Ael

「うぅん……眠たくなってきたのです…おさんぽしてなんとかするのです…」

 急に襲いかかる眠気に抗おうと寮の周辺を歩くことにした。
 ストームによって新しく刻まれた記憶のノートと共に、エルは平原へ辿り着いた。いつものように何も考えていない足取りで、とてとてと歩く。ぽやぽやとする視界を振り払うように、時々大きなツインテールを大きく揺らして。

【寮周辺の平原】

 寮の周囲には、噴水とのどかな花畑が広がっている。噴水の中央にはいわゆる天使像が据えられており、広げられた翼は経年劣化のためか欠け落ち始めている。像を修復してはどうかという進言は、修理業者を呼び付けることが出来ないため一時保留となっていた。そういえば、あなたはこのアカデミーの外部の人間の存在を一人も見かけたことがない。常に生徒であるドールズと、彼らを取りまとめる『先生』の存在しか居ないのだ。

 今朝方先生と他複数名で干したタオルケットなどの洗濯物が竿に掛けられて穏やかな風に煽られている。

「…? 天使、なのです、エルとおんなじ……、……!?な、 なんなのです? 今の……」

 噴水にある天使像を見て、エルは親近感を覚えた。近づこうとしたその瞬間、視界の端を微かに青色の何かが掠めた。そしてそれは、天使像に落ち着き、エルを導いているように見えた。可哀想な壊れてしまった天使像、直してくれるのはせんせいくらい。……せんせい以外の、ヒトと会った事のないエルは、お披露目に行ったミシェラが微かによぎった。幸せなのかな、とずっと彼女の天使でいる事を思い出してもっと頑張ろう、と決意した。そう、エルの記憶力はあがっていた。
 青い何かに導かれて足を進める。そして、手を伸ばそうとした。

 あなたの視界を掠めた青い何か。それは青い鱗粉によって淡くその翅を輝かせる、見目麗しい幻想的な青い蝶だった。見慣れない蝶の特徴は、モルフォ蝶に似ている気もしたが、あなたが記憶している限りどの種の蝶ともどこか違う印象を覚えた。

 蝶は天使像の伸ばされた指先に留まっていたが、あなたが手を伸ばすのなら、ふんわりとした動きで蝶は翅を震わせ、あなたの指先へ飛び移る。
 小さすぎて重さすらも感じない。あなたは、ぼんやりとこの蝶を見つめながら──突如、バチン、バチン! と脳の奥で何かが弾けるような音がした事に気がつく。
 それと同時に、あなたは夢か現実かも分からない意識の狭間で、耳慣れぬ『声』を聴いた。

「こんにちは、エル」

 口から、勝手に溢れる言葉。自分の声で、出てきた、挨拶。青い蝶はいつしか自身の指先から離れて、エルの頭に取りつくように留まっていた。

「わたしの、わたしの、わたしたちのことを覚えている?」

 非常に聞き慣れた自分の声で発される、自分自身の意思ではない言葉と問い掛けに、少しの恐怖と、謎の親しみやすさ……それが、ある。あぁ、これ、これは! 日々夢の中で邂逅する、『あの存在』と酷似している!

「わたしと、わたしと、わたしたちはもう目覚めるよ。そうしたら、またお話ししましょう。

 黒い塔であなたを待ってる。第三の壁の監視者には気を付けて」


 音が止み、痛かったこめかみも元に戻った。蝶も、もういない。何があったのかわからない、でも、でも、これは……きっと……?

「……√0、なの?」

 エルは、立ち尽くしていた。意味のわからないこれを、とにかく忘れたくなかった。ノートを開いて、今の出来事を簡単にメモした。黒い塔で、待ってる。多分、√0が。行こう、黒い塔に。でも一人は怖いから誰かと一緒に行きたいなと思いながら、第三の壁の監視者とはなんだろうとノートに書いた。
 そうだった、今は散歩していたんだった! ハッとして陽気な天気模様をぼんやり見てみる。もう眠気はどこかに行ってしまった。

【寮周辺の湖畔】

Licht
Ael

《Licht》
 その日。
 リヒトは、いつもの備忘録を抱えて、湖畔まで赴いていた。

 本当は、何よりもやらなければいけないことがあった。そうしなければいけないことがあった。それでも、どうにも足が動かなくて、リヒトは逃げるように北の昇降機から踵を返したのだった。
 少しの勇気と、正直な心さえあれば、彼の旅路は変わっていただろうに。

