Felicia

【寮周辺の平原】

Rosetta
Felicia

《Rosetta》
 学生寮前の花畑は、今日も美しい。
 色とりどりの花が咲く様は、名画を思わせる雰囲気を持つ。めいめい勝手に咲いているようでいて、それらは適切な管理を受けて、管理者の望むように咲いていた。
 まるでドールたちのように。

 「できた」

 白い指が花を手折る。
 根は残したまま、躊躇なくむしり取られる花は悲鳴のひとつも上げない。
 聞こえたとしても、ロゼットは気に留めなかっただろう。彼女は他者の痛みを想像できない。
 だから、アストレアのお披露目が皆に伝わった日でも、こうして花冠を作ろうとしていた。
 手に取ったのは、赤色に青色、黄色に白。そして──柔らかな紫。

 「フェリシア、こんにちは。どうしたの?」

 花と同じ色の髪が、目に入る。
 顔を上げると、友達が近くにいるのが分かった。
 無遠慮に近付いて、ロゼットは相手に声をかける。作りかけの冠を持ったまま、薄い笑みを浮かべて。

 ぼんやりと窓を見つめて、本日数回目のため息。
 色とりどりの花はまるで何も知らなかった頃の私たちのように伸びやかに、美しく、咲いていた。その手に持った鞄には自身が見たことをそのまま記されたノートと、ミシェラちゃんのリボン、それから以前ヘンゼルくんに手渡されたレコード盤が入っていた。

「─── はぁ。」

 本日……何回目かのため息。感情の起伏が大きすぎて数えていない。
 しかし大きな呼吸を零す度に自身の生気が抜けていることだけはしっかりと感じとれていた。
 それでもいい……なんて思えたらどんなに良かったか。既に抜け落ちかけていた希望を取り戻そうと軽く頭を振った。あの日、知った情報を再度ノートに書き留めると、寮外へ出た。

 少し歩いて、

 立ち止まろうとして、

 歩いて。

 ぼうっとなりながら、

 歩いて。

 近づいてくる友だちの存在にすら、気づかずに。


 だから、いきなり声を掛けられて驚きのあまり「ぴゃっ!?」と声を出してしまった。しかし目の前の銀色に煌めく瞳を目の前にしたペリドットは、無理やりにでも笑顔を作るのだった。

「ロゼちゃんこんにちは。過ごしやすくていい天気だね!」

《Rosetta》
 ロゼットは、ゆっくりと瞬きをする。
 取り繕う彼女を尊重するか、少しだけ迷って、結局いつも通り接することを選んだらしい。
 社交辞令には応じないまま、小首を傾げた。

 「どうしたの? 元気、少ないね」

 ヒーローはいつも明るく、どんな時も正しく振る舞おうとする。
 今だって、分かりやすく気に掛かることがあるはずだ。あんなに思い詰めた様子のフェリシアを、ロゼットは見た覚えがない。

 「アストレアのお披露目が気になるの?」

 原因は何か、と言われれば。想像できるのはこれぐらいしかないだろう。
 相手がお披露目の真実を知っていることを、ロゼットは知っている。
 ミシェラがどうなったか知っていることも、もちろん知っている。

 「とりあえず、座りなよ。花冠を作ってるところだったんだ。花でも見ながら話そう」

 先生に聞かれたら困るだろうし──なんて呟きは、相手に聞こえただろうか。
 あくまで普段通りに振る舞いながら、ロゼットは座り込む。相手が立ち続けていたとしても、そう気にはしないだろう。

 精一杯の社交辞令に応じてくれないロゼちゃん。彼女のそんな対応に、嫌でも今の自分の精神が限界値に達しかかっているのだと自覚してしまう。アストレアちゃんのことがあるというのに、だ。自己嫌悪という悪魔めいたそれが脳を少しずつ侵食していくたび、自分のやるせなさに落胆するたび、フェリシアは自身の手でそのコアに秘めた希望を少しずつ削っていたのだった。

「……えへへ、バレちゃった。ロゼちゃんには隠せないかなぁ、なんて」

 欠陥のあるエーナドール。ミシェラちゃんのヒーローになれなかった小さな少女。元気がないのは当たり前と言われれば当たり前だった。喜ぶべきだったお披露目会の実情を、知っているから。
 ロゼちゃんは、知っているのかな。

 ──もし知っていたら、私の置かれている状況も、彼女なら、ロゼちゃんなら理解できる……?

「お花綺麗だよね、さっき窓から見てたんだ。花冠、素敵。」

 先生に聞かれたら困る……そんな彼女の独り言は聞かなかったフリをして。
 なるほど。ロゼちゃんは"分かって"るんだ。それなら……。
 無理に明るくする必要は無い、と声を落としてそう答えた。
 その様子を見れば、フェリシアが何となく状況を察したのだと理解できるだろう。お披露目会の事実を話す必要はないのだと。

「……お花のいい匂い。」

 ロゼちゃんに続いて座り込む。
 美しく育てられた花達が、そよ風に吹かれてさらりと軽く音を立てた。風が運んだその香りにそんな言葉を口にした。

《Rosetta》
 「辛そうにしていたら、分かるよ。友達だもの」

 花の一本を手折り、冠に加えた。
 花に目が向いているけれど、フェリシアをぞんざいに扱いたいわけではない。
 相手がどんな表情をしていても、きっとロゼットには見えないだけで。

 「私もここが好き。花がたくさん咲いているし、考え事をするのにちょうどいいから」

 ぴったりと、友達の身体に密着する。
 身を寄せる様は猫のようだが、それでいて伝わってくるのはガラスの体温だ。

 「私、あの子がお披露目に行くのを知っていたよ。誰かが柵を越えている時、私たちも柵を越えていたの。一緒にいた子が、先生の話しているのを聞いたって」

 助けられなかった、という悔しさも。
 秘密を明かす時の、独特の高揚も。
 今のロゼットには、いずれも見られない。天気の話をするように、彼女は淡々と事実を告げた。

 優しい彼女がこちらを見ないことを自信なさげに俯くペリドットは有難く思っていた。不安そうな顔は、大好きなロゼちゃんに見せたくない。彼女がこちらを向いたらきっと私は笑顔を作るから。きっとフェリシアのそれを分かってのことなのだろう。その代わりに、ぴたりと寄せられた肌。もちろん離れたりなんかしなかった。伝わる温もりがじんわりと心を溶かしていくような気がしたから。静かに過ぎていく時間が、ロゼちゃんの落ち着いた声が、ザワつく心を段々と鎮めてくれたから。

「…………そっか、……うん。そうなの」

 さらっと告げられた柵超えの話。
 内心驚いてはいるのだが、不思議とロゼちゃんと話しているときはまるで凪いだ海に浮かんでるみたいな、ひたすら安心に安心を重ねたような感覚に陥っていた。ほぅっと息をついても許されような。

「アストレアちゃんのお披露目を絶対に止めないとね」

 ひとつ、ひとりごとのように言った。その言葉は空を切って真っ青な箱庭の上まで伸びていくようだった。

《Rosetta》
 フェリシアの声は、普段よりも少しだけ弱々しい。
 その様子は、踏み躙られた花が立ち直ろうとする様を思い起こさせる。
 強い衝撃を受けて、気力も枯れそうになりながら、それでもまだ生きようとしているのだ。
 ロゼットは、そんなフェリシアのことを美しく思う。
 ──そのまま負けてしまうようなドールは好ましくない、とも。

 「そうだね。できるなら逃してあげたいけど……そうだね。フェリシアは、森の果てがどうなってるか知ってる?」

 ちらり。
 ようやく銀の眼が、エーナドールを見つめる。

 フェリシアもまた、ロゼちゃんと目線を合わせる。会話の流れが、変わる。森の果て、先生の話によると壁に囲われているのだとか。しかしロゼちゃんが伝えたいのは、私たちが柵超えをしたときに見てない何かなのだろう。私が知りえない、何か。

「柵超えしたって言うのは知られてるから話すんだけど……森の果てには壁があるんだっけ。それから、この空も、自然もぜんぶ紛いもので、それから……その壁の外には海があるんだっけ。」

 それが自身が柵超えをして知り得たこと。いや、実際に見ていないため先生の“講義”の話だ。
 あの時のソフィアちゃんとリヒトくんの表情……おそらく間違ってはいないのだろう。
 目に付いたラピスラズリ色の花弁に触れた。それは、とても、柔らかかった。

《Rosetta》
 赤い花を一輪、冠へ挿し入れる。
 花冠はこれで完成である。緑とその他様々な色で形作られたそれは、被る者を可愛らしく演出するだろう。
 そして、ロゼットはそれをフェリシアに被せようとした。
 正確には、冠を被せるような動きで囁きかけた──と言うべきなのだが。

 「そう。そして、森の中にはツリーハウスがあるの。シャーロットと呼ばれるドールの上半身と、過去にそこを使っていたドールの手記があってね……そこならアストレアさんを隠せるかもしれないよ」

 決して成功率の話もしないし、そもそも“お披露目”から逃げ切れるのか、という本質的な話もしない。
 ロゼットはそういうドールだ。トゥリアドールなのだから、そういう風に作られている。
 花冠の茎に引っかかった紫の髪だとか、位置のズレた冠だとか。そういうものを直すふりをしながら、甘い言葉を口にする。

 「詳しいことを知りたいなら、テーセラのドロシーかジャックに会うといいよ。“√0”という言葉のことも、気にかけてみてね」

 完璧なバランスで、花冠がフェリシアの頭に乗った。
 表情こそ変わらないものの、心なしか満足げに、ロゼットは頷いている。

 「うん、やっぱりよく似合うね。それはあげるよ」

 “お披露目”のことも、紛い物の箱庭のことも、まるで嘘であるかのように。

「……くれるの? へへっ、可愛くてお花のいい香りがする。」

 しょんぼり、下げかかった眉は上に上がって。頬の花もふにゃりと形を変えた。それはやっと素直に笑顔を作れたという合図だった。沈んでいたフェリシアの笑顔を作ったのは、癒したのは紛れもなく銀の目を持った彼女だ。はにかみながら花冠をそっと指で触った。しかしその耳はロゼちゃんの伝言をひとつもこぼさないように動いていた。その脳は、言葉ひとつひとつを物語として記憶するように動いていた。

 森林、ツリーハウス、中には破損したシャーロットというドール、そして、手記。

 そこは、アストレアちゃんを隠すことが出来るかもしれない場所。

 テーセラ、ドロシー、ジャック、
 そして√0。

 何かしら情報を掴めるかもしれない手がかり。

 ──嗚呼、柵超えの後最初に話したのが彼女でよかった。

 ロゼちゃんの変わらない表情に安堵すら覚える。信頼出来る相手がいるということ、なんと心強いだろうか。私はまだ、暗い場所でも明るく笑っていられる。

「ロゼちゃんは花冠作りの天才だね!」

 いつしかフェリシアは、笑いながらそんなことを言えるまで回復していた。衝撃により硬直していた心が柔らかく、事実を事実と素直に受け止められるようになったからだろう。笑いながらも、記憶は着々と整理されつつあった。一回で記憶は出来ないが、エーナであるフェリシアも、少し頑張ればその程度の"お話"なら頭に停めておくことができる。

《Rosetta》
 笑ってくれてよかった。
 ロゼットはそう言おうとして、結局何も言わなかった。
 気を遣わせてしまっては、きっとお互い微妙な気分のまま別れてしまう。
 だから代わりに、暖かな笑みを浮かべたフェリシアに優しい抱擁でもって返すことにした。

 「ありがとう、フェリシア。今度はあなたも見たことのない花で作ってあげる」

 拒絶されたなら、もちろん彼女は何もしない。悲しみもしないし、怒るなんてもっての他だ。
 だが。もしも抱き締めることを許されたなら、細い腕が少女ドールの背中に回されることだろう。
 ぬいぐるみでも抱くような、やさしく、少し窮屈なハグが、フェリシアの身体を包み込む。

 「最後に……どうか、“ヒト”には気を付けてね。あなたたちが知るモノ以外にも、私の腹を食い破った巨人がどこかにいるから。それについての話を聞いたら、教えてね」

 恐ろしい物語を、最後にひとつ。
 吟ずるように耳元へ流し込んで、ロゼットは身体を離す。

 「またね、フェリシア」

 そんな言葉を残して、彼女は寮へと戻ろうとするだろう。
 引き止められれば留まるだろうが、あまり長居はしたがらないはずだ。だって、どこで誰が見ているのか分からないのだから。

(そろそろ、彼にもあのことを伝えておいた方がいいのかな)

 思い立ったフェリシアは昇降機にひとり。向かう場所は以前彼と出会った場所である。いつものようにノートとリボン、レコード盤を入れた鞄を手に持って。“怪物”の存在を信じてくれた彼に……ヘンゼルくんに会いに行こう。

「面汚し、かぁ」

 彼は確か最初にこう言った。面汚し、欠陥品。あの時はその場を流そうと笑って誤魔化したが、ある意味言い得て妙だ。……彼は、私のことを覚えているだろうか。

(そういえば、初めて会ったときは名前を教えていなかったっけ)

 怪物のこと、ヘンゼルくん伝えたら先生にバレる可能性は高くなるだろうか。いや、優秀なデュオドールの彼のことだから、きっと完璧に隠せるだろう。今はアストレアちゃんのお披露目会を阻止するための解決策が、できるだけ沢山の案が欲しい。ヘンゼルくんにお披露目会のことを話すのは、怪物のことを信じ、ヒントを示してくれた彼に事実を伝えたいというのもあるが、デュオドールの彼ならお披露目会阻止を手伝ってくれるかもしれない、そういう目的もあった。つまり、藁にもすがる思いなのだ。

【学園2F 講義室】

Hensel
Felicia

 あなたが踏み行った講義室は、現在授業で用いられていないようだった。窓がなく、圧迫感を感じるこの学園の教室は、人っ子一人居ないとどうも物寂しい。
 空席が立ち並ぶ机と椅子、教師不在の教卓。閑静な空間の中に在るあなたは、その室内で唯一の先客を見つけるだろう。

 うずたかく積まれた教材の束と、その中央に半ば顔を埋もれさせるようにして、病的なまでの没頭を見せる赤毛の少年が居る。彼は一心不乱にノートへ何か小難しい内容を書き取っているようで、その様子は『鬼気迫る』と形容して遜色無いだろう。

 がしかし彼はあなたの訪れに気が付いてピタ、と手を止めた。そして顔を上げ、そのウィスタリアの柔らかな髪を揺らす少女を視界に入れ、目を見開いた。

「……お前、この間俺に開かずの扉について聞きにきた奴だな……わざわざまた顔を見せに来たのか? 律儀な奴だな。見ての通り俺は勉強中だ、気遣う最低限の礼儀があるなら回れ右して立ち去れよ、邪魔だ」

 相変わらず、彼の言動は刺々しい。その視線も非難めいていて、言葉にした通りあなたを疎ましく思っているのは一目瞭然であった。

「あはは……相変わらずの辛口批評家さんだなぁヘンゼルくん。お久しぶり。お勉強中にごめんね?」

 狂気をはらんだ瞳で忙しくペンを動かす赤毛の少年。自身に気づいて迷惑そうに目を細める彼に、フェリシアは困ったように眉を下げて軽く笑ってみせた。

 ── 講義室。授業以外で立ち入ることが無い場所。先生や友だちが居ないためか、形容しがたい息苦しさを感じてしまう。

「あのね! こうやってまた忙しい貴方に会いに来たのは理由があって……その……」

 フェリシアはそこまで言うと言葉を濁した。言い淀んだ。

 お披露目会のこと、塔のこと、
 そして、怪物のこと。

 もちろん。フェリシアは彼になら話せる、と判断して来たのだ。
 だがその学園の事実が自身の平和だった生活をガラリと変えてしまったのも本当なのである。知ったことに後悔はしていないが、確実に彼の……懸命に努力するヘンゼルの夢を折ることになる。机に積み上げられた本を見て、今更ながら怖くなってしまったのだ。

「……じ、自己紹介をしよっかなって! 初めて会った時は私ばっかりが貴方の名前を知ってたでしょ?

 改めて、私フェリシア! エーナモデルって言うのは……ヘンゼルくんなら何となく察してくれてるかな。えへへ。今度からは『お前』なんて呼ばないで、ね?」

 フェリシアは子どものように無邪気に笑った。笑ってみせた。アストレアちゃんのことがあっても、ほぼ初対面の彼に教える必要はない、そう思ったから。
 何より、彼の努力を否定することをしたくないから。

 ヘンゼルは、あなたの苦笑と辿々しい言葉遣いに、明確に以前との違いを感じ取っていた。前回、この教室前で出会した時、彼女は周囲を問答無用に照らし付ける強過ぎるスポットライトのような輝きを瞳に宿していたのを彼は覚えていた。その眩しさに灼かれ、喩えようもない不快感を覚えたのは記憶に新しかった。根が卑屈で捻じ曲がった彼に、あなたの無差別的な底無しの明るさは悉く琴線を引っ掻いてくるものであったのだ。

 が、どうにも今はその勢いが著しく消沈している様に見えた。そのお陰と言っては何だが、ヘンゼルも幾分調子を狂わされていない──が、その覇気のない様子には、毒を吐き捨てる気概さえも損なわせた。

 彼は机上に肘をついて、天上から見下す様な尊大な目付きであなたを見ている。必死に言葉を探し、名乗ってみせるあなたの言葉を聞いて、ヘンゼルは僅かに目を伏せると。

「これはご丁寧にどうもありがとう。俺はデュオクラスのヘンゼル。好きなのは一人の時間、嫌いなのは救いようのない落ちこぼれだ。

 で? 丁度“お前”のようなジャンクと俺は、実に水と油だと思うが。わざわざ無駄な時間を俺の所で費やそうとしているとは、全く暇そうで羨ましいね。」

 非常に。非常に回りくどい皮肉った言い回しだが、彼の言葉の裏に『本当は何の用だ』と訊ねるような意図が隠れていることに、エーナであるあなたはかろうじて気づくことが出来るだろう。

 ヘンゼルくんの強気な言い回しにドキリとコアが跳ねたような気がした。その言葉にはいきなり土足で探りを入れらるような、少なくともそんなニュアンスが含まれているのだと、フェリシアが気づいたからだ。

 ヒーローは、正義だ。
 正義の味方は、嘘をつかない。

 ましてや優秀なデュオである彼に嘘や誤魔化しは、とびきり上手くやらない限り通用しない。
 フェリシアに対しての彼なり答えが、“お前呼び”なのだろう。

「───!」

 ヘンゼルくんに事実を言いたい、伝えたい、意見が欲しい。

 彼の生きる意味を優しくて平和な日常を壊したくない。

 ふたつの相反する考えがフェリシアの頭で交錯していく。アストレアちゃんの事を思うなら直ぐに前者を選ぶべきだ、とも分かっている。

 だけど、私はヒーローを志してるドールだから。アストレアちゃんのヒーローになりたいし、ヘンゼルくんの味方でもありたい。
 せめて自分の、手に届く範囲の子だけでも幸せにしたい。

「……言ったら、貴方はきっと後悔しちゃう。後戻りできなくなる。それでも、いい? 聞く?」

 考えるようにしばらく閉じていた目を開いた。ペリドットの宝石の輝きの中には強い決心という意志が渦巻いていた。

 小さな頭で考えた結果。絞り出した答え。ずるい質問だとハナから分かっていた。

 許してヘンゼルくん、私の中で納得したい。

「…………」

 ヘンゼルは、あなたの瞳の奥の澱みを分け入り、その正体を知ろうとするかのように眼を細めた。それは胡乱気で、あなたを訝しむような冷たい目付きだっただろう。
 しかし、そんな眼差しを向けてしまうのは無理もないことだろう。

 まるでこちらの覚悟を問うような、中身と着地点の見えない質問。目の前に突如として暗雲を落とされたかのような、彼女らしくもない迂遠な問い掛け。

 返答の仕方を模索していたのだろう。ヘンゼルは暫くの間押し黙っていたが、しかし。

「……内容を聞いて判断する。

 お前はどうせ、あの開かずの扉の向こうへ行ったんだろう。“あいつら”もそうだった。そして、そこで何かを知ったはずだ。

 あんな怪物が関わっている件なんて、ろくでもないに決まっている。それがお前の荒唐無稽な妄想か事実かは、話を聞いて判断する。」

 ヘンゼルはそう言うと、あなたへ話すよう促した。こちらが求めてやったのだから、口実としては充分だろうと。そんな傲岸さが滲み出る物言いであった。

 言葉の意図が相手に伝わったのだろう。ヘンゼルくんの作ってくれた“言い訳”付きで話す会話は楽だ後で自分にそういうことだから、と言い聞かせられる。ヘンゼルくんの言動は無愛想な様で、実はとても相手思いなのかもしれない。
 予防線を貼っておいても、難なくそれを飛び越えてくれる彼を関心した面持ちで見つめていた。

 これなら、これなら伝えられる。

 軽く椅子を引いて、フェリシアはヘンゼルくんの隣に座る。
 そしてヘンゼルくんの周りに積み上げられた本を、自身と彼の表情を外から簡単には見えないようにするために囲むように並べ直した。
 持ってきていた鞄からノートを取り出したフェリシアは、ヘンゼルくんに見せながら、まっさらなページを開き書き出す。

“筆談でお話しましょう。”

“今から貴方に教えるのは、私が知り得た塔のことと、お披露目会のこと。”

“驚いても、できるだけ声を出さないで。今だけは、どうか私と仲良くしてね。”


 そこまで書くと、得意げ笑ったかと思えば、楽しげに話し始めた。

「どう? 可愛いでしょ!! 私のオリジナルキャラクターなの。うさぎさんモチーフなんだ〜!」

 自身の隣席へと腰掛けるあなたの表情は、柔和であろうと努めつつも、深刻なものだったに違いない。ヘンゼルはそんなあなたの顔色を見据えて眉間に皺を作りつつも、あなたが隣に腰掛ける事を厭う事はなかった。追い払おうともしない。話を聞く、という言葉は虚偽ではなかったらしい。

 ノートに書き付けられた整然とした文字を数秒ほど見下ろしたかと思うと、彼は手近な教材を引っ張って引き寄せ、元々手を付けていた課題の続きをしながらあなたに応答する。

「間抜けな顔だな、園児に小馬鹿にされるために生まれた生命体かも知れない。そんな馬鹿げたものを生み出すよりも勉強してた方がよっぽど有意義だ。

 おい、エーナのお遊戯につき合うためにここに座ってるんじゃないんだ、手だけじゃなく頭も動かせよ。」

 と、嫌味を言いながら。ヘンゼルは軽く顎をしゃくらせて、“続けろ”の合図を出した。

 彼からの合図を見逃すことはなかった。周りからは見えないようにと本を並べてみたが、いつどこで見られているのか分からない。
 フェリシアの口元は楽しそうに弧を描いたままだ。

「え〜? のんびりした顔がこの子のいい所なんだって!! まだ名前付けてないの。あ! これも何かの縁ってことで、ヘンゼルくんこの子の名付け親になってくれない?

 ちなみに、私が考えてるのはね〜」

 ヘンゼルくんの課題する手を止める口実を作るには、彼が“ノートを見ないといけない”状況を作ることだ。オミクロンのフェリシアがヘンゼルくんに話しかける状態は、その状況を作りやすかった。

 フェリシアは表情を崩すことなくペンを進める。


“結論から言うと、開かずの扉は、黒い塔と呼ばれる場所の入り口だった。お披露目会の時にその塔の中に入ったんだけど……。”

“扉の先には資料が落ちてて、それからコンテナがあったんだ。
 その中には、…………。”

“本物そっくりの皮膚を被った脚
が入ってた。おそらく誰かの脚。詰め込まれてた。”

“落ちてた資料はこれ。”

 そこまで書くと、ノートの背表紙のほうに挟んでおいた当時拾った資料を広げた。

「実はこれね! キャラクターちゃんの初期案なの! こっちでも可愛かったんだけど、友だちがこっちのが可愛いって言うからこっちに決めたんだ〜!

 ……そろそろ名前の案でてきた?
 えへへ、書いて書いて!!」

 しばらく資料を見せたあと、彼にノートを差し出した。

「…………、……ふうん。

 俺が名付け親だって? その馬鹿げた生命体の?」

 ヘンゼルは課題を進める手を止める事なく、あなたが手を止めたタイミングで僅かばかり目線だけをそちらに向けた。
 目を通したのは僅か数秒のこと。だが彼は曲がりなりにもデュオドール。内容を理解するにはそれだけで充分だったらしい。

 僅かに息を吐いてから、肩を竦めてあなたの表面上の要望に苦笑する。

「分かったよ、書いてやったらお前もとっとと課題を進めろ。何のためにわざわざこの俺が見てやってると思ってるんだ? 時間を無駄にするなよ、落ちこぼれ」

 彼はあなたに応えてペンを握りなおし、あなたのノートの隅に美しい字体で書き込んでいく。

“大体わかった。開かずの扉は外部に繋がってる資材搬入の為の通路だと思っていたけど。見たのはそれだけか? 怪物は?”

「──ま、こいつにはこれぐらいがお似合いだろ。文句無しの出来だ、ハハ……」

 ヘンゼルは蔑称を付けたふりをして、あなたに訂正させるか、或いは諦めて課題に取り組ませるような、『またノートに向き合っても違和感のない前振り』をしているようだ。

「えーっと、どれどれ〜? ……ってめちゃめちゃ変な名前じゃん!!
 ちょっとヘンゼルくん、もっと真面目に考えてよ〜! 私が血と涙と汗を流して作った可愛い可愛いキャラクターちゃんなんだから!」

 残念そうに大仰なリアクションをしてみせる。一見わざとらしく思えるその行動は、フェリシアなりの作戦なのだった。

 自身の姿は、傍から見るとデュオクラスのドールにしつこく絡む出来損ない。

 どうしても彼に構って欲しくて、あれこれ考えを変えていく欠陥品にしか見えないからだ。

「……もう、分かったよ。ヘンゼルくんは元々私の課題を手伝ってくれてたんだもんね。」

 諦めたような口振りでヘンゼルくんから再度ノートを受け取ると、課題に向き合うフリをする。


“コンテナや資料のあった場所の奥にはまた、扉があった。開けた先は地獄への入り口だったの。”

“暗くて、深くて、大きな、大きな空間だった。そこでは鉄籠が揺れていた。意味わかる?”

“息を静めて、驚かないで。”



 その後に書き足した言葉は、一瞬にしてトラウマを植え付けたあの瞬間の記憶だった。


“ドールの焼却炉だったの。”

“あかくあかく、私たちのミシェラちゃんは炎に包まれていった。
 慕っていた先生の手によって強引に鉄籠の中に入れられて。”

“怪物は、炎が上がる前に下から登ってきていた。それはヘンゼルくんが見た、虫のような特徴をもった化け物だった。そして驚くべきことに、先生から発せられる言葉の意味を理解しているようだった。
 怪物は、先生を襲わなかったの。”

“先生は、品評会、スクラップ、資源供給プラント、パーツのひとつが高騰、みたいなことを言ってた。”

“先生を……大人を信用しないで。
 誰がどこで私たちを監視しているのか、分からないから。それから私たちを見ているのは先生だけじゃないってことも知っていて。”



 問題がどうしても解けないフリをして。何回も何回もノートに書くフリをして。フェリシアは表情を変えないために頬の内側を噛んでまで文字を綴った。

 分からない問題があると口実を作れば、今までもっとも多く書き留めたノートを見せた。彼の近くにノートを置いたため、端の部分ならばヘンゼルくんが書けるスペースがあるだろう。

「あれっ? この答え間違ってるって分かってるのに、どこが間違えてるのか分からない!! ねぇヘンゼルくん、ここってどう解くの?」

 アドバイスを求めるように、彼と目を合わせた。

「………………は、」

 あなたの課題の出来具合を確かめてやるような振りをして、ヘンゼルはあなたの手元をまた覗き込む。文面の理解自体は清浄な川の流れのように滞りなく出来た。それは彼はデュオモデルであり、優れた脳の機能を有しているからに他ならない。

 だが、内容を納得して飲み込めるかは、また話が別だった。

 ヘンゼルは思わず、当たり障りない対話を装っている最中にも関わらず、微かに息を呑んでしまった。きっとこの衝撃的な内容こそが、彼女がわざわざ筆談などという面倒な手法を取り始めた所以なのだろう。

 ドールの焼却炉。
 先生の手によって廃棄されたドール。
 焼却炉の下から這い上がってきた、先生を襲わない怪物。
 品評会、スクラップ、資源供給プラント。

 大人を信用するな。

 ヘンゼルはまるきり押し黙ってその文面を凝視していた。
 そして、一つ生唾を飲み込むと。

「……これは、こう、」


“馬鹿馬鹿しい。”

“先生が間違ったことをするはずがない。”

“そのドールが廃棄されたのは、出来損ないだったからだ。”

“廃棄しないと仕方がないくらいの、欠陥品だったからだ!”

“滅多な事を考えるな……”

“俺達は、ドールなんだぞ!”


 彼の筆跡には著しい乱れがあった。だがそこには先生やトイボックスという施設への盲信が感じられる。
 乱暴な言葉遣いであなたをなじるヘンゼル。彼はあなたから目を逸らし、ペンを固く握りしめていた。まだ体裁は保っているが、いつ表へ噴出してもおかしくないと感じるだろう。

「えっあっ……うんうん。」

 伝えたい状況が、事実が分かりやすいように書き連ねた文字たち。フェリシアの丸みのあるそれらは彼に大きな衝撃を与えるだろう。ひとえには信じられないだろうということも知っていた。そして……これをヘンゼルくんが先生に話す可能性があるということも。だから私はひとりで伝えるのだ。犠牲になるのが私だけで済むように。上手く行けばデュオドールのプリマに近い頭脳で解決策のヒントを。もしかしたらそれ自体を手に入れることができるのだから。
 ──その代わりに彼の夢を、他ならぬ私の手によって犠牲にされて。


 馬鹿馬鹿しい。

 滅多な事を考えるな。

 俺達は、『ドール』。

 ぐぅの音が出てこないくらいごもっともな回答だ。慕う先生を信用するな、なんて信じるドールがいるわけない。

 当たり前だ。分かっていた。
 その証拠に美しい顔を歪ませんとする彼と反してフェリシアは至って冷静で、正気で、口元には微笑みを浮かべているのだから。

「……そっか、……ん! こんな考えもないかな? ほら、こんな感じで……」

 フェリシアはノートの新しいページを開いた。見開きのまっさらなそれにまた新しく書き出していく。


“お ち つ い て。”

“お願い。”



 そこまで書くと、懇願するように彼の方を向き直した。暫く見つめると再度ノートに目線を落とし筆を進めるのだった。

“破棄しないといけない? ……お披露目会だと希望を持たせるような嘘をついて? 私たちの先生が?”

“その時点で、貴方なら先生が狂っていることくらい理解できるんじゃないかな。私たちは完璧なドールに育てられてきたのだもの。”

“そんな手間暇かけた私たちを、
 欠陥品だからって簡単に廃棄するかな?”

“それに───”



(貴方たち正規のドール達も、酷い処刑方法で命を落とすんだよ)

“貴方たち完璧なドールも、お披露目会は決して喜ばしいものなんかじゃない。たぶん、お披露目会自体がおぞましい殺戮の場なんだと思う。”

“冗談だったら口で言ってる。
 言えないから筆談でお話してるの。
 信じられないかもだけど……本当なの。本当なの。”



 書いてしまった。伝えてしまった。
 もう、後戻りはできない。できないところまで来たが、後悔はしていない。

 そこまで書いて、ここでフェリシアは本題を書き始める。

“それを踏まえるよ。今度、私の相棒がお披露目会に出ることになった。是が非でもお披露目会を止めないといけないの。……頭のいい貴方の力を借りたい。お願い。貴方しか、ヘンゼルくんしかいない。”

「ちょっと長く書いたけど、ほらこんな感じで!! えへへ、手間かかるけど答え一緒!! 考え、合ってる?」

 そんなことを言いながらにっこりと微笑みかけた。そして最後に。

“協力してくれるなら、『合ってる』と。してくれないなら『間違えだ』と答えて。”

 ここが正念場だ。

 ヘンゼルは憤りを抑えて冷静に努めようとしているようだった。課題をしている振りすらも出来ず、ただ制服の胸元を握り締めて濃い皺を生み出している。
 彼女がノートに書き連ねた、冷静になるように勧める文言に奥歯を噛み締めた。彼は捻くれた矜持を持っていたから、そのメッセージに確かな苛立ちを覚えながらも、頭を冷やすために冷たい手の甲を額に押し付けた。重々しいため息を一つ。

「不出来過ぎて眩暈がする。」

 ……と、一言告げて、少なくともまだあなたの筆談には付き合おうとする意志を見せた。
 だが猜疑心はひしめいているようで、彼の表情は歪められている。そしてそれは、あなたが続けた文言を確認して、殊更に歪んだ。

 ドールの一番の栄光であるお披露目を、悍ましいと宣う彼女を、ヘンゼルは信じられないものに遭遇したような気持ちで見ていた。
 彼はドールとしての自分に堆いブランドを見出していたし、そんな自分達が使い捨てのように廃棄され、或いは残酷な仕打ちを受けるなど、考えもしなかったのだ。

 しかしデュオであるからこそ分かってしまう。あなたの示す事実に、信憑性が僅かでもあることも。執拗に周囲を警戒し、筆談を要請する彼女の行動。必死に連ねられる嘆願には切羽詰まったものをひしひしと感じ取ることが出来てしまって。

 ヘンゼルはたっぷり数秒、あなたの言葉に対する返答を迷っていた。だがやがて、気難しげな顔を持ち上げると、口を開く。

「──あ、」

「ヘンゼル、やっと見つけた。」

 そこで、講義室の扉がガラッと開き、彼の言葉を遮る存在が現れる。

Hensel
Gretel
Felicia

 それは、ヘンゼルとまったく同じ顔をした少女であった。ヘンゼルと同じラズベリー色の瞳を瞬かせ、ヘンゼルと同じ深紅の髪を三つ編みにしていた。

 あなたの傍らのヘンゼルは、こちらへ歩み寄る少女をジト、と陰険な目付きで睥睨する。

「……グレーテル、何の用だよ。お前と話すことはない」

「へ、ヘンゼルの大嫌いな落ちこぼれと話す用事は、あるのに? ねえ、ヘンゼル……その人、嫌な感じがする。話してても、きっとあなたのためにならないよ」

「は……?」

「ね、ねえ! それよりも、先生が呼んでたよ。だ、大事な話があるよって。えへ……尊敬する先生に呼ばれてるのに、む、無視出来ないよね? ヘンゼル……もう行こう? あなたに悪い影響があったら、お、お姉ちゃん悲しい。」

 グレーテルと呼ばれたドールはそう言って、ヘンゼルの腕を掴む。
 彼は胡乱げにグレーテルを見上げた後、溜め息を吐いて立ち上がった。

「……話はここまでだ、フェリシア。お前の出来は“よく”理解した。……もう教えることはない」

 ヘンゼルはあなたの傍を去る直前、さらりとペンでノートに一文を添えていった。
 そしてグレーテルの脇を通り抜けて、講義室を出ていく。彼女もまたヘンゼルの後を追って──出ていく直前、あなたを一度睨み付けてから去るだろう。その睥睨のドス黒い眼差しは、ヘンゼルのものとよく似ていた。

 彼が重たい口を開いたとき、フェリシアはミシェラちゃんのお披露目会が行われていたあの日の夜と同じくらい、きん、と身体を細く鋭い糸で皮膚を締め付けられるような緊張感が走っていた。

 苦しい。
 諦めてしまいたい。
 でも、やらなきゃいけない。

 堂々巡りの感情のなか、彼から「あ」の文字が出てきたとき、フェリシアは心の底から安心しかけてしまった。つい、表情がゆるんだのである。しかしその瞬間、ガラリと開けられた講義室の扉から覗いた顔はヘンゼルくんと瓜二つの顔を持つ、お下げの女の子。

 グレーテルと呼ばれたそのドールとヘンゼルくんの会話から察するに、グレーテルちゃんにとって、私はどうやら"邪魔者"なのだろうと理解できた。一刻も早く彼と私を引き離したいのだろう。

「うん、教えてくれてありがとう。
 "欠陥品"だから、分からないところ多くて困らせちゃったね。ごめんね。」

 立ち去ろうとするヘンゼルくんに言葉をかければ、グレーテルちゃんにノートの内容を見られてしまわないように手早く閉じるとその手に収めた。

 グレーテルちゃんの鋭い目付きに既視感を感じながら、二人が出ていき圧迫感が更に強くなったその部屋で、ヘンゼルくんが立ち去る間際に書いた筆跡を確認しようと再度ノートを開き直した。

 そうして、ヘンゼルとグレーテルはお互いそっくりな神経質な靴音を響かせて、やがて遠のいていく。静寂が横たわった講義室には、あなた一人が取り残されるだろう。

 ヘンゼルの応答を聞くことは叶わなかったが、あなたの手元には彼が書き残したメッセージが残っている。
 ノートを開くと、変わらず片隅の一部分を使って、一文が添えられていた。走り書きでも美しい筆跡で残されたメッセージには。

“一晩考えさせろ。明日の18時頃、開かずの扉の前で待っている。待たせるなよ。”

 ──と、記されていた。

 その次の日、まがいものの空が夜の帳を降ろそうとしている頃。
 フェリシアは彼が立ち去る直前に残したメッセージに書かれていた開かずの扉がある場所のある2階へ来ていた。待たせるな、と書いているのもあって、おそらく彼は先に来ているのだろう。

「いい返事を貰えるといいんだけど……」

 緊張した面持ちで空を切った独り言を零すと、3階へ上がる階段へと向かった。

【開かずの扉】

Hensel
Felicia

 ──午後18時。
 今頃上階のガーデンテラスでは群青色の夜空が広がり始めているであろう時間帯。殆どのドールが寮へと帰り着き、学園は人気がほとんど消えて、不気味な静寂が降りていた。鬱屈とした印象を受ける深紅の壁や天井に囲まれて、あなたがあの開かずの扉がある階段に差し掛かると。

 ヘンゼルはあのメッセージ通り、薄暗がりの中階段の側の壁に寄り掛かって待機していた。あなたの姿を見ると壁に身を委ねるのを辞めて、そちらに向き直る。

「やっと来たか。」

 彼は腕を組んで、周囲を見渡す。学園の二階の目に留まる範囲に、ドールの影は見えない。
 それを確認したのか、彼は自身の側を顎でしゃくった。『こちらへ来い』という指図だろう。

「……お前の話が確かなら、この先に例の処刑場があるんだな?」

「わ、ごめん。お待たせしちゃってたかな? 時間通りに来たはずだったけど。」

 暗がりの浮かぶこの時間、くるりと見渡すがドールの気配は無い。
 うっすらと恐怖を感じるくらいに静かなその場所。フェリシアは、自身を見据えたヘンゼルくんの方に近づきながら軽く口だけの謝罪を述べた。

「……うん。私が見たお披露目会の日は、扉が開いてたんだ。今は閉まってるみたいだけど」

 ゆっくりと首を縦に振る。落とし気味な声で、その日見たことをありのままに話した。持参した鞄の中にはいつものようにノートがある。口で言えない時はそれに書き出せばいい。

「ヘンゼルくんはそれを確認して……どうするつもりなの?」

 もし、もしも彼が扉の中に入るつもりなら……できれば一緒に行きたくない。フェリシアに深く刻まれたトラウマが、ヒーローになれなかった後悔が、自分の身体を縛り付けて動けなくすることが容易に想像できるから。

 だが、彼が行くと言うのならば、ついて行かないといけないことは心の中ではわかっていた。

 さて。ヘンゼルくんは改めてそれを知って、これからどうするつもりなのだろうか。

「………………」

 ヘンゼルは、あなたのYESの返答を受け取ると、途端に険しい面持ちをして開かずの扉の前に歩み寄る。

 あの扉は、踊り場の壁にぴったりと馴染むように存在した。一見何もないように見えるため、多くのドールはその扉の存在に気が付かず、前を通り過ぎてしまう。

 まるで、ドールの生活には不要な区画だから、巧妙に隠されているかのようだ。
 しかしよく観察すると、扉枠はきちんと存在している。ドアノブなどは存在せず、故に開き方が定かでない扉だった。

「鍵穴も無い。……向こう側からしか開かないのか? いや、行き来出来ない扉なんて……」

 彼はおもむろに扉に触れて、ブツブツと何事か呟きながら開くことが可能かどうか確かめ始める。しかし、暫く試しても難しかったようで、彼は踵を返してあなたに向き直った。

「いいか。よく聞け。俺はまだお前が言った、お披露目の話は信じてない。だがその話に僅かな信憑性があるのは確かだ。だから俺は真実を知っておきたい。」

 相も変わらず尊大な態度で、彼は龍に乗りながらあなたを見下しているかのような様子で告げた。

「その上で一晩この学園について考えたが、このトイボックスアカデミーの構造として、ダンスホール以外の場所はバックヤード──客が立ち入れない非公開部門になっているはずだ。

 そしてこの扉の向こうは裏口になっているんじゃないかと思う。
 格式高いサービスを提供する施設ほど、準備過程の裏側は頑なに客に見えない場所で行うはずだ。……廃棄──も非公開部分の一つだろうし、資材搬入なんかも加わってくるだろう。

 俺が知る限り、この扉の他にそれらしい出入り口は存在しない。俺の考えは変わらない。この扉は資材搬入の為の裏口になっているはずだ。

 おいジャンク、ここまでは理解出来たか?」

 フェリシアはヘンゼルくんの話を黙って最後まで聞いていた。しかし彼と同じように開かずの扉に目線を移した途端、独り言をこぼすかのように話すのだった。

「話は……分かった。貴方が私の話の“全て”を信じていないことは理解できたよ。

 だけどね、時間が無いの。昨日も話したハズだよ。アストレアちゃんの……私の相棒のお披露目会は、もう直前なの!!

