Campanella

【学園3F カフェテリア】

Brother
Campanella

《Brother》
 お披露目。アラジン。星。

「……」

 学園三階、カフェテリア。
 薄紫に染まった毛先を指でいじりながら、ブラザーはここにやって来た。談笑の声が聞こえるカフェテリアは、彼にとって癒しの場である。かわいい妹や弟たちの笑い声を聞きながら、紅茶を飲むことが出来るのだ。そんな素敵な場所なのに、今日のブラザーの顔はあまり明るくない。
 日課の水やりをしに行こうとしたのだが、どうにも気分が悪くなってしまったから。落ち着かせるハーブティでも飲もうと、この場所にやってきたのだ。

 重いため息をひとつ。
 曇ったアメジストを瞬かせて、ブラザーは部屋の中を歩いていた。そうして、見覚えのある黒髪を見つける。

「カンパネラ……!」

 小さく名前を呼んで、彼女の元に駆け寄った。ずきりと頭が痛むのは、もう仕方がないのだろう。

 幸せになるべきだった少女。
 幸せになれなかった少女。
 人柄と名前と声と相貌という、断片的な情報だけが脳に焼き付いている現状に、カンパネラはずっと頭を捻っていた。
 シャーロットは、エーナモデルのプリマドール。隣にいるだけで笑えてしまうような、太陽みたいな女の子。そして、わたしの……友人、だったと思う。

 ……それは、一体いつの話?

「………うう………」

 考えても考えても分からない。弱くて、欠けている、欠陥品の彼女の頭では何も分からない。

「…………っあ、」

 ブラザーに声をかけられたことで、彼女の意識はふっと浮上した。
 カンパネラは、カフェテリアの隅の方の席に一人で座っていた。グラスに入ったアイスティーはすっかり空っぽだ。茨を思わす前髪の奥の相貌には、疲弊と焦燥が滲んでいる。
 姉には代わらなかった。

「………ブラザー、さん………あ、こ、……こんにちは」

《Brother》
「……隣、いいかい?」

 共に柵を越えたブラザーには、カンパネラの気持ちが少しは理解出来る。その深い絶望と悲しみを全ては受け止められずとも、受け止めたいと思うのが彼だった。
 柔らかい声と共に甘く微笑み、口だけの許可をとる。カンパネラがどちらの返事をしても、ブラザーは生返事を返して簡易的なキッチンの方に行った。アイスティを一杯と、ラベンダーのハーブティを一杯。手際よく作ってから、カンパネラの隣に座るはずだ。アイスティーをそちらに置いて、近くに砂糖とミルクを添えよう。

「……よく眠れてる?」

 ハーブティをかき混ぜながら、囁くような声で聞いた。カンパネラの方を見ないのは、彼なりの優しさだろう。

「あ………は、はい…………」

 こくりと遠慮がちに頷く。どっち付かずな響きであっただろう。人嫌いのカンパネラは歓迎もしなかったが、拒絶もしなかった。一言伝えたいことがあったから。

 戻ってきたブラザーにアイスティーを差し出され、「ぁ………」と小さく声をこぼしたあと、きょどきょどしながらも無言で頭を下げた。
 視線を逸らしてもらっているからか、言葉を紡ぐ緊張感は少し薄れている。俯いて砂糖にもミルクにも手を付けず、机をただじっと見つめながら応答する。

「……は、はい。……なんとか……」

 嘘であった。まるで眠れた気がしない。ツリーハウスへ行ったときから……いや、それよりももっともっと前から、カンパネラは眠れていなかった。ブラザーも……眠れていないんだろうか。

「………あの。……ごめんなさい。…………変なことに、巻き込んでしまって……わ、わたし、ちゃんと、ちゃんと……伝えなくて……」

 そうだとしたら、きっとそれは、わたしのせいでもある。
 作ってもらったアイスティーの冷たいグラスを両手で握って、カンパネラは改めて謝罪した。あの時は、結局なあなあにしてしまったから。

《Brother》
「そっか、良かった」

 嘘なんだろうなぁ。
 カップを見たまま口元だけで微笑み、ブラザーはそう思っていた。記憶の友人、その死体と真実。自分よりもずっと大きなショックを受けたであろう彼女が、眠れているはずがない。カンパネラが繊細であるということくらい、同じクラスであれば誰だってわかるものだ。

 しかし、それを口にすることはない。言われた通りに頷いて、カップに口をつける。ラベンダーの香りが口に広がり、じんわりと喉を潤した。リラックス効果があるものを選んだから、なるべく早く効果が出るといいのだが。温かいカップで冷えた指先を温めつつ、ようやく視線をカンパネラの方に滑らせる。その謝罪を看過することは、おにいちゃんには出来ない。

「そんなことないよ。僕も丁度、この学園について色々知りたいと思っていた頃だったから」

 カップを置いて、顔をそちらに向ける。にっこり安心させるように微笑んでは、長い前髪の下にある瞳を見つめた。鮮やかなスカイブルー。この瞳が曇ってしまうのは、身が焼けるように苦しい。

「むしろお礼したいと思ってたんだ。アイスティーのおかわりじゃ、ちょっと足りないかな?」

 冗談を言うように笑って、また視線を逸らす。カップをもう一度、口に押し付けた。

 不意にかんばせを上げていた。自然と、彼のアメジストと視線がかち合った。穏やかで優しい“兄”の眼差しは、優しさゆえにすぐ遠ざかる。

「い、いえ、そんなことは………」

 控えめに首を振る。ブラザーにつられてアイスティーに口を付けると、カンパネラは乾いていた喉が潤う感覚をおぼえる。……それはまた、すぐに渇いた。

「………あの、ツリーハウスは……。ノートや、写真や、あの子のなきが………あ、あの、ドール。
 ………あれ、あれらは、……現実、なんでしょうか……」

 口をついて出たように、確かめるような言葉をかける。僅かに震えていた。

《Brother》
「どうだろうねぇ」

 肩を竦めてみせる。
 まるでただの、談笑のように。

「空も作り物だったし、記憶自体も作り物の可能性だってあるんじゃない?」

 きっともう、ドールズはどこにも逃げられない。終点がどこであれ、道に蔓延る苦痛は逃れられないのだろう。
 なら、せめて。せめて逃避先であろうとするのが、甘い甘いブラザーだった。

 逃げた後に出会う現実が、どれほど苦しかったとしても。瞬間的な幸せを選んでしまうのが、この不誠実で誠実なおにいちゃんだった。

「……ねぇ、カンパネラ。
 “青い蝶”って、知ってる?」

 カップを置く。
 伏せられた長い睫毛の奥にあるのは、なんの思考だろうか。

「…………そっかぁ……」

 思えば、わたしたちはみんな、疑似記憶とかいう偽物の記憶を与えられているのだ。あの日見たものが何かの間違いだったりする可能性もあるだろう。誰かが見せたおかしな夢、ただの悪い……。
 と。カンパネラは彼の言葉に過剰に甘やかされて、現実から逃れようと、ぐるぐる回し続けていた頭をちょっとだけ止めた。
 彼女のことは……一旦。一時的に、ちょっとだけ。そっと置いておこう。考えても考えても、欠陥品には分からないのだ。

「……? ……青い蝶………あ、ご、ごめんなさい、……し、らない…………です」

 青い蝶。ぴんと来るものがなかった。言葉通り、カンパネラは何も分からない。その質問の、真意も含めて。

「……ど、どうか、したんですか。あの。蝶、って………」

《Brother》
「……ツリーハウスの中から出るとき。あの子の体の近くに、青い蝶がいるのを見たんだ。コゼットドロップみたいに羽は青く光っていて、青い鱗粉が出ていて、それで……」
 
 明確に、言い淀む。
 ブラザーは何かを言うために口を開いて、そうして閉じる。盗み見るように、アメジストを滑らせてカンパネラを見た。また目を逸らす。この繰り返し。

「……それで、すぐに消えちゃった」

 カップを見つめ、ブラザーはゆっくりと重い口を持ち上げる。それだけの情報を言い淀んでいたとはとても思えないが、今のカンパネラがそれを指摘するとも、ブラザーは思っていなかった。

「………シャーロットの、そばに?」

 頭の片隅に、と思ってもすぐに名前を出してしまう辺り、カンパネラが強く強く彼女に囚われているのが伝わってしまうだろう。

 コゼットドロップのように光っていて、青くて、それで、すぐに消えてしまった。それらの情報には思い当たりも何もない。あんなに薄暗い空間だったのだから、ツリーハウスを出る直前に振り向いたとき、その蝶とやらが見えていたっておかしくないはずなのだが。

 そして。カンパネラは迷う。
 すぐに分かった。いま何か、何か、隠された。
 ……問うべきか。問わないべきか。ぐるぐると目を回して迷い、カンパネラは弱く下唇を噛み、そして。
 何かを決めたような顔をして。

「……それだけじゃ、ないですよね」

 予想外の反応だったかもしれない。
 声は弱々しく、ただ、勇気の欠片がぼんやりと浮かび上がっている。

 怯え、恐れ、逃げたがるカンパネラの背中を。悲しみに近く、しかし確かにそうでない何かが押している。心臓を軋ませ、頭を締め付け、支配する。
 その背中を押す何かの正体を、カンパネラは知らない。

「……何か、あったんですか。…………教えて、くださいませんか」

《Brother》
「……」

 目を、見開く。
 眼前にいるカンパネラは、弱々しく深く傷ついている。だから、絶望の底で俯いていると思っていた。

 しかし、そうではなかったようだ。

「……うん、わかった」

 ミュゲイアのことを思い出す。
 席から立ったあの子の顔を見られなかった理由が何か、ブラザーにはもう分かっていた。

 自分が思うよりもずっと早く、愛おしい輝きたちは強くなっているのかもしれない。

 ……喜び以外の感情が浮かぶのは、きっとまだブラザーが弱いからだ。
 目を伏せて軽く笑ったあと、こちらも覚悟を決めてカンパネラを見つめよう。嫋やかなアメジストに映る妹の姿を、今度こそちゃんと見ていよう。

「ツリーハウスから出るとき、本当は声が聞こえたんだ。僕はその声に振り向いて、すると青い蝶がいた。色んな声が重なったみたいな声で、誰のものかは分からなかったし……きっと、僕の頭の中に響いてた声だったんだと思う」

「ねえ、大丈夫?」
「貴方の恐怖は分かる。私もそうだったから。」
「怖かった。泣きたかった。苦しかった。痛かった。悔しかった。悲しかった。恨めしかった。」
どうして私だけ。
どうして貴方たちがこんな目に遭わなくちゃいけないのかな

「……って、声は言ってた。
 この声を聞く度に頭が痛くなって、倒れそうになったら声がおさまった。青い蝶も、そのときに消えたんだ」

 慎重に、けれど全てを。
 自身の体験を隠すことなく口にして、ブラザーはカンパネラの様子をうかがう。すぐに、その背を支えられるように。

 声。
 ブラザーから発せられた、蝶々の声、声、声。

 どうして私だけ、どうして貴方たちが。憤りつつも悲しんでいて、悲しんでいながら寄り添っている。ああ、なんて、悲痛な言葉だろう。

「……………………」

 ぎゅう、と胸が苦しくなった。カンパネラは、アメジストからしばし目を逸らし、すぅはぁ、すぅはぁと呼吸を繰り返し。

 その言葉は。その口調は。ねえ、もしかして、それって。

「…………ありがとう、ございます。教えてくださって………」

 それは、彼女の推測に過ぎない。ただの思い過ごしかもしれない。彼の言葉を聞いてもなお、明確なことはカンパネラには何一つとして分からない。分からないということだけが、分かる。
 確信ではなかったから、崩れ落ちるようなことはなかったけれど。彼女の中で何かが不安げに揺れたのは確かだっただろう。

 ひとまず顔を上げて、視線を微妙にずらしつつ、ブラザーに感謝を述べた。胸元のリボンをぎゅっと握りしめて、額を伝う汗を拭って。
 みぞおちの辺りを蝕む、不定形の何かを感じながら。

「………ブラザーさん。どうか、ご無理は、……なさらないで、ね……」

 共に柵を越え、あの衝撃を味わった者への、精一杯の心配の声を投げ掛けた。

《Brother》
 苦しそうな呼吸。
 上擦った息を聞いているだけで、こちらまで息が詰まる。外れた視線に眉を下げて、ぎゅっと口を閉じたままブラザーは黙っていた。ただ背中をそっと撫でて、その息が落ち着ことを待つ。

 やがてカンパネラは顔を上げ、心配の声を投げてくれる。それが悲痛で、切なくて。けれど、その優しさを受け取ってあげたい。

「……うん、カンパネラも」

 ゆっくり頷いて、背中から手を離す。ふわりと甘く笑いかけてから、ブラザーはカップの中身を飲み干した。温かいハーブティが体をめぐって、少しづつ心が落ち着いていくのを感じる。きっとこれは、カンパネラのおかげだ。この子のおかげで、自分も頑張ろうと思えたから。

「大丈夫、おにいちゃんはずっと君の味方だよ。
 いつでも頼ってね」

 静かに席を立って、中腰になりカンパネラの頭を撫でる。頭上から降る無条件に優しい声は、たっぷりの愛情を含んでいた。柔らかい髪をかき混ぜて、それから最後にもう一度笑いかける。

 そうして、ブラザーは自分の分のカップを片付けに行った。特に引き止めなければ、このまま会話は終わるだろう。

「ぁう、」

 頭を撫でられた。……誰かに触れられるのはやはり不得手なようで、カンパネラはきゅっと目を瞑って肩を強張らせる。あからさまに怯えるような素振りはしなかったから、恐怖は彼には伝わっていないはずだと、そう思いたい。

 何を言おうと、“お兄ちゃん”を名乗り続けるおかしなドール。底抜けに優しい慈愛のひと。
 信用に値するかは、まだ分からないのだけれど。天秤によって量る価値はきっと、あるのではないかと思う。
 ……ああ。もし傷付けて、嫌われちゃったら、つらいなぁ。

「…………………は、い」

 触れたらすぐに消えてしまう雪結晶のように、小さく、小さく答えて。対話はそれきりだ。
 遠ざかる背中を見送って、アイスティーをひとくち飲む。気まぐれに、砂糖を少し入れてみる。すぐには溶けず底で沈殿する砂糖を眺める。

「………」

 あのがらがらした笑い声が脳内を反響する。カンパネラはいつのまにか、グラスを握りしめている。
 彼女に聞きたいことがたくさんあった。けれど、聞きそびれてしまった。

 聞いたことで、わたしは後悔をするかもしれない。分かっている。分かっているのだ。
 それでもカンパネラを突き動かす何かが存在している。

 叫び出したくなる衝動を。
 歯を食い縛るような思いを。
 それらに付けられた名前を、カンパネラは知らない。

【学園2F 合唱室】

Dorothy
Campanella

 心臓が軋んでいた。息が苦しい。ただ階段を登っているだけで涙が出てきそうだった。

 アストレアのお披露目のことを発表された夕食時からしばらく、震えが止まらなかった。完璧な微笑みを浮かべるかの少女の肩に手を置いた彼が、シャーロットを「スクラップ」と呼んだ存在と結び付いて。おぞましくて、恐ろしくて、あと何か……言語化できない衝動に駆られて。
 カンパネラはベッドに横たわってからここに来るまでに、先生に怪しまれないようタイミングを考えながら、何度も何度も姉に代わってもらって行動していた。姉なるものはあの場所で妹と同じ情報を得ていたはずなのだが、それでもなお彼女のポーカーフェイスは完璧だった。本当に、頼りになるひとだ。

 でも、いつまでも頼りきりというわけにはいかない。そうやって姉に頼り続けていても、どうしても誤魔化しきれなくなるタイミングが、二週間に一度のペースでカンパネラにはやってくる。嘘をつく練習を、仮面を被る練習をしなくてはならない。

 それに、何より。
 これは、わたし自身が向き合うべきことだと、そう強く思うのだ。ブラザーとカフェテリアで話してから、その気持ちは一層強くなっていた。

「……あの………い、いらっしゃいますか………?」

 カンパネラは合唱室の扉をそうっと開ける。呼び声の宛先は、決まっている。

 合唱室に一歩踏み入ると、周囲の音がまるきり吸収されてしまったかのように、一気に静寂が降りる。それはひとえに、この部屋の壁には防音材が使用されているからだった。

 誰も使用している者がおらず、薄暗く閑静な合唱室。その奥、ピアノのそばでゆらりと微かに動く影があった。
 頭だけ不自然に大きな、サイズ感がチグハグなドール。気を衒った見目をした、あなたが幾度となく邂逅してしまう、ドロシーである。あなたが呼び掛けるならば、彼女は部屋の奥からふらふらと歩み寄ってくるだろう。

「ハーイ、ダーリン♡
 詩の上の役者・ドロシーちゃんなら居るよォ。でもほかには誰もいません、残念でした! ギャハハハ!

 折角お友達に会いに来てくれたんだ、お茶でもする〜? 拒否権はないケド。お前の予定も知ったこっちゃないけど。キャハッ、ギャハハハ!」

 彼女は相変わらずの調子だ。
 あの日、柵越えで共に恐ろしい現実を垣間見たというのに、おくびにも出していない。
 恐る恐ると言った様子のあなたを沼の中へ引き摺り込むような声で、ゲラゲラ笑ってあなたを誘いかけている。

 音を閉じ込めるための壁に覆われた部屋へ、一歩踏み入る。目的となる彼女、ドロシーは、思った通りそこにいた。

「ヒ………」

 顔をしわくちゃにしてしまいそうなところを、ギリギリのところでぐっと堪える。
 教えてもらったでしょう、助けてもらったでしょう、ただ怖いだけのひとじゃないはずだ。きっと、たぶん、おそらく……。
 頭では多少理解できていても、怖いものは怖い。カンパネラの顔はみるみるうちに青くなる。でもそんな風に怖がって縮こまってる場合じゃないことを、カンパネラは深く理解している。その寒々しい色彩を振り払うかのように首を振る。後手で扉を閉めた。逃げ道を自ら潰すみたいに。
 拒否権のない提案に、「あぅ……」と声をこぼす。肯定とも否定とも取れない曖昧な返答だ。しかし、少なくとも、カンパネラはそれを拒絶しなかった。
 床を見つめ、きょろきょろと不安げに目を泳がせたのち。

「き、……聞きたいことが、あるんです………い、くつか。」

 まるで、その誘いに乗るかのように顔を上げて。……すぐまた下げてしまったが。歩み寄るドロシーの方へ、カンパネラは一歩近付く。
 泥にまみれる覚悟はできている。

「………あの、ツリーハウスについて。……良いですか…?」

 静かな部屋には、その風前の灯火のようにか細い悲鳴すら、分かりやすく反響してしまうだろう。哀れにも猛獣を前にした無力な子兎のように、あなたはが小刻みに震えてしまっている様はドロシーにも分かっているのだろう。
 それでもその反応を愉しむ悪趣味な享楽主義者のように、彼女は被り物を揺らがせながら、自ら退路を塞ぐあなたへまた一歩迫る。

 やがてドロシーは、扉を背に背水の陣の構えをとるあなたを更に追い詰めるように、片腕の肘から指先までを扉にべったりと付けて逃げ場を塞ぎ、高みから見下すように、底知れぬ圧を掛けるようにあなたを見つめる。

「……いいよ〜♡ ギャハハッ、ゲラゲラ!

 ドロシーちゃん、シンセツだからあ……ミザリーの質問に応えてやるよ。愉快なお話にしようぜ、スノウホワイト」

「うびぃッ………!?」

 一歩を踏み出してすぐ反射的に後退し、カンパネラはそれなりの勢いを伴って背中を扉に打ち付けた。こちらに影が落ちている。追い詰められて、見下ろされている。状況の認識にはずいぶんと時間を要したが、とりあえず「怖い」という情報だけが彼女の中に入ってきた。

 は、は、と荒く息をする様はまさに、ヒエラルキーの上に君臨する獣に牙をかけられた哀れな獲物である。

「あ、あぁぁあ、あぁあのッ、わた、わたしッ、その……えっと、えっと………!」

 目に涙が浮かんで、身体の震えはもっと強くなる。しかしカンパネラはそれでも、必死になって言葉を紡いだ。

「つ、ツリーハウス、あの! わたし、わた、い、行ったこと、っなくて、しらな、知らなくて………でもなんか、わた、わたし、あそこで、思い出したの、写真、わたし、シャーロットの………ちが、そ、そうじゃない! あ、ああぅ、えと、あの……。

 な……なんでわたしを、あ、あの場所に、連れて、行ったんですかぁっ………?!」

 全ての気力を振り絞ったような、精一杯の苦しげな彼女の主張。瞳に涙の膜を張って潤ませながらも、それを溢さぬように必死に堪えるという、彼女のなけなしの勇気を受け止めて、ドロシーはゆるく首を傾けた。

 他者に近づかれることが息苦しく耐え難いのだと言わんばかりの彼女が、この状況にどうにか食らいつこうとしている様が面白かったのか。

 ドロシーはまたゲラゲラと笑ってから、「何で連れて行ったか?」とあなたの質問をあえて反芻する。

 それから彼女は、あなたではないどこか虚空をぼんやりと見据えた。被り物を被っているドロシーの視線の先は非常に分かりにくかったが、あなたを見ていないと言うことは容易に察せるだろう。

「──√0がお前を呼んでたから。√0からのご指名だったんだよ、ギャハハ!

 まあ……ワタシはただの案内人なワケ、それに、あのツリーハウスに何があるのかは、ワタシも確かめたいところだったし……

 中々収穫はあったよ、ギャハハハ! あんまり知りたくなかった事実ではあったケド。」

 ドロシーはそこでようやく、あなたからすんなりと離れてくれた。

 彼女は扉の向こう側を見据えていた。ドロシーはテーセラモデル。聴覚に優れた彼女は、扉の外から響く合唱室にやってくる足音に気が付いたらしい。

「来客だぜ、カンパネラ。ジングルでも鳴らしてやったらどう? リンゴーン! ギャハハハハハハ!」

 はくはくと金魚が水面でするように、口から薄く呼吸をする。しゃくりあげそうなところを懸命に堪えて問いを投げ掛ける。
 このひとは、一体何を見ているのだろう……。彼女の不気味な被り物を見上げながら思う。

「……ルート、ゼロ…………?」

 √0。
 カンパネラはあのツリーハウスに刻まれた無数の文字を思い出す。√0、√0、√0………。ドロシーがしきりに口にする、得体の知れない言葉。日記の中にも確か書かれていたはずだ。そう、誰かがシャーロットのもとで蹲って……でも、その正体については、日記の主にも分かっていないようだった。
 呼ばれた? わたしが? 何に? どうして……?

「っえ、」

 来客の存在を告げられると、カンパネラは慌ててドアから背中をひっぺ返すように前へ進んでいった。扉から見て、ドロシーより少し手前の方に立つ。恐る恐るといった風に振り返る。
 カンパネラはトゥリア、それも欠陥品。彼女の五感は来客の気配を感知しなかった。しかし、彼女の第六感……もとい“天秤”が、じんわりと嫌に揺れていた。

Sophia
Storm
Dorothy
Campanella

《Storm》
 カンパネラの第六感は彼女を守ろうと正しく機能している。
 なぜなら、彼女の真髄に眠る”カンパネラ”は猟奇犯の気配を感じ、警報を出しているのから、それがはっきりわかる。

 一方、猟奇犯は旧学友とカンパネラの姿を見るなり数回瞬きをして見つめる。心底意外そうに面白いものを見るかのように。

「久しぶりですドロシー。カンパネラと仲良くなっていらしたのですか。彼女、素敵でしょ?」

 カンパネラの方を見ながら”彼女”を褒め称えた。しっかりこの声が届いていればいいが、とストームは想いながら。
 さて、面白い関係性を垣間見たストームは目的にへと思考を切り替える。
 ストーム自身ドロシーへ聞きたいことはいくつかあるが、レディーファーストをする事は紳士として当たり前。
 そして、聞きたいことのほとんどはソフィアが質問するだろう。自身をこの場に連れて来た女王の側近となる位置に身を引く。

《Sophia》
「ごきげんよ──って、カンパネラ?」

 ストームの手によって扉は開かれた。その先には、予想通り歪なビスクドールの姿……と、守るべきクラスメイトの姿も見える。記憶の中では、確かにカンパネラはドロシーに酷く怯えていたはずだから、ひとりでわざわざこの場所へと足を運び、しかも彼女と話をしていたらしい……なんて全くの予想外だった。
 ドロシーには、柵の外を見回ってきたこと、そしてそれで得られた情報について伝えておこうと思っていた。しかし、カンパネラが居るとなるとそんな話もできない。彼女をまだ巻き込みたくなかったからだ。故に、ソフィアは歪に顔を顰める。ばつの悪そうな表情である。

「あー……二人とも、話してたのね。ドロシーに用事があったんだけど、邪魔しちゃ悪いしまた後で来るわ。」

 そこまで言って、ソフィアは踵を返そうとするだろう。だって、カンパネラがこの学園の闇の片鱗を掴んでいることなど、ソフィアには知る由もないのだから。聡明なドロシーのことだ、ソフィアが何を言おうとし、何故退散しようとするのか、検討がつくことだろう。ストームの首元のタイを引き、自分の目線に彼の顔を持ってくれば、「後にしましょう」と耳元に囁いた。

 やがて合唱室の扉を開いたであろう二人の来訪者を前にして、ドロシーが微かに「……ゲ。」と疎うような声を溢したのを、彼女の最も直近に立っていたカンパネラであれば聞き取れたかもしれない。
 彼女はソフィアとストームを見据えて、被り物の側頭部を押さえながら僅かに項垂れたが。直ぐに顔を上げて、僅かにそれを傾ける。

「ギャハ、ギャハハハハ……あーあ。来たのかよ、台風の目! まったく魅力的過ぎて参ってるぜ〜〜、オミクロンのジャンクドールどもはさァ。」

 ドロシーは会いたくなかった旧友と出くわしたような気不味い声を出して、ストームに応答した。
 ストーム。あなたは彼女がドロシーであると分かる。声や体格は覚えている限り同級生である彼女そのものだった。

 だが、いくら様子がおかしくなった事を知っていたとはいえ、以前の彼女はこのように悪目立ちする醜悪なビスクドールの被り物など被っていなかったのだ。
 もともと、ドロシーは黒いメッシュを入れた金髪を邪魔にならないよう後頭部で結い込んだ、模範的なテーセラモデルらしいいかにも快活そうな見目をしていた。それが今ではその顔の全てを奇妙な覆面で覆い隠している。凄まじい変貌ぶりである。

 以前の自分をよく知るあなたと鉢合わせてしまったことを厭っているのか、ドロシーはストームから早々に顔を背けてソフィアの方を向いた。

「へえ? 虚飾のクイーン様はドロシーちゃんに用事なワケ? 今まさにオハナシしてやる気分なんだケド、今立ち去られたら気が変わっちゃうかもネッ。

 タイニーホワイトも折角健気になけなしの勇気で来たんだし、聞いてけば? 別に構いやしないだろうが、コイツはもう大体の事は知ってるし。

 オイ、ミザリー。返事はァ〜〜? ワンって言えよ。ギャハハハ!」

 ドロシーは今ここで話せとソフィアに命じつつ、この場に立つカンパネラをしれっと巻き込もうとする。またしても気弱な彼女を上から押し潰すような威圧感のある問いを投げ掛けながら。

