Storm

《Sophia》
「………………ッ、」

 ──そんなことを言わないで。
 他人事はやめて。
 まだ、一緒にいたい。

 死なないで。いかないで。
 あたしをひとりにしないで。

 そんな言葉を、必死に飲み込むように。ぎり、と歯を食いしばる。アストレアだって死にたくないだろうことはわかっていたし、けれども死にたくないだなんて事を言えないだろうことも理解していた。だから、無責任な言葉を吐くことなんて出来なかった。いつも、いつもこうだ。
 誰よりも聡明であるソフィアは、どんな時も理性が先行して、上手に言葉を紡げない。このとめどない想いを、あなたにぶつけることもできない。それをただ飲み込むしか、ソフィアには選択肢がない。
 それは、棘だ。 飲み込んだ苦しい苦しい棘は、内側からソフィアをずたずたに傷つけて、裂いていく。表面上ではわからない、外からは分からない深い傷。
 これを判ってくれるのは、あなただけだったのに。

 会話はそこで終わった。月光を纏う笑顔に微笑み返す事すら出来ずに、ソフィアはアストレアを横切って、再びダイニングへと戻るだろう。
 どんなに傷が痛もうが関係ない。これはやり遂げなければならないのだから。
 故に、この箱庭の継ぎ目を見つけようと足掻くため、親友であり協力者である彼の名を呼んだ。第六感と言うやつか、彼がここに居るのは確信していたのだ。

「──ストーム。居るんでしょ、出てきてちょうだい。」

【学生寮1F ダイニングルーム】

Sophia
Storm

「はい、こちらに」

  短く返事をする。
 その声色は落ち着きを帯びているが、先程発表された“素晴らしいお知らせ“によって焦燥からの煮え滾る感情を抑える為に冷ややかさを含んでいる。
 彼女の見立て通り、彼、ストームはそこに居た。
 スラリと伸びた体躯を屈ませ、お辞儀。彼女への敬意を示した。
 二人の話す姿を見ていたのだろうか、顔を上げると廊下の方へ目線を向け目を伏せつつ口を開く。

「……ホームズの冒険、アティスの語りがあるのと無いのでは天と地の差があるんですよ。
 ジブンはまだ、全ての冒険を聞けていない。冒険をしながら聞いてやろうと思っていましてね。
 なかなかに趣深いでしょう」

 あの日、冠を授かった仲間の1人である美麗な彼女から、同じく冠を授かった1人の高雅な彼女へ目線を戻した。
 いつに無く柔らかな声色、表情。少し遠い未来の話。
 ソフィアに対するストームなりの気遣いだった。
 ソフィアは張り詰めている事だろう。心を通わせた親友をあの処刑の場に送らねばならないのだから。その処刑を回避する為の準備も計画もままならないのに。
 焦り、苛立ち、憎しみで埋め尽くされているのはストームも同じだった。しかし、中核を担っているソフィアが壊れてしまっては元も子もない。


 抗うことを辞めてしまうソフィアなんて必要ない。


 ソフィアがストームを利用するように、ストームもまたソフィアを利用する。
 彼女に利用されることなんて慣れっこだ。
 はけ口にならいくらでもなってやろう。
 それで彼女がまた歩みを進ませることが出来るのなら。
 大方、ソフィアはアストレアに吐き出したい事は沢山あっただろうにそれを飲み込んできたのだろう。
 長年の付き合いから察することは容易だった。

「言いたいことがあるのでしょ? アティスに。それからシブンにも伝えなきゃならない事があるはずです。
 “全て”話してください」

《Sophia》
 ストームが語るのは、未来の展望。ほんの少し遠い日の話。長いホームズの冒険を全て聞きたいのだ、と言う言葉は、きっと憔悴したソフィアを気遣ってのものだろう。
 ……けれど、ソフィアはそれに言葉を返すことはなかった。ただ静かに、その話を聞いている。機械的な無表情を浮かべたままのソフィアは、実に『デュオドール』らしい姿をしている。

「……いいわ。情報共有にしましょう。まず、空の風景は全て偽物で、トイボックスは海底に沈んでる。壁に空の映像を映し出してるみたいね。
 そして、アストレアが言うにはあたし達には発信器がついてる可能性があるらしいわ。確証はないけどね。

 得られた情報はそんなものよ。あんたにも聞きたいんだけど、ドロシーってドールの事は何か知ってる?」

 傍で話しているストームにしか聞こえないであろう小さな声は、どこまでも淡々としていた。いっそ冷たいくらいに。『事務報告』を無感情で済ませたソフィアは、自分の番だと言わんばかりに問う。……アストレアに伝えたい事、という文言については、全く触れられていない。それが意図的な無視であろうことは明らかだった。眩い屈折光と勢いの消沈したアクアマリンの瞳は、本物の鉱物へと成り果てているようである。

 ストームが見せた逃げ道をソフィアはあたかも無かったかのように振る舞う。
 それも、機械的に、まるでドールのように。
 彼女は1度決めたことは絶対に曲げない真っ直ぐな性分で、ストームもそれを深く理解している。
 ソフィアが決めた事だ。執拗に突っかかる必要性なしと判断したストームは、彼女に提示した貼りに糸を通すほどの逃げ道に封をした。

 光の灯らないアクアマリンを右のアメジストは酷く嫌うらしい。彼女の目から目線を外し、問われた質問に答える。

「勤勉で模範的なドールでした。クラスメイトには慕われる方、のはずですが……。

 実は先日、我々テーセラドールの控え室に出向いた際、彼女のドレスが無惨な姿で隠すように置かれてしまして。
 その隠され方といい、以前までの彼女の振る舞いと言い、反感を買うことは少なくとても彼女を妬んでいるドールの仕業とは思えなかったんですよ。
 今の彼女は噂でしか聞きませんが、だいぶ雰囲気が変わったようなので断定はできません」

 彼女について知っている事、ドレスの件、自身の見解を述べたストームは口に添えていた指を下ろし目を伏せ気味にソフィアに目を向ける。
「彼女がどうかしましたか?」

 そう付け加えて。

《Sophia》
「……ドレスが?」

 ストームが言うには、ドレスが無惨な姿になっていた、と。奇怪で奇天烈で、けれど確かな理性と知性の宿ったドール、ドロシー。……やはり、〝アレ〟は演技だったのか。聡明な彼女が慕われるドール、というのは腑に落ちた。ソフィアは、静かに思案する。
 ──ドレスが搬入されているというのは、あるいは、彼女もお披露目が近いのやもしれない。彼女はトイボックスの実態を深く知っているようだったから、お披露目の時期を伸ばすために、ドレスを引き裂いた……というのも、考えられない話ではない気がする。そこまで考えついた途端、ソフィアはストームの腕を引いて合唱室へと向かおうとするだろう。きっと、ストームの手に抵抗の力は込められないはずだ。

「ストーム、合唱室に行くわよ。多分だけど、ドロシーがいるはずだから話を聞きたいの。
 ……彼女、あたし達よりも随分〝ココ〟について詳しいみたいだから。」

【学園2F 合唱室】

Dorothy
Campanella
Sophia
Storm

「──中々収穫はあったよ、ギャハハハ!
 あんまり知りたくなかった事実ではあったケド。」

 ドロシーはそこでようやく、カンパネラからすんなりと離れてくれた。

 彼女は扉の向こう側を見据えていた。ドロシーはテーセラモデル。聴覚に優れた彼女は、扉の外から響く合唱室にやってくる足音に気が付いたらしい。

「来客だぜ、カンパネラ。ジングルでも鳴らしてやったらどう? リンゴーン! ギャハハハハハハ!」

《Campanella》
「っえ、」

 来客の存在を告げられると、カンパネラは慌ててドアから背中をひっぺ返すように前へ進んでいった。扉から見て、ドロシーより少し手前の方に立つ。恐る恐るといった風に振り返る。
 カンパネラはトゥリア、それも欠陥品。彼女の五感は来客の気配を感知しなかった。しかし、彼女の第六感……もとい“天秤”が、じんわりと嫌に揺れていた。

 カンパネラの第六感は彼女を守ろうと正しく機能している。
 なぜなら、彼女の真髄に眠る”カンパネラ”は猟奇犯の気配を感じ、警報を出しているのから、それがはっきりわかる。

 一方、猟奇犯は旧学友とカンパネラの姿を見るなり数回瞬きをして見つめる。心底意外そうに面白いものを見るかのように。

「久しぶりですドロシー。カンパネラと仲良くなっていらしたのですか。彼女、素敵でしょ?」

 カンパネラの方を見ながら”彼女”を褒め称えた。しっかりこの声が届いていればいいが、とストームは想いながら。
 さて、面白い関係性を垣間見たストームは目的にへと思考を切り替える。
 ストーム自身ドロシーへ聞きたいことはいくつかあるが、レディーファーストをする事は紳士として当たり前。
 そして、聞きたいことのほとんどはソフィアが質問するだろう。自身をこの場に連れて来た女王の側近となる位置に身を引く。

《Sophia》
「ごきげんよ──って、カンパネラ?」

 ストームの手によって扉は開かれた。その先には、予想通り歪なビスクドールの姿……と、守るべきクラスメイトの姿も見える。記憶の中では、確かにカンパネラはドロシーに酷く怯えていたはずだから、ひとりでわざわざこの場所へと足を運び、しかも彼女と話をしていたらしい……なんて全くの予想外だった。
 ドロシーには、柵の外を見回ってきたこと、そしてそれで得られた情報について伝えておこうと思っていた。しかし、カンパネラが居るとなるとそんな話もできない。彼女をまだ巻き込みたくなかったからだ。故に、ソフィアは歪に顔を顰める。ばつの悪そうな表情である。

「あー……二人とも、話してたのね。ドロシーに用事があったんだけど、邪魔しちゃ悪いしまた後で来るわ。」

 そこまで言って、ソフィアは踵を返そうとするだろう。だって、カンパネラがこの学園の闇の片鱗を掴んでいることなど、ソフィアには知る由もないのだから。聡明なドロシーのことだ、ソフィアが何を言おうとし、何故退散しようとするのか、検討がつくことだろう。ストームの首元のタイを引き、自分の目線に彼の顔を持ってくれば、「後にしましょう」と耳元に囁いた。

 やがて合唱室の扉を開いたであろう二人の来訪者を前にして、ドロシーが微かに「……ゲ。」と疎うような声を溢したのを、彼女の最も直近に立っていたカンパネラであれば聞き取れたかもしれない。
 彼女はソフィアとストームを見据えて、被り物の側頭部を押さえながら僅かに項垂れたが。直ぐに顔を上げて、僅かにそれを傾ける。

「ギャハ、ギャハハハハ……あーあ。来たのかよ、台風の目! まったく魅力的過ぎて参ってるぜ〜〜、オミクロンのジャンクドールどもはさァ。」

 ドロシーは会いたくなかった旧友と出くわしたような気不味い声を出して、ストームに応答した。
 ストーム。あなたは彼女がドロシーであると分かる。声や体格は覚えている限り同級生である彼女そのものだった。

 だが、いくら様子がおかしくなった事を知っていたとはいえ、以前の彼女はこのように悪目立ちする醜悪なビスクドールの被り物など被っていなかったのだ。
 もともと、ドロシーは黒いメッシュを入れた金髪を邪魔にならないよう後頭部で結い込んだ、模範的なテーセラモデルらしいいかにも快活そうな見目をしていた。それが今ではその顔の全てを奇妙な覆面で覆い隠している。凄まじい変貌ぶりである。

 以前の自分をよく知るあなたと鉢合わせてしまったことを厭っているのか、ドロシーはストームから早々に顔を背けてソフィアの方を向いた。

「へえ? 虚飾のクイーン様はドロシーちゃんに用事なワケ? 今まさにオハナシしてやる気分なんだケド、今立ち去られたら気が変わっちゃうかもネッ。

 タイニーホワイトも折角健気になけなしの勇気で来たんだし、聞いてけば? 別に構いやしないだろうが、コイツはもう大体の事は知ってるし。

 オイ、ミザリー。返事はァ〜〜? ワンって言えよ。ギャハハハ!」

 ドロシーは今ここで話せとソフィアに命じつつ、この場に立つカンパネラをしれっと巻き込もうとする。またしても気弱な彼女を上から押し潰すような威圧感のある問いを投げ掛けながら。

《Campanella》
 突然やって来た来訪者の姿が見えると、カンパネラは今度こそ顔をしわくちゃにして「ヒィッ………」と悲鳴を漏らした。ドロシーの苦々しい反応とはほとんど同時だっただろう。
 まず見えたのは藍髪の青年。臆病なカンパネラの、最大級の恐怖対象であるストームだ。いつものように彼は、カンパネラの内側の“彼女”へ言葉を届けようする。いつもいつも、こちらを見ているようで見ていない、カンパネラにとってひどく恐ろしい人物……。
 彼の表情にはある程度の愛嬌があるようにも見えるが、そんなのは関係ない。カンパネラは真っ白な顔をしてどんどん後退していき、遂にはドロシーの陰に隠れでもするかのように背中を丸めて縮こまる。彼女の覆面の下に隠された複雑そうなあれこれには、鈍感にも一切気付くことなく。
 そして、次に見えたのはソフィアだ。長身のストームと並ぶと、その小柄さが際立つ。
 ──カンパネラが硬直したのは、その時だった。

 彼女のアクアマリンは、金色の髪とのコントラストは、きっと永遠に色褪せず、鮮やかで、ああそれは、それはまるで、まるで、記憶の中のあの子にも似ていて。そしてその幸福に満ちた光景は、残酷にも──
 ……唇が震える。指先が冷たくなる。カンパネラの真っ暗な瞳は、ソフィアたちには見えただろうか。

「………シャ、ロ……」

 五感に優れたテーセラモデルである二人には辛うじて届くか届かまいかというその極小の声は、ドロシーの声によって完全にかき消された。はっとカンパネラの意識が現実に呼び戻される。

「あっえ、あっ、え!? ………わっ、わぁん…………」

 どこか虚ろだった目になけなしの光が戻ってきたかと思えば、圧をかけられるがままに応答する。巻き込みたくないというソフィアの意思は、当人には少しも通じていない様子である。

 ソフィアの意見が最もだ。ストームはカンパネラを見ながらそう納得した。
 今の彼女は怖がりであり、ストームの姿を見た時の反応が全てを物語っていると言える。お披露目の事や金髪赤眼の可愛らしい声で泣く”あのドール”の末路、きっと教えたら挙動不審さが増して隠し通せる未来が見えない。

 ……はずだった。

 ドロシーの言葉で状況が一気にひっくり返されるまで。

「大体の事は知ってる……? と、言いますと?
 お披露目やそれ以外の事も……」

 下唇を親指と人差し指で弄り、熟考する。
 もしかしたらカンパネラは想像しているよりももっと強いのかもしれない。それが”彼女”の影響か、それともカンパネラ自身の精神力なのかはストームには分からない。
 が、彼女の勇気に賭けてみるのもありかもしれない。

 ストームは屈んでソフィアにそっと近づき耳打ちする。

「案外カンパネラは守らねばと気を張るより、力を貸して頂いた方が良いのかも知れませんよ?
 それにお気付きかもしれませんが、彼女様子が変です。
 何か知っているのかもしれません。

 最終判断は貴方様にお任せします」 

《Sophia》
「いやっ、今話せない事くらいわか……は!? 何、大体のことは知ってるってどういうことよ。……まさか、巻き込んだの? カンパネラのこと。」

 ドロシーを貫く視線は、まるで初対面の日のように驚きで丸くなり、そうして次第に怒りを帯びて鋭く睨むように変貌していくだろう。ソフィアはカンパネラの事情について知る由もないし、まだこの話を知らせるには時期尚早である筈だと思っていた。この歪んだ箱庭の闇に触れることが、どれほど危険な事かも理解していたから。ドロシーからすれば、巻き込んだと言う言葉は心外でしかないだろう。

 そして、その憤りを放出するよりも早く、カンパネラの瞳が色濃く絶望を纏ったのに気が留まったようであった。

「……カンパネラ……ちょっと、大丈夫?」

 ストームの囁きには、言葉ではなくなんとも言えぬ複雑な心境を纏った視線を返答とした。そうしてアイコンタクトを交わしたのち、ソフィアは合唱室内部へと足を踏み入れ、カンパネラの元に駆け出すだろう。

「巻き込んだァ? 人聞きの悪いこと言うなよジャンヌ、ギャハハハハハハ……ええマア、はい。巻き込みました。た・だ・しィ、あくまで双方合意の上だ。

 確かにコイツに真実を知る権利を与えたのはワタシだケド、コイツは自ら望んでノコノコとここまでやってきたんだよ。
 危険を承知でも真実を知りたい。ワタシには泣けるほど共感出来る至極当然の欲求だと思います!」

 ドロシーはあなたから発される正義の怒りを受け止めて、悪びれる様子もなく肩を竦めながら白状した。
 確かに彼女を家中へ引き込んだのは自分だ。だがそれは彼女の望みでもある。自らに置かれた状況が何であるか、自分はなにを知らないのか。真実を追求しようとするカンパネラを、自分はあくまで支援しただけだ──と、ドロシーはざらざらとした不協和音の笑声を奏でながら告げる。

「で、どこまで、だっけ。

 少なくとも、お披露目に未来はないことはもう知ってる。この学園が海底に沈んでいて、現状最速で実施出来る脱走方法が無いことも。
 それ故に絶望の写し鏡、お披露目から逃げられずに窮地にあること。ワタシ達は知ってる……」

 そこまで語ると、ドロシーは一度カンパネラに目を向けた。そして彼女に駆け寄るソフィアのことも。
 しかしその行動に特に言及はせず、あなた方の現状を澱みなく語る。 

《Campanella》
 知りたい、知らなきゃ、知るべきだ。そう決意してツリーハウスへ行ったことは、カンパネラは少しも……いや、少ししか後悔していない。
 真実を目にした結果はどうあれ、ドロシーの発言に嘘のないことは、聡明なソフィアには容易に理解できただろう。彼女が知ったことの内容も、淀みなく真実である。
 心配してこちらへ駆け寄ったソフィアに対し、カンパネラはドロシーの発言を否定するような素振りを一切見せなかった。ただうわ言のようにぽそぽそ言葉を吐いて、執拗に己の二の腕をさする。彼女の善意を理解しつつ、カンパネラは涙を溢し続ける。幽霊でも見たかのような顔をして。

「…あっ、あ……! ご……ごめんなさ………ごめ………ああぁ、……嫌……み、見ないで、その目で………目………うあぁあ………」

 カンパネラは更に後退したかと思えば、不意に膝を崩して座り込み、一度ソフィアのことを見上げるとそれきり、目を手のひらでふさいでしまった。誰がどんな声をかけても何をしても、苦しげな嗚咽しか返っては来ないだろう。 

 やはりカンパネラの様子は明らかに、おかしい。
 怯えているような、いや、彼女はいつも怯えている事には変わりないのだが……いつものソレと違う。
 なにか、信じられないものを見たかのような。信じたくないものを見たかのような。

 今、カンパネラに話を聞くのは不可能だろう。

「ドロシー、いくつか質問を。
 “ワタシ達”とはドロシーとカンパネラのみでしょうか?
 それと、過剰とも言えるカンパネラのこの反応に対し随分寛容的なんですね。少し意外です。
 彼女の反応から察するに、ソフィアに何らかの因果関係があると思うのですが貴方様なにかご存知なんですか?」


 酷い過呼吸にまで陥ってしまったカンパネラを横目に、ストームはドロシーに問いかける。
 今の状況を俯瞰した結果の質問だった。 

《Sophia》
「……! そんな、全て……」

 ──合意の上で。自ら望んで。そんな弁明に次いで連なる説明は、今まで手に入れた情報の全てであると言っても過言ではなかった。ドロシーの言葉の中にも、カンパネラの様子からも、合意であると言うのが嘘であるようには感じられなかったため、ソフィアは誰も責めることが出来ない。
 カンパネラは、顔を隠したきり何も話してくれなくなってしまった。小さな嗚咽のみが漏れ出る様子に、うまい言葉を探すことは出来なかった。当然だ、エーナモデルとは違ってそんな機能は備わってはいないのだから。
 ……アストレアだったら、こういう時にどうするべきか分かるんだろうなあ。このままやっていけるのかな。なんて思いは、そっと心の奥にしまっておいて。

「……外の事、もう知ってるなんて思わなかった。ドロシーもカンパネラも、外に出たの?」

 ストームの冷静な問いを追いかけるように、ソフィアもまた疑問をぽつぽつと漏らした。

「……ああ。外ってのはさァ、海底に沈んだくだらないジオラマの、あのチンケな柵の外だってお話なら。答えはYESだな、ワタシ達はあの柵を越えた先の敷地を見てきた。

 と言ってもお前らの調査とはまるきり違う方向だったケド」

 被り物をしっかりと被り直す動作を挟んで、ドロシーは大きな身振りを交えつつ語る。その大袈裟な動きはまるで道化を演じているようで、役者を気取っているように見える事だろう。

「誰が知ってるかは黙秘しておく、プライバシー保護の観点からカナ? あと、ワタシ達の調査したこともネッ。キャハッ、理由は虚飾のクイーンにはもう教えてるから割愛しまーす。どうせお前らの間でスグ明らかになると思うし。

 なあマグノリア、気付かないうちにもうスッカリ広まってるみたいだな、ギャハハハハハハ……」

 彼女は意味深長に呟くと、適当な教室内の机に乱暴に腰掛けて、足を組んだ。ドールに教え込まれているであろう気品などを無視した、粗野な態度であった。
 恐慌を示すカンパネラをまた改めて見据えたドロシーは、緩やかなため息を吐き出して。

「で? ワタシはシンセツだから、お前らがワタシを頼りにしたいなら相談に乗ってやるケド。
 ちょうどミザリーの質問も聞いてやってたところだし。なあオイ、そうだろ? ギャハハ!」 

《Campanella》
「………うぅ…………っぐ、……ごめんなさ………嫌ぁ………」

 カンパネラは顔を伏せ、ただ涙を溢し続ける。ストームとソフィアの問い、ドロシーの答えをどこか遠くで聞いている。
 朝日の下で輝くマリンブルーが、虚ろに暗闇を見つめる様が脳裏に何度も何度も蘇る。フラッシュバックする。あのがらんどう。頬と呼べない頬の感触。ノートを読んだときの、首を強く強く絞められたような心地……。
 ああ、どうしてこんなに苦しいのだろう?シャーロットという少女の死が、出会ったことのないはずの友人の無惨な死が。カンパネラには、分からない。
 この頭を焼く衝動は、一体なんだというのだろう? 哀しみに近くて決定的にそうではない、抱いたことのない感情は。分からない、分からない、分からない。この涙は、わたしのどこから溢れ落ちている?

「…………ひっく……」

 びくりと肩を震わせたかと思うと、カンパネラはカーディガンの袖でどうにか涙を拭おうと目元を擦った。しかし涙は止めどなく流れ続ける。口から漏れるのは言葉にならない嗚咽だけ。返答を求めるようなドロシーの声に「ぃ」とどうにか発しながら、ひとまず深く頷いた。
 どくどくと鼓動が頭に響いて聞こえ、聴覚はくぐもっている。あの偽物の空を覆う厚い雲がかかっているようだった。まだ聞きたいことはあったけれど、どうにも涙が止まらない。会話にはまだ参加できる状態でないと分かるだろう。そのような状態になってなお頑なにその場を去らないのは、どうしてなのだろう。カンパネラにもそれは分からない。ただ、少女は耳を傾けている。 

 道化となったドロシーの呼び掛けと同時にカンパネラの方を向く。彼女はボロボロと大粒の涙を流していた。
 ストームはカンパネラに近付き片膝を着く。彼女の目の前で何をするかと思えば、懐からハンカチを取りだしたのだ。何を言う訳でもなく、黙って彼女の細く小さな白い手に持たせた。

 スっと立ち上がるとドロシーに目線を戻す。

「えぇ、貴方様の事は以前より親切だと存じておりますしとても頼りにしてますよ。
 なので、今から言うことは親切で優しい貴方様を傷つけるかもしれません」

 ドロシーが道化ならストームはジョーカーと言ったところか。舞台上ようなドロシーの大袈裟な動きとは打って変わって、ごく自然にそれでいてコミカルに紳士的に身体を操る。彼女の大きな身振り手振りに乗っかるようにコアの辺りを抑え、心底辛いと言ったような表情を作った。
 一瞬チラリとソフィアに目配せをし、合図を送る。


「ドロシー、貴方様のドレスボロボロになっていました。
 最後の晴れ舞台への衣装だと言うのに……。
 ご自身で破かれたのでしたら話は別ですが」

 少々回りくどい言い方をしたがソフィアには意図が伝わるだろう。ドレスを破き隠す程度でアティスのお披露目を延期できるのなら万々歳だ。

《Sophia》
 伏せられた内容を深く追いかけることはせずに、納得したらしい反応で特に返答はしないでおいた。ストームがハンカチをカンパネラに預けるのを見て、ソフィアはそっとカンパネラから離れ、ストームの傍につくだろう。

「……そう。あなた、あたし達よりも情報を手に入れるのが早いのね。……情報の出処はわかってる。けど、もう遅かったみたい。責められることでもないし。」

 広まっている。その言葉に、ソフィアは静かにため息を落とす。
 ──内通者。ドロシーに告げられた、一つの説。大いに視野を向けるべき事象ではあるが、けれどそれに探りを入れるには手段も時間も足りなすぎた。難儀そうな面持ちで、静かに視線を落とすだろう。
 ドロシーへ問うたストームの演技がかった仕草を静かに見届けて、何も言わずにドロシーの答えを待った。
 ──お披露目を回避する方法。要は、それを聞き出そうとしているらしい。

「あぁ……弁解しておくとこのミザリーの様子はワタシが虐めたわけじゃねーよ。マ、真実を知るには痛みも伴うってコトデショ……お前らがそうだったように。キャハハッ」

 極度の恐慌状態に陥って体を強張らせているカンパネラのことを、ドロシーは漸く言及した。しかしその事情を深くは語らない。こちらが暗に彼女を口止めしたのと同じで、ドロシーもまた彼女の口から語るまではこちらから事実を明かすつもりはないのだろう。

 しかしそれは彼女に関する事柄だけに限った話。
 ストームが不意に、話の主題をドロシー自身の件についてシフトすると。

「………………」

 ドロシーは突然、水を打ったように静まり返った。被り物の内側で、浅い呼吸音だけが溢れているのをストームの優れた耳は拾い上げるだろう。
 彼女は暫しの沈黙を経て、「……あぁ。」と嘆息を零す。

「見つけちゃったんだ、それ。」

 ドロシーは足を組み直して、何か考えるように被り物の正面をずらして虚空を見据えた。何かから答えを得たがっているような空白にも思える。
 しかしやがて、彼女は諦めたように肩を竦めた。

「それは前の……前の前ぐらいのお披露目の衣装だよ、ワタシの。お前がもうテーセラからオミクロンに落ちた後の話だ、ピーター。だから知らなかっただろうケド。

 ご心配には及ばねーよ!
 お前の言う通り、アレはワタシが自分でやったこと。こうすれば着る服が無くなって、お披露目に出ずに済むかと思ったからそうした。

 結果どうなったか? ギャハハ、ワタシを見りゃわかんだろ!」

 ドロシーは自身の両腕を広げて、自らを誇示するように吼えてから嗤った。

「晴れ着は『奴ら』にとって重要な要素らしいネッ、無事ワタシはお披露目を保留にされた。で、今もテーセラクラスの底辺でくすぶってるってワケ……参考になった?

