Odilia

 ふわりふわりと白い獣がまた学園のロビーに来る。
 人の視線はオミクロンなのだから集まるのは必然だ、でもそれでも獣には気にする暇がなかった。

 アストレアお姉ちゃんがお披露目会へ行ってしまう。
 その事実は昔なら羨ましがっていたが、今じゃその価値観も変わっていた。
 リヒトお兄ちゃんから聞いた、お披露目会が想像してるお披露目会じゃないということ……。
 それはつまりアストレアお姉ちゃんが…………。

 そんなこと考えるのはやめよう。
 どんどん気持ちが落ちていっちゃう、心配なんてかけたくない、気分転換ついでに色々情報がないかもう一度探索しよう!

 前行った場所はダンスホール。
 そこは開いてなかった場所。変な音が聞こえた場所。

 あとはカフェテリア……。
 カフェテリアよりダンスホールの方が重要だろう。もしかしたら開いているかもしれない、開いていたら……あの音の正体も分かるかもしれない。

「よし行こう! 少しでも手がかりとか、リヒトお兄ちゃん達に貢献出来ることが見つかればいいけれど!」

 とりあえず控え室よりも、開いてなかったダンスホールを見よう。

【学園1F テーセラドールズ控え室】

 踏み入った控え室は、まるで輝かしい宝石箱に迷い込んだように絢爛豪奢な空間だった。
 大きなウォークインクローゼットが部屋の奥に存在し、色とりどりのドレスやタキシードなどの正装がハンガーに掛けられて並んでいる。化粧台が三つほど並んでおり、あなた方はこの場所でお披露目の支度を入念に整えるのだ。
 控え室の左手側には、トゥリアドールの控え室に続く扉がある。ダンスホールに入れるのはあちらからである。

 この部屋は、目に留まる範囲には気になるものは特に無さそうだ。

 綺麗なドレスやタキシードは相も変わらず、化粧台も綺麗なまま。

 化粧台の鏡に顔を覗き込みちょっと髪を整える。
 特にここら辺には何も無さそうだ、隣はトゥリアの控え室。
 特に行く理由はないかな?
 帰り際に見ても良さそうだけれど……とりあえず後回し。

「やっぱり見るべきはこの先だよね。
 変な音がした場所。
 よく分からなくてちょっと怖いけれど、この先のことがなにか役に立つのなら調べておくべき……だよね。」

 よしと手を握りしめ気合いを入れる。
 怖いものなんてない、怖いものなんてない、怖いものなんてない、と何度か繰り返す。
 これは全部お兄ちゃんお姉ちゃんのためと思い、恐る恐るダンスホールの扉を開けるだろう。

【学園1F ダンスホール】

Dear
Odilia

 以前はロープパーティションで区切られていた扉は、現在は開かれている。あなたは鉄扉を押し開けて、静寂が下りるダンスホールに踏み入るだろう。

 周囲を見渡すと、つるつるとした質感のステージが先にまで続いている。
 ステージは広く、ダンスホールの名の通りにこの場で社交ダンスをしても事足りそうだった。現在、客席へ続く真っ赤な緞帳は降ろされていて、スポットライトも点灯していないため、ステージはとても暗い。


 ここで、オディーリアとディアは偶然にもダンスホールのステージ上で邂逅を果たすだろう。
 元々緞帳の向こう側を覗いていたディアは、オディーリアが踏み入ってやってくる足音に気づいて振り返る形になるはずだ。

 どうやら変な音が聞こえてた正体はどこにもないようだった。
 鏡のようにツルツルとした床、思ってたよりも広いステージ。

 鏡のようなこの床を湖と見立て踊ったらどれだけ楽しそうなのだろうか、広く美しい景色はそう思わせる。

 とはいえ暗い、緞帳が降りているせいもあり光が入らないのだろう。
 暗いところで踊るのは気分が乗らない。光り輝いてこそ湖は美しいのだから、そこで踊る白鳥も美しいのだから。

 だからここの緞帳を上げなければならない、とはいえ方法はあるのだろうか?

「あれ……ディアお兄ちゃん?」

 彼女は誰かを見つける。緞帳の向こう側、客席から覗いてきたディアお兄ちゃんを。

《Dear》
「ああ、なるほど、この扉が。ふふっ、こんなに大きいのか……これは抱きしめるのに苦労してしまうね」

 想像を絶する大きさのその扉が、あの一つ目君を通すためのものであろうことは容易に想像できた。あの惨劇を見ていた者なら、きっとすぐにわかるだろう。

 そして、ディアの恐ろしい所はここからだ。あの子を憎む訳でもなく、恐れる訳でもなく、その高い高い壁にたった一言。抱きしめるのに苦労してしまう、とこぼした。その正に思わずこぼれた、というような小さな囁きからは、虚勢や強がりは一切感じられない。
 ディアはただ、その残虐性さえ強さと呼ぶ。心の底から褒め称え、愛し、抱きしめたいと願う。世界中の全てを、ただ愛し続ける。
 それは一つ目くんだけでなく、もちろん、ダンスホールに羽ばたく愛しい白鳥——我らが天雲、オディーにだって。

「おや、”今度”は私が出迎える側か! ご機嫌よう、オディー! 愛しているよ!」

「愛して……る?」

 唐突に言われた言葉に少し戸惑う。

 愛してるってことは、えっと、好きってこと?
 じゃあオディーも好きだから……。

「ご機嫌よう、ディアお兄ちゃん!
 オディーもディアお兄ちゃんのこと"愛してるよ"!」

 自分はお兄ちゃんお姉ちゃんのことみんなが大好きだから、ディアお兄ちゃんにもそう返す。
 唐突に言われて少しびっくりしちゃったけど、多分返し方はこれで合ってるよね?

「ところでお兄ちゃんは何してたの?」

 疑問に思った、緞帳の隙間から何を覗いているのだろうと、その先は客席のはず。
 なにかあるのだろうか、もしかしたらオディーがこの前聞いた、水音と引きずる音の正体とかがわかるのかなと自分は思った。

《Dear》
「本当かい!? ああ、とっても嬉しいよ! やはり、自分の気持ちに応えてもらうというのは良いものだね」

 ディアは、自分の感情に見返りを求めない。意思のない空気中の元素などにも愛を囁く様子から、ディアのそれが無償の愛に近しいものであるということは想像に難くないだろう。
 それでもやっぱり、応えてもらえればとても嬉しい。この感情は、恋人という役割から外れていない。だから、大丈夫。

「ああ、ええっとね……オディー、お披露目のことはもう誰かから聞いた?」

 愛しい恋人を守るために、その真っ直ぐな問いに応えるために、死力を尽くしたいと願うことも。恋人として、当然の責任。

 誰よりも慎重で聡明なソフィアを司令塔に据える元プリマドールの面々が、軽はずみに誰かに話すとは思えない。それは愛故の選択であり、覚悟を持った采配であることをディアは誰より理解している。

 それでもアメリアは知っていた。元プリマドール以外の誰かが愛故に、話すことを選択したのだろう。ああ、愛とはなんと千差万別! その全てが美しく、愛おしい!
 ——私には、その愛に応える責任がある。もし何も知らなかったとしても、確信を持つような問いではない。全ての愛を守るための、その聡明な選択は。コアに宿る強い覚悟は。正しく、世界の恋人の愛であった。

 良かった、返事はこれで合っていたようだ。ディアお兄ちゃんが喜んでくれたならそれでいい、人が笑顔になるのは気分が良くなる。
 オディーはみんなのことが好き。みんなが喜んでくれたらオディーも嬉しい。その気持ちは普遍不滅のもの。だから今この瞬間、ディアお兄ちゃんが喜んでくれたから自分も嬉しかった。

「お披露目会……リヒトお兄ちゃんからちょっと聞いた。」

 そう、リヒトお兄ちゃんと遊んだ時。
 お披露目会はオディーが思ってるほど綺麗で美しくないことを、それに行ったミシェラちゃんが……幸せじゃなかったことも。

 他にも開かずの扉、ルートゼロ、色々聞いた。
 オディーには分からないことだらけだったけれど、秘密だって。
 でも目の前にいるのはお披露目会の秘密を知る一人、ディアお兄ちゃん。だったら聞いた事を話してもいいし、秘密についても聞いていいよね?

「お披露目会の秘密、ディアお兄ちゃん、知ってるんだよね?
 オディー知りたい、いや知るべきだと思う。
 オディーは何も知らないままになりたくない。知って、お兄ちゃんやお姉ちゃんの役に立ちたい。」

 ダメかな? と心配そうに困った顔をして、手を胸に当てながらそう聞く。

 何も知らないままじゃオディー何も出来ないと思う。
 それにみんなオディーにいっぱい色んなことしてくれた。だから今度はオディーがみんなに何かしてあげたい。
 オディーに出来ることがそこにあるなら。

 そう強く決意する。

《Dear》
「そうか、リヒトか! うん、教えてくれてありがとう、オディー!
 私も、話したいと思っていた所だよ。キミの愛しき覚悟に最大の敬意を。一緒にどこまでも行こうね」

 ふふ、と嬉しそうに笑って、白銀の美しい髪を優しく撫でる。あまり表情の動かないオディーが顔に出すほどの心配を、ゆっくりと和らげるように。
 その暖かな声音は、オディーへの、オディーが大切に思う全てへの、世界の全てへの愛に満ち満ちていた。

「そうだな、オディーがどこまで知っているのかわからないから……まずは今わかりやすい所から。

 よっ、と……私がさっき見ていたのはこれだよ、あの扉。あの扉、一つ目の大きな子が入ってくるための扉だと思うのだよ! その子があそこから入ってきて、お披露目に来た子たちを殺すのさ」

 シャッ、と軽やかな音を立てながら、見えやすいように目の前の緞帳を大きく開く。客席の一番奥、アーチに囲われた大きな扉を指差して。まるで世間話でも話すみたいに、軽々と口に出す。

 つい数秒前に、オディーを労った口で。
 つい数分前に、アメリアへの特別を誓った口で。

 その残酷さは、偏にディアの博愛主義故だ。ディアの愛に、対象が死んでいるかなど関係があるはずがない。
 だってディアは、世界の恋人だ。道端の花も、空間という概念も、地球という星が誕生してから何十億年、無数に生まれ死んでいった生命体も、ディアは全て愛している。

 ディアはずっと、正気じゃない。可愛らしく、愛おしく、ただ静かに狂っている。誰かを傷つけるその手まで、世界の全てを愛す瞳。

「良かった……」

 隠されたらどうしようかと思ってた。優しくお兄ちゃんの手が髪の毛を撫でる、少し頭を撫でられた時のように嫌悪感を一瞬感じるも、お兄ちゃんは優しさを持って自分を安心させようとしてくれていると理解し、そっと胸をなでおろす。

 リヒトお兄ちゃんに聞いたこともとやかく言われなくて良かった、お兄ちゃんに迷惑がかかったら嫌だから。

 どうやら話してくれるようで、この舞台を隠す緞帳が少し開かれその隙間から光の柱のように光が飛び込んでくる。
 スポットライトのように舞台を照らす光を掻い潜り彼女が見たのは、アーチで覆われた扉。

 お兄ちゃんが話すには1つ目の大きな子? そして殺す……。
 一つ目……殺す……。
 本で出てくるような化け物?
 黒くて大きい怪物……そんなものが現実に存在するの?
 そして多分きっとミシェラちゃんもディアお兄ちゃんが言ったその一つ目の化け物に……。
 お披露目会はやはりオディーの思ってた幸せいっぱいのものじゃないって。その事実に怖くなり足が震え、その場でへたりこんでしまう。

 お披露目会……オミクロンだけじゃないものなら、もしかして他の子も?
 もしかして……アリスちゃんも?
 そういう疑惑が飛んでくる。
 お兄ちゃんお姉ちゃんもダメだけど、アリスちゃんも殺されちゃ……。

 お兄ちゃんの世間話のような優しい声が、余計に事実を物語ってる。
 心に突き刺さる。

 そしてこんなお披露目会に選ばれた、アストレアお姉ちゃん。
 もしこのままいけばお姉ちゃんも死んじゃうってこと?

