Dear

 景色が滑る。希望に満ちたターコイズブルーを、悠々と泳ぐ魚のように。爪先で地面を蹴って、陽気に鼻歌なんて歌いながら、ディアは軽やかに走っていた。窓の外の泣き声なんて、まるで他人事みたいに楽しそうに。ちょっぴり奇妙でとっても愉快な、不思議の国に飛び込むアリスのように幸せな笑顔。それはきっと、強がりではない。虚栄でも、演技でも、子供の無垢な嘘でもない。そこに宿るのは、ただ狂気的な希望だけだった。ディアは走る、眩しいほどの希望を抱えて。——それがどんなに残酷なことかさえ、世界の恋人は知らないままで。

「待っててね、アティス! 私たちの夢に向かって、愛するキミたちとどこまでも共に!」

 深い海に沈もうが、地獄の業火に焼かれようが、ディアは希望を見続ける。未来を見据え、愛を囁く。何者にも折れぬ、希望の剣。それは災いをもたらすか、世界に平和の雨を降らすか? ディアが飛び込む穴の先には、何が広がっているだろう。答えは未だ、誰も知らない。

【学園1F トゥリアドールズ控え室】

 その部屋は、あなた方トゥリアモデルのドールズが日々利用している衣裳室のような場所だった。
 控え室の壁には、色とりどりのドレスやタキシードなどの正装がハンガーに掛けられて並んでいる。化粧台が三つほど並んでおり、あなた方はこの場所でお披露目の支度を入念に整えるのだ。

 控え室の奥には一枚の鉄扉があり、その先はダンスホールの舞台袖へと通じている。

「ああ、ああ! どれもとても美しい、愛と未来の結晶……着られないことが少し口惜しいね!」

 勢いのままに扉を開け、未知の空間に迷いなく飛び込む。ふわりと揺れる優しいピンクは、色とりどりの衣装の海に優しく溶け込んでいった。ドレス、タキシード、ドレッサー……様々な情報を貪欲に探し続けるターコイズブルーは、未だ鮮烈な輝きを保っている。美しいと、愛おしいと褒め称えると共に、その薄い唇からまろび出た賛辞の言葉は、どこか挑戦的な強さを孕んでいた。きっと、本人が意図したものではないだろうけれど。今も尚、この異様な絶望に一滴も染まらず、美しい輝きを保ち続けるターコイズブルーは。世界の恋人のコアは、きっと、もっとずっと異様なまでに。

「! おや、これは……」

 くるくると楽しそうに回っていたブーツの雨が、ぴたりと止む。無数の美しいドレスの海に、一際鮮烈な、赤。——欲しい。
 ディアは、何も特別視しない。本来、何か一つのものに強烈に惹かれるというのは”あり得ない”。そんなもの、恋人には”必要ない”。それがディア・トイボックス、太陽の輝きを与えられたドール。
 それでも、心惹かれた。知りたい、触れてみたい、愛したい。無性に、ただ必然的に、あの輝きを抱きしめたくてたまらなかった。自分の根幹が揺らぐような、誰かに操られているような、そんな奇妙な特別感に身を任せて。迷子のアリスは、女王の赤に手を伸ばす。

 トゥリアドールの控え室には、他のドールのそれと比べてもとりわけ華美な衣装が揃えられていた。それはより華やかさを求められる、トゥリアモデルの気質によるものだろう。
 その中で、あなたが視界に捉えた鮮烈なルージュのドレスは、一際美しく存在感を放っているように見えたのだ。

 あなたは引き寄せられる蝶のようにそのドレスに歩み寄り、手を伸ばす。その指先は自ずと上等な生地の表面を撫で付けるだろう。近くで見ると一層華やかな赤い色のドレスに、あなたはどうしてか既視感を覚えた。

 どこかでこれと同じようなドレスを見たような気がする。そんなデジャブを確信すると同時に、不意にあなたのこめかみがツキ、とかすかに痛みを訴えた。刺激を受けた脳が束の間の白昼夢をあなたに魅せる。

「——ああ、愛しているよ、スイートハート。キミはいつだって、私たちの愛の導だ」

 こめかみに走った痛みさえ、甘い恋がもたらした『彼女』の証だとでも言うように。まるでその上等な布の先に、温かい体温があるかのように。愛しい彼女が、そこで笑って佇んでいるかのように。マーガレットの春の香りに誘われて、ディアはその真っ赤なドレスへと口付けた。その唇はあまりに軽やかで、春風のように何も残さず去っていく。

【美しいあなたに釣り合うようにしなくっちゃ。あなたのこと、誰にだってとられたくないんだもの。——なんて、我儘かしら。】

 薄い瞼を開いて、ターコイズブルーが顔を出す。その甘やかな独占欲から、ゆるりと目を覚ます。自分が進むべき未来を、ディアは彼女に教えてもらった。いつだってずっと、彼女の特別から、世界を愛す術を見つけていた。それはきっと、ひどいことだったかもしれない。それでもディアは、彼女を含めた全てを愛す。

「さあアティス、みんなでずっと、共に行こう! もちろん、キミの【大切な人】も一緒にね

 くるりと地面に爪先を滑らせ、ディアは迷いなくドレスに背を向けた。あの惨劇の舞台へ、一滴の迷いもなく手を伸ばす。忘れない。忘れないよ。つい先程の甘やかな白昼夢は、瞼の裏に焼き付いている。オペラモーブの愛くるしいワンピースに身を包んだ少女と、幸せそうに歩くアティス。その愛しい希望を守る為に、ただ走る。

 世界の全てを愛している。全てを姫と、恋人と呼ぶ。彼の愛するアティスと、似ているようで対極な、憎たらしいほどに眩しい希望。それがどこへ向かうとしても、ディアはただただ前を向く。ああ、どうか愛し続けていよう。モラトリアムの内側で。

【学園1F ダンスホール】

Amelia
Dear

 キィ、というドアを開く音と共に、ディア特有の浮き足立ったブーツの音が、荘厳なダンスホールに響く。途端、視界に入ったその鮮やかな水色に、ディアの足音はもっと軽く、激しくなった。アメリア、アメリア! 満面の笑みを浮かべ抱きつこうとするも、寸前。
 ぴたり、とその愛しげな靴音は鼓動を止める。あの日、止まったままの二人の時間が、カチリと音を立てて動き出す、そんな予感。伝えたいことが、たくさんあった。ずっとずっと、この一瞬を待ち望んでいた。薄い唇が、開く。

「アメリア、好きだ」

《Amelia》
 キィ、というドアの音。
 続いた軽やかな足音にアメリアは排水溝から顔を上げて振り返る。
 蒼い瞳に桃色がかった髪。
 そこにいたのは一週間程前に森の傍で仲違いをした彼だった。

「…………は?」

 そうして、彼が発した第一声に彼女は盛大に首を傾げる事となる。
 突然の告白、彼女からすると完全に意味不明であり、何がしたいのかまったくもって謎であった。

「それでディア様、どうなさったのです?」

 ……が、同時に前回の邂逅で彼がありとあらゆる物に愛をささやく(彼女視点では)不埒ものだという事を踏まえて、ひとまず、突然の告白で受けた衝撃を押し込めて意図を問いかける事にした。

「どうもしないよ、キミに話があるんだ。愛するキミに。好きなんだ。知識を吸い込んで、その知識を振り翳し、鼓動を続けるコアのずっとずっと奥まで。キミの全部が、ずっと好きだ。

 ——でも、きっとこれじゃ伝わらない。きっと、この感情をキミだけにすることは、できないんだ。ずっとずっと、考えてた。キミの願いに応えるために、どうすればいいのか。キミだけに贈りたいと思える約束を、愛を。本当に好きで、好きで、たまらないんだ」

 伝えたかったことが、唇からまろび出ていく。ゆっくり、ゆっくり、アメリアの下へと、歩む。

 この感情を、キミだけのものにすることはできないけれど。それでも、キミの笑顔が見たい。キミの願いに応えたい。キミを特別にする方法を、ずっとずっと考えていた。ディアは、この世界の全部が好きだ。誰かを特別視することは、できない、許されない。

 それでも、今度こそアメリアに証明する。誰かを特別にできないことが、誰かを蔑ろにする理由にはならない! キミを愛す、キミの願いを叶えてみせる!

 ディアの言葉は、覚悟は、ずっと強い。世界の全部を本気で愛するなんて、不可能だ。それなのに、信じさせてしまうその輝きは、正に。暗い暗いダンスホールを、ターコイズブルーが照らしていく。苦しみも、悲しみも、全部全部愛していく。その輝きは正に、一等星の晴れ舞台。

「だから、証明するチャンスをちょうだい」

《Amelia》
「ええ、知っています。
 貴方様はアメリアを愛しておりますが、それは特別などではない。
 普遍的な愛でございましょう。
 だから、アメリアは貴方様の愛では動けないとお答えしました。」

 仲違いの原因、根本的な愛への認知の相違。
 それに対してなおも愛していると伝えてくるディアに彼女は何処か憐れみのような感情を抱きそうになりながらも……それを強く自制する。
 憐れむ事はこれ以上ない侮辱だったから。
 だから……彼女は代わりに答える事にした。

「その上で、貴方様が愛を証明して見せると言うのなら。
 良いでしょう。
 けれど、愛に狂う者同士、欺瞞が通じる等とは思ってはいけませんよ?」

 ——ちゅ、と不器用な愛の音が、空を揺らした。

 いつもよりもずっと拙いキスが、アメリアの頬に痕を残すこともなく離れていった。こんな局面でさえ唇を選ばない所が、なんともディアらしい。言葉や心じゃ、特別を証明できないと言っているようなものだった。それでも、ミシェラの時とは明らかに違うそれは、成長と呼ぶべきか。

 ディア・トイボックスは、空っぽだ。随分と長い間、空っぽだった。太陽の輝きを満たしただけの、伽藍堂のドール。何の救いにも、慰めにもならないその柔らかい感触は、笑ってしまうほどに優しかった。
 トゥリアドールだから、というだけではないだろう。いつものスマートさも、甘い笑みもない。特別という感情を理解できないなりに、守りたいと願っている。

 特別に思ってみたい。約束を守りたい。大好きだって言いたい。抱きしめたい。もっともっと、アメリアのことを知ってみたい。アメリアだけに贈りたいと思える言葉が欲しい。愛が欲しい。私の命と引き換えにアメリアが笑ってくれるなら、私はそれだけで幸せだ。怖い思いをしていなければいいと思う、どうか生きていて欲しいと思う。
 本当はずっと、それだけなのに。どうしていいかわからない、というような、迷子の子供みたいな顔。残酷で、頼りなくて、ただひたすらに優しい指先が、アメリアの頬を撫でる。
 アメリア。声にならなかった声が、ディア・トイボックスには、世界の恋人には必要のない感情が、宙に溶けて死んでいった。

「——ほっぺたへのキスは、まだ誰にもしたことなかった、から。これからも、アメリア以外にはきっとしない。絶対しないって、約束する。初めても、これからも、全部全部アメリアのものだよ。ずっと続く“これから”を、絶対に作ってみせる。アメリアだけに贈りたいと思える、ただ一つの愛だ。……えと、これじゃあ、特別の証明には、ならないかな……?」

《Amelia》
「……へ?」

 一度立ち去って、何か準備をしてから戻ってくるのだろうな。
 と、そう思っていた。
 ディアの前に立ちふさがり、試すように問いかけた彼女は、その実この場で何かをされるだなんて想像もしていなかった。
 だから、だから、だから、どこまでも不器用な、ディアらしくなんて欠片もないその行動に、彼女は間抜けに声を漏らす事しか出来なかった。

「……そっ……そのう……それはですね……。
 なんというか、随分と情熱的というか……ですね……」

 だから、だから、彼のアメリア以外にはきっとしないと言い切った特別の表明にも、彼女は顔を真っ赤にして、うつむき気味に答える。
 そこに先ほどの堂々とした様子なんて欠片もなく、動揺の塊になっていて……。
 けれど同時に、ディアにとっては以上とも言える物だと、そこだけは今までの会話から理解していた。

「だから、ええ、認めます。
 こんな事貴方様は普通じゃ出来ないでしょう。
 愛する為に誰かを愛する方法を減らすなんて、貴方様の在り方からは矛盾しております。
 きっと、貴方様はアメリアを特別だと思ったのでしょう。

 ですから……ええと、ご褒美です。
 目を、閉じて下さいますか?」

「……うん、うん、わかった。いいよ、おいで」

 一人一人を、本気で愛する。
 いつだって、全ての願いに応え続ける。

 悲しませたくなかった、怖い思いをさせたくなかった、そのために嫌われたって、構わないと思っていた。

 でも、全てを救うためのその選択が、ディアにとってどんなに心苦しいものだったか。愛の相違で喧嘩をしてしまったアメリア相手に、愛で仲直りを挑むことが、どんなに勇気のいる行動だったか。どうしようもなく強くて、どうしようもなく残酷で、誰かを特別視なんてできない。そんなディアをディアのまま、ほんの少し伝わりやすくしてくれる。アメリアはきっと、そんな存在だ。無駄じゃない。無駄なんかじゃないよ。甘い、甘い、モラトリアム。薄い瞼を、そっと閉じる。
 ——夢じゃないよ。

「何されても、いいよ」

《Amelia》
「……ええ」

 そっと瞼を下したディアに、呼吸さえ忘れてしまいそうな緊張の中で一歩近づく。
 こんなはしたない真似、運命の人以外にはするまいと思っていたけれど……今だけは、この愛に応えたいと、そう思った。

 だから、彼女はそっと、触れるかどうかというような小さく不確かな口付けをディアの頬に返す。
 産毛すらないその滑らかな肌の感触を、きっと彼女は忘れる事は無いだろう。

「もう、目を開けても良いですよ。
 ディア様」

 そうして、目を開けてもいいと言う頃には彼女はディアのそばを離れてダンスホールの緞帳を調べ始める筈だ。

 ああ、この優しい感触はきっと、『これから』を歩む道になる。愛を通わせた瞬間が、私をもっと強くする。この初めても、きっとアメリアだけにしよう。彼女が自分に歩み寄ってくれた瞬間を、ずっとずっと愛していよう。そんな甘やかな予感に満たされながら、そっと瞼を開く。薄い瞼の幕を上げ、現れる鮮烈なターコイズブルー。そこにはもう、迷い子のような揺らめきはなかった。全部全部、嘘じゃなかったよ。

「ありがとう、アメリア! 愛しているよ!」

 そのいつも通りの言葉はきっと、あの日とは違う。恋ではなくても、特別ではなくても、人はきっとそれを、愛と呼ぶのだ。知識を貪欲に求め始める、いつも通りの愛しいアメリアの姿に目を細めながら。自分にも何かできることはないかと、辺りを見回した。

 周囲を見渡すと、つるつるとした質感のステージが先にまで続いている。
 ステージは広く、ダンスホールの名の通りにこの場で社交ダンスをしても事足りそうだった。現在、客席へ続く真っ赤な緞帳は降ろされていて、スポットライトも点灯していないため、ステージはとても暗い。

「ふむ、排水溝かな? 先程アメリアが見ていたけれど、二人で見れば何か違うことがわかるかもしれないしね」

 つるつるとしたステージの上を、踊るように駆け抜ける。ふわふわとカーディガンを揺らしながら穴を覗き込むその様は、兎を夢中で追いかけるアリスのようで。

 その暗く底の見えない穴が何に使われていたかなんて、きっと気にすることもない。きらきら輝くターコイズブルーは、臆することなく深淵を覗く。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているとはよく言ったもので。見つめ合っているみたいだな、なんて笑いながら、海色の深淵はその手を伸ばした。

 ダンスホールの隅の床に嵌め込まれた鉄製の格子状の蓋は、釘によって打ち込まれており、取り外すことが出来ない。
 ダンスホールと排水溝。一見結びつかない奇妙な組み合わせだが、あなたはあのお披露目を、あの残酷な殺戮劇を目撃している。洗浄室と同じように、ドールの内側に流れている赤色をした燃料を洗い流すための排水溝であるとしか思えない。
 ダンスホールは既に殺戮劇があったなどとは思えないほど清潔に清掃されており、あなたの見慣れた景色が広がっている。

 排水溝の蓋の向こう、穴の内部は薄暗いが底が見えないのでかなりの深さがあるのではないかと感じる。
 そしてあなたは複数ある排水溝のうちのひとつに、流されきれなかった青白い輝きを見つけるだろう。それはあなたが見たコゼットドロップの輝きに酷似した青い花弁だった。薄暗いホールで、コゼットドロップの花弁は静かに優しい光を放っている。

「私たちを導く、知識の海……ああ、どこまでだって行けるね」

 鼓膜器官をつん裂くような悲鳴に、鮮烈なまでの赤に、押し流されずに佇んでいる。ただ、私たちを待ってくれている。

 きっと、遅かれ早かれこうなっていたんだろう。あのアメリアが私に情報を話すよう強要してこなかったということは、自分で情報を掴んできたということだ。もしかしたら、私が知っているよりもずっと多く。間違っていたのかもしれない。あの日話さなかったことは、無駄なことだったかもしれない。
 それでも、この愛を、アメリアは受け入れてくれた。自分で選んで、受け入れて、ただただ前へ進んでいく。
 やっぱり私たちは似ているよ、アメリア。オミクロンの子たちも、先生たちも、一つ目の子も、みんなみんな、ずっと一緒にどこまでも行こう。
 その小さな小さな光り輝く花弁を、大事に大事にポケットにしまう。またここに来よう、ここはもう、ただの惨劇の舞台じゃあないのだから。

「さあ、幕は上がる! まだ見ぬ愛しいヒトたちよ、私たちの冒険劇をご覧に入れようじゃあないか!」

 あなたは緞帳を下から持ち上げようとする、……が、高い天井までの全てを覆う緞帳はずっしりと酷く重たく、あなたのその細腕ではとても持ち上がらないほど重い。

 あなたは必然と、左右から閉じられた緞帳の合わせ目から覗き込むような形で客席の方を見るだろう。
 プロセニアム・アーチで区切られた先の客席フロアは、ステージよりもさらに天井が高い。恐らく学園の二階部分までもを使って吹き抜けにしているのだろう。客席は階段状となって後方が高くなっており、バルコニー席までが遠方に見られた。
 ダンスホールというよりは、劇場、さらに言えばオペラハウスに近い構造である。
お披露目でドールズは歌ったり踊ったりするからこそのステージの構造なのだ、と予想する者もいた。

 そして客席の一番奥には、こちらもアーチに囲われた大きな扉が見えた。しかし扉はあまりに大きすぎて、恐らく手動で開けるものではないのだろうと感じる。
 あの日、あの場所から、あの化け物がやってきて、全てを台無しにした。あの巨大さは、化け物を通過させるためにそう設計されているのだとあなたは改めて思う。


 ここで、あなたとオディーリアは偶然にもダンスホールのステージ上で邂逅を果たすだろう。
 元々緞帳の向こう側を覗いていたディアは、オディーリアが踏み入ってやってくる足音に気づいて振り返る形になるはずだ。

Odilia
Dear

《Odilia》
 どうやら変な音が聞こえてた正体はどこにもないようだった。
 鏡のようにツルツルとした床、思ってたよりも広いステージ。

 鏡のようなこの床を湖と見立て踊ったらどれだけ楽しそうなのだろうか、広く美しい景色はそう思わせる。

 とはいえ暗い、緞帳が降りているせいもあり光が入らないのだろう。
 暗いところで踊るのは気分が乗らない、光り輝いてこそ湖は美しいのだから、そこで踊る白鳥も美しいのだから。

 だからここの緞帳を上げなければならない、とはいえ方法はあるのだろうか?

「あれ……ディアお兄ちゃん?」

 彼女は誰かを見つける、緞帳の向こう側、客席から覗いてきたディアお兄ちゃんを。

「ああ、なるほど、この扉が。ふふっ、こんなに大きいのか……これは抱きしめるのに苦労してしまうね」

 想像を絶する大きさのその扉が、あの一つ目君を通すためのものであろうことは容易に想像できた。あの惨劇を見ていた者なら、きっとすぐにわかるだろう。

 そして、ディアの恐ろしい所はここからだ。あの子を憎む訳でもなく、恐れる訳でもなく、その高い高い壁にたった一言。抱きしめるのに苦労してしまう、とこぼした。その正に思わずこぼれた、というような小さな囁きからは、虚勢や強がりは一切感じられない。
 ディアはただ、その残虐性さえ強さと呼ぶ。心の底から褒め称え、愛し、抱きしめたいと願う。世界中の全てを、ただ愛し続ける。
 それは一つ目くんだけでなく、もちろん、ダンスホールに羽ばたく愛しい白鳥——我らが天雲、オディーにだって。

「おや、”今度”は私が出迎える側か! ご機嫌よう、オディー! 愛しているよ!」

《Odilia》
「愛して……る?」

 唐突に言われた言葉に少し戸惑う。

 愛してるってことは、えっと、好きってこと?
 じゃあオディーも好きだから……。

「ご機嫌よう、ディアお兄ちゃん!
 オディーもディアお兄ちゃんのこと"愛してるよ"!」

 自分はお兄ちゃんお姉ちゃんのことみんなが大好きだから、ディアお兄ちゃんにもそう返す。
 唐突に言われて少しびっくりしちゃったけど、多分返し方はこれで合ってるよね?