 知ってるよ、オミクロンのプリマドールの一人の地獄行きが決まったって。スノウホワイトと一緒に聞いたから。ギャハハハ……お気の毒様。」

《Campanella》
「ぁえ………」

 ストームが突然こちらへ歩み寄ってきたものだから、何かまた意地悪を言われたりするのだろうかと身構えたが。彼は紳士的にも、こちらへハンカチを持たせてくれた。目に染みる薬品でも染み込んでいるのだろうかと思ったがそんなことはなく、単純な親切のようだった。とは言えども、他人の私物を自分なんかの涙で汚していい理由がなくて、カンパネラはただハンカチを握りしめるのみであったが。

 最後の晴れ舞台。沈黙。ずっと前のお披露目、ズタズタになった晴れ着……。カンパネラは嗚咽を押さえ付けるように呼吸を何度か止めながら黙って、そのやりとりを聞いていた。理解できなくても流して、何となく頭に情報を詰め込む。頭が欠けているので、じきに少しずつそれらは溢れ落ちていくだろうが。
 混乱でぐるぐると目を回す。回しながら考える。呪いのように頭に張り付く焼死体は、何を考えていようとカンパネラの思考に乱入する。凄惨で、生の気配の欠片もない、人工の皮膚と肉と骨の塊。

「……あはは、は………」

 そんな嘲笑にも似た息を吐いた。いつの間にやら顔を上げていた。意味もなく、ソフィアを一瞥する。見開かれた空色の瞳はすっかり濁りきっている。

「……晴れ着なんて。馬鹿みたい。……どうせ火をつければ、燃えるのに……」

 そんなことでお披露目が回避できるのなら。そう思うと、なんだか馬鹿らしくなってしまった。
 もしもお披露目の異常性に気付いていたなら、もしもわたしたちが彼女のドレスを裂いていたなら、あの子は死ななかったのだろうか?

「……あの子は………あはは………。……もし、わたし、……わたしが………
……ああ。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…………」

 笑いながら泣いて、すぐにまた呼吸は荒れた。
 アストレアのお披露目は、それで回避できるかもしれないという可能性が浮上した。それは喜ばしいことだった。しかしカンパネラは今、過去を見すぎている。輪郭も分からない過去に囚われすぎている。
 どこへ宛てたものかも不明瞭な謝罪を繰り返し、自身の首筋に爪を突き立てる。手の震えが止まらない、いつも以上にひ弱な彼女の力では、その体に傷一つ残せないだろう。 

 空気が凍る沈黙。その中に追い詰められた小動物の息遣いにも似た呼吸音をストームの耳は微かに拾う。
 ドロシーのものだ。
 カンパネラが落ち着くまでと思い別の話題を挙げたが、想像していた以上の反応が返ってきた。ソフィアすら騙し通せる言い訳が見つからないのか彼女は、ドレスに起きた悲劇を語ってくれた。

 最後まで一語一句聞き漏らさずに頭に入れる。
 納得したのか驚いたのか、目にかかるほどの前髪から夜と朝の色をした瞳を覗かせるほどに見開いた後、堪らずに口を手で覆った。
 恐らくストームはほくそ笑んでいる。確認すべき事はあるが、思いのほか想像通りだったから。
 咄嗟に口を隠したはいいがソフィアやドロシーにはその不気味な笑みが見えてしまっただろう。

 手を口から外しながらゆらりと、その手を左胸に添えドロシーへ一礼する。

「とても参考になりました。ありがとうございます。
 ご安心を。あのドレスはそうそう見つかりにくい所へ置いたので簡単には見つからないかと」

 ストームが意気揚々にドロシーへお礼を言った時、カンパネラは焦点の合っていない目をソフィアに向けて吐き捨てるように言葉を放つ。
 その目はまるでソフィアを見ていないようで、恐ろしく不気味だ。その後の謝罪に至るまでカンパネラはその不気味さを纏っている。
 しかし、カンパネラの異質さはストームにとって好餌か些細な変化にしかならなかった。

「良かった。ずっと取り乱したままに言葉すら交わせないと思っていましたよ。

 あの子……ミーチェの事ですか?
 おかしいですね。ジブンの記憶ではミーチェの最後を見たのはリヒト、フィリー、それから先生のみだと認識しておりました。
 ねぇカンパネラ、教えてください。あの子とは一体どなたのことを言っているのですか?」

 カンパネラがようやく話したのをいい事にストームは一歩、また一歩と彼女に詰め寄る。
 目の前まで行けば謝罪を繰り返し首を掻き毟る彼女の手を取り、自身の声を彼女の意識に届かせるようもう一度質問するだろう。
 誰かが止めなければストームはきっと。 

《Sophia》
 『お気の毒様』。ドロシーの言葉には、確かに感情がこもっている。ように聞こえた。日頃ガタガタと頭部を揺らして、歪な笑い声を上げる奇怪なドールが発した声とは考えられないほど。ストームと出くわした時の先程の態度から思うに、あまりこんなことを本人に言っては嫌がられるのだろうけど。
 ともかく、ドレスをダメにしてしまえばお披露目が延期できるらしいという有力な情報を手に入れることが出来た。静かに、コアが脈打つ。希望の光を吸収するかのように。
 ……けれど。
 胡乱な目を見開いたカンパネラは、吐き捨てる。
『どうせ火をつければ燃えるのに。』
 ……オミクロンのドールにとって、晴れ着とはそこまで重要なものなのだろうか。本当に、同じ方法で。アストレアのお披露目は回避できるのだろうか。

「──ストーム! 品のない男を連れにした覚えはないわよ。
 ……それじゃ、ドロシー。話してくれてありがとうね。今これ以上話せることもないと思うし……また何かあったら話に来るわ。」

 亡霊でも見たかのように怯えたカンパネラを問い詰めるストームに一喝を。そして、会話を切り上げるように言葉を連ね──この場所を後にする気らしかった。ストームにそっと近寄れば、入口の方へと腕を強引に引っ張って行くだろう。
 そして。たとえテーセラの聴覚を以ってしても一人にしか聞き取れないような小さな声で、彼にそっと耳打ちをする。

『エーナにもプリマを強く妬むようなドールが一体はいるはず。それを見つけてコンタクトを取って、アストレアのドレスをダメにさせるように仕向けて。』

『──あと。クラス内に内通者がいる。あたし一人じゃ手が足りない、あなたが探りを入れて。』

 そこまで言い終わると、ストームの腕を解放する。合唱室とは反対の方向に押すように乱雑に腕を離したのは、きっと「行け」という合図だろう。従順なストームが相手なのだ、恐らくすんなりとそれまでの動作が完了するはずだ。
 意図通り、ストームが無事その場を去れば。忘れ物を取りに戻るように、ソフィアは再び合唱室内部へと踵を返す。今度は、カンパネラに歩み寄って。

「カンパネラ、悪いけど……今少しいい? 話したいことがあるの。」

 カンパネラが、瞬く青色に怯えていたのを、ソフィアは見ていた。故に、目を閉じたまま。そっと手を差し出した。

 目立たぬ場所に隠しておいたと述べるストームに、変わらずドロシーは非常にやりづらそうな様子でひらひらと適当に手を振り、「アッソ……」とゲンナリした声を出した。
 彼女からするとこの話題は、あまり歓迎出来るものではないらしかった。しかし厭悪しながらも、ソフィアの表情が僅かでも明るくなったのを見て、彼女は苦言を呈す。

「あー、ワタシの方法を模倣するのはいいケドさァ……前も言ったケドぉ、そいつの欠陥が修復されてなけりゃ、そいつは十中八九火刑場行きなんだから、ドレスを裂いたってどうにもならねーカモ。
 どーせ脱出の算段もまだ整ってないんだろうが。今お披露目を免れても生き残れるかは正直賭けだよ。

 無駄に希望的観測を抱くと痛い目見るよ。あのジャンクドールの件で痛いほど思い知っただろーが……馬鹿な女……。」

 ドロシーは最後に一言そうごちると、ストームとソフィアの脇をすり抜けてあっさりと部屋を去り行く。話は終わったと判断したのだろう。後にあなた方が何を話そうとも、彼女は気にしないはずだ。 

 カンパネラから情報を聞き出そうとしたがソフィアからの一喝でストームはそれ以上詰め寄ることは無かった。
 止められた事にガッカリするでもなく、むしろストームは嬉しそうに目を輝かせた。
 その声、その顔が見たかった。強く凛々しく自身を信じて疑わないその顔が!
 溢れんばかりの高揚感の中、女王様からのご命令に従わない選択肢なんて無くてただお辞儀をし合唱室を後にした。

 ドロシーに聞きたいこともあったが、また会った時に。
 今は優先すべきものが沢山ある。
 そのひとつはソフィアからの頼みを受ける前にどうしても確認しておきたかった事だ。
 学園内をくまなく探しても対象のドールは居ない。それならばと寮の方を戻りようやく彼女を見つけた。

「フェリー、探しましたよ」


 探してたドールはヒーローを夢見るエーナモデルのフェリシアだった。いや、詳しく言えばお披露目の日ミシェラの最後を見たドールのどちらかをストームは探していたのだ。
 ようやく見つけた彼女へ声をかけ軽く頭を下げる。

「お尋ねしたい事がありまして、少々お時間頂いてもよろしいですか?」

【寮周辺の湖畔】

Felicia
Storm

《Felicia》
 その日、虚飾の空が高く上がった頃。フェリシアは寮近くの湖畔に来ていた。昨晩のヘンゼルとの会話を思い返しては、そこに穴があれば入ってしまうだろう、羞恥心という衝動にかられながら。


 歩いて、歩いて、少し唸って。

 また、歩いて、歩いて、歩いて。


 無意識に高揚していたようで、ちらりと見た水面に浮かんだ自身の顔が、真っ赤になっていることに気づくと、決まり悪そうに目を瞑るのだった。

 誰もいなかったはずのその場所で声がかかる。ネイビーブルーの美しい髪。アンニュイではなく、小動物を思わせる可愛らしい顔。
 艶やかに輝くのは、かつてテーセラのプリマドールの冠を拝借していた彼であった。

 フェリシアは染まった頬をそっと両手で包むと、湿度を含んだ目線を送る。

「………なぁに? ストーム。」

「やだなぁ、そんなに警戒しなくとも取って食ったりはしませんよ。……バケモノじゃないんですから」

 決して好感度の高くない視線を向けられるとストームは緩く手を振ってブラックジョークを吐き出す。少年らしさが微かに顔を覗かせる声色は抑揚無く感情が酷いくらいに薄い。
 冗談を言う時でさえ楽しそうに言えないのが、ストームの難点とも言えよう。フェリシアから言わせれば趣味の悪すぎる冗談であろうが。

「早速本題に入りますが、少し思い出して欲しいんですよ。フィリーにとって痛く苦しい事になりますが、貴方様の親友……いえ、“相棒“を助ける為だと思って。

 ミーチェが焼かれてしまったあの日、彼女はどんな服装をしていましたか?」


 『相棒を助ける為』。
 フェリシアにとってこの言葉がどれ程の効力を発揮するかストームは十分に理解している。
 なぜか? 彼女が“ヒーロー“だから。

 前置きの後間髪入れずすぐに質問を投げかけ、一歩フェリシアに近付いた。希望を意味する宝石を瞳に宿したヒーローを品定めするかのようにアメジストが見下ろす。

《Felicia》
「ストーム、それ冗談のつもりなら言わないで。二度と。」

 余裕のないフェリシアは彼の笑えないジョークを流すことも出来ずため息をつく。呆れたように零した言葉の語尾は強く、まるで命令しているようだった。その言動から、"彼女が本調子では無い"ことに、優秀な貴方なら直ぐに気づくだろう。ちくりとした言葉を残す少女の頬は、未だに薄紅色の紅潮を残していた。

「……………は?」

 しかしその瞬間、悪態をつこうと開いた口は、ありえないものを見たように開きっぱなしになった。

 ミシェラちゃんが焼かれた事を、私の拭いきれないトラウマを、彼はいとも容易く言いのけるのだ。

 見下ろされたアメジストの瞳が、フェリシアの背筋を凍らせていく。

 凍らせて、締め付け、震えさせる。

 暫くしてフェリシアは、自身の指先が震えていることに気づいた。

 助けるため……助けるため……。
 助けるため助けるため助けるため助けるため助けるため助けるため助けるため助けるため助けるため。


 ───アストレアちゃんを助けるため。
 分かっている。何度も何度も心の中で唱える。そう。私はヒーローになりたいのだから。ヒーローなら、笑顔で答えられる。きっと。


「ぇ、ぇと……ミシェラちゃん……は……」

 凍った背筋、震える指先。
 そして──塔で見たトラウマ。

 無意識に忘れさろうとしていた。

 しかし、強引にフラッシュバックしていく、あの日の記憶。

「ミシェラ、ちゃんは…………」

 汗が、伝った。

 いつもより鋭い言葉にストームは眉を上げる。フェリシアが精神をやられていることは容易に感じ取れた。
 ミシェラの死にお披露目の実態。正気では居られないだろう。少なくとも正常な判断力を持ったドールにとっては。

 偏った欲望を追い求め、感情が欠落し、共感性を失ったストームにはフェリシアのトラウマは通過点でしかない。
 舞台上の役者の出番が終わった。ただそれだけ。
 当然、出番のある役者達は皆それぞれに与えられた役割を演じ、最後まで“らしく“いる必要がある。
 ストームは役割を全うしているに過ぎないだけなのだ。


 言葉に詰まっているフェリシアにきっとアメジストはストームに命令を下すだろう。
 ──彼女にふさわしい名で呼び掛けろ。
 間違いなく彼女に呪いを掛けることになる。
 が、構わない。


 だって彼女は。

「“ヒーロー“、答えていただけますか?」


 夢見がちな英雄(ヒーロー)にストームは詰め寄る。
 彼女が本物の英雄(ヒーロー)となる為に。

《Felicia》
 乗り越えたわけじゃない。見ないふりをして、しらないふりをして強引に前を向いていたフェリシアにとって、ストームのそれは間違いなくキツく巻いていた追憶の紐を引きちぎる決定打だった。

『ヒーロー』

 何度、この言葉に助けられただろう。救われただろう。

 それが今、重しになる。
 最低最悪の、鎖になる。

 鋭く突き刺さる、破片に、なる。


「……っあ、あの時の……ミシェラ、ちゃんは……!」


「ミ……シェラちゃんは……!!」



────────────────────

── フェリお姉様、大好きっ!

── あのお話、聞きたいなっ!


────────────────────

── ここ、怖い。

── やだ、やだっ!!!


────────────────────


 嗚呼、そう。そうだった。

 あの日、
 ミシェラちゃんは燃えたんだ。

 何も出来なかった、ヒーローになれなかった、私の目の前で。


「…………ヒーロー、か。」

 脈絡のない独り言に、貴方は驚くだろうか。指先は、今も小刻みに揺れている。逆上せたようだった頬はもう、青ざめている。

「ん……ミシェラちゃんがどんな、服装だった、だっけ?」

 ぼーぜん。その言葉が相応しいだろう。ストームを見上げたフェリシアの瞳には、光が、なかった。

 突如として呟かれた言葉に、フェリシアらしからぬ他人行儀な感情を感じる。なんだかすごく、嫌な予感だ。
 ガタガタと身体を震わせるフェリシアを見つめ、ようやく彼女が答えを出すとストームは瞳孔を見開く。
 きっとフェリシアは自身を飲み込もうとするほどの圧力を感じることだろう。
 その一瞬の殺意にも似た気迫を押し込もうと目を閉じる。

 アメジストは判定を下したようだ。
 ──彼女はダメだ。

 無理もない。
 皆に寵愛され自身もまた皆に活力や癒しを与えたミシェラを、信用して疑わなかった先生に焼かれたのだから。


「そう、ですか……。
 不躾にものを聞いてしまい申し訳ありません」

 大袈裟に肩を落とす。所詮は夢見がちな少女だった。
 どれだけ張り切っても意気込んでいても英雄様にはなりきれない。
 そんな彼女が……そんなフェリシアがストームは愛おしくてため息に似た息を漏らす。
 あぁどうしたものか。フェリシアの打ちのめされた表情が、もっと! もっと見たくなってしまったじゃないか!

 あぁ、ストーム。それは口に出してはいけない。

「……アストレアを救えるかもしれないのに」


 ダメだ。抑えられない。

《Felicia》
「っ………!?」

 幼い。一般的には可愛いと評されるだろうその顔が。いつもは微笑んでいるストームの顔が、歪んだ。

 そして、凄まじいその圧に潰されるように。フェリシアの虚だった瞳は、少しだけ開いた。

 もちろん。驚いただけで、その光を、希望を取り戻せた訳では無いのだった。驚いただけ。

 フェリシアはその場で池のそばに座り込むのだった。その水が映し出すのは、ただやる気のない少女の顔だけ。ヒーローの面持ちなど微塵もない、負の感情に囚われた絶望の顔だけだった。身体の震えはまだ、治まらなかった。

 ため息をつかれる。
 無理もないだろう。

 ヒーローとして、役目を、果たせなかった私に、興味があるわけが無い。

 投げやりな気持ちになりかけたその時、彼のその言葉は、フェリシアの曇り空の全てを貫いて、痛いくらいに降り注いだ。

 “相棒を、助けられるかもしれない。”と。

 ハッとなった。

 こんなところでトラウマを思い出して何をしているんだ私は!

 そうこうしては居られないのだ。

 アストレアちゃんを、助けに行かないと!!!!

 光が、宿り始めた。

「彼女を救えるの!? ねぇ!
 今そう言ったよねストーム!!!」

 勢いよく立ち上がった。
 しかし、それが行けなかった。

 そう。先日まで降っていた雨。
 地面がぬかるんでいないわけがなかった。

「わっ!?」

 当然、足を滑らせる。
 池に落ちる! と目を瞑った。

 ストームの見立てではフェリシアは思い出せない、忘れようとしていた自分にさらに嫌悪し無力感に嘆くかと思っていた。しかし、意外にも最後の言葉はフェリシアに希望を見せたのだった。

 驚いて身体を跳ねさせていれば、フェリシアは勢いのままに池の方向へ倒れていく。
 テーセラの運動神経、反応速度が反応出来ないわけが無い。それも一度はプリマドールになったストームが。
 咄嗟にフェリシアの手を取り引き寄せ、腰に手を回し抱き止める。
 そのまま自身が池に背を向けるように回転した。


「ヤンチャなお嬢様ですね。ご無事ですか?」

 フェリシアからゆっくり手を離すと、彼女の服に着いた泥を優しく払う。フェリシアには困る。彼女はテーセラほど身体が強い訳では無いのでいつか怪我してしまうのでは? と肝を冷やされているから。
 フェリシアの身体に傷ひとつ無いことを確認すると、ストームは表情を柔らかくして「良かったです」と呟いた。

《Felicia》
 見出したひとさじの小さな希望が広がることに並行してふわり、宙に浮かぶ自身の身体。嗚呼、前もこんなことがあったっけ。

 その時は───
 その時は、確か。

 昇降機から、降りるときに足を滑らせて。

 リヒトくんが、彼が受け止めてくれたんだっけ。

 そんなことを思いながら目を瞑っていると、くるり。腕を引かれた自身の身体はワルツをエスコートされるかのように美しく旋回した。

 当然。そんなことをやってのける子はひとりしかいなくて。

「……ありがと。」

 先程とは打って変わって、優しい表情。泥を払われたあと。ぶっきらぼうに感謝を述べた。

 決して、決して。

 みっともない所を見られて恥ずかしいとか、助けられてちょっとショックだとか、そういう訳ではないのだ。

 ほんのり染まる頬には、知らないふりをした。

 震える私を見て彼が楽しんでいることを、対話ができるドールであるエーナのフェリシアは分かっていたから。

「……改めて。あの時のミシェラちゃんの服装、だよね?

 あの時は……確か。
 アリスちゃんっていうエーナの子にドレスをボロボロにされたから、別のドレスを取りに行くっていう口実で塔に行ったみたい。

 だから、あの子が先生から手を下された時にはドレスじゃなくて、“制服”だったよ。……本当に。助けられなくて悔しい限りだよ。」

 周りを見渡して、人気がないのを確認するとぽつり、ぽつり。
 下を向きながら話し始めた。

 その言葉の最後。後悔を滲ませるフェリシアの拳は、ぎゅっと。

 強く、握られていた。

「とんでもございません」

 フェリシアからのぶっきらぼうのお礼に相反して丁寧にお辞儀する。きっとストームがフェリシアの反応のひとつひとつに面白味を感じて楽しんでいる事はバレているが、ストームは紳士である事に努めるだろう。

 フェリシアは辺りを見回し可愛らしい尊顔に後悔と怒り憎しみを覗かせた。告られるミシェラの最後の時、その時の彼女の格好に至った経緯。
 話を聞いた瞬間コアが大きく脈打った。

 ──“制服“だったよ。

 嫌にフェリシアの言葉が頭で反響する。
 微かに空いた口からヒュ、と小さく喉を鳴らす。すぐにその呼吸を飲み込みなんでもないと言ったような表情を作るが、対話することに長けたエーナのフェリシアならいくらストームの感情表現が乏しくとも感じ取れてしまうだろう。

「……偉いですよフィリー。覚えててくださって助かりました。ミーチェは助けられずともアティスを救える“良い”手掛かりになりました。
 やはり貴方様はヒーローですね」

 彼女に言うのはよそう。ソフィアやアティスならきっとそうする。ストームは火刑のお披露目と生贄のお披露目を食い止める為の焦りをひた隠しにした。
 そしてディアならフェリシアを褒め倒すだろう。
 同じくして冠を授かった仲間とは言え、所詮ジブンは他の三人の影となる役割に過ぎない。ストームはそう自認している。
 だからこそストームに欠けた共感性を補うのには他三人を模倣するしかなかった。

 この模倣もフェリシアにはバレる。
 だからこそ焦りが、緊張が、別の話題に切り替えようとするのもきっとフェリシアには分かってしまうだろう。

「発信機……です。そうフェリシア。貴方様に発信機の調査を頼みたく」

《Storm》
 制服だと聞いたストームの僅かながらの反応を、フェリシアは見逃さなかった。それに関する何かしらのことを、彼は知っているのだろう。ミシェラちゃんが着ていたのはドレスではなく、制服。
 それを知った彼の息を飲む仕草。

 ひとつの、嫌な予感が。
 その脳内に走った。

 ── アストレアちゃんのドレスがないのかもしれない。と。

 その予想は明らかではないが、ストームが一瞬揺らいだそれに何もなかった、とは考えにくかった。

「どういたしまして……だけど、今。できれば私にそういう(ヒーローって)言葉を使わないで欲しい、かも。……えへへ。惨めだね、私。」

 フェリシアは自嘲気味に笑った。しかしそれは諦めを含む意味ではなく、ただただ呼ばれたくない。

 いや、呼ばれる資格がない。
 それだけだった。

 いつの間にか、呆気なく話がすり替わっている。伴ってフェリシアには、ストームの焦燥感が伝わって来ていた。彼もまた、アストレアちゃんを助けるために必死なのだと。それに気づくと、無意識に先ほどのことまで許したくなってしまう。ちなみに、フェリシアが甘い性格をしていることを、まだ本人ですら気づいていなかった。

「発信機……そう。知ってるんだ。
 もちろん、協力するよ!」

 力強くうなづいた。
 エーナの私なら、ストームに出来ないことだってやってのけられるかもしれない。

「それで、具体的にどうするの?
 ストーム先生?」

 彼の焦りも、緊張も。気にしないふりをして。話を続けた。

 フェリシアが望んだように、彼女をヒーローと呼ぶことはもう辞めよう。少なくとも彼女がホンモノになるまでは。ストームは惨めだと自嘲するフェリシアを肯定も否定もせず見つめるだけ。
 アメジストは彼女をダメだと判断した。しかし、藍色のカーテンの後ろに隠されたシトリンは彼女をまだ完全に見捨てていなかった。
 実際、彼女先程より活力に溢れストームのよく知るフェリシアらしく振舞っている。苦しい話題のすり替えにも彼女は気付かないフリをした。

 “お人好し”。
 出かかった言葉を押し殺し飲み込む。

「そう、ですね。かくれんぼをして頂きたいです。

 実際にはかくれんぼを装って発信機の有無を確認して頂きたいんですよ。適任はエル、ですがフィリーの話術ならいくらでも口実を考え付くでしょうから他のドールでも構いません。
 何を言われても先生の後を着けて行ってください」

 一息に説明し終えるとフェリシアに呼ばれたようにストーム先生らしく「説明内容はご理解頂けましたか?」とフェリシアの顔を覗き込む。

《Felicia》
「かくれんぼ、かぁ。そうだね。
 先生が見せた発信器はプリマだった貴方たちには付いているかもしれないけど、私たちに付いてるか分からないもんね。

 ……実際に、私たちが柵を越えた日に、同じく柵を超えてツリーハウスに行った子たちも居たって聞くし。

 いいよ。とりあえずエルくんに協力して貰えるか声掛けてみることにするね。“楽しい追いかけっこ”が終わったらまた報告しに行く。待ってて。」

 光を取り戻したペリドットの双眼は、こくこくと何度も頷くことで答えた。今は何も考えずにアストレアちゃんのために、私ができることを全て、してあげたい。

 アストレアちゃんを、助ける。
 アストレアちゃんを、助ける。
 アストレアちゃんを、助ける。

 ─── 助ける。絶対に。

「助ける。」

 呟くようにそう言って、拳を握り直すと、目線を合わせるように上を向いた。彼の大きな身体に決意表明するように、フェリシアの眉はつり上がったのだった。

「じゃあ、私は行くね」

 にこり。少しだけ微笑むと、フェリシアを引き止めない限りはその場所から立ち去るだろう。

 美しいペリドットに闘志の光が宿る。希望の光が。この計画が始まってしまってから最愛のドールを除き、長らくと見ないその光にストームは息を呑んだ。

 ──ドクンッ。

 コアが脈打つ。純粋に心底から『美しい……』そう感じる。

「えぇ、頼りにしていますよ、“フェリシア”」


 彼女の大きな決意に深く頷く。
 微笑みを向けられた後に決意を固め自身に背中を向けたフェリシアに、ストームは待ったをかける。

「すみません。はっきり言って先生が発信機を使うなんて確証は無いのでこの計画は五分五分です。
 最善は尽くして頂きたいですが……分かりますよね」


 再度注意喚起をする。
 “危険を感じたら身を引け”と強く目で訴えかけるのがフェリシアに伝わるだけでいい。
 しばらくの沈黙の後、ストームは女王様からの命令に身を投じるため、フェリシアにお辞儀をして去っていくだろう。