「……ダメだよ……お姉ちゃんもお兄ちゃんも死んじゃう。
 そんなの……ダメっ」

 床に水が零れる。
 震える声でダメだと言う彼女の瞳には涙が溢れていた。

 現実が彼女に涙を流させる。
 どんな現実でも受け入れる気でいたけれど、わかっていたけれどあまりにも重すぎる。
 足がまるで雨で濡れた鳥の翼のように動かない。いつもなら軽快に動くのに、現実という雨が彼女の足を濡らした。

「オディー、どうしたら……いいの……?」

 そんなか細い声がダンスホールに響くだろう。

《Dear》
「死なせない」

 リン。
 鋭く、脆く、あまりに強い鈴の音が、ダンスホールに響く。

 ターコイズブルーの輝きが、オディーの瞳を鮮烈に射抜く。
 たった、一言。
 偽物の空にどんよりと浮かんだ灰色の雲を、皆の心に振る重い雨を、吹き飛ばすような一陣の風。

 知識とは、毒だ。知りたいと願い、愛したいと願い。好奇心のままに走り続ける者の末路。ソフィアはきっと、恐れている。自らが誰より、知識の海の冒険者だから。その采配は、きっと多くの命を救っているだろう。ソフィアはどこまでも、どこまでも突き進んでいく。だから、知ってしまった後からはきっと、私のお仕事なんだ。

「誰も、死なせない。——そのために、私たちはここにいるんだ! そうだろう?」

 いつか、誰より大きい純白の翼で飛び立つ、幸福に溢れたその日まで。水面下で足掻き、泳ぎ続けるその様もまた、ああ、なんと愛おしい! みんなで一緒に、どこまでも行こう。希望に満ち溢れたその笑みは、オディーの白を優しく照らす。
 世界の恋人は、静かに白鳥の選択を待っていた。

 ディアお兄ちゃんの一言がステージに響く。

 死なせない。

 その一言は自分に降りかかった雨を止める傘のように暖かった。
 先程まで伏せていた顔が上がり、ディアお兄ちゃんの青い瞳を視界が捉える。
 まるで晴れた青空のように綺麗だった、言葉、その瞳によって自分の空は青空へと変わっていく。あんなに濡れていた翼も乾き、またもう一度羽ばたけるように。
 少女はその翼を使い立ち上がる。
 涙を拭い、もう一度前を向く決意をし立ち上がる。

「そうだね、ディアお兄ちゃん。
 オディー誰も死なせたくない、お姉ちゃん達も、お兄ちゃん達も! それに他のドール達も!」

 決意を固めた少女の瞳はまっすぐ貴方を見る。

 そう、こんなところでクヨクヨしてたって仕方がない。お姉ちゃんお兄ちゃん達は今この瞬間でも手がかりを探してるかもしれない。
 オディーがこんなところで立ち止まってちゃ、置いてかれちゃう。そんなの絶対に嫌だ。

「オディーもう立ち止まらない! 全部知って全部見て脱出する!」

 ディアお兄ちゃんが話す化け物なんかに易々と殺されて堪るものか!
 それにオディーには頼れるお兄ちゃんお姉ちゃんがいっぱいなんだから。みんな支えてくれる、立ち止まっても背中を押してくれるみんながいる。
 そう、目の前のディアお兄ちゃんもその一人。

「ありがとうディアお兄ちゃん、オディーを励ましてくれて!」

 そう言い、指で笑顔を作って貴方に見せるだろう。

《Dear》
「こちらこそ! オディーが選んでくれたこと、絶対に後悔させないからね。みんなで一緒に外へ行こう、えいえいおー!」

 細い掌をぎゅっと丸めて、空へと突き出す。柔い頬をくしゃくしゃに緩めて笑いかければ、馬鹿みたいな夢物語と、可愛らしい笑い声がダンスホールに響く。

 ここから脱出した後も、ここが、嫌な思い出にならなければいい。みんなと出会って、愛しあって、幸せに過ごしたこの場所が。
 ここは、ダンスホールは、確かに惨劇の舞台だったかもしれないけれど。私たちが、心を通わせた場所でもあるんだよ。この鼓動が、モラトリアムの真ん中で、ずっと踊っていられたならいい。

 そのためにも、前に進まなきゃ。

「一度、私が知っていることをお話するね。みんなも独自に調査をしているだろうから、全てを知っているとは言えないけれど……でも、きっと、話すこと自体がとっても、とっても大切だから。よかったらオディーも、気になることがあればお話してくれると嬉しいな」

 元プリマドールのみんなでベッドの鍵を調査し、お披露目の夜にこっそり抜け出したこと。そこで見たもの。
 ミシェラは生きているかもしれないこと。
 アメリアに聞いた青い花の話。
 ミズ・シャーロットのこと。
 図書室の落書き、グレゴリーくんのこと。
 夢のこと。
 √0とやらのこと。
 他にもたくさん。

 オディーの瞳を真っ直ぐに見つめながら、一つ一つ、ゆっくりと。知っていることは、全部、全部。オディーの覚悟に、ただ応えようと健気だった。

「一緒に出るのーおー!!」

 お兄ちゃんの行動に合わせ、自分を拳を天へとあげる。
 その顔は笑顔では無いが明るさが宿っていた。
 自分は願う、ここに出たあとでもみんなと踊ることを、みんなと遊ぶことを。みんなとロールケーキ食べたり、お茶会をしたり、勉強したり、やりたいことが沢山。それを全部やることを、例え実行することが難しいことでも……。
 もう決めたのだ、諦めないこと、立ち止まらないことを。

「うん、わかった! お兄ちゃんの話を聞いてから、オディーが知っててディアお兄ちゃんが知らないことを話すね!」

 そういいディアお兄ちゃんが話してくれることを聞く。

 プリマのみんなで見たお披露目会のこと、グレゴリーくんのこと、夢、リヒトお兄ちゃんが言ってた√0。
 重要なのはここら辺だろうか、シャーロットと図書室の落書きは一部知っていたというより見た。
 オディーはその話を聞いた、真面目にちゃんと全部知って、全部見て、前を進むって決めたから。

「じゃあオディーの番だね。うーん、あんまりオディーも知らないんだけど……ここのダンスホール、ちょっと前まで閉じてたんだけど、閉じてた時に何かを引きずる音と水が流れる音が聞こえたの。
 なんだかよく分からなかったけれど、引きずる音はもしかしたらディアお兄ちゃんが言ってた一つ目の化け物かも?」

 わかんないけれどね、と一言つけたし説明する。

 自分はその正体を探るためにここに来た、もし知れたら少しは貢献できるかもと思っての行動だ。まぁあとはちょっと踊りたかったというのもある。

「お兄ちゃんは水音の正体とか知ってる?」

《Dear》
「水、かあ……あそこに排水溝があるのだけれど、そこに青い花が流れ着いていたのをさっき見たよ。私たちの体に流れる血液を、鼓動を、あそこで捨てている音かもしれないね」

 オディーの細い手のひらをそっと手に取り、自分の胸へと押し当てる。朝の微睡をそのまま閉じ込めたかのような、静謐で愛に溢れた声が。うるさいくらいに鼓動を続ける、希望に満ちたコアの奥が。言葉よりもずっと雄弁なそれが、オディーに伝わったなら良いと思う。

 そういう、ひたすら曖昧で穏やかなものが、どうか世界を救ったならいいね。

「教えてくれてありがとう、オディー! やっぱりキミはとっても賢くて、愛しくて、素敵な人だ。愛しているよ!」

 ディアは誰かと話す時、いつもありがとうと口にする。言葉を返してもらえたこと、同じ空間にいられること、この世界に生まれてきてくれたこと、全部全部が、たまらなく愛おしくて。愛に言葉はいらなくて、それでも伝えたいと思うことが愛なのだと思う。
 命が容易く手折られる、惨劇の舞台で。
 ディアはただ、強くて優しい子供だった。

「青い花って、さっき言ってたアメリアちゃんが言ってたヤツ?
 とりあえずあの音は排水溝だったってことだね!」

 とりあえず悩んでたことは解決した? と言えるのかもしれない。水の音の正体は排水溝だってことがわかった、今度リヒトお兄ちゃんに話してあげよう。
 きっと正体を知りたがってるはずだから。

 そんなことを考えてたら手を握られ、ディアお兄ちゃんの胸に当てられる。
 ドクンドクンと鼓動が感じる。
 明るい陽だまりのような鼓動が。

「ううん、いいよお兄ちゃん、お兄ちゃんの力になったならよかった!
 あ、愛してるってまた言われるとちょっと恥ずかしいかも……」

 そういえば少し頬を赤らめる横髪を少しいじり誤魔化すために目をそらす。
 こうも何度も言われると、嬉しいと言うより恥ずかしい気持ちが勝ってしまう。嬉しいけれど照れちゃう。

「あ、そうだ。いろいろと教えてくれたお礼に、オディーここでちょっとバレエ踊るんだけど、お兄ちゃんも見る?」

 そうだ、お礼しなきゃ。お返ししなきゃ、こんないい情報を教えてくれたんだから。お兄ちゃんにお礼はするべきだろうと思い、そういえば理由の一つに踊るためにここに来ていたことを思い出し、これをお礼にしようと見るかを尋ねる。

《Dear》
「おや、そうかい? この間アメリアにも怒られたんだ、気をつけないとね。わかった! なるべく愛してるは言わないようにするよ!」

 白い頬を太陽の朱に染め、雪解けの如き甘い瞳を見せるオディーにまた、愛していると言ってしまいそうになるのをそっと飲み込む。
 喉元過ぎれば熱さを忘れる、なんてことわざを、いつか教えてもらったっけ。言葉は嚥下され、心臓の下の方に溜まっていく。忘れない。愛しい人の願いを聞くこともまた、愛してるの伝え方だと思うから。

 熱く燃え盛る愛を飲み込んで、ディアは一層美しく笑った。が、次に発されたオディーの言葉の前に、その強い覚悟はあっけなく敗北する。

 オディーのあまりに可愛らしく嬉しい申し出に、心臓が跳ね上がるような心地がして! ああ、ああ、とっても素敵だ! 本当にいいの? 私はなんて幸せなんだろう、好き、大好き、キミを愛して——そうだ、これは言ってはいけないのだった。
 いけないいけない、気を抜けばすぐ言葉がまろび出てしまいそう。約束したんだから、ちゃんと守らないと。愛してるを使わずに、この想いを——

「ああ、キミの白鳥の如き美しき舞をこの瞳に焼き付けられること、とっても幸せに思うよ! キミはいつでも可愛らしく、優しく、美しい! まるで聖母マリア様のようだ、もしかして天使様だったの? それならその可愛らしさにも納得だね! おや、今日は晴れだったかな? キミがあんまりに眩しいから、勘違いしてしまうね! ああ、願わくばキミの溢れんばかりの輝きを、一番星の煌めきを、ずっとそばで愛し続けていたい……さあ羽ばたいて、mon trésor! 私がキミを見守る一陣の風となろう、愛しきオディーリア!」

 ——悪化した。

「あ、あ、ありがとう……すごい絶賛してくれるね。
 オディーは天使じゃないけれど。
 でも見守ってくれるのは嬉しいかも!」

 そう、オディーは天使じゃない。天使なのはもっと優しくて綺麗な子だと思うから、オディーは全然まだまだだと思う。
 優しさならリヒトお兄ちゃんやフェリシアお姉ちゃんの方が上だし、美しさならソフィアお姉ちゃんとかエルお兄ちゃんの方が綺麗だと思うから。でも天使なんて呼ばれたことなんてなかったなぁ……ずっとオミクロンとか不良品とか呼ばれてたから。
 他にも嬉しい呼び方は妹とかあったけれど、天使って呼ばれるのも悪くないかもしれない。

 でもそう強く褒められたらやっぱり恥ずかしい。ディアお兄ちゃんが優しくて褒め上手なのは十分にわかった、褒めて欲しい時はディアお兄ちゃんに駆け寄ろうと心に決めた。

「見て欲しいから……どうしよう。この緞帳開けたいね、あげる方法とかあるのかな?
 ぜひお兄ちゃんには客席から見て欲しいから、なにか無いかな?」

 緞帳を開くための装置は、少なくともこのステージ上や客席のどこかには見当たらない。あなた方が操作出来ないところ、例えばあの大きな扉の向こう側などに位置するのかもしれない、とあなたは感じるだろう。

 うーん、ステージの方にはない。見た感じ客席辺りにもなかった。それに来る前の控え室にもそのような装置みたいなのはなかった。
 じゃあ残る候補はあのアーチに囲われた扉。

 お兄ちゃんが言ってた一つ目の化け物が入ってくるための扉。
 雨が降ってるとはいえ今はまだ明るいなら、化け物は来ないのでは?
 とはいえオディーだけで操作できない気がする。
 お兄ちゃんと協力して操作する?
 うーんアメリアお姉ちゃんとかいたらなんかわかるのかもだけれど、オディーはなんも分からないからなぁ……。

 とはいえここで悩んでても仕方ない。一つお兄ちゃんに協力して欲しいと言おう。

「ディアお兄ちゃん、ステージにも客席にもこの緞帳を開ける装置がなくて、あとはお兄ちゃんが言ってた一つ目の大きな子が出る扉くらいしか見てないところが無くて。もしかしたらそこに開ける装置があるかもだから、オディーと一緒に見に行ってくれる?」

 無理難題だ、自ら命の危機のような場所に行く子なんていないだろう、本当にダメ元だった。

「もし無理なら緞帳は開けれないけど、このステージで踊るからステージの端で見て欲しいな?」

 と保険を付け加える。
 まぁ見てもらうだけならここからでも見れるし、むしろ特等席でいいかもしれない。とはいえステージの醍醐味は客席で照らされた主人公を見ることだと思うから、出来れば客席でディアお兄ちゃんには見て欲しいと思うけれど。

《Dear》
「ふふっ、それくらい可愛いってことだよ、私たちの愛しきオディー! 可愛いキミのお願いならば、断る理由など一つもないさ。頼ってくれてありがとう、一緒に行こうか!」

 愛しき恋人のお願いに、ようやっとトゥリア仕込みの愛の羅列が鳴りを潜める。柔らかい頬で優しく微笑んで、その願いを叶えたい一心で二つ返事で了承するその様は、優しくも危ういトゥリアモデルそのものといった愛らしさであった。甘い甘いケーキのようなその器は、きっと簡単に蝕まれてしまう。そしてきっと彼自身、どこかでそれを許してしまう。今にも食い潰されてしまいそうな、甘い甘い愛。

 ——だが、ディア・トイボックスは、そんな生半可な覚悟で世界を愛してはいない。

 全部、全部幸せにするために、キミの強さも全部愛すよ。ずっと一緒にいるために、傷つけないし傷つけさせない。たくさんたくさん、お話しよう。キミの好きなところ、可愛いところ、愛しいところ、全部全部教えるね。キミのことも、みんなのことも、絶対絶対、守ってみせるよ。

「では行こうか、オディー。お手をどうぞ?」

 そっとその小さな手を差し出して、オディーを庇うように前に立つ。誰より脆く、弱い体で、いつまでだって前に立つ。童話の王子様にはなれないし、かっこいいヒーローにもなれないけれど、強い覚悟で前に立つ。その温かく燃えるコアまでは、きっと誰にも壊せない。

「うん! ありがとうお兄ちゃん」

 あんな無理難題、自分のわがままを快く引き受けてくれたお兄ちゃんにお礼を言う。

 まさか引き受けてくれるとは思わなかった、でも今はその勇気に感謝しかない、オディー一人じゃもしあったも何ができるのか分からなかっただろう。でもディアお兄ちゃんはオディーが守らなきゃ! なにかあっては遅いから慎重に……。

 そしてお兄ちゃんの小さな手を握り。

「なにかあったらオディーがお兄ちゃんを守るから! オディーお兄ちゃんの手を引っ張って全力で逃げるから安心してね。」

 オディーにできることはそうやってなにかがあったら逃げることくらいだ。守る方法で考えられるのはそれくらいしかないけれども、自分の走る速さはリヒトお兄ちゃんよりも早かった。きっと大丈夫なはず。

