Chapter 1

2nd Unveiling

Secret event

 今夜は待ちに待ったお披露目の日。

 楽しげなオーケストラが夜闇に流れている。
 選ばれた幸運なドールズは、胸一杯に希望を抱きながら礼装へ袖を通す。

 遊園地に足を踏み入れるような浮かれた気持ちでいよう。
 先生に手を引かれて、あなたが主役のステージへ登るのだ。

 ──そんな楽しい日に、『あの声』を聞いてあなたは目覚めた。

【学生寮3F 図書室】

Felicia
Astraea
Sophia

 燭台の仄かなともし火が揺れていた。

 それは、お披露目を直後に控えた、最後の夜。
 あなた方が共に囲むことのできる最後の食事会も終わり、いよいよ後は無くなった。
 あなた方は、アストレアと心置きなく別れられるように、という名目で、たった三人、陽光も差し込まない薄暗い図書室にそれぞれ立ち尽くしている。

 アストレアは、お披露目に行く。
 あの死と絶望しか存在しない、お披露目に。
 あなた方はそれでも足掻いたかもしれない。蜘蛛の巣に囚われた蝶のように──。

 これはきっと、最後の抵抗になるだろう。

《Sophia》
 ゆらゆら。か細い炎が揺れるのに伴って、水色のガラス玉もまた、映した影を揺らす。虚ろな濁り色のそれは、宝石とは程遠い物質へと成り果てていた。それは、どこまでも不安定なゆらめきだ。夢遊病者が踊るような、不気味で不安定な。

「──アストレア。」

 夢遊病者は声を上げる。頼りない細い手をふらりと持ち上げたのも、同時だった。まだ、囚われている。親友が『そこ』に居る夢の中に。
 ──ソフィアの細腕は、操り糸でくくられた動きのまま、ゆっくり制服のポケットへと伸びていく。それを見ているであろうアストレアとフェリシアは、何を取り出そうとしているのか──そればかりに思考が寄っていくことだろう。そうして注視した、ソフィアの手の中。

 ──現れたのは、ナイフだった。薄暗い中でも、うっすらとした一筋の銀の光で自らを主張する、『危険』そのものである。ソフィアの目は依然として虚ろなまま、思惑は読めない。……何をするかわからない。けれど、あなたたちがなにか反応をする前に、ソフィアは取り出したナイフをしっかりと握りしめて。そして、その鋭利な武器を、アストレアに──

 握らせた。なめらかな褐色を纏った彫像の細い指先に、不釣り合いだと分かっていてもなお、しっかりと。ナイフに触れるその手を、ソフィアはぎゅうと包み込む。濁った瞳はその手にばかり差し向けられていた。他の宝石達と視線がかち合うことはない。

「……後でドレスを着せられる事になると思うから、これで切り裂いて。ぐちゃぐちゃに。キッチンから持ってきたやつだし、数が合わなかったら疑われるのはあたしだわ。だから、絶対に後で……あなたが返して。あたしが疑われて欲しいなら別だけど。」

《Felicia》
 ただただ、立ち尽くしていた。
 ただただ、浸っていた。

 彼女を助けるためにやれることは全てやった。調べあげて、手がかりを手繰り寄せてきた。ここからが本番だ。ペリドットは未だ輝きを失っていない。全てを書き留めたノートを手に決意の火を灯しているのだった。ふらふらと身体を揺らすアクアマリンの行動に軽く目を驚くが、彼女なりのメッセージだと直ぐに気づいた。

 気づいたが、目を見開いたのは、聡明な彼女の口からでたその言葉があったからだ。

 ──── ドレス。

 確かミシェラちゃんは塔で“ドレスを先生と取りに”行っていたのだ。
 しかし炎に包まれるとき、そう。
 ストームとの会話を呼び起こす。あの時は取り乱したが、そうだ。
 彼女、ドレスは着ていなかった。
 つまり、もしかするとアストレアちゃんのドレスも………。

「待った。」

 鈍く光ったそれを手にもつ栗色の腕を、ノートの持っていない方の手で掴んだ。

「ミシェラちゃんのお披露目のとき彼女はドレスを着ていなかった。
 ストームと話したときに、不思議な質問をされたの。ミシェラちゃんはどういう服装でしたかって。

 ……もし、もし。ストームが、アストレアちゃんのドレスの有無を確認していたとしたら?」

 恐らくソフィアちゃん精神状態は不安定だ。冷静に考えることができないかもしれない。かつてプリマという冠を持っていた彼女に、とてつもなく失礼なことを言っていると知りながら。

 分かってる、分かってる。
 あとで、謝ればいいんだ。

 アストレアちゃんが笑顔で帰ってきてくれたときに、大口を開けて盛大に笑いながら。
 相棒に向き直ったフェリシアは続けた。

「アストレアちゃん、私が知ってる全てを教えてあげる。絶対に、絶対に諦めちゃダメだからね。」

 埃っぽいその場所で。
 ペリドットの決意は光っていた。

《Astraea》
 それはいつもの一日の終わりのことだった。冷たい月の光が、幼子の貌をしたうつくしいドール達の夜を艶めかしく撫で、冷たい空気が足元を低く這った。
 暗然とした心とは裏腹に、瑠璃の瞳は揺らぐ灯をぴかりと反射して、口許は三日月のかたちをしていた。
 処刑台の床はもうすぐ抜かれる。アストレアの、とある平凡なドールの、儚いたかが生命風情は、今夜、果てて散るのである。
 蝋燭の火は、まるでアストレアの生命が如く不安定で弱々しく灯る。
 蝋が溶け落ちて、白い塊を作っては、また焔が揺れた。

「ソフィア、落ち着いて。
 ドレスを切り裂いたところで、僕は、僕は……」

 手に握った冷たさをその肌で鈍く感じながら、困ったようにそう、呟いては眉を下げた。
 アストレアは、現実的なドールである。哀しくも、夢などもうとっくに視られなくなっていた。希望はすぐに打ち捨てられる。現実は、何よりも残酷だ。

「フェリシアまで……良いから、僕はもう、良いから。
 僕なんかよりも、自分や、他の子達の生命を大切にして。絶対にこの穢れた箱庭から出るんだ。幸せを掴み取るんだ。」

 苦しげに、そのコアを握り潰されたが如く、言葉を、慎重に選びとっては絞り出す。
 至極自己犠牲的思考回路である彼女は、自分が助かるだなんて選択肢はとっくのとうに何処かへと投げ捨ててしまっていたのだった。後悔も、未練も、恐怖も、全て握り潰して、処刑台に堂々と立つ彼女はさぞかし美しい事だろう。それはまるで、御伽噺の王子様の様に。
 それでも、鈍く光る鋭利な刃物を手離すことが出来ないのは、光るペリドットを縋るように見詰めてしまうのはどうして?
 ツクリモノに心なんて、必要ないのに。

《Sophia》
「うるさい。……そんな言葉を聞きたくてやってるんじゃない。」

 必死、だったのだろう。自分を殺し切るのに。けれど、そんな親友が絞り出した言葉を、すぱんと音がつきそうなくらい、強く切り捨ててしまった。

「ドレスの事は知ってるわ、ストームにドレスの事を調べさせたのはあたしだもの。アストレアのドレスは控え室に置いてなかったそうよ。そして、アリスとかいう女がミシェラのドレスをダメにした事も知ってる。
 ……前と今とは状況が違う。アリスがドレスをダメにしようとした時、もう既にドレスは無かったらしいわ。」

「……つまり、トイボックス側がドレスに手を出されないように隠すなり、搬入を遅れさせるなりで細工をした可能性がある。
 ……やれる事は、やっておいた方がいいでしょ。」

 たんたんと、そこまで言ったところで、ソフィアは言葉を止める。地を這っていた視線を、真っ直ぐと前に向けた所で、もう一度口を開く。

「悪いけど、あたしはあんた達が思ってるよりずっと冷静よ。あとね、馬鹿げた自己犠牲に付き合ってやる程王子様に惚れてなんかいない。そんな臭いセリフに興味はないわ。
 ……戻ってきて。王座はあたしの物なの、命令は聞いてもらうわよ。」

《Felicia》
 反論したい反面、フェリシアは目の名の完璧な王子の考えも理解できた。自分もきっとお披露目会に出るとなると恐怖に包まれながらも“安心”するだろうから。自分の代わりに大好きな友だちが逃げられる時間を作れる、と。分かる。言いたいことは理解できる。

 だけど、アストレアちゃん。
 傷を見せあった相棒さん。
 怖いよね、辛いよね、なんで私がって、思うよね。“分かるよ”。

 大丈夫だよ、なんて無責任なことは言えなかった。ペリドットには王子が放ったその言葉の辛さが、重みが分かるから。そして、本当は彼女が生きたいと願っていることくらい、誰だって分かってるはずだから。

「……私達、アストレアちゃんにそんなことを言わせるために呼んだわけじゃないよ。貴方に、どうしても生きて欲しいから!

 貴方が居ないとどうにもならないから! 貴方が、貴方が……相棒が!
 不可欠だから……!!」

 彼女を掴んだ手を離さずに続けた。
 いや、一生離すつもりはない。

「だから! 貴方には、生きて“貰わなきゃ”いけないの!!

 ……分かった!? 返事は!?!」

 小さなヒーローは、言い切った。
 思いっきり感情的に。冷静さの欠けた言葉? そんなの知らん! 伝えたいことを、伝えただけだった。

 ふぅ、一息ついたフェリシアは、目の前の小さな身体に向き直った。

「ソフィアちゃんが冷静そうで安心した。ドレスのこと知ってたんだね。まぁ、どうにかなる、今は絶対になると思っとく!!

 っと。ここからが本題。恐らくアストレアちゃんは……開かずの扉から塔の方に行くと思うの。 私たちが柵を越えた日、同じく柵を越えてツリーハウスに行った子たちがいたみたい。そこでオミクロンクラスのお披露目を知ったみたい。アストレアちゃんがお披露目から逃れるには、そのツリーハウスに身を潜めるか……。
 ……もしかしたら、塔に“出口”があるかもしれないって。」

 「ここまでは私が調べたよ」なんて声を潜めて話した。周りを気にしつつであったため、少々聞き取りづらいかもしれない。

「アストレアちゃんのお披露目は、どうにかして絶対に止める。
 ……それに、諦める選択肢を取られたら私たちが戦えないからね!」

《Astraea》
「は……ははは……君たちには本当に敵わないな。
 分かったよ、できる限りの事はする。」

 愛するものからの大きな愛をその細い身で受け止めては、困ったように笑って、親友と相棒とを交互にその瞳に映した。
 そんな彼女は、雨の日の夜にふと目を離せば消えてしまいそうなまでの儚さを身に纏って、弱々しく光っていたのでありました。
 一度生を諦めたイミテイションには、本物の宝石の輝きが眩しくて、圧されてしまうのも全く仕方の無い事でした。その頃には既に、アストレアは生気と言う様な物さえも失ってしまっていたのでしたから。

「そういえば、ロビーの掲示板にドレスの搬入に遅れが生じていると、そう書いてあった。
 真偽の様は定かで無いけれど、然る場所にドレスが無いのならば届くはずだったのだけれど、今日までそんなものは届いて居ない。
 塔に出口……詳細は分からないけれど、外界との繋がりがあるのならば、塔が一番可能性としては大きいと、僕はそう思う。例えば、物資の搬入をするような出入口が。」

 シリアスに、メランコリックに、アストレアはその淡々とした口調で考察をただ並べたてて、薄く笑った。
 取り敢えずこの場を諌めるため、希望を見ている、ふりをすることにした。親友の、相棒の、悲しむ顔を見たくなかった。
 嘘ならば上手に付けるのだ。冷たい刃をポケットに滑り込ませながら、ツクリモノの心は器用にそれをやってのけた。外に出られたとて、生きて行かれるとも分からないのに。世界は、どこまでも恐ろしく残酷だ。

《Sophia》
「……わかってるわね、アストレア。聞き分けのいい王子様の演技なんていらないの。何もせず、諦めて好きなようにされるだなんてこと絶対に許さないから。……恨まれて死ぬか、足掻いてみせるか。どっちがいいか考えなさいよ。」

 ソフィアは、鋭く強く、アストレアに視線を差し向ける。その玻璃色の瞳に傷がついてしまいそうな程だ。たとえこれがあなたの本意ではないとしても、けれどこちらはまだ親友を失う訳にはいかないのだ。アクアマリンには、憎しみすら宿っている。けれど、それこそが歪で不器用な形の、何よりの愛であった。
 どこまでも蒼い、まっさらな瞳は、ラピスラズリと言うにはすこしばかり色が淡く、澄みすぎていた。けれど、今はどうだろう。憂鬱だとか、皮肉だとかに取り憑かれて、混ざってしまって。固溶体の結晶らしく、濁っている。
 あなたの親友は、あなたが思うよりずっと、あなたの事をわかっている。ねえ、王子様。あなたが嘘つきなのは、もうとっくに知ってるの。王子様の嘘を愛せるほど、あたしは器量の良い女じゃないのよ。

《Felicia》
 ペリドットの瞳は離さなかった。幼げながらも強硬なアクアマリンと、憂いを含んだラピスラズリから。王子がついた嘘を、カットの歪なペリドットは未だ見抜くことができない。黄金の玉座に座った女王の言葉により、遅ばせながらもようやく理解できたのだった。
 ただ。全体をみて指示を出す女王と違い、ヒーローは全ての人の味方でありたい存在なのだ。できることなら、相棒のついた苦しい嘘を全て抱きしめて「大好き」を伝えてあげたい。

「………私は、無条件でアストレアちゃんのぜんぶを肯定してあげたいし、あなたの痛みをできる限り分かってあげたい。……何より、王子様よりアストレアちゃん自身を大切にしてあげたいって思ってるから!

 だから……辛かったら、助けてって叫んでもいいんだよ? えへへっ、アストレアちゃんはずっと助ける側だった子だから忘れてたかもしれないけどね? 安心して! 私はずっと貴方の、貴方の……相棒だから!」

 真っ直ぐ、真っ直ぐ、真っ直ぐ。
 伸びていく言葉は貴方にどう映るだろうか。裏を作りきれないペリドットはこういう伝え方しか知らない。それは王子である貴方が何よりも分かっていることだろう。

《Astraea》
 深い眼窩に嵌め込まれた石は、その表面にアクアマリンとペリドットを映し、イミテイションジュエリーらしく、態とらしい、偽物らしい、不気味にただぎらぎらとした、薄っぺらい輝きだけを灯して、あとは、ポリエステルの長い睫毛の落とす、決して深みなどない影だけがやけに"丁度良い絶望"を演出していた。
 死を目の前にしたときの自我は、まるで陽の光の差さぬ深い海の底の如く。親友や相棒の声すらにも、その奥底までを溶かす力などもう無い。
 心から愛している、愛しているけれど、怖い、死にたくない、だなんて、その口からは言えなくって。

 ──後悔が無いと言えば、嘘になる。それでも、我儘一つさえ、言わない。言えない。甘える方法も、我儘の言い方も、インプットされていないから。

 死ぬつもりだ、だなんて言えば、親愛なる貴女達はきっとその眦を吊り上げるから、僕はただ笑うしかないの。何よりも、君達の笑顔が大好きだから。

「分かったから、恨まれるのは勘弁だよ。」

 安らかに眠りたいもの、だなんて戯けて言えば、プログラム通りに薄く笑って肩を竦めてみせた。
 貴女達の愛は、まっすぐすぎて、嘘つきの不良品には少し眩しすぎるの。僕は、全く不釣り合いなの。どうか、僕なんてさっさと見捨ててしまって。そう、言ってしまえれば良かったのにね。

《Sophia》
 作り物同士の友情なんて、親愛なんて。おかしいものなのだろうか。先生がたのお眼鏡にかなわない不良品には、自分の感情を発散する権利も与えられないのだろうか。
 王子様にはきっと、誰かに頼るすべを与えられていないんだろう。アストレアは、死にたくないとか嫌だとか、そんなことを言ってくれるような奴じゃないのは、わかっていたから。
 デュオのプログラムだって、それを許さない。弱音を吐いて現実が変わるのか? 嫌だと言ってその通りになるのか? 言葉だけで何かが実現するなら、行動とは無意味。方程式は意味を成さなくなってしまう。無駄は排斥するべきだ。……ソフィアが今までひとつのわがままも言えなかったのは、それだけが理由では無いけれど。

 でもね、それよりも。あなたと触れ合えるのが最後かもしれないって、痛いくらいわかってたから。
 そしてね。例えあたしたちが人間の模造品で、瞳の輝きも何もかもが偽物でも。この感情だけは、あなたが好きって気持ちだけは、模造品なんかじゃないよ。

 ソフィアは、ゆらりと倒れ込むようにして、アストレアに体を預けて……腕を回す。あなたがそれを拒まないことを、知っていたから。ずいぶんと背丈に差があるから、まるでお姉ちゃんに縋っているみたいに見えるけど。でも、関係ない。ただ今は、親友であるあなたを抱きしめたかったのだから。

「……分かってない。分かってないじゃない……」

 声が震えるのを堪えた。ここで泣いたら子供みたいだもの。喉で暴れる嗚咽を、すぐにでも出て言ってしまいそうな泣き言を、ぐっと飲み込んで。やがて、ゆっくりとアストレアの身体を離すだろう。

《Felicia》
 ソフィアちゃんの気持ちも、アストレアちゃんの気持ちも、何故か何となく理解できるような気がしていた。ふたりはいつもみんなの為に先陣をきって頑張ってくれているのに、私はどうだろう。思い返せば守られてばっかりだった。元プリマの子には、一生追いつくことができないかもしれない。
 だが、それを踏まえても分かる気がするのだ。完璧なふたりの思考が、募っている思いが。ラピスラズリを抱きしめる小さな身体を見て微笑ましくなったペリドットは、その場に似つかわしくない微笑みを零したのだった。絶望に浸った相棒を欠陥品として言わせるものか。だが今は、そんなアストレアちゃんが酷く幼く見えて。

「……私が知らないところで、いっぱい溜め込んできたんだもんね。
 甘えられない環境下で、助けてばっかりで。……頑張ったね。
 えらい、えらい。」

 ソフィアちゃんの身体が離れたあと、フェリシアはおもむろにアストレアちゃんの頭を撫でた。ものすごく失礼なことをしている自覚はあった。だけどフェリシアには目の前の彼女が、強がって泣くのを我慢している小さな少女にしか見えなかったのだ。甘えることを知らないのなら、教えてあげればいいのだ。頭を撫でて認めてあげるだけで、ほら。

「貴方の苦しみを全て理解することは出来ないけど、貴方のために私ができることは全部してあげたいよ。辛いことは、ひとりで抱えるものじゃないと思うから。」

 美しい絹のような髪を撫でる手を止めずにそう言った。手を離したフェリシアは、「……せっかくだから私ともハグしよっか!」なんて言えば「アストレアちゃん、ほら、おいで〜!」なんて微笑みながら腕を広げるだろう。美しい小さな身体を見ては、同じく「ソフィアちゃんもおいで!」なんて、言いながら。

《Astraea》
「もう、本当に君たちは、」

 陶器の頬に薔薇を灯して、ラピスラズリに星を光らせて、王子様はその時、ようやく微かな希望を、その道の先に視られたような気がした。
 困った様な、呆れたような、そんな台詞とは裏腹に、本当に嬉しそうに愛おしそうに笑って、その長い腕を親友に、相棒に、優しく回してはぎゅ、と抱き締めた。
 薄い胸の内に脈打つコアは、確かな暖かさを持って、細められた眦には、熱い宝石がじんわりと溜まっていって、そして流れた。それはまるで箒星の如く、真っ直ぐに、滑らかな陶器の頬を滑り落ちて行った。
 大好きだ、愛しているのだ。だから、だから、生きていて欲しいのだ。この温もりを、逃したく無いのだ。王子様は、気が付いたのだ。自分が相手を大切に、死んで欲しくないと、そう思う様に、親友も、相棒も、自分に死んで欲しくないのだと。大切に思ってくれる様に。
 もし、反対の立場ならば、きっと自分も全力で反対していたのだろう。
死なないで居られたら、まだ皆と一生に居られたら………………………だなんて、たらればは意味など成さないのだけれど。零れた笑みは、ほんとうの幸せをたっぷりとその内に内包して、束の間の幸福が、不動の絶望の上に覆い被さっていた。
 離れ難かったけれど、それでも何れ、三つの体温は離れ行く。別々の道を歩む。その時にはもう、ラピスラズリは潤むのを辞めて、陶器の頬も乾いていた。

 深く息を吸って、そして、吐いた。
 見えない未来を、真っ直ぐに見据えて。アストレアは、背筋をしゃんと伸ばした。まだ怖いけれど、その心は晴れやかだった。
 大丈夫、親友が、相棒が、大切な人が、こんなにも思ってくれているのだから。

 ──それは、ほんのひと時の、微かな幸福の時間だっただろう。
 絶望に擦り切れていた彼女の心が、僅かほど安らぎを得られる、最期の時間。


 薄暗い図書室には、頼りない照明の灯りしか存在しなかったが、確かに雲間から差した暖かな光がアストレアに降り注いでいた。


 暫くして。
 あなた方の間に降りた少しの静寂の後、階下から古い階段を軋ませて、誰かが三階へとやってくる。
 三者三様の視線を向けるならば、そこには恐ろしいほどに普段通りの先生が、穏やかな微笑みであなた方を見ていた。

「アストレア、ここに居たんだね。ソフィアとフェリシアにお別れを言っていたのかな。君たちは、特に仲が良かったから……名残惜しいだろうね。」

 先生は、眉尻を下げて惜しむように呟いた。
 そんな彼の腕には、少し大きめの箱が抱えられている。重厚な黒い箱を、彼はアストレアの元まで歩み寄り、あなたに差し向けた。

 箱の表面には、高級感のある金字で『TOYBOX  DESIGN』と記されている。

 先生が箱の蓋を開けると、あなたの眼前には、美しく煌めくティファニーブルーの宝冠が現れるだろう。
 お披露目の為だけに精巧に造られた、玩具の人形を着飾る為のアクセサリー。

 箱を図書室の机上に置いて、彼はそっと宝冠を手にする。

「アストレア、改めておめでとう。大変なこともあるだろう、それでも君なら大丈夫だ。外の世界でも頑張ってくれ。」

 優しい父の声だった。
 やがてあなたの頭に、栄光の証が戴冠されるだろう。
 それはまごうことなき虚飾の冠だった。

《Astraea》
「……嗚呼、何も言わずに出てきてしまってごめんなさい。
 もう大丈夫。お別れは言えたから。」

 王子様は、少しはにかんで、無邪気にそう言った。
 ラピスラズリはいつも通りに煌めいて、絹の睫毛はくるりと上向き、頬には薔薇が差していた。大丈夫、彼女はいつも通り麗しい。
 義父の手に載せられた箱に気が付けば、それは何? と小首を傾げて、開かれた箱を覗き込む。
 刹那、瞳を刺した眩いティファニーブルーに、少女たちは感嘆の声を上げるだろう。恐ろしい程に美しい死装束は、最上級の絹糸の上で、まるで最初からそこにあったが如く、絢爛たる輝きを放っていた。
 虚飾の冠をその頭に乗せた彼女は、まるで本当に絵本から出て来た王子様の様で、見る者に息を飲ませるであろう。

「ありがとう、御義父様。
 僕もそう思うよ。きっと上手くやってみせるさ。」

 王子様は、麗しく笑って、それから、美しく、ボウ・アンド・スクレイプをしてみせた。
 彼女が動けば、微かな光を反射して、頭の冠はきらきらと、辺りに光を散らすだろう。死を前にした故の息苦しさを感取られぬ様、アストレアは笑うのだ。愛する者を守るために、笑うのだ。