 ハッキリさせておきたい。
 貴方が、ヘンゼルくんが、“どっち”に付くのか。私は、本気だから。」

 フェリシアにとって、ヘンゼルくんの話は割り切った答えを先延ばしにしているようにしか見えなかった。普段ならいつまでも笑顔で聞いているだろう。だが今は一刻を争うのだ。彼が協力しないのなら、また別の案を考える必要があるから。

 煌めいたペリドットの瞳。
 その光の中には彼女の信念と、決意が燃えていた。

 緊張という鋭利なガラスが飛び散って、心の均等をバラバラにしていく。正気を保つには、その痛みにひたすら堪えるしかない。

「ジャンクなりに、“必死”なの。
 貴方の夢を壊してでも、守りたいものが、私にはあるから。」

「おい、結論を急ぐな。俺の話はまだ終わってない。お前がその程度で冷静さを欠くなら、協力しろという話には頷けないな。そんなザマじゃどうせすぐに廃棄されるに決まってる、精神的欠陥を抱える欠陥ドールとしてな。」

 あなたの焦燥はもっともだ。身近な人物がどう足掻いても絶望に浸るしかないお披露目に選ばれたのだから、気持ちが逸るのは無理もない。それにお披露目まで、本当にもう時間が無いのだから。
 だがヘンゼルにはあなたのその痛みが分からない。何故なら彼は欠陥を抱えていない、至極模範的なドールであるから。

 しかし彼は険しい表情で更に口を開いた。

「アストレアとやらは、エーナクラスの元プリマドールだろう。愚かにも乱心して、大切な身体に自ら傷を付けた挙句にオミクロンに送られたと聞いている。俺には全く理解出来ない事だがな。

 その噂が事実なら、アストレアが欠陥クラスにいるのは身体の傷のせいだろう。その傷はもう塞がれたのか?
 まだ修復されていないのなら、そいつは十中八九ミシェラというドールのように、この先に送られるだろう。そして廃棄されるはずだ、『作り直す』為に。
 でなければわざわざオミクロンに落とされた理由に説明が付かない。」

 ヘンゼルは息を吐いて、閉ざされた開かずの扉を見上げる。

「俺の予想が確かなら、この先は客の目にも、ドールの目にも入れる訳にはいかない作業を諸々行う為の裏口だ。

 廃棄のための設備も、……資材を運び込む搬入口も、もし存在するとしたら、この先だろう。
 資材をどこかから運び込んでくるということは、この先はトイボックスの外に繋がってる……可能性はある、って事だ。」

 実際にこの目で見た訳じゃないから分からないけどな、と彼は肩を竦めてから、階下へと降りていく。あまり扉の目の前に長居していたくはなかったのだろう。この一帯は不思議と背筋が冷えるような異様な寒さを感じた。この場所に纏わりつく、嫌な記憶から付随するものだろう。

「現状、この扉が開くのがお披露目の晩だけなら、アストレアが廃棄から逃れるには、この先に出口がある一縷の望みに賭けるしか術はないだろうな。何しろ情報が少なすぎる。

 それと、手を組むかについての話だが。……」

 そこで言葉を区切って、彼は二階へ続く階段を降りる足を止める。少しの間俯いて、それからあなたを振り返る。

「今は何とも言えない。お前の話を全面的に信用することは出来ない、ジャンクの戯言かもしれないからな。

 はっきりとした答えを出すなら、手は組まない。
 少なくとも俺の考えが聞きたいというお前の願いには応えてやったんだから、昨日受け取った情報の返礼には充分だろ。

 それに……今は正直、それどころじゃないんだ。」

 ヘンゼルは途端、顔を歪めて奥歯を噛み締めるような表情を浮かべた。何かを言い澱んだようだが、あなたがそれを追求するかはあなたの自己判断に任せるものとする。

「…………っ」

 この場で冷静なのは、間違いなく自分よりも彼のほうだと知らしめられる。痛いくらいに響く正論がフェリシアに突き刺さった。対話が得意なエーナあるまじき行為をしている自覚に、自責の念とみっともない自分に対する嫌気が音を立てて積もっていく。

 自己嫌悪に陥りそうになったが、ヘンゼルくんの言葉にて目の色を変えた。

 ──── 違う! アストレアちゃんもミシェラちゃんもおかしくなんてない!! 作り替える必要なんてないのに!!!

「彼女たちのことを何も知らないのに! 憶測だけで巫山戯たことを言わないで……! ミシェラちゃんもアストレアちゃんも、そのまんまでとっても素敵なドールなんだよ? 作り直す必要なんてない! オミクロンのみんなも、そのままで完璧な……大切な友だちだから。

 オミクロンクラスの子達が何らかの傷を負っていることは認めるし私のことは何とでも呼んでいい。だけど、その言葉だけは今すぐに撤回して。失礼にも程がある。」

 途端にフェリシアは取り乱す。
 地雷に触れた、と言って過言ではないだろう。誇らしく大切な友達を蔑ろにされ、正義のヒーローであるフェリシアが怒らないはずがないのだ。眉間に皺を寄せてキツくヘンゼルくんを見上げる。相手をじっと睨む行為は誰しもの味方であろうとする彼女にとって極端に珍しい表情であり、ヘンゼルくんは動揺するかもしれない。いや、してくれなければ困る。


 暫く、ヘンゼルくんの言葉に耳を傾けていた。頭を冷やす時間には短いがフェリシアは反省する。
 言いすぎた。と。

 彼はアストレアちゃんが逃げられる算段をお願い通りに考えてくれて、そして、伝えてくれたのに。

 ヘンゼルくんが開かずの扉から離れても、フェリシアはそのまま扉の前にいた。背筋が凍るような感覚がするその扉に触れて、振り返った彼に申し訳なさそうに眉を下げるのだった。

「………、えぇっと、あの……急に怒っちゃってごめんなさい。大事な子たちが蔑ろにされるの、凄く凄く辛かったから。」

 それから、真っ直ぐ彼に向き直ったフェリシアは、彼と初めて出会った頃のように初々しく微笑んで見せた。実際には、その笑顔は少しだけ以前の頃より弱々しかった。

「それから、本当にありがとう。
 もの凄く助かった。私ひとりじゃ、絶対に助けられないと思ってたから、貴方の意見が聞けて良かったよ。」

 それからフェリシアは、ゆっくりと、階段を降りる。
 ヘンゼルくんに、近づく。

 表情から察するに、きっと彼にも何かあるのだろう。悩みが、あるのだろう。

 ジャンクの私が、かけられる言葉は少ない。だけど───


 ヘンゼルくんの両手を包んで、

 ペリドットは今度はふてぶてしく。

 ……いや、無邪気に笑えたのだった。


「いつも頑張ってて、偉いね。
 ヘンゼルくん。頑張ってる貴方に私がしてあげられることは少ないけれど、私は……私は、いつでも貴方の味方でありたい。

 "こんなの"だけどさ! 貴方にとってはずっと"お前"なんだろうけどさ! こうやって繋がった縁なんだもん。えへへ、私が自分勝手に離してあげないっ!

 それに……仮に迷惑でも、味方は多いほうがきっと楽しいでしょ?」

 仮になんだろうと、話してくれなくてもいい。いつか、彼と本音で言い合って、笑い合える。そんな日々を願って。


「……じゃあ! そろそろ私は行こうかな。お披露目会を止めるために、できることは何でもしておきたいから。」

 繋がれていた手をパッと離すと、フェリシアは昇降機へ向かうだろう。止めなければ、そのまま寮へ帰るのだろう。

「……!?」

 ヘンゼルは己の推測を語る前、激昂して声を荒げる彼女を見て瞠目していた。自分は何ら間違ったことを言っていない確信があったし、その事実を告げたことをジャンクにどれほど非難されようと別段響くことはない。彼らよりも己のほうがよっぽど優れているのだから。

 しかし、差し迫る緊迫の渦中に身を置く彼女の形相は凄まじかった。平穏の夢に浸るアカデミーのドールが決して浮かべない恐慌の表情。その切実なる迫力も伴って、ヘンゼルは僅かにたじろいでいた。彼女の言葉には、ドールにはあるまじき血が通っているような気がしてならなかったのだ。


 しおらしく謝罪され、ヘンゼル自身も告げる言葉を全て告げたために閉口する。
 気まずいひとときが流れたかと思えば、そんな不意を突かれ彼女の嫋やかな指先が己の掌を掬い取ったため、彼はビクッと肩を跳ねさせるだろう。こちらを見据えるのは、以前も見たあの周囲を焼き焦がす希望の輝き。

「な、……、……っ」

 底抜けの明るさから来る激励の言葉に、ヘンゼルは目線を逸らし、奥歯を噛み締めた。何事か口を開きかけて、振り払おうとした手は勝手に向こうから離されて。
 一方的に立ち去ろうとするその背をヘンゼルは止める事がない。しかし去り際、彼は一言呟くだろう。

「動き続けるなら気を付けろ。今にこれは俺の問題じゃなくなる……俺はあいつが何を考えてるか分からないんだ。

 ほとんど独り言のような、何処か忠告のような響きのする言葉を残した後。ヘンゼルもまた暗い学園を歩き去っていくだろう。

【寮周辺の湖畔】

Storm
Felicia

《Storm》
 カンパネラから情報を聞き出そうとしたがソフィアからの一喝でストームはそれ以上詰め寄ることは無かった。
 止められた事にガッカリするでもなく、むしろストームは嬉しそうに目を輝かせた。
 その声、その顔が見たかった。強く凛々しく自身を信じて疑わないその顔が!
 溢れんばかりの高揚感の中、女王様からのご命令に従わない選択肢なんて無くてただお辞儀をし合唱室を後にした。

 ドロシーに聞きたいこともあったが、また会った時に。
 今は優先すべきものが沢山ある。
 そのひとつは、ソフィアからの頼みを受ける前にどうしても確認しておきたかった事だ。
 学園内をくまなく探しても対象のドールは居ない。それならばと寮の方を戻りようやく彼女を見つけた。

「フェリー、探しましたよ」


 探してたドールはヒーローを夢見るエーナモデルのフェリシアだった。いや、詳しく言えばお披露目の日ミシェラの最後を見たドールのどちらかをストームは探していたのだ。
 ようやく見つけた彼女へ声をかけ軽く頭を下げる。

「お尋ねしたい事がありまして、少々お時間頂いてもよろしいですか?」

 その日、虚飾の空が高く上がった頃。フェリシアは寮近くの湖畔に来ていた。昨晩のヘンゼルとの会話を思い返しては、そこに穴があれば入ってしまうだろう、羞恥心という衝動にかられながら。


 歩いて、歩いて、少し唸って。

 また、歩いて、歩いて、歩いて。


 無意識に高揚していたようで、ちらりと見た水面に浮かんだ自身の顔が、真っ赤になっていることに気づくと、決まり悪そうに目を瞑るのだった。

 誰もいなかったはずのその場所で声がかかる。ネイビーブルーの美しい髪。アンニュイではなく、小動物を思わせる可愛らしい顔。
 艶やかに輝くのは、かつてテーセラのプリマドールの冠を拝借していた彼であった。

 フェリシアは染まった頬をそっと両手で包むと、湿度を含んだ目線を送る。

「………なぁに? ストーム。」

《Storm》
「やだなぁ、そんなに警戒しなくとも取って食ったりはしませんよ。……バケモノじゃないんですから」

 決して好感度の高くない視線を向けられるとストームは緩く手を振ってブラックジョークを吐き出す。少年らしさが微かに顔を覗かせる声色は抑揚無く感情が酷いくらいに薄い。
 冗談を言う時でさえ楽しそうに言えないのが、ストームの難点とも言えよう。フェリシアから言わせれば趣味の悪すぎる冗談であろうが。

「早速本題に入りますが、少し思い出して欲しいんですよ。フィリーにとって痛く苦しい事になりますが、貴方様の親友……いえ、“相棒“を助ける為だと思って。

 ミーチェが焼かれてしまったあの日、彼女はどんな服装をしていましたか?」


 『相棒を助ける為』。
 フェリシアにとってこの言葉がどれ程の効力を発揮するかストームは十分に理解している。
 なぜか? 彼女が“ヒーロー“だから。

 前置きの後間髪入れずすぐに質問を投げかけ、一歩フェリシアに近付いた。希望を意味する宝石を瞳に宿したヒーローを品定めするかのようにアメジストが見下ろす。

「ストーム、それ冗談のつもりなら言わないで。二度と。」

 余裕のないフェリシアは彼の笑えないジョークを流すことも出来ずため息をつく。呆れたように零した言葉の語尾は強く、まるで命令しているようだった。その言動から、"彼女が本調子では無い"ことに、優秀な貴方なら直ぐに気づくだろう。ちくりとした言葉を残す少女の頬は、未だに薄紅色の紅潮を残していた。

「……………は?」

 しかしその瞬間、悪態をつこうと開いた口は、ありえないものを見たように開きっぱなしになった。

 ミシェラちゃんが焼かれた事を、私の拭いきれないトラウマを、彼はいとも容易く言いのけるのだ。

 見下ろされたアメジストの瞳が、フェリシアの背筋を凍らせていく。

 凍らせて、締め付け、震えさせる。

 暫くしてフェリシアは、自身の指先が震えていることに気づいた。

 助けるため……助けるため……。
 助けるため助けるため助けるため助けるため助けるため助けるため助けるため助けるため助けるため。


 ─── アストレアちゃんを助けるため。

 分かっている。何度も何度も心の中で唱える。そう。私はヒーローになりたいのだから。ヒーローなら、笑顔で答えられる。きっと。


「ぇ、ぇと……ミシェラちゃん……は……」

 凍った背筋、震える指先。
 そして──塔で見たトラウマ。

 無意識に忘れさろうとしていた。

 しかし、強引にフラッシュバックしていく、あの日の記憶。

「ミシェラ、ちゃんは…………」

 汗が、伝った。

《Storm》
 いつもより鋭い言葉にストームは眉を上げる。フェリシアが精神をやられていることは容易に感じ取れた。
 ミシェラの死にお披露目の実態。正気では居られないだろう。少なくとも正常な判断力を持ったドールにとっては。

 偏った欲望を追い求め、感情が欠落し、共感性を失ったストームにはフェリシアのトラウマは通過点でしかない。
 舞台上の役者の出番が終わった。ただそれだけ。
 当然、出番のある役者達は皆それぞれに与えられた役割を演じ、最後まで“らしく“いる必要がある。
 ストームは役割を全うしているに過ぎないだけなのだ。


 言葉に詰まっているフェリシアにきっとアメジストはストームに命令を下すだろう。
 ──彼女にふさわしい名で呼び掛けろ。
 間違いなく彼女に呪いを掛けることになる。
 が、構わない。


 だって彼女は。

「“ヒーロー“、答えていただけますか?」


 夢見がちな英雄(ヒーロー)にストームは詰め寄る。
 彼女が本物の英雄(ヒーロー)となる為に。

 乗り越えたわけじゃない。見ないふりをして、しらないふりをして強引に前を向いていたフェリシアにとって、ストームのそれは間違いなくキツく巻いていた追憶の紐を引きちぎる決定打だった。

『ヒーロー』

 何度、この言葉に助けられただろう。救われただろう。

 それが今、重しになる。
 最低最悪の、鎖になる。

 鋭く突き刺さる、破片に、なる。


「……っあ、あの時の……ミシェラ、ちゃんは……!」


「ミ……シェラちゃんは……!!」



────────────────────

── フェリお姉様、大好きっ!

── あのお話、聞きたいなっ!


────────────────────

── ここ、怖い。

── やだ、やだっ!!!


────────────────────


 嗚呼、そう。そうだった。

 あの日、
 ミシェラちゃんは燃えたんだ。

 何も出来なかった、ヒーローになれなかった、私の目の前で。


「…………ヒーロー、か。」

 脈絡のない独り言に、貴方は驚くだろうか。指先は、今も小刻みに揺れている。逆上せたようだった頬はもう、青ざめている。

「ん……ミシェラちゃんがどんな、服装だった、だっけ?」

 ぼーぜん。その言葉が相応しいだろう。ストームを見上げたフェリシアの瞳には、光が、なかった。

《Storm》
 突如として呟かれた言葉に、フェリシアらしからぬ他人行儀な感情を感じる。なんだかすごく、嫌な予感だ。
 ガタガタと身体を震わせるフェリシアを見つめ、ようやく彼女が答えを出すとストームは瞳孔を見開く。
 きっとフェリシアは自身を飲み込もうとするほどの圧力を感じることだろう。
 その一瞬の殺意にも似た気迫を押し込もうと目を閉じる。

 アメジストは判定を下したようだ。
 ──彼女はダメだ。

 無理もない。
 皆に寵愛され自身もまた皆に活力や癒しを与えたミシェラを、信用して疑わなかった先生に焼かれたのだから。


「そう、ですか……。
 不躾にものを聞いてしまい申し訳ありません」

 大袈裟に肩を落とす。所詮は夢見がちな少女だった。
 どれだけ張り切っても意気込んでいても英雄様にはなりきれない。
 そんな彼女が……そんなフェリシアがストームは愛おしくてため息に似た息を漏らす。
 あぁどうしたものか。フェリシアの打ちのめされた表情が、もっと! もっと見たくなってしまったじゃないか!

 あぁ、ストーム。それは口に出してはいけない。

「……アストレアを救えるかもしれないのに」


 ダメだ。抑えられない。

「っ………!?」

 幼い。一般的には可愛いと評されるだろうその顔が。いつもは微笑んでいるストームの顔が、歪んだ。

 そして、凄まじいその圧に潰されるように。フェリシアの虚だった瞳は、少しだけ開いた。

 もちろん。驚いただけで、その光を、希望を取り戻せた訳では無いのだった。驚いただけ。

 フェリシアはその場で池のそばに座り込むのだった。その水が映し出すのは、ただやる気のない少女の顔だけ。ヒーローの面持ちなど微塵もない、負の感情に囚われた絶望の顔だけだった。身体の震えはまだ、治まらなかった。

 ため息をつかれる。
 無理もないだろう。

 ヒーローとして、役目を、果たせなかった私に、興味があるわけが無い。

 投げやりな気持ちになりかけたその時、彼のその言葉は、フェリシアの曇り空の全てを貫いて、痛いくらいに降り注いだ。

 “相棒を、助けられるかもしれない。”と。

 ハッとなった。

 こんなところでトラウマを思い出して何をしているんだ私は!

 そうこうしては居られないのだ。

 アストレアちゃんを、助けに行かないと!!!!

 光が、宿り始めた。

「彼女を救えるの!? ねぇ!
 今そう言ったよねストーム!!!」

 勢いよく立ち上がった。
 しかし、それが行けなかった。

 そう。先日まで降っていた雨。
 地面がぬかるんでいないわけがなかった。

「わっ!?」

 当然、足を滑らせる。
 池に落ちる! と目を瞑った。

《Storm》
 ストームの見立てではフェリシアは思い出せない、忘れようとしていた自分にさらに嫌悪し無力感に嘆くかと思っていた。しかし、意外にも最後の言葉はフェリシアに希望を見せたのだった。

 驚いて身体を跳ねさせていれば、フェリシアは勢いのままに池の方向へ倒れていく。
 テーセラの運動神経、反応速度が反応出来ないわけが無い。それも一度はプリマドールになったストームが。
 咄嗟にフェリシアの手を取り引き寄せ、腰に手を回し抱き止める。
 そのまま自身が池に背を向けるように回転した。


「ヤンチャなお嬢様ですね。ご無事ですか?」

 フェリシアからゆっくり手を離すと、彼女の服に着いた泥を優しく払う。フェリシアには困る。彼女はテーセラほど身体が強い訳では無いのでいつか怪我してしまうのでは? と肝を冷やされているから。
 フェリシアの身体に傷ひとつ無いことを確認すると、ストームは表情を柔らかくして「良かったです」と呟いた。

 見出したひとさじの小さな希望が広がることに並行してふわり、宙に浮かぶ自身の身体。嗚呼、前もこんなことがあったっけ。

 その時は───
 その時は、確か。

 昇降機から、降りるときに足を滑らせて。

 リヒトくんが、彼が受け止めてくれたんだっけ。

 そんなことを思いながら目を瞑っていると、くるり。腕を引かれた自身の身体はワルツをエスコートされるかのように美しく旋回した。

 当然。そんなことをやってのける子はひとりしかいなくて。

「……ありがと。」

 先程とは打って変わって、優しい表情。泥を払われたあと。ぶっきらぼうに感謝を述べた。

 決して、決して。

 みっともない所を見られて恥ずかしいとか、助けられてちょっとショックだとか、そういう訳ではないのだ。

 ほんのり染まる頬には、知らないふりをした。

 震える私を見て彼が楽しんでいることを、対話ができるドールであるエーナのフェリシアは分かっていたから。

「……改めて。あの時のミシェラちゃんの服装、だよね?

 あの時は……確か。
 アリスちゃんっていうエーナの子にドレスをボロボロにされたから、別のドレスを取りに行くっていう口実で塔に行ったみたい。

 だから、あの子が先生から手を下された時にはドレスじゃなくて、"制服"だったよ。……本当に。助けられなくて悔しい限りだよ。」

 周りを見渡して、人気がないのを確認するとぽつり、ぽつり。
 下を向きながら話し始めた。

 その言葉の最後。後悔を滲ませるフェリシアの拳は、ぎゅっと。

 強く、握られていた。

《Storm》
「とんでもございません」

 フェリシアからのぶっきらぼうのお礼に相反して丁寧にお辞儀する。きっとストームがフェリシアの反応のひとつひとつに面白味を感じて楽しんでいる事はバレているが、ストームは紳士である事に努めるだろう。

 フェリシアは辺りを見回し可愛らしい尊顔に後悔と怒り憎しみを覗かせた。告られるミシェラの最後の時、その時の彼女の格好に至った経緯。
 話を聞いた瞬間コアが大きく脈打った。

 ──“制服“だったよ。

 嫌にフェリシアの言葉が頭で反響する。
 微かに空いた口からヒュ、と小さく喉を鳴らす。すぐにその呼吸を飲み込みなんでもないと言ったような表情を作るが、対話することに長けたエーナのフェリシアならいくらストームの感情表現が乏しくとも感じ取れてしまうだろう。

「……偉いですよフィリー。覚えててくださって助かりました。ミーチェは助けられずともアティスを救える“良い”手掛かりになりました。
 やはり貴方様はヒーローですね」

 彼女に言うのはよそう。ソフィアやアティスならきっとそうする。ストームは火刑のお披露目と生贄のお披露目を食い止める為の焦りをひた隠しにした。
 そしてディアならフェリシアを褒め倒すだろう。
 同じくして冠を授かった仲間とは言え、所詮ジブンは他の三人の影となる役割に過ぎない。ストームはそう自認している。
 だからこそストームに欠けた共感性を補うのには他三人を模倣するしかなかった。

 この模倣もフェリシアにはバレる。
 だからこそ焦りが、緊張が、別の話題に切り替えようとするのもきっとフェリシアには分かってしまうだろう。

「発信機……です。そうフェリシア。貴方様に発信機の調査を頼みたく」

 制服だと聞いたストームの僅かながらの反応を、フェリシアは見逃さなかった。それに関する何かしらのことを、彼は知っているのだろう。ミシェラちゃんが着ていたのはドレスではなく、制服。
 それを知った彼の息を飲む仕草。

 ひとつの、嫌な予感が。
 その脳内に走った。

 ── アストレアちゃんのドレスがないのかもしれない。と。

 その予想は明らかではないが、ストームが一瞬揺らいだそれに何もなかった、とは考えにくかった。

「どういたしまして……だけど、今。できれば私にそういう(ヒーローって)言葉を使わないで欲しい、かも。……えへへ。惨めだね、私。」

 フェリシアは自嘲気味に笑った。しかしそれは諦めを含む意味ではなく、ただただ呼ばれたくない。

 いや、呼ばれる資格がない。
 それだけだった。

 いつの間にか、呆気なく話がすり替わっている。伴ってフェリシアには、ストームの焦燥感が伝わって来ていた。彼もまた、アストレアちゃんを助けるために必死なのだと。それに気づくと、無意識に先ほどのことまで許したくなってしまう。ちなみに、フェリシアが甘い性格をしていることを、まだ本人ですら気づいていなかった。

「発信機……そう。知ってるんだ。
 もちろん、協力するよ!」

 力強くうなづいた。
 エーナの私なら、ストームに出来ないことだってやってのけられるかもしれない。

「それで、具体的にどうするの?
 ストーム先生?」

 彼の焦りも、緊張も。気にしないふりをして。話を続けた。

《Storm》
 フェリシアが望んだように、彼女をヒーローと呼ぶことはもう辞めよう。少なくとも彼女がホンモノになるまでは。ストームは惨めだと自嘲するフェリシアを肯定も否定もせず見つめるだけ。
 アメジストは彼女をダメだと判断した。しかし、藍色のカーテンの後ろに隠されたシトリンは彼女をまだ完全に見捨てていなかった。
 実際、彼女先程より活力に溢れストームのよく知るフェリシアらしく振舞っている。苦しい話題のすり替えにも彼女は気付かないフリをした。

 “お人好し”。
 出かかった言葉を押し殺し飲み込む。

「そう、ですね。かくれんぼをして頂きたいです。

 実際にはかくれんぼを装って発信機の有無を確認して頂きたいんですよ。適任はエル、ですがフィリーの話術ならいくらでも口実を考え付くでしょうから他のドールでも構いません。
 何を言われても先生の後を着けて行ってください」

 一息に説明し終えるとフェリシアに呼ばれたようにストーム先生らしく「説明内容はご理解頂けましたか?」とフェリシアの顔を覗き込む。

「かくれんぼ、かぁ。そうだね。
 先生が見せた発信器はプリマだった貴方たちには付いているかもしれないけど、私たちに付いてるか分からないもんね。

 ……実際に、私たちが柵を越えた日に、同じく柵を超えてツリーハウスに行った子たちも居たって聞くし。

 いいよ。とりあえずエルくんに協力して貰えるか声掛けてみることにするね。“楽しい追いかけっこ”が終わったらまた報告しに行く。待ってて。」

 光を取り戻したペリドットの双眼は、こくこくと何度も頷くことで答えた。今は何も考えずにアストレアちゃんのために、私ができることを全て、してあげたい。

 アストレアちゃんを、助ける。
 アストレアちゃんを、助ける。
 アストレアちゃんを、助ける。

 ─── 助ける。絶対に。

「助ける。」

 呟くようにそう言って、拳を握り直すと、目線を合わせるように上を向いた。彼の大きな身体に決意表明するように、フェリシアの眉はつり上がったのだった。

「じゃあ、私は行くね」

 にこり。少しだけ微笑むと、フェリシアを引き止めない限りはその場所から立ち去るだろう。

《Storm》
 美しいペリドットに闘志の光が宿る。希望の光が。この計画が始まってしまってから最愛のドールを除き、長らくと見ないその光にストームは息を呑んだ。

 ──ドクンッ。

 コアが脈打つ。純粋に心底から『美しい……』そう感じる。

「えぇ、頼りにしていますよ、“フェリシア”」


 彼女の大きな決意に深く頷く。
 微笑みを向けられた後に決意を固め自身に背中を向けたフェリシアに、ストームは待ったをかける。

「すみません。はっきり言って先生が発信機を使うなんて確証は無いのでこの計画は五分五分です。
 最善は尽くして頂きたいですが……分かりますよね」


 再度注意喚起をする。
 “危険を感じたら身を引け”と強く目で訴えかけるのがフェリシアに伝わるだけでいい。
 しばらくの沈黙の後、ストームは女王様からの命令に身を投じるため、フェリシアにお辞儀をして去っていくだろう。


 歩いて、歩いて、歩いて。
 深呼吸を、2、3回。
 呼吸を、落ち着かせた。

 ストームと別れたあと、フェリシアは、エルくんを探すために学園に戻ろうとしていた。
 雨あがりの平原を吹き抜けていく。
 気持ちのいい風が、ウィスタリアの髪をふわっと撫でて流れて行った。

「おにごっこかぁ。」

 フェリシアは、歩いていた。
 近づく人影に、気付かずに。

【寮周辺の平原】

Brother
Felicia

《Brother》
「おにごっこ、楽しそうだね」

 背後から、声がする。
 平原の草を踏み締めて、甘やかに微笑むブラザーがやってきた。

「こんにちは、フェリシア。
 少し話したいことがあったんだ」

 ひらりと軽く手を振りながら、フェリシアの元まで歩いていく。勝手に隣に着いてはまた笑いかけて、静かに足を止めた。含みのある言い方とは裏腹に、その態度はいつも通りである。
 ───いや、エーナドールたるフェリシアなら気づくかもしれない。おっとりした慈愛の彼には似つかわしくない、ピリついた空気が漂っていることを。

 また、風が吹く。
 ブラザーの長い前髪が揺れて、隠れた片目が隙間からのぞいた。フェリシアを映したままに細められるアメジストは、今日も艶めかしく輝いている。

「……“開かずの扉”について」

「わっ? ……わぁ。ブラザーくん聞いてたの」

 愛おしそうに細められる目、何よりその慈しむような優しい声音には聞き覚えがあった。振り返ってみると、ペリドットが映し出すのは“自身をおにいちゃんだと名乗る”不思議なお友達だ。

 しかし彼は普段とは少し違った雰囲気をたたえていた。先ほどまで一緒にいた、ストームのように。

 焦燥感……いや、少し違う。

 周囲を警戒して、攻撃するような、
 ─── おそらく、苛立ちだった。

 フェリシアの瞳は開かれる。
 ……開かずの扉。
 フェリシアの、トラウマ。

 それを聞きに来たのだと分かった頃にはフェリシアは身体を強ばらせていた。背筋の凍るような体験は、できればもう、したくない。

「……リヒトくんから聞いたの?」

 フェリシアは質問を返す。
 フェリシアが知る限り、開かずの扉のことを知っているのは、あの日塔に行ったリヒトくんと、アストレアちゃんと、ソフィアちゃんだけだ。それから……ヘンゼルくんも。彼がそれを話すわけないので除外したのだが。

 ストームのように、また別の誰かから聞いたのだろう。なぜ、また私に……? 疑問は、膨らんだ。

《Brother》
「……ごめんね、そんな顔をさせたいわけじゃないんだ。嫌だったら、言わなくてもいいから」

 エーナでなくても分かる、表情の変化。見開かれた瞳は揺れていて、フェリシアの体はいつの間にか強ばっていた。
 ブラザーはすぐに、リヒトのノートについて思い出す。“あの夜”と書かれた日。そのことについて聞かなかったことを、今になって後悔する。反応からして、 きっとその日、リヒトとフェリシアは、開かずの扉に行ったのだろう。

 もしかすると、見たのかもしれない。
 ミシェラが炎に落ちる、その瞬間さえも。

 嫌な考えに自然と表情が曇り、ブラザーは眉を下げて首を振る。囁くように謝罪を述べて、フェリシアが動かないのならその頬に片手を添えるはずだ。

「質問に答えよう。
 君と同じで、ヘンゼルから聞いたんだ」

 目を伏せて、これも囁く。
 人の足元辺りに視線を落としてから、やがてフェリシアを見つめた。安心させるように優しく微笑んで、そっと手を引こうとする。

「……座って話そうか。噴水の方に行こう」

「笑えるくらい強くなくて申し訳ないな。でも大丈夫だよ! ちゃんとお話できるから……」

 謝罪の言葉を口にする。ブラザーくんの口ぶりからしてお披露目会があったあの日、自身が開かずの扉に行ったことを知っているのだろう。

 知った上で、聞いていて。
 辛いなら言わなくていい。
 なんて、甘い言葉をかけてくれる。

 彼はなんとしてでも知りたい情報のはずなのに。

 頬にふんわりとした温かさを感じて固まっていた身体がぴくりと跳ねた。トゥリアドール特有の柔らかな感触が、硬直をほぐしていくように。じんわり、じんわり。伝わっていった。

「ま、まさかのヘンゼルくん……。
 ブラザーくんは彼から怖いこと言われなかった?」

 上がらないと思っていた名前が飛び出しても、フェリシアはそこまで驚かなかった。心配が勝っていたからである。彼女の知るヘンゼルくんは、オミクロンクラスの子を傷つける言葉を言う子だから。
 最近は“素直になれないけれど、意外と優しい子”なんて項目が追加されている訳だが。

「……うん。」

 差し出された手に、そっと自身の右手を重ねて。フェリシアはブラザーくんの左手を取った。

 噴水……そういえばさっきも湖畔に行ってたっけ。今日は水に関する場所に行くことが多い。

 ブラザーくんに連れられて、噴水の傍に立ったフェリシアはその水が流れるのを見ていた。

 水滴が落ちて、 波紋が広がる。

 落ちて、落ちて、落ちて。
 広がって、広がって、広がって。

「……じっくり見ると、噴水って綺麗だよね。」

 話しかけたその子は、本当にブラザーくんだった……?

