Sarah

「あす、とれあ。お披露目。ぐれーてる、うぇんでぃ、じぜる先生」

 なんとまぁ、初めて聞く名前がいっぱいだ。
 ロゼットサンに言われた。知らないこと、覚えていたこと、を、あまり周りに言うなと。エーナクラスのジゼル先生はあまり面識がないが名前のみは聞いたことがある。
 彼女にならアストレアが、ミシェラが誰か聞いてもいいだろう。先生サンなら教えてくれる、だって先生だから。
 動きづらそうな髪型をした新しくきた先生を見つけ次第サラは声をかけるだろう。自分が可怪しくないと証明したかったため。崩れた歯車を無理やり埋めるため、埋めても零れ落ちそうなピースをまた埋めるため。

【学生寮1F エントランスホール】

David
Giselle
Odilia
Sarah

 ──朝食後、あなたは食事を終えて、ダイニングを抜け出す。廊下の先にはすぐに広々としたエントランスホールが存在する。吹き抜けになっており天井が高く、高所に位置する窓から神々しい梯子のような陽光が降り注いでいた。
 そのたもとで、先生が二人向き直って話し込んでいる。

「普段は二階の寝室に。造りはエーナ寮のものとそう変わらない。」
「はい、分かりました、デイビッド先生。」
「それとこれは……■■■■■だ。今後は君に一任することになるから、持っていてくれ。」

 どうやらデイビッドが、これからこの場所で生活することになるジゼルに様々なことを伝達している最中らしかった。あなたの目には、デイビッドがジゼルに何かを手放したのがはっきりと映り込む。

 そこでデイビッドは、あなたの存在に気付いて優しく微笑んだ。

「こんにちは、サラ。ジゼル先生のことが気になったのかな? 折角だ、少し話して仲を深めるといい。先生は荷物を纏めてくるからね。」

 人を安心させる頼もしい先生の笑顔が、あなたの背を押しているようだった。
 そうしてデイビッドは、二階へ続く階段へと足をかけ、歩き去っていく。代わりに、光を反射して艶やかに煌めく白銀の輝きを宿したジゼルが、あなたに向き直った。

「ご機嫌よう、サラ。私はジゼル。それと……そちらの子は、オディーリアかしら? ふわふわ可愛い髪ね、こっちでお話ししましょう?」

 同時に彼女はサラより後ろの方に目を掛けて、にっこりと明るく告げた。

《Odilia》
 今日は朝から沢山の情報が舞い込んでくる。
 新しいオミクロン、グレーテルお姉ちゃんと……ウェンディお姉ちゃん。
 そしてお披露目は成功してしまったという事実。
 とはいえウェンディお姉ちゃんがここに来てるということは、お姉ちゃんだけでも助かったということ。

 そしてジゼル先生という新しい先生のこと。

 これからリヒトお兄ちゃんにいろいろと相談しようと思ってた矢先こんなことに……。

 とはいえ新しいことには突っ込んで行くべきだろう。
 まずは先生と仲良くするべきだと思う。

 先生はどこにいるのだろうか……。

 寮内を探してみるとジゼル先生とデイビッド先生が何やらお話している。
 もっとよく聞くために近づけば途中からでもよく聞こえていた。

 内容はよく知らないがきっと重要なことだろうそんなことが聞こえてしまった、リヒトお兄ちゃんに聞けば何かわかるだろうか。

 そんなことをサラちゃんよりも後ろで聞きながら考えていれば、声をかけられる。

「え、あっ……オディーはオディーだよ……です!
 ジゼル先生、初めまして。」

 あんまり気づかれないと思っていたがどうやら見ていたらしい。
 にっこりと笑うジゼル先生を見て優しそうだと思ってしまう。

 とはいえお披露目について知ってる先生だ一応警戒はするべきだと思う。
 そしてデイビッド先生は自分に気づく前に上に上がってしまった。

「お話……オディーのお話聞いてくれるの?」

 聞いてくれそうなことに頷きもっと先生の方へ近づくだろう。

 残念ながら愛しい父であり先生である彼はもう去ってしまうようだ。後ほど体の不調についても訪ねてみようと思っていたのに……。
 デイビッド先生サンが知らない部屋の名前と共にジゼル先生サンに渡したのは……鍵だろうか。サラの知らない場所の鍵。先生の特別な部屋なのかもしれない。

「あっ、うん。行ってらっしゃい。」

 一体どれほどの間会えないのだろうか。少し寂しい。
 ふとオディーリアサンもそばにいたことに気づき彼女に会釈をする。来たばっかのエーナモデルの先生。あまり関わりのないテーセラクラスからしたら興味の対象。他のモデルから見てもお話したい人の一人かもしれない。きっと彼女は人気者になってここで良い先生に、母になるのかもしれない。わからないけれど。

「ごきげんよう。ジゼル先生サン」

 エーナモデルの先生だからかお話が好きなのだろうか? テーセラモデルと話しても何も得られないのに。

「オディー、サラ、初めまして。ご機嫌よう。

 勿論よ、お話ししたいことがあるなら何でも先生に聞かせて頂戴。逆に私にお話ししてほしいことがあってもね。私はこれでもエーナクラスの先生だから、知っているお伽噺は数えきれないぐらいあるのよ。」

 ジゼル先生は、とても背が高い。
 170cmは悠に超えているだろう。その為、あなた方にとっては見上げる高さに顔がある。身体つきはスレンダーで、デイビッドと同じ黒い制服に、タイトスカートを身に纏っている。胸元には親しみやすい笑顔を浮かべたうさぎと猫のアップリケが刺繍されていた。

 上背があるとはいえ、彼女はあなた方を見下したりはしない。すぐにその場に膝を揃えながら屈み込んで、にこにこと開花するコスモスのような笑顔を浮かべる。
 自身の胸元に手を添えながら、声を掛けることに躊躇などしなくてもいいと伝えようとする。

「これから一緒に過ごすことになるんだもの、皆さんと少しでも仲良くなりたいわ。

 二人はテーセラクラスなのよね。私、こう見えて運動だって得意なの。後でお外で遊びましょう、鬼ごっこでも、かくれんぼでもいいわ。」

《Odilia》
 オディーよりも背が高くて、とっても綺麗な髪を持っているジゼル先生が、自分たちの目線に合わせしゃがんでくれる。

 デイビッド先生と同じ服を身にまとっているが、ふと目に入るのはうさぎと猫の刺繍。
 可愛いうさぎと猫ちゃん、ジゼル先生と同じように優しそうな笑顔を浮かべ先生の胸元で目立っている。
 先生が自分で縫ったのだろうか?
 そうだとしたら先生はきっとオディーみたいに不器用じゃなくて、きっと器用だ。少し憧れてしまう。

 コスモスのように明るく優しそうな笑顔を浮かべ、先生は提案してくれた。

 その提案はあまりにもオディーにとって楽しそうな提案だ。

「鬼ごっこ! 隠れんぼ! 先生と一緒に、いいの?」

 身体を動かすのは大好きだ。鬼ごっこでも先生に負ける未来なんて見えない、だってだってリヒトお兄ちゃんに褒められたくらいだもん。
 隠れんぼもオディーならきっと見つからないところに隠れれるはず。

 そんな甘い誘い乗らない訳には行かなかった、かけっこはリヒトお兄ちゃんとできたけど、もっともっとオディーは遊びたかったから、今こうして先生に提案してくれたことに感謝しつつ、警戒心は楽しそうなことに塗りつぶされ、鬼ごっこか隠れんぼどっちをやるか悩むだろう。

 デイビッド先生サンとは違ってただの制服ではなくうさぎと猫がくっついている。一体どこから拾ってきて貼っつけたのだろう。
 図鑑から取り出して一緒にいるのか、はたまた先生だから外から連れてきたのか。
 サラより20cmほど高い彼女はドールの前に屈み込む。そうすれば今度はサラ達が先生の頭のてっぺんまで見えた。

「いいよ。ボクらはお話を覚える必要はないし。」

 ジゼル先生の話に興味がないという訳では無いが、テーセラドールに物語なんて必要ない。必要最低限の知識さえあればいい。
 テーセラに必要なのは友愛への理解、知識。体力。まだいくつかあるはずだ。
物語の語り手はエーナモデルで十分。

「……オディーリアサン駄目だよ。ジゼル先生サンはエーナの先生サン。
 体力も、筋力も違う。」

 せっかく白い子狼が盛り上がっているところ申し訳ないが、サラにはジゼル先生に負ける気がしない。エーナモデルの先生とテーセラドール。差は明らかなはずだ。
 負けるわけがない。
 それに、来たばっかの先生を二人がかりで壊してしまうかもしれない。
 先生が壊れるわけなんて無い、わかっているけれど可能性が0なんてことはいつだって無い。

 素直に目を輝かせて、目一杯身体を動かすことに胸を躍らせている様子のオディーリアとは一転。サラという少女は何処か排他的で、そのあまり懐いていない仔猫を思わせる態度にジゼルはぱちりと瞬きを一つした。
 子供らしい傲慢さと、ほんの僅かに感じられるこちらへの気遣い。ジゼルはジッとサラの、起伏のない声色と凪いだ表情を観察して、それから優しく愛らしい色をした瞳を細めて、笑った。

「あら……あなたたち、デイビッド先生とお外で鬼ごっこや隠れんぼをしたことがあるでしょう、テーセラモデルなのだから。

 彼はとても運動が出来る方だけれど、何より先生はとっても賢いの……だから小柄な上に体力もあって、小回りが効く有利なあなたたちでも、相当手強い相手だったはずよ。」

 ──テーセラモデルの授業は、その多くが課外学習だ。実際に寮の周辺を使って、身体の動かし方や持ち主に万が一危篤があった場合の救助方法など、頑丈に作られた身体全体を使った多彩な物事を学ぶのである。
 その過程であなた方は、デイビッドと本気の鬼ごっこで遊んだ事もあった。彼の背丈は高く、体格もそれなりに恵まれている。身体は重く俊敏には動けないであろうに、素早く逃げ回るあなた方を常に追い込むような動きで詰めてくるため、逃げ切るのは至難であったことを覚えているはずだ。

「私は確かに、お話の仕方を教える為の先生よ。だけどこれでもデイビッド先生と同じ役割を持っているんだから。

 鬼ごっこも隠れんぼも、体だけじゃなくて頭を使って遊ぶもの。体力や筋力で劣っていても、油断してたらあっという間にみ〜んな捕まえちゃうんだから!」

 彼女は優しげな表情から一転、どこか悪戯っぽく、口角を吊り上げて挑発するように笑って見せた。テーセラモデルの優れたあなた方相手にも負けないと、啖呵を切って見せたのである。

「あとでお友達を呼んでお外にいらっしゃい。平原でも森でも、好きなところで目一杯鬼ごっこしましょ。

 ……そういえば、私に何かか聞きたいことがあるのかしら?」

 ふと、ジゼルは思い出したように二人に問うた。何か用事があったのではないかと心配になったのだろう。

《Odilia》
「あ……そっか。ジゼル先生はテーセラの先生じゃないから耐えれないかもだもんね。」 

 受け入れたようにオディーのワクワクしていた顔がしょんぼりした顔に変わる。
 仕方ないのだ、壊れちゃったらダメだし、着いて来られなかったらつまらないから。

 やっぱりテーセラみんなで遊ぶしかないのだろうか。それまで我慢といったところだろう。

 たがジゼル先生は諦めないように教えてくれる。
 自分はデイビッド先生と役割は同じだと。

 デイビッド先生とも遊んだことはある、素早さも体格も全部違うのに先読みしたように追い込まれたことを。

「じゃ、じゃあ一緒に遊べるね! ジゼル先生がどれだけ頭を使ってきてもオディーは負けないよ!
 オディーの走りはリヒトお兄ちゃんに褒められたから!」

 そう胸を張りながら自慢する。
 オディーにとって褒められることは嬉しいことだった、自慢するほどに。テーセラクラスにいた頃は落ちこぼれだったから、あまり褒められたことはなかったから。

「えーっと誰誘おうかな……リヒトお兄ちゃんでしょ、ストームお兄ちゃんでしょ。ソフィアお姉ちゃんとか、アメリアお姉ちゃん達も誘っていい?」

 ほかにもいっぱい誘いたい、新しく来たウェンディお姉ちゃんやグレーテルお姉ちゃん達も、みんなで遊んだらきっときっと楽しいから!
 そしたらオディーも嬉しいから。

「あ、じゃあオディー、質問……ウェンディお姉ちゃん、元気なさそうだったんだけどお披露目で何があったの?」

 アストレアお姉ちゃんがあぁなってしまったんだろうな、というのはディアお兄ちゃんから聞いたことで何となくわかっている。だが、ウェンディお姉ちゃんがそうならず帰ってきた原因は、不慮の事故の怪我だけというのは本当におかしい。
 ジゼル先生には話せないけれど……オディーのせいだったら。あの時のせいだったら、本当に謝らなきゃいけない。
 オディーはそのことが心配だった。