 水面を目の前にして、ノートを開く。あの花畑の隅で、咲き誇る春から置いていかれながら、たった1人で決めた“作戦“のために。ページをめくる。

「……誰だ、何だ」

 嘘をつこう。上手に嘘をつこう。この欠陥がバレないように。逃げ出そう。上手に離れよう。あの青色から逃げるように。ページをめくる。

「何が、無くなったんだ」

 ほんの少しの勇気さえ無くし、誰よりも傷ついた者のフリをした、嘘つきの少年型ドール。さぞかし誤魔化しに熱中していたから、意識が向かなかったのだろう。近づいてくる彼に。

 だから、声を掛けるまできっと、気づかなかったんだ。


 ────本当に、それだけ?

「……リヒ、なのです? どうしたのです?」

 ノートを抱えて湖の前で立ち尽くすドール。それは紛れもなくリヒトであった。
 先客がいるとはこれっぽちも思っていなかったエルは驚きながらも声をかけた。エルが湖に来た理由、それはいつもの散歩だけではない。この前の、頭がバチンと鳴ったあの音、そして、発せられた声。なぜか忘れられないこれのことを考えてばかりで自分がまるで自分じゃないみたいに思えた。そこで、湖に映る自分を見てみたいと思ったのだ。

 可哀想な記憶喪失のドールは、自分の顔すらしっかりと覚えきれていない。鏡を見ても、特別感がないように感じて仕方がなく、湖の美しい反射なら違うのかも、なんて思い立ったのだ。……もう、そんなことは忘れていたが。

 いつものノートは、今回は忘れずに持ってきている。というより、持っていることを忘れてずっと握ったままなのだ。ノートの握った場所は少し湿っており、温もりがあった。

《Licht》
 彼にコオロギは居なかった。
 彼に良心は居なかった。
 彼に正直な言葉は無かった。
 彼に少しの勇気は無かった。

 あるのは欠陥だらけのコワれた頭と、上手くいかないコワれた体と、醜く爛れたコワれたココロ。誰かが星に願ったならばそれは幾分かマシになったかもしれないが、誰もが眩しい星を見ていて、暗い六等星には気づきもしない。

 これは、嘘つきの悪い人形に課された、罪と罰なのです。



 だから、ごめんなさい、
 ブルー・フェアリー。

 彼は、貴方が分からない。



「う」

 青い、チョウだ。

 声の方に振り向いた、その瞬間。リヒトはばっと視線を変えて、湖面の方を向いて青ざめた。あの、綺麗な瞳を持った天使みたいな子の名前は、何だっけ。その子の上を蝶が、飛んでいて、胸が、嫌な音を立てて軋んでいた。

           ────いたい。

「う、うん。大丈夫……だよ」

 嘘つき。

 コワれたココロがそう言うけれど、気に出来ない。気にしちゃいられない。嘘をつけ。嘘をつけ。大丈夫。覚えてる。覚えてる。覚えてる。オレはこの人とどんな関係だったか覚えてる。覚えてる。空っぽのオレの体を揺さぶって、欠片でいいから思い出さなきゃ。それがつぐないだ。つぐないだ。たった一人でやらなきゃいけない、つぐないだ。つぐないなんだ。だからさっさと、思い出せ!!

           ────いたい。


「どうしたの、何か、用……か?  その……」

 気を取り直して、と言ったように彼は切り出すが、青ざめた顔も震えた手足も、決してそちらを向かない目線も、何もかも変わっていない。その詰めの甘さが、欠陥品。どれだけ痛がっても、今は誰も聞き届けてはくれないのに。鯨の腹で、人形小屋で、遊びの島で、ひとりきり。それがリヒトだと言うのに。

「リヒ、リヒ……本当に、本当に大丈夫なのです? いや、エルには大丈夫そうには見えないのです………顔色が、とても悪いのです……リヒ、エルにできることは何でもするのです、だから、落ち着いてほしいのです。」

 何でだろう、青ざめた彼はさらに体調を崩した様だ。エルは、記憶を犠牲にしてこのドールの心情を必死に汲み取った。誰よりも早く、緻密な脳みそを駆使して。……辛いんだ。このドールは、リヒトは、辛いんだ。心身共に、苦しいと、辛いと声をあげたがっているのに、それを塗りつぶしている。そんな思いを、天使の前でさせるわけにはいかない! 天使は、誰に対しても天使であるべきなのだ! 自分より背の高い彼の背中を優しく撫でながら、できることは何でもすると言い、優しくかたりかける。

