Sophia

「──ウェンディ!」

 軽い足音と共に。鈴のような高らかな声は、こだました。棺の立ち並ぶこの牢獄の一室に。

 それは。黒く艷めくベールから、アメジストがこちらを覗くような、きらきらとした少女だった。少なくとも、己の前頭葉には、そう刻まれていたのだ。
 ところがどうだろう。今日の彼女──ウェンディは、朝の日差しに痛々しく灼かれ、荼毘に付される前の屍のように、瞳には昏く影が落ちていた。何かあったのだろう、ということは、彼女を知る者としてすぐに察せられた。

 ……戻ってこない親友。
 魂の抜け殻のようになってしまった乙女。

 出るはずだったお披露目。

 ……猛烈に、嫌な予感がしていた。
 目標とする黒いベールを見つける事が出来れば、すぐに近づいて行って、「何があったの?」なんて問うだろう。

【学生寮2F 少女たちの部屋】

Wendy
Sophia

 あなた方が今朝も目覚めたばかりの寝室は、現在は多くのドールが出払っている為、静まり返っている。数々の棺がひしめくこの空間は傍目に見ると異常ながら、生まれた時から連れ添ってきた憩いの場でもあるため、皆が不思議な安息を覚えるような部屋だった。

 柔らかな絨毯を踏み締めて棺の合間を通り過ぎれば、部屋の奥、陽の光が届かない薄暗い場所で、まるで喪に服したような黒髪を下ろす少女の姿を見つけることが出来る。

 彼女は自身にあてがわれた空の棺に腰掛けて、虚ろなる眼差しを壁に向けていた。しかし時折顔を伏せて、自身の左腕を縋るように優しくさするのである。

 背後から歩み寄るあなたを拒絶することもないが、歓迎している様子でもなかった。
 しかし彼女はゆっくりと振り返って、プリマドールであるあなたに失礼のないよう会釈をしてくれた。

「……ご機嫌よう、ソフィア様。お会い出来て光栄です。」

 今日初めて口を開いたウェンディの声は暗く落ち沈んでいた。かつてあなたが見た時の彼女はもはや見る影もない。

「何が……というのは、お披露目のこと、でございますね。……わたくし、お恥ずかしながら、お披露目に行けなくなってしまいましたの。

 アストレア様に……救っていただいたのです。」

 救っていただいた。うつくしい言葉だ。その声に、生気はまるでなかったけれど。
 ああ、そっか。アストレアは。ウェンディは。そういうこと、だったのね。
 心臓を切り裂かれた苦しみを堪えるごとく、アクアマリンはひしゃげていた。が、直ぐにそれは、正常な形を取り戻すだろう。

「…………。ウェンディ。その腕、見せてくれる。」

 我が子を撫でるように、あなたがゆっくりとさすっている左腕を指さした。その声は、酷く落ち着き払っている。静かで、ほんとうに静かで。深海の鼓動のような音であった。
 ふわりとウェンディの隣に腰かければ、喪に服したヴァイオレットを覗き込む。

 どこで、そんな表情ができるようになったのか。
 言葉を持つのだから、言葉を交わそうと。そう、語りかけるような目であった。

「……ええ、勿論。」

 庇うように、慈しむように、腫れ物に触るように、苛むように──ウェンディが自身の左腕をさする手つきは複雑怪奇な様々な感情が入り組んでいるように思えた。指先は覚束なく、微かに揺らめきながら不規律に撫で下ろし続けていた。
 あなたが求めるならば、ウェンディはさして抵抗する事もなく、自身の赤い制服の柔らかな袖をぐい、と捲り上げるだろう。

 白皙の肌には、清潔な包帯が巻かれていた。手首から肘に掛けてまで、かなり広範囲に。
 ウェンディは憂う眼差しを落としながらテーピングされていた包帯を巻き取っていく。

 その下から現れたのは、まだ新しい一筋の赤い線だ。
 基本的に怪我をすることが許されないドールにとっては致命的な切創は、彼女の肌に禍根を深く遺している。

 ──ナイフで切りつけた痕だというのは、すぐに分かったことだろう。

「……わたくし。お披露目のことを聞いていましたの。ですから、アストレア様をどうにか、破滅の未来から救って差し上げたかった。

 なのにわたくしは……失敗したのです。

 挙げ句、アストレア様の手を汚させてしまった。あの人は、わたくしを救ってくれたのに……わたくしはついぞ、何も……何一つ……!」

 ウェンディは次第に声を震わせて、その手で顔を覆い込んだ。あなたの目に映った痛ましい傷のように、彼女が昨晩背負った業は深く、重いものだったのだろう。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ソフィア様……アストレア様を、行かせてしまって……死なせて、しまって……ごめんなさい……!」

 涙の滲む声で、ウェンディはどこにも行けない嘆きを溢す。あなたに懺悔を重ねながら、次第に項垂れていく。
 彼女の黒い髪の隙間から、透き通った無色透明の雫が落ちているのが見えるだろう。

「…………ウェンディ。」

 あなたの姿を影が覆った。
 いいや、違う。
 覆っているのは、小さなソフィアの体だ。

「……ナイフはね。あたしが渡したものなの。ドレスを破きでもすれば、ひょっとしたら……なんとかなるかもしれないから、って。

 でも、そんな不確定な行いをするよりも、確実にあなたを助けることを、アストレアは選んだのね。」

 少女にしては高いウェンディの背は、今は子猫のように小さく震えているように見えた。抱擁して、包んでいるのは、それよりも小さな少女の身体だ。緩やかな拘束は、決してきつくはなく、ふんわりとした感触のみがそこにある。
 あたしがもしも王子様だったら、もっと簡単にあなたの涙を止められたのかな。
 けれど不器用な少女には、こうして少しでも体温を分け与えることしかできなかったのだ。

「謝らないで。謝らないで、ウェンディ。あなたに罪なんてない。謝ることなんて何一つない。アストレアだって、あなたを泣かせる為に傷つけたんじゃない。
 ……女の子を簡単に見捨てる王子様に、誰も夢を見はしないでしょう? だから自分を責めないで、ウェンディ。あなたを守ることが、アストレアの──王子様の選択だったの。」

 ゆっくり。静かに。あなたの身体を抱えたまま、ソフィアは語らう。物語を紡ぐように、やさしく。あたしに白馬は似合わないから、こんな言葉で足りるかどうかは、わからないけれど。それでも、あなたの涙を見ているのは嫌だったから。

「──ウェンディ、あなたが戻ってきてくれて、生きていてくれて……本当によかった。

 ありがとう。」

 その小さな身体で、ウェンディの身体をめいっぱいに抱擁するソフィア。その言葉も、言動も、現実に打ち拉がれているウェンディからすれば、信じられないほど強くて頼もしいものに感じられた。

 同時に情けない、とも思ってしまう。
 ドールの年齢設計など、個々の製造年数に差異があるこの学園では何の意味も持たない。それでも自分より幼く設計された彼女が、自分よりよほどアストレアと親交があり、慕っていたであろうと想像出来る彼女が、ウェンディを優しく慰めていること。……気を遣わせてしまったことを、ウェンディは恥じた。

 それでも優しい言葉と、受容の台詞に、ウェンディの瞳からはとめどなくクリスタルの欠片がこぼれ落ちていく。

「……ごめんなさい、ソフィア様。アストレア様を救う為に用意してくださった策、でしたのに……

 わたくし、あなたやこのクラスの皆様に、顔向けが出来ません。何をしてもお詫びしようと覚悟の上でしたのに、そんな優しいことを、言わないで……ソフィア様……」

 やがて彼女は、今だけはとあなたの温もりに縋ることにしたらしい。その背に腕を回して、しゃくり上げるようにして静かに嗚咽を溢しながら、夢の向こう側へ消えてしまった王子を悼む、沈黙の時間を過ごすだろう。

 やがて、ウェンディは光るものがある目元を人差し指で拭いながら、あなたから身体を離す。
 アメジストの双眸はいまだに翳りが見られたが、葬儀の日の曇天の空のような悲哀は僅かに拭われたようだ。彼女は真剣な顔であなたに向き直る。

「……あなたが赦してくださっても、アストレア様に刃を向けたことも、アストレア様を救えなかったことも、現実には変わりありません。

 ですからせめて、わたくしにささやかながら……皆様のお力添えをさせてくださいまし。きっとそれを、あのお方も望んでいると思いますから。」

「……初めてあの子のお披露目の話を聞いた時から──いいえ、お披露目の真実を知った時から。あたしも、あの子も、覚悟はしてた。あそこには絶望しかないってわかってたから……。
 でも、今回は一人助かった子がいた。それって、素晴らしいことよ。あなたが助かった事は、大きな進歩なの。

 ……むしろ、詫びるべきはあたしの方。最悪の事態だって想定して動くべきだった。……もしかしたら、もっと打てる手が、対策があったかもしれないのに。愚かだった。ごめんね、ウェンディ……」

 年頃の少女相応に、幼くすすり泣くウェンディの背中を、そっと撫でる。人に寄り添う事に秀でたモデルでない故か、その手つきはどこか不器用だ。けれどもきっと、温かさを伝えるには充分だろう。

 やがて。一分にも十分にも思えるような曖昧な沈黙を経て、お互いの身体は離れゆく。その瞳を見るに、すこしは暗雲が晴らせたのだろう。そうして、真剣な面持ちのウェンディに微笑みを向けたまま……その意思に、静かに耳を傾けた。
 そして。


「……力添え、ね。」

 ふむ、と顎に手を添え、唸るように思案する。ほんの少しの沈黙ののち、重く口を開いて、あなたに問うた。

「……あたしには、一つ目標があるの。それは、このトイボックスをみんなと一緒に抜け出すこと。もう二度と、ドールが無惨に殺されるなんてことが、ないように。仲間を失わないように。
 その為には、あなたにも協力してもらいたいの。そうなるときっと、沢山怖い思いをするし、精神をすり減らすことになる。それに、トイボックスの闇をさらに知ってもらうことにもなるし、先生のことも信用出来なくなるけれど。
 それでも、あたしと一緒に戦ってくれる?」

 全ての責任を背負い込んで、深刻な表情で懺悔をするあなたの、なんと痛ましいことだろうか。親友を喪ったというのに、彼女はそれでもウェンディを支えて立ち、錆び付いた刃を振るおうとしている。戦いの決意とは、かくも高潔なるものであろうか。

 ウェンディは、ただ崖っぷちに立ち尽くしていた。絶望が満たす黒い海を見詰めて、何も出来ないでいた。不意にその海から、傷つき息絶えた愛しの彼女が浮かび上がってくるのではないかと。その目がこちらを睨むのではないかと、恐ろしくて不安で、悲しくて動けなくなっていた。
 きっと彼女の失意は、己のそれの比ではないだろうに。アストレアが自分を生かしてくれた意味を、咀嚼して、この命を、彼女達のために使わなければならない──ウェンディは使命感を胸にきざした。

「……嫌な現実に立ち向かわなければならないのは、承知の上です。いつまでも子供のまま、甘いおとぎの世界に浸ってはいられないと……とうに思い知らされました。

 きっとこの痛みは、わたくしが……私が、大人になる為のものなのでしょう。アストレア様に救っていただいたこの命で、出来ることがあるのなら。
 私は微力ながら、あなたに協力します、ソフィア様。どうかご一緒させてくださいまし。」

 ウェンディは袖を戻して傷口を隠すと、あなたの輝くブルースフィアを見据えて、アメジストを瞬かせた。
 その瞳にはまだ憂いも、葛藤も残っていた。だが決意は固いであろうと悟るだろう。

「……ええ、ええ。あなたが味方でいてくれるなら、とても心強いわ。本当に、ありがとう……ウェンディ。」

 固い意思を、決意を、瞳に灯して。アメジストは柔く光る。
 なんとも不思議だ。大切なあなたを巻き込むというのに、こんなにも心が安らいでいくのだから。……それは。まさしく、太陽が消えた日を境に忘れてしまった、遠くて近い昔の温かみであった。荷物を分かち合うというのは、芸術というのは、こんなにも心を支えうるものなのか。

 ソフィアは、ゆっくり微笑む。
 玻璃の石の静謐をたたえて。

「それじゃあ、……あなたに話さないといけないことが沢山あるの。既に知っている事もあるでしょうけど、伝えさせてね。
 まず──」

 そうして。たんたんと、静かに語る。眠る棺に囲まれた二人だけの霊安室に、招かれざる客の気配がしない限りは、今まで手に入れた情報の顛末を語り終えてしまうだろう。
 ドールズに幸せなどありはしないことも。この牢獄が深海の底に沈んでいることも。全て。
 目の前の少女がどんな顔をしようと、その言葉も、事実も変えられはしないのだ。

 あなたが、己の知ることを語ってくれること。現状を詳らかにしてくれることは、きっとトイボックスで足掻くための仲間として認めてもらえたということなのだろう。
 あなたの双眸が鋭く切り付けるように、力強い輝きを放つのをウェンディも見つめ返して、僅かに表情を引き締めた。きっと彼女の口から齎されるのは、あの衝撃と絶望なのだろう。それでもウェンディは、何があろうと受け止めると心に決めた。
 アストレアが己を生かしてくれた意味を、世界と、真実に、問い続ける為に。

 ──そして、あなたから聞き受けたのは、運命の夜、窮乏に陥った折に、アストレアから聞かされていたことの答え合わせのようであっただろう。

「……お披露目。スクラップ。このトイボックスが……海の底に。

 そう、だったのですね……ああ、私たちはもう、生まれた時から、井の中の蛙だったのね。外の世界を見る事なく、深海で、陽の光も浴びられず、ただ、弄ばれるだけに……アストレア様は……」