 デイビッド先生との鬼ごっこ。最初の方にやったのは今でも覚えている。背が高く大柄な彼ならば大丈夫、とたかをくくり細かく動き回っていたというのに、最後は捕まってしまう。
 速さには常に自信があった。それが唯一の取り柄だから。しかし呆気ない敗北。ただ走るだけではなく相手のことも意識しながら動き回るようになったのは、その頃だったか。
 よく羽の生えた馬や紫色のチーターともかけっこをしてサラだって鍛えているのだ。今ならデイビッド先生からももう少し長く逃げれるかもしれない。

「……でもボクは負けないよ。」

 頭脳では負けてしまうかもしれないが、やっぱり鬼ごっこに一番大事なのは体力と速さ。彼女が自分に勝つことはないはずだ。いくら頭がデュオのように回ろうが、逃げればいいのだ。追い込まれたって下が崖だろうが飛び降りてしまえばいい。逆に反り上がっているのなら登ればいい。
 頭だけじゃ鬼ごっこはできない。

「ボクも、質問ある。
 アストレアサンが、ミシェラサンがどんなドールだったのか。」

 あぁ肝心な質問を忘れていた。エーナの先生だったなら二人のことをよく知っている。もし仮にないとは思うが自身が忘れているとしたら何かしら思い出すかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら質問を問いかける。
 不審に思われぬようにあんまり関わらなかったから、と付け足し。

 年相応に負けず嫌いで、勝ち気な様子で宣言する微笑ましいテーセラクラスの少女二人を見据えて、ジゼルはうっそりと眼を細める。あなた方のやる気を込み上げさせられたことに安堵しているようだった。
 指折り数えるようにオミクロンクラスの仲間たちを諳んじて、上目に問い掛けてくるオディーリアをアーモンド型の瞳に写し込み、先生は深く頷く。「勿論。何人でも呼んでいらっしゃいな。みんなで遊べたら、きっと楽しい時間になるわね。」心なしか、先生の声も弾んでいるようだ。はしゃぐオディーリアと共に気分を盛り上げてくれているのだろう。

 が、質問を求めれば投げ返ってくるものに、彼女は表情を真剣なものに変えた。

「ウェンディはね……お披露目に行く直前で傷を負ってしまったの。悲しいことだけれど、怪我をしたお人形がお披露目に行けないのは、あなたたちも知っているでしょう?

 本当なら、お披露目に出ることは素晴らしい名誉なのだけれど……彼女は緊張しすぎて、お披露目に行きたくなくなったのかしら。彼女自身の手で、肌に傷をつけてしまったから……このクラスに連れてくるしかなかった。そして今、お披露目に行けなくなったことを後悔しているんだわ。」

 『ウェンディの元気がなかったことについて』、先生はいかにもそれらしい理由を述べた。オミクロンクラスに堕ちてくる妥当な要因と、そのきっかけとなる彼女の心理状態について。
 しかしオディーリア。あなたの知る知識の中で、その言葉はきっと間違いだと確信出来るだろう。

「アストレアと……ミシェラ?
 どちらもかつては私が受け持っていたエーナモデルのドールね。訳あってオミクロンクラスに来てしまったのだけれど……あなたは会っていないの? お話しする前にお披露目に向かったのかしら。」

 そして、サラの『アストレアとミシェラというドールについて』の質問には、彼女の方が不思議そうに問い返す。
 彼女たちはあなたと同じクラスだったはずだ。覚えがないのか──? と、至極当然の質問を。

《Odilia》
 怪我を負った、そのドールがお披露目会へいけないことはオディーも理解してる。
 実際怪我をしたドールはみんなオミクロンへ来てるらしいから、真っ当な形では絶対にお披露目会には出られないのだろう。

 でも引っかかる。

 自分の手で傷をつけた?
 あの優しいウェンディお姉ちゃんが?
 オディーのために、怪我をするかもしれなかったのにアリスちゃんを叩いたウェンディお姉ちゃんが?
 ありえない。オディーの知るウェンディお姉ちゃんじゃありえない。
 それにウェンディお姉ちゃんは、アストレアお姉ちゃんのことを大切に思ってくれてた。それなのに自分だけ出れないようにするなんて考えられない。
 きっと元気がない理由は違う。

 アストレアお姉ちゃんがウェンディお姉ちゃんのことを守った?
 先生達が態々傷つけるわけもない、途中で出てったならあの中にいたドール、アストレアお姉ちゃんが一番の候補。

 オディーの頭が間違ってなきゃ多分正しい。

「ありがとうジゼル先生、オディーの質問に答えてくれて。
 みんなが笑顔だったらオディーも嬉しいの。
 だからウェンディお姉ちゃんのことも笑顔にできるよう頑張るね! あ、もちろん先生のことも笑顔にできるように頑張るよ!」

 みんなを笑顔にすること、オディーの目標のひとつのようなものだ。
 オディーにとってみんなが笑顔だとオディーは嬉しい。
 みんなが幸せだとオディーも幸せ、そういう純粋なことを幸福だと思えるからこそこういうことを目標にしているのだ。

 もちろんオミクロンじゃない、他のドールにも幸せをプレゼントしたい。

「それじゃあオディー、頑張って鬼ごっこのみんな集めてくる!」

 じゃあね! 先生と明るい声で言えば大きく手を振りその場を離れるだろう。
 その後、気合いを入れるエイエイオーという声も小さく響いてくる。

「可哀想だね。自らチャンスを手放しちゃうなんて。」

 不思議なドールだ。
 可哀想なドールだ。
 嫌いなドールだ。
 緊張して自らを傷つけてしまうとは。
 もし自身が感受性豊かなエーナだった場合、今頃真珠のような涙をボロボロと流していたかもしれない。
 いつの間にか決定事項となっていた鬼ごっこを実現するためにオディーリアサンは何処かへ駆けていった。ソフィアサン、アメリアサンも連れてくるとは。デュオではなくテーセラのみを集めてやるほうが絶対に楽しいよ、そう言う前に走り去ってしまうとは。ドールは与えられた役割、それに適したことのみをすべき。

「う、うん。
 あんまりお話しなかったから……」

 不自然すぎたのだろうか。目の中の魚が泳ぎ回っているようだ。動揺を悟られぬように瞬きを繰り返す。きっと、大丈夫。

「ええ。さようなら、オディー。また後で会いましょう。」

 純粋無垢で、素直で。子供のいいところを全て寄せ集めたいような彼女は、きっとヒトの良き隣人となれるだろう。その声色や感情と見合わぬ硬い顰めっ面さえどうにかすれば、きっとすぐにでも──。
 ジゼルは優しい声色であなたを見送った。微笑みを浮かべて手を振る姿は、公園へ駆け出す子供を愛しく見守る母のようであっただろう。

 そして改めて、何かを誤魔化そうと努めるサラの方へ視線を戻す。
 ジゼルは眉尻を下げて笑うと、「そうだったのね」と穏やかな声で呟き、あなたの頭をそっと、大切そうに撫で下ろすだろう。

「それは残念ね。だったらお話ししてあげましょう。

 ミシェラはとっても天真爛漫でいい子だったわ。好奇心旺盛なところがあって、気になるものには何でも首を突っ込みたがった。臆病なところもあったわね。誰かに愛してもらいたいと願っていて……そしてそれは、お披露目に選ばれて、誰かの唯一となることで叶ったの。」

 ジゼルはまるで、お伽噺を語り聞かせるような静かな口振りで、あなたの求める答えを口にする。彼女の言葉を聞けば、見知らぬはずのドールの人となりが脳裏に蘇るような錯覚を覚えるだろう。それは物語に出てくる姫や王子のように、ひどくつぎはぎで不明瞭なものであったけれど。

「アストレアは、とても優秀なプリマドールだったわ。誰よりもお話が上手で、そして……格好良い女の子だった。あの子はお姫様よりも王子様になりたかったみたいで、いつか自分だけのお姫様を見つけることを夢見ていたのでしょう。
 彼女は昨日、お披露目でそんな素敵なお姫様と出会ったわ。今も幸せにしているはずよ。」

 そこで一つ息を吐いて、ジゼルは語り部でいることをやめた。それからあなたの目を見据えて、微笑む。

「サラ、あなたはお披露目に行きたい? ……素敵なご主人様に出会いたいかしら?」

「すごいな、二人共。
 唯一になれて、お姫様に出会えて」

 なんだ。ちっとも落ちこぼれなんかじゃ無かった。
 ボク、は一体どんな主人に会えるのだろうか。大人しい子どもか、元気な子どもか。いや、もしかしたら幼い子供では無いかもしれない。
 テーセラモデルは幼い子供をターゲットに製造されている。
 お披露目に行く頃にはサラの右腕もどっかに歩いていないできちんとくっついているかもしれない。いないかもしれない。

「ボク、は。
 ボクはお披露目に行きたいよ。主人サンにも会いたいし。」

 お披露目に行きたいかだなんて、素敵な御主人様に出会いたかだなんて。変なことを聞くものだ。アタリマエのことを。
 抑揚のない声、変化のない表情。しかしほんの少しサラの声に含まれる焦り。オミクロンから二人もお披露目に行けたというのに自分はまだ行けてない。理由なんてわかっているのに、諦められない。
 愚かなドール。

「そう……そうよね。お披露目に行きたい、当然よね。」

 さらり、とあなたの柔らかな毛皮のような真っ白な髪を撫で付けるままに、その回答をジゼルは大切そうに繰り返した。愛嬌のある淡い桜色の瞳が、あなたの感情を鏡のように映し出す。
 傍目に見ればまるで変化のない表情だが、焦るあなたには自身の顔がどのように見えただろうか。自身の感情をどのように顧みているのだろうか。

「だって、あなたたちドールズは、誰かの元へ行くためにうまれたのだもの。──『レゾンデートル』、よ。

 お人形として生まれたあなたたちは、誰かのために生きることこそが最大幸福で、存在理由なの。それ以外の用途として在るなんて、本来は想定されていないのよ。

 だからね……あなたは何も間違えていないし、ドールとして至って正常なのよ。そう焦らないで。きっとあなたなら、いずれお披露目に選ばれるわ。」

 ジゼルは慈しみを込めて、あなたに励ましの言葉を掛けた。ドールの存在理由を忘れずに、ひたむきに願い続けるあなたは正常で、壊れてなどいないのだと訴えかけるように。

「れぞんでーとる。
 なにもまちがえていない。」

 間違えていないということは可怪しくない! ボクは可笑しくなんかなかった! 右腕だってすぐにちゃんとつくはずだ!
 エーナモデルの先生の言葉だからだろうか。どこか心がスッキリしたようなモヤモヤ、ぐるぐる、ぐちゃぐちゃがなくなった気もする。本来テーセラは一人で葛藤するドールじゃないはずだ。友人の悩みを分かち合い友人のために悩むドール。
 これが正常。
 眼の前の彼女の瞳を鏡代わりに馬鹿みたいに焦っていた自分の顔を軽くもみいつもの笑顔に戻す。笑ってる。無表情だと怖いから。主人サンに怖がられちゃう。
 けれどはたから見れば何も変わらぬドールの顔。眉や口の動き、瞬きしなければきっとただの人形。意味をなさない。

「ありがとう、ジゼル先生サン。ミシェラサンとアストレアサンのことも。ボク頑張るよ。」

 前例もいる。それに先生が背中を押してくれた。焦らなくていい。今のオミクロンメンバーが居なくなったって、また入れ替わったって。ボクは大人しく待とう。
 いずれご主人がサラを迎えに来るまで。
 サラは一礼したあとご自慢の足で何処かへ駆けていく。迷いなんてものは無いスッキリしたきれいなフォームで、今ならかけっこで一位になれるかもしれない。

 ほんの少し浮ついたっていいじゃないか。
 だってお披露目への希望が見えたのだから。

「ふん、ふん、ふーん」

 この前フェリシアが口ずさんでいたメロディよりももっとひどい。音程なんか気にしちゃいない、ただの音。誰かに聞かせるものではなく自分の気分を高めるために口が動いているだけ。
 子鹿が蝶々を見かけたときみたいに、行く先の目的もなくただ歩く。軽い足取り。自分がどこに向かっているのかなんてわからない。

「ここ、は……」

 どうやら自分が行きたいところまで来ていたらしい。

【学園1F テーセラドールズ控え室】

 あなたが踏み込んだ控え室。目の前には瞳を灼くような綺羅綺羅しい豪奢な空間が広がっている。

 壁には、色とりどりのドレスやタキシードなどの正装がハンガーに掛けられて並んでいた。化粧台が三つほど並んでおり、あなた方はこの場所でお披露目の支度を入念に整えるのだ。

 控え室の奥には、トゥリアドールズのための控え室へ続く扉が取り付けられているのが見えた。

 自分がここに来たのは初めてだったか二度目だったか、何回か会ったか。わからないがまあ、なんにせよ久しぶりだ。

 お披露目に行くドールは皆キラキラした服を身にまとって主人の下へ行く。輝かしいドールをさらに輝かせる衣服がここに。ウォークインクローゼットもお披露目用の衣服を仕舞えて嬉しいのか中に入ってる服を揺らしながら踊っている。自分もあまりダンスは得意ではないが手を差し出されたのなら一緒に踊ろう。
 ハンガーにかかったドレス、シャツをシワがつかない程度の力で握り揺れるクローゼットと一緒にリズムを刻む優雅なものからテンポの早いものまで。
 そうくるくる回っていれば視界に入ったボロボロな子。