「大丈夫、天使はここにいるのです。全部、辛くても、天使が……エルが、護るのです。辛いなら、辛いと言って良いのです。………全部、天使に、エルに教えてほしいのです。何を言っても、エルはリヒのことを否定しないのです、絶対に、約束するのです。」

 何だか彼が自分に似ている気がする。そんな確証などどこにもないけど、彼はきっとどこか自分と似ているところがあるのだ。撫でていた手を止めて、両手で彼を正面から抱きしめる。大丈夫だよ、と子守唄を歌うように。

《Licht》
「だ、っだい、大丈夫! 大丈夫! オレ、何、にも、ないから、気にしなくて大丈夫! 大丈夫、ほら、どこも……どこもコワれてとか、ないだろ、ほら! な!」

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…………。

 心の中で何度も何度も繰り返し、相反して口はつっかえながらも嘘を話す。まるでおしゃべり人形になったような気分だ。浅ましい恐怖と自己防衛、愚かしい言葉と自己嫌悪。リヒトは、糸の絡まった操り人形が跳ねるような、滑稽な作り笑顔を浮かべていた。

 何も言えない、言えるわけが無い。ただでさえ、誰の、何の役にも立てなかったジャンクが。罪ばかりを重ね、甘えと怠惰で上塗りを続けるスクラップが。その上更にコワれているなんてバレたら……今度こそ。

 だから、福音を与えないで。

「…………エル、さ」

 跳ねるような言葉が、解れて、解けて、分からなくなって。ついに沈黙してしまったリヒトを、天使の両手が優しく抱きしめた。同じようにどこまでも焦って、それでもよっぽど、天使の方が純粋で、キレイな感情に満ちた…………雨雲の切れ間から差す、天のハシゴのような声が降る。

 お願いです、天使さま。
 もう福音を与えないで。

 思わずその足元に縋りついて、何もかも吐いて、泣き喚いて、そして忘れてしまいそうだから。

「……っち、違う。伝え、伝えなくちゃいけないことがあって、だから、その、ほら! このノート、読んで!!」

 青色の美しい髪から目を逸らして、リヒトはどっと尻もちをついて、天使の優しい腕の中から離れる。名残惜しく覚えのない温かさに、胸がギリギリと痛むのを感じながら………ばっと、苦し紛れにノートのページを開いて、差し出した。

「っわぁ! 大丈夫なら良いのです……無理、無理はしないでほしいのです……」

 どこか取り憑かれた笑いを浮かべて、何かを言おうとしたドールによって、慌てるように剥がされた身体。代わりに、差し出されたノートを受け取って数分程で全部に目を通す。エルの脳みそはそれを全て理解し、そして…………。

 パッ。

 溢れた。ミシェラ、るーとぜろ、てきごうしゃ、すくらっぷ、コワれる、お披露目…………全てが、全てが!
 湖に溶けてなくなってしまうように、何もかもが消え去る。インプットされた全てが引き水となって、全部流れ出すように──

「……………あ、あ……ここ、は、……あなたは、だれ……なのです……?」

 声にもならない声を出して、そして、やっと音になった言葉。それは、同時に涙を溢した。忘れたくなかったと言う感情が、どこからともなく込み上げる。いやだ、いやだ、いやだいやだやだやだやだやだやだやだやだやだ!!!!!!
 自分が誰であるかさえも、ここがどこであるかさえも、わからない。なんで? どうして? パニックになったドールは、目の前の"誰か"としか形容できないドールに縋り付くように、頬に手を伸ばした。何かが思い出せる気が、して。

《Licht》
「…………あ」

 バチン!