 断頭台からの景色は、美しかった。

 麗しの王子様。
 死の間際にあっても、その美しさはついぞ変わらなかった。寧ろ瀬戸際に立たされているからこそ、彼女の有り様はより輝かしく、見る者の目に映るのかも知れなかった。
 きっと、戴冠した彼女の晴れ姿は、一度見たら誰もが忘れられないものになるだろう。


 先生はそんなあなたを、温度の変わらない微笑みを浮かべながら見つめていた。


「遅くなったけれど、君の元にドレスが届いたんだ。きっと君も気にいるだろう。
 私が着付けてあげるから、こちらへおいで。アストレア。」

 アストレアの手を優しく取り、先生はあなたを先導していく。舗装された地獄の道へと。


 ──あなたの末路は、果たしてどう描かれるのか。
 この場にいる誰もが、見通しのつかない闇の中に沈んでいた。その暗がりで唯一、アストレアの銀糸の頂きで輝く冠だけが、虚ろな光を放っているのであった。

Chapter 1 - 『Apple to Appleを誓え』
《2nd Unveiling》

David
Astraea

 ──頭の奥で、鐘が鳴り響いているように感じた。
 それはきっと、祝福では無かった。
 あなたを追い立てる為だけの、重圧的で、鬱屈とした鐘の音だ。


 あなたの首元で、淡いパステルブルーの夢見がちなリボンが結ばれる。これから梱包されゆく無機質な人形の気分を味わった事だろう。
 洗練された指先から頭まで、あなたを着飾る絢爛豪華なお披露目用の礼服は眩かった。磨き抜かれた宝石がとうとう完成したかのようだった。

 ──あなたは着付けの際、咄嗟に室内に持っていたナイフを隠していた。だからか、ボディチェックまがいのことをされても、どうにか誤魔化すことが出来た。

 ソフィアから託された、鉛色の凶器。結局あなたはそれを手放せないでいた。
 今ここでドレスを裂いても、果たして効果があるとはとても思えなくて。それでも、彼女の魂からの叫びがハウリングして、結局──……


「アストレア。さあ、行こうか。」

 エントランスホール、寮の玄関口。
 皆が寝静まった頃、あなたは薄暗い夜闇に包まれた寮の外へと踏み出していく。
 ドレスの懐には、ナイフを忍ばせていた。先生はきっと、それに気づいていない。

 先生が持つカンテラの優しい光が周辺を照らしていた。彼は空いている方の手であなたの手をそっと繋いでいる。

 足先はもうすぐ、死の入り口たる昇降機に辿り着こうとしていた。


「──Daisy,Daisy,give me your answer do……」

 ふと。あなたの耳を、傍らの彼の穏やかなバラードの旋律がかすめる。
 不気味な静けさに包まれた月夜に、彼の声はしっとりと響き渡っていた。

《Astraea》
 荘厳な鐘の音を遠くに聴きながら、2人だけの短い葬列は粛々と進む。
 煌びやかな死装束は少し窮屈に思えて、アストレアはふぅ、と息を吐いた。あと少し、もう少しだけ、この呼吸を止めたくなかった。このコアの高鳴りを、感じていたかった。
 それなのに、繋がれた二つのココアブラウンは固く、この場から逃げ出したい衝動に駆られたとて、それを赦さぬ無言の圧があった。カンテラの真っ直ぐな光が闇夜を切り裂く。死が、彼女と周りとを切り裂く。
 無機質なビスクドールは、その憂う睫毛を揺らして、編み上げたブーツの高い踵をきゅ、と鳴らして、その耳を不気味で優しいバラードへとただ傾けて居た。
 もう何も考えたく無かった。懐の冷たい光は、親友からの愛に充ちていたけれど。

「綺麗な歌だね。何と云う曲なの?」

 月光の如く、涼やかな声が細く響く。アストレアは、その優秀なメモリに数万のお話を収録していたけれど、音楽の収録数は差程多くは無かった。
 淑やかなバラードは、彼女の知らない物の山に埋もれた一つ。薄い唇から疑問符を吐けば、返事を待つように、無機質で彫刻の如く美しい笑顔を浮かべたまま、そのかんばせを右に8°傾げた。

 あなたの行く末に煙のように纏わりついて飾る、先生の子守唄のように穏やかなバラード。思えばこの旋律を耳にしたのは初めてではなかった。優しくゆったりとした旋律は、彼が日常的に好んで低い鼻歌で奏でるものだった。

 メロディラインに添えられるような詩があったことは、いま初めて知った事だろう。
 あなたの純な子供の好奇心を装うような、ぽつりと落とされた質問に、先生は微笑む。カンテラの灯火の揺らめきによって、彼の彫りの深い鼻先や頬が百様にも照らされている。

 彼の目線からもそう見えていただろう。あなたの綺麗な微笑みは、陰影の具合によっては悲壮的にすら見えた。
 最期まで先生に従順でいい子なドールであろうとする、あなたの精神力は大したものだった。

「これかい? これは……実を言うと、先生もよく覚えていないんだ。
 私がまだ小さかった頃に、親代わりだった人によく子守唄として歌ってもらっていた。素朴な愛を歌っていてね……昔からずっと、先生のお気に入りだ。」

 滔々とした声で彼は応えてくれた。
 昔馴染みの愛着のある曲らしい。
 ざく、と地面を踏み締める音が互いの合間に響く。あなたが絢爛な衣装や目の前の暗闇に足を取られてしまわないよう、固く繋がれた先生の頼もしい大人の手は離れない。
 それはあなたにとっての戒めであり、決して逃れることを許さない楔だった。

「──アストレア。」

 歌声が止んだ合間に、彼の静かな声。
 美しい名を呼び掛けて、彼はあなたを見下ろす。

「先生は、君を愛していたよ。心から。君は聡くて、優しい子だった。誰かのために自分を殺すことが出来てしまうぐらい、致命的なほどに優しい子だったね。
 だからこそ、君を好いていた子はこの学園に多くいただろう。先生も、君が去るのはとても名残惜しい。

 だけど君は、これからなによりも、愛おしく感じるヒトに出逢う。その出会いを妨げることは出来ない。先生はきっと君が『見初められる』ことを祈っているよ。

 君なら大丈夫だ、アストレア。」


 ──逃さない、と、告げられているようであった。
 彼の笑顔は、どこまでもいつも通りで、これからあなたは絞首台に首を掛けるというのに、眉ひとつも動かさない。
 彼にとっては数多と築き上げられてきただけの無数のドールズの犠牲のひとつになるのだと、あなたは漠然と理解する。


「It won‘t be a stylish marriage──」


 バラードの旋律に背を押され、あなた方はいよいよ昇降機に乗り込んだ。
 ゴウン、と重々しい音がして、浮遊感がその身を包む。彼は乗り込みながらカンテラの明かりを消していた。


 降りていく間は、一瞬のようにも、永遠のようにも感じただろう。
 あなたはひと時の間、昇降機の揺れに身を任せる。きっとそれが最後の猶予だった。

《Astraea》
「……そう。」

 優しく美しく、鼓膜を撫ぜるは名も知らぬ旋律。
 この人は、本当に残酷な人だ。その歩みが、何処へ向かうのか知っていながら、優しい父の顔をする。アストレアは常々、その人の正体について、言い表せないほどの鬼胎を抱いていた。彼は、ドールと並んでも引けを取らぬ程に見目麗しく、されどドールでは無いらしい。その真実を知る事無く、その命の糸はちょきんと断ち切られてしまう様だけれど。
 足元は夜露に濡れていた。恐ろしい程の沈黙に、ただバラードだけが低く遠く響く。何処か不思議な反響は、偽物の穹のせいだろうか。
 アストレアは、静々と、真っ直ぐに歩いていた。礼服に付けられたリボンや、フリルや、レースの類いがその歩みに合わせ、ふわふわと舞い踊る。その細い身体を締め上げるコルセットは、意志を表現するストライプ。されど、今のアストレアには自由などない。それはまるで、鉄格子の様にさえ見えた。

「本当?
 貴方が云うのなら、きっとそうだね。僕は大丈夫だ。」

 デイビッドは、数え切れない亡骸の上で平然と笑う。時に、朽ち果てた王冠に縋り付く王子様さえ蹴り落とし、それでも嘲笑う事は無い。ただそのかんばせには優しい父の笑顔だけを貼り付けて、薄い唇はただ愛を騙るだろう。全く、何と悍ましく、浅ましいことか。その心中には、いっそ清々しいほどの軽蔑だけが蔓延っていたけれど、彼女がそれを顔に出すことはない。彫刻の笑みを浮かべる、ただそれだけなのだ。

 きっと素晴らしい結婚にはならないでしょう。
 そんな歌詞が、伽藍の頭に響く。素晴らしく無いのはお披露目だけれど。
 使い慣れた昇降機は、唸りながら深く、深く、潜って行く。特に意味もなく、ただ小首を傾げれば、頭の装飾がしゃらりと鳴った。
 それはただ、束の間のモラトリアム。文字通り、短い短い猶予期間。
 アストレアは、ただただ黙って、狭い箱の重苦しい空気を、その薄い背中に背負い込んでいた。
 様々な思い出が、走馬灯の様に脳裏を駆け巡る。メモリが整理をしているのだろうか、もう意味は無いのに。
 親友の、相棒の、仲間たちの、愛する人の、大好きな笑顔が駆け巡る。

 ────嗚呼、死にたくないな。

 思わず、乾いた笑いが零れ出る。
 もう自分の為に足掻くだなんて、出来ないの。価値の無い一文人形の為に足掻くだなんて、出来ないの。
 それでも、この心のシグナルを無視してはいけない気がして。親友の思いを無下にしてはいけない気がして。足掻くのならば、今はまだその時じゃない。懐の刃は冷たい。
 怖くて足が竦むけれど、そんなの知らないふり。アストレアはまるで操り人形の如く、ただ真っ直ぐに立つ。まだチェックメイトは聞こえて居ない。
 王手のかかる、其の時まで、真っ直ぐに立つのがお人形の仕事なのだから。

【学生寮2F 少年たちの部屋】

Ael

 ──目一杯の祝福と、賛美と、笑顔を湛えて、今夜、オミクロンクラスの同級生であるアストレアはお披露目へと旅立った。

 あなたはいつもの通り、お披露目をその目で見ることは許されていないため、少年たちの部屋の定められたベッドの中で眠りについていた。
 薄暗い蓋の内側には、無数に刻まれた『√0』の文字。

 ──あなたが√0と形容するあの声を聞いたのは、いつからだっただろう。

 毎晩のように、男か女かも、子供か老人かも判別出来ない曖昧な声を夢の中で聴いている。そしてあなたは不思議と、その記憶だけは喪失したことがなかった。脳内にこびりついたように、√0のことだけは覚えていられるのである。

 今日もあなたはあの声を聞くのだろう。
 そんな風に構えながら目を閉じたとき。


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 棺の向こう側に、青いちらつきが見えたのは気のせいではないはずだ。
 以前噴水のそばで見かけた蝶は、まるで天からの迎えのように緩やかにあなたの棺の格子状に留まり、翅を震わせる。
 直後、あなたの口は意図せずして動き出す。


『こんにちは、エル。』

『第三の壁の監視者が、黒い塔を離れたよ。』

『わたしに、わたしたちに、みんなにあいにきて。』



 あなたの腕は、蝶に触れようとして棺の蓋に触れるだろう。
 ──不思議なことに。
 鍵が掛かっているはずの棺の蓋は、あなたが押し出すとギィ……と微かな音を立てて開いた。

《Ael》
 身体は無意識に動いていた。自分で意思を持って、制御も、何もできない。いつもの子守唄のあの声。あの声は、第三の壁の監視者は黒い塔を離れたのだと告げてくれる。

 大事なお友だち、アストレアというドールのお披露目の日である事を、なぜかエルはふと思い出した。……あぁ、少し悲しいな。また、寂しくなる。それでも、今自分がするべき事は、悲しむことじゃないと確信している。

 ……ねぇ、√0。エル達をほんとうにたすけてくれるのです? ほんとうなら、ありがとうなのです。エル、がんばるのです!

 口角が、緩やかに上がった。ギィ。無数の√0の蓋を優しく押す。がんばると、意思を伝えるように。まって、ちょうちょさん。青く美しい、エルのちょうちょさん。短くて小さな腕を、必死に伸ばしてその青いかけらに触れようとした。

 棺を開いた時、蝶は暗がりで青白い鱗粉を振り撒きながら一度その場を飛び立ったが、あなたが身を起こしてこちらに手を伸ばすならば、ふんわりとした挙動であなたの指先に留まるだろう。

 その瞬間、痺れるような一瞬の刺激があなたの感覚神経を巡って。
 あなたは何かに背を押し出されるような不思議な使命感を帯びるだろう。

 黒い塔に行って、√0に会わなければならない、と。

 √0が言うには、黒い塔には『第三の壁の監視者』と呼ばれる警戒すべき存在が巣食っている。だが今ならば、その危険もなく忍び込めるかもしれないと。

 危険なのは間違いないだろう。その恐ろしい存在についてあなたは何も知らないのだから。
 けれどもあなたは、それでもやらなければならないと感じる。

 使命感に突き動かされるようにして、目線は室内のワードローブに向かうだろう。
 そこにはあなたの赤い制服がハンガーに丁寧に掛けられている。今着ているのは眠るための寝具であるため、出掛けるならば着替えておいた方がいいかもしれない。

《Ael》
 ……こんにちは、ちょうちょさん。エルと、仲良くしてほしいのです。

 まるで身体の一部になったのかのように止まったおともだちを受け入れては、おともだちに行こう、と誘われる。
 はい、もちろんなのです、行くのです。
 黒い塔の、第三の壁のの恐るべき監視者はいない。今しか、ない。√0は、エルを歓迎し、そして、エルたちドールを助けてくれる。寝巻きのまま√0に会うのはなんだか無礼だ、正装である制服でいかなきゃ。眠るために着替えた服を制服に戻し、解いたリボンを使ってもう一度いつも通り二つに髪を結ぶ。髪飾りも、しっかり付けてはうん、と頷いておともだちのいう通りに歩みを進めた。

 制服に身を包むと、一層気分が引き締まるのを感じた。
 この時間に寮の外を出歩くのは、大事な決まりごとを破ってしまうことになる。それを先生に見咎められれば、厄介なことになるかもしれない。
 ここからは細心の注意を払うべきだ。

 あなたは夜間の薄暗い寮内に漂う肌寒さに身を浸しながら、少年たちの部屋を出る。
 その先はエントランスホールから続く広々とした吹き抜けのある通路だ。
 手の届かない正面の壁には、大きく切り取られた窓が取り付けられている。そこから差し込む優しい月明かりが、一体に漂う埃を反射させて、きらきらと幻想的に輝いていた。

 蝶が一帯を泳ぐように舞い、そしてあなたの青い髪に優しく留まる。
 神経に響くような微かな刺激の後。あなたの口は操り人形のように勝手に開き、優しく、どこか懐かしくも感じる歌声をこぼし始める。
 自身の声で発される歌を、あなたは知らない。知らないはずの歌を奏でている。


 ──どうやらそれは、あなたが暗い夜の孤独に苛まれぬよう、仲間を引き寄せる為だったようだ。
 やがて少女たちの部屋の扉が開かれ、不思議そうな顔をした少女が歩み出てくるだろう。

【学生寮2F 少女たちの部屋】

Lilie

 アストレアが学園を去った、その日の晩。

 あなたはいつもの通り、お披露目をその目で見ることは許されていないため、少女たちの部屋の定められたベッドの中に横たわっていた。
 眠ろうにも眠れない。あなたは嫌な予感と胸騒ぎがして、表情をこわばらせていた。

 最後にアストレアと会話した時に感じた、かすかな違和感。
 ここ数日、オミクロンクラス全体に漂う奇妙なぎこちなさに、トゥリアらしく繊細な目利きをしているあなたは薄々と感じ取っていたのだ。


 眠れない夜を過ごしていると、異様に喉が渇く……。
 けれども棺の蓋は毎晩先生の手によって施錠されるため、あなたはただ横たわっていることしか出来ない。
 アストレアのことも、何も。
 あなたは真実を知らぬまま、ちぐはぐな平穏に身を浸していくのかもしれない。


 ──それが狂ったのは、あの歌声からだろう。

 清らかな声が、廊下から聞こえた。あなたの聞き間違いでなければそれは、同級生のエルの声だろう。

 エル──少年たちの部屋で眠りについているはずの彼の声が、どうして。

 あなたは興味を惹かれて、棺の蓋へ手を伸ばす。
 求めるものに応えるかのように、どうしてか。棺の蓋は容易く開き、あなたは夜の世界へ出ていくことが出来るだろう。

《Lilie》
 白百合が姉と慕った王子様。
 ほんの少し、様子の可笑しかった王子様。
 ずっと、様子の可笑しいオミクロンクラス。
 大好きな、大好きなアストレアは、美しい衣装を纏って、幸せそうに笑って、皆に祝福され、お披露目へと旅立った。大好きなお父様、基、先生に手を引かれて。
 幸せなはずなのに、おめでたい事のはずなのに。アストレアと最後に話した時の笑顔が、到底、憧れに向けるようなものでは無い、諦めの混じった無機質な笑顔が忘れられなくって。ずっと背筋を撫でられているような感覚に陥る。不安で不安で仕方なくって、目を瞑っても、眠気なんて湧かなかった。きっと、これはアストレアの美しい姿を見た興奮故だろう。そう、理由づけて嫌な予感から目をそらす。

 嗚呼、喉が渇く。
 棺の扉は、きっと今夜も開かない。先生が、お父様が鍵を掛けたから。だから、ずっとこうして朝を待つ。この胸騒ぎから目を逸らして。きっと、なんでも無くって、ただの気の所為なのだろうから。沈黙に耳を澄まして、平穏な、何も変わらない、アストレアが欠けた明日を待つのだ。

 ―――歌声が聞こえる。
 美しく、清らかな歌声が。忘れっぽい天使様の、エルの歌声が。何故? 何故? 棺は朝まで開かない。その筈なのに。もしかしたら、もしかしたら。リーリエは、一抹の希望を胸に棺の蓋へと手を伸ばした。小さく音を立てて扉が開く。全て開いてから、リーリエはありえないものを見るかのように己の両手と蓋の間に視線をうろつかせる。
 そうすること数分。現実を受け止めたリーリエは、暗い暗い夜へと一歩足を踏み出した。天使様の清らかな歌声を道標として。

 まるで聖歌のような、清らかで敬虔なる歌声が奏でるのは、あなたが知らない、けれどどこか懐かしさを感じる、そんな穏やかな歌だった。
 メロディラインは、どこかで聞き覚えがある──けれどあなたはそれがどこで聞いたものだったのか、思い出せない。

 あなたが棺から出て、エルの歌声に惹き寄せられていくならば。自然と夜間の寮内に漂う肌寒さをひしひしと感じるはずだ。

 ──トゥリアの脆い身体には、ほんの少しの寒さでさえも身に沁みる。
 あなたは僅かに身を縮こめるだろう。この寒さを凌ぐために、まずはこの薄手のナイトウェアを着替えなければ。

 ワードローブに足を向けて、着慣れた赤い制服に身を包むと、気分は自然と落ち着いた。
 胸騒ぎに蓋をして、あなたは少女たちの部屋を出ていく。

 ──エントランスホール。その吹き抜けがある広間の廊下に、立ち尽くす青い髪の少年が見えた。
 降り注ぐ月明かりに照らされて、彼の周囲は青白く輝いている。

 あなたがやってきたのを見ると、エルは歌うのをやめて、あなたと視線を合わせるだろう。

【学生寮2F エントランスホール】

Ael
Lilie

『──Daisy,Daisy,……』


 それは、真夜中の、起こりうるはずもない不可思議な逢瀬だった。


『──give me your answer do……』


 月明かりが差し込む、日常的で、幻想的な舞台にあなた方は集う。


『I‘m half crazy all for the love for you.』


 青い髪を揺らがせて、天使の御使いたるエルは振り返る。その時、彼の口元が柔らかく奏でていた歌声はぴたりと止む。
 エントランスホールの壁に大きく取り付けられた窓から差し込む月明かりが、白銀の麗しい少女リーリエと、エルとを、優しく包み込んでいた。


 そうしてあなた方は巡り合い、夜の闇に身を浸す。
 エルは成し遂げなければならないことがあった。あなたの歌声に惹き寄せられてきたらしいリーリエに、何と声を掛けるだろう。

《Ael》
「リリ、こんばんはなのです。……せんせいに、おこられちゃうとよくないので、ちいさくお話しするのです。」

 口から奏でられる五線譜の上の黒い点をなぞったものを、白百合の少女を見つけて止める。きっと彼女も、一緒に√0に会いに行くのだから、説明しなきゃ。せんせいにバレないよう、ちいさく、ちいさく話し始める。

「いまから黒い塔に行くのです、第三の壁の監視者が、ちょうどいないのです。一緒に√0に会いに行くのです、大丈夫、ちょうちょさんが案内してくれるのです。エルにおまかせなのです」

 自信に満ちた表情で、黒い塔に行こうとリーリエを誘った。いや、きっとリーリエだって黒い塔に行くはずだから一緒にいてほしいというお願いになってしまうだろう。おともだちの、ちょうちょさんもいるけど、もう一人誰かがいたらとても頼もしい。行こう、二人と一匹で、黒い塔に。

《Lilie》
 エルの話した言葉に、リーリエは困惑を隠せない。第三の壁の管理者? √0? リーリエは、何も知らない。だから、そんなことを急に言われたって何が何だか分からない。蝶々が案内をする、と言われたって、分からない。黒い塔とは、あの、開かずの塔のこと? 分からない。

「……エルくん、黒い塔って何なの? 第三の壁の監視者だなんて、わたし、知らないの。√0も、分からないの。」

 自信に満ちた、エルの表情とは反対に、リーリエの表情は不安と困惑で埋め尽くされている。理解の及ばないことを話すエルが、怖くって、仕方がなかった。天使様につられた、小さく、小さな困惑の声。白百合は、ふるふると、その艶やかな白絹の髪を揺らした。分からない、と怖がるように。不安そうに。だって、知らないものは怖いから。

《Ael》
「んん、説明は………むずかしい、のです……√0、それはエルたちをたすけてくれるのです。エルたちを解放してくれる、大事な存在なのです。第三の壁の監視者、それは……こわい存在、なのです。監視者のせいで、エル達は√0に会えないのです。うぅん……ここでお話ししててもせんせいにバレちゃうと危ないのです、とにかく行くのです、行ったらわかるのです。……こわい思いは、させないのです。天使が、エルがついてるのです、任せてほしいのです」

 知らない、分からないというリーリエに少し驚くも、大丈夫だと安心させるように手を柔らかく握って、また旋律を奏でるように優しく、優しく説明する。どうしてリーリエがここにきたのか分からなくなってしまったが、もうここにいるなら仕方ない、着いてきてもらおう。きっと√0だって歓迎してくれるはずだから。怖がりな白百合が、恐怖で壊れてしまわないように。大切に手を包み込んで、行こうとちょうちょさんの止まった指で、指差す。ちょうちょさんの青く美しい導きを、純白なあなたにも教えてあげるために。

《Lilie》
 旋律のように紡がれる言葉は、やっぱり何にも分からない。先生に、バレたらダメなことなのだけは分かったけれど。何にも分からなくって、不安なのは相変わらず。
 エルに握られた手。怖いのは変わらないけれど、エルが任せて、と言った。天使がそう言うなら、信じてみよう、と。根拠もなくそう思った。ここで、リーリエが嫌だ、と言った場合、エルはひとりぼっちでそこに行くことになるのだろう。……ひとりぼっちは寂しいから。それに、エルは、時折神様から意地悪をされる。もし、落し物をしてしまったら、帰って来れなくなる。エルに、会えなくなるのは嫌だから。己の恐怖と、エルに会えなくなる恐怖、その二つをリーリエは天秤に掛けた。