「隠れてる……」

 ズタズタにされたドレスを拾い上げる。可哀想に自身の姿を見られるのが嫌で奥に隠れていたのだろうか。
 もし誰かのドレスだったとしたら大変だ。先生に直してもらうことはできるだろうか。

 あなたが部屋を見渡していると、ウォークインクローゼットの奥に隠されるように、グチャグチャに引き裂かれたドレスが落ちていた。
 そしてそのそばには、ドレスには必ずあてがわれる持ち主の名前が刻まれたネームプレートが落ちている。

 あなたはそれを拾い上げ、名を確認するならば。

 そこには『Dorothy』という名が刻まれていた。

 あなたはドロシーを知っている。以前、テーセラクラスに在籍していた時に同級生だった、少女型のテーセラモデルである。一時はプリマたるあなたに並ぶほど優秀で、物覚えもいいドールであったが、ある時を境に豹変し、狂人のような振る舞いをし始めたのを覚えている。

 このドレスの惨状も、彼女の手によるものなのだろうか。

 あなたが望むのならば、ドレスを持ち出すことも出来るだろう。しかし控え室の外はドールの往来のある中央ロビーであり、そこに出ていけばズタズタのドレスを運ぶあなたの姿は随分目立つはずだ。

「どろしー……どろしー……あードロシーサンの」

 サラより背の高かった同じテーセラモデルのドール。とても優秀だったのは覚えている。でもドレスがあったってことはお披露目に行ったはず。でも今もまだテーセラクラスに、そして可怪しいのにオミクロンに堕ちてきていない。

 変なの。変なの 。いいな。いいな。
 羨ましい。なんて思っちゃ駄目。

 彼女にはきっと理由があるのだろう。このドレスも。きっと何かの手違いだ。せっかくお披露目に行くチャンスがあるのにボロボロのドレスでは可哀想だ。フェアリーゴッドマザーのいない今は自分が彼女にドレスを届けてあげよう。きれいなドレスに仕立て直すことはできないけれど彼女に手渡し、直し、お披露目に行くことは叶うはずだ。
 ドレスの破片が落ちていないか確認しつつひとまとめにし、トゥリアの見様見真似の可憐なお辞儀で控室を後にする。
 さて可怪しなシンデレラに魔法のかからなかったドレスを届けに行こうか。
 意地悪な人に見つからないように慎重に。

 あなたは所在不明のドロシーを探すために、学園を当て所なく彷徨う。溢れんばかりのフリルレースがひらひら踊るドレスを抱えたまま、回遊する観賞魚のように。ズタズタのドレスを持って彷徨くあなたは、さぞ道行くドールズから好奇の眼差しを向けられたことだろう。

 それでもあなたがめげずに教室などを順当に見回っていくうち、あなたは合唱室に行きがかる。

【学園2F 合唱室】

Dorothy
Sarah

 合唱室の内部は、あなたがよく知るものと大差ない。コーラスごとに分かれて立つことが出来るよう、部屋の奥の床は階段上になっている。ドールズは基本、こちらの階段側に立ち、ドールズに音楽を教えるトゥリアクラスの先生は、部屋の手前側の教卓の前か、部屋の奥に置かれたピアノで伴奏をする。合唱の授業の基本形だ。


 現在は使われていないらしい薄暗い合唱室にそっと足を踏み入れたあなたは、突如として背後でその扉が閉ざされたことを認識するだろう。

 テーセラモデルに備わった鋭敏な五感が背後に佇む存在の気配を伝えてくる。


「ようこそ第四観測所のスターゲイジー。

 散歩か? 踊りたいならここは場違いだ。夢を彷徨いすぎてそんな簡単なことも分からなくなったのか? ……ギャハハハ!」


 下賎な不協和音の笑い声ががなり立てる。少女ドールの声をした存在は、合唱室の唯一の多色である扉を閉ざしたらしい。
 小さなあなたを、頭でっかちでサイズが不釣り合いの不気味なビスクドールが見下していた。

 ドロシー、ドロシー。一体彼女はどこにいるというのだろう。
 あっちに行ったりこっちに行ったり。ふりふりとしたこのドレスも持ち運ぶのにとても不便だ。引きづって持っていきたいが、これ以上可哀想な姿にはできない。
 最後に来たのは、合唱室。
 テーセラがこない場所第一位に上がるのではないだろうか。音楽なんて器用なことできないドールが多い。

 そして出会ったお目当てドール。
 いやはや嫌な出会いだ。まさかこんな風に久しぶりの再開をするとは。
 頭が急に成長したようだ。

「ゆっくり喋って、分かりづらい。あと、散歩じゃないし」

 情報が一気にきては困ってしまう。
 第四観測所のスターゲイジーとはなんのことやら。サラの知っているドロシーは似てもつかない。
 目の前にいるドロシーはドロシーじゃない。きっと違うドール。
 こんな可怪しなドール知らない。

「ドロシーっていうドール探してる。キミは違う。」

 腕に抱え持っていたドレスをフリフリと動かしながら自分の持ってきたものを主張する。なんのために探しているのかは理解してくれるはずだ。

 恐らく困惑しているのだろうが、表情が一切変わらない彫刻のような少女がぶっきらぼうに言い放った言葉を、覆面のドールは肩をすくめながらせせら笑う。

「やだね、質のいいトークショーをご希望ならエーナクラスの門戸を叩く事だ。ワタシの知ったことじゃあないし、ワタシにお前を気に掛けてやる義理はない。」

 ──どうやら意地悪をされているようだ。彼女はあなたの退路を塞ぎ、高い塔のような姿で高みからあなたを見下している。スカートの裾から覗く足が威圧的に床を一歩踏み鳴らした。

「ギャハハハ! またまたザンネン、お探しのドールはココだよ愚かな眠り姫。

 詩の上の役者・ドロシーちゃん♡
 何だよ、もしかして忘れちゃったぁ? おんなじテーセラクラスだったってのに、寂しくて涙が溢れ落ちそうだよ。ギャハハハ!」

 また一歩、彼女はあなたに迫る。
 腐った屍体のように不規律な仕草で、不安定にあなたに迫ると──唐突に彼女は、あなたの幼さゆえに細くちまこい両肩を強い力で掴んだ。テーセラが頑丈だと分かっているからこその、容赦のない力加減である。

「あのさァ……な〜んでそのドレス持ってきたワケ? お届け物ですってかァ? ドロシーさんにそれ見せてどうする気?

 教えてくれよ。肩砕かれたくなかったら、さァ……」

 あなたの幼い年齢設計も、欠陥のある身体も、ドロシーにとっては関係が無い。あなたは同じドールで、同じ非人間体なのだから。

「別にお話したいわけじゃないから、」

 彼女と話しているとメモリーの棚が重さで崩れてしまいそうになる。お話を聞くのは嫌ではないのだが、彼女はなんとなく嫌だ。疲れるてしまう。

「それにしては……ずいぶんと……。

 頭部が大きくなったね。破裂しちゃいそう。気をつけてね。」

 少し悩んだ末に率直な意見を述べ忠告する。メモリーの中のドロシーとはだいぶ変わっているようだ。頭なんてサラの頭部2個、3個分はあるだろう。そこまで膨らんでしまえば取り替えるか針をプスッと刺してしぼませてしまったほうが良いはず。
 貴女が拒まなければサラは空っぽの方の腕で頭部を触ろうとする。拒もうが拒まなかろうが、サラが頭部の感触を理解することなんて叶わないのだから。
 サラが見えている指先は実際には存在せず二の腕が頭部に近づけず浮いているだけ。

「あー、これは踊ってたときに見つけて……ドロシーサンがお披露目に行けるように」

 肩を掴まれた驚き、その力で一瞬顔が歪んだがきっと貴女が一度まばたきしてしまえばもうもとの彫刻顔。
 本当は振り払ってしまいたかったがそれでは逃げているみたいだ。
 蜘蛛だって蝶々に掴まれても逃げない、大きいものから逃げるのは簡単だけれど小さなプライドがそれを許さない。
 善意で持ってきたドレス、どうするも何も。直して、身にまとって、選ばれたのならお披露目に行ってほしい。それがサラの願い。

「ギャハハハ、いとしいねェフロリダ・ホワイト。“ワタシは”破裂しない。破裂寸前なのはお前の頭だろ? すっとぼけてンのかよ、オイ。」

 こちらに伸ばされかけた幻の腕。その指先がドロシーの被り物に掠ることは万に一つもありえない。届かない空っぽの腕を伸ばすあなたに構わず、ドロシーはただあなたの肩の関節部分を力強く握り締めたまま。
 気のせいでなければ、お披露目という単語を耳にして彼女の拳の力はさらに強まったように思える。今にも肩は砕け散ってしまうだろうに、痛みにもがいてもいいはずなのに、あなたはなんの感情もない人形のような顔のままでいる。
 ──それはジゼルに、かくあれと告げられたからだろうか。

 ともかくドロシーは、どうにも怒っているように見えた。
 ぐぐ、と大きな上背をかがめてあなたに頭部を近付けると、真っ向から向き合っているあなたの額、眉間、鼻先にコツン、とビスクドールが擦り付けられる。粘土の香りが鼻腔を掠めるだろう。

「ワタシは、お披露目になんか、絶対に行かない。

 お前のそれは、余計な、お世話だ。

 ガラクタの頭に刻み付けろよ。二度とそのドレスをワタシの前に持って来るな。
 分かったらとっとと失せな、お前の夢見心地な顔見てるとイライラすんだよねッ、キャハッ」

 吐き捨てて、ドロシーはあなたの首根っこを掴み、合唱室の入り口の方へ投げ出そうとする。猫を放り捨てるかのように。

「ぼけてないよ、一回も」

 不快だ。破裂して、頭部のパーツを交換して、困るのはドロシーだというのに。
 だがあれは交換したほうが良さそうだ。大は小を兼ねるとは言うがあれはでかい。絶対に不便だ。

 肩は痛い痛いなんて言ってられない。きっともう引き返せない。彼女の腕を剥がすなんて難しそうなことやりたくない。それに、それにそれで喧嘩にでもなったらお披露目が遠のいてしまう。ジゼル先生の言ったようにいつか、その時が来るまで大人しく待たなくては。

「えっ、いや、でも。待って、待ってよ、なんでそんなに嫌がるの。
 お披露目だよ? 主人サンに会いに行けるんだよ?」

 困惑困惑。皆揃って、学園を嫌って、先生を嫌って、お披露目を嫌って。
 頭の中でずっとトラがぐるぐるぐるぐる走り回っている。本棚を荒らして、蹴り飛ばして踏みつけて、何もわからない。情報の整理ができない。
 ぐるぐるぐるぐる。
 バターになっちゃう。でもそしたらパンケーキにかけて美味しく食べれるね。あの子と、……誰かと。

 まあそんなことはどうだっていい。
 まだこちらの質問が終わっていないのに舞台から退場させられるのはゴメンだ。仮にもテーセラモデル。
 合唱室の扉が閉まる前に質問をぶちまける。さあ拾って、サラが満足する答えを返して。欲しくない答えはいらないから。

 乱暴なダンスのパートナーにされたあなたは、手ひどく振り回されて合唱室の唯一の出口へエスコートされる。要らなくなった人形を捨てるように、ポイッと追いやられたあなたは、それでもなお諦めずにドロシーと向き直ろうとするのだろう。
 健全なるドールとして、あまりに当たり前すぎる疑問。あなたは真っ当だ、そしてこのドロシーというドールがおかしいのだ。あなたは自分でそう確信出来るだろう。

「ワタシはもう、」

 トイボックスの異常者は暗い部屋の中、大きな頭を不安定に傾けて、苛立ったように声を一瞬荒げた。
 だがすぐに足を滑らせて、室内の机に乱暴に腰掛けるだろう。

「ギャハっ、お利口なお人形チャン。お前がお披露目に夢を見るのは手前の勝手だよ、ワタシは否定しないし、それを叩き壊したりしない。
 お前の目からすればワタシは頭のおかしいジャンクだろうさ、それでいい。

 だからお前もワタシに押し付けンな。ヒトに仕える為に生まれた、聞き分けのいい従順なドールなら、この後どう言うべきか分かるだろ? キャハ。

 “イエスマム”。とっととうさぎ小屋に帰りな。」

 どうやら彼女はもうあなたに取り合う気が失せたようだ。低く平坦で、怒りをどうにか鎮めたような様子で、彼女はシッシッと掌を払う仕草を取る。

「意味がわかんないよ」

 あぁ、意味がわからない。
 主人の幸せはドールの幸せ。
 主人を幸せに、快適な人生へ導くのはドールの役目。
 それを放棄する気なのだろうか。
 信じられる? 信じられないよ。

