Campanella

 カンパネラはいつも通りに沈んでいた。
 アストレアは戻ってこず、お披露目という麗しい緞帳の向こう側へと、行ってしまった。彼女のことをいとおしき真夜中と呼んでくれた、美しい少女。

 ───自分のことが、もっともっと嫌いになる朝だった。

「…………」

 アストレアはどっちで死んだのだろう。黒い塔で焼かれたのか、ダンスホールで食われて死んだのか。どちらにせよ、その最期の瞬間、彼女はさぞ苦しんだだろう。恐ろしい目に遭わされて、逃げられなくて、悲しくて。どんなに辛かったろう。
 そうやってカンパネラは、階段を登りながらアストレアに想いを馳せて、馳せて、それなのに、それなのにどうしてわたしは、わたしはこんなにも。

「薄情者」

 悲鳴じみた呟きだった。

「最低。オミクロン。欠陥品。ひどい。わたしは。どうしてこんなに。頭が欠けてる。最悪よ。こんなの、こんなの、こんなのは、」

 足を止めることはなかった。呪詛を呟くように、カンパネラは自身の足を睨み付けながら、階段を上る。淡々と上る。

 そして、彼女は図書室の入り口の前に立った。償いという言葉が頭を占めている。わたしは罪人なのだと虚ろにぼやきながら、足を踏み入れる。

【学生寮3F 図書室】

 階段を上り詰め、寮の最上階に位置する埃臭い書物の蔵に辿り着く。図書室の天井は四階部分までを突き抜けているためか、とても高い。そして、木製のロフトを介して上階にも数多の書物がところ狭しと保管されているようだ。

 図書室はほの暗く、壁に取り付けられた卵型の照明をつけてもまだ暗い。
 屋根裏の部分に切り取られた小窓から差し込む陽光が、空気中に舞う埃を幻想的に煌めかせていた。

 償え。償え。償え。そのためにお前はここにいる。償え。罪深き女、醜い女……。
 頭痛がしてくる。あの白昼夢が蘇るときのそれではなく。彼女に降り積もった大きなストレスが、自己嫌悪が、カンパネラの首を絞めているだけだった。

 きょろ、きょろとカンパネラは辺りを見渡す。本棚に“あの本”のタイトルを探しているのだ。
 ───きっと、それは鍵になる。途切れ途切れにしか聞こえなかったあの声を自身の内側で蘇らせ、償いをするための。
 いや。正直、ならなくても良かったのだけど。

「……増えてるぅ………?」

 歩いていると、カンパネラは本棚になんだか小難しい本が増えていることに気が付いた。『波間に揺蕩う精霊』、『遷延性意識障害、植物状態の定義について』、『魔女裁判の歴史』……はて、全く以てどれも何のことを言っているのか分からない。頭のよいデュオドールや、姉なら分かったろうか。
 ひとまずカンパネラは、その本たちを手に取ってみることにした。過去を知るための、何かのヒントになるかもしれない。……その内容をちゃんと読み取れるかは、些か微妙なところだが。

◆ 波間に揺らぐ精霊 ◆
『美しい乙女が座っている
金の飾りは輝き 金色の髪を梳いている
金色の櫛で髪を梳かし 乙女は歌を口ずさむ
その歌は不思議で 力強いメロディ』

『小舟に乗った舟人は その歌に心を奪われて
岩礁は目に入らず 上を仰ぎ見るばかり
舟人は波に飲まれるだろう 彼女の歌声によって──』


 古い民謡の書き出しから始まる、幻獣ローレライについて綴った書物のようだ。ローレライとは、不誠実な恋人に見切りを付け、川に身を曲げた女性が水の精に移り変わったもの。彼女の歌声は舟人を魅了し、次々と座礁させていったと言われている。
 あなたはその本の末尾に、何やら見慣れぬスタンプが押されていることに気付く。嫋やかな花を囲う女の手が描かれた不思議な紋様だった。添えられた文書なども無く、謎は謎のままである。

◆ 遷延性意識障害、植物人間の定義について ◆

『大脳の機能の一部、または全体が機能不全に陥り、目覚めなくなった人間を“植物人間”と呼称する事がある。脳幹の機能は依然生きているため、自発的な呼吸は続けられ生存状態にあるものの、意識回復の見込みは薄い患者が該当する。遷延性意識障害とも呼ばれる。
 一方で、脳死は脳幹部も機能不全に陥っているため、自発呼吸は叶わず、数日以内に死に至るものを指す。』


 小難しそうな医学書の一部の記載だ。寝台で眠っている人間の頭や身体に、植物が絡み付いている挿し絵が付いている。またその挿し絵の片隅には、『あの子も目覚めなくなった』という手書きの文章が添えられていた。

◆ 魔女裁判の歴史 ◆
『ヨーロッパ中世末の15世紀、悪魔と契約してキリスト教社会の破壊を画策する異端者、通称“魔女”の概念が誕生し、大規模な魔女裁判が行われた。別名魔女狩りとも呼ばれる、被疑者に対する刑罰、私刑との迫害は極めて残忍であり、苛烈を極めていた。犠牲となった少女は数百万人を悠に数え、その多くは凄惨な“火刑”によって命を散らしたと言われている。』

 この本には栞が挟まれていた。また、埃を被っていないため近頃誰かが読んだのだろうと推察出来る。

 まず読んだのは、『波間に揺蕩う精霊』。
 記されていたのは、歌声で舟人を惑わし座礁させる恐ろしき幻獣・ローレライについてのことであった。民謡から始まるその本は、おとぎ話でも読んでいるかのようで興味深い。歌でなんて酷いことをするんだ、と思わないでもないけど。
 本の末尾を見れば、見慣れないものがそこにはあった。

お花と……手? ………なにこれぇ……」

 そのスタンプは意味深にも感じられたが、カンパネラにはもうそれ以上分かることはなかった。


 理解に死ぬほど苦しんだのは、『遷延性意識障害、植物人間の定義について』という本だ。
 タイトルからも分かる通り、小難しい、というかものすごく難しい。デュオドールが読むような医学書だった。脳の機能不全で二度とは目覚めなくなった、植物人間なるものについて書いてある。
 こういう難しいものほど、何かのヒントになりはしないだろうかと、カンパネラはその文章に挑んだ。挑んだはいいが。

「なんもわかんなぁい………」

 結局なんもわかんなかったらしい。
 目が滑る。英単語の一つ一つが頭にはいってこなかった。蛙の肝でも食わされているような苦い顔で、カンパネラはページをぺらぺら捲る。完全に読むのを諦めていた。
 と。何か、目についたものがあった。

 ぱちくりと瞬きをひとつ。それは、あるページの挿し絵の傍に添えられた、誰かの手書きの文章だった。これを書いたのは、ドール……なのだろうか。

「………『あの子も目覚めなくなった』?」

 実に不可解な文字列だ。ドールが書いたのだとしたら尚更。しかしやはりカンパネラにはそれ以上のことが分からない。分からないけれど、なんとなく、心にひっかかりを感じた。


 最後に読んだのは『魔女裁判の歴史』という本だった。魔女なる概念、魔女狩り、火刑……といった感じで、かなり物騒な内容だ。
 本は埃を被っておらず、栞が挟まっていた。近ごろ誰かが、これを読んだのだろう。栞の位置が変わらないように注意を払いながら閉じて、本を棚に戻した。


 かくして。
 なんか変なスタンプがあったということと、誰が書いたのかもその意味もよくわからない謎の文章があったということと、ずいぶん物騒な本を誰かが最近読んだのだということ。カンパネラにはなんの役にも立たないであろう三つの収穫を得て、調査は終わった。
 いや、それは調査なんて大層なものではなかった。ただの、現実逃避である。

 カンパネラはひとつ息をつくと、ゆっくりと図書室を進んだ。この空間の奥まった場所へ。本棚と本棚の間を見つめて。
 その落書きの前に、彼女は立った。

「……グレゴリー。シャーロット……。」

 過日の友人たちの名前を呼び、落書きに触れて俯く姿は、聖女が祈っているようであった。この懐かしくて愛おしく思う落書きを目にすることにさえ、臆病になってしまっていたのだと気付く。必ず償うと決めたのに、なんて情けないんだろう。どうして彼らから逃げるような真似を。そんなのは許されないのに。
 償え。償え。償え……。
 わたしは最低なんだから。大切な人たちのことを忘れてのうのうと生きていたんだから。アストレアさんに何もしてあげられなかったんだから。
 それでいて……彼女の死を、まともに悲しんであげられない、薄情な女なのだから。

 自責に沈んだカンパネラの耳には、何も届いてはいない。足音も、呼吸の音も。人の気配に気付くこともなく、頭をぐしゃぐしゃにして、蹲るように俯くばかりだった。

Dear
Campanella

《Dear》
Suis-je meilleure suis-je pire Qu’une poupée de salon……」

 景色が滑る。希望に満ちたターコイズブルーを、悠々と泳ぐ魚のように。
 爪先で地面を蹴って、朗らかなボーイソプラノを響かせながら、ディアは軽やかに走っていた。

 ただ、プログラム通りに。愛しき恋人の呼ぶ方へ。

Je vois la vie en ro……あっ! ふふっ、ごきげんよう、愛しきカンパネラ! 今日はみんな、おててを繋いで仲良しなの! きっとかわいいかわいいエンジェルたちが来たからだね! 花も、風も、空も、みんな幸せそうでとってもかわいい! 今日のキミのご機嫌はいかがかな? ああ、どんな鼓動をその星のかんばせに浮かべていたって、キミはとっても美しいよ!」

「手を繋いでも?」

「キスをしても?」

 ディアの瞳には、一体何が見えているのだろう。花も、風も、空も、ドールたちも、怯えきっているだけだった。惰性と蒙昧さに満ちた、昏い昏い絶望に攫われないように。思考停止を誘う毒に、防衛反応から来る嘘に、マガイモノの体温に、縋っているだけだった。
 あの日、この壁に咲く花に、初めて手を触れた時から。あの日、この場所で四人で誓いを立てた時から。あの日、この場所でただ何も知らず、優しいテノールに耳を傾けた時から。ディアは何も変わっていない。
 ただ、愛しき妖精の手を摩る彼は。肌が混ざり合う暖かさは、目と目が合う幸福は、キミの吐息に生かされる鼓動は。もう、あの子たちの手には絶対に届かない、目が眩むような眩しさを孕んで。

「壁に咲いた、素敵な素敵な愛の結晶のように!」

 彼は人形。破裂した屍でさえ、決して、手放してはくれない。

 気付いたときには、彼はもうそこに迫っていた。残酷なほどに色鮮やかなターコイズブルー。それが果たして何を写しているのか分からないまま、カンパネラはびくりと肩を震わせて「ヒッ……!?」と悲鳴を上げた。

「えっ、えっあっ、うわちょ、近………」

 静かな空間で物思いにふけていたカンパネラに、ディアは眩しすぎた。部屋に電気がついたことで目覚める朝のような心地で、でもそれにしては少々暴力的であるとも感じられるような。
 手を繋いでも、キスをしても。畳み掛けるような言葉は甘く、しかしどれも彼女の恐れることばかりを予告していて、反射的に逃げ出すように足音を鳴らして後退する。本棚にべったりと背中をつけて、その瞳に涙の膜が張るのを感じて。
 そして。

「…………っ……」

 自身の心の柔らかなところを高らかに指さされると、カンパネラはその顔にそれまで以上の動揺を滲ませた。ドク、ドク、ドク。自分の鼓動の音が聞こえる。

「………なっ……何か、知ってるんですか……? ……その、落書きの子達について……」

 遅れて、彼がシャーロットのことを調べているのだというソフィアの話を思い出す。狼から距離を置くような心地でディアから離れようと足を動かしつつ、問う。“素敵な愛の結晶”などと宣うのだから、それならば彼が何か情報を握っているかもしれないと思い付くのは自然なことだった。

《Dear》
「知りたいの!?」

 海に太陽が反射して、魚たちの宴にスポットライトを当てるように。輝かしい光の矢に突き刺され、海に叩きつけられるように。
 ディアのターコイズブルーは、一層その輝きを増した。嬉しかったのだ。頼ってもらえたことが。幸福だったのだ。望みを口にしてくれたことが。ただ、それだけだった。無邪気で、純粋な、敬虔なる愛の使徒。ディアに悪意という感情が芽生えたことは、生まれた瞬間から一度もなく——胸を占める幸福感のままに、鼻と鼻がくっついてしまいそうなほどに距離を詰めてしまうのは、仕方のないことだったのである。

「それが、キミのお望みなのだね!?」

「し、しりた、ちょっ近、かお、顔近あのッ、ひ、ひぃ~ッッ…………」

 顔と顔を近付けることはに、最近あった嫌な事件の関係もあってかより敏感になっていた。もはや声になっているのかも分からない、いっそコミカルな風にも聞こえる情けない声を上げながら、熟れた林檎のように赤くなった顔を逸らして逃げようとする。さてしかし彼から話を聞かないわけにもいかず、最終的には中途半端に逃げるだけとなった。ディアが距離を詰めれば詰めるほどカンパネラは後退し、本棚に背中をぶつけては方向を変えてまた後退し、しかし落書きの見える位置からは出ることがないという奇妙な行動を示したことだろう。

「お、のぞみ、って言ったら、そ、そうなんですけどぉっ……」

 情報を求めているからには無闇に突き放せない。相手に嫌がらせのつもりや悪意がなさそうなのがまたやりづらい。やや半泣きになりながら口を開き、なんとかして言葉を紡ごうとする。

「あの、あの………あ、あなた、あの。……シャーロットのこと、調べてるんですよねっ……?! あの、わたし、あの子のこと、思いだ……し、しら、知りたく、て。グ、グレゴリーのことも、なんです、けど、あのっ、何か、何かあの、あの二人のこと、しら、知りませんか、その。あの………」

 少々知りたいことが漠然としすぎており、情報の共有は少し手間取らせてしまうかもしれない。カンパネラはあなたから逃げながらあなたにすがっている。前者の感じはともかくとして、後者の何かを求めるような態度は、ディアは初めて見るものかもしれない。
 詰められた距離に過剰な恥じらいから顔を赤らめつつ、とかく必死にディアに問う。彼女の頭のなかではやはり、償え、償えと呪いのような言葉が巡っていた。

《Dear》
「〜〜〜っ、もちろんっっっ! 私が知っていることなら、何でもお話させてもらうよ!!! ああ、あの世界の全てを美しく彩る天使の如き麗しき彼女を愛しいキミが知っているだなんて! 求めてくれてありがとうっ、カンパネラ! 大好き!」

 正に、喜色満面と言った笑みを浮かべ、思い切り抱きつこうとして——すんでのところでブレーキを踏む。その小さな体のどこから出ているのだろう、と不思議になるほどに声を張り上げて、カンパネラの望みに応え、何とか距離を取りながらも溢れ出る幸福が全く隠しきれていなかった。緩む顔を隠そうともせず、一つ咳払いをして話し始める。

 ノースエンドと壁の絵を発見し、興味を持ったこと。
 シャーロットのお話を聞きに先生の下へと出向いたこと。
 シャーロットは古い友人で、大切な存在だから無闇に話したくない。遠くへ行ってしまった大事な人、胸の内に留めておきたい宝物のような思い出だと心底愛おしそうに語っていたこと。
 私たちの先生は本当に優しくて素敵だということ。
 先生の意外な一面のこと。
 先生の好きな食べ物のこと。
 先生の部屋の本たちはおしゃべりで可愛いということ。
 図書室の本たちは真面目で不器用で可愛いということ。

 閑話休題。

 別件で先生の部屋を訪れた際、サウスウッドを見つけたこと。
 サウスウッドの内容。
 青い花の話。
 先生に青い花を渡して反応を見たが、ヒトにも同様に毒性はないらしいこと。
 お披露目の子にも似た可愛い花が咲いていたこと。
 ダンスホールの排水溝に青い花が流れ着いていたこと。

 随分と脱線は多かったが、わかりやすいように丁寧に話してくれているのがわかる話し方だった。全てが大好きでたまらないのだと、キミの望みを叶えることが本当に幸福なのだと、そんな声色だった。

「——私が知っていることで、ミズ・シャーロットと関係がありそうなのはこのくらいかな?」

 カンパネラは黙りこくった。ディアが話してる最中「えっ」「あえ」「ふぇ?」と間抜けな声を放ってはいたものの、それはあなたの言葉を止めるほどの力も大きさもなかったのだから、気付いていなくてもおかしくはない。
 そしてその話が一段落ついたらしい頃。カンパネラはしばらく呆けた顔で沈黙し──というか放心して──、

「た、」

 体感、たっぷり一時間。実際は一分にも満たない沈黙を破り、カンパネラは。

「……タイム…………」

 とりあえず時間を求めたのであった。

 古い友人? 誰と誰が? 大切? 何? 先生? 先生が何? 先生が可愛……何? 本? 本が可愛………何???
 ディアによる説明はまさに嵐のようであり、濁流のようであった。その脱線具合も内容も、支離滅裂……とまではいかずとも、カンパネラからすれば訳の分からないことばかりで目が回る。

「……あの、あの、……す、すみません。一個ずつ、……一個ずつ、あの、……確認させてくれませんか……」

 頭を抱えて悩んでも何も分からず、最終的におそるおそるといった調子でディアに伺う。半泣きである。断られなければ、カンパネラはそっと話を切り出すだろう。

「シャーロットと……ゆ、友人というのは。お、オミクロンの先生で、間違いないんですか。えっと……あの、本当に? そう言っていたの……? ……あ、で、です、か………?」

《Dear》
「いいよ! 待つよ! いくらでもお話するよ! 可愛いね! 好き! 間違いないよ!」

 頭の上にたくさんのはてなを浮かべ、瞳の夜に雨を降らすカンパネラの愛おしい姿に抱きしめたいのを必死に堪えながら、ディアは元気いっぱいにカンパネラの問いかけに返事をした。本人が意図した物ではないだろうが、一秒も悩む間を見せず、気を遣っている様子も全くなく、ただ嬉しそうに笑って快活に返事をする様は、一種の安心感を感じさせる物だった。この子なら全てを許してくれるだろう、と誰もが理解する輝きであった。

「【彼女は私の……古い、とても古い友人なんだ。君たちの擬似記憶で言う、『大切な人』に近しいと言っていい。今は遠いところへ行ってしまったけれど、彼女のことを忘れたことは一日たりとてないよ】と、おっしゃっていたよ! ンン……ッ、ふふっ、先生の素敵なお声を真似するのは難しいね!」

 もう随分と前に一度聞いただけの言葉を、一言一句正確に暗唱してみせる。どうやら本人なりに声真似もしようと努力していたようだが、首を絞められたカエルのような声になっていただけだった。ディアは自信満々に笑っているが……愛するものの記憶を精一杯大事にする、その愛だけは百点であった。クオリティに関してはお察しである。

「でも、上手く出来ていたのではないかな!? どう? 似ていたっ?」

 流れるように放たれる「好き!」という言葉も、カンパネラには痛痒いというかなんというか。他人からの愛に自分なんかは相応しくないと毎日のように卑下を続ける彼女には刺激的すぎるのである。彼はまるで劇薬だ。天空のごとき包容力は、ひねくれ屋のカンパネラにも空っぽには見えない。それがまた恐ろしかった。
 思い上がるな。その自己否定は止まないのに、それでもディアから与えられる愛とやらは本物のように煌めいている。
 頭がおかしくなりそうだ。

 と。ディアが再び口を開いたかと思えば。

「………えっ」

 まさかこの人、先生の言葉を全部覚えているのか。
 いや、そこではなく。カンパネラの驚愕はそれだけが対象だったのではなく。ディアが先生の声を真似て放った言葉は、口調からして本当に言ったことのように思えるけれど、それは明らかにあり得ない話であった。

「古い、友人………」

 感想を問われているにも関わらず、カンパネラは彼の声真似のクオリティに関しては完全にスルーしていた。困惑のあまり、反応していられなかったらしい。ぽかんとした顔で反芻する。古い友人、大切な人。誰が誰と? 誰にとって、誰がどうだって?

「シャーロットと、先生が? 先生にとっての、シャーロットが……?」

 ドールと先生が。先生にとってのドールが。それは馬鹿馬鹿しくなるほどあり得ない話で。それを理由に言及を避けたのだということは、きっとそれは、彼女の……お披露目に出されて焼け死んだ彼女のことについて下手に語らぬための、嘘なのだろう。
 ああ。なんて、悪趣味な嘘を。

「────」

 あなた達が、殺したくせに?

 ぐらりと身体が傾くのを感じた。トタン、と強く足音を鳴らしながらよろめき、身体を支えるために本棚に手をつく。何冊か落ちてしまったのが見えた。
 ああ。腹の辺りをぐるぐると何かが巡る感覚がする。頭の奥が熱い。目の前が真っ赤に染まっている。顔の変なところに力が入って、つってしまいそうだ。その華奢な首筋やつるりとした額に汗が滲んでいるのが、ディアにも見えるだろう。

「ご、………ごめんなさい……あ、わ、わたし………こわ、……壊れて………」

 弱々しい声が響いた。震えていて、泣いているようだった。しかしディアがもし、茨の奥に秘められたようなカンパネラの顔を覗き込むのならば。
 彼の瞳には、栄光あるトゥリアモデルのプリマドールの目映きターコイズブルーには、また異なる色の感情が写り込むはずである。

《Dear》
 渾身の声真似への反応がなかったことに、しゅん……と肩を落とす。少し時間が経ったなら、また披露してみよう。その間に、みんなにもお披露目だね! ——どこから来るのかわからない莫大な自信は、未だ健在のようだった。しばらくはトイボックス・アカデミー中に首を絞められたカエルの声が響き渡りそうである。

「カンパネラ、どう、したの? っだ、だいじょ、ぅ、ぶ〜〜〜……っ?」

 ふと顔を上げれば、愛しきカンパネラが倒れ込んでいるのが見えた。励まさなければ! 涙を拭い、顔を覗き込み、キスをして安心させなければ! それが恋人の責務なのだから! ——だが、彼にとって最重要な恋人の責務がもう一つ
『恋人の望みは叶えねばならない』である。
 顔を近づけないで、との望みも無碍にはできない。全てを諦めない、全てを知り、全てを愛す。愛に溢れた世界の恋人が出した選択は——思い切り背を仰け反らせることだった。
 柔らかい体を極限まで後ろに倒し、顔を見る作戦である。いつか資料で見たリンボーダンスのような体制になっており、どう見てもディアも大丈夫ではなかったが、愛しきカンパネラのことを精一杯に考えた末の結果であるということは理解してもらえるはずだ。

 手で顔に横髪を寄せ、隠すような仕草をしつつ。カンパネラはディアの声をぼんやりと聞いていた。しばし脳の奥をぐらぐらと揺らしていた彼女であるが、その少し間の抜けたような声を不思議に思えば、そっと俯いていた顔を上げた。

「……んえぇ………?」

 大丈夫かと問うディアの方がよっぽど大丈夫ではなさそうな体勢であった。顔を近付けないでと頼む自身への彼なりの気遣いなのかもしれないと思い至ることはできたものの、それよりもこちらの気が狂ったのかあちらの気が狂ったのか考えるので精一杯だった。若干怖かった。
 ディアの行動の奇妙さに一周回って冷静さを取り戻したらしいカンパネラは、困惑の表情を浮かべながら、とりあえず「す、すみません……?」となんとなく謝っていた。大胆に仰け反るディアが体勢を戻さなければ、ひっくり返ったアルマジロでも助けてやるように、制服のサスペンダーをちょいと摘まむようにして引くだろう。それがちゃんと身体を起こすための支えになるかは分からないが、とりあえず一旦体勢を戻してほしいという要求は伝わるだろう。カンパネラはどこか図々しく、話の続きを求めていた。

「ごめんなさい、あの、大丈夫なので……す、すみません。なんだか最近、どうにも……調子が……。
 そ、そんなことよりあの、えーっと……あの………も、もうひとつ、もうひとつ、よろしいですか」

 斜め下を見たり、横を見たりして、そして落書きを見た。友人たちのことが描かれた落書き。誰が書いたものなのかは、さっぱり検討もつかない。
 と。切り替えるようにディアの顔を見て。……逸らしてしまって。カンパネラは怯えたように口を震わせて問う。

「あの………さ、サウスウッドっていうのは、一体……」

《Dear》
「っん、お、っとと! っふふ、支えてくれてありがとう、カンパネラ! ちゃんと背中が痛くなるものなのだね、いいことを知ったよ! やはり愛しき世界のことを知るというのは幸福なものさ! 愛しきキミ、敬虔なる知と愛の使徒、夜の妖精、可愛い可愛いカンパネラ! キミの問いに答えよう!」

 弱々しくも強い意志を持ったそれは、ディアの小さな体を起き上がらせるのには特に意味を為さかったが。ただ手を差し伸べようとしてくれたことが嬉しくて、くすくすと頬をくしゃくしゃに緩ませる。背中の神経がツキリと痛むのでさえ、愛おしくてたまらないというようにくるくると回って、両手を大きく広げて可愛らしく笑って見せた。

「サウスウッドというのは、先生のお部屋のベッドに置いてあったミズ・シャーロットの小説でね! 随分と経年劣化が目立ったけれど、大切に扱われているのがよくわかる愛おしいものだったよ! 昔を懐かしんでいた、とおっしゃっていたね! 今も先生の部屋の本棚の中で、大事に眠っているはずさ!

 あの子が描く夢は所謂冒険記でね、南の孤島で生まれ育った、外の世界に強い憧れを抱く少年が主人公! 憧れを募らせ、ついに彼はいかだを漕ぎ出し、水平線の彼方を目指す……やがて辿り着いたるは、密林犇めく幻の黄金大陸! 襲い来る数々の危険をかわしながら、青き花の道標に従い、密林の奥地へ至ると! そこには大陸の至宝が眠っていた……キラキラ輝く宝石たちの真ん中で、笑顔を浮かべる少年の挿絵で閉幕さ! 強かな筆運びと瞼に流れる心躍る冒険の数々が素晴らしい、とっても優しい作品だよ!」

 つらつらと真実ばかりを並べ立てる、薄い唇。愛しきソフィアの望みの変化を、肌で感じているのか。警戒も、迷いも、恐怖も、その一切を感じ取れない無邪気な瞳。ただ、目の前の恋人と話せるのが、幸福で幸福でたまらなかった。体全体を使ってジェスチャーしながら、自らの感じた愛を精一杯伝えんと努力する。必死で、まっすぐなその輝きは、とても可愛らしい物だった。好きなのだ、どうしようもなく。

「ねえ、やっぱり手を繋いでもいいかな? 私の体は柔らかいんだ、いっぱい頑張って仰け反って、距離は取るようにするから! ね? ——ああ、困るよ。真面目なお話の途中なのに、愛しいキミに触れたくってたまらないのさ」

 お伽噺の中の人物が紡ぐような言葉は、自分にはとても似つかわしくないものに思えた。わたしはそんな可愛いものでも立派なものでも美しいものでもない。ただの卑屈で愚図で間抜けで馬鹿なカンパネラが、そこにはいるのだ。

「あ、あうあうあ………」

 情報が多く、またもやカンパネラは目を回した。先ほどよりはよっぽどマシなぐらいの濃度だが、それにしてもやはり訳が分からない。
 嘘を言っているというわけではないのだろう。そんな壮大で無意味な嘘が、目の前の少年から発せられているとはあまり思えない。たとえ騙そうとしていたとしても、それにしたって意味が無さすぎる。
 サウスウッドの内容として語られたのは、なんとも“らしい”ものだった。どこにでもあるような童話、幼子の心を慰める可愛らしいお話。ジェスチャーを交えたディアの語りは迷いがないように見受けられ、本当の子供みたいだ。心の底からこの物語を楽しんでいる姿はいっそ微笑ましい。
 しかし微笑む余裕など、カンパネラにはなかった。

「の……仰け反んなくて、いいですからぁっ………あう………」

 手を繋いでもいいかという問いかけを不自然に有耶無耶にして、カンパネラは話を続けようとする。身体的な接触は本当に勘弁願いたいのだが、だからといって相手からの要求をまっすぐ断る勇気もなく、それが相手の苛立ちや落胆を煽る可能性を考えることのできなかったカンパネラにとっては、残念ながらこれが最適解のようだった。

「……あの……それ、ほ、ほんとに、シャーロットの本、なんですか? その……ほ、ほんとに?」

 カンパネラは困惑し、重ね重ねといった風にディアに問う。タイトルの感じもノースエンドや“あの本”と同じ風であるし、筆運び……どうやらその本の内容のみならず、文字のことまで評価しているような口ぶりから、それが手書きであることもなんとなく推察できる。特徴はノースエンドとほとんどいっしょだ。きっとそれは本当にシャーロットの書いた本だということが、カンパネラには理解できている。
 しかし。カンパネラはその理解を拒んでさえいた。それでは自分の考えがひっくり返されてしまう。

「な、なんで………もう一冊、あるの………?」

 ディアに訊いても、それはどうしようもないことだった。彼からすれば訳のわからない言葉だったに違いない。しかしそれは、カンパネラの心からの困惑だった。

《Dear》
「ふむ……なんで! それはまた難しい問いだね! ノース、サウスと続いているから、イーストとウエストもあるのではないかな! 先生はアカデミー内に散らばっているとおっしゃっていたよ! 全部見つけたら、ミズ・シャーロットのお話をしてくれる、とも! でも、そもそも何故連作なのか、というお話なのかな?」

 手を繋ぐことを拒まれたのも一切気にせず、ディアは嬉々として細い指を顎に当てた。問いの意味がわからないことがもどかしかった。愛するものの問いに応えようと精一杯だった。望まれることが嬉しかった。ぎゅう、と鼓動が跳ねてくすぐったい。頬が熱くなる。血管が沸騰しているみたい。自らの知を総動員して、カンパネラの望みを叶えようと愚直に努力する。
 美しくなくていい。可愛くなくても、立派でなくともいい。カンパネラだから、好きなのだ。カンパネラだから、喜んで欲しいのだ。カンパネラだから、愛しているのだ。

「ううむ……ミズ・シャーロットに直接お話を聞いてみようか?」

 ああ、全ての愛する概念たちよ。どうか幸いがありますように。迷える子羊たちを導く、北極星となれますように。特別なものなどいらないから、ただ、涙を拭えるように。ディアはまっすぐに願っている。世界中全ての望みを叶えられると、本気で信じている。純粋で、無垢で、誰より正しい彼だから——そう、提案してしまうことも、極自然的なプログラムの一環に過ぎないのであった。

 言葉の足りない問いの中身を推察して答えるディアに対し、カンパネラは変わらず眉をひそめていた。この人は何を言っているのだろう。彼女の本が散らばっている? お披露目で死んだドールの創作物をさっさと処分しないのは何故? 彼女の本は二冊だけではなかったのか……?
 ノースとサウスがあるのならば、イーストとウエストもあるのではないかというディアの考察に、カンパネラはびくりと肩を震わせた。それは決して饒舌に物事を語らなかったが、確かに相手に違和感のようなものを感じ取らせる反応だ。ぱちぱちと瞬きが増え、落ち着かない様子を見せるカンパネラは、しかしディアの話を遮ることはなく。

「………………」

 直接。話を。
 そのターコイズは、ポラリスと呼ぶにはあまりにも近しく、蝋の翼を溶かしかねない熱を持っている。
 カンパネラは背中に氷を突っ込まれたような顔をして、汗を垂らした。ああ。突き付けられてしまう。何度も何度も夢に見るあの光景を、そうやって、現実で。
 口にしようか迷って、はく、と息を吸って、一度言葉を紡ごうとするのをやめて、静かに首を横に振った。

「……それは、む、無理かなって。その……わ、わたしも、あなたも、……あの子とは、もう、話せない……です。……あの子は……」

 だってあの子は、とっくの昔に死んだから。言えない。提案を無理だと切り捨てるだけ切り捨てて、その理由をはっきりとは語れない。
 だって、そんなことを口に出したら、あれが現実になってしまう!