「ところでお兄ちゃんは何してたの?」

 疑問に思った、緞帳の隙間から何を覗いているのだろうと、その先は客席のはず。
 なにかあるのだろうか、もしかしたらオディーがこの前聞いた、水音と引きずる音の正体とかがわかるのかなと自分は思った。

「本当かい!? ああ、とっても嬉しいよ! やはり、自分の気持ちに応えてもらうというのは良いものだね」

 ディアは、自分の感情に見返りを求めない。意思のない空気中の元素などにも愛を囁く様子から、ディアのそれが無償の愛に近しいものであるということは想像に難くないだろう。
 それでもやっぱり、応えてもらえればとても嬉しい。この感情は、恋人という役割から外れていない。だから、大丈夫。

「ああ、ええっとね……オディー、お披露目のことはもう誰かから聞いた?」

 愛しい恋人を守るために、その真っ直ぐな問いに応えるために、死力を尽くしたいと願うことも。恋人として、当然の責任。

 誰よりも慎重で聡明なソフィアを司令塔に据える元プリマドールの面々が、軽はずみに誰かに話すとは思えない。それは愛故の選択であり、覚悟を持った采配であることをディアは誰より理解している。

 それでもアメリアは知っていた。元プリマドール以外の誰かが愛故に、話すことを選択したのだろう。ああ、愛とはなんと千差万別! その全てが美しく、愛おしい!
 ——私には、その愛に応える責任がある。もし何も知らなかったとしても、確信を持つような問いではない。全ての愛を守るための、その聡明な選択は。コアに宿る強い覚悟は。正しく、世界の恋人の愛であった。

《Odilia》
 良かった、返事はこれで合っていたようだ。ディアお兄ちゃんが喜んでくれたならそれでいい、人が笑顔になるのは気分が良くなる。
 オディーはみんなのことが好き。みんなが喜んでくれたらオディーも嬉しい。その気持ちは普遍不滅のもの。だから今この瞬間、ディアお兄ちゃんが喜んでくれたから自分も嬉しかった。

「お披露目会……リヒトお兄ちゃんからちょっと聞いた。」

 そう、リヒトお兄ちゃんと遊んだ時。
 お披露目会はオディーが思ってるほど綺麗で美しくないことを、それに行ったミシェラちゃんが……幸せじゃなかったことも。

 他にも開かずの扉、ルートゼロ、色々聞いた。
 オディーには分からないことだらけだったけれど、秘密だって。
 でも目の前にいるのはお披露目会の秘密を知る一人、ディアお兄ちゃん。だったら聞いた事を話してもいいし、秘密についても聞いていいよね?

「お披露目会の秘密、ディアお兄ちゃん、知ってるんだよね?
 オディー知りたい、いや知るべきだと思う。
 オディーは何も知らないままになりたくない。知って、お兄ちゃんやお姉ちゃんの役に立ちたい。」

 ダメかな? と心配そうに困った顔をして、手を胸に当てながらそう聞く。

 何も知らないままじゃオディー何も出来ないと思う。
 それにみんなオディーにいっぱい色んなことしてくれた。だから今度はオディーがみんなに何かしてあげたい。
 オディーに出来ることがそこにあるなら。

 そう強く決意する。

「そうか、リヒトか! うん、教えてくれてありがとう、オディー!
 私も、話したいと思っていた所だよ。キミの愛しき覚悟に最大の敬意を。一緒にどこまでも行こうね」

 ふふ、と嬉しそうに笑って、白銀の美しい髪を優しく撫でる。あまり表情の動かないオディーが顔に出すほどの心配を、ゆっくりと和らげるように。
 その暖かな声音は、オディーへの、オディーが大切に思う全てへの、世界の全てへの愛に満ち満ちていた。

「そうだな、オディーがどこまで知っているのかわからないから……まずは今わかりやすい所から。

 よっ、と……私がさっき見ていたのはこれだよ、あの扉。あの扉、一つ目の大きな子が入ってくるための扉だと思うのだよ! その子があそこから入ってきて、お披露目に来た子たちを殺すのさ」

 シャッ、と軽やかな音を立てながら、見えやすいように目の前の緞帳を大きく開く。客席の一番奥、アーチに囲われた大きな扉を指差して。まるで世間話でも話すみたいに、軽々と口に出す。

 つい数秒前に、オディーを労った口で。
 つい数分前に、アメリアへの特別を誓った口で。

 その残酷さは、偏にディアの博愛主義故だ。ディアの愛に、対象が死んでいるかなど関係があるはずがない。
 だってディアは、世界の恋人だ。道端の花も、空間という概念も、地球という星が誕生してから何十億年、無数に生まれ死んでいった生命体も、ディアは全て愛している。

 ディアはずっと、正気じゃない。可愛らしく、愛おしく、ただ静かに狂っている。誰かを傷つけるその手まで、世界の全てを愛す瞳。

《Odilia》
「良かった……」

 隠されたらどうしようかと思ってた。優しくお兄ちゃんの手が髪の毛を撫でる、少し頭を撫でられた時のように嫌悪感を一瞬感じるも、お兄ちゃんは優しさを持って自分を安心させようとしてくれていると理解し、そっと胸をなでおろす。

 リヒトお兄ちゃんに聞いたこともとやかく言われなくて良かった、お兄ちゃんに迷惑がかかったら嫌だから。

 どうやら話してくれるようで、この舞台を隠す緞帳が少し開かれその隙間から光の柱のように光が飛び込んでくる。
 スポットライトのように舞台を照らす光を掻い潜り彼女が見たのは、アーチで覆われた扉。

 お兄ちゃんが話すには1つ目の大きな子? そして殺す……。
 一つ目……殺す……。
 本で出てくるような化け物?
 黒くて大きい怪物……そんなものが現実に存在するの?
 そして多分きっとミシェラちゃんもディアお兄ちゃんが言ったその一つ目の化け物に……。
 お披露目会はやはりオディーの思ってた幸せいっぱいのものじゃないって。その事実に怖くなり足が震え、その場でへたりこんでしまう。

 お披露目会……オミクロンだけじゃないものなら、もしかして他の子も?
 もしかして……アリスちゃんも?
 そういう疑惑が飛んでくる。
 お兄ちゃんお姉ちゃんもダメだけど、アリスちゃんも殺されちゃ……。

 お兄ちゃんの世間話のような優しい声が、余計に事実を物語ってる。
 心に突き刺さる。

 そしてこんなお披露目会に選ばれた、アストレアお姉ちゃん。
 もしこのままいけばお姉ちゃんも死んじゃうってこと?

「……ダメだよ……お姉ちゃんもお兄ちゃんも死んじゃう。
 そんなの……ダメっ」

 床に水が零れる。
 震える声でダメだと言う彼女の瞳には涙が溢れていた。

 現実が彼女に涙を流させる。
 どんな現実でも受け入れる気でいたけれど、わかっていたけれどあまりにも重すぎる。
 足がまるで雨で濡れた鳥の翼のように動かない。いつもなら軽快に動くのに、現実という雨が彼女の足を濡らした。

「オディー、どうしたら……いいの……?」

 そんなか細い声がダンスホールに響くだろう。

「死なせない」

 リン。
 鋭く、脆く、あまりに強い鈴の音が、ダンスホールに響く。

 ターコイズブルーの輝きが、オディーの瞳を鮮烈に射抜く。
 たった、一言。
 偽物の空にどんよりと浮かんだ灰色の雲を、皆の心に振る重い雨を、吹き飛ばすような一陣の風。

 知識とは、毒だ。知りたいと願い、愛したいと願い。好奇心のままに走り続ける者の末路。ソフィアはきっと、恐れている。自らが誰より、知識の海の冒険者だから。その采配は、きっと多くの命を救っているだろう。ソフィアはどこまでも、どこまでも突き進んでいく。だから、知ってしまった後からはきっと、私のお仕事なんだ。

「誰も、死なせない。——そのために、私たちはここにいるんだ! そうだろう?」

 いつか、誰より大きい純白の翼で飛び立つ、幸福に溢れたその日まで。水面下で足掻き、泳ぎ続けるその様もまた、ああ、なんと愛おしい! みんなで一緒に、どこまでも行こう。希望に満ち溢れたその笑みは、オディーの白を優しく照らす。
 世界の恋人は、静かに白鳥の選択を待っていた。

《Odilia》
 ディアお兄ちゃんの一言がステージに響く。

 死なせない。

 その一言は自分に降りかかった雨を止める傘のように暖かった。
 先程まで伏せていた顔が上がり、ディアお兄ちゃんの青い瞳を視界が捉える。
 まるで晴れた青空のように綺麗だった、言葉、その瞳によって自分の空は青空へと変わっていく。あんなに濡れていた翼も乾き、またもう一度羽ばたけるように。
 少女はその翼を使い立ち上がる。
 涙を拭い、もう一度前を向く決意をし立ち上がる。

「そうだね、ディアお兄ちゃん。
 オディー誰も死なせたくない、お姉ちゃん達も、お兄ちゃん達も! それに他のドール達も!」

 決意を固めた少女の瞳はまっすぐ貴方を見る。

 そう、こんなところでクヨクヨしてたって仕方がない。お姉ちゃんお兄ちゃん達は今この瞬間でも手がかりを探してるかもしれない。
 オディーがこんなところで立ち止まってちゃ、置いてかれちゃう。そんなの絶対に嫌だ。

「オディーもう立ち止まらない! 全部知って全部見て脱出する!」

 ディアお兄ちゃんが話す化け物なんかに易々と殺されて堪るものか!
 それにオディーには頼れるお兄ちゃんお姉ちゃんがいっぱいなんだから。みんな支えてくれる、立ち止まっても背中を押してくれるみんながいる。
 そう、目の前のディアお兄ちゃんもその一人。

「ありがとうディアお兄ちゃん、オディーを励ましてくれて!」

 そう言い、指で笑顔を作って貴方に見せるだろう。

「こちらこそ! オディーが選んでくれたこと、絶対に後悔させないからね。みんなで一緒に外へ行こう、えいえいおー!」

 細い掌をぎゅっと丸めて、空へと突き出す。柔い頬をくしゃくしゃに緩めて笑いかければ、馬鹿みたいな夢物語と、可愛らしい笑い声がダンスホールに響く。

 ここから脱出した後も、ここが、嫌な思い出にならなければいい。みんなと出会って、愛しあって、幸せに過ごしたこの場所が。
 ここは、ダンスホールは、確かに惨劇の舞台だったかもしれないけれど。私たちが、心を通わせた場所でもあるんだよ。この鼓動が、モラトリアムの真ん中で、ずっと踊っていられたならいい。

 そのためにも、前に進まなきゃ。

「一度、私が知っていることをお話するね。みんなも独自に調査をしているだろうから、全てを知っているとは言えないけれど……でも、きっと、話すこと自体がとっても、とっても大切だから。よかったらオディーも、気になることがあればお話してくれると嬉しいな」

 元プリマドールのみんなでベッドの鍵を調査し、お披露目の夜にこっそり抜け出したこと。そこで見たもの。
 ミシェラは生きているかもしれないこと。
 アメリアに聞いた青い花の話。
 ミズ・シャーロットのこと。
 図書室の落書き、グレゴリーくんのこと。
 夢のこと。
 √0とやらのこと。
 他にもたくさん。

 オディーの瞳を真っ直ぐに見つめながら、一つ一つ、ゆっくりと。知っていることは、全部、全部。オディーの覚悟に、ただ応えようと健気だった。

《Odilia》
「一緒に出るのーおー!!」

 お兄ちゃんの行動に合わせ、自分を拳を天へとあげる。
 その顔は笑顔では無いが明るさが宿っていた。
 自分は願う、ここに出たあとでもみんなと踊ることを、みんなと遊ぶことを。みんなとロールケーキ食べたり、お茶会をしたり、勉強したり、やりたいことが沢山。それを全部やることを、例え実行することが難しいことでも……。
 もう決めたのだ、諦めないこと、立ち止まらないことを。

「うん、わかった! お兄ちゃんの話を聞いてから、オディーが知っててディアお兄ちゃんが知らないことを話すね!」

 そういいディアお兄ちゃんが話してくれることを聞く。

 プリマのみんなで見たお披露目会のこと、グレゴリーくんのこと、夢、リヒトお兄ちゃんが言ってた√0。
 重要なのはここら辺だろうか、シャーロットと図書室の落書きは一部知っていたというより見た。
 オディーはその話を聞いた、真面目にちゃんと全部知って、全部見て、前を進むって決めたから。

「じゃあオディーの番だね。うーん、あんまりオディーも知らないんだけど……ここのダンスホール、ちょっと前まで閉じてたんだけど、閉じてた時に何かを引きずる音と水が流れる音が聞こえたの。
 なんだかよく分からなかったけれど、引きずる音はもしかしたらディアお兄ちゃんが言ってた一つ目の化け物かも?」

 わかんないけれどね、と一言つけたし説明する。

 自分はその正体を探るためにここに来た、もし知れたら少しは貢献できるかもと思っての行動だ。まぁあとはちょっと踊りたかったというのもある。

「お兄ちゃんは水音の正体とか知ってる?」

「水、かあ……あそこに排水溝があるのだけれど、そこに青い花が流れ着いていたのをさっき見たよ。私たちの体に流れる血液を、鼓動を、あそこで捨てている音かもしれないね」

 オディーの細い手のひらをそっと手に取り、自分の胸へと押し当てる。朝の微睡をそのまま閉じ込めたかのような、静謐で愛に溢れた声が。うるさいくらいに鼓動を続ける、希望に満ちたコアの奥が。言葉よりもずっと雄弁なそれが、オディーに伝わったなら良いと思う。

 そういう、ひたすら曖昧で穏やかなものが、どうか世界を救ったならいいね。

「教えてくれてありがとう、オディー! やっぱりキミはとっても賢くて、愛しくて、素敵な人だ。愛しているよ!」

 ディアは誰かと話す時、いつもありがとうと口にする。言葉を返してもらえたこと、同じ空間にいられること、この世界に生まれてきてくれたこと、全部全部が、たまらなく愛おしくて。愛に言葉はいらなくて、それでも伝えたいと思うことが愛なのだと思う。
 命が容易く手折られる、惨劇の舞台で。
 ディアはただ、強くて優しい子供だった。

《Odilia》
「青い花って、さっき言ってたアメリアちゃんが言ってたヤツ?
 とりあえずあの音は排水溝だったってことだね!」

 とりあえず悩んでたことは解決した? と言えるのかもしれない。水の音の正体は排水溝だってことがわかった、今度リヒトお兄ちゃんに話してあげよう。
 きっと正体を知りたがってるはずだから。

 そんなことを考えてたら手を握られ、ディアお兄ちゃんの胸に当てられる。
 ドクンドクンと鼓動が感じる。
 明るい陽だまりのような鼓動が。

「ううん、いいよお兄ちゃん、お兄ちゃんの力になったならよかった!
 あ、愛してるってまた言われるとちょっと恥ずかしいかも……」

 そういえば少し頬を赤らめる横髪を少しいじり誤魔化すために目をそらす。
 こうも何度も言われると、嬉しいと言うより恥ずかしい気持ちが勝ってしまう。嬉しいけれど照れちゃう。

「あ、そうだ。いろいろと教えてくれたお礼に、オディーここでちょっとバレエ踊るんだけど、お兄ちゃんも見る?」

 そうだ、お礼しなきゃ。お返ししなきゃ、こんないい情報を教えてくれたんだから。お兄ちゃんにお礼はするべきだろうと思い、そういえば理由の一つに踊るためにここに来ていたことを思い出し、これをお礼にしようと見るかを尋ねる。

「おや、そうかい? この間アメリアにも怒られたんだ、気をつけないとね。わかった! なるべく愛してるは言わないようにするよ!」

 白い頬を太陽の朱に染め、雪解けの如き甘い瞳を見せるオディーにまた、愛していると言ってしまいそうになるのをそっと飲み込む。
 喉元過ぎれば熱さを忘れる、なんてことわざを、いつか教えてもらったっけ。言葉は嚥下され、心臓の下の方に溜まっていく。忘れない。愛しい人の願いを聞くこともまた、愛してるの伝え方だと思うから。

 熱く燃え盛る愛を飲み込んで、ディアは一層美しく笑った。が、次に発されたオディーの言葉の前に、その強い覚悟はあっけなく敗北する。

 オディーのあまりに可愛らしく嬉しい申し出に、心臓が跳ね上がるような心地がして! ああ、ああ、とっても素敵だ! 本当にいいの? 私はなんて幸せなんだろう、好き、大好き、キミを愛して——そうだ、これは言ってはいけないのだった。
 いけないいけない、気を抜けばすぐ言葉がまろび出てしまいそう。約束したんだから、ちゃんと守らないと。愛してるを使わずに、この想いを——

「ああ、キミの白鳥の如き美しき舞をこの瞳に焼き付けられること、とっても幸せに思うよ! キミはいつでも可愛らしく、優しく、美しい! まるで聖母マリア様のようだ、もしかして天使様だったの? それならその可愛らしさにも納得だね! おや、今日は晴れだったかな? キミがあんまりに眩しいから、勘違いしてしまうね! ああ、願わくばキミの溢れんばかりの輝きを、一番星の煌めきを、ずっとそばで愛し続けていたい……さあ羽ばたいて、mon trésor! 私がキミを見守る一陣の風となろう、愛しきオディーリア!」

 ——悪化した。

《Odilia》
「あ、あ、ありがとう……すごい絶賛してくれるね。
 オディーは天使じゃないけれど。
 でも見守ってくれるのは嬉しいかも!」

 そう、オディーは天使じゃない。天使なのはもっと優しくて綺麗な子だと思うから、オディーは全然まだまだだと思う。
 優しさならリヒトお兄ちゃんやフェリシアお姉ちゃんの方が上だし、美しさならソフィアお姉ちゃんとかエルお兄ちゃんの方が綺麗だと思うから。でも天使なんて呼ばれたことなんてなかったなぁ……ずっとオミクロンとか不良品とか呼ばれてたから。
 他にも嬉しい呼び方は妹とかあったけれど、天使って呼ばれるのも悪くないかもしれない。

 でもそう強く褒められたらやっぱり恥ずかしい。ディアお兄ちゃんが優しくて褒め上手なのは十分にわかった、褒めて欲しい時はディアお兄ちゃんに駆け寄ろうと心に決めた。

「見て欲しいから……どうしよう。この緞帳開けたいね、あげる方法とかあるのかな?
 ぜひお兄ちゃんには客席から見て欲しいから、なにか無いかな?」

 緞帳を開くための装置は、少なくともこのステージ上や客席のどこかには見当たらない。あなた方が操作出来ないところ、例えばあの大きな扉の向こう側などに位置するのかもしれない、とあなたは感じるだろう。

《Odilia》
 うーん、ステージの方にはない。見た感じ客席辺りにもなかった。それに来る前の控え室にもそのような装置みたいなのはなかった。
 じゃあ残る候補はあのアーチに囲われた扉。

 お兄ちゃんが言ってた一つ目の化け物が入ってくるための扉。
 雨が降ってるとはいえ今はまだ明るいなら、化け物は来ないのでは?
 とはいえオディーだけで操作できない気がする。
 お兄ちゃんと協力して操作する?
 うーんアメリアお姉ちゃんとかいたらなんかわかるのかもだけれど、オディーはなんも分からないからなぁ……。

 とはいえここで悩んでても仕方ない。一つお兄ちゃんに協力して欲しいと言おう。

「ディアお兄ちゃん、ステージにも客席にもこの緞帳を開ける装置がなくて、あとはお兄ちゃんが言ってた一つ目の大きな子が出る扉くらいしか見てないところが無くて。もしかしたらそこに開ける装置があるかもだから、オディーと一緒に見に行ってくれる?」

 無理難題だ、自ら命の危機のような場所に行く子なんていないだろう、本当にダメ元だった。

「もし無理なら緞帳は開けれないけど、このステージで踊るからステージの端で見て欲しいな?」

 と保険を付け加える。
 まぁ見てもらうだけならここからでも見れるし、むしろ特等席でいいかもしれない。とはいえステージの醍醐味は客席で照らされた主人公を見ることだと思うから、出来れば客席でディアお兄ちゃんには見て欲しいと思うけれど。

「ふふっ、それくらい可愛いってことだよ、私たちの愛しきオディー! 可愛いキミのお願いならば、断る理由など一つもないさ。頼ってくれてありがとう、一緒に行こうか!」

 愛しき恋人のお願いに、ようやっとトゥリア仕込みの愛の羅列が鳴りを潜める。柔らかい頬で優しく微笑んで、その願いを叶えたい一心で二つ返事で了承するその様は、優しくも危ういトゥリアモデルそのものといった愛らしさであった。甘い甘いケーキのようなその器は、きっと簡単に蝕まれてしまう。そしてきっと彼自身、どこかでそれを許してしまう。今にも食い潰されてしまいそうな、甘い甘い愛。