「……いえす、まむ?」

 ちぇっ、なんだなんだ。
 そんな手酷く追い出さなくでいいじゃないか。
 風船頭に背中を向け合唱室の扉に手をかけ彼女に向かってた舌を突き出す。幼いサラなりの精一杯の悪態。
 ようやく開放された理不尽に怒鳴られ可哀想なドールは発端でもあるドレスを抱えどこへ行く。
 行先は備品室。
 最初は先生にでも届けに行こうと思っていたが、これ以上ドロシーを。元クラスメイトを怒らせたくはない。仲良くいたい。
 せっかく喜ぶと思ってドレスを持ってきてやったのに。

【学園2F 備品室】

Gretel
Sarah

 この場所は主に講義室での授業に用いる雑多な教材備品を保管して置くスペースだ。黒板に図形を描く為の巨大な定規や、人体の構造を学ぶ為常設された人体模型、スチールラックには所狭しとチョークの替えや過去の教材を束ねて置いたものなどがまとめて置かれている。

 清掃は欠かしていないのか、多少手狭でも埃っぽくはなく、清潔な倉庫であると分かる。


 あなたはその薄暗がりに、ぼんやりと立ち尽くす赤い少女の姿を見とめるだろう。
 この数日間の出来事をあなたが覚えているのなら、彼女はオミクロンクラスに新しくやってきた、デュオモデルのグレーテルだと言うことに気が付けるはずだ。

 グレーテルは暗い備品室の奥で立ち尽くしている。その腕に白い大きな布を抱えて、僅かに俯きながら。

 てっきりもう少し汚い、いや散らかっている場所だと思っていたため拍子抜けだ。
 ここまで整列されていると少し居心地が悪い。背を丸めボロボロドレスをギュッと抱きしめる。清潔で一切も欠けてなくて、まともできれいなものたちの所に異分子が紛れ込んでしまったような。右手が時々どっか行っちゃうサラと傷を負わされたドレス。
 好奇の眼差し。 
 嫌な目。
 極力どれとも目を合わせないよう棚を抜けていく。

「えーっと、えっと。」

 無い指で指差し確認しつつドレスが安心して隠れられて、なおまた虐められなさそうな場所を探す。
 奥の箱にでも入れれば大丈夫だろうか。
 多少薄暗いため足元に注意して歩いてはいたがまさかドールにも注意しなければ行けなかったとは。
 あともう少し気づくのが遅ければ眼の前の少女を押し倒していた。
 誰だったか。
 あー。オミクロンに墜ちた可哀想なドール。
 驚かせないようにゆっくり声をかける。暗いここでは表情も見えないため怖がらせてしまうかもしれない。
 サラ自身なるべく声に抑揚をつけて声を出したがむしろいつもより低い声。怒っていると捉えられてもおかしくない。

「何してるの。」

 あなたがその背に声を掛けるならば、彼女・グレーテルは僅かに肩を揺らして、背を向けたままに顔を上げた気配があった。抱えられている白い布は手放さないままに、少しの沈黙の後。

「……何も。何もしてないよ。ちょっと片付けをしてただけ。」

 と少女の静かな声で囁いた。
 そうしてグレーテルは抱えていた白い布を手早く折り畳んでいくと、それを傍らの段ボール箱の上に置いて、くるりとそちらへ振り返る。赤い三つ編みがしゃらんと揺れて、困ったような微笑みを浮かべる彼女の顔がようやく見えるだろう。

「こんにちは。あなた、オミクロンクラスの子だよね。わたし、グレーテルっていうの。あなたは……名前、聞いてもいい?」

 静寂に満たされた備品室で、音を立てる者はあなたとグレーテルしかいない。彼女は室内に革靴の音を響かせながら、少しずつそちらに歩み寄る。
 その途中、あなたの腕に抱えられた無惨な姿のドレスを見て、目を瞬かせているようだ。

 グレーテル、グレーテル、グレーテル。聞いたことがないドール。
 サラより背の高いドール。
 何を持っているのかと思えば白いの布? だろうか。知的好奇心の旺盛なデュオモデルであれば備品室にあるものに興味でも持つのかもしれない。
 あまり備品室にはドールが寄り付かないと思っていたのに。

「ボク? ボクはサラ。テーセラのサラ。」

 困ってしまった。
 あまりこのドレスを見られたくは無かったのだけれど。
 ドロシーサンに怒られちゃう。
 サラはよろしく、の意味合いで手を差し出す。握手を求めているようだ。
 空白の方の手を。
 貴女はどうする。本来握手は手と手でするもの。しかし目の前にあるのは肘。
 サラの眼球に映るのは右手。

「……サラちゃん。サラちゃんって言うんだね、覚えたよ。よろしくね、えへへ。」

 声をかけられたときは、不機嫌にも思えた低い彼女の声は、しかし。名を問い掛ければ素直に応えてくれて、対話をするつもりがあることを確かめることが出来て。グレーテルはどこか安心したようにはにかみ、応えた。
 やがて差し出された空っぽの右袖が、頼りなさげにぶらりと揺れる。握手を求めているのだと察するには、あなたの指先が足りなくて。突き出された肘の先端を、グレーテルはきょとんとして眺めて、「……???」と頭上に疑問符を浮かべながら首を傾げてしまう。

「えっと……、……サラちゃんは身体的欠陥なんだね。その右腕に合うパーツは見つからなかったの? 綺麗に外れてるみたいだから、引っ付けられればきっと元のクラスに戻れると思うよ。ダメだったのかな。」

「あれ、ボクの欠陥って……あーそっか。ごめん。
 今日は右手がないんだった。」

 おっと、いけないいけない。
 慌てる様子も無くサラは空白を隠し左腕を差し出す。今度こそうまく握手ができるはずだ。
 先程まではくっついていたというのに、今はどこへほっつき歩いているというのか。今度首輪ならぬ手首輪でも先生に作ってもらおうか。

「えっと、グレーテルサンはどうして備品室に?」

 あまり欠陥の話はしたくない。したってなんにもならないんだし。
 それよりもこの子を隠す場所が欲しい。もし先程彼女が持っていた布を借り、くるくると隠すことができたらいいのだけど。

「あ……なんだ、握手がしたかったんだね……ごめんね、気付かなくて。……はい、サラちゃん。」

 漸く目の前に差し出されたあなたの手のひら。迎え入れるように開かれたその指先を見て、グレーテルもあなたの求めることを理解したらしい。
 頬をかいて苦笑を浮かべつつ、こちらからも手のひらを差し出し、そっと柔らかくちいさな手を握り締める。何度か揺らして友好の握手を済ませると、グレーテルは再び両腕でしっかりと布を抱え持った。

「さっきも言ったけど、片付けをしてたの。なんだか散らかってるみたいだったから。誰かに奉仕するドールなら、こういうところも見なきゃダメかなって……そうでしょ?」

 そう言ってグレーテルは、抱えていた布をしっかりと畳み始めた。
 布自体は特におかしなものはない。壊れやすい物品を包んで保護するためのものなのだろうとあなたは察する。

「……サラちゃんの持ってるそのドレスは、どうしたの? その豪華な衣装、きっとお披露目のお洋服なんじゃない? そんなぐちゃぐちゃで……どうして?」

 あまり左で握手をしたくはなかったのだけれど、まあ無いならしょうがない。
 サラの中で握手は初対面の仲良くしたいドールには絶対にすること。
 互いに手と手を握り合い親愛の情を示す時によく使われる動作。
 素晴らしい動作だ。話す、癒やす、学ぶ、様々な動作をドールは行うことができるが握手をする、という動作は走るの次に大好き。

 それにしても、まあ。
 備品室の整理とは偉いドール。
 オミクロンに堕ちてきた時点で戻ることも、お披露目に行ける確率も青空がモグラを恋に落とすぐらい難しいのに。

「えっと、その。あの。この。ドレスは……。
 ボク……が、ボクが見つけたの。
 そう。隣の楽器保管室で。変だよね。」

 しまった。やらかした。
 どうしようどうしよう。考えた結果だ、これは。
 下手くそな嘘、目に泳いでいる魚がぴちゃんと跳ねた。ドレスを隠すように後ろに回す。
 なんてバレバレな嘘だろう。こんな嘘じゃあ茶トラの猫さんも騙せないだろうし逆に騙されてしまう。

「グレーテルサン、その布ってこれからなにかに使う予定ってある?」

 もしいいのならこのドレスを抱きしめて、癒して隠してもらおう。
 優しく抱きしめてもらえば治るはず。

「楽器保管室にドレスがあったの……? 控え室じゃなくて? ……何でだろう?」

 グレーテルはすっと真っ赤な瞳孔を細めながらに、不思議そうにあなたを凝視しながら首を捻った。様子がおかしい事には恐らく気付いているであろうが、何の為に嘘を吐いているのかも彼女には分からないので、追求も敢えてしていないらしい。
 不思議そうにするだけで特段あなたに苛烈な疑いを向けることもなく、こちらが抱える大きな布に対し言及してきたあなたに、彼女は目線を落とした。

「これは……授業で使うらしいから渡してあげられないの。ごめんね、サラちゃん。……わたし、そろそろ行かなくちゃ。また後で、寮でお話ししようね。」

 グレーテルは申し訳なさそうに小さく笑ってから、布をまた小さく折り畳んで抱え込み、そっとあなたの脇をすり抜けて備品室を出て行こうとするだろう。
 呼び止めたりしなければ、またこの場には静寂が戻るはずだ。

「確かに……なんでだろ。」

 今更ながら、我ながら、お披露目用の衣装が楽器保管室なんて場所にあるわけないというのに。
 相手もさほど深掘りしようとはしてないため、まあいだろう。

「残念。ありがとう。じゃあまたね。」

 言葉通り残念そうな素振りを見せることなく肩をすくめ彼女に向かって手を振る。寮という単語が引っかかり首を傾げたが、そういや彼女はオミクロンに堕ちたんだった。
 いつ聞いたんだっけな。昨日、一昨日? 去年? さっき?

 手を振りながら彼女が退出するのを見送り先程までグレーテルがいた場所に近づき隠せそうな場所を探す。なるべく角でパット見たときに分からないような。欠陥品は日の目を浴びないように隠さなければ。お互いに傷つかないように。

 それでは、あなたは備品室の奥、埃を被り始めていて長らく陽の光を浴びていないであろう段ボールの中に、ドレスを折りたたんで詰め込んでおくことが出来る。

 念入りに蓋まで閉じれば、滅多なことでは他のドールに見つかることはないだろう。

 ある日の学習室。
 人気のない教室。
 程よく差し込む光。
 ちょうどよい温度。
 寝るには素晴らしい環境。
 不自然に膨らんだカーテン。
 膨らんだカーテンは机一個分を半分を程隠しており、下からは細くとも筋肉質な脚が覗いている。
 カーテンまでやってきてよーく耳を澄まして見ればもしかしたら小さな寝息が聞こえてくるだろう。
 もし貴男がカーテンの中にいるドールの頭を覗くことができれば、カスミソウの花畑に佇むサラの姿を捉えられるかもしれない。衣装も真っ白なため彼女が目を閉じて倒れてしまえば見つけることは難しいだろう。そんなサラのそばにはニゲラを九本抱えている彼女の兄であろう人。
 倒れた状態から勢いよく立ち上がり兄に抱きつくサラ。
 幸せな夢。
 しかし夢は一定の場所に留まらない。花畑は徐々に木材に侵食されていく。茶色く染められていくかすみ草。衣装も泥で汚れたものへ。
 食卓を囲むサラと兄。二人だけの朝食の時間。
 利き手の握りこぶしで使うカトラリー、逃げ惑うベーコン。笑いながらサラの口元についたパンを拭う兄。
 それを恥じることもなく笑う兄に釣られサラの口角も自然と上がる。
 あぁ幸せな夢。

【学生寮1F 学習室】

Dear
Sarah

《Dear》
 走る。走る。景色が滑る。カーディガンは風を抱きとめて、天使の羽のように舞っていた。白い頬を林檎のように上気させ、はふ、と熱い息をこぼし、穴に向かって走る白ウサギのように。今にも転びそうなほどにふらふらとしながら、ディアは楽しそうに走っていた。——ああ、呼ばれている! 誰かが、愛を呼んでいる! 愛する誰かが! キミが!
 それだけで、涙が出るほど幸福で。早く望みを叶えてあげたくて、先走る心を宥めるように。床が、壁が、窓が、雲が、気をつけて、と囁いた。今日の風はいたずらっ子で、ゴールは目前! なんて、囃し立てる気分らしい。ああ、まんまと乗せられる。時計の針が速くなる。このドキドキは、疲れのせいだけじゃないと知っていた。ねえ、ねえ、キミのせいだよ、サラ。

 ——ドアを開けば、そこは一面の花畑だった。

「……daar buiten loopt een schaap……♪」

 気づけば、歌っていた。歌い慣れたフランスの歌ではなく、サラの設計に合わせたオランダの子守唄。普段の大声からは想像もつかない、優しい優しい囁き。けれど、いつまでも愛に満ちた声。花を踏まぬように、夢が覚めぬように、そっと歩く。ベールを覗く。カーディガンをかけてやる。ほら、あそこに羊がいるね。きっと何年、何兆年、一緒に羊を数えよう。そういうものを、永遠と呼ぼう。