 それに言い出しっぺはオディーだからすべての責任はオディーがとる。そう心に決め、お兄ちゃんの言っていた例の扉の前に立つ。

「どうだろう、開けれるかな……。」

 客席の奥、ステージから最も離れた位置にある豪奢な扉は、その目の前まで近付くとよりその迫力を肌に感じる。
 見上げるほどに巨大な扉だった。3mは悠に越えているだろう。扉というよりは、門と呼ぶに相応しいかもしれない。真っ白に染められた清廉潔白で美しい門は、天界への入り口と言われても頷けるような造りをしていた。

 そして、あまりにも巨大過ぎて、とてもあなた方の細腕では重たすぎて開きそうもない。開けられるような装置が近場にあるわけでもないようだ。

「……ビクともしないや……。
 オディーの力だけじゃ無理だし、多分ディアお兄ちゃんの力を合わせても無理かも……。」

 とはいえ扉は想像してたのよりはデカかった、まるで天界への門のような雰囲気を感じる。
 お兄ちゃんが言ってた一つ目の化け物はここから出てくる。
 天界にそんな化け物はいるのだろうか? 自分は見たことないから知らなかった。

 アメリアお姉ちゃんなら何か知っているのだろうか。

 天界って神様がいるところだよね、それと天使、お兄ちゃんはオディーのことを天使だって言ってたけれど、お兄ちゃんの言う化け物も天使? なのだろうか。実物を見たことがないから分からないが、お兄ちゃんが語る化け物とオディーが考える天使はかけ離れていた。

「どうしようかディアお兄ちゃん……化け物が来る時にしか開かないのかな?」

 とりあえずどうしようか。ここを開けられないことには緞帳も開けられない、とはいえオディーやディアお兄ちゃんじゃ開けられない。

 嗚呼、せっかくディアお兄ちゃんに客席から見るバレエの美しさとかを見せたかったのに。
 思った通りにはいかないものだ、とはいえ横から見るのでも別に綺麗かもしれない。それはそれで楽しめそうだからいいのかなと思ってしまう。
 とはいえ諦めたくない自分もいる、どうしようか……と頭を悩ませるだろう。

《Dear》
「ううむ、仕方がないね。そんなに簡単に開けられたら、あの子が少しごろごろしただけでドアが外れてしまうかもしれないもの……ふふ、ねえオディー、客席と、あともう一つ。愛しい愛しい特等席って、なんだと思う?」

 愛しき人の願いを叶え、その愛らしい頬を幸福に染める。それこそよすが、私の幸福。
 でもね、オディー。どうしてもそのお願いが叶えられなくって、どうにかしたいけど諦められなくって、私のためにたくさん考えてくれるキミの思いを。優しい優しい、キミの全てを。この身が壊れたって、全部全部守ってみせる。それが恋人、私の全て。天界に手が届かないのなら、ここを幸福に溢れた天界にする。神様も、天使も、みんなみんな遊びに来てくれるくらいに!

 安心させるようにそっと微笑んで、両足を揃えてお辞儀をする。膝をつき、ゆっくりと手を差し出した。王子様では、ないけれど。140cmの恋人は、キミの心を躍らせたい。

「それはね、ステージの上だよ。Shall we dance? もしキミが良ければ、一緒に踊らせていただいても?」

 考えても考えてもなんにも思いつかない。オディーがテーセラじゃなくてデュオだったらなにか思いついたのだろうか。オディーがもっと力が強ければなにか出来たのだろうか、後悔が積もっていく。

 そんな自分に1つの質問が投げ掛けられる。
 "愛おしい特等席"。
 客席じゃないものでそのようなものはあるのだろうか?

 それはオディーがきっと知っているものだろう。わかる、わかるのだけれど、言葉が上手いこと出てこない、喉でつっかえてる。

 でも答えは想像してた通りだった。

「一緒に……踊ってくれるの!」

 顔がぱあと花が咲いたように明るくなる。
 この前もロゼットお姉ちゃんが踊ってくれた、あの時も楽しかった。
 あの時は外で踊ったけれど今はステージ、あの時とはまた違った楽しさがそこにはあるのだろう。

「いいよ、一緒に踊ろう、ディアお兄ちゃん!」

 その差し出された手を握る。
 ディアお兄ちゃんはまるで物語の王子様のようだった。今まで読んだ物語にもだいたい王子様がいた、でも目の前の王子様は読んだ作品のどの王子様よりもかっこよくて、キラキラしてるように自分の目には映る。

「じゃあじゃあ! 早くお兄ちゃん、踊るためにステージに戻ろう〜」

 まるでシンデレラが舞踏会に行きたがってた時のように、心にはワクワクのお星様が輝いていた。

《Dear》
「ありがとう! 愛しく賢い、私たちの頼れるプリンセス!」

 たんっ、と軽くブーツを鳴らして、小鳥の囀りのように自然に囁かれた言葉は。優しい優しいさざめきは、ステージに波紋を広げていく。まるで魔法のように、幸せが紐解かれていく。
 その小さな手を、ずっとずっと守っていたい。ディアにとっては、この世の全てがお姫様。キミの全てが、ずっと大好き。ディアはドールである前に、トゥリアモデルである前に。恋人という生き物だから。鼓動に染み付いた愛の言葉が、こぼれていってしまわぬように。そっとその柔い手に口付けて、悪戯っぽく笑ってみせた。

「オディーが笑顔になれる魔法。ずっとずっと、幸せでいられる魔法。——ふふっ、なあんてね! 行こうか、オディー! 愛の魔法を使いに!」

 笑顔になれる……魔法。
 幸せでいられる……魔法。
 まるでシンデレラに綺麗なドレスを魔法であげた魔法使いのように、お兄ちゃんは自分に魔法をかけてくれる。

 キラキラは出ていないかもだけれど、オディーの目には魔法のような煌めきが映っていた。

「笑顔はまだオディー普通にはできないけれど、オディー頑張ってその魔法に答えるように笑顔になるね!」

 そういえば空いてる手を使い口角をあげ証明する。
 まだぎこちないかもしれないけれど、その魔法に答えられるようちゃんと笑顔を作れるようになりたい。

「あと幸せでいられる魔法はディアお兄ちゃんにもかけてあげるね!
 オディーはお兄ちゃんにも幸せになって欲しいから!」

 私だけ幸せになっても仕方がない、どうせならディアお兄ちゃんにも幸せを分けてあげたいから。

 どうせなら魔法じゃなくてオディーのできる方法で、幸せをおすそ分けしたい、そう今、やろうとしてる、ダンスで。

「お兄ちゃん、踊ろう。好きなように自由に、それがオディーができることだから!」

 優しく足を動かしダンスの前のお辞儀をする。
 お辞儀はステージに立つ時の合図、オディーのスイッチ。
 その眼差しは真剣でありつつも瞳は輝いていた。

《Dear》
「ふふっ、頑張ろうとしてくれるそのひたむきさが、今のキミにしかない可愛らしさだと思うよ。でも、愛しいキミの笑顔が見たい! そのために、私も頑張るからね!」

 みんなが幸せでいてくれることが、私にとっての幸せだ。愛しいキミたちとずっと一緒にいられるこの場所が、私はずうっと大好きで。ああ、好きだ、好きだ! ここに生まれてこられて、本当によかった! もう私は十分に幸せだよ、オディー。これ以上を望んだら、死んでしまいそうなほどに。
 けれど、キミがそう願ってくれるのならば。共にいたいと、笑ってくれる未来のために。くるりとターンし、流れるようにお辞儀を返す。ああ、どうかきっといつまでも!
 一緒に踊ろう、明日も、明後日も、十年、二十年、百年先も。皆と一緒に。

「うん、踊ろう! 私たちの白鳥の姫、愛しきオディーリア!」

「お兄ちゃんも上手だね!
 よーし、オディーも負けないように踊らないと!」

 頭の中にお姉ちゃんを思い浮かべる。
 記憶のお姉ちゃんは水面を踊る白鳥、オディーはそれを真似る。
 頭の先から足の先まで白鳥になりきるように。

 お兄ちゃんの踊る音と雨音だけがダンスホールに響いていたのを塗り替える。音楽なんてひとつもないのにまるで流れてるように、それに合わせるように彼女はステップを刻む。

 綺麗にターンを決め羽を羽ばたかせるように手を動かし、水面から飛び去るように飛ぶ。
 見ている人がいるからだろうか、感謝の気持ちを込めてるのもあるだろう、いつもより気合いが入っていた。

 ステージにステップを踏む足音が響く。
 お姉ちゃんと同じようにまだまだぎこちないけれど、この努力を認めてくれるお兄ちゃんが目の前にいるから。
 踊っている時も見られていることを忘れない。視界はちゃんとディアお兄ちゃんを捉えている。ピンクパールのように美しい瞳は真剣な眼差しだが、楽しんでいることがわかるだろう。


 こんなステージで踊るのは初めてだから。お姉ちゃんに憧れて踊りたいと思ったことは何度もあるけれど、実際に踊るのはこれが初めてだから。
 もうこの時間が終わって欲しくない、ずっとずっと踊っていたい。
 もし叶うのなら、ドールの皆全員とずっとずっと踊っていたい。そう願うのだった。

《Dear》
「……きれい」

 音が、脳髄を支配する。軽やかに舞っていたブーツの音は、ぴたりと呼吸を止めていた。オディーが踊れば踊るほどに、美しいワルツが思考を眠らせる。感謝と、献身と、笑顔に満ちたピンクパール。愛に溢れた、眩い煌めき。キューピッドが現れて、コアを撃ち抜いてしまったみたいに。その愛おしさから、目が離せない。ああ、願わくばずっ、と。

 がくん、と力が抜けた。無理な体勢で見惚れていれば、細い脚は簡単にバランスを崩す。ディアの脆い体は、呆気なく空に放られて。誰かが支えるか、自分で受け身を取らなければ床に思い切り叩きつけられてしまうだろうに。それでも尚、ターコイズブルーはただ、美しい鳥だけを見つめていた。

 あなたは栄光降り注ぐステージ上で細足を踏み鳴らす。今この時、あなたはプリマバレリーナであった。ふわりとした白髪が舞い上がって、洗練された舞踏を披露するあなたに脚光を浴びさせる。

 薄暗いステージだった。スポットライトもなく、あなたの姿を大々的に披露する為の客席の景色も、緞帳によって閉ざされている。
 それでも微かな光源が照らしつけ、きらきらと舞い散る埃のひとかけが、舞台の荘厳な景色が、あなたを主役として引き立ててくれる。

 さて、オディーリアがステージの中央で美しいステップを踏んだその瞬間。
 あなたの脳神経がつき、と微かに痛むのを知覚する。初めはほんの少しの違和感からだった。それは脳内で反響するにして強さを増して、あなたは自由に踊っていられなくなるだろう。

 閉ざされた緞帳の向こう側。
 あなたは見ていたはずだ。

 あなたの最愛の■■■■■■■■■■──

 つきっ……と頭が急に痛む。
 足がもつれそのままステージに大きな音が響くだろう。
 手を床に付き何とか痛い思いをすることは無かったものの頭が痛い。

「痛い……何これ。」

 こんなこと一度もなかった、頭をぶつけた時とは違う、内側から響くような痛み。
 そこからずっとしまっていた頭の緞帳が開く。

 その緞帳の先には最愛の姉。
 ここと似たようなステージでもボロボロで……。
 そこでずっと練習を見てくれたお姉ちゃんと踊ろうとして……。
 コードに引っかかって……転んじゃって……。

 知らない、こんなのオディー知らない、知らないのに知ってるようで、擬似記憶に似てて違う。

 幸せなのに幸せなのに……
 分からない。

「ディア……お兄ちゃんッ……」

 分からない分からないながら、傍に居たディアお兄ちゃんを頼る、縋る。

 その瞳には、焦りなのか、怖いのか、はたまた記憶の中とはいえ姉に会えた嬉しさなのか分からないが涙を潤ませていた。

《Dear》
「オディー」

 脆い脆いトゥリアモデルの体が、警鐘を鳴らす。ぎし、と器が軋むような心地さえして。それでも、ディアは一瞬も迷うことなく。震える体を、ぎゅう、と愛で包み込んだ。

 盲目的なターコイズが、ピンクパールをまっすぐ見つめる。ディアは、愛の言葉を囁くのが好きだ。この胸に溢れて溢れて、どうしようもない感情を伝えることは、ディアにとって呼吸と同義。そのためなら命さえも投げ出してしまえそうな危うさが、ディアにはあった。全ての恋人たちのために、この命を尽くす。それだけが、ディアに与えられた全てだった。
 エーナの子たちみたいに、気の利く言葉がかけられなくても。デュオの子たちみたいに、未来への道を示せなくても。テーセラの子たちみたいに、上手く一緒に踊れなくても。ねえ、キミは知ってるでしょう。そのコアに住む、とっても愛しい暖かさを。鼓動からまろび出る、たった一言が。そういう、ひたすら曖昧で穏やかなもので。どうか今、キミを救いたい。

「キミは、一人じゃないよ」

「……わ、わかってるよお兄ちゃん。」

 でも……でも……、と言いながら貴方の身体にしがみつく。

 自分の身に何が起こったのか分からなくて、自分の何かがこじ開けられたような気がして怖くて怖くて仕方ない……。

「変なの……変な物見たのお兄ちゃん……。
 擬似記憶のお姉ちゃんがいたのに何かが違うの……!
 いつもと変わらないのに何かが違うって感じがするの。
 ここと似たようなステージがあってそこで踊って……お姉ちゃんと踊ろうとしてコードに引っかかって……多分転んだの……。」

 震える声でそう貴方に必死に伝えるだろう。

 至って普通の日常それなのに何かが違う、何時もとは何かが違う。
 暗く暗転した先が思い出せない、分からない。

 オディーにはどうしたらいいか分からなかった、幸い怪我はしてないけれど何かが違う感じがして怖い。
 助けて欲しい。

「ディアお兄ちゃん……どうしたらいいの? よく分からないの……。」

《Dear》
「うん、うん、そうだね。怖いね、わからなくて」

 ゆっくり、一つ一つ相槌を打つ。そっと背中を撫でて、余裕そうに笑ってみせるけれど。その瞳は、ただ目の前の恋人に笑って欲しくて。希望を探して、ただただ駆けずり回っていた。
 わからない、知らない、怖いなんて。でも、放っておけるわけがない。私に、私だけにできること。