 ウェンディは顔を伏せて、膝に乗せた拳を固く握りしめた。力を込めすぎるあまりに、震えが生じる。暗い絶望と、活力に転じる怒りである。ウェンディは伏せた瞼の裏で、義憤を募らせていた。
 奇しくもその怒りが、彼女を絶望で圧し潰す事はなかったらしい。

「……お話は、概ね理解いたしました。私がなすべきこと。それはきっとこの安寧を崩さぬことでしょう。

 何も知らぬふりをして、秘密裏に皆さんに協力致します。先生方にもう、襤褸は出さぬように……何かお手伝い出来ることがございましたら、いつでもお声がけくださいね、ソフィア様。」

 そして彼女は、己のすべきことも理解した。少しも悟られてはならないこと、いつも通りを演じること。制御下にあるうちは、何事もないのであろうから。
 ウェンディはあなたの手に手を重ね、重く告げる。どんなことでも手を貸してみせるという意思表示であった。

 かの夢追い人のごとく、ウェンディもまた、この牢獄が闇の底に沈みきっていることを知ってもなお、意志は強く燃ゆる。その事実が、どんなことよりもソフィアを安堵させ、勇気づけた。嗚呼……もっと早く、こうするべきだったのだろう。オミクロンの仲間たちとも。

「……うん、ありがとう。もちろん、あなたも何かあったらあたしを頼ってね、ウェンディ。仲間、なんだもの。」

 未だ、絶望の影は肩にのしかかったままだ。それでも、笑った。くしゃりと、幸福そうな表情で。前を向いていなければならないのだから。きっと、そうでなくては親友も浮かばれない。

 そうして仲間との意思疎通の時を終えれば、ソフィアはそっと立ち上がる。そう。今のソフィアには、どうしてもやらなくてはならない事があるのだ。

「さて……と、それじゃああたしは用事があるから──」

 そう、大切な用事が。

 用事、が。

「……………………………………」

 ソフィアは、立ち上がって一歩を踏み出して──そのまま部屋を出ることなく、その場にへたりこんでしまう。ゆるゆると、空気が抜けてしぼむような動きであった。

「……そ。ソフィアさん、だ、って……………ロゼ、っ……ううぅ……………」

 …………まるで訳がわからないだろう。ソフィアにとっての用事とは、簡単に言えば仲直りと言うやつなのだが……どうやら過去の記憶の古傷が今になって開いたらしい。当然そんな事を知る由もないウェンディからしたらいい迷惑だろうが、今のソフィアにそれを気にする余裕がないのは明白で。キノコでも栽培できるのではなかろうか、という程に、瞬く間に影を背負ってしまった。

「…………あたしって本当にやっていけるのかしら………………」

 ──ウェンディは、つい先日までオミクロンクラスのドールを内心では見下していた。ドールの存在意義とは、品行方正に真っ当に成績を修め、素晴らしい主人に貰い受けていただく他ないと、そんな強迫観念じみた使命感を彼女は帯びていたからだ。オミクロンのドールはそんなドールの最大幸福を受け取ることが叶わなかった、哀れな存在なのだと見放していた。
 だがそんなトイボックスとこの世界には、ヒトの為に努力するドールへの見返りは存在しなかった。

 ──ドールは幸せになどなれない。

 そんな言葉が重く伸し掛かる頃には、ウェンディが何より大切にしていた心の拠り所たるあの王子様は、手の届かない場所へ行ってしまっていて。

 彼女は幼稚だった昔よりも、夢から覚めた今の方が視野も広くなった。世界を色眼鏡で見ることがなくなった。
 仲間と呼んで受け入れてくれる彼女の高潔さを受け入れて、ウェンディは自身も変わらねばなるまいと志を新たにする──しようとした、のだが。

「……そ、ソフィア様?」

 立ち去ろうとする貴女の体が、突然に力無く崩れてしまう様を見て、ウェンディは困惑しながら棺より立ち上がる。まるで萎れた花から花弁のひとひらが儚く散りゆくような、あまりにもか弱い挙動に、彼女は案ずるようにあなたの傍に膝をついて、その背を支えようとする。

「と、突然どうなさったの、ソフィア様。わたくしにはお話がよく分からなくて。これからについてお困りの事があるのですか?

 わたくしに相談出来ることなら、なんなりと。お力になれるかは分かりませんが……その……せ、精一杯頑張りますわ。」

 絶望を孕む黒い影が重くのしかかった小さな背に、やわく手が添えられる。そのごく小さな衝撃をきっかけにして、ゆらりと亡霊のような挙動でウェンディへと向き直った。
 その瞳には、ある種の、焦燥にも似たような激情がぐるぐると渦を巻いているのが分かるだろう。

「あの……実は……ね。クラスの子とケンカしちゃってえ……あたしが悪いんだけどね、その……。
 その子、お姉ちゃんって呼んでくれてたのに。……ソフィア〝さん〟って……………」

 …………。か細い声でそんな事を語るソフィアの顔は、終末に怯える哀れな民のごとく歪んでいる。人間のそれと同様に、豊かな情緒を持ち合わせるドールズの感性とは様々で、ドールにはドールの笑いのツボや傷つくポイントなどがあるのだ。どんなドールにも個体差が存在するもので、全く同一の完成を持つ者など存在しない。……つまりは。しょうもな──可愛らしい問題で悩むこの少女を嗤う権利は、なんびとにも与えられはしないのである。

 ……そこまで話したところで、途端にソフィアの唇はわなわなと震え出す。次の言葉を紡ぐのを、過剰に恐れているようであった。

「……あ、あ……あた……ど、どうしよう。あたし……あの子に嫌われてたら……もう二度とお姉ちゃんって呼ばれることもなくすれ違う度に『ああ、こんにちはソフィアさん。(笑)』とか口元しか笑ってない顔で他人みたいに会釈だけされて素通りされたらどうしよう……!?!? ああもうダメ、きっとこの先その辺の石と同じような対応をされ続けるんだわ……!!」

 ……ソフィアは錯乱している! なんという醜態。プリマにあるまじき姿だと言わざるを得ない。第四の壁があるとするならば、その向こうの存在もきっと嘲笑っているに違いない。この瞬間、頼りになるのは──日頃優等生として過ごしてきたであろう、ウェンディの思いやりのみであった。

「そ、ソフィア様……! お気を確かに……!!」

 先程までウェンディの目には、彼女が孤立無縁の戦場でただ一人になろうとも挫けず、剣を振り続けるとても勇敢な騎士のように見えていた。故にウェンディは彼女を甚く尊敬し、このトイボックスの陰謀を暴かねばなるまいと決心を新たにしたのだが──
 いま、彼女が背中を必死にさすって宥めようとしているソフィアは、まるで家臣の裏切りに怯えるか弱き姫のようである。漸く年相応な一面が見えて、チグハグさが消えたと言うべきか。ともかく、身近な友人との関係性に亀裂が入ったことに人並みに怯え、悲しみ、少々大袈裟にも見えるが絶望する彼女は、いかにも等身大に見えたのである。

 痛ましい姿にウェンディは同情し、眉尻を下げながら。真剣なのでしょう、真面目に取り合って差し上げなければと意気込み、あなたの両肩に優しく手を添えたかと思えば、しっかりとそこを掴んで、泳ぎ続ける弱々しいブルースピネルを覗き込む。

「ソフィア様。お聞きになって。

 プリマドールであるあなたに教えを説くなど、畏れ多いものはありますが。私、エーナドールとして、あなたのご友人との仲直りにお力添えを致しますわ。」

 すう、と一つ息を吸って、そしてウェンディは立ち上がる。

「謝罪は誠意。兎にも角にも誠意が肝要ですわ。自らの非を認めるのは勿論の事、お相手が何に憤っていたのかをとかく分析し、詳らかに理解してから、反省の気持ちと互いの妥協案を示すのです。

 それでも気持ちが通じなければ長期戦をお覚悟なさってくださいまし。しつこくない程度に粘り続けますの。諦めたらそこで試合終了ですのよ……!」

 ウェンディは硬く拳を握り、ひどく生真面目なことを述べた。きっと対話のスペシャリストである彼女たちならば、仲直りなど赤子の手をひねるより簡単なのだろう。デュオのあなたが他者の感情を分析するのがいかに難儀とするかも知らず。
 しかし彼女は真摯であった。あなたとまた目線を合わせ、その手のひらを重ねて。真剣な眼差しを注ぎながら告げるのだ。

「ソフィア様ならばきっと大丈夫です。お相手もご理解いただけます。あなたに存在するのが悪意でなく、底抜けの優しさであると、ウェンディは理解しておりますから。」

「誠、意。分析。妥協案……ゔん………………そ、うよね……んん………………」

 相変わらず、青水晶は渦を巻いたままであるが。それでも大人しく、対話のスペシャリストからのアドバイスを聞き入れている。洗練された造形美を誇るその顔が険しく顰められ台無しになっている辺り、途中途中唸るような声が紛れているのは聞き間違いではないのだろう。
 真剣に、必死に。頷きながら、ただのひとつの文字さえ聞き漏らさぬように。交差するアメジストとアクアマリンの輝きが、二人の少女の必死さを物語っている。

「……! あたし、……ウェンディ先生……仲直りが、したい……! 絶対に! うん、うん…………きっと大丈夫。あたし! 絶対にやってみせる……ありがとう、自信がついたわ。そんな風に誰かに言って貰えるの、久しぶり……」

 優しく背を押す言葉に、感極まったようにアクアマリンはきらめいた。このある種のデジャヴを噛み締めるように口端を結んだかと思えば──ああ、どうやら渦は晴れたようである。ぐ、と片方の拳を握りしめ、情熱を表明してみせれば、今度こそしっかりと立ち上がるだろう。
 もう大丈夫……あたしならやれる。きっと。


「……よし! それじゃあ、今度こそ大切な用事を果たしに行ってくるから。絶対絶対何とかなるから、良いお知らせを待っててよね。本っ当にありがと、ウェンディ!」

【学生寮1F ラウンジ】

Rosetta
Sophia

《Rosetta》
 学生寮、ラウンジ。
 お披露目前のミシェラのように、ロゼットは本を読んでいる。
 エーナでなくても覚えられるような、やさしい内容の児童書だ。学ぶような内容もないが、暇潰しには最適だろう。
 一ページ一ページ、その手触りを確かめるかのように。赤薔薇は紙のふちをなぞりつつ、無言で読み続けていた。
 もう冬も終わった。寒がる子どもたちが、ペンギンよろしく集まることもない。
 ロゼットの読書は淡々と、無言で行われることだろう。──この場にソフィアがやって来るまでは。

 まず、あなたは。ばた、ばた! と、奇妙な不規則を着込んだ足音を、ラウンジを仕切るドアの壁の向こう側から耳にするだろう。
 あなたが、そちらに視線をやるなら──少しの間を置いてから、ムーンストーンの銀の輝きには幼い少女の金糸が映り込むだろう。
 先日あなたが心の壁を隔てたばかりの、メシア気取りの愚かな女の姿がそこにあった。

 けれども、今回は尊大と言い表すにはあまりにも正反対な表情をしているようだ。アクアマリンは楕円に潰れ、表情は外側から中央へと圧力でもかかっているかのようにしかめられ、シワになっている。何ともバツが悪そうな顔だ。
 ソフィアは、スゥと音を立てて息を吸えば、意を決したようにあなたの元へ近づく。

「……その、ロゼット。読書中に悪いんだけど、……ちょっと、お話……させてくれないかしら。」

《Rosetta》
 一体誰が騒音を立てているのだろう?
 不思議そうに、ロゼットはそちらを見る。
 その視界にソフィアが入れば、一瞬目を丸くしたが──すぐ普段通りの表情に戻った。

 「どうしたの、ソフィアさん。王子様がいなくなって寂しくなっちゃった?」

 口振りは平坦なまま。立ち上がることもなく、赤薔薇は口にする。
 ぱたり、と本を閉じる音が響いた。少なくとも、あなたの話を聞くつもりはあるらしい。
 ソファの脇にスペースはあるが、ソフィアが座ったとしても嫌な顔はされないだろう。嫌な顔はされない──というだけだが。

 赤薔薇は鳴く。その刹那、その言葉に、肺が押しつぶされるような圧力を受けて……たじろいでしまった。目を見開いて、はく、ともろい息を吐き出す様は、心の臓を一突きされたかのごとく。一瞬で青ざめてしまった肌は、作り物──と言うよりは、最早死体のようであった。
 言葉とは、狂気であり、凶器である。いつもと変わらず白銀のしずくを輝かせて咲き誇る赤薔薇は、それを知らない。知らないのだ。
 いっそ、残酷なまでの他人行儀は置いておくとしても。少女の最愛の親友の、その末路を察せるはずであろう者が、少女の傷を土足で踏みにじるなんてことを、悪意を持ってできるわけがないのだ! だって、赤薔薇は優しく咲くものだから! 心優しき者が、悪意を持って傷を踏みにじるなんて、到底不可能! ああ、だからつまり──彼女に悪意は存在しないのだから、ぜーんぶしかたない!

 傷付くのは! 簡単な言葉に圧力を感じて! 簡単に潰れる弱さのせい! 全部全部あたしのせい! 流石はオミクロン様! 人間様の真似事がお上手!

