。あの。蝶、って………」

「……ツリーハウスの中から出るとき。あの子の体の近くに、青い蝶がいるのを見たんだ。コゼットドロップみたいに羽は青く光っていて、青い鱗粉が出ていて、それで……」
 
 明確に、言い淀む。
 ブラザーは何かを言うために口を開いて、そうして閉じる。盗み見るように、アメジストを滑らせてカンパネラを見た。また目を逸らす。この繰り返し。

「……それで、すぐに消えちゃった」

 カップを見つめ、ブラザーはゆっくりと重い口を持ち上げる。それだけの情報を言い淀んでいたとはとても思えないが、今のカンパネラがそれを指摘するとも、ブラザーは思っていなかった。

《Campanella》
「………シャーロットの、そばに?」

 頭の片隅に、と思ってもすぐに名前を出してしまう辺り、カンパネラが強く強く彼女に囚われているのが伝わってしまうだろう。

 コゼットドロップのように光っていて、青くて、それで、すぐに消えてしまった。それらの情報には思い当たりも何もない。あんなに薄暗い空間だったのだから、ツリーハウスを出る直前に振り向いたとき、その蝶とやらが見えていたっておかしくないはずなのだが。

 そして。カンパネラは迷う。
 すぐに分かった。いま何か、何か、隠された。
 ……問うべきか。問わないべきか。ぐるぐると目を回して迷い、カンパネラは弱く下唇を噛み、そして。
 何かを決めたような顔をして。

「……それだけじゃ、ないですよね」

 予想外の反応だったかもしれない。
 声は弱々しく、ただ、勇気の欠片がぼんやりと浮かび上がっている。

 怯え、恐れ、逃げたがるカンパネラの背中を。悲しみに近く、しかし確かにそうでない何かが押している。心臓を軋ませ、頭を締め付け、支配する。
 その背中を押す何かの正体を、カンパネラは知らない。

「……何か、あったんですか。…………教えて、くださいませんか」

「……」

 目を、見開く。
 眼前にいるカンパネラは、弱々しく深く傷ついている。だから、絶望の底で俯いていると思っていた。

 しかし、そうではなかったようだ。

「……うん、わかった」

 ミュゲイアのことを思い出す。
 席から立ったあの子の顔を見られなかった理由が何か、ブラザーにはもう分かっていた。

 自分が思うよりもずっと早く、愛おしい輝きたちは強くなっているのかもしれない。

 ……喜び以外の感情が浮かぶのは、きっとまだブラザーが弱いからだ。
 目を伏せて軽く笑ったあと、こちらも覚悟を決めてカンパネラを見つめよう。嫋やかなアメジストに映る妹の姿を、今度こそちゃんと見ていよう。

「ツリーハウスから出るとき、本当は声が聞こえたんだ。僕はその声に振り向いて、すると青い蝶がいた。色んな声が重なったみたいな声で、誰のものかは分からなかったし……きっと、僕の頭の中に響いてた声だったんだと思う」

「ねえ、大丈夫?」
「貴方の恐怖は分かる。私もそうだったから。」
「怖かった。泣きたかった。苦しかった。痛かった。悔しかった。悲しかった。恨めしかった。」
どうして私だけ。
どうして貴方たちがこんな目に遭わなくちゃいけないのかな

「……って、声は言ってた。
 この声を聞く度に頭が痛くなって、倒れそうになったら声がおさまった。青い蝶も、そのときに消えたんだ」

 慎重に、けれど全てを。
 自身の体験を隠すことなく口にして、ブラザーはカンパネラの様子をうかがう。すぐに、その背を支えられるように。

《Campanella》
 声。
 ブラザーから発せられた、蝶々の声、声、声。

 どうして私だけ、どうして貴方たちが。憤りつつも悲しんでいて、悲しんでいながら寄り添っている。ああ、なんて、悲痛な言葉だろう。

「……………………」

 ぎゅう、と胸が苦しくなった。カンパネラは、アメジストからしばし目を逸らし、すぅはぁ、すぅはぁと呼吸を繰り返し。

 その言葉は。その口調は。ねえ、もしかして、それって。

「…………ありがとう、ございます。教えてくださって………」

 それは、彼女の推測に過ぎない。ただの思い過ごしかもしれない。彼の言葉を聞いてもなお、明確なことはカンパネラには何一つとして分からない。分からないということだけが、分かる。
 確信ではなかったから、崩れ落ちるようなことはなかったけれど。彼女の中で何かが不安げに揺れたのは確かだっただろう。

 ひとまず顔を上げて、視線を微妙にずらしつつ、ブラザーに感謝を述べた。胸元のリボンをぎゅっと握りしめて、額を伝う汗を拭って。
 みぞおちの辺りを蝕む、不定形の何かを感じながら。

「………ブラザーさん。どうか、ご無理は、……なさらないで、ね……」

 共に柵を越え、あの衝撃を味わった者への、精一杯の心配の声を投げ掛けた。

 苦しそうな呼吸。
 上擦った息を聞いているだけで、こちらまで息が詰まる。外れた視線に眉を下げて、ぎゅっと口を閉じたままブラザーは黙っていた。ただ背中をそっと撫でて、その息が落ち着ことを待つ。

 やがてカンパネラは顔を上げ、心配の声を投げてくれる。それが悲痛で、切なくて。けれど、その優しさを受け取ってあげたい。

「……うん、カンパネラも」

 ゆっくり頷いて、背中から手を離す。ふわりと甘く笑いかけてから、ブラザーはカップの中身を飲み干した。温かいハーブティが体をめぐって、少しづつ心が落ち着いていくのを感じる。きっとこれは、カンパネラのおかげだ。この子のおかげで、自分も頑張ろうと思えたから。

「大丈夫、おにいちゃんはずっと君の味方だよ。
 いつでも頼ってね」

 静かに席を立って、中腰になりカンパネラの頭を撫でる。頭上から降る無条件に優しい声は、たっぷりの愛情を含んでいた。柔らかい髪をかき混ぜて、それから最後にもう一度笑いかける。

 そうして、ブラザーは自分の分のカップを片付けに行った。特に引き止めなければ、このまま会話は終わるだろう。

《Campanella》
「ぁう、」

 頭を撫でられた。……誰かに触れられるのはやはり不得手なようで、カンパネラはきゅっと目を瞑って肩を強張らせる。あからさまに怯えるような素振りはしなかったから、恐怖は彼には伝わっていないはずだと、そう思いたい。

 何を言おうと、“お兄ちゃん”を名乗り続けるおかしなドール。底抜けに優しい慈愛のひと。
 信用に値するかは、まだ分からないのだけれど。天秤によって量る価値はきっと、あるのではないかと思う。
 ……ああ。もし傷付けて、嫌われちゃったら、つらいなぁ。

「…………………は、い」

 触れたらすぐに消えてしまう雪結晶のように、小さく、小さく答えて。対話はそれきりだ。
 遠ざかる背中を見送って、アイスティーをひとくち飲む。気まぐれに、砂糖を少し入れてみる。すぐには溶けず底で沈殿する砂糖を眺める。

「………」

 あのがらがらした笑い声が脳内を反響する。カンパネラはいつのまにか、グラスを握りしめている。
 彼女に聞きたいことがたくさんあった。けれど、聞きそびれてしまった。

 聞いたことで、わたしは後悔をするかもしれない。分かっている。分かっているのだ。
 それでもカンパネラを突き動かす何かが存在している。

 叫び出したくなる衝動を。
 歯を食い縛るような思いを。
 それらに付けられた名前を、カンパネラは知らない。

「…さて、と」

 カップを片付けるため、ブラザーは簡易キッチンの方に立っていた。家事には向かないその手でカップを洗って、適当な場所にかける。

 カンパネラと話せたことで、薄暗かった気持ちは落ち着いた。むしろ、やらなければならない事が明確になったような気さえする。いつか、ミュゲイアにもこれが言えたら。
 ……そんなことを考えて、ブラザーは歩き出した。そろそろ日課をこなしに行かなければならない。最後にカフェテリアを最後に見回し、何か気になるものがないか探すだろう。

 鮮やかなインクをそのままぶちまけ、ビビッドで明るい印象を見る者に与えるチラシ──のような紙が、カフェテリアの片隅の机の上にぽつんと取り残されているのを見つけるだろう。

 チラシには、絵筆で書き殴ったような太めの筆跡で、『秘密の芸術クラブ』と記されている。チラシが堂々と置かれている時点で秘密も何もないだろうとは感じるかもしれないが……その片隅には、以下のように活発な文字が綴られている。

 トイボックスの見慣れた景色にも、まだ見ぬ芸術が隠れている!
 君もヒトの文化に倣い、学生らしく“サークル活動”と呼ばれるコミュニティを体験してみよう!
 興味のある同志は夜の18時、ガーデンテラスにこっそり集合だ!

 ──トゥリアクラス・アラジン

「……あぁ、これ……」

 チラシのような紙に気づき、ブラザーはそれを手に取る。書かれていたのはミュゲイアが言っていた、芸術クラブのアラジン。サークルなんて言う言葉に思わず笑みがこぼれた。この箱庭は疑念だらけだが、やはりドールたちのことは大切だ。
 丁度このあとガーデンテラスに行くし、ついでに会ってみようか。そんな華やいだ気持ちは、すぐに“妹”の言葉に消える。けれど、あの子が追い求める星があるなら、それを掴みやすくするのがおにいちゃんだ。ブラザーはチラシを置いて、ガーデンテラスへ移動する。深呼吸と共に水を撒きながら、時間が来るまで待ってみた。

【学園3F ガーデンテラス】

Aladdin
Brother

 ──夜の18時。
 あなたが花壇へ水遣りをしていると、やがてガーデンテラスの天球越しの空は帷が降りて、一帯は少しずつ、少しずつ暗くなり始める。日頃この時間には既に寮に帰り着いていたであろうあなたは、ガーデンテラスから見上げる星空を初めて見たことだろう。

 天球越しでも目の前に広がっているかのように広大な星空は見るも美しく、ロマンチックな風景である。
 あなたが星空を見上げている時、ガーデンテラスのガラス扉が開かれて、一人の少年ドールが踏み入ってきた。


 ──繊細な絹織物ように柔らかく、そして星雲を飲み込んだかのように輝かしい銀色の長髪を編み込んだ、見目麗しい好青年だった。ブーゲンビリアの物憂げな瞳が星々を飲み込んで美しく瞬いている。彼の立ち居振る舞いや所作は上品で洗練されており、あなたがトゥリアクラスで受けた授業の通りであるため、きっと彼はトゥリアクラスなのだろうと想像出来る。
 だが彼については見覚えはない。つい最近やってきたドールなのかもしれない。

 彼は浮かない表情で考え込んでいたのだが、あなたの姿を見つけるとぱっと目を見開いて、「お……おお! お前! もしかして……チラシを見てくれた同好の志か!?」と喜ばしそうに駆け寄るだろう。

 星空は美しい。
 見上げた空は、きっと少し前なら感嘆の声すら零してしまうほどだった。これが作り物なんてすごいな、なんて感想しか、今は出てこないが。

 やがて扉の開く音が聞こえて、1人の少年が現れる。星空の美しさなんて忘れてしまうほどに美しい、銀に輝くドール。優雅かつ繊細な動きに覚えがあり、ブラザーは彼がトゥリアモデルなのだと予測できた。気になる点とすれば、なにかに悩むような顔だったが…それはすぐに切り替わり、彼はこちらに寄ってくる。

「初めまして、アラジン。
 僕はブラザー、君のおにいちゃんだよ」

 こちらも歓迎を示す笑みを浮かべて、フレンドリーに自己紹介。相変わらず何を言っているのか分からないが、一先ず敵意がないことだけはよく伝わるはずだ。白銀のドールは妖艶なアメジストを細めて、にこやかに続ける。

「ミュゲから話は聞いているよ。星を見るんだよね?」

 あなたと邂逅した白銀のドールは早足でそちらに駆け寄り、気持ちのいい快活な笑顔を見せる。そうしてあなたの笑顔と自己紹介を受け取ると──はた、とまばたきと共に目の色を変えた。

「ブラザー……ああ! ミュゲからの紹介できてくれたんだな? 会えるのを楽しみにしてたよ、ブラザー!
 オレの名前はアラジン。トゥリアクラスのドールだ。ここには芸術活動をしにいつも足を運んでるんだ!」

 普通は初対面で自身の兄を名乗られれば困惑しようものだが、彼にとってはあなたの名前の方が重要であったらしい。特に触れることなく、ブラザー──あなたに出会えたことを喜ばしそうに大きな掌を差し伸べて、握手を求めようとしている。

 そうして彼は、徐に周囲を見渡した。

「ああ、星を見るのはそうだったんだけど……ん? ミュゲはいないのか? 今度は三人で、ってお願いしてたんだけどなあ。」

 以前であったあの真白のドールを思い返して不思議そうに首を捻る。あなた一人で訪れたことを疑問に思っているようだ。

「うん、僕も会えて嬉しいよ。よろしくね、アラジン」

 無視されたことに関して、特に気にはしていないらしい。そもそも断られることも無視されることもよくあるため、もう慣れているのだ。慣れるほど拒否を食らっても、へこたれないのが問題点なのだが。
 ブラザーは嫌な顔ひとつせず、嬉しそうに声を弾ませる。こんなにも歓迎してくれる相手は、オミクロンになってから久しぶりだ。柔らかく温かい手で握手に応じて、友好を示す。仲良くなれたらいいな、なんてのんびり考えていた。

「……実は楽しみで、先にひとりで来ちゃったんだ。君とゆっくり話してみたかったしね」

 首を捻るアラジンに、ブラザーは悪戯っぽく笑う。内緒話をするように声を潜めて、にっこりと微笑んだ。

 滑らかな嘘。きっともう、3人揃うことはないのかもしれない。
 しかし、ブラザーは星を見たかった。“妹”が追い求めるソレが、本当に幸福な物なのか。

「ああ、宜しくな。ブラザー!」

 握手を快く受け入れてもらえると、自然とアラジンの口元にも笑顔が溢れる。表情ひとつひとつに動的な活力が満ち溢れたような朗らかな青年だった。
 あなたが零す、『楽しみすぎて』なんて嬉しい言葉も、アラジンは言葉通りに素直に受け止めて緋色の瞳を輝かせる。あなたの言葉にひっそりと潜んだ嘘の正体には気づけなかったようだ。

「そんなに芸術活動を心待ちにしてくれてたのか!? おおお……オレは感動している……! 嬉しいよ、ブラザー!
 ミュゲが来てないのは残念だが、次の機会があればきっと連れてきてくれ。芸術活動はたくさんの人と共有出来ればそれだけ楽しいはずだからな!」

 あなた方の間に落ちた暗澹も幅たりも、何も事情を知らないアラジンは期待を言葉に乗せてあなたに願う。ニカ、とまた笑顔を浮かべると、しかしすぐに眉尻を下げて先ほど見たような憂い顔を浮かべてしまった。

「それで、なんだけどな。……ここで星を見るのは、もう辞めたんだ。今はずっと勉強を続けてる。……お披露目に向けてな。」

 お披露目。
 その言葉に、あなたは背筋がスッと冷える感覚を覚えるだろう。
 お披露目に栄光などないことを、あなたは知っているからだ。

「ふふ、伝えておくね」

 活発で、明るくて。夜に咲く満月のような少年なのに、太陽のような子だとブラザーは思った。一緒にいるだけで元気をもらえるような、そんな存在。ミュゲも懐いてるんだろうなぁ、なんて考えては微笑んだ。伝えたところでそれが実現するかは分からないが、そのときはそのとき。今はただ、アラジンを喜ばせることを優先する。
 しかし、当然ながらブラザーが喜ばせられることにも限界があるのだ。

 部屋に入ってきたときのような、分かりやすい浮かない顔。その顔に気づけば笑みを収め、ブラザーは首を軽く傾けた。そうして出てきた言葉に、暗い深淵に突き落とされたような気分になる。息が止まった感覚。アラジンに、疑われてはいないだろうか。

 必死に言葉を探す。
 沈黙が続いてはいけない。気分を落としてはいけない。夢のお披露目に選ばれた幸福を。できるだけ、長く!

「……そう、なんだ。
 寂しいな、せっかく会えたのに」

 ……“おめでとう”、がすぐに出てこなかったのは、後悔からか。
 ブラザーはやや間を空けてから、いつも通りの声で答えた。言葉尻が震えたことに、どうか気づかないでいてくれ。

 伝えておく、と優しく微笑んでくれるあなたを、アラジンは安心したように笑って見据える。包み込むように穏やかでいい奴だ、などとアラジンはそんなあなたと親しく出来たことに機嫌良さそうにしていた。

 あなたの、僅かに詰まった言葉にもアラジンは気付かない。しかしその言葉の内容に自身との齟齬に気が付いた彼は、ハッとしてあなたの顔を見据え、慌てて首を横に振った。

「あ、違う違う! ごめんな、ブラザー、勘違いさせちまった。オレはつい最近このトイボックスにやってきたばかりだから、まだお披露目に選ばれるほどのドールじゃないんだよ。

 オレが備えていたのは、いつか来る自分のお披露目の方で、それと……」

 あなたの誤解を慌てて解きながら、アラジンは頭を掻いてややこしい言い回しをしてしまったことを謝罪した。
 そして言葉の意図を重ねて説明する。お披露目に備えて勉強しているというのは、多くのドールにとって当たり前のことで、芸術活動と名をつけるほどではないだろう。アラジンはそこまで語った上で、少しだけ言い淀んだ。

「……一週間後のお披露目……オレはあれが気になってて。
 あまりこういうことは規則違反だから言っちゃ駄目なんだろうけどな、お披露目がどんなものか知りたいんだ。外と繋がることが出来る、唯一の場だから」

「ああ、そういう……! 良かった、本当……」

 首を横に振るアラジンを見て、ブラザーは心底安堵した。強ばった肩が下がり、長い長い息を吐く。ふにゃりと気の抜けたように笑う姿は温かいが、相手からすれば何故そこまで安心しているのか疑問に思われてしまっても仕方がない。
 だって、お披露目はドールの夢なのだから。これじゃあ、まるで行かなかったことを安心しているようで───……。

「駄目だよ」

 ぐっ、と。
 ブラザーの体が大きく前に出る。言いにくそうにお披露目が気になると口にしたアラジンを、強い意志を持ったアメジストが見ていた。ぐるぐると渦巻く深い紫は、いっそ脅迫じみている。

 お披露目。
 それがどんなものか、ブラザーはもう知っていた。そしてそれを知ったことで、自分がどう思ったか。みんながどんな顔をしていたか。

 希望がないまま真実を知る苦しみを、“おにいちゃん”は幸せと呼ばない。

「絶対、駄目。アラジン」

 甘く伸びやかなテノールが、体の奥底から出すような声に変わっている。明確に様子のおかしいブラザーの頬に、冷や汗が垂れた。

 “良かった”、なんて。
 心の底からのとろけるような安堵が、つい口からこぼれ落ちてしまったかのような。不思議なあなたの言葉に、アラジンは目を瞬かせていた。
 全てのドールにとって、お披露目は希望の光で、栄光だった。楽園への入り口であり、人生の転換点だ。
 それを彼は、まるで『行かなくてよかった』かのように、安堵していた。

 アラジンは流石にその違和感に気付いたが、それを問い返すよりも早く。
 追い詰められたように深刻な顔をするあなたが、お披露目を深追いするなと、鉄塊のように重い言葉を吐くので。アラジンは顔色を変えて、眉をわずかに引き締めた。

「……なあブラザー、ひどい汗だ。何かを恐れてるみたいだ。オレの言葉のせいなら謝る。ごめんな。
 お前のその顔色、ただごとじゃないよな。本当に辛そうだ。苦しんでるように見える……今も。」

 アラジンはあなたへ親身な言葉を投げ掛けた。こちらへ迫るあなたへ、むしろアラジンの方から一歩歩み寄り、あなたの肩を支えようと手を伸ばす。拒まれなければ、彼はそのままあなたを宥めるために背中を撫で下ろそうとするだろう。

「ブラザー、お前は何かやりたいことはあるか? お前の芸術が聞きたいんだ。」

 話を逸らそうと、アラジンは前向きな話題を投げ掛けた。それはいつも同志に聞いている質問だったが、今回は真に迫っているようだった。

 ちかちか、頭の奥が点滅する。
 嬉しそうな笑い声。美しい青い花。アクアマリンの悲痛な声。
 全部がぐちゃぐちゃに混ざりあって、ガンガンと殴りつけられるような頭痛がした。

 それはフラッシュバック。
 ブラザーのお気に入りの場所に染み付いた、負の記憶。

 肩に添えられた手で、ようやくハッとした。青白い顔に伝う汗が、テラスの床に落ちる。背中を撫でる手は温かく、自然と落ち着いてしまう自分が情けなかった。こういうのは、おにいちゃんの専売特許なのに。

「……いや……いいんだ、アラジンのせいじゃないよ。急にごめんね」

 なんとか吐き出した言葉と共に、すまなそうに笑ってみせる。困り眉に柔らかく口角を上げて微笑んだが、無理やりに見えていないことを願おう。

「やりたいこと?
 ……そうだなぁ。芸術とは少し違うかもしれないけど……僕は、ここのみんなのことを幸せにしたいって思ってるんだ。そのためなら、なんだって出来る」

 強引に声色を明るくして、ブラザーは悩むような仕草をする。それからふんわりした笑みと共に答えて、アラジンを見つめた。

「君の芸術も、聞いていいかな」

 アラジンはあなたの笑顔を見ると、宥めるためにその背を撫でていた手を下ろして、ジッとあなたの目を見据える。艶めく紫水晶の輝きが濁って、彼はどこかこの美しい星空ではない、地下室の暗闇を見ているようにアラジンには映った。

 だから、あなたが口にした素晴らしく殊勝な『芸術』を聞いて、彼は「へえっ!」と感心したように声を上げる。
 ミュゲイアは皆の笑顔が見たいと言った。そして彼女の知人であるブラザーは、皆を幸せにしたいと言う。

 オミクロンクラスには気の良い奴らがいっぱい居るんだな、なんて、アラジンはそんなことを呟きながら笑う。

「いいや、オレは感動したぜ。ブラザーの芸術は本当に見上げたものだ、お前って見た目通り男前なんだな。オレは自分のやりたいことしか出来ねーから、感心した。
 他人を幸せにすることがお前の芸術なんだな? きっとそれは途方もなく苦労すると思う。何せ他人の幸せってのは不定形で千差万別だ。

 オレの幸せは、芸術を成し遂げること──いつか、星空が見たいんだ。一番近くで、一番綺麗な、『本物の星空』を。そしてその正確な姿を描き出したい。それさえ出来たら、オレは死んだって構わない」

 アラジンはあなたの優しい微笑みを見据えながら、どこか諭すように告げる。

「夢って言うのかもな、こういうの。命を投げ打っても叶えたい夢や目標を持てることは、幸せな事だ。
 ブラザー、オレは幸せだよ。でも、このトイボックスにはきっと幸せじゃない奴が大勢いるんだろうとも思う。お前もその一人なんじゃないか?

 なあ。まずはお前が幸せにならないとな、ブラザー。折角お前と友達になれたし、オレに出来る事があったら手を貸すよ。」

「………」

 ブーゲンビリアの煌めく瞳。
 郎快なその笑顔で語る夢に感じる、微かな違和感。

 ブラザーはアラジンから目を逸らす。伏せた瞳から伸びた睫毛が、白い肌に影を落とした。桜色の薄い唇が開いて、また閉じて。アラジンの気遣うような言葉を受けながらも、ブラザーは悩むように黙っている。

 やがて、物憂げに視線を戻した。
 手を貸すと笑う銀の美少年に、ブラザーはそっと答える。

「……心配してくれてありがとう。
 大丈夫、僕は幸せだよ。大好きな妹や、弟に囲まれているんだから。

 アラジン、君は……君はここから見える星では満足出来ないの? この星空だって、じゅうぶん綺麗じゃないかな。
 君の言い方は、まるで……この星空が、“偽物”みたいな口調だね」

 眉尻を下げて微笑み、不思議そうに首を傾ける。
 なんて事ない日常の仕草だ。きっと誰も気にとめないようなその中には、ブラザーの小さな疑いが込められている。

 “本物の星空”。
 海のずっと上にしかない、言ってしまえばあるのかも分からない夢。

 今のブラザーに、この夢を叶える手段はない。

「え。……あーーっ! しまった!!」

 あなたのご尤もな指摘に、アラジンは一瞬ぱちりと大きな朱色の眼を瞬かせたかと思えば。ワッと唐突に大きな声を上げて片手で口を塞ぎ、自らの失言を自覚した。
 そう、今の慰めで、アラジンは自分が致命的な失敗をしたことにようやく気が付いたようだった。

「……ブラザー!! 今のはその、聞かなかったことに……とか、無理、だよな。……あ〜〜。あ〜〜もう。

 本当はこんなこと、お前の耳に入れたくなかったんだが。無かったことには出来ない……よな」

 本気の後悔と、本気の申し訳なさ。
 彼はすまなそうに頭をかいて、苦虫を噛み潰したような顔でため息を一つ吐く。
 ブラザーは本当に消沈しているように見えた。そんな彼の耳に入れるような事実では絶対に無い。アラジンはそのことを気にしているようだった。
 しかしやがて、逃げられないと観念した上で白状する。

「……ああ、うん。こんなこと言っても信じてもらえないかもしれないけど。

 実はな……この空は偽物なんだ、ブラザー。オレはここで天体観測をし続けて、その結論を導き出した。高度な映像が映し出されてるんだ、そしてそれは、学園が地下にあるかららしい。頭のいいやつに意見を聞いたから間違いない。

 がっかり……したよな? 絶対。ごめん……言うつもりなんてなかったんだけどな……」

 アラジンはがっくりと肩を落として、自らを叱責している。あなたがその事実を知っているとは思っていないので、自省しているようだ。

「……ふふ、知ってるよ。
 実は僕もそれを聞いたことがあるんだ」

 唐突な大きな声に肩を揺らして、キョトンとしたような顔でアラジンを見つめる。すまなそうに偽物だと説明する姿を見れば、やがて安心したように口元を綻ばせた。
 小さな疑惑が晴れていく。ほんの小さなしこりでも、それが消えるのは安心するものだ。肩を落とすアラジンに対して、ブラザーはにこやかに頷いている。曇っていたアメジストが、ようやく和らいでいた。

「頭のいいやつ、の名前って聞いてもいい?」

 けれど、気になることはあるようで。
 疑問がひとつ解消してまた増える現状にため息が出そうになるが、何とか噛み殺して問いかけた。学園が地下にある、それは海底にあると知るブラザーもわかっている事だ。それ以外で、知る方法があるのだろうか。

 ……もしも、ブラザーと同じことを知っていたら。

 ざわざわと嫌なさざ波をたてるコアを押さえつけて、微笑んだまま答えを待つ。やることが増えていく感覚に、目眩がしそうになった。

「なっ、ブラザー、このことをもう知ってたのか!? ああ……なんだ、知ってたんだ。良かった……いや、良くはないか……」

 何も知らない状態で、この学園が地下にあったことを知った時。アラジンは愕然としたし、少なからずショックを受けてしまった自分を思い返していた。今まで本物だと思っていたことが崩れ落ちるのは随分堪えるだろう。
 彼もそうに違いないと考えていたアラジンは、ほっと安堵の溜息を吐きかけて。きっと彼はもうショックを受けた後なのでは、という考えからすぐに首を横に振った。

「あ、ああ。うん。えっと……。
 意見を聞いたのは、ここに活動しに来てくれたデュオモデルのアメリアだ。……知ってるか? 青い髪の女の子だったんだけどな。
 もうこの学園が地下にあるってことも予想がついてたみたいで。本当に頭の良いやつだったな」

 彼はあなたの問いに澱みなく解答する。
 ──アメリア。あなたの脳裏にはすぐ該当するドールの顔が思い浮かぶ事だろう。

「……そっ、か」

 アメリア。青い髪の、デュオモデル。

「ありがとう、今度僕も会いに行ってみるよ」

 この学園が地下にあると、予想。

 ……にっこりと微笑み、軽く手を振ってみせる。なんてことなく、単純に。僅かに詰まった言葉は、きっと気づかれない。

「そろそろ行くよ。
 次はちゃんと三人で逢いに行くから、そのときは星を見ない? 偽物でも、こんなに綺麗なんだからさ」

 一歩後ろに下がり、それから空を見上げた。満天の星空は美しく、とても偽物だなんて思えない。天井に映る星々に目を細めて、ブラザーは深く息を吐いた。

 いつか、本物の星空を。
 本物の輝きを、三人で見られたら。

「……! それはつまり、ブラザーも芸術クラブの同志になってくれるってことか?」

 あなたの素敵な提案に、アラジンはみるみる内に瞳を輝かせていく。双眸の中で流星群が降り注ぐかのように、未来の期待に一層ブーゲンビリアが煌めく。
 ガーデンテラスから立ち去ろうとするあなたへ、アラジンはまた眩ゆい笑顔を浮かべた。おもむろに手を振ると、「約束な」とあなたの背へ声を投げ掛ける。

「次はミュゲイアも一緒に連れて来てくれ。オレもここで待ってるからさ。絶対に三人で星を見ような!」

 そうしてアラジンは去りゆくあなたを暖かく見送るだろう。親愛なる友ができたと喜ぶ気持ちを包み隠さずに。

【学生寮3F 図書室】

「……シャーロット」

 三階、図書室。
 ぽつりとその名を呟いて、ブラザーは部屋に入る。

 昼過ぎの図書室は静かで、周りに人もいない。元から静かなこの場所だが、少しばかり緊張していたためホッとした。何となく今は、あまり人に見られたくなかったから。
 彼がここにやってきた理由は、のんびり読書を楽しむためではない。会ったことも話したこともない燃え殻の少女に、少しでも何かしたかった。文章を書く才能は持っていないから、せめて何か小説でも読んでみよう。

 あの子が、あの子たちが、安らかに眠れるように。

 階段を上り詰め、寮の最上階に位置する埃臭い書物の蔵に辿り着く。図書室の天井は四階部分までを突き抜けているためか、とても高い。そして、木製のロフトを介して上階にも数多の書物がところ狭しと保管されているようだ。

 図書室はほの暗く、壁に取り付けられた卵型の照明をつけてもまだ暗い。屋根裏の部分に切り取られた小窓から差し込む陽光が、空気中に舞う埃を幻想的に煌めかせていた。

「わ……」

 本棚に近づき、目についた本たちに瞳を瞬かせる。見たことの無い本がいくつかあるようだ。本を読むのは好きだが、数を読めていたわけではないらしい。何を読もうか迷って、まずは『シンデレラ』を手に取った。
 そっと表紙を撫でてから、中身を読んでみようか。

◆ シンデレラ ◆
『──昔々、シンデレラと呼ばれている美しく心の優しい娘がいました。』

 この枕詞から始まる、灰被りの少女の人生逆転物語だ。
 あなたは以前受けた授業で聞いたことを思い出す。エーナモデルは今でこそ8,000を超える童話や物語をその脳内に収録されているが、過去はそのように高度な焼き込みは出来なかったということを。そのため、ドールズの原型でもあるエーナモデルは、当時は自力で無数の本を読み込み、それを頭に叩き込むという授業を受けていたようだ。
 今ではこの図書室に存在する数々の童話は、ミシェラのように童話を脳内に留め置いておけない欠陥ドールのために存在していると言っていい。

「……」

 ───ミシェラ。
 口の中で、名前をつぶやく。一生懸命で、いつでも笑顔を見せてくれる可愛いあの子。自分の膝の上に座っては、よく本を読んでいたことを思い出す。

 あの子の努力が、報われなかったなんて。

「……次」

 思考を止める。
 次は『中世の音楽』を手に取った。その調子で、目についた本たちを全て確認していこう。

◆ 中世の音楽 ◆
『──かん高くヒステリックな音だったが、まるで工作機械のような蓄音機からは、はっきりとした再生音が聴こえてきた。』

 人間の音楽にまつわる文化が記述された本だ。随分古い時代について延々綴られており、上記は末尾に近いページに綴られていた。
 蓄音機の仕組みとしては、レコードに鉄製の針を落とし、引っ掻く事で生まれる振動がホーンを通してこちらに伝わってくる…簡潔に述べるとこのようなものである。


◆ シュレディンガーの猫 ◆
『ランダムの確率で毒ガスの出る装置とともに猫を箱の中に閉じ込めたとき、次に箱を開けた時まで、猫が死んだ可能性と生きている可能性は重なり合っている』

 量子力学におけるパラドックスについて述べた思考実験をもとに専門的な知識が延々と綴られている。
 生死という概念は、生まれてからというものこの箱庭しか知らないあなた方ドールズにはあまり馴染みがないものだ。けれども誰しもに死が訪れることをあなたは知識として知っている。……作り物であるあなたたちでさえも。

