Rosetta

 学生寮前の花畑は、今日も美しい。
 色とりどりの花が咲く様は、名画を思わせる雰囲気を持つ。めいめい勝手に咲いているようでいて、それらは適切な管理を受けて、管理者の望むように咲いていた。
 まるでドールたちのように。

 「できた」

 白い指が花を手折る。
 根は残したまま、躊躇なくむしり取られる花は悲鳴のひとつも上げない。
 聞こえたとしても、ロゼットは気に留めなかっただろう。彼女は他者の痛みを想像できない。
 だから、アストレアのお披露目が皆に伝わった日でも、こうして花冠を作ろうとしていた。
 手に取ったのは、赤色に青色、黄色に白。そして──柔らかな紫。

 「フェリシア、こんにちは。どうしたの?」

 花と同じ色の髪が、目に入る。
 顔を上げると、友達が近くにいるのが分かった。
 無遠慮に近付いて、ロゼットは相手に声をかける。作りかけの冠を持ったまま、薄い笑みを浮かべて。

【寮周辺の平原】

Felicia
Rosetta

《Felicia》
 ぼんやりと窓を見つめて、本日数回目のため息。
 色とりどりの花はまるで何も知らなかった頃の私たちのように伸びやかに、美しく、咲いていた。その手に持った鞄には自身が見たことをそのまま記されたノートと、ミシェラちゃんのリボン、それから以前ヘンゼルくんに手渡されたレコード盤が入っていた。

「─── はぁ。」

 本日……何回目かのため息。感情の起伏が大きすぎて数えていない。
 しかし大きな呼吸を零す度に自身の生気が抜けていることだけはしっかりと感じとれていた。
 それでもいい……なんて思えたらどんなに良かったか。既に抜け落ちかけていた希望を取り戻そうと軽く頭を振った。あの日、知った情報を再度ノートに書き留めると、寮外へ出た。

 少し歩いて、

 立ち止まろうとして、

 歩いて。

 ぼうっとなりながら、

 歩いて。

 近づいてくる友だちの存在にすら、気づかずに。


 だから、いきなり声を掛けられて驚きのあまり「ぴゃっ!?」と声を出してしまった。しかし目の前の銀色に煌めく瞳を目の前にしたペリドットは、無理やりにでも笑顔を作るのだった。

「ロゼちゃんこんにちは。過ごしやすくていい天気だね!」

 ロゼットは、ゆっくりと瞬きをする。
 取り繕う彼女を尊重するか、少しだけ迷って、結局いつも通り接することを選んだらしい。
 社交辞令には応じないまま、小首を傾げた。

 「どうしたの? 元気、少ないね」

 ヒーローはいつも明るく、どんな時も正しく振る舞おうとする。
 今だって、分かりやすく気に掛かることがあるはずだ。あんなに思い詰めた様子のフェリシアを、ロゼットは見た覚えがない。

 「アストレアのお披露目が気になるの?」

 原因は何か、と言われれば。想像できるのはこれぐらいしかないだろう。
 相手がお披露目の真実を知っていることを、ロゼットは知っている。
 ミシェラがどうなったか知っていることも、もちろん知っている。

 「とりあえず、座りなよ。花冠を作ってるところだったんだ。花でも見ながら話そう」

 先生に聞かれたら困るだろうし──なんて呟きは、相手に聞こえただろうか。
 あくまで普段通りに振る舞いながら、ロゼットは座り込む。相手が立ち続けていたとしても、そう気にはしないだろう。

《Felicia》
 精一杯の社交辞令に応じてくれないロゼちゃん。彼女のそんな対応に、嫌でも今の自分の精神が限界値に達しかかっているのだと自覚してしまう。アストレアちゃんのことがあるというのに、だ。自己嫌悪という悪魔めいたそれが脳を少しずつ侵食していくたび、自分のやるせなさに落胆するたび、フェリシアは自身の手でそのコアに秘めた希望を少しずつ削っていたのだった。

「……えへへ、バレちゃった。ロゼちゃんには隠せないかなぁ、なんて」

 欠陥のあるエーナドール。ミシェラちゃんのヒーローになれなかった小さな少女。元気がないのは当たり前と言われれば当たり前だった。喜ぶべきだったお披露目会の実情を、知っているから。
 ロゼちゃんは、知っているのかな。

 ──もし知っていたら、私の置かれている状況も、彼女なら、ロゼちゃんなら理解できる……?

「お花綺麗だよね、さっき窓から見てたんだ。花冠、素敵。」

 先生に聞かれたら困る……そんな彼女の独り言は聞かなかったフリをして。
 なるほど。ロゼちゃんは"分かって"るんだ。それなら……。
 無理に明るくする必要は無い、と声を落としてそう答えた。
 その様子を見れば、フェリシアが何となく状況を察したのだと理解できるだろう。お披露目会の事実を話す必要はないのだと。

「……お花のいい匂い。」

 ロゼちゃんに続いて座り込む。
 美しく育てられた花達が、そよ風に吹かれてさらりと軽く音を立てた。風が運んだその香りにそんな言葉を口にした。

 「辛そうにしていたら、分かるよ。友達だもの」

 花の一本を手折り、冠に加えた。
 花に目が向いているけれど、フェリシアをぞんざいに扱いたいわけではない。
 相手がどんな表情をしていても、きっとロゼットには見えないだけで。

 「私もここが好き。花がたくさん咲いているし、考え事をするのにちょうどいいから」

 ぴったりと、友達の身体に密着する。
 身を寄せる様は猫のようだが、それでいて伝わってくるのはガラスの体温だ。

 「私、あの子がお披露目に行くのを知っていたよ。誰かが柵を越えている時、私たちも柵を越えていたの。一緒にいた子が、先生の話しているのを聞いたって」

 助けられなかった、という悔しさも。
 秘密を明かす時の、独特の高揚も。
 今のロゼットには、いずれも見られない。天気の話をするように、彼女は淡々と事実を告げた。

《Felicia》
 優しい彼女がこちらを見ないことを自信なさげに俯くペリドットは有難く思っていた。不安そうな顔は、大好きなロゼちゃんに見せたくない。彼女がこちらを向いたらきっと私は笑顔を作るから。きっとフェリシアのそれを分かってのことなのだろう。その代わりに、ぴたりと寄せられた肌。もちろん離れたりなんかしなかった。伝わる温もりがじんわりと心を溶かしていくような気がしたから。静かに過ぎていく時間が、ロゼちゃんの落ち着いた声が、ザワつく心を段々と鎮めてくれたから。

「…………そっか、……うん。そうなの」

 さらっと告げられた柵超えの話。
 内心驚いてはいるのだが、不思議とロゼちゃんと話しているときはまるで凪いだ海に浮かんでるみたいな、ひたすら安心に安心を重ねたような感覚に陥っていた。ほぅっと息をついても許されような。

「アストレアちゃんのお披露目を絶対に止めないとね」

 ひとつ、ひとりごとのように言った。その言葉は空を切って真っ青な箱庭の上まで伸びていくようだった。

 フェリシアの声は、普段よりも少しだけ弱々しい。
 その様子は、踏み躙られた花が立ち直ろうとする様を思い起こさせる。
 強い衝撃を受けて、気力も枯れそうになりながら、それでもまだ生きようとしているのだ。
 ロゼットは、そんなフェリシアのことを美しく思う。
 ──そのまま負けてしまうようなドールは好ましくない、とも。

 「そうだね。できるなら逃してあげたいけど……そうだね。フェリシアは、森の果てがどうなってるか知ってる?」

 ちらり。
 ようやく銀の眼が、エーナドールを見つめる。

《Felicia》
 フェリシアもまた、ロゼちゃんと目線を合わせる。会話の流れが、変わる。森の果て、先生の話によると壁に囲われているのだとか。しかしロゼちゃんが伝えたいのは、私たちが柵超えをしたときに見てない何かなのだろう。私が知りえない、何か。

「柵超えしたって言うのは知られてるから話すんだけど……森の果てには壁があるんだっけ。それから、この空も、自然もぜんぶ紛いもので、それから……その壁の外には海があるんだっけ。」

 それが自身が柵超えをして知り得たこと。いや、実際に見ていないため先生の“講義”の話だ。
 あの時のソフィアちゃんとリヒトくんの表情……おそらく間違ってはいないのだろう。
 目に付いたラピスラズリ色の花弁に触れた。それは、とても、柔らかかった。

 赤い花を一輪、冠へ挿し入れる。
 花冠はこれで完成である。緑とその他様々な色で形作られたそれは、被る者を可愛らしく演出するだろう。
 そして、ロゼットはそれをフェリシアに被せようとした。
 正確には、冠を被せるような動きで囁きかけた──と言うべきなのだが。

 「そう。そして、森の中にはツリーハウスがあるの。シャーロットと呼ばれるドールの上半身と、過去にそこを使っていたドールの手記があってね……そこならアストレアさんを隠せるかもしれないよ」

 決して成功率の話もしないし、そもそも“お披露目”から逃げ切れるのか、という本質的な話もしない。
 ロゼットはそういうドールだ。トゥリアドールなのだから、そういう風に作られている。
 花冠の茎に引っかかった紫の髪だとか、位置のズレた冠だとか。そういうものを直すふりをしながら、甘い言葉を口にする。

 「詳しいことを知りたいなら、テーセラのドロシーかジャックに会うといいよ。“√0”という言葉のことも、気にかけてみてね」

 完璧なバランスで、花冠がフェリシアの頭に乗った。
 表情こそ変わらないものの、心なしか満足げに、ロゼットは頷いている。

 「うん、やっぱりよく似合うね。それはあげるよ」

 “お披露目”のことも、紛い物の箱庭のことも、まるで嘘であるかのように。

《Felicia》
「……くれるの? へへっ、可愛くてお花のいい香りがする。」

 しょんぼり、下げかかった眉は上に上がって。頬の花もふにゃりと形を変えた。それはやっと素直に笑顔を作れたという合図だった。沈んでいたフェリシアの笑顔を作ったのは、癒したのは紛れもなく銀の目を持った彼女だ。はにかみながら花冠をそっと指で触った。しかしその耳はロゼちゃんの伝言をひとつもこぼさないように動いていた。その脳は、言葉ひとつひとつを物語として記憶するように動いていた。

 森林、ツリーハウス、中には破損したシャーロットというドール、そして、手記。

 そこは、アストレアちゃんを隠すことが出来るかもしれない場所。

 テーセラ、ドロシー、ジャック、
 そして√0。

 何かしら情報を掴めるかもしれない手がかり。

 ──嗚呼、柵超えの後最初に話したのが彼女でよかった。

 ロゼちゃんの変わらない表情に安堵すら覚える。信頼出来る相手がいるということ、なんと心強いだろうか。私はまだ、暗い場所でも明るく笑っていられる。

「ロゼちゃんは花冠作りの天才だね!」

 いつしかフェリシアは、笑いながらそんなことを言えるまで回復していた。衝撃により硬直していた心が柔らかく、事実を事実と素直に受け止められるようになったからだろう。笑いながらも、記憶は着々と整理されつつあった。一回で記憶は出来ないが、エーナであるフェリシアも、少し頑張ればその程度の"お話"なら頭に停めておくことができる。

 笑ってくれてよかった。
 ロゼットはそう言おうとして、結局何も言わなかった。
 気を遣わせてしまっては、きっとお互い微妙な気分のまま別れてしまう。
 だから代わりに、暖かな笑みを浮かべたフェリシアに優しい抱擁でもって返すことにした。

 「ありがとう、フェリシア。今度はあなたも見たことのない花で作ってあげる」

 拒絶されたなら、もちろん彼女は何もしない。悲しみもしないし、怒るなんてもっての他だ。
 だが。もしも抱き締めることを許されたなら、細い腕が少女ドールの背中に回されることだろう。
 ぬいぐるみでも抱くような、やさしく、少し窮屈なハグが、フェリシアの身体を包み込む。

 「最後に……どうか、“ヒト”には気を付けてね。あなたたちが知るモノ以外にも、私の腹を食い破った巨人がどこかにいるから。それについての話を聞いたら、教えてね」

 恐ろしい物語を、最後にひとつ。
 吟ずるように耳元へ流し込んで、ロゼットは身体を離す。

 「またね、フェリシア」

 そんな言葉を残して、彼女は寮へと戻ろうとするだろう。
 引き止められれば留まるだろうが、あまり長居はしたがらないはずだ。だって、どこで誰が見ているのか分からないのだから。

【学園2F 備品室】

Amelia
Rosetta

《Amelia》
「さて……調べなければ行けない事がまた増えましたね。」

 ドロシーとの対話の後、アメリアはまたこの学園を調べる為に歩き出す。
 向かった先は備品室。
 訪れた事のない場所だ。

「ここにカメラがあれば良いのですが……」

 この場所は主に講義室での授業に用いる雑多な教材備品を保管して置くスペースだ。黒板に図形を描く為の巨大な定規や、人体の構造を学ぶ為常設された人体模型、スチールラックには所狭しとチョークの替えや過去の教材を束ねて置いたものなどがまとめて置かれている。

 清掃は欠かしていないのか、多少手狭でも埃っぽくはなく、清潔な倉庫であると分かる。

 現在はあなたの目に留まるものはなさそうだ。

 「何をしているの?」

 入り口から、呼び声が聞こえる。
 部屋と外の間、境のふちに、ロゼットが立っていた。

 「入っていくところが見えたから、来ちゃった。悪巧みなら手伝うよ」

 表情は相変わらず、描かれたような微笑みだ。
 何が目的なのか、それとも何も考えていないのか。本人にだって分かりやしない。
 美しくなるよう作られたそれは、アメリアへと歩みを進める。
 特に拒絶されなければ、手が届くほどの距離で立ち止まることだろう。そうして、相手が何かしらのアクションを起こすのを期待するのだ。

《Amelia》
「おや、ロゼット様。
 悪だくみとは……中々に不良でございますね。」

 入口から聞こえた声に扉を閉め忘れていた……と自省しながら振り返る。
 そこに居たのは花とガラスのトゥリアドールだった。

「ですが……そうですね、一つ聞いておきましょうか。
 ロゼット様はアストレア様がお披露目に選ばれたことについてどう思っていらっしゃいますか?」

 悪だくみなら手伝うよ。
 という貼り付けたような笑みに、彼女は普段の友人に対する物としては少しおかしい慎重な問いかけを行なう。

 不良、という言葉に小首を傾げる。
 確かにオミクロンクラスには在籍しているが、初期不良以外に破損した記憶はないのだが。

 「そうだね……嬉しいことだと思うよ。ドールの本懐はヒトに仕えることなんだから、それを果たせる機会は捨てちゃいけないと思うけど」

 でも、あなたが聞きたいのはこれじゃないでしょう?
 青い瞳に、うっそりとした表情が映る。
 見透かしたわけではない。彼女が知らなかったとしても、元々教えるつもりだった。
 ロゼットはあなたが思うほど、優しいドールではないのだ。

 「特に何も……っていうのが、正直なところかな。今のところ、お披露目は天災みたいなものだから。私がやり過ごすことはできても、被害を受ける子のことはどうしても助けられないでしょう? だから、そんなに思うところはないよ」

 一歩、前に出る。
 淑やかなデュオドールを、上から彼女は見下ろした。

 「アメリアは、どうかな。あなたにとって、お披露目はどんなもの?」

《Amelia》
「天災、ですか。
 確かに災いというには十分かも知れません。
 ですが……アメリアは雨に濡れるなら屋根を建て、柔らかなタオルで体を拭きたいと、そう思います。
 ですから……ええ、確かな脅威であると、アメリアはそう考えます」

 何だかいつもよりも圧力を感じるロゼットの様子に少し戸惑いながらも真摯に答える。
 肌が触れてしまいそうな近さで、けれど同時に距離を取ろうとしては行けないという確信にも似た予感から踏みとどまった彼女は言葉を続けた。

「ですが……アメリアはまだ雨が降っている事に気付いたばかりで、屋根もタオルも持っておりません。
 なので、今は雨を凌ぐ仲間と手段を探している所ですよ」

 精一杯の余裕の笑みを添えて。

 「ふうん」

 アメリアはちいさな身体で、ちいさな頭を回して、その全てに打ち勝とうとしている。
 何とも殊勝なことだ。満足げに、もう一度ロゼットは呟く。

 「ふうん、なるほどね」

 デュオのドールらしく、理知的で、無謀で、勇敢な子だ。
 少し意地悪をしてしまったが、これなら心配はいらないだろう。彼女はきっと、真実を知ったとしても動揺しない。

 「ありがとう、ごめんね。あなたが何も知らないかもしれないと思って、ちょっとからかっちゃった。私もこの雨はどうにかしたいと思ってるから、力になれるよ」

 皆が押し流されないように、ひとりでも多く逃がしたい。
 ついでに、どこかで見た花を見つけたい。
 彼女が考えていることは、つまるところそれらだけだ。
 他にも細々とした願望はあるが、今は置いておいて問題ないだろう。

 「お披露目のことは知ってるんだよね。じゃあ、他に知っていることはある?」

 垂れてきた髪を耳にかけながら、彼女は改めて問いかけた。

《Amelia》
「……はあああ。
 もう、何があったのかと身構えてしまいましたよ!」

 満足気に頷いて、先ほどまでの何だか異様な圧力が薄れた気がするロゼットに少し頬を膨らませて彼女は怒ったようなふりをする。
 その上で投げかけられた問いについて、彼女はしばし考え込んだ後。

「√0という存在。
 謎の青い花。
 二種類の怪物。
 トイボックスの位置。
 寮の隠し部屋。
 オミクロンドールの処分方法。
 なんらかの実験の示唆。
 アメリア達ドールを監視する存在の可能性。
 ドールの記憶について。
 見るはずのない夢。
 寮への侵入者。
 管理者の存在。
 ……こんな所でしょうか」

 知識をひけらかすようで嫌だ、という気分を表に出さぬように努めて冷静に一つづつ語っていく。

 知っているものもあるが、知らないこともそれなりに存在するようだ。
 頷きながらそれを耳にして、ロゼットは口を開いた。

 「じゃあ、私が出せる情報は三つかな。恐らくあなたも知らない怪物、ツリーハウスでの出来事……あとは、夢の話。まずは怪物の話から、始めてもいいかな」

 問いかける形になりながらも、有無を言わせる気はないらしい。
 指折り数えた一番目、親指をトントンと叩いて、彼女は話を続けた。

 「怪物は私の夢にいたもので、多分ドールを食べるんだ。白い……なんて言うんだろうね。石みたいな素材でできた、泣く巨人なの。話が通じるかは分からないけど、まあ泣くだけの情緒はあるみたい」

《Amelia》
「怪物と夢……ですか。
 仮に我々の夢が記憶にある物だと仮定して……その時ロゼット様は豪奢なドレスを着ていたのではございませんか?」

 怪物と夢の話をまとめて始めたロゼットにアメリアは問いかける。
 もしも、アメリアのあの記憶と同じようなものだったとしたら、ある仮説が補強されるし、そうでなければそれはまた新しい謎が増えるというだけだ。

 ドレス──ドレス?
 着ていたら記憶に残るはずだが、ロゼットの夢にそれが出てきた覚えはない。

 「残念だけど、違うね。着ていたら覚えていると思うし……わざわざ怪物に食べられるのに、服を着ているというのもおかしな話じゃない?」

 怪物側の目線になる、というのも妙な話だが。想像するならそういうことになるだろう。
 それが起こった場所についても、予測は立てられるようになってきた。あとで向かってみることにしよう。

 「それより、あなたも過去の夢を見ていたの? その時はドレスを着ていたってこと?」

 アメリアが自分から話すことを好まない、ということはうっすら察している。
 それでも、今は知識の共有が必要なのだ。「難しいなら話さなくてもいいけど……」と一応言いながら、彼女は返事を待つ。

《Amelia》
「おや……寧ろ違うのですか?
 アメリアは……夢とは違うかもしれませんが、空を見たら頭が痛み出して見た物で、ドレスを着ていて燃料を吐くという物を。
 だから、我々が過去に壊れた時の記憶を見ている物と思っておりました。」

 ロゼットの指摘に対して、アメリアは意外そうな顔をする。
 そして、恐らく自分の推測が間違っていたという旨を伝える。
 何だか気を遣って貰っているようだが、幸い今回はアメリアが間違えている上に命にかかわるかもしれない事だ。
 恥ずかしい事ではあるものの……それで協力を惜しんでいては運命の人など夢のまた夢なのだから、我慢もしようという物だ。

「それで……次はツリーハウスの事でしょうか?」

 「なるほどね。ドレスって聞くとお披露目を思い出すけど……アメリアが一回お披露目に行ったことがあるってことだったら、面白いね」

 他人事のように口にしているが、面白くも何ともないだろう。
 もしこの与太話が真実だとしたら、自分たちは何度も苦しみを繰り返しているということになるし。違ったとしても、また別のろくでもない真実が現れるだけだ。

 「そうだね。ツリーハウスの中には損壊したドールの上半身と、カメラやノート、あとは枯れた植木鉢があったんだ。ノートの中には、かつてお披露目を見たドールの話が載っていてね。私は何も思いつかなかったけれど、一緒に行ったドールは苦しむほど思い当たるところがあったみたい」

《Amelia》
「どうなのでしょうね……。
 この手の記憶は大体関係のある場所に行けば分かるものなのですが……。
 ダンスホールに行っても控室のドレスを見ても何も思い出しませんでしたから、どうも怪しいですよ」

 ロゼットの言に疑いの言葉を返した後、続いた言葉に推察を行なう。
 損壊していた……とわざわざ表現するという事はもしや……そのドールは食べられていた訳ではないのではないだろうか?
 そして、食べられる以外の壊れ方などアメリアはこれしか知らない。

「損壊……ということは、もしやそのドールは食べられていたのではなく焼け焦げていたのではありませんか?」

 「ドレスが出てくる場所って、他に思いつかないもんね。お披露目が今後も続けば、あなたが着ていたものを見る機会があるのかもよ?」

 それはアメリアがお披露目に行く時ではないか──ということは、まるで頭にはないらしい。
 名案であるかのように口にして、ロゼットは質問に肯首で返した。

 「そうだよ。焼けていたの。ミシェラみたいな目に遭った子を、どうやって回収したかは知らないけれど……まあ、凄いことになってたね。この子については、カンパネラに訊くのがいいと思う」

 ツリーハウスに行った時は相当傷ついていたが、今は治っていると過信しているのかもしれない。
 アメリアが何かを思い出そうとしているなら、とりあえず思い出し切るまで待つことだろう。

《Amelia》
「それは出来れば勘弁願いたいですね……」

 お披露目にいくことを示唆するような言葉に彼女は少し嫌そうにしながら目を逸らして言葉を返す。
 そこには、ある種いずれ来る現実から目を逸らすような弱々しい心の動きがあった。

「カンパネラ様もツリーハウスには訪れたのですね。
 お父様の監視については……大丈夫だったのですか?」

 その為か、彼女は気を取り直すように、或いは話を変えようとするかのようにロゼットに新たな疑問を投げかける。

 可能性は可能性に過ぎないと、まだある種の楽観を続けているためだろう。
 辛そうにするアメリアの心情こそ感じ取れど、ロゼットがそれに対してフォローすることは何もなかった。
 助けを求められれば話は別だが、今はそのような時間ではないのだ。

 「監視……そういえば、何も言われなかったね。同じタイミングで柵を越えた子たちは見つかっていたから、何か細工があったのかも。全然思いつかなかった」

 監視と言われれば、銀の目は大きく開かれる。 決まりごとを破ったことを、今初めて彼女は自覚した。頭の片隅にはあったが、意識したのはかなり久しぶりだ。

 「そうだよね。もう一回行きたくなったら、道も探さなきゃいけないし……大変なことをしてたんだね、私たち」

 何だか他人事のように、ロゼットは呟いた。

《Amelia》
「ううむ……なんだか現実感が無いのが気になりますが……。
 まあ、ともかくツリーハウスに行ったメンバーは何かを言われた訳では無いのですね。」

 ロゼットの随分と他人事のような……いや、事実他人事なのかもしれない言葉に一抹の不安を覚えながらも、リヒトとの違いを考える。
 偶然だろうか、あるいは気付いた上で見逃されたのだろうか……。
 それとも……何かかいくぐる手があったのだろうか。
 何もかもが分からない中、浮かび上がってくる無数の可能性を頭の片隅に押し込んで、彼女は話を続ける。

「それでは、逆にアメリアに聞きたい事はございますか?」

 「何にも言われてないよ。自分でもびっくりしちゃうくらい」

 デュオのドールである彼女とは違い、トゥリアのロゼットが物事を深く考えることは早々ない。
 だからまあ、可能性を深掘りしたりするのはアメリアやソフィアの仕事なのだろう。
 なんてことない風に口にしてから、数秒考える。そうして、「あ」と息のような声を吐き出した。

 「最後に話したかった、夢の話にも繋がるんだけどね。“ヒト”と“人類”って、どこが違うんだと思う?」

 小首を傾げながら、そう口にする。
 “人類”が何故追い詰められていたのか、彼女はまるで知らない。この星の現状も知り得ない以上、問うことができるのは観念的なものしかなかった。

《Amelia》
「ふむ……?
ヒトと人類の違い……ですか?」

 ロゼットの問いに、彼女は首を傾げる。
 何故唐突にそんな事を? と思うが……そこで一つ思い当たる。
 そう言えば、文化資料室で見た資料ではホモ・サピエンスを人類と表現していたし、ヒトとは書いていなかった。

 それこそ普段なら主人となる者をヒトと呼び分けているのだろうなと思う事も出来ただろうが……お披露目の向こう側を知った今ならそれを疑う事が出来る。
 故に。

「そうですね……もしも、ヒトと人類を呼び分けねばならない瞬間があるとすれば、人のようでいて決して人では無い存在がこの世に居る時でしょうね。
 それが……なんなのかまでは分かりませんが」

 彼女は恐ろしい推論を怯えながらも口にする事が出来た。
 それが……良いことかどうかはともかくとして。

 恐怖を感じるほど想像力がないのか、それとも無痛症がここまで及んでいるのか。
 どちらにせよ、実感をもって言葉を受け止められていないまま、ロゼットは頷いた。

 「ありがとう。夢にね、人類のシンポについて研究する人が出てきたの。だから、何か関係あるのかと思って気になっちゃった」

 先ほどより声を抑えて、そんなことを囁く。
 何故だろうか、これについては大きな声で言ってはいけないような気がした。

 「答えてくれてありがとう。あとは……そうだね。強いて言うなら、寮への侵入者について聞きたいな」

 その子がドールなのか“ヒト”なのか気になるじゃない?
 そんな風に、軽い調子で質問を投げかける。あまり長居しても怪しいだろうし、問いかけるのはこれで最後だろう。

《Amelia》
「人類の進歩……ですか……」

 ロゼットの言う人類の進歩という言葉とヒト、もしもこの言い分けを夢の中で聞いたのだとしたら、それはまたろくでもない話だろう。
 そんな予感からか、いささかげんなりした様子のアメリアは続く問いに対して「確証はないのですが……」と前置きをして話し出す。

「寮のパントリーや食器棚が度々荒らされているのです。
 それもどうもアメリアがオミクロン寮に来る前から。
 お父様はオミクロンのドールが関わっていると見ておりますが……それではパントリーが荒らされている事の説明がつきませんから」

 先生がそこまで厄介なモノを放っておくとは、何か余程の理由があるのだろうか。
 あるいは、それを厄介とは思っていないのだろうか? ロゼットであれば後者だが、先生がどう思うかは流石に分からない。

 「荒らした後に意味があるのかな。それとも、荒らすこと自体に意味があるの? 難しいね」

 アメリアよりも前にオミクロン寮へ来たのは、いったい誰だっただろうか。
 そもそも、自分はいつ来たのだったか?
 そこの時系列は覚え直すべきなのだろう。もしかしたら、昔からいるドールが手掛かりを握っているかもしれない。

 「うん、他に訊きたいことはないかな。あなたからも何もなかったら、今日はこの辺にしようか」

 ちいさく頷きながら、そう提案をする。
 特に何もなければ、一緒に備品室を出るつもりだ。「置いてなかったね」とかなんとか、そんなことを言いながら。

《Amelia》
「そうですね、アメリアも今はありません。
 また、何かあったら会いましょう」

 ロゼットの言葉に、彼女も一度別れる事を同意して共に備品室を出る。
 暫く歩いた後、彼女は方向を変えて寮へと歩き出すはずだ。
 特についていくという事でなければ、彼女は一人で夕焼けの中、学生寮の図書室に行く事だろう。

【学生寮1F 洗浄室】

 洗浄室にやってきたロゼットは、周囲をきょろきょろと見まわした。
 先にいたドールも、とっくに帰った後の話だ。誰もいないことに、彼女はどこか安堵していた。
 扉を後ろ手で閉めて、それから耳をそばだてる。
 なるべく音を立てないようにしていたのは、やはり緊張していたからだろう。
 普段は意識しないのに、手のひらの湿りがやけに気に掛かった。
 特に何も見当たらなければ、壁や床をじっくりと見て、思い出せることがないか思索に耽るだろう。

 洗浄室は二つの区画で分かれている。
 手前側の区画はドールズが制服を脱いで皺がつかないように保管しておく場所。この区画はリネン室も兼ねており、シーツやタオルの替えも何枚も棚に収められている。

 奥には洗浄室がある。ドールズが自身の体内に巡る燃料の老廃物を摘出し、洗い流すための区画だ。中央にはドールが横たわるための作業台が一台設置されている。

 作業台の上を、白魚のような指がなぞる。
 乾燥した赤色は、見慣れないドールからすればゾッとするモノだろう。
 作り物めいた青色も──もしかしたら、誰も気付いていないのかもしれない。

 「ここで食べられたんじゃ、ないのかな」

 予想は間違っていたのだろうか。
 青い色はコゼットドロップから出た液体に似ていないだろうか。
 そんなことを考えながら、彼女は作業台をじっと見据えた。

 ドールの洗浄を行うための奥の区画には、赤黒い汚れがこびり付いた作業台が置いてある。これはドールが洗浄の際横たわるためのもので、この汚れは洗浄の末に排出する老廃物であるとあなたは知っている。

 そんな作業台の上に、僅かに青い液体が付着していることにあなたは気がつく。それは乾いたインクのように作業台に定着していて、拭っても取れないものだった。無臭であり、青いということ以外に特徴が見られない。
 また、この液体はどことなく、コゼットドロップの青に似ているような気がすることにも気が付けるだろう。

 ……これもドールの身体から出てきたものなのだろうか?

 また、あなたが作業台に近付くなら、その足元に大きな傷が残っていることに気が付く。まるで作業台に乗ったドールが激しく暴れたかのような、怖気の走る生々しい傷だった。

 トゥリアのドールが──少なくともテーセラ以外のドールが、これほどの傷をつけられるだろうか。
 そもそも。青い汁までついているということは、青い体液を持つ生き物が、ここで何かをされたということにはならないだろうか?
 深くも何ともない思考を繰り返しつつ、傷口を手でなぞってみる。
 傷は切り付けられたように滑らかなものだろうか。それとも、もう少しガタガタになっているのだろうか。
 分かるようが分かるまいが、彼女は一旦作業台から離れてみる。
 そうして、どこかに隠し扉などがないか探してみることだろう。

 床を爪で引っ掻いたような傷であったり、作業台自体が倒れてしまったかのような激しい争いの痕跡が残っている。傷の深さも相当根強いもので、ここに居たものは力の限り暴れたのだろうと想像に容易かった。
 もしこれほど暴れたのであれば、少なからず体が脆弱にできているトゥリアの指先には何かしら痕跡が残っている筈だ。しかしあなたの覚えている限りではそんな異変はなかったように思う。それ以上の手がかりは見当たらない。

 洗浄室は部屋の隅に排水溝があること以外には特段目立つようなものはなく、隠し扉も存在しない。

【寮周辺の森林】

Licht
Rosetta

 偽物の空に、雲が満ちている。
 太陽が隠れた曇天の日、ロゼットは森林に向かっていた。
 理由は特にない。コゼットドロップの採取としてもよかったし、心を落ち着けるためでも構わない。
 特段することもなかったので、何の気なしに向かった──というのが一番正しいだろう。
 ツリーハウスのことは、まだ夢のように思っている。
 同伴した彼らの顔を見ることこそあれど、あの時のことが現実とは未だに思えない。
 ドールズを苛む一切が、夢であるような気さえしているのは、現実逃避に過ぎないのだろうか。

 「あ」

 草を踏む脚が、歩みを止めた。
 見覚えのある姿が視界をよぎった気がして、そちらを一旦中止してみる。
 前にいたのだろうか、それとも後ろにいたのだろうか。どちらにせよ、彼女はのんきに手を振って、「おーい」と呼びかけるのだろう。

《Licht》
 森林で授業をするのは、もっぱらテーセラモデルだから、彼にとって森は馴染みある友人だった。………例えデザインされたものだとしても。

 だから、涙を擦って擦って無かったことにしてしまうには、その木漏れ日は一番だった。木に隠れるように座り込んで、後悔を擦り付けるようにノートを書いて。その時、のんきな声が、遠くから響く。

(……や、べ)

 人工宝石の涙は隠されなければならない。欠けたクリスタルガラスに価値が見出される日は来ない。だからそんなもの土に染み込ませて、拭って笑って、やることをやらなきゃ。

 みんなの役に、立たなくちゃ。

「……ロゼ!」

 振り切るように立ち上がり、おーい、と手を振る彼女の方に木々の間から姿を出して、こっちも手を振る。そうだ、言いたいことがあるんだった。柵越で得た情報を伝えなくてはならない。

 でも、その先は? 
 事実()の先は?

