「……」
ダイニングルームでの朝食を終えて……この感情を表に出していいのかどうかも分からない位にクラクラする頭を抱えながら、彼女は一先ず部屋を離れる事にした。
今日の朝、分かったことは大まかに四つ。
一つ目がアストレア様の死亡。
半ば予想をしては居たけれど……やはり彼女は助からなかったらしい。
逃れる術も逃れる場所も分からない以上仕方がないとはいえど……それは苦しく寂しいものであった。
二つ目が、恐らくアストレア様がウェンディ様を逃がそうとしたのだと言う事。
あの王子様ならば、きっとそんな極限の状況下でも誰かを助けようとするのだろうなと、そんな、確信めいた予想。
三つめが先生の言っていた新しい仲間の存在。
グレーテルと言うらしい彼女はずいぶんと快活そうで、言ってしまえば落ち込んでいないように見えた。
その上外傷らしきものも見当たらない、という事は恐らく……何か知的能力に問題があり、オミクロンクラスに送られるという意味が分からないのだろう。
それは……彼女の厭う哀れみではあったけれど、それを喜ぶべきだと言うお父様への不信感は拭えなかった。
最後に、四つ目が新しい先生の存在。
余り面識のある先生ではないが……彼女はジゼル様と言うらしい。
お父様が居ないからといって監視が緩むという事は期待して居ないけれど……こうして先生が二人居る状況は彼女にとってかなり厄介なものだった。
……と、後に彼女は軽く整理する事ができたが、今は違う、混沌とした思考の中で、彼女は逃げるように歩き出した。
階段を上り詰め、寮の最上階に位置する埃臭い書物の蔵に辿り着く。図書室の天井は四階部分までを突き抜けているためか、とても高い。そして、木製のロフトを介して上階にも数多の書物がところ狭しと保管されているようだ。
図書室はほの暗く、壁に取り付けられた卵型の照明をつけてもまだ暗い。
屋根裏の部分に切り取られた小窓から差し込む陽光が、空気中に舞う埃を幻想的に煌めかせていた。
あなたが図書室を見渡すよりも、積年の埃を被った古い本棚の後ろから、赤毛を揺らして現れた彼女が、声を掛ける方が早かった。
「──アメリアさん、だよね? 久し振り、だね……」
熟成されて瑞々しく輝く、上品なレッドワインの瞳に双極的なあなたの青色が映し込まれる。どこか控えめに、どこか気恥ずかしげに──それでも朗らかな声で話し掛けてきた彼女は、あなたがかつてデュオクラスにいた頃を思い起こさせた。
同じクラスに在籍していたグレーテルという名の少女。
彼女はヘンデルという名のドールと双子に設計されたドールであったのだが、引っ込み思案で、人とのコミュニケーションが上手くいかず、クラスの片隅で雨雲を募らせているような少女だった。
──随分な変貌ぶりである。その様はかつてのグレーテルを知るあなたにとっては違和感に映るだろう。
「おや、グレーテル様。お久しぶりです。」
過去に出会った時と随分違う彼女の様子に少し面食らいながらも表面上は冷静に応える。
彼女はこんなに明るかっただろうか?
こんなに積極的に話して来ただろうか?
元々そんなに積極的に友人を作る性質ではないアメリアは朝襲ってきた情報の渋滞に加えて玉突き事故じみた追撃を受け、そろそろ限界に達しそうであった。
……が、そんな事も言っていられない。
「グレーテル様は……その、大丈夫なのですか……?」
彼女は情報の洪水の中で息継ぎをしようとグレーテルにオミクロンクラスに送られて大丈夫ですか? と気遣い混じりの探りを入れながら、図書室の本を探しに来た素振りで図書室をウロウロと探り始める。
「うん、元気そうで安心した。オミクロンクラス、って……みんな近寄りがたそうにしてるけど……案外空気も良くて過ごしやすいよね。
ここに来る前は不安だったけど、わたしなんかでもなんとかやっていけるかも。」
流麗なる河の流れのように、グレーテルはなめらかにあなたと“コミュニケーション”を取る。エーナモデル程とは行かずとも、彼女の口はとても達者で、いかにも会話上手に見えた。吃ることも、不安で言葉を詰まらせる事もなく、彼女は至ってポジティブにオミクロンクラスでの暮らしを受け入れようとしているようだった。
こちらの顔色を窺いながら、おずおずと訊ねてくるあなたに、グレーテルはきょとんとした顔で首を傾げる。
「……大丈夫って。なにが?」
静かな声だった。揺らぎもない。だがどこかズッシリとした重みを感じる。
彼女の深紅の双眸があなたの視線の先に。
しかし彼女はかち合っていた視線が逸らされても、何も言及することはなかった。
「それは、オミクロンクラスに来て、ですよ。
クラスが変わると慣れない事も増える……と、アメリアは考えていますから。
それに、自分で言うのは余りにも卑屈ですが、余り良い場所であるとは言えませんしね……」
きょとん、と首を傾げたグレーテルに、彼女はロゼットに感じた物と同じような、そんな感覚を覚える。
元々そんなドールは居なかったのだと言うような、そんな、自分の知っている人物像が通じなくなってしまうような、そんなどこか苦しい感覚を。
けれど……ああ、きっとそれは仕方のないことなのだろう。
他者を自分の思うようにしたいなどというのは傲慢で、それを押しつけてしまうことは人を鎖に繋ぐに等しい。
だから、彼女はその寂しさを心の奥に力づくで押し込めて、彼女の「大丈夫って?」という質問にまるで普通の世間話のように応える。
「それと……その……そちらの本は……グレーテル様が?」
……が、世界はそんなに長く感傷には浸らせてくれないらしい。
彼女の視界に入ったのはうず高く積まれた無数の本の山。
まるで誰かが読んでいたのだと語りかけるようなその有様に彼女は目を覆いたくなる衝動を抑えながら先客であるグレーテルへと問いかける。
ああ、なんだか頬が熱い。
あなたの質問の意図を正しく理解したグレーテルは、「心配してくれてるんだね、ありがとう」と穏やかに微笑んだ。
あなたの知る彼女は、感謝ひとつ、会釈ひとつ、非常に難しい決断をしなければ実行することが叶わないような──対人能力に些か欠けている事が多いデュオモデルの究極型のような人格形成をしていた。
やはり、言葉一つ交わすごとに、不自然さは拭えず、あなたは嫌な予感を胸にきざすことだろう。
「さっきも言ったけど……クラスの子はみんな優しそうで、仲良さそうだったじゃない。わたし、前はあんまり……みんなと話せるタイプじゃなかったでしょ? それに、デュオクラスのみんなはいつも競争ばかりで、ずっと息が詰まるみたいだった……。
だからここは、過ごしやすそうでよかったなって思ってるの。アメリアさんも、前よりわたしと仲良くしてくれると嬉しいな……」
身体の後ろでもじもじと手を組んで、ささやかなお願いをあなたに述べるグレーテル。あなたが目を向けた本の山は、彼女の側にある机に積まれていた。
その事を指摘されると、グレーテルは「ああ!」と声を上げる。そして少し恥ずかしそうに、床にまで散らばった本を慌てて拾い集め始めた。
「いきなり散らかしちゃってごめんね。デュオクラスの寮の図書室には無い本があったみたいだから、どうしても気になっちゃって。知的探究心に身を任せるのはデュオモデルとして当然でしょ? アメリアさんはこの辺りの本、全部読んだのかな。」
積まれた本は、どれも難しそうな分厚い専門書ばかりだった。とりわけ哲学や、人類学、心理学といったもの現在多い傾向にあるように思える。デュオよりもエーナクラスの方が学ぶような、突き詰めた文系の分野の学習を行っているようだ。
自己分析を繰り返しているのか、傍らに用意されたノートは真っ黒だった。
あなたはそんな本の山に紛れるように、一つ輝くペンダントのようなものを見つけるだろう。
「ちっ……!!」
グレーテルの言葉に、彼女の顔は急速に朱色で支配される。
知的探求心に身を任せる。
なんと破廉恥で、はしたなく、それでいて甘美な言葉だろうか。
こんなこと考えるのは自分だけだとわかっていても、その行いに彼女は耐え難い羞恥を感じ、逃げ出したい衝動に襲われる。
だから……少しの間耐えられていたのは奇跡のようなものだったのだろう。
グレーテルが続けて放った「この辺りの本、全部読んだのかな?」という言葉によって彼女の羞恥心は限界を迎え。
「そっそのう……えと、えと、勉強のお邪魔をしつぃまったようなのでアメリアはそろそろ行きますね!?」
と、半ば悲鳴のように言い放って逃げ出してしまう。
そうして彼女が逃げ出した先は……。
「あっ、アメリアさん!? 何で!? 待って……!」
流石のグレーテルも、突然取り乱したように顔を真っ赤に茹だらせて叫びながら逃げ去ってしまうあなたの反応には動揺を隠せないのだろう。
困惑に声を上げて、反射的に片方の手をティファニーブルーの輝く髪が翻る小さな背に伸ばそうとした、が──図書室を飛び出して階段までもを素早く駆け降りたあなたを追ってくることはなかった。
あなたが逃げ込んだ先。
普段みんなの先生が執務を行う彼の仕事部屋兼寝室の周囲は静かだった。だが扉の前に立つと、荷造りの音が微かに聞こえてくる。
あなたが扉を開くならば、室内で革製のトランクに分厚い書類の束を納めているデイビッドの姿が視界に飛び込むだろう。
正面の執務机の前に立っていた彼は、あなたの焦ったような様子を見て、「アメリア?」と目を瞬かせている。
「……そんなに息を切らして、どうした? 何かトラブルでもあったかい? すまないね、荷物をまとめていたところだったんだ。」
彼はトランクの蓋を閉め、執務机を迂回する形であなたの元へ歩み寄る。あなたを案ずるように見つめる眼差しは至極優しかった。
「いえ……えと……そう心配する事ではありません。けれど、少しだけ、静かな場所にいたくて……」
どうやら、荷造りの音に気づける程の余裕は無かったらしい。
きっと食事を終えたすぐ後の今なら部屋の主人は洗い物をしていて無人の筈だ、と思って逃げ込んだこの部屋では先生が荷造りをしていた。
なんとも間抜けで気まずい沈黙の中で、いたたまれなくなった彼女はその場から逃げたくもなるが……この状況でそのまま立ち去る方が不自然だというひとかけらの理性の働きかけによって部屋に留まる事にする。
実際、新しく来た子の勉強に羞恥を煽られたなどと説明出来る訳が無い。
冷静に考えてそんなことを言うのは気狂いかここにいる頭が真っピンクなお花畑位なもので、理解を期待出来る物ではないし、この場で悪いのは彼女だ。
結果として、落ち着かない彼女は部屋の隅で壁に背を預けて、ぺちぺちと頬を叩いて頭を冷やそうとしながら、いつもとは違う部屋の様子に意識を向けるだろう。
「……そうかい? そうだね……今朝だけでこの寮の様子は目まぐるしく変わったからね。慣れないうちは困る事も出てくるだろう。
私の部屋でよければ、好きに寛いでいくといい。」
ココアブラウンの髪を揺らして、顔を僅かに傾けながらデイビッドはこの場への滞在を認めてくれた。突然のことへの驚きも、彼にとっては瞬きのうち。
頬を赤らめて息を切らす彼女のただならぬ様子は心配だが、彼女は聡明な子だ。その言葉通り、しばらく放っておいてあげるのも親切だと分かっているのだろう。
デイビッドは納得した風にあなたから離れると、再び荷造りの作業に戻っていく。現在は引き出しの資料などを再確認しているようだ。
先生の部屋は、普段と変わらず整然とした様子だ。本棚にベッド、執務机。簡素な家具ばかりで本人の私物と言えば本棚の書物ぐらいではなかろうか。
パステルピンクのベッドに、バブルガムのアクセントカラーが入ったキャリーケース。
デイビッド先生のものにしては随分とかわいらしい様相に、恐らくジゼル先生のものなのだろうな、という理解が追いつくと共に疑問がこみ上げてくる。
では……お父様は今夜どこで寝るのだろうか……?
そんなことを考えていたらやっと落ち着いてきたのだろう。
熱くなった頭も冷えてきて、やっとまともに話せるようになってきた。
「ごめんなさい。お父様。
少し……その、プライベートな事で取り乱しておりました。
時間を与えて下さりありがとうございます。」
そうやって落ち着いた彼女は先生にお礼を言ってから部屋を出て歩き出す。
さあ、今度こそ落ち着いて調査を始めよう。
冷静に努めようと暫し静かな時間を過ごしていたあなたが、やがて粛々とこちらへ謝罪とお詫びをする言葉を聞くと。
そのタイミングで荷造りを概ね終えたらしいデイビッドは、かぶりを振りながらそっと微笑み掛けてくれた。
「気にする事はない。私がいない間も、この場所に駆け込んでくれて構わないからね。きっとジゼル先生も許してくれるはずだ。」
そのままデイビッドは軽く手を振って、あなたを見送るだろう。そうしてあなたの背後で、先生の部屋の扉はぱたんと閉じていく。
エントランスホールはだだっ広い大広間になっていた。三階までが吹き抜けになっており、天井からぶら下がっている古いシャンデリアがきらきらと優しい光を落としている。
薔薇の花を描いたボタニカル柄の大きなカーペットが足元には敷かれていて、階段と出入り口に挟まれた構造になっている。
エントランスホールの出入り口の傍にある壁には、今となっては見飽きるほどに見慣れた『決まりごと』が一覧となって掲示されていた。
「おや……カーペットが。」
エントランスホールに降りてきてそのまま通り過ぎようとしたその時、アメリアの視界に幾つかの異変が飛び込んでくる。
カーペットがめくれ、決まり事に落書きがされていたのだ。
普段なら気にも止めないかもしれないそれらは今、不本意にもエンジンのかかったアメリアの思考の中で、ワインに飛び込んだ一つまみの砂のように見逃しがたい違和感となっていた。
そうして、違和感に従うことと決めたアメリアは先ずカーペットに近付いていき、かがみんで調べてみる。
足元に散る薔薇──繊細に織り込まれたボタニカルな柔らかい絨毯の端くれが捲れ上がってしまっていることにあなたは気が付く。慌てん坊な誰かが学園にでも向かう際、蹴っ飛ばしてしまったのだろうか?
あなたが捲れたカーペットに近付いて目線を近付けるならば、カーペットの下、奥まった場所、捲れ上がったことで辛うじて視界に入る床に、微かに切れ目が入っている事に気がつくだろう。どうやら切れ目は四角く縁取られており、床下収納の扉のようになっているらしい。
取っ手の部分は凹んでおり、そこに指を引っ掛ける形になっている為、今まで上を歩いても気がつくことはなかったのだろう。
カーペットをもう少し大きく広げれば、床に取り付けられた小さな扉を開くことも出来そうだ。
「こんなところに……収納……?」
めくれたカーペットの裏側には、奇妙な物があった。
……いや、確かにカーペットの下に床下収納がある事自体はそう変な事では無い。
そりゃあ床下収納は目立つし、内装上不自然な場合もあるのだからデザインを重視して、そもそもあまり使わないならそうおかしくは無い。
だが……この寮には倉庫と呼ばれる場所が二つ……パントリーの氷室を考慮するならば三つも存在している。
そのうえでまだ床下収納……というのはなんとも不自然な事だった。
幸い、今デイビッド先生は荷造りの最中で、気を使わなければ行けないのはジゼル先生位のもの、そう考えたアメリアは足音に気を配りながらカーペットをめくり、床下収納を開けようと試みる。
あなたが絨毯を更に捲り上げると、四角い木材の縁取りに蝶番が取り付けられた収納の全容が明らかになるだろう。扉の大きさは0.25㎡と言ったところで、華奢なドールであればどうにか抜けられそうな程度であった。
鍵は取り付けられていないらしく、木材の表面、凹んだ取っ手に指を引っ掛けると、床下収納の扉はあっさりと開かれる。
どうやらこの収納は長らく使われていなかったようだ。持ち上げるとぱらぱらと砂が溢れ落ちていく。
エントランスホールに満ちる陽光が差し込む下に、小さな空間があるのが見えた。小部屋ほどの広さも無く、閉鎖的で鬱屈としている。かなり埃っぽいが、縄梯子や古ぼけた傘、鉄製のカゴとウッドチェアが何点か。使われていない備品が収められていたようだが、長い時を経て忘れられた倉庫らしい。
収納を見下ろしていると、縄梯子の傍らに一冊の薄汚れた本が落ちているのが見えた。工夫すれば持ち上げられそうだが、そのままでは手が届かないだろう。
「……ふむ……さすがに、そこまでやる時間はありませんか」
持ち上げると、下には忘れ去られたような空間があった。
広さの割に随分と深い構造で、下手に降りれば自力では上がれそうもない。
そこで、彼女の脳裏にアイデアが思い浮かぶ。
そう、シーツをロープ代わりに階段の手すりやドアノブにしばりつけて降りれば良いのだ。
勿論相応に見つかるリスクはあるが、ともかく、彼女は医務室へと向かい、掛け布団と敷布団のシーツを一枚ずつ引っぺがしてきて、ロープとして使い、床下収納へと降りようとする。
二階に取りに行くよりはまだマシな条件だが……途中で先生に見とがめられないかの時間勝負だ。
あなたは医務室のシーツを継ぎ接ぎし、足跡のロープを使って床下収納の内部へ降り立つことが出来る。
エントランスホールは吹き抜けになっており、衆目が集まりやすい。他のドールならまだしも、先生に不審な行動を見咎められればあなたの立場は危ういだろう。あなたの足取りは早まるはずだ。
埃っぽく狭苦しい空間にあなたは降り立つ。ぐるりと見渡せば、壁や床を構成する石材は褪せて苔むし、年月の経過の深さを感じられる場である。
そこであなたは無事、縄梯子のそばにある本を手に取ることが出来るだろう。
ひどい埃にまみれているが、辛うじて表題を確認出来る。
色褪せ始めてもなお鮮やかな色彩で彩られた、観覧車、メリーゴーランド、楽しげなパレードの様子──どうやらこれは、遊園地の光景らしい。
冠された題は、『ウェストランド』である。
「ビンゴ……!」
拾い上げた一冊の本、そのタイトルに小さくガッツポーズをする。
間違いない、シャーロット様の作品だ、ノース、サウスに続いてウエスト、拾い上げたヒントの一端を彼女はカバンに放り込んで素早く片付けを始める。
先ず、ロープ代わりにしたシーツを引っ張り上げ、床下収納を閉じてからカーペットを元に戻す。
その後、荷物を持って医務室へ向かい、埃や汚れをシーツを叩いて落としてから、再度敷き直す。
もしも、途中で見咎められそうになったならば苦肉の策だ、カーペットを元に戻す所まで間に合っていればアメリアは様子がおかしくなったふりをしてエントランスホールのど真ん中にシーツを敷いて寝たふりを始めようとするだろう。
医務室の扉をくぐると、これまでの温もりを感じる木製の床から一転、清潔な白い壁と床の空間があなたを出迎える。 ドールが収まるための棺のような箱型のベッドが三つ、壁に沿って並んでいる。作業台と思しき広い机には何も置かれていない。当然だ、近頃は誰も目立った怪我をしていないから。
奥に置かれた棚には、怪我をしたドールズに処置をするための医療道具が収められていたはずだ。
あなたはこの場所に訪れると、いつも不思議な既視感を感じるようになっていた。その感覚は蟠りのようにあなたの心の底に沈殿する。
「おや……ベッドが」
片づけに来た時、彼女は一つの異変に気づく。
ベッドの蓋が開いているのだ。
自分がシーツを持ち出したベッドではないようだが……。
これで何か異常が見つかって疑いを持たれたら元も子もない、そう考えた彼女はシーツを元に戻してから、一つだけ空きっぱなしのベッドを調べようと試みる。
医務室に三つ並べられた棺型の黒いベッド。内一つが開いたままになっている。無論、あなたが先ほどシーツを回収したベッドではない。元々誰かが開け放したまま放置しているものらしい。
あなたが蓋が開いたままのベッドを覗き込むならば、清潔なシーツと枕が整然とおさまっているのを目にするだろう。
そして同時に蓋の方を確認すると──どうやらそれは、以前も確認した『√0』という文字が無数に刻まれているベッドのようだった。
今なお鋭利なもので傷付けたような痕跡は色濃い。そして、その夥しい記号の上に、蝶の翅を思わせる模様が更に刻み込まれていた。
拡げられた翅は半ば記号の海に接触しており、ぐちゃぐちゃとしている印象を見るものに与える。
一見して、不気味な様子であろうことは間違いない。
「……増えていますか。」
開けっ放しのベッドの中。
それは以前見た√0を書き込まれたベッドだったらしい。なんと驚くべきことに内容の増えていた蓋の様子に、これが古いものではなく新しく作られたものであるとの確信を強めた。
その後一先ず、最早見るべきものもやる事もなくなった医務室を出て、すぐ隣の洗浄室へと向か……おうとして作業台の上に置かれたボールペンに気づく。
ここで何かしていたのだろうか?