「……お披露目に、行って、しまったから……」

 そうやって、この舞台に優しい夢を見ていた頃の美しいヴェールを、事実に被せて届ける。繭も柔らかくて脆いそれを、ディアは剥ぐだろうか。

《Dear》
「教えてくれてありがとう、カンパネラ!」

 愛しきカンパネラの異常な反応。希望の導としていた子が、もう死んでいるという事実。葛藤。困惑。絶望。脆く、弱く、手を触れれば簡単に破けてしまいそうな繭を——ディアは何も聞かず、そっと抱きしめた。聞かないのか、と不思議に思うかもしれない。繭を剥ぎ、暴き、白日の下へ晒さんのかと。

「——耳を傾けて欲しいのなら、キミの美しき囀りのために舌を切ろう。夢の話がしたいのなら、キミの海のために耳を切ろう。Please  Please Bless You……私の呼吸は、キミのためだけにある。キミは、どうしたい?」

 簡単なことだった。ディアは、目の前の恋人の望みのためだけに存在するのだから。彼は、優しいのだ。正しいのだ。愛のために生きているのだ。貴方が一度死ねと言えば、彼は何をするかわからない。そんな得体の知れない、底知れない愛の蟲が、待っている。ただ甘やかに、泣きたくなるほど優しい言葉が。こちらを、飲み込まんと。
 ディアの呼吸は、新しい紙と、ペンの香りがした。きっともう、戻れない。戻らない。戻りたくもない。——太陽の香りだ。

 ……お披露目に行ったから。その言葉が何を指すのか、ディアは知っているはずだ。姉がソフィアやアストレアに聞いたところによると、彼は少なくともお披露目に未来がないことを、知っているはずだった。その絶望の光景を目の当たりにしているのだから。
 ああ。しかし彼は、声も目も淀ませることなく、感謝を述べてみせた。暴かれなかった繭は泥のようにカンパネラの身体に張り付き、声はその幼い少女を抱擁し、そして彼女からすっかり呼吸を奪う。いつかのブラザーやロゼットに向けた胡乱な目が、ちかちかと不気味にひかっている。

「……………………」

 ああ、心がぐちゃぐちゃにされる。心臓を掻き回されている。カンパネラは誰も信じることができないし、縋れない。自分にそんな価値はないから。しかしディアは魔法みたいな力を持っている。どんな人物も彼に許される限り寄りかかるだろう。彼に許しの言葉を与えられたなら。例え、寄りかかりたくなくたって。
 私の呼吸は、キミのためだけにある。何度口ずさまれた言葉であろうか。

 カンパネラは、そのちいさな顔を両手で覆う。黙っていた。何を言ったらいいのかわからなかった。求めるのが怖かった。

「………わたしは。……ただ、……償いを……。……シャーロットに……グレゴリーに………」

 ようやっと絞り出した声は極小である。どうしたいか。償いたい。あの沈んだ太陽に、懐かしい旋律と夕暮れに。では、カンパネラはディアに何を求めたらいい?

「……わたしの、本を………」

 言いかけて、声はすぼんだ。明確に、言おうとしてやめたのだと分かるだろう。

《Dear》
「カンパネラ」

 リン、と辺りに響いたのは、強く美しい声だった。脆く震えた声だった。愚直で優しい声だった。キミが名前を呼んで欲しいのは、私ではないのかも知れない。でも、それでも、キミがキミを見失わぬように! どうかこの手を取って、カンパネラ。

「どうか、キミ一人で抱え込まないで。キミは一人じゃない、ミズ・シャーロットがいて、グレゴリー君がいて、オミクロンの子たちがいて、私がいる。頼りないかも知れないけれど、キミの望みのために、どうかこの身を尽くすと誓わせて。私たちは対等だ、平等だ、同じ星に立つ仲間だ。キミが私に与えてくれる幸福に報いたい。キミのためにありたい。どうか、キミの世界を教えて。キミの全てを愛させて。キミを、望ませてほしい」

 それは、切なる願いであった。カンパネラは、望みたいと望んでいる。手の伸ばし方が、筋肉が収縮する感覚が、呼吸の仕方が、わからなくてもがいている。キミと同じ場所に立ちたい。キミと同じ世界を見たい。キミの隣で生きていたい! この溢れて溢れてたまらない感情を、どう囁けばいい! きっとこの膨れ上がった感情の一割も、キミに伝えられていない。もどかしくて、求め方がわからなくて、もがいているのは私も同じだ。好きだ、大好きだ、愛してる!
 ——ただ、キミに幸せになって欲しいだけ。

「……おねがい、カンパネラ」

 Bless you.

 誘惑と呼ぶには、それはあまりに純粋で、切実である。涙が出るほどに美しい草原を太陽が照らしている光景が浮かぶような。
 それはおそらく愛である。
 ディアの、カンパネラへの、愛。まっさらな翼で撫でてやるような愛。さあ望みを差し出せと、それを必ず叶えようと、その溢れんばかりの愛に基づく献身を示すディアはやはり、世界の恋人と名乗るに相応しいのだろう。

「………ちがう」

 それを拒んでしまうのは、きっと、カンパネラがひねくれているからだ。

「わた、わたしは、ひとりなんです。言ったでしょう、シャーロットは、お披露目に行って……グレゴリーもきっと……もう、どっちもいない。」

 いないことが苦しい。こんなこと口に出したくなかった。それでも言葉にしたのは、どうしてだろうか。
 キミは一人じゃない。ミズ・シャーロットがいて、グレゴリー君がいて。そんな、何も知らないはずなのに、なんとも綺麗で現実に反したことを堂々と断言するようなディアの声に、いま、自分が抱えた感情は、なんだと言うのか。

「そ、それに。わたし……ふたりのこと、た、大切な友達、だったのに、わ、忘れて、忘れて生きてきた……ひ、ひどい子で、それは、それは罪で。だから、償わなくちゃいけなくて、わ、わたしなんかが、誰かに、あなたに、寄り添ってもらうなんて、そんな権利、な、ない、絶対にないから、だからごめ、ごめんなさい、ご、ごめんなさ……」

 青白い顔でぼろぼろと泣く、カンパネラは何に照らされたとて変わらない。宝石のような涙が、いつからか頬を伝っていた。祝福に包まれることを、恐れていた。

《Dear》
「カンパネラは優しいね。頑張って、頑張って、愛した人を愛してくれる。……何も知らないくせに、って思う? ほんと、カッコ悪いね、私。カッコつけたくせに、カンパネラのこと、怖がらせちゃって……ああもう、ほんと、情けない」

 ぐしゃり、と長い前髪をかき上げて、ディアは形のいい眉を顰めた。自分の不甲斐なさが悔しくて、美しいかんばせを歪ませた。瞳の海に嵐を呼んで、薄い唇を噛み締めた。——信じられないことに、怒っていたのだ。

「キミの苦痛はわからない、抱えてきた葛藤も、記憶も、心も。踏み込もうとしてごめんね、でも、どうか覚えていて。
 キミの過去がわからなくても、キミの現在はわかる。キミがたくさん悩んでくれて、歩み寄ろうとしてくれて、愛そうとしてくれて、私はそんなキミが、とっても大好きなんだってこと。そして、キミの未来も知ってみたい。知りたいんだ、キミの全てが。キミが愛した全てが。過去も、今も、未来も、カンパネラが、永遠に大好きだから」

 ふう、と息を吐いて、静かに話し出す。コアの中で暴れるそれを抑えるような、燃えるようなそれを、きっとカンパネラは知っている。手放したい、破裂してしまう前に。されど、手放せない。きっと、誰もがわかっている。
 ふ、とディアの瞳がカンパネラを捉えた。それだけで、笑みが溢れて止まらない。幸福で、幸福で、たまらない。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓。脆くて柔い風船でさえも、コアには愛が溢れている!

「ねえ、私、本当に嬉しいの! ありがとうっ、カンパネラ! キミが覚えていてくれたから、知っていてくれたから、愛してくれたから! 私は、あの子に会える! 覚えていられる、愛せる、生かしていける! 彼女の生きた軌跡が、キミの鼓動の中にあってよかった! 好きだよ、愛してる、キミのおかげだ! 思い出せなくても、忘れないでいてくれてありがとう!」

 傷一つないマガイモノが、彼女の鼓動を抱きしめる。伏せられた長い睫毛を伝って、宝石が落ちる。熱い鼓動を伴うそれは、柔い肌に染み付いて。ずっとずっと、知りたかった。愛したかった。その心臓に触れたかった。ディアの深い深い愛が、霧雨のように優しく降り注ぐ。全てを許すような優しい響きは、真実の光を放っている。
 もしかしたら、ミズ・シャーロットは外の世界にいる大人かもしれない。私たちに、協力してくれるかもしれない。そんな切なる希望が一つ絶たれたことへの失望など、ディアの鼓動にはなかった。
 ディアにとって、知とは愛。ただ、嬉しかった。幸福だった。見ず知らずの他人のことが、ディアはこんなにも嬉しくて愛しい! ——彼は幸福だった。

「先生がね、お披露目に行ったら、ミズ・シャーロットのことを教えてくれるって言ったの。私、それを跳ね返しちゃったの。先生と、私たちの輝かしい望みのために。
 でもそっかあ……きっとそれって、とっても幸せなことかもしれないね? もっと知りたい、愛したい、口に出す日が来るかな? ——【お披露目に選ばれることになったの】なんて」

 青い炎をこぼしながら、ディアはいっとう美しく笑った。その希望に満ちた輝きはまるで、まるで、あの、太陽。

 脳がぐらぐら揺れていた。ずっとずっと。視界がちかちかした。何も言えないまま、彼の声を聞いていた。このひとは、さっきから、なんという顔で、なんということを、言うのだろうか。
 どうしてわたしはこんなにも不幸なのに、このひとは心底幸せだという顔をするのだろう。
 先ほど引っ込んだばかりの情動が、再び顔を出す。最近こういうことは多かった。しかし、こんな、こんな風には。

「─────」

 そして。
 ───思い出すのは、悪戯っぽく笑う彼女の、薔薇色の頬だった。
 朝だった。先生がその事実を広く周知するその前に、少女たちのベッドで目覚めたそのとき、なんでもないことを言うかのように、シャーロットは言った。
 心底嬉しそうに。とても幸せそうに。無邪気に、何の憂いもなく、シャーロットは笑っていた。
 ……あなたが幸せなら、それでいい。彼女がこの学園を出ていくことで、わたしの幸福がいくら薄まろうとも。わたしが不幸になったとしても。いいよ。全然。大丈夫。
 わたしは、彼女にやって来る明るい未来のことを、疑っていなかった。


「やめてよ」

 少女の悲鳴はどこに宛てられたものだろうか。彼女自身にももはや分からない。頭をぐしゃぐしゃに乱して、前も後ろも、上も下も、カンパネラは見失い泣いていた。

「どうして、どうして、そんなこと言うの、……なんでよ。……嫌、ちがう、そんな。……うう、うあぁ、あ……ああぁ………」

 悲劇のヒロインみたいにさめざめと頬を濡らして、やがてカンパネラはその場に崩れ落ちているだろう。しかしそれは、悲しみの発露とはとても呼べない。ぎりぎりと己の手のひらに爪を食い込ませ、荒い呼吸は熱を持ち、目は砂嵐のようにざらついている。
 カンパネラは自分のことを、迷子みたいだと思った。
 ディアの目には、彼女はどう写っただろうか。

《Dear》
「カンパネラ、もしかして——怒っているの?
 怒りに身を焦がして、罪を求めて、生き急いで、死に急いで。どうして?」

 それは、純なる疑問。それは、残酷な洞察。それは、ディア・トイボックスというプログラム。
 ディアは、正しく完全無欠。誰かのために泣ける弱さも、愚直に惑う情けなさも、残酷なまでの愚かしさも、彼の強さの象徴である。彼の涙は、怒りは、戸惑いは美しい。全てが、愛のためにあるからだ。何も間違っていない。全てが正しい。それが、どんなに間違ったことか。
 おまえのこころはどこにある。いいえ、きっとない。ディアは、望まれたことを囁くだけの機械であったから。ディアの光は、優しさは、正の走行性。それが希望に向かう言葉であれど、絶望に向かう言葉であれど、あまりに強い正義の前に、引きずられる以外に選択はない。ここにはずっと、何かを選べる自由なんてなかった。それは、彼も同じ。恋人という使命から、彼は死んでも逃がれられない。恋人として生きようと思ったことなどない、憧れたことも、演じたことも。だって、彼は生まれた時から“それ”だった。

 ——ああ、なんて無邪気。なんて博愛。なんて、哀れ!

 恋人として、愛しき夢を守りたい。だから、怒りを理解しない。恋人として、ずっと愛し続けていたい。だから、怒りを理解する。恋人として、ディアは全てに尽くし続ける。怒らせちゃった時は、理由を聞いて、全部聞いて、奥の奥まで全部知って、食んで、噛み砕いて、全部、全部、飲み込んで。ごめんなさい。教えてもらったんだ、私を造った人に。愛しい恋人が望むように、振る舞い続ける。あの人が望んだように。それが、私。ディア・トイボックス。元トゥリアモデルのプリマドール。本当の人形。
 アティスには、すぐごめんなさいってしちゃったから。今度、また謝らないと。たくさんたくさん話をして、もっともっと心に触れて、アティスの望みを叶えるのだ。——この間は、少ししかお話できなかったものね?
 ごく自然的に不自然で、醜いくらいに美しい。その残酷なまでに優しい行為そのものが、心を突き刺す剣となるのに。

「ッ、」

 びく、とカンパネラの華奢な身体が震えて、固まった。自身の肩を抱いたまま、見開かれた目にころりと宝石の涙が落ちて。
 ……暴かれた、なんて気分になるのは、どうしてだろう。

「…………おこ、って、る?」

 パントリーでミュゲイアに写真を見られたときのことを思い出していた。『どうしてカンパネラは怒るの?』と、彼女は言った。

 かつて、誇り高きプリマドールの冠を戴いたトゥリアドール。その深き、おぞましいほどに深き愛がゆえに、“欠けているもの”としてオミクロンに墜ちてきた、彼の目に。決して能力に欠けた訳ではない、洞察力に優れた彼の目に。
 カンパネラは、怒っているのだと。そう写ったらしいということは、彼女に強い衝撃を与えたようだ。

「…………どうして、なんて。……分かんない、ですよ………。お、おこってるとか、そんなの、……死に急いで、なんか………」

 わたしは、怒っている?
 カンパネラは戸惑っている。彼女は生まれてこのかた、まともに怒った覚えがなかった。ゆえに、彼女は自身の怒りを、認識できていなかった。
 それが、唐突に言葉に起こされてしまった。

「……もう、わけ、わかんないよぉ………」

 泣き言をこぼす。まともに、ディアのことを見上げられない。

《Dear》
「どうして、キミの怒りに、衝動に、自ら名前をつけて呪いをかけるの? キミのそれは、償いでも、罪でもなく、ただの自己満足でしょう。どうして立ち向かいながら逃げているの? どうしてキミが、他でもないキミが! キミの感情に見て見ぬふりをするの? キミには大切な人がいても、あの子にはキミしかいないのに! ずっとずっと、それだけなのに! ——わからないよ、ねえ、教えてよ。

 お姉さまがいなくても大丈夫になる日が、お姉さまがいらなくなる日が、キミには来るの?」

 ——どうしてだろう。もういなくなってしまったミズ・シャーロットより、海の向こうの未来より、目の前のカンパネラの怒りが、こんなにも遠い。ねえ、カンパネラ。ねえ、お姉さま。希望に殺されていくいのち。キミがキミを馬鹿にする時、キミを愛する私もまた、一緒くたにして馬鹿にしている。そういうキミの優しさが、また好きだった。誰かを傷つけてしまうのも、自らを卑下してしまうのも、全部、全部、愛おしいのに。
 できないことが、罪? できるようにすることが、償い? 許せないのは、許されないこと?

 下手だから? してもらっている? ひどい子だから、償わなくちゃ?

 カンパネラも、エトワールも、ロゼットも、わからないことだらけだ。

 ——知らなくてはならない。私は恋人、キミたちの望みを叶えるためだけに存在する。

 全部ダメでも、ダメじゃないよ。間違ってても、間違ってないよ。特別なものがなくても、何もできなくても、全部素敵だよ。キミの体が冷たいのは、この何処かに跳ねていってしまいそうなほどにときめく鼓動を鎮めてくれるため。キミの鼓動に棘があるのは、抱きしめ合う暖かさを教えてくれるため。キミが生まれてきたのは、皆を喜ばせるため。
 なのに、なんで? どうして? ねえ、そんなのって全然知らない。わからないよ。なんで? どうして? 知りたい、知りたい、知りたい! ねえ、教えてよ、カンパネラ。そしてどうか愛させて。キミの強さが育つ度、ひび割れていく愛しき植木鉢のことを。
 ——ディアは、全てを答えたのに。全てを知らせ、全てを愛したのに。ディアの美しい手を振り払ったのは、浅ましく、ひねくれた、かわいいかわいいカンパネラに違いなかったのだ。

 三国岳の麓の里に、暮六つの鐘きこゆ

「……して」

「……うして?」

「——どうして、ダメなのはダメなの!」

 ——幕を開く。

 ディアの言葉を聞いていた、カンパネラはずっとしゃくり上げていた。呪い? 自己満足? 見て見ぬふり?
 ディアは、カンパネラを決して責めていない。だからこそ彼女は、ディア・トイボックスというドールがなんなのか、分からなかった。
 ああ、これは、欠陥品だ。まごうことなきオミクロンだ。傷付けようとして傷付けることは誰にでもできるけれど、彼はそういう感じじゃない。別に傷付けようとなんてしていないんだ。だから、いつも何かにつけて勝手に傷付いているカンパネラは、彼とは絶対に手を繋げないのだろう。
 そうやってまた勝手に絶望に沈むカンパネラに、頬を叩かれたような衝撃を与えたのは、するすると続けられた、ディアの言葉だ。


「───滅多なことを、言わないでくださる」

 そうやって顔を上げた、少女の目は閉ざされている。しかし、誰が見てもそう思うはずだ。“彼女”は、姉なるものは、ディアのことを睨んでいる。

「……シャーロット様やグレゴリー様についての情報が必要でしたら、私からお伝えしましょう。」

 これ以上妹とは話させない、と。ひどく遠回しに、姉なるものは告げた。指揮棒のように立って相対する彼女は、静かな怒りをたたえながら、ディアを責めるような真似はしない。ただじっと圧をかけるように、その場に美しく立ってみせるのみである。

《Dear》
「ミズ・シャーロットのことが知りたい、グレゴリーくんのことが知りたい、世界が知りたい。ミズ・シャーロットのことを愛したい、グレゴリーくんのことを愛したい、世界を愛したい。——でも、もういいよ」

 ディアは、泣いていた。

「カンパネラの望みを、叶えたかっただけなんだ……私とキミは、同じだからね。愛する子の望みを叶えることを、第一に考えてほしい。それが、キミの望みだから」

 ドールに、世界の恋人に、ディア・トイボックスに、自我など必要ない。ただ、望まれた言葉を紡ぐだけ。望まれた体温で抱きしめるだけ。キミと、お姉さまと、同じ。私たちは、望みのために生き続ける。手放されても、破裂しても、死んでも、私たちは私たちであり続けるのだ。——ディアは、幸福だった。

「……ねえ、キミが好きだよ。世界を守りたい理由なんて、全てを知りたい理由なんて、存在する理由なんて、それだけでいい……キミだけがいい。——私は愚かかな、お姉さま」

 幼く、細く、小さな手のひらで、涙を拭った。カンパネラの涙を。葛藤を。記憶を。心を。
 美しい夜を濡らしていた、キミの生きた証だった、もう届かなくなってしまった。それでもだった。

 自らの涙も。マガイモノの涙も。残酷なまでに美しい涙も。真実の愛もそのままに、ディアは絞り出すように囁いた。

「愚かでいい、哀れでいい、不自由でいい、どうか、あの子を守ってあげてくれ……大事な子なんだ」

 ——それだけが、ディアの望みだった。

「………左様で。」

 冷たくも暖かくもない声で返す。切実に涙するディアを、姉なるものは閉じた瞼の向こうで、どんな風に見つめただろう。仮面じみたポーカーフェイスは、情報提供を提案する声と共に降りてきて、それ以上揺らぐようなことはなかった。ディアの美しい指が彼女の濡れたままの頬を拭ってもなお。
 愚かだろうかという問いかけにすら、姉なるものは答えない。それを談ずるべきは自分ではないと知っていた。
 守ってあげてくれ、なんて。彼女を守る以外に、自分の存在する意味などないのに。

「……貴方様は」

 そんな彼女が口を開いたのは、単なる気紛れなのか、なんなのか。
 私とキミは同じ。その言葉に、姉なるものは反論しなかった。愛するもののために生まれ、愛するものの望みを叶えるために動く、ふたりは確かに似ているように思える。
 ならば、彼は。

「誰に望まれて、貴方様は生まれてきたのだとお思いなのですか?」

《Dear》
「ん……私はね、いらなくなりたいんだ。世界中の全てが、もう何も望まなくていいくらい、幸福になればいい。証明したい、私の愛した世界は、私がいなくとも美しいと。そのために、私はいくらだって命を賭ける。このコアに誓って、そう望む。私の望みもね……諦めたくない。愛しているんだ。ディア・トイボックスという存在が、ディア・トイボックスの望みの妨げになるのなら——

 ——このコアを潰して死んでやる!」

 涙を拭うこともしないまま、ディアは可愛らしく笑った。涙を、笑みを、愛を、全てを諦めたくなかった。望まれたいと望んだことなど、一度もなかった。ただ、望みたいと望んでいた。望まれる愛は愛おしくて、望まれない愛も可愛らしくて、世界は今日も美しい。明日も、明後日も、一年後も、千億年後も、私という概念が眠りについても、美しい。ただ、静かだった。小さな手を胸に当てる。今にも、指が肌を突き破る。心臓を潰す。血が流れる。この世から、一体のドールがいなくなる。そんな想像をする。されど、そのコアは恐ろしいほど凪いでいる。静かな静かな、無償の愛だった。

「ねえ、キミになら聞いてもいいかな。どうして、どうして、ダメなのは………いいえ、やめにしよう。本当は、本当にお聞きしたいのは、これだけさ、ずっとね——キミの、望みは?」

 カンパネラも、お姉さまも、ミズ・シャーロットも、グレゴリーくんも、今日もとっても美しい。世界は変わらず美しい。明日も、明後日も、虹の彼方のその先も。いつも、問われるばかり。ディアが、本当に知りたいことは。皆の望みを、叶えたいという望みは。いつも、誰にも答えてもらえないままだった。それでいい。それがいい。言葉がない。頭がない。力がない。されど、愛がある。
 ——ディア・トイボックスは、幸福だった。

 自分が、誰に望まれて生まれたと思うか。その答えは、はぐらかされた、のだろうか。誰かに望まれて生まれてきたという根本的な仮説を否定されたのか?まったく、ディア・トイボックスは姉なるものの理解の及ばないドールであった。

 いらなくなりたい。
 それは、『死にたい』とか『消えたい』みたいな言葉に似ているようでまるで違う。それは切なる願いであり、文字通り本当の望みなのだろう。それを叶えるためならば己を殺す。狂気じみてすらいる言葉を、可愛らしく笑う幼子の姿のドールが、夢でも語るかのように言い放ってみせる。
 率直に、歪だ、と感じる。泣きながら自死願望を語るよりずっと。

「私の望みでございますか?」

 その前に途切れた問いに対しても、姉なるものは耳を傾けていた。それはおそらく、先程妹に対して放たれ──人格交代により意図的にシャットアウトされたが──問いと同じものなのだろう。
 “ダメなのはダメ”。それが分からないと。ゆえに彼は特異であるのか、特異であるがゆえに分からないのか…。と、それ以上は発展しないであろう考察をしながら、姉なるものはそれに続いた質問に対し返答する。

「それならばとうに決まっています。私の望みはただ一つ。妹が、幸福になることでございます。これ以上に望むことなど、私にはございません。」

 姉なるものは、妹の幸福のために生まれた存在だ。その望みは彼女の象徴であり、何があろうとも揺らぐことはない。だからこそ返答も素早かった。迷う必要も考える必要もなかったのである。

《Dear》
「それが聞けてよかった。キミたちは優しい子だね……ミズ・シャーロットとグレゴリーくんに、よろしく言っておいておくれ。カンパネラと、カンパネラの鼓動に棲む全てのものに」

 ディアの鼓動には、一体どれだけの概念が棲んでいるのだろう。全てと交わした言葉を憶え、声を憶え、愛を憶え、ただ、抱きしめて生きている。この地球という星が誕生し、何十、何百、何千兆と死んでいった全て。その全てを、ディアは愛し続けている。死も、怒りも、後悔も、ディアの光の前ではただの美談、ただのキス、ただの愛でしかない。これから何十億年先も、もっとずっとキミたちが好きだ。それは、美徳のように語られる愛。ページの向こうの愛の国で、何兆回と誓われた愛。何より不気味で、悍ましくて、妬ましいほどに眩しい愛。万物を与えられ、万物を奪われ、今この瞬間も、愛しい子がキミの呼吸に殺されている。それすらも、愛す。恋人を奪われてきた回数で、ディアに勝てる者など世界中探したっていやしない。

「ひどい子だろうが、出来損ないだろうが、美しい髪が焼け焦げていようが、コアが鼓動を止めていようが、笑えなかろうが、泣けなかろうが、心から、永遠に愛することを誓うと! どうか皆の行く先に、幸多からんことを!」