「……………………ううん。まさか、あなたを代わりになんてしないわよ。そうじゃなくて、この間のことを謝りたかったの。

 ……あたし。酷いことを言ってしまったでしょう。みんなの事を信用出来ていなかった。あたしはずっと弱いのに。みんなはもっと強いのに。ごめんね。ごめんね。みんなの事が大好きだから守りたいと思ったの。死んで欲しくなかったのよ。」

 ニコ、ニコ! 少女は、とびきりの笑顔を浮かべている。アクアマリンは、長いまつ毛の奥、瞼の奥で眠っている。ああ、なんて素敵なんでしょう! 鈴蘭だって満点をくれる、きっとあなたの唯一の取り柄だね、ソフィア。笑うのが上手になったのね。

《Rosetta》
 ただそこで咲く花に、少女ドールの心の機微など感じ取れるはずもなかった。
 曲がりなりにもトゥリアなのだから、その気になれば──否。その気にならずとも、相手の深い悲しみや、こちらに話しかけるときの緊張した面持ちは窺い知れただろう。
 それを反映したコミュニケーションを行わない、ということはそれだけの理由があるのだ。
 例えば、“普通”のドールのようにこちらを見下すソフィアが気にくわなかったとか。防衛機制の一種が働いているとか。
 あるいはもっとシンプルに、拗ねてしまっているのかもしれない。
 ロゼット自身は自覚できないだろうが、いい気分ではないのだろう。笑顔でいる相手に対して、彼女は仮面を被ったようなつめたい表情を浮かべている。

「謝りたいの? それなら私よりも先にアメリアに言うべきだと思うけれど」

 視線は交わらない。
 自分よりも幼い“おねえちゃん”の瞼を、白銀の鏡は映し続けている。
 さあ、姉妹らしく歓談といこうじゃないか。

「アメリアにはもう謝ったの。だから次はあなたの番。別に許してくれなくとも構わないわ。あたしが言いたかっただけだから。」

 本当は許されたいはずなのに。その言葉は、普遍的な罪悪感によるものなのか、はたまた異常な悪感情の燻り故のものなのか、判別は不可能である。
 ああ、早く立ち去ってしまいたいな。ボロが出る前に。心を呑み込む笑顔のおまじないが解けてしまう前に。麗しの薔薇が姉と呼び慕った『誰か』の影が消えてしまう前に。

「それじゃ、用事はそれだけ。……あたしはね、あなたのことが大好き。あなたが強いドールだって理解してる。……でも、あまり危ないことはしないように、ね。あなたに、みんなに消えて欲しくないの。誰も同じ目に遭って欲しくないの。それだけはわかって。わかってよ。」

 にこり、と。どこまでも青水晶をまぶたの奥に隠したまま、プリンスみたいな明るい笑顔を取り繕っている。
 ……言葉を持つならば、言葉を交わさなければ。親友ならきっとそう言うだろうけど、あいにくあたしに王子様役は向いてないみたい。
 お互い、何を思って、何を望んでいたんだろう。
 言葉はそこで途絶えた。予定調和が崩されなければ、少女は窓辺の薔薇に小さく手を振って、その場を後にしてしまうのだろう。まるで、美しい童話のワンシーンをそのまま切り取ったみたいに。

《Rosetta》
 いつの間にか、童話集は椅子のクッションの上に移動している。
 相槌は打たない。彼女はただ、ソフィアの話に耳を傾けるだけだ。
 その中の苛立ちも、罪悪感も、全て吸い込むように。植木鉢の土のように、彼女はじっとしていた。

「待って」

 相手が話し終えて、背中を見せようとしたとき。
 動作を鋭く遮るように、赤薔薇は声を上げる。それとほとんど同時に、近付いてくる足音が聞こえてくることだろう。
 これは既に幸福な童話ではないし、完璧な悲喜劇でもなくなってしまった物語だ。
 だが──無情な物語の中にも、少しくらいは救いがあっていいはずだ。
 例えば。すれ違うばかりだった子どもたちが足を止め、ようやくお互いの心中を話し合うとか。それくらいはあってもバチは当たらないだろう?

「あのね、私の話も聞いてほしいの。本当に嫌だったら、いいんだけど……」

 言いづらそうに、一度言葉が途切れる。
 彼女はエーナではなく、トゥリアのドールだ。
 他者の感情を読み取ることができても、自分と向き合うことは得意ではない。
 だから、その話は分かりやすいものではなかっただろう。あなたが途中で立ち去ってしまっても、きっと彼女は怒らない。

「あの後、色んな子と話したんだ。オミクロンのみんなも、オミクロンじゃない子たちも、色んな不安を抱えてた。でも、それぞれやりたいことがあって、そのために動いてたよ。
 多分、あなたも同じなんだよね。アメリアと喧嘩しちゃった時も、全部を何とかしようとしてくれてた。
 アメリアの気持ちも分かってたし、お姉ちゃんが話すのが得意じゃないのも分かってたから、本当は私が仲裁するべきだったんだ。なのに、何もしなかったし、あなたを傷付けようとしちゃって……ごめんなさい」

 もしも、ここであなたが目を開けたなら。視界にはロゼットの姿が映るだろう。
 いつもの微笑みでもなければ、つまらなさそうな無表情でもなく。眉尻を下げ、不安げな子どもの顔をしたロゼットの姿だ。

「私はみんなと仲良くしたいし、トイボックスのことも、みんなで何とかしたいよ。
 だから、その……お姉ちゃんも、頼ってくれると嬉しいな。私とか、アメリアとか、プリマドールじゃないみんなのことも」

「……………………ロゼ、ット、」

 呼び止められて。はた、と少女は振り返る。やわい足音を従えた赤薔薇が歩み寄るのを、呆然と。アクアマリンは眺めていた。
 ──薔薇は今まで、どこまでも『薔薇』であった。水を与えられて、てらてらと輝いて、静かに咲き誇る薔薇であった。
 だから、そんなあなたに『ロゼット』でいて欲しくて、水の代わりに声をかけ続けた。
 そこには、親愛だけがあった。
 彼女の言葉はたどたどしくて、上手なスピーチと言うには拙すぎる。けれども、それは紛れもなく『ロゼット』の言葉であって。ただそれだけで、その言葉に価値を見出すには充分すぎたのだ。

 だって。自分を姉と呼び慕ってくれる子が。自分の妹のような存在の子が。『ごめん』と言って、自分の想いをこんなにも伝えてくれているのだから。焦燥も憤怒も不快も嫌悪も、何もかも吹き飛んでしまったっておかしくないだろう。
 あたしは一人じゃないんだもの。

「…………うん、っ、うん……ぅ……」

 段々と、その声色は濁り始める。バツが悪そうにしかめられた、楕円形のムーンストーンがいたたまれなくなって……だなんて言い訳が出来ないくらい、アクアマリンはもっともっと、ひしゃげていく。そうして、潤いを帯びて。透明な雫がこぼれ落ちて、段々と粒が大きくなって。

「……さみしかった、そうよ……寂しかったわよ……! ミシェラがいなくて、アストレアがいなくなっちゃって……ロゼットにも、他人みたいにあつかわれて……、さみしかったよお…………!」

 ……終いには。うああん、と声を上げて泣き出してしまう始末である。普段ならばどこもかしこも彫刻のように白く静謐を纏っている肌は、目元も鼻元もほんのりと赤くなっている。
 まるで子供みたいだ。だって、実際子供なのだから。けれど、目の前で大粒の涙を拭い続ける小さな少女こそが、『ロゼット』が自分の意思で『姉』と呼んだ少女なのだ。

「ひっく…………よかった、よかったよお、ロゼット…………うああん……………!」

《Rosetta》
 プリマドールの冠が、背伸びを助けるガラスのヒールが、外れていくのをただ見ていた。
 普段であれば、誰かに涙を見せることなんてなかっただろう。ソフィアは気高く、他人に弱みを見せたがらないドールだ。
 誰よりも鋭く、一点の曇りもないように。研ぎ澄まされた剣のような心を保てているのは、優れた個体であるという矜持故なのだろう。
 しかし、王子様はいなくなってしまった。
 強くあるためのおまじないだって効かなくなれば、そこに残るのはただの少女ドールだ。
 ロゼットは魔法も使えないし、ドレスだって用意することはできない。地獄を飛び出すための、かぼちゃの馬車なんてもっての外だ。
 だが。少なくとも、傷ついた相手を慰めてやることぐらいはしてやれるのだ。

 「……うん。ごめんね、お姉ちゃん」

 ちいさな身体を、包み込むように。赤薔薇はその手を伸ばして、ソフィアを抱き締める。

 「今までずっと怖かったよね。大丈夫。痛いところがなくなるまで傍にいてあげるから、好きなだけ吐き出していいんだよ……」

 形のいい頭を、ゆっくりと撫でる。
 側から見れば、立場が逆転したようにも見えるだろう。それでも、これは“妹”が“姉”のためにできることを考えた結果の行動だった。

「っぐ、ひぐ、ゔ………ゔあああ……………」

 年上の設計年齢である妹のやわい手つきに撫でられるにつれ、少女の『強さ』を磔にしていたピンが一本一本抜けていくように、嗚咽はとめどなく溢れゆく。そのまま手に取れてしまいそうな、まるまるとした純水晶を、ただこぼしながら。
 いつの間にか、少女の頼りない手はあなたの背に回されていて、あなたの身体を離さないようにぎゅうと力が込められているだろう。もちろん、それは華奢な少女の力である。いくら繊細な硝子細工であっても、このか細い衝撃では壊れることはないだろう。少女は、あなたに身体を預け、ぐずるのを続ける。

「こわい、怖いよお……お披露目も先生もこわい、今度はあたしかも、いや……まだ死にたくない……他のだれかが選ばれるのも、いや、やだあ……ひぐっ、うう………おいていかれたくないの…………!」

 呼吸は、酷く荒くて。肩を震わせ、年相応に咽び泣く姿は、プリマとして不甲斐ないものであるのは間違いない。けれども、髪を掴んで痛めつけるあの悪癖は出ていないようである。他に掴むべきものがあるからだ。
 やがて。一秒一分だか一時間だかの曖昧な時が流れた頃、ようやく少女は少しの理性を取り戻したらしい。ロゼットが口を開かないのなら、深い呼吸とすんすんと鼻を鳴らしすすり泣く音のみが辺りにはこだまするだろう。

《Rosetta》
 ロゼットの服に、アクアマリンから溢れた雫が染み込んでいく。
 この涙に色を付けるならば、それは夜を思わせる青なのだろう。ミシェラを、アストレアを、たくさんのドールを助けられなかった夜の色だ。
 ムーンストーンは瞬きをして、ただ泣きじゃくるソフィアを見ていた。
 どこまで行っても他人は他人で、赤薔薇は女王になり得ない。女王だって赤薔薇として生きてはいけないだろう。
 それでも、想像できない痛みを想像しようとし続けるしかないのだ。愛する誰かに寄り添う方法は、これしか知らないから。
 少しでも相手が安らげるように、彼女は頭を撫で続けていた。
 これ以上、ソフィアに何も傷付けさせたくはなかったのだ。誰かのことも、自分自身のことも。
 うん、と何度も相槌を打って。慟哭にも似た言葉に耳を傾けて。少女ドールが落ち着くまで、ロゼットはそこに立っている。
 呼吸が安定したのなら、形のいい頭の上で動かしていた手を一度止めるだろう。

 「お披露目は終わらないし、怖いことばかり見えてくるし……ずっと苦しかったよね。気付いてあげられなくて、ごめんね」

 そう言いながら、少し身を離した。目尻に涙が残っているなら、花に触れるようにそれを拭うはずだ。
 いつもよりも控えめに、赤薔薇は微笑む。遠慮をしていると言うよりは、相手の様子を窺っているように見えた。

 「全部大丈夫とは、言ってあげられないよ。お披露目が決まったとしても、私たちにできることはあんまりないもの。
 でも、お姉ちゃんが辛くなった時、こうして聞いてあげることはできるよ。お茶もコーヒーも飲めるし、花冠だって編んであげる。
 だから……そんな顔をしないで、お姉ちゃん。私たち、どんな形になったとしても、未来でもずっと一緒にいるよ。それだけは、絶対大丈夫だから」

 そっと、細い小指が差し出される。
 これをどうするかは、あなたの自由だ。

 ごめんね、と。静かに、柔らかに、その声は響きゆく。女王様のプラスチックの冠は、とうにあなたのあたたかさで溶け崩れてしまったのだから、……その指が触れるだけでまた涙がこぼれ落ちそうになるのも、きっと仕方のない話。
 純水晶は、あなたの陶器のごとき指に二粒、三粒と染み込んで、やがてその雫は完全に止まるだろう。

「…………………………うん。約束ね。ぜったい。」

 潤んだアクアマリンは、少し高いところにあるムーンストーンをぼんやりと捉えていた。が、小指が差し出されれば、少しのタイムラグののちに、そちらに焦点を合わせる。
 今のソフィアは随分処理能力が鈍ってしまっているらしく、細い小指をしばらく呆然と眺めてから、ようやく気づいたようによろよろと自分の手を持ち上げた。そのか弱い挙動とは裏腹に、あなたの小指を繋ぐ小指にはしっかりと力がこもっている。鎖のように絡まるそれは、決して離れない絆を暗示しているかのようであった。
 きゅう、と結んだ指を軽く触れば、決意表明の儀はおしまい。どちらからとはわからない。けれどゆっくりと、指先の熱は離れてゆくのだろう。

《Rosetta》
 その涙は、もう悲哀だけでできたモノではないのだろう。
 多少の安堵と、信頼と、ひと匙の希望。そういった祈りが混ざって、青い瞳から溢れ出しているのだ。
 ──よかった。
 ロゼットは、心の底からそう思う。
 ソフィアという少女ドールに──オミクロンの仲間たちに、塞ぎ込んだままでいてほしくはないのだ。
 自分たちのいる場所は、きっとまだ絶望の序章にすぎない。これから先、もっとたくさんのドールが焼き捨てられることだろう。
 そうなった時、一緒に歩いてくれるドールがいないのは嫌だった。お姉ちゃんが現実に負けてしまうのは、もっと嫌だった。
 だから、少しでいいから前を向いて欲しかった。何にも負けず、鎖のような絆で一緒に立ち向かってほしかったのだ。