【学園3F カフェテリア】

Alice
Storm

 カフェテリアは正午の活気で少しばかりごった返している……と言えども生徒であるドールの母数が少ないこのアカデミーでは、混雑の程度は軽いものだが。数名のドールズがリフェクトリーテーブルの椅子を引いて、紅茶と茶菓子、そして積み上げられた本の内容で談笑しているのが見える。

 一帯の広間の奥には、寮ほどの設備や少量の備蓄はないものの、簡易的なキッチンも存在しており、ドールズはこちらの区画で飲み物を用意して、授業後のコーヒーブレイクをおこなっていることが多かった。

 カフェテリアは賑わっており様々なドール達が思い思いの時間を過ごしていた。紅茶の匂いが鼻をかすめる。
 ドールの中では背丈の大きい部類に入るストームは端から端まで見渡し、なんとなく直感的に今まさにアフタヌーンティーを嗜んでいる少女のドール達の元へ足を進ませた。

「ごきげんよう淑女の皆様。ティータイム中に失礼致します。
 少しお尋ねしたいことがありまして、アリス様と言うドールはこちらにいらっしゃいますか?」

 物腰柔らかくお辞儀をして、お嬢様方に声を掛ける。
 顔を上げるなり高貴なお嬢様方の中、ひときは目立つエメラルドの瞳を持ったドールにストームは目を合わせるとごくごく微かに口端を上げた。
 恐らく彼女がこのティーパーティーの主催者で大奥様だろう。大奥様の指示無しではお付きの者達は下手な行動は取れない。
 そう物語では決まっている。と、アティスからの物語を聞いてストームが判断したに過ぎないが。

 他人向きの態度、言葉遣い。
 プリマドールだったあの時のものをそのままに使った。
 大奥様のご機嫌を損ねないように、と。

 あなたはテーブルの広い一角を占領している、少女ドールズの集団に気がつくだろう。
 彼女たちは洗練された所作でお茶会をしているようなのだが、異様なことにその一帯はシン、と凍てついたかのように静まり返っていた。微かにカップをソーサーに置く音、スプーンがカップの底に触れる音などが響くだけの沈黙の集いには、近付くよりも前に何か物々しい気配を覚えるだろう。
 

 その中央を陣取るのは、絢爛なヴェールのような美しい黄金を大胆に巻き込んだ、ヴィクトリア王朝の耽美な皇女を思わせるうるわしの乙女である。意志の強そうなエメラルドグリーンの双眸は、きつく剣呑にしかめられているようだ。
 周囲のドールズは、そんな彼女の機嫌を窺って、何も言葉を発せないでいたようだ。

 そんな中、あなたが突如として現れそのようなことを申せば、多くは面食らって硬直するだろう。
 アリス──お茶会の女王たる彼女は紅茶を一口啜りながら、冷め切った面差しをそちらへ向ける。

「わたくしが、アリスでございますわ。どのようなご用向きでいらしたのでしょう。」

 声色からも、彼女の気がいかにも立っているであろうことは容易に察しが付くだろう。腰を上げることもせずに、あなたを歓待する心持ちはかけらもなさそうだ。

 凍りつくような空気。敵をるような痛い視線。
 大奥様なんかじゃ彼女を称せない事をストームは理解する。
 ソフィアにこそ劣るが、態度、気迫。
 彼女のプライドの高さは容易に伺えた。

 彼女は女王様。
 それも下民なんかが逆らう事の許されない暴虐な。
 騎士が意見していいわけが無い。

 ストームは目を引く美麗な黄金のヴェールにエメラルドを鋭く輝かせた彼女が、正しくアリスである事を知ると再度お辞儀をする。

「噂はかねがね伺っております。
 大変優秀で誰もが憧れるお方だと。
 同時に何か心悩みをお持ちなことも。
 是非とも優秀な貴方様にお仕えし、お悩みを解決したく存じます」

 ちぐはぐなエメラルドとシトリン、誠実さを表す双眸で彼女を見つめる。金髪の貴婦人には騎士らしく振る舞う事が決まっているかのようだ。
 既視感がストームが瞬きする程に芽生えて、冷たいエメラルドの瞳が赤にも青にも見える気がした。

 自ら名乗ったアリスは、椅子に腰掛けていてあなたより目線の位置は低いはずであるのに、まるで天上からあなたを見下すような尊大な態度だった。あなたが低頭に恭しく頭を垂れるならば、「フン、」と嘲るような失笑をさし向けるだろう。

「あなたは知らないでしょうけれど……エーナの授業ではね、まず何を習うとお思いかしら。

 コミュニケーションの基本は、まず名を名乗って身元を明らかにするところから。
 あなた、一体どこのどなたなのでしょう。何の企みがあってわたくしに近付こうとしているのかしら?」

 きつい印象を与えるエメラルドグリーンの輝きを冴え冴えと細めて、彼女はまずあなたに皮肉をぶつけた。
 ひどく迂遠な言い回しだが、彼女はあなたに『胡散臭い』『怪しくてしょうがない』と言ったことを伝えようとしているみたいだった。

「……マ、構いませんわ。あなたのことは知っていますから。

 とうにジャンククラスに零落したテーセラクラスの面汚し──元プリマドールのストーム様、でしょう? そんな素晴らしいお方がどうしてわたくしに仕えようとお考えなのかしら。」

 やはり、エーナモデルの専売特許である対話ではいくら元プリマドールであってもテーセラのストームには勝ることが出来ない。
 でも理解することは出来る。『お前は信用ならない』そう言われてることを。
 自身を射抜く程の鋭い眼光、肌にピリピリと直に感じる。だが、ストームは表情を変えることがない。

「ご名答です。
 改めまして淑女の皆様ごきげんよう。ガラクタドールのストームと申します。
 アリス様が博識で助かりました。概ね貴方様のご紹介通りでございます。素敵な紹介をして下さり光栄です。

 仕えるは少々まやかしが過ぎましたね。
 やはり貴方様は優秀だ。“アティスに次ぐ”」


 従者ドール達、一人一人と目を合わせ簡単な自己紹介を終える。ストームを持ち上げすぎとも感じるアリスの紹介には、ストームも満足気に目を細めた。
 素敵な素敵なアイロニー。
 流石はエーナモデルだと感心する。

 が、アリスが口にする言葉の全てはアストレア以下だと堂々と告げた。

「まずは仕えることを称しアリス様に近付こうとしてしまったこと深くお詫びします。

 要件をお尋ねしていましたよね?
 実は……ご報告を。既にご存知かもしれませんがジブンの“優秀“な友人の一人であるアティス、アストレアのお披露目が決定致しました。
 彼女の旧クラスメイトと言うこともありアリス様も思う事は色々あると思いますが、くれぐれも、くれぐれも彼女のお披露目を邪魔しないで頂きたい」

 何度目かも分からぬ詫びの後、静かに呼吸する。
 再び口を開けば、どことなく冷たく重々しい空気が漂うだろう。ストームの話し方が、ゆらゆらと芝居掛かったものから、黒い靄が纏わり着くようでそれでいて淡々とした口調に変化した。
 軽い忠告のつもりだった。が、ストームの目は鋭く彼女達を刺しているだろう。

「以上です。アリス様も選ばれてると良いですね」

 言いたいことは言い終えた。
 要件が済んだのでストームは女王様のお茶会へ背を向けその場を後にする。
 彼女の中のヴィランが目を覚ましてくれればそれでいい。

「……何ですって?」

 『アストレア』──その名を聞いた途端、アリスの眦がみるみる吊り上がる。ティーカップを持つ指先が、かすかにわなないてカップ内の色付いた湖面を揺らがせた。
 堪えようもない怒りが今にも噴出しかけているアリスは、飄々とこちらへ述べ立てるあなたの皮肉に次ぐ皮肉に、頬を震わせて引き攣らせた。

 ただでさえ、苛立ちのせいで心穏やかなアフタヌーンを過ごせなかったというのに、聞きたくもない忌々しい名を聞かされ、延々挑発するような言葉の羅列に、彼女は爆発寸前だった。

 しかし彼女が起爆するより早く、引き際を弁えたあなたがあっさりと踵を返すと。アリスはガタンと席を立ち、机上に両手を叩きつける。ケーキの載った皿が崩れかけるのを、取り巻きのドールが慌てて押さえていた。

「……あなた。わたくしを。侮辱するのも。大概に。なさってくださる。

 フン……それに、そんなものぬか喜びに過ぎないのよ。
 あの女のお披露目の衣装は、控え室になかったんですもの。他の子のものは既に用意されていているにも関わらず、よ。

 残念ね。アストレアはきっと、『あの子』のようにスクラップにされるしかないの。当然よ、あなた方ジャンクドールは幸せになんてなれないんですもの。アッハ……! アハハハ! ふふふふふ……」

 アリスは怒りに震えていた声をやがて高らかな笑い声に変貌させると、あなたを刺し貫くように言い放つ。

「二度と顔を見せないで頂戴。さもないと後悔することになるわよ。」

 背後からお茶会に相応しくない騒音が鳴り響く。音の主はアリスだった。ストームは大股に歩み出した足を止める。
 あぁ怖い怖い。
 彼女、ちょっとおかしくなってるみたいだ。

 そうアメジストがストームに教えたのも束の間。
 そもそもアティスはお披露目なんぞにお呼ばれしてなかったとそう知らされる。
 服が無かった。他のドールの服はあった。

 なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ?

 その問いでさえアリスは事細かに教えてくれるのだ。
 物語の中で彼女と同じ名を持つ少女は導かれ迷っていたのに、今ヒステリックに笑い叫んでいるドールは花を導いている。
 彼女、だいぶおかしくなってるみたいだ。

「またね、“アリス”」

 少年っぽく手を振りテーセラドールの模範的友人として振り返った。おかげでやる事が明確に定まったからお詫びにプリマドールとは何たるかを彼女に教えてやろうとしたのだろうか。
 あくまでテーセラのプリマドールの振る舞い方だが、彼女は喜んでくれる。きっと、きっとね。
 アメジストがそうやってストームに教えた。

 まだストームには仕事がある。
 走早にカフェテリアを後にするだろう。
 一瞬で一方的に彼女と友人“ごっこ“をやるのもおしまい。

【学生寮3F 図書室】

Sophia
Storm

 革靴を軽やかに鳴らし、捜し物をするようにストームは歩いていた。彼女を、自身のお仕えする本物の女王様を探している。
 図書館の前を通過しようとした時、微かな声を拾い足を止めた。泣き声だった。
 扉の前まで行けば声の主まではっきり分かる。分かってしまう。
 ──ソフィアだ。
 そして恐らく彼女はこの部屋で一人だろう。
 他のドールの前で簡単に涙を見せたりしないのが元プリマドールのブレインであるソフィアなのだから。

 ストームは扉の前でしばらく立ち尽くし込み上げてくる物を飲み込みながら意を決した。軽く図書館の扉をノックする。

「ソフィア、今お時間よろしいですか?」

《Sophia》
「ッ、」

 少女の泣き声で、鬱屈な雰囲気に包まれた図書室の静寂を破るのは、軽いノック音。ソフィアはびくりと肩を揺らす。直後、響くのはストームの声。先程の会話を思い返す。状況を察するに、もう要件を終わらせてきたのだろう。感服するほどの手際の良さである。
 自分は何も出来ていないのに。

「……入って。」

 若干余った袖で、乱雑に頬を伝う雫を拭う。ここ最近で仮面を被る事だけは上手くなったソフィアは、扉が開いてあなたと顔を合わせる頃にはもう、目の潤みを感じさせることはないだろう。呼吸ももう落ち着きを取り戻していた。

 中からソフィアに呼ばれた。
 彼女は泣き止んだのだろう。心の痛みが理解出来ないストームは起こっている事柄をそのままに解釈する。
 撫でるようにドアノブに手をかけ、ゆっくり開けた扉に入って行く。

「失礼します」

 机を隔てソフィアの目の前に立つ。
 アストレアなら彼女の隣に座り真っ先に彼女を慰めたり、彼女を肯定したりするだろうが生憎様。今ソフィアの目の前に立つのはドールは光の宿らないちぐはぐな瞳で見下ろすだけ。断言しよう。それだけだ。
 成すべきことを成しに来ただけだから。

「ご報告します。
 プリマドールを酷く憎むドールへ接触し誘起させましたが、アティスのドレスは既に無かったようです。
 ご存知かもしれませんが、ミシェラは“制服”で焼かれたともフィリーから聞きました」

 博識で論理的なソフィアならこの言葉が何を意味するか理解出来るだろう。
 “アティスは火にあぶられるのが決定している”と。
 良い報せなんて無い。
 ソフィアを地の底に叩き付けるような報せしか無い。

 ストームは簡素な報告を終えると目を伏せる。
 ソフィアから目を背けるように。

《Sophia》
「………そう。お疲れ様、ありがとう。」

 その声は、不気味なほど静かで。生命力を少しも感じさせない機械音声──人形の放つ作り物の声そのものだった。
 ストームがこちらを見ようとしないのと同じように。ソフィアは、色違いの眼を見ようとしない。お互いに目を伏せたままの空間は、まるで何かから逃げているかのようで、空虚感だけが渦巻いている。
 『ドレスは無かったらしい』。最初から、オミクロンには何も与えられないのか。あの月光をたたえたラピスラズリは、燃やされる為に生まれてきたのか。
 ……あのどこまでも澄んだレッドスピネルは、

「……ミシェラは最初から、ドレスを着る楽しみすら、与えられない運命だったのかしら。」

 独り言は、ちいさく風に流れる。そのまま掻き消されてしまってもおかしくないその振動は、きっと、ストームの五感は拾い上げられてしまうのだろうが。そんな事はどうでもよい。
 神様だとか、ヒトだとか、お披露目だとか、青空だとか。偽物だらけの箱庭で、唯一本物なのが、運命という禍星だなんて。少し前までは、それすらも叩き壊してやろうという強さがあったはずなのに。鋼の剣はもう、すっかり錆びてしまった。

「……もう、いいわ。行ってちょうだい。他に言いたいことがないなら。」

 視線は地に落としたまま、小さな声で解散を告げる。煌めいているのは埃だけだ。

 伝えなければならない事は全て伝え終わった。
 ソフィアの言う通りもうこの場を去っていいはずだが、ストームは動かなかった。
 微かに呟かれた独り言。どうしても引っかかる。
 ストームは彼女の耳に届くようなハキハキした声で呟き始めた。

「……ミーチェがドレスを着る機会すらなかったというのは違うのでは無いかと。確かに彼女はドレスを着れずにお披露目の日を迎えました。が、彼女がドレスを着れなくなったきっかけを作ったのはアリスです。
 彼女がドレスを破かなければおそらくは。

 アリスは怒り狂っていました。ご自身はお披露目に選ばれずにオミクロンに堕ちたアティスが選ばれたのですから。惨めで仕方なかったのでしょうね。
 そしてミーチェと同じように彼女はアティスのドレスを壊しに赴いたそうです。でも、ドレスは無かった。
 アリスは仰っていました、『アストレアはあの子のようにスクラップにされるしかない』と。
 変じゃありませんか? ジブン達も知り得なかった別のお披露目についてアリスが知っていること。それから、彼女が二度もドレスを破ろうとし二回目は未遂に終わったものの他のドールに目撃されている。または犯行予告を他のドールに言っている。それにも関わらず目立った処罰がなされていないこと」

 ストーム自身が持つ些細な引っ掛かりをソフィアに打ち明けた。なんの気なしに雑談をするように。
 疑問を払拭出来るかもしれないと言ったストームの浅はかな考えに過ぎない。

「ジブンの憶測ですがアリスはどなたかに唆されていたのかもしれません。消耗品とは言え備品の破壊行為になりますからね。」

 言葉を締めくくり、ストームはソフィアの見解を待つように彼女を見下ろしていた。
 不快で染まったアメジストが鋭くアクアマリンに突き刺さるまで。
 ──さぁ、前を向いてソフィア。

《Sophia》
「…………アリス? エーナクラスのドール?」

 零した独り言を、ストームが拾い上げる。補足のつもりか、たんたんと述べられる新たな情報に、ソフィアは驚いたようにストームに向き直った。現に、信じられなかったのだ。『ミシェラのドレスが破かれた』ということが。そして、そんな輩がまだのうのうと暮らし、親友を罵倒していることが。怒りを通り越して、超常的な何かと対面したかのような錯覚を起こす。
 ……けれどすぐに。ソフィアの瞳は光を取り戻すだろう。それは暗い光だ。どこまでも黒い焔をゆらゆらと灯して、心の底からの憎悪を描いている。

「……わかった。そう──アストレアのドレスが無かったって言うのは、もしかしたら前回その女にドレスをダメにされたことで先生たちが対策を敷いたのかもね。……わざわざ対策をするってことは、やっぱり…ドレスを破壊出来れば、もしかしたら……。
 なんて、はあ。希望を持ちすぎるのも良くないんでしょうけど……」

 鋭いアメジストの刃を、突っぱねるように。ソフィアはもたれかかっていた壁から離れ、ストームの横を通って図書室の出口へと向かう。最後に漏らした言葉は弱気な物であったが、されどつい先程対面した時よりもアクアマリンに色彩が戻ったのを、ストームは見逃さないはずだ。

「情報ありがと。あとはあんたも好きに……あ、もう一つの方も宜しく頼むわよ。じゃあね。」

 特に呼び止められる事もなければ、ソフィアはそのまま小さくストームに手を振ってから、図書室から出ていくだろう。

 ソフィアが去った。
 モノクロに近かった瞳に微かに色彩を取り戻して。
 ──彼女はあとどれ位持つだろうか……。時間の問題じゃないか?
 去って行くソフィアにお辞儀をしてる中、アメジストは問い掛けてくる。ストームは自身の中に出た答えを唾と共に飲み込み思考を新しいものにした。

 次の仕事に向かうとしよう。
 ストームは足早に移動した。リヒトのノートに記された『二階と三階の踊り場に扉があった』という文字を思い出し一階の階段の前まで来てしまった。
 周りにどの程度、監視の目があるか。それによっては日にちのかかる作業になるかもしれない。

 覚悟を決めると、ゆっくり階段を一段ずつ踏みしめて行った。

 まさか決めた覚悟とは別の厄災が自分に降り掛かることになるとは……ストームは微塵も思っていなかっただろう。
 ストームの忌み嫌う道化の影が彼を捕らえるその時まで。

【開かずの扉】

Mugeia
Storm

《Mugeia》
 いつものようにミュゲイアは学園にいた。
 変わりのないその風景ではあるものの、この場には笑顔がある。
 不気味なほどに整った笑顔に対して笑顔を返してくれる人は少ない。
 軽い足取りでミュゲイアは歩くばかり。
 今日も笑顔を求めて歩いている。
 その純白の瞳はキラキラと七色の彩色をしていて、綺麗な笑顔だけを吸い上げてしまう。
 グルグルとミュゲイアが自分のことを考えても答えはでない。
 いつまで経っても終わらない悩みに頭を抱えつつも、どこか楽観的な思考はフワフワとしていて綿菓子のように膨らんでは溶けていく。
 そんな中でミュゲイアは見知った後ろ姿を見つけた。
 同じクラスのストームである。
 彼もまたミュゲイアの大好きな笑顔の一人。
 ミュゲイアを笑顔のある場所に連れて行ってくれる頼もしい友人。
 その後ろ姿を追いかけて後ろからミュゲイアは声をかける。

「ストームだ! ねぇ、ねぇ! 何してるの! 笑顔のあるところに行くの? それだったらミュゲも連れて行って!」

 かのドールが忌み嫌う道化のドールはそんなことも露知らず、風船を渡すように話しかける。
 いつもと変わらない貼り付けの笑顔は完璧に計算されたような機械的な笑顔をしている。
 そんな顔でミュゲイアは彼に話しかけるが、彼があの開かずの扉へと続く階段を登っているのを見てそれ以上近づこうとはしなかった。

 毛のよだつような悪寒を感じた時には既にストームは袋の鼠さ。脳に響く声色。ズンズン大股で近付いてくる道化、いや、悪魔はストームの背後を突き刺すような衝撃を与える事だろう。ぐるりと目を大袈裟に回し、肩でため息をつく。
 感情表現の乏しいストームがここまで感情を露わにするのはこのトイボックスの中では、愛しのディアとこの悪魔しか居ない。

「……ノイズが酷いな。先生に後で点検してもらわないと」

 顔すら向けず自身の頭を軽く叩いた。
 話し掛けられた事実なんて無かった。
 そもそもミュゲイアになんて会っていない。
 そうしよう。

 けれども彼女が執拗に、それも笑顔と同じくして機械的に話しかけてくるのであれば話は別。

「欠陥品は口を閉ざす術を持ってないので──」

 ストームの脳内にキンキン響いた彼女の声に痺れを切らすのは早かった。それはちょうど三階に上がる階段に足をかけた時だった。
 作業をするためにミュゲイアの存在は邪魔でしかない。邪魔なものを排除しようとようやく彼女に声をかけた瞬間、すぐ後ろから聞こえていた足音が止んだ。
 ようやく、ここでようやくストームはミュゲイアの方を振り返るだろう。

《Mugeia》
 ニコニコ。
 羊の皮を被った山羊はただ笑う。
 その真っ白のシルクの瞳を細めて、月明かりが照らすだけの夜空の色の髪の毛を見つめてただ笑う。
 目の前のドールが自分のことを嫌っているなんて全く知らないミュゲイアはただいつもと変わらずニッコリ笑う。
 鈴蘭の匂いをほのかに香らせて、ストームの側へと寄っては下から顔を覗くように見つめる。

「ストーム壊れちゃったの? 大変! 早く笑って! 笑えば元に戻るよ! 元気いっぱいの優しいストームに戻れるよ! だから頭なんて叩いちゃメッ!」

 パーに広げた手を口元に持ってきてノイズが酷いという彼の言葉に彼のことを心配する。
 もちろん、それが嫌味だとも気づかずに。
 軽く頭を叩くその姿を咎める。

「ストームとお話するの楽しいからついついいっぱい喋っちゃうの! いっぱい笑顔になれちゃうね! ……ストームは此処で何してるの? 今日もミュゲを笑顔のところに連れてって!」

 ミュゲイアの方を振り返ったストームの二種類の宝石を見つめてミュゲイアは笑う。
 お喋りな口は黙ることを知らずに、ズケズケと話しかける。
 今日もいっぱい笑顔のところに行こう!
 2人で仲良くお散歩をしよう!

 視界の中に蚕で編まれた白が入り込んでくる。
 鼻を掠める鈴蘭の香りは癒しとはかけ離れた感情を抱かせてくる。
 相変わらず鼓膜を突き抜け脳に金属音のような衝撃を与える声。
 そして他のどんな要素より、何よりも、張り付けの笑顔。
 不快……不快不快不快……不快だ。
 ミュゲイアと関わる時、何度このテーセラの五感を恨んだだろう。何度感覚を殺そうとしただろう。

 ストームは長い前髪を触り、視界を暗くする。
 けれど映り込んでくる白は消えない。
 むしろギョロりと見開かれた眼がじっとりちぐはぐの瞳を掴んで逃さない。
 訴えかけてくる白い眼がどうしようもなく気持ち悪いんだ。

「カフェテリアに行ってみたらいかがです? あそこには貴方様の大好きな笑顔が溢れかえっていますよ」

 一瞬、ミュゲイアの足が止まったようにも思ったが未だに話しかけて来る彼女を見ると勘違いだったのだろう。と、再び足を進める。
 散歩? 笑顔の場所? バカバカしい。
 開かずの間はもう目と鼻の先だ。
 出来ることなら手早く調査を終わらせたいと、足を進めるだろう。
 止められなければ扉の前まで到着してることは間違いない。

《Mugeia》
 落ち着いた静かな声がミュゲイアの耳を撫でる。
 いつもと変わらないストームの声。
 貼り付けたような笑顔は変わらない。
 これでも、ミュゲイアは心の底から笑っているのである。
 造られたドールの笑顔はいつも完璧で、愛する人を虜にする。
 トゥリアらしい甘ったるい笑顔。
 それを不快に思われているなんて全くもって思わない。
 笑顔を不快に思う存在がいるなんて思わない。
 だって、いつだって笑顔はみんなを幸せにする。
 不快にするのは笑顔じゃない表情の役割だ。
 笑顔はみんなを照らして幸せにするものなのだから。

「じゃあ、ストームも一緒に行こ! ミュゲね、ストームの笑顔が見たいの! こんな所にいるより笑顔になれるよ! だから、ここから離れよ!」

 また、ストームが足を進めようとすればそれを阻止するようにストームの腕を掴もうとするだろう。
 もちろん、振り払われてしまえば何も出来ないけれどか細い腕でギュッと掴んでしまうだろう。
 トゥリアの非力なその力で。
 だって、その先は怖いから。
 その先は笑顔になれないから。
 きっと、ミュゲイアの手は微かに震えているだろう。
 あの時の底知れない恐怖を思い出して。
 いつもと変わらない笑顔でミュゲイアは問いかける。
 ここはやめようなんて。

 ミュゲイアの小さな手に捕まった。
 しかし柔らかくて白くてすぐにでも捻り潰せるような手を、乱暴に振り払うことはしなかった。
 ストームは大きく少し筋の浮き出た手を重ね引き剥がす。
 振り払いたい衝動を沈めてか、手つきが妙に優しくなるのを感じるだろうか。

 彼女はトゥリア。
 繊細で脆いモデル。
 簡単に壊れてしまう。
 彼女傷つけてしまったら、彼女のお披露目が長引いてしまうかもしれない。
 だから、きっとストームはミュゲイアには酷い手出しはしない。……違うな、出来ないだろう。

 だがミュゲイアは辞めなかった。
 再度ストームが歩み出そうとすれば細腕で彼の腕に絡み付き意図も簡単に捕まえた。
 本当に彼女の執念深さにはため息が出るよ。
 ストームも苛立ちが顕著にではじめる頃だろうね。
 でも、違和感に引っかかった。
 捕まった腕を抜こうとしたその時。彼女の手が震えている事に気付く。
 話半分にしか聞いていなかったがミュゲイアは確かに「こんな所」と言った。
 おかしいよね。何の変哲もない階段の踊り場にミュゲイアは怖がっているらしい。
 依然として不気味な笑顔が張り付いたままだったが、少し強ばった笑顔がストームの目の前にあった。

 知らないフリをしておけばミュゲイアは怖い所に行かなくて済んだのかな?
 不幸にも猟奇犯は怯える道化を目の前にドクンと本能を呼び起こしてしまった。
 絡められた腕からスルスルとミュゲイアの手を取り指を絡める。非力な彼女が簡単に逃げられないように。
 抵抗すればするほど彼女の小さな手を握る拘束が強くなっていくだろう。

「では共に行きましょうかミュゲイア」

《Mugeia》
 ギュッと掴まえた手はいとも簡単にストームの大きな手によって引き剥がされる。
 テーセラというに十分な大きな手。
 少し筋の浮き出た頼もしい手。
 その手で優しくミュゲイアの手を引き離す。
 まるで、トゥリアであるミュゲイアのことを気にしてくれるように。
 壊れやすいシャボン玉を扱うように。
 手を離されてもミュゲイアは負けじとまた、ストームを捕まえた。
 こっちも折れる気はないらしい。
 フルフルと震えるの力込めているからか。
 それとも、この先が怖いからか。
 けれど、そんな恐怖も続かなかった。
 ストームが手を握ってくれた。
 それを見てミュゲイアは笑顔になる。
 もちろん、ミュゲイアはカフェテリアに行くつもりなのだから、抵抗もせずにストームに話しかける。

「やったー! ねぇねぇ、カフェテリアで何する? あっ! ミュゲがホットミルクいれてあげる! 蜂蜜たっぷりのやつ!

