Sarah

 ざーざー、ざんざん、どしゃどしゃ雨がたくさん降っている。夕食終わり先生から告げられたアストレアサンのお披露目。サラが知っている中でオミクロンクラス【はじめて】のお披露目に選ばれた。しかも元プリマのアストレアサン。表情が変わることはなかったが嬉しさのあまり席を立ち今すぐにでもおめでとう、そう言いに行きたかったが先生サンの話を遮ってはいけない。それに彼女は人気者だからすぐに囲まれちゃう。
 アストレアサンも選ばれたのならもしかしたら、もしかしたら自分も選ばれるのではないか。そんな淡い希望を抱きながら、食器やらカトラリーを戻すため席を立ち食堂から出る。

「指輪は、好きな人に、思い立ったが、吉日」


 同じ言葉を繰り返しながら階段を降りてエントランスホールに向かう。兄さんがいつも言う言葉、アストレアサンは好きじゃないけど嫌いじゃない。でも嫌いじゃないならきっと好きな人。降りてる間にマフラーが崩れだらんと垂れてしまっているが、それも気にしないぐらいに早く指輪を作りに行きたいようだ。

「あっ、雨……」

 エントランスホールに無事についたが扉につく水滴で土砂降りなことを思い出し、置いてある傘を手に取ろうとする。頭は指輪で埋まっておりすっかり忘れていた。しかし傘の柄を掴んだ手はすぐに離れ、代わりにドアノブを握り開けようとする。
 雨なんて気にすることない。むしろ傘があっては花を摘むことができないではないか。それに水が自分から離れ一緒に花を摘むのを手伝ってくれるかもしれない。水が好きな雨雲なら彼さえも下まで降りてくるかも。
 服を濡らすのはいけないことかもしれないけど、雨と遊ぶのは楽しいの。

【寮周辺の平原】

 あなたは雨が降り頻る悪天候の中、傘も持たずに寮を飛び出す。必然的にあなたの髪や頬、制服はさほど時間を経たずにびしょ濡れになってしまうが、あなたはそれでも花を探しに向かってしまうのだろう。不幸なことに、周囲にはそんなあなたの行動を呼び止める歳上のドールや先生も居合わせなかった。

 柔らかい草地は、雨に濡れてひどくぬかるんでいた。しかしテーセラのあなたはそれに足を取られることなく、寮のすぐそばの花畑に至るだろう。
 さまざまな色の花が咲き乱れている花畑の中央には、欠け落ちた天使像をモニュメントとして据えた噴水が設置されていた。

 花々はただ咲き誇っており、特筆すべき異変は無さそうだ。

「すぐにビチョ濡れだ。早く離れないかな」

 扉をくぐり足を踏み出した瞬間には、もう頭から足の先までびっちょり。傘を取りに戻ることも考えたが一度濡れてしまったならもういくら濡れても一緒だ。濡れて重くなったマフラーを巻き直し軽い足でぬかるみさえも飛び越え、時に思い切り踏みつけ進んでいく。ぐちゃり、と音がし泥が靴にはねていくがどうせ雨にすべてが流されるのだから。
 そして最後に水が離れてくれれば綺麗なドールになれる。
 ひどい雨だからかドールや先生もいない。一人っきり。少し寂しいようなそんな気もするようなしないような、花壇にはすぐに付きそばに座り込む。

「何にしようかな、アストレアサンの色」

 ちょっと紫の青い目が印象強いアストレアサン。それに合うような花を探すが中々納得行くものが見つからない。
 白い花を二輪茎を折り摘み取る。トゥリアのドールについてきてもらったほうが良かっただろうか。彼らならきっとより良い花を選び上手く編んでくれる。まあこんな土砂降りなら誰も来ないだろう。

 花を片手に立ち上がり、空を見上げれば、灰色の雲にやまない雨、離れない水。
 喧嘩でもしたのだろうか。いつもなら雨雲がすぐ降りてくるのに。
 欠けた天使像を一瞥し森林の方へ足を向ける。授業でよく行く森林。きっとあそこならぴったりが見つかるかもしれない。

【寮周辺の森林】

 あなたは降り頻る雨をものともせず、ずんずんと寮を離れて森林へ向かっていく。木々の根や背丈の高くなった草地は全て雨水に濡れており、また目に染みる雨のせいで視界も悪く、あなたは進んでいくのに大変な苦労を要しただろう。

 だというのに森林にはちっぽけな花が数輪咲いている程度で、立派に咲いているような花は見つからない。
 あなたはすっかり水を吸って重たくなった制服を引きずり前へ進もうとする。

 そんな時、あなたの後ろから通り抜けるようにして、青い輝きが通過したように見えた。大雨によって霧が立ち込めるその向こう側を、ふわふわと漂う青い光が扇動するように先へ向かう。
 あなたはそれを追うだろうか。

 雨は一向に降り止まない。水と雨雲は未だに不仲。この調子じゃあ協力を願っても無駄そうだ。視界も悪く思い服を引きづっての移動は厳しいため木を背に座り込む。多少の雨は防げるものの葉っぱの隙間からぽつりぽつりと額に落ちてくる。片手でマフラーを軽く絞り再度首巻いては首を振り水滴を落とそうと。

「ちょっと、休憩」

 二輪の花を眺めては、なんとか指輪にしようと茎を曲げたり葉を取ったり試行錯誤する。今日空っぽの右手はなんの役にも立たず、ただ肩からぶら下がってばかり嫌になってしまう。何度も負ったり曲げたりした茎は元の鮮やかな緑はどこへやらくすみ、痛みx人にあげられるようなものではなかった。だがようやく指輪と呼べるようになったもの、一個でもできたのならサラにしては上出来だろう。
 不格好な白い花の指輪を一個、指輪ではない萎れかけている方もポケットに押し込み勢いよく立つ。そろそろまた動かなくては、就寝時間前に帰らないと。
 重い制服を引きずり前へ進もうとする。そんなときだ、なにか、なにか青いのが通り過ぎたのは。光っていた。光る、浮く、青いもの。疲れた頭ではそれがなんなのな捉えるのは難しい。

「飛んでるもの……青空だ、きっと」

 水と雨雲の不仲を見かねてきっと降りてきたのだろう。青い光に惹かれるようにそれを追いかける。追いかけたのは青空に天気を変えてもらうようお願いしたかった。そうすれば雨雲は家に帰って水と仲直りできるはずだ。

 あなたはまた駆け出して、茫洋と瞬く蒼光を熱心に追跡した。足元の泥が跳ねて制服が穢されようともお構いなし。

 そうして追いかけ続けて、気がつく。あの青い光は、青白い蝶のほのかに輝く翅から発されているのだと。煌めく翅は降り頻る雨を気にも留めず優雅に舞い、あなたを翻弄するようにふらつきながらもどこかへとあなたを誘う。

 やがて辿り着いたのは、あなたを守る鉄の柵だった。

 この柵は寮の周辺を取り囲むように円形に建てられており、高さは2mほど。あなたはまず頂点を見るために見上げてしまうほどだ。格子状のそれはツルツルとしていて、道具なしにはまず登れないだろうと悟る。
 それに決まりごとで柵の外へ向かうのは禁じられている。

 見上げた先、柵の頂点にはあの蝶が悠々と留まっていた。
 そして目線を下げると、あなたの足元に雨水に濡れた青い花を見付ける。あの蝶と同じ、優しい蒼光を発しているその美しい花は、どこか浮世離れした印象をあなたに与えた。

 走って、追い越さないように歩いて、またちよっと走って。サラの視界には青い光がチラチラと映り込んでいる。他のものは全部ぼやけて、泥がはねようが雨が強くなろうが弱くなろうが、そんなのどうでも良くなるぐらいに目は青い光に釘付け。

 なんだ、青い光は青空じゃなかった。蝶々だ。青い蝶々。どこから来たんだろう。こんな雨の中。

「ここまで来ちゃった、」

 眼の前にそびえ立つ柵はサラの背の何倍も高く、背伸びして手を伸ばしてもてっぺんにはギリギリ届くか届かないかぐらい。こんなに柵の近くまで来るのは初めてだ。柵の外には行ってはいけない、なんとなく授業中でも近くに行くことはあまりなかった。柵のてっぺんにいる蝶々は自分をここまで連れてきたかったのだろうか。珍しく何も喋らない。お喋りな子や怒りっぽい子、寂しがりやな子、どれにも当てはまらない。はじめまして。
 ふと下を見れば青い蝶に似ている青い花。

「キミもはじめましてだ。喋らないの? 寝ているの?」

 授業でも学園でも寮でも見たことのない青い花。ガーデンテラスには無かったはず。少しいつも見る花と違う。兄さんの周りによく集まる花でも、リヒトサンの冠作りを応援する花でも、ミシェラチャンと遊ぶ花でもない。

 頭にはてなマークを浮かべ首を傾げながら青い花に話しかけ屈む。今日は水と雨雲の仲が悪いから雨は一向に降り止まない。強いのは好きだ。雨が振りながらも、枯れること無くうなだれることなく咲き誇る花も。

 もしこの花をアストレアサンにプレゼントしたら喜んでくれるだろうか。望んでいた色ではないが、おしゃべりさんの白い花もいいけれど。ダンマリさんもアストレアサンとアストレアサンの主人サンのいい話し相手になる。

 あなたは雨水に頬を濡らしながら屈み込んで、降り注ぐ雨中の花に指先で触れる事だろう。
 暗がりで淡く輝きを発する花弁のつるりとした手触りが指先に伝わる。そっと花を手折り、あなたがそれを手元に引き寄せると、水を滴らせながら僅かに揺れた。

 いかにも儚そうな花だが、雨の中でも花弁は落ちていない。匂いはなく、とても軽く、存在が希薄なようにも思える青い花。

 あなたはこれを、どうしてかどこかで見たことがあるような気がした。言いようのない既視感に襲われた時、あなたの側頭部が唐突に鈍い痛みを発する。それは体感した覚えのない、引き攣るような痛みであった。
 あなたは思わず花を地面に落とし、その場に手をつきながら、幻の景色を垣間見る。

「きれい、はじめましてじゃな、ぁあ゙……痛い。痛い。痛い。にぃ、さ、ん。」

 手に取った青い花。とてもきれいだった。きっとこれならアストレアサンも喜んでくれる、そう思いながら3輪摘み取り手に収める。綺麗で強いだんまりさん、でもどこかで見たことがする。それがどこであったか、思い出そうと頭を捻ったその時。今まで感じたことのない痛みがサラの頭に走った。
 雷にいたずらされたときや間違えて木から落っこちたとき、そんなことは比べ物にならない痛み。摘んだ花はサラの手から落っこち泥に着地する。

 少しでも痛みを和らげるように、地面に助けを求めるかのように倒れ頭を抱えうずくまり、何度も兄の名前を呼ぶ。助けて頭が痛いの、いつもみたいに優しく包んで眠らせて。
 頭に次々と流れ込んでくるこれは、夢? 前に見た夢。昔見た夢。

「ボクが、これを見つ、けてそれでそれで」

 必死にたどる記憶。岸際に咲いていたきれいな花。そうあのときも確か誰かにあげようとして。兄さんにプレゼントしようとして。あともう少しで取れる。そんな時に岸は崩れサラも落ちた。掠れるような声を絞り出し泥で汚れた手であるにも関わらず頭をかく。ノートに書いたなら忘れないはずだと言うのに自分は忘れていた。

「兄さんが掴んだのは……あれ右手、いやでも、でもボクの右手は。無くて。でもあのときはあって。
 変だよ、おかしいよ。なんで。なんで。
 おかしい、の? 違う。
 きっと気の所為だ、でも……うん、大丈夫」

 あのとき見つけて掴んだ花と同じ。勢いよく起き上がり泥でおめかしされた青い花を掴みまじまじと見る。頭が混乱する。わからない。左手には青い花が3輪掴まれており右手は空っぽ何もつかめない。なのにあのとき──兄さんが崖から落ちそうになったとき掴んだのは、間違いなくサラの右手だった。ぐるぐると頭が回る。
 無理やりハマっていた夢のカケラがこぼれ落ちていく。今自分の手はあるのか、今見たのは夢なのか現実なのか。コアの周りがズキズキと音を立てて痛む。
 本当に今自分の手は無いのだろうか。
 滅多にたくさん喋らないため喉が乾いた。落ち着くため一度深く息を吸い、吐く。

「あっ、仲直りしたんだね」

 頭が痛く無くなるのにそう時間はかからず、気がつけば雨は引いて空は暗くなっていた。きっと水は雨雲と仲直りしお家へ帰ったのだろう。握りしめていた3輪の花をポッケに押し込み、自分を混乱に陥れた花から一歩下がる。
 ここであったのは全部気の所為。夢。
 そう頭に整理をつけ、どろんこな体をきれいにするためにもその場から離れる。

【学生寮1F 洗浄室】

 洗浄室は二つの区画で分かれている。
 手前側の区画はドールズが制服を脱いで皺がつかないように保管しておく場所。この区画はリネン室も兼ねており、シーツやタオルの替えも何枚も棚に収められている。