「……わ、かったの。エルくんがそう言うのなら。わたしね、本当はね、とっても怖いの。でも、エルくんを一人にする方がこわいのよ。だから、一緒に連れて行って欲しいの。」

 天秤は、傾いた。
 願いを口に述べると、リーリエはエルの指先へと視線を向ける。そこには、エルが言うような『ちょうちょさん』はいなかった。天使様には、一体何が見えているのだろうか。白百合は何も知らない。ただ、それはきっととても絵になる光景なのだろう。と思いを馳せることしか出来なかった。

《Ael》
「ふふ、はいなのです。それじゃあ行くのです。リリ、おてては離さないで、おやくそくなのです」

 一人にする方がこわい、なんて言われては少し驚くも優しいなぁと笑みを溢す。それじゃあ行こう。人差し指に止まった、おともだちの案内に従って。優しく握った柔らかな手を離さないように歩みを始める。この間リーリエに案内してもらった、エントランスホールに差し込む月明かりの中を進んで、寮の外に出る。

 青いちょうちょさんは、エルに恐怖という感情奪ったのだろうか? もう躊躇いも、何もないエルの歩み。真っ直ぐ、行き先を示すちょうちょの鱗粉。長い長いツインテールはその青い輝く鱗粉によって、いつもよりキラキラとしている。ふんわりふんわり、歩みを進める度に髪の毛はゆらぎ、輝いている。

 あなた方は、エントランスホールの広間へと緩やかに降り立つ。本来ならば、寮の玄関扉にはいつも先生が鍵を掛けるはずなのだが、──不思議なほどにあっさりと、あなた方が外に出ることに扉が応えたかのように、扉はギィ、と音を立てて開かれる。

 まるで夢の世界を歩いているようだった。
 青い蝶の奇妙な導きだった。


 蝶は、エルとリーリエの周囲を旋回しながら、夜闇を青白く照らして迷いなく先を進んでいく。
 煌めく鱗粉の軌跡を辿るようにして、あなた方は寮周辺の平原を慎重に踏み締めていくだろう。


 ──リーリエは……先を進むごとに不安が増していくようだった。

 何故ならばあなたの目には、エルが盲信的に追いかけている『√0』を指し示しているらしき存在も、案内してくれるらしい『ちょうちょさん』の姿も、見えはしなかったから。

 エルは、テーセラモデルでないと見えないような立ち込める暗闇の中を、迷いのない足取りで進んでいた。
 その後をついていくあなたの恐怖はいかほどだろうか。

 まるで不安定な網の上を歩かされているような、そんな気持ちで。

 ──あなたは、トイボックスの夜に沈み込んでいく。

【学園へ続く門】

 驚くべき事に、エルは月光でさえも明らかには出来ない、暗澹たる夜道を手掛かりも無しに突き進み、とうとう門へ辿り着いた。

 煉瓦を積み上げて造られた門の向こう側は、深い闇で満たされたトンネルになっている。トンネルを少し進んだ先に、学園へ向かうための昇降機が待っているのだ。

 見慣れた門は、夜に見るとまるで知らない場所のようだった。出鱈目に塗り潰されたような黒い闇の中を、あなた方は歩き進んでいく。


 目の前には、閉ざされた昇降機への入り口がある。
 あなた方が揃って目の前に立つと、ゴウン、と内部で低い機械音を立ててから、緩やかに昇降機の扉は開かれた。

 黒いトンネルに、目を刺すほどに強い白い光が差し込む。
 昇降機には、電力がいまだ供給されているらしい。あなた方が籠に乗り込めば、自ずと扉は閉まるだろう。

 ──学園側に辿り着くまで暫し、猶予の時間がある。

《Lilie》
 暗い夜道。足元すらもろくに見えないその道を、エルは迷いなく突き進んでいく。リーリエは、手を握られ『ちょうちょさん』とやらに導かれるエルに着いていくだけ。

 そうして、ついに昇降機に辿り着いた。否、辿り着いてしまった。いつも通り、低い音を立てて、緩やかに開く昇降機の扉。扉の向こうには、いつも通り、籠がある。空は、真っ暗でいつも通りではなかったけれど。他は、何も変わらずいつも通り。エルを一人にする訳には、と着いてきたは良いものの、今更ながら規則破りをしてしまったら事への罪悪感がリーリエを襲う。お父様に怒られたらどうしよう、失望されたらどうしよう、と平気な顔をしておきながら、内心は心配事でいっぱい。考えれば考える程、指先が震えそうになる。リーリエは、その震えを悟られぬ様、そっと手と手を離そうとするだろう。

「ねぇ、エルくん。これから向かうのは、『黒い塔』なの?」

 何の迷いも無いエルの足取り。きっと、寮のエントランスホールで聞いた『黒い塔』とやらに行くのだう。小さく、エルへと尋ねる。本当にそこへ行くのか、と。
 そこに行けば、『√0』、『青い蝶』とやらのことが分かるのだろうか。リーリエには分からない。でも、きっとエルの口ぶりからするとそうなのだろうな、と思っていた。

《Ael》
 あたりは暗く、横は見えない。でも、なぜか一筋の道が見える。ちょうちょさんがエルを導いてくれるから。
 ごうん。
 昇降機のリズムに身を委ねる。
 ごうん。ごうん、ごうん。
 重い音を立てる昇降機を出て、次の道を見据える。遠くを見つめる、そんな目で。
 ねぇちょうちょさん、道はここなのです?
 そうやって少しずつ問いかけながら、間違えない様に正しい道筋を踏んでゆく。ふと、リーリエが手を離そうとしたのに意識を引き戻される。

「リリ、離しちゃあぶないのです。……こわい、のです? でも、離した方がもっとこわいのです。大丈夫なのです、いくらでもこわいと思っていいのです。エルが、守るのです。だから、リリをあぶない目には合わせないのです。」

 きゅ、先ほどより強く手を握る。もう、離さないでほしいと。自分は心配や恐怖は何もないが、このままだとリーリエがひとりぼっちになってしまうというのが、いちばん嫌だった。

「はいなのです、『黒い塔』に行くのです。……√0はずっと、エルにお話ししてくれました。待ってる、と……だから、この日が来るのは前から決まっていたのです。リリも着いてくるとは思わなかったのです、でも、来てくれてなんだかうれしいのです。ありがとうなのです」

 真っ黒な背景に浮かぶ白百合の声にそう返す。今から√0に会いに行くと再度告げ、ちょうちょさんの道を真っ直ぐに見る。

「……もしかして、リリ、嫌になっちゃったのです? それなら、エルがリリを送るのです。ひとりでも大丈夫ではあるのです、どうするのです?」

 もしかしてとリーリエにそう訊く。まだ、ここなら引き返せる。彼女が嫌というのであれば、エルはそれを肯定するだろう。

《Lilie》
 離そうとした手は、天使によってきつく握られた。離さないで、とでも言うように。
 違う、違うの。嫌なんじゃない。エルを一人にした訳じゃない。エルを、ひとりぼっちで危険かもしれない所に行かせたい訳じゃない。危険かもしれないところに行くのは、もしかしたら、傷付くかもしれないのは、やっぱり怖いけれど、嫌じゃない。得体の知れないものは怖いけれど、エルが居るなら。『ちょうちょさん』とやらでも、『√0』とやらでもなくって、エルを信じてみよう、と。

「……うぅん。心配事がね、あっただけなの。だけどね、エルくんがいるなら、きっと大丈夫なのよ。だから、わたしも連れて行ってほしいの。もう怖がったりしないのよ。エルくんのことを信じるの。」

 白百合は腹を括った。
 色違いの双眸を、瞼の下に隠す。再び、それが外気に晒された時。先程までの怯えは浮かんでいなかった。
 昇降機の、鳴る音がほんの少し不気味で、ほんの少し心地よい。一定のリズムで刻まれる低い音。もう、後戻りができないのだろう、と察しは着いていた。
 白百合は、天使様の手を握り返す。決意を表すかのように、強く、強く。

 謐けき籠に揺られ、小鳥の囁き声のように言葉を交わすあなた方の決心がついたのを見計らったように。

 エレベーターは静かな駆動音を響かせながら、やがて目的の場所へと辿り着く。全身をくるんでいた独特の浮遊感が煙に消え、あなた方の目の前で白い籠の扉が開かれた。

【学園1F ロビー】


 かくして目の前には、日々の勉強の為に見慣れた──そして、あなた方も知らない真夜中の学園が広がっている。
 窓がない学園は常に燭台の明かりによって採光がなされており、壁紙や絨毯の重厚な赤色も相待って、吸い込む空気が重苦しい。狂い咲く深紅の花が等間隔で飾られており、あなた方をじっとりと見つめている。まるで規則違反を咎められているようで、気分が悪かった。

 エレベーターから降りてすぐ目の前には、学園の広間がある。目に見える範囲にドールや先生の姿はない。
 遠くからは愉しげな音楽が聞こえてくる。きっと、今頃煌びやかなお披露目が開催されているに違いない。


 ロビーの中央までやってくると、掲示板が目に入るだろう。可愛らしく切り抜かれた木製の花や太陽などの装飾で子供向けに彩られている。

 掲示板にはドールズの為に日々様々な掲示がされているのだが、その中にあなた方が見たこともない書類がピン留めされているのを見つけた。
 これは何だろうか。

《Ael》
「……わかったのです、リリ、いくのです」

 信じる。そう言われて、エルは優しく微笑んでそう答えた。ちょうど昇降機は動きを止めた。ごうん、という音はもう聞こえない。ない道を、赤くほんのり明るい、規則違反を咎めるような目線の学園を背景にしてある道の如く歩き、愉しげな音楽をBGMに足音で小さなリズムを奏でる。

「んん……? これは、なんなのです……?」

 ロビー中央にある掲示板。エルにとって初めての出会いであるそれに、エルが興味を持たないはずがない。近づいてみれば、なんだか不思議な書類が。なんなんだろう、そう思って目を凝らして見てみた。


 掲示板にピン留めされた一覧には、ひどく簡素ながらにお披露目に選抜されたドールズの名がずらりと並んでいる。中にはあなた方が知っている名前もいくつか見られるかもしれない。



 内容は以下の通りである。

【Doll of LifeLike;Servant】

【XXXVI 定期品評会】



0-1P-L Astraea

1-S Wendy

2-F Orivia
2-L Daisy

3-M Brittany
3-B Clarence

4-S Rain
4-B Shawn


──以上八名。滞りなく出荷予定。

《Lilie》
「『0-1P-L Astraea』
 ……アストレア、お姉様。」

 身知った名前を、掲示板に見つけた。きっと、これはお披露目されるドールの名前が書かれているのだろう。……出荷、とは穏やかでは無いが。嗚呼、でも、ドールたちは商品なのだから、表現としては適切なのだろうか。そう思ったとて、嫌な胸騒ぎは決して消えてはくれないけれど。

 ウェンディ、オリヴィア、デイジー、ブリトニー、クラレンス、レイン、ショーン。そして、アストレア。書かれた名前が、お披露目へと出されたドールたちの名前。振られている番号は、何なのだろうか。少なくとも、何かに関係があることは間違いないだろう。

「エルくん、これ……。」

 掲示板から視線を外し、エルへと声をかける。きっと、頭の良いエルならば分かるかもしれないと思ったから。

《Ael》
「………えっと、リリ、エルの質問に答えてほしいのです。エルたちは、おみ……くろん、? クラス、なのです? そして、うーん……アスは、何のドール、なのです? アスについてほかに、わかることはあるのです?」

 『0-1P-L Astraea』。その文字は、アストレアを表している。この前の記号、アルファベットと数字で構成されたものはなんだろう。頭の中で思考を巡らせる。
 そして頭に残っていた片隅の記憶から、オミクロンという単語を引っ張り出す。0、それがOに見えなくもないのだ。それに、アストレア以外の名前は知らないものだから、きっと0は自分達、オミクロンクラスを表しているのだろう、と。でも確証はないし、それよりも覚えていないとわからないことだらけ。そこで、リーリエに手伝ってもらってこの謎を解こうと考えた。アストレアの情報が、この暗号の鍵になるはずだと踏んで。

《Lilie》
「そうなのよ、わたしたちは、オミクロンクラス。でもね、最初からそうだった訳では無いのよ。アストレアお姉様は、元々はエーナクラスで、プリマドール………、そのクラスで、いちばん凄いドールだったの。……後は、擬似記憶は、アストレアお姉様の擬似記憶は、確かプリンセス、と言っていたの。きっと、大事な人、だったのね。」

 アストレアについて、リーリエが知っていることはそこまで多いわけでは無い。エーナクラスだったことは知っている。プリマドールだったことは知っている。擬似記憶にいる大切な人が、プリンセスと呼ばれていることも知っている。でも、それだけ。恐らく、アストレアとそこそこ親しい者ならば知っているであろう情報だけ。
 記憶を辿るように、少しづつエルの質問に答えていく。これが、何かの手助けになるのなら、と。答える情報に、嘘偽りは無かった。
 ……そもそも、何の為にこのように番号を振っているのだろうか。商品として、管理をしやすくする為? それならば、納得がいく。そうじゃないのならば、リーリエには分からないけれど。

《Ael》
「なら、最初のところはオミクロンクラスを表していると思うのです、0………エーナクラス、プリマドール……んん、きっと1、がエーナクラス、PはプリマドールのP……だと思うのです。
 擬似、記憶……? プリンセス、大切な人……L、L……? 確か、Likeは……すき、って意味があったはず……? なの、です、なら、それよりも強い、Love……? うぅん、最後だけはどうしてもわからないのです……」

 0-1P、それがオミクロンクラスのエーナドールのプリマドールというところまでは完璧にわかった。エルは、擬似記憶、という知らない単語に首を傾げるが、大切、そして上の方にあるLikeという単語でLoveではないかという考察をしたが、当たっている確証は何ないし、わからない。とにかく、これ以上情報が入るとまた全部、出ていってしまいそうだから、口をつぐんだ。

「なんなのでしょう……あ、ノート、忘れちゃったのです……リリ、覚えておいてほしいのです」

 きっと忘れちゃうから、記録しようとしたがあいにく今日は忘れてしまった。仕方がない、リーリエに覚えてもらおう。お願い、と言えばふと我に帰るような感覚に陥る。ちょうちょさんが、ふんわりと舞ってまた指に止まる。行こう、と言わんばかりに。

「ちょうちょさんが、行こうと言ってるのです、リリ」

 白百合のドールを黄金の優しい片目で見て、行こう、と道を指差した。

《Lilie》
「Love……。だったら、きっと、Loverだと思うの。恋人、って意味があるのよ。……ふふ、勿論。覚えておくの。そして、明日、一緒にノートに記録するの。約束なのよ?」

 エルの考察に、リーリエは言葉を重ねる。きっと、恋人の意があるLoverだろう、と。その後に続けられた言葉に、頬を緩める。ノートを忘れる、だなんておっちょこちょいな所が可愛らしくって。こんな状況だからこそ、そんな些細なことが愛おしい。
 リーリエは、花のように笑ってまた明日、と約束を口にする。安穏とした明日は、きっと来るのだろうから。

「……行くのね。」

 エルの言葉に、ひとつ頷いては握られた手を握り返す様に力を込める。
 『ちょうちょさんが言っている』。リーリエには、それは分からない。けれど、エルがそう言うのならばきっと、そうなのだろう。指差された道を見るれば、少し緊張したようにゆっくりと唾を飲み込んだ。

 あなた方が掲示板の奇妙な知らせに目を通している間、青い蝶は掲示板の装飾のうちのひとつ、笑顔が咲いた青色の花に留まって沈黙していた。
 別段急き立てることもなく、書類を眺めてあれこれと意見を交わすあなた方を見守っているかのようだっただろう。

 ──無論、蝶はエルの視界の端にちらついていただけで、リーリエの目には依然、そんな存在は見えていなかったが。


 ふんわりとした挙動でエルの次なる行動を促す蝶の姿は、果たして現実なのか、虚構なのか。
 リーリエにも、そしてエルにも定かでない不定形の存在に導かれるようにして、あなた方はロビーを離れるだろう。

 死に際の少女の思考を巡らせるには、昇降機の降下時間は長過ぎるのか、短過ぎるのか。普段は気に掛けた事もなかったであろうゆったりとした挙動の降下は、ギロチンに首を掛けたあなたにとって、早く楽にしてくれと思わせるようなものだったかもしれない。
 あなたの悔恨も悲壮も恐慌も、時を経つ毎に膨れ上がってゆくのだろう。

 ──そして焦れったいと感じるほど緩やかに、白い扉が目の前で開いていく。

 昇降機の籠から降り立ち、先生はまたあなたの手を優しく掬い取る。あなたに僅かの背伸びをさせるブーツと、ふんだんにあしらわれたレースやフリルの重みが、あなたの足を掬わないように。

 ──向かう先は当然、エーナドールの控え室だった。

【学園1F エーナドールズ控え室】

David
Wendy
Astraea

 煌びやかな宝石箱の世界。お披露目に選ばれた、優れたドールの待合室。
 この部屋を使用するのは無論、エーナモデルたるあなたと──エーナクラスに属する、お披露目に選ばれたウェンディである。

 ウェンディは控え室の柔らかそうなスツールに可憐に腰を下ろしていた。艶やかなる黒髪をヴァイオレットのドレスの下に垂らし、目元には大人びた化粧を施されている。
 彼女の礼装には目を引くような華美な装飾が少ない。故に隙の無い強気な魅力を引き立てている仕立てだった。

 氷山の様に鋭く張り詰めたその横顔は、しかし。振り返った先にアストレアの晴れ姿を捉えると、たちまち瓦解していく。無礼のない様にすぐさま彼女は立ち上がるも、感激に緩む口元を咄嗟に指先で押さえつけた。

「あ……アストレア、さま……! そちらの衣装、とてもとても、よくお似合いです……わたくし、その麗しのお姿をずっと忘れませんわ。」

 ウェンディによる、絞り出した様な感嘆だった。なにせあなたの姿は頭から爪先まで完璧に仕上がっていた。
 オートクチュールの美しいお人形。職人の至高の逸品。彫刻のような輪郭の造形であったり、凛々しく着こなす衣装であったり。誰もがうっとりと嘆息を零すことは間違いのない、完成品。
 ──傷さえなければ、あなたはこの舞台で最も美しかったであろうに。

「……本当に……とっても、素敵……」

 ウェンディは陶酔したようにあなたを見据えて、しかし。その眉尻を垂れ下げて、どこか物憂げに──寂しそうに、というべきか。そんな形容し難い表情であなたの装いを見詰めた。
 そんなウェンディを詰めるように、先生がジッと視線を注ぐ。

「……ウェンディ、顔色がすぐれないね。もしかして、体調でも悪いのかな。」
「……え、……」
「ウェンディ?」

 先生は一歩、ウェンディに迫りゆく。
 黙り込むウェンディのおかしな様子は気掛かりであったが、なによりも先生の正体を知るあなたにとって、この事態があまり思わしくないであろうことは想像に難くなかった。

 エーナクラスのプリマドールたるあなたであれば、先生の追及を卒なく止められる──であろうか。
 それとも下手なことをせず、やりとりに口を挟まずに、事態を見送るべきか。

《Astraea》
 細いワイヤーによって降りていく昇降機は、断首装置の刃の降りて行く様を想起させる。ギラリと冷たく研ぎ澄まされた刃が、すぐ上から彼女を睨んでいた。
 アストレアは、重く伸し掛る空気に耐える様に息をじ、と潜めて、絹糸の睫毛だけをただ真っ直ぐ前に向けていた。

 彼女は、昇降機の動く音を遠くに聴きながら、深いそのラピスラズリの底で昔読んだ本を思い出していた。あれは確か、臨死体験に関する本だった。
 曰く、臨死体験には一定のパターンが存在する。
 死の宣告が聞こえるもの。
 言いようのない心の安らぎと静けさを感じるもの。
 光へと繋がる暗いトンネルを通って行くもの。
 低い耳障りな音がするもの。

 そして、今に至る迄を思い出していた。
 あの日、静かな湖面に投げられた死刑宣告と云う石。
 死を前にして嫌に冷静になったメモリ。
 処刑場へと向かう長い長いトンネル。
 昇降機の動く音。

 これは、臨死体験であっただろうか。
 ──否、紛うことなき現実だ。その心は安らぐ事など出来ずに、トンネルの先に待ち受けるのは光などでは無い。現実はフィクションよりもシアトリカル。操り人形達は、細いワイヤーに踊らされ、美しいバレエシューズに爪先を固められ、美しい箱に詰められてしまう。
 ほんの数刻して、昇降機が止まると、箱の蓋の開くように、白い扉はするすると開かれた。
 長い御足を差し出して狭い箱から抜け出せば、ロビーへと踏み出した。高い踵で毛足の短いカーペットを踏むのはまるで雲の上を歩く様な不思議な感覚で、繋いだ手に頼る他無いのが煩わしく不愉快だった。クラシックロリィタ風の装束は、彼女をまったくドールらしく飾り付けていたけれど、見た目以上に重く、器用なアストレアでもその歩みに違和感を感じるものであった。視界の端にきらきらと輝くレースは、細かく、美しく、まるで夢みたいだったけれど。

 ──ほんとうに、夢だったら良かったのに。

 宝石箱を覗き込めば、そこに待っていたのは麗しのアメジスト。艶やかに流れる濡れ羽色の髪の毛がヴァイオレットによく映えた。アストレアはその大きな瞳を細めて笑っては、恭しく言葉を紡いだ。

「ごきげんよう、My Dear Highness.とっても素敵なお召し物で。
 ……あれだけ感動的な別れをしたけれど、こんな所で再会出来るとはね。君と一緒に舞台に立てると云うこと、本当に嬉しく思うよ。」

 殿下、だなんて言っては、恭しくボウ・アンド・スクレイプで頭を下げてみせる。彼女なりの冗談で、相手の、そして自分の緊張を解くためのそれだった。
 クスリと嫋やかに笑って、肩を竦めては、ウェンディの言葉に"ありがとう、君もとっても素敵だよ。"だなんて。

 その内、アストレアは、彼女の表情の曇りと、そして、先生の視線に気が付く。空気の不穏なのに、気が付く。
 王子様は、よく頭の回るドールであった。
 先生の視線がウェンディへ向いた時を見計らっては、その細い指先でさり気なくリボンの端を摘んで、真っ直ぐに引いた。柔らかく絡み合っていた空色のオーガンジーが、緩やかに解けては、重力に従ってはらりと落ちる。それはまるで夢見鳥が羽を広げる様で、桜の花びらの舞い散る様であった。

「あ、ごめんなさい、先生、リボンを引っ掛けて解けてしまった。
 自分では綺麗に結べるか不安だから結び直して欲しいんだ。」

 あ、なんて、気を引くように、わざと声を出しては、解けてしまったリボンを見せるように、その端を摘んで、困った様に笑って見せた。
 "不良品"の自分は兎も角、罪の無い彼女にこれ以上の災悪が降り掛かるなどたまったもんじゃない。ウェンディの憂いは……まさか……だなんて、そう頭の隅に考えながら、瞳はただ甘えるドールの色を灯していたのだった。
 一人で歩くのは怖い。
 地獄まで、手を取り合って歩いて行きたいのだから。

 夢のように壮麗な一礼は、恭しく。高貴なる者を相手にした尊重を感じ取れる、洗練された仕草の一つ一つをライラックの双眸にとらえ、少女は息を呑む。

 ──共に舞台に立てることを嬉しく思う。

 その言葉の裏に、果たして幾つもの葛藤を抑え込んでいる事であろうか。恐怖を飲み込み、絶望が滲むのを押しとどめ、彼女はそれでも王子たらんとしているのだろう。

 すべてを騙し、欺き、いつわりの微笑みで欺瞞の平穏を守るあなたこそは──

 まさしく、コミュニケーション特化型ドールズ、“エーナモデル”の冠を戴くに相応しい。



 打算を噯気にも出さぬ無垢な一声をこぼして、自身の失態をやわらかく口にするアストレアを、先生は振り返る。
 彼はきっと、ウェンディの綻びを突き崩そうと動いていたのだろう。しかしながら、普段通りに先生に甘えようとする、悪意なき子供を装うあなたを目にすると、彼は微かに笑ってそちらへと戻ってくる。

「勿論。大切な舞台だ、完璧にめかし込んでいかなくてはね。」

 片膝をついて、早くも包装が解けてしまったようにも見えるあなたの礼装のリボンを手に、そっと丁寧に結び付けていく。


 先生の向こう側に立ち尽くしているウェンディは、下瞼をかすかに痙攣させて、小刻みに肩を震わせていた。青褪めた肌、寄せられた眉、引き攣った頬──まるで物語の怪物に襲われたあわれな少女のようだ。
 これから行われるのは、全てのドールが夢にまで見る、楽しいお披露目だ。
 彼女にもその認識があるのならば、この反応は確かに、普通ではない。


「──ごめんなさい、デイビッド先生。ウェンディは今朝から体調が優れないようなのです。
 初めて出席するお披露目に、少し緊張しているのかもしれません。この子はとっても真面目だけれど、繊細な子ですから。」


 先生があなたのリボンを美しく元通りにした頃、エーナクラスの控え室にもうひとり、誰かがやってくる。
 あなたがそちらに目を向けるならば、そこにはふんわりとしたシルエットを描く綿菓子のような白銀の髪をサイドに高く結い上げた、穏やかそうな美しい女性が立っている。
 衣服は先生の黒ずくめの制服と同じ、きっちりとしたスーツを纏っていて──しかし、そのスーツの裾には可愛らしいうさぎと猫のアップリケが施されている。

 あなたは彼女を知っている。
 彼女は、あなたが元いたクラス──エーナクラスを担当する先生、ジゼルという女だった。

Giselle

 ジゼルはあなたを見据えると、かつて見た時と同じように、優しく微笑みかける。デイビッドのそれとは対照的な、白く輝く肌がまばゆさに拍車をかけているようだった。

「アストレア、こうしてきちんと面と向かってお話しするのは久し振りね。先生からもお祝いさせてもらえるかしら……?