あなたは医務室の作業台の上にぽつん……と置かれているボールペンに気が付く。傍らには添えられる資料なども何も無いが、作業台の近くには二つの椅子が向かい合うようにして置かれているのが分かる。誰かが動かしてそのままにしているのかもしれない。
あなたがボールペンを手に持ってよく観察すると、すぐに気がつくだろう。このボールペンの持ち主は、デイビッドである。日頃書類整理をしている姿を見かけるたび、この飾りっ気のないペンを使っていたことをあなたは憶えている。
あえてこの場所に置き去りにしているのか、本当に忘れているのかは定かではない。
「そういえば……お父様はダイニングルームで作業をしていた事もありましたね……。
ペンだけ忘れた、というのも妙ですが……」
忘れられていたペンを手に取り、それがお父様のものである、と分かると彼女はデイビッドがダイニングルームで作業をしていた事を思い出す。
恐らく、お父様は割と色んな所で作業をしているのだろうな……と、ひさしぶりに微笑ましい推測をしてから、彼女は洗浄室へと歩き出した。
洗浄室は二つの区画で分かれている。
手前側の区画はドールズが制服を脱いで皺がつかないように保管しておく場所。この区画はリネン室も兼ねており、シーツやタオルの替えも何枚も棚に収められている。
奥には洗浄室がある。ドールズが自身の体内に巡る燃料の老廃物を摘出し、洗い流すための区画だ。
「ふうむ、ここには変化は……ヅッ!?」
洗浄室を訪れた彼女は先日訪れた時とどのような変化が有るのかを確かめる為、一つずつ見て回っていた。
冷静に考えればここからシーツを持ってきた方が幾らか速かっただろうか……なんて後悔を抱きながら、リネン室を抜けて洗浄室に入った時、何も変化はないと思い込んでいた彼女の脳に鈍い痛みが走る。
「これ……は……?」
視線の先には、普段と変わらない筈の作業台があった。
作業台は以前見た様子とほとんど同じ。ドールを寝かせて洗浄する、リクライニング機能付きの無機質な寝台となっており、表面は硬いゴムのような感触、且つ支柱は冷たそうな金属製。
至る所にベッタリとこびりつく赤いものは、ドールの身体から溢れた燃料の老廃物である。幾度となくドールの構造を学んだあなたにとっては、もはや刷り込まれた常識にも近しいもの。
しかし見慣れているはずのこの作業台を見ていると、なんだか今のあなたは酷く頭が痛む。心臓が早鐘を打って、滲み出る恐怖心がむくむくと顔を出す。
それでもあなたがどうにか近付くならば、いよいよ頭痛は見逃せないものとなる。引き絞るような痛みとともに、あなたはその場に頽れるだろう。
あなたの透き通る青い虹彩が、更に不自然に青白い光を灯す。意識が眩む寸前、あなたの目の前の作業台に青色の蝶が羽ばたいているのが見えた。
「何……何が……」
たった一瞬のような、或いは何時間も経っていたような。
そんな、奇妙な記憶の奔流の中から帰って来た彼女は静かに身を起こす。
どうやら、痛みのせいで倒れてしまっていたらしい。
白い部屋に点滴、オディーリア様、それと……特別な花。
余りにも鮮明で、今までの記憶とは段違いの情報量に頭痛と吐き気を催しながらも、彼女はまた深呼吸をして歩き出す。
止まる理由なんて……どこにもないのだから。
キッチンは広々とした他の空間に比べて、大きな家具が敷き詰められているためか、少し手狭な印象を覚えるだろう。
こじんまりとしたシンクとコンロ、調理スペースを十分に確保出来る広い机がある。そして奥には、パントリーに続く木扉も取り付けられていた。
「レシピ……そう言えば、ミシェラ様の時はアップルパイを作っておりましたね……」
半ば機械的に歩き続けた先でたどり着いたキッチンは普段と然程変わらない様子だった。
……が、少し気になる所がある。
作業台の前で開きっぱなしにされた一冊の料理本。
一見すれば普通でも、彼女にとってはミシェラとの別れがこみ上げて来る。
気付けば、彼女は安心材料を探すように料理本を見ようとしていた。
キッチンの中央を陣取る、木製の作業用テーブル。以前はアラジンによる芸術クラブ勧誘のチラシが置かれていたそこには、色彩をぶちまけたような大層目立つそれが綺麗に消え失せていた。
その代わりに、椅子に程近い場所にお菓子作りのレシピが乗った料理本が開かれたまま置かれている。
あなたの確かな記憶によると、この本は図書室に置いてあったものだと分かる。
開かれたままのページには、甘さ控えめの紅茶クッキーのレシピが記されていた。
あなたは今も思い出せる。
アストレアをお披露目に送り出す前日、お祝いのために皆でこのクッキーを作って、食べたことを。
あなたは今なお鮮明に思い返せる。
あの場にいたアストレアの美しい笑顔を。
──だが、もうアストレアはここに居ない。このトイボックスのどこにも居ないのだ。
その事実があなたの胸を占めるだろう。
「ああ……やっぱり」
知っていた。そういうものだと知っていた。
それでも、苦しいものは苦しいもので、涙は流れないけれど、あのほのかな苦味を思い出した彼女は強引にレシピから目を逸らして歩き出す。
弔いも出来ないままに、友の死から目を逸らして、それでも、歩かなければならないのだ。
パントリーは食糧庫の名の通り、野菜や果物などがうず高く積まれた木箱がいくつか並べられていた。壁に沿って置かれた木製の棚には、調味料やハーブなど調理で使う素材が所狭しと詰め込まれている。
そして雑多な食材で溢れかえり、手狭な印象を受ける部屋の奥には、地下へと続く階段があった。
「おや……? 誰かが見たのでしょうか」
パントリーに入り、顔を上げると一つ気付いた事があった。
雑多なものが纏められた大きな棚の近辺のものの配置が変わっているのだ。
氷室にも南京錠がかけられていて、恐らくお父様が閉めたのだろうか?
となると、あの隠された写真もまた撤去されてしまったのかもしれない、それならば少しカンパネラ様の身が危ない……と考えてアメリアは確認する事にした。
パントリー内は、雑多なものが纏められた大きな棚がある。調味料や普段は使わない調理器具などなど……。
あなたはこの棚の後ろ、木板によって隠された場所に、カンパネラと不明な金髪の少女ドールが写った写真があることを知っている。
そして、その近辺の物品の配置が以前の記憶から多少差異があることに気が付いた。
そちらに歩み寄って、周囲のものを避けてからあの嵌め込まれた木板を外す。
そこに隠されていたはずの、あの笑顔と輝きに満ちた写真が消え失せていた。
あなたが目線を動かすならば、棚の裏の翳った目立たぬ場所に、細かく破り裂かれた写真の残骸が散らばっていた。もはや誰が写っていた写真なのかも分からぬほどに、執拗に、徹底的に。
「……むごい事を」
思い出の品など……そう多くは残っていないだろうに。
こんなに執拗に破壊する様に、彼女はお父様以外の意思を感じた。
何か……この写真に写った人物に恨みがあるような……或いは壊した物を見せつけたいような。
惨くて、醜くて、必死な行ないに、彼女は少しの嫌悪感を覚え、目立たぬ場所に散らばった写真の残骸を集めて、カバンにそっと入れてから部屋を出ていく事にする。
今朝も全員で一緒に朝食を取ったばかりであるこの空間は、今は閑散としている。長い机が二つに、人数分の椅子。特に席順は決まっていないが、皆それとなくいつも同じ席に着くことがお決まりだった。
また、先生は皆の顔が見られる一番手前側の席にいつも腰掛けている。
部屋の奥には柱時計が置かれている。今も滞りなくカチコチと時を刻んでいるようだ。
「外れかけ……どこか、作為的な物を感じますね」
ダイニングルームに入ってすぐ、彼女は飾られている絵画のうち一つが外れ掛かっている事に気付く。
パントリーのコーヒーミル、カーペットのめくれ、まるで誰かがここを探してくれと言っているかのような、そんな作為的な物をうっすらと感じながらも、未だ余りにも手札が少なすぎる彼女はその作為に乗らざるを得ない。
そんな不甲斐ない自分に小さくため息をつきながら、彼女は絵画を一度外してみる事にした。
ダイニングの壁には、いくつもの絵画が飾られている。皆で顔を揃えて行う食事中、ドールズが退屈しないようにか、彩り豊かなものを選んでいるように見える。
あなたはその内一つの額が壁から外れ掛かっていることに気が付いた。
絵画自体は、ただ壁から外れてしまっただけで特に他に異変が見つかるということはなかった。手に取った水彩画は、額縁も含めてずっしりと重たい。
青く透き通った水域が多方面に広がる、美しい架空の遺構を描いた作品のようだ。見事な淡い筆使いが幻想的な空気の演出に一役買っているように窺える。
絵画の右下には、おそらくは描いた人物の名が書き記されていたように見える。だがその全てが黒く塗り潰されており、一体誰が描いたのか分からないようになっていた。
あなたがおもむろに周囲を見渡せば、ダイニングルームに飾られた絵画はほとんど同じように黒塗りにされた箇所が存在するようだ。
「おや?」
何かがあるのだろう。
そんな風に覚悟して持ち上げた絵画は……意外にも何と言う事も無かった。
せいぜい名前が塗りつぶされているくらいだろうか……?
ともかく、これ以上は何も無いのだろう。
そんな落胆とも安堵ともとれる感情とともに彼女はまた歩き出す。
部屋の扉を開けると、無秩序に並べられた机と椅子の組み合わせが十六存在した。机が向かい合うのはいわゆる教卓であり、先生があなた方へ何か教えるときはもっぱら学園ではなく、この学習室を用いることが多かった。
現在、この学習室を使用している者は存在しない。静かながらんどうの空間に、あなたの足音がこだまする。
「おや、掲示が」
黒板に書き残してあった授業内容に真っ先に目を通さず、彼女は何故か床に落ちている一枚の掲示に興味を示す。
それは、黒板に書いてある物から目を逸らしたかったのか。
或いは、既に知っていたのか。
それは彼女にしか知り得ない事ではあったけれど……ともかく、彼女はわざとらしい位に声を上げて掲示を拾い上げたのだった。
学習室の壁には、各ドールの授業の時間割をはじめ、授業内容をまとめた掲示などがたくさんピン留めされている。しかしそのうちの一枚が剥がされて床に落ちているようだ。
ピンから取り外すと言う過程もなく無理矢理に破り取ったらしく、紙の一部はビリビリに千切れてしまっている。
掲示物の内容も、何のことはない数学の課題の詳細についてまとめたものらしい。あなたにも数日前に課せられていた課題だ。
注意書きには『課題を忘れずに一生懸命取り組もう』という一文が添えられていたのだが──その吹き出し一面を塗り潰すように、別の文字が書き込まれている。
内容は以下の通り。
墓場。五十六個の歯車。青い蝶。赤い目。邪魔だ。
邪魔だ。邪魔だ。あなたは暗い穴の中。
邪魔だ。どうすれば? 黒い部屋。そして黒い人。
アレが邪魔だ。思い出せない。もう失敗は出来ない。
「課題……というには、随分と物騒すぎやしませんかね」
拾い上げた掲示物には、なんとも奇妙で恐ろしげな事が書かれていた。
黒い部屋に黒い人というのは……まさしく、リヒトの語ったあの開かずの扉の向こう側なのだろうが……。
思い出せない、というのは何だろうか。
オミクロンのドールに記憶障害は多く見られるが……これを書いたドールもそういった障害を抱えていたのだろうか……?
なんとも定かではないが、彼女はその掲示物を元の場所に置いて、次の部屋を調べる事にした。
この場所は、ドールズが楽に寛ぐことが出来る憩いのスペース。柔らかなソファとふかふかのクッションが無数に置かれていて、寮内では唯一暖炉があるので凍えずに済む。冬場はラウンジに皆が集まりごった返すことが多かった。
壁際には軽い読み物が収まった本棚が陳列しており、くつろぎながら退屈を潰すことも出来る。
「……これまた、意外な本がありましたね。」
ラウンジのロッキングチェアにあったのは『創世記』という本だった。
少し学術的な部分を含みそうなものだが……物語ならばなんでもエーナドールは覚えなければならないのだろうか……?
そうだとしたら少し大変だろうな、と思いながら傍らで休んでいるウェンディを放置して『創世記』を読み始める事にした。
ラウンジに設置されたゆったりとした形のロッキングチェアには、一冊の本がそっと意味ありげに置かれていた。
重厚な装飾がなされた聖書らしく、持ち上げるとずしりと重たい。
あなたがぱらぱらと捲り始めると、うち1ページから青白く輝く花弁が零れ落ちる。何やら示唆的にコゼットドロップの蕾が挟み込まれていた頁には、以下のような物語が記されていた。
◇ 創世記 第四章 カインとアベル ◇
『カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。
主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。』
これは聖書の教えにおいて、人類最初の殺人に手を染めた加害者と、その被害者の物語である。
ヤハウェに自分よりも目を掛けられている弟アベルを恨んだ兄カインは、アベルを野原に誘い殺害する。ヤハウェに弟の行方を問われたカインは、虚偽の申し立てを行い罪を否定。
しかし彼の罪はやがて明らかなものとなり、カインはエデンの東へと追放された──といった内容である。
兄弟殺し、そして人類で初めての『嘘』。それがこの物語の肝要となる部分であろう。
「……相変わらず、創世記周りは血生臭いですね。」
カインとアベル。
人類最初の殺人事件。
その神話的で寓話的な物語に彼女は思わず苦言を呈する。
それは、兄弟ですら裏切りを孕みうるという物語への不満の発露でもあったのけれど……。
自分勝手な感情を戒める為に皮肉を言うのみでとどめて歩き出す。
傍らで休むウェンディに、聞かれてしまっただろうか。
トイボックスの日和は本日も快晴だ。寮を一歩歩み出たあなたは、あの偽物の天蓋から無条件に降り注ぐ出鱈目の陽光を虹彩に浴びて、眼を細めることだろう。
光が降り注ぐ一体の草原は時折流れるそよ風によって穏やかに揺れて、遠くの森林からは鳥達の鳴き声が聞こえてくる。……空を舞う鳥の姿はひとつも見えやしないが。
寮のすぐそばには欠け落ちた翼を持つ女神像のオブジェクトが添えられた噴水が清涼な水の音を奏でており、先生が干したのであろう洗濯物が風に揺られているのが見える。
「……おや、」
探検の為、寮周辺に足を踏みだしたアメリアは、いつまでも壊れっぱなしの女神像に興味を抱いた。
結局、これはいつになったら修理されるのだろう……と近付いたその時、水底に何かがきらめく。
生憎、ただ手を突っ込んだらば服が濡れてしまいそうだが……。
「しかたない、そう、これは仕方のない事なのです。
世の中には緊急避難という言葉があり……」
彼女には止まれない理由と身に余る好奇心がある。
アメリアは苦虫を嚙み潰すような気分で言い訳をしながら上着を脱ぎ、下着姿になると、噴水の中に落ちている何かを掴もうと手を伸ばした。
あなたは衣服を脱ぎ、あるいは濡れることを覚悟で、噴水に落ちて沈んでいるものを拾い上げるだろう。
手にしたものは、古く錆びれたチェーンだった。少なくとも目の前の噴水や、寮周辺の野原や花壇にはこのような金属製のチェーンが必要になる場所があるとは思えない。
チェーンは途中で何らかの圧力によって千切れたような痕跡が残っており、またチェーンの途中には何か札のようなものが取り付けられている。札には覚えのないマークが刻印されており、『3対6枚の翼で杭のようなものを守護する天使』を表しているようだ。
意味深なマークが団体を示すのか、施設を示すのか、或いはどれでもないのかは定かではない。
「6枚の羽……熾天使か智天使といった所でしょうか。
それで……杭。
うーん、なんとも示唆的ですが、示唆的に過ぎて分かりませんね」
水中から拾い上げられたのは、一本のチェーンだった。
そこそこに太くそれなりに長いそれはアクセサリーと言うには余りにも無骨で、かと言ってただの道具と言うには取り付けられた札の意匠の存在が奇妙だった。
こんなもの前からあっただろうか?
そんな疑問を感じながらもチェーンを眺めていたが……ふと、彼女は自分が今服を脱いでいる事を思い出してしまう。
このままでは半裸で鎖を眺める奇人になってしまう(既に奇人ではある)、そんな羞恥と焦燥に襲われた彼女は慌てて服を着てから鞄に鎖を詰めて、脱兎のごとき速さで寮へと逃げ帰るのだった。
以降、その日は夕方になるまで彼女が寮から出てくる事は無く、もしかしたら……先生には少し心配をさせてしまったかもしれない。
親愛なるフェリシア様へ
もしも、この出会いが最後で無いのなら、
今夜、湖畔で会いませんか?
造星の笑う頃に、空白を撫でてお待ちしております。
~ 湖畔 星々が笑う頃 ~
そんな手紙が示すように、遠浅の湖畔に足を浸して彼女は待っていた。
初夏の些か冷たい水を肌に感じながら、来るかもわからない彼女を待つ。
もしかしたら、ベッドを確認していないかもしれない。
もしかしたら、夕食を抜け出せなかったかもしれない
もしかしたら……。
そんな、少しばかりの不安と寂しさを愛でて待つこと少しばかり。
意外にも悪くない時間の終わりを告げる足音が、背後の寮から聞こえてくる。
「お待ちしておりました。フェリシア様。」
《Felicia》
その少女は、滑らかに弧を描く細い指でそっと自身のベッドに佇む手紙を撫でる。
開いた可愛らしいその内容に、ペリドットを愛おしそうに細めるのだった。こんな手紙を渡してくれるのは少女の知る限りひとりしか存在しない。
恥じらいがちで、聡明な乙女。
月夜に照らされた木々がないしょばなしを始めたとき、フェリシアはその場所にいた。偽りの星々が広がる、あたたかな季節を待つその湖に。
「……ふふ。アメリアちゃん今晩は。
今宵は良い月夜だね。」
「ええ、今晩は。
先ずは……そうですね、順番に。
こんな遅くにあのような呼び出しをしてすみません。」
後ろから投げかけられた声に、彼女はほんの少し髪を揺らして返答を返す。
来てくれた、という安堵に緩む頬をこらえながら努めて静かに謝罪の言葉を投げかける。
畢竟、言葉にしてしまえばただ話をしたいというだけでこんな遅い時間に呼び出したのだから、彼女にも負い目という物があった。
「隣に来てはくれませんか?
少しだけ、お話しましょう。」
だから、順番に。
先ずは謝罪をしてから、少しだけ話をしようと言葉を投げかける。
話したいのなら話せば良いだろうに。
会いたければ会えばいいだろうに。
手紙を送り、場所を取り、謝罪をしなければ話せないのだから、なんとも不器用な人形がそこには居た。
《Felicia》
「ううん、全然! わざわざ呼び出してくれたんだもん。なにか……すごく悲しいことや、苦しいことがあったのかな。」
普段冷静な貴方が見せてくれたあからさまにほっとした様子に、ゆっくりと目を見開く。相当思い詰めているのだろうと察したフェリシアは、優しい眼差しを向けた。手紙で呼び出されるのはこれで二回目。一回目は、レコードを再生するという重大な目的があったため、今回も何かあったのだろうと踏んでいたのだが。
「おっ、じゃあお言葉に甘えて!
アメリアちゃんのお隣さんに失礼しまーす」
浮かんだ感想は、ひとつだった。
……彼女にしてはとても珍しい、ということだけ。だがその言葉で、分かった。アメリアちゃんが私にして欲しいことが、何故か手に取るように分かっていた。
「……ままならないねぇ」
ぴたりと貴方の隣に身を寄せたフェリシアは、貴方にしか聴こえないようにぼそりと呟く。
そして自身よりも小さな身体を、「おいで」なんて言いながら柔らかく抱き寄せることだろう。
「……」
悲しい事や苦しい事……それは、幾らでもある。
何処まで行っても夢が無為な物である事。
アストレア様が助けられなかった事。
……いや、何も出来なかった事。
お父様を疑わなければならない事。
けれど、もっと苦しい人が居る事など容易に想像が出来るから……彼女には何も答えられる言葉の持ち合わせが無かった。
「ええ、なりませんね……なりません。
始まりも、終わりも、選べないというのに、道程もまた長く苦しすぎますから。
…………ドールズは……いえ、アメリアたちは、何処に行くのでしょうね。」
だから……自分を抱き寄せる暖かな手に甘えて体重を預ける。
だから……その優しい言葉に甘えて別の話題を続ける
だから……その気づかいに甘えて、遠い星の話をする。
今もまだ見えない、遠くで輝く事だけが分かっている星の話を。
《Felicia》
「言っても、良いんだよ?