 奥には洗浄室がある。ドールズが自身の体内に巡る燃料の老廃物を摘出し、洗い流すための区画だ。中央にはドールが横たわるための作業台が一台設置されている。

 せっかく帰りに雨で泥を落とそうと思っていたのに、雨はすっかり上がって水と雨雲は仲直り。別に悪いことではないけれど、土にくるまっていたからか頭のてっぺんから爪先まで泥だらけでびしょびしょ。マフラーもぐったりして昨日みたいに自分から巻き付いてこない。

 寮に帰って水でできた足のスタンプをペタペタと押しながら来たのは洗浄室。ため息を付きながらドアを開けうっとおしいマフラーを首から取り棚に置く。体を拭く時に押しつぶしてはいけないからポケットから白い花を一輪、白い花の指輪のようなもの、それから青い花達を取り出しマフラーの横に座らせる。

「タオルタオル、」

 手に取ったとタオルで体をガシガシと拭きながら奥の洗浄室へ向かう。マフラーがどんよりぐったりしていてはこちらの気分も下がってしまうので元気づけるには体を綺麗にしないと。

「ボクらの液体、と青の液体」

 洗浄室の中央にある作業台。ボクらをスッキリさせてくれるために寝る作業台には赤黒い液体がこびりついておりそれだけ何も気にならなかった。なのに。一緒にこびりついている青い液体、先程あのようなことがあったからかどうやら青いものには敏感になっているようだ。
 そういやあのあと青い蝶々はどこへ行ったのだろう、まだあそこにいるのだろうか。またあそこに行ってみよう。

 ドールの洗浄を行うための奥の区画には、赤黒い汚れがこびり付いた作業台が置いてある。これはドールが洗浄の際横たわるためのもので、この汚れは洗浄の末に排出する老廃物であるとあなたは知っている。

 そんな作業台の上に、僅かに青い液体が付着していることにあなたは気がつく。それは乾いたインクのように作業台に定着していて、拭っても取れないものだった。無臭であり、青いということ以外に特徴が見られない。

 ……これもドールの身体から出てきたものなのだろうか?

 また、あなたが作業台に近付くなら、その足元に大きな傷が残っていることに気が付く。まるで作業台に乗ったドールが激しく暴れたかのような、怖気の走る生々しい傷だった。


 あなた方が身につけている衣服は、日頃このリネン室に集めて後にまとめて洗濯することになっている。泥に塗れたマフラーや制服も、一度この部屋の洗濯籠に入れておくといいだろう。

「青い液体のドール、オミクロンの子かな」

 オミクロンクラスは欠陥品クラス。おかしいクラス。だから普通は赤いけど青い液体が流れているドールもいるかもしれない。サラの知っている中でそんなドールは一人も見当たらないが。
 首を数回振っては余計な考えを追い出す。こんなこと考えたって何にもならない。

「かわいそ、痛そうだね。そんなに柔くなさそうなのに」

 作業台に刻まれた傷を撫で物に同乗する。痛かったろうに、ここで多分ドールが暴れたのだろう。さぞかし力の強いドールなのか。結局先生サンには勝てないのに。
 傷の生々しさに怖気づいたのか撫でる手を止め、ゾワゾワする感覚を消すようにタオルで手を拭く。早く良くなるといいね。しかしそんな思いとは逆に体は回れ右。嫌なものはもう見ない。作業台から離れリネン室に駆け足で戻る。
 グダグダ。手助け無しで着替えるのは少々難しいのか手こずりながらも靴下、ズボン、それから上の服。簡単なものから脱ぎ洗濯かごに入り込んでは新しい制服を手に取り今の作業の逆を行う。作業がしやすいように裾を捲ってしまえば完璧。
 残るは濡れた泥だらけのマフラー。

「やっぱやーめた」

 それも洗濯かごに落とそうとするが、気が変わったのか再度首に巻く。新しかった制服の首元は濡れ泥がつく。いくら汚れてたってぐったりしてたって無いと嫌なのだ。ここで洗濯かごに入れてしまっては戻ってくるまでに時間がかかる。そんなの嫌だ。
 マフラーのそばに置いておいた花たちを掴み、ポケットに押し込み洗浄室から出る。
 ポケットから聞こえる花のヒソヒソ声。いったい自分達はどこへ連れて行かれるかわかっていないのだろう。大丈夫、送る相手はよくわからないけど優しい人。きっと喜んでくれるよね。

【学生寮1F ラウンジ】

Astraea
Sarah


「そろそろ大丈夫かな」

 制服を変え綺麗さっぱりきれいになった後、アストレアサンのいるラウンジをちょろちょろ歩いていたものの、人気な彼女は常に取り囲まれている。なるだけ彼女の邪魔にならぬよう端っこの壁の方に背中を預けていた。
 ようやくアストレアサンが空いたためやや急ぎ足で彼女に近づく。ポケットに入れられた手は力強く青い花と白い花を握りしめている。喜んでもらえるだろうか、もしだんまりさんが嫌いだったらどうしよう。そんな思いがぐるぐると頭を巡る。しかしテーセラのサラがいくら考えても無駄。行動あるのみ。

「アストレアサン、お披露目おめでとう」

 サラの知る中で【はじめて】のお披露目にいくドール。自分が選ばれなかった悲しさはあるがアストレアサンほどすごいドールなら納得も行く。口角の少し上がったほほ笑みを浮かべたドールは貴女の前にたった。

《Astraea》
「おや、サラ。ごきげんよう。
 もしかしてお祝いをしに来てくれたのかい? 嬉しいね、」

 人の波を掻き分けて顔を覗かせた小さなドールに気が付けば、慈愛の笑みでそう言う。
 脇に寄せていた本を退ければ、座って、と言わんばかりに隣を指した。
 普段、多くを語る方でないこの小さなドールを、アストレアはいつも、優しく見守っていた。隻腕であるからか、そのどこか地に足の付かぬ惚けた性格からか、どこか危なっかしさのある彼女を、王子様は気に入っていたのだ。
 オミクロンクラスに来るまではその存在すら知らなかったけれど、いまや大事な十五、否、十四の仲間の内の大切な一人。嗚呼、別れ難いな、だなんてその頭の隅に考えながら、自身より低い位置の顔を覗き込む様にその頭を傾げて。

「ごきげんよ、うんえっと」

 アストレアサンの隣に腰を下ろし返事を真似て返す。ちょっとよくわからないけれど優しくて嫌いになりたくない人。オミクロンだけれど選ばれた凄い人。左手をポッケトに入れ先程手に入れた花たちを撫でる。……そんな人へのプレゼントがあの青い花でいいのだろか。
 すごく頭の痛くなった青い花。もし、もし彼女も自分と同じく頭がズキズキと傷んでしまったら。壊れてしまったら。
 そんな嫌な考えがぐるぐるぐるぐる頭が回る。ポケットに入った青い花をぎゅっと握りしめ、何度か口を開いては閉じを繰り返した後にやっと声を出す。

「……アストレアサンは、青い花知ってる? なんか、こう青空みたいで、ちょっと弱く光ってた、かな多分」

 先程の出来事を思いだし伝えようとするが、言いたいことより気持ちが先走ってしまい思わず前のめりになりながら、抑揚のない声で話す。もし知らなかったらだんまりな白い子を渡そう、知ってたらきっと頭はズキズキしないはず。綺麗な青空の花。頭が痛くなかったら気に入ってくれるだろうか。

《Astraea》
 底深い夜空の如きラピスラズリは、夜明けの明るいオレンジサファイアをぼんやりと映して、口の端は三日月の如く弧を描いた。
 何かを云わんとしているらしき子猫のその顔を、優しく見詰めては、話し出すのを辛抱強く待っているようであった。

「青い花? …………うん、そうだね、知らない、と言えば嘘になるけれど。サラは知っているの?」

 サラの口から出た"青い花"と云う言葉を聞けば、アストレアは微かにその瞳孔を細めた。
 青く輝く花は、あの夜、怪物の頭に場違いなまでに可愛らしく(笑)咲いていたもので、むしろそれしか記憶にない。でも、どうしてサラがその花を知っていると言うのか? そのかんばせに優しい笑みを湛えたままに、さりげなく聞き返しては、心の底をざらりと撫でた違和感に知らないふりして。

 そうか、彼女も知っているのなら安心だ。ほっと胸をなでおろし握りしめていた拳の力を緩める。きっと頭がズキズキ痛むよなことはないはず、ポケットから白い花と青い花をポケットから取り出す。もともと一輪残す予定だったが気が変わった。親友にも見せてあげたい、そう思っていたがアストレアサンに一輪のみあげるのでは味気ない。なら今二輪あげてまた後で取りに行こう。
 あのとき頭がズキズキ痛んだのは気の所為だ。
 きっと、サラは欠陥品だから。だから痛くなったんだ。

「青空が、じゃなくてだんまりさんなちょうちょが教えてくれたんだ」

 思い出すようにぽつりぽつりと話す。せっかく仲直りさせに青空が降りてきたのかと思いきやただの青い蝶。今度青い花を取るときは片手に虫取りかごでも持っていこうか。想いを馳せながら自身の膝に花たちを並べればまるで小さなお花屋さん。時間が立ってしまったからか白い花はその純白さを若干失い指輪は萎れていた。指輪をアストレアサンの細長い指に近づけ太さを確認する。貴女が拒まなければその指に花が咲くだろう。

《Astraea》
「ふふ、とっても綺麗だね、これは指輪かい? サラが? ありがとう。大切にするよ。」

 細い指に巻かれた柔らかな茎がひんやりと冷たく、しとやかな青い花弁が深々と淡く、美しい光を放っていた。
 指輪の巻かれた掌ごと、胸の前で大事そうに抱えては、大切にする、だなんて確証すらない約束を。
 無邪気にその息の根を止められた花々は、小さいなれどまるで花畑の如く手の上に萎れ掛けながらも咲き誇り、鼻を近付ければ微かに植物らしい、甘い香りがするだろう。然し、どうしても引っ掛かるのはこの花の出処。寮の周りや花壇にこの青い花の咲いているのは見た事がない。サラが、隻腕のドールが、何故こんなものを持っていると言うのか?

「……時にMy Dear Cat、君はこのとっても素敵な花を何処で見つけたの?」

 聞いてしまうのが手っ取り早い。きっと怪しまれることも無いだろう、だなんて考えては、至極端的に、最短距離の質問を投げかけた。

「だんまりさんだけどアストレアサンと主人サンのいい話し相手になると思う、多分」

 摘んでからここに来るまで一言も喋らない花に不安を覚え多分、と付け足し保険をかける。ガーデンテラスにいた子もだんまりさんが多かった。まだラウンジにはちらほらドールがいる、恥ずかしがり屋さんは口が回らないのだろうか。演奏会があったときは観客席を飛び出し奏者を囲い素敵な声を演奏室に響かせていたというのに。
 彼女の大切にしてくれるという発言にサラは大変満足そうな雰囲気を醸し出す。大雨の中摘みに行ったかいがあるものだ。

「今日は猫じゃないよ。
 青空、青空が落っこちてきて柵の近くまでボクを連れて行ってくれた。……やっぱりちょうちょだったかもしれない」

 頭のてっぺんを触りドールとして正しい位置に耳があるか確認した後顔をぺたぺたと触ってもヒゲは無いし鼻も正常に機能している。それ見たことか、とでも言わんばかりの表情……は変わっていないが。時々言われる言葉。なぜ彼女がそのような不思議な言葉でドールを呼ぶのかサラにはわからない。

 夢見がちドールは先程見た青い蝶をもう青空に変換してしまったがなんとか直せたようだ。不思議な青い蝶。何処か興味を惹かれた青い蝶。また柵の近くに行ったら会えるだろうか。

《Astraea》
「ふふ、君は面白いことを言うね。
 寡黙な花にお喋りな花だなんて、まるで不思議の国みたいじゃあないか。大丈夫さ、今はまだはにかんでいるけれど、きっとこの子達は上手くやるよ。勿論僕もね。」

 つるりとした陶器の頬にムーンホワイトの長い睫毛を伏せて、形の良い唇を花に寄せれば静かな口付けを落とす。
 隻腕ドールの語るのはいつも、夢と現実の狭間に居るような、雲を掴む様な、そんなのらりくらりとした言葉。フィクション的で、されど物事の深淵を覗くような感覚に、酷くぞくぞくするのは、深淵もまた此方を覗いているからだとでも云うのか。
 軈て、白妙菊を掻き分けて顔を覗かせたラピスラズリはうっとりと光を灯して、希望さえをも巧妙に演じていた。

「今日は猫じゃあないの? 昨日ならば猫だったのかな?