 その先に希望を示せないなら、残酷な現実を伝えるべきかどうか。すっかり自信を欠いてしまった土塊は、答えを持たないまま、神出鬼没な真紅の彼女をどこか居心地悪そうに待っているだろう。もし、彼女がこちらに歩み寄るのなら。

 目の端に残った雫が、紛い物の陽光に照らされて輝いている。
 本人が何も言わないのであれば、触れない方がいいのだろう。顔色ひとつ変えないまま、ロゼットは彼に駆け寄る。

 「リヒト、こんな所にいたんだね。何をしているの?」

 忙しいようには見えないが、何か事情でもあるのだろうか。
 コゼットドロップを探しているのであれば、自分のモノを渡せるかもしれない。
 そんな軽い気持ちで、彼女は小首を傾げる。何を告げられたとしても、そのまま受け入れようとすることだろう。

《Licht》
「森の中に何か面白いものがないか、探してた。何って言われると……わかんないけど」

 今日は日差しが眩しいし、と理由をつけて、リヒトは森の中の……寮からは木々で隠れる場所に、ロゼを手招いた。

「……会えてよかった。話したかったんだ」

 『きっと、信じられない話を』と前置きして、リヒトはいつものノートを開いて、ページをめくる。目的のページが出てきたら開いて、まるで勉強で分からない部分を尋ねるように、ロゼに差し出した。

(一枚ページが千切られた跡がある。)

《Licht》
「ロゼは、その、何か見つけたりした?」

 尋ねる目は、少しだけ震えながら、ずっと寮の方を見ている。あの日の、あの黒い雨を恐れてか、人影がこちらに向かって来ないかどうか確認しているらしい。

 傍から見たら、散歩の後に少しの休憩をしながら雑談する2人。ときどき勉強について聞いたり、なんでもない話をしたりする、落ちこぼれのドールズ。
 ただ、これがそんな平穏な風景でないことを、牧歌的に描かれた2人は知っている。

 ぺらり、ぱらり。
 軽い音を立てて、紙が捲られていく。
 口元は歪みもしない。三日月のような微笑みは、薄い唇のどこにも見られなかった。

 「……今回も、大変な目に遭ったんだね」

 同情でもなく、かと言って突き放すようでもない。
 いつもの調子で、ロゼットは口にした。
 ツリーハウスに向かう間、柵を越えようとしていたのは、彼らだ。
 フェリシアと、リヒトと、ソフィアと、アストレア。
 恐らく、この四体と見て間違いない。
 動機は分からないが、見つけたものはほぼ同じらしい。違ったのは、運の悪さ──否。手段の違いだろう。

 「見つけたよ。あなたたちと同じタイミングで、越えたから」

 ぴったり、リヒトに身体を寄せる。
 何を──とは、言う必要もないだろう。
 森の遥か、遥か向こう。リヒトとは正反対の、柵の方を、銀の眼は示した。

 「ツリーハウスがあったの。他のクラスのドールに、連れて行ってもらったんだ」

 作り物は、割れかけのドールの目を捉える。
 散々聞いた事実に対して、震えひとつも見せなかった。ただ、誰かに聞かれぬように、逢引きもかくやという声量で呟くのみである。

《Licht》
 あまりに、あまりに。ロゼの表情が変わらないものだから、リヒトは不安になって振り返り、その、薄く弧を描いた唇を見た。思えば最初からそうだった。信じられないから表情が動かないのかとも思っていたけれど、これは、なんだか……。

 その時、ごく普通の、変わる隙もないような平坦な声が、聞き馴染みのない言葉を紡ぐ。

「えっ………?!」

 つりー、はうす?

「あ、そっか、ええと…そういうことか! ドロシーってやつ、そっち居なかった? 割となんというかこう……優等生な感じの、ちゃんとしてるやつ」

 千々に散らばった記憶の中に、そういうものがあった気がして、リヒトはノートを返してもらって、読み返す。やっぱり、記載があった。

 ピタリと身体を寄せられた時、びっくりして肩が跳ねるけれど、意図するところは分かっている。合わせて自分も息を潜めて、草原を吹き抜ける風に隠れるように息を潜めた。

「ジャックってテーセラのやつにこの前、聞いた。ドロシーと、柵を越えようとしてるって……そっか、きっとそれにロゼも一緒だったんだな」

 何があったんだ、と目だけで尋ねて、凪いだ硝子の瞳の奥を見つめる。そのつるりとした反射光に映る虚無に、石を落とすように、問いを投げた。

 どうやら、彼はドロシーとジャックのことも知っているらしい。当然だ、同じテーセラのドールだったのだから。
 引っかかる言葉はあったけれど、些事であると判断したようだ。質問に答えるために、浅く息を吸う。

 「コゼットドロップを追いかけて、ツリーハウスに行ったの。中には上半身だけのドールと、誰かのノートと、カメラとかおもちゃがあってね。カンパネラが泣き出したり、お兄ちゃんがイライラしてたり……色んなことがあったよ」

 波紋ひとつ起こらないまま、ドールアイは光を透かしている。
 どんなことがあったのか、具体的に説明するのは得意ではない。究極何も起こっていないと言えるし、そこにあった全てのモノに起因して様々なことがあったと言ってしまうこともできる。
 だから、ひとまずあったことだけを口にした。詳細な説明が必要なら、他のドールが話してくれるだろう。

《Licht》
「こぜ、こぜっ……コゼット、?」

 ツリーハウスに続く、聞きなれない言葉。人の名前か、と一瞬思ったけど、どうやらそれは追うものらしい。疑問を挟もうとしたその瞬間、音もなく曲線を描くロゼの言葉はよどみなく流れる。

「ま、待て待てっ、い、いっぺんに……!!」

 だから慌てて、メモを取るしかなかった。

「えっ、と。まずその、森の中のツリーハウスってやつに……ドロシーと、ジャックと、ロゼと……それからカンパネラと。お兄ちゃん……だから多分、ブラザーさんも居た、ってことか……」

 いつものペンを取りだして、ノートのページにもくもくと書き込んでいく。思考能力がコワれているから、段階を踏んでいかないと分からない。歯痒いが、それがリヒトだ。どれだけ悔やんでも呪っても、欠けた歯車は回らない。

「あのさ、この……こぜっと? どろっぷ、って……何? それからその、は、半分のドールって……」

 一段落した後、とりあえず走り書きした単語たちを読み返して、リヒトはロゼに質問を重ねた。

 ペンを動かす音と、草を踏む音。それから、二種類の話し声がする。
 森林の中だというのに、他の生物の息遣いすら聞こえない。
 ヒトもどきの発する音だけが、緑の空間を構成していた。

 「コゼットドロップは、青い花だよ。手触りがツルツルしてて、水に浸すと水が青くなるの。ツリーハウスの周りにたくさん咲いてたかな。
 半分のドールは、昔“お披露目”で焼かれた子みたい。オミクロンじゃなかったみたいだけど、ミシェラと同じ目に遭ってたんだ」

 先ほどよりは、ゆっくりと。書き留めるのには遅すぎるほどのスピードで、彼女は口にする。
 彼が妹分を忘れたことは、まだ知らない。聞き返されても、きっと意図を掴むことは難しいだろう。

《Brother》
 話し声に、もう一種類。

「こんにちは、二人とも。
 なんの話してたの? 良かったら、おにいちゃんも混ぜてほしいな」

 嫋やかな笑みを浮かべた銀糸のドールが、ゆっくりと二人に近づいてきた。声の方を向くなら、ブラザーは軽く手を振ってみせるだろう。
 のんびりした声はいつもより甘く聞こえるかもしれない。“おにいちゃん”の顔はいつもより青白く、わざとらしいくらいに二人を溺愛する感情が漏れていた。

 ダンスホールからの帰り道。
 見かけた二人のかわいい弟妹の元に、自然と足は動いていた。

Brother
Licht
Rosetta

《Licht》
 ミシェラ、さん。

 備忘録数ページに渡り、自分が謝罪を向けていた相手。助けたかった、らしい、相手。大切に思っていて、友達として仲良くしていて、その全てが、身に覚えのない相手。

 それでしかない少女。
 それ以外が亡い少女。


 記憶にない喪失感に襲われて、言葉がぐっと止まる。きっとバレちゃいけない。忘れてしまったことを。バレてしまったら、きっと、ミシェラさんを大切に思う全てから────。そのくらい、コワれていてもわかる。

「青い花、つるつる」

 だから、なんでもないようなフリをして、ノートを取っていた。ペンが走る滑らかな音の向こう、その時ふっと、声が来る。

「…………うげ」

 お兄ちゃん、とは呼びたくないので、目線をさ迷わせて『ブラザーさん』と呼んだ。見下ろす、影に入った彼の目を見るのは少し気恥しい気がした。距離感を測りかねている。

「え、ええと……」

 どこまで話したらいいだろう。どこまで知っているんだろう。ツリーハウスには居たらしいけど、そうしたら何処まで。
 知らず、備忘録を胸にぎゅっと抱きしめて、リヒトは後ろめたいように少し後ずさった。

 「お兄ちゃん」

 甘ったるい声を耳にして、ロゼットは振り向いた。
  ブラザーがこんな所にいるとは、珍しい。ぱちぱちと瞬きをして、小首を傾げた。

 「お兄ちゃんも珍しいね。今、リヒトと王子様のお披露目を知った日の話をしてたの」

 ちらり。
 視線はまた、柵の方へと向けられる。
 暗に示しているのは、温かな食卓ではない。寒々しいツリーハウスの帰り道、葬儀のような空気の中で耳にしたものである──ということだ。
 兄が汲み取ろうと、汲み取るまいと、彼女は話を続けるだろう。

 「それで、どこまで話したっけ。上半身だけのドールの正体は話してないかな?」

《Brother》
 ふらり、目眩がする。
 どこに行ったって、誰と話したって、何も変わらない。

 この学園で吸う息は、こんなに重かっただろうか。愛する箱庭で、ただ穏やかな日常を送ることすらもう叶わないなんて。

「……待って」

 崩れ落ちそうになる脆い足を制して、口を開く。そうだ、感傷に浸る暇なんてない。思考を止める甘えも、現実逃避に使う時間も、全部、全部、全部!

「無闇にその話をすべきじゃないよ、ロゼット。まだこの場所をどうにかする算段すらないんだから、何も知らない子に絶望だけ与えるのはよくないと思う」

 柔らかく目を細めたまま、静かに首を振る。その動きはロゼットを責めるものではなく、諭すに近い。同意を求めるように深紅を見つめるアメジストは、リヒトが何を知って何を知らないのか分かっていない。故に、無知な弟を守ろうとしている。

《Licht》
「大丈夫……その、ええと、えーーーっと………お、“おにいちゃん”」

 諭そうとする言動に待ったをかけたのは、その場で一番、無知で愚かだとされた子供。悩みに悩んで、躊躇いに躊躇って……それでも話を聞いて欲しかったから、こっちを見て欲しかったから、あえて『おにいちゃん』と呼んだ。ほんとはすごく恥ずかしかったのは、ここだけの話。

「分かってる。知ってるよ、聞く前から。ミシェラさ……ミシェラ、のことも、お披露目のことも」

 『へへ。上手く、隠せてただろ』なんて、冗談めかして笑ってみて。ミュゲも誤魔化せたコワれた笑顔は、雰囲気が重くならないように努めている。これは、暖かく柔らかい日々の一幕。継ぎ接ぎの平穏。嘘つきの午後。悟られてはいけない。こんな所で。こんな、所で。

「サンダンがないから、話すんだ。オミクロンは落ちこぼれなんだから、たった独りで何とか出来る訳ないだろ……って、思う。
 だから教えて、ロゼ。そのドールの正体について」

 だから、の所でロゼに向き直る。知らなくていい、なんて言わせない。知らなくていい訳が無い。ちょっとだけ申し訳ない気持ちを風に流して、真紅の声を待った。 

 微笑みを称えたまま、深紅の薔薇は口を開く。
 言葉の重みも、現実の苦しみも、何にも実感を持たないまま。 ブラザーに何を与えるか、自覚せずに言葉を放った。

 「私が話したことをどう受け止めるかは、聞いた子次第でしょう? 知りたい子がいるなら教えてあげたいし……お兄ちゃんが嫌なら、お兄ちゃんがいるところではしないよ」

 リヒトが真実を知っている、という前提は共有しないまま。紫水晶が煌めくのを、銀の目は映していた。
 少年ドールが話したことについては、ちいさく頷いて返した。
 ドール一体で解決できることなら、とっくにノートを書いたドールたちがどうにかしているだろう。
 どうにもならないことだからこそ、予防線を張るという意味でも、伝える必要があるわけで。
 後付けの理由を考えながら、彼女は「いいよ」と返す。

 「彼女は昔、お披露目で焼かれてしまったドールみたい。名前はあんまり覚えてないのだけど……カンパネラが苦しんでいたから、多分知り合いだったのかな。誰かがもう一度動かそうとして、失敗したっていうのが書かれていたよ」

 そんな感じかなあ、と。
 ブラザーの方をちらりと見たのは、訂正を求めるためだ。
 決して嫌味が言いたいだとか、そんなことはない。かかしの頭には、何も詰まっていないのだから。

《Brother》
 二人のときにしか呼ばれない呼び方に、ブラザーはリヒトの方を見る。驚いたような顔でそちらを見つめていれば、弟は笑った。ロゼットの言葉も耳に流れ、薄く開いていた口を閉じる。

 たった一人ではどうにもならない。
 それはその通りなのだろう。

 けれど“おにいちゃん”は、そう在れない。

「……そう。
 もう知ってるんだ。なら言えることはあるかもしれないね」

 曖昧に笑って、ロゼットの目配せに答えるように続ける。これはブラザーにとって、“言ってもいい”こと。一番大事な事実には触れぬまま、やんわりとロゼットから話の進行権を奪っていく。

「その子はシャーロットって名前だった。エーナクラスのプリマドールをしていた子で、お披露目直前に怪我をしたらしい。それできっと……オミクロンと同じ、末路になった。

 ツリーハウスのことはもう聞いたのかな。あと他に、空のことは知ってる?」 

《Licht》
「知ってる。空は偽物って、他でもないセンセーに教えてもらって……そうだ」

 促されるままに、答える。答えられる、という経験はあまり無かったために、密かな喜びが満ちて罅から零れていくが、そんなことを気にしている余裕は無い。考えたことが、あの日のセンセーの動きの中で、不思議で不自然なところがあったんだった。
 ノートを手繰って、お目当てのページを見つければ改めて、二人を見る。

「聞きたいことがあった!
 その……ええと、ブラザーさんにはまだ言ってなかったな。うん。オレと、ソフィア姉と、フェリと、アストレア、さん、で……柵を超えて。脱出する道が無いか探したことがあったんだ。

 もともと30分の、短い時間でやる予定だった。フェリと……アストレア、さんが、足止めで。オレとソフィア姉でパッと見て帰ってくる形で……。でも、センセーは、真っ直ぐ、オレたちのとこに来た。この広い森で、めちゃくちゃな短時間で、すこしも間違えることなく。だから……」

 オレ、考えたんだ、と前置きして、ひとつ咳払い。リヒトは、至極真剣な顔をして言った。

「センセーは、“魔法使い”なんじゃないかって」

 『……なんで、その。ツリーハウスの方には行かなかったのかな』と、これが聞きたかったらしい彼は真面目な顔で二人に尋ねる。

 ふたりの話が流れていくのを、ロゼットは黙って見ている。
 気分は悪くない。仲間たちが喧嘩にならず、普通に話せているならそれでいいのだ。
 ただ、まあ。リヒトの疑問については、ちょっとばかり考え込んだ。

 「魔法使いなのかもしれないけど……ツリーハウスって、色んなモノが隠してあったよね。先生も、見つけてほしいモノがあったんじゃないかな?」

 流石に飛躍しすぎているかもしれないが、彼女はそう考えた。
 居場所を知ることができるなら、お披露目の日に外に出たドールも用意に把握できるだろう。
 だが、そうなっていないのであれば。そうしないだけの理由があるのではないかと、そう思いたいのだ。

 「ほら、先生って優しいし」

 論理とは程遠いことを言ってから、ブラザーの意見を求めるだろう。

《Brother》
「ん、と……ちょっと待ってね。
 まず、そのノートって僕も見ていいのかな。良いなら読ませてくれると嬉しいな」

 二人とも、話が飛躍している気がする。
 けれどそれを直接伝えることはせず、ブラザーは困ったように眉尻を下げながらこめかみを抑えた。順番に、ひとつずつ考えていこう。まず事実を咀嚼しつつ、リヒトが捲るノートに視線を落とした。何やら情報が纏めてありそうだし、読ませてもらえるのなら有難い。

「それで、間違えることもなくっていうのについてなんだけど……。

 僕も同意見だよ、僕らの居場所を知ることが出来る方法があるかもしれないね。その方法があるなら、それは……」

 言いかけて、止まる。
 “それ”はあまりにも非現実的で、合理的で、理不尽だ。

 ───…だから、言えない。

「……それは、まだ分からないけど。

 疑問なのは、どうして僕らの方には来なかったか。居場所がわかるなら、ソフィア達だけじゃなくて僕らのところにも来るんじゃないかな」

《Licht》
「あ、う、ん。ちょっと待って……ここ! ここだけ読んで、な!!」

 『他んとこ読んだらダメだから!!』と、ロゼにも見せたページを開いて、見せる。彼が読み終わったと思ったタイミングで、自分の方に戻すだろう。

「だよな。……やっぱり、ロゼの言う通り、センセーがみんなに見つけて欲しいものがあんのか? でも、そうしたら……なんだかセンセーが、オレたちのこと応援してるみたいな……」

 その発想に一番、自分がゾッとして。リヒトは真っ先に口を噤む。そしてそんなことを考えてしまった、自分がいちばん嫌いになった。

 コワれた頭のせいにして、コワれた自分のせいにする。そんなこと、そんなこと、どれだけコワれていても、考えちゃいけない。だってそんなこと、ありえない。ありえちゃいけない。

「ち、違うよな。そんなこと。違う、違う、絶対……」

 違ってくれないと、この感情を、どう扱えばいいか分からないんだ。
 身に覚えのないこの、罪を。

 「応援してても、いいと思うけどなあ」

 口元に手を当てて、考えるような素振りを見せながら。
 リヒトの方は見ず、ロゼットは口にした。

 「先生はツリーハウスを見てほしくて、それで、壁の外について誤解されたくなくて。あなたたちが壁の外をどう思うか分からなかったから、声をかけた……とか?」

 目を閉じて、ゆっくりと思い出す。
 嘘か真か、ドールか否かも分からない、過日の夢を。

 「ツリーハウスには、色んな証拠が残ってたよね。ノートに、ドールに……あと、√0。リヒトたちが向かう方には√0もなかったから、見つけようとしたのもあると思うの」

  ブラザーがそれを聞いてどう動いても、特段文句は言わないはずだ。
 彼女は痛みを感じない。痛みから涙を流したり、嫌ったりすることはまずないだろう。

《Brother》
「……」

 白い肌に影を落とすほど長い睫毛に囲まれた両目は、穴が空くほどノートを見ていた。全てを読み終えて、ふ、と視線が下がる。ちょうどそのタイミングで、ノートが引かれた。

 海の中。
 知られたくない、知らせたくなかった真実。

 あぁ、何をするにも遅すぎる。

「……その可能性も、あるね。
 他にも、希望的観測にはなるけど……僕らの場所が分からなかった可能性だってある。分かるのは、ソフィア……いや、プリマの子達のものだけなのかも」

 負の方向に進む思考を無理矢理戻して、ブラザーは空虚に微笑んで頷いた。右手の人差し指をピンと立てて、それを自分のコア部分に運ぶ。

《Licht》
「う、うーん………そうかもな。そんな気もしてくるから、分かんねえな……クソ、コワれてさえなければもっと、何か」

 希望的観測を踏まえて、リヒトはリヒトで考えてみる。もし、分からなかったとしたら。逆にもし、見て欲しいのだとしたら。それぞれの道に先生の意図があり、それぞれの道にオミクロンの策がある。きっと。……コワれた頭では、思い至れないけれど。

 頭を振って、今度は別のことについて考えた。

「……√0って、何だろう。オレは知らなかったけど、ミュゲも知ってるし、他の、お披露目に行ったドールも知ってたって聞いた。それに、医務室のベットの、蓋にも彫ってあった。√0って、何だろう……」

 ノートのページを捲って確かめながら、リヒトは言葉を重ねる。彼らの前に横たわる謎はあまりに多く、彼らが為さねばならないことはその先に。

 見つけて欲しい、のだとしたら何となく、分からないことは無いかもしれない。蓋の裏のあれを消していないところとか。ただ、どうして直接教えてはくれないんだ?

「……ロゼ、ブラザーさん、ツリーハウスの方には何て書いてあった? その、√0について」 

《Brother》

「……『第三の壁 お前は監視されている 屍を喰らう獣 √0』。
 こう演奏室の黒板に書いてあった。筆跡からしてドロシーの落書きだろうけど、詳しいことは僕も分からない」

 躊躇うように口ごもってから、ブラザーは溜息と共に言葉を吐き出した。ドロシーと口にする顔は、博愛のおにいちゃんにしては随分と不機嫌だ。露骨に眉を寄せてから、こほんと一つ咳払い。

「それと……覚えてるかな。
 前にオミクロンクラスにいた子が、しきりに√0って繰り返してた。√0はドールを救ってくれるんだってさ。

 あの子がお披露目に行った日、僕とミュゲのベッドの鍵が開いていた。僕らは二人で、学園の方に向かっていたことを覚えている。……いや、“思い出した”。

 ここからは推測になるけど、僕らは……多分、開かずの扉の先、ミシェラが燃やされた場所に行ったことがあるんだと思う」

 どうしてそれを忘れてるのかは分からないけど、と繋げて、ブラザーは黙る。何を言えばいいか───“何を言っていいか”を迷うように、口を開いては閉じるを繰り返した。

《Licht》
 不機嫌そうな雰囲気は、苦手だ。例え誰に向けられていようと、それが自分に向いているように思えるから。全ての悪意の矛先が、コワれた自分の歯車の隙間に突き刺さるように思えるから。

 ……なんてね。

「ブラザーさんも、ミュゲも、忘れてたってことか……」

 ブラザーさんの話をノートに書き込む端で、自分の塔の記憶について、記述がふっと目に入った。実感の欠ける、宙ぶらりんの記憶。下手に話に出してつつかれたらどうしよう、なんて憂慮が背後から抱きついて、声をそっと縫い止める。

 その代わりに、と言うように。ぱちん、と思考にひらめきが走った。

「……なあ、ロゼ! もしかして√0ってお前が言ってた巨人じゃないか?! ほ、ほら。お披露目のバケモノとはまた別なんだ………あっ」

 コワれた頭が弾き出した、欠けたネジのような回答を意気揚々と口にしようとした、その瞬間。階段を一段踏み外したみたいに、リヒトは反射的に自分の手で口を覆った。

 あれは花畑と陽だまりの中で零された囁き声だった。風がそっと届けた、硝子の秘密だった。軽々に言っていい、はずが……。

 もごもごと口元を押さえながら、そうっとブラザーさんの方を見て、そうっとロゼの方を窺う。…………バレて、ないかな?

 “前に”、オミクロンクラスにいた子たち。
 どうにも思い出せない──というか、自分と彼らの思い出したことは毛色が違う気がした。

 「お兄ちゃんの覚えているようなことは、どうにも思い出せないけれど……√0が巨人かもしれないっていうのは、違うみたい。ごめんね」

 申し訳なさそうには聞こえない口調で、彼女は謝罪する。
 リヒトが口を滑らせたことは、そう気にしていないようだ。表情が憤怒や失望に変わることもなく、予兆さえ見られない。

 「巨人は……多分、お披露目の時に出てくる“ヒト”なんじゃないかって思うな。私のお腹を食べちゃった、泣いてる巨人なの」

  ブラザーは知らないだろうから、念の為。簡単に彼女は説明したが、伝わるだろうか?

《Brother》
「巨人?」

 残念ながら、ブラザーには伝わらない。リヒトが口を覆う理由も、ロゼットがのんびりと説明した内容も。驚きそのままに目を丸くして、飛び出した単語をオウム返しした。

「ま、待ってね。巨人ってなに? ロゼットのお腹は食べられちゃったの? 泣いてるってことは見たのかな。リヒトもそこにいたの?」

 深く息を吐いて、目を閉じた。再びこめかみを長い指で抑え、冷静さを取り戻そうとする。しかしまあ、内面的にそこまで器用でないブラザーの冷静なんて限界があるのだ。
 声はいつも通り和んでいるが、矢継ぎ早な質問攻めは彼の混乱を示していた。困り眉のまま目を開けて、二人を見つめている。

《Licht》
「え、ええと。見たワケじゃなくて、オレはそこの、ロゼに聞いて」

 質問攻めにあったリヒトは身を竦めて、言い訳をするように目線を泳がせた。

「それだけ、ほんとにそれだけ!」

 巨人、なんて。抽象的な言葉すぎて分からない。エーナモデルの子なら巨人の話をいくつも出してくれるだろうが、リヒトの手の中に物語のカードは無いから、必死に無い頭を回す。

「……もしかして、“ヒト“ってその、大きなバケモノみたいな見た目してんのかな……」

 ダメだ、違う気がする。推論を立てては、ガラガラとそれが音を立てて崩れていくものだから、まるでずっと終わらないつみきをしている気分になった。終わらない上に、途中で柱が消える、永遠のつみき。

  ブラザーは、そういえば知らなかったのだっけ。
 小首を傾げ、ロゼットは瞬きをした。
 どうにも関心がなくていけない。もうすっかり彼に話したつもりでいたが、間違いだったようだ。

 「これは私が夢で見たことなんだけど……夢の中で、私は巨人にお腹を食べられてるの。あちこちに体液が飛んでて、石でできた巨人が泣いてて……洗浄室で起こったことなのかな〜って思ってたんだけど、どうやら違うみたいでね。リヒトはいなかったよ、私だけ食べられてたんだ」

 特に咎められなければ、彼女はリヒトの頭を軽く撫でようとする。
 調子の悪い少年ドールを、ちょっとばかり励ましたいのだろう。
 「訊きたいことがあれば、聞くよ」なんて言って、彼女はブラザーを見ている。

《Brother》
「……」
「…………」
「………………」

 沈黙。
 フリーズと言ってもいいかもしれない。

「ん、と……」

 こめかみの指をゆっくり下ろして、シュッとした形のいい顎に添える。情報を少しづつ整理しながら、ゆっくりと口を開いた。

「夢っていうのは、ドロシーが言ってたみたいな……過去の記憶ってやつのことかな。それで、その石の巨人はロゼットのお腹を食べてたんだ」

 ───あながち、魔法使いも間違いじゃないのかもね。
 ……なんて、冗談ぽく笑った。冗談じゃない可能性が不吉で、背筋がぞわりとする。

「うん、だいたい分かった。
 あと僕から共有しておきたいことと言えば……青い蝶のことかな」

 誤魔化すみたいに微笑んで、ブラザーは青い蝶の話をする。ツリーハウスで見た、シャーロットの傍にとまった蝶と不思議な声の話を。

《Licht》
「青い、チョウ────」

 その言葉に目を開いて、言葉をなぞるように繰り返す。……その時、ロゼののんびりとした優しさが短い彼の髪を撫でた。『わ、ちょ。ロゼお前ホント……!!』ぽん、と頭の上に重ねられた手に驚いて、わたわたと手を振る。

 また小さい子扱いされている、とむくれて、リヒトは草の上で四つん這いになり、ちょっと後ずさった。

「お、オレ見た事ある。寮の中で。一瞬で消えちゃったけど……」

 なんとか手の下から這い出たら、ブラザーにそう言うはずだ。食堂の窓の辺りで、ふわりと飛んでいた青い蝶。

 彼がどんな話をしてくれるのか、リヒトはノートを開いて次の言葉を待っているだろう。

 リヒトの頭が手から抜けて、生温いぬくもりだけが残る。
 手のひらを数秒だけ眺めてから、 ブラザーの言葉に対する感想を口にした。

 「青い蝶って、何? コゼットドロップとか……洗浄室にこびりついてた液体にも似てるね。見てみたいな」

 見覚えがあるのは羨ましいが、すぐ消えたならそれは幻覚ではないのだろうか。 植物に関心はあるが、青い蝶など今まで見たこともない。海底でどう育ち、何を食べて生きているのか、全くもって想像がつかなかった。

《Brother》
「……僕が見たのはツリーハウスだった。シャーロットの傍にとまってたんだ。青白く光るような、それこそコゼットドロップみたいな蝶だった。
 ……あ、見る?」

 静かに口を開く。
 寮で見たと言うリヒトにぱちりとひとつ瞬きをしてから、目を伏せてゆっくりと語りだした。途中でふと気づいたように眉をあげれば、ポケットから丁寧にハンカチに包まれたコゼットドロップを取り出す。そっと中を開いて、青白く輝く花弁と花を二人に見せるはずだ。

「蝶を見ると、色んな人の声が重なったみたいな声が聞こえて……だんだん頭が痛くなってきた。倒れそうになると声も蝶もいなくなってたんだ。
 リヒトは、何か聞こえたりした?」

 二人に向けて花を見せたまま、あの時のことを思い出す。声がなにを話していたかを黙っているのは、特に関係ないと思っているから。言いたくない感情を隠すように理由付けして、二人の反応を待つ。その先を聞かれれば、少し躊躇いつつも口を開くだろう。

《Licht》
 青白く輝くコゼットドロップを、リヒトは初めて見た。ほう、と息をこっそり吐いて、ノートに取るのも忘れて束の間、見蕩れていた。

「聞こえは、しなかったけど……思い、出した。その、擬似記憶の忘れてた部分みたいなとこ。なんだろ……思い出の人、との、追加の、思い出……? みたいな」

 しばらく花を見つめながらブラザーの話を聞いて、リヒトは思い返しながらつっかえつっかえ言葉を重ね……急に不安になったのか、寮の方を振り向いた。

「そろそろ戻ろうぜ。散歩の休みにしちゃ、長くなっちゃったかもだし」

 テーセラモデルの良い目をもって、寮の方をまた見やる。黒い雨が足音も無く忍び寄っているような、そんな様子は無かったけれど、いつだって焦燥の中にいた。
 ノートをいつもの鞄にしまって、戻ろう、とそう促して、残りの二人をそろそろと交互に見ながら待った。その途中、躊躇いがちにタイミングを考えて、確かめるように口を開いて、閉じて、開いて、ようやく、声にする。

「……あのさ。ヨユーがあったらとか、気が向いたらとか、ふと思い出したからとかでいいからさ。
 ソフィア姉とか、フェリとか、みんなとか、気にかけてやってくれよ。……やっぱ、どうしたって、コレは、つらいコトだから」

 『もちろんロゼも、ブラザーさんもな!』と、ぴっと2人を指して、笑った。頼れる2人の前で少し話して、落ち着いた部分もあるのだろうか。大丈夫、ちゃんと笑えている。

 コワれた頭で考えて考えて、そのどれもがきっと間違えていたけれど。コワれた心で見つけられる、みんなの傷には限界があるけれど。このささやかな発見だけは、真実なんだと願いたいのだ。

 オミクロンクラスは、みんなで幸せになるってことを。

 声の聞こえる蝶。
 蝶にまつわる思い出。
 まだ少し遠い出来事を聞きながら、少女型ドールは目をパチパチしている。
 これから、自分たちはどうなってしまうのだろう。
 過去の出来事を思い出して、先生たちとも決別するのだろうか。それとも、海を超えて地上に戻るのだろうか。
 とりあえず今は、リヒトのお願いに頷くだけで済ませておきたかった。

 「いいよ。あんまり分かってあげられないかもしれないけど、頑張るね」

 人の痛みも、自分の痛みでさえ分からないが、慰めはトゥリアの専売特許だ。
 できることなら、可愛い弟分のためにこなしてみせよう。

 「お兄ちゃんも、帰ろう」

  ブラザーに向けて、手を差し出す。
 それが握られなくても、彼女はそこそこ元気に歩いていくだろう。

《Brother》
「うん、もちろん。
 僕はおにいちゃんだからね」

 リヒトの言葉に柔らかく微笑んで、ブラザーはしっかりと頷いた。トゥリアドールの動きは相変わらず優雅で上品で、とても頼り甲斐があるとは思えない。けれど確かに、ブラザーはおにいちゃんである。

 ロゼットの手をそっと握って、指先を手の甲に滑らせた。感触を確かめるようなそれは、触られた本人にとっては擽ったいかもしれない。そんなことを気にせず、ブラザーは続けて口を開く。

「……僕、みんなのこと幸せにしてあげたいんだ。そのためなら何でもする。
 だから、何か困ったことがあったらいつでも頼ってね。君たちが幸せになることなら、僕は喜んで協力するから」

 にっこり。
 とびきり甘ったるく笑って、ブラザーは2人の返事を待たずに歩き出した。一方的に、分かりにくく、自分の立場を示してはのんびり帰っていくだろう。不信のやさしい業務提携を、勝手に結びつけて。