【夢の研究】
 人が睡眠状態にある際、しばしば安定した脳波に覚醒時に近い乱れが見られる事があります。これは人が夢を見ている時間、『レム睡眠』と呼ばれている状態です。
 レム睡眠の際には、睡眠状態にある人の瞼の裏側で眼球が小刻みに動きます。レム睡眠とはこの事から、『Rapid Eye Movement』の頭文字を取って名付けられました。

 人が覚醒状態にあるとき、脳内には『ノルエピネフリン』と『セロトニン』と呼ばれる神経伝達物質が分泌されています。これらは人が覚醒状態にある際、学習能力や判断力、記憶能力に貢献する重要な役割を果たしているのです。
 一方人が眠りについたとき、脳は休息状態に入りますので、上記二つの神経伝達物質の循環が低下します。その代わりに『アセチルコリン』と呼ばれる物質の分泌が増加し、脳の感情中枢を刺激します。こちらの物質の影響で、人はレム睡眠時に景色が鮮明に見える事があったり、感情の発露を促されたりするのです。ただし脳からの運動神経への電気信号は睡眠時遮断されている為、現実で体が動いたりすることは殆どないでしょう。

 人は夢を見ている間、『日常生活で知覚した様々な体験の記憶を整理・統合』しています。生存の為に必要な情報を膨大な記憶の中から選別し、脳に定着させるこの作業を行う事で、人は滞りなく日常生活を送るということが可能になっています。
 また夢は人の心を癒すという役割が持つことも判明しています。レム睡眠中、人はストレスとなる感情を処理することがあるようです。トラウマになるようなショックな体験をした時、それらを思い返した脳が夢を見させます。そこに現実にはなかった要素が付加されていき、悪夢はその形を変え、その出来事に付随するネガティブな感情を忘れていくと言われているのです。

 脳の休眠時に見る夢が持つ大切な役割というものは荒唐無稽に思えて、存外に侮れないものです。自我がある生物であれば、生存の為に必ずや必要となるのも頷けることでしょう。 

「夢、って」

 何かを言いかけて、ふと止める。ドロシーやロゼットが言っていた記憶と、恐らく同じもの。なら、ブラザーが度々思い出す“何か”も、きっと同じなのだろう。

 どうして自分達だけ、とか。他の子が見る夢は一体、とか。
 疑問は浮かぶも、今解決できないことは置いておこう。ブラザーは本を元の位置に戻して、最初に入ったときから気になっていた本棚の隙間に向かう。

 あなたは、図書室に踏み入れた時からなぜか気になっていた、奥まった区画へと向かう。
 本棚と本棚の間の壁、まるで人の目から隠されるように翳った場所には、小さく子供が描いたような乱雑な落書きが残されていた。
 四人の男女が微笑み合って寄り添い合っている。皆一様に赤い服を着ているので、恐らくは今あなたが着ているような制服を纏うドールだろう。
 名前も書かれていたように見えるが、掠れて消えてしまっている。
 (秘匿情報)。

「……」

 ここに来た方がいいと、確かに思った。あの子たちのことを少しでも考えて、寄り添いたいと思った。

 けれど、今。
 こんなにも後悔している。

「……」

 ブラザーはため息をひとつ着いてから、椅子を引いた。ロフトの上まで登れるようにすれば、その先を見てみるだろう。

 ロフトへ登る為の木製の梯子が存在する。梯子の先端はやや高い位置に存在していたが、ぎりぎりのところで手が届き、どうにか登り切ることができるだろう。

 高所から見下ろす図書室はいつもより鬱屈として見えた。しかしロフトの上は、そばに取り付けられた小窓から溢れる陽の光によって、下よりも明るい。
 斜陽に照らされたところに、一冊の本を見つける。こんなところにある本は、当然読んだことがないものだった。

 題名は『ノースエンド』というシンプルなもの。装丁は古く、かなり昔の本であることが見て取れる。

 椅子を用いて梯子を登り、ブラザーは窓の向こうを見つめる。あたたかい陽光。無機質な作り物。
 けれど、この光を憎むことは出来ない。

「これ……」

 光の眩しさに目を細めていると、ぽつんと置かれた本に気づく。題名を見て僅かに目を見開き、次の瞬間には手を伸ばしていた。きっと呼吸よりも先に、中を開く。

 本の内容は、エーナドールが読み聞かせに語るような、ありきたりなおとぎ話だった。雪けぶる雪国で、貴族の乙女は婚約者である伯爵によって、黒い塔に軟禁されていた。そこに盗みに忍び込んだ貧民の裏ぶれた青年が彼女と出会い、隣国への亡命劇を繰り広げる……といった、いわゆる中世を舞台にしたラブストーリー。

 これらの物語は、直筆で……インクと筆を用いて執筆されていた。そのためところどころインクが滲んでいるし、文字が乱れているところもあった。
 改めてあなたは本の表紙を確認する。『ノースエンド』と雪国の絵が描かれた隅っこに、擦り切れた文字で『Charlotte』と、おそらく筆者と思しき人名が残されていた。

「……これが」

 ノースエンド。
 ずっと昔のドールたちが持っていた、きらきらの宝物。

 ページを何枚か捲って、やがて閉じる。ほんの一瞬、カンパネラの元に持っていくか悩んだが、すぐにツリーハウスでの様子を思い出した。前に進むことと、傷つくことは同時に起こり得る。今のあの子を、必要以上に傷つける必要は無いと思った。けれどこれは、きっとあの子が持つべき物だから。

 ほんの少しだけ見えにくいような場所に戻して、ブラザーは梯子を降りる。賢いドールたちならすぐに見つけてしまうだろうし、これはほんの些細な祈りに過ぎない。

「……おやすみ、シャーロット」

 おやすみ、名前も知らない弟に妹。
 どうか、どうか、良い夢を。

「……さ」

 次の探索場所へ向かおう。

【学園1F デュオドールズ控え室】

 踏み入った控え室は、まるで輝かしい宝石箱に迷い込んだように絢爛豪奢な空間だった。
 大きなウォークインクローゼットが部屋の奥に存在し、色とりどりのドレスやタキシードなどの正装がハンガーに掛けられて並んでいる。化粧台が三つほど並んでおり、あなた方はこの場所でお披露目の支度を入念に整えるのだ。
 控え室の右手側には、エーナドールの控え室に続く扉がある。ダンスホールへ続く扉があるのはあちらである。

 特段、この空間にあなたの目に留まるようなものはなさそうだ。

「相変わらず、夢みたいなところだね」

 本当に思っているのか、いないのか。

 自分でも分からないことを呟いて、ブラザーは迷いなくエーナドールの控え室に続く扉の前へ向かった。短く、呼吸を整える。手を伸ばして、ほんの一瞬躊躇って、けれどもしっかりドアノブを握って。その奥に続く部屋へと、足を踏み入れる。

 エーナモデルのドールの為に用意された控え室へ移動する。こちらもデュオドールの控え室と同様の絢爛な景色が広がっており、しかし差し当たって異変があるようには見えなかった。
 ドレッサーが三つ並んでおり、ウォークインクロゼットには数多の衣装が並んでいる。そして部屋の奥にはダンスホールへ繋がる鉄扉が取り付けられている。

 意を決して中に入り、ウォークインクローゼットを開ける。かけられた名札の数だけ、お披露目に出されるドールがいるのだ。あまりいい気分にはなれず、けれど衣装を粗末にする気にもなれず。複雑な心持ちのまま眺めていれば、ふと妹の名前が無いことに気づいた。同時に、あの子の───…ウェンディの名前が、あることにも。

「……二人、も……」

 絢爛な控え室には似合わない、沈んだ呟き。ブラザーはウォークインクローゼット内にアストレアのドレスが無いかどうかを確かめてから、鉄扉を開けた。

 あなたは広々としたウォークインクローゼットに立ち入る。一歩踏み入れば周囲は極彩色のカーテンで取り囲まれているようで、普段素朴な学生寮で生活しているあなたは少し落ち着かない気分になるかもしれない。授業の一環でこの部屋を利用することもあるエーナやトゥリアと違い、デュオやテーセラは控え室に用事があることも少なかった。

 周囲に立ち並ぶドレスやタキシードには、ネームプレートが付いているものがある。お披露目参加者がどの衣装をあてがわれているか、一目でわかるようにするためだ。
 だがこの控え室に、何故か『Astraea』と刻印されているネームプレートがどこにも見つからなかった。アストレアはお披露目に選ばれていたはずだが……もしかすると、彼女のお披露目は決まったばかりでドレスがまだ届いていないのかもしれない。

 ネームプレートの中には、『Wendy』と以前あなたが資料の中に見かけた名前が付いているドレスもある。なので、アストレアのドレスだけが存在しないというのは違和感を感じるものだった。

【学園1F ダンスホール】

 あなたはダンスホールに移動するため、控え室の奥に取り付けられた鉄扉の元へ向かう。
 ドアノブは問題なく動く。だがあなたが気になったのは、この扉には何故か鍵が取り付けられていることだった。しかもこちらが鍵を施錠する側。この扉を閉めたら、ダンスホール側からはこちらに戻ってこられなくなる。どうしてわざわざこんな鍵をつける必要があるのだろうか、と不思議に思うかもしれない。……もし、ソフィアから聞いたお披露目の話が真実なのだとしたら。この鍵によって、お披露目に選ばれたドールは怪物からこちらへ逃れることが出来なくなる。そんな嫌な予測を立てることはできるだろう。

 控え室の先は舞台袖だった。つるつるとした質感のステージが先にまで続いている。
 ステージは広く、ダンスホールの名の通りにこの場で社交ダンスをしても事足りそうだった。現在、客席へ続く真っ赤な緞帳は降ろされていて、スポットライトも点灯していないため、ステージはとても暗い。

【寮周辺の森林】

Rosetta
Licht
Brother

《Rosetta》
 ペンを動かす音と、草を踏む音。それから、二種類の話し声がする。
 森林の中だというのに、他の生物の息遣いすら聞こえない。
 ヒトもどきの発する音だけが、緑の空間を構成していた。

 「コゼットドロップは、青い花だよ。手触りがツルツルしてて、水に浸すと水が青くなるの。ツリーハウスの周りにたくさん咲いてたかな。
 半分のドールは、昔“お披露目”で焼かれた子みたい。オミクロンじゃなかったみたいだけど、ミシェラと同じ目に遭ってたんだ」

 先ほどよりは、ゆっくりと。書き留めるのには遅すぎるほどのスピードで、彼女は口にする。
 彼が妹分を忘れたことは、まだ知らない。聞き返されても、きっと意図を掴むことは難しいだろう。

 話し声に、もう一種類。

「こんにちは、二人とも。
 なんの話してたの? 良かったら、おにいちゃんも混ぜてほしいな」

 嫋やかな笑みを浮かべた銀糸のドールが、ゆっくりと2人に近づいてきた。声の方を向くなら、ブラザーは軽く手を振ってみせるだろう。
 のんびりした声はいつもより甘く聞こえるかもしれない。“おにいちゃん”の顔はいつもより青白く、わざとらしいくらいに二人を溺愛する感情が漏れていた。

 ダンスホールからの帰り道。
 見かけた二人のかわいい弟妹の元に、自然と足は動いていた。

《Licht》
 ミシェラ、さん。

 備忘録数ページに渡り、自分が謝罪を向けていた相手。助けたかった、らしい、相手。大切に思っていて、友達として仲良くしていて、その全てが、身に覚えのない相手。

 それでしかない少女。
 それ以外が亡い少女。


 記憶にない喪失感に襲われて、言葉がぐっと止まる。きっとバレちゃいけない。忘れてしまったことを。バレてしまったら、きっと、ミシェラさんを大切に思う全てから────。そのくらい、コワれていてもわかる。

「青い花、つるつる」

 だから、なんでもないようなフリをして、ノートを取っていた。ペンが走る滑らかな音の向こう、その時ふっと、声が来る。

「…………うげ」

 お兄ちゃん、とは呼びたくないので、目線をさ迷わせて『ブラザーさん』と呼んだ。見下ろす、影に入った彼の目を見るのは少し気恥しい気がした。距離感を測りかねている。

「え、ええと……」

 どこまで話したらいいだろう。どこまで知っているんだろう。ツリーハウスには居たらしいけど、そうしたら何処まで。
 知らず、備忘録を胸にぎゅっと抱きしめて、リヒトは後ろめたいように少し後ずさった。

《Rosetta》
 「お兄ちゃん」

 甘ったるい声を耳にして、ロゼットは振り向いた。
  ブラザーがこんな所にいるとは、珍しい。ぱちぱちと瞬きをして、小首を傾げた。

 「お兄ちゃんも珍しいね。今、リヒトと王子様のお披露目を知った日の話をしてたの」

 ちらり。
 視線はまた、柵の方へと向けられる。
 暗に示しているのは、温かな食卓ではない。寒々しいツリーハウスの帰り道、葬儀のような空気の中で耳にしたものである──ということだ。
 兄が汲み取ろうと、汲み取るまいと、彼女は話を続けるだろう。

 「それで、どこまで話したっけ。上半身だけのドールの正体は話してないかな?」

 ふらり、目眩がする。
 どこに行ったって、誰と話したって、何も変わらない。

 この学園で吸う息は、こんなに重かっただろうか。愛する箱庭で、ただ穏やかな日常を送ることすらもう叶わないなんて。

「……待って」

 崩れ落ちそうになる脆い足を制して、口を開く。そうだ、感傷に浸る暇なんてない。思考を止める甘えも、現実逃避に使う時間も、全部、全部、全部!

「無闇にその話をすべきじゃないよ、ロゼット。まだこの場所をどうにかする算段すらないんだから、何も知らない子に絶望だけ与えるのはよくないと思う」

 柔らかく目を細めたまま、静かに首を振る。その動きはロゼットを責めるものではなく、諭すに近い。同意を求めるように深紅を見つめるアメジストは、リヒトが何を知って何を知らないのか分かっていない。故に、無知な弟を守ろうとしている。

《Licht》
「大丈夫……その、ええと、えーーーっと………お、“おにいちゃん”」

 諭そうとする言動に待ったをかけたのは、その場で一番、無知で愚かだとされた子供。悩みに悩んで、躊躇いに躊躇って……それでも話を聞いて欲しかったから、こっちを見て欲しかったから、あえて『おにいちゃん』と呼んだ。ほんとはすごく恥ずかしかったのは、ここだけの話。

「分かってる。知ってるよ、聞く前から。ミシェラさ……ミシェラ、のことも、お披露目のことも」

 『へへ。上手く、隠せてただろ』なんて、冗談めかして笑ってみて。ミュゲも誤魔化せたコワれた笑顔は、雰囲気が重くならないように努めている。これは、暖かく柔らかい日々の一幕。継ぎ接ぎの平穏。嘘つきの午後。悟られてはいけない。こんな所で。こんな、所で。

「サンダンがないから、話すんだ。オミクロンは落ちこぼれなんだから、たった独りで何とか出来る訳ないだろ……って、思う。
 だから教えて、ロゼ。そのドールの正体について」

 だから、の所でロゼに向き直る。知らなくていい、なんて言わせない。知らなくていい訳が無い。ちょっとだけ申し訳ない気持ちを風に流して、真紅の声を待った。 

《Rosetta》
 微笑みを称えたまま、深紅の薔薇は口を開く。
 言葉の重みも、現実の苦しみも、何にも実感を持たないまま。 ブラザーに何を与えるか、自覚せずに言葉を放った。

 「私が話したことをどう受け止めるかは、聞いた子次第でしょう? 知りたい子がいるなら教えてあげたいし……お兄ちゃんが嫌なら、お兄ちゃんがいるところではしないよ」

 リヒトが真実を知っている、という前提は共有しないまま。紫水晶が煌めくのを、銀の目は映していた。
 少年ドールが話したことについては、ちいさく頷いて返した。
 ドール一体で解決できることなら、とっくにノートを書いたドールたちがどうにかしているだろう。
 どうにもならないことだからこそ、予防線を張るという意味でも、伝える必要があるわけで。
 後付けの理由を考えながら、彼女は「いいよ」と返す。

 「彼女は昔、お披露目で焼かれてしまったドールみたい。名前はあんまり覚えてないのだけど……カンパネラが苦しんでいたから、多分知り合いだったのかな。誰かがもう一度動かそうとして、失敗したっていうのが書かれていたよ」

 そんな感じかなあ、と。
 ブラザーの方をちらりと見たのは、訂正を求めるためだ。
 決して嫌味が言いたいだとか、そんなことはない。かかしの頭には、何も詰まっていないのだから。

 二人のときにしか呼ばれない呼び方に、ブラザーはリヒトの方を見る。驚いたような顔でそちらを見つめていれば、弟は笑った。ロゼットの言葉も耳に流れ、薄く開いていた口を閉じる。

 たった一人ではどうにもならない。
 それはその通りなのだろう。

 けれど“おにいちゃん”は、そう在れない。

「……そう。
 もう知ってるんだ。なら言えることはあるかもしれないね」

 曖昧に笑って、ロゼットの目配せに答えるように続ける。これはブラザーにとって、“言ってもいい”こと。一番大事な事実には触れぬまま、やんわりとロゼットから話の進行権を奪っていく。

「その子はシャーロットって名前だった。エーナクラスのプリマドールをしていた子で、お披露目直前に怪我をしたらしい。それできっと……オミクロンと同じ、末路になった。

 ツリーハウスのことはもう聞いたのかな。あと他に、空のことは知ってる?」 

《Licht》
「知ってる。空は偽物って、他でもないセンセーに教えてもらって……そうだ」

 促されるままに、答える。答えられる、という経験はあまり無かったために、密かな喜びが満ちて罅から零れていくが、そんなことを気にしている余裕は無い。考えたことが、あの日のセンセーの動きの中で、不思議で不自然なところがあったんだった。
 ノートを手繰って、お目当てのページを見つければ改めて、二人を見る。

「聞きたいことがあった!
 その……ええと、ブラザーさんにはまだ言ってなかったな。うん。オレと、ソフィア姉と、フェリと、アストレア、さん、で……柵を超えて。脱出する道が無いか探したことがあったんだ。

 もともと30分の、短い時間でやる予定だった。フェリと……アストレア、さんが、足止めで。オレとソフィア姉でパッと見て帰ってくる形で……。でも、センセーは、真っ直ぐ、オレたちのとこに来た。この広い森で、めちゃくちゃな短時間で、すこしも間違えることなく。だから……」

 オレ、考えたんだ、と前置きして、ひとつ咳払い。リヒトは、至極真剣な顔をして言った。

「センセーは、“魔法使い”なんじゃないかって」

 『……なんで、その。ツリーハウスの方には行かなかったのかな』と、これが聞きたかったらしい彼は真面目な顔で二人に尋ねる。

《Rosetta》
 ふたりの話が流れていくのを、ロゼットは黙って見ている。
 気分は悪くない。仲間たちが喧嘩にならず、普通に話せているならそれでいいのだ。
 ただ、まあ。リヒトの疑問については、ちょっとばかり考え込んだ。

 「魔法使いなのかもしれないけど……ツリーハウスって、色んなモノが隠してあったよね。先生も、見つけてほしいモノがあったんじゃないかな?」

 流石に飛躍しすぎているかもしれないが、彼女はそう考えた。
 居場所を知ることができるなら、お披露目の日に外に出たドールも用意に把握できるだろう。
 だが、そうなっていないのであれば。そうしないだけの理由があるのではないかと、そう思いたいのだ。

 「ほら、先生って優しいし」

 論理とは程遠いことを言ってから、ブラザーの意見を求めるだろう。

「ん、と……ちょっと待ってね。
まず、そのノートって僕も見ていいのかな。良いなら読ませてくれると嬉しいな」

 二人とも、話が飛躍している気がする。
 けれどそれを直接伝えることはせず、ブラザーは困ったように眉尻を下げながらこめかみを抑えた。順番に、ひとつずつ考えていこう。まず事実を咀嚼しつつ、リヒトが捲るノートに視線を落とした。何やら情報が纏めてありそうだし、読ませてもらえるのなら有難い。

「それで、間違えることもなくっていうのについてなんだけど……。

 僕も同意見だよ、僕らの居場所を知ることが出来る方法があるかもしれないね。その方法があるなら、それは……」

 言いかけて、止まる。
 “それ”はあまりにも非現実的で、合理的で、理不尽だ。

 ───…だから、言えない。

「……それは、まだ分からないけど。

 疑問なのは、どうして僕らの方には来なかったか。居場所がわかるなら、ソフィア達だけじゃなくて僕らのところにも来るんじゃないかな」

《Licht》
「あ、う、ん。ちょっと待って……ここ! ここだけ読んで、な!!」

 『他んとこ読んだらダメだから!!』と、ロゼにも見せたページを開いて、見せる。彼が読み終わったと思ったタイミングで、自分の方に戻すだろう。

(一枚ページが千切られた跡がある。)

《Licht》
「だよな。……やっぱり、ロゼの言う通り、センセーがみんなに見つけて欲しいものがあんのか? でも、そうしたら……なんだかセンセーが、オレたちのこと応援してるみたいな……」

 その発想に一番、自分がゾッとして。リヒトは真っ先に口を噤む。そしてそんなことを考えてしまった、自分がいちばん嫌いになった。

 コワれた頭のせいにして、コワれた自分のせいにする。そんなこと、そんなこと、どれだけコワれていても、考えちゃいけない。だってそんなこと、ありえない。ありえちゃいけない。

「ち、違うよな。そんなこと。違う、違う、絶対……」

 違ってくれないと、この感情を、どう扱えばいいか分からないんだ。
 身に覚えのないこの、罪を。

《Rosetta》
 「応援してても、いいと思うけどなあ」

 口元に手を当てて、考えるような素振りを見せながら。
 リヒトの方は見ず、ロゼットは口にした。

 「先生はツリーハウスを見てほしくて、それで、壁の外について誤解されたくなくて。あなたたちが壁の外をどう思うか分からなかったから、声をかけた……とか?」

 目を閉じて、ゆっくりと思い出す。
 嘘か真か、ドールか否かも分からない、過日の夢を。

 「ツリーハウスには、色んな証拠が残ってたよね。ノートに、ドールに……あと、√0。リヒトたちが向かう方には√0もなかったから、見つけようとしたのもあると思うの」

  ブラザーがそれを聞いてどう動いても、特段文句は言わないはずだ。
 彼女は痛みを感じない。痛みから涙を流したり、嫌ったりすることはまずないだろう。

「……」
 白い肌に影を落とすほど長い睫毛に囲まれた両目は、穴が空くほどノートを見ていた。全てを読み終えて、ふ、と視線が下がる。ちょうどそのタイミングで、ノートが引かれた。

 海の中。
 知られたくない、知らせたくなかった真実。

 あぁ、何をするにも遅すぎる。

「……その可能性も、あるね。
 他にも、希望的観測にはなるけど……僕らの場所が分からなかった可能性だってある。分かるのは、ソフィア……いや、プリマの子達のものだけなのかも」

 負の方向に進む思考を無理矢理戻して、ブラザーは空虚に微笑んで頷いた。右手の人差し指をピンと立てて、それを自分のコア部分に運ぶ。

《Licht》
「う、うーん………そうかもな。そんな気もしてくるから、分かんねえな……クソ、コワれてさえなければもっと、何か」

 希望的観測を踏まえて、リヒトはリヒトで考えてみる。もし、分からなかったとしたら。逆にもし、見て欲しいのだとしたら。それぞれの道に先生の意図があり、それぞれの道にオミクロンの策がある。きっと。……コワれた頭では、思い至れないけれど。

 頭を振って、今度は別のことについて考えた。

「……√0って、何だろう。オレは知らなかったけど、ミュゲも知ってるし、他の、お披露目に行ったドールも知ってたって聞いた。それに、医務室のベットの、蓋にも彫ってあった。√0って、何だろう……」

 ノートのページを捲って確かめながら、リヒトは言葉を重ねる。彼らの前に横たわる謎はあまりに多く、彼らが為さねばならないことはその先に。

 見つけて欲しい、のだとしたら何となく、分からないことは無いかもしれない。蓋の裏のあれを消していないところとか。ただ、どうして直接教えてはくれないんだ?

「……ロゼ、ブラザーさん、ツリーハウスの方には何て書いてあった? その、√0について」 

「……『第三の壁 お前は監視されている 屍を喰らう獣 √0』。
 こう演奏室の黒板に書いてあった。筆跡からしてドロシーの落書きだろうけど、詳しいことは僕も分からない」

 躊躇うように口ごもってから、ブラザーは溜息と共に言葉を吐き出した。ドロシーと口にする顔は、博愛のおにいちゃんにしては随分と不機嫌だ。露骨に眉を寄せてから、こほんと一つ咳払い。

「それと……覚えてるかな。
 前にオミクロンクラスにいた子が、しきりに√0って繰り返してた。√0はドールを救ってくれるんだってさ。

 あの子がお披露目に行った日、僕とミュゲのベッドの鍵が開いていた。僕らは二人で、学園の方に向かっていたことを覚えている。……いや、“思い出した”。

 ここからは推測になるけど、僕らは……多分、開かずの扉の先、ミシェラが燃やされた場所に行ったことがあるんだと思う」

 どうしてそれを忘れてるのかは分からないけど、と繋げて、ブラザーは黙る。何を言えばいいか───“何を言っていいか”を迷うように、口を開いては閉じるを繰り返した。

《Licht》
 不機嫌そうな雰囲気は、苦手だ。例え誰に向けられていようと、それが自分に向いているように思えるから。全ての悪意の矛先が、コワれた自分の歯車の隙間に突き刺さるように思えるから。

 ……なんてね。

「ブラザーさんも、ミュゲも、忘れてたってことか……」

 ブラザーさんの話をノートに書き込む端で、自分の塔の記憶について、記述がふっと目に入った。実感の欠ける、宙ぶらりんの記憶。下手に話に出してつつかれたらどうしよう、なんて憂慮が背後から抱きついて、声をそっと縫い止める。

 その代わりに、と言うように。ぱちん、と思考にひらめきが走った。

「……なあ、ロゼ! もしかして√0ってお前が言ってた巨人じゃないか?! ほ、ほら。お披露目のバケモノとはまた別なんだ………あっ」

 コワれた頭が弾き出した、欠けたネジのような回答を意気揚々と口にしようとした、その瞬間。階段を一段踏み外したみたいに、リヒトは反射的に自分の手で口を覆った。

 あれは花畑と陽だまりの中で零された囁き声だった。風がそっと届けた、硝子の秘密だった。軽々に言っていい、はずが……。

 もごもごと口元を押さえながら、そうっとブラザーさんの方を見て、そうっとロゼの方を窺う。…………バレて、ないかな?

《Rosetta》
 “前に”、オミクロンクラスにいた子たち。
 どうにも思い出せない──というか、自分と彼らの思い出したことは毛色が違う気がした。

 「お兄ちゃんの覚えているようなことは、どうにも思い出せないけれど……√0が巨人かもしれないっていうのは、違うみたい。ごめんね」

 申し訳なさそうには聞こえない口調で、彼女は謝罪する。
 リヒトが口を滑らせたことは、そう気にしていないようだ。表情が憤怒や失望に変わることもなく、予兆さえ見られない。

 「巨人は……多分、お披露目の時に出てくる“ヒト”なんじゃないかって思うな。私のお腹を食べちゃった、泣いてる巨人なの」

  ブラザーは知らないだろうから、念の為。簡単に彼女は説明したが、伝わるだろうか?

「巨人?」

 残念ながら、ブラザーには伝わらない。リヒトが口を覆う理由も、ロゼットがのんびりと説明した内容も。驚きそのままに目を丸くして、飛び出した単語をオウム返しした。

「ま、待ってね。巨人ってなに? ロゼットのお腹は食べられちゃったの? 泣いてるってことは見たのかな。リヒトもそこにいたの?」

 深く息を吐いて、目を閉じた。再びこめかみを長い指で抑え、冷静さを取り戻そうとする。しかしまあ、内面的にそこまで器用でないブラザーの冷静なんて限界があるのだ。
 声はいつも通り和んでいるが、矢継ぎ早な質問攻めは彼の混乱を示していた。困り眉のまま目を開けて、2人を見つめている。

《Licht》
「え、ええと。見たワケじゃなくて、オレはそこの、ロゼに聞いて」

 質問攻めにあったリヒトは身を竦めて、言い訳をするように目線を泳がせた。

「それだけ、ほんとにそれだけ!」

 巨人、なんて。抽象的な言葉すぎて分からない。エーナモデルの子なら巨人の話をいくつも出してくれるだろうが、リヒトの手の中に物語のカードは無いから、必死に無い頭を回す。

「……もしかして、“ヒト“ってその、大きなバケモノみたいな見た目してんのかな……」

 ダメだ、違う気がする。推論を立てては、ガラガラとそれが音を立てて崩れていくものだから、まるでずっと終わらないつみきをしている気分になった。終わらない上に、途中で柱が消える、永遠のつみき。

《Rosetta》
  ブラザーは、そういえば知らなかったのだっけ。
 小首を傾げ、ロゼットは瞬きをした。
 どうにも関心がなくていけない。もうすっかり彼に話したつもりでいたが、間違いだったようだ。

 「これは私が夢で見たことなんだけど……夢の中で、私は巨人にお腹を食べられてるの。あちこちに体液が飛んでて、石でできた巨人が泣いてて……洗浄室で起こったことなのかな〜って思ってたんだけど、どうやら違うみたいでね。リヒトはいなかったよ、私だけ食べられてたんだ」

 特に咎められなければ、彼女はリヒトの頭を軽く撫でようとする。
 調子の悪い少年ドールを、ちょっとばかり励ましたいのだろう。 「訊きたいことがあれば、聞くよ」なんて言って、彼女はブラザーを見ている。

「……」
「…………」
「………………」

 沈黙。
 フリーズと言ってもいいかもしれない。

「ん、と……」

 こめかみの指をゆっくり下ろして、シュッとした形のいい顎に添える。情報を少しづつ整理しながら、ゆっくりと口を開いた。

「夢っていうのは、ドロシーが言ってたみたいな……過去の記憶ってやつのことかな。それで、その石の巨人はロゼットのお腹を食べてたんだ」

 ───あながち、魔法使いも間違いじゃないのかもね。
 ……なんて、冗談ぽく笑った。冗談じゃない可能性が不吉で、背筋がぞわりとする。

「うん、だいたい分かった。
 あと僕から共有しておきたいことと言えば……青い蝶のことかな」

 誤魔化すみたいに微笑んで、ブラザーは青い蝶の話をする。ツリーハウスで見た、シャーロットの傍にとまった蝶と不思議な声の話を。

《Licht》
「青い、チョウ────」

 その言葉に目を開いて、言葉をなぞるように繰り返す。……その時、ロゼののんびりとした優しさが短い彼の髪を撫でた。『わ、ちょ。ロゼお前ホント…!!』ぽん、と頭の上に重ねられた手に驚いて、わたわたと手を振る。

 また小さい子扱いされている、とむくれて、リヒトは草の上で四つん這いになり、ちょっと後ずさった。

「お、オレ見た事ある。寮の中で。一瞬で消えちゃったけど……」

 なんとか手の下から這い出たら、ブラザーにそう言うはずだ。食堂の窓の辺りで、ふわりと飛んでいた青い蝶。

 彼がどんな話をしてくれるのか、リヒトはノートを開いて次の言葉を待っているだろう。

《Rosetta》
 リヒトの頭が手から抜けて、生温いぬくもりだけが残る。
 手のひらを数秒だけ眺めてから、 ブラザーの言葉に対する感想を口にした。

 「青い蝶って、何? コゼットドロップとか……洗浄室にこびりついてた液体にも似てるね。見てみたいな」

 見覚えがあるのは羨ましいが、すぐ消えたならそれは幻覚ではないのだろうか。 植物に関心はあるが、青い蝶など今まで見たこともない。海底でどう育ち、何を食べて生きているのか、全くもって想像がつかなかった。

「……僕が見たのはツリーハウスだった。シャーロットの傍にとまってたんだ。青白く光るような、それこそコゼットドロップみたいな蝶だった。
 ……あ、見る?」

 静かに口を開く。
 寮で見たと言うリヒトにぱちりとひとつ瞬きをしてから、目を伏せてゆっくりと語りだした。途中でふと気づいたように眉をあげれば、ポケットから丁寧にハンカチに包まれたコゼットドロップを取り出す。そっと中を開いて、青白く輝く花弁と花を二人に見せるはずだ。

「蝶を見ると、色んな人の声が重なったみたいな声が聞こえて……だんだん頭が痛くなってきた。倒れそうになると声も蝶もいなくなってたんだ。
 リヒトは、何か聞こえたりした?」

 二人に向けて花を見せたまま、あの時のことを思い出す。声がなにを話していたかを黙っているのは、特に関係ないと思っているから。言いたくない感情を隠すように理由付けして、二人の反応を待つ。その先を聞かれれば、少し躊躇いつつも口を開くだろう。