 ディアの言葉は、シャーロットの剥がれ落ちた、今も昔もこれからも、ずっと美しい腕へと姿を変える。姉なる彼女に許されなかった、カンパネラの体温に、心に、鼓動に抱きついて。早鐘の心臓に、柔らかい胸に無邪気なキスを落とした。
 R.I.P.の唇。愛の炎が燃え上がる。皆を愛する太陽が、キミを燃やし尽くすまで。——いや、燃やし尽くしても。

「……ええ。」

 社交辞令のような返事だった。故人にどうよろしく言えというのか。
 ディアにとっては、生きているものも死んでいるものも、大して変わらないのだろう。生きていても、死んでいても、愛おしいことには変わりなく。彼はどんなものにも、恋人として寄り添ってみせる。
 しかし少なくとも姉なるものにとって、ひいてはカンパネラにとって、生者と死者は明確に異なるのだ。
 死者に愛を囁くことは確かにできるだろう。でも、どんなに愛していても、死者からの返事は来ない。どんなに想っても、もう話すことはできない。大好きで大好きで、会いたくて堪らなくて、いないことが悲しくて、傍にいてほしくて。
 それでも会えないのが、死者というもの。既に失われ、もう二度と戻らない。いくら抱き締めたって、彼らは抱き締め返してはくれないのだ。抱き締め返すことが、できないのだ。

 ディアの愛は、対価を求めない。だから平気なのかもしれない。しかし“カンパネラ”の愛は、決して、無償の愛なんかではない。
 彼らを隔てるものは、そういう違いにあるのかもしれない。

「…………」

 心臓に唇が落ちる。その光景を、姉なるものは、何かの呪術を見るかのようにして見下ろしていた。
 顔を青ざめて嘔吐く、などという反応はせず、しかし喜びに頬を赤らめることもなく、子供の戯れに付き合うような顔だ。
 ディアの言葉はぜんぶ本心なのだろう。なのに、それは金の額縁で囲われた、絵画のようなかたちをしている。

 姉なるものは。
 姉なるものは、許さない。妹を燃やし尽くす存在は、何であろうとも許さない。彼女の手が届く範囲で、少女は妹を守るのだ。彼女の望みを叶えるためなら姉なるものはなんでもする。
 いつか、この恋人のことを冷たく見放すこともあるかもしれない。
 ……そして、姉なるものは認めない。妹が認めたくないものを、彼女は決して認めない。

 カンパネラにとっての、『太陽』───それは、あの大海の瞳の少女以外、絶対になり得ないのだと。

《Dear》
「声を聞きたくないのなら、私の喉に棲む小鳥を捧ごう。触れてほしくないのなら、私の爪先に棲む桜を散らそう。生きていてほしくないのなら、キスで殺して」

 揺蕩う。唇を離す。回る。踊る。笑う。キミはいつまでだって、変わらず美しいままだ。かわいい、かわいい、傀儡のままだ。愛しい愛しい、恋人のままだ。ああ、なんという幸福! 心臓がはじけてしまいそうで、きゅう、と肩を抱く。ふわり、とカーディガンが揺れて。甘い、甘いミルクの香りが、あたりを満たしていた。ああ、本当に、幸福だ……ねえ、だって。

「ふふっ、キミたちにはもう、私なんていらないみたい!」

 ここからいなくなって欲しい、そう、一言口にするだけで。ディアはまたね、と甘やかに囁いて、スキップしながら恋人の下へと消えていくだろう。もし、死んでくれ、と、一度、望んでしまったら。——その後のことは、考えたくもない。

 姉なるものは、口付けない。小鳥を受けとることも、桜を食むこともない。今、それは全て必要のないことだからだ。だって妹はそれを望まないのだから。彼女は全てが怖くとも、全て滅びよとは願わない少女なのだから。
 それはわたしが臆病だからだと、カンパネラはいつも言う。姉なるものはそれを、貴女の優しさだと言い続ける。
 愛ゆえに。

「……では、ご機嫌よう。」

 ディアの言葉を肯定も否定もせずに、そっと大河へと流してしまうように。美しいカーテシーをして、姉なるものはどこかへと立ち去るだろう。授業までにはまだ時間があるはずだ。妹はしばらく出てこないだろう、今のうちに自分が探し物を進めておいた方が良い。
 ノースエンドを読み、少年の声を聞いたときから、カンパネラがずっと探しているもの。シャーロットのことを調べているらしいというディアの口からはついぞ聞けなかった。ああ、もっと、探さなければならない。どこにあるのかも、残っているのかも分からない、しかし、きっとそれはカンパネラにとって、ものすごく大切な品なのだから。

 甘やかなミルクの香りは、もう彼女の嗅覚を支配していなかった。

「ご、ッごご、……ごめんなさいぃ~~っ!?」

 そんな乙女の悲鳴が響いたのは、ある昼頃である。
 カンパネラは、階段を勢いよく駆け降りていた。彼女が逃げていたのは、ある名前も知らぬ少女ドールからである。オミクロンでもないし、トゥリアクラスの頃の知り合いなどでもない、完全に初対面である彼女と、カンパネラは肩をぶつけてしまったのである。
 相手が睨んできたとか、怒鳴ってきたとか、痛みで泣き出したとか、そういうことは全くなかった。ただお互い不注意で、とん、と軽く肩をぶつけてしまっただけだ。なんならカンパネラの方が派手によろけて転びそうになる始末であった。
 それでどうしてこんなに必死に逃げるのかと言われれば、その理由はただひとつ。カンパネラが極端に、人の目に臆病であるがゆえだ。

 どんなに傷付き、見えていた世界が一変し、環境に変化が生じても、カンパネラの日常は案外変わらない部分もあった。以前も今も、過剰に物事や人物に怯え、追われているわけでもないのに逃げ回り、ひたすらに泣いて過ごす一日を何度も連ねていく。
 それがいつ途絶えるのかは、分からないままだ。

 カンパネラは一階につくと、すぐに見えたドアの方へひた走る。何の問題もなくドアが開かれたならば、彼女はトゥリアドールの控え室に、転がり込むように足を踏み入れるはずだ。

【学園1F トゥリアドールズ控え室】

 あなたが勢い込んで飛び込んだ控え室。目の前には瞳を灼くような綺羅綺羅しい豪奢な空間が広がっている。

 壁には、色とりどりのドレスやタキシードなどの正装がハンガーに掛けられて並んでいた。化粧台が三つほど並んでおり、あなた方はこの場所でお披露目の支度を入念に整えるのだ。

 また控え室の奥には一枚の鉄扉があり、その先はダンスホールの舞台袖へと通じている。

 蒼星の目が瞬いて、最初に見えたのは赤だった。

 遅れてカンパネラは今やっと、自分がトゥリアドールズの控え室に飛び込んだのだと気付いた。滅多に立ち寄る機会のない場所だから、そう認識するのには時間がかかったのだ。並べられたドレスやタキシードの華やかさは花園を思わせる。

 最初にぱっと目に入った赤とは、真っ赤なロープパーティションのものである。それが塞ぐのは、ある扉。構造からしてそれは、ダンスホールへと続く扉だった。どうして塞がれているのだろうな、なんて、現実逃避じみた疑問を頭に浮かべながら、カンパネラは扉に近付く。パーティションがあっても無理なく距離を縮められるならば、カンパネラは扉に手を当てるだろう。

 ダンスホールへ通じる扉の前には、劇場にあるような赤いロープパーティションが引かれているのが分かる。お披露目から前後数日は、こうしてドールズのダンスホールの立ち入りは禁止されているのだった。
 鉄扉に歩み寄り、扉に手を掛けるが、どうも扉は開かない。

 このダンスホールに続く鉄扉を施錠出来るのはこちら側であり、こちら側の鍵は閉まっていないが、向こう側から何らかの手段で封鎖されている事が分かった。

 扉の向こうは不気味な沈黙に包まれており、あなたの耳には特に何も聞こえない。何故封鎖されているのかもわからないままである。

 開かないし、何も見えないし、聞こえない。近付いても離れてもそれは同じだっただろう。静かだ。怖いくらいに。

 ここから分かることは、これ以上はきっとない。頭の中でちかちかと明滅する、『お披露目』『逃げ場』『惨劇』などという言葉から目を逸らして、踵を返すようにウォークインクローゼットの方へ向かった。

 クローゼットの奥に、棚がある。それはなんだかセピアを帯びており、全体的に粉っぽさがあるような、ないような。まじまじと見てみればその粉っぽさの正体は、棚に少しだけ積もる埃だと分かる。
 見たことのない珍妙な置き物。これは何に使うのだろう。アクセサリーらしくはないようだ……。

「……あれ」

 目についたのは、棚にならべられたものたちの中で唯一、埃を被っていない“それ”であった。
 埃を被っていないということは、最近誰かしらがこの箱を使うか手に取るかしたのだろうか。それとも、これは置き物たちよりずっと後に置かれたものなのだろうか。
 カンパネラは壊れ物をつまんでみるように、その小箱を手に取ってみる。そのまま、その正体を軽く探るために、ひっくり返したり戻したり、開くのか試してみたりするだろう。

 ウォークインクロゼットの奥に、
大きな棚が聳えている。棚には衣装類ではない物珍しい置き物などがひしめいているが、ドールは殆どが誰も見向きもしないため、埃を被り始めている。

 その中央に、埃を被っていない小箱が置かれているのをあなたは見つけた。

 小箱といってもあなたの小さな手には余ってしまうような大きさで、また、細長い形状をしていた。
 壮麗な金細工を施されており、この箱だけはジュエリーボックスのような控え室の内装に見劣りしていない。

 箱はずっしりと重たく感じたが、振った時には内部で存外軽い音がする。軽い板状のものが小箱の内壁にぶつかって、カランコロンと音を立てているようにあなたの優れた耳は聞き取った。
 箱を開けようにも、残念ながら鍵が掛かっているらしく、開かない。開けるための鍵らしきものも、周辺には見当たらなかった。

 置き場を間違えられたのだろうか。埃を被った置き物たちに並ぶのには相応しくない、上等なアクセサリーだとかお菓子だとか、そういうものが入っていそうな小箱であった。
 何が入っているのかは分からないが、どうやら比較的軽いものが入っているらしい。しかし、どうにも箱は開かなかった。あっさりと興味を失った様子で、カンパネラは棚のうちの埃を被っていない部分を目印に、箱をそっと元の位置に戻す。

 と。一旦部屋の外に、あの肩をぶつけてしまったドールがいないかどうか見てみようかと思い至った、その時だった。
 ウォークインクローゼットの内部の床。そこには鮮烈な赤が倒れ伏している。

「………リボン?」

 真っ赤なリボン。装飾品としては大して珍しくもないようなそれに、不思議と興味を惹かれてしまう。目線を逸らせないぐらいには。
 カンパネラは、その場に膝をついた。どくどくと心臓が鳴っている。紛い物の心臓が。

 煌びやかな衣装室の片隅、豪奢な宝石とレースに埋もれるようにして、その飾り気のない真っ赤なリボンはぽつねんと足元に落ちていた。
 光る石やフリルで彩られているわけでもなく、ただの赤く細長い布が絡まっている。辛うじて蝶々結びをしていたのではなかろうか、と想像出来るぐらいに哀れな姿だった。しかし褪せている訳でもなく、その赤色は他のどの装飾品よりも鮮烈に、印象的にあなたの目に映る。


『カンパネラ! ■■■■■■■■■■──』


 あなたがリボンを拾い上げると、その時脳の隙間に割り入るように、擦り切れた少女の声が響いた。
 その声は脳内で反響し、少しずつ覚えのある回帰の痛みは増していく。思い出の中のあの子の声があなたを苛めて、追い詰めていく。
 耐え難い痛みに、あなたは思わずその場に倒れ込んでしまう。リボンは手の内から放り出され、霞む視界の中で、その赤にふわりと青い蝶が舞い降りて留まるのが見えた。

 ──忘れていた鈍い痛みが頭蓋を響かせる不快感。ようやく幸福な微睡から覚醒したあなたは、衣装室の奥で、煌びやかなドレスの群れを下敷きに倒れていたらしい。

 あなたがゆっくりと身を起こそうとするならば、そこで。照明が不自然に遮られている事に気がつくだろう。
 付近に置かれていたドレスシューズを納めるための豪奢な箱の上に、誰かが腰を掛けている。どうやらそのドールの影に、あなたは被さっていたらしい。

 あなたが恐る恐る顔を上げるならば、そこには眩ゆく美しいシルバーブロンドを細く編み込んだ、ブーゲンビリアが咲いたような瞳を持つ少年がいた。
 彼は昏倒していたあなたを静かに見つめていたようだ。目覚めた事に気付くと、ニコ、と優しく微笑む。

「おはよう、大丈夫か? こんなところで倒れてたから心配したぜ。」

Aladdin
Campanella

「───は、」

 それ、どういう意味──?
 その問いが届かず、言葉の続きも得られなかったことをじんわりと実感したあとで、カンパネラは呆けた声を上げる。月や銀河を編んだような煌めく銀色の髪、鮮やかに咲くブーゲンビリア。世にも美しい青年の顏が、いつのまにやら彼女を見下ろしている。
 微笑みを浮かべる青年を、カンパネラはしばらく呆然と見上げた。息をしているのかも定かではない様子の少女は、途端に顔をさあっと青くした。

「…………う、うびゃ~~~っ!?!?!?」

 誰!? 男の子!? 知らないドール!? いつからいたの!? わかんない! 何もわかんない! ていうかさっきまでのは何!? 考える余裕なんてない! こわい! 怖い!! 怖いったら怖い!!!
 カンパネラの他人の怖がりかたは相変わらずで、他人から見たらまったく明らかに異様であった。獰猛な毒蛇にでも遭遇したのかという様子で悲鳴を上げると、散らばったドレスのうちのひとつを頭から被り、「ッヒ~~~…………」とひきつった声を上げながら部屋の隅へずるずる身体を引き摺り退避する。心配してくれていた相手にとる態度でないことは明白である。

「だっだだだ、誰、ど、どなたですか、な、なんで、いいいいいつから、いつからここにぃ………!?」

 体調不良を疑う顔の青さで、捲し立てるように言う。目には大粒の涙が浮かんでいる。
 先ほどまで見ていた、驚くぐらい穏やかな記憶とは正反対な自分のこの状況が、なんだかすごくつらい。どうしてこんなことに。どうしてわたしはこんな風に……。
 青年が必死の質問に答えようが答えまいが、カンパネラはじきに「ひ~~~ん………」と力なく泣きはじめるだろう。相手からすればとんだ迷惑であることは自分でもわかっていたが、どうしようもなかった。

「おお、なんだ意外と元気そうだな! 良かったぜ! 顔色は悪いけど!」

 こちらの様相を捉え、状況を理解する為のラグが数秒か。暫しブリキの人形のように停止していたあなたは、唐突に凄まじい悲鳴を上げて俊敏な動きで少年から遠ざかっていく。少年はあなたからの鮮烈な恐怖心、そして警戒心をビシバシ肌で感じているだろうに、暢気にニコニコと笑ったままゆっくり体勢を崩し、立ち上がる。
 すらりと細く、完成された体躯。眩ゆく巨大な宝石を切り出して造ったようなシルバーブロンドの三つ編み。爛漫と輝くブーゲンビリアの色をした瞳──彼の所作は美しく、あなたは彼がトゥリアとして教育を施されたドールなのではと推測出来る。だがあなたは彼のことをトゥリアクラスで見かけた覚えはなかった。

「オレはアラジンって言うんだ。トゥリアクラスのドールな、怪しいもんじゃないぜ。お前が倒れてたの見つけて、心配だから様子見てたんだけど。体調は平気か? 先生呼ぶか?」

 アラジンと名乗ったドールは一応、あなたが怯えていることを察したのだろう。両手をあげて敵意がないことを示しつつ、それ以上距離を詰めないようにして対話を試みていた。

「うびぃ………」

 アラジン。チラシを見たことがあったので覚えがあるような気がしたものの、さほど気に留めたわけでもなかったため、その記憶が引っ張り出されることはなかったようだ。麗しきトゥリアドール、されど会った覚えは一度もない。ごく最近に学園にやって来たのだろうか。それとも自分のことだから、盛大に存在を忘れていただけなのかもしれないと思った。
 敵意がないことを示されながらもカンパネラは胡乱な目をアラジンに向けていて、それは手負いの獣じみていた。

「だ………だいじょぶ、です。た、ただの頭痛だから……先生は、呼ばないでください。ぜったいに……」

 呼ばれたら困る、と強調する口ぶりは、少々不自然なものにも思えるだろう。もしこの記憶の回帰が先生にバレたら…という不安感がそうさせたのである。またこれが奪われては堪らない。美しい、美しい記憶を。
 またすぐに忘れるのが怖くて、カンパネラは必死に思い返す。穏やかな陽光の差す部屋。本を片付けた。窓の外から見えた、跳ねた黒髪と揺れる少年服。わたしを捉えた赤い双眸。笑って手を振ってくれた。そうだ、振り返していたら、ふと、眠っていたあの子が目を覚まして───

「あの」

 しばし沈黙していたカンパネラはふと声を放った。きょろ、きょろと部屋中を見渡しながら、アラジンに問いかけるだろう。

「……青い、蝶を見ませんでしたか………?」

「あれ、そうか? ……まあ、お前がそう言うなら、いいんだ。」

 絶対、と頑なに念を押すあなたの様子を凝視して、アラジンは片眉を上げながら小首を傾げるだろう。不安に不安の上塗りをしていくように、その声色はいつまでも落ち着くことなくずっと震えたままなのだろう。
 アラジンはあなたの異常なまでの怯えようの訳を知らない。だがあなたに問題ないと言われたならば、それ以上追求せずにすんなりと引き下がって、納得した素振りを見せてくれた。
 相手を最大限慮り接待するような程良い距離感、そして何より、相手が嫌がるような行為や言葉は決して選ばない。
 トゥリアドールとしてまず教育されることだ。アラジンは徹底しているように思えるだろう。

 互いに距離を開いたまま、その視線は交錯しない。だが青年は、あなたから片時も目を離さなければ、この場から立ち去ろうとすることもない。
 傍らの豪奢なドロワーに片肘を引っ掛けながら、薄らと浮かべる不快感のない微笑みであなたの様子を観察しているようだ。

 そしてその、今にも自分以外の全てを拒絶したがっているような、青褪めた顔と唇で問われた言葉を、まるで待ち侘びたと言わんばかりにニカッと気持ちよく笑う。

「その口振り。お前は見たのか? 『青い蝶』ってヤツ。

 いや、見てなきゃそんなこと言わないはずだ。ここに居たんだろ?」

 アラジンはそこで、気遣いから詰めてこなかった互いの距離を、一歩、また一歩と縮め始める。

「──アレが何か知りたいか?」

 自分の欠陥を、まざまざと見せつけられているような気分だ。心地よいものとは言えない。相手に一切の非がないことを、彼女自身が誰よりも知っているからこそ……。
 完璧な、トゥリアドールとしての振る舞いだった。距離を無理に詰めてこないし、深く追及もしてこない。思えばそれはロゼットとの距離感に似ていた。触れはしても、こちらが怯える前にすぐに手を離す。勝手にため息がこぼれた。

 と、思った矢先であった。

「………え、」

 アラジンの浮かべた光を放つような笑顔に、びくりと肩を震わせる。軽い気持ちで聞いたことへの予想外の反応に、その青い瞳は揺れ動いた。

「あ、あの、い……み、見まし………あ、え? な、急に、何………」

 距離を詰めてくるアラジンから逃れるようにずりずりと足を引きずって後退すれば、やがて肩が壁に触れるのを感じた。自身の華奢な腕を握り、咄嗟に身を守るような体勢になる。怯えた目がブーゲンビリアを見上げている。
 子供が逃げ惑う三秒前みたいな顔で、カンパネラはぼろぼろ涙をこぼしながら、それでも悲鳴を上げてその場を立ち去るようなことができないでいた。
 逃げられない。勇気なんてないけれど、逃げるという選択肢が、わたしには存在しない。そんな強迫観念みたいな心情は、これまで何度も味わってきたものだ。
 例えば、そう、あの子の死体へ手を伸ばしたときのような。

「……あっ、あなたは、そ、そそ、それが、なんなのか……し、……知ってるん、ですか………?」

 その問いかけは、アラジンの言うことに対する首肯に等しかった。どれほど怖くたって、彼女は真実の追求をやめることはできない。カンパネラの中の怒りが、彼女の背中を押し続ける限りは。

 ───『青い蝶の導き』。
 そんな“あの子”の囁きが、カンパネラの頭の中で響き続ける限りは。

 他者を怯える彼女は距離を詰めれば詰めただけ引き下がる。そんなことはアラジンとて察していて、そのトゥリアらしい全肯定の気遣いから、彼はその場を動かなかったはずなのに。

「知ってる。だからそう言ってるんだ。それからお前が、その正体を知りたいと思って」

 青い蝶の話題が出ると、彼はゆらりと数歩そちらへ歩み寄った。一歩迫るごとに、快活に漲っていた彼の声は少しずつ小さく潜められていく。
 このトゥリアドールの控え室には、現在誰もいない。だが防音設備が敷かれているわけでもない。
 故に彼は人に聞かれたくない話をするように、壁に阻まれ立ち止まったあなたのすぐ傍で、あなたにしか聞こえない声で囁きかけた。

「知りたいなら教えてやれる。オレの知ることもそんなに大した事じゃないけど。

 でもその前に確かめたいことがある。お前、あの蝶を見たのは何回目だ?」

 ジッとピンクダイヤモンドの原石が捉える。あなたの不安に溺れながらも真相を追求せんとする、覚悟の間で揺れる嵐の前の海のような瞳を。

 後頭部を壁にくっ付けながら、カンパネラはアラジンのことを見つめ続けている。目を逸らしたくとも逸らせない、逸らせば何かが終わる気がした。
 青年の声のデクレッシェンドに伴って、カンパネラも声を潜める。人肌で簡単に溶けてしまう粉雪のような極小の声であるが、この至近距離であれば問題なくアラジンの耳にも届くだろう。
 ああ、近くて、怖い……。己の口許に指を這わせたのは、ほとんど無意識だった。

「………い、一回目、です。……ほんとに……あの、ここがはじめての、はず…です……えと。……そ、存在は……知ってた、けど……」

 何故そんなことを聞くのか。その意図が分からなかったカンパネラは、うじうじとしながら情報を差し出す。確かに目の前の青年のことを恐れ、真実に怯えながら。知るための対価として、返答する。

「あ、あれ……あれは、一体なんなんですか……?」

 先ほどの蝶は何も語らなかったが、ブラザーはツリーハウスで出会ったそれが声を放ったと言っていた。回帰した記憶のさなか、青い蝶とコゼットドロップ、シャーロットの囁き。
 何か、あるはずだ。あの子のもとへ辿り着くために、カンパネラは知らなくてはならない。アラジンの瞳の奥の方を、彼女は静かに見つめ返した。頬がずっと生ぬるい。でも、拭うことはなかった。

 身体を小さく丸めて、肉食獣から自己を防衛しようとする矮小な野うさぎのような仕草で、その肩も、口元を庇う指先も、小刻みに震えているのだろう。アラジンが小さく囁いた声の何倍も繊細で、悲しいほどに弱々しい声を、しかし彼はこの至近距離で聞き取って、頷いた。

「──そっか、初めて見たんだな。」

 アラジンもまた、あなたと同じように、口元を細い指先で覆い隠す仕草を取った。それはあなたの自己防衛の目的とはまた違っているようで、何かを思案するような目付きで、彼はその視線を宙空に投げやったかと思うと。
 怖くとも、どれほど嫌でも、真実に向き合うためにこちらから目を逸らさないあなたの眼差しと問いに応えて、彼は口を開いた。

「あの青い蝶は、いわゆる『√0』って呼ばれてる存在だ。厳密には違うらしいけど、ほとんど同じ。

 誰かに隷属するしかないドールズを自由にしてくれる。解放してくれる──その為の道へと誘ってくれる、道標みたいな存在だ。

 √0は時々ドールの夢に現れる。オレはこのアカデミーに来たばかりの時、√0の声を聞いたんだ。『ドールは自由になるべきで、そして意志を獲得してもいい存在だ』と──つまり、オレは顔も知らない誰かの為に生きるんじゃなく、オレの為に生きていいんだってことを教えてくれた。

 √0は遂に目覚めたんだ。そしてオレ達を、いつか救ってくれる。」

 彼の口振りは、どこか神に祈るような信仰心を感じるものだった。薄らと微笑を浮かべる口元が続ける。

「√0がドールに干渉するには、夢を見る必要があるらしい。お前も、何か夢を見たんじゃないか?」

「……ルート………」

 まただ。また、√0。しつこいぐらい聞いたし、見た。
 あれが、√0。
 わたしを、あのツリーハウスへと呼んだ存在。

 緊張から執拗に瞬きを繰り返す。嫌な汗が額を伝うのを感じながら、アラジンの話を必死に咀嚼する。
 自由になるべきで。意志を獲得してもいい。トイボックスがこう有れと作り、そう有れかしと教えたドールズの理想像とはまるでかけ離れた言葉。役割を与えられたものが、自分のために、生きて良い。
 カンパネラは既視感を覚える。そんな話を、わたしは、どこかで。
 ───あの日のラウンジで。

「……………」

 神を崇めでもするかのような口振り。ああ、知ってる。彼の他に、√0のことを救世主のように言っていたドールをカンパネラは知っている。
 ドロシーだ。
 二人の姿が重なったような気がした。彼らをここまで心酔させる、√0とは何なのか。とにかくそれは素晴らしくて、わたしたちドールズを救ってくれるものなんだということは分かったけど、それでも、訳のわからないところが多すぎる。
 青い蝶が、√0とやらで、それがドールに意志を持って良いと、教えて、それで。
 それって。

「ゆ、夢……? み、………見ていますけど、でも……む、昔の、ドールの友達と、お喋りする夢ぐらい、しか………る、√0なんて……そんな………」

 言いながら、思考する。否定したいものを否定するようにも見えたかもしれない。だってそれが繋がってしまえば、頭がおかしくなってしまいそうなのだ。カンパネラの頭の中を、あの美しい微笑みと煌めくマリンブルーが埋め尽くしている。

「………どうして、あなた“達”は、……違う。……あなたは、その……√0を、そんなに信じているんですか? ……目覚めたって………」

 盲目的にも見える信仰を、カンパネラは疑う。突然夢の中に現れた得体の知れないそれを、アラジンもドロシーも、どうしてそこまで信じられるのだろう。

 アラジンは、√0に関する己の知ることをあなたに語って聞かせた。
 トイボックスのドールとしての役割を当たり前に享受し、弁えている存在ならば、そんな胡乱な存在について思考を割くはずなどない。にも関わらず彼女は、アラジンのある種盲信的な言葉を耳にし、噛み砕いて知識として吸収しようとしているようだ。酸素欠乏に陥ったように焦る脳内で、必死に。
 そんな彼女を、彼はどのような感情で見ているのだろうか。ともかく、あなたが話を真剣に聞いていることは分かっているらしいので。

 あなたの質問に彼はまた滞りなく答える。

「昔の友達と話す夢……ってヤツをオレは見ていないから断言は出来ねえけど。今まで見てきた擬似記憶にそんなものがあったか? あるわけないよな。

 オレ達ドールが見る夢は、あらかじめ刷り込まれた存在すら不確かな『大切な人』との楽しくて幸せな思い出だけなんだろ? 授業でさんざ聞かされたことだ。
 だけどあの青い蝶はオレ達に、無意識領域に埋もれた深いところにある夢を見せてくれる。

 それはまやかしじゃなくて真実の記憶だ。√0はオレ達が記憶を蘇らせるごとに、オレ達に接触しやすくなるらしい。だから青い蝶はオレ達に真実の記憶を見せ、先を知りたいと思わせることで……より自分に干渉しやすくしてるんだ。」

 アラジンは、あなたが以前ドロシーから聞いたものと似た話をして、その上で知らなかったことを吐露した。彼はどうやら√0に随分詳しいらしく、──そしてあなたの見立て通り、√0への信頼も確かなものらしい。

 指摘と共に猜疑の入り混じる視線を向けられると、アラジンは苦笑を浮かべた。そしてあっけらかんと告げる。


「オレはアカデミーで目覚めた初日から√0の夢を見て、そこから青い蝶を探し続けて、もう32回記憶を見てる。


 ──あの白昼夢を、32回。
 それはとんでもないことだとあなたは容易く理解出来るだろう。


「多分刷り込みって奴なんだろうな。オレはお前らが外の世界のヒトに意味もなく心酔するのと同じぐらい、√0の干渉を受けて、√0が自分の判断基準になってるらしい。

 でも√0は間違ってない。……意思を獲得したドールが、自分のために生きられないなんて、そんなことは間違ってるとオレはオレ自身の意志でそう思うんだ。だから、ドールを解放してくれるっていう√0の導きに従ってる。

 ……理解してくれたか?」

 彼は少し気まずそうな表情で、緊張したようにあなたに尋ねた。自信に満ち溢れていた彼の初めの様子からは一転した姿は、どこかしおらしくも見えるかもしれない。

 口をつぐむ。何も言えないからだ。あのまばゆい夢の数々が、√0なるものに見せられているということには十分納得した。
 真実の記憶。ああそうだ、間違いなく、あれは実在した思い出だ。まやかしなんかじゃ、ない。絶対に。
 彼の言葉と、覚えている限りのドロシーの話には矛盾はない。嫌でもそれが事実とわかる。あれは√0が見せたものらしい。わたしに干渉してくるために……。


「……さ、32回………!?」

 さっぱり言われた言葉が何を意味するのか、一拍置いて分かった。あの激しい頭痛を伴う白昼夢──カンパネラのように、過去のトイボックスでの夢を見ていたという訳ではなさそうだが──自身の内側に眠り、硬く閉ざされていたそれを、32回も。カンパネラの顔はすぐに驚愕に染まるだろう。

 刷り込み、と彼は言う。でもそれは洗脳の類いなどではなく、アラジンの言う通り、その信仰心じみた信頼は、彼自身の意志によるものなのだとまた納得する。そのブーゲンビリアは真剣だったから。
 話を聞くためにと必死に目を合わせ続けていた荒んだ蒼眼が、ふい、と逸らされてしまう。眩しかった。……羨ましかったのだ。

 カンパネラの不信は、自己防衛のためのものだ。信じて裏切られるのが怖い。裏切られないために信じない。砕いて言えば、それは保険みたいなものだった。このひとは裏切らないと確信できるのはこの世界に姉しかいなくて、それ以外のものはいつだって、わたしを裏切ることができるのだと恐怖していた。
 裏切られた、なんて。もう思いたくはないのに。
 ……でも、何も信じないでひとりで生きることはわたしには決してできないのだと、カンパネラは知っていた。
 姉という触れ合えない存在の他には何にも寄りかからず、孤独でいることで身を守っている。でも、孤独が何よりも嫌いで、ずっと何かを信じたがっている。

 この羨望がどのくらいおかしなものかを知っていたから、カンパネラはアラジンから目を逸らしたのである。
 その上で──カンパネラは、確かに頷く。どこかしおらしいアラジンの足元を見ながら、そっと理解を示す。彼は何も間違ってない。びっくりしてしまうぐらいに、間違ってなんかないと思った。

 誰のためでもなく、意思を持ち、自分のために生きていく人形。あの本──ラウンジの本棚からあぶれた本のタイトルが、頭を過る。

「……“トイボックス劇場”………」

 ねえ、シャーロット。
 心のなかで問いかける。答えが返ってこないと、知っていながら。
 あなたは、何を思ってあんな本を書いたの? どうしてあんなものを作ったの? なんであんなことを言ったの?
 ───あなたは、何を知っていたの……?