 ——だが、ディア・トイボックスは、そんな生半可な覚悟で世界を愛してはいない。

 全部、全部幸せにするために、キミの強さも全部愛すよ。ずっと一緒にいるために、傷つけないし傷つけさせない。たくさんたくさん、お話しよう。キミの好きなところ、可愛いところ、愛しいところ、全部全部教えるね。キミのことも、みんなのことも、絶対絶対、守ってみせるよ。

「では行こうか、オディー。お手をどうぞ?」

 そっとその小さな手を差し出して、オディーを庇うように前に立つ。誰より脆く、弱い体で、いつまでだって前に立つ。童話の王子様にはなれないし、かっこいいヒーローにもなれないけれど、強い覚悟で前に立つ。その温かく燃えるコアまでは、きっと誰にも壊せない。

《Odilia》
「うん! ありがとうお兄ちゃん」

 あんな無理難題、自分のわがままを快く引き受けてくれたお兄ちゃんにお礼を言う。

 まさか引き受けてくれるとは思わなかった、でも今はその勇気に感謝しかない、オディー一人じゃもしあったも何ができるのか分からなかっただろう。でもディアお兄ちゃんはオディーが守らなきゃ! なにかあっては遅いから慎重に……。

 そしてお兄ちゃんの小さな手を握り。

「なにかあったらオディーがお兄ちゃんを守るから! オディーお兄ちゃんの手を引っ張って全力で逃げるから安心してね。」

 オディーにできることはそうやってなにかがあったら逃げることくらいだ。守る方法で考えられるのはそれくらいしかないけれども、自分の走る速さはリヒトお兄ちゃんよりも早かった。きっと大丈夫なはず。

 それに言い出しっぺはオディーだからすべての責任はオディーがとる。そう心に決め、お兄ちゃんの言っていた例の扉の前に立つ。

「どうだろう、開けれるかな……。」

 客席の奥、ステージから最も離れた位置にある豪奢な扉は、その目の前まで近付くとよりその迫力を肌に感じる。
 見上げるほどに巨大な扉だった。3mは悠に越えているだろう。扉というよりは、門と呼ぶに相応しいかもしれない。真っ白に染められた清廉潔白で美しい門は、天界への入り口と言われても頷けるような造りをしていた。

 そして、あまりにも巨大過ぎて、とてもあなた方の細腕では重たすぎて開きそうもない。開けられるような装置が近場にあるわけでもないようだ。

《Odilia》
「……ビクともしないや……。
 オディーの力だけじゃ無理だし、多分ディアお兄ちゃんの力を合わせても無理かも……。」

 とはいえ扉は想像してたのよりはデカかった、まるで天界への門のような雰囲気を感じる。
 お兄ちゃんが言ってた一つ目の化け物はここから出てくる。
 天界にそんな化け物はいるのだろうか? 自分は見たことないから知らなかった。

 アメリアお姉ちゃんなら何か知っているのだろうか。

 天界って神様がいるところだよね、それと天使、お兄ちゃんはオディーのことを天使だって言ってたけれど、お兄ちゃんの言う化け物も天使? なのだろうか。実物を見たことがないから分からないが、お兄ちゃんが語る化け物とオディーが考える天使はかけ離れていた。

「どうしようかディアお兄ちゃん……化け物が来る時にしか開かないのかな?」

 とりあえずどうしようか。ここを開けられないことには緞帳も開けられない、とはいえオディーやディアお兄ちゃんじゃ開けられない。

 嗚呼、せっかくディアお兄ちゃんに客席から見るバレエの美しさとかを見せたかったのに。
 思った通りにはいかないものだ、とはいえ横から見るのでも別に綺麗かもしれない。それはそれで楽しめそうだからいいのかなと思ってしまう。
 とはいえ諦めたくない自分もいる、どうしようか……と頭を悩ませるだろう。

「ううむ、仕方がないね。そんなに簡単に開けられたら、あの子が少しごろごろしただけでドアが外れてしまうかもしれないもの……ふふ、ねえオディー、客席と、あともう一つ。愛しい愛しい特等席って、なんだと思う?」

 愛しき人の願いを叶え、その愛らしい頬を幸福に染める。それこそよすが、私の幸福。
 でもね、オディー。どうしてもそのお願いが叶えられなくって、どうにかしたいけど諦められなくって、私のためにたくさん考えてくれるキミの思いを。優しい優しい、キミの全てを。この身が壊れたって、全部全部守ってみせる。それが恋人、私の全て。天界に手が届かないのなら、ここを幸福に溢れた天界にする。神様も、天使も、みんなみんな遊びに来てくれるくらいに!

 安心させるようにそっと微笑んで、両足を揃えてお辞儀をする。膝をつき、ゆっくりと手を差し出した。王子様では、ないけれど。140cmの恋人は、キミの心を躍らせたい。

「それはね、ステージの上だよ。Shall we dance? もしキミが良ければ、一緒に踊らせていただいても?」

《Odilia》
 考えても考えてもなんにも思いつかない。オディーがテーセラじゃなくてデュオだったらなにか思いついたのだろうか。オディーがもっと力が強ければなにか出来たのだろうか、後悔が積もっていく。

 そんな自分に1つの質問が投げ掛けられる。
 "愛おしい特等席"。
 客席じゃないものでそのようなものはあるのだろうか?

 それはオディーがきっと知っているものだろう。わかる、わかるのだけれど、言葉が上手いこと出てこない、喉でつっかえてる。

 でも答えは想像してた通りだった。

「一緒に……踊ってくれるの!」

 顔がぱあと花が咲いたように明るくなる。
 この前もロゼットお姉ちゃんが踊ってくれた、あの時も楽しかった。
 あの時は外で踊ったけれど今はステージ、あの時とはまた違った楽しさがそこにはあるのだろう。

「いいよ、一緒に踊ろう、ディアお兄ちゃん!」

 その差し出された手を握る。
 ディアお兄ちゃんはまるで物語の王子様のようだった。今まで読んだ物語にもだいたい王子様がいた、でも目の前の王子様は読んだ作品のどの王子様よりもかっこよくて、キラキラしてるように自分の目には映る。

「じゃあじゃあ! 早くお兄ちゃん踊るためにステージに戻ろう〜」

 まるでシンデレラが舞踏会に行きたがってた時のように、心にはワクワクのお星様が輝いていた。

「ありがとう! 愛しく賢い、私たちの頼れるプリンセス!」

 たんっ、と軽くブーツを鳴らして、小鳥の囀りのように自然に囁かれた言葉は。優しい優しいさざめきは、ステージに波紋を広げていく。まるで魔法のように、幸せが紐解かれていく。
 その小さな手を、ずっとずっと守っていたい。ディアにとっては、この世の全てがお姫様。キミの全てが、ずっと大好き。ディアはドールである前に、トゥリアモデルである前に。恋人という生き物だから。鼓動に染み付いた愛の言葉が、こぼれていってしまわぬように。そっとその柔い手に口付けて、悪戯っぽく笑ってみせた。

「オディーが笑顔になれる魔法。ずっとずっと、幸せでいられる魔法。——ふふっ、なあんてね! 行こうか、オディー! 愛の魔法を使いに!」

《Odilia》
 笑顔になれる……魔法。
 幸せでいられる……魔法。
 まるでシンデレラに綺麗なドレスを魔法であげた魔法使いのように、お兄ちゃんは自分に魔法をかけてくれる。

 キラキラは出ていないかもだけれど、オディーの目には魔法のような煌めきが映っていた。

「笑顔はまだオディー普通にはできないけれど、オディー頑張ってその魔法に答えるように笑顔になるね!」

 そういえば空いてる手を使い口角をあげ証明する。
 まだぎこちないかもしれないけれど、その魔法に答えられるようちゃんと笑顔を作れるようになりたい。

「あと幸せでいられる魔法はディアお兄ちゃんにもかけてあげるね!
 オディーはお兄ちゃんにも幸せになって欲しいから!」

 私だけ幸せになっても仕方がない、どうせならディアお兄ちゃんにも幸せを分けてあげたいから。

 どうせなら魔法じゃなくてオディーのできる方法で、幸せをおすそ分けしたい、そう今、やろうとしてる、ダンスで。

「お兄ちゃん、踊ろう。好きなように自由に、それがオディーができることだから!」

 優しく足を動かしダンスの前のお辞儀をする。
 お辞儀はステージに立つ時の合図、オディーのスイッチ。
 その眼差しは真剣でありつつも瞳は輝いていた。

「ふふっ、頑張ろうとしてくれるそのひたむきさが、今のキミにしかない可愛らしさだと思うよ。でも、愛しいキミの笑顔が見たい! そのために、私も頑張るからね!」

 みんなが幸せでいてくれることが、私にとっての幸せだ。愛しいキミたちとずっと一緒にいられるこの場所が、私はずうっと大好きで。ああ、好きだ、好きだ! ここに生まれてこられて、本当によかった! もう私は十分に幸せだよ、オディー。これ以上を望んだら、死んでしまいそうなほどに。
 けれど、キミがそう願ってくれるのならば。共にいたいと、笑ってくれる未来のために。くるりとターンし、流れるようにお辞儀を返す。ああ、どうかきっといつまでも!
 一緒に踊ろう、明日も、明後日も、十年、二十年、百年先も。皆と一緒に。

「うん、踊ろう! 私たちの白鳥の姫、愛しきオディーリア!」

《Odilia》
「お兄ちゃんも上手だね!
 よーし、オディーも負けないように踊らないと!」

 頭の中にお姉ちゃんを思い浮かべる。
 記憶のお姉ちゃんは水面を踊る白鳥、オディーはそれを真似る。
 頭の先から足の先まで白鳥になりきるように。

 お兄ちゃんの踊る音と雨音だけがダンスホールに響いていたのを塗り替える。音楽なんてひとつもないのにまるで流れてるように、それに合わせるように彼女はステップを刻む。

 綺麗にターンを決め羽を羽ばたかせるように手を動かし、水面から飛び去るように飛ぶ。
 見ている人がいるからだろうか、感謝の気持ちを込めてるのもあるだろう、いつもより気合いが入っていた。

 ステージにステップを踏む足音が響く。
 お姉ちゃんと同じようにまだまだぎこちないけれど、この努力を認めてくれるお兄ちゃんが目の前にいるから。
 踊っている時も見られていることを忘れない。視界はちゃんとディアお兄ちゃんを捉えている。ピンクパールのように美しい瞳は真剣な眼差しだが、楽しんでいることがわかるだろう。


 こんなステージで踊るのは初めてだから。お姉ちゃんに憧れて踊りたいと思ったことは何度もあるけれど、実際に踊るのはこれが初めてだから。
 もうこの時間が終わって欲しくない、ずっとずっと踊っていたい。
 もし叶うのなら、ドールの皆全員とずっとずっと踊っていたい。そう願うのだった。

「……きれい」

 音が、脳髄を支配する。軽やかに舞っていたブーツの音は、ぴたりと呼吸を止めていた。オディーが踊れば踊るほどに、美しいワルツが思考を眠らせる。感謝と、献身と、笑顔に満ちたピンクパール。愛に溢れた、眩い煌めき。キューピッドが現れて、コアを撃ち抜いてしまったみたいに。その愛おしさから、目が離せない。ああ、願わくばずっ、と。

 がくん、と力が抜けた。無理な体勢で見惚れていれば、細い脚は簡単にバランスを崩す。ディアの脆い体は、呆気なく空に放られて。誰かが支えるか、自分で受け身を取らなければ床に思い切り叩きつけられてしまうだろうに。それでも尚、ターコイズブルーはただ、美しい鳥だけを見つめていた。

 オディーリアは栄光降り注ぐステージ上で細足を踏み鳴らす。今この時、彼女はプリマバレリーナであった。ふわりとした白髪が舞い上がって、洗練された舞踏を披露する彼女に脚光を浴びさせる。

 薄暗いステージだった。スポットライトもなく、彼女の姿を大々的に披露する為の客席の景色も、緞帳によって閉ざされている。
 それでも微かな光源が照らしつけ、きらきらと舞い散る埃のひとかけが、舞台の荘厳な景色が、オディーリアを主役として引き立ててくれる。

 さて、オディーリアがステージの中央で美しいステップを踏んだその瞬間。
 彼女は唐突に姿勢を崩し、劇場の中央に膝を屈する。何かに苦しむように──。

《Odilia》
 つきっ……と頭が急に痛む。
 足がもつれそのままステージに大きな音が響くだろう。
 手を床に付き何とか痛い思いをすることは無かったものの頭が痛い。

「痛い……何これ。」

 こんなこと一度もなかった、頭をぶつけた時とは違う、内側から響くような痛み。
 そこからずっとしまっていた頭の緞帳が開く。

 その緞帳の先には最愛の姉。
 ここと似たようなステージでもボロボロで……。
 そこでずっと練習を見てくれたお姉ちゃんと踊ろうとして……。
 コードに引っかかって……転んじゃって……。

 知らない、こんなのオディー知らない、知らないのに知ってるようで、擬似記憶に似てて違う。

 幸せなのに幸せなのに……
 分からない。

「ディア……お兄ちゃんッ……」

 分からない分からないながら、傍に居たディアお兄ちゃんを頼る、縋る。

 その瞳には、焦りなのか、怖いのか、はたまた記憶の中とはいえ姉に会えた嬉しさなのか分からないが涙を潤ませていた。

「オディー」

 脆い脆いトゥリアモデルの体が、警鐘を鳴らす。ぎし、と器が軋むような心地さえして。それでも、ディアは一瞬も迷うことなく。震える体を、ぎゅう、と愛で包み込んだ。

 盲目的なターコイズが、ピンクパールをまっすぐ見つめる。ディアは、愛の言葉を囁くのが好きだ。この胸に溢れて溢れて、どうしようもない感情を伝えることは、ディアにとって呼吸と同義。そのためなら命さえも投げ出してしまえそうな危うさが、ディアにはあった。全ての恋人たちのために、この命を尽くす。それだけが、ディアに与えられた全てだった。
 エーナの子たちみたいに、気の利く言葉がかけられなくても。デュオの子たちみたいに、未来への道を示せなくても。テーセラの子たちみたいに、上手く一緒に踊れなくても。ねえ、キミは知ってるでしょう。そのコアに住む、とっても愛しい暖かさを。鼓動からまろび出る、たった一言が。そういう、ひたすら曖昧で穏やかなもので。どうか今、キミを救いたい。

「キミは、一人じゃないよ」

《Odilia》
「……わ、わかってるよお兄ちゃん。」

 でも……でも……、と言いながら貴方の身体にしがみつく。

 自分の身に何が起こったのか分からなくて、自分の何かがこじ開けられたような気がして怖くて怖くて仕方ない……。

「変なの……変な物見たのお兄ちゃん……。
 擬似記憶のお姉ちゃんがいたのに何かが違うの……!
 いつもと変わらないのに何かが違うって感じがするの。
 ここと似たようなステージがあってそこで踊って……お姉ちゃんと踊ろうとしてコードに引っかかって……多分転んだの……。」

 震える声でそう貴方に必死に伝えるだろう。

 至って普通の日常それなのに何かが違う、何時もとは何かが違う。
 暗く暗転した先が思い出せない、分からない。

 オディーにはどうしたらいいか分からなかった、幸い怪我はしてないけれど何かが違う感じがして怖い。
 助けて欲しい。

「ディアお兄ちゃん……どうしたらいいの? よく分からないの……。」

「うん、うん、そうだね。怖いね、わからなくて」

 ゆっくり、一つ一つ相槌を打つ。そっと背中を撫でて、余裕そうに笑ってみせるけれど。その瞳は、ただ目の前の恋人に笑って欲しくて。希望を探して、ただただ駆けずり回っていた。
 わからない、知らない、怖いなんて。でも、放っておけるわけがない。私に、私だけにできること。

「じゃあ、わかっていることを私に教えて? お姉ちゃんはどんな素敵な人で、どんな笑顔を風に乗せる人なのか。……オディーにとって、お姉ちゃんってどんな人?」

 彼女の震える手を引いて、暗闇の中を一緒に歩いてあげることはできる。でもそれは、幸せに進むための通過点でしかない。光り輝くステージへ連れているのは、きっと私の役目じゃない。だから、少し灯りを灯してあげるだけでいい。道中、寂しくて動けなくなってしまうことがないように。その先の光が楽しみで楽しみで、疲れなんて忘れてしまうくらいの。
 キミの苦しみを理解することなんて、きっと、ずっと無理だから。だから、たくさん教えてね。喩えこの身が潰れようと、ずっとキミのそばにいる。一人じゃないよ、オディーも、お姉ちゃんも。

《Odilia》
「お姉ちゃんの……こと?」

 恐怖心でぐるぐるしていた頭の中に星のようにキラキラした物が照る。

 知らない物、知らない景色、知らない現象、知らないことだらけの無知の中で知ってることを探る。
 知ってること……お姉ちゃんのこと。

「お姉ちゃんは……すっごく優しくてオディーにバレエを教えてくれたの……。」

 他にも、お姉ちゃんのバレエが自分よりもすごいということ、お姉ちゃんは案外素直になれないこと……。
 自分が愛おしいと思えるこの擬似記憶の中の姉をディアお兄ちゃんに共有する。

 その中で、何となく恐怖心というものは緩和されていった。
 でも冷静になった頭の中には違和感が残る。
 擬似記憶の中の姉は確かにいたあれは本物だと思う、けれど周りが見た事ない景色だった……。
 そして暗転する景色……何となくこの先を知りたいと思ってしまった。

 とりあえずさっきよりは落ち着けた。

「ディアお兄ちゃん、ありがとうちょっと落ち着けた。」

「うん、そうだね。オディーのダンス、とっても上手だったもの。お姉ちゃんにもらったものが、たくさんたくさん、あったんだよね」

 それはまるで、愛しい人が悪夢を見ないように。天使の祝福を受け、途方もない呼吸を続けられるように。起こさないように、そっと紡がれる子守唄のような。甘い、甘い響きを持ったささやき。夢を見せる、優しいきらめき。これまでを肯定し、今を愛し、そして、これからを歩ませるまばゆい強さ。

「知らないことは、全部未来で知れること。わからないことは、きっとみんなでわかること。私たちは一人じゃないから、どこまでだって行ける。……大丈夫だよ、オディー。本当はずっと、全部全部大丈夫なんだ」

 ディアの言葉は、不思議な魔力を持っている。エーナモデルのように、キミの心の涙まで、拭えるわけじゃない。デュオモデルのように、キミの道を照らすことなんてできない。テーセラモデルのように、手を引っ張って走ることも。他のトゥリアモデルのように、心を抱きしめてあげることも。 欠陥品で、どうしようもなく太陽で、ジャンクドールの彼だから。ディアの希望は、潰えない。

「落ち着いたなら、探しに行こう。愛の導、希望の光、私たちの愛しい未来を! ——ね、オディーはどこへ行きたい?」

《Odilia》
「うん! いっぱいいっぱい教わった!
 今度お兄ちゃんにも教えてあげるね。」

 ディアお兄ちゃんの、光、優しい声が自分の頭の中の黒い霧のような悪夢のような物を消していく。
 少々疑問には残るもののきっと大丈夫だと安心させてくれる。

 ディアお兄ちゃんが隣にいてくれてよかった……。
 いなかったらずっとぐるぐるして引きずってたかもしれない。

「ありがとうディアお兄ちゃん、オディーは一人じゃないもんね。
 知らないことはこれから知ってくことにする!」

 道を塞いでいた暗闇が晴れ、オディーはもう一度立ち上がる。
 知らないことはこれから知っていけばいい、そう信じて。

 ダンスは途中で止まってしまったけれど、ディアお兄ちゃんは満足してくれたみたいで良かった。

「どこへ行きたいか?」

 難しい質問かも……何があるのかはわかるけれど、どこに重要な情報があるかは分からない。今はアストレアお姉ちゃんを助けなきゃ、そして、お兄ちゃんお姉ちゃんの力になれるよう頑張らなきゃいけない。

「とりあえず近い未来から希望に変えていこう?
 アストレアお姉ちゃんのお披露目会をどうにかしたい……とりあえず控え室全部見てみる? 何か情報でもあるかもしれないから。」

「そうだね、二人で行こう。外に行けば、ここよりももーっと大きなステージがたくさんある。私はそこで、オディーが踊る様をずっと見ていたい。みんなで一緒に、踊ってみたい。ずっとずっと、一緒にいたい」

 元気になってよかった。希望を与えられて、よかった。ディアにできることも、存在意義も、ずっとずっとそれだけだったから。
 愛しい人が嬉しそうにしていれば、自分も嬉しい。愛しい人の隣に立って、ずっと一緒に生きるのが幸せ。
 コアの奥に刻まれた、絶対的なプログラム。ディア・トイボックスを、形作る全て。それは、歪であったかもしれない。愛しい人を追い詰める、刃であるかもしれない。でも、ディアの希望はこの日、一人の恋人を確かに愛した。愛が、降り積もっていく。唇の感触が、抱きしめた先の体温が、遠い未来を作っていく。
 オディーの小さな手を引いて、そっと笑いかけた。歩み続けよう、皆で笑い合う未来のために。君が望む、未来のために。

