Lilie

【学生寮1F ラウンジ】

Astraea
Lilie

《Astraea》
 夕食後、学生寮1Fラウンジ。
 食後のラウンジは、外の酷い雨模様など意にすることなく、いつも通りの温かさを保っていた。
 このロールプレイにおける主人公である月珀の彼女は、体重を預ければ深く沈んでしまう程に柔らかいソファに至極姿勢よく腰掛け、重厚な装丁の本を広げていた。よく読み込まれ端が拠れて黄ばんだページには、細かい文字が2段に渡って横たわって居た。
 もし貴方がその表紙を見る事が出来たのならば、赤いビロードに金の文字で、グリムの昔話、と言う文字を見留め、それが童話集である事を知る事が出来るだろう。

 既にお披露目行きの決まったアストレア。それが無慈悲な死刑宣告である事を、彼女は既に知っていた。されど、いつもと変わらずただ本を読み続けて居るのは、その心の内に不安で渦巻く波を鎮めるため。何も知らない者からすれば、お披露目に行く為の準備を怠らない勤勉なドールにさえ見えてしまう事だろう。細く嫋やかな指先は、黙々とただページを捲っていくけれど、その玻璃の瞳は深く輝き、口許は美しい弧を描いていた。

 1階、ラウンジ。リーリエは、夕食後にそこを訪れた。姉と慕い、懐いているドール、アストレアを探すために。アストレアは、お披露目が告げられている。ミシェラの時は、動揺して、冷静で居られなかった。それ故か、ちゃんとお別れが出来なかった。それを、リーリエはずっとずっと後悔している。だから、アストレアには、ちゃんとお別れを。そのような思いを胸に、ラウンジを訪れたリーリエは、すぐにお目当てのドールをその色違いの両眼に映すことが出来た。

「アストレアお姉様……!」

 アストレアを見つけたリーリエの顔は、ぱっと輝き、少し小走りで彼女の元へと駆け寄る。本を読んでいる彼女を邪魔しないよう、静かに。

《Astraea》
「おや、My Dear Lily , 慌てて転ばないようにね。」

 鈴の転がる様な可愛らしい声に、面を上げれば、その麗しいかんばせに大輪の薔薇の咲くような笑みを浮かべて、愛おしそうにその百合の花を呼ぶ。
 読んでいる途中であったページに栞紐を挟んで閉じてしまえば、ソファの端に寄り、座って、と言わんばかりに自身の隣を指した。

「どうしたの、リーリエ、もしかして僕の事をお祝いしてくれるのかい?」

 だなんて飄々と言って見せては、返事を待つように、美しい百合のヘテロクロミアをじ、と見詰めた。
 勿論本当にお祝いしてくれるのを待っていた訳では無いのだけれど、自身を姉、と慕ってくれている優しいこのドールならばきっと"祝って"くれる筈だから。

「ふふ、やっぱりアストレアお姉様はぜんぶお見通しなのね。」

 そう言って笑ったリーリエは、アストレアに促されるがまま彼女の隣に腰を下ろす。夕食時、彼女がお披露目に行くと発表されたときは、本当にびっくりして、本当に嬉しかった。優秀なエーナドールである彼女が、ご主人さまを見つけ、幸せになるのだ。そう、思ったから。でも、やっぱり寂しくて。ミシェラに続いて彼女までもいなくなってしまうのは、どうにも悲しかった。

「……アストレアお姉様、お披露目おめでとう。わたしね、アストレアお姉様が大好きなのよ。だからね、幸せになって欲しいの。落ち着いたら、お手紙を送って欲しいの。ソフィアお姉様も、みんなも絶対に喜ぶのよ。」

 リーリエは、アストレアに祝福の言葉を贈る。きっと、貴女なら幸せになれると信じてやまないから。寂しい、なんて感情は滲むことなく只只に祝福の言葉がアストレアには贈られる。リーリエは、許されるのならば甘えるように彼女にもたれかかろうとする事だろう。

《Astraea》
「ふふ、当たり前だろう。僕は王子様なのだから。君のことは何だってお見通しさ。」

 リーリエが隣に腰を下ろせば、白百合と白薔薇の並び咲く花畑と見紛う程に麗しい。
 全部お見通し、だなんて言葉に薄く笑えば、いとも簡単そうに片目を瞑って星を飛ばして見せた。彼女の言葉は全て、どこか芝居掛かった浮ついたものであったけれど、その無機物の笑顔には、自身を王子様と呼ぶのも、そのキザな態度も、不思議と似合ってしまうのだった。

「ありがとう。手紙は送れるかどうか分からないけれど、ご主人様に頼んでみるよ。

 ……ねぇリーリエ、僕は君のことが大好きだ。だからね、君は絶対に幸せになるんだよ。」

 心から清い祝福の言葉に、嬉しげな笑顔を浮かべては感謝を述べた。
 ささやかなれどきっと叶うはずの無いお願い事に、その目をそっと逸らして。
 甘えるように凭れ掛かった彼女に気が付けば、至極愛おしそうに頭を撫でてやり、その後に続けたのは彼女の悲痛な願いであり、最後の頼み事だった。どうか、お披露目になんて行かないで。無事に脱出して、幸せになって。
 されど、彼女は言えなかった。希望に輝く瞳を曇らせることなど、到底出来なかった。現実を見るのは自分だけで良い。いつかは必ず現実を知ってしまうのであっても、それはまだ先で良いのだから。
 今、彼女の心には死への恐怖にも勝る愛情があった。
 彼女は祈る。神よ、もう自分はどうなったって良いから、リーリエを、オミクロンの皆を、御守り下さい。幸福を、与えて下さい。