「slaap kindje slaap……♪」

 時計は砂糖漬けになって、きっと、二人の前では意味を成さない。さあ、シンデレラ。ガラスが割れても踊り続けて。

 これは、なんの曲だろう。朝食の時間に似合わないお歌。メロディがフヨフヨとサラな周りを漂い頭にぽよんとぶつかってはまたどっかにふらついていく。歌に意志なんてない海月のようにただぷかぷかと回る。
 掴んでいたカトラリーを振り回し捉えようとするが意思なんてないくせに逃げられてしまう。
 ころころと変わる舞台は掴んでいたカトラリーさえも可愛らしいぬいぐるみへと魔法をかける。ふわふわとした黄色毛皮を身にまとい赤いボタンが縫い付けられたウサギさん。
 ぬいぐるみを大事そうに抱えて歩くは長い長い廊下。

 誰もいない。
 なにもない真っ暗な廊下。
 窓も絵もない廊下。
 後ろを振り返っても影さえも手を振ってくれない。
 髪を撫でる風さえもそばにいない。コアが鳴る音と少しあらい呼吸音しか聞こえない空間。
 怖い、怖い。
 兄さんはどこ。
 クラスメイトはどこ。
 ご自慢の足にムチを打ち動かす。けしてうさぎのぬいぐるみを離さぬように。片腕でギュッと握りしめて。

「……さ、ん……にぃ、さん」

 必死に兄を呼ぶも来てくれない。いない。独りぼっち。誰もサラのそばにいない。階段を登って降りて登って登って落っこちて。シンデレラのように靴を落とさないように。アリスのように落っこちすぎないように。望遠鏡をくぐり抜けてお皿の兵隊さんの邪魔をしないように。通り過ぎたら全部真っ暗。何も落とさないように走り続けて。何もない恐怖から、わからない恐怖から逃げて。孤独を振り払うように走って、た。のに。

 あ、口からこぼれ落ちた音とともにぽすっと落ちるぬいぐるみ。
 拾う暇なんてない。
 走らなきゃ。真っ暗から逃げなきゃ。

 真っ暗な廊下。少し明かりが見えてきた。そんな光を逃さないように足は加速する。髪を撫でてくれる風がいなくとも自分が作り出せばいい。闇を置き去りにしようと走る足は加速すればするほど光に近づき。音も聞こえるように。
 これはなんの曲だったか。聞き覚えのある曲。突き止めるのはまた後で今は光を掴まなければ。近づきすぎて身が燃えても、真っ暗よりまし。

「ふゎ〜ぁ、あ。あ? にぃ……さん……。

 じゃな、い。
 なぁんだ、ディアサンか。」

 おはよう。

《Dear》
「うん、ディアサンだよ〜!」

 それは、偽りの世界で燦々と輝く、偽りの太陽。お兄さんじゃなくてがっかりした? でもね、ディアは恋人。キミの望みを叶える者。ディアは世界を愛し、世界に愛されている。ディアの夢では、全ての世界が恋人なのだ。

 ——小さな手をいっぱいに振れば、いつの間にか、手の中にはおねぼうのタクト。
 ディアの真っ赤な唇から生まれた音符さんたちは、サラを、うさぎさんを、兵隊さんを、望遠鏡を、お皿を、お兄さんを、クラスの子たちを、シンデレラを、お靴を、王子様を、継母を、義姉を、ねずみさんたちを、ねこちゃんを、わんちゃんを、王様を、魔法使いを、大公を、かぼちゃ、バケツ、旅行好きの階段の泡、世界の全てを乗せて踊る。おやおや? シンバルの音が聞こえるよ。ディアの歌に合わせて、兵隊さんの行進だ。みんなも歌い始めたね、気分はまるでパーティー会場。おや、魔法使いが唱えるよ! みんなで一緒に、ビビデバビデブー! ほら、目を開けてみて……わあ、本物のパーティー会場だ! 王子様たちは踊り出す、とってもとっても綺麗だね! でも、悔しそうな子がひい、ふう、みい? それもとってもかわいいね! 転んじゃうのもターンするのも、そもそも踊らなくたって!

 タクトが指すは、サラの太陽。

「おはよう、こんにちは、おやすみなさい」

 ディアの造るサラの世界に、ミシェラとアティスはいない。

「サラが信じるものが真実さ」

 ——ねえ、サラの望みは?

 少年の声より少し高く幼さをだいぶ残した声をテーセラモデルであるサラは捉えモゾモゾとカーテンの扉を開ける。開けるのは容易いがぽかぽかと暖かい日差しの中にいたサラにはカーテンが閉め切られ人工的な光に照らされる教室は少し物足りない。どちらも自然で作られたものではないけれど。

 眼の前には自分より小さい、けれど年齢設計が一つ上でトゥリアの元プリマドール。

「見れば、……わかるよ……」

 まだ夢心地なのか、はたまたここが夢なのか。そんなのサラには関係のないことだが寝ぼけた声で返す。
 もし今が夢だとするのなら内容を覚えとかなければ、日記に記すために。
 区別をつかせるために。

「今、は。おはようの時間、なの?

 まぁ、いいや。」

 彼の挨拶に疑問を持ちつつカーテンの扉を少し開く。見たところまだ明るいため午前中だと思っていたが、明るさなんて関係ないか。
 昼だと思ったらそれは夜で朝かと思ったらそれは夜中なのだから。
 彼の挨拶が正しい。
 時間なんて関係ない。

《Dear》
「ふふ、そうだね。キミにそう見えたのなら、きっとそうなのだろうね」

 未だぼんやりとした様子で言葉を紡ぐ、オミクロンでたった一人の妹に。くすくすと暖かな笑みを向けながら、眠たいのならまだ寝ていていいよ、と囁きカーディガンを掛け直す。自分よりも強い肩。大きな背。けれど、夢を望み続ける幼いドール。サラの世界を、守ってみせる。愛するものの、善意という澱から。

「ねむたくて、ふにゃふにゃで、うとうとな子には、あたたかいベールをかけてあげるの。おはようのキスなんていらないの。真っ赤な唇は、子守唄を囁くためだけにあるべきなの。だってね、愛しい夢の妖精は、サラは、ちっとも呪いなんかにかかってやしない。キミだけの祝福さ、特別なね。糸車に急かされなくたって、毒林檎に誘われなくたって、眠たくなったら眠っていいさ。だって、生きているのだもの。

 どうして起きてくれないの、なんて、みんな不思議なことを言うよねえ」

 ディアが囁くは、プログラムコード。ここは仮想現実。全部忘れて、楽になれ。見たくないものは、見なくていい。私が全部見てあげる。キミの代わりに、息をしてあげる。キミの代わりに、キミの現実を生きるから。——猛毒が、脳を犯す。

「ねえ、サラ。キミが信じる方を、いつだって真実にしてあげる。ひめも、王子様も、鼓動から殺して回ってあげる。明けない夜はないけれど、キミのためなら太陽だって殺してあげる。だから、安心して馬鹿になって。私に甘えて、ね、おねぼうさん」

「あはは、変、なの……」

 サラの背中はカーディガンを受け入れ優しく抱きしめる。
 これでもっと暖かくなった。でもここで眠ってしまったら現実に戻ってしまう。
 まだもう少し、この温かいなかにいさせて。もう少し。

「ボク、は、ふぁ〜あ。
 馬鹿じゃない、よ……」

 トゥリアの声はまるで綿あめを煮詰めて金平糖を包んだようなものだとよく聞く。
 あぁほんとうに甘い。
 溺れていたくなるようなずっと彼のそばにいたくなるような。そんな声。
 寝ぼけた頭はあまり言葉を噛み砕こうとはしないが脳が理解せずとも体は声に溺れていく。フッカフカの声に身を委ねよう。
 今だけ、ほんの少しだけだから。よくわからないことも、嫌なことも、右手のことも忘れてもいいかな?

《Dear》
「うん、うん、そうだね……キミは賢い。優しくて、純粋で、とても、とても愛らしい子だ。キミの夢のお話を聞くのが、私はとっても、とーっても、大好きなのだよ? キミに何度、幸福をもらったことか! キミは頑張った。頑張って、頑張って、愛し切ったね。えらい、えらい。だから、馬鹿になって、何も考えないで、呼吸も忘れて……見たくないものは、全部、全部、ポイってしちゃおうね」

 カーテンはベール。囁き声は鐘の音、指先の桜貝でブーケを。病める時も、健やかなる時も、キミが全てを忘れても、きっとずっと、愛し続けるから。

「ふふ、実を言うとね? 私が、かわいい妹であるサラに、甘えてほしいだけなのさ。だって、聞いて? ソフィアったら、私の方が身長が高いのを頑なに認めようとしないの! 今は1cm差だけれど、私がヒトだったならもっとぜーったい差がついてるのに! もう、それが、あの子のかわいいところなのだけれど!」

 彼は、10歳だ。惨劇の始まりを目撃し、全ての望みのために奔走し、愛するもののために忘れ去られたいと望む、小さな小さな10歳だ。純粋で、無垢で、ただ、未来のために潰される今を。思い出のためにすり減らされる今を。今のサラを守りたいと言葉を紡ぐ、138cmの恋人だ。

 忘れることは罪だろうか?

 思い出さないのは罰だろうか?

 どうして、どうして、ダメなのはダメなのだろうか。

 答えはわからない。ただディアは、その問いの答え全てを愛するだろう。ディアが選ぶのは、いつだって。今目の前にある、キミの望みだ。ほら、今だって。ピンクのロイコクロリディウムは、愛で世界を支配する。

「——おにいちゃんぶれるのは、オミクロンではサラだけだから。ね、さみしい私のために、甘えてくれる?」

 舞台は用意した。さあ、望みのままに踊っておくれ。モラトリアムの内側で。

「ボク、偉い? えへへ、良かった。
 ポイッ、か……」

 でもね、ボクあんまりお話得意じゃないんだ。
 もっと得意な子がいて、誰だっけ。夢の中の子? また混ざっちゃった。
 混ざらないように日記まで書いているってのに。あーあ。あーあ。


「甘える、か。難しいことを言うね。

 ……もし自分がヒトだったら、なんて考えたことないよ。」

 自分の中での理想のテーセラモデル。それは頼られてたくましくて、かっこいいドール。例えば、テーセラのプリマドール・バーナードサンのような。憧れのドール。
 あのドールは甘えるなんてこと、しないはず。ならボクはできない。
 テーセラモデルは支える側、甘えるなんて駄目な気がする。多分。
 でも、でも。
 ボクはオミクロンでガラクタでジャンク品。
 なら、いいんじゃないか。あまえても、少しなら。ほんの少しなら。
 ボクがヒトだったら、きっともう。
 ゆるされるよね。甘えても。

《Dear》
「そう、全部委ねて……うまいよ、いいこいいこ。ねえ、想像して? 私たちは兄妹だ。キミは末っ子、私は真ん中、一番上にはお兄さん。木の香りが心地よい家の中で、三人で川の字になって眠る。柱には成長が刻まれて、抜かれちゃうかも、なんて笑い合う。たまにドアが叩かれて、羊が、風が、クラスの子たちが遊びに来る。みんなで一緒に住んだっていいし、私たちが遊びに行ったっていい。
 全てがキミの自由。キミだけの楽園。そこにあるのは、甘いミルクの香りだけ。テーセラとか、トゥリアとかじゃなく、ただのサラとディアとして、共にいれるんだ」

 この世には、たくさんの愛がある。空に輝く数多の星に、幾重の周回軌道があるように。それらは輝き、墜落し、何光年先の輝きを与える。光が強すぎたり、弱すぎたり、速すぎたり、遅すぎたり。支えとなったり、不快の象徴となったり。どの星に薔薇を咲かせるかは、本人の自由意志に依存する。それでいいと言える愛。自分がいいと言える愛。どちらが正しいのかなんて、誰にもわからなくても。きっと、そこにあったのは、確かに愛であったのだ。キミに幸福あれ、燦々と咲く薔薇であれ、キミの望みが叶うのならば、墜落したって構わない。愛するキミに、本当の幸を。

「おままごとでいい、夢物語でいい、キミの幸福以外に、優先すべき事項なんてない!」

 私は、たった一つが選ばれて、それでいいなんて到底言えない。だから、来て。選んで。キミの愛したものを、守りたいと願ったものを、なくしたくないと叫んだものを、全部、全部、選ばせてみせるから!