「じゃあ、わかっていることを私に教えて? お姉ちゃんはどんな素敵な人で、どんな笑顔を風に乗せる人なのか。……オディーにとって、お姉ちゃんってどんな人?」

 彼女の震える手を引いて、暗闇の中を一緒に歩いてあげることはできる。でもそれは、幸せに進むための通過点でしかない。光り輝くステージへ連れているのは、きっと私の役目じゃない。だから、少し灯りを灯してあげるだけでいい。道中、寂しくて動けなくなってしまうことがないように。その先の光が楽しみで楽しみで、疲れなんて忘れてしまうくらいの。
 キミの苦しみを理解することなんて、きっと、ずっと無理だから。だから、たくさん教えてね。喩えこの身が潰れようと、ずっとキミのそばにいる。一人じゃないよ、オディーも、お姉ちゃんも。

「お姉ちゃんの……こと?」

 恐怖心でぐるぐるしていた頭の中に星のようにキラキラした物が照る。

 知らない物、知らない景色、知らない現象、知らないことだらけの無知の中で知ってることを探る。
 知ってること……お姉ちゃんのこと。

「お姉ちゃんは……すっごく優しくてオディーにバレエを教えてくれたの……。」

 他にも、お姉ちゃんのバレエが自分よりもすごいということ、お姉ちゃんは案外素直になれないこと……。
 自分が愛おしいと思えるこの擬似記憶の中の姉をディアお兄ちゃんに共有する。

 その中で、何となく恐怖心というものは緩和されていった。
 でも冷静になった頭の中には違和感が残る。
 擬似記憶の中の姉は確かにいたあれは本物だと思う、けれど周りが見た事ない景色だった……。
 そして暗転する景色……何となくこの先を知りたいと思ってしまった。

 とりあえずさっきよりは落ち着けた。

「ディアお兄ちゃん、ありがとうちょっと落ち着けた。」

《Dear》
「うん、そうだね。オディーのダンス、とっても上手だったもの。お姉ちゃんにもらったものが、たくさんたくさん、あったんだよね」

 それはまるで、愛しい人が悪夢を見ないように。天使の祝福を受け、途方もない呼吸を続けられるように。起こさないように、そっと紡がれる子守唄のような。甘い、甘い響きを持ったささやき。夢を見せる、優しいきらめき。これまでを肯定し、今を愛し、そして、これからを歩ませるまばゆい強さ。

「知らないことは、全部未来で知れること。わからないことは、きっとみんなでわかること。私たちは一人じゃないから、どこまでだって行ける。……大丈夫だよ、オディー。本当はずっと、全部全部大丈夫なんだ」

 ディアの言葉は、不思議な魔力を持っている。エーナモデルのように、キミの心の涙まで、拭えるわけじゃない。デュオモデルのように、キミの道を照らすことなんてできない。テーセラモデルのように、手を引っ張って走ることも。他のトゥリアモデルのように、心を抱きしめてあげることも。 欠陥品で、どうしようもなく太陽で、ジャンクドールの彼だから。ディアの希望は、潰えない。

「落ち着いたなら、探しに行こう。愛の導、希望の光、私たちの愛しい未来を! ——ね、オディーはどこへ行きたい?」

「うん! いっぱいいっぱい教わった!
 今度お兄ちゃんにも教えてあげるね。」

 ディアお兄ちゃんの、光、優しい声が自分の頭の中の黒い霧のような悪夢のような物を消していく。
 少々疑問には残るもののきっと大丈夫だと安心させてくれる。

 ディアお兄ちゃんが隣にいてくれてよかった……。
 いなかったらずっとぐるぐるして引きずってたかもしれない。

「ありがとうディアお兄ちゃん、オディーは一人じゃないもんね。
 知らないことはこれから知ってくことにする!」

 道を塞いでいた暗闇が晴れ、オディーはもう一度立ち上がる。
 知らないことはこれから知っていけばいい、そう信じて。

 ダンスは途中で止まってしまったけれど、ディアお兄ちゃんは満足してくれたみたいで良かった。

「どこへ行きたいか?」

 難しい質問かも……何があるのかはわかるけれど、どこに重要な情報があるかは分からない。今はアストレアお姉ちゃんを助けなきゃ、そして、お兄ちゃんお姉ちゃんの力になれるよう頑張らなきゃいけない。

「とりあえず近い未来から希望に変えていこう?
 アストレアお姉ちゃんのお披露目会をどうにかしたい……とりあえず控え室全部見てみる? 何か情報でもあるかもしれないから。」

《Dear》
「そうだね、二人で行こう。外に行けば、ここよりももーっと大きなステージがたくさんある。私はそこで、オディーが踊る様をずっと見ていたい。みんなで一緒に、踊ってみたい。ずっとずっと、一緒にいたい」

 元気になってよかった。希望を与えられて、よかった。ディアにできることも、存在意義も、ずっとずっとそれだけだったから。
 愛しい人が嬉しそうにしていれば、自分も嬉しい。愛しい人の隣に立って、ずっと一緒に生きるのが幸せ。
 コアの奥に刻まれた、絶対的なプログラム。ディア・トイボックスを、形作る全て。それは、歪であったかもしれない。愛しい人を追い詰める、刃であるかもしれない。でも、ディアの希望はこの日、一人の恋人を確かに愛した。愛が、降り積もっていく。唇の感触が、抱きしめた先の体温が、遠い未来を作っていく。
 オディーの小さな手を引いて、そっと笑いかけた。歩み続けよう、皆で笑い合う未来のために。君が望む、未来のために。

「さあ! 未来を捕まえに行こう、オディー!」 

「うん! いっぱい見せてあげるし一緒にまた踊ろうね!」

 どうやらお兄ちゃんはダンスがお気に召したみたいで、また踊りたいと言ってくれた。
 みんながダンスが楽しいと思ってくれるならオディーは嬉しい、いつかみんなと踊る夢を叶えるために少しづつダンスが楽しいと思ってくれるドールが増えるのはいいことだ。

 ディアお兄ちゃんが手を握って引っ張ってくれる。
 前へ進んでいいと未来へ進んでいいと、自分が望む未来を見ていいと。
 オディーは望むみんなが幸せになれる未来を、皆と楽しく踊れる未来を。

「うん! 未来、オディーの望む未来全部捕まえる!
 その為にも目の前の未来をキラキラした未来に変えないと!」

 そう、目の前にはアストレアお姉ちゃんのお披露目会が待っている。真実を知った今、そんなのダメだと思うのが正しい考えだろう。

「とりあえず、控え室全部見よう!
 オディーはテーセラの控え室からここへ来たんだけどテーセラの方には何も無かったの、ディアお兄ちゃんはどこの控え室からこっちに来た?」

 まずは情報収集が肝心、一度見たところは後回しにして、新しいところを見る方が収集としては正しいだろう。
 その為ディアお兄ちゃんが見た方を尋ねる。

《Dear》
「ふふ、本当にオディーは私たちの輝ける星、空より舞い落ちる天使の羽だね! 愛しているよ、ずっとずっと! 本当はもっと伝えたい愛の言葉があるのだけれど……今は控えておこうかな」

 悪戯っぽく笑って、おどけたようにウインクをしてみせる。安心させるような甘さを孕んだそれは、どこか愛しい王子様を連想させた。ディアの記憶の中の彼女は、いつも美しく笑っている。いつだって愛しき人のために、言葉を紡ぎ続ける王子様。
 ああ、アティス。キミに触れたい。キミの顔が見たい。キミの言葉が欲しい。キミを知りたい、愛したい。けれど、それはこれから、いくらだってできることだから。今はただ、キミとキミの愛しい人の未来のために。ただ、愛し続けていよう。

「私はトゥリアクラスの控室から来たんだ! そこで赤いドレスを見つけて、アティスと見知らぬ女の子が愛おしそうに歩いている夢を見て……そういえば、女の子の方はとっても可愛らしい春の囁きのようなドレスを着ていたけれど、アティスは着ていなかったね。 どうする? アティスのドレスのことを調べるのなら、エーナモデルの控室にお邪魔するのが良いかと思うのだけれど。オディーは、どうしたい?」

 きっと、手を引くだけが愛じゃない。前に立って歩む人は、いつだって輝いているけれど。私は私なりに、隣で顔を見て歩くよ。 だから、ソフィア。キミはキミのまま、未来だけを見据えていて。私たちの背中を守ってくれる、眩いほどの青がある。私たちはきっと、もっとずっと大丈夫だから。

「トゥリアの方に赤いドレス……。
 そこはオディーが後で見よっかな。」

 赤い色……心当たりというかなんというか引っかかるかもしれないもの。
 姉が赤髪だったのを思い出す。
 薔薇のように赤色でお姉ちゃんを表す色だから……もしかしたらなにかあるかもしれない。

「エーナの方から見てみよっかお兄ちゃん。
 そこからデュオ行って……って感じで!」

 とりあえず自分とお兄ちゃんが見てないところから見るのが、効率的にはいいと思う。

「とりあえずエイエイオー!」

 と気合いをいれエーナの控え室の方へ向かう。

【学園1F エーナドールズ控え室】

 控え室の壁には、色とりどりのドレスやタキシードなどの正装がハンガーに掛けられて並んでいる。化粧台が三つほど並んでおり、あなた方はこの場所でお披露目の支度を入念に整えるのだ。
 控え室の奥には一枚の鉄扉があり、その先はダンスホールの舞台袖へと通じている。

 エーナの方の控え室に来てみた。
 パッと見はテーセラの控え室と何ら変わらない。

 化粧台は三つ、綺麗なドレスやタキシードが並ぶ世界。

「とりあえず、アストレアお姉ちゃんのドレス? かな多分、探してみよっか。」

 色とりどりに並べられたドレスやタキシードの世界から、アストレアお姉ちゃんの名前を探すもそこには無い、どこにも無い。

 アストレアのアの字もない。

「え? ど、どうしてアストレアお姉ちゃんの名前が無いの?」

 どうこう探してもアストレアお姉ちゃんの名前が無い、お披露目会に出るのだからあるはずなのに名前が無い……。

「ディアお兄ちゃん、アストレアお姉ちゃんの名前が何処にもないよ……。
 ドレスどころかネームプレートすら無いの!」

 どうして……? と少し困惑してしまう。

 アストレアお姉ちゃんはお披露目会に出るはずでしょ? ならここにドレスがあるはずなのに何処にもない。

 お披露目会に出ないってこと?
 いや先生から発表があったし確実に出るはず……。
 まだ届いてなくてもネームプレートはあるはず……。
 謎がどんどん増えていく。

 ドレスだけ別のところということだろうか?
 オミクロンだから? 別なところってこと……考えても考えても思いつかない。

《Dear》
「大丈夫、落ち着いて? オディー。ゆっくり息を吸って、吐いて……気づいてくれてありがとう、教えてくれてありがとう!」

 困惑するオディーに、ゆっくりと言葉をかける。いつだってたくさん考えてくれる、気づいてくれる、教えてくれる賢い彼女が、未来に向けて歩き出せるように。話してくれてありがとう、聞いてくれてありがとう、信じてくれてありがとう……ディアの唇はいつだって、愛と感謝を忘れない。ディアの鼓動はいつだって、希望の音に溢れている。

「さっき、ミシェラは生きているかもしれないと言っただろう? 実は、それには理由があるんだ。ダンスホールへ向かう途中、お披露目に行く子たちの愛しいリストがあってね! オーガスタス、グロリア、ジャスミン、シンディ、ペネロペ、リタ、ラプンツェル、ヴァージニア……ああ、思い出しただけで胸が躍るね! その中に、ミシェラの名前だけがなかったのだよ。もしかしたら、誰かが逃してくれているのかもしれない。それこそ、私たちの先生とかね!」

 一度、見ただけのリストに載っていた名前を全て完璧に羅列し、その文字列の奥、彼らの人生に想いを馳せる。
 ああ、好きだ。愛している! キミたちのこと、もっともっと知ってみたい。その純なる願いは、ミシェラに向けている愛と全く同じものだった。過ごした時間と、愛の強さは比例しない。死んでしまったからといって、愛に変わりがある訳がない。
 御伽噺の王子のような、ひどく眩しいその愛は。叶うことのない無垢な希望を、ただただ囁き続けていた。

 ——無知で無垢なるディアだけが、未だミシェラの鼓動を聞いている。

「先生が……見逃してるの?」

 いやでも……本当に?
 ミシェラちゃんが生きてて欲しいけれど、リヒトお兄ちゃんが言う感じだと生きてなさそうで……。
 でもディアお兄ちゃんが言うには生きているかもで……。

 どっちが真実でどっちが偽物なのだろうか?
 どっちのお兄ちゃんを信じるべきなのだろうか?
 オディーには選べない、選ぶ権利がない。どっちとも仲良くしたいし、ここで生きてないかもしれないことを真実にしてここで伝えるのも違う気がする。

 とりあえず合わせるべきな気がする、いやでも……オディーに伝える勇気はない。

「わかった、そういう事なんだね。
 名前が書いてないってことはそうやって見逃されてるってこと……。
 だからドレスがないのなら大丈夫かな?」

 とりあえず真実はベールで今は覆うことにしよう、オディーに伝える勇気は無い。
 リヒトお兄ちゃんなら伝えられるのかもしれないけれど、オディーには無理だよ。

 とりあえずドレス問題は解決かな?
 あとは調べても何も出なさそう?
 オディーの目だとこれ以上は分からない。

「とりあえずオディー、ここからデュオの方へ行ってくるね!
 ディアお兄ちゃんはまだここ探してていいからね〜」

 と手を振り別れつつ、デュオの控え室の方へ向かうだろう。

【学園1F デュオドールズ控え室】

 踏み入った控え室は、先ほどのエーナドールの控え室の作りとさほど変わりない。
 大きなウォークインクローゼットが部屋の奥に存在し、色とりどりのドレスやタキシードなどの正装がハンガーに掛けられて並んでおり、また、化粧台が三つほど設置されている。