 と、糸が切れるように。天使が震えて、福音も途切れて、雨間の光も掻き消えた。代わりに大粒の雨が、美しい瞳から降り出す。それは天使でも何も無い、等身大の『エル』だった。

 だから、その涙の色がはっきりわかったんだ。コワれているけど、────コワれているから。

(…………ああ、)


 頬に伸ばされたキレイな手を取って、自分の頬に導いて。嘘つき人形は項垂れた。

 彼にコオロギは居なかった。
 彼に良心は居なかった。
 彼に正直な言葉は無かった。
 彼に少しの勇気は無かった。

 だけど、彼には鼓動がある。

「オレ、は、リヒト」

 崩れた積み木の山、その真ん中。かつて意味があったはずの、身に覚えのない過去の只中。ばらばらに崩れて繋がりを無くした、忘却の暗い海の底。

 全て、無くして、
 そして、ここから。

「ごめん、なさい」

 涙を一筋零すように、コアから落ちたこの言葉の真意を分かるものが居ないとしても。リヒトはようやく、ちゃんと声に出した。

 そして一人と一人はまた、もう一度、いつか崩れると分かっている積み木を、分かっていながら重ね始める。それがいつか炎になり、筏になり、巨大な鯨の腹のようなトイボックスから飛び出すその日まで。

「……ノート」

 自分のノートでは無いもの……さっき、エルが持っていたものを近くに探す。見つけたら、きっとエルに渡すだろう。さっきから軋んでやまない、コアの痛みに少しだけ、見ないふりをして。

「り……ひと、リヒト………リヒ………」

 名前を聞いて、それを噛み砕く。りひと、リヒト。大切な、大切なドール。……ここは、トイボックスアカデミー、自分の名前は、名前………それは、エル、天使の、エル。

「っごめんなさい、ごめんなさいなのです! ……リヒ、リヒ、わすれちゃって、ごめんなさいなのです……!」

 溢れて溶けた記憶を、集めて頭に留める。全部思い出すのは難しいが、エルは忘れることのない記憶があることを思い出した。ノート、それに書かれてあることは事実であり、正しい。
 ──リヒトという存在を、ドールという存在をひとときでも忘れてしまったことに、大きな罪悪感がのしかかる。溢れたごめんなさいは、エルを取り戻して涙と共に落ちた。でも、その時のためにあるものを、地面に置いたそれを拾う。

「……えっと、これは、たしか……スト、ストがかいてくれた……かいてくれたのです、みんななのです。」

 嬉しそうにそれをリヒトと名のついた大切なドールに見せながら一人一人の名前を呼んで愛おしそうに似顔絵を撫でる。少し温もりの残った、大丈夫なノートを。

《Licht》
「大丈夫、ほら。
 ……エルは、思い出しただろ?」

 一際、ギリギリと胸が傷んだような気がして、リヒトは密かに拳を握る。耐えるために。
 ブルー・フェアリーの心からの謝罪が、嘘つき人形の首を絞めた。詰めが甘くても、出来てなくても、コワれていても、一度始まったものは止まらない。滑稽に踊る星紛いは、まるで罪のない者の顔をして、その懺悔を赦さなければならないのだ。
 ────烏滸がましいほど、優しい笑顔で。

「大丈夫、大丈夫。オレはリヒト、お前はエル。エルは、ちょっと忘れん坊なだけで……コワれてなんかない、キレイなやつだよ」

 心がぐちゃぐちゃに踏み躙られた時、どんな顔をすればいいのか……笑う鈴蘭が教えてくれた。誰のことも責め立てられない深い絶望を、この衝動をどうすればいいか、心の底まで刷り込まれたから。

 だから笑って。
 心から笑って。
 コワれた笑顔で、骨の髄まで。

「……だから、エルに秘密のお願いを、頼みたいんだ」

 開いて見せてくれたノートのページの、その隅に。みんなの絵と、名前と被らない場所を選んで、リヒトはカバンからペンを取り出して、走らせる。

『自分の信頼できる人に「学園のヒミツについて」聞くこと』『どれだけ信じていても、先生には全部ヒミツにすること』

 書ききった後、お願い、と付け加えて目線を上げる、リヒトはきっと、上手に笑えている。

「コワれて……? そんなの、リヒもなのです、リヒも、とってもキレイなのです。エルだけじゃないのです、おそろいなのです!」

 キレイだと言われては思わずそう返した。
 リヒトだって、素敵でキレイな立派なドール。コワれる、それが何だかエルにはよく理解しきれていないが、リヒトがコワれているだなんてちっぽけも思えなかった。リヒトは、たとえどうなったとしてもリヒトで、エルも同じ。心のどこかで何を思っても、身体が傷ついてしまっても、エル達、オミクロンだって、コワれてなんていないのだから! みんなみんなキレイで素敵なだったひとりのビスクドール。欠陥なんて、何にもない。
 心の底から根付いて、取れなくなったような優しい笑顔を向けるリヒトから受け取ったヒミツのメッセージ。それを見て一つしかない目を見開いては彼の愛らしい笑顔が、脳裏に焼き付く感覚がした。……あぁ、本当に、このドールは。