 彼女は神など信じていなかったけれど。

「わたしが幸せになるには、まず、アストレアお姉様が幸せにならないといけないの。……わたしはね、みんなが幸せならそれで幸せ。誰も傷つかないで、笑っていられるのならそれでいいのよ。」

 頭の上を行き来するアストレアの手に、リーリエはうっとりと目を細めた。紡がれた彼女の願い事に、勿論。と言った後にそう続けて。貴女が幸せで無ければ、己の幸せなぞ訪れない。リーリエには、アストレアが彼女自身の幸せを諦めている様に見えてしまった。でも、きっと、彼女はお披露目で素敵なご主人様と出会い、大切にされ、幸せになるのだろう、とリーリエは疑わない。だって、そうなるものであると教えられて来たから。それ以外のことなんて、何にも知らないから。
 アストレアは、優しくて、華があって。プリマドールに相応しいドールであるとリーリエは思っている。例え傷があったとしても、その魅力は損なわれることはない、と。だから、リーリエは、彼女ならきっと良いご主人様に出逢えると信じてやまないのだ。

「……ねぇ、アストレアお姉様。わたしにね、お話を聞かせて欲しいの。もう、聞けないだろうから。」

 アストレアの持っている童話集を見ては、彼女の腕にリーリエ自身のそれを絡め、ほんの少し我儘を言ってみる。髪長姫、ラプンツェルが良い。だなんて作品すら指定して。彼女なら、頭の中に入っているだろうから。そんな信頼故の我儘である。

《Astraea》
「ふふ、それならば僕が幸せにならないとね。大丈夫だよ、僕はきっと素敵なご主人様に選んでいただく筈だから。リーリエもそう思うだろう?」

 彼女は絹糸の睫毛を揺らして笑った。形の良い薄い唇はいつも通りに三日月の弧を描き、滑らかな陶器の頬は微かに持ち上がった。
 彼女は美しい嘘をつくひとだった。
 本当はフィクションよりも惨い真実ばかりをその玻璃の瞳の奥底に映していたけれど、その上澄みだけは、至極美しく、明るい夢に輝かせる事が出来た。
 愉しげに笑った彼女の優しい嘘は、きっと誰にも見抜くことは出来ない。今の彼女のうっとりとした表情は、正しくお披露目を無邪気に楽しみにしているドールのそれであろう。

 ふと、腹の傷が疼く様な、そんな気がした。

「勿論だよ、髪長姫ね……。

 昔々、あるところに──」

 親愛なる白百合の可愛らしいお強請りを断るだなんて、そんなはずは無くて、アストレアは脳内の膨大な収録童話棚より目当ての引き出しを迷い無く探し当ててしまえば、至極丁寧な声色で、一切の澱みも無く話し始めた。
 彼女が今しがた閉じたばかりの童話集にも当たり前に収録されていた程に有名なそのお噺は、旧式と童話らしい無邪気な残酷さが美しく描かれた、正に名作。思想によっては子供に聞かせるにしては少々刺激の強い、と詰られるやもしれないほどの血腥い描写の数々は、フィクションならではの表現であったけれど、彼女は、現実の方がもっとずっと酷いことを知っていた。
 『Truth is stranger than fiction.』とは誰が言ったものか、正しく、お披露目で見た光景の方がずっと激烈で、冷酷無惨な出来事であった。脳内で開いた本を読み上げながらも、その片隅であの夜を思い出して、彼女は思わず笑った。普段の麗しい優しげな笑みと言うよりは寧ろ、何かを諦めた様な、無機質でどこか恐ろしい、リーリエが気が付けばきっと不安がってしまうような、そんな笑顔で。
 もう地獄行きの電車は走り出した。
 風に揺らぐ葉よりもずっと無力な、たかがドール如きに出来ることなど、何も無いのだと。

 アストレアの声は、心に染み入るような美しいもの。甘やかで、優しくて、どうしようもなく安心してしまう。いくら残酷な物語でも、リーリエにとってはアストレアが語っている。それだけで、まるで全てが幸せな物語な様に聞こえてくしまった。
 リーリエは目を閉じて、うっとりとアストレアの声に聞き入る。そして、不意に彼女の方を見上げた。そうして見た彼女は、笑っていた。
 その笑顔に、いつもの優しさも柔らかさも無くて、溶けて消えてしまいそうな、雪のような儚さがあるだけ。それが、リーリエは恐ろしくて、幸せになるはずな彼女が、どうしても幸せになれないと言われているような、そんな気がして。そんな訳が無いと、そう分かっていても、不安で不安で仕方がなかった。

 ──リーリエは、アストレアの笑顔を忘れることにした。
 きっと、アストレアは覚えていて欲しくなんてないだろうから。もし、覚えていて欲しいのなら、彼女は面と向かって言ってくれるはずだから。"王子様"であることに、彼女が誇りを持っていることは知っている。だから、リーリエは見て見ぬふりをするのだ。

「アストレアお姉様、大好きよ。」

 花が綻ぶような、甘い微笑みを浮かべリーリエはアストレアへと愛の言葉を贈る。彼女の未来に、光がありますよう。彼女のこれからが、幸せに満ち溢れますように、と祈りながら。