 特段、この空間にあなたの目に留まるようなものはなさそうだ。

「うーん……ここも何も無いか。」

 特にここも変わったところはないっぽい。
 特段目立つものも、何も無い。
 タキシードもドレスも特段変わったところもない、ネームプレートが間違ったところに置いてあるとはも特になし。

「じゃあ、ディアお兄ちゃんが言ってた赤いドレス見に行こっかな。」

 さっきまでお姉ちゃんのことが出ていたわけだから、何かまたさっきみたいなことが起こるかもしれない……ちょっと嫌だけれど、やってみる価値はあるかもしれないと思い、トゥリアの方へ向かう。

【学園1F トゥリアドールズ控え室】

 この部屋も、これまでの控え室とそう変わりはない作りだった。
 大きなウォークインクロゼットに、多彩な礼服の数々。立ち並ぶ化粧台。
 トゥリアドールはそのモデルの性質から、他クラスのドールの衣装よりもより華やかに、派手な意匠が凝らされているような気もするだろう。

 この部屋にも、現状は特に異変はなさそうに見える。

「特にない……けれど。」

 とりあえずパッと見は雰囲気は何も変わらない、鏡はいつものどおり。
 強いて言うなら、少し派手だろうか。
 目立つためかと思ってしまう。

 もう一回鏡を見る。
 来た時にも鏡を見て髪を整えていた。
 踊ったせいだろうか少し乱れているため直す。

「とりあえず、ディアお兄ちゃんが言ってたドレスを探してみようかな?」

 そう目的はそれ、異常を探すことも肝心だがやはりドレスも探すべきだろうと思う。

 あなたは目も眩むほどに輝かしい衣装室を端から端まで歩いて見回し始めるだろう。しかし、赤いドレスという特徴だけでは、あなたにはどのドレスが該当するものか分からなかった。何せ美しい真紅のドレスはこの部屋に何着も掛かっていたのだから。
 ディアの見た鮮烈な赤いドレスは──不思議と引き寄せられるような感覚は、あなたは感じられなかった。

「うーん特になんもなかったか……。」

 お姉ちゃんが赤髪ってことで何かあるかなぁって思ったけれど、特に収穫はなし。
 あと行くべきところ、テーセラの控え室は一回行ったけれど、あの頭が痛くなる後だったら何か変わってるかな?

 何も無いかもだけれどちらってみる分にはありかもしれない。

 お姉ちゃん……もう一回見れたらいいなと淡い期待を乗せつつ、テーセラの控え室の方へ向かう。

【学園1F テーセラドールズ控え室】

 あなた方テーセラドールズのために用意された特別な控え室。しかしテーセラクラスではあまりこの衣装部屋を用いることはなかったため、普段は踏み入れない一室であった。
 こちらにも大きなウォークインクロゼットに絢爛豪華な衣裳、化粧台が並んでいる。

 あなたがウォークインクロゼットに踏み入るなら、いくつか気にかかる点があることに気がつく。

 クローゼット……自分はそれに惹かれてる。
 中をさぐれば、ズダズダに引き裂かれたドレスが見つかるがこれよりも気になったのはこのクローゼットの中にあった収納スペース、そこに乗せられた宝石箱。

 オディーはこれに強く惹かれてしまった。

「これ……なんだろう。」

 と優しく手にとる。
 その宝石箱にはネックレスとブレスレット、キラキラしたものがたくさん入っていた。

「綺麗……。
 お姉ちゃん達にこういうの似合うかな?」

 宝石箱がいっぱいちりばめられたアクセサリーの数々に、強く強くオディーは惹かれてしまった。

 身につけてみたい、そう強く。

「ブレスレットは大丈夫だけれど、ネックレスの方は大丈夫かな? つけれるかな?」

 あなたは煌びやかな空間から、美しい宝石箱を見つけ出す。小箱程度の大きさで、箱自体にも宝石や意匠などで凝った装飾がなされているようだった。アンティークな造りで、かなり古いようにも見える。

 不思議とあなたはこの宝石箱に惹かれ、光り物に集う蛾のように吸い寄せられていく。そっと中を検めれば、華美な装身具が何点か丁寧に収められている。ネームプレートなどはそばにないため、授業の一環で用いるための衣装の一つなのかもしれない。

 掬い取ったネックレス、そのペンダントトップには、深紅の宝石が充てがわれている。ブレスレットは真っ白なパールの連なりによって編まれているようだった。

 ブレスレットを自身の腕に巻きつけた時、ふと。あなたは脈絡もなく側頭部の痛みを感じ始める。頭の中を反響しては少しずつ大きくなっていく痛苦は、あなたを僅かに前のめりにし、立っていられないほどに追い詰めることだろう。
 そしてあなたは以前のように、覚えのない景色を観測する。

 名前もない、古そうな箱。
 煌びやかなこの控え室に似合うようで似合わないような、なんというか隠されてた宝箱を見つけたような快感に襲われていた。

 その中から深紅の宝石と白いパールのブレスレットを手に取り身につける。
 赤色の宝石はお姉ちゃんで、白いパールはオディーのようで綺麗だと思っていたら、急に頭が痛くなり頭を抱え縮こまる。

 そう、あのステージと同じような痛み。
 内側から響くような痛み。

 また緞帳が開く。

 思い出した記憶は、薬品の匂いと白い壁白い天井。
 ステージでの続きだ
 どんどん流れてくる。
 嗚呼、あの時オディーはお姉ちゃんを庇って……。
 ステージで踊る姉の姿を画面越しで見ている。
 綺麗で大好きなお姉ちゃん。
 お姉ちゃんは舞台で踊れている、だったら良かったじゃないか。
 お姉ちゃんが踊ってくれてればそれで……。

"もう二度と踊れなくても"。

 動かない足を見てそう思ったあと、現実へ引き戻される。

 その瞳には涙が浮かぶ。

「オディー……踊れなくなって?
 でも今は踊れてる……よね?」

 足に触れる、あの時感じた痛みも動かない感覚も無い、ちゃんと動くと思う。
 さっきまで動いてたのだから。

 今までの記憶は全部幸福、ハッピーエンドじゃないか、それなのになぜ急にこんな悲劇が?

 庇って……お姉ちゃんは踊れて、オディーは踊れなくなって。
 でもオディーはお姉ちゃんが踊れてるならいいと思ったのに、心の中にじわじわ違うの苦味が広がる。

 こんなこと考えるのはオディーじゃない、お姉ちゃんの幸せが第一と思い頭を振りかき消す。

 その後ブレスレットを宝石箱の中に戻し、宝石箱もさっきあった場所へ戻すだろう。

「あとはこのドレス……だよね?」

 不幸の味を忘れるように、宝石箱より先に見たズタズタに引き裂かれたドレスを見る。

 あなたが部屋をよくよく見渡していると、ウォークインクローゼットの奥に隠されるように、グチャグチャに引き裂かれたドレスが落ちていた。
 そしてそのそばには、ドレスには必ずあてがわれる持ち主の名前が刻まれたネームプレートも添えられている。

 あなたはそれを拾い上げ、名を確認するならば。

 そこには『Dorothy』という名が刻まれていた。

 あなたはドロシーを知っている。以前、テーセラクラスに在籍していた時に同級生だった、少女型のテーセラモデルである。一時はプリマたるストームに並ぶほど優秀で、物覚えもいいドールであったが、ある時を境に豹変し、狂人のような振る舞いをし始めたのを覚えている。

 このドレスの惨状も、彼女の手によるものなのだろうか。

「ドロシーお姉ちゃん?」

 自分は知ってた。だって元は同じテーセラクラスにいたいい子だったもん。
 何かの影響なのか知らないけれど…………少し変わっちゃったことを記憶してる。

 ぐちゃぐちゃになってるドレスネームプレートがここにあるってことは、ドロシーも出るはずだった……。
 でもドレスはズタズタだから出れない?

「ジャックお兄ちゃんもドロシーって言ってたよね。
 ドロシーお姉ちゃんに頼まれていたって……。」

 じゃあ、ドロシーお姉ちゃんは自分の意思でこれをズタズタにしたってこと?
 お披露目会の真実を知って。

「ドロシーお姉ちゃんとお話してみたいけれど何処にいるか分からない……。」

 とりあえず全部見終わった……宝石箱、ドロシーお姉ちゃんのドレス。
 アストレアお姉ちゃんのドレスが無いこと、情報にはなるかな?
 と思い次に何処へ行くか考える。

「とりあえず色んなところ回ってドロシーお姉ちゃんを探そう。
 ついでにほかのお姉ちゃんお兄ちゃんに会えたら集めた情報を話せばいいかな」

 そうと決まれば移動!
 どこから行こうか……上から行ってみようか。一番上から徐々に下がっていけば、ついでに帰ることが出来て効率がいいと考える。

「とりあえずカフェテリアから!」

【学園3F カフェテリア】

Alice
Odilia

 カフェテリアは正午の活気で少しばかりごった返している…と言えども生徒であるドールの母数が少ないこのアカデミーでは、混雑の程度は軽いものだが。数名のドールズがリフェクトリーテーブルの椅子を引いて、紅茶と茶菓子、そして積み上げられた本の内容で談笑しているのが見える。

 一帯の広間の奥には、寮ほどの設備や少量の備蓄はないものの、簡易的なキッチンも存在しており、ドールズはこちらの区画で飲み物を用意して、授業後のコーヒーブレイクをおこなっていることが多かった。

「ドロシーお姉ちゃんはいないっと。」

 まぁなんとなくそんな気はしてた。
 ここで見かけたことがあるのはアリスちゃんくらいだったし、ドロシーお姉ちゃんがどう思うかは分からないけれど、少し居心地が悪いからいなさそうとは思った。

「でも片っ端から調べるって決めたもんね」

 いつもよりは混雑の程度は軽いもののいっぱいドールたちがいるため、色んな声が入り交じっていた。

 その中から一度聞いたことのある声を見つける。
 金色の髪を持つ女の子アリスちゃん。
 この前お話して何とか寂しそうなのを解決してあげたいと思ってた子。

 あの日以来色々と考えていた。
 どうやったら寂しくなくなるか……。
 そしてオディーは閃いた、例えお節介だとしても例えお人好しだとしても、それがオディーのやりたい事だからそれを言葉にして伝えるべきだと。
 今がその時だと思った。

 その金色の髪を持つ子に近づき、勇気を持って話しかけるだろう。

「アリスちゃん! また会ったね。」

 カップとソーサー。香ばしいハーブティーの香り。スコーンとジャムの載った美しい皿。ケーキスタンドに並ぶ甘ったるそうな洋菓子の群れ。
 それらを取り囲む美しい少女ドールたちによって、彼女の閉ざされた王国は完成している。

 茶会の女王席にて、立ち込める邪悪を孕んだ少女は剣呑な形相をしていた。机上に伏せた掌で、しきりに人差し指をトントントントントントントントン……と打ち鳴らし、神経質で苛立ちにまみれたノイズを発している。
 見るからに機嫌は最悪といった様子だった。どんなに人心に疎い人間であろうとも伝わる分かりやすさだろう。

 周囲の取り巻きはそんなアリスを前に目を合わせられず、ただ粛々と地獄の空気に浸っているばかりである。

 そんな不機嫌の絶頂の女王が支配するテーブルに、あなたが立ち寄るには一体どれほどの勇気が要ったことだろう。
 声を掛けられたアリスはギロ、と強烈にギラつくエメラルドの瞳であなたを睨め付け、それから息を吐く。

「……オディーリアさん、ご機嫌麗しゅう。お久し振りですこと。

 見てわかる通り、わたくし。今は、物凄く、機嫌が悪いのです。ご用件は手短にお願いいたしますわ。

 どうされたのかしら。」

 いつもの通りの居心地の悪さ。
 もう異物なんていらないような、不思議な世界。

 そこで開かれるお茶会に一匹の狼が意志を持って踏み込む。

 そこの主役はなにかにイラつくように、なにかにストレスを感じたようにテーブルをトントンと叩く。その音が響き渡っていた。

 そんな音に怯えて取り巻きはいつもうるさいのにシーンと静まり返っていた。

 そんな空気を切り裂くように狼は声を発する。

「あ、その感じだと……アストレアお姉ちゃんの話聞いた感じ?
 お披露目会のこと……。」

 あんなにもイラついているということと、前来た時もお披露目のことの話をしていたためそう予測する。
 誰が話したのか知らないけれどそのせいで随分とイラついているようだった。

「どうなるかは分からないけれど……オディーさっき見てきたんだ、控え室。
 そしたらアストレアお姉ちゃんのドレスはなかったの。
 まだ用意されてないだけかもだけれど、多分大丈夫だと思うよ。」

 まぁ本題はこのお話じゃないのだが、そんなにイラつく必要もないと思いそう伝える。
 本当のことを知ってる自分からすると、アリスちゃんがお披露目会に行きたい気持ちには複雑な感情を抱かざる負えない。
 願わくば、アリスちゃんにはお披露目会に言って欲しくない。そう心の裏で願うのだった。

 美しい月魄の少女の名。
 それを耳にするだけで、あなたにも、……そしてアリスにも、彼女の姿が思い起こせてしまうだろう。
 アリスの眦が更に剣呑に吊り上がる。名を聞くだけでもこの有り様では、彼女がいかにアストレアというドールを忌み嫌っているか、想像に難くないはずだ。

 相当な確執があるのだろう。因縁も。無論、それらのどろどろとした妬み嫉みは、一方的にアリスが差し向けているだけであって、かの月魄のドールには一切非はないのだが。

「……ええ。聞き及んでおりますわ。
 まったく。おめでたい事ですわね。ジャンククラスからお披露目の名誉に与る事が出来るだなんて……」

 口では祝福を述べてはいるが、ケーキセットをつつくフォークを握る彼女の手は、激情に震えている。嫉妬の獣たる翠眼には、どす黒い恨みが渦巻いているようだった。
 しかしあなたの続く言葉を聞き入れては、アリスは一度顔を上げる。