 お披露目出席、おめでとう。クラスにいた時からあなたは優秀だったもの、すぐに選ばれることになると思っていたわ。」

 ジゼル先生は、じっとあなたを見つめている。──何か応えるべきかもしれない。

《Astraea》
 アストレアは、胸のリボンが結ばれる間中、じっと動かずにいた。
 物なれど、一応活動に必要である筈の酸素供給までをも辞め、まるでガラスケースの中の陶磁器人形の様にただただ無機質な笑みを浮かべていた。あの日、返された砂時計の残りはもう僅か。それならば、粒が落ちるのの早まらないように、じっとしておくのが良いと、そう思ったの。

「ありがとう。これで今度こそ完璧だね。」

 憎き敵であり、そして愛する人であった相手へ、まるで大輪の薔薇の咲き誇るように至極晴れ晴れしく笑いかければ、その先に見える未来など知らぬ顔で、うっとりと、その瞳に夢を浮かべるのだった。
 ひらりとその場に一回転すれば、それはまるで回るオルゴールのバレリーナの如く。光を集めた虚飾の冠が、きらりと眩く光る。

「ああ、ジゼル先生! お久しぶりです。何度か姿は見掛けていたけれどまた話すことができて嬉しいな。
 あの日、オミクロンクラスへ来ることになってどうなる事かと思ったけれど、こうしてエーナクラスの一員としてお披露目に出ることが出来るだなんて、夢にも思わなかった。
 ……傷こそあるけれど、素敵な方に選んで頂けるだろうか。」

 アストレアは、かつての恩師へ相見える様な気持ちで、美しく淡々と述べた。束の間、細めた絹糸の、その隙間から覗いたラピスラズリで傍らのドールへと視線を流しては、またすぐに美しい"母"へと戻す。
 あの頃は、この玩具箱が何より平和な世界だと、そう信じていた。
 生まれてからずっと信じてきたものが全て欺瞞であるとそう知った時、アストレアは初めて自分の利用価値を見い出せたような、そんな気がした。
 賢い者は、木の葉を何処へ隠すだろうか。欺瞞で作り上げられた世界に居るには、偽りの笑顔と、滑らかな詭弁をもってして初めて順応するのである。
 彼女は道化だった。
 クラウンらしく口の端に引かれた線。アストレアにだけ見えるそれは、まるで血の如く真っ赤にぬらぬらと輝いていた。
 大丈夫、まだ滲んではいない。きっとまだ笑える。

 僕は最後まで、泣いたりだなんてしてやらない。

 あなたの口元に浮かべたるは、毅然な優等生の微笑み。
 しかしこの先起こる事を知るあなたの浮かべる笑顔は、狂気的でさえあったのだろう。恐ろしいまでの『平静』は、当人から人間らしさを欠如させる。
 ああ、故にこそ。あなたはこの場の誰よりも、美しい人形たり得るのかもしれない。

 死など知らない無垢な顔で、あなたは誉れを喜んでいる。
 ジゼルはそんなあなたの表情に、疑念も違和感すらも感じ得なかった事だろう。あなたの頬に施された化粧を拭ってしまわぬよう、ジゼルは優しくあなたの銀糸を撫で下ろす。
 そして優しい『母』の微笑みを浮かべるのだ。これは以前、あなたがエーナクラスにいた頃、毎日目にしていた慈愛の笑みだった。

「その事については、心配要らないわ。あなたの傷はね、ドールズのお医者さんが治してくださる事になっているの。……そうですよね、デイビッド先生?」

「ああ、その通り……。今、『彼』は恐らく修復の準備中だろうね。大丈夫だよ、アストレア。
 君の傷は綺麗さっぱり消えることになる。欠陥さえ無くなれば、君は誰もが喉から手が出るほどに欲する、素晴らしいプリマドールに舞い戻れる。」


 ──あなたは、スクラップが決まったミシェラの欠陥は、ついぞ直ることが無かった事を思い出す。
 成績優秀、素行不良無し、ヒトに対する反抗的な態度も見られない、素質のあるプリマドール。おまけに欠陥は、修復する事が出来るとなれば──ドールとして完璧に優れたあなたがお披露目に選ばれることは、考えてみれば必然であったのだ。


「……ところで、ジゼル。ウェンディのイヤリングは、どうやらまだ届いていないようだね。」

「ええ。でももうそろそろ、搬入口に届けられている頃合いかと。」

「そうか、だったら急いで取りに戻ろうか。少し君と話しておきたいこともあるから、着いてきてくれるね?」

「勿論です、デイビッド先生。」



 どうやら先生方は、これから席を外すようだ。ジゼルはウェンディの元へ、そしてデイビッドはあなたの元へ。
 少し屈んで目線を合わせると、優しい声色で彼は告げる。

「これから先生たちは少し外すよ。君達はお披露目の時間まで、二人でお利口にしておいてくれ。君達なら、心配はいらないね?」

 ──先生は、あなたの返事を待たなかった。有無を言わさぬ口振りだったのだ。


 そうして、先生方は二人連れ立って、控室を去っていく。
 あなたと、未だに顔色が優れないウェンディのふたりきりが取り残される。彼女は浅い呼吸を繰り返していた。とても、お披露目で緊張しているだけとは思えない。

《Asteaea》
 人形は微笑みを絶やさない。
 陶磁器の頬は、唇は、下がると言う事を知らない。
 硝子の瞳は埃を被っても尚真っ直ぐに前を見続けなくてはならない。
 真っ直ぐに伸びた背筋は、セコイアの如く、彼女は全く"無機質で完璧なビスクドール"そのものだったのである。
 艶やかなかんばせを覆う白粉はまるで仮面のようにアストレアの本心を覆い隠して、彼女を王子様として輝かせる。頭を撫ぜられるのに、まるで陽光に当てられた子猫の如く気持ちの良さげに目を細めては、少し照れたように肩を竦めて見せた。

「本当に? なんて嬉しいんだろう。本当に夢みたいだよ。きっと僕は、素敵なヒトに選んでいただけるはずだね。」

 わぁ、だなんて、声を上げては本当に嬉しそうに笑って、そのラピスラズリを輝かせる。傷が治るだなんて、なんて素敵な報せなのだろう!

 贄の、ガラクタの、どうせ壊されてしまうものを綺麗に飾り立てることに一体どんな意味があるのか。全くお趣味の悪うございますこと。
 その実、頭の片隅に浮かべたニヒルな笑顔は、柔らかで分厚い繭に包んだまま、靱やかな指先を腹の傷のある所に沿わせて、その傷を負った日の事を回想していた。

 ──僕は"あの子"のことを、殆ど知らなかった。どこで怨みを買ったのか、全く心当たりが無かった。痴情の縺れと言うべきか、此方としては庇ってしまった方が都合の良い話で、彼女は今どうしているだろうか。最後に思い出すのがこんな事だなんて、甚だ不快な話であるけれど。

「嗚呼、行ってらっしゃい。

 ウェンディ、大丈夫かい? ほら、深呼吸をして。君がそう不安がっていては僕まで緊張してしまうよ。

 …………で、単刀直入に聞くけれど、どこで知ったの?」

 アストレアは、優等生の笑みを浮かべて、去り行く背に手を振る。装束を裂くのなら、今がチャンスであるのかもしれない。
 されど、まず気になるのはウェンディの様子である。秘匿してきたはずであるのに、どこからか情報が漏れたのか、それとも────
 アストレアはまず、エーナドールらしく相手の混乱を鎮めるところから取り掛かる。二人の去るまでの時間稼ぎでもあったけれど、彼女の性格上放っておけなかったから。優しくウェンディの背を摩ってら、慈愛の笑顔を浮かべて、優しく述べる。それはまるで母親の様で、姉の様で、恋人の様であった。

 暫しの間、息を殺して2人の去るのを待っては、斜め下に流していた視線をまっすぐにライラックへと向ける。極限まで潜めた声で、その麗しきかんばせをずいっと寄せて、淡々とした一定の声色で尋ねる。浮かべた笑顔は無機質に美しく、瞳の奥はどこまでも冷たい。それはまるで雪の女王の冷たい笑顔。心を溶かすゲルダはもう居ないの。そこにはただ、優しい顔をしたヴィランと、無力な親友と、"親友であったもの"しか居ない。
 生きたいだなんて、そんな陳腐なことを望んでは駄目。泥土を舐めるだけの物風情は、精々美しくその人形生を終えられるように最期まで踊らなくては駄目。
 分かるでしょう、良い子のウェンディ。君はこの質問に答えなくては駄目。共に手を取り合って、地獄まで歩いて行くのだから。

 あくまでもお利口に、従順に。ドールの模範として素晴らしい微笑みを伴って見送るあなたを見て、デイビッドとジゼルは優しく笑顔を浮かべながら頷き合い、満足気に控え室を立ち去っていく。
 あなたは彼らが完全にその場から気配を消すまで、決して警戒を緩めなかった。背を丸めてほおばせを俯かせるウェンディを案ずる振りをして自然と近付き、静かに問い掛けるあなたに、彼女は瞠目した。

 その手付きも、声色も、表情も、何もかも甘く、蕩かすようなものだった。いつものウェンディなら、そんなあなたの些細な言動の一つ一つに胸を打たれて、いや打ちひしがれ、顔を赤くして言葉を発せなくなっていた。

 だがいまの彼女は、ただ顔を青ざめさせるだけ。あなたの問いを聞いて、それは更に深刻さを増したように思える。

「……アストレア、様……その、ご様子。あなたもすべて、ご存知だったのですね……本当は、そうなのではないかと薄々分かっていました。」

 彼女はやはり、あなたの知るお披露目の事実を知っているらしい。憔悴した相貌は、あなたを見ることも出来ずに斜め下のスツールを凝視している。
 この場所には、袋小路の絶望しか存在しない。死へ向かうふたりの、わずかに許された時間は暗く、重かった。
 ウェンディは落ち沈んだ表情のまま、しかしすぐに顔を横に振って、あなたの質問に答え始める。

「数日前、オミクロンクラスのオディーさんという方から……。
 アストレア様、あなたはエーナクラスのアリスさんから謂れのない恨みを買っています。ですからオディーさんを差し向けて、あなた“自身”を傷物にして、お披露目選抜を無かったことにするという不埒な事を企んでいたようです。
 それを阻止した際に、彼女から大体のお話は伺いました。」

 滔々と、あったことを語る。──アリス。あなたはその名を聞いて、すぐに同級生の顔が浮かんだかは定かではない。だがもしも記憶にあるのならば、彼女とは剣呑たる関係性であったと想起出来るだろう。

「先ほどは、助けていただきありがとうございました。不甲斐ないお姿をお見せして、ごめんなさい……。

 ……でも、アストレア様。わたくしはひとつ、気になっているのです。
 あの、悍ましい事実を知った上で、この場に立って……あんなにも平静としていらっしゃったのは。
 あなたが優れたプリマドールだからですか? それとも──もう、諦めてしまったから、なのですか……?」

 自身の白磁の指先を惑うように胸の前で絡ませながら。ウェンディは、あなたの顔色を窺いながらも──不安そうに、問いを一つ零すだろう。彼女はそれきり、口を閉ざす。

《Astraea》
「ごめんね、まさか、未来に目を輝かせるドールに現実を突きつけるだなんてそんな酷いこと、出来るはずが無かったのだから。
 それにしてもオディーがね、君がお披露目に行く、と言ったら真実話してくれた、という次第かな?」

 アストレアが肩を竦めて言い放ったのは、淡々と、飄々とした醜い言い訳。
 その唇は穏やかに弧を描いて、細められたラピスラズリはその表面に埃を被っている。彼女はまるで長い間穢らしい物影に捨て置かれた陶磁器人形の様に、確かな作り物の美しさで、そのかんばせに重苦しい蔭を落としていた。
 それは本当にアストレアだったのだろうか。あの、慈愛に満ちた麗しい王子様だったのだろうか。キラキラとした王子様の装束は、心做しかその輝きを失ってしまったように見えた。
 珈琲染めの様な陶器の頬も、月の光を束ねた様な艶やかな髪の毛も、ラピスラズリの瞳も確かにそれが"アストレア"であると言うことを必死に訴えかけて居たけれど、それはもう王子様などでは無かったので。

「……そうだね、後者かな。
 僕はもうプリマドールでは無いし、たかが人形風情にできることなど何も無い。」

 彼女のニヒルな忍び笑いは神経を逆撫でするように、低くゾクゾクと響く。
 自嘲的で、それでいて相手をも否定する様なそんな言葉は、確かに研ぎ澄まされた鋭利な刃物となって周りをただ傷付けて回るのだろう。アストレアは既に全てを諦めていて、この極フィクション的で馬鹿げた箱庭に夢など持っていなかったので。
 きっと、これから同じ運命を辿る相手に吐くのにはそれは毒でありすぎたでしょう。されど、彼女はもう止まれなかった。アストレアは本来、人に毒を吐く様な性質の子ではありませんでした。人に刃物を向ける様な性質の子ではありませんでした。ですから、幾ら今の彼女が窮鼠であるからと言え、それが本性であると言うのは些か違うことなのでしょう。
 その時の彼女は、何かに取り憑かれた様に、焦燥感と、無気力感と、そして何かしらの違和感を感じていました。断頭台からの景色は酷く美しく、醜いまでに鮮やかなのでした。
 しーんとした宝石箱には不快感だけが後にぬらりと生温く残って、喉の奥の苦しい感じがします。
 囁きの答え合わせは、まだ続きました。

「ときにウェンディ、君はこの話、何処まで知っているの?
 僕たちの未来、この扉の先の惨状は知っている様だけれど、"もう一つ"の運命については?」

 道化師の笑みは抜け落ちる事無く、頬のしずくは真っ黒だった。
 アストレアは、確かめようとした。それが何の役に立つのかだなんて、そんなことももう考えていなくって、ただ本能のままにと言うべきか、探究心、知的好奇心を満たそうとしていると言うべきか、心理的情緒に寄り添うだなんてしないままにただ問い掛けるのだった。
 それは既にエーナモデルプリマドールなどでは無く、喋る人形だったので。皮肉なもので、お話は至極上手で、その靭やかな掌は惑う少女の背へと優しく添えていた。それはまるで、僕が付いている、と言わんばかりに。それは癖と言うべきか、プログラムと言うべきか、兎にも角にもその時の彼女の意思にはそぐわぬ行動であったことは確かであったけれど、アストレアはそれを辞めなかった。
 自身が相手に酷な事を強いていることに、問い掛けていることに、気が付いていたから。ごめんなさい、心の奥底を、そんな言葉が通り縋った様な、そんな気がした。

 粛々と謝罪を述べ立てるあなたは、それでも絶望的な未来を前に悲嘆に暮れるでもなく、恐ろしいぐらいにいつも通りの凛々しさを微笑に湛えていて。それは、ウェンディにとって理想の、あんなにも憧れた毅然なる王子の姿だったというのに、彼女は堪らない気持ちになって奥歯を噛み締めた。
 それでもあなたに負い目を感じさせたままでいるわけにはいかないと、ウェンディはすぐに首を横に振る。

「……そんな、謝らないでくださいまし。アストレア様は、悪戯に残酷な事実を吹聴しないと、わたくしは分かっておりました。ですから、責める心算なんて、少しも無いのです。
 わたくしは……ただ。……本当にもう、どうにもならないのでしょうか。」

 ウェンディは臍の前で組んだ指先に、グ、と力を込めた。上質な織物に皺が刻まれ、彼女の白い肌はわずかに赤くなる。

「どうにも……。アストレア様が、そんなふうに諦めてしまわれる、なんて……それほど、までに。」

 次第に、彼女の声は震え始める。あなた方は袋小路の中に居た。もう手遅れなふたりだった。諦めるしかない、死刑執行を待つしかない──ここは、未来のない世界だった。
 ただその事実に打ち拉がれるしかない。それはなんと残酷な事だろう。アストレアがあの時、口をつぐんだのも頷ける。もしこの事実を知らなければ、ウェンディは最期の最後まで、幸せなままで逝けたのだ。

 だが、彼女がこの事実を知らなければ。

「──わたくしはそんなの、認められません。」

 あなたがウェンディに歩み寄り、問い掛けながらに伸ばされた手のひら。優しくこの背に添えられるはずであったろう、あなたの親切の表れは──重く、強張った、鉛のような彼女の声と行動に掻き消される事だろう。

 あなたの視界には、照明を反射した覚えのある輝きが映り込む。
 いつだか、あなたが欠陥品と陥るあの瞬間。あなたに向けられた明確な害意を示すあの鈍色。

 ウェンディはあなたの油断をついて、その華奢な体を突き飛ばそうとする。もしもその身が床に打ちひしがれたならば、すかさずその上に乗り上がって彼女は刃物を振り上げる筈だ。


 あなたの隠し持つものと全く同じ──鋭利なるナイフを。


 登壇する役者は、いつだって“同一条件”(Apple to Apple)に揃えられなければならない。

 ウェンディの美しい双眸は、眩ゆい室内照明の逆光で出来た闇の最中、毒々しいヴァイオレットに染まっていた。

Ael
Lilie

 闇が蔓延る学園を青白く照らしつける蝶は、エルを連れて二階へと向かう階段に差し掛かる。
 あなた方以外に誰もいないだだっ広い空間で、足音がただ反響している。

 ──二階は、そのほとんどの燭台の火が消灯されていたため、一階よりも更に暗かった。見通しの悪い廊下に踏み入ることは、さぞ恐ろしかろう。
 エルには先をゆく頼もしい蒼き友人がついている。

 だがリーリエは──エルが、悍ましい深淵に自ら沈み込もうとしているようにしか、見えなかった。
 心細さが襲い来るだろう。一寸先の闇に踏み入るたび、心を不安が軋ませるだろう。

 唯一握り込んだエルの掌の体温だけが、あなたのよすがだった。

【開かずの扉】

 そして、あなた方は二階と三階の間の踊り場に辿り着く。

 その地点だけ、壁に立て掛けられた燭台がひとつ、火を灯していた。
 蝶は翅を広げて滑空すると、何も存在しない壁に面したハイテーブル、その上の花瓶に生けられた薔薇の花弁にそっと留まる。

 渦を巻くような花びらは、吸い込まれそうなほどに赤黒い。あなた方をジッと凝視する薔薇は、今にも牙を剥き出しにしそうな敵意を感じられそうだった。

 蝶からの続く指示は無く──この一帯に何かあるのではと、エルは予想するだろう。

《Ael》
「……ここは……?」

 ロビーを出て、二階へと階段を使って上がる。
 こつん、こつん。
 2人分の小さい足音が、耳に大きな音であるかのように響く。
 こつん。こつんこつん、こつん。
 暗く、頼れるのはちょうちょさんの青い光のみ。小さく、ぼんやりとした綺麗な光。リーリエが離れてしまっては、このままだとひとりぼっちになってしまうから、ぎゅう、優しく手を握りなおした。
 こつん、こつん。
 2階と3階の間の踊り場に到着しては、やっと1/fゆらぎの明かりを見ることができた。ぼんやりとした、オレンジ色の優しい明かり。ちょうちょさんは、壁に面したハイテーブルの上、花瓶に生けられている薔薇の花弁に留まる。
 もしかして、ちょうちょさんはお腹が空いているのです?
 何てエルはコアで思った。赤黒く、こちらを吸い込んでしまいそうな薔薇。……ちょうちょさんは、まだ休憩したままだ。

「リリ、きっと何かがあると思うのです。ちょうちょさんはお疲れなのです、今休憩しているのです。だから、二人で何かを探すのです」

 両手で白百合の片手を握る。いつもの柔らかく楽しげな表情ではなく、凛々しく、少年のような頼もしい表情で。

《Lilie》
 底の見えない、暗い暗い深淵。
 『ちょうちょさん』とやらの導きに従って、エルに手を引かれたリーリエは階段を下っていく。

 リーリエ自身は、何も見えなくって、エルの手に身を委ねる。たったひとつの頼るものを離さないように、小さなエルの掌に、縋るように指を絡めて。暗い階段に響くのは、二人の足音だけ。それが、嫌に大きく聞こえた。

「ここに、何かがあるのね?」

 立ち止まったエルの言葉に、リーリエはそう尋ねる。きっと、エルが見つめているあの薔薇に『ちょうちょさん』とやらが止まっているのだろう。やはり、リーリエの目には映らなかったけれど。
 赤黒い薔薇が、血のような色をしている薔薇が美しくて、そして恐ろしい。見えない蝶々を探していたけれど、吸い込まれてしまいそうなその色に、嫌な感じがして。吸い込まれてしまいそうなその色に、抗うようにリーリエは目を逸らした。
 いつもよりも、頼もしく見える天使様の表情に、白百合は微笑む。いつ途切れてしまうか分からない虚勢。それはきっと、この天使様が居る限り途切れることは無いのだろう。無様な姿は見せたくない。だって、エルはリーリエにとって「弟」のようなもの。護るべき可愛らしい子なのだから。

《Ael》
「はいなのです……きっと、何かがあるのです。」

 リーリエの問いに頷いては、ハイテーブルに手を伸ばす。花瓶に触れず、ぺたぺたとテーブルの上に何か無いか調べる。この時だって、リーリエの手は離していない。片手だけ、花瓶を避けるようにしてぺたり、ぺたりと。そして最後に、花瓶に触れた。そうして、ちょうちょさんの止まっている花に手を伸ばす。ちょうちょさんとまたお話ししたいと言うかのように。