 「絶対、ね」

 小指の契約は、今ここに結ばれた。お呪いのように、確認のように口にして、ロゼットは手を離す。
 指を離しても、彼女はまだソフィアの傍にいた。日常に戻ってきたように、あるいは約束を果たそうとするように、柔らかな笑みを浮かべたまま。

 「たくさん泣いちゃったし、疲れちゃったよね。何か軽く食べて、休んだ方がいいよ。今のお姉ちゃんを見たら、みんなびっくりしちゃうもの」

 そんな風に苦笑して、赤薔薇は一緒にキッチンにでも向かおうとするだろう。
 それからふたりで軽食でも食べたかもしれないが──この話は、ここでおしまいである。

【学園2F 演奏室】

Rosetta
Sophia

《Storm》
 玻璃色と月魄の輝きを忌々しい夜に連れ去られてから、朝と夜をいくつか越えた。そしてまた朝を迎えた。
 鬱陶しいほどに染められた晴天の青が、空に映し出されている。
 ストームは朝食後、彼女に演奏室に誘った。
 楽器の演奏を教えて頂きたい、だなんてご丁寧に理由まで添えて。
 一足先に目的地に着いたストームは部屋に誰も居ないことを確認すると、部屋の奥まで進んで行くだろう。
 彼女が来れば深々と頭を下げるはずだ。

「ソフィア、ご気分はいかがですか?」

「それ。判ってて訊いてるでしょ。」

 女王様は、楽器達が静かに眠る王室へと足を踏み入れるなり、丁寧に頭を下げる従者へ侮蔑にも似た視線を投げやる。機嫌が優れない様子である、というのは、一目瞭然であった。
 けれどまあ、素敵な感性とご趣味をお持ちのあなたのこと。ここまでの流れを『予測』しての言葉だったのだろう。本当に。素晴らしい性格をしている。なんて、ソフィアはため息をこぼした。

「……それで? まさか人の神経を逆撫でる為だけに呼んだんじゃないんでしょう? 一体何を見つけてきてくれたのかしら、紳士様は。」

 研ぎ澄まされたアクアマリンの破片が、湿っぽくあなたを睨みつける。この威圧が持つ意味など、もはや説明するまでもないだろう。だって、このソフィアの表情は、パッチワークのボタンの夕暮れ色と満月色とが、これまでに何度も映したことのあるもののはずだ。

《Storm》
 予想通りの反応を予想通りの間で、まるで台本が用意されていたかのような会話を展開させた女王様と従者。
 冷ややかな目ですら台本上での演出かのように思わせる。
 女王様お墨付きの良い性格な従者は「失言でしたね」だなんて、“素敵な”言葉で締めくくる。
 続く問い掛けに、依然として突き刺さるアクアマリンの光りに不揃いの瞳は微動だにせずに淀みを浮かばせていた。何度も今度も見た表情。強く刷り込まれて瞳の奥にでもこびり付いているようだ。

「えぇ、まずはそうですね。
 我が友が調べて下さったことから……」

 ストームは扉の方に一度目線を向ける。
 関係の無いドールズが入ってくる気配が無いことを確信してから、リヒトから教えて貰った情報を話し出した。

 ドールズの記憶は虫食い状態である事。
 オミクロンクラスには第三者の存在がある事。
 青い蝶の存在。
 アラジンというドール。
 洗浄室の作業台の跡。
 旧友とカンパネラ達がソフィア達と日を同じくして柵の外へ行き、ツリーハウスを見つけた事。
 半分のドール、シャーロットの存在。
 涙の園計画。

 リヒトのノートから読み取れた情報を淡々と告げてゆく。
 中にはソフィアの知っているものもあるだろうが、質問する間も入れさせずにストームは一気に喋ってしまった。
 ソフィアなら理解出来るだろう、と確信してた為だ。

「……以上が、リヒトから聞いた情報です」

 ようやっとストームが話の折り目を付けると、彼女を見つめる。情報を飲み込んだ事を確認すれば話を続けるだろう。

 情報の、停滞が。一度に沢山の事を聞きすぎている。けれどもソフィアの脳は、意思とは無関係に正常にそれらを処理していって、感情は置いてけぼりだ。言いたい事は沢山あった。けれどストームが話の途切れを許すことはなく、結局列車は終点へと辿り着いてしまった。それは、止めようがなくて。
 列車が完全に止まった頃、ようやくソフィアは言葉を赦された。ストームは「リヒトからの情報」であると言うが、つまり、あの子はこんなにも重い話を抱えていたというのか。それが気がかりでならないのと、──もう一つ。

「頭痛をきっかけに、記憶が蘇る……?」

 思い当たる節が、ひとつ、あったのだ。忘れもしない、あの鮮血を塗りたくったみたいな真っ赤な靴。蘇るのは、作り物──であるはずの、あたたかい記憶。あれは、一体なんなの?

「……それ。経験したこと、あるの。誰が、なんで……それが起こるの。……擬似記憶って、なんなの?」

 アクアマリンは、困惑に渦を巻いて。作り物なんだと散々嫌って、憎んで、突き放した『愛した』記憶の正体。それを知りたいと思うのは、きっと、当然のことだ。

《Storm》
 ソフィアを信頼し、一気に話してしまった。
 そして思い出したかのようにお伺いを立てると、ソフィアの表情は困惑に満ちていた。
 ぽつりぽつりと語られる彼女の言葉にストームは目を丸くさせた。

「そうですか、貴方様も……。
 誰が何の為にそういった現象を起こしているかは定かではありませんが、先程も言った通りアメリアを始め数人のドール達が頭痛を伴う擬似記憶の再生を経験しています。」

 風船が自身の目の前で揺れる。
 真っ赤な風船が。
 自由になりたがっているのに、彼はストームにぎゅっと捕まっていてそれを許されない。
 代わりに彼がストームにもたらしたのは、頭を締め付ける程の頭痛と愛して止まない“お母様”との記憶。
 それから────

「ジブンも経験しました。
 その記憶の中、ジブンは貴方様とすれ違った。
 それからこの前は……アストレア。

 あの白昼夢は一体何なのですか?」

 ストームは小動物にも似た可愛らしい顔を限りなく石像に近付けて問いかけた。凝り固まった表情の奥、ちぐはぐの瞳は納得のいく答えに飢えているようだった。
 デュオドール、それにプリマドールにも輝いた彼女の方が自身の見解よりずっと真実に近付ける。そう信じて疑わない。

「……そんな、こと、言われたって。わかる訳ないわよ……」

 その声はどうやら、たんたんと語るように聞こえて、何かに追い立てられるような逼迫した焦りを孕んでいるらしい。飢えた獣のごとくギラついたヘテロクロミアは、他人に『喋らせる』為のナイフであるようにすら見えた。
 けれども、わからない。わかるはずもないのだ。あの日見た記憶は、自己防衛のためにわざと嫌ったものであり、かつごくごく小さな断片的なものであったのだ。あれの正体など分かるはずもないし、ましてや他のドールもあの痛みを体験しており、更には夢に他のドールが出てくる事もあるだなんて、想像すらもできなかった。
 ……けれど。これが、自分だけの話でないのなら。

「……あいつ……ディアは。ディアに話は聞いたの?」

 四人のプリマドール。別クラスの三人の親友。その一人。相変わらず、ひらりひらりと気まぐれにみんなにちょっかいをかけているらしいことは知っていたけれど、思い返せば最近話す機会は減っていた様に思う。もしかすれば、彼だって……幻を見ているかも、しれない。

「……擬似記憶は、ただの『擬似』記憶だと思ってたけど。ただの作り物って訳じゃないみたいだし、調べてみる必要は、あるんじゃないの。」

《Storm》
 猟奇犯は自身の意識とは裏腹にナイフを突き立てていた。
 まるで納得のいく答えを言わないと刺すと脅しをかけているように。
 それに気付いたのは恐らく、ソフィアが戸惑いを含んだ瞳で分からないと言った時。ストームはほんのわずかに眉を上げ、自身の行いにあっけらかんとした表情をして見せた。加害者だと言うのに。
 そのまま黙りこくって、ソフィアの困惑の表情を見詰めていればストームが憧憬を抱きありふれた単語で締め付けられている彼の名が挙げられた。


「申し訳ございません。分からないんです。
 ジブンがソフィアを見た話はディアにしたのですが、その後そういった話は……」

 言葉を半ばに切るとストームは首を横に振った。あの時はまだアストレアがお披露目に出される前。エルのノートに“15名”のドールの名と簡単なイラストを描いたのを覚えているが、だいぶ昔のことのように感じる。
 時間はミシェラに続いてアストレアまで奪い去ってしまって、いずれも止まることを知らないのだから余計。

「そうですね。では今後尽力致します。

 それからジブンの得た情報なのですが。
 単刀直入に言いますと今回のお披露目において、スクラップ対象になっていたアストレアですが今期は無しになっていたそうです。
 フェリシア達が入った塔でこの情報を得ました」

 ストームは目を伏せちぐはぐの瞳を前髪の奥に隠してしまった。熱を帯びない言葉の節々に僅かな苦味を含んだかと思えば、反響もせずに消えてゆく。
 舌の上には苦味がこびり付いて離れやしない。

「……、そう。なら、またそのうち話さないと、かもね……」

 この小動物は一時はけろりとした顔をして見せたものの、されどその嵐は瞬くうちに過ぎ去った。ヘテロクロミアに、翳りが差したようにすら見える。いかなる猟奇犯であろうと、人の子は人の子であり、人形は人形で、子供は子供である。そういう、事なのだろう。

「……塔ってあんた、はあ? まさか入ってきたの? ……正気……??」

 ストームが放った言葉。スクラップだとか、アストレアという名前だとか、そういうのよりも先に、ソフィアはある一点に気を取られたらしい。アクアマリンの片方をひくりと歪ませて、薄汚いドブネズミでも見つけたかのような目をあなたへ寄こすだろう。……悲しいことに、あなたはこの視線にも慣れているはずだ。

「……ウェンディ──新しくクラスに来た子、いたでしょ? その子に事情を聞いたわ。アストレアはダンスホールへ行ったみたいね。……スクラップ対象が無しだと記されてたなら、怪物に処理されるのは『スクラップ』ではないって事……なんでしょう。知らないけど。」

 ……ソフィアは、不思議と苦しむような素振りは、見せなかった。そればかりか、親友が怪物の餌となったであろう事実を平然と振りかざす。冷静に、淡々と。
 そうして、熟考するような素振りを見せたあと。苦みを噛み締める様子を見守ったのちに、ソフィアはゆっくりと口を開く。

「……擬似記憶の話だけど。『何か』を見ることで記憶が呼び起こされるんでしょう。そして、あんたの記憶の中にあたしが出てきたんなら、あたし達の記憶はどこかで繋がってる可能性がある。ディアも呼んで、記憶を呼び起こした物をみんなで見に行くのがいいと思うんだけど。」

 それは、珍しく。『提案』というのに相応しい声色と、言葉である。きっと紳士様は頷いてくれるのだろう、だろうけれど、首を横に振ったとしても咎められはしないような、そんな声色であった。

《Storm》
 軽蔑するような視線。受け入れ難いものを見る目だ。
 慣れてしまったストームはどうかしてる。
 むしろ自分は至って正気で、ソフィアがその整ったかんばせを歪ませる意味がわからないと言った風に瞬きまでして見せた。

「ダンスホール……そうですか」

 月魄を靡かせた彼女は間違いなく舞台上で主演を飾ったことだろう。この前はカーテンの後ろで舞台を見ていただけだったというのに。彼女は演技が上手すぎたんだろうね。
 そんな事より、ストームはソフィアの平然とした態度に驚いた。彼女の事だから毎晩のように泣き叫んで戻らぬ親友に心を痛めているとばかり思っていたから意外だったのだ。もっと取り乱す姿を見たかったのだろうか。
 猟奇犯の表情は依然として読み取れず、驚いているのか落胆しているのか何も感じていないのかソフィアですら分かりはしないのかもしれない。

 珍しく挙げられた提案に、ストームは自身の下唇に触れた。
 擬似記憶はドールそれぞれの個体にあるヒトらしさを形成するためにプログラムされた特別なものであることは、どのドールにも共通認識されているはずだ。その記憶を尊いものとして、自分の中でのみ抱え込む個体も居るくらいだ。繋がっているなんてにわかには信じがたい。
 でも、お前達は違うんでしょ────

「……そうですね。繋がっているとすればソフィアの言う『何か』をジブンやディアが見ても感じ取れるものがあるかもしれませんし、試す価値はあると思います」

 ストームはソフィアの予想通り頷く。命令口調であれども提案として確認を取るように伺った口調であれどもストームには変わりないようだ。
 ただ少し、彼女にしては弱々しい態度だと感じる他には何も無い。

「……何。怪物に食われた事を嘆いて喚き散らしでもした方が良かったかしら? お生憎様、あたしは今とっても落ち着いてるのよ。
 それはいいとして、あんたはリスキーな行動を慎むべきね。怪我でも残したらどうするわけ? もしも『先生』にバレたら……言っておくけど、これは別に心配じゃないから。あんたのヘマに巻き込まれてこっちまで疑いを向けられるのは勘弁だって言ってるの。あたし達プリマドールが注目を浴びる事は避けられない、もっと慎重に動くべきだわ。わかってる?」