《Licht》
 青白く輝くコゼットドロップを、リヒトは初めて見た。ほう、と息をこっそり吐いて、ノートに取るのも忘れて束の間、見蕩れていた。

「聞こえは、しなかったけど……思い、出した。その、擬似記憶の忘れてた部分みたいなとこ。なんだろ……思い出の人、との、追加の、思い出……? みたいな」

 しばらく花を見つめながらブラザーの話を聞いて、リヒトは思い返しながらつっかえつっかえ言葉を重ね……急に不安になったのか、寮の方を振り向いた。

「そろそろ戻ろうぜ。散歩の休みにしちゃ、長くなっちゃったかもだし」

 テーセラモデルの良い目をもって、寮の方をまた見やる。黒い雨が足音も無く忍び寄っているような、そんな様子は無かったけれど、いつだって焦燥の中にいた。
 ノートをいつもの鞄にしまって、戻ろう、とそう促して、残りの二人をそろそろと交互に見ながら待った。その途中、躊躇いがちにタイミングを考えて、確かめるように口を開いて、閉じて、開いて、ようやく、声にする。

「……あのさ。ヨユーがあったらとか、気が向いたらとか、ふと思い出したからとかでいいからさ。
 ソフィア姉とか、フェリとか、みんなとか、気にかけてやってくれよ。……やっぱ、どうしたって、コレは、つらいコトだから」

 『もちろんロゼも、ブラザーさんもな!』と、ぴっと2人を指して、笑った。頼れる2人の前で少し話して、落ち着いた部分もあるのだろうか。大丈夫、ちゃんと笑えている。

 コワれた頭で考えて考えて、そのどれもがきっと間違えていたけれど。コワれた心で見つけられる、みんなの傷には限界があるけれど。このささやかな発見だけは、真実なんだと願いたいのだ。

 オミクロンクラスは、みんなで幸せになるってことを。

《Rosetta》
 声の聞こえる蝶。
 蝶にまつわる思い出。
 まだ少し遠い出来事を聞きながら、少女型ドールは目をパチパチしている。
 これから、自分たちはどうなってしまうのだろう。
 過去の出来事を思い出して、先生たちとも決別するのだろうか。それとも、海を超えて地上に戻るのだろうか。
 とりあえず今は、リヒトのお願いに頷くだけで済ませておきたかった。

 「いいよ。あんまり分かってあげられないかもしれないけど、頑張るね」

 人の痛みも、自分の痛みでさえ分からないが、慰めはトゥリアの専売特許だ。
 できることなら、可愛い弟分のためにこなしてみせよう。

 「お兄ちゃんも、帰ろう」

  ブラザーに向けて、手を差し出す。
 それが握られなくても、彼女はそこそこ元気に歩いていくだろう。

「うん、もちろん。
 僕はおにいちゃんだからね」

 リヒトの言葉に柔らかく微笑んで、ブラザーはしっかりと頷いた。トゥリアドールの動きは相変わらず優雅で上品で、とても頼り甲斐があるとは思えない。けれど確かに、ブラザーはおにいちゃんである。

 ロゼットの手をそっと握って、指先を手の甲に滑らせた。感触を確かめるようなそれは、触られた本人にとっては擽ったいかもしれない。そんなことを気にせず、ブラザーは続けて口を開く。

「……僕、みんなのこと幸せにしてあげたいんだ。そのためなら何でもする。
 だから、何か困ったことがあったらいつでも頼ってね。君たちが幸せになることなら、僕は喜んで協力するから」

 にっこり。
 とびきり甘ったるく笑って、ブラザーは2人の返事を待たずに歩き出した。一方的に、分かりにくく、自分の立場を示してはのんびり帰っていくだろう。不信のやさしい業務提携を、勝手に結びつけて。

【寮周辺の平原】

Felicia
Brother

《Felicia》
 歩いて、歩いて、歩いて。
 深呼吸を、2、3回。
 呼吸を、落ち着かせた。

 ストームと別れたあと、フェリシアは、エルくんを探すために学園に戻ろうとしていた。
 雨あがりの平原を吹き抜けていく気持ちのいい風が、ウィスタリアの髪をふわっと撫でて流れて行った。

「おにごっこかぁ。」

 フェリシアは、歩いていた。
 近づく人影に、気付かずに。

「おにごっこ、楽しそうだね」

 背後から、声がする。
 平原の草を踏み締めて、甘やかに微笑むブラザーがやってきた。

「こんにちは、フェリシア。
 少し話したいことがあったんだ」

 ひらりと軽く手を振りながら、フェリシアの元まで歩いていく。勝手に隣に着いてはまた笑いかけて、静かに足を止めた。含みのある言い方とは裏腹に、その態度はいつも通りである。
 ───いや、エーナドールたるフェリシアなら気づくかもしれない。おっとりした慈愛の彼には似つかわしくない、ピリついた空気が漂っていることを。

 また、風が吹く。
 ブラザーの長い前髪が揺れて、隠れた片目が隙間からのぞいた。フェリシアを映したままに細められるアメジストは、今日も艶めかしく輝いている。

「……“開かずの扉”について」

《Felicia》
「わっ? ……わぁ。ブラザーくん聞いてたの」

 愛おしそうに細められる目、何よりその慈しむような優しい声音には聞き覚えがあった。振り返ってみると、ペリドットが映し出すのは“自身をおにいちゃんだと名乗る”不思議なお友達だ。

 しかし彼は普段とは少し違った雰囲気をたたえていた。先ほどまで一緒にいた、ストームのように。

 焦燥感……いや、少し違う。

 周囲を警戒して、攻撃するような、
 ─── おそらく、苛立ちだった。

 フェリシアの瞳は開かれる。
 ……開かずの扉。
 フェリシアの、トラウマ。

 それを聞きに来たのだと分かった頃にはフェリシアは身体を強ばらせていた。背筋の凍るような体験は、できればもう、したくない。

「……リヒトくんから聞いたの?」

 フェリシアは質問を返す。
 フェリシアが知る限り、開かずの扉のことを知っているのは、あの日塔に行ったリヒトくんと、アストレアちゃんと、ソフィアちゃんだけだ。それから……ヘンゼルくんも。彼がそれを話すわけないので除外したのだが。

 ストームのように、また別の誰かから聞いたのだろう。なぜ、また私に……? 疑問は、膨らんだ。

「……ごめんね、そんな顔をさせたいわけじゃないんだ。嫌だったら、言わなくてもいいから」

 エーナでなくても分かる、表情の変化。見開かれた瞳は揺れていて、フェリシアの体はいつの間にか強ばっていた。
 ブラザーはすぐに、リヒトのノートについて思い出す。“あの夜”と書かれた日。そのことについて聞かなかったことを、今になって後悔する。反応からして、 きっとその日、リヒトとフェリシアは、開かずの扉に行ったのだろう。

 もしかすると、見たのかもしれない。
 ミシェラが炎に落ちる、その瞬間さえも。

 嫌な考えに自然と表情が曇り、ブラザーは眉を下げて首を振る。囁くように謝罪を述べて、フェリシアが動かないのならその頬に片手を添えるはずだ。

「質問に答えよう。
 君と同じで、ヘンゼルから聞いたんだ」

 目を伏せて、これも囁く。
 人の足元辺りに視線を落としてから、やがてフェリシアを見つめた。安心させるように優しく微笑んで、そっと手を引こうとする。

「……座って話そうか。噴水の方に行こう」

《Felicia》
「笑えるくらい強くなくて申し訳ないな。でも大丈夫だよ! ちゃんとお話できるから……」

 謝罪の言葉を口にする。ブラザーくんの口ぶりからしてお披露目会があったあの日、自身が開かずの扉に行ったことを知っているのだろう。

 知った上で、聞いていて。
 辛いなら言わなくていい。
 なんて、甘い言葉をかけてくれる。

 彼はなんとしてでも知りたい情報のはずなのに。

 頬にふんわりとした温かさを感じて固まっていた身体がぴくりと跳ねた。トゥリアドール特有の柔らかな感触が、硬直をほぐしていくように。じんわり、じんわり。伝わっていった。

「ま、まさかのヘンゼルくん……。
 ブラザーくんは彼から怖いこと言われなかった?」

 上がらないと思っていた名前が飛び出しても、フェリシアはそこまで驚かなかった。心配が勝っていたからである。彼女の知るヘンゼルくんは、オミクロンクラスの子を傷つける言葉を言う子だから。
 最近は“素直になれないけれど、意外と優しい子”なんて項目が追加されている訳だが。

「……うん。」

 差し出された手に、そっと自身の右手を重ねて。フェリシアはブラザーくんの左手を取った。

 噴水……そういえばさっきも湖畔に行ってたっけ。今日は水に関する場所に行くことが多い。

 ブラザーくんに連れられて、噴水の傍に立ったフェリシアはその水が流れるのを見ていた。

 水滴が落ちて、 波紋が広がる。

 落ちて、落ちて、落ちて。
 広がって、広がって、広がって。

「……じっくり見ると、噴水って綺麗だよね。」

 話しかけたその子は、本当にブラザーくんだった……?

 寮のすぐそばには美しい花畑と、その中央には天使像が据えられた噴水が存在する。噴水からは耐えず水が循環しており、陽光に水面が反射する輝きとも相まって、きらきらといつ見ても非常に壮麗である。

 あなたがフェリシアと連れ立って噴水の縁に腰掛け、穏やかな水の流れを眺めていると、ふと。

 フェリシアが何故か苦しみ始めていることに気付くだろう。

《Felicia》
「〜〜〜っ! あいたたた……」

 くぅ、なんて呻きながらこめかみを抑える。じぃんと響いていく痛みの中、目の前を掠めたそれは、確かに見たことのあるような。忘れ去っているような。確かなのはそれが、“幸せ”な記憶だったこと。

 それだけ、だった。

「あぁ、ごめんねブラザーくん。
 ……えぇっと、『あかのず』が『びらとぶ』話だったよね? えーっと。
あれ。どんな物語だったっけ。」

 物語を思い出す振りをしてそう聞いた。学園の前。誰が見ているか把握するのが分かりにくい場所で「開かずの扉」の話をしない方がいいと判断したフェリシア。
 そして、対するブラザーくんはトゥリアとして優秀なドールだったと聞く。それなら……それなら。
 フェリシアの作った少しガサツなアナグラムにでも気づくはずだ。

「待ってね……思い出せない。
 ちょっと待ってて! その物語をメモしてたノートがあったはず!!」

 ここで話すのはマズい。そして、自身の持っているノートには以前ヘンゼルくんと筆談した跡がある。
 それを見せるのが一番だろう。
 ブラザーくんにそう言うと、フェリシアはノートのある寮内に一目散に駆け出した。ノートを取り出すと、また全力で噴水の場所へ戻るだろう。

「ごめーん! 待った? あはは……これだよ〜!」

 広げたノートの左端には、フェリシアのこじんまりとした丸文字で、
 "筆談でお話しましょう"
 という文字が連ねられているだろう。

「フェリシア……? 大丈夫!?」

 突如として頭痛を訴えはじめた相手に、ブラザーは不思議そうな顔をする。しかし、彼はこめかみを抑える仕草に見覚えがあった。

 過去の夢。本当の記憶。
 少し大袈裟なくらいに驚いて、立ち上がって名前を呼ぶ。だが、思っていたほど頭痛は酷くないようだ。アナグラムを聞いているうちに、不安げにフェリシアを見つめる瞳に疑問の方が強くなる。
 最初こそ片眉をひそめていたブラザーも、ノートと聞けば表情を変えた。フェリシアもまた、リヒトのようにノートを持っていると気づいたのだろう。

「おかえり。大丈夫だよ、ありがとう。
 良かった、テーセラの子に今度読み聞かせてあげようと思ってたんだ」

 ノートを開くフェリシアに優しく微笑んで、ホッとしたように肩をおろす。何気なく頷いてみせたから、きっとその策に応じるのだと伝わるはずだ。

《Felicia》
「これはね〜、私がつくったとっておきのお話だから。テーセラの皆も喜んでくれるんじゃないかな!」

 にこにこ、笑って、頷いて。
 優しいブラザーくんなら作戦に乗ってくれるだろうと確信していたフェリシアは嬉しそうに声を弾ませた。もちろん、周りからはただ自作の物語を滑稽なエーナドールが自慢げに見せているようにしか見えないだろう。痛々しい光景のようだが、それは彼女にとって存外、どうでも良かった。

“結論から言うと、開かずの扉は、黒い塔と呼ばれる場所の入り口だった。お披露目会の時にその塔の中に入ったんだけど……。”

“扉の先には資料が落ちてて、それからコンテナがあったんだ。
 その中には、…………。”

“本物そっくりの皮膚を被った脚が入ってた。おそらく誰かの脚。詰め込まれてた。”

“落ちてた資料はこれ。”


 貴方がそこまで読むと、フェリシアはノートに挟まっていた用紙を広げるだろう。

「ちなみにこれね、ここに出てきたうさぎのキャラクターの初期案なの。ヘンゼルくん、この子になんて名前つけたと思う? ……全く酷かったんだから!」

 ふん。怒ったような仕草を見せるが、作り話だということは彼にも分かっているだろう。その資料を見れば一目瞭然だからだ。

「……あっ、これもしかして、ヘンゼルくんとかリヒトくんから聞いてた? ブラザーくんに教える前に色んな子にこの物語のお話をしたから、既に知ってたらごめんね。」

 それは、"開かずの扉"のこと、ここまで知っているのか? という遠回しな確認だった。さて、相手はどう出る?

「ふふ、フェリシアはすごいねぇ。お話づくりの才能もあるんだねぇ」

 トゥリアドールであるブラザーは、どうしても演技をするならエーナであるフェリシアに劣るだろう。そう考えた彼は、演技ではなく本心を言うことにした。もし本当にフェリシアの物語を見たとして、自分が何を言うか。嘘をつくよりずっと簡単に、本物通りに微笑める。

「ふふ、かわいいね。なんだろう、ヘンゼルのことだから数字とかかな」

 “黒い塔”。“コンテナ”。“誰かの脚”。“資料”。

 想像していたよりもずっと多い情報をリアルタイムで脳に詰め込んで、ブラザーは笑みを浮かべ続ける。驚くのも、考えるのも、一旦あとだ。ディオのように精巧な頭脳でなくとも、記憶だけなら出来るはず。
 今はただ、誰にも疑われないように。

「ヘンゼルから少し聞いてはいたんだけど、実際に聞くのは初めて。面白くて聞き入っちゃうな、もっと聞かせてよ」

 ノートから顔を上げて、フェリシアに笑いかける。わくわくと表情を明るくしたまま再び視線を下げて、ノートを見つめた。
 事前情報だけ頭にあり、ここまでは知らない。ブラザーの隠れた言葉の意味を、きっとフェリシアは読み取れる。

《Felicia》
「本当! もう、ヘンゼルくんったらちょっとネタバレさせてたのね!
 えへへっ読んで読んで〜!
 この場面とかすごくいいでしょ!」

 そう言うとペリドットは白い指を滑らせて右ページの文章を指すだろう。

“大体わかった。開かずの扉は外部に繋がってる資材搬入の為の通路だと思っていたけど。見たのはそれだけか? 怪物は?”

 貴方は、その端正な文字からヘンゼルくんが書いたものだとすぐに理解出来る。貴方をじっと見ていたフェリシアは、貴方が読み終わったと判断すると次のページを開いた。開いたは、いいものの。

 その文章を、手のひらで隠した。
 大事な貴方に、見られたくない。

「こ、ここからは……ちょっと過激な場面にはいるから……見なくていいかも。自分から見せておいて、……ごめんね」

 それに書かれているのは、間違いなく塔の、事実。優秀な貴方ならそれが分かるかもしれない。
 しかし貴方は、見せて欲しいと、頼んでもいい。本当に、知りたいのなら。

 ブラザーの双眼が、左右に揺れ動く。ノートに書かれた文章を読み込み終われば、瞬きを2回した。簡単な合図、けれどこれで充分だろう。

 ページがめくられる。
 次のページが現れて、それに目を通そうとした瞬間に白く小さな手のひらが文を隠した。驚いて顔をあげれば、不安そうに躊躇いを口にするフェリシアがいる。その先に真実が書かれているのは、すぐに予測できた。

「えぇ、気になるなぁ……。
 あ、わかった! ふふ、フェリシアってば恥ずかしいんでしょ」

 だから、くすくす楽しそうに笑う。
 自然に普通に、自分がその先にする“予想”を口にしよう。

「さっきのうさぎのキャラクター、ミシェラに似てるなって思ってたんだ。その相棒のネコは、あの子……君たちの先生じゃない?
 ふふ、それが知られるのが恥ずかしいんだね? フェリシアはかわいいなぁ」

 名前。ノートのどこにも書かれていない、二人の人物。

 ツリーハウスで読んだノートには、先生がシャーロットを火の中に落としたと記されている。であれば今度も、きっとこのふざけた物語の登場人物は、ミシェラと先生だ。

 楽しそうに笑みを浮かべたまま、瞳を細めてフェリシアを見る。ページを覆う手に、ゆっくりと自分の手を重ねた。

《Felicia》
「えへへ、……えへ。実はそうなの、ちょっと恥ずかしくて。猫ちゃんもうさぎちゃんも、ちゃんとモデルがあるから。バレちゃった?」

 書いた文はそのまま隠して、困ったように笑って見せた。おそらくこれは、"見せて欲しい"という彼の優しいサインであることも分かっていた。なるだけ見せたくない気持ちは、ある。先程トラウマを思い出したばっかりに、これ以上の被害者をうみたくないという、気持ちも。だが、怖がってばかりじゃだめだから。意を決したフェリシアは、ゆっくりとその手を退かした。

“コンテナや資料のあった場所の奥にはまた、扉があった。開けた先は地獄への入り口だったの。”


“暗くて、深くて、大きな、大きな空間だった。そこでは鉄籠が揺れていた。意味わかる?”

“息を静めて、驚かないで。”



 その後に書き足した言葉は、一瞬にしてトラウマを植え付けたあの瞬間の記憶だった。


“ドールの焼却炉だったの。”

“あかくあかく、私たちのミシェラちゃんは炎に包まれていった。
 慕っていた先生の手によって強引に鉄籠の中に入れられて。”

“怪物は、炎が上がる前に下から登ってきていた。それはヘンゼルくんが見た、虫のような特徴をもった化け物だった。そして驚くべきことに、先生から発せられる言葉の意味を理解しているようだった。
 怪物は、先生を襲わなかったの。”

“先生は、品評会、スクラップ、資源供給プラント、パーツのひとつが高騰、みたいなことを言ってた。”

“先生を……大人を信用しないで。
 誰がどこで私たちを監視しているのか、分からないから。それから、私たちを見ているのは先生だけじゃないってことも知っていて。”


 そこには、たどたどしい文章で、そう書いてあるだろう。その時の見せた時のフェリシアの顔が、強ばっていたことも、貴方なら分かるだろう。

「……信じて、貰えないよね」

 か細く呟いたその言葉も、気づくことだろう。

 ああ、うん。やっぱり。

 ノートを読んで思ったのはそんなことで、もう随分と感情の荒波が落ち着いてしまったのだと気づいた。それは悲しんでいるだけでは前に進めないという決意かもしれないし、夥しい絶望に大切なものが壊れてきたからかもしれない。
 少なくとも、ノートを読むブラザーの顔が曇ることはなかった。ツリーハウスでノートを見ていて良かった、と心の底から思う。ここで取り乱さなくて、よかった。

「……ああ、待ってフェリシア。ここ、文章が抜けてるよ」

 ブラザーは胸ポケットからペンを取り出し、ノートに滑らせる。小洒落た優雅な文字が、余白部分にインクを落とした。

“話してくれてありがとう。
 これと同じ話を、実は前に読んだことがあるんだ。”


「はい、これでよし。
 物語はこれでおしまい? 結末はまだ書いてないのかな」

 笑って、顔を上げる。
 風のそよぐ音を聞きながら、フェリシアの反応を待たずに言葉を続けた。

「なら、僕が続きを書いてもいい?
 こんなのはどうかな。うさぎさんが入った部屋は、実は大きなスクリーンだったんだ」

“柵を越えた先には、ツリーハウスが存在する。僕はそこで、誰かの日記を読んだ。”

《Felicia》
「ぁ……」

 ノートに書き出された文字を読んで小さく声が漏れる。ツリーハウス。以前ロゼちゃんとお花畑で話したときに出た話題だ。
 ツリーハウスということは、ブラザーくんはロゼちゃんと行動を共にしていたのだろうか。彼女と同じように、ドロシーとジャックというテーセラのドールと一緒に。破損したドールのお話。塔のことは、おそらく手記……彼いわく日記に書いてあったのだろう。

 それも、ロゼちゃんが立ち去る時に最後に話してくれた√0に関係しているのかもしれない。それから"ヒトと呼ばれる巨人"にも。

「……っあぁ、なるほど?
 へぇ、スクリーンかぁ。いいね! 新しい! そこに映っているのは、きっと幸せな光景なんだよね!!」

 「こんな感じはどうだろう」なんて言いながら新しいページを広げる。
 まっさらな見開きのそれに書き出した。

“ロゼちゃんに聞いたことがある。√0に注意しろとか、何とか。
 あとは……巨人の話も。”

“日記の話、教えて。”


 「どう?」なんて笑顔を見せれば、再度貴方にノートを渡すだろう。

「ふふ、そうそう。
 スクリーンに映った景色が本物だと思ったうさぎさんたちは、最初はびっくりしちゃうんだ」

 うさぎさんが入った部屋は、本当はただのスクリーンで。驚くうさぎさんを見ていた猫ちゃんが、クスクス笑いながらネタばらし。怪物のような着ぐるみに入っていたクマさんが、やり過ぎだよ~なんて言いながら猫ちゃんをたしなめる。怒るうさぎさんに2人で謝りながら、手を繋いで部屋を出ていく。

 ───目を伏せる。
 場繋ぎで口にする物語はあまりにも幸福で、知らない人が読めばきっと笑ってしまうようなものだ。けれど、それが現実だったならと願わずにはいられない。

 ペンを動かす。
 紙にインクが滲んでいく。

“ツリーハウスに行ったのは、僕とロゼット、それからカンパネラ。あと二人、テーセラの子たちがいた。”

“中は随分と古そうだった。そこで見つけたのが、誰かの日記だよ。”

“日記には、シャーロットというエーナのプリマドールがお披露目に行く話が書かれていた。”


 ペンを止めたら幸せな空想まで終わってしまいそうで、ブラザーは一息に書き上げる。傍から見れば、オミクロンのドールが自作の物語を集中して描くなんて、痛々しく滑稽に見えるかもしれない。実際、ペンを動かし続けるブラザーは痛々しく滑稽だった。

“シャーロットはお披露目直前で怪我をしたんだ。彼女はその怪我によって、きっとオミクロンと同じ扱いになったんだと思う。”

“彼女はダンスホールではなく、開かずの扉……黒い塔に先生と向かっていた。その先で、ミシェラと同じ体験をしたんだ。”

“きっと、これがオミクロンドールのお披露目なんだと思う。”


「……よし、こんな感じかな。
 どうですか、原作者さん」

 一度ペンを置いて、また握る。
 続けてなにか書こうとして、今度こそペンを置いた。

 フェリシアも、ブラザーも。
 “彼女”のことを考えていたと思うから。

《Felicia》
「ほんとに。幸せな結末、だね。」

 耳に入る甘い物語に痛がりながら
 フェリシアは笑った。朗らかに、優しく。
 ──残酷に。

 思い知らされる。
 これは、現実なのだと。

 本当に、そうだったらと願わずにはいられない、温かく優しい物語。

 続きは、ない。そこにあるのは、ただ黒く染まった終焉だけだと。

 知ってしまったから。

 サラサラと書き出された文章に目を通していく。こんなにも苦しい学びを、私は知らない。閉鎖されたこの学園から裏切られたその日から、私は悲観的になるばかり。ヒーローとして……いや、エーナとして失格だ。分かっている。それを言われていないだけ、というくらいは。

 ペンを握ったフェリシアは、また書き出し始めた。

“教えてくれてありがとう。
 そのテーセラの二人って言うのは、ドロシーっていう子とジャックっていう子だよね。ロゼちゃんから聞いた。”

“そう。そのシャーロットって子も。もしかして、ツリーハウスにいる壊れたドールって……。”


 改めて、ブラザーくんの書いた文章に目をやる。

 ──オミクロンドールの、お披露目。

 次の文章を書かなきゃ。
 書かなきゃなのに。

 次の瞬間、麗しくも優しいあの子が焼かれる。そんな想像が脳内を掠めていった気がして。後頭部にいきなり強く殴られたような衝撃が走った気がした。

 いやだ。いやだ。いやだ!!!

 考えたくない! やめて、やめて!

「……っ! ……!!」

 ぎゅっと目を瞑って、一瞬の地獄から抜け出す。……ペンを、握りなおした。

“オミクロンドールのお披露目って……じゃあ、一般ドールのお披露目のことはブラザーくん知ってるの?”

 吹くのは、雨上がりの風。
 でも、なだらかに運んでくる花の香りには、きっと。
 ふたりとも、気づかない。

「……大丈夫。大丈夫だよ」

 ぎゅうと、力む音。ペンを握る手に力が込められていたのは、すぐに分かった。
 ブラザーは眉を寄せる。自責の念、激しい後悔。余計なことを言い過ぎた。フェリシアの背中に手を添えて、優しくさする。そんなことで罪滅ぼしをしようだなんて、舌打ちが出そうになった。耳元で囁く言葉は頼りなくて、あまりにも気休めだ。

 深い息を吐いて、ペンを握り直す。少し迷ってから、ノートにインクを散らす。

“そうだね、その壊れたドールがシャーロットだった。カンパネラがあの子のことを思い出していたから、知り合いなんだと思う。”

 ……さて、余計なことはもうひとつ。
 フェリシアが書き出した質問に一度瞳を瞬いて、すぐにペンを動かした。今度は間違えないように、慎重に。けれども自然に、ごく当たり前に。

“ほんの少しだけ。
 フェリシア、君は知っているの?”

“嫌だったら書かなくてもいいからね。”


 にこやかに、ノートから視線を上げた。目を合わせて微笑めば、フェリシアの返事を待つように再びノートを見る。

 案外、自分は嘘をつくのが上手い方らしい。
 ブラザーはこのとき初めて知った。

《Felicia》
「あはは……ありがとう! でも私は、平気だからさ! 行ける行ける!!

 大丈夫! ……ほんとに、大丈夫だから。」

 ──だからお願い。これ以上踏み込んでこないで。いまの“私”は、危険だから。

 さすられた手をとって無理やりにでも笑顔を作って見せた。口角を上げた。心配そうな彼を安心させるように、大丈夫、大丈夫。私はまだ、大丈夫。

 書かれたノートをみて、納得したようにうなづいた。やはりツリーハウスのドールはシャーロットなのだと。……分かってよかったと安心する反面、次に書かれた文字に目を通した時。
 ── 最悪だ。
 と思った。優秀な彼なら、オミクロンから出られる可能性があったから。その希望まで、既に潰されているのかと暗い気持ちになったからだ。

 自分がオミクロンクラスに所属されたのは大きな傷のせいだった。
 後悔はしていないし、これからもするつもりは無い。勲章の傷だ。
 だが彼は、精神異常からオミクロンに来たのだという。それなら、またトゥリアクラスへ戻ることもできない訳では無いのだ。

“貴方たち完璧なドールも、お披露目会は決して喜ばしいものなんかじゃない。たぶん、お披露目会自体がおぞましい殺戮の場なんだと思う。”

 ノートに指を滑らせた場所には、そう書いてあった。間違いなく、自分の筆跡である。そこに書いてあるのはヘンゼルくんの夢を壊した、私の罪の証拠でもあった。
 笑顔で隠しきれないほど、大きな大きな、罪である。

 ……ブラザーは何も言わず、ペンを手に取った。フェリシアの悲痛な笑顔に目を細めたまま、サラサラと文字を綴る。

“このお披露目の話は、誰かから聞いたものなの?”

“もしそうなら、誰から聞いたのか教えてほしい。”


 もしかすれば、フェリシアはお披露目という夢を壊されても瞬きひとつしないブラザーに違和感を覚えるかもしれない。全てのドールたちが焦がれる夢の舞台が、ただの殺戮ショーだと言われても尚、彼は笑みを崩していなかった。辛そうに眉を下げてこそいるが、そこにヘンゼルのような困惑は見られない。

 しかし、今のフェリシアに。
 今の貴女に、その違和感を見抜くことが出来るだろうか。

「……」

 ブラザーは何も言わない。
 ただペンを置いて、次の言葉を待っている。

 ただ、何を言うべきか迷っている。

《Felicia》
“……できれば、教えたくない。私の大好きな子とだけ。”

 貴方はそれだけで察することが出来るかもしれない。しかし貴方はフェリシアが色んなドールに「大好き」を伝えていることは知っているため、分からないかもしれない。

 反応をみて、フェリシアは少しだけ目を開いた。ブラザーくんの目は、曇ってすらいない。怪訝に細められているだけだ。……それも、おそらく自身の張り付いたような笑顔に起因しているだろう。

“お披露目会の事実を知ったのに、ブラザーくんは驚かないんだね。”

「まっ! 結末は置いといて〜っと。えへへっ! 実はねブラザーくん! こんな物語もあるんだ〜!」

 フェリシアはそう言うとペリドットの瞳を貴方に向けるだろう。

 ただ、反応を待つように。
 少しだけ、怖がるように。

 ──アストレア。

 名前が浮かぶ。ソフィアから話を聞いたときに、元プリマドールのみんなでお披露目を見に行ったと聞いていた。フェリシアに話すのは、きっと彼女を信頼しているアストレアだろう。

 ブラザーはもうペンを握らない。
 フェリシアが続けて書いた言葉を見たまま、薄い唇を閉じていた。

 それが開いたのは、フェリシアがこちらを見たときだ。顔を上げるブラザーの表情は、まるで全身を粉々にされたかのように痛ましく、儚げだった。

「……フェリシア、あのね」

 これは、単なる気休め。
 これから続く無数の絶望に対する、ほんの少しの現実逃避。

 それでいい。
 どろどろに甘いだけのシロップが、一瞬でも幸福を幻視させられるのなら。

 ブラザーは兄ではないから。完璧には出来ないから。
 今与えられる愛を、ただ精一杯に。

「フェリシアは頑張ってるよ。
 すごく、すごく、すっごく。

 だから、辛いときは休んでいい。
 苦しいときは泣いていいし、嫌なときは逃げたっていい」

 恐怖に陰るペリドットを、そっと抱き寄せた。指先から蕩かすような甘さが溢れ、ちいさな背中を優しく撫でる。

「君が笑ってくれるだけで、僕は今日もいい日だったと思えるよ。それだけで救われる人もいるんだ」

 背中から指を滑らせて、ウィスタリアの髪を撫でる。慈しむように優しく、けれども強く抱き締めた。

「……フェリシア。
 君は僕の、“ヒーロー”だよ」

 だから、大丈夫。

 にっこりと優しく笑うおにいちゃんは、貴女を愛している。
 例え貴女がオミクロンのジャンク品で、ミシェラを救えなかった偽物で、壁に塞がれる小さな存在でも。

 そんなことはないと、強く否定しよう。
 ブラザーは、おにいちゃんだから。

《Felicia》
 ペンを握らないブラザーくんをみて、困惑した眉を下げたフェリシア。もう書くことは無い、ということだろうか。

 正直、やめて欲しい。

 一秒でも、早く、早く、早く!
 アストレアちゃんを助ける方法を見つけ出す必要があるのに!!!