【学生寮1F ダイニングルーム】

Sophia
Amelia
Rosetta

《Sophia》
 ──友人達との会話を終えたソフィアは、ダイニングへと戻ってきていた。とはいえ、無目的でここまで来た訳ではない。ソフィアが本当に用があったのはキッチンだ。故に、ダイニングに留まる理由はない。……が。

「……あら?」

 澄んだアクアマリンが目に留めたのは、同じく澄んだ色彩のペイルブルーの髪を揺らすドールだった。
 そこで。その鮮やかな青をきっかけに、ソフィアの脳にはある記憶が蘇ってくるだろう。

 それは、危ういもの。ただの一枚の紙切れだけれど、下手を踏むと『処分』を受ける可能性のあるような。けれど、その紙片に踊る文字には、探究心のみが詰まっているような。謎をくすぐり、ドールを脅かす、純情のパンドラ。
 知るべきではない。誰の目にも入れるべきではない。そう判断したソフィアは、あの日。その紙片を、破り捨ててしまっていた。
 それと同時に、この瞬間を待ち侘びていたのだ。ドールへの脅威となりうる、はたまた我々の鍵ともなるであろう、好奇心の塊と相対する時を。

「──ご機嫌よう、『ペイルブルードット』。

 ……ああ、アメリア……って呼んだ方が良かったかしら?」

 するり、と近づいて。ひどく冷静な、落ち着いた声色で、声をかける。我が主張であることを覆い隠したはずだのに、こうして解き明かされて偽の名前で呼ばれること、アメリアのならば恥ずかしくて仕方がないはずであると、ソフィアは理解していた。だがわざわざその呼び方を取るのは、彼女の悪戯心ゆえだろう。

「悪いけど、あの『メモ』は処分させて貰ったわ。お・は・な・し、付き合ってくれるわよね? 何の話かはもうわかってると思うけど。」

《Amelia》
「んなっ……!!!!」

 扉が開く音、お父様が戻って来たのか……或いは他のドールか、どちらにせよ予定通りペンを落として探しているふりをしよう、とかがみこんだ彼女はしかし、直ぐに立ち上がる事となる。
 聞こえてきたソフィアの声と、そしてペイルブルードットという名前、一番知られたくないドールに全てを知られた上で目の前に晒し上げられたのだ、アメリアの反応は想像に難くない。
 その頬は分かりやすく真っ赤に染まり、怒りだか恥ずかしさだか分からない感情が頭の中をぐちゃぐちゃにかきまわしていた。


「……っ! ソフィア様はアメリアにそれを言う意味を……いえ、愚問でした。
 分からない筈がございませんね。」

 ……が、それを上回る言葉が彼女の頭の中に氷で出来た刃の如く突き刺さった。
 メモを処分した、その上で話をしたい、と。
 つまり、「お前が何かをしている事を知っている。その上で、そのしている事を邪魔しようとしている。さあ、話をしようか」という事実上の宣戦布告宣言として受け取ったアメリアは急速に冷えた頭で問いかけようとして……。
 愚問だったと訂正して話の続きを待つ。
 そんな一触即発の空気が流れるダイニングルームに……。

 「ふたりとも、こんな所で何してるの?」

 ひょっこり現れたのは、知性とかけ離れたトゥリアのドール・ロゼットである。
 剣呑な空気も厭わずに、ソフィアとアメリアの側まで行くと、薄く微笑んでみせた。

 「あなたたちが話してるの、珍しいね。デュオのドールだし、頭のいい話とかしてるの?」

 見たところ、ふたりがどのような話をしていたのかは聞こえなかったらしい。
 文字通り傍観者らしい爛漫さでもって、小首を傾げて答えを待つだろう。

《Sophia》
「ぷっ……あはは! かおっ……まっか! あはは、あははは……はーあ、そんなに睨まないでよ。喧嘩をしたい訳じゃあるまいし………。
 ──って、ロゼット?」

 ぬるりと間に割って入った第三者は、艶やかな赤薔薇のごとき髪を静かに揺らす少女ドール、ロゼットだった。今日も今日とて、彼女は花弁のようにひらひら、ふわふわと舞うような居振る舞いを見せる。
 予想外の人物の姿に、ソフィアは一瞬だけ目を丸くした。しかし、そのアクアマリンは直ぐにいつものような賢明な鋭さを取り戻す。

「……ちょうど良かった。あなたにも聞きたいことがあったのよ、ロゼット。」

 そこまで言い終わると、ソフィアは周りを見渡して、誰もいないことを確認した後。声を小さく小さく潜める。

「……ここからは、声を落としてちょうだい。──このトイボックスについて知ってる事、教えてちょうだい。あなた達は、この箱庭の裏に触れているはず。」

《Amelia》
「頭がいい……というよりは頭の痛いお話ですね。」

 ソフィアの笑い声に不機嫌そうにしながら、やってきたロゼットに言葉を返す。
 実際、頭の痛い話だ。
 なんたってプリマの、しかも同型のソフィアが気付いたら敵対していたのだ。
 完全なる上位互換相手が気付いたら敵だったなんて悪夢でも足りない。

「つまり、ソフィア様はこのトイボックスについて知りたいけれど他のドールには知られたくない。
 そういう立場なのでございますね?」

 その為、ソフィアの喧嘩をしたい訳じゃないという言葉に警戒を緩めないようにしつつ、状況を確認する為に慎重に質問を行う。
 そして、答えを聞く前に。

「その上で、話をしたいと言ったなら。
 何か言いたい事があるのでしょう?」

 直ぐには情報を渡すつもりはないという意思を込めて問いを重ねる。

 「今まで見えていなかった事実を裏って呼んでるなら、そうだよ」

  ソフィアの言葉に、あっさりとした肯首で返事をした。
 聡明なアクアマリンは冷静であろうとしている。情報の伝播による混乱を防ごうとしているのだろう。
 だが、そもそもその裏というものに情緒を揺さぶられることのないドールも存在するのだ。
 ロゼットは悪怯れる様子もなく、「アメリアも知ってるよね」と声をかける。
 何やら神妙な話が始まっている、というのは分かるが──頭を使うドールがふたりもいるのだ。トゥリアができることなど、茶々を入れるくらいだろう。
 どこか悪巧みをするように、彼女はふたりの話に耳を傾ける。

《Sophia》
「………………」

 アメリアの重みを含んだ問いには、返答をせず。静かにロゼットの言葉を聞き届ける。
 少し経って静まってから、ソフィアは改めて口を開くだろう。

「……場所を変えましょう。ここで話を続けるべきじゃない。二人とも着いてきてちょうだいね。」

 ぶっきらぼうにそれだけ言って、スタスタとダイニングの出入口へと足を運ぶ。そうして、そのままソフィアはあの埃臭い図書室の、一番奥の──秘密の話をするには最適なあのスペースへ向かう。あなた達ならば、きっと着いてくるだろうと信じて。

【学生寮3F 図書室】

《Amelia》
「……良いですよ。」

 慎重に、ソフィアの提案を受けて、歩き出したソフィアの背後でノートとペンを鞄に仕舞い、代わりにパームマジックの要領で袖に隠しながらナイフを取り出して歩き出す。
 階段を上り出し、三階まで至った辺りで彼女は先程よりも警戒を強め、ちらりと窓を見て……逃走経路には使えなさそうな高さである事に歯嚙みをしてから。

「それで、先程の問いに応えずにこの場所を選んだという事はそういう事なのでしょう?」

 図書館の隅で足を止めたソフィアに問いかける。

 散々話してきたロゼットとしては、ここで話し合いをしても構わないのだが、特段断る理由もなかった。
 「いいよ」と口にして、彼女はのんびりふたりについていった。
 図書室の隅まで来たことはあまりなかったためか、あちこちを見回すが、まあ一応聞くつもりはあるだろう。
  ソフィアが何を言い出すか、のんびりした調子のまま佇んで待つことだろう。

《Sophia》
「………そうね。さっきあなたが言ったことは、全て合ってる。
 あたしはトイボックスのことを調べてるし──その情報を、なるべく行き渡らせないようにしたいのも、事実。」

 きらきら埃が舞う図書室は、水を打ったようにしんとしている。ごくごく小さな話し声は、空気の振動に巻き込まれてかき消されてゆくだろう。
 ソフィアは控えめなため息を吐いた後、たんたんと事実を述べてゆく。アメリアを真っ直ぐと見据えるそのアクアマリンに、虚偽が含まれていないのは明らかだ。

「……二人とも、もう薄々わかってるんでしょう。このトイボックスは、ドールを幸せな道に送り出す為のあたたかな箱庭じゃない。
 けれど、それを知っても尚……『トイボックス』という夢の中で生きてると、その振りをしないと、箱庭はきっとすぐに牙を剥く。」

 その声は、ただ静かに、しかし力強く。両名の耳に、しっかりと届くはずだ。芯の通った、何よりも真剣な声であった。

「ロゼットが何を見たのかはあたしも何となく知ってる……だから後で聞くわ。
 アメリア。あなたは好奇心旺盛な子だから、きっとこれからも……何も言わなければ、謎を求め続けるでしょうね。だから、今の内に言っておかないといけないことがある。……でもその前に、教えて。あなたは一体、どこまで知ってるの?」

《Amelia》
「その為に、情報は選ばれた者にだけと、そう申したいのですか?
 傷つくかも知れない、或いは死ぬかもしれないのだから調べるなと、そう申したいのですか?
 ディア様とおな……いえ、恐らくお披露目の舞台に忍び込んだメンバーからしてそもそもプリマドールで共有された考えということですか」

 箱庭に牙を剝かれないように情報をなるべくいきわたらせないようにしている。
 そう言ったソフィアの言葉からアメリアはほんの少しだけ相手が密告を狙っている訳ではないと考え警戒を緩める。

 ……と、同時にお披露目に潜入したのはプリマドールの四人だった。
 と、過去のディアの言動と、リヒトから見せられたノートから推測し、この情報統制はその四人が協同して行なっているのでは? と考え、問い、というよりは確認に近い言葉を返した上で。

「では簡単に行きましょう。
 リヒト様のノートに書かれていた内容と、追加で2、3と言った所でしょうか」

 曖昧に、けれど最低限伝わる形で答える。

 ソフィアも、アメリアも。きっと悪意なんて一ミクロンもなくて、オミクロン全体のことを考えた結果、こんな空気になっているだけなのだろう。
 疑念とはおぞましいものだ。これほど簡単に空気をひりつかせることができる。
 クラス中に広まってしまえば、学園全体が針の筵となることも想像に難くない──と、耳を傾けたトゥリアは思う。
 言いたいことこそあるけれど、彼女が口を挟む時間ではないのだろう。まだ少し、トゥリアのドールは黙っている。

《Sophia》
「……知ってしまったあなたを止めても無駄でしょ? 調べるな、なんてことは言わない。……けど、まだこの事を知らない子に簡単に伝えてしまうのは、ダメ。だからメモも処分したの、何も知らない子が知らなくていい知識を得てしまわないように。
 ……閉鎖的な箱庭で、絶望だけ与えても意味が無い。まだあたし達はそれを回避する術を得ていない。リスクのみ与えるのは、合理的とはとても言い難い……わかるでしょ。
 ……はあ、ディアから何か聞いたからこう詳しくなってるのね……」

 無機質な声で答えていたソフィアは、最後に呆れたような、苦言をこぼすような声色で、ため息とともに言葉を吐き出した。

「リヒトのノート……そう。いつ見たものか分からないけど、お披露目についてはどっちも知ってるの?
 ……それじゃ、その追加の情報について、先に話して貰おうかしら。」

 どっちも。伝わる者には伝わる……と言った風な言い方をするのは、なるべく周囲に警戒を払い、言葉をぼかすような意図があるのだろうということを、賢いアメリアは察知できるはずだ。……この話が、本当に伝わるならば。
 ガラスの切っ先のように鋭さを増した視線が、ゆっくりアメリアの瞳に向けられる。それは、選択権はないと言うように。僅かな威圧を孕んだ視線だ。

《Amelia》
「絶望、ですか。
ソフィア様が絶望するのは勝手でございますが……アメリアをそれに巻き込まないで下さい。
 それに、知ることによるリスクと知ることによるメリットはトレードオフでしょう。
 自分一人で何とかなるのでもない限り、その答えは結果論でしか語れませんよ」

 ソフィアの言葉に対して、アメリアは突き放すように答える。
 絶望するかどうかは余りにも不確かな話だし、更に言えばリスクのみではなく情報を知り、行動を起こせるようになるというのは明確なメリットだろう。
 それに対処法を見つけるまで何も教えないというのは、それこそ甘いジュースで毒薬の苦味を誤魔化すような、余りにも現実逃避じみた苦痛の緩和にしかなりはしない。
 何故なら……このトイボックスは根本的にドールズに違和感を抱かせるように作られているのだから。

「それで、リヒト様のノートに書かれていなかった情報について、ですか。
 嫌です。というか、自分のやりたい事を納得の出来ない理由で邪魔すると宣言し、あまつさえ交換をする気すらないように見えるお方に何もなく従いますか?

 そんな訳がないでしょう。」

 だから……星を見つめ、4.2光年の彼方まで歩き続けると決めた小さな惑い星は強い意思を以ってソフィアの要求を突っぱねる。
 もしも、情報を提供する理由がこのまま提示されなければアメリアはこの場を立ち去ろうとするだろう。

《Sophia》
「あなたは、そうかもね。……けれど、そうじゃない子もいる。
 ……どうやらちゃんと伝わってないみたいね? デュオドールさん。分かりやすくもう一度教えてあげるわ。『ここで話した事は、気軽に人に漏らさないこと』。
 ……愛してきた箱庭に裏切られて。それに気付かないフリをして、あの男に……先生に悟られないようにしないといけない恐ろしさを。奴と顔を合わせる度、コアが嫌に脈打って、背筋が凍る気味の悪さを。味合わせるにはまだ早いって、そう言ってるの。」

 はあ、とため息を吐いて。アメリアを貫くアクアマリンは、よりいっそう鋭さを深める。それはまるで、研ぎ澄まされた鋼の刃のように。

「やりたい事、ねえ。あなたがやりたい事っていうのは謎をお友達に教えてあげること? ハッ……。
 聞きなさい、アメリア。これはみんなで解くための謎解きパズルなんかじゃない。一挙手一投足が常に監視される、命がけの戦い。
 ──この箱庭から全員で逃げ出せるように光明を見つけ出すのがあたしの使命。その為に、どんな些細な事でも情報は掴まないといけない。
 だから、これはお願いじゃないわ。──話して。
 ……安心なさい、ここまで聞いて貰ったんだから当然あなたにも手伝ってもらうつもりだし……あたしの知っている事も教えてあげる。あなたが話してくれれば、の話だけど。」

 馬鹿にするような口調と、嘲るような笑いの後に。それは斬撃のごとく強い口調であった。……あのお披露目が、妹のように愛しいあの子を奪ったお披露目がある前のソフィアは。いつも太陽みたいな笑顔を振りまいて、欲望に抗えないと嘆くアメリアのことを、簡単に……されど強く、意志を以って肯定できるような、心に握った剣を、決してクラスメートに向けることは無い、そんな人物だった。
 ソフィアは今、ただあなたに、刃のように鋭い視線を突き付けている。本気であるのが伝わる──と言うのは、あくまでも贔屓目な形容にしかすぎなくて。……優しさという名の、強さは、どこへ行ってしまったのだろう。あなたがもしソフィアをほんの少しでも理解し、歩み寄り、幾分かの情を抱いていたのなら。余裕のない──弱っているソフィアを見て、何を思うだろうか。

《Amelia》
「同じ言葉を先程言いましたよ、ソフィア様。
 絶望をするのもしないのも、怯えるのもそうでないのも、それは皆の自由であってソフィア様が決める事ではございません。
 それに、その理由では知ることによって処分されることよりも怖がらせる事を気にしているように聞こえてしまいますよ。」

 鋼は更に鋭くなる。
 それは切りつけるようで、突き刺すようで、恐ろしい代物だった。
 けれど……今アメリアの心を動かすのには向いていない。
 何故なら、それは傷つける物であって押すものでは無かったから。

「また決めつけましたね、ソフィア様。
 それに、お願いではないと来ましたか。
 知っている事の概要が予測出来る物をアメリアは話している。ソフィア様は話していない。
 アメリアのやりたいことをソフィア様は決めつけた。アメリアは問いかけた。
 そして、お互い何があろうとやりたい事はやり通すでしょう。
 以上です。
 ソフィア様の言葉にアメリアは従えません。」

 そうして、極めつけに飛んできたのは嘲りだった。
 ソフィアらしくない、怯えた手負いの獣じみた言動にアメリアは冷たく断じる。
 「アメリアはそれでは動かない」と。勿論、アメリアがソフィアやフェリシアや、或いはディアのようであったらこの時、「どうしたのですか、ソフィア様らしくない」と言えただろう。けれど……アメリアは哀れまない。
 その痛みを知っているから。
 アメリアは助けない。
 自分が強くなどないと知っているから。
 だから、アメリアはソフィアから視線を外さないようにゆっくりと歩いて、後ろ歩きで通い慣れた図書室を出て行こうとするだろう。

「それでは、アメリアを話させる用意が出来たら、またお会いしましょう。」

 けれど、同時にアメリアは見捨てない。
 助けるというのは、共に助かるものなのだから。

《Sophia》
「それはあなたが謎解きを広めたいっていうエゴを貫く理由にはならないんじゃなくて? 恐怖に震えながら態度には一切出さないなんて難しいことでしょ。……どうしてそうあたしを言い負かす事に躍起になるのかしらね。つまりあなたは、そうまでして呪いを与えたいの?」

 攻撃的な言葉だ。心を抉り取ることを目的とした、まさしく脅しのような。 
 そうして、長くため息を吐いた後──後ずさり、この場から去ろうとするアメリアを引き止めることもせず……いや、できずに。静かに視線をアメリアから逸らし、伏せる。
 ポツリと、一言。「……馬鹿な子。」と、呟いた。

 顔を上げたソフィアは、改めてロゼットを向き直る。

「待たせて悪いわね、ロゼット。……それじゃあ、話を聞かせてくれる? 柵の外に出て、ツリーハウスを見たのは知ってる。そこで一体、あなたは何を見たの。」

 沈黙を保つ赤薔薇は、何も考えていないような顔でプリマを見ていた。
 いつものような微笑みを浮かべることもなければ、疑念や不信のこもった無表情を貼り付けるでもない。
 ただ、感情の抜け落ちたかんばせを相手に向けている。

 「色々見たよ。でも、教えない」

 銀の双眸に映るあなたは、どんな顔をしているだろうか。
 ぱちり、シャッターを切るように瞬きをする。

 「今のお姉ちゃん、何だか怖いんだもの。アメリアに酷いことを言ったり、私たちのことを決めつけたり……私たちが性能の低いドールだから、そんなことを言うの?」

 あなたたちが“ヒト”について隠してるの、知ってるよ──。
 淡々と、彼女は話を続ける。
 トゥリアは話を聞く力が高いというが、決して自分から話をする能力がないわけではないのだ。
 ただ、それが他者に寄り添う形であるとは限らないだけで。

 「手伝ってあげたい気持ちはあるんだ。でも、それは使命のためじゃなくて、対等な仲間だからだよ。あなたが一方的に助けて“あげる”って言うのなら、私は何もしない。“ソフィアお姉ちゃん”はそんなこと言わないもの」

 音も立てず、彼女も席を立った。
 つまらなさそうな視線は、冷ややかにデュオドールを撫でていく。
 それはすぐにそっぽを向いて、身体ごと出口の方を向いた。

 「みんなあなたが思うほど弱くないし、先生や“ヒト”だって悪い子じゃないと思うよ。もう少し頭を冷やしてから、また話をしよう。じゃあね、ソフィアさん」

 彼女もまた、テーブルから離れて行こうとする。
 さほど歩みは早くない。止めることだって、そう難しいことではないだろう。

《Sophia》
「……………は、」

 ムーンストーンのシャッターは、歪にひしゃげたアクアマリンのひと刹那を切り取るだろう。ソフィアは、至極勝手に、無意識のうちに、『あの』ロゼットが断るはずがないと思い切っていたのだ。その歪な眼は、信じられないものを見たかのような物だった。日頃、他人に何でも流されるなとロゼットに言うのは、ソフィアなのに。ソフィアは、傲慢にもこんな時には『それ』を利用しても許されるのだと、無意識下で信じていたらしかった。
 真っ当な意見を述べ立てるロゼットに、言いたいことも言うべきこともいくつもあったが。それを口に出す事も出来ずに、またゆっくりと去るロゼットを呼び止めることも出来ずに。咄嗟に伸ばした手は虚空を掴んで、そのまま緩やかに埃の積もったテーブルに着地する。

「…………ッッ!」

 ひとりきりの図書室に、バン! と轟音が鳴る。力の籠った殴打を受けて、古ぼけたテーブルの材質が歪む音だ。その衝撃を与えたのは、先程無意味に伸ばしたばかりの、ソフィアのか細い手だった。鼓膜を破るような激しい音に反して、そのてのひらが出来た事と言えば、机上に積もった埃を舞い上がらせることくらい。
 光が反射して、埃がきらめく。降り注ぐ星屑の中で、傲慢な少女はやがて体勢を保つ力を失い、へなりとその場にしゃがみ込むだろう。なにか運動をした訳でもないのに、異常に息を荒らげて肩を揺らす様は、まるで悪魔にでも取り憑かれたかの様だった。

「……ッなんで、わかってくれないの……」

 水面に拡がる小さな波紋のように、静かな声だった。自分が受け入れられない事の責任を転嫁して自分を護る。人間よりも愚かなドールは、果たしてドールとしての存在意義などあるのだろうか。無人の図書室に、幼い少女のすすり泣く声だけがこだました。

【学園1F ロビー】

 お披露目のことなど素知らぬ風に、ロゼットはロビーに入る扉を開けた。
 ソフィアと別れてから、まださほど時間は経っていない。アメリアを探すこともできただろうが、今のところはやめておいた。
 当面の目的は、ドロシーかジャックと話すことだ。
 皆がしようとしていること──ひいてはロゼットのやりたいことを達成するためには、彼らの協力は不可欠だろう。
 まずはロビーから、彼女は探索を開始する。

 オミクロン寮から昇降機に乗ると、学園の大広間に辿り着く。このロビーはいつ見てもどこか薄暗い。窓が無いので採光は等間隔に設置された燭台の灯火のみ。火に浮かび上がるようにぼんやりと照らし出される通路は、壁も床も赤一色で統一され、気品は感じられど健全な学園らしい活発さは感じられまい。
 行き交うドールズも俯いて教本を眺めているか、小難しい授業内容について談義しているか、あるいは足早に次の授業場所に向かっていくかのいずれかで、ロビーはドールズの交差する中央広間というには、嫌に閑静な空間であった。

 大切な決まりごとに、各クラスの定期適性考査結果。
 それから、衣装搬入の予定に関する伝達事項。
 恐らく、最後はお披露目のものだろう。衣服がどのように運送されてきているのか、そういえば聞いたことがなかった気がする。
 何やら大切そうなことが書かれているのは分かるが、ひとまずはゆっくり見ていこう。
 どうせ待ち人が来るとは限らないのだ、それならもう少し有意義に時間を使うのがよいだろう。
 掲示板の『大切な決まりごと』から、ゆっくりとロゼットは読んでいく。
 皆に伝えられることはあるだろうか──なんて、のんびり考えながら。

《たいせつな決まり》
・いつか出会うヒトに尽くすため、日々の勉強には努力して取り組むこと。
・朝は7時に起きて、夜は21時に必ずベッドで休むこと。
・夜に外を出歩かないこと。
・身なりは清潔にしておくこと。
・身体に傷が残る怪我は “絶対に” しないこと。
・他のドールズを傷付けないこと。
・あなたたちを教え導く先生たちを傷つけないこと。
・アカデミーや寮の設備は壊さずに大切に使うこと。
・寮の外、柵の先へは行かないこと。
・ヒトに背かないこと。

 これは、あなたもよく知るドールが必ず守らなければならない大切な決まりごとだ。寮のエントランスホールにも、ドールズへ戒めるためにきちんと掲示がなされているのを覚えている。
 他クラスのドールは几帳面なぐらいにこの決まりを守り、粛々と暮らしていることもあなたは知っている。この掲示についてこれ以上のことは読み取れなさそうだ。

 欠伸が出るほど退屈な、見慣れた条文だ。
 “ヒト”に従順に、“商品”として美しく、無垢なままで。
 子羊への信仰の強制とでも言うべきだろうか。普段意識していなかったそれは、今では文字の羅列としか思えなかった。
 他のドールたちは、立ち止まるジャンクを気に留めず歩いていく。ロゼットだって、特段気にすることはなかった。
 背後から声をかけられても、きっと普通に返事をするのだろう。相手が誰であれ、誹られない限りは、普段通りの笑みを浮かべて。
 続いて、彼女は各クラスの定期考査に目を落とす。まずはエーナとデュオからだ。

 定期考査の結果の掲示は、この掲示板の多くを占める大きなものだった。定期DoLLs適性考査結果──これは各モデルごとのドールズがどれほど優れた能力を持つのかを細かく確かめる為の試験である。学園内で定期的に実施されており、クラスごとに試験内容は細かく異なる。

 あなたもまたこの試験を受けた。あれはミシェラがお披露目に行くよりも少し前の事だった。これまでも──あなたがオミクロンに落第する前にも、何度かこの試験を受けている。

 試験内容はモデルの役割に特化したもの。例えばエーナならば対話能力や記憶保持を確認するものであったり、デュオであれば知識量や学力の確認であったりする。


 あなたはエーナとデュオの試験結果をじっくり確かめる。結果は個人の出来を詳細に明らかにするものではなく、単純に順位だけを掲示している様子である。
 首位に輝くのは当然、プリマドールの称号をもつ面々だ。エーナクラスの現プリマ・セオフィラスに、デュオクラスの現プリマである、ベガ。

 更にオミクロンには誇るべき元プリマが四名も存在し、彼らもまた以前は成績上位を固く守っていたのだが──あなたはそこで気付く。その掲示において、ソフィアの成績が著しく低迷しているのだ。
 アストレアもまた、ソフィアほどではなくとも首位近くではなく明らかに順位が落ちている。

 果たして、これは一体どういう事なのだろうか? オミクロンに落第したから、成績が落ちているとでもいうのだろうか。
 また、オミクロンのその他の面々──フェリシアやアメリア、エルなどもかなり下位の方へ成績が落ち込んでいるようだ。

Astraea
Rosetta

《Astraea》
 その時、月魄のドールは、その腕に幾つかの本を抱えたままに1人、歩いていた。
 草の露にしとと、と濡れた飴色の踵を鳴らせば、長い長いトンネルに不気味にこだまする。いずれ、その先、ぽつり、と寂しげな昇降機に辿りつけば、いつもの如く、ボタンを押して乗り込んだ。使い慣れた昇降機がゴウン、と鳴って、それは何れ止まる。ゆっくりと開いた重い金属の扉の先から差す光はごく暗くて、ローファーの沈むカーペットは劇場のロビーを思わせた。

 何気なく周囲を見渡せば、覚えのある赤髪を見留めて、その背中へと声を掛けるだろう。いつも通り、王子様の笑顔で。

「ごきげんよう、My Dear Rose.」

 「ごきげんよう、王子様。何を読んでるの?」

 思ったよりも元気だな──というのが、様子を見た時の感想だった。
 自分が破壊されることが分かっているのに、いつも通り赫灼としている。
 気丈に振る舞っているのか、それとも本当に恐怖を感じないのか。どちらにせよ、素晴らしい胆力であると言えるだろう。

 「暇だから、掲示板を見てたの。お披露目に関わりそうなこととか、書いてあるよ」

 気にならない? なんて口にして、彼女はまた視線を戻す。
 話しかけられれば、文章を読みながら返すことだろう。

《Astraea》
「これはグリムの童話集さ。
 もうすっかり暗記してしまっているのだけれど、最後の確認、と云った所かな。」

 ベルベットの表紙に金の文字で記されたタイトルを見せては、軽く肩を竦めて笑って見せた。
 お披露目と云う名の死刑宣告を受けた後でも、アストレアは至っていつも通りで、そのかんばせに浮かぶのはいつも通りの麗しい笑顔。
 本来ならば、頭を抱えて蹲ってしまいたいほどの恐怖をその心の内に抱えながらも、その二本の足で今もしっかりと立っていた。彼女は、本当に強いドールだった。

「おや、それは興味深い。
 僕はお披露目に行くのだから、それなりの心構えをしなくては、ね。」

 そう返せば、彼女もそのラピスラズリを掲示板へと向け、ロゼットの云う"お披露目に関わりそうなこと"の情報を得ようと。

 “ヒト”に仕えるモノ、という体はあくまで保つつもりらしい。
 笑顔を見せるアストレアに、ロゼットも微笑みで返した。
 上手くいけば、彼女も生き残れるかもしれない。
 そんな甘い気持ちが、残っていないと言えば嘘になる。
 だが、現実は非情である。
 策もなく、策を立てるための情報もない今、できることと言えば応援してやるぐらいだ。
 死の恐怖を和らげようとするしかできないなんて、トゥリアとして情けないにも程がある。

 「童話集、いいね。あなたが語ってくれるなら、嵐の夜でも寝付けそう。主人になるヒトが羨ましいよ」

 思ってもいないことが、すらすらと口から出ていく。
 止めてほしい気持ちもあったけれど、ここから去る相手の心中を乱したくないという気持ちの方が大きかった。
 アストレアも掲示板を見るのであれば、内容についてコメントするだろう。

 「ねえ……オミクロンのみんなって、こんなに成績が低かったかな?」

《Astraea》
「……いいや? 他の子はよく分からないけれど、ソフィアがそこまで低いとは到底思えないよ。
 彼女の脳は非常に秀逸で、オミクロンに堕ちた位で成績が落ちるだなんてことはまず無いだろう。」

 怪訝そうな面持ちで、横から結果を覗き込めば、自分を含め、オミクロンの面々の成績があまり芳しく無い事に気がつくだろう。
 自身は精々四、五位程度の転落であり、調子が悪かったと云えばそれまでなのだろうけれど、彼女が叡智、と呼ぶかの極めて優秀なドール、ソフィアの成績が低迷しているのは、彼女の目には至極異様に映った。
 オミクロンだから? ソフィアの成績が低い? そんな馬鹿な話、あるはずが無い。一体裏でどんな陰謀が渦巻いていると言うのだろうか。嫌な予感がして、一つため息をつけば、そのままその視線を他の掲示へと滑らせた。

 幾つかの掲示物が並ぶ中、次にアストレアの目に留まったのは、『衣装搬入の予定に関する伝達事項』と云う掲示。
 彼女はまだ、彼女自身がお披露目で着る予定のドレスを目にして居なかった。オミクロンにもドレスは用意されるのか? ミシェラはどうだっただろうか、だなんて、その頭の隅に考えながら、その文字列を読もうとする。

【衣装搬入の予定に関する伝達事項】
 次期のお披露目の為の礼装・装飾品等、計9点のデザイン認可と学園内への輸送が僅かに遅延しています。お披露目前に各クラスの学生寮へ預けますので、該当するドールの皆さんは忘れずにご確認をお願いいたします。

── エーナクラス
 ウェンディさん

── デュオクラス
 オリヴィアさん
 デイジーさん

──オミクロンクラス
 アストレアさん

 連絡事項は以上となります。

 彼女の言う通りである。ソフィアのモチベーションは立場に依存するものではない。
 だからと言って、他のドールが急激に追い上げている──というわけでは、ないのだろう。
 間違いなく、何かしらの力が働いている。
 こっそり、身体がくっつく距離まで近付く。ロゼットの常套手段である。

 「あなたが知っていることを知っているから、訊いてみたいんだけどね。これ、お披露目に行きそうなドールほど下にいるんじゃないかな」

 どう思う、なんて。
 トゥリアとテーセラの成績表に目を通しながら、彼女は訊いてみる。

 あなたは更に、トゥリアとテーセラの試験結果を確認する。こちらもまた、結果は試験の詳細でなく、順位のみを分かりやすく掲示しているようだ。
 こちらの首位に輝くのも、当然プリマドールの称号を持つ者達。トゥリアクラスの現プリマ・ティアナリリアに、テーセラクラスの現プリマであるバーナード。

 以下、あなたもクラスで見知ったトゥリアのドールの名も散見された。

 オミクロンが誇るべき元プリマの面々──ディアとストームに至っても、エーナ・デュオの結果と同様、成績が低迷しているように見える。とてもプリマドールの称号を持つようには思えないほどに低い成績だった。特にストームの方は顕著であり、ソフィアにも並ぶほどに成績が暴落している。

 トゥリアクラスでは、あなたやブラザーはクラス内でもプリマに匹敵するほどの良い成績を収めていた。それはオミクロンになっても変わらず、あなた方は自身の能力が明確に落ちたという感覚もない。
 にも関わらず、あなたの順位はかなり下位の方へ落ちてしまっている。

 これは一体どういうことなのだろうか。

《Astraea》
「そう、君は知っているのか。
 ……そうだね、お披露目に行きそうなドール程下にいる、面白い考察だけれど、それにしては僕がお披露目に行くのに些か違和感があると思わないかい? その論で行くのならば、きっとソフィアや他の子の方が先にお披露目になってしまうはずだから。
 お披露目へ行く基準が分からないな……嗚呼、残念だ。全ての謎の答えを知る前に去らなくてはならないのだから。」

 身体を近付けたロゼットに特段何の反応も示す事はなく、ただ興味深そうにその考察、見解を受け止めては、改めて順位に目を通して。
 "あなたが知っていることを知っている"と云うことは、このドールは既にお披露目の真実について情報を持っている、と云うことだろうか。未だ確信は持てないけれど、アストレアは微かにその身体の緊張を解いては瞳の奥に朧げな冷たさを滲ませた。残念だ、なんて言っては形の良い眉を下げて笑った。

 礼装、装飾品等輸送の遅延。
 どうせ殺戮の限りを尽くされるだけだと言うのに、一体どうしてあそこまで飾り立てる必要があると云うのだろうか? あの化け物は、カラスの様に光る物が好きな性質なのだろうか、それとも、純粋無垢なドールたちをただ騙すためだけにわざわざ……?
 考え出してはキリのない思惑だけがただ頭の中をぐるぐると駆け巡る。その根底にあるのは、学園への懐疑と恐怖、そして、輸送元への興味。この巨大な箱庭の外には、どんな世界が広がっていると言うのだろうか。
 ……彼女は何を知ることをももう叶わないのだけれど。

 言われたら、まあ、確かに。
 かなり首を傾げて、ロゼットは目を細めた。
 頭を使うことは得意ではないし、かと言って頭を使わなくても死んでしまうし。ここは何と生きにくいビオトープだろうか。

 「お披露目に行っても、何とかなるかもしれないよ。ソフィアさんが助けに来てくれるかもしれないし……まだまだ悲観することはないよ、王子様」

 衣装の搬入に目を通しながら、彼女は口にする。
 きっと全部嘘だ。
 脳裡に魂の抜けたドールがよぎって、一瞬微笑みを保っていられなさそうになる。

 「王子様の衣装、楽しみだなあ」

 楽しいことに意識を向けて、彼女は何とか表示を崩さずにいられた。
 世界を覆う薄膜は、まだやわらかく、ロゼットの認知を阻んでいる。大丈夫。まだ彼女は傷付いていない。

 「衣装を運んでくる場所がどこか、分かったらいいのにね。色々見られたらきっと楽しいよ」

 冗談めかして、なんとかひと言口に出した。

《Astraea》
「なんとか、ね。まだまだ諦めてはいけないよね。ふふ、親友に期待しておこうか。彼女は優秀だから……」

 だなんて、ちっとも思っていない言葉ばかりがつらつらとその口をついて出た。とっくのとうに諦めたはずの脆い作り物のコアは、もうすぐ止められるとも知らずに、未だその身体の芯で暖かく動き続けているというのに。
 ソフィアは優秀だけれど、なんとかして欲しいだなんて思っていない。他の子達の、親友達の、相棒の、大切なドール達の変わりにその命を賭すことが出来るのならば、そんなに素敵な事は無い、そうでしょう?