《Astraea》
「僕もリーリエが大好きだよ。」

 それは本当に心の奥底からの愛情を優しく包み込んだ言葉。恐ろしい笑顔を引っ込めては、いつも通りの"王子様"の笑顔を浮かべて、リーリエの言葉に応える様に紡ぎ出した。
 抗いようの無い死へと真っ直ぐに進む彼女の心は、最早穏やかであった。今彼女の心に蟠るものは、ただ後に遺される者達のすえと、その心。もう小さい子達へ御伽噺を聞かせてやることが出来なくなるな。ソフィアはああ見えて弱いから、きっと落ち込んでしまうだろうな。フェリシアは、あの子は強がって無理してしまうような子だから、少し心配だな。
 皆、皆、無事に生きて、幸せになってくれ。
 そんな願いを込めて、リーリエの白い桔梗の様な掌を掬いあげれば、その手に一つ口付けを落としては名残惜しそうに、自身の指先で甲を撫ぜる。

 御伽噺はめでたしめでたし、で終わったけれど、彼女の人生は、めでたく終わってくれなんかしない。残念ながら、これはノンフィクションなのだから。
 Memento Mori、じゃあないけれど、死というものは素直に正しく享受し、輪廻転生へと、向かっていくものなのだ。それは至極エーナドールらしい、文学的で非合理的な考え方である。
 彼女はまだまだ何も知らないけれど、それでも良いのだ。この死が無駄にならないように。

「さようなら、リーリエ。君や、皆と過ごした日々はとっても楽しかったよ。
 僕が居なくともきっと君は大丈夫。沢山笑って、沢山の幸せを手に入れるんだよ。
 ……嗚呼、後はね、ソフィアを頼んだよ。あの子はああ見えて弱いところがあるから。」

 穏やかな涙の様な、木の葉の揺らぎの様な、心地のよい波長の、半ば囁きにも近い声で、彼女は云う。
 リーリエの手を握った儘に、その瞳は一番星の如く、一際強く輝く。
 瞳の縁に何かが光った気がするけれど、王子は涙など流さないのだから、きっと気の所為だ。それに、そのかんばせに浮かぶのは、幸せで、慈愛に満ちた、貴方や親友を思う優しい微笑みなのだから。
 大丈夫、もう何も怖くない。

「……ソフィアお姉様は、きっと、まっすぐすぎるのね。だから、すこしヒビが入るとそこから全て崩れてしまうの。」

 まるで、アパタイトの様。だなんて、リーリエは笑ってみせる。ソフィアをアパタイトに例えたのは、きっと、その宝石の色が彼女の瞳とよく似ていたからだろう。真っ直ぐで、芯の強いソフィアは、特定のものを刺激されると脆い。アストレアの言葉は、リーリエのその認識を裏付けるようなもので。
 リーリエは、アストレアのその願いに素直に首を縦に振ることは出来なかった。それを認めてしまえば、アストレアが居なくなってしまうような気がしたから。そんなこと、認めたくなんてないから。

「わたしね、ソフィアお姉様を支えるために、頑張ってみようと思うの。だから、アストレアお姉様も見守っていて。相談もね、させて欲しいの。」

 アストレアの眦に薄らと浮かんだ涙には、気付かぬ振りを。また、お話をしましょう。そう、言いながらリーリエはアストレアの頬に唇を寄せ、親愛と祝福、そして祈りの口付けを贈った。

「さようなら、アストレアお姉様。どうか、お元気で。貴女の未来に祝福がありますよう、祈っています。」

 他にも、アストレアと話したい人がいるだろうから、と最後に別れの言葉を告げたあと、美しいカーテシーをアストレアに披露したリーリエは彼女に背を向け、ラウンジの扉へと歩いていく。大丈夫、きっと、彼女の未来は明るい。そう信じながら。

【学生寮1F ラウンジ】

Campanella
Lilie

《Campanella》
 ガーデンテラスでの、ソフィアとドロシーの会話。少女達の部屋でのアストレアとのやりとり。その全てを教えてと姉に懇願した末に、カンパネラは知った。知ってしまった。
 ダンスホールでの、惨劇。
 ミシェラのように、シャーロットのように、欠けていないはずのドール達が辿った道。

「…………」

 逃げ場とか、ないじゃん。
 あのシャーロットがあんな残酷な目に遭ったんだから、“それ以外”だってきっと酷い目に遭ってるに違いないと薄々わかっていたのだけれど、こうやって事実として眼前に突き付けられるのはやはり苦しい。姉は自分に真実しか語らないという確信は、更に彼女の首を絞めることとなった。
 怪物。怪物が、おめかしをしたドールたちを殺す。考えるだけで涙が出てくる。その恐ろしさのあまりに、この箱庭の異常性に気付かず、呑気に過ごしていた日々が……。

「ぐす……………」

 ふわふわのソファに深く座り込み、クッションを抱き締めてカンパネラは泣いていた。少女は真実から目を逸らせない。彼女の中の炎が、目を逸らすことを許さない。

 ラウンジには今、カンパネラは一人きりであった。彼女は延々と身体を震わせて泣いている。いつもの調子といえばそれまでであったが。
 部屋に誰かが立ち入れば、カンパネラはその眼に涙を溜めたまま、恐る恐る顔を上げるだろう。

 オミクロン寮、ラウンジ。少年少女の形を模したドールたちは、そこで寛ぎ、交流する。己がなんのために生きているのか、誇らしい"お披露目"が、本当はどんなものなのかすらも知らずに。只々、愚かに夢を見て、そして彼らの手のひらで踊っている。どんな結末になるかなんて、知らない癖に呑気に笑って夢を見て。
 リーリエもその一人。"お披露目"は素晴らしいもの。だって、ご主人様に出会えるのだから。きっと、連絡のないあの子達も幸せに暮らしているの。だって、そうでないとおかしいのだから。そうやって、何も知らず、深く考えもせずに只々コアを動かしているだけのドールの一人。

