「────あはっ。あはは、は。
あはははは!!!」
嬉しそうな仮面を貼り付けた少女は、昇降機に乗った瞬間、何かを崩されたかのように笑いだした。
小さな機内でくるりと回っては、可笑しそうに笑う。笑う。
昇降機は、今日も無機質な音を立てて上がっていく。何処に向かうのか、自分でも分からなかった。
しかしそんなのはどうでも良かった。彼女が、帰ってこなかったのだから。もう、あの笑顔を見られることなんて無いのだから。
フェリシアは、からっからの喉で大口を開けている。笑い声が霞んでも、笑いは止まらなかった。
昇降機が、止まる。誰かが乗り込むのだろうか。扉が開いても、そこには誰もいなかった。嗚呼、朝だから当たり前だったっけ。その場所は、学園の入り口。温かくも狂った、夢の始まり。乾ききってしまったのだろうか。笑い声が出なくなった。
しかし、
フェリシアは笑っている。
万遍の笑みを称えている。
喉はカラッカラで、
頭はガンガン響いて、
それでも。
それでも、笑っている。
《Licht》
フェリはきっと深く傷つくよなって。それはそうだよなって。そう思ったってどうしてもどこまで傷ついてしまうのか頭で想像できないのは、やっぱりコワれているからなのかもなって。彼女がこんな風に泣くなんて、知らなくって。何か出来ることがあったかもしれなくて。何か出来たことがあったかもしれなくて。このコワれた頭と体でなければいくらか緩和できたかもしれない数多の悲鳴を閉じ込めたティアドロップの絶叫が、笑顔の姿に熔けて固まっている。フラフラと寮から出ていったフェリを追いかけて、遅れて昇降機に乗って、開いた先だった。随分と楽しそうで、辛かった。
以前ストームに教えてもらったことを教えれば、そうすればきっと前の通りに……戻ってくれるかも、しれないなんて期待していた。甘かった、のか?
迷った。
迷ってしまった。
ノートを見せるか、どうか。
今握ってるのはきっと、とても不確かで危険な甘言だ。そして、もしかすると誰も傷ついていないかもしれない、ハッピーエンドへの片道切符だ。ストームの言葉を疑えるほど彼は頭が良くなかったが、同時にこの言葉の重みを理解できないほど勇猛でもなかった。
それでも伝えるとするならば、それはきっと彼の罪になる。
(だったらなんだ。今更なんだ。もう、どうしようもないくらい、オレは、)
「フェリ、フェリ! ええと、タイチョー!」
考えるの、疲れた。とにかく声を掛ける。今のままのフェリは、放っておけない。いつもの学生鞄を肩に掛けて、昇降機からいの一番に走り出して、フェリの方へ駆け寄った。
「オレだよ、リヒト。落ち着けって、その、お披露目、あって。嬉しかったり寂しかったり、するのは分かるけどさ、だからさ」
とりあえずここじゃ目立つだろ、という風に声を掛けるが、無理やりに引っ張ることは、なんだか出来なかった。だからそっと右手を差し出して……暗い方へ、暗い方へ、目立たない方へ。彼女が泣いていい方へ、彼女が叫んでいい方へ。……そんなとこ、あるかな。ロビーを見渡して探しながら、変わらずリヒトは右手を差し出している。
目を瞑ると彼女“たち”が笑っているところが見える気がした。だから私も笑ってる。閉じ切った瞳の裏で、幸せだった頃の夢が映っているから。あ、あれ……そういえば最後に見たあの子たちは笑ってなかったっけ。そういえば、▇▇▇▇ちゃんは手を伸ばしてて▇▇▇▇▇ちゃんは険しい顔してたっけ。あれ。あれ。……あれ?
─── まぁ、いっか。苦しい顔より、笑ってた方がいっか。……うん。
掠れた声で少女は呟く。「帰って来なかったの」って。じゃあ、どうしてウェンディちゃんは帰って来れたんだろう。何が……彼女と彼女を分けたのだろう。今のフェリシアは、自分が傷ついていることを理解できそうになかった。ずっと、問いかけている。どうしてって。
あれ、どうして。泣いてるの?