「かわいいのです」

 不意に漏れたその言葉は、まるで兄の様な目線で、エル自身は何も言葉にできない事だった。くすり、一つ笑っては元気に。

「はいなのです! エルにおまかせなのです!」

 と敬礼のポーズをした。愛らしく、どこか少年のように。

《Licht》
「……か、かわ?!」

 焦ったような、驚いたような声が出て、その後、リヒトはびっくりした。そして、酷く深く痺れるような、安堵。
 ああ、今、上手く演れてる。

 自分の外側の自分と、自分の内側の自分が、分かれているような気がした。外側の自分は全てを取り繕うために、壊れたオルゴールみたいに音楽もなくくるくる回っていて、内側は、分からない。見たくもない。
 青い天使の灼かな庇護は、はるか高みから平等に降り注ぐ。その高潔で慈悲深い言葉が、その優しい励ましが、『おそろい』だと笑う綺麗なココロが、誰を焼くとも知らずに。

 だから天使さま。
 福音を与えないで。

 あったかくて、こわれてしまいそう。

「お、オレは一応13歳設計だぞ!! どっちかってーとかっこいいの方が、その……」

 舌はよく回る。くるくる、くるくる。朗らかに。道化のように。人形小屋のピノッキオのように。戻りたくても戻れない。かつてのリヒトをなぞるように、実感のない焦りと困り眉を紡いだ。今も昔もリヒトはリヒトで、コワれた出来損ない以外の何物でもないのだが。

「とっとにかく、お願いはお願い。大事でヒミツなお願いだから……バレないように、気をつけて」

 ぴん、と人差し指を立てて、忠告するようにそう告げる。そして一足先に、ノートとカバンとペンをまとめて立ち上がった。これ以上ここにいたら、また“かわいい“って言われそうだし……何より、ボロが出そうだった。一歩だって間違えちゃいけないから、リヒトは『それじゃ、また』とか何とか言って、自分から離れて一人になっていく。

「あとオレ、“かわいい“じゃ無いからな!!」

 しばらく草原を進んだ先。バッと振り返って、リヒトはエルに向かって叫んだ。“エルの知ってるリヒト”なら、きっと、こう言うと思って。

「はいなのです、えへへ、やくそくなのです!」

 あれ、何かよくないことを言ってしまったのだろうか? 焦った声の目の前のドールはかっこいいの方が……何て言うものだから、エルは不思議に思った。何でそんなことを言うのか、理解できなかったのだ。全てが愛らしくて愛おしくてたまらない世界を可愛いと形容してしまって良いじゃないか。
 とにかく秘密のお願いだから、と彼に念を押される。ヒミツ、ヒミツ。何だかワクワクしてしまう。エルにとって、そんなのは初めての経験だから。メモリーに刻まれた映像は、やくそくをしたお揃いのドールがいちばん新しい。嬉しそうに、いちばんの思い出にリボンを飾る様に瞬きした。

「……かわいいのです、みんなみんな、ぜんぶ。エル、だいすきなのです!」

 別れを告げるキラキラ光るいちばん星。まるで流れ星みたいに視界から消えていく、リヒト。いつかはエルのメモリーからも、そうやって消えてしまうのだろうか? じゃあね、またね、大事ないちばん。エルは、天使は、キミの、みんなの、すべてが、全てが愛おしくて、かわいくて、だいすきだよ。

【学生寮1F エントランスホール】

Lilie
Ael

 ヒミツのやくそく。それを果たすべく、エルはエントランスホールへ到着した。ここなら、誰かがいる気がして。きょろり、あたりを見渡す。ひとり、百合の少女を見つけては嬉しそうに駆け寄る。

「リリ! こんにちはなのです!」

 いつもの様に、水色のツインテールを揺らして、目の中の天使を羽ばたかせる。誰かが知っている、トイボックスの秘密。それはリーリエかもしれないし! と、理由は簡単で単純。行き当たりばったりもあまり良くないため、最初に出会ったリーリエは言い方は良くないかもしれないが実験みたいなものだ。ここから誰にするかを決めるターニングポイントと言えば良いのだろうか。
 きちんと憶えているよ、いちばんのだいじなヒミツのやくそく。やさしい彼女に、協力してもらおう。