 ……そう、柵の周りにね。こんな綺麗な花があるだなんて、ちっとも気が付かなかったよ。きっと神様の気まぐれで空の欠片が蝶として遣わされて来たのだね。」

 夢現なれど比喩をまともに受け止めんとするその様子に、微かな笑いを洩らしては、嫋やかな指先で、"猫"の柔らかな癖毛を一度、二度、三度、と撫でてやって。
 貴方の言葉を理解する様に、ほんの数刻考え込んでは、相手の調子に合わせる様に笑って云った。

「アストレアサンなら大丈夫だよ。ボクの知っている中じゃはじめてオミクロンから選ばれたんだから。」

 落ち着きも自信も、気品さえ持ち備えている。プリマドールだった頃の彼女をあまり知らないためなぜ落ちてきたのかすら知らないが今選ばれた。オミクロンにいても選ばれた。そこが重要なのだから。
 垂れてきたマフラーを再び肩に回し彼女に向き合い、励ましの言葉になるかもわからないが声をかける。
 話し上手なエーナのようにうまく言葉を選ぶことはできない。
 トゥリアのように安らぎを与えることもデュオのように道を教えることもできない。
 今回は手を引くこともできない夢の中のサラは不器用に言葉を紡ぐことしかできないのだ。

「じゃあやっぱりあれは青空だったってこと? こんどアストレアサンにも見せてあげるね」

 貴女の言葉に首を傾げながらも提案する。捕まえたら絵が上手なドールにお願いして、絵を描いてもらって、先生にお願いして、お手紙を送ろう。実物を見せられないのか残念だけれどアストレアサンなら欠片だけじゃなくて空全体すらも手に入れてしまいそう。

「アストレアサンくすぐったいよ。
 あっ……宿題、宿題出ているの忘れてた。
 ごめんねアストレアサン、またね」

 座っていた場所から勢いよく立ち上がり慌てふためく。設計年齢の割には高い背のため撫でられることなんてすっかり無く思わず寝に入るところだった。すっかり忘れていた明日提出するべきもの。この前兄さんとやったはずだったがそれはまた別。
 彼女に手を振りこれから走るのかマフラーを抑えラウンジから飛び出そうとする。きっともうこの先会うことはない。ならしんみりお別れするよりいつも通りの方が良い。きっとサラは最後まで微笑んでいた。
 彼女が呼び止めなければ嵐のように去ろうとするサラは一目散に学習室に向かうだろう。

《Astraea》
「初めて、ではないのだけれど……まぁ、君が言うのなら僕はきっと大丈夫だね。」

 初めて、だなんて。
 この子はきっとあの惨状を知らないのだけれど、それでも、あの子を、ミシェラのことを、忘れているのか。微かな違和感を覚えつつ、そのかんばせに浮かべたのはただ無機質的で温かみなどまるで無い、ツクリモノらしい笑顔だった。
 大丈夫な筈など無い。分かっている。怖い。死にたくない。抗うことなど、できるはずがない。

 ……大丈夫。

 "きっと上手くやるさ。"

 テーセラドールの不器用で真っ直ぐな思いやりは彼女の心を突いたけれど、現実を崩すことなど出来なくて。サラ、君は、生きるんだよ。

「ふふ、楽しみにしているよ。宿題頑張ってね。
       ……じゃあ、また。」

 立ち上がった勢いのままに危なっかしい彼女に、すかさずその手を差し出しては激励の言葉を掛ける。走り去っていく背中にその心中を俄に騒がしくなるのを感じながら、眉毛を下げる。
 最後に、夢見がちな子猫の為に、王子様は優しい嘘を着いた。

 また会えるだなんて、何の確証も得られないままに。翻された勿忘草色のマフラーに、その御手をいつまでも、いつまでも、振り続けていた。

【寮周辺の森林】

Amelia
Felicia
Sarah

《Amelia》
「……来て下さるでしょうか。」

 レコードを作った次の日。
 彼女は森で二体のドールを待っていた。
 一人はフェリシア。
 彼女が最も信頼を置くドールであり……そしてリヒトによるとレコードを持っているらしいお方。
 もう一人はサラ。
 ある時、よく自分の事を助けてくれるドールであり、そして今回の計画においてその鋭敏な感覚で正確にレコードを回して頂くテーセラのお方。

 そんな2人のベッドに、彼女は一枚の手紙を残していた。

 ──親愛なるお方へ。
 寮の外、森の近くにて、
 一番星の輝くころにレコードプレーヤーを持ってお待ちしています。
 青い髪のアメリアより。

 と、どこまでも簡潔な内容の手紙を。

《Felicia》
 お披露目会前のある夜、ベッドに置かれていた手紙。差出人は同じオミクロンクラスのアメリアちゃんらしい。 筆跡に目を通して、ペリドットのまやかしの心臓は強く波打った。そこに書いてあったのは、"レコードプレイヤー"。つまりヘンゼルくんが拾ったあれが再生できるわけだ。


「あっ! アメリアちゃんお待たせ! お待たせしちゃってたかな?」

 草の茂った森に足を踏み入れると見慣れた知的な青いロングヘアーが目に入る。既に彼女は来ているらしかった。慌てたように声を掛けた。もし待たせていたら、申し訳ない。
 肩から掛けているショルダーバッグの中には、ノートと、ミシェラちゃんのリボンと、それからレコード盤。アメリアがペリドットの存在に気づくと、ほっとしたように笑いながら手を振るだろう。

「早く戻らないと、先生心配しないかな……あっ、こんばんは二人共。フェリシアサンも。」

 アメリアサンからの珍しいお誘い。ベッドに置いておくなんてそんなに隠したいことでもあるのだろうか。レコードプレイヤー、名前としては知っているが実物は多分見たことがない。珍しいものを拾ってそれを自分に見せたいのか、しかしなぜ自分なのか。
 頭の中を巡る疑問は一向に解決されぬまま足は森にたどり着きもう目の前には手紙の主アメリアサン。そしてエーナモデルのフェリシアサン。頭の中はハテナばかり。

《Amelia》
「二人とも、いらっしゃいましたね。
 それでは、先ずはサラ様に今日お呼びした理由を伝えてもよろしいですか?」

 やってきたフェリシアに小さく手を振ってから、草むらの陰からちんけな紙製のレコードプレーヤーを取り出したアメリアは、これから行うことを半ば察しているフェリシアに目線を向けてから話し出す。

「先ず、そうですね。
 これはフェリシア様が見つけて下さったレコードを再生しよう、という集まりなのです。
 そこでサラ様にはそのテーセラとしての鋭敏な感覚を用いてレコードを回して欲しいのです」

《Felicia》
「あぁなるほど! 確かにテーセラのサラちゃんなら綺麗にレコード回せそうだね! サラちゃんパワーに感謝だね。」

 サラちゃんの挨拶に「サラちゃんもやっほ!」と軽く返したフェリシア。なぜ彼女がいるのだろうと疑問に思ったが、アメリアちゃんの説明を聴き、納得したようにぽんと手を叩いた。

「それにしても、すごいねアメリアちゃん。それ一人で作ったんだ!
 へへっ、さすがデュオって感じ! すごすぎ!!」

 光を反射したペリドットが指さした先にあるのは、紙で作られた再生機。フェリシアは彼女と目を合わせると、歯を見せて笑ったのだった。

「えっと、……?
 ボクがこれを回せばいいの?」

 どうやら二人はこれが何か知っており全て分かりきっているようだ。何もわからないサラはひとりぽつんと置いてかれる。その状態はあまり気に食わないがそんなこと口に出しても何もならないだろう。
 アメリアサンが作ったという再生機。
 フェリシアサンが持ってきたレコード。
 そしてそれを動かすという役割の自分。

 仕組みはなんとなく理解している。できるかどうかはわからないが試す勝ちはあるだろう。なんでも知ってるアメリアサンがわざわざ再生機を作ってまで聞きたいレコード、興味なわかないと言えば嘘になってしまう。二人の会話を聞き流しつつ彼女の再生機に近づき回そうと試みる。

「もうやっちゃうからね」

 星が瞬く夜の密かな集い。
 先生に隠れてこっそりと集まったあなた方が取り囲むのは、手作りの蓄音機。

 フェリシアが手にするレコードには、テープによってラベルが貼られていた。ラベルには、乱暴に引っ掻いたような筆跡で『1-F Abigail』と記されている。

 アビゲイル──先生が言うには、以前にエーナクラスに所属していたドールだったらしい。
 彼女の名が残された、怪物が落としていったレコードに、一体どんな音が残されているのだろうか。

 サラが手動で円盤を回していくならば、針が表面を引っ掻いて、微かに、歪な音を奏で始める。
 手製であるからして仕方がない劣悪な音質。その奏でる音の機微は、テーセラのあなたなら辛うじて、聞き取ることが出来た。
 間違いでなければ、レコードからはこう聞こえた。

 (秘匿情報)。

 流れてくるのは音楽と思いきやまさかの女性の声。さぞかし物珍しい音楽かなにかだと思っていたためがっかりしていないと言えば嘘になる。音質の悪いレコード、そもそも悪くなるように作られている気もするけれど経年劣化のせいかとしれない。

「これ、誰の声だろ……アビゲイルサン、の友だちかな」

 必死に語りかけるような声。何もわからないまま音声の再生は終わりサラは回すのをやめた。その声がテーセラのサラのみにしか聞き取れなかったことを理解せず、二人に説明する前に再生機からレコードを外す。レコードのラベルに書かれたアビゲイルという名前。そこでようやくこのレコードの持ち主? を知れた。
 このレコードの持ち主がアビゲイルというドールなら、なぜフェリシアサンが持っているのだろうか。アメリアサンがわざわざ再生機を作ってでも聞きたかったであろうレコードの内容。知りたいような、でも知りたくないような。デュオではないサラは深く考えたりすることが得意ではない。なんなら嫌いだ。だからサラは深く考えないようにした。

「これアビゲイルサンって子の落とし物? 届けてあげなきゃね」

 再生機をアメリアサンに、レコードをフェリシアサンに返しサラは二人に背を向ける。これ以上外にいては先生に叱られてしまいそうだから。ふりかえり彼女らに戻らないのかと目で訴える。一人で戻るつもりは無いようだ。引き止めなければサラは寮に戻るだろう。

《Amelia》
「サラ様、聞こえたのですか?
ちょっちょちょちょ! 待ってください!」

 レコードが悪い点……というかレコードプレーヤーが致命的だったのだろう。
 音質は余りにも悪く、聞き取る事は出来なかった。
 勿論、そこまでは想定内、それでも聞き取る事が出来るようにテーセラモデルに声をかけたのだから。

「アメリアはよく聞き取れなかったのですが……サラ様はなんと、聞き取れましたか?」

 ……が、ここからが想定外だった。
 余りにも物わかりの良いサラがレコードプレーヤーを見せて直ぐに使いだしたのはともかく、聞こえたら内容を教えてくれ、と説明する前に始めてしまったが故に、彼女はそのまま立ち去ろうとしている。
 その為、アメリアは慌ててサラを呼び止めると、なんと聞き取れたのかと問いかける。

《Felicia》
「サラちゃんストーップ!!!
 私……いやたぶんアメリアちゃんも今の聞き取れてないから!
 聞こえたのサラちゃんだけだから!!!」

 懸命に耳を澄ませてみたはいいものの、レコードの内容は聞き取れなかった。アメリアちゃんがテーセラドールのサラちゃんを呼んだのは、そのためだろうと理解したフェリシアは慌てて彼女を呼び止めるのだった。

「それから……アビゲイル、ちゃんはもうお披露目会に行ってるっぽいんだよね。先生に聞いたら、彼女はエーナだったみたい。

 ねぇサラちゃん、このレコードは何を教えてくれた?