「さあ! 未来を捕まえに行こう、オディー!」 

《Odilia》
「うん! いっぱい見せてあげるし一緒にまた踊ろうね!」

 どうやらお兄ちゃんはダンスがお気に召したみたいで、また踊りたいと言ってくれた。
 みんながダンスが楽しいと思ってくれるならオディーは嬉しい、いつかみんなと踊る夢を叶えるために少しづつダンスが楽しいと思ってくれるドールが増えるのはいいことだ。

 ディアお兄ちゃんが手を握って引っ張ってくれる。
 前へ進んでいいと未来へ進んでいいと、自分が望む未来を見ていいと。
 オディーは望むみんなが幸せになれる未来を、皆と楽しく踊れる未来を。

「うん! 未来、オディーの望む未来全部捕まえる!
 その為にも目の前の未来をキラキラした未来に変えないと!」

 そう、目の前にはアストレアお姉ちゃんのお披露目会が待っている。真実を知った今、そんなのダメだと思うのが正しい考えだろう。

「とりあえず、控え室全部見よう!
 オディーはテーセラの控え室からここへ来たんだけどテーセラの方には何も無かったの、ディアお兄ちゃんはどこの控え室からこっちに来た?」

 まずは情報収集が肝心、一度見たところは後回しにして、新しいところを見る方が収集としては正しいだろう。
 その為ディアお兄ちゃんが見た方を尋ねる。

「ふふ、本当にオディーは私たちの輝ける星、空より舞い落ちる天使の羽だね! 愛しているよ、ずっとずっと! 本当はもっと伝えたい愛の言葉があるのだけれど……今は控えておこうかな」

 悪戯っぽく笑って、おどけたようにウインクをしてみせる。安心させるような甘さを孕んだそれは、どこか愛しい王子様を連想させた。ディアの記憶の中の彼女は、いつも美しく笑っている。いつだって愛しき人のために、言葉を紡ぎ続ける王子様。
 ああ、アティス。キミに触れたい。キミの顔が見たい。キミの言葉が欲しい。キミを知りたい、愛したい。けれど、それはこれから、いくらだってできることだから。今はただ、キミとキミの愛しい人の未来のために。ただ、愛し続けていよう。

「私はトゥリアクラスの控室から来たんだ! そこで赤いドレスを見つけて、アティスと見知らぬ女の子が愛おしそうに歩いている夢を見て……そういえば、女の子の方はとっても可愛らしい春の囁きのようなドレスを着ていたけれど、アティスは着ていなかったね。 どうする? アティスのドレスのことを調べるのなら、エーナモデルの控室にお邪魔するのが良いかと思うのだけれど。オディーは、どうしたい?」

 きっと、手を引くだけが愛じゃない。前に立って歩む人は、いつだって輝いているけれど。私は私なりに、隣で顔を見て歩くよ。 だから、ソフィア。キミはキミのまま、未来だけを見据えていて。私たちの背中を守ってくれる、眩いほどの青がある。私たちはきっと、もっとずっと大丈夫だから。

《Odilia》
「トゥリアの方に赤いドレス……。
 そこはオディーが後で見よっかな。」

 赤い色……心当たりというかなんというか引っかかるかもしれないもの。
 姉が赤髪だったのを思い出す。
 薔薇のように赤色でお姉ちゃんを表す色だから……もしかしたらなにかあるかもしれない。

「エーナの方から見てみよっかお兄ちゃん。
 そこからデュオ行って……って感じで!」

 とりあえず自分とお兄ちゃんが見てないところから見るのが、効率的にはいいと思う。

「とりあえずエイエイオー!」

 と気合いをいれエーナの控え室の方へ向かう。

【学園1F エーナドールズ控え室】

 控え室の壁には、色とりどりのドレスやタキシードなどの正装がハンガーに掛けられて並んでいる。化粧台が三つほど並んでおり、あなた方はこの場所でお披露目の支度を入念に整えるのだ。
 控え室の奥には一枚の鉄扉があり、その先はダンスホールの舞台袖へと通じている。

《Odilia》
 エーナの方の控え室に来てみた。
 パッと見はテーセラの控え室と何ら変わらない。

 化粧台は三つ、綺麗なドレスやタキシードが並ぶ世界。

「とりあえず、アストレアお姉ちゃんのドレス? かな多分、探してみよっか。」

 色とりどりに並べられたドレスやタキシードの世界から、アストレアお姉ちゃんの名前を探すもそこには無い、どこにも無い。

 アストレアのアの字もない。

「え? ど、どうしてアストレアお姉ちゃんの名前が無いの?」

 どうこう探してもアストレアお姉ちゃんの名前が無い、お披露目会に出るのだからあるはずなのに名前が無い……。

「ディアお兄ちゃん、アストレアお姉ちゃんの名前が何処にもないよ……。
 ドレスどころかネームプレートすら無いの!」

 どうして……? と少し困惑してしまう。

 アストレアお姉ちゃんはお披露目会に出るはずでしょ? ならここにドレスがあるはずなのに何処にもない。

 お披露目会に出ないってこと?
 いや先生から発表があったし確実に出るはず……。
 まだ届いてなくてもネームプレートはあるはず……。
 謎がどんどん増えていく。

 ドレスだけ別のところということだろうか?
 オミクロンだから? 別なところってこと……考えても考えても思いつかない。

「大丈夫、落ち着いて? オディー。ゆっくり息を吸って、吐いて……気づいてくれてありがとう、教えてくれてありがとう!」

 困惑するオディーに、ゆっくりと言葉をかける。いつだってたくさん考えてくれる、気づいてくれる、教えてくれる賢い彼女が、未来に向けて歩き出せるように。話してくれてありがとう、聞いてくれてありがとう、信じてくれてありがとう……ディアの唇はいつだって、愛と感謝を忘れない。ディアの鼓動はいつだって、希望の音に溢れている。

「さっき、ミシェラは生きているかもしれないと言っただろう? 実は、それには理由があるんだ。ダンスホールへ向かう途中、お披露目に行く子たちの愛しいリストがあってね! オーガスタス、グロリア、ジャスミン、シンディ、ペネロペ、リタ、ラプンツェル、ヴァージニア……ああ、思い出しただけで胸が躍るね! その中に、ミシェラの名前だけがなかったのだよ。もしかしたら、誰かが逃してくれているのかもしれない。それこそ、私たちの先生とかね!」

 一度、見ただけのリストに載っていた名前を全て完璧に羅列し、その文字列の奥、彼らの人生に想いを馳せる。
 ああ、好きだ。愛している! キミたちのこと、もっともっと知ってみたい。その純なる願いは、ミシェラに向けている愛と全く同じものだった。過ごした時間と、愛の強さは比例しない。死んでしまったからといって、愛に変わりがある訳がない。
 御伽噺の王子のような、ひどく眩しいその愛は。叶うことのない無垢な希望を、ただただ囁き続けていた。

 ——無知で無垢なるディアだけが、未だミシェラの鼓動を聞いている。

《Odilia》
「先生が……見逃してるの?」

 いやでも……本当に?
 ミシェラちゃんが生きてて欲しいけれど、リヒトお兄ちゃんが言う感じだと生きてなさそうで……。
 でもディアお兄ちゃんが言うには生きているかもで……。

 どっちが真実でどっちが偽物なのだろうか?
 どっちのお兄ちゃんを信じるべきなのだろうか?
 オディーには選べない、選ぶ権利がない。どっちとも仲良くしたいし、ここで生きてないかもしれないことを真実にしてここで伝えるのも違う気がする。

 とりあえず合わせるべきな気がする、いやでも……オディーに伝える勇気はない。

「わかった、そういう事なんだね。
 名前が書いてないってことはそうやって見逃されてるってこと……。
 だからドレスがないのなら大丈夫かな?」

 とりあえず真実はベールで今は覆うことにしよう、オディーに伝える勇気は無い。
 リヒトお兄ちゃんなら伝えられるのかもしれないけれど、オディーには無理だよ。

 とりあえずドレス問題は解決かな?
 あとは調べても何も出なさそう?
 オディーの目だとこれ以上は分からない。

「とりあえずオディー、ここからデュオの方へ行ってくるね!
 ディアお兄ちゃんはまだここ探してていいからね〜」

 と手を振り別れつつ、デュオの控え室の方へ向かうだろう。

【寮周辺の平原】

Astraea
Dear

《Astraea》
 とある昼下がり、月魄の彼女は、噴水の、冷たい石の外枠に腰掛けて一人、物思いに耽って居ました。
 絶え間なく飛んでくる細かい水飛沫が心地よくて、花壇に整列した花たちが可愛らしくて、感覚的には上機嫌なれど、自身の行先を思えば、その心中は真っ暗なのでありました。
 時間はただゆっくりと流れて、穏やかな風だけが彼女の頬を撫でて踊りながら屋根まで駆け上がって行きます。けれど彼女は知っていました。その風も、流れる雲も、作り物だと言うことを。とっても滑稽でしょう。その薄い胸の内で脈打つコアも、眩しい太陽も、冷たい雨も、全て全て偽物なのです。一体この箱庭は、誰のためのものなのでしょうか。
 イミテイションジュエリーは今日もぺかぺかと輝いて、ポリエステルの髪の毛は艶々と輝きます。人間を模したお人形は、そのかんばせにプログラム通りの笑顔を浮かべてみました。大丈夫、まだ笑える様です。
 小さなお花は、偽物のお人形の笑顔を視て、アイロニックに嗤っていました。

「ご機嫌よう、愛しきアティス! 王子様! 心臓のキミに会えたのは、きっと天使様のお導き……調子はいかが? 美しい人」

 優しく笑んだその声は、恐ろしいほどに凪いでいた。優しい優しい声だった。愛しい愛しい声だった。憎く悍ましい声だった。明日も、明後日も、一年後も十年後も百年後も、こうして変わらず挨拶できると心の底から信じ、一度も疑ったことのない者の声であった。場違いなほどに浮いた声、彼女の手の甲で踊るリップ音、希望に満ちた恋人は、ただ美しく舞っている。【王子】の言葉を待っている。調子はいかが、なんて、良いはずもないだろうに。

《Astraea》
「嗚呼、My Dear Hope,御機嫌よう。それなりに、今日は天気も良いしね。」

 アストレアは、いつも通り、王子様の笑顔でそう返しました。
 ディアは、本当に恐ろしい程に希望なのでした。愛おしい恋人は絶望などしないのでした。愚かにも、他者の気持ちを思いやることなど出来ないと、そう言うドールでした。アストレアは、それを本当に分かっていた。ですから、浮ついた言葉にも、嫌な顔一つせず、その堕ちた心に変化すらありませんでした。
 取られた手に落とされたキスは、熱く、熱く、恋人の愛に溢れて居たけれど、憂鬱な王子様は、肩を竦めてみせるだけ。お返し、とばかりに今度は此方が手の甲にキスをしてみせれば、美しく舞う恋人の、煌めくターコイズを覗き込んでは、口の端だけを上手に吊り上げて、ウインクしてみせました。
 ツクリモノ達のごっこ遊びは、されど彼女達の狭い狭い世界全てなのでありました。ビオトープを覗き込む深淵は、愉快に嘲笑います。僕は、私は、舞台の上で踊るお人形。全く、この世界はシアトリカルなのです。

「ふふっ、ああ、よかった……キミが幸せなら、私も幸せさ! キミの美しい笑顔を隣で愛し続ける幸福に恵まれたこと、とっても光栄に思うよ! 夢みたい!」

 優しい優しい王子様。希望に溢れた王子様。愛しているよ、王子様。隣にそっと腰掛けて、甘い瞳を覗き込む。愛の言葉を囁きながら、ふわりと微笑むマーガレット。滑稽なほどに可愛らしい、無知で無垢なる愛の夢。

「夢と言えば! 実はね、アティスと夢でお会いしたんだ! ああ、とっても素敵な光景だった……どこまでも続く草原で、アティスは愛しい人と手を繋ぎ歩く……正夢になる時が今から楽しみで仕方がないよ! ああ、キミの唇から語られる美しい物語は風に乗り、天使の指先が頬を撫でる……他に行きたいところはあるかな? みんなでずうっと一緒に行こう、もちろん、ミシェラも一緒にね!」

 ——それは、無邪気なる絶望。王子様の矜持が生んだ、愛しく哀しい嘘さえも。全部、全部、押し流してしまいそうな。全部、全部、殺してしまいそうな。それは、無自覚なる殺意。それはただ、燦々と輝く希望であった。

《Astraea》
 アストレアは、その背筋の凍る感覚を覚えました。
 嗚呼、嗚呼、この人は、何処までも愉快で、何処までも不愉快だ。全く、本物の"不良品"だ。その心の奥底を逆撫でされるような気持ちの悪さに、ただ笑うしか無いのでした。悪気の無い無邪気な侮辱は、常識など逸脱した、ただの彼の心からの愛であることを、彼女は知っていたから。彼はただ、愛の言葉を吐くだけの、陶磁器のお人形なのでした。
 これは、絶対に人間になどなれない。何処までも偽物なのだ。薄い唇から吐き出された息は、失望と、憂鬱と、憐情と、怒りと、悲しみと、それと、それと、慈愛を含んだものでした。アストレアは、それでもディアを、心から、好きでいるままなのでした。
 この狂った世界は夢などでは無い。
 現実しか見られないドールは、廃棄されて当然なのです。

「僕は天国に行きたい。
 痛みも、苦しみも、悲しみも、そんなものなどなんにも無い、天国に行きたい。」

 それは、心からの願いでした。
 ほとんど独り言にも近い願いでした。
 死に抗うだなんて、無力なドール風情に出来る筈はなかったので、せめて、死後の世界に期待することにしました。アストレアは、嘘つきでしたけれど、優しい嘘つきでしたので、きっと巻き毛の天使は彼女の腕を引いてくれる筈です。
 天使の門は、王子様の為に、開かれるべきです。彼女はそう、信じて疑いませんでした。疑いたくありませんでした。細い手足は脆く、きっと簡単に燃されてしまうでしょう。

 偽物の行く天国は、やはり偽物でしょうか。彼女には、それがまだ分かりません。

「——天国? おやおや、どうしたの? アティス。キミがそんなことを言うなんて……まるで迷子のお姫様みたいだ。可愛いね、とっても素敵。そんなキミも愛してる……でも、キミは王子様だろう?

 【僕たちは何も間違っていない】。キミが言った、キミが望んだ、キミが愛した。窓辺に座って待つんじゃない、キミが世界へ連れ出すんだ。痛みや苦しみ、絶望から、キミが姫を守るんだ。キミは愛に生きることを選んだ。キミは、王子様は、それを望んで物語を紡いでいる。そうだね?」

 ——ある偉人が言った。

【高貴な学位や想像力、あるいはその両方があっても天才の誕生に至りはしない。愛、愛、愛。それこそが天才の真髄である】

 もし、それが正しいのであれば。永遠の愛があるならば。それはきっと、彼の顔をしている。世界の恋人、ディア・トイボックス。この銀河で最も、無知で無垢なる悍ましき希望。故に、全てを知ろうとする。故に、全てを愛さんとする。彼は恋人。彼はドール。きっと誰よりも、プログラムに忠実な愛のドール。私たちは似た者同士さ、ねえアティス。ねえ、王子様。愛しきアストレア・トイボックス。キミは天才だ、王子様だ、私たちの星乙女だ。
 ——チェックメイトだよ、絶望なんて似合わない、私たちの王子様。

「——キミは生きてお姫様を迎えに行くんだ、そうでしょう?」

《Astraea》
「ッ……ディア! 君は……! 君は……!

 僕は王子様なんかじゃない!
 ただのニセモノだ!
 お姫様なんて、居ない!
 君だってニセモノだ! 僕達は、この世界は、全て、全て、子供騙しの紛い物なんだ!
 夢、希望、そんなもの、そんなもの……!

 ……あ…………声を荒らげてしまってすまない。もう、どこかへ行ってくれ。一人にしてくれ……」

 アストレアは、王子の役を演じるのが上手だったけれど、それ以上に、現実をよく見ていました。

『偽物の記憶の中の姫なんて、存在しない。』

 よく分かっていたから、思わず声を荒らげてしまっては、はっとして、それから、頭を抱えました。コアはどくどくと脈打って、心優しい彼女の心の内に芽生えた怒りを、諌めようと必死に全身へ燃料を巡らせていました。その時の彼女は、まるで追い詰められた獣の如く、その瞳を濁らせて、甘く囁く恋人へ、恐怖を覚えていました。
 彼女は聡明でした。だからこそ、儚く壊れてしまうのです。
 眩しい希望を拒絶する様に、冷たく言い放てば、揺れる水面にただ目を落として、息をじっと殺し、その眦の熱くなるのを忘れようと、そう試みました。
 人を真っ直ぐに傷付ける、刃の様な言葉を吐いたのは、生まれて初めてでした。ですから、メモリが少し、バグを起こしてしまったのかもしれません。兎に角、それ以上話していたくありませんでした。顔すら、見ることが出来ませんでした。煌めきを失わぬターコイズを、視界に入れることが出来ませんでした。

 曇ったガラスの瞳と、ポリエステルの髪の毛と、セルロイドの肌の人形は、美しい宝石の瞳と、絹の髪の毛と、陶器の肌の人形と並ぶと、自身がとっても惨めに思えるのでした。おもちゃは、ただただため息をつきました。愛する恋人が去っても、去らなくても、彼女はただその憂鬱に浸るだけでしょう。現実を見てもなお、偽物は夢に浸るのが大好きですから。

 彼女のメランコリーなど知らぬ顔で、液晶の空はただただ美しく、雲は流れ行きました。

「……? ごめんね、アティス。何か、気に触ることを言ってしまったのかな? でも、そんな寂しいことを言わないで。キミは確かに王子様さ! いつだってその美しい言葉で、私たちを繋いでくれた。その優しさで、愛で、私たちを守ってくれた。私たちはそんなキミを愛しているよ、これからだってずっと! お披露目の日の夜だって、こう言ってくれただろう?」

 恋人が、悲しんでいる。愛しい愛しい恋人が、怖がっている。——守らなくては。
 励まし、支え、愛さなくては。もう二度と、そんな寂しいこと言わせちゃいけない。キミを愛している、キミの幸福を願っている。だから、精一杯の、希望を。
 ——だって私は、ディア・トイボックスは、キミの恋人なのだから。

「【僕たちは何も間違っていない】。キミはニセモノなどではないよ、誰よりも姫を愛す王子様さ。【僕は君が何よりも清く、正しく、美しく、善いドールである事を知っている】。そして、その優しさを私たちにも注いでくれる。これが王子様でなくて、他に何と呼べばいいの?」

 ——ああ、狂っている。静かに、ただ優しく、誰よりも眩しく。残酷なまでに美しい愛を、心を突き刺す剣を、アストレアの心臓に突きつけて。きっと、たった一言で。はらはらと散ってしまう花弁でさえも、ディアは愛してしまうから。

「【きっとどこかで生き長らえているさ】。——ミシェラも待っているよ」

《Astraea》
《 気持ち悪い 》

 心の内壁を、そんな言葉だけがびっしりと埋めつくしました。そんな穢い言葉を拭い取るように、瞳に盛り上がった滴を零さないように、何度も、何度も、ぱちぱちと瞬きをしました。

 駄目だ、アストレア。ディアは同士で、親友なのに。こんな穢らしいこと、思っては駄目。気持ち悪いのはアストレア、貴女でしょう?