 ラウンジは、ひっそりとしていた。そして、その静謐な空間に響くひとつのすすり泣き。このオミクロンで、静かに泣く姿を観測したことのあるドールは彼女だけ。だから、きっと今回も彼女であろう。いつも、怯えて逃げられてしまうから、きっと今回も隣には行かない方が良いのだろう。
 ────でも、放っておくことは出来ない。その気持ちは、モデル故の献身なのか、それとも仲間に向ける親愛の情から来るものなのか。それは、リーリエにすら分からない。それでも、放っておく、だなんて選択肢は存在しないのだ。

「………カンパネラ。」

 リーリエは、彼女を怯えさせないようにそっと声をかける。年下の子に声をかけるように、傷ついた野良猫に声をかけるように優しく、甘く。ほんの少しの小さな声できっと十分だから。それは、同じトゥリアモデルのリーリエがよく分かっていた。

《Campanella》
 白百合が、部屋の片隅に凛と咲いていた。
 真っ白な女の子。まだ何も知らない女の子、純粋無垢で柔らかなドール。瞳を優しい掌で覆われて、真実を見つめることのできていない彼女のことを、カンパネラはしばらく呆然と見て。

「……リーリエ、さん」

 応えるように名前を呼んだ。手負いの仔猫のような目を曇らせて、じり、と身をよじってソファの隅に身体を埋める。

「ご、ごめんなさい、……邪魔に………で、出て、出てくから。ごめんなさい。………ううぅ…………」

 立ち上がろうとしても、身体を強張らせるのに必死で立てない様子だった。視線を逸らし、執拗に瞬きを繰り返すのは緊張からか。ぼろぼろと零れる宝石のような涙はソファやカーペットに次々と吸われていく。
 カンパネラが一人で泣いているのは彼女の常であったけれど、洞察力に優れたトゥリアドールたるリーリエならば、その表情から焦燥や後悔など、いつもの数度重くて暗い感情を読み取ることができたかもしれない。明らかに、異様なのであった。

 どうしたのだろうか、カンパネラの様子は明らかにおかしかった。彼女は、いつもほろほろと美しい涙を零している。それは、変わらない。でも、どうしてもいつも通りとは言えなかった。苦しくて、悲しくて、どうしたら良いかなんて分からなくって焦ってる。そんな表情。
 リーリエからは、カンパネラのタンザナイトの様な、思慮深さが滲むきらきらとした瞳は、その夜の帳の様な黒髪に隠れて見えないけれど、それでも、きっと、その瞳にも同じ色を滲ませているだろう、と言うことは想像出来る。

「カンパネラ、お願いなの。何故、そんなに悲しくって、苦しくってたまらないのか、教えて欲しいのよ。……わたしはね、あなたが苦しんでいる姿を、うぅん、誰であったとしても、苦しんでいる姿は見たくないの。」

 だから、お願い。ひとりで抱え込まないで。なんて懇願するように口にしては、カンパネラの隣に腰を下ろす。カンパネラが怯えてしまってはいけないから、抱きしめることはしないけれど、大丈夫、と声を掛け続ける。鳥の雛が、最初に見た者を親と間違えてしまう様に、この言葉がカンパネラの中に刷り込まれれば、なんて考えながら、妹を、恋人を宥めるかのように優しく、優しく。

《Campanella》
「うぁ………」

 隣に座られ、カンパネラは彼女から距離を置くことを試みた。しかしもう彼女はソファの端まで来ている。立ち上がって逃げるような元気はなくて、ぼろぼろ涙を溢し続けることしかできない。
 しゃくり上げる彼女は、ただこんこんと湧く清水のような美しいリーリエの声を聞くことしかできなかった。優しい声を絶えず流し込まれる。不信なるカンパネラは、それを全て受け入れて甘えてしまうことができない。心の蓋を開けない、思考を委ねることができない。手放しかけたクッションをまた強く抱き締めた。

「………か、ッ関係、ない………から……い、言えない…………」

 どうしてわたしはこんな風に、突き放すように言ってしまうんだろう。心配してくれているだけなのに。
 カンパネラは静かに、自己嫌悪を加速させる。でも言えない。言えないのだ、何も。
 言えば、この子が戻れなくなる。

「い、言えないのぉ……っごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい………!」

 繰り返し首を横に振る。明確な拒絶。それが相手を傷付けるかもしれないという思慮に欠けた行為だった。
 タンザナイトは濁っている。

 嗚呼、やっぱりこの子は優しい。謝罪を繰り返すカンパネラを見て、リーリエはそう思った。きっと、本当に大変なことがあったのだろう。同じ体験をした訳では無いから、薄っぺらい感想しか出てこない。

「カンパネラ、大丈夫なのよ。落ち着いて、ゆっくり呼吸をして。」

 しゃくり上げるカンパネラに、リーリエは大丈夫、と声を掛け続ける。あなたが無理と言うのなら、無理に聞き出すつもりは無い。拒絶された、だなんて思ってない。敵意なんて、ある訳がない。透き通る水のような、涼やかな声でそう伝える。

「あなたが、抱えているものの、ほんの少しでいいの。苦しい、悲しい、そんな感情だけでも。……あなたの抱えているものの、鱗片をわたしに預けてみてほしいの。」

 感情を昂らせるでもなく、ただ淡々と。カンパネラに寄り添い、リーリエは言う。ほんの少し預けてみて?と。あなたよりは、ほんの少しだけお姉さんだから、わたしにも、少しだけ背負わせて、と花が綻ぶような微笑みを浮かべながら。