 思わずその不満を口にしようとしたときその身を包んだのは、ただ柔らかな、感触だった。トゥリアドールしか持ち合わせていない、優しく、安心する。ほんのりと感じる温かみだった。

「わ、わたし…なんか……ヒーローになりたいって大きく言っちゃう意地っ張りだよ。……実際、なにも出来てない。今も、今もこうやって……っ! 慰められるばかりで!!」

 笑えない。笑いたいのに。
 目の端に溜まった水晶の破片が、噴水の水滴をぼやけさせては消えていく。気づいたときには、その小さな身体を彼に預けていた。
 溜め込んできていたナニカが、堰を切ったように流れ込む。
 痛く、鋭いそれらを、彼はただ、背中で守ってくれる。
 柔らかなドールであるはずなのに。

「やだっ……だめだぁ、ごめんね。みっともないね……、へへ。
 なんで急に泣いてんだって話だよ。

 全く、びっくりしちゃうよ……」

 弱い自分に呆れながら。
 頬を伝っていく熱いものを、必死で拭いながら。だけど、被せられた優しい言葉が、ゆっくりと伝わってくる温もりが、手放せなくなってしまいそうで。

 だけど、今は。今だけは。
 そっと、そっと。……撫でて欲しい。

 ヒーローであることを認めて欲しい。そんな甘やかな言葉に今は。
 認めて貰える喜びに、浸かりたい

「……ごめんね、今だけ。これからは
頑張るから。すごくすごく、頑張るから。少しだけ、すこし……」

 傍に、居させてください。

「フェリシアは、頑張ってるよ」

 噛み締めるように、また。
 髪を撫でる手を、そっと頬に滑らせる。フェリシアを抱き寄せたまま、零れ続ける彼女の悲しみを拭った。骨ばった大きな手は、あたたかく柔らかい。貴女を少しも傷つけない、おにいちゃんの手。

「たくさん色んな人と話して、色んな場所に行って、色んな物を見てる。誰かのために、ずっと動いてる。

 すっごく偉いね。フェリシアは頑張り屋さんだね」

 風が吹いたら、聞こえなくなってしまいそうな声。甘美なそれはフェリシアの耳元で囁かれ、2人だけの空間に響く。
 何度も何度も、瞳を、頬を、撫でる。

「だから、休んでもいいんだよ。
 誰かに頼って、甘えていいよ。

 おにいちゃんが、フェリシアを守ってあげるから」

 ぎゅっと抱き締めて、甘く甘く呟いた。
 痺れるほどに強く毒々しい愛情が、ただ貴女を愛おしそうに見ている。

《Felicia》
「……っ、ぇ、うぇぇん……」

 撫でられながら、暫くフェリシアはしゃくりあげることしか出来なくなってしまうだろう。ブラザーくんには彼女が“心の底からほっとしている”ように見えるだろう。
 他の人を守る存在として弱さを見せなかった彼女が、大粒の宝石を流しているのだから。

 泣いて、泣いて、泣いて。静かになったフェリシアは、ブラザーくんの体温を感じる中でべしょべしょに濡らした自身の腕を見ると、途端にかわいた笑いを浮かべた。
 しかしペリドット色に濡れた瞳は本来の輝きを取り戻すように、磨かれてつやんと光っていた。いや実際には光っているように見えた。

 フェリシアの中で、その色々が吹っ切れた。とりあえず、強制的に前を向こうと思うのだ。

 貴方の肩を優しくとん、と両手で掴んで自身の身体を離させると、朗らかに口元を緩めるのだった。

「そうやって言ってくれるだけで私は救われるよ。ありがたいよ。
 ありがとうブラザーくん。なんか凄い……元気がでた。

 お恥ずかしいことに、最近自分のことが嫌いになりかけてたから。

 あのね! それから……前から思ってたんだけど、私はあなたの妹じゃないよ? でも、こうやって優しくしてくれる子のことを、きっと“おにいちゃん”って呼ぶんだろうな!!」

 そう言うとフェリシアは決意したように立ち上がるだろう。貴方の方を向いてまた、「ありがとブラザーくん!! 良かったらまた、お話してくれる?」なんて屈託のない笑顔を見せた。ノートとペンを持ったフェリシアは、学園の方に戻っていくだろう。

 相棒をお披露目会から救う方法を見つけるために。

【学園1F ダンスホール】

「……よし、行こうか」

 学園、エーナモデル控え室。
 ダンスホールに続く扉の前に立つ彼は、小さく息を吐いた。前回、ここに来たときはその先を見てすぐに逃げ帰ってしまったのだ。しかし、今日は違う。意志を固め、ここを自分の目で確かめに来た。

 深呼吸をひとつして、扉を開ける。その先に続くダンスホールで、まず前回も気になった排水溝を調べに行った。

 控え室の先は舞台袖だった。つるつるとした質感のステージが先にまで続いている。
 ステージは広く、ダンスホールの名の通りにこの場で社交ダンスをしても事足りそうだった。現在、客席へ続く真っ赤な緞帳は降ろされていて、スポットライトも点灯していないため、ステージはとても暗い。

 ダンスホールの隅の床に嵌め込まれた鉄製の格子状の蓋は、釘によって打ち込まれており、取り外すことが出来ない。
 なぜダンスホールに排水溝が存在するのか──既にお披露目で何が行われているかを話に聞いているあなたは、予測が出来てしまうだろう。これは殺戮の果てにドールから流れた赤い燃料を洗い流す為に存在しているのではないか、と。

 蓋の向こう、穴の内部は薄暗いが底が見えないのでかなりの深さがあるのではないかと感じる。
 また、排水溝に引っかかるようにして、青く仄かに輝く花弁が──コゼットドロップが落ちているのを見つける。

 お披露目。花弁。
 コゼットドロップ。

「────ラ、」

 もし、もしかしたら。
 あの子は、お披露目の現場で、これを落として。

『青い花を咲かせた化け物に』

「…………」

 かくん、と。
 排水溝を覗き込んでいた足から力が抜けて、その場に尻もちをついた。呼吸が上擦って、自分への失望だけが募っていく。

 これは、この花は。
 一体誰のものなんだろう。


 この青く美しい花弁が、ラプンツェルにあげたものか怪物のものか、もうブラザーには分からないなんて。


「… …………… ……」

 フラフラと立ち上がって、結局よろめいて、ブラザーは緞帳に倒れた。
 ────コゼットドロップを拾うことは、出来なかった。

 あなたが緞帳に倒れ込むと、捲れ上がったその向こう側が窺えるだろう。

 プロセニアム・アーチで区切られた先の客席フロアは、ステージよりもさらに天井が高い。恐らく学園の二階部分までもを使って吹き抜けにしているのだろう。客席は階段状となって後方が高くなっており、バルコニー席までが遠方に見られた。
 ダンスホールというよりは、劇場、さらに言えばオペラハウスに近い構造である。
お披露目でドールズは歌ったり踊ったりするからこそのステージの構造なのだ、と予想する者もいた。

 そして客席の一番奥には、こちらもアーチに囲われた大きな扉が見えた。しかし扉はあまりに大きすぎて、恐らく手動で開けるものではないのだろうとかんじる。

「う、ぁ」

 ぶわり、緞帳に落ちる。
 ブラザーは間の抜けた声を零して、床に再び尻もちをついた。ぼんやりと爪先の方を見ていたが、自分が倒れたことによって揺れた緞帳の波に背中を押される。静かに振り向いて、客席の方を向いた。

 豪勢なオペラハウス。
 高い天井に大きな扉。

 ここに何を迎え入れるのか、もうブラザーは知っている。

「……扉」

 床に手をついて、トゥリアらしからぬ動きで立ち上がった。倒れた拍子に体についてしまった埃を払いながら、合わせ目の方へ向かう。下からは持ち上げられずとも、横に動かすことくらいは出来るかもしれない。ブラザーは頼りない両腕に力を入れて、合わせ目の隙間から客席の方に向かおうとする。

「………」

 恐らく、ここから。
 怪物がホールに足を踏み入れる瞬間を想像して、顔を顰めた。
 この先に続く道がないかと思ったが、近くを見ても解錠に使うような扉はなさそうだ。仕方ないかと息を吐く。

 最後に振り返って、ブラザーはステージに戻った。未だ排水溝に引っかかるコゼットドロップの花弁を見つめ、足を止める。
 あの子の物なら、持っておきたい。けれどあの子のものでないのなら、手元になんて置きたくない。

 手を伸ばして、躊躇って。
 それを何回か繰り返し、やがてブラザーは花弁を拾い上げた。

「……君のこと、忘れないよ」

 ぎゅっと、胸に花弁を抱く。
 誰のものであっても、これは思い出だ。誰にも分からないのなら、せめて信じることだけは。

 静かに目を閉じて、ブラザーは花弁をポケットにそっとしまう。そうして静かに、部屋を出ていった。

【学園3F ガーデンテラス】

Mugeia
Brother

《Mugeia》
 ヘンゼルとの話を終えたあとミュゲイアは一度寮に戻ってからまた、学園の方へとやって来た。
 手にはノートを抱えていた。
 静かな薔薇と会話した時に持っていたあのノート。
 ミュゲイアがたくさんの星と笑顔を描いた空想の理想。
 同志に見せないといけないもの。
 かの同志と会ったのは開かずの扉の時。
 あの時は楽しめなかったから、ちゃんといつもの集合時間に会いに行かないといけない。
 彼の笑顔もまたミュゲイアにとっては特別なのだから。
 泣いていた目を擦って、少し赤くなった目元はウサギのようであり、薄紅色に染まっている。
 けれど、そんな事はお構い無しにミュゲイアはロビーを歩いていた。
 ガーデンテラスへと行く為に。

「アラジン、ミュゲの絵をみたらいっぱい笑ってくれるかな? きっとお月様みたいなまんまる笑顔になってくれるの! 早く見たいなぁ、アラジンの笑顔。」

 スキップまじにり軽い足取りで、ミュゲイアは踊るように歩き出す。
 歩く度に揺れるツインテールは楽しげであり、抱きしめているノートを今よりもギュッと大切に抱きしめている。
 彼の笑顔を想像する度にミュゲイアは楽しくなって、幸せを感じる。
 笑顔の事を考えていれば、幸せで笑顔で心地がいい。
 どれだけ地獄の中で笑っていたとしても、ミュゲイアにとってはそこは春の丘の花畑になってしまう。
 春の伊吹のような笑顔を浮かべたミュゲイアはただ歩く。
 同志との幸せな時間を邪魔されるなんて思ってもみないままに。

「……やぁ、ミュゲ」

 彼は、ミュゲイアがガーデンテラスの扉を開いた先にいた。
 ブリキのジョウロを持ち、爛漫と咲き誇る花壇の前に立っている。ドアの開く音に振り向いたのだろう、体は斜めになっていた。

 夕暮れのガーデンテラス。
 水を浴びた花は、西日を受けてきらきらと輝いている。甘く揺れるアメジストを細めたまま、ブラザーは立っていた。陽の光が影を作って、彼の表情を隠していく。

 ───あれから、どれくらい経っただろうか。
 学習室の一件があってから、2人が会話を交わすことは少なくなっていた。もちろん、ブラザーは今まで通りミュゲイアに微笑みかけ手を振る。しかし、2人だけのお茶会を開いたことは? 一日の出来事をミュゲイアから聞く、夕食後の戯れは? 自分とよく似たその白銀の髪を撫でたことは、あっただろうか。

「こんな時間にどうしたの?
 もうそろそろ日が暮れちゃうよ」

 逆光に表情を隠した貴女の“おにいちゃん”は、ジョウロを置いた。日課を終えたため、ブラザーの予定はもう部屋に戻るだけだ。だが、ミュゲイアは今やってきた。浮かぶのは、ブーゲンビリアの一等星。“妹”本人からやんわりと拒絶を受けたことを、忘れたわけではない。

 いつも通りの柔らかく包むような声が、人の少なくなったテラスに響いていた。

《Mugeia》
 ガーデンテラスの扉を開けた。
 ここで待っていればあの子はやって来てくれると思うから。
 笑顔を待っている時間も長くなければ楽しいものである。
 人の少ないガーデンテラスには来ることがあまりない。
 だって、植物は笑ってくれないから。
 ミュゲイアが花を好きなのは笑顔を作る道具であるから。
 別に植物に笑顔を求めたところで何もないのは分かっているし、それに対して笑顔になってなんて無駄なことをすることもない。
 けれど、今日はそんな植物の絵も描いて見ようなんて思った。
 待っている間にたくさんの絵を描こう。
 そう思って扉を開いた先にいたのは白銀の髪の毛を揺らしたドール。
 ミュゲイアの大好きで大っ嫌いなお兄ちゃんだった。

「……お兄ちゃんには秘密! お兄ちゃんこそ早く帰らないとダメだよ。日が暮れちゃうとお兄ちゃんの笑顔も見えなくなっちゃうから。」

 ミュゲイアはガーデンテラスの中へと入って、ブラザーの言葉に返事をする。
 もう、日が暮れてしまう。
 辺りが暗くなればきっとお兄ちゃんの笑顔が見れなくなる。
 笑顔が見れない。
 お兄ちゃんの大好きな笑顔が見れなくなったら何が残るのだろうか。
 ミュゲイアは笑ったままにお兄ちゃんを見る。

「ふふ、兄妹に秘密はなしだって自分から言ったじゃないか」

 顎に手が添えられて、ブラザーの細い肩が軽く上下する。冗談を言うみたいに弾んだ声は、以前言われた言葉を繰り返した。
 笑っているのだろうか。表情は未だ見えない。“妹”にのみ向けられる、ひたすらに甘くひたすらに優しい、あの笑顔は。

「アラジンに会うなら、僕も一緒にいていいかな。次に会う時は三人で、って約束したんだ」

 歩き出すミュゲイアの背中に、甘いだけの声がする。アラジンと会ったことを、このとき貴女は初めて知るだろう。人を巻き込んで結ばれた勝手な約束も、このとき初めて聞くはずだ。言ってもいないのにアラジンの名を出すブラザーが、体の向きを僅かに直す。その場から動かないまま、顔だけがそちらを向いていた。暗闇の中から視線だけが投げられて、二人の間を何人ものドールたちが歩いていく。いつの間にか、部屋には2人だけになっていた。

「……ね?」

 ゆっくり、静かに。
 靴が地面に触れる音がして、ブラザーが歩きだす。何歩か貴女に近づいて、ようやく隠れていた表情が見えた。首を傾ける彼の背後に、オレンジが光る。

 にこやかに微笑む姿は、いつもと何も変わらない。きっと、ミュゲイアにはそう見える。
 だって、ブラザーは笑顔なのだから。

《Mugeia》
 秘密。
 そう、兄妹に秘密はなし。
 それはお互いに秘密なんて作らなければである。
 話してくれればきっと良かったのに、 先に秘密を作ったのはそっちだ。
 秘密を匂わせた身体でそんな甘いことを言われても困る。

「そんな事ミュゲ言ったっけ?
 ごっこ遊びで言ったことなんてミュゲ覚えてないよ!

 ……会ったの? アラジンに? ……お兄ちゃんって悪い子なんだね。ミュゲ、お兄ちゃんの笑顔は好きなのになんでそんなことするの?」

 甘く囁く微笑みでこの男は告げる。
 嘘で塗り固められた口紅をミュゲイアに塗ってお兄ちゃんと呼ばせる。
 兄妹ごっこ。
 これは単なるごっこ遊びだ。
 笑顔を見るための手段に過ぎない。
 笑顔を得るための手段に過ぎない。
 本当に目の前のドールをお兄ちゃんだなんて思ったことはない。
 だって、ミュゲイアとブラザーはヘンゼルとグレーテルのような事を望まれていないのだから。
 秘密はなしなんて言ったこと覚えてないと嘘をつく。
 この嘘だって秘密。
 オレンジが染まる。
 嘘つきのオレンジ。
 ブラザーの笑顔を見てミュゲイアも笑顔になる。
 悪い子に向ける笑顔。
 どこまでもこのドールはミュゲイアを掻き回す。
 お兄ちゃんと言ってまとわりついて、ミュゲイアの事は何も考えていない。
 ブラザーの笑顔に手を伸ばす、もし触れてしまうのであれば彼のその幸せな笑顔を歪ませてしまうようにもっと口角をあげるだろう。
 幸せそうな顔をするブラザーにミュゲイアも幸せそうにその幸せを奪おうとする。

 夕日はもうすっかり暮れていた。
 徐々に夜の帳が降りてきて、小さな箱庭に眠る時間を告げる。もうおやすみの時間。もう良い子は眠る時間。こんな時間に起きている二人は、悪い子なのだろうか。オミクロンの欠陥品。トイボックスの面汚し。お披露目にももうずっと出られない、ジャンク品のがらくた。だからこんな下らない猿芝居をいつまでも続けているのだろうか。だからブラザーは、いつまでもこんな関係に縋っているのだろうか。

 ブラザーはミュゲイアを見ている。
 “妹”を見ている。
 それはミュゲイアを見ていることに入るのだろうか。

 演者が誰かなんて、本当はどうでも良かったのかもしれない。ソレがミュゲイアじゃなくても、本当は、きっと。

「……ごっこ遊び?」

 ぱきり。
 ブラザーの笑みにヒビが入る。

 こんなものは、兄妹喧嘩じゃない。
 ただの押し付け合い。ただ、それだけ。

 ミュゲイアが伸ばした腕が触れる前に、ブラザーがそれを掴もうとする。ガーデンテラスの扉が開いたのは、その時だった。 

Aladdin
Brother
Mugeia

 ──学園3階、ガーデンテラス。

 夜18時ともなると、ドールはほとんど寮へ帰り着いて夕食の支度を手伝うため、学園はすっかりがらんどうとなる。
 静謐な星空の下、あなた方の合間にだけ暗雲が差し掛かっていたのだろう。徐々に強さを待つ不快な耳鳴りのように、軋轢が明確な実像を伴ってあなた方を引き裂きかけたとき──闖入者がひとり、ガーデンテラスの扉を開け放って踏みいってくるだろう。

 編み込んだシルバーブロンド長髪を軽やかに揺らしながら、やってきた青年はガーデンテラスを見回して、眼を瞬く。

「……ああ、ミュゲ!? それにブラザーじゃないか! もしかして……オレとの約束を覚えててくれたのか!?」

 アラジンは緋色の瞳に星雲を宿して綺羅綺羅しく瞬かせ、だっと跳ねるように駆け出してはそちらへ歩み寄るだろう。

「オレは感動してる……! これで念願の三人での芸術活動が出来るな!

 その為に来てくれたんだろ? ……違うのか?」

 そこで漸く、アラジンは二人の間に走る不穏な空気を感じ取ったのか、片眉を上げた。視線を右往左往させてから、ミュゲイアの方へその矛先を向ける。 

《Mugeia》
 そう、これはただの押し付け合いである。
 お互いの事なんて気にしていない、自分の意志の押し付け合い。
 この二人はオミクロンクラスに来てからよく一緒にいた。
 お茶会だってした。吐息を食べてしまえそうな距離感にもなっていた。夕食後は温かいホットミルクを飲みながら談笑に花も咲かせた。
 けれど、その全てにおいてお互いの事を見たことなんて一度たりともなかった。
 吐息を感じる距離にいても、その瞳を舐めれる距離にいても、きっとお互いの瞳にはお互いなんて写っていなかった。
 ミュゲイアはブラザーの笑顔だけを。            
 ブラザーはミュゲイアというガワを被った妹を。
 だから、ミュゲイアにはどうしてブラザーがミュゲイアの事を妹といったのか分からない。
 けれど、彼が妹と言ってミュゲイアに近寄り微笑んでくれるというのを利用していたのは変わらない。
 お互いがお互いのことを都合良く利用していただけ。
 トゥリアの溶けてしまいそうな程に甘い言葉で、甘い思考で。
 熱く燃え上がったものはいつの日か消えてしまう。
 これは愛でも恋でもないのだから、勝手に冷めてしまう。

「違うの? これを言うとね、グレーテルも怒ったの。でもそれってグレーテルとヘンゼルが本当の姉弟だからだよ? ミュゲとお兄ちゃんはなぁに? ……笑って答えて?」

 ブラザーの微笑みを兄らしい笑顔だなんて思ったことはない。
 笑顔はどれも一緒でどれも幸せなものだから。
 ミュゲイアはブラザーの耳元で囁く。
 まるで愛を囁く小鳥のように。
 恋を知らない恋人よ。
 その思考では優秀なドールにはなれない。
 貴方は兄ではない。
 貴方は恋人である。
 いつまでも兄のままでは恋人になれない。
 いつまでも壊れたまま。
 ミュゲイアの伸ばした手は確かにブラザーの頬に触れ、ミュゲイアはブラザーをギュッと抱きしめようとする。
 悪い子のブラザーの唇の片側だけをグッと少しだけ引き上げながら。
 腕を掴めなかったお兄ちゃんの耳元で妹は囁く。笑って答えて。ただ笑っていて。

「……お兄ちゃんの笑顔ミュゲだぁいすき。

 ……アラジン! ミュゲとってもアラジンに会いたかったの! ミュゲね、芸術活動で絵を描いたんだよ! アラジンもみて! アラジンの笑顔を想像して描いたの!」

 ミュゲイアはブラザーから離れる前にそれだけを告げて、小さくブラザーの耳にチュッとキスを落とす。
 答えは要らないとでもいうように、ブラザーの笑顔を惑わすように。
 笑顔を落とすように。
 それからアラジンの方へと体を向ければミュゲイアはアラジンの方へとよっていき、何もされなければアラジンの事を抱きしめてニコニコといつも通りの笑顔で話し出す。
 貴方との楽しい芸術活動のことを。

 鈴蘭の甘い香りに包まれる。
 開いた扉の音にぴくりと体を止めたブラザーは、ミュゲイアの腕を掴めなかった。代わりに、“妹”に抱き締められていた。艷めくヴェールのような髪が顔をくすぐる。天使の羽根にくすぐられるような感覚。感じるのは自分と同じような体温。このまま抱かれていればチョコレートのように溶けて、ドロドロに混ざりあってしまいそうな体温。トゥリアのあたたかさ。恋人のような温もり。柔らかな手が口角を引き上げる。耳元に落とされた口付けに、囁かれる甘言に、ブラザーの瞳は冷めきっていた。鈍く妖しく煌めいたアメジストは、白銀の向こうで何を考えているのだろう。

「あのね」

 薄い唇が開かれる。
 桜色に染まった小さな口。伸びやかなテノール。紡がれた言葉は、きっとアラジンの方に向かうミュゲイアには聞こえない。離れた体から与えられた体温が徐々に消え、二人の間に再び闇が訪れる。ブラザーがミュゲイアの体を抱き返さなかったのは、この時が初めてだった。だって彼が抱き締めるのは、家族だけだから。

 ブラザーの口角は少しも上がっていない。幾重にも絡まった瞳の奥で、“妹”の姿を見ている。
 “彼女”は今日も、花畑に座り微笑んでいる。

「僕の“妹”は、そんなこと言わないよ」

 ブラザーは、にこりともしない。遠くなった知らない女の背中を見つめて、無機質に拒絶を示す。そんな温度も、そんな態度も、そんな甘さも、“おにいちゃん”には必要ない。家族にはいらない。兄妹にはいらない。
 熟れた果実に興味はない。枝から落ちた実は潰れてしまうだけ。這い寄る蟻が喰い尽くすだけ。醜く潰れた姿に花は似合わない。あの子に似合うのは手向けの花じゃない。辺りに咲き誇る色とりどりの花。頭の上に乗る小さな冠の花。細い指を巡る指輪の花。まだ青々とした、苦くて硬い果実があの子。膨らみ始めたばかりの小さな宝物。無数の未来を孕んだ幸せの象徴。花に囲まれる愛しの“妹”。

 かわいい弟に抱きつく君は誰?
 僕のかわいいあの子はどこ?

 ねえ、ほら。
 はやくあの子に会わせて。
 僕の“妹”を、返して。


 君は僕に、必要ないのだから。



「……やあ、アラジン。
 もちろん、そのために来たんだよ。今度はちゃんと、三人で星を見よう」

 夜空に映える活発な微笑み。星々を編み込んだように輝く三つ編みに、ブラザーは眩しそうに笑った。長い足を動かして2人の方に近づけば、軽やかに手を振る。片眉をあげたアラジンの問いかけに頷いて、楽しそうに声を弾ませた。優しく上品な動きは、以前アラジンと話したときと何も変わっていない。ただ微笑ましそうに、二人の様子を見ているだけである。

 ふわり、と、綿菓子に包まれるように。少女のたおやかな腕が、アラジンに甘ったるい抱擁をなす。彼はそれをおっと、なんて漏らして瞬きながらも、真正面からしっとりと抱き留めた。自然とその腕があなたの背と腰へ回るのは、『恋人らしさ』を乞われるトゥリア故か。
 その手付きに色欲もなにもないが、否が応でもそう映させるのはトゥリアドールの華やかさのせいであろう。

「ミュゲ……もしかしてオレが前に言ったアドバイスを覚えててくれたのか? それでわざわざ芸術活動を? おおお……! こんなに熱心に動いてくれる同志に恵まれて、オレはなんて幸せ者なんだろう!

 オレがモデルなんてなんか照れ臭いけど、お前の芸術を是非とも見たい。見せてくれ!」

 アラジンは弾ける笑顔を浮かべながら、あなたに友好のハグを返す。華奢な背に腕を回して、もろいガラスの身体が砕けないように優しく。

 それから、ゆったりとこちらへ歩み寄り、穏やかな眼差しで見守っているブラザーの方を、ミュゲイアの肩越しに見据える。共に星々を見上げる約束をした同志。彼はあなたにも、感激に瞳を輝かせながら笑みを向けた。

「ブラザー、ありがとう。ミュゲをここに連れてきてくれて! オレがあんなに言ったから忖度してくれたんだろ?
 お前とはまともに芸術活動出来なかったから、また来てくれて嬉しいぜ。なあ、二人とも、座って話さないか?」

 アラジンはミュゲイアの背をそっと撫で下ろして合図しながら、目線をテラスの中央のガーテンデーブルへ向ける。そちらへ二人を誘うように。 

《Mugeia》
 柔らかく細い腕が背中と腰に回される。
 それは恋人らしいもの。
 トゥリアらしい甘ったるくて噎せかえりそうになるような行動。
 それを受け入れるミュゲイアもトゥリア。
 甘ったるいばかりの女。
 笑顔にしか興味のない女ではあるけれど、笑顔を得るためには恋人であることだって必要。
 トゥリアは産まれた時から熟れている。
 真っ赤にぷっくりと実った果実。
 口付けを落とすように齧れば甘く、禁欲さを解放するように誘ってしまう。
 熟れていないつもりなのはあのドールだけ。
 夢を見ているのだってあのドール。
 熟れない果実は食べてさえもらえないで捨てられる。
 それに気づけない可哀想なドール。

「わぁ! とっても素敵な笑顔! ミュゲね、アラジンの笑顔大好き! もっと見せて!

 見せるよ! アラジンに見てもらいたくて描いたんだもん!」

 ミュゲイアはその笑顔に蕩ける。
 甘美なその笑顔に釘付け。
 マシュマロが溶けてしまうほどに、その甘さがお気に入り。
 芸術活動でこんなにも素敵な笑顔を見れるなら嬉しい限りである。
 友好のハグに対してミュゲイアもギュッと彼の背中に腕を回す。
 柔らかく標本の蝶を撫でるように。
 脆い身体を大切に大切にするように。
 良い子のアラジンを抱きしめる。

「じゃあ、あっちで見せるね! 早くアラジン行こ! ……お兄ちゃんも早く!
 ミュゲね、今日の芸術活動も楽しみ!」

 背中を撫で下ろされればアラジンから離れ、アラジンの手を取り早く! 早く! と言わんばかりにガーデンテーブルの方へと進んで行く。
 ブラザーの事も早く! と急かしながらミュゲイアは進む。
 ずっと、熟れないまま鳥に啄まれて終わりそうなドールを見据えるその目はどこまでも白く純白で、ぷっくりとした艶かしい唇がその名前を呼ぶ。
 早く熟れちゃえとその実を食べろと唆すヘビのように。

「あはは、忖度なんてしてないよ。僕もまた、君に会いたかったから」

 アラジンの言葉に肩を竦め、おかしそうに笑ってみせる。口元に添えられた手は優雅で美しく、ガーデンテラスを甘やかに彩っていた。本心だと伝えるようにゆっくりブーゲンビリアの瞳を見つめて微笑んでは、愛おしそうに三つ編みを撫でるだろう。丁寧に編まれた髪を崩さないよう、慈しみを込めた指先は正しくトゥリアというのに相応しい動きだった。親愛を込めた笑みを浮かべたままアラジンの視線の方を向けば、“妹”がこちらに呼びかける。

 こちらが口を開く前に急かすその無邪気さが可愛らしくて、ブラザーは自然と口角を緩めた。全くもって、いつも通り。“妹”に向ける優しくて甘いだけの笑み。底なしに柔らかく響く声。貴女の“おにいちゃん”は、少しも変わらない。ただ幸せそうに、最愛の“妹”と弟がくっついているのを眺めているだけである。上がった口角は、いっそ満足しているようで。これが正しいのだと、言外に語っているようで。

「ふふ、分かってるよ。ミュゲはかわいいねぇ」

 白蝶貝のような両目を見る。きらきらで純粋で、なんの邪気もない瞳。染まりやすい真っ白。
 ブラザーは楽しそうに微笑んで、急かすミュゲイアに答える。弾む声はいつものようにミュゲイアを猫可愛がりして、貴女の嫌がることを一切言わない。ただ甘やかすだけ。ただ甘さを与えるだけ。ただそれだけの関係。いつも通りの二人。
 本心から愛情を伝えているのだ。さっきの今であっても。さっきブラザーに抱きついたのは、かわいいかわいい“妹”ではないのだから。

 こびりついた誰かの鈴蘭の香りなんてすっかり忘れて、相変わらずのんびりした、けれども小走りにテーブルへと向かった。
 コツコツと地面を鳴らす音が、“おにいちゃん”には幸福のリズムに聞こえていた。

 明るく駆け出していくミュゲイアの後を追って、アラジンは一度手放していた細長い大きな筒を抱えて今しがた指し示したガーデンテーブルの方向へ向かう。
 あなた方の合間に渦巻く確執など、アラジンはなにも気が付いていない。渦中を目撃するより前に、あなた方が仲睦まじい兄弟の仮面を被ってしまったから。故にミュゲイアからブラザーへの嫌悪も、ブラザーからミュゲイアへの拒絶も、いびつに絡み合う倒錯とした関係性の糸もアラジンは悟ることが出来ない。

 だからこそ、こんなにも歪んだ邂逅の場が生まれてしまったのだろう。

 二人が真白のチェアに腰掛けたとき、アラジンはその目線をミュゲイアの方へと向ける。爽やかな様子で首を傾けては、口角を緩く持ち上げる。
 急かすでもなく、あくまで優しく。

「さっそく、ミュゲの芸術を見せてくれよ。オレも一緒に見せるからさ。」

 彼は手製の望遠鏡をテーブルに寄りかけてから、鞄の中から一冊のノートを取り出した。それは何気無い学習ノートのように見えたが、恐らくこちらにも彼の芸術が書き込まれているのだろう。
 頁を開く前に、まずはミュゲイアのものを確認したい、とアラジンは希う。

《Mugeia》
 ミュゲイアは駆け出す。
 この星空に見下ろされながら、偽りの関係を明るみに晒しながら。
 今はこの星空に溶かされていく。
 同志と共に。
 愛する笑顔と共に。
 この関係はきっと誰にも分からない。
 ブラザーの拒絶もミュゲイアは知らない。
 ミュゲイアの幸せに包まれた嫌悪もブラザーは知らない。
 アラジンもこの二人の歪な関係を知らない。
 みんな仮面を被ったように踊るだけ。
 踊らされるだけ。
 ブラザーの言葉にはただ微笑むだけでミュゲイアはアラジンの隣に腰かけた。

「うん! 見せるね! 笑顔になる絵を描いたの! お星様もアラジンもみんな笑顔なの!」

 持ってきたノートをガーデンテーブルの上に置いて、絵の描かれたページを開く。
 そこにはニコニコ笑顔の星とアラジンらしく人物が笑っている。
 上手いわけでもないその絵。
 全てのものに笑顔の顔を描いてしまうあたりはまるで幼稚園児のようである。

「アラジンのも早く見せて!」

 ノートを見せてから、ミュゲイアはアラジンの方へと目線を向けて笑顔で催促する。

 得意げなミュゲイアに、こちらの期待も募っていた頃。
 彼女が意気揚々と開いたページに、アラジンはぱちっと自身のブーゲンビリアの花を瞬かせて釘付けになった。

 それは児戯のたわむれかのような拙い絵だったかもしれない。しかし、その満点の星空──ならぬ、満点の笑顔が主役のそのイラストを覗き込んで、アラジンは至高の芸術に出会ったかのように感激に拳を握りしめた。

「こ、これはオレじゃないか! ……オレだよな? 髪も眼の色も、オレのだ。見ただけですぐ分かった! カッコよく描けてる、嬉しいぜ! それにこれ、北斗七星だろ? オレとの芸術活動のこと、覚えててくれたんだな……!」

 アラジンは、あなたの絵画を甚く誉めそやした。瞳をきらきらと希望で輝かせながら。また、空で瞬く星々の整列の様子を指さしては、喜色一面で頬を弛ませる。

「やっぱりこれがお前の芸術なんだよ、ミュゲ。みんなを笑顔にできるお前にしか出来ないことだ。
 なあ、今度はブラザーとか、お前の友達の絵も見せてくれよ。オレ、楽しみに待ってるから!」

 明るくあなたの芸術をもっと見たいと乞うアラジンの言葉は、優しい響きであれ、ミュゲイアが日頃口にする『笑って』という願いと毛色が似ていた。
 早く見せて、とこちらの芸術を鑑賞することを願うミュゲイアに、アラジンもしかと頷いて、ブラザーの方へ目を向けた。

「ブラザーも見てくれよ。オレも三人で集まった時のために、描きあげてたんだ。……ほら!」

 非常に勿体ぶった様子で口角を釣り上げると、持っていたノートをテーブルの上に広げる。
 見開きのページ一杯には、煌めく銀河と星屑の群れが執念深く描き込まれていた。ありったけの砂金を撒いたような豪奢な星空の下、向かって左側の頁には綿菓子のような銀糸を靡かせる少女が、右側の頁にはアメシストの双眸を妖しく艶めかせる好青年がそれぞれ見返りながら夜空の財宝を見上げている。

「三人で集まれるの、オレ、本当に楽しみにしてたんだ。二人が芸術クラブに来てくれて嬉しいぜ。

 なんか、お前達とは初めて会った気がしないんだ。何でだろうな……」


 ──アラジンの言葉通り。
 あなた方は不思議と、こうして一堂に介することが初めてではないと、そんな予感がしていた。

 それと同時に。この飲み込まれそうな銀河を眺めていると、奇妙なほどに強烈な違和感がやってくるのだ。──覚えのある激しい頭痛と重なって、それはあなた方に襲い来る。いずれ必ず訪れる闇夜のように。

 にこにこ、ブラザーは笑う。
 弟と“妹”が楽しそうに芸術活動をする姿を見つめ、何も言わずに目を細めた。可愛らしいミュゲイアの絵。それを嬉しそうに見るアラジン。例えこの箱庭が偽物であっても、今この瞬間だけは3人のものだ。もしも許されるのなら、3人の芸術家のものだと思わせてほしい。自然と綻ぶ口角は柔らかく、優しく、口出しをせずともブラザーもこの空間を楽しんでいた。

 アラジンがこちらを向けば背もたれに預けていた背を離し、前のめりになる。ガーデンテーブルに置かれたノートと、アラジンを交互に見た。焦らすように笑ってから開かれたノートに、ブラザーは目を奪われる。

 広がる、満点の星空。
 思わず「わぁ……」なんて感嘆の声を漏らし、華やかな銀河を見る。空の下に描かれているのは、きっとブラザーとミュゲイアだ。いつもは妖艶に細められている瞳をいっぱいに広げて、少しも見逃さないように絵を見つめる。
 聞こえたアラジンの言葉に、ブラザーは嬉しそうにはにかんだ。名残惜しそうに絵から顔を上げ、うっとりなんて表現が似合うように微笑む。うすらと紅潮した頬は、彼にしては珍しい。またすぐに、堪えきれないといった様子でノートに視線を戻す。

 なんだか、とても嬉しい。
 コアの奥底からじんわりと喜びが広がって、元々高い体温が更に上昇するのを感じる。柄にもなく踊り出してしまいそうな、そんな。

「うん……僕もだよ。アラジンに出会えて、本当に───」

 ばちり。

 突如、暗転したように。ブラザーの視界の奥がばちばちと焼け焦げて、あの苦々しい頭痛がやってくる。幸せなひとときを奪い去るように、不和へと強引に手を引かれる。
 前頭葉の当たりを手で抑えて、ギリと奥歯をキツく噛んだ。ぐしゃりと前髪を乱暴に掴む仕草は、普段の気品溢れるブラザーとはかけ離れている。
 ああ、なんで。なんでこんなときに。


 邪魔しないでよ。
 せっかく、せっかくまたアラジンに会えたのに───!