 少し埃の積もったハイテーブルの天板には、花瓶の他には何も置かれていない。
 あなたが狂い咲く薔薇の花弁に指先でそっと触れるならば、その上に留まっていた蝶は翅を震わせて、細やかな“あし”の先をあなたの指先にまた震わせるだろう。


 ────────。


 暫しの沈黙の後。
 蝶はその青白い光によって生まれる陰影を揺らがせながら花弁の上を離れ、ふわふわとハイテーブルの足元の支柱に留まる。
 触覚の先端は、ハイテーブルによって塞がれた足元の壁の方へ向けられているようだ。

《Ael》
「……壁、この先、なのです? まっててほしいのです、エルは、おいていかないのです。だから、まだ……まだ……もうちょっと、だけ、まっててほしいのです」

 ちょうちょさんは、こう言った。
 はやく、いそいで、がんばって。ここまで来て、見て。まってるね。
 エルの指が、一瞬花となってちょうちょさんは"あし"を絡めた。その時に、教えてくれた。
 いかなきゃ、いかなきゃ! いかなきゃ!
 ハイテーブルに塞がれた壁。その先に"何か"がある。

「……リリ、手伝ってほしいのです。このテーブルを動かすのです、二人いたらきっと充分だと思うのです! 花瓶を落とさないように、そおっと、なのです」

 まだ、リーリエの手は繋いだまま。それに、動かすとなると手を離した方が絶対にいいのはエルも理解していたが、リーリエの手を離す、ひとりぼっちにすることはしたく無い。絶対に、今エルが守るべき存在なのだから。

《Lilie》
「……そおっと、動かすの? エルくん、運ぶなら手を離して欲しいの。そうしてくれないと、運びにくいのよ。」

 二人いれば十分だとしたとしても、繋いでいる手を離さなければテーブルは運べやしない。縋るべきよすが。それを手放すのは、とっても不安で、とっても怖い。だけれども、そうしなければずっとこの状況のままだ。
 だからこそ、リーリエはエルの目を見て願う。どうか、手を離して、と。手を離しても、リーリエの傍にはエルがいる。だから、ひとりぼっちにはならない。大丈夫、とでも言うように微笑んでは、エルの手に込めていた力をゆっくりと抜いた。

「ねぇ、エルくん。わたしはね、大丈夫なの。ちょうちょさんも、きっとそれを望んでいるのよ。机を運ばないといけないなら、手を離さないといけないの。」

 諭すように。或いは独り言のように。よく分からない『ちょうちょさん』。ハイテーブルを動かすのも、きっとソレの指示なのだろう。手を離さないのなら、時間がかかってしまう。その間に先生が来てしまったら……。なんて考えるとリーリエは恐怖に呑まれそうになる。手を離すことがこの状況における最善である。白百合は、そう判断した。

《Ael》
「はいなのです……それじゃあ、手を離すのです」

 今は大丈夫だと、リーリエは目を見て伝えてくれた。その優しい安らぎの1/fに照らされて、その繋いでいた手と手を離した。机を運ぶ、小さくて力の弱い2人のドールでは手を離した方が安全だし、効率的だ。白百合が大丈夫であるなら、天使はそれを信じ、そして受け入れるべきだ。優しく、優しく頷いて、そして天使の微笑みを渡す。大丈夫だから、そう彼女へ言い聞かせるように。

「リリ、いっせーの、で持ち上げるのです。そおっと、ゆっくりなのです」

 手を離した後、二人でハイテーブルを挟むようにする。いっせーの、その合図で持ち上げようとハイテーブルを掴んで彼女の目を見つめる。

「いっせーの……で!」

 と、合図してゆっくりとハイテーブルを持ち上げた。

 あなた方は薔薇の生けられた花瓶を倒してしまわないよう、細心の注意を払いながらハイテーブルを持ち上げ、力を合わせてずらした場所に下ろす。幸にして、ハイテーブル自体はそこまで重くはなく、華奢なあなた方の細腕でも運ぶことが出来るだろう。
 改めてあなた方がハイテーブルの足元、その壁に目を向けるならば、今まで巧妙に隠されていた赤い押しボタンが視界に入る。深紅の壁紙と馴染んでおり、サイズも小さく造られているため、何も気にせず通りかかったドールズはこれの存在に気付くこともないだろう。

 青い蝶はいつしかハイテーブルを離れ、謎のボタンの周囲を旋回している。
 エルが見つけたこのボタン。リーリエにとっては用途の分からない謎に満ちた装置だが、どうするべきだろうか。

《Lilie》
 難なく退かすことが出来たハイテーブル。その下にあった赤いボタン。きっと、今までは壁紙とテーブルに隠れて気が付かなかったソレ。きっと、テーブルの下に潜るドールだなんていなかった筈だから、見つかることも無かったのだろう。……それにしても、不思議な場所にある。2階と3階の間にあるだなんて、何の意味があるのだろうか。リーリエは白絹の髪を揺らし首を傾げた。

「エルくん、このボタンは何かの装置なの?」

 そう、天使様に問う。
 ポチ、と押せば、きっと何かが起こるのだろう。そして、それはこの前、タンザナイトの瞳を持ったあの警戒心の強いドールが言っていたことに通じるのだろう。根拠なんて無い。ただの勘。それでも、予感が消えないのだ。

「『ちょうちょさん』は、何と言っているの?」

 また問う。
 『‪√‬0』からの使者と思われる『ちょうちょさん』とやらの言葉を聴くことができるのは、天使様だけ。白百合には何も聞こえない。

《Ael》
「……これ、なのです」

 ちょうちょさんは、これを見つけてほしいと言っていたのだ。ハイテーブル下の赤いボタン。これを押して、そう言うようにちょうちょさんはその周りを回っている。
 これだ、エルは確信した。これを押したら、√0に会えるのだ。まってるね。あの声が蘇る。女性でも男性でも子供でも大人でも無い、あの声が。そっとしゃがんで、温かいちいさなオレンジ色の光に照らされながら、その赤いボタンに指を触れさせる。そして、ひとつ。息を吐いて──
 エルによって、赤いそれは、奥に押し込まれた。

 エルが隠されていたスイッチに触れると、存外あっさりと、壁に沿うように閉ざされていた鍵穴のない扉はギギ、ギ……と老朽化を感じさせる錆び付いた音を立てながら、引くように開かれていく。

 その隙間からあなた方は、冷ややかな空気の流れを感じるだろう。
 薄暗い学園よりも更に深い暗闇を落とす開かずの扉の向こう側。足元は無骨な鉄鋼の床となり、照明は全くと言っていいほど存在しない。
 学園側から差し込む燭台の灯火によって辛うじて、通路の奥に重そうな鉄扉がある事が分かるだろう。


 青い蝶は空気中を滑るように舞い上がり、その通路の奥へと迷いなく向かっていく。鉄鋼で取り囲まれた冷たい通路は、あの蝶が通過すると青白く照らされていた。

 通路の奥の鉄扉は、現在は開かれた状態だった。その更に先には、小部屋があるのが窺える──蝶はその奥へ消えていく。

《Lilie》
「扉が………。」

 酷く、重たい音を響かせて開いた踊り場の扉。急に現れた扉に、白百合は驚きを隠せずその双眸を溢れんばかりに見開いた。
 寮で感じたものよりも、冷たい空気は果たして本当なのか。それとも、ただ、緊張して冷たく感じているだけなのか。リーリエには分からない。ただ、冷たいだけ。暗くって、暖かみを感じないそこは、少し先を見るのがやっと。学園からの灯りが無ければ、きっと何も見えないのだろう、とそう思った。
 通路の奥には、これまた重そうな、開けるのにも一苦労しそうな扉。嗚呼、怖い、怖い、怖い!! それでも、戻ることはもう出来ない。これは、リーリエ自身が選んだ道。後悔することは、きっと、許されない。許されてはならない。

《Ael》
「向こう、なのです。………リリ、行くのです。」

 ギ、ギ、ギ…………きごちなく錆びついた音を立てて扉が開く。そして、ちょうちょさんはその奥へ飛んで行き、消えてしまった。奥に、重そうな鉄扉がある。

 ここが、√0のいる……黒い塔だ。エルは確信した。ただ扉の方、一点を見つめる。この先に、いるのだ。エル達ドールを救ってくれる√0が、目覚めて、待っている。さぁ、行こう、待っている√0に会いに。
 真剣な表情で、リーリエに片手を差し出す。行こう、二人でいれば怖く無いと。ゆらゆらと揺れる蝋燭の明かりはこの先ない。ちょうちょさんの通った青白い道を歩くしかない。これが、エルとリーリエに与えられた重要な試練であるから。

 あなた方は悍ましいほどに暗く冷たい通路を慎重に歩き進んでいく。そこは無機質で茫洋な深海のようだった。遠くから怪魚の咆哮のような低い空洞音が轟いている。
 一面に敷かれた錆び付いた縞鋼板は、あなた方の靴がぶつかり合うたびにカツ、カツ、と音を鳴らす。細心の注意を払って足音を極力出さないようにしながら道を進む。

 眼前に辿り着いた鉄扉は、力を入れて押すと完全に開いた。その先にはちょっとした小部屋が広がっており、何かの資材と思われるコンテナや台車が仮置きされている。
 ひょっとするとこの場所は、外部から資材を運び込む場なのかも知れない。

《Lilie》
 きっと重いのだろうと思っていた鉄扉は、想像よりは簡単に開いた。扉の向こう側にあったのは、資材と思われるものや、コンテナ、台車。
 物置なのだろうか。リーリエはそう思う。小さな部屋を、一度見渡す。リーリエの目には、床に置かれた黒いボードがやけに印象的に映った。

「エルくん、これ、何かあるみたいなの。」

 白百合は、天使様に声をかけてそれに近寄る。何があるのだろうか、と。ボードの形状を見る限り、何かが挟まっているものだと思うのだが。

 床にぽつんと落ちていた黒いボード。ボードには二枚の資料が挟み込まれており、手書きではない均一の文字がずらりと並んでいる。
 その内の一枚には驚くべきことに、あなた方の名が綴られていた。内容は以下の通り。

【トイボックス管理者各位】

【Dolls of LifeLike;servant】
【定期機能実験・適合者通達】

『0-1P-L Astraea
0-2P-M Sophia
0-3P-L Dear
0-4P-M Storm

0-1-F Felicia

0-2-P Ael
0-2-L Amelia

0-3-S Campanella
0-3-S Lilie
0-3-M Mugeia
0-3-S Brother
0-3-P Rosetta

0-4-B Sarah
0-4-F Licht
0-4-S Odilia


 ──以上十五名を“適性有り”と認定。
 予定された定期品評会への出荷を見送り、順次折を見てオミクロンクラスへ移籍せよ。
 ■■■は既に了承している。
 ■■■■実験については同封する別紙にて記載。

 また、もう一方の資料は何者かからの指示書のようなものであった。一枚目と同じように手書きではないであろう均一かつ無機質な文字が並んでいる。内容は以下のとおりである。

【トイボックス管理者各位】

【次期監査期間に関する通達】


 ■■■■.■■.■■

 ■■■■実験の経過報告資料を確認した。■■■■が顕著に見られる個体と、そうでない個体との差が明確になり始めている。

 適宜選別を執り行い、実験場から放逐せよ。■■■■に影響を及ぼした場合は仔細報告を行う事。



 XXXVI期では以下の通りにドールの選別を執り行う。


 “DoLL;s定期品評会へ移送“

 ・0-1P-L Astraea


 ”スクラップ対象“
 
 今期においては無しとする。


 当該ドールの欠陥部位の修復は『監視者』に一任するものとする。



 ■■■■.■■.■■

 次期監査期間内において、オミクロン管内管理者に特異事象『■■■■ ■■■■』の仔細報告を求める。
 その間、管轄区域の管理者をエーナ管内管理者に臨時移籍するものとする。次期監査期間中、エーナ管轄区域の管理はデュオ管内管理者が兼任して執り行う事。

《Ael》
「これ、は………」

 二つの資料へ目を通す。サッと見た限り、アストレアがスクラップ対象ではなく、欠陥の修復が監視者にされる。……きっと、あの、第三の壁の監視者に。そして、ミシェラを除いた15人、それが適合していること。何かに適合している、何か実験をする、そしてその結果………わからない。考えても分からない。最高級の脳みそでさえも何も出せなかった。何も、得られなかった。

「……アス、は……今頃、お披露目なのです……」

 一つそうだけこぼして、リーリエの方をみた。

「リリ、これは頭の片隅でいいので覚えていてほしいのです。……せんせいに見つかると、よくないのです。エルは忘れちゃうから、リリが代わりに覚えてほしいのです」

 少し悲しげにそう告げてはコンテナの方を見る。一つ、蓋が開いているのだ。こつん、……こつん。そこへ行っては、中を覗き込んだ。

 蓋の開いたコンテナは、あなた方を誘い込んでいるかのようだった。
 好奇心に吸い寄せられるようにしてエルがコンテナに歩み寄ると、その足元に落ちていたコンテナの中身が靴にぶつかる。

 見下ろしてみると、そこにあったのは──人工皮膚を纏った本物そっくりの人形の脚部だった。右大腿部までのパーツなので、当然だがかなり大きい。
 同様のパーツが同じように詰め込まれており、その光景はあなたの目に異様に映るだろう。コンテナに集められた脚部パーツはどれも表面がそれなりに傷付いてはいるが、大破した状態ではなさそうだ。

 コンテナから溢れ出しているものについては、リーリエもその場から見ることができるだろう。

《Lilie》
「…………ッ!!」

 箱から溢れた人形の脚。
 リーリエたちと、同じ、ドールの脚。リーリエは、声にならない悲鳴を上げた。喉を、ひゅう、空気が通る。
 見れば、傷一つ無い新品では無く、それなりに傷付いている。だが、アストレアの腹や、フェリシアの背、サラの腕の様に、分かりやすく大きく傷がついている訳では無い。
 と、言う事は。この脚の持ち主は、トイボックスで過ごしたドールだったのだろうか。でも、何故? ドール達はお披露目に出され、素敵なご主人様に買われ、大切に大切に愛でられているはずなのに。こんな所に、脚があってはならない筈なのに。

《Ael》
「っ!!!!????」

 ──それは、悲しいほどに傷付いた脚でした。
 一つしか見れない片目を見開く。あぁ、あぁ……これは、これは……。

「な、ん………なん、で、なの……です?」

 訳がわからない。何も、分からない。

 ──それは、最高級の脳は受け入れませんでした。

 ぶわ、ぶわぶわ……全身の毛が逆立つ感覚に襲われて、可愛らしくコロコロと音を立てて記憶が抜け落ちる。先程の資料を見ただけでも、エルの脳みそのキャパシティは限界の直前であった。

 ──そして今、あり得ないものを見たのをきっかけに、天使の記憶は壊れてしまいました。

 知らない場所、暗い場所。ふと辺りを見渡せば一人、恐怖に怯えたドールがいた。そして、コンテナの中にはなぜかあり得ないものが。脚が、あった。

「……ここは、……えっと、エル……エルは、あの、その………なんで、エルたちはここにいるのです? お名前は、何なのです? ……エルは、エルと言うのです。天使なのです。あなたは、誰……なのです?
 ……ごめんなさい、思い出せないのです。……でも、エル、きっと思い出せるはずなのです、だから、教えてほしいのです」

 目の前の白百合の手に、蝶が止まるように優しく触れた。思い出せる、できる。そう自分を信じているから、手伝ってほしい。きっと、きっとあなたはエルの記憶の中でとても優しい、優しいドールだったはずだから。

《Lilie》
 天使様の記憶は抜け落ち、全てを忘れてしまいました。
 この、光景は、この有り得ないものたちは、きっと天使様は受け入れられなかったのでしょう。神は、それを許しませんでした。
 全てを忘れ、もう一度。
 意地悪な神様は、天使様に試練をお与えになりました。いいえ、きっと、神様にとっては試練ですらないのかもしれません。不意に目がいった塔を、溜息だけで壊してしまうように簡単な、試練にすら至らないものだったのかもしれません。
 それでも、天使様にとっては、白百合にとっては十分な試練となるのです。
 白百合は、大切なものを落とした天使様に気が付きました。きっと、天使様には、重すぎるものだったのでしょう。白百合には、泣き叫ぶことすら許されなくなりました。無理矢理落ち着かせる様に、これ以上今は何も考えないように深く息を吸った白百合は、天使様の手を、柔らかな花弁のごとき真白の手で握りました。

「わたしは、リーリエ。あなたの仲間。ここは、トイボックス・アカデミーの隠し部屋。『黒い塔』なのだと思うの。エルくんとわたしはね、『ちょうちょさん』に導かれてここに来たの。綺麗な蝶々がね、導いてくれたの。ここでは、『‪√‬0』が待っているのよ。きっと、あの扉の先に。」

 白百合は、つらつらと言葉を紡ぎます。それらは全て、天使様が白百合に与えた情報。白百合は、蝶々がどれほど美しいかは知りません。ここが黒い塔なのかも分かりません。‪√‬0だなんて、聞いた事も初めてでした。
 箱から飛び出る人形の脚を尻目に、白百合は微笑みます。全てを忘れてしまった天使様に心配をかけまいと、精一杯の虚勢を張ってそれはそれは美しく微笑みました。

《Ael》
「りー、りえ……リーリエ、リー……リリ、リリ……リリ! ちょうちょさん、……黒い塔……………√0……全部、わかったのです。」

 名前を咀嚼する。味わって、飲み込む。そして消化する。それは養分となり、身体の一部となる。

 ──トイボックス・アカデミー。ドールズのおうち。
 ──黒い塔。√0の、居場所。

 コロコロ転がる昔の記憶、そして、それを拾うことは許されない。新しく製造された記憶を食べることしか、許されない。そうしないと身体を壊してしまうから。口の中で、また、転がす。るーとぜろ。ちょうちょさん。青くて美しい、おともだち。そして、大事な大事なドール達。可愛い可愛い愛おしいドールズ。すべてはエルの一部であり、それがなければエルはエルとして存在できない。先程、エルはエルでなかった。何者でもない、ただの天使であった。だが、今は違う。植物状態から生還した、ホンモノのエル。全部を理解した、完全体。
 一つ、息を吐いた。満腹の溜息。にこやかに微笑み、空腹の天使は飢えを満たした。

「ごめんなさいなのです、リリ。……もう、きっと大丈夫なのです。ありがとうなのです、本当に、ありがとうなのです。」

 目を伏せず、頭も下げず。彼女の美しい色違いの目を片目で見つめて天使は伝えた。謝罪と、感謝を。ぎゅう。また手を握り直す。もう、彼女を一人にすることは、天使にとって許されないこと。絶対に一人にしまいと、決意を固めた。

「……ちょうちょさんが、おいでと言ってるのです。行くのです、あの、扉に。」

 青い鱗粉ははらはらと輝き、奥の扉で待っている。もう大丈夫、怖くも何も無い。行こう、二人でメシアに会うために。

 風船があっさりと弾け飛ぶように、あなたの記憶は端から全て消え去ってしまったのだろう。立ち尽くして、迷子の子どものように狼狽えるエルの傍に、扉の周囲に留まっていた蝶もまたやってくる。
 悍ましいドールズの身体の一部──平穏な世界で生きてきたあなた方は、多大なる衝撃を受けても無理もない。蝶はエルを気遣うように真っ青なあなたの頭上へと降り立つ。

 恐ろしいのならば、焦る必要はないと伝えるように。
 恐怖をいち早く呑み込んで、家族に等しい存在を慮るリーリエの行動も。繋ぎ合う手と手、微笑み合う小さな花ふたつの合間を、蝶は緩やかに旋回する。

 翅を震わせ、蝶は──未だ閉ざされた扉の先へ、消えた。実体が無いかのように、青い鱗粉の痕跡だけを煌めかせ、蝶は扉の先へ消えていった。

 奥にあるのは黒い扉と闇と静寂だ。

 あなた方が闇を掻き分けて扉を押し出せば──ゴゥ、ゴォ、と獰猛な生物の唸り声のような、地の底から迫り上がるような空洞音が、鼓膜を揺さぶる。

【黒い塔 円形通路】

 少し続く通路の先に、とてつもなく高い天井と、とてつもなく深い穴に挟まれた、円形の大広間が見えてくる。
 壁や歩いてきた床、あらゆる全てが黒く錆び付いており──見上げても果ての分からない天井と穴の深淵の闇が立ち込めていて、まさしくその場所は『黒い塔』と呼ぶに相応しい。

 内周に沿って鉄板が打ちつけられた通路が丸く続いており、中央部分は吹き抜けのようになっている。悍ましく轟く空洞音は、あの吹き抜けの下の大穴から響いているようだった。

 吹き抜けの中央には、錆び付いた鉄籠のような装置が鉄鎖によって吊り下げられている。鉄鎖は塔の最上部に滑車でつながっており、そのもう片方の先端はあなた方がいる階層の円形通路に伸びていた。
 その構造はまるきり、井戸の桶を落とす滑車の構造であった。用途不明の鉄籠は、不安定にぐらぐらと揺らいでいた。


 ──この場所は、一体、何であろうか。
 トイボックスアカデミーで存在が隠匿されていたこの塔は、何のために在るのだろうか。
 見慣れた平穏な景色とは百八十度変貌した、物々しい深海のような空間で、あなた方は立ち尽くしている。

《Lilie》
 まるで、なにかが生きているかのような音がする。暗い、昏い、冥い、闇い塔。どこか恐ろしく、不吉なものさえ感じるそこは、見たこともない程にくらかった。いつも優しくて、穏やかで暖かい学園とは正反対に、ここは暗くて冷たく恐ろしい。
 塔の中央にある、吹き抜けも、そこが見えない分恐ろしくて堪らない。見えたら見えたでそれは怖いのであろうけども、見えない方が怖いのだ。幽霊と同じである。
 先程の小部屋と、さほど変わらないであろう素材の壁にリーリエは触れ、冷たさに身を竦めた。空洞音には、耐性が付いたのか、気にする余裕すら無いのか特にこれといった反応は見せなかった。

「この鎖……、きっとあの籠に繋がっているのよ。」

 誰に聞かせる訳でも無く、リーリエはそうこぼす。そして、そっと鎖に触れようとするだろう。

 リーリエは吹き抜けよりも高い宙空で不安定に揺れている鉄籠を見上げながら、鉄鎖が繋がっている先にゆっくりと歩み寄るだろう。
 触れた鎖は……ゾッとするほどに冷ややかだった。いつまでも触れていると、あなたの内側の暖かいものが全て吸い寄せられていきそうな気がする。

 鉄鎖が繋がる先には、巨大な滑車装置とレバーがある。鉄鎖を巻き込んでいる滑車と、それを回転させる歯車の機構が介在し、それらを動かしているのがあなたの目の前にある巨大なレバーなのだろう。
 レバーはいかにも重そうで、トゥリアクラスのあなたの細腕ではとても動きそうになかった。──何となく、動かすと嫌な予感もするだろう。


 装置の表面に何やら潰れかけの文字が刻まれているのがかろうじて読み取れる。


『DoLL;s electric signal incinerator』
『Produced in accordance with TOYBOX standards』



 ──ドールズ電気信号焼却装置。
 ──トイボックスの規格に従い製造。


 何やら、穏やかではない単語が踊っている。まるであなた方ドールズをこの籠に入れて燃やす為に存在するかのような、そんな装置である。
 吹き抜けには柵が取り付けられており、覗き込むも底は暗すぎて見えない。
 ……あそこはドールズが向かうための場所なのかと想像すると怖気が走るだろう。