 寮のすぐそばには美しい花畑と、その中央には天使像が据えられた噴水が存在する。噴水からは耐えず水が循環しており、陽光に水面が反射する輝きとも相まって、きらきらといつ見ても非常に壮麗である。

 あなたがブラザーと連れ立って噴水の縁に腰掛け、穏やかな水の流れを眺めていると、ふと。

 なんだか、この光景に違和感が──妙な既視感を感じ取る自分に気がつくだろう。

 その時、こめかみから響くような微かな痛みが徐々に強まっていた。狂い出す脳神経が不意に、あなたに過日の光景を垣間見せる。それは夢の名残のような景色であった。

「〜〜〜っ! あいたたた……」

 くぅ、なんて呻きながらこめかみを抑える。じぃんと響いていく痛みの中、目の前を掠めたそれは、確かに見たことのあるような。忘れ去っているような。確かなのはそれが、“幸せな”記憶だったこと。

 それだけ、だった。

「あぁ、ごめんねブラザーくん。
 ……えぇっと、『あかのず』が『びらとぶ』話だったよね? えーっと。
あれ。どんな物語だったっけ。」

 物語を思い出す振りをしてそう聞いた。学園の前。誰が見ているか把握するのが分かりにくい場所で「開かずの扉」の話をしない方がいいと判断したフェリシア。
 そして、対するブラザーくんはトゥリアとして優秀なドールだったと聞く。それなら……それなら。
 フェリシアの作った少しガサツなアナグラムにでも気づくはずだ。

「待ってね……思い出せない。
 ちょっと待ってて! その物語をメモしてたノートがあったはず!!」

 ここで話すのはマズい。そして、自身の持っているノートには以前ヘンゼルくんと筆談した跡がある。
 それを見せるのが一番だろう。
 ブラザーくんにそう言うと、フェリシアはノートのある寮内に一目散に駆け出した。ノートを取り出すと、また全力で噴水の場所へ戻るだろう。

「ごめーん! 待った? あはは……これだよ〜!」

 広げたノートの左端には、フェリシアのこじんまりとした丸文字で、
 "筆談でお話しましょう"
 という文字が連ねられているだろう。

《Brother》
「フェリシア……? 大丈夫!?」

 突如として頭痛を訴えはじめた相手に、ブラザーは不思議そうな顔をする。しかし、彼はこめかみを抑える仕草に見覚えがあった。

 過去の夢。本当の記憶。
 少し大袈裟なくらいに驚いて、立ち上がって名前を呼ぶ。だが、思っていたほど頭痛は酷くないようだ。アナグラムを聞いているうちに、不安げにフェリシアを見つめる瞳に疑問の方が強くなる。
 最初こそ片眉をひそめていたブラザーも、ノートと聞けば表情を変えた。フェリシアもまた、リヒトのようにノートを持っていると気づいたのだろう。

「おかえり。大丈夫だよ、ありがとう。
 良かった、テーセラの子に今度読み聞かせてあげようと思ってたんだ」

 ノートを開くフェリシアに優しく微笑んで、ホッとしたように肩をおろす。何気なく頷いてみせたから、きっとその策に応じるのだと伝わるはずだ。

「これはね〜、私がつくったとっておきのお話だから。テーセラの皆も喜んでくれるんじゃないかな!」

 にこにこ、笑って、頷いて。
 優しいブラザーくんなら作戦に乗ってくれるだろうと確信していたフェリシアは嬉しそうに声を弾ませた。もちろん、周りからはただ自作の物語を滑稽なエーナドールが自慢げに見せているようにしか見えないだろう。痛々しい光景のようだが、それは彼女にとって存外、どうでも良かった。

“結論から言うと、開かずの扉は、黒い塔と呼ばれる場所の入り口だった。お披露目会の時にその塔の中に入ったんだけど……。”

“扉の先には資料が落ちてて、それからコンテナがあったんだ。
 その中には、…………。”

“本物そっくりの皮膚を被った脚が入ってた。おそらく誰かの脚。詰め込まれてた。”

“落ちてた資料はこれ。”

 貴方がそこまで読むと、フェリシアはノートに挟まっていた用紙を広げるだろう。

「ちなみにこれね、ここに出てきたうさぎのキャラクターの初期案なの。ヘンゼルくん、この子になんて名前つけたと思う? ……全く酷かったんだから!」

 ふん。怒ったような仕草を見せるが、作り話だということは彼にも分かっているだろう。その資料を見れば一目瞭然だからだ。

「……あっ、これもしかして、ヘンゼルくんとかリヒトくんから聞いてた? ブラザーくんに教える前に色んな子にこの物語のお話をしたから、既に知ってたらごめんね。」

 それは、"開かずの扉"のこと、ここまで知っているのか? という遠回しな確認だった。さて、相手はどう出る?

《Brother》
「ふふ、フェリシアはすごいねぇ。お話づくりの才能もあるんだねぇ」

 トゥリアドールであるブラザーは、どうしても演技をするならエーナであるフェリシアに劣るだろう。そう考えた彼は、演技ではなく本心を言うことにした。もし本当にフェリシアの物語を見たとして、自分が何を言うか。嘘をつくよりずっと簡単に、本物通りに微笑める。

「ふふ、かわいいね。なんだろう、ヘンゼルのことだから数字とかかな」

 “黒い塔”。“コンテナ”。“誰かの脚”。“資料”。

 想像していたよりもずっと多い情報をリアルタイムで脳に詰め込んで、ブラザーは笑みを浮かべ続ける。驚くのも、考えるのも、一旦あとだ。ディオのように精巧な頭脳でなくとも、記憶だけなら出来るはず。
 今はただ、誰にも疑われないように。

「ヘンゼルから少し聞いてはいたんだけど、実際に聞くのは初めて。面白くて聞き入っちゃうな、もっと聞かせてよ」

 ノートから顔を上げて、フェリシアに笑いかける。わくわくと表情を明るくしたまま再び視線を下げて、ノートを見つめた。
 事前情報だけ頭にあり、ここまでは知らない。ブラザーの隠れた言葉の意味を、きっとフェリシアは読み取れる。

「本当! もう、ヘンゼルくんったらちょっとネタバレさせてたのね!
 えへへっ読んで読んで〜!
 この場面とかすごくいいでしょ!」

 そう言うとペリドットは白い指を滑らせて右ページの文章を指すだろう。

“大体わかった。開かずの扉は外部に繋がってる資材搬入の為の通路だと思っていたけど。見たのはそれだけか? 怪物は?”

 貴方は、その端正な文字からヘンゼルくんが書いたものだとすぐに理解出来る。貴方をじっと見ていたフェリシアは、貴方が読み終わったと判断すると次のページを開いた。開いたは、いいものの。

 その文章を、手のひらで隠した。
 大事な貴方に、見られたくない。

「こ、ここからは……ちょっと過激な場面にはいるから……見なくていいかも。自分から見せておいて、……ごめんね」

 それに書かれているのは、間違いなく塔の、事実。優秀な貴方ならそれが分かるかもしれない。
 しかし貴方は、見せて欲しいと、頼んでもいい。本当に、知りたいのなら。

《Brother》
 ブラザーの双眼が、左右に揺れ動く。ノートに書かれた文章を読み込み終われば、瞬きを2回した。簡単な合図、けれどこれで充分だろう。

 ページがめくられる。
 次のページが現れて、それに目を通そうとした瞬間に白く小さな手のひらが文を隠した。驚いて顔をあげれば、不安そうに躊躇いを口にするフェリシアがいる。その先に真実が書かれているのは、すぐに予測できた。

「えぇ、気になるなぁ……。
 あ、わかった! ふふ、フェリシアってば恥ずかしいんでしょ」

 だから、くすくす楽しそうに笑う。
 自然に普通に、自分がその先にする“予想”を口にしよう。

「さっきのうさぎのキャラクター、ミシェラに似てるなって思ってたんだ。その相棒のネコは、あの子……君たちの先生じゃない?
 ふふ、それが知られるのが恥ずかしいんだね? フェリシアはかわいいなぁ」

 名前。ノートのどこにも書かれていない、2人の人物。

 ツリーハウスで読んだノートには、先生がシャーロットを火の中に落としたと記されている。であれば今度も、きっとこのふざけた物語の登場人物は、ミシェラと先生だ。

 楽しそうに笑みを浮かべたまま、瞳を細めてフェリシアを見る。ページを覆う手に、ゆっくりと自分の手を重ねた。

「えへへ、……えへ。実はそうなの、ちょっと恥ずかしくて。猫ちゃんもうさぎちゃんも、ちゃんとモデルがあるから。バレちゃった?」

 書いた文はそのまま隠して、困ったように笑って見せた。おそらくこれは、"見せて欲しい"という彼の優しいサインであることも分かっていた。なるだけ見せたくない気持ちは、ある。先程トラウマを思い出したばっかりに、これ以上の被害者をうみたくないという、気持ちも。だが、怖がってばかりじゃだめだから。意を決したフェリシアは、ゆっくりとその手を退かした。

“コンテナや資料のあった場所の奥にはまた、扉があった。開けた先は地獄への入り口だったの。”


“暗くて、深くて、大きな、大きな空間だった。そこでは鉄籠が揺れていた。意味わかる?”

“息を静めて、驚かないで。”


 その後に書き足した言葉は、一瞬にしてトラウマを植え付けたあの瞬間の記憶だった。


“ドールの焼却炉だったの。”

“あかくあかく、私たちのミシェラちゃんは炎に包まれていった。
 慕っていた先生の手によって強引に鉄籠の中に入れられて。”

“怪物は、炎が上がる前に下から登ってきていた。それはヘンゼルくんが見た、虫のような特徴をもった化け物だった。そして驚くべきことに、先生から発せられる言葉の意味を理解しているようだった。
 怪物は、先生を襲わなかったの。”

“先生は、品評会、スクラップ、資源供給プラント、パーツのひとつが高騰、みたいなことを言ってた。”

“先生を……大人を信用しないで。
 誰がどこで私たちを監視しているのか、分からないから。それから、私たちを見ているのは先生だけじゃないってことも知っていて。”


 そこには、たどたどしい文章で、そう書いてあるだろう。その時の見せた時のフェリシアの顔が、強ばっていたことも、貴方なら分かるだろう。

「……信じて、貰えないよね」

 か細く呟いたその言葉も、気づくことだろう。

《Brother》
 ああ、うん。やっぱり。

 ノートを読んで思ったのはそんなことで、もう随分と感情の荒波が落ち着いてしまったのだと気づいた。それは悲しんでいるだけでは前に進めないという決意かもしれないし、夥しい絶望に大切なものが壊れてきたからかもしれない。
 少なくとも、ノートを読むブラザーの顔が曇ることはなかった。ツリーハウスでノートを見ていて良かった、と心の底から思う。ここで取り乱さなくて、よかった。

「……ああ、待ってフェリシア。ここ、文章が抜けてるよ」

 ブラザーは胸ポケットからペンを取り出し、ノートに滑らせる。小洒落た優雅な文字が、余白部分にインクを落とした。

“話してくれてありがとう。
 これと同じ話を、実は前に読んだことがあるんだ。”


「はい、これでよし。
 物語はこれでおしまい? 結末はまだ書いてないのかな」

 笑って、顔を上げる。
 風のそよぐ音を聞きながら、フェリシアの反応を待たずに言葉を続けた。

「なら、僕が続きを書いてもいい?
 こんなのはどうかな。うさぎさんが入った部屋は、実は大きなスクリーンだったんだ」

“柵を越えた先には、ツリーハウスが存在する。僕はそこで、誰かの日記を読んだ。”

「ぁ……」

 ノートに書き出された文字を読んで小さく声が漏れる。ツリーハウス。以前ロゼちゃんとお花畑で話したときに出た話題だ。
 ツリーハウスということは、ブラザーくんはロゼちゃんと行動を共にしていたのだろうか。彼女と同じように、ドロシーとジャックというテーセラのドールと一緒に。破損したドールのお話。塔のことは、おそらく手記……彼いわく日記に書いてあったのだろう。

 それも、ロゼちゃんが立ち去る時に最後に話してくれた√0に関係しているのかもしれない。それから"ヒトと呼ばれる巨人"にも。

「……っあぁ、なるほど?
 へぇ、スクリーンかぁ。いいね! 新しい! そこに映っているのは、きっと幸せな光景なんだよね!!」

 「こんな感じはどうだろう」なんて言いながら新しいページを広げる。
 まっさらな見開きのそれに書き出した。

“ロゼちゃんに聞いたことがある。√0に注意しろとか、何とか。
 あとは……巨人の話も。”

“日記の話、教えて。”


 「どう?」なんて笑顔を見せれば、再度貴方にノートを渡すだろう。

《Brother》
「ふふ、そうそう。
 スクリーンに映った景色が本物だと思ったうさぎさんたちは、最初はびっくりしちゃうんだ」

 うさぎさんが入った部屋は、本当はただのスクリーンで。驚くうさぎさんを見ていた猫ちゃんが、クスクス笑いながらネタばらし。怪物のような着ぐるみに入っていたクマさんが、やり過ぎだよ~なんて言いながら猫ちゃんをたしなめる。怒るうさぎさんに2人で謝りながら、手を繋いで部屋を出ていく。

 ───目を伏せる。
 場繋ぎで口にする物語はあまりにも幸福で、知らない人が読めばきっと笑ってしまうようなものだ。けれど、それが現実だったならと願わずにはいられない。

 ペンを動かす。
 紙にインクが滲んでいく。

“ツリーハウスに行ったのは、僕とロゼット、それからカンパネラ。あと二人、テーセラの子たちがいた。”

“中は随分と古そうだった。そこで見つけたのが、誰かの日記だよ。”

“日記には、シャーロットというエーナのプリマドールがお披露目に行く話が書かれていた。”

 ペンを止めたら幸せな空想まで終わってしまいそうで、ブラザーは一息に書き上げる。傍から見れば、オミクロンのドールが自作の物語を集中して描くなんて、痛々しく滑稽に見えるかもしれない。実際、ペンを動かし続けるブラザーは痛々しく滑稽だった。

“シャーロットはお披露目直前で怪我をしたんだ。彼女はその怪我によって、きっとオミクロンと同じ扱いになったんだと思う。”

“彼女はダンスホールではなく、開かずの扉……黒い塔に先生と向かっていた。その先で、ミシェラと同じ体験をしたんだ。”

“きっと、これがオミクロンドールのお披露目なんだと思う。”


「……よし、こんな感じかな。
 どうですか、原作者さん」

 一度ペンを置いて、また握る。
 続けてなにか書こうとして、今度こそペンを置いた。

 フェリシアも、ブラザーも。
 “彼女”のことを考えていたと思うから。

「ほんとに。幸せな結末、だね。」

 耳に入る甘い物語に痛がりながら
 フェリシアは笑った。朗らかに、優しく。
 ──残酷に。

 思い知らされる。
 これは、現実なのだと。

 本当に、そうだったらと願わずにはいられない、温かく優しい物語。

 続きは、ない。そこにあるのは、ただ黒く染まった終焉だけだと。

 知ってしまったから。

 サラサラと書き出された文章に目を通していく。こんなにも苦しい学びを、私は知らない。閉鎖されたこの学園から裏切られたその日から、私は悲観的になるばかり。ヒーローとして……いや、エーナとして失格だ。分かっている。それを言われていないだけ、というくらいは。

 ペンを握ったフェリシアは、また書き出し始めた。

“教えてくれてありがとう。
 そのテーセラの二人って言うのは、ドロシーっていう子とジャックっていう子だよね。ロゼちゃんから聞いた。”

“そう。そのシャーロットって子も。もしかして、ツリーハウスにいる壊れたドールって……。”


 改めて、ブラザーくんの書いた文章に目をやる。

 ──オミクロンドールの、お披露目。

 次の文章を書かなきゃ。
 書かなきゃなのに。

 次の瞬間、麗しくも優しいあの子が焼かれる。そんな想像が脳内を掠めていった気がして。後頭部にいきなり強く殴られたような衝撃が走った気がした。

 いやだ。いやだ。いやだ!!!

 考えたくない! やめて、やめて!

「……っ! ……!!」

 ぎゅっと目を瞑って、一瞬の地獄から抜け出す。……ペンを、握りなおした。

“オミクロンドールのお披露目って……じゃあ、一般ドールのお披露目のことはブラザーくん知ってるの?”

 吹くのは、雨上がりの風。
 でも、なだらかに運んでくる花の香りには、きっと。
 ふたりとも、気づかない。

《Brother》
「……大丈夫。大丈夫だよ」

 ぎゅうと、力む音。ペンを握る手に力が込められていたのは、すぐに分かった。
 ブラザーは眉を寄せる。自責の念、激しい後悔。余計なことを言い過ぎた。フェリシアの背中に手を添えて、優しくさする。そんなことで罪滅ぼしをしようだなんて、舌打ちが出そうになった。耳元で囁く言葉は頼りなくて、あまりにも気休めだ。

 深い息を吐いて、ペンを握り直す。少し迷ってから、ノートにインクを散らす。

“そうだね、その壊れたドールがシャーロットだった。カンパネラがあの子のことを思い出していたから、知り合いなんだと思う。”

 ……さて、余計なことはもうひとつ。
 フェリシアが書き出した質問に一度瞳を瞬いて、すぐにペンを動かした。今度は間違えないように、慎重に。けれども自然に、ごく当たり前に。

“ほんの少しだけ。
 フェリシア、君は知っているの?”

“嫌だったら書かなくてもいいからね。”


 にこやかに、ノートから視線を上げた。目を合わせて微笑めば、フェリシアの返事を待つように再びノートを見る。

 案外、自分は嘘をつくのが上手い方らしい。
 ブラザーはこのとき初めて知った。

「あはは……ありがとう! でも私は、平気だからさ! 行ける行ける!!

 大丈夫! ……ほんとに、大丈夫だから。」

 ──だからお願い。これ以上踏み込んでこないで。いまの“私”は、危険だから。

 さすられた手をとって無理やりにでも笑顔を作って見せた。口角を上げた。心配そうな彼を安心させるように、大丈夫、大丈夫。私はまだ、大丈夫。

 書かれたノートをみて、納得したようにうなづいた。やはりツリーハウスのドールはシャーロットなのだと。……分かってよかったと安心する反面、次に書かれた文字に目を通した時。
 ── 最悪だ。
 と思った。優秀な彼なら、オミクロンから出られる可能性があったから。その希望まで、既に潰されているのかと暗い気持ちになったからだ。

 自分がオミクロンクラスに所属されたのは大きな傷のせいだった。
 後悔はしていないし、これからもするつもりは無い。勲章の傷だ。
 だが彼は、精神異常からオミクロンに来たのだという。それなら、またトゥリアクラスへ戻ることもできない訳では無いのだ。

“貴方たち完璧なドールも、お披露目会は決して喜ばしいものなんかじゃない。たぶん、お披露目会自体がおぞましい殺戮の場なんだと思う。”

 ノートに指を滑らせた場所には、そう書いてあった。間違いなく、自分の筆跡である。そこに書いてあるのはヘンゼルくんの夢を壊した、私の罪の証拠でもあった。
 笑顔で隠しきれないほど、大きな大きな、罪である。

《Brother》
 ……ブラザーは何も言わず、ペンを手に取った。フェリシアの悲痛な笑顔に目を細めたまま、サラサラと文字を綴る。

“このお披露目の話は、誰かから聞いたものなの?”

“もしそうなら、誰から聞いたのか教えてほしい。”


 もしかすれば、フェリシアはお披露目という夢を壊されても瞬きひとつしないブラザーに違和感を覚えるかもしれない。全てのドールたちが焦がれる夢の舞台が、ただの殺戮ショーだと言われても尚、彼は笑みを崩していなかった。辛そうに眉を下げてこそいるが、そこにヘンゼルのような困惑は見られない。

 しかし、今のフェリシアに。
 今の貴女に、その違和感を見抜くことが出来るだろうか。

「……」

 ブラザーは何も言わない。
 ただペンを置いて、次の言葉を待っている。

 ただ、何を言うべきか迷っている。

“……できれば、教えたくない。私の大好きな子とだけ。”

 貴方はそれだけで察することが出来るかもしれない。しかし貴方はフェリシアが色んなドールに「大好き」を伝えていることは知っているため、分からないかもしれない。

 反応をみて、フェリシアは少しだけ目を開いた。ブラザーくんの目は、曇ってすらいない。怪訝に細められているだけだ。……それも、おそらく自身の張り付いたような笑顔に起因しているだろう。

“お披露目会の事実を知ったのに、ブラザーくんは驚かないんだね。”

「まっ! 結末は置いといて〜っと。えへへっ! 実はねブラザーくん! こんな物語もあるんだ〜!」

 フェリシアはそう言うとペリドットの瞳を貴方に向けるだろう。

 ただ、反応を待つように。
 少しだけ、怖がるように。

《Brother》
 ──アストレア。

 名前が浮かぶ。ソフィアから話を聞いたときに、元プリマドールのみんなでお披露目を見に行ったと聞いていた。フェリシアに話すのは、きっと彼女を信頼しているアストレアだろう。

 ブラザーはもうペンを握らない。
 フェリシアが続けて書いた言葉を見たまま、薄い唇を閉じていた。

 それが開いたのは、フェリシアがこちらを見たときだ。顔を上げるブラザーの表情は、まるで全身を粉々にされたかのように痛ましく、儚げだった。

「……フェリシア、あのね」

 これは、単なる気休め。
 これから続く無数の絶望に対する、ほんの少しの現実逃避。

 それでいい。
 どろどろに甘いだけのシロップが、一瞬でも幸福を幻視させられるのなら。

 ブラザーは兄ではないから。完璧には出来ないから。
 今与えられる愛を、ただ精一杯に。

「フェリシアは頑張ってるよ。
 すごく、すごく、すっごく。

 だから、辛いときは休んでいい。
 苦しいときは泣いていいし、嫌なときは逃げたっていい」

 恐怖に陰るペリドットを、そっと抱き寄せた。指先から蕩かすような甘さが溢れ、ちいさな背中を優しく撫でる。

「君が笑ってくれるだけで、僕は今日もいい日だったと思えるよ。それだけで救われる人もいるんだ」

 背中から指を滑らせて、ウィスタリアの髪を撫でる。慈しむように優しく、けれども強く抱き締めた。

「……フェリシア。
 君は僕の、“ヒーロー”だよ」

 だから、大丈夫。

 にっこりと優しく笑うおにいちゃんは、貴女を愛している。
 例え貴女がオミクロンのジャンク品で、ミシェラを救えなかった偽物で、壁に塞がれる小さな存在でも。

 そんなことはないと、強く否定しよう。
 ブラザーは、おにいちゃんだから。

 ペンを握らないブラザーくんをみて、困惑した眉を下げたフェリシア。もう書くことは無い、ということだろうか。
 正直、やめて欲しい。

 一秒でも、早く、早く、早く!
 アストレアちゃんを助ける方法を見つけ出す必要があるのに!!!

 思わずその不満を口にしようとしたときその身を包んだのは、ただ柔らかな、感触だった。トゥリアドールしか持ち合わせていない、優しく、安心する。ほんのりと感じる温かみだった。

「わ、わたし…なんか……ヒーローになりたいって大きく言っちゃう意地っ張りだよ。……実際、なにも出来てない。今も、今もこうやって……っ! 慰められるばかりで!!」

 笑えない。笑いたいのに。
 目の端に溜まった水晶の破片が、噴水の水滴をぼやけさせては消えていく。気づいたときには、その小さな身体を彼に預けていた。
 溜め込んできていたナニカが、堰を切ったように流れ込む。
 痛く、鋭いそれらを、彼はただ、背中で守ってくれる。
 柔らかなドールであるはずなのに。

「やだっ……だめだぁ、ごめんね。みっともないね……、へへ。
 なんで急に泣いてんだって話だよ。

 全く、びっくりしちゃうよ……」

 弱い自分に呆れながら。
 頬を伝っていく熱いものを、必死で拭いながら。だけど、被せられた優しい言葉が、ゆっくりと伝わってくる温もりが、手放せなくなってしまいそうで。

 だけど、今は。今だけは。
 そっと、そっと。……撫でて欲しい。

 ヒーローであることを認めて欲しい。そんな甘やかな言葉に今は。
 認めて貰える喜びに、浸かりたい。

「……ごめんね、今だけ。これからは頑張るから。すごくすごく、頑張るから。少しだけ、すこし……」

 傍に、居させてください。

《Brother》
「フェリシアは、頑張ってるよ」

 噛み締めるように、また。
 髪を撫でる手を、そっと頬に滑らせる。フェリシアを抱き寄せたまま、零れ続ける彼女の悲しみを拭った。骨ばった大きな手は、あたたかく柔らかい。貴女を少しも傷つけない、おにいちゃんの手。

「たくさん色んな人と話して、色んな場所に行って、色んな物を見てる。誰かのために、ずっと動いてる。

 すっごく偉いね。フェリシアは頑張り屋さんだね」

 風が吹いたら、聞こえなくなってしまいそうな声。甘美なそれはフェリシアの耳元で囁かれ、二人だけの空間に響く。
 何度も何度も、瞳を、頬を、撫でる。

「だから、休んでもいいんだよ。
 誰かに頼って、甘えていいよ。

 おにいちゃんが、フェリシアを守ってあげるから」

 ぎゅっと抱き締めて、甘く甘く呟いた。
 痺れるほどに強く毒々しい愛情が、ただ貴女を愛おしそうに見ている。

「……っ、ぇ、うぇぇん……」

 撫でられながら、暫くフェリシアはしゃくりあげることしか出来なくなってしまうだろう。ブラザーくんには彼女が“心の底からほっとしている”ように見えるだろう。
 他の人を守る存在として弱さを見せなかった彼女が、大粒の宝石を流しているのだから。

 泣いて、泣いて、泣いて。静かになったフェリシアは、ブラザーくんの体温を感じる中でべしょべしょに濡らした自身の腕を見ると、途端にかわいた笑いを浮かべた。
 しかしペリドット色に濡れた瞳は本来の輝きを取り戻すように、磨かれてつやんと光っていた。いや実際には光っているように見えた。

 フェリシアの中で、その色々が吹っ切れた。とりあえず、強制的に前を向こうと思うのだ。

 貴方の肩を優しくとん、と両手で掴んで自身の身体を離させると、朗らかに口元を緩めるのだった。

「そうやって言ってくれるだけで私は救われるよ。ありがたいよ。
 ありがとうブラザーくん。なんか凄い……元気がでた。

 お恥ずかしいことに、最近自分のことが嫌いになりかけてたから。

 あのね! それから……前から思ってたんだけど、私はあなたの妹じゃないよ? でも、こうやって優しくしてくれる子のことを、きっと“おにいちゃん”って呼ぶんだろうな!!」

 そう言うとフェリシアは決意したように立ち上がるだろう。貴方の方を向いてまた、「ありがとブラザーくん!! 良かったらまた、お話してくれる?」なんて屈託のない笑顔を見せた。ノートとペンを持ったフェリシアは、学園の方に戻っていくだろう。

 相棒をお披露目会から救う方法を見つけるために。

「それじゃあまたね!」

 優しい花の香りを運ぶ風が弄ぶのは、しなやかなジャスミン色の白髪。親愛なる「おにいちゃん」に元気よく手を振ったフェリシアは軽い足取りで寮に戻るだろう。

 幼きヒーローの小さな手には、筆談で使用したノートとペンが。全てはアストレアちゃんを助けるため。まずは、ストームくんに言われた"かくれんぼの遊び相手"を探すことが必要だろうから。

【学生寮1F エントランスホール】

 エントランスホールはだだっ広い大広間になっていた。三階までが吹き抜けになっており、天井からぶら下がっている古いシャンデリアがきらきらと優しい光を落としている。
 薔薇の花を描いたボタニカル柄の大きなカーペットが足元には敷かれていて、階段と出入り口に挟まれた構造になっている。

 エントランスホールの出入り口の傍にある壁には、ドールズが守らなくてはならない大切な『決まりごと』が一覧となって掲示されていた。

 毎日来ては、毎日見ている場所。寮のエントランス。吹き抜けのある大きな空間と、柔らかな光を下ろすシャンデリア。出入口には、ドールズが守らなければいけない掟が、書いてある。もちろん全ての決まりごとを覚えているし、破ったことはない。ただ。それが今日は妙に気になるのだ。

「………?」

 遊び相手を探さないと、なのに。
 どうしてこんなにも気になるのだろう。飽きるほど見ている光景のはずなのに。フェリシアはノートとペンを持ったまま駆け寄った。決まりごと一覧を見るために。

《たいせつな決まり》
・いつか出会うヒトに尽くすため、日々の勉強には努力して取り組むこと。
・朝は7時に起きて、夜は21時に必ずベッドで休むこと。
・夜に外を出歩かないこと。
・身なりは清潔にしておくこと。
・身体に傷が残る怪我は “絶対に” しないこと。
・他のドールズを傷付けないこと。
・あなたたちを教え導く先生たちを傷つけないこと。
・アカデミーや寮の設備は壊さずに大切に使うこと。
・寮の外、柵の先へは行かないこと。
・ヒトに背かないこと。

 ──あなたは見慣れた決まりごとの掲示を見上げて、改めて目を通す。この学園で目覚めた時からずっと反復し続けた、大事な大事な決まりごと。


 あなたはこの規則を見て、どこか既視感を感じ取った。この決まりごとではなく、規則の掲示を前にすることに──だ。

『────』

 毛糸をぐちゃぐちゃに絡めたような不明瞭な声が脳内に響き渡る。あなたはその瞬間、耐え難い頭痛に見舞われてその場にまともに立っていられなくなる。
 あなたはこの瞬間、脳裏に記憶が再生される様を垣間見た。

「い゛っ……!」

 ぐわんと揺れる世界。足元のふらつきを抑えることが出来ないくらい、突き抜けていく痛み。

 ─── 痛い。痛い。

痛い!!!!!

(助けてヒーロー。とても痛いの)

分かってるよ。『規則』は、絶対に守らないとね?─── 先生。

 "大切なこと"を丁寧になぞるようにそんなことを口にした。纏っていた白い服は、いつもの赤に戻る。

今のは、なんだったんだろう。

 地べたに落ちたペンとノートと拾い上げページを開けば、ペリドットの瞳は書かれた文字をなぞった。
 ……アストレアちゃんのお披露目会が間近だ。早く彼女を救う手がかりを見つけなければ。
 ふらふらとした足取りで、フェリシアはその場を立ち去るだろう。真っ白な光景を、反芻しながら。

 行先は、すぐ近くの自習室だ。

【学生寮1F 学習室】

 部屋の扉を開けると、無秩序に並べられた机と椅子の組み合わせが十六存在した。机が向かい合うのはいわゆる教卓であり、先生があなた方へ何か教えるときはもっぱら学園ではなく、この学習室を用いることが多かった。

 教卓の背後の黒板には、昨日学びを受けた内容の板書がまだ残されている。いつもこうして、先生は授業内容を簡潔に纏めては、暫く残しておいてくれることが多かった。学習に遅れを取ってしまうドールへ配慮してのことだろう。

 エントランスのすぐ近く。自習室になら誰かしら居るだろうと思って来たはいいものの、そこにドールの姿は無い。何も見つからないとその部屋を出ようとしたフェリシアは、黒板の後ろに可愛らしいイラストが書いてあるのを発見した。

 青い蝶々が何かを喋っているようなイラスト。誰かのラクガキだろうか。

「あはは! かわい〜!!」

 そういえば、ヘンゼルくんやブラザーくんと筆談した時の話題は、うさぎのキャラクターが幸せになる話だったか。もちろんそんな物語がノートに書いてある訳では無いのだが。

 学習室に設置された黒板。授業内容について書き込まれていた板書は既に綺麗に消されているが、一箇所だけ消されずに残っている部分があった。
 黒板の隅にそっと留まるのは、ゆるりとした雰囲気の青い蝶のイラストである。青い色のチョークで書き込まれたその落書きには吹き出しが添えられており、蝶は何かを語りかけているようだった。

 その内容は以下の通りである。


『ゆめでつながり』

『あなたにいたる』

『それらはいつわり』

『あなたではない』

「ふふっ、『あなた』ってだあれ?
 ちょうちょさん! 私のこと?」

 くすぐったい気持ちになりその蝶に笑いかけてみる。いつか読んだ御伽噺のように返答がくる訳では無いが、黒板に書いてあったのは年相応の可愛らしさ、なのだ。

 フェリシアは、蝶と書いてあったセリフのようなものを持っていたノートにメモするだろう。悪戯好きな子が残した、可愛い発見として。

 メモを残した子に会えたら、話してみよう。「青い蝶があなたを探しているようだったよ」って。本当に繋がれるのなら、夢で会えたらいいな。偽りの、私でも。

 メモを取り終え自習室を出たフェリシアは自習室の隣のラウンジへと向かうだろう。今度は誰かと、あわよくばオミクロンの誰かと会えたらいいな、なんて思いながら。

【学生寮1F ラウンジ】

 この場所は、ドールズが楽に寛ぐことが出来る憩いのスペース。柔らかなソファとふかふかのクッションが無数に置かれていて、寮内では唯一暖炉があるので凍えずに済む。冬場はラウンジに皆が集まりごった返すことが多かった。
 壁際には軽い読み物が収まった本棚が陳列しており、くつろぎながら退屈を潰すことも出来る。

「あっ、あれ? 誰もいない?」

 驚いたように目を見開く。暖かく居心地の良いラウンジ。憩いの場所のため、休んでいる誰かが居ると踏んでいたのだが、その時間は誰もいなかった。

 その代わりに、部屋の奥にあった揺れる癒しの椅子ことロッキングチェアの上には何やら本が置いてあった。部屋の本棚から出されたものだろう。ノートとペンを椅子置いてその本を手にとったフェリシアは、その題名を見た瞬間ぱぁっと瞳を輝かせるのだった。

「懐かし〜! 人魚姫のお話だ!」

 許されない恋に生きた人魚姫が、苦難を乗り越えて人間の王子様と結婚して幸せになる、記憶しているのは、そんなお話。幸せになる、お話。

「………」

 物音しない静かな部屋で、ウィスタリアの髪をふわっと耳にかけたフェリシアは、少しだけしんみりした面持ちでその題名を指でなぞると、本を開くのだった。

【人魚姫】
『とある嵐の晩、人魚姫は海に転落して溺れた王子を助け、陸に返してあげました。王子に一目惚れした人魚姫はいつか人間となり、王子と結ばれることを夢に見ます。』

 という枕詞から始まる、児童向けの優しい挿絵がついた『人魚姫』という題の絵本。エーナクラスのドールでなくても知っているような有名なタイトルだ。
 あなたがぱらぱらとページを捲っていくと、そのページの途上からぱらぱらと青色の花弁がこぼれ落ちる。仄かに光を蓄えるその花は間違いなくコゼットドロップである。

 コゼットドロップが挟まっていたのは、地上を目指す人魚姫が魔女と取引を行う一場面。

『地上を目指すのならば、代価と犠牲はやむを得ない』

 というメッセージが伝わるような頁であった。

 立ったまま静かに絵本のページをめくる。エーナであるフェリシアは、もちろんその話の内容を全て暗記している。が、はらりと落ちたその花びらはフェリシアの未知へと導くのだった。開いたページは人魚姫が足を貰うシーン。書いてある文章に、明らかなメッセージ性と既視感を感じた。

 しかしそれ以上に、青く美しく光る花に、ただただ驚くのだった。

「わ、きれい……。光ってる。」

 そのページに挟まれていたのは、フェリシアが知り得るはずがない青い花だった。どの本でも見たことがない、美しい花だった。
 誰かが意図的にその場所に挟んだのだろうか。青いと言えば……先程自習室の後ろの黒板に書いてあった青い蝶だ。落書きかと思っていたが、もしかしたらこの花と何かしら関係しているのかもしれない。