《Campanella》
 ゆっくり呼吸を、という声に従って、カンパネラは深呼吸を試みた。吸って吐くのを何度も何度も繰り返す。肩を上下させ、無意味に自身の胸元をさすった。
 トゥリアドールとしての模範的なリーリエの行動に、カンパネラは慰められていた。なんて情けないのだろう。

「りん………」

 鱗片、と言葉を認識するのが遅れた。幼子のような目をして、微笑むリーリエを見る。きれいで、本当にお花みたいで……脆そうで、怖い。
 少しずつ歩み寄ってくれるリーリエに対し、カンパネラはまだちゃんと応えることができない。こんなこと、彼女に話していいのか分からない。
 わたしが臆病で弱いから。
 ごめんなさい。

 カンパネラは呼吸を落ち着かせ、しばらく黙りこくったあと、恐る恐るといった風に言葉をこぼした。真っ黒な泥に沈んだような声で。

「…………分からない、の」

 自分もこのことに困惑しているのだと、はっきり分かる表情だっただろう。文字通り、カンパネラは自分の感情が分からなかった。

「……悲しくて………こわくて。でも、それだけじゃ、ないんです……。何か、………別の、何かが」

 燃えている。凍ったように冷たい心臓の内側に、確かに炎がある。その正体はどうしても掴めない。なのに、ダンスホールでの話を聞いてからも、炎は勢いを増すばかりで。
 言いながら、また彼女は泣いた。困惑と混沌の最中、無垢なリーリエの隣で、弱々しく。

 深呼吸をして。そして、話し始めたカンパネラにリーリエは安心したように表情を緩める。
 そうして、少しの沈黙の後、沈んだ、暗い声で話し始めたカンパネラ。その暗さにほんの少しだけ恐怖を覚えるも、リーリエの胸には話してくれたことへの安堵が広がった。

「……そうなのね。大丈夫なのよ。悲しいのなら、泣いていいの。苦しいのなら、他の子に助けを求めても。分からないなら、こうやって誰かに話して、そうやって、少しづつ整理していけばいいの。」

 滔々と柔らかく語る。リーリエは、ずっと大丈夫、と繰り返してカンパネラに寄り添う。甘やかな百合の香りを漂わせて。触れることはせずに、ただ寄り添う。本当は、抱き締めて、その背を撫でて慰めたい。
 でも、それは彼女に限っては悪手だと、リーリエは理解しているから。だから、只々寄り添うだけ。彼女の心の整理が着くまで、ずっと話を聞くのだ。それはもう、トゥリアらしく。ずっと、カンパネラが苦しいのは嫌だから。大好きな仲間には、笑っていて欲しいから。だから、リーリエは献身するのだ。繊細で、人一倍臆病で、きっと人一倍優しいのであろうカンパネラが笑える日を夢見て。

《Campanella》
 甘やかな言葉がこだまする。彼の、兄を名乗るかのドールと似ている。ヒトを抱擁するための柔らかな身体とまろい声、言葉を紡ぐ脳みそに至るまで。わたしのそれとは全然違う。ひねくれ屋のカンパネラは、自分の欠陥を突き付けられたような気持ちにさえなった。トゥリアドールに求められた全てを、目の前の少女は持っていると思った。
 なぶられるか、焼かれるか。そんな結末しか待っていないドールズに、どうしてそんなものを求めるのかは、全くもって分からないけれど。

「……………」

 甘えて良いのだろうか。寄りかかって良いのだろうか。許されるがままに、言っても良いのだろうか。

「わたしは、………。」

 と。そこで、カンパネラは口をつぐんだ。
 良い訳がない。わたしみたいな欠陥品が。そんなことして良いはずが、ないのだ。ないはずなんだ。償いを続けなきゃいけないんだ。そんなことしてる場合じゃ、ないんだ。
 それはもはや強迫観念のようなものであった。カンパネラは再び首を振って拒絶する。これ以上は、これ以上は言えない。
 言えないけれど。

「…………あなたは」

 白百合から目を逸らしながら、ぽとりと雨を落とすように問いかける。突拍子もないことを。

「あなたは、この場所が……学園や、先生のこと。……好き、ですか?」

 カンパネラの口から放たれた、突拍子も無いその質問に、リーリエは色違いの双眸をぱちり、と瞬かせた。なぜそんなことを聞くのか分からないから。その質問からは、カンパネラはあまり好きでは無いように聞こえてしまったから。
 しあわせで、辛いことなんて無い、とは言えないけれど、先生達が解決してくれる。このぬるま湯のような生活が当たり前。好きか嫌いかで言われれば、好き。だって、蹴られも殴られもしない。ご飯だってある。大切な仲間たちと笑っていられる。
 嫌いな訳が無いのだ。

「好き、好きなのよ。みんな、しあわせで、楽しくって。辛くも苦しくもないの。先生も優しいのよ。いつも、みんなのことを気にかけている。激昂して、暴力を振るう訳でも無いの。だからね、わたしが嫌いな訳が無いの。」

 白百合は、アクアマリンとペリドットの双眸を煌めかせ、間髪入れず、そう答える。その目に宿るのは、純粋な光。疑うことを知らない、愚かしい無垢な光。
 何故そんなことを聞くのか分からない。けれど、リーリエの答えは決まっていた。楽しい、楽しいトイボックス。リーリエは、愚かな人形たちの詰まったおもちゃ箱が大好きなのだ。