 それから……サラちゃん。これは答えたくないならそれでいいんだけど……サラちゃんは“お披露目”のことをどう捉えてる?
 先生のこと、好き?」

 彼女の口ぶりからして、おそらく、サラちゃんはお披露目の事実を知らない。もしそうなると、彼女が何の躊躇いもなく先生にこのことを話す可能性があった。できればそれは止めておきたい。レコードがあるという事実だけでも、先生はお披露目に出すだろうから。

 隠して、隠して、隠さねば。

「とっ、とりあえずサラちゃん座ろっか!」

 笑顔を作れば貴方が座れるスペースを確保するだろう。

「あ、ごめん。そうなんだ。」

 寮に戻りたそうに一度あちらを見るが、引き止められたなら止まらない理由はない。再び二人の元へ戻り首からマフラーを外しては地面に広げ目の前にしゃがみ込む。マフラーを優しく手で叩くのは言葉はないがそれに座ることを求めているようだ。マフラーを引いたのはせめて二人の服が汚れぬように。

「レコードにはアビゲイルサンの友だちか、誰かわからない女の人の声がしたんだ。
 えーっと、それで確か女の人が、
 あの思い出の本を覚えてる?
 あと……どうかまた可愛い声で返事してねアビゲイル。
 また私に読み聞かせてね……だったかな。
 ボクがちゃんと覚えてたらこんな感じだった気がする。」

 覚える気があって聞いていたわけではないため、先程聞いた曖昧な記憶をたどりながらぽつりと話す。必死な声だった、とも付け足し。どちらかがアビゲイルサンの友だちだったのだろうか。ここまで知りたがるとはよほど仲が良かったのだろう。
 お披露目に行ったエーナモデル。優秀なドールだったのか。

「どう捉えるも何もそのままじゃない? 優秀なドールが行けるもの。アストレアサンとか。

 好きだよ。デイビッド先生サンのことだよね?」

 何かしら試されているのだろうか。学園で先生のことを嫌うドールは中々いないだろうに。念の為オミクロンの先生、デイビッド先生かの確認も入れる。サラ自身ほかの先生とは関わらないがエーナであるフェリシアサンはもしかしたら違う先生のことを言っているかもしれない。
 フェリシアサンも変な様子。急に聞いてきたり。確かにアビゲイルサンと友だちなら色々聞いてることもわかるが急にお披露目や先生の話になるとは。同じエーナモデル同士アストレアサンと仲も良かったしさみしいのかもしれない。フェリシアサンもアメリアサン達ならきっとすぐにお披露目に選ばれるだろう。

《Amelia》
「……恐らく、シャーロット様ですか」

 思い出の本、また読み聞かせをという文言。
 そういったことをしそうなドール……それもオミクロンであろう個体となれば、恐らくシャーロットだろうか?
 ともかく、内容を聞いたアメリアはノートに、

『人物不明の女性の声
 思い出の本
 アビゲイルへの呼びかけ
 読み聞かせをしてもらっていた?』


 と記載したあと。

「そうですね……では、サラ様。
 もしもこのトイボックスに私たちに隠されている事があり、そして、秘密が必ず見つけるように作られているとしたら、サラ様は秘密に触れたいと思いますか?」

 ……と、フェリシアに一瞬目線を向けてから問いかける。

《Felicia》
「ん? シャーロット……? アメリアちゃんの知り合い〜……なのかな!」

 少し首を傾げたあと、レコード盤を鞄に入れた代わりに取り出したノートにメモをするだろう。サラちゃんが話した話を、文章を、そっくりそのまま。

"女の人があの思い出の本を覚えてる?→どうかまた可愛い声で返事してねアビゲイルまた私に読み聞かせてね"

 と。

 書き終わったあと、フェリシアは真っ直ぐに自身より少し背の低い彼女に向き合うだろう。先程より緊張したように声が強ばらせて。

「うん。デイビッド先生のこと。
 ……そういえば、サラちゃんって日記書いてたなぁって。それ、誰かに見せてたりする?
 例えば……先生とか。

 あのね! もしかしたらそれ、危ないことかもしれないの! アメリアちゃんが言ってる学園の秘密ってところに関係してるんだけど……。

 正直、それを貴女に教えていいのか分からない。貴女の希望を、夢を奪いかねないから。だけど、知りたいのなら……教える。」

 ぶつぶつ、ぶつぶつ。周りを警戒しながら言葉を零していく。学園の事実を彼女に話すのなら、アメリアちゃんじゃなくて私がいいと強く思うから。夢を壊す罪を犯すのは、きっとひとりでいい。

「シャーロットサンはわからないけど……二人が満足したなら良いよ」

 何も追求する気がないのか肩をすくめ、しゃがみこんでいた足を伸ばし立ち上がる。そろそろ良いだろうか。帰らないと先生に叱られてしまうのではないかという心配ばかりが募っていく。
 二人共何かしら書いている間、サラは再生機を持ち上げてたり横から見たり突っついてみたりと自由に過ごしてれば、両者終わったようだ。

「……やだ。嫌だ。聞かない。聞きたくない。それに意味がわからない。二人して。
 二人共変だよ。……ボクの日記、は先生サンに見せてるけど、それがどうしたの?」

 夢を奪う。学園がまるで嫌なところだとでも言うフェリシアサン。
 いやだいやだと、まるで癇癪を起こした子どものよう。表情も、声色やトーン、音も一定で滅多に変わらないサラにしては珍しく嫌そうな声色。そんな風に何を言うんだ。夢物語の取り込み過ぎか、変な知識を仕入れたかは何か知らないが学園の秘密、夢を奪う、馬鹿なことを。意味がわからない。
 少し取り乱した姿とは打って変わって、ポツリと呟いたあと彼女の質問を肯定する。フェリシアサンにもアメリアサンにも何度か見せたことはあるサラの宝物。サラの夢がいっぱい詰まった宝物。それがどうしたのだろうか。それがまた【夢を奪う】ことにつながるとでも言うのか。
 これ以上サラはこの話題を続けたくない。しかしエーナほど器用ではないため、二人の方に空っぽではない腕を差し出す。口から出た声色はいつもと変わらなかった。

「家に帰ろうよ」

《Amelia》
「ええ、サラ様がそう思うのなら。
 今日の……特にレコードに関する記述は書かないし、誰にも見せない方が宜しいでしょう。」

 強く拒絶したサラに対して、アメリアはそれならばと穏やかに伝える。
 関わりたくないならそれでいいし……寧ろ巻き込んでしまったのが申し訳ない位だ。

「出来る事なら、忘れて穏やかに過ごされる事を祈っております。
 なんたって、本来このトイボックスにレコードなど存在しませんから。
 それを持ち、見た事を知られれば、夢から覚めなければならなくなるでしょう。

 巻き込んでしまい、申し訳ありません。」

 だから、今日の事に関する忠告とそうしなければいけない理由を伝えて頭を下げる。
 代わりに帰ろうという手は取らなかったし……取れなかった。
 自分勝手に利用しようとした者がその手を取るのは、余りにも傲慢が過ぎたから。 

《Felicia》
「うん、うん。……そう。分かった。
 知りたくないなら、知らなくていいよ。何も知らないで過ごした方がきっと“楽”だろうから。

 だけどね、ずっと目を逸らし続けることはきっとできない。学園は貴方を裏切るかもしれない。

 忘れないで。私は、いつでも貴方の味方だからね。」

 いじらしく身体を揺するサラちゃんに、フェリシアはまるで学園の秘密が貴方の夢を奪うような、そんな話をするだろう。覚えて欲しいことは自身は友達誰しもの味方であること。それだけだ。

「レコードのことはすっかり忘れて欲しいな。貴方のためにもそれらを日記に書かない方がいい。他の人にも話さないで。……ね?」

 差し出された手を取り優しく触れながら、訴えるように見つめるペリドット。その言葉には、瞳には、有無を言わさずな何かがあるだろう。

「それじゃ。もうすぐ日が暮れそうだから、私は寮に帰ろうかな!」

 パッと明るく表情を変えたフェリシアは、繋いでいたサラちゃんの手を離しレコード、ノート、リボンの入った鞄を持って立ち去るだろう。

 確かに知りたくないと拒んだのは自分だ。しかしなんだろう、この切り離されたような感覚は。一人置いていかれているような。片方には手を握られることもなく、もう片方にはぎこちなく握り直された手を一瞬にして離された。
 それよりも、この落ち着かないまま彼女らと分かれるのは忠実な友となるテーセラとして正しいと思えない。自分が悪かったのか、二人が悪かったのかなんてわからないけれど毎日会う仲なんだ。気まずいのは全員嫌なはず。

「大丈夫だよ、ボクも……ごめん。
 また明日。」

 立ち去る二人の姿が見えなくなるまで手を振る。先程まで一番帰りたがっていたというのに一人森に残る。見えなくなった途端サラは地面にしゃがみ込みわざと大きいため息を付く。モヤモヤした気持ちを吹き飛ばすため、拒むことが正しい選択と自分を納得させるため。
 アビゲイルサンの初めて見たレコード、学園の秘密、夢を奪う、夢から覚める。何がなんだかわからない。真剣な表情や二人の目を見ていると否定しにくい。
 ぐるぐるもやもや考えたってわからない。ぎゅっと握りしめたマフラーの感触、サラの頬を撫でる風、こびりつくレコードの音声、二人の声。
 これが夢だったらいいのに。もし夢だったら。でも日記にも書くな、他の人にも話すな。

「わがままー、ばーか。」

 じゃあこの思いをどうしろと言うんだ。誰もいない森に誰にも聞こえない精一杯の声がただ空に消えていく。誰かに向けた言葉かそれは自分かもしれないし彼女らにかもしれない。その時サラの脳裏によぎったのは信頼のおける彼女の先生と親友のミシェラ。どちらかに相談でもしたらきっと気が楽になる。フェリシアサンの忠告がずっと耳に残るが……バレなきゃ大丈夫。二人はサラの友だちではないから。裏切ってもいない。だってサラの友だちはミシェラチャンとヒトだけだから。
 握りしめていたマフラーを首に回し寮を目指し駆け出す。
 その日のことは日記に書けなかった。ただ単に筆を持つ気が起きなかっただけ。それだけ。

【寮周辺の森林】

Felicia
Sarah

《Felicia》
 ─── ある昼過ぎ。

 フェリシアは、かつてミシェラちゃんと一息ついていた木の下に腰を下ろしていた。座っていると、着々と寂しさが募っていく。
 ミシェラちゃんの頭を膝に乗せてたくさんの話をした宝物。喜んでくれて、どんなに嬉しかったか。彼女はもう居ない。目の前で、炎に巻かれて。何度も思う。
 ── これが夢だったら。って。

「〜〜〜〜♪」

 口ずさむのは、あの時に歌ってあげた下手なメロディ。ところどころ分からないところは飛ばしてあるが、ミシェラちゃんは上手って笑顔で抱きしめてくれたっけ。

 思い出の美しさに比例して、フェリシアの中の秘めた虚しい心地は際限なく広がっていった。

 ぽかぽかとおひさまがご機嫌なお昼時。サラはこの前見た蝶々を捕まえようとキッチンから小瓶を借り寮の外へ向かった。まだ空っぽでこれから青空の欠片が入る小瓶、サラはポケットに押し込み楽しみのあまり顔を出す小瓶の頭を手で抑える。自分が何者になるかまだ知らない無垢な小瓶。青く淡い光を放つ姿になるのがすぐ目に浮かぶ。あぁ楽しみだ。
 だが別に急いでいるわけでも無かったため授業の息抜きも兼ね森を歩く。いい匂いがすればそちらに行き、何もなければ立ち去る。気になるものがあればまた立ち寄る。それの繰り返し。
 また音が聞こえた方向に歩いていけば、見つけたのはエーナモデルのフェリシアサン。音楽関連はトゥリアが得意だから他のドールはあまり歌わないと思っていたが、そうではないみたい。座っているからか小さく見える背中に近づき、肩に手を置き話しかける。

「……下手……じゃなくてジョウズだねフェリシアサン」

 口から単語が出たときには間違えた、そう思った。正直な言葉が出てしまった以上うまく塗り直すことが出来ただろうか。

《Felicia》
「! ……ふふ……確かに下手だよね」

 肩に置かれた手にぴくりと反応したフェリシアは、サラちゃんの端正な顔を確認すると、困ったように笑顔を見せるのだった。分かりきったことを言われてもショックは受けない。その証拠にペリドットも特段驚くことなく、平然としていた。まぁ、それが歌唱の下手さを裏返しにしているのだが。それも今に始まったことじゃないのだ。むしろハッキリ言って貰えてスッキリしているまであった。

「やっほぅサラちゃん、ひとり?」

 ペリドットは伺う。近くに誰かいる訳ではなさそうだし、おそらく一人なのだろう。……もし、一人なら、彼女は自分と何か話をしてくれるだろうか。この前、レコードのことで強い言葉を使ってしまったから、もしかしたら嫌われているかもしれない。それなら、どうにか自分が貴方の味方で、仲間であることを伝えておきたかった。
 いや、それは言い訳に過ぎないのかもしれない。ただ少し、少し、寂しい気持ちをどうにか忘れたいのだ。そんな自分の身勝手さに目を伏せて、気にしていないように笑って見せた。大切な貴方に、自分が弱っているところを見せる訳にはいかないから。

「サラちゃんがお暇なら、せっかくだから何かお話を聞かせてあげようかな。こっちにおいで」

 あなたが独りだと言えば、ペリドットはおもむろに足を伸ばし自身の膝をぽんぽん、と叩くだろう。
 さて、あなたはフェリシアの寝転んでいいよ、のサインが分かるだろうか。

 良かった、相手は傷ついても驚いてもいない。しかしポロッとでた言葉は絶対に間違えてた。気をつけなきゃ。
 傷つけないように壊さないように嫌いにならないように。

「今は一人、でも後で一匹増えたらいいな」

 ポケットから空っぽの小瓶を取り出し軽く振る。空っぽだから何も鳴らない。空っぽだから小瓶を通していろんなものが見える。しょんぼりなフェリシアサンの顔も。レコードの件だろうか。もしやばかと言ってしまったのが聞こえたのか。ちゃんといないことを確認したはずなのだけれど。エーナである彼女の耳には届いていないはず。不安そうな顔も悲しい顔も好きじゃない。壊れてしまいそうで嫌い。
 悲しまないで壊れないで嫌いになりたくないの。

「お話、は聞こうかな。この小瓶欲しいの?」

 叩かれた膝の意味がわからず首を傾げ精一杯の頭で考える。何かを置いてという意味なのだろうか。今サラが持っているのは青空の欠片を入れるための小瓶のみ。渡したくない理由は特にない。また借りてくればいいのだから。彼女の近くにしゃがみ込み、膝に小瓶を置きこれで良いのかとでも言うように貴女を見上げる。