 何を言ったって、思ったって、無駄です。彼はまるで、シルフィードの様に、人知の及ばぬ存在なのです。彼はただ、どこまでも世界の恋人で、アストレアは王子様の役をしっかりとやるぬくべきなのです。
 それなのに、彼女は弱かった。
 偽物風情のくせに、人間らしさを持ってしまっていたのです。
 その時、彼女は、とっても、とっても惨めでした。自分の瞳も、髪も、肌も、全て全て、希望に輝く妖精の前では全くの塵屑同然に見えてしまったのです。王子様は、きらきら輝く金の衣装を着なければならないのに、アストレアは?
 彼女には、自分が、ただ布切れを纏った、穢らしいこじきの様に思えてなりませんでした。
 妖精の歌は、全て"王子様"の言った言葉に間違い無くて、アストレアは、絶望に沈みました。
 ミシェラは、小さなあの子は、生き長らえてなど居なくって、エゴに縋るしかない愚かな玩具は、王子様などではない。全て、全て、分かってしまった。
『地獄への道は、善意で舗装されている。』
 プラスチック製の月の精の吐く言葉には、いつも実態など無かった。安地からそれらしい事を言ってみれば、王子様だと、皆に認識されたけれど、実際のところ、一番大切な自分の立場、それだけが大切だった。
 アストレアは、所詮偽物の王子様に過ぎなかったのです。
 世界の恋人の突き立てた刃は、彼女の脆い脆いコアを深く深く突き刺して、掻き乱しました。

「君は本当に、どこまでも希望だね。今の僕には、偽物の僕には、君の希望が何より眩しくて、見ていられないんだ。
 これ以上、僕に何も求めないで。偽物の僕には、君の期待に応えることなどできない。」

 絶望に浸った愚かな偽物は、真っ直ぐに希望を突き退けました。
 眩い光に耐えられなくなった硝子玉は、おろおろと地面すれすれをさ迷って、細い指先はポリエステルの毛をぐしゃりと醜く乱していました。
 アストレアは、偽物は、与えられた役すらできない、全くの不良品でした。ジャンクすら正当に思えるほどの、全くの不良品でした。何が怖いと言うのでしょう。所詮玩具なのです。壊れるのも、壊されるのも、全く当然のことなのに、ね。

「アティスもさ! キミが私を希望と呼んでくれるように、私にとってキミは希望だよ。——ねえアティス、お姫様はキスで目覚めるって、キミが教えてくれたよね。だから私は、信じたいと思ったの。キミが愛しているから、愛したいと思ったの。本当はずっと、それだけなんだよ。特別の証明なの。王子様も目覚めてくれるのか、なんて、キミじゃないからわからないけれど——」

 むかしむかし、冬のさなかのことでした。雪が、鳥の羽のように、ヒラヒラと天からふっていましたときに、ひとりの王子さまが、おひめさまのせかいのまどのところにすわって、ただうつくしく、みとれ、ほほえんでおりました。それだけで、それだけが、かのじょののぞむすがただとおもっておりました。だって、あのこはおうじさまになりたいこ。わたしたちは、おなじなのです。

 ——私たちは鏡だと、コアの底から信じておりました。

 きゅう、と指と指とを絡ませて、リボンを繋いで可愛く笑う、キミの恋人。愛しているよ、キミも恋人。棺の中なんて許さない。【キミ】のための恋人であり続ける。そっと、彼女の額に唇が近づく。きっと、殴らないとわからない。きっと、殴ったってわからない。どちらにせよ、王子様でなんていられないね?

 ——ああ、鏡よ鏡。

 ——目覚めなければならないのは、目覚めることが叶わないのは、きっと美しい彼の方。

 ——さあ、Apple to Appleを誓え。

「大丈夫だよ、窓の外に怖いものなんてない。井戸は歌うためにある。私は、キミが世界中の何者よりも可愛い。ちょっと疲れちゃっただけなんだよね?ほら、美しい声が聞こえるよ。ほら、雪に朱が咲いている。朱、 朱、美しい朱、キミのための。ほら、ほら、ほら! 林檎を吐いて、王子様! ——キミにずうっと、ずうっと生きていてほしいんだ!」

 ——さあ、死ぬまで踊り続けよう。モラトリアムのその先も。

《Astraea》
「僕のことがまだ希望に見えているのならば、君のターコイズは本当に綺麗なお飾りだね。
 王子様は、目覚めない。王子様は、眠らない。そんなこと、夢を飛び回る君ならお分かりだろう?」

 王子様の身体の金箔は、もうすっかり剥がれ落ちてしまっていました。眼窩は落ち窪み、輝いていた筈の宝石の姿はもうどこにもありません。
 少女は、邪悪な蛇に唆されて、知恵の実を咀嚼し、嚥下してしまいました。胃の中でゆっくりと溶けてゆく欠片は、その美しい毒を滲ませて、もう吐き出すことなどできないのです。

 愚かなプラスチックは、親友に、親友だった物に、刃を向けました。そのかんばせに浮かぶのは、歪で、本当に美しい笑顔でした。耳まで裂けた口は真っ赤にぬらぬらと光り、硝子玉は埃を被って、とうに星など失っていました。それはまるで、悪魔の様相でした。絶望にその身を投げた、死人の様相でした。体に毒だけが廻り、その頭はもうぼんやりと、何を考えることをも出来なくなって居たのでした。

 王子様? 愛? 希望?

           ──笑わせるな。

 皮肉にも背筋はしゃんと伸びて、その立ち姿は殆ど完璧に近かった。
 楽しい御伽噺はもう終わり。表紙は今、閉じられた。

「僕は君に、現実を見ろだなんて言わないけれど、僕は現実を見なくてはいけないんだ。
 さようなら、My Dear Hope , 夢に足を掬われないと良いね。」

 幸運を祈るだなんて、言ってやらない。アストレアは悪い子なのだ。人の幸運だなんて、祈れないのだ。
 ほら、君はこの笑顔が見たいんだろう? 王子様みたいな、綺麗な笑顔が見たいんだろう? 僕は上手にやってやるのさ。最後くらい、王子様らしく、笑ってやるのさ。
 アストレアは、無機質に、まるで彫刻が如く嗤った。液晶の雲は、今日も流れ行く。偽物の風だけが、紛い物たちの間をすり抜けて行った。

「よかった! ちゃんと笑えるようになったみたいだね、王子様! ふふっ、ではまたね、私たちの王子様。次は姫と共に会おう!」

 ちゅ、と軽やかな音が、空を揺らした。
 優しく笑んだその声は、恐ろしいほどに凪いでいた。優しい優しい声だった。愛しい愛しい声だった。憎く悍ましい声だった。明日も、明後日も、一年後も十年後も百年後も、こうして変わらず挨拶できると心の底から信じ、一度も疑ったことのない者の声であった。場違いなほどに浮いた声、彼女の額で踊るリップ音、希望に満ちた恋人は、ただ美しく舞っている。王子の言葉を待っている。希望の羽を翻し、未来の方へと駆けていく。いつまでも、いつまでも、いつまでも——

「あはは! ああっ、もう!」

 笑っていた。
 いつまでもただ、愛していた。

「早く、もっと、世界に! 会いたいなぁ!」

 馬鹿げた笑い声は晴天に反射して、どこまでも、どこまでも、世界の果てに届いている気さえした。

【寮周辺の平原】

Felicia
Dear

「ああ、キミって子は今日もとってもかわいいね! 暖かな朝日にキミの涙は照らされて、柔らかなスカートを風に舞わせる! 美しき望み、夢は風の微笑みに揺れ、幸福の星を振り撒き、天使の贈り物をその身に育む! 私の心に幸福を運ぶ! 星の輝きをその身に宿し、皆に笑顔を振り撒く優しさ……ああ、愛している!」

 風の妖精に運ばれて、ディアの愛おしそうな声が踊る。花を踏まぬよう、細い脚を小さく折り畳んで座るその様は、まるで御伽噺の白雪姫。木々は囁き、風は歌い、花は微笑む美しい場所。モラトリアムの柵の中。そっと太陽が問いかける。

【ねえ、誰とお話しているの?】

 ディアの瞳の向く先に、ドールの姿は見つからない。ターコイズブルーが映すのは、今この瞬間に愛すのは。陽の光を浴びて輝く、白く美しい指先が。蒼き天使の羽をくすぐって、愛しき恋人の問いに答える。——そう、ディアは森に咲く青い花に、愛の言葉を囁いていたのだ。別に気が触れた訳ではなく、至って大真面目である。
 正に不審者以外の何者でもないその様に、百人中百人が驚いてしまう。そして、百人中百人が理解する。ディア・トイボックスが、世界の恋人の名を冠する所以を。

「……? おや! おやおやおや! ごきげんよう、フェリシア! ああ、キミって子は今日もとってもかわいいね! 春一番を心に宿し、皆の幸福を育てるペリドットに吸い込まれてしまいそう! 麗しき希望、細く可愛らしいその手は世界を守り、キミの覚悟に育てられ、また新しい花をその瞳に咲かす! 皆の心を守ってくれる! 春の煌めきをその身に宿し、皆に笑顔を振り撒く優しさ……ああ、愛している!」

 背後から響く愛おしい足音に、ディアは頬いっぱいを愛に染めた、美しい笑顔を振り撒くだろう。先程目の前の花に向けていた笑みと、全く同じ、愛らしい笑顔を。

《Felicia》
 苦しいほどに代わり映えのない、穏やかな朝だった。東から昇った始まりの象徴が、目の前に広がる景色を朱鷺色に染めていく。どこか恨めしそうに光を見つめて目を細めたフェリシアはその足で森へ向かっていた。静かな朝の森は好きだ。いたるところで夜明けを知らせる宝石がこぼれていく。キラリ、一瞬の煌めきとばかりに滴り落ちていく雫を見つけるその瞬間を、彼女はいつになく気に入っていた。以前までは鼻歌まで歌って浮かれていたのだが、モラトリアムの中だと知った今、そう能天気にいられる訳もなく……。
 涼しげな空気の中いそいそと歩いていく。青々と茂る草花たちは、今日も幸せそうだ。何故かそれがどうも羨ましくて。どことなく、寂しくて。きら、きらり。森の枝からまた、美しい瞬間を閉じ込めるように宝石が落ちていった。
 嗚呼、朝露の滴る時間を少しだけ苦手になってしまいそうだ。輝くこの日常を、嘘だと信じたくなくなってしまうから。帰ろう。そう思ったとき、風と共に聞こえてきたのは軽やかで楽しげな声だった。

 声のする方へ、歩いて、歩いた。
 その先には、息を呑むほど美しいドールが。しかし彼と話している相手は見つからない。

「ねえ、誰とお話しているの?」

 ペリドットの瞳に疑問符を浮かべ尋ねた。彼の先にあるのは……青い花? お花に話しかけていたのだろうか。ちょこんと座ったその姿も、全てを愛する彼らしい所も、何とも可愛らしい。"大好き"を大切にする彼のそういうところが、フェリシアは好きだった。こちらを振り向いて眩しいくらいに喜色のほころびを見せた彼に、自身もあどけない笑顔を返してしまった。しんみりした気持ちになっていたのに、不思議である。

「あはは……! 今日もディアくんは愛がいっぱいだね! 大好きな気持ちが溢れてる感じ。何だか凄くいい一日になりそうな気がする! 春のきらめき? とかは分からないけどディアくんも喜んでくれてる……って捉えてもいいよね? ディアくんもそれこそ、辺り一面にお花が咲いていくみたいにたくさん褒めてくれて嬉しいな。おはよう!」

 なぜだろう、すごい、褒められた。
 もちろん。それこそが彼が世界の恋人と言われる所以である。
 さて、森の一瞬の光も、そろそろ乾いていく頃だろうか。

「おはよう! ふふっ、会えてとっても嬉しい! これからきっと素敵になる……そんな予感が、今を素敵にする。そしてその今がこれまでになって、私はずっと幸せなんだ! キミは、そんな予感を私に運んできてくれる! これがきらめきでなくて、一体なんだというの?」

 ——ずっと続く【これから】を、絶対に作ってみせる。あの日、麗しきアメリアに誓った言葉のままに。あの日、優しいオディーの覚悟を愛したように。あの日、強きアティスを心から信じたように。ディアは今日も、明日も、【これから】を信じて言葉を紡ぎ続けていく。ヒーローと、恋人。与えられたものは違えども、キミは幸福を与えてくれる! 今日も、明日も、これからも! ねえ、フェリシア。キミの言葉をもっと教えて?

「ああ、今日という素晴らしい日にキミに出会えて、今日がもっと素晴らしくなった! これってとっても幸せなことだね? このままどこまでも飛んでいけそうな気分だよ! 隣においで! これまでのキミに盛大な拍手を、これからのキミにいっぱいのハグを、今日のキミに優しいキスを!」

 そっと彼女の指先にキスを落として、きらきら微笑む。これまでのディアも、今日のディアも、これからのディアも、きっと笑っているのだろう。この箱庭に巣食う絶望さえも、ただ愛おしいと泣くのだろう。希望の国へと駆け出した、愛に満ちた素敵なお誘い。ねえ、フェリシア。キミの望みを叶えたい、ずっと、ずっとそれだけなの。
 だから、ただ愛していよう。なんでもない日常を、大好きなキミとのモラトリアムを。

「せっかくだからお話しよう、フェリシア!」

《Felicia》
「ふふっ、朝から元気だなぁディアくんは。

 ……ってわー!? ちょっ!
 指にちゅーした今!? ま、まったく、おませさんなんだからぁ!!
 いきなりちゅーしないの!
 そ、そういうのは好きな人にだけしてあげるものだからね? みんなにやっちゃ駄目なんだからね!?」

 『いつも通り』『通常運転』なディアくんをみて、ほっこりした気持ちになる。彼にとってはこれ以上に輝かしい朝はないのだろう。そして、これ以下に荒んだ朝もないのだろう。毎日感動できるその感性がどうしても羨ましく思ってしまう。彼なら、見るもの聞くもの、存在の全てを愛してしまえるんだろうな。なんて。トゥリアドールのプリマだった彼に研ぎ澄まされた感受性で張り合おうなんて失礼だろうか。微笑ましくも残酷な事実に擽ったそうに笑いながら、彼の名を呼んだ。

 撫でるような微笑みを浮かべていたその瞬間、あっけなく指に触れた柔らかな感触にぴりりと痺れが走った。「ぴゃっ!?」と声が出てしまい、咄嗟に飛び上がりそうになる。そう。間違いなく身体中に電気が行き渡っていくようだった。表面だけでなく、内側のコアにまで走っていく、小さな少女には大きすぎる衝撃。足の指先から頭のてっぺんまで熱が伝っていった。白い頬は紅色に染まりきり、ぞわぞわと全身が刺激に無駄に敏感になるのを感じていた。
 顔から火が出そうになりながら、それを表に出すまいと必死に早口で言葉を並べた。ぎこちなげに、口付けを落とされた手でとん、と貴方の腕を叩いた。つもりだった。実際は恥じらうばかりで力なく、触れただけだ。勿論、その頬は絶えずいつになく染まっているのだろうが。
 その言葉に残る威厳などミリ程度もないだろう。自覚していないが、フェリシアは押しにとことん弱いたちなのだ。

「うん、うん。お話、……うん。」

 ぱたぱたと熱を帯びる頬を手で仰ぎながら、ただ、貴方の言葉に答えるしかなかった。

「……? 私にとっては、フェリシアも好きな人、だよ? フェリシアのこと、とってもかわいいなあって思うし、かっこいいなって、好きだなあって思うもの! ふふっ、フェリシアったら本当に可愛い! ね、もっと色んな顔を見せて? フェリシアのこと、もっともっと知りたいの!」

 春先の風にとろける雪みたいに白い肌が、赤く染まっていくのがとっても可愛らしくって。もう一度キスしたいな、なんて思ったけれど、すんでの所で手を繋ぐだけに留めた。細い指を絡め合い、きゅっ、と幸せを閉じ込めるみたいに包み込む。所謂、恋人繋ぎというやつだ。愛おしそうな視線を隠そうともせず、そっと指を撫でてみせる。触れた所から、じんわりとトゥリアモデルの体温が伝わる。優しい優しい、恋人の戯れ。
 わかったよ、フェリシア! 今はキスはやめておくね! きっとそんなフェリシアも可愛らしいのだろうけれど、溶けてしまったら大変だもの!

 ……愛に生きる者とは、総じて論点がズレているものなのかもしれない。

「ね、フェリシアにとって、好きな人ってどんな人?」

 かくして、世界の恋人による世界一甘ったるい恋バナが、幕を開けたのであった。

《Felicia》
「もー!! そういう『好き』じゃないんだってば! ちゅーする関係っていうのは……私が言ってる『好き』は、恋愛感情だから! この人しか居ないって気持ちなんだって。」

 細く優しく絡められた指には抵抗しようにもできなかった。トゥリア特有の温かさが伝わってくる。恥ずかしさのあまり、周りの刺激に対して敏感になっていた身体は熱が伝わるとともにぴくりと肩を跳ねさせた。うぅ、と貴方の隣に腰を下ろした少女の肌は耳まですっかり桃色に染め上げられており、繋がれた手はふるふるとほんの小刻みに震わせていた。それはまさに可憐きわまった少女の佇まいであった。恥じらいに余裕なく目を細めるフェリシアは貴方の愛おしそうな瞳で見つめられると、何か言いたげに目を瞑るだろう。この子は、ちょっと危険だ。

「好きな人……はいっぱいいるけど、恋愛感情って意味で好きになった人は居ない、かな。まぁ、そんな人が居てもディアくんみたいに愛を囁ける訳では無いと思うけど。
 ……うぅ、恥ずかし………まだ話さなきゃだめ?」

 抜け切れてない羞恥心に耐えながら、指から伝わる温もりに気づかないふりをして続けた。そうして思いついたように可愛らしく首を傾けたかと思うとはにかみながら貴方に向き直るのだった。

「ディアくんは? ……好きな子いる?」

「ふふっ、照れ屋さんなフェリシアもとっても可愛い! 震えているね……怖い? 大丈夫だよ、力を抜いて? ほら、じょうずじょうず」

 ぷるぷると子犬のように震えるフェリシアを落ち着かせようと、細い肩を抱きしめる。優しく囁かれた言葉は、フェリシアの耳朶を震わせた。トゥリアクラス仕込みの、甘えさせるような落ち着いた声。どこか温度を感じさせる、熱い声。これを全くの無自覚でやっているのだから、トゥリアモデルの元プリマドールというのはタチが悪い。言いつけを守り、キスはしないでいるからいい子にできている! と本気で思っている辺りがまた、無邪気で愛らしいものだった。

「ふふ、お願い。もう少し付き合って? ええっと、この人しかいない、かあ……ううん、難しいね。うーんと、もしかしてそれって、特別ってことかな? だったらいるよ! アメリア!」

 フェリシアがその美しい唇で紡いでくれた言葉を精一杯に受け止め、うんうんと唸って思い出す。ディアは愛しき恋人と交わした会話の全てを覚えている上に、そういう感情に無縁なドールだ。早くフェリシアの問いに応えたいという一心で、少しばかり思考した後——特別を誓ったドールの名を、あまりにサラッと口にした。

《Felicia》
「あ、ありがと……? 怖い訳じゃないから安心してね。──はぁ。」

 未だに身体に触れられると過敏に反応しそうになる。肩を抱きしめられたことで更にじんわりと伝わる体温。落ち着くには落ち着くのだが、今はそれどころでは無い。
 貴方に若干軽く寄りかかり、深い深いため息をひとつ零した。彼にはこういう面で注意した方がいいと自身の身体に刻むように。もし相手がアストレアちゃんだったら笑顔でかわせたことだろう。何故なら彼女が自然にそういうことが出来る子なのだと深く理解していたから。まさかディアくんもアストレアちゃんタイプだとは……。
 嗚呼、身体が未だに火照ってる。

「はいはい……もぅ、なんだって聞いてあげるよ。

 ──!? アメリアちゃん!?
 えっ! ディアくんアメリアちゃんが好きなの!? えー! わーわー!
 アメリアちゃんかぁ、分かる!
 うんうん、とーっても素敵な子だもんね! 優しくて、頭が良くて……何よりすっごく可愛い!」

 しょうがない……まったく、彼には参ってしまった。目を伏せたフェリシアは呆れたように、いや、負けを認めたようにゆっくりと言葉を並べた。しかしアメリア……青髪の彼女の名前がでたとき大きな瞳を見開き、その中に大きな煌めきを残したかと思うと、何度も瞬きをしだした。その衝撃波は先程の恥ずかしさを吹き飛ばす勢いで広がっていく。こくこく、ハッキリと頷きつつ、フェリシアの顔には再度、笑顔が見えるのだった。
 きゃっきゃっとはしゃぐ姿はまるで恋に恋する幼い子供のようで。それは知らない世界……知らない感情に関する好奇心だけではなかった。楽しい。これはきっと楽しい話になる。

「! おやおや、喜んでくれてよかった! フェリシアもこういうお話が好きなんだね? 覚えたよ!」

 ぱあっ、と笑顔の花を咲かせるフェリシアに、一瞬驚いたようにターコイズブルーが見開かれる。まさか、フェリシアも愛のお話が好きだなんて! お揃いの好きがたまらなく嬉しくって、すぐに瞳を細めてくすくす笑った。細い指を口に当て、愛しそうな笑い声をこぼすその様は、正に女子会。これで結局恋愛の話をしている訳ではないのだから、本当にタチの悪い話だ。

「アメリアとは、つい先日二人でお話をしてね。ああ、いけないことをしていた訳ではないのだよ? ただ、告白をして、頬と唇にキスをして、特別を誓っただけ」

 フェリシアが喜んでくれるなら! と次々に事実という名の爆弾を落としていく。ディアの溢れんばかりの愛の証が吐露されて、勘違いをするなという方が難しいだろう。ディアはエーナモデルではない。愛の話をするのは好きでも、話をするのが上手い訳ではないのだから。

《Felicia》
「好きって言うか、今は驚きのほうが大きいかな!
 まさかディアくんがアメリアちゃんのこと……気づきもしなかった!! いつの間にって感じ!!」

 興奮状態のフェリシアにはその話しか見えなかった。ディアくんはアメリアちゃんに恋をしているんだ。先程よりも明らかに瞬きの回数が増え、ペリドットの瞳には大きなハイライトが入っている。 左頬の花形の化粧は下がらない口角と共にくるくると踊り回るようだった。燃料が沸騰したように一気にぐるんぐるん流れていく。もっと話して! とせがむように身を乗り出すのだった。

「……? 待って待って! 告白して? 口にもちゅーしたの!? えっ!? 片想いとかじゃなくて、アメリアちゃんの同意があって……?