「……あら。わたくしの記憶違いでなければ、あなたもあの女……いえ、アストレア様と同じ落ちこぼれクラスでしたでしょう。

 お披露目のドレスが存在しないことを、事も無げに告げるのね。アストレア様とは、あまり良き仲ではないのかしら。

 それとも、わたくしの機嫌を取ろうとなさっているのかしらね。……あの忌々しい男と同じように。」

 嫌なことを想起してしまったか。また彼女の顔が険悪に染まり行く。
 アストレアの事だけではない、相当に不愉快な出来事に見舞われたのだと察せるはずだ。

「オディーはオミクロンで正しいよ。
 アストレアお姉ちゃんと同じオミクロン。」

 アリスちゃんの指摘は正しかった、私はオミクロン、落ちこぼれ。
 今回選ばれたアストレアお姉ちゃんと同じ。

 アリスちゃんのの険悪な顔。
 誰に言われたのだろうか分からない。
 忌々しい男?
 よく分からないけれど、きっと嫌だったのだろうと察せる。

 アストレアお姉ちゃんと仲が良くない? そういう訳じゃない。
 機嫌取り? まぁそっちよりなのかもしれない、でも違う。

「オディーは真実を伝えるだけだよ。
 オディーは皆と仲良くしたいから、みんなのことが大好きだから、みんなに笑顔になって欲しいの。

 もちろんアリスちゃんにもね。

 オディーはね、この前から考えたの……。
 どうやったらアリスちゃんが寂しそうじゃなくなるか。
 これもその一貫みたいなものかな?」

 精一杯考えた解決法、一歩でもいい少しつづ進めればそれでいい。
 あの寂しそうな雰囲気が気がかりだった、リヒトお兄ちゃんに相談した、やりたいことをやっていいって言ってくれた。
 だからする、言う。それだけ。

「オディーはアリスちゃんの友達だよ。

 オディーはアリスちゃんが今みたいな顔をしないように頑張るの。

 アリスちゃんはオディーのことを友達だなんて思わないかもだけれど、それでもオディーはアリスちゃんの友達だよ。

 オディーが"どんな姿"になってもオディーはアリスちゃんの友達だよ。」

 それが自分の出した結論、まぁ今回は逆効果だったみたいだけれど失敗は成功のもとってことで反省すればいい、寂しい雰囲気を持ってることを解決したいならオディーが友達になってあげればいい。

「オディーはアリスちゃんがピンチになったら、助けて欲しかったら助けるよ。
 フェリシアお姉ちゃんが言うヒーローみたいなことかな?
 これがオディーができる精一杯のアリスちゃんにできる事かな。

 オディー、色んなこと知っちゃったから、せめてできることがこれ。」

 お披露目会には言って欲しくないけれど、真実を彼女に話すことはできないし話しても信じてくれないだろうから、できるだけ友達で居てあげるのができることだから。

 あなたの言葉は、あまりにも献身が過ぎて。
 無償の愛というものを信じないリアリストのアリスにとっては、随分気味が悪く聞こえたものだ。

 友人だから、何でも従うと言っているような──否、そんな関係の在り方は彼女自身が否定していたのだった。
 彼女はただ、友達を純粋な気持ちで助けたいだけなのだろう。そこにアリスやこの場に存在する取り巻きのような、穢れた打算や堕落した安寧は介在しえないのだろう。

 アリスは頬を引き攣らせていたが、しかし。先程のような煮えたぎる怒りは、確かに収縮しているのを自覚した。
 あなたのとんでもない理論を聞いているうちに、馬鹿馬鹿しくなったのである。

 ──どうせあの女は、スクラップになるに決まっているのだし……。

「ふうん……わたくしが寂しそうだなんて、まだそんな幼稚なことを言ってらしたのね。

 あなたがわたくしの友人であると豪語するならば。わたくしのこの苦しくてどうしようもない苛立ちや悩みを、聞いていただけるということかしら。

 まあ、あなたに話したところで、何が解決するとも思っていませんけど。」

「お話くらいいっぱい聞くよ!
 それでアリスちゃんが喜んでくれるならいーっぱい!」

 聞いてあげることでアリスちゃんが寂しくなくなるなら、アリスちゃんが笑顔になるならオディーはそれで嬉しい。
 それでオディーが貢献できるならオディーは精一杯頑張るだけだ。

 お話なら色んな人からいっぱい聞いてる。だから得意だし、ちゃんと聞ける。
 例え解決しなくても、なにか協力出来ることがあるならオディーは協力してあげたい。

 無償の愛をみんなに与えたい。
 みんなが笑顔に幸せになってくれれば、オディーはそれで幸せだし笑顔になれるのだから。
 もちろんそのみんなにアリスちゃんは入ってる。

 やっとアリスちゃんが心を開いてくれた気がした。もっとアリスちゃんと仲良くなりたい、お姉ちゃんがオディーにくれたようにオディーもアリスちゃんにいっぱいあげたい。

「アリスちゃんなんでもオディーに話してくれていいからね!」

 親愛なる友人として、こちらの話に健気にも耳を傾けてくれると語るオディーリア。アリスはその嫉妬と悪心で濁ったエメラルドの双眸であなたの純朴な顔を映しながら、一度息を吐いてフォークを机上に戻す。

 相変わらずじっとりと湿気に満ちた眼差しを取り巻きへ向けると、「あなた達、もう何処かへ行ってもいいわ。わたくしは友人とプライベートなお話を致しますから。」と静かな声で指図した。
 アリスの許しを得たドールズは、互いに目を合わせながら──戸惑いを浮かべつつも、次々と席を離れていく。

 ついにすっかりがらんどうになったテーブル席に残ったアリスは、溜息を吐いてから溢れた横髪を耳に掛け流す。

「だったらお話させていただこうかしら。わたくしの親愛なる『お友達』のオディーリアさんに。」

 アリスは口角を歪めて、あなたの瞳を覗き込む。悪辣な乙女の冷笑が目の前にあった。

 (秘匿情報)。

「……ねぇ、オディーリアさん。わたくし、先生の期待に応えてお披露目に選ばれたいの。

 でも、ドレスを台無しにするだけじゃ、お披露目に行くことを止められなかった。今回、あの女の衣装は見つけられませんでしたし。

 それでわたくし、思いましたの。アストレア様自身を台無しにすれば、きっとあの女はお披露目に行けなくなるわ。
 オディーリアさん、わたくしに手を貸してくださらない? 事故を装って、あの女の顔にほんの少し赤い線を引くだけでいいの。そうしてくれたら、オディーリアさん。あなたもお披露目に行けるよう、先生に掛け合ってあげる。

 一緒に二人で外の世界へ行きましょう? わたくしたち、お友達ですもの。そうでしょう?」

「ミシェラちゃんのドレスを…………」

 オディーの友達だったミシェラ。
 お勉強を一緒にしたり、いろいろと遊んだりと仲が良かった。

 その子のドレスを破った。
 目の前にいる金髪のドールがそういう。

 ある意味真実を知った今、お披露目会に行くこと自体が死ぬことに直結するようなもので、止められなかったとはいえ、止めようとしてくれたようなもの。
 安易に責めることもオディーにはできない。


「わかった、誰にも話さない。
 オディーとアリスちゃんだけの秘密ね。」

 オディーはその秘密を隠し通すことを受け入れた。
 オディーは悪いことを受け入れた、悪いと知っていながらそれを隠すことを。
 オディーは悪い子、ごめんなさいお姉ちゃん。
 そう心の中で謝る。

「お披露目会に……行ける?」

 アリスちゃんはそう言ってくれた、昔のオディーならその言葉を明るく受け入れただろうが、今は複雑な気持ちだ。だって真実を知ってしまったから。

 お披露目会の真実。
 それはドールが死ぬこと、大きな怪物に殺されること。
 リヒトお兄ちゃんはそれで助けられなかったと語っていた。
 ディアお兄ちゃんは化け物について語ってくれた。
 どれもこれも恐ろしいもの、お披露目会は危険なものだと理解するには正しかった。

 アストレアお姉ちゃん、アストレアお姉ちゃん、アストレアお姉ちゃんの顔に線を引く…………。

 そうすればお姉ちゃんのお披露目会を台無しに……でもそれじゃあお姉ちゃんに怒られちゃ……。
 でもお披露目会を止められる?
 お姉ちゃんが行かなくて済む?
 確証は無いけれども止められるかもしれない。お姉ちゃんが行かなくて済むかもしれない、お兄ちゃんやお姉ちゃんが悲しまなくて済むかもしれない。

 "ならいいことなのでは?"

「オディーは……アストレアお姉ちゃんのお披露目会を……止めたい。

 だって……お披露目会は……っ」

 小さな声でお披露目会の真実を語ろうとしてしまう。
 でもディアお兄ちゃんが語ってくれたあの時のように恐怖で声が出せない。

 お披露目会は怖いものだから。
 お披露目会に行ったらみんな死んじゃう。
 アリスちゃんも死んじゃう。そう語りたいのに喉が恐怖でそれを許してくれない。
 アリスちゃんへ正しく返答できない。

 アストレアお姉ちゃんのお披露目会は止めたいけれど、顔につけるのは嫌だし、お披露目会は嫌だ。
 アリスちゃんにも行って欲しくない。
 そう伝えたいのに……。
 あ、あっとか細い声しか出せない。

 分からない、オディーはどうするべきなの?
 オディーはどっちを取るべきなの。オディーはみんなと仲良くしたいだけなのに。

「お披露目が……何?」

 アリスは不気味なほどに優しく微笑みながら、あなたに問い返すだろう。しかしあなたがそれに回答しようがしまいが、その言葉を遮って彼女は上機嫌に口角を吊り上げてせせら笑う。

「ありがとう、オディーリアさん。お友達のお願いを聞いてくださって。心より感謝致しますわ。」

 アリスはそう言って、机上からするりとカトラリーの一つであったケーキナイフを取り上げる。
 この時からこのナイフは、本来の用途としてではなく、不埒な企みの道具に使われることとなる。

 彼女はそっと震えるあなたの手にナイフを握らせた。その上から固く手を握り込む。アリスの手は恐ろしいほどに冷たかった。血まで凍てついているのではないかというほどに。

「これで、アストレア様の美しいお顔に線を引いておやりなさいな。そうすれば、わたくしたちは二人でお披露目に行けますわ。

 ジャンクのあなたが幸せになれる唯一の道よ。だから──」


「あ、アリスさん。そんな……そんなこと、聞き捨てならないわ。本気で仰ってるの?」


 あなた方の対話に割り込む存在がいた。
 あなたはそちらに顔を向けるなら、顔から血の気をひいた黒髪の美しく乙女がそこに立っている。
 どうやら偶然にも、今の話を聞いてしまったようだ。

「……あら、ウェンディ様。お披露目に選ばれてからというもの、優雅な毎日を送っていらっしゃるでしょうね。わたくしに何の用かしら。」

「……ねえあなた、どうしてナイフを持ってるの。そのナイフでどうするつもりなの?」

 ウェンディと呼ばれた少女は、アリスを無視してナイフを手に持つあなたを凝視している。

Wendy
Alice
Odilia

「う、ううんなんでもない。」

 話せるわけなかった、話してもきっと信じてくれないから。
 それに真実をを知ってオディーみたいに泣いて欲しくないから。
 オディーはそっとしまうことにした、伝えるべきことを。

 手に握らされるは銀のカトラリーのひとつケーキナイフ。
 その刃は銀色に光、オディーを鏡のように映す。
 その映った顔は不安そうな顔を映していた。
 まるで本当にこれでいいの? と問いかけてくるかのように。

 アリスちゃんの手も酷く冷たかった。
 温かさを知らない手、可哀想な手。
 オディーがその手を握ってあげるべき、色んな人が知らない中オディーだけが知ってるこの手の冷たさ。
 またひとつ秘密が増えたような気がした。

「……わかった。
 オディーがやるべきなんだと思う……から。
 きっとそう……だから。」

 まるで自分に言い聞かせるようにそういう。
 声がどんどん冷たくなっていく、身体も冷たくなっていく。
 罪悪感が今までの幸福を塗りつぶしていく。
 でもいいんだよね、少しでも可能性があるなら、止めるべきだよね。
 オディーはアストレアお姉ちゃんにお披露目会に行って欲しくないから、少しでも可能性を消すためにやるべき……だよね?

 その質問に対する回答は一生帰ってこなかった。

 ただ頭には、

 "本当にそれでいいの?"

 とアストレアお姉ちゃんや、ソフィアお姉ちゃん、アメリアお姉ちゃん、リヒトお兄ちゃん、ディアお兄ちゃん。
 オディーがいっぱい関わってきたお兄ちゃんお姉ちゃんの声。

 そしていなくなったミシェラちゃんの声でその言葉が響いていた。

「……え?」

 二人っきりのお茶会、二人っきりの秘密の談話会に割り込む鋭い刃のような声が入ってくる。

 ピンクパールの瞳に映るのは顔から血の気が引いた黒髪のドールが立っていた。

「え…………オディーは、オディーはアストレアお姉ちゃんを……。」

 私の手に握られる銀のナイフ
 それを凝視するドール、怖い、怖い。
 オディーが責め立てられてる。
 罪悪感がまた積み重なる。

「な、なんでもない……オディーは、オディーは……っ。」

 全てをベールで覆い尽くさんとばかりに手に持ったナイフを背に隠す。
 隠さなきゃいけない。
 秘密は秘密隠すべき、アリスちゃんとの約束。
 秘密。

 頭の中で全てがこんがらがる。
 ずっと残る本当にこれでいいのという声がどんどん大きくなる。
 そんな目で見ないで、オディーは、オディーは!


 みんなに笑顔でいて欲しいだけなのっ……。

「…………!」

 ウェンディはあなた方の間に何かただならぬものを感じたのだろう。すっかり怯えて声を震わせるオディーリアの顔色を見据えた彼女は微かに息を呑み、──そして、気高き意志を感じる強い表情でアリスを睨み付けた。

 もはや糾弾の言葉はなかった。
 ウェンディは手を振り上げたかと思えば、アリスの真っ白で傷一つない頬を躊躇いなく平手打ちする。
 高らかな破裂音が鳴り響き、頬をほのかに赤くしたアリスは呆然としている。

「あなた……いつまでそんなくだらないことをしているの?