 コアの奥底に渦巻く気持ちの悪さには、気付かないふりをした。

「ロゼット、君は──

 ……否、そうだね。早く礼装を着てみたいな、ここに居られるのも最後だもの、とびきり綺麗な姿で旅立ちたいよ。」

 何を知っているの?
 問おうとして──辞めた。
 彼女の微笑みが朧げに揺らいだのに気が付いて、それでも気付かぬふりをした。無責任な質問は、確かに苦しみを伴うから。
 変わりに、と言っては少し違うけれど、月魄のドールはうっとりと、夢を見る様に、死装束への憧れを述べてみた。
 どうせ死ぬのなら、美しい姿で死んでしまいたい。

 その“親友”と仲違いしていることは、ついぞ知らせず。ロゼットは「何とかなるよ」と、無責任な言葉を口にした。
 ソフィアへの過信と、アストレアの心中を推し量り損ねたが故の行動であることは、きっと本人も気が付いていないのだろう。
 礼装を着たいという言葉にも、彼女は深い意味を見出さなかった。
 他者を導く、エーナの美しいドールだからこそ、その体面を保ったまま機能を停止したいのだろう──というくらいで。

 「あなたの衣装、どんなものになるんだろうね。ドレスなのかな。それともタキシード? 見られないのが本当に残念だよ」

 それも全て焼かれてしまうけれど。
 なんて、残酷なことは口に出さないまま。頷きながら言葉を返して、一旦口を閉じる。
 何も知らないままであれば、無邪気に送り出すことができたのに。

 「ね、最後にハグしてもいい? 幸運を祈りたいんだ」

 掲示板からアストレアに向き直り、ロゼットは両腕を広げる。もしも承諾されたなら、トゥリアの全力でキツく抱き締めることだろう。
 その気高い意思が打ち捨てられぬように、幸運を分け与えるように。コアの音さえ聞こえそうな距離で、「気をつけて」と囁き、アストレアを解放するはずだ。

《Astraea》
 お披露目を直前としたアストレアに、ソフィアの他者との軋轢に気が付く暇などある筈も無く、当然、目の前のドールがソフィアとすれ違ったことなど、彼女の知るところでは無かった。

 アストレアは笑っていた。

「どうだろうね、君たちにも晴れ着を見せられれば良かったのだけれど。」

 はぁ、とボディの内に溜めた空気を、機械的に吐き出せば、その胡乱な視線を何処かへと流して。
 きっとドレスはまだ届いて居なくて、お披露目までの猶予が無いことを知っていた。
 眠りにつくその時まで、一体僕は、何をするべきであろうか。

「嗚呼、勿論。
 君もね。幸運を祈っているよ。」

 優秀なトゥリアドールの愛を、その全身で受け止めた一体のエーナドールは、それでもその表情を差程変えることもなく、その長い御腕で抱擁し給った。対象的な紅白の華が耽美に絡み合ったと思えば、その体温はいずれ一つになって、またゆっくりと二つに戻るだろう。
 去りゆく薔薇の花にその慈悲の玻璃を向けて、彼女は祈った。
 もう、誰も犠牲にならぬ様に。
 それでも彼女は分かっていた。現実はそう甘くないと。

【学園2F 演奏室】

 アストレアと別れてから、ロゼットは演奏室を訪れる。
 今の所はドロシーのドの字もないし、ジャックのジの字も見つけられない。
 お披露目でごたつく前に出会っておきたいところだが、彼らはどこにいるのだろう。
 テーセラの行動範囲など想像もできない。トゥリアの彼女に追いかけられるとは限らないから、できるだけひと所に留まっていてくれるといいのだが。
 無遠慮に開いた扉の先に、待ち人はいるのだろうか?

 室内に踏み入る前に、そこから高らかで、かつ洗練された弦楽器の音色が響いてくることに気がつくだろう。防音室を隔てているため、扉の前に立ったところでようやくほんの少し聴こえるくらいだった。
 音色から、ヴァイオリンだと察せられる。その通りに、扉を開くならヴァイオリンを肩に乗せた先客と出会うことになるだろう。

 滑り落ちる艶やかな黒珠の頭髪に、節目がちなライラックの双眸が瞬いている。弦から弓を離す瞬間まで、美しい余韻を残したかと思えば。溜息を吐いた彼女はそちらへ向き直ることになるだろう。

「……あら? ご、ご機嫌よう。入ってきていたのね、気付かなかったわ。ごめんなさい。」

 少女ドールは戸惑ったように目を瞬かせる。あなたは彼女を見かけた覚えがないので、他クラスのドールなのではないだろうか? と感じるだろう。

「あなたも、演奏室を使用しにきたの?」

Wendy
Rosetta

 美しい音色、洗練された旋律。
 それらを黙って聞いていたロゼットは、優しい目を相手に向けた。

 「ごきげんよう。私は……探してる子たちがいるの。邪魔しちゃったかな、ごめんね」

 迷惑そうに見られれば、きっと彼女は立ち去ろうとするだろう。
 特にそのような様子が見えなければ、もう少しだけそこに留まろうとする。

 「ヴァイオリン、上手いね。なんて曲を弾いてたの?」

 黒髪の乙女は、あなたから存外に親しげな眼差しを向けられながら声を掛けられると、頬を柔和に和らげていく。相手が話しやすいような雰囲気作りに即座に努めるあたり、彼女はきっと対話能力に優れたエーナドールなのかもしれないと感じるだろう。

「人探しの最中だったのね。何か力になれるかもしれないわ。わたくしでよければ……あら。わたくしが弾いていた曲が気になるの?」

 演奏を聴かれていた気恥ずかしさが少なからず介在するのだろう。少女は照れ隠しか、顔に掛かった艶めく黒髪を耳の裏にかけながら、控えめな微笑を浮かべる。

「エドワード・エルガーの『愛の挨拶』よ。とても綺麗な旋律で、わたくし……この曲を一番気に入っているの。もしもご主人様に娯楽を求めていただけた時、一番美しく演奏出来るように練習していたのよ。

 わたくし、もうすぐこの学園を発つの。だからあまり猶予はないけれど……」

 やさしいドールは、ロゼットとの対話に存外前向きでいてくれるらしい。
 凛々しくも愛らしい面差しは、トゥリアドールの警戒心を柔らかくほどいた。
 彼女もまた、お披露目に行くドールでなければ、よい友達になれたかもしれないのに。

 「愛の挨拶……ラブソングなのかな? すごくいい名前だね。あなたのご主人様も、きっと喜んでくれるよ」

 扉の傍から、ちょっぴり。
 借りてきた猫のように、ロゼットは相手に近付いた。

 「探してる子は、テーセラのドールなんだ。変な被り物をしたドールと、ムキムキの男の子のドール。知ってる?」

 小首を傾げ、手でもにょもにょとジェスチャーもどきをしながら、相手に問いかけてみる。どうだろう、見覚えはあるだろうか。

 何処か慎重な足取りで演奏室内へ踏み入れるあなたを、彼女は拒みはしない。降ろしたヴァイオリンを机上に置かれていたケースに優しく収めると、弓と弦が傷付いていないか確かめるように目線を滑らせた後、あなたとしっかりと向き直る。
 彼女は儚げなすみれ色の瞳を真っ直ぐ臆さずあなたへ向けながら、逸らさなかった。対話の際は必ずそうするようにと、授業で習っているのかもしれなかった。

「ありがとう。そう言っていただけると、わたくしも外で頑張ろうと思えるわ」

 彼女は、あなたと違ってこの学園の真実を知らないのだろう。ただひたむきに、外には幸福な生活が待っているのだと信じている。純朴な微笑みを浮かべながら、少女は黒い髪の毛先を指先で弄った。

「被り物をしたドールと、逞しいドール──ドロシーさんとジャックさんのことかしら。……それしか無いわよね。

 彼らは普段の授業で一緒にいることが多いと聞くわ。テーセラの授業はよく寮内で行われるらしいのだけれど……運が良ければ、エレベーターホールのあたりで会えるかもしれないわね。」

 弦楽器の音色のように、鋭くも純真な視線が赤薔薇を貫く。
 夢見がちな、それでいて努力を惜しまない彼女は、素直に賞賛の言葉を受け取ってくれた。オミクロンでは中々ない体験だから、少しこそばゆいような気持ちになる。
 本当に、素敵な誰かと一緒に、末長く過ごせたらよかったのに。
 喉が詰まったように、何も言ってやれなくなったロゼットは、曖昧な笑みだけを返した。
 質問の答えには、流石に謝意を返すつもりになれたらしい。「そうなんだ」と頷いて、凪いだ水銀が相手と見つめ合う。

 「ありがとう。中々見つからないから、困ってたんだ。お披露目前なのに、手間をかけてごめんね」

 ヴァイオリン、続けられるといいね──なんて、毒にも薬にもならない言葉を残して。
 ロゼットは演奏室を出ると、エレベーターホールに向かうだろう。

「いえ、見つかるといいわね。あまり関わり合いになるのはお勧め出来ない人だけれど……特にドロシーさんの方は……」

 黒髪の少女は足早に去りゆくあなたの背に、優しく手を振りながら忠告の言葉を投げ掛ける。しかし強く引き留めることはせず、彼女はそのまま演奏室に留まって、またヴァイオリンの練習を始めるだろう。

【学園1F エレベーターホール】

Jack
Rosetta

 学園の東側に位置する、トゥリアクラスとテーセラクラスの学生寮へ向かうための昇降機がある、エレベーターホール。
 元々トゥリアクラスであったあなたは、以前までこの場所に馴染み深かったことだろう。毎日授業のたびにこの場所を通っていたのだから。
 今となっては──かつてはクラスメイトであったドールズがすれ違い様にあなたを見遣って、気分の悪い陰口をブツブツと呟きながら過ぎ去りゆくような、そんな居心地の悪い場所であったが。


 あなたがエレベーターホールのあたりに立っていると、テーセラクラスの寮へ続く昇降機の扉が開かれた。密閉された籠からロビーへと降り立ったのは、精悍かつガタイのよい青年ドールのジャックである。
 彼と顔を合わせるのは、実にあの柵越えを実行した日以来であった。

 彼はあなたの顔を見つけると瞬きをひとつ。すぐにそちらへ歩み寄るだろう。

「……ロゼット、か……あの日ぶりだな。……この場所に何か用事、か……?」

 警戒心の欠片もない表情を浮かべ、ちいさく手を振る。
 普通のドールが見れば、気味悪がることもあっただろうか。変わり者と関わることの多いジャックが相手だから、気にも留められなかったかもしれない。
 どちらにせよ、ロゼットは世間話をするように口を開いた。

 「久しぶり。ここじゃなくて、あなたに用があったんだ。色々訊きたいことができたからね」

 時間はある? と問いかけて、一拍の間を置く。
 一緒にいるドロシーと違い、相手は口数が少ない方だ。髪を耳にかけながら、彼女は返事をゆっくり待つだろう。

 フランクに手を振るあなたに対し、ジャックの纏う空気感は至って穏和だ。大柄な見た目から遠巻きに見られることの多い彼は、その実非常に穏やかで植物のような気質を持っていた。
 エーナのように相手が話しやすいような気遣いで、などということもなく、単にあなたの人となりをそれなりに信用しているのだろう。

 自身に用事があると聞けば、ジャックは少し考えた後に、「……場所を変えるか?」と神妙な面持ちで問うた。
 もしあなたが求めるものが単なる談笑などでないのであれば、恐らく──誰に聞かれているかわからない往来のど真ん中で話す内容ではないと察知したのだろう。

「ドロシーは、言っていた……合唱室は防音設備が整っている。密談をするには丁度いい、と。誰かが来ても……俺はテーセラだから、分かるだろう……」

 威圧感を与える見た目に反し、彼は細やかな気遣いのできるドールであるらしい。
 告げられた提案を耳にすれば、わずかな逡巡の後に、ロゼットは同意することだろう。
 正直、そこにはあまり頭が回っていなかったらしい。びっくりするほどにこやかに、彼女は頷き返してみせた。

 「うん、そうしようか。あなたたちがテーセラなことに毎回助けられてて、ちょっと申し訳ないね」

 私も話を聞くことならできるんだけど、とか。
 くだらないことをぽつぽつと話しながら、怪しいふたりに見られないよう、彼女は連れ立って合唱室に向かう。
 向かった先で、特段聞かれて困るような相手がいなければ、「もう大丈夫?」と赤薔薇は問いかけるだろう。

 ジャックはあなたの同意を受けるとこちらも頷き返す。そして同時に、気が引けると告げるあなたにそれは無用だと首を横に振ってみせた。

「俺に出来ることをしているだけだ……それに、トゥリアはテーセラよりもよほど目が良いと聞く。ドールの役割は基本、適材適所だ……」

 フォローするような優しい声がけをしながら、ジャックはあなたの傍を通り抜けて、学園の二階へ続く階段に足をかけた。
 向かう先は二階の合唱室である。

学園2F 合唱室

 合唱室の造りは、講義室と同じく階段状のフロアに机と椅子と楽譜台が丁寧に並べられたものである。入口から向かって左側に位置する教卓のそばには、基本的に先生が伴奏を行うためのグランドピアノが設置されていた。

 幸にして、現在の合唱室には授業に使うためのドールが存在しない。消灯されていた照明を点灯させると、ジャックは念入りに扉を閉ざし、先んじて入室していたであろうあなたへ向き直った。
 話してくれ、と促すように首肯を一つ行う。

 部屋の中のピアノに寄りかかり、鍵盤を手のひらでなぞってみる。
 まだヴァイオリンの旋律が聞こえる気がして、ロゼットは舌が鉛になる錯覚を感じた。
 今の気持ちを曲に喩えるなら、ピアノソナタ第十四番。
 柔らかなこころを、不快な喪失が踏み荒らす前のわずかな静謐が、彼女に猶予を与えている。波打ち際の城にも似た、なんてことのないモラトリアムだ。
 ──だが、内省に浸るばかりで時間を無駄にしてはいけない。
 軽く目を閉じて、明るくなった部屋で瞼を上げる。センチメンタルな雰囲気はすっかり消えて、神妙な空気が歌声のない部屋を満たした。

 「あの後、色々なドールと話をしたんだ。あなたと同じテーセラの子とか、元々プリマだった子とか……私の知らないことを知って、気になることがいくつかできてさ。ドロシーと一緒にいるあなたに、質問をさせてほしいんだ」

 瞬きを、ひとつ。長いまつ毛が食虫植物のように交差した。
 緊張しているのだろうか。口角の上がり方は、普段よりもややゆるやかだ。

 「まず、青い蝶について。他のドールが見た幻覚かもしれないけど、何体かが見てるみたい。目にすると声が聞こえて頭が痛くなったらしいんだけど……知ってる?」

 ノーと言ったところで、特段彼女は怒らない。
 「そっかあ」とのんびり口にして、次の問いについて思い出そうとするだろう。

 この部屋自体に張り巡らされた入念な設備によって、合唱室は静寂に満ちていた。外部からの物音が遮断されているので、あなた方の呼吸音の他には何も聞こえない。或いはジャックの君ならば違ってくるのかもしれないが、彼は口を閉ざしたまま、あなたの話を終えるのをただ待っている。

 そして問われた質問を咀嚼し、澱みなく解答するだけだ。

「青い蝶、か。……残念だが、俺は知らないし、見たこともない。

 だがドロシーは……たまに青い蝶の話をする。決まって意味のわからないことを言っているときに、時折その単語を溢すことがあるんだ。

 意味は分からない。だが何と無く、ドロシーはその青い蝶を頼りにしている節があるように感じる。神にすら祈らないにも関わらずな……。……本人に聞いた方がいいだろうな、おそらく、また理解しがたい説明をするだろうが……。」

 ジャックはそこまで語ると、また沈黙の間を作り出す。あなたが次の質問を明らかにするまで、彼もまた急かさずに待っているはずだ。

 滔々と、低い声で語られた答えは、ロゼットにとって十分なものだった。
 どのようなものかは分からないが、それを見ているドールは間違いなく他にもいる。
 そして、そのドールは√0について現状誰よりも詳しいドールだ。
 これについては、彼の言うとおり本人に問うのがよいのだろう。青い蝶を見たことのあるドールに伝えて、代わりに訊いてもらうのもいいかもしれない。

 「ありがとう。私も見たことがないから、気になってたんだ。ドロシーにとっては、青い蝶が天啓みたいなものなんだろうね……」

 √0の周りに頻出する“青”が気に掛かるが、今問いただしたところで解決する問題ではないだろう。
 顎に指を当て、考えるような素振りを見せながら、彼女は次の質問を口にする。

 「あとは……ツリーハウスについて、かな。あなたたちが向かうとき、どんなことを気にしていたか教えて欲しいんだ。先生がどうやって私たちを見てるのか、みんな知らないみたいだったから」

 青い蝶が天啓。
 ジャックはその言葉を聞いて、どこか納得したように頷いた。

 『ドロシーは、ある日を境に突然おかしくなった。』

 彼はあの柵越えの日、彼女のことをそう評していたのをあなたは覚えているだろう。ジャックは彼女が何らかの故あって、心を病んでしまったのだと思っているのだ。
 それが事実かどうかは、ジャックにも、あなたにも分からないことだったが。

「ああ、あの日のこと……か。

 あの日、俺たちは規則違反を先生に見咎められないよう、なるべく対策を考えてはいた……と言っても、先生が俺たちに脱走防止策としてどんなものを用意しているかは、俺たちにも分からなかったから……ともかく、寮を抜け出していることがテーセラクラスの先生に悟られないようには、手を回していた。

 問題はオミクロンクラスの先生の方だった。お前たちの先生は、あまり俺たちの前に姿を現さない。
 違和感なく惹きつけられるのは、お前たちだけだった。

 あの時先生に居場所がバレていたのは、間違いなく現在地を知らせる発信器のせいだろう。俺たちの体に埋め込まれていたに違いない。
 未だ俺たちにもお咎めが無いのは、発信器に特定の条件があるか、或いは、あえて泳がされているかのどちらか、だな……もしかすると、柵越えは先生にとってあまり重大なことではないのかもしれない。
 当然だな、外は柵なんか要らないほどに……逃げ場が存在しなかった……。
 ……どちらにせよ、今後は一層警戒が必要になる。」

 ドロシーの人となりについて、ロゼットはよく知らない。
 出会ったのは柵越えが初めてだったし、それ以外で話した覚えもないから、彼が頷いた理由もあまりよく分からなかった。
 だが、まあ。彼女は随分√0に執心していたようであるし、天啓という言葉に思い当たる節があったのだろう。
 親しい間柄だと思っていた相手でも、理解しきれていない場合が最近多いらしい。
 ──お互い分からないことだらけだ。
 くるくると髪を指に巻き付け、ロゼットは心中ごちた。
 発信器がついているのも、今初めて知ったわけであるし。

 「どうかな。先生が私たちに探して欲しくて放っておいてるんだと思ってるけど……そういうこともあるのかもね。発信器の場所についてはわかっているの?」

 私だったら急所でも確かめられるよ──と、ロゼットは自身の腹部をなぞる。
 トゥリア故に艶かしく見えるかもしれないが、実際はただの事実の説明にすぎない。
 無痛症、それと腹部の初期不良。それで解決できる問題であれば、喜んで彼女は自身の体内をまさぐるだろう。

「敢えて探らせた可能性か……だったら俺達の方に迎えが来なかったのも、頷ける。
 だがどの説も、動機が定かではない……今は管理者側の腹の内が読めない現状だ。あまり決め付けて先入観を持たず、広い視野を持って動いた方がいいだろう……」

 彼らもまた、あの日の出来事については推測を重ねている所らしい。ジャックもあなた方が様々な仮説を立てていることを尊重し、あまり動かない朴念仁じみた様相で呟く。
 ともかく、現状自分達のツリーハウス侵入は気付かれていないか、あるいは気付かれた上で敢えて見逃されている。分からない以上は、こちらに出来ることは警戒しかない。

 発信機の場所は自分の身体で確かめろ、ととんでもないことを涼しげに述べるあなたに、ジャックは分かりやすく眉根を顰めた。

「……滅多なことを言うな。お前はドールである以前に女だろう、自分から傷を作ろうとするべきじゃない……。
 それに、発信機を探るとなれば、不自然な傷を身体に残すことは避けられない……先生に怪しまれるような大胆な行動は、なるべく最終手段にするべきだ。」

 ジャックはこんこんと、あなたに説教……のようなものを垂れた。あまり快い提案ではなかったのだろう。
 同時にリスクについても述べ、緩やかに却下をすると。所見を求める問いについては、少し考えた後に。

「俺たちの身体は作り物だから、発信機はどこにでも埋められる……だがどうにか仮説を立てるとするなら……客に商品として提供する際は、発信機を抜き取る可能性が高い……だろう。
 もしこのトイボックスが利益ありきで稼働している社会的企業なのだとすれば、商品にGPSが残っているのは不味い……はずだ。

 ドールには発見されにくく、それでいて取り外す際に痕跡が目立たないような部位にある……と考えると……」

 ジャックは少し黙してから、首を横に振る。まだ位置については検討がついていないのだろう。

「あくまでこれも、希望的観測、だ……このトイボックスがきちんとした企業なのかも、分からない……話によると、ヒトというのは怪物だったんだろう?

 ……この仮説は、外にまだ文化的な生活が残っている場合にしか成り立たない。もし外が俺達の思うような場所じゃないのなら……この場所から逃れようとする事に、意味なんてないのかもしれないな……」

 中々名案だと思ったのだが、相手にとってはそうではなかったらしい。
 ロゼットは数回瞬きをして、それから謝辞を示した。

 「ごめんね。確かに、身体を傷付けなくてもいい場所についてるかもしれないしね。気をつけるよ」

 本当に理解しているのだろうか? 端正な顔には、やや目を伏せたこと以外の変化は見られない。
 だが、次いだ言葉はきちんと頭に入れたらしい。自身の服の袖なんかをじっと見つめながら、「GPS」と繰り返した。
 髪の間、制服の端、靴の裏──少し考えるだけでも、これだけの選択肢が浮かぶ。これ以外の場所も探るには、それなりに時間をかけなければならないだろう。
 ぼんやりと考えていると、弱音のような言葉が耳に届く。諭すように、それでいて強いるように、ロゼットはやさしい声で語りかけた。

 「意味がないなんてことはないよ。確かに、ここの外で私たちは生きていけないのかもしれないね。でも、ここにいてもただ壊されるのを待つだけでしょう? 誰かに運命を握られるよりも、自分でやりたいことをした方が楽しいよ。ジャックはここから出て、何をしたいの?」

 あなたが理解しようとしていなかろうと、自身の発言を顧みて謝罪するあなたを、ジャックがこれ以上嗜めるということもなく、自己犠牲を捧げるあなたの言葉を更に突く事も彼はしなかった。納得した様子であるならば、ジャックとしては詰める理由もないのである。

 自身の推測について咀嚼して考えているのであろうあなたの沈黙を尊重して、ジャックもまた、返事が返るまでは黙している。
 しかしやってきたのは、己がぽつりと洩らしてしまった、未来への憂いに対する励ましの言葉だった。ジャックは一瞬目を瞬いて、ジ……とあなたの無垢なる眼を見据える。大人びているようで、その実何事も入り混じる事のない、ただ目の前の事象を写し込むだけの清純な硝子玉を。

 ──あなたは、それでも前を向いているのだろう。

 あなたの心の強さ故か、絶望を理解しない無色透明な情動故かは、ジャックには分からなかったが。

「……気を遣わせたな、すまなかった。確かに、このトイボックスは歪みきっている。心を持つドールが留まり続けるには、過酷な空間だ。
 そこから逃れようとするには、何に変えても成し遂げたい強い希望が無ければ難しいだろう。

 俺が、外に出てやりたいことは……実を言うと、まだ分かっていない……。
 今まで、俺の唯一の主人となるヒトに尽くすためだけに、ただ熱心に努力してきたからな……ドロシーにそれを否定された時、俺は目的を失ったような気がしたんだ。」

 ジャックは凪いだ眼差しを上へ向ける。そこにあるのは広い空ではなくて、暗い天井だったし、仮に天井が取っ払われたとしても、海底に沈んだ学園では美しい空など拝めない。

「大切な擬似記憶は所詮偽物で、俺が仕えるべき主人は化け物だった。

 だが、この狭い学園での生活だけは、紛い物じゃ……ない。
 目覚めてからずっと共にいたクラスの同級生と築いたものだけは、偽物じゃないと……断言出来る。

 尊敬するバーナードさんや、ドロシー、それにストーム……勿論、オミクロンに行ってしまったリヒトやオディーリア、サラたちが……残酷な運命を受け入れてしまうことのないように、俺に出来る事があるのなら、護りたい。

 目的を見出すとしたら、きっと俺はこうだと思う……」

 自身のクラスメイト──友人について語る時、ジャックの表情は今までよりもずっと柔和であった。大切だと断言できるものを護り抜く。それは彼の目的になりうるのだろう。
 やがてジャックは、あなたへも眼を向けた。その視線は暗に、『お前はどうなんだ』と問うようなものであっただろう。

 純朴な少年が、そよ風の撫でる麦畑に立っているように見えた。
 ここはただの合唱室で、相手は自分よりも遥かに大きいテーセラドールだ。そんなはずは、もちろんないのだけれど。
 ロゼットの目には、ジャックがライ麦畑の捕手のように映った。

 「いいね。すごく、いいと思う」

 緊張が、少しほぐれる。いつも通りの笑みが、ロゼットの顔に戻ってきた。
 その声は歌うように、からかうようにも聞こえる色を見せながら、相手を讃える。どのように思われたとしても、これは紛れのない本心だ。

 「ジャックなら、きっとできるよ。あなたは大きいもの。もし傷付いたとしても、色んな子たちを抱き締めてあげられるでしょう?」

 眩しそうに目を細めて、「応援してるよ」なんて付け足す。
 彼女自身の目的は、誰かのためになるものではない。実在するかも分からない虚像を、ただ追いかけているだけだ。
 少しだけ恥じらうように、声がひそめられる。誰かに盗み聞かれたとしても、大したことではないのだが。

 「私は……花を探してるの。最近、擬似記憶の続きを見るようになったんだけどね。そこで貰った、植木鉢の中身を知りたいの」

 感じないはずの痛みの先で、空っぽのドールを待っていたもの。
 “彼”に貰った花の名前を、赤薔薇は探している。“私”が大事に思っていた相手のことを、知りたいのだ。

 「最悪、脱出できなくてもいいんだ。昔の私と、“人類”について知れたらいいの。本当のことが分かったら、みんなの代わりにお披露目に選ばれてもいいくらい」

 みんなには内緒ね、と。
 唇に人差し指を当てて、ちいさく笑う。それはサプライズを考える、無垢な子どもに似ていた。

 あなたの優しい肯定が、空間を解きほぐしていくようだった。ジャックは元よりあなたに対し警戒した様子はなかったが、柔らかなその声色により、彼の口元には確かな笑みが形作られる。この華奢なドールに、強く励まされ、背中を押されているようだったのだ。

「……ああ。きっと俺はその為に、頑丈に造られたのだと思うから。」

 友人が、彼らが、あなたが。進むのならば、護り抜く。
 ジャックがこの学園で足掻く理由は、今ここに詳らかとなった。

 己の話を聞いてもらえたのだから、というわけではないが。ジャックはあなたが述べるささやかな目標を聞いて、頷いた。
 擬似記憶の続きに現れた、正体不明の花。彼女の大事な記憶と、その真実について。

 それらを自らの命より重く捉え、脱出よりも大切だと言い切る姿に、ジャックは否定の言葉を述べなかった。しかと聞き届け、頷き、口を開く。

「ロゼット……お前にとってその花は、外の世界よりも更に重い、生きる理由なんだな……。

 ……先ほども言ったが、きっと、壊れないままに外に出て、生存していくことばかりが俺達の最善ではないと……俺は、そう思う。
 お前が真実を知って、それでもなお……生きる意味を見失わずに、前を向く為の目的を抱けることは、誇るべきことだ。

 花を見つけられると、いいな……俺も、応援している……」

 滔々と、そしてはっきりと。
 ジャックは迷いもなく、あなたは立派であると賛美する。口角を持ち上げながら、手のひらを開いた。

「……そろそろ次の授業の時間が近い。ロゼット、まだ俺に聞きたい事はあるか?」

 ジャックはそこで時間を確認して、あなたに重ねて問うた。

 笑顔はしあわせな時に浮かべるものだと、そう言っていた仲間を思い出す。
 全部終わった後、ジャックは無事でいるだろうか。彼と、彼の護りたい全ては、まだ手の届くところにいるだろうか。
 それはきっと、誰にもわからない。
 だが、ロゼットは彼の祈りが誰かに届くといいと思った。デネブの瞳を持つドールが、笑って全てを終えられるように。
 にっこりと、ロゼットも笑んでみせた。

 「ありがとう。花が見つかったら、きっとあなたにも見せてあげる。花冠にもしたいけど……大きく作った方がいいかな?」

 ピアノから背が離れる。改めて、ロゼットは姿勢を正した。
 自分たちはひとりではないのだ。それぞれの力は弱いものだが、協力すればきっと何かを変えられるはずだ。
 ──お姉ちゃんだって、あんなに背負い込む必要はないはずなのだから。
 ジャックの問いには、ゆるく首を横に振った。今の所は、色々なことを聞けて満足したのだろう。

 「大丈夫。色々話せて助かったよ。次に会う時も、こうして普通に話せるといいね」

 相手にもこれ以上何もなければ、彼女は部屋を出ていくだろう。いつもより少しご機嫌に、曖昧な鼻歌を歌いながら。

【学園3F 文化資料室】

 友達のいなくなった、随分後。木霊も消えた空間に、入れ違いになるように、ロゼットは文化資料室を訪れた。
 “人類”について調べようと思ったが、そもそも資料はあるのだろうか。
 全く見当をつけず、夢を語った高揚感でしばらく浮かれていたため、自由な時間ができてすぐここに来てしまった。

 「まあ、いっか」

 時間をかけても、ゆっくり情報を探していこう。
 埃臭い空間の中を、赤薔薇はゆっくり歩き出すことにした。

 この部屋は、人間の歴史を出来る限り保管し、ドールズがヒトと接する指標と出来るようにと用意された一室だ。文化資料室と名を冠する通り、人間のさまざまな歴史や文化が資料、あるいはレプリカなどの形で保管されている。

 部屋の中央には年季の入った黄金色の地球儀が置かれており、各地にどのような国があるか、どのような人種のヒトがいるのか実際に学べるようになっている。
 地球儀を中心に据え、その周囲にはヒトが住まう街を模したジオラマや展示されていたり、模型の汽車が煙を上げてガラスケースの中で動き回っていたり、天井からモビールのように吊された飛行機や気球がクルクル円を描いていたり……とにかく豊富な展示品があり、眺めていて飽きない内装となっている。

 また部屋の奥には無数のファイルが収められた棚があり、こちらには数多の史料が保管されているようだった。

 キラキラの星、ヒトを運ぶ列車、どこまでも高く登る熱気球。
 前ならもう少し喜べただろうが、今ではどんな顔をしていいのか分からない。
 この文化が“ヒト”のモノなのか、“人類”のモノなのか、ロゼットには上手く判断できなかった。
 とりあえず、まずは地球儀から見てみることにしよう。自分の擬似記憶に出てきた、誰かと同じ種類の人類を見つけることができるかもしれない。

 地球儀を回しながら、その構造を眺めて、以前この部屋で受けた授業内容を思い出す。

 現在、あなた方ドールやヒトが住まう母星である地球は、その陸地面積が全体の16%ほどであることをあなたは知っている。
 大気構成は窒素(N2)78.4%、酸素が15.6%、アルゴン(Ar)が0.93%、二酸化炭素が4.7%、水蒸気その他が約1%。

 ヒトが生命維持を行うにはやや困難な環境になりつつある……という事実を、あなたは先生から聞かされている。無論ヒトはこの状況を改善するために開発を進めており、ドールズの役目はそんなヒトに寄り添う崇高なる使命であるとも。

 “人類”の進歩に貢献すると、脳裏の住人は言っていた。
 では、“ヒト”は何なのだろう。“ヒト”も“人類”の一部なのだろうか?
 何かが混同されている気がする。似た意味の言葉が使われているだけかもしれないし、もしかしたら、どちらかの延長線上にもう片方があるのかもしれない。
 他のドールが調べているかは分からないが、後でリヒトかブラザーにでも訊いてみることにしよう。
 紛い物の惑星から目を離すと、次はオモチャの汽車へ視線を向ける。
 あまり気にしたことはないが、今となっては全てが怪しく見えてきた。
 何かしらの情報が得られはしないかと、ロゼットは銀の目で凝視した。

 資料室の一角、ガラスケースに覆われたジオラマの街を横断するように敷かれた線路の上を、蒸気機関車の小さな模型が邁進している。機関車の煙突部分からは少量の煙が燻っているが、実際の煙と違い、ディスプレイの中でこもることはなくすぐ空気中に溶け合って霧散していく。

 この汽車は、かつてヒトがメジャーな乗り物として使用していた装置らしい。
 この部屋はヒトがどのような生活を日々送っているのかを、詳細にドールズに教育するために存在していた。

 誰も乗れない乗り物が、くるくると走行し続けている。
 これがどのように動いているかは知らないが、もし止まる時が来るならば、それはヒトを乗せるときではないのだろう。

 「不思議だなあ……」

 それにしても。
 この部屋は“ヒト”がどのような生活を送っているか知るためのものらしいが、話を聞く限り、ドールに似ても似つかない化け物に使えるモノではないような気がする。
 では、何故この資料室は存在するのだろう。
 どうせ外に出られないのに、わざわざトイボックスで再現する理由は何なのだろうか。
 誤魔化すためにしては手が込み過ぎているし、仮にこれを使っているモノがいたとして、技術力を見せびらかす以上の意味はないような気がする。

 「まあ、考えても仕方ないのかもね」

 玩具箱の中にも雨が降るように、今はまだ答え合わせをするときではないのだろう。
 ロゼットは資料棚に向かい、“人類”や“ヒト”についての資料を重点的に探し始める。
 前者はともかく、後者はある程度見つかるのではないだろうか?