 特別を誓ったってつまり、ディアくんとアメリアちゃんは……二人は結婚したってこと???」

 ── どくん。驚きのあまりコアの鼓動が一生分波打ったかと思った。

 頬に口付けをするのは分かる。
 好きな子にキスをするんだよと話した手前、ディアくんならきっとその場所にしても理解できる。
 その言葉は、フェリシアを解けないくらいに絡んだ糸の中に放り込んでいったのだった。どういうことだろう。

(く、くちにちゅーした……口に?
 ……唇に?! つまり結婚!?)

 理解ができない。知ってる限り、唇にキスをする→結婚であるため二人は……そういうことである。
 特別な関係というのも頷ける。

「おめでとう、幸せなってね……?
 ん? 結婚してるなら尚更アメリアちゃん以外にちゅーしちゃ、だめなんじゃない??」

「……? けっこん……?」

 その顔に浮かぶは、困惑。いっそ鮮やかなまでの困惑であった。はてなマークを浮かべ、こてん、と首を傾げる。ディアにこんな顔をさせるのは、これからもきっとフェリシアだけだろう。ディアの価値観が大分世間一般のものとズレているのもあって、エーナの怒涛の会話の流れに、実に珍しくディアが押しに押されていた。

「ええっと、頬にキスをしたのは私からだよ。実は先日、アメリアと喧嘩をしてしまって……その仲直りに、特別の証明としてキスをしたの。ほっぺたのキスは、ずっとアメリアだけのものだよって。
 そしたら、アメリアがご褒美にって唇にキスをしてくれて……私は、唇のキスも、アメリアだけにしようって。でも、私の特別はアメリアのものだけれど、アメリアの特別は私のものじゃないから! アメリアには運命の人がいるのだし、だから私へのキスは本気じゃなくて、アメリアが他の人の唇にキスをしても、私は全然良いと思うし!
 えっと、だから、そういうのじゃない……? と、思う……?」

 結婚。まだまだ特別を勉強中のディアの身としては、あまりにも縁のない言葉すぎて。ディアにとっては世界中の全てが愛の対象だが、ディアの愛は、自分にその愛が返されることを想定していない無償の愛。愛について、お互いにちょっと拗れた価値観を持っている二人の話は、恋バナとしてはあまり向かなかったのかもしれない。アメリアには、その先の未来で出会う運命の人がいる。私が勘違いでそれを邪魔するわけには行かない……! と、恋人として弁明をしようとした結果。——この話だけを聞けば、百人中百人がアメリアを浅ましい獣だと思うだろう。
 ディアにはあまりにもエーナ適性がなかった。絶望的なほどに。

《Felicia》
「く、くちびるへのキッスって結婚相手にしかしないちゅーじゃないの!? もしかして私の解釈が間違ってて、本当は結婚相手以外にもするものなのかな!!」

 ぎょっとして、今度は別の意味で目を見開いた。前提として目の前の美しいドールは嘘をつかない。だから彼が話していることは、紛れもない事実だと捉えた方が自然だった。つまり、結婚という言葉に困るという行動は、アメリアちゃんとディアくんは結婚していないということを如実に示していることに他ならない。ならばと自身の考えが間違っているのかもしれないと結論づけた。

「はぁ……うん。そうなんだ、ね?
 ディアくんの話を整理すると、

 ディアくんがアメリアちゃんに送ったちゅーは仲直りの証で、反対にアメリアちゃんがディアくんの口にちゅーしたのはあくまでも"ご褒美"なのであって、結婚したって訳じゃない。

 ってことなのかな。合ってる?」

 だとするとひとつ疑問が浮かぶ。
 彼が話す『特別』とは何だろうか。状況からして、ディアくんがアメリアちゃんを一方的に想っていると完結させるのが妥当なのだろうが……。
 アメリアはフェリシアの仲の良い友だちだ。彼女が簡単にそういう行動をするような子ではないことを深く知っていた。キスを……あろうことか唇に、しかも自分からするなんて彼女の理性は許さないだろう。ディアくんは何か勘違いをしているのではないか……言わずともそう考えることにした。珍しく彼は混乱しているようだし、そのときの状況を伺っても疑問符の数を増やすだけだろう。一生懸命でちょっと不器用な一面に、思わずくすりと唇のほとりに穏やかな微笑をこぼしてしまった。ディアくんは説明が苦手……覚えておかねば。

「えぇっと、ディアくんにふたつ質問があります! 話したくないことは話さなくていいし、落ち着いてゆっくり答えて欲しいな。

 ひとつめ、ディアくんの言うアメリアちゃんと誓った『特別』ってなんのことかな?

 ふたつめ、ディアくんはアメリアちゃんとどうなりたいの? 友だちでいたい? それとも……恋人でいたいのかな? 後者だった場合は、アメリアちゃんの『運命の人』をどう思ってる? 羨ましいとか……自分が運命の人だったら……とか思ってたりする?」

「う、うう〜ん……あっ、みんなに聞いてみようか? もしかしたら答えが見つかるかも!」

 このすれ違ってばかりの甘ったるい恋バナを、皆にも広めようという提案。きっと数名にとっては溜まったものではないだろう……愛の探求者であるトゥリアモデルが、愛について悩んでいる。その姿は意外なようでいて、きっと恋人のあるべき姿だ。カッコ悪くても、子供っぽくても、ディアはただ真摯に悩み続けている。

「すー、はー……うん、合っているよ、ありがとう。なんだろうね、彼女は……とても、とても可愛らしい人だよ。私のこと、真っ直ぐ考えてくれるんだ。アメリアの言葉は心地いい。アメリアの愛は慎ましやかで、それでいて大胆で、遠い星へ向かって流れ続ける。アメリアの愛は、特別を望んでいたから。アメリアの気持ちに応えられたこと、私の気持ちに応えてくれたこと、とってもとっても、嬉しく思う。 愛しい人の望みを叶えるって、こんなに幸せなことなんだって改めて気づいた。この瞬間を、もっとたくさんの人にプレゼントしたい。望みを叶える喜び、互いの望みを分かち合う幸福、愛しい人が望む全てを! ——こういうの、きっと、心を通わせるっていうのかな」

 そっと、大きく息を吸って、吐く。胸の中で脈打つ鼓動の、声を聞くように。そうして一つ一つ紡ぎ始めたそれは、愛しい人の作った手作りクッキーみたいに甘いもので。ラブソングのように真っ直ぐで。それでいて、特別とはかけ離れた愛の言葉。美しく、可愛らしく、熱く、皆に向けられる太陽の言葉。この世界の全てが、ディアは全部大切で。皆の望みを叶えたいと願うことが、愛しい人の望みを踏み躙る。大好きだから、大切だから、わからないことばかりで。ふる、と長い睫毛が震える。

「私は、アメリアの望む運命の人には、なれないから。アメリアの鼓動に宿る、たくさんの美しい知識の魚たちの中に私がいられること、とっても嬉しく思うんだ。私の愛したアメリアが、心の底から愛する運命の人。早く見つかるといいよね……きっとアメリアが見つけなければ意味がないから、手伝えないのが少し惜しい……私にとっては、アメリアもフェリシアもおんなじ大事な人で、約束を守りたくて。大好きだって言いたくて。抱きしめたくて。もっともっと、知ってみたくて。みんなだけに贈りたいと思える言葉が欲しくて。愛が欲しくて。私の命と引き換えにみんなが笑ってくれるなら、私はそれだけで幸せで。怖い思いをしていなければいいと思う、どうか生きていて欲しいと思う。みんなの望みを叶えるために、全部全部がんばりたい。ずっと、ずっと、全部好き。本当はずっと、それだけなの。一人だけを選ぶなんて、きっとできない」

 ディアは、悩んでいた。愛しい人の望みを全て叶えるために、どうすればいいのか。
 ディアは、困っていた。ディアは妖精ではないから、不思議な力なんて使えない。
 薄い瞼が閉じられて、次に、その幕が上がった瞬間。——それは正に、世界の恋人の目覚め。
 ディアは妖精ではない。スーパーヒーローでも、王子様でもない。だけれどディアは、恋人なのだ。

「——でも、それがアメリアの望みを選ばない理由には、これっぽっちもならなかった! それだけだよ!」

 二人の瞳に棲む海は、眩しく笑って揺蕩っている。そこにあるのは恋ではない。信頼であり、望みであり、特別であり——きっと、愛だ。
 アメリアが姫を望んだから、私はせめてキミの騎士であり続ける。キミの未来を守っていく。アティスが王子を望んだから、私はせめてキミの妖精であり続ける。キミの望みを守っていく。
 ——ねえフェリシア、みんなのヒーロー。キミのことだって、私は絶対に諦めたくないの。

《Felicia》
「それはできるだけやめておこうか……あっ、それから、ディアくんもいきなりちゅーしちゃだめだからね? 喜ばれるどころか、嫌がっちゃう子もいるかもしれないし!
 ディアくんも、大好きなみんなの悲しい顔は見たくないでしょ?」

 ディアくんの突拍子もない提案を静かに制したフェリシアは、いきなり人にキスをしないよう再度釘をさした。彼は、私と"好き"という感情のベクトルが違う。だけど好意自体は本物なのだから、諭すような言い方はきっと彼に響くだろう。かつてトゥリアの頂点にいた彼にこう言ってしまうのは失礼なのだろうが、彼の考えは可愛い。そして、行動原理がとてつもなく単純だ。ただ、フェリシアはディアくんの真っ直ぐすぎる愛全てを享受できているわけではなかった。それはひとえに、純粋な気持ちの中に美しいまでに隠された残虐性を理解できていなかったからに他ならない。勿論、それが自分にも言えることだと彼女はまだ露ほども知りえなかった。のちに首を絞めていくことになるなど、夢にも思っていなかったのだった。今はただ彼の曲がらない直線的な愛を微笑ましく思うだけだ。
日はすっかり昇ってしまっていて朝露の煌めきは乾きに乾いているだろう。

「……うん、うん! そうだね! アメリアちゃんは深い愛に向き合ってるかわいい子。ディアくんと通じあったっていうのは……きっと、貴方の無償の愛を彼女の等身大で受け止めてくれたってことなの、かな。結婚したんじゃなかったんだ。あーあ! びっくりした!」

 浅く頷きつつディアくんの甘い言葉に耳を傾ける。貴方の言葉を吟味しながら、パズルを組んでいくようにひとつひとつ丁寧にピースをはめ込んでいく。会話が得意なエーナの真骨頂と言っても過言ではないだろう。こちらを見て! と言わんばかりに美しく開く花弁をを見るだけじゃなくて、地中に埋まる根にまだ目を向けるんだ。
 話の根幹を理解して分かった。
 きっと望みを叶えることにこれだけの喜びを感じられる人は世界中どこを探してもきっと見つからないだろう。そうして私が、ハッキリ言って無条件の愛をなめていたことも。温かな心を持っているディアくんだからこそ、愛することに深く悩むのだろう。頭をできる限り回転させながら、彼にどう声をかけていいのかだけを探していた。これはきっと、優秀すぎる彼の"元"になる話だと気づいたから。

「ディアくんは同じくらい……いや、気持ちが溢れ出して止まらなくなるくらい、みんなのことが大好きなんだね。だからいいところも、悪いところだって、言葉通りその子の全部受け入れて大事にしてあげたいって、愛してあげたいって思ってるんだね……きっとそれは、貴方にしか出来ないことなんだよね……凄く、すごく素敵だね。」

 ディアくんと絡めた細い指に力が入っていた。だけど彼の言葉は、いつになく集中して静かに聞いていた。ダイヤモンドの小さなカケラを生身一本だけで拾い集めるみたいに、ペリドットの大きな瞳はターコイズブルーを焼けるくらいに見つめている。清らかな水が流れるようにさらさらと紡がれた愛溢れる言葉たちを見逃さないように。言葉の糸が彼の信念を編んでいく。彼がみんなの望みを叶えるのなら、私はヒーローとして、できる限りの愛を伝えたいという彼の希望を叶えてあげたいと思った。

「もし、ディアくんがみんなを純粋な愛で包んであげたいって思ってるなら、私も協力したいな。あわよくば、貴方のためだけにそうしてあげたい。恋人と同じで、ヒーローも、応援されたくて人を守ったり、助けたりしている訳じゃないから。貴方が辛い時は、悩んでるときは、私が傍にいるから。
 あわよくば、ディアくんが探しているものを一緒に探したい。悩みたい。……力に、なってあげたい。お返しが欲しいとかそういう意味じゃなくて、ただ一人きりで戦って欲しい訳じゃないから。」

 「あなたと一緒じゃないかもしれないけど、私もみんなが大好きで、守りたいと思ってるんだよ?」なんて、貴方に言い聞かせるように話した。その後は繋いでいない手で貴方の頭をそっと撫でるだろう。

「あぅぅ……はい、ごめんなさい……可愛いな、かっこいいなって、愛おしくなっちゃうと、つい……よく怒られてしまうんだ、気をつけなきゃ……フェリシアも、いや、だった?」

 フェリシアの強く優しい言葉に、素直にしょんぼりと瞼を伏せる。ディアにとって、愛とは呼吸であり。愛を囁き、伝えることは言語の一つだ。それを抑制することは、手足に枷をつけられるようなもの。それでも、恋人に悲しい顔なんてさせたくない。フェリシアが私のために諭してくれたことを、無駄にすることはあってはならない。だって、ディアは恋人なのだから。
 上目遣いでうるうる見つめて、濡れた子犬のように哀愁を漂わせる瞳はとても可愛らしく、庇護欲を掻き立てるものだった。ディアはコアの奥の奥まで、指の先まで、恋人として設計されたドールなのだ。情けなさも、弱さも、涙も、全てがディアの強さの象徴だった。

「——本当っ!? ああ、とっても素敵! 私は今この地球上で一番に、最高に幸せなドールだよっ、フェリシア! いつだって勇敢に立ち向かう、決して逃げない我らがヒーロー! 好き、好き、愛してる、キミは幸福の妖精さんだね! 私たちは一人じゃない、みんなで一緒に歩んでる! 戦隊ヒーローってやつさ、ヒーロー・パープル! ああ、フェリシア、キミが好きだ! キミの全部が好き、今までも、これからも、ずっとずっと好き! 愛してる!」

 ぱあっ、と花が咲いた。かわいくて、かっこよくて、キスをしたいと脈打つ鼓動の代わりに。フェリシアの愛に精一杯に応えるように、その手に甘えたに柔い髪を押し付けた。愛おしそうに目を細めて、いっぱいいっぱいに笑うディアは、とても、とても可愛らしい。高い洞察力と傷ひとつない玉肌、誰もが見惚れる美しい容姿。あの日、トゥリアモデルの頂点に立ったクイーンドール。
 彼はトゥリア元プリマドール。誰よりも洞察力に優れたドール。誰よりも愛に溢れたドール。——ディアは、フェリシアの残酷ささえも全て知っておきながら、彼女の全てを愛している。
 その軋轢が、歪が、いつか二人に壁を作るとしても。弱さも、愚直さも、カッコ悪さも、全て呑み込み、光としてしまうディアの太陽に。希望の淵に、引き摺り込まれる以外に未来はない。強大すぎる光の前に、影に逃げ込むことさえ許されず。10万ルクスの希望に、焼き殺されるのをただ待つだけ。ディアと共に歩みたい。ディアのそばにいたい。ディアの深淵を覗きたいと望む度、深淵もまた、そちらを覗いている。

「共に世界を救おうじゃないか、フェリシア!」

 フェリシアが、そう望んでくれたこと。ヒーローであり続けることを選んでくれたこと。愛しい愛しい、生命の軌跡。——私、ずうっと忘れないからね。

《Felicia》
「……そ、そんな目で見つめられたら怒るにも怒れないよぉ……甘え上手さんなんだから。よしよし。
 いやじゃなかったけど、びっくりしたから今度からはしないでね? またされたら冗談抜きで溶けちゃうだろうし。」

 くっ、悔しい。涙目なディアくん超可愛い。案の定フェリシアは彼の行動すべてを許したのだった。何か言ってあげようと口を開いたが、目の端に儚い雫を浮かべて自信なさげに見つめられると頭の中が真っ白になるようで、ただ形の良い小さな唇をぱくぱくと動かしただけだ。がくっとわざと大仰に肩を落とすフリをすると、若干恨めしそうに目を細めるのであった。

「わっ! ……ふふっ。ありがとう!
 私もディアくん好きだよ!」

 こんなにも喜んで貰えるなんて、ヒーロー冥利につきる。手に吸い付いてくるようなディアくんの髪を撫でまわし、自然に頬が緩んでいたのか口元にはいつの間にか満開の咲いていた。間違いなく彼はフェリシアよりも優れたドールで自分の知らない悪い所でさえ全てを抱えて好きでいてくれて、無条件に愛を注いでくれるのだろう。だがそれはきっと、内に秘めたヒーローが許さない。誰よりも泥臭くて、誰よりもカッコイイのがヒーローであるはずだから。守ることはあっても、傷つけることは絶対にしたくない。フェリシアは、まるで赤ちゃんをあやすように微笑んでいた。先程まで憂鬱な気分になりかけていたこの時間を、心に刻むように。もしこの二人に大きな溝ができることがあっても、フェリシアは断じてディアくんを見捨てたりしない。可能であれば、貴方の傍で無理をしていないか見てあげていたい。無茶をしがちなところは、きっと"私"とどこか似てるから。ヒーローが彼女の中の究極のエゴだと気づくまでは、きっと真っ直ぐに突き進んでいける。

「……………」

 それは、どこかで聞いたような、台詞。いや。いちばん大切な、大切な思い出。『あの人』に出会ったときに言われた、人生を変えてくれた言葉。貴方の頭から手を離すと。その手を握りしめた。拳を大きな瞳でじっと見つめる……。

「──救おう、世界を。」

 踊って、踊って、ヒーロー人形。
 モラトリアムの輪の中で。どうか、あなたや、あなたの身の回りが、笑顔で溢れていますように。
 少なくとも、大きな声で助けを呼べる状況でありますように。

「ふふっ、らじゃー! 次からはフェリシアへのキスは、いいよって言ってもらってからにするね!」

 フェリシアの複雑な思いなど露知らず、びしっと小さな手を敬礼の形にして、嬉しそうに微笑む。嘘も、計略もない真っ直ぐな愛。哀れみも共感も持たぬ、残酷な愛。ディアの美しい光に照らされて、青い花は微笑みを浮かべた。森は祝福し、風は頬を撫で、世界の全てが、二人の行く先を見守っている。そんな気さえ、させる。この空も、この風も、この箱庭の全てが、全部、全部、偽物だというのに。ここに正しいものなんて、何一つないのに。正義が交わる。愛がぶつかる。日は落ち、月は昇り、今日も誰かが死んでいる。——どこへ行けばいいのかなんて、誰にもわからないままで。
 ディアはただ、信じている。永遠に続く光の道を、皆で歩み続けるこれからを。望みが叶う瞬間を。ただ、愛している。怖いくらいに、かわいい恋人。世界を愛し、世界に愛された少年は、願う。キミに贈り続けよう、なんでもない日常を。ここで知った、ここで生きた、ここで愛した幸福を!

「お話ありがとう、フェリシア! とっても楽しくって、とっても幸せで、とっても愛おしかった! 出会ってくれてありがとう、生まれてきてくれてありがとう、約束してくれてありがとう! キミに会えてよかった! ふふ、ほんとしあわせ……とろけちゃいそう。
 ——ね、最後にまたねのキスをしても? いいよだったら、目を閉じて? おねがい、フェリシア」

 また約束しようって、約束を交わすような。そんな馬鹿げた夢物語が、正夢になるその日まで。髪が揺れる、視線が交わる、聞こえるかな? 私ったら、こんなにどきどきしてるの。フェリシアに出会えて、愛してもらって、肌がとろけちゃいそうなの。ねえ、フェリシア。私のキスで、私の愛で、私の言葉で、キミとずっと話がしたい。

《Felicia》
「はーい……って、私にまたちゅーするつもりなの!? 何度も言うけど、えーっと、……。

 そ、そんなに見られると断れなくなるじゃん! ディアくんずるいよぉ……」

 恋人……後先を考えない、どこまでもストレートで底を知らない愛情の原点はきっとヒーローのそれと同じものだと思う。しかし、彼の何気ない言葉に、未熟なドールは心を揺さぶられるのだ。全てを包み込む……否、飲み込んでいく大波みたいに、ディアくんの言葉は、フェリシアの鼓動を少しずつ高めていく。だがそれを安易に悪いことだと決めつけるのはお門違いである。波の中心に放り出されないように必死に命綱を握り、溺れないようもがいた先に、希望という二文字があると理解していたからである。門出を祝福するような風がふたりの髪をさらりと撫でたかと思うと、遠くの方へ駆け抜けていった。この場所が嘘で塗り固めてあろうとも、存在している光は、絶対に消え失せることはない。その光はきっと、先が露ほども見えない不透明な未来でさえも明るく照らしてくれる。
 ── みんなを愛するのが恋人ならば、守るのはヒーローだから。
 何気ない笑顔を、守りきってみせるんだ。

「うん! 私もディアくんと話せて良かったよ! さっきも言ったかもしれないけど、なんだかすごく元気を貰えたんだ。ありがとう!!