「——キミの、望みは?」

「あははっ、ディアサンはボク達についてこれるかな。
 なんたって、兄さんはボクと同じぐらい足が早くてボクを引き上げることができるぐらい強いんだから。」

 つい最近見た夢を思い返しながらいかに兄が素晴らしい存在か伝える。
 兄さんに引っ張ってもらって、その後はそのまま宙に浮いてお昼寝をしたんだっけ。
 ディアサンと一緒に遊ぶのなら何をしよう。花の指輪を作って、兄さんは冠を、ボクは指輪ならうまく作れる。リヒトサンよりも上手い花の冠。自慢の兄さんが作るものならなんだって好き。ディアサンもきっと喜ぶ。

「ただのサラ、とディア?
 えっと、それって、それって」

 自分だってクラスメイトや、先生方といるのは嫌いじゃない。もちろん眼の前にいる太陽とも。
 しかし、それは。
 ドールとして正しいのだろうか。
 ヒトのためのドール。
 共にいても、ヒトに尽くせるの?
 ぐるぐると回転する本棚を頭の中の小さなサラが押さえつける。難しいよ。

「ボクは、ボク達はヒトのために存在するんだよ。
 おままごとも、夢物語も、よくわからないけど……。

 ボク、は。
 ただ皆が幸せにいれたらいいんだ。
 欠けないで、可笑しくならないで」

 外傷のない真っ白でキラキラなディアサンを見るとコアが痛くなる。すぐにお披露目に行って幸せに成れそうなドール。望みなんて、ドールの望みなんてたった一つだと言うのに。
 キラキラすぎる太陽をずっと見つめてたら目が壊れちゃう。目を見て話さなければいけない。対話をする。友情を育む上で大事なこと。
 けれど今は。なんとなく見れなくて、マフラーに手を回し顔を覆う。これで何かが解決するというわけではないが。ただ逃げてるだけ。
 見すぎたら吸い込まれて帰ってこれなさそうな見たことはないけれど海の色のターコイズブルーの瞳が少し怖いの。

《Dear》
「だいじょうぶ」

 私は、大丈夫だよ。

「キミがどれだけ転んでも、私が、おにいさんが、みんなが、手を差し伸べてくれる。洗って、手当てして、いたいのいたいの、とんでけって。キミの毎日は、ずっとそうだった。そして、これからもそうなんだ。そして、これからはもっと愛しいんだ」

 そして、キミを大丈夫にしてあげる。

「かわいいフレンズ、愚かなフレンズ、何も心配はいらないよ。知らなくていい、想わなくていい、生きなくていい。私が、全部、全部やってあげる。キミの眠りを愛してる、キミは十分頑張った、キミは一億兆分頑張った。キミの優しさを愛してる、可笑しくて愛しいキミを愛すよ、私がキミを幸せにする。キミを、ありのままのサラを、愛している」

 支え、励まし、笑い合うのが友と言う。走り、労い、夢を見るのが友と言う。こんな言葉を、友と言う。大丈夫、キミの前にいるのは、間違いなく親友のディア・トイボックスだ。ディアの言葉はとても優しい。甘美なまでに心を犯す。——まるで、プログラム上の言葉を、トレースしているかのように。
 歪だった。吐き気がした。憎くて憎くて仕方ない。けれど、何一つ間違っていなかった。だって、そこには愛がある。サラを愛し、サラを守り、サラを生かすにはどうすれば良いか。考えて、考えて、言葉を選ぶ誠実がある。声が優しい。言葉が優しい。手つきが優しい。甘くて、甘くて、それは、友愛と呼ぶにはあまりに無償の——麻薬のような博愛だった。もう、いいじゃないか。この世界で生きていくには、あまりに。純粋なのだ、ディアの言葉は。真実なのだ、ディアの言葉は。幸福なのだ、ディアの愛は。ならば、もう。もう、いいだろう。

 さあ、顔を上げて。さあ、目と目を合わせて。さあ、踊ろう。

「——ね?」

 サラの右手に、指先に、確かにキスが落ちていた。涙が出るほど愛しい、幻肢痛だった。

「ディアサンに手を差し伸べられるって、ボクがやらなきゃいけないのに。

 それに愛してるって、くすぐったいよ、なんか。それにそれは。ボクに送る言葉じゃない。」

 主人に正しい道を示すのがデュオ、手を引っ張るのがテーセラ、道中辛くなったら癒すのがトゥリアで、相談にのるのがエーナ。
 役目まで取られちゃあ、サラの存在意味が無くなってしまう。
 そのまんまのサラ? 必要ない。
 テーセラではない、身体の強くない、足の速くない、友情を育むことのできないドールなんて、サラなんていらない。
 でも、それすらアイシテしまう彼は、


「……」

 友愛の定義が揺れている。わからない。友達同士はキスをするのだろうか。
 しない、とは、教わっては、ない、はず。
 大丈夫。心配はいらない。授業はちゃんと聞いている。覚えている。風とは友好的に、喧嘩をしたらすぐに仲直りをする。ゆるす。意地悪をされていたら助ける。お花のおしゃべりには耳を傾けすぎない。
 ね、ちゃんと覚えている。

「ねぇ、ディアサン。
 サラが欠陥品でも、何もわからなくても、アイシテくれるの?」

 ただの9歳ドールのわがまま。
 愛情を確かめたいのかもしれない、
 愛情に飢えているわけではない。むしろ沢山もらってる。先生から、生徒から、兄さんから。
 ただ、太陽に見つめられすぎて、頭がぼやぼやして、もう何も深く考えたくないだけ。
 彼が自分を愛しようが愛したいが何も変わらない。
 欠陥品にも愛を注ぐなんて、変なの。

《Dear》
「あははっ、不思議なこと言うなあ、キミは! 当たり前じゃない! んふふ、おかしい……かわいい、かわいいねえ! それのどこが、罪だと言うの? それのどこが、罰だと言うの? どうして、ダメなのはダメなの? ふふっ、それに、キミに愛してるを贈れないだなんて、私が困ってしまうよ! 私はただ勝手に、こんなにも、キミを愛してしまっているのだもの!

 でも、そうだね……それが、キミの望みと言うならば!」

 お姫様である前に、王子様である前に、友人である前に、たった一人の女の子。一体のドールである前に、男性設計である前に、世界全部の、キミの恋人。ねえ、全部あげる。キミの望み、叶えてあげる。ねえ、コアはとっておいてあげる。いい子にしてて、ヤマネコくん。全てのキミを、諦めないから。これが愛だと、教えてあげる。

「折ってよ、私の右手」

 細い、細い、白い右手が、まるで握手でもするかのように、ただ当たり前に差し伸べられる。熱い血管。ときめく鼓動。ヒトらしさを追求された、あたたかくやさしい手のひら。触れれば壊れる。触れれば殺せる。ディアはただ、無邪気に笑って待っている。重ねられた皿の上で、くるくる囁き舞っている。美しい。愛らしい。悍ましい。この少年の一部が、キミのものになるのだ。キミの劣等感の全てが、キミのものになるのだ。この少年の全てが、世界のものなのだ。

「私がキミの右になるから、キミを私の左にさせてね」

 ——キミの夢、現実にしてあげる。

「愛してるって意味さ!」

 おる? オル? 折る?=壊す?
 この細い腕を。赤い液体が常に巡っている温かい腕を。きっと触れたら触り心地のいい腕を。
 テーセラである自分に折れと?
 柔らかいトゥリア。
 強いテーセラ。
 腕がポキって壊せちゃうところなんて簡単に想像できた。
 赤い液体が溢れて、サラの左腕はディア・トイボックスの右腕を掴んでいて。 太陽は一切の影を落とすことなく微笑んでいるのだろうか。

 そんな怖いこと、ダイッキライ。

 言葉が耳に届いた瞬間、サラの体は勝手に反応していた。座っていた椅子を降りディアから距離をとる。驚いた猫のように飛ぶように離れた。
 彫刻はまばたきを数回し呼吸を整え頭を整理するがそんなのできない。


「いやっ、嫌だ。嫌だ嫌だ。嫌だよ。
 ロゼットサンはこんなこと言わない、リーリエサンはこんな事言わない、お兄ちゃんサンも、カンパネラサンも、ミュゲイアサンサンも。
 言わないよ。アイじゃないよ。
 折るのは、壊すのは、嫌い、ダイッキライ。」

 一歩、一歩離れた距離を噛みしめるように再度近づく。
 壊さないように優しく優しく優しく右手に触れる。
 大丈夫、壊さない。
 温かい。
 ほんとうにすぐに折れてしまいそうな腕。
 ボクなんかが触っても大丈夫なのだろうか。

「ねぇ、ボクの左ならいつでもあげる。だから、そんなこと言わないでよ。

 きれいな体のほうが嬉しい。」

 そのほうがお披露目に行けるかもしれない。
 右がないなら、左なら無くなったって一緒かもしれない。

《Dear》
 ああ、わからない! ぱち、ぱち、と長い睫毛を瞬かせて、大きな瞳を見開いて、ディアは可愛らしく小首を傾げた。
 長い春の前髪を透かして、ターコイズブルーがキミを見つめる。ディアにとっては、毎晩ベッドの中でうんうん唸りながら考えて、欲しいものを調査して、奮発して、ラッピングも頑張って、やっとの思いで渡したプレゼントのようなものだった。この、熱い手が。優しい手が。ディアにとっては、そうだった。手とか、腕とか、そういうものじゃない。もっと、幸福という概念に近いもの。腕を折られることは、痛くも、痒くも、怖くもない。たくさんたくさん考えて渡した、愛のプレゼントが受け取ってもらえなかったことも、怒りも、悲しみも、湧いてこない。その全てが可愛らしく、美しく、愛おしい。——ただ。

「……? ごめんね、ありがとう……でも、サラもとってもきれいだよ? 右手がなかったらきれいじゃないなんて、そんなことあるはずないのに。できないことが、欠けていることが、悪いだなんてあるはずないのに。きれいな体のほうが嬉しいのに、どうして……どうして、そんな、寂しいこと、言うの?」

 ——ただ、ターコイズブルーの瞳に映るは、困惑だった。
 全てを愛し、全てを望み、全てを知りたいと願う。輝くタクトは、鈍く光るナイフにも、涙を拭うハンカチにもなれる。ありのままのキミでいいと、誰より願う彼自身が。キミのためなら何にだってなれると語るのだ。ディアの全てが、世界のためにあるのだ。それは、理想とされる恋人像。望みと矛盾の複合体。キミの愛が、歪な彼を作っていく。キミの望み一つで、世界を変える力がある。ディア・トイボックスは、歪で、悍ましく、そして、とても愛らしい。——世界の恋人なのだ。

「私、わたしっ、もっとお勉強する! 知りたい、愛したい、キミが好きだ、大好きだ! もっと、ちゃんとサラのこと、知れるように! 愛せるように! たくさんたくさん頑張るよっ、だから——その日まで、どうか待ってて! 大好きな子たちみんなで、大好きな子たちを迎えに行こう! ずっと一緒にいよう。重ね合った爪先を、いつまでも土で汚していよう。大きなバーガーで顎をはずそう。くだらない傷を愛そう。アメリカンムービーの親友たちのように」

 きゅ、と両手で迷いなくサラの手を握る。冷たくて、気持ちのいい手。強くて、優しい手。大好きな手。つう、とサラの手を伝うのは、熱い、熱い涙だった。幸せそうな笑い声だった。ねえ、約束しよう。夏の着物を贈ることで、キミに夏を贈るように。愛を伝えるのに、アルコールが足らない情けなさも、愛情が満ちているから、許せてしまうみたいに。ただ、キミを愛したい。何もわからなくても、何も知れなくても、世界を救い、世界を愛す。キミに、愛するキミに、輝かしい未来をプレゼントしたいだけ。キミを、幸福にしたいだけ。ずっと、それだけ。キミを世界に連れて行く! ディアの涙は、幸福由来。ディア・トイボックスは、希望に溢れる世界の恋人。——世界の恋人なのだ。

「刹那が怖いのなら、蝶と一緒に空高く跳ぼう。地球の中心にさよならを言おう。永遠が怖いのなら、明後日に約束をすれば良い。夢から覚めたくないのなら、同じ夢を見れば良い。もっともーっといっぱいの、キミを愛する子に会いに行こう! 実は、私たちは今、みんなでとーっても楽しい夢を見ていてね? ——ご興味ないかな、フェアリー・フレンズ?」

 ストップストップ。
 早くたくさん喋るのはNGで。
 一度深呼吸。
 いち、にぃ、さん。すぅ。はぁ。
 深く息を吸いまた吐く。
 あっ、やっぱり無理だ。

「欠けているのは悪。満たされているのは善だ。
 常に満たされていて、貪欲なディアサンにはボクの、欠けているドールの気持ちなんてわかんないよ」

 小さく開いた口からは言葉がいくつも溢れ投げつけられていく。
 言葉の防波堤は仕事を放棄していて、強い言葉は門を簡単に通り抜けてはぶつかる。効果があるのかなんてわからない。
 けれど投げた側のサラには効果ありのようだ。

「いやっ、違って。ごめん。間違えた。




 ねぇ夢の中にずっといてもいいのかな?
 お花と喋ってたってベッドを煮詰めて風を添えて食べたって、芋虫の煙に乗って空を旅したり、マフラーに巻き付かれて冬眠したって。
 わからなくなってもいいのかな。
 ボクは……ずっと寝ててもいいのかな。
 だって、どうせ……なんでもない」

 お披露目には行けないのだから。

 宝石からあふれる形のない雫さえも壊さぬように拭う。
 サラは自身を肯定してくれる人を、強い人を好む。
 眼の前にいる太陽は体はけして強くはないがサラには壊せない芯がある。
 何よりも、何よりもサラの夢物語の共演者。
 共に夢を見よう、聞こう、触ろう、感じよう、嗅ごう、創ろう。
 夢から覚めるまで、一緒に寝てくれる?