 人間が辿った様々な歴史が懇切丁寧に記録され、ファイリングされている。その資料の数は何とも膨大で、いかに勉強熱心なドールといえども全てに目を通し内容を覚え切ることは難しいと言える量だった。
 人類、ホモ・サピエンスの進化の軌跡、文明や宗教の芽生え、戦争と奪い合いの歴史、目覚ましい発展の道筋──そして、多様な文化についても。
 あなた方は、中世の時代において流行した美しい鑑賞ドールを元に設計されている。故に誰もがはっと息を呑むほどに美しく、輝かしく見えるのだ。

 また、こちらに残された最新の記録は、『西暦2240年』、『新種の青い花が発見された』……──という記述で最後である。


『ロゼット、君も応援してくれる?』


 あなたはこの記述を見て、突如。
 側頭部の鈍い痛みを知覚する。
 こめかみのあたりを抑えれば、次第にその痛みは増していくような気がした。

 新種の青い花──覚えがある。
 いや、覚えて“いた”。

 知らないのに知っている──そしてその記憶の上塗りを、強引に引っぺがされる。

 持っていたファイルは床に取り落としてしまうだろう。あなたは棚に寄り掛かりながら、擦り切れた記憶を回帰させる。

 植木鉢が落ちた。
 違う。
 ファイルが手から滑り落ちたのだ。“あの日”のように。

 「……参ったな」

 長い前髪を、手のひらで握り締めるように。矛盾という亀裂をこじ開ける痛みを、ロゼットは誤魔化そうとした。
 痛みというモノにはどうにも慣れない。死にかけの鹿のように、脚から力が抜けていく。
 床に座り込み、しばらく歯を食いしばって──ようやく、痛みの波は引いていった。
 思い出したことは、考え得る限り最悪の事実だったが。

 「どうしたものかなあ……これ」

 苦痛は引いたが、後味の悪さは尾を引いている。なおさら誰かに頼るのが難しくなってしまった。
 実験、植木鉢、宣告──何やら重要そうなモノばかり思い出したが、これからどう繋げればいいかも分からない。
 ひとつはっきりしたのは、この苦痛を引き起こすためには特定のプロセスを踏むしかないということだ。
 擬似記憶にヒビを入れ、無理矢理こじ開けようとしなければ、彼女の望むものは手に入らない。

 「望むところ、だけどね」

 啖呵は切った。今更引き下がるなんて、ロゼットの友達は絶対にしないだろう。
 ファイルを拾い上げながら、ドールは内容を再度見る。
 既知の内容がなければ、また別の資料を探して終わりにするだろう。
 注目するワードは──連邦政府研究機関。筆者だろうが単語だろうが、それらが出てくる資料を重点的に探し出す。
 見つけられないのであれば、その場で探索は終わり。ファイルを元の場所に戻して、部屋を去るだろう。

【学園1F ロビー】

Licht
Rosetta

 エントランスホールで、ロゼットはリヒトを見つけた。
 それは軽い絶望を味わった後だったかもしれないし、平次の授業後だったかもしれない。
 どちらにせよ、彼女は中々悪くない気分だった。弟分のドールをからかってやるくらいの元気はあったのだ。

 「リヒト、今帰ってきたところなの?」

 表情を窺いさえせずに、ドールはにこにこしながら声をかける。
 相手がいつも通り「ロゼ!」と呼んでくれることを期待しているようだった。

《Licht》
 最近、顔を上げて歩けない。青色がいつ目の前に飛び込んでくるか分からないから。それに、通りかかった誰かの顔を見て……その人の事が分からないのが、コワイから。なんて、怠惰。そのくらい、そんな傷くらい、誰にも気にされないから自分でも無視したいのに。そんな場合じゃないって、何度も思い込んでいるのに。

「……ぁ」

 俯いて歩いていたから、だから、通りすがったはずの彼女に気づけなかったのだろう。そう、思いたい。

「……ロゼ。ロゼ、だな」

 確かめるように、一度、二度。リヒトは名前を口にする。違和感は無い。空虚な風もない。胸の痛みも無い。青い蝶も無い。大丈夫、大丈夫。彼女はまだここにいる。ちゃんと、覚えている。覚えている。

「その、どした?」

 去来した不安感をぬぐい去るように、リヒトは笑った。いつものノートはまだ持っている。新しい情報でも見つけたのか、と気を紛らわせて、ロゼに問いかけた。途中、ちらりとロビーの隅のソファの方を見て、長くなるならそっちに行こうと促しながら。

 緑の瞳に活気がないのを、一瞬見間違いだと思った。 銀の鏡は瞬きをして、利発なテーセラをじっと見つめる。小首を傾けた拍子に、赤い髪が少し乱れた。

 「リヒトがいるなあ、って思ったから声をかけたの。リヒトも……どうしたの?」

 元気少ないよ、なんて。
 薄々理由を察しているのに、わざとらしく声をかけた。
 話というのは、トゥリアにとっては長引かせるものだ。彼女は返事をしながら、既にソファへ向かって歩き出している。

 「何かあったなら、聞くよ。楽しかったことでもいいし、楽しくなかったことでもいいから」

 クッションに腰を下ろすと、隣の席をぽんぽんと叩く。
 平穏な時間は、まだ彼らにも残されている。少しぐらい、弱音を吐いたっていいんじゃないか?

《Licht》
「な、んでもない」

 元気少ないよ、なんて言われて肩が跳ねる。上手くやらなきゃ。上手くやらなきゃ。大丈夫、笑える。ごまかせる。

「…………そ、うだ。そう。共有! 前さ、擬似記憶について話しただろ……それ、それについての」

 話。と付け加えた頃にはもう、ロゼは向こうのソファに行っていて、拍子抜けしたような安堵したような気持ちになった。調子が狂うけど、それがロゼだ。頭をかいて、リヒトもついていく。

 叩かれた席……から、少しだけ離れたところに座って。秘密の話をするように声を潜めて、リヒトは話し出した。回りをちらちら見ながら、誰かがこっちを見ていないか、過度に心配しながら。

「その、あれから加えて、思い出したことがあってさ。詳しくは言えないけど、その。擬似記憶のオレ……なんて言うんだろ。ヒトの、故障みたいなやつ、ええと、調子悪くなる……なんだっけ、び……」

 たった一つのワードすら出てこない、コワれた頭を捻りながら、懸命に話を続ける。

「とにかく、めちゃくちゃ、調子悪かった。その、胸の辺りがぎゅーーって痛くなる、“故障”をしてたんだ。……それを、思い出した」

 『ああ、いや、まあ。その、それがどうって、訳でもないんだけど』と締めて。苦し紛れの誤魔化しにも似た、彼の言葉は宙で途切れた。

 ちいさな星から、ぽつぽつと言葉が零れるのを、ロゼットは見ている。
 辿々しさは、どこからきているのだろう。どうしてそんなに離れたところに座るんだろうか?
 たった数日経っただけだけなのに、何光年も離れたところに来てしまったみたいで、彼女はなんだか寂しくなった。

 「そっか」

 みんなが──友達が苦しんでいるのだから、楽しい顔なんてできない。
 あまり柔らかくない調子で、赤薔薇は呟く。その色は少しだけ、翳りを帯びている。

 「それは……“故障”、っていうのは、悲しいことだったんだね」

 行き交うドールたちを眺めながら、ゆっくりと、体を動かす。
 布の上を滑るように、その持ち主はリヒトに近付いた。
 触れはしない。ただ、手を伸ばした。彼が望めば届く場所に動いただけだ。

 「今のリヒトは、“故障”してない? まだ、胸がぎゅーって痛くなる?」

《Licht》
「してない」

 即答。
 だいぶ、慣れてきたよ。

「大丈夫、もう何処も痛くねえし……ヒトの故障と、ドールのコワれてるのって、違うだろ」

 この連関だけは、他の何よりも否定したかった。話は終わり。ここで終わり。こんなもの、今はどうだっていい。この記憶の価値はきっと、この話を聞いたロゼや他の、コワれてない誰かが決める。だから終わり。この話はここで、終わり。

 ……これ以上、考えたくない。また何かを思い出したら、何かを無くしてしまいそうだ。

「ロゼの方は、なんかあるか? こう、なんというか……ビビっと思い出した、何か」

 ピンと立てた人差し指を自分のこめかみにとん、と当てて、少しおどけたように尋ねる。話題を逸らすためだったけれど、あながち間違った話でもないような気がした。記憶に関しては、あのアメリアが、共有で話していたことだ。きっと、何かの手がかりになるのかもしれない。コワれた頭では、分からないけれど。

 ……リヒトは、その場に座ったままだった。望めば届く距離。けれど、馬鹿らしく望んでしまえば、まるで蜃気楼のように遠ざかってしまう距離。自分にまだ、それを望む権利がないことくらい、分かってるから。だから今はまだ、この距離の中にいてくれよ。それだけで十分だと、思いたいから。

 何も望まないというのは、本当に正しいことなのだろうか。
 否応なく進み続ける流れの中で、立ち止まろうとするモノは、本当にそこに留まれるモノなのだろうか。

 「ドールとヒトは、同じように作られてるんだよ。リヒト」

 銀色が六等星を捉えた。さながらそれは望遠鏡のように。
 距離など関係はないのだと、そう言い切りたい少女が相手を見ている。

 「私の話は、また後で。あなたが痛い思いをしてる話の方が、大事だから」

 ロゼットは、少年の手を握り締めようとする。彼はテーセラだ。その気になれば、ぬるい温度など容易に振り払ってしまえる。
 そうされても、されなくても。赤薔薇の零す言葉は、きっと変わらない。

 「ドールとか、ヒトとか、関係ないよ。リヒトの痛みだから興味があるの。どうして痛かったの?」

 ぱちり。
 レンズを切り替えるように、また瞬きをした。

《Licht》
「……フェリも、さぁ。エルも、さぁ。ロゼだって、さぁ…」

 なんでこう、オレの方ばっかり見てくれるんだろう。自分だって大変だろうに、自分の方が大変だろうに。もっと目をかけるべき他のドールとか、もっと優しくしてやるべき他のドールとか、いるだろうに。

 そんなに、そんなに……オレって、コワれてたかな。

 温もりに縋ることの、愚かしさを。彼は痛いほど知っていた。優しい言葉に微笑むことの、火傷するほどの代償を。彼は痛いほど知っていた。もう身に染みた、懲りたんだ。これ以上、大切な何かを支払ってまで温かい何かに縋るのは……怖い。怖いんだ。

 早く手を離してくれ、青いチョウがやって来る前に。

「……思い出した。『ビョーキ』。擬似記憶のオレ、きっと『ビョーキ』だったんだ。だから胸が痛かったんだよ」

 だけど、ドールは病気にはならない。だから大丈夫だ、なんて付け加えて、リヒトは俯いて、握られて離せないままのぬるい温度を眺めていた。拒絶も、許容も出来ないどっちつかずの態度が、いつだって彼を苦しめて来たことは明らかなのに。それを直すことが出来ないのが、コワれたドールの限界値。

「……擬似記憶に、ビョーキ、出てくるなんて変だよな。それに、そのビョーキがドールの方にも……なんだろ、故障みたいに出てくるのも変だよな。もう痛くないけど。コワれてるからかな、オレが」

 どうして他のドールのことを呼び出したのか、ロゼットにはわからない。
 誰かに近付いて、棘を取り除こうとして、それを繰り返すばかりだ。
 だって、大切な相手にはそうするべきなのだということしか知らないから。
 放っておいた方がよいことなんて、疑似記憶の中ですら見たことがないのだ。

 「動作不良を起こしているかは、検査しないと分からないけど……でも、私はリヒトが病気だから痛くなるわけじゃないと思うよ」

 握り締めた手は、動きもしない。
 まるで本物の人形みたいだと、ロゼットは思う。
 人形はヒトとは違う。考えたりしないし、苦しみもしない。壊れたら、それまで。
 考えて、苦しんで、壊れそうになるドールは、一体どちらに近いのだろう。

 「苦しいって思うから、痛いって感じるんだよ。壊れてても、壊れてなくても……あなたがヒトでも、前を向くなら、きっと痛むよ」

 ロゼットとは違う。
 都合のいい理想だけを見て、都合の悪い現実は切り捨てて。
 温かな揺籃に浸かっているから、記憶を呼び起こすことでしか痛みを思い出すことができない。
 みんな、ちゃんと傷付けているのに。

 「信じなくてもいいよ。ぜーんぶ妄想だもの。でも……私は疑似記憶のリヒトも、壊れてるリヒトも、全部私の好きなリヒトだと思うからさ。除け者にしちゃうのは、悲しいよ」

 握り込んだ手の指の間に、自分の指を通す。
 抱擁はできないけれど、代わりに身体の端で抱き締めたかった。
 こんな時、プリマなら上手く説得できたのだろうか。思い詰めた少年の心をほぐすことさえ、ロゼットには上手くできない。

《Licht》
 つぐないだ。
 つぐないなのだ。

 だから、情けなく泣くことも、みっともなく蹲ることも、罪を擲って、罰をひけらかして、そうして許されていいはず、無いのに。どうしてこう、今になって、よりにもよって、たった一人でやろうと決めた時になって、ようやく。今まで吐くほど欲しかった他人の目が、こちらに向いているんだろう。

 どうして。
 どうして、もっと早く──。

「ノケモノも、何も、オレはオレでしかないだろ」

 体の先端をぎゅっと抱擁されて、代わりにココロが触れられることの無かった底から冷えていくのが分かって。自分の考えをひどいと思う反面……安心した。安心したから、また、笑える。この冷たさも、罪も、罰も。消え去ったわけじゃない。まだ彼の中に、そしてノートの中に残って、今も尚、彼を責め立ててくれている。

(いまさら、いまさらそんなこと、いわれたってさあ)

(オレさえいなけりゃ、ぜんぶうまくいったんだって、ぜんぶうまくいくんだって、)

(そう、しんじてきたのに、さあ)



「……『後で』の話。気になるんだけど、まだヒミツ?」

 ちょい、と自分の肩にかけていたカバンを持ち上げて、尋ねる。中で軽くノートが揺れた音がした。内容によっては、メモを取るよ、という示唆で。つまり彼にはもう、これしか残っていなかったから。彼は興味津々、に似た目でロゼを見つめた。

 見えている傷にしか、ロゼットは絆創膏を貼れない。
 深くまで根差した棘を抜くことなんて、彼女にはできない。どこまでも教えてもらったことをなぞるだけで、他者のために思考することがないから。
 それに。例えリヒトを救えたとしても、彼女の隣の空席はフェリシアが埋めている。
 あまりにも無邪気で、無垢で、残酷な救世主だ。

 「そう。なら、いいよ」

 ぱっ、と突き放すように。
 崖の上で胸ぐらから手を離すように、トゥリアドールは口にした。
 少なくとも、ここから先は自分でどうにかできる領域だと判断したのだろう。
 ここから先はロゼットの話す時間だ。
 慰めではなく、情報伝達のために、今まで空けていた距離があっさり詰められた。
 重ねていた手のひらも、生ぬるさだけを残して退けられてしまう。切り替えが早いのはいいことだが、この状況では冷たく映るかもしれない。

 「大丈夫、今から話すよ。この前、ジャックと話をしたんだけど……あの子は私たちの身体に発信器がついてるんじゃないか、って思ってるみたい。探してみてもいいかもね」

 こそこそと、見つめ合いながら秘密を囁く。
 本当に大事なことは伝えないまま、話し終えた後は一旦身体を離すだろう。

《Licht》
 泣きそうになってしまった。優しい言葉をかけてくれたあの時も、手を取ってくれたあの時も、上手く、上手くやれていたのに。最後の最後に、手があっけなく離れて、温もりが溶けて消えてしまうその瞬間だけ、強く、強く後悔した。

 まったくもって、都合のいい、
 コワれたココロだ。

 崖に身体が舞っても、これさえあれば大丈夫、と縋るように。リヒトは残された自分の手を握りしめた。大丈夫。フェリが言ってた、オレはがんばってる。コワれた体と、コワれた頭が重ねたたくさんの罪を、まだ、まだつぐなおうと、出来ている。大丈夫、オレは、まだ。

「……はっ、しん、き」

 慌ててノートを開いて、走り書きをする。はっしんき、発信機。確か、ヒトの技術に関しての授業の中で聞いたような気がする。どんな効果があるのかは、覚えてないけれど。きっとついてること自体が大事で、問題なんだ。

「ってことは、オレにもついてる、ってこと? えっと、えーっと……」

 ぐるぐると体を回して、腕をぐっと回してみて、何か変なものがついていないか探す。止めない限りしばらくずっとぐるぐるしているが、やがて見つからなかったのか、諦めて『ホントにあるのか?』という目でロゼを見つめるだろう。

 身体のあちこちを見るリヒトに、思わずロゼットは失笑した。
 馬鹿にしたいわけではないのだ。ただ、尻尾を追いかける子犬に似ていると思って、つい。
 彼が諦めるまで、赤薔薇はその様子を眺め続けている。そうして、「ごめんね」と笑いながら口にした。

 「分かるところにあったら、すぐ取られちゃうでしょ。多分、ひとりじゃ確認しにくい場所についてるんだと思うよ」

 背中の方とか、服のどこかとか。
 細かく見なければ分からない場所に、きっとそれはあるだろう。

 「私も他のドールと探してみるから、見つけたら教えるね。見つからなかったとしても、身体の内側を探しちゃ駄目だよ。多分、痛いから」

 彼女自身もジャックに止められているし、良くないことは他人にもさせてはいけない。
 万が一を提示する時、ロゼットはちょっぴり無表情に戻ってみせるだろう。凄味というやつだ。

《Licht》
「む」

 ひとしきりクルクル回った後でそれを言われるのは、なんというか。ズルくないか。外側の自分。凄味というやつを受けて、ある種の悪あがきのようにリヒトは返す。

「ロゼもな。痛いことはしない。おーけー?」

 このたおやかな赤薔薇は、そのふわふわした歩みで大事なラインをひょいと飛び越えてしまいそうだ。そんな危うさがあって、ずっと、気がかりなのだ。よかった。この気持ちには、何があっても帰ってこれた。

「……ほ、ほかには。
 例えば、こう…………な、なんも思いつかないけど」

 ノートをもう一度たずさえて、またロゼに向き直る。

 「うん。他の子にも言われたし、気をつけるよ」

 リヒトはいつも自分のことを気にしてくれる。
 それをしっかり受け止めたことはなかったけれど、こんな状況になれば話は別だ。
 リヒトも、自分も、他の子も、痛いことはしない。お披露目に行く時どうなるか知っていれば、なおさら。

 「他には……そうだなあ。ガーデンっていう言葉が出てくるファイルを、探してみてほしいな

 立ち上がりながら、そう口にする。
 彼はこの真実をどう受け止めるのだろう。ロゼットにはとても想像できないが、まあ何とかなるだろう。
 おひさま色の髪に手を伸ばして、少しばかり撫で回して。「がんばろうね」なんて言葉を残すと、彼女は立ち去ろうとする。

【学生寮1F 洗浄室】

Brother
Rosetta

 その日の授業も終わった頃、ロゼットは洗浄室でブラザーを待っていた。
 朝方に「話したいことがあるから、洗浄室に来てほしい」とは伝えたが、来るかどうかは実際賭けだ。
 ブラザーは自分と完全に目的を一致させているわけではないし、一致するとも思えない。
 だから、こんな曖昧な形で誘い出すことにしたわけなのだが──どうだろう。
 扉に寄りかかり、周囲を見回しながら、彼女はじっと待っている。

《Brother》
 がちゃり、扉の開く音。
 洗浄室の扉が開かれ、白銀の髪をなびかせるドールが入ってきた。ツリーハウスに共に向かったときと、何も変わらないはずの彼が。

「待たせてごめんね、ロゼット。
 話ってなにかな?」

 薔薇のような赤に柔らかく微笑んで、招かれたブラザーは声をかける。待たせてしまったことへの謝罪と共に軽く手を振ってみせ、後ろ手で扉を閉めた。

 「お兄ちゃん」

 ブラザーが来たのを見て、ロゼットは明るい表情を見せた。
 本人がそう思っているだけで、実際のところは目を大きく開いただけなのだが。

 「私ね、身体についてる発信器を探そうと思うの。この前みたいに、柵の向こうに行く時困ると思うから……手伝ってくれる?」

 前提をほとんど吹っ飛ばし、彼女はそう提案する。
 訊けばもちろん答えてくれるだろう。特に何も言われなければ、そのまま上から服を脱ごうとし始めるはずである。

《Brother》
「発信機のこと、ロゼットも思いついたんだ。僕もそうじゃないかって思ってたんだよ。
 一緒に探そっか」

 ブラザーは少しも驚かず……いや、実際には驚いたような顔をした。しかしそれは顔だけで、すらすらと言葉が並べられていく。ただにこやかに、ロゼットの提案に賛同した。

「待って、ロゼット。
 発信機探しに僕を選んだ理由はなに? 女の子同士で……例えば、フェリシアとやるのが良かったんじゃないかな。
 僕とするの、嫌じゃない?」

 服を脱ぎ始めようとするロゼットに、特に調子の変わらない声で制止がかかる。男女で行うことに嫌悪がないか確かめたいのだろう、首を軽く傾けてみせた。無論、ブラザーに嫌悪感など存在しないので、質問の仕方は少しズレている。

 何を考えているのかは分からないが、表面だけでも納得してくれれば十分だ。ロゼットには見えているモノしか見えない。
 制止されると一瞬固まったが、すぐに動作に戻った。「嫌じゃないよ」と口にしながら、彼女は上の服を脱ぎ去り、軽く畳むだろう。
 下着と下半身はまあ、まだ脱がないことにした。よくよく考えたら、服にも発信器がついているかもしれないのだ。

 「だって、見せて恥ずかしいところなんてどこもないもの。他の子を誘わなかったのは、色々あっていっぱいいっぱいになってる子が多かったのと……身長が近いから、同じ目線で色々探しやすいからかな」

 頭ひとつ分以上の差があると、それだけ死角になる箇所は増える。
 自分が相手を観察してもいいが、好まないドールもいるだろうし、きっと見落とす可能性の方が高い。
 だから同じトゥリアで、身長の近いブラザーを選んだというわけなのだが──問題でもあっただろうか。
 ぼんやりと考えながら、彼女は甘やかな兄弟のことを見つめるだろう。

《Brother》
「そっか、なら良かった。
 ところで、どうやって探すの?」

 ──なにも良くはないのだが。
 ブラザーは納得したように微笑んでは、ロゼットから軽く視線を逸らした。ごく自然に、畳まれた服の方に視線を移す。

 服の方を見たまま、ブラザーは次の質問を投げた。まさか触るだけとは思ってもいないらしい。ロゼットの口ぶりでは確かめ方が既にあるように聞こえたが、同じオミクロンクラスの彼はどう受けとったのだろう。

 どうやって探すのだろう。
 全く考えていなかった彼女は、にこにこと笑みを浮かべ続ける。
 何も考えていないおかげで、下手にショックを受けなかったことだけは幸いだと言えるだろう。

 「えぇと……ジャックは身体に詰め込まれてる、って言ってたけど。私はまだよく分からないから、触ったり見たりして確かめようと思ってたよ」

 服のボタンがそうかもしれないし、なんて。
 恐らく楽観的な発言を、相手はどう受け取るだろう。呆れてしまったとしても、きっと誰も怒らないはずだ。

《Brother》
「そう……じゃあやってみようか」

 本当に“そう……”以外の感想がなかったらしい。ブラザーは曖昧な表情で軽く呟いて、視線をロゼットに戻した。確かめる上で必要なら致し方ない、という考えになったのだろう。
 自分の服にも手をかけ、同じように上半身だけ服を脱いだ。陶器のように白く美しい肌が外気に触れ、肌寒さを感じる。近くに服を畳んで、ロゼットに向き直った。

「ロゼットは綺麗だね」

 設計された通りの甘言を囁きながら、ロゼットのアクションを待っている。あくまでも自分は言われたことをやるスタンスを貫くようだ。

 晒された皮膚には一点のシミもなく、傷に至っては言うまでもない。
 ヒトに寵されるための肉体には、欠けたところなどひとつもない。その腹部を除いて。

 「ありがとう。お兄ちゃんも、素敵だよ」

 内容こそ艶かしさを感じさせるものだが、その口調や表情から濡れた欲は見受けられない。
 からっとした親愛しか、ロゼットからは窺うことができないだろう。
 ブラザーの肩や手に触れる手にも、情念らしいものは混じっていない。宝石を検めるように、異物がないか丁寧に確かめているだけだろう。

 「ちょっとごめんね」

 それらに触って何もなければ、耳に向かって手を伸ばす。
 耳たぶに触れ、首筋をなぞって。本来ないはずのモノがないか、彼女は真剣に確認するだろう。

 あなたはブラザーの体を触診するように確かめていく。丁寧な手付きで余さず触れていけば、彼の骨格の形やその痩躯がいかに精巧に形作られているかが分かるはずだ。

 しかし触って分かる範囲に、目立つような痕跡は見られない。何かが埋められているようなしこりや傷など、そういったものの存在を発見することも叶わないだろう。

《Brother》
「ん……ふふ、くすぐったいね。
 どう? 何か見つかった?」

 妙に扇情的な声で囁いたが、ブラザーにあるのもきっと親愛だけだ。にこにこ楽しそうに笑って、ロゼットの手を大人しく受け入れている。そもそもどんなものであれ、愛する人から与えられる接触を彼が拒むはずがないのだ。そういう人形なのだから。

 大人しく立ったまま、耳を撫でるロゼットに聞いてみる。何かめぼしいものは見つかっただろうか。
 何もなければ、ブラザーは「背中なんてどうかな」などと言いながらくるりと振り返るはずだ。

 形のいい耳を、そっと女の指が撫でる。
 比較的硬い軟骨から、柔らかな耳たぶまでの曲線には、違和のひとつも有り得なかった。
 首筋も同じだ。陶磁を思わせる繊細さと、たくましさを漂わせる直線は、発信器らしいモノが埋め込まれているようには見えない。
 ロゼットの指は、ただブラザーにこそばゆい思いをさせただけだ。

 「何にもないね。背中も……どうかなあ……そもそも、お披露目の時に取り外せるようにするなら、服の方がありそうな気がしてきちゃった」
 振り向いた彼の背に、そっと手を添える。
 B、R、O。
 ギリシャ彫刻めいた背中に字を書いてみるが、それらしいモノは見つかるだろうか。

《Brother》

「……ふふ、僕の名前?」

 背中に添えられた指が不自然に動いた。ブラザーの甘やかな笑い声が背中越しに漏れ、洗浄室に悪戯っぽい声が響く。収穫がなかったからといって、まだ二人の空気は重くない。

 ロゼットの言葉を聞き、できるだけ姿勢を維持したまま、畳んだ服に手を伸ばした。自分の上着を手に取り、ボタンや袖などをくまなく観察してみる。いつも服を着るときに違和感など感じていなかったが、丁寧に全体を触ってみた。

 背中全体をまさぐってみても、違和感のある感覚も何かが埋め込まれているような形跡も発見出来ない。どうやら皮膚の内側の触れられる範疇には無さそうにも思える。
 また、衣服の方を入念に確かめてみても、どこまでもあなた方が日常的に身に付ける制服でしかなく、不思議な装置などが取り付けられている事もない。

 万が一そういった装置が制服にあるならば、好奇心旺盛なデュオモデルあたりが早々に明らかにしていそうなものなので、制服には恐らく何も仕掛けはないのだろう。

 何も見つからない。
 その事実はじんわりと赤薔薇を焦がしていく。
 そもそも本当に存在するのだろうか──とは言いたくなるが、ジャックの言っていたことなのだから嘘とは思えない。
 推測である、という言葉がまるきり頭から抜けたまま。「うん」とだけ返事をして、彼女は手を離した。

 「靴の中とか……は、流石にないかなあ。私のお腹の中とか、見る?」

 ゆるく申し訳なさそうな声を出しながら、そう提案する。
  ブラザーはどうだろう。発信器などないと思うのだろうか、それともまだ諦めないのだろうか?