 きょとんと目を丸くし、驚きの瞳を浮かべ続けるストームを見て、やれやれと息を吐きながら。この男、何一つわかっていないのか──と。
 ソフィアはひとつ嘘をつく。心配でないわけがないのだ。如何なる猟奇犯であっても、馬車馬の如く働かせていても、一応親友である事には変わりないのだから。
 それ故か、あなたの行いを咎める言葉は、あなたにとって厳しいものであったはずだ。『プリマドール』の名を出すことは、すなわちこの可愛らしい猟奇犯が最大の敬慕を抱くあの人物も巻き込むことと同様で。それすらも、傷つく可能性があると言っているのだから、多少なりともあなたの無鉄砲さにブレーキをかけるキッカケとなっても良いはずである。

「でしょう? 擬似記憶が何なのかは一体分からないけど、ドールの仕組みを知る事はトイボックスの裏にも繋がるかもしれないし、ね。

 ……でも、その前に。あたしは話したい子がいるの。あんた、同席しなさい。」

 ソフィアは、言葉を切る。そうして、唐突に。今度は『命令』として、とある対談に相席するよう言い放つ。アクアマリンはただ静謐を帯びている。その言葉の真意は、まだきっと、分からないだろう。

《Storm》
 喉の奥まで溜められた不純物を吐き捨てるような溜息。
 後に続くのは心情理解が余りにも乏しいストームに向けた呆れ。だが、そんな単純なものじゃない。
 その正体は憤り、悲しみ、プライドが包み隠した心配、複雑に絡み合って読み解くのが少々面倒になったお説教だった。

「すみません、出過ぎた真似を。
 自重致します」

 胸に手を添え目を伏せる。
 ソフィアの最もな言葉は猟奇的な彼にもよく響いたのだろうか。発言、行動共に自身の厚顔無恥な態度を深く詫びた。
 彼女もそうだが、彼を巻き込む訳にはいかない。
 思惑通り、ストームに一時的ではあるものの強いブレーキがかかっている。
 ゆるりと上げられた睫毛の奥は、そう確信させるような瞳が据えていた。

「………………えぇ、同席させて頂きます」

 話したい子、とは。
 ストームは命令を言い放たれると様々なドールの顔が浮かぶが、全く検討もつかず一先ず女王様のご命令に従う事にした。
 ちぐはぐの瞳にアクアマリンは何も語ることは無かった。

「……ま、行動を改めるならそれでいいわ。幸い怪我はないみたいだし、あんたの事なら痕跡を残すようなヘマもしてないでしょうし。」

 恐らくだけど、幼い猟奇犯さんの好奇心を押さえつけるには、我が言葉は良く効いたらしかった。……ああ、ほら。この男の厄介な所は、このゆらめく瞳にあるのだ。長く伸びた睫毛の奥、新鮮な果実のように愛らしさとみずみずしさをたたえたジュエリーがゆらゆら鎮座している。それは、こちらの怒気を著しく剥ぐものであるのだ。毒気を殺されたらしいソフィアは、再び長く溜め息を吐いて、お叱りをやわらかな言葉で終いにしてしまった。

「それじゃあ………そうね。上客の居所の目星はついてる。着いてきてちょうだい。」

 そして。あなたが『はい』と言うのが当然のことだ、といった調子で頷いた女王様は、くるりとあなたへ背を向けて教室の出口へと向かうだろう。その足取りは確かで、自分の予測が絶対だとでも言うような自信に満ち溢れている。もちろん、このしっかりとした軌跡をあなたも後ろから追いかけて歩むものだ、と確信しながら。

【学生寮3F 図書室】

Gretel
Rosetta
Sophia

 階段を上り詰め、寮の最上階に位置する埃臭い書物の蔵に辿り着く。図書室の天井は四階部分までを突き抜けているためか、とても高い。そして、木製のロフトを介して上階にも数多の書物がところ狭しと保管されているようだ。

 図書室はほの暗く、壁に取り付けられた卵型の照明をつけてもまだ暗い。
 屋根裏の部分に切り取られた小窓から差し込む陽光が、空気中に舞う埃を幻想的に煌めかせていた。


 そんな図書室の奥で、本棚と向かい合って立ち尽くす一人の少女を見つけるだろう。揺れる三つ編みは鮮烈なバーガンディ、陽の光を通す事を知らぬ真っ白な肌には、ラズベリーの瞳が載っている。
 彼女は本棚から一冊の本を取り出し、抱えていた。

 そこで図書室へと階段から上がってきたあなた方に気付き、振り返る。
 その熟した瞳に、意志の強いブルースフィアを反射して、一瞬眼を見開いて。

「──ソフィア、さん……」

 静かな図書室に、小さな声が震えて響くだろう。

「ごきげんよう、お嬢さん。久方ぶりね? またお逢いできて嬉しいわ。うふふ……」

 魔女は、嗤う。ああそれはまるで、純粋無垢な少年少女をあまあいお菓子で誘い込んで、罠に嵌めんとするようではないか。そうだ、その笑顔にはひとひらも善は感じられない。いたいけなきょうだい愛を切り刻んで無に帰してしまいそうな、攻撃性のある害意を孕んだ笑顔だ。矮小な小娘。『お姉ちゃん』。あなたの本質が変わっていないのなら、きっと、そう捉えるのだろう? その笑みは、一種のファンサービスでもあったようだ。

「なにかしら? グレーテルさん。亡霊でも見たみたいな顔をして。ね、あたし達せっかく『また』同じクラスになれたのだから、今度こそ仲良くしましょうよ。あたしずっとあなたと仲良くしたいと思ってたのよ。

 だって、あんな暴挙に出──いいえ、じゃれつき方をなさるドールは初めて見たんだもの! 面白くって仕方がないわ。……ああ、わかってるとは思うけど……後ろにいる男はテーセラの元プリマドール。あたしの優秀な手駒でもある。どういう意味か、お判りよね。〝〝元〟〟デュオクラスのグレーテルさんなら。」

 クスクス。厭な笑い声と共に、魔女は、数歩ラズベリーへ歩み寄る。ブルースフィアは細められ、口角はにこりと上がっている。先程と、何ら変わらず。さらりと脅し文句まで添えてみせ、この哀れな子娘から一切の抵抗の手段を奪い、拷問とでも言わんばかりに言葉で痛めつける。──これはおとぎ話なんかではない。だから、魔女はもっと狡猾で、業火に突き落とされるような隙を見せることもなければ、少女はもっと無力で、護るべき少年はここにいない。
 ああ、なんと悪辣な物語だろう。きっと、この物語の主人公はこの恐ろしい魔女の方で、いたいけな少女を傷つけ甚振りいじめ抜くことが美談として語られるのだ。……そして、当然それを覆す術も、あなたに与えるつもりは毛頭ない。ただでさえ普段から暗く沈んだ雰囲気の図書室は、更に昏く昏く、闇と湿気を帯びて行った。

 一見眦を下げて優しげに見せている、その美しく悪辣そうな笑顔はまるで物語のヴィランを体現したようだ。自身から発される悪意をきっと彼女は隠そうともしていない。隠す必要が無い、格下だと考えているからだろうか。
 以前、あなたに底知れぬ憎悪を見せて牙を剥いた、弟への狂愛を抱くグレーテルは、本を抱え持ったままあなたの姿を凝視している。

「────、」

 濁った深紅の双眸は従順にあなたの美麗な笑みを映している。無感動に、無機質に。瞳のように赤い唇が微かに震えていた。グレーテルはやがて、一歩そちらに歩み出した。
 カツン、カツ──
 しかしその歩みは、完全にあなたの元まで肉薄する直前にぴたりと止まる。彼女の視界に、青髪の騎手の姿が滑り込んだからだろう。

 デュオドールの邂逅を演出するは、タルティーニの悪魔のトリルだ。
 静かな図書室で対峙し、睨み合うドールの張り詰めた剣呑な美しさは、まさしく悪魔的であった。

「仲良く、したい? あなたが──この、わたしと?」

 グレーテルは抑圧的な声を溢した。あなたに向けてというより、床に落としたような呟きだった。

「だったら、わたしの弟とも仲良くしてくれればよかったのにな。……残念よ、ソフィアさん。

 でも、せっかくまた同じクラスになれたっていうのは、同意見。」

 彼女は今度こそあなたの目の前まで歩み寄った。
 再び顔を上げた、彼女の表情には、真冬の湖畔にさす月明かりのように、冷え冷えとした笑顔が浮かんでいたことだろう。

「仲良くしましょう、ソフィアさん。わたしたち、今度はお友達になれるかな? ……なれるといいな。なれるよね。」

 グレーテルはその真っ白な手をあなたに差し伸べる。握手を求めているのだ。
 仲良くなりたいと言ったのはそちらだ。握手を断ることはまさかありえないよね、と暗に言いたげな様子で、グレーテルは目を細めている。

「ふふ……弟さん? そういえばいたかしら、そんな子も。」

 固い靴の音がする。近づいてくる。熟れきったラズベリーの、甘ったるい香りが肺に重くこびりつくみたいな感覚を、臆することなく嚥下して。魔女は、まだ嗤っている。
 この張りつめた空気は、まさしくヴァイオリンの堅い弦そのもので。奏でられる旋律は、少女たちの冷ややかな笑みに、狂おしいほど麗しく輪郭を落としている。

「ええ──もちろん。きっとなれるわ。お友達。これからが楽しみね……ねえ? グレーテルさん?」

 柔らかく溶けた氷は、されど未だ冷たく。ラズベリーを睨んで、優しげな笑顔を象っている。
 もし。もしあなたが。到底水に流すことなどできないであろうあのどす黒い害意を、その手にわかりやすく仕込んでいないのなら。ソフィアはそのままなめらかな白磁の指先をすくいとって、そのまま両手で包み込むように握り、小さく上下に揺らしてみせるだろう。ほら、これで貴女ともお友達。すてきなクラスメイトだ。これで満足かしら?

 あなたが握り返した、グレーテルの手は冷ややかだった。温もりというものが一切感じられない、痩せて骨の浮かんだ指先で、あなたの掌を彼女は握り込んでいる。まるで本物の人形のようである。抱き締めて愛でるための愛玩用でなく、ショーケースに仕舞われるための何人も触れることを許されぬ観賞用のドールのようである。

 灰燼の如く冷たさは、まるきりあなたを拒絶しているように感じられた。睫毛の下から窺い見る翳ったワインレッドがあなたを逸らさず見据えている。

 しかしながらグレーテルは、眦を和らげてあなたへ微笑んでみせた。苛烈な憎悪など綺麗に払拭して見せたと言わんばかりに。
 警戒に鋭く光るあなたの剣のような眼光を前にして、グレーテルは世間話のように口を開く。

「……ねえ、ソフィアさん。さっきね、そちらの方に本の整理を手伝ってもらったの。ストームさんだったよね。

 オミクロンクラスの子は親切な子が多いのね、わたし今まで、ここの子たちのことをすごく誤解してたみたい……」

 するりと、あなたの掌のうちから包み込まれた手を引き抜くことが出来たなら。グレーテルは未だあなたの温もりが残るような自身の手の甲をそっと撫でながら、穏やかに目を伏せて続ける。

「デュオクラスが居心地悪く感じる筈だよね。ソフィアさん、こっちのクラスに来た後の方がよっぽど楽しそうなんだもの。そうなんでしょ? 気が合うお友だちがいっぱいいるんでしょう、ヘンゼルやベガさんよりもずっと、同級生を忘れられるぐらい楽しい子たちが。」

「ふぅん……………」

 てのひらにさほど力は込めていない。無機質な冷たさは簡単に離れていって、そうして。温もりを抱きしめる少女の姿を静かに見守るだろう。あの激情をしまいこんでしまったかのような穏やかな語り部をじっくりと観察して。僅かな疑惑の目を孕んだ視線を後方に控える騎士へ向けた後、少ししてからようやく、ソフィアはまた口を開くだろう。

「そうねえ……だって、デュオクラスって頭の硬い奴しかいなかったんだもの。あたし、ガリ勉に興味はないのよね。
 それと比べてこのクラスは最高! みんな優しくて面白くて話しやすい……変な奴もいるけど、その分飽きないわ。あたしは同じクラスのみんなの事が好き。元クラスメートよりも。ずっと。

 ……だからね。みんなに怖い思いだとか、不快な思いだとかは一切させたくないの。分かってくれるかしら? 妹同然の子達だっているのよ、ここには。」

 やわいラズベリーに相対するアクアマリンは、ずっと堅いままだ。冷たい微笑みを崩さないまま、ソフィアは当てつけるような言葉を並べて、そして。唐突に声は低くなる。それは、鋭い刃を首元に突きつけるような声だ。口元のみが笑顔の形を引きずったまま、瞳には一片の優しさもない。──『警戒』。堂々と、それを突きつける態度である。先程友人として握手をし合った相手に対して、だ。
 言葉を言い切れば、ソフィアは再びアクアマリンを細めてニコニコと線で描くような笑顔のパッチワークを貼り付ける。依然、悪魔のトリルが鳴り止むことはないだろう。

「ねえ。どんな本を見ていたのか、あたしにも教えてくれない? 『お友達』なんだもの。ね?」

「そっか。素敵、だね。青写真だね。理想的だね……。

 あなたには、デュオクラスにいた頃より大切な子がいっぱい居るんだね。ふふ、何だかそれを聞いてわたし、安心しちゃったみたい。

 もちろん、その気持ちはすごくよく分かるよ。わたしだって弟のヘンゼルが怖い思いをしていたら悲しい。出来ることなら幸せを願っていたい……わたしたち、きっと似たもの同士だね、ソフィアさん。」