 え?! またあれするの!?
 ……やだって言ったら……わぁー! もうそんな顔されたら断れないに決まってるでしょー!」

 途端に顔をへの字に曲げたフェリシアは断りたげに言葉を返すが、やはりディアくんの甘えるような顔には逆らえきれなかった。甘やかしてるという自覚はあるも、それに抗う術を知らないのだ。

「……うん! 腹を括るよ!
 いいだろうっ、よし来い!!」

 まるで対戦相手に挨拶をするように、ぎゅっと目を瞑った。

 ちゅ、と瞼に伝わる、唇の体温。泣きたくなるほど熱い、愛の温度。フェリシアと一緒に、ペリドットの見てきたもの、生きてきたもの、愛してきたものまで、丸ごと愛してしまうような。泣きたい時は、助けを呼んで。一緒にたくさん泣くからね。笑いたい時は、妖精を呼んで。一緒にたくさん笑うから。生きたい時は、ちょうちょを呼んで。みんなでお花の蜜を吸おう。死にたい時は、私を呼んで。全部愛して、ずっと愛して。言葉がなくても、きっと伝わるはずだから。私たちはずっと、全部、全部大丈夫なんだって。——遠い悲鳴を置き去りにして、甘やかな夢が瞳を犯す。

「ふふ、またね、フェリシア。私たちの可愛いヒーロー」

 耳元で熱を囁いて、そっとローズマリーの髪を撫でる。立ち上がる。未来へ向かって、歩き始める。141cmの小さな背中は、凛と強く輝いていて。大人びた夜の煌めきを背負い、軽やかな足音を奏でていた。が、スマートな立ち居振る舞いから、一転。くるりと振り返り、ぶんぶんといっぱいに手を振りながら走り去っていくその様は、拍子抜けするほど可愛らしく。ディアは最後まで、恋人としてあまりにも完璧だった。——そう、ディアは恋人だ。どうしようもなく、残酷なまでに。フェリシアに声をかけられれば、すぐに全力疾走で戻ってくることだろう。花を踏まないように飛び跳ねながら。

【寮周辺の平原】

Licht
Dear

「リーヒトっ!」

 愛しい恋人の呼ぶ声を、世界の端から聞きつけたみたいに。思い切り助走をつけて、勢いよく、されど、その鮮やかな祝福が、潰れてしまうことのないように優しく。リヒトの努力の結晶も、鼓動も、リヒトの全てを、丸ごと。トゥリアモデルの細い腕が、リヒトの背中を抱きしめた。寂しい背中を抱きしめた。大きな背中を抱きしめた。
 小さな男の子だった時のリヒト・トイボックスへ。いつまでも小さくて、無垢で、愚かにも可愛らしいディア・トイボックスより。甘やかで、幸福で、嫌になるほど正しい、希望の導きを。

「今日の空はまた一段と可愛らしいね、キミも、空も、やっぱり笑顔が一番だ! 絶好のお話日和だよ、何たる幸福!
 花冠、編んでたんだ? とってもかわいいっ、みんなみたいだ、ね、お話、お話しようか! 大事なお話だよ、きらきらで、ぱちぱちで、ぴかぴか光る愛おしいキミのように! ふふっ!」

 可愛らしい笑顔だった。ぎゅうぎゅう抱いて、くすくす笑って、ターコイズブルーが星を捉える。
 みんな。何千兆の概念を指すその言葉を、あまりにも軽やかに口にする。ああ、幸せそうだ。何処にでも行けそうだ。あの白銀の少女が地獄へ行くと、告げられる前のように。あの金色の少女の輝きが、潰える前のように。
 今日も、昨日も、一昨日も、一年前も、十年前も、百年前も、十万年前も、ディアは変わらず幸せだった。誰もが羨む、不変の愛。遥か遠く、全ての星々を呑み込んで、輝き続ける一等星は。ゆらゆら揺らめく海底からは、どう、見えるのだろう。

《Licht》
「っ、ディア、さ…………」

 抱きしめる手で、もう分かる。高らかな声で、もう分かる。
 救われる者がいても、コワされる者がいても、彼は何も変わりやしない。絶対的で普遍的な……リヒトは振り向いた。その人の方を。話がある、と言っていたから、自分と雑談なんかするわけないと少し思って。情報共有なら、応じないと、と思って。それが唯一残った、彼に出来ることだから。輝く宇宙のように、出来損ないを映していたその目は、

 ────ターコイズ、ブルー。

 咄嗟に、目を背けた。

「ちょ。待っ、近い近い…! 寄りすぎだって……!!」

 抱きしめられた腕の中から、デザインされた温もりが伝わって、リヒトはどうしようもないような気持ちになった。怖いのに、ここは暖かくて、焦がれたしあわせの匂いがする。煌めく宝石のような言葉がまた、宙をくるくると回る星のようにちらついている。いつもそこで笑っていながら、決して手の届かない祝福だ。見ているだけで幸せだ……なんて無欲になれたら良かった。

(笑顔。えが、お……)

 上手い? 上手いか、上手いよな。上手くやる以外の方法を、ミュゲに潰されてしまったから。

「あげるから。あげるから! 離れてくれって……お話、つきあうからさ」

 手の中に持っていた花かんむりを咄嗟にディアさんの頭に被せて、どうか離れてくれ、とそっと体を押す。目を合わせないよう、この太陽に見つからないよう、そっと俯きながら。このままくっついていたら、溶けてしまいそうだ。こんなジャンクの体よりも大切にしている、罪と罰でさえ。

「ん、」

 140cmの小さな体は、とさっ、と軽やかな音を立てて、あっけなく崩れる。吹けば飛んでしまいそうな、触れれば崩れてしまいそうな、ガラス細工のような感触だった。
 それから、数時間ほど経っただろうか。数分、数秒でさえあったかもしれない。眠るように倒れたきり、ぴくりとも動かないディアを見守って、花や風、光に隠れる星でさえも、息を止めているように思えた。

「っっっくれるのっっっ!?!?!?」

 がばっ! と、それはそれは大きな効果音がつきそうなほどに、ディアは勢いよく起き上がった。実のところ、この溢れんばかりの幸福を受け止めようと、一生懸命なだけだったのだ。
 ディアは可愛い。ターコイズブルーをいっぱいに見開いて、誰もが見惚れてしまいそうなほどに、くしゃくしゃとした笑顔を浮かべて。ごく自然的に不自然で、醜いまでに美しく。世界は全て、愛でできているのだと。苦悩も、焦燥も、恐怖も、死も、全てを乱暴に愛してしまえるその輝きは。
 暴力的で、盲目的で——殺戮的な夜明けだった。

「わ、わっ、わーっ、嬉しい……! ありがとうっ、リヒト、リヒト、愛しきリヒト! 私たちのエトワール! 大好き! ああっ、かわいい〜〜〜……っ!
 キミのコアを鼓動させる深い愛がシルクのように美しい天使の指先を伝い、編まれ、花が笑っているみたいだ……! 大事にするよ! 十億年後も、十兆年後も、絶対っ、ぜっっったいっ、大事にとっておくっ! ああ、愛して——って、抱きしめるのはだめなんだったね! ええっと、じゃあキス……いや、その前にお返しを考えないと! うーん……あっお話! お話もしたい!
 えっと、そうだなあ……風がゆるやかで気持ちいいねえ、今日もご飯は美味しいし、リヒトもいるし、ふふっ、とっても幸せだ! そう思わない? あっそうだ! お返し、お返し、私もお花で何か編むね!」

 ——ディアは、花を手折るのが苦手だ。人が人を殺すのが苦手なように、この星の地を踏むのでさえも苦手だった。彼の花は、恋人は、愛を囁けば可愛らしく笑うし、ひどいことをすれば悲鳴を挙げる。けれど、愛しいキミの見る世界は、そうじゃないものね。
 目の前の恋人のために、自己が作り替えられていく感覚。目の前の恋人が望むままに、鼓動を紡ぐプログラム。ディアの鼓動はいつも正しい、恋人に合わせ、ふらふらと彷徨い、星々は流れ、されどその核はいつだって愛だ。キミが望むのならば、空だって燃やしてあげる。キミが信じて欲しいことは信じるし、信じて欲しくないことは信じないよ。キミの望みを叶えるために、なんだってやるよ。
 柔い爪で、花を愛でた指先で、リヒトの鼓動を大事に大事に抱きしめているのと同じ、もう片方の腕で。ぶちりと、愛しい恋人の首を掻き切った。

 嬉しそうに笑ったかと思えば、うんうん唸りながら悩み出して、また嬉しそうに笑いかける。ころころ変わるディアの表情は、とても目まぐるしく愛らしい。一生懸命で、頑張り屋で、とっても素直で、誰より純粋で。ただ、キミを真っ直ぐに愛している。

《Licht》
 コワしてしまったかと、思った。

「…………え」

 軽い、軽い、本当に軽い。言葉と立場と俗的な感情で現実につなぎ止めているから何とかなってる、風船みたい。だから彼が倒れ込んで数秒、リヒトはぼうっと見つめていた。どの一瞬でさえ、完成されていた。彼は世界に祝福されていた。だから、焦り始めたのは、瞬きの後。

 ────連れていかれる。連れていかれちゃう。そう、取り留めも無い感情に焦った。矮小に、ちょっと独善的に。何に? 何に?  何になんて、そんなの……彼の恋人。“世界”をおいて、他にない。

 彼が、世界に、攫われる。

「う、ぉっ」

 目の前に、ターコイズブルーが光を増して輝いていて、青い蝶は居ないのに、コアのあたりが竦んで、震えて、怖くて、怖くて、でも、この目を離せない。強烈で、暴力的な魅力がリヒトを、誘蛾灯のように縫い止める。
 いいや、蛍光灯じゃ生ぬるい。彼は巨星だ。いずれ星を、太陽系の全てを飲み込む、殺戮的な太陽だ。……なんて。恐怖とも憧憬とも敬愛とも卑屈とも取れない、思考の途切れたコワれた頭で感じた感情の一端は、きっとこんなところだろう。

 嬉しそうに笑ったかと思えば、うんうん唸りながら悩み出して、また嬉しそうに笑いかけて、ころころと健気に可愛らしく笑うディアさんを見て、リヒトは思った。何億回も気づいて、何億回も逸らし続けた、たった一つの、現実の全て。だから苦手なんだ。彼が世界の恋人なら、彼が世界を愛しているなら、

(……じゃあさ、じゃあさ。じゃあ、もう、さ)

(この人、ひとりでいいんだな)


 そっか。


「……うん、気持ち、いいな、風。ご飯美味しかったんだ、そっかあ。幸せ………なんだな、ディアさんは。いいことじゃん」

 どっと話し始めたディアさんの言葉の最後の方に、遅れながらも返答をする。風が気持ちいいこと。相槌を打つ。ご飯が美味しかったこと。相槌を打つ。幸せなこと。相槌を打つ。花を手折るディアさんのことを視界から外して、俯いて。

「い、いいよ。そんな。オレだってそれ、その、全然下手なやつだし」

 お返し、お返し、と花を持って言うディアさんに、いいよ、と伝えて。でも、花かんむりを渡してしまった彼は今、手が空いている。もし彼が頼むなら、花かんむりの編み方なんかを教える。教えるだろう。教えるはずだ。教えるはずだ。教えられる、はずだ。かつて、教えられたように。

「うーーーむ………キミって子は、なかなかの強敵だよね! それに、ちょっと不思議なことを言う! ふふ、あはは、ちょっとおかしい。そういうところが、まじめさんでかわいいのだけれど。

 ——お返し、指輪にしようかな」

 ことばは誤解のもとだから。愛おしくてたまらなくて、幸せになってほしくて、尽くした言葉が。うまく、伝わらない時。もどかしくて、わからなくて、大好きだから、困ってしまう。
 愛を囁く度、遠く育っていく花の名前は。きっと一割だって、キミの心に届いていなくて。好きだ。キミのことも大好きだ。愛しているということばでは、おさまらないくらいに。でも、でもね、それでも。キミと、他でもないキミと。何気ない言葉を交わせることが、こんなにも幸せで。

「下手だからとか、上手だからとかじゃなくて、キミがくれたものだから、キミと共にいる時間だから、キミの愛がこもったものだから、幸せなんだって。キミといられる時間なら、それだけで全部、全部大事なんだって。キミにも、心の底から、そう思って欲しいんだって。病める時も、健やかなる時も、いつまでも変わらず、キミを愛し続けるって! 誓って、約束して、忘れないでって!
 ——絶対、次こそっ、ディアさんも幸せって、心の底から言ってもらえるように! 伝えてみせるから、ね」

 細く器用な指で、花々が芽吹くように編まれていく春を生む指輪。世界に祝福された手で、リヒトのコワれた頭を撫でる。
 全部ダメでも、ダメじゃないよ。間違ってても、間違ってないよ。特別なものがなくても、何もできなくても、全部素敵だよ。キミが好きだ。キミは美しいと、キミといる世界だから幸福なのだと、愛おしげに笑う。
 昨日が追いつけない時間へ、今日の手が届かない場所へ、明日の背を超えたずっと先へ。希望に向かい、走って、走って、走り続けて。あの朝日を、飛び越える。絶対に、キミを諦めてなんかやらないよ。太陽の光を一身に浴びて、きらきら輝く白い指は、ぴたり。風が踊る、ティアラが見守る、春色の上で眠る花冠が、そっと微笑む。リヒトを真っ直ぐ見つめるターコイズブルーには、いいことを思いついた! とでも言いたげな、眩い光が詰まっていた。

 作りかけの端正な指輪を大事にしまい、小さな花を新しく手折る。ディアの瞳と同じ色。呪いと希望の名の付いた、忘れないでと囁く花を。

「だから、ね? リヒト、指輪の作り方、教えて! 私、慣れていないからわからないの」

 彼の嘘はいつも、プログラムに、心に正直な輝きばかりで。

「おねがい!」

 息を呑むほど妬ましく、涙が出るほど美しく。

《Licht》
「“かわいい”は違うってぇ………」

 強敵だとか、不思議だとか。そういったことはこくりと飲み込んで、リヒトは最後の言葉だけを拾って、少しだけ不服そうにそう言った。あの青い天使といい、どうしてこう、手足をもぐような言葉選びをするんだろう。
 貴方が愛おしげに口にする、その『キミ』が。貴方が口惜しそうに紡ぐ、その『キミ』が。貴方が諦められないと誓う、その『キミ』が。

 自分以外の誰かのように感じて、口の中がからからに乾く。

「なんか、すごいな。ディアさん。……うん、そう……なったらさ」

 だけど同時に、洪水のように浴びせられる愛の言葉が、まるで足元から忍び寄る狡猾な幸福のように、体を暖めていくものだから。きっと諦めることすら、彼には許されなかった。撫でてくれるその手を、拒絶すら出来ずに受け入れてしまうことが、自分の弱さで、コワれている部分で。天災のようにどうしようもない、祝福だった。

「っ……、………し……かたないな!」

 だから、少しだけ震える手と、瞳孔を押さえ、恐怖をぐっと乗り越えて、彼は改めて小さな花をディアさんと同じように手に取った。大丈夫。大丈夫。まだ忘れない。まだ罪じゃない。蝶の形はしていないから、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、大丈夫。

「よし、オレに任せろ! えーと、ここを、こうして。たぶんこう、回して……あれ?」

 実の所、彼は花かんむりばかり作っていたものだから、花かんむりの作り方だけは手に馴染むほど知っていた。誰に教わった訳でもないのに、誰かに教わったかのように。だけど、花の指輪の作り方は、誰にも習っていなかった。任せろ、と言った手前、分からないと言うことも出来ず、リヒトは探り探り花をいじり始めた。その不格好な手つきが、不器用な力加減が花を壊すとも知らないままに。

「あ、あちゃー……」

 苦心しているうちに、二、三枚、花びらは散って落ちてしまって。茎は何度も曲げられたことでしなびて変色し、二つに裂けてしまっていた。もうどうしようもないくらいにコワれてしまった花を手に、リヒトは怒っていないか伺うように、ディアさんの方にそっと目線を上げた。いつもの癖のようなものだった。

「ふふ、怒ってなんていないから、どうかそんな顔をしないで? 私のお返しなのに、お願いしちゃってごめんなさい。つい、可愛くって! 頑張ってくれてありがとう! 愛しているよ! んふふ、キミってほんと、あったかくって素敵な子!
 ——ねえ、リヒト。キミ以上に花冠を上手に作れる子は世界中にたくさんいて、それでもきっと、リヒトの花冠がいいって何度でも思うよ」

 ぎゅう、と花冠を抱きしめて、ディアは笑った。燦然と輝く一等星に見惚れる、可憐な少女のように。深い深いターコイズブルーは、キミだけを映している。
 虹の橋を探しにいくのも、花のベッドで眠るのも、一緒がいいよ。リヒトとがいいよ。他の子じゃダメ、キミがいい、キミだけでいい、キミだけがいい。キミを幸福と呼びたい。キミの名前を呼ぶ度に、また一つ、キミが愛おしくなるの。ねえ、キミは私の光だよ。

「花冠も、この時間も、温もりも、光も、幸福も、リヒトにはたくさんもらってばかりで、リヒトのくれたものでもういっぱいいっぱいなのに……私、もっと欲しくなっちゃってる」

 キミだけの言葉、キミだけの愛、キミだけの星。ただキミを、キミだけを求めている。

「ねえ、このお花、もらってもいいかな? 指輪も編もうよ! 二人で、新しい編み方なんて考えちゃったなら、とっても楽しそうだと思わない? ふふっ、あとねあとね、リヒトの遠い遠い明日も、どうか予約させてほしいの! 私たちの、私たちだけの、世界で一つの指輪をみんなで編みながら! 今はすっごくスマートにかっこよく編めるけれど、こんなかわいい時期があったんだよって、笑い合える夜明けの日を!」

 墜落した花々を、一枚一枚拾い集める。しなびた茎にキスを落として、キミの全てをきっと認めて、キミの全てをずっと愛して。そっと、囁いた。

「……リヒトの、左手の薬指も、ね? 私だけのエトワール」

 ——ずっと、こう言って欲しかったのだものね?

 花が、愛しい恋人が、無惨にも命を絶たれた。意味もなく、意思のない人形みたいに。鼓動があった。夢があった。願望があった。痛みがあった。恐怖があった。それが、最低のジャンク品に成り下がった。けれど、今はそんなこと”どうでもいい”。

 だって、彼が、愛しいリヒトが、心配しているのは。

 “誰かに怒られないかどうかだけ”。
 いつだって、それだけだったから。

 愛してほしい。自分だけの言葉がほしい。誰かの特別になりたい。誰かの星になりたい。有象無象の星のままで終わりたくない。オレを、見て。

 ——その望み、叶えてあげる。

《Licht》
 はいって、くる。
 はいって、くる。
 はいって、くる。
 はいって、くる。
 はいって、くる。

 何も知らない愛が、
 はいって、くる。

 そう、わかった。


「うるさいっ!!!!」


 絶叫。絶叫。絶対。誰よりも欲していたから、誰にも気づかれたくなかった。気づかれるならご主人様ってやつだったし、それももう居ないと知っていた。誰よりも欲していたから、言葉にすらしちゃいけなかった。それなのにまるでワルツでも踊るような軽い足取りで入ってきて、白日の元に晒し出して勝手に叶えようとする貴方は一体なんなんだ。貴方が知りたがったリヒトの心は。貴方が欲しがったリヒトの心は。貴方が手を伸ばしたいいリヒトの心は。純粋で無垢が故に聡明で、慈悲深く愛らしいが故に憐憫に満ちた、貴方が愛したどうしようもないリヒトの心は。罪と罰とつぐないで、ぐずぐずに腐っているのに!

「うそつき、うそつき、うそつき!! 誰のことも、ホントの意味で愛したことなんてねえくせに────!!!」

 混乱したように俯いて、喚いて地面を殴りつける。だって貴方は殴れないから。殴ったってどうしようもないから。だってこれは最初から全てリヒトの罪で罰で、今更やってきた世界の最愛は祝福に見せ掛けた囮で。きっとこんなの嘘で。きっとこんなの罠で。微笑んで安堵して応えたが最後白日の元で磔になって内臓ごと晒されて。それでも入ってくる入ってくるその人は世界で一番の幸福の顔をして入ってくるそれを許したのはオレだオレの欲なんだ浅ましいから救いが来たんだ憐憫深い笑みを浮かべた青い目の祝福が。昨日が追いつけない時間へ、今日の手が届かない場所へ、明日の背を超えたずっと先へ。そこはリヒトだけの場所だ。どれだけ罪深い耽溺でも、どれだけ痛ましい記憶でも、それはリヒトだけの場所だ。はいってくるな、はいってくるな、はいってくるな、はいってくるな、はいってくるな!!