《Felicia》
 サラちゃんの残酷なくらい素直なところを、フェリシアは至極気に入っていた。ときどき強い言葉を使う子ではあるが、不安や不満を溜め込まれるよりハッキリ言ってもらった方が楽だからだ。実際、歌が下手なのも事実なわけなのだし、それくらいピシャリ言い切ってくれた方が気持ちがいい。

「虫でも捕まえに行くのかな?
 怪我はしないようにね、お手伝いが出来ればいいんだけど……」

 どこか他人行儀に話した。普通ならそれで会話は成立するのだが、普段のペリドットなら先陣を切って手伝おうとするだろうから。
 “フェリシアの”その行動は、少しおかしいのだ。今はどうしても、どうしても動きたくない。無意識に見ないフリをしていたぽっかりと空いた心の存在に、ようやく気がついたからである。

「小瓶は、いらないかな。サラちゃんのものだもん。
 その代わりに……ほら、私のお膝に寝転んで? お話を聞かせてあげる」

 必死で頑張って自身の行動の意味を考えてくれたのだろう。考える仕草に顔をほころばせたフェリシアは、今度はきちんと貴方にして欲しいことを伝えながら、
 もう一度同じ動作をするだろう。

「うん、青いちょうちょ。

 この前アストレアサンが青空の欠片だって教えてくれたんだ。」

 珍しい。彼女が手伝いたいと乗り出してこないなんて。若干の違和感にパチリパチリと数回瞬きするがそんな違和感もすぐに納得した。アストレアサンがお披露目に行くからだ。同じエーナモデル接点も多かっただろうし寂しくなるのかもしれない。
 付け足したように口から出た言葉は青空の欠片を捕まえに行くことを自慢したかったのもあるが彼女はすごいからお披露目に行くのだ。だから、寂しがる必要なんて無い。むしろ誇りじゃないか。オミクロンからお披露目にいくドールが出て。

「膝に寝っ転がるの??? 別にいいけど」

 柔らかくもない自身の身体を彼女に預けて何が良いのか。前回彼女と会ったときと同じように頭いっぱいにハテナマークを浮かべ恐る恐る貴女の膝に寝転がる。この体勢でお話をしてくれるのか。中々ない体勢に少し心躍らせながら貴女の口から物語が紡がれるのを待つ。

《Felicia》
「青い、蝶。……そう。青空の欠片だなんて、アストレアちゃんはいつもロマンチックな言い方をするなぁ。」

 紡いでいく言葉から伝わってくる彼女なりの気遣い。アストレアちゃんの名前が出てきている手前、彼女はやはりお披露目のことを知らないのだろう。彼女が捕まえに行くという青い蝶。そういえば、最近見つけたコゼットドロップという花も青い花だった。それと何か関係があるのだろうか。近頃は何故か"青"に関する不吉な予感がしてならないのだ。リヒトくんがあの花を見なかったのも、何か理由があると気づいていたから。

「よしよーし、サラちゃん。今からお話するのは……可愛いうさぎさんと、ネコさん、それから秘密のお友達が出てくる物語なの。」

 フェリシアはサラの柔らかい絹の髪を撫でながら、優しく語りかけてくるのだった。


 ── あるところに。

 宝石のような赤い瞳持つ、可愛らしいうさぎさんがいました。
 彼女はいつも、柔らかく茂った草のベッドでの上で優しい風に吹かれながら毎日幸せに過ごしていました。
 可愛らしい彼女には、猫さんの相棒がいました。茶トラの彼はとても穏やかで、大きな手でうさぎさんの撫でては、時よりふわりと大きなあくびをするのでした。

 
 ── あるとき。

 猫さんは、うさぎさんをとある遊びに誘いました。平和に暮らしていたうさぎさんにとってその遊びは少し危ない、そんな遊びでした。けれど、同時に彼女にとってとても魅力的に映るのです。
 それは、行ってはいけないとされる、森の奥にある小さな小屋に行くことでした。猫さんはうさぎさんに語りかけます。「一緒に遊ぼうよ。きっと楽しいよ。おいで。」
 うさぎさんは、迷った末、猫さんに着いていくことにしました。


 話を区切ったフェリシアは、サラの頭を撫でる手を止めずに、話を続けるのだった。

「ロマンチック……本当のことだよ。雨雲と水が喧嘩してたからあの子が落ちてきたんだもん。」

 青空の欠片がまるで嘘みたいに言うように聞こえたサラは彼女に思わず反論する。素晴らしいものをロマンチックなんて言葉で終わらせないで。
 夢に住むドールは現実が見えない。
 ついている方の腕を目に回し何にも見えなくする。なんとなくフェリシアサンの顔が見たくなかった、脆く壊れそうな貴女の顔が。エーナの彼女には聞こえない声で嘘じゃないよ、と呟く。音は聞こえなくても覆っていない口の動きでわかったかもしれないが。

「それでうさぎサンとネコサンはどうなったの? 楽しかったのかな。」

 目から腕をどけ貴方が紡ぐ話を興味津々に聴く。サラの目はまっすぐペリドットを見つめており、もし目をそらしたとしてもサラは気に留めない。
 いつか自分もうさぎサンのベッドに寝転んでみたり茶トラサンの大きな手を触ることができるだろうか。そんなことを考えながら続きを楽しみに待つ。
 小屋には何があるんだろう。

《Felicia》
 良かった。自身が話した物語は、どうやらサラちゃんの興味を引いたらしい。純粋な瞳に見つめられて緩く目を細めたフェリシアは、木漏れ日が影を落とすその場所で指でふにふにと貴女の頬を触りながら意味深に口を開いた。

「ん〜? ……どうなったと思う?」

 赤い目のうさぎと、茶トラの猫。
 示しているのは紛れもなくペリドットが知っているふたりだ。
 しばらく貴女と目を合わせていたフェリシアは話の続きを囁くように語るのだった。


 静かでひやりと冷たい森の中。何も知らないうさぎさんは猫さんに連れられて深く深く進んでいくのでした。
 「猫さん、やっぱり怖いよ。引き返そうよ」すっかり弱気になったうさぎさんは、身体を震わせて猫さんの手を引きます。だけど猫さんは気にも止めず無言でどんどん進んでいくのです。
 猫さんは、何故か愉しそうに笑っていました。うさぎさんはとうとう猫さんまでも怖くなって、繋いだ手を離そうとしました。ですが猫さんは離してくれません。何をしても、前へ前へと進むばかり。


 ── ついに目の前に、古い小屋が現れました。屋根には大きく穴が空いています。

 「イヤッ入りたくない!! 嫌だ、怖い!!」うさぎさんは叫びました。ですが猫さんは微笑んだだけで止まりません。うさぎさんは、強引に腕を引かれて小屋に入っていきました。


 ─── 蠕?▲縺ヲ縺?◆繧医?√≧縺輔℃縺輔s

 小屋にあったのは、部屋を覆うくらいに大きなスクリーン。うさぎさんを恐怖の底に落としたのはそれに映っている虫のような特徴をもつ恐ろしい怪物の姿でした。
 「………っ、ごめんなさ……っ!」
 泣き出したうさぎさんはもう嫌だと言いながら謝りました。猫さんはその様子を、真顔で見つめていました。
 そのとき、ガチャりと小屋のドアが開きました。入ってきたのです。先程までスクリーンに映っていた、その怪物が。

「縺薙▲縺。縺ォ縺翫>縺ァ縲√≧縺輔℃縺輔s」

 怪物は理解できない言葉を言うばかり。既にうさぎさんは恐怖で動けなくなっていました。泣きながら小さく震えておりました。


「もう嫌! ごめんなさい……!」
 その言葉を聞いた怪物は目を見開きました。そして今度は優しく話しかけたのです。「もう、こんなことしちゃいけないよ。」


 ── その声は、うさぎさんもよく知っているお友だちのものでした。

 顔を上げたうさぎさんは、怪物の頭を取った友だちのくまさんを見て安心したように大粒の涙を零すのでした。
 猫さんはゆっくりと話し始めました。「うさぎさんはいつも平和に暮らしていたから、危険なことに飛び込んでみたいと思うかもしれない。だけど、きっとこうやって怖い思いをするからダメなんだよ」
 猫さんはうさぎさんに何度も何度もそう唱えるのでした。
 「分かったわ」と、大きく頷いたうさぎさんは猫さんと、くまさんと笑って草原に帰ったのでした。


 おしまい。


 フェリシアはそこまで言うと、ふぅ、と息を整えた。

「ハッピーエンド。

 うさぎサン壊されなくて良かった。怪物もくまサンだったんだ。」

 彼女の話に相槌を打ち耳に入れていく。ネコサンが悪い子なのはびっくりしたけれど、最後にはやっぱりうさぎサンのためを思ってのこと。
 うさぎは小さく壊れやすいイメージがあるため、彼女が怪物に頭からガブッといかれなくてよかった。
 意地悪なネコサンも演技、怪物はくまサンだった。怖くてすくみあがったうさぎサンは可哀想だけどこれも彼女のためを思ってなら。

「もし、フェリシアサンがうさぎサンと一緒にいたら、まっさきに怪物に立ち向かってうさぎサンを助けるのかな。

 ヒーローってそうだよね?」

 彼女がいつも話してくれているヒーローの話。誰かが困っていたらすぐに助ける。困難には立ち向かう。そんな者。
物語を聴いていたらもし自分だったら、貴女だったらと考えたことはあるはず。自分だったら、ヒーローだったらどうするのだろう。きっとすごい力で怪物を倒してあっという間に全部を解決する。そんなヒーローを目指すフェリシアサンも、何にも臆すること無く進んでいくのだろう。

《Felicia》
「そうなの。……そう。私に入ってる物語はだいたい主人公のハッピーエンドで終わる。きっと、幸せが一番なんだよね」

 貴女の言葉に返しつつ、自分自身に唱えるように口に出した。幸せが一番いい。本当は現実に蓋をして、温かくて優しいこの場所で、安穏と過ごしていたかった。だけど、いちど壊れた鎖は鍵を閉めるだけじゃ直せないから。根本の理由を突き詰める必要があるから。
 だから、こうして寂しさを紛らわす。膝に乗せた頭にふわり、またふわりと手を乗せながら。

「……………………… ぁ、」

 間違いなく、“その通り”だ。傷ついた子がいれば手を差し伸べる、それがヒーロー。だからうさぎそんを助けられなかった私は、ヒーローじゃない。

 確かに、でも………確かに。
 でも、でも! ──── 確かに。

 その通り。そう。その通り。

 崩れる表情、滲む汗。……嫌だ!! 認めたくない!!! 認めてしまったら、明日の私の道しるべが無くなってしまう! やめて、それ以上言わないで! やめて、やめて!!
 辛い、辛いよ、図星だよ!!
 そうだよ私はヒーローじゃない!
 だけど、だけど認めたくない。
 どこかでまた挽回するから。
 私、今度は頑張るから。
 ……未熟な私を認めて欲しいから。

「た、確かに……ね。ヒーローなら助けるんじゃ、ない、かな。」

 苦し紛れに口にした言葉は、言いたくなかった本音だった。

「そうだね。
 幸せじゃなきゃ、悲しいもん」

 幸せが一番。
 そう。悲しい物語も辛い物語も壊れちゃった物語も全部嫌い。幸せに行きたい。辛い道は歩みたくない。そう思うのは間違えじゃない。だから目を背けたくなるようなことが起きても夢の中なドールはきっと現実を直視することはできないだろう。夢の中では辛いことがあっても皆欠けてなくて幸せ。傷ついてもすぐ治る。怪物なんて簡単に倒せちゃう。
 兄さんみたいに頭を優しく撫でられる。そんなに撫で心地の良いものではないと思うけれど。悪くは、無いかもしれない。

「フェリシアサン、大丈夫?
 フェリシアサンの方こそ横になったほうが……」

 壊れた表情。嫌だ。やめて。壊れないで。嫌いになりたくない。
 急いで彼女の膝から飛び起き貴女が拒まないなら少し力強く不器用な手つきで背中をさする。崩れ落ちた表情はサラは焦らせるのには十分な材料だった。いつもニコニコとしている彼女ならなおのこと。
 最近様子がおかしいよ。

《Felicia》
「私は……大丈夫。びっくりさせちゃったかな、ぁはは。最近ちょっと不調で。……うん。もうそろそろ私は寮に戻ろうかな」

 背中をさすられながら、不格好に笑った。大丈夫、大丈夫。私はまだ笑えているから。壊れてなんかないから。まだ舞える、大丈夫。つぎはぎの心が痛む心地に慣れ始めていたと思っていた。でも私は完全じゃなかった。優しいあの子を寂しがって、あの子が主人公のような話をして……純粋に放たれた言葉に勝手に傷ついて。こういうことは二度としないようにしよう。居なくなった誰かに別の誰かを重ねても、心の穴は埋まらないと分かったから。今度こそ蓋をしよう。見えなくしよう。ヒビの入った心を含めて、私ぜんぶを大事にできるようになるまで。