許容を超えて壊れちゃう前に、限界だから受け入れられない! って突っぱねちゃう前に、話して欲しいんだ。どんなにあやふやだっていいから、アメリアちゃんの言葉で聞きたいな。」
彼女は思慮深い。周りを慮り溜め込んでしまうことも多いだろう。特にこんな状況においては。注意されがちな自身に言えたことでは無いが、オミクロンクラスの中でも特に彼女は……いや、デュオクラスの子は、頼られるだけ頑張ってしまうから。そして、辛い気持ちを押さえ込んで中々口に出してはくれないだろうから。
「そうだねぇ。やらなきゃいけないことが沢山あるのに、動けるだけの精神力が、全然足んないや。
嘘が重ねすぎられてて、何が本当なのか、全く見えてない。半透明な未来は、やっぱり怖い。
だけど、どんな未来があっても、きっと私たちは一緒だから。寂しい思いはさせないよ。ひとりは、すっごく寂しいから。」
形の良いまつ毛を閉じる。その指先が撫でるのは、彼女の碧いアストロメリア。夢物語を語るようになだらかに滑る彼女の声が、草花の揺れる湖畔に流れて行った。
「一緒……ですか。」
どんな未来があっても一緒だから。
暖かく、優しく、きっと、本当に叶えてくれそうな。
うっかり縋りたくなってしまうような美しい夢物語。
「それは……とても暖かく、美しいものです。
けれど、アメリアとフェリシア様の向かう先は、きっと違うのでしょう。
だから……ずっとは、居られないのです。
寂しくても、歩かなければならないのです。」
けれど、アメリアは知っている。
フェリシアに求める人が居る事を。
自分と彼女の行き先がきっと違うのだろうという事を。
だから……余りにも痛いけれど、心が軋む音がするけれど、その暖かい希望をゆっくりと、確かに否定する。
そうしなければ……アメリアはきっと彼女を裏切る事になるだろうし、同じくらいの確かさでフェリシアがアメリアを裏切る事になってしまうのだから。
《Felicia》
「……たしか、に。」
身を寄せた少女たちの間に、暗闇に淀む沈黙が走る。言い逃れできない程の痛みと、鬱屈した後悔をもって。ここは戦場。いつわりでできた檻の中。優しいことだけを語る、夢見る少女ではいられないのだ。居場所を見失うのも、前へ進めなくなるのも許されない現実が襲う。
「はぁ〜あ」
静寂を打ち破るように、フェリシアは長い長いため息を零す。体内の空気を全て押し出さん勢いで、ふかくふかく吐き出すのだ。晴れることの無い胸内に、新鮮な酸素を送り込むために。
「アメリアちゃんは、苦しいくらいに正しいね。だけど……“今”。今この瞬間だけは、一緒にいられる。
手を、取り合える。」
おもむろに膝を伸ばした少女は、夜風に揺れる髪先を耳にかけると貴方に手を差し伸べる。
「踊ろう」と。
「……」
今だけは……それでも、今だけは“一緒に”居られるのだ。
本当は見ないようにしていたのに、そんなことお構いなしに彼女は……フェリシアは触れてくる。
どこまでも詭弁で、どこまで言っても失われるものだというのに、焼き尽くすように輝かしい、そんな詭弁。
けれど、いや、だからこそ、知識を共有し、味を共有し、記録を共有し、居場所を共有し、思いを共有することを愛した。
共に在る事に執着し、遂には4,2光年の果てを目指すと、そう詭弁を弄した愛玩人形には。
アメリア・トイボックスには、余りにも、逃れがたい救いだった。
「ええ、フェリシア様。
今この時ばかりは、共に」
だから、アメリアは歓喜とも罪悪感とも不安とも思えるぐちゃぐちゃの心で震える声を押し殺して、そっと差し伸べられた手を握る。
偽物の星の下で。作り物の恋心が導くままに。
馬鹿な女ですね。
そう、誰かが嗤った気がした。
《Felicia》
心許なくて、先が思いやれない残酷な場所でさえも、フェリシアの中では希望を見出しつつあった。
エーナだからという訳ではない。
辛く苦しい状況でも生き抜いていこうと、もがいている人たちを助けるのがヒーローだからである。
励まし、応援して、……助ける。
それがヒーローで、それが彼女の覆せない個性でもあった。時にそれはひどく冷たく、相手にとって苦しいものである。
彼女は、未だそれを理解できない
氷の中で生きようとする者もいるだろう。だがそこで強制的に手を引くのが彼女であるから。どこまでもポジティブで、明るく、辛辣であった。
「……うん。」
優しいアメリアちゃんなら頷いてくれると踏んでいた。貴方に蔓延る複雑な感情を、苦し紛れの台詞を短く応える。
月夜に照らされる夜の湖畔で二人きり。少女は手を合わせた。
手を合わせ、足を踏み出したのはどちらからだったろうか。
そんな簡単な事も分からない夢見心地のまま、ふわふわと覚束ない足を踏み出す。
トン、トン、トン。
ゆったりとしたワルツのテンポで、恋に落ちた少女のような頼りなさで。
「フェリシア様。
作り物であっても、月は美しいものですね」
不意に、言葉を紡ぐ。
それは、穏やかな問いで、
じくじくと腐った愛の要求で、
意気地なしの精一杯の告白。
遠い太陽の下で、或る詩人が訳した愛の言葉。
相手が死ぬわけには行かないと分かっていて紡ぐ、諦めにも似たラブレターだった。
《Felicia》
ゆるく、ゆるく、……ゆるく。
つたなく危ういステップで、二人の肢体はなだらかな弧を描く。
不安定に揺れ動く激情の真ん中で、少女たちの細い指は確かに絡み合っている。不確かで、厳しい未来でも手を取り合って行けるように。いまあるこの場所を、現実を確かめるように一歩一歩踏みしめながら。
「……えぇ、アメリアちゃん。
たとえ虚構であっても、綺麗な月を見られて嬉しいね。」
ぎこちなく繋がれた相手から伝えられるその言の葉の意味を、少女は脳内で咀嚼していた。
なんと、可愛らしい。
不器用に綴られた恋文にそっと、返信を唱えるのだった。
回る、廻る、……周る。
ゆるやかなステップと共に、くるくると。
小さな連星たちは回り続ける。
けれど、かれらは月ではないし、決して地球でもない。
だから、この夢物語はもうすぐ終わりだ。
「ええ、そうですね。
月を見られて嬉しい。きっと、それで十分なんです。」
フェリシアの言葉に、惑い星は消えゆくような声で精一杯の返事を、強がりを返す。
断られる事など分かっていた。
そもそも伝わってすら居ないかも知れない。
けれど、死んでも良いと、そう言われなかった事が嬉しくて。
「だから、死ぬわけには行きませんね。
ボン・ボヤージュ。フェリシア様。」
だから、手を離すのなら、自分からだ。
《Felicia》
その少女たちは木の葉のさざめきに合わせるように流れていく。
しかし、どの曲にも終焉はある。それでも、それでも回り続けた。きっと……これは幸せな夢。
醒めないはずがない、あたたかなまぼろし。
「………ごめんね。アメリアちゃんのこと、大好きだよ。」
ヒーローは、決してヴィランになれない。ひとりで抱え込み、ひとりで戦っていく。全てが終わったあとに息をつき、また新たな戦いに臨んでいく。連鎖はきっと止まらない。止めることが出来ないから。
「とっても、楽しかったよ。
……………ありがとう。」
手を離されようとも、フェリシアは何も言わない。言いたそうに見つめるだけだ。
「まさか、アメリアの自分勝手な恋にこれだけ付き合ってくれたのですから。十分過ぎますよ。」
ごめんね、の一言を、アメリアは何処か憑き物が落ちたような、穏やかな表情で否定する。
それはそうだ、好きになっては行けないことくらい分かった上で、勝手に好きになって、これだけ付き合わせたのだから。
これで応えなければ駄目だ、なんて言って謝罪を受け入れてしまったら、それこそただの暴力ではないか。
だから、それは否定しなければならない。
不平不満をこぼす心臓を叩きのめしてでも。
「おやすみなさい。フェリシア様。
ありがとう。とても素敵で、美しい夢でした。」
そうやって、手を離した彼女はステップを止めて歩いていく。
向かう先は学生寮。
本当は一緒に歩きたいけれど、きっとそれは押し付けになってしまうから。
ただ、声も聞こえない位に離れてから、彼女は口を開く。
「さようなら、“私”の初恋」
小さく咲いた月下美人への弔いは、そうやって偽物の空に消えて行った。
《Storm》
階段の軋む音が響く。
ストームは無意識に身を任せ歩いていた。
着いたのはいつも通り、図書室だった。
一歩足を踏み入れれば紙の香りが身を包んだ。
ゆらりと揺れる瞳の淀みが捉えるは知識に飢えた獣だろう。猟奇犯はターゲットを決めたみたいだね。
音もほとんど立てずに近付いて行くだろう。
「ごきげんようアメリア。なにか新たな物語をお探しで?」
「み”っ!!」
静謐な……いや、静謐“だった”図書室に尻尾を踏まれた猫のような悲鳴が響く。
ような、ではなく間違いなく尻尾を踏まれたのだろう。
新たな物語を探していた……など彼女にとってはしたないことこの上ない。
「スッストーム様。
そういう事はせめてこう、心の準備が出来ている時にお願いします。
こう……驚いてしまいます。」
故に、彼女は未だに動揺の収まらない声音でストームに抗議の言葉を投げかける。
それはかなり無茶な物であり、オブラートに包まれ過ぎていて要領を得ないものであり、そのまま無視して話しかけてもアメリアは文句を言わないだろう。
《Storm》
可愛らしい悲鳴が響く精悍な図書室。
ねこふんじゃった♪ なんて慣れ親しんだメロディが突如として拙く焦ったリズムで流れたようだった。
「おっと、これは失礼致しました。
ですが失神してしまう程でもありませんでしたね。
貴方様がうさぎと同等で無いとこが証明されて、安心しました」
青年になるには少し高めのやわらかなテノールで告げる。ジョークのようだが、瞳にその真偽は映らなかった。
アメリアがそんなことを伺う前にストームは彼女の耳まで屈んで囁くだろう。
「アメリア、貴方様の知恵をお貸しください」
なんてね。
「ええ、幸いなことです。
アメリアがウサギなら今頃逃げ出していた事でしょうから」
ストームの言葉に少しだけ頬を膨らませてむくれて見せたアメリアは小さく皮肉を言った後、耳元で囁かれた言葉に小さく頷いてから言葉を返す。
「……何の事を、知りたいのですか?」
知恵を貸してくれ。
かつてのアメリアにとって禁句であったそれを今は反射的に拒絶できない。
それは決して彼女に露出癖が芽生えだしているとかではなく、今の状況がそれだけ異常であることの証左であった。
“証左”であった!!
《Storm》
やはり、彼女は頷くと思っていた。
いくら知識を自ら露見させる事に浅ましさを感じているからとて、最近の彼女がおしゃべりなのはリヒトのノートからも透けて見えるようだった。
ストームは丁寧な所作のお辞儀と共に「ありがとうございます」と告げる。
そして近場の椅子を引き、アメリアをそこへエスコートするだろう。
彼女が座り、ストームもその隣に座れば互いに旅した物語について語らう“いつもの”風景がそこには広がっていた。
だが今日は物語は物語でも、ノンフィクションで完結していない話について。
「貴方様はここトイボックスに対し、疑念があるのですよね?
リヒトのノートを拝見した際いくつか貴方様の名前が記入されていまして、色々調べている事を知りました。
大丈夫、ジブンも同じ立場ですから。
具体的に何を調べ、何を知っているか簡単に教えて頂きたい。」
ストームはアメリアに聞こえるまで声を最小限までに落とし彼女に問い掛けた。
微々たる差ではあるが、表情を固くさせている。ちぐはぐの瞳が彼女を威嚇しなければ良いが……。
「ああ、リヒト様のノートを。
それであれば……そうですね、アメリアが見た時にリヒト様のノートに無かった記述を上げるのなら。
二つ目の隠し倉庫。
伝えていない疑似記憶。
パントリーに隠された写真。
氷室の異変。
大体この辺りでしょうか」
何を調べ、何を知っているのか。
幸い、目の前のストームが聞きたいのは波動関数だとか方程式の話では無かったらしい。
ちゃんと共益に関わる物であることを確認して胸を撫でおろした後、アメリアは幾らかの納得とともに答えてから。
「それで、ストーム様はどういった情報を調べているのですか?」
《Storm》
端的に告げるアメリアに相槌を打つ。
彼女が答え終えるとストームは「なるほど……」の声と共に下唇に触れた。
デュオドールであるアメリアは、知識欲には逆らえないのだろう。
流石の探究心に舌を巻く。
「ジブンですか?
ジブンは……貴方様と同じく擬似記憶。
グレーテルのペンダント。
くらいですかね。あとはリヒトに伝えてあります。
……伝達済みで最新の情報でしたら、開かずの扉ですかね。」
最後の情報を告げるのには細心の注意を払わねばならない。ストームは手招きしてアメリアの注意を引き、近付いてきた彼女を自分の方へ引き寄せるだろう。
少々強引だが仕方ない。
今は監視の目が少し強いのだからやむを得ない結果だろう。
猟奇犯は伝え追えるとすぐに彼女を解放する。敵意を感じさせぬようにね。
「むっ……」
話を聞くために近付いた所を、肩を掴まれ引き寄せられる。
乱暴な扱いに少々不満を言いたくもなるが……ともかく、伝えられた三つの内容から、グレーテルのペンダントと開かずの扉の情報は既知の情報である、と判断して。
「であればそうですね。
端的に行きましょうか、疑似記憶の内容は何か調査の役に立ちそうですか?
そして、無条件に話しても良いものですか?」
最も興味をそそった話題を深堀りすべく問いかける。
《Storm》
「残念ながら、まだトイボックスに関わるかどうか判断しかねます。得られる情報が少ないものですから。
それから、ジブンは条件無しで構いませんよ。
言ったでしょ? 知恵をお貸しください、と。」
ちぐはぐの目を細める。
やはり彼女は頼りになる友人だ。ストームは再度そう感じているだろう。
少し離れアメリアを覗き見ると、まだまだ不格好で不自然に口角を上げ笑って見せた。
しかし、悲しきかな少しも表情筋は動いていないようだ。
「分かりました。
であれば語ってもいいものである。としましょう。
それで、ストーム様はどんな情報が欲しいのですか?」
なんとも不自然な笑みを浮かべるストームの様子をいぶかしがりながらも、無条件に話していいと言い切ったストームの言葉を信じる。
疑似記憶は相応に大切な物だと思っていたけれど……案外彼に取ってはそうでもないだろうか?
なんて考えながら、どんな情報が欲しいのかを問いかけてみる事にする。
《Storm》
アメリアの訝しげな表情を見て、ストームはすぐさま仏頂面に戻る。
慣れないことはするものじゃない。特に、この猟奇犯に至っては。
「そうですね。
ジブンは写真の件と氷室の件が気になります。
擬似記憶に関してはなるべく共有した方がいいかと。知る限りでは、皆様と関連してそうですし」
アメリアからの問い掛けに答えると、伺いを立てるように顔を傾げた。
それでいいか? と言った確認の為だ。
擬似記憶がみんなに関連するなどの判断はリヒトの情報であったが、どれも確証深いもの。ストームは深くそれを理解している。信じていると言った方が適切だろう。
「写真と氷室、ですね。
二つともパントリーに行けば分かりますが……。
先ず写真について、少し前までカンパネラ様とどなたかの写真があそこには隠されていたのですが、何者かに破かれていました。
恐らくお父様ではなく……誰か、ドールの仕業だと思われます。
次に、パントリーの氷室に南京錠がかけられておりました。
ピッキングなどの解錠手段は思いつきますが……確実に錠に傷がつくでしょうから、やるならお覚悟の上で」
ストームの要求を了承して、彼女は情報を語り出す。
端的にまとめられた情報ではあるが、真相にはたどり着かないそれらに、もしかしたら少し物足りなさを感じさせてしまうだろうか。
「それで……疑似記憶について……なのですが、今は、語れません。
役に立つ確証がない……というのもそうなのですが、こればかりは……アメリアの大切なもので、大っぴらに話す事でもございませんから」
その上で、疑似記憶については語れない、とそう答える。
確かに、ストームの言うようにそうしたほうが良いのだろうけれど、それでも。
《Storm》
「パントリーですか。
後で行ってみることにします。」
どんなに些細なことでも今は恵みの雨であった。アメリアの心配とは裏腹に、ストームは感謝している事だろう。
続けて語られる擬似記憶に関しては、答えられないと断られてしまいストームもそれを受け入れる。
こればかりは仕方ない。
今までに擬似記憶を他人に語るなんてことしてきたドールなんてほとんど居ないだろう。それも大事な大事な記憶だ。
他人に語るものなんかでは無い。
流石のストームでもこればかりは理解出来た。
「お気にせず。
では、ジブンの擬似記憶を語りましょうかね。
一度目は文化資料室でした。
風船のモビールを拾おうとした時に頭痛がしまして、その時は夢でソフィアとすれ違いました。
二度目はカフェテリア。
テーブルのバケットを頂いた際に頭痛がしました。その時は………………」
言葉が詰まる。
ストームにしては珍しく、彼は言葉を探すようだった。
しばらくの間、沈黙が走る。
宙を舞う埃が、鬱陶しく輝いて見えた。
秒針がゆっくりと、一歩一歩確実に進む。
瞳の影をより暗いものにして沈黙を破った。
「……アティスを」
ようやっと告げると、伏せられていた睫毛を上げた。あんなものただの夢なのだから、と自分に言い聞かせでもしたのか。はたまた、居なくなってしまった玩具には興味が無いのか。
定かでは無い。
だが、話を変えるのには絶好の瞬間だ。
「他に知りたい事はありますでしょうか?」
「ふむ……ソフィア様に、アストレア様が……」
ストームの語った疑似記憶の内容に考え込む。
自身の疑似記憶にオディーリア様が出てきたことや、フェリシア様の疑似記憶にアメリアが出て来た事を考えると、やはり自分たちはどこかで関わりがあったのだろう。
……が、ではどのように関わりがあったのかを推測できる情報が少なすぎる。
病院という形でうっすらとつながっているばかりだ。
「一先ずはそれだけ聞ければ良し、です。
アメリアが疑似記憶を語らなかったのにストーム様は語って下さいましたから。
十分すぎる位です。」
だが……聞けることは、聞いて意味のある事はこれくらいだろう。
ストームの申し出を断り、一先ず、この情報共有に区切りを付けることにする。
《Storm》
考え込むアメリアを見ながら、ストームは前のめりになっていた姿勢を戻す。そして、彼女が話を区切ろうと切り出すとストームは立ち上がった。
「監視の目も増えた事ですし、ウサギを追ってうっかり穴に落ちないようにして下さいね?」
椅子を元の位置に戻しながらアメリアに告げた。新しいクラスメイト、臨時の先生。今のオミクロンには危険要素が多過ぎる。
デュオドールの中でも特に知識欲の強いアメリアに釘を指しておくべきだと判断したようだ。
だが、アメリアの事だ。心配する必要は無かったかもしれない。
「……あぁ。あと、今度お会いした際にでもテセウスの船について、アメリアの見解をお聞かせくださいね」
ストームは丁寧なお辞儀をし、彼女の元を去るだろう。知識を教えて欲しい。と、ちょっとした意地悪な願いを残して。
「さて、結局あの方は何処にいらっしゃるのやら……」
ある日の夕方、生徒たちもまばらになってきたころ。
彼女は学園の中を歩き回っていた。
一通り部屋も回り、探検も手詰まりになり、疑問も湧き上がって来た彼女はある狂人のふりをした名役者を探すことにしたのはいいのだが……。
残念ながらかの名役者は想像の100倍は放蕩で、或いは何かの運命的な悪戯で、何部屋回っても会えなかった結果。
彼女は足が棒になる位歩き回らされた果てに最後に残った合唱室に望みを託したのだった。
「……」
だが、運の悪い時と言うのはとことん運が悪い物だ。
閑古鳥が一斉に讃美歌を奏でたような有様の合唱室を目にした彼女は頭を抱えて深くため息をつく。
探し人は見つかりそうにない。けれど……そんな彼女を見ていたものが一人居る。
《Rosetta》
「アメリア」
どこから跡を付けていたのだろう。鷹揚な赤薔薇は、真っ青なシャイガールに声をかけた。
何かしらの目的があったというよりも、冷やかしに近いのだろう。その表情のどこからも、剣呑な雰囲気を見ることはできない。
「歌でも歌うの? 珍しいね、こんな所にいるの」
それで言うと、最近は皆珍しい動きしか見せていないのだが、それはそれ。
使い古した言葉を吐きながら、ロゼットは相手の反応を窺っている。
合唱室の防音設備はしっかりと仕事を果たし、何とも言えない空気を部屋の中に留めていた。
「! ……おや、ロゼット様。
確かにアメリアがこういった場所を訪れる事は珍しいですが……つい先程まで人探しをしていた所です。
ここが丁度最後の部屋だったのですが……アテが外れてしまいました。」
急に名前を呼ばれたせいか、彼女はピクリと肩を跳ねさせて緋色のガラス細工に向き直る。
そうして歌でも歌うの? という冗談ともなんとも言い難い問いかけにうっすらと微笑んでいかにも残念そうに答えを返す。
「ですから、今のアメリアが何をしているのかと問われたら、きっと“暇”をしていると答えます。
ロゼット様は如何ですか?」
更に、彼女はロゼットの返答を待たずに、暗に「貴方は歌いに来たのですか?」と緩やかな会話のボールを投げかける。
《Rosetta》
何だか、アメリアが探し物をしているところにばかり遭遇している気がする。
ロゼットは少しおかしくなって、微笑みを浮かべた。別に馬鹿にしているわけじゃない。こういう巡り合わせもある、というだけで。
「そう、災難だったね。私もちょうど暇だったの。探したいモノがあったんだけど、中々見つからなくって……」
ふと。そこまで口に出して、先日の拾得物を思い出す。
ロゼットには少し大きい程度の指輪だ。アメリアの指には随分余るだろうが、まあ渡しても悪くないだろう。
「そういえば、この前婚約指輪を拾ったんだ。私のじゃなかったみたいなんだけど、アメリアは何か知らない?」
ごそごそとポケットを漁りながら、そんなことを口にした。相手の返答が終わる頃にはきっと取り出せるだろう。
「ええ、困ったものです。
何か連絡手段でもあれば少しはマシなのでしょうが……まあ、生きていれば時にはままならない事もありますから」
災難だったね、というロゼットに彼女は肩を竦めて応える。
ままならないの真っただ中で、たまにはままならない事もある、というのは少し滑稽かもしれないが……目を逸らすこともまた必要なのかもしれない。
「……と、これは……婚約指輪ですか? 大きさはアメリアには合いませんが……そうですね、もしかしたらそこから何かを思い出せるかも知れません。
アメリアには……そのう、何か……深い関係の方がいらっしゃったようですから……」
それはさておき、ロゼットの差し出した指輪に眼を向ける。
婚約……というと心当たりはある。
凄くある。
というかどう考えてもアレは結婚式でしょうとしか思えない疑似記憶がある。
……が、それを詳細に話すのはなんだか……はしたない。
結果、彼女の声はどんどん尻すぼみになってしまい、最後に至っては蚊の鳴くような声になってしまっていた。
《Rosetta》
ロゼットもジャックやなんかと話す時は早起きをしているし、かなり心当たりがあるのだろう。
確かにね、なんて呟きながら、彼女は頷いた。
「他のクラスのドールと話すとしたら、授業前か放課後に待ち伏せするしかないし……難しいよねえ」
手紙を渡せばいいかもしれないが、そこまでの手間をかけるのも面倒だ。
テレパシーのように、離れていても意思を伝えられるアイテムがあればいいのかもしれない。発信器があるのだから、いい感じに隠されていたりしないだろうか。
なんてふざけたことを考えながら、彼女は指輪を見せる。返ってきた反応はやや妙だが、触れない方がいいのだろう。多分。
からかいたい気持ちを引っ込めながら、赤薔薇は理解者然とした表情を浮かべる。
「必要なら、あなたにあげるよ。元々私のモノじゃないしね。ガーデンテラスに落ちてたから、持ち主が見つかったら渡してあげてほしいけど……」
はい、と。
相手が同意したならば、あっさりと指輪はアメリアの手に渡ることだろう。
「ありがとうございます。ロゼット様。
ですが、そうですね。ただで受け取るというのもなんですから。
質問ついでに、ロゼット様はこれをご存じ有りませんか?」
ロゼットの差し出した婚約指輪をうやうやしく受け取ってから、彼女は情報収集ついでに質問を投げかける事にした。