 突然やって来た来訪者の姿が見えると、カンパネラは今度こそ顔をしわくちゃにして「ヒィッ………」と悲鳴を漏らした。ドロシーの苦々しい反応とはほとんど同時だっただろう。
 まず見えたのは藍髪の青年。臆病なカンパネラの、最大級の恐怖対象であるストームだ。いつものように彼は、カンパネラの内側の“彼女”へ言葉を届けようする。いつもいつも、こちらを見ているようで見ていない、カンパネラにとってひどく恐ろしい人物……。
 彼の表情にはある程度の愛嬌があるようにも見えるが、そんなのは関係ない。カンパネラは真っ白な顔をしてどんどん後退していき、遂にはドロシーの陰に隠れでもするかのように背中を丸めて縮こまる。彼女の覆面の下に隠された複雑そうなあれこれには、鈍感にも一切気付くことなく。
 そして、次に見えたのはソフィアだ。長身のストームと並ぶと、その小柄さが際立つ。
 ──カンパネラが硬直したのは、その時だった。

 彼女のアクアマリンは、金色の髪とのコントラストは、きっと永遠に色褪せず、鮮やかで、ああそれは、それはまるで、まるで、記憶の中のあの子にも似ていて。そしてその幸福に満ちた光景は、残酷にも──
 ……唇が震える。指先が冷たくなる。カンパネラの真っ暗な瞳は、ソフィアたちには見えただろうか。

「………シャ、ロ……」

 五感に優れたテーセラモデルである二人には辛うじて届くか届かまいかというその極小の声は、ドロシーの声によって完全にかき消された。はっとカンパネラの意識が現実に呼び戻される。

「あっえ、あっ、え!? ………わっ、わぁん…………」

 どこか虚ろだった目になけなしの光が戻ってきたかと思えば、圧をかけられるがままに応答する。巻き込みたくないというソフィアの意思は、当人には少しも通じていない様子である。

《Storm》
 ソフィアの意見が最もだ。ストームはカンパネラを見ながらそう納得した。
 今の彼女は怖がりであり、ストームの姿を見た時の反応が全てを物語っていると言える。お披露目の事や金髪赤眼の可愛らしい声で泣く”あのドール”の末路、きっと教えたら挙動不審さが増して隠し通せる未来が見えない。

 ……はずだった。

 ドロシーの言葉で状況が一気にひっくり返されるまで。

「大体の事は知ってる……? と、言いますと?
 お披露目やそれ以外の事も……」

 下唇を親指と人差し指で弄り、熟考する。
 もしかしたらカンパネラは想像しているよりももっと強いのかもしれない。それが”彼女”の影響か、それともカンパネラ自身の精神力なのかはストームには分からない。
 が、彼女の勇気に賭けてみるのもありかもしれない。

 ストームは屈んでソフィアにそっと近づき耳打ちする。

「案外カンパネラは守らねばと気を張るより、力を貸して頂いた方が良いのかも知れませんよ?
 それにお気付きかもしれませんが、彼女様子が変です。
 何か知っているのかもしれません。

 最終判断は貴方様にお任せします」

《Sophia》
「いやっ、今話せない事くらいわか……は!? 何、大体のことは知ってるってどういうことよ。……まさか、巻き込んだの? カンパネラのこと。」

 ドロシーを貫く視線は、まるで初対面の日のように驚きで丸くなり、そうして次第に怒りを帯びて鋭く睨むように変貌していくだろう。ソフィアはカンパネラの事情について知る由もないし、まだこの話を知らせるには時期尚早である筈だと思っていた。この歪んだ箱庭の闇に触れることが、どれほど危険な事かも理解していたから。ドロシーからすれば、巻き込んだと言う言葉は心外でしかないだろう。

 そして、その憤りを放出するよりも早く、カンパネラの瞳が色濃く絶望を纏ったのに気が留まったようであった。

「……カンパネラ……ちょっと、大丈夫?」

 ストームの囁きには、言葉ではなくなんとも言えぬ複雑な心境を纏った視線を返答とした。そうしてアイコンタクトを交わしたのち、ソフィアは合唱室内部へと足を踏み入れ、カンパネラの元に駆け出すだろう。

「巻き込んだァ? 人聞きの悪いこと言うなよジャンヌ、ギャハハハハハハ……ええマア、はい。巻き込みました。た・だ・しィ、あくまで双方合意の上だ。

 確かにコイツに真実を知る権利を与えたのはワタシだケド、コイツは自ら望んでノコノコとここまでやってきたんだよ。
 危険を承知でも真実を知りたい。ワタシには泣けるほど共感出来る至極当然の欲求だと思います!」

 ドロシーはあなたから発される正義の怒りを受け止めて、悪びれる様子もなく肩を竦めながら白状した。
 確かに彼女を家中へ引き込んだのは自分だ。だがそれは彼女の望みでもある。自らに置かれた状況が何であるか、自分はなにを知らないのか。真実を追求しようとするカンパネラを、自分はあくまで支援しただけだ──と、ドロシーはざらざらとした不協和音の笑声を奏でながら告げる。

「で、どこまで、だっけ。

 少なくとも、お披露目に未来はないことはもう知ってる。この学園が海底に沈んでいて、現状最速で実施出来る脱走方法が無いことも。
 それ故に絶望の写し鏡、お披露目から逃げられずに窮地にあること。ワタシ達は知ってる……」

 そこまで語ると、ドロシーは一度カンパネラに目を向けた。そして彼女に駆け寄るソフィアのことも。
 しかしその行動に特に言及はせず、あなた方の現状を澱みなく語る。 

 知りたい、知らなきゃ、知るべきだ。そう決意してツリーハウスへ行ったことは、カンパネラは少しも……いや、少ししか後悔していない。
 真実を目にした結果はどうあれ、ドロシーの発言に嘘のないことは、聡明なソフィアには容易に理解できただろう。彼女が知ったことの内容も、淀みなく真実である。
 心配してこちらへ駆け寄ったソフィアに対し、カンパネラはドロシーの発言を否定するような素振りを一切見せなかった。ただうわ言のようにぽそぽそ言葉を吐いて、執拗に己の二の腕をさする。彼女の善意を理解しつつ、カンパネラは涙を溢し続ける。幽霊でも見たかのような顔をして。

「…あっ、あ……! ご……ごめんなさ………ごめ………ああぁ、……嫌……み、見ないで、その目で………目………うあぁあ………」

 カンパネラは更に後退したかと思えば、不意に膝を崩して座り込み、一度ソフィアのことを見上げるとそれきり、目を手のひらでふさいでしまった。誰がどんな声をかけても何をしても、苦しげな嗚咽しか返っては来ないだろう。 

《Storm》
 やはりカンパネラの様子は明らかに、おかしい。
 怯えているような、いや、彼女はいつも怯えている事には変わりないのだが……いつものソレと違う。
 なにか、信じられないものを見たかのような。信じたくないものを見たかのような。

 今、カンパネラに話を聞くのは不可能だろう。

「ドロシー、いくつか質問を。
 “ワタシ達”とはドロシーとカンパネラのみでしょうか?
 それと、過剰とも言えるカンパネラのこの反応に対し随分寛容的なんですね。少し意外です。
 彼女の反応から察するに、ソフィアに何らかの因果関係があると思うのですが貴方様なにかご存知なんですか?」


 酷い過呼吸にまで陥ってしまったカンパネラを横目に、ストームはドロシーに問いかける。
 今の状況を俯瞰した結果の質問だった。 

《Sophia》
「……! そんな、全て……」

 ──合意の上で。自ら望んで。そんな弁明に次いで連なる説明は、今まで手に入れた情報の全てであると言っても過言ではなかった。ドロシーの言葉の中にも、カンパネラの様子からも、合意であると言うのが嘘であるようには感じられなかったため、ソフィアは誰も責めることが出来ない。
 カンパネラは、顔を隠したきり何も話してくれなくなってしまった。小さな嗚咽のみが漏れ出る様子に、うまい言葉を探すことは出来なかった。当然だ、エーナモデルとは違ってそんな機能は備わってはいないのだから。
 ……アストレアだったら、こういう時にどうするべきか分かるんだろうなあ。このままやっていけるのかな。なんて思いは、そっと心の奥にしまっておいて。

「……外の事、もう知ってるなんて思わなかった。ドロシーもカンパネラも、外に出たの?」

 ストームの冷静な問いを追いかけるように、ソフィアもまた疑問をぽつぽつと漏らした。

「……ああ。外ってのはさァ、海底に沈んだくだらないジオラマの、あのチンケな柵の外だってお話なら。答えはYESだな、ワタシ達はあの柵を越えた先の敷地を見てきた。

 と言ってもお前らの調査とはまるきり違う方向だったケド」

 被り物をしっかりと被り直す動作を挟んで、ドロシーは大きな身振りを交えつつ語る。その大袈裟な動きはまるで道化を演じているようで、役者を気取っているように見える事だろう。

「誰が知ってるかは黙秘しておく、プライバシー保護の観点からカナ? あと、ワタシ達の調査したこともネッ。キャハッ、理由は虚飾のクイーンにはもう教えてるから割愛しまーす。どうせお前らの間でスグ明らかになると思うし。

 なあマグノリア、気付かないうちにもうスッカリ広まってるみたいだな、ギャハハハハハハ……」

 彼女は意味深長に呟くと、適当な教室内の机に乱暴に腰掛けて、足を組んだ。ドールに教え込まれているであろう気品などを無視した、粗野な態度であった。
 恐慌を示すカンパネラをまた改めて見据えたドロシーは、緩やかなため息を吐き出して。

「で? ワタシはシンセツだから、お前らがワタシを頼りにしたいなら相談に乗ってやるケド。
 ちょうどミザリーの質問も聞いてやってたところだし。なあオイ、そうだろ? ギャハハ!」 

「………うぅ…………っぐ、……ごめんなさ………嫌ぁ………」

 カンパネラは顔を伏せ、ただ涙を溢し続ける。ストームとソフィアの問い、ドロシーの答えをどこか遠くで聞いている。
 朝日の下で輝くマリンブルーが、虚ろに暗闇を見つめる様が脳裏に何度も何度も蘇る。フラッシュバックする。あのがらんどう。頬と呼べない頬の感触。ノートを読んだときの、首を強く強く絞められたような心地……。
 ああ、どうしてこんなに苦しいのだろう?シャーロットという少女の死が、出会ったことのないはずの友人の無惨な死が。カンパネラには、分からない。
 この頭を焼く衝動は、一体なんだというのだろう? 哀しみに近くて決定的にそうではない、抱いたことのない感情は。分からない、分からない、分からない。この涙は、わたしのどこから溢れ落ちている?

「…………ひっく……」

 びくりと肩を震わせたかと思うと、カンパネラはカーディガンの袖でどうにか涙を拭おうと目元を擦った。しかし涙は止めどなく流れ続ける。口から漏れるのは言葉にならない嗚咽だけ。返答を求めるようなドロシーの声に「ぃ」とどうにか発しながら、ひとまず深く頷いた。
 どくどくと鼓動が頭に響いて聞こえ、聴覚はくぐもっている。あの偽物の空を覆う厚い雲がかかっているようだった。まだ聞きたいことはあったけれど、どうにも涙が止まらない。会話にはまだ参加できる状態でないと分かるだろう。そのような状態になってなお頑なにその場を去らないのは、どうしてなのだろう。カンパネラにもそれは分からない。ただ、少女は耳を傾けている。 

《Storm》
 道化となったドロシーの呼び掛けと同時にカンパネラの方を向く。彼女はボロボロと大粒の涙を流していた。
 ストームはカンパネラに近付き片膝を着く。彼女の目の前で何をするかと思えば、懐からハンカチを取りだしたのだ。何を言う訳でもなく、黙って彼女の細く小さな白い手に持たせた。

 スっと立ち上がるとドロシーに目線を戻す。

「えぇ、貴方様の事は以前より親切だと存じておりますしとても頼りにしてますよ。
 なので、今から言うことは親切で優しい貴方様を傷つけるかもしれません」

 ドロシーが道化ならストームはジョーカーと言ったところか。舞台上ようなドロシーの大袈裟な動きとは打って変わって、ごく自然にそれでいてコミカルに紳士的に身体を操る。彼女の大きな身振り手振りに乗っかるようにコアの辺りを抑え、心底辛いと言ったような表情を作った。
 一瞬チラリとソフィアに目配せをし、合図を送る。


「ドロシー、貴方様のドレスボロボロになっていました。
 最後の晴れ舞台への衣装だと言うのに……。
 ご自身で破かれたのでしたら話は別ですが」

 少々回りくどい言い方をしたがソフィアには意図が伝わるだろう。ドレスを破き隠す程度でアティスのお披露目を延期できるのなら万々歳だ。

《Sophia》
 伏せられた内容を深く追いかけることはせずに、納得したらしい反応で特に返答はしないでおいた。ストームがハンカチをカンパネラに預けるのを見て、ソフィアはそっとカンパネラから離れ、ストームの傍につくだろう。

「……そう。あなた、あたし達よりも情報を手に入れるのが早いのね。……情報の出処はわかってる。けど、もう遅かったみたい。責められることでもないし。」

 広まっている。その言葉に、ソフィアは静かにため息を落とす。
 ──内通者。ドロシーに告げられた、一つの説。大いに視野を向けるべき事象ではあるが、けれどそれに探りを入れるには手段も時間も足りなすぎた。難儀そうな面持ちで、静かに視線を落とすだろう。
 ドロシーへ問うたストームの演技がかった仕草を静かに見届けて、何も言わずにドロシーの答えを待った。
 ──お披露目を回避する方法。要は、それを聞き出そうとしているらしい。

「あぁ……弁解しておくとこのミザリーの様子はワタシが虐めたわけじゃねーよ。マ、真実を知るには痛みも伴うってコトデショ……お前らがそうだったように。キャハハッ」

 極度の恐慌状態に陥って体を強張らせているカンパネラのことを、ドロシーは漸く言及した。しかしその事情を深くは語らない。こちらが暗に彼女を口止めしたのと同じで、ドロシーもまた彼女の口から語るまではこちらから事実を明かすつもりはないのだろう。

 しかしそれは彼女に関する事柄だけに限った話。
 ストームが不意に、話の主題をドロシー自身の件についてシフトすると。

「………………」

 ドロシーは突然、水を打ったように静まり返った。被り物の内側で、浅い呼吸音だけが溢れているのをストームの優れた耳は拾い上げるだろう。
 彼女は暫しの沈黙を経て、「……あぁ。」と嘆息を零す。

「見つけちゃったんだ、それ。」

 ドロシーは足を組み直して、何か考えるように被り物の正面をずらして虚空を見据えた。何かから答えを得たがっているような空白にも思える。
 しかしやがて、彼女は諦めたように肩を竦めた。

「それは前の……前の前ぐらいのお披露目の衣装だよ、ワタシの。お前がもうテーセラからオミクロンに落ちた後の話だ、ピーター。だから知らなかっただろうケド。

 ご心配には及ばねーよ!
 お前の言う通り、アレはワタシが自分でやったこと。こうすれば着る服が無くなって、お披露目に出ずに済むかと思ったからそうした。

 結果どうなったか? ギャハハ、ワタシを見りゃわかんだろ!」

 ドロシーは自身の両腕を広げて、自らを誇示するように吼えてから嗤った。

「晴れ着は『奴ら』にとって重要な要素らしいネッ、無事ワタシはお披露目を保留にされた。で、今もテーセラクラスの底辺でくすぶってるってワケ……参考になった?

 知ってるよ、オミクロンのプリマドールの一人の地獄行きが決まったって。スノウホワイトと一緒に聞いたから。ギャハハハ……お気の毒様。」

「ぁえ………」

 ストームが突然こちらへ歩み寄ってきたものだから、何かまた意地悪を言われたりするのだろうかと身構えたが。彼は紳士的にも、こちらへハンカチを持たせてくれた。目に染みる薬品でも染み込んでいるのだろうかと思ったがそんなことはなく、単純な親切のようだった。とは言えども、他人の私物を自分なんかの涙で汚していい理由がなくて、カンパネラはただハンカチを握りしめるのみであったが。

 最後の晴れ舞台。沈黙。ずっと前のお披露目、ズタズタになった晴れ着……。カンパネラは嗚咽を押さえ付けるように呼吸を何度か止めながら黙って、そのやりとりを聞いていた。理解できなくても流して、何となく頭に情報を詰め込む。頭が欠けているので、じきに少しずつそれらは溢れ落ちていくだろうが。
 混乱でぐるぐると目を回す。回しながら考える。呪いのように頭に張り付く焼死体は、何を考えていようとカンパネラの思考に乱入する。凄惨で、生の気配の欠片もない、人工の皮膚と肉と骨の塊。

「……あはは、は………」

 そんな嘲笑にも似た息を吐いた。いつの間にやら顔を上げていた。意味もなく、ソフィアを一瞥する。見開かれた空色の瞳はすっかり濁りきっている。

「……晴れ着なんて。馬鹿みたい。……どうせ火をつければ、燃えるのに……」

 そんなことでお披露目が回避できるのなら。そう思うと、なんだか馬鹿らしくなってしまった。
 もしもお披露目の異常性に気付いていたなら、もしもわたしたちが彼女のドレスを裂いていたなら、あの子は死ななかったのだろうか?

「……あの子は………あはは………。……もし、わたし、……わたしが………
……ああ。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…………」

 笑いながら泣いて、すぐにまた呼吸は荒れた。
 アストレアのお披露目は、それで回避できるかもしれないという可能性が浮上した。それは喜ばしいことだった。しかしカンパネラは今、過去を見すぎている。輪郭も分からない過去に囚われすぎている。
 どこへ宛てたものかも不明瞭な謝罪を繰り返し、自身の首筋に爪を突き立てる。手の震えが止まらない、いつも以上にひ弱な彼女の力では、その体に傷一つ残せないだろう。 

《Storm》
 空気が凍る沈黙。その中に追い詰められた小動物の息遣いにも似た呼吸音をストームの耳は微かに拾う。
 ドロシーのものだ。
 カンパネラが落ち着くまでと思い別の話題を挙げたが、想像していた以上の反応が返ってきた。ソフィアすら騙し通せる言い訳が見つからないのか彼女は、ドレスに起きた悲劇を語ってくれた。

 最後まで一語一句聞き漏らさずに頭に入れる。
 納得したのか驚いたのか、目にかかるほどの前髪から夜と朝の色をした瞳を覗かせるほどに見開いた後、堪らずに口を手で覆った。
 恐らくストームはほくそ笑んでいる。確認すべき事はあるが、思いのほか想像通りだったから。
 咄嗟に口を隠したはいいがソフィアやドロシーにはその不気味な笑みが見えてしまっただろう。

 手を口から外しながらゆらりと、その手を左胸に添えドロシーへ一礼する。

「とても参考になりました。ありがとうございます。
 ご安心を。あのドレスはそうそう見つかりにくい所へ置いたので簡単には見つからないかと」

 ストームが意気揚々にドロシーへお礼を言った時、カンパネラは焦点の合っていない目をソフィアに向けて吐き捨てるように言葉を放つ。
 その目はまるでソフィアを見ていないようで、恐ろしく不気味だ。その後の謝罪に至るまでカンパネラはその不気味さを纏っている。
 しかし、カンパネラの異質さはストームにとって好餌か些細な変化にしかならなかった。

「良かった。ずっと取り乱したままに言葉すら交わせないと思っていましたよ。

 あの子……ミーチェの事ですか?
 おかしいですね。ジブンの記憶ではミーチェの最後を見たのはリヒト、フィリー、それから先生のみだと認識しておりました。
 ねぇカンパネラ、教えてください。あの子とは一体どなたのことを言っているのですか?」

 カンパネラがようやく話したのをいい事にストームは一歩、また一歩と彼女に詰め寄る。
 目の前まで行けば謝罪を繰り返し首を掻き毟る彼女の手を取り、自身の声を彼女の意識に届かせるようもう一度質問するだろう。
 誰かが止めなければストームはきっと。 

《Sophia》
 『お気の毒様』。ドロシーの言葉には、確かに感情がこもっている。ように聞こえた。日頃ガタガタと頭部を揺らして、歪な笑い声を上げる奇怪なドールが発した声とは考えられないほど。ストームと出くわした時の先程の態度から思うに、あまりこんなことを本人に言っては嫌がられるのだろうけど。
 ともかく、ドレスをダメにしてしまえばお披露目が延期できるらしいという有力な情報を手に入れることが出来た。静かに、コアが脈打つ。希望の光を吸収するかのように。
 ……けれど。
 胡乱な目を見開いたカンパネラは、吐き捨てる。
『どうせ火をつければ燃えるのに。』
 ……オミクロンのドールにとって、晴れ着とはそこまで重要なものなのだろうか。本当に、同じ方法で。アストレアのお披露目は回避できるのだろうか。

「──ストーム! 品のない男を連れにした覚えはないわよ。
 ……それじゃ、ドロシー。話してくれてありがとうね。今これ以上話せることもないと思うし……また何かあったら話に来るわ。」

 亡霊でも見たかのように怯えたカンパネラを問い詰めるストームに一喝を。そして、会話を切り上げるように言葉を連ね──この場所を後にする気らしかった。ストームにそっと近寄れば、入口の方へと腕を強引に引っ張って行くだろう。
 そして。たとえテーセラの聴覚を以ってしても一人にしか聞き取れないような小さな声で、彼にそっと耳打ちをする。

『エーナにもプリマを強く妬むようなドールが一体はいるはず。それを見つけてコンタクトを取って、アストレアのドレスをダメにさせるように仕向けて。』

『──あと。クラス内に内通者がいる。あたし一人じゃ手が足りない、あなたが探りを入れて。』

 そこまで言い終わると、ストームの腕を解放する。合唱室とは反対の方向に押すように乱雑に腕を離したのは、きっと「行け」という合図だろう。従順なストームが相手なのだ、恐らくすんなりとそれまでの動作が完了するはずだ。
 意図通り、ストームが無事その場を去れば。忘れ物を取りに戻るように、ソフィアは再び合唱室内部へと踵を返す。今度は、カンパネラに歩み寄って。

「カンパネラ、悪いけど……今少しいい? 話したいことがあるの。」

 カンパネラが、瞬く青色に怯えていたのを、ソフィアは見ていた。故に、目を閉じたまま。そっと手を差し出した

 目立たぬ場所に隠しておいたと述べるストームに、変わらずドロシーは非常にやりづらそうな様子でひらひらと適当に手を振り、「アッソ……」とゲンナリした声を出した。
 彼女からするとこの話題は、あまり歓迎出来るものではないらしかった。しかし厭悪しながらも、ソフィアの表情が僅かでも明るくなったのを見て、彼女は苦言を呈す。

「あー、ワタシの方法を模倣するのはいいケドさァ……前も言ったケドぉ、そいつの欠陥が修復されてなけりゃ、そいつは十中八九火刑場行きなんだから、ドレスを裂いたってどうにもならねーカモ。
 どーせ脱出の算段もまだ整ってないんだろうが。今お披露目を免れても生き残れるかは正直賭けだよ。

 無駄に希望的観測を抱くと痛い目見るよ。あのジャンクドールの件で痛いほど思い知っただろーが……馬鹿な女……。」

 ドロシーは最後に一言そうごちると、ストームとソフィアの脇をすり抜けてあっさりと部屋を去り行く。話は終わったと判断したのだろう。後にあなた方が何を話そうとも、彼女は気にしないはずだ。 

Sophia
Campanella

 カンパネラの言葉を拾い、目の前まで迫った嵐は、悲鳴を上げる前に去り。その手に持っていたハンカチを返すような間もなく、彼女が俯いているうちに、部屋からは人の気配が消えていた。

「…………ぐす……」

 視界が真っ黒になるような感覚に溺れて、ドロシーを引き留めるような気も起こらない。聞きたいことがあるのだと勇気を出してここへ赴いたのに、結局聞けたのは一つだけだった。√0が、わたしをツリーハウスへと呼んだ……。

 先程までのやり取りを反芻する。ミーチェの最後。ミシェラのことか。……あの子も、死んじゃったんだ。先生は目撃者の一人…というよりは、執行人なのだろう。信じていた、仮初ではあるけれど、父と呼んでいたひとに殺されて、無垢な彼女は最後に何を思っただろう。シャーロットを殺した『先生』も……彼なのだろうか。
 ドロシーさんのドレス、お披露目の回避方法……。そういえば彼女はストームに問われたときから、いつもの調子を失っているように見えた。彼女は変な人だけど、それでもやっぱり、怖かったのだろうか。白く輝く地獄への扉が、目の前に提示された瞬間は。
 ……アストレアさんは。

「…………何ですか……」
 
 目の前の少女、ソフィアさんは。ストームさんは。真実を知った上で、友人に死刑宣告が下されたのを、笑って祝わなくちゃいけなかったあの人たちは。ミシェラさんの最期を見届けたという二人は。ノートの持ち主の子は。……“わたし”は。
 どうして、こんな目にあわなければいけないのだろう。あんな目にあわなければいけなかったのだろう。

 目元を執拗に擦りながら、ふい、と金糸から視線をそらす。こちらの恐怖を察し、目を閉じてくれた優しいソフィア。しかしカンパネラは、彼女の手を取らなかった。……取れなかった。

《Sophia》
 教室の主はするりと去っていった。その背を見遣ることもせず、ソフィアは呟く。それは、蝶の展翅の音よりも小さな、空気が微かに揺れるような音で。

「……そんなこと、分かってるわよ……」

 掴もうとしている光の糸は、きっと偽物で。鋭いピアノ線と同一の物で、握れば手が傷ついてしまうような光明で。けれど、されど。それを追いかけていなければ、壊れてしまう。そうわかっていたから、盲目に進み続けるのだ。
 まだ、壊れてはいけないから。

「……カンパネラ、よく聞いて。少なくともあたしはあなたを巻き込む気はないし、巻き込みたくもない。危険な目に遭って欲しくないし、……当然、『父』を騙るあの男の手にも掛かって欲しくはないの。
 だから、あたし達はこの箱庭を抜け出さなくちゃいけない。その為に、あなたが何を見たのか教えて欲しいの。」

 取られることのなかった手を、仕様ないとそっと引いた。ソフィアはカンパネラに背を向けて、顔を見せないまま抑えられた声で語り出すだろう。静かな合唱室に、小さい声が控えめに響く。
 先程から、ソフィアはぎちぎちと拳を握りしめ、手のひらに爪がくい込んでしまっている様子だった。人間が激情をおさめるために行うような自傷の動作は、カンパネラの目にはどう映るだろう。
 何よりも愛していた子に助けてみせると虚言を吐き、残酷な運命を告げられた親友にロクな言葉を掛けることも出来なかったような、そんな無力な少女の力では、その爪が傷を作ることはない。脆い力だ。何も変えることの出来ない人形にはお似合いの。

 可哀想に。
 自身の身体を傷付ける彼女の様子にカンパネラは、率直な哀れみを抱いた。シャーロットと似た、しかしそれよりもどこか凶悪なものさえ感じさせる、あの激しい輝きは……文字通り、海底に沈み、沈黙しているかのよう。
 燃え盛る真っ黒な炎が覆う世界で、どこからか下ろされた蜘蛛の糸を掴もうとする少女。その糸が容易に切れてしまうような脆さであることも、偽物である可能性も、聡明な彼女ならば考え付かない訳がないのに。

 あの時よりもずいぶん小さく見える背中を、カンパネラは眺めていた。手のひらに冷たい床のつるつるした感触を覚えながら。
 未だ呼吸は整わぬまま。それでもどこか冷静に、ソフィアのことを哀れんで。

「…………あはは………」

 目は、笑っていなかった。

「……わたしたちが知ったことは、さっき……ドロシーさんが、言ってたでしょう。あれでだいたい、ぜんぶ、ですよ。……お披露目はまやかし、空は偽物。ここは海の底。どれだけ走ったって、外へは出られない。………抜け出すなんて、で、できるわけない…………。」

 少しだけ、そうやって嘘をついた。カンパネラにはまだ語っていないことがあったけれど。脱走のためのヒントになるわけはない、更に絶望を深める情報だと思ったのだ。

《Sophia》
「──いいえ。あたし達が外に出たのは、脱出の下準備として視察する為だった。けど、カンパネラ。あなたはそんな事のために外に出るような子じゃないでしょ? 合意の上で、自分からドロシーに同行したと、そう言っていた。……他の目的があったんでしょう。」