 フェリシアは絵本を椅子に置くと蝶をメモしたノートのページを開いて丸文字で書かれた追った。
 しかし、何も分からなかった。

「……書いておくか。」

 青い花が示した文章をノートにメモしたあと、花ごとノートに挟んだ。塔で拾った資料もあり、ノートの厚みが数ミリ膨らんだ。絵本を元あった場所に戻して、ペリドットはそのまま立ち去るだろう。

【寮周辺の森林】

Amelia
Sarah
Felicia

《Amelia》
「……来て下さるでしょうか。」

 レコードを作った次の日。
 彼女は森で二体のドールを待っていた。
 一人はフェリシア。
 彼女が最も信頼を置くドールであり……そしてリヒトによるとレコードを持っているらしいお方。
 もう一人はサラ。
 ある時、よく自分の事を助けてくれるドールであり、そして今回の計画においてその鋭敏な感覚で正確にレコードを回して頂くテーセラのお方。

 そんな2人のベッドに、彼女は一枚の手紙を残していた。

 ──親愛なるお方へ。
 寮の外、森の近くにて、
 一番星の輝くころにレコードプレーヤーを持ってお待ちしています。
 青い髪のアメリアより。

 と、どこまでも簡潔な内容の手紙を。

 お披露目会前のある夜、ベッドに置かれていた手紙。差出人は同じオミクロンクラスのアメリアちゃんらしい。筆跡に目を通して、ペリドットのまやかしの心臓は強く波打った。そこに書いてあったのは、"レコードプレイヤー"。つまりヘンゼルくんが拾ったあれが再生できるわけだ。


「あっ! アメリアちゃんお待たせ! お待たせしちゃってたかな?」

 草の茂った森に足を踏み入れると見慣れた知的な青いロングヘアーが目に入る。既に彼女は来ているらしかった。慌てたように声を掛けた。もし待たせていたら、申し訳ない。
 肩から掛けているショルダーバッグの中には、ノートと、ミシェラちゃんのリボンと、それからレコード盤。アメリアがペリドットの存在に気づくと、ほっとしたように笑いながら手を振るだろう。

《Sarah》
「早く戻らないと、先生心配しないかな……あっ、こんばんは二人共。フェリシアサンも。」

 アメリアサンからの珍しいお誘い。ベッドに置いておくなんてそんなに隠したいことでもあるのだろうか。レコードプレイヤー、名前としては知っているが実物は多分見たことがない。珍しいものを拾ってそれを自分に見せたいのか、しかしなぜ自分なのか。
 頭の中を巡る疑問は一向に解決されぬまま足は森にたどり着きもう目の前には手紙の主アメリアサン。そしてエーナモデルのフェリシアサン。頭の中はハテナばかり。

《Amelia》
「二人とも、いらっしゃいましたね。
 それでは、先ずはサラ様に今日お呼びした理由を伝えてもよろしいですか?」

 やってきたフェリシアに小さく手を振ってから、草むらの陰からちんけな紙製のレコードプレーヤーを取り出したアメリアは、これから行うことを半ば察しているフェリシアに目線を向けてから話し出す。

「先ず、そうですね。
 これはフェリシア様が見つけて下さったレコードを再生しよう、という集まりなのです。
 そこでサラ様にはそのテーセラとしての鋭敏な感覚を用いてレコードを回して欲しいのです」

「あぁなるほど! 確かにテーセラのサラちゃんなら綺麗にレコード回せそうだね! サラちゃんパワーに感謝だね。」

 サラちゃんの挨拶に「サラちゃんもやっほ!」と軽く返したフェリシア。なぜ彼女がいるのだろうと疑問に思ったが、アメリアちゃんの説明を聴き、納得したようにぽんと手を叩いた。

「それにしても、すごいねアメリアちゃん。それ一人で作ったんだ!
 へへっ、さすがデュオって感じ! すごすぎ!!」

 光を反射したペリドットが指さした先にあるのは、紙で作られた再生機。フェリシアは彼女と目を合わせると、歯を見せて笑ったのだった。

《Sarah》
「えっと、……?
 ボクがこれを回せばいいの?」

 どうやら二人はこれが何か知っており全て分かりきっているようだ。何もわからないサラはひとりぽつんと置いてかれる。その状態はあまり気に食わないがそんなこと口に出しても何もならないだろう。
 アメリアサンが作ったという再生機。
 フェリシアサンが持ってきたレコード。
 そしてそれを動かすという役割の自分。

 仕組みはなんとなく理解している。できるかどうかはわからないが試す勝ちはあるだろう。なんでも知ってるアメリアサンがわざわざ再生機を作ってまで聞きたいレコード、興味なわかないと言えば嘘になってしまう。二人の会話を聞き流しつつ彼女の再生機に近づき回そうと試みる。

「もうやっちゃうからね」

 星が瞬く夜の密かな集い。
 先生に隠れてこっそりと集まったあなた方が取り囲むのは、手作りの蓄音機。

 フェリシアが手にするレコードには、テープによってラベルが貼られていた。ラベルには、乱暴に引っ掻いたような筆跡で『1-F Abigail』と記されている。

 アビゲイル──先生が言うには、以前にエーナクラスに所属していたドールだったらしい。
 彼女の名が残された、怪物が落としていったレコードに、一体どんな音が残されているのだろうか。

 サラが手動で円盤を回していくならば、針が表面を引っ掻いて、微かに、歪な音を奏で始める。
 手製であるからして仕方がない劣悪な音質。その奏でる音の機微は、テーセラのサラだけが辛うじて、聞き取ることが出来た。
 間違いでなければ、レコードからはこう聞こえた。
 (秘匿情報)。

《Sarah》
 流れてくるのは音楽と思いきやまさかの女性の声。さぞかし物珍しい音楽かなにかだと思っていたためがっかりしていないと言えば嘘になる。音質の悪いレコード、そもそも悪くなるように作られている気もするけれど経年劣化のせいかとしれない。

「これ、誰の声だろ……アビゲイルサン、の友だちかな」

 必死に語りかけるような声。何もわからないまま音声の再生は終わりサラは回すのをやめた。その声がテーセラのサラのみにしか聞き取れなかったことを理解せず、二人に説明する前に再生機からレコードを外す。レコードのラベルに書かれたアビゲイルという名前。そこでようやくこのレコードの持ち主? を知れた。
 このレコードの持ち主がアビゲイルというドールなら、なぜフェリシアサンが持っているのだろうか。アメリアサンがわざわざ再生機を作ってでも聞きたかったであろうレコードの内容。知りたいような、でも知りたくないような。デュオではないサラは深く考えたりすることが得意ではない。なんなら嫌いだ。だからサラは深く考えないようにした。

「これアビゲイルサンって子の落とし物? 届けてあげなきゃね」

 再生機をアメリアサンに、レコードをフェリシアサンに返しサラは二人に背を向ける。これ以上外にいては先生に叱られてしまいそうだから。ふりかえり彼女らに戻らないのかと目で訴える。一人で戻るつもりは無いようだ。引き止めなければサラは寮に戻るだろう。

《Amelia》
「サラ様、聞こえたのですか?
ちょっちょちょちょ! 待ってください!」

 レコードが悪い点……というかレコードプレーヤーが致命的だったのだろう。
 音質は余りにも悪く、聞き取る事は出来なかった。
 勿論、そこまでは想定内、それでも聞き取る事が出来るようにテーセラモデルに声をかけたのだから。

「アメリアはよく聞き取れなかったのですが……サラ様はなんと、聞き取れましたか?」

 ……が、ここからが想定外だった。
 余りにも物わかりの良いサラがレコードプレーヤーを見せて直ぐに使いだしたのはともかく、聞こえたら内容を教えてくれ、と説明する前に始めてしまったが故に、彼女はそのまま立ち去ろうとしている。
 その為、アメリアは慌ててサラを呼び止めると、なんと聞き取れたのかと問いかける。

「サラちゃんストーップ!!! 私……いやたぶんアメリアちゃんも今の聞き取れてないから!
 聞こえたのサラちゃんだけだから!!!」

 懸命に耳を澄ませてみたはいいものの、レコードの内容は聞き取れなかった。アメリアちゃんがテーセラドールのサラちゃんを呼んだのは、そのためだろうと理解したフェリシアは慌てて彼女を呼び止めるのだった。

「それから……アビゲイル、ちゃんはもうお披露目会に行ってるっぽいんだよね。先生に聞いたら、彼女はエーナだったみたい。

 ねぇサラちゃん、このレコードは何を教えてくれた?

 それから……サラちゃん。これは答えたくないならそれでいいんだけど……サラちゃんは“お披露目”のことをどう捉えてる?
 先生のこと、好き?」

 彼女の口ぶりからして、おそらく、サラちゃんはお披露目の事実を知らない。もしそうなると、彼女が何の躊躇いもなく先生にこのことを話す可能性があった。できればそれは止めておきたい。レコードがあるという事実だけでも、先生はお披露目に出すだろうから。

 隠して、隠して、隠さねば。

「とっ、とりあえずサラちゃん座ろっか!」

 笑顔を作れば貴方が座れるスペースを確保するだろう。

《Sarah》
「あ、ごめん。そうなんだ。」

 寮に戻りたそうに一度あちらを見るが、引き止められたなら止まらない理由はない。再び二人の元へ戻り首からマフラーを外しては地面に広げ目の前にしゃがみ込む。マフラーを優しく手で叩くのは言葉はないがそれに座ることを求めているようだ。マフラーを引いたのはせめて二人の服が汚れぬように。

「レコードにはアビゲイルサンの友だちか、誰かわからない女の人の声がしたんだ。
 えーっと、それで確か女の人が、
 あの思い出の本を覚えてる?
 あと……どうかまた可愛い声で返事してねアビゲイル。
 また私に読み聞かせてね……だったかな。
 ボクがちゃんと覚えてたらこんな感じだった気がする。」

 覚える気があって聞いていたわけではないため、先程聞いた曖昧な記憶をたどりながらぽつりと話す。必死な声だった、とも付け足し。どちらかがアビゲイルサンの友だちだったのだろうか。ここまで知りたがるとはよほど仲が良かったのだろう。
 お披露目に行ったエーナモデル。優秀なドールだったのか。

「どう捉えるも何もそのままじゃない? 優秀なドールが行けるもの。アストレアサンとか。

 好きだよ。デイビッド先生サンのことだよね?」

 何かしら試されているのだろうか。学園で先生のことを嫌うドールは中々いないだろうに。念の為オミクロンの先生、デイビッド先生かの確認も入れる。サラ自身ほかの先生とは関わらないがエーナであるフェリシアサンはもしかしたら違う先生のことを言っているかもしれない。
 フェリシアサンも変な様子。急に聞いてきたり。確かにアビゲイルサンと友だちなら色々聞いてることもわかるが急にお披露目や先生の話になるとは。同じエーナモデル同士アストレアサンと仲も良かったしさみしいのかもしれない。フェリシアサンもアメリアサン達ならきっとすぐにお披露目に選ばれるだろう。

《Amelia》
「……恐らく、シャーロット様ですか」

 思い出の本、また読み聞かせをという文言。
 そういったことをしそうなドール……それもオミクロンであろう個体となれば、恐らくシャーロットだろうか?
 ともかく、内容を聞いたアメリアはノートに、

『人物不明の女性の声
 思い出の本
 アビゲイルへの呼びかけ
 読み聞かせをしてもらっていた?』

 と記載したあと。

「そうですね……では、サラ様。
 もしもこのトイボックスに私たちに隠されている事があり、そして、秘密が必ず見つけるように作られているとしたら、サラ様は秘密に触れたいと思いますか?」

 ……と、フェリシアに一瞬目線を向けてから問いかける。

「ん? シャーロット……? アメリアちゃんの知り合い〜……なのかな!」

 少し首を傾げたあと、レコード盤を鞄に入れた代わりに取り出したノートにメモをするだろう。サラちゃんが話した話を、文章を、そっくりそのまま。

"女の人があの思い出の本を覚えてる?→どうかまた可愛い声で返事してねアビゲイルまた私に読み聞かせてね"

 と。

 書き終わったあと、フェリシアは真っ直ぐに自身より少し背の低い彼女に向き合うだろう。先程より緊張したように声が強ばらせて。

「うん。デイビッド先生のこと。
 ……そういえば、サラちゃんって日記書いてたなぁって。それ、誰かに見せてたりする?
 例えば……先生とか。

 あのね! もしかしたらそれ、危ないことかもしれないの! アメリアちゃんが言ってる学園の秘密ってところに関係してるんだけど……。

 正直、それを貴女に教えていいのか分からない。貴女の希望を、夢を奪いかねないから。だけど、知りたいのなら……教える。」

 ぶつぶつ、ぶつぶつ。周りを警戒しながら言葉を零していく。学園の事実を彼女に話すのなら、アメリアちゃんじゃなくて私がいいと強く思うから。夢を壊す罪を犯すのは、きっとひとりでいい。

《Sarah》
「シャーロットサンはわからないけど……二人が満足したなら良いよ」

 何も追求する気がないのか肩をすくめ、しゃがみこんでいた足を伸ばし立ち上がる。そろそろ良いだろうか。帰らないと先生に叱られてしまうのではないかという心配ばかりが募っていく。
 二人共何かしら書いている間、サラは再生機を持ち上げてたり横から見たり突っついてみたりと自由に過ごしてれば、両者終わったようだ。

「……やだ。嫌だ。聞かない。聞きたくない。それに意味がわからない。二人して。
 二人共変だよ。……ボクの日記、は先生サンに見せてるけど、それがどうしたの?」

 夢を奪う。学園がまるで嫌なところだとでも言うフェリシアサン。
 いやだいやだと、まるで癇癪を起こした子どものよう。表情も、声色やトーン、音も一定で滅多に変わらないサラにしては珍しく嫌そうな声色。そんな風に何を言うんだ。夢物語の取り込み過ぎか、変な知識を仕入れたかは何か知らないが学園の秘密、夢を奪う、馬鹿なことを。意味がわからない。
 少し取り乱した姿とは打って変わって、ポツリと呟いたあと彼女の質問を肯定する。フェリシアサンにもアメリアサンにも何度か見せたことはあるサラの宝物。サラの夢がいっぱい詰まった宝物。それがどうしたのだろうか。それがまた【夢を奪う】ことにつながるとでも言うのか。
 これ以上サラはこの話題を続けたくない。しかしエーナほど器用ではないため、二人の方に空っぽではない腕を差し出す。口から出た声色はいつもと変わらなかった。

「家に帰ろうよ」

《Amelia》
「ええ、サラ様がそう思うのなら。
 今日の……特にレコードに関する記述は書かないし、誰にも見せない方が宜しいでしょう。」

 強く拒絶したサラに対して、アメリアはそれならばと穏やかに伝える。
 関わりたくないならそれでいいし……寧ろ巻き込んでしまったのが申し訳ない位だ。

「出来る事なら、忘れて穏やかに過ごされる事を祈っております。
 なんたって、本来このトイボックスにレコードなど存在しませんから。
 それを持ち、見た事を知られれば、夢から覚めなければならなくなるでしょう。

 巻き込んでしまい、申し訳ありません。」

 だから、今日の事に関する忠告とそうしなければいけない理由を伝えて頭を下げる。
 代わりに帰ろうという手は取らなかったし……取れなかった。
 自分勝手に利用しようとした者がその手を取るのは、余りにも傲慢が過ぎたから。 

「うん、うん。……そう。分かった。
 知りたくないなら、知らなくていいよ。何も知らないで過ごした方がきっと“楽”だろうから。

 だけどね、ずっと目を逸らし続けることはきっとできない。学園は貴方を裏切るかもしれない。

 忘れないで。私は、いつでも貴方の味方だからね。」

 いじらしく身体を揺するサラちゃんに、フェリシアはまるで学園の秘密が貴方の夢を奪うような、そんな話をするだろう。覚えて欲しいことは自身は友達誰しもの味方であること。それだけだ。

「レコードのことはすっかり忘れて欲しいな。貴方のためにもそれらを日記に書かない方がいい。他の人にも話さないで。……ね?」

 差し出された手を取り優しく触れながら、訴えるように見つめるペリドット。その言葉には、瞳には、有無を言わさずな何かがあるだろう。

「それじゃ。もうすぐ日が暮れそうだから、私は寮に帰ろうかな!」

 パッと明るく表情を変えたフェリシアは、繋いでいたサラちゃんの手を離しレコード、ノート、リボンの入った鞄を持って立ち去るだろう。

《Sarah》

 確かに知りたくないと拒んだのは自分だ。しかしなんだろう、この切り離されたような感覚は。一人置いていかれているような。片方には手を握られることもなく、もう片方にはぎこちなく握り直された手を一瞬にして離された。
 それよりも、この落ち着かないまま彼女らと分かれるのは忠実な友となるテーセラとして正しいと思えない。自分が悪かったのか、二人が悪かったのかなんてわからないけれど毎日会う仲なんだ。気まずいのは全員嫌なはず。

「大丈夫だよ、ボクも……ごめん。
 また明日。」

 立ち去る二人の姿が見えなくなるまで手を振る。先程まで一番帰りたがっていたというのに一人森に残る。見えなくなった途端サラは地面にしゃがみ込みわざと大きいため息を付く。モヤモヤした気持ちを吹き飛ばすため、拒むことが正しい選択と自分を納得させるため。
 アビゲイルサンの初めて見たレコード、学園の秘密、夢を奪う、夢から覚める。何がなんだかわからない。真剣な表情や二人の目を見ていると否定しにくい。
 ぐるぐるもやもや考えたってわからない。ぎゅっと握りしめたマフラーの感触、サラの頬を撫でる風、こびりつくレコードの音声、二人の声。
 これが夢だったらいいのに。もし夢だったら。でも日記にも書くな、他の人にも話すな。

「わがままー、ばーか。」

 じゃあこの思いをどうしろと言うんだ。誰もいない森に誰にも聞こえない精一杯の声がただ空に消えていく。誰かに向けた言葉かそれは自分かもしれないし彼女らにかもしれない。その時サラの脳裏によぎったのは信頼のおける彼女の先生と親友のミシェラ。どちらかに相談でもしたらきっと気が楽になる。フェリシアサンの忠告がずっと耳に残るが……バレなきゃ大丈夫。二人はサラの友だちではないから。裏切ってもいない。だってサラの友だちはミシェラチャンとヒトだけだから。
 握りしめていたマフラーを首に回し寮を目指し駆け出す。
 その日のことは日記に書けなかった。ただ単に筆を持つ気が起きなかっただけ。それだけ。

【学園3F 文化資料室】

Licht
Felicia


何かを捨てないと前に進めない
         ── スティーブ・ジョブズ


 ウィスタリアの髪は、憂愁な気分と反して今日も元気そうにたなびいてる。陽の光に照らされて、その髪はふわふわと軽い風を浴びるようだった。鬱屈した気分を晴らそうと特に取り留めもなく昇降機に乗り到着したのは文化資料室。
 その手には、いつものように鞄がある。大事なノートもリボンも、それからレコードも入っているため、あまり人目につく場所に置いておきたくないというのが本心だった。

「よいしょ、……っと。」

 資料室の椅子に腰かけたフェリシアは深い、深いため息をついた。
 後ろで誰か見ていることに気づくことなく。

《Licht》
 腰を下ろして休むことは、絶対に勧められない。


 だとしても、と醜い自分が両目を塞いで泣きわめく。その弱さを許して欲しい。つぐなうから。何かを見つけなければ、と文化資料室に訪れても、冊子ひとつ開けない怠慢を、どうか許して欲しい。
 金の地球儀のその向こう、知り合いの姿が見えた気がして、リヒトは周りの人を伺い、目立ってないことを確認してから、そっと話しかけた。

「……フェリ」

 安心した。フェリの髪は青くないから、ちゃんと見つめられる。よお、と軽く声を掛けて、フェリの前の椅子に座った。
 座って……から、どうすればいいか分からなくなる。ノートを見せる、選択肢はあった。あの日から情報は増えたから。それでも……躊躇わせるだけの傷が、あの日からずっと横たわっている。

 きっと、彼女は傷ついている。コワれた頭が記憶している、あの日の黒い雨はそれほど冷たく苦しかった。だから。

「……あの地球儀、凄いよな」

 苦し紛れの、ココロを。なんでもない日常の隅に添えて。

「………!?」

 勢いよく振り向いた。しかしその顔をみた途端、ため息を聞かれていたことに気づく。話しかけてくれた彼の顔には陰りがさしていたから。心配をかけてしまったかもしれないと反省した。こうしちゃいられない状況だと分かっているハズなのに。……つい。ついなのだ。

「ぁ……お、おつかれリヒトくん!」

 ペリドットは咄嗟に作り笑いを貼り付けてみた。無駄だと分かっているのに。どうしても内に秘めたヒーローが“弱さを見せるな”、“真実から目を逸らすな”と強く訴えてくる。

 大丈夫だよヒーロー。
 私なら、私ならできるから。
 だから、こっちを見てて。

「だね〜、綺麗な地球儀! 世界中を旅できたら、きっと素敵だね!

 あっ、そういえば! この前寮のラウンジで綺麗なお花見つけたの! 特別にみせてあげる!!」

 話をすり替えよう。そう。私は元気だからそんなことは元気な私なら簡単に出来るはず。ノートを開いたフェリシアは「えへへっ、綺麗でしょ〜!」なんて言いながら挟んでいた青い花を見せるだろう。

「えへへ……へへ。……ね?」

 何が“ね?”だろう。辛い気持ちに浸っているに気づいてくれとでも言っているのだろうか。目の前の彼も限界なのに。甘い自分を否定しそうになる。きっとリヒトくんなら優しくしてくれると、知っていて、どこかで甘えているのだと見て見ないフリはできないのに。

《Licht》
 ────やっぱり、な。

「……えい」

 ぐっ、と手を伸ばして、青い花……の奥の、フェリの額の中心にべちっと、軽くデコピンをした。傷がつかないように、軽く。あの日の湖畔の、小さなおしおきに、彼はまだ照らされているから。

「この花の名前。知ってるけど……これ以上、ニコニコすんなら、教えてやんない。やめたら教える」

 青い花を一度も見ることなく、リヒトはそう言った。目線が揺らぐ。フェリの笑顔も、青色も、何もかも見たくないと閉じこもるように。

 それでいて、一緒に沈んで来てくれることを、信じていると……そう言うように。

「オレも、やめるから」

 そうやって、周りの全ての情報をシャットアウトするようにリヒトは俯いて。そっと目線をあげた時、彼は間違いなく、笑っていなかった。
 それは悔恨。それは後悔。それは絶望。それは渇望。それは自嘲。それは自愛。全ての罪と、全ての罰に繋ぎ止められた……あの夜の咎人の、表情。

 言えることは、無かった。
 ひとこと言うとすれば────

 お願いだから切実にやめて。
 もうこれ以上、乱さないで。

「〜〜〜っ!」

 デコピンをされたショックより、元気がないことを指摘されたほうが堪えた。鈍器で殴られたみたいに痛みがじぃんと響いていく感覚は新鮮で、それでも痛くて。
 分かっていたとしても、やっぱり衝撃は大きくて。ただ、和らげるための笑顔を使えないその状況が自分の空っぽさを象徴してるみたいで息苦しかった。

「……ごめん。」

 漏れるように出したそれは、フェリシアがずっと言いたかった本心からの言葉だった。あの時何もできなかったこと、ミシェラちゃんを助けようと駆け出そうとした手を止めたこと、先生を止められなかったこと。ぜんぶ、ぜんぶ謝りたかった。一旦それを言ってしまえば間違いなく止まらなくなると思ったから。フェリシアの中で、希望で絡めて見えなくしていた罪の意識が、滴り始めた。

「ごめんなさい。」

 もう一度、笑顔のない、貴方に。
 許してくれと懇願するような、罰受けながら縮こまる咎人のような。

 ─── 同じ罪を持った同士を見るような。

 真っ直ぐに見つめてそう言った。
 決意でも何でもない。何も出来ない無力な自分をさらけ出すように。

 ただ、ただ。コアの奥深く。眠ったままの自分のヒーローだけは、否定できなかった。

「……笑ってどうにか出来ないくらいのことをしたって分かってる。
 いつか絶対報復が来るってことも。

 だけど、私はそれを受けるまで。みんなで逃げるまでは、知らない顔して生きていかなきゃいけないって、そう思うの。」

 そう。

「だから、私は私の意思で笑顔を止めない。『誰にでもにこにこ』な私がいることで、みんなが明日を生きられるのなら。」

 自分勝手に、笑う。そんなことを言いきられて彼は憤るだろうか。罪を一生背負えなんて、言うだろうか。いや。言う権利はある。

「……それで、このお花のお名前、教えてくれる?」

 ペリドットの口角は、厄介な戯れに舞う幼子のように上がっていた。

《Licht》
「……謝んなよ、むしろ謝んの、こっちだし」

 無理に笑うな。見てる方が辛いんだ。その傷の深さも、痛みもなんにも分からないけれど。同じ時に傷ついたものとして、少しは、少しくらいは話してくれたって。荷物を分けてくれたって。頼ってくれたって。一緒に来てくれたって。そう思って、暗闇の記憶に一歩踏み込んで振り返った先。傷だらけの情けない体で真っ直ぐ立って笑う、カッコイイくらい自分勝手なフェリが、そこに居た。

(────そっか、全部、オレのうぬぼれだったのか)

 だから、

「なんだよ〜、ってことは、オレが勝手にヘンな顔しただけになっちまった。あはは! カッコ悪ぃ」

 フェリはきっと、泣き言を言ってくれない。これ以上、辛いって泣いてくれない。ごめんなさいって喚いてくれない。フェリが強くて、オレが弱くて、ただそれだけの、一人と一人で。

(フェリのそういうとこが、オレはやっぱり、心配なんだよ)


 お前より、ずっと、ずっと……コワれてるから。

 


 ひとしきり笑って、リヒトはいつも通りノートを開く。

「了解。ええと……うん、ここだ」

 森の近くで、ロゼとブラザーさんと話した時の記録を引っ張り出して、コゼットドロップについて書いてあるページを開いて、見せる。
 きっとコレだと思う、なんて言葉を添えて……やっぱり、花は一瞥もしないまま。

「ふっふっふ! 私にデコピンかました分、いっぱい謝って貰うぞ!
 このこの〜!!」 

 貴方が笑うのを見ると、そう言いつつフェリシアも楽天的に笑うだろう。笑いながら、悪戯するようにリヒトくんの頬を軽くつつき回し始めた。

「リヒトくんテーセラだからかな?
 ほっぺたが凝っていらっしゃいますねぇ〜」

 ぷにぷに。指を止めることなくにんまりと笑ってみせた。困ったような顔も、行き場のない手も、全部私の知ってる“リヒトくん”でフェリシアは安心するのだった。
 さっきまでのリヒトくんの顔は、間違いなく今まで知らなかった物だったから。

「へぇ……このお花、コゼットドロップって言うんだ。すごい綺麗な名前。ドロップって雫、みたいな意味だけど、コゼットって……。
 確か、小説に出てきてた女の子にもそんな名前付いてた気がする! リヒトくん知ってる? レ・ミゼラブルって言うんだけど。」

 ひとしきり笑ったあと、ノートに目を落としたフェリシアはその花の名前に自分が知ってる物語の類似点を編み出していた。 レ・ミゼラブル。記憶にある主人公ジャンは罪人だったか。罪や罰を耐える姿は、今の私たちと似ているところがあって。リヒトくんは先程からずっとその花を見ていない。それに気づいたペリドットは不思議そうに尋ねるのだった。

「……もしかして、このお花ってあんまりいいお花じゃない……?
 黒い薔薇みたいな花言葉があるとか?」

《Licht》
「なっ、やっひゃなほのやひょ(やったなこのやろ)〜!!」

 頬をつつかれ、ふにっと引っ張られながらリヒトも笑う。やり返そうと自分も、ちょっと下の方にあるフェリの頬をつまもうと手を伸ばす。もし素直につままれてくれるなら、同じようにふにふにといじるはずだ。

 ささやかな触れ合いが終わったあと、フェリが教えてくれた名著のタイトル。世界中に知らない者の方が少ないだろうそのタイトルを、果たしてリヒトは……。

「れ・みぜらぶる」

 ……知らなかった。聞いた事があるかもしれないけれど、コワれた頭が取り落としていたらしい。実感のないその言葉はまるで魔法の呪文みたいだ。ビビデバビデブー。オープンセサミ。イニミニマニモ。

 頭の上でふよふよ浮かぶ不思議な音の並びが消えないままに、今度はフェリが花について尋ねる。一瞬、目線を向けようとして、リヒトはまた、逸らした。

「い、や。そんな、悪い意味、とかは、無いと思う。ただ……その」

 ぎゅっと胸が痛んだような気がして、でもそれはきっと気の所為で、あの時のアレがまだ、まだ消えない恐怖として身体中に染み付いている証拠で。

           ────いたい。

 つまり、だから、だからこそリヒトは笑わなければならない。忘れたことは隠したままで、無くしたことは言わないままで、きっとみんなの矛先が自分に向くのが怖いから、何も無かったことにして。

           ────いたい。

「ほ、ほら。ここに書いてある、柵の向こうのツリーハウス!! そこにめちゃくちゃ咲いてたらしい。学園内にはどこにも無かったのに。あそこにしか咲けないのかな」

 『ツリーハウスの周りに咲いてた』というノートの記述を指さして、慌てて根拠もない話を繰り返す。目線は相変わらず青い花には向かないまま。それが答えにならなくても、リヒトはこの話を続ける。

           ────いたい。

「わっ……むっ、むー!!」

 リヒトくんから頬をつつかれながら、ペリドットは楽しそうに返すのだった。

 しばらく経った後──

 出した小説を知らないと言った彼の様子をじっと見つめていたペリドットの瞳は、何か嫌な予感がしていた。その時には既に後悔していた。見せなきゃ良かった、と。彼の反応は、間違いなく花によるものだろうから。ペリドットは、そわそわしているトパーズが書いたツリーハウスのノートを一瞥しただけで貴方を真っ直ぐに見つめているだろう。

「……あの、リヒトくんも無理に笑わなくていいよ? 私は笑いたいから笑ってるんだもん。貴方は貴方がしたいことをしていいと思う。
 少なくとも、私はリヒトくんをぜったいに否定しないからさ!」

 口を開いたフェリシアは彼に「何かあったの?」とは聞けなかった。
 彼の言動は恐らく自分の苦しみを懸命に隠すような、きっとそんなものだと思ったから。辛さをひけらかすのは、自分でも驚くくらい勇気がいることを身に染みて理解できたからである。

「生きるのって結構体力使うよね〜。
 ……辛かったら、多分逃げてもいいんだよ? リヒトくんが頑張ってること知ってるから。

 辛いことって分け合うといいんだって。何か困ったことがあるなら私で良ければ何時でも話聞くし。
 臨時でフェリシア相談室みたいな……お客さん来なさそうとか言わないでよ?」

 興味は抑えきれなくて、茶化すようにして聞いてみた。言いたくなければ、それでいいんだ。きっと彼の相棒のストームとかに話すだろうから。覚えて欲しいのは、リヒトくんの味方は絶対にいるってこと。それが、頼りがいのない、小さなヒーローでも。

《Licht》
           ────いたい。

「そ」

           ────いたい。

           ────いたい。



          ────きこえた?


「そう、いう、とこ。ほんとにそういうとこ。ほんとのほんとのほんとに、そういうとこ。フェリって、すごく、キレイなやつなんだよな……」

 リヒトは思わず、フェリの顔を見上げた。春風に呼ばれるように。閉じられたこの学園では有り得ないくらい、優しい風に呼び起こされるように。

 欲しかった。そう言って欲しかった。わがままが一瞬で叶う、手品みたいな奇跡の言葉。都合が良すぎて、信じられなくて、あまりにびっくりして、そして何より、嬉しくて。ただ、その言葉を受け取るために手を伸ばすことさえ忘れて、リヒトはそれをぼうっと眺めていた。眩しい光を、見上げるように。ああ、ああ。眩しくて暖かくて仕方がない。

 これ以上を求めたら、この温もりが去ってしまうような気がして。置いていかれてしまいそうな気がして。リヒトは惜しんで、目を閉じた。がんばってる。オレって、がんばってるんだな。


 もう、十分だ。
 そう……思わなきゃ。


「……いや、お客さん、いっぱい来るだろ。まず〜、ロゼだろ、ソフィア姉だろ、アメリアだろ、オディーだろ、ミュゲだろ、おに……ブラザーさん、ストーム……は、来るのかな?」

 フェリシア相談室に来そうな人を、指折り挙げていく。相談場所に見立てた長机に、ちょこんとフェリが座って、その周りに1人、2人とオミクロンの面々が集まって。空白にもきっと、誰かが居た。きっとわちゃわちゃ盛り上がって、収拾がつかなくなりそうだ。それがどうにも、どうにも輝いていて……星々がみんな、笑っているみたいで。

 だから、大丈夫。これは全部、独りで持っていく。罪も、罰も、つぐないも。情けない恐怖と弱虫な疑念と、そんなもの全部持っていく。そうして、どんなにコワれていても負けない、小さな勇気がこの春の中で芽吹いたら。

 一緒に、助かろうって。
 言うんだ、皆に。

「ありがとう、フェリ。お前がヒーローでいてくれて、よかった」

「きれい、なのかな。純粋かって聞かれたら、意味合いは少し違うかもしれないけど。私ってすごく欲張りだから。」

 そう。私は綺麗なんかじゃない。欲張りで、意地っ張りで、どうしようもない。だけど、そんな不完全な自分を求めてくれる友だちが居るのなら、手を差し伸べたい。
 「大丈夫だよ」「ひとりじゃないよ」って伝えてあげたい。もちろん、目の前の一等星にも。不出来な私を認めて欲しいっていう下心は、お砂糖で上手にくるんであげよう。

 そういう私も、認めてあげたいから。

「わぁ! 逆にそんなにたくさん来ちゃったら忙しくなるね! みんなからいっぺんに相談が来て、ひとつづつ解決していくの。聖徳太子にはなれないけど、できることからやってくの! とっても素敵!!」

 次々に、知ってる名前が上がる。

 ── ロゼちゃんは、お花がしおれちゃったみたいに悩むのかな。
 ── ソフィアちゃんは頑張り屋さんだから、お話聞いてあげたいな。
 ── アメリアちゃんからは運命の人のお話でドキドキするのかな。

 たくさん、たくさん。聞きたい。
 たくさん、たくさん。話したい。

「ふふ、どういたしまして?
 まだまだ未熟なヒーローだけど、これからもどうぞ末永くよろしくね、一等星。」

 ありがとう、認めてくれて。

【学生寮1F 医務室】

「お、おじゃましま〜す……」

 暗い、暗い。ちょっと怖い。普段は立ち入らない場所のドアを恐る恐る開けた。周りに気づかれないように来ていたため当たり前のように周辺には誰もいない。
 ペリドットはその部屋の静けさに倣って声を潜めた。いや、潜めなければいけない気がしていた。
 寮の一階、医務室。ペリドットが背中に大きな怪我をしたときに目覚めた天井は、ここだった。
 あの日、夢で見た場所がここを示しているのだとしたら。何か掴めるかもしれないと胸の内にほんのり、期待の色を灯しながら。

 医務室の扉をくぐると、これまでの温もりを感じる木製の床から一転、清潔な白い壁と床の空間があなたを出迎える。
 ドールが収まるための棺のような箱型のベッドが三つ、壁に沿って並んでいる。作業台と思しき広い机には何も置かれていない。当然だ、近頃は誰も目立った怪我をしていないから。
 奥に置かれた棚には、怪我をしたドールズに処置をするための医療道具が収められていたはずだ。

「ひぃーっ! 久々すぎてちょっとおっかないな。」

(そう言えば、私が怪我したときに巻いてた包帯って、確か棚の方にあったんだっけ。)

 見渡して身震いをする。並んだ棺のベッドを横目で見てみたが、どうもそれらを調べる気になれず、奥の棚へと進むことにした。真っ白で清潔な空間。あの時に見た夢と、よく似ている場所。また思い出せるかもしれない。まだ見ぬ、幸せな夢を。

 奥に設置された大きな棚には、さまざまな医療道具が収まっている。緊急の事態に対応出来るように、薬剤や包帯などの消耗品、メスや麻酔といったものまで。
 しかし危険物が収まっているという関係上、棚にはいつも南京錠で鍵が掛けられている。なにか怪我をしてしまった場合は、先生に声を掛けて診てもらわなければならないようになっていた。

 あなた方は人間を可能な限り模したドールだ。例え作り物であっても、医療道具は人間が用いるようなものと大差はない。


 ──あなたがガラス戸越しの棚の医療品類をじっと眺めていると、ふと。
 この清潔な空間に覚えがあることを自覚するだろう。以前にも垣間見た、あの『白い空間』。

 あなたがいたあの場所について、閉ざされた記憶がこじ開けられていくような。そんな激しい痛みを伴う回帰に、あなたは棚の前で思わず崩れ落ちてしまうだろう。

 瞼の裏に、今や褪せた光景が蘇る。

 医療道具が並んだ棚を見つめていた。ガラスの奥には包帯らしきものが列を成していた。ぼぅっと見ていた、見ていたのだが───

「あっ」

 ズキリ。こめかみに響くこの感覚は、掲示板を見た時と同じものだった。ズキリ、ズキリ、ズキ……

 痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!