そうして、彼女が言葉と共にカバンから取り出したのは一枚の札が取り付けられた鎖。
じゃらじゃらと鳴って装飾には似つかわしくない無骨な品だった。
「恐らくこれはこのトイボックスに関連した団体か、企業の物だったのでしょう。
ですから、ロゼット様がどこかで……それこそ疑似記憶で、アメリアたちが過去に同じ施設と関わっているなら見ているかもしれないと思ったのですが……」
正直言って、それがロゼットに関わりのある品である。
という可能性はかなり低い。というか明らかに分の悪いどころではない賭けだ。
だから、もしもそういえば病院か……或いは研究施設に居たような気がする。くらいの情報が拾えれば良い。
それくらいの期待しかしていなかった。
《Rosetta》
アメリアは仰々しいほどの丁寧さで、誰かの指輪を受け取った。
まだ距離があると言えばいいか、生真面目すぎると言えばいいか。少なくとも、気安く受け取ってもらうにはまだ親密さが足りないようだ。
「変な板だね。犬につける鑑札みたい」
その後、おもむろに差し出されたのは、金属のついた板だった。
一瞬アメリアが引きちぎってきたのかと思ったが、そういうわけではないらしい。
よくよく考えれば当然である。彼女は自分よりもちいさい体躯の、貧相なデュオドールだ。
「トイボックスって何か飼ってたっけ」なんて冗談を口にしようとして──ロゼットの顔から、表情が消える。
トイボックスに関連した団体か、企業。
その言葉を耳にした瞬間、トゥリアドールは鎖を奪い取った。
普段の温厚さからは想像できないほど乱雑に、泥棒がひったくるように。暴力的な振る舞いをしていることに、当人は自覚すらしていないのだろう。
ただ、それを一刻も早く目にしなければいけないという意識に襲われているようだった。
「……どこで、これを?」
肉体のどこにも、痛みが走ることはない。
金属の板、鎖のひとつひとつをじっくりと観察して、赤薔薇はそう結論付けた。
その胸に浮かんだのは、罪悪感よりも強い落胆だ。何の手がかりも得られなかったことに、彼女はやや焦っていた。
せめて他の手がかりを得なければならないと、そう判断したのだろう。アメリアではなく、ただの金属の足跡を辿ろうとするように、ロゼットは問いかける。
彼女は今、自分がどんな顔をしているか分からなかった。
「……!」
……ビンゴ。
普段、探索の中で有用な情報に行きついた時の言葉が、あざ笑うような痛みとともに浮かび上がる。
アメリアが取り出した札にロゼットはいっそ分かりやすい位の感情的な反応を示し、それを無理やり奪い取ったのだ。
その反応は何よりも雄弁に、溺れる者が藁を掴もうとするような確かさでロゼットが求めている物である事を示し、同時に傷つけてしまったかもしれないという罪悪感を彼女に与える。
「寮の前、壊れた噴水です。
元々掛かっていたのが壊れたのか……或いは壊れていた物に近付かないようかけられたのか、そこはわかりませんが、水底に沈んでいました。
何か、心当たりがあるのですね? ロゼット様。」
けれど、彼女は罪悪感に歪みそうになる表情を意思によってねじ伏せながら答えを返す。
何たって、彼女は4.2光年の向こう側に行かなければならないのだ。
だから、
罪悪感も、やさしさも、仲間意識も、
本当に会おうというのなら捨てなければならない。
浅ましい獣でなければ、たどり着く事なんて夢のまた夢だから。
そう、彼女の中のアメリアが囁いていた。
《Rosetta》
寮の前──朝出てくる時にもう少し気を付ければよかったと、ロゼットはそう考える。
今更悔やんだところでどうしようもないし、起こってしまったことは変えられない。
トゥリアドールにできることは、思考することではなく、ただ求められるように振る舞うだけなのだ。
蔑むような目で見つめられると、急速に心の中が凪いでいく。
何も考える必要はない。問われていることだけをすればいい。
感傷はどうでもいいものだと、改めて割り切って。髪を耳にかけながら、ロゼットは口を開く。
「……連邦政府研究機関。その中の、“ガーデン”という研究所に、大切な子が所属していたの。今日もそれに繋がるモノを探していたのだけど……アメリアは、多分知らないよね」
だって、知っていたらこんなことを問うてくるはずはないのだ。
デュオドールは非効率的なことを好まない。アメリアだってきっと例には漏れないだろう。
これは尋問だと、そう理解していても。一縷の希望がそこにある気がして、赤薔薇は目を伏せた。
「詳しく知りたければ、文化資料室に行くといいよ。あそこのファイルに詳細があったから」
今からあなたが向かうなら、きっと彼女も止めはしないだろう。
部屋から出ていくのであれば、扉を潜って行くちいさな背中をただ見守るだけである。
「連邦政府研究機関、ガーデン、大切な子。
……大切な……」
ロゼットの言葉を一つずつ咀嚼していく。
連邦政府研究機関。なんと重要な事だろう、遂にトイボックスに連なる組織の名前が出て来た。これでまた一歩外に近づける。
ガーデン。これまた重要な情報だ。より正確に調査を行なう事が出来るだろう。
大切な子。……遅れてやっと気付く。
自分が何を踏みにじったのか、何を足がかりにして星を目指そうとしたのか。
どれだけ愚かで浅ましい行いをしたのか。
「ロッ……ロゼット、様。
申し訳ありません。不躾な、浅ましい問いでした。
貴方様の心臓をかき回すような。
欲にまみれた、行いでした。
本当に、申し訳ありません。」
詳しく知りたければ、というロゼットの言葉に対して謝罪をする。
傷口を漁り、答えを求めるような行いを。
焦りだけでは言い訳にならないその言葉の謝罪を。
《Rosetta》
どうして謝るのだろう。今更遠慮することなどないというのに。
ロゼットは相手を安心させようと、薄い笑みを貼り付ける。
「気にしないでいいよ。私にとっては大事かもしれないけど、あなたには関係ない子なんだから。アメリアの役に立ったら、それがいい」
これはなんてことないやり取りに過ぎないし、アメリアも悪意があったわけではない。
だから、こじ開けられた傷など存在しないのだ。現に痛みもないのだから、間違いない。
そう結論付けて、赤薔薇は相手に鎖を返そうとするだろう。
「元々、私がこれを取っちゃったのが悪いんだもの。あなたは悪くないよ。ただ、他の子には気を付けてあげてほしいなあ……」
何だか妙な空気になってしまったなあ、なんて。
ぼんやりと考えながら、言葉をただ並べていく。大切な仲間との話のはずなのに、どこかでそれもどうでもいいような気がしていた。
「いいえ、駄目です。
ロゼット様の先ほどの行いでそれが大事な物である事をアメリアは気付いていました。
だから、駄目です、アメリアはそこに傷があると分かった上で手を触れました。
だから、だから、それは悪なのです。」
何故か安心させようとしてくるロゼットに彼女は自分の行いは悪であると説明を行なう。
何故なら、そうしなければ罪が罪でなくなってしまうから。
罪は償わなければならないし、懺悔しなければならない。
そうでなければ……アメリアは容易に悪に転がり落ちるのだから。
「ロゼット様は……痛くはなかったのですか……?」
だから、この問いは、ロゼットの心にすら痛覚が無い事を知らない彼女の、無知ゆえの問いだった。
《Rosetta》
「それは……」
聞き上手のトゥリアドールなのに、何の言葉も出てこなくて、ロゼットは黙り込む。
尊厳、という言葉を使ったドールが脳裏に過ぎった。
痛みを感じないのに、傷付いたと言ってもいいのだろうか。
肉体の傷にも気が付けないし、自分の心がどう感じたのかなんて言うまでもないだろう。
持ち主すらも分からないのに、何故アメリアは悪だと言い切れるのか分からなくて、銀の眼はただ青い星を見ている。
「痛くないよ」
瞬きを、ひとつ。
とりあえずは、答えられることから答えることにした。
「痛いって思ったことは、ないよ。少なくとも、オミクロンに来てからは、何かを思い出す時しか痛くなかった。だから、アメリアが謝る必要はないと思う」
でも。
そう言って、一度言葉を切る。
ロゼットはトゥリアのドールだ。適切な返答をすることこそが取り柄の、か弱いドールである。
相手が罪を覚えたのであれば、それを赦す道筋を示してやるのもまたトゥリアの仕事だろう。
「でも……アメリアが悪いことをしたと思うなら、他の子にはしないであげてほしい。あり得ないと思うけど、口にしそうになったら、私を傷付けたかもしれないことを思い出して。
いつか私がちゃんと痛くなくなったって思えたら、あなたを赦すよ」
罰と言うにはあまりに甘やかなそれは、きっと親愛が形を変えたものなのだろう。
ね、と小首を傾げて。赤薔薇はアメリアの様子を窺った。
「ああ……そう……ですか……。
そういう……ことですか。
それでは……それでは……」
痛くないと、そう言った。
体だけでなく、心すらも痛みがわからないと。そういった。
罪は、宙ぶらりんになってしまった。
いつかちゃんと痛く無くなったと思えたら、赦すよと。そういった。
償いは、遠い夢となってしまった。
小首を傾げて。様子を伺われた。そうされた。
今もなお、気を使われてしまった。
「ロゼット様……手に触れても……良いですか?」
だから、決めた。
痛みを、おしえようと。そう決めた。
罪を、示すことにした。
いつかを目指そうと。そう決めた。
遠い夢を、追うことにした。
手を、差し出した。そう決めた。
踏みだすことにした。
それが、もしもロゼットの心を傷つけるかも知れないとしても。
“私”のエゴで以って、痛みを示す事にした。
《Rosetta》
どうしてアメリアの方が痛そうにするのか、ロゼットには分からない。
どこにも触れていないし、さっきひったくった時に傷を付けてしまったのだろうか。
何も推察できなくて、ただ赤薔薇は不安げな目をしたまま立ち尽くすしかできなかった。
「手を? うん、いいよ」
“お願い”の意図は読めなかったけれど、頭のいいデュオドールのことだ。きっと何かあるのだろう。
警戒することなく、彼女はその手を差し出した。
傷ひとつない右の手を、握手でもするかのように。
「はい、先ず……そうですね。こうしましょう」
差し出された手をそっと握る。
暖かくて、確かな命を感じるその手を。
「ロゼット様、アメリアがロゼット様に触れている感覚は分かりますか?」
両手で挟むようにして、もにもにと握る力を強くしたり弱くしたり。
まるで子供に向けた手遊びのように柔らかな手のひらを弄ぶ。
きっと、触れる感覚は、あるはずだ。あるはずなのだ。
《Rosetta》
ちいさな手のひらが、自分の手をもてあそぶ。その動きに痛みはなく、ただくすぐられるような純粋な快がある。
差し出した手をどうにかするわけではないあたり、アメリアは怒ったりしているわけではないらしい。
それなら、そのまま預けていてもいいだろう。ロゼットは手を引っ込めることなく、ただ好きに遊ばせたままにしている。
「あるよ。今みたいに握られたり、なぞられたりするのは分かるんだ。あついのとかつめたいのとかは、よっぽどじゃないとよく分からないけど」
仲のいい子はあつい気がするんだよね、なんて。
のんきに口にしたのは、思い込みによる幻覚のことなのかもしれない。
今、彼女にとって相手の手はさほど熱くないのだろうか。
「はい、ではこれを触覚と定義します」
温感と冷感が鈍い、という追加情報に加えて、触覚はある事が分かった。
これで一先ず一歩前進だ。
「次に、例えばそうですね。
ロゼット様。アメリアの手の甲をつねって頂けますか?」
そうして、一先ず触覚の存在を確認したアメリアは次に自分の手を差し出してつねるようにお願いをする。
《Rosetta》
もしかして何か難しいことをしようとしているのではないか、なんて気が付いても今更だ。
デュオドールが触診を進めていくのを、赤薔薇は従順に見守っている。
手をつねるように、と言われたのには驚いたが、聡明なアメリアのことだ。きっと考えがあるのだろう。
「うーん……こんな感じ?」
あまり仲間を傷付けたくはないが、頼まれたからにはやった方がいいのだろう。
相手の手の甲にそろりと指を近付け、ロゼットは白い皮膚を摘み、摘んだ皮膚を滑るようにねじらせた。
“決まりごと”のこともあり、痛いことを好むドームは見たことがない。この状況で傷付くようなことを望むドールはなおさらだ。
アメリアってもしかしたら変なんじゃないか、と。出会ってからしばらく経っているのに、彼女は今更そう思い始めていた。
「……はい、そうです。
それで良いです。このように、肉体の組織が直接的、或いは潜在的に損傷する、している事を伝えるのが痛覚です。」
手の甲の皮膚をねじられる。
当然ながら……いや、或いは幸福にも、もしくは不幸にも、彼女は痛みを感じて表情をゆがめ、ひと時言葉に詰まる。
「但し、それは他の感覚と同様に物理的な接触のみに定義されません。
例えば、他の個体が損傷すると、生物は多くの場合、物理的ではない、情動的な痛みを感じます。
何故なら自己が潜在的に損傷する可能性が提示されるからです。」
しかし、伝えねばならない。
何故ならこれはアメリアが自分で決めた事で、ただのエゴから来る行いなのだから。
だから、はしたなく、浅ましい獣として、知識を使い倒して見せよう。
全ては罪を罪として認める為に。
「その機能は、先ほどロゼット様が仲のいい子はあつい気がする。
と申したように、鈍くとも、感じなくとも、少なくともロゼット様には存在します。
これを……心が痛む、と定義します。」
さあ、唯物論の偽を証明し、メアリーの部屋に青を落とそう。
《Rosetta》
講義のような言葉が、右から左へと流れていく。
デイビッドやドロシーの使う語彙よりも、それは随分と硬い。説教のようにすら聞こえる語調で、アメリアは何かを伝えようとしてくれている。
だが、元からついていない機能についてどう理解すればいいのだろう?
「でも、ウェンディが怪我してオミクロンに来たって聞いた時も痛くなったりしなかったよ」
瞬きと、言い訳をひとつ。
痛いことをしてしまった、アメリアの手の甲をさすりながら、ロゼットは口にする。
身体の距離はこんなにも近いが、心の距離は随分遠い。否定しなければいけないことばかりが隔たって、少女ドールの言葉はいまいち響かずにいる。
肉体が何の痛みを感じずとも、心までもが同じ症状を示すなんて、本来あるはずがないのに。
「アメリアは私の心が痛かったことにしたみたいだけど……大事な子について思い出した時も、ミシェラとアストレアがお披露目に行った時も、どこも痛くなかったよ。みんな悲しんだり、泣いたりしてたけど、私はどうでもよかった。
もしも、全部アメリアの言葉の通りだとしたらさ。私は他の子が痛いと思っていても、自分が傷付くと思っていないってことでしょう?
相手に共感できないのは、トゥリアとして欠陥だとは思うよ。でも、それっていけないことなのかな。身体は確かに脆いけれど、テーセラみたいに強い心を持ってるってことで、いいことにはならないかなあ……」
結局のところ。ドールにとって、唯心論はただの理想に過ぎないのだ。
諾々と言うことを聞いて、エデンの園で死ぬまで暮らすのが子どもたちの役割なのだから。
それを押し付けられてきた以上、自分の心も痛みも空であると、そう認識する唯識論の方がロゼットにとっては楽だったのだろう。
今更違うように生きろ、なんて言われてもどうしようもない。
大切な人は死んでしまって、脱出の目処も立っていないのに、痛みを知ったところで何ができるのだろう?
「ええ、そうですね。
では、一つずつお答えしましょうか。
先ず、痛みを感じなかった原因として真っ先に考えられるのが、痛みを定義していないからでしょう。
ロゼット様は痛みについて何か普遍的な感覚がある、と思っているように見えます。
しかし、痛みが情動に影響されると言ったように、脳構造に依存して定義が変化することもまた有り得ると……いえ、有り得ていいと、アメリアはそう思います。
そして、もう一つ。
痛みを感じるには観念的にも、あるいは物理的にも触れる必要があります。
もしも、何か硬い壁のようなもので己の心を守っているのなら、きっとそれは痛みを感じないのでしょう。
遠い場所での死が生物の心を動かさないように。」
アメリアの言葉に対して、ロゼットは言い訳とも問いとも取れる言葉を投げ返してくる。
そこから受け取れる手応えに、内心で彼女は小さくうなづいた。
なんたって、目の前のロゼットはこの話を聞く必要すらないのだ。
痛みを感じたくないとして、この部屋を立ち去ってしまってもいいし、「きっとそうなのかもね」と言って話を逸らしたっていい。
そのうえで問いをぶつけてくれた。
なら、きっとそれは意味のあることの筈だから。
「次に、共感は出来る必要はありません。
アメリアは人ではありませんから。だから、これはただのアメリアがそうしたいというだけの行いです。
もしも嫌なのであれば、それでも良いと、アメリアは思います。」
手の甲を優しくさするロゼットに、アメリアは''ああ、やっぱり、他者が痛みを感じる事を理解している''と、そう認める。
それはきっとロゼットの尊い優しさで、善性なのだろう。
だから、アメリアはその善性に触れる形で、罠をしかけながら問いに答える。
逆説的な心を探すために。
《Rosetta》
「さっきアメリアが言ってくれた、機能? みたいなことを、まだ私が分かってなかったってことかな。教えてもらった今でも変わらないけれど、それは何でなのかな」
それは対等なドール同士の会話と言うよりも、教師と生徒がお互いの解釈をすり合わせるための会話のように見えた。
合唱室を本来の目的のために使おうとするドールがいれば、きっと驚いただろう。彼女たちは少しも歌うことなく、ただ論じているだけなのだから。
ひとつの話題を意図的に無視して、ロゼットは小首を傾げる。
「共感って仲良くなるための機能だと思ってたけど、いらないんだね。難しいなあ……」
強いなあ、とロゼットは思った。
やりたいことを丁寧に噛み砕いて、理解のできていない自分にも根気強く教えてくれて。
ソフィアもそうだ。デュオのドールは、自分の言うことを理解してもらえると思って話すことができる。
その強さが今にはどうにも眩しくて、少しだけシャッターを下ろした。瞼に覆われて、視界が半分になる。
「それで……結局、私はこれからどうしたらいいのかな。アメリア先生」
「そうですね、そこにも解釈の齟齬があります。
何故ならば、言葉で語れば事実として共有出来るかと言われれば、そんなことは無いからです。
ごく内的な感情という分野において、それがどんな物であるかを決めるのは自分の定義なんですから。
だから……きっと分からないというよりは名前を付けていないと、そう答えるべきなのでしょう。」
仕掛けた罠はことごとく空振った。
その事実に安堵とも不安とも思えるちぐはぐな感情を抱きながら問いの答えを返す。
“大丈夫、まだロゼット様は問いかけてくれている”。そう、自分に言い聞かせるように思いながら。
「その上で……もしもロゼット様に何をすれば良いのかと応えるのならば……。
ロゼット様のしたいようにするといい、と、アメリアは答えます。
何故なら、今こうしているのはアメリアのしたい事であって、ロゼット様のしたい事とは限りませんから。」
だから、もう一度……いや、何度でも。
ロゼットの快不快の感情を……いや、自我を引きずり出すために罠を重ね続ける。
《Rosetta》
自分でモノを考えるのは苦手だ。
できれば何も考えたくはないし、誰かの言うことを聞いている方がずっと楽だから。
だから、今回もアメリアの決めた通りにすれば丸く収まると思っていたが──どうやらそうではないらしい。
自分が何を痛みと呼ぶか考えろ、なんて。理不尽にも程がある。
投げかけられた課題は、ロゼットに数十秒の沈黙をもたらした。
思考停止ではないが、それは限りなく鈍足に近い。かつて口にした未来も、誰かとした約束も、ここで言うには力不足な気がした。
「私は……何がしたいんだろうね」
視線は交わらないまま、困ったように笑う。
少なくとも、こうしてアメリアの手を煩わせたくはなかったし、相手に「傷付いたかもしれない」なんて余計な気を遣わせたくはなかった。
ただ。
「嫌な気持ちになってる子がひとりでもいたら、嫌だなあって思うよ。それについて、私がどう思っていたとしても」
強いて言うなら、そのくらいだ。
汝隣人を愛せ、というのは生き物に備わった当然の機能で、特筆すべきことでも何でもない。
共感ができないロゼットでも、そうした方がいいことを知っているくらいで、だから今までひと言も口にはしなかった。
「……」
ゆっくりとした、余りにもゆっくりとした沈黙が合唱室を包み込んだ。
問いに詰まり、立ち止まって考え込む。
少なくともそれはアメリアにとってとても良いことだったから。
真っ直ぐに緋色を見つめて待ち続ける。
「嫌、ですか。
それもまた、痛みと呼んでも良いと、アメリアは思います。
きっと、それは優しいものなのだろう、とも。
だから、もう一度問いましょう。
ロゼット様。貴方様はその想いに、何と名前を付けますか?」
だから、ゆっくりと紡がれた答えにアメリアはそっと微笑む。
嫌だと、不快だと思う感情があった。
その事実にアメリアは安堵しながら……だからこそ慎重に問いかける。
何故なら、アメリアが勝手に名前をつけては、それはただの押し付けでしかないのだから。
《Rosetta》
嫌と思うことが、痛みに繋がるのだろうか。
黙っていれば分からないし、自分のわがままに過ぎないというのに。
「これは……悲しい、だと思う。多分」
だが、これに名前を与えるなら悲しさが一番近いのだろう。
分かり合えない距離感、そして共感してやれない寂しさ。
それはロゼットにとって、“悲しい”に分類されるモノだ。
これで合っているのだろうか。アメリアはなんて返すのだろう?
やや不安げに、銀の眼は青い瞳を見つめ返す。
「悲しい、ええ、良い名前です。
ただ今まで通り嫌と名付けても良かったところを、ロゼット様は悲しいと、そう名付けました。
なら、きっとこれからもっと沢山の名前を、ロゼット様は付けるのでしょう。」
ロゼットのなんとも不安そうな、それこそ正しいか分からない問題で当てられた生徒のような頼りない言葉にアメリアは頷きで応える。
正しい、とは言わない。
そうあるべきだ、とも言わない。
けれど代わりに、良いと答える。
きっと、これからロゼットは自分の内面を覗き見て、沢山の苦しみとともに沢山の名前を付けるだろう。
そうしたら、いつか何かを痛みと名付ける日が来るかもしれない。
だから、教えるのはここまでで良い。
アメリアは、そう考えて新たな言葉を紡ぎ出す。
「きっと、その道程の中でいつか、痛みと名付ける感情に出会うかもしれません。
もしもその時に、痛みが余りにも耐えがたかったら……アメリアを、恨んでください。
徹底的に、完膚なきまでに。
痛みを忘れてしまうくらい。
それが、わがままなアメリアのロゼット様にするお願いです。
さて……何か、聞きたい事はありますか?」
いつか、貴方が痛みを知った時に。
こんなことなら知らなければ良かったと思った時に。
ちゃんと貴方を殴りつけ、痛みを教えた悪を恨んで欲しいから。
それが、自分のエゴで知をひけらかしたもののせきにんだから。
彼女は自分を恨んでくれと、そう頼んで言葉を切る。
後はロゼットの自由だ。
《Rosetta》
「アメリアは、私に嫌われたいの?」
純粋に、ロゼットはそう思った。
痛みについて薫陶を受けたまでは、まだ理解できた。教え合うのはデュオのさがだ。
しかし、恨んでほしいというのは分からなかった。
こちらはとっくに赦したし、それ以上に思うことなど何もない。“オミクロンの仲間”とは、仲良くしたいのに。
花の名を教えるように、相手は自分を刻み込もうとしているのかも知れないが──そんなことを赤薔薇に理解できるはずもなく。
彼女はただ、自分よりもちいさな知恵者を映し続けている。
「まさか、アメリアはロゼット様と共にありたいです。
仲良くしていたいとも、思っています。
ですが同時に、アメリアは恨まれてもしかたない、とそう定義している行いをしました。
その上、自分の為に、ロゼット様をいつか傷つけるかもしれない知識を語りました。
それで恨むなと、自分は正しい事をしたなどと……アメリアは言えません。」
嫌われたいの?