 淡々と、語る。臆病なカンパネラが自発的に外に出るだなんてこと、相当な事があったに違いないと、そう確信があった。背を向けたまま、冷えた声色で。述べられた論理は、全てあなたの図星であったろう。

「…やらなくちゃいけない。できるできないの話じゃない……これ以上奪わせたくはない。やらないと、あたしが……。

 ……さ、カンパネラ。もう一度聞くわ。何があったのか、何を見たのか。詳しく教えてくれる。」

 ソフィアは、ふたたび。展翅の振動よりも小さな、風のささやく声で、呟いた。繊細なトゥリアの耳にそれが届いたかどうかは定かではない。独り言が終われば、改めて声を張って、けれども静かなままの声で、説明を求めた。

 全部当たりだった。そうだ、彼女には目的があった。脱走なんて無謀はしない。そんなことのために危険を侵したのではない。
 は、は、と細かく息をする。追い詰められた獣の呼吸音だ。罪を突き付けられた囚人のような顔は、ソフィアには見ることが叶わないだろう。カンパネラは自分の顔を手で覆う。

「…………し、知りたいことが……あったんです……。そのことを、あのひとは……ドロシーさんが………分かるって。着いていったら分かるって、言って………だから、柵を越えて………」

 震えた声で応答する。ソフィアの冷たい声が、小さな声が怖かった。ただ説明を求めている彼女の声は、カンパネラには責められてるみたいに思えた。そして、あれを改めて言葉にするのが、怖かった。

「………コゼット、ドロップ……花を辿って……柵の外には、ツリーハウスが、……あって。そこで……わた、し………あ、あの子が………」

 だって言葉にしたら、現実になってしまうと思った。沈黙は最後の抵抗だった。
 ……否。逃避であった。自分が事実から逃れようとしていたことを、カンパネラは今自覚した。それこそ無駄なことなのに。あれはどうしようもなく現実だったのに。

「あの子、あの子は……夢で出会って……ち、違う、ちが………お披露目………お、お披露目に、選ばれ……行ったはずで………わたし、花束を……しあわせ、に……なるはずだった、のに………あの子は……あの子は……!」

 もう自分が何を言っているのか分からない。とりとめのない言葉を吐いてしばらく押し黙ったかと思えば、錯乱したように声を上げて何度も何度も首を振る。

「し、死体が! ツリーハウスに! あの子、しん、で………い、いやだ。やだ、……やだやだっ、違う……! ……ちが………だって、だって、幸せ……しあわせに! 笑ってたのに! で、でもあの子、あの子は、………シャーロットは……先生に、……殺されて………」

 ツリーハウスに行って、見たものはたくさんあった。コゼットドロップ、ぼろぼろの謎の布、壁に飾られた絵画、刻まれた「√0」という傷、おもちゃやカメラ。
 しかしあの日のことを思い出そうとすると、“彼女”の焼死体とノートの内容だけが強く強く蘇る。ゆえにカンパネラは、それしか語ることができなかった。彼女のトラウマ、その断片しか。

《Sophia》
「は……………」

 途切れ途切れ。断片的に、どもりながら語られた事は、耳を疑うような内容で。ソフィアは目を見開いて、咄嗟にカンパネラの方を振り返る。苦しげに顔を抑え、佇む少女がそこにいた。
 今まで得た情報と照らし合わせると、ピースが合致するような、そんな情報だった。柵の向こうのツリーハウスに、死体が。そのドールは、お披露目で……『先生』に殺されたと言うことは、焼き殺されたのだろうか。夢で出会ったとカンパネラは語るが、実際に死体が存在したということは、夢の中の存在でない事は確かだろう。そうして、カンパネラがそのドールと親しくしていたのであろうことも間違いないはずだ。
 ……あのカンパネラが、他のドールと仲良くしている姿なんて想像しがたいし、見た事聞いた事もないのだが。

「……もういい。わかった、わかったわ……ごめんなさい。辛い事を思い出させた、わね……まさか、そんな事があったなんて……」

 もし。もしもだ。自分が同じ目に遭っていたら……放置されたミシェラの焼死体を、幸せを願ったあの子の無惨な姿を見せられたりしたら。正気ではいられないだろう。痛いほどカンパネラの苦しみがわかってしまう。ソフィアは顔を歪め、痛々しく謝罪を漏らす。

「……本当に、ごめんね。

 ……えっと、申し訳ないんだけど……ドロシーとあなた以外に、それを見に行った人はいたかだけ、教えてくれない? それが誰だったかも。……ごめんなさい、カンパネラ。」

 守るべき子の心を傷つけてしまった、という自覚があった。だから、何度も詫びる。目の前の少女の人格を借りたかのように。最後の謝罪は、〝カンパネラ〟に向けてだけの謝罪ではなかったようにすら思える。

「……………………」

 痛いくらいの謝罪を受ける。ぺったり座り込んだまま、ソフィアの声を聞いていた。謝らないでとも、あなたは悪くないとも言うことはできずに。
 問いかけられ、しばらく黙って、そして顔を覆っていた手を下ろした。沈黙の末に、嗚咽は少し落ち着いた様子だった。心を切り離したようにも見えるかもしれない。相変わらずソフィアの顔を見ることはできなかった。赤くなった目は床を見つめていて、そのままカンパネラは答える。
 姉は、何も言わない。妹にも、ソフィアにも。

「…………ご、ごめんなさい、……ブラザーさんと、ロゼットさん………わた、し………巻き込んじゃって…………。あの……あと、ドロシーさんのご友人の、……えっと……ジャックさんが、途中まで………。
 ……オミクロンのふたりとも、同じことを………知って、います。………ご、ごめんなさい………ごめんなさい………」

《Sophia》
「……ブラザーと、ロゼット。それにジャック……なるほどね、わかった。」

 か細い声が、ぽつりぽつりと漏れれば。聞き逃すことのないようしっかりと耳を傾け、それを全て聞き届けるだろう。熟考するように顎に手を添え、静かに、独り言のようにカンパネラの言葉を反芻した。
 やがて、謝る事しか出来なくなってしまったカンパネラを窘めるように、柔く言葉を連ねていくだろう。たとえそれが、カンパネラの耳に届かなくとも。

「……謝らなくていい、悪いことなんてしてないでしょ。……あなたが無事で良かった。教えてくれてありがとうね、カンパネラ。

 ……それと、」

 ソフィアはそこで言葉を切った。聞き手であるカンパネラの注意を惹き付ける意図でもあるのだろう。何かしらカンパネラが興味を持つ素振りを見せたのならば──いいや、そうでなくても、あくまで独り言として。ソフィアは語る。

「……図書室に、『ノースエンド』っていう本があるの。表紙にね、かすれた文字で『シャーロット』って書いてあった。確かロフトの上だとか言ってたかしらね……ま、気になるなら行ってみて。それを抜きにしても図書室は知識の宝庫だし、色々見てみるのがいいと思うけどね。そういえばディアもその本をきっかけにシャーロットさんの事を色々嗅ぎ回ってたみたいだし、聞いてみたら?」

 誰かに向ける事の無い、独り言を言うように気取ってみても、どうしても聴者という存在が居るような口調になってしまうのは、語り下手なデュオドールのさだめか。そこまで言い終われば、「それじゃあ、またね。」とだけ残して、一人合唱室を去っていくだろう。足音ばかりが響いた。

 柔らかに聴覚を撫でる声は優しさに満ちていた。卑屈な少女の胸を、強く締め付けるほどに。
 途中で、言葉が切られる。カンパネラは何も反応を示さなかったが、確かにその不自然な途切れ方から何かを感知していた。
 ソフィアの美しい声は、彼女の持つ金糸の髪を思わせた。揺らぎ、輝き、人の目を惹く。カンパネラの鼓膜を軽やかに叩く。

 ───彼女が勢い良く顔を上げたのは、ソフィアが合唱室を去った後だった。足音が遠ざかっていく。

「…………ノースエンド……?」

 覚えがある。ノースエンドというタイトル、シャーロットの名前が書かれた……そうだ、ツリーハウスのノートにあった。彼女が書き、日記の主が受け取ったという本のタイトルに違いなかった。なぜそれが、図書室に?

「シャーロット………」

 太陽のような少女の名前を、呪われたように呼びながら。カンパネラはふと、その景色たちの中から、その橙色を拾い上げる。ノースエンドの本来の持ち主……と、思われる少年。

 しばらくして。カンパネラはゆっくりと、ゆっくりと立ち上がる。合唱室の扉を開ける。部屋には静寂が残された。床に残された、拭われた涙の跡、それ以外はもう何も、何一つとして。交わされた声の残響も消え失せて。

【学生寮1F 学習室】

Licht
Campanella

《Licht》
 では、オレたちは、こんな風に大切な人だと思ったり、友だと思ったりしていた、造り物のドールズにとっての『思い出』……『擬似記憶』というものが、本当は何か、知っているだろうか。

 リヒトは、学習室の一番前の机の上に、黒板を背に腰掛けて、誰もいない机の海に問いかけたい気持ちになった。さっきまでの授業の間も、その問いが頭を過ぎって仕方なかった。成績は元より地を這っているが、そこから飛び立つための焦りさえ、今は持つ元気が無かった。なんだか、どんなこともよくわからないという気持ちがした。

 立ち上がって去ることも出来ないまま、リヒトはまたノートを捲る。思考は、小石の挟まった歯車のようにぎちぎちと唸って、まとまらない。わざと、思考をまとめていないことに、彼はまだ気づいていない。

「……君は」

 自分たちは何処から来て、何処へ行くのか。行き先不明の汽車にいつの間にか乗り込んでいたような気分は、晴れない。擬似記憶の彼に思いを馳せて、ふらりと揺らした足は、あの日朝日を走ったはずのもの。

 ……こんな散漫な注意ではきっと、もう一人の迷子のことに気づくのは遅れるはずだ。小さな教室の何処に居たってきっと、テーセラの耳には届くけれど。

「…………あ、」

 誰もいないと思って足を踏み入れた学習室。そこにあの心の柔らかい星が一人佇んでいたのを、夜空の少女はすぐ視認する。か細い声はしかし、テーセラドールの耳になら簡単に届くことだろう。
 彼女は教材を抱えてはいなかった。復習や予習のためにここに足を運んだわけではなかったからだ。代わりにカンパネラの手の中には、小さな木の箱が収まっていた。

「リ、リヒトく……さん。……あの、ごめんなさい。……お邪魔でしたか」

 恐々と紡ぐがしかし、カンパネラにしては滑らかな言葉だった。相手はカンパネラの恐怖対象からすっかり外れた、あの愚かしく優しい、同じ傷を持った隣人なのだから。
 拒まれなければ、カンパネラは少しずつリヒトの方へと歩み寄るだろう。

《Licht》
「……ちがうちがう、ぜんぜん邪魔じゃない、大丈夫」

 もう一人の迷子が夜の色をして、恐々と声を掛けてきたものだから、星はいつものようにちかちかと笑って応えた。

「大丈夫……」

 いつものように、は出来なかったみたいだ。それもそのはず、だって星では無いのだから、輝けるわけがない。言い聞かせるように繰り返して、リヒトはまた、黒板の夜を背にする。
 今日の彼の授業の出来は、散々だった。傍から見れば、リヒトはそれに落ち込んでいるように見えるだろう。そう見えていて欲しい、と思う。

「なあに、それ。……って、聞いていいか? うん、答えなくてもいいからさ」

 カンパネラの手の中にある、木の箱をそっと見つめて、また目を逸らして尋ねる。目を合わせないようにしているのは、ささやかな心配だ。きっと目を見つめられるのは、コワれた己を見透かされているようで、辛いだろうから……なんて、自分勝手な配慮だ。
 歩み寄ってくるカンパネラを拒みもせず、ただ、リヒトは考えた。擬似記憶と、学園の秘密と……それを彼女に、カンパネラにどう、伝えるか。コワれた自分に出来る、たった少しのこと。

「…………そう………」

 力なく歩み寄る、少女の目元は赤く染まっている。何度も服の袖で擦った、その跡だった。ぱちりと瞬く瞳はリヒトのことを見つめている。大丈夫そうにはとても見えない。
 何か、あったんだろうか。カンパネラは思うけれど、それを追及するような勇気はなかった。下手に手を出すと、彼の中の何かが、或いは二人の間に通う何かが壊れてしまうような気がした。
 星は、弱っている。それだけは分かる。

「……………えと……」

 答えなくても良い。そうやって逃げ場を作ってくれるのは、彼も逃げ場を求めることがあるからなのだろうか。
 カンパネラは改めてきょろきょろと学習室を見渡す。人の気配はない。扉の向こうにも、誰もいない。それを確認すると、彼女はリヒトの隣に一席分の空白を開けて、そっと席に着いた。小箱を机の上に置き、少し言葉を放つのを躊躇うように呼吸をして、そしてゆっくりと口を開く。小箱は木製で、その材は継ぎ接ぎであった。

「………ちょっと前に、備品室で……見つけ、ました。なんであんなところにあったかは、分からないけど……。
……オルゴール。音楽を奏でるからくりです。誰かの……手作り、みたい。」

 ぽつ、ぽつと答える声はごく静かだ。リヒトの有する苦悩を知らない、穏やかであると共に、ひどく沈んだ声。言い終えれば、彼女はしばし沈黙した。
 ストームの言葉を思い出したのだ。リヒトとフェリシアが、ミシェラの“最期”を見たという話。……ならばきっと、アストレアがこれから見る地獄のことも知っている。
 何と声をかけて良いのか、分からない。ただささやかな応答しかできずに、カンパネラはそのまま口ごもる。

《Licht》
「……すごいな」

 価値を低く見られないように隠しておいたダイアモンドの原石を、うっかり零してしまったような。そんな純粋な感嘆が、零れる。

「楽器でもないのに、音楽が流れるんだ! しかも、手作りとか。作ったドールはきっと、すごく器用なんだろうな」

 きっと授業で関連の文化について学んだことはあるが、リヒトのコワれたメモリーからうっかり欠けてしまっているのだろう。
 素直な驚きを言葉にして、リヒトはまた箱を見つめた。見つめて、何かを思いついたようにはっとした。

 そして、しばらくの時間の後、ようやく。誰かに口のチャックを開けることを許されたかのように、リヒトは口を開いて、話し始めた。

「……最近、思い出したんだ。擬似記憶の、スキマ。オレの記憶は、オレの……親友との記憶、なんだけど。アイツ、あんな高い木に登ってオレのとこまで会いに来て、アイスクリームの屋台がーって。ほんとに、何処にでも行けそうな顔で、言うんだよ」

 そこで、言葉を溜めた。今、自分は何をしようとしたのだろうか。こんな、カンパネラには何の関係も無い話をして。


 ああ、そうか。

 シャーロット、という人の事で酷く傷ついたらしいカンパネラを、励まそうとしたのか。

 こんな、ジャンクが。


「だから、その。
 大事な人との大事な記憶って、いいよなって。きっと何があったって、星みたいに、きらきらしてて………違う、そんなこと言いたいんじゃ、なくて」

 だから、オレは、コワれてるんだよ。距離感も間合いも分からなくて、話一つ出来ないんだ。これじゃあ、テーセラの『友』としての機能すらまともに働いてないじゃないか。
 呵責に責め立てられ、あっという間にチャックを閉じられてしまったように、リヒトは押し黙った。続く言葉はもう、無いようだ。

 器用、だったんだと思う。思うだけ。カンパネラは彼のことをよく覚えていないし、そもそも友達だったのかも分からない。誰か、と濁したのはそのためだったのかもしれない。

「………うん……」

 曖昧に頷いて、それで対話は一旦止まって。

 リヒトは、特に関係のない話を始めた。疑似記憶の隙間。曖昧な偽物の記憶に隙間があるというのは不思議な話だったが、特に遮ることもなくカンパネラは話を聞いていた。木に登って会いに来て、お菓子の話をする親友。空想上の話みたいだ。実際、疑似記憶ってそういうものだけれど。

「大事な人の、大事な、記憶………」

 どんな暗い夜でも、それは彼が言うように、星が煌めくように道を示すだろう。カンパネラは記憶の中の……今は、傍にいるけれど。姉とのぼんやりした思い出が、自分にとっての星であったことを自覚する。
 自覚して、そして。
 その星々のひとつに、金色のあの子がいることに、気付く。

「………あのね。聞いてほしいことが、あるんですけど………良い、ですか?」

《Licht》
 リヒトは、どぎまぎしながらカンパネラの言葉を待った。怒られるだろうか、馬鹿にしたって。呆れられて、もう見向きもされなくなるだろうか。
 一瞬のうちに、彗星のように駆け巡った憂慮は、しかし現実に襲いかかることは無かった。

「! ……うん、聞く。話して」

 そっと、流れ星に願い事をするように囁かれたお願いに、リヒトはパッとカンパネラの方を向いた。そして、大きな安堵がコアから溢れる。
 リヒトは、今度は間違えることのないように、しっかり教室の向こうの方を向いて、カンパネラの囁かで綺麗な、星の声に耳を傾けて、ただ待った。待つ時間でさえ、静かだった。

 沈黙が、彼らの間で静まりかえっていて、それはまるで大きく深く暗い、あの偽物の空が夢見た本物の空のようで。二人の迷子のコアはただ、蠍の火のように燃えていた。

「………わたし。……長い間、ずっと、無かったことにしてしまったんです。大事なひととの、……大事な記憶。」

 罪の告白のような響き。声には息が多く混じり、抑えられているのが分かるだろう。
 頭の中で言葉を組み立てないよう気を付けた。さっきみたいに、あの陰惨な光景に呪われて、口を開けなくなってしまうから。
 どんなにめちゃくちゃで不明瞭な話でも、彼なら聞いてくれるって、信じて。

「疑似記憶じゃ、なくて……ここでの記憶なの……。……たくさん、忘れているみたい……思い出せたことも……まだ、少なくて………忘れちゃってたんだって分かったのも、本当につい、最近で。」

 ただの都合の良い夢だって思ってた。あんなに暖かくて優しい場所に、わたしなんかが辿り着けるわけないから。
 ただの悪い夢だって思いたかった。あんなに素敵な女の子が、あんな目に遭っていいはずがないから。

「………現実だった。ほんとうに、あった……。
……これもね。この、オルゴール………備品室で見つけたって、言ったけど……本当はね、贈り物だったみたい……。」

 『お前のために作ったんだ』。そう言ってくれたのを覚えている。知っている。声を、不器用な笑顔を、あの夕暮れの光を。

「………でも、彼の名前が……顔が、……分からない。わ、忘れて、しまって。思い出せないの。どうしよう、……思い出せないのが。………苦しい……」

《Licht》
 長く、短い、夜の涙を静かに聞いた。それは要領を得なかったけれど、代わりに押し流されてしまいそうなほどの深い感情に包まれていた。流されてしまわないように、絶対拾わなくちゃいけない、大切な感情を間違えないように。リヒトは声を出す。

「……カンパネラ、は」

 迷って、迷って、迷って、
 迷って、迷って、迷って、

「ちゃんと、がんばってる。思い出せなくても、思い出そうとしてるし。忘れてたことを、ほんとに……後悔、してるし。苦しくって、分かんなくても、ちゃんと、大切な記憶を、大切にしよう、って、してて」

 迷って、迷って、迷って。

 リヒトは戸惑いながら、少ないメモリーの中で煌めく、星屑のような言葉たちを、いつか誰かに与えられ、一生懸命に飲み込んだ言葉たちを、一つ一つ、拾って、集めて。星座を作るように、繋げて、迷って、拾って、迷って。



「…………きっと、それって。
 “つぐない“、なんだと思う」

 そして、この言葉を選んだ。



「出来なくて、コワれてて、だから忘れてしまうのが、オレたちの罪で、罰で。……出来なくても、コワれてても、頑張ろうとするのが、つぐないで。だから、ええと……」

 『……ダメだ、全然上手く言えねえな……』と申し訳なさそうに呟いて、その瞬間、ぎゅっと握ったままだった、リヒトの拳の上にはたりと、光が落ちる。それはきっと、価値を低く見られないように隠しておいた、ダイアモンドの原石。

 わかっていた。この言葉を、誰が1番欲していたか。それでも、この言葉を彼は、カンパネラに贈る。

「大丈夫。カンパネラは、頑張ってる。ちゃんと、つぐない、出来てるよ」

 どうか、伝わりますように。

 少しずつ線を結ぶ言葉に、カンパネラはその茨の檻みたいな前髪の奥で、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。頬を撫でる涙は温かい。

「……償い?」

 想像し得なかった言葉を、そうおうむ返しして反芻する。償い。忘却を罪と、そしてそれに抗おうとすることを、彼は償いと呼んだ。その少年の頬を伝う水滴は、自分のものよりも何百倍も美しい。

「………そう、かな。……そうなのかな………」

 言いながら、カンパネラはオルゴールの表面をまた指先で撫ぜた。
 備品室で見つけたあの日から、このオルゴールが奏でる音色を聞くことはできていない。なんとなく怖かった。

 それは夕暮れ時。
 それは淡いきらめき。
 それは、とても大切な思い出だったはずだった。道を照らす星々のひとつに数えられる、ひどく美しい光景だ。
 その光景が怖く思えて、封じ込めたくて、旋律を聴くことができない。本当は逃げたいんだ。ただ逃げられないだけ。
 そうだよ。リヒトさん。わたし、頑張るとか、そんな立派なことできてないよ。

「………そうだったら、良いですね。」

 自己否定にシフトし始めた心に反し、カンパネラはそう言った。すぐにぎょっとした。どうして今、わたしは彼の言葉を受け入れたのだろう?

 出来なくて、壊れていて、だから忘れてしまう。そのことを、リヒトは“オレたち”の罪だと、そう言った。単なる言葉の綾というやつなのかもしれなかったけれど。
 思考する。欠けた頭が考える。もしも、その罪さえも、わたしたちの間に横たわる橋の上にあるものなのだとしたら。
 ねえ、あなたも何か忘れたの?
 そう問うのは簡単だ。でもできない。カンパネラは臆病だから。無理に罪と呼ぶものを暴かれて、嫌われるのが嫌だから。
 もし、暴くのならば。

「……聞いてくださって、ありがとうございます。
………あの。……あなたも何か、その……聞いてほしいこと、とか。……ありますか?」

 暴くのならば、そういう形がいい。望むなら言ってくれればいいし、望まないなら話はそこでおしまいで構わない。
 彼がしてくれたように、逃げ道を提示する。むろん、罪の話でなくたってカンパネラは構わなかった。ここは懺悔室じゃない。彼だけが、聞き手じゃない。

《Licht》
 次は自分の番であることも、薄々わかっていた。二人の蠍の火は、近くにいるようで、何光年も遠いような距離に居る。夜空を渡るか細い糸電話ひとつで、微かな振動を頼りに互いの心を感じるような。その間隙を選んだのは、彼らだった。
 また言葉を拾うために、リヒトは俯いた。

「オレは、きっと……カンパネラと、一緒なん、だ」

 続きを話そうとして、口を開いて、言葉が……見当たらない。リヒトは軽く目を見開いて、そうして気づいて、諦めたように、笑った。怖いのだ。わかっていた、勇気を出して自分のことを話してくれたのに、自分は怖くて話せないような、そんな情けない弱虫が……出来損ないのリヒトだ。

 もし、ミシェラさんのことを、アストレアさんのことを、忘れたって、バレたら。薄情だって詰られるかも。冷酷だって責められるかも。無能だって嗤われるかも。不出来だって失望されるかも。無駄だって諦められるかも。不要だって置いていかれるかも。しれない。

 もし、もし。そうだと、して。そうなった、として。皆にそう、言われたら……。
 その瞬間、リヒトはきっと、リヒトの心をコワすから。

「……それ、しか、言えなくて。あはは……情けねーけどさ! ……すごく怖くて、怖くて、それしか、言えない。
 ……だけど、だけど」

 ワガママな、言い訳だ。そんなこと自分でも思う。両手を、ぎゅっと握り締めた。やってしまった後で、『そんなつもりは』なんて、なんて身勝手で、都合のいい、無責任な。


 それでもコアが鼓動するのだ。

 ────オレだって!