 倒れた先で映し出されたのは、おそらくあの夢の続き。白い空間。そうだ、辛かったんだ。薬はもういらない。お願い、楽に、………。


 たす、けて。


 そのとき、見慣れた美しいネモフィラ色の髪にハッとなった。
 あの子は……あの子は………!

「アメリアちゃん!!」

 目を開いた。目が覚めた。白い服に身を包んだ彼女も、同じく治験者とやら、だったのかもしれない。いや、ただの、夢だ。

 あの人が、いるわけない。もし居るとしたら、絶対に助けてくれるはずだから。

 ■■■■■なんて、いるわけない。
 いるわけない。──いるわけない。

「きっと、夢だ。」

 殺伐として見えたその部屋でぽつんと呟いた言葉は、広く、薄く、広がっていった。

【寮周辺の森林】

Sarah
Felicia


 ─── ある昼過ぎ。

 フェリシアは、かつてミシェラちゃんと一息ついていた木の下に腰を下ろしていた。座っていると、着々と寂しさが募っていく。
 ミシェラちゃんの頭を膝に乗せてたくさんの話をした宝物。喜んでくれて、どんなに嬉しかったか。彼女はもう居ない。目の前で、炎に巻かれて。何度も思う。
 ── これが夢だったら。って。

「〜〜〜〜♪」

 口ずさむのは、あの時に歌ってあげた下手なメロディ。ところどころ分からないところは飛ばしてあるが、ミシェラちゃんは上手って笑顔で抱きしめてくれたっけ。

 思い出の美しさに比例して、フェリシアの中の秘めた虚しい心地は際限なく広がっていった。

《Sarah》
 ぽかぽかとおひさまがご機嫌なお昼時。サラはこの前見た蝶々を捕まえようとキッチンから小瓶を借り寮の外へ向かった。まだ空っぽでこれから青空の欠片が入る小瓶、サラはポケットに押し込み楽しみのあまり顔を出す小瓶の頭を手で抑える。自分が何者になるかまだ知らない無垢な小瓶。青く淡い光を放つ姿になるのがすぐ目に浮かぶ。あぁ楽しみだ。
 だが別に急いでいるわけでも無かったため授業の息抜きも兼ね森を歩く。いい匂いがすればそちらに行き、何もなければ立ち去る。気になるものがあればまた立ち寄る。それの繰り返し。
 また音が聞こえた方向に歩いていけば、見つけたのはエーナモデルのフェリシアサン。音楽関連はトゥリアが得意だから他のドールはあまり歌わないと思っていたが、そうではないみたい。座っているからか小さく見える背中に近づき、肩に手を置き話しかける。

「……下手……じゃなくてジョウズだねフェリシアサン」

 口から単語が出たときには間違えた、そう思った。正直な言葉が出てしまった以上うまく塗り直すことが出来ただろうか。

「! ……ふふ……確かに下手だよね」

 肩に置かれた手にぴくりと反応したフェリシアは、サラちゃんの端正な顔を確認すると、困ったように笑顔を見せるのだった。分かりきったことを言われてもショックは受けない。その証拠にペリドットも特段驚くことなく、平然としていた。まぁ、それが歌唱の下手さを裏返しにしているのだが。それも今に始まったことじゃないのだ。むしろハッキリ言って貰えてスッキリしているまであった。

「やっほぅサラちゃん、ひとり?」

 ペリドットは伺う。近くに誰かいる訳ではなさそうだし、おそらく一人なのだろう。……もし、一人なら、彼女は自分と何か話をしてくれるだろうか。この前、レコードのことで強い言葉を使ってしまったから、もしかしたら嫌われているかもしれない。それなら、どうにか自分が貴方の味方で、仲間であることを伝えておきたかった。
 いや、それは言い訳に過ぎないのかもしれない。ただ少し、少し、寂しい気持ちをどうにか忘れたいのだ。そんな自分の身勝手さに目を伏せて、気にしていないように笑って見せた。大切な貴方に、自分が弱っているところを見せる訳にはいかないから。

「サラちゃんがお暇なら、せっかくだから何かお話を聞かせてあげようかな。こっちにおいで」

 あなたが独りだと言えば、ペリドットはおもむろに足を伸ばし自身の膝をぽんぽん、と叩くだろう。
 さて、あなたはフェリシアの寝転んでいいよ、のサインが分かるだろうか。

《Sarah》
 良かった、相手は傷ついても驚いてもいない。しかしポロッとでた言葉は絶対に間違えてた。気をつけなきゃ。
 傷つけないように壊さないように嫌いにならないように。

「今は一人、でも後で一匹増えたらいいな」

 ポケットから空っぽの小瓶を取り出し軽く振る。空っぽだから何も鳴らない。空っぽだから小瓶を通していろんなものが見える。しょんぼりなフェリシアサンの顔も。レコードの件だろうか。もしやばかと言ってしまったのが聞こえたのか。ちゃんといないことを確認したはずなのだけれど。エーナである彼女の耳には届いていないはず。不安そうな顔も悲しい顔も好きじゃない。壊れてしまいそうで嫌い。
 悲しまないで壊れないで嫌いになりたくないの。

「お話、は聞こうかな。この小瓶欲しいの?」

 叩かれた膝の意味がわからず首を傾げ精一杯の頭で考える。何かを置いてという意味なのだろうか。今サラが持っているのは青空の欠片を入れるための小瓶のみ。渡したくない理由は特にない。また借りてくればいいのだから。彼女の近くにしゃがみ込み、膝に小瓶を置きこれで良いのかとでも言うように貴女を見上げる。

 サラちゃんの残酷なくらい素直なところを、フェリシアは至極気に入っていた。ときどき強い言葉を使う子ではあるが、不安や不満を溜め込まれるよりハッキリ言ってもらった方が楽だからだ。実際、歌が下手なのも事実なわけなのだし、それくらいピシャリ言い切ってくれた方が気持ちがいい。
「虫でも捕まえに行くのかな?
 怪我はしないようにね、お手伝いが出来ればいいんだけど……」

 どこか他人行儀に話した。普通ならそれで会話は成立するのだが、普段のペリドットなら先陣を切って手伝おうとするだろうから。
 “フェリシアの”その行動は、少しおかしいのだ。今はどうしても、どうしても動きたくない。無意識に見ないフリをしていたぽっかりと空いた心の存在に、ようやく気がついたからである。

「小瓶は、いらないかな。サラちゃんのものだもん。
 その代わりに……ほら、私のお膝に寝転んで? お話を聞かせてあげる」

 必死で頑張って自身の行動の意味を考えてくれたのだろう。考える仕草に顔をほころばせたフェリシアは、今度はきちんと貴方にして欲しいことを伝えながら、
 もう一度同じ動作をするだろう。

《Sarah》
「うん、青いちょうちょ。

 この前アストレアサンが青空の欠片だって教えてくれたんだ。」

 珍しい。彼女が手伝いたいと乗り出してこないなんて。若干の違和感にパチリパチリと数回瞬きするがそんな違和感もすぐに納得した。アストレアサンがお披露目に行くからだ。同じエーナモデル接点も多かっただろうし寂しくなるのかもしれない。
 付け足したように口から出た言葉は青空の欠片を捕まえに行くことを自慢したかったのもあるが彼女はすごいからお披露目に行くのだ。だから、寂しがる必要なんて無い。むしろ誇りじゃないか。オミクロンからお披露目にいくドールが出て。

「膝に寝っ転がるの??? 別にいいけど」

 柔らかくもない自身の身体を彼女に預けて何が良いのか。前回彼女と会ったときと同じように頭いっぱいにハテナマークを浮かべ恐る恐る貴女の膝に寝転がる。この体勢でお話をしてくれるのか。中々ない体勢に少し心躍らせながら貴女の口から物語が紡がれるのを待つ。

「青い、蝶。……そう。青空の欠片だなんて、アストレアちゃんはいつもロマンチックな言い方をするなぁ。」

 紡いでいく言葉から伝わってくる彼女なりの気遣い。アストレアちゃんの名前が出てきている手前、彼女はやはりお披露目のことを知らないのだろう。彼女が捕まえに行くという青い蝶。そういえば、最近見つけたコゼットドロップという花も青い花だった。それと何か関係があるのだろうか。近頃は何故か"青"に関する不吉な予感がしてならないのだ。リヒトくんがあの花を見なかったのも、何か理由があると気づいていたから。

「よしよーし、サラちゃん。今からお話するのは……可愛いうさぎさんと、ネコさん、それから秘密のお友達が出てくる物語なの。」

 フェリシアはサラの柔らかい絹の髪を撫でながら、優しく語りかけてくるのだった。


 ── あるところに。

 宝石のような赤い瞳持つ、可愛らしいうさぎさんがいました。
 彼女はいつも、柔らかく茂った草のベッドでの上で優しい風に吹かれながら毎日幸せに過ごしていました。
 可愛らしい彼女には、猫さんの相棒がいました。茶トラの彼はとても穏やかで、大きな手でうさぎさんの撫でては、時よりふわりと大きなあくびをするのでした。

 
 ── あるとき。

 猫さんは、うさぎさんをとある遊びに誘いました。平和に暮らしていたうさぎさんにとってその遊びは少し危ない、そんな遊びでした。けれど、同時に彼女にとってとても魅力的に映るのです。
 それは、行ってはいけないとされる、森の奥にある小さな小屋に行くことでした。猫さんはうさぎさんに語りかけます。「一緒に遊ぼうよ。きっと楽しいよ。おいで。」
 うさぎさんは、迷った末、猫さんに着いていくことにしました。


 話を区切ったフェリシアは、サラの頭を撫でる手を止めずに、話を続けるのだった。

《Sarah》
「ロマンチック……本当のことだよ。雨雲と水が喧嘩してたからあの子が落ちてきたんだもん。」

 青空の欠片がまるで嘘みたいに言うように聞こえたサラは彼女に思わず反論する。素晴らしいものをロマンチックなんて言葉で終わらせないで。
 夢に住むドールは現実が見えない。
 ついている方の腕を目に回し何にも見えなくする。なんとなくフェリシアサンの顔が見たくなかった、脆く壊れそうな貴女の顔が。エーナの彼女には聞こえない声で嘘じゃないよ、と呟く。音は聞こえなくても覆っていない口の動きでわかったかもしれないが。

「それでうさぎサンとネコサンはどうなったの? 楽しかったのかな。」

 目から腕をどけ貴方が紡ぐ話を興味津々に聴く。サラの目はまっすぐペリドットを見つめており、もし目をそらしたとしてもサラは気に留めない。
 いつか自分もうさぎサンのベッドに寝転んでみたり茶トラサンの大きな手を触ることができるだろうか。そんなことを考えながら続きを楽しみに待つ。
 小屋には何があるんだろう。

 良かった。自身が話した物語は、どうやらサラちゃんの興味を引いたらしい。純粋な瞳に見つめられて緩く目を細めたフェリシアは、木漏れ日が影を落とすその場所で指でふにふにと貴女の頬を触りながら意味深に口を開いた。

「ん〜? ……どうなったと思う?」

 赤い目のうさぎと、茶トラの猫。
 示しているのは紛れもなくペリドットが知っているふたりだ。
 しばらく貴女と目を合わせていたフェリシアは話の続きを囁くように語るのだった。


 静かでひやりと冷たい森の中。何も知らないうさぎさんは猫さんに連れられて深く深く進んでいくのでした。
 「猫さん、やっぱり怖いよ。引き返そうよ」すっかり弱気になったうさぎさんは、身体を震わせて猫さんの手を引きます。だけど猫さんは気にも止めず無言でどんどん進んでいくのです。
 猫さんは、何故か愉しそうに笑っていました。うさぎさんはとうとう猫さんまでも怖くなって、繋いだ手を離そうとしました。ですが猫さんは離してくれません。何をしても、前へ前へと進むばかり。


 ── ついに目の前に、古い小屋が現れました。屋根には大きく穴が空いています。

 「イヤッ入りたくない!! 嫌だ、怖い!!」うさぎさんは叫びました。ですが猫さんは微笑んだだけで止まりません。うさぎさんは、強引に腕を引かれて小屋に入っていきました。


 ─── 蠕?▲縺ヲ縺?◆繧医?√≧縺輔℃縺輔s

 小屋にあったのは、部屋を覆うくらいに大きなスクリーン。うさぎさんを恐怖の底に落としたのはそれに映っている虫のような特徴をもつ恐ろしい怪物の姿でした。
 「………っ、ごめんなさ……っ!」
 泣き出したうさぎさんはもう嫌だと言いながら謝りました。猫さんはその様子を、真顔で見つめていました。
 そのとき、ガチャりと小屋のドアが開きました。入ってきたのです。先程までスクリーンに映っていた、その怪物が。

「縺薙▲縺。縺ォ縺翫>縺ァ縲√≧縺輔℃縺輔s」

 怪物は理解できない言葉を言うばかり。既にうさぎさんは恐怖で動けなくなっていました。泣きながら小さく震えておりました。


「もう嫌! ごめんなさい……!」
 その言葉を聞いた怪物は目を見開きました。そして今度は優しく話しかけたのです。「もう、こんなことしちゃいけないよ。」


 ── その声は、うさぎさんもよく知っているお友だちのものでした。

 顔を上げたうさぎさんは、怪物の頭を取った友だちのくまさんを見て安心したように大粒の涙を零すのでした。
 猫さんはゆっくりと話し始めました。「うさぎさんはいつも平和に暮らしていたから、危険なことに飛び込んでみたいと思うかもしれない。だけど、きっとこうやって怖い思いをするからダメなんだよ」
 猫さんはうさぎさんに何度も何度もそう唱えるのでした。
 「分かったわ」と、大きく頷いたうさぎさんは猫さんと、くまさんと笑って草原に帰ったのでした。


 おしまい。


 フェリシアはそこまで言うと、ふぅ、と息を整えた。

《Sarah》
「ハッピーエンド。

 うさぎサン壊されなくて良かった。怪物もくまサンだったんだ。」

 彼女の話に相槌を打ち耳に入れていく。ネコサンが悪い子なのはびっくりしたけれど、最後にはやっぱりうさぎサンのためを思ってのこと。
 うさぎは小さく壊れやすいイメージがあるため、彼女が怪物に頭からガブッといかれなくてよかった。
 意地悪なネコサンも演技、怪物はくまサンだった。怖くてすくみあがったうさぎサンは可哀想だけどこれも彼女のためを思ってなら。

「もし、フェリシアサンがうさぎサンと一緒にいたら、まっさきに怪物に立ち向かってうさぎサンを助けるのかな。

 ヒーローってそうだよね?」

 彼女がいつも話してくれているヒーローの話。誰かが困っていたらすぐに助ける。困難には立ち向かう。そんな者。
物語を聴いていたらもし自分だったら、貴女だったらと考えたことはあるはず。自分だったら、ヒーローだったらどうするのだろう。きっとすごい力で怪物を倒してあっという間に全部を解決する。そんなヒーローを目指すフェリシアサンも、何にも臆すること無く進んでいくのだろう。

「そうなの。……そう。私に入ってる物語はだいたい主人公のハッピーエンドで終わる。きっと、幸せが一番なんだよね」

 貴女の言葉に返しつつ、自分自身に唱えるように口に出した。幸せが一番いい。本当は現実に蓋をして、温かくて優しいこの場所で、安穏と過ごしていたかった。だけど、いちど壊れた鎖は鍵を閉めるだけじゃ直せないから。根本の理由を突き詰める必要があるから。
 だから、こうして寂しさを紛らわす。膝に乗せた頭にふわり、またふわりと手を乗せながら。

「……………………… ぁ、」

 間違いなく、“その通り”だ。傷ついた子がいれば手を差し伸べる、それがヒーロー。だからうさぎそんを助けられなかった私は、ヒーローじゃない。

 確かに、でも………確かに。
 でも、でも! ──── 確かに。

 その通り。そう。その通り。

 崩れる表情、滲む汗。……嫌だ!! 認めたくない!!! 認めてしまったら、明日の私の道しるべが無くなってしまう! やめて、それ以上言わないで! やめて、やめて!!
 辛い、辛いよ、図星だよ!!
 そうだよ私はヒーローじゃない!
 だけど、だけど認めたくない。
 どこかでまた挽回するから。
 私、今度は頑張るから。
 ……未熟な私を認めて欲しいから。

「た、確かに……ね。ヒーローなら助けるんじゃ、ない、かな。」

 苦し紛れに口にした言葉は、言いたくなかった本音だった。

《Sarah》
「そうだね。
 幸せじゃなきゃ、悲しいもん」


 幸せが一番。
 そう。悲しい物語も辛い物語も壊れちゃった物語も全部嫌い。幸せに行きたい。辛い道は歩みたくない。そう思うのは間違えじゃない。だから目を背けたくなるようなことが起きても夢の中なドールはきっと現実を直視することはできないだろう。夢の中では辛いことがあっても皆欠けてなくて幸せ。傷ついてもすぐ治る。怪物なんて簡単に倒せちゃう。
 兄さんみたいに頭を優しく撫でられる。そんなに撫で心地の良いものではないと思うけれど。悪くは、無いかもしれない。

「フェリシアサン、大丈夫?
 フェリシアサンの方こそ横になったほうが……」

 壊れた表情。嫌だ。やめて。壊れないで。嫌いになりたくない。
 急いで彼女の膝から飛び起き貴女が拒まないなら少し力強く不器用な手つきで背中をさする。崩れ落ちた表情はサラは焦らせるのには十分な材料だった。いつもニコニコとしている彼女ならなおのこと。
 最近様子がおかしいよ。

「私は……大丈夫。びっくりさせちゃったかな、ぁはは。最近ちょっと不調で。……うん。もうそろそろ私は寮に戻ろうかな」

 背中をさすられながら、不格好に笑った。大丈夫、大丈夫。私はまだ笑えているから。壊れてなんかないから。まだ舞える、大丈夫。つぎはぎの心が痛む心地に慣れ始めていたと思っていた。でも私は完全じゃなかった。優しいあの子を寂しがって、あの子が主人公のような話をして……純粋に放たれた言葉に勝手に傷ついて。こういうことは二度としないようにしよう。居なくなった誰かに別の誰かを重ねても、心の穴は埋まらないと分かったから。今度こそ蓋をしよう。見えなくしよう。ヒビの入った心を含めて、私ぜんぶを大事にできるようになるまで。

「蝶々探し、頑張ってね。見つけたら見せてくれると嬉しいな。日が落ちる前に寮に戻るんだよ?」

 ゆっくりと立ち上がったフェリシアは貴女にそう告げて立ち去るだろう。

 ─── 美しく晴れたその日、純粋な光に当てられた傷が酷く痛んだ気がした。

【学園2F 合唱室】

Amelia
Felicia

「そろそろ、伝えた時間……かな。」

 ちらり、横目で合唱室の時計の針を確認した。

 朝食後、アメリアちゃんとすれ違ったときに彼女の手に握らせたメモ。そこには"本日17時 合唱室に集合"と書かれてあるだろう。

 フェリシアは貴女が来てくれることを確信していた。何故なら自身が知っているアメリアちゃんは真面目で、とても律儀な子だから。
 またこの状況下で秘密裏に呼ばれたのであれば、何かしら表では伝えられないメッセージがあるのだと彼女が気づかないはずがない。

 時計の針が、回った。
 ── 17時、美しい水色髪を映したペリドットは、意味ありげに目を細めて軽くその手を挙げた。

《Amelia》
「遅くなりましたか?」

 17時丁度、時計とノブが同時にかちり、と軽い音を立てる。
 まるで測ったかのように正確な時間にやって来た青い少女は不安を宿した目で先に待っていたらしい少女に問いかける。

「そのう……少し、移動に手間取ってしまって。
 いえ、違いますね、えーっと、フェリシア様、何かあったのですか?」

 ……が、返事を待たずに彼女はかなり無理目な言い訳を始め、それも勝手に終わらせる。
 動揺があったのだろう、一呼吸置いて落ち着きを取り戻した彼女は、何があったのか? と聞くことにした。

 なんたって、遅い時間に合唱室にという呼び出しだ。
 アメリアが無意識に纏っている緊張も自然な事だろう。

「ううん、時間ぴったりだよ。流石アメリアちゃんだね。
 ふふ、なぁんて。アメリアちゃんなら絶対来てくれるかな〜って思ってたんだ。」

 そう言いながらフェリシアは背中で人差し指を絡め、照れたような表情を浮かべる。目の前の貴女は直ぐにでも何があったのか、と言いたげな表情だ。不安を身に着るのも当たり前だろう。

「ちょっと複雑で長い話になるかもしれないから、どこか座ろっか!
 ……それか、私のお膝くる?」

 話を始める前に、と。フェリシアは貴女に、近くにあった椅子を勧めるだろう。緊張を解して貰えるように冗談交じりに話しながら。じゃれあうように微笑みながら。

 もちろん貴女はペリドットの膝に寝転ぶなり座るなりしていいのだろう。彼女なら、アメリアちゃんの頭を撫でながら事の事情を話してくれるだろうから。

《Amelia》
「ええ、勿論。遅れてしまっては申し訳ないですから。」

 少し照れくさそうに不安を解してくれるフェリシアに安堵の微笑みを浮かべながら傍まで行った後、少し考えこんでから傍の椅子に座る。
 正直、空振り続きの疲れもあるし、不安もあるから目の前の相手に思いっきり甘えたい所だったが……今そうしてしまうのは余りにも自分勝手が過ぎるから我慢して。

「お膝は……そうですね、また今度にしましょう。
 それで、複雑で長いお話というのは……多分」

 その複雑で長いお話の続きを促す。
 きっと、これまた気の重い話なのだろうなと思いながら。

「そう、そうだね。とりあえず話しておきたいことは……

 ──貴女が、アメリアちゃんが私の夢に出てきたの。不思議な白い空間で、白い服……病気の人が着る入院服みたいなものを身に纏った、貴女が。

 アメリアちゃんが座るところを見るとその場で立ったフェリシアは一旦貴女に背を向けた。そして、ふわっと振り返って唱えるように話すのだった。

 それは、私が忘れていたかもしれない記憶の話。
 それは、あの夢の続き。

 それは、それは、それは───
 「あの人」に会いたい、私の願望。

「もしかしたら私が忘れているだけで、本物のヒーローがいるかもしれないの。
 夢が夢じゃなかったとしたら、……ねぇアメリアちゃん、そういう夢とか見たことない?」

 こてんと軽く首を傾けたフェリシアの瞳はいつになく真剣だった。
 同時にそれは彼女が正気であると伝えているものであった。

《Amelia》
「ふむ……入院服を身にまとったアメリアが……そうですね。
 夢、というよりは記憶……と考えるべきなのでしょうか、確かに、こう……何か景色や物を引き金として覚えのない記憶が脳裏を過ぎるというのはありますし、その中に治療が必要だろうな、と考える物もあります。」

 フェリシアの言う夢の話には心当たりがある。
 と、彼女は肯定する。
 その上で、フェリシアの続けた言葉も真剣な物だった。

「確か……フェリシア様の疑似記憶は、その、ヒーローに関する物でしたよね。
 そのお方は存在する、或いは存在した可能性が高い、とアメリアは推測します。」

 だからこそ、アメリアは慎重に前提を確認しながら言葉を紡ぐ。
 疑似記憶に根ざす感情はごく根源的な人格形成にも関わるというのは自分自身がよく知っているから。
 それが、推測ともなれば慎重にならざるを得なかった。

「そうですね、アメリアが見た記憶は三つ。
 そして、この推測を補強する証言と記録が一つづつ。
 先ずは、一番関係しそうな最後の記憶から申し上げますと……その時、アメリアは燃料……いえ、恐らく血を吐いていた記憶でした。」

「夢でなく、記憶。やっぱり私たち何か忘れてるのかもしれなんだね。
 ……すごくすごく大事なナニカを。
 実は私にもそういうのあったんだ。

 あの時は、そうね。薬の投与云々で誰かが揉めてる夢」

 もしそれが現実であったならば、所詮希望的観測にしか過ぎないのだが、あの人に助けてもらえるかもしれないという、一筋の道ができるに等しい。あの人なら……ヒーローなら、絶対にみんなを救ってくれるから。

「実在するとしたら……その人は私のヒーローなんだよね。そういえば夢の中で争ってた人の中に、私のヒーローがいたの。あの人は言ってた。"増やした薬の投与は看過できない"って。えぇっと……そう。
 私たちのこと、治験者って呼んでた。何の実験をしてたのかまでは分からないし、投与されてた薬も身体にいいとは言えないと、思う」

 真っ白なあの記憶を蘇らせる。
 もし。もし貴女が私のヒーローなら、助けてくれるよね? 救ってくれるよね?? 手を差し伸べて、大丈夫だよって笑ってくれるよね?

 ねぇ。

 私のしていたことが間違いじゃなかったって、貴女ならそう言ってくれるよね?

 呼び起こした記憶は曖昧で、それでいて謎の浮遊感に見舞われる。

 それから───
 それから───

 あれ。■■■■■が、分からない。


「……血を? 血って血液のことで合ってる、よね。ドールズじゃなくてヒトに流れてるっていう、赤い液体のこと、だよね。あ、あれ? アメリアちゃんはドールズだよ? ヒトじゃ、ないよ?」

 なお、先程から思い出せない場所を探りながら、貴女の言葉に不思議そうに尋ねるのだった。

《Amelia》
「薬の投与で揉めている……ですか。
 ……まだ、答えを出せる物ではないでしょうが、そうであるならば少なくとも私たちの治療……いえ、実験はまだ終わっていないのでしょうね。」

 薬の投与で揉めている、治験者というフェリシアの言葉に彼女は考え込む。
 少なくとも、薬を投与していて、状況が異なっているというのなら薬を投与した目的は病気などの治療ではなくその体になにがしかの変化を齎す事が目的だろう。
 ……が、少なくとも薬を投与する段階を終えている事以外、アメリアにはまだ分からなかった。

「ええ、そうです。
 アメリアは間違いなくドールズでしょう。
 けれど、同時にドールズは量産品でもあります。例えば、リヒト様が見つけた記録によればアラジン、というドールが過去に居たそうですし、つい最近同じ名前のドールがトイボックスにやってきたばかりです。
 そして、恐らく我々にはモデルに相当する方、或いは設計図が存在するのでしょうね。
 ですから、モデルに相当する方が居るなら、仮にこのアメリアの記憶が誰かの創作物でないのなら、きっと、それは人間なのでしょう。
 と、推測しております。」

「……アメリアちゃんも知ってたみたいだね、私たちオミクロンクラスの子が何かしらの「適合者」であること。……あのとき見た夢が、本当に記憶だとしたら一体あの施設はなんのために作られてるんだろう」

 治験者、そして開かずの扉の奥で見つけた資料にあった適合者という文字。一先ず適合者を見つけるために治験をしていると考えていいのだろう。しかしドールズへの投薬がその実験内容だとすると、矛盾する点もある。……まず、無機物の人形に薬を投与するのは可笑しいからだ。またドールズの傷は直らない。ではなぜ注射針を腕に刺していたのに針によってできた傷がないのだろう。確認しようと制服の手首のボタンを外して腕をまじまじと観察してみた。それはやはりつやんとしていて、傷は見当たらない。

「ヒトが私たちのモデルって言うのは理解できるんだけど……だって"限りなく人間に近い形"で作られてるんだもんね。じゃあ……私たちが見た夢は、人間だった頃の記憶かもしれないんだ。

 でもでも! もし、設計図の方だったら、在籍してる時代は違えど同じタイプのものが量産される形で学園に存在してるってことになるよね。お披露目会で破棄されたあとまた同じ設計図のドールズが、生まれてる? ……とかなのかな。」

《Amelia》
「ええ、少なくともお披露目や別の理由で壊れたドールと同一のドールがトイボックスに来ているのは間違いないとは思われます。
 そして、仮にフェリシア様やアメリアが見た記憶が元となった人間の記憶だったとしたら、その実験というのも矛盾はしていないでしょう。」

 手首をまじまじと観察するフェリシアにそうやって話を続ける。
 ……しかし、これはあくまで仮設でしかないし……では施設からトイボックスに実験の場を変えたのは何が目的なのか、だとか疑問は尽きない。
 けれど、少なくとも言える事があった。

「ですから、フェリシア様が会ったヒーローという方は居る、或いは居た可能性が高いです。
 勿論人間は老いて死んでいく寿命がある上に疑似記憶から今に至るまで何人のフェリシア様がいて、どれくらいの時間が経っているか分からない以上、会える……とは断言出来ませんが。」

「私たちの、モデルの、記憶……。
 ……現実味がないや。フェリシアという女の子も、アメリアという女の子も、ドールズを作るためのモデルの人間として存在してて。

 沢山の薬を、強制的に投与されて傷んだもんね。まぁ、もしかしたらそれを望んでいたのかもしれないんだけど。

 モデルとなった人間がいると考えると、私たちドールズに個性があるのも頷けるわけだ。」

 モデルはどうやって決められていたのだろう。そもそもドールズに様々な個性があるのは、ヒトに寄り添うためだと教わっていたペリドットには衝撃でしかなかった。どれが本当で、どれが嘘か、見分ける方法をフェリシアは知らない。

 事実を突き詰めることでしか知り得ない情報が、多すぎる。

 疑問が膨らんでは、それ以上知ってはいけない、止まるんだと頭のどこかは警鐘を鳴らしている。
 正直、どちらを信じていいのか分からない。だけど、目の前の彼女は信頼出来る。大切なものを見失わないように、守れるように。

 迷ってなんか、いられないのだ。

「……既にヒーローは居ないと考えるほうが私は楽かな。誰よりも大好きなあの人に変に縋るのも辛くなるだけだろうし。……そっか。
 居ないかもしれないんだよね。」

《Amelia》
「……と、フェリシア様はヒーローなる方には会いたくないのですか?」

 居ないかもしれない、と告げた矢先、帰ってきたのは予想外の言葉だった。
 擬似記憶、それは彼女にとって自分を決定づける根幹で、ある種の呪いで、今も手足を動かし続ける何ものよりも愛しい鎖だった。

 だから、擬似記憶に登場する人そのものに会えないかもしれないという可能性は少なからずフェリシアを傷つけてしまうかもしれないと思っていたのだが……。
 帰ってきたのは何処か受け入れるような反応で、だからこそ彼女は戸惑った。


「その……フェリシア様。
 これは、不躾ではしたない、誰の為でもなく、アメリアの為の問いなのですが……

 フェリシア様は、何をしたいのですか?」

「……会いたいって気持ちが人と人を引き合せるのだとしたら、既にソフィアちゃんはミシェラちゃんと会ってるはずでしょ。」

 全てを分かつ死という概念は、どんなに偉大なヒーローでも変えることはできない。ならばそれは、諦めるほかないのだ。ドールズはきっと、擬似記憶の大切な人と出会うために生まれてきている訳ではないと考えているから。だからと言って会えないと決まった訳ではないにしろ、期待を期待で埋めるほど愚かなことはないとフェリシアは知っていた。だから会いたい会いたいとせがんではいけないと思うのだ。もしヒーローに会えたら、私はきっと"駄目"になる。
 だから、みんなと一緒に逃げるまで自分の欲求は抑えていた方がいい。きっと、それがいちばんだ。
 目を伏せたフェリシアは、吐き出すように口を開いた。

「私は、みんなと逃げたい。
 今まではずっと大好きなヒトに迎え入れられてその人に尽くそうって、思ってた。平和で暖かな日常がみんなへ影をおとす前に、逃げたいの。……まずは、アストレアちゃんをお披露目から助け出したい。生きるために、足掻きたい。

 だって私は、みんなを守るヒーローになりたいドールだから。」

 でも。

「あの人が……ヒーローが居るとしたら、絶対にみんなを救ってくれるとも、思ってる。居るのなら、会いに行きたい。是が非でも会いたい。会いたいよ……。でも居ないかもしれないでしょ? 身の丈に合わない大きな希望がのちのちアダになることを私は知ってるから。」

 だから、いま出来ることをするしかないんだ、と。

《Amelia》
「……反論をしたいですが。
 それがフェリシア様の考え方なのなら、良いでしょう。」

 確かに、ソフィア様とミシェラ様は会えていない、けれど。
 人間は遺伝子的には7兆分の1の確率で同一の遺伝子を持った人間が生まれるというし、量産品のドールならその可能性はもっと高い。
 それを、再会と呼んでいいのなら、きっとまだ結論を出すには早すぎる。

 そんな思いが口調に出てしまったのか、アメリアは少し不満そうに話し始める。

「その上で、どうあれここからみんなで逃げ出したいと。
 何故なら、フェリシア様は皆を守る存在で居たいからと、そう願うのですね。
 ええ、良いと思います。」

 皆を守る存在で居たいから、そう在れるように生きて足掻く。
 それは、アメリアの好きな論理だし、そうやって足搔くフェリシアにはとても好感が持てる。

 だからこそ、続く問いには少しばかり力がこもっていた。

「ですが、ヒーローが居るかもしれない、居ないかも知れないという議論はすこし不満を感じます。
 助けてくれるかもしれないから、会いたいのですか。
 それとも、会いたいから会いたいのですか。

 前者なら良いでしょう、失敗する可能性を想定するのは生きる事の常です。
 ですが、仮に、もしも、後者なのなら……アメリアはおこります、きっと、すごくおこります」

「会いたいから会いたいに決まってるでしょ……至極単純に会いに行きたいよ! 私の憧れに、ヒーローに会いに行きたいよ!! 彼女が助けてくれるなんて、それは結果でしかない。会える可能性があるのなら、何だってしたい。どんな障害……時間すら超えて会いに行くよ。

 だけどね、それと同時に、私には守りたいものがあるの! どうしても今は独りよがりの考えができない。出来ない状況にあるの……!」

 その時のフェリシアは、いつになく感情的で、取り戻したはずの冷静さは見るも無惨に散り散りになっていた。それでもなお、いちど溢れ出した本音は止まらない。

 会いたい。

 知らなければ良かったと思った。この状況下でなかったら、きっとどんなことをしても一人で逢いに行くだろうから。

 でも、知って良かったと思った。
 何かしら大きな希望を見出せたのならそれが道しるべになることを知っていたから。愚かしい自分に背を向けさえすれば、輝きを失うことの恐怖を忘れれば一直線に進んでいけるから。

 だけど。

 それを知るのは、今じゃない。
 出来うる限りの可能性を吟味してひとつひとつ結んでいかなければいけないのだ。自分だけひとりで先に進むわけには行かない。行く時は、みんなで行かなきゃいけない。何より私自身がみんなで行きたい。お披露目会の正体を知った以上、絶対にひとりも置いて行けないから。

「ぜんぶ。

 全て終わったあとに、彼女を探しに行こうと思ってる。学園を出て、全てが終わったあとに。」


 近くに、居るのなら。

「ヒーローは、きっと……いや、必ず力を貸してくれる。もし、彼女の存在が既に確認出来れば学園から出る手助けをしてくれる。」

 そして決意を表すように、真っ直ぐに貴女を見つめ直した。夕暮れの合唱室。夕日に照らされたペリドットの瞳は、赫々と光を反射していた。

《Amelia》
 静かに、聞いていた。
 じっと、見つめていた。
 目の前のいのちが何を考えて、どのように答えを出すのかを。
 答えを出さないつもりなら、よしんば言い訳などしようものなら、知らない、と言って部屋を飛び出してやるつもりだった。
 けど……帰って来たのは確かな熱だった。
 それならば、彼女の答えは決まっている。

「ええ、そうですね。
 会いに行くというのなら、さっさとこのトイボックスを飛び出して、気の利いたラブレターの一つでも考えねばなりませんね。
 なんたって、乙女の恋路を邪魔する輩は馬に蹴られるのが相場と決まっておりますから」

 叫ぶように思いを語って見せたフェリシアに、アメリアは余り普段浮かべないような、悪戯っぽさと不敵さを孕んだ笑みで言葉を返す。
 全てを捨てずにその手で掴もうというのなら、強欲などという言葉では足りないから。
 尊敬する誰かへ……というよりも共に悪戯を仕掛ける誰かへと浮かべるような笑みと楽し気な口調でアメリアは続ける。

「何か、アメリアに聞きたいこと、やって欲しい事はございますか?
 アメリアはフェリシア様の事が大好きですから、きっとどんな無理難題だってものの数にも入りませんよ」

「伝わったみたいで、良かった。
 アメリアちゃんが言うならきっとその通りなのね!」

 半ば八つ当たりのように告げてしまった反面、自身の性格まで知ってくれている彼女ならば、本音までも論理的に受け入れてくれると自信があった。つまり私は全部を諦めたくないのだ。優先順位があるだけで。大切なものを胸を張って大切だと言うのは勇気がいる。度胸を持ち合わせていないと前には進めない。アメリアちゃんはきっと助っ人という名の悪戯仲間になる。一緒に、全部を叶えよっか

「うーん。ふふ。じゃあ、世界征服でもしてもらおうかな!」

 芽生えたイタズラ心と共犯精神。考える仕草をしたあと、面白いことを思いついた子どものように指をピンと立てたフェリシアは、親愛なる蒼色の林檎に屈託なく白い歯を見せる。

「なーんて、ね? ……隙ありっ!
 あはは! ぎゅうぎゅう……!」

 貴女が怯んだすきに素早く腕を回したフェリシアは、お互いの身体を寄せあって楽しそうに声を上げたのだった。

《Amelia》
「むっ、それでしたら……!?」

 世界征服でもしてもらおうか、そんな提案をまじめに考え出した直後、咄嗟に体が動かない瞬間を狙ってフェリシアは抱きついてきた。
 声にならない悲鳴のようなものを上げて抱きしめられた彼女は一瞬驚いた表情をしたものの、すぐに落ち着きを取り戻して。

「もう、フェリシア様。びっくりしちゃいますよ」

 親愛なる友人の背中に腕を回して、心にもない抗議を投げ返す。
 彼女はそのまま、フェリシアが自分から離れようとするまで抱きしめている事だろう。

「私もアメリアちゃんだーいすきだからね!! いつだってあなたの味方だよ!」

 悲鳴を上げられそうになったが、彼女が受け入れてくれることなんて分かっている。否定に似ているがしっかりとした肯定を受けて、更に花開くような笑顔を見せたフェリシアはより回した腕にほんの少しだけ力を入れるのだった。

「そろそろ戻らないと先生が"心配"するかな。帰ろっか!」

 わちゃわちゃ。ひとしきり抱きしめたあと、貴女から身体を離して時計を一瞥する。もちろん、心配というワードを使ったのは貴女もその意味を理解しているだろうと自信があったからである。夢に出てきた彼女に話してしまった、本音。

 ── 今はふたりだけのないしょ、だからね?