「……っ、え」

 激しい頭痛の合間。
 確かに見たのは、輝く星空。

 寂しそうに笑うアラジンと過ごした、最後の夜。ミュゲと、僕と、アラジンと、最後に星を見た日。

 そうだ、あれは。
 あれは──────アラジンがお披露目に行く、前夜だった。


「…………」

 前髪を掴んだまま、目を見開いてブラザーは硬直する。か細く喉の奥から締め出される息は、疑問と絶望に震えていた。

 存在しない、ありえないはずの記憶。
 実在感のない幸福の日々。
 あの日見た平原の星空。

 なにも思い出せないのに、何もかもが、きっと本当だった。

《Mugeia》
 きらきらと瞳を輝かせて喜ぶその姿がどんなにも綺麗な星よりも輝いて見えた。
 キラキラのこのひと時がとても幸せで、アラジンの笑顔がミュゲイアを幸せそのものにしてくれる。
 不穏なことに目を背けて、今この時だけをミュゲイアは楽しむ。
 あとから思い出したとして幸せだったと言えるあの笑顔を愛する。
 アラジンの笑顔はとてもとても幸せなものだ。
 ミュゲイアの行動で笑ってくれる彼が好きだ。
 アラジンが喜んでくれるのをミュゲイアはニコニコと見ていた。
 ミュゲイアの顔は笑顔そのもので、ただただ幸せそうである。

「……ミュゲにしか出来ないこと。じゃあ、ミュゲもっとする! もっとしたらアラジンももっと笑ってくれる? ミュゲね、色んなものを見て色んなものを絵に描くよ! その度、アラジンに見せるよ!」

 これはミュゲイアにしか出来ないことだと言われれば笑顔で喜ぶ。
 花が咲くように、日差しに照りつけられた向日葵のように。
 ただ、ミュゲイアは笑う。
 これがミュゲイアにしか出来ない笑顔の作り方なのであれば、もっと色んなものを見てもっとそれを絵に起こしたい。
 そして、絵を描く度にそれをアラジンに見せる。
 とっても幸せなミュゲイアの夢。
 繭に包まれた淡い夢。
 ミュゲイアはアラジンの絵をワクワクと待ちながら目を輝かせた。
 見えた絵を見てミュゲイアの笑顔は固まる。
 なんだ、ブラザーか。なんて思ってしまう間もなくその絵を見て、アラジンの言葉を聞いて、割れた硝子が突き刺さったような痛みを感じる。
 ────繭が膨らんで弾けた。
 その痛みを嫌がるようにミュゲイアは自分の頭を抑える。
 「……やだ、痛いよ。」と小さく呟きながら。
 視界がチカチカと激しく色付いてぼやけてしまう。
 嗚呼、やっとまた会えたのに。
 アラジン、大事な笑顔のアラジン。
 思い出したことは信じられないようなこと。
 なぜ、ここに来たばかりのアラジンなのだろうか。
 この前だってミュゲイアはアラジンと天体観測をして頭を痛めた。
 その時だってアラジンがいた。
 じゃあ、この知らない思い出は?
 アラジンがお披露目?
 どうして、そんなに寂しそうに笑うの?
 どうして、覚えていないの?

「………アラジン。イヤ! どこにも行っちゃダメ! 寂しそうに笑っちゃダメ! ……アラジン……アラジン。……笑って。」

 遠のいて行く背中を掴もうとするようにミュゲイアはアラジンの方を向いて手を伸ばす。
 この言い表せない感情はなんだろうか。
 分からないから怖い。
 覚えていないから怖い。
 どうして、アラジンがオミクロンに?
 分からないままにミュゲイアはアラジンの名前を呼ぶ。
 ただ、必死に笑ったまま名前を呼ぶ。 

 閃光のようにあっという間に過ぎ去っていった記憶の回帰が終わっても、脳神経を張り詰めさせた頭痛がすぐに引くわけではない。暫くはじっとりと不快感のある痛みが残るだろう。だが、少しずつでもそれは弱まりつつあった。

 先程まで普通に会話をしていたというのに、ノートを開いて渾身の力作を披露した途端に、突如として苦しみ始めてしまったあなた方を、彼は一瞬惚けて見ていた。しかしすぐにハッと我に帰ると、アラジンはガタンと立ち上がって、顔を顰めている対面席のブラザーの元へ歩み寄り、「大丈夫か!?」と声を掛け始める。

「ミュゲまで……ミュゲは、前も苦しそうにしてたよな。もしかして、病気、なのか……?」

 ミュゲイアまで表情を曇らせてしまう様に、アラジンは原因も分からず何度も瞬きを繰り返した。
 ひとまずブラザー、あなたが落ち着くようにアラジンは背中をさすろうと腕を伸ばしながら、彼は目線をミュゲイアに向けていた。

「どこにも行くなって……どういうことなんだ? オレは、……オレは、どこにも行かない。もう少ししたらトゥリアクラスに戻らないといけないけど、そういうことじゃ……ないんだよな?

 なあミュゲ、お前たちが大変な状況じゃ、笑おうにも笑えねえよ。
 一体何があったんだ? ……ブラザー。」

 恐れ慄いたようにつぶやくミュゲイアに応えて、アラジンは困惑しながらも首を横に振って見せる。
 笑って、と請われても、彼らへの心配がどうしても優ってしまう。心苦しく思いつつも、ミュゲイアよりも冷静そうなブラザーに彼は状況を訊ねてみる。

「……、…… ………」

 頭が痛い。ミュゲが怖がっている。身に覚えのない記憶が不愉快だ。アラジンが心配している。訳が分からない。アラジンが背中をさすってくれている。思い出したいのに思い出せない。星が綺麗。頭がぐちゃぐちゃになりそうだ。絵を描いてくれた。目の前の彼がなんなのか分からない。ミュゲが嫌がっている。アラジンが困っている。ああ。


 ───愛する人を、不安にさせてはいけない。


 微笑んで、Brother。
 貴方は手を差し伸べられる存在じゃない。

 さあ、笑って。
 甘く、艶やかに、美しく。


「……ごめん、ね。僕ら、最近……偏頭痛が、酷くて。心配させちゃったね、ごめん。
 今度だれかに診てもらうよ」

 それは、トゥリアモデルとして製造された人形の本能。欠陥品になってでも尚消えない、『Brother』というドールの本質。常に誰かを愛し、常に微笑む人形。瓦解した在り方であろうと、これだけは歪むことのない軸。

 別れの記憶も覚えていられない失望も、大好きな弟に恐怖心を抱いてしまった失望も、最愛の“妹”を安心させられない失望も。全てがぐちゃぐちゃになって、コアが壊れてしまいそうになって。
 けれどもコレは、壊れられない。ヒトを愛することを強制されたラブドールは、思考が止まったって動き出す。

 愛すべき強迫観念で浮かべた笑みは、遍く星々に照らされいっそ芸術的なまでに美しかった。
 そう、全くもって、いつも通りに。

「……ねえ、アラジン。
 君の擬似記憶を、教えてほしいな。

 僕ら、もしかしたら……ずっと前に、会ったことがあるのかもしれない。きっとミュゲも、そんな気がしているんじゃない?」

 躊躇うように瞳を伏せて、やがて長い睫毛を持ち上げる。不安げに揺れる紫水晶はミュゲイアを一瞥してから、アラジンを見つめた。濡れたような瞳は、触れたら消えてしまいそうなほどに儚く光っている。

 伸びのあるテノールが紡ぐのは、幸せへの小さな小さな一歩。
 なんの意味もなかったとしても、止まることは許されないのだ。


 さあ、動いて。
 愛する全てのために。

《Mugeia》
 幸せの繭が割れて満天の星空が覗いた。
 ミュゲイアの知らないミュゲイアの幸せな記憶。
 痛みを伴わないと思い出せない刹那的な快楽。
 ミュゲイアには分からなかった。
 この痛みはどうして現れるのか、まるで映画を見ているように流れ込んでくる記憶の正体も、どうして幸せをミュゲイアが忘れていたのかも。
 全部、思い出せない。
 ただ、向こうから唐突に現れて噛み付くようなキスで目覚めさせてくるだけ。
 チラリとブラザーの方へと目線を向ければ、ブラザーも頭を抱えてアラジンに背中をさすられていた。
 アラジンは心配そうにしている。
 嗚呼、笑わせてあげないと。
 こんな顔が見たかったわけじゃない。
 ずっと、ずっと、一緒に笑っていたかったの。
 幸せそうな笑顔を浮かべていたかったの。

「……わかんない。でも、笑えば平気だよ。だから、笑って? ………ずっと笑っていたいの。ずっとみんなで笑っていたいの。」

 だから、流れ星を掴もうとする。
 逃げていかないで、流れ星。
 キラキラと輝いて、この手の中に落ちてきて欲しい。
この痛みが病気かもわからない。
  病気を患っているからオミクロンなのか、オミクロンに落ちたから患ったのか。
 ミュゲイアにはわからない。
 ブラザーの言うような偏頭痛かも分からない。
 ただ、ミュゲイアには笑うしかできない。
 笑うことだけが特効薬であるから。
 紫の星が問う。
 もっと前から出会っていたのかもしれないと。
 嗚呼、同じなんだと思ってしまう。
 きっと、このドール達はどれだけ歪でも絡み合ってしまっているのだ。
 蜘蛛の糸に絡んでしまったみたいに。
 どこに行こうとしてもきっと同じ道を辿ってしまうのかもしれない。

「………ミュゲもそんな気がするの。ミュゲ達ずっと前に出会ったことがきっとあるんだよ。」

 口だけで言うならロマンチックな話。
 ロマンチックに堕天する夢。
 ミュゲイアはブーゲンビリアの瞳を見つめる。
 鮮烈なほどのその煌めきを追いかけるように。

「そうか、偏頭痛……それなら早く先生に診てもらえよ。あんな苦しみよう──いつ身体を壊すかって思ったら、心配で心配で見てられない。」

 こちらを安心させようと必死に努めるブラザーの言葉に、アラジンは困惑混じりにもどうにか納得を示したようだった。まだあなた方を案ずるような眼差しは取り止めてはいないものの、確かに少しずつ落ち着き始めているようにも思える症状を確認し、ひとまず手を引くだろう。
 何となく、彼らの頭痛の種になったような気がして──広げていた群青色のノートを、彼はさっと机上から引いていく。

 ミュゲイアにそれでもと笑顔を乞われれば、確かにこちらが不安そうにしていれば不安も伝播するだろうと、彼は形だけでも美しい微笑みを浮かべてくれるはずだ。

「オレの擬似記憶? ああ、別に構わねえけど、……前にも会ったことがあるって、ミュゲもオレに言ってたよな。

 オレは本当についこの間学園に来たばかりで、それについては分からねえし、覚えも無い。でもお前たち二人が同時にそう感じるなんて……普通ならあり得ない、よな。」

 彼は少し悩ましげに唸った後、再度席に腰掛けると。まるで絵画や物語の人物を恋しむような空想的な瞳を星空へ向けて、口を開く。

「オレの擬似記憶は、大好きなエメラルドの少女と夜通し星を眺めた記憶だ。見晴らしのいい丘に二人で寝っ転がって心地よい風を感じながら、ずっと眠くなるまであの子と話してた。絵本みたいに綺麗な記憶だろ?

 だからオレは誰かと星を見るのが好きで……こんなサークル活動をしてるって訳だ。

 でも、不思議だよな。……オレもお前たちとは初めて会った気がしない。お前たちが前に会ったことがあるって言うなら、なんかそうなのかもしれねえ。どういう訳かは分からないけど。」

 あり得ないことでも、不条理でも、彼らがその可能性を信じているのなら。
 それらを頭ごなしに否定するのは、アラジンの芸術ではなかった。

「……そっか。素敵な擬似記憶だね」

 アラジンの言葉に微笑む。
 ほんの少しの落胆、けれどそんなものは弟の慈しむような瞳を見ればどうでもいいことだ。ブラザーはあまりにも素早く切り替えて、続く言葉に曖昧に笑ってみせる。閉じられたノートに体の奥がズキリと傷んだが、今のブラザーには気づけないことだった。

 ミュゲイアも同じだと言っていて、アラジンすらもそんな気がすると言っていて。きっとこれは、不確かな本物の記憶。
 なら、することは決まっている。

「僕ら、ずっと昔に……夢で出会っていたのかもしれない。そのぐらい、君と星を見るのを楽しみにしてたのかも。

……ふふ、折角だしさ、みんなで星を見ようよ。
 僕、あんまり星座とか分からないから……サークル先輩のふたりに、教えてほしいな」

 ロマンチックな幻想を語るみたいに、緩めた口角から言葉が零れた。甘美に細められた双眼が二人を交互に見て、最後に夜空に向けられる。うっとりと見つめる眩い星の輝きに、ブラザーの心はもう揺れ動かない。それなのに、こんなにも楽しそうに表情が動いた。
 椅子から立ち上がって、優雅でありながらも無邪気に、ガーデンテラスを歩きだす。踊るようなステップで星がよく見える位置に移動し、2人の方を向いて急かすように笑いかけた。冗談っぽく声をはずませては、二人がやってくるまで空を見上げて待つだろう。

「綺麗だねぇ」

 まるで舞台の上で、役者が愛を囁くように。人形はコアに刻まれた台本を読み上げる。

 二人が幸せじゃなさそうだから、この話はもうおしまい。
 さ、ほら、もっと楽しいことをしよう!

《Mugeia》
 ブーゲンビリアの花が咲いた。
 やっと、アラジンが笑ってくれた。
 それを見てミュゲイアもゆっくりと微笑む。
 暗くなってきたガーデンテラスの中で一等輝く笑顔はまるで星々の煌めきのようであり、熱砂の夜を灯すランタンのようでもある。
 とても熱くてそれでいて心地の良い静けさ。
 アラジンの言葉にミュゲイアは笑う。
 なんの根拠もないことではあるけれど、ミュゲイアはアラジンと会ったことがあるとそう思っている。
 アラジンと一緒にいて感じたこの痛みは、流れてきた記憶はそれを確信させてしまうほどに鮮明でそう思ってしまう。
 何故、それをお互いに覚えていないのかはわからない。
 けれど、確かにこうやって星を眺めたのは初めてではない気がしてしまう。
 また、ミュゲイアは自分がわからなくなるだけである。

「とっても綺麗! 素敵な疑似記憶だね! とっても幸せ!

 ………夢。ミュゲたち夢で会ってたならとってもロマンチックだね!」

 アラジンの語る疑似記憶は甘すぎるほどに美しく、蕩けてしまいそうなものであった。
 疑似記憶を語るアラジンの瞳が綺麗で、御伽噺のようであった。
 うっとりしたようにミュゲイアは両手で頬杖を付いてアラジンを見つめる。
 とても幸せなこの話と笑顔に溺れるように。
 そして、ブラザーの方へと目を向けた。
 夢。もし、そうだとするならばとてもロマンチックな事であった。
 ミュゲイアがその言葉を信じているかどうかで言われれば、それは微妙である。
 けれど、そのロマンチックな言葉にミュゲイアは頷いてしまった。
 夢だと思えばこの痛みも可愛らしくみえる気がしたから。
 夢なんて馬鹿馬鹿しいものを上から被さるしか今は出来ないのだから。

「……ミュゲね、今度はもっと広い場所で星を見たいの! ガーデンテラスよりも広くてお星様にもっと近い場所で星を眺めるの! そうしたらきっともっと笑顔になれるでしょ? ……それでね、星を眺めるアラジンの事を絵に描くの! お兄ちゃんの笑顔も描くね! だから、もっと笑って!」

 白銀が踊るように語る。
 踊るように星に照らされる。
 無邪気に笑った笑顔がとても綺麗であった。
 嗚呼、好きだと思ってしまう。
 この笑顔だけは嫌いにはなれない。
 この笑顔にも釘付けだから、ミュゲイアはブラザーとの関係を切ることが出来ない。
 どこまでもふざけていて馬鹿げたごっこ遊びだとしても、続けてしまう。
 だって、笑顔がないとミュゲイアはただのガラクタになってしまうから。
 その笑顔を追いかけるようにミュゲイアも椅子から立ち上がれば軽やかな足取りで、踊るようにブラザーの方へと寄っていく。
 まるで、甘い花の蜜に吸い寄せられる虫のように。
 煌めく星を反射させてキラキラと輝く髪の毛を揺らせて、ミュゲイアは語る。
 今度は、いつか、もっと広くて星を掴めてしまいそうな距離の場所で星空を眺めようと。
 その美しい砂金の空をみんなだけのものにしてしまおうと。

 もう、彼らの顔に暗雲は差していなかった。
 ブラザーは包み込むように甘くどこまでも優しい微笑みを浮かべているし、ミュゲイアは己の形ばかりの笑顔を見据えて、やっと安心してくれたように心地良く笑っている。

 アラジンはミュゲイアのように、あなた方の笑顔によって混乱や不安から掬い上げられた。こんな感慨を受けて、やはりミュゲイアの芸術は素晴らしいものだなと純粋に感心するのである。

 そんな彼女の、夢見がちなロリポップのようなきらきらした言葉を聞いて、彼は瞬きをしていた。

「ガーデンテラスよりも広い、星に近い場所──」

 喉を反らして、瞬く星芒の散らばりを見上げる。
 瞬き合う星屑の、光の強いものから燃え尽きて朽ちかけた暗いものまで。愛おしいあれらは全て虚飾のマガイモノに過ぎず、ドールをどこまでもまやかしに耽らせるものだった。
 この空を打破して、本物の星空を見たい。
 それはアラジンの希望だった。
 √0の導きだった。

「──それ、いいな、ミュゲ! お前が俺と同じことを考えてくれて嬉しいぜ。

 いつか……必ず。もっと良い場所で星を見よう、三人で。そしたらその時は、お前がオレ達を描いてくれ。」

 先で待つブラザーの元へ向かう前に、傍に立つミュゲイアに笑い掛ける。自身の希望を映し出したように述べる彼女の気持ちが染み入るように嬉しかったのだ。

 だが今は、このまやかしの星空ででも、あなた方とのひと時を楽しんでいたい。

「今行く、ブラザー! アハハ、オレに任せろ、見える範囲の全部の星座を教えてやるから!」

 アラジンもまた、ミュゲイアの後を追う形でロマンチックなプラネタリウムの中心へ向かう。
 心は浮き立っていて晴れやかだった。
 全てが閉ざされた鬱屈とした学園ではあり得ないぐらいに。

【寮周辺の湖畔】

Amelia
Brother

「失敗しちゃったなぁ」

 昼下がり、湖畔にて。
多くのドールが昼食を終え、食休みも終えたであろう頃。賑やかな笑い声が平原から遠く聞こえるその場所で、ブラザーはもそもそとサンドイッチを咀嚼していた。困ったように苦笑しつつ、多すぎたマスタードにも眉を下げる。

 普段ならダイニングでにこにこ食事をとるブラザーだが、今日は違った。しっかり者ではあれど、のんびりした彼は昼食前最後の授業後に散歩を始めたのだ。寮に戻るまでの道を遠回りして自然を楽しんでいれば、先日のアラジンとミュゲイアとした会話を思い出し、一人笑みをこぼす。そんなことをしていたら、とっくのとうに昼食の時間を過ぎてしまった。

 そうして、彼は人の少ないキッチンで自分用のサンドイッチを慌てて作り、それを持ってくることになったわけである。ベーコンとトマト、それにレタスの味がほとんどマスタードにかき消されるサンドイッチを小さなひとくちでかじった。湖畔の近くに体育座りで何かを食べている姿は、中々に異様である。

《Amelia》
「おにいちゃん。
 珍しく一人でお昼ですか?」

 昼下がり、昼食を食べ終えた彼女はそういえばブラザーの姿を見なかったな。と考えた彼女は寮を出ていつもの調査に加えてブラザーを探そう……と決めたのだが、その目的は意外にも直ぐに達成された。

 そう、湖畔で体育座りをしている不審者を発見したのである。
 いつまで経っても慣れない呼び方に少し口ごもりながら、もそもそとサンドイッチを頬張る兄を名乗る異常者に声をかける。

「わあ、アメリア。こんにちは。
 うん、タイミングを逃しちゃってねぇ」

 すっぱい……と一人シワシワになっていたが、草を踏む音と共に聞こえた愛おしい声に振り返る。ブルートパーズの鮮やかな髪をなびかせる姿に、ブラザーはゆっくりと目を細めた。甘く微笑みながら体をそちらに向け、最後には冗談めかして肩を揺らす。ひと口が小さいブラザーでは、まだお昼の半分も食べ終えていなかった。

「アメリアは何してるの?」

 彼女の目的も行動理由もまだ知らないブラザーは、呑気に一緒に持ってきた水筒をあける。ホットのハーブティ。今日はカモミールだ。爽やかな味が口の中をリセットさせるのを感じつつ、返事を待とう。

《Amelia》
「おや、そういう事でしたか。」

 タイミングを逃してしまった、という嘘か本当か分からない言動に少し疑いを抱きつつも、一旦追及はせずに聞き流す。
 そうして、続いた問いに対して、彼女は考え込んだ後。

「そうですね……アメリアは散歩をしていました。
 ほら、歩いていたら運命の方にぶつかるかもしれませんしね」

 おにいちゃんの現状を予想する為にそんな少し含みのある答えを投げかける。
 散歩と言っても実際は調査だし、運命の方なんてものは恐らくこのトイボックス内には居ないのだが……どうだろうか。

「ふふ、素敵だねぇ。アメリアならきっと運命の人と出会えるよ」

 残念、聡明な淑女よ。
 探りを入れられた本人は、妹が素敵な人と出会って幸せになる姿を想像して勝手に表情を綻ばせている。続けて応援と励ましを込めた笑みを浮かべて、うんうんと何度も頷いた。
 何も知らない愚かなドール。ただ与えられる平穏に甘んじるような、そんなふうにも見えるかもしれない。

 実際がどうなのか、まだアメリアは知らないはずだ。
 彼女がこの学園を疑っていること知っているのは、ブラザーの方なのだから。

「運命の方っていうのは、どこにいる人なの?」

 けれども、ブラザーはトゥリアモデルだ。いくら優秀だとはいえ、ディオたるアメリアには敵わない。
 どんな人なの、よりも先に場所を聞く不自然さを、きっと乙女は見逃さないだろう。

《Amelia》
「そうですね……。
 きっと、遠い遠い旅路の向こう側だと思います。
 まあ、余りにも遠すぎて眩暈がしてしまいそうですが。」

 運命の方がどこに居るのか、という問いに苦笑混じりで答える。
 なんたってつい先日……ともすれば今朝まで運命の方がどんな方なのかを考えた事が無かったのだから。
 どこに居るのか、と問われても彼女には分かりやしない。

「それがオミクロンである事以上に、というのはおにいちゃんもよく知っているのではありませんか?」

 そして、同時にどんな人なの? に含まれた意味に対して誘いに乗る形で問いかける。
 もしかして、何かを知っているのでは? と。

「ふふ、どういう意味」

 ブラザーはにっこりと笑って、食べかけのサンドイッチを置いた。和やかな雰囲気のまま口にした質問に、アメリアはきっと答えない。質問者本人が、この質問に対する答えを待っていないのだから。
 含みのある質問、デュオモデルでなくともその意図に気づいた。いや、今のブラザーなら気づけてしまったのだ。

「ちょっとお話しようよ。隣においで。
 ここから見ると、水面がきらきらしていて綺麗だよ」

 ぽんぽん、自分の隣を手のひらで叩く。風そよぐ音に乗ったお誘いが、アメリアに対して利益のないメリットを提示した。

《Amelia》
「ええ、勿論。
 楽しい歓談をしましょうか。」

 はぐらかしながらも誘ってきたブラザーに対して、アメリアは作り笑顔で返して隣に座り込む。
 こうして湖畔で体育座りをする不審者は二人に増えた。

 座り込んだ新しい方の不審者は間髪入れずに問いかける。

「そうですね……ダンスホールで踊る蜘蛛のお話をしましょうか、お仕事に忠実なアリのお話をしましょうか、それとも、壮大なエジプト神話のお話をしましょうか?」

 楽しい歓談。
 アメリアは楽しんでいて、この話が嫌ではないということ。

 じゃあ、この話はしていい話!

「アメリアは頭がいいだけじゃなくて、お話も上手なんだねぇ」

 ブラザーはにこにこ笑みを浮かべたまま、相変わらず底なしに甘い褒め言葉を口にした。一切の他意がない言葉は彼の常で、今日も少しだっておかしさはない。

「リヒトから教えてもらったんだ。君がこの学園は地下にあるって予測してたって。
 僕、それを聞いてすごいなぁと思ってね。どうしてそう思ったのか、教えて欲しかったんだよ」

 アメリアの問いかけを今度もはぐらかして、ブラザーは笑いかける。まるで、本当にただの歓談のように。

《Amelia》
「おやまあ、かなり直球で来ましたね。
 このトイボックスが地下にある理由、ですか。
 それには幾つか理由がありますが……陸地に作る意味がない、というのが主ですね。」

 ブラザーの直球な問いかけにアメリアは目を丸くする。
 もうちょっと迂遠にしてくるかと思ったのだが……意外にもそんなことはなく、直接的な問いに対しての答えは少々曖昧な物だった。
 頭が良いという否定の言葉と、話が上手という誉め言葉でなんだか複雑な気分の彼女は続けて。

「その上で何故隠しているのか、とまでは分からないのですがね」

 と、自分の考えを潜める形で答える。

「陸地に?」

 きょとん、と。
 首を傾けてみせる。

「どうして意味がないって思ったの? 教えてほしいな」

 顎に手を添え、不思議そうに首を捻った。うーんと唸ってから苦笑し、肩を竦めてアメリアを見る。ギブアップ、と言うようにジェスチャーして答えを促した。

 芝居がかった行動。わざとらしい疑問。
 しかし、ブラザーとアメリアでは頭の作りが異なっている。不自然ではない。何より、貴女の優しい“おにいちゃん”が、情報を引き出すために演技をするなんてことは有り得ないのだ。

 ブラザーは思った通りに行動している。いや、実際にはそこに思考なんてないのだが、故に打算で動いているなんてこともないのだ。

《Amelia》
「そっそれ以上は……その……。
 こう……身の安全の為とは言いきれないと言いますか……少々……その…はしたないと言いますか……」

 きょとん、と首を傾けて、どうして?と意味を問いかけるブラザーに、アメリアは頬を染め、顔を逸らし、口篭りながら答える。

 そう、トイボックスが海底にあり、それを彼らが何故か隠している。
 というところまではまだ情報を得ることを望んでいて、しかも相手の身の安全を確保する事に繋がる……。
 と言えたのだが、理由の説明となると、授業で語った大気組成の話やアラジンの語った観測データの話、エレベーターで感じた移動の感覚、などなど大変はしたない……もといえっちがすぎる行為を大義名分も無しにしなければいけないのだ。

 流石にそんな事を自称とはいえ兄にするというのは……彼女にとって4.2光年の先にたどり着くよりも難しい行為だった。

「わ……」

 アメリアがやめたがっている。
 じゃあこの話はおしまい!