「蝶々探し、頑張ってね。見つけたら見せてくれると嬉しいな。日が落ちる前に寮に戻るんだよ?」

 ゆっくりと立ち上がったフェリシアは貴女にそう告げて立ち去るだろう。

 ─── 美しく晴れたその日、純粋な光に当てられた傷が酷く痛んだ気がした。

【寮周辺の森林】

「ちょうちょ、探さなきゃ」

 一人森でぼーっと座りながら空を見上げる。ぽかぽかいい天気。でもなんだか気分は優れない。流石に上をずっと見上げていれば首も痛くなるため、下げれば自分が持っていた小瓶が目に入る。すっかり忘れていたがここには青空の欠片をまた探しに来たのだった。
 我にかえったように小瓶を握りしめ立ち上がるが一体どこに向かえばいいのやら。やはりまた柵の近くだろうか。
 普段近づかないところにはなんとなく恐怖感があるが珍しく湧いたサラの好奇心にかき消されてしまう。

 森林はかなりの広範囲に広がっている。その道中、小川が流れていたり、小鳥の群れが飛び立っていたり、虫の囁きが響き渡っていたりと……さまざまな耳心地のいい物音で森は楽しく満ちていた。
 学生寮周辺の森は、テーセラの機能性の確認の為に使われる事が多い。あなたもよく先生に連れられて、この広い森林を庭のように駆け回っていた。

 その身軽な身体は木の根が隆起した森の小道も難なく突き進み、瞬く間に柵の付近に辿り着くだろう。
 変わらず背の高い鉄格子があなたを見下ろしている。以前あの青い花が咲いていた場所は──残念ながら、もう忘れてしまった。

 青い蝶は残念ながら姿を現さない。あの青い輝きの気配も周辺には見られなかった。

「……残念。」

 前回会えたからまた会える、というわけにもいかないようだ。せっかくなら青い花も、と思っていたけれど場所を忘れてしまった。ふてくされる気持ちを吹き飛ばそうと気にぶら下がったり、枝に座り風にキスされたり。一通り満足し地面に降り立つ。
 小鳥や虫のおしゃべりに耳を貸すのもいいけれどあいにくそんな気分ではない。虫たちのコンサートの招待も断り森から出る。また今度、風たちと輪唱するときはぜひ呼んでもらいたいな。

「さーてとっ。」

 次はどこへ行こうか。小瓶は次いつ会えるかわからないため携帯しておこうとして。ポケットに押し込めばまるでズボンが頬を膨らませたリスみたい。
 もし青い花も見つけたらきっとこの小瓶だけじゃ足りないからまた取りに行かなければ。

【学生寮1F キッチン】

 キッチンは広々とした他の空間に比べて、大きな家具が敷き詰められているためか、少し手狭な印象を覚えるだろう。
 こじんまりとしたシンクとコンロ、調理スペースを十分に確保出来る広い机がある。そして奥には、パントリーに続く木扉も取り付けられていた。

 キッチンに足を踏み入れればいつものピンとした感じ。コップもお皿もボウルも皆背筋を伸ばして棚のそばを歩くサラに向かって敬礼している。張り詰められた空気の中歩くのはなんとなく苦手だ。なるべく彼らと目を合わせぬよう通り過ぎようとした。
 しかしなにか引っかかった。なんだろう。

「んー、……?」

 食器棚の前を何気なく通り過ぎようとしたあなたは、微かに感じた違和感に足を止めるだろう。
 改めて棚に向き直ると、あなたの視界に飛び込むのは、皿のスペースに何故かぽつねんと置かれたマグカップである。マグカップの内側にはナイフとフォークが入れられており、また、薄い食器が食器棚の壁に立て掛けるようにして置かれていた。


 ──今朝の食事時、あなたが戻した食器だ。


 あなたはこれを見て、朝食後、自分が少し困っていた事を思い出す。
 洗浄を終えた食器を、あなたはどこに戻すべきかどうしても分からなかった。見れば簡単に分かることなのに、食器を戻す位置を思い出そうとすると指先も脳も震えてきて、頭が次第に真っ白になっていくのだ。

 このところはいつも、あなたはこうだった。


 ──ふと。途方に暮れたように立ち尽くしていたあなたの目の前を、いつだか見た青色の蝶がふわりと過ぎった。
 蝶の軌跡を追って振り返るならば、あの蝶はぱたぱたと翅を柔らかく揺るがせて、キッチンの木製のチェア、その背もたれに留まらせている。

「あれ、……これ、はボクの」

 お皿の広場に置かれたマグカップ。その中には機嫌の悪そうなナイフとフォーク。お家に入れなかった可哀想な薄っぺら食器。全部サラが置いたもの。正しい居場所に入れなかった可哀想な子。あぁ思い出した。ちょうど今朝のことだ。
 何もわからなくなったのだ。どこに戻せばいいのか。指も震えて頭も真っ白。だから、だから怖くなって食器をとりあえず置いて逃げた。皆に迷惑がかかる、わかっていたけれど。怖かったのだ。まるで本当に欠陥品にでもなってしまったようで。治せない欠陥品になったと思っちゃうから。

「青い、ちょうちょ」

 タイミングが良かったというべきなのか悪かったというべきなのか。ちょうどポケットに入っていた小瓶を掴みキッチンの椅子にこっそり近づく。バレないように。怖がらせないように。

 あなたがちぐはぐな配置にした食器棚からは、早々と目を逸らす。恐ろしいことも、逃げたいことも、忘れてしまえば白紙に返る。あなたはこれまでそうして、仮初の平穏を守り続けてきた。

 キッチンにはその窓辺から、優しく穏やかな陽光が差し込んでいる。煌めく陽光が小さな木製椅子と作業台に差し掛かって、その一角だけ切り取れば、素朴な絵画に出来そうだった。

 椅子の上で青い蝶は輝く鱗粉を散らしている。
 手を伸ばしても、動くことはない。
 やがてあなたは蝶を捕まえるために、まずはその翅をそっと摘み取ろうとするだろう。

 まるで繊細なステンドグラスのような薄透明の翅に指先を触れさせた途端。あなたの脳裏で弾けるような衝撃が走る。
 こめかみから脳内を撃ち抜かれたような、一瞬の壮絶な痛みの後。あなたは頽れるようにして椅子に寄り掛かるだろう。その拍子にひらりと蝶は舞い上がり、ふわふわと漂って作業台の対面へと飛び去っていく。

 あなたがそれを目で追えば。
 いつしかその青い蝶は、ぼんやりと人の姿を成していることに気付いた。

 これは夢か、現実か?
 あなたが考える前に、そのコアの中枢で嫌に軋むような音がした。

 ゆっくりと雲に触るよりも優しく。トゥリアモデルの身体に触るように。小瓶を一度床に置き左腕を青い蝶に近づける。大丈夫、怖くない。ほん少し狭い世界に行くだけだから。
 薄いその翅に触れた、自分が掴んでしまってはすぐに粉々になってしまいそうなその翅に。しかし翅は粉々になんてならない。
 蝶に触れるべきじゃなかったんだ。

「い゙あ゙っ、ぁ゙………」

 頭が痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。まただ。また痛い。青い蝶には触っちゃいけないの? 毒でもあったんだ。弾丸に思いっきりハグされたような。ボクは壊れてしまうの?
 椅子に倒れかかろうとすれば優しく受け止めてくれた。握りしめていた小瓶は音を立て落ち、もう追いかける余力すら残っていない。

にぃ、さん? まって、待ってよ。置いて行かないで。待って!

 捕まえられなかった蝶はふわりふわりと飛んでいく。捕まえられるのは嫌なのか。作業台にいる蝶、それは。
 サラの最愛の兄の形をしていた。
 本当にそこにいるのか。それとも幻か。確かめようと、まだ本調子ではない身体を精一杯動かし空っぽの方の腕をそれに近づけようとするが空を切るばかり。
 楽しい朝食。兄と二人っきり。その間にあるのはこの前の、青い花。
 でもそんな幸せはずっと続かないんだ。物語でも、現実でも。
 ハッピーエンドで終わるのは物語だけ。
 白い服の大人。三人の大人。
 兄さんその手を取らないで嫌だ。わからない、わからないけど嫌な予感がするんだ。ボクから兄さんを奪わないで。行かないで。

 その時出れば良かった言葉が今あふれた。サラにしてはめずらしく大きな声、きっとそばにドールが他にもいたら不思議そうな目を向けられる。それでも兄が確かにそこにいるのなら掴みたいのだ。空っぽな手を精一杯蝶に向かって、いや兄に向かって振りかざす。
 届くわけもないのに。

 伸ばしていた腕はだらんと垂れ下がり頭が痛くなくなってきたと思ったら今度は身体。身体の真ん中が痛い。サラは、テーセラは強いのに。強いはずなのに。壊れそうな音がする。
 足を折り椅子のそばにへたり込む。動けない。動きたくない。身体が痛いんだ。誰か助けて。

「……誰だっけ、誰だっけ誰だっけ。」

 名前が、声が。わからない。
 二人共お話が上手で。一人はお披露目に行くドールで、とても優しくて。彼女、には、花をあげた。
 もう一人は大切な子。皆から愛される子。いなくなったら寂しかった子。
 何もわからない、でも忘れちゃだめだった大事なこと。
 埋まっていたピースも無理やり埋めていたピースもボロボロ落ちていく。拾う気力すらないサラはただ落ちていくその様を見届けることしかできなかった。
 幸せになるために。補えるだろうか。

Storm
Sarah

《Storm》
 ストームは魂が抜け、糸で繋がれたように歩いていた。
 そう彼は極たまに……いいや、割とこういう事がある。
 決まってストームの頭の中では、思索と想像で埋め尽くされているのだろう。
 『お披露目』『発信機』『開かずの扉』『シャーロット』『巨人』『機械音』『研究』

「……………『蝶』」


 どれもリヒトのノートで見た単語。
 それらを記憶に放り込んでぐるぐると循環させる。
 自分は何者なのか、トイボックスとは何なのか。
 今まで気にも止めなかった蜘蛛の巣の糸を、解いていくように。
 思考、熟考、思考、熟考……。
 蜘蛛にバレないように少しずつ少しずつ。

 ふとストームが顔を上げた時に、その少女が視界に映った。ホワイトライオンの鬣のような髪色を持つ少女。
 陽の落ちる瞬間の空一面を染めるオレンジ色に似た瞳を持つ少女。
 ストームの“トクベツ”のうちの一人。
 そのトクベツに手を伸ばすことは間違いないだろうね。

「ごきげんようサラ。調子はいかがですか?」

「……ゴキゲンヨ 、ストームサン。
 調子、は悪くない。平常だよ。」

 いや悪い。最悪だ。
 なんだってこんな時に彼と会うのだ。
 やっと身体の痛みが引いてきたためなんとか食器棚と向き合っていたところだと言うのに。彼の声が聞こえてもそちらを振り向かず返事だけし、一生懸命食器棚と向き合う。かまっている暇はないのだ。
 平皿は平皿のところに。カトラリーは形が一緒のところに。マグカップは離れ離れにしない。
 自分が使ったものはもとに戻す。
 そんなことを胸に食器をカチャカチャと動かす。迷子の子たちを正しい居場所に戻してあげたいところだが如何せん場所がわからない。震える手に力を加え食器を落とさぬように上の棚においたと思えば、次は下に。悩んだ結果、結局は平皿をマグカップの上に。
 荒らされたような食器棚は変わらずチグハグで迷子がたくさん。

「……」

 悪化した気が、ちょっとする。
 正解を求めて迷路をぐるぐるぐるぐる回っている行き着くのはいつだって行き止まりだ。
 青いあのこも手伝ってくれたら良かったのに。空を飛んでここだよって教えてくれたかもしれない。教えてくれなかったかもしれない。

《Storm》
 なんて抑揚の無い返事だろうか。
 あからさまな嫌悪にストームは悲しむでも動揺するでも無く、ただいつも通りを続ける。

「そうですか。それは良かったです。
 ところでサラ。先生のお手伝いですか? それとも何かお探しで?」

 カチャカチャとぶつかり合う食器たち。
 まるで会話をしている淑女達の茶会のようで、主催者は頭を悩ませている。
 ストームは思う。
 ──サラは食器を動かしているようで、食器に動かされているのだろうか? ……なんて。
 まぁ都合のいい方で。と、どうでもいい思考を切捨てるだろうが。

 どちらにせよディアならサラを助けるだろうからと、行動に移したまでだった。

「別に、なんにもいらないし。探してない。」

 ずっと食器に踊らせれているのも嫌になってきた。くるくるくるとバレリーナのように踊っては、形にハマらない反抗期のパズルになる。一向に食器棚に入ってくれない。
 手に取っていた食器を押し込み戸棚を閉める。
 反射的に反抗的な態度を取ってしまったがまあ、ストームならいいだろう。
 そんなこと彼は微塵も気にしない。
 嫌なことにしか興味がない変なドール。