 崩した表情。きっと今は、柔らかい笑顔が浮かんでる。親愛なるイタズラ仲間に、「早くしないと怒られちゃうね」なんて。
 はにかみながら手を差し伸べた。

《Amelia》
「ええ、そうしましょうか。
 ここでお父様に知られてしまっては興覚めですしね」

 フェリシアの言葉に穏やかに応えて差し出された手を取って歩き出す。
 「明日は何をしましょうか」なんて下らない雑談をしながら、偽物の星の下をこわれものの少女たちは歩いて行く。
 未来は分からず、過去も曖昧で、いましかないけれど、それでも夢を抱いて。

 そうして、寮の女子部屋前まで着いた頃。

「おやすみなさい、フェリシア様」

 そう言ってアメリアは名残惜しそうに手を離して別れる事だろう。

【寮周辺の平原】

Dear
Felicia

《Dear》
「ああ、キミって子は今日もとってもかわいいね! 暖かな朝日にキミの涙は照らされて、柔らかなスカートを風に舞わせる! 美しき望み、夢は風の微笑みに揺れ、幸福の星を振り撒き、天使の贈り物をその身に育む! 私の心に幸福を運ぶ! 星の輝きをその身に宿し、皆に笑顔を振り撒く優しさ……ああ、愛している!」

 風の妖精に運ばれて、ディアの愛おしそうな声が踊る。花を踏まぬよう、細い脚を小さく折り畳んで座るその様は、まるで御伽噺の白雪姫。木々は囁き、風は歌い、花は微笑む美しい場所。モラトリアムの柵の中。そっと太陽が問いかける。

【ねえ、誰とお話しているの?】

 ディアの瞳の向く先に、ドールの姿は見つからない。ターコイズブルーが映すのは、今この瞬間に愛すのは。陽の光を浴びて輝く、白く美しい指先が。蒼き天使の羽をくすぐって、愛しき恋人の問いに答える。——そう、ディアは森に咲く青い花に、愛の言葉を囁いていたのだ。別に気が触れた訳ではなく、至って大真面目である。
 正に不審者以外の何者でもないその様に、百人中百人が驚いてしまう。そして、百人中百人が理解する。ディア・トイボックスが、世界の恋人の名を冠する所以を。

「……? おや! おやおやおや! ごきげんよう、フェリシア! ああ、キミって子は今日もとってもかわいいね! 春一番を心に宿し、皆の幸福を育てるペリドットに吸い込まれてしまいそう! 麗しき希望、細く可愛らしいその手は世界を守り、キミの覚悟に育てられ、また新しい花をその瞳に咲かす! 皆の心を守ってくれる! 春の煌めきをその身に宿し、皆に笑顔を振り撒く優しさ……ああ、愛している!」

 背後から響く愛おしい足音に、ディアは頬いっぱいを愛に染めた、美しい笑顔を振り撒くだろう。先程目の前の花に向けていた笑みと、全く同じ、愛らしい笑顔を。

 苦しいほどに代わり映えのない、穏やかな朝だった。東から昇った始まりの象徴が、目の前に広がる景色を朱鷺色に染めていく。どこか恨めしそうに光を見つめて目を細めたフェリシアはその足で森へ向かっていた。静かな朝の森は好きだ。いたるところで夜明けを知らせる宝石がこぼれていく。キラリ、一瞬の煌めきとばかりに滴り落ちていく雫を見つけるその瞬間を、彼女はいつになく気に入っていた。以前までは鼻歌まで歌って浮かれていたのだが、モラトリアムの中だと知った今、そう能天気にいられる訳もなく……。
 涼しげな空気の中いそいそと歩いていく。青々と茂る草花たちは、今日も幸せそうだ。何故かそれがどうも羨ましくて。どことなく、寂しくて。きら、きらり。森の枝からまた、美しい瞬間を閉じ込めるように宝石が落ちていった。
 嗚呼、朝露の滴る時間を少しだけ苦手になってしまいそうだ。輝くこの日常を、嘘だと信じたくなくなってしまうから。帰ろう。そう思ったとき、風と共に聞こえてきたのは軽やかで楽しげな声だった。

 声のする方へ、歩いて、歩いた。
 その先には、息を呑むほど美しいドールが。しかし彼と話している相手は見つからない。

「ねえ、誰とお話しているの?」

 ペリドットの瞳に疑問符を浮かべ尋ねた。彼の先にあるのは……青い花? お花に話しかけていたのだろうか。ちょこんと座ったその姿も、全てを愛する彼らしい所も、何とも可愛らしい。"大好き"を大切にする彼のそういうところが、フェリシアは好きだった。こちらを振り向いて眩しいくらいに喜色のほころびを見せた彼に、自身もあどけない笑顔を返してしまった。しんみりした気持ちになっていたのに、不思議である。

「あはは……! 今日もディアくんは愛がいっぱいだね! 大好きな気持ちが溢れてる感じ。何だか凄くいい一日になりそうな気がする! 春のきらめき? とかは分からないけどディアくんも喜んでくれてる……って捉えてもいいよね? ディアくんもそれこそ、辺り一面にお花が咲いていくみたいにたくさん褒めてくれて嬉しいな。おはよう!」

 なぜだろう、すごい、褒められた。
 もちろん。それこそが彼が世界の恋人と言われる所以である。
 さて、森の一瞬の光も、そろそろ乾いていく頃だろうか。

《Dear》
「おはよう! ふふっ、会えてとっても嬉しい! これからきっと素敵になる……そんな予感が、今を素敵にする。そしてその今がこれまでになって、私はずっと幸せなんだ! キミは、そんな予感を私に運んできてくれる! これがきらめきでなくて、一体なんだというの?」

 ——ずっと続く【これから】を、絶対に作ってみせる。あの日、麗しきアメリアに誓った言葉のままに。あの日、優しいオディーの覚悟を愛したように。あの日、強きアティスを心から信じたように。ディアは今日も、明日も、【これから】を信じて言葉を紡ぎ続けていく。ヒーローと、恋人。与えられたものは違えども、キミは幸福を与えてくれる! 今日も、明日も、これからも! ねえ、フェリシア。キミの言葉をもっと教えて?

「ああ、今日という素晴らしい日にキミに出会えて、今日がもっと素晴らしくなった! これってとっても幸せなことだね? このままどこまでも飛んでいけそうな気分だよ! 隣においで! これまでのキミに盛大な拍手を、これからのキミにいっぱいのハグを、今日のキミに優しいキスを!」

 そっと彼女の指先にキスを落として、きらきら微笑む。これまでのディアも、今日のディアも、これからのディアも、きっと笑っているのだろう。この箱庭に巣食う絶望さえも、ただ愛おしいと泣くのだろう。希望の国へと駆け出した、愛に満ちた素敵なお誘い。ねえ、フェリシア。キミの望みを叶えたい、ずっと、ずっとそれだけなの。
 だから、ただ愛していよう。なんでもない日常を、大好きなキミとのモラトリアムを。

「せっかくだからお話しよう、フェリシア!」

「ふふっ、朝から元気だなぁディアくんは。

 ……ってわー!? ちょっ!
 指にちゅーした今!? ま、まったく、おませさんなんだからぁ!!
 いきなりちゅーしないの!
 そ、そういうのは好きな人にだけしてあげるものだからね? みんなにやっちゃ駄目なんだからね!?」

 『いつも通り』『通常運転』なディアくんをみて、ほっこりした気持ちになる。彼にとってはこれ以上に輝かしい朝はないのだろう。そして、これ以下に荒んだ朝もないのだろう。毎日感動できるその感性がどうしても羨ましく思ってしまう。彼なら、見るもの聞くもの、存在の全てを愛してしまえるんだろうな。なんて。トゥリアドールのプリマだった彼に研ぎ澄まされた感受性で張り合おうなんて失礼だろうか。微笑ましくも残酷な事実に擽ったそうに笑いながら、彼の名を呼んだ。

 撫でるような微笑みを浮かべていたその瞬間、あっけなく指に触れた柔らかな感触にぴりりと痺れが走った。「ぴゃっ!?」と声が出てしまい、咄嗟に飛び上がりそうになる。そう。間違いなく身体中に電気が行き渡っていくようだった。表面だけでなく、内側のコアにまで走っていく、小さな少女には大きすぎる衝撃。足の指先から頭のてっぺんまで熱が伝っていった。白い頬は紅色に染まりきり、ぞわぞわと全身が刺激に無駄に敏感になるのを感じていた。
 顔から火が出そうになりながら、それを表に出すまいと必死に早口で言葉を並べた。ぎこちなげに、口付けを落とされた手でとん、と貴方の腕を叩いた。つもりだった。実際は恥じらうばかりで力なく、触れただけだ。勿論、その頬は絶えずいつになく染まっているのだろうが。
 その言葉に残る威厳などミリ程度もないだろう。自覚していないが、フェリシアは押しにとことん弱いたちなのだ。

「うん、うん。お話、……うん。」

 ぱたぱたと熱を帯びる頬を手で仰ぎながら、ただ、貴方の言葉に答えるしかなかった。

《Dear》
「……? 私にとっては、フェリシアも好きな人、だよ? フェリシアのこと、とってもかわいいなあって思うし、かっこいいなって、好きだなあって思うもの! ふふっ、フェリシアったら本当に可愛い! ね、もっと色んな顔を見せて? フェリシアのこと、もっともっと知りたいの!」

 春先の風にとろける雪みたいに白い肌が、赤く染まっていくのがとっても可愛らしくって。もう一度キスしたいな、なんて思ったけれど、すんでの所で手を繋ぐだけに留めた。細い指を絡め合い、きゅっ、と幸せを閉じ込めるみたいに包み込む。所謂、恋人繋ぎというやつだ。愛おしそうな視線を隠そうともせず、そっと指を撫でてみせる。触れた所から、じんわりとトゥリアモデルの体温が伝わる。優しい優しい、恋人の戯れ。
 わかったよ、フェリシア! 今はキスはやめておくね! きっとそんなフェリシアも可愛らしいのだろうけれど、溶けてしまったら大変だもの!

 ……愛に生きる者とは、総じて論点がズレているものなのかもしれない。

「ね、フェリシアにとって、好きな人ってどんな人?」

 かくして、世界の恋人による世界一甘ったるい恋バナが、幕を開けたのであった。

「もー!! そういう『好き』じゃないんだってば! ちゅーする関係っていうのは……私が言ってる『好き』は、恋愛感情だから! この人しか居ないって気持ちなんだって。」

 細く優しく絡められた指には抵抗しようにもできなかった。トゥリア特有の温かさが伝わってくる。恥ずかしさのあまり、周りの刺激に対して敏感になっていた身体は熱が伝わるとともにぴくりと肩を跳ねさせた。うぅ、と貴方の隣に腰を下ろした少女の肌は耳まですっかり桃色に染め上げられており、繋がれた手はふるふるとほんの小刻みに震わせていた。それはまさに可憐きわまった少女の佇まいであった。恥じらいに余裕なく目を細めるフェリシアは貴方の愛おしそうな瞳で見つめられると、何か言いたげに目を瞑るだろう。この子は、ちょっと危険だ。

「好きな人……はいっぱいいるけど、恋愛感情って意味で好きになった人は居ない、かな。まぁ、そんな人が居てもディアくんみたいに愛を囁ける訳では無いと思うけど。
 ……うぅ、恥ずかし………まだ話さなきゃだめ?」

 抜け切れてない羞恥心に耐えながら、指から伝わる温もりに気づかないふりをして続けた。そうして思いついたように可愛らしく首を傾けたかと思うとはにかみながら貴方に向き直るのだった。

「ディアくんは? ……好きな子いる?」

《Dear》
「ふふっ、照れ屋さんなフェリシアもとっても可愛い! 震えているね……怖い? 大丈夫だよ、力を抜いて? ほら、じょうずじょうず」

 ぷるぷると子犬のように震えるフェリシアを落ち着かせようと、細い肩を抱きしめる。優しく囁かれた言葉は、フェリシアの耳朶を震わせた。トゥリアクラス仕込みの、甘えさせるような落ち着いた声。どこか温度を感じさせる、熱い声。これを全くの無自覚でやっているのだから、トゥリアモデルの元プリマドールというのはタチが悪い。言いつけを守り、キスはしないでいるからいい子にできている! と本気で思っている辺りがまた、無邪気で愛らしいものだった。

「ふふ、お願い。もう少し付き合って? ええっと、この人しかいない、かあ……ううん、難しいね。うーんと、もしかしてそれって、特別ってことかな? だったらいるよ! アメリア!」

 フェリシアがその美しい唇で紡いでくれた言葉を精一杯に受け止め、うんうんと唸って思い出す。ディアは愛しき恋人と交わした会話の全てを覚えている上に、そういう感情に無縁なドールだ。早くフェリシアの問いに応えたいという一心で、少しばかり思考した後——特別を誓ったドールの名を、あまりにサラッと口にした。

「あ、ありがと……? 怖い訳じゃないから安心してね。──はぁ。」

 未だに身体に触れられると過敏に反応しそうになる。肩を抱きしめられたことで更にじんわりと伝わる体温。落ち着くには落ち着くのだが、今はそれどころでは無い。
 貴方に若干軽く寄りかかり、深い深いため息をひとつ零した。彼にはこういう面で注意した方がいいと自身の身体に刻むように。もし相手がアストレアちゃんだったら笑顔でかわせたことだろう。何故なら彼女が自然にそういうことが出来る子なのだと深く理解していたから。まさかディアくんもアストレアちゃんタイプだとは……。
 嗚呼、身体が未だに火照ってる。

「はいはい……もぅ、なんだって聞いてあげるよ。

 ──!? アメリアちゃん!?
 えっ! ディアくんアメリアちゃんが好きなの!? えー! わーわー!
 アメリアちゃんかぁ、分かる!
 うんうん、とーっても素敵な子だもんね! 優しくて、頭が良くて……何よりすっごく可愛い!」

 しょうがない……まったく、彼には参ってしまった。目を伏せたフェリシアは呆れたように、いや、負けを認めたようにゆっくりと言葉を並べた。しかしアメリア……青髪の彼女の名前がでたとき大きな瞳を見開き、その中に大きな煌めきを残したかと思うと、何度も瞬きをしだした。その衝撃波は先程の恥ずかしさを吹き飛ばす勢いで広がっていく。こくこく、ハッキリと頷きつつ、フェリシアの顔には再度、笑顔が見えるのだった。
 きゃっきゃっとはしゃぐ姿はまるで恋に恋する幼い子供のようで。それは知らない世界……知らない感情に関する好奇心だけではなかった。楽しい。これはきっと楽しい話になる。

《Dear》
「! おやおや、喜んでくれてよかった! フェリシアもこういうお話が好きなんだね? 覚えたよ!」

 ぱあっ、と笑顔の花を咲かせるフェリシアに、一瞬驚いたようにターコイズブルーが見開かれる。まさか、フェリシアも愛のお話が好きだなんて! お揃いの好きがたまらなく嬉しくって、すぐに瞳を細めてくすくす笑った。細い指を口に当て、愛しそうな笑い声をこぼすその様は、正に女子会。これで結局恋愛の話をしている訳ではないのだから、本当にタチの悪い話だ。

「アメリアとは、つい先日二人でお話をしてね。ああ、いけないことをしていた訳ではないのだよ? ただ、告白をして、頬と唇にキスをして、特別を誓っただけ」

 フェリシアが喜んでくれるなら! と次々に事実という名の爆弾を落としていく。ディアの溢れんばかりの愛の証が吐露されて、勘違いをするなという方が難しいだろう。ディアはエーナモデルではない。愛の話をするのは好きでも、話をするのが上手い訳ではないのだから。

「好きって言うか、今は驚きのほうが大きいかな!
 まさかディアくんがアメリアちゃんのこと……気づきもしなかった!! いつの間にって感じ!!」

 興奮状態のフェリシアにはその話しか見えなかった。ディアくんはアメリアちゃんに恋をしているんだ。先程よりも明らかに瞬きの回数が増え、ペリドットの瞳には大きなハイライトが入っている。 左頬の花形の化粧は下がらない口角と共にくるくると踊り回るようだった。燃料が沸騰したように一気にぐるんぐるん流れていく。もっと話して! とせがむように身を乗り出すのだった。

「……? 待って待って! 告白して? 口にもちゅーしたの!? えっ!? 片想いとかじゃなくて、アメリアちゃんの同意があって……?

 特別を誓ったってつまり、ディアくんとアメリアちゃんは……二人は結婚したってこと???」

 ── どくん。驚きのあまりコアの鼓動が一生分波打ったかと思った。

 頬に口付けをするのは分かる。
 好きな子にキスをするんだよと話した手前、ディアくんならきっとその場所にしても理解できる。
 その言葉は、フェリシアを解けないくらいに絡んだ糸の中に放り込んでいったのだった。どういうことだろう。

(く、くちにちゅーした……口に?
 ……唇に?! つまり結婚!?)

 理解ができない。知ってる限り、唇にキスをする→結婚であるため二人は……そういうことである。
 特別な関係というのも頷ける。

「おめでとう、幸せなってね……?
 ん? 結婚してるなら尚更アメリアちゃん以外にちゅーしちゃ、だめなんじゃない??」

《Dear》
「……? けっこん……?」

 その顔に浮かぶは、困惑。いっそ鮮やかなまでの困惑であった。はてなマークを浮かべ、こてん、と首を傾げる。ディアにこんな顔をさせるのは、これからもきっとフェリシアだけだろう。ディアの価値観が大分世間一般のものとズレているのもあって、エーナの怒涛の会話の流れに、実に珍しくディアが押しに押されていた。

「ええっと、頬にキスをしたのは私からだよ。実は先日、アメリアと喧嘩をしてしまって……その仲直りに、特別の証明としてキスをしたの。ほっぺたのキスは、ずっとアメリアだけのものだよって。
 そしたら、アメリアがご褒美にって唇にキスをしてくれて……私は、唇のキスも、アメリアだけにしようって。でも、私の特別はアメリアのものだけれど、アメリアの特別は私のものじゃないから! アメリアには運命の人がいるのだし、だから私へのキスは本気じゃなくて、アメリアが他の人の唇にキスをしても、私は全然良いと思うし!
 えっと、だから、そういうのじゃない……? と、思う……?」

 結婚。まだまだ特別を勉強中のディアの身としては、あまりにも縁のない言葉すぎて。ディアにとっては世界中の全てが愛の対象だが、ディアの愛は、自分にその愛が返されることを想定していない無償の愛。愛について、お互いにちょっと拗れた価値観を持っている二人の話は、恋バナとしてはあまり向かなかったのかもしれない。アメリアには、その先の未来で出会う運命の人がいる。私が勘違いでそれを邪魔するわけには行かない……! と、恋人として弁明をしようとした結果。——この話だけを聞けば、百人中百人がアメリアを浅ましい獣だと思うだろう。
 ディアにはあまりにもエーナ適性がなかった。絶望的なほどに。

「く、くちびるへのキッスって結婚相手にしかしないちゅーじゃないの!? もしかして私の解釈が間違ってて、本当は結婚相手以外にもするものなのかな!!」

 ぎょっとして、今度は別の意味で目を見開いた。前提として目の前の美しいドールは嘘をつかない。だから彼が話していることは、紛れもない事実だと捉えた方が自然だった。つまり、結婚という言葉に困るという行動は、アメリアちゃんとディアくんは結婚していないということを如実に示していることに他ならない。ならばと自身の考えが間違っているのかもしれないと結論づけた。

「はぁ……うん。そうなんだ、ね?
 ディアくんの話を整理すると、

 ディアくんがアメリアちゃんに送ったちゅーは仲直りの証で、反対にアメリアちゃんがディアくんの口にちゅーしたのはあくまでも"ご褒美"なのであって、結婚したって訳じゃない。

 ってことなのかな。合ってる?」

 だとするとひとつ疑問が浮かぶ。
 彼が話す『特別』とは何だろうか。状況からして、ディアくんがアメリアちゃんを一方的に想っていると完結させるのが妥当なのだろうが……。
 アメリアはフェリシアの仲の良い友だちだ。彼女が簡単にそういう行動をするような子ではないことを深く知っていた。キスを……あろうことか唇に、しかも自分からするなんて彼女の理性は許さないだろう。ディアくんは何か勘違いをしているのではないか……言わずともそう考えることにした。珍しく彼は混乱しているようだし、そのときの状況を伺っても疑問符の数を増やすだけだろう。一生懸命でちょっと不器用な一面に、思わずくすりと唇のほとりに穏やかな微笑をこぼしてしまった。ディアくんは説明が苦手……覚えておかねば。

「えぇっと、ディアくんにふたつ質問があります! 話したくないことは話さなくていいし、落ち着いてゆっくり答えて欲しいな。

 ひとつめ、ディアくんの言うアメリアちゃんと誓った『特別』ってなんのことかな?

 ふたつめ、ディアくんはアメリアちゃんとどうなりたいの? 友だちでいたい? それとも……恋人でいたいのかな? 後者だった場合は、アメリアちゃんの『運命の人』をどう思ってる? 羨ましいとか……自分が運命の人だったら……とか思ってたりする?」

《Dear》

「う、うう〜ん……あっ、みんなに聞いてみようか? もしかしたら答えが見つかるかも!」

 このすれ違ってばかりの甘ったるい恋バナを、皆にも広めようという提案。きっと数名にとっては溜まったものではないだろう……愛の探求者であるトゥリアモデルが、愛について悩んでいる。その姿は意外なようでいて、きっと恋人のあるべき姿だ。カッコ悪くても、子供っぽくても、ディアはただ真摯に悩み続けている。

「すー、はー……うん、合っているよ、ありがとう。なんだろうね、彼女は……とても、とても可愛らしい人だよ。私のこと、真っ直ぐ考えてくれるんだ。アメリアの言葉は心地いい。アメリアの愛は慎ましやかで、それでいて大胆で、遠い星へ向かって流れ続ける。アメリアの愛は、特別を望んでいたから。アメリアの気持ちに応えられたこと、私の気持ちに応えてくれたこと、とってもとっても、嬉しく思う。 愛しい人の望みを叶えるって、こんなに幸せなことなんだって改めて気づいた。この瞬間を、もっとたくさんの人にプレゼントしたい。望みを叶える喜び、互いの望みを分かち合う幸福、愛しい人が望む全てを! ——こういうの、きっと、心を通わせるっていうのかな」

 そっと、大きく息を吸って、吐く。胸の中で脈打つ鼓動の、声を聞くように。そうして一つ一つ紡ぎ始めたそれは、愛しい人の作った手作りクッキーみたいに甘いもので。ラブソングのように真っ直ぐで。それでいて、特別とはかけ離れた愛の言葉。美しく、可愛らしく、熱く、皆に向けられる太陽の言葉。この世界の全てが、ディアは全部大切で。皆の望みを叶えたいと願うことが、愛しい人の望みを踏み躙る。大好きだから、大切だから、わからないことばかりで。ふる、と長い睫毛が震える。

「私は、アメリアの望む運命の人には、なれないから。アメリアの鼓動に宿る、たくさんの美しい知識の魚たちの中に私がいられること、とっても嬉しく思うんだ。私の愛したアメリアが、心の底から愛する運命の人。早く見つかるといいよね……きっとアメリアが見つけなければ意味がないから、手伝えないのが少し惜しい……私にとっては、アメリアもフェリシアもおんなじ大事な人で、約束を守りたくて。大好きだって言いたくて。抱きしめたくて。もっともっと、知ってみたくて。みんなだけに贈りたいと思える言葉が欲しくて。愛が欲しくて。私の命と引き換えにみんなが笑ってくれるなら、私はそれだけで幸せで。怖い思いをしていなければいいと思う、どうか生きていて欲しいと思う。みんなの望みを叶えるために、全部全部がんばりたい。ずっと、ずっと、全部好き。本当はずっと、それだけなの。一人だけを選ぶなんて、きっとできない」

 ディアは、悩んでいた。愛しい人の望みを全て叶えるために、どうすればいいのか。
 ディアは、困っていた。ディアは妖精ではないから、不思議な力なんて使えない。
 薄い瞼が閉じられて、次に、その幕が上がった瞬間。——それは正に、世界の恋人の目覚め。
 ディアは妖精ではない。スーパーヒーローでも、王子様でもない。だけれどディアは、恋人なのだ。

「——でも、それがアメリアの望みを選ばない理由には、これっぽっちもならなかった! それだけだよ!」

 二人の瞳に棲む海は、眩しく笑って揺蕩っている。そこにあるのは恋ではない。信頼であり、望みであり、特別であり——きっと、愛だ。
 アメリアが姫を望んだから、私はせめてキミの騎士であり続ける。キミの未来を守っていく。アティスが王子を望んだから、私はせめてキミの妖精であり続ける。キミの望みを守っていく。
 ——ねえフェリシア、みんなのヒーロー。キミのことだって、私は絶対に諦めたくないの。

「それはできるだけやめておこうか……あっ、それから、ディアくんもいきなりちゅーしちゃだめだからね? 喜ばれるどころか、嫌がっちゃう子もいるかもしれないし!
 ディアくんも、大好きなみんなの悲しい顔は見たくないでしょ?」

 ディアくんの突拍子もない提案を静かに制したフェリシアは、いきなり人にキスをしないよう再度釘をさした。彼は、私と"好き"という感情のベクトルが違う。だけど好意自体は本物なのだから、諭すような言い方はきっと彼に響くだろう。かつてトゥリアの頂点にいた彼にこう言ってしまうのは失礼なのだろうが、彼の考えは可愛い。そして、行動原理がとてつもなく単純だ。ただ、フェリシアはディアくんの真っ直ぐすぎる愛全てを享受できているわけではなかった。それはひとえに、純粋な気持ちの中に美しいまでに隠された残虐性を理解できていなかったからに他ならない。勿論、それが自分にも言えることだと彼女はまだ露ほども知りえなかった。のちに首を絞めていくことになるなど、夢にも思っていなかったのだった。今はただ彼の曲がらない直線的な愛を微笑ましく思うだけだ。
日はすっかり昇ってしまっていて朝露の煌めきは乾きに乾いているだろう。

「……うん、うん! そうだね! アメリアちゃんは深い愛に向き合ってるかわいい子。ディアくんと通じあったっていうのは……きっと、貴方の無償の愛を彼女の等身大で受け止めてくれたってことなの、かな。結婚したんじゃなかったんだ。あーあ! びっくりした!」

 浅く頷きつつディアくんの甘い言葉に耳を傾ける。貴方の言葉を吟味しながら、パズルを組んでいくようにひとつひとつ丁寧にピースをはめ込んでいく。会話が得意なエーナの真骨頂と言っても過言ではないだろう。こちらを見て! と言わんばかりに美しく開く花弁をを見るだけじゃなくて、地中に埋まる根にまだ目を向けるんだ。
 話の根幹を理解して分かった。
 きっと望みを叶えることにこれだけの喜びを感じられる人は世界中どこを探してもきっと見つからないだろう。そうして私が、ハッキリ言って無条件の愛をなめていたことも。温かな心を持っているディアくんだからこそ、愛することに深く悩むのだろう。頭をできる限り回転させながら、彼にどう声をかけていいのかだけを探していた。これはきっと、優秀すぎる彼の"元"になる話だと気づいたから。

「ディアくんは同じくらい……いや、気持ちが溢れ出して止まらなくなるくらい、みんなのことが大好きなんだね。だからいいところも、悪いところだって、言葉通りその子の全部受け入れて大事にしてあげたいって、愛してあげたいって思ってるんだね……きっとそれは、貴方にしか出来ないことなんだよね……凄く、すごく素敵だね。」

 ディアくんと絡めた細い指に力が入っていた。だけど彼の言葉は、いつになく集中して静かに聞いていた。ダイヤモンドの小さなカケラを生身一本だけで拾い集めるみたいに、ペリドットの大きな瞳はターコイズブルーを焼けるくらいに見つめている。清らかな水が流れるようにさらさらと紡がれた愛溢れる言葉たちを見逃さないように。言葉の糸が彼の信念を編んでいく。彼がみんなの望みを叶えるのなら、私はヒーローとして、できる限りの愛を伝えたいという彼の希望を叶えてあげたいと思った。

「もし、ディアくんがみんなを純粋な愛で包んであげたいって思ってるなら、私も協力したいな。あわよくば、貴方のためだけにそうしてあげたい。恋人と同じで、ヒーローも、応援されたくて人を守ったり、助けたりしている訳じゃないから。貴方が辛い時は、悩んでるときは、私が傍にいるから。
 あわよくば、ディアくんが探しているものを一緒に探したい。悩みたい。……力に、なってあげたい。お返しが欲しいとかそういう意味じゃなくて、ただ一人きりで戦って欲しい訳じゃないから。」

 「あなたと一緒じゃないかもしれないけど、私もみんなが大好きで、守りたいと思ってるんだよ?」なんて、貴方に言い聞かせるように話した。その後は繋いでいない手で貴方の頭をそっと撫でるだろう。

《Dear》
「あぅぅ……はい、ごめんなさい……可愛いな、かっこいいなって、愛おしくなっちゃうと、つい……よく怒られてしまうんだ、気をつけなきゃ……フェリシアも、いや、だった?」

 フェリシアの強く優しい言葉に、素直にしょんぼりと瞼を伏せる。ディアにとって、愛とは呼吸であり。愛を囁き、伝えることは言語の一つだ。それを抑制することは、手足に枷をつけられるようなもの。それでも、恋人に悲しい顔なんてさせたくない。フェリシアが私のために諭してくれたことを、無駄にすることはあってはならない。だって、ディアは恋人なのだから。
 上目遣いでうるうる見つめて、濡れた子犬のように哀愁を漂わせる瞳はとても可愛らしく、庇護欲を掻き立てるものだった。ディアはコアの奥の奥まで、指の先まで、恋人として設計されたドールなのだ。情けなさも、弱さも、涙も、全てがディアの強さの象徴だった。

「——本当っ!? ああ、とっても素敵! 私は今この地球上で一番に、最高に幸せなドールだよっ、フェリシア! いつだって勇敢に立ち向かう、決して逃げない我らがヒーロー! 好き、好き、愛してる、キミは幸福の妖精さんだね! 私たちは一人じゃない、みんなで一緒に歩んでる! 戦隊ヒーローってやつさ、ヒーロー・パープル! ああ、フェリシア、キミが好きだ! キミの全部が好き、今までも、これからも、ずっとずっと好き! 愛してる!」

 ぱあっ、と花が咲いた。かわいくて、かっこよくて、キスをしたいと脈打つ鼓動の代わりに。フェリシアの愛に精一杯に応えるように、その手に甘えたに柔い髪を押し付けた。愛おしそうに目を細めて、いっぱいいっぱいに笑うディアは、とても、とても可愛らしい。高い洞察力と傷ひとつない玉肌、誰もが見惚れる美しい容姿。あの日、トゥリアモデルの頂点に立ったクイーンドール。
 彼はトゥリア元プリマドール。誰よりも洞察力に優れたドール。誰よりも愛に溢れたドール。——ディアは、フェリシアの残酷ささえも全て知っておきながら、彼女の全てを愛している。
 その軋轢が、歪が、いつか二人に壁を作るとしても。弱さも、愚直さも、カッコ悪さも、全て呑み込み、光としてしまうディアの太陽に。希望の淵に、引き摺り込まれる以外に未来はない。強大すぎる光の前に、影に逃げ込むことさえ許されず。10万ルクスの希望に、焼き殺されるのをただ待つだけ。ディアと共に歩みたい。ディアのそばにいたい。ディアの深淵を覗きたいと望む度、深淵もまた、そちらを覗いている。

「共に世界を救おうじゃないか、フェリシア!」

 フェリシアが、そう望んでくれたこと。ヒーローであり続けることを選んでくれたこと。愛しい愛しい、生命の軌跡。——私、ずうっと忘れないからね。

「……そ、そんな目で見つめられたら怒るにも怒れないよぉ……甘え上手さんなんだから。よしよし。
 いやじゃなかったけど、びっくりしたから今度からはしないでね? またされたら冗談抜きで溶けちゃうだろうし。」

 くっ、悔しい。涙目なディアくん超可愛い。案の定フェリシアは彼の行動すべてを許したのだった。何か言ってあげようと口を開いたが、目の端に儚い雫を浮かべて自信なさげに見つめられると頭の中が真っ白になるようで、ただ形の良い小さな唇をぱくぱくと動かしただけだ。がくっとわざと大仰に肩を落とすフリをすると、若干恨めしそうに目を細めるのであった。

「わっ! ……ふふっ。ありがとう!
 私もディアくん好きだよ!」

 こんなにも喜んで貰えるなんて、ヒーロー冥利につきる。手に吸い付いてくるようなディアくんの髪を撫でまわし、自然に頬が緩んでいたのか口元にはいつの間にか満開の咲いていた。間違いなく彼はフェリシアよりも優れたドールで自分の知らない悪い所でさえ全てを抱えて好きでいてくれて、無条件に愛を注いでくれるのだろう。だがそれはきっと、内に秘めたヒーローが許さない。誰よりも泥臭くて、誰よりもカッコイイのがヒーローであるはずだから。守ることはあっても、傷つけることは絶対にしたくない。フェリシアは、まるで赤ちゃんをあやすように微笑んでいた。先程まで憂鬱な気分になりかけていたこの時間を、心に刻むように。もしこの二人に大きな溝ができることがあっても、フェリシアは断じてディアくんを見捨てたりしない。可能であれば、貴方の傍で無理をしていないか見てあげていたい。無茶をしがちなところは、きっと"私"とどこか似てるから。ヒーローが彼女の中の究極のエゴだと気づくまでは、きっと真っ直ぐに突き進んでいける。

「……………」

 それは、どこかで聞いたような、台詞。いや。いちばん大切な、大切な思い出。『あの人』に出会ったときに言われた、人生を変えてくれた言葉。貴方の頭から手を離すと。その手を握りしめた。拳を大きな瞳でじっと見つめる……。

「──救おう、世界を。」

 踊って、踊って、ヒーロー人形。
 モラトリアムの輪の中で。どうか、あなたや、あなたの身の回りが、笑顔で溢れていますように。
 少なくとも、大きな声で助けを呼べる状況でありますように。

《Dear》
「ふふっ、らじゃー! 次からはフェリシアへのキスは、いいよって言ってもらってからにするね!」

 フェリシアの複雑な思いなど露知らず、びしっと小さな手を敬礼の形にして、嬉しそうに微笑む。嘘も、計略もない真っ直ぐな愛。哀れみも共感も持たぬ、残酷な愛。ディアの美しい光に照らされて、青い花は微笑みを浮かべた。森は祝福し、風は頬を撫で、世界の全てが、二人の行く先を見守っている。そんな気さえ、させる。この空も、この風も、この箱庭の全てが、全部、全部、偽物だというのに。ここに正しいものなんて、何一つないのに。正義が交わる。愛がぶつかる。日は落ち、月は昇り、今日も誰かが死んでいる。——どこへ行けばいいのかなんて、誰にもわからないままで。
 ディアはただ、信じている。永遠に続く光の道を、皆で歩み続けるこれからを。望みが叶う瞬間を。ただ、愛している。怖いくらいに、かわいい恋人。世界を愛し、世界に愛された少年は、願う。キミに贈り続けよう、なんでもない日常を。ここで知った、ここで生きた、ここで愛した幸福を!