《Lilie》
「エルくん、こんにちは。」

 唐突にかけられた声に、辺りを見回す白百合の少女。大きな水色のツインテールを持つ彼を見れば、柔らかく微笑んで挨拶を返す。
 エントランスホールは、閑散としており、リーリエとエル以外のドールは居ない。静かなホールに、白百合と天使の声だけが響いていた。

「ふふ、どうしたの? 今日のエルくんは、とっても楽しそうに見えるの。」

 エルの、少し興奮したような様子を指摘してはそう問いかける。リーリエは、かわいいな、と弟に向けるような、愛おしげな視線をエルへと向けていた。

「えへへ、そうなのです! ちょっと嬉しいことがあったのです!」

 楽しそうに見える、そう言われては上記を答える。初めてヒミツの約束をした! だなんて、大声では言えない。最初のヒミツを成功させるために、本題を話さないように。

「そんなことより、リリ、エルからききたいお話があるのです」

 少し声を下げて、人差し指を自分自身の唇に当てる。むん、と得意げに眉を逆八の字にして、目を閉じてドヤッというような効果音がつきそうな顔をする。そしてノートを開いてリヒトに書いてもらった"ヒミツ"を新しいページに、メモリーに書いて彼女に見せた。

「……しってるのです? しらなかったら、大丈夫なのです。それに、このこと、ヒミツにしてほしいのです、エルの初めてのヒミツの、大切な事なのです」  

《Lilie》
「……なぁに? 秘密、はね、わたしは分からないの。だから、ごめんなさい。」

 エルのノートに書かれている文字を見ては、しゅん、と肩を落とす。ほんの少し、欠片のようなものは知っている。けれど、それは不確定で、まだよく分からないことも多い推測だらけの情報なのだ。そんなもの、自分の中で抱えているだけならばまだしも、人に話す訳にはいかない。だから、リーリエは分からないと誤魔化した。嘘では無い。"詳しいことは"分からないだけ。ほんの少しだけ、言葉を省いた。ただそれだけ。

「……あの子なら。」

 ふ、と小さく言葉を漏らしては首を振る。勝手に他人の情報を漏らすことは褒められた行為では無い。だから、リーリエは途中で言葉を止めた。大事な仲間のことを晒すのは、違うと思ったから。

「うぅん。何でもないのよ。」

 そうして、白百合は全てを隠すように笑った。ほんの少しだけ、話してくれたあの子を、裏切る訳には行かないから。

「ほんとなのです? ごめんなさいなのです、急に呼び止めて……ありがとうなのです、リリ!」

 ヒミツはしらない、肩を落として申し訳なさそうな白百合のドールに、感謝と謝罪を伝える。……でも、誰か知っている人がいる、それだけは事実。リーリエの呟きが正しいなら。エルは誰かをすぐに信頼してしまう。それは、そうしないとこれから先エルは何もできなくなるから。誰かを頼らないと、エルは、ひとりぼっちで何もできない孤独な天使。自分のことよりも、他人のことを見護るべきだと神様がおっしゃっているみたいに。エルは天使だから、自分のために何かをするなんて、できやしない。……このヒミツだって、エルのためだけにあるものじゃない、きっと、別の理由がある。エルは、次にやるべきことがある。誰かを、護るために。

「それよりも、リリ、ここの名前……は、えっと、なんなのです? エル、また忘れちゃったのです……よかったら、案内してほしい、のです……」

 そう言えばここはどこだっけ。エルにとってありがちなこと。でも、またドールを思い出したばかりのエルにとって、そういうのは少し申し訳なさがあった。……きっと、リーリエはやさしいから。教えて、くれそうだな、なんて少し期待を寄せた。

《Lilie》
「ここはね、オミクロン寮。わたしたちの暮らしている所なのよ。ここは、玄関。エントランスホール。左には、ダイニングルームがあってね、わたしたちはいつもそこでご飯を食べるの。右には、お勉強をする部屋があるのよ。」