その純粋でズレた問いに彼女は微笑みとはまた違う、楽し気な笑みを浮かべる。
確かに、この善悪への厳格さはアメリアの悪い所だ。
けれど、それをロゼットはまだ知らないのだろう。
それでも、理由を考えようとしてくれたのは、案外悪い気分はしなかった。
「ですが、もしかしたらロゼット様がその時に恨むことを躊躇してしまっては要らぬ傷を与えてしまいますから。
恨んでもいいと、いえ、恨んで下さいと、そうお願いしたのですよ」
だから、彼女は静かに力強く。
自分が恨まれるべき理由を力説する。
悪はここにあるぞ、と。
いつか、何かに窮した時、私が苦しみを背負おうと。
そう、宣言をする。
《Rosetta》
仲良くしたいが、同時に負の感情を抱かれたいとも思っている。
赤薔薇はどちらか一方の感情しか抱けない。敵か味方か、判断基準はそれだけだ。
アメリアの話したことは、間違いなく自己矛盾の一種だが、きっと愛でもあるのだろう。
まだそれを理解しないまま、かかしは曖昧に頷いた。
「ううん……じゃあ、痛いと思った時はすごく怒るよ。その時までは、会える所にいてね」
恨みも、怒りも。まだガラスの鉢には縁遠いモノだ。
だが、彼女がそこまで言うのなら信じてしてみよう。ここまで時間を割いてくれたのだから。
「あの、さ。アメリアがよかったらなんだけど……さっきの鑑札を譲ってくれないかな。知ってそうな子に見せてみようと思うんだ」
話し込んでいる間に、随分時間が経っていたらしい。
扉の方を一瞬見て、ロゼットはそう提案した。
鎖はまだ返していないし、そのまま持ち去ってもよかっただろうが、念の為だ。
「ええ、それでかまいません。
会えるところに居られるかは……ちょっと自信がありませんが」
この子は中々に難しい事を言う。
ドールには明日の保障さえ怪しいのだから、その時までは会える所に、というのは随分と気の遠くなるお願いでもあった。
だから、絶対にとは言わない。、いや、言えない。
それでも、そう言ってくれた事がアメリアにはうれしかった。
「ええ、あの札であれば持って行ってください。
ロゼット様には指輪を頂きましたしね」
さて、これで話もそろそろ終わりだろう。
アメリアは最後に札を持って行っていいと言い残して部屋を出ていく筈だ。
■■.■■.■■■■ 昼前、学生寮一階ラウンジ。
「……つまり、リヒト様も、あの後何度か知らない記憶を見たのですね?」
その日ラウンジでは二体のドールが何やら話し込んでいた。
先程、橙色の髪をしたドールに確認をするように問い直した蒼い髪のドール、アメリアはまるで難題を目の前にした学者のように考え込む。
疑似記憶とは、ドールとは、私とは。
己の不確かな記憶を取り巻く謎について議論を交わしていたのだ。
「ううむ……少し恥ずかしい思いはしましたが……いずれ話さなければ行けない事でしたね。」
暫くして、髪とは正反対に頬を赤く染めた彼女は、先ほど語った、
病院で蒼い薬を点滴されながら“博士”という人物を呼ぼうとして、オディーリアに助けられた記憶を振り払うように軽く頭を振ってから言葉を発する。
考え込んでいたのか羞恥を抑えこんでいたのか分からない彼女だが……一先ず、話しを締めくくっててリヒトの意見を聞こうとする。
《Licht》
ラウンジの隅、暖炉の向こう。ウェンディ探しの道すがら、アメリアと巡り会ったリヒトは、息を潜めるようにお互いの記憶を辿っていた。その間、リヒトの目線はラウンジの方に向けられている。誰が入ってきても気づくように。
……青色が怖いわけじゃない。青色は、もう怖くない。何を踏み躙られたって、何を奪われたって、何をコワされたって、構わないと思えたから。
「……ああ、うん、見た。青いちょうちょがいて、そいつを追いかけて。それで、色んな記憶を見て。それに、その……」
潜められていながら、確かに続いていた言葉が、ここでくっと止まる。確かに言おうとしていた言葉が、もう隠すまいとしていた言葉が、すんでの所で引き留められる。
「……いや、なんでもない」
ぐっ、と息を飲んだ。
喉の奥からせり上がる感情に見ないふりをして、今更そんな、と捨て去って。
それでも、言えない。
まだ、怖い。
例え自分が要らないとしても、染み付いた劣等感は拭えない。それは頭の先から爪の先までデザインされたドールには似つかわしくない、本能と呼ばれるようなもの。
自分から、
キズを、見せるなんて。
「青い、薬? それ、あれかな、さっきオレが言った、あの、『ちけん』ってやつかな。『博士』は知ってるよ、オレも」
記憶の話題を取り戻すように、アメリアの言葉を首肯する。擬似記憶の不思議な繋がりは、ここで確かなものになって、余計に深い謎として彼らの前に横たわった。そこから目を逸らすように、ため息を吐くように、リヒトはまたラウンジの入り口の方を見遣る。
だからきっと、貴女の姿が見えるはず。そして、話題を変えられる、と思った彼はきっと、ほっとしたように貴女の名前を声に出して、呼ぶ。
「カンパネラ!」
大丈夫、ここにこわいものはいないから。だから少しだけ、話そう。きっと、貴女の手がかりになってくれるから。
《Campanella》
カンパネラはカーディガンの内側に何かを抱え、ラウンジの入り口で佇立していた。固まっていたのである。
寮のラウンジは、記憶の中のそれとは色々と差異があるものの、雰囲気は変わらない。暖炉の上に見慣れない置物はないし、本棚には知っている本しか収まっていない。けれども過去に浸るには十分で、蝶を見たあの日から度々訪れていた。
無人である頃を見計らって来ていたわけであるが、今回は二人もひとがいる。引き返そうと思ったが、次の瞬間それは迷いに転じてしまった。かの橙色を目にしたからである。
リヒトは、カンパネラがオミクロンクラスの中で最も親愛の情を傾けている相手だと言えよう。友人だと胸を張って言うにはまだ早すぎるように思えて気が引けるが、それにしたって周りのドールと比べれば安心感があるというか、気が緩むというか。常に警戒しているがゆえに人影を恐れて反射的に逃げ出す気のあるカンパネラであるが、今回に関しては躊躇われたのだった。
「…………あ、……えと…………」
しかし、安心しきっててこてこと歩み寄るというわけではなかった。愛らしい青色の髪の少女、アメリアがその向かいに見えたのだ。
カンパネラはアメリアが苦手だ……というか、一方的に嫌われているものだと思い込んで恐れている。よく彼女からの視線を感じるものの積極的に声をかけられるというわけでもなく、ということは、賢く聡明な彼女はカンパネラの鈍間さを常に観測しており、その上でヒソヒソとあらぬ噂を流されたり、悪口を言われているんじゃないか……と。そんな事実はないし、少なくともオミクロンクラス内でカンパネラがあらぬ噂を流されるなんてことは覚えている限り一切なかったことであるのだが。
といった調子で、入り口で石のごとく固まっているのであった。
優しくて招くようなリヒトの呼び掛け。それでもなおカンパネラは暖炉の側には駆け寄れない。「あう……」と不思議な声を発して、しばし沈黙したのち。
「………ご、……ごめんなさい、わたし、お邪魔に……」
と、後ずさろうとしたその時に、頭の中で声が響いた。今は表に出ていないものの、常に妹を見守る姉の声だ。
───「行っておいで」、と。
背中を支えられ、そのまま優しく押されたような感覚がした。
「……………あ………」
とん、とまた一歩を踏み出す。手招かれ、背中を押されている。そのどちらもただの感覚の話であるが。
アメリアは、拒絶するだろうか。うまく何事も言えないまま、入室の許可を伺うように、茨の奥の目がアメリアを見るだろう。
「あっ……」
リヒトが何かを言いかけた……いや、言い淀んだ直後、部屋の中に誰かが入ってくる。
それは丁度彼女の視界の外側で、直ぐに反応することは出来なかったが、目線を向けるまでもなく、それが誰なのかだけははっきりと分かる。
そう、リヒトが名を呼んだ少女ドール。カンパネラ。アメリアの憧れの人。
「あっ、いえ、その、
どうぞ、お座り下さい。カンパネラ様。」
余りにも突然な彼女の登場にアメリアは半ば挙動不審になりながらソファの一角を指し示す。
なんたって“あの”カンパネラ様だ。
貞淑で、前に出過ぎず、それでいて穏やかな……。
……なんだか別のドールの事を言っているような気がしないでもないが、今の彼女にとってそれは判然としない事で……。
ともかく、話の邪魔をしてしまったかもしれないと謙遜しながら立ち去ろうとする彼女を引き留めようと画策する。
《Licht》
カンパネラがどう思っていそう、とか。
アメリアがどう考えていそう、とか。
エーナのフェリほど詳しく知ることは出来ないけれど、なんとなく感じることはできる。なんてったって、良き友であれかしと作られたテーセラモデル。コワれていたって、忘れていたって、棄てていたって設計は同じ。
なら、やることはひとつ。
オレに出来ることはひとつだ。
「大丈夫。アメリアはいじわるじゃねーし、悪口も言わないし、酷いことしないし、もし、したって、オレが止めるし、」
ひとつ、ひとつ。足場を作るように、暗闇に光る石を並べるように、ひとつ、ひとつ。一歩一歩リヒトは前に出て、アメリアとカンパネラの間に立って、二人を見た。そして、
「オレが、一緒にいたって苦しくないやつだ。……だったら、安心だろ?」
こう、付け加える。
あの木陰だけじゃない。あのコンパートメントだけじゃない。天鵞絨の座席に誰が居たって、そこは貴女の旅路なのだと、誰も傷つけたりなんかしないと、不格好に伝えて。
ちょっとお行儀悪めにソファの背に軽く腰掛けて、今度はカンパネラから目線を外して、アメリアにも言葉を掛ける。
「カンパネラ、慎重で、静かで、優しくって、よく気がつくやつだから……ちょっと、時間がかかるだけ。大丈夫」
そう言って、笑って。
さっき飲み込んだ言葉を、跡形もなく消化して。
《Campanella》
アメリアに促され、カンパネラは戸惑った。拒絶か無視か、それともリヒトの手前上辺だけ笑って対応するかだと思っていたからだ。
挙動不審ではあるが、そうは見えない。少なくともアメリアは、カンパネラを拒絶していないように見受けられた。
「……………………」
そして声は響く。自己嫌悪の塊のような言動をしながら、被害妄想の多いカンパネラに強く根を張った誤解。それを見抜いた上で、責めるでもなく、ゆっくりとほどかれる。
怯えの見える表情は驚きに変わり、戸惑いになった。戸惑いになって、目が泳いで。
やがて、また一歩を踏み出していた。
「…………は、………はい……」
きょろきょろ無意味に辺りを見渡しながら、一歩、一歩とリヒトの方に歩み寄り。アメリアの方を一瞥して、本当に嫌がられていないかを確認しようとして。
秒針が一周する前には、カンパネラはそのスカートを抑えて整えながら、丁度アメリアが示した、リヒトの隣に位置する場所へ腰を下ろした。膝の上には、カーディガンの内側から取り出された……やはりあのオルゴールがある。リヒトからすればそれは随分見慣れたものであろう。
手すりと背もたれにそれぞれ身体をめり込ますような勢いの距離の置き方をしていたものの、人嫌いのカンパネラにとってこの着席は、危険な地へ大冒険へ出掛けるに等しかった。
「………え、えっと……」
本当に邪魔になっていないか不安がりながら、俯いた顔を上げたかと思えば、二人のことを交互に見た。話題を切り出すような勇気はなかったらしい。
眉をひそめて泣きそうな顔をしながらも、どちらかからの言葉を待つだろう。
「ええ、勿論」
リヒトの言葉に頷く。
正直言ってそういう注釈が必須なのは少し驚きというか……悲しみがあるが……。
別に嘘ではないし悪いことではないのだ、咎める必要も意味もない。
それに、カンパネラが慎重で静かで優しくてよく気が付き礼儀正しいのは事実だ。
……おそらく。
「それでは……そうですね。
先ずは気楽なお話を。
普段カンパネラ様はリヒト様とどのようなお話をなさるんですか?」
とまあ、ここまで仲介してもらったのだ。
アメリアもここは挙動不審になっている訳にも行かない。
一呼吸置いて気分を落ち着かせ、恐らく無難であろう話を繰り出す。
《Licht》
「そう来なくちゃ」
リヒトはぴょん、とソファの背をまたいで、自分もちゃんとソファに腰かけた。これでおそろい、みんなおそろい。でも、話の真ん中にいるのは自分じゃあないことくらい、分かってる。だからそっと微笑んで、自分のことだけ考えた。
例えば、この先。もう変えられようのない未来として、リヒトは自分が全て忘れてしまうことを考えているけれど。もしそうなった時、何もかも忘れた、自分じゃない自分は、きっとカンパネラをひとりにしてしまう。
(それは、やだな)
少なくとも、みんなは思ったより全然怖くなくって、望んでいるものはきっと手を伸ばせばそこにあって、暖かな光はきっと貴女のことを置いていかない、ということを。
(……うまく、言えたらなあ)
それは、後顧の憂いを断つ、というのだけれど。きっと彼は、知りもしない。
ふっと考えの縁から戻って来た頃には、アメリアがカンパネラに尋ねていた。これはカンパネラに対する質問だから、オレは答えられないよな、と思いつつ……カンパネラが答えられるかも、ちょっと不安で……あれ?
(……もしかして、この感じがずっと続くのか……??)
《Campanella》
「………………」
カンパネラは、立派な花瓶か何かを勢いよく破壊し、三秒後の母親からの激しい叱責を覚悟した子供のような顔をした。口を一文字に結び、汗をたらりとかいている。
おそらく気を遣ってわかりやすい話題をくれたのだろう。しかしはたりと沈黙してしまう。リヒトは何も言わない。だってそれはカンパネラに宛てられた言葉なのだから。
「………えと……」
膝の上に置いた手をもにもに揉みながら、視線を足元に落としたりリヒトに送ったりアメリアに向けたりする。相手の反応が来る前に逸らしてしまう。
体感たっぷり三十秒黙ったところで、そろそろ何事かを言わなければならないと危機感を覚えたらしい。
「……その………き、近況とか……相談事、です、かね………?」
絶対求められていたこととは違うんだろうなと思いつつ、こうとしか言えない。リヒトとの会話は、好きなものを話したり共有したり笑いあったりというよりは、安心や不安のお裾分けを繰り返し、傷を見つめ合うといったような内容であるので。
愚鈍なカンパネラなれど、ここで会話を終わらせたら間違いなく気まずい感じになるということは分かる。愛する姉に助けを求めたいところであるが、背中を押された以上ここで頼るというのは情けないにもほどがあるだろう。今更だが。
「え、えーっと………お、おふたりは、さっき、何をお話されてたんですか……?」
話題の転換を試みる。ここで話題を速攻で流すのって失礼なんじゃないかと、言葉を発したあとに思い至る。ああ、またコミュニケーションを間違えた気がする……。
何も言わないまま、顔を青くして横髪を掴み頬に寄せる。カーテンの中に逃げてしまうようだった。足元を見つめて、また相手の返事を待つだろう。
「えっ……ええ! そうですね、確かに、アメリアの側から話さなければ無作法でした。」
アメリアの熟慮断行から繰り出された質問に投げ返されたのは……白湯よりも薄い答えだった。
近況とか相談事と言われても……何を返せば良いのだろうか。
だが……確かに甘く見ていたのも事実。
憧れの人のプライベートに迫ろうというのに何も言わないというのは無作法だし、なにより貞淑な事を尊敬している相手なのだ。
ガードが硬くても当然という物だろう。
「そうですね……アメリアとリヒト様は……」
そこに深く納得して話そうとした直後、アメリアは気付いてしまう。
“リヒト様と最後にした会話って……ついさきほどまでの会話を除くとどう考えても恋バナなのでは……?”と。
策士策に溺れる。
正直に直前の話をすれば確実に空気は深刻で沈鬱なものとなり、一つ前の会話を話せば「アメリアはとっても浅ましい獣でござい」と憧れの人に突きつけることとなる。
見事に自分を罠に嵌めるダブルバインドに陥った彼女は露骨に動揺して挙動不審になった末に……。
「その……想い人の話などを……」
真っ赤になった顔を伏せて絞り出すように憧れの人との談話を優先した。
《Licht》
(こ………)
片方は顔を青くして、カーテンをサッと閉じてしまうように横髪にそっと手を添えていて。
(この…………………)
もう片方は顔を真っ赤にして、カーテンの向こうに隠れてしまいそうなほど挙動不審に慌てふためいて。
(この不器用'sが〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!)
どっちもまともに話せていない沈黙の中で、リヒトは声に出さない悲鳴をあげた。
(だから! オレは! フェリじゃないんだって! 元プリマのみんなでもないんだって! そりゃ呼んだのはオレだけどさ、 だからってお互いここまでオクユカシイのは予想外で!! くっそ、何とかしなきゃ……!!)
「あっ、ああ、その、そう! うん! なんつーか……想い人、ってよりかは、そうだな」
変な沈黙を続ける訳にはいかない、と、リヒトは声をあげる。とりあえず、言葉足らず過ぎて全てが誤解の種であるアメリアの言葉に補足をして……その後どうしよう……。
「トイボックスには、“ご主人様”を待ってるやつがたくさん、居て。でもオレたちは、それに会えないことをもう知ってて……だったら、頑張って自分から会いに行こう! ってしてる奴も、何人かいて。アメリアもその一人って感じで。具体的にどんな人がいいかなーって話、して」
『それが“想い人”の話ってやつで……』と、たじろぎながらもなんとか話題の補完をした時。ふっとコワれた思考回路がパチンと動いた気がして、リヒトはばっと体を起こした。そうだ。もうこれでなんとかなれ。
「お、おう。じゃあ……そうだ!
話題、これで行こう! 『いつか会いたい人について』ってのでどうだ!! 名前は……分かんなかったり、言えないなら出さなくてもいいし! これで二人とも話せるだろ……!!」
もはや最後の辺りは願望だ。上手くいってくれ、頼むから。例えば、シャーロットさんの話とか。難しくても、具体的に言えなくても、名前出せなくても、ヒントになればそれでいいから。
《Campanella》
「ぉも……!?」
少女の赤面も、飛び出した言葉も、全く予想外である。まさかまさかの、俗に言う恋バナ………!? と誤解を加速させそうになったところで、リヒトの補足が届く。
はて、会いたい人。さらりとアメリアがここの真実を知っているのだということも判明したが、それを思考する余裕はなく。
会いたい人。会いたい人……。
「………ええと……わたし、は………」
オルゴールの表面を見つめる。切り出すかどうか、悩んだ。天国よりも美しい思い出は、口にすれば蜃気楼みたいに溶けてしまわないか、恐ろしく思うのである。
「………あ、アメリアさんの、その……想い人と、いうのは。えっと……ど、どんな、方なの……?」
結局、他人に語らせることを選んだ。これで何も返されなかったらと思うと怖いところだが、すぐに彼らのことを口に出せるような状態ではなかったらしい。
横髪を掴んだままころりと首を傾げ、ビイ玉より綺麗な目を瞬かせ。お先にどうぞと言わんばかりに、アメリアに問いかける。
「くっ……」
リヒトの的確なサポートを経由して、カンパネラから帰って来たのは超ド級のキラーパス。
脳天に銃口を突きつけられたかのような圧力……。
もとい話さなければならない空気感が少女に襲い掛かる。
「アメリアは……その……。
会いたい人が居る……という思いだけが、ありました。
だから、それがどんなお方で……どんな姿で、それが特定の個人なのかも……分かりません。
その答えは……きっと、アメリアの疑似記憶の中を探したって無いのです。
だから……遠い、遠い何処かで、アメリアの歩き続けた先に居る方が……愛する方なのだと……思います」
だから……彼女はほんの少しだけ噓をついた。
フェリシアとの、一時愛し、愛の形を自覚させてくれた一夜を秘めて、リヒトと語り合った事を語る。
今ではそんな事はないと知っているけど……それでも足が止まっているふりをした。
《Licht》
「……ん」
穏やかな表情で、リヒトは首肯する。ぐるぐるした目で言葉を選ぶ、アメリアの誠実さを知っているからだった。こと、恋や、愛や、想いに対して、彼女はとても誠実なように思う。所管だけれど。……いつかこの所感も、消えてしまうかもしれないけれど。
「だからオレも、応援しているワケで」
まったく、困った友人たちだ、そう言いたげに、ゆるりと微笑む。ホントは、彼女たちに自分の助力が必要だなんて、微塵も思っていない。自分が勝手に首を突っ込んでいるだけだと、わかっている。それでも、ちょっとくらいは、さ。
カンパネラは、と声に出して問うのは、辞めておいた。
代わりに、そっと目線をカンパネラの方に流す。話さないならそれでよし、もし話すなら、そっと受け止められるように。選択は常に貴女にあって、誰もそれを咎めることなど、しないのだ。
《Campanella》
小鳥みたいな少女の声は、どこかいじらしく、可愛らしい。リヒトは訂正したけれど、これでは本当に想い人のことを語っているかのようだ。
想いだけがあって、どんな相手かは分からない。それはカンパネラには正直理解しがたい感覚であった。そんな想いを抱えるのなら、普通はある特定の個人と会いたいと願うのが普通なのではあるまいかとも思った。
けど、馬鹿にされていいようなものでもないと強く思った。
「………すてき、ね」
本心だった。戸惑ったのも本心だったが、素敵だと思ったのも本心だったのである。
ぎこちないが、確かな優しさを込めた微笑みが浮かぶ。自然ではないけれど、無理矢理浮かべたわけでもない。あの輝きが佇む写真の中のそれとは違う寂しげな笑顔だが、それでも朧気に面影を残していただろうか。
さて。どこか恥じらいながら語ったアメリアに話させた手前、カンパネラはリヒトの視線の意味を知らんぷりすることはできなかった。求めつつも、無理に口をこじ開けさせるような真似はしないのが彼らしい。
「わ、わたし、は……ええと。……あ、会いたい、人が……そのぅ………ふ、ふたりほど……」
俯いて、前を向いて、また俯いて。カンパネラはおそるおそるといった調子で、時折リヒトのことをちらちらと見ながら、語り出すだろう。
「………お、お友達、で。もう、ここにはいないんだけど……か、片方とは、もしかしたら………なんでかは分からないけど……あ、えるかも、で。……もう片方は……た、たぶん、もう無理、なんだけど……」
これはおそらく蛇足だ。そう思いつつも、こんなところで言葉を自然に切るような器用さはなかった。言ってるうちに悲しくなってきて、なんだかもう仕方がない。
どう続けたものかと言葉が詰まったところで、カンパネラはずっと自分が触れ続けていた木箱に目を向ける。
「………あの……」
言いながら、彼女は突然ラウンジの窓の方を見つめた。その向こうに視線を逸らしたとしても、きっと二人の目には何も写るまい。それは、“今の”カンパネラの目にだって写らないのだから。
青い蝶が思い出させてくれた記憶のさなか。それは、赤く、光っていた。
「………これ、そのお友達のひとりから、貰ったんです。……わたしが、……音楽がすきって、言ったから………」
木材をつぎはぎにして作られた、如何にも手作り感満載の木箱を大切そうに手に取ると、アメリアの方へ差し出すようにして見せてみる。彼女に拒まれなければ、「お、……オルゴール、なの………」と目を逸らしながら続けるだろう。
「て………手造り、みたいで。彼の。……あ、その、えっと……テ……テーセラモデルの、男の子だったんだけど、その……彼、身体を動かすのが、好きじゃなかった……みたい、で。……不思議なひとで………」
……あれ、わたし、もしかして喋りすぎてる……?