 ヴァイオリンの奏鳴曲(ソナタ)は鳴り止まない。あなたがグレーテルを拒絶しているから。悪魔が瞳の中を泳いでいる。睨み合いの停滞はまだ続くようだ。グレーテルはもうとっくに、平和惚けした表情に移り変わっているのに。その頬にてんとう虫が留まろうとも、違和感すら感じない。
 これが煮えたぎる憎悪をひた隠した演技であるならば、彼女を大根役者とは呼べないだろう。

「うん、いいよ。ソフィアさんにわたしのこと知ってもらうのも、仲良くなるために必要だよね。でも、きっとあなたは知ってる本だから、あんまり面白みはないと思うよ。」

 彼女が差し出したのは、キルケゴールの『死に至る病』と呼ばれる古典だ。古びた装丁に覆われているが、大切に管理されているためか今も十分に問題なく読み込むことが出来る。
 デュオドールのプリマであるあなたは当然この本の内容を知っている。

「ソフィアさん。ドールは、ウイルスの影響を受けないんだって。先生が授業で教えてくれたよね。だから本当は、ドールは病気になんかならない。

 でもわたしたちは、限りなく人に近付けるように造られたドールでしょう? だったらきっと人間と同じように、死に至る病はあるはず。人らしくあるように心を持たされたわたしたちは、きっと『絶望』で殺せてしまえるの。」

 あなたの手のひらの上に、ずしりと重みのある哲学書が載せられる。大いなる知識の源泉が、手から手へ移りゆく。
 グレーテルは『死に至る病』をあなたに委ねて、愛らしく、人懐っこく微笑んだ。

「──だからわたし、お友達になれたあなたに捧げるよ。素敵な絶望を。合理的で美しい大病を。

 あなたに地獄に堕ちて欲しいから。地獄でも苦しんで欲しいから。」

「そうね。似た者同士。きっと大切な子を何をしてでも護りたいと思うのもおそろい。違いをあげるなら、離れ離れかそうでないかって事くらいかしら。ふふ。」

 昏く埃の舞う空間で、くりくりと丸っこいアクアマリンをきらめかせて、魔女はラズベリーにフォークを向けたままだ。それをつついて転がすように、簡単に心のやわい所をいたずらに刺激してみせたりして。

 そうして。名女優から重みを受け取って。窓から差し込む日差しに表紙がてらてらと縁取られるさまは、やはり、血みどろの激情の現れであるようにしか見えないのだ。
 少女のひまわりが咲いたみたいな笑顔と、さずけられた病とが、あまりにもちぐはぐで、胃がもたれそうだった。
 ──ああ、愉快だ。まさかそんな感情を『向けられる側』になるとは。皮膚を黒く焦がすような憎悪でさえ、魔女にとってはほんの余興にしか過ぎなかったのだ。

「へえ。良いセンスのプレゼントね、グレーテルさん。 ふふ……あはは……! 渡せたらいいわね。ええ、渡せたら。」

 この魔女は、異常だ。狂っている。くつくつと、高らかに笑い声を上げて、目元に滲んだ涙を指先ですくって。何がそんなにおかしいのだろう。やっぱり、壊れてしまっているのだろうか。
 ……いいや、違う。この魔女は、 ずっとこうだった。叡智の頂に君臨していた頃から。冷たく張り詰めた王政を築いていた頃から。矮小な者の強い想いをつまみとって、コメディとしてあっさり消化してしまうような、そんな存在だった。どこまでも澄んだ穢れなきアクアマリンで、どこまでも悪辣に人を嗤う。そんな、そんな女だった。きっとあなたも、知っている。魔女を魔女として憎んできたならば、魔女が魔女たる所以を。

「ふふっ………はあ。楽しみね、お友達からの贈り物だなんて。もちろん、あたしの為に…あたしにだけにくれるのよね? 応援してるわ。サプライズが上手くいくこと。」

 魔女は嗤っている。

 グレーテルが放ったのは、間違いなくあなたに対する衰えのない敵愾心、憎悪、悪意といった類いであった。酷い言葉を、彼女は穏和な表情を崩さぬままにあなたに言い放ったのだ。
 そう、当然ながら、グレーテルはあなたに対する殺意を片時も忘れたことはない。目に見える形で発露することをしなくなったというだけ。少し大人になっただけだ。

 それを真正面から受け止めておきながら、尚も卑劣な魔女という姿を覆さないソフィアの振る舞いも常軌を逸していた。あなたの首筋には、まだ凍てついたようなグレーテルの手の感触と殺意とが、こびりついているだろうに。
 それよりも巨大なトイボックスの悪意に立ち向かっているからこそ、グレーテルの恨みなど児戯に付き合うようなものなのかもしれない。だが。

 あたしにだけに、とプレゼントを乞うソフィアの目からじっと逸らさないまま、グレーテルはうっそりと微笑んだ。

「……あなたがどうすれば絶望するのか分かるんだ。あなたが何を願っているのか。あなたが何を恐れているのか。

 安心して、あなたには何もしないから。だって素敵なナイトがわたしを睨んでるんだもの。わたし、デュオモデルだから、無謀なことはしないよ。」

 カツン、カツン、と革靴の音を響かせて、グレーテルはあなたの隣を擦り抜ける。本当にこの場では何かをけしかけるつもりなどないのだろう。
 同時にあなたが、まだ何もしていないこちら側に何かを仕掛けることも出来ないと分かっている。あなたは聡明だ、目立つ行為がいかに致命的かを理解しているはずだとグレーテルは踏んでいるのだ。

「やっぱりわたし、あなたとお友達なんて恐れ多くて出来ないみたい。デュオモデルはこうやって引けないものを守って、競争心に火を付けて、互いを蹴落としあって睨み合って……消耗し合うのがお似合いだよ。

 またね、ソフィアさん。わたしの憎らしい魔女。かならず殺してあげるから。」

 そうしてグレーテルは図書室を去るだろう。暗い色をした赤毛を揺らしながら。

「………そう。残念ね。あなたは他のデュオドールとは違うと思っていたけれど。」

 ……気付けば、いつの間にか。魔女の笑顔の仮面は剥がれ落ちていた。いいや──剥がれ落ちたのは、赤毛が横を通り過ぎてからだ。
 どうすれば絶望するのか。
 何を願っているのか。
 何を恐れているのか。
 その言葉を、ソフィアは静かに聴いていた。黙していた。
 最後に鳴った、友人関係の崩壊の音に、低く低く、思ってもいないセリフを呟いてから。
 そうして、完全に視界から赤色が消えた頃。

「一応言っておくけど。あたし、報復は絶対に忘れない質なのよ。全く同じ方法で、ね。」

 ……色彩が一つ失せた図書室には、相変わらず埃が舞っていることだろう。
 『待て』の上手な番犬は、そろそろこちらへ向かってくる頃だろうか。そうでなくとも、ソフィアは青藍の騎士の元へと向き直り、大きな溜息をこぼしてみせる。


「さて。面倒ご……大仕事はあんたの役目、って事でいいわよね。信頼の証として。」

 ……つまるところ、不穏分子に警戒を払うように、との事であるらしかった。
 当然、こうして上客との対談が終わればもう埃臭い教室には用はない。遅かれ早かれ、共立って後にすることになるだろう。

「──それじゃあ。あんたはディアに擬似記憶について話をつけてきて、明日の朝に連れてきてちょうだい。覚えてるわよね? さっきまでの話。頼むわよ。」

《Storm》
 災いを宣言した呪詛師が横を通り過ぎる。
 ストームは頭を下げ、敬意を払っていた。

 さて、残されたのは傲慢な女王様と忠犬のなり損ない、それからネズミの潰れる瞬間を残したような空気。
 つまり、最悪って事。
 熾烈な“友人間”でのガールズトークの全貌に、ストームはひっそりと後方に身を置いていただけに過ぎなかった。
 だが、明確にストームには理解し難く、受け入れ難い。テーセラの友情ほど単純明快で固くは出来ていないらしい。これだからデュオモデルはテーセラドールとは反りが合わないのだ。


 完全に暗い赤髪の彼女が図書館から姿を消せば、魔女と呼ばれた革命家が振り返り大袈裟にため息をつく。
 忠犬の皮を被った猟奇犯は、そんな彼女を見下ろした。

「デュオの友情は難しいですね。
 それにしても、流石はソフィア。サスペンス劇場でも始まったかと思いましたよ。
 感服致しました。」

 ご立派な性格を遺憾なく発揮させたソフィアに盛大な拍手でも贈るような言い草。
 当然のように自身の安全装置としてストームを使った事も、行われた対談を面倒事と言いかけてしまうのも、全く彼女らしい。魔女と呼ばれるに妥当だった。
 まぁ、面白いものが見られたと猟奇犯がどことなく声を弾ませているので、彼もご立派な性格の持ち主な事に変わりないのだが。

「かしこまりました。
 ………それにしても酷い恨みをかっていらっしゃいますね。一体、何をしたんだか。
 病気になる事はないにせよバグが起こらないとは限りませんから、警戒しておくに越したことは無いでしょう。
 身体に違和感を覚えたらロゼットでもフィリーでもいい。もちろんジブンでも。誰かにお伝えください」

 具体的な命令を下され、ストームは頷く。
 不具合なんかで壊れてくれるなよ。
 貴方様はそんな詰まらない方じゃないのだから──

【学生寮2F 先生の部屋】

Giselle
Sophia


 こつ。ちいさな足音がした。
 それは柔らかかった。
 それは、少女の足音である。

「──ごきげんよう、ジゼル先生。こうしてお会いするのは久しぶりね。」

 控えめなノック音が四度響いて、その部屋のドアは開くだろう。国際的なマナーに遵守した知恵のひとは、麗らかな金髪を揺らす少女であった。こぼれ落ちてしまいそうな大粒のアクアマリンをふにゃりと溶かして、少女は愛らしく幼く、年相応にあなたに微笑みかけている。
 ソフィアはデュオクラスの元プリマドールであり、同じく元プリマであったエーナドール・アストレアの一番の親友であった。エーナクラスを受け持つジゼル先生と顔を合わせる機会も、他のデュオドールより多かったはずだ。
 我々ドールズの『敵』であるあなた達先生が、ソフィアに対して何を思っていたかなど知る由もないが。けれども今のソフィアの表情は、心なき猟奇犯でもなければ母性をくすぐられて当然の子供の笑顔である。
 その内に純然たる敵意を秘めているなど、とてもとても考えられないような。

「短期間にはなるんでしょうけど……これからお世話になるんだし、ご挨拶をしておこうと思ったんだけど。お忙しくはなかったかしら、大丈夫?」

 内装はシンプルだった。まず、執務机と革張りの椅子が出入り口の正面に向かい合うように設置されている。この部屋に先生が居たなら、入室したその後に目が合うようになっているのだ。

 部屋の片隅にはベッドがある。あなた方が眠る時に用いる箱形ではない、四本の足で自立した寝台だ。シーツは皺一つなくメイキングされており、抜けた毛の一つすら落ちていない。
 奥の壁に沿うように本棚が設置されており、小難しい専門書、或いは童話の詩集など雑多なジャンルの本が整頓されて並べられていた。


 扉から真正面の位置にある執務机の上に事務的な書類やファイルを積み上げて、ジゼルは机周りの整理を行なっているようだった。万年筆を指の間に挟み、腕を組んで。耳の隣でペンを揺らすという熟考の仕草を取っていた彼女は、あなたの訪問に合わせて顔を挙げ、腕を下ろしてにこやかに微笑む。
 それはエーナモデルのお手本に相応しい、見るものの心を解きほぐしていくような、包容力のある優しい微笑であった。暖かい春風の心地がするのである。肩肘が張って背筋が伸びるような先生の書斎で、ジゼルの目の届く範囲が雪解けの季節であった。

「ソフィア、ご機嫌よう。うふふ、そうね……前はよくアストレアに会いに、エーナクラスの授業をしてる教室に遊びに来てくれていたものね。

 わざわざご挨拶に来てくれたのね、ありがとう。今は急ぎの用は無いからいいのよ、ゆっくりしていって。」

 ソフィアの浮かべる笑顔もまた見事なものであった。人懐こく、多くの大人に可愛がられるであろうあどけない少女時代の微笑みには、愛嬌がある。
 これを自らの命を危機に晒す敵であると分かっている存在に見せられるのだから、なんとも名女優なものである。一体誰の笑顔を、誰の仮面を模倣して被っているのだろうか。あなたの背後にはきっといまだ亡霊が立っている。

 ジゼルの目にアカデミーを去った数々のドールなど映ってはいない。なので彼女は表情を変える事はない。

「私も挨拶をしておくわ。エーナクラスでお話の授業を受け持っている、ジゼルよ。よろしくね、ソフィア。

 アストレアが去ってから寂しい思いはしていない? 大丈夫かしら?」

「ほんとう? それなら良かった。先生方ってば、いつも忙しそうにされてるから勝手がわからなくって……。それじゃあ、お言葉に甘えようかしら。」

 亡霊に取り憑かれた少女は、相も変わらずぬるい笑顔の仮面をかぶったまま。「お邪魔します」なんて添えては、嬉しそうに……甘えるように、小春の風が吹く中心地へと立ち入っていく。

「……寂しくないって言ったら嘘になるけど。でもまあ、他のクラスメートとも仲良くしてるし……大丈夫よ。それに、馴染み深い先生も来てくださったし……。心配してくれてありがとう、ジゼル先生。」

 春の中で、少女は頬を染めながら。途中、恥じらうようにチラチラ床に目線を逸らしても見せながら、終始はにかんだままで受け答えをするその姿には、やはり秘密が潜んでいるようになど見えないだろう。
 それは、まさしく相手の心を包み込んで幸せな気分にさせる様な、巧みな言葉で、態度で、……話術であった。
 そうして話しているうちに、ソフィアは何かを思い出したように目を丸くして、喋る舌を止めるだろう。先生として、あなたがそれを気にかけたところで、またソフィアは口を開く。短い沈黙だった。