 ……だから、そっちじゃないよ、ストーム?」

 目の前のドールが階段を登ろうとするのを見てミュゲイアはグッと足を止めて、ストームのことを見上げる。
 こっちじゃない。
 あっちの階段から行こう。
 その先には怪物がいるんだから。

 ストームが手を握るとたちまちミュゲイアは笑顔になった。元から笑顔だと言うのにこう表現するのは変かもしれない。だが、笑ったのだ。嬉しそうに。
 不気味。でもストームには都合が良かった。
 抵抗せずに着いてきてくれるから。

 再び歩き始めると、ミュゲイアはピタリと足を止めた。
 やはり、見立て通り。
 ミュゲイアは開かずの間について何か知っている。そして恐れている。
 好都合も好都合。なんて素晴らしい豪運なんだ。
 ストームは高笑いしてしまいそうになるのを抑え込むのに必死だった。

「いいえ、こっちですよミュゲイア。
 気分が変わったので一緒に遊びましょう。


 ………あの場所ついて何か知っていますよね?」


 ミュゲイアの細腕を軽く引っ張り、一段、また一段踊り場に近寄っていく。全力で彼女が嫌がったところでストームは踊り場の壁を指さし問い掛けるだろう。

《Mugeia》
 これ以上はダメなそんな気がした。
 また、怖い思いをしてしまう。
 また、恐ろしくて走ってしまうかも。
 また、泣いてしまうかも。
 ミュゲイアは警告を鳴らす。
 これ以上はダメ。

「ヤダよ! 遊べないよ! ここじゃない所で遊ぼ? ……開かずの扉はミュゲ、イヤなの! 幸せそうじゃないって言われちゃうの!」

 ミュゲイアはブンブンと首を振る。
 遊びたいというのはとても嬉しいけれど、この先に行くというのにミュゲイアはついて行くことが出来なかった。
 フルフルと首を振るけれど、トゥリアのミュゲイアがテーセラであるストームに力で勝てる訳もなく半ば引き摺られるように階段を一段、また一段と登ってゆく。

「………ヤダ! ヤダヤダ! ミュゲ怖いの!」

 指を指されたその先を見てミュゲイアはとうとうしゃがみこんでしまった。
 笑顔のままに怖がる子羊。
 今にも食われてしまいそうな小動物はただ訴える。
 怖い。とても怖いと。

 果たしてしゃがみこんでしまった子羊を猟奇犯はみすみす見逃すだろうか?
 ──否、きっと痛ぶり嬲る。弱りきったところで子羊の毛皮を剥いで悦に浸るのだ。
 ミュゲイア、その笑顔の毛皮の下を見せて?

 ストームは笑う事以外の幸せを彼女に教えたいだけなのです。
 善意? 偽善? いいえ。見せかけの善意すら無い彼のほんの興味。
 しゃがみこんでしまったミュゲイアと同じ目線までしゃがみ、彼女の耳に囁いた。

「時にミュゲイア、人それぞれ幸せを感じる事に違いがあります。
 感じるんですよ。ジブンはあそこの部屋に入れたらきっと幸せになれます。笑顔になれます。

 ねぇミュゲイア。
 貴方様はジブンを幸せに、笑顔にしたいのでしょ?
 そのためのお手伝いをしてください」

 蚕で編まれたような白い横髪を彼女の耳にかける。
 視界が広くなったであろう彼女の顔に覗き込み、首を傾げた。

 ねぇ、ミュゲイア。その笑顔の下の感情が欲しいよ。

《Mugeia》
 ドクン。
 コアが一際大きく揺らいだ。
 逃げることも出来ない子羊は狼に喰われて終わるだけ。
 皮を脱がされ裸のままに晒されてペロリと骨の髄まで嗜まれてしまう。
 茨に囲まれた子羊。
 涎を垂らした子羊。
 ほら、幸せが呼んでいる。
 鐘の音がなる頃には飛び出さないと。
 茨の道を歩かないと。
 無駄なものは全て剥ぎ落として、生まれたままの姿で縋りましょう。
 己の欲に飼い慣らされて。
 首輪を引っ張られて。
 アン、ドゥ、トロワで歩きましょう。
 さぁ、吊るされた糸に動かされて。
 そのブリキの足を進めて。
 ガラクタの山をかき分けて。
 メリーゴーランドを回せ。
 幸せのために踊りなさい。
 幸せのために裸体を晒しなさい。
 愛おしい幸せを掴みなさい。
 壊れた頭で、壊れた体躯で、犯された思考回路で。
 幸せを掴みなさい。
 笑いなさい。
 羊飼いの言葉の通りに。
 狼に渡された蜜を飲み干しさない。
 笑顔は、幸せは、とても気持ちがいいでしょう?
 欲しくて堪らないでしょう?
 涎を垂らすばかりではご褒美はお預け。
 さぁ、幸せの白い鳥。
 早くその羽を広げて。
 幸せを運んで墓地に帰りなさい。


「……幸せになってくれるの? 笑ってくれるの? ミュゲ、ストームの笑顔が見たいの。ストームを幸せにしたいの。

 ………ミュゲ、頑張るから笑ってね。大好きなストームの笑顔をちょうだい?」


 待てはきっと出来ません。
 美味しい餌には食いついてしまいます。
 かのドールを見つめる純白の瞳は何よりも澄んでいてドス黒い。欲深い白色。
 ミュゲイアはゆっくりと立ち上がった。
 小鹿のような足取りで開かずの扉へと近付いて行く。
 笑顔が見たいの。
 幸せを掴みたいの。
 プレゼントしたいの。
 何よりも欲深く三日月を象った笑顔でミュゲイアは歩き出す。
 裸のままに茨に攫われる。
 この身を焦がしてもそのドールは求めてしまう。
 一歩、二歩。
 ストームの言葉に足が動く。
 恐ろしいその先を。
 手を伸ばしてしまう。

 以前も見たあの扉は、踊り場の壁にぴったりと馴染むように存在した。一見何もないように見えるため、多くのドールはその扉の存在に気が付かず、前を通り過ぎてしまう。

 まるで、ドールの生活には不要な区画だから、巧妙に隠されているかのようだ。
 しかしよく観察すると、扉枠はきちんと存在している。ドアノブなどは存在せず、故に開き方が定かでない扉だった。

《Mugeia》
 子羊は崖の傍。
 きっと、一歩間違えればどこまでもゆっくりと下へ下へと落ちてしまう。
 真っ暗な奈落の底。
 ミュゲイアの足取りは一歩、一歩が重苦しく足を掴まれているように上手く動かない。
 嗚呼、恐怖がミュゲイアを抱きしめる。
 それなのにかのドールの言葉が背中を押してくる。
 手を掴んで踊らせる。
 まるで赤い靴を履いて踊るように。
 壊れかけの硝子の上を踊らされる。
 茨の道は追いかけてくる。
 手を伸ばして、裸体を抱きしめて。
 ギュッと蕾を踏み潰すように。
 標本を大事に握るように。
 開かずの扉が抱き締める。
 開かずの扉に近づけば、その近くに置かれているハイテーブルの上の花瓶と目が合う。
 真っ赤な茨に薔薇が咲いた。
 どこまでも深紅の薔薇。
 嗚呼、薔薇がミュゲイアを見つめる。
 その瞳を抉るように。
 刺してしまうように。
 美しく恐ろしい薔薇がミュゲイアを嗤っている。
 鮮明な深紅が純白の瞳を染め上げる。
 ゾッとするようなその赤がミュゲイアを手招きする。
 優しく触れて。
 愛撫するように。
 ピクピクと指先が震える。
 触れてはいけない糸車のように、薔薇はミュゲイアを見つめる。
 荒い吐息を漏らしながら、ミュゲイアは花瓶の薔薇に手を伸ばす。
 それを触れたら眠ってしまうでしょうか?
 茨に抱かれてしまうでしょうか?
 長く感じてしまうほどに時の流れは遅く、全てがスローモーションに見えてくる。
 薔薇に初めてを添えて、純潔を散らすように触れて。
 ミュゲイアも知らないこの感情に名前をつけて。
 額を撫でる汗を舐めとって。
 壊さないでと願っているのは薔薇の方か、ミュゲイアか。

 ミュゲイアがそれに一歩近づくたび、コアの発する模倣された鼓動が厭にその速度を増していく。彼女の脳内では常に警鐘が打ち鳴らされていて、恐怖に頭が喰い蝕まれてゆくようだった。

 それでもミュゲイアは必死にその恐怖を抑え込み、震える指先を赤い花瓶に添えるだろう。

 ミュゲイアは何も分からないし、何も覚えてはいない。
 それは、掘り起こしてはいけない記憶だ。
 思い出さないようにしなければいけない。いけないのに、彼女はそれでも、手を伸ばしてしまう。

 
 ──彼女は、薔薇が生けられた花瓶のある、ハイテーブルのそばに立っている。
 それを、ストームは後ろから見ているはずだ。きっと、このテーブルに何かがある──そう察するだろう。

 ストームはどうするだろうか。

 鈴蘭の欲を掻き立てる方法なんて簡単で、容易かった。想像通りに欲に駆られた鈴蘭は、ストームの価値すらない笑顔を求めてその足を一歩、また一歩と闇に進ませて行く。
 ストームはその姿を後ろからじっと見つめていた。

 ミュゲイアはそのうちにハイテーブルに飾られた一輪の薔薇に手を伸ばし始めた。
 すっかり背景に溶け込んでしまって気付きもしなかった薔薇が鋭い棘を携えそこに存在していたのだ。カタカタと震える彼女の指先の揺れが何故だか大きく見えている。
 心拍、息遣い、身体の強張り、汗……。
 ミュゲイアは今かなりのストレス下に居る。
 悲しきかな、彼女に手を差し伸べる騎士は居ないんだ。
 居るのは、いつも能天気な彼女の違った反応を興味深そうに見つめるネジの外れた劣性ドールだけ。
 彼は彼女をちぐはぐの瞳の奥に据え置き、観察している。

 いよいよミュゲイアが花瓶に触れた。
 双方が触れ合ってしまえば形を留めることが出来ずに崩壊の末路を辿る……なんてことはなかったが、それと同等の儚さ危うさを持っている。
 その慎重な仕草から読み取れるのは壮絶もない恐怖。
 ミュゲイアが普段見ないようにしている感情。
 感情の芽生え、想像も絶する恐怖体験、素晴らしい!
 今最もミュゲイアに必要だった。彼女にとって今日という日は転機となるだろう。
 ストームはそんな高揚感で満たされているはずだ。
 それと同時に、せっかく芽生えたその感情に飲み込まれて壊れられるのも厄介だとも。
 エルの時は欲張りすぎたから、同じ轍は踏まない。そう、ゆっくりやればいいさ。覚えさせるのも。教えるのも。

 ストームはゆっくりミュゲイアの伸ばした手に自身の手を重ねた。そして背後から小さな彼女の肩を抱き締める。
 彼女の柔らかな身体を大きなストームの身体が包む事だろう。

「もういいですよミュゲイア。ありがとうございます。
 ジブンは今凄く嬉しくて堪らない。
 貴方様が幸せの他に感情を持ち合わせてたなんて……。
 あぁ、ミュゲイア分かりますか?
 貴方様も皆と共に泣けるという事ですよ。
 それが知れて良かった……」

 ストームは彼女を抱擁したままに告げた。
 愛を囁くように、まるでディアのように。
 心底安心したと言わんばかりの声色だが、妙に弾んでいるのは隠せない。
 ミュゲイアが笑顔以外を不要だと切り捨てるのと同等に、ストームは彼女から笑顔を取り払いたい。その記念すべき一歩が今日更新された訳だ。
 コロコロと表情が変わるようになれば彼女はきっといいドールになるよ。
 ストームの勘がそう言ってるから従うまで。

 そっと彼女の手を花瓶から離すと、ストームは立ち上がりハイテーブルを調べ始める。
 遊びは終わり。職務に戻るとしよう、と。

《Mugeia》
 恐怖がミュゲイアを抱き締める。
 荒い吐息は苦しそうで、首を締め付けられているように浅くか細く漏れている。
 ドクン、ドクン。
 コアが酷くうるさい。
 うるさく鳴り響くコアはこれ以上近寄るなと忠告しているようで、やけに身体が熱くなる。
 嗚呼、知っている。
 これは思い出してはいけない記憶。
 これは呼び覚ましてはいけない記憶。
 このスイッチを押してしまえばきっと硝子は割れてしまう。
 恐ろしい恐ろしい怪物が目を覚ましてしまう。
 いとも簡単に幸せを潰されてしまう。
 ミュゲイアが確かに感じたこの感情は恐怖である。
 この恐ろしい恐怖に勝つことなんてできっこない。
 これは開けていいものではない。
 覗き込んでいいものではない。
 危ない。恐ろしい。怖い。嫌だ。幸せにならなくちゃ。不幸せには蓋をしなくちゃ。
 早く、早く、早く。
 笑顔にならなくちゃ。
 笑顔を見つけなくちゃ。
 ミュゲイアは真っ赤に薔薇に触れれば小さな悲鳴を上げて後ろに後退りをする。
 震える指を、震える肩を、抱き締めたのはストームだった。
 心底安心したように、まるで犬を愛でるように。
 その狩人はミュゲイアに囁く。

「……あははっ、ははっ。……ダメなの……笑わないと。ねぇ、ストームダメだよ。ダメなの。此処はダメなの! イヤなの! ねぇ! ねぇ! 早く逃げなきゃ! 早く! 不幸せになるの! 幸せが逃げちゃうの! 早く捕まえて! 早く此処から逃げなくちゃ! ……ダメ、ダメ、ダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメ。こんなのダメなの。笑わないといけないの!」

 ここは危ないの。
 危ないところで遊んではいけないでしょ?
 危ないところは遠ざけないと。
 危ないところに笑顔を寄せちゃいけないの。
 ポツリ、ポツリ。
 ミュゲイアの頬を宝石の雫が撫でる。
 いつもと変わらない笑顔は必死そうで、ギョロギョロとした目はどこを見ているのかわからない。
 ただ必死にストームと此処を離れようとする。
 もう、限界だった。
 ミュゲイアはストームの腕をギュッと掴んでしまうだろう。
 震える手に力を込めて、精一杯問いかける。
 ガラクタは問いかける。
 この恐ろしい場所から連れ出してと。
 こんな危ないところに居てはいけない。
 愛する笑顔を此処に置いてはいけない。
 ねぇ、怖いのは嫌でしょ?
 ねぇ、苦しいのは嫌でしょ?
 全部、全部、忘れさせて。

「……ダメだよ、ストーム。助けて。笑って。ミュゲを幸せにして。」

 テーブルに触れると背後から悲痛の叫びが耳を劈く。
 叫び声は壊れたビデオテープを再生したようだった。
 ストームは彼女の言葉をまるで理解出来ない。
 仕方ないよね。修理の余地はあれど彼女はまだ欠陥品。
 所詮ミュゲイアはミュゲイアだからね。
 ストームは自分の中でそう納得させたんだと思う。
 彼女の警報を鳴らす彼女に目もくれずにテーブルの調査を進めたからきっとそう。

 それでもミュゲイアがストームの腕にしがみつけば、さすがのストームも手を止める。
 トゥリアモデルとしては力強く掴まれ、ようやっとミュゲイアに目を向けたんだ。彼女は泣いていた。
 泣いて笑って怯えて懇願して、彼女はぐちゃぐちゃだった。

「………貴方様を幸せに出来るのはジブンじゃない。
 ジブンはクラスメイトを手助けするのが仕事です。だから、もちろん貴方様をお助けしたい。

 けどね、ミュゲイア。
 手助けにも優先順位があるんです。これ以上貴方様を苦しめたり怖がらせたりしない事を誓います。
 ですからテーブルだけでも調べさせては貰えませんか?」

 ちぐはぐの瞳でギョロギョロと焦点の合わない真珠を見つめる。控えめな手付きで頬を撫で、つたる雫を親指で拭った。
 一度首を縦に振ってくれればいい。それだけでいい。

《Mugeia》
 硝子の下には怪物がいるの。
 万華鏡の裏からは怪物が覗いているの。
 目を合わせちゃうと食べられちゃうの。
 小さなドールなんてきっと丸呑みにされて胃液で溶かされちゃうの。
 助けてって声すら出せずに終わらせられちゃうの。
 だって、怪物だもの。
 ドールを怖がらせる怪物だもの。
 ジェヴォーダンの獣みたいに恐ろしいのよ。
 怖い、怖い、存在なんだよ。
 だから、この先を開いちゃいけない。
 だから、この先を覗いちゃいけない。
 怪物と目を合わせてはいけない。
 その先は危険かもよ?
 腕をもがれてしまうかもよ?
 玩具みたいに扱われて腸を晒されちゃうかも。
 だから、ダメなの。
 その花瓶に触れてはいけない。
 そのテーブルを起こしちゃいけない。
 ずっと、眠らせておかないと。
 薔薇と一緒にそのままに。

「ダメ! 触っちゃダメ! もう、今日は帰ろ? 不幸せになっちゃうよ! ……怖いの!」

 テーセラの頼もしい手がミュゲイアの頬を撫でた。
 それでも、ミュゲイアはストームのことを掴んで離さない。
 此処は怖いから。プルプルと震えた身体でずっとミュゲイアはダメと言う。
 もう、この脚は動かないだろう。
 底知れない恐怖のせいで動かない。
 腰を抜かしたように座り込んだまま荒い吐息でダメダメと繰り返す。
 愛し子を危険から守る母親のように。
 揺籃を壊されないよう抱きしめるように。
 うわ言のように似たような言葉を繰り返しながらグチャグチャの目でストームに縋るばかり。

 ミュゲイアは何を見ている?
 ミュゲイアは何を感じている?
 ミュゲイアは何故脅えている?

 最初はストームのほんの興味に付き合わされただけのはずだった。
 ストームは彼女が幸せ以外の感情をしっかり持っている事に感銘を受けた。
それを知れるだけで良かった。
 けれど今なんでどうだろう。
 ミュゲイアはストームがテーブルに触れる事でさえ拒んでいる。
 テーブルに何か仕掛けがあったとしても、作動させるわけでも無ければ、テーブルに仕込まれた道具を使って彼女を襲おうとしてる訳でもない。
 今は調べるだけにして、お披露目までにもう一度赴こうとしていたようだ。

 ──邪魔だな……。


 ストームの口は確かにそう動いた。
 幸い声は出さなかったものの、虚ろな目で空虚を見て思わずでた言葉に気付くのは数秒後。
 ストーム自身も初めは自分が何を言いそうになったか分からなかった。けれどだんだん脳がストーム自身に教えていくと彼は理解した。
 ミュゲイアが読唇術を持っていてストームの小さな口の動きに気づいたらきっと読み取られてしまうだろう。
 彼女にそんな余裕あるようには思えないけど。
 さすがに周りの目もある。
 これ以上の調査は現実的では無さそうだ。

「そう、ですか……。残念です。
 テーブルに触るのは辞めておきましょうか」

 ストームはミュゲイアの拘束から体を引き剥がすと立ち上がった。すっかりへたりこんでしまった彼女は立てそうにも無いだろうね。ポケットに手を入れたが、あいにく今彼女の涙を拭けるようなものは持ち合わせていない。
 仕方なく彼女の腕を自身の首にかけ、膝の下に腕を入れると軽々しく彼女を抱き上げた。
 欠陥品相手にこんな丁寧に扱う必要性は無いのだが、今はこれが一番効率がいい。

「カフェテリアに行きましょうか」

【学園3F カフェテリア】

《Mugeia》
 今、この子羊の瞳には何が写っているだろうか。
 何に怯えているのだろうか。
 何も覚えていない、何もわからない謎に恐怖しているのだ。
 今までに感じたことのない感情の芽生えにミュゲイアはどうする事も出来ない。
 ただ幸せしかない箱庭で生きてきたミュゲイアにとって、それはとても大きく歪みになるには十分過ぎるものであった。 
 幸せを与え笑顔を贈る、それだけで良かった。
 底知れない恐怖も謎もそれ等は要らないものだった。
 なのに、それらを取り除くにはそれらを知る以外術はない。
 見ないで蓋をするという選択もあるけれど、一度見てしまったものを忘れるのはとても難しい。
 こうなるくらいならば、思い出させないで欲しかった。
 ブラザーに対する思いも、この恐怖も全部感じさせないで欲しかった。
 それらは全て笑顔に不要なはずなのに。
 ドールであるはずなのに、人間のように感情を持ってしまう。
 想いを持ってしまう。
 都合良く出来てくれない。
 こうなるくらいならいっその事、本当の人形でありたかった。

「………うん。」

 ストームに抱き上げられれば、ギュッと肩に回した手に力を入れる。
 今、ミュゲイアはどんな顔をしているだろうか?
 笑えているだろうか?
 虚ろな純白の瞳は輝いているだろうか?
 その口元は笑えているだろうか。
 それを見ることができるのは開かずの扉だけ。
 けれど、その扉は何も口にはしない。
 ギュッと彼の肩に顔を埋めて、ただミュゲイアは乾いた声で笑った。
 そして、カフェテリアに着けばミュゲイアも落ち着いたようで先程までの荒い吐息も漏らすこともない。

「………ストームごめんね。ミュゲ、笑ってないとダメなのに。」

 笑っていないとダメなのに、それをしっかりと出来たかわからないミュゲイアは謝ることしか出来なかった。

 弱りきった子羊を抱き上げるのは簡単だった。
 あろうことか子羊は猟奇犯の見せかけの慈悲に縋り付き、信用してる。
 先程まで誰のせいで恐怖の底まで落とされたか、忘れてしまったのだろうね。
 哀れな子羊。
 可哀想なミュゲイア。

 カフェテリアに着く頃にはミュゲイアは落ち着いていて、ストームに謝った。
 ストームはミュゲイアの笑顔を剥がすのが目的だと言うのに、彼女は笑っていなきゃならないと言った。
 おかしいよね。
 ドールズの持つ感情は様々であっていいのに、ミュゲイアは人形であろうとしている。
 ストームにはそれが受け容れられない。

「そうですね、貴方様が欠陥品だと言うことを再認識致しました。
 けれど平気ですよ。
 いずれ良くなる。ほんの少しの可能性ですが」

 ミュゲイアを席に座らせ、ストームは彼女の前に片膝を着いて告げた。
 たとえ彼女が矯正を望んでいなくとも、関係ない。
 宣言を終えればストームは立ち上がりポケットに触れた。
 無い……。ポケットに入れて置いたペンが無くなっている。
 先程落としてしまったのだろうか。

「すみませんミュゲイア。
 落し物をしてしまったみたいなのでジブンはこれで失礼します」


 止められなければストームはカフェテリアを出ていくだろう。落としてしまったペンを探しに。

《Mugeia》
 悪い夢を見ていたようだった。
 今までの全てが悪夢で、今やっと目を覚ましたようなそんな気分である。
 全てが微睡みの中で見た悪い夢であれば良かったのに。
 ミュゲイアの指先にはまだ、あの薔薇の感触が残っている。
 その感触が悪夢でもない、現実だと知らしめる。
 悪夢によく似た顔の現実だと、ミュゲイアに告げる。
 幸せにしてあげないといけなかったのに。
 ミュゲイアはストームのお願いを叶えることは出来なかった。
 笑顔にしないといけないのに、笑顔にしてあげられなかった。
 笑顔にしてあげないといけないし、笑顔でいないといけないのに。
 どんな感情を手にしても、きっとミュゲイアは笑おうとするのだろう。
 笑うのがミュゲイアの仕事であり、存在理由なのだから。

「ミュゲ、別に欠陥品じゃないと思うよ? ストームは欠陥品じゃなくなるといいね! きっと、笑ってたら大丈夫だよ!」

 片膝をついて告げるストームにミュゲイアは笑いかける。
 自分のこの思考が欠陥とも分からずに、何故ここにいるのかも理解出来ずに、欠陥品は欠陥品に告げる。
 まるで自分は何もおかしくないかのように。
 オミクロンクラスにいる理由すら理解出来ない哀れなドールはまた、自分の欠陥を披露する。

「………ストーム、次はちゃんと開かずの扉をストームの為に開けるから! 上手に出来たら笑ってね? だから、一人で近づいたらダメだよ? 怖いところだから。……バイバイ!」

 カフェテリアを出ようとするストームにミュゲイアは告げた。
 次こそ、次こそはきっとちゃんと出来る。
 今度こそ扉を開けてストームを笑顔にする。
 ちゃんと出来たらご褒美を。
 とっても甘くておかしくなりそうな程の笑顔を。

【開かずの扉】

 ミュゲイアと別れた後、落としたペンを探すように来た道を戻る。
 心当たり、ペンはあの場所にあるだろう。
 ストームの姿はあの薔薇の生けられた花瓶が飾られている踊り場にあった。
 ミュゲイアには一人で近付くなと警告された。
 危ないところなんだってさ。
 気付いた時にはこの身体が上手く扱えなくなっているかもしれない。

 だけどさ、ストームには恐怖にはならないんだろうね。
 自分の身体が壊れるなんて、壊されるなんて起こった現象でしかない。
 踊り場にぽつりと置いてあるペンを平然と拾い上げる。
 身体を起こすと、花瓶に生けられた赤薔薇がギョロりとこちらを見ていた。
 強かな愛しきレディを表すように凛と咲き誇る赤薔薇の記憶に、ストームは手を伸ばすだろう。

 一見何もないように見える、二階と三階の間にある踊り場の赤い壁。その角には、見栄えを良くするためであろう、赤い薔薇が生けられた花瓶が飾られていた。

 薔薇は周囲の深紅の壁に馴染むことなく、狂おしく刺々しく咲き誇っている。まるであなたを睨めつけるように。
 あなたが花瓶の置かれたハイテーブルに手を伸ばそうとした、その時だった。