「オレはきっと、忘れたくなかった。オレはきっと、亡くしたくなかった……! あの子の、ことも、あの人の、ことも……忘れる前のオレはきっと、『忘れたくない!』って叫んでた」

 『…………と、思う。以上!』と締めて、顔を上げた時、きらめく原石のような少年ドールの涙は影も形も無い。彼は一時表に出したそれを完全に、心の奥にしまいこんでしまった。これ以上、自分の価値が低くならないように。弱さをさらけ出して、失望されないように。

 ああ、やはり彼も、同じ罪を。返答は何も意外ではなくて、カンパネラは机の上に視線を落としながら、一人分の空白の向こうの悲鳴にただただ耳を傾けていた。
 彼がいったい何を忘れたのか、気になりはしても追及することはなかった。情けなくなんかない、と否定してやることができないのは、カンパネラの弱さだ。

「………そっか。」

 “わたし”も、そうだったんじゃないだろうかと思った。あんな大切なものたちのことを、忘れたくて忘れたわけがない。だから今、必死になって思い出そうとしているんだ、きっと。逃げ出したいと思ってしまうのも本当だけど。何億光年の距離のさなか、薄皮一枚の共感を覚える。これで良いと思う。

 リヒトの美しい涙は、いつの間にやらどこかへ消えた。でも、カンパネラの涙がまだ彼女の眦をふやかしているように、彼もまだ泣いているに違いないと思った。傷跡を手のひらで覆っただけで、泣き止んだなんて言葉とは程遠い。……いたたまれない。

「……思い出せると、いいですね。お互い……その人たちのこと。」

 当たり障りのないことを言って、また言葉を終えた。でもそれは誤魔化しから出たのではなく、まごうことなき本心だ。
 忘れるのは辛い。そしてそれと同じくらい、忘れられるのも辛いだろうから。

《Licht》
「そうするんだ、そのために頑張るんだ……きっとそれが、つぐないだ」

 確かめるように、瞬きをゆっくりしながら、言葉を体に染み込ませる。自分で言い放った言葉が、今更になって深い実感としてリヒトの中に広がっていく。

 つぐない。
 彼の辿ってきた線路の上に転がった、無数の罪と罰に対する、つぐない。この旅路はつぐないだ、おそらく、出来損ないの体で、生まれ、生きてしまったことへの。

「話聞いてくれて、ありがとな。……オレ、行かないと。どこに行けばいいか分からないけど、何かしなくちゃいけないような、気がするんだ」

 それは、常に彼をつき動かしていたものだった。どれだけ傷ついても風を打つ翼のように、星を目指す醜い体は、業火から逃げながらいつのまにか、ちりちりと燻り出していた。
 どこか遠いところを見つめるように目を細めて、リヒトは小さな頼み事をする。

「……次。もし、次、今みたいに話せたら。その時は……子守唄を歌ってくれよ、カンパネラ」

 天鵞絨の席を飛び降りるように、軽い身のこなしで机から降りて、たくさんの疑問とたくさんの傷と、共に見つけたひとつの言葉を手に、リヒトはひらりと学習室を去っていった。

 白鳥の停車場につかなくても。新世界交響曲を聞けなくても。ケンタウルの露を知らなくても。サウザンクロスに行けなくても。
 一人と一人のコアは、何度も傷つき、血を流しながら、確かに蠍の火のようにうつくしく燃えている。ちかちかと、鼓動している。

「はい。…………」

 行かないと。同じことを思った。わたしも、もう行かなくちゃ。償うために、この乗り込んだ列車が、どこへ辿り着くかを知るために。
 カンパネラの心は、絶えず燃えている。水晶のように透き通り、その内に火を飼っている。火の正体は、やっぱりまだ彼女には分からない。けれどいつか、すぐに知るだろう。臆病なカンパネラ、愚かしきカンパネラ、その原動力たる炎の名前を。

 リヒトが青いビロオドの席を発つのを、眺めた。眩しいものを見るみたいに思った。

「………うん。……いくらでも、歌いましょう。」

 もうこの箱庭に夢を見られない少年ドールのために、カンパネラは歌おう。母でも恋人でもなく、隣人として。或いはそう、ひとりの……友人として。
 その返答はきっと、テーセラドールのリヒトにならば届いたはずだ。か細いカンパネラの声を拾うのに、きっと慣れているであろう彼ならば。

 カンパネラはオルゴールの上蓋を開く。金属製の天使像に触れる。回す勇気はやっぱり、出なかった。

「………ごめんね。

 ……きっと、思い出してみせるから。……待っていて」

 償いをしよう。この残酷な忘却を、贖おう。リヒトが見つけてくれた言葉と向き合う。視界を赤く塗り潰す情動が、何度も何度も座り込む彼女をいつものように立ち上がらせる。
 ずっと忘れていた、太陽みたいなシャーロットのことも。贈り物をくれた、名前も分からぬ少年ドールのことも。
 思い出してみせる。赦されなくたって、構わない。

 泣いてばかりで、ろくに情報を与えられなかったカンパネラに、優しいソフィアがそっと差し出してくれたヒントを思い出す。図書室の『ノースエンド』、シャーロットを追うディア。

 オルゴールの天使像は再び、影の中に埋もれた。

【学生寮3F 図書室】

 学習室から出て、カンパネラはまっすぐ図書室へと向かう。息を切らしながら階段を上っていく。階下に彼の姿を見たような気がした。でも気のせいだって、理解している。理解できている。

 償い。リヒトが教えてくれた言葉を、何度も繰り返す。償い。大丈夫。カンパネラはちゃんと頑張ってる。ちゃんとつぐない、できてるよ。
 わたし、そんな大層なこと、出来てないよ。そう思ったけれど。あなたがそう言ってくれるなら、わたしは、ちゃんと償えてるわたしになりたい。

 ノースエンド……シャーロットの生きた、何よりの証。何かを思い出せるとは限らないけど、忘れてしまったものの存在を確かめることもまた抗うことで、償いだと思うのだ。探さなきゃ。
 オルゴールをカーディガンの内側に抱え、カンパネラは図書室の中へ足を踏み入れた。

 階段を上り詰め、寮の最上階に位置する埃臭い書物の蔵に辿り着く。図書室の天井は四階部分までを突き抜けているためか、とても高い。そして、木製のロフトを介して上階にも数多の書物がところ狭しと保管されているようだ。

 図書室はほの暗く、壁に取り付けられた卵型の照明をつけてもまだ暗い。
 屋根裏の部分に切り取られた小窓から差し込む陽光が、空気中に舞う埃を幻想的に煌めかせていた。

 真っ先に気になったのは、薄暗い図書室の奥の方。本棚と本棚の、間にある壁。カンパネラからはまだ何も見えないけれど……。なんだか、気になった。

「(い、いやいや………)」

 目に留まった本たちの背表紙を眺めながら、カンパネラはぶんぶんと首を振る。シンデレラ、中世の音楽、シュレディンガーの猫……どれも、彼女は読んだことがあった。
 いや、壁よりも本よりも、とにかくノースエンドを探さなくては。それが今日の目的なんだから。

 埃っぽい図書室を進む。備品室はすごく狭かったけれど、埃一つない清潔な環境だったのを覚えている。図書室はすごく広いから、備品室みたいにうまく掃除が行き届いてないのかもしれないと感じた。
 蒼星の瞳はきょろきょろと辺りを見渡す。そしてその末に辿り着いたのは、ロフトへと繋がる梯子だった。
 ロフトの上にはたくさんの書物があるように見える。……そういえば、この上は危ないと思って、普段はあんまり登っていないような気がした。

「………」

 カンパネラは梯子に慎重に足をかけた。何か、後ろ髪を引かれるようななんとも言えない感覚を覚えつつ。心臓の燃えるままに、高い場所への恐怖と戦いながら、登ろうとする。オルゴールを抱えていれば片手しか使えず苦戦するだろうが、なんだか手放したくはなかった。

 ロフトへ登る為の木製の梯子が存在する。が、梯子の先端がやや高い位置に存在しているため、あなたの背丈では一歩届かない。しかしそこは図書室にある椅子を用いることで、どうにか登りきることも可能そうだ。

 高所から見下ろす図書室はいつもより鬱屈として見えた。しかしロフトの上は、そばに取り付けられた小窓から溢れる陽の光によって、下よりも明るい。
 斜陽に照らされたところに、一冊の本を見つける。こんなところにある本は、当然読んだことがないものだった。

 『ノースエンド』。
 あなたが探し求めていた本だ。装丁は古く、かなり昔の本である事が見て取れる。

 本の表紙はどこか雪国が描かれていて、その隅っこには──擦り切れた文字で、『Charlotte』と書かれていた。

 あなたはこれに、言いようのない懐かしさを覚える。この本を見たのははじめての筈なのに。

 椅子を使い、どうにかこうにかロフトの上へ登ることができた。高いところは落ちたときのことを考えると怖いので、考えないようにする。……したが、『脆く弱いトゥリアドールのわたしなら、こんなところから落っこちたら、きっと一溜りもない……』などという風にどうしても余計なことを考えて怯えてしまうのは、癖のようなものなのかもしれなかった。事が起こる前にたくさん最悪の状況を考えておけば、痛いのがマシになるんだと知っているから。

 ロフトの上は思ったよりも明るい。偽物の陽光がめいっぱいに降り注ぐ、静かな場所で。

「…………ッ、」

 それはスポットライトを浴びているかのようで、すぐにカンパネラの目に留まることとなった。駆け出して、手に取る。淡い白雪の声がタイトルを読み上げる。

「ノースエンド……」

 本は古びていて、途方もないくらいの時の流れを感じさせた。ツリーハウスや、……あの子の胸にあったズタボロのリボンを思い出させる。
 シャーロット。美しい響き、あの子の名前。間違いない。日記にあった、あの子の書いた本だ。“彼”が受け取った本に違いなかった。
 ああ。ひどく、懐かしい。輪郭の曖昧なノスタルジアが涙腺を刺激する。始めて見る本のはずなのに。……きっと、“わたし”はこれがもっと新しかった頃に、見たことがあるんだろう。

 涙がページを汚さないように気を付けながら、カンパネラはページを開いた。彼女の実在を確かめたかった。

 内容は、エーナドールが読み聞かせに語るような、ありきたりなおとぎ話だった。雪けぶる雪国で、貴族の乙女は婚約者である伯爵によって、黒い塔に軟禁されていた。そこに盗みに忍び込んだ貧民の裏ぶれた青年が彼女と出会い、隣国への亡命劇を繰り広げる……といった、いわゆる中世を舞台にしたラブストーリー。

 これらの物語は、すべてが直筆で……インクと筆を用いて執筆されていた。そのためところどころインクが滲んでいるし、文字が乱れているところもあった。

 あなたはこの本の元の所有者を知っている。だが今、この本はこの場所で埃にまみれている。この本の所有者は一体どこへ行ったのだろうか。

 (秘匿情報)。

 直筆で描かれた物語は、どうしようなく死んでいた彼女の息吹をカンパネラに感じさせた。そこらじゅうにあるようななんでもない内容なのに、読み進めるだけで涙が出てくる。
 良かった。ちゃんと、生きているあの子のことを思い浮かべることができる。焼死体に塗り潰されそうになった思い出が、ちゃんと見えてくる。

 ………と。
 眦を繰り返し拭いながら読み進めていた最中に、カンパネラはふと、側頭部に微かな痛みを感じた。

「……っ………」

 声が。声が聞こえた。頭の中で、ものすごく古いレコードを再生したみたいに、声がした。少年の声だ。あの時聞いたものと同じ。
 ノースエンドの本来の持ち主、あの少年の声だった。

「……な、なに? ……え、……な、なんて言ったの? ………わ、わたしの? ……」

 よく聞き取れなくて問いかけても、声はもう聞こえない。言葉はそこで途切れて、おしまいだった。

「……今、の…………」

 過去の記憶だ。遅れてやっと理解する。曖昧で、ぼやけている、声だけの記憶。知らないはずだけど“知っている”。これまで何度も味わってきた、不思議な感覚がした。

 今の声の続きは聞けないだろうか、もっと鮮明に思い出せるものはないだろうか。そうやって少し期待を抱いてノースエンドを読み進めるが、以降は何事も起こらず。黙々と動かしていた指は、遂に最後の頁をめくった。
 カンパネラは。ノースエンドを読み終えたカンパネラは、しばらくノースエンドの表紙の雪国を眺めて。そして、宝物を抱き締めるように本を胸に抱えて、本があった元の場所にそっと戻した。
 持ち去ることも考えた。これは、こんなおぞましい箱庭のためのものじゃないから。でもやめた、これはカンパネラのものでもないからだ。これはシャーロットの欠片で、あの少年のものだ。わたしが持っている資格はない。隠す場所もない。
 ……本とオルゴールのふたつを抱えてロフトから降りるのが、猛烈に不安だったという理由もあったが……。
 とりあえず、場所を覚えておこう。また読みに来よう。陰惨なあの光景しか思い出せなくなったとき、この本を読めばきっと大丈夫になれるはずだと思った。彼女の筆跡、彼女の存在の証。

 ぐるぐる、ぐるぐる。考えるべきこと、探すべきものが増えた。目が回りそうな思いをしながら、カンパネラは慎重に梯子と椅子を使い、ロフトから降りていった。

 髪をぐしゃりと握りしめ、図書室を去ろうと足を動かしながら、次にするべき行動を考える。
 多分、さっきの声が言っていたのは……。……ああ、そういえば、ディアさんがシャーロットのことを調べてるとか言ってたっけ。それならもしかしたら、その本のことも知っているかもしれない。
 探しに行こうと決めて、カンパネラはそのまま、階段を降りようとした。
 降りようとしたが。

 彼女は踵を返した。やっぱりどうしても気になったのだ。
 図書室の奥まったところ。本棚と本棚の間の壁。なんだか、気になる。ここに踏み入ったときから、そこには何かがあるような気がしていた。

 あなたは、図書室に踏み入れた時からなぜか気になっていた、奥まった区画へと向かう。
 本棚と本棚の間の壁、まるで人の目から隠されるように翳った場所には、小さく子供が描いたような乱雑な落書きが残されていた。
 四人の男女が微笑み合って寄り添い合っている。皆一様に赤い服を着ているので、恐らくは今あなたが着ているような制服を纏うドールだろう。
 名前も書かれていたように見えるが、掠れて消えてしまっている。

 消えかけた文字の全てを判読することは難しかったが、あなたが注意深く観察すれば、人名のうちのひとつは『Gregory』と書かれていることに気が付けるだろう。
 そのそばに描かれているのは、黒髪に赤い瞳の少年の落書きだ。


 (秘匿情報)。

 古い、クレヨンの落書き。四人のドールが微笑みあう。そのうちの二人は古すぎて、一体誰なのか判別がつかない。

 でも、そのうちの一人は。金色と青色のコントラスト……名前は読めなかったから確信はできないけれど、シャーロットの特徴と一致しているように思う。
 そして、もう一人。消えかけた名前は、トゥリアドールたるカンパネラには、なんとか読み取ることができた。
 目を見開く。

「………グレゴリー」

 響く。あの白昼夢、シャーロットの笑顔と共に蘇る声。

『───カンパネラ、グレゴリー、恥ずかしがらないで!』

 そうだ。写真を撮ってくれた少年の、名前だった。

「……………ぁ、」

 オルゴールを落としてしまったことに気付いて、はっとして慌てて拾い上げる。落ちた拍子に上蓋が開いてしまったが、幸いどこにも傷はなく、中のからくりにも壊れてしまった様子はなかった。

『お前のために造ったんだ、僕──』

 夕焼けが頬を刺したような気がした。そうか、あの光が隠した彼の瞳は、赤色だったか。唇が震えて、一体どうしたら良いのか分からないカンパネラのことを小さな天使像が見上げている。
 彼女はそっと、落書きに手を当てた。何気ない幼い落書きに親しさと、愛おしさを覚える。何が描いてあるのかはっきりしないそれがやけに懐かしい。
 手の甲に額を押し付ける。

「……よかった…………」

 思い出せた。またひとつ、償えた。そんな自分勝手な安堵をする。忘れてしまって、ごめんなさい。そうやって謝罪をしたって伝えられないのが苦しかった。
 カンパネラはダンスホールで起きている惨劇を知らない。でも、この場所がろくでもないところだということを知った今……彼が今も生きているとは、とても考えにくいのだ。
 ツリーハウスの日記に、彼の最期に関する情報はなかったはずだ。彼はどうなってしまったんだろうか。わたしはそれを知ることができるだろうか。

 ───知りたい。
 真実を手繰ることがどれほどリスキーで恐ろしいことかは容易に想像がつく。ここで何を知ったって、苦しい思いをするのは決まっている。何をとってもろくな話じゃないことは明確だ。

 これから自分は、後悔を繰り返すことになるだろう。知らなきゃよかったと幾度となく思うだろう。あの時のように、深い深い絶望に突き落とされることもあるだろう。

 勇気なんてない。足は震えるし、涙は溢れるし。それでもカンパネラは覚悟する。しなくちゃいけない。

 求めるのなら行きなさい。ツリーハウスへ行くときに、姉に言われたことだ。求めないなら無視なさい。貴女が決めて、カンパネラ。

「………わたし、怖い。」

「でも、求めるわ。知るの。思い出すの。ぜったいに、ぜったいに………。」

「……お願い、お姉ちゃん。
 どうか最後まで、一緒にいて」

 そんな妹の声に──姉なるものは。
 抱き締めてやりたいと、頭を撫でてやりたいと、涙を拭ってやりたいと、叶わぬ願いを頭のなかに並べて。

 勿論よ。
 ただ、そう答えた。

【学生寮2F 少女たちの部屋】

Astraea
Campanella

《Astraea》
 ほんの数日後にお披露目を控えたとある昼下がり、月の精が如きそのドールは、一人、否、一体、と云うべきであるか。兎にも角にも、ただ一つの個体だけで、しん、と緩やかで優しい沈黙に包まれた棺へと、その腰を下ろしていた。そこは、日頃少女のかたちをしたドール達が英気を養うための、所謂寝室。見渡す限りには、昼下がりのその部屋に、彼女以外に、意志を持って動くものなど存在しないであろう。
 細く嫋やかな指先で、端の拠れた羊皮紙を捲る以外には、その身体の動く所のなく、まるで置物の如く、無機質で非生物的であった。上質な絹糸のまつ毛は、真剣そのものに、微塵も動くことなく、玻璃の瞳はただ活字を、左から右へと、まるで追いかけっこをする幼子の如く追い続けるのだった。
 その集中力は凄まじく、きっと部屋に誰かが足を踏み入れたとして、声を掛けられるまでは気が付かぬ程であった。

「アストレア様。」

 静かな少女たちの部屋にて、凛とした声が放たれる。その言葉の一つ一つにメロディが乗っているような錯覚をさせるような、歌うような声だ。
 少女は扉を後手で閉めながら、彼女の名前を呼んだのであった。

 夜の中に溶け込むような色を有する、陰鬱なる少女ドール、カンパネラ。しかしその立ち姿は通常時とは明らかに異なる。背中に指揮棒でも突き刺したかのように、真っ直ぐに彼女は立っていた。その双眸は閉ざされ、表情は堅い。
 両手を鳩尾の辺りで組む。その姿はどこかの城の召使いを、或いは安置所の死体を思わせる。

「どこまで、ここについての真実を知っているのか。私に、教えていただけませんでしょうか。」

 朗々と、淡々と彼女は謡う。

《Astraea》
「ごきげんよう、My Dear Midnight.
 ……今は其方なのだね。」

 静かな水面の如く張り詰めた緊張が、当然に響いた凛とした鐘の音に緩ぎ、やがて幾つもの波紋が広がる。アストレアはその意識を水上へと引き上げれば、玻璃に夜の色を映した。
 古い本を閉じれば、きし、と綴糸の引き連れる音が鳴る。それが耳の底にざらりと耳障りに響いて、それでもアストレアはそのかんばせに無機質的な笑みを貼り付けていた。

 視界の真ん中で、古い杉の如くどこまでも真っ直ぐに立つMidnightに、アストレアは、今の彼女が"其方"であることを察する。嗚呼、麗しきメランコリーよ、君は本当に面白い。

「どこまで、か。
 どうだろうね……君は一体何を知りたい?」

 その唇は妖しく弧を描いて、眦は意味ありげに細められる。
 閉じた本を枕の下へと仕舞えば、その場から立ち上がることなく、その手を顎に当て、美しく、計算された角度にそのかんばせを傾けた。これは敵意ではない。
 しかし、決して友好的でもない。さぁ、君はどう出る?

 人形のようだ、とドールを形容するのは、ひどく奇妙なことのように思えるけれど。まさに彼女の相貌は感情を持たない……否、捨てざるを得なかった哀れな空虚を抱えていた。
 其方なのか、というアストレアの声に、姉なるものは静かに首肯する。足音はカーペットに吸い取られる。
 その麗しい顔を傾けたアストレアの方へ歩み寄ると、彼女の足元にでも跪くかのように、姉なるものは膝を折った。姉なるものは、乞うようにアストレアを見上げるような形になるだろう。
 情報提供に乗り気とは言えないアストレアに対する、彼女なりの懇願であった。

「文字通り、全てを。……と言いたいところですが、それでは漠然としていますね。
 ……ダンスホールで起きた惨劇の詳細と、先日の“下見”によって得られた情報を求めます。勿論、それらを語ることで貴女の傷が深まるようであれば、無理は言いません。話せる範囲のことだけで構わないのです。……どうか。」

 率直に言えば、姉なるものは必死だった。彼女なりにすり減らす精神があったのである。
 しかし、彼女はそれを表には出さないように心がける。この場で最も心をすり減らしているのは他でもない、目の前の彼女だ。ただ微笑み、諦念を纏う少女ドール。舞台の上で美しく立ち続ける彼女。
 冠の行方は決まっている。残酷なくらいに、目に見えている。

《Astraea》
「その口調、君は察して居る、と言うか、ある程度の事を知っているのだろうね。
 ……そう、話しても構わないけれど、エーナドールとして、一頻り交渉術の類を学んだからにはただ情報を渡す、と云うのには少し気が引ける。
 君"達"は、一体何を抱えている?
 ……嗚呼、全てを話す必要はないけれど、君の話すことによって、僕も話せる事が変わってくる、と言うことは覚えておいて。
 君は聡明だから分かっているだろうけれど。」

 ラピスラズリが少し見下げる様にして、二つのガラスの碧眼が交差する。
 アストレアは、どこまでも冷静であった。口調より、目の前のドールの焦りに気が付いていたけれど、対価も無しにすぐに情報を出すだなんて、そんな頭の悪いことはしない。仮にも、エーナクラスの元プリマドールであるのだから。
 常闇の君、明哲な君なら分かるだろう? 彼女の瞳は、深く爛々と輝く。それはまるで、死を目前とした獣の、最期の足掻き。仲間たちを、親友たちを、守るための、最期の祈り。

 そこには何も難しいことなどなく、これは単なる交換条件だ。
 アストレアは殆ど確信していた。今の彼女ならばきっと、最善の択を、選び取る筈だから。

 姉なるものは静かに、処刑場の手前で佇むアストレアのことを見上げている。こんな状況にも関わらず、ラピスラズリの瞳はやはり美しい。グロテスクなぐらいに。

「そうでございますね。……カンパネラが、抱えているのは……」

 姉なるものは口許に指を当てて、しばらく考え込むような動作をする。対価を求められたこと自体には困惑も抵抗もなかった。ただ、何を明け渡すべきかを迷った。交渉は不得手だ。
 そしてしばらくして、口を開く。

「……前世の記憶、とでも言うべきでしょうか。
 彼女には、今よりも古いトイボックスで、知らないはずのドールたちと共に過ごした断片的な記憶が……過去が、あるようなのです。」

 と。跪いたまま淡々と言紡ぐ。

「先日、妹はあるドールに連れられ、柵を越えました。その先で、過去に友人関係にあったらしき少女ドールの焼死体を目撃しています。彼女と同世代であったらしきドールが書き残した日記もございました。
 それらの情報が、貴女の……いえ、“貴女方”の役に立つかは、正直なところ解りません。しかし必要とされるのなら、覚えている限りの全てを話しましょう。」

 言い終えると、姉なるものはアストレアの瞳をじっと見つめ、彼女の反応を伺った。……瞼は閉じられているけれど、不思議と真っ直ぐな視線を感じさせるだろう。

《Astraea》
「"前世"か。実に興味深い。
 僕達モノにも、そのような非科学的な事象は本当に存在するのだろうか。
 そうだね、君を疑う事では無いけれど、信用するには情報が足りな過ぎる。もう少しだけ詳しく教えてくれるかな。」

 王子様は、その作り物のかんばせの角度を変えることなく、ただその唇だけが、歌う様に言葉を紡ぐ。
 眼窩へと嵌め込まれた玻璃は愉悦に光り、されど深く、底の虹彩に控えめな畏怖を灯していた。
 この、常闇の彼女──副人格、と云うべきであろうか──は、普段の宵闇の彼女の事を、本当に大切に思っているのだと、アストレアは察する。ジキルとハイドでは無いが、そんな彼女に興味が湧いた。
 死への列車を待つ間の娯楽では無いけれど、聞けることならば聞いてしまおう。そこで返ってくる情報が何であれ、もう彼女は、代わりに知っていることを話してしまう気でいたのだった。

 役に立つか、それはまだ分からないけれど、いつか愛する親友たちが、仲間たちが、この小さなビオトープに渦巻く奇妙を解き明かすきっかけになれば良いと、そう思ったから。
 深い夜の瞼は帳の降りるが如く、されど確かに、その視線は強く、真っ直ぐに月魄を刺し貫く。対峙する王子様は、堂々と胸を張り、今にも滑り落ちそうな冠の様子など見えない風に、ただ勇ましく、麗しく微笑んでいた。
 大丈夫。僕は何も恐れない。

 魂の有無も曖昧なドールズに、誠に前世などというものはあるのだろうか。その結論は姉なるものにもまだ出せていない。しかし、そうとしか表現できなかったのであった。
 あれは過去だ。しかし、地続きとは思いがたい。あのツリーハウスがすっかり朽つ年月が経っているのだから。

「無論でございます。」

 姉なるものは相も変わらず召使いのような姿勢で、文字通りの王子様のようなアストレアに、今にも黄金の靴でも履かせてしまいそうだった。

「友人であったという少女ドールは、シャーロットという名でした。当時のエーナモデルのプリマドールであったと……。彼女はお披露目の直前に怪我を負ったことが原因か、ダンスホールではない謎の空間で焼き殺されたそうです。

 それを目撃したドールが書いたらしき日記と、シャーロット様の焼死体は、オミクロン寮の柵の外に存在したツリーハウスの内部にて確認できました。日記と、妹の有する記憶からして……恐らくそのツリーハウスは、彼女たちの日常的な遊び場のような場所だったのだと思われます。
 しかし現在ではそこは使われておらず、当時の玩具や写真や絵画がそのままに残され、そして、処刑場から何者かによって回収されたドールの焼死体が放置されていました。真実を記した日記も。
 柵の存在によって隠されてはいますが、しかし片付けられてはいない。取り壊そうと思えば取り壊せるような古さのはずなのに。柵だってテーセラモデルのドールであれば、越えようと思えば越えられる高さです。

 管理者によって、意図的に泳がされているのかもしれません。」

 姉なるものはそこで話……もとい、情報の羅列を区切った。まだ出しきれていない情報はありつつも、一先ず話せることは大抵話せたはずだ。洗いざらい、という訳ではなかったけれど。様子を伺うように頭を傾ける。

 ……つらつらと述べた姉なるものの話の中には、アストレアがこれから辿る可能性の高い死について触れたタイミングがあった。敢えてその情報を押し流すようにさらりと話しはしたものの、姉なるものは密かに憂う。
 心の傷のひとつも晒さず、血液の一滴も滴らせない完璧な微笑みは、かえって痛々しい。彼女の絶望の形は芸術品の姿をしていた。

《Astraea》
 シャーロット、エーナモデル、プリマドール、焼き殺された。
 その時、アストレアの優秀なメモリの中で、灯りの点った幾つかの点が、細い糸で繋がり掛けていた。
 嗚呼、姿も知らぬミズ・シャーロット。君は、はるか昔の同胞であったらしい。
 そして、焼き殺された、と云うのは……ミシェラ、あの子と同じ、所謂焼却処分の事だろうか。何にせよ、惨く愚かな殺戮には変わりないのに、死刑の執行方法に二つあるのはどうして?