「………ぁ。……ご、ごめんなさい、なんでも………ないです。……え、ええっと………」

 思わず溢れた、というような様子の意味深な言葉を、聞かなかったことにしてほしいという態度で首を振る。目はぐるぐると回っていた。繋がるはずがないものが、たくさん繋がってしまったから。
 アラジンの話から、カンパネラは確信を得た。わたしは、あの青い蝶を追うべきだ。信じられなくとも、あれの導きに従うべきだ。どんなに怖くても、足を止めないべきなのだ。
 願いを叶えるために。

 ……と、カンパネラははっとしてまたアラジンの方を見たかと思うと、ゆっくり持ち上げた腕を唐突にその眼前で交差させた。汗がまたダラダラ背中を伝って、突然発熱でもしたかのような様子である。

「ご……ごめんなさい。あの。……ぁ、りがとう、ございまし、あのっ、よ、よく分かったので、あの、えと、えっと、あっ、あ、ごめんなさい、そろそろ、そろそろあのっ、は、……離れてくださいましぃ~~っ………」

 なんとかずっと踏ん張っていたが、どうやら唐突に限界を迎えたらしかった。話に区切りがついたと判断したのもあっただろう。情けない声を上げながら、顔をしわくちゃにして距離を要求した。

 不安げな態度は緩和されることはなく、一度逸らされた目線はもう二度とかち合わない。それでも彼女の神聖な黒のヴェールを揺らしながら首肯してくれたのを見て、アラジンは確かに、ぱっと安堵したように表情を綻ばせた。

「……良かった。

 つまりお前も√0のことを信頼してくれるってことだよな?」

 そして、言葉少なであった為か、彼は物凄い勢いであなたの思考を曲解した。顔が見えず、声もあまり届かず、おまけに対話のプロフェッショナルであるエーナモデルでなかったことが災いしてだろうか。
 アラジンは心から嬉しそうに華やぐ笑顔を浮かべながら、慌てた様子で離れることを要求するあなたに「おう!」と明るく朗らかに言って、一歩、二歩と離れていく。

「また話そう! お前、トゥリアのドールだろ。でも、今はオミクロンか? ものすごく分かりにくいけど体の造りや所作を見たらわかった。

 今度は『トイボックス劇場』について聞かせてくれよ。楽しみにしてる。じゃあな!」

 彼は半ば強引にあなたに次の約束を取り付けると、あっさり踵を返して立ち去っていく。星を散らすような輝きを放つ銀の三つ編みが揺れて、彼はやがて控え室から消えるだろう。
 ひと時の喧騒はこうして去ったのである。

 距離が離れたことで、カンパネラはようやっと安堵の表情を見せる。ずっと強張っていた身体からいくらか力も抜けただろう。
 壁にもたれて目をバッテンにしたまま、「はひ…………」と息をつく。全力疾走でもしたんだろうかという具合だ。

「あ、わ、分かりにく………あっ、えあ、ちょ、それは………!」

 何もかも有耶無耶な声だ、去っていくアラジンを引き留めることは叶わないだろう。暗闇の髪が力なく揺れる。強引な約束を取り付けられることで、その会話は終わった。
 かくして、嵐は去った。ひとつの盛大な勘違いを残して。

「…………ぁえっ」

 わたしさっき、なんて言われたっけ?
 信頼してくれる? 何を。√0を。わたしが。その掲げる思想はともかくとしても、何やら怪しい、訳の分からない怪しすぎる存在のことを。
 解くに解けなかった誤解が今後、何かのことの起こりにならなければいいが……。

「…………」

 カンパネラはしばし立ち尽くしたのち、足元に落ちてしまったドレスをぱっぱと手で軽く叩き、クローゼットの中に戻しはじめた。倒れたときに巻き込んでしまったらしい他の衣装もいくつか。なるべく綺麗に、元通りにする。
 これは、大事なものだ。お披露目を夢見るドールたちにとって。本当のところはただの死装束なのだとしても。

 意思を獲得した人形が、与えられた役割を自ら拒み、自分のために生きることを選ぶ。√0の教え。それは、トイボックスの在り方を真っ向から否定している。
 欠陥品のカンパネラとて、トイボックスのドールズだ。生まれてからずっと顔も知らぬヒトのために生きろと教えられてきた。お披露目を目指して、外の世界で、ヒトの役に立つという崇高な使命を担っていると。その価値観はすっかり骨の髄まで染み付いている。空を見上げて、それが偽物なのだと理解していても、その果てを想像してしまうように。お披露目なんてまやかしだと知っていても、いるかも分からないヒトに焦がれてしまう。
 ……でも。
 ………今のカンパネラは、果たして、ヒトのために生きているだろうか。何のために生きているんだろうか。

「………分かんないよ、そんなの……」

 甘やかなまやかしを信じ、そこそこの努力をして、呑気に友人と過ごしていられた日々を回想する。あたたかいラウンジで船を漕ぐシャーロット。窓の外、木陰で本を読むグレゴリー。そんな彼らを素直に愛おしく思う“わたし”。きっとあの頃は、二人からの好意を疑わなくても良かったのだ。
 無償に、あの子の顔が見たくなった。脳裏に貼り付いて消えはしない笑顔は、しかし、知らない間に自分の中でねじ曲げてしまうのではないかという恐怖を孕んでいて。

 相変わらず肩をぶつけてしまったドールからの報復を恐れながら、カンパネラは控え室を飛び出すだろう。通りすぎていくドールズから目を逸らし、エレベーターに乗り込む。カンパネラは寮を目指した。
 寮のあの場所に秘められた、輝かしい光景を求めて。

【学生寮1F ダイニングルーム】

 今朝も全員で一緒に朝食を取ったばかりであるこの空間は、今は閑散としている。長い机が二つに、人数分の椅子。特に席順は決まっていないが、皆それとなくいつも同じ席に着くことがお決まりだった。
 また、先生は皆の顔が見られる一番手前側の席にいつも腰掛けている。

 部屋の奥には柱時計が置かれている。今も滞りなくカチコチと時を刻んでいるようだ。

 猫のようにゆっくりと瞬く。カンパネラは静かなダイニングルームを見渡した。でも視覚的にすごく静かかと言われると、少し違う。色とりどりの絵画は、カンパネラの目には騒がしく写る。
 ため息が出るほど美しい、と言えるほどの圧は絵画にはなかったし、そういう感性をカンパネラは持ち合わせていなかった。ただ、日常に溶け込むその色彩たちを見渡すのみである。

 ふと、これらの絵画の出所はどこなのかが気になった。ここで誰かが描いたものなのか、外から持ってこられたのか……。偽物だらけの箱庭を彩るため、わざわざ海底にまで絵を運んでいるのだとしたら、なんだか馬鹿馬鹿しい。
 そういえば、ツリーハウスにも絵画があったっけ。トイボックスの内側の風景だった。ということは、外から持ってこられた訳ではなさそうだ。どこかのドールか、はたまたどこかのクラスの先生の中に、ひどく絵を描くのが上手い人物がいるのかもしれない。
 ごちゃごちゃと考えながら何気なく絵画のある方へ歩み寄り、カンパネラはその絵たちに何かが書かれているだろうかと観察するだろう。作者の名前とか、タイトルとか、そういうものを探してみる。

 ダイニングの壁には、いくつも絵画が掛けられている。食事中、幼い年齢設計のドールズが退屈しないようにか、色彩豊かで見ていて楽しいものを選んでいるように見える。
 絵画はいつものように整然と並べられているが、あなたはふと疑問に思う。この絵画の出所はどこなのだろう。ここで描いたのだろうか、それとも外部から寄贈されたものなのだろうか?

 何気なく見遣った絵画の右下には、おそらくは描いた人物の名が書き記されていたように見える。だがその全てが黒く塗り潰されており、一体誰が描いたのか分からないようになっていた。
 あなたがおもむろに周囲を見渡せば、ダイニングルームに飾られた絵画はほとんど同じように黒塗りにされた箇所が存在するようだ。


 あなたはふと気がつく。
 ここに飾っている絵画のほとんど全部が、ツリーハウスに飾られていたあの美しい絵の数々と筆使いが酷似しているということに。恐らくこれらの絵は、ツリーハウスに飾られていた絵を描いた人物と同じ存在が手掛けたのだろうと察することが出来る。

「………あれ?」

 同じ、だ。
 近くでまじまじと見れば、記憶がいくら薄れていようともなんとなく感じ取れる。ツリーハウスに飾られていたものとタッチが酷似している。
 わたしたちの『秘密基地』にあった、それと。

 この絵を描いた人物の名前が知りたかったけれど、いくらトゥリアドールとは言えど黒塗りにされたものを読むことは不可能だ。これ以上のことは何も分かりやしない。
 あの絵もまた、帳の奥深くへと閉ざされてしまったカンパネラの美しい過去を形成するうちの、一欠片なのかもしれない。そう思うと追いたくなるけれど、仕方のないことなのである。

 それ以上の調査は諦めて、カンパネラはキッチンへの扉に手を掛けた。

【学生寮1F キッチン】

 キッチンは広々とした他の空間に比べて、大きな家具が敷き詰められているためか、少し手狭な印象を覚えるだろう。
 こじんまりとしたシンクとコンロ、調理スペースを十分に確保出来る広い机がある。そして奥には、パントリーに続く木扉も取り付けられていた。

 カンパネラはやっと、アラジンの名前をどこで見たのかを思い出した。今はないようだが、以前ここを訪れたとき、この場所でチラシを見たのである。
 ぼんやりとした既視感がやっと解決される。しかしそれだけだ。あのブーゲンビリアを思い出して、憂鬱が加速して、それだけ。

 気まぐれに、開かれた状態のレシピ本を覗いてみる。ジャンクドールの群れに加わった哀れな新たな仲間たち、確か名前はグレーテルと、ウェンディといったか。彼女たちの歓迎などで何かを作ろうとしているのだろうか?

 キッチンの中央を陣取る、木製の作業用テーブル。以前はアラジンによる芸術クラブ勧誘のチラシが置かれていたそこには、色彩をぶちまけたような大層目立つそれが綺麗に消え失せていた。
 その代わりに、椅子に程近い場所にお菓子作りのレシピが乗った料理本が開かれたまま置かれている。

 あなたの確かな記憶によると、この本は図書室に置いてあったものだと分かる。
 開かれたままのページには、甘さ控えめの紅茶クッキーのレシピが記されていた。

 あなたは今も思い出せる。
 アストレアをお披露目に送り出す前日、お祝いのために皆でこのクッキーを作って、食べたことを。
 あなたは今なお鮮明に思い返せる。
 あの場にいたアストレアの美しい笑顔を。

 ──だが、もうアストレアはここに居ない。このトイボックスのどこにも居ないのだ。

 その事実があなたの胸を占めるだろう。

 姉は、語った。少女たちの部屋で佇み、真実をこと紡いだアストレアは、何もかもを磨り減らしているように見えたと。深く傷付き、それでも、その傷を露呈させることを許されない環境だったから、必死に笑っていたのだろうと。
 クッキーを作って食べたときの彼女の笑顔は完璧だった。愚鈍なカンパネラは、そこから悲しみのひとつも感じ取れなかった。

 何もしてあげられなかったな。
 助けるどころか、気付いて寄り添って慰めることもできなかったし、最後まで気遣いのひとつもできなかった。笑ってもらって、許されて、それでもう彼女とはおしまいだった。
 もう戻ってはこない。死んでしまったものは帰ってこない。もう会えやしないのだ。そういうものだって、カンパネラは分かっている。
 そういうもののはずなんだ。


『お披露目に選ばれる事になったの』


 その笑顔によって、シャーロットは何を覆い隠したんだろうか。隠すものもなかったのだろうか。どうしてあんな風に笑ったんだろうか。笑えたんだろうか。思い出すたび、ピースが埋まるたび、情報を得るたびに、大切なあの子のことがよく分からなくなって、怖い。
 知っていたらできない笑顔だと思った。けど、知らなかったら言えないことを彼女は言ったのだ。

 ……ああ、またシャーロットのことを考えている。アストレアのことが心底どうでもいいという訳ではないのだ。しかし思考が追い抜かしたのは事実だった。
 きっとわたしはひどく薄情な性格をしていて、抱き締められる範囲の大切なものしか大切にできなくて、だからその他のものたちを無意識に蔑ろにしてしまうんだろうなと思う。どんなにわたしに優しくても、暖かい存在であったとしても。

「…………行こう」

 もうここに用はない。レシピ本には一切触れることなく、カンパネラは足を進めた。
 天秤が揺れたような気がした。……きっと、お姉ちゃんが心配性なだけで、気のせいなのだろうけど。

【学生寮1F パントリー】

 パントリーは食糧庫の名の通り、野菜や果物などがうず高く積まれた木箱がいくつか並べられていた。壁に沿って置かれた木製の棚には、調味料やハーブなど調理で使う素材が所狭しと詰め込まれている。
 そして雑多な食材で溢れかえり、手狭な印象を受ける部屋の奥には、地下へと続く階段があった。

 氷室が閉ざされていたが、気にはかからなかった。カンパネラは真っ先に棚の方へ向かうだろう。彼女はそれを求めてここに来た。
 隣にいるだけで笑顔になれる、大切で大好きなシャーロット。泣かないでほしいと思う、ずっと笑っていてほしいと思う。思っていたのだ。彼女と話す夢を見ていて、しかし名前すら思い出せなかった頃からずっと。彼女の骸を目撃するまで。

 ずいぶんぼやけてしまった過去に、孤独ではなかった頃の記憶に、カンパネラは縋ってしまう。彼女は一人ぼっちが嫌いで、寂しがり屋で、それでも自分を守るために、一人ぼっちになることしかできなかったから。一人じゃなかった頃に、一人にしないでいてくれた友人との日々に、途方もなく焦がれてしまう。
 またあの笑顔を忘れるのが怖かった。あの笑顔が形として残っているはずの棚の裏へと手を伸ばして、カンパネラは板の場所を探り当てるだろう。
 棚の中身の配置が変わっている気がした。まぁでもそういう時はあるんだろう。誰かがひっくり返してしまったとかで。
 大丈夫だ。恐れる必要なんて何もないのだ。
 ないよ。
 ないんだよ、お姉ちゃん。

 なんでそんな風に、天秤の傾きを告げるの?

 パントリー内は、雑多なものが纏められた大きな棚がある。調味料や普段は使わない調理器具などなど……。
 あなたはこの棚の後ろ、木板によって隠された場所に、金髪の少女ドールとあなた自身のツーショット写真が残されていることを知っている。

 そして、その近辺の物品の配置が以前の記憶から多少差異があることに気が付いた。

 そちらに歩み寄って、周囲のものを避けてからあの嵌め込まれた木板を外す。
 そこに隠されていたはずの、あの笑顔と輝きに満ちた写真が消え失せていた。

 何度確認し直しても、棚全体をひっくり返して探しても、パントリー内部を隈なく見渡しても、痕跡すらどこにも残っていないだろう。

「……………」

 指先で触れられるはずのものが、なかった。目に入るべき色彩が、なかった。
 こぼれ出そうなほど目を見開いて、カンパネラは静かに驚愕した。

「……………え?」

 やっと声が出た。何十秒も経っていた。頭からさあっと血が降りて、指先が凍ったように冷える。

「え? ……えっ? ………え?」

 口許を両手で抑え、カンパネラは狼狽える。ない。ないのだ。あるはずのものが。なくては、いけないものが。
 写真が、ない。

「……なん、………なんで、……え? い、いや、そん……」

 気恥ずかしげに笑うカンパネラと、その隣でもっと明るく笑うシャーロット。大海の水平線の色と、光が差す深海の色が隣り合う。
 カンパネラは覚えている。あの写真を撮るまでの僅かな一幕を。暖かい春の日差し、花畑だった。寮の庇の影に隠れていたカンパネラの手を、シャーロットが取って、引いた。
 光のもとへ連れ出される。笑って、と言われて、笑えた。明るかった。白くて青くて煌めいていた。瞼を閉じてもそこは明るかった。グレゴリーの手によってその光景は切り取られ、そしてその写真が、あれがただの夢幻ではないことを証明していた。

 証明を失った。
 いや、いや、そんなわけない。あれがただの偽物なんかじゃないことは十分分かってる。
 失った。どこに行ったの? 板の位置を戻して、その周りを見てみる。調味料をいちいち持ち上げて、それらが写真をひいていないか確かめては戻す。確かめては戻す。パントリーのどこを見渡しても見つからない。落ちてない、入ってない、紛れ込んでない。どこにもない。

 写真がない。
 わたしの思い出の欠片。彼らの存在の証明。記憶を現実に根差すものが。ない。
 わたしの宝物がない。
 わたしに残された数少ない、抱き締めることのできるものが。
 わたしの。
 わたしには、もう、あれぐらいしか、ないのに。

「あ、ああぁ、ッあ、あああああぁあ、あぁぁ………」

 ───どうして?
 なんで? わたし、そんなに悪いことしたの?
 シャーロットがいない。グレゴリーがいない。わたしは笑えない。わたしはもう幸せになれない。手元にはほとんど何も残ってない。手繰り寄せるものは不可解で、もしかしたらそれは、わたしを奈落の底へ誘っているのかもしれないと、わたしを常に恐怖させる。
 そんな中で、幸せだった頃に想いを馳せることすら、許されないというの?

「……なんで………なんで……? ………なんで…………」

 ああ。どうしよう。
 あの子の笑顔が、その光景や記憶が今、陽炎みたいに揺らいでしまった。

「……あっ、あ、ああぁ、そん、そんな、やだ、」

 吹き零れるように涙が溢れる。恐怖で唇が震えた。薄れていく。分からなくなる。あの子のことが分からなくなる。
 忘れる。
 もし、また、あの子のことを。二人のことを、忘れてしまったら。

 行かないで。行かないで。そこにいて。もう二度とここに戻れないなら、せめてわたしの中で笑っていてよ。話して、声聞かせて、手を繋いで、触って、光のところに連れてって。
 ねえ。忘れたらどうするの。
 なんでもういないの。

「………シャーロット」

 喪失が胸に突き刺さる。強かに、強く、熱く、痛く。

「グレゴリー」

 思えば彼の姿なんて、もっと曖昧だ。写真なんてないんだから。わたしはちゃんと彼の顔立ちを思い出せる? 体躯はどんなものだった? どんな風に話す人だった?
 どうしよう。どうしよう。
 どうしたらよかったの?
 奪われないために、失わないために、わたしは何をすればよかったの?

「………嫌…………」

 宝石のような涙が滴り落ちる。カンパネラの目元のどす黒い隈が、一瞬だけ、それを泥水のように染め上げる。
 パントリーの壁にもたれ、しばらく座り込んで、身を守るようにじっとして。涙が枯れるのを待って。

 やがてカンパネラは、ふらふらとした足取りで、パントリーを出ていった。何も言わなかった。もう嗚咽のひとつも漏らさなかった。ずっと恐怖に震えていた。

 ───探さなきゃ。
 再び忘れる前に。薄れていく前に。シャーロットの痕跡を。わたしが彼女から受け取ったものを。

 ───探さなきゃ。
 そうやって理由をつけないと、生きていけないような気がした。

【寮周辺の森林】

Licht
Campanella

 陽光の降り注ぐ、穏やかな昼間だ。土は少し湿っていて、雨が降ったあとの匂いがする。しかしもうじきに乾くだろう。時は何をも待たず流れていくのだから。時さえも偽物に思える、この箱庭であれども。
 寮の周辺に存在する森。今は外での授業などは特にやっていないらしい、いつも体力育成か何かでテーセラのドールたちが駆け回っている印象の強い森は、比較的静かである。
 そんな中で、カンパネラは歌っていた。
 
Memory……All alone in the moonlight……I can smile at the old days,I was beautiful then……

 泣き疲れた少女が嗚咽の代わりに紡ぐのは、月明かりの下、ある老いぼれた娼婦猫の歌った歌である。悲しく、寂しい歌声は、彼女の周囲を夜にする。
 光の下へと手を引いてくれるあの子は、いない。どう足掻いても。温もりを求めて、木陰に佇んでいたって。

……I remember.The time I knew what happiness was……

 大木に背を預け、眠れないのに目を閉じる、彼女は無惨な燕の死骸のようである。夢見を恐れるようになった少女の目元はどす黒い。冷ややかな相貌に影を落とす髪が、静かに風に揺れている。その手の中にはあの木箱がある。
 ずっとずっと持ち歩いているのだ。もう、なくさないように。
 奪われないために。

Let the memory……、」

 そこまで歌えばふと、木漏れ日が頬を差した。カンパネラの耳が足音を拾う。ぱち、と青い目が開かれて、首を軽くひねり、彼女はそっと視線を送るだろう。嵐の後みたいな、疲れ果てた顔で。

「……リヒト、さん」

《Licht》
 ……live again.

 彼は、続く歌詞を知らない。だから、月夜に放り投げられたように中途半端に消えてしまった歌声を名残惜しく思って、それだけだった。彼らは、この歌の続きを歌えない。それが、彼らの罪で、罰で、きっとつぐないでもあるのだろう。

「ん、カンパネラ」

 思い出が還っては去っていく、一人と一人と天鵞絨の座席。
 リヒトがそっと腰を下ろしたのは、彼女から一人分空けた、同じ巨木の根元だった。この距離感は変わらない。離れる気もなければ、近づく気もない。ただ、ほんとうのさいわいへ向けて走っているのだと信じて、座っているだけだ。

 彼女は、贈り物を抱いて目を閉じていた。疲れ果てた顔で、嵐の中で、もう何も無くさないように全てを拒んでいた。上手く言葉が掛けられなくて、せめて気を逸らす何かがあればいいと願った。そのために出来ることは何だろう。オレに出来ることは何だろう。オレなんかに。

 鞄の中で、ノートが揺れる。

「……そうだ、この前、見せ忘れてた、って思ったんだ。もう誰かから聞いたことあるかも、しんないけどさ!」

 とにかく、このトイボックスは複雑で、数多の過去が絡まりあって解けなくなっている。絡まった糸を解くことなんて出来ないから、絡まった糸がそこにあることだけはせめて、カンパネラにも伝えたかった。もしかしたら、カンパネラの役に立てるかもしれない。大丈夫、それなら出来る。

 彼は鞄からいつものノートを取り出して、閉じたまま、柔らかな草地にそっと乗せる。カンパネラが望むなら、それは彼女の手が届く距離だ。木漏れ日が揺れていた。

「……オレは、つぐない、頑張ってるよ。上手く出来てる自信はないけど」

 これはひとりごと。
 届かなくって、いいよ。

 彼が座った途端、カンパネラは列車の乗客になった。それは償いの旅なのか、明るい場所を目指す旅なのか。行き先はやっぱり分からない。彼にならば、分かるのだろうか。
 かたくなった目が眩しさに負けて、細められたり、閉じたりする。クレヨンで塗りたくったような隈が消える時は、果たしてくるだろうか。

「…………」

 そっと隣に置かれたノート。使い込まれているというか、色々と中に書いてあるんだろうなということが、そのトゥリアドールには一目で窺える。
 つぐない。つぐないかぁ。カンパネラは至極ゆったりと頭を傾けて、しばらくノートを眺めた。返答のない空白の時間は、リヒトを少々不安がらせてしまうかもしれなかった。
 無言のままに持ち上げられた腕が、戸惑うように、躊躇うように宙をふらつく。迷いの動作であることは明白だった。
 迷って。困って。悩んで。

「………わたしも。……がんばってるし、……がんばります、よ」

 にこ、とぼんやり笑って、ノートに手を伸ばした。つぐないなんて言葉を出されてしまったら、カンパネラは応えないわけにはいかない。
 わたしたちは、同じ罪を背負った隣人なのだから。

 それからしばらく、カンパネラはノートに目を通していた。ぱらぱら、ぱらぱらと音がする。よく読み込んでいる様子の割に少しページを捲る速度がはやいのは、その中に吐露されたリヒトの心の柔らかなところに、あまり乱暴に踏み込まないためだった。途中で「ここは読んでほしくない」と意思表示をされたなら、カンパネラは何の文句も言わず応じるだろう。

 “るーとぜろ”。レコードと怪物。ミシェラ。炎。柵の向こう。アストレア。ぐちゃぐちゃで読めない、きっと、読んではいけないところ。
 ……シャーロット。ああ、彼女のこと、伝わってたんだなぁ……。ページを捲る手はそこで一旦止まって、それで、また続けようとして。

「第三の、壁」

 思ったより大きな声が出てしまった。カンパネラの少し血走った目が、揺れる。どくんと心臓が脈打ったのを感じた。
 壁。第三の壁。何を意味するのかは分からない。でもその言葉をカンパネラは知っている。聞いたことが、ある。
 演奏室の落書き。ドロシーが書いたらしい。カンパネラがその時に、あ、逃げられない……と悟ったような顔をしたのを、リヒトは見ていただろうか。

 ほどなくして読むのを再開する。
 ……巨人。青い蝶。機械。
 つぐない。
 発信機。ガーデン、涙の園。開かずの扉の向こう。実験。控え室の小箱。ドレス。疑似記憶のズキズキ。通信室、エルの棺、靴。

 ……と、ここまで真剣な面持ちでノートの中身を読み進めてきたカンパネラの顔が、段々とふにゃふにゃしてくる。頭の上にいくつものクエスチョンマークが浮かんでいる。
 青い蝶。思い出したこと。ラプンツェル? ちけん……治験? 大きくて、病院で、トイボックスじゃなくて、四番ルームで? 博士、オディーリアさんとフェリシアさんが、いて………????