《Dear》
「そんなことない」

 わからないことだらけだ。

「そんなことないよ! そんなこと……っ、そんなこと、ないよ。私だって欠けてる。だって私は、キミの気持ちの全部をわかって、全部を愛して、全部を救っていたいのに……大事な大事なキミの気持ちが、わからないのだもの」

 知らなければならない。

「おそろいだ」

 ただ、ディアは、わからないことが幸福で、幸福で、仕方がないのだ。教えてもらうこと、知りたいと奔走すること、その傷でさえ、当たり前に愛している。キミが、この世界に存在していたこと。それだけで、涙が出るほど幸福で。けれど、ディアは貪欲で、全てを望むものだから。ただ、望んでいる。キミの望みも、世界の望みも、全て、全て叶えたいと。ただ、キミの笑顔が見たいと!
 ディア・トイボックスは、世界の恋人は、純粋で、欠陥品で、絶対に、全て、全て諦めないのだ!


「トゥリアモデルって、私が愛してきたものって、恋って、そういうものなの。好きな人に意地を張りたくて、かっこ悪いところ見せたくなくて、でも全部、愛してほしくて。矛盾だらけで、情けなくて、欲が絡んだり、好きだからこそ傷つけたくなったり、好きだから、好きって言えなかったり。遠回りして、転んで、離れて、それでも、抱きしめに行きたくなっちゃったりするの! そういう不器用さも、全部、全部、大好きなの! 全部、全部、かわいくって、いとしくって……しかたない、の。キミの望みを叶えたいから、頑張ってみただけで……ほんとは、私、友愛の正解なんて知らない……けれどね、一つ、一つだけ、私でも知っていることがあるの。——お友達とは、本当の自分を、当たり前に曝け出せる関係のこと。

 っだから、だから……っ、本当の私で、キミに愛を伝えさせて」

 涙が、幸福が、愛が溢れて、止まらない。私なりの愛で、キミなりの愛で、キミと話ができたなら、どんなに幸福だろう、どんなに愛しいだろう。遠回りして、転んで、離れて、怖がらせて、それでも、そこにあるのは愛だった。友愛でも、性愛でも、恋愛でもなく、ただ、愛であったのだ。

「——キミが、サラが好きです。朝焼けを見れば、またキミの夢を見れる。そんな愛をくれて、ありがとう。私たちの夢に、ついてきてください」

「いっしょ……おそろい……」

 嘘だ。真っ赤な嘘。真っ黒な嘘。
 オミクロンに堕ちてきたってプリマドールっていうタグは外れない。ずっとついてる。
 生まれた頃から設計された頃から欠陥品と比べてみろ。
 完璧だったのに。

「ボクにアイ? ボクが好き?
 でもボクはディアサンのことが嫌いだよ。
 それ、に。ボクはディアサンについていけない。
 だって主人サンが待ってるはずだから。
 ボクを、サラ・トイボックスを。」

 一歩、一歩またディア・トイボックスから離れる。彼に依存してはいけない。離れて、温かい太陽から、輝く太陽から。
 テーセラモデルはヒトの友達に、理解者になるために作られたドール。
 ドールが理解者(依存先)を求めるな。
 ただ一人、サラ・トイボックスを求めてくれる主人を求めろ。

《Dear》
「でも私は、私は、キミが好きだよ! 私を嫌うキミも、突き放すキミも、殺すキミも、みんな好きだよ……」

 いつだって、全てを選べるのは与えられたもののみで。全て、満たされている側の言葉でしかなくて。そして、どちらも何も悪くない。腕一本分のシルクでは、到底説明できない溝が、二人の間には存在していた。そして、世界に満たされた、歪な歪な少年は——迷いなく、深い、深い溝へと飛び込んでいく。

「——この心臓を潰せば、キミの隣で話ができるの?」

 ときめき続ける心臓に手を当て、爪を突き立てる。何も傷つけられない、弱くて脆い、優しい手が。今だけは、愛に任せてずぷずぷと埋まってしまいそうで。いつだって、その身に宿る激情を愛するのはディアだけで。ディアは、永遠にひとりぼっちであった。それすら、愛していた。ただどうにもないくらいに、世界を愛していた。

「なんてね、冗談。まだ、“その時”じゃないから」

 私がいらなくなるその時、私が消えるその時、キミという星を掲げに行こう。

「いつかまた、迎えに行くよ。みんなも、みんなのご主人様も、大事なものも、全部一緒に、夢路の橋を渡ろう。私が死んだら、いらなくなったら」

 私が堕ちる煌めきで、キミの愛が、遥か遠くのご主人様に、見つけてもらえますように。

 だから。

 だから。

「またね、サラ」

 その時の別れは、さよならがいい。

【寮周辺の森林】

Licht
Sarah

《Licht》

(……帰りたくないなあ)

 そう思うのは、これでもう何度目だろう。テーセラの実技授業終わり、リヒトは息をついて立ち上がった。二三本の木の向こうに寮の小さな姿が見えていて、どうにも足を動かす気になれなかった。疲れていたし。

 ……全て知る前から、全て知った後も、時折、ここから見る寮と草原の景色が、まるで絵画のように見えた。自分の居ない場所、まあ、全部空想なんだけれど。今日はとりわけ、それが強かった。

「……はーーー……」

 木に寄りかかって、ぼうっと見ている。幾つかの背が遠くなる。いつもの鞄にも意識を割いて、その中のノートにも注意していたから、頭を使った。いつもよりずっと。

 授業中は、視野が狭くなる。集中しないと課題をクリア出来ないし、体の動かし方だって、上手く考えないと繋がらない。本能で動いているようで、実はみんな、ロジックに基づいた動きをしている。そこがコワれてしまった以上、リヒトは他の誰よりも頭を動かさなくちゃいけない。他の子を気にしている暇なんてなくて、自分のことで精一杯になる。その反動か、授業後のリヒトはぼんやりしがちだった。

 だから、声を掛けられるまできっと、気づかなかったんだ。


 ────本当に、それだけ?

 今日も今日とて青い花と青い蝶探し。
 探しものは高いところにあると誰かから、どこかから聞いたことがある。そのためか今サラがいるのは木の上。枝から枝に飛び移る姿は動物で言うところの猿。頑丈で運動能力の優れているテーセラモデルとしては満点の動き。
 しかし飛んでも移っても視界に入る青は湖、空、あと花の噂話。ピンクだったり水色だったり、赤色だったり、黒色だったり、紫色だったり、白色だったり、オレンジ色だったり。
 いや、お花にしてはやけにでかいオレンジ色だ。

「あっ」

 よく凝らして見てみれば花ではなかった。リヒト・トイボックス。典型的なジャンク品。嫌いなジャンク品。
 話したくない気分でもない。
 声をかけてあげよう。
 気分が沈んでいる。
 今なら嫌いじゃないかもしれない。

 彼が寄りかかっている木に乗り移り彼らの腕に足を引っ掛け宙ぶらりんの状態で話しかける。今の自分はさながらコウモリのような格好だろうか。
 あれ、でも眼の前のジャンク品は頭が下にある。

「なんか、変? リヒトサンの足が浮いてて頭が上にある。
 こんにちは。」

《Licht》
「あ、おい……ちょうだ」

 声の方を見上げたその瞬間、過ぎったものに、凍り付く。一瞬、ばっと目線を逸らして、嫌な音を立てて軋む胸に見ないフリをした。ひっくり返ってゆっくり揺れてる、のんびりとしたあの子の名前は、何だっけ。オレはどんなふうにそれを呼んでいたんだっけ。どんなふうに話しかけていたっけ。記憶はあるのに記憶が無くて、上手く呼吸が出来ない。視界の端を過ぎった青い蝶が、嫌に楽しげに見えてしまった。



 だから、ごめんなさい。
 夢を見るアリス。

 彼は、貴方が分からない。



「………………っ」

 コワれたココロは迷ったけれど、結果、誤魔化すことにした。大丈夫。覚えてなくても、推測できる。オレはこの人とどんな関係だったか考えられる。浅い呼吸を二三度。そして宙ぶらりんになった、チェシャ猫のようなあの子にまた、振り返る。別に、別にいいさ、空っぽの身体は捨て置いたって。誰に蔑まれ、苛まれたって。つぐないは今日もここにあって、決して緩むことは無いから、リヒトは安心してその苦しさを飲み込むことが出来た。全て、自分がコワれて生まれてしまった罪で、彼女を巻き込むことは無い。

 ────いたい、気はする。きっと気の所為。気の所為じゃなくても、気の所為にする。

「お、オレか、オレだよな。オレしか居ないし……えと、こんにちは」

 名前を呼んでくれたのが苦しい。名前を覚えてくれていたのが苦しい。白ウサギが罪状を読み上げているように、引きずり出されたハートのジャックのように。それでも、それは彼自身の欠陥にほかならないから、彼は大きく息を吸って、出来る限り普通に、話した。欠陥品でも、数をこなせば、だいぶ上手くはなるもので。
 続いて、『さかさまだけど、降りれる?』と聞いたのは、関係性を思い出せないが故の、探り探りの質問だった。大丈夫、頭を回せ、コワれてるけど多少は使える。

「あおい、蝶? どこどこ」

 求めていた物の言葉をテーセラの耳は一音もこぼさず拾いきった。逆さまのまま器用に体や首を動かし視野を広げるが残念ながら拾えても捉えることはできない。

 ?

 あ、嫌いかもしれない。
 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ思った。
 眼の前の人参頭は息を深く吸って吐く。
 壊れたのかも。
 壊れかけかも。
 すでにジャンク品は壊れているのか。

「リヒトサンしかいないでしょ。

 あっ、なるほど。」

 作られてから年月の経った酸味の強い紅茶のような目は、同じような色をした人参頭を見下ろす。
 ようやく逆さまの世界に気づききれいな着地を決める。70点。
 両手でバランスが取れないからか少し蹌踉めいた。残念今日も右手がお留守。

「いつもより変なの。走り足りなかった?」

 どこか他人行儀の貴男にはてなを並べ今日の授業を思い返す。確か確か今日は授業で走った。でも足りなかった。もっともっと走りたかった。走れば忘れられる。嫌いも好きも。わからないも。
 そしてすっきり。
 そんな気分?
 走ろう、全部忘れればそれで元通り。
 悪いのは可笑しい周り。

《Licht》
「あー、いや。むしろ、なんか、走りすぎて疲れた……っていう、か」

 『出来損ないだからなあ』と笑って、リヒトは自分のカバンを拾い上げた。尋ねてきてくれる声に棘は無いから、少なくとも仲が悪かった訳じゃあないのだろう。そう願いたい、彼はエーナモデルとかじゃないから、貴方の『嫌い』もよく読み取れない。一人で勝手に動揺しているのを俯瞰する、やけに透明な自分が、上手に自分を動かしていたから……少なくとも言葉は、ちゃんと口から出た。

 ごめんなさい。

 忘れるより、忘れられる方がきっとずっと辛いから。自分のせいでそんな目に遭わせてしまってごめんなさい。

 コワれてしまって、ごめんなさい。

「ええと……見たことあるの? 青い、蝶」

 名前、名前を思い出さなきゃ。違う、思い出せやしないんだった。じゃあどうしよう、と迷って、青い蝶の話をもう一度拾った。さっきの言いぶりだったらきっと、この人は青い蝶を探してるはずだ。ノート見せたかどうか、覚えてないけど、見てないなら見せて、教えなきゃ。それが彼に出来る唯一のことだったから。

 また、つぐないの音がする。自分勝手で、独り善がりな、つぐないが更に締まってく。

「ふーん。変なの。」

 テーセラなのに疲れた? 欠陥品ジャンク品。
 彼の隣に腰を掛け背中を木に預ける。今日はふわんとしないカッチカチ。ちぇ、おじいちゃんは腰を痛めているようだ。
 せっかく落ち込んでいるのなら一緒に走ろうと思ったのに。
 ちぇっ。

「あるよ。
 青空の破片。誰か、が……教えてくれたの。

 あっ、思い出した。鳥だ。真っ白な鳥。」

 青い蝶。青空の破片。
 今捕まえたいものナンバーワン!
 ゆったりとしたふわふわのお花のベッドに座っていて。そばにいた白鳥サンが教えてくれたの。
 教えてくれたあとはどこかに羽ばたいて行ってしまった白鳥サン。今はどこを旅しているのだろうか。もしかしたら他の仲間と一緒にお姫様でも迎えに行ったのかもしれない。

《Licht》
「……だよな、変だよな」

 テーセラなのに。ドールズなのに。トイボックスの人形なのに、帰りたくないとか変だよな。ココロがあるとか、変だよな。……それがほんとにいい事なのか、まだ分からない。

「ま、真っ白な、鳥……? えと、それって、その、ホントの鳥?」

 あまりに不思議な話で、リヒトは思わず聞き返した。というか、聞き返した後で少し後悔した。もしかしたら、普段の自分はここで聞き返しなんてしなかったかもしれない。サッと心臓が冷える気持ち。