《Campanella》
 あ。わたし今、このドールのことを哀れんだ。そう気付いた。拳を握りしめる、小さなソフィアの背中を見たときと同じように。
 地獄の底にある美しいステージで、糸を引かれて踊らされる。ここを純粋に好きと言うリーリエは、カンパネラの目にはそのように写った。可憐な花は無邪気にこの箱庭に溺れている。いつか残酷なまでに手折られる、そんな運命を知らずに。

 下手に情報は漏らせない。後戻りができなくなることの恐ろしさを、カンパネラは知っている。真実を知らなきゃ良かったと何度後悔したことか。でも同時に、彼女は思うのだ。
 最期の最期まで何も知らずに生きて、そしてそのままディミヌエンドみたいに死ぬことが、どれほど恐ろしいことか。

「………ここに期待したら、駄目ですよ」

 慈悲を傾けたという訳ではなかったが。カンパネラはクッションを手放してソファから立ち上がり、そう忠告する。

「ここを……信じない方が、良いです。………信じないでいたら……裏切られたとき、あんまり、痛くないんですから………」

 一方的に言葉を吐く。横髪を握り、顔を隠すようにそっと寄せながら。その夜の帳を思わすウェービーな黒髪は、真っ直ぐで真っ白なリーリエの白髪と実に対照的だった。花畑と沼の底。青空と曇り空。天国と地獄。

「……お披露目と、先生に気を付けて………」

 そう話を切り上げて、カンパネラはラウンジから離れていく。引き留められるようなことがなければ、彼女は振り向くことなく寮の外へ向かって歩いて行くだろう。

 信じない方が良い。お披露目、先生。裏切られる。―――嗚呼、何か、あるのだろうなぁ。それも、とんでもないものが。
 カンパネラの言葉から、リーリエはそう思考する。薄ぼんやりとした確証が胸へと広がった。アストレアの、自分は幸せにはなれない。そう言っていたかの様な、お別れの言葉を聞いてから、うっすらと胸の奥にあった疑念に、納得がいった。彼女らの口ぶりから想定できる通り、お披露目に何かがあるのだとしたら、ドールズは幸せになれないのだろう。本当に? 否、きっと、幸せではあるのだろう。だって、このトイボックスはとっても楽しいのだから。今はそれだけで十分。楽しい、楽しいぬるま湯のような生活に溺れているから。
 だから、それで十分。

「……ねぇ、カンパネラ。きっとね、幸せには対価が必要なのよ。」

 リーリエは、カンパネラが出ていき、閉まった扉にそう静かに投げかける。カンパネラがああやって苦しんでいるものは、きっとこの幸せな生活の対価。物を買えばお金を払う。物々交換をするのであっても、対価となるものは必要不可欠。だから、きっとこんなにしあわせな生活を送っているのだから、対価を徴収されたのだろう。与えられた幸せを、全て不幸で塗り替える。そうしなければ、釣り合いは取れないのだろうから。白百合は、ゆったりと微笑んで、甘い、甘い声で歌う。

"Who'll sing a psalm? I, said the Thrush,as she sat on a bush,I'll sing a psalm."と。

【学生寮1F エントランスホール】

Ael
Lilie

《Ael》
 ヒミツのやくそく。それを果たすべく、エルはエントランスホールへ到着した。ここなら、誰かがいる気がして。きょろり、あたりを見渡す。ひとり、百合の少女を見つけては嬉しそうに駆け寄る。

「リリ! こんにちはなのです!」

 いつもの様に、水色のツインテールを揺らして、目の中の天使を羽ばたかせる。誰かが知っている、トイボックスの秘密。それはリーリエかもしれないし! と、理由は簡単で単純。行き当たりばったりもあまり良くないため、最初に出会ったリーリエは言い方は良くないかもしれないが実験みたいなものだ。ここから誰にするかを決めるターニングポイントと言えば良いのだろうか。
 きちんと憶えているよ、いちばんのだいじなヒミツのやくそく。やさしい彼女に、協力してもらおう。

「エルくん、こんにちは。」

 唐突にかけられた声に、辺りを見回す白百合の少女。大きな水色のツインテールを持つ彼を見れば、柔らかく微笑んで挨拶を返す。
 エントランスホールは、閑散としており、リーリエとエル以外のドールは居ない。静かなホールに、白百合と天使の声だけが響いていた。

「ふふ、どうしたの? 今日のエルくんは、とっても楽しそうに見えるの。」

 エルの、少し興奮したような様子を指摘してはそう問いかける。リーリエは、かわいいな、と弟に向けるような、愛おしげな視線をエルへと向けていた。

《Ael》
「えへへ、そうなのです! ちょっと嬉しいことがあったのです!」

 楽しそうに見える、そう言われては上記を答える。初めてヒミツの約束をした! だなんて、大声では言えない。最初のヒミツを成功させるために、本題を話さないように。

「そんなことより、リリ、エルからききたいお話があるのです」

 少し声を下げて、人差し指を自分自身の唇に当てる。むん、と得意げに眉を逆八の字にして、目を閉じてドヤッというような効果音がつきそうな顔をする。そしてノートを開いてリヒトに書いてもらった"ヒミツ"を新しいページに、メモリーに書いて彼女に見せた。