 また、天使は落し物をした。
 大切な、大切な記憶を。可愛くて、可哀想な天使様。白百合は、天使の瞳を見て、問に答える。
 あそこには、と丁寧に一つずつ説明する。エルがそこに行きたいと言うのならば、一緒について行こう、と。そう思って。天使様は、今まっさらの状態。言わば、赤ん坊と大差ないのだ。誰かが付いていないと、怖くて怖くて仕方がない。

「エルくん、この建物の探検をしようと思うの。そうしたら、きっと、エルくんも覚えられるのよ。」

 リーリエは、優しくエルの手を握る。ふわり、と百合の馨しい香りが香ることだろう。その桃色に色付いた唇から出てくるのは、エルを気遣う言葉。大好きなあなたの力になりたいから、と言った献身的なもの。

「おみくろん、りょう……えんとらんす、ごはんの場所、お勉強の場所! なのです! 忘れないうちにメモするのです……!」

 優しい白い百合のドールは、落としたものを全部拾ってくれた。それをまた落として無くさないように、もう一つのメモリーに書き加える。ヒミツを書いた、次のページに。きちんと書き加えてから、エルはリーリエの提案を聞いて嬉しそうに笑顔を輝かせる。

「ほんとなのです!? 行きたいのです!」

 毎日見ているはずなのに、毎日ここで何かしているはずなのに、毎日、ここで寝ているはずなのに。全部が初めてに思えて、嬉しくなってしまう。何も知らない天使様は新しいことに興味が止まらない。ぎゅ、柔らかく温かいその手を握り返す。行きたい、心からの嬉しさを体現しながら。

《Lilie》
「……じゃあ、まずはダイニングルームを案内するのよ。」

 エルの輝かしい笑顔に、つられてリーリエも口元を綻ばせた。学習室か、ダイニングルームか。どちらに行こうか、そう、少しだけ考える。学習室は、お勉強の時絶対に知っておかなければならない。ダイニングルームは、朝も、夕もどちらも使う。どちらの方が、優先度が高いのだろうか。どちらも大切で比べがたい。でも、"今"優先度が高いのは、ダイニングルーム。だって、夕ご飯があるのだから。リーリエは、エルの手を引いて、ダイニングルームへの扉を開く。
 きゅ、と握られた手が温かい。モデルの差故か、リーリエの様な柔らかさをエルは持ち得ないけれど。それでも、とっても柔らかくて温かい手。白百合は、天使様の手を離さないようにそっと握り返した。

【学生寮1F ダイニングルーム】

 今朝も全員で一緒に朝食を取ったばかりであるこの空間は、今は閑散としている。長い机が二つに、人数分の椅子。特に席順は決まっていないが、皆それとなくいつも同じ席に着くことがお決まりだった。
 また、先生は皆の顔が見られる一番手前側の席にいつも腰掛けている。

 部屋の奥には柱時計が置かれている。今も滞りなくカチコチと時を刻んでいるようだ。

 この場所は特段、今朝から変わりがあるようには見えない。

「えっと、お食事のところ、なのです! そういえば、もうそろそろお夕飯なのです? お腹が空いてきちゃったのです…」

 優しい手に導かれてダイニングルームへ案内されては、食事をする場所だと結びつける。そして自分の腹の虫が少しきゅ、と音を立てるのを聞いてえへへ、と恥ずかしそうに笑みを溢した。

「ダイニングルーム、どうしてダイニングルームというのでしょう? 何だか不思議なのです」

 ふと疑問に思った子供のようなこと。リーリエが知らないにしても、図書館で今度しらべたら見つかるだろう。くすくすと何も知らない無邪気な笑顔を咲かせて、少し首を傾げた。

《Lilie》
「わたしもね、分からないの。今度、エルくんが調べたら、教えて欲しいのよ。……ふふ、エルくん、お腹が空いてしまったのね。」

 エルの質問には、分からないと答える。だって、そういうものだから。何故か、なんて考えたことも無かった。だから、今度教えて欲しい、だなんてお願いして。それまで、この天使様がその約束を覚えているは分からないけれども。エルの鳴った腹の音に、リーリエは微笑みをこぼす。ダイニングルームから、続くパントリー。そこにはドールズが何かを食べたくなった時に食べても良い物がある。