 オミクロンクラスの彼女なら、利用してもいいと思った?
 自分の手を汚さずに、アストレア様を貶められると思ったの?

 ……浅ましい。
 ジャンクだなんだポンコツだなんだって、何なのよ。彼女たちよりよっぽど、あなたの方がヒトの隣人として相応しくないわ。

 あなたなんかに、アストレア様を傷付けさせないから……!」

 ウェンディはアリスを激しく非難した。彼女はオディーリア、あなたを庇い立つようにしている。
 ウェンディの背中越しに見えるアリスは暫く呆然として、しかし。キッと忌々しいものを見る目付きでウェンディを睨む。

「……フン。こんな真似をなさるなんて、とうとうご乱心されたのかしら、ウェンディ様。おいたわしい……

 他人に暴力を振るドールなんて、お披露目で選ばれる訳がない。残念ね、ウェンディ様。あなたの輝かしい未来もこれでおしまいよ。

 このことは先生によくご報告させていただきますわ。さようなら、ウェンディ様。愚かな真似をしたことをせいぜい悔いていなさいな。」

 嫉妬の獣はそう吐き捨てて、オディーリアには目もくれずに神経質に歩き去っていく。
 カフェテリアにはあなたとウェンディだけが取り残されるだろう。

「アリスちゃ……」

 緊迫した状況の中、アリスちゃんがお茶会を去って行く。
 オディーには何も言わずに。
 自分は動けなかった、貰った銀のナイフを床に落として、手を伸ばすももうアリスちゃんの背は遠かった。

 お茶会に取り残されたのはオディーと、さっきアリスちゃんの頬を叩きオディーを庇ってくれたのかもしれない黒髪のドールだけ。 

 緊張が解けたのか涙がポロポロこぼれる。

「ごめんなさい……ごめんなさい。
 オディーは悪い子だから……。」

 必死に謝る、誰に誤ってるのかも分からない程にただ誰もいない空間に謝り続ける。

 お姉ちゃんに、お兄ちゃんに、アリスちゃんに、巻き込んでしまったドールに、擬似記憶のお姉ちゃんに、そして神様に……。

「黒髪のお姉ちゃんも……ごめんなさいっ、全部オディーのせいだから。
 お姉ちゃんはいい人なのに、悪いことさせちゃってごめんなさい。」

 アリスちゃんが言っていた、先生に報告すると。普通のドールを傷つけてしまった彼女はきっとオミクロンに来てしまう。
 ダメ、こんなオディーのせいでオミクロンに来ちゃうなんてダメだよ。

 全部全部オディーのせいだから、オディーがあそこで断っていれば、アストレアお姉ちゃんが救えるかもなんて言う甘い事に惑わされなければこんなことにはならなかったのにと自分を責め立てるだろう。

 暴力を振るって、手酷い言葉を容赦無くぶつけて。悪意と対峙するには、ウェンディはあまりに善性すぎた。振り抜いた手の姿勢を維持したまま、肩で荒い息をするのを繰り返す。
 彼女は、ほぼ無我夢中だった。頭に血が上っているあいだ、自分がした愚かな行為を信じられなかった。

 だが、後悔はしていなかった。
 自分がしたことが間違ってはいないのだと、彼女は疑っていなかったから。

 ──背後から震える懺悔の声が聞こえ、ウェンディは所謂ハイになっていた精神状況から立ち直る。頭が冷えたのだ。

 美しくひかる、無色透明のクリスタルのような純然たる涙をこぼして、自らを戒めるあなたを、ウェンディは見ていられなかったのだろう。ハンカチを懐から取り出して、あなたに差し出すと、眉尻を立ててかすかに微笑んだ。

「オディー……さん、だったかしら? わたくしの名前はウェンディ。エーナクラスのドールよ、あの子と同じ。
 ……いきなり割って入ってごめんなさい、なんだか怪しい状況だったから、つい。

 もう泣かないで。わたくしなら大丈夫よ、悪いことなんて何もしていないもの。あなただって、何もしていなかったじゃない、悪い子なんかじゃないわ。」

「ウェンディ……お姉ちゃん?」

 綺麗なハンカチが泣いてる自分の元に差し出される。

 ウェンディと名乗った黒髪のお姉ちゃんはアリスちゃんと同じエーナのようで、オディーとアリスちゃんが話してるのを怪しいと思ったから割って入ってくれたらしい。

 でも、でもそのせいでウェンディお姉ちゃんはアリスちゃんを傷つけてしまった、しかもそれを報告されちゃう。

「オディーは……悪い子なの、してないとはいえアリスちゃんの言ったことをやろうとしてしまったんだもん……。

 それに、アリスちゃん、ウェンディお姉ちゃんがお披露目に出るって言ってた。これじゃあ出れなくなっちゃう、オディーのせいで。」

 ごめんなさい……ごめんなさいと必死に謝る。

 全部全部オディーのせいだ、オディーがそもそもアリスちゃんの言葉に惑わされなければ、アストレアお姉ちゃんを救えると思わなければこんなことには……。

「そうよ、好きに呼んで頂戴。」

 こちらの顔色を窺う幼子のように、上目遣いで見上げてくれているであろうあなたのパールホワイトの潤む瞳を、ウェンディは優しく見つめ返していた。
 差し出していたハンカチが受け取られなければ、彼女は少しだけ屈んで、あなたの目元から降り注ぐ水晶石を優しく拭っていく。

 自身を幾度となく苛み、自罰する彼女の様子に、ウェンディは気を配るように眉尻を下げる。

「そうね……オディーさん、あなたはどうして、アストレア様のことを傷つけようと思ったの?

 わたくしの目には、あなたが悪意があったようには見えなかった。何か訳があったんじゃないかしら。」

 それと、わたくしのことは本当に心配要らないわ。とウェンディは付け加えて、あなたの返答をじっと待つ。

 真実を話していいのだろうか。
 信じてくれるのだろうか、アリスちゃんはきっと信じてくれないことは分かりきっていたが、ウェンディお姉ちゃんは分からない。

 もし、信じてくれるなら、話すべきだろう。
 目の前のドールは知りたがってる。オディーが傷つけようとした理由を。

「あんまり他のドールに聞いて欲しくないから耳を貸してほしいな、ウェンディお姉ちゃん。」

 そういいウェンディお姉ちゃんの耳元で周りに聞かれないように喋る。

 本当にこの目で見たことは無いけれど、リヒトお兄ちゃんが言ってくれたこと、お披露目会の真実。
 でもリヒトお兄ちゃんが言ってたことは隠しつつ、ミシェラちゃんが死んじゃったこと、大きな目の化け物がいること、そして。

「アストレアお姉ちゃんはお披露目会に出ちゃう。そしたら化け物に殺されて、死んじゃうから、あのナイフで顔を傷つければもしかしたらお披露目会を止めれるかも……って思って。

 オディーはアストレアお姉ちゃんのことを助けたかったから。
 でもこんな方法じゃダメだよね。」

 きっとこのお姉ちゃんなら信じてくれる。
 そう信じて話す。
 オディーが知ってるお披露目会のことはこれだけだから。
 もっと知ってから話せばもっと信じてくれたかもだけれど、そんなこと言ってられない。
 信じて欲しいと心から願う。

「ウェンディお姉ちゃんも本当はお披露目会に行くべきじゃないよ。
 もうこれ以上みんなが幸せじゃないのは嫌なの。」

「……? ええ、勿論よ。何かしら。」

 耳を──と乞うオディーリアに応えて、ウェンディは軽く屈んであなたの顔の方へ耳を向けた。垂れていた艶めく黒髪を掬って耳裏にかけ流しながら、不思議そうにあなたの言葉を待つ。

 ──果たして。
 彼女に真実を打ち明けることは、正しかったのか、悪手だったのか。

「……え?」

 彼女は眼を見開いて、ただ茫然と、微かに震えた声を溢す。
 驚いた表情のまま、彼女は顔を正面に向けて、真っ向からあなたの顔を見据える。

「お披露目……は、化け物が……来て、ドールが……こ、ころ、……っされ、る……?

 そ、そんなまさか。物語の、お話よね? 聞いたこと、ないけれど、そんな残酷な……話。」

 動揺を包み隠せない様子で、ウェンディは口元を覆い隠す。表情からは血の気がひいて、あなたの言葉を信じきれないようだった。
 けれどもウェンディは人身掌握に長けた、感受性の高いエーナモデルだからこそ、分かる。あなたの言葉の全てが真剣に語られたものであり、悪ふざけなどでないと。
 表情、声色、瞳孔の動き、眉の角度、指先の動き、態度から、結論付けられてしまう。

「……そんな……本当、なの?」

 ──ウェンディは、己の判断によってあなたの言葉を信じたようだ。
 信じたからこそ、顔を青ざめさせて、彼女はふらりと先程までアリスが腰掛けていた椅子に座る。皺の刻まれた眉間に指先を置いて、まるで追い詰められた寡婦のよう。

「……わたくし、もうお披露目に選ばれてしまったのよ。出席しないわけに、いかないわ。

 それに、アストレア様も──……アストレア、様。」

 ウェンディはぶつぶつと独り言を呟いたかと思えば、はっとした表情で今一度、月魄の少女の名を呼んだ。
 ウェンディが焦がれてやまない、プリマドールの彼女。

 彼女はお披露目に出たら死んでしまうと──オディーリアは、そう言った。
 それを止めるために精一杯に考えて、アリスの甘言に載せられかけてしまったと。ウェンディは沈黙したのち、改めてあなたの顔を見据えた。

「……オディー、さん。聞かせてくれてありがとう。あなたはただ、アストレア様を助けたかった……その気持ちを咎められなんてしないわ。誰にも。わたくしだって咎めない。

 わたくしも、アストレア様のことが大切よ。……何よりも。あんな素敵な人が、残酷に殺されるなんて、あってはいけないことよね。」

「ちゃんと本当、オディーはオミクロンのお兄ちゃんに聞いたから。
 化け物は実際に見てないけれど、それが入ってくる扉をちゃんと見たから。
 まるで天国への門のような扉だったの。」


 最初はすごく動揺していた、オディーも初めてちゃんと聞いた時は同じ反応だった。
 友達が死ぬ恐怖というものはそういうものなのだろう。
 背筋が凍り、顔が青ざめ、色々と想像してしまう。

 信じてくれるかどうか分からなかったが信じてくれたらしく、オディーの罪も過ちも咎めないと言ってくれた。

 でもウェンディお姉ちゃんはお披露目に出てしまう。
 アストレアお姉ちゃんの名前を言っているがなにかあるのだろうか?
 オディーにはその関係は読めなかった。

「うん、オディーももう少しアストレアお姉ちゃんのお披露目会を止める方法について考えてみるから。

 ウェンディお姉ちゃんも本当に危なくなったらお披露目会なんて出ないでね。
 オディーはオミクロンのみんなと同じくらい他の仲間達も大切だから。
 みんなに幸せになって欲しいから。」

 本当は行って欲しくない、こんなに優しいお姉ちゃんがお披露目会に出てってしまうなんて嫌だ。アストレアお姉ちゃんと仲がいいのか名前を出してるから、ずっと仲良くしていて欲しい。オディーもその姿を見るだけで幸せな気持ちになるから……ずっと平和でいて欲しいと切実に願うのだった。

「きっと、ダンスホールの見上げるほど大きな扉のことよね。ただ豪華なだけだと思っていたけれど、確かに……あんなに大きな扉、利便性の面で考えるとあまり効率的ではないわ。……物理的な大きさが、必要だったのね……」

 本当はまだ半信半疑であったが、あなたから齎された言葉にウェンディも思い当たる節があったのか。変わらず顔色は青褪めたまま、緩やかに溜息を吐いていく。
 トイボックスの平穏は全て縫い付けられたまやかしで出来ている。夢を見ている間は、ヒトの傀儡である間は、ドールズがその片鱗に気が付く事はない。だが一つでもそのピンが綻べば、たちまち優しい嘘のヴェールは剥がれて行くのであった。

「ありがとう、オディーさん。でも、ごめんなさい。お披露目まではもうあまりに猶予が無くて、わたくしは、お披露目に出席する役割を放棄することなんてきっと出来ないの。

 だから、与えられた役割は果たすわ。その先があまり素敵じゃないものだったとしても、ドールとしての使命を遂げるなら、きっとこれが正解だもの。」

 ウェンディは、もう手遅れであることを正しく理解出来ている。その上で運命を受け入れる腹積もりなのだろう。
 少し言葉を選ぶような間の後、困ったように微笑んで。

「でもアストレア様がこの事でいまも苦しんでいるのなら、わたくし……きっとどうにかしたい。だからわたくしも何か、考えてみるわね。

 ……オディーさん。教えてくれてありがとう。わたくし、そろそろ行かなくちゃ。それと……あまりアリスさんのような方と関わらない方が宜しくってよ。あなた自身を大切にしたいのなら。」

 ウェンディは最後に一言そう忠告すると、席を立ってカフェテリアを去っていく。その足取りは不安定で、やってきた時のような凛とした佇まいは失われていた。それでも彼女は喧騒に紛れていくだろう。

「わかった……オディーの話がなにか役に立ったならオディーも嬉しい。
 あんまりお披露目会に行って欲しくないけれど、そんな思いがあるならオディーは止めない、頑張ってお姉ちゃん!」

 止めたくても止めれるはず無かった、オディーにはその権利も力もないのだから。でもそんな強い思いがあるならきっとウェンディお姉ちゃんは帰ってきてくれる。
 アストレアお姉ちゃんを救ってくれるかもしれない、オディーは止めるしかなかったけれど。
 ウェンディお姉ちゃんならと淡い期待を持って見送る。

「アリスちゃんの事は検討してみる。」

 とはいえ……本当に仲良くできないのだろうか、一度痛い目にあったのを思うと出来ないのかもしれない。
 それにミシェラちゃんのドレスを破ったことも知ってしまった。過ちは一度なら許されるかもだけれど二度目は許されないとはよく言ったもので、もう関わらない方がいいのだろうか?
 まだアリスちゃんはオディーのことを友達だと思ってくれてるのだろうか……不透明だ。

 ウェンディお姉ちゃんの足取りは不安定だったけれども、とりあえずウェンディお姉ちゃんが見えなくなったことを確認して、他に探索できるところはないかと確認する。

 すると一枚のカラフルなチラシを目に入れ、気になるためそちらの方へ移動するだろう。

 鮮やかなインクをそのままぶちまけ、ビビッドで明るい印象を見る者に与えるチラシ──のような紙が、キッチンの作業台の上にぽつんと取り残されている。誰かが受け取って放置していったのだろうか、少なくともあなたは見覚えがないものだった。

 チラシには、絵筆で書き殴ったような太めの筆跡で、『秘密の芸術クラブ』と記されている。チラシが堂々と置かれている時点で秘密も何もないだろうとは感じるかもしれないが……その片隅には、以下のように活発な文字が綴られている。

 トイボックスの見慣れた景色にも、まだ見ぬ芸術が隠れている!
 君もヒトの文化に倣い、学生らしく“サークル活動”と呼ばれるコミュニティを体験してみよう!
 興味のある同志は夜の18時、ガーデンテラスにこっそり集合だ!