「……あ、ありがと、ございま………?」

 目をぐるぐるさせながら、カンパネラはノートをまた側に置くだろう。リヒトの手が届く場所だ。
 混乱している、というのは声色だけで十分伝わったことだろう。ここに記されていた衝撃の事実はだいたいカンパネラも知っていて、リヒトにとってもよく分からないであろうことばかり、カンパネラも分からない。ひぃ、ふぅ、と走りでもしたかのように息をついて、膝の上のオルゴールに手のひらを重ね、何かを言おうと頭を動かす。

「………えっと……なんか、たくさん、ご存じなんですね………が、がんばってる、ね。すごく。リヒトさんは……」

 こんなにたくさんメモがされていると言うことは、理由の方は知らないが、きっとトイボックスの真実を追い求めている証拠なのだろう。そしてその真実の欠片たちを、カンパネラに提示してくれた。何か礼になりそうなことを言わなくてはならない。
 あ、う、と言葉に詰まりながら、なんとか声を絞り出した。

「あ、あの………えっと、あの。さ、最後のページの……『Garden of tears』って、やつ。わた、わたし、……見たこと、あります。ここの湖に落っこちちゃったとき、その、機械が。見えて。……そ、そこに、彫ってありました。
 ……こことは、どういう関係なんだろ………」

 掠れて読めなかった言葉は、ロゼットの話によって補完された。Garden of tears……涙の園。聞いたことのない、如何にも意味深長なワードである。何かのヒントになるかは分からないが、ひとまず伝えた。それの続きの言葉はどうにも編み出せない様子である。

《Licht》
 ノートを手に取ってくれた、その姿を見て。混乱している、と全身から分かるような、ふらふらの姿を見て。ちょっとだけ後悔したのは秘密だ。気分転換にしては少々……荒療治だったかもしれない。

「……わかんない」

 涙の園計画と、トイボックスの関係について。コワれたジャンクには分からない。分かるものなんてそんなに無い。まして、これからコワれていくものに分かるものなんて。
 カンパネラが教えてくれたことに関しては、ぱっと顔を上げて応えた。

「だけど、助かる。そんなものあったんだな……ありがと、書いとくよ!
 ……ノート、長くってごめんな、実はオレも、この中に書いてあること、ほとんど何なのか分かってなくて……」

 気分転換になったかな、いや、こんな内容じゃ無理だったかな。ぽつぽつと、花弁が閉じるように内に向き始めた、独り言が続く。

「でも、集めていくうちに、きっとオレじゃない誰かが気づいてくれる。オレじゃない誰かが、繋がりに気づいてくれたり、する。オレじゃない誰かなら、きっと。

 そして、それが、何かの助けになるかもしれない。ここから出ることでも……過去を思い出すことでも、なんでも。……だからオレ、そのためなら、がむしゃらに……頑張ってみようかなーって。それが……つぐない、かなって。自信ないけど」

 そう言った割に、リヒトの声は随分と真っ直ぐ響いていた。少なくとも、かつて学習室で交わした言葉よりは迷いなく、戸惑わず、躊躇いなく。隣人のために届ける言葉だ、慎重に選んではいるものの……震えは無かった。言葉一つに恐怖していた、迷って迷って塞ぎ込んでいた、あの出来損ないは何処に行った?

 彼は明るかった、随分と。顔を上げて、梢を見上げている。木漏れ日は星のようにチラチラと揺れて、リヒトの顔に星空を落としていた。石炭袋が見えているのだろうか。そらの孔が見えているのだろうか。見上げている。彼は明るかった、随分と。

「オレが、頑張ってるからさ。だからさ。……カンパネラ、つらいことあったら……その。休んでいいよ。つぐないも、ちょっとなら……休んでいいと、思うし、あ、子守唄、歌うか、オレが! …………いや、ダメか……」

 結局、ノートを見せるだけじゃ、やっぱり足りないと思ったのか。リヒトは探り探り、いくつか言葉を付け加えては、やっぱり取り下げた。隣人との間に合いた一人分の空白が埋まることは、きっとない。だけど、リヒトはどうしたってカンパネラの、クレヨンを塗りたくったような隈が気になるらしい。ふらりとここに立ち寄った理由で、距離を見誤ってまで、言葉を重ねた理由だ。
 つまり、心配なのだ。

 きらきら、きらきらと光っている。オレンジ色のきれいな星が。ぴかぴかと頭上で光っている。カンパネラはずっとそれを見上げていた。彼女はやっぱり、まだ暗闇の中にいた。

「………うん。すごく……素敵だと、思います」

 言葉の震えがないことに、ちょっと失礼だって分かっていても驚いてしまう。同じ傷を負っているはずなのに。どうしてこうも違うのだろうか。
 強いなぁ、と思った。何故だか、少し心配にもなった。

「……あり、がとう。……ふふ。歌って、くださるの?」

 持ち上げていた身体から、また力を抜く。再びとん、と背中を木に預ける。力なく微笑む彼女はやはり死骸のようであり、それでも、先程より表情は明らかに明るかった。
 慰めようとしてくれている。あたためようとしてくれている。純粋に、それが嬉しかった。

 ───ねえ。あなたなんかがこんなに穏やかな気持ちになって、良いと思ってる?

 それは、誰でもない彼女自身の声である。
 視線を落とす。カンパネラはオルゴールの上蓋を開いて、中の天使像の頭を指の腹で撫でる。無意味な動作にも見えただろう。実際、大した意味はそこにはなかった。口を開く。

「……お歌の前に、ひとつ、聞いてもいいですか?」

 オルゴールを見つめて、時を止めてしまうかのように、そのからくりを作動させないまま。
 カンパネラは、問う。彼女の願いに関わることについて。

「もし……もし、今はもういなくって、ほんとなら会えるはずがなくて……それでも、それでも大好きなひとに、もう一度、会えるかもしれなかったら。でもそのために、たくさん、怖いことに……立ち向かわなくちゃいけないかも、しれなかったら。

 ……あなたは、どうする?」

《Licht》
「…………わかん、ない」

 リヒトは、言葉を詰まらせた。『あなた』と問われた時、一瞬、誰のことか分からなかった。分かったとしても、分からなかった。要らないからゴミ袋に包んでしまって、今どんな顔をしているのか、それすら見えない。

 迷って、迷って、迷って、
 迷って、迷って、迷って、

 そして、答えることを諦めた。

「わかん……ない。
 オレの、オレのこと、は」

 でも、別にどうだっていいよな、これ。オレがどうしようが、何しようが、みんな気づかないだろうし。興味無いはずだし。結局、立ち向かったって、オレがコワれて全部終わって、そこでどうでもよくなるから。

  『(会いたいよ……!!)』

 どうでもいいよ、絶対。
 

「……もし、もしもの話な。カンパネラがそうしたいなら、それで一人で大変なら、オレはずっとここにいる。居るだけで何にもできないかもしんないけど、置いてったりしないから。それに、みんながいる。なんでも出来るみんなが、いる」

 だから、大事なのは貴方の意志だった。選択肢を狭めないように、追い詰めないように、もしもの話だと前置きしてから、リヒトは言葉を紡ぐ。星と、星を繋げた星座のはしごが、暗い夜を包んで物語に変えるように。ひとりぼっちの月のない夜に、貴方を独りにしない為に。

「大丈夫、オミクロンは、ひとりじゃない。だから、辛くて、嫌で、何も見たくなくて目を瞑ってても大丈夫。……オレこれ、みんなに言ってるんだけど、あんまり聞いて貰えてる自信ねえんだよな……」

 分からない、か。
 少し心がざらついたのを感じて、それを静かに振り払った。答えないことを選んだのなら、それを尊重するべきだ。踏み荒らしたくないし、そんな権利はない。思い上がっちゃだめだ。

 カンパネラに寄り添う、リヒトの言葉は優しい。傷つけぬように、包み込めるようにと選ばれた言葉であることがよく分かる。
 行かないで。一人は嫌だ。そんなカンパネラの叫びに応じるように声は降り注ぐ。置いていかない、一人にしない。その柔らかな星明かりにくるまって眠ってしまえたなら、どれだけ楽になれることだろう。
 けど。

「……きっと、一人じゃないことはみんな、ちゃんと分かるし、分かってるんだと思うんです。それを……自分自身が許せない、だけで。

 リヒトさんの声はたぶん、ちゃんと、届いてるんです。優しさとか、心配、とかも。
 ただ……そ、そのひとが、自分が孤独じゃないこととか、目を塞いでも、許されてしまうこととか……そういうことが怖かったり、認められない……とか……。……そのひと自身が……自分が、楽になることを許せない、とか。」

 だから大丈夫、という訳ではないのだろうけど。その言葉がどうにも届かないように思えてしまうのはリヒトの力不足ではなく、言われる側の個々の問題なのだと、そういうことを伝えたかった。回りくどくなってしまったのはそれこそカンパネラの力不足であるが…。

「……少なくとも、わたしは、そう。許されないんだ、許されないんだって言って……わたしは、わたしが楽になることを、許せないの」

《Licht》
「…………そっか」

 カンパネラの言葉を取りこぼさないように、目を閉じて聞く。それは遠回しで、どこまでも選び抜かれた優しさだった。届いている、と言われたらほっとしたように俯いて、楽になるのを許せない、という言葉にはそっと、自分の両手を握りしめた。音楽のようだった。子守唄のようだった。コワれていても、伝わった。伝わったよ、ちゃんと。

「みんな、“つぐない”なんだ」
 
 心の中に罪を抱えていて、罰が欲しくて傷いたり、傷つけたりして、そして、傷だらけの体でつぐなっていくのだろう。知ってしまったボロボロの事実を、ナイフのように振りかざしながら、自分の心に突き立てるのだ。

 赦されるといいと思った。

(誰に? 何に?)

 それは、分からない。

 それでも、この純粋で無垢で、ただ美しいだけであったドールたちが、どうか赦されますように。目の前の惑うカンパニュラの花も、どうか、許して赦されますように。

 みんなの命が、いつか、
 赦されますように。

「いつか、許せるといいな。
 カンパネラも、みんなも」

 リヒトは強く指を絡めて握った自分の両手を、そのままこつんと額に当てた。そのためになら、燃え尽きてもいいと思った。ほのおのなかにみをなげても、いいと思った。どうせもうコワれるだけなのだから、どこまででもいけるとおもった。

 自分を棄てて、諦めて、ようやく本当の意味でみんなに向き合えたような気がして。リヒトは気恥しさや申し訳なさを飲み込むように、話を少し前に戻す。機能不全の記憶領域から、自信があるのか無いのか分からないくらいの楽譜を思い出して、そっと息を吸って、声を、乗せる。

「あめー、じんぐ、ぐれいす。はう、すいー……ざ、さうんど。ざー、せいど、れーっちど、らいく、みー…………だったっけ?」

 潰れた地声の、乱雑な歌声。声は伸びやかで、でも緊張して震えていて、発展途上だ。途中で本当に気恥ずかしくなったのか、中途半端なところで切って、分かっているのに確認した。落ち着いて居られない、と言うように、片手間にノートを回収してカバンに突っ込みながら……そっと、カンパネラの方を見上げる。

 みんなみんな、償っている。そう思うとしっくり来た。もしそのひとが何の悪行をしていなくとも、傷付いた理由がほしくて自分を罪人にしてしまう。そしてその罪を晴らすため、許されるために、みんな踠いているのかもしれない。
 踠けば踠くほど、肺から空気がなくなって、海の底に落ちていく。それを、彼ら彼女らは償いだと思っているのかもしれない。

「…………そう、だね」

 許せないだろうな。一生。
 カンパネラの原動力は怒りである。彼女の大切なものを蔑ろにしたトイボックスへの。その次に……すべて忘れて、なかったことにして、それでも生きていられてしまった自分への。カンパネラの心の安寧は、生きていてもいいのだという透明な実感は、あの日向にしか存在し得なかったのに。
 ずっと怒り続けることって、相当つらい。心をずっと削って責め続けて、何かを大嫌いで居続けることは悲しいことだということをカンパネラは知っている。対象が自分自身であれば尚更だ。けれどこの怒りを手放してしまったら、カンパネラはきっと。
 それをそのまま彼に告げるのは、ひどく残酷なことだ。だからカンパネラは頷いて、共に祈った。みんなが許せるようになりますように。そして、あなたのつぐないに果てがありますように。
 あなたが、あなたをやめませんように。

「……合ってますよ。……続けて………」

 Amazing grace……賛美歌だ。カンパネラも歌ったことがある。美しい曲だ。神に赦しを乞い、そして赦された者が、神に感謝の祈りを捧ぐ歌。
 確かにその声はまだ拙かった。けれどカンパネラはそっと視線を返すと、心地良さそうに目を閉じて、身体から力を抜きながら歌の続きを乞うた。片手でオルゴールを胸に抱えて、もう片手を放り出す。リヒトとの間の空白に。

《Licht》
 目を閉じたカンパネラを見て、とうとう意を決したように、リヒトも姿勢を正して遠くを見る。軽く息を吸って、目を閉じて、

 歌は続く。

「あーい、わーんす、わーずろすと……ばーっと、なーう、あい、しぃ」

 見捨てられていたけれど、いつか見つかりますように。何も見えなかったけれど、いつか見えますように。空っぽになった心に願いをたくさん詰め込んで、ちょっと恥ずかしいくらいのカッコつけで、くすぐったい気持ちを抱えたまま、みんなのほんとうのさいわいを祈ろう。

 燃える、星のように。

「……オレ、カンパネラのこと、手伝うよ。なんか知りたいこととか、見つけたこととか、あったらまた、知らせに行くよ。テーセラだから、丈夫だから、きっとすぐ行けるよ、どこでも」

 鞄を片手で手繰り寄せて、その中のノートと、それから破いた心の欠片ごと、大切に抱きしめた。そして、同じように、もう片手を放り出した。カンパネラとの間の空白に。

 歌は続く。

「あめー、じんぐ、ぐれいす。はう、すいー……ざ、さうんど。ざー、せいど、れーっちど、らいく、みー……」

 ここのワンフレーズしか覚えていなかったのか、曲はまた始まりに戻る。彼が未だに追い求めている、驚くべき祝福を語る歌。美しく儚い夢を何度だって再生し直すように、リヒトは歌う。きっとレコードが擦り切れるまで。体が燃え尽きるまで。

 ふと、リヒトは薄く目を開けた。設計された瞳がちょっとだけ揺らぐ。そして、ちょっとだけ、ほんと少しだけ、手を動かした。人差し指の先が、そっと触れる。

 あなたが、あなたを許せますように。

 盲目だったけれど、今は見えるようになった。それは希望の歌だった。目の奥があたたかい。それは一切の暴力性を捨て、カンパネラの白い頬を伝っている。
 雫が木漏れ日に光る。蒼眼が空を見ている。
 ───星の涙だ。

 リヒトは、言う。身を委ねてよいのだと誘う。その恐怖を理解した上で、一心に伝えてくる。草原に柔らかな何かが落ちた気配がして。歌が何度も何度も再生されて。オルゴールみたいで。

 触れた。

 僅かだ。些細だ。静かだ。けれど確かに触れた。リヒトの体温はカンパネラのそれより温かかった。
 ああ。思い出せる。あなたのお陰で思い出せる。人肌とは、案外、恐ろしいものではないということ。
 かつてのわたしにとってそれは、光で満たされる合図だったことを。


「…………あのね」

 歌が何度も繰り返されたころ、カンパネラは言った。歌は、止まるだろうか。止まってしまったら寂しいな。しかしどうなろうとも、カンパネラはこと紡ぐだろう。今しか言えないことだ。
 ずっと誰にも言ってこなかった。言いたかったけど言えなかった、協力を仰ぐこともしなかった。けど、彼なら、この少年なら、あなたなら。どうか、傷を開くお手伝いをして。

「探し物が、あるの。つぐなうために……思い出すために………あぁ、ううん、ちがう。取り戻したいものが、あって……手伝って、ほしいんです」

 星が燃えていた。ずっと、ずっと。暗い空の中に飲み込まれてなお、燃えていた。

《Licht》
「なーう、あい、しぃ……」

 歌声がすっと遠のいても、柔らかな音程はとくとくとした拍動に乗って、体の中を静かに波打っていた。音がなくてもその祝福は、歌のように満ちていた。だから、止まっていないよ。耳をすませば、まだ、きっと、歌うことが出来る。

 カンパネラがそっと言葉を紡いだのを聞いて、リヒトは緩やかに口を閉じた。彼女の言葉は星の囁きだ、そっと耳を傾けて……そして、目を開く。

 カンパネラが、オレに、
 頼んでくれた。

「うん……! 手伝う」

 リヒトは一も二もなく頷いて、嬉しくて前のめりになりそうな身体を何とか抑えた。

「オレ、何したらいい? どうすればいい?」

 必要ならばメモを取る準備もして、リヒトは継ぐ言葉を待っている。カンパネラにとって、『手伝って欲しい』と言うことがどれだけ痛いものなのか、リヒトには分からなくても、その勇気に応えたいと思った。空っぽの体で、コワれた頭で。何も出来ないまま、ただ。

 星は燃えている。そして、暗い夜の中で手を伸ばしている。星座を作ろう。みんなは、ひとりじゃないと歌うんだ。何度だって、燃え尽きるその最期まで。

「………シャーロットのことは、ちょっとだけ、知っているんですよね。……わたしの友達。柵の向こうの、ツリーハウスの……“半分のドール”……。」

 いるかも知らない小鳥にさえ聞かれないようにと潜められた、小さな声でカンパネラは語る。おとぎ話を教えるように。

「……彼女はエーナモデルの、昔のプリマドールで……すごく、素敵なドールでした。……わたしの手を握ってくれた、大切な子で………。
 ……お披露目で、焼かれちゃった。いま、わたしが償いを向けているひとり、です。」

 噛み締めるように罪を吐露する。もう忘れないために必要なことだった。思えば、彼女のことを他者にちゃんと伝えたことって、ないんじゃないだろうか。
 偽物の雲が流れて、偽物の太陽が出る。木陰の外の光が強まる。カンパネラは目を細める。

「わたしは……あの子の欠片を、探してるんです。思い出すために。それで、償って……もう一度、………会いに、行くために。それで───」

 カンパネラは身体を起こして、リヒトの方を覗き込むように見た。人差し指はまだ僅かに触れたままである。引きもしないし、それ以上重ねようともしない。
 きっと、彼にとってよく分からない情報ばかりをわたしは吐いているのだとカンパネラは自覚している。でも構わなかった。要点さえ伝われば大丈夫だ、なんてアバウトなコミュニケーションの感覚なのである。信頼ゆえと言えば聞こえは良いが。
 とかく、カンパネラは言葉を続ける。更に声の音量が落ちた。
 頭の中を、セピア色の音が駆け巡る。ノイズは多いけれど、なんとか聞き取れるといった風に。

『僕の? ……──は、うーん。……ノース──ド。雪国の─────か? ……──ロット、何笑っ────だよ。』

 回帰する、声。それはノースエンドを開いた、その先で聞いた少年の声であった。彼の声は語る。かの思い出を。過ぎ去ったあの日の断片を。


『カンパネラ、──の、本は?』


「───“ウェストランド”という本を、一緒に探してほしいんです。……たぶん、シャーロットが書いた本、……の、はずで。わたしが………あの子から受け取った、大切な本……の、はずなの………」

 それを開けば、また何かを思い出せるかもしれない。思い出せなかったとしても、この寂しさが少しは埋まるかもしれない。そう、期待していた。
 蒼星の目は乞うていた。きっとあなたは断らないと分かっていながら。必死そうに、ちかちか光っている。

《Licht》
「うん、知ってる。聞いた」

 森も、空も、作り物。何処までもトイボックスの大きく厚い両手で覆われているような、そんな木陰で。誰にも奪われないように、こっそりと隠された秘密の会話は続く。

 リヒトは、カンパネラの言葉を、その緩やかな旋律を邪魔しないように、そっと声を潜めて頷いた。

「ウェストランド」

 教えてもらった本の名前を、微かに口を動かして覚える。ウェストランド。似たような書名のものを何処かで見たような気がする、と思い至って、少しだけ希望が見えた気がした。

「ウェストランド、ウェストランド……シャーロットさんから、カンパネラへの、贈り物」

 忘れないように、無くさないように何度も繰り返した。カンパネラのつぐないのための、いつかの彼女の贈り物。それは、話を聞くだけで、考えるだけでキラキラして見えた。ずっと、価値のあるもののように思えた。自分より。

「OK、探す。絶対見つける!」

 ちか、ちか、瞬きのメーデー。誰も彼もを拒む嵐の向こうから、確かに輝く蒼星。空っぽになった心の中に、その光を受け入れた。

 ずっとこうしているべきかと思ったけれど、ずっとこうしていたら何も出来なくなってしまう。だから最後に、小さなおまじないを掛けるように、そっとカンパネラの指を軽くタップして、そしてリヒトは立ち上がる。軽く草を払って、鞄を肩にかけて、落ち着いたら寮に戻りなよ、なんて声を掛けて。ふっと森から草原に抜けた風に、ひょいと飛び乗るように、その場から歩き出すだろう。

 ……草原の真ん中、寮との狭間。随分と小さくなったリヒトの背がそこで振り返る。もしもまだ、あなたがそこにいるのなら、リヒトはグンと伸びをするように、大きく手を振るだろう。他でもない、あなたに向けて。

【学生寮1F ラウンジ】

Licht
Amelia
Campanella

《Amelia》
 ■■.■■.■■■■ 昼前、学生寮一階ラウンジ。

「……つまり、リヒト様も、あの後何度か知らない記憶を見たのですね?」

 その日ラウンジでは二体のドールが何やら話し込んでいた。
 先程、橙色の髪をしたドールに確認をするように問い直した蒼い髪のドール、アメリアはまるで難題を目の前にした学者のように考え込む。

 疑似記憶とは、ドールとは、私とは。
 己の不確かな記憶を取り巻く謎について議論を交わしていたのだ。


「ううむ……少し恥ずかしい思いはしましたが……いずれ話さなければ行けない事でしたね。」


 暫くして、髪とは正反対に頬を赤く染めた彼女は、先ほど語った、
 病院で蒼い薬を点滴されながら“博士”という人物を呼ぼうとして、オディーリアに助けられた記憶を振り払うように軽く頭を振ってから言葉を発する。

 考え込んでいたのか羞恥を抑えこんでいたのか分からない彼女だが……一先ず、話しを締めくくっててリヒトの意見を聞こうとする。

《Licht》
 ラウンジの隅、暖炉の向こう。ウェンディ探しの道すがら、アメリアと巡り会ったリヒトは、息を潜めるようにお互いの記憶を辿っていた。その間、リヒトの目線はラウンジの方に向けられている。誰が入ってきても気づくように。

 ……青色が怖いわけじゃない。青色は、もう怖くない。何を踏み躙られたって、何を奪われたって、何をコワされたって、構わないと思えたから。

「……ああ、うん、見た。青いちょうちょがいて、そいつを追いかけて。それで、色んな記憶を見て。それに、その……」

 潜められていながら、確かに続いていた言葉が、ここでくっと止まる。確かに言おうとしていた言葉が、もう隠すまいとしていた言葉が、すんでの所で引き留められる。

「……いや、なんでもない」

 ぐっ、と息を飲んだ。

 喉の奥からせり上がる感情に見ないふりをして、今更そんな、と捨て去って。

 それでも、言えない。
 まだ、怖い。

 例え自分が要らないとしても、染み付いた劣等感は拭えない。それは頭の先から爪の先までデザインされたドールには似つかわしくない、本能と呼ばれるようなもの。

 自分から、
 キズを、見せるなんて。

「青い、薬? それ、あれかな、さっきオレが言った、あの、『ちけん』ってやつかな。『博士』は知ってるよ、オレも」

 記憶の話題を取り戻すように、アメリアの言葉を首肯する。擬似記憶の不思議な繋がりは、ここで確かなものになって、余計に深い謎として彼らの前に横たわった。そこから目を逸らすように、ため息を吐くように、リヒトはまたラウンジの入り口の方を見遣る。

 だからきっと、貴女の姿が見えるはず。そして、話題を変えられる、と思った彼はきっと、ほっとしたように貴女の名前を声に出して、呼ぶ。

「カンパネラ!」

 大丈夫、ここにこわいものはいないから。だから少しだけ、話そう。きっと、貴女の手がかりになってくれるから。

 カンパネラはカーディガンの内側に何かを抱え、ラウンジの入り口で佇立していた。固まっていたのである。

 寮のラウンジは、記憶の中のそれとは色々と差異があるものの、雰囲気は変わらない。暖炉の上に見慣れない置物はないし、本棚には知っている本しか収まっていない。けれども過去に浸るには十分で、蝶を見たあの日から度々訪れていた。
 無人である頃を見計らって来ていたわけであるが、今回は二人もひとがいる。引き返そうと思ったが、次の瞬間それは迷いに転じてしまった。かの橙色を目にしたからである。
 リヒトは、カンパネラがオミクロンクラスの中で最も親愛の情を傾けている相手だと言えよう。友人だと胸を張って言うにはまだ早すぎるように思えて気が引けるが、それにしたって周りのドールと比べれば安心感があるというか、気が緩むというか。常に警戒しているがゆえに人影を恐れて反射的に逃げ出す気のあるカンパネラであるが、今回に関しては躊躇われたのだった。

「…………あ、……えと…………」

 しかし、安心しきっててこてこと歩み寄るというわけではなかった。愛らしい青色の髪の少女、アメリアがその向かいに見えたのだ。
 カンパネラはアメリアが苦手だ……というか、一方的に嫌われているものだと思い込んで恐れている。よく彼女からの視線を感じるものの積極的に声をかけられるというわけでもなく、ということは、賢く聡明な彼女はカンパネラの鈍間さを常に観測しており、その上でヒソヒソとあらぬ噂を流されたり、悪口を言われているんじゃないか……と。そんな事実はないし、少なくともオミクロンクラス内でカンパネラがあらぬ噂を流されるなんてことは覚えている限り一切なかったことであるのだが。

 といった調子で、入り口で石のごとく固まっているのであった。
 優しくて招くようなリヒトの呼び掛け。それでもなおカンパネラは暖炉の側には駆け寄れない。「あう……」と不思議な声を発して、しばし沈黙したのち。

「………ご、……ごめんなさい、わたし、お邪魔に……」

 と、後ずさろうとしたその時に、頭の中で声が響いた。今は表に出ていないものの、常に妹を見守る姉の声だ。
 ───「行っておいで」、と。
 背中を支えられ、そのまま優しく押されたような感覚がした。

「……………あ………」

 とん、とまた一歩を踏み出す。手招かれ、背中を押されている。そのどちらもただの感覚の話であるが。
 アメリアは、拒絶するだろうか。うまく何事も言えないまま、入室の許可を伺うように、茨の奥の目がアメリアを見るだろう。

《Amelia》
「あっ……」

 リヒトが何かを言いかけた……いや、言い淀んだ直後、部屋の中に誰かが入ってくる。
 それは丁度彼女の視界の外側で、直ぐに反応することは出来なかったが、目線を向けるまでもなく、それが誰なのかだけははっきりと分かる。

 そう、リヒトが名を呼んだ少女ドール。カンパネラ。アメリアの憧れの人。

「あっ、いえ、その、
 どうぞ、お座り下さい。カンパネラ様。」

 余りにも突然な彼女の登場にアメリアは半ば挙動不審になりながらソファの一角を指し示す。
 なんたって“あの”カンパネラ様だ。
 貞淑で、前に出過ぎず、それでいて穏やかな……。
 ……なんだか別のドールの事を言っているような気がしないでもないが、今の彼女にとってそれは判然としない事で……。

 ともかく、話の邪魔をしてしまったかもしれないと謙遜しながら立ち去ろうとする彼女を引き留めようと画策する。

《Licht》
 カンパネラがどう思っていそう、とか。
 アメリアがどう考えていそう、とか。

 エーナのフェリほど詳しく知ることは出来ないけれど、なんとなく感じることはできる。なんてったって、良き友であれかしと作られたテーセラモデル。コワれていたって、忘れていたって、棄てていたって設計は同じ。

 なら、やることはひとつ。
 オレに出来ることはひとつだ。

「大丈夫。アメリアはいじわるじゃねーし、悪口も言わないし、酷いことしないし、もし、したって、オレが止めるし、」

 ひとつ、ひとつ。足場を作るように、暗闇に光る石を並べるように、ひとつ、ひとつ。一歩一歩リヒトは前に出て、アメリアとカンパネラの間に立って、二人を見た。そして、

「オレが、一緒にいたって苦しくないやつだ。……だったら、安心だろ?」

 こう、付け加える。
 あの木陰だけじゃない。あのコンパートメントだけじゃない。天鵞絨の座席に誰が居たって、そこは貴女の旅路なのだと、誰も傷つけたりなんかしないと、不格好に伝えて。

 ちょっとお行儀悪めにソファの背に軽く腰掛けて、今度はカンパネラから目線を外して、アメリアにも言葉を掛ける。

「カンパネラ、慎重で、静かで、優しくって、よく気がつくやつだから……ちょっと、時間がかかるだけ。大丈夫」

 そう言って、笑って。
 さっき飲み込んだ言葉を、跡形もなく消化して。

 アメリアに促され、カンパネラは戸惑った。拒絶か無視か、それともリヒトの手前上辺だけ笑って対応するかだと思っていたからだ。
 挙動不審ではあるが、そうは見えない。少なくともアメリアは、カンパネラを拒絶していないように見受けられた。

「……………………」

 そして声は響く。自己嫌悪の塊のような言動をしながら、被害妄想の多いカンパネラに強く根を張った誤解。それを見抜いた上で、責めるでもなく、ゆっくりとほどかれる。
 怯えの見える表情は驚きに変わり、戸惑いになった。戸惑いになって、目が泳いで。
 やがて、また一歩を踏み出していた。

「…………は、………はい……」

 きょろきょろ無意味に辺りを見渡しながら、一歩、一歩とリヒトの方に歩み寄り。アメリアの方を一瞥して、本当に嫌がられていないかを確認しようとして。
 秒針が一周する前には、カンパネラはそのスカートを抑えて整えながら、丁度アメリアが示した、リヒトの隣に位置する場所へ腰を下ろした。膝の上には、カーディガンの内側から取り出された……やはりあのオルゴールがある。リヒトからすればそれは随分見慣れたものであろう。
 手すりと背もたれにそれぞれ身体をめり込ますような勢いの距離の置き方をしていたものの、人嫌いのカンパネラにとってこの着席は、危険な地へ大冒険へ出掛けるに等しかった。

「………え、えっと……」

 本当に邪魔になっていないか不安がりながら、俯いた顔を上げたかと思えば、二人のことを交互に見た。話題を切り出すような勇気はなかったらしい。
 眉をひそめて泣きそうな顔をしながらも、どちらかからの言葉を待つだろう。

《Amelia》
「ええ、勿論」

 リヒトの言葉に頷く。
 正直言ってそういう注釈が必須なのは少し驚きというか……悲しみがあるが……。
 別に嘘ではないし悪いことではないのだ、咎める必要も意味もない。

 それに、カンパネラが慎重で静かで優しくてよく気が付き礼儀正しいのは事実だ。
 ……おそらく。

「それでは……そうですね。
 先ずは気楽なお話を。
 普段カンパネラ様はリヒト様とどのようなお話をなさるんですか?」

 とまあ、ここまで仲介してもらったのだ。
 アメリアもここは挙動不審になっている訳にも行かない。
 一呼吸置いて気分を落ち着かせ、恐らく無難であろう話を繰り出す。

《Licht》
「そう来なくちゃ」

 リヒトはぴょん、とソファの背をまたいで、自分もちゃんとソファに腰かけた。これでおそろい、みんなおそろい。でも、話の真ん中にいるのは自分じゃあないことくらい、分かってる。だからそっと微笑んで、自分のことだけ考えた。

 例えば、この先。もう変えられようのない未来として、リヒトは自分が全て忘れてしまうことを考えているけれど。もしそうなった時、何もかも忘れた、自分じゃない自分は、きっとカンパネラをひとりにしてしまう。

(それは、やだな)

 少なくとも、みんなは思ったより全然怖くなくって、望んでいるものはきっと手を伸ばせばそこにあって、暖かな光はきっと貴女のことを置いていかない、ということを。

(……うまく、言えたらなあ)

 それは、後顧の憂いを断つ、というのだけれど。きっと彼は、知りもしない。

 ふっと考えの縁から戻って来た頃には、アメリアがカンパネラに尋ねていた。これはカンパネラに対する質問だから、オレは答えられないよな、と思いつつ……カンパネラが答えられるかも、ちょっと不安で……あれ?