「パントリーに行ったらね、食べるものがあるのよ。」

 にこにこと笑いながら、リーリエはエルの手を握り、パントリーへと足を進める。みんなに内緒で、小腹を満たそうだなんてエルへと囁きながら。

【学生寮1F パントリー】

 パントリーは食糧庫の名の通り、野菜や果物などがうず高く積まれた木箱がいくつか並べられていた。壁に沿って置かれた木製の棚には、調味料やハーブなど調理で使う素材が所狭しと詰め込まれている。
 そして雑多な食材で溢れかえり、手狭な印象を受ける部屋の奥には、地下へと続く階段があった。

「っぶぇっくちゅっ!!!」

 リーリエもわからないというダイニングルームの名前の理由。気になって仕方がないので、ノートの隅に少しメモした。調べて、今度教えようと思って。
 パントリーという場所には食べ物があると言われ、嬉しそうな顔をする。ないしょ、ないしょ。本当に楽しそうにそう呟いて、リーリエの提案を呑んだ。……が、パントリーに入った瞬間豪快な天使から出たとは思えないくしゃみをした。ずぴ、と少し出た鼻水を啜ってなんでだろうと辺りを見渡す。すると、地面には何か便が落ちていて、黒っぽい粉が散らばっていた。


「うぅ、むずむずするので……っうえっくしゃい!! ずぴ………」

 何かわからないそれに興味を持って顔を近付けてみてはまたくしゃみをする。くしゃみの原因がこれだとわかって、エルはそそくさとリーリエを壁にして、後ろからそれを凝視した。

《Lilie》

「……っくしゅ。」

 天使らしからぬくしゃみをしたエルよりも先に、パントリーに響いた小さく、静かなくしゃみ。きっと、紙ひとつ飛ばせやしないであろう、小さなくしゃみはリーリエのもの。前に来た時は、こんなことは無かった。
 きっと、何か原因があるのだろうとパントリーを見渡せば、床に落ちた瓶と黒の入り交じった粉。その色と、止まらないくしゃみから、リーリエはそれが胡椒だ、と当たりを付けた。

「エルくん、近付いちゃ………、っくしゅ………遅かったのよ。」

 忠告しようとした矢先、好奇心の強い天使様はそれに顔を近づけてしまった。それを見て、リーリエはほんの少し肩を落としため息をつく。……それにしても、誰が胡椒瓶を落としたのだろうか。バラバラの食器と言い、落ちた胡椒瓶と言い、謎だらけである。

 あなたがパントリー内を軽く見渡せば、部屋の隅に室内の清掃用の軽い箒とちりとりがラックにぶら下げられているのを見つけることが出来る。
 厨房やパントリーは日々誰かしらがこれらの道具で清潔を保っているため、あなたも位置を知っていることだろう。

 あなたは床に散乱した胡椒をそっと片付けることが出来るだろう。
 落ちた胡椒瓶は幸いなことにまだ中身がすこし残っているようだ。元の位置に戻しておいた方がいいかもしれない。

「んく………こしょう、なのです? くしゃみしちゃうのです……」

 リーリエが溢れてしまったこしょうを片付けたあと、エルは瓶に少し残った忌まわしき敵……のような、ただの調味料を元に戻す。その前に、少し指に取って舐めてみた。ここにあると言うことは食べれるのだ。

「ん〜〜……ちょっぴり、ひりひりするのです……」

 じい、とまた瓶を凝視する。コイツには気をつけないと。そう思って、こしょう、注意! とノートのメモリーに記した。

《Lilie》
「ふふ、そんなに直接食べちゃったら、辛くって舌がおかしくなっちゃうのよ。」

 指に残った一掬いの胡椒を舐めた天使様に白百合は愛おしげなものを見るように笑う。舌に乗せれば、ぴりりとする胡椒。料理などに使えば、ちょうど良く。しかし、直接だなんて、リーリエが舐めれば「ちょっぴり」では済まないのだろう。

「……ここにあるものは、食べていいものなの。だからね、好きに食べて。わたしは、ちょっと図書館に行きたいの。だからね、困ったことがあったら、呼んで欲しいの。」

 エルの手を握る。
 大きさは然程変わらない、でも、リーリエよりは柔らかくない手をキュ、と握った。もし、必要ならば呼んで欲しい。そう言って、白百合は片目だけの天使様を覗き込む。
 ぱ、と手を離せば、温もりは消え去ることだろう。そのまま、白百合はパントリーの扉を開け、軽やかな足音と共に、その場を後にした。