▇▇▇▇ちゃん、▇▇▇▇▇ちゃん。また、二人の好きな物語を作ってあげる。幸せで、あったかい、そんなストーリーを考えるから。
泣かないで、大好きなお友達。
「ふへ、へ。あはは。……あは。は。」
ほら、私も笑ってるから。
ね? 泣かないで。ヒーロー、は、ここにいるよ。逃げないよ。
「あは……あぁ、▇▇▇くん。今日もとってもいい日だね。」
ふらふらと辺りを歩き回っていたが、昇降機から出てきたのは……。
声をかけられて、振り返った先にいたのは見慣れた顔だった。
罪を共にした彼の、不安そうな。
「わかってくれてありがとね、▇▇▇くん。優しいね。ありがとね、ふふ。ありがとね。」
ぼんやりとしながら、それでも彼女は笑っていた。霧のように濁った声で、ありがとう、ありがとうと繰り返す。右手を差し出されるのに気づくと、抵抗もなく貴方の手をとるだろう。
《Licht》
「ん」
そっと右手を取ってくれたことを確認して、リヒトは軽く頷いた。あの時よりも随分と、まぼろしのようにぼんやりとした、手を握る力にぐっと息を飲んで、
「……ん」
その傷の深さにまた、頷いた。ゆっくり手を引いて、ロビーの端にあるソファの方へ向かう。人影はほとんど無いが、きっとこれから増えるだろう。どれだけ傷ついたってトイボックスは回るし、どれだけ傷ついたって彼らにも授業がある。日常は回る、どう足掻いたって。日常を回す、どう藻掻いたって。それが彼らの生存戦略。
「フェリ、その……ノート、なんだけど。そんな場合じゃねえな、今はな」
でも、少しぐらいのモラトリアムは許されたっていいはずだ。リヒトはロビーの隅っこのソファにフェリを案内すると、パッと腕を広げて言った。
「いいよ、フェリ。ここならパッとは見えないし、オレが隠すよ。聞かれたら何とか言うし、見られたらオレのせいにするし。だから、だからさあ……何でもしていいから」
だから笑うのは、もうやめて。……なんて言えたら、良かった。そういう勇気があればよかった、けれど今の彼にはそれがないから、あと一歩の勇気がないから、そっと言葉の終わりの部分をゆっくり嚥下する。
それは、情緒に長けたエーナでなく、愛情深いトゥリアでなく、聡明なデュオでない、彼が忠実な友以上の関係になれない、テーセラモデルであったから。それも、コワれたジャンク品。
────まだ、迷っている。
彼女の目の前には、潤む星だけが見えていた。あ、そういえば▇▇▇▇▇ちゃんのお葬式もしなきゃだね。……したくないなぁ。
現実だと思いたくないなぁ。
はぁ、やだなぁ───
繋がれた手に見向きもしないまま少女は背丈の変わらない彼をぼぅっと見つめている。向かっている場所すら気にすることなく、呆然とリアルを受け止めきれないでいる。それでも口元には優しげな笑みをたたえていた。ハイライトを失った宝石は、ただの石なのに。
完全に光を失ったそれを磨ける子はかなり限られていることだろう。
「ん〜? だいじょうぶ、だよ〜?
私、ちっとも悲しくなってないの。はは、なんでだろ。悲しくないなら嬉しいんだよね、きっと。」
案内されたソファに座る。腕を広げた彼と目を合わせようと上を向き、元ない声でそう言った。口の端は下がり切り、瞳には全くと星の介入がない。しかし、絶えず声だけで微笑んでいる。
「だから、だいじょうぶなんだってばぁ。もー▇▇▇くんは心配性さんだなぁ。ふふ。何でもしてくれるって言うなら……そうだなぁ。
ふふ。ノート見せて欲しいな。
きっと素敵なことが書いてあるんでしょう?」
回らない脳でそう答える。ああ、▇▇▇くんはノート見せに来てくれたんだっけ。真面目だなぁ。
ほんとに、いい子だなぁ。ゆらゆら揺らめく思考回路の中。フェリシアは彼の求める返答を探している。だけど、見つけようと探しても見つからない。あれれ。結構、探したんだけどなぁ。
「あぁ、そうそう。▇▇▇くんに伝えなきゃいけないことがあるんだった。……なんだったかな。」
少女の中はめちゃめちゃになっている。情報と情報とが散乱して、苦し紛れに言葉を紡ぐ。人魚姫のお話、また読みたいな。
《Licht》
「うれしくない。大丈夫じゃない。なんでもかんでも違う。……違うって、フェリ」
ぼんやりとした靄の中で、立ち込める悲しみと深い絶望の闇の中で、かき分けて、かき分けて、足を取られながらも懸命に逃した右手が、空を切っている。どんな言葉も空回っている気がして、ここにいるのがエーナだったら、トゥリアだったら、デュオだったらと思考が回る。
もしここにいるのが、アストレア、さん……だったら。
もしここにいるのが、オレじゃなかったら。
「……もういい。うそつき。ごまかし。とーへんぼく。悲しくなくても悲しい時はあるし、笑っていてもつらい時はあるんだぞ。そのくらい分かるだろ、フェリなら。分かってるはずだろ」
どけち、と、最後に負け惜しみのように言ってしまう自分の弱さが情けない。広げた手を下ろして、リヒトは鞄を体の前に持ってきた。
「ノート、は」
カバンから取り出した、彼の存在証明。渦中の彼らに置いていかれないために、リヒトが抱える唯一の価値。それでも、その中に美麗な字で書き込まれたたった一行のために、リヒトは躊躇っていた。ノートはまだ手の中に。
まだ、まだ、迷っている。
「ちがう? 何が違うっていうの?