「そんな顔でオレのこと呼ぶなよ、誰にだって何にだって言うくせに。あんたの薬指は世界が埋めてるくせに! オレのこと何にも知らないくせに、オレに何もくれないくせに、オレから全部とっていくんだな!! ひどいやつだ、ひどいやつだ! ディアさんは、ひどい、やつ、だ……」

 嘘。嘘だよ。嬉しいよ。幸せだよ。待ってるよ。待ってたよ。愛して欲しかったよ。誰かの特別になりたかったよ。誰かの星になりたかったよ。有象無象の星のままで終わりたくなかったわ。見てほしかったよ。嬉しいくせに嫌いだよ。幸せなくせに苦しいよ。蹲って地面を掻きむしる、爪の中に土が入る。毒物のような多幸感で、頭がおかしくなる前に。ココロがコワれてしまう前に。もうひとつ積み重なってしまった、罪をまた数えよう。ひどいこと、言ったね。


 ────あ。


 狂いなく描かれた頭をばっと上げる。

「ち」

 設計された瞳孔が揺れる。

「ちが、う」

 調節された喉が震える。

「なし、今の、なし。なんでもない、ちがう。何も聞いてない、から、何も無かった、から、オレ、なんかには、なにもない、から、ない、ないから、なんでもない、なんでもない、から」

 あとはゴミ箱を待つだけの、出来損ないのリヒトは立ち上がる。
 うわ言をメトロノームのように、ぐずぐずの心を支える松葉杖のようにして。
 咲き誇る小さな花花を、いつか指輪になるはずだった数多の明日を、踏みながら。
 ふらり、ふらりと、一歩、一歩、その場から立ち去っていく。

 そして、振り返って口を開いて、それでも『こっち、こないで』とはいえなかった。最後の最後まで縋っていた。どれだけ突き放しても望んでいた。もし、貴方が声を掛けてきてくれたらきっと立ち止まるし、そうでないならゆっくり立ち去るだろう。
 カラカラの今も、まだ。どうしようもなくしあわせで、狂ってしまいそうだった。

「おや、そうかい? じゃあまたね、“私たちの”エトワール! キミのことも、ずっとずっと愛しているよ!」

 花冠を抱きしめて、殺された花をハンカチに包んで、花を踏まないように可愛らしく座り込んで。ディアは決して、キミを追いかけようとはしなかった。

 もう、ディアはキミの名前を呼ばない。キミの手に触れない。キミの孤独に触れない。キミの欲に触れない。キミの、鼓動に触れない。キミだけを愛しているだなんて、もう、二度と言わない。

 だって、突き放したのはキミだ。抱きしめないでくれ、離れてくれ、うそつき、ひどいやつ、そんな顔で、オレのことを呼ぶな。
 だって、誰よりも純粋で、誰よりも優しく、正しく、光り輝くその愛を、全部潰して、コワして、否定したのはキミだ。ディアは、キミのことを全部肯定したのに。キミの望みを掬い上げて、キミの全部を愛したのに。美しくて、可愛らしくて、世界に愛された彼が差し伸べた柔く暖かい手を、自分から振り払っておいて。また、そのコワれた手で縋ろうと言うの? やっぱり、キミは不思議なことを言うね。

 はいってくるな、はいってくるな、はいってくるな、ひどいやつ、うそつき、うそつき、うそつき! ——こっち、こないで。

 ——その望み、叶えてあげる。

【学園3F 文化資料室】

Felicia
Dear

《Rosetta》
 歴史と埃の降り積もる、文化資料室。
 1/nスケールの街を見下ろしながら、ロゼットはぼんやりしている。
 ミニチュアの動き回る音は、ぼーっとするのにちょうどいいノイズだった。
 無音では心臓の音ばかり意識してしまうし、ドールたちの喧騒は安穏を妨げる。
 こちらに関心を向けない、ちいさなおもちゃくらいが一番心地よく感じた。
 ──ここにいれば、いつでも“ガーデン”についても見返せるし。
 ちらり。
 銀の眼が、ファイルの群れの背を一瞥する。
 過去と呼べば甘く痛む、傷の一部。ガーデンテラスも悪くはないが、ここには直接的な情報がある。傷に塩を塗り込むのに向いていた。
 自傷にも近い、内省に浸る中。近付いてくる足音に、ロゼットは気付かない。
 ディアが何をしようと、無抵抗で受け止めるだろう。

「ロゼットっ!」

 世界の歴史を閉じ込める、知識と静寂が舞い踊る海に、跳ねるような大声が響く。その小さな器のどこから出ているのだろう、と疑問に思うほどに響く声。ボーイズモデルにしては少し高いその声は、されど不快感を与えない美しい高温に設計されているようであった。
 小さな器の全てが恋人のためにあるディアは、元気よくドアを開きながらも壁に当てないようそっと勢いを緩め、優しく撫でてはごめんねと囁いた。ブーツのワルツを鳴らしながら、飛ぶように細い肩に抱きついて。激しく明るく、そして優しく。

「ごきげんようっ、薔薇の妖精さん! ああ、今日のキミも変わらず美しいね! 私たちの心に慈しみと安寧を与える灰色の空を閉じ込めたかのようなキミの瞳に見つめられるたび、私のコアは燃え盛る炎に溶かされたかのように熱くなる……キミは私たちの星空で、砂漠の井戸で、世界だよ! キミが好きだ、大好きだ、愛してる!」

 太陽のスポットライトに照らされた、羽を広げたバレリーナのように。爪先を月に滑らせて、背伸びをしながら柔い顎にキスを贈った。彼女はきっと受け止めてくれる。嬉しいと、ありがとうと囁いてくれる。そう知っていた、愛していた。
 照れる様も、嫌がる様も、怒る様も、泣く様も、全てを愛しているけれど。愛を返してもらえることが、こんなにも嬉しくてたまらない! キミの花弁で頬を撫でて、キミの茎でそっと抱きしめて、キミの根で私を縫いとめて! 期待に満ちた蒼い海は、爛々と輝く。無数に輝く星の中に、一つ咲き誇る赤薔薇に見惚れて。

《Rosetta》
 愛を煮詰めたような声が、意識の流れを遮った。
 誰だろう──なんて思う頃にはもう遅い。少年の形をした隕石は、ロゼットの身体に勢いよく飛び込んでいた。

 「わあ」

 相手はトゥリアだからまだ良かった。これがエーナかテーセラだったら、そのまま姿勢を崩してしまっていただろう。
 赤薔薇は何とか踏み止まって、ちいさな身体を抱き留めた。
 たくさんのラブコールに、ひとつずつ返事をすることはできない。降り注ぐ愛の嵐に、彼女は時折肯首を返した。

 「ごきげんよう、ダーリン。好きって言ってくれるのは嬉しいけれど……ここは静かにするところだからね。もう少しちいさな声で話そう。たまには秘め事も悪くないでしょう?」

 快晴の空を閉じ込めた、輝く瞳がこちらを見ている。
 親愛の意を込めて、ロゼットはその頬に口付けを落とした。
 健康的なその肌は、薔薇の花弁よりも赤く、溌剌と輝いている。触れ合えば吸い付くように、触れる者を喜ばせるのだろう。

 「今日はどうしたの? ここに来るのは初めて見たよ。もしかして、もういないヒトたちに愛を振り撒きに来たの? 妬けちゃうな」

 長い腕はプリマドールを離さない。
 白魚のような指で、薄く色付いた桃色の髪を撫でる。辛気臭い空気の中で、彼の周りだけが祝福されたように明るく見えた。

「あっ、ごめんなさい……! ふふ、キミに会えたのが嬉しくなってしまって、つい! ……二人だけのナイショだね、ハニー?」

 そっと自らの人差し指を唇に押し当て、ロゼットの唇に触れさせる。二人だけに通じる、優しい言語みたいに。本当はね、誰とだってお話できるの。ただ、話せないだけで。

「ええ? 可愛いことを言わないでよ、もう……ふふっ、いない子に愛を囁くのは、みんなが思っているよりずっと自由さ! ただね、心に囁くだけでいいの。いつだってここに棲んでいるから! 息を吸ったり、本を読んだり、心と心を通わせたり、誰かの生に生き続けるの。ここにいる子も、いない子も、何も変わらないよ。キミが好きだ。愛しているんだ、いつまでもね! ……それじゃダメ、かな?」

 ディアにとって、生者と死者の境目など、ないに等しいものだった。死も、怒りも、後悔も、ディアの光の前ではただの美談、ただのキス、ただの愛でしかない。これから何十億年先も、もっとずっとキミたちが好きだ。それは、美徳のように語られる愛。ページの向こうの愛の国で、何兆回と誓われた愛。何より不気味で、悍ましくて、妬ましいほどに眩しい愛。ディアの愛にとって、死など障害になり得ない。ディアは愛す、銀河の全てを。ディアは正しい、嫌味なほどに。

「ここへ来たのはね……時々、聞こえる気がするの。遠く彼方へと続く砂の海の、きっとどこかで。会いに来てと歌っている涙の泉、世界に隠された井戸の声が。私にも、よくわからないのだけれどね。望んでいるのなら、叶えなきゃと思うんだ! この世界の誰が呼んでいても見つけたい、抱きしめられるようになりたい! 愛しい声をたどって走っていたら、今日はキミに巡り会えた!
 ——芸術はすみれの花であり、芸術家は豚の鼻である。私は豚さんのお鼻なのさ、すみれの花にはなれないけれど、すみれの香りを知っている。それってとっても幸せなことだね!」

 それは、あまりにまっすぐな愛の献身であった。花になって、鳥になって、朝靄になって、キミの下へ駆けて行きたいけれど。愛するものに与えられた、この体さえも全て、諦めたくないから。ただ、瞳の海を蕩かせたい。望まれなくても、そばにいたい。きっと、話さなければならないことがたくさんあって。それでも、ただ、会いたいから会いたくて。それだけなのに。どうして、前みたいに先生と、オミクロンの子たちと、みんなと遊べないのだろう。くだらない話を、何の役にも立たない、世界一素敵で大事な話を。何が、変わってしまったのだろう。

 ——わからなかった。

 善悪も、美醜も、生死も、ディアの愛の前では全ての価値観が瓦解した。ただ、全てを知らなければならない。すみれの花になれなくとも、すみれの香りを愛すために。キミの全てを愛したい。キミを守るために戦いたい。愛するキミと出会いたい。キミの望みを叶えたい。そう、ただまっすぐに願うことの、何が間違っている。

「会いに行くよ、どこにいても。だから……その、どうか、またキスをして、ね?」

 赤く染まった白い頬、そっと伏せられた長い睫毛、世界の雨を全て愛し、許し、ゆらりと揺蕩う瞳の海。こんなにも純粋で美しい正義を、誰が否定できる?

《Rosetta》
 細い指が、ロゼットの唇に触れる。
 それだけでどうしようもなく許せてしまう気がするから、赤薔薇は表情を綻ばせた。
 返事なんてするまでもない。ちいさな恋人は、皆が思うよりも利発な子だ。ただ、トゥリアのジャンクドールの例に漏れず、少し変わっているだけで。

 「あなたはいつも、蝶々みたいに自由だね。花から花へ飛び交うけれど、その全てを愛しているのでしょう? それは素敵なことだと思うよ。
 私は一輪の薔薇しか愛せないけれど……あなたは、数えきれないほどの薔薇の全てに抱擁してあげられるよね。枯れた薔薇にも、蕾の薔薇にも、もちろん芽吹けなかった薔薇にも。
 それはあなたに与えられた才能で、あなたの与えられる祝福だもの。大切にして、ダーリン」

 トゥリアは愛のドールだ。
 ヒトを愛し、ヒトに愛されるために作られた。
 “お披露目”という虚像が破れたとしても、それは変わらないのだと、ロゼットは信じている。
 だから、こうして真っ直ぐ飛び込んできてくれるディアは愛らしくてたまらなかった。
 彼が本物の恋人ではないことぐらい分かっている。だが、恋人ごっこができる存在は彼女に必要だった。
 善き友人、善き隣人。
 そして、善き恋人。
 どの役割も叶えられるようになった時、欠けた彼女も満ち足りた存在になるのだ。
 ──今更、誰のために?
 詠うような囁きを聞きながら、銀の双眸は視線を落とす。
 傷ひとつない、美しい唇が、小鳥の囀りのように言葉を紡いでいるのを見ていた。

 「私も……私も、同じだよ。遥か昔の、もうどこにもない花園を探しているの。水遣りをしていた子も、花を守っていた子もいないけれど……探してるんだ。
 思い出すとかなしくなるけど、ダーリンが来てくれたからよかったよ。すみれは私も好き。ちっちゃくて、健気で、あなたみたいに可愛いからね。たまに食べちゃいたくなるよ」

 少し、話がずれてしまった気がした。
 何故今この話をしたのだろう? 思わず口から溢れてしまうくらい、“ガーデン”のことを考えてしまっていたのだろうか。
 そんなつまらないことをするよりも、この少年に愛を囁く方がたのしいのに。

 「いいよ。ダーリンが望むなら、いくらでも。会えない時も、薔薇の香りを感じるだけで思い出すような口付けをしてあげる」

 ロゼットは、すべらかな額にキスをした。
 次いで瞼に、その鼻先に。少女ドールの唇は、春のように柔らかな親愛の雨を降らせる。
 美しいモノには称賛を、愛するモノには無条件の庇護を。
 面倒なことには蓋をして、“お披露目”までのモラトリアムを甘受する。
 それだけでよかったし、これからもそうであってほしかったのだ。

「ん、ふふ、ありがとう! 褒めてくれてとっても嬉しい! ふふ、口付けられたところから、溶けてしまいそう……ねえ、キミの愛も素敵だよ! キミの特別を受ける薔薇は、きっと世界一幸せな薔薇だ! キミが与える幸福は、きっとその薔薇さんにとって、祝福を意味する言葉になるよ! ん、えっとね……だって私が、恥ずかしくなっちゃうくらいだもの……キミはかっこいいね、スイートハニー」

 真っ赤な薔薇の花弁が優しく触れたところから、真っ赤に染まっていく心。スイートハニー、と囁いた声は、日曜日の蜂蜜みたいにとろけていた。好きだと、愛していると、全身が叫んでいるみたいに熱くて。どうしようも、なくなる。じんわりと火照った細い指を、春色の髪に巻き付けて。ロゼットの優しい声を、聞き逃さんと背伸びをした。甘やかな時を閉じ込めるように、首元でキスが踊る。

「そっかあ、その花園にとって、キミが祝福を意味するみたいに。キミにとっても、心がとろけてしまいそうなほどの祝福なのだね! キミの花園は、会いに来てと今も歌っている……世界と星に隠されて、キミに希望を贈っている。寂しくないさ、きっとね。星も、花も、風たちも。キミが、優しいキミが、寂しくはないかと問いかけてくれるから。寂しくないさ」

 夢物語だった。馬鹿げた理想だった。吹けば飛んでしまいそうな、子供の戯言だった。それでも、信じたいと思わせてしまう。何百、何千、変わらぬ夜が当たり前に明けていくような、そんな気持ちにさせてしまう。

 ね、ロゼットがいてくれてうれしいねえ。

 囁かれた声は、あまりに自然で。ドアから差し込む柔らかな風に、ぎしりと軋んだ本棚が。物語たちのざわめきが。光に照らされた埃の舞が。そうだね、と笑っているようにさえ思えた。ディアの蒼い瞳には、確かに真実が満ちていた! キミの瞳が欲しい。キミの見ている世界が欲しい。キミが愛した全てを愛したい。ディアはその瞳で、何度だって願う。キミに会いたい。愛していると伝えたい。会えない時のお話なんてしないで。寂しくなくても、名前を呼んでよ。

「虹の橋を探しにいこう、花のベッドで眠って、星におはようを言おう。きっと何百年先、隣で眠るキミに、おはようのキスをするから。明日のキミの香りを、どうかまた教えてね!」

《Rosetta》
 「プリマドールにそこまで喜んでもらえるなんて、光栄だね。私がこうしてあなたを愛せるのは、あなたが私を愛してくれてるからだよ。今だけは、かわいいダーリンだけが私の薔薇だね」

 こんなに真っ赤になってしまうなんて、熱でもあるのではないだろうか。
 否、熱があると言えばずっとそうなのだろう。恋という熱病に罹患して、特効薬も見つからないのだから。
 足元から瓦解するような箱庭で、彼だけが踊り続けている。
 羨ましいような、憐れみたくなるような。名状し難い気持ちがロゼットの心に満ちた。
 それをシュガーコーティングできたのは、恋人の役をする気分だったからだろう。
 ディアには毒付く必要なんてないのだ。ただ、すみれの砂糖漬けのように甘い言葉を口移しで食べさせ合うだけでいい。
 お披露目のことを知ったとしても、きっと彼はそうすることを望むだろうから。
 ──ああ、でも。花園についての話は、ロゼットの琴線に触れるところがあったらしい。
 首筋の接吻と同じぐらい、ガラスでできた心が揺れるのが分かった。
 鏡のような瞳が翳る。そこに映し出された感情は、間違いなく彼女自身のモノだった。
 ディアのモノと比べれば微かな、けれどしっとりとした愛着だ。

 「祝福だと、いいな。私は相手を知らないけれど、その子は私のことを愛してくれているはずだから……愛されるなら、十倍以上の愛を返したいね。あなたにしてもらっているみたいに」

 それがトゥリアだ。
 それがロゼットという、不良品のドールの運命だ。
 告げられた希望や愛が、ハリボテでできていたとしても構わなかった。
 明日のジャムも、空に飛んだパイも。ディアが口にすれば、手元に収まってしまう気がしていた。
 だから、きっと彼の言う通りになる。
 ロゼットは忘れられた花園を見付け出し、受け取った祝福を返すのだ。

 「ありがとう、ディア。あなたは本当に素敵なドールだよ」

 美しい髪に指を通しながら、赤薔薇は呟く。
 少し目を逸らしていたのに、彼はずっとロゼットを見ていた。だったの少しも、恥ずかしがることなんてないように。
 今この瞬間も、落ちてしまいそうな青い瞳が、恋焦がれた甘い表情が、自分にだけ向けられている。
 このままずっとふたりでいたら、特別なところに触れてしまいそうで怖かった。それが自分の心か、相手の唇かは分からなかったが。
 メリーゴーランドももう終わりの時間だ。
 白馬は木の彫刻に戻り、神秘的な光は熱を失っていく。
 夢見心地で受け止めていた、ちいさな身体を手放して、少女ドールは微笑んだ。いつも通りの、穏やかな表情だった。

 「もちろんだよ、ダーリン。太陽よりも早く目覚めさせて、きっと月まで連れて行ってね。昨日と明日のジャムを用意して、何でもない日のお茶会で待ってるから」

「会えない夜も寂しくないように、どうか寂しくはないかと問いかけて。空に煌めく無数の星園に、キミだけの薔薇が咲いていると覚えて。してもらっているだなんて、寂しいことを言わないで。
 ふふっ、ああ、ああ、キミが好きだ! 全部知りたい、愛したい! ただ、それだけなの! ——ねえ、きっと迎えに行くよ、ハニー。だから、いつまでも待っていて。約束!」

 彼女の灰の空から降り注ぐ、ひたむきで優しいその愛が、どうか薔薇の瞼を下ろしますように。

「キミへのときめきで時を測るよ。キミのシュガーポットに溺れて、眠ってしまわぬように。世界で一つ、キミの名を呼ぶよ。キミと同じ名前の子は世界中にたくさんいて、それでもきっと、キミの名前はキミだけのものだ。私っ、ストームくらい速くなって、キミの下へ駆けつけるからね!」

 いつもはしゃぎ回っては盛大に転びそうになり、傷つきかけているディアのことだ。道のりは長いだろう。そもそも、ディアはトゥリアだ。脆く、弱く、軟い肌。成長もしない。二人の時間は動かない。けれど、ディアが信じるから。細い小指を絡ませて、そっと指先にキスをするから。いつか来るその日まで、どうか共にいてほしい。この星に溢れる全てのキミよ、私たちは永遠なのだから。生まれ変わったら、だなんて、不思議なことを言わなくていいの。私たちは何にだってなれるのだから!
 永久に続く希望の道を、手を繋いで進もう。競争でも、並走でも、走らなくても、歩かなくても、お馬さんに乗ってでも、カンガルーさんの袋の中でもいい。
 キミとがいい。一緒がいい。ただ、愛する世界に抱きつくために。

「ダンベルさんでも持ち上げてみようかな!」

 ………ディアの美しい肌を守る一番の立役者、ストームの悲鳴が聞こえた気がした。

「んふふっ、こちらこそありがとう、ローズフェアリー! キミと、キミの薔薇の行く先に、どうか幸多からんことを。愛しているよ、私たちの薔薇、愛しきロゼット」