 全て焼け落ちてしまう直前ならば、真実を教えてくれるだろうか。

 ……否、そんな筈無いか。

「成程……教えてくれてありがとう。
 泳がされている、は、確かに僕も考えたことがある。
 今度は僕の方の情報を開示する番にさせて頂くよ。君たちがどこまで知っているのか分からないけれど、まず僕たちには発信機の様な、何かが取り付けられている可能性が高い、と言うのは把握しているかな?
 それにしては、彼──先生は前回のお披露目の夜の僕たちの動きを詳しく把握していない様子であった。」

 あの彼が凡庸なミスをするだなんて、そうは思えないだろう? だなんて肩を竦めれば、暫し考え込むように、形の良い顎へと手を当てて、視線を自身の膝の辺りへと落とした。
 やがて、何かを決意した様に顔を上げれば、彼女は、ゆっくりと、御伽噺を話す時の要領で優しく、穏やかに語り始める。

「あの晩、僕達は、元プリマドール4人は棺を抜け出した。目的は勿論、お披露目を目撃するために。
 道中での事は少し割愛するけれど、端的に言ってしまえばお披露目と言うのは単なる、煌びやかな殺戮会場に過ぎない。
 美しいドール達は、美しい死装束をその身に纏って、醜い怪物に次々と喰われて行った。僕は今でも、瞳を閉じればその裏にあの赤を、苦しみ、その生命を奪われる彼らの顔を、ありありと思い出すことが出来る。
 僕達は、ドールたちは、本当に無力なんだ。
 僕達は、彼らを助けることなんか出来なかった。一目散に逃げ出して、扉の鍵を閉めてしまうことしか出来なかった。後悔はしていないけれど、この心にトラウマとして残っていることは確かだ。」

 そこまで殆ど一息に話してしまえば、相手の反応を窺う様にまっすぐな視線を投げ掛けた。
 彼女の声は、まるで晴れた日の水面の如くあくまでどこまでも穏やかで、どこまでも平静であった。
 その瞳から、宝石を零すまいと、ラピスラズリは大きく見開かれたままにその絹糸はピクリとも動くことがない。真っ赤な口が、ただ淡々と、奇譚だけを語る。
 目の前にある物が無慈悲な処刑台、ただそれだけなのならば、全てを話してから死を享受しろ。

 発信器。“下見”がバレたとかいう話から、ドールの身体に何かが埋め込まれている可能性は想像がついていた。おぞましい。しかし有り得ない話ではないだろう。
 その上で、泳がされている。姉なるものは僅かに眉をしかめたが、すぐに戻した。かんばせを下げて跪いていたため、アストレアからはその表情の些細な変化は見えていないはずだ。

 元プリマドールと聞き、即座にその四人の姿が浮かぶ。アストレア、ソフィア、ストーム、ディア。ダンスホールで行われるお披露目──曰く、“きらびやかな殺戮”を見た四人。
 アストレアからの情報は、ソフィアがブラザーに提供した情報と一致していた。いたのは化物だけ、みんなあいつに食われた……。
 悪趣味で、理解不能だ。
 欠ければ焼かれ、欠けずにいても食われて殺される。ただ造られ、生み出されただけのドール達に与えられた運命。
 どうしてこんな目にあわなくちゃいけないんだろう。あんな目にあわなくちゃいけなかったんだろう。妹の、悲痛な声がする。

「……ありがとうございます。下見に行ったというのも、やはり貴女方元プリマドールの四人でしょうか?」

 慰めは口にしなかった。何を言ったって彼女はきっと変わらないので。姉なるものは、妹を守ることで精一杯であるので。

《Astraea》
「それは違う。
 なんというか、所謂、疑いを分散させる為、特に目立つ僕達4人で行動するのは少々危険と判断して、ソフィアと僕の二人で下見をする予定、だったのだけれど、諸事情により少し変わってフェリシアとリヒトの二人も加わったんだ。
 彼ら二人は、"焼却処分"の事を知っている。
 其方の詳細は彼らに聞くのが良いだろう。

 肝心の下見の事だが、大切な事は先生が特別授業と称して全て話してくれたよ。
 まず、ここは文字通りの箱庭だ。あの空は全て、液晶に映し出された偽物。降る雨や風も、人工的に作り出されたものなのだろう。そして、液晶の外は海だ。
 ここは、深い深い海の底だ。本当に驚きだが、事実なのだろう。僕達は地上に憧れる人魚姫の様だね。
 笑ってしまうよ、液晶の空だなんて、情緒も何も無い。箱庭で飼い殺された紛い物達が脱走を企てているだなんて、本当に愉快な話だ。」

 あくまで淡々と語る王子様は、アイロニカルに笑った。
 それは、今にも生命を投げ出さんとする者の、投げ出さざるを得ない者の、諦め。
 身体に溜まった空気を抜くが如く、太息を深く吐き出せば、馬鹿げた真実を、真っ直ぐに見た。その首に架かった縄は、絞首台へと確かに繋がっている。
 他に質問はあるか、とばかりにそのかんばせを傾げては、片眉だけを上げて見せた。

「成る程。ミシェラ様のお披露目を見たというお二人でございますね。」

 リヒトとフェリシア、その二人も真実を知っている。そう脳に刻みながら、静かに頷いた。

「……先生が。………」

 そう発した頃には姉なるものは顔を上げていたので、今度はアストレアにも見えてしまうだろう。眉をしかめる姿はどこか怪訝そうである。
 それ以上のことを彼女が言紡ぐことはなかった。ただ黙って、既に知っている真実を改めて聞く。こちらが知っていることと大差はないようだ。

「愉快、でございますか。……私はそうは思いません。
 ここがどれほど虚偽にまみれた紛い物の箱庭であったとしても、貴女方の感情は紛い物ではありませんし、その抵抗は決して、陳腐なものではないはずです。どうか、そのようなことを仰らないでください。」

 それに、一番の紛い物は。
 そう口に出すのはやめた。
 慰めというよりは、祈りのような言葉であった。それも、どのような反応を示されたとしても、もう続くことはないだろう。

「情報提供、ありがとうございます。これ以上には特に……。
 ……ああ、いえ。最後にひとつだけよろしいでしょうか? 妹が少し探し物をしておりまして。」

 言葉の途中で何かを思い出したようにはっとすると、姉なるものはふと膝を立ててアストレアの耳許に口を近付け、その凛とした声を落とし、そっと囁くように問うた。

「────────────」 

《Astraea》
「ふふ、やはり君は聡明で素敵な人だね。
 護るべき人を、しっかり護り抜くんだよ。こうなってしまう前に。」

 その薄い掌を振って自身を指せば、自虐的にへらりと笑って、そのイミテイションジュエリーの瞳の奥に、諦めと、慈愛とが混ざったような、綺麗なような、濁ったような、そんな色を滲ませた。
 ほんのついこの間まで、広い星空の如く煌めいていたその瞳は、今やその深度もなりを潜め、表面でだけぴかぴかと輝く。それはまるでプラスチック製のおもちゃが如く。

「……いいや、知らない。」

 囁き声に、その意識を集中させて、その内容にメモリの中を漁る。されど、該当項目は、無い。
 力になれなくてすまないね、だなんて付け加えては、本当に美しく、無機質に笑った。それはまるで石膏の彫刻の様で、正しく人形的な、生気などまるで無い代物。
 真実を知りたかった。
 真実は知れなかった。
 さようなら、美しい同士達よ。
 さようなら、麗しき箱庭よ。

「……………」

 自嘲のような言葉に、姉なるものは何も返さなかった。つるつるとした水晶体は、妹が目の当たりにしたあの子の目にも似ていた。ただ暗闇を見据える目。墜ちた星のような……。

「……左様でございますか。いえ、お気になさらず。」

 知らないという返答に、落胆は見せない。数多の物語を知っている彼女ならもしやと、駄目元で聞いただけだった。至近距離にて浮かぶ美しい、あまりにも美しい笑顔が目に染みるようだった。
 ス、と姉なるものは立ち上がる。相も変わらず指揮棒のような立ち姿で、先程まで見上げていたアストレアを見つめる。

「重ねて、情報提供と……今までの貴女様の温情に、深く感謝致します。妹のことを気にかけてくださってありがとうございました。」

 胸元に手を当て、腰をほぼ直角に折り、深く頭を下げる。
 幸運を、とは言わなかった。言えない。姉なるものに、そんな残酷な台詞を吐くことはできない。

 失礼します、と。無機質な声色で放ちながら頭を上げ、姉なるものは少女たちの部屋から去ろうと、扉に手をかける。
 と。淀みなく歩いていた彼女は、ふと歩みを止めて。

 その指揮棒のような姿勢は、ふと崩れる。トゥリアのようにモデル特有の洞察力を有するわけではなくとも、聡明なアストレアならば、分かるだろう。
 その震える声の主が誰なのか。

「…………ちからになれなくて、ごめんなさい。」

 少女はそう残し、部屋を去っていった。

【学生寮1F ラウンジ】

Lilie
Campanella

 ガーデンテラスでの、ソフィアとドロシーの会話。少女達の部屋でのアストレアとのやりとり。その全てを教えてと姉に懇願した末に、カンパネラは知った。知ってしまった。
 ダンスホールでの、惨劇。
 ミシェラのように、シャーロットのように、欠けていないはずのドール達が辿った道。

「…………」

 逃げ場とか、ないじゃん。
 あのシャーロットがあんな残酷な目に遭ったんだから、“それ以外”だってきっと酷い目に遭ってるに違いないと薄々わかっていたのだけれど、こうやって事実として眼前に突き付けられるのはやはり苦しい。姉は自分に真実しか語らないという確信は、更に彼女の首を絞めることとなった。
 怪物。怪物が、おめかしをしたドールたちを殺す。考えるだけで涙が出てくる。その恐ろしさのあまりに、この箱庭の異常性に気付かず、呑気に過ごしていた日々が……。

「ぐす……………」

 ふわふわのソファに深く座り込み、クッションを抱き締めてカンパネラは泣いていた。少女は真実から目を逸らせない。彼女の中の炎が、目を逸らすことを許さない。

 ラウンジには今、カンパネラは一人きりであった。彼女は延々と身体を震わせて泣いている。いつもの調子といえばそれまでであったが。
 部屋に誰かが立ち入れば、カンパネラはその眼に涙を溜めたまま、恐る恐る顔を上げるだろう。

《Lilie》
 オミクロン寮、ラウンジ。少年少女の形を模したドールたちは、そこで寛ぎ、交流する。己がなんのために生きているのか、誇らしい"お披露目"が、本当はどんなものなのかすらも知らずに。只々、愚かに夢を見て、そして彼らの手のひらで踊っている。どんな結末になるかなんて、知らない癖に呑気に笑って夢を見て。
 リーリエもその一人。"お披露目"は素晴らしいもの。だって、ご主人様に出会えるのだから。きっと、連絡のないあの子達も幸せに暮らしているの。だって、そうでないとおかしいのだから。そうやって、何も知らず、深く考えもせずに只々コアを動かしているだけのドールの一人。

 ラウンジは、ひっそりとしていた。そして、その静謐な空間に響くひとつのすすり泣き。このオミクロンで、静かに泣く姿を観測したことのあるドールは彼女だけ。だから、きっと今回も彼女であろう。いつも、怯えて逃げられてしまうから、きっと今回も隣には行かない方が良いのだろう。
 ────でも、放っておくことは出来ない。その気持ちは、モデル故の献身なのか、それとも仲間に向ける親愛の情から来るものなのか。それは、リーリエにすら分からない。それでも、放っておく、だなんて選択肢は存在しないのだ。

「………カンパネラ。」

 リーリエは、彼女を怯えさせないようにそっと声をかける。年下の子に声をかけるように、傷ついた野良猫に声をかけるように優しく、甘く。ほんの少しの小さな声できっと十分だから。それは、同じトゥリアモデルのリーリエがよく分かっていた。

 白百合が、部屋の片隅に凛と咲いていた。
 真っ白な女の子。まだ何も知らない女の子、純粋無垢で柔らかなドール。瞳を優しい掌で覆われて、真実を見つめることのできていない彼女のことを、カンパネラはしばらく呆然と見て。

「……リーリエ、さん」

 応えるように名前を呼んだ。手負いの仔猫のような目を曇らせて、じり、と身をよじってソファの隅に身体を埋める。

「ご、ごめんなさい、……邪魔に………で、出て、出てくから。ごめんなさい。………ううぅ…………」

 立ち上がろうとしても、身体を強張らせるのに必死で立てない様子だった。視線を逸らし、執拗に瞬きを繰り返すのは緊張からか。ぼろぼろと零れる宝石のような涙はソファやカーペットに次々と吸われていく。
 カンパネラが一人で泣いているのは彼女の常であったけれど、洞察力に優れたトゥリアドールたるリーリエならば、その表情から焦燥や後悔など、いつもの数度重くて暗い感情を読み取ることができたかもしれない。明らかに、異様なのであった。

《Lilie》
 どうしたのだろうか、カンパネラの様子は明らかにおかしかった。彼女は、いつもほろほろと美しい涙を零している。それは、変わらない。でも、どうしてもいつも通りとは言えなかった。苦しくて、悲しくて、どうしたら良いかなんて分からなくって焦ってる。そんな表情。
 リーリエからは、カンパネラのタンザナイトの様な、思慮深さが滲むきらきらとした瞳は、その夜の帳の様な黒髪に隠れて見えないけれど、それでも、きっと、その瞳にも同じ色を滲ませているだろう、と言うことは想像出来る。

「カンパネラ、お願いなの。何故、そんなに悲しくって、苦しくってたまらないのか、教えて欲しいのよ。……わたしはね、あなたが苦しんでいる姿を、うぅん、誰であったとしても、苦しんでいる姿は見たくないの。」

 だから、お願い。ひとりで抱え込まないで。なんて懇願するように口にしては、カンパネラの隣に腰を下ろす。カンパネラが怯えてしまってはいけないから、抱きしめることはしないけれど、大丈夫、と声を掛け続ける。鳥の雛が、最初に見た者を親と間違えてしまう様に、この言葉がカンパネラの中に刷り込まれれば、なんて考えながら、妹を、恋人を宥めるかのように優しく、優しく。

「うぁ………」

 隣に座られ、カンパネラは彼女から距離を置くことを試みた。しかしもう彼女はソファの端まで来ている。立ち上がって逃げるような元気はなくて、ぼろぼろ涙を溢し続けることしかできない。
 しゃくり上げる彼女は、ただこんこんと湧く清水のような美しいリーリエの声を聞くことしかできなかった。優しい声を絶えず流し込まれる。不信なるカンパネラは、それを全て受け入れて甘えてしまうことができない。心の蓋を開けない、思考を委ねることができない。手放しかけたクッションをまた強く抱き締めた。

「………か、ッ関係、ない………から……い、言えない…………」

 どうしてわたしはこんな風に、突き放すように言ってしまうんだろう。心配してくれているだけなのに。
 カンパネラは静かに、自己嫌悪を加速させる。でも言えない。言えないのだ、何も。
 言えば、この子が戻れなくなる。

「い、言えないのぉ……っごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい………!」

 繰り返し首を横に振る。明確な拒絶。それが相手を傷付けるかもしれないという思慮に欠けた行為だった。
 タンザナイトは濁っている。

《Lilie》
 嗚呼、やっぱりこの子は優しい。謝罪を繰り返すカンパネラを見て、リーリエはそう思った。きっと、本当に大変なことがあったのだろう。同じ体験をした訳では無いから、薄っぺらい感想しか出てこない。

「カンパネラ、大丈夫なのよ。落ち着いて、ゆっくり呼吸をして。」

 しゃくり上げるカンパネラに、リーリエは大丈夫、と声を掛け続ける。あなたが無理と言うのなら、無理に聞き出すつもりは無い。拒絶された、だなんて思ってない。敵意なんて、ある訳がない。透き通る水のような、涼やかな声でそう伝える。

「あなたが、抱えているものの、ほんの少しでいいの。苦しい、悲しい、そんな感情だけでも。……あなたの抱えているものの、鱗片をわたしに預けてみてほしいの。」

 感情を昂らせるでもなく、ただ淡々と。カンパネラに寄り添い、リーリエは言う。ほんの少し預けてみて?と。あなたよりは、ほんの少しだけお姉さんだから、わたしにも、少しだけ背負わせて、と花が綻ぶような微笑みを浮かべながら。

 ゆっくり呼吸を、という声に従って、カンパネラは深呼吸を試みた。吸って吐くのを何度も何度も繰り返す。肩を上下させ、無意味に自身の胸元をさすった。
 トゥリアドールとしての模範的なリーリエの行動に、カンパネラは慰められていた。なんて情けないのだろう。

「りん………」

 鱗片、と言葉を認識するのが遅れた。幼子のような目をして、微笑むリーリエを見る。きれいで、本当にお花みたいで……脆そうで、怖い。
 少しずつ歩み寄ってくれるリーリエに対し、カンパネラはまだちゃんと応えることができない。こんなこと、彼女に話していいのか分からない。
 わたしが臆病で弱いから。
 ごめんなさい。

 カンパネラは呼吸を落ち着かせ、しばらく黙りこくったあと、恐る恐るといった風に言葉をこぼした。真っ黒な泥に沈んだような声で。

「…………分からない、の」

 自分もこのことに困惑しているのだと、はっきり分かる表情だっただろう。文字通り、カンパネラは自分の感情が分からなかった。

「……悲しくて………こわくて。でも、それだけじゃ、ないんです……。何か、………別の、何かが」

 燃えている。凍ったように冷たい心臓の内側に、確かに炎がある。その正体はどうしても掴めない。なのに、ダンスホールでの話を聞いてからも、炎は勢いを増すばかりで。
 言いながら、また彼女は泣いた。困惑と混沌の最中、無垢なリーリエの隣で、弱々しく。

《Lilie》
 深呼吸をして。そして、話し始めたカンパネラにリーリエは安心したように表情を緩める。
 そうして、少しの沈黙の後、沈んだ、暗い声で話し始めたカンパネラ。その暗さにほんの少しだけ恐怖を覚えるも、リーリエの胸には話してくれたことへの安堵が広がった。

「……そうなのね。大丈夫なのよ。悲しいのなら、泣いていいの。苦しいのなら、他の子に助けを求めても。分からないなら、こうやって誰かに話して、そうやって、少しづつ整理していけばいいの。」

 滔々と柔らかく語る。リーリエは、ずっと大丈夫、と繰り返してカンパネラに寄り添う。甘やかな百合の香りを漂わせて。触れることはせずに、ただ寄り添う。本当は、抱き締めて、その背を撫でて慰めたい。
 でも、それは彼女に限っては悪手だと、リーリエは理解しているから。だから、只々寄り添うだけ。彼女の心の整理が着くまで、ずっと話を聞くのだ。それはもう、トゥリアらしく。ずっと、カンパネラが苦しいのは嫌だから。大好きな仲間には、笑っていて欲しいから。だから、リーリエは献身するのだ。繊細で、人一倍臆病で、きっと人一倍優しいのであろうカンパネラが笑える日を夢見て。

 甘やかな言葉がこだまする。彼の、兄を名乗るかのドールと似ている。ヒトを抱擁するための柔らかな身体とまろい声、言葉を紡ぐ脳みそに至るまで。わたしのそれとは全然違う。ひねくれ屋のカンパネラは、自分の欠陥を突き付けられたような気持ちにさえなった。トゥリアドールに求められた全てを、目の前の少女は持っていると思った。
 なぶられるか、焼かれるか。そんな結末しか待っていないドールズに、どうしてそんなものを求めるのかは、全くもって分からないけれど。

「……………」

 甘えて良いのだろうか。寄りかかって良いのだろうか。許されるがままに、言っても良いのだろうか。

「わたしは、………。」

 と。そこで、カンパネラは口をつぐんだ。
 良い訳がない。わたしみたいな欠陥品が。そんなことして良いはずが、ないのだ。ないはずなんだ。償いを続けなきゃいけないんだ。そんなことしてる場合じゃ、ないんだ。
 それはもはや強迫観念のようなものであった。カンパネラは再び首を振って拒絶する。これ以上は、これ以上は言えない。
 言えないけれど。

「…………あなたは」

 白百合から目を逸らしながら、ぽとりと雨を落とすように問いかける。突拍子もないことを。

「あなたは、この場所が……学園や、先生のこと。……好き、ですか?」

《Lilie》
 カンパネラの口から放たれた、突拍子も無いその質問に、リーリエは色違いの双眸をぱちり、と瞬かせた。なぜそんなことを聞くのか分からないから。その質問からは、カンパネラはあまり好きでは無いように聞こえてしまったから。
 しあわせで、辛いことなんて無い、とは言えないけれど、先生達が解決してくれる。このぬるま湯のような生活が当たり前。好きか嫌いかで言われれば、好き。だって、蹴られも殴られもしない。ご飯だってある。大切な仲間たちと笑っていられる。
 嫌いな訳が無いのだ。

「好き、好きなのよ。みんな、しあわせで、楽しくって。辛くも苦しくもないの。先生も優しいのよ。いつも、みんなのことを気にかけている。激昂して、暴力を振るう訳でも無いの。だからね、わたしが嫌いな訳が無いの。」

 白百合は、アクアマリンとペリドットの双眸を煌めかせ、間髪入れず、そう答える。その目に宿るのは、純粋な光。疑うことを知らない、愚かしい無垢な光。
 何故そんなことを聞くのか分からない。けれど、リーリエの答えは決まっていた。楽しい、楽しいトイボックス。リーリエは、愚かな人形たちの詰まったおもちゃ箱が大好きなのだ。

 あ。わたし今、このドールのことを哀れんだ。そう気付いた。拳を握りしめる、小さなソフィアの背中を見たときと同じように。
 地獄の底にある美しいステージで、糸を引かれて踊らされる。ここを純粋に好きと言うリーリエは、カンパネラの目にはそのように写った。可憐な花は無邪気にこの箱庭に溺れている。いつか残酷なまでに手折られる、そんな運命を知らずに。

 下手に情報は漏らせない。後戻りができなくなることの恐ろしさを、カンパネラは知っている。真実を知らなきゃ良かったと何度後悔したことか。でも同時に、彼女は思うのだ。
 最期の最期まで何も知らずに生きて、そしてそのままディミヌエンドみたいに死ぬことが、どれほど恐ろしいことか。

「………ここに期待したら、駄目ですよ」

 慈悲を傾けたという訳ではなかったが。カンパネラはクッションを手放してソファから立ち上がり、そう忠告する。

「ここを……信じない方が、良いです。………信じないでいたら……裏切られたとき、あんまり、痛くないんですから………」

 一方的に言葉を吐く。横髪を握り、顔を隠すようにそっと寄せながら。その夜の帳を思わすウェービーな黒髪は、真っ直ぐで真っ白なリーリエの白髪と実に対照的だった。花畑と沼の底。青空と曇り空。天国と地獄。

「……お披露目と、先生に気を付けて………」

 そう話を切り上げて、カンパネラはラウンジから離れていく。引き留められるようなことがなければ、彼女は振り向くことなく寮の外へ向かって歩いて行くだろう。

《Lilie》
 信じない方が良い。お披露目、先生。裏切られる。―――嗚呼、何か、あるのだろうなぁ。それも、とんでもないものが。
 カンパネラの言葉から、リーリエはそう思考する。薄ぼんやりとした確証が胸へと広がった。アストレアの、自分は幸せにはなれない。そう言っていたかの様な、お別れの言葉を聞いてから、うっすらと胸の奥にあった疑念に、納得がいった。彼女らの口ぶりから想定できる通り、お披露目に何かがあるのだとしたら、ドールズは幸せになれないのだろう。本当に? 否、きっと、幸せではあるのだろう。だって、このトイボックスはとっても楽しいのだから。今はそれだけで十分。楽しい、楽しいぬるま湯のような生活に溺れているから。
 だから、それで十分。

「……ねぇ、カンパネラ。きっとね、幸せには対価が必要なのよ。」

 リーリエは、カンパネラが出ていき、閉まった扉にそう静かに投げかける。カンパネラがああやって苦しんでいるものは、きっとこの幸せな生活の対価。物を買えばお金を払う。物々交換をするのであっても、対価となるものは必要不可欠。だから、きっとこんなにしあわせな生活を送っているのだから、対価を徴収されたのだろう。与えられた幸せを、全て不幸で塗り替える。そうしなければ、釣り合いは取れないのだろうから。白百合は、ゆったりと微笑んで、甘い、甘い声で歌う。

"Who'll sing a psalm? I, said the Thrush,as she sat on a bush,I'll sing a psalm."と。

【寮周辺の平原】

 シャーロットに手を引かれ、柔らかな草を踏み、春の陽光が注ぐ花畑で笑い合う。仏頂面のグレゴリーも一緒だった。とりとめのない話を楽しいと思えた。穏やかで、満たされていた。
 腹をよじらせる調子のままに、ぽふんと飛び込むように花畑に横たわる。空はどこまでも続いていた。風に流れていく雲に、いつか触れてみたかった。
 そして、隣から、わたしの名前を呼ぶ声が響く。応えるように横を向く。わたしの目に写るのは、太陽のようなシャーロットの───

 あのマリンブルーの瞳が収まっていたはずの、がらんどう。

 悲鳴を上げる間もなく目が覚める。ツリーハウスへ行ったあの日から、そんな夢を何度も見ている。

 偽物の緑と青と白、風や森の匂いや陽光に包まれて、カンパネラは一人ぼんやりと立ち尽くしていた。歌のひとつも歌えないまま平原を見渡し、古びた記憶の中の二人の友人に想いを馳せる。
 “わたし”が友人と共に束ね、あの子に贈った花束は。彼女と共に燃えたのだろうか。それともどこかに捨て置かれたのだろうか。

 寮の周囲には、噴水とのどかな花畑が広がっている。噴水の中央にはいわゆる天使像が据えられており、広げられた翼は経年劣化のためか欠け落ち始めている。像を修復してはどうかという進言は、修理業者を呼び付けることが出来ないため一時保留となっていた。そういえば、あなたはこのアカデミーの外部の人間の存在を一人も見かけたことがない。常に生徒であるドールズと、彼らを取りまとめる『先生』の存在しか居ないのだ。

 今朝方先生と他複数名で干したタオルケットなどの洗濯物が竿に掛けられて穏やかな風に煽られている。

 いつも通りの長閑な風景は、特に変わりはなさそうだった。

 風景に変わりはなかった。でも、確かに全く違う景色だ。ここが全部偽物だって分かってから、平原の美しい景色は全部馬鹿馬鹿しいものに見えた。
 少なくとも、あの頃は。空はどこまでも続いていると思っていた。風に流れていく雲に触れられると思っていた。実際のところ空は壁で、風も機械か何かが作った偽物で、雲なんてなかった。ここは海の底だった。
 ここから逃れようとした、ノートの中のドール達は……グレゴリーは、壁を前に何を思っただろう。
 ああ、“下見”に行ったあの四人も壁を見たのだっけか。

 ……リヒトくん。あなたは何を思ったの、何を考えたの? ここが海底だと言われたとき。アストレアさんがお披露目に行くと告げられた時。ミシェラさんが焼き殺されるのを見たとき。大好きだったはずの二人を踏みにじられて、どう思った?
 彼の傷に、少しでも触れてみたいと、そう思う。思うだけだ。実際にそんなことができるかは分からない。カンパネラは、臆病だから。

 少女はただ黙々と歩み、欠けた頭を辛抱強く動かしていた。そうして森へ向かったのは、無意識的な行動だった。

【寮周辺の森林】

 森林はかなりの広範囲に広がっている。その道中、小川が流れていたり、小鳥の群れが飛び立っていたり、虫の囁きが響き渡っていたりと……さまざまな耳心地のいい物音で森は楽しく満ちていた。
 学生寮周辺の森は、テーセラの機能性の確認の為に使われる事が多い。稀に先生がテーセラの同級生を連れて身体を動かす授業を行なっていたことを覚えている。トゥリアであるあなたには関係のないことではあるが……

 脆弱な身体が僅かに疲弊するまで歩いていくと、寮の外周を取り囲む背の高い柵の付近に辿り着くだろう。
 以前あなたが越えて行った見上げるほどのこの柵は、今はきっと乗り越える事が出来ない。なのであなたは自然とこの位置で足を止めることになるだろう。

 鼓膜を叩く全ての音が、穏やかで美しかった。精巧な作り物だと誰も気付かないのも無理はないだろう。

「はぁ………」

 ぼんやりと、ただぼんやりと歩き続けるカンパネラの目は、それまで何も写していなかった。気付けば息が切れていた。視線の先に障壁が現れて、はじめてカンパネラははっとした。柵の傍に辿り着いたのであった。

 もう一度、どうにかしてこの向こうへ行けないだろうか。シャーロットの放置された、知らない思い出で溢れかえるツリーハウス……。
 柵の様子を観察しながら、そんな無謀を考える。柵の外へと想いを馳せ、格子越しの森の奥を見据えた。

 柵の向こうの景色はいつもとそう変わらない。地続きの森林が見渡す限りに鬱蒼と続いている。この一帯にはどうやらあのコゼットドロップは咲いていない様で、あの覚えのある青い輝きは視界の中に飛び込んでくることはなかった。

 あなたが少し柵沿いに歩いて行くと、柵の一角に格子の形が僅かに違う地点を発見する。
 扉枠のように縁取られた鉄格子は、蝶番で留められている。ちょうど取手の部分には南京錠が掛けられていた。

 どうやら寮の外縁へ向かうための正規のルートはこの扉らしい。鍵はきっと先生が保管しているだろうから、開くことは難しかったが。

 コゼットドロップは咲いていなかった。柵の向こうならどこにでも咲いている、というわけではなかったようだ。
 ツリーハウスへ行った日のことを回想する。ドロシーは、あのコゼットドロップを道標と言った。でも、辿り着いた時の反応や、合唱室で話を聞いた時の口振りなどからして、彼女はあの日までツリーハウスへは行ったことがないようだった。何故あの花が、あの場所へ繋がっていることを、彼女は知っていたのだろう。
 あの少女は、わたしの知らないたくさんのことを知っている。でも全てを目にした訳ではないらしい。彼女は一体何から情報を得ている?
 √0がわたしを呼んだ。あなたには、√0の意思が分かるの?
 ノートの中で……もう、うろ覚えだけれど。√0、と繰り返しているドールがいた、みたいな記述があったはずだ。ツリーハウスの壁に傷をつけたのもそのドールなのだろう。それって一体誰なの?シャーロットでもグレゴリーでもないドール……。
 √0って、なんなの………?