「オイ、ドラッグイーター」

 低い、低い恫喝の様な声がして。
 あなたは自身の背後へ迫る脅威に気がつくだろう。

 テーセラが誇る素早さを有する彼女は逸早くあなたの首根を掴み、ハイテーブルの脇の壁に押さえ付けようとするはずだ。
 しかしあなたも曲がりなりにもテーセラクラスの元プリマドール。揉み合いになれど、その襲撃にある程度対応できるだろう。

 背後から低い声がした。
 間違いなくストーム自身にかけられた声。
 ピクリと反応するが回避するには遅かった。
 ストームは夢中だったんだ。
 だが抵抗するのには余裕がある。
 壁に押さえ付けられる前に、片方の腕を壁に着き叩き付けられるのを防ぐ。
 肩越しに背後を確認すれば、歪なビスクドールの頭部がすぐに視界に入ってきた。

「……貴方様でしたか」

 力勝負ではストームの方が上か同等か。
 体を反転させることが叶えば、彼女と向き合い手に持ったペンをビスクドールの被り物の間、彼女の首へとペン先を触れさせるだろう。

Dorothy
Storm

 開かずの扉を前にするあなたの元へ、突如襲い掛かった刺客──ドロシーは、あなたを壁に押し付けて背中へ腕を捻り上げようとしていたようだ。だが目算は崩れ、即座に力業で身体を反転させるあなたに一歩間合いを取ると、こちらに突き付けられる鋭いペンの切っ尖を自身の被り物で頭突くことで押し返し、それを握る手を勢いよく掴み上げようとする。

 同時に手隙の右腕の、肘から先までを使ってあなたの首筋を引っ捕らえ、グッと壁に縫い付ける事を試みるだろう。
 昆虫標本のように。
 果たして壁際での静かな攻防は、互いの力量差もさしてなく、拮抗する形で膠着するだろう。

「静かにした方が身のためだぜ、もし声を出したらワタシも叫ぶ。お前にペンで刺されそうになったと主張するつもり。

 テーセラクラスの底辺の異常者と、オミクロンクラスの底辺の異常者。どっちが信用されるだろうね。どっちもスクラップかもネッ、ワタシ達に価値なんてないし。ギャハハハハハハ……」

 暗に。
 ドロシーは波風立てず、何もするなとあなたを脅迫している訳だ。
 あなたの首を縫い付ける腕の力は緩めぬまま、ドロシーは囁く。

「……お前。お前、お前、お前。スマイラーを唆して、とうとうこの場所を見つけちゃったってワケ。

 この先に行ってどうする気? 死にたいの?」

 ペンを押し返され手は拘束された。
 驚く隙も無く首も壁に縫い付けられ標本の完成さ。
 抵抗するのがバカバカしくなる鮮やかな身のこなしにストームは脱力し、大人しく拘束される。
 ドロシーの警告通り助けを求めても勝算ないしね。

「お見事」


 彼女の大きな被り物の瞳を見据える。
 モノの言い方、脅しの言葉、まるでこの場所を知らなかった方が良かったと言っているようだ。

「今この先に行っても犬死する事は承知しております。
 ただ向かう方法を調べていたんですよ。今となっては尋問を受けていますが。

 ところでドロシー、貴方様はこの先に行ったことがありますか?」


 トイボックスという名の死刑囚を収容する刑務所。
 ソフィアが言うには彼女随分ここに詳しいらしいから、ストームはほんの戯言のような質問をした。
 ドールがこの先に入るのは死を意味するだろうに。
 でも、もしかしたら、部屋の事を知っているのだからもしかしたらと言ったストームのいつものほんの興味に過ぎない。
 けほ、と小さく咳込むが首の拘束を解こうと抵抗することは無かった。
 ストームはいつも興味を優先してしまうから。

 刹那の攻防、組付の応酬。あなたからの切り返しは無く、その場でその姿勢のまま、二人は停滞した。
 人気の無い静謐な階段の半ば、掲げた腕と寄せ合う身体はまるで円舞曲の旋律に身を委ねているかのよう。けれども互いの合間に鉛のように落ちる腹の探り合いの闇は、容易く拭えるものではないだろう。

「……………………」

 静かなあなたの言葉が、彼の諦めを示していると分かっても。ドロシーは腕全体であなたを押さえつける事を辞めもしなければ、少女ドールにしては大きな掌でペンを握るあなたの拳を包み込み捉える手を緩めもしない。あなたにペンを落とされては、今しがた述べた脅迫が形なしになるからだ。
 ドロシーはあなたに対して際限なき警戒を緩めない。あなたがよく頭の回るジョーカーである事を、彼女はよく知っていた。

「……ふうん。にしては今、怯えるスマイラーを無理に駆り立てて、あの先へ行こうとしてたように見えたケド。」

 ──どうやら。ミュゲイアとのやりとりも、隠れて見ていたようだ。一体いつから見られていたのか。

 あなたの好奇心からやってきているであろう質問に、ドロシーは一瞬沈黙して。

「………………ある。」

 それから、被り物の内部で籠るような声で呟く。それは不貞腐れた子供のような声で──あなたのよく知るドロシーの声だった。

「お披露目に行くはずだったあの日の晩、ワタシはダンスホールを抜け出してここに忍び込んだ。

 この先はドールの墓場だ。碌な場所じゃない。

 お前は何を期待してこの先に行こうとしてるワケ? お前の目的はトイボックスを脱出することだろうが。それとも違う?」

 ドロシーがストームの事を酷く警戒しているは、すぐに感じとれる。ストームに言い訳用のペンを落とさせない徹底ぶりには関心すら覚えるよ。
 そんな事しなくてもきっとストームは彼女に危害を加える事は無いはずだ。
 どんな行動を取るかストームにしか分からないのだけれどね。

 どうやら、随分前から見られていたらしい。
 全く気付かなかったのは夢中になると思考がただ一辺倒になってしまうストームの悪い癖だ。
 別にドロシーが悪い訳では無いのだが、ストームは自身のした興味本位な質問の回答を待つまでじっとりと彼女を見つめているだろう。

 そしてテーセラクラスの時に聞きなれた声でされた予想外の回答に目を見開く。
 ただでさえこんな所の先に空間が拡がっていたなんて思わないだろうに、ドロシーはダンスホールを抜け出し忍び込むまでしてのけたと言うのだ。
 にわかには信じがたい事だったが、生憎様、ドロシーはくだらない嘘をつかない事をストームは知っている。

 鋭い問い掛けに表情ひとつ変えることなかった。

「まさか、ジブンの目的もここからの“全員脱出”ですよ。
 それを彼が望んだので。
 ですから友人を助ける為、手掛かりが欲しかったんです。
 処刑道具の構造を深く知っておこうかと思いましてね」


 ストームはただ淡々と述べる。
 そして問答の問いを出すのは彼の番だ。
 締まる首の拘束に、けほ、と小さな咳をする。
 息を吸えば問い掛けはすぐに始まるだろう。

「よくこんな何の変哲もない壁の奥に部屋がある事を見破りましたね。
 もしかして、少し開いていたんじゃないですか?
 そしてドールが焼かれているのを見た、とか。
 もしくは部屋の存在をもっと前から知っていた、とか。」

 気管の圧迫による咳込み。微かに苦しみ、気道の確保の為か彼の形の良い眉根が歪もうとも。ドロシーは片時も警戒を緩めず、拘束も弛めようとしない。
 今に彼が、あのハイテーブルに手を伸ばすのではないかと考えているから。
 今に彼が、あの開かずの扉の封印を解くのではないかと考えているから。

 しかしあなたの一応は筋の通った動機説明を耳にし、彼女は「……フーン」と息を吐く。どうやら一定の納得は得られたらしい。

「ワタシが見破ったんじゃない。アイツらが……、……いや。この話はあんまりしたくない。

 オイジェスター。どうせお前の事だから、ワタシがお前を解放した後にでも開かずの扉を開くだろ。

 そこでお前が犬死にしようがどうなろうが、どうでもいいケド。スマイラーから漏れたと明らかになるのは不都合だ、だからワタシもお前に着いていく。

 調べれば? ──ストーム。」

 あなたにとって『聞き馴染みのある声』で、ドロシーはあなたの拘束を解く。

 数歩間合いをとりながら、ハイテーブルの方へ軽く頭を揺らして見せた。調べてみろ、と促すように。

 やはり、姿は違えどドロシーはドロシーだった。
 以前と同じサッパリとしているがなんだかんだ情を持つ彼女に、ストームは安心感を覚える。

 手と首を解放されれば、首を左右に傾け軽く伸ばし、手首を回した。
 そして促されるままにテーブルに目を向ける。

「お心遣い感謝します。

 それと、以前言おうと思っていましたが異常者を装うのならジブンの事なんて忘れたフリでもすれば良かったのに。
 ドロシーは真面目ですね」

 小言を言いつつ、頼りになる相棒を得たストームは気兼ねなくテーブルに手を伸ばしていく。
 ストームはとっくに地獄であろうと歩んでいく覚悟はできているから。

「んエ〜〜ッ? 何言ってるかちょっとドロシーちゃんわかん、ないッ」

 藪蛇を突くようなあなたの発言に、ドロシーは両手を軽く握り込んで口元に添え、片足を持ち上げる『かわいこぶった』ポーズを取る。それは以前の優等生であったドロシーが絶対にしなさそうな挙動であったが──

 ──ドロシーは、その持ち上げた足でスイングの角度を確保し、そのままハイテーブルへ向かい始めるあなたの背を容赦なく蹴っ飛ばした。

 彼は曲がりなりにもテーセラの元プリマドール。頑強性も間違いはないはずで、この程度で身体に傷は付かないと踏んでの狼藉だった。また彼は、この場で前によろけて花瓶を壊すなどという、わざわざ痕跡を残すような真似もしない。脅威の体幹で耐え切ってくれるはずだ、という信頼からも来ていただろう。

 まあ何より単純に、ドロシー自身が彼の口を黙らせたい衝動に抗えなかったのだが。

 その後ドロシーはハイテーブルを調べるあなたに代わり、階上と階下からドールや先生が来ないか見張る役割に徹し始める。


 あなたは薔薇が咲き誇る下のハイテーブルを調べるべく、まずはテーブルを避けることにするだろう。

 テーブルは殊の外軽かった。見た目からしても華奢な造形をしているため、違和感を感じるほどではないだろう。
 足元を覗き込むと、爪先ほどの高さの位置に壁と馴染む色で塗装された、赤い押しボタン式のスイッチを発見出来る。

 このことを知った上で意識して探さねば分からないであろう、隠された小さな装置。位置関係を考えても、恐らくこれが扉の解錠を担うものだろうと推測される。

 様子のおかしいドロシーの言動に慣れ始めたストームがそこには居た。
 彼女がカマトトぶっても特に突っかかることなくテーブルを調べていると、背中にハイキックを食らったから実際はツッコミを入れるべきだったんだろうね。
 堕ちてもテーセラモデル、それも元プリマドールのストームは突然与えられた衝撃はなんて事ない。

 多少よろけるが、彼女からの信頼通り軸がぶれる事は無かった。

「いたい……」


 眉間に皺を寄せて背中を擦る。
 まさか蹴られるとはさすがのストームも予期していなかったらしい。
 でも確かにそこには戻れない懐かしさがあった。
 故に刹那の間ストームの頬が緩んでしまう。
 見張りに行ってくれた彼女にバレなきゃいいけど。
 次の瞬きにはいつもの冷えきった面持ちに戻ったけどね。

 ハイテーブルには何の違和感もない。
 強いて言えば軽かったことだけ。
 その影は? ほらビンゴ。
 ストームはテーブルの陰に隠れていた地獄へのスイッチがあるのを見つけてしまった。
 ごくごく小さなそれを作動させるだけで地獄へ真っ逆さま。
 ストームは躊躇いもなく押すだろうね。
 そして彼女の耳が微かに拾える声で同行者を呼ぶはずだ。

 あなたが隠されていたスイッチに触れると、存外あっさりと、壁に沿うように閉ざされていた鍵穴のない扉はギギ、ギ……と老朽化を感じさせる錆び付いた音を立てながら、引くように開かれていく。

 その隙間からあなたは、冷ややかな空気の流れを感じるだろう。
 薄暗い学園よりも更に深い暗闇を落とす開かずの扉の向こう側。足元は無骨な鉄鋼の床となり、照明は全くと言っていいほど存在しない。
 学園側から差し込む燭台の灯火によって辛うじて、通路の奥に重そうな鉄扉がある事が分かるだろう。

 周囲を見張っていたドロシーは、扉を開いたあなたの元に歩み寄っていく。

「……見るならさっさと済ませよう」

 心なしか、喚き散らすような声を上げるドロシーの声色も僅かに潜んでいる。あなたが開かずの扉に踏み行っていくのなら彼女もまたその後を追い、扉内部にも鏡写しのような位置に同じように取り付けられた、足元の赤いボタンを蹴りつけるように押し込む。
 するとたちまち、あなた方の背後で扉が音を立ててゆっくり閉まっていく。まさしく背水の陣であるが、開かずの扉が開いているところを見られるわけにはいかない為、仕方が無いだろう。
 照明すらも断たれるが、テーセラであるあなた方なら暗闇でも目が効く為問題ない。

 調査をするならば、一本道のため鉄扉の方へ向かうしかないだろう。

 扉が開いた瞬間、冷気がストームの身体を包んだ。
 暗闇が身体を食い尽くし飲み込もうとしてくる。
 物々しい雰囲気を纏う通路の奥、ほんの微かに見えるドアの存在を視認できる程度。
 ドロシーの小さな声が背後から聞こえるとストームはその暗闇を歩み出した。
 彼のトレードマークの編み込まれた髪が揺れる。
 きっとそれが光の当たる世界からの最後の忠告だった。

 中に進むと背面から空いた時と同様の音を立て光の世界から遮断された。
 テーセラモデルの環境の適応力で暗闇に慣れるのはあっという間。そこにはドアに進む一本の道しかない。
 ストームはもう進むしかない。

「ありがとうございます」 

 ドロシーへ礼を言った後、自身のコアの脈打つ所を二度軽く叩く。元級友であるドロシーにはこれがストームが集中状態に入る為の癖のひとつだと分かるだろう。
 普段以上に五感を研ぎ澄ませ一歩一歩確実に扉まで進むだろう。
 扉まで無事にたどり着けば鉄扉のドアノブへ手を伸ばす。

 あなた方は悍ましいほどに暗く冷たい通路を歩き進んでいく。そこは無機質で茫洋な深海の如き空間だった。遠くで怪物の唸り声のようにも聞こえる、轟く空洞音が響いているのを、テーセラの優秀な聴覚が捉える。
 一面に敷かれた錆び付いた縞鋼板は、あなた方の靴がぶつかり合うたびにカツ、カツ、と音を鳴らす。細心の注意を払って足音を極力出さないようにしながら道を進む。

 眼前に辿り着いた鉄扉は、力を入れて押すと開いた。その先にはちょっとした小部屋が広がっており、何かの資材と思われるコンテナや台車が仮置きされていた。
 ひょっとするとこの場所は、外部から資材を運び込む場なのかも知れない。

 感じのいい所とは到底言えない。
 正体不明の音、これは化け物の物か?
 常に首を締め上げられるような威圧感は、この部屋が醸し出しているものだろうか?

 ストームは鉄扉を開けるなり飛び込んでくる情報を全て頭に叩き込む。
 物の配置、匂い、温度、道具、音……全て。
 その中にはドロシーの声も混ざっていた。


「……ドロシー、大丈夫ですか?」


 彼女は、彼女はね。
 自身を守るように腕を抱えて何が呟いてた。
 道化を演じる時のドロシーには見えなかったんだろうね。
 ストームは訝しげな面持ちで彼女の言葉に耳を傾けてみる。

 遠方から響く低い轟きは、まるで暗い深海の出どころの分からない怪魚の咆哮のようにも感じる。
 だがそんな響き渡るような空洞音の他には、何の音もしないこの静謐な空間で、傍らの同行者の微かな呟きはテーセラモデルでなくても聞き取れるものだった。

 彼女は片腕を制服に皺ができるほどに強く掴み、何事かを吐露している。被り物がある為に表情は窺えないが、僅かに傾きが見られる事から、俯いて足元を凝視しているのではないかと予測出来る。

大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。監視者はここに居なかった。大丈夫。大丈夫。みんな見守ってくれてる。大丈夫。ワタシは何もかも大丈夫。大丈夫。大丈夫。

 ……ハァ? 大丈夫に決まってンだろが、先生が来る前にとっとと調べろ、享楽主義者。」

 しかしあなたが声をかけると、ドロシーはスッと腕を下ろして顔をあげ、コンテナのうちの一つの方へ向かってしまう。

 聞こえてきたのは呪言のように唱えられていた自己暗示の言葉だった。
 当然だ。
 感性が普通のドールならこんな所、自分を誤魔化さなければ足を踏み入れないだろう。
 ストームに気付けば、俯いていたビスクドールの被り物が無機質な瞳を上げいつもの調子でコンテナの方へ行ってしまった。
 そんな彼女をストームは目線で追う。
 監視者、見守る、大丈夫、だいじょうぶ、ダイジョウブ、何もかも。
 いやにドロシーの言葉が脳を駆け巡る。
 ストームには何故だが妙に引っかかったようだ。

 次に地面に目を向ける。
 そこには黒いボードが落ちていた。
 ストームはそれを拾い上げると中を確認する。
 資料が二枚、挟まっており機械的な文字が打ち込まれていた。
 ストームは資料を読み込むだろう。

 二枚の紙のうち一枚は既にストームは見ていた。
 リヒトのノートで見た定期技能実験の適合者リストだった。
 もう一枚の方、初めて見た文章の内容。
 ストームのコアがドクンッ……と大きく脈打つ。
 こうしちゃいられない、とでも思ったストームはしゃがみこんだ。すぐに手のひらほどの紙をポケットから取り出すと、ペンで単語を抽出して書き出してゆく。
 あんまりにペンを走らせてるものだから、本人にしか分からないような繋げ字になってしまった。
 その紙を小さく折りたたみ、確かに確実にポケットにしまい込むだろう。

 資料をボードにしまい元あった場所に置く。
 ようやくストームは自身の体温が上昇していたことに気付いた。
 身体に溜まった熱をふぅ、と吐き出す。
 ゆらりと立ち上がり、薄氷の上を歩く足取りで先にコンテナの方へ向かったドロシーに近付いて行く。


「何かありましたか?」

 何かを発見したのはストームの方だと言うのに、白々しく問い掛けた。
 コンテナのうち一個は開いている。
 気の所為か、見てくださいとでも言わんばかりに。
 ストームは、パンドラの箱のように慎重にコンテナを覗き見るだろう。

 ドロシーは無言でコンテナの内部を見詰めていた。
 彼女は日頃、相手を圧倒する勢いで濁流するような言葉を投げ付けるのが常だが、この空間に入ってからの彼女は不気味な程に静かだった。
 首を吊ったように両腕を垂らして、茫然とその場に立ち尽くしているだけだ。

 しかしあなたが声を掛けるならば、ドロシーはそちらに向き直って言葉を発する。

「屍を喰らう獣が塔に居る。悪趣味なコトに、これも奴の成果。

 これが憐れなジャンクドールの成れの果て。お前もあのクラスに居ればいずれはこうなる。」

 あなたがコンテナを覗き込むと、そこには無数の損傷したドールの脚部パーツが詰まっていた。人工皮膚は壊滅的に破損して、内部が剥き出しになっているものが当たり前に転がっている。数本はコンテナから溢れて暗い足元に転がっていた。

 ドロシーが語る単語の羅列は穏やかなものでは無かった。
 言葉に誘導される形でコンテナを覗き見れば、痛々しさを物語るおびただしい程の脚部が。
 ヒトで例えるのなら、死体の一部。
 動く事を奪い去られた足は、ストームやドロシーの脚部を羨ましがるように足元にまで転がっている。


「………なるほど、これがジブン達の末路だ、と。
 そして向こうがジブン達ジャンク品の処刑場所ということですか?」


 ストームは部屋の奥にある扉を見つめドロシーにへ問い掛けた。
 その声色は死体を見たものにしては酷く冷淡で淡々としている。まるで恐怖を示さない。興味すら無いようだ。
 この中にはいずれ自分のモノにしてしまおうと企んでいたミシェラの足元あるかもしれないのに。

 転がった脚を一瞥すると静かに目を伏せ、胸の前で十字架を切る。
 ──安らかなる眠りを。
 そして奥の扉に歩き出すだろう。
 道を妨げる脚があれば足で退け前へ進んで行く。
 簡易的とは言え弔いをしたのに、次の瞬間にはゴミ扱い。
 死んだものに用は無い。

 屍を押し退け辿り着いた扉の前、ひたりと手のひらをつける。

 群がる無数の脚をまるで塵芥と同等の如く唾棄して、無関心に眼を背けるあなたの様子をドロシーは見据えている。敬虔なる祈りを捧げてみせたその直後には、憐れなドールの残骸を粗末に扱う矛盾した行動に、さしものドロシーも肩を竦めざるを得ないようだ。

「あーあ。お前ほどあの場所がお似合いのドールも中々いねーな、ギャハハ! …………」

 笑い飛ばすものの、しかし、またしても沈黙。普段の異様なテンションを維持しようともしていないらしい。
 あなたが奥の扉へ向かうなら、彼女もまた斜め後ろに従う。


 奥の扉は、入ってきた扉よりも大きく、重厚な造りをしていた。鉄鋼製であり、ところどころ赤錆が付着しているところを見ると、この施設はかなり昔からあるものと推測される。
 あなたは開くために取手に手をかけるだろう、しかし引こうとして、突っ掛かりを感じる。

 どうやらこの扉は施錠されており、この先に立ち入る事は出来ないようになっているらしい。

「マ、当然か。寧ろこの場所まで入ってこられたのが驚きだ。残念だったなドラッグイーター、帰るしかなさそうだ。

 望みの収穫は手に入ったか?」

 ドロシーのハイテンションな発言の後、スイッチが切り替わったような沈黙。
 テンションのアップダウンに疲労すら感じてしまう。
 これに付き合う旧学友にストームは感心した。

 扉のドアノブを捻るが、残念ながら、施錠されていた。
 如何にも厳重な扉の奥へみすみす入らせてくれるほど甘くは無いと、宣言されたようだ。
 潮時かな。
 ストームは手を払いドロシーの方へ顔を向ける。

「えぇ、それはもう充分に。
 お付き合いいただき大変感謝しております」


 丁寧にお辞儀をし礼を述べると、ストームは大股にこの部屋を出ていくだろう。
 発信機もそうだが、タイミングを誤れば他のドールに目撃されてしまうに違いない。入る時以上の気を遣わねばならないのは一目瞭然だった。

 あなたが入ってきたばかりの開かずの扉へ向かうならば、ドロシーもその後をすんなりと着いてくるだろう。彼女自身も、あなたを見張るという役目を無事に遂行出来たのだから当然か。元よりここに何があったのかも、あの先に何があるのかも彼女は知っていたように思える。

 閉ざされた開かずの扉の向こう──学園側は、いまも静寂に包まれている。テーセラクラスの持つ聴覚を信頼するならば問題はない。ドロシーもすぐに判じたのだろう、入ってきた時と同様に、彼女は足元の開閉ボタンを探り当て、扉を粗雑に蹴り開ける。



 そうしてあなた方は、誰に見咎められることもなく学園の禁忌の入り口に足を踏み入れ、また戻ってくる事となる。

 もしあなたが立ち去ろうとするならば、その前にドロシーは「オイ」と一言声を掛けるだろう。


「スマイラーにこの扉とその先のことを話したのはこのワタシ。詩の上の役者・ドロシーちゃんでした! キャハッ! ……“誰に”このことを訊かれても、どうあってもそうでしかないからそのブッ壊れた頭でよおく覚えておきなよ。

 脅威! 陰謀渦巻く開かずの塔の実態や如何に! イカれたテーセラモデルのジョーカーと、詩の上の役者ドロシーちゃんが粛々とお送り致しました! ギャハハ、さよーなら! 二度と会いたくねーよッ!」


 ──どうやら彼女は、学園側に戻ってきたことでようやく調子を取り戻したらしい。以前のような幕間なきマシンガントークで一方的にあなたに捲し立てては、足早にその場を去っていくことだろう。
 あなたが呼び止めようと考えても、ドロシーはこの場では無視をして立ち去るはずだ。

 ドロシーはストームが思っている以上にトイボックスの事を知っている。容易にそれを察せた。
 多分、鍵のかかったあの先の事も。なんてストームは考えるだろう。
 今日は色々な事があり過ぎた。
 だから、ストームは深掘りすること無く来た道を戻って行く。

 行きはよいよい、帰りは怖い。
 闇から光のある所へ戻る時は十分に聞き耳を立てる。
 テーセラの耳が確実に安全だと判断したのが分かれば、ドロシーが扉の無いトビラを開けてくれた。
 暗闇にすっかり慣れてしまった目を、細め光の世界へ無事に帰還することが叶う。
 「では……」とストームが立ち去ろうとした時、ドロシーから呼び止められ彼の足が止まった。

「……えぇ、よく覚えておきます。
 素晴らしいシナリオでした。
 親愛なるドロシー、またどこかで」

 足早に去ってしまうドロシーへストームは深々と頭を下げ、言葉を投げかける。
 彼女にとっては願ってもないだろうね。
 取り残されたストームは先程見た資料の内容を思い出すと、爪が食い込むほどに拳を握りしめた。
 強く強く。傷にはならないだろうけど、ただ強く。

【学生寮1F ダイニングルーム】

Licht
Storm

 ストームは幽霊の足取りをしていた。
ゆらゆらと体を揺らし、まるで生気を感じさせないような。
 きっと今日は疲れたんだ。
 そして無意識に辿り着いたのはダイニングルーム。
 ストームは端っこの席に座り、呆然とテーブルの木目を見ていた。

 話し掛ければ、きっと意識を戻すだろう。

《Licht》
「……」

 安堵。ため息。まだ大切に親友を覚えていることへの、記憶を抱えていることへの、果てしない徒労感。胸元でそっと拳を握って、まだ大丈夫だと言い聞かせて。
 きっとそれより深い、ゆらゆらとした足取りの背中を、リヒトは追いかけた。

「…………」

 無言で端っこの席に座る、その目の前の椅子を引いて、リヒトも座る。相手にも相手の呼吸があることを、友であるために知らねばならない、数少ないテーセラドールとしての機能が動いて、しばらくの時間を測りながら、ノートとペンを取りだして。

「よお、ストーム。聞きたいことあんだけどさ」

  『ここ。前やったとこなんだけど』なんて話しかけた。授業の質問めいたその声掛けは、我ながらいい案だと思う。ノートのページを開いて、柵越えの決行を書いたページから示した。どこまで伝わっているか分からないから、持っているもの、拾ったもの、どんな苦しみも全て。