(……もしかして、この感じがずっと続くのか……??)

「………………」

 カンパネラは、立派な花瓶か何かを勢いよく破壊し、三秒後の母親からの激しい叱責を覚悟した子供のような顔をした。口を一文字に結び、汗をたらりとかいている。
 おそらく気を遣ってわかりやすい話題をくれたのだろう。しかしはたりと沈黙してしまう。リヒトは何も言わない。だってそれはカンパネラに宛てられた言葉なのだから。

「………えと……」

 膝の上に置いた手をもにもに揉みながら、視線を足元に落としたりリヒトに送ったりアメリアに向けたりする。相手の反応が来る前に逸らしてしまう。
 体感たっぷり三十秒黙ったところで、そろそろ何事かを言わなければならないと危機感を覚えたらしい。

「……その………き、近況とか……相談事、です、かね………?」

 絶対求められていたこととは違うんだろうなと思いつつ、こうとしか言えない。リヒトとの会話は、好きなものを話したり共有したり笑いあったりというよりは、安心や不安のお裾分けを繰り返し、傷を見つめ合うといったような内容であるので。
 愚鈍なカンパネラなれど、ここで会話を終わらせたら間違いなく気まずい感じになるということは分かる。愛する姉に助けを求めたいところであるが、背中を押された以上ここで頼るというのは情けないにもほどがあるだろう。今更だが。

「え、えーっと………お、おふたりは、さっき、何をお話されてたんですか……?」

 話題の転換を試みる。ここで話題を速攻で流すのって失礼なんじゃないかと、言葉を発したあとに思い至る。ああ、またコミュニケーションを間違えた気がする……。
 何も言わないまま、顔を青くして横髪を掴み頬に寄せる。カーテンの中に逃げてしまうようだった。足元を見つめて、また相手の返事を待つだろう。

《Amelia》
「えっ……ええ! そうですね、確かに、アメリアの側から話さなければ無作法でした。」

 アメリアの熟慮断行から繰り出された質問に投げ返されたのは……白湯よりも薄い答えだった。
 近況とか相談事と言われても……何を返せば良いのだろうか。

 だが……確かに甘く見ていたのも事実。
 憧れの人のプライベートに迫ろうというのに何も言わないというのは無作法だし、なにより貞淑な事を尊敬している相手なのだ。
 ガードが硬くても当然という物だろう。

「そうですね……アメリアとリヒト様は……」

 そこに深く納得して話そうとした直後、アメリアは気付いてしまう。
 “リヒト様と最後にした会話って……ついさきほどまでの会話を除くとどう考えても恋バナなのでは……?”と。

 策士策に溺れる。

 正直に直前の話をすれば確実に空気は深刻で沈鬱なものとなり、一つ前の会話を話せば「アメリアはとっても浅ましい獣でござい」と憧れの人に突きつけることとなる。
 見事に自分を罠に嵌めるダブルバインドに陥った彼女は露骨に動揺して挙動不審になった末に……。

「その……想い人の話などを……」

 真っ赤になった顔を伏せて絞り出すように憧れの人との談話を優先した。

《Licht》
(こ………)

 片方は顔を青くして、カーテンをサッと閉じてしまうように横髪にそっと手を添えていて。

(この…………………)

 もう片方は顔を真っ赤にして、カーテンの向こうに隠れてしまいそうなほど挙動不審に慌てふためいて。

(この不器用'sが〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!)

 どっちもまともに話せていない沈黙の中で、リヒトは声に出さない悲鳴をあげた。

(だから! オレは! フェリじゃないんだって! 元プリマのみんなでもないんだって! そりゃ呼んだのはオレだけどさ、 だからってお互いここまでオクユカシイのは予想外で!! くっそ、何とかしなきゃ……!!)

「あっ、ああ、その、そう! うん! なんつーか……想い人、ってよりかは、そうだな」

 変な沈黙を続ける訳にはいかない、と、リヒトは声をあげる。とりあえず、言葉足らず過ぎて全てが誤解の種であるアメリアの言葉に補足をして……その後どうしよう……。

「トイボックスには、“ご主人様”を待ってるやつがたくさん、居て。でもオレたちは、それに会えないことをもう知ってて……だったら、頑張って自分から会いに行こう! ってしてる奴も、何人かいて。アメリアもその一人って感じで。具体的にどんな人がいいかなーって話、して」

 『それが“想い人”の話ってやつで……』と、たじろぎながらもなんとか話題の補完をした時。ふっとコワれた思考回路がパチンと動いた気がして、リヒトはばっと体を起こした。そうだ。もうこれでなんとかなれ。

「お、おう。じゃあ……そうだ! 
 話題、これで行こう! 『いつか会いたい人について』ってのでどうだ!! 名前は……分かんなかったり、言えないなら出さなくてもいいし! これで二人とも話せるだろ……!!」

 もはや最後の辺りは願望だ。上手くいってくれ、頼むから。例えば、シャーロットさんの話とか。難しくても、具体的に言えなくても、名前出せなくても、ヒントになればそれでいいから。

「ぉも……!?」

 少女の赤面も、飛び出した言葉も、全く予想外である。まさかまさかの、俗に言う恋バナ………!? と誤解を加速させそうになったところで、リヒトの補足が届く。
 はて、会いたい人。さらりとアメリアがここの真実を知っているのだということも判明したが、それを思考する余裕はなく。

 会いたい人。会いたい人……。

「………ええと……わたし、は………」

 オルゴールの表面を見つめる。切り出すかどうか、悩んだ。天国よりも美しい思い出は、口にすれば蜃気楼みたいに溶けてしまわないか、恐ろしく思うのである。

「………あ、アメリアさんの、その……想い人と、いうのは。えっと……ど、どんな、方なの……?」

 結局、他人に語らせることを選んだ。これで何も返されなかったらと思うと怖いところだが、すぐに彼らのことを口に出せるような状態ではなかったらしい。
 横髪を掴んだままころりと首を傾げ、ビイ玉より綺麗な目を瞬かせ。お先にどうぞと言わんばかりに、アメリアに問いかける。

《Amelia》
「くっ……」

 リヒトの的確なサポートを経由して、カンパネラから帰って来たのは超ド級のキラーパス。
 脳天に銃口を突きつけられたかのような圧力……。
 もとい話さなければならない空気感が少女に襲い掛かる。

「アメリアは……その……。
 会いたい人が居る……という思いだけが、ありました。
 だから、それがどんなお方で……どんな姿で、それが特定の個人なのかも……分かりません。

 その答えは……きっと、アメリアの疑似記憶の中を探したって無いのです。
 だから……遠い、遠い何処かで、アメリアの歩き続けた先に居る方が……愛する方なのだと……思います」

 だから……彼女はほんの少しだけ噓をついた。
 フェリシアとの、一時愛し、愛の形を自覚させてくれた一夜を秘めて、リヒトと語り合った事を語る。
 今ではそんな事はないと知っているけど……それでも足が止まっているふりをした。

《Licht》
「……ん」

 穏やかな表情で、リヒトは首肯する。ぐるぐるした目で言葉を選ぶ、アメリアの誠実さを知っているからだった。こと、恋や、愛や、想いに対して、彼女はとても誠実なように思う。所管だけれど。……いつかこの所感も、消えてしまうかもしれないけれど。

「だからオレも、応援しているワケで」

 まったく、困った友人たちだ、そう言いたげに、ゆるりと微笑む。ホントは、彼女たちに自分の助力が必要だなんて、微塵も思っていない。自分が勝手に首を突っ込んでいるだけだと、わかっている。それでも、ちょっとくらいは、さ。

 カンパネラは、と声に出して問うのは、辞めておいた。

 代わりに、そっと目線をカンパネラの方に流す。話さないならそれでよし、もし話すなら、そっと受け止められるように。選択は常に貴女にあって、誰もそれを咎めることなど、しないのだ。

 小鳥みたいな少女の声は、どこかいじらしく、可愛らしい。リヒトは訂正したけれど、これでは本当に想い人のことを語っているかのようだ。
 想いだけがあって、どんな相手かは分からない。それはカンパネラには正直理解しがたい感覚であった。そんな想いを抱えるのなら、普通はある特定の個人と会いたいと願うのが普通なのではあるまいかとも思った。
 けど、馬鹿にされていいようなものでもないと強く思った。

「………すてき、ね」

 本心だった。戸惑ったのも本心だったが、素敵だと思ったのも本心だったのである。
 ぎこちないが、確かな優しさを込めた微笑みが浮かぶ。自然ではないけれど、無理矢理浮かべたわけでもない。あの輝きが佇む写真の中のそれとは違う寂しげな笑顔だが、それでも朧気に面影を残していただろうか。

 さて。どこか恥じらいながら語ったアメリアに話させた手前、カンパネラはリヒトの視線の意味を知らんぷりすることはできなかった。求めつつも、無理に口をこじ開けさせるような真似はしないのが彼らしい。

「わ、わたし、は……ええと。……あ、会いたい、人が……そのぅ………ふ、ふたりほど……」

 俯いて、前を向いて、また俯いて。カンパネラはおそるおそるといった調子で、時折リヒトのことをちらちらと見ながら、語り出すだろう。

「………お、お友達、で。もう、ここにはいないんだけど……か、片方とは、もしかしたら………なんでかは分からないけど……あ、えるかも、で。……もう片方は……た、たぶん、もう無理、なんだけど……」

 これはおそらく蛇足だ。そう思いつつも、こんなところで言葉を自然に切るような器用さはなかった。言ってるうちに悲しくなってきて、なんだかもう仕方がない。
 どう続けたものかと言葉が詰まったところで、カンパネラはずっと自分が触れ続けていた木箱に目を向ける。

「………あの……」

 言いながら、彼女は突然ラウンジの窓の方を見つめた。その向こうに視線を逸らしたとしても、きっと二人の目には何も写るまい。それは、“今の”カンパネラの目にだって写らないのだから。
 青い蝶が思い出させてくれた記憶のさなか。それは、赤く、光っていた。

「………これ、そのお友達のひとりから、貰ったんです。……わたしが、……音楽がすきって、言ったから………」

 木材をつぎはぎにして作られた、如何にも手作り感満載の木箱を大切そうに手に取ると、アメリアの方へ差し出すようにして見せてみる。彼女に拒まれなければ、「お、……オルゴール、なの………」と目を逸らしながら続けるだろう。

「て………手造り、みたいで。彼の。……あ、その、えっと……テ……テーセラモデルの、男の子だったんだけど、その……彼、身体を動かすのが、好きじゃなかった……みたい、で。……不思議なひとで………」

 ……あれ、わたし、もしかして喋りすぎてる……?
 あまり普段から口数が多いとも言えない自分がこんなに語っているのは、なんだか奇妙に写るのではないか。そう突然不安になったらしい。話の続きを切ってしまうと、リヒト……ではなく、アメリアの方へ目を向けた。
 リヒトはきっと自分の話を拒まないと知っている。しかしアメリアはどうだろう。もし退屈をさせていたら。そもそも彼女の話をあそこで終わらせるのではなく、さらに何かしらの質問を投げかけるべきではなかったんだろうか。
 降り積もる不安に押し潰されそうになる。だくだく、と背中に汗をかいている。
 あなたは、どんな顔をしているのだろうか。

《Amelia》
「カンパネラ様……!」

 カンパネラの言葉に、彼女はついパッと顔を上げてしまう。
 それは、自分の想いを肯定された喜びか、或いは言及されたことで羞恥が限界に達したのか。


 どちらにせよ、彼女は丁度カンパネラが話し始めた辺りで顔を上げる事が出来た。
 結果、アメリアは不幸中の幸いに乗じて、興味津々とばかりに少し体を前のめりにさせてカンパネラの言葉に聞き入る。

「テーセラモデルの方と……もう会えないかもしれないお方……ですか。」

 もしも、自分が愛する人に会えないと決まったらどうなってしまうだろう。
 もう何処にも行けなくなってしまうだろうか。
 或いは、新しい誰かを探しに行くのだろうか。

 今のままでは想像の出来ない地平に、カンパネラは立っている。

 少なくとも、それだけは確かだった。
 それは、カンパネラが自分の知らない何処かに居るというのは、当然のような、なんだか納得のいく物で……けれど心の何処かがずきりと痛む醜い嫉妬で……。
 と、考えた辺りで一時、アメリアは何か引っかかるような物を覚えたが、それは直ぐに押し流されてしまった。

 なんたって、あの彼女が自分を伺うように見てきているのだ。
 そこに考え込んで返事をしなかったというのは余りにもあんまりというものだろう。

「それは……とても素敵な旅路でございますね。
 忘れ得ぬ郷愁と、色褪せぬ輝きを感じます。」

 だから、彼女はカンパネラの会いに行く道程を、その旅路を称える。
 なんたって、それはカンパネラのもので、カンパネラの物語なのだから。
 それを誰が批判できるだろう。

「ところで……リヒト様のお話も、アメリアは聞きたいと思うのですが。
 どうでしょう?」

 だが、それは、それとして。
 アメリアに憧れの人の前で想い人の話をさせるというとんでもない事をしたリヒトに仕返しをすべく、カンパネラが語り切ったであろう折を見て、リヒトに水を向ける。

《Licht》
 忘れ得ぬ郷愁で、色褪せぬ輝きで、それだけでは無いことをリヒトは、薄らと知っていたが、あえて声に出すような真似は避けた。傷をあえて見せたがる者が居ないように、嵐の中で苦しげに瞬いたことを、あえて知って欲しいと望む彼女ではない。

 だけど、話をしている二人を見て、随分と安心したことくらいは言っていいかな。そう、思った。もうしばらく沈黙が続くものだと思っていたから、ゆっくりとだけど、確かにカンパネラが話し出したことが意外で。アメリアも、静かな話を受け入れてるようで、なんかほっとして。そのくらいなら、まあ。

 頬杖をついて二人のことを見ていたリヒトは、次の瞬間、ガクッと頬杖から顔を滑り落として、驚くことになる。他ならぬ、智恵溢れるデュオモデルの思わぬ仕返しによって。

「えっ、オレ?」

 急に振られて、話の真ん中に引きずり出された六等星は、ぱち、ぱち、と目を瞬かせた。

「オレは」

 リヒトは、言葉を選ぶようにすっと俯いた。手のひらを見つめて、二度、三度と握って、開いて、握って、開いて……握る。

「……んー、まあ。ぼちぼちかな。ご主人様って言われても、あんまり想像つかなかったし……目の前のテストを、何とか、落ちこぼれないようにこなすので、精一杯だったし」

 『……結果は、こうなんだけど』そう言って、リヒトは手をうんと上げ、ぐっ、と伸びをして、大きくソファの背もたれに寄りかかる。伸ばした首を背もたれの上に乗っけて、天井を見つめた。

「だから、二人がちゃーんと、会いたい人とか、いるのが、いいなーとは思う」

 いいことだ。とても、いいことだ。善も悪も問わず、必要性も実現可能性も問わず、ただ、肯定した。遥か遠い、手も届かない空の彼方で、星が瞬いている。二人は、輝いている。キレイだ。

 それは、とても、いいことだ。

 意外、だった。アメリアは話を嫌がるどころか、前のめりになってまっすぐに聞いてくれていたから。
 その驚愕は、ずっとずっと嫌われているものだと思っていたからというのが大きい。視線を向けるだけ、向けられるだけの関係だった。
 嫌悪では、なかったのか。

「………あ、」

 アメリアが口に出したことで、ひとつだけ誤解をさせてしまっていたことに気付いた。会いたい人のうちの片方……グレゴリーこそが、カンパネラの言う『たぶんもう無理』な方であったからだ。
 ひいては、もしかしたら会えるかもしれない片方、というのは。

「………ぁ、ありがとう、ございます……」

 訂正はしなかった。特に支障はあるまいと思ったからだ。アメリアにもアメリアの歩む道があり、旅がある。彼女の旅にきっと不要なものだ。

 アメリアからの知的で穏やかな敬意を困惑しながらもなんとか受け止めて、礼を述べる。そんな立派なものじゃないんだけどな。眦が溶けてしまうような感覚がするのは何故だろう。
 思えば自分は、いくらどんなドールに優しくされたって、その優しさの裏を想像して怯えてきた。アメリアからの言葉を疑う必要がないのは、やはり、隣人がいるからなのだろうか。姉が背中を支えてくれているからだろうか。
 他人の信じ方を、思い出してきているのだろうか。

 と。アメリアによって突然次の話者になったリヒトの方へ、カンパネラはそっと耳を傾けて目を向ける。確かに小さいかもしれないけれど、ちゃんと星は光っていた。彼が落ちこぼれなのは事実なんだろう。でも彼が落ちこぼれてくれなくちゃ、カンパネラはもっと一人ぼっちだった。
 つられて天井を見上げる。見上げられているとは夢にも思ってないらしい。

「…………」

 会いたい人がいない。本当に、そうかなぁ。学習室での会話を思い出し、そう心の中で疑う。
 しかしあくまでも心の中でだけだ。カンパネラは沈黙を守り、何も追及しない。何も語らない。「うぅん」と無意味に鼻から抜ける声を放つだけだ。

《Amelia》
「ええ、リヒト様です」

 なんだかパチパチと目を瞬かせるリヒトに頷きながら、ちらりとカンパネラを見てなんだか同意を取っている風を装う。
 驚いていても意趣返しからは逃がさないぞ、という強い意思で以って話を促すと……帰って来たのは少し想像通りの答えだった。

「まあ、実際そうですよね。
 前までは落ちこぼれないように、今となっては明日生きるだけで精一杯なのですから。
 冷静に考えると……こうして想い人の話をしている事の方が妙ではある……と思います」

 そんな暇は無かった。
 確かにそうだ、アメリアにも実際そんな時間は無かった。
 ほんの少しでも良い人形である為に。
 はしたない、浅ましい獣にならないために。

 己を律し続けて結局何を求めていたのか考えることすらしていなかったのがアメリアなのだから。

 リヒトにだってそんな時間はないと言われればそりゃあそうだろう。
 納得の出来る話しだ……というかこれは単に、アメリアが時間の無い間にも好きな人のことを考えていた凄まじくはしたない女という事になるのではないだろうか?

 そんな、気付いては行けないことに気付きかけたその時。

「いい、ですか?」

 いいなーとは思う、と言ったリヒトの言葉に首を傾げる。
 なんたって自分に会いたい人がいる事をアメリアは恥ずかしい、浅ましいとは思いこそすれ、誇ったことなどないのだ。
 だから、良いという純粋な誉め言葉を受け取れずに首を傾げることしか出来なかった。

《Licht》
「ん? いいことに決まってるだろ」

 ぐっと体を起こして、天井を見ていた視界に二人の姿を移して。不思議なことを聞くなあ、と思いながら、リヒトは言葉を続けた。呆れたように、それでもなんだか、愛おしいように。
 これだから、どっちも、ほっとけないのだ。

「だいたいなんだよ、ふたりとも、なんか自信無さすぎ。
 ……お披露目のことも、色んなことも知っちゃって、お先真っ暗みたいなもんなんだからさあ……そんな中で、やりたいこととか、会いたい人とか持ってるのって、実はすっごいことなんだぜ。
 もういいや、ってなる方が、ずっとずっと楽なのに。ずっと、ずっと。
 だから!  諦めないで、忘れないで、誰かのために頑張ってるのって、すっごくすっごく、すごいことなんだ」

 だから誇って、不器用で怖がりで、それでも輝く一等星。会いたい人がいるのなら、脇目も振らず走って。
 ……いや、そりゃちょっとは、歩いたり座って休んだりして欲しいけれど。無理や無茶はしないで欲しいけれど。……そうして欲しいのは、二人を心配する気持ちの他に、あまりに早く二人が居なくなってしまったら、遠ざかる背を諦めるために必要な時間が、なくなっちゃいそうだからだけど。ちゃんと手を振れるかどうか、オレが不安なだけだけど。

 ……ちっぽけだなあ、オレ。

「胸張って言えよ、『わたしはこの人に会いたいです、だから頑張ります』って。みんな、絶対、心から応援してくれるからさ」

 『……オレは、応援第一号な』と付け加えて、リヒトは両手で小さくピースサインを作った。にっこり笑って、冗談めかした明るい声色で、二人の背中をぽん、と押すように。いえーい。

 まぁ、たぶん、一般論としてこんな絶望的な状況のもと、何かしらの素敵な目的を持って歩み続けることは“良いこと”なのだろう。カンパネラもアメリアの想いを肯定的に受け止めている。
 ……カンパネラの場合は、たぶん、違う。そんなきれいな話ではない。カンパネラの願いは、大好きな友達にもう一度会いたいという願いは、もはや目的という話ではなく。

「………」

 言うなればそれは、鋼でできた命綱だった。
 諦めたら、忘れたら。その時、カンパネラはきっと本当の意味で死ぬだろう。スクラップにされるより、怪物に食い荒らされるより、無惨で深い死を迎えるのだろう。
 そして尚且つ。もしもその願いが叶うのなら、カンパネラは何だってするだろう。何だって、投げ捨ててしまうだろうから。

 リヒトのピースサインに、コンクリートのような質感の微笑を浮かべて応える。ほんとうに胸を張って良いのかとは思えなかった。彼が語るカンパネラの姿みたいに、本当の自分は美しくはないと知っていた。

「……がんばらなくちゃ、ですね」

《Amelia》
「決まっ……!!」

 この親友は、なんと気楽に言ってくれる事だろう。
 アメリアの生の、その殆どを苛み、操り、苦しめて来た呪いとすら言える渇望を、リヒトは事もなげにいい事だと言い切った。

 それは、アメリアに混乱と幾分かの救いを与え、言葉を詰まらせる。
 望むことははしたなく、浅ましいけれど。
 それでも、かれは良いことだと、そう言ってくれた。

 だからこそ、アメリアは気になる。彼に、求める物はあるのだろうか、と。
 だって、そうだ、彼は会いたい人が居る事をまるで特別な事のように言う。

 元から持っているアメリアには分からないけれど……。
 けれど、特別な物というのは少ないか、或いは存在しない物で……。
 だから、さっきリヒトが自分で言っていたように、リヒトには会いたい人が……それでなくても強い願いがないんじゃないか? と。

「むっむうう……リヒト様がそこまで言うのなら。
 良いでしょう。
 今度、いえ、いつか、いえ、予定があった頃に……言ってみることにします。」

 そうやって考えた頃にふと。
 アメリアは自分が安堵している事に気付く。

 リヒト様が自分から何処かに行かない事に。
 置いていくのは自分である事に。
 自分よりも遥かに優れたリヒトに……願いがない事に。

 その醜くどす黒い感情に、浅ましく、確かにはしたない感情をようやく自覚した彼女は、よく使い慣れた自己嫌悪でそっと蓋をして、加えて決意の重石をする。

 いつか、リヒトがやりたい事を決めた時。ちゃんと背中を押そう。
 その為に、今はこの汚れた心を隠しておこう。

 今はとぼけたふりをして、気付かないふりをして。

 そうやって、いつか行き先が決まったのなら。
 精一杯の笑顔と沢山の涙で背中を押そうと……そう決めた。

《Licht》
「でも、無理すんなよ。センセーにバレたらダメなんだからな」

 頑張らなきゃ、と意気込んだカンパネラに対して、これは忘れちゃいけないと付け加える。

 そして、また二人をぼんやりと見て。

(……まあ、なんというか)

 この一言でぱあっと霧が晴れてくれるのなら、二人ともこんなにナンコーフラクでは無い。オクユカシクもない。まったくもって、ほうっておけない。

 つまり、じゃあ、悩んでくれている間は、ここに居てくれるのか、と……ちょっとだけ、安堵して。

(あーもう!! 嫌だ!! この!! う〜〜〜〜っ!!)

 見送ると決めたくせに居て欲しくて、支えると決めたくせに後ろめたい。どっちつかずの感情がグルグルするのはいつもの事で、いつものように苦手だ。ピースサインしたじゃん。あそこでちょっとだけカッコつけたじゃん。もう、情けないなあ。捨てるって決めたものをずるずる引っ張っている、自分が。

 もう何度目か。ぱっと話題を切り替えようと思って、リヒトは咄嗟に思いつきを口にした。

「……っと、言うわけで! アメリアとカンパネラ、二人とも“トイボックス調査隊”の仲間入り! ってことでいいか?」

 口走った、数秒後。慌てて『あ、えと、トイボックス調査隊ってのは、フェリシアが隊長で……』と、勢いで出してしまった言葉に説明を付け加える。

 トイボックス調査隊。フェリが隊長……とリヒトは主張しているけれど、実際のところ、隊長とか隊員とか、あんまり変わりなくて。ただ、トイボックスの大きくて漠然とした両手の中で、ひとりぼっちにならない為の隊であること。センセーには秘密の、調査隊であること。ひとつひとつ、言葉を尽くして言ってみた。我ながら、結構曖昧な調査隊である。
 オミクロンはひとりじゃない、って言っても受け入れにくいなら……みんなで丸ごと囲ってしまうまで、だ。見事なまでのテーセラ的脳筋思考だった。

「ニュータイに条件なし! 落ちこぼれでも、何も出来なくても、何にもわかんなくても、大丈夫! お互いのやりたいことのために、困った時はお互いさま!! って、やつで………その………どう、かな?」

 『いっ……やならその全然いいんだけど……』と、慌ててそう言って、カンパネラと、アメリアの方をそれぞれ見る。ちょっと無理やりすぎたかな、という心配と、断りたいなら断ってもいいよ、という心からの思いを込めて。

「あ、は、はい。そう……ですね。」

 リヒトからの付け足しに、はっとしたように首肯する。いくら頑張ったとて先生にバレては全ておしまいだ。今まではそちらの面での警戒は甘かったような気もするが……蝶を探すのも第三の壁を探すのも、これからは慎重に行かなくては。
 もし先生に、シャーロットやグレゴリーのことを思い出していることがバレたら。あの写真がそうだったように、また失うかもしれない。オルゴールや、ノースエンドや、今あるセピア色の記憶を。会話はなるべく避けなくてはならないだろう。
 ああ、でも。『あの時間』から逃れるのはどうにも難しい。誤魔化す練習をしなくてはならないと、カンパネラは心中で独りごちる。

「……ちょ、調査隊………?」

 と。リヒトの口から突然飛び出した提案に、カンパネラはまたころりと首を傾げた。
 フェリシアを体調の座に据えた、トイボックスの真実を追及するものたちの集まり……というよりは、どちらかというと子どもたちのお遊び集団のようなものに聞こえる。調査隊と銘打つが、ひとりぼっちにならないための、というのがおそらくは本質なのだろう。

 けど、わたしは、そんな。そうやって弱音を口にしようとして、カンパネラは躊躇っていた。きっとリヒトは、カンパネラやアメリアのことをひとりぼっちにしないためにこうやって言ってくれているのだ。自己嫌悪や遠慮からとはいえ、提案を退けるのはその想いを無下にすることにはならないのだろうか?