「……そっちこそ先生サンの手伝い?」

 相手は滅多にこんなところがなさそうだが、ここにはストームの愛しの彼もいないだろうに。

《Storm》
 また、ぶっきらぼうに返される。
 それに何か苛立っている。
 サラが食器棚の戸棚を押し込むように閉じたの、ストームは静かに見つめていた。
 観察するように。じっと。
 ようやく、片方になってしまった手を止めた彼女からの問いに首を振る。

「いいえ。ジブンは捜し物です。
 青い蝶と、それを見たことがあるドールを。
 実はリヒトとブラザーが目撃しているらしく、偶然にも特殊なことが引き起こっているようなので」


 いや、これは全くの嘘だ。
 サラに話し掛けたのも単なる興味でしか無かった。
 だがそれを言ってしまえばサラはとっととストームの前から居なくなってしまうのは明確だ。
 だから先程まで思い出していたリヒトのノートに書かれていた『青い蝶』『キッチンの窓辺』『おにいちゃん』……これらの単語の周囲の周囲に書かれていた言葉から偶然にも思い浮かんだストームの虚言であった。

「二人の偶然がたまたま繋がっただけかもしれませんね。
 最近偶然が繋がることが多々あるので気になってしまいまして……。
 ちなみにサラは最近、青い蝶を見た記憶はございますか?」

 虚言ならいくつも吐ける。
 なんたってストームはネジの外れてしまった欠陥品。
 ジャンク品に呼ぶに相応しい。
 愛しの彼にラリってからは、更に一層に。

「リヒトサンとお兄ちゃんサンも、あのこを……?」

 さがしもの、青い蝶を見たドール。
 驚いたのかほんの僅かな差だが目を見開き何を考えているのか理解のできない奴の目を見る。
 めったに見ないものだからてっきり、夢の中のものだと思っていたけれど。本当にいたんだ。青空の欠片は。青い蝶は。
 ちょっとだけ疑っていたんだ。ほんとうにあのこは現実にいるのか。しかし二人も目撃者がいるとなればそれはもうサラの妄想でも幻覚でもない。

「ボク、は何も見てないよ。」

 嘘をついた。
 偶然がたまたま重なったとかよくわからないことをいう彼に教える理由は無いから。教えない理由も無い。
 けれど好きじゃないから教えない。
 たったそれだけ。
 教えないとは言っても先程知っているような口ぶりで話していたサラはストームから目をそらし数歩離れる。

「出よ、狭い。」

 ご丁寧にパントリーとドアを開け彼を追い出そうと促す。一人でいると広く感じたパントリーも背の高い彼がいると箱に閉じ込められているような気分だ。

《Storm》
 ただの思い付きの虚言。猟奇犯の空言。
 隻手の少女は揺れた。猟奇犯はそれを逃さない。
 好機だと言わんばかりにストームはちぐはぐの瞳を揺らした。
 一言目と二言目は真逆で、ストームから遠ざかるように歩み出したサラに退出を促されてしまう。
 そんなのストームが構いやしないさ。

「次の質問に答えてくださればジブンはここから離れると約束しましょう。
 サラ、青い蝶を見たのでしょ? 身体に異常は起こりましたか?」

 ドアに手を掛けたサラに被さるように追い込む。ストームが力負けする事が無ければ扉を無理矢理閉め、少女を見下ろすだろう。
 しん……としたパントリーはいつの間にか密室の猟奇犯の遊び場所になっていた。

 これだから好きじゃない。

「異常は起きてない……普通。
 何も見てないし知らないって言ってる」

 異常は何もおきてない。
 普通。
 何も変わらない。
 欠陥品なんかじゃない。
 イライライガイガを押し込めるように戸にかける手の力を強めるが、勝てなかった。設計年齢の差、筋力の差、上背の差、色々彼には勝てないことが多いのだ。
 何も知らないとは言うがサラはほんとうにわからないのだ。今では青い蝶こそは現実にいるものと理解できたが、それが見せたものはもう夢の中の出来事へ変換されていた。兄に会えた幸せでちょっと悲しい夢。名前を忘れたあのこ達も夢の中の名もなき住人。きっと過去に遊んだことがある夢の中の住人。たったそれだけ。

「邪魔」

 戸から手を離し言い放っても彼を言い負かすことも、どかすこともできない。もし、今空っぽが空っぽじゃなくなれば出来ることが増えていたかもしれない。けれど今日無いならしょうがない。ここにストームの愛しの彼がいれば良かったのに。絶対こんなことにはならなかった。

《Storm》
「はは、そうでしたね。
 先程“あの子”と言っているように聞き取れたので、てっきりご存知かと思いました」

 知らぬ存ぜぬのサラにストームは軽薄に言葉を返した。
 乾いた笑い声なんかはもはや笑い声になっておらず、ひとつの単語として空気に消えていく。
 彼女からの嫌悪も苛立ちも十分に伝わっているであろうが、ストームは依然と糸の張り詰めているような状態は続いている。

 サラからの一言にストームはゆっくりと扉から手を退けた。一度も目を逸らすことなく、ゆっくり、ゆっくりと。

「ご回答ありがとうございます。
 見ていないのでしたら仕方ありませんね。
 自分で探してみます。是非とも標本にしてみたいのでね」


 物腰柔らかなお辞儀をすると身を引いた。
 彼女が出るのかストームが出されるのか定かでは無いが、ひとまずの待機場所とでも言っておこうか。
 彼女がパントリーから出ていくならば、その場に佇むだろうし、出るように促されれば素直に出ていくだろう。
 この言葉を残して。

「貴方様に災いがあらんことを」

「あっ、あーうん。気の所為。」

 わすれていた。彼女をよく知るものなら驚いたように。知らないものならさらにの表情が何も変わらないように見えるだろう。
 彼といるといつもこのような背筋がピンとする空気になる。あぁ嫌だ。

「標本にしたらボクにも見せて。フェリシアサンも見たいって言ってたし」

 彼のきれいなお辞儀を真似するようにペコリと頭を下げる。
 彼で思い出したようにフェリシアの言葉を付け足す。自分でも捕まえるつもりだったが毒があるかもしれない、彼に任せておこう。
 ストームなら愛しの彼にでも死ね、とでも言われない限り壊れなさそうだから。
 今一度、今度は邪魔がなかったため戸を開き振り返る。すきじゃないけれど別れの挨拶をしてあげる。

「またね」

【学園3F ガーデンテラス】

Rosetta
Sarah

《Rosetta》
 美しい花園の隅で、ロゼットはぼんやりと花を見ていた。
 ここに来るのも、何だか久しぶりのような気がする。たった数日来ないだけで、可憐な植物たちは見知らぬ生き物のように見えた。
 ミシェラのお披露目から、色々なことが立て込んでいたから、こうしてゆっくりする時間も取れなかったわけで。
 うららかな日差しの中、ガーデンテラスに馴染もうとするかのように、赤薔薇はただそこにいる。

 「あ」

 じんわりと眠気が滲んできた頃、見覚えのある姿が視界の端に映った。
 ただ在るだけの草花から、考える葦の模造品に。いつも通りの表情で、ロゼットは手を振った。

 「サラがここに来たの、初めて見たよ。お花は好き?」

 サラがガーデンテラスに初めて来たのであろうが、そうではなかろうが、とりあえずそう声をかける。
 にこにことした顔からは、悪意がないことが読み取れるだろう。良くも悪くも。

「うん、初めて」

 ガーデンテラス自体には何度も足を運んだことはあるが今日来たのは初めてだ。
 彼女の周りだけ時計の針がうとうとしながら動いているみたい。寝ているわけでもなくて、起きてせっせと動いているわけでもない。
 彼女に近づくと自分のくるくる回る時計までうとうとしてきてしまいそうだ。針が狂わないようになるだけ足早に彼女に近づく。

 ぐちゃぐちゃとした気持ちを鎮めるためにガーデンテラスにきたというのに、今度は時計が狂ってしまうとは。

 ちょっと嫌いなお腹がぽっかり空白ドール。ニコニコとしているロゼットサンはどこか草花が咲き誇るガーデンテラスがよく似合う。住んでいてもあまり違和感はない。

「ロゼットサンは、お話でもしてたの?」

 サラの目には自分とロゼットの周りに他のドールは映っていない。
 当然サラはロゼットがドールと会話しているとは思っていない。彼女と同化しかけている草花とおしゃべりしていると思っていたのだ。今もぺちゃくちゃ口を動かす花たちは自分が話しているのにもかかわらず口を挟んでくる。

《Rosetta》
 目まぐるしく移り変わる世界の中、ロゼットの周りだけがゆっくりとした時間を保っている。
 オルゴールの中の人形のようだ。自分だけが関係ないという顔をして、美しいものだけを見て過ごしている。

 「んーん。今はのんびりしてたの。ここは暖かいからね」

 眠くなっちゃうよねえ、なんて。
 悪意を向けられることなんて考えないように、赤薔薇は口にする。

 「サラがいいなら、一緒にお話でもしようよ。■■■■がいなくなって、ちょっと寂しいし」

「だから時計の針もうとうとしてたんだ。ボクのまでのんびりしちゃうところだよ。」

 彼女に近づいてもまだくるくると回るサラの時計。針は正常に動いている。
 納得がいったのか理解したかのように述べては、おしゃべりの口が止まらない草花を撫でていく。これで多少は静まる、と思いたいものだ。

「みしぇ、ら。トゥリアドールの子?」

 初めて聞く名前だ。
 いや違う。
 でも、わからない。
 時計の針の進みが遅くなった。
 動揺を隠すようにわからないのを隠すように、のんびりと優雅に咲き誇る赤薔薇と目が合わぬよう。ただおしゃべりな彼らの口を防ぐことに集中したい。

《Rosetta》
 「面白い喩えだね。いいんじゃない? のんびりしちゃっても。駄目だったとしても、一緒に怒られようよ」

 テーセラにも詩的なところがあるのかと、ロゼットはちいさく笑う。
 草花に触れる手つきも、力がこもっているようには見えない。素朴なドールだと思っていたが、可愛らしいモノも存外好むようだ。
 それなりに同じクラスにいたはずなのに、知らないことばかりだ。同級生のことも、自分のことも。
 誤解だらけのドールは、優しい目でサラを見る。

 「ミシェラはエーナの子だよ。オミクロンのみんなと仲良しの、可愛いドールだったけど……あんまり覚えてない?」

 忘れちゃうこともあるよね──と言えたのは、まだあの愛らしい笑顔を覚えているからだ。
 夕陽のような金髪は、ふくふくとしたてのひらは、まだロゼットの中にある。
 全て忘れてしまったドールは、輪郭も掴めない相手について何も口にできないというのに。

「喩え、じゃないけど。
 やだね。ボクは先生サンに怒られたくない。」

 おしゃべりが静まってきた草花から手を離し彼女の提案を否定するように軽く首をふる。
 ヒトと、友だちと一緒に怒られ、また友情を深めるならまだしもただのドール同士。怒られたって嫌じゃないか。

「ミシェ、ラ。オミクロンのドール?
 ボクが来る前にいた子かな。ボクが知ってるオミクロンドールはボクら含め14体でしょ。」

 エーナドールで、オミクロン。どこか既視感があるような気がするのは誰かから名前を聞いたことがあるのかもしれない。
 覚えていない。知らない。それは可笑しくない。

《Rosetta》
 「つれないね。怒られるまでは自分だけの時間なのに」

 シャボン玉のように、言葉が虚空に消える。
 煌びやかな誘惑には、何の中身もない。ただ、その場を賑やかすために浮かんでいるだけのものだ。
 もっとも、他の話題が出てきてしまえば弾けてしまう程度でもあるのだが。

 「……ほんとに、覚えてない?」

 銀の鏡が、瞬きをひとつした。
 冗談ではないし、軽い話でもないと判断したのだろう。柔らかな表情が、少しだけ強張る。
 ずっと前から、歯車は狂っていたのかもしれない。たまたま、不調に気付いたのが今だっただけで。

 「オミクロンにいた、ちいさな女の子ドールだよ。苺みたいに赤い目と、カナリアの羽根みたいな髪を持っててさ。ちょっと前に、お披露目で……いなくなっちゃって」

 これくらいの大きさだったよ──と、手で高さを指し示す。
 赤薔薇だってしっかりと覚えているわけではない。けれど、まだ彼女のいた空間の温かさくらいは覚えていた。

 「ねえ、一応聞きたいんだけど……オミクロンの子たちの名前って、言える? 覚えている子だけでいいよ」

「覚えていないも何も、」

 覚えていない。
 自分が何かを忘れていることはわかっている、わかっているけれど認めたくないのだ。
 忘れちゃいけいないことだったはずなのに。心にぽっかり空いた穴はいつの間にか夢の欠片達により封をされ、喪失感はあまり無かった。
 きっと覚える必要のなかったこと。きっと。