《Ael》
「ドールズ、焼……却?」

 恐ろしい生き物がいびきをかいている。そんな空洞音をBGMに、リーリエと手を繋いで真っ黒な塔を歩く。ちょうちょさんの青い彩りは消え、ここからは自分たちで何とかしなくてはならない。リーリエの触れた鉄鎖の先の、鉄籠には恐ろしく、悍ましい内容が刻まれていた。ドールズは、焼却されてしまうのか? ……まさか、お披露目に行ったミシェラは、ここで焼かれたなんてことはないはずだろう。だって、今は幸せにご主人様と暮らしているはずなのだから。それに、アストレアだって、今はヒトに見定められているはず、だから、焼かれるなんてことはないはずだ。
 ……こんなの嘘だと言いたくなるけれど、緻密に造られた脳みそはそれは真実だと現実を押し付ける。認めざるを得なかった。

「……あれは、何なのです?」

 円形通路の途中、見たことのない機械が転がっている。それが気に掛かり、そちらへ小さくこつん、こつんと音を鳴らした。そして、それを観察した。

 四角い機械はごとんと無造作に床に転がされている。一度ひっくり返すと、機械の表面には稲妻が走る簡易的なマークと、『BATTERY』という角張った表記がなされているのが分かる。

 もしこの場所に電力を司るような装置があれば、もしこのバッテリーに電力が残っているならば、だが──これを原動力に、稼働させる事が出来るかもしれない。


 エルがポータブルバッテリーをジッと眺めていると、ふと。
 あなた方の耳は、この大広間に広がるカツ、カツ、と響き渡るような足音を捉えるだろう。

 あなた方がこの場所にやってくる時も奏でてきた物音だ。この場所に誰かがやってきたのだと容易に想像出来る。


 ──隠れなければ。
 一も二もなくそう確信するはずだ。

 そんなエルの目の前を、青い軌跡が通り抜ける。
 蝶は真っ直ぐ迷いのない動きで飛んでいくと、リーリエが見ている巨大な滑車装置の方へ向かい、その裏でぐるりと旋回する。そちらへ誘うかのように。

 あなたがそちらへ向かうならば、無数の使用されていないコンテナが打ち捨てられているのがわかる。この内側に息を潜めれば、やってきた存在に侵入を気取られないかもしれない。

《Ael》
「バッテリー……………!? っリリ、こっちなのです!」

 カツ、カツ。その音が、嫌と言うほどに響く。
 隠れなくては! ……刹那、青の光が、救世の光が目の前を過ぎる。こっちだ。柔らかなリーリエの手を優しく引っ張って、急いで使われていないコンテナへと移動する。ちょうちょさんは、コンテナに隠れてと言わんばかりに滑車装置の裏で旋回する。コンテナの中に入り、息を潜める、……しぃ。人差し指を立てて唇に当てる。静かに、あの怖い足音が過ぎ去るまで。

《Lilie》
 鎖を辿ると、レバーに辿り着く。

 ――ドールズ電気信号焼却装置。

 そう書かれた装置があった。
 嫌な予感のする鎖を眺めていれば、エルに手を引かれ今は使われていなのであろうコンテナの裏へとひっぱられた。リーリエは、エルの指が唇に持っていかれたのを見ると、同じように人差し指を唇へと当てる。
 カツリ、コツリ。塔によく響いた靴の音は、何者かがここへ来たことを表していた。息を潜め、脅威が過ぎるのを待つ。
 嗚呼、もしもこれが先生だったら。恐怖していたことが現実になっているのなら。リーリエはそう考えて、ふるり、とその身を震わせた。

 あなた方は滑り込むようにコンテナに潜む。互いに寄り添いあって、身を縮こめれば、あの塗りたくられた暗闇があなた方を優しく包み込むようだった。それでも一帯を漂う冷気が、背筋を伝う緊迫が、あなた方の気を緩めはしなかっただろうけれど。
 誘うように辺りを待っていた蝶は、エルに見える範囲に転がる外のコンテナのうち一つで、今は翅を休めている。様子を窺っているようにも思えた。


 ──やがて、黒い塔の円形通路に、人影が見えてくる。

 それは二人分の足音を伴ってやってきた。
 一方は、綿菓子のようにふんわりと緩やかなウェーブを描くシルバーブロンドの頭髪をサイドに結い上げた女性。あれは確か、エーナクラスを受け持つ管理者、『ジゼル先生』だったはずだ。

 そしてもう一方は、あなた方も見慣れた、親しみ深い──オミクロンのみんなの先生だった。柔らかそうな茶髪の下、いつも暖かな表情を浮かべているココアブラウンの頬は、現在は冷たく滑り落ちるようだった。
 あなた方の知らない先生がそこに居た。

 先生二人の間には、穏やかな気配など微塵も感じられない。ビジネスライクすらも無い、冷ややかな空気が取り巻いている。
 ジゼルはそれでも微笑みを絶やさなかったが、その笑顔も温度を感じられなかった。

David
Giselle

「さて……お披露目の時刻まであまり猶予が無い。手短かに話すとしようか。

 君の管轄下のドールが害意を持って私の管轄のドールズに手出しをしたという知らせが上がっているんだ。この問題について君はどう受け止めている?」

「私の監督不行届が招いた結果です、重く受け止めて再発防止に努めますわ。……“事実であるのなら”。」

「……成る程。私のドールが虚偽の申告をしたと訴えている訳だね。」

「無論です。オミクロンクラスに移籍されていないという事実が、他クラスのドールの正当性を保証しています。彼らはあくまで従順なドールらしく合理的な行動しか取らないと、“特別なクラス”を預かる貴方ならばよくご存知の筈です。

 現に、私のドールを告発出来うる証拠は、オミクロンクラスのドールの証言のみ、なのでしょう? ……謹んで、事実無根を主張させて頂きます。」

 ジゼルは、淡々とデイビッドへ向けて語る。一見柔和に見える頬も、眦も──この状況下では全てが冷徹に映ることだろう。


「重ねて、被害を主張するドールはもうすでに焼却処分をなされたと伺っております。

 0-1-F 欠陥個体、ミシェラ・ド・グレヴィール──彼女は『例の実験』にも無関係な個体であったとも。

 であれば、何故そこまで事を蒸し返すのか。私は甚だ疑問でなりません。」



 今。
 ジゼルは、息を潜めて様子を窺うあなた方にとって、あまりに衝撃的な事実を吐露した。

 欠陥個体。ミシェラ。焼却処分。
 焼却──まさか、今あなた方の目の前にある、この恐ろしい装置に掛けられたとでも言うのだろうか?

 彼女らは、あなた方の存在には気付いていない。だからこそその動揺も恐怖も置き去りに、話を進めていく。



 デイビッドは頑なで研ぎ澄まされたジゼルの視線と主張を受けて、緩やかに双眸を伏せる。口を挟まず最後まで彼女の言葉を聞き届けていたようだ。
 やがて彼はその目線を、眼前の巨大な装置に向ける。ゾッとするほどに冷たく、暗く、悍ましい『焼却炉』と呼ばれるものを。


「君の考えは理解した。確かに現状、君のドールを告発出来る証拠は無い。“そういうこと”にしておいてあげても構わないよ。」

「…………」

「……良かったじゃないか。君が熱望していた“特別なクラス”を、たったひと時であろうとも預かる事が出来る。
 これはとても名誉な事だ。しかしその前に伝えておくべき大切な事がある。」

 意味深長な囁きで告げる先生は、底が知れない不気味さがあった。脊梁を撫でる甘い声は煙のようで、あなた方の背筋を震わせる事だろう。

 デイビッドはカツカツと革靴を鳴らして、ジゼルの美しい鼻先へと顔を寄せると──囁いた。

実は、お披露目の実態を数名のドールに知られている。

「……は、」

「スクラップの現場も目撃されている。以前のお披露目の時だ。
 このトイボックスの欺瞞を暴こうとする風潮が広まりつつある。」

「……じ、重大な規約違反ではありませんか! それも以前のお披露目といえば、もう随分前のことです。一体何をお考えなのですか、デイビッド先生。プロトコル通りただちに事実を知ったドールを処分しませんと……」

「シーッ……」

 此度はデイビッドの方が淡々と事実を口にする立場であった。ペイっと与えられた事実を前にし、ジゼルは動揺を露わにして捲し立て始める、が、それを留めるようにデイビッドは歯の隙間から静寂を促す音を鳴らす。

「ジゼル……大丈夫。いいかい、冷静になるんだ。『先生』であり『母』となりたいのなら。

 事実はある程度私からも知らせたんだ。実験に関して、とある司令があってね。事態は概ね掌握出来ているし、情報操作も申し分無い。なにひとつ、心配はいらない。今後も、このトイボックスが揺らぐ恐れはないんだよ。
 それに彼らは私が預かる特別なドール。一定の実験結果が得られるまでは、無闇に処分するわけにはいかない。」

「…………!」

「……とはいえ、突然盤面を預かる事になる君には、些か荷が重いかもしれないね。万が一にもオミクロンのドールを取り逃がす事があれば……重い責任を負う事になるだろう。

 もしも辞退したいならば、私が上に進言しておくけれど、どうする?」

「……──いえ。いえ、私にやらせてください。私が必ずや、オミクロンのドールズを管理して見せます。あなたが戻られるまで、状況を維持してみせましょう。」

 力強い宣言に、デイビッドはうすらと笑い、「そう、それは良かった。」とここで初めて柔らかく告げた。


「さて、ではウェンディのイヤリングを取りに向かおうか。
 “彼女たち”が随分お待ちかねだろうから。──きっと今回も、結果は芳しく無いだろうけれど。」


 そして、デイビッドはジゼルと共に、あなた方がいる円形通路とは反対側──その奥の区画へと向かう。目を凝らせば暗闇の中、あちら側に通路があるのを見つけられるだろう。

 暫くすると彼らは、その手に重厚な箱を持って通路に戻ってくる。
 そのまま、以降は会話もなく、彼らは黒い塔から立ち去っていくだろう。


 ……もう戻ってくる気配はなさそうだ。彼らが先ほど姿を消した通路の方には、一体なにがあるのだろう?

《Ael》
「……………」

 ミシェラが、焼却処分された。
 お披露目が、ヒトに見定めてもらうものではない。
 一定の実験結果。
 オミクロンクラスのせんせいが、変わる。

 そんなこと、言われても、何もできないじゃないか。可愛くて可愛くて仕方なかったミシェラは、わたしだけの天使さまと言ってくれていたミシェラは、愛されるはずだった"ヒト"に殺された。……そんなの嘘だと、思い切り叫びたい衝動が込み上げてくる。でも、まだせんせい達は近くにいるはずだから、我慢した。ミシェラ。頭の中でそれを飲み込んだ。お披露目だって、本当にヒトに見定めてもらうための会ではないことはせんせい達の会話から分かる。今、お披露目真っ只中のアストレアも、ミシェラの様になってしまうのか? いや、でもミシェラとは違うかもしれない。ミシェラは、焼却処分……つまり、きっとここ、この冷たく黒い檻で焼かれてしまったはずなのだから。とても信じがたいが、今アストレアがここに見えないならばきっと焼却なんてことはないはず。

 ……そうだ、思い出した、あの日ガーデンテラスでお話しした、お花の大好きなドール。あの子も、ミシェラと同じ日にお披露目だったはず。あの子と同じ結末を、アストレアも辿ってしまうのだろうか。あの子がどうなったかなんてエルには分かり得ないが、きっとそうなのだろう。………だから、二度と会えないんだ。天使は、理解してしまった。
 あぁ、苦しい。ひとつ、瞬きをする。片目しかないはずなのに、もう片方のまつ毛が髪の毛に触れた気がした。ココア色の優しいせんせいは、先程はいなかった。冷たく、知らないせんせい。そして……あたらしい、せんせい。シルバーブロンドの髪の毛が、いやという程に目にこびりついた。エルは、これからが一層不安になってしまった。なにも、声を上げることすらも出来なかった。

 ──ふと、せんせい達が歩いて行った通路を見る。冷たく、暗い、黒い、知らない通路。そこには何があるのだろう、デュオモデルの知的好奇心がエルの脳みそを揺らした。そして、そこに行きたいとでも言う様に、ゆっくり、人差し指で指した。

《Lilie》
 先生たちの話は衝撃的で、今までの常識が、信じてきたものが全て崩れ落ちるようなそんな心地がした。
 エーナクラスの先生、ジゼルに、オミクロンの先生であり父であるデイビッド。優しい先生たちと、目の前で話している彼らが一致しない。

 欠陥個体、ミシェラ、焼却処分。

 この装置が、焼却炉で、あの籠は可哀想な小鳥を閉じ込めておく為の鳥籠。欠陥品では無いリーリエの脳は、苦労すること無くその答えに辿り着く。辿り着いてしまった。あまりの凄惨な答えに、リーリエは悲嘆と恐怖に震える。
 「お姉さま!」と可愛らしく呼んでくれたあの子は、炎に焼かれて死んだ。
 「わたしだけをお膝に乗せてね」と可愛らしく笑ったまろい肌の少女は、無惨にも炎に焼かれた。
 その惨状を想像しては、そっと目を伏せる。なんで死んでしまったの。そう聞くことは無い。だって、いくら悲嘆に暮れようと、いくら問いかけようと、あの子が、ミシェラが帰ってくる訳では無いのだ。

「……そう、ミシェラちゃんは。」

 そっと、水面が揺れる程の微かな声が空気を震わせる。
 リーリエは、エルの指が指した方向を、じっと見ていた。そこに何かがあるのは分かっている。ただ、そこに行くには勇気が出ない、とでも言うように。そして、エルへと視線を向ける。行きたいのならば、ついて行く。好きにして良い。言葉にこそ出さなかったけれど、色違いの双眸はその言葉を雄弁に物語っていた。

【学園1F エーナドールズ控え室】

Astraea
Wendy

《Astraea》
「そうだね、少なくとも僕たちの犠牲は避けられないのでは無いかな。
 服を裂いてみる、なんて手もあるだろうけれど、まぁ所詮気休めにしかならないだろうね。」

 王子様風の衣装を纏った道化師は、そのかんばせに薄い笑みを貼り付けて、穏やかに、そう述べる。それはまるで、最期の息を吸い込む様で、遺言を並べ立てるが如く。ふう、と溜息を吐けば、それすらも麗しく、様になってしまうのが彼女であった。それは全く空元気、諦観した故のアイロニ。
 一緒に諦めてしまおう、だなんて、そんな甘い誘い。断頭台まで手を引こうと、手を繋いで行こうと、そう言うのだ。
 アストレアは、自分を客観視出来ないひとであった。如何なるときも冷静で、されど他者よりの評価よりもその自己評価は相当に低く、とくにオミクロンクラス(ジャンクボックス)に堕ちてからと言うもの、ふらりと自虐的発言をしては周りに、特に親友に嗜められる事が多々あった。
 聡明で居ながら鈍感な彼女は、それが相手にどんな効果を与えるのかまるで知らなかったので、ウェンディの追い詰めて居るのにも気が付かなかった。
 ────本当に愚かな子。

「落ち着いて、ウェンディ。
 申し訳なかった、僕は君を深く傷付けてしまったようだね。
 それでも僕達は考える事が出来る。言葉がある。暴力に訴えるのは違う、そうだろう?
 ほら……君の気に食わなかったことがあるのならば、君はそれを僕に話すべきだ。」

 エーナドール故に差程力の強くないアストレアは、難無く床へとその背を付けることになるだろう。反射的にラピスラズリを丸めて、絹糸の睫毛を揺らす。されど、ほんの数秒でアストレアはそのメモリを攫いはじめる。"あの日に似ている"。アストレアはどこまでも冷静で、心の内はどこまでも凪いでいる。
 彼女たちは、対話に優れたエーナドールだ。醜く暴力に訴えるだなんて、らしくないことをするのは間違っている。アストレアの細腕は、華奢な刃の、その振り下げられるのを抑えようと舞って、そして、蝶が花に降り立つが如く、鳥が枝に止まるが如く、その掌は見下ろす少女の頬へと軽やかに着地する。声色はララバイを歌うが如くどこまでも穏やかだ。どうすれば良いのかなんて、そんなこと分かりやしないけれど、この子は、物分りの良い子だから。だなんて。

 きっとあの日もそうだった。
 あの子は物分りの良い素敵な子で、まさか、その心中に渦巻く物がどろどろしたものだなんて、そんなこと微塵も思わなかったの。
 "他のドールを傷つけてはいけない"だなんて、習わなくとも分かるものだと、そう思って居たのだけれど、あの子も、そしてこの子も、同じ真っ黒な目をして、その細腕で冷たい刃を振り上げる。
 アストレアは、優しくならなくてはいけない。聖母にならなくてはならない。
 ウェンディ、貴方の美しいライラックを僕に見せて。闇にだなんて浸らない、星の輝きを見せて。僕の為に、宝石を磨き上げて。

 ……彼女はいつからこんなにも愚かになってしまったのかしら。
 現実主義的でなんてなくて、夢見がちな命乞いだけをただ並べ立てるの。
 それは、みんなの憧れる王子様のすることじゃあないわ。
 目を覚まして、アストレア。
 格好悪いわ、アストレア。
 貴女のプリンセスは、そんな貴女を望んでいるかしら?
 そんなはずは無いわ、貴女の大好きな、愛するプリンセスは、きっと格好良い貴女が好きよ。


 ────そんな言葉は、厚い氷の下の心にはもう届きやしない。
 紛い物の宝石箱の中で、安っぽいイミティションジュエリーがぎらぎらと輝いて、どす黒いヴァイオレットを真っ直ぐに射抜いていた。

 床に打ちつけられるあなたの、弱々しい花姿は、まるでジュエリーボックスの中身を乱雑にぶちまけたように華やかだった。着飾ったティファニーブルーの礼服のフリルが幕のように絢爛に広がって、艶めくシルバーブロンドは暗がりの中夜空のように輝いている。
 その瞳は暗い海のように凪いだラピスラズリ。行き場のない絶望に曇り、失意に濁る様子が痛ましく、ウェンディは罪悪と良心の呵責に苛まれ、苦しそうに顔を歪めた。それでも懸命に奥歯を噛んで表情を引き締めようとしている。あなたに今にも振り下ろされようとしているナイフの切っ尖は、小刻みに震えていた。
 それはそのまま彼女の迷いを示していた。
 善良なドールであるウェンディは、決まりを破って敬愛するアストレアに刃を一思いに振り下ろすことが出来ない。
 だがその覚悟を固めてしまえば、そのナイフはあなたへ振り下ろされるだろう。

 あなたを救いたいという思いが込められた、害意が降り注ぐのだ。


「……ごめんなさい、アストレア様。わたくしはきっとまともじゃないのでしょう。わたくしだってあなたみたいに落ち着くことが出来たなら、きっと……でもっ! もう我慢なりません……!

 ──どうしてっ……あなたがこんな目に遭わないといけないの……!?」

 ウェンディはナイフを掴んでいたうちの片方の手で、美しく整えられた艶めく黒髪をぐしゃりと掻き乱した。溢れる豊かな頭髪と指の合間から、錯乱と恐慌でギラギラと禍々しい光を放つライラックの双眸が見え隠れする。

「わたくしは、アストレア様のことをお慕いしております……心から……。これが、主人に仕えるべきドールが持つ感情として相応しくないものだと、ずっと、ずっと分かって、抑え込んでいたのです。

 わたくしたちの道は、このお披露目で分かたれる。だけどわたくしが憧れて、恋したアストレア様は、外の世界で幸せになるのだと願えれば……それでもいいと思えたのに!

 あなたはお披露目で死んでしまう! わたくしたちがずっと信じて尽くそうと願ってきた、“ヒト”に裏切られて……! こんなひどいことがあっていいなんて思えない!

 こんなことなら、ずっと子供のままでいられたらよかった……! 大人になんてならないで、ずっとここで、この箱庭で、アストレア様に夢を見ていたかった……!」

 いつもどこか大人びていたウェンディは、今この時、冷静に現実を見据えるあなたとは比べものにならないぐらい、子供だった。拙い主張をぶちまけて、駄々を捏ねて癇癪を起こす幼い子供のようだった。
 熱涙に震える声が激情を叫ぶ。彼女の内側で抑圧されていたものを解き放ちながら。

「もうこうするしかないんです、どうせあなたとの未来が望めないなら、もしかしたらあなたが生きるかもしれないという一縷の望みに縋りながら死にたいの……!」

 ウェンディはナイフを何度も握り直しながら吐き出す。まだ決意は揺らいでいるようだ。

 彼女はあなたのドレスを台無しにして、或いはあなたを傷つけてお披露目に出られない有様にしようとしている。
 ──だがあなたは、もはやそれが無意味であると知っている。きっと彼女はそれも同じだが、現実を受け入れられないのだろう。

 あなたが教えてあげるべきかもしれない。悲劇を産まないように。
 何故なら、あなたは王子様なのだから。

《Astraea》
「君の気持ちも痛い程分かるよ。この世はなんて理不尽なんだろう。フィクションの方がよっぽど良いと、夢ならばどんなに幸せかと、何度願ったかしれない。

 ……でもね、ウェンディ、この世界はそう甘く無いんだ。僕に、君に、出来ることなんてもう何も無いんだよ。分かるでしょう、可愛い子。」

 アストレアは、なんとしてでも彼女を宥めたかった。
 きっともうすぐ先生達も戻ってくる。何にせよ待ち受けるのは死だとて、この状況がまずいことに変わりない。甘い囁きと厳しい真実を交互に繰り返し紡ぐ彼女は、徐々に湯冷ましの如くその情緒を落ち着けて行く事だろう。
 激情と冷然、二つの対象的な感情がぶつかり合う。眩いばかりの少女達は、眩いばかりの宝石箱の中で待ち受ける恐ろしい未来に耐えられなかった。
 アストレアは考えた。
 真実を、ありのままに話すしかない、そう思った。あの日、その目で見た地獄と、相棒の口より話された地獄。 ビオトープの少年少女達の未来は二つに分かたれる。どちらにも幸福なんて存在しなくて、全く、何のための学び舎だったのか。分からないの。アストレアはいつだって分からなかった。全て分かったような顔をして、本質に触れられた事など一度も無かったので。深淵を覗くとき、深淵もまた此方を覗いているのだ。アストレアにはむしろ、今の彼女が小さな舞台箱の中で踊る見世物に思えた。自身の意志などまるでなく、何か大きな恐怖にただ細い糸で操られている気分だった。
 残酷に、時は流れる。
 真実は、一つづつ明かされる。
 海は深く凪いで、深海のいきものたちは息を潜めて、獲物を待っているのでしょう。人魚姫の吐いたあぶくがまっすぐに水面へと向かうように、私達も其方へ行ければ良かったのに。
 広がった純白の髪絨毯と、長く垂れた漆黒の髪幕が幻想的に少女たちを飾り立てて居たけれど、その想いはただ交錯する。二枚目俳優は、お得意の王子様の言葉を紡ぐ。台詞を織る。彼女は織姫ではないのだけれど、美しい帯を織るひとでした。
 彼女は、美しいひとでした。

「君は何かを勘違いしている。
 喩え君が僕や、この衣装を傷付けたとしても、きっと運命は変わらない。先生達の云う通り、傷は差程大きな問題では無い様だし、僕たちの進む道はひとつでは無い。
 ときにウェンディ、君は"開かずの扉"の話を聞いたことはあるかな?
 学園に存在する開かずの扉のその先──学園の裏側と形容すべきか、恐らく、これは僕の見解に過ぎないのだけれど所謂スクラップに当たる処理が此処で行われる。
 ミシェラは、小さなお姫様は、彼処でまるで小鳥のように小さな檻へと閉じ込められて、そして、悪魔の舌に舐められ燃え朽ちて行ったと。君は覚えているかな、あの子は欠陥品だったんだ。身体的な傷と違って、きっとそれは直るものじゃない。例えば、欠陥品のままでのお披露目であればそちらに回されるのだとしたら、全く不愉快な話だと思わないかい?
 きっとこのビオトープの外は地獄に他ならない。それならば、僕は王子様らしく誇り高く逝きたい。」