「お話ありがとう、フェリシア! とっても楽しくって、とっても幸せで、とっても愛おしかった! 出会ってくれてありがとう、生まれてきてくれてありがとう、約束してくれてありがとう! キミに会えてよかった! ふふ、ほんとしあわせ……とろけちゃいそう。
 ——ね、最後にまたねのキスをしても? いいよだったら、目を閉じて? おねがい、フェリシア」

 また約束しようって、約束を交わすような。そんな馬鹿げた夢物語が、正夢になるその日まで。髪が揺れる、視線が交わる、聞こえるかな? 私ったら、こんなにどきどきしてるの。フェリシアに出会えて、愛してもらって、肌がとろけちゃいそうなの。ねえ、フェリシア。私のキスで、私の愛で、私の言葉で、キミとずっと話がしたい。

「はーい……って、私にまたちゅーするつもりなの!? 何度も言うけど、えーっと、……。

 そ、そんなに見られると断れなくなるじゃん! ディアくんずるいよぉ……」

 恋人……後先を考えない、どこまでもストレートで底を知らない愛情の原点はきっとヒーローのそれと同じものだと思う。しかし、彼の何気ない言葉に、未熟なドールは心を揺さぶられるのだ。全てを包み込む……否、飲み込んでいく大波みたいに、ディアくんの言葉は、フェリシアの鼓動を少しずつ高めていく。だがそれを安易に悪いことだと決めつけるのはお門違いである。波の中心に放り出されないように必死に命綱を握り、溺れないようもがいた先に、希望という二文字があると理解していたからである。門出を祝福するような風がふたりの髪をさらりと撫でたかと思うと、遠くの方へ駆け抜けていった。この場所が嘘で塗り固めてあろうとも、存在している光は、絶対に消え失せることはない。その光はきっと、先が露ほども見えない不透明な未来でさえも明るく照らしてくれる。
 ── みんなを愛するのが恋人ならば、守るのはヒーローだから。
 何気ない笑顔を、守りきってみせるんだ。

「うん! 私もディアくんと話せて良かったよ! さっきも言ったかもしれないけど、なんだかすごく元気を貰えたんだ。ありがとう!!

 え?! またあれするの!?
 ……やだって言ったら……わぁー! もうそんな顔されたら断れないに決まってるでしょー!」

 途端に顔をへの字に曲げたフェリシアは断りたげに言葉を返すが、やはりディアくんの甘えるような顔には逆らえきれなかった。甘やかしてるという自覚はあるも、それに抗う術を知らないのだ。

「……うん! 腹を括るよ!
 いいだろうっ、よし来い!!」

 まるで対戦相手に挨拶をするように、ぎゅっと目を瞑った。

《Dear》
 ちゅ、と瞼に伝わる、唇の体温。泣きたくなるほど熱い、愛の温度。フェリシアと一緒に、ペリドットの見てきたもの、生きてきたもの、愛してきたものまで、丸ごと愛してしまうような。泣きたい時は、助けを呼んで。一緒にたくさん泣くからね。笑いたい時は、妖精を呼んで。一緒にたくさん笑うから。生きたい時は、ちょうちょを呼んで。みんなでお花の蜜を吸おう。死にたい時は、私を呼んで。全部愛して、ずっと愛して。言葉がなくても、きっと伝わるはずだから。私たちはずっと、全部、全部大丈夫なんだって。——遠い悲鳴を置き去りにして、甘やかな夢が瞳を犯す。

「ふふ、またね、フェリシア。私たちの可愛いヒーロー」

 耳元で熱を囁いて、そっとローズマリーの髪を撫でる。立ち上がる。未来へ向かって、歩き始める。141cmの小さな背中は、凛と強く輝いていて。大人びた夜の煌めきを背負い、軽やかな足音を奏でていた。が、スマートな立ち居振る舞いから、一転。くるりと振り返り、ぶんぶんといっぱいに手を振りながら走り去っていくその様は、拍子抜けするほど可愛らしく。ディアは最後まで、恋人としてあまりにも完璧だった。——そう、ディアは恋人だ。どうしようもなく、残酷なまでに。フェリシアに声をかけられれば、すぐに全力疾走で戻ってくることだろう。花を踏まないように飛び跳ねながら。

【学園2F 合唱室】

Rosetta
Felicia

《Rosetta》
 フェリシアと手を繋ぎ、ロゼットは合唱室に向かっている。
 足取りは軽く、表情には少しの焦燥も見られない。

 「最近、歌の練習を始めたんだ。フェリシアにも聴いてほしくて」

 話の内容も、なんてことのない内容だ。実際のところ、歌の練習など微塵もしていないのだが。
 歩き出す前に、「大事な話がある」と話してはおいた。おおよそここの深淵に近付くような内容であることも、相手は察しているかもしれない。
 部屋に着き次第、誰もいないことを確認し、ロゼットは口を開くだろう。

 「私たちに発信器がついてるの、知ってる?」

「はいは〜い! ロゼちゃんのお歌、楽しみだな!」

 ロゼちゃんの優しい手に導かれながら明るく言葉を並べるフェリシア。しかしその顔に浮かべられた微笑は状況に似合わない程に儚げで、繊細な硝子細工のような危うさがあった。自身よりも圧倒的に洞察力のある彼女が周りの目を気にすることなく飄々と歩いていることもあるのだろうが。何より、温かい彼女が居るという安定感がフェリシアを素直にさせているのだった。部屋につくと貼り付けていたような笑顔は消え、代わりにゆるりと首を傾げて貴女をじぃっと見つめるのだった。

 大事な話、つまり、そういうこと。

 だから、ロゼちゃんが何を言っても驚かないつもりでいた。静かに開かれた口がどんな動きをするのか分からない。ただ、分からないことが少し怖かった。

「あ……うん。発信機、やっぱり、付いてるんだ。身体のどこにあるのか分からないけど、存在は知ってたよ」

《Rosetta》
 自分の前でだけ、以前のように笑ってくれるフェリシア。
 それを喜ぶべきなのか、もう少し別の感想を持つべきなのかはまだ分からない。
 少なくとも、今話に出すべきではないのかもしれないと思った。自分のためにも、相手のためにも。
 発信器を知っている──というのは、おおよそ想定できることではあった。
 アストレアのお披露目を一番初めに聴いたのも彼女だし、柵越えがバレた理由のひとつとして挙げることもできるだろう。
 円滑なコミュニケーションはよいものだ。今のような、重苦しい空気の中では、特に。

 「よかった。私、ブラザーと一緒にそれを探してみたんだけど……それっぽいモノを見つけたから、伝えておこうと思って」

 赤薔薇は優しく微笑む。

 「目を閉じて、フェリシア。教えてあげるから」

 接吻のための唇を錯覚させるような、甘い声が告げた。
 相手が目を閉じたなら、そっと片手を伸ばすだろう。そうして、瞼越しに右目に触れ、違和感を教えるはずだ。

 発信機の存在をすんなりと告げてくれたのも、私がそれを既に知っていると気づいていたのだろう。ロゼちゃんは表情を表に出すことが少ない。普段はゆる〜い微笑みを浮かべているか、真顔である。緊張する場面において大切なのは何が、ではなく、変わらないものが確実にそこにあることだった。
 相も変わらず彼女の表情から感情を読み取ることはできない。しかし、それがかえってフェリシアのざわめきを落ち着かせていく。
 大きな衝撃を、和らげていく。

 だけど、そこにあるはずの声は、未だに出ないままだった。
 代わりに声にならない声と、驚くべき事実が、一瞬で脳を支配していった。

「ぇ…………みつ、けた?」

 感情の叫びが、けたたましく警告音を鳴らす。やっとのことで絞り出した言葉は、それだけだった。
 ぽやぽやしたフェリシアを覚ましたのは、ロゼちゃんの酷く甘やかな声。普段聞かない声音にぴくっと肩を震わせたが、言われた通りに瞼を閉じるのだった。

「……ん。」

 ── 柔らかい。
 触れられたのは、右目。

 集中させると、かすかに違和感のようなものを感じる。ほんの僅かな感触だった。

「みぎめ……えぇ? ……ほんとに??」

 うるり。ペリドットの両端に煌めきを添えた。驚きと、悲しみと、衝撃と。これじゃ、瞳を取るしかないでは無いか。力なく見上げるフェリシアのそれは、普段なら意地でも見せることがない、弱気に涙を浮かべる姿だった。

《Rosetta》
 「ほんと。発信器じゃなかったとしても、何かあるんだと思うよ」

 そう言いながら、手を離す。
 相手の瞳に涙が満ちるのを見て、ロゼットは目を丸くしたようだった。
 まるで、相手がそうすることはないと信じていたかのように。

 「痛かった? 痛かったなら、ごめんね。お兄ちゃんにした時は大丈夫だったんだけど……」

 指の背で、そっと零れそうな雫をすくう。
 ブラザーはいつも通りに見えたが、力加減を間違えてしまったのだろうか。もしも傷が付いていたら大変だ。

 「痛くなくても、びっくりしちゃったかな。私もびっくりしたんだ、もうちょっと取りやすいところについてると思ってたよ」

 優秀なトゥリアでも、どう慰めたらいいのか分からないことだってあるだろう。
 彼女は淡々と、類推した感情を口にした。例え返事がゆっくりでも、違う話題だとしても、いつも通り耳を傾けることだろう。

「痛いわけじゃないの! ……その、そう! びっくりして!!」

 涙を拭かれたような動作をされ、咄嗟に一歩後ろへ。ごめんごめんなんて言葉を軽く繰り返しながら腕でがしがしと目を擦る。貴女が驚いたような表情を見せると、ほんとに何やってんだ。と自分に平手打ちをしたくなるくらいに惨めな気持ちになるのだった。こうしちゃいられないと分かってるはずなのに。そうこうしている間に、全部が動いてて、手遅れになるかもしれないのに。何を呑気に泣いているのだろう。だが、ロゼちゃんの気遣いに甘えている自分がいることを自覚すると、やるせない気持ちにもなる事も事実だった。フェリシアの弱った心には、思いやりの言葉でも励ましの言葉も殆ど効かない。効くのは恐らく、経緯に至った事実確認だけだ。共感されることに恐怖を感じていることが起因していた。ヒーローは、強いから。

「ぁ、はは……覚悟はしてたけど、
 厄介な場所にあるんだね〜……身体の中じゃないだけ、マシなんだろうけどさ」

 ふぅ、とひと呼吸おくと、何事も無かったかのように話し出した。その言葉の中に、得体もしれない羞恥心があったことを悟られることがないように。

《Rosetta》
 誤魔化されたような気がして、赤薔薇は首を少し傾けた。
 ただ驚いただけであれば、隠す必要なんて何もないのに。
 全く違う感情を抱いていても、ロゼットは拒まない。それを口に出したとしても、信じてもらえるかは分からないが。

 「そうだね。もしもコアや頭の中にあったら、本当にどうしようもなかったと思う。眼球を取り外す道具があるのかも分からないけれど……」

 まだ許容できる、というつもりで。とりあえず、彼女は肯定を返す。
 フェリシアの中では、まだ“びっくり”の余韻が尾を引いているのかもしれない。いつものように振る舞う姿は、怪我をした子うさぎを思わせた。
 ──ヒーローはこの程度で折れないし、諦めるはずがない。
 そう信じてはいるけれど、やはりどこか不安になったのかもしれない。

 「フェリシアは、怖い?」

 脈絡なく、ロゼットは問いかける。
 それは今のトイボックスについてかもしれないし、“お披露目”についてかもしれないし。目の前に横たわっている、全ての苦しみについての質問かもしれない。
 具体的にはしないまま、彼女は瞬きをする。隠したモノを見透かすように。

 「怖いだけじゃなくて……胸が痛いとか、寂しいとか、そういうのでもいいよ。そう思うようなことがあったら、聞かせて」

 抱き締めるだけでもいいよ。
 そう言って、彼女は腕を広げた。特に言うことがなければ、ちょっぴり落ち込んだように元の姿勢へ戻るだろう。

 首を傾げる貴女に向かって、ヒーロー"もどき"は曖昧に笑った。
 恐怖も、羞恥も──潜める孤独も誰にも悟らせる訳にはいかなかったから。フェリシアは正直者だ。
 所詮、温室産まれの温室育ち。
 必死に目を背けようとも、そこにある事実は変わらなかった。
 ……変えようがなかった。という方が正しい。

「目なら……頑張ったら外せるよね。道具がなければ、作ればいいと思うし。厄介だけど、やりようが無い訳ではない、よね?」

 自分に言い聞かせていた……というよりは、ロゼちゃんに事実確認をしていた。疑問形なのは、回答を彼女に預けたことに他ならない。思えば、自身はいつも大きな選択を突きつけられていたのかもしれない。あの夜、小さな"あの子"を置いて、逃げたことも。たくさんの選択が積み重なって、絶望的な状況を呼んでいるのなら、私は……。

 私は……舞台から降りた方がいいのかもしれない。

 ある意味、ひとりよがりな思考。ポジティブに考えたい、と思う。だけど、環境がそうさせてはくれない。いつも応援して、支えてくれる存在が目の前にいるのに、今のフェリシアには見えていなかった。そういう点で言えば、少女に傷ついた子うさぎと言う比喩語はぴったりと合っている。ひとりの世界に塞ぎ込む愚かさを分かっていながら、そうすることしか出来ない自分に嫌気がさすのだった。

「……………」

 〝怖い?〟 ── 怖いよ。
 〝寂しい?〟── 寂しいよ。

 怖い寂しいし、……苦しいよ。

 毎晩ベッドに入ったら、このまま死んじゃうかもって、不安になる。

 助けられなかったあの子が、涙を流してこっちを見ている。
 "ヒーローなのになんで助けてくれなかったの"って。

 あの日からずっと、私は、他でもない自分に嘘をつき続けてる。
 無意識のうちにずっと、免罪符を求めてるんだ。

 そして、

 〝綺麗に死ぬ理由〟を探してる。

「……だめだよ。ロゼちゃんはこっちに来ちゃ……だめ。……こないで。
 おねがい。おねがいだから……」

 ── 貴女だけでも幸せでいて。
 そんな無責任なこと、言えるはずがないのに。広げられた腕に、飛び込んでいきたい気持ちを必死に"無かったことにする。"

 ぜんぶを放棄して、からっしの気分で空を舞いたいだなんて、言えるはずもない。

 余裕なさげに拒否したフェリシアは、さりげなく片腕を掴むように腕を組んでいた。

《Rosetta》
 絶望を口にするのは簡単だが、希望を信じ続けるのは難しいことだ。
 優秀なプリマドールさえも壊される箱庭で、皆が投げやりになってしまわないのは、まだ微かに光が見えているからだ。
 誰かがそれを見失いそうになったら、その方向を指し示してやるのも友達の仕事だろう。

 「何にも手立てがないわけじゃないよ。他の子が方法を見つけてくれるかもしれないし、案外あっさり目も取れるかもしれない。今すぐどうにかするのは難しいだけで、時間をかければ何とかなると思う」

 楽観視しすぎだと言われてしまったら、きっとロゼットも反論できないだろう。
 だが、まだオミクロンクラスには仲間たちがいる。
 アストレア以降はお披露目に誰も選ばれないかもしれないし、まだ諦める時ではないのだ。
 翳りを帯びたペリドットを、鏡はずっと映している。
 その双眸から離れたところで、思い詰めてしまわぬように。たったひとりにならないように。

 「こっちって、どこ?」

 一歩を踏み出す。
 来ないでほしいと言われても、知ったことではなかった。
 相手がいる場所に、天国も地獄もない。フェリシアがいるだけで、ロゼットには十分行く意味がある。
 トゥリアドールは、柔らかい腕でヒーローを抱き寄せた。

 「私は、フェリシアの傍に居たいよ。言えないことがあるなら、言わなくたっていいんだ。一緒に茨の道を歩いて、同じ傷を背負って、同じ棺で眠ろう」

 ヒーローが皆の苦しみを背負うなら、赤薔薇はたったひとりのための花になろう。
 その涙を拭い、寄り添って、共に夜明けを待つ、あなただけのドールになる。
 ──だから、そんなことを願わないで。ひとりぼっちは、暗くて寂しいよ。

 「お披露目に選ばれても、フェリシアを置いていったりなんてしない。壊れる時も、きっと一緒に居るよ。約束する」

 あの日の植木鉢のように、絶望で陶磁の身体が砕けるとしても。
 大好きな妹のように、海の底で火に呑まれるとしても。
 その時は、きっと彼女も一緒だ。

 「信じて、フェリシア」

 だって、ふたりは友達だから。

「確かに……そうだよね。きっと、何とかなる。……うん。何とかなる。」

 朧気で、されど蜜の味。柔らかなその言葉を噛み締める。大事に大事に咀嚼して、納得するように呑み込むのだった。何とかなるから大丈夫。ロゼちゃんが言うのならきっと平気。これが、〝正解〟。


 貴女が"こちらへ来ること"を拒絶したフェリシアは、無言が続くなか、一歩だけ距離をとるとその場所で立ちすくむ。……空気が肌に触れる音が聞こえてくる気がした。気まずそうに目を伏せる虚ろなペリドットは、すり。と掴んでいた左腕を撫でるのだった。

 幸せな部分しか見てなかった頃、何も疑うことなくまっさらに希望を信じられていた。悲しんでいる子を助けられるヒーローになりたくて、真っ直ぐに進んで行けた。だけどその正体は、嘘で塗り固められた箱庭で見せられていた幻想に過ぎなかった。だからこそ、絶望から抜け出す方法が分からない。足掻き方が、分からない。

 がむしゃらに突き進んだとて、先にあるのが苦しみだけだったら?

 選択を間違えていたら?

 残るのは、打ちひしがれた心と、ぼろぼろにされた身体だけだ。

 だから、怖い。どうしても、自分のせいで誰かが傷つくところを見たくない。ヒーローという仮面を被った我儘が顔を出す。嫌だ嫌だと駄々をこねる。守れる力がないと、知っておきながら。それでもみっともなく泣き喚いて叫び続ける。諦めたくないのだと、永遠に。

 複雑な感情の制御ができそうにない。どうしよう。逃げたい。走り去ろうかと思った矢先、中途半端に作り上げた脆い壁を突き抜けて来たのは……他でもない。かつて、自身が守ってあげる! とまで言って躍起になっていたロゼちゃんだった。

「………!」

 抵抗する間もなく、温もりのある身体に抱き寄せられる。
 ひたすらに来ないで欲しかった。落ち着いてから向き合おうと思っていた。だから、だから───

 来ないで(助けて)欲しかった。

「だ、だって、ひーろーはひとりでみんなを救う存在で……守ってくれて。わたしも……そんなドールになろうって……それで。

 だけど、ミシェラちゃんが!
 あの夜、ミシェラちゃんが……助けを求めてたのに。見放して、わたしだけ逃げて……そんなの、そんなの……ひーろーじゃない。わたしはヒーローになりきれない。

 だから、ロゼちゃんに傍に居てもらう資格なんて、わたしには最初から無かったの! こっちに来ないで……! あなたまで失う訳にはいかないの!!!」

 甘い言葉に絆されたくない。絆される権利なんか、ヒーローじゃない私にあるわけがない。捲し立てるように激情をぶつけることしか出来なかった。気づいたときには、堰を切ったように泣き叫んでいた。横髪が張り付いているのを気にも止めず、しゃくりあげながら、溶けだした本音と涙を手の甲で強引に拭っていた。口では来ないでと言いながら、フェリシアは貴女の腕からも、身体からも離れようとしなかった。ぴたりと寄り添ったまま、肩を震わせている。

「ロゼちゃんは……ずっと、一緒?
 お互いの崩壊まで、歩んでくれるの……?」

 囁くように向けられた声。その言葉に手を止めたフェリシアは、目を見開いてぽかんと貴女を見つめる。いきなり目を開いたため、大粒の涙が頬を伝った。

「……やくそく。
 わたしは……こんなので、未完成で、みっともなくて、ヒーローになれないかもしれないけど、前を向いても、いいのかな。
 つまづいて簡単に転ぶような愚か者だけど、貴女の……ロゼちゃんの隣にいて、いいのかな。」

 ぽつ、ぽつ。……ぽつ。
 大雨を知らせる小さな粒のように言葉が出てくる。それは、今後、濁流になろうとも共に居てくれるのか、という確認だった。反してそれは、貴女が居てくれるだけで、前へ進めるのだという隠れたメッセージでもあった。

 コアが再び、甘く鳴る。……開始のゴングのように。何が始まるのか分からないままで。

《Rosetta》
 フェリシアの悲鳴を、祈りを、問いかけを、ロゼットは黙って聞いていた。
 服が汚れるだけで、彼女が全てを吐き出してくれるなら安いものだ。何も聞けずにすれ違うよりずっといい。
 少女ドールの呼吸が落ち着いてから、赤薔薇はゆっくりと息を吸い込んだ。

 「確かに、フェリシアはいつもみんなのために頑張ってくれてるよね。私もたくさん助けられたし、頼りにしてる。
 でも、みんなを助けることができるからヒーローになるわけじゃないと思う。みんなを助けたいって、守りたいって願えるから、ヒーローになれるんだ。
 もしかしたら、アストレアも、他のドールたちも助けられないかもしれない。頑張っても報われなくて、踏み躙られて終わりかもしれない。
 それでも。何があっても、みんなを守りたいと思うなら……フェリシアはヒーローなんだ。資格なんて、いらないんだよ」

 フェリシアの頭を、壊れ物を扱うように撫でた。
 ヒーローは皆を守る存在だ。
 希望の体現であり、膝をつくことは許されない、不動の守護者だ。
 なら、誰がヒーローを守るのだろう。ヒーロー自身に向けられる悪意から、誰が庇ってくれるのだろう。
 ──できる者がいるとすれば、それはきっと自分だと、ロゼットは信じている。
 彼女に降りかかる苦難を、悪意を、全て退けて。両手いっぱいの幸せを、ヒーローへの労いのように振りまこう。
 ハッピーエンドを迎えるまで──あるいは、自分が討ち倒される日が来るまで、きっと。

 「悪い子でも、未完成でも、あなたはあなただもの。それ以上に理由なんていらないよ。転んだら何度でも起こしてあげる。だから私を頼って、フェリシア」

 大切なことは、まだ口に出せていないけれど。
 トゥリアドールのロゼットは、柔らかな笑みを浮かべてみせた。どんな荒波も受け止める、大海のような笑みを。

 耳朶に触れるは、棘のない赤薔薇のささやかな詞たち。そこは、決してフェリシアを傷つけることがない、綿毛とお砂糖だけで包まれた空間。瞳を見開きする度に瞬きは頬を伝い、力なくロゼちゃんに寄りかかっている。全てを打ち明けた。すべてを、さらけ出した。残ったのは……残念で無体な身体……。
 だけじゃなかった。
 慣れない手つきで甘えるように、すり、と貴女の頬にウィスタリアの髪をそっと添わせる。

 それは、ひだまり。
 それは、しるべ。

 それは、かえれるばしょ。
 おだやかに、すごせるばしょ。

 ── 心から、安心できる場所。

「……………わたしは、ヒーロー?
 私が、ヒーローって名乗っても、ロゼちゃんは怒らないんだ。

 ……そっか。

 ……そっかぁ。……ふふ。そっかぁ」

 みんなを守りたいって思うだけでロゼちゃんの中の前ではヒーローって名乗っていいんだ。

 ……そっかぁ。

 涙に濡れたままの好調した頬で、さくらんぼを零したような微笑みを浮かべ始めた。心から欲しかった言葉を、赤薔薇は驚くほど呆気なく言ってのける。なんて、面白いんだろう。面白くて……びっくりして……こんなにも嬉しい。

「ど、どうしようロゼちゃん……私、こんなに幸せでいいのかな。でもロゼちゃんに負担かかってない?
 ……私ばっかで、申し訳ないや。

 だけど……いや。なんでもない。
 ありがとねロゼちゃん。これ以上ないってくらいに貴方の隣が心地いいや。……えへへ。」

 未完成の私でさえも目の前の彼女は認めて、支えてくれる。どんな面も受け入れてくれる、かけがえのない大好きな友だち。ロゼちゃんの笑顔は、今まででいちばんってくらいに頼もしく見えた。彼女とならきっと──きっと。何処までも羽ばたいていけるよね。
 ふたりなら、ね……。
 だから……あわよくばずっと一緒にいたい。でも、ぬくみを手放すのはそれ以上に怖くなっちゃうだろうから、今は秘めておこう。私が胸を張って、どんなことからも貴女を守るよって言えるまで。
 ヒーローだよって、言えるまで。

《Rosetta》
 笑ってくれたなら、もう大丈夫と見ていいだろう。
 フェリシアの口角が上がったのを見て、赤薔薇の顔も綻んだ。
 彼女は羽根のように軽い。トゥリアは抱き止め続けていたが、それもなんてことないように思えた。

 「全然気にならないよ。今まで助けてもらっていたのは私の方だし、こういう時こそ力になりたいもの。
 ……私も、いつかみんなの負担になるようなことを思い出してしまうかもしれない。その時は、一緒に乗り越えてほしいな」

 お願い、なんて。
 切実な内容にしては、まるで変わらない声色で、彼女は口にする。
 逆に言えば、それ以上に求めることなどないのだろう。太陽はそこにあるだけで、十分すぎるほど暖かく、道を照らしてくれるのだから。

 「それじゃあ、そろそろここを出ようか。あんまり長居しても怪しまれるからね。また辛くなったら、いつでも聞くよ。何もなくても話そうね」

 名残惜しそうに、ゆっくりと身体が離れる。
 フェリシアの手指に、ロゼットは指を絡めて、恋人のようにしながら部屋を出て行こうとするだろう。

【寮周辺の湖畔】

Storm
Felicia

《Storm》
 草花の合奏。
 オーケストラの指揮者は暖かい南風。
 今となってはのどかな日常を創り出す演出に過ぎないのに、追い風だと言わんばかりに背中を押してくる。
 ストームは風の織り成す演奏を避けるように地面に身を投げた。
 紳士とて、だらしなく振る舞う瞬間はあっていいはずだ。
 15歳という精神年齢に設定されている少年なのなら尚更に。

 テーセラドールらしくのびのびと自然と戯れる。
 微かに聴こえる風のオーケストラ、湖の波紋。
 ─―奇麗……。
 最近のトイボックス、いやオミクロンクラスはどことなく空気が重い。それに流れる時間も早い。
 頭の壊れたストームであっても感じていた。
 ただのどかに、ただのんびり、目を瞑り、時間に身を任せる。

「……おや、可愛らしいお嬢さん。
  貴方様もつかの間の休息にここへ?」

 草を踏み分ける音を最後にオーケストラは止んだ。
 ストームは寝転んだままに来客に目を向ける。

 忙しなくさざめく草花に導かれるようにその少女は歩いていた。
 揺られたウィスタリアは、目的地を知っているらしい。前へ前へと毛先をたなびかせている。
 気持ちのいい天気だ。気温もそれほど高くなく、太陽はにこやかにこちらを覗いている。……嘲笑っている、の間違いかもしれないが。

 それはそうと、少女の気分は全く晴れやしない。誰もいないだろうと歩く途中で少しだけ足を止めると、ざわざわと揺らぐ木々を忌々しげに目を細めるのだった。
 普段から笑みを絶やさない少女に似つかわしくない、楽しそうでなによりですね、なんて皮肉が口をついて出るような。もちろん口には出さなかったのだが。とにかく不機嫌だった。いや。不機嫌にならざるを得なかった。と言った方が正しいか。置かれている状況を垣間見れば、至極当然と言えるかもしれないが、それはエーナとしてどうかと思うときもあるのだ。

「……御機嫌よう、ストーム。」

 こっちだよ、と急かすように広がる髪。そこに居たのは……え。会いたくなかったんだけど。考えごとをしていた少女にとって彼は若干苛立ちを強調させるものでしかなかった。なに呑気そうに寝転んでんだ、と皮肉を言ってしまいそうである。先に言っておくが、彼は全く悪くない。悪いのは感情に左右されがちな自分に苛立っていることへの八つ当たりである。

《Storm》
 包み込むような暖かい太陽の光にそぐわない面持ちのフェリシアが、そこに立っていた。
 何か物言いたげな表現、ひしひしと伝わる。
 間の空いた返事。
 半分まで下げられた瞼。
 少し低めの声色。

 ─―あぁ、彼女は本当に可愛らしいお人だ。

「一緒にいかがです? フィリー。
 最近のオミクロンクラスは重たいでしょう?
 何も考えず身を預けるんです。疲れが軽減されますよ」

 苛立ちを隠そうともしないフェリシアにストームは小さな笑い声をあげるだろう。
 体いっぱいに空気を流し込む。
 気管を通り空気を貯蔵する風船が膨らむ。
 風船が破裂しそうになる前に、体に溜まった毒素と共に空気を押し出す。
 それの繰り返し。ただの呼吸。
 ストームはフェリシアそっちのけでその行為を繰り返した。

「ねぇフィリー。夢……今の夢はありますか?」


 少年は唐突に質問を投げる。
 頭のおかしなストームらしからぬ、少年の、なんの含みもない質問。
 ただ真っ直ぐにちぐはぐの瞳で彼女を射抜く。
 答えを探すように、見つけるように。

 ゆるやかに間延びした声が南風に乗って伸びていく。しかし今は、それこそが彼女の眉を吊り上げる原因になっていた。個人的に彼には自身のつむじを曲げているのを悟らせては行けない、そう勘えては、返答を淡白に告げて足早に立ち去ろうとするだろう。

「お気遣いありがとう。ご遠慮しておくね」

 にこり、笑ったのは形だけ。足先を貴方とは反対側に向けて歩きだそうとした、そのとき。まだ、何か用があるのか、このやr……今のは訂正しておこう。どんなに腹が立っても、彼はかつてプリマドールの冠を被っていたのだから。
 しかし彼……テーセラプリマの彼の言葉にぴたりと足を止めた。いきなりどうしたというのだ、本当に。

「今の夢? 質問の意図が掴めないんだけど」

 その時の彼女の顔は、疑わしそうに、さも鬱陶しげに貴方の方を見ることだろう。なぜ? 現在の彼女を占めているのは劣等感と焦燥感と、それから、やるせない苛立ちなのだから。

《Storm》
 あぁやはり重い。やけに重い。
 水中の中に鉛を付けられて沈められているようだ。
 ストームはフェリシアの訝しげな表現を流し見て、上体を起こす。
 そのまま湖を眺めた。

「気になっただけです。深い意味はありませんよ。
 ジブン達の目指していたお披露目は殺戮の場、そもそもお披露目の会場にすら入れないドールは燃やされる。発信機もあり逃げも隠れも出来ないこの牢獄(トイボックス)の中で何を願い、何を目指しているのか。
 ……夢物語のままで終わるのか」

 手元にあった石を平行に投げる。石は湖を四回ほどステップし底へと落ちていった。
 そしてストームはストームだった。
 暖かな太陽のもとに流れる酷く冷たい南風。
 いや、南風なんて流れていないかもしれない。
 鉛を含んだ風が二人のドールの体を吹き抜ける。
 ただストームは遠くを見据えていた。

「フィリー、もう一度問います。
 貴方様の夢はなんですか?
 夢の中で眠りたいのでしたら、答えなくて結構です」


 一度もフェリシアの顔さえ見ずに告げる。
 ここ何日かでフェリシアの表情は変わったと言える。
 だが、彼女の優しさはストームには甘すぎた。
 ディアのように慈悲無き苦味を含んだ優しさとは訳が違う。何もかもを救い取ろうと奔走するどろりとして纏わりつく優しさ。
 火で炙ればよく燃えるであろう優しさ。
 焼き払ってしまいたい。
 暴風はその時を、静かに、静かに、待っている。

 美しくも模造の自然が神が作り上げし造形を撫でるころ、当の二人は怪訝な雰囲気を隠そうともしていなかった。彼が警戒しないということは恐らくその場面は誰からも見られていないのだろう。

「な、るほどね。確かに私達はずっとお披露目を夢に努力を惜しまなかった。いつか出会う唯一に手を差し伸べられるまで、幸せに生きていたんだもんね。だけどそれがレプリカの事実だと分かった今、夢を聞きたい、と。

 ……まぁ。ストームが聞きたいのは光り輝く煌びやかなドリームじゃなくて、“頑張る理由”とか“なぜ動くのか”とかいう動機だと思うんだけど。どう、合ってる?」

 答えなくて結構です、なんて言われたら余計に腹が立ってしまう。意地でも答えてしまおうとするのは、些か子どもじみた彼女の特性によるものだった。元より腹の虫が収まっていないのなら、尚更。
 フェリシアは話しかけられてからというもの全く目が合わない彼に問う。恐らくストームは、会話をしたいと思っている訳では無さそうだからだ。理論的に動機の根拠付けをしたいのだろう。詰め寄るような言い方をするのはタイミングの差異である。さじ加減を間違えないようにね、暴風さん。

「じゃあ聞くけど、ストームの夢って何? ディアくんと結婚すること……とか? 相手に質問する前に、まず自分から話すのがマナーだと思うな。」

《Storm》
 この舞台上にはストームとフェリシアだけ。
 ストームにはそれが分かっていた。
 なんの誤魔化しもなく告げ、合っているか聞く彼女の質問に頷く。その時にはちぐはぐの瞳は彼女の方に向いているだろう。
 妙な圧を与えるように。

 だがペリドットは一筋縄ではいかない。

「け、っこ……ん。ですか。
 そんな烏滸がましい。ディアは誰の手にも収まらないのですからディアなんです。あの恍惚と光る太陽に近付きすぎると身を焼かれたくはありませんからね」

 ストームの予想を超えた単語が彼女から出され、思わず気後れする。体内を流れるオイルにシロップが混ぜられた感覚に襲われる。 
 確かにストームは恋焦がれているのは確かだ。
 だが、ストームには結ばれたいなんて感情は一切持ち合わせていない。ごく一般に言われる恋とは違った。
 彼の恋心はコワれている。

 体内で対流するシロップを空気と一緒に吐き出す。
 流れる雲の映像にぐるりと目をやり、ようやく口を開いた。
 
「ジブンは……… … … …  うみ、海を見る事です」
 

 ストームは湖に目線を戻す。
 こんなちっぽけな水溜場なんかじゃなくて、地平線まで広がると言われる自ら流動を生み出す湖。
 切り取れない雄大な自然。
 作り物なんかじゃない宝。
 恐怖すら感じる青色。
 きっと奇麗だ。
 ストームはゆらりと立ち上がり服についた草や土を払いながらフェリシアの方に身体を向ける。

「その為なら火にだって飛び込めますよ」

 
 ストームは指先を胸元に添える。
 どんな犠牲を払おうと、どんな終焉になっても構わない。
 だって自然とは本来そんなものだから。
 台風の瞳は静かに真っ直ぐに彼女を見た。
 貴方様はどうだと言わんばかりに。
 夢語り少女は何を願い望む?