「へぇ、オミクロンなのにお披露目に行けるってことは優秀なドールだったんだね。」

 まさかオミクロンでもお披露目に行けるとは、消えかけていた希望がまた見え始めてきた。彼女の欠陥が何かはわからないが、自分ももしかしたら行けるのかもしれない。会えるのかもしれない。自分の主人に。そう思うとコアが高鳴る。

「良くわかんないけど。
 デュオモデルのソフィアサン、エルサン、アメリアサン。

 エーナモデルのフェリシアサン。

 トゥリアモデルのディアサン、ブラザーサン、ミュゲイアサン、カンパネラサン、リーリエサン、ロゼットサン。

 テーセラモデルのストームサン、リヒトサン、オディーリアサン、あとボクでしょ?」

 会話がすれちがっていく。
 短針が長針を追い越し、秒針は立ち止まって震えていた。進まない時計の歯車のように、ふたりの会話は噛み合わない。
 ロゼットは、ようやく自分の手のひらが湿りつつあることに気が付いた。
 焦燥。
 大きな悪い流れが、トイボックスを呑み込んでいることに、今更気が付いたようだ。

 「いい子だったよ。木漏れ日みたいなドールだった。みんなに惜しまれながら、幸せそうにお披露目に行ったの」

 明るい声に対して、淡々とした調子で言葉を返した。
 まだ事実しか言っていない。相手を傷付けるようなことを、ふたつ以上告げることは避けるべきだ。
 名前を誦じてもらった後。言葉を選ぶように逡巡してから、ロゼットは口を開いた。

 「あの、ね。あなたは、今の時点で二体以上のドールのことを忘れちゃってるみたい。
 お披露目に行った、エーナのミシェラ。そして、これからお披露目に行く、エーナのアストレア。
 ミシェラはともかく、アストレアは元プリマで、印象に残りやすいドールだったと思うんだけど……サラの中では、いつからオミクロンは十四体なの?」

「……ボクも早くお披露目に行けるようになりたいな、」

 今度お披露目に行く方法でも聞けたら良かったのだけれど。お披露目に行った子に手紙などを送っても返事があまり帰ってこないと聞く。主人との生活が楽しかったり、いそがしかったりして返事が書けないらしい。
 みしぇらもきっとそのうちの一体だ。

「あすとれあ、みしぇら。
 元プリマなのにオミクロンに来ちゃったんだ。
 最初っから。そうだよ、最初っから14体。誰も欠けてないでしょ。」

 可哀想なプリマドール。何が欠けてしまったのだろう。他のモデルのプリマドールなんてカタコトな口調で自分に言い聞かせるように、彼女が欠けてしまったというドールの名を復唱する。

 誰だ。

 誰だ。

 誰だ。

 おかしくない。おかしいのは眼の前の赤薔薇。ボクが知っているオミクロンクラスのドールは全員で14体。欠けても、増えてもいない。
 おかしいのはロゼットサン。

《Rosetta》
 お披露目に行けば待つのは終わりだけだし、それを是とするドールももちろんいるのだろう。
 だが。何も知らないまま、甘美な夢だけを見て進み続けるのは不公平だ。
 せめてお披露目がどういうモノか、知ってもらえたらいいのだが──今の状態では、それも難しいだろう。

 「覚えてなかったら、確かにそう見えるのかもね。でも……他の子は、アストレアとミシェラがいないと寂しがるからさ。サラが今言ってくれたことは、あんまり口に出さない方がいいかも」

 相手はどうにもピンと来ていないらしい。ちょっぴり眉尻を下げて、ロゼットは困ったように微笑んだ。
 多分、話を続けてもお互いいい気持ちにはなれないだろう。適当なところで、彼女は「話は変わるけれど」と口にした。

 「最近、変なモノを見たりしなかった? みんなから色んなモノを見たって話を聞いてて、気になってるんだ。昔の記憶とか……青い蝶とか。知らない?」

 ボクだけが知らないの?
 他の子は【ミシェラ】と【アストレア】を知っているのか。
 ロゼットサンは可怪しくなかった。
 皆が可怪しいんだ。
 ボクが来る前にいたドール。皆と仲が良かった16、15体目のドール。

「……わかった。」

 呆れたように肩をすくめ簡単に彼女の問いに答える。
 青空から落ちてきたあのこ。
 誰、が青空の破片って教えてくれたんだっけ。ボクじゃない。
 わたしが祝福したはずの、お披露目に選ばれたあの月魄の少女。名前が出てこない。
 大事な友達と同じようにお話がうまくて。聞くのがとっても楽しかった。
 輪郭がぼやける。見えない、彼女の顔がわからない。

「ロゼットサンもそれ聞くの、
 ……変なものかはわからないけど青空の破片は見たよ。」

《Rosetta》
 本当に分かってくれたかは分からないが、まあ口にしたならいいだろう。何かあれば他の子が対処するだろうし。
 サラの言葉に、ロゼットはちいさな肯首を返した。

 「何度も訊いちゃってごめんね。青空の破片は……どのくらいの大きさだったかな。また見たいと思う?」

 新しく出てきた言葉には、一瞬驚いたものの、まだ想定の範囲内だったようだ。
 語彙こそ抽象的なモノだが、青い蝶の仲間である可能性は捨てきれない。
 自分はまだ見ていないモノだが、他にも見ているドールはいたようだ。
 なーんだ、なんて思いながら。彼女は提案を口にする。

 「もしも見てみたいなら、一緒に探さない? ひとりで探すよりも、ふたりの方がずっと早いと思うよ」

 どれくらいだっか。メモリーを辿りながら左手を軽く握り突き出しては拳程度だったことを示す。
 近づいたことはあっても触れたことはないため正確かはわからないがまあ、正しいだろう。

「青空の破片、はえっと、これぐらい。
 まあ、捕まえたいから。」

 自分から言い出したにも関わらずワンテンポ送れて返す。青空の破片。誰が教えてくれたかは、また見れば思い出すかもしれない。
 だから捕まえなければ、近づいたら急に体が痛くなった。他のドールが近づいて壊れちゃったら嫌だ。嫌だ。
 だから強いテーセラであるボクが見つけなきゃ。
 ロゼットサンはトゥリアで一番嫌い。
 だから絶対に近づかせない。

「え、いや。ボク一人で探すよ。」

《Rosetta》
 拳程度、ということは、頑張れば捕獲することもできるだろう。
 自分でも握り拳を作って、ちいさく頷いた。
 何度も見れば記憶を取り戻し放題! ──とはいかないだろうが、ドロシーに見せれば何か分かるだろう。

 「どうして? トゥリアにも、似たモノを見た子はいたよ。私だって見つけられるかもしれないし」

 小首を傾げながら、そう問いかける。
 駄目と言われても、ロゼットは過去について探る気満々だ。そういえばガーデンが云々、とか何とか喋り出すことだろう。

「いつ、どこで。
 その子今大丈夫? 壊れてない?」

 なんということだ。自分でも体が壊れるのではないかと恐れるほど痛かったのに、辛かったのにそれをトゥリアが経験したとなると一体どれくらいの苦痛だったのだろう。
 焦りのあまり眼の前に咲く赤薔薇に詰め寄り腕を掴む。いつもなら優美に咲く花は決して傷つけぬよう細心の注意を払っていたが、今のサラにそんな余裕なんて無い。
 いつもの動かない顔はどこへやら。薄っすらと浮かんだ焦ったような表情。よほどドールが壊れてしまうのが怖いのか。

《Rosetta》
 痛みを感じるドールであれば、「痛い」と救難信号を出し、サラを引き離すこともできただろう。
 だが、ロゼットは特別製の不良品だ。痛みなど感じない。
 ただ、自分よりも“痛そう”なサラへの返答にだけ意識を割くことができる。

 「時期は、アストレアがお披露目に行くって言われる前。場所は……その子に訊いた方が早いかな。少なくとも、私が見た限り、ブラザーは壊れていないよ」

 あとはリヒトも見たって言ってたっけ、なんて。
 のんびりと話しながら、ロゼットは掴まれていない手で、サラの手のひらに触れた。

 「深呼吸をしよう、サラ。三秒数えてから、返事をしてね。……あなたは、私が壊れるかもしれないから、青空の欠片を探してほしくないの?」

 頑丈なテーセラの先端を、壊れ物でも扱うように撫でていく。
 何と返しても、きっとロゼットは怒らないだろう。痛みもなければ、苦しむこともない。
 壊れたと自覚するまで、ドールは完璧な存在で在り続けるのだ。

「……アストレアサンが、じゃあボクがオミクロンに行く前。
 お兄ちゃんサンとリヒトサンも。」

 強く握ってしまった細く柔らかい茎から手を離し数回撫でる。壊れてない? 大丈夫? と何度も繰り返しては壊れていないことを確かめた。
 テーセラより脆いトゥリア。壊したことがないため一体いくら力を込めたら彼らが壊れてしまうのか、想像もしたくない。

「いち、に、さん。
 そうだよ。壊れたら、壊れちゃったら。
 主人サンに会えない。お披露目にいけなくなっちゃう。
 そんなの誰も嬉しくない。」

 壊れたら行けない。

 壊れたら会えない。
 ロゼットサンが自分の一番嫌いな部分を触っている。彼女の手にそっと触れる。ボクは壊れていた。だから墜ちた。だからお披露目に行けない。
 ロゼットサンも行けない。

《Rosetta》
 辿々しい言葉に、「うん」と相槌を返す。
 否定はしない。する要素もない。
 痛くないから大丈夫、と何度も言葉をかけた。
 サラは優しい子だ。優しすぎて、自分の力で誰かを傷付けることに臆病になりすぎてしまう。
 そんなことはないのだと、誰かが言ってあげるべきだったのだ。悲劇が始まる、ずっとずっと前に。
 相手が拒まなければ、ロゼットは相手の手を握る。そうして、ゆるく力を込めるだろう。友達同士が手を繋ぐように。

 「そうだね。お披露目に行けば、ご主人様ができて、どんな子でも愛してもらえる。それはすごく素敵なことだと思うよ。
 でも……私は、オミクロンのみんなといるのも同じくらい好き。サラとこうして話したり、手を繋いだりしてるだけで、楽しい気持ちになれるもの。
 誰かを傷付けることを恐れてしまうのも分かるよ。私も、よく相手の気持ちを考えずに話してしまうから。だけど、怖がって誰にも触れずにいたら、力加減も分からないままでしょう?
 大丈夫になるように、一緒に練習しよう。抱き締め方も、みんなの護り方も。サラが嫌じゃなかったら、だけど……」

 ちょっぴり自信なさげに、ロゼットは微笑む。あまり誰かに見せたことはない、変わった表情だった。

 握られた手をビクリとふるわせる。柔らかく脆い手がサラの硬く頑丈な手を握る。どこか安心してしまうのはトゥリアの包容力か、口からあふれでた言葉の蛇口をなんとか締めることが出来た。固まっていた体の筋肉がほぐれていく。ぽかぽかと温かい土の布団に包まっている時みたいな安心感。

「練習。嫌じゃない、けど。じゃあよろしく?」

 触れる練習か。確かに主人サンが万が一にトゥリアより嫌いだったら困っちゃう。ロゼットサンで練習しておくのは大事かもしれない。
 彼女が拒まなければトゥリアの真似事のように貴女を抱きしめる。友だちはハグをする。特に女子同士は。そう習った。だから抱きしめた。
 トゥリアモデルのように相手を受け入れるような優しいハグはできないけれど友だち同士がやるようなハグ。それが出来ていたらいいな。

《Rosetta》
 驚きはしたようだが、拒絶するほどでもなかったらしい。よかった、と内心ごちた。

 「うん。よろしくね、サラ。他の子にも声をかけたら、きっと手伝ってくれると思うよ」

 突然ハグをされたのには、少し驚いたけれど。まだ直接的に被害が出たわけではないし、何とか抱き止めることもできた。
 あまり仲良くなれるかわからない子だったけれど、なんとかなりそうだ。
 他にも痛覚のある子に手伝ってもらう必要はあるだろうが、それもまた友達を増やすことに繋がるだろうし。意外と前途は明るいかもしれない。
 相手の背中を軽く撫でながら、「もうちょっと力が弱くてもいいかも」なんて言葉を返す。
 花の見守る中、抱き締め合うドールたちは本当の友達になれたみたいだった。

「……別にロゼットサンだけでいいよ」

 トゥリアドール一体練習用としていれば十分だろう。ロゼットサンはお腹を治さない限りお披露目には行けない。ボクも右腕が、右腕さえいつも付いていればいける。
 お互いに治れば行ける同士、治らなければ行けない同士。
 すぐには行かないドールのほうが便利だろう。

「あっごめん」

 一歩下がり彼女の体から剥がれる。まあまあ初めてトゥリアドールに抱きついたには上出来だろう。 
 そんなボクらを見守っていた花はまたもや話に自分たちを咲かせている。
 力加減は理解した。満足だ。

「そろそろ行こうか。」

 授業が始まる前にガーデンテラスは出たほうがいいだろう。次のテーセラの授業は外なため早くいかなければ。
 トゥリアは何処だったか。
 ヒトとうまく友だちになるための道は上手に進めている。