 掛けられた声にぴくりと眉が動く。
 差し出されたノート、ペン、手、顔と順々に見ていくと、目の前にはリヒトの姿があった。
 なんということだ。
 ストームは今の今まで相棒の存在に気付いていなかったらしい。
 ノートには前に読んだ所とは違う記述がされている。

「……えぇ、拝見しますね」


 ストームはノートを手に取ると一語一句、目を通す。
 彼はストームの思ってる以上に色んなことを調べているようだ。


「よく出来ていると思います。
 ……ですが、“ここは”違います。正しくはいいえ、です」

 ストームが指さしたのは『一週間後のお披露目』の文字。
 そしてゆっくりとちぐはぐの目線を相棒に向けた。
 彼はきっと演習を解いた想定で話をしている。
 だから、ストームもそれに乗っかるように続けた。
 自身のポケットからペンを取り出したのだ。

「ジブンもこの問題には苦労しました。
次に解く時に便利ですので解法を書き足してもよろしいでしょうか?」

《Licht》
「……え、マジ?」

 お披露目じゃ、無い。希望的観測と絶望的事実がコアを走って、結局彼は業火から思考を振り解けない。楽観できるほどイグノランスでもなく、悲観できるほどイノセンスでもない。

「助かる、教えてくれよ」

 それでも、彼のコワれた頭は事実(そこ)から先を示さない。だから頷いて、話を促した。身を乗り出して、ノートを覗き込んで、インクの滲むペン先を見つめている。

 君の知る星を、星座を教えて。

 ストームは頷く。
 この健気な冒険家に道を教えられればと、小さく願いを込めてペンを走らせる。
 一通り書き終えると、一度顔を上げ相棒のオレンジトパーズの輝きを見た。

「ソフィアすら知らない解法です。素敵でしょ?
 どうです? ここまでは理解出来ましたか?」

 楽しげに声を弾ませた。
 リヒトが頷けばまた続きを書き始めるだろう。

《Licht》
「へ」

 書き込まれた文字を、見て、びっくりしたようにその文字列に指を添える。文字を注意深く読む時の癖のようなものだった。取りこぼさないように、書いてくれた言葉を拾い上げ……。

 ばっ、と顔を上げた。

 流れ星だ、と。大切な友人に伝えたくてたまらないような、無垢な歓喜の顔をして。

 ちぐはぐの美しい宝石を見つめる、オレンジトパーズが輝く。

「す、げえ! え、いや、嘘だろ……!!」

 イグノランスもイノセンスもすっかり掻き消えて、ノートに俯いてもう一度文字をなぞる。取り繕うことをうっかり忘れたきらきらとした声色が驚きを飾った。

 ああ、もう知り得ないと思っていた貴女。オレは、もう一度。

 ……その瞬間、リヒトは自分で口を塞ぐ。これ以上口を開いていたら、ボロを出すかもしれないから。もごもごと辺りを見渡して、一つ切り替えるように咳払いをして。

「お、おう。分かった、分かった………よし。つづき、どーぞ」

 すすっとノートの上から退いて、そわそわと続きを待った。今すぐ誰かに伝えたくてたまらないような、そんな風に体を揺らしながら。

 星に願いを込めた。
 願い通り、相棒は目に星を宿して輝いた。
 ストームは目を細め首を横に振る。

「正答法では無いので、他はどうにも……。
 ソフィアに今度聞いてみます。
 彼女が驚いたらジブン達の勝ちですね」


 まるで好青年かのような言葉を紡ぎ、またペンで『秘密』と書き足した。
 そして目を伏せる。
 「では続きを」それが合図のようにストームは、押し黙る。ペンはおしゃべりを再開したから。

 開かずの扉の中に行った。
 ドロシーが着いてきて一緒に調べた。
 踊り場のハイテーブルを退けると壁と同化したスイッチがある。
 それで開閉が可能。
 中にも鏡合わせの位置にスイッチがある。
 そこで資料を2枚見た。1枚はリヒトも知っている。
 もう1枚が
この情報。
 コンテナに大量の脚部。
 奥の部屋には進めなかった。

 書き出せば自然と頭の中もスッキリしてくる。
 メモを残すのは重要な事だと実感した事だろう。
 そして思い出したようにポケットから手のひらほどの紙を取り出すと、リヒトに提示した。
 字、なんて形をしていなくてそのメモ用紙はまるで抽象画を描いているような見た目をしている。

「実は先生から類題を貰っているんですよ。
 写しておくので良かったら解いてくださいね」


 ストームは自身のメモ用紙を見ながら、ペンを再び動かした。

 ■■■■実験の経過報告書。
 ■■■■が顕著に見られる個体、そうでない個体。
 選別して放逐の命令。
 ■■■■に影響を及ぼした場合の仔細報告。

 ここまで書くとストームの手が止まる。
 一瞬続きを書く手を躊躇ったようにも見えるだろう。
 だが、次にはページをめくる音がダイニングルームに響いた。いつの間にか一ページを使い終えてしまっていた。

「こちらに模範解答と解説も書いておきますね」

 ペンはまた喋り出す。
 ストームの得た情報を相棒に伝えるように。

 アリスと話した。
 アリスはアティスのドレスが無いことを知っている。
 懲りずにアティスのドレスを破りに行ったらしい。
 ミーチェの事も知っていた。

 ストームはリヒトが既にソフィアにそっくりな金髪を持ち、無垢な赤い宝石を輝かせてたドールの事を忘れてしまっていることを知らない。
 ペンのお喋りはリヒトの知らないドールを最後に記し、ここで終わった。

「なにか質問はありますか?」

《Licht》
 クルクル回るインクのトウシューズ、使い慣れたペンのピルエット。ちぐはぐな瞳が確かめるようにすっと上がった瞬間、リヒトはストームの手の中の小さなバレリーナを抜き取って……今度は不恰好なダンスを躍らせる。『開かずの扉の中に行った』と言う記述の近くに、その余白に、思いっきり書きなぐった。

 開かずの扉の中に行った。
 ↑ばか
 ばかばかばか
 危ないだろ!!
 いやお前なら大丈夫かもしれないけどでも危ないだろ!!!

 書き終わったあと、大きくため息を吐いて、軽く咎めるようにちぐはぐの目を見つめ……きっと素知らぬ顔でいるストームから呆れたようにまた目線を下ろし、ノートを読み返す。指先は行ったり来たり、ゆっくり進んで、そっと戻って。

 でも、そうか。そうか、もしかしたら。業火の化け物はまだ、あの塔の中で眠っていて、腹なんて空かせていなくって。オレたちにはまだ、猶予期間(モラトリアム)が────。

 ……“ミーチェ“という記述に引っかかること無く、リヒトは経過報告書の記述や、スイッチの情報に指を這わせて熟読する。 
 きっと大切なものだったはずの欠落よ。きっと愛するものだったはずの欠陥よ。君を『罪』と持ち上げて、もう見つめ直すことが出来ない弱さにはいつか、必ず罰を受けるから。だから今は、その猶予。

「さっきのコタエになったのって、えーーっと………あ、このあたりか?」

 『選別して放逐の命令』と書かれている場所を指先でとん、と軽く示す。うれしいことに舞い上がって、ふわふわと甘く溺れるだけでは、コアを劈く痛みにいつか貫かれてしまうから、あくまで慎重に確認した。

 リヒトがストームの手からお喋りバレリーナを抜き取ると、同じようにバレリーナは喋り出す。
 紡がれた言葉がなんともリヒトらしい。
 ストームと言う欠陥品も欠陥品、歩く狂気の身を案じるような言葉。
 思わずストームは口元を軽く抑えた。

 全てを書き終え、それをゆっくりなぞりながら読見終えるのを見ていれば勉強熱心な生徒さんは慎重に質問を投げかけた。ちぐはぐ目のセンセイはしばらく生徒さんの目を見て、ゆっくり瞬く。

「そうですね。
 先程の回答の解説部分になります。
 これに当てはまるので答えは“いいえ”です」

 ちぐはぐ目を細めて生徒さんを見つめる。
 こうして明るい表情を見たのは何時ぶりだろうか。
 心做しか視界が少し明るく感じるのは、ストームの幻覚だろうか。
 ストームは辺りに他のドールが居ないか確認すると、自身の唇に人差し指を添え『秘密』の文字をトントンと指先で軽く指さした。


「さすがはリヒトですね。理解力が高く素晴らしい。
 勉強熱心なのはいいですが詰めすぎても体に毒です。
 ここらで休憩にしましょう」

 パチ、と手を叩きストームはリヒトのノートのある場所に落書きしていく。

『発信機の場所の見当はついていますか?』

《Licht》
「……おっけ」

 とんとん、と軽く叩いて示される言葉を、再度読み取る。秘密、秘密だ、どれだけ嬉しくても、今すぐ飛ぶように駆けて、みんなに伝えたかったとしても。息を飲み込むようにリヒトも人差し指を立て、ストームに応えるように口元に寄せて、声もなくぱくぱくと口を動かした。『ひみつ』。

「そーだな、オレも疲れたし!」

 うん、と背伸びして、ずいぶんと明るい声で、生徒と先生は一人と一人のドールに戻る。その途中、ぱちんと響いた手を叩く音に、リヒトは目を丸くして……ノートの端に書き込まれた言葉に、リヒトは首を振るだけで答えた。

 首を振ったリヒトにストームは軽く頷いた。
 唇を片手で覆い、リヒトの上半身を観察し出す。
 ストームはきっとこう考えているだろうね。
 ──もし発信機を付けるとすれば体内、か?
 ぞくりと身の毛がよだつ高揚感がストームを襲った。
 約束────
 たった四文字、たった一つの単語がピシャリとストームをリヒトの相棒に戻す。

「……で、は……調べちゃいましょうか。
 さぁ立って相棒」


 リヒトが立ち上がればストームは彼の体を一周しながら注意深く見るだろう。日常で見ても違和感が無かった、人の目につきずらいところにあるのは確かだ。

「ばんざーい」

 掛け声と共に両腕を上げさせれば、しなやかに肉付いているが薄い腰から脇まで探る。

《Licht》
 ……ここでひとつ書き添えておくとするならば。

 リヒトは、ストームの相棒だ。求められたから真摯に応え、与えられたから素直に受け取っている。彼はこの関係を受け入れているのだ……例え、ストームの側にどんな歪みがあろうとも。

 だから、例え今から理由なくバラバラにコワされたって、文句は言わないだろうね。

「おう! ……ん? え、今から、え、ここで?! ま、待っせめてほらオレたちの部屋とかに」

 たった一言、短いながらも繕っていた歪な日常を割いてまでの提案を、リヒトは二つ返事で快諾して……ようやく、“つまりどういうことか”に気づく。今から、なんならこの瞬間から、ここで、ダイニングルームで。抗議しようとしてうっかり立ち上がるところまで、もしかしたら読まれていたのかも、しれない。

「ばんざーい………あっ……」

 悲しきかな。欠陥品とはいえ、『ばんざい』と促されたら流れで手を挙げてしまう、人間の文化的習性までしっかりデザインされたビスクドールは、細くバランス良く暑ら得られた自分の体を、その弱点を晒してしまった。

 もうここまで来たらヤケだ。覚悟なんて全然決まってないけれど、とりあえず目をぎゅっと瞑って、秘密を暴こうとする無遠慮な手を待った。

 ストームはリヒトの薄い腹や肋骨の近辺、脇に至るまでを入念に触れて確かめていく──が、触れて分かる範囲に怪しい発信機が埋められている痕跡は見つけることが出来ない。

 皮膚が盛り上がっている事もなければ、当然だが肌に取り付けられている事実もなさそうだ。人体の構造に出来るだけ沿うようにして造られた人工皮膚の完成度を目の当たりにするだけとなるだろう。

 リヒトの身体に触れる。
 実に精巧に作られた素体がそこにはあった。
 それに、暖かい。
 だがそこまで。それ以外には何も無い。
 そう簡単に見つかるわけが無い事はストームも知っている。
 目を固く閉じるリヒトを見つめる。
 いきなりのストームの行動にヤケになったのだろう。
 全身力んでいて不自然に立っている。

「リヒト、そう力んではダメですよ。
 何事も最も重要なのは力を抜くことです。

 そういえば、リヒトは投擲が得意でしたよね。
 どうやって身体を使っているんです? ご教授願います。」

 ストームは人差し指でリヒトの脇腹を軽くさした。
 どうやら先程の授業の延長。
 身体の使い方の教え合いや体の不調を同じモデルであり相棒のリヒトと相談しあっているていで話を進めるようだ。
 リヒトに目配せする。
 きっと彼は気付いてくれるから。
 猟奇犯からの信頼と脅迫。
 六等星めいいっぱいに輝い(応え)て。

《Licht》
「っふ、ん、まっ…!! ……ちょ、待っ、ふひ、っ、ん〜!! そう、カンタンに、言われたって!!」

  脇腹を擽るさわさわとした感触にぐっと息を飲んで、せめてカッコ悪く笑い出すことだけは避けようとした。でもまあ、そんな努力も虚しくくぐもった笑い声がぽろぽろと溢れている。

 しばらくして、ようやく嵐は去ったか……と思った瞬間、続く言葉に、思わず大声で抗議した。力んではダメだなんて、そんな。こっちは堪えるので精一杯で他のこと考えらんねえのに!

「とうてき、ってーと……物を、投げる? そんなのストームが聞かなくた………………………………あ。そ、そんなこともあるか」

 息を整え、改めて。純粋にして愚かな疑問を口にしようとした時、そっと唇に触れるような静かな目線に、ようやく気づく。なるほど、これはちぐはぐな色の恒星から、直截届いた無音のシグナル。猟奇と狂気と本気に満ちた、二進数の信頼。受け取ったその瞬間、きっと既に選択肢は無い。

 そんくらいがいい。
 真っ直ぐ進める。

「えーーっと………こう、ぐってして、ぐぐーーってして、ばーーん!! ってする。コツって言ったら…」

 投擲動作のコツは、ムチのように体を動かすこと。投げたものに後から触ることは出来ない以上、手を離す瞬間に、瞬間最高速度を込めなければならない。

 ……なんて理論、コワれた頭には無いけれど。右手で見えない何かを持つような動きをして、出来るだけ体が見えるようにゆっくり大きく引き、また大きく投げる動作をした。ここから彼が何を見つけるかは分からないけれど、きっと相棒のことだ。何かは必ず、見つけてくれるはず。

 言葉を発さない伝言は無事に伝わった。
 リヒトが大袈裟に体を動かすのを、静かにストームが見ている。
 傍から見れば勉強熱心なテーセラモデルを無事に演出できているだろう。
 実際ストームは体の細部まで瞬間瞬間をフィルムに切り取るように見た。そしてリヒトの手を取った。

「指の使い方はどんな感じです?
 やはり人差し指と中指は最後まで残しておく、とかですか? 手首の返し方やスナップのタイミングは?」

 リヒトの指をなぞり、両手で彼の手を包む。
 手首を曲げさせ手の甲を撫でながら指の一本一本まで細かく見るだろう。
 それは逆の手も同様に。

《Licht》
「っ、手の、使い方は、えーっと……投げるもののかたちと、どう投げたいかによるんだよな」

 両手を取られた時、大袈裟にびくりと肩を震わせて、それでも平常心、平常心……と言い聞かせながら、リヒトは続ける。平常心……と呟くコアは、次の動きを警戒して嫌に高鳴っていた。というか、この、こいつ、絶対。遊んでる。絶対、こんなに調べなくていい。

「とっ、おくに投げたい時はほら、変にスナップ、きかせない方がいいっ……し」

 手の甲を撫でられる。手首をくっと曲げられて、手のひら、指、の関節。警戒しすぎたせいかどこもかしこも擽ったくて仕方がない。平常心、平常心。
 ……そろそろ終わってくれねえかな、この変な時間。

 ストームはリヒトの両手をなぞり、隈無く探るだろう。
 だが彼の指先はあなたのものと同様、皮膚や爪先、骨の形状に特段異常が見られる事もない事が分かる。

 ストームは何処と無く楽しそうにしていた。
 何も考えないように努める相棒の表情がストームの興味を惹き、悪戯心を擽られた為だ。
 怪しい挙動を少しでも悟られれば、下手したら明日にでも怪物の腹の中だと言うのに。

 当てずっぽうに探るのはやめにしよう。なんてストームはリヒトの手をパッと離した。

「なるほど、参考になりました。
 教えて頂き感謝します。

 ぃっ、……すみません。
 実は先程から目に違和感がありまして」


 ストームはちぐはぐの目を抑えた。
 数回瞬きをして、眉間に皺を寄せる。
 人差し指で目頭を押し、涙腺を刺激してみるがストームの不快な表情は変わらなかった。

 開かずの扉の先で何かが目に入ってしまったのだろうか。
 いいや開かずの扉では身体への影響は、大して無かったはずだ。
 無論、入ってしまったフリをしていた。

「御手数ですがリヒト、目が傷ついていないか見て貰えませんか?
 出来たらですが“異物”がないか確認して頂きたいです」

 リヒトの目線まで屈みゆっくりと瞳を開けた。
 ほんの小さな小さな声で「発信機」とつぶやく。
 テーセラの聴力でギリギリ聞き取れる程度の小さな声。
 リヒトに届いていればちぐはぐの目を相棒は調べてくれるだろう。

《Licht》
「は、お前それ大丈…………」

 手を離されて密かに一息ついていた時、ストームが目を抑える。本来なら傷一つ許されないドールの体だ、リヒトは一瞬焦って尋ねるが……交錯するように囁かれた言葉に、思わず手で目をおおった。

 心配、返せよ。ちゃんと焦ったんだぞ、こっちは。

「ああもう、こうなったらとことん付き合ってやるよ」

 覚悟を決めたようにひとつ大きなため息をついて、リヒトはずいっと前に出て、ストームの夜空のような前髪を持ち上げた。ちぐはぐにズレた、それでもしっかりと噛み合った美しい瞳が顕になる。設計された明眸は、夕から夜へ映る空のようにリヒトの視界に広がっていた。

 これくらいしかロクに使えない、テーセラドールとしての体。その機能。頼むから、何かは見つけ出してくれよ、と自らの目に願いながら、リヒトは自分の作り物の目に、ストームの瞳の輝きを映す。

 あなたはストームの両眼を覗き込む。左右で色の違う瞳──ヘテロクロミアの爛々とした瞳孔と視界がかち合う。
 ドールはその目鼻立ち、輪郭の形、頬の肉付きや瞳の輝きに至るまでが一級品だ。天から降りたと見紛うほどに精巧に、そして美しく設計されている。ストームの美貌は見れば見るほどに素晴らしいものであったが、しかし瞳を見据えても何らかの異常は見られないだろう。

《Licht》
「………………あ〜」

 神さまってのが、ヒトの文化の中には居たらしい。そんな授業もあった気がした。神さまってのが世界の全てを作っていたと、そんな授業もあった気がした。神さまってのは何でも出来て何でも叶えられると、そんな授業もあった気がした。

 そうか。
 こいつは、神さまに最高傑作として作ってもらえたんだな。

「よし。取れたぜ。ったく、気ぃつけろよな」

 『見当たるものは無かった』と言うように首を振って、そっとストームから離れる。眩しいなあ。眩しいなあ。……こんな小さな感情は、秘密にばいばいしておこう。今はそれよりも、そんなことよりも伝えたいことで、こころが溢れているはずなのだから。

「……おれ、ちょっとこのコタエをさあ、ほかのみんなにも言いに行きてえんだけど……ダメ?」

 ノートを抱えて、こてん、と首を傾げて尋ねる。

 お披露目で真っ先に喰い千切られたらしい頭部。
 そこになにかヒントがあるものだと思っていた。
 例えば、回収しなければならないパーツが沢山あるだとか。
 例えば、ドールズのメモリーを貯蔵する為だとか。
 例えば、発信機が埋め込まれたりだとか。
 だが、物の見事に玉砕した。

 ストームは傷付いたかもしれない、なんて思い切った発言の末の手掛かり無しに落胆した事だろう。
 恐らくね。ストームも落ち込む時は落ち込むらしい。

「…………ありがとうございます。恩に着ます」


 短く礼を言うと自身の指先を口元に持っていった。
 彼の思考が陥るのはきっと自己嫌悪。
 なんて不甲斐ない。役立たず。

 ソフィアなら、こんな回りくどいやりたかをせずとも見つける。
 アティスなら、他のドールも巻き込み言葉巧みにドール達にも自身の体の違和感を気付かせることが出来る。
 ディアなら……ディアなら、並外れた観察眼で一発で分かる。
 所詮は欠陥品。
 あの三人と並ぶ価値もないイカれたドール。
 ストームと言う、ただのテーセラドール。

 嫌悪感から爪を噛んでしまいそうになったその瞬間。
 リヒトの声にストームは引き戻された。

「えぇ、良いですよ。
 出来るだけ沢山の方にお伝えしてください。
 フィリーなんかはきっと飛び上がって貴方様を賞賛するかと思いますよ」


 ストームは深々とお辞儀をしてリヒトを送り出す事だろう。
 時間が無い。
 残された猶予期間、ストームは一体何ができるだろうか。去っていく相棒を見送り、静寂に包まれたダイニングルームに一人、猟奇犯は息を潜める。
 全てはターゲットの為に。

《Licht》
 テーセラモデルは、友のドールだ。かくあれかしと綴られた、脳裏のプログラムが回る。ストームが何を考えているかは未知数だけれど、叢雲のように夕空の目に掛かったその憂慮が、リヒトに分からないと思ったか。

 舐めるな。自分でもまだ信じられてないけど、オレはお前の相棒なんだよ。

「前から言いたかったんだよな。────オミクロンはひとりじゃないって。何でもかんでも、一人で抱え込むなよ。試しにみんなに話してみよーぜ、相棒」

 ノートを持って出ていこうとしていたリヒトは踵を返して、一歩、一歩、ストームに近づきながら言葉を重ねる。こんな単純な、ジャンクだって気づくような明白な事実に気づいてないやつが、どうにも多い気がする。オミクロンは、ひとりじゃないのだ。全員ぶっ壊れで、だけど全員、キレイなのだ。だから、みんなはすごいのだ。

 ぐっとストームの方に近づいて、さっきの彼の真似をする。つまり、テーセラドールの鋭敏な耳にのみ届く、微かな言葉。

「…………案外、オレと話したロゼットが、先に見つけてたりしてな。発信機」

 『それじゃ、行ってくる!』と、今度こそぱっと走り出した、リヒトの背は軽やかにドアの向こうへ駆けてゆく。

 彼にとってキレイなみんなへ。コワれた体で言葉を抱えて、メッセンジャーが今行くよ。

 リヒトは、六等星は輝いていた。
 ほんの僅かな、見えるか見えないか微量な光で。
 しかしストームにはそれがやたら眩しく見えるのだ。
 一歩一歩、彼が近付く度に。
 あまりの眩しさにストームは、一歩後ろに引く。
 “ひとりじゃない”。“抱え込むな”。


 ────────────“相棒”。



 眩しくていけない。

 返す言葉も無くストームは口を閉ざした。
 ストームは知らない。光なんて知らない。
 感じるだけでいい。暖かくて、強くて、眩しい光を。
 その中に入っていこうだなんて、知らない。
 だけど、ストームにも分かることがある。
 相棒が前を向くのだから、それを後押ししないでどうする?
 伝えるべき事だけ伝え、駆け出した相棒へ。
 ストームは少し大きな声で言った。

「頼りにしてます。……行ってらっしゃいませ」

 リヒトがストームを良く理解しているのと同じくして、ストームも彼を良く理解しているのを忘れてはいけない。
 無事に成果を上げて帰ってくる事を前提とした送り出しの言葉はダイニングルームに響くだろうね。
 良き友、ひっそりと輝きを増していく六等星に向けて幸運があらんことを。

【学生寮1F キッチン】

Sarah
Storm

 ストームは魂が抜け、糸で繋がれたように歩いていた。
 そう彼は極たまに……いいや、割とこういう事がある。
 決まってストームの頭の中では、思索と想像で埋め尽くされているのだろう。
 『お披露目』『発信機』『開かずの扉』『シャーロット』『巨人』『機械音』『研究』

「……………『蝶』」


 どれもリヒトのノートで見た単語。
 それらを記憶に放り込んでぐるぐると循環させる。
 自分は何者なのか、トイボックスとは何なのか。
 今まで気にも止めなかった蜘蛛の巣の糸を、解いていくように。
 思考、熟考、思考、熟考……。
 蜘蛛にバレないように少しずつ少しずつ。

 ふとストームが顔を上げた時に、その少女が視界に映った。ホワイトライオンの鬣のような髪色を持つ少女。
 陽の落ちる瞬間の空一面を染めるオレンジ色に似た瞳を持つ少女。
 ストームの“トクベツ”のうちの一人。
 そのトクベツに手を伸ばすことは間違いないだろうね。

「ごきげんようサラ。調子はいかがですか?」

《Sarah》
「……ゴキゲンヨ 、ストームサン。
 調子、は悪くない。平常だよ。」

 いや悪い。最悪だ。
 なんだってこんな時に彼と会うのだ。
 やっと身体の痛みが引いてきたためなんとか食器棚と向き合っていたところだと言うのに。彼の声が聞こえてもそちらを振り向かず返事だけし、一生懸命食器棚と向き合う。かまっている暇はないのだ。
 平皿は平皿のところに。カトラリーは形が一緒のところに。マグカップは離れ離れにしない。
 自分が使ったものはもとに戻す。
 そんなことを胸に食器をカチャカチャと動かす。迷子の子たちを正しい居場所に戻してあげたいところだが如何せん場所がわからない。震える手に力を加え食器を落とさぬように上の棚においたと思えば、次は下に。悩んだ結果、結局は平皿をマグカップの上に。
 荒らされたような食器棚は変わらずチグハグで迷子がたくさん。

「……」

 悪化した気が、ちょっとする。
 正解を求めて迷路をぐるぐるぐるぐる回っている行き着くのはいつだって行き止まりだ。
 青いあのこも手伝ってくれたら良かったのに。空を飛んでここだよって教えてくれたかもしれない。教えてくれなかったかもしれない。

 なんて抑揚の無い返事だろうか。
 あからさまな嫌悪にストームは悲しむでも動揺するでも無く、ただいつも通りを続ける。

「そうですか。それは良かったです。
 ところでサラ。先生のお手伝いですか? それとも何かお探しで?」

 カチャカチャとぶつかり合う食器たち。
 まるで会話をしている淑女達の茶会のようで、主催者は頭を悩ませている。
 ストームは思う。
 ──サラは食器を動かしているようで、食器に動かされているのだろうか? ……なんて。
 まぁ都合のいい方で。と、どうでもいい思考を切捨てるだろうが。

 どちらにせよディアならサラを助けるだろうからと、行動に移したまでだった。

《Sarah》
「別に、なんにもいらないし。探してない。」

 ずっと食器に踊らせれているのも嫌になってきた。くるくるくるとバレリーナのように踊っては、形にハマらない反抗期のパズルになる。一向に食器棚に入ってくれない。
 手に取っていた食器を押し込み戸棚を閉める。
 反射的に反抗的な態度を取ってしまったがまあ、ストームならいいだろう。
 そんなこと彼は微塵も気にしない。
 嫌なことにしか興味がない変なドール。