「扉……」

 しばらく歩いたら、扉を見つけた。一応出られるようにはなっているのか。でも、当たり前だけれど鍵がかかっている。ここからも外へ出るのは無理そうだ。

 と。天秤が垂れ、警鐘が鳴る。姉の忠告だ。
 発信機。頭に浮かぶその言葉。ああ、あまり長く柵の側にいては、危ないのかもしれないんだったか。

 もうその場所に何もなければ、カンパネラは足早に柵の側から離れ、森林を抜けて湖畔の方へ歩みを進めるだろう。

【寮周辺の湖畔】

 あなたは柔らかな草地を踏み締め、平原を越えて広い敷地内のちょっとした湖畔に辿り着いた。
 湖畔といっても、規模感は小さく、おおよそ2500㎡と言ったところか。
 湖の水は澄み渡っており、いつ掬っても澱みひとつ見られない。たまに近辺に自生している広葉樹から落ちた葉が浮いているぐらいである。

 渇いた喉には丁度良さそうなほど、湖の水は綺麗だった。飲み水にできるぐらい水質が良いんだと先生も言っていたし……と、喉の渇きを覚えていたカンパネラは、湖の水を少しだけ口に含んでしまおうと、水を掬うために手を入れようとした。
 と。湖畔のどこかで、ぶくぶくと泡が立ったのを見たような気がした。

「な、なに………?」

 見間違いかもしれなかったが、気になったので泡が見えた方へと駆け寄ってみる。ここに生き物なんて棲んでいただろうか。……だ、誰かが沈んでたりしたら、どうしよう。心配性ゆえのあり得ない想像をして、カンパネラは顔をくしゃりと歪ませて怯えた。

 この湖は、飲み水に出来るほどに水質が澄んでいるのだと以前先生が語っていたのを覚えている。テーセラモデルのドールたちが、この湖で水泳の訓練を行うところを見たことがあった。

 ……そんな湖畔の一角で、僅かにぶくぶくと泡が立ったのが見えた気がした。流れのないはずの湖畔で突如浮き立った不自然な泡の発生に、あなたの視線は釘付けになるだろう。
 もしも泡を確認しにいくならば、岸からやや離れた場所で上がったもののため、衣服などが多少濡れることを覚悟で湖に入っていく必要があるだろう。

 あいにく、泡は岸からではまともに確認できないところで発生していたようだ。何があるのか気になるところではあるが、流石に湖に足を突っ込むのは……。

「ぁえっ」

 ところで。カンパネラは一言で言うなら、非常にどんくさいドールだ。運動神経やら体幹やら、そういうものが壊滅的であり、普段から平衡感覚も少々危ういぐらいだ。
 その場に膝をついて、泡へできる限り手を伸ばそうとした、それがいけなかったらしい。そこから無事に体勢を戻せるような能力は、愚図なカンパネラにはなかった。

「う、うぎゃ~~~っ!?」

 なんとも情けない悲鳴を上げながら、派手な水しぶきと共に、カンパネラは頭から突っ込むように湖に落下した。

 カンパネラは少し、いや、けっこうしっかりと死を覚悟した。
 だって頭から落ちたのだ。湖の底のごつごつした岩とかにこの軟弱な頭を打ち付けて死ぬかもしれなかった。服がどこかに引っ掛かって、水の底から浮き上がれずに死ぬかもしれなかった。なんか実はこの湖のどこかにワニみたいな猛獣がいて、ぱっくりいかれて死ぬかもしれなかった。ガラスの破片が無数に浮いてたり……たまたまちょうどこのへんに酸とか、いや、毒がまかれてたりとか……だって今、なんか、水がしょっぱかったし……。

「へぶあっ」

 バシャ! とまたもや派手な水しぶきを上げて、カンパネラは水面から顔を上げる。幸い岩に頭を打ち付けるようなことはなかったし、服がどこかに引っ掛かることもなかったし、ワニはいなかったし、ガラスなんてどこにもなかったし。でも、水がしょっぱかったのは確かであった。

「な、なんでぇ~………?」

 み、水がしょっぱいのって、海だけの話じゃなかったっけ……。もやもや考えながら、ひとまずカンパネラは岸に腕をついた。服も髪もぐしょ濡れのべしゃべしゃである。このまま陸に上がったら、土やら葉っぱやらがそこらじゅうに貼り付く大惨事になることは確実だ。
 カンパネラは頭を抱えた。もう誤魔化しようがない。ああ、先生に呆れられる、他のドールたちにも笑われる……。
 もうここまで来たら、まったく陸に上がることさえ憂鬱である。もういい。どうせずぶ濡れなのだ、泡のところを確かめてみよう……。自暴自棄になりながら、カンパネラはざぶざぶ湖を歩き、水の抵抗を受けながら重い足取りで泡のところまで歩いていく。盛り上がっている砂利を、少し乱暴なふうに足でどけてみせるだろう。

 水面は歪んで、ここからでは何も見えない。カンパネラはしばらく「うえぇ」などと山羊の鳴き声にも似た情けない声を上げて悩んだ末に、潜ってしまうことにした。どうせ頭から突っ込んだのだ、もう顔が濡れるなんて今更である。鼻を摘まみ、口から一気に息を吸って、ザブンと頭を湖に沈める。

 げしげしと足でよけた砂利を、さらに鼻を摘まんでいない片方の手でそっと掻き分ける。
 埋められていたそれは、何かの装置のようだった。何の、と問われれば、それは全く検討もつかないのだけど。
 そして繊細な彼女のトゥリアの目は、水中であれどもその装置らしきものに刻まれたある文字列を読み取った。一部、文字が潰れて読めないところもあったが……。

「(な、なにこれ。えっと……G、A、R………?)」

 目を凝らしてしばらくその文字列を頭の中でなんとか組み立ててみる。…なんとなく、像は浮かんだような気はするが……その言葉がなす意味に関しては、カンパネラにはさっぱり検討もつかなかった。自分の何倍も賢いであろうデュオモデルのドールに聞けば、何か分かったりするのだろうか。

「ぷはッ、」

 増してくる息苦しさに段々と耐えられなくなっていったカンパネラは、装置に砂利を軽く被せ直して、水面から顔を上げる。本物の生き物みたいに、少女ドールは肺に空気を取り込み、肩を上下に動かして息をする。水をざぶざぶ掻き分けて、岸に手をついて湖から上がる。
 半泣きで髪やスカートを絞りながら、カンパネラはなんとなく、あの水がしょっぱかった理由が分かった気がした。あれは所謂、海水なんじゃないだろうか。なんでそんなものが湖なんかに流れているのかは知らないけれど。
 ここは、海の底だ──。木々に切り取られた歪な空を、壁に投影された偽物の青を見上げる。分かっているのに忘れてしまう。ずっと、ここに騙されていたから。

 あの空も雲も木も湖も花も偽物。生きてるみたいなわたしたちも、所詮はヒトの紛い物。その上、わたしたちの最上の幸福の瞬間であると教えられてきたお披露目も、最悪な嘘だった。ヒトなんて、いないんだろうなぁ。
 でも、平気だ。嘘じゃない存在が、わたしの傍にはいつもいてくれる。

 “お姉ちゃん”だけが、わたしの真実だ。

 ──彼女が自分についている最大の嘘から。虚しい一人芝居という真実から、目を逸らして。
 カンパネラはそのびしょ濡れの身体を引きずって、寮へと帰っていった。優しく愛しい“姉”からの心配の声に、温かく背中を支えられながら。

【学生寮1F パントリー】

Mugeia
Campanella

 学生寮一階、人のいないキッチンを抜けてまっすぐ目指したパントリー。窓の外は暗く、食事の時間からはもうずいぶんと遠い。
 それは、カンパネラの秘密だった。いつかもわからない過日の夢が、現実で確かに流れた時であったと証明する、ただひとつのもの。
 慣れたように棚の奥の木板に触れる。そっと外して、この場所に秘められていた紙片を手に取る。

「………シャーロット」

 確かめるように名前を呼ぶ。麗しい金色、薔薇色の頬、全てを飲み込み抱き締めるような大海の色の瞳。まごうことなく生きている彼女の姿が、そこにはあった。

 一人きりの孤独な少女が眉を寄せて佇む、食糧や調味料でごったがえすパントリー。そこに誰かが踏み入るならば、カンパネラはそれに少し遅れて気付き、はっとした顔でそちらの方を向くだろう。古い紙片を大切そうに手に持ったまま。

《Mugeia》
 外はどこまでも暗く、静けさを纏ったヴェールがこの狭く果てしない小さな箱庭世界を包み込んでいる。
 今日も変わらない日常がそこにあり、万華鏡の裏側には暗く淀んだ非日常が広がっている。
 ただ、ドールのうなじを狙うように。
 いつ、その美しい羽をもいでやろうかと涎を垂らしている。
 微かに肌を撫でる冷たい風にミュゲイアは小さく手を握る。
 パントリーにやってきたのは在り来りな理由だった。
 眠りにつく前にホットミルクを飲みたくなったのだ。
 暖かいミルクに黄金の蜂蜜を垂らした甘く優しいそれがミュゲイアのお気に入りである。
 パントリーには夜闇のような艶やかな黒髪を垂らした一人のドールが居た。
 先客にやや驚きつつもミュゲイアは大好きなその常闇に溶けるように近づく。

「……シャーロットってだぁれ? カンパネラのお友達?」

 呟くように囁かれたその言葉にミュゲイアは誰の事かと聞いてみた。
 後ろから覗き込むように、雲に隠れる月を見つめる。
 にっこりと微笑むミュゲイアは三日月。
 暗闇から現れた子羊は彼女の目にはきっと山羊のように写っているかもしれない。
 あるいはいたいけな彼女を喰らってしまう蛇かもしれない。
 恐れても逃がしてはくれない。
 絡みつくようにその真っ白の糸は貴女を捕まえようとする。

「…………ぁ、……」

 見つかった、という風に。いたずらがバレた子供のように、或いは鬼に見つかった哀れな迷い子のように、夜の帳のうちがわの少女は月の光を拒絶して揺らめき、眉を寄せて後退する。
 独り言を聞かれていた。秘め事をこぼしてしまった。きっとリーリエと同じように、先生のことを純粋に好いているであろうミュゲイアに。

「あ……え、えと……」

 誤魔化しの言葉を探して、カンパネラはきょろきょろと辺りを見渡しては地面を見つめ、そしていつしか、懇願するようにミュゲイアを見た。白魚のような美しいトゥリアの手が己の頭皮を執拗に搔いた。

「とも、ッともだ……あ、あの……い、わないでください、誰にも………その………

 …………えッ、ぁ、あッ……!」

 言葉の続きを紡ごうとしたその時、手の力を変に緩めてしまったせいだろうか。彼女の手から写真がこぼれ落ち、薄い花びらのようにひらりと靡いてミュゲイアの足元に舞い落ちた。
 その三日月の瞳には、過日の夢が。
 カンパネラが何に憂うこともなく無垢に幸福に笑えていた、その瞬間が目に写るだろう。

 カンパネラは動揺で、拾わないでと声を発することもかなわない。ただ様子を伺うように怖々と、ミュゲイアの方を見据えているだろう。

《Mugeia》
 驚いたように慌ただしく焦った様子はいつもと変わらない。
 アタフタとまるで丸呑みされないように懇願するように、その乙女は言葉を紡ごうとする。
 壊れたオルゴールのようにその美しい声はしどろもどろで、噛み合わないゼンマイを無理に回そうとするようであった。
 キョロキョロとクルクル回るその目はまるで時計。
 時間を早く告げてしまう時計の針。
 そして、最終的にはミュゲイアのことを見た。
 ここで初めて、二人は目が合った。
 パチリと目が合えばミュゲイアはただ笑う。
 やっと、その瞳に写れたと言わんばかりに。

「え? 言わないよ! カンパネラが言わないで欲しいならミュゲそんな事しないよ! だから笑って!」

 相手の焦りも何も知らないようにミュゲイアは笑いながら、言わないと述べた。
 言われた困るようなほどのことにも今の段階では思えないけれど、言わないで欲しいなら言わない。
 ただ、笑ってくれればそれでいい。
 静かに眠りたい月を無慈悲に寝かせたい太陽はただ己の要求を述べる。
 その時、彼女が持っていた写真がヒラヒラと花弁のように舞ってミュゲイアの足元へと落ちてきた。
 それをミュゲイアは手を取った。
 その写真には知らないドールと笑っているカンパネラが映っていた。
 いつもは見せてくれない笑顔。
 ミュゲイアの為に向けられたでない笑顔。
 ミュゲイアが笑顔にした訳ではない一枚。
 ミュゲイアには見せてくれない彼女の笑顔はまるで聖女の裸体のようであった。
 キュッと写真を掴む手が強くなる。
 これをミュゲイアも見たい。
 ミュゲイアのためにその笑顔を見せて欲しい。
 笑顔に依存する彼女は笑顔を求める。
 自分がした訳でも自分に向いてるでもない笑顔は詰まらない。
 ミュゲイアには笑顔にする才能があるのに。
 これがミュゲイアの芸術なのに。

「カンパネラとっても素敵な笑顔! とっても可愛い! ねぇ、ミュゲもこの笑顔欲しい! カンパネラ笑ってよ! はやく! はやく!」

 写真に写っているカンパネラのことを指さして彼女に見せながらミュゲイアは求める。
 その笑顔が欲しいと、底なしの強欲を振りまく。

「あ、あ…………」

 それは壊れ物で、宝物だった。ミュゲイアの手に写真が渡っただけで、カンパネラは背筋が凍るような思いをする。誰も信じていないから。影も形もないはずの他人からの悪意だけを信じているから。力を入れれば呆気なく破ける大切な光景を他者に持たれるということは、不信なるカンパネラにとって、心臓を握られることに等しかった。 
 呼吸が勝手に荒くなる。パントリーに漂う空気が急激に薄くなったように。

「あぅ、ご、ごめんなさ………」

 ミュゲイアの笑顔から徐ろに目を逸らして、カンパネラは涙ぐんだ。写真の中の自分を指さされて、ふるふると繰り返し首を横に振り、鈴の音が鳴るような「笑って」という 言葉から逃れるためにと両の耳をやわく手のひらで塞いでしまう。そうやって明確に、カンパネラはミュゲイアを拒んだ。 しかしこの鈴蘭のような愛らしい少女が、いくら自身が目の前で泣いたとて、簡単に諦めてくれるようなドールではないことをカンパネラは知っている。
 彼女は、笑顔に強く執着している。日々を絶望をこめた相貌で過ごし、自然な笑みを浮かべることが非常に少ないカンパネラは、彼女と顔を合わせるたびに笑顔をせがまれていた。

「…………わ、笑えなくて、ごめんなさい…わたし、欠け……ゆ、ゆるして。ごめんなさ、ごめ……か、返して、お願いします、おねが……」

 傷付いた仔猫が鳴くような声で懇願する。願いを叶えられなくてごめんなさい。けれど笑えぬ少女は、何を引き換えにするでもなく写真を返して欲しいと要求を投げ掛けていた。

《Mugeia》
 壊れたオルゴールはただ踊る。
 音の出ない壇上で。
 音の出せないドレスで。
 途切れ途切れの言葉が上手く紡がれることはない。 楽譜がないと歌えないように、その小さな口は微かに動くだけ。
 ごめんなさいという謝罪の言葉だけを繰り返し、ポロポロと宝石のような雫を落としている。
 この月はなぜ泣くなのか。
 悲しいから泣くのだろうか?
 歌えないから泣くのだろうか?
 愛を叫べないから泣くのだろうか?
 何が怖くて泣くのだろうか。
 紡ぎきれない言葉で必死に彼女は懇願する。

「どーして泣くの? 悲しいの? 笑えないから? それなら笑って! 笑ったら幸せになれるよ! カンパネラの涙も消えるよ! ……それとも、この写真がカンパネラを泣かせるの? 笑顔じゃなくするの? 写真のカンパネラは笑えてるのに?」

 溢れる涙をミュゲイアは目で追った。
 その雫が落ちてしまう前にと言葉をかける。
 なぜ、目の前のドールが泣いているのかミュゲイアには分からない。
 わかる気がないから分からないのか、分かってあげられないというのがミュゲイアの欠陥だからか、それすらも分からない。
 ただ、泣いているのなら笑ってと言葉をかけるしか出来ない。
 執着に写真を返してと言うカンパネラがひどく泣くものだから、ミュゲイアにはこの写真がカンパネラを泣かせているように見えてしまう。
 笑顔の写真がカンパネラを泣かせている。

「これがそんなに大切なの? 返したら笑ってくれる? それとも、これのせいで泣くの? それならミュゲが捨ててあげる! だから笑って、カンパネラ!」

 鐘の音が全身を揺らすように笑ってみせて、カンパネラ。
 私の大好きな仔猫ちゃん。
 その首輪の鈴を鳴らして。

 彼女の言う通り、写真のカンパネラは笑えている。彼女が確かに幸福に包まれていた時。隣にいるだけで笑顔になれてしまう、太陽みたいな友人と並んで、気恥ずかしげにカンパネラは笑っていた。笑えていた。
 しかし全ては過ぎ去った。もう戻ることはない。
 紙片の中に押し込められたカンパネラの心からの笑顔を、もう二度と、彼女は浮かべることができない。未だ記憶も不完全で、経緯も不確かな過去だけれど、それだけははっきりしている。失われ、奪われ、消えた。全てを置き去りにして、彼女は雨が降り注ぐように泣くことしかできない。

 それでも。それでも、過去を見つめることだけは許されていたから。
 幸福だったあの頃にすがり、朧気な少女の欠片を辿り、存在を確かめることは、まだ許されていたから。だから彼女はその脆い写真を、宝物とした。

 だから。

「─────」

 だから、カンパネラはその時、大いなる恐怖の渦に呑まれた。
 哀れな仔猫は白い顔を青く染め、そして体がぐらりと傾く感覚を覚えた。奥底に押し込めていた宝石が煌めくように美しく、カンパネラの瞳は零れんばかりに見開かれた。
 涙は止めどなく落ち続ける。ミュゲイアの願いはいつまで経っても叶わない。笑って、笑って、笑って。カンパネラはもう、心の底から笑えない。
 紫がかった乾いた唇が震える。カンパネラは、その時、アストレアのお披露目の話をする夕食時の先生にも向けた、何度も何度も味わっていた感情を思い出していた。

 叫び出したくなるような衝動を。
 歯を食い縛るような思いを。
 目の奥を赤く染めて、胸や腹の奥を熱く焦がす。その炎は、水晶のような透明な心臓を真っ黒にする。

 カンパネラは。
 カンパネラの、冷ややかで暗くて静かな青い相貌は。
 ミュゲイアも、他のドールも、彼女の“姉”ですら見たことのない表情を浮かべ、口を開いた。

「───いま、なんて、おっしゃったの」

 ──黒い茨の森の奥から、鬼のような女の顔が覗く。
 鐘が鳴るのを真横で聞いていたみたいに、グワングワンと何かの音が、頭の中で反響している。目の奥は熱く、しかし、驚くほどに冷たい涙が頬を伝って落ちていく。ふうふうと、走っているみたいに呼吸する。だくだくと項を汗が伝う。

「す、てるって、おっしゃったのね。今。あなた。」

 地を這うような声で言う。考えていることの言語化が上手くいかない。頭がまともに動かない。彼女を強く縛る臆病な理性のタガが、どこかで外れている。
 蒼星の瞳は必死そうに、しかし獣の威嚇のような圧を伴って、ミュゲイアを見つめていた。

「……返して。……早く。……お願いだから………」

 ディミヌエンドするように、気迫は失われていく。しかし彼女の目は、無駄にぐっと力を込めて差し出した白樺の枝のような右手にその宝物が渡るまで、常に見開かれているだろう。

《Mugeia》
 雨がいくら降ろうとも、太陽は沈まない。
 どれだけ彼女が泣こうが、ミュゲイアが心配そうな顔を浮かべることもない。
 ただ、期待しているだけ。

 笑ってくれることを、ただただ笑いながら待っているだけである。
 写真だってそうだ。
 ミュゲイアにはその写真の価値が分からない。
 その写真のせいで泣いているのならば、その写真を捨てるまでだ。
 彼女を泣かすものがあるのならば、それを排除して笑わせるだけ。
 笑えるのだから笑って欲しい。
 泣いている顔よりも笑っている顔を見たい。
 それはどこまでも純粋で底の見えない暗闇のような欲である。
 自分の見たいものだけを追い求めて、相手の考えや思いなんて気にしない。
 ミュゲイアの思考は至って普通であり、みんなも同じ考えだと思っているからである。
 だから、この太陽が雲に覆われるなんて思ってもいなかった。
 目の前のカンパネラが太陽に触れて逆らってくるとも思っていなかった。

「うん! カンパネラが笑えないならミュゲはその写真を捨てたら笑ってくれると思ったの! そうじゃないの? どうしたらカンパネラは笑ってくれるの? この写真みたいに笑ってよ! 写真も返すから笑って! カンパネラは笑えるでしょ? 笑える子だよね?」

 カンパネラは変わったように、ミュゲイアを見る。
 必死に、圧をかけるように。
 いつものカンパネラとは思えないようなその眼差しがミュゲイアを覆い隠す。
 ただ、ミュゲイアはカンパネラに近づいた。
 鼻と鼻が触れてしまいそうな程の距離でミュゲイアは笑う。
 その蒼星の瞳に自身の笑顔を映して。
 その、細く白い手に写真を乗せてからギュッとその腕を掴もうとする。
 鬼のような女の前にいるのは、天使のような怪物。
 子羊の皮を被った悪い山羊。

「……はやく、笑って? 笑えないカンパネラには何もないんだよ?」

 鈴蘭の香りを漂わせて、その女は耳元で囁く。
 笑えないカンパネラは見たくないと。
草木と同じにならないでと。
 無邪気に悪意なくその刃はカンパネラを突き刺そうとする。
 オミクロンでダメダメな可愛いカンパネラ。
 笑う事だけは出来るカンパネラ。
 壊れていても笑えるのだから。
 有象無象の石にならないで。

 なんというエゴイズム、なんという欲深さ。可憐な少女から滲み出す致死量の毒が、カンパネラの骨の髄までを蝕む。

 涙で潤んだ瞳は、鏡面のように少女の笑顔を写したことだろう。写真に指先で触れられたのを知覚すると、爪を立てるかのようにミュゲイアの手から写真をひったくる。「ッ、」と喉に悲鳴を詰まらせて、詰められた距離の分だけ後退り、彼女の腕から逃れようとした。もしも触れられたならば、カンパネラはぱしんと弱々しい力を以て腕を払うことを試みるだろう。

「…っ………ごめんなさ………む、無理です、わ、ッ笑えない。……二度と………そんなの………」

 ずっと騙されて生きてきて。大切だった友人を、無惨に殺されて。涙が出るぐらい眩しいかの夢は悪夢として、呪いとして、カンパネラの脳に残っていた。その仕組みも何も分からない脳に、強く強く刻まれて。

「だってそんなの、ぜったい赦されない……!」

 笑えない。
 笑えるはずがない。
 もう二度と、表情のひとつも動かせない友人を置いて──笑っていいはずが、ないのだ。

「……何も、なんにもないなんて、知ってる………わたしに、………価値なんて、ないって、知ってます。知ってるから。……欠陥品で、………無意味なんだって……」

 写真を胸に抱えるように持ち、自己否定の言葉を繰り返し、手の甲で何度も目元を擦る、彼女の姿は間違いなく痛ましい。けれど目の前の山羊は、そんなカンパネラを見たって、胸を痛めることはないのだろう。
 ド、と背中に衝撃を感じる。壁だ。ミュゲイアから逃れるように後退っているうちにたどり着いたのだろう。足元で真っ赤な林檎が転がる。今のカンパネラには、それが毒を塗られたみたいに思えた。

《Mugeia》
 うるうると涙で潤んだ瞳には太陽が写っている。
 太陽のように笑うミュゲイアはいつだって、眩い光を放って皆を困らせる。
 元通りになったカンパネラはいつものように謝るばかりで、先程のカンパネラの姿はなく夢でも見ていたのではないかと思わせるほどである。
 弱々しく泣くばかり。
 笑ってという言葉を拒否するばかり。
 いつもと同じ。
 笑って欲しいのに、そう思えば思うほどに拒否されてしまう。

「なんで? なんで赦されないの? 笑う事は悪いことじゃないよ? 誰が赦さないの? 笑えば幸せになるのにそれをダメって言うなんておかしいよ。笑うことを赦してくれないなんて、カンパネラに幸せにならないでって言ってるみたい! そんなのダメだよ。カンパネラ、笑って? ミュゲがカンパネラの笑顔を見たいの。赦されないなんてどうでもいいの! 笑えば赦されるよ!」

 幸せになる権利は全員にある。
 笑顔になる権利も全員にある。
 それを赦されないわけがない。
 そんな、呪いのような言葉が存在してはいけない。
 ミュゲイアはただ、カンパネラを追う。
 後退りするのなら、その分だけミュゲイアは前に出る。
 いつしか、カンパネラは壁にまで追いやられてしまったようだ。
 壁に当たったせいかコロンと真っ赤な林檎が転がった。

「カンパネラが欠陥品なのはミュゲも知ってるよ? でも笑う事はできるでしょ! だって、顔は壊れてないもん! ミュゲの可愛いカンパネラは笑えるよね? あんな林檎とは違うでしょ? 落ちて踏まれちゃうだけの林檎とは違うでしょ?」

 落ちた林檎をミュゲイアはパンっと足で蹴った。
 興味のないそれはカンパネラとミュゲイアの間にあって邪魔だったから。
 壁に追いやられたカンパネラを逃がさないように、壁に手をついてカンパネラのことを見上げる。
 はやく、笑ってカンパネラ。
 ミュゲの大事なカンパネラ(- 笑顔 -)

 カンパネラは、決してミュゲイアを太陽と思わない。彼女にとっての日の光とは、シャーロットであるから。思い出す度に目が細まる、あの少女だけがカンパネラの太陽だ。
 『笑ってよ』。あの子もいつか、そんなことを言っていたっけ。呆れたような声を放つグレゴリー。繋いだ手の温度。春の風が身を包んでいた。幸せだった。
 ミュゲイアの笑顔を乞う声は、カンパネラにとって、鋭い銀色のナイフでしかなかった。

「わ、わらっ、たら、つみ、罪なの、そんなの……あの子は………あの子は、もう二度と、笑えないのに………! わたしが、わたしなんかが笑顔になるなんてダメなの、ぜったいダメなんです、ぜ、ぜったいに、そんなのは…………!」

 悲鳴のような声を上げたかと思えば、カンパネラはびくりと肩を震わせて「ヒ、」と怯えた。先程の獣のような気迫はどこへやら、またヒエラルキーの最底辺に座す仔猫の類いに逆戻りである。
 臆病な彼女は、ミュゲイアの林檎を蹴飛ばす動作を、暴力だと認識した。充血した目がミュゲイアを見下ろしていて、そして、やがては見上げるかたちとなった。背中に壁をつけたまま、ずるずるとへたりこんでいったのである。

「ヒ、ヒッ、………い。………いや…………」

 表情を隠すように、カンパネラは背中を丸めて縮こまる。写真をお守りみたいに胸に抱えて、この夢との再会を果たしたあの日のように蹲る。

 カンパネラは笑わない。
 笑えない。
 彼女の笑顔はずっとずっと、硝子の棺の中に押し込められている。幸福は、笑みは、深い雪と氷の中に閉ざされている。

「………ごめんなさい…………ごめんなさいぃっ………………」

《Mugeia》
 追い込まれた仔猫はただ泣くばかり。
 痛々しいほどに涙を流し、怯えて謝るばかり。
 彼女の口から謝罪の言葉は何度も聞いた。
 何回も何回も、数え切れないほどに謝られた。
 謝るばかりの女の子。
 嫌がってもそれを口に出せない女の子。
 謝罪の言葉はもう聞き飽きた。
 謝罪が欲しい訳じゃない。
 怖がって欲しい訳じゃない。
 それらはどうでもいいことで、ミュゲイアが欲しいのは笑顔だけである。
 笑顔だけしかいらない。
 笑顔がミュゲイアの存在価値なのだから。
 笑顔だけがミュゲイアを生かしてくれる。