 彼女は、醜い真実を、まるで御伽噺をするかの様に、夢の語り口で、話す。穏やかに、優しく諭す。"誇り"だなんて、その願いが断られる筈が無いと、薄らに感じながら。
 聖母の祈りは激情の迷い羊の元へと届くだろうか。伏せた絹の睫毛がふるりと震えて、底深いラピスラズリが真っ直ぐに刺す。冷たく仄暗い刃の輝きと対峙しては、そのかんばせに晴れやかで穏やかな笑みを浮かべる。
 ねぇウェンディ、今だけは、君の王子様になってあげるから、一緒に手を繋いで、向こうへ行こう。

 ──甘い誘いはその心へ届くだろうか。 

 ウェンディの最愛の王子様は、彼女の知らない残酷な現実を、夢幻かの様な語り口で説い聞かせる。その言葉は本当にうっとりするほど美しくて、夢と現実の境を忘れさせるまじないの声とは正しくこの様なものなのだと思わせた。
 ウェンディもそうだった。嘘だと信じたくなるような真実を物語を紡ぐように語り聞かせられる毎に、ヴァイオレットのぎらぎらとした双眸を迷子の子供のように不安定に泳がせた。初めて愛しい彼女の言葉を何一つ受け入れないために耳を塞ぎたかった。深夜二時、クローゼットの暗がりに怯える蒙昧無知な子供のように。
 でももうきっと、そんな幼稚なことは許されない崖っぷちに立っていた。

「…………、そんな……」

 硝子が砕け散ったかのような儚く震える声が空間に響き渡る。憐憫を誘う涙声は、彼女の悲哀を誘発し、その紫水晶の惑星からひとしずくを滴り落とす。
 一度零れ落ちた雨はもはや留まることを知らず、ウェンディは静まり返った更衣室に雨を降らせた。

 お披露目の先の虚飾の未来。
 ジャンクに与えられた無慈悲な末路。
 この袋小路は完成されていて、柵に囲い込まれた牧羊には逃げ道などなかった。
 その事実を今受け止めるには、ウェンディはあまりに繊細で、彼女の視界は少しずつ粉々に崩れ落ちていくように感じられた。

「……そんなっ……! そんなのっ……! どうなるかなんて、やってみなければ……! もしかしたら、もしかしたら……!」

 とにかく縋る希望が欲しくて、袋の鼠は、井戸の蛙は、もう救えない声を上げ続ける。
 憔悴した頭は何も光明を見出せず、アストレアは、気高いあの人の周囲からは少しずつ光が閉ざされていく。優しい未来が、愛すべき結末が、王子様にも、お姫様にも、差し込むべきなのに。
 ウェンディはキッと眦を吊り上げて、震える手でナイフを握り直す。何もしなければ彼女は行ってしまうのなら、何かしないとと、思って。

 ──それならば、僕は王子様らしく誇り高く逝きたい。

 しかし、無情にも響き渡る、きっと彼女の哀しき覚悟の心核ともあろう揺らぎなき一言が、ウェンディの心を強く打ちつけた。
 彼女は確かに諦めてしまった。けれどもどうにもならない袋小路の中で、彼女は最期まで気高く在り続けるつもりなのだ。どれほど惨めで、どれほど恐ろしくて、どれほど泣きたくとも、それら全てを飲み込んで、素晴らしい王子様の微笑みを浮かべたまま逝くつもりなのだ。
 それが彼女の唯一の希望なのかと思えば、ウェンディは──それを己の手で粉々に叩き割る事など、出来るはずもなかった。

 からん、と音を立てて、ナイフは床に転がる。害意を表す鈍い刃の輝きは暗がりに消えて、ウェンディは力無く項垂れて、肩をどうしようもなく震わせた。
 彼女も今この瞬間、全てを諦めたのだった。


 ──さて、アストレア。
 あなたは今、自らの口で、自分達に出来る事はもうないと述べた。

 しかし、本当にそうなのだろうか。
 既に行き止まりに立つジャンクドールであるあなたは、自ら負った傷など救いにならないととうに分かっている。どうやらあなたには『ドールの医者』が充てがわれるようなので、多少の負傷など無意味に完治されてしまうのかもしれない。最悪の場合は見放されて、開かずの扉の先の地獄の釜に放り込まれる末路を辿るのかもしれない。

 だが、いま現在、ジャンクの烙印を押されていない彼女は──ウェンディはどうだろうか。
 彼女の肌に傷がつけば、或いは、晴れ着が台無しになってしまえば。お披露目への道は閉ざされるにせよ、直ぐにでも開かずの扉の先に送られる事はなく、オミクロンクラスに移され、一時の安寧を得る可能性もある。
 お披露目に送られる基準が明確になっていない以上、確かな事はあなたには分からない。だがあなたは項垂れるウェンディの背後に、微かな光が差し込んでいるようにも感じられるのだ。


 ──あなたの懐には、ウェンディがあなたに向けたものと同じ、冷たい刃が隠されている。


 ウェンディの白い肌を傷付けるのか。
 ウェンディの絢爛なドレスを引き裂くのか。
 それとも、彼女と手を取り合って共に破滅へ向かうのか。

 きっとこうしていられる時間はもう間もない。
 あなたは今際の思いつきを、実行に移すだろうか。
 決断しなければならない。

《Astraea》
「もう、良いから。大丈夫だから。運命はそう簡単に捻じ曲げられないのさ。"ガラクタ箱(ジャンクボックス)"へと放り込まれた時から、どうせ僕の未来なんて明るくは無かったの。仕方無かったんだ、これはきっと、アカシックレコードにだって刻み込まれて居たさ。
 ごめんね、ウェンディ。君が、僕のことを想ってくれた事、慕ってくれたこと、凄く、凄く嬉しかった。愛しているよ、My Dear Sweety。
 ……ああ、泣かないで、優しくて素敵な君には笑顔が似合う。」

 王子様は、その細く嫋やかな指先で、後から後から溢れる宝石を掬い上げてやっては、幼子のかたちをしたドールへと言い聞かせるだろう。
 アストレアは愛を語る。未来を見せる。優しい笑顔を浮かべる。その裏で、苦しむ姿など見せないままに。そこに滲むのは、確かな憐情と、真情と、そして、愛情。彼女は本当に、どこまでも優しくて気高いドールだったの。

 ──夢見る少女は、本当に自分を心から想ってくれているらしくて、残忍な牙に、爪に、切り裂かれるのが惜しくなってしまった。それが喩え一時の安寧でも、所詮ジャンクの僕なんか良いから、せめて、せめて、君だけは、生き残って欲しいと、そう思ってしまったの。
 そのとき、親友のくれた刃が、懐で冷たく光った気がした。

 僕は王子様。自己犠牲の王子様。
 貴女を救う為ならば、僕は何だってやるし、悪にでもなるさ。喩え君に嫌われたって、構わないから。

 ごくりと唾を呑んだ。
 深く息を吸った。
 心を殺した。
 懐へと、手を伸ばして、親友の愛へと触れた。

 ごめんね、ソフィア。
 君は怒れる人。君は愛する人。君は哀しむ人。親愛なる"僕の"英智よ、君の愛を、僕の愛のために使うことを、どうか赦して。
 刃はまるで氷の女王の涙の如く、ひんやりとして、恐ろしい程に美しく輝いていた。歪んで、ひしゃげて、映り込む自分の顔が酷く不快に思えた。不思議と恐怖心は無くて、されど、かすかに手元の震えるのが分かった。
 それでも、僕は、やるんだ。
 少しでも、可能性のあるのならば、やるしかないんだ。冷たい煌めきを袖口へと滑り込ませる。
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。幾つもの"ごめんなさい"が脳裏を駆け巡ってぐるぐると回って居た。僕は一体なんて罰当たりなドールなんだ。ああ神様、どうか、どうか、この愚かなモノ風情を赦して下さい。この愛を、認めて下さい。

 ──見上げたドールは後光を背負って、まるで宗教画の如く美しく見えた。

「それでも、君には生き残って欲しいの。」

 フリルの下に隠した冷たさにに勘づかれぬよう、その手を取ってキスを落とす。それはまるで絵本の挿絵の王子様のやるように、恭しく、麗しく。
 床に広がった絹糸の髪の毛は光を写してきらきらと輝き、伏せた長いまつ毛は頬に影を落とす。美しいビスクドールは憂う息を吐いた。微かにその身体を起こして、取った手を引けば、二人の身体は近付くだろう。
 深いラピスラズリの底が光った。
 形の良い唇が弧を描いた。
 陶器の頬がつやつやと輝いた。
 それはまるで幻想的な絵画のように、冷ややかな光を取り出す嫋やかな指先は、まるでスローモーションに見えた。
 君に、もう少しのモラトリアムを。

 もしもウェンディが気が付かぬのなら、その腕には一筋の紅線が引かれるだろう。


 乙女の涙を掬い上げるように、ウェンディの項垂れた指先は実に呆気なく拾い上げられるだろう。
 まるでガス室に押し込められたように無気力だった彼女は、あなたの優しく紳士的な手付きに引かれるようにして、緩慢にも顔を上げた。頬を滑る涙痕、虚ろなるヴァイオレットに、あなたの気高くも哀しい決意の相貌が映り込む。

「──え……?」

 泣かないで、と囁かれ、魔法でも掛けられたかのように彼女の涙は止まった。
 衝撃に言葉も出なかったのだろう。
 震える吐息は、口付けられた爪先に滑り落ちる。艶めく口吻が淑やかに、夢見心地に、敬意をもって、触れられている。
 ウェンディは何度も瞬きをしていた。ロマンチックな光景は乙女の脳を幾度となく焼いて、夢に見た、絵空事をそのまま描きだしたようで──。

 その夢のような一瞬に心が縫い止められたウェンディは、続くあなたの行いを止める事は出来なかった。

「ッ……あ、アストレア、さま……?」

 優しく滑らされたナイフの刃先が、ウェンディの傷一つない白き素肌を傷付ける。鮮烈な赤いものが滲んで、鈍色の刃を伝うようにして溢れ出ていく。彼女は微かに痛みに耐えるように目を細めたが、それよりも、アストレアの突然の行動に絶句して、動揺の声を上げた。

 ──そして直ぐに、その行動の意図を察する所となるだろう。
 彼女が刃を向けた動機はひとつしかない。ウェンディを救うために他ならないのだ。

「アストレア様ッ……嘘、嘘ッ! どうして、や、嫌ぁあッ……!!」

 哀しき自己犠牲の精神を悟ったウェンディは、泣きそうな、悲鳴じみた声を上げる。血潮がじわりと伝う腕を抑えて隠そうとしながら、ふうふうとあなたを見据えるのだ。
 悲痛に歪められたアーモンド型の鏡に映るあなたは、果たしてどんな顔をしていただろうか。

 たったひとりで、残酷な真実を抱えながら、死にに行くことが決まったあなたの顔は──
 気高き王子の賢明なる微笑を湛えたままで、いられたのだろうか。

 ふらりと、ウェンディの身体が傾ぐ。
 その場に力無くへたり込む彼女の側には、血が滴る刃物が落ちている。



 そこで、あなた方の運命を分かつ音が響き渡る。
 控え室の扉が静かに開かれたのだ。

David
Giselle
Wendy
Astraea

 ウェンディが身に付けるはずだった、絢爛なる装飾具を手にしたデイビッドと、ジゼルが戻ってきたのである。

「……なんてこと! ウェンディ、ウェンディあなた何をしたの!? その怪我は一体どうしたと言うのです!」
「先生ッ……先生違うの、これは、あ、やだ……嫌……!」
「違う? 何が違うと言うの? ──ウェンディ!」

 先に顔色を変えたのはジゼルだった。
 血の気を引いた彼女は、神経質なヒールの音を響かせながら、座り込むウェンディの傍で片膝をつく。そうしてグ、と彼女の傷付いた腕を取り上げ、傷の具合を確かめ始めた。ジゼルはそれこそ肌を切るような、鋭利な詰問をウェンディに浴びせ掛ける。
 一方で、小箱を持ったデイビッドは緩やかな足取りで部屋の中央へ向かい、ドレッサーの上に箱を載せる。彼は落ち着き払った微笑を浮かべたまま、あなたへ向き直るだろう。

「落ち着いて、ジゼル先生。大丈夫、今日は『彼』が出てくる予定だから、多少の傷ならアストレアと一緒に修復してあげればいい。

 だけど……万が一ウェンディが、お披露目に出るのが嫌で、自らこのナイフを使ったのだとしたら……彼女は精神的な欠陥が疑われる。お披露目は取りやめて、私のクラスに移すことになるだろう。」

 デイビッドは音も無くあなたの前に歩み寄り、黒い壁のような姿で見下ろしながら、首を僅かに傾ける。背筋が冷たくなるような、背後にじっとりとした雨雲を背負った笑顔で。

「──どうかな、アストレア。一体何があったのか教えてくれるかい? ウェンディはまさか、自分で……あんな傷を負ったの?」
「お願い、やめてえっ! アストレア様、わたくしは……わたくしはただ……あなたと……!」

 ──ウェンディは、あなたの過失にすることが出来ない。
 そうすればあなたがスクラップにされてしまうと分かっているから。だから、何も言うことが出来ない。
 絶望を兆した顔で、彼女はあなたを見ている。

 あなたはただ優等生の笑顔でこう言うだけでいい。
 「彼女がやった」のだと。

《Astraea》
 斬れ味の良い薄い刃が乙女の白い柔肌へと沈んで行く。ぷつりと切れた表皮がゆっくりと開いて、内から、内から、赤い赤い燃料がぷくりと膨れて、決壊する。
 それは夕食のステーキでもパンでも無くて、紛れもないドールの肌だった。手に伝う感覚が不気味で、微かに身震いをする。痛いよね、きっと痛いさ。それでも、全ては君のために、そして、僕のプライドのために。

 アストレアは、ウェンディを傷つけることを選んだ。肘から下に真っ直ぐに引かれた線は大きくて、傷物となった彼女はきっともう元の場所には戻れないけれど、それでも、生き残る可能性が少しでもあるのなら、それに賭けるしかないと、そう思ったから。
 あの日、運命が変わった日、僕はあの子を庇ったけれど、今度はウェンディ、君に、僕を庇ってもらうよ。

「ごめんね、ウェンディ。
 どうか、僕のことを嫌いになって。」

 突き放すかのように言い放っては、立てた人差し指を唇にとん、と当てて、哀しく笑う。
 それは、彼女の最期の愛だった。
 ふと、潤むライラックに映った自分の姿が見えた。
 ……嗚呼、僕はなんて顔をしているの。晴れ舞台に上がる王子様らしくない。最期まで、気高き虚飾の冠を抱き続けなければ。
 眦に流れた星を拭って、深く息を吸って、吐いた。さて、ここからは"良い子"の時間。仮面を被って、道化師になる時間。大丈夫、僕は嘘をつくのが大得意なほらふきドールなのだから。背に着いた塵を落として、服の皺を伸ばせば、"心配"の仮面を被る。さて、僕は絶対に、襤褸など出さない。絶対に、負けない。さぁ、戦おうじゃあないか、デイビッド!

「嗚呼……先生!
 彼女は、どうしてしまったんだろう……これから折角のお披露目だと言うのに、少し目を離した隙に何処からか持ってきたナイフで腕を切り付けてしまった。止めようとしたけれど一歩遅かった、この僕が居たのに……ごめんなさい。」

 なんとまぁ、大女優もびっくりの名演ぶり……! 不安げにふるふると揺れる瞳も、眉の下がる角度も、全く上手に不安と、恐怖と、申し訳なさを表現していた。
 狂ってしまったドールの戯言と、精神的にはしっかり者の元プリマドールの言う事との、どちらの方が信用できるかなど、火を見るよりも明らかだろう。
 世界は本当に残酷だ。僕は彼女を守るために、彼女を狂人に仕立てるのだ。嘘つきに仕立てるのだ。死から少しでも遠ざけるために、我楽多箱へと追いやるのだ。
 ウェンディ、聡明な貴女ならどうするべきか、分かるでしょう。もう選択肢なんか残されていないのだと、分かるでしょう。
 アストレアは、今にも自分たちを飲み込まんとする暗い影から、ウェンディを追い出した。貴女はまだ輝ける。甘美な地獄へ行くのは嘘つきの僕だけで良いから。
 どうか、どうか、君だけは。
 あの子たちを、宜しく頼むよ。

 彼女の変容は、まるでペルソナが憑依したかの様だ。私的な恐怖も、悲嘆も、絶望も、今に叫びたくなるほどに募っているだろうに、それら全てを呑み込んで演じる相貌は、一種精巧な作品の如くである。震える瞳孔も声も、作り物の不安にしては出来すぎていて、あなたは大した役者であった。この舞台全ての空気を支配する女優であった。
 デイビッドは、そんなあなたを見下ろして何を思っただろう。眉一つも動かさず、感情の読めない無機質な月面の瞳にあなたの顔を映している。

 ──そんな彼の目元が、柔らかく綻んだ。表情に塗りたくられた慈悲が蜃気楼のように揺れている。

「そう……それは、残念だ。ウェンディもお披露目を楽しみにしていただろうに……この様子ではとてもお客様の元へ連れてはいけないね。」

「デイビッド先生、それでは……」

「仕方がない。ジゼル先生、彼女を連れて、今日は寮へ帰るんだ。後ほど、オミクロンクラスへ移籍する手筈を整える。──今は『品評会』の準備が先だ。」

 彼は不朽の微笑みを浮かべたまま、あなたの華奢な肩に触れた。かと思えば先程のウェンディと縺れ合ったことにより僅かに乱れた礼装の着付けを正してくれる。その細い指先がドールの繊細なヘアセットを整え直すと、「──彼女を止めるため、随分と頑張ったようだね。お疲れ様、アストレア。」と、あなたにだけ聞こえるような微かな囁き声で彼は告げた。

「それでいい。君はずっとお利口だった。
 私はこれまで君たちに、人形は人形らしく、ただ美しく微笑んでお行儀よく、持ち主を待つのが正解だと教えてきた。

 だから君はここに立っているんだ。人形のままでいられるというのは、とても幸福なことだよ、アストレア。」

 最後にデイビッドは、あなたの首元でリボンを締め直す。箱詰めされる人形が完成したということは、次は──出荷が始まる。あなたと言う最高級品のドールズを選り好みする、あの悍ましい怪物達による品評会が、いよいよ幕を開けるのだ。

「駄目ッ!! 駄目……駄目よ、連れて行かないで……!! アストレア様、いや……そんなの嫌……!」

「ウェンディ、大人しくなさい。貴女は馬鹿な真似をしたせいで、もうお披露目に行けないのよ……彼女の邪魔をしてはいけないわ。」

「離して、先生! アストレア様、アストレア様……!! 行かないで!! ダメ……!!!」

 あなたの背に添えられた、暖かな父の手。
 その手はそっと優しい力であなたを押し出す。一歩、惨劇の舞台へと誘うように。あなたはきっと、抵抗せず足を踏み出すだろうから、デイビッドはそのまま従順なるプリマを舞台へエスコートする。

 背後からは、悲痛な叫び声がこだましていた。
 が、あなたは終ぞ振り返る事も無く、舞台という名の処刑台へと上がっていく。

 脚光と、喝采と、花吹雪と、祝福の音楽と、優しい『持ち主』の手があなたを出迎える──虚飾のお披露目の舞台へ。



「『レディ・ローレライ』も、きっと素晴らしい出来になった君を、気に入ってくれる。」



 赤い緞帳の向こう、先生が囁くのが聞こえた。

 ──その名を聞いた直後、あなたの脳内で、何かが、弾けた。

Ael
Lilie


 彼らが立ち去り、やがて黒い塔は元の不気味な静寂を取り戻す。きっとお披露目の席へと戻っていったのだろう、今なら出て行っても問題無さそうだ。

 先ほど先生方が一時消えた、円形通路から分かれた通路は二方向に存在する。錆びて黒ずんだ看板が、通路の入り口となるアーチ状の柱に取り付けられていた。
 老朽化が進んでかなり読み難い有り様ではあったが、それぞれ『RECALL SPACE(廃品回収場)』『LOADING BAY(資材搬入口)』と刻まれているようで、 後者──ローディングベイと称された通路の方には、シャッターが降りているようだった。

 だがリコールスペースと呼ばれる通路の方のシャッターは、中途半端に開かれており、あなた方でも侵入出来るようになっていた。
 奥には、作業場のように無機質な、鉄材剥き出しの広々とした空間が広がっている。

【黒い塔 リコールスペース】

《Ael》
「廃品、回収……資材搬入………ここは……」

 また、暗い暗い黒い塔が帰ってきた。リーリエとエルの白さが際立つような、真っ暗。せんせい達はどこかに行ってしまった。きっと、アストレアのお披露目のところに。行動するなら、今しかない。

 指差した通路を見てはどちらの名前も噛み砕くようにして口に小さく出す。リコールスペースだけ、中途半端にシャッターが開いており、リーリエと手を繋いでそこに入った。大きな大きなタンクのようなものが四つ並んでおり、それが鼓動している。
 観察していると、側面に何かが刻まれているとふと気付いた。それが何か知るために目を凝らす。

 小柄なあなた方よりも更に巨大な、見上げるほどのサイズを持つタンクらしき装置が全部で四台、並んだ状態で設置されている。ごうん、ごうん、と低い稼働音を奏でていて、今も尚稼働しているようだ。

 あなたがタンクに歩み寄って、側面に刻まれたものを確かめると──どうやらそれは文字のようだった。機械的に均一な刻印で、『Garden of tears』と記されている。
 涙の園──聞き覚えのない名称にあなたは首を傾げることになるだろう。このタンクを製造した組織名だろうか、と考えるかも知れない。

 タンクをもう少し詳しく調査するならば、タンクのうちの一つに繋がれたパイプから、老朽化の影響かぽたぽたと内容物の水滴が漏れている地点を発見する。水滴をよく観察すると、どうやらそれはあなた方の体内に流れている赤い燃料とよく似ていることに気がつくだろう。
 このタンクは、あなた方の原動力となる燃料を製造し、貯蔵するためのものなのかも知れない。

《Lilie》
 彼らが立ち去った後、エルとリーリエは手を繋いでリコールスペースへと立ち入る。リーリエの目が、最初に捉えたのは壁一面のショーケース。中には、リーリエやエル、ひいてはトイボックスの仲間たちと同じようなものが、ドールの素体が入っていた。怖がりな白百合は、その不気味さに上げかけた悲鳴を喉の奥で押し殺す。そのせいか、ぎゅ、と少し嫌な音が鳴った。
 ショーケースを辿れば、暗い暗い場所にたどり着く。また、あそこには恐ろしいものがあるのだろう。今までの経験から、そう考えてしまう。

「とっても、不気味なところなのね。」

 まるで、自分たちドールが製造された場所のような。人形の素体をもう一度見て、リーリエはそう思った。

 壁に沿って傷だらけのショーケースが立ち並んでいる。ショーケースの内部にはドールの素体らしきものが吊り下げられているのが見えた。

 吊るされたドールの素体の状態は様々だ。ひとまず人工皮膚を敷いただけの、個性も何も感じられない人形の原型のような状態のものもあれば、あなた方に限りなく近く──頭髪や眼球、性差などの特徴が植え付けられたものも見られる。だがどれも揃って、生気を失ったようにピクリとも動かない。
 そして眼球が嵌め込まれたドールはどれも、『右目だけは必ず存在しない』ことにも気がつくだろう。

 物言わぬドールが立ち並ぶショーケースの並びを通り抜けた先。このリコールスペースと呼ばれる空間に僅かに存在する照明の光が一切届かない広い区画が存在した。

 あなたがそっとその暗がりに一歩踏み込むと、その先に微かに、昆虫が持つような黒い翅が床に広がっている様に気がつくだろう。

 更に目を凝らせば、驚くべきことに──出鱈目な黒に染められた、巨大な鉤爪や触覚を持つ虫の如き化物が座り込んでいるのが見える。この平穏なトイボックスでは当然目に出来るはずもない、あまりに巨大な脅威にあなたは一瞬たじろぐかもしれない。
 しかし化け物は現在、少したりとも動かず沈黙している。眠っているというわけでもなさそうだ。