 トイボックスに鳥はあまり居ない。と、いうか、深海なのを知っている以上、いるとも思えない。魚の居ない湖。鳥のいない森。猫のない笑顔すら木立の向こうの夢。

「とっ、とにかく、その青い蝶に関してなら、オレも見た事あるよ。ええと……なんか、思い出したりした? 青いちょうちょ、見た時」

 話、変えよう。さっきからずっと、手探りの不器用さで話している。木に背中を預けた彼女の方をちらりと見ながら、時折梢の先を見すえて、空も、草も、ゆらゆら目線を動かして。そして、できる限り明るく、間違えないように平静に。声色の舞台裏が真っ白な台本を持って走り回っていることを、悟られないように。

 ……ちょっとだけ、この子の事が分からない。好意も嫌気も見えないうえに、知らない世界が見えてるみたい。見えない、見えない、見えないものには不安げな霧が入り込む。もしかしたら、嫌われてるかも、なんて、憂慮が。今更、ほんとに、今更。

「うん。白鳥。
 とっても綺麗だったよ。また会いたいな。瑠璃色の瞳が印象的でさ。」

 今思い出してもとても優美という言葉が似合う鳥だった。お話も上手、だった、気が、する。
 あまり覚えていない。

「思い出した、というか。
 夢で見たんだ。
 確か、えっと。
 兵隊さんの真ん中を歩いていたときだ。
 その後兄さんと朝食をとって。」

 近くにあったら小石を数個取りそれを直列に並べる。よし、兵隊さんの整列まんまだ。
 そして小石の整列の行き着く先に二本の花を引きちぎり落とせばサラの夢。
 サラは何もおかしくない、逆にお前はどうなんだ。とでも言わんばかりに隣に座る六等星を見返す。言葉にしなきゃ伝わらないというのに。テーセラとしては及第点といったところだろうか。
 兄さんとの朝食の時間がいかに楽しかったか喋ろうとした、が。残念ながらその思い出がサラの口から紡がれることは無かった。
 変な、邪魔者が兄さんとの楽しい思い出に入ってきたのを思い出したから。あの青い髪。もう彼は要らない。ぽいっ。

《Licht》
「はくちょう」

 白鳥が、いる?

 瑠璃の瞳の、白鳥。そんなに美しいものがもし居るのなら、会いに行ってみたい。ぽかん、とした頭の中で、瑠璃を細めた美しい鳥が、真っ白で細く長い首を曲げた。夢みたいだ。……だけど、誰かの例え話だろう。多分。

「へいたい」

 ……兵隊さん?

 そんなに物騒なものが居るのなら、叶うことなら会いたくない。次第にはてなマークのたまってきた頭の中で、くるみを抱えたおもちゃの兵隊がざっ、ざっと行進する。誰かの例え話……なのかな?

 ああ、やっぱりちょっと難しい。比喩や例え話は頭の正常に動く者にしか使えない、美しい言語だ。

「……え、と。とにかく、話に聞いたことが、あって。
 擬似記憶……多分擬似記憶、だよな、それ。お兄さんとの、朝ごはん。
 えっと、だから、擬似記憶の中でやったこと、とか、見たものとか。そういうのを、こっちの……トイボックスの中で探してみると、いいかも、知れない」

 『オレはそうやって見つけて』と付け加えた。……正確には、区別をつけられていないのが正しい。擬似記憶のスキマを思い出す行為と、青い蝶を見る行為。リヒトにとってそれはほとんどイコールに近いが、反面、オディーやアメリアには青い蝶を見たと言われたことがない。
 だから、伝えなくてはいけないことが、迷いながらの言葉になった。言葉にしなくては伝わらないが、上手い言葉が見つからない。だんだんおかしくなっているみたいだ、自分の方が。夢と夢のパノラマの向こうに、この子に、言葉で、翻弄されている。

「……でも、思い出すのって、いいことばっかじゃなくて」

 どこから言えばいいだろう。何を言ったらいいだろう。何を言って欲しいんだろう。どう、役に立って欲しいんだろう。それがわからない。ああ、また、及第点に、指が掛からない。

 サラの夢話を壊れた蓄音機のように繰り返すジャンク品。
 そんなに気になったのなら今度湖にでも食器棚にでも案内してあげようか。
 正規品が立ち並ぶ中欠陥品同士背中を丸めビクビクしながら。
 やーだね。

「あっ、疑似記憶……そっか。
 ごめんまた混じっちゃった。あれ、でも。いや。そっか。」

 あれ、兄さんとの朝食は疑似記憶の中? いや違う。サラの疑似記憶は愛しい兄との花畑での幸せな記憶。
 朝食は関係ない。疑似記憶じゃない。じゃあ夢? 違う、絶対に違う。本物、絶対に本物。

「探すのを提案したり、やめさせようとしたり、どっちがいいの。」

 イラつきを隠そうともせず空っぽではない方の手で彼の手を握ろうとする。貴方が拒絶しなければサラの手はテーセラの頑丈な手を強く押さえつけ、こちらに視線を向けるよう誘導する。
 正解を頂戴。ボクにどうしてほしいのか教えて。

《Licht》
「────」

 手を捕まえられて、とうとう展翅された青い蝶のように、リヒトは目を丸くして。怒らせてしまったという焦りが、帰って心を落ち着けた。摩訶不思議の森が、ようやく姿を表してくれた。

 夢でも、忘れ物でも、何でも、どうにでもなれ。結局、欠陥品の出来損ないドールに出来るのは、今までの道を馬鹿に信じて、一歩ずつ繰り返すことだけだから。がむしゃらに、何も見えなくなるくらいまで、自分の全部をすり減らして、いつかどこかに、みんなの所に辿り着けると、信じるだけだから。

「わかん、ない。……わかんないから、オレが知ってることを言う。教える」

 青い蝶についても、それ以外についても。馬鹿らしいかもしれないけれど、とにかく見て、信じて。信じられないなら、これは全部夢として、いつもみたいに花と踊って、木と跳ねて。手を解くことはしないまま、息を飲んでリヒトは続けた。

「……その、オレが見せる事の中で、気になったことがあったら、自分で調べて。きっと、君は、キレイなはずだから、」

 忘れてしまったこの人が、ちゃんとみんなの元へ辿り着けるように。夢のような言葉の森の中を掻い潜って、ようやく“役に立ち方”を見つけたから。

「───お披露目に行っても、ご主人様には会えない。
 だからみんな、色んなやりたいことのために、トイボックスを調べてるんだ」

 震えた声でそう言って、ノートを開いて、差し出して。『馬鹿みたい』って嗤われることを、恐れて、少し、期待して。捕まえられた自分の手が緊張で冷えていることに、彼はまだ気づいていない。

「いらない。いらないって。」

 それはきっと正解じゃないよ。
 ジャンク品の言葉なんて信じない。何を言われたって。
 一生懸命耳をふさぐもかたっぽ空いてりゃあ、テーセラモデルの優れた耳をお持ちなら。一音もこぼさず拾えてしまう。
 【お披露目】【主人はいない?】【みんな?】
 皆? 皆って、オミクロンのクラスメイト? それともこの、トイボックスのドール達? 誰が可笑しいの。誰がジャンク品なの。
 手に込める力が強まる。
 相手の手が正常じゃないことなんてわからない。
 そんなこと今のサラにわかる訳が無い。
 何も知らないのはだぁれ?
 何もわからないのはだぁれ?
 仲間外れ? いや、見えていないだけ。

「嘘つき。馬鹿みたい。
 ……品の、ジャンク品のくせに。欠陥品のくせに。壊れてるくせに。オミクロンのくせに。えっと、あと。走ることしかないくせに。」

 悪口を言い慣れてないくせに、変なところで頑張るから。サラのメモリーにある悪口をありったけ並べる。
 役に立たない情報だけくれちゃって。
 吐き捨てられた言葉は彼にぶつかりそこらに転がっていく。それがどうも嫌になる。

 相手の目をみることはせず視界に映るのは二人の雰囲気とは真反対の和やかな自然。一方的につながっているのは手だけ。心は分かり合えるだろうか。繋がれるのだろうか。

「こんなノートいらないよ。」

 ジャンクが悪化するだけ。
 差し出されたノートをひったくりポケットからペンを取り出す。いつもなら夢を紡ぐペン。今は六等星の輝きを、夢を潰すペン。
 利き手ではない左手でペン先を潰してしまうような筆圧で彼が見せてくれたページを消しに行くように大きくバッテンを書く。
 幼稚なドール。ビリビリに破いてしまえば、湖に落としてしまえば良かったのに。自分は相手を嫌うのに自分は嫌われたくなかったのだろうか。

《Licht》
「いらない」

 嘘つき。馬鹿みたい。ジャンク品のくせに。欠陥品のくせに。壊れてるくせに。オミクロンのくせに。走ることしかないくせに。

「……まあ、そっか」

 嘘つき。馬鹿みたい。ジャンク品のくせに。欠陥品のくせに。壊れてるくせに。オミクロンのくせに。走ることしかないくせに。

「…………そうだよな」

 嘘つき。馬鹿みたい。ジャンク品のくせに。欠陥品のくせに。壊れてるくせに。オミクロンのくせに。走ることしかないくせに。

 ……大きなバッテンがついたのは、ノートの2ページ目だった。リヒトはそれをぼうっと見ていて、一瞬だけ、瞳孔が開いた。発信機の付いている、でもそれを彼女は知らない、作り物の眼が。随分強くペンを握っていたから、裏まで滲んじゃってるかもなあ。仕方ないよ、だっていらないんだって。だから短く息を吸って、やれることはまだ、まだ、あるよ。

「要らなくても、他の、誰かにも聞いてみて。青い蝶、知ってる子、結構居るし。手がかりには、なるだろうし……これもいらないなら、いいよ。これ以上、オレがやれること……ないから」

 随分とするする口は回った。きっと、さっきから顔色は特に変わっていない。大きな大きな否定の証をゆるりと見つめて、静かに表紙を閉じた。思い出せた訳じゃない確信が、確かに大きくバッテンを描く。自分と、この子の間に。結局、名前聞いてない。

 ……ああ、忘れてた。

 この子、
 オレのこと、嫌いなんだった。

「……」

 気まずい。
 大きくバッテンが本に閉じられていく。刻まれた。サラの拒絶が。
 でもいいはずだ。可怪しくないんだから。おかしいのは彼らだ。
 大丈夫。
 そう自分に言い聞かせても、夢を壊したペンを持つ手はなんだか痺れていて、一瞬でも気を抜いたら落っことしてしまいそうだ。
 彼になんと声をかければよいのだろう。これはきっと意見の合わない喧嘩。喧嘩をしたあとは仲直りをしなければいけない。でもきっと今じゃない。だから、せめて。せめての別れの挨拶を。

「またね。」

 そう言い残してサラは壊れた六等星を置いて夢へ逃げましたとさ。

《Licht》
「……じゃあね」

 ちかちか、燃える六等星は、現実の中に置いていかれた。あんなに激昂していたのに残してくれた別れの挨拶に、こちらも反射的に言葉を返す。……“また”は、言えなかった。さあて、こちらも帰らなくっちゃ。そう思って、ノートを拾って立ち上がろうとして……。

 ずくん。

「────っ」

 嘘つき。馬鹿みたい。ジャンク品のくせに。欠陥品のくせに。壊れてるくせに。オミクロンのくせに。走ることしかないくせに。嘘つき。馬鹿みたい。ジャンク品のくせに。欠陥品のくせに。壊れてるくせに。オミクロンのくせに。走ることしかないくせに。

(ま、っ……まだ、まだ、まだ、っ、まだまだまだまだまだ……!)

 悲鳴は、まだ言っちゃダメ。今更のように痛み出す傷が、ずくずくと膿んで顔を出す。思わず両手で口元を覆って、俯いた。弱音は、まだ言っちゃダメ。苦痛も、まだ言っちゃダメ。思い出す時みたいに痛いわけじゃないのに、忘れる時よりもずっと痛い。それでもそれは、言っちゃだめ。

 下を向いた弾みでノートを落とした。ぱらりとめくれて、表紙が揺れる。まだインクの乾ききっていない、大きなバッテンが目に映った。


 このノートは、リヒト・トイボックスの価値の全てだ。


「……っ…………!」

 もういっそ、あの子みたいに、大きくバッテンを書いて否定出来れば楽だった。落ちこぼれは落ちこぼれらしく、何も知らずに。だけど、溢れかえったバッテンの間から、きらきら輝く誰かが見えたから。手伝って欲しい、と、求める声が、自己否定の向こうから聞こえたから。要らない体を、薪で満たしてくれたから。怖かったけど、燃えてみようと思ったんだ……そしたら光って、気づいてもらえるかなって。

 塞いだ口の代わりに、閉じた瞳から零れたものが雄弁に語る。飲み込んでしまった感情の代わりに、眦が潤んで静かに応える。ダメだ、ノート、濡れる。後ずさって、木に背中を預けて、座った。雨が止んだら、この木陰から立ち上がろう。そして調査しよう、何処でもいいから。……それが、価値の全てだから。