 ──トゥリアクラス・アラジン

「芸術……クラブ? サークル?」 

 芸術はわかるけどクラブ? サークル……なにか集まるものなのかな?
 こんな派手派手なチラシ、誰がここに置いたんだろう。

 字的にも結構元気な子?

 とりあえずこんなに派手に作ったら秘密も何もないと思うんだけど。
 まぁ目立ちたいけど先生にはバレたくない末にできたのかなーと色々と察してしまう。

「夜の18時…………? えっと……確か18から12を引けば出るんだよね。
 ……あ、6時! 夜の6時か……大丈夫かな?」

 まぁ秘密……って言ってるしなんとかなるのかな?
 オディーは疑心しか無かったが……誰か誘えたら誘ってみようかなと少々思い、頭の片隅に入れとこうと思った。

「うーん特に他には無い……かな?」

 特に調べるようなことは無さそうだ、他のところへ行こう。
 とりあえず今日は3階全部調べて次の日に二階を調べよう。
 計画性は大事、一気に調べたら情報量の多さで頭がパンクしてしまう。

 とりあえず次は隣のガーデンテラスかな?
 さっきも書いてあった、ガーデンテラス集合だと。とはいえ18時じゃないから誰もいないだろうけれど。

【学園3F ガーデンテラス】

 あなたは両開きのガラス製扉を開いて、ドールズの箱庭へ踏み入る。
 球形の天井からは、麗かな春の日差しが降り注ぐ。先ほど寮でも見た晴天が、一面に大きく広がっていた。
 陽光を浴びて、テラスに敷き詰められた芝地と花壇に植わった可愛らしい花が咲き誇っている、が、花弁はやや渇いているように見えた。ちらほらと点在する真っ白なガーデンテーブルと椅子では、優雅にお茶会をするドールズの姿も見られた。

 綺麗なガラス製の扉を開いて目に入ったのは、可愛いお花とお茶会。

 こっちでもお茶会してるんだ……。
 まぁ綺麗なお花が咲き誇ってるからお茶会も楽しそう。
 カフェテリアでやるのもいいけれど、こうやって華やかな方が心にも花が咲きそうだと思った。

 でもお茶会もいいけれど、花弁が少し渇いてるように感じた。

「このままじゃお花さん可哀想」

 なにかできることがないかと辺りを見回す。
 すると目にはジョウロと水を汲む場所が入った。

「これでとりあえずあげてみようかな?
 お花さんもお茶会ならぬお水会したいもんね!」

 花壇の側には、持ち主のいないエバーグリーンのジョウロがぽつんと取り残されている。

 あなたがジョウロに水を汲んで、土や花弁に渇きの見られる花々に水を注いでいくと、色とりどりの花にやがて瑞々しさが取り戻されていく。
 この花壇の手入れをしているのは学園の管理者である先生方だった筈だが、彼らも日々忙しくしていて、隅々に至るまで手が回らないのかもしれない。

 あなたの足元では、ちょうど純白のマーガレットの花が咲いている。花弁からぽたぽたと滴る水滴が陽光を反射してきらきらと輝いている。
 小さいながらも可憐に咲き誇るマーガレットを見ていると、不思議な既視感に襲われた。脳の裏でノイズが走るような違和感の後、神経に響き渡るようなガツンと来る衝撃があって。

 あなたが思わず閉ざした瞼の裏で、見覚えのある景色を思い返す。

 ぽつんと置かれたジョウロを手に持ちそれに水を汲み、渇いてしまった花壇に天のめぐみとも言える水を花に滴らせ雨のように降らせる。

 花に水滴が水がちらつき、日差しが刺さり綺麗に見える。
 その中でも白いマーガレットが近くにあり可憐に咲き誇っている。

「良かった〜元気そう!
 お花さんもお水がないと生きていけないもんね、オディーもみんながいないと生きていけないから。」

 可愛らしく咲く花に返答も来ないのにも関わらず話しかける。
 そんなマーガレットを見続けてると既視感がよぎる。
 ここにあまり来てないはずなのに謎の既視感が刺さり、またあの時のように頭が痛くなり頭を抱える。

「ま、またッこれで三回目?
 またあの記憶が流れるの?」

 困惑しか無かった、いつもの擬似記憶と違う記憶に、何も分からない記憶に。

 その瞼の裏に見える景色に彼女は驚く。

 前見た時のような白い部屋。なんでマーガレットに既視感を覚えていたのかやっとわかった、お姉ちゃんがくれた花束、車椅子、お姉ちゃんに会えないこと。
 きっとこれは続きだ、前のことの続き。

 そして一番想定外なのは……あの転んだ。

「なんで、どうして、リヒトお兄ちゃんがオディーの記憶に、ここにいるの?」

 オディーは困惑した、だって擬似記憶に今まで、オミクロンのみんなは出てこなかったから。
 いつも仲良くしてくれるお兄ちゃんやお姉ちゃんは一度も出たことなんてない。
 出るのはオディーのお姉ちゃんだけ、それなのになんで今?

「わ、分からない。オディーとリヒトお兄ちゃんはここ以外でもあったことがあるってこと?」

 リヒトお兄ちゃんはオディーのことを前から知ってたのだろうか?
 分からない。
 また謎が増えていく。

 お披露目、オディーの記憶、リヒトお兄ちゃんが何故あそこにいたのか、化け物いっぱいいっぱいだ。

「でも今日は三階全部探すって決めたからまだ調査しなきゃ……。」

 多少頭痛が収まったため冷静になる。
 他に調査することは……そういえばお水とかここに入る時外から変な音が聞こえた気がした。

「とりあえずそれの調査しなきゃ。
 オディーはお姉ちゃんお兄ちゃんの力にならなきゃ。」

 ほとんど平和なドールの世界にほんの少しだけ異質が混じる。

 オディーはお水を汲む時も、ここへ来た時も少しだけ聞き取れていた音。
 静寂の世界、おしゃべりする声とは違う音。
 そもそもドールが出すような音じゃない異質なものを感じて、先程までいたマーガレットのそばを離れる。
 一面はガラス張り、そのガラスを指でなぞりながら直感で端まで行く。

 その端に着いた時、日差しと自分を隔つガラスの向こうから、機械の駆動音が聞こえてきた。
 低い、ゴウンと響く音。


「何……これ?
 お花がいっぱいなここになんでこんな音が?」

 疑問がまたひとつ増えた。
 こんなお花畑のような美しい世界に響く機械音。
 きっと他のドールは気づいてない。
 小さいけれども確かにあるこの音は違和感以外の何者でもなかった。

 とはいえこの音の場所を自分は知らない、お姉ちゃんお兄ちゃんならわかるのかな?

「とりあえず……資料室ぱぱっと見て帰ってみんなに聞こうかな?」

 きっとオディーが集めた情報は役になってくれるだろう、そう信じてる。
 オディーはお姉ちゃんお兄ちゃんの力になってる、きっとそう。
 そう願い今日最後の場所、隣の資料室へ向かうだろう。

【学園3F 文化資料室】

 この部屋は、人間の歴史を出来る限り保管し、ドールズがヒトと接する指標と出来るようにと用意された一室だ。文化資料室と名を冠する通り、人間のさまざまな歴史や文化が資料、あるいはレプリカなどの形で保管されている。

 部屋の中央には年季の入った黄金色の地球儀が置かれており、各地にどのような国があるか、どのような人種のヒトがいるのか実際に学べるようになっている。
 地球儀を中心に据え、その周囲にはヒトが住まう街を模したジオラマや展示されていたり、模型の汽車が煙を上げてガラスケースの中で動き回っていたり、天井からモビールのように吊された飛行機や気球がクルクル円を描いていたり……とにかく豊富な展示品があり、眺めていて飽きない内装となっている。

 また部屋の奥には無数のファイルが収められた棚があり、こちらには数多の史料が保管されているようだった。

 ここへ来るのは自分の意思ではあまりなかった気がする。
 あんまり調べ物とかは苦手だったからというのもあるが、細かい文字をずっと読み続けるのが苦手ってのもあった。

 でも今回は調べなければならない、お姉ちゃんお兄ちゃんのために苦手なものも克服して。

 なんの資料を見ようかと思った時ふと、動くものを見る。
 ジオラマだ。小さな街、小さな世界、汽車はクルクルと周りガラスケースの中でひとつの世界が出来上がってる。

 見とれていた、綺麗だったから。
 まるで神様になった気分で小さな街を小さな世界を眺める。

「オディーのお姉ちゃんもこういう街にいるのかな?」

 ふと記憶の中の姉を思い出す。
 きっとお姉ちゃんとこの街を歩いたら楽しいのだろう。
 この街でバレエを……。
 そこで思考をやめる。
 前見たあの記憶が過ぎってしまう。
 オディーはお姉ちゃんにずっと会えてなくて、ひとりぼっちで、歩けなくて。

 あの記憶が現実なら……オディーはもうお姉ちゃんと歩けないのかもしれない。
 そばにいれないのかもしれない。
 ふとジオラマを見ながら悲しい気持ちになってしまう。

「お姉ちゃん……」

 とはいえ目は離せない。だって面白いから、素敵だから。白鳥も空を飛ぶ、もし空が飛べたらこの景色を見れるのだろうか、実際に。

 きっとそれは素敵なことだろう。

 そういえば、この列車はどうやって動いてるのだろうか、自分の意思で来ることはなかったがたまに行かざる負えない時があった。その時もこの列車は動いていたことを記憶している。
 電池でも変えてるのだろうか? どこかスイッチでもあるのだろうか、気になった。

 資料室の一角、ガラスケースに覆われたジオラマの街を横断するように敷かれた線路の上を、蒸気機関車の小さな模型が邁進している。機関車の煙突部分からは少量の煙が燻っているが、実際の煙と違い、ディスプレイの中でこもることはなくすぐ空気中に溶け合って霧散していく。

 この汽車は、かつてヒトがメジャーな乗り物として使用していた装置らしい。
 この部屋はヒトがどのような生活を日々送っているのかを、詳細にドールズに教育するために存在していた。

 あなたはジオラマの土台部分を確認してみる……ほとんどが作り物の草地に覆われているが、その一角に丸い幾つかのボタンが取り付けられていることが分かった。恐らくこのボタンがショーウインドウ自体のライトアップのオンオフを担っているのだろう。
 しかし常時線路の上を走り回っている汽車については、燃料供給源はまるで定かではない。少なくとも、バッテリーや燃料の入れ替えをせずにもっぱら動き続ける玩具は、あなたが知りうる技術の中には存在しなかった。

 どういう技術なのだろう?
 なんで煙が出ているのに溜まらず、綺麗に消えていくのだろう。

 とりあえずジオラマの土台にはボタンがひとつ、でもこれは汽車を止めるボタンではなさそうだ。
 結局探せど探せど汽車を止めるボタンは見つからない。

 これもこれで謎技術だ。外の世界にはこういったものだらけなのだろうか?
 それはそれで面白いのかもしれない、お姉ちゃんとそういうのを見てみたいと思える。

 調べたいのは他には資料だけれど、何について調べればいいのだろうか?
 疑問に思ったこと?
 √0?
 お披露目会?
 ガーデンテラスにあったお花?

 とりあえずなにか調べてみようかな、と思いファイルの海を探るだろう。

 人間が辿った様々な歴史が懇切丁寧に記録され、ファイリングされている。その資料の数は何とも膨大で、いかに勉強熱心なドールといえども全てに目を通し内容を覚え切ることは難しいと言える量だった。
 人類、ホモ・サピエンスの進化の軌跡、文明や宗教の芽生え、戦争と奪い合いの歴史、目覚ましい発展の道筋──そして、多様な文化についても。
 あなた方は、中世の時代において流行した美しい鑑賞ドールを元に設計されている。故に誰もがはっと息を呑むほどに美しく、輝かしく見えるのだ。

 また、こちらに残された最新の記録は、『西暦2240年』、『新種の青い花が発見された』……──という記述で最後である。

 また、残念ながらこちらの資料はヒトの文化に関わるものしか存在せず、この学園の情報については著しく欠落しているようだった。

 ペラペラとファイリングされた情報に目を通す。
 どれもこれもそういうことを知りたいドールにとっては有益な情報で、きっと必要なものなのだろう。
 だが自分は全てを理解することはできない、それにそういうことを知りたくてこのファイルを開いた訳では無い。

 そして少し頭の情報に引っかかったのは、最新の情報。
 青い花。

「これ……ディアお兄ちゃんが言ってたヤツかな?」

 とはいえ自分が知りたい情報では無い、でもこれが最新。
 何も無かった、お披露目のことも学園のことも何もかも。

「どうしようか……」

 とはいえ三階は全て見た。他のところを調べるにしても時間がないし、それに疲れてしまった。

「とりあえず寮に帰ろうかな……。
 他のお兄ちゃんお姉ちゃんともお話したいし……。」

 そう考え、手に持ったファイルやらをきちんとしまい文化資料室を後にするだろう。