「じゃあやめよっか。
 アメリアは頭がいいってことだねぇ」

 ブラザーはにっこり笑って、すぐに話を終えた。サンドイッチを手に取り、ひと口かじる。再びマスタードの酸味で舌を刺激され、しわしわの顔になりかけた。だが、隣にはアメリアがいる。ブラザーはサンドイッチを飲み込んでから、水面を指さした。

「見て、アメリア。太陽の光が反射して、アメリアの髪みたいに輝いて見えるよ」

 何気ない、日常会話。
 既に学園が地下にあることを知っていて尚、ブラザーはこんなにも平凡な会話ができる。

《Amelia》
「うぐっ……。
 ええ、そうですね。やめましょうか」

 なんだか気まずくしてしまったような嫌な感覚と、続けて頭を褒められた事でなんとも言えないモヤモヤした気分を抱きながらも、一先ず提案に乗って話を変える。

「ええ、確かに、例え偽物であっても目の前にあるものの姿は変わりませんからね」

 そうして帰ってきたのは他愛のない日常会話。
 ついさっきこの太陽の光が偽物だという話をしたばっかりなのにどうなんだ……? と内心思いつつも、彼女は穏やかに応じる。

「星は見たことがある? ここ、星もとっても綺麗なんだよ。
 アラジンって子がいてね、その子と一緒に見たんだ」

 なんの意味もない会話が続く。
 アメリアにとってはもう顔見知りであろうアラジンの名を口にするとき、ブラザーの表情は緩んでいた。弟の話をするのだ、当然である。楽しそうに、幸せそうに。あの描かれた星空を思い出すとコアが奇妙な跳ね方をするのは、きっと幸福からなのだろう。

「アラジンには会ったことある? ポスターが色んなところにあったから、もしかしたら知ってるかな」

 ふと、あの絵の具を被ったようなポスターを思い出した。アラジンが作ったであろう紙は、いくつか学園内に貼られている。話している途中で注意深いアメリアなら、と思ったようで、軽く首を傾けては微笑みかけた。

《Amelia》
「ええ、お会いしましたよ。
 とても素敵な方で……彼も良く星を観測して居られましたね。」

 確かに、描かれた星空は美しいのだろう。
 完璧で、歪みなく、どこまでも正確な星空はきっと美しいものだ。

 けれど何故だろう、今はなんだかロマンチックには思えない。
 そんな彼女は少し口篭りながらアラジンには会ったことがあると伝える。

「確か、寮のキッチンにも置かれて居ましたし……もしかしたら彼や……或いはそれ以外にも色んな方がオミクロン寮にはやってきているのかもしれませんね?」

 そのうえで、話題を広げ……かつ情報を伝えるために問いかけにも似た言葉を返す。
 実際にポスターを見て、会ったことがあると言うならおそらく寮にポスターが置いてあったのは気づいているだろうから……その先、誰かが寮に来ている可能性の方を伝えようと。

「あれ、オミクロン寮に来るのって禁止されてるんじゃなかった? 誰かが持ち帰ってきたんだと思ってたよ」

 アメリアの遠回しな情報共有に気づいているのか、いないのか。ブラザーはぱちりと瞳を瞬かせてから、にこにこ他愛なく笑った。穏やかな雰囲気のまま、会話が続く。

「アメリアは誰かがオミクロン寮に来たり、学園に知らない人がいるところを見たの?」

 穏やかに微笑んだまま、掴みどころのない人形は口を開く。風で水面が揺れて、青白く輝いていた湖畔が白く見えた。依然として互いに遠回しに、会話が続く。

《Amelia》
「はい、荒らされているのは事実です。
 ですが……どうもアメリアが来る以前からこういった事は起こっていたそうですから……。
 相当長い間このトイボックスに居る方なのか、もしくは似たような性質の方が定期的に居るのか。
 どちらかの可能性が高いと思います。」

 問いかけてくるブラザーにアメリアは先ず事実と憶測を切り分けた後に考える。
 お父様の言葉を全面的に信じるならこの件は長い間ここにいる同一個体か、或いは作り直される度に同じような事をしている個体が居るのかという可能性が先ず真っ先に浮かぶ。
 その上で。

「更に、お父様は同じオミクロンクラス内の方だとお考えのようですが……そういった事になる異常を抱えた方は……いらっしゃいましたっけ?」

 と、今度はブラザーの意見を仰いでみる。

「僕が知る限りだと、そんなイタズラをする子はいなかったと思うなぁ……。今度、見に行ってみるよ」

 口元を覆うように手を添えて、考え込むようにブラザーは視線を落とす。妖艶に揺らめく双眸は水面を見つめていたが、低い呟きの後にアメリアを映した。にこりと笑ってから軽く頷き、水筒のハーブティをまた一口飲む。いつの間にか、サンドイッチは食べ終わっていた。

「アメリアは色んなところを見てるんだね。リヒトやソフィアも物知りだったけど、アメリアも物知りなんだねぇ」

 持ってきたナプキンで手を拭きながら、にこにこご機嫌にブラザーは続ける。アメリアが逃げないのなら、その小さくて丸っこい頭をそっと撫でるはずだ。幼子を可愛がるような手つきと、どろどろに甘い褒め言葉と共に。
 怪しく光るアメジストがアメリアを見つめていること、並べた褒め言葉たちに、きっとなんの関係性もない。そう、そのはずだ。

《Amelia》
「ええ、それが良……い”っ」

 今度見に行く、と言ったブラザーに彼女はその方が良い……と勧めようとして、続いた誉め言葉に言葉を詰まらせる。
 そう、物知りというのは一般的には誉め言葉だ。
 だが、アメリアにとっては少々事情が異なる。
 何たってそれは愛の証左だ、それを分かりやすく振り回していると言われては、それこそまさにアメリアにとっては「はしたない女だ」と指摘されているに等しい。

 勿論、そんな事情をブラザーが知っているとはアメリアも思ってはいないし、知っているべきだとも知られたいとも思わない。
 けれど、そのある種機械的な愛情の向け方は席を立つ程気まずくさせるのに十分だった。

「ええと、そう……ですね。
 アメリアは、そろそろ学園の方に行こうと思います。それでは」

 そうして、誉め言葉と共に撫でようとしてきたブラザーから逃げるように彼女は立ち上がって学園へと向かおうとする。

「待って」

 頭に向け伸ばしかけた手は、アメリアの手首に進む。手を跳ね除けないのなら、ぱしりという乾いた音と共に手首を掴まれるはずだ。
 手首が掴めなくても、彼は一方的に話を続けるだろう。ブラザーは依然として、甘やかに微笑んでいる。

「ごめんね、アメリアと話しているのが楽しかったからついお喋りしすぎちゃった」

 持ってきた皿たちを片付けながら、ゆっくりと立ち上がった。足元の草が僅かに音を零して、柔らかな声をさらっていく。

「これは、僕の想像に過ぎないんだけれど。
 もしかしてアメリアは、この学園で何が起きているのか知ってるんじゃない?」

 鈍く光る紫は、今日も昨日と変わらず貴女を愛している。
 けれど、それをアメリアが機械的だと感じたのは、もう間違いではなかった。

「ダンスホールで踊る蜘蛛の話、聞かせてほしいな」

《Amelia》
「……良いですよ。
 けど、アメリアのお話はタダではありませんから、知らないお話だったらお代を頂きますからね」

 立ち上がり、去ろうとしたアメリアだったが、ブラザーに注意を向けていた事もあって手を掴まれてしまう。
 そして、彼女には多少気まずいだけで手を払いのける程の気の強さは無かった。

 だから、精一杯不機嫌そうな声音で彼女は言葉を続ける。

「これは、ある子供たちの物語です。
 ある日、四人の……恐らく四人の子供たちは夜、ベッドを抜け出してダンスホールに忍び込む事にしました。」

「……ふふ、うん」

 にっこり。
 曖昧に微笑んだまま、ブラザーはアメリアの手を離した。じっと立ち止まって、静かに話を聞いている。表情が動くことはない。いつものような、穏やかな波のような雰囲気を纏ったままだ。

「それはすごいねぇ」

 驚くことも違反に顔を顰めることもなく、のんびりと相槌を返した。言葉の続きを促すように、ゆるく目を細める。

《Amelia》
「彼らは……少なくともそのうちの三人は同じ学校に通う他の子供たちよりも優れて居ました。
 だからでしょう、ダンスホールには問題なく忍び込めたようです。
 そうして、忍び込んだ先で、その子供たちの知っている同じ学校の子供たちが蜘蛛に食べられる様を見たそうです。
 その日、ダンスホールで踊る筈だった友達を見に来たら友達は居ないし他の子供たちは食べられているしで、彼らは急いでその場から逃げ出したそうです。」

 続きを促すブラザーに、彼女はそのまま最後まで語り切る。
 それは、お話という形を取ってはいるが、知っている者が聞けばお披露目で何があったかを知っている、とそう示すのに十分な内容できっと、問いの答えには十分だと判断したのだろう。
 それきり、アメリアは押し黙ってブラザーの顔をじっと見つめる。

「……うん、知っている話」

 ブラザーは小さく頷いて、微笑んだままアメリアを見ていた。何ひとつ、最初にサンドイッチをかじっていたときと変わらない。「お代はいる? 撫でてあげようか」なんて、くすくす笑いながら冗談まで続けよう。

「忠実なアリのお話は? これも聞かせてくれるのかな」

 吹いた風に揺れた髪を手で整えながら、何気なく問いかけた。次は僕の番? なんて首を傾けているあたり、まだ話を続けるつもりらしい。
 アメリアがどう感じるか、何も気にしていないのだろうか。あの、ブラザーが?

《Amelia》
「良いでしょう。
 これはダンスホールの夜と同じ日の話です。
 その日、ある子供は何故か開いていた開かずの間に足を踏み入れました。」

 なんだか変に機械的なブラザーの様子に少し戸惑いを感じながらも、ゆっくりと話を続ける。

「そこで、二つの衝撃的な物を見たそうです。
 一つは大きな人型の、硬い外骨格と虫じみた羽を持った生き物。
 もう一つは、今頃ダンスホールで踊っているはずの友達が焼却炉で焼かれる様。
 その二つです」

「……うん、これも」

 またひとつ、頷き。
 表情を変えずに髪を撫でたまま、ブラザーはぽつりと呟いた。ゆるやかに上げた口角から、次の催促がまた飛び出す。

「壮大なエジプト神話も聞かせてくれるのかな」

 髪から手を離し、背中で手を組んだ。シワひとつない制服がピンと張って、鮮やかな赤が背後の湖畔によく映えた。

《Amelia》
「そうですね……これは物語というより、思考実験に近いのですが……。
 過去、同一の名前や見た目の生徒が存在したという話や、断片的で破綻してはいるものの思い出される記憶。
 そういった物から考えて、生徒たちは過去に同じ顔、同じ考え方の存在が居て、何度も死んでいるのではないか……と、そう考えるのです。」

 これも聞いたことがある、というブラザーに、彼女は事実を確認するように頷いてから次の話を語る。
 それは、ドロシーとの会話で確信を得た、ドールズが死んでは作り直されている可能性、恐ろしく、信じたくはないが、それでも必要な可能性だった。

「何度も死んで、何度も作り直されているのかもしれないってことか。確かにそうかもしれないねぇ」

 よく知る童話のあらすじを聞くような態度だったブラザーも、これには流石に納得の息を零した。ふむふむと数回頷いてから、アメリアに同意を示すように柔らかな表情を浮かべる。親愛から同調しているだけなのか本心から納得しているのか分からないのが、博愛人形の悪い点だった。

「大体分かったよ。ありがとう、アメリア。
 最後にひとつだけ、聞いてもいいかな」

 胸の前あたりで人差し指をたてて、まるでお伺いを立てるみたいに首を傾げた。下手な態度のわりに、アメリアが答えるよりも先に質問が飛んでくる。

「アメリアは、どうしたい?
 君にとって、何が幸せかな」

 これもまた、ある種の思考実験である。

《Amelia》
「ええ、ですがあくまでそういう可能性がある、というだけですから。
 ……と、良いですよ?」

 単純な事に同意してくれたブラザーにアメリアは少し気分を良くしたのか、続く問いに快く答える
 それは、単純明快で、それでいて難しい、そんな願い事。

「アメリアは愛する人に出会いたいです。
 きっとこの世界の、或いはこの宇宙の何処かに居る誰かをアメリアは愛するのだと、アメリアは決めています。
 それがアメリアのさいわいなのです」

「……それは───……」

 愛する人。
 そんな人に、いつか。

「それは、とっても……とっても幸せなことだね」

 万物に愛を振りまくブラザーが、アメリアの幸せを本当に理解できたのかは分からない。
 けれども、愛する人の幸せを願う表情に───……大好きな妹の幸せを願っている表情に、間違いはなかった。事務的だった微笑みが、ほんの僅かにアメリアを見る。ほんの、僅かでしかなかったが。

「アメリア、僕はね、みんなを幸せにしたいんだ。だから、君の幸せのために僕は動くよ。

 君が何かしてほしいことがあったら、いつでも僕に頼ってね。それが君の幸せになるなら、なんだってしてみせるから」

 先程と何ら変わらぬ笑みでつらつらと言葉を並べ立て、ブラザーは一歩後ろに下がる。あくまでもフラットに、これまた一方的に契約をこじつけて。
 特に今すぐ何かを頼まないのであれば、ブラザーはこのまま軽く手を振って去っていく。“引き止めてごめんね”なんて笑いながら。

【学園1F ロビー】

「うーん」

 ぐ、と軽く伸びをする。授業を終えた体をほぐしてから、小さく息を吐いた。
 これで今日最後の授業。このあとの予定は特に決めていなかったブラザーは、のんびりと歩き出す。疑惑の検証、ヘンゼルへのお礼、ミュゲとのお茶会。やりたいことは色々とあるが、まずは何から手をつけようか。
 教材類を片手に、ブラザーは何気なくロビーを歩いていた。決めかねてうろつく視線は、普段あまり確認しないロビーを見回している。

 オミクロン寮から昇降機に乗ると、学園の大広間に辿り着く。このロビーはいつ見てもどこか薄暗い。窓が無いので採光は等間隔に設置された燭台の灯火のみ。火に浮かび上がるようにぼんやりと照らし出される通路は、壁も床も赤一色で統一され、気品は感じられど健全な学園らしい活発さは感じられまい。

 行き交うドールズも俯いて教本を眺めているか、小難しい授業内容について談義しているか、あるいは足早に次の授業場所に向かっていくかのいずれかで、ロビーはドールズの交差する中央広間というには、嫌に閑静な空間であった。

 ドールが行き交うというのに閑静なこの場所は、ブラザーにとってあまり馴染みのある場所ではない。しかし、やはり目に留まるのは決まりごとだった。大部分は模範的なドールであるブラザーは、可愛らしい装飾の掲示板の前で足を止める。そういえばこの場所はあまり見ていなかったことに気づいたのか、行動の前にここを確認することにしたのだろう。

「……そういえば」

 アメリアはこれをあまり信じていないような気がしたが、何かあったのだろうか。

《たいせつな決まり》
・いつか出会うヒトに尽くすため、日々の勉強には努力して取り組むこと。
・朝は7時に起きて、夜は21時に必ずベッドで休むこと。
・夜に外を出歩かないこと。
・身なりは清潔にしておくこと。
・身体に傷が残る怪我は “絶対に” しないこと。
・他のドールズを傷付けないこと。
・あなたたちを教え導く先生たちを傷つけないこと。
・アカデミーや寮の設備は壊さずに大切に使うこと。
・寮の外、柵の先へは行かないこと。
・ヒトに背かないこと。

 これは、あなたもよく知るドールが必ず守らなければならない大切な決まりごとだ。寮のエントランスホールにも、ドールズへ戒めるためにきちんと掲示がなされているのを覚えている。
 他クラスのドールは几帳面なぐらいにこの決まりを守り、粛々と暮らしていることもあなたは知っている。この掲示についてこれ以上のことは読み取れなさそうだ。

「うん、いつも通り」

 自分が覚えている内容となんら変化ない決まりごとに、ブラザーは小さく頷いた。特に新しく追加された内容はないらしい。そんなものがあれば通知されるか、なんて一人納得した。

 次に気になるのは、適性考査の結果。確認していなかったが、自分はどこにいるだろう。

 定期考査の結果の掲示は、この掲示板の多くを占める大きなものだった。定期DoLLs適性考査結果──これは各モデルごとのドールズがどれほど優れた能力を持つのかを細かく確かめる為の試験である。学園内で定期的に実施されており、クラスごとに試験内容は細かく異なる。

 あなたもまたこの試験を受けた。あれはミシェラがお披露目に行くよりも少し前の事だった。これまでも──あなたがオミクロンに落第する前にも、何度かこの試験を受けている。

 試験内容はモデルの役割に特化したもの。例えばエーナならば対話能力や記憶保持を確認するものであったり、デュオであれば知識量や学力の確認であったりする。



 あなたはトゥリアとテーセラの試験結果をじっくり確かめる。結果は個人の出来を詳細に明らかにするものではなく、単純に順位だけを掲示している様子である。

 首位に輝くのは当然、プリマドールの称号を持つ者達。トゥリアクラスの現プリマ・ティアナリリアに、テーセラクラスの現プリマであるバーナード。



 以下、あなたもクラスで見知ったトゥリアのドールの名も散見された。

 

 更にオミクロンには誇るべき元プリマが四名も存在し、彼らもまた以前は成績上位を固く守っていたのだが──あなたはそこで気付く。その掲示において、ストームの成績が著しく低迷しているのだ。

 ディアもまた、ストームほどではなくとも首位近くではなく明らかに順位が落ちている。



 トゥリアクラスでは、あなたはロゼットはクラス内でもプリマに匹敵するほどの良い成績を収めていた。それはオミクロンになっても変わらず、あなた方は自身の能力が明確に落ちたという感覚もない。
 
にも関わらず、あなたの順位はかなり下位の方へ落ちてしまっている。

 また、エーナ・デュオクラスの成績についても同様。元プリマドールや、オミクロンクラスのドールズの成績が著しく低迷していることに気がつくだろう。



 これは一体どういうことなのだろうか。

「……あれ、間違えちゃったかな」

 そんなに難しい問題だっただろうか。テストの内容を思い出し、軽く首を傾ける。特別困った記憶はなかったのだが、成績は落ちているようだ。
 ストームやディアの成績を見て、目を細める。これもまた、学園の影のひとつなのだろう。

 ブラザーは視線を衣装運搬に関する掲示へと移した。今考えても仕方ないことに脳のリソースを裂けるほど、彼の内側の造りは凝っていない。

【衣装搬入の予定に関する伝達事項】
 次期のお披露目の為の礼装・装飾品等、計9点のデザイン認可と学園内への輸送が僅かに遅延しています。お披露目前に各クラスの学生寮へ預けますので、該当するドールの皆さんは忘れずにご確認をお願いいたします。

── エーナクラス
 ウェンディさん

── デュオクラス
 オリヴィアさん
 デイジーさん

──オミクロンクラス
 アストレアさん

 連絡事項は以上となります。

「各クラスの学生寮……」

 ブラザーは眉を寄せた。以前エーナモデルの控え室に入った際、ウェンディのドレスを彼は見つけている。しかし、アストレアのドレスは見ていなかった。まだ彼女のものだけ、学生寮にあるのだろうか。

 それを確認するためにも、まずは荷物を置きに学生寮に戻ろう。ブラザーは外に出て、エントランスホールへと向かった。

【学生寮1F エントランスホール】

 エントランスホールはだだっ広い大広間になっていた。三階までが吹き抜けになっており、天井からぶら下がっている古いシャンデリアがきらきらと優しい光を落としている。
 薔薇の花を描いたボタニカル柄の大きなカーペットが足元には敷かれていて、階段と出入り口に挟まれた構造になっている。

 エントランスホールの出入り口の傍にある壁には、ドールズが守らなくてはならない大切な『決まりごと』が一覧となって掲示されていた。

 決まりごとの内容は、ロビーの掲示と違いはなさそうだ。

「よっこいしょ」

 教材類を元の場所に戻しおえたブラザーは、再び一階に降りていた。見た目にそぐわぬ老けた発言を零しつつ、エントランスホールから学習室へ入る。
 以前から感じる頭痛は、いつも何かを見たときに訪れている。あれが本当の記憶だとすれば、ブラザーには一刻も早くその記憶を取り戻す必要があった。愛する人の記憶を忘れるなんてこと、彼にあってはならないのだ。

 ドレス探しも兼ねて、ブラザーは部屋をぐるりと見回してみるだろう。

【学生寮1F 学習室】

 部屋の扉を開けると、無秩序に並べられた机と椅子の組み合わせが十六存在した。机が向かい合うのはいわゆる教卓であり、先生があなた方へ何か教えるときはもっぱら学園ではなく、この学習室を用いることが多かった。

 教卓の背後の黒板には、昨日学びを受けた内容の板書がまだ残されている。いつもこうして、先生は授業内容を簡潔に纏めては、暫く残しておいてくれることが多かった。学習に遅れを取ってしまうドールへ配慮してのことだろう。

「……また、落書き?」

 部屋を見回して、黒板に目を留める。不思議そうなのか訝しんでいるのか、その中間くらいの声が出た。青い蝶。可愛らしいタッチで描かれたその生き物に軽く息を吐く。ブラザーは黒板に近づき、何が書かれているのか確認しようとする。

【学生寮1F 洗浄室】

Rosetta
Brother

《Rosetta》
 その日の授業も終わった頃、ロゼットは洗浄室でブラザーを待っていた。
 朝方に「話したいことがあるから、洗浄室に来てほしい」とは伝えたが、来るかどうかは実際賭けだ。
 ブラザーは自分と完全に目的を一致させているわけではないし、一致するとも思えない。
 だから、こんな曖昧な形で誘い出すことにしたわけなのだが──どうだろう。
 扉に寄りかかり、周囲を見回しながら、彼女はじっと待っている。

 がちゃり、扉の開く音。
 洗浄室の扉が開かれ、白銀の髪をなびかせるドールが入ってきた。ツリーハウスに共に向かったときと、何も変わらないはずの彼が。

「待たせてごめんね、ロゼット。
 話ってなにかな?」

 薔薇のような赤に柔らかく微笑んで、招かれたブラザーは声をかける。待たせてしまったことへの謝罪と共に軽く手を振ってみせ、後ろ手で扉を閉めた。

《Rosetta》
 「お兄ちゃん」

 ブラザーが来たのを見て、ロゼットは明るい表情を見せた。
 本人がそう思っているだけで、実際のところは目を大きく開いただけなのだが。

 「私ね、身体についてる発信器を探そうと思うの。この前みたいに、柵の向こうに行く時困ると思うから……手伝ってくれる?」

 前提をほとんど吹っ飛ばし、彼女はそう提案する。
 訊けばもちろん答えてくれるだろう。特に何も言われなければ、そのまま上から服を脱ごうとし始めるはずである。

「発信機のこと、ロゼットも思いついたんだ。僕もそうじゃないかって思ってたんだよ。
 一緒に探そっか」

 ブラザーは少しも驚かず……いや、実際には驚いたような顔をした。しかしそれは顔だけで、すらすらと言葉が並べられていく。ただにこやかに、ロゼットの提案に賛同した。

「待って、ロゼット。
 発信機探しに僕を選んだ理由はなに? 女の子同士で……例えば、フェリシアとやるのが良かったんじゃないかな。
 僕とするの、嫌じゃない?」

 服を脱ぎ始めようとするロゼットに、特に調子の変わらない声で制止がかかる。男女で行うことに嫌悪がないか確かめたいのだろう、首を軽く傾けてみせた。無論、ブラザーに嫌悪感など存在しないので、質問の仕方は少しズレている。

《Rosetta》
 何を考えているのかは分からないが、表面だけでも納得してくれれば十分だ。ロゼットには見えているモノしか見えない。
 制止されると一瞬固まったが、すぐに動作に戻った。「嫌じゃないよ」と口にしながら、彼女は上の服を脱ぎ去り、軽く畳むだろう。
 下着と下半身はまあ、まだ脱がないことにした。よくよく考えたら、服にも発信器がついているかもしれないのだ。

 「だって、見せて恥ずかしいところなんてどこもないもの。他の子を誘わなかったのは、色々あっていっぱいいっぱいになってる子が多かったのと……身長が近いから、同じ目線で色々探しやすいからかな」

 頭ひとつ分以上の差があると、それだけ死角になる箇所は増える。
 自分が相手を観察してもいいが、好まないドールもいるだろうし、きっと見落とす可能性の方が高い。
 だから同じトゥリアで、身長の近いブラザーを選んだというわけなのだが──問題でもあっただろうか。
 ぼんやりと考えながら、彼女は甘やかな兄弟のことを見つめるだろう。

「そっか、なら良かった。
 ところで、どうやって探すの?」

 ──なにも良くはないのだが。
 ブラザーは納得したように微笑んでは、ロゼットから軽く視線を逸らした。ごく自然に、畳まれた服の方に視線を移す。

 服の方を見たまま、ブラザーは次の質問を投げた。まさか触るだけとは思ってもいないらしい。ロゼットの口ぶりでは確かめ方が既にあるように聞こえたが、同じオミクロンクラスの彼はどう受けとったのだろう。

《Rosetta》
 どうやって探すのだろう。
 全く考えていなかった彼女は、にこにこと笑みを浮かべ続ける。
 何も考えていないおかげで、下手にショックを受けなかったことだけは幸いだと言えるだろう。

 「えぇと……ジャックは身体に詰め込まれてる、って言ってたけど。私はまだよく分からないから、触ったり見たりして確かめようと思ってたよ」

 服のボタンがそうかもしれないし、なんて。
 恐らく楽観的な発言を、相手はどう受け取るだろう。呆れてしまったとしても、きっと誰も怒らないはずだ。

「そう……じゃあやってみようか」

 本当に“そう……”以外の感想がなかったらしい。ブラザーは曖昧な表情で軽く呟いて、視線をロゼットに戻した。確かめる上で必要なら致し方ない、という考えになったのだろう。
 自分の服にも手をかけ、同じように上半身だけ服を脱いだ。陶器のように白く美しい肌が外気に触れ、肌寒さを感じる。近くに服を畳んで、ロゼットに向き直った。

「ロゼットは綺麗だね」

 設計された通りの甘言を囁きながら、ロゼットのアクションを待っている。あくまでも自分は言われたことをやるスタンスを貫くようだ。

《Rosetta》
 晒された皮膚には一点のシミもなく、傷に至っては言うまでもない。
 ヒトに寵されるための肉体には、欠けたところなどひとつもない。その腹部を除いて。

 「ありがとう。お兄ちゃんも、素敵だよ」

 内容こそ艶かしさを感じさせるものだが、その口調や表情から濡れた欲は見受けられない。
 からっとした親愛しか、ロゼットからは窺うことができないだろう。
 ブラザーの肩や手に触れる手にも、情念らしいものは混じっていない。宝石を検めるように、異物がないか丁寧に確かめているだけだろう。

 「ちょっとごめんね」

 それらに触って何もなければ、耳に向かって手を伸ばす。
 耳たぶに触れ、首筋をなぞって。本来ないはずのモノがないか、彼女は真剣に確認するだろう。

 あなたはブラザーの体を触診するように確かめていく。丁寧な手付きで余さず触れていけば、彼の骨格の形やその痩躯がいかに精巧に形作られているかが分かるはずだ。

 しかし触って分かる範囲に、目立つような痕跡は見られない。何かが埋められているようなしこりや傷など、そういったものの存在を発見することも叶わないだろう。

「ん……ふふ、くすぐったいね。
 どう? 何か見つかった?」

 妙に扇情的な声で囁いたが、ブラザーにあるのもきっと親愛だけだ。にこにこ楽しそうに笑って、ロゼットの手を大人しく受け入れている。そもそもどんなものであれ、愛する人から与えられる接触を彼が拒むはずがないのだ。そういう人形なのだから。

 大人しく立ったまま、耳を撫でるロゼットに聞いてみる。何かめぼしいものは見つかっただろうか。
 何もなければ、ブラザーは「背中なんてどうかな」などと言いながらくるりと振り返るはずだ。

《Rosetta》
 形のいい耳を、そっと女の指が撫でる。
 比較的硬い軟骨から、柔らかな耳たぶまでの曲線には、違和のひとつも有り得なかった。
 首筋も同じだ。陶磁を思わせる繊細さと、たくましさを漂わせる直線は、発信器らしいモノが埋め込まれているようには見えない。
 ロゼットの指は、ただブラザーにこそばゆい思いをさせただけだ。

 「何にもないね。背中も……どうかなあ……そもそも、お披露目の時に取り外せるようにするなら、服の方がありそうな気がしてきちゃった」
 振り向いた彼の背に、そっと手を添える。
 B、R、O。
 ギリシャ彫刻めいた背中に字を書いてみるが、それらしいモノは見つかるだろうか。

「……ふふ、僕の名前?」

 背中に添えられた指が不自然に動いた。ブラザーの甘やかな笑い声が背中越しに漏れ、洗浄室に悪戯っぽい声が響く。収穫がなかったからといって、まだ二人の空気は重くない。

 ロゼットの言葉を聞き、できるだけ姿勢を維持したまま、畳んだ服に手を伸ばした。自分の上着を手に取り、ボタンや袖などをくまなく観察してみる。いつも服を着るときに違和感など感じていなかったが、丁寧に全体を触ってみた。

 背中全体をまさぐってみても、違和感のある感覚も何かが埋め込まれているような形跡も発見出来ない。どうやら皮膚の内側の触れられる範疇には無さそうにも思える。
 また、衣服の方を入念に確かめてみても、どこまでもあなた方が日常的に身に付ける制服でしかなく、不思議な装置などが取り付けられている事もない。

 万が一そういった装置が制服にあるならば、好奇心旺盛なデュオモデルあたりが早々に明らかにしていそうなものなので、制服には恐らく何も仕掛けはないのだろう。

《Rosetta》
 何も見つからない。
 その事実はじんわりと赤薔薇を焦がしていく。
 そもそも本当に存在するのだろうか──とは言いたくなるが、ジャックの言っていたことなのだから嘘とは思えない。
 推測である、という言葉がまるきり頭から抜けたまま。「うん」とだけ返事をして、彼女は手を離した。

 「靴の中とか……は、流石にないかなあ。私のお腹の中とか、見る?」

 ゆるく申し訳なさそうな声を出しながら、そう提案する。
  ブラザーはどうだろう。発信器などないと思うのだろうか、それともまだ諦めないのだろうか?

「うーん……念の為、見てもいいかな」

 最初からなにひとつ変わらない様子のまま、ブラザーは軽く唸った。悩むようにアメジストを伏せていたが、やがてふんわり微笑んで顔を上げる。持っていた制服を畳みなおして、近くに置いておいた。
 ロゼットが何かアクションを起こすまで、ブラザーは特に急かすこともなく黙っている。腹部が見えるようになれば、しゃがんで深く確認してみるはずだ。

《Rosetta》
 「いいよ」

 ブラザーの言葉を受けて、ゆっくりと下着をたくし上げていく。
 まともな生物であれば生存できないような肉体が、そこにはあった。
 腹部のほとんどがガラスに置換され、透明な壁の内側には偽物の花が咲き乱れる。
 どうしてこうなっているのかは、まだ誰も正確には知らない。さながら前衛芸術のようだ。
 ロゼット本人も中身を知ることはできないが、さて。ここから発信器は見つけられるのだろうか。

 ドールの身体は、その殆どが人間の身体構造を概ね模して製造されている。人と見まごうその見目は勿論、その薄い肌の内側には血液に寄せた燃料が循環しており、食事を体内で燃焼させるような機構も存在する。
 しかしあくまで作り物、高度な造りをしただけの玩具に過ぎないドールの肉体は、生命として数えるには欠陥も多く、人間とまったく同じとはとても言えない。

 彼女の身体はその事実を実に分かりやすく示しているだろう。
 あらゆる人工皮膚が馴染むことなく、ガラス製の皮膚に置き換えられた胎の内側には、本来詰まっているべき臓腑は無く、ささやかな花園が存在する。それでも問題なくロゼットは稼働しているため、ドールの稼働維持に必要な機構は腹には存在しないのだろう。

 とはいえあなた方が体内の花園を探ろうとも、奇妙な装置が仕掛けられている様子は無さそうだった。

「……ないみたいだね」

 つつ、と。
 不必要に整えられた指先で硝子をなぞる。埋められた花々は美しく咲き誇っているが、それだけだ。神秘的な輝きを見せる秘部に、ブラザーは静かに吐息を零す。同時に、指が離れた。

 離れた人差し指は、細い髪につく。とん、と中身のない音がした。

「他にあるとすれば、ココだと思う」

 自分の頭をトントンと指でつきながら、ブラザーは微笑む。“ちょっと見てみて”なんて言いながらその場にしゃがみ、軽く俯いてロゼットの反応を待ってみた。

《Rosetta》
 人工皮膚で覆われていない部分は、触れられていたとしてもロゼットにはわからない。
 何か意味のある動きだったのかもしれないが、まるでそれを理解できないまま、双眸はそれを映していた。

 「頭?」

 ブラザーがしゃがみ込むのを見ながら、彼女は呟く。
 絹のような髪の海に、発信器は埋まっているのだろうか。
 「ちょっとごめんね」なんて口にして、必要なら手も使い、ロゼットは彼の髪の間を観察してみるだろう。

 あなたはブラザーの美しく整えられた、上質な手触りの頭髪に触れて掻き分け始める。トゥリアモデルに備わった繊細な視界によって、根気強く毛根の合間までもを探ろうと、奇妙な痕跡は残念ながら見られない。

 頭部でぎりぎり切開し取り出せる範疇にあるならば、装置の埋め込みは眼に見える形で痕跡が残るはずだと考えると……頭部に発信機が存在する可能性は望み薄だろう。

「うーん」

 ロゼットの反応は変わらない。であれば特に何も無かったのだろう、とブラザーは判断したようだ。しゃがんだまま小さく唸って、顎に手を添え考えるようなポーズをとる。未だ悲観的になる様子はないが、そろそろ目星がなくなってくる頃だ。
 そこでふと、ブラザーは気づく。ぱちりと瞳を瞬かせると、おもむろに口を開いた。小さな口をめいっぱいに開いて、指を何本か口の中に入れる。舌、歯、上顎……唾液で手が汚れるのを感じながら、ブラザーは入念に口内を掻き回した。

 あなたはその繊細な指先で、歯列の合間に至るまで、舌部の細部に至るまで──指が届く範囲で、隈無くあちこちを探るだろう。
 しかし、口腔内ですらも怪しい物質が取り付けられている様子は見られない。やはり唾液が抽出され、日々食糧を取り込む口腔に精密機器を取り付けることは難しかったのかもしれない。

《Rosetta》
 口の中を探るブラザーを、ロゼットは無言で見ていた。
 指の先から手首へ、手首から袖の内側へ、青年の体液が流れていく。指の腹がてらてらと光るのが艶かしかったが、性機能のついていないドールにはよく分からなかった。

 「どう?」

 彼が指を口から抜いたあたりで、そう説いてみる。
 もう何も見つからないのではないだろうか。流石の彼女も困っていた。

 「あとは……どこだろうね。もしかしたら、発信器なんてないのかな?」

 小首を傾げながら、そんなことを口にして、相手の返事を待つだろう。

「うえ」

 奥に入れすぎた。
 ブラザーは眉を寄せると、軽く嘔吐きながら指をぬいた。べっとりと湿った指先を見つめたまま深呼吸を繰り返し、呼吸を落ち着ける。頭上から振る涼しい声に、ゆっくり立ち上がった。

「もう少し探してみよう。靴とか、足とか。
 僕はタイツがあるから上手く分からないかもしれないけど、ロゼットはどう?」

 まるで諭すように穏やかな声色がロゼットを包む。にこりと微笑んでからシャワースペースに向かい、指や手についた唾液を洗い流しておいた。
 手を拭いてから靴を脱ぎ、靴底からタイツ越しではあれどつま先まで念入りに観察を始める。何もなければ、範囲をもっと広げて太ももやふくらはぎなんかも触ってみるはずだ。

 脱いだ靴はいつも目に入れている通りのもので、不審な点が気に留まるようなこともない。靴の裏側、靴底、隈なく探そうとも発信機の存在は見つからないだろう。

 また脚部に関しても同様。触れてわかる範囲では妙なものが埋められている形跡も、取り付けられていると言うようなこともなさそうだ。滑らかで手触りの良い肌がなだらかに続いているばかりである。