「ねえ……あのね、あたし……デイビッド先生に教えていただきたいことがあったんだけど、ね。お忙しいでしょうし、代わりにジゼル先生にお聞きしようと思った、んだけど……ううんと……。

 あのね、先生。たぶん……この話を聞いたら、すごくビックリすると思うの。けど、怒らないで聞いてくれる?」

「もちろん仕事で手が離せない時はあるけれど、私達が何より優先するのはあなた達みんなよ。だから困ったことがあったら、いえ、相談事がなくても……お話ししたいことがあったらいつでも声を掛けてね。」

 ソフィアの足取りは迷いない。表情は陽だまりの中で丸くなる猫のように相変わらず愛嬌のあるものだった。だが背筋は伸び切り、堂々とした足運びは、怖気というものが全くなく、己に特上の自信が無ければ叶わない立ち居振る舞いであろう。
 オミクロンの生徒の中で、こういった振る舞いを出来る者は少ない。オミクロンクラスは、欠陥ドールの行き着く墓場とまで呼ばれている──ドールの“存在意義”、それを心にまで刷り込まれた者は、役目を果たせないことに嘆き、己を責め苛み、徐々に自閉的となりゆくからだ。他クラスのドールからの差別的な扱いも要因となろう。

 だがあなたから自信が喪失された気配はまるで無い。プリマドールであったからこそそうさせるのだろうか。それとも──。
 ジゼルは微笑みを浮かべたまま、目の前へとやってきた少女のいじらしい姿を優しく見守る。少し言い淀む仕草も、庇護欲を唆りゆくものであろう。

 ジゼルは首を傾けて問うた。

「ええ、勿論よ。私に答えられる事であれば、デイビッド先生の代わりに私が聞くわ。話してごらんなさい、ソフィア。」

「んん……わか、った。それじゃあ……ほ、本当に怒らないでね……?」

 ソフィアは、バツが悪そうにモニョモニョと口だけを動かしている。そうしてしばらく言い淀んだ末、ようやく口を開いた。

「……あの、ね。もしかしたら、既にお聴きになっているかもだけど……あたし、学園の柵の外に出たの。獣がいるなんて言うから、どんなのか気になって……それで、結局デイビッド先生に見つかっちゃったんだけど。
 それでね……その時に聞いたの。トイボックスは、海底に沈んでるんだって。」

 まばたきをして。ころりと、アクアマリンをあなたへ向けた。その告白は、非常にリスキーなものであるはずだ。が、ソフィアは未だ、少女らしく。亡霊を背負ったままで。
 ──この、気狂いのような告白が。ソフィアは、疑惑には至らないと踏んでいたのだ。そう、だって! あくまで自分は『知恵を貪欲に求めるデュオドール』であって、禁忌を犯した理由は探究心と好奇心以外の何物でもないのだから! 既に白日の元に晒された罪を、今更隠して何になろう。──なんて、とんだオールインだ。この心理考察の正否は、すべてあなたという敵に委ねられるのだから、これほどまで非合理的なギャンブルは他にないだろう。命すらも賭す魔女に微笑むのは幸運の女神か、はたまた。

「それで……あたし、どうしても気になっちゃって。海底にどうやってこんな大きな建物を建てたのかとか、ヒトはどうやってトイボックスに来てるのか、とか。海底にこんなに豊かな自然を創造出来るのも不思議だわ……ヒトの文明の賜物だとか先生は言ってた気がするけど。ねえっ、先生! きっと先生なら仕組みだってわかるんでしょ? 今なら他の子もいないはずよ、教えてよ! あたし、気になって気になってしょうがないの!」

 知識欲に突き動かされる少女は、きらきらと目を輝かせて、机に詰め寄っていくだろう。トゥリアドールとは違うのだから、接近しすぎる事はないけれど……それでも、充分すぎるくらいには、ジゼルとソフィアの距離は近かった。幼いパーソナルスペースだ。プリマドールである彼女がこんな幼い挙動を取るのは、きっと明るい衝動故だろう。
 ただ、それだけ。あなたが感じるのは、それだけのはずだ。トイボックスがただのドールメーカーであるなら。そうでしょう?

 今しがたまで気まずそうに言い淀んでいた少女は、突然に人が変わったように、ずずいとジゼルの立つ執務机に身を乗り出そうとする。大胆なまでの距離の詰め方。社会距離をすっ飛ばして、親密なる家族を思わせる距離感にまで迫るソフィアを、ジゼルは拒絶する事なく穏やかな微笑みを湛えたままで見つめている。

「──ソフィア。」

 幼い子どもの無垢なる探究心を微笑ましがるような。あなたの母であろうとするように、ジゼルは思い切った行動を取ったあなたのしみひとつないなめらかな頬を、深雪が降り積もったようなその肌を両手で掬い取り、包み込みながら目線を合わせるだろう。

 ジゼルからは甘ったるくて優しい苺の香りがした。子どもが喜びそうな匂いが彼女の首筋からほのかに通った。

「ええ、その通りよ。このトイボックスは海底に沈んでいる。だけどねソフィア、その知識はいずれお披露目に旅立つあなたに、本当に必要かしら?

 あなたはね、ヒトの役に立てるように造られたドールなの。その好奇心は、デュオモデルへ恒常的に焼き込まれた本能なのかも知れない。でもあなたが第一に考えるべきは、どんな知識がヒトに役立つかの一点だけ。情報の取捨選択が出来ないとダメよ。

 ──ソフィア、あなたもお披露目に行きたいでしょ? 何のために日々のお勉強をしているの?」

 『母』を模した敵は、優しく微笑んで。洗脳されてしまいそうな甘ったるい匂いも、肌に触れる滑らかな手触りも、全部──全部全部、たまらなく不快だ……! 憎い、憎い、憎い。お前たちが憎い。そんなシグナルの音が、一斉に脳の内奥で鳴り響くような感覚がしたのが、ハッキリとわかる。
 あたしが魔女だなんて、馬鹿らしい。この女の方がずっとずっと魔女らしいではないか。

「…………ふぅん、」

 『お披露目に行きたいでしょ』、なんて言葉までを静かに聞き届けて。そうして、顔の筋肉が痙攣して、引き攣るのを必死に押さえ込んで。いいや、誤魔化すように? ソフィアは、不機嫌そうな顔を象ってみせるだろう。きっとそれは、不服を言いたげな子供の伏し目がちな拗ね顔を巧く象っていたはずだ。

「……そう。先生もそうやって言うのね。結局大人か子供かなんて関係なくて、周りのドールと変わらないのね……。」

 先程までじっと見つめていた淡いピンクパールから大胆に視線を逸らす。まつ毛を伏せて、眉をひそめて。そのまま、ソフィアは幼気な恨み言を連ねる。

「『何の為に』って、そんなの決まってるじゃない。自分の為よ。ヒト様のおもちゃになる為じゃない。最初から最後まで、あたしはあたしの為だけに生きて、あたしの為だけに学ぶの。──自分を捨てたりはしない、ただのお人形さんにはならない。たとえ、落ちこぼれだって言われたとしても。

 ……みんながどうしてオミクロンに来たかぐらい、聞いてるものだと思ってた。そんなにみんなに興味がないの? ジゼル先生は、もっと優しい方だと思ってたのに。……デイビッド先生なら、きっと教えてくれたのに……。」

 そこまで、言い終わってから。恐らく、ジゼルの手にそこまで力は込められていないだろう。頬を包む生ぬるいてのひらから逃げるように、手をゆっくりとほどいて、くるりと踵を返す。もう、敵と関わり合う理由はなかった。

「……もういいわ、先生。あたし達のこと、どうせ〝不良品(オミクロン)〟だと思ってるんでしょう。……お邪魔してごめんなさい。もうしないから。」

 拗ね返った少女の声は、ひどく静かで。泣き出してしまいそうな様にも聞こえた。そうして、引き止められることがなければ、そのまま大人の部屋を後にしてしまうだろう。

 ──17時55分、夕冷えのガーデンテラス。王宮の天井に化けた薄紫の空は、女王様を明るく照らしている。今日も、紅茶の香を添えて。
 あと数分もすれば、星を追うかの旅人が望遠鏡を携えてやってくるのだ。そう、解っている。だのに、そのわずかな時間が何時間にも何日にも感じられて、体中が焦燥に苛まれて、とかくむず痒かった。そのはしたない有様に付ける病名がなんであるか、ソフィアは未だ知りはしない。ただ、あの扉が開くのを待ち侘びるばかりだった。

 そうして、扉が開けば。

「──アラジン!」

 アクアマリンは、一等星みたくまたたいて、あなたの元へ光を散らす。風を切って、駆け抜けた。早くあなたと話したかったから。それ以上でも以下でもない。

【学園3F ガーデンテラス】

Aladdin
Sophia

 暮れの空に俄かに星が瞬き始める午後18時。
 丁度その頃合いに、ガーデンテラスの硝子製の扉が音を立てて開かれた。薄暗い廊下の向こう側からは、白金の輝かしい三つ編みを揺らした好青年が軽やかに踏み込んでくる。

 彼は熱心にノートと睨めっこをしながら現れたが、小脇に抱えて顔を上げた途端、目の前から降り注ぐ流星の瞬きが視界に入り、どうもくした。
 その時彼女は、日頃のクイーンマジェスティの貫禄の一切を取り払い、煌めく年頃の生娘のようないたいけで無垢な顔つきであるように見えた。芝生を踏み締め、髪から爪の先まで美しく輝きを放つような姿で飛び込んでくるソフィアを、アラジンはぱっと表情を明るくして大いに腕を広げて出迎える。

「ソフィア! よお、来てくれたんだな! 嬉しいぜ! ……あれから調子はどうだ? 先生には何もバレてないか?」

 しかしすぐに彼の表情は真剣なものに塗り変わる。真実を知っている身では、トイボックスはどこであろうと、どんな時であろうとも気が抜けない場所だ。
 彼女なら上手くやっているだろうが、滅入ってはいないだろうかと案じるように問い掛ける。

 ブーゲンビリアが明るく咲いた刹那、コアがとくんとあつくなった。同時に、こう思ったのだ。かわいいな、って。男の子にこんなことを思うのは、きっと失礼に値するのに。なんでだろうね。

 そうして白銀色の天の川みたいな三つ編みがふわりと舞えば、ガタンと音を鳴らして立ち上がって、一目散に駆け出したソフィアであったが、あなたの半歩手前まで近づいた途端急ブレーキがかかる。腕が広げられたものだから、それへの反射であった。
 だって、男の子に簡単に抱きつけるわけないじゃない!
 腕の中に飛び込むことはなく、深紅の制服の袖の端をくいとつまんでそれを降ろしてやるくらいがソフィアの精一杯だった。腕を降ろしてしまえば、手と手が触れる前に離してしまうだろう。

「……先生に、か。どうでしょうね。泳がされているだけで……もうバレてるかも。」

 張り詰めた空気には、潜められた声を。女王様は声を低くして、事実のみを述べてみせる。この牢獄において、見せかけの希望など意味をなさないとわかっていたから。
 ただまあ、後味が悪いままで締めくくるのはナンセンスだ。ソフィアは静かな声色のまま、フォローと問いかけを連ねる。

「……でも、大丈夫。あたしは上手くやれるから。……その為に、あなたに聞いて欲しい事もあるんだけどね……。

 そっちはどう? 何か変わったことはない?」

 もう間も無く胸に飛び込んでくるであろう、そんな駆け出しをしていた彼女を受け止めるためにアラジンは身構えていたのだが、予想に反してソフィアは寸前で足を止めた。目を瞬いている間に広げた腕を控えめに掴まれ、下ろされてしまい、彼は首を僅かに傾ける。
 いかにも貞淑とした態度である。アラジンはじっと彼女を見据えていたが、金色の旋毛ばかりが視界に映り、真意を測れない。故に彼女の行動を尊重しようと、アラジンはハグを求めた腕からすんなりと力を抜いて微笑みを浮かべる。

「そうか、お前がそう言うならオレは信じるぜ。お前の方がきっとよっぽど上手くやるのは分かってる。オレだって、現状を変えるために努力してみせるさ……。

 ああ、変わったことはないけどな。少ししたら動き始めようとは思ってる。
 トイボックスからの出口を探す為に、ドールが立ち入れない場所……開かずの扉を調べたい。その為に、お前のクラスのアメリアに手伝ってもらおうと思ってるんだ。」

 真剣な顔つきに変わった彼女を見て、アラジンは自らが行動を起こそうとしていることを彼女に明かした。
 危険であろうとも、動かなければ状況は変わらない。お披露目は刻一刻と迫っているという事実に、危機感を感じているとも伝えた上で。

「……開かずの扉、って、」

 ドクン。この鼓動は、厭な鼓動だ。ソフィアの表情は一瞬のうちに凍りついてしまった。

「……ダメ。いやよ、アラジン。どうなるかわからないじゃない。危ない、危ないわ。もし何かあったらどうするの? ……急がないといけないって言うのは、理解出来るけど……」

 あなたの顔を見上げるアクアマリンは、まるで恐ろしい出来事を実際に体験したかのように震えていて、頼りない。頭を小さく横に振って、ソフィアは拒絶を示した。あなたの行動を制限する権利なんて持ち合わせているわけもないのに。少女が絞り出した声は、怯えて震えてしまっている。