あまり普段から口数が多いとも言えない自分がこんなに語っているのは、なんだか奇妙に写るのではないか。そう突然不安になったらしい。話の続きを切ってしまうと、リヒト……ではなく、アメリアの方へ目を向けた。
リヒトはきっと自分の話を拒まないと知っている。しかしアメリアはどうだろう。もし退屈をさせていたら。そもそも彼女の話をあそこで終わらせるのではなく、さらに何かしらの質問を投げかけるべきではなかったんだろうか。
降り積もる不安に押し潰されそうになる。だくだく、と背中に汗をかいている。
あなたは、どんな顔をしているのだろうか。
「カンパネラ様……!」
カンパネラの言葉に、彼女はついパッと顔を上げてしまう。
それは、自分の想いを肯定された喜びか、或いは言及されたことで羞恥が限界に達したのか。
どちらにせよ、彼女は丁度カンパネラが話し始めた辺りで顔を上げる事が出来た。
結果、アメリアは不幸中の幸いに乗じて、興味津々とばかりに少し体を前のめりにさせてカンパネラの言葉に聞き入る。
「テーセラモデルの方と……もう会えないかもしれないお方……ですか。」
もしも、自分が愛する人に会えないと決まったらどうなってしまうだろう。
もう何処にも行けなくなってしまうだろうか。
或いは、新しい誰かを探しに行くのだろうか。
今のままでは想像の出来ない地平に、カンパネラは立っている。
少なくとも、それだけは確かだった。
それは、カンパネラが自分の知らない何処かに居るというのは、当然のような、なんだか納得のいく物で……けれど心の何処かがずきりと痛む醜い嫉妬で……。
と、考えた辺りで一時、アメリアは何か引っかかるような物を覚えたが、それは直ぐに押し流されてしまった。
なんたって、あの彼女が自分を伺うように見てきているのだ。
そこに考え込んで返事をしなかったというのは余りにもあんまりというものだろう。
「それは……とても素敵な旅路でございますね。
忘れ得ぬ郷愁と、色褪せぬ輝きを感じます。」
だから、彼女はカンパネラの会いに行く道程を、その旅路を称える。
なんたって、それはカンパネラのもので、カンパネラの物語なのだから。
それを誰が批判できるだろう。
「ところで……リヒト様のお話も、アメリアは聞きたいと思うのですが。
どうでしょう?」
だが、それは、それとして。
アメリアに憧れの人の前で想い人の話をさせるというとんでもない事をしたリヒトに仕返しをすべく、カンパネラが語り切ったであろう折を見て、リヒトに水を向ける。
《Licht》
忘れ得ぬ郷愁で、色褪せぬ輝きで、それだけでは無いことをリヒトは、薄らと知っていたが、あえて声に出すような真似は避けた。傷をあえて見せたがる者が居ないように、嵐の中で苦しげに瞬いたことを、あえて知って欲しいと望む彼女ではない。
だけど、話をしている二人を見て、随分と安心したことくらいは言っていいかな。そう、思った。もうしばらく沈黙が続くものだと思っていたから、ゆっくりとだけど、確かにカンパネラが話し出したことが意外で。アメリアも、静かな話を受け入れてるようで、なんかほっとして。そのくらいなら、まあ。
頬杖をついて二人のことを見ていたリヒトは、次の瞬間、ガクッと頬杖から顔を滑り落として、驚くことになる。他ならぬ、智恵溢れるデュオモデルの思わぬ仕返しによって。
「えっ、オレ?」
急に振られて、話の真ん中に引きずり出された六等星は、ぱち、ぱち、と目を瞬かせた。
「オレは」
リヒトは、言葉を選ぶようにすっと俯いた。手のひらを見つめて、二度、三度と握って、開いて、握って、開いて……握る。
「……んー、まあ。ぼちぼちかな。ご主人様って言われても、あんまり想像つかなかったし……目の前のテストを、何とか、落ちこぼれないようにこなすので、精一杯だったし」
『……結果は、こうなんだけど』そう言って、リヒトは手をうんと上げ、ぐっ、と伸びをして、大きくソファの背もたれに寄りかかる。伸ばした首を背もたれの上に乗っけて、天井を見つめた。
「だから、二人がちゃーんと、会いたい人とか、いるのが、いいなーとは思う」
いいことだ。とても、いいことだ。善も悪も問わず、必要性も実現可能性も問わず、ただ、肯定した。遥か遠い、手も届かない空の彼方で、星が瞬いている。二人は、輝いている。キレイだ。
それは、とても、いいことだ。
《Campanella》
意外、だった。アメリアは話を嫌がるどころか、前のめりになってまっすぐに聞いてくれていたから。
その驚愕は、ずっとずっと嫌われているものだと思っていたからというのが大きい。視線を向けるだけ、向けられるだけの関係だった。
嫌悪では、なかったのか。
「………あ、」
アメリアが口に出したことで、ひとつだけ誤解をさせてしまっていたことに気付いた。会いたい人のうちの片方……グレゴリーこそが、カンパネラの言う『たぶんもう無理』な方であったからだ。
ひいては、もしかしたら会えるかもしれない片方、というのは。
「………ぁ、ありがとう、ございます……」
訂正はしなかった。特に支障はあるまいと思ったからだ。アメリアにもアメリアの歩む道があり、旅がある。彼女の旅にきっと不要なものだ。
アメリアからの知的で穏やかな敬意を困惑しながらもなんとか受け止めて、礼を述べる。そんな立派なものじゃないんだけどな。眦が溶けてしまうような感覚がするのは何故だろう。
思えば自分は、いくらどんなドールに優しくされたって、その優しさの裏を想像して怯えてきた。アメリアからの言葉を疑う必要がないのは、やはり、隣人がいるからなのだろうか。姉が背中を支えてくれているからだろうか。
他人の信じ方を、思い出してきているのだろうか。
と。アメリアによって突然次の話者になったリヒトの方へ、カンパネラはそっと耳を傾けて目を向ける。確かに小さいかもしれないけれど、ちゃんと星は光っていた。彼が落ちこぼれなのは事実なんだろう。でも彼が落ちこぼれてくれなくちゃ、カンパネラはもっと一人ぼっちだった。
つられて天井を見上げる。見上げられているとは夢にも思ってないらしい。
「…………」
会いたい人がいない。本当に、そうかなぁ。学習室での会話を思い出し、そう心の中で疑う。
しかしあくまでも心の中でだけだ。カンパネラは沈黙を守り、何も追及しない。何も語らない。「うぅん」と無意味に鼻から抜ける声を放つだけだ。
「ええ、リヒト様です」
なんだかパチパチと目を瞬かせるリヒトに頷きながら、ちらりとカンパネラを見てなんだか同意を取っている風を装う。
驚いていても意趣返しからは逃がさないぞ、という強い意思で以って話を促すと……帰って来たのは少し想像通りの答えだった。
「まあ、実際そうですよね。
前までは落ちこぼれないように、今となっては明日生きるだけで精一杯なのですから。
冷静に考えると……こうして想い人の話をしている事の方が妙ではある……と思います」
そんな暇は無かった。
確かにそうだ、アメリアにも実際そんな時間は無かった。
ほんの少しでも良い人形である為に。
はしたない、浅ましい獣にならないために。
己を律し続けて結局何を求めていたのか考えることすらしていなかったのがアメリアなのだから。
リヒトにだってそんな時間はないと言われればそりゃあそうだろう。
納得の出来る話しだ……というかこれは単に、アメリアが時間の無い間にも好きな人のことを考えていた凄まじくはしたない女という事になるのではないだろうか?
そんな、気付いては行けないことに気付きかけたその時。
「いい、ですか?」
いいなーとは思う、と言ったリヒトの言葉に首を傾げる。
なんたって自分に会いたい人がいる事をアメリアは恥ずかしい、浅ましいとは思いこそすれ、誇ったことなどないのだ。
だから、良いという純粋な誉め言葉を受け取れずに首を傾げることしか出来なかった。
《Licht》
「ん? いいことに決まってるだろ」
ぐっと体を起こして、天井を見ていた視界に二人の姿を移して。不思議なことを聞くなあ、と思いながら、リヒトは言葉を続けた。呆れたように、それでもなんだか、愛おしいように。
これだから、どっちも、ほっとけないのだ。
「だいたいなんだよ、ふたりとも、なんか自信無さすぎ。
……お披露目のことも、色んなことも知っちゃって、お先真っ暗みたいなもんなんだからさあ……そんな中で、やりたいこととか、会いたい人とか持ってるのって、実はすっごいことなんだぜ。
もういいや、ってなる方が、ずっとずっと楽なのに。ずっと、ずっと。
だから! 諦めないで、忘れないで、誰かのために頑張ってるのって、すっごくすっごく、すごいことなんだ」
だから誇って、不器用で怖がりで、それでも輝く一等星。会いたい人がいるのなら、脇目も振らず走って。
……いや、そりゃちょっとは、歩いたり座って休んだりして欲しいけれど。無理や無茶はしないで欲しいけれど。……そうして欲しいのは、二人を心配する気持ちの他に、あまりに早く二人が居なくなってしまったら、遠ざかる背を諦めるために必要な時間が、なくなっちゃいそうだからだけど。ちゃんと手を振れるかどうか、オレが不安なだけだけど。
……ちっぽけだなあ、オレ。
「胸張って言えよ、『わたしはこの人に会いたいです、だから頑張ります』って。みんな、絶対、心から応援してくれるからさ」
『……オレは、応援第一号な』と付け加えて、リヒトは両手で小さくピースサインを作った。にっこり笑って、冗談めかした明るい声色で、二人の背中をぽん、と押すように。いえーい。
《Campanella》
まぁ、たぶん、一般論としてこんな絶望的な状況のもと、何かしらの素敵な目的を持って歩み続けることは“良いこと”なのだろう。カンパネラもアメリアの想いを肯定的に受け止めている。
……カンパネラの場合は、たぶん、違う。そんなきれいな話ではない。カンパネラの願いは、大好きな友達にもう一度会いたいという願いは、もはや目的という話ではなく。
「………」
言うなればそれは、鋼でできた命綱だった。
諦めたら、忘れたら。その時、カンパネラはきっと本当の意味で死ぬだろう。スクラップにされるより、怪物に食い荒らされるより、無惨で深い死を迎えるのだろう。
そして尚且つ。もしもその願いが叶うのなら、カンパネラは何だってするだろう。何だって、投げ捨ててしまうだろうから。
リヒトのピースサインに、コンクリートのような質感の微笑を浮かべて応える。ほんとうに胸を張って良いのかとは思えなかった。彼が語るカンパネラの姿みたいに、本当の自分は美しくはないと知っていた。
「……がんばらなくちゃ、ですね」
「決まっ……!!」
この親友は、なんと気楽に言ってくれる事だろう。
アメリアの生の、その殆どを苛み、操り、苦しめて来た呪いとすら言える渇望を、リヒトは事もなげにいい事だと言い切った。
それは、アメリアに混乱と幾分かの救いを与え、言葉を詰まらせる。
望むことははしたなく、浅ましいけれど。
それでも、かれは良いことだと、そう言ってくれた。
だからこそ、アメリアは気になる。彼に、求める物はあるのだろうか、と。
だって、そうだ、彼は会いたい人が居る事をまるで特別な事のように言う。
元から持っているアメリアには分からないけれど……。
けれど、特別な物というのは少ないか、或いは存在しない物で……。
だから、さっきリヒトが自分で言っていたように、リヒトには会いたい人が……それでなくても強い願いがないんじゃないか? と。
「むっむうう……リヒト様がそこまで言うのなら。
良いでしょう。
今度、いえ、いつか、いえ、予定があった頃に……言ってみることにします。」
そうやって考えた頃にふと。
アメリアは自分が安堵している事に気付く。
リヒト様が自分から何処かに行かない事に。
置いていくのは自分である事に。
自分よりも遥かに優れたリヒトに……願いがない事に。
その醜くどす黒い感情に、浅ましく、確かにはしたない感情をようやく自覚した彼女は、よく使い慣れた自己嫌悪でそっと蓋をして、加えて決意の重石をする。
いつか、リヒトがやりたい事を決めた時。ちゃんと背中を押そう。
その為に、今はこの汚れた心を隠しておこう。
今はとぼけたふりをして、気付かないふりをして。
そうやって、いつか行き先が決まったのなら。
精一杯の笑顔と沢山の涙で背中を押そうと……そう決めた。
《Licht》
「でも、無理すんなよ。センセーにバレたらダメなんだからな」
頑張らなきゃ、と意気込んだカンパネラに対して、これは忘れちゃいけないと付け加える。
そして、また二人をぼんやりと見て。
(……まあ、なんというか)
この一言でぱあっと霧が晴れてくれるのなら、二人ともこんなにナンコーフラクでは無い。オクユカシクもない。まったくもって、ほうっておけない。
つまり、じゃあ、悩んでくれている間は、ここに居てくれるのか、と……ちょっとだけ、安堵して。
(あーもう!! 嫌だ!! この!! う〜〜〜〜っ!!)
見送ると決めたくせに居て欲しくて、支えると決めたくせに後ろめたい。どっちつかずの感情がグルグルするのはいつもの事で、いつものように苦手だ。ピースサインしたじゃん。あそこでちょっとだけカッコつけたじゃん。もう、情けないなあ。捨てるって決めたものをずるずる引っ張っている、自分が。
もう何度目か。ぱっと話題を切り替えようと思って、リヒトは咄嗟に思いつきを口にした。
「……っと、言うわけで! アメリアとカンパネラ、二人とも“トイボックス調査隊”の仲間入り! ってことでいいか?」
口走った、数秒後。慌てて『あ、えと、トイボックス調査隊ってのは、フェリシアが隊長で……』と、勢いで出してしまった言葉に説明を付け加える。
トイボックス調査隊。フェリが隊長……とリヒトは主張しているけれど、実際のところ、隊長とか隊員とか、あんまり変わりなくて。ただ、トイボックスの大きくて漠然とした両手の中で、ひとりぼっちにならない為の隊であること。センセーには秘密の、調査隊であること。ひとつひとつ、言葉を尽くして言ってみた。我ながら、結構曖昧な調査隊である。
オミクロンはひとりじゃない、って言っても受け入れにくいなら……みんなで丸ごと囲ってしまうまで、だ。見事なまでのテーセラ的脳筋思考だった。
「ニュータイに条件なし! 落ちこぼれでも、何も出来なくても、何にもわかんなくても、大丈夫! お互いのやりたいことのために、困った時はお互いさま!! って、やつで………その………どう、かな?」
『いっ……やならその全然いいんだけど……』と、慌ててそう言って、カンパネラと、アメリアの方をそれぞれ見る。ちょっと無理やりすぎたかな、という心配と、断りたいなら断ってもいいよ、という心からの思いを込めて。
《Campanella》
「あ、は、はい。そう……ですね。」
リヒトからの付け足しに、はっとしたように首肯する。いくら頑張ったとて先生にバレては全ておしまいだ。今まではそちらの面での警戒は甘かったような気もするが……蝶を探すのも第三の壁を探すのも、これからは慎重に行かなくては。
もし先生に、シャーロットやグレゴリーのことを思い出していることがバレたら。あの写真がそうだったように、また失うかもしれない。オルゴールや、ノースエンドや、今あるセピア色の記憶を。会話はなるべく避けなくてはならないだろう。
ああ、でも。『あの時間』から逃れるのはどうにも難しい。誤魔化す練習をしなくてはならないと、カンパネラは心中で独りごちる。
「……ちょ、調査隊………?」
と。リヒトの口から突然飛び出した提案に、カンパネラはまたころりと首を傾げた。
フェリシアを体調の座に据えた、トイボックスの真実を追及するものたちの集まり……というよりは、どちらかというと子どもたちのお遊び集団のようなものに聞こえる。調査隊と銘打つが、ひとりぼっちにならないための、というのがおそらくは本質なのだろう。
けど、わたしは、そんな。そうやって弱音を口にしようとして、カンパネラは躊躇っていた。きっとリヒトは、カンパネラやアメリアのことをひとりぼっちにしないためにこうやって言ってくれているのだ。自己嫌悪や遠慮からとはいえ、提案を退けるのはその想いを無下にすることにはならないのだろうか?
「あ~……う、え~……と……」
右往左往。目に見えた迷いの、その果てに。
「………じゃあ……は、はい……うん。」
こくり、と頷いて。カンパネラは入隊の意思をやんわりと示した。若干こう、無理をした感じは否めないかもしれないが。
さて、アメリアはどうだろう。カンパネラは美しい青の少女の様子を窺うだろう。彼女は一人での旅路を進むのか、それともひとりぼっちにならないのか。答えが是であれ否であれ、彼女は肯定も否定もしないだろう。
「調査隊……ですか?」
このトイボックスについて調査を進めようという……互助会のようなものらしい。
正直言って願ってもない申し出だ。
一人での調査に限界があるのは事実だし、信用についてもフェリシア様がリーダーと言う事で花丸をあげたいくらいだ。
入隊に条件が無い、というのもとても良い。
オミクロンのドールがそういった事を気にするのは事実だし、なにより尊敬するカンパネラ様と共に入るのは親交を深める上でとても有効と言えるだろう。
正に文句の付けようがないパーフェクトな提案だ。
「そうですね……アメリアは、少し考えさせて欲しいです。」
……けれど、今はまだそれに乗る事が出来ない。
何故なら今アメリアは調査を進めており、どれほど疑われているか分からない以上下手に参加して迷惑をかける訳にも行かない。
かといってただ断るのは目の前の親友に失礼だ、とそう考えたアメリアは具体的な期日を伝える。
「次のお披露目の後、アメリアが無事だったなら答えさせて頂きたいです。」
《Licht》
「そ、」
息を飲んだ。
「そんなこと、言うなよ」
ふにゃ、とへこたれた声になってしまった気がして、リヒトは拳をぎゅっと握って、膝の上に置いた。希望ばかりで足をすくわれちゃダメから、きっとこの言葉は正しいのだけれど。
でもだってそんなの、そんなの。考えたくなんてなかったじゃん。だけど正しいから、そんなこと言って、諦めちゃいそうな光に手を伸ばしたのは、ただの。
「……っああもう、了解!! 絶対な、絶対な! 約束だからな!! 破ったら許さないからな、このっ……棺の中にシーツ詰めまくって寝れないようにしてやるから!! それから、えっと、アメリアの洗濯物だけ裏返しにしてやる!! あと、あと……あ! アメリアのこと見る度に『わっ!!』って後ろから脅かしてやるからな!! それから、ええと……ええっと…………なんでもだ!!