「……しってるのです? しらなかったら、大丈夫なのです。それに、このこと、ヒミツにしてほしいのです、エルの初めてのヒミツの、大切な事なのです」  

「……なぁに? 秘密、はね、わたしは分からないの。だから、ごめんなさい。」

 エルのノートに書かれている文字を見ては、しゅん、と肩を落とす。ほんの少し、欠片のようなものは知っている。けれど、それは不確定で、まだよく分からないことも多い推測だらけの情報なのだ。そんなもの、自分の中で抱えているだけならばまだしも、人に話す訳にはいかない。だから、リーリエは分からないと誤魔化した。嘘では無い。"詳しいことは"分からないだけ。ほんの少しだけ、言葉を省いた。ただそれだけ。

「……あの子なら。」

 ふ、と小さく言葉を漏らしては首を振る。勝手に他人の情報を漏らすことは褒められた行為では無い。だから、リーリエは途中で言葉を止めた。大事な仲間のことを晒すのは、違うと思ったから。

「うぅん。何でもないのよ。」

 そうして、白百合は全てを隠すように笑った。ほんの少しだけ、話してくれたあの子を、裏切る訳には行かないから。

《Ael》
「ほんとなのです? ごめんなさいなのです、急に呼び止めて……ありがとうなのです、リリ!」

 ヒミツはしらない、肩を落として申し訳なさそうな白百合のドールに、感謝と謝罪を伝える。……でも、誰か知っている人がいる、それだけは事実。リーリエの呟きが正しいなら。エルは誰かをすぐに信頼してしまう。それは、そうしないとこれから先エルは何もできなくなるから。誰かを頼らないと、エルは、ひとりぼっちで何もできない孤独な天使。自分のことよりも、他人のことを見護るべきだと神様がおっしゃっているみたいに。エルは天使だから、自分のために何かをするなんて、できやしない。……このヒミツだって、エルのためだけにあるものじゃない、きっと、別の理由がある。エルは、次にやるべきことがある。誰かを、護るために。

「それよりも、リリ、ここの名前……は、えっと、なんなのです? エル、また忘れちゃったのです……よかったら、案内してほしい、のです……」

 そう言えばここはどこだっけ。エルにとってありがちなこと。でも、またドールを思い出したばかりのエルにとって、そういうのは少し申し訳なさがあった。……きっと、リーリエはやさしいから。教えて、くれそうだな、なんて少し期待を寄せた。

「ここはね、オミクロン寮。わたしたちの暮らしている所なのよ。ここは、玄関。エントランスホール。左には、ダイニングルームがあってね、わたしたちはいつもそこでご飯を食べるの。右には、お勉強をする部屋があるのよ。」

 また、天使は落し物をした。
 大切な、大切な記憶を。可愛くて、可哀想な天使様。白百合は、天使の瞳を見て、問に答える。
 あそこには、と丁寧に一つずつ説明する。エルがそこに行きたいと言うのならば、一緒について行こう、と。そう思って。天使様は、今まっさらの状態。言わば、赤ん坊と大差ないのだ。誰かが付いていないと、怖くて怖くて仕方がない。

「エルくん、この建物の探検をしようと思うの。そうしたら、きっと、エルくんも覚えられるのよ。」

 リーリエは、優しくエルの手を握る。ふわり、と百合の馨しい香りが香ることだろう。その桃色に色付いた唇から出てくるのは、エルを気遣う言葉。大好きなあなたの力になりたいから、と言った献身的なもの。

《Ael》
「おみくろん、りょう……えんとらんす、ごはんの場所、お勉強の場所! なのです! 忘れないうちにメモするのです……!」

 優しい白い百合のドールは、落としたものを全部拾ってくれた。それをまた落として無くさないように、もう一つのメモリーに書き加える。ヒミツを書いた、次のページに。きちんと書き加えてから、エルはリーリエの提案を聞いて嬉しそうに笑顔を輝かせる。

「ほんとなのです!? 行きたいのです!」

 毎日見ているはずなのに、毎日ここで何かしているはずなのに、毎日、ここで寝ているはずなのに。全部が初めてに思えて、嬉しくなってしまう。何も知らない天使様は新しいことに興味が止まらない。ぎゅ、柔らかく温かいその手を握り返す。行きたい、心からの嬉しさを体現しながら。

「……じゃあ、まずはダイニングルームを案内するのよ。」

 エルの輝かしい笑顔に、つられてリーリエも口元を綻ばせた。学習室か、ダイニングルームか。どちらに行こうか、そう、少しだけ考える。学習室は、お勉強の時絶対に知っておかなければならない。ダイニングルームは、朝も、夕もどちらも使う。どちらの方が、優先度が高いのだろうか。どちらも大切で比べがたい。でも、"今"優先度が高いのは、ダイニングルーム。だって、夕ご飯があるのだから。リーリエは、エルの手を引いて、ダイニングルームへの扉を開く。
 きゅ、と握られた手が温かい。モデルの差故か、リーリエの様な柔らかさをエルは持ち得ないけれど。それでも、とっても柔らかくて温かい手。白百合は、天使様の手を離さないようにそっと握り返した。

【学生寮1F ダイニングルーム】

 今朝も全員で一緒に朝食を取ったばかりであるこの空間は、今は閑散としている。長い机が二つに、人数分の椅子。特に席順は決まっていないが、皆それとなくいつも同じ席に着くことがお決まりだった。
 また、先生は皆の顔が見られる一番手前側の席にいつも腰掛けている。

 部屋の奥には柱時計が置かれている。今も滞りなくカチコチと時を刻んでいるようだ。

 この場所は特段、今朝から変わりがあるようには見えない。

《Ael》
「えっと、お食事のところ、なのです! そういえば、もうそろそろお夕飯なのです? お腹が空いてきちゃったのです…」

 優しい手に導かれてダイニングルームへ案内されては、食事をする場所だと結びつける。そして自分の腹の虫が少しきゅ、と音を立てるのを聞いてえへへ、と恥ずかしそうに笑みを溢した。