「……そっちこそ先生サンの手伝い?」

 相手は滅多にこんなところがなさそうだが、ここにはストームの愛しの彼もいないだろうに。

 また、ぶっきらぼうに返される。
 それに何か苛立っている。
 サラが食器棚の戸棚を押し込むように閉じたの、ストームは静かに見つめていた。
 観察するように。じっと。
 ようやく、片方になってしまった手を止めた彼女からの問いに首を振る。

「いいえ。ジブンは捜し物です。
 青い蝶と、それを見たことがあるドールを。
 実はリヒトとブラザーが目撃しているらしく、偶然にも特殊なことが引き起こっているようなので」


 いや、これは全くの嘘だ。
 サラに話し掛けたのも単なる興味でしか無かった。
 だがそれを言ってしまえばサラはとっととストームの前から居なくなってしまうのは明確だ。
 だから先程まで思い出していたリヒトのノートに書かれていた『青い蝶』『キッチンの窓辺』『おにいちゃん』……これらの単語の周囲の周囲に書かれていた言葉から偶然にも思い浮かんだストームの虚言であった。

「二人の偶然がたまたま繋がっただけかもしれませんね。
 最近偶然が繋がることが多々あるので気になってしまいまして……。
 ちなみにサラは最近、青い蝶を見た記憶はございますか?」

 虚言ならいくつも吐ける。
 なんたってストームはネジの外れてしまった欠陥品。
 ジャンク品に呼ぶに相応しい。
 愛しの彼にラリってからは、更に一層に。

《Sarah》
「リヒトサンとお兄ちゃんサンも、あのこを……?」

 さがしもの、青い蝶を見たドール。
 驚いたのかほんの僅かな差だが目を見開き何を考えているのか理解のできない奴の目を見る。
 めったに見ないものだからてっきり、夢の中のものだと思っていたけれど。本当にいたんだ。青空の欠片は。青い蝶は。
 ちょっとだけ疑っていたんだ。ほんとうにあのこは現実にいるのか。しかし二人も目撃者がいるとなればそれはもうサラの妄想でも幻覚でもない。

「ボク、は何も見てないよ。」

 嘘をついた。
 偶然がたまたま重なったとかよくわからないことをいう彼に教える理由は無いから。教えない理由も無い。
 けれど好きじゃないから教えない。
 たったそれだけ。
 教えないとは言っても先程知っているような口ぶりで話していたサラはストームから目をそらし数歩離れる。

「出よ、狭い。」

 ご丁寧にパントリーとドアを開け彼を追い出そうと促す。一人でいると広く感じたパントリーも背の高い彼がいると箱に閉じ込められているような気分だ。

 ただの思い付きの虚言。猟奇犯の空言。
 隻手の少女は揺れた。猟奇犯はそれを逃さない。
 好機だと言わんばかりにストームはちぐはぐの瞳を揺らした。
 一言目と二言目は真逆で、ストームから遠ざかるように歩み出したサラに退出を促されてしまう。
 そんなのストームが構いやしないさ。

「次の質問に答えてくださればジブンはここから離れると約束しましょう。
 サラ、青い蝶を見たのでしょ? 身体に異常は起こりましたか?」

 ドアに手を掛けたサラに被さるように追い込む。ストームが力負けする事が無ければ扉を無理矢理閉め、少女を見下ろすだろう。
 しん……としたパントリーはいつの間にか密室の猟奇犯の遊び場所になっていた。

《Sarah》
 これだから好きじゃない。

「異常は起きてない……普通。
 何も見てないし知らないって言ってる」

 異常は何もおきてない。
 普通。
 何も変わらない。
 欠陥品なんかじゃない。
 イライライガイガを押し込めるように戸にかける手の力を強めるが、勝てなかった。設計年齢の差、筋力の差、上背の差、色々彼には勝てないことが多いのだ。
 何も知らないとは言うがサラはほんとうにわからないのだ。今では青い蝶こそは現実にいるものと理解できたが、それが見せたものはもう夢の中の出来事へ変換されていた。兄に会えた幸せでちょっと悲しい夢。名前を忘れたあのこ達も夢の中の名もなき住人。きっと過去に遊んだことがある夢の中の住人。たったそれだけ。

「邪魔」

 戸から手を離し言い放っても彼を言い負かすことも、どかすこともできない。もし、今空っぽが空っぽじゃなくなれば出来ることが増えていたかもしれない。けれど今日無いならしょうがない。ここにストームの愛しの彼がいれば良かったのに。絶対こんなことにはならなかった。

「はは、そうでしたね。
 先程“あの子”と言っているように聞き取れたので、てっきりご存知かと思いました」

 知らぬ存ぜぬのサラにストームは軽薄に言葉を返した。
 乾いた笑い声なんかはもはや笑い声になっておらず、ひとつの単語として空気に消えていく。
 彼女からの嫌悪も苛立ちも十分に伝わっているであろうが、ストームは依然と糸の張り詰めているような状態は続いている。

 サラからの一言にストームはゆっくりと扉から手を退けた。一度も目を逸らすことなく、ゆっくり、ゆっくりと。

「ご回答ありがとうございます。
 見ていないのでしたら仕方ありませんね。
 自分で探してみます。是非とも標本にしてみたいのでね」


 物腰柔らかなお辞儀をすると身を引いた。
 彼女が出るのかストームが出されるのか定かでは無いが、ひとまずの待機場所とでも言っておこうか。
 彼女がパントリーから出ていくならば、その場に佇むだろうし、出るように促されれば素直に出ていくだろう。
 この言葉を残して。

「貴方様に災いがあらんことを」

《Sarah》
「あっ、あーうん。気の所為。」

 わすれていた。彼女をよく知るものなら驚いたように。知らないものならさらにの表情が何も変わらないように見えるだろう。
 彼といるといつもこのような背筋がピンとする空気になる。あぁ嫌だ。

「標本にしたらボクにも見せて。フェリシアサンも見たいって言ってたし」

 彼のきれいなお辞儀を真似するようにペコリと頭を下げる。
 彼で思い出したようにフェリシアの言葉を付け足す。自分でも捕まえるつもりだったが毒があるかもしれない、彼に任せておこう。
 ストームなら愛しの彼にでも死ね、とでも言われない限り壊れなさそうだから。
 今一度、今度は邪魔がなかったため戸を開き振り返る。すきじゃないけれど別れの挨拶をしてあげる。

「またね」

【寮周辺の湖畔】

Felicia
Storm

 草花の合奏。
 オーケストラの指揮者は暖かい南風。
 今となってはのどかな日常を創り出す演出に過ぎないのに、追い風だと言わんばかりに背中を押してくる。
 ストームは風の織り成す演奏を避けるように地面に身を投げた。
 紳士とて、だらしなく振る舞う瞬間はあっていいはずだ。
 15歳という精神年齢に設定されている少年なのなら尚更に。

 テーセラドールらしくのびのびと自然と戯れる。
 微かに聴こえる風のオーケストラ、湖の波紋。
 ─―奇麗……。
 最近のトイボックス、いやオミクロンクラスはどことなく空気が重い。それに流れる時間も早い。
 頭の壊れたストームであっても感じていた。
 ただのどかに、ただのんびり、目を瞑り、時間に身を任せる。

「……おや、可愛らしいお嬢さん。
  貴方様もつかの間の休息にここへ?」

 草を踏み分ける音を最後にオーケストラは止んだ。
 ストームは寝転んだままに来客に目を向ける。

《Felicia》
 忙しなくさざめく草花に導かれるようにその少女は歩いていた。
 揺られたウィスタリアは、目的地を知っているらしい。前へ前へと毛先をたなびかせている。
 気持ちのいい天気だ。気温もそれほど高くなく、太陽はにこやかにこちらを覗いている。……嘲笑っている、の間違いかもしれないが。

 それはそうと、少女の気分は全く晴れやしない。誰もいないだろうと歩く途中で少しだけ足を止めると、ざわざわと揺らぐ木々を忌々しげに目を細めるのだった。
 普段から笑みを絶やさない少女に似つかわしくない、楽しそうでなによりですね、なんて皮肉が口をついて出るような。もちろん口には出さなかったのだが。とにかく不機嫌だった。いや。不機嫌にならざるを得なかった。と言った方が正しいか。置かれている状況を垣間見れば、至極当然と言えるかもしれないが、それはエーナとしてどうかと思うときもあるのだ。

「……御機嫌よう、ストーム。」

 こっちだよ、と急かすように広がる髪。そこに居たのは……え。会いたくなかったんだけど。考えごとをしていた少女にとって彼は若干苛立ちを強調させるものでしかなかった。なに呑気そうに寝転んでんだ、と皮肉を言ってしまいそうである。先に言っておくが、彼は全く悪くない。悪いのは感情に左右されがちな自分に苛立っていることへの八つ当たりである。

 包み込むような暖かい太陽の光にそぐわない面持ちのフェリシアが、そこに立っていた。
 何か物言いたげな表現、ひしひしと伝わる。
 間の空いた返事。
 半分まで下げられた瞼。
 少し低めの声色。

 ─―あぁ、彼女は本当に可愛らしいお人だ。

「一緒にいかがです? フィリー。
 最近のオミクロンクラスは重たいでしょう?
 何も考えず身を預けるんです。疲れが軽減されますよ」

 苛立ちを隠そうともしないフェリシアにストームは小さな笑い声をあげるだろう。
 体いっぱいに空気を流し込む。
 気管を通り空気を貯蔵する風船が膨らむ。
 風船が破裂しそうになる前に、体に溜まった毒素と共に空気を押し出す。
 それの繰り返し。ただの呼吸。
 ストームはフェリシアそっちのけでその行為を繰り返した。

「ねぇフィリー。夢……今の夢はありますか?」


 少年は唐突に質問を投げる。
 頭のおかしなストームらしからぬ、少年の、なんの含みもない質問。
 ただ真っ直ぐにちぐはぐの瞳で彼女を射抜く。
 答えを探すように、見つけるように。

《Felicia》
 ゆるやかに間延びした声が南風に乗って伸びていく。しかし今は、それこそが彼女の眉を吊り上げる原因になっていた。個人的に彼には自身のつむじを曲げているのを悟らせては行けない、そう勘えては、返答を淡白に告げて足早に立ち去ろうとするだろう。

「お気遣いありがとう。ご遠慮しておくね」

 にこり、笑ったのは形だけ。足先を貴方とは反対側に向けて歩きだそうとした、そのとき。まだ、何か用があるのか、このやr……今のは訂正しておこう。どんなに腹が立っても、彼はかつてプリマドールの冠を被っていたのだから。
 しかし彼……テーセラプリマの彼の言葉にぴたりと足を止めた。いきなりどうしたというのだ、本当に。

「今の夢? 質問の意図が掴めないんだけど」

 その時の彼女の顔は、疑わしそうに、さも鬱陶しげに貴方の方を見ることだろう。なぜ? 現在の彼女を占めているのは劣等感と焦燥感と、それから、やるせない苛立ちなのだから。

 あぁやはり重い。やけに重い。
 水中の中に鉛を付けられて沈められているようだ。
 ストームはフェリシアの訝しげな表現を流し見て、上体を起こす。
 そのまま湖を眺めた。

「気になっただけです。深い意味はありませんよ。
 ジブン達の目指していたお披露目は殺戮の場、そもそもお披露目の会場にすら入れないドールは燃やされる。発信機もあり逃げも隠れも出来ないこの牢獄(トイボックス)の中で何を願い、何を目指しているのか。
 ……夢物語のままで終わるのか」

 手元にあった石を平行に投げる。石は湖を四回ほどステップし底へと落ちていった。
 そしてストームはストームだった。
 暖かな太陽のもとに流れる酷く冷たい南風。
 いや、南風なんて流れていないかもしれない。
 鉛を含んだ風が二人のドールの体を吹き抜ける。
 ただストームは遠くを見据えていた。

「フィリー、もう一度問います。
 貴方様の夢はなんですか?
 夢の中で眠りたいのでしたら、答えなくて結構です」


 一度もフェリシアの顔さえ見ずに告げる。
 ここ何日かでフェリシアの表情は変わったと言える。
 だが、彼女の優しさはストームには甘すぎた。
 ディアのように慈悲無き苦味を含んだ優しさとは訳が違う。何もかもを救い取ろうと奔走するどろりとして纏わりつく優しさ。
 火で炙ればよく燃えるであろう優しさ。
 焼き払ってしまいたい。
 暴風はその時を、静かに、静かに、待っている。

《Felicia》
 美しくも模造の自然が神が作り上げし造形を撫でるころ、当の二人は怪訝な雰囲気を隠そうともしていなかった。彼が警戒しないということは恐らくその場面は誰からも見られていないのだろう。

「な、るほどね。確かに私達はずっとお披露目を夢に努力を惜しまなかった。いつか出会う唯一に手を差し伸べられるまで、幸せに生きていたんだもんね。だけどそれがレプリカの事実だと分かった今、夢を聞きたい、と。

 ……まぁ。ストームが聞きたいのは光り輝く煌びやかなドリームじゃなくて、“頑張る理由”とか“なぜ動くのか”とかいう動機だと思うんだけど。どう、合ってる?」

 答えなくて結構です、なんて言われたら余計に腹が立ってしまう。意地でも答えてしまおうとするのは、些か子どもじみた彼女の特性によるものだった。元より腹の虫が収まっていないのなら、尚更。
 フェリシアは話しかけられてからというもの全く目が合わない彼に問う。恐らくストームは、会話をしたいと思っている訳では無さそうだからだ。理論的に動機の根拠付けをしたいのだろう。詰め寄るような言い方をするのはタイミングの差異である。さじ加減を間違えないようにね、暴風さん。

「じゃあ聞くけど、ストームの夢って何? ディアくんと結婚すること……とか? 相手に質問する前に、まず自分から話すのがマナーだと思うな。」

 この舞台上にはストームとフェリシアだけ。
 ストームにはそれが分かっていた。
 なんの誤魔化しもなく告げ、合っているか聞く彼女の質問に頷く。その時にはちぐはぐの瞳は彼女の方に向いているだろう。
 妙な圧を与えるように。

 だがペリドットは一筋縄ではいかない。

「け、っこ……ん。ですか。
 そんな烏滸がましい。ディアは誰の手にも収まらないのですからディアなんです。あの恍惚と光る太陽に近付きすぎると身を焼かれたくはありませんからね」

 ストームの予想を超えた単語が彼女から出され、思わず気後れする。体内を流れるオイルにシロップが混ぜられた感覚に襲われる。 
 確かにストームは恋焦がれているのは確かだ。
 だが、ストームには結ばれたいなんて感情は一切持ち合わせていない。ごく一般に言われる恋とは違った。
 彼の恋心はコワれている。

 体内で対流するシロップを空気と一緒に吐き出す。
 流れる雲の映像にぐるりと目をやり、ようやく口を開いた。
 
「ジブンは……… … … …  うみ、海を見る事です」
 

 ストームは湖に目線を戻す。
 こんなちっぽけな水溜場なんかじゃなくて、地平線まで広がると言われる自ら流動を生み出す湖。
 切り取れない雄大な自然。
 作り物なんかじゃない宝。
 恐怖すら感じる青色。
 きっと奇麗だ。
 ストームはゆらりと立ち上がり服についた草や土を払いながらフェリシアの方に身体を向ける。

「その為なら火にだって飛び込めますよ」

 
 ストームは指先を胸元に添える。
 どんな犠牲を払おうと、どんな終焉になっても構わない。
 だって自然とは本来そんなものだから。
 台風の瞳は静かに真っ直ぐに彼女を見た。
 貴方様はどうだと言わんばかりに。
 夢語り少女は何を願い望む?

《Felicia》
 紅く赫い舞台の上に、二人ぽっちの演者。ただその時間は、少女にとって永遠のように思えて。フェリシアはその刻のなかでゆっくりと瞳を閉じた。一瞬の出来事なのに、やけにそれがドラマティックに映るのだ。

「ディアくん相手なら光源に焦がされたとて、これ以上の幸せはないってくらいに踊らされるのが貴方でしょうに。」

 貴方なら彼女がぼやかした言葉を余すところなく聞くことができるだろう。零すように放った針の先には、間違いなくあなたがいる。恐れ知らずに煽るような行動理由も、彼女の現在を心境を慮ることができれば理解できるだろう。
 しかし貴方は全く悪いことをしていないのだから。腹の虫に触っても可笑しくないだろう。

 特別な好意イコール結婚のフェリシアには、その壊れた恋心を理解するには時間も理解しようとする意思も足りなかった。感情を生み出す前に、まず興味がなかった。
 所詮、少女の決めつけである。

「……いいね。海かぁ。レプリカの自然とは違って、残酷で、境なんて無くて。……美しいんだろうな。どこまでも、どこまでも広がってるんだろうなぁ。」

 彼の夢は、酷く綺麗だった。
 しかし、刃のように鋭かった。
 一対の光は、同時に冷酷なのだと知らしめているように。
 紛うことなく、それは事実だ。
 耳を塞いでも、目を閉じても。
 世界を拒絶しようとしても、それは変わらない。

 胸元に指を向ける仕草は、誓いを立てているようで。向き合った貴方と目を合わせると、一際大きく風が吹いたような、そんな気がしていた。嗚呼。いつもの私だったら、こんなときにも楽しい夢を語れたのかな。

「ひとまずの私の夢は……ハッピーエンドを迎えること、かな。」

 それは、弄れたハッピーエンド。
 いじけて曲がって、それはきっとだいぶ歪な形をしている。だけど大事なのは、幸せな未来を守れることだから。

「だから私は、みんなと未来を生きるために戦うんだ。ひとりじゃないって分かるから強くなれるんだと思う。ヒーローは孤独に戦う人のことを言うんじゃないって。
 とある花園に咲いてた赤薔薇さんが耳打ちしてくれてね。」

 とす。ついには茂った植物の間に腰掛けた。その言葉に怒りの成分は含まれていない。夢を語って冷静になれたのだろう。暫くその辺に咲いていた花を指で撫でていたが、貴方の方向に向き直ると「いいでしょ」なんてへにゃりと綻ばせた。

 愛らしき共演者のお嬢様は鋭い刃を、猟奇犯相手に突き立てた。流れる雲は太陽を隠し、暗闇を演出する。
 音がこの世界から奪われた。
 ストームの顔に差し込む影はアメジストを不敵に輝かせる。

「ディアに踊らされるのであれば本望です。
 あの方の最後の瞬間の光を余すことなく浴び、焦がされ死ぬのなら世界が壊れたっていい」

 そういうストームは悠々と湖の水ですら薄氷を張ってしまう程に笑みを浮かべていた。その笑みを隠そうと口に手を添えた。ちぐはぐの瞳には竜巻を孕み、光を飲み込んでいる。彼女の皮肉は悲しきかな、ストームには忠誠心を確かめる為の言葉にしかならなかった。
 彼女にとっては、皮肉が励ましになっていようと興味すら無いだろう。
 フェリシアとストームの間の空白は拡がるばかり。

 夢を語れば、彼女はなんの否定もなしに肯定した。
 猟奇犯の夢を。それも事実かどうかすら分かりっこないのに。けれどフェリシアは暖かな木漏れ日を分厚くかかった雲から覗かせるだけの希望を見出した。
 “ハッピーエンド”。
 陽の光は広がってゆく。暖かな風が再び流れて。
 彼女は彼女なりにこの世界での戦い方を見出したのだろう。それはなんとも喜ばしい。
 腰を下ろした彼女は草花に愛された妖精のように見える。
 暖かな光を灯す彼女を歓迎しない草花はいないだろう。
 優しい歓声を上げ彼女を激励した。

「……素敵、ですね。
 何事も独りでは限度があります。
 いくら身体能力が高かろうと、世界を魅了する美貌を持っていようと、話が上手であろうと。
 そして、誰もが羨むほどの賢い頭を持っていようと」

 ストームはしゃがみこみ、白、黄色、ピンクの花を手折って湖に浮かべる。花はそれぞれバラバラの方向に流れていく。そして、最後に青い花を手折ると花弁を全てもいでしまった。
 風に乗せて青い花の花弁は飛んでいってしまう。

「おかしいですよね。始まった場所は同じなのに、みんなとハッピーエンドを迎える、ということは仲間が必要です。ですがその仲間が違う方向を向いている。
 赤薔薇さんもいずれ誰かに手折られてしまうかもしれない。それでも皆様とハッピーエンドを迎えることを諦めないと言うのなら、ジブンはお手伝いさせていただきます」

 ストームはフェリシアに向き直る。
 冷たいアメジストはじっとりと彼女を見下ろした。

《Felicia》
 蠱惑に映じるは、紫の右眼。聞こえていたらしい声の答えを恍惚と話す性美な少年は、目隠しをした雲の下で微笑んでいた。ぞくり、背筋に寒気が走る。隠している傷に躊躇なく触れては、項に登って甲高い警鐘を鳴らすのだ。安息の時間を轟かす雷鳴のように"相手は危険だ"と、幾度となく。

「壊れちゃ、ダメだからね。貴方にしか出来ないことが、まだ沢山残ってるんだから」

 壊れてもいいくらいの盲目的な愛とは一体何なのだろう。確かに彼は魅力的で、されど可愛らしい。だがストームの言うほどまで理解は及ばない。返す言葉が見つからなかった。逸れた返答をしてしまったのは、小言を垂れた自分に対する後ろめたさだった。同時に、ストームの言う"愛"を理解したいと思ってしまった。今後、どこかで役に立つ、と思う。絶対零度の笑みをたたえる彼を理解するのは時間と手間がかかりそうだと直感的に感じ取るが、それがエーナの特性というものなのだろう。

 発せられた素敵、という言葉に目を見開いた。自分から聞いてきた割には、すんなりと肯定された事への驚きである。いつもの彼なら棘を刺してみるなり軽く否定して此方の反応をうかがうなりするだろうから。逆に同調されると、変に緊張してしまう。何を考えているのか全く想像がつかないから。

 その間も、花はゆらゆらと気持ちよさそうに花弁を伸ばしていた。風もゆらゆらと、流れていった。
 木の葉もゆらゆらと、往くままに茂っていた。

「……そうね。私もそう思う。」

 あれよあれよと手折られていく花たちを神妙な面持ちで見つめては口を開いた。簡単に折ることができるという点では、花もドールも同じようなものだ。フェリシアの近くにあった花が偶然、撫でられるだけで済んだという話。そして折られた花は偶然、ストームに目を付けられたという話である。

「この状況で一致団結しましょう、なんて言えるほうが可笑しいよ。
 それぞれの思惑があって、希望があって、目的があるんだから。
 ほら。私と貴方の夢だって、言葉にすると全く違うでしょ? だけどベクトルは多分一緒なの。収束点は似ていると思うの。言葉にすると齟齬が起こっちゃうだけで。

 私、そういうストームのこと好きじゃないけど、嫌いでもないよ」

 風に乗った花弁はもう元に戻らない。
 選ばれたドールはもう元に戻らない。
 こんな日常のありふれた動作に残酷な世界が広がっている。可哀想の言葉で簡単に片付けられてしまう。
 ─―一緒、いっしょか……。
 
「……それは嬉しい限りです。
 貴方様とジブンの夢の終着点が一緒だったら良いですね」

 フェリシアは好きでも嫌いでもないと言う。
 しかし、ストームはフェリシアのこういう所が嫌いだ。
 そして、愛すべきところだった。
 砂糖よりシロップより甘味でドロドロとした鎖。
 ストームという頭のおかしな欠陥品でさえ、救いとるつもりだ。このフェリシアというドールは。
 わざわざストームがここまで彼女に詰め寄るのは、きっとこの鎖のせい。どこまでもポジティブで、どこまでも頑張ろうとする彼女の鎖のせい。
 アメジストが呼んでる。
 夢見ごとを語る少女に輝かしい明日は来ない。
 理想の中で眠りたくなってしまうからね。
 そろそろお嬢さんに目覚めてもらわねばならない。


「そろそろちゃんと見た方が良いですよフィリー。
 ソフィアを、サラを、カンパネラを見ましたか?
 一人は抱え込み他のドールを巻き込むことを嫌っている。
 一人はお披露目の事なんてまるで知らない。
 一人は怯えきって口も聞かない。
 他のドールは知りませんが、これで収束点は似てると思うだなんて笑わせますね。もしかすればここに留まりたいドールだって居るかもしれません。言葉にせずとも既に違っているんですよ。
 ジブン達はそういう集まりなんです。貴方様のように精神に欠陥は見られなくとも身体に異常が見られるドールも居れば、頭の方に欠陥を抱えたドールも居る。
 綺麗事だけで片付けられないと言っているんです。

 それでも皆様と未来を生きる為に戦い、ハッピーエンドを望みますか?」

《Felicia》
 とてつもなくシンプルな事実だ。食うものは食い、食われるものは食われる。起こっている事象自体は、実にあっさりとしていた。
 捕食者によって構築される明確化された運命だ。

 だが、私たちには心がある。
 鼓動がある。ぬくもりがある。

 泣き寝入りし、蹂躙されるだけの被食者にはなりたくなかった。
 抗って勝ち取りたいと思ってしまった。明日を生きる、未来を。
 夢とはきっと、そういうもの。

「走り出した電車は、次の駅に着くまで止まらないでしょ。それと同じだと思うんだ。目的を遂行する道が一緒なら、例え終着点が違っていても線路は一本だろうから」

 そう言いながら、たまたま運が良かっただけの花たちを眩しそうに見つめる。ウィスタリアの髪を楽しげに翻していく風にゆられて、活き活きと花弁を震わせる彼らの目的はなんだろう。マガイモノの自然を作るためだけに植えられて種を増やすことに、なんの生きがいを感じているのだろう。いっそ生きることが生き甲斐とでも言うのだろうか。背丈に見合った希望を望むこと。今はそれがいちばん幸せな事のように思えて。されどそれは、間違いなく口にしてはいけないもので。希望と苦しみの歩合を天秤にかける時間が、すこぶる勿体ないとも思うのだ。

 微睡む少女を起こすのは、柔らかな朝日でも、鳴り響くフライパンの音でもなく、冷えきった偽りのない真だった。

 おはよう、フェリシア。
 おはよう、純粋な世界。

 ごめんね、もう、眠れないね。

「ハッピーエンドってそんなんじゃない……うるさい! 言わないで!! とっても温かくて優しいものよ。幸せで……笑顔で……凍てついてなんかない! うるさい、うるさいうるさいうるさい……! いい加減現実を見ろですって? 最初から分かっているのよ! この世界は最初からおかしかった! 私たちがおかしいんじゃなかった。世界が普通じゃなかった!! ありがた迷惑なのよ貴方の言葉は! こっち来ないで!!
 耳障りな音は入れたくないの!!」

 コアの拍動が、一瞬止まった。
 いま、私、なんて言った──?