あーくそ、締まんねえなあ……!!」
困惑と戸惑いと引き止めたい気持ちと、ちょっと……いやかなりの苛立ちを元にリヒトはわめきたてる。カンパネラがびっくりするだろうから後でちゃんと謝っとかなきゃ、だけど、今はほんとーに何とか言ってやりたかった。考えうる限りの嫌がらせを叩き付けてまで、答えを確かなものにしたかった。
閑話休題。
「でも、カンパネラが話してくれてよかった。少なくとも……二人が仲良く出来そうで、良かった」
しばらく暴れて落ち着いたあと、思い切って呼んでみて良かった、と彼は笑って、ラウンジの小さな歓談を纏める。……なんだかなあなあになって、上手く纏まりはしなかったけれど、それでも。無理やりにでも手を繋げて、良かったと思う。
新しい乗客を乗せて、銀河鉄道が続くように。彼女が望む場所へと行けるように。星座を作るのはみんなの意思だが、星を集めるのは彼の仕事だ。
「さて、フェリシア様の為にも。頑張らないといけませんね」
フェリシアとの湖畔での一夜から明け、彼女は学園を訪れていた。
おかしな話ではあるけれど、一つの恋を自覚し、破り捨てたせいか、少しだけ軽い足取りで彼女はいつも通りの探検を始める。
そうして彼女が向かったのは……。
あなたが踏み込んだ控え室。目の前には瞳を灼くような綺羅綺羅しい豪奢な空間が広がっている。
壁には、色とりどりのドレスやタキシードなどの正装がハンガーに掛けられて並んでいた。化粧台が三つほど並んでおり、あなた方はこの場所でお披露目の支度を入念に整えるのだ。
控え室の奥には、デュオドールのための控え室へ続く扉が取り付けられているのが見えた。
「わあ……手に取ってくれと言わんばかりですね……」
なにかめぼしいものは無いかと踏み込んだ控え室。
そこには「さあ!私を手に取ってくだせえ!!」とばかりに埃一つ被っていない小さな箱が置かれていた。
こうしてこの場で無くなっていない辺りつい最近置かれたものなのだろうが……。
その寮にあった絵画ばりの様子に思わず声が出てしまう。
……が、それはそれとして、彼女ははしたなくも持ち主不明のその小箱を拾い上げ、そのまま持ち去ることだろう。
あなたは講義室の扉を開く。現在この場所は授業で使用されていなかったらしく、喧騒などもなく至って静かだった。机と椅子の整然な並びが相変わらずそこにあり、チョークの香りが鼻をつく。デュオモデルのあなたにとっては見慣れた景色だ。
確かに講義室は静かだったが、誰も居ないというわけではなかったらしい。室内では丁度、一人の少年が立ち上がって荷物を脇に抱えていたところだった。
一つしかない出入り口から入室したあなたの姿は当然、その煮詰まった深紅の瞳に収まることになるはずだ。
「──アメリアか、お前……」
あなたは彼を知っている。毒々しく濁るラズベリーの双眸と、バーガンディの気品ある赤毛が頬に掛かる美しい少年。彼はデュオクラスに居た頃に同級生であった、ヘンゼルという名の偏屈な少年だ。
彼は眉にこれでもかと皺を刻んで、不遜な態度で階段状になった座席の合間を縫い、降りてくる。
やがて彼はあなたの側まで軍事的な足取りで歩いてくると。
「おい、デュオの恥晒し。邪魔だよ、退け。」
……と、不機嫌そうな低い声で吐き捨てた。
「……」
ヘンゼルの言葉に、彼女は何も言わず講義室に入る形で道を開ける。
何たって恥晒し(意味が違う)なのは事実だし、入口で立ち止まっていては邪魔なのも事実だし……。
なにより、ここで議論をしているのがすさまじく無駄なのも事実だ。
せいぜい、これで良かったのはアレが正夢では無かった事位だろうか
あなたはヘンゼルに手酷く吐き捨てられても、無駄に突っ掛かると言うことをせずに静かに道を開ける。だがヘンゼルは非常に苛立たしそうな様子で、講義室に入ろうとするあなたの肩を強引に押し退けて足早に出ていってしまう。
廊下の方から彼の神経質で張り詰めた足音が遠ざかっていく。
また、あなたは改めて静まり返った講義室を見渡した。そこには変わらず、今は役目を待つばかりの学びの場が広がっている。
乱れのない机たちの整列、待ち構える教卓。黒板は綺麗に消されており、残っている文章なども見られない。
「……今のは?」
ヘンゼルの手元に見えた何かに、彼女はひと時引っかかる。
何かあったのだろうか……いや、思い詰める理由など挙げようと思えば幾らでも挙げられるが……。
だが、そんな思考を“今は関係ない”と振り切って彼女は教卓へと歩いて行く。
そこには一枚のメモが落ちていた。
講義室前方には教卓が置いてあり、その教卓の背後に黒板が設置されている。教師が留まるための教卓の下側には、一枚の紙切れが落ちているようだ。部屋を歩いてそれを発見したあなたは、紙切れを拾い上げるだろう。
紙切れには短く以下のような内容が記されていた。
『Tower・Forest・Academy・Home・Hospital・Metropolis』
手書きの文字であり、字体はひどく歪んでいて美しいとは言えなかった。
「ええ……」
出て来たのは全くもって謎のメモだった。
家、病院、大都市という文言からして疑似記憶に関するものなのだろうが……。
余りにも不可解なそれに彼女は少しの間頭を悩ませていたが……直ぐにそれが無意味であると諦めて調査を続ける事にした。
ヘンゼルが立ち去ったばかりの、がらんどうの講義室の机には、何冊かの本が残されていた。
恐らく彼が置いて行ったのだろうと予測されるその本のうちの一冊のタイトルが目に入る。
『カルデアネスの舟板』というもので、思考実験の一種に関わるものが記された哲学書らしい。
あなたはデュオモデルとしてその内容を知っているが、本を開いてみるならば、以下のような内容を読み取れる。
◇ カルデアネスの舟板 ◇
『ある一隻の船が海上で難破し、乗組員が全員海へ投げ出されてしまった。多くの者がなす術なく海底に沈みゆく中、一人の男は命からがら、壊れた船から剥がれ落ちた板材にしがみつくことが出来た。
するとそこへもう一人、同じ板に掴まろうとする者が現れた。しかし板材はひどく脆弱で、二人もの人間が掴まればたちまち沈んでしまう。そう考えた男は、後から来た者を突き飛ばして水死させた。
その後生き延びた男は、殺人罪により裁判に掛けられるも、結局、その行いが罪に問われる事はなかったと言う。』
この思考実験では、自身の命が危機に瀕している際、他者の命を手に掛ける行為の善悪を問うている。当人の倫理観を問う問題でもあるだろう。
あなたはこの本を読んで疑問に思う。ヘンゼルは哲学の類いをあまり重要視していない少年であり、今まではこんな本を読んだ姿を見たことはなかった。自分がオミクロンに落ちてからは姿を見ていなかったので、以来考えが変わったのだろうか? と言った考えしか浮かばないことだろう。
「カルネアデスの船板。
法律における緊急避難の倫理を問う時にも用いられる物ですね。
……問うべき法も無いここで、貴方は何を問おうとしているのですか」
見つけた本は彼女も良く知る思考実験の一つだった。
きっと、何もない社会の中で問えば出題者の性格が疑われるような……けれど、トイボックスの極限の中では意味を持つそんな思考実験。
手首の傷といい、ヘンゼルは何を思い悩み、何を問おうとしたのだろうか。
そんな疑問を抱きながらも、彼女は未だ歩き続ける。
講義室Bは、もう一方の講義室Aとは対になるような、鏡写しの部屋の作りをしていた。
講義室は、各クラスの先生による座学を中心に使用されている。部屋の右手側の壁には広い黒板が張り付けられており、教壇と、揃えられたドールのための机と椅子が存在する、シンプルな教室といったところか。
現在は人気も特になく、授業の予定も見たところ無さそうだ。
「これは……忘れ物でしょうか」
講義室Bにあったのは忘れ去られたいくつかの筆記用具だった。
誰かが忘れて行ったのだろうか。
ふと、彼女は筆記用具の中に紛れ込む一枚の写真に目を止める。
どこか覗き見をするようで悪い気分になりながら、彼女はそれを見ようとした。
講義室の机の上に、ドールの忘れ物と思しき教材や筆記用具が散らばっている。教材内容から推測するにこれらはおそらく、テーセラモデルのものだ。
あなたは教材の中に、一枚の写真を見つけるだろう。
どうやら学生寮付近の平原で撮影したものらしく、一帯には青々とした草地が広がっている。空は明るく晴れ渡っていて、燦々とした西陽が照り付けていた。
枝葉を茂らせた一本の樹木には、手製のものと思しきブランコが吊り下がっており、そこには鮮やかな青髪を風に靡かせるエルの姿がある。しかしその表情は、どこかあなたが普段から見ている彼とは違う気がした。
ブランコが吊るされている木の幹には、アラジンとミュゲイアの姿がある。彼らは身を寄せ合って、スケッチブックを抱え持っていた。そちらへ向かおうとしていたらしいブラザーが、この写真を撮った人物の方へ朗らかな笑顔で手を振っている。
一見、何気ない寮内での日常を切り取った写真に見える。だがあなたの目にはどうにも違和感のあるメンバーに見えた。
アラジンはこの学園へ訪れたばかりのドールである。それに彼はトゥリアクラスであって、オミクロンの寮に入ることは出来ないはず。そして彼らの写真を、恐らくはテーセラクラスのドールが所持している……という、どうにもちぐはぐな有り様に。
写真の裏側には、『芸術クラブ』と記載がされているようだ。
「テセウスの船……ですか。
なんとも厄介なものですね……」
アラジン、ミュゲイア、ブラザー、エル、この四人の取り合わせというのは聞いたことが無い。
だから……きっとこれは過去にいた彼らの写真なのだろう。
きっと、もっていけば何かがあるのだろうが……。
流石に持ち主が明らかなものを盗むのは少しアメリアの良心が咎める。
だから、アメリアは写真に手を出すことなく、部屋を出て調査を続ける事にした。
演奏室は閑静だった。幸い、今は誰も使っていなかったらしい。教室を抜けて保管庫の扉を開くと、その先には狭苦しいながらもきちんと磨き抜かれた数多の楽器が保管されていた。
照明を灯してから一帯を見回すと、ヴァイオリンやチェロ、コントラバスなどの弦楽器や、クラリネット、オーボエをはじめとした管楽器も、打楽器も多様な楽器が収まっている。
「おや……これは……ウェンディ様の」
楽器保管庫には、ウェンディの楽器が置きっぱなしになっていた。
そういえば、オミクロンクラスの楽器は楽器保管庫の中に保管されるものなのだろうか?
疑問は募るが、横倒しになってしまっているのはあまりよくない。
そう考えたアメリアは、勝手に触る事を内心で謝りつつ、一先ず開けて中身の状態を確認して。
楽器類でひしめく保管庫の奥には、ヴァイオリンのケースが一つ横に倒された状態で安置されている。暗がりの中で目を凝らすと、ケースの側面には『Wendy』と文字が記されているのが分かった。
どうやらこのヴァイオリンはウェンディの所有物らしい。
あなたはある特定のドールには装飾品や楽器類、特別な書物、或いは特別な道具などが先生から貸与されていたことを思い出す。授業に必要なものだから、と理由付けをされているようだが、今思えばこれらにも何らかの意味があるのだろうかと感じてしまう。特定のドールのみに無作為に物を与える行為が、教育上の意味があるとは思えないからだ。
ケースを開くと、内側にはよく手入れされた美しいヴァイオリンが収まっている。随分と使い込まれた様子で、板の表面には擦り切れた痕跡なども見られた。トイボックスで目覚めて、お披露目に出るまでの期間は長いようでいて存外短い。そのあいだにこれほど年季が入るとは思えなかった。よく見ればケース自体に取り付けられたネームプレートも、新しいものには見えない。
ケースの蓋の部分には、薄いレターケースが取り付けられているようだった。
が、中身は空である。
その代わりに、真っ赤なベゴニアの花が何輪か収まっていた。
「ずっと……使われていたのでしょうね。」
先生から渡される特別な楽器。
それをアメリアは持ったことが無かったが……この年季の入り方を見れば一目で分かる。
これは……恐らく歴代のウェンディ様達が使って来た代物なのだろう。
では……その目的は何なのだろうか。
恐らく、この行いによって誘発される事象で最も特別なのは擬似記憶だが……この偽りの楽園の管理者達は、何を願ってこのような行いをしているのだろうか。
いつまでも分からない問いを前に、彼女は頭をひねりながら一先ず楽器が壊れては居なかった事に安堵してしまい直して立て掛ける。
今度は特別な楽器や書籍について調べてみようか。
そんな風に考えながら彼女はまた歩き出した。
演奏室は先ほど通ったばかりであったので分かっていたことだったが、残っているドールはおらず、静かなものだった。
部屋の大きさは講義室と変わりない。しかし机の数はこちらが少なかった。代わりにグランドピアノ、コントラバスやハープ、打楽器類など、運び出すことが煩雑だが使用頻度がそこそこ高い楽器があらかじめ部屋の端に寄せられるようにして出された状態になっている。
その他の楽器は全て奥の楽器保管庫に収められているのだろう。
「これは……楽器のカタログでしょうか」
再び演奏室を訪れたアメリアの視界には一枚の冊子が入る。
楽器のカタログだろうか?
様々な楽器の名前が踊るその冊子に、思えば見慣れないマークが記載されている。
こんなものがあっただろうか?
そんな風に不思議に思いながら、彼女は教卓の上の楽器を調べ始める。
教卓の上に一冊のカタログのような冊子が置かれているのを見付ける。
どうやら様々な楽器が掲載されているらしい。傍らのメモ用紙には老朽化した楽器の名前や、必要な個数と思われる走り書きが残されている。教師がこもカタログを見ながら発注するものを選んでいたのだろうか?
また、カタログには見慣れないマークが記載されているようだ。
釣り合った天秤の上に、揺れる炎が灯されているデザインだ。中央の支柱の部分は、鋭い剣の形になっているらしい。カタログを発行している団体を示す、ロゴマークのようなものかもしれない。
どことなく、あなたが以前も見かけた天使を模した紋様と雰囲気が似ている気がした。
「またロゴ……頭が痛くなりますね」
炎と天秤と剣、キリスト教色の強いデザインのロゴに、あの鎖と似たようなものを感じるが……。
結局そのロゴが何を示すのかも分からない以上答えを探しても仕方がない。
なんだかいたくなってきた気がする頭を抱えながら、彼女はまた歩き出した。
合唱室の内部は、あなたがよく知るものと大差ない。コーラスごとに分かれて立つことが出来るよう、部屋の奥の床は階段上になっている。ドールズは基本、こちらの階段側に立ち、ドールズに音楽を教えるトゥリアクラスの先生は、部屋の手前側の教卓の前か、部屋の奥に置かれたピアノで伴奏をする。合唱の授業の基本形だ。
「ピアノの上に置物とは、なんとも不届きな方が居るようですね」
合唱室に着いてすぐ、彼女は目ざとくピアノの上に置かれた物に気付いた。
今使っている訳ではないとはいえ授業で使うだろうピアノの上に物を置いては邪魔になってしまう。
正直同じオミクロンの生徒がやったような気もするが……彼女は無責任にも他のクラスがやったという希望に賭けて。
その見慣れぬ置物を観察し始めた。
部屋の奥には漆黒のグランドピアノが設置されている。現在は使われていないため、鍵盤の上には赤いカバーが被せられているようだ。
そしてピアノの上には、普段のは見慣れない置き物があった。メトロノームの隣にそっと飾られている。デュオクラスは普段合唱の授業を受けないため、もしかすると訪れていない間に新たに飾られたものかもしれないが、ともかく記憶の中では見た覚えがない代物だった。
真っ白な素体に、天使の翼と美しい女の顔が彫り込まれた小さな彫像だ。色は塗られておらず、すべてが染められない純白のままである。サイズはあなたの握り拳よりも一回り大きいくらいであろうか。祈るような姿勢で顔を伏せており、あなたはこの置き物が学生寮の噴水のモニュメントに似ていることに気付くだろう。
「彫像を彫るのが趣味の方でも……いえ、にしては少し出来が良すぎる気もしますね。」
置かれていたのは小さな天使像だった。
誰かが作ったのだろうか?
いや、それにしてはこういった頑丈な物を加工する手段はこの学園にはそう多くない、と逡巡していた彼女は、ふと、足元が疎かになってしまう。
「み”ッ!」
結果、不注意な彼女は楽譜台に足を引っ掛けて、淑やかさの欠片もない呻き声を上げて転倒してしまった。
痛みに耐えながら顔を上げた彼女の目線には……。
楽譜台のうちの一つに、授業の課程で配られる規程のものではなさそうな楽譜が置かれている。それは五線から歌詞までが均一でなく、全てが手書きで記されている様子である。
ミミズが這ったような文字であったが、あなたが根気を持って解読していけば、どうにか読み解ける程度のものであった。
拙い旋律に載せられた詩は、以下のような内容である。
ユメ デ ツナガリ
アナタ ニ イタル
ソレラ ハ イツワリ
アナタ デハ ナイ
ウンメイ ノ キロ
アオイ ハナ ガ ウタウ
オワリ ノ シラベ
サイセイ ノ イノリ
ニンギョウタチ ヲ
スクウ タメ ノ ウタ
また、この曲には名らしきものが冠されておらず、無題であることも分かるだろう。
「これは……学習室に書いてあった歌でしょうか。」
夢で繋がり
貴方に至る
それらは偽り
貴方ではない
運命の岐路
青い花が歌う
終わりの調べ
再生の祈り
人形たちを救うための歌
正直いってなんの事か欠片も分からないが……おそらくあの文章の続きなのだろうという事だけは伺える曲がそこにはあった。
しかも、筆跡からしてこれを書いたのはあの怪しげなメモを書いた人物だろう。
という事は……恐らくこれを用いて何かを伝えたい人が居るのだろうが……アメリアにはまだそれが分からなかった。
「誰かは知りませんが、有難く利用させて頂くとしましょう。」
……が、この意味深な文章が全く役に立たないという訳でもない。
彼女は名も知らぬ作曲者に感謝しながら楽譜台を元に戻してから、合唱室という名の防音室に他者が居ないことを確認した彼女は鞄からある本を取り出して読むことにした。
『ウェストランド』と題された本。
今まで皆に忘れ去られていた床下収納に放置されていたためか、あなたがこれまで見かけたどんな本よりも劣化の状態が酷かった。埃は降り積もり、装丁の形は著しく歪み、脆くなった頁は少し力を込めるだけで破けてしまいそうな有り様だ。唯一、光の差し込まない暗所に保管されていたことが幸いしてか、褪色の具合はさほど劣悪ではなかった。
あなたは慎重な手付きで本を開き、内容に目を走らせるだろう。丁寧だが執念すら感じる手書きの文字が踊っている。
物語の内容は、所謂大人のいないネバーランドへの逃避行といったものか。とある規律の厳しい学園に通っている学童四人が、課せられた義務や制約から一時逃れ、東の最果てにある寂れた遊園地に忍び込む。既に運行を停止しているはずの廃遊園地は、子供達の目を楽しませるようにその晩再び灯りを灯し、息づいた。
子供たちは今まで抑圧されていた分、時間を忘れて遊園地で遊び惚けた。そんな彼等を叱責して縛り付けるために、遊園地へ招かれざる客である大人たちがやってくる。生きている遊園地は、子供たちを守るため、大人たちに猛威を振るった。巨大な観覧車が暴れ回り、メリーゴーランドの馬が轢き潰し、ジェットコースターの怪物が大口を開けて平らげた。
子供たちはその狂乱を大いに楽しんだが、一人は段々恐怖を覚え始める。そしてその少年はただ一人、友達を裏切って遊園地から逃れる事を選んだ。
少年はただひとり、生き延びた警官に保護されて、また学園へ戻る事になる。ついぞ遊園地から帰らなかった友達のことを何度も何度も思い返しながら──最後のページには、机とノートに向き合う少年が、窓の向こう、遥か遠くの廃遊園地を眺める挿絵で終わっている。
改めてあなたは本の表紙を確認する。『ウェストランド』の文字と楽しげな遊園地が描かれたその隅っこに、擦り切れた文字で『Charlotte』と、おそらく筆者と思しき人名が残されていた。
「これはまた……作風が変わりましたね。」
四人の学童、たった一人の裏切り者。
なんとも示唆的でグロテスクなこの文章は過去に読んだノースエンドとは全く違う書き手のように感じられた。
……が、挿絵のタッチや筆跡、書き込まれた署名からしてこの文章は同一人物が書いたのだろう。
なんだか疲れを感じる話しだが……今は一先ず置いておいて、本を鞄の中にしまい込む。
さあ、次に調べるのはこの小箱だ。
箱自体はずっしりと重たく感じる。鋼鉄製らしく、かなり頑丈な造りである。箱の外側を飾る装飾は容易に砕けても、箱自体を破壊することは並大抵のことでは叶わないと感じるだろう。
箱を少し振ると、中からは存外軽い音が響く。細くて薄い幾つかの物体が、箱の中でぶつかり合って音を立てているらしい。箱自体がそれほど大きなものではないため、中身もさほど大きなものではなさそうだ。
硬い箱の中、鍵まで念入りに施錠して、何を納めているのだろうか?
「これは……今の時点で開けられる代物ではありませんね」
せいぜいアルミ位かと思っていた小さな箱は、実際はずっしりと重い鋼鉄の箱だった。
そのくせ中身はカラカラと鳴る細くて薄いいくつかの品。
カードか何かを何枚も入れているのだろうか?
全くもって謎の箱であることを確認した彼女は今度トゥリアの方の協力を得てピッキングを試みてみよう、と決めて箱を鞄にしまってから探索に戻る。
夜はまだ遠い。
この部屋は、人間の歴史を出来る限り保管し、ドールズがヒトと接する指標と出来るようにと用意された一室だ。文化資料室と名を冠する通り、人間のさまざまな歴史や文化が資料、あるいはレプリカなどの形で保管されている。
部屋の中央には年季の入った黄金色の地球儀が置かれており、各地にどのような国があるか、どのような人種のヒトがいるのか実際に学べるようになっている。
地球儀を中心に据え、その周囲にはヒトが住まう街を模したジオラマや展示されていたり、模型の汽車が煙を上げてガラスケースの中で動き回っていたり、天井からモビールのように吊された飛行機や気球がクルクル円を描いていたり……とにかく豊富な展示品があり、眺めていて飽きない内装となっている。
また部屋の奥には無数のファイルが収められた棚があり、こちらには数多の史料が保管されているようだった。
「おや……?」
学園三階、文化資料室。
人間の歴史を記録した英知の部屋には、見慣れぬ事が起きていた。
一つ目に、何故かショーケースの中で横転した汽車。
二つ目に、何故か落ちているファイル。
大事な資料に対してなんたる扱いか、と少し憤慨しながら、彼女は先ず、何故か横転した汽車に近寄る。
ショーケースの中の物が転倒するというのは一見すれば考え難いことだが……。
様々なジオラマが展示されているショーケース。硝子製のそれに覆われたミニチュアの世界、青い山々の合間には、線路が引かれている。精巧な街が点在し、環状線を描くようにしていつも線路には列車が走っていた。
だがその列車は、いつの間にか線路を脱線して横転してしまったようだ。動力源が不明な汽車は、横倒しになってもなお動き続けている。
あなたが横転した汽車をよく観察するならば、普段は見えない汽車の裏側、回る車輪と車輪に挟まれた表面に、文字が刻まれているのを発見する。
予想するに、製造元だろうか?
──『LULLABY』、つまりは子守唄を意味する、おそらくは企業名らしきものが刻まれている。
「連邦政府研究機関に、ガーデン、謎のロゴに、今度はララバイと来ましたか……」
ここに来てまた新たな単語だ。
確かに当然の事とはいえ……トイボックスには様々な集団が関与して今の状態を維持しているらしい。
これからこんなものに立ち向かうのか……となんだかめまいのする想像をしながらジオラマから離れた彼女は、今度は落ちているファイルを手に取る。
資料室の奥には、人類の歴史が事細かに記された史料が保管されている見上げるほど大きな棚がある。そこから一冊のファイルが床に落ちているのを見つけた。誰かが落としたのだろうか?