 ……でも。わがままを言ってしまったけれど、ソフィアはわかっていたのだ。いつだって強い意志を灯して駆けるあなたが、止まるわけがないって。止まれるわけが、止められるわけがないって。
 少女は、俯いた。少しの沈黙の後に、泣き出してしまいそうな声でぽつりと呟くだろう。

「……ぜったい戻ってきてくれるって、約束……してくれないと、そんなこと許さないから、ね。」

「聞いてくれ、ソフィア。開かずの扉の先に、トイボックスから出られる道がある可能性が高いんだ。」

 難色を示されることは分かっていた。なにも妨害するつもりは彼女にはないのだろう。親しい友人として、優しいソフィアは自身の身を案じてくれている。だからこそ、先陣を切って危険を犯し、脱出方法を模索する危険な戦場で剣を振るう彼女の為にも──お披露目が決まるよりも、より早く、脱出の算段を付けねばならない。
 そしてその為には、多少のリスクも覚悟すべきだと、聡明なあなたなら分かるはずだ。

 不安に揺れるブルースフィアの瞳を射抜く、ブーゲンビリアは遥かなる星々を映して瞬く。彼は芸術をなす夢を決して諦めない。そしてその歩みを止める事は何人たりとも出来ない。

 悲壮に滲むソフィアのか細い声を聞いて、アラジンは眉尻を下げて笑う。

「……約束は出来ない。危険と分かっての作戦だからな。でも、お前の友達のアメリアを巻き込む以上、可能な限りの安全策を取りたいと思っている。

 あのな、ソフィアに頼みがあるんだ。オレ達は18時以降、稀にこの学園に現れる黒い怪物の足取りを追う事で、開かずの扉の真実を探りたい。奴はあの扉の先にある、黒い塔の番人なんだ。アイツを知る事は、開かずの扉の先を知る事に繋がるはずだ。

 でも学園が閉まる時間に近いからな……先生に怪しまれちまうのは避けられない。こっちでもアメリアの策で手は打つ予定だけど、安全策は多いに越した事はない。

 明日──実行する予定なんだ。どうにか、先生を足止めしてくれないか? きっと、アメリアの安全に繋がるはずだ。」


 アラジンの要望に、あなたはすぐに思い至ることがある。
 何の巡り合わせか。──明日は、デイビッドがこの学園から去ることになっている。そしてあなたは、ジゼルは他のプリマドールの面々と、彼を見送りに行く予定があるのだ。

 怪物。塔の番人。その足跡を追うなんて、そんなことを聞いたら、ますます頷けるわけないのに。このひとは、正直だなあ。こっちが苦しくなるくらい。
 泣き虫な少女は、顔を歪ませて。

「……嘘くらい、ついてくれたらよかったのに。」

 ……そうして目元をひとつ拭って、弱虫な自分を殺した革命家は、俯いていた顔をなんでもないように上げてみせる。

「はあ……どうせ止めたって聞く気なんてないんでしょ。好きになさい、痛い目見ても知らな……、嘘。泣き言くらいは、聞いてあげるから。
 運が良かったわね、ちょうど明日には先生と話し込む予定があったの。ついでだからね、多少時間は稼いでおいてあげる。
 ……にしても、あなたがアメリアと知り合いだったなんて、ね。他にもオミクロンの知り合いはいるの?
 まあ、別にいいんだけど。……とりあえず、あの子のことはよろしくね。」

 強く在らねばならないと、思った。これ以上引き止めて、彼の強い意思を弱めてしまうような、邪念を抱かせてしまうような、そんなことがあってはいけないと思った。
 初めて逢った時みたいな、高みからツンと見下ろした口振りは、それゆえまろびでた物だろう。やさしい亡霊が憑いているのだから、これくらいはお手の物だった。

 ──今、ソフィアは先生に怪しまれている可能性が高い……と考えて良いのだろう。そんな自分が、アラジンと長時間会話を交わすことの危険性は、当然重々理解していた。
 だからこそ、『アメリアとどうして知り合ったのか』とか、『どんな会話をしているのか』とか、なぜ湧いたのかもわからない些細な質問をぐっと飲み込んで、喉が破裂しそうなもどかしさに耐えているのだ。
 だけど、けれど。

「……ねえ。一つだけ聞いて欲しい話があるんだけど。」

 これだけは、どうしても聞いて欲しかった。いたいけな少女の吐く、毒という名のワガママだ。

「……ありがとな、ソフィア。オレの好きにさせてくれて。充分に気を付けるから大丈夫だ、明日は開かずの扉には行かずに偵察だけで済ませる予定だしな。

 本当か? ……良かった! でもお前だって安全とは言えないんだ、先生と接触するなら警戒してくれ、ソフィアなら大丈夫だとは思うけどな……一人で行くんじゃないぞ、頼れる仲間と一緒にな。」

 こちらの考えている作戦行動、それがいくら無謀に聞こえようとも。彼女はリスクとリターンを考えて、友人として当然の心配を呑み込んでくれる。その合理的な思考はデュオモデルの鑑と言えたが、アラジンに対して言いたいことは色々あっただろうに、好きにさせてくれたことが有り難く、彼は微笑みながら感謝を述べる。
 彼女の心配を杞憂にする為にも、と重ねた要望も受け入れてもらえて、作戦はより盤石なものとなっただろう。お前がいてよかった、とアラジンは安堵したように告げる。

「居るよ、オミクロンは気のいい奴らばっかりでさ! 同じクラスの奴らはオレの芸術活動にあんまり興味を持ってもらえなかったんだ。ご主人様の為に頑張る方が大事なんだろう、それがアイツらの芸術だからな。

 でもオミクロンの奴らはオレの活動に興味を示してくれた。肯定して同じ道を進もうとしてくれてる奴も居る。目的は別でも、同志として手を貸してくれるやつも居る。
 外に出る為に協力してくれるアメリアやミュゲイア、有機生命体らしい悩みを持ってたリヒトやサラ、それからオレの話を信じてくれたブラザーに……ソフィア、お前もだ。
 お前の同級生はいい奴らばっかりだ。……守ってやってくれ。心を持ったアイツらが残酷に殺されるなんて、あってはならないことだ。オレも必ず借りたアメリアのことは連れ戻すからな。」

 まるでその時々で手を取り合い、混じり合い、同じ道を進む本物の人のように、オミクロンクラスのドールズはアラジンの言葉に同調し、賛同し、同じ夢を見てくれた。同じ銀河を夢見てくれた。
 それを仇で返してはならないと、彼自身も感じているようだ。

 ──さて。
 アラジンの決めたことを、複雑ながらも後押ししてくれた彼女が、伝えたいことがあると言う。こちらも話を聞いてもらった身だ、ここで拒む理由などない。アラジンは僅かに首を傾け、芝地に落ちる煌びやかな三つ編みを揺らしながら、優しく言葉を待つ空白をあなたに与えた。

「……どうした? オレで良ければ話してくれ。」

「……アメリアに、ミュゲに、サラ……か。それと……ふぅん。友好関係が随分広いのね。気がいいのはオミクロンだなんて関係なく話しかけてくるあなたの方だと思うけど。

 ……ねえ。明後日のこの時間、あたしは絶対にまたここに来るからね。……これ以上言わなくても、わかるわよね。」

 ツンとした顔の女王様は、ずっと伸びた横の毛を指でいじくっていて、その様子はどこかつまらなさげなようにすら見えたが。けど、最後には咲き誇るブーゲンビリアを真っ直ぐと見据えて、切実な『命令』を下す。そこに含まれた圧力に、冷たさは少しもないはずだ。
 手のひらの温度がやけに熱く感じて、声を聞くとコアの鼓動がはやくなって、そのブーゲンビリアを一度見てしまえばもう、目を逸らせなくて。そんな異常事態につける病名を、少女はまだ知らなかったから。だから、憂慮を滲ませる言葉はそれだけ。それ以上の感情は見つかれど、言葉にする方法がもうなかった。

 やさしい空白が与えられれば、早く話してしまわねばと思う理性とは裏腹に、言葉が漏れゆくのは酷くゆっくりだ。

「……あのね。あたし……親友がお披露目に選ばれたの。帰って来れるかもしれないってナイフを渡したけど、結局あの子は帰ってこなかった。
 でもね。その子、その代わりに同じタイミングでお披露目に選ばれた子を助けたの。あたしが渡したナイフを使って。今は助かった子はオミクロンにいるんだけど……ねえ、これってすごいことじゃない?」

 ぽつ、ぽつ。おとぎ話を語るような声で、王子様の物語を読み聞かせる。でもこれは、おとぎ話なんて言う夢幻ではなくて、本当にあったことなのだと、アクアマリンが強く語っている。

「食事を摂る時、いつもあったきれいな顔がもうないの。変な感じよね。……でも、あたしがそれで落ち込んでる訳にはいかないから、あの子の選択が何より良いものだったんだ、って思いたくて、ね。

 だから、あなたに聞いて欲しかったの。あたしの親友の美徳を。護り切った尊厳を、命を賭けた勇気を。」

 親友が消えた。殺された。その事実だけを、ひとりで抱えるには重すぎた。
 だから、あなたに言って欲しかったの。あの子の勇気を、芸術だ、って。そうすれば、いつだってきっと、前を向いていられるから。

「……言いたかったのはそれだけ。長話に付き合わせて悪かったわ。」

「────……」

 何処か投げやりに、何処か不貞腐れたように見えた彼女の目付きや仕草からは、十歳設計という幼さに見合ったいじらしいものが感じられた。
 その態度の通り本当は約束して欲しいだろうに、本当は不安な事など無い方がいいだろうに──それらを敢えて呑み込んで、ソフィアは多くを背負い威風堂々と立つ、建国神話に継がれる聖女のような力強さでアラジンに告げる。はっきりと言葉にされなくても、痛いほどよく分かった。彼もまたひとつ眼を瞬いて、天の河のような煌めきを放つ髪を揺らす。困ったように笑って、眼を伏せる。迷いのない性格の彼らしくもなく、返答に迷っているようだった。

 だが己が口を開くよりも早く、いとけない唇からは物語が紡がれていく。美しく尊い、彼女の王子の話は、アラジンを驚かせた。

「それは……ははっ、凄いな。自分の命を顧みずに他人を救うなんて、普通に出来る事じゃない。きっと並外れた覚悟が必要だったはずだ……死の淵の諦めだけではとても出来ない芸当だろう。誰だって、心を持つ奴なら当然、自分が誰よりも生きたいと思う。生存本能ってやつはきっと、人を模して造られたオレ達にもあるはずだ、だってオレも死にたくないんだから。

 本能を上回るのは、いつだって強い意志と想いだけだ。お前の親友は最期に、気高い意志を持って自分のやりたいことを通した。……出来ることなら、会ってみたかったな。そんな素晴らしい芸術を成し遂げたお前の親友に。」

 彼はあなたの親友が最期に取った行動は偉業であると、芸術であると告げた。ドールを外側から操る悪趣味なヒト達でさえ踏み躙る事の出来ない、れっきとした意志なのだと。
 心から尊敬したようにアラジンは頷いて、話を締め括ったあなたに向き直る。

「お前の大事な友達の芸術を聞かせてくれてありがとう。きっとそいつは、お前にだって生きてほしかったはずだ。互いに大切に想い合っていたなら。

 だから、生きてくれ。死んじまえばそいつの成した芸術まで、記憶と一緒に消えてなくなるんだ。」

 あなたから離された僅かな距離を、そちらに一歩踏み込む事で無くしてしまいながら。
 彼はソフィアの目前にかしずいて、するりと優しくその白磁の手を取ろう。滑らかな傷一つない手の甲へと、丁寧に顔を伏せて、フリージアが触れたような細やかな敬愛の口付けを落とす。

「“分かった”。きっとここでまた会おう。だからお前も、あまり危険なことをするなよ? お前の親友のためにも、オレの為にもさ。」

 顔を上げたアラジンは、あどけない愛嬌のある笑顔を浮かべていた。また距離を取られる前にこちらから一歩下がる。するりと、触れていた指先もあっさり離れていく。

「今日もお前と話せて良かったぜ、ソフィア。でもそろそろ解散にしよう、変に思われたら大変だからな。

 ……またな、ソフィア!」

「……うん。そうでしょ。そう……。
 ありがとう。あなたに、そう言ってほしかったの。」

 いつの間にやら、じわりと。アクアマリンを湿らせていた涙を、指先でそっと拭って。少女はまろく微笑む。

 生きたいと、思った。
 前向きに、切実に。
 こんな気分になるのはいつぶりだったろう。前方の光へと導いてくれたのは、今回もアラジンの言葉であった。その光は、ブーゲンビリアの紅が映す光は、この世のなにより美しいものに見えた。
 きっとそれは、あなたの瞳に映っているからだ。こんな造り物の残酷な世界の中であっても、あなたの瞳に映るものは、そのどれもが瞬く星々のように美しく見えるんだ。
 そう、理解した。

「──え、ぁ………!? ……あ、あなた……誰にでもこんなことしてるの……?

 んん゛…………了承が得られて何よりよ。勿論、あたしはヘマを踏みはしないから安心してくれていいわ。楽しみにしておいて。」

 柔らかく触れた唇の温度に、意識を飛ばしてしまうのではないかと言うほどの衝撃が走って、少し……いや、かなり取り乱したものの。直ぐに女王様を装って、あなたの『同士』として堂々たる余裕風を吹かせてみせる。同士たるに不足はないだろう、とでも言うように。
 そうしているうちに、もう、お別れの時間だ。でも、寂しくはなかった。またすぐ逢えると信じていたから。

「ええ、それが良さそうね。お開きにしましょうか。

 ……あたしもあなたと話せてよかった。またね、アラジン。」

 そうして。女王様はゆるやかに手を振って、星々の見守るガーデンテラスを後にした。