「ダイニングルーム、どうしてダイニングルームというのでしょう? 何だか不思議なのです」

 ふと疑問に思った子供のようなこと。リーリエが知らないにしても、図書館で今度しらべたら見つかるだろう。くすくすと何も知らない無邪気な笑顔を咲かせて、少し首を傾げた。

「わたしもね、分からないの。今度、エルくんが調べたら、教えて欲しいのよ。……ふふ、エルくん、お腹が空いてしまったのね。」

 エルの質問には、分からないと答える。だって、そういうものだから。何故か、なんて考えたことも無かった。だから、今度教えて欲しい、だなんてお願いして。それまで、この天使様がその約束を覚えているは分からないけれども。エルの鳴った腹の音に、リーリエは微笑みをこぼす。ダイニングルームから、続くパントリー。そこにはドールズが何かを食べたくなった時に食べても良い物がある。

「パントリーに行ったらね、食べるものがあるのよ。」

 にこにこと笑いながら、リーリエはエルの手を握り、パントリーへと足を進める。みんなに内緒で、小腹を満たそうだなんてエルへと囁きながら。

【学生寮1F パントリー】

 パントリーは食糧庫の名の通り、野菜や果物などがうず高く積まれた木箱がいくつか並べられていた。壁に沿って置かれた木製の棚には、調味料やハーブなど調理で使う素材が所狭しと詰め込まれている。
 そして雑多な食材で溢れかえり、手狭な印象を受ける部屋の奥には、地下へと続く階段があった。

《Ael》
「っぶぇっくちゅっ!!!」

 リーリエもわからないというダイニングルームの名前の理由。気になって仕方がないので、ノートの隅に少しメモした。調べて、今度教えようと思って。
 パントリーという場所には食べ物があると言われ、嬉しそうな顔をする。ないしょ、ないしょ。本当に楽しそうにそう呟いて、リーリエの提案を呑んだ。……が、パントリーに入った瞬間豪快な天使から出たとは思えないくしゃみをした。ずぴ、と少し出た鼻水を啜ってなんでだろうと辺りを見渡す。すると、地面には何か便が落ちていて、黒っぽい粉が散らばっていた。


「うぅ、むずむずするので……っうえっくしゃい!! ずぴ………」

 何かわからないそれに興味を持って顔を近付けてみてはまたくしゃみをする。くしゃみの原因がこれだとわかって、エルはそそくさとリーリエを壁にして、後ろからそれを凝視した。

「……っくしゅ。」

 天使らしからぬくしゃみをしたエルよりも先に、パントリーに響いた小さく、静かなくしゃみ。きっと、紙ひとつ飛ばせやしないであろう、小さなくしゃみはリーリエのもの。前に来た時は、こんなことは無かった。
 きっと、何か原因があるのだろうとパントリーを見渡せば、床に落ちた瓶と黒の入り交じった粉。その色と、止まらないくしゃみから、リーリエはそれが胡椒だ、と当たりを付けた。

「エルくん、近付いちゃ………、っくしゅ………遅かったのよ。」

 忠告しようとした矢先、好奇心の強い天使様はそれに顔を近づけてしまった。それを見て、リーリエはほんの少し肩を落としため息をつく。……それにしても、誰が胡椒瓶を落としたのだろうか。バラバラの食器と言い、落ちた胡椒瓶と言い、謎だらけである。

 あなたがパントリー内を軽く見渡せば、部屋の隅に室内の清掃用の軽い箒とちりとりがラックにぶら下げられているのを見つけることが出来る。
 厨房やパントリーは日々誰かしらがこれらの道具で清潔を保っているため、あなたも位置を知っていることだろう。

 あなたは床に散乱した胡椒をそっと片付けることが出来るだろう。
 落ちた胡椒瓶は幸いなことにまだ中身がすこし残っているようだ。元の位置に戻しておいた方がいいかもしれない。

《Ael》
「んく………こしょう、なのです? くしゃみしちゃうのです……」

 リーリエが溢れてしまったこしょうを片付けたあと、エルは瓶に少し残った忌まわしき敵……のような、ただの調味料を元に戻す。その前に、少し指に取って舐めてみた。ここにあると言うことは食べれるのだ。

「ん〜〜……ちょっぴり、ひりひりするのです……」

 じい、とまた瓶を凝視する。コイツには気をつけないと。そう思って、こしょう、注意! とノートのメモリーに記した。

「ふふ、そんなに直接食べちゃったら、辛くって舌がおかしくなっちゃうのよ。」

 指に残った一掬いの胡椒を舐めた天使様に白百合は愛おしげなものを見るように笑う。舌に乗せれば、ぴりりとする胡椒。料理などに使えば、ちょうど良く。しかし、直接だなんて、リーリエが舐めれば「ちょっぴり」では済まないのだろう。

「……ここにあるものは、食べていいものなの。だからね、好きに食べて。わたしは、ちょっと図書館に行きたいの。だからね、困ったことがあったら、呼んで欲しいの。」

 エルの手を握る。
 大きさは然程変わらない、でも、リーリエよりは柔らかくない手をキュ、と握った。もし、必要ならば呼んで欲しい。そう言って、白百合は片目だけの天使様を覗き込む。
 ぱ、と手を離せば、温もりは消え去ることだろう。そのまま、白百合はパントリーの扉を開け、軽やかな足音と共に、その場を後にした。