「じゃあ、あの子が笑ったらカンパネラも笑うの? その子ってカンパネラがさっき言ってたシャーロット? ねぇ、その子はどこにいるの? ミュゲがその子を笑わせてあげる! そうすれば罪なんてないでしょ? ミュゲね、頑張るよ!」

 ズルズルと怯えて座り込んでしまったカンパネラを見下ろしながらミュゲイアは喋る。
 罪を背負うのならば、その罪を消してしまおう。
 重たいものなんてかかえなくていい。
 それで笑えないのなら尚更である。
 今、カンパネラの重荷になっているのはシャーロットだ。
 それをどうにかしてしまえばいい。

「だから、もう泣かないで!」

 表情を隠すように縮こまったカンパネラの頭を触るためにミュゲイアはその場にしゃがみこむ。
 もし、何もされないのであればそのまま頭に手を置いて少し力を入れてカンパネラの顔を上げてしまうだろう。
 乱雑なその扱いはまるで玩具を持つようであり、ぐしゃりとカンパネラの髪の毛を持ってしまう。

 仔猫がいくら泣けども、その山羊の少女は鳴くのをやめない。笑って。呪いみたいだ。笑顔になって。何も、彼女には届いちゃいない。
 互いの呼吸を食べ合える距離の少女たちの会話はしかし、決して交わることがなかった。悲鳴がミュゲイアに届くことはないし、祈りがカンパネラを笑顔にすることもない。平行線だ。

「っぁ、………うぅ…………」

 青い顔を持ち上げられてもなお、カンパネラはむきになったように目を逸らし続けた。手を払いのける気力はなかったようで、頭皮を引っ張られる微かなつきりとした痛みを感じながら、カンパネラは頭の重さに委ねて首を曲げ、目を閉じた。宝石のような雨は止むことがない。

「……シャーロットは………」

 きゅ、と下唇を噛む。こんなこと、こんな子に、教えたくなかったのに。

「………もう、いない。……どこにもいないの。………焼かれて、……しまったから。……もどって、来ないの………」

 だから、もう、笑えない。
 力なく放った言葉は、当て付けのように真実の欠片をこめて。
 写真の中の笑顔はもうどこにもない。カンパネラからも、シャーロットからも、とっくのとうに奪われている。この箱庭に、奪われてしまっている。

 ミュゲイアが、この場所の真実の片鱗を握っていることはつゆ知らず。カンパネラは涙に溶かして流してしまうように、そう告げた。

《Mugeia》
 顔を上げてもその目とは目が合わない。
 頑なに目を逸らしてばかり。
 目が合ったのはあの時だけ。
 きっと、この二人はずっとこのままだろう。
 どれだけミュゲイアが友達だと近づいてもそれに応えてもらえることはない。
 どれだけカンパネラが謝ってもその言葉がミュゲイアに届くこともない。
 それでも、ミュゲイアはいつもカンパネラに笑ってと声をかける。
 笑って欲しいから声をかける。
 笑ってくれるまできっとずっと時間が許す限り続けることだろう。

 どこかで聞いたような話だった。
 カンパネラが口にしたその言葉は悲しいもので、果てしないほどの地獄だ。
 焼かれてしまった。もう居ない。
 キュッと下唇を噛んで語られたその話はあまりにも残酷だ。
 もういない少女との写真をまるで遺影のように抱き抱え、黒色に身を包むその姿はまるで喪も付すようである。
 その時、ミュゲイアは思い出した。
 ────嗚呼、ミシェラだ。
 そういえばリヒトのノートにもそんな事が書かれていた。
 焼かれたという言葉が書かれていた気がする。
 シャーロットというドールも同じような末路を辿ったのだろうか。
 カンパネラはリヒト達と同じようにその様を見てしまったのだろうか。

「もういないの? なら笑ってもいいじゃん! どうして、もういないドールの為に笑わないの? もういないなら関係ないでしょ? カンパネラは笑っていいんだよ! 良かったね、カンパネラ!」

 この女はなにも考えていない。
 もういない少女の為に笑わないという行動を取るカンパネラの気持ちも分からない。
 もういない存在の為に何かをする理由も分からない。
 もういない存在に思いを寄せる意味もわからない。
 だって、いないのだから。
 気にする必要なんてない。

「そのシャーロットって子もカンパネラに笑って欲しいと思うよ! だから、ミュゲに向かって笑って!」

 もういない女の為じゃなくて!

 遂に、完全に壊れてしまったのかもしれないと思う。逆上せたように顔や頭の奥が熱くて、けれど指先はすっかり血が引いて冷えきっている。涙を流すなんて慣れっこで、むしろ一度も泣かなかった日はなかったぐらいで。しかしこの涙がこの身体のどこから生じたものなのか、カンパネラには分からない。ひょっとして血液(ねんりょう)が漏れ出ているのではないかという下らない錯覚さえした。しかしその水滴はどこまでも透き通っている。
 がちがちと、噛み合わない歯と歯が繰り返し重なっては、音を鳴らしている。そんな異様な音は簡単に、ミュゲイアの明るく伸びる声に掻き消されていく。

「かッ、! てな、こと、……言わな………」

 怒鳴るような声を放っては、それがしおしおと萎れていくのをどこか遠くで聞いていた。カンパネラはその醜い、なんとも醜い声を強く嫌悪する。彼女は自身の声帯をこのように乱暴に使ったことは今まで一度たりともなかった。
 あまりにも不定形で制御できない未知の感情に、カンパネラはひどく振り回されている。哀れな仔猫はその一瞬のうちに何度も鬼となり、その度に仔猫に戻った。どうしてもそれを言葉に起こせない。
 見目だけは天の使いのように美しいと思っていたこの少女が、今では真っ黒な悪魔に見える。

「…………あな、た……は。……あなたには、分からない………。だ、だいじな子、……奪われて……殺されて……そんな経験、したこと、ないから…………」

 きっと彼女は、大切な人なんてできたことがないんだろうと思う。ミュゲイアはカンパネラを見ていない。泣いているカンパネラを見て、笑っているカンパネラの夢を見ている。きっと、ずっと、どんな人にもこうだったんだろう。だから分からないんだと、カンパネラは心のどこかでミュゲイアを見下した。
 そして、哀れんだのだった。

「………あんな素敵な子が、笑えない世界で、……わたしは、笑っていたく、ない……。
 …………出てって……」

 ミュゲイアに蹴られて遠くに転がった林檎を見つめながら、哀れなる白雪は項垂れて、そうして冷たく言い放った。すっかり疲弊しきったような彼女の顔に、笑顔は少しも浮かばない。ミュゲイアの目には、彫像じみた美しい横顔だけが写るだろう。

《Mugeia》
 また、このドールは余計なことを言ってしまったようである。
 笑顔で他者にナイフを向けて、意図も簡単に躊躇もなく相手を刺してしまう。
 なぜそれで相手を刺してはいけないのかもわからずに、ありのままを見せてしまう。
 無知はどこまでも愚かであり、その純粋さはどこまでも汚く穢れている。
 相手の気持ちも分からないままに何も考えずに踊りだす。
 そのぷっくりとした薄紅色の唇は無邪気な悪で紅をひかれている。
 今だって、なぜカンパネラが怒っているのか分からない。
 グレーテルの時だってそうだ。
 いつだって、ミュゲイアは相手の事なんて一切考えていない。
 ポロリと零した言葉で相手の神経を逆撫でしてしまう。
 怒っているのことは分かってもその理由までは分からない。
 怒らせてやっと自分が何かをしてしまったと気づくせいでいつも手遅れになる。

「え? 分からないよ。だって、ミュゲはカンパネラじゃないもん。それに笑顔は殺されたりしないもん! どうしてカンパネラは怒るの? 笑ってよ。」

 何も分からない。
 何も知らない。
 共感してあげることが出来ない。
 トゥリアモデルのくせに出来損ないのガラクタは笑うしか出来ない。
 だって、大事な人も笑顔しか教えてくれなかった。
 もう、笑顔のことしか覚えていない。
 そして、誰かのせいで笑えないカンパネラを哀れにしか思えない。
 笑えないことが可哀想で仕方ない。
 笑えないことが哀れで仕方ない。
 壊れてしまったカンパネラが可哀想で堪らない。
 可哀想で可哀想で堪らない。
 これはきっと無意味な同情。
 場違いな感情。

「笑えないなんて可哀想なカンパネラ。カンパネラは石と同じなんだね。……カンパネラが笑えるようになれるといいね、良い子になれたらいいね。分かってあげられなくてごめんね。」

 ──嗚呼、この子は笑えない。
 そう思った途端にミュゲイアにはカンパネラが分からなくなってしまう。
 石と同じで区別することができない顔なしに見えてしまう。
 興味もなくなってしまう。
 つまらない存在なのだと思ってしまう。
 心の底からの同情を貴女に。
 笑えない石がいつしか宝石になりますように。
 大事なミュゲのカンパネラになれますように。
 ちゃんとドールになれますように。
 あの子のいない世界で笑えない可哀想な仔猫。
 生きる場所を間違えた可哀想な子。


「バイバイ、カンパネラ。
 はやくシャーロットに会えて笑えるといいね。」


 シャーロットのいる場所で笑えるといいね。
 笑顔じゃない子はトイボックスに、ミュゲイアの世界に、要らないのだから。

 笑顔は、潰え、奪われるものだということを、きっとミュゲイアは知らない。笑顔というものを不滅のダイアモンドのように想っているのだろう。その狂信が何処から来ているのか、カンパネラにはその一切が分からなかった。
 ああ。わたし、やっぱりこの子のことが理解できない。この子もわたしを理解できない。
 一生、こうなんだ。カンパネラは広い広い大河の向こう側に、純白の鈴蘭が咲いているのを見た。わたしたちはがらくた。わたしたちは欠陥品。手なんて繋げない。繋ぐ手が欠けているから、わたしたちはオミクロンなんだ。

 哀れみが、謝罪が、失望と断絶が、ひたすらに鼓膜を叩いていた。透明な涙が時間をかけてカンパネラの手の甲を削らんばかりに滴り落ちている。
 石と同じ。ああそうだ。わたしは笑わない。木々が笑わないように、小石が笑わないように、鬼が永遠に眉を吊り上げているように。
 そして思う。可哀想なのはそっちだ。笑顔とかいう、本当の幸福がなくとも作り上げることのできる曖昧なかたちに縋る、あなたの方がよっぽど可哀想だ。ふてくされた子供の反論みたいに、カンパネラは思う。
 愛らしい少女たちが、『きらい』の一言を交わすまでもなく互いを哀れみ合う、陰惨なモラトリアムのさなか。

 願いと共に別れを告げたミュゲイアが去っていくのを、カンパネラは見つめて。
 見つめて。

「…………………………………」

 深い、沈黙を降ろす。窓の向こうはすっかり夜だ。そろそろ眠らなくてはならない。人形たちがおもちゃ箱の中に片付けられなければならない、そんな時間。
 本当にそうなのか、時計の針さえ信じられないカンパネラには分からないけれど。

「………………………おこる?」

 ミュゲイアがさらりと言った言葉を、慎重に拾い上げるように反芻する。

 鐘が鳴る。

【開かずの扉】

Brother
Campanella

《Brother》
「……黒い、塔」

 ソフィアから。グレーテルから。ヘンゼルから。ミュゲイアから。フェリシアから。リヒトから。

 たくさんのドールから聞いてきたこの不可解な場所に、ブラザーはようやくやってきた。時刻は夕暮れ、鐘の音は少し前に鳴り終えている。既に多くのドールは夕食の支度に寮に戻っただろうし、元々この場所は人が少なかったはずだ。誰もいなくなるのを隠れて待っていた彼は、待ちに待った静寂に息を吐く。

 正面に見えるのが、開かずの扉。
 踊り場の壁に存在する、本来なら有り得ない場所。隠すように設置された奇妙な空間の奥の記憶を、ブラザーは持っていない。けれどこの先に、行かなければならないということだけは知っていた。発信機で見つかったときの言い訳を口の中で呟きながら、生唾を飲み込む。すっかり感情の抜け落ちた体であっても、染み付いた恐怖が中々足を前に動かさなかった。

 ───“彼女”が現れたのは、丁度ブラザーが壁に向かって立ち尽くす不審者になっている、そんな頃である。

 遠い彼方の夕焼けに、カンパネラは想いを馳せていた。
 時刻は夕暮れ、あの胸を締め付ける白昼夢の舞台と同じ時間帯だった。美しい橙色に染め上げられた壁の中、愛を夢見る健気で哀れなドールたちの声と足音を聞きながら、カンパネラは階段を登っていた。寮へ戻る前に、大声を張って歌いたかった。
 答えの出ない、苦しいだけの考え事を、やめたかった。

「……………」

 踊り場。彼は、その目の前で立ち尽くしていた。立ち尽くす以外の何をするでもなく、誰かと語り合うようなこともなく。まるで、何もないはずのこの場所に、何かを見出だしているような。

「………あ、……あの。……ど、どうか、されましたか」

 恐る恐るといった風に、カンパネラは話しかける。相も変わらず幽霊のような立ち姿であり、その表情にはカフェテリアで会った時以上の疲弊が見受けられるかもしれない。顔色を伺うようにブラザーの方を覗き込んでは、彼の視線の先に何かあるのだろうかと自然と思い至ったカンパネラも、“それ”の方へ目を向けるだろう。

 二階と三階の踊り場に存在する、赤い壁。あなた方の目前に陰鬱な様子で聳えるその壁を注意深く凝視すると、薄らと扉枠のようなものが見えた。一見何もないように見えるため、多くのドールはその扉の存在に気が付かず、前を通り過ぎてしまう。

 まるで、ドールの生活には不要な区画だから、巧妙に隠されているかのようだ。
 しかしよく観察すると、扉枠はきちんと存在している。ドアノブなどは存在せず、故に開き方が定かでない扉だった。

 また、カンパネラは同時に、傍らに立つ少年の様子が少しおかしい事にも気付けるかもしれない。

《Brother》
「………えっ、あ」

 “あの”ブラザーは、カンパネラの声が聞こえていないみたいに黙っていた。じっと壁の扉を見つめる表情は強ばっていて、ゆらゆら揺れる瞳は緊迫感に満ちている。常に嫋やかな笑みを浮かべるブラザーの面影はなく、彫刻のように美しい顔をただ青白く染めていた。
 まるで時が止まってしまったかのように、呼吸音すら聞こえなかった人形は、やがて大袈裟に肩を震わせる。カンパネラの方に向けた顔から、冷や汗が落ちた。

「あ、あぁ……いや、うん。なんでもない、大丈夫だよ。
 カンパネラこそ、こんなところでどうしたの? もう鐘が鳴ったんだから、そろそろ夕食の時間だよ」

 冷や汗を乱暴に袖口で拭って、動揺を隠すように首を左右にふった。足元に落ちた視線は相変わらず鬼気迫る何かがあり、体は妙に力んでいる。カンパネラに向ける微笑みでさえぎこちなく、無理をしていることは明確だった。
 ブラザーという人形は、エーナモデルほどでなくとも他者との交流を好んでいる。故に話も上手く、嘘や誤魔化しだってある程度はできる方だ。そんな彼が、こんなにも分かりやすく話を摩り替えている。自分だって鐘が鳴っているのに帰る気はなさそうで、視線は今も壁の扉の方にたびたび向けられていた。何かが起きていることは、言うまでもないのだろう。

 ブラザーがカンパネラに気付くまでの僅かな間に、彼女はその違和感の正体に気付いた。よく見れば、何かある。

 ───扉だ。

 何の変哲もないただの壁のようでいて、違う。開き方は検討もつかないけれど、それは確かに扉と呼べようものだった。

「…………えっと………」

 傍らに立ち、こちらにぎこちなく微笑みかけたブラザーは、いつもは穏やかな笑みを浮かべる人物であった。ツリーハウスから出る時さえ、カフェテリアで会った時もそう。その対のアメジストはいつも繊月のように柔らかに細められていた、はずだ。……普段からあまり人の顔を見ないから、自信はない。
 しかし、普段の姿と比較せずとも、ひとまず彼はなんだか様子が変であるということは感じ取れた。彼が見ているのは確かにその扉だけど、なんだかそうじゃない気がする。それだけじゃない気がする。
 その奥を。その向こう側に存在する何かを、或いはその向こう側に広がる場所を、彼は……何か、恐れているのだろうか。

 あの日に蝶の話を一度飲み込んだ時よりも分かりやすく、何かを隠そうとしているのだと気付けた。困惑したように眉をひそめて、カンパネラは首を傾ける。扉の方をおずおずと指差しながら。

「……い、いえ、あの………あの。……な、なんかあの、その……ご、……ご存知ですか? ……“これ”って……えっと………」

《Brother》
「いや……僕も、その……えっと、これは」

 しどろもどろ、という言葉がよく似合う態度だった。
 自分の態度に違和感を持たれるなんて思っていなかったのかもしれない。扉を指さすカンパネラに目を見開いて、咄嗟に否定を口にする。けれど、いい言葉が浮かばなかったのか、モゴモゴと何かを口にしているだけだった。目を泳がせ、バツの悪そうな顔で自分のつま先を見つめる。珍しく、その眉間にはシワすら寄っていた。

「………い、今、気づいた」  

 悩みに悩んで、結局嘘をつくことにしたらしい。長い長い沈黙の末に、ブラザーは顔を背けた。初めて嘘をつく子供のように、顔を背けてぼそぼそ呟く。愛する彼女に嘘をつくということには罪悪感があるのだろう、ぎゅっと下唇を噛み締めていた。
 そんなふうに分かりやすく態度に出すから、気づかれてしまうのだろうけれど。

「んええ………?」

 無理がある。愚鈍なカンパネラにも流石に分かる。全力で誤魔化そうとしている。
 このひと、案外嘘つきなんだなぁ……とかなんとか下らないことを内心ぼやきつつ、ふやけたような困惑の声をこぼす。年齢設計は自分より年上のはずであるが、分かりやすい嘘を貫き通そうとするブラザーの姿はやけに幼く見える。
 カンパネラの視線はしばらく泳いだ。何かを迷ったり躊躇ったりして、背中の方で手を組んで自分の指と指を絡ませてもちゃもちゃ動かしたりして。

「……あ、そ、そうです、ね。きぐう、ですね………。
 ……へ、……変なの。か、隠してるみたい、ですね。ア、いや、隠してるんだろうけど、その。なんか、………」

 と、相手の嘘を飲み込んだふりをした上で、なんだか頓珍漢な返しをした。ブラザーにつられて、意味も無くしどろもどろになったようだった。
 カンパネラは不器用ながら、相手の嘘に乗ってやるように応答する。嘘を嘘だと追及するような元気は、生憎持ち合わせてはいなかったので。
 そして少しだけ沈黙して、続けた。ブラザーから目を逸らし、彼女は扉の方を見ていた。

「………何が、あるんでしょうね。
 ……どうせ……ろくなものじゃ、ないだろうけど。」

 そう、言い終えて。段々とグラデーションするみたいに冷たくなる自分の声が、自分の手からすっかり離れたもののように思えて、カンパネラは不思議になった。
 ……い、今の、もしかしなくとも感じが悪く聞こえただろうか。さあっと血の気が引くような思いをして、「あ、えと」とか言いながらブラザーの方を伺う。

《Brother》
「………」

 ブラザーは今度こそ黙った。
 何を言うべきか迷って、言葉を吟味するように目を伏せる。汗で張り付いた前髪を直しながら、相変わらず自分のつま先を見ていた。

 カンパネラの声を、言葉を、どのように受け取ったのだろうか。愛する人の困惑を、どう受けとったのだろうか。
 ツリーハウスで同じノートを見た彼女が、何を知っているかなんてブラザーには分かっていた。オミクロンドールの処刑場。この場所が、カンパネラにとってどういう場所か。“おにいちゃん”なら、きっとそう思って嘘をついたはずだ。

「…… ……… …………。

 ……ごめんね、カンパネラ。ここは開かずの扉───……いや、黒い塔って場所なんだ。
 今からこの中に入ろうと思っていて……でも、君を巻き込むわけにはいかないから、嘘なんてついちゃった。ごめんね」

 何時間にも何日にも感じられる無言。
 それを打ち破ったのは、眉を下げたブラザーの謝罪だった。言いにくそうに視線を下げたまま、ぽつりぽつりと語っていく。どんな場所かをまだ言わないまま、静かに視線を上げた。カンパネラの目を見て微笑む姿は、紛れもなく貴女のよく知るブラザーだ。柔らかな声が愛情を込めて二回目の謝罪を告げる。
 底抜けの親愛はずっと変わっていない。ただ少し、中身が無くなっただけ。

「へ、」

 はたり。目を見開いて、カンパネラは固まった。糸を張り詰めたような長い長い沈黙を破いて、暴くまいとした真実は告げられる。
 アメジストの双眸と目があった。ブラザーは、微笑っている。
 開かずの扉。今、彼は続けて何と言ったか。黒い塔。覚えがある。カンパネラはその覚束ない記憶を辿り、辿り、辿って。
 歪んで暗くなった視界が、必死に追ったあの筆跡。夕暮れが。あの少年が書き残したらしい、驚愕と、恐怖と、絶望が。

 まさか。いや。何かの偶然か、覚え違いであろうか。だってこの頭は欠けている。十分、有り得るはずだ。それが何かの重大な勘違いであったって、おかしくない。

「………それって」

 つらつらと言い訳を並べる思考に反し、カンパネラは心のどこかで確信していた。

「え、なっなな、なかにって、そんな……だ、……えっ? 何言っ………だ、だってそれ、え? ッく、黒い、……塔って……」

 お披露目。
 普段ドールが通れない通路。
 黒い塔のような巨大な空間。
 処刑装置。
 シャーロット。
 炎。
 スクラップ。


 星々が集まって星座を成すように点と点を繋げて、カンパネラは慄いた。目がぐるぐると回ってどうにかなりそうだ。また息がうまく吸えなくなっていく。駄目だ。そんなの駄目だ。ぜったいに駄目だ。

「ぁ………あ、あぶない……危ない、ですよ、も、もしかしたら、え、いや、も、もしば、バレ、バレたら、……こ、……ッ殺さ……!」

 言葉にすればするほど、恐怖で気道が絞まっていく。青白い顔のカンパネラはずっと正気じゃないものを見る目をしていた。何度も何度も首を横に振る、彼女は明確に怯えている。
 “いつも通り”なブラザーの様子がカンパネラには恐ろしい。ロゼットみたいにそれがデフォルトという訳ではない気がするのだ。案外人並みの情緒を有しているのかと思った次の瞬間には、彼は何かを捨てている。
 今、彼に何かを捨てさせたのは、わたしなのだろうか?

《Brother》
「うん、かもしれないね。
 でも、何か重要な証拠が分かるかもしれない。そうしたら、きっとみんなの役に立つよ」

 恐怖を零しながらもこちらを案じるカンパネラに、ブラザーは曖昧な表情を浮かべた。嬉しそうに顔を綻ばせつつも、不安にさせてしまったことに眉尻が下がる。動揺する相手に一歩近づき、囁くように言葉を重ねた。諭すみたいに優しく語りかけながら、そっと手を伸ばす。すっかり青白くなってしまったその顔を隠すように伸びた、艶やかな黒。
 カンパネラが拒まないのなら、夜を溶かしたような色をする髪のひと束を、ブラザーは掬うだろう。白馬の王子様のように紳士的に、恋人のように甘ったるく。

「大丈夫、カンパネラ。
 君のことは、僕が幸せにしてあげるから」

 続く言葉は、世界中のどんなお菓子よりも甘かった。カンパネラの幸福を何よりも願い、何よりも彼女を愛している。変わらない、いつものブラザー。
 見せる笑みは変わらず妖艶で、けれども穏やかに。髪に落とした視線がまた上がって、じっとその宝石のような両目を見つめる。鮮やかなスカイブルーは、今どんな顔をしているのだろうか。

 いつか、ツリーハウスでドロシーにも似たようなことを言っていた。恐怖も後悔も混ぜ込んだ覚悟なんて、もう必要ない。ただ、自分のやるべきことをやるだけなのだ。
 ブラザーは視線を開かずの扉に戻し、さっさと探索を始めた。まずは何か開ける手がかりを探すため、全体を観察する。カンパネラを引き込むつもりはないらしい、会話は一方的に終わってしまった。

「で、でも、っでも………」

 それはチョコレートの輪郭が、指の熱でじんわりととろけたような、そういう光景の甘やかさと温度を感じさせた。ともすれば官能的にも見える動作に、カンパネラはきゅっと反射的に目を瞑った。動揺のあまり取り繕うのも忘れて、睫毛がふるりと震えた。
 繊細な白い指が、少女を隠し続ける夜の色をゆるりと纏う。それは、白樺の枝が泥濘に埋もれてゆく様にも見える。暴力性の欠片もない行為に、空色の双眸はそっと開かれ、青年の微笑を写す。彼の“妹”の笑みがそうであったように、鮮明に。鏡面のように。

「……何、……言ってるの………」

 何も大丈夫じゃない。幸せにしてあげるなんて、訳が分からない。わたしはもう幸せになんてなれやしない。
 カンパネラの幸福はもはや、曖昧な過去の記憶にしか存在し得なかった。だからそれがどんなものなのかも、もう彼女には分からない。

 髪から離れていく手を、カンパネラは掴むべきだった。死ぬかもしれないというのに、『みんな』のためにと深淵へ身を投じようとするブラザーを、全力で引き留めるべきだった。せめて服の裾とか、なんでもいいから、掴んで縋るべきだった。何かを叫んで泣き喚くべきだった。
 分かってる。
 けれど、勇気なき獅子の娘には、切り上げられた対話を無理やり繋ぐことさえできなかった。

「…………………」

 一歩踏み出すことも、後ずさってその場から去ることもできずに、ただブラザーの背中を見つめている。青白い顔で、祈るように胸の前で手を組んでいる。
 誰か、誰か止めて、誰か。お願い。わたしには無理、止められない。どうして。どうしよう。
 手のひらに汗が滲んだ。怖くて、頭がぐちゃぐちゃになる。

《Brother》
 背後から感じる視線を、人形はどう受け止めたのだろうか。
 開かずの扉の方を向いてしまった彼の表情を見ることは、もう出来なかった。

「……薔薇」

 見つけたテーブルに近づく足取りは、明らかに浮ついている。千鳥足にも見えるようなふらつき方で、重たい体を引き摺っていた。乾いた唇から零れた音がか細く震えていたことに、きっと本人も気づいていない。誰がどう見ても、彼の様子はおかしかった。
 得体の知れない薔薇。否応なく目を奪われるような真紅。
 息が上がる。体が強ばって、引き攣ったような呼吸になる。溺れそうなほどに重たい空気を必死に吸い込んで、長い長い時間をかけて、ブラザーはようやくテーブルに辿り着いた。

 ぶるぶる震える手が伸ばされる。
 無理矢理に動きを安定させるため、もう片方の手で自身の肘の辺りをぎゅっと掴んだ。ぽたりと、シュッとした顎から汗が垂れる。
 張り付いた前髪をそのままに、ブラザーはそのテーブルを調べようとするはずだ。きっと手がテーブルに触れてしまえば、その膝は砕けることだろう。

 異様だ。明らかに、異常だ!
 何も、何一つとして大丈夫ではない。まるで病にでもかかったようだ。体が上手に動いていないし、呼吸は荒く、表情こそ見えないものの、見ているだけで痛ましくなるような所作をしていた。明らかに彼は苦しんでいた。
 どうしてそんな反応を示すのか、カンパネラには分からない。この向こう側で起きていることがどんなに凄惨であるかは彼女だって知っている。しかし、それにしたってブラザーの様子は変だ。どうしてしまったというのか。

「……ねぇっ………」

 蚊の鳴くような声は果たして、彼の耳に届いただろうか。必死にすがるような声を発しながらも、カンパネラは彼を強く引き留めることはできない。ただその折れそうな背中を前のめりになって見つめ、ブラザーが血を吐いて倒れでもしないだろうかと嫌な想像をして、鼓動を早めるばかりだ。
 都合よく救世主が現れるわけがない。あのひとを止めることができるのは、きっとわたしだけなのに。
 わたしが怯えてる場合じゃないのに!