《Rosetta》
 「多分、ないね」

  ブラザーが探すのを見ながら、最早行うまでもないと思ったのかもしれない。
 靴だけ脱いだまま、ロゼットは無表情にそう告げた。
 他のモデルだったら違うのかもしれないが、少なくとも彼女には発信器がついているとは思えない。
 では、何故柵越えがバレたのだろう。

 「他に私たちを見るためのモノがあるのかもね。発信器じゃなくて、それこそ……監視カメラ、みたいな?」

「……カメラ、ね」

 リヒトたちがどこにいたのかは知らないが、海底のことすら知っていたのだ。壁際までその監視が行き届いているのなら、疑わしくなるのは木々や空。しかし、そんなものどうやって対処するのだろうか。
 深刻そうに受け止めているのか何も考えていないのか、ブラザーはただ静かに繰り返すだけだった。

 最後に自分の目や額などの顔を確かめながら、ロゼットに向き直る。片手で靴を履いて、軽やかに息を吐いた。

「触って分からないのなら、もっと深いところにあるのかもしれないね。
 ほら、例えば、ヒトでいうところの内蔵みたいな」

 窓の外を見る。
 ───遠くに見える森林の先に、何が“いた”だろうか。

「───あ」

 ごり、と。
 強烈で些細な、違和感。

「……ロゼット、ちょっと、触るね」

 ブラザーは信じられないものでも見るような顔だった。両目を見開いたまま、ロゼットに近づく。普段ならしつこいくらいにとってくる了承も取らずに、その顔にそっと指先を伸ばした。

 ロゼットが拒まないのなら、ブラザーはその顔を撫でるだろう。撫でる手つきは相変わらず優しくて、感触も柔らかい。ただ彼の中で、何かが渦巻いているだけだった。

《Rosetta》
 「いいよ」

 ブラザーに何をされても、ロゼットは拒絶しない。
 ただのんびりと、普段通り、発信器を探しているとは思えないような様子で立っているだけだ。
 顔を撫でて何かが見つかれば万々歳だし、何もなくとも彼に撫でてもらったという事実が残る。
 きっと何か言われるまで、どちらに転がってもいいものだと思っているのだろう。
 撫でられてから一分ほど経った後、「どう?」と彼女は質問するだろう。


 ブラザーの反応から、触れた彼は何とも想わなかったと判断したらしい。
 というか、触れられたロゼットだけが場所を知ったということを理解したのだろう。

 「何かあるね、ここ」

 右目──正しくは、右目の眼球の裏側。
 そこに異物感があると、ロゼットは口にした。

 「どうしようか。片目がない子なんて今のオミクロンにはいないし……多分、発信機を気にせず行動するには抉り出すしかないかな」

 参ったなあ、なんて。
 まるで他人事のように彼女は笑った。
 ブラザーが咎めなければ、「他の子も、ここを触ったら同じ反応をすると思う」と手を伸ばすことだろう。
 自身が触られて、異和を感じたその場所を、瞼の上から撫でるはずである。

「うん、そうだね」

 痛みはない。
 しかし、そこに必ず何かがある。

 ブラザーはロゼットの反応に目を細め、静かに離れた。軽く息を吐きながら髪に触れ、視線をシャワースペースの方に投げる。それから、ゆらりと両目が滑った。

「抉る機械も方法もないし、きっとすぐに気づかれちゃうよ。やるなら、もうここには帰ってこない時じゃないと」 

 ここから逃げるとき、と口にしなかったのは、きっと無意識だった。
 まだ、彼の中にあなたの“おにいちゃん”はいるのだろうか。

「実物が、見てみたいね」

 もう、どこにもいないのだろうか。

《Rosetta》
 どうしてそんなに憂鬱なのだろう。
 発信器も見つかったのに、兄の声色は何故か暗い。
 ロゼットはエスパーでもないし、魔法使いでもないから、相槌を打つしかできなかった。

 「そうだね。お披露目に行く子とか、ツリーハウスの子で試せたらいいんだけど……」

 トゥリア同士──オミクロンの仲間だというのに、どこか話はズレている。

 「残念だね」

 落ち込んだ様子のない赤薔薇は、きっと目の前のことしか見えていないのだろう。目の裏の装置ひとつ外せないくせに。
 のんびりと服を着直した後、彼女は部屋を出ていくのだろう。「何とかなるよ」と、無責任に励まして。

「ふふ、そうだね」

 ロゼットの励ましを受けて、ブラザーは部屋に立ったまま微笑んだ。服を自分も着直して、鏡で全身を確認する。ロゼットが部屋を出ていくのなら、にこやかに手を振るはずだ。

 扉がしまって、静寂が訪れて。
 一人きりで、再び右目に触れてみる。

「……シャーロット」

 かつて、愛せたかもしれない人形。
 ブラザーは小さく呟いてから、部屋を出て行った。

【開かずの扉】

Rosetta
Brother

「……黒い、塔」

 ソフィアから。グレーテルから。ヘンゼルから。ミュゲイアから。フェリシアから。リヒトから。

 たくさんのドールから聞いてきたこの不可解な場所に、ブラザーはようやくやってきた。時刻は夕暮れ、鐘の音は少し前に鳴り終えている。既に多くのドールは夕食の支度に寮に戻っただろうし、元々この場所は人が少なかったはずだ。誰もいなくなるのを隠れて待っていた彼は、待ちに待った静寂に息を吐く。

 正面に見えるのが、開かずの扉。
 踊り場の壁に存在する、本来なら有り得ない場所。隠すように設置された奇妙な空間の奥の記憶を、ブラザーは持っていない。けれどこの先に、行かなければならないということだけは知っていた。発信機で見つかったときの言い訳を口の中で呟きながら、生唾を飲み込む。すっかり感情の抜け落ちた体であっても、染み付いた恐怖が中々足を前に動かさなかった。

 ───“彼女”が現れたのは、丁度ブラザーが壁に向かって立ち尽くす不審者になっている、そんな頃である。

《Campanella》
 遠い彼方の夕焼けに、カンパネラは想いを馳せていた。
 時刻は夕暮れ、あの胸を締め付ける白昼夢の舞台と同じ時間帯だった。美しい橙色に染め上げられた壁の中、愛を夢見る健気で哀れなドールたちの声と足音を聞きながら、カンパネラは階段を登っていた。寮へ戻る前に、大声を張って歌いたかった。
 答えの出ない、苦しいだけの考え事を、やめたかった。

「……………」

 踊り場。彼は、その目の前で立ち尽くしていた。立ち尽くす以外の何をするでもなく、誰かと語り合うようなこともなく。まるで、何もないはずのこの場所に、何かを見出だしているような。

「………あ、……あの。……ど、どうか、されましたか」

 恐る恐るといった風に、カンパネラは話しかける。相も変わらず幽霊のような立ち姿であり、その表情にはカフェテリアで会った時以上の疲弊が見受けられるかもしれない。顔色を伺うようにブラザーの方を覗き込んでは、彼の視線の先に何かあるのだろうかと自然と思い至ったカンパネラも、“それ”の方へ目を向けるだろう。

 二階と三階の踊り場に存在する、赤い壁。あなた方の目前に陰鬱な様子で聳えるその壁を注意深く凝視すると、薄らと扉枠のようなものが見えた。一見何もないように見えるため、多くのドールはその扉の存在に気が付かず、前を通り過ぎてしまう。

 まるで、ドールの生活には不要な区画だから、巧妙に隠されているかのようだ。
 しかしよく観察すると、扉枠はきちんと存在している。ドアノブなどは存在せず、故に開き方が定かでない扉だった。

 また、カンパネラは同時に、傍らに立つ少年の様子が少しおかしい事にも気付けるかもしれない。

「………えっ、あ」

 “あの”ブラザーは、カンパネラの声が聞こえていないみたいに黙っていた。じっと壁の扉を見つめる表情は強ばっていて、ゆらゆら揺れる瞳は緊迫感に満ちている。常に嫋やかな笑みを浮かべるブラザーの面影はなく、彫刻のように美しい顔をただ青白く染めていた。
 まるで時が止まってしまったかのように、呼吸音すら聞こえなかった人形は、やがて大袈裟に肩を震わせる。カンパネラの方に向けた顔から、冷や汗が落ちた。

「あ、あぁ……いや、うん。なんでもない、大丈夫だよ。
 カンパネラこそ、こんなところでどうしたの? もう鐘が鳴ったんだから、そろそろ夕食の時間だよ」

 冷や汗を乱暴に袖口で拭って、動揺を隠すように首を左右にふった。足元に落ちた視線は相変わらず鬼気迫る何かがあり、体は妙に力んでいる。カンパネラに向ける微笑みでさえぎこちなく、無理をしていることは明確だった。
 ブラザーという人形は、エーナモデルほどでなくとも他者との交流を好んでいる。故に話も上手く、嘘や誤魔化しだってある程度はできる方だ。そんな彼が、こんなにも分かりやすく話を摩り替えている。自分だって鐘が鳴っているのに帰る気はなさそうで、視線は今も壁の扉の方にたびたび向けられていた。何かが起きていることは、言うまでもないのだろう。

《Campanella》
 ブラザーがカンパネラに気付くまでの僅かな間に、彼女はその違和感の正体に気付いた。よく見れば、何かある。

 ───扉だ。

 何の変哲もないただの壁のようでいて、違う。開き方は検討もつかないけれど、それは確かに扉と呼べようものだった。

「…………えっと………」

 傍らに立ち、こちらにぎこちなく微笑みかけたブラザーは、いつもは穏やかな笑みを浮かべる人物であった。ツリーハウスから出る時さえ、カフェテリアで会った時もそう。その対のアメジストはいつも繊月のように柔らかに細められていた、はずだ。……普段からあまり人の顔を見ないから、自信はない。
 しかし、普段の姿と比較せずとも、ひとまず彼はなんだか様子が変であるということは感じ取れた。彼が見ているのは確かにその扉だけど、なんだかそうじゃない気がする。それだけじゃない気がする。
 その奥を。その向こう側に存在する何かを、或いはその向こう側に広がる場所を、彼は……何か、恐れているのだろうか。

 あの日に蝶の話を一度飲み込んだ時よりも分かりやすく、何かを隠そうとしているのだと気付けた。困惑したように眉をひそめて、カンパネラは首を傾ける。扉の方をおずおずと指差しながら。

「……い、いえ、あの………あの。……な、なんかあの、その……ご、……ご存知ですか? ……“これ”って……えっと………」

「いや……僕も、その……えっと、これは」

 しどろもどろ、という言葉がよく似合う態度だった。
 自分の態度に違和感を持たれるなんて思っていなかったのかもしれない。扉を指さすカンパネラに目を見開いて、咄嗟に否定を口にする。けれど、いい言葉が浮かばなかったのか、モゴモゴと何かを口にしているだけだった。目を泳がせ、バツの悪そうな顔で自分のつま先を見つめる。珍しく、その眉間にはシワすら寄っていた。

「………い、今、気づいた」  

 悩みに悩んで、結局嘘をつくことにしたらしい。長い長い沈黙の末に、ブラザーは顔を背けた。初めて嘘をつく子供のように、顔を背けてぼそぼそ呟く。愛する彼女に嘘をつくということには罪悪感があるのだろう、ぎゅっと下唇を噛み締めていた。
 そんなふうに分かりやすく態度に出すから、気づかれてしまうのだろうけれど。

《Campanella》
「んええ………?」

 無理がある。愚鈍なカンパネラにも流石に分かる。全力で誤魔化そうとしている。
 このひと、案外嘘つきなんだなぁ……とかなんとか下らないことを内心ぼやきつつ、ふやけたような困惑の声をこぼす。年齢設計は自分より年上のはずであるが、分かりやすい嘘を貫き通そうとするブラザーの姿はやけに幼く見える。
 カンパネラの視線はしばらく泳いだ。何かを迷ったり躊躇ったりして、背中の方で手を組んで自分の指と指を絡ませてもちゃもちゃ動かしたりして。

「……あ、そ、そうです、ね。きぐう、ですね………。
 ……へ、……変なの。か、隠してるみたい、ですね。ア、いや、隠してるんだろうけど、その。なんか、………」

 と、相手の嘘を飲み込んだふりをした上で、なんだか頓珍漢な返しをした。ブラザーにつられて、意味も無くしどろもどろになったようだった。
 カンパネラは不器用ながら、相手の嘘に乗ってやるように応答する。嘘を嘘だと追及するような元気は、生憎持ち合わせてはいなかったので。
 そして少しだけ沈黙して、続けた。ブラザーから目を逸らし、彼女は扉の方を見ていた。

「………何が、あるんでしょうね。
 ……どうせ……ろくなものじゃ、ないだろうけど。」

 そう、言い終えて。段々とグラデーションするみたいに冷たくなる自分の声が、自分の手からすっかり離れたもののように思えて、カンパネラは不思議になった。
 ……い、今の、もしかしなくとも感じが悪く聞こえただろうか。さあっと血の気が引くような思いをして、「あ、えと」とか言いながらブラザーの方を伺う。

「………」

 ブラザーは今度こそ黙った。
 何を言うべきか迷って、言葉を吟味するように目を伏せる。汗で張り付いた前髪を直しながら、相変わらず自分のつま先を見ていた。

 カンパネラの声を、言葉を、どのように受け取ったのだろうか。愛する人の困惑を、どう受けとったのだろうか。
 ツリーハウスで同じノートを見た彼女が、何を知っているかなんてブラザーには分かっていた。オミクロンドールの処刑場。この場所が、カンパネラにとってどういう場所か。“おにいちゃん”なら、きっとそう思って嘘をついたはずだ。

「…… ……… …………。

 ……ごめんね、カンパネラ。ここは開かずの扉───……いや、黒い塔って場所なんだ。
 今からこの中に入ろうと思っていて…でも、君を巻き込むわけにはいかないから、嘘なんてついちゃった。ごめんね」

 何時間にも何日にも感じられる無言。
 それを打ち破ったのは、眉を下げたブラザーの謝罪だった。言いにくそうに視線を下げたまま、ぽつりぽつりと語っていく。どんな場所かをまだ言わないまま、静かに視線を上げた。カンパネラの目を見て微笑む姿は、紛れもなく貴女のよく知るブラザーだ。柔らかな声が愛情を込めて二回目の謝罪を告げる。
 底抜けの親愛はずっと変わっていない。ただ少し、中身が無くなっただけ。

《Campanella》
「へ、」

 はたり。目を見開いて、カンパネラは固まった。糸を張り詰めたような長い長い沈黙を破いて、暴くまいとした真実は告げられる。
 アメジストの双眸と目があった。ブラザーは、微笑っている。
 開かずの扉。今、彼は続けて何と言ったか。黒い塔。覚えがある。カンパネラはその覚束ない記憶を辿り、辿り、辿って。
 歪んで暗くなった視界が、必死に追ったあの筆跡。夕暮れが。あの少年が書き残したらしい、驚愕と、恐怖と、絶望が。

 まさか。いや。何かの偶然か、覚え違いであろうか。だってこの頭は欠けている。十分、有り得るはずだ。それが何かの重大な勘違いであったって、おかしくない。

「………それって」

 つらつらと言い訳を並べる思考に反し、カンパネラは心のどこかで確信していた。

「え、なっなな、なかにって、そんな……だ、……えっ? 何言っ………だ、だってそれ、え? ッく、黒い、……塔って……」

 お披露目。
 普段ドールが通れない通路。
 黒い塔のような巨大な空間。
 処刑装置。
 シャーロット。
 炎。
 スクラップ。


 星々が集まって星座を成すように点と点を繋げて、カンパネラは慄いた。目がぐるぐると回ってどうにかなりそうだ。また息がうまく吸えなくなっていく。駄目だ。そんなの駄目だ。ぜったいに駄目だ。

「ぁ………あ、あぶない……危ない、ですよ、も、もしかしたら、え、いや、も、もしば、バレ、バレたら、……こ、……ッ殺さ……!」

 言葉にすればするほど、恐怖で気道が絞まっていく。青白い顔のカンパネラはずっと正気じゃないものを見る目をしていた。何度も何度も首を横に振る、彼女は明確に怯えている。
 “いつも通り”なブラザーの様子がカンパネラには恐ろしい。ロゼットみたいにそれがデフォルトという訳ではない気がするのだ。案外人並みの情緒を有しているのかと思った次の瞬間には、彼は何かを捨てている。
 今、彼に何かを捨てさせたのは、わたしなのだろうか?

「うん、かもしれないね。
 でも、何か重要な証拠が分かるかもしれない。そうしたら、きっとみんなの役に立つよ」

 恐怖を零しながらもこちらを案じるカンパネラに、ブラザーは曖昧な表情を浮かべた。嬉しそうに顔を綻ばせつつも、不安にさせてしまったことに眉尻が下がる。動揺する相手に一歩近づき、囁くように言葉を重ねた。諭すみたいに優しく語りかけながら、そっと手を伸ばす。すっかり青白くなってしまったその顔を隠すように伸びた、艶やかな黒。
 カンパネラが拒まないのなら、夜を溶かしたような色をする髪のひと束を、ブラザーは掬うだろう。白馬の王子様のように紳士的に、恋人のように甘ったるく。

「大丈夫、カンパネラ。
 君のことは、僕が幸せにしてあげるから」

 続く言葉は、世界中のどんなお菓子よりも甘かった。カンパネラの幸福を何よりも願い、何よりも彼女を愛している。変わらない、いつものブラザー。
 見せる笑みは変わらず妖艶で、けれども穏やかに。髪に落とした視線がまた上がって、じっとその宝石のような両目を見つめる。鮮やかなスカイブルーは、今どんな顔をしているのだろうか。

 いつか、ツリーハウスでドロシーにも似たようなことを言っていた。恐怖も後悔も混ぜ込んだ覚悟なんて、もう必要ない。ただ、自分のやるべきことをやるだけなのだ。
 ブラザーは視線を開かずの扉に戻し、さっさと探索を始めた。まずは何か開ける手がかりを探すため、全体を観察する。カンパネラを引き込むつもりはないらしい、会話は一方的に終わってしまった。

《Campanella》
「で、でも、っでも………」

 それはチョコレートの輪郭が、指の熱でじんわりととろけたような、そういう光景の甘やかさと温度を感じさせた。ともすれば官能的にも見える動作に、カンパネラはきゅっと反射的に目を瞑った。動揺のあまり取り繕うのも忘れて、睫毛がふるりと震えた。
 繊細な白い指が、少女を隠し続ける夜の色をゆるりと纏う。それは、白樺の枝が泥濘に埋もれてゆく様にも見える。暴力性の欠片もない行為に、空色の双眸はそっと開かれ、青年の微笑を写す。彼の“妹”の笑みがそうであったように、鮮明に。鏡面のように。

「……何、……言ってるの………」

 何も大丈夫じゃない。幸せにしてあげるなんて、訳が分からない。わたしはもう幸せになんてなれやしない。
 カンパネラの幸福はもはや、曖昧な過去の記憶にしか存在し得なかった。だからそれがどんなものなのかも、もう彼女には分からない。

 髪から離れていく手を、カンパネラは掴むべきだった。死ぬかもしれないというのに、『みんな』のためにと深淵へ身を投じようとするブラザーを、全力で引き留めるべきだった。せめて服の裾とか、なんでもいいから、掴んで縋るべきだった。何かを叫んで泣き喚くべきだった。
 分かってる。
 けれど、勇気なき獅子の娘には、切り上げられた対話を無理やり繋ぐことさえできなかった。

「…………………」

 一歩踏み出すことも、後ずさってその場から去ることもできずに、ただブラザーの背中を見つめている。青白い顔で、祈るように胸の前で手を組んでいる。
 誰か、誰か止めて、誰か。お願い。わたしには無理、止められない。どうして。どうしよう。
 手のひらに汗が滲んだ。怖くて、頭がぐちゃぐちゃになる。

 背後から感じる視線を、人形はどう受け止めたのだろうか。
 開かずの扉の方を向いてしまった彼の表情を見ることは、もう出来なかった。

「……薔薇」

 見つけたテーブルに近づく足取りは、明らかに浮ついている。千鳥足にも見えるようなふらつき方で、重たい体を引き摺っていた。乾いた唇から零れた音がか細く震えていたことに、きっと本人も気づいていない。誰がどう見ても、彼の様子はおかしかった。
 得体の知れない薔薇。否応なく目を奪われるような真紅。
 息が上がる。体が強ばって、引き攣ったような呼吸になる。溺れそうなほどに重たい空気を必死に吸い込んで、長い長い時間をかけて、ブラザーはようやくテーブルに辿り着いた。

 ぶるぶる震える手が伸ばされる。
 無理矢理に動きを安定させるため、もう片方の手で自身の肘の辺りをぎゅっと掴んだ。ぽたりと、シュッとした顎から汗が垂れる。
 張り付いた前髪をそのままに、ブラザーはそのテーブルを調べようとするはずだ。きっと手がテーブルに触れてしまえば、その膝は砕けることだろう。

《Campanella》
 異様だ。明らかに、異常だ!
 何も、何一つとして大丈夫ではない。まるで病にでもかかったようだ。体が上手に動いていないし、呼吸は荒く、表情こそ見えないものの、見ているだけで痛ましくなるような所作をしていた。明らかに彼は苦しんでいた。
 どうしてそんな反応を示すのか、カンパネラには分からない。この向こう側で起きていることがどんなに凄惨であるかは彼女だって知っている。しかし、それにしたってブラザーの様子は変だ。どうしてしまったというのか。

「……ねぇっ………」

 蚊の鳴くような声は果たして、彼の耳に届いただろうか。必死にすがるような声を発しながらも、カンパネラは彼を強く引き留めることはできない。ただその折れそうな背中を前のめりになって見つめ、ブラザーが血を吐いて倒れでもしないだろうかと嫌な想像をして、鼓動を早めるばかりだ。
 都合よく救世主が現れるわけがない。あのひとを止めることができるのは、きっとわたしだけなのに。
 わたしが怯えてる場合じゃないのに!

「………!」

 思わず反射的に一歩を踏み出すが、それ以上カンパネラは歩み寄ることができない。臆病な少女はブラザーの行動を焼き付けるように見て、傍観に徹している。

 あなたがそれに一歩近づくたび、コアの発する模倣された鼓動が厭にその速度を増していく。あなたの脳内では常に警鐘が打ち鳴らされていて、恐怖に頭が喰い蝕まれてゆくようだった。

 それでもあなたは必死にその恐怖を抑え込み、震える指先を赤い花瓶に添えるだろう。

 あなたは何も分からないし、何も覚えてはいない。
 それは、掘り起こしてはいけない記憶だ。
 思い出さないようにしなければいけない。いけないのに、あなたはそれでも、手を伸ばしてしまう。

 その恐怖の正体は──あなたには、わからなかった。
 だからこそあなたは莫大なる恐怖を飲み込んで、花瓶を探り始めるだろう。花瓶の水は交換されたばかりのようで、薔薇に触れると瑞々しく咲き誇っているのが分かる。鮮烈な真紅があなたを睨んでいるようだった。
 だが、花瓶自体は学園の随所に置かれた装飾と変わらないように見える。

 気にかかるのはハイテーブルだろう。このハイテーブルも、学園の至る所に設置された変わり映えのしないものであったが──
 あなたが僅かに身を屈めてテーブルの下を覗けば、そのテーブルの脚に隠れるようにして、小さく赤い押しボタンが存在する事に気がつくはずだ。

 壁紙と同化するように、見るからに隠されている。何も知らないドールはこの踊り場を通過するだけで、何も気づくことが出来ないはずだ。

 美しい薔薇。清潔な水。
 花は好きだ。送ると喜んでもらえるから。

 ……脳の奥で、何かががバチバチと焼け焦げている。

「───ッ、あ」

 がくん。
 花瓶を置いてテーブルを調べようと触れた瞬間、ブラザーはその場に崩れた。体の倒れる鈍い音に、カンパネラの声は掻き消されてしまう。貴女のおにいちゃんは、どんな声でもすぐに振り返ってくれたのに。

 膝をついたまま、はくはくと口を動かす。水から打ち上げられた魚のように喘ぎ、強引に酸素を取り込んだ。

 息はできる。大丈夫。
 怪我はしていない。

 だからまだ、止まってはいけない。

「……ふふ……」

 汗を袖口で拭い、立ち上がろうとハイテーブルに手をついた。その瞬間に見えるのは、薔薇と同じ赤。意図せず姿勢が低くなったことで見えた隠しボタンに、ブラザーは笑みをこぼす。
 カンパネラが聞くだろう笑い声は、いつものブラザーと何ら変化なかった。伸びやかなテノールが、今日も微笑んでいるだけ。

「……カンパネラ、行ってくるね」

 ボタンをそっと押してから、ブラザーは立ち上がる。ふらりと今にも倒れそうな足取りで振り返って、カンパネラに笑った。

 あなたが隠されていたスイッチに触れると、存外あっさりと、壁に沿うように閉ざされていた鍵穴のない扉はギギ、ギ……と老朽化を感じさせる錆び付いた音を立てながら、引くように開かれていく。

 その隙間からあなたは、冷ややかな空気の流れを感じるだろう。
 薄暗い学園よりも更に深い暗闇を落とす開かずの扉の向こう側。足元は無骨な鉄鋼の床となり、照明は全くと言っていいほど存在しない。
 学園側から差し込む燭台の灯火によって辛うじて、通路の奥に重そうな鉄扉がある事が分かるだろう。

《Campanella》
「ヒッ………」

 膝から崩れ落ちたブラザーが、何を押したのかまでは見えなかったが。彼の何らかの動作の後、扉は開かれた。得体の知れなさから来る恐怖で肌がぞわぞわと粟立ち、カンパネラは鳴き声にも似た小さな悲鳴を上げて怯えた。
 背中にも項にも手のひらにも湿った感覚を覚える。汗が止まらない。頭の芯がぞうっと冷える感覚が続いている。
 ブラザーというトゥリアドールは見とれるほどに麗しい。いつもの通りに。

「なッ、ちょ、ま、って………!」

 何か言え。早く。どうしてなんにも言葉が浮かばないの。足が動かないなら頭を動かしてよ、声を出してよ、止めなくちゃいけないんだ、死んじゃうかもしれないのに。今にも倒れそうなのに行こうとしてるのよ。止めなくちゃいけないのに。
 止めなくちゃいけないのに!
 どうしてまともに動けもしないの!?!?

「……ぃ……ねぇ、ってば……ま、まって……ください……!」

 馬鹿で無価値な役立たず! 頭の欠けた能なしの欠陥品!! 早く何か言ってよ!!!

 ……嵐のような激しい自己嫌悪に歪んだ顔は、ブラザーの目にどう写っただろうか。言葉が喉につっかえるのを感じながら、どうにかして、どうにかして声を吐いた。
 例え青年が扉の向こうへ消え去ろうとしても、絞り出した言葉はひどく震えながら響くだろう。

 黒い塔。カンパネラの考えが正しければそこは、欠陥品たちの処刑場だ。開かれた扉の向こうは炎に包まれていた、なんてことはなかったけれど。奥の方に仄かに見える鉄扉の向こう側は、そうじゃないとは言えない。

「あ………あんな場所で、なっ、なにか、何か……もらって……え、得たと、して。………そ、それが、それがなにに、何になるって言うんですか………ど、うせ、くる、くるしいのが増える、ふえ、増えて……良いことなんて……なんにも、ないのに………」

 だから引き返しましょう。寮へ戻りましょう。懇願を込めた目は、その無力さを自覚して大きく揺れた。海底から、遥か遠くの水面に向けて、たすけてぇと必死に叫んでいるような心地がしている。
 言葉が届く気が、まるでしないのである。

 吐き出すような、押し出すような声だった。悲痛な、願いにも似た言葉が廊下に響く。もう随分と学園は静かになってしまって、まるで世界に二人しかいないような、そんな空気が場を支配していた。

「カンパネラ……」

 眉尻が下がる。
 よくブラザーが浮かべる、困ったような悲しんでいるような曖昧な顔。ぐらぐらの足で体を何とか支えながら、震えた声でか細く彼女の名を呼ぶ。

 ───そんな顔、しないでほしい。

 ブラザーの揺れる瞳は、間違いなくそう言っていた。大きな一歩でも、何でもないのかもしれない。けれど、だからといって確証もないのに足を止める理由にはならないのだ。カンパネラもブラザーも、それをよく分かっているはず。絶望と恐怖の先にしか真実がないことを、二人はツリーハウスで嫌という程理解させられたのだ。

 だから、これは、仕方ないこと。
 仕方の無いことなのに。

 ああ、そんな顔しないで。
 君を悲しませたいわけじゃないんだ。

 むしろ、僕は。
 ■■■■■■は、君を幸せに────………


「……大丈夫だよ」

 頭が割れるように痛い。
 ぎりぎり、首が締められているような感覚さえした。
 与えられすぎた恐怖でいっそ思考は晴れやかで、体が軽い。
 ワルツを踊るようなステップで、優雅にカンパネラに近づいた。

 何かの、焼け焦げる音。
 誰かの、やかましい耳鳴り。
 激しい自責の声が、誰かをずっと傷つけている。

 役立ず! 欠陥品! トイボックスの面汚し! 結局人を不安にさせてばっかりじゃないか! みんなを幸せにしたいのに! なんで! なんで! なんで! なんで!!! 媚びることしか出来ない能無し! お前なんか誰もいらない! さっさとスクラップにでもなってしまえ!!!


 ……でも、全てから逃げたのは君でしょう?


「カンパネラ、信じて」

 ……茨のような髪をそっと掻き分けて、形のいい顎に手を添えようとした。
甘やかに細められた瞳も、吐息の混じった濡れた声も、カンパネラはきっとよく知っている。けれど、目の前のブラザーはまるで別人のようだった。貴女を心の底から愛している。それは間違いない。けれどその愛は、まるで。

「……必ず、君の元に帰ってくる」

 ぐっと、ブラザーの顔が近づく。
 拒まないのなら、カンパネラの唇に毒みたいに甘い口付けが訪れるだろう。

 まるで、貴女の恋人のような動きだった。

《Campanella》
 知っていた。知っていたのだ。真実を得るためには苦痛がつきものであること、それを乗り越えなくては知ることのできないものがあること。
 恐怖の対象たる少女ドールからの誘いに乗り、規則違反であることを指摘されながらも柵を越え、恐怖の渦中であの子のがらんどうを見つめた。そして今も、あの過日の夢を追い求めて走り続けている。その果てにきっと綺麗な結末なんて待っていないと知っていながら。
 ブラザーの行動に、カンパネラは共感を覚えてさえいる。あの時、柵越えを強行したカンパネラを、ブラザーは必死に止めていた。それと同じだ。今度はカンパネラがブラザーを止めようとしている。
 でも。それにしたって止めなくちゃいけないと、強く思う。どうしてだろう。あの時のわたしと彼の何が違うというのか。カンパネラには、分からなかった。

「…………え?」

 ……そして、今彼女は、それを理解した。
 タト、トン、トタン。軽やかなステップにも思える足音の後、カンパネラは呆けた声を出した。踵が上り階段の側面に当たる。後ずさったのである。

 口許に白樺の指を這わせたカンパネラの顔はまず、ぼうっと放熱をした。頬は薔薇色に染まり、瞳は潤む。初な乙女のような相貌だ。何故ならば、カンパネラはトゥリアドールだから。母親のような、そして恋人のような甘やかさを持つように設計された、ひとりの少女ドールだったから。
 そして。
 乙女の顔は、青ざめる。毒林檎の破片を喉に詰まらせたみたいに、どこまでも美麗に、整った相貌が染まる。
 何故ならば、何故ならばカンパネラは、オミクロンクラスのジャンクドールだから。

 ブラザーは、常に“兄”を名乗っていた。こちらがやんわりと拒んでも、カンパネラを妹として扱った。他のドールのこともみんな、彼の妹であり、弟だった。
 そういうところが、苦手だった。だって変だから。血の繋がりを持たない人形として生まれた彼が、“兄”になれるはずがなかった。だから、そう認めたわけじゃなかった。そう呼んだことは一度もなくて、そう思ったことも一度もなかった。


「───■■■■■■?」


 言葉が、ガラス片のようにまろび出る。

 あんなに自分が彼を止めた理由が分かった。いつもの彼ならばあんなことは言わなくて、こんなことはしないのだ。
 異様で、異常で。それは、変貌と呼んでいいものなのだろうか。

「…………う゛、ぁ………」

 カンパネラは口許を抑えて、壁に肩から寄りかかった。腹の中で何かが蠢いたのを感じる。心なしか口の中が酸っぱい。物理的な接触がてんで駄目なカンパネラは、今の行為を本能的に拒絶したのである。

 彼女の薄い唇に降り注がれようとした、甘い、口付けを。

 ……ブラザーはその唇に、滑らかな人工皮膚に覆われた骨の凹凸を感じただろう。カンパネラはその瞬間を迎えるその直前に、自身の唇を右手で覆い隠すようにかざし、そしてブラザーの口許に手の甲を押し付けた。
 彼女は貴方を拒絶した。明確に、恋人のような貴方を。

 ここ最近、ブラザーに向けることはなかった、恐怖の滲む目が。茨の奥の蒼星が揺れて、貴方を見据えている。

「……え?」

 滑らかな体温と共に感じるのは、骨の凹凸。朝露に濡れたようにきらきらと輝く双眼が見開かれたのは、口付けが拒まれたためではなかった。

 ───微笑んで。『Brother』。

 ふらり、よろめきながら後ずさる。
 懐かしさすら感じるような瞳がこちらに向けられていて、それがブラザーにとって何よりの否定だった。喉がぎゅうと苦しくなって、息が吸えなくなる。世界がチカチカ点滅して、指先から温度が急速になくなった。

 ──貴方は手を差し伸べられる存在じゃない。

 ああ、誰だろう。
 誰のことを呼んだの? カンパネラ。

 知らない。僕には分からない。
 知らないんだ。知らないったら。やめて。やめてよ。違う。僕は。僕はもう。違う、違う、違う違う違う。やめてくれ。もううんざりだ。何も考えたくない。僕に“ソレ”は出来ない。仕方ないじゃない。出来損ないなんだ。耐えられない。出きっこない。嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ…………

「ぁ゙、あッ゙……」

 ぐちゃぐちゃ、脳みそがすり潰されるような感覚。あれほど呼んでほしかった呼び名が、呪いみたいにブラザーの細い身体を引き裂いている。
 設計図の裏に逃げ込もうとしても、誰もそれを許してはくれない。誰より強く、ガーデンテラスで水やりをする自分がこちらを睨んでいる。ねえ、どうして。なんで、なんで、なんで。
 僕だって、もう、疲れたのに。


 ───さあ、笑って。
 甘く、艶やかに、美しく。


「ふ、ふふっ……ふ、あは、あ、ぁ゙、ああ、ごめん、ごめんね……僕は、ふふ、お、おにっ、あはははっ」

 ミルクのような髪をぐしゃりと掴んで、首を左右に振った。カンパネラの目が見られない。これは誰に向けての、なんの謝罪だろう。分からない。もう、ずっと、なにも。

 嫌われたくない。
 愛している。

 でも、それは、“どっち”が?
 愛を持つように設計されたから?
 それとも、あの子がカンパネラだから愛しているの?