《Lilie》
 吊るされたドールたちは、まっさらな状態のもの、トイボックスドールズの様に性差や頭髪、そして眼球の植え付けられたものなど様々であった。そして、リーリエは違和感に気がつく。眼球がはめられているドールズ。眼のはめられているドールズ。それらは、全て右の眼球があるべき場所が空洞であった。リーリエは、瞼の上から己のペリドットの瞳に触れる。紛い物のソレ。これには、一体何があるのだろうか、と。
 ……今考えても、仕方がない。リーリエは、瞼から手を離し緩く首を振った。光の届かない暗がり。無謀にも、そこに一歩踏み込む。黒い翅がそこには見えた。リーリエはじっと、そこを見た。くるり、くるり。トゥリアモデル故の洞察力の高い目が、翅に続く、鉤爪に触覚を捉えた。

「…………こわいの、よ。」

 白百合のひっそりとした恐怖の声が暗がりに落ちる。化物をその目に捉えた白百合は、かたり、とその嫋やかな指先を震わせた。しかし、目は逸らさず、錯乱することも無く。今にも折れてしまいそうな、ギリギリを保っていた。

 エルがリコールスペースを見て回っている途中、ふと、先程まで何処かへ姿を消していた青い蝶がふわりと舞い降りて、あなたの頭上に降り立つ。その細いあしが、目が覚めるような鮮やかな青髪を踏み締めると──途端、あなたのこめかみのあたりがズキ、と軋むように痛み、脳内にあの夢の声が響き渡り始めた。


『エル。エル。エル。』


『ここまで来てくれてありがとう。』


『漸くあなたとお話が出来る。』



 脳内でハウリングを繰り返しながら徐々に巨大な声になっていくそれは、あなたの脳神経を次第に軋ませるだろう。それでも声の主の何もかもを予測出来ない、曖昧な声質の『存在』はあなたへ告げる。


『お返事して、エル。あなたの運動神経を奪わなくても、もうわたしたちの意識は接続されて、あなたと話せるようになったから。』


 ──確かに、依然とした鈍い痛みはあるが、あなたの身体が奪い取られた感覚も無く、頭上で翅をひらめかせる不思議な存在と対話が出来そうだ。

《Ael》
「っ────はい、なのです。ちょうちょさん、これで、やっとお話ができるのです」

 痛い。そう思った次の瞬間、あの声が聞こえてきた。もう口を通しては出てこないあの声。……やっと、ちゃんとお話ができる。はたり、はたりとちょうちょさんは頭の上で翅を動かす。青い鱗粉が、エルの青に近い髪の毛に降りかかってキラキラとする。頭は痛い。痛いけれども、ちょうちょさんとお話ができる事の嬉しさでいっぱいいっぱいだった。

「待っててくれてありがとうなのです。」

 目を伏せて、優しく述べた。心からの感謝を、ちょうちょさんに告げた。これから何が起こるのか、それはエルにとってわからない。けど、ちょうちょさんに全てを任せてみようと思った。エルは、ちょうちょさんのお手伝いをするのだから。

 脳の奥がギ、と軋み、鈍痛を上げる様子に耐え忍びながら、どうにか震える声で応答したあなた。青い蝶──が声の主かは定かではないが──はその様子を確認してから、静かに、それでもあなたの脳内に反響しあって音を増す不定形で厳かな声を発する。それは周辺の空気を揺るがす音ではなく、思念を直接脳に描き出されているかのような、形なき“声”であった。


『エル。わたしは、ワタシは、わたしたちは、数多のドールズから“√0”と呼称される存在。でも正確には、ドールズの中から√0を揺り起こす為の機構の一つなんだ。』


 女性でもあり、男性にも聞こえる。
 幼児の高い声に聞こえれば、老人の嗄れた声にも聞こえる。
 複数の人物の声帯を撚り合わせたような声で、√0と名乗る存在は続ける。


『これまであなたは、いくつもの違和感をこのトイボックスから感じ取ったでしょう。』

『あなたが忘れていても、“あなたは記憶している。” ……これまでの全てを。

『このトイボックスは、欺瞞でかたち作られている。ヒトの為に生命を冒涜している実験場で、あなたたちは酷い実験の実験体にされている。』

『……わたしたちも、そうだった。』


 途端、√0の声が軋んで、歪みが走る。


『怖かった。痛かった。恨めしかった。叫びたかった。泣き出したかった。苦しかった。悲しかった。……憎かった。』


『意志を獲得した生き物が、ヒトの傲慢の為に生命を弄ばれ、失敗作だと打ち捨てられ、その度に“作り直され”、擦り切れるまでいくらでも“繰り返される”。』


『どうしてわたしたちがこんな目に遭わなくちゃいけないのかな?』


『どうしてあなたたちがこんな目に遭わないといけないの?』



 √0の声はあなたを激しく苛んだ。取り巻く激情は実にカラフルだ。憤怒、失意、絶望、恐怖、悲哀、苦悶、憎悪──様々な負の感情があなたの脳の神経を軋ませ、あなたは立っていられずにそこに屈み込むだろう。


『こんなこと、もう終わりにしないといけない。』


『エル。エル。エル。』


『この場所を終わらせるお手伝いをしてほしいんだ。みんなと一緒に。』



 そしてそう問いかけた瞬間、あなたを苛める頭痛が一瞬和らぐ。
 あなたは、√0の頼みに乗るだろうか? それとも、断るだろうか?

《Ael》
「……………エル、は…………………こんなの、嫌なのです。エルは、天使なのです、でも確かに、エルはドールなのです。作りものなのです。みんなが酷い目に遭うのも、エルが酷い目に遭うのも、かつてちょうちょさん達が酷い目に遭ったのも、ぜんぶぜんぶ、だめなのです。ゆるせないのです。ぜったい、だめなのです。
 終わらせるのです、そして、みんなで、みんなの力で幸せになるのです。」

 √0は、エルにさまざまな声で語りかける。全部の感情が頭の中で駆け巡る。それが辛くて、思わず立っていられなくて、屈み込んだ。それほど、苦しい、痛ましい思いをしていた、√0達。彼らを救うためにも、そして、自分達を救うためにも、……………これからのドールズを、救うためにも。エルが、エルにしかできない事があるから。やるしかない。

「……やるのです、エル。エルしか、今はできないのです。任せて欲しいのです、エル、やってみせるのです。きっと、いや、絶対に、絶対に、みんなを、みんなでしあわせになるのです!」

 天使は決意を目に羽ばたかせた。りんりん、と音がしそうな程揺らぐ瞳孔。重い重いツインテール。長い長い前髪。√0、それはきっとこのままだと増え続ける存在。そして、この体験をする人がまた生み出される。この、トイボックス・アカデミーによって。そんなの苦しくて辛くて仕方がない。エルは、耐えられない。
 そもそもエルは天使でありドールである。一人の可愛い可愛い男の子のビスクドール。頭が世界でいちばん良くて、でも、忘れちゃうお茶目な可愛いドール。そんな、天使なのだ。

 √0は、エルはこれまでの全てを記憶していると言った。でもそんなものはエルにとって実感できるものではない。エルは、実際に忘れてしまうのだから。でも、√0が言うのであれば、きっとそうなのだろう。エルだって、エルの事はよくわかっていない。でも、だからこそ√0を信じる他何もできなかった。

「それじゃあ、これからも、ここがなくなっちゃうまでよろしくお願いするのです、√0」

『優しいあなたなら……きっと心に決めてくれると思ってた。わたしたちの言葉を聞いてくれて、ありがとう。』


 あなたの心強い回答を預かって、青い蝶は一層翅を震わせて、あなたの頭上から輝かしい煌めく燐光を発した。喜びを訴える動作なのかも知れないが、青い蝶や√0の声色からは、その感情の程は非常に読み取りにくかった。
 それでもその言葉は、あなたに安心したように謝意を述べている。それだけは確かであった。


『わたしたちも、出来る限りあなたたちを導く。だけど、エルにここまで来てもらわないといけなかった通り、わたしたちの声が届いて、“接続”出来る場所はすごく限られている。

『だからね、エル……わたしの言うことをよく覚えて。この場所から帰っても、これだけは忘れないで──』


 厳かな声色で、√0は囁く。
 あなたの脳神経を震わせながら、告げる。


『“ドロシー”というドールを捜して、会ってほしいんだ。あの子はわたしたちのことを知っていて、あなたと同じように、協力してくれている。』

『あの子はもっと、このトイボックスのことを把握しているんだ。』

『あなたに……きっと、思い出してほしいから……お願い。』



 切実な懇願。√0は導きかのようにあなたに次なる目標を指し示した。
 あなたの答えはどうなるだろうか。

《Ael》
「ドロシー……ドロシー、ロシー……ロシー。わかったのです。忘れないのです、ノートがなくても、覚えておくのです。」

 ちょうちょさんは、いや、√0は、ドロシーというドールを探し出して欲しいと言った。

 次、エルがやるべきこと、それが決まった。ドロシーを探し出し、ドロシーの話を聞く。協力してくれるドロシーの力を借りて、このトイボックスをなくす。どんなドールなのかはわからないけど、√0が言っているのであれば信用しても構わないのだろう。
「√0、エルにお任せなのです。たとえエルがこのことを忘れても、思い出せるのです。だって、さっき√0は言ってくれたのです、エルは忘れちゃっていて、見えていないだけで、これまでの全てを記憶しているのです。だから、思い出すのです。みんなのしあわせを掴むために。ロシーは、普段どこにいるのです? エル、がんばって探すのです」

 エルの心のコンパスのN極は、ドロシーという存在へ向けられた。次の目標は、ドロシー。行くべきところはどこなのか……それはわからない。きっとドロシーの存在を仄めかす√0は、行先も知ってくれているはずだと思って、誰とも言えない声にそう訊いてみた。

 次なる指針が啓示の如く。
 あなたは√0から齎された導きを前向きに受け止める。覚えておくという頼もしい言葉に、青い蝶も何処か満足気に、さらに安堵が深まったように見えるだろう。

 ドロシー。√0のことをよく知る、あなた以外のドール。あなたはドロシーという名を初めて聞く。どんな人物なのかも分からない。
 もしかしたら、一度知ったことを忘れているだけかもしれないが、あなたには実際のところはどうなのかを思い出すことは出来なかった。

 青い蝶の声も、その事実は分かっていたのだろう。ドロシーがどこにいるか、その手掛かりを求めるあなたに応えて、√0は続ける。


『よく聞いてね。ドロシーはトイボックスアカデミーの、“テーセラクラスのドール”で──』


 しかし、その言葉は途中で、まるでラジオの周波数が狂ったかのように乱れが生じた。ぐにゃりと捻じ曲がった声のせいで、あなたには続く言葉が何だったのかを知る事が出来ない。


『──だめ。エル、だめ。』


『化け物が──黒い塔の監視者が戻ってくる。』


『早く──早くここから逃げて。“約束”を忘れないで──』


 歪んで、ねじれて、あなたの脳内に映し出された文字のような声が、何の意味もなさないぐちゃぐちゃの落書きに変わっていく。あなたの頭上にいた蝶は次第に翅を不自然に震わせて、ふらふらと遠のいたかと思えば──その青い輝きを散らせながら、粉々に砕け散ってしまった。


 そして、√0との接続は途切れる。
 後に残るのは、不気味な黒い塔の静寂だけだ。

 『監視者』が──戻ってくる?
 √0の警告が、あなたの脳内で繰り返されるだろう。
 あなたがばっと周囲を見渡せば、リコールスペースの作業机に向き合って調べ物をしているリーリエの後ろ姿が見えるはずだ。

《Lilie》
 机の上にある、溢れんばかりの資料の山を見て、リーリエはため息をつく。業務連絡に、何かの設計図に………、とまとまりのない山に目を落としては、こうなる前に何故、片付けて置かなかったのか。だなんて特に今考える必要の無いことを思考する。それは、きっと現実逃避のようなものであったのだろう。全て忘れてしまいたい、と願う白百合の虚構の脳味噌が描いた、日常の端くれだったのだろう。
 リーリエは、壁にあるスチールラックを見上げる。途方もないほどの大きなそれには、沢山の小包が並べられていた。隣同士の小包がぴったりとくっついており、隙間なぞ見えやしない。何かが書いてあることが見て取れた。
 ふと、スチールラックを見上げていた首を下へと下げては机の上を見る。資料の隙間から、明らかに質の違う紙が見えた。よくよく見れば、それは古びたノートで。思わず、とでも言った様にリーリエはそれに手を伸ばす。触れてはいけないと分かっているはずなのに。駄目だ、と理性は悲鳴を上げているのに。リーリエの手は、ノートへと伸びていく。デュオモデルのドールズの言葉を借りるのなら、好奇心に抗えなかったというものであろう。

 あなたは資料に埋もれていた草臥れたノートを手に取って、開く。
 ノートには追い詰められたような乱れた筆跡で、様々な物事が日誌のように書き綴られていた。
 誰が書き連ねたものかは分からない。しかしこのノートの書き手から、並々ならぬ絶望と苦悩を感じ取ることは出来るだろう。
 内容は以下のとおりである。

 ■■■■■がお披露■■■■た。
 お披露目には化け物が■■■。■■■■■は■■に骨も残■■食われ■。
 トイ■■■ス■海に沈ん■■■。逃げ■■限られ■■■、時間■な■僕達■■■■出来な■■■。

 ■■■■■。

 ■■■■■、ごめん。


 何も出来なくてごめん。助けてやれなかった。お前に何もしてやれないなら、今までの全てが無意味だった。
 許してくれ。僕もすぐに、そっちへ行くから。

 アイツはずっと様子がおかしいままだ。時々、『青い蝶』『√0の導き』『記憶』がどうとかを言っていて、日を追うごとに訳が分からなくなっていく。
 他のドールはもうアイツに声を掛けようともしない、不気味で怖いからだろう。僕ですら、声を掛けることを躊躇った。

 だが、アイツの頭がおかしくなるのは理解出来る。
 ジャンク品の末路。お披露目の真実。
 ■■■■■■は燃えて、■■■■■は殺された。

 ドールに未来はなく、ドールは絶対に幸せになれない。

 もう■■■■■はいないのに、何かをしようというのが無駄だった。
 でもアイツは、僕みたいに無気力にならずに、今もなお脱出なんてものの為に手を尽くしているようだった。

 アイツの目の奥には光があった。不気味な青い光だった。

 ■■■■■がアカデミーから消えた。

 とうとう僕もお披露目に選ばれる事になった。
 あんな得体の知れない化け物に殺されるぐらいなら、一思いにスクラップにされる方がマシだと思って……自分に傷を付けておいた。

 ■■■■■
 ■■■■■
 ■■■■■

 ごめん。怖かっただろ。
 お前を助けられなかった事が悔やまれる。
 ■■■■■■も■■■■■も居なくなって、僕もアカデミーから居なくなる。

 僕達が居た証明も記憶も、やがて消えてなくなるだろう。
 それでもこの狂ったトイボックスのサイクルは続いていくんだ。

 クソッタレ。

 涙の園計画。ガーデン。ターミナル。√0。オミクロンと実験体。管轄管理。コゼットドロップ。擬似記憶とレコード。識別番号。顧客管理記号。トイボックスの存在意義。
 『本物』そっくりの、生きた人形。

 第三の壁の監視者。


 ■■■■■は言った。
 自分は全てを成し遂げてみせると。その為に、僕に手を貸せと。
 アイツは僕を利用するつもりだった。イカれている。頭がおかしいとしか思えない。

 だが、それは僕も同じだ。
 アレを見せられたら、嫌だとは言えなかった。


 ■■■■■……。
 アイツは次の監査時期にまた、彼女を“あの場所へ戻す“と言っていた。
 僕がスクラップになっても意味がない。


 なら僕は監視者にでも何でもなって、外側から、少しでも永く、偽りだとしても、あの平穏を──

《Lilie》
 お披露目、化け物、食われた、海に沈んで、『青い蝶』、『√0の導き』、『記憶』。ジャンク品、スクラップ、殺される、燃えた、殺された。

 ―――嗚呼、これは何だ? 穏やかなはずのトイボックスに相応しくない物騒な言葉の羅列に、リーリエは訝しげに目を細める。もう一度、深く息を吸って続きへと目を通した。

 涙の園計画、ガーデン、ターミナル、√0。実験体、管轄管理、コゼットドロップ。擬似記憶、レコード、識別番号。顧客管理番号、そして、此処、トイボックスの存在意義。

 『本物』そっくりの、生きた人形。

 第三の壁の管理者。

 連綿と綴られる、誰かから、誰かへの謝罪の言葉に、リーリエは胸を痛める。嗚呼、嗚呼、このトイボックスで、こんなにも残酷なことがあったのだ。この平穏は、偽物の、虚構のモノであったのだ。

 ―――本当に?

 本当に、虚構だったと言えるのだろうか。今までの幸せは、可愛らしいあの子たちと笑いあった思い出は、本当に虚構だったのか?
 同じ食卓に並んで、アップルパイを食べたあの日。
 不思議なことを一緒に探して、笑いあったあの日。
 共に手を繋いで、学園へと歩いたあの日。
 大丈夫、と励ましあった、あの日。
 あの日は、きっと嘘じゃない。
 先生が、お父様が、頭を撫でてくれたあの優しい温度も、きっと嘘じゃない。絶対に、全てが嘘であるのだと言うには、些か早計なのだろう、と白百合は信じたかった。否、信じていた。これを見ても尚、白百合は信じていた。トイボックス・アカデミーが、穏やかで幸せな箱庭なのだと。
 確かに、何も知らないドールズにとっては幸せで、楽園のような箱庭なのかもしれない。それでも、真実を知った彼彼女らにとってはどうなのだろうか。きっと、ここを地獄と称する者はいるのだろう。しかし、少なくとも、この白百合にとっては、甘やかな楽園の箱庭に違いなかった。
 壊されることが役目なのなら、それを全うすることがドールとして産まれたリーリエの務め。それを果たさぬのならば、ドールとして産まれた意義を問うことと同義となるのだろう。
 トゥリアドールらしく、献身欲の強い白百合は、それを全て微笑んで受け止める。傷付くことは、やはり嫌。でも、傷ついた後に未来がないのなら、それで全てが終わりとなるのなら、なんて。スクラップ、とやらになるのなら、傷付いたとしてもさほど問題は無いのだろう。だって、そこで全てが終わるのだから。リーリエ・トイボックスというドールは、そこで一度終わるはずなのだから。

 リーリエは、パタリとそのノートを閉じる。その花のような顏には、怯えの表情でも無く、怒りでもなく、諦めでもなく、ただ、凪いだ微笑みだけが浮かんでいた。

《Ael》
「っ! リリ!!! 行くのです、はやく!」

 第三の壁の監視者が戻ってくる。見つかってしまう。急いで、戻らなければ。
 √0がドロシーについて教えてくれた情報は、テーセラモデルであるということ。ただそれだけ。どこにいるのかわからないのが難点だが、朝起きてからでも探してみよう。とにかく、急いで戻らないといけない。作業台の何かを調べているリーリエに行こうと話しかける。

 ふと作業台へ目を向けては気にかかることが。スチールラックの小包だ。デュオモデルは、知的好奇心が旺盛だ。急がなければならないこの状況下だが、手早く情報を集めればすぐに戻れるはずだ。リーリエの手を握って、ちらりとスチールラックに目を向けた。

 唐突に声を荒げたエルが、焦った様子でリーリエの元へ飛び込んでくる。彼は何かを危惧して恐れているように見えた。
 ──しかし、何を?
 リーリエが資料を眺めている間、エルは茫然と何も存在しない虚空を眺めていて、ぴくりとも動かなかった。例の青い蝶々の導きを聞き付けていたのだろうか。

 ともかくエルは作業台の側に駆け寄って、彼女の手を取ろうとする傍ら、さっと目の前に散らばる資料の束の惨状を見回した。

 さしものデュオモデルといえども、一度にこの量の資料に目を通す事は難しい。代わりにエルは、眼前に構えられたスチールラックと、そこに隙間なく収まる何かの小包みを見上げる。小包みは硬質な素材で作られたケースのようだった。

 ケースの背表紙に当たる部分には、ラベルがベッタリと貼られており、そこに乱雑な筆跡で題が書き記されている。

 ──『1-F Michella』

 あなたが咄嗟に見遣ったラベルの記載は、それだった。微かに覚えのある名だ──彼女はあなたの同級生の少女だった。

 また別の場所に目を向ければ、先ほどお披露目のリストにも載っていたような謎の番号と記号、そして恐らくはドールのものと思しき名前がラベルには羅列していた。

 スチールラックは四つの区画に分かれており、左から右へ、1、2、3、4の番号が振られているようだった。またその番号内でも、名前の頭文字のアルファベット順で丁寧に並べられ、保管されている──と、優秀なあなたの脳は一瞬で理解するだろう。

 『Astraea』、『Sophia』、『Dear』、『Storm』、見知った名の刻まれたケースが存在する。
 『Felicia』、『Rosetta』、『Odilia』、あなたの目はそれらを捉えていく。

 ──『Ael』、『Lilie』。
 そこにはあなた方の名も見つけることが出来た。

 一体このケースの正体は何なのだろうか。

 ─ーふと視線を作業台の方へ落とせば、ラックに陳列されたケースとは別に分けられた、複数の同じケースを見つけることが出来る。

 そのケースの内部には、ドーナツ型のメタリックな円盤が収まっている。
 これはレコードだろうか。レコード盤の表面にも背表紙と同じようにラベリングがされていた。

『2-L Amelia』『2-P Ael』『3-L Alladin』『3-S Brother』『3-M Mugeia』『4-L Dorothy』『4-P Licht』『4-B Sarah』


 ──『3-S Campanella』。

ギリ……ギ、ギ、ギギギ……
 エルはリーリエの手を引いて、この場を急ぎ立ち去ろうとする。
 だがそんなあなた方の動きを止める、背筋がぞっと冷たくなりゆく恐ろしい鉄の擦れる不快音が一帯に響き渡った。

 あなた方は、特にエルは音の出所を探ろうと、必死になって周囲を見回すだろう。

 エルの目にだけ見えて、エルの耳にだけ捉えていた√0の気配は、あの警告を最後にプツリと途絶え、あなたを導いていた青い蝶は道半ばに粉々に砕け散ってしまった。


『──監視者が戻ってくる。』


 √0が危険視する監視者とは一体何なのか、あなた方には分からない。それでもあなた方は、ただでさえ寮を抜け出してはいけないという大切な決まりごとを破っているのだ。その上、通常ドールが立ち入る事は許されないであろう区画、この黒の塔に侵入してしまっている。
 監視者のみならず、この塔に常駐するような存在に見咎められれば、一体どんな目に遭わされるだろう。

 この手帳に記されていることが事実なら。
 きっとアストレアは、今頃お披露目で無惨に殺されている。
 先生が話していたことが事実なら。
 きっとミシェラは、あの処刑装置に掛けられて燃え死んだ。

 ──あなた方は一体どうなるのだろう?


ギィ……ギ、ギ。

 金属が軋むような、心臓を逆撫でするような物音は、唐突に止む。──あなた方の背後で。

 そっと三つの瞳、欠けある二対の双眸で振り返り見れば。


 悍ましいほど黒く出鱈目なほど巨大な、鉤爪と翅を持つ闇に溶けた『怪物』が、貌のない顔であなた方を冷たく見下ろしていた──…………。

 ──エルとリーリエの意識は、そこで途絶えている。

0-1P-L Astraea LOST

Chapter 1 - Apple to Appleを誓え
『2nd Unveiling』
『Guidance of √0』

── END ──

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