「………!」

 思わず反射的に一歩を踏み出すが、それ以上カンパネラは歩み寄ることができない。臆病な少女はブラザーの行動を焼き付けるように見て、傍観に徹している。

《Brother》
 美しい薔薇。清潔な水。
 花は好きだ。送ると喜んでもらえるから。

 ……脳の奥で、何かががバチバチと焼け焦げている。

「───ッ、あ」

 がくん。
 花瓶を置いてテーブルを調べようと触れた瞬間、ブラザーはその場に崩れた。体の倒れる鈍い音に、カンパネラの声は掻き消されてしまう。貴女のおにいちゃんは、どんな声でもすぐに振り返ってくれたのに。

 膝をついたまま、はくはくと口を動かす。水から打ち上げられた魚のように喘ぎ、強引に酸素を取り込んだ。

 息はできる。大丈夫。
 怪我はしていない。

 だからまだ、止まってはいけない。

「……ふふ……」

 汗を袖口で拭い、立ち上がろうとハイテーブルに手をついた。その瞬間に見えるのは、薔薇と同じ赤。意図せず姿勢が低くなったことで見えた隠しボタンに、ブラザーは笑みをこぼす。
 カンパネラが聞くだろう笑い声は、いつものブラザーと何ら変化なかった。伸びやかなテノールが、今日も微笑んでいるだけ。

「……カンパネラ、行ってくるね」

 ボタンをそっと押してから、ブラザーは立ち上がる。ふらりと今にも倒れそうな足取りで振り返って、カンパネラに笑った。

 ブラザーが隠されていたスイッチに触れると、存外あっさりと、壁に沿うように閉ざされていた鍵穴のない扉はギギ、ギ……と老朽化を感じさせる錆び付いた音を立てながら、引くように開かれていく。

 その隙間からあなたは、冷ややかな空気の流れを感じるだろう。
 薄暗い学園よりも更に深い暗闇を落とす開かずの扉の向こう側。足元は無骨な鉄鋼の床となり、照明は全くと言っていいほど存在しない。
 学園側から差し込む燭台の灯火によって辛うじて、通路の奥に重そうな鉄扉がある事が分かるだろう。

「ヒッ………」

 膝から崩れ落ちたブラザーが、何を押したのかまでは見えなかったが。彼の何らかの動作の後、扉は開かれた。得体の知れなさから来る恐怖で肌がぞわぞわと粟立ち、カンパネラは鳴き声にも似た小さな悲鳴を上げて怯えた。
 背中にも項にも手のひらにも湿った感覚を覚える。汗が止まらない。頭の芯がぞうっと冷える感覚が続いている。
 ブラザーというトゥリアドールは見とれるほどに麗しい。いつもの通りに。

「なッ、ちょ、ま、って………!」

 何か言え。早く。どうしてなんにも言葉が浮かばないの。足が動かないなら頭を動かしてよ、声を出してよ、止めなくちゃいけないんだ、死んじゃうかもしれないのに。今にも倒れそうなのに行こうとしてるのよ。止めなくちゃいけないのに。
 止めなくちゃいけないのに!
 どうしてまともに動けもしないの!?!?

「……ぃ……ねぇ、ってば……ま、まって……ください……!」

 馬鹿で無価値な役立たず! 頭の欠けた能なしの欠陥品!! 早く何か言ってよ!!!

 ……嵐のような激しい自己嫌悪に歪んだ顔は、ブラザーの目にどう写っただろうか。言葉が喉につっかえるのを感じながら、どうにかして、どうにかして声を吐いた。
 例え青年が扉の向こうへ消え去ろうとしても、絞り出した言葉はひどく震えながら響くだろう。

 黒い塔。カンパネラの考えが正しければそこは、欠陥品たちの処刑場だ。開かれた扉の向こうは炎に包まれていた、なんてことはなかったけれど。奥の方に仄かに見える鉄扉の向こう側は、そうじゃないとは言えない。

「あ………あんな場所で、なっ、なにか、何か……もらって……え、得たと、して。………そ、それが、それがなにに、何になるって言うんですか………ど、うせ、くる、くるしいのが増える、ふえ、増えて……良いことなんて……なんにも、ないのに………」

 だから引き返しましょう。寮へ戻りましょう。懇願を込めた目は、その無力さを自覚して大きく揺れた。海底から、遥か遠くの水面に向けて、たすけてぇと必死に叫んでいるような心地がしている。
 言葉が届く気が、まるでしないのである。

《Brother》
 吐き出すような、押し出すような声だった。悲痛な、願いにも似た言葉が廊下に響く。もう随分と学園は静かになってしまって、まるで世界に二人しかいないような、そんな空気が場を支配していた。

「カンパネラ……」

 眉尻が下がる。
 よくブラザーが浮かべる、困ったような悲しんでいるような曖昧な顔。ぐらぐらの足で体を何とか支えながら、震えた声でか細く彼女の名を呼ぶ。

 ───そんな顔、しないでほしい。

 ブラザーの揺れる瞳は、間違いなくそう言っていた。大きな一歩でも、何でもないのかもしれない。けれど、だからといって確証もないのに足を止める理由にはならないのだ。カンパネラもブラザーも、それをよく分かっているはず。絶望と恐怖の先にしか真実がないことを、二人はツリーハウスで嫌という程理解させられたのだ。

 だから、これは、仕方ないこと。
 仕方の無いことなのに。

 ああ、そんな顔しないで。
 君を悲しませたいわけじゃないんだ。

 むしろ、僕は。
 ■■■■■■は、君を幸せに────………


「……大丈夫だよ」

 頭が割れるように痛い。
 ぎりぎり、首が締められているような感覚さえした。
 与えられすぎた恐怖でいっそ思考は晴れやかで、体が軽い。
 ワルツを踊るようなステップで、優雅にカンパネラに近づいた。

 何かの、焼け焦げる音。
 誰かの、やかましい耳鳴り。
 激しい自責の声が、誰かをずっと傷つけている。

 役立ず! 欠陥品! トイボックスの面汚し! 結局人を不安にさせてばっかりじゃないか! みんなを幸せにしたいのに! なんで! なんで! なんで! なんで!!! 媚びることしか出来ない能無し! お前なんか誰もいらない! さっさとスクラップにでもなってしまえ!!!


 ……でも、全てから逃げたのは君でしょう?


「カンパネラ、信じて」

 ……茨のような髪をそっと掻き分けて、形のいい顎に手を添えようとした。
甘やかに細められた瞳も、吐息の混じった濡れた声も、カンパネラはきっとよく知っている。けれど、目の前のブラザーはまるで別人のようだった。貴女を心の底から愛している。それは間違いない。けれどその愛は、まるで。

「……必ず、君の元に帰ってくる」

 ぐっと、ブラザーの顔が近づく。
 拒まないのなら、カンパネラの唇に毒みたいに甘い口付けが訪れるだろう。

 まるで、貴女の恋人のような動きだった。

 知っていた。知っていたのだ。真実を得るためには苦痛がつきものであること、それを乗り越えなくては知ることのできないものがあること。
 恐怖の対象たる少女ドールからの誘いに乗り、規則違反であることを指摘されながらも柵を越え、恐怖の渦中であの子のがらんどうを見つめた。そして今も、あの過日の夢を追い求めて走り続けている。その果てにきっと綺麗な結末なんて待っていないと知っていながら。
 ブラザーの行動に、カンパネラは共感を覚えてさえいる。あの時、柵越えを強行したカンパネラを、ブラザーは必死に止めていた。それと同じだ。今度はカンパネラがブラザーを止めようとしている。
 でも。それにしたって止めなくちゃいけないと、強く思う。どうしてだろう。あの時のわたしと彼の何が違うというのか。カンパネラには、分からなかった。

「…………え?」

 ……そして、今彼女は、それを理解した。
 タト、トン、トタン。軽やかなステップにも思える足音の後、カンパネラは呆けた声を出した。踵が上り階段の側面に当たる。後ずさったのである。

 口許に白樺の指を這わせたカンパネラの顔はまず、ぼうっと放熱をした。頬は薔薇色に染まり、瞳は潤む。初な乙女のような相貌だ。何故ならば、カンパネラはトゥリアドールだから。母親のような、そして恋人のような甘やかさを持つように設計された、ひとりの少女ドールだったから。
 そして。
 乙女の顔は、青ざめる。毒林檎の破片を喉に詰まらせたみたいに、どこまでも美麗に、整った相貌が染まる。
 何故ならば、何故ならばカンパネラは、オミクロンクラスのジャンクドールだから。

 ブラザーは、常に“兄”を名乗っていた。こちらがやんわりと拒んでも、カンパネラを妹として扱った。他のドールのこともみんな、彼の妹であり、弟だった。
 そういうところが、苦手だった。だって変だから。血の繋がりを持たない人形として生まれた彼が、“兄”になれるはずがなかった。だから、そう認めたわけじゃなかった。そう呼んだことは一度もなくて、そう思ったことも一度もなかった。


「───■■■■■■?」


 言葉が、ガラス片のようにまろび出る。

 あんなに自分が彼を止めた理由が分かった。いつもの彼ならばあんなことは言わなくて、こんなことはしないのだ。
 異様で、異常で。それは、変貌と呼んでいいものなのだろうか。

「…………う゛、ぁ………」

 カンパネラは口許を抑えて、壁に肩から寄りかかった。腹の中で何かが蠢いたのを感じる。心なしか口の中が酸っぱい。物理的な接触がてんで駄目なカンパネラは、今の行為を本能的に拒絶したのである。

 彼女の薄い唇に降り注がれようとした、甘い、口付けを。

 ……ブラザーはその唇に、滑らかな人工皮膚に覆われた骨の凹凸を感じただろう。カンパネラはその瞬間を迎えるその直前に、自身の唇を右手で覆い隠すようにかざし、そしてブラザーの口許に手の甲を押し付けた。
 彼女は貴方を拒絶した。明確に、恋人のような貴方を。

 ここ最近、ブラザーに向けることはなかった、恐怖の滲む目が。茨の奥の蒼星が揺れて、貴方を見据えている。

《Brother》
「……え?」

 滑らかな体温と共に感じるのは、骨の凹凸。朝露に濡れたようにきらきらと輝く双眼が見開かれたのは、口付けが拒まれたためではなかった。

 ───微笑んで。『Brother』。

 ふらり、よろめきながら後ずさる。
 懐かしさすら感じるような瞳がこちらに向けられていて、それがブラザーにとって何よりの否定だった。喉がぎゅうと苦しくなって、息が吸えなくなる。世界がチカチカ点滅して、指先から温度が急速になくなった。

 ──貴方は手を差し伸べられる存在じゃない。

 ああ、誰だろう。
 誰のことを呼んだの? カンパネラ。

 知らない。僕には分からない。
 知らないんだ。知らないったら。やめて。やめてよ。違う。僕は。僕はもう。違う、違う、違う違う違う。やめてくれ。もううんざりだ。何も考えたくない。僕に“ソレ”は出来ない。仕方ないじゃない。出来損ないなんだ。耐えられない。出きっこない。嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ…………

「ぁ゙、あッ゙……」

 ぐちゃぐちゃ、脳みそがすり潰されるような感覚。あれほど呼んでほしかった呼び名が、呪いみたいにブラザーの細い身体を引き裂いている。
 設計図の裏に逃げ込もうとしても、誰もそれを許してはくれない。誰より強く、ガーデンテラスで水やりをする自分がこちらを睨んでいる。ねえ、どうして。なんで、なんで、なんで。
 僕だって、もう、疲れたのに。


 ───さあ、笑って。
 甘く、艶やかに、美しく。


「ふ、ふふっ……ふ、あは、あ、ぁ゙、ああ、ごめん、ごめんね……僕は、ふふ、お、おにっ、あはははっ」

 ミルクのような髪をぐしゃりと掴んで、首を左右に振った。カンパネラの目が見られない。これは誰に向けての、なんの謝罪だろう。分からない。もう、ずっと、なにも。

 嫌われたくない。
 愛している。

 でも、それは、“どっち”が?
 愛を持つように設計されたから?
 それとも、あの子がカンパネラだから愛しているの?


 分かってよ、それくらい!!


「……行くね」

 心すら脆い人形は、虚ろな目をしたまま開かずの扉へと逃げ出した。
 きっともう、止めてすらもらえない。

 互いに距離を置いた。互いに、相手から逃げた。禁忌の扉の前に、出来損ないの人形がふたり。
 彼らは今、家族でもなければ、恋人でもなかった。

 カンパネラは。
 カンパネラは、少しだけ、心がほどけていた。不信なる彼女はその瞬間まで、ブラザーを怖がらなかった。今まであんなに避けていたブラザーのことが、あまり怖くなかったのである。共にツリーハウスへ行ったその日から、今の今まで。
 しかし。今、その解れは正されて、再び鋼鉄の鎧を纏った。

「……ヒ、………」

 気付けば視界は歪んでいて、その風景がガラス越しみたいに写る。シルクの髪が乱れて、バサバサ揺れていて怖い。いっとう綺麗なアメジストの瞳はもう見えない。笑い声が聞こえる。何か、壊れてしまったんだなぁと思った。壊してしまったのは自分の言葉だったのに。自分の声が何よりの凶器だったことに、気付くことは無かった。
 愚鈍なカンパネラはただ怯えた。得体の知れない“誰か”を前に、怯えてグスグス泣き出した。

 ねえ、わたし、今、何をされそうになったの?
 ……“お姉ちゃん”とも、そんなこと、したことないのに。

「……なん、……どう、して…………?」

 カンパネラの頭をある言葉が占めた。黙って。うるさい。わたしなんかがそんなの、思っていいわけないでしょう。自責の声ががなる。それでも、カンパネラの頭から、その言葉は離れない。
 なんて下らない話だろう。なんて愚かしいんだろう。なんて、烏滸がましいんだろう……。

「………ぉえ゛ッ……」

 ───裏切られた。

 嘔吐くと共にカンパネラは口を閉ざし、その上から両手で頬ごと押さえつけた。ブラザーの声に返答はない。引き留める言葉も行為もなく。
 薄情にも、カンパネラは逃げた。
 ぽっかりと口を開いた深淵へ、足を踏入れるブラザーのことを、カンパネラは──遂に、見捨ててしまったのである。

 人気のない階段を勢い良く下っていく。足音には時折ドタン! といった乱暴な音が混ざって聞こえたことだろう。何回も踏み外して、バランスを崩しては壁に手をついて必死に下っていた。
 嗚咽は消え去った。暫く経てば、そこには冷ややかな静寂のみが残されていたことだろう。
 貴方を責め立てるような、重い重い沈黙が。

【寮周辺の湖畔】

Rosetta
Campanella

《Rosetta》
 偽の日差しが木の葉を貫き、下界を照らす。
 スポットライトを思わせる陽光も、今だけはジャンクドールのモノらしい。
 それに照らされたロゼットは、まるで気にかけていないようであったが。

 「カンパネラ、珍しいね。どうしてこんなところにいるの?」

 声をかけたのは、同じくジャンクの同級生。
 カンパネラ。
 しばらく前から元気のない、繊細なトゥリアのドールだ。
 湖畔にやってきたのは、記憶を思い出せるようなモノがないか──という気まぐれだったのだが。彼女がいるのは意外だったようだ。
 問いかける目は丸く開かれ、さながら猫のようだ。相手が答えようとする間に、赤薔薇は少しだけ距離を積めるだろう。

 彼女は木陰に佇んでいた。ひっそりと、闇の中に溶け込んでしまうように。頬や鼻の頭に落ちた光は彼女の目元のどす黒い隈を可視化するのみで、カンパネラの気を紛らわすものにはならなかった。
 視界の端に鮮やかな赤が写り、声が聴覚を叩く。ゆらりとそちらに面を向ける。銀色の丸められた瞳は美しく、焦燥を欠片も感じさせない。

「………」

 沈黙が一旦の返答だった。口がはく、と開き、何かを言いよどむような様子で閉じて、またそっと小さく開く。
 少し、後退る。

「………気分が、晴れなくて。」

 目をそっと逸らしながら、そう述べた。どこかよそよそしい態度を取っている自覚はあったけれど、当人にはもうどうしようもないことだった。

「……ロゼットさんは……?」

《Rosetta》
 意思を持って活動しているはずなのに、彼女はどこか亡霊のように見える。
 生気のない表情でさえ、美しいドールを飾り立てる宝石に過ぎない。幽玄な雰囲気は、カンパネラに星屑のような儚さを添えていた。

 「私は……探しているモノがあるんだ。最近思い出したことなんだけどね。ガーデンって組織、知らない?

 気分が晴れない時は、大抵理由を深掘りしてもまともなことにならないだろう。
 ならば、空気が読めないふりをして質問を投げた方が効率的だ。
 そう判断して、彼女は世間話のように話をした。井戸端会議ではなく、湖畔の雑談に過ぎないが、相手は何か知っているだろうか?

「ガーデン………?」

 ほとりと落とした声は空っぽで、それだけで彼女は何も知らないのだと伝わっただろう。相手の目を見ず顔も向けないまま、こてりと首をかしげる。
 ガーデンという名前の組織。……思い当たりはなかった。

「………あ、」

 なかったが。
 湖の水面を眺めながら、ふと蘇った記憶があった。泡の発生していた場所があって、それを見ようとしてバランスを崩した結果、ここに頭から落っこちたときの情けない記憶が。
 落下の衝撃と共に舞うあぶくが、彼女の肌を擽りながら水面を目指す感触。砂利に覆われた何かを見つけた。自暴自棄になりながら掻き分け、潜り込み、そしてその繊細なトゥリアの目が捉えた謎の文字列。

「………あ、あの。……あ、あんまりよく、見えなくて……間違ってるかも、しれないんですけど……」

 言いながら白魚の指が指したのは、目の前の湖だった。

「この中に、あの………鉄みたいな。き、……機械? ………そこに、あの、……それっぽい、文章が……」

 ガーデン。Garden。カンパネラの欠けた頭が綴りを思い浮かべた。
 そうか、一部潰れていたから分からなかったが、あれはもしかしたらそう書いてあったのかもしれない。言葉の続きを紡がぬまま、カンパネラは一人で勝手に納得をしていた。それ以上のことを言うのが何となく怖くなって、それまでで満足するか、話の続きを乞うかは相手にすっかり委ねている。

《Rosetta》
 ガーデンに関わっているかもしれない機械が──あの子について知れるかもしれない機会が、ある。

 「文章が、あったんだね」

 人形の顔から、繕うための全てが消えた。
 そこに残ったのは、歓喜と焦燥の入り混じった何かだけだ。

 「ありがとう。見てみるよ」

 そう口にすると、ロゼットは靴を脱ぎ出す。靴下まですっかり脱いでしまえば、自分の腹部が重いのも忘れ、湖に入ろうとすることだろう。

「え?」

 ロゼットの表情を、カンパネラは見逃した。しかし声色とその言葉、続けて彼女が取った行動から、自分が今彼女の何かに触れたことをなんとなく察知した。

「えっ? あの、ちょ……見てみるって、あの、ちょおっ……」

 ようやっと目を向ければ、彼女は見てみるよ、と言いながら靴や靴下を脱いでいる。となればロゼットが取る次の行動は愚鈍なカンパネラにもはっきりわかる。
 おどおどと制止の声らしきものを浴びせるが、腕を引いて無理矢理止めるようなことはできなかった。あまりに躊躇のない様子に困惑するばかりだったのだ。反射的に手を伸ばすも、それはロゼットの髪にすら触れることはできずに、ただ虚しく空を切るだろう。端から届くと思っていなかった、そういう距離を開けていたから。

《Rosetta》
 「故障しないようにはするから、大丈夫」

 カンパネラに生返事を返す。あまり聞いているかは分からないが、少なくとも耳には入っているのだろう。
 彼女は制服のまま、躊躇せず腰のあたりまで湖に浸かった。
 これ以上入り込んでもいいが、腹の中が花瓶から水槽になるのは少し困る。頭痛がした時に溺れないとも限らないから、今は一旦ここまでにしておいた。
 水面に顔をつけると、ロゼットはガーデンの文字を探してみる。
 まだ見えないようであれば、もう少しだけ深く入ってみることにするか、外周を歩いて近づいてみることにしよう。



 水面から顔を上げる。癖っ毛が輪郭をなぞるように張り付いていたが、煩わしいとは思わなかった。
 ──確かに何か、書いてある。見覚えのあるはずのモノが。

 「ありがとう、カンパネラ。あなたの言う通りだったよ」

 湖水を掻き分け、ロゼットは地上へ戻ってきた。
 制服はだいぶ濡れてしまったが、まあいいだろう。デイビッドには足を滑らせたとでも言えばいい。
 顔の水を拭いつつ、 カンパネラの様子を窺う。トゥリアの彼女が見つけたのは少々意外だが、そういうこともあるだろう。

 「アレ、どうやって見つけたの? 今まで全然気付かなかったよ。カンパネラはすごいね」

 皮肉にも聞こえる賛辞は、ひとえに事情を知らないから言えてしまうことだ。
 やんわりと尊敬のような視線を向けつつ、赤薔薇は靴を履き直していた。

「……んえぇ~………」

 困惑の声をこぼしながら、陸へ戻ってきたロゼットのことを見ていた。手を貸すなどという発想はなかったようで、どこか遠巻きにそれを見ている。
 さて、あの文章が何か彼女の役に立っただろうか。カンパネラにとっては何の検討もつかないあれが。このやりとりが三日ほど遅ければ、その機械に刻まれた謎の文章は、すっぽりカンパネラの頭から落っこちていただろう。

「………い、いえ……すごくなんか………」

 事故でこの湖にドボンと落ちたのがきっかけで見つけたんです、なんて恥ずかしくて言えやしない。赤っ恥ものである。わざと言っているんだろうかと疑うが、どうやら本当に心から言っている様子でたちが悪い。濡れてるのに靴履くんだぁ……気持ち悪くないのかな………という心の声をしまいこみながら、カンパネラはふいっとロゼットから目を逸らして、作り物の木の若葉の指す、斜めの先を見ていた。

「………あれがなんなのか、……あの、ご、ご存知なんですか。……わたし、よくわかんなくて………」

 己の豊かな横髪の束を摘まんでもふ、と頬を包み、逃げるように話の話題を逸らそうと試みた。あの文章のことをロゼットが少し知っているような物言いだったのが気になったのは本当だったが……。

《Rosetta》
 奇妙な呻き声を上げながら、カンパネラは訥々と話をする。
 謙遜しているのか、本当にそう思っているかは分からないが、とりあえずは曖昧な返事を返しておいた。
 ツリーハウスに行った時、あれだけ息を切らしていた彼女が泳げたというのは本当にすごいと思っているのだが、迫り過ぎてもよくはないだろう。
 それよりも、あの文字についての話が必要なようだった。

 「アレは……大切な子の足跡なんだ。今の私じゃない私の手掛かりでもあるんだけど……うーん、なんて言ったらいいんだろうね。あなたにとっての、あの壊れたドールみたいなモノ、って言うのがいいのかな」

 選ぶ言葉もないのだが、とりあえずはそう返しておくことにした。
 「気になるなら、文化資料室で“ガーデン”について調べてみてよ」と伝えるのも忘れずに。

「…………」

 “壊れたドール”という言葉に胸が跳ねるような感覚を覚えた。鳩尾にハッカを放り込まれたような、ひやりとした嫌な感じ。
 ドール。壊れた……。ロゼットが共にツリーハウスに行ったということ、シャーロットは壊れて死んでいたということ、その事実が強烈に突きつけられたかのように過剰に反応してしまうのもまた、カンパネラにはどうしようもないことであった。

 大切な子の、足跡。自分にとってのあの写真やノースエンドみたいなものなのだろうか。今の私じゃない私。……よく分からなかったけど、説明は求めない。そういう気分ではなかったから。

「は、はあ………ありがとう、ございます………?」

 曖昧に返すカンパネラに、それ以上ロゼットの事情を深追いをする理由はなかった。ガーデンとやらが気にならないでもないが、少なくとも今日のうちに調べることはないだろう。カンパネラは探し物と考え事で必死であったので。過日の友人たちを追うのに加え、ブラザーのことでも頭を悩ませていたのだった。
 あの時のことをロゼットに相談してはどうかと思いもしたが、やめた。あの思い上がりから来た感情を言葉にするのは憚られたし、ロゼットもどうやら探し物をしているらしいというか、何かを追っているようだということをなんとなく察知したからだった。もしその相談が彼女の邪魔になってはいけない。わたしなんかが、思い上がってはならないのだ。

「………あの……。か、関係ない、けど。………ツリーハウスの、とき、あの……ご、ご迷惑を、おかけ、しまし……えと、ご、ごめんなさい……。…い、嫌なこと、知ることになっちゃったし……」

 どうにか会話ができている今のうちにと述べた謝罪は、少々突拍子もなかったかもしれない。あの時からずっと謝りたかったのだった。
 あれから心証的に大丈夫だったかという確認を取りたかったという意図が。謝ることで、その巻き込んでしまったという罪悪感をどうにかしたかったという下心が、ないわけではなかった。

《Rosetta》
 「迷惑って、何が? 困るようなことをされたとは思ってないよ」

 唐突な謝罪に、ロゼットは小首を傾げる。
 特にダメージを受けるようなこともなかったし、トイボックスの真実に迫る情報を教えてもらうこともできた。
 ドロシーやジャックとも出会えたし、彼女は何故カンパネラが謝るのか理解できなかった。

 「確かに、ノートの内容とかにはびっくりしたけど……それだけだよ。私にはそんなに関係なかったからね。むしろ、あなたやお兄ちゃんの方が大変だったでしょう」

 今はもう元気? なんて、デリカシーのないことを口にする。
 できればこちらが判断すべきだったのだろうが、相手は普段から覇気のないカンパネラだ。しょげているのか、萎縮しているのか、傍目からはどうにも分かりづらい。

 呆気に取られるとはまさにこの事で、本当にロゼットはあの時から変わらなかった。取り繕っているような様子は伺えない。欠陥品が辿る最期が記されたノートを読んだ上で、自分には関係ないとまで言った。髪の奥で目を丸くして、カンパネラはしばし固まった。

「…………げん……」

 その醜い感情を、これ以上他人の前でさらけ出すな。手の甲に爪を食い込ませる。その自制は、自傷にも近しく。

「…………」

 力なく首を横に振るのが精一杯だった。たぶん、傷付いたんだと、思う。でもそれは自分が弱いせいなのだ。どんなに丸く角のない石だったとしても、対象が例えば一枚の萎れて変色しきった花びらであれば、引っ掻いたら傷が付くのは当然の話だ。

「………あなたは。………大丈夫なら、……ええ、はい、…………」

 語尾が消えて、言葉はそれきりだ。次の話題とか言葉とか、そういうものも浮かばなかった。

《Rosetta》
 どうしてそんな顔をするのだろう。何も痛いことはしていないのに。
 薄笑みを貼り付けたまま、苦しそうな相手の顔を見つめている。
 何か間違ったことを言ってしまったのかもしれないが、ロゼットにはよく分からなかった。
 ただ、首を横に振られてしまった以上、何かしらのフォローはするべきかもしれないわけで。
 ちょっぴり気まずそうに間を空けてから、「ごめんね」と口にした。
 改善できないなら謝らない方がいい、ということも理解しているつもりなのだが。

 「じゃあ、そろそろ私は行くよ。またね」

 重い空気が場を満たす。
 それから逃れるように、彼女は別れの言葉を口にした。
 そうして、濡れた服を纏ったまま、てくてくと寮へ戻っていくだろう。