「ご、ごめ……!」

 後頭部をガツンと殴られんばかりの怒号。
 フェリシアはなんとも正常な反応を見せる。
 ストームを否定し、拒絶し、攻撃している。
 むしろ本気で殴られなかったのが不思議なくらいだ。

「……」

 彼女が唄うハッピーエンドはストームには気持ちが悪いほど綺麗だった。
 いいや、全ての不純物を光源で覆い隠して見ないようにしている。舞台の裏に覆い隠し、輝かしい物語のエンドロールに鬱陶しい程のスポットライトを当てているように思えた。
 電車の例えだってそうだ。
 フェリシアは考えもしていない。
 走り出した電車は止まらない。
 線路が続いていなくても、脱線しても、土砂崩れが起きても。勢いのまま潰れてサヨナラさ。
 ストームはただ黙っていた。黙って彼女を見下ろしていた。

 彼女が我に帰った時、嵐の前の静けさは終わりを告げる。

「満足して頂けました?
 好きなように怒り叫び、世界までも否定した。
 まるで現実逃避だ。
 私はこんなに頑張っているのに、世界が悪いんだ。
 私はこんなに苦しんでいるのに、否定するな。
 と? はは、傑作だ。シンデレラ気取りですか?
 いくら怒りを爆発させようが、泣き叫ぼうが勝手ですが間違った世界は変わらないんです。
 それとも魔法で解決する術を持っているとでも?
 ご冗談を」


 一歩、また一歩、草や色とりどりの花を踏み潰し猟奇犯はターゲットに近付いていく。
 ぐるぐるぐるぐる瞳は闇で渦巻き、背丈に似合わぬ小動物の顔を初めてドールとして目覚めた表情のままに固めた。
 生命を慈悲なく奪い去ってゆく嵐の風のように、じわじわとフェリシアの精神に狙いを定める。
 彼女の前にしゃがみこみ頬に手を伸ばすだろう。

《Felicia》
 ペリドットは狼狽する。心の静けさを見失い、落ち着きを取り戻そうと更に取り乱すのだった。挑発に乗る形とは言え、口をついて出た言葉は取り返しのつかない代物だったからだ。形成が逆転する。
 ……いや。最初から、勝ち目など無かったのかもしれない。

「ぃ、いや……やだ……! やだ……!」

 上手く隠したつもりだった。真実に近い形で嘘をつけたつもりだった。誰にも見つけられないように臆病さと消えない不安を、光の中に放り込んだつもりだった。割り切ったと思いこんでいた。吹っ切れて前を向けるはずだったのに。

 どうして匙を曲げようとするの。
 どうして道を塞ごうとするの。

 邪魔しないでよ! 皆の為にやってることだって気づいてる癖に。
 手伝おうと言ったのは嘘なの?
 違うよね、違うよねストーム!! 嘘じゃないよね!?

 違うって言ってよ!!!

 ……お願い。……お願いだから。
 大切なものを壊そうとしないでよ。
 頑張るから私、がんばるから……。
 ねえ、やめてよ。やめてよ…!

 ──── 痛いよ。

「だから正そうって、頑張ろうって……私はみんなの友だちだから。
 友だちで、“ヒーロー”だから。
 傷だらけでも、泥だらけでもいいんだ。意地を張って変えようとすることの、どこが……どこが行けないの。分かってるけど辞められないの……諦めきれないの。どうしても、どうしても嫌なの。これだけは絶対に曲げたくない。」

 だから。

「間違った世界の中で……絶望に浸りながら死を待つことはしたくない。我儘だと言われても、エゴだと言われてもしょうがないけど……。
 そんなの、生まれた意味が無いじゃない。……夢も、心も、持つ意味がないじゃない。私は……みんなと生きたい。……生きたいよ。」

 生きたい生きたいと繰り返すその背中は、小刻みに震えている。
 可愛らしい顔を歪めた彼が伸ばした手を制止させるように掴んだ。
 思いどおりには壊されてやらないぞ、と。

 あぁ、震えてる。彼女は震えている。
 体も声も。きっと心も。

 あんまりに弱々しくあんまりに我儘。そして傲慢。
 ヒーローだなんてよく言えたものだ。
 見せかけの陽の光ですらこんなにも暖かいのに、ストームは酷く冷淡だった。彼はエーナドールなんかじゃないし、見て取れる情報しか分からない。
 彼女の心で一体どんなふうに負の感情が渦巻いてるかなんて分かりはしない。
 分かる事は彼女は“それ(ヒーロー)”をまだ諦めていなかった事。
 あっさり捕まった手は捕まったまま空中で静止する。

「良い悪いの話ではないんですよ。
 貴方様に譲れない意地があるのと同じように、他のドールにも同じ意地がある。どちらかが折れなければ解決には至りません」

 シルクより柔らかな語り口は続く。
 言葉の影に確かな刃を持って。

「泣き言で成し遂げられる偉業など存在しないんですよ。
 少し詰められた程度で取り乱し怒り叫ぶ。
 一体どうヒーローになると? 」

 突き立てた刃をそっと下ろすように、フェリシアに伸ばした手を下げた。この“ただの少女設計”のドールは灰を被って輝きを失っているだけだと、ストームは信じたかった。
 灰を払うのは魔法の杖を持った妖精でも、おしゃべりするネズミでも無い。フェリシア自身なのだから。
 ヒーローだと妄言を吐くフェリシアには興味は無い。
 ヒーローである為に足掻いてる彼女の輝きにストームは強く惹かれているのだから。
 ストームはフェリシアと少し離れたところに腰を下ろす。

「……“生きたい”。
 それはコンテナに葬られた方々も、ソフィア初めここのドールはほとんどそう思っているはずです。
 このままでは全滅しかねない」

 独り言のように語り始めるストームは顔を俯かせる。

「フェリシアには人を引き寄せる才能があります。
 恐らく奮闘しようとすればするほど今までよりもずっと苦しむ事になるでしょう。
 ですが、お披露目は待ってはくれない」

 最後には消え入るような声色になって、嵐は過ぎ去ってゆくだろう。被害なんて気にも止めずに……。

《Felicia》
 気づいていながら頑張っていた。
 ……頑張ることしか出来なかった。
 彼の言うとおり、フェリシアは弱い。優しすぎるが故に、その精神は非常に危うく脆かった。大きな希望を失えば失うほど、起きた過失を立て直そうと大きな過失を重ねていく。悪い方向に進めば沼にハマっていく。だが同時に、彼女はしぶとい。どんな困難に陥ろうと、根は腐らなかった。
 今はどうだろう。辛い辛いと喚き生きたいと呟くばかり。周りから見たら相当みっともない姿をしているだろう。それこそヒーローとは名乗れないほどに。

 分からない。がむしゃらに突き進んでみたが、立ち直り方が一向に掴めない。そんな自分に苛立っていた。どうすれば、どうすればと焦りに焦るほど失敗は膨らむ。
 ついにはヒーローを否定される程に。

 どちらかが折れないと解決には至らない──その通りだ。

 泣き言で偉業は成し遂げられない──その通りだ。

 葬られた人も生きたかった──その、通りだ。

 なんで気づけなかったんだろう。そんな当たり前のことに。
 私たちが生きたかったように、彼らも生きたかったに違いないのだ。殺されたかった訳じゃない。
 生きたい……みんな生きたかった。

 ………死にたくなかった。そうだ。
 そうだ。そうなんだ。当たり前だ。

「貴方の……ストームの言う通りよ! 私はスタート地点を間違えてたんだ。まずやるべきは、前に進む事じゃない。……その通りなのよ。」

 項を垂れる貴方に代わり、フェリシアは神の啓示を受けたような表情をしている。目の前にかかっていた霧が晴れたような。見越した表情。風なりの音と共に彼女は立ち上がり、少し離れた貴方の元へ。

 そして言うだろう。

「お葬式をしよう、ストーム。」

 と。

「お披露目会に行った全てのドールのために。遅すぎるかもしれないけれど、彼らの死を無かったことにはしたくない。安らかに眠ってもらえるように願おう。残虐な運命を遂げた過去の子達を、悼むんだ。悲しみは避けられない……避けられないくらいに辛いことだもん。
 形だけでも受け入れてあげたい。弔いたい。」

 目線を合わせるようにしゃがみこむと、貴方の右手を自身の両手で包んで優しげに目を細める。そのまま指を絡ませると貴方を立ち上がらせるだろう。

 ドク……………ドクン………ドクン、ドクン、ドクン。
 音が聞こえる。
 まるで生命の循環を早送りで見ているような強い生命力を感じる。彼女は終わってない。
 まるで一番星でも見つけたような声だ。
 彼女の中のヒーローはまだ死んでいない。

「お、そう……?」

 予想だにしていなかった単語にストームは完全に気後れした。葬式? 死者を弔う為に白い花を手向け祈りを捧げる行為だとストームは認識していた。
 猟奇犯にそんな事を提案する少女は、たとえ世界を探してもフェリシアしか居ないだろうね。
 だからこそストームは完全に一時前の時間に取り残されたのだった。
 だが、どの世界にレディの願いに頷かない紳士が居るだろうか? されるがままに立ち上がる時には、怪訝そうな表情は無くなっていた。

「お望みどおりにレディ」

 ストームは片膝を着き、絡められたフェリシアの手の甲に敬意を示すように頭を下げた。そして彼女の手の甲に唇を近付ける。ゆっくり、ゆっくりと。
 だが口付けはしなかった。寸前の所で止め立ち上がる。

「どのように致しましょう。
 手向けの花は要りますか?
 それとも十字を切るだけに致しますか?」

《Felicia》
「えぇ、ありがとう。貴方ならそう言ってくれると思ってたよ」

 指先に触れるか触れないかくらいまでに近づく唇。ところが当の彼女は挙動をみせるどころか当たり前だと言わんばかりに均整の取れたペリドットを細めている。へそを曲げた彼のアメジストも、もうそろそろ気を取り直してくれたらいいのだけれど。一度は諦められたペリドットは告げる……過去の私のことは忘れろ、と。
 そして琥珀には、逆に過去の私も愛してね、と告げるだろう。

「そうね……野に咲いている花を手折りたくないから、既に事切れている花びらを集めましょうか。それらを湖に浮かべて祈るの。せめてもの救いとなるように、と。
 ……ちょっと斬新すぎるかな?」

 ざわざわとよそぐ風の中、周りを見渡したフェリシアは続ける。
 宝石が映すパラノマは非常に綺麗で……愛おしくて……とても、とても、冷たかった。

「お気持ち表明していい?」

 言の葉の脈絡もなしに目を伏せて少女は問う。貴方の返答を待たずに話し始めるのだが。

「私は、ずっと罪悪感を感じてた。
 だけど同時に、それに囚われすぎてたのかも。過去ばかりを気にしていたら、前には進めないって知ってた。だから、目の前のことばかりに集中して熱中して、執着して、見えなくしてたんだ。犯した罪は変わらない。でも一段落させることくらいなら、できる。
 区切りを付けるためにもやらなきゃいけない。

 特に、"彼女"の死からは、逃げも隠れもせずに面と向かって悲しんで、苦しんで、痛んで。そして、腹を決めなきゃいけないの。」

 それからしばらく黙って、遠くを見つめることだろう。

 ペリドットは柔らかでいて強く輝いている。憂い悲しみ怒り苦しみ……。それらの青く入る冷たい影ですら包み込むほどの輝きを放っている。
 アメジストは沈黙、重いカーテンに隠されたトパーズはペリドットの輝きを微かに反射した。

 フェリシアの提案にストームは「素敵です」と短く返す。なんとも彼女らしく慈悲に満ち溢れた考え。ストームには壊れるその瞬間までの時をかけても理解し難いだろう。彼なら綺麗なものは綺麗なうちにと容赦無く花を手折り愛でるだろうから。けれど、彼は二つ返事で肯定した。

 だからかな。ザワザワと風が噂話するように頬を撫でる。
 噂話が遠くへ遠くへ彼らを忘れていった時、柔らかな声色がストームの耳を擽った。

「………………」

 フェリシアの心情が顔を覗かせる。沈黙に落ちるその瞬間までストームは黙ってその話を聞いていた。数日前の彼女より、数時間前、数分前、数秒前。今までのどの瞬間のフェリシアより“ヒーロー“に見えた。ストームが否定する必要も無い程に。
 舞台上に彼女だけを残し猟奇犯は舞台の袖に眠るだろう。彼女にパレットナイフはもう要らない。だってストームの中では彼女はヒーローになったから。故意的に絶望の色で染める必要は無くなった。
 ……なんて美しいのだろうか。
 あぁ。とても。凄く。……壊したい。
 ストームは今にも手をフェリシアに伸ばしそうだった。彼女の細くて白くて柔らかな声を奏でるその喉に。彼女の首を折るのはまるで花を手折るかのように簡単だ。体の中心から沸騰して溢れる衝動が彼女を壊せと囁く。

 “約束!”
 今日も約束が彼の首を鎖で縛った。ストームはだらりと力なく腕を下げる。

「ではジブンも共に腹を決めましょう」


 ストームは膝をつき靱やかな所作で朽ちた花弁をいくつか拾い集める。片手に花弁の絨毯が出来るほどまで。生きる場所が無くなった色とりどりの花弁はされるがまま彼の手に納まっていることだろう。
 それら半分をフェリシアへ。

《Felicia》
 長らく堂々巡りを繰り返していたが、それら全てが無駄だったとは思いたくなかった。しかしその都度決着をつけようとしていたのはいささか荷が重すぎたのだろう。小さな身体に悲しいくらいに重量のある対の感情を持ち合わせ、それでも尚、生きたいと願う。少女は愚かだった。されど、考える頭が無いわけでもなかった。
 どのような状況になろうとも底を変えてはいけない。それだけは、何故か深く理解していた。苦しんでいる人が居たら手を差し伸べましょう、という綺麗事は綺麗事のまま。スタート地点が違うだけで自身のゴールは一緒なのだから。

 唯、理解できないものには底知らぬ恐怖を抱く。目の前の彼がいい例だ。紳士で模範的。プリマの冠に預かった彼とて、その内に秘めるのは並々ならぬ異常性。薄くも決して見せることは無いカーテンレースに遮られたそれは少女の心を幾度となくざわつかせた。

 ただそれも、今思えば当たり前。踏み込む勇気がなかっただけで。彼も彼なりの正義と心情、そして欲望があってのことなのだろう。たおやかな笑みを崩さない少年はヒーローでないのだから。しかしそんな彼とでも条約は結べる。
 腹を決めてくれるのなら、覚悟は一緒でしょう?

「……ありがとう、散っても綺麗だね」

 自身よりも大きな手。落とさぬように、と両の手で作った器の中で花びらが揺れる。時間をかけて視線を移動させる。永遠とも言えようその空間で舞台に立ったフェリシアは、「こっちへおいで」と袖に帰った彼を呼び寄せる。実際は湖に行こうと促していたのだが、彼はそれらの言葉を確実に違う意味で受け取るだろう。


 湖の畔にしゃがみ込んだフェリシアは、丁寧な所作で花びらを水の上に浮かべることだろう。
 ひとつひとつ、愛おしむように。ひとつひとつ、労うように。
 会ったこともないの誰かとの別れを、受け入れ難いと言わんばかりに。

 痛い。……とても痛い。苦しい。
 辛い。……とても辛い。悲しい。
 怖い。……とても怖い。助けて。

 とても、怖い。

 発狂している。まだ生きたいんだと叫んでいる。だけどね、もう、貴方たちには無理なの。ごめんね
 だから、だからせめて、ゆっくり休んでね。眠ってていいんだよ。

 ヒーローに、任せて。

 花弁を全て浮かばせたフェリシアは、自身の指を絡めて強く祈る。

 拭いきれないほどの涙を、掻きむしりたくなるほどの後悔を、ここで終わらせるのだと。連鎖を打ち切るのだと、決意の炎を灯しながら。

 初めまして。ちょっと不出来な、あなたのヒーローだよ。

 幕間前の最終シーン。少女は悲しみも怒りも背負い再び立ち上がる劇的で重要なシーン。少女にスポットライトが当たり少女の声がオーディエンスの心を震わせる事だろう。どういうわけか猟奇犯は少女に呼ばれている。

 ───えぇ覚悟なら貴方様と同じ。
 ストームは声を掛けられてもなおその場から動かなかった。ゆっくりゆっくりあの子達の痛みに寄り添うように歩き出したフェリシアを見ていた。髪が風に煽られふわりと花のように揺れて輝く光を見ていた。
 フェリシアは思わず釘付けになってしまう綺麗な所作で、ひとつまたひとつ花弁を浮かべている。ストームに泣き声は聞こえない。叫び声は聞こえない。だが彼女が何を思い、何を願っているのかはっきり伝わる強い祈りはストームを誘導するように強く引っ張っている。

 しかし動こうとはしない。
 猟奇犯が舞台上に上がるには明る過ぎたんだ。眩しくて腹の底で煮えたぎらせる狂気の底まで見透かされそうな光は彼の舞台では無い。彼には程よい影が似合うからと暗転し始めた頃、フェリシアが祈りを辞める頃にようやく花弁を浮かべ始める。
 持っていた時間が長かったからか花を包み込んでいた気になり握り締めていたのか花弁は何枚か湖の底に沈み浮遊して来る気配はない。
 おやすみなさい。出来損ないの同士だった方々。
 酷く簡素に黙祷し追悼の意を示す。
 それで十分だ。所詮壊れてしまったモノ達だから。
 けれどどうせならあの子を壊しておけば……。

 祈りは確かにストームの後悔を和らげることになるだろう。が貪欲な彼にはちいさな悔いが残ってしまうのは仕方の無い事。コアのピースが見当たらない感覚、ストームはこの瞬間に嫌いになった。


「……フィリーあの後なにか進展はありましたか?」

 祈りを捧げ終えるとストームはフェリシアの方へ振り向き彼女に頼んでおいた件について問いかけた。
 感傷に浸る間はストームには必要無かった。

《Felicia》
 お披露目に行った全てのドールが安らかに眠りますように、と手を合わせる。── 合わせれた手は、長らく離されることがなかった。溶けていく時間に比例するように叫び声は膨らんでは萎んでいく。絶え間ない絶望の波の中でヒーローは応える。逃げないのだと。私は此処にいるのだと。
 浮かんだ餞は未だ沈んでいない。揺れる水面に合わせて揺れ動くそれらは、彼女の意志の強さ其のもののようだった。

 静寂と森の匂いに包まれるその場所で、少女は時間をかけて瞼を開く。伝えきれないくらいの思いを抱えている。されどそれはいつになく磨かれていた。ペリドットは光沢を帯びる。太陽を反射する。
 …… 鮮やかな門出を祝うように。
 苦しみは変わらない、痛みも後悔も変わらない。されど前ほど暗く支配されることはなかった。一度結んだ約束は、覚悟は、違えることはないだろう。

 あなたが手を合わせたとき、隣の少女は頬杖を付いて物珍しそうにその様子を見つめていることだろう。彼の花は既に萎れていたのか先程浮かべた花弁の横を抵抗なく滑って堕ちていく。その刹那の刻を忘れることがないように。フェリシアは複雑そうに目を細めた。
 貴方が祈りを終えても、最後のひとひらが堕ちるまで彼女は視線を移さなかった。

 ── 嗚呼、落ちてしまった。

 最後まで見送ると、時間を惜しむようにゆっくりと貴方に向き直ることだろう。進展ということは……先日この場所で話したアレのことか。フェリシアは立ち上がる。

「……私より、貴方のアメジストの方が詳しいと思うよ。」

 それが答えである。淡々と尋ねる彼の感性は相変わらず理解が及ばない。だがいいのだ。……きっと。
 知るべき時に知るのだろうから。
 そのまま貴方が何も言わなければ踵を返して帰路につくだろう。

 フェリシアの言葉にストーは数回瞬きした。アメジスト、という単語に一瞬思考が止まる。いくらちぐはぐな瞳だったとしてもストームから見た世界は普通のドールと何ら変わらない景色が広がっているから。フィルターがかかる訳では無いのだ。
 ストーム自身瞳について、ただパーツが揃わなかっただけの有り合わせドールだと自認していて急にアメジストと言われたとてすぐに分かるわけでは無かった。
 今朝鏡を見た時、一体どちらにアメジストはあっただろう。ストームは自分自身に懐疑的になりながら右目に埋め込まれるアメジストに指を近づけた。

「……こちら、ですか。成程………。
 ところでどなたでどのように調べましたか?」

 ストームはあっさり頷くと質問を重ねる。ソフィアに知らせるのなら正確な位置と確認方法を情報として得なければという忠誠心を持っていたから。
 事実に証拠に基づいた正しい情報を正しく伝えなければ。それだけが今のストームの存在意義なのだから。

《Felicia》
 小動物を感じさせる大きな瞳が音が出そうなくらいに大きく瞬く。
 なるほど、可愛らしいと評される訳だ。驚くのは無理もなかった。流石は元プリマドール。感情の起伏はそこまで大きくないらしい。フェリシアは一先ず胸を撫で下ろした。以前の自身のように涙を流されたら……間違いなく、どう声をかけたら良いのか分からなかっただろうから。
 言葉にされなければ、エーナですら相手の心を知ることなど中々できるものでは無い。どれだけ相手を慮っていようとも難しいことである。だから、貴方に蔓延る自分への無関心をフェリシアは知り得なかった。知っていたら、何かしら話せていたのだろうが。

「あ、あぁ。えっとね、教えて貰ったの。ロゼちゃんがブラザーくんと調べてくれてたみたいで。人伝だけど間違いないと思う。私もそこに手を当ててみたとき、確かに違和感を感じたから。」

 お披露目に行ったドールたちを弔ったばかりだと言うのに。彼の中での舞台の場面は、ものの数秒で切り替わっているらしかった。
 しかし彼女は信じている。彼が、そこまで心が冷たいドールじゃないことを。つくづく全てのドールに真面目なだけなのだと。フェリシアは嘘をつくこともなく、事の経緯を素直に話した。

 発見者の名前を聞くに、どうやら元プリマドールだけに発信機が付けられている訳では無いらしい。ブラザーの瞳に埋め込まれたアメジストにもロゼットの瞳に埋め込まれた真珠にも彼らを監視する小さな監視者が潜んでいるのだと。
 そして、フェリシアのペリドットにも。
 彼女が触れて確かめたというのならストームにもそれが可能だろう。だが、ついさっき彼女に対しての暴虐的な欲望を抑え込めたばかりで彼女に触れる事なんてしたらそのまま───────
 待てを強いられる。何度も何度も。彼を繋ぐ首輪はそれほどに強くて硬いものだった。

“    約       束    ”
 ストームの頭を強打する一つの単語の拘束がくらりくらり。彼の頭を薬漬けにし麻痺させて溺れさせる。
 壊してはなりません……まだ……。

「フェリシア、失礼致します」

 ストームはフェリシアの頬を指の甲で撫で、自身の瞳の方に誘導させるように顔をあげさせた。少しでも力を入れてしまえばボロボロと崩壊してしまうのでは無いかと思うほどに柔らかで陶器のような肌。芸術品に触れてはならないと古来から言われる所以のような気がしてならない。何もかもが台無しになってしまいそうだから。
 トイボックス一愛嬌のある顔のフェリシアの瞳と交差するとストームは目を細める。
 可愛らしい貴方様、いつかジブンのモノに。

 フェリシアの横髪を撫でるように彼女の耳にかけストームは彼女の瞳を探り始めるだろう。

《Felicia》
 フェリシアは嘘を“つけない”。
 同クラスで彼女と学園生活を共にしていた貴方なら、それを知らぬ筈がないだろう。発信機が付いているのはプリマドールだけではない。全員に付いていて、ドールズの居場所は個人は特定できずとも先生に把握されているのだろう。
 ── そう。今この瞬間さえも。

 知られてはいけない。見られてはいけない。聞かれてはいけない。

 何もかもが残酷な嘘で塗り固められた優しい箱庭で。
 涙と後悔にまみれた、箱庭で。
 今日も飽きずに、私たちの鼓動は波打っている。

「………うん?」

 不意に添えられた冷たい指先に誘われて、フェリシアは貴方と目線を合わせるために顔を上げさせられる。……何をするつもりだろう? 意味ありげな貴方の表情に、とくん、と一回。コアが跳ねたような気がした。添わされるままに身体を硬直させる。

「ん……」

 優しい手つきで右目に触れられる。やはり感じるのは、あの日と同じようなとてつもない異物感。ソレが入っていっているのだと嫌でも分かる。

「ちょ、ちょっとストーム? 私の目触っても分からないんじゃ……はぁ。
 ほら、こんな感じだよ。」

 貴方が満足するまでとりあえずは自由にさせていたが、それが終わると呆れたように小さくため息をつく。再度貴方を見つめて貴方の可愛らしく大きな右目に手を伸ばすことだろう。

 フェリシアの瞳の球体をなぞろうとただ柔らかな陶器を愛でているだけだった。ストームは大きな瞳を一度パチリと瞬いて不思議がる。
 どうやら他人が触っても気付かぬ程の小さな監視者らしい。呆れ返ったフェリシアのため息にストームはパッと手を離す。

「そうなのですか。これはご無礼を」

 レディの手を煩わせてしまったストームは胸に手を添え頭を下げると無礼を詫びた。眉を下げ睫毛を伏せるストームの表情は叱られてしまった犬のよう。ポジティブな感情表現は苦手でも、ネガティブな感情表現に関しては豊かであった。友人として接することの出来るテーセラドールとして友人失格になるであろうが。
 フェリシアの小さな掌が伸びてくればストームは身を屈ませる。彼女の指が肌を滑り擽ったさがコアまで響いた。
 しかし、次に彼女が指先に力を入れると嫌な感触に襲われる。
 目玉の奥、小さなビー玉が脳みそを直接押しているようで気持ちが悪い感覚。思わず右目を歪ませた。

「これは…………好感が持てませんね」

 咄嗟にフェリシアの手を取りそっと自身の右目から離すと眉を近づけて吐き捨てた。本当に監視されていたという事実。感じた事ない感触。
 沈殿して濁った液体が回路に流れ込んできた感覚に襲われる。
 気持ち悪い………………。
 ストームは額を手で覆いふるふると頭を振るった。
 今すぐに出てけ。忘れろ忘れろ。と。
 だが覚えた感覚は忘れられっこなかった。

「失礼、致しました。少し目眩がしまして。
 ……そろそろ夕暮れも近いですし肌寒くもなってきましたから帰りましょう」


 すぅ……と息を吸う。
 レディに余計な心配をかけるほど愚かな真似は無い。だからストームは息を吐き出す頃にはいつものつまらなそうで何を見ているのか分かりっこない瞳に戻っていた。
 そして寮に目線を移し言った。
 フェリシアが歩き始めればそのすぐ後ろを彼女を追い越さない程度の速度で着いてゆく。寮の扉は彼が開け、彼女をエスコートする事だろう。
 今日という日が終わる。
 花弁を湖に残して。