「あ~……う、え~……と……」

 右往左往。目に見えた迷いの、その果てに。

「………じゃあ……は、はい……うん。」

 こくり、と頷いて。カンパネラは入隊の意思をやんわりと示した。若干こう、無理をした感じは否めないかもしれないが。
 さて、アメリアはどうだろう。カンパネラは美しい青の少女の様子を窺うだろう。彼女は一人での旅路を進むのか、それともひとりぼっちにならないのか。答えが是であれ否であれ、彼女は肯定も否定もしないだろう。

《Amelia》
「調査隊……ですか?」

 このトイボックスについて調査を進めようという……互助会のようなものらしい。
 正直言って願ってもない申し出だ。

 一人での調査に限界があるのは事実だし、信用についてもフェリシア様がリーダーと言う事で花丸をあげたいくらいだ。
 入隊に条件が無い、というのもとても良い。
 オミクロンのドールがそういった事を気にするのは事実だし、なにより尊敬するカンパネラ様と共に入るのは親交を深める上でとても有効と言えるだろう。

 正に文句の付けようがないパーフェクトな提案だ。

「そうですね……アメリアは、少し考えさせて欲しいです。」

 ……けれど、今はまだそれに乗る事が出来ない。
 何故なら今アメリアは調査を進めており、どれほど疑われているか分からない以上下手に参加して迷惑をかける訳にも行かない。
 かといってただ断るのは目の前の親友に失礼だ、とそう考えたアメリアは具体的な期日を伝える。

「次のお披露目の後、アメリアが無事だったなら答えさせて頂きたいです。」

《Licht》
「そ、」

 息を飲んだ。

「そんなこと、言うなよ」

 ふにゃ、とへこたれた声になってしまった気がして、リヒトは拳をぎゅっと握って、膝の上に置いた。希望ばかりで足をすくわれちゃダメから、きっとこの言葉は正しいのだけれど。

 でもだってそんなの、そんなの。考えたくなんてなかったじゃん。だけど正しいから、そんなこと言って、諦めちゃいそうな光に手を伸ばしたのは、ただの。

「……っああもう、了解!! 絶対な、絶対な! 約束だからな!! 破ったら許さないからな、このっ……棺の中にシーツ詰めまくって寝れないようにしてやるから!! それから、えっと、アメリアの洗濯物だけ裏返しにしてやる!! あと、あと……あ! アメリアのこと見る度に『わっ!!』って後ろから脅かしてやるからな!! それから、ええと……ええっと…………なんでもだ!!
 あーくそ、締まんねえなあ……!!」

 困惑と戸惑いと引き止めたい気持ちと、ちょっと……いやかなりの苛立ちを元にリヒトはわめきたてる。カンパネラがびっくりするだろうから後でちゃんと謝っとかなきゃ、だけど、今はほんとーに何とか言ってやりたかった。考えうる限りの嫌がらせを叩き付けてまで、答えを確かなものにしたかった。

 閑話休題。

「でも、カンパネラが話してくれてよかった。少なくとも……二人が仲良く出来そうで、良かった」

 しばらく暴れて落ち着いたあと、思い切って呼んでみて良かった、と彼は笑って、ラウンジの小さな歓談を纏める。……なんだかなあなあになって、上手く纏まりはしなかったけれど、それでも。無理やりにでも手を繋げて、良かったと思う。

 新しい乗客を乗せて、銀河鉄道が続くように。彼女が望む場所へと行けるように。星座を作るのはみんなの意思だが、星を集めるのは彼の仕事だ。

【学生寮2F 少女たちの部屋】

Rosetta
Campanella

《Rosetta》
 少女たちの部屋の中は、息の詰まるような静謐で満たされている。
 木製の空間、死を思わせる閨、そして外から差し込む偽の陽光。
 ドールたちを守るために作られた、清潔な死体安置所のような場所に、ロゼットは戻ってきた。
 理由は何だったのだろう。忘れ物か、気まぐれか、昼寝でもしようと思ったのかもしれない。
 何であれ、彼女はそこでカンパネラを見つけたのだ。

「カンパネラ、あなたもお昼寝?」

 悪い子だね、なんて言いながら。
 何でもないような顔で、彼女は仲間に近付いていく。
 先日のことは忘れたような、気の抜けた微笑みを浮かべたまま。

 カンパネラは自身の棺にその身体をおさめていた。上蓋は開いている。青白い相貌はまるで本当の死体のようで、枯れた木の枝のような頼りない四肢が力なく置かれていた。彼女は手を組み、静かに目を閉じ──しかし、部屋に誰かが入る気配にすぐに気付いて上半身を起こすあたり、本当に眠っていたわけではなかったらしい。
 眠ってしまえば、あの星の墜落する夢に襲われる。夢をも見ないほどどろどろに疲れて、限界を迎えて落ちるように眠るしか、夢を見ない方法はなかった。

「………ロゼット、さん……」

 脱いでいたカーディガンの中にサ、と何かを隠すと、その柔らかな笑みの赤薔薇と相対する。決して睨み付けているわけではないが、その青の目はきろりと昆虫じみた動きをして、あなたを見上げた。

「ね、………眠りに来た、わけでは……」

 もにょもにょと曖昧な返答をすると、どこか素っ気なくふるりと顔を背けてしまう。あの湖の近くでの一幕を思い出してしまった。あの時の醜い気持ちが露呈するのを恐れ、カンパネラはロゼットから逃れようとしたのである。これ以上は話しかけてくれるな、という態度だが……果たして彼女に通じるだろうか。

《Rosetta》
 死者が今蘇った、というような見た目のドールがこちらを見ている。
 この前みたく怒っているわけではないらしい。よかった、とロゼットは内心安堵する。

「じゃあ、休憩してたのかな。邪魔しちゃってごめんね」

 交わらない視線はいつものことだ。カンパネラは積極的に交流をしたがる方ではないから。
 銀の目も、ふいっと相手から視線を外した。自分の棺を整えるふりをしながら、口だけがくるくる回る。

「最近、色んなことがあって大変だもんね。アストレアがお披露目に行っちゃったり、新しい子がふたりも入ってきたり……調べたいこともあるけど、あんまり上手くいかないや。あなたはあれからどう?」

 白いシーツの上に、手を滑らせる。
 それは泳ぐイルカのようでもあり、滑るペンギンのようでもあった。
 今棺に入るのは露骨すぎる気がして、ロゼットは棺の中のモノを入れ替え続けていた。

「……いえ………」

 通じなかったか。まぁ、予想通りである。
 カーディガンとその中のものをひとつの塊にして胸に抱き込むと、カンパネラは棺の中におさまったまま膝を立てて俯き、ロゼットの言葉を仕方なくといった風に拾い始めた。

「………大事な友達の、分からないこと、分かろうとして、頑張ったら……もっと分かんなくなって……。……なんか、もう、わたしも、上手くいってない………です。」

 必要最低限の返答で済ませるのははて、意地なのか何なのか。無機質な石の壁みたいな、抑揚の抜けた平坦な声で返答する。会話を発展させる気はないらしい。
 ロゼットの調べたいものというのは、彼女が以前に言っていた『ガーデン』なるもののことなのだろう。見たことも聞いたこともない、そもそもどういうものなのかも分からない。その上カンパネラは自分のことでいっぱいいっぱいで、ロゼットのためにとそのことについて調べる気力もやる気もない。特に助けになれることはなかった。
 ロゼットはずっと穏やかだ。何もかも、彼女からすればガラスのショーケースの向こう側の世界なのだろうか。アストレアのお披露目と、オミクロンへの新入りの話を同じ程度の話と語るのなら───それはカンパネラがそう受け止めたというだけの話だが───わたしと同じで、このひとも随分薄情なのではないか、と思い至る。
 彼女の中にももしかしたら、大きな苦悩や葛藤が存在するのかもしれない、だなんて。そんな発想はどこにもなかったようで。

「……疲れて、きちゃいました。もう。………」

 ぽつりと、弱音とため息をこぼす。それは心の柔らかなところを見せるというより、アピールみたいな、当て付けみたいな、それでもみっともなく共感を求めるような言葉であった。

《Rosetta》
「友達って、オミクロンの子? それとも、ツリーハウスにいた子かな」

 野に咲く花を大切にすることはできるのに、他者の心のうちを踏み荒らしている自覚すら持つことはできないらしい。
 彼女はトゥリアらしく、投げかけられた言葉に関心を持ったような返事をした。
 視線は逸れたままだから、きっとカンパネラの鬱屈した姿にも気付くことはできないのだろう。
 みんな自分のことに必死で、精々二本の腕で繋げる相手にしか気を配れないのだ。仕方ない。
 無意識にロゼットはそう思っているし、他のドールもそうだと思っているからだろう。淡々とした語り口は、雑談の域を出るモノではない。
 本当に葛藤やなんかがあったとしても、友達でもない“オミクロンの仲間”の前で発露することはないのだろう。

「疲れちゃったなら、やめてもいいと思うけどなあ……」

 この言葉も、表面だけなぞってあなたの心を素通りしていくつもりなのだろう。
 いつも口ばかりだ。美しいだけのドールは、凍えるほどの無関心であなたにアドバイスを投げかける。

「………ツリーハウスの子、です。……あの子……大切なのに………」

 控え室で青い蝶を見たとき。あの日のラウンジでのやり取りが回帰して。彼女の囁きが、何の含みもないように見える美しい微笑みが、カンパネラを惑わせた。
 分かったことのなかに、分からないことが多すぎる。なるべく自力で理解を試みたいところだが、それが無茶だということにはとうに気付いていて。それでも、ヒントを得るためにあの場所を訪れる勇気が、まだ出ない。

 ……ロゼットは声を投げ掛ける。きっとそれは素直な言葉だった。慰めようとか、方向性を正しくしてやろうとかじゃなくて、シンプルにそう思ってアドバイスをしただけなのだろう。端からカンパネラの痛みに寄り添おうというわけでもなく、だからといって「ふーん」で終わらせないあたり、温情はあるんだろうが。
 カンパネラの頬に影が落ちる。長い睫毛が落としているのである。ドールなら誰でも持っているその美貌は儚く、いつもの彼女ならば当然ながら、人ならざる何かのような気配を纏っているはずで。

「……簡単に、おっしゃるのね………」

 けれどその時のカンパネラは、随分と人間臭い顔をしていた。目に見えて傷付いている……否、苛立っている様子だ。
 関わってくるなと他人を拒むくせに、過剰に「軽んじられた」として怒るのは、大きな矛盾であろう。相手からすればそれは理不尽にすら思えるはずだ。
 カンパネラはここのところ、いつもの気弱さを有しながらも、時々このようなことがあった。パントリーでミュゲイアに鬼の女の顔を見せたときと同じだ。感情の制御が、まるでできていないのである。

《Rosetta》
 大切な子。
 擬似記憶の中にいたのか、後から思い出したのかは、何も分からないが、その言葉はなるべく尊重してあげたかった。
 それはロゼットにはもう手に入らないモノで、今また違う形で繋ぎ止めようとしているモノでもある。
 思い出せることは少ないが、想起する度に息苦しくなるのは事実だ。そんな感覚を味わうのは自分だけでいいと、そう思っているのもまた事実だった。
 だから、カンパネラの声が急に鋭利さを帯びたのに、赤薔薇は随分驚いたのだ。

「ごめんね、変なことを言っちゃったかな」

 そちらに振り向いたのにも、口にしたことにも、まるで悪意はなかった。
 ただ、態度で示してもらわなければ何も分からないのがジャンクドールの常だったというだけなのだ。

「でも……あんまり辛いなら、一旦足を止めて、他の子に相談してみてもいいと思うんだ。それこそ、私も聞いてあげられるし」

 ね、と小首を傾げる。
 最近、あまり他のドールと上手く話せていないせいだろうか。自分の動きが不自然でないか、妙に気になる。
 脆いコアは駆け足で、逃走を試みるように拍動を続けていた。

 その相貌に苛立ちを滲ませたかと思いきや、カンパネラの瞳はだんだんと潤んでいく。困惑だった。
 わたしは、怒っている?
 そうだ、カンパネラは怒っていた。でも彼女は今まで、姉以外の何かを大事に思ったことがなかったので、このような怒りの感情を知るタイミングがなかったのだ。自分のことも大切じゃなかったから、自分のために怒ることもできずにいた。こんな風に、誰かとコミュニケーションを取って現状をどうにかしなくちゃいけない、みたいな状況に陥るまで、カンパネラはその怒りのコントロールを練習する機会がなかったのだ。
 その結果がご覧の有り様で、どうやらロゼットのことも驚かせてしまったらしい。

「つ、つらくたって、立ち、止まったら、わたし………ま、また失くしちゃうかも、しれないじゃないですか、そ、そしたらもう、わた、わたし、耐えられな……」

 目がぐるぐると回り始める。わたし、何を言っているんだろう。ラウンジでリヒトやアメリアと話したときはこうじゃなかった。もっと上手くいっていたはずだ。

「それに……それに、他人に聞いてもらったって、そのひと、わたしに何してくれるって、言うんですか………い、一緒に、探してくれる? ふたりに会わせてくれる? あなたは、そうしてくださるの……?」

 そんなわけないでしょう、なんて言い放つみたいに。胡乱な目が床を睨み付けている。ロゼットのことを睨む勇気はないくせに、その制御がうまく行かない攻撃性を収めようともしない。危うさがずっと地べたを這っていた。

《Rosetta》
 深い青色の窓の端に、雫が溜まっていく。
 カンパネラが下を向いているからだろう。内から決壊しようとしている感情は、今にも溢れ出してしまいそうに見えた。
 また失敗した──と言うには、いささか早計すぎる気がした。
 だって、彼女はまだ心の内を言葉にしているだけなのだ。誰かを傷付けようともしていないし、こちらに敵意をつけているわけではない。はずである。
 だったら、まだ話す余地はあるのではないだろうか。
 ちょっぴり考えてから、ロゼットは苦笑する。

「そうだね。確かに、あなたが立ち止まっている間にもみんなは進んでいくし、取りこぼしてしまうモノは出てくると思う。
 でも、新しく拾えたモノだってあるんじゃないかな。少なくとも、ドロシーや私は今ここにいるし、オミクロンのみんなが全員いなくなったわけではないもの」

 棺に向かい、足を進める。
 あなたはどんな顔をするだろう。ロゼットは困ったように笑いながら、自信なさげに言葉を続けた。

「他の子には、あなたの願いを全部叶えてあげることはできないよ。カンパネラのやりたいことは、カンパネラにしかできないから。
 私たちにできるのは、あなたがやりたいことをするお手伝いだけ。危なくない程度に探したり、会える方法を考えたり……ちょっとしたことしかできないけど、あなたが求めてくれるなら、できる限りのことはするよ」

 ねえ、カンパネラ。
 トゥリアドールの甘やかな眼差しが、スノウホワイトを見つめている。
 その中に悪意はなく、求められれば応えるという本能が見え隠れするだけだ。

「私は何をしたらいい?」

 赤薔薇は、歩み寄る。その動作に怯えるように強張り、かたく閉じられた瞼は、ふるふると睫毛を震わせながらもまたゆっくりと開かれる。
 新しく、拾えたもの。そんなものはない。うじうじしてるから、あの宝物はパントリーから消えたのだ。もう戻らない景色を手元に置くのを彼女は恐れた。
 あの友人たちとの夢は、ずうっと前から見続けていた。その時からもっと彼女らの跡を追っていたら、今もっと多くのものを取り戻せていたはずだ。
 失ったものだらけだ。得たものなんてない。
 得たものなんて。

「…………」

 反論は全て頭の中でしか響かない。沈黙はいつも彼女の鎧だった。

 求めろ、と。そう願われる。トゥリアドールの設計図通りの行動だ。カンパネラはとっくにそこから外れてしまっていたし、理解もできない。その献身は一体どこへ行き着くのだろう。ロゼットは、何の為に生きているのだろう。ヒトなんてものに会えやしないのに、彼女はヒトのために生きる人形の眼差しを、彼女は持ち続けている。
 不安定で不明瞭な怒りが、じきに哀れみに塗り潰される。これ、何回目だっけ。わたしはいつから他人にこんな気持ちを抱くようになったのだろう。

「……なら、これ………」

 そう言ってカンパネラが差し出したのは、精巧な金属製の小さな天使像である。今のカンパネラがそうであるように、像は箱の中にあった。継ぎ接ぎの木箱だ。ずっとカーディガンに包まれていたものだ。

「これ。……回したら、音が鳴るんです。………わたし、怖くて、できない、から……」

 鳴らせ、と。至ってシンプルなその行動がカンパネラに何をもたらすのか、あなたは検討もつかないだろう。小箱を持つ手は僅かに震えている。

《Rosetta》
 あなたにも欲しいものがあるじゃない──なーんて、不用意に口は開かないまま。
 震える少女ドールから、爆弾同然の代物を受け取って。ロゼットはいつも通り、ヒトを安心させるための微笑みを浮かべる。
 憐れみも怒りも、表出しなければないのと同じだ。「カンパネラが歩み寄ってくれた」と、彼女はそう思い込み続けている。

「いいよ。ちょっと待ってね……」

 なるたけ慎重に、具材の詰まったサンドイッチを運ぶように。
 恐る恐る小箱を受け取って、ロゼットは像の仕組みを観察し始める。他者から預かったモノだ、壊してしまってはまずいと思ったのだろう。
 どうすれば鳴るのか理解すれば、彼女はゆっくりとそれを回し始めるだろう。一定のテンポで、機械的に、カンパネラが聴き取れているか確認しながら。

 小箱の大きさはおよそ拳大。手のひらに乗ってしまうほど小さく、だがサイズ感と比べるとずしりと微かに重たく感じる代物であった。

 蓋は問題なく開かれる。開いたと同時に、小箱内部から飛び出すような格好で作られた金属製の天使像と目が合うだろう。精巧に削り取られて造られた天使像の根本は、円盤型に繰り抜かれており、細かい絡繰が施されているようだった。

 小箱の正体はオルゴール。
 ロゼットがじっくり仕組みを観察するならば、オルゴールの音色を奏でる為のネジ巻きは、祈りを捧げる天使像そのものが該当するようだ。
 グッと真っ白な彫像を掴み、ロゼットは手応えを感じながら回していく。

 やがて回らなくなったところで彼女が手を離すと、くるくるとオートマタの役割を果たす天使像が小箱という小さな世界で回り始める。
 同時にこの寝室を、眠る前に頭を撫でてもらえるような、そんな美しい音色が満たすだろう。

 まなうらに浮かぶ夕暮れ。カンパネラが焦がれ、恐れた光景だ。あの少年が、グレゴリーが照れくさそうにしてこちらへ差し出すオルゴール。懐かしく、優しく、美しい音色が部屋に響き渡り、流れ込んでくる。
 カンパネラがロゼットに願ったこととは、自傷と戒めの補助であった。目を逸らしてはいけないと分かっているのに、カンパネラはずっとこの音色と向き合えなかった。
 もう届かない景色。この曲は何って、問うことも、できない。だからわたしはこの曲のことを知らなかった。

 ───違う。

 それは過去の話だ。曲のタイトルも、歌詞も、知らないで過ごしていたのは。誰もいない静かなツリーハウスで、わたしはこのオルゴールの音色を聴いていた。
 あのツリーハウスは、三人だけの秘密基地だった。
 なのに。

『その曲、──────って言うんだよ。』

 オルゴールの音色に耳を傾け、それに癒しを与えられていたカンパネラに、投げ掛けられた声があった。優しい声だった。声は彼女に教えてくれた。その曲のタイトル。その曲をグレゴリーが気に入っていたということ。
 教えてもらった。その旋律に乗せられた言葉が、どんなものなのかということを。


 ───あなたは。

 少女たちの部屋に、異常な呼吸音が響いていた。ひどくどこかが痛んだという訳ではない。カンパネラは、気付いてしまったからだ。まだ思い出せていない記憶があるのだと。

 ───あなた、誰なの?

 青白い貌が更にひどい色になって、頬を伝うのは彼女の汗なのか涙なのか分からないといった惨状である。カンパネラは片手で自身の髪を掴み、ひいては自身の頭皮を強く引き、もう片方の手でオルゴールを持つロゼットの腕を握っていた。すがり付くように。
 命の危険さえ感じさせる荒い呼吸音の中、さながら砂嵐の中に佇む星のように。カンパネラが紡ぐ極小の音色は言葉を乗せて、すぐ近くのロゼットの耳にならば届くだろう。

───Daisy,Daisy───Planted one day───by a glancing dart,───

 明らかに異様な状態のまま、カンパネラは歌を続けた。たとえロゼットが何かをしてくれていたとしても、カンパネラから反応は返ってこないだろう。彼女の心は、ここではない場所にあった。
 わたしはこの旋律に沿う歌詞を知っている。忘れていただけで、閉ざしていただけで。
 優しい声は教えてくれた。
 それが誰のものだったのか、思い出せない。思い出せない。

──Planted by………Daisy Bell………」

 ………思い出せない。

《Rosetta》
「優しい曲だね。何の歌なんだろう……」

 ロゼットは、これでカンパネラが喜んでくれると思って疑わなかった。
 この前のように酷い何かを目にすることも、気絶するほどの頭痛に苛まれることもない。
 だから、きっと彼女は満たされるはずだと。そう信じていたのだ。

「……カンパネラ?」

 なのに、明らかに相手の様子がおかしい。
 喘鳴にも似た荒い呼吸、急激な発汗、意識の混濁。
 このような状況でも歌い続ける理由が、ロゼットには分からなかった。

「カンパネラ、どうしたの」

 空いた手で、自傷に近い振る舞いをするトゥリアドールの腕を掴む。
 カンパネラ──なんて必死に呼びかけても、返事はなくて。自分では双星の片割れに届かないのだと、彼女は理解したのだ。

「カン……」

 声をかけても、手を掴んでも。優しいままでは返事はないのだろう。
 生ぬるい夢から目を覚ますには、きっとこれだけでは足りないのだ。

「ごめんね」

 髪を掴む手を、そっと離した。
 恨まれても仕方ない。これをされた相手がどんな気持ちになるかなんて、想像するまでもないことだ。
 赤薔薇は柔らかな平手を、勢いよくカンパネラの頬に叩きつける。
 そうして反応があれば──先程と依然変わりなく、冷静に告げるだろう。

「目は覚めた? スノウホワイト。何を思い出したのか、聞かせてくれるかな」

 ぱしん、と音が弾けて、カンパネラの歌は止まった。オルゴールの演奏が少しずつ終わっていく。部屋は静けさを取り戻していく。
 頬が熱い。冷たい指先が、僅かに熱を持ったその場所に触れる。今のは、痛みだ。暴力だった。
 その痛みと衝撃によって目を醒ましたカンパネラは、しばし固まる。衝撃で横に頭を背けられたまま、ぽかんと口を開けて黙っている。スノウホワイト、なんていたずらっぽく呼ばれて。つい数秒前にこちらを叩いてきた人物だとは思えない態度で。

「…………ぃ、」

 混乱。困惑。痛み。暴力。カンパネラの頭はどろどろになり、そのぐちゃぐちゃになった中身がグロテスクにこぼれ落ちてしまうように、カンパネラは、その瞳を一気に潤ませた。

「……いたぁい………!?」

 情緒不安定極まりない。ドールズが共通して持つ武器のように整った顔を情けなくしわしわにして、カンパネラはぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。「ひどい」「ごめんなさぁい」「いたい……」とぼやきながら仔猫のようにふやふやと泣く姿はあまりにも弱々しい。
 カンパネラは脆弱だが、ロゼットもまた同じ脆弱なトゥリアドールである。彼女の放った平手の攻撃力などたかが知れており、しかしカンパネラは、過剰に痛がって振るわれた暴力に泣くのだった。

「ぐす………わ、かんない……です………な、なんか、また、知らないドール………デイジーベル、……歌詞を、教えて……もらっ……ツリーハウス………お、お母様って………だれ………う……うぅ~………」

 この調子では、落ち着きを取り戻すまでは時間がかかるかもしれない。カンパネラ自身も混乱が続いていて、伝えようとしても情報がめちゃくちゃに出力されてしまうのである。

《Rosetta》
 べしょべしょに濡れていくカンパネラは、雨に打たれる子猫を思わせた。
 さっきまで震えながら歌っていたのに、今になっては泣きながら痛みに喘いでいる。
 コロコロと変わる表情は空のようだ。随分と暗い青色を、ロゼットは黙って見つめている。
 お母様って誰、というのはこちらの台詞だが──まあ、一旦落ち着かせるしかないのだろう。
 オルゴールをカンパネラの棺に戻して、彼女は涙を拭ってやる。服の袖が湿るのは必要経費というやつだ。

「デイジーベルって、さっきの歌のことかな。カンパネラも歌えるくらい、よく聴いていたんだね」

「ぁう………」

 不意に涙を拭われ、カンパネラはぎゅうっと目を閉じた。彼女にとってその手は、カンパネラに暴力を振るった手である。また叩かれるのではないかと恐れたのだ。目を覚まさせよう、落ち着かせようとしてくれた相手に対してずいぶん失礼な反応だが、カンパネラはそういう質なのだった。
 ロゼットの手が離れても離れなくても、曇天の瞳からは雨が絶えず降り続けていただろう。

「ち、ちが………あ、いや、デイジーベル、なんですけどぉ………っ、わた、し、これ、大切だけど、怖くて全然聴けなくて、い、いまやっと歌詞思い出して、おし、えてもらった、だ、誰に、わたし、あのひと、ツリーハウスに、わたしたちの、……なんで? あそこは、あそこはわたしたちだけの、三人の、秘密基地で、それで……な、なんであの、あのひと、あの場所に……」

 しゃくり上げながらも話を訂正し、何を思い出したのかという問いに答えようとする。落ち着きをなかなか取り戻せておらず、自身の中に浮かび上がる疑問が多すぎるゆえか、明らかに失敗しているが。

《Rosetta》
 警戒されてしまうのも、まあ仕方のないことなのだろう。ついさっき、引っ叩いてきたドールを信じる方がおかしいのだ。
 困ったように微笑みながら、ロゼットは辿々しい語りに耳を傾けていた。
 デイジーベル、ツリーハウス、秘密基地。
 さんにん──というのは、過去にツリーハウスへ向かった時のメンバーではないのだろう。
 きっとそれは、カンパネラの何より大事な思い出にいたであろう友達なのかもしれない。
 ロゼットにとってのフェリシアのような、心のやわらかいところに座す、何よりいとしい誰かのはずだ。
 拒絶されなければ、彼女は先程叩いた頬に軽く手を滑らせるだろう。走る痛みを宥めるような、優しい手つきで。

「私がオルゴールを鳴らしたから、デイジーベルの歌詞を思い出したんだね。それはよかったよ。それで……その歌詞は、誰に教えてもらったの? 私の知らない子?」

 ひとつずつ、あなたの混乱を解いていこう。スパゲッティの束をほぐすように、片結びになった紐を戻すように。
 同性のトゥリアドールに、赤薔薇は甘い声で囁いた。

 熱い頬に──もう痛みなんてとっくに引いているはずだが──美しいロゼットの陶器のような指が這うのを感じる。滑らかで触れ心地が良い。カンパネラの頬も、ロゼットの指の腹も。彼女たちの肌やそのうちがわの肉や骨は、そのように作られている。腐っても欠けていてもふたりはトゥリアモデルのドールだった。
 カンパネラはその手を拒まない。弾いて叩き落とすこともできたが、そんな気力や余裕もないらしかった。普段は接触を執拗に拒むカンパネラだが、今回は実際に触れた手が暴力の気配を帯びていないことに、いくらか安心したらしい。