あなたが拾い上げると、そのファイルが日毎に厳しい環境に立たされゆく人類の生活基盤を支える名高い組織や企業、それらが編み出した素晴らしい技術などを取りまとめたものらしいということが分かる。多くのものはあなた方トイボックスに住まうドールには関わりのない情報ばかりだ。
だがその中には、耳に新しい『ガーデン』と呼ばれる団体に関する記述も見られた。また、先ほどジオラマの汽車に刻印されていた『ララバイ』と呼ばれる組織についての情報も、あなたは閲覧することが出来るだろう。
あなたがファイルを開いて中身を読み込んでいたところであった。人のいない静かな文化資料室に、高らかな靴音が響き渡る。
どうやらこの部屋に用がある者がやってきたらしい。
あなたが振り返るならば、資料室の入り口には輝かしいシルバーブロンドの三つ編みを揺らす、見覚えのある好青年が立っていた。相変わらずのトゥリアらしい洗練された立ち姿で彼は室内を見渡し、そしてすぐに青い髪のあなたを見とめるだろう。
「──アメリア! やっと見つけた。お前のことを探してたんだ、……ふうん、ここで勉強してたのか? 熱心だな!」
あなたの顔見知りであり、共に芸術を追う徒であるアラジンは、にこやかに親しげにそちらへ歩み寄るだろう。
どうやらアメリアに用があった様子だが、あなたがそれを訊ねるためにこの場で立ち止まるかどうかは、自由である。
「最悪の最悪の最悪……とみるべきでしょうかね。」
連邦国家、肥大化した研究機関、何故か最先端を行く農園科。
精々人類が一通り滅んだ世界で細々と命を繋いでいる研究機関による単独犯だと想定していた彼女からすれば国家……それどころか世界規模の統一国家と相対する可能性が高い、となると彼女からすればめまいのするような大きさだった。
加えてララバイ。
物資の提供や資金提供を担い、代々レディ・ローレライと呼ばれる女性が代表となるこの組織はトイボックスと共に自分たちに立ちはだかるのだろう。
単なる脱出を考えるだけでも2個の組織を相手取って逃走劇を繰り広げなければならないのだ。
彼女からすれば今にも卒倒してしまいたい所だったが……。
どうやらそうも行かないらしい。
「アラジン様!! ……良いですか、淑女に勉強をしていたのか、などと言うのは少々はしたないのですよ!!」
背後から声をかけて来た星追い人に、彼女は努めて元気そうに。
怒った様子で言葉を返す。
……普段ならその場で悲鳴を上げて逃げ出しているだろうに、見え見えの空元気は気付かれてしまうだろうか。
ともかく、そんなことを気にする余裕もない彼女は焦りに背中を押されながら言葉を紡ぐ。
「それで、どうなさったのですか?」
アラジンはまるで気心の知れた友人に駆け寄るようにそちらへ向かっていたが、まるで警戒する猫に歯を向けられたかのような、毛を逆立てる怒りを露わにするアメリアの様子を見て愕然とする。
突然見えない壁を張られてしまったかのようだ。アラジンはあんまり驚いてピタ、と立ち止まり、唖然と目を瞬いている。
「えっ? ……え、そうなのか? ん? ……おかしいな、トゥリアクラスのホットガイ講座〜注意を払うべきセンシティブな言動編〜ではそんなこと教わらなかったけど……もしかして聞き逃したか?」
口元に握り拳を添えて、深く考え込むような姿勢を取るアラジンは至って真面目である。しかしそのすぐ後には、「ご、ゴメンな。お前の気分を害したかったわけじゃないんだけど……」と素直な謝罪を述べ立てた。
「あ、そうだった。実はアメリアに相談したいことがあったんだ。……大事なことだけど、ここではちょっと不味い。お前さえよければガーデンテラスの方に行かないか。あそこはドールが結構いて、声が反響しにくいから。」
……暗に、閑静で声が反響しやすく、誰に聞かれているかわからないこの部屋では話しにくい相談をしたい、と彼は告げていた。
「?????
えっええ、悪気が無い事は伝わりますから。構いませんよ。」
もしかしてトイボックスの教育カリキュラムは気が狂っているのだろうか?
致命的な欠陥を感じるネーミングにドン引きしながらも、本来センシティブではない言動をセンシティブ認定する狂ドールは半ば気圧された様子で謝罪を受け入れる。
「それで……ガーデンテラスですね?
分かりました。
見咎められないよう先にアメリアが向かいますから。後で落ち合いましょう。」
……が、いつまでも気圧されていては話しが進まない。
アラジンが続けた提案に対し、アメリアは一緒に行動して話し込んでいては怪しい事請け合いだから、一度別行動をして、ガーデンテラスで偶然会った体を装おう。
と提案する。
もしも受け入れられたなら、アメリアは先にガーデンテラスへと向かい、ガーデンテラス内で聞き耳を立てそうな人物が居ないかとさり気なく周囲を見渡しながらアラジンがやってくるのを待つだろう。
「流石デュオモデル、話が早いな。ありがとう、アメリア! ……それじゃあオレはここで『用事』をこなしてから行く。あっちで先に待っててくれ。」
こちらの意図を差異なく理解してくれる彼女の聡明さに甚く感謝する。どうも忙しそうに調べ物をしていたように見えたのに、時間を作ってくれると快い返事をもらえたことにアラジンは嬉しそうに笑い掛けた。
彼もあなたの提案に乗り、資料室で何かの用事をこなすふりをしてから向かうことにしたようだ。
あなたは資料をそれとなく検分し始めるアラジンを背に、ガーデンテラスへ向かうだろう。
あなたは硝子扉に近づいていく。その際にあなたの瞼を抜けて虹彩を焼くのは、扉から差し込んでくるまばゆい太陽の光だ。
学園内は窓からの採光がなく薄暗い様子であるのと一転し、ガーデンテラスだけは明るく長閑に造られている。ヒトらしい心を持つあなた方にとって、陽光は心を癒す重要な要素だ。
故にこそ日中は勉学に励むドールズの唯一の憩いの場となっているのだろう。
楽園のような光さす箱庭の奥へと進んでいくあなたは、周囲のドールが各々のグループ内での談笑に夢中になっていることを確認出来る。秘密の対談に聞き耳を立てるような様子でいるドールは見掛けない事だろう。
あなたが暫しその場で待機していると、やがてガーデンテラスの扉がもう一度開かれて、透き通るスターサファイアを彫り込んで作ったような三つ編みを揺らす青年がやってくる。
「アメリア、こんな所にいたんだな。普段はあんまり見掛けないからな、会えて嬉しいぜ。」
彼はひらりと手を振って、親しい友人へ掛ける声色で話し掛けてくるだろう。
そうしてあなた方は、あまりドールズの溜まり場に近づき過ぎない、窓に近い一席をとって向かい合うことになる。
「さて……相談についてなんだが、アメリア。オレはあの日、お前からこの学園の構造について知らされた後、色んなことを知った。教えてもらった、が正しいんだけどな……。
──ソフィアに会ったか? アイツから重要な話を聞かなかったか?」
アラジンはまず、あなたの認識状況を確認したいらしい。どこまで知っているのかということを、遠回しに確認しようとしているのだ。
「ええ、そういえば最近は芸術クラブにも行けて居ませんでしたから。
お久しぶりです。」
ガーデンテラスにやった来たアラジンに、小さく微笑みを浮かべて挨拶を返す。
さっき会ったばかりだと言うのに、この言いぐさはなんとも白々しいものだ。
「ソフィア様には会っておりますが……重要な話は聞いておりませんね。
会った時にはリヒト様から一通り聞いていましたから。
それで、その情報に疑問か……或いは何かやりたい事があったのですか?」
……が、隠し通すならそれくらいの演技も必要というものだ。
ともかく、アラジンの問いに対してアメリアは、恐らく話そうとしている事は知っているが、ソフィアからは聞いていない。
と返す。
事実彼女とはそれなりに長い期間仲違いをしていたのだから仕方ないというものだが……それは今は関係ないことだろう。
と考えてアメリアはアラジンに話の続きを促す。
彼はあなたの返事に順当に相槌を打つ。一通り、というのが未だどの程度かは分からないが……その点については確認していけばいいだろう。
個人名を耳にして、アラジンの脳内にはすぐに該当する人物の顔が浮かぶ。明るく飛び跳ねる髪を揺らすテーセラモデルらしい元気なデザインである傍ら、どこか元気が無さそうに見えたのが気がかりだった、あの少年。
「そっか、リヒト……はあいつか。オレもこの間会ったんだ、開かずの扉を調査してる時に。」
開かずの扉、と語る時、彼は僅かに息を潜めた。あなたにしか聞こえないような、秘された小声で。
「……アメリアはさ、あれからこのトイボックスについてどんなことが分かった?
お披露目で何が起きているかについては……聞いてるか?」
一番重要な質問を投げ掛ける。
もし彼女がそこまで知っているのなら、かなり込み入った相談が出来る。だがもしまだ聞かされていないのならば、真実を突然知らせる権利は自分にはないと考えていた。
自らが暮らす環境ががらりと豹変する。これは大変デリケートな話題であるとアラジンも理解しているため、慎重になっているのだった。きっと聡明な彼女ならば、この手探りにも理解を示してくれるだろう。
「ええ、勿論。
位置すら隠していた辺りから碌な内容ではないと踏んでおりましたが。
案の定でしたね。」
アラジンのどうも探り探りに見える話し方に、そんなにも重要な事だったらもっと人の居ない場所を指摘するべきだったろうか……。
と考えながら返事を返す。
……が、今それを言っても仕方がない。
「恐らくアメリア達はどこかの研究機関に居た事。
その研究機関は『ガーデン』というらしいこと。
『ガーデン』という機関は連邦国家と呼ばれる巨大な国家の一部である事。
『ララバイ』という組織がトイボックスに協力している事。
二種類の怪物が居る事。
過去から現在にかけてなにがしかの実験が継続中であり、私たちがその被検体であること。
あの後追加で知ったことと言えばここらへんでしょうか」
一先ず追加で分かったことを伝えるべく、声を落としながら一つずつ語る。
星追いの彼は……今度は何処をめざすのだろうか。
「ああ、もう知ってたんだな、良かった……へへ、本当はもうアメリアなら大体のことは知ってるんじゃねえかとは思ってたんだけどな。予想通りだ。」
元々、彼女は自力でこの学園が地下にあることを突き止めていた程に知的探究心が旺盛であり、情報収集能力もある。自分とは別の方向から、別のアプローチで情報を得ているのではないかと疑ってはいた。
なんとも話が早いことである。彼女は次々と自分が知り得た情報をこちらへ伝えてくれる。アラジンはそれらを真剣な顔で聞いていた。
「連邦……国家か。お前がさっき読んでた資料の内容だよな、オレも気になってさっき読んできたんだ。オレ達が自由を手にするには、かなり高いハードルを越えないとならないらしいな。
でも、このトイボックスという組織が後ろ盾にどんな強力な存在を従えていようと……何よりまずはこの深海から抜け出さない事には、何をすることも出来ないと思う。
だからオレは開かずの扉のことを調べてたんだ、それで分かったことをオレも共有しようと思う。」
アラジンはノートを開き、万が一にも他人の耳に入ってはまずい事柄については筆記することで彼女に情報を共有し始める。
「まず、開かずの扉っていうのはこの学園の北端に位置する階段、それも二階と三階の踊り場にある。
普段は閉ざされているが、入り口までなら近くの薔薇が飾られたハイテーブルの下に隠されたボタンがあって、そこを作動させると扉が開くようになってるらしい。
こうしてドールの目にも、それから顧客の目にも入らない位置にあるこの扉は、裏口になってるんだと思う。その先はドールの廃棄、及び資材搬入、……それからドールの製造といった、ドールの目に入れなくてもいい作業を行うための場所なんだ。
オレはこの資材搬入口に目を付けてる。外から物資が運ばれてくるんだ、絶対に外に繋がってるはずだ。……まあそもそも資材搬入口があるかどうかも推測の域を出ないけど、化け物が出てくるであろうダンスホールのあの扉よりは希望がありそうだろ?」
ここまで語ったアラジンは一つ息を吐くと、剣呑な顔で面を伏せる。
「どうにかこの開かずの扉の先に侵入したい。入り口までは行けても、その先は塞がれていて無理だったんだ。
多分……開かずの扉に居る黒い化け物のせいだ。アイツがあそこを管理してるんだ、──『第三の壁の監視者』だ。
もし開かずの扉の先を調べるなら、奴をどうにかしないといけないと思う。」
「ふむ、そんな所に……。
それで、侵入したいというのはまあ……良いでしょう。リスクは高いですがいずれ行かなければならない場所です。」
どうやら彼は既に開かずの扉の先に侵入したらしい。
侵入する手段が分からないからとリヒトからの報告だけで一先ず保留にしていた彼女だったが、意外にも出入り口の鍵は直ぐ近くにあったようだ。
「出来る事なら調べておくべきでしたね……」と少し後悔を抱いたが、そんなことを知ってか知らずか、アラジンはなんと大胆にも開かずの扉の更に先に行きたいらしい。
「ですが、侵入するのなら黒い化け物……リヒト様の報告から仮定して……仮にハネアリと呼びましょうか。
ハネアリの対策と、塞がれていた道を越える手段。
最低でもこの二つはないと不可能ですよ?」
それにはアメリアも反対する。
なんたって手段が不明瞭過ぎるのだ。
塞がれていた先に行きたい、と言ってもどうやって越えるのか。
監視者の目からどう逃れるのか。
では一時逃れた所でどうやって帰ってくるつもりなのか。
その先で何をしたいのか。
彼女からすれば聞きたいことは両手の数では足りない程にあったが、一先ず、最低限実行出来るかどうかだけを問う事にする。
ドールが本来立ち入ることは許されない場所。その場へ立ち入る危険性を指摘するアメリアの言葉に、彼は神妙な面持ちで頷いた。危険だというのは承知の上なのだろう。
「リスクがあるのは分かってる。オレ達じゃ化け物……そうだな、お前の呼称を借りて、ハネアリには敵わないってことも理解してるつもりだ。
でも、危険だからって何もしないままでいたら、ずるずると犠牲が増えていくだけだ。現に今だってお披露目の時期は刻一刻と迫ってる。そこでいつ、オレやお前が選ばれるか分からない。そして、脱出の手段も整っていない現段階じゃ、選ばれた時点で一巻の終わりだ……そうだろ?」
──あなたはその言葉に心当たりがあるはずだ。
以前のお披露目によって、アストレアはこの学園を去った。きっともう生きてはいまい。彼女はお披露目の実態も、ドールに降りかかる危険も全て理解していた。だがトイボックスから逃げ出す算段が整っていなかったが為に、全てを知りながらも犠牲になるしか道はなかったのだ。
「勿論みすみすやられるつもりはない。その為にお前と相談がしたかったんだ。
聞いてくれ。オレは毎晩、19時に学園が閉め切られるギリギリまで、芸術活動と称してこの場所に留まってる。
それで分かったんだ。ハネアリは夜間、時折『こっち側』にやってくることがある。何故かは分からないけど、オレはその姿を何度か見かけたから知ってるんだ。」
アラジンはペンを取り、ノートにざくざくと迷いのない筆の運びで絵を描き始める。
それは虫を模したような黒く、冷たそうな外骨格を持つ、巨大な異形の化け物である。貌の無い頭部からは触覚、四肢のような部位の先には鋭利な爪、そして背中からは半透明の羽根が生え出ている。
「夜間、学園に残っているドールを怖がらせて、さっさと帰らせる為に巡回でもしてるのかも知れない。正直言って理由は不明だけど、これは敵を知るチャンスだと思う。
アメリア、一緒に19時前後、学園に残って……怪物の動向を調べてみないか? 勿論危険だから、無理強いは出来ないけどな……」
少なくとも、オレはやるつもりだ。
と、そう述べるアラジンの決意は固そうだ。
「ええ、それは事実です。
加えて突入する訳ではなく動向を調査するだけなら有効な手でしょう。
ですが、その作戦にも一つ問題があります。
先生の目をどう誤魔化すか。」
リスクがあるのは分かっていて、けれど早く結果を出さなければならないと焦っている。
なんとも理解できる感情で、彼女もまたそれを否定するつもりはない。
だからこそ続いた提案には賛同するが……一つ、乗り越えなければならない問題がある。
「具体的には夕食時と、寝る直前。
寝ている間に先生がどれほど確認しているかは分からないので今回は省きますが……。
夕食の時も、寝る時も居ないと知られれば何か言い訳が無い限り確実に怪しまれます。
それでしたら、まだどうにかしてベッドから抜け出して身代わりを置いて学園に侵入する。
の方がまだ可能性があるでしょう。」
そう、先生は誰が居て誰が居ないのかを容易に確認することが出来る。
そうやって確認されてしまえば一巻の終わりだ。
確実に怪しまれるだろう。
「……確かにそれは考えておかないと不味いな。」
彼女は常に冷静沈着。アラジンの大胆で思い切りが良いものの短絡的であり、迂闊さを感じられる提案に対し、鋭く問題点を指摘してくれる。
彼は彼女の聡明さに甚く感謝した。アメリアを実行に際する相談役に選んでよかったと心から思った。この作戦、これまでのように自分一人だけが独断専行で押し切ることも無論出来た。
それでも無理を通さずに、念には念を押して、信頼出来る同志に話を持ちかけたことは正解だったようだ。彼女は作戦における相談相手として、これ以上なく光り輝く。
「一応、規則では19時まで学園に残ることは問題ないことになっている。19時までなら万が一先生にバレても誤魔化しが効くだろう、オレがいつも芸術活動の言い訳に使ってるからな。
でもより詳しくハネアリの動向を知る為には、19時までの時間制限がかなりネックだな……でもだからと言って身代わりを用意するのは時間的にも材料的にも難しいと思う。
他に何か案は無いか? 頼ってしまって悪いんだが……お前の考えを聞かせてほしい。」
「結局、学園が閉められる時間になったら彼らが出てくるかもしれない訳ですから……。
一目見て終わり、になる可能性が高そうですね。」
19時まではごまかせる。
というアラジンの言葉に彼女は考え込む。
短いチャンスをモノに出来るかと聞かれると……恐らくそうは行かない。
実際には幾度も挑戦する事になるだろう。
しかもそれでは詳しい動向は把握しきれない可能性がごく高い。
「では、………としましょう。
それなら言い訳も出来ますし、時間も確保出来ます。
これでどうですか?」
では、これならばどうだろう。
と今度は絶対に誰にも聞こえないように、アラジンの耳元で囁く。
子供が思いついた悪戯に誘うように。
アラジンは頷いて、こちらに耳打ちする彼女の言葉に耳を傾ける。アメリアの提案──それを受けて少し思案したあと、顔を上げてみれば。
彼女は普段のおとなしい姿とは一転、どこか秘密を共有する悪戯っぽい顔をして、こちらを見ているので。
アラジンもまた、どこか楽しそうな表情で口角を釣り上げるのだった。
「なるほど……アハハ、名案だな! そうすれば先生の事はひとまず考えずに怪物の調査に集中出来そうだ。
やっぱりお前に相談して良かったよ。……ただ、やっぱり実際に調査をすることになると危険が付き纏うと思う。
オレは出来れば、頭のいいお前にハネアリの調査、同行して欲しいんだが……同時に何かあったとき、お前が犠牲になってほしくないとも思う。」
彼はあなたの提案を受け入れた。これならば随分安定した状態で、怪物にだけ注力出来ると。
後は実行に際し、アメリアの意思確認を行うだけだ。
「──アメリア。危険を承知で、オレと一緒に来てくれるか?」
「……アメリアの命の責任はアメリアが持ちます。
生かすのも殺すのも、決めるのはアメリア自身です。」
作戦が決まり、これからする事が決まった所で、問いかけられたのはアメリアの意思。
犠牲になって欲しくない。
なんとも憐憫に満ちた、高慢で、暖かで、どこまでも優しい。
そんな言葉に対して、アメリアは明確に否を突きつける。
なんたって、アメリアはただ守られる者ではない。
「それは、アラジン様でも同じです。」
だからといって、アメリアは誰かを一方的に守る者でもない。
「ですから、既に計算したリスクでアメリアが止まる訳がないでしょう。
明日の夜、カフェテリアで待っていますよ。」
ただ共に歩く者だ。
彼女の声色にも、その瞳にすら。リスクをリスクとして恐れ、忌避するような感情は見られなかった。そこに在るのは何としてでも成果を上げ、互いの目的に一歩でも近付いてみせるという固い意志だったのだろう。
アラジンはどこか安堵したように眦を緩めて、一つ息を吐いた。この意志確認が不必要なものだったとは思わない。だがきっと、彼女にとっては愚問だったのだろうとも思う。
同志である彼女を失いたくないのは事実だ。だが遥かなる目標を追う道中で、その行動を妨げる権限を持つのは、自分以外の誰にも存在しないのだ。アラジンには彼女の道を塞ぐ権利はないし、彼女にもそんな権限はない。
出来る事があるならば、時折交差するその道程で、互いの手を貸すことだけだ。
「……ごめんな、本当はお前がYESって言ってくれることを期待してたんだ。お前は、オレと一緒に夢を見てくれる芸術の同志だから。
よし。それじゃあ、決まりだな。先生に見咎められるまではだが……もしかすると根気強く粘る必要があるかもしれない。アメリア、一緒に頑張ろうな。」
アラジンはふっと微笑を浮かべた。普段の活力にみなぎったものではない、こぼれ落ちたような笑顔である。
こうしてあなたと約束を取り付けたアラジンは、特段それ以上に話すべき事がなければ場を解散させるだろう。
来たる日に備えて。
「さて、今のうちに下見をしておきましょうか」
アラジンとの密会を終えて、ガーデンテラスに残った彼女は学園内の調査を続行する。
あの怪物を追いかけるのだ、地の利はどれだけあっても足りない位だろう。
先ずはガーデンテラス。調査はカフェテリアで始めるとはいえ、逃げ込むのならここも選択肢の一つだ。
見つかってから逃げられるかはさておいて、アメリアは一先ず部屋の中を見渡す事にする。
球形の天井からは、麗かな春の日差しが降り注ぐ。先ほど寮でも見た晴天が、一面に大きく広がっていた。
陽光を浴びて、テラスに敷き詰められた芝地と花壇に植わった可愛らしい花が瑞々しく咲き誇っている。ちらほらと点在する真っ白なガーデンテーブルと椅子では、優雅にお茶会をするドールズの姿も見られた。
一通り見て回るも、特段気に留まるようなところはなさそうに見えた。
逃げ場としては、開放感がありすぎて遮蔽物らしきものもなく、いざという時の隠れ場所にはなり得ないといった所感を覚えるだろう。
「変化は無し、隠れるには……少々開け過ぎていますね。」
一通り見て回ったが、やはりこの部屋は開け過ぎていた。
まあ開放的な場所なのだから当然と言えば当然なのだが……。
一先ずは良し、ここに逃げ込んで誰かけが人でも出る、という可能性を潰せたのだから。
また一歩安全な探検に近付いたとも言えるだろう。
そんな感慨と達成感を抱きながら、アメリアは次の部屋へと向かう。
たどり着いたカフェテリアは、時間帯が影響してか珍しく閑古鳥が鳴いて、人気がまるで無かった。いつも活気で賑わっているカフェテリアが静かというのは、少し慣れないものがあろう。
一帯の広間の奥には、寮ほどの設備や少量の備蓄はないものの、簡易的なキッチンも存在しており、ドールズはこちらの区画で飲み物を用意して、授業後のコーヒーブレイクをおこなっていることが多かった。
カフェテリアは見渡す限り片付けも清掃も行き届いており、特筆すべき手掛かりなどは見当たらない。開けている為隠れ場所にも適さないように見えるだろう。キッチンスペースの方は壁に覆われて死角になっているが、袋小路なので咄嗟に逃げ込む場所としては悪手と思えるはずだ。
「やはり逃げ場としては良くないですし……。
気になる場所も無さそうですね。」
カフェテリアの様子を見て、一つの結論を下す。
合流したら出来るだけ早く三階は離れてしまおう……と。
どうもこの階は逃げ隠れにはあまり適して居なさそうだ。
「……一先ず、学園内はこれで見終わりましたし。
今日の所は寮に帰る事にしましょうか。」
そうして、寮の中を見終わった彼女は独り言をつぶやいて寮へと帰っていく。
後日、そもそもアラジンとカフェテリアで合流しようと約束するのを忘れてガーデンテラスに迎えに行く事になるのは……また別の話。