 紅く赫い舞台の上に、二人ぽっちの演者。ただその時間は、少女にとって永遠のように思えて。フェリシアはその刻のなかでゆっくりと瞳を閉じた。一瞬の出来事なのに、やけにそれがドラマティックに映るのだ。

「ディアくん相手なら光源に焦がされたとて、これ以上の幸せはないってくらいに踊らされるのが貴方でしょうに。」

 貴方なら彼女がぼやかした言葉を余すところなく聞くことができるだろう。零すように放った針の先には、間違いなくあなたがいる。恐れ知らずに煽るような行動理由も、彼女の現在を心境を慮ることができれば理解できるだろう。
 しかし貴方は全く悪いことをしていないのだから。腹の虫に触っても可笑しくないだろう。

 特別な好意イコール結婚のフェリシアには、その壊れた恋心を理解するには時間も理解しようとする意思も足りなかった。感情を生み出す前に、まず興味がなかった。
 所詮、少女の決めつけである。

「……いいね。海かぁ。レプリカの自然とは違って、残酷で、境なんて無くて。……美しいんだろうな。どこまでも、どこまでも広がってるんだろうなぁ。」

 彼の夢は、酷く綺麗だった。
 しかし、刃のように鋭かった。
 一対の光は、同時に冷酷なのだと知らしめているように。
 紛うことなく、それは事実だ。
 耳を塞いでも、目を閉じても。
 世界を拒絶しようとしても、それは変わらない。

 胸元に指を向ける仕草は、誓いを立てているようで。向き合った貴方と目を合わせると、一際大きく風が吹いたような、そんな気がしていた。嗚呼。いつもの私だったら、こんなときにも楽しい夢を語れたのかな。

「ひとまずの私の夢は……ハッピーエンドを迎えること、かな。」

 それは、弄れたハッピーエンド。
 いじけて曲がって、それはきっとだいぶ歪な形をしている。だけど大事なのは、幸せな未来を守れることだから。

「だから私は、みんなと未来を生きるために戦うんだ。ひとりじゃないって分かるから強くなれるんだと思う。ヒーローは孤独に戦う人のことを言うんじゃないって。
 とある花園に咲いてた赤薔薇さんが耳打ちしてくれてね。」

 とす。ついには茂った植物の間に腰掛けた。その言葉に怒りの成分は含まれていない。夢を語って冷静になれたのだろう。暫くその辺に咲いていた花を指で撫でていたが、貴方の方向に向き直ると「いいでしょ」なんてへにゃりと綻ばせた。

《Storm》
 愛らしき共演者のお嬢様は鋭い刃を、猟奇犯相手に突き立てた。流れる雲は太陽を隠し、暗闇を演出する。
 音がこの世界から奪われた。
 ストームの顔に差し込む影はアメジストを不敵に輝かせる。

「ディアに踊らされるのであれば本望です。
 あの方の最後の瞬間の光を余すことなく浴び、焦がされ死ぬのなら世界が壊れたっていい」

 そういうストームは悠々と湖の水ですら薄氷を張ってしまう程に笑みを浮かべていた。その笑みを隠そうと口に手を添えた。ちぐはぐの瞳には竜巻を孕み、光を飲み込んでいる。彼女の皮肉は悲しきかな、ストームには忠誠心を確かめる為の言葉にしかならなかった。
 彼女にとっては、皮肉が励ましになっていようと興味すら無いだろう。
 フェリシアとストームの間の空白は拡がるばかり。

 夢を語れば、彼女はなんの否定もなしに肯定した。
 猟奇犯の夢を。それも事実かどうかすら分かりっこないのに。けれどフェリシアは暖かな木漏れ日を分厚くかかった雲から覗かせるだけの希望を見出した。
 “ハッピーエンド”。
 陽の光は広がってゆく。暖かな風が再び流れて。
 彼女は彼女なりにこの世界での戦い方を見出したのだろう。それはなんとも喜ばしい。
 腰を下ろした彼女は草花に愛された妖精のように見える。
 暖かな光を灯す彼女を歓迎しない草花はいないだろう。
 優しい歓声を上げ彼女を激励した。

「……素敵、ですね。
 何事も独りでは限度があります。
 いくら身体能力が高かろうと、世界を魅了する美貌を持っていようと、話が上手であろうと。
 そして、誰もが羨むほどの賢い頭を持っていようと」

 ストームはしゃがみこみ、白、黄色、ピンクの花を手折って湖に浮かべる。花はそれぞれバラバラの方向に流れていく。そして、最後に青い花を手折ると花弁を全てもいでしまった。
 風に乗せて青い花の花弁は飛んでいってしまう。

「おかしいですよね。始まった場所は同じなのに、みんなとハッピーエンドを迎える、ということは仲間が必要です。ですがその仲間が違う方向を向いている。
 赤薔薇さんもいずれ誰かに手折られてしまうかもしれない。それでも皆様とハッピーエンドを迎えることを諦めないと言うのなら、ジブンはお手伝いさせていただきます」

 ストームはフェリシアに向き直る。
 冷たいアメジストはじっとりと彼女を見下ろした。

 蠱惑に映じるは、紫の右眼。聞こえていたらしい声の答えを恍惚と話す性美な少年は、目隠しをした雲の下で微笑んでいた。ぞくり、背筋に寒気が走る。隠している傷に躊躇なく触れては、項に登って甲高い警鐘を鳴らすのだ。安息の時間を轟かす雷鳴のように"相手は危険だ"と、幾度となく。

「壊れちゃ、ダメだからね。貴方にしか出来ないことが、まだ沢山残ってるんだから」

 壊れてもいいくらいの盲目的な愛とは一体何なのだろう。確かに彼は魅力的で、されど可愛らしい。だがストームの言うほどまで理解は及ばない。返す言葉が見つからなかった。逸れた返答をしてしまったのは、小言を垂れた自分に対する後ろめたさだった。同時に、ストームの言う"愛"を理解したいと思ってしまった。今後、どこかで役に立つ、と思う。絶対零度の笑みをたたえる彼を理解するのは時間と手間がかかりそうだと直感的に感じ取るが、それがエーナの特性というものなのだろう。

 発せられた素敵、という言葉に目を見開いた。自分から聞いてきた割には、すんなりと肯定された事への驚きである。いつもの彼なら棘を刺してみるなり軽く否定して此方の反応をうかがうなりするだろうから。逆に同調されると、変に緊張してしまう。何を考えているのか全く想像がつかないから。

 その間も、花はゆらゆらと気持ちよさそうに花弁を伸ばしていた。風もゆらゆらと、流れていった。
 木の葉もゆらゆらと、往くままに茂っていた。

「……そうね。私もそう思う。」

 あれよあれよと手折られていく花たちを神妙な面持ちで見つめては口を開いた。簡単に折ることができるという点では、花もドールも同じようなものだ。フェリシアの近くにあった花が偶然、撫でられるだけで済んだという話。そして折られた花は偶然、ストームに目を付けられたという話である。

「この状況で一致団結しましょう、なんて言えるほうが可笑しいよ。
 それぞれの思惑があって、希望があって、目的があるんだから。
 ほら。私と貴方の夢だって、言葉にすると全く違うでしょ? だけどベクトルは多分一緒なの。収束点は似ていると思うの。言葉にすると齟齬が起こっちゃうだけで。

 私、そういうストームのこと好きじゃないけど、嫌いでもないよ」

《Storm》
 風に乗った花弁はもう元に戻らない。
 選ばれたドールはもう元に戻らない。
 こんな日常のありふれた動作に残酷な世界が広がっている。可哀想の言葉で簡単に片付けられてしまう。
 ─―一緒、いっしょか……。
 
「……それは嬉しい限りです。
 貴方様とジブンの夢の終着点が一緒だったら良いですね」

 フェリシアは好きでも嫌いでもないと言う。
 しかし、ストームはフェリシアのこういう所が嫌いだ。
 そして、愛すべきところだった。
 砂糖よりシロップより甘味でドロドロとした鎖。
 ストームという頭のおかしな欠陥品でさえ、救いとるつもりだ。このフェリシアというドールは。
 わざわざストームがここまで彼女に詰め寄るのは、きっとこの鎖のせい。どこまでもポジティブで、どこまでも頑張ろうとする彼女の鎖のせい。
 アメジストが呼んでる。
 夢見ごとを語る少女に輝かしい明日は来ない。
 理想の中で眠りたくなってしまうからね。
 そろそろお嬢さんに目覚めてもらわねばならない。


「そろそろちゃんと見た方が良いですよフィリー。
 ソフィアを、サラを、カンパネラを見ましたか?
 一人は抱え込み他のドールを巻き込むことを嫌っている。
 一人はお披露目の事なんてまるで知らない。
 一人は怯えきって口も聞かない。
 他のドールは知りませんが、これで収束点は似てると思うだなんて笑わせますね。もしかすればここに留まりたいドールだって居るかもしれません。言葉にせずとも既に違っているんですよ。
 ジブン達はそういう集まりなんです。貴方様のように精神に欠陥は見られなくとも身体に異常が見られるドールも居れば、頭の方に欠陥を抱えたドールも居る。
 綺麗事だけで片付けられないと言っているんです。

 それでも皆様と未来を生きる為に戦い、ハッピーエンドを望みますか?」

 とてつもなくシンプルな事実だ。食うものは食い、食われるものは食われる。起こっている事象自体は、実にあっさりとしていた。
 捕食者によって構築される明確化された運命だ。

 だが、私たちには心がある。
 鼓動がある。ぬくもりがある。

 泣き寝入りし、蹂躙されるだけの被食者にはなりたくなかった。
 抗って勝ち取りたいと思ってしまった。明日を生きる、未来を。
 夢とはきっと、そういうもの。

「走り出した電車は、次の駅に着くまで止まらないでしょ。それと同じだと思うんだ。目的を遂行する道が一緒なら、例え終着点が違っていても線路は一本だろうから」

 そう言いながら、たまたま運が良かっただけの花たちを眩しそうに見つめる。ウィスタリアの髪を楽しげに翻していく風にゆられて、活き活きと花弁を震わせる彼らの目的はなんだろう。マガイモノの自然を作るためだけに植えられて種を増やすことに、なんの生きがいを感じているのだろう。いっそ生きることが生き甲斐とでも言うのだろうか。背丈に見合った希望を望むこと。今はそれがいちばん幸せな事のように思えて。されどそれは、間違いなく口にしてはいけないもので。希望と苦しみの歩合を天秤にかける時間が、すこぶる勿体ないとも思うのだ。

 微睡む少女を起こすのは、柔らかな朝日でも、鳴り響くフライパンの音でもなく、冷えきった偽りのない真だった。

 おはよう、フェリシア。
 おはよう、純粋な世界。

 ごめんね、もう、眠れないね。

「ハッピーエンドってそんなんじゃない……うるさい! 言わないで!! とっても温かくて優しいものよ。幸せで……笑顔で……凍てついてなんかない! うるさい、うるさいうるさいうるさい……! いい加減現実を見ろですって? 最初から分かっているのよ! この世界は最初からおかしかった! 私たちがおかしいんじゃなかった。世界が普通じゃなかった!! ありがた迷惑なのよ貴方の言葉は! こっち来ないで!!
 耳障りな音は入れたくないの!!」

 コアの拍動が、一瞬止まった。
 いま、私、なんて言った──?

「ご、ごめ……!」

《Storm》
 後頭部をガツンと殴られんばかりの怒号。
 フェリシアはなんとも正常な反応を見せる。
 ストームを否定し、拒絶し、攻撃している。
 むしろ本気で殴られなかったのが不思議なくらいだ。

「……」

 彼女が唄うハッピーエンドはストームには気持ちが悪いほど綺麗だった。
 いいや、全ての不純物を光源で覆い隠して見ないようにしている。舞台の裏に覆い隠し、輝かしい物語のエンドロールに鬱陶しい程のスポットライトを当てているように思えた。
 電車の例えだってそうだ。
 フェリシアは考えもしていない。
 走り出した電車は止まらない。
 線路が続いていなくても、脱線しても、土砂崩れが起きても。勢いのまま潰れてサヨナラさ。
 ストームはただ黙っていた。黙って彼女を見下ろしていた。

 彼女が我に帰った時、嵐の前の静けさは終わりを告げる。

「満足して頂けました?
 好きなように怒り叫び、世界までも否定した。
 まるで現実逃避だ。
 私はこんなに頑張っているのに、世界が悪いんだ。
 私はこんなに苦しんでいるのに、否定するな。
 と? はは、傑作だ。シンデレラ気取りですか?
 いくら怒りを爆発させようが、泣き叫ぼうが勝手ですが間違った世界は変わらないんです。
 それとも魔法で解決する術を持っているとでも?
 ご冗談を」


 一歩、また一歩、草や色とりどりの花を踏み潰し猟奇犯はターゲットに近付いていく。
 ぐるぐるぐるぐる瞳は闇で渦巻き、背丈に似合わぬ小動物の顔を初めてドールとして目覚めた表情のままに固めた。
 生命を慈悲なく奪い去ってゆく嵐の風のように、じわじわとフェリシアの精神に狙いを定める。
 彼女の前にしゃがみこみ頬に手を伸ばすだろう。

 ペリドットは狼狽する。心の静けさを見失い、落ち着きを取り戻そうと更に取り乱すのだった。挑発に乗る形とは言え、口をついて出た言葉は取り返しのつかない代物だったからだ。形成が逆転する。
 ……いや。最初から、勝ち目など無かったのかもしれない。

「ぃ、いや……やだ……! やだ……!」

 上手く隠したつもりだった。真実に近い形で嘘をつけたつもりだった。誰にも見つけられないように臆病さと消えない不安を、光の中に放り込んだつもりだった。割り切ったと思いこんでいた。吹っ切れて前を向けるはずだったのに。

 どうして匙を曲げようとするの。
 どうして道を塞ごうとするの。

 邪魔しないでよ! 皆の為にやってることだって気づいてる癖に。
 手伝おうと言ったのは嘘なの?
 違うよね、違うよねストーム!! 嘘じゃないよね!?

 違うって言ってよ!!!

 ……お願い。……お願いだから。
 大切なものを壊そうとしないでよ。
 頑張るから私、がんばるから……。
 ねえ、やめてよ。やめてよ…!

 ──── 痛いよ。

「だから正そうって、頑張ろうって……私はみんなの友だちだから。
 友だちで、“ヒーロー”だから。
 傷だらけでも、泥だらけでもいいんだ。意地を張って変えようとすることの、どこが……どこが行けないの。分かってるけど辞められないの……諦めきれないの。どうしても、どうしても嫌なの。これだけは絶対に曲げたくない。」

 だから。

「間違った世界の中で……絶望に浸りながら死を待つことはしたくない。我儘だと言われても、エゴだと言われてもしょうがないけど……。
 そんなの、生まれた意味が無いじゃない。……夢も、心も、持つ意味がないじゃない。私は……みんなと生きたい。……生きたいよ。」

 生きたい生きたいと繰り返すその背中は、小刻みに震えている。
 可愛らしい顔を歪めた彼が伸ばした手を制止させるように掴んだ。
 思いどおりには壊されてやらないぞ、と。

《Storm》
 あぁ、震えてる。彼女は震えている。
 体も声も。きっと心も。

 あんまりに弱々しくあんまりに我儘。そして傲慢。
 ヒーローだなんてよく言えたものだ。
 見せかけの陽の光ですらこんなにも暖かいのに、ストームは酷く冷淡だった。彼はエーナドールなんかじゃないし、見て取れる情報しか分からない。
 彼女の心で一体どんなふうに負の感情が渦巻いてるかなんて分かりはしない。 分かる事は彼女は“それ(ヒーロー)”をまだ諦めていなかった事。
 あっさり捕まった手は捕まったまま空中で静止する。

「良い悪いの話ではないんですよ。
 貴方様に譲れない意地があるのと同じように、他のドールにも同じ意地がある。どちらかが折れなければ解決には至りません」

 シルクより柔らかな語り口は続く。
 言葉の影に確かな刃を持って。

「泣き言で成し遂げられる偉業など存在しないんですよ。
 少し詰められた程度で取り乱し怒り叫ぶ。
 一体どうヒーローになると? 」

 突き立てた刃をそっと下ろすように、フェリシアに伸ばした手を下げた。この“ただの少女設計”のドールは灰を被って輝きを失っているだけだと、ストームは信じたかった。
 灰を払うのは魔法の杖を持った妖精でも、おしゃべりするネズミでも無い。フェリシア自身なのだから。
 ヒーローだと妄言を吐くフェリシアには興味は無い。
 ヒーローである為に足掻いてる彼女の輝きにストームは強く惹かれているのだから。
 ストームはフェリシアと少し離れたところに腰を下ろす。

「……“生きたい”。
 それはコンテナに葬られた方々も、ソフィア初めここのドールはほとんどそう思っているはずです。
 このままでは全滅しかねない」

 独り言のように語り始めるストームは顔を俯かせる。

「フェリシアには人を引き寄せる才能があります。
 恐らく奮闘しようとすればするほど今までよりもずっと苦しむ事になるでしょう。
 ですが、お披露目は待ってはくれない」

 最後には消え入るような声色になって、嵐は過ぎ去ってゆくだろう。被害なんて気にも止めずに……。

 気づいていながら頑張っていた。
 ……頑張ることしか出来なかった。
 彼の言うとおり、フェリシアは弱い。優しすぎるが故に、その精神は非常に危うく脆かった。大きな希望を失えば失うほど、起きた過失を立て直そうと大きな過失を重ねていく。悪い方向に進めば沼にハマっていく。だが同時に、彼女はしぶとい。どんな困難に陥ろうと、根は腐らなかった。
 今はどうだろう。辛い辛いと喚き生きたいと呟くばかり。周りから見たら相当みっともない姿をしているだろう。それこそヒーローとは名乗れないほどに。

 分からない。がむしゃらに突き進んでみたが、立ち直り方が一向に掴めない。そんな自分に苛立っていた。どうすれば、どうすればと焦りに焦るほど失敗は膨らむ。
 ついにはヒーローを否定される程に。

 どちらかが折れないと解決には至らない──その通りだ。

 泣き言で偉業は成し遂げられない──その通りだ。

 葬られた人も生きたかった──その、通りだ。

 なんで気づけなかったんだろう。そんな当たり前のことに。
 私たちが生きたかったように、彼らも生きたかったに違いないのだ。殺されたかった訳じゃない。
 生きたい……みんな生きたかった。

 ………死にたくなかった。そうだ。
 そうだ。そうなんだ。当たり前だ。

「貴方の……ストームの言う通りよ! 私はスタート地点を間違えてたんだ。まずやるべきは、前に進む事じゃない。……その通りなのよ。」

 項を垂れる貴方に代わり、フェリシアは神の啓示を受けたような表情をしている。目の前にかかっていた霧が晴れたような。見越した表情。風なりの音と共に彼女は立ち上がり、少し離れた貴方の元へ。

 そして言うだろう。

「お葬式をしよう、ストーム。」

 と。

「お披露目会に行った全てのドールのために。遅すぎるかもしれないけれど、彼らの死を無かったことにはしたくない。安らかに眠ってもらえるように願おう。残虐な運命を遂げた過去の子達を、悼むんだ。悲しみは避けられない……避けられないくらいに辛いことだもん。
 形だけでも受け入れてあげたい。弔いたい。」

 目線を合わせるようにしゃがみこむと、貴方の右手を自身の両手で包んで優しげに目を細める。そのまま指を絡ませると貴方を立ち上がらせるだろう。

《Storm》
 ドク……………ドクン………ドクン、ドクン、ドクン。
 音が聞こえる。
 まるで生命の循環を早送りで見ているような強い生命力を感じる。彼女は終わってない。
 まるで一番星でも見つけたような声だ。
 彼女の中のヒーローはまだ死んでいない。

「お、そう……?」

 予想だにしていなかった単語にストームは完全に気後れした。葬式? 死者を弔う為に白い花を手向け祈りを捧げる行為だとストームは認識していた。
 猟奇犯にそんな事を提案する少女は、たとえ世界を探してもフェリシアしか居ないだろうね。
 だからこそストームは完全に一時前の時間に取り残されたのだった。
 だが、どの世界にレディの願いに頷かない紳士が居るだろうか? されるがままに立ち上がる時には、怪訝そうな表情は無くなっていた。

「お望みどおりにレディ」

 ストームは片膝を着き、絡められたフェリシアの手の甲に敬意を示すように頭を下げた。そして彼女の手の甲に唇を近付ける。ゆっくり、ゆっくりと。
 だが口付けはしなかった。寸前の所で止め立ち上がる。

「どのように致しましょう。
 手向けの花は要りますか?
 それとも十字を切るだけに致しますか?」

「えぇ、ありがとう。貴方ならそう言ってくれると思ってたよ」

 指先に触れるか触れないかくらいまでに近づく唇。ところが当の彼女は挙動をみせるどころか当たり前だと言わんばかりに均整の取れたペリドットを細めている。へそを曲げた彼のアメジストも、もうそろそろ気を取り直してくれたらいいのだけれど。一度は諦められたペリドットは告げる……過去の私のことは忘れろ、と。
 そして琥珀には、逆に過去の私も愛してね、と告げるだろう。

「そうね……野に咲いている花を手折りたくないから、既に事切れている花びらを集めましょうか。それらを湖に浮かべて祈るの。せめてもの救いとなるように、と。
 ……ちょっと斬新すぎるかな?」

 ざわざわとよそぐ風の中、周りを見渡したフェリシアは続ける。
 宝石が映すパラノマは非常に綺麗で……愛おしくて……とても、とても、冷たかった。

「お気持ち表明していい?」

 言の葉の脈絡もなしに目を伏せて少女は問う。貴方の返答を待たずに話し始めるのだが。

「私は、ずっと罪悪感を感じてた。
 だけど同時に、それに囚われすぎてたのかも。過去ばかりを気にしていたら、前には進めないって知ってた。だから、目の前のことばかりに集中して熱中して、執着して、見えなくしてたんだ。犯した罪は変わらない。でも一段落させることくらいなら、できる。
 区切りを付けるためにもやらなきゃいけない。

 特に、"彼女"の死からは、逃げも隠れもせずに面と向かって悲しんで、苦しんで、痛んで。そして、腹を決めなきゃいけないの。」

 それからしばらく黙って、遠くを見つめることだろう。

《Storm》
 ペリドットは柔らかでいて強く輝いている。憂い悲しみ怒り苦しみ……。それらの青く入る冷たい影ですら包み込むほどの輝きを放っている。
 アメジストは沈黙、重いカーテンに隠されたトパーズはペリドットの輝きを微かに反射した。

 フェリシアの提案にストームは「素敵です」と短く返す。なんとも彼女らしく慈悲に満ち溢れた考え。ストームには壊れるその瞬間までの時をかけても理解し難いだろう。彼なら綺麗なものは綺麗なうちにと容赦無く花を手折り愛でるだろうから。けれど、彼は二つ返事で肯定した。

 だからかな。ザワザワと風が噂話するように頬を撫でる。
 噂話が遠くへ遠くへ彼らを忘れていった時、柔らかな声色がストームの耳を擽った。

「………………」

 フェリシアの心情が顔を覗かせる。沈黙に落ちるその瞬間までストームは黙ってその話を聞いていた。数日前の彼女より、数時間前、数分前、数秒前。今までのどの瞬間のフェリシアより“ヒーロー“に見えた。ストームが否定する必要も無い程に。
 舞台上に彼女だけを残し猟奇犯は舞台の袖に眠るだろう。彼女にパレットナイフはもう要らない。だってストームの中では彼女はヒーローになったから。故意的に絶望の色で染める必要は無くなった。
 ……なんて美しいのだろうか。
 あぁ。とても。凄く。……壊したい。
 ストームは今にも手をフェリシアに伸ばしそうだった。彼女の細くて白くて柔らかな声を奏でるその喉に。彼女の首を折るのはまるで花を手折るかのように簡単だ。体の中心から沸騰して溢れる衝動が彼女を壊せと囁く。

 “約束!”
 今日も約束が彼の首を鎖で縛った。ストームはだらりと力なく腕を下げる。

「ではジブンも共に腹を決めましょう」


 ストームは膝をつき靱やかな所作で朽ちた花弁をいくつか拾い集める。片手に花弁の絨毯が出来るほどまで。生きる場所が無くなった色とりどりの花弁はされるがまま彼の手に納まっていることだろう。
 それら半分をフェリシアへ。

 長らく堂々巡りを繰り返していたが、それら全てが無駄だったとは思いたくなかった。しかしその都度決着をつけようとしていたのはいささか荷が重すぎたのだろう。小さな身体に悲しいくらいに重量のある対の感情を持ち合わせ、それでも尚、生きたいと願う。少女は愚かだった。されど、考える頭が無いわけでもなかった。
 どのような状況になろうとも底を変えてはいけない。それだけは、何故か深く理解していた。苦しんでいる人が居たら手を差し伸べましょう、という綺麗事は綺麗事のまま。スタート地点が違うだけで自身のゴールは一緒なのだから。

 唯、理解できないものには底知らぬ恐怖を抱く。目の前の彼がいい例だ。紳士で模範的。プリマの冠に預かった彼とて、その内に秘めるのは並々ならぬ異常性。薄くも決して見せることは無いカーテンレースに遮られたそれは少女の心を幾度となくざわつかせた。

 ただそれも、今思えば当たり前。踏み込む勇気がなかっただけで。彼も彼なりの正義と心情、そして欲望があってのことなのだろう。たおやかな笑みを崩さない少年はヒーローでないのだから。しかしそんな彼とでも条約は結べる。
 腹を決めてくれるのなら、覚悟は一緒でしょう?

「……ありがとう、散っても綺麗だね」

 自身よりも大きな手。落とさぬように、と両の手で作った器の中で花びらが揺れる。時間をかけて視線を移動させる。永遠とも言えようその空間で舞台に立ったフェリシアは、「こっちへおいで」と袖に帰った彼を呼び寄せる。実際は湖に行こうと促していたのだが、彼はそれらの言葉を確実に違う意味で受け取るだろう。


 湖の畔にしゃがみ込んだフェリシアは、丁寧な所作で花びらを水の上に浮かべることだろう。
 ひとつひとつ、愛おしむように。ひとつひとつ、労うように。
 会ったこともないの誰かとの別れを、受け入れ難いと言わんばかりに。

 痛い。……とても痛い。苦しい。
 辛い。……とても辛い。悲しい。
 怖い。……とても怖い。助けて。

 とても、怖い。

 発狂している。まだ生きたいんだと叫んでいる。だけどね、もう、貴方たちには無理なの。ごめんね
 だから、だからせめて、ゆっくり休んでね。眠ってていいんだよ。

 ヒーローに、任せて。

 花弁を全て浮かばせたフェリシアは、自身の指を絡めて強く祈る。

 拭いきれないほどの涙を、掻きむしりたくなるほどの後悔を、ここで終わらせるのだと。連鎖を打ち切るのだと、決意の炎を灯しながら。

 初めまして。ちょっと不出来な、あなたのヒーローだよ。

《Storm》
 幕間前の最終シーン。少女は悲しみも怒りも背負い再び立ち上がる劇的で重要なシーン。少女にスポットライトが当たり少女の声がオーディエンスの心を震わせる事だろう。どういうわけか猟奇犯は少女に呼ばれている。

 ───えぇ覚悟なら貴方様と同じ。
 ストームは声を掛けられてもなおその場から動かなかった。ゆっくりゆっくりあの子達の痛みに寄り添うように歩き出したフェリシアを見ていた。髪が風に煽られふわりと花のように揺れて輝く光を見ていた。
 フェリシアは思わず釘付けになってしまう綺麗な所作で、ひとつまたひとつ花弁を浮かべている。ストームに泣き声は聞こえない。叫び声は聞こえない。だが彼女が何を思い、何を願っているのかはっきり伝わる強い祈りはストームを誘導するように強く引っ張っている。

 しかし動こうとはしない。
 猟奇犯が舞台上に上がるには明る過ぎたんだ。眩しくて腹の底で煮えたぎらせる狂気の底まで見透かされそうな光は彼の舞台では無い。彼には程よい影が似合うからと暗転し始めた頃、フェリシアが祈りを辞める頃にようやく花弁を浮かべ始める。
 持っていた時間が長かったからか花を包み込んでいた気になり握り締めていたのか花弁は何枚か湖の底に沈み浮遊して来る気配はない。
 おやすみなさい。出来損ないの同士だった方々。
 酷く簡素に黙祷し追悼の意を示す。
 それで十分だ。所詮壊れてしまったモノ達だから。
 けれどどうせならあの子を壊しておけば……。

 祈りは確かにストームの後悔を和らげることになるだろう。が貪欲な彼にはちいさな悔いが残ってしまうのは仕方の無い事。コアのピースが見当たらない感覚、ストームはこの瞬間に嫌いになった。


「……フィリーあの後なにか進展はありましたか?」

 祈りを捧げ終えるとストームはフェリシアの方へ振り向き彼女に頼んでおいた件について問いかけた。
 感傷に浸る間はストームには必要無かった。

 お披露目に行った全てのドールが安らかに眠りますように、と手を合わせる。── 合わせれた手は、長らく離されることがなかった。溶けていく時間に比例するように叫び声は膨らんでは萎んでいく。絶え間ない絶望の波の中でヒーローは応える。逃げないのだと。私は此処にいるのだと。
 浮かんだ餞は未だ沈んでいない。揺れる水面に合わせて揺れ動くそれらは、彼女の意志の強さ其のもののようだった。

 静寂と森の匂いに包まれるその場所で、少女は時間をかけて瞼を開く。伝えきれないくらいの思いを抱えている。されどそれはいつになく磨かれていた。ペリドットは光沢を帯びる。太陽を反射する。
 …… 鮮やかな門出を祝うように。
 苦しみは変わらない、痛みも後悔も変わらない。されど前ほど暗く支配されることはなかった。一度結んだ約束は、覚悟は、違えることはないだろう。

 あなたが手を合わせたとき、隣の少女は頬杖を付いて物珍しそうにその様子を見つめていることだろう。彼の花は既に萎れていたのか先程浮かべた花弁の横を抵抗なく滑って堕ちていく。その刹那の刻を忘れることがないように。フェリシアは複雑そうに目を細めた。
 貴方が祈りを終えても、最後のひとひらが堕ちるまで彼女は視線を移さなかった。

 ── 嗚呼、落ちてしまった。

 最後まで見送ると、時間を惜しむようにゆっくりと貴方に向き直ることだろう。進展ということは……先日この場所で話したアレのことか。フェリシアは立ち上がる。

「……私より、貴方のアメジストの方が詳しいと思うよ。」

 それが答えである。淡々と尋ねる彼の感性は相変わらず理解が及ばない。だがいいのだ。……きっと。
 知るべき時に知るのだろうから。
 そのまま貴方が何も言わなければ踵を返して帰路につくだろう。

《Storm》
 フェリシアの言葉にストーは数回瞬きした。アメジスト、という単語に一瞬思考が止まる。いくらちぐはぐな瞳だったとしてもストームから見た世界は普通のドールと何ら変わらない景色が広がっているから。フィルターがかかる訳では無いのだ。
 ストーム自身瞳について、ただパーツが揃わなかっただけの有り合わせドールだと自認していて急にアメジストと言われたとてすぐに分かるわけでは無かった。
 今朝鏡を見た時、一体どちらにアメジストはあっただろう。ストームは自分自身に懐疑的になりながら右目に埋め込まれるアメジストに指を近づけた。

「……こちら、ですか。成程………。
 ところでどなたでどのように調べましたか?」

 ストームはあっさり頷くと質問を重ねる。ソフィアに知らせるのなら正確な位置と確認方法を情報として得なければという忠誠心を持っていたから。
 事実に証拠に基づいた正しい情報を正しく伝えなければ。それだけが今のストームの存在意義なのだから。

 小動物を感じさせる大きな瞳が音が出そうなくらいに大きく瞬く。
 なるほど、可愛らしいと評される訳だ。驚くのは無理もなかった。流石は元プリマドール。感情の起伏はそこまで大きくないらしい。フェリシアは一先ず胸を撫で下ろした。以前の自身のように涙を流されたら……間違いなく、どう声をかけたら良いのか分からなかっただろうから。
 言葉にされなければ、エーナですら相手の心を知ることなど中々できるものでは無い。どれだけ相手を慮っていようとも難しいことである。だから、貴方に蔓延る自分への無関心をフェリシアは知り得なかった。知っていたら、何かしら話せていたのだろうが。

「あ、あぁ。えっとね、教えて貰ったの。ロゼちゃんがブラザーくんと調べてくれてたみたいで。人伝だけど間違いないと思う。私もそこに手を当ててみたとき、確かに違和感を感じたから。」

 お披露目に行ったドールたちを弔ったばかりだと言うのに。彼の中での舞台の場面は、ものの数秒で切り替わっているらしかった。
 しかし彼女は信じている。彼が、そこまで心が冷たいドールじゃないことを。つくづく全てのドールに真面目なだけなのだと。フェリシアは嘘をつくこともなく、事の経緯を素直に話した。

《Storm》
 発見者の名前を聞くに、どうやら元プリマドールだけに発信機が付けられている訳では無いらしい。ブラザーの瞳に埋め込まれたアメジストにもロゼットの瞳に埋め込まれた真珠にも彼らを監視する小さな監視者が潜んでいるのだと。
 そして、フェリシアのペリドットにも。
 彼女が触れて確かめたというのならストームにもそれが可能だろう。だが、ついさっき彼女に対しての暴虐的な欲望を抑え込めたばかりで彼女に触れる事なんてしたらそのまま───────
 待てを強いられる。何度も何度も。彼を繋ぐ首輪はそれほどに強くて硬いものだった。

“    約       束    ”
 ストームの頭を強打する一つの単語の拘束がくらりくらり。彼の頭を薬漬けにし麻痺させて溺れさせる。
 壊してはなりません……まだ……。

「フェリシア、失礼致します」

 ストームはフェリシアの頬を指の甲で撫で、自身の瞳の方に誘導させるように顔をあげさせた。少しでも力を入れてしまえばボロボロと崩壊してしまうのでは無いかと思うほどに柔らかで陶器のような肌。芸術品に触れてはならないと古来から言われる所以のような気がしてならない。何もかもが台無しになってしまいそうだから。
 トイボックス一愛嬌のある顔のフェリシアの瞳と交差するとストームは目を細める。
 可愛らしい貴方様、いつかジブンのモノに。

 フェリシアの横髪を撫でるように彼女の耳にかけストームは彼女の瞳を探り始めるだろう。

 フェリシアは嘘を“つけない”。
 同クラスで彼女と学園生活を共にしていた貴方なら、それを知らぬ筈がないだろう。発信機が付いているのはプリマドールだけではない。全員に付いていて、ドールズの居場所は個人は特定できずとも先生に把握されているのだろう。
 ── そう。今この瞬間さえも。

 知られてはいけない。見られてはいけない。聞かれてはいけない。

 何もかもが残酷な嘘で塗り固められた優しい箱庭で。
 涙と後悔にまみれた、箱庭で。
 今日も飽きずに、私たちの鼓動は波打っている。

「………うん?」

 不意に添えられた冷たい指先に誘われて、フェリシアは貴方と目線を合わせるために顔を上げさせられる。……何をするつもりだろう? 意味ありげな貴方の表情に、とくん、と一回。コアが跳ねたような気がした。添わされるままに身体を硬直させる。

「ん……」

 優しい手つきで右目に触れられる。やはり感じるのは、あの日と同じようなとてつもない異物感。ソレが入っていっているのだと嫌でも分かる。

「ちょ、ちょっとストーム? 私の目触っても分からないんじゃ……はぁ。
 ほら、こんな感じだよ。」

 貴方が満足するまでとりあえずは自由にさせていたが、それが終わると呆れたように小さくため息をつく。再度貴方を見つめて貴方の可愛らしく大きな右目に手を伸ばすことだろう。

《Storm》
 フェリシアの瞳の球体をなぞろうとただ柔らかな陶器を愛でているだけだった。ストームは大きな瞳を一度パチリと瞬いて不思議がる。
 どうやら他人が触っても気付かぬ程の小さな監視者らしい。呆れ返ったフェリシアのため息にストームはパッと手を離す。

「そうなのですか。これはご無礼を」

 レディの手を煩わせてしまったストームは胸に手を添え頭を下げると無礼を詫びた。眉を下げ睫毛を伏せるストームの表情は叱られてしまった犬のよう。ポジティブな感情表現は苦手でも、ネガティブな感情表現に関しては豊かであった。友人として接することの出来るテーセラドールとして友人失格になるであろうが。
 フェリシアの小さな掌が伸びてくればストームは身を屈ませる。彼女の指が肌を滑り擽ったさがコアまで響いた。
 しかし、次に彼女が指先に力を入れると嫌な感触に襲われる。
 目玉の奥、小さなビー玉が脳みそを直接押しているようで気持ちが悪い感覚。思わず右目を歪ませた。

「これは…………好感が持てませんね」

 咄嗟にフェリシアの手を取りそっと自身の右目から離すと眉を近づけて吐き捨てた。本当に監視されていたという事実。感じた事ない感触。
 沈殿して濁った液体が回路に流れ込んできた感覚に襲われる。
 気持ち悪い………………。
 ストームは額を手で覆いふるふると頭を振るった。
 今すぐに出てけ。忘れろ忘れろ。と。
 だが覚えた感覚は忘れられっこなかった。

「失礼、致しました。少し目眩がしまして。
 ……そろそろ夕暮れも近いですし肌寒くもなってきましたから帰りましょう」


 すぅ……と息を吸う。
 レディに余計な心配をかけるほど愚かな真似は無い。だからストームは息を吐き出す頃にはいつものつまらなそうで何を見ているのか分かりっこない瞳に戻っていた。
 そして寮に目線を移し言った。
 フェリシアが歩き始めればそのすぐ後ろを彼女を追い越さない程度の速度で着いてゆく。寮の扉は彼が開け、彼女をエスコートする事だろう。
 今日という日が終わる。
 花弁を湖に残して。