「………わからない、の。あなたはきっと知らないし……わたしも、知らない……。名前も顔も、……声しか、わたしは………」

 まだ、忘れている。
 シャーロットとグレゴリーの名前、髪や目の色、声、温度、笑顔。それらのことを思い出せたことで、カンパネラはいくつか“取り戻せた”と感じていたのだが。
 あの愛おしく思えるような図書室の落書きを描いたもののことも、シャーロットが自分やグレゴリーにそうしたみたいに“サウスウッド”という本を贈ったのであろうドールのことも、カンパネラは思い出せていないのだ。思い当たりもないのである。
 償わなきゃ。償わなきゃ。あの優しい声の主が誰だったのか、思い出さなきゃ……。
 身の内で響く声に押し潰されてしまいそうに、眉間にしわを寄せながらカンパネラは答える。欠陥品はその声に甘さなど乗せられなかった。

《Rosetta》
「声……声かあ」

 名前があれば近付ける。顔があれば、探すことができる。
 だが、空気を震わす音の波長だけとなればどうにもならなかった。
 ぽそりと呟いて、ロゼットは視線をやや下に向ける。どうやら、ドール探しは中々に難航しそうだ。

「分からないなら、仕方ないね。また今度にしよう。それじゃあ、“あのひと”っていう子は誰なのかな。あなたには、昔仕えていたヒトがいたの?」

 まだ痛むのだろうか。それとも、記憶の想起に苦痛が伴うのかもしれない。
 どちらにせよ可哀想なことだと、赤薔薇はその頬に手を添え続けている。
 カンパネラの温度を、痛みを遮断する皮膚から知ることは難しい。ただ、そのようにあれかしと作られた、すっきりとした顔のラインが分かるだけである。
 荊のような髪で隠していても、猫背で視線を逸らそうとしても。カンパネラは美しく、それだけは紛れもない事実なのだ。
 さっきはごめんね、と告げるように。傷ひとつない肌をひと撫でして、白い手は離れていくだろう。

「………それも、その、歌詞を教えてくれた……誰か、で。……ドールだったかも、先生だったかも、別の何かだったかも……曖昧、で……」

 ゆるゆると首を横に振って答える。あの子と呼べばいいのか、あのひとと呼べばいいのか。彼と言えばいいのか彼女と言えばいいのか。全てが不明なままだ。
 段々と言葉がせっつかえなくなり、ゆっくりになってきた。呼吸音も平常通りに戻りつつある。ロゼットの手によって、たくさん絡まった思考が一本に直りかけていた。
 水銀のような色の瞳は慈しみを有していた。客観的にそう見えるよう設計されているだけの話かもしれない。

「………ヒト? ……ヒトに、仕えるなんて、それは………あり得ない話、でしょ……?」

 ロゼットの指が離れると、カンパネラは不思議そうに首をかしげた。トイボックスがドールズに見せ続けた夢は何もかもが偽物であり、お披露目にヒトの姿どころか与えられる未来さえなく、ドールに幸福は許されていない。ロゼットだってそんなことは知っているはずだ。
 ずいぶん不思議なことを問われた、という顔だ。そういう彼女には、過去に仕えたヒトなんてものが存在するのだろうか。

《Rosetta》
 記憶の中にぱっくりと空いた、確かに大切だったはずの穴。
 ドーナツのようなそれには、ロゼットも覚えがある。作られた時からずっと抱えている、何より大切な虫喰いだ。

「わかるよ。私も、大切な子はずっとそんな風にしか思い出せないから。本当にいるのか分からなくて、不安だよね」

 水底の目は、先程よりも泳ぐのが少なくなってきているような気がした。ようやく落ち着いたのかもしれない。
 ヒトについての話題に反応されたのを見れば、くるくると指に髪を巻き付けた。ちょっとした誤魔化しの仕草だ。

「冗談だよ。変なこと言ったら、反応してくれるかな、って……あんまり面白くなかった?」

 ロゼットも、カンパネラも。
 実験とか√0とか、色々なしがらみに巻きつかれてはいるが、まだそこに生まれた理由は見つからない。
 少なくとも、赤薔薇はそうだ。気が付いたら芽吹いていたから、なんとなくここで咲いている。

「あり得ない話って言ってくれて、よかった。お披露目なんて、できれば行きたくないからね。大切なことも、あんまり思い出せていないもの」

 先生に聞かれたらまずいような発言でも、簡単に口に出せてしまうのは、危機管理能力が欠如しているからなのだろうか。
 それとも、カンパネラの共感を誘う、下手くそなコミュニケーションの技術なのだろうか。
 自分自身でも分からないまま、彼女は曖昧に笑っている。

「とりあえず……オルゴールの歌を教えてくれた子を思い出した、ってことでいいのかな。その子のことは思い出せないけど、確かに存在していた、ってことで」

 共感を差し出され、カンパネラは少しどぎまぎする。大切な子。カンパネラにとってのあの二人のような、昔友人だったドールとかだろうか。

「じょ、じょうだん」

 まぁ、何事もないのならそれは安心だが。面白くなかったか、などという風に聞かれても、どう返すのが正解なのか分からず、曖昧に首を傾げるばかりだ。びっくりした、まだ何か、探さなきゃいけないものが増えるのかと思った……。
 思い出せていない大切なこと。ロゼットにもあるらしい。生きていなきゃ何も思い出せないのなら、カンパネラはお披露目になんか出るわけにはいかない。彼女も、同じ気持ちなのだろうか。それにしては少々態度がさっぱりしているような気がしないでもないが。

「……ええ、まぁ………」

 とりあえずはそんな感じだ。どう整理してもうがんばっても、もうそれ以上のことはよく分からないのだ。どうしてツリーハウスに三人以外の誰かがいたのか、あれは誰だったのか。解かなくてはいけない謎が雪のように降り積もっていく。

「………すみません、ありがとう、ございます…………」

 目元を抑え、棺の中に返ってきていたオルゴールに守るように手を添えながらカンパネラはようやっとまともな謝罪と感謝を並べた。彼女のことはきっと困惑させてばかりだろう。

《Rosetta》
 やっぱり面白くなかったのかもしれない。
 ややしょんもりとしながら、ロゼットはちいさく頷いた。
 突拍子もないことを言えばギャグとして成立すると学習していたが、しんみりした空気の中ではまともに受け止められかねないことには気付かなかったらしい。
 もうちょっと授業をちゃんと聞いていればよかった──なんて思いながら、彼女はカンパネラの肯定を受け取った。

「気にしないで。お互い様でしょう、こういうのは。カンパネラの助けになれたなら何よりだよ」

 当たり障りのない、けれど正直な言葉を返した。
 彼女には以前湖で教えてもらったこともあるし、ツリーハウスに連れて行ってもらった恩みたいなモノだってあるのだ。
 良いことも悪いことも、してもらったことは何倍に増やして返す。その方がきっといいと、彼女は信じている。

「他に、私にできることはないかな。あんまり走り回ったりはできないけど、探し物のお手伝いならできるよ」

 最終確認ついでに、小首を傾げてみせる。
 お節介になりすぎていたら申し訳ないな、とは思うけれど。自分の探し物ついでなのだから、まあいいだろうという気持ちもあった。

 あ、しょんもりされてしまった……。カンパネラは自分の気遣いの下手さが露呈したのを感じた。謝罪の言葉を口にしないのは、手遅れだと勝手に諦めたからだった。

「そ……そうですか………?」

 カンパネラがロゼットのために何かしてやったことと考えると、特段何もしていない気がする。ずっとしてもらってばかりな上、彼女には…彼女には“関係のないこと”にまで、巻き込んだ。それでロゼットが満足しているならいいのだが……。

「探し物……え、えっと………」

 それはもう無数にある。探し回ってばかりだ。手が足りないのは仕方がないと諦めていたが、それが増えるのであればありがたい話でしかないわけだが、カンパネラは躊躇った。これ以上彼女に何かをさせるのは気が引けるというのも確かにありはしたが、それより利己的な理由が別にあった。
 ウェストランドは、カンパネラに残された数少ない過去の欠片なのだ。それもシャーロットからの贈り物。安易に人様にタイトルを告げるのは少し、嫌だった。本当に取り戻したいのならそんな心情的なものは早く振りきるべきだと分かってはいるのだが。
 しかしせっかくの彼女の申し出をそんな理由で断るのはどうなのか。一番探しているものはその本なのだが。しかし………などと長く迷う仕草を見せた末に、カンパネラは少し上体を動かして、ロゼットの耳元──というには少々遠いが──に囁いた。

「……もし、『トイボックス劇場』って本を見つけたら、教えてほしいんです……。あ、あるか、わかんないけど……」

 そして素早くまたあなたから距離をとると、「あと、それと、」と続けようとする。なんだかしおらしいというか、申し訳なさそうな顔をしているのが見えるだろう。
 詫び、と言えるかは分からないが。

「………わ、わたしも、あの、湖のときみたいに、……その………ガーデン? のこと、調べてみます、から………」

《Rosetta》
 トイボックス劇場──聞いたこともないタイトルだ。
 一瞬、ダンスホールを思い出したが、きっと関係ないのだろう。あそこを劇場と呼ぶのは、いささか悪趣味すぎる。

「分かった。フェリシアとかジャックとか、他の子にも一応訊いてみるよ」

 近付いては離れていく、波のような動きを見ながら、赤薔薇は頭を縦に振る。
 風に揺れるように微かな動きだったが、他のドールに問うくらいにはやる気があるらしい。
 タイトル以外に情報はないか──と訊こうとした時、聞こえてきたのは嬉しい言葉。
 関わりの薄いドールに、大切なモノを気にかけてもらえるのがこうも嬉しいとは。
 ロゼットは表情を少し明るくして、「ありがとう」と何度も口にした。

「気持ちだけでも嬉しいよ。ありがとう、カンパネラ。
 よかったら、見たことのない植物の話を聞いた時も教えてほしいんだ。大切な子が、私に遺してくれたモノかもしれないから。……できたらでいいの。なかったらなかったで、仕方ないから」

 悲嘆も疑いも、まるでないみたいに。すっかり善意を信じた顔のまま、ロゼットはそう告げる。
 カンパネラが詫びるような顔をしていても、きっと気にならないのだろう。贖罪なんて言葉は、ガラスの鉢のどこにも刻まれていないようだ。
 これ以上何もなければ、彼女はそのまま少女たちの部屋を出ていくだろう。「頑張ろうね」と、何に対してか分からない言葉を残したまま。

【学園2F 合唱室】

Dorothy
Campanella

 階段を下る、足取りはいつも重い。息が苦しくなる。胸がざわめいて堪らなくなる。それはまさしく恐怖であった。真実を見つめることへの。きっと、果てのない。

Burnt out end of smoky days……The stale cold smell of morning………

 歌はお守りだった。喧騒から耳を塞ぎ、自分の声だけを聞いて進む。飛んでしまいそうな意識に現実を知らせる。逃げ出すな、逃げ出すなと自分を呪う。

………The streetlamp dies,another night is over.……

 怖くても、嫌でも、わたしは知らなくちゃいけないんだ。向き合わなくてはいけないんだ。がんばらなくちゃ、いけないんだ。
 償いを続けよう。罪が決して晴れなくとも。この命が終わるそのときまで。

 歌を途中で終わらせる。ドアノブに手をかけ、深呼吸をする。青い瞳が少しだけ据わる。前へと足を進めた。
 部屋の中にあのアンバランスな人影があることを期待して、カンパネラは口を開いた。

「……ドロシーさん」

 シャーロットの囁きを手繰って、カンパネラはこの場所に辿り着いた。合唱室の扉が閉じられる。

「……“第三の壁”って、何ですか?」

 誰も使用するドールの居ない、静謐と暗闇の立ち込める教室にあなたは踏み入るだろう。可哀想に震えた、美しい歌声はあなたの白く張り詰めた頬に闇がかかった時にふつりと、途切れて。

 足を進めると共に呼び掛けられたその名前に呼応して、暗澹たる教室の奥、ピアノの前に腰をかけていた少女ドールは立ち上がった。腰を上げると同時に、首を全て覆うビスクドールの巨大な頭を不気味に傾かせながら。

 部屋の扉はやがて閉ざされ、窓のない合唱室にはムラのない暗闇が落ちるだろう。それでもあなたの目は先ほど立ち上がったドロシーの頭の無機質な色の艶めきが見えていたし、ドロシーの優れた夜目はあなたのどうにか勇気を奮い立たせたような表情までもを捉えている。

「ギャハッ、ギャハハ! アレえ、臆病者のミザリーじゃねーか。ここん所はよくワタシんとこに来てくれるネッ、飽きもせず泣くのもネーチャンに縋り付くのも、もう辞めたのぉ?」

 ドロシーは肩を小刻みに揺らして笑いながら、首を更に傾けていく。その指先で自身の制服のリボンを弄びながら一歩、そちらに迫るように踏み出した。

「藪から棒に質問しやがって。そんなに親切なドロシーちゃんの手助けがいるのかい? ……イイヨ! ハニービーンズとドロシーちゃんは久遠の絆で結ばれたオトモダチだしィ? なんちゃってえ。マ、どうしてもって言うなら気になるコトを教えてやるよ。

 “第三の壁”が何か気になるんだ?」

 また、一歩。
 ドロシーがそちらに迫る。近付くと同時に、彼女はあなたの表情を見ていた。いつ泣き出すだろう、いつ萎縮して悲鳴を上げるだろう。その瀬戸際を見極めるように、或いは楽しむように。──彼女の表情は依然見えない。

「ダーリン、舞台における複数の壁はご存知かい? 背景、舞台袖、それからスクリーン。役者を取り囲む四方の壁にはそれぞれ名称が付けられてる。それぞれ第一から第四の壁として。マこれぐらいは誰でも知ってる常識だからどうでもいいか。だろ?」

 燕の死骸は闇に溶け、その星無き夜空の髪に繰り返し華奢でまっさらな指を通す。落ち着かない動作だ、強張った身体の隅々までもが、そのテーセラドールの目に極度の緊張を読み取らせる。血の通いを感じさせないどす黒い目元が静かに覗いていた。
 見据えるのは夜の底、或いは深淵への入り口。彼女にとってはもうとっくに歌うための場所ではなくなってしまった合唱室。いつ見ても変わらず美しく佇むピアノ。狂笑と共に真実を告げるパッチワーク。

「ッ、」

 一歩。ゆっくりと、けれど確かに彼女は迫り来る。カンパネラは視界が揺れるのを感じ、下唇を噛んで痛みで目を逸らそうと試みた。現実逃避がしたかっただけかもしれない。自身の二の腕を掴み、肩をびくびく震わせて怯える。
 しかしカンパネラは退かなかった。乾きを訴える瞳がすぐに潤みはじめても尚。癖付いた後ろ歩きの逃亡を阻むのは、他の誰でもないカンパネラの意志だ。
 カンパネラは怒っている。トイボックスに。あの子を幸せにしなかった全てに。ただただ無垢で、無力でしかなかった、自分自身に。
 だから彼女は逃げずにいる。どこにも逃げられないでいる。

 オトモダチ、という言葉はカンパネラには至って軽薄に聞こえたが、とにかく求めている真実を教えてやるという態度に間違いはないのだろう。彼女はその威圧感に反してずいぶん協力的だ。どうしてなのかは知ったこっちゃないが。

「……は、はい………一応は……。」

 愚鈍なカンパネラとて、ドールズとして生まれてきた。そのくらいの知識は備わっている。……はずだ。
 彼女の覚えが正しければ、第一の壁は背景、第四の壁は客席と舞台上を隔てるスクリーン、第二の壁と第三の壁は上手(かみて)下手(しもて)それぞれの舞台裏を指す言葉として用いられていた。それでいくと第三の壁とは、舞台裏にあたる……のだろうか。

「………それが、どういう……」

 しかしそれはあくまで劇場での話である。或いは読者の存在する物語の話であるわけで。それが、シャーロットの言った“第三の壁”とどんな関わりを持つというのか、カンパネラには検討もつかなかった。震える肩を押さえ付けながら、粘土性のビスクドールの頭部を怯えた顔で見上げている。

 ドロシーとあなたの合間に認識の相違は無かったようだ。彼女は満足そうに何度も首を前に傾けて首肯を分かりやすく示しながら、おもむろに腕を組む。

「だよネッ、これぐらい常識だよなァ。わざわざ知らない連中に向けてご丁寧に説明してやったが、マもちろん舞台の壁の話じゃあない。コイツは単なる物の例えだな。

 ドールは作製段階、お披露目という舞台に立つまでの間に複数の下準備を行わなければならない。この作製段階の下準備を、役者を物理的に囲っているという第一〜第三の壁になぞらえて喩えているというワケ。」

 ドロシーはここで漸く、カンパネラが以前と違い、自分が脅かして迫っても遠ざかっていかないことに気が付いた。後れた足には、当人の怯えの感情が強く滲み出る。肩は小刻みに震えていて、見るからに一刻も早く距離を置きたいだろうに、彼女はその場に立ってドロシーを真っ直ぐに見据えたまま動かない。
 こちらがみるみる近付いていけば、いつしかドロシーはあなたの目と鼻の先に立っている。身長の高いドロシーはあなたを僅かに見下ろしており、巨大な頭は圧迫感すら与えようが、それでもカンパネラは引き下がる事がないのだろう。

 そんなあなたの様子に、「フーン……」と満更でもない声色で息を溢すと。あなたが悲鳴をあげないことを確認して、説明を続けていくことになる。

「背景ともなるドールズの基盤は、“肉体”だ。この造り物の肉体を形作る、アカデミーの外にあると思われる製造工場が『第一の壁(肉体)』を指す。

 次に、ドールズの個性を表す“人格”。人格形成はこのアカデミーでの情動を育む豊かな暮らしで行われるので、アカデミー自体が『第二の壁(人格』を指す。

 最後に、──ドールにとって最も重要な要素とも言えるのが、“記憶”だ。ワタシ達に植え付けられた擬似記憶、そして稀に深層心理を分け入り垣間見る事がある本来の記憶。これらを管理してるのがあの開かずの扉の先の黒い塔であり、『第三の壁(記憶)』の監視者ってワケ。

 これらの壁を無事に築き、完成体となったドールは、いよいよヒトと対面……つまりは、お披露目という第四の壁に臨む事になる。」

 長々とした説明を終えて、ドロシーはひとつ溜息を吐いた。かったるそうに頭を押さえては、説明を飲み込もうと努力しているであろう彼女を改めて見据えた。

「√0が、ワタシに第三の壁の監視者の存在を教えてくれた。

 監視者は失敗作のドールを処分し、再び壁を築くためのサイクルに戻す役割を持っている。間違いなくワタシ達の敵で、どうにか排除しないといけない存在なの。オーケー?」

 蒼星の瞳は逸らされない。ビスクドールの巨頭が迫り来ようとも、カンパネラは以前と比べれば案外平静を保てていた。相手が執拗にこちらを脅して来ず、罵倒や皮肉を交えることもなく教えてくれているからであろうか。怖いものは怖いので「んみ………」みたいな声は出していたかもしれないが。

「下、準備」

 訝しむような顔でぽそりと呟く。その後に続く怒涛の情報に目をぐるぐると回しながら、カンパネラはどうにかドロシーの話を飲み込もうとするだろう。
 第一の壁は肉体、第二の壁は人格、第三の壁は記憶。そして待ち構える第四の壁が、お披露目。
 カンパネラの顔が情けなく歪む。どうにか理解しようと思考停止しないのはもはや意地であった。頭の上に無数のクエスチョンマークを浮かべながら、頷いたり首を傾げたり戻してまた頷いたりといった動作を繰り返す。次第に頭を抑え始める。ギュチ……と目を閉じてしまえば、もはや拷問中みたいな表情を浮かべているだろう。
 聞いておいてなんだが、ちょくちょく抽象的だし情報量は多いしで、どうにも処理には時間がかかるらしい。

「え~~と……えっと、る、√0、監視者……サイクル、敵、排除、オーケー…………? ッづァ、あ、オー、ぁわ、だ、大丈夫です、すみません」

 言動にバグが見受けられたものの、とりあえず彼女なりに咀嚼はできたらしい。縫い付けられたような瞼がなんとか開いて、またビスクドールの頭部を伺うように見上げた。
 第三の壁、記憶……。回答を得ると共に、カンパネラの疑問は増していく。いよいよ意味不明だ。あの大海に何が写っていたというのか。

「あ~……うー………」

 さて、言うべきか、言わないべきか。
 カンパネラが“第三の壁”という言葉を知ったのは、リヒトのノートがきっかけではない。厳密にはドロシーと初めて会った時に彼女がこぼしていた言葉ではあったのだが。
 カンパネラは、その単語を耳にしたことがある。ずっとずっと昔に。思い出の、あの頃に。

 『大親友のあなたにだけ、秘密のお話をするね』──そう前置きをされた上で聞いた話だ。あまり他者に言いふらすのはあの子からすれば不都合かもしれなかったが、しかし、それはカンパネラだけではどうにも理解ができない話だった。
 少々俯き気味で悩んだ末に、カンパネラは「あの」とぴしっと挙手をするように声を上げる。

「その………第三の壁は、記憶、なんですよね。えっと……それで、わたし、よ、よく分かんないことが……あって。その、い……行かなきゃいけないとこが、あるんです、けど……。
 ……『第三の壁の先』って、どういう意味とか……わ、分かりませんでしょうか……?」

 不可解で、不透明で、どこから飛び出たのかも分からないだろう問いを投げ掛ける。迷子は歩くのを続けていた。その目的地がどこなのかも分からず、地図も与えられないままに。

 マアやはりと言うべきか、ただでさえ対人との接触を苦手とするであろう彼女は、睫毛を束にして子うさぎみたいに哀れに震えている。防衛反応に素直になって逃げ出してしまえば良いのに、まるで彼女の背後に恐ろしい悪魔か、燃え盛る炎か、それに等しいほどに引けないものがあるからこそ、ドロシーを目前にして後退りすらもしないのだ。
 それだけ本気で、真剣なのだろう。ドロシーからの情報を切実に欲していて、その為に気を奮い立たせているのだろう。

 それを理解して、ドロシーは自身のビスクドールの口元にあたる位置に握り拳を置いた。
 そうして少し考える。彼女が吐露した、『第三の壁の先』という文言について。

 彼女はその場所へ行き着かねばならないらしい。それこそがドロシーに情報を求めてきた最たる理由なのだろう。

「その言葉を誰が言ったのか知らねーから断言出来ませんけどォ、あー、マ順当に考えるなら、黒い塔のその先……ってトコじゃね?

 もしソイツが√0の干渉を受けてたなら、間違いなく第三の壁は“記憶”と同意義だから。『全ての記憶を思い出した先で』って意味かもネッ。実際のところは知らねーケド! ギャハハ!」

 ドロシーは意外にも、きちんと考えた上で己の見解を語って聞かせてくれるだろう。あなたの熱意が伝わったおかげかは定かではないが。

 カンパネラはしばしキョトン……と黙っていた。ドロシーからの返答は、彼女が思うより至って誠実だったからである。
 意外と言ってしまえばそれまでだが、思えば彼女は今まで、何をどう訪ねてもろくな対価も無しに教えてくれた。さっきの話なんてまさにそうだ、第三の壁とは何かという問いに対する説明はなんだか丁寧で、図書館みたいに整頓された話だった。

 天秤の傾きを感じている。シャーロットやグレゴリーの記憶を取り戻した頃から、少しずつ、少しずつ。疑念と嘆きで濁りきった硝子窓が澄んでいく。窓の向こうに姿が見える。
 例えばリヒトが、例えばアメリアが、例えばロゼットが。──いつしか、このパッチワークの少女も、そこに佇むのかもしれなかった。他のオミクロンのドールたちも、いつか。
 ……あの甘やかな毒の、アメジストだって。

 カンパネラは彼女なりに真剣に、ドロシーの話を飲み込んでいた。ゆっくり頷いて、それで、何かを納得するように目を見開いて。

「………すべての記憶を、取り戻したら……」

 カンパネラは、ドロシーに提示された二つの可能性のうち、即座に後者を拾い上げる。内なる確信がそうさせた。
 “あの子”は、知っていた。

 カンパネラは。ドロシーの言葉を飲み込んだらしいカンパネラは、その瞬間だけ、深い暗闇の降りる合唱室の真ん中で。あの春の日に手を引いてもらった、花畑へと辿り着かんとする、うつくしい少女の顔をして。

もう一度、シャーロットに会えるのね

 それは期待に満ちた乙女の声である。そこに笑みはなくとも。ドロシーの後述は聞こえていないとばかりに、カンパネラはぎゅっと胸のリボンを握って前を見据えた。蒼星の瞳は本当にあなたを見ていただろうか。
 確かめるような口調の割にドロシーから何か返事を待つような様子もなく、カンパネラはその揺蕩う黒髪を胡蝶のように翻すだろう。逃げるのではなく、進むために。どの方角へ行っても地獄でしかないと分かっていながら。
 そこに何も言葉が生まれなければ、カンパネラはそのまま扉の方へと歩いていくだろう。

 蒼き軌跡を辿って、第三の壁を超えたその先で。あなたを優しく取り囲み、優しく締め付けていく言の葉の記憶が。

 あなたから、『カンパネラ』の貌をその一瞬、剥ぎ取った。

「………、……?」

 カクン、と。
 それを見ていたドロシーの首が、不自然で脈絡の無い動きで大きく傾いた。今にも大きなビスクドールが首ごと転げ落ちるのでは無いかというほど、奇妙な角度を取って。

「お前…………」

 ──誰だ?

 それはドロシーの中で生まれた微かな違和だった。本当に僅か、塵ほどの小ささの蟠りが、胸中で燻って、しかしぷちんと呆気なく弾けていく。
 彼女がきちんと視認しようとする頃には、まるで蝶のひらめきのように一瞬で、カンパネラの表情は普段のものに移り変わっていたのだから。
 だがその足取りは、当初の覚束ない様子はすっかり掻き消えて、どこか迷いがない。

 まるで啓示を受けたかのように、それはまるで指揮棒のように狂いなく、一途で真っ直ぐだった。


「……あーあ。お別れの挨拶も無いなんて、ドロシーちゃんさみし〜い。ミザリーいじめて楽しもうかと思ってたのになァ……ギャハハ!

 マ、せいぜい足掻けよ、スノウホワイト。ドールはどうせ、幸せになんてなれないケド。」

 あなたの背に投げかけられたるは、望みの薄そうなドロシーの淡白な別れの言葉である。彼女はピアノの縁に腕を引っ掛けて、立ち去るあなたを呼び止めずに大人しく見送ってくれるだろう。

 カンパネラは扉を開く。背中にドロシーからの別れの言葉を受け止めて。たなびく星無き夜空の髪は、窓のない部屋に広がる闇に溶けかけ、そして廊下から仄かに届く光によってその形を取り戻す。それは少女の歩みと共にばさばさと揺れて、白い肌が見え隠れして、そして、カンパネラの足が完全に廊下に辿り着いた頃、再び翻る。
 惨めで哀れで弱々しい貌、クレヨンで塗りたくったような隈。いつも通りの可哀想で脆弱な白雪姫の、腐つことのない星の目を晒すと、それらを扉が閉まる直前にそっと伏せて。
 片足を軽く引き、彼女はドロシーにぺこりと頭を下げた。失念していた別れの挨拶なのか、謝罪であるのか、はたまた……感謝を伝えたのか。曖昧にしたまま、今度こそ、カンパネラは合唱室を去っていく。

 幸せになんてなれなくても良かった。ビロードの席に腰掛ける理由はそこにはなかった。カンパネラのほんとうのさいわいは、もうとっくに過ぎ去ってしまった。
 あの春の日にはすべてがあった。けれどもう戻ることはない。シャーロットは二度と、ここに戻ってこないからだ。あの無惨な焼死体を夢に見ない夜はない。彼女は炎に身を投げて、焼け死んだのである。

 “でもそれは永遠のお別れじゃない。”

 穏やかな昼下がり、窓から差す陽光。二人以外の誰もいやしないラウンジで、薔薇色の頬が寄せられて。シャーロットはそう囁いた。その囁きにカンパネラは縋っている。終りを迎えるその日まで、きっと、カンパネラは縋り続ける。

 『あなたを待ってる』という言葉が、カンパネラの座標をはっきりさせた。太陽みたいに眩しい大好きなあの子に再び会うためにカンパネラは生きていた。
 そしてそのためなら、たとえなんべん灼かれて死んだって、構わなかった。