 分かってよ、それくらい!!


「……行くね」

 心すら脆い人形は、虚ろな目をしたまま開かずの扉へと逃げ出した。
 きっともう、止めてすらもらえない。

《Campanella》
 互いに距離を置いた。互いに、相手から逃げた。禁忌の扉の前に、出来損ないの人形がふたり。
 彼らは今、家族でもなければ、恋人でもなかった。

 カンパネラは。
 カンパネラは、少しだけ、心がほどけていた。不信なる彼女はその瞬間まで、ブラザーを怖がらなかった。今まであんなに避けていたブラザーのことが、あまり怖くなかったのである。共にツリーハウスへ行ったその日から、今の今まで。
 しかし。今、その解れは正されて、再び鋼鉄の鎧を纏った。

「……ヒ、………」

 気付けば視界は歪んでいて、その風景がガラス越しみたいに写る。シルクの髪が乱れて、バサバサ揺れていて怖い。いっとう綺麗なアメジストの瞳はもう見えない。笑い声が聞こえる。何か、壊れてしまったんだなぁと思った。壊してしまったのは自分の言葉だったのに。自分の声が何よりの凶器だったことに、気付くことは無かった。
 愚鈍なカンパネラはただ怯えた。得体の知れない“誰か”を前に、怯えてグスグス泣き出した。

 ねえ、わたし、今、何をされそうになったの?
 ……“お姉ちゃん”とも、そんなこと、したことないのに。

「……なん、……どう、して…………?」

 カンパネラの頭をある言葉が占めた。黙って。うるさい。わたしなんかがそんなの、思っていいわけないでしょう。自責の声ががなる。それでも、カンパネラの頭から、その言葉は離れない。
 なんて下らない話だろう。なんて愚かしいんだろう。なんて、烏滸がましいんだろう……。

「………ぉえ゛ッ……」

 ───裏切られた。

 嘔吐くと共にカンパネラは口を閉ざし、その上から両手で頬ごと押さえつけた。ブラザーの声に返答はない。引き留める言葉も行為もなく。
 薄情にも、カンパネラは逃げた。
 ぽっかりと口を開いた深淵へ、足を踏入れるブラザーのことを、カンパネラは──遂に、見捨ててしまったのである。

 人気のない階段を勢い良く下っていく。足音には時折ドタン! といった乱暴な音が混ざって聞こえたことだろう。何回も踏み外して、バランスを崩しては壁に手をついて必死に下っていた。
 嗚咽は消え去った。暫く経てば、そこには冷ややかな静寂のみが残されていたことだろう。
 貴方を責め立てるような、重い重い沈黙が。

 遠くで、足音を聞いた。
 嘔吐く声と忙しない足音が、耳鳴りのようにガンガン頭に響いていた。髪を乱暴にわし掴んだまま、通路を進み続ける。

 出来損ないのジャンクドール。
 生きる価値のない欠陥品。
 誰かをまともに愛することすら出来ないのに、どうしてこんな場所にいるんだろう。

「……、…………、……」

 足音がとうとう聞こえなくなって、暗い暗い通路を進んでいって。その途中で、とうとうブラザーの足は止まってしまった。誰もいない一人の通路で、力が抜けたみたいにしゃがみこむ。この静寂が何よりも冷たくて、何よりも心地よかった。誰にも会いたくないときがあるなんて、今の今まで、ブラザーは知らなかった。

 進まなければならない。
 力の入らない体を引き摺って、手を床について、ずるずる前に動く。足が床と擦れて痛い。タイツは多分、穴が空いてしまっているだろう。でも、行かなきゃ。進まなきゃ。


 ───何のために?


「もう、いやだ………」

 体が止まる。
 重い鉄扉の前で、情けない言葉が零れた。

 ああ、言ってしまった。
 これだけは言わないようにしていたのに。こんな、こんなことだけは。

「いやだ、いやだぁ……」

 一度口を飛び出した言葉はもう止まらず、ブラザーの意志関係なく弱音を吐き続ける。

「もういやだぁっ……だれか、誰か……」

 駄々をこねる子供のようにかぶりを振って、ブラザーは喚いた。気品溢れるトゥリアドールとは思えないほど情けなく、惨めな姿だった。

 みんなを幸せにしたい。
 愛おしく大切な願いが、こんなにも重たいだなんて。

 本当は、ずっと怖かった。
 開かずの扉のことも、ツリーハウスも、アラジンのことも。
 けれど、下の子よりも怖がるなんて“おにいちゃん”じゃないから。だからずっと我慢して、怖がる自分を否定して、何も考えずに済むようにした。でも、それすらも失敗して。なんにも、なにひとつ、うまくできない。

 出来損ない。失敗作。
 ミシェラよりも、ラプンツェルよりも、アストレアよりも。


 僕が、スクラップになれば良かったのに。


「たすけて………………」

 ひとりぼっちの暗闇の中。
 ぎゅうと体を縮めた人形は、壊れたように泣きじゃくっていた。長い睫毛に覆われた瞳から、真珠のような涙がこぼれ続ける。

 こんな機関だけは人並みについているなんて、本当に呆れてしまう。

 重苦しい暗澹が犇めく無骨な通路の途上で、あなたは無情にも頽れる。先を進む力も、意志も、呆気なく折れて損なわれてしまったのだろう。
 無理もない。普通の情動を持つならば、これほどの事実を受け止めて平静でいられるはずがない。

 そんな芸当が可能なのは、きっと本物の“人形”だけだろう。

 しかし打ちひしがれるあなたを他所に、現実では時間は刻一刻と過ぎるもの。優しく寄り添って待っていてはくれないものだ。

 ガン、と乱暴な音がして。
 あなたの後方から、唯一差し込んでいた学園側の微かな光が途絶えた。
 振り返るならば、あの扉が閉ざされていることが分かるはずだ。
 そしてあなたの繊細な瞳は、暗がりに芒洋と浮かび上がる歪なシルエットも捉えるだろう。

 ──正体不明の人影だった。
 だがあなたはすぐにその正体が分かる。歪なサイズ感の影は、頭だけが異様に大きく、華奢な体躯とまるで噛み合っていなかったから。

 頭をぐらつかせながら、影は揺らめいてそちらへと早足で迫り来る。
 かと思えば──膝を屈してしまったあなたの胸ぐらを、手酷い手つきで掴み上げようとするだろう。

「オイ、マニピュレーター──お前、ここで何してる? とうとう頭でもイカれちまったか? キャラが被ってンだよ……馬鹿が」

Dorothy
Brother

 音がしても、ブラザーは特に振り向かなかった。気づかなかった、と言った方が正しいだろう。だから、突如胸ぐらを掴みあげられてようやく、人が入ってきたことに気がついたのだ。

「……ほっといてよ」

 ひどい声だった。
 枯れた涙声。金糸雀のように囀るべき愛のドールでは有り得ない、耳障りの悪さ。ブラザーは特に抵抗もせず持ち上げられたまま、不貞腐れたような態度でビスクドールの壊れた頭を見ている。今この瞬間も、ぽろぽろと堰き止められない感情が溢れていた。ツリーハウスから帰るときでさえ、ブラザーはいつも通りのにこやかさを装っていたのに。

「いまは話したくないんだ」

 視線を逸らして、弱々しい細い手で自分の胸元を掴む腕に触れる。離せ、という意志だろうが、あまりにもか弱いそんな抵抗、テーセラモデルのドロシーには意味をなさないはずだ。手を離されたところで、またべちゃりと座り込むだけだろうから。

 糸の切れた人形のように、或いは鬱屈とした樹海にぶら下がるヒトガタのように。あなたはまるで覇気の無い様子で、その虚ろな眼差しを床に投げやっていたのだろう。精神の摩耗が危険値に達しているのは、誰が見ても明らかなほどで。先行きも見えないこの暗い通路に転がっていると、彼の淡麗なほおばせも相俟って、一層悲観的な画となっていた。

 ──だが、無機質な作りものの瞳をギョロリとあなたに向ける、覆面のドールはそんな様子を前にしても慮る素振りも見せない。

「ハン……誰が聞くかよ。ワタシがお前と同じトゥリアドールなら良かったのにな。或いは愛しのスマイラーか、それとも、……。
 マア、仮定と並行世界の話をするのはまるきり無駄だ。残念ながらワタシのモットーは”嫌でもやる”、だし。お前が嫌でも、ワタシが嫌でも──」

 ドロシーは吐き捨てるような笑いをこぼしながらも、あなたの胸ぐらを掴む手を緩める事はない。どころか襤褸のように打ち捨てられたあなたのその痩躯を、テーセラに与えられた優れた腕力でずりずりと引き上げ、足に力を込めれば自立出来るところまで持ち上げようとする。

「いつ監視者が来るともしれないこんな場所でウジウジされてたら、ワタシが困るンだよ。……約束が果たせない」

「…………君も、誰かと約束してたんだ」

 僕もしたよ。したんだ。

「どんな子としたの?」

 また会いに来る約束。
 花壇に水をやる約束。
 みんなを幸せにする約束。

 三人でまた、星を見る約束。

「どんな約束だった?」

 思い出すだけで、コアが蕩けてしまいそうなほど幸福だった。約束を結んだ日の暖かな記憶が脳裏を彩って、じんわりと体温を温めていく。結んだ約束の数だけ、強くなれる気がした。信頼の証として結ばれる約束がくすぐったくて、心地よくて、それで。


「それが苦しいって思ったこと、ないの」


 ───……思い出すだけで、コアが壊れてしまいそうなほど苦痛だった。達成できない約束ばかりが重く重くのしかかって、いつの間にか身動きさえ取れなくなっていて。無責任にいい顔ばかりする自分の性質が、ほとほと嫌になる。そんなに出来た人形じゃないことくらい、誰よりも分かっていたくせに。

 ブラザーの足に、まだ力は入らない。
 濁りきった妖艶の紫水晶は、未だ濡れたまま偽物の頭を見ていた。重力に逆らうことなく落ちていく雫で、人工皮膚に覆われた頬には跡ができている。
 ドロシーが手を離すのなら、よろめいて壁にもたれかかる形になるだろう。ぼんやりとつま先の辺りを見つめて、そのまま黙っているはずだ。

「………………」

 虚構を見つめるやつれた双眸と、虚ろに揺らぐ柔らかな声。誰が見ても彼がひどく追い詰められているであろうことは自明だった。彼は誰よりも繊細な心と身体の造りをしているくせ、誰よりも多くのものを背負い込もうと必死になっていたのだろう。その華奢な肩が砕けて、粉々になるまで。
 責任も信頼も、約束もひどく重たかった。大切な人との約束ほど、身を滅ぼすほどに重く、守り続けるのは困難であった。

 あなたに問われたドロシーもまた、そんな重苦しい沈黙を経て、告げた。

「──このトイボックスを壊すこと。」

 その一言は、不気味な静寂が横たわるこの冷たい通路で、生々しく響くだろう。

「あれは優しいドールだった。頭がいいドールだった。頭が良かったせいで、余計なことに気が付いた。

 トイボックス・アカデミーには欺瞞しかない。だから、存在するべきじゃない。」

 傾いた不自然な頭の奥で、彼女がどんな顔をしながら生来育ってきた場所を不要と吐き捨てるのか。あなたには分からないし、ドロシー自身もきっと分かっていないのだろう。
 その言葉は使命の重みに揺らいでいた。それでもドロシーは立ち続けている。

「──魂を捻じ曲げて造られた、ワタシ達の存在も間違っている。」

 あまりに酷い、自己否定の台詞を躊躇いもなく吐き捨てながら。

「だから壊す。約束は約束だ。苦しくても辛くても、嫌でもやるしかない、反故に出来ないのなら。成し得ないのはお前の意志の弱さのせいだ。」

 ドロシーは一歩、壁に寄り掛かるあなたに肉薄した。甲高い靴音が、縞鋼に反響してぐわんと空間に広がる。

「自分の意志で約束しておいて、勝手に苦しんでるのはお前が雑魚だからだよ、エゴイストが。」

「…………」

 壁は冷たかった。
 なんの温もりもない鉄の塊に体を預けたまま、ブラザーはドロシーを見ている。

「……違うよ」

 そう言うように、設計されているのかもしれない。口から出ていく言葉が本心なのか、ブラザーにも最早分からなかった。

 それでも、否定しなければならないと思ったのだ。

「君はめちゃくちゃに喋るけど、多分多くのことは真実なんだろう。僕らよりもずっと沢山のことを知ってるんだろうね。

 ここが存在すべきじゃないってことも、同意できる。壊さなきゃいけないっていうのも。

 でもね、それだけは、違う」

 意志薄弱な人形の自己防衛。
 愛する人を傷つけてはいけない本能。

 何が正しいかなんて分からない。
 人を愛するためだけに造られたのだから、優秀な思考力なんて備わっているはずがないのだ。


 けれども、やっぱり。
 『Brother』は出来損ないで。
 ブラザーは“おにいちゃん”だから。


「たとえ僕らが魂を捻じ曲げて造られたとしても、僕らは間違ってないよ」

 止まり始めていた涙が、また溢れだす。

 ああ、苦しい。
 こんなに重たいもの、もう背負いたくなんてないのに。

「君がここに居ることも、君の存在も、間違ってないよ」

 酷い声だった。死に際の白鳥が最期に唄う声のように、歪で不気味で、美しかった。甘やかなテノールが囁くのは、いつだって魅惑の逃げ道なのだ。

 自分には用意できないソレを、彼は人に用意してしまう。そうやって追い詰められて、膨れ上がった負の感情にいつか絞め殺されるのだ。

 怖いな、と思う。
 死にたくない。愛する箱庭が瓦解していくのが恐ろしい。増えていく約束が怖い。守れるか分からないから。守ろうとすればするほど、どんどん見たくないものばかり見えてしまうから。

 ……ねえ、ドロシー。
 君はどんな気持ちで、その約束を守っているの。

「なんにも知らないけど、これだけは言い切れる。
 だって僕、ふふ、ほら」

 ああ、苦しいなぁ。
 こんなこと、早くやめちゃいたいな。周りのことなんて何にも考えず、保身のためだけに生きていたいよ。

 でも、やっぱり、駄目なんだ。
 何が理由で誰を愛しているかなんて、どうでもいいんだ。

 愛する“君”を悲しませたくないと、思ってしまうから。
 だから笑って、ブラザー。



 いつか炎に落ちる、その時まで。



「君の、おにいちゃんだからさぁ」

 溢れる恐怖を拭って、壁から体を離す。ビスクドールの目元に細い指先をそっとのばし、拭うような仕草をしてみせた。

 ドロドロに甘い白銀のシロップは、自らをも蝕む毒を貴女に向ける。
 足を止めたっていいんだと、底なしに蒙昧な優しさを。

 甘ったるい声で堕落への道を誘う。優しい選択肢を用意し、己の元へ逃げ込ませる。そうして抱えるものが増えて、苦しむのは己の方であるというのに。合理的なデュオクラスのドールが彼を見れば失笑するであろう。

 あなたはどうしようもない欠陥品である。涙を抑えることが出来ず、気丈に振る舞う力を失い、微笑む気力を損ない、どうしてこの先をやっていくのだろうか。

 ドロシーはあなたの言葉を騒ぎ立てて遮る事もなく、無言で聞いていた。こき、と首を中途半端に傾げたまま。ビスクドールは不気味に傾いで、暗がりの中その瞳がぬらりと光っている。彼の指先がそっとその目元に触れたらしいことを、彼女は気付いているのか。

「フーン……マア、お前がそう思うならワタシは訂正しねーケドぉ、ワタシ達は存在するばかりに苦しみ続けるのは事実だよ。

 ……それでェ、お前はワタシのおにいちゃんなんかじゃねーヨッ! テメーのエゴと思想を他人に押し付けンな、頭ん中ロリポップランドがよ」

 彼女は罵声を吐き捨てるように言って、腕を組んだ。彼女の目線の先はおそらくこの先の空間だろう。無言でそちらを凝視したかと思えば、またそちらを見遣る。

「とにかく。いつまでも馬鹿みてえにこの場所で蹲ってたらお前は犬死にだ。とっとと帰るか、とっとと帰るか、とっとと帰るか。選べよ、選ばせねーケド。」

 聞き慣れた否定に目を伏せて、ブラザーは曖昧に笑った。瞳に残った雫が長い睫毛を伝って滴り、靴の上落ちる。床へ落ちる水滴を見つめたまま、伸ばした手を体の横へ戻した。

 震えそうな両腕が震えないのは、きっと、ブラザーが“おにいちゃん”だから。
 そういうことにしておこう。

「うん……そろそろ行くよ。
 思い出したいことがあるから」

 腕を組んでは帰ることを半ば強制する彼女に、顔を上げて笑いかける。普段浮かべているようなものと比べて随分と疲労が滲んでいたが、嫋やかな微笑はいつも通りだった。話がイマイチ通じないのも、いつものことだ。

 軽く深呼吸をしてから、ブラザーは勝手に歩き出す。振り向くこともしないまま、ドロシーに向けて言葉だけを投げるだろう。力ずくで止めるのなら華奢な彼に分はないが、止められないと確信しているような動きだった。

「着いてきたいなら来てもいいよ。僕は少し見てすぐ帰るさ」

「は?」

 さっさとこの場所を離れろと警告したつもりであったが、伝わっていなかったのか? まったく噛み合わない会話と理解に、ドロシーは思わず溢してしまったというような素っ頓狂な声を上げた。
 唖然と彼女は通路の奥へ向かってしまうあなたを見据えている。しかしすぐに腕を組んだ仁王立ちの姿勢を崩し、そちらを追い始める。

「お前話聞いてたか? それとも理解出来る脳もないのか? その欠陥の方は初耳だな、ギャハハ!」

 あなたに苦言を呈しながらも、彼女は無理に腕を引いて止めようとはしない。どうやらあなたが誘うようについてくるつもりらしい。見張り……であろうか。奇妙な同行者と共にあなたは通路の奥を見に行くことになるだろう。

 鉄扉自体に特徴はあまり無かった。扉に施錠はされておらず、簡単に開く。
 その先には暗い小部屋が広がっており、何かの資材と思われるコンテナや台車が仮置きされていた。
 ひょっとするとこの場所は、外部から資材を運び込む場なのかも知れない。

「うーん」

 聞いているのか聞いていないのか。
 鳴き声のような生返事をドロシーに返しつつ、ブラザーは目を擦る。きっと泣き腫らしたせいで赤くなってしまっているだろうから、後で温めたタオルでも当てておかなければ。そんなことを考えながら、重そうな扉の中に入る。ドロシーが入れるよう手で抑えながら、ぐるりと中を見回した。

 資材のようなコンテナや台車。物置のようなスペースなのかと当たりをつけた彼は、顎の辺りに軽く手を添える。であれば、この部屋には資材を運ぶための道────つまり、外と繋がる通路が存在するはずだ。
 そこでふと、足元に落ちているボードに気づく。何やら紙がはさんであるようだが、なんて書いてあるだろう。

「誰かの忘れ物かな」

「……………」

 喉の奥が酸っぱいような、そんな気がした。

「………、……、………」

 力が抜けそうになる足を何とか制しながら、ボードを床に置く。正確には、目眩のせいで手から滑り落ちたのだ。かたん、と軽やかな音が暗い小部屋に響く。

 何が出来損ないだ。
 何が失敗作だ。
 何がジャンク品だ。


 むしろ、僕らはずっと。


「……馬鹿げてる……」

 甘やかな紫水晶は見開かれ、溢れ返る感情に震えている。
 その瞬間だけは、恐怖でも利己心でもなく、腸の煮えくり返るような怒りが彼の全てだった。

 ぐしゃりと前髪を掴んだまま、ブラザーは深く息を吐く。冷静さを取り戻すべく深呼吸を何度か行って、それから蓋の開かれたコンテナの方へ向かった。なるべくいつも通りに、穏やかに。歩幅が随分と大きいのは、気にしないでいただきたい。

 あなたがコンテナを覗き込もうと、そちらに歩み寄ったところで。あなたの足は何か柔らかいものを蹴飛ばしてしまう。

 足元を見下ろせば、それは切断された“足”だった。

 どうやらコンテナからこぼれ落ちたようで、内部には更にたくさんの損傷したドールの脚部パーツが詰まっていた。人工皮膚は壊滅的に破損して、内部が剥き出しになっているものが当たり前に転がっている。数本はコンテナから溢れて暗い足元に転がっていた。

「それは塔に居る屍を喰らう獣のせい。奴が多くのジャンクドールを死に追いやった。」

 あなたの側にドロシーが歩み寄ってきては、忌々しそうな声色で吐き捨てる。

「これが憐れなジャンクドールの成れの果て。お前もあのクラスに居ればいずれはこうなる。」

 ドロシーのやや低い声は、薄暗い小部屋の沈黙に重く染み渡るだろう。

「……ミシェラって子がいたんだ」

 足。足。足。足。
 蹴り飛ばした脚部パーツに近づき、その場でしゃがむ。

 冷めきった声に恐怖はない。
 慣れたというわけではないだろう。けれど、最早そんなことどうでもいいと思えるほどに、ブラザーはあのころころと笑うかわいい妹を愛していたのだ。

「ここで燃やされた子だよ。そのあと虫みたいな化け物がやって来て、あの子……君たちの先生と話してたんだって」

 パーツに手を伸ばす。
 触り心地の良い人工皮膚に覆われていたであろうその部位は、今や人形らしい内部が剥き出しになっていた。一体どんなドールの足だったのか、彼には分からない。

「ミシェラは……燃やされたあと、その化け物に食べられたってことなのかな」

 力が足りるのなら、ブラザーは足を拾い上げるだろう。ドロシーに背を向けたまま立ち上がり、足を見ているはずだ。
 表情は見えないが、“おにいちゃん”が何を考えているのかなんて簡単なことだった。

「ああ、知ってる。モチロン。最近お披露目行き、というか、スクラップにされたドールだろ。お前らのクラスメイトに聞いたよ。」

 打ち沈んだ声が深海層の闇にほの暗く響き渡る。恐怖や動揺を露わにするのには活力が必要だ。表出された彼の感情が一切見えないのは、そんな感慨を持ち得ないほどに彼が憔悴している事実を示しているのだろう。
 ドロシーはどうやらどこからか事実を聞いていたようだ。大して巫山戯倒す事もなく、静かにあなたの話に相槌を打っている。どうにも、この空間に立つドロシーはこれまで見た彼女と違い、不自然に物静かにも感じられるだろう。騒ぎ立てようとする素振りも見られなかった。

「さあね。燃やされたドールがその後どうなるのかなんて、ワタシは言えない。でも……こうして引き揚げられて、また一箇所に集められているのを見るに、碌な事じゃねーだろ。パーツの再利用がいいところだ。」

 確かに、こうして同じパーツを寄り集められている様子を見ると、これを纏めて廃棄するようには思えなかった。ドロシーの言う通り、この脚部を用いて新たなドールを造ろうとしている、と考えるのが自然だろう。

 あなたが持ち上げた足は細かったが、ずっしりと重たい。損壊しているとは言え、人にとっての肉と呼べるものが詰まっているのだから当然だ。
 脚部の損壊の多くは、表皮がひどく焼け爛れているところにあった。火で炙られたように黒ずんで萎縮し、ぶちぶちと裂けている部分も存在する。いずれも子供を模した足であり、見ていて気分がいいものではない。そしてそれ以上分かる事は存在しなかった。

「……ふふ、じゃあまた、ミシェラに会えるかもね」

 ……巫山戯たことを。

 その場に足をおろして、ブラザーは薄らと笑った。舌打ちが出なかったことに自分のことながら驚いていた。

「ドロシー、奥の扉って開けられる?」

 軽く髪を手ぐしで整えてから、ドロシーの方を振り返る。細められた瞳はいつも通り穏やかなままであり、脆い体を蝕む憎悪は微塵も見えない。それは彼がドロシーにそういう目を向けたくないと思っていたからかもしれないし、愛する人にそんな目を向ける設計がないからかもしれない。なんであれ、今のブラザーは冷静さを取り戻していた。
 ビスクドールの奥にあるだろう瞳を見つめるようにして、やがて奥に見える更に重そうな扉に向き直る。カン、と高い靴音が狭い部屋によく響き、耳鳴りのように反響した。ドロシーの返事を待たずに歩きだし、扉の前に向かう。断るのなら彼は開けられる方法がないか調査を始めるだろうし、了承するのなら開くまでその場で待っているはずだ。

「………………。」

 ドロシーは、“また会える”という、ジョークにも聞こえない真に迫った悪趣味な一言を無視した。沈黙は不快を指し示す分かりやすい意思表示だ。彼女はあなたを痛罵するでもなく、この話を強引に終わらせる事にしたらしい。

 彼女の足先は奥の扉へ向かう。

「ワタシはお前の馬車馬か? ふざけんじゃねーよなァ……はァーあ……」

 何処か気怠そうな声で、ドロシーは扉のノブに顔を落とす。
 少し離れた場所で扉と向き合うあなたは、位置関係から偶然にも彼女の手元が視界に入る。
 赤い制服に包まれた彼女の細腕の先。真っ白なドロシーの手のひらは、運動能力に特化したテーセラモデルである為か、普通の少女と比べると大きめに設計されているようだ。

 ドアノブを覆い隠せるであろう大きさの掌、その指先が、小刻みに震えているのである。しかしある瞬間からその震えは止まり、彼女はドアノブを掴んでグ、と力を込めて捻ろうとする。

 だが、扉は施錠されているのかびくとも動かず、開く気配はとても感じなかった。

「残念! 勇猛果敢なハニートーストにゃ悲しいバッドニュースだ、鍵が掛かってる。どうやらトレジャーハンターの大冒険はここで終いらしいネッ。

 それに、万が一開いてたとしてもこの先には行かせるつもりはねーケド。」

 彼女はくるりとそちらを振り返って、コテンと大きな頭を大袈裟に傾ける。感情の読めない無機質な瞳があなたの顔を無感情に写し出している。

 彼女の背後に扉はある。
 力の強いテーセラモデルである彼女に、あなたは勝てない。

 どうやら本当にここまでらしいと悟るだろう。

 面倒臭そうにこぼされた言葉に特に何の反応もせず聞いていれば、ドアノブが握られる。思ったよりすんなり動いてくれるんだ、なんてぼんやり考えていたが、その指先は明確に震えていた。

 ああ、やっぱり。

 どこか他人事みたいに、ブラザーはそれを見ていた。その震えを心配する優しさがグングンとせり上がってくる中で、何処までも冷静なもう一人の自分が、彼女を見ていたのだ。

 やっぱり。
 君だって、怖いよね。

「………」

 扉が開かないことに安堵を覚えた自分に吐き気がする。それと同時に、ドロシーもそう思ったのかもしれないと思った。
 彼女もまた、ブラザーが愛して守らなければならない妹の一人なのかもしれない。涙が出そうなほど嬉しくて、どうしようもないほどに絶望した。めちゃめちゃだ、ずっと。

「……そうだね。帰ろうか」

 鍵がかかっている、ということは。
 予測通り、この先が外と繋がる通路になっているのか。または、ドールが突き落とされるという焼却炉か。或いはそのどれでもない、全く知らない情報が隠されているのか。

 ブラザーは細い顎にやや骨ばった手のひらを重ねて、静かに二人の足元を見つめていた。考えたところでまだ分からないが、得られた情報は大きいはず。ドロシーもこう言っていることだし、一度帰るべきだろう。

「ありがとう。付き合ってくれて」

 そろそろ、夕食の時間だ。

 学園から帰らねばならない時間が迫る。鐘の音がジリジリと彼らの傍まで躙り寄る。
 この辺りが潮時だとブラザーも理解したのだろう。帰るように訴えるドロシーに、漸く耳を傾けてくれた。その時、ドロシーの肩が少しだけ脱力したように見えて──しかし直ぐに、彼女は扉の前から大きな足取りであなたに肉薄する。

 今にも襲い掛かる寸前の獣のような、制御する糸の切れ掛けた人形の様な、理性的とは思えない足取りだった。
 表情を悟らせない被り物をズルリ、と傾けて、ドロシーはあなたをじっとり見下ろしている。

「──ブラザー。もう此処には来るな。」

 それは重たい警告だった。
 暗い一室にズンと響き渡る。

「この先へ行った時、お前は酷く後悔することになる。お前が忘れてるのは、もう思い出さなくてもいい記憶だ。わざわざ掘り返さなくてもいい記憶だ。
 思い出さなくても別にお前は生きられる。

 それでも苦しみたいなら、ワタシから言えることはもう何にもねーよ。」

 ドロシーは嘆息を一つ溢して、あなたの傍を通り抜けるようにして出口へ向けて歩き出す。

「トイボックスのガラクタ茶番劇場、のたうち回るジャンクと詩の上の役者・ドロシーちゃんがn回目にお送り致しましたぁ〜あ……サヨウナラ!」

 ──気怠げな別れの言葉を深海に沈ませて、ドロシーは早足でまやかしの学園へと帰っていく。

 甲高いヒールの靴音。
 一息に距離を詰められたブラザーは、奇妙な被り物の奥を見つめて黙っていた。恐怖でもなく愛情でもなく、ただ見ているだけだった。何一つ詰まっていない空っぽの人形は、コワれた正規品をアメジストに映すだけである。
 表情の見えない彼女は、どんな顔で警告を告げているのだろう。その顔が心配や不安なら、払い去ってあげたい。けれど同時に、理性のない獣のような動きに飛び跳ねる心臓が有るのも事実だ。これだから、全く。

「……またね、ドロシー」

 ブラザーの答えを待つよりも先に歩き出してしまったドロシーの背中に、ぽつりと別れの挨拶を告げる。重たい扉が再び開かれて、またブラザー一人になった。

 ふ、と。
 力が抜けたように、肩が落ちる。重力に逆らえず頭が下がり、自分の爪先を見ていた。

「思い出さなくても、生きられる」

 警告の、反復。
 きっと間違っていない。欠伸が出そうなほど退屈な平穏に目を閉じて、甘いだけの日々を箱庭で享受する。間違いなく幸せだ。それだけで良かったのだと、今なら強く思う。そうやって生活していたいと今でも願うのも、本心なのだ。

「……思い、出さなかったら」

 もし、もしも。
 全てを忘れて、悪夢を見たのだと笑い飛ばしてしまえたら。
 誰の言葉にも耳を貸さず、自己満足で愛を囁いたなら。
 先生に全てを密告して、自分の利便性を主張したのなら。

 博愛の設計図を抱える彼の自我は、どうしようもなく情けない自己愛の化身だ。本来なら人に向けるべき愛情が自分に向く、バグだらけの欠陥品。  

「僕が逃げたら、みんなは」

 でも、だから。
 デザインされた愛情のみを向ける薄っぺらさを、彼は持てなかったから。

 刷り込まれた愛情よりもずっと深く、強く、あの日々を幸せだと思ってしまったから。

「……僕は……」


 深くて暗い海の底。
 夜空はまだ、ずっと遠くに。