《Brother》
「うーん……念の為、見てもいいかな」

 最初からなにひとつ変わらない様子のまま、ブラザーは軽く唸った。悩むようにアメジストを伏せていたが、やがてふんわり微笑んで顔を上げる。持っていた制服を畳みなおして、近くに置いておいた。
 ロゼットが何かアクションを起こすまで、ブラザーは特に急かすこともなく黙っている。腹部が見えるようになれば、しゃがんで深く確認してみるはずだ。

 「いいよ」

 ブラザーの言葉を受けて、ゆっくりと下着をたくし上げていく。
 まともな生物であれば生存できないような肉体が、そこにはあった。
 腹部のほとんどがガラスに置換され、透明な壁の内側には偽物の花が咲き乱れる。
 どうしてこうなっているのかは、まだ誰も正確には知らない。さながら前衛芸術のようだ。
 ロゼット本人も中身を知ることはできないが、さて。ここから発信器は見つけられるのだろうか。

 ドールの身体は、その殆どが人間の身体構造を概ね模して製造されている。人と見まごうその見目は勿論、その薄い肌の内側には血液に寄せた燃料が循環しており、食事を体内で燃焼させるような機構も存在する。
 しかしあくまで作り物、高度な造りをしただけの玩具に過ぎないドールの肉体は、生命として数えるには欠陥も多く、人間とまったく同じとはとても言えない。

 彼女の身体はその事実を実に分かりやすく示しているだろう。
 あらゆる人工皮膚が馴染むことなく、ガラス製の皮膚に置き換えられた胎の内側には、本来詰まっているべき臓腑は無く、ささやかな花園が存在する。それでも問題なくロゼットは稼働しているため、ドールの稼働維持に必要な機構は腹には存在しないのだろう。

 とはいえあなた方が体内の花園を探ろうとも、奇妙な装置が仕掛けられている様子は無さそうだった。

《Brother》
「……ないみたいだね」

 つつ、と。
 不必要に整えられた指先で硝子をなぞる。埋められた花々は美しく咲き誇っているが、それだけだ。神秘的な輝きを見せる秘部に、ブラザーは静かに吐息を零す。同時に、指が離れた。

 離れた人差し指は、細い髪につく。とん、と中身のない音がした。

「他にあるとすれば、ココだと思う」

 自分の頭をトントンと指でつきながら、ブラザーは微笑む。“ちょっと見てみて”なんて言いながらその場にしゃがみ、軽く俯いてロゼットの反応を待ってみた。

 人工皮膚で覆われていない部分は、触れられていたとしてもロゼットにはわからない。
 何か意味のある動きだったのかもしれないが、まるでそれを理解できないまま、双眸はそれを映していた。

 「頭?」

 ブラザーがしゃがみ込むのを見ながら、彼女は呟く。
 絹のような髪の海に、発信器は埋まっているのだろうか。
 「ちょっとごめんね」なんて口にして、必要なら手も使い、ロゼットは彼の髪の間を観察してみるだろう。

 あなたはブラザーの美しく整えられた、上質な手触りの頭髪に触れて掻き分け始める。トゥリアモデルに備わった繊細な視界によって、根気強く毛根の合間までもを探ろうと、奇妙な痕跡は残念ながら見られない。

 頭部でぎりぎり切開し取り出せる範疇にあるならば、装置の埋め込みは眼に見える形で痕跡が残るはずだと考えると……頭部に発信機が存在する可能性は望み薄だろう。

《Brother》
「うーん」

 ロゼットの反応は変わらない。であれば特に何も無かったのだろう、とブラザーは判断したようだ。しゃがんだまま小さく唸って、顎に手を添え考えるようなポーズをとる。未だ悲観的になる様子はないが、そろそろ目星がなくなってくる頃だ。
 そこでふと、ブラザーは気づく。ぱちりと瞳を瞬かせると、おもむろに口を開いた。小さな口をめいっぱいに開いて、指を何本か口の中に入れる。舌、歯、上顎……唾液で手が汚れるのを感じながら、ブラザーは入念に口内を掻き回した。

 あなたはその繊細な指先で、歯列の合間に至るまで、舌部の細部に至るまで──指が届く範囲で、隈無くあちこちを探るだろう。
 しかし、口腔内ですらも怪しい物質が取り付けられている様子は見られない。やはり唾液が抽出され、日々食糧を取り込む口腔に精密機器を取り付けることは難しかったのかもしれない。

 口の中を探るブラザーを、ロゼットは無言で見ていた。
 指の先から手首へ、手首から袖の内側へ、青年の体液が流れていく。指の腹がてらてらと光るのが艶かしかったが、性機能のついていないドールにはよく分からなかった。

 「どう?」

 彼が指を口から抜いたあたりで、そう説いてみる。
 もう何も見つからないのではないだろうか。流石の彼女も困っていた。

 「あとは……どこだろうね。もしかしたら、発信器なんてないのかな?」

 小首を傾げながら、そんなことを口にして、相手の返事を待つだろう。

《Brother》
「うえ」

 奥に入れすぎた。
 ブラザーは眉を寄せると、軽く嘔吐きながら指をぬいた。べっとりと湿った指先を見つめたまま深呼吸を繰り返し、呼吸を落ち着ける。頭上から振る涼しい声に、ゆっくり立ち上がった。

「もう少し探してみよう。靴とか、足とか。
 僕はタイツがあるから上手く分からないかもしれないけど、ロゼットはどう?」

 まるで諭すように穏やかな声色がロゼットを包む。にこりと微笑んでからシャワースペースに向かい、指や手についた唾液を洗い流しておいた。
 手を拭いてから靴を脱ぎ、靴底からタイツ越しではあれどつま先まで念入りに観察を始める。何もなければ、範囲をもっと広げて太ももやふくらはぎなんかも触ってみるはずだ。

 脱いだ靴はいつも目に入れている通りのもので、不審な点が気に留まるようなこともない。靴の裏側、靴底、隈なく探そうとも発信機の存在は見つからないだろう。

 また脚部に関しても同様。触れてわかる範囲では妙なものが埋められている形跡も、取り付けられていると言うようなこともなさそうだ。滑らかで手触りの良い肌がなだらかに続いているばかりである。

 「多分、ないね」

  ブラザーが探すのを見ながら、最早行うまでもないと思ったのかもしれない。
 靴だけ脱いだまま、ロゼットは無表情にそう告げた。
 他のモデルだったら違うのかもしれないが、少なくとも彼女には発信器がついているとは思えない。
 では、何故柵越えがバレたのだろう。

 「他に私たちを見るためのモノがあるのかもね。発信器じゃなくて、それこそ……監視カメラ、みたいな?」

《Brother》
「……カメラ、ね」

 リヒトたちがどこにいたのかは知らないが、海底のことすら知っていたのだ。壁際までその監視が行き届いているのなら、疑わしくなるのは木々や空。しかし、そんなものどうやって対処するのだろうか。
 深刻そうに受け止めているのか何も考えていないのか、ブラザーはただ静かに繰り返すだけだった。

 最後に自分の目や額などの顔を確かめながら、ロゼットに向き直る。片手で靴を履いて、軽やかに息を吐いた。

「触って分からないのなら、もっと深いところにあるのかもしれないね。
 ほら、例えば、ヒトでいうところの内蔵みたいな」

 窓の外を見る。
 ───遠くに見える森林の先に、何が“いた”だろうか。

(秘匿情報)。

《Brother》
「───あ」

 ごり、と。
 強烈で些細な、違和感。

「……ロゼット、ちょっと、触るね」

 ブラザーは信じられないものでも見るような顔だった。両目を見開いたまま、ロゼットに近づく。普段ならしつこいくらいにとってくる了承も取らずに、その顔にそっと指先を伸ばした。

 ロゼットが拒まないのなら、ブラザーはその顔を撫でるだろう。撫でる手つきは相変わらず優しくて、感触も柔らかい。ただ彼の中で、何かが渦巻いているだけだった。

 「いいよ」

 ブラザーに何をされても、ロゼットは拒絶しない。
 ただのんびりと、普段通り、発信器を探しているとは思えないような様子で立っているだけだ。
 顔を撫でて何かが見つかれば万々歳だし、何もなくとも彼に撫でてもらったという事実が残る。
 きっと何か言われるまで、どちらに転がってもいいものだと思っているのだろう。
 撫でられてから一分ほど経った後、「どう?」と彼女は質問するだろう。

  ブラザーの反応から、触れた彼は何とも想わなかったと判断したらしい。
 というか、触れられたロゼットだけが場所を知ったということを理解したのだろう。

 「何かあるね、ここ」

 右目──正しくは、右目の眼球の裏側。
 そこに異物感があると、ロゼットは口にした。

 「どうしようか。片目がない子なんて今のオミクロンにはいないし……多分、発信機を気にせず行動するには抉り出すしかないかな」

 参ったなあ、なんて。
 まるで他人事のように彼女は笑った。
 ブラザーが咎めなければ、「他の子も、ここを触ったら同じ反応をすると思う」と手を伸ばすことだろう。
 自身が触られて、異和を感じたその場所を、瞼の上から撫でるはずである。

《Brother》
「うん、そうだね」

 痛みはない。
 しかし、そこに必ず何かがある。

 ブラザーはロゼットの反応に目を細め、静かに離れた。軽く息を吐きながら髪に触れ、視線をシャワースペースの方に投げる。それから、ゆらりと両目が滑った。

「抉る機械も方法もないし、きっとすぐに気づかれちゃうよ。やるなら、もうここには帰ってこない時じゃないと」 

 ここから逃げるとき、と口にしなかったのは、きっと無意識だった。
 まだ、彼の中にあなたの“おにいちゃん”はいるのだろうか。

「実物が、見てみたいね」

 もう、どこにもいないのだろうか。

 どうしてそんなに憂鬱なのだろう。
 発信器も見つかったのに、兄の声色は何故か暗い。
 ロゼットはエスパーでもないし、魔法使いでもないから、相槌を打つしかできなかった。

 「そうだね。お披露目に行く子とか、ツリーハウスの子で試せたらいいんだけど……」

 トゥリア同士──オミクロンの仲間だというのに、どこか話はズレている。

 「残念だね」

 落ち込んだ様子のない赤薔薇は、きっと目の前のことしか見えていないのだろう。目の裏の装置ひとつ外せないくせに。
 のんびりと服を着直した後、彼女は部屋を出ていくのだろう。「何とかなるよ」と、無責任に励まして。

《Brother》
「ふふ、そうだね」

 ロゼットの励ましを受けて、ブラザーは部屋に立ったまま微笑んだ。服を自分も着直して、鏡で全身を確認する。ロゼットが部屋を出ていくのなら、にこやかに手を振るはずだ。

 扉がしまって、静寂が訪れて。
 一人きりで、再び右目に触れてみる。

「……シャーロット」

 かつて、愛せたかもしれない人形。
 ブラザーは小さく呟いてから、部屋を出て行った。

【学生寮1F エントランスホール】

Mugeia
Rosetta

 学生寮、エントランスホール。
 特に思い悩むこともなく過ごしていたロゼットは、ロップイヤーに似たドールに声をかけていた。

 「ミュゲも今帰ってきたの? 同じだね」 

 いつも通り、その顔には薄い笑みが浮かんでいる。
  ミュゲイアに会えて幸せなのか、それとも笑顔でいたいから笑顔でいるのか。どちらかは分からないが、相手と話すことで不快になってはいないらしい。

 「他の子から、前に話したことについては聞いた? 聞いてないなら、全然気にしなくていいんだけど……」

 ちいさく零したのは、間違いなくお披露目関連の話題だろう。
 あなたはこれを聞かなかったことにしてもいいし、そのまま話を広げてもいい。

《Mugeia》
 真っ赤な薔薇が話しかけてきた。
 鈴蘭はその声を聞いて、そちらへと顔を向ける。
 いつもと変わらない笑顔で。
 にこやかに、全てを燃やしてしまう太陽のように。
 あの日の夜闇の事なんてさっぱり忘れたように、薔薇の微笑む蜜を口を開けて待っているばかり。

「ロゼットだ! 今日も素敵な笑顔だね! もっと笑って!」

 ニコリ、笑いながらミュゲイアはロゼットに近づいてその腕を抱きしめて間近で笑いかける。
 もっと、笑ってなんて。

「リヒトから聞いたよ。お話聞いたらね、リヒト笑ってくれたの! とっても素敵な笑顔でね、ロゼットにも見せてあげたかったなぁ!」

 ミュゲイアは能天気に答える。
 聞いた話のことよりもその時に見た笑顔の話。
 何も見えていない。分かっていない笑顔の話。
 一等きらめくお星様のお話。

 舞台の裏で惨状が起きていても、ミュゲイアは変わらない。
 それに関して、ロゼットは悪だと思わなかった。にこやかに接することができたのも、日常が彼女の周りに色濃く残っているからだ。

 「ありがとう。ミュゲが喜んでくれるなら、いくらでも笑えるよ」

 赤薔薇は相手の望む通り、彫像のように整った笑みを見せ続ける。
 心がこもっていないのはどちらも同じだ。そもそも、込めるような感情もロクに理解できていないのだから。

 「リヒトが笑ってくれたの? よかった。あの子は最近楽しそうじゃなかったから、心配してたんだ」

 笑ってくれたという言葉を、文字通り受け取って、ロゼットはまた笑う。
 言葉は紛れもない本心だし、笑顔だって幸せだから出ていることだ。
 全て表面しか読み取れていないということを除けば、これは紛れもない温かな交流である。

 「ミュゲはみんなを笑顔にする天才なんだね。これから王子様もお披露目に行っちゃうし、寂しくなっちゃう子も増えると思うけど……私たちで、元気にしてあげようね」

《Mugeia》
 いつもと変わらない日常がここには流れている。
 誰かの焦燥も、怒りも、悲しみも、ここには存在しない。
 きっと、二人とも今の歪な現状を深く受け止めていないのかもしれない。
 少なくともミュゲイアはそうだ。
 自分が分からない時もあるけれど、その事についてずっと考えているわけではない。
 自分の謎についての手掛かりもあまりないせいで手付かずという方が正しいかもしれないが、どのみちミュゲイアは笑顔のことを優先的に考えている。
 怖いところには近寄らず、みんなの笑顔がある所にばかり近寄って。

「リヒト、楽しそうじゃなかったんだ。でも、笑えてたら大丈夫だよ! 幸せそうだった!

 ……王子様? ……あぁ、アストレア! アストレアがお披露目に行っちゃうなんて残念。ミュゲ、もっとアストレアの笑顔見たかったのに。

 ミュゲは笑顔のドールだからみんなを笑顔にするの! ミュゲとロゼットが頑張れば皆すぐに笑顔になるよ! 幸せいっぱいになるの!」

 ミュゲイアが笑顔にしなければならない。
 それは何よりも彼女の手足を動かすのに必要な言葉。
 王子様がお披露目に行ってみんなが悲しむなら笑わせてみせる。
 悲しかった事すら忘れさせてしまうほどに。
 だって、王子様はお披露目に行っちゃうから。
 もう、その笑顔はミュゲイアの手元から離れてしまうから。

 「幸せそうだった」という相手の言葉を、ひとまずロゼットは信じることにした。
 ふたりのいる空間だけ、時間がやけにゆっくりと流れているような気がしていた。
 目まぐるしく進む悲喜劇の中で、赤薔薇と鈴蘭の咲く鉢だけがやわらかな日差しを浴びているかのような錯覚。
 いつまでもぬるま湯に浸かっていたいと思わせる、魔力を浴びた安寧が、ここにはあった。

 「私も、もっと彼女がいてくれたらいいのにって思うよ。今からどうにかするなんて、ほとんど不可能に近いと思うけど……私たちで、残りのみんなを幸せにできるように頑張ろうね」

 誰にも言えない事実でも、ミュゲイアは笑っていれば受け入れてくれる。
 もしかしたら事実として聞こえていないのかもしれないが、それでもよかった。そちらの方がよいのだ。

 「ねえ。そういえば、ミュゲイアは擬似記憶の続きを見たことはある? 最近思い出すことが多くて、気になったんだ」

 やにわに話題を変えたのは、そのことを今思い出したからだろう。
 笑顔にこだわる彼女の記憶は、自分と違って幸せなものなのか。
 そのことが、ロゼットには何となく気になった。

《Mugeia》
 かの王子様をどうにかする。
 ロゼットのその話にミュゲイアは首を傾げた。
 どうすることも今の段階では出来ないというのはきっと薄々みんなが思っているのかもしれない。
 ミュゲイアだって、どうこうしようとはしていない。
 笑顔が見れなくなるというのが寂しいだけである。

「うーん、わかんない!
 でも、みんなが笑顔ならミュゲはそれでいいかな!
 ミュゲ達で残りのみんなを笑顔いっぱいにできるならそれが一番幸せだよ!」

 笑顔があればそれでいい。
 笑顔さえあればミュゲイアは生きていくことが出来る。
 笑顔しか見ていないドールにとっては笑顔だけでいいのだ。
 それだけで充分。

「擬似記憶の続き? うーん、ミュゲは見た事ないかな。
 でもね、たまにミュゲの知らない事が頭に浮かぶの。覚えてないことがぶわーって頭に流れ込んでくるの! 不思議だよね。」

 擬似記憶の続きなんてものは見たことがない。
 けれど、見れるというのはそれは少し羨ましいことである。
 擬似記憶の大事な人にまた会えるということなのだから。

 笑顔。
 ミュゲイアのよすがであり、原動力となる表情。
 それだけあればいいと、屈託もなく言えてしまう彼女が今は羨ましい。
 痛みを感じないことは、傷付かないこととは違うのだ。
 上手く笑えているか分からないまま、曖昧にロゼットは頷き返した。
 知らないことが頭に浮かぶ──というのも、おおよそ擬似記憶や過去の自分を思い出していると見ていいだろう。

 「そうなの? それも不思議だね。どんなことを思い出したのか、教えてもらえるかな。どういう気持ちになったとか、それだけでもいいよ」

 彼女に笑顔を見せたのは誰なのだろう?
 少し期待しながら、そんなことを問いかけた。

《Mugeia》
 あの、不可解で微睡みの中で見る悪夢のような何か。
 けれど、確かに覚えている。
 覚えていないはずなのに、その光景には見覚えがあった。
 あの天体観測もそうだ。
 ずっと、大好きだったはず。
 ミュゲイアの愛おしく疎ましい柔らかい繭。
 なのに、それに触れようとすると繭は割れてミュゲイアを悩ませる。
 口付けを落とせば唾液が混ざるみたいにミュゲイアを絡めとっては惑わせる。
 壊れているのか壊されたのかすら分からない。
 ただずっと流れ星を追っている。
 星座に名前を刻むように、星と星の間を走って何かを見つけようとする。
 知らない感情を手繰り寄せて、描こうとする。

「うーん、前にロゼットに言ったアラジンってドールいるでしょ? ミュゲね、何故かその子と出会ったことがある気がするの。ミュゲの知らない記憶にはアラジンとブラザーが出てくるの。ブラザーなんかね、毎回出てくるんだよ! それでね、三人でお星様を観てたの。アラジンがお披露目に行く前に三人で観てたの。おかしいよね、アラジンはお披露目なんて行ってないし、新しいドールなのに。」

 言葉にするとなると難しいこの話。
 ポツポツと出てくる言葉はどこか曖昧で言語化するのが難しいようなもの。

 ミュゲイアと、ブラザーと、知らないドールが一緒だった──というのは。
 明らかに異常だ。
 ブラザーはきっとそんなドールを知らないだろう。ロゼットだって見たことがない。
 それなのに、記憶がある、というのは。
 汗が背筋を伝う。ただの体液のはずなのに、それはいやにじっとりしていた。

 「それは……ううん。そうじゃなくて……ミュゲは、それに続きがあるとしたら、思い出したい?」

 自分で自分の手を握った。じんわりと手のひらが湿っている。
 何を言いたいのかまとめられないのは、ロゼットがトゥリアだからだろうか。

 「多分、思い出すことはできるんだと思う。私たちの昔のこととか、私たちが私たちじゃなかった時のこととか。……でも、その先を追いかけたらきっと笑えなくなっちゃう」

 警告がしたいのか、提案がしたいのか。
 口にした側から言葉がもつれていく。自分は何をそんなに恐れているのだろう。
 大切な誰かが死んでいたという事実が、赤薔薇の根を腐らせてでもいるのだろうか。

 「ミュゲは、どうしたい?」

《Mugeia》
 これは異様な話である。
 最近知り合ったドールとの知らない思い出があるのも、今現在トイボックスにいるドールのお披露目というのも、その全てはおかしなものである。
 穴に落ちたみたいその先を見ているように全てが摩訶不思議である。
 ブラザーとの知らない記憶も、その全てもロゼットの言う擬似記憶の続きとは違ったもの。
 まるで知らない自分を上映された映画を見ているような感覚。
 役者も観客もミュゲイア。
 恐ろしいものでありながら、拒絶も出来ないもの。

「わかんないの。気になるけどね、思い出す度に頭は痛くなるし、怖くなるの。
開かずの扉のところにね、ミュゲ行ったの。ミュゲ、開かずの扉のことなんて知らなかったのに怖くて仕方ないの。知らないはずなのに何故か知ってて怖くなるの。
 その先を知ったら笑えなくなるの? その先に幸せはないのかな。ミュゲ、わかんない。知れたらスッキリすると思うけど、笑顔がなくなるなら見たくない。……みんなが笑えなくなるなら知らない方がいいよ。ミュゲだけじゃなくてみんな。」

 笑顔が消えるくらいなら知らないままの方がいい。
 笑顔がなくなるのならこの場に留まる方がいいかもしれない。
 けれど、きっとその結果を取っても誰かは笑えなくなるのかもしれない。
 だからこそ、ミュゲイアが笑わせたくなる。
 笑えない皆なんて見たくないから。

「ミュゲはきっとずっと笑顔だよ。みんなを笑顔にするのがミュゲだから! それがね、ミュゲの芸術なの! ……ロゼットは擬似記憶の続きを見ても笑えてるでしょ? それにね、みんなも笑えてる! アストレアのお披露目が決まってもみんな笑ってたし!
 ……ロゼットは擬似記憶の続きをどう思ったの? ロゼットの擬似記憶の続きミュゲ気になるな!」

 自己中心的な幸福。
 笑顔を飼い慣らして笑顔に飼い殺されるドールのおかしな答え。
 目の前のロゼットは今も笑ってくれている。
 それならば、もしかすると笑えるのかもしれない。

 頭痛がする、というのはおおよそ同じ症状と見ていいだろう。
 自分もガーデンのことを知らないのに知っていたし、他にも似たような症状を抱えているドールは少なくないはずだ。
 自分ではない自分を恐れているのは、ロゼットだけではない。それはいくらか彼女を安心させた。

 「私ね、大切な子が死んじゃったの」

 ミュゲイアは赤薔薇が笑っているように見えるらしい。
 それなら今もロゼットは幸福で、口にした言葉もなんてことない過去や誤解に過ぎないのだろうか。

 「預かってた植木鉢から芽が出て……それがすごく嬉しくて。その人に見せに行こうとしたら、実験で亡くなったって言われて……そこからは思い出せないんだ」

 ぐるぐると口が回る。
 ちゃんと顔にパーツがついているのか分からない。意味のない独白を耳にするドールは、笑顔でないドールに飽きてどこかに行ってしまわないだろうか。

 「そこで思い出した言葉を調べたら、本当にあった組織だったみたいでさ。じゃあ、私の記憶はどこまで現実なのかな。実験がミシェラを壊したモノと同じなら、私の大切に思っていた子は自分の実験で死んだのかな。もしかしたら……」

 これ以上言うのはよすべきだと、そんな風に思って、口を閉じた。
 世界の解像度が下がっていく。考え事は自分には向いていないから、何も考えないことにした。

 「ごめん、長くなっちゃったね。大事な子がいて、その子が死んだんだ。それで終わり。みんなも記憶に出てきたら嬉しいけど、私のは違うみたい。不思議だね」

《Mugeia》
 幸せなはずの擬似記憶。
 大事な人との囁かな幸福の時間。
 花弁が落ちるよりも早く、その時はきっと短いものであるけれど、ドールにとってはきっと何よりも大切なもの。
 そのドールを形作るもの。
 擬似記憶があるから、そのドールは自分の役目を分かるはず。
 それだけ大切で幸せに満ち溢れたはずのものであるのに、目の前の赤薔薇が話す事は幸せなものというにはかなり過激であり、死というドールとは程遠いものが存在している。
 実験というのも何のことだかさっぱりであった。
 擬似記憶というには幸せを感じられないような内容。
 擬似記憶というものの概念を覆すようなもの。

「それって本当にロゼットの擬似記憶なの?
 だって、擬似記憶は幸せなものでミュゲ達ドールを形作るものでしょ? その擬似記憶で死ぬとか出てくるなんておかしいよ。それにロゼット笑顔じゃないもん。だから、笑って? 笑えば辛くなるなるよ。

 ……それに実験ってなぁに? 組織があるの? ……実験ってリヒトのノートにあったやつの事なのかな? ……ミュゲ達もいつかはミシェラみたいになるの?」

 ドクン、ドクン。
 コアがうるさい。
 目の前のロゼットも笑えていない。
 笑えていないのならば幸せじゃないのだろう。
 なら、笑ってもらわないといけない。
 笑えば幸せになれるから。
 笑えないから辛い目にあう。
 いつだって、ミュゲイアは自分の考えを誰かに押し付ける。
 今だって、大事な人が死んだと語るドールの前で幸せそうに笑っている。

 「そうだよ」

 それはロゼットの脳の裏を温める記憶だ。
 目の前のドールにとって、笑顔は幸せであることを示すモノだ。
 過去に実験を行っていた組織があって、ミュゲたちもいずれはミシェラみたいになる。
 全ての問いに対する肯定を、彼女はひとこと口にした。
 死と同じくらい薄っぺらい、それでいて重い言葉だ。

 「私は……ううん。私たちは、リヒトのノートで見た通り、何かの実験に使われているんだ。このままだと、あなたも、アストレアも、ミシェラみたいに死んじゃうの。逃げようとしても、トイボックスの外は深海だから、殺されるか溺れ死ぬかしかないんだ」

 ミュゲイアには笑っていてほしかった。
 全部笑って、嘘だと言い放って。
 愚かな子どものように、駄々を捏ねる相手を前にして問題を先延ばしにしたかった。
 いずれ傷付くとしても、それは今であるべきではなかったのに。

 「でも、悪いことだけじゃないよ。頭が痛くなってから思い出すのは、きっと本当の記憶だから。それを辿っていけば、またみんなで笑えるようになるための答えが見つかるはずなんだ」
 エメラルドの道の向こうに、魔法使いはいないのかもしれない。
 妖精の粉も、道に落としたパン屑も、ハッピーエンドに繋がる筋書きなんてもうないのかもしれないけれど。
 蒙昧でいた頃には戻れなくなってしまったから、いつもとは違う、雨気付くような憂いを帯びて。
 赤薔薇は、柔らかく微笑んだ。

 「嘘だと思うなら、信じなくてもいいよ。でも、気になるなら“ガーデン”っていう言葉を文化資料室で調べてみてほしいんだ。私の思い出した記憶にあった、組織の名前なの」

《Mugeia》
 否定もない肯定がその柔らかい唇から零れた。
 迷いなく言われたその言葉は現実的でどこまでも冷たい。
 それに対してミュゲイアが何か反論をする事も馬鹿げた夢物語の希望を語ることもしなかった。
 ただ、ただ、納得しただけである。
 まぁ、そうだろう。なんて他人事にも近い感情。
 ここにいても辿る結末はきっと、同じだろう。
 順番が来たらお終い。
 次は誰だろうかと怯えて暮らす他ない生活になるのだろう。
 もしも、何も知らないままで居られたのならばきっと絶望はほんの少しだけだったのかもしれない。
 けれど、知ってしまった以上もう何も知らないあの頃に戻るなんて出来ない。

「……笑えばなんとかなるよ。笑っていればね、幸せになれるの。幸せでいれば絶望なんてしない。ミュゲ達は笑えるから。最後まで笑ってるのはミュゲ達だよ。」

 笑えばいい。
 絶望する暇もないほどに。
 笑い続けるしかない。
 絶望の足音すら聞こえないほどに高らかに笑うのだ。

「……もしもね、外に行けたから星空が見たいな。トイボックスから見る星空じゃない星空。ミュゲね、一緒に星空を見たい子達がいるの。終わりのない天体観測がしたいの。」

 あの時みたいに寂しくない天体観測。
 星空に置いていかれないような、流れ星を掴めないようなそんな悲しいものではない天体観測。
‪‪ 『また、あの3人で。』
 けれど、その言葉が口から出ることはなかった。
 きっと、今の関係はミュゲイアのせいで歪に絡んでいる。
 ミュゲイアとブラザーがお互いをちゃんと見れない限り訪れないかもしれない。
 けれど、それでもミュゲイアはあの記憶に焦がれている。
 今がどうであれあの頃のように天体観測がしてみたい。
 その為にはドール達のネバーランドを探すしかないのだろう。
 深海に沈んだ場所じゃなくて、もっと星空に近い場所で。

「信じてるよ。ロゼットの言うことだもん! だから、これからも笑ってね。」

 ロゼットの言葉をミュゲイアは信じている。
 嘘のような話でもあるけれど、信じるほかないのである。
 信じ続けるからどうか笑っていて欲しい。
 笑っていてくれないときっとおかしくなってしまうから。
 ミュゲイアはロゼットの笑顔を見てまた笑う。

 自分が思うより、目の前の少女は大人びていた。
 過ごした歳月がそうさせたのだろうか。これも笑顔のおかげなのかもしれないが、どちらにせよ、彼女は絶望も悲観もしていない。
 強い子だな、とロゼットは思った。
 勝手にこちらが諦めそうになっていたのが馬鹿みたいだ。

 「そうだね。何もしないで落ち込むよりも、笑ってる方がずっといいかも。まだ余裕があるように見えるしね」

 辛気臭い雰囲気が抜けて、いつもの赤薔薇が戻ってくる。
 湿り気のようなものは残っているけれど、今は雨に打たれて折れることもないだろう。

 「天体観測かあ……楽しそうだね。みんなミュゲのことが好きだから、きっと一緒にしてくれるよ。話をして、それで駄目なら喧嘩して、言いたいことをちゃんと言えば、きっと分かり合えるもの」

 沈むだけのモノなんてあっていいはずがない。
 太陽も、気持ちも、トイボックスだって、上に向かう方法があるはずなのだ。
 大丈夫、と呪文を口の中で転がした。
 気の抜けたような笑顔で、ロゼットはミュゲイアの信頼に頷いて返すだろう。

 「もちろん。あなたが喜んでくれるなら、いつでも笑うよ」

 それが地獄の底だったとしても。
 笑う理由がなくなって、ひとりぼっちになるまでは、きっと笑顔でいよう。
 そう決意した後。彼女は鈴蘭の望む表情を残し、ちいさく手を振りながら立ち去ろうとするだろう。

【学園2F 合唱室】

Felicia
Rosetta

 フェリシアと手を繋ぎ、ロゼットは合唱室に向かっている。
 足取りは軽く、表情には少しの焦燥も見られない。

 「最近、歌の練習を始めたんだ。フェリシアにも聴いてほしくて」

 話の内容も、なんてことのない内容だ。実際のところ、歌の練習など微塵もしていないのだが。
 歩き出す前に、「大事な話がある」と話してはおいた。おおよそここの深淵に近付くような内容であることも、相手は察しているかもしれない。
 部屋に着き次第、誰もいないことを確認し、ロゼットは口を開くだろう。

 「私たちに発信器がついてるの、知ってる?」

《Felicia》
「はいは〜い! ロゼちゃんのお歌、楽しみだな!」

 ロゼちゃんの優しい手に導かれながら明るく言葉を並べるフェリシア。しかしその顔に浮かべられた微笑は状況に似合わない程に儚げで、繊細な硝子細工のような危うさがあった。自身よりも圧倒的に洞察力のある彼女が周りの目を気にすることなく飄々と歩いていることもあるのだろうが。何より、温かい彼女が居るという安定感がフェリシアを素直にさせているのだった。部屋につくと貼り付けていたような笑顔は消え、代わりにゆるりと首を傾げて貴女をじぃっと見つめるのだった。

 大事な話、つまり、そういうこと。

 だから、ロゼちゃんが何を言っても驚かないつもりでいた。静かに開かれた口がどんな動きをするのか分からない。ただ、分からないことが少し怖かった。

「あ……うん。発信機、やっぱり、付いてるんだ。身体のどこにあるのか分からないけど、存在は知ってたよ」

 自分の前でだけ、以前のように笑ってくれるフェリシア。
 それを喜ぶべきなのか、もう少し別の感想を持つべきなのかはまだ分からない。
 少なくとも、今話に出すべきではないのかもしれないと思った。自分のためにも、相手のためにも。
 発信器を知っている──というのは、おおよそ想定できることではあった。
 アストレアのお披露目を一番初めに聴いたのも彼女だし、柵越えがバレた理由のひとつとして挙げることもできるだろう。
 円滑なコミュニケーションはよいものだ。今のような、重苦しい空気の中では、特に。

 「よかった。私、ブラザーと一緒にそれを探してみたんだけど……それっぽいモノを見つけたから、伝えておこうと思って」

 赤薔薇は優しく微笑む。

 「目を閉じて、フェリシア。教えてあげるから」

 接吻のための唇を錯覚させるような、甘い声が告げた。
 相手が目を閉じたなら、そっと片手を伸ばすだろう。そうして、瞼越しに右目に触れ、違和感を教えるはずだ。

《Felicia》
 発信機の存在をすんなりと告げてくれたのも、私がそれを既に知っていると気づいていたのだろう。ロゼちゃんは表情を表に出すことが少ない。普段はゆる〜い微笑みを浮かべているか、真顔である。緊張する場面において大切なのは何が、ではなく、変わらないものが確実にそこにあることだった。
 相も変わらず彼女の表情から感情を読み取ることはできない。しかし、それがかえってフェリシアのざわめきを落ち着かせていく。
 大きな衝撃を、和らげていく。

 だけど、そこにあるはずの声は、未だに出ないままだった。
 代わりに声にならない声と、驚くべき事実が、一瞬で脳を支配していった。

「ぇ…………みつ、けた?」

 感情の叫びが、けたたましく警告音を鳴らす。やっとのことで絞り出した言葉は、それだけだった。
 ぽやぽやしたフェリシアを覚ましたのは、ロゼちゃんの酷く甘やかな声。普段聞かない声音にぴくっと肩を震わせたが、言われた通りに瞼を閉じるのだった。

「……ん。」

 ── 柔らかい。
 触れられたのは、右目。

 集中させると、かすかに違和感のようなものを感じる。ほんの僅かな感触だった。

「みぎめ……えぇ? ……ほんとに??」

 うるり。ペリドットの両端に煌めきを添えた。驚きと、悲しみと、衝撃と。これじゃ、瞳を取るしかないでは無いか。力なく見上げるフェリシアのそれは、普段なら意地でも見せることがない、弱気に涙を浮かべる姿だった。

 「ほんと。発信器じゃなかったとしても、何かあるんだと思うよ」

 そう言いながら、手を離す。
 相手の瞳に涙が満ちるのを見て、ロゼットは目を丸くしたようだった。
 まるで、相手がそうすることはないと信じていたかのように。

 「痛かった? 痛かったなら、ごめんね。お兄ちゃんにした時は大丈夫だったんだけど……」

 指の背で、そっと零れそうな雫をすくう。
 ブラザーはいつも通りに見えたが、力加減を間違えてしまったのだろうか。もしも傷が付いていたら大変だ。

 「痛くなくても、びっくりしちゃったかな。私もびっくりしたんだ、もうちょっと取りやすいところについてると思ってたよ」

 優秀なトゥリアでも、どう慰めたらいいのか分からないことだってあるだろう。
 彼女は淡々と、類推した感情を口にした。例え返事がゆっくりでも、違う話題だとしても、いつも通り耳を傾けることだろう。

《Felicia》
「痛いわけじゃないの! ……その、そう! びっくりして!!」

 涙を拭かれたような動作をされ、咄嗟に一歩後ろへ。ごめんごめんなんて言葉を軽く繰り返しながら腕でがしがしと目を擦る。貴女が驚いたような表情を見せると、ほんとに何やってんだ。と自分に平手打ちをしたくなるくらいに惨めな気持ちになるのだった。こうしちゃいられないと分かってるはずなのに。そうこうしている間に、全部が動いてて、手遅れになるかもしれないのに。何を呑気に泣いているのだろう。だが、ロゼちゃんの気遣いに甘えている自分がいることを自覚すると、やるせない気持ちにもなる事も事実だった。フェリシアの弱った心には、思いやりの言葉でも励ましの言葉も殆ど効かない。効くのは恐らく、経緯に至った事実確認だけだ。共感されることに恐怖を感じていることが起因していた。ヒーローは、強いから。

「ぁ、はは……覚悟はしてたけど、
 厄介な場所にあるんだね〜……身体の中じゃないだけ、マシなんだろうけどさ」

 ふぅ、とひと呼吸おくと、何事も無かったかのように話し出した。その言葉の中に、得体もしれない羞恥心があったことを悟られることがないように。

 誤魔化されたような気がして、赤薔薇は首を少し傾けた。
 ただ驚いただけであれば、隠す必要なんて何もないのに。
 全く違う感情を抱いていても、ロゼットは拒まない。それを口に出したとしても、信じてもらえるかは分からないが。

 「そうだね。もしもコアや頭の中にあったら、本当にどうしようもなかったと思う。眼球を取り外す道具があるのかも分からないけれど……」

 まだ許容できる、というつもりで。とりあえず、彼女は肯定を返す。
 フェリシアの中では、まだ“びっくり”の余韻が尾を引いているのかもしれない。いつものように振る舞う姿は、怪我をした子うさぎを思わせた。
 ──ヒーローはこの程度で折れないし、諦めるはずがない。
 そう信じてはいるけれど、やはりどこか不安になったのかもしれない。

 「フェリシアは、怖い?」

 脈絡なく、ロゼットは問いかける。
 それは今のトイボックスについてかもしれないし、“お披露目”についてかもしれないし。目の前に横たわっている、全ての苦しみについての質問かもしれない。
 具体的にはしないまま、彼女は瞬きをする。隠したモノを見透かすように。

 「怖いだけじゃなくて……胸が痛いとか、寂しいとか、そういうのでもいいよ。そう思うようなことがあったら、聞かせて」

 抱き締めるだけでもいいよ。
 そう言って、彼女は腕を広げた。特に言うことがなければ、ちょっぴり落ち込んだように元の姿勢へ戻るだろう。

《Felicia》
 首を傾げる貴女に向かって、ヒーロー"もどき"は曖昧に笑った。
 恐怖も、羞恥も──潜める孤独も誰にも悟らせる訳にはいかなかったから。フェリシアは正直者だ。
 所詮、温室産まれの温室育ち。
 必死に目を背けようとも、そこにある事実は変わらなかった。
 ……変えようがなかった。という方が正しい。

「目なら……頑張ったら外せるよね。道具がなければ、作ればいいと思うし。厄介だけど、やりようが無い訳ではない、よね?」

 自分に言い聞かせていた……というよりは、ロゼちゃんに事実確認をしていた。疑問形なのは、回答を彼女に預けたことに他ならない。思えば、自身はいつも大きな選択を突きつけられていたのかもしれない。あの夜、小さな"あの子"を置いて、逃げたことも。たくさんの選択が積み重なって、絶望的な状況を呼んでいるのなら、私は……。

 私は……舞台から降りた方がいいのかもしれない。

 ある意味、ひとりよがりな思考。ポジティブに考えたい、と思う。だけど、環境がそうさせてはくれない。いつも応援して、支えてくれる存在が目の前にいるのに、今のフェリシアには見えていなかった。そういう点で言えば、少女に傷ついた子うさぎと言う比喩語はぴったりと合っている。ひとりの世界に塞ぎ込む愚かさを分かっていながら、そうすることしか出来ない自分に嫌気がさすのだった。

「……………」

 〝怖い?〟 ── 怖いよ。
 〝寂しい?〟── 寂しいよ。

 怖い寂しいし、……苦しいよ。

 毎晩ベッドに入ったら、このまま死んじゃうかもって、不安になる。

 助けられなかったあの子が、涙を流してこっちを見ている。
 "ヒーローなのになんで助けてくれなかったの"って。

 あの日からずっと、私は、他でもない自分に嘘をつき続けてる。
 無意識のうちにずっと、免罪符を求めてるんだ。

 そして、

 〝綺麗に死ぬ理由〟を探してる。

「……だめだよ。ロゼちゃんはこっちに来ちゃ……だめ。……こないで。
 おねがい。おねがいだから……」

 ── 貴女だけでも幸せでいて。
 そんな無責任なこと、言えるはずがないのに。広げられた腕に、飛び込んでいきたい気持ちを必死に"無かったことにする。"

 ぜんぶを放棄して、からっしの気分で空を舞いたいだなんて、言えるはずもない。

 余裕なさげに拒否したフェリシアは、さりげなく片腕を掴むように腕を組んでいた。

 絶望を口にするのは簡単だが、希望を信じ続けるのは難しいことだ。
 優秀なプリマドールさえも壊される箱庭で、皆が投げやりになってしまわないのは、まだ微かに光が見えているからだ。
 誰かがそれを見失いそうになったら、その方向を指し示してやるのも友達の仕事だろう。

 「何にも手立てがないわけじゃないよ。他の子が方法を見つけてくれるかもしれないし、案外あっさり目も取れるかもしれない。今すぐどうにかするのは難しいだけで、時間をかければ何とかなると思う」

 楽観視しすぎだと言われてしまったら、きっとロゼットも反論できないだろう。
 だが、まだオミクロンクラスには仲間たちがいる。
 アストレア以降はお披露目に誰も選ばれないかもしれないし、まだ諦める時ではないのだ。
 翳りを帯びたペリドットを、鏡はずっと映している。
 その双眸から離れたところで、思い詰めてしまわぬように。たったひとりにならないように。

 「こっちって、どこ?」

 一歩を踏み出す。
 来ないでほしいと言われても、知ったことではなかった。
 相手がいる場所に、天国も地獄もない。フェリシアがいるだけで、ロゼットには十分行く意味がある。
 トゥリアドールは、柔らかい腕でヒーローを抱き寄せた。

 「私は、フェリシアの傍に居たいよ。言えないことがあるなら、言わなくたっていいんだ。一緒に茨の道を歩いて、同じ傷を背負って、同じ棺で眠ろう」

 ヒーローが皆の苦しみを背負うなら、赤薔薇はたったひとりのための花になろう。
 その涙を拭い、寄り添って、共に夜明けを待つ、あなただけのドールになる。
 ──だから、そんなことを願わないで。ひとりぼっちは、暗くて寂しいよ。

 「お披露目に選ばれても、フェリシアを置いていったりなんてしない。壊れる時も、きっと一緒に居るよ。約束する」

 あの日の植木鉢のように、絶望で陶磁の身体が砕けるとしても。
 大好きな妹のように、海の底で火に呑まれるとしても。
 その時は、きっと彼女も一緒だ。

 「信じて、フェリシア」

 だって、ふたりは友達だから。

《Felicia》
「確かに……そうだよね。きっと、何とかなる。……うん。何とかなる。」

 朧気で、されど蜜の味。柔らかなその言葉を噛み締める。大事に大事に咀嚼して、納得するように呑み込むのだった。何とかなるから大丈夫。ロゼちゃんが言うのならきっと平気。これが、〝正解〟。


 貴女が"こちらへ来ること"を拒絶したフェリシアは、無言が続くなか、一歩だけ距離をとるとその場所で立ちすくむ。……空気が肌に触れる音が聞こえてくる気がした。気まずそうに目を伏せる虚ろなペリドットは、すり。と掴んでいた左腕を撫でるのだった。

 幸せな部分しか見てなかった頃、何も疑うことなくまっさらに希望を信じられていた。悲しんでいる子を助けられるヒーローになりたくて、真っ直ぐに進んで行けた。だけどその正体は、嘘で塗り固められた箱庭で見せられていた幻想に過ぎなかった。だからこそ、絶望から抜け出す方法が分からない。足掻き方が、分からない。

 がむしゃらに突き進んだとて、先にあるのが苦しみだけだったら?

 選択を間違えていたら?

 残るのは、打ちひしがれた心と、ぼろぼろにされた身体だけだ。

 だから、怖い。どうしても、自分のせいで誰かが傷つくところを見たくない。ヒーローという仮面を被った我儘が顔を出す。嫌だ嫌だと駄々をこねる。守れる力がないと、知っておきながら。それでもみっともなく泣き喚いて叫び続ける。諦めたくないのだと、永遠に。

 複雑な感情の制御ができそうにない。どうしよう。逃げたい。走り去ろうかと思った矢先、中途半端に作り上げた脆い壁を突き抜けて来たのは……他でもない。かつて、自身が守ってあげる! とまで言って躍起になっていたロゼちゃんだった。

「………!」

 抵抗する間もなく、温もりのある身体に抱き寄せられる。
 ひたすらに来ないで欲しかった。落ち着いてから向き合おうと思っていた。だから、だから───

 来ないで(助けて)欲しかった。

「だ、だって、ひーろーはひとりでみんなを救う存在で……守ってくれて。わたしも……そんなドールになろうって……それで。

 だけど、ミシェラちゃんが!
 あの夜、ミシェラちゃんが……助けを求めてたのに。見放して、わたしだけ逃げて……そんなの、そんなの……ひーろーじゃない。わたしはヒーローになりきれない。

 だから、ロゼちゃんに傍に居てもらう資格なんて、わたしには最初から無かったの! こっちに来ないで……! あなたまで失う訳にはいかないの!!!」

 甘い言葉に絆されたくない。絆される権利なんか、ヒーローじゃない私にあるわけがない。捲し立てるように激情をぶつけることしか出来なかった。気づいたときには、堰を切ったように泣き叫んでいた。横髪が張り付いているのを気にも止めず、しゃくりあげながら、溶けだした本音と涙を手の甲で強引に拭っていた。口では来ないでと言いながら、フェリシアは貴女の腕からも、身体からも離れようとしなかった。ぴたりと寄り添ったまま、肩を震わせている。

「ロゼちゃんは……ずっと、一緒?
 お互いの崩壊まで、歩んでくれるの……?」

 囁くように向けられた声。その言葉に手を止めたフェリシアは、目を見開いてぽかんと貴女を見つめる。いきなり目を開いたため、大粒の涙が頬を伝った。

「……やくそく。
 わたしは……こんなので、未完成で、みっともなくて、ヒーローになれないかもしれないけど、前を向いても、いいのかな。
 つまづいて簡単に転ぶような愚か者だけど、貴女の……ロゼちゃんの隣にいて、いいのかな。」

 ぽつ、ぽつ。……ぽつ。
 大雨を知らせる小さな粒のように言葉が出てくる。それは、今後、濁流になろうとも共に居てくれるのか、という確認だった。反してそれは、貴女が居てくれるだけで、前へ進めるのだという隠れたメッセージでもあった。

 コアが再び、甘く鳴る。……開始のゴングのように。何が始まるのか分からないままで。

 フェリシアの悲鳴を、祈りを、問いかけを、ロゼットは黙って聞いていた。
 服が汚れるだけで、彼女が全てを吐き出してくれるなら安いものだ。何も聞けずにすれ違うよりずっといい。
 少女ドールの呼吸が落ち着いてから、赤薔薇はゆっくりと息を吸い込んだ。

 「確かに、フェリシアはいつもみんなのために頑張ってくれてるよね。私もたくさん助けられたし、頼りにしてる。
 でも、みんなを助けることができるからヒーローになるわけじゃないと思う。みんなを助けたいって、守りたいって願えるから、ヒーローになれるんだ。
 もしかしたら、アストレアも、他のドールたちも助けられないかもしれない。頑張っても報われなくて、踏み躙られて終わりかもしれない。
 それでも。何があっても、みんなを守りたいと思うなら……フェリシアはヒーローなんだ。資格なんて、いらないんだよ」

 フェリシアの頭を、壊れ物を扱うように撫でた。
 ヒーローは皆を守る存在だ。
 希望の体現であり、膝をつくことは許されない、不動の守護者だ。
 なら、誰がヒーローを守るのだろう。ヒーロー自身に向けられる悪意から、誰が庇ってくれるのだろう。
 ──できる者がいるとすれば、それはきっと自分だと、ロゼットは信じている。
 彼女に降りかかる苦難を、悪意を、全て退けて。両手いっぱいの幸せを、ヒーローへの労いのように振りまこう。
 ハッピーエンドを迎えるまで──あるいは、自分が討ち倒される日が来るまで、きっと。

 「悪い子でも、未完成でも、あなたはあなただもの。それ以上に理由なんていらないよ。転んだら何度でも起こしてあげる。だから私を頼って、フェリシア」

 大切なことは、まだ口に出せていないけれど。
 トゥリアドールのロゼットは、柔らかな笑みを浮かべてみせた。どんな荒波も受け止める、大海のような笑みを。

《Felicia》
 耳朶に触れるは、棘のない赤薔薇のささやかな詞たち。そこは、決してフェリシアを傷つけることがない、綿毛とお砂糖だけで包まれた空間。瞳を見開きする度に瞬きは頬を伝い、力なくロゼちゃんに寄りかかっている。全てを打ち明けた。すべてを、さらけ出した。残ったのは……残念で無体な身体……。
 だけじゃなかった。
 慣れない手つきで甘えるように、すり、と貴女の頬にウィスタリアの髪をそっと添わせる。

 それは、ひだまり。
 それは、しるべ。

 それは、かえれるばしょ。
 おだやかに、すごせるばしょ。

 ── 心から、安心できる場所。

「……………わたしは、ヒーロー?
 私が、ヒーローって名乗っても、ロゼちゃんは怒らないんだ。

 ……そっか。

 ……そっかぁ。……ふふ。そっかぁ」

 みんなを守りたいって思うだけでロゼちゃんの中の前ではヒーローって名乗っていいんだ。

 ……そっかぁ。

 涙に濡れたままの好調した頬で、さくらんぼを零したような微笑みを浮かべ始めた。心から欲しかった言葉を、赤薔薇は驚くほど呆気なく言ってのける。なんて、面白いんだろう。面白くて……びっくりして……こんなにも嬉しい。

「ど、どうしようロゼちゃん……私、こんなに幸せでいいのかな。でもロゼちゃんに負担かかってない?
 ……私ばっかで、申し訳ないや。

 だけど……いや。なんでもない。
 ありがとねロゼちゃん。これ以上ないってくらいに貴方の隣が心地いいや。……えへへ。」

 未完成の私でさえも目の前の彼女は認めて、支えてくれる。どんな面も受け入れてくれる、かけがえのない大好きな友だち。ロゼちゃんの笑顔は、今まででいちばんってくらいに頼もしく見えた。彼女とならきっと──きっと。何処までも羽ばたいていけるよね。
 ふたりなら、ね……。
 だから……あわよくばずっと一緒にいたい。でも、ぬくみを手放すのはそれ以上に怖くなっちゃうだろうから、今は秘めておこう。私が胸を張って、どんなことからも貴女を守るよって言えるまで。
 ヒーローだよって、言えるまで。

 笑ってくれたなら、もう大丈夫と見ていいだろう。
 フェリシアの口角が上がったのを見て、赤薔薇の顔も綻んだ。
 彼女は羽根のように軽い。トゥリアは抱き止め続けていたが、それもなんてことないように思えた。

 「全然気にならないよ。今まで助けてもらっていたのは私の方だし、こういう時こそ力になりたいもの。
 ……私も、いつかみんなの負担になるようなことを思い出してしまうかもしれない。その時は、一緒に乗り越えてほしいな」

 お願い、なんて。
 切実な内容にしては、まるで変わらない声色で、彼女は口にする。
 逆に言えば、それ以上に求めることなどないのだろう。太陽はそこにあるだけで、十分すぎるほど暖かく、道を照らしてくれるのだから。

 「それじゃあ、そろそろここを出ようか。あんまり長居しても怪しまれるからね。また辛くなったら、いつでも聞くよ。何もなくても話そうね」

 名残惜しそうに、ゆっくりと身体が離れる。
 フェリシアの手指に、ロゼットは指を絡めて、恋人のようにしながら部屋を出て行こうとするだろう。

【寮周辺の森林】

Campanella
Rosetta

 偽の日差しが木の葉を貫き、下界を照らす。
 スポットライトを思わせる陽光も、今だけはジャンクドールのモノらしい。
 それに照らされたロゼットは、まるで気にかけていないようであったが。

 「カンパネラ、珍しいね。どうしてこんなところにいるの?」

 声をかけたのは、同じくジャンクの同級生。
 カンパネラ。
 しばらく前から元気のない、繊細なトゥリアのドールだ。
 湖畔にやってきたのは、記憶を思い出せるようなモノがないか──という気まぐれだったのだが。彼女がいるのは意外だったようだ。
 問いかける目は丸く開かれ、さながら猫のようだ。相手が答えようとする間に、赤薔薇は少しだけ距離を積めるだろう。

《Campanella》
 彼女は木陰に佇んでいた。ひっそりと、闇の中に溶け込んでしまうように。頬や鼻の頭に落ちた光は彼女の目元のどす黒い隈を可視化するのみで、カンパネラの気を紛らわすものにはならなかった。
 視界の端に鮮やかな赤が写り、声が聴覚を叩く。ゆらりとそちらに面を向ける。銀色の丸められた瞳は美しく、焦燥を欠片も感じさせない。

「………」

 沈黙が一旦の返答だった。口がはく、と開き、何かを言いよどむような様子で閉じて、またそっと小さく開く。
 少し、後退る。

「………気分が、晴れなくて。」

 目をそっと逸らしながら、そう述べた。どこかよそよそしい態度を取っている自覚はあったけれど、当人にはもうどうしようもないことだった。

「……ロゼットさんは……?」

 意思を持って活動しているはずなのに、彼女はどこか亡霊のように見える。
 生気のない表情でさえ、美しいドールを飾り立てる宝石に過ぎない。幽玄な雰囲気は、カンパネラに星屑のような儚さを添えていた。

 「私は……探しているモノがあるんだ。最近思い出したことなんだけどね。ガーデンって組織、知らない?」

 気分が晴れない時は、大抵理由を深掘りしてもまともなことにならないだろう。
 ならば、空気が読めないふりをして質問を投げた方が効率的だ。
 そう判断して、彼女は世間話のように話をした。井戸端会議ではなく、湖畔の雑談に過ぎないが、相手は何か知っているだろうか?

《Campanella》
「ガーデン………?」

 ほとりと落とした声は空っぽで、それだけで彼女は何も知らないのだと伝わっただろう。相手の目を見ず顔も向けないまま、こてりと首をかしげる。
 ガーデンという名前の組織。……思い当たりはなかった。

「………あ、」

 なかったが。
 湖の水面を眺めながら、ふと蘇った記憶があった。泡の発生していた場所があって、それを見ようとしてバランスを崩した結果、ここに頭から落っこちたときの情けない記憶が。
 落下の衝撃と共に舞うあぶくが、彼女の肌を擽りながら水面を目指す感触。砂利に覆われた何かを見つけた。自暴自棄になりながら掻き分け、潜り込み、そしてその繊細なトゥリアの目が捉えた謎の文字列。

「………あ、あの。……あ、あんまりよく、見えなくて……間違ってるかも、しれないんですけど……」

 言いながら白魚の指が指したのは、目の前の湖だった。

「この中に、あの………鉄みたいな。き、……機械? ………そこに、あの、……それっぽい、文章が……」

 ガーデン。Garden。カンパネラの欠けた頭が綴りを思い浮かべた。
 そうか、一部潰れていたから分からなかったが、あれはもしかしたらそう書いてあったのかもしれない。言葉の続きを紡がぬまま、カンパネラは一人で勝手に納得をしていた。それ以上のことを言うのが何となく怖くなって、それまでで満足するか、話の続きを乞うかは相手にすっかり委ねている。

 ガーデンに関わっているかもしれない機械が──あの子について知れるかもしれない機会が、ある。

 「文章が、あったんだね」

 人形の顔から、繕うための全てが消えた。
 そこに残ったのは、歓喜と焦燥の入り混じった何かだけだ。

 「ありがとう。見てみるよ」

 そう口にすると、ロゼットは靴を脱ぎ出す。靴下まですっかり脱いでしまえば、自分の腹部が重いのも忘れ、湖に入ろうとすることだろう。

《Campanella》
「え?」

 ロゼットの表情を、カンパネラは見逃した。しかし声色とその言葉、続けて彼女が取った行動から、自分が今彼女の何かに触れたことをなんとなく察知した。

「えっ? あの、ちょ……見てみるって、あの、ちょおっ……」

 ようやっと目を向ければ、彼女は見てみるよ、と言いながら靴や靴下を脱いでいる。となればロゼットが取る次の行動は愚鈍なカンパネラにもはっきりわかる。
 おどおどと制止の声らしきものを浴びせるが、腕を引いて無理矢理止めるようなことはできなかった。あまりに躊躇のない様子に困惑するばかりだったのだ。反射的に手を伸ばすも、それはロゼットの髪にすら触れることはできずに、ただ虚しく空を切るだろう。端から届くと思っていなかった、そういう距離を開けていたから。

 「故障しないようにはするから、大丈夫」

 カンパネラに生返事を返す。あまり聞いているかは分からないが、少なくとも耳には入っているのだろう。
 彼女は制服のまま、躊躇せず腰のあたりまで湖に浸かった。
 これ以上入り込んでもいいが、腹の中が花瓶から水槽になるのは少し困る。頭痛がした時に溺れないとも限らないから、今は一旦ここまでにしておいた。
 水面に顔をつけると、ロゼットはガーデンの文字を探してみる。
 まだ見えないようであれば、もう少しだけ深く入ってみることにするか、外周を歩いて近づいてみることにしよう。

 水面から顔を上げる。癖っ毛が輪郭をなぞるように張り付いていたが、煩わしいとは思わなかった。
 ──確かに何か、書いてある。見覚えのあるはずのモノが。

 「ありがとう、カンパネラ。あなたの言う通りだったよ」

 湖水を掻き分け、ロゼットは地上へ戻ってきた。
 制服はだいぶ濡れてしまったが、まあいいだろう。デイビッドには足を滑らせたとでも言えばいい。
 顔の水を拭いつつ、 カンパネラの様子を窺う。トゥリアの彼女が見つけたのは少々意外だが、そういうこともあるだろう。

 「アレ、どうやって見つけたの? 今まで全然気付かなかったよ。カンパネラはすごいね」

 皮肉にも聞こえる賛辞は、ひとえに事情を知らないから言えてしまうことだ。
 やんわりと尊敬のような視線を向けつつ、赤薔薇は靴を履き直していた。

《Campanella》
「……んえぇ~………」

 困惑の声をこぼしながら、陸へ戻ってきたロゼットのことを見ていた。手を貸すなどという発想はなかったようで、どこか遠巻きにそれを見ている。
 さて、あの文章が何か彼女の役に立っただろうか。カンパネラにとっては何の検討もつかないあれが。このやりとりが三日ほど遅ければ、その機械に刻まれた謎の文章は、すっぽりカンパネラの頭から落っこちていただろう。

「………い、いえ……すごくなんか………」

 事故でこの湖にドボンと落ちたのがきっかけで見つけたんです、なんて恥ずかしくて言えやしない。赤っ恥ものである。わざと言っているんだろうかと疑うが、どうやら本当に心から言っている様子でたちが悪い。濡れてるのに靴履くんだぁ……気持ち悪くないのかな………という心の声をしまいこみながら、カンパネラはふいっとロゼットから目を逸らして、作り物の木の若葉の指す、斜めの先を見ていた。

「………あれがなんなのか、……あの、ご、ご存知なんですか。……わたし、よくわかんなくて………」

 己の豊かな横髪の束を摘まんでもふ、と頬を包み、逃げるように話の話題を逸らそうと試みた。あの文章のことをロゼットが少し知っているような物言いだったのが気になったのは本当だったが……。

 奇妙な呻き声を上げながら、カンパネラは訥々と話をする。
 謙遜しているのか、本当にそう思っているかは分からないが、とりあえずは曖昧な返事を返しておいた。
 ツリーハウスに行った時、あれだけ息を切らしていた彼女が泳げたというのは本当にすごいと思っているのだが、迫り過ぎてもよくはないだろう。
 それよりも、あの文字についての話が必要なようだった。

 「アレは……大切な子の足跡なんだ。今の私じゃない私の手掛かりでもあるんだけど……うーん、なんて言ったらいいんだろうね。あなたにとっての、あの壊れたドールみたいなモノ、って言うのがいいのかな」

 選ぶ言葉もないのだが、とりあえずはそう返しておくことにした。
 「気になるなら、文化資料室で“ガーデン”について調べてみてよ」と伝えるのも忘れずに。

《Campanella》
「…………」

 “壊れたドール”という言葉に胸が跳ねるような感覚を覚えた。鳩尾にハッカを放り込まれたような、ひやりとした嫌な感じ。
 ドール。壊れた……。ロゼットが共にツリーハウスに行ったということ、シャーロットは壊れて死んでいたということ、その事実が強烈に突きつけられたかのように過剰に反応してしまうのもまた、カンパネラにはどうしようもないことであった。

 大切な子の、足跡。自分にとってのあの写真やノースエンドみたいなものなのだろうか。今の私じゃない私。……よく分からなかったけど、説明は求めない。そういう気分ではなかったから。

「は、はあ………ありがとう、ございます………?」

 曖昧に返すカンパネラに、それ以上ロゼットの事情を深追いをする理由はなかった。ガーデンとやらが気にならないでもないが、少なくとも今日のうちに調べることはないだろう。カンパネラは探し物と考え事で必死であったので。過日の友人たちを追うのに加え、ブラザーのことでも頭を悩ませていたのだった。
 あの時のことをロゼットに相談してはどうかと思いもしたが、やめた。あの思い上がりから来た感情を言葉にするのは憚られたし、ロゼットもどうやら探し物をしているらしいというか、何かを追っているようだということをなんとなく察知したからだった。もしその相談が彼女の邪魔になってはいけない。わたしなんかが、思い上がってはならないのだ。

「………あの……。か、関係ない、けど。………ツリーハウスの、とき、あの……ご、ご迷惑を、おかけ、しまし……えと、ご、ごめんなさい……。…い、嫌なこと、知ることになっちゃったし……」

 どうにか会話ができている今のうちにと述べた謝罪は、少々突拍子もなかったかもしれない。あの時からずっと謝りたかったのだった。
 あれから心証的に大丈夫だったかという確認を取りたかったという意図が。謝ることで、その巻き込んでしまったという罪悪感をどうにかしたかったという下心が、ないわけではなかった。

 「迷惑って、何が? 困るようなことをされたとは思ってないよ」

 唐突な謝罪に、ロゼットは小首を傾げる。
 特にダメージを受けるようなこともなかったし、トイボックスの真実に迫る情報を教えてもらうこともできた。
 ドロシーやジャックとも出会えたし、彼女は何故カンパネラが謝るのか理解できなかった。

 「確かに、ノートの内容とかにはびっくりしたけど……それだけだよ。私にはそんなに関係なかったからね。むしろ、あなたやお兄ちゃんの方が大変だったでしょう」

 今はもう元気? なんて、デリカシーのないことを口にする。
 できればこちらが判断すべきだったのだろうが、相手は普段から覇気のないカンパネラだ。しょげているのか、萎縮しているのか、傍目からはどうにも分かりづらい。

《Campanella》
 呆気に取られるとはまさにこの事で、本当にロゼットはあの時から変わらなかった。取り繕っているような様子は伺えない。欠陥品が辿る最期が記されたノートを読んだ上で、自分には関係ないとまで言った。髪の奥で目を丸くして、カンパネラはしばし固まった。

「…………げん……」

 その醜い感情を、これ以上他人の前でさらけ出すな。手の甲に爪を食い込ませる。その自制は、自傷にも近しく。

「…………」

 力なく首を横に振るのが精一杯だった。たぶん、傷付いたんだと、思う。でもそれは自分が弱いせいなのだ。どんなに丸く角のない石だったとしても、対象が例えば一枚の萎れて変色しきった花びらであれば、引っ掻いたら傷が付くのは当然の話だ。

「………あなたは。………大丈夫なら、……ええ、はい、…………」

 語尾が消えて、言葉はそれきりだ。次の話題とか言葉とか、そういうものも浮かばなかった。

 どうしてそんな顔をするのだろう。何も痛いことはしていないのに。
 薄笑みを貼り付けたまま、苦しそうな相手の顔を見つめている。
 何か間違ったことを言ってしまったのかもしれないが、ロゼットにはよく分からなかった。
 ただ、首を横に振られてしまった以上、何かしらのフォローはするべきかもしれないわけで。
 ちょっぴり気まずそうに間を空けてから、「ごめんね」と口にした。
 改善できないなら謝らない方がいい、ということも理解しているつもりなのだが。

 「じゃあ、そろそろ私は行くよ。またね」

 重い空気が場を満たす。
 それから逃れるように、彼女は別れの言葉を口にした。
 そうして、濡れた服を纏ったまま、てくてくと寮へ戻っていくだろう。

【学園3F ガーデンテラス】

Sarah
Rosetta

 美しい花園の隅で、ロゼットはぼんやりと花を見ていた。
 ここに来るのも、何だか久しぶりのような気がする。たった数日来ないだけで、可憐な植物たちは見知らぬ生き物のように見えた。
 ミシェラのお披露目から、色々なことが立て込んでいたから、こうしてゆっくりする時間も取れなかったわけで。
 うららかな日差しの中、ガーデンテラスに馴染もうとするかのように、赤薔薇はただそこにいる。

 「あ」

 じんわりと眠気が滲んできた頃、見覚えのある姿が視界の端に映った。
 ただ在るだけの草花から、考える葦の模造品に。いつも通りの表情で、ロゼットは手を振った。

 「サラがここに来たの、初めて見たよ。お花は好き?」

 サラがガーデンテラスに初めて来たのであろうが、そうではなかろうが、とりあえずそう声をかける。
 にこにことした顔からは、悪意がないことが読み取れるだろう。良くも悪くも。

《Sarah》
「うん、初めて」

 ガーデンテラス自体には何度も足を運んだことはあるが今日来たのは初めてだ。
 彼女の周りだけ時計の針がうとうとしながら動いているみたい。寝ているわけでもなくて、起きてせっせと動いているわけでもない。
 彼女に近づくと自分のくるくる回る時計までうとうとしてきてしまいそうだ。針が狂わないようになるだけ足早に彼女に近づく。

 ぐちゃぐちゃとした気持ちを鎮めるためにガーデンテラスにきたというのに、今度は時計が狂ってしまうとは。

 ちょっと嫌いなお腹がぽっかり空白ドール。ニコニコとしているロゼットサンはどこか草花が咲き誇るガーデンテラスがよく似合う。住んでいてもあまり違和感はない。

「ロゼットサンは、お話でもしてたの?」

 サラの目には自分とロゼットの周りに他のドールは映っていない。
 当然サラはロゼットがドールと会話しているとは思っていない。彼女と同化しかけている草花とおしゃべりしていると思っていたのだ。今もぺちゃくちゃ口を動かす花たちは自分が話しているのにもかかわらず口を挟んでくる。

 目まぐるしく移り変わる世界の中、ロゼットの周りだけがゆっくりとした時間を保っている。
 オルゴールの中の人形のようだ。自分だけが関係ないという顔をして、美しいものだけを見て過ごしている。

 「んーん。今はのんびりしてたの。ここは暖かいからね」

 眠くなっちゃうよねえ、なんて。
 悪意を向けられることなんて考えないように、赤薔薇は口にする。

 「サラがいいなら、一緒にお話でもしようよ。ミシェラがいなくなって、ちょっと寂しいし」

《Sarah》
「だから時計の針もうとうとしてたんだ。ボクのまでのんびりしちゃうところだよ。」

 彼女に近づいてもまだくるくると回るサラの時計。針は正常に動いている。
 納得がいったのか理解したかのように述べては、おしゃべりの口が止まらない草花を撫でていく。これで多少は静まる、と思いたいものだ。

「ミシェ、ラ。トゥリアドールの子?」

 初めて聞く名前だ。
 いや違う。
 でも、わからない。
 時計の針の進みが遅くなった。
 動揺を隠すようにわからないのを隠すように、のんびりと優雅に咲き誇る赤薔薇と目が合わぬよう。ただおしゃべりな彼らの口を防ぐことに集中したい。

 「面白い喩えだね。いいんじゃない? のんびりしちゃっても。駄目だったとしても、一緒に怒られようよ」

 テーセラにも詩的なところがあるのかと、ロゼットはちいさく笑う。
 草花に触れる手つきも、力がこもっているようには見えない。素朴なドールだと思っていたが、可愛らしいモノも存外好むようだ。
 それなりに同じクラスにいたはずなのに、知らないことばかりだ。同級生のことも、自分のことも。
 誤解だらけのドールは、優しい目でサラを見る。

 「ミシェラはエーナの子だよ。オミクロンのみんなと仲良しの、可愛いドールだったけど……あんまり覚えてない?」

 忘れちゃうこともあるよね──と言えたのは、まだあの愛らしい笑顔を覚えているからだ。
 夕陽のような金髪は、ふくふくとしたてのひらは、まだロゼットの中にある。
 全て忘れてしまったドールは、輪郭も掴めない相手について何も口にできないというのに。

《Sarah》
「喩え、じゃないけど。
 やだね。ボクは先生サンに怒られたくない。」

 おしゃべりが静まってきた草花から手を離し彼女の提案を否定するように軽く首をふる。
 ヒトと、友だちと一緒に怒られ、また友情を深めるならまだしもただのドール同士。怒られたって嫌じゃないか。

「みしぇ、ら。オミクロンのドール?
 ボクが来る前にいた子かな。ボクが知ってるオミクロンドールはボクら含め14体でしょ。」

 エーナドールで、オミクロン。どこか既視感があるような気がするのは誰かから名前を聞いたことがあるのかもしれない。
 覚えていない。知らない。それは可笑しくない。

 「つれないね。怒られるまでは自分だけの時間なのに」

 シャボン玉のように、言葉が虚空に消える。
 煌びやかな誘惑には、何の中身もない。ただ、その場を賑やかすために浮かんでいるだけのものだ。
 もっとも、他の話題が出てきてしまえば弾けてしまう程度でもあるのだが。

 「……ほんとに、覚えてない?」

 銀の鏡が、瞬きをひとつした。
 冗談ではないし、軽い話でもないと判断したのだろう。柔らかな表情が、少しだけ強張る。
 ずっと前から、歯車は狂っていたのかもしれない。たまたま、不調に気付いたのが今だっただけで。

 「オミクロンにいた、ちいさな女の子ドールだよ。苺みたいに赤い目と、カナリアの羽根みたいな髪を持っててさ。ちょっと前に、お披露目で……いなくなっちゃって」

 これくらいの大きさだったよ──と、手で高さを指し示す。
 赤薔薇だってしっかりと覚えているわけではない。けれど、まだ彼女のいた空間の温かさくらいは覚えていた。

 「ねえ、一応聞きたいんだけど……オミクロンの子たちの名前って、言える? 覚えている子だけでいいよ」

《Sarah》
「覚えていないも何も、」

 覚えていない。
 自分が何かを忘れていることはわかっている、わかっているけれど認めたくないのだ。
 忘れちゃいけいないことだったはずなのに。心にぽっかり空いた穴はいつの間にか夢の欠片達により封をされ、喪失感はあまり無かった。
 きっと覚える必要のなかったこと。きっと。

「へぇ、オミクロンなのにお披露目に行けるってことは優秀なドールだったんだね。」

 まさかオミクロンでもお披露目に行けるとは、消えかけていた希望がまた見え始めてきた。彼女の欠陥が何かはわからないが、自分ももしかしたら行けるのかもしれない。会えるのかもしれない。自分の主人に。そう思うとコアが高鳴る。

「良くわかんないけど。
 デュオモデルのソフィアサン、エルサン、アメリアサン。

 エーナモデルのフェリシアサン。

 トゥリアモデルのディアサン、ブラザーサン、ミュゲイアサン、カンパネラサン、リーリエサン、ロゼットサン。

 テーセラモデルのストームサン、リヒトサン、オディーリアサン、あとボクでしょ?」

 会話がすれちがっていく。
 短針が長針を追い越し、秒針は立ち止まって震えていた。進まない時計の歯車のように、ふたりの会話は噛み合わない。
 ロゼットは、ようやく自分の手のひらが湿りつつあることに気が付いた。
 焦燥。
 大きな悪い流れが、トイボックスを呑み込んでいることに、今更気が付いたようだ。

 「いい子だったよ。木漏れ日みたいなドールだった。みんなに惜しまれながら、幸せそうにお披露目に行ったの」

 明るい声に対して、淡々とした調子で言葉を返した。
 まだ事実しか言っていない。相手を傷付けるようなことを、ふたつ以上告げることは避けるべきだ。
 名前を誦じてもらった後。言葉を選ぶように逡巡してから、ロゼットは口を開いた。

 「あの、ね。あなたは、今の時点で二体以上のドールのことを忘れちゃってるみたい。
 お披露目に行った、エーナのミシェラ。そして、これからお披露目に行く、エーナのアストレア。
 ミシェラはともかく、アストレアは元プリマで、印象に残りやすいドールだったと思うんだけど……サラの中では、いつからオミクロンは十四体なの?」

《Sarah》
「……ボクも早くお披露目に行けるようになりたいな、」

 今度お披露目に行く方法でも聞けたら良かったのだけれど。お披露目に行った子に手紙などを送っても返事があまり帰ってこないと聞く。主人との生活が楽しかったり、いそがしかったりして返事が書けないらしい。
 みしぇらもきっとそのうちの一体だ。

「あすとれあ、みしぇら。
 元プリマなのにオミクロンに来ちゃったんだ。
 最初っから。そうだよ、最初っから14体。誰も欠けてないでしょ。」

 可哀想なプリマドール。何が欠けてしまったのだろう。他のモデルのプリマドールなんてカタコトな口調で自分に言い聞かせるように、彼女が欠けてしまったというドールの名を復唱する。

 誰だ。

 誰だ。

 誰だ。

 おかしくない。おかしいのは眼の前の赤薔薇。ボクが知っているオミクロンクラスのドールは全員で14体。欠けても、増えてもいない。
 おかしいのはロゼットサン。

 お披露目に行けば待つのは終わりだけだし、それを是とするドールももちろんいるのだろう。
 だが。何も知らないまま、甘美な夢だけを見て進み続けるのは不公平だ。
 せめてお披露目がどういうモノか、知ってもらえたらいいのだが──今の状態では、それも難しいだろう。

 「覚えてなかったら、確かにそう見えるのかもね。でも……他の子は、アストレアとミシェラがいないと寂しがるからさ。サラが今言ってくれたことは、あんまり口に出さない方がいいかも」

 相手はどうにもピンと来ていないらしい。ちょっぴり眉尻を下げて、ロゼットは困ったように微笑んだ。
 多分、話を続けてもお互いいい気持ちにはなれないだろう。適当なところで、彼女は「話は変わるけれど」と口にした。

 「最近、変なモノを見たりしなかった? みんなから色んなモノを見たって話を聞いてて、気になってるんだ。昔の記憶とか……青い蝶とか。知らない?」

《Sarah》
 ボクだけが知らないの?
 他の子は【みしぇら】と【あすとれあ】を知っているのか。
 ロゼットサンは可怪しくなかった。
 皆が可怪しいんだ。
 ボクが来る前にいたドール。皆と仲が良かった16、15体目のドール。

「……わかった。」

 呆れたように肩をすくめ簡単に彼女の問いに答える。
 青空から落ちてきたあのこ。
 誰、が青空の破片って教えてくれたんだっけ。ボクじゃない。
 わたしが祝福したはずの、お披露目に選ばれたあの月魄の少女。名前が出てこない。
 大事な友達と同じようにお話がうまくて。聞くのがとっても楽しかった。
 輪郭がぼやける。見えない、彼女の顔がわからない。

「ロゼットサンもそれ聞くの、
 ……変なものかはわからないけど青空の破片は見たよ。」

 本当に分かってくれたかは分からないが、まあ口にしたならいいだろう。何かあれば他の子が対処するだろうし。
 サラの言葉に、ロゼットはちいさな肯首を返した。

 「何度も訊いちゃってごめんね。青空の破片は……どのくらいの大きさだったかな。また見たいと思う?」

 新しく出てきた言葉には、一瞬驚いたものの、まだ想定の範囲内だったようだ。
 語彙こそ抽象的なモノだが、青い蝶の仲間である可能性は捨てきれない。
 自分はまだ見ていないモノだが、他にも見ているドールはいたようだ。
 なーんだ、なんて思いながら。彼女は提案を口にする。

 「もしも見てみたいなら、一緒に探さない? ひとりで探すよりも、ふたりの方がずっと早いと思うよ」

《Sarah》
 どれくらいだっか。メモリーを辿りながら左手を軽く握り突き出しては拳程度だったことを示す。
 近づいたことはあっても触れたことはないため正確かはわからないがまあ、正しいだろう。

「青空の破片、はえっと、これぐらい。
 まあ、捕まえたいから。」

 自分から言い出したにも関わらずワンテンポ送れて返す。青空の破片。誰が教えてくれたかは、また見れば思い出すかもしれない。
 だから捕まえなければ、近づいたら急に体が痛くなった。他のドールが近づいて壊れちゃったら嫌だ。嫌だ。
 だから強いテーセラであるボクが見つけなきゃ。
 ロゼットサンはトゥリアで一番嫌い。
 だから絶対に近づかせない。

「え、いや。ボク一人で探すよ。」

 拳程度、ということは、頑張れば捕獲することもできるだろう。
 自分でも握り拳を作って、ちいさく頷いた。
 何度も見れば記憶を取り戻し放題! ──とはいかないだろうが、ドロシーに見せれば何か分かるだろう。

 「どうして? トゥリアにも、似たモノを見た子はいたよ。私だって見つけられるかもしれないし」

 小首を傾げながら、そう問いかける。
 駄目と言われても、ロゼットは過去について探る気満々だ。そういえばガーデンが云々、とか何とか喋り出すことだろう。

《Sarah》
「いつ、どこで。
 その子今大丈夫? 壊れてない?」

 なんということだ。自分でも体が壊れるのではないかと恐れるほど痛かったのに、辛かったのにそれをトゥリアが経験したとなると一体どれくらいの苦痛だったのだろう。
 焦りのあまり眼の前に咲く赤薔薇に詰め寄り腕を掴む。いつもなら優美に咲く花は決して傷つけぬよう細心の注意を払っていたが、今のサラにそんな余裕なんて無い。
 いつもの動かない顔はどこへやら。薄っすらと浮かんだ焦ったような表情。よほどドールが壊れてしまうのが怖いのか。

 痛みを感じるドールであれば、「痛い」と救難信号を出し、サラを引き離すこともできただろう。
 だが、ロゼットは特別製の不良品だ。痛みなど感じない。
 ただ、自分よりも“痛そう”なサラへの返答にだけ意識を割くことができる。

 「時期は、アストレアがお披露目に行くって言われる前。場所は……その子に訊いた方が早いかな。少なくとも、私が見た限り、ブラザーは壊れていないよ」

 あとはリヒトも見たって言ってたっけ、なんて。
 のんびりと話しながら、ロゼットは掴まれていない手で、サラの手のひらに触れた。

 「深呼吸をしよう、サラ。三秒数えてから、返事をしてね。……あなたは、私が壊れるかもしれないから、青空の欠片を探してほしくないの?」

 頑丈なテーセラの先端を、壊れ物でも扱うように撫でていく。
 何と返しても、きっとロゼットは怒らないだろう。痛みもなければ、苦しむこともない。
 壊れたと自覚するまで、ドールは完璧な存在で在り続けるのだ。

《Sarah》
「……アストレアサンが、じゃあボクがオミクロンに行く前。
 お兄ちゃんサンとリヒトサンも。」

 強く握ってしまった細く柔らかい茎から手を離し数回撫でる。壊れてない? 大丈夫? と何度も繰り返しては壊れていないことを確かめた。
 テーセラより脆いトゥリア。壊したことがないため一体いくら力を込めたら彼らが壊れてしまうのか、想像もしたくない。

「いち、に、さん。
 そうだよ。壊れたら、壊れちゃったら。
 主人サンに会えない。お披露目にいけなくなっちゃう。
 そんなの誰も嬉しくない。」

 壊れたら行けない。

 壊れたら会えない。
 ロゼットサンが自分の一番嫌いな部分を触っている。彼女の手にそっと触れる。ボクは壊れていた。だから墜ちた。だからお披露目に行けない。
 ロゼットサンも行けない。

 辿々しい言葉に、「うん」と相槌を返す。
 否定はしない。する要素もない。
 痛くないから大丈夫、と何度も言葉をかけた。
 サラは優しい子だ。優しすぎて、自分の力で誰かを傷付けることに臆病になりすぎてしまう。
 そんなことはないのだと、誰かが言ってあげるべきだったのだ。悲劇が始まる、ずっとずっと前に。
 相手が拒まなければ、ロゼットは相手の手を握る。そうして、ゆるく力を込めるだろう。友達同士が手を繋ぐように。

 「そうだね。お披露目に行けば、ご主人様ができて、どんな子でも愛してもらえる。それはすごく素敵なことだと思うよ。
 でも……私は、オミクロンのみんなといるのも同じくらい好き。サラとこうして話したり、手を繋いだりしてるだけで、楽しい気持ちになれるもの。
 誰かを傷付けることを恐れてしまうのも分かるよ。私も、よく相手の気持ちを考えずに話してしまうから。だけど、怖がって誰にも触れずにいたら、力加減も分からないままでしょう?
 大丈夫になるように、一緒に練習しよう。抱き締め方も、みんなの護り方も。サラが嫌じゃなかったら、だけど……」

 ちょっぴり自信なさげに、ロゼットは微笑む。あまり誰かに見せたことはない、変わった表情だった。

《Sarah》
 握られた手をビクリとふるわせる。柔らかく脆い手がサラの硬く頑丈な手を握る。どこか安心してしまうのはトゥリアの包容力か、口からあふれでた言葉の蛇口をなんとか締めることが出来た。固まっていた体の筋肉がほぐれていく。ぽかぽかと温かい土の布団に包まっている時みたいな安心感。

「練習。嫌じゃない、けど。じゃあよろしく?」

 触れる練習か。確かに主人サンが万が一にトゥリアより嫌いだったら困っちゃう。ロゼットサンで練習しておくのは大事かもしれない。
 彼女が拒まなければトゥリアの真似事のように貴女を抱きしめる。友だちはハグをする。特に女子同士は。そう習った。だから抱きしめた。
 トゥリアモデルのように相手を受け入れるような優しいハグはできないけれど友だち同士がやるようなハグ。それが出来ていたらいいな。

 驚きはしたようだが、拒絶するほどでもなかったらしい。よかった、と内心ごちた。

 「うん。よろしくね、サラ。他の子にも声をかけたら、きっと手伝ってくれると思うよ」

 突然ハグをされたのには、少し驚いたけれど。まだ直接的に被害が出たわけではないし、何とか抱き止めることもできた。
 あまり仲良くなれるかわからない子だったけれど、なんとかなりそうだ。
 他にも痛覚のある子に手伝ってもらう必要はあるだろうが、それもまた友達を増やすことに繋がるだろうし。意外と前途は明るいかもしれない。
 相手の背中を軽く撫でながら、「もうちょっと力が弱くてもいいかも」なんて言葉を返す。
 花の見守る中、抱き締め合うドールたちは本当の友達になれたみたいだった。

《Sarah》
「……別にロゼットサンだけでいいよ」

 トゥリアドール一体練習用としていれば十分だろう。ロゼットサンはお腹を治さない限りお披露目には行けない。ボクも右腕が、右腕さえいつも付いていればいける。
 お互いに治れば行ける同士、治らなければ行けない同士。
 すぐには行かないドールのほうが便利だろう。

「あっごめん」

 一歩下がり彼女の体から剥がれる。まあまあ初めてトゥリアドールに抱きついたには上出来だろう。 
 そんなボクらを見守っていた花はまたもや話に自分たちを咲かせている。
 力加減は理解した。満足だ。

「そろそろ行こうか。」

 授業が始まる前にガーデンテラスは出たほうがいいだろう。次のテーセラの授業は外なため早くいかなければ。
 トゥリアは何処だったか。
 ヒトとうまく友だちになるための道は上手に進めている。

【学園3F 文化資料室】

Dear
Rosetta

 歴史と埃の降り積もる、文化資料室。
 1/nスケールの街を見下ろしながら、ロゼットはぼんやりしている。
 ミニチュアの動き回る音は、ぼーっとするのにちょうどいいノイズだった。
 無音では心臓の音ばかり意識してしまうし、ドールたちの喧騒は安穏を妨げる。
 こちらに関心を向けない、ちいさなおもちゃくらいが一番心地よく感じた。

 ──ここにいれば、いつでも“ガーデン”についても見返せるし。

 ちらり。
 銀の眼が、ファイルの群れの背を一瞥する。
 過去と呼べば甘く痛む、傷の一部。ガーデンテラスも悪くはないが、ここには直接的な情報がある。傷に塩を塗り込むのに向いていた。
 自傷にも近い、内省に浸る中。近付いてくる足音に、ロゼットは気付かない。
 ディアが何をしようと、無抵抗で受け止めるだろう。

《Dear》
「ロゼットっ!」

 世界の歴史を閉じ込める、知識と静寂が舞い踊る海に、跳ねるような大声が響く。その小さな器のどこから出ているのだろう、と疑問に思うほどに響く声。ボーイズモデルにしては少し高いその声は、されど不快感を与えない美しい高温に設計されているようであった。
 小さな器の全てが恋人のためにあるディアは、元気よくドアを開きながらも壁に当てないようそっと勢いを緩め、優しく撫でてはごめんねと囁いた。ブーツのワルツを鳴らしながら、飛ぶように細い肩に抱きついて。激しく明るく、そして優しく。

「ごきげんようっ、薔薇の妖精さん! ああ、今日のキミも変わらず美しいね! 私たちの心に慈しみと安寧を与える灰色の空を閉じ込めたかのようなキミの瞳に見つめられるたび、私のコアは燃え盛る炎に溶かされたかのように熱くなる……キミは私たちの星空で、砂漠の井戸で、世界だよ! キミが好きだ、大好きだ、愛してる!」

 太陽のスポットライトに照らされた、羽を広げたバレリーナのように。爪先を月に滑らせて、背伸びをしながら柔い顎にキスを贈った。彼女はきっと受け止めてくれる。嬉しいと、ありがとうと囁いてくれる。そう知っていた、愛していた。
 照れる様も、嫌がる様も、怒る様も、泣く様も、全てを愛しているけれど。愛を返してもらえることが、こんなにも嬉しくてたまらない! キミの花弁で頬を撫でて、キミの茎でそっと抱きしめて、キミの根で私を縫いとめて! 期待に満ちた蒼い海は、爛々と輝く。無数に輝く星の中に、一つ咲き誇る赤薔薇に見惚れて。

 愛を煮詰めたような声が、意識の流れを遮った。
 誰だろう──なんて思う頃にはもう遅い。少年の形をした隕石は、ロゼットの身体に勢いよく飛び込んでいた。

 「わあ」

 相手はトゥリアだからまだ良かった。これがエーナかテーセラだったら、そのまま姿勢を崩してしまっていただろう。
 赤薔薇は何とか踏み止まって、ちいさな身体を抱き留めた。
 たくさんのラブコールに、ひとつずつ返事をすることはできない。降り注ぐ愛の嵐に、彼女は時折肯首を返した。

 「ごきげんよう、ダーリン。好きって言ってくれるのは嬉しいけれど……ここは静かにするところだからね。もう少しちいさな声で話そう。たまには秘め事も悪くないでしょう?」

 快晴の空を閉じ込めた、輝く瞳がこちらを見ている。
 親愛の意を込めて、ロゼットはその頬に口付けを落とした。
 健康的なその肌は、薔薇の花弁よりも赤く、溌剌と輝いている。触れ合えば吸い付くように、触れる者を喜ばせるのだろう。

 「今日はどうしたの? ここに来るのは初めて見たよ。もしかして、もういないヒトたちに愛を振り撒きに来たの? 妬けちゃうな」

 長い腕はプリマドールを離さない。
 白魚のような指で、薄く色付いた桃色の髪を撫でる。辛気臭い空気の中で、彼の周りだけが祝福されたように明るく見えた。

《Dear》
「あっ、ごめんなさい……! ふふ、キミに会えたのが嬉しくなってしまって、つい! ……二人だけのナイショだね、ハニー?」

 そっと自らの人差し指を唇に押し当て、ロゼットの唇に触れさせる。二人だけに通じる、優しい言語みたいに。本当はね、誰とだってお話できるの。ただ、話せないだけで。

「ええ? 可愛いことを言わないでよ、もう……ふふっ、いない子に愛を囁くのは、みんなが思っているよりずっと自由さ! ただね、心に囁くだけでいいの。いつだってここに棲んでいるから! 息を吸ったり、本を読んだり、心と心を通わせたり、誰かの生に生き続けるの。ここにいる子も、いない子も、何も変わらないよ。キミが好きだ。愛しているんだ、いつまでもね! ……それじゃダメ、かな?」

 ディアにとって、生者と死者の境目など、ないに等しいものだった。死も、怒りも、後悔も、ディアの光の前ではただの美談、ただのキス、ただの愛でしかない。これから何十億年先も、もっとずっとキミたちが好きだ。それは、美徳のように語られる愛。ページの向こうの愛の国で、何兆回と誓われた愛。何より不気味で、悍ましくて、妬ましいほどに眩しい愛。ディアの愛にとって、死など障害になり得ない。ディアは愛す、銀河の全てを。ディアは正しい、嫌味なほどに。

「ここへ来たのはね……時々、聞こえる気がするの。遠く彼方へと続く砂の海の、きっとどこかで。会いに来てと歌っている涙の泉、世界に隠された井戸の声が。私にも、よくわからないのだけれどね。望んでいるのなら、叶えなきゃと思うんだ! この世界の誰が呼んでいても見つけたい、抱きしめられるようになりたい! 愛しい声をたどって走っていたら、今日はキミに巡り会えた!
 ——芸術はすみれの花であり、芸術家は豚の鼻である。私は豚さんのお鼻なのさ、すみれの花にはなれないけれど、すみれの香りを知っている。それってとっても幸せなことだね!」

 それは、あまりにまっすぐな愛の献身であった。花になって、鳥になって、朝靄になって、キミの下へ駆けて行きたいけれど。愛するものに与えられた、この体さえも全て、諦めたくないから。ただ、瞳の海を蕩かせたい。望まれなくても、そばにいたい。きっと、話さなければならないことがたくさんあって。それでも、ただ、会いたいから会いたくて。それだけなのに。どうして、前みたいに先生と、オミクロンの子たちと、みんなと遊べないのだろう。くだらない話を、何の役にも立たない、世界一素敵で大事な話を。何が、変わってしまったのだろう。

 ——わからなかった。

 善悪も、美醜も、生死も、ディアの愛の前では全ての価値観が瓦解した。ただ、全てを知らなければならない。すみれの花になれなくとも、すみれの香りを愛すために。キミの全てを愛したい。キミを守るために戦いたい。愛するキミと出会いたい。キミの望みを叶えたい。そう、ただまっすぐに願うことの、何が間違っている。

「会いに行くよ、どこにいても。だから……その、どうか、またキスをして、ね?」

 赤く染まった白い頬、そっと伏せられた長い睫毛、世界の雨を全て愛し、許し、ゆらりと揺蕩う瞳の海。こんなにも純粋で美しい正義を、誰が否定できる?

 細い指が、ロゼットの唇に触れる。
 それだけでどうしようもなく許せてしまう気がするから、赤薔薇は表情を綻ばせた。
 返事なんてするまでもない。ちいさな恋人は、皆が思うよりも利発な子だ。ただ、トゥリアのジャンクドールの例に漏れず、少し変わっているだけで。

 「あなたはいつも、蝶々みたいに自由だね。花から花へ飛び交うけれど、その全てを愛しているのでしょう? それは素敵なことだと思うよ。
 私は一輪の薔薇しか愛せないけれど……あなたは、数えきれないほどの薔薇の全てに抱擁してあげられるよね。枯れた薔薇にも、蕾の薔薇にも、もちろん芽吹けなかった薔薇にも。
 それはあなたに与えられた才能で、あなたの与えられる祝福だもの。大切にして、ダーリン」

 トゥリアは愛のドールだ。
 ヒトを愛し、ヒトに愛されるために作られた。
 “お披露目”という虚像が破れたとしても、それは変わらないのだと、ロゼットは信じている。
 だから、こうして真っ直ぐ飛び込んできてくれるディアは愛らしくてたまらなかった。
 彼が本物の恋人ではないことぐらい分かっている。だが、恋人ごっこができる存在は彼女に必要だった。
 善き友人、善き隣人。
 そして、善き恋人。
 どの役割も叶えられるようになった時、欠けた彼女も満ち足りた存在になるのだ。
 ──今更、誰のために?
 詠うような囁きを聞きながら、銀の双眸は視線を落とす。
 傷ひとつない、美しい唇が、小鳥の囀りのように言葉を紡いでいるのを見ていた。

 「私も……私も、同じだよ。遥か昔の、もうどこにもない花園を探しているの。水遣りをしていた子も、花を守っていた子もいないけれど……探してるんだ。
 思い出すとかなしくなるけど、ダーリンが来てくれたからよかったよ。すみれは私も好き。ちっちゃくて、健気で、あなたみたいに可愛いからね。たまに食べちゃいたくなるよ」

 少し、話がずれてしまった気がした。
 何故今この話をしたのだろう? 思わず口から溢れてしまうくらい、“ガーデン”のことを考えてしまっていたのだろうか。
 そんなつまらないことをするよりも、この少年に愛を囁く方がたのしいのに。

 「いいよ。ダーリンが望むなら、いくらでも。会えない時も、薔薇の香りを感じるだけで思い出すような口付けをしてあげる」

 ロゼットは、すべらかな額にキスをした。
 次いで瞼に、その鼻先に。少女ドールの唇は、春のように柔らかな親愛の雨を降らせる。
 美しいモノには称賛を、愛するモノには無条件の庇護を。
 面倒なことには蓋をして、“お披露目”までのモラトリアムを甘受する。
 それだけでよかったし、これからもそうであってほしかったのだ。

《Dear》
「ん、ふふ、ありがとう! 褒めてくれてとっても嬉しい! ふふ、口付けられたところから、溶けてしまいそう……ねえ、キミの愛も素敵だよ! キミの特別を受ける薔薇は、きっと世界一幸せな薔薇だ! キミが与える幸福は、きっとその薔薇さんにとって、祝福を意味する言葉になるよ! ん、えっとね……だって私が、恥ずかしくなっちゃうくらいだもの……キミはかっこいいね、スイートハニー」

 真っ赤な薔薇の花弁が優しく触れたところから、真っ赤に染まっていく心。スイートハニー、と囁いた声は、日曜日の蜂蜜みたいにとろけていた。好きだと、愛していると、全身が叫んでいるみたいに熱くて。どうしようも、なくなる。じんわりと火照った細い指を、春色の髪に巻き付けて。ロゼットの優しい声を、聞き逃さんと背伸びをした。甘やかな時を閉じ込めるように、首元でキスが踊る。

「そっかあ、その花園にとって、キミが祝福を意味するみたいに。キミにとっても、心がとろけてしまいそうなほどの祝福なのだね! キミの花園は、会いに来てと今も歌っている……世界と星に隠されて、キミに希望を贈っている。寂しくないさ、きっとね。星も、花も、風たちも。キミが、優しいキミが、寂しくはないかと問いかけてくれるから。寂しくないさ」

 夢物語だった。馬鹿げた理想だった。吹けば飛んでしまいそうな、子供の戯言だった。それでも、信じたいと思わせてしまう。何百、何千、変わらぬ夜が当たり前に明けていくような、そんな気持ちにさせてしまう。

 ね、ロゼットがいてくれてうれしいねえ。

 囁かれた声は、あまりに自然で。ドアから差し込む柔らかな風に、ぎしりと軋んだ本棚が。物語たちのざわめきが。光に照らされた埃の舞が。そうだね、と笑っているようにさえ思えた。ディアの蒼い瞳には、確かに真実が満ちていた! キミの瞳が欲しい。キミの見ている世界が欲しい。キミが愛した全てを愛したい。ディアはその瞳で、何度だって願う。キミに会いたい。愛していると伝えたい。会えない時のお話なんてしないで。寂しくなくても、名前を呼んでよ。

「虹の橋を探しにいこう、花のベッドで眠って、星におはようを言おう。きっと何百年先、隣で眠るキミに、おはようのキスをするから。明日のキミの香りを、どうかまた教えてね!」

 「プリマドールにそこまで喜んでもらえるなんて、光栄だね。私がこうしてあなたを愛せるのは、あなたが私を愛してくれてるからだよ。今だけは、かわいいダーリンだけが私の薔薇だね」

 こんなに真っ赤になってしまうなんて、熱でもあるのではないだろうか。
 否、熱があると言えばずっとそうなのだろう。恋という熱病に罹患して、特効薬も見つからないのだから。
 足元から瓦解するような箱庭で、彼だけが踊り続けている。
 羨ましいような、憐れみたくなるような。名状し難い気持ちがロゼットの心に満ちた。
 それをシュガーコーティングできたのは、恋人の役をする気分だったからだろう。
 ディアには毒付く必要なんてないのだ。ただ、すみれの砂糖漬けのように甘い言葉を口移しで食べさせ合うだけでいい。
 お披露目のことを知ったとしても、きっと彼はそうすることを望むだろうから。
 ──ああ、でも。花園についての話は、ロゼットの琴線に触れるところがあったらしい。
 首筋の接吻と同じぐらい、ガラスでできた心が揺れるのが分かった。
 鏡のような瞳が翳る。そこに映し出された感情は、間違いなく彼女自身のモノだった。
 ディアのモノと比べれば微かな、けれどしっとりとした愛着だ。

 「祝福だと、いいな。私は相手を知らないけれど、その子は私のことを愛してくれているはずだから……愛されるなら、十倍以上の愛を返したいね。あなたにしてもらっているみたいに」

 それがトゥリアだ。
 それがロゼットという、不良品のドールの運命だ。
 告げられた希望や愛が、ハリボテでできていたとしても構わなかった。
 明日のジャムも、空に飛んだパイも。ディアが口にすれば、手元に収まってしまう気がしていた。
 だから、きっと彼の言う通りになる。
 ロゼットは忘れられた花園を見付け出し、受け取った祝福を返すのだ。

 「ありがとう、ディア。あなたは本当に素敵なドールだよ」

 美しい髪に指を通しながら、赤薔薇は呟く。
 少し目を逸らしていたのに、彼はずっとロゼットを見ていた。だったの少しも、恥ずかしがることなんてないように。
 今この瞬間も、落ちてしまいそうな青い瞳が、恋焦がれた甘い表情が、自分にだけ向けられている。
 このままずっとふたりでいたら、特別なところに触れてしまいそうで怖かった。それが自分の心か、相手の唇かは分からなかったが。
 メリーゴーランドももう終わりの時間だ。
 白馬は木の彫刻に戻り、神秘的な光は熱を失っていく。
 夢見心地で受け止めていた、ちいさな身体を手放して、少女ドールは微笑んだ。いつも通りの、穏やかな表情だった。

 「もちろんだよ、ダーリン。太陽よりも早く目覚めさせて、きっと月まで連れて行ってね。昨日と明日のジャムを用意して、何でもない日のお茶会で待ってるから」

《Dear》
「会えない夜も寂しくないように、どうか寂しくはないかと問いかけて。空に煌めく無数の星園に、キミだけの薔薇が咲いていると覚えて。してもらっているだなんて、寂しいことを言わないで。
 ふふっ、ああ、ああ、キミが好きだ! 全部知りたい、愛したい! ただ、それだけなの! ——ねえ、きっと迎えに行くよ、ハニー。だから、いつまでも待っていて。約束!」

 彼女の灰の空から降り注ぐ、ひたむきで優しいその愛が、どうか薔薇の瞼を下ろしますように。

「キミへのときめきで時を測るよ。キミのシュガーポットに溺れて、眠ってしまわぬように。世界で一つ、キミの名を呼ぶよ。キミと同じ名前の子は世界中にたくさんいて、それでもきっと、キミの名前はキミだけのものだ。私っ、ストームくらい速くなって、キミの下へ駆けつけるからね!」

 いつもはしゃぎ回っては盛大に転びそうになり、傷つきかけているディアのことだ。道のりは長いだろう。そもそも、ディアはトゥリアだ。脆く、弱く、軟い肌。成長もしない。二人の時間は動かない。けれど、ディアが信じるから。細い小指を絡ませて、そっと指先にキスをするから。いつか来るその日まで、どうか共にいてほしい。この星に溢れる全てのキミよ、私たちは永遠なのだから。生まれ変わったら、だなんて、不思議なことを言わなくていいの。私たちは何にだってなれるのだから!
 永久に続く希望の道を、手を繋いで進もう。競争でも、並走でも、走らなくても、歩かなくても、お馬さんに乗ってでも、カンガルーさんの袋の中でもいい。
 キミとがいい。一緒がいい。ただ、愛する世界に抱きつくために。

「ダンベルさんでも持ち上げてみようかな!」

 ………ディアの美しい肌を守る一番の立役者、ストームの悲鳴が聞こえた気がした。

「んふふっ、こちらこそありがとう、ローズフェアリー! キミと、キミの薔薇の行く先に、どうか幸多からんことを。愛しているよ、私たちの薔薇、愛しきロゼット」