▇▇▇▇▇ちゃんは帰って来られない。▇▇▇▇ちゃんだけ帰って来られた。そういえば▇▇くんと▇▇▇ちゃんも何か言いたげな表情してたっけ。どんな感情も間違ってない。あはは……そこにあるのは事実だけなんだよ。間違ってなんかない。辛くなんてない。当事者の私がそう言ってるんだから、きっと、そうなんだよ。」
夢遊病者のように思いつきの文章をつらつらと語る少女。変わらずその大きな瞳を細め、ベルベットに彩られた天井を見上げていた。視界はぐらりと揺れに揺れ、霞がかった世界が蹂躙し切っている。
澱んだ瞳を貴方に向けると、膝の上で小刻みに震える指先をのんびりとした手つきで折りたたんだ。呼吸は荒くなく、垂れ下がる蜘蛛のように力を抜いている。
「心外だなぁ。嘘はついてないよ。呆れてるだけ。あと、やだなぁって思ってるだけ。ふふ。分かってるってば。」
とおく、とおく、空っぽになりかけの頭でそう応える。何が分かってるのか、分からないけれど。
▇▇▇くんがそう言うのならきっと、そういうことだから。
「ノート、だめ?」
こてん。首をかしげる。自分には言えないことなのだろうか。
「………どうして?」
《Licht》
「違う、上手く言えないけど、上手く出来ないけど、でも、違う、ちがうんだよ」
リヒト・トイボックスは粗悪品だ。どうしようもなく。目の前で泣いている友達に掛ける言葉一つも無い、ジャンク・ドールだ。救いようもなく。違和感を言語に落とし込めないまま、目線はうろうろとさまよって、足元に落ち込んだ。
ここにいるのが、彼女の焦がれたアストレアさんで。
お披露目に行ったのが、何も出来ないオレだったなら。
みんなはちゃんと、前を向けただろうに。
「夢で、夢みたいな言葉で、悲しくないなんて言うなよ。泣いてるくせに。すっごい悲しいくせに……嘘つくなよ……うそつき」
エーナのお前が上手に嘘なんてついちまったら、上手に夢なんて見てしまったら、オレは。ジャンクのオレは、分からなくなって、フェリの気持ちをきっと置いていってしまうから。ノートを躊躇いながらそれだけはダメだ、と立ち上がる気持ちと、じゃあどうすればいい、と立ち竦む気持ちの向こうで、
それでも、君が笑った。
だから、
(────ああ、もう!)
一瞬のためらいを踏み越えて一歩前に出て、がっとフェリの肩を掴もうとする。今にも飛んでしまいそうな不確かな風船を捕まえるように。そんなところに行くな、なんて醜い我儘を露呈するように。弾みで手から落ちたノートが床で跳ねる。
「いい加減、目を覚ましてくれよ! お前、今、悲しいんだろ、泣いてるだろ、辛いだろ、だったら、さっき言ったこと全部、ゼンブ、間違ってる!! 当事者のオレが言ってるんだから、きっと、そうなんだって……!!」
「違う、違う、違う。今日の貴方は不思議なことを言うんだね? 私には何がおかしいのか分からないんだけど……そっか。▇▇▇くんにとってはおかしいんだね、そっか。」
首を傾げたまま、上の空に言葉を返していく。声に覇気がなければ話に掴みどころもない。フェリシアは、おかしいと言われているのが自分ということを理解していないようだった。どこか他人事のように思考を放り出している。
今の少女は間違いなく、生き抜く理由を失った蠢く蛆虫である。
「だから……、だから?
えーっと、えーと。だから……っ」
嘘ついてないんだって。必死な彼の顔を見ると、その言葉が何故か出てこない。今まで誰からも素直だと言われてきた。私は嘘つきでは無い。嘘はつけない……本当に? じゃあいま、▇▇▇くんが嘘だと言っているのは、何? ▇▇▇くんは何がそんなに嫌なの?
何がそんなに、貴方を強く突き動かしているの? 激情を粧っているの?
いきなり肩を掴まれても、彼女は特段驚かない。今のフェリシアは抜け殻なのだから。しかしその顔には、植え付けられたような笑顔は消えていた。疑問が膨らんではその脳内を支配していく。
どうして、どうして?
どうして────?
どうして、ねぇどうして?
どうして、人のために動くの?
▇▇▇くん。
いや、違う。▇▇▇くんじゃない。
彼は、彼は“リヒト”くん、だ。
「リヒト、くん──────」
どうして?
「どうして、貴方がそんなに苦しそうなの?」
《Licht》
「そんなの」
「そんなの……分かんねえよ」
誰のためにとか。何のためにとか。この先のこととか。これまでのこととか。リヒトは元々、考えることが苦手だ。理由と理屈を筋道立てて考えて、言葉に繋げて声に出すのが苦手だ。コワれているから。
そっと掴んだ肩を離して、怪我をしたりしていないか確認して、落としたノートを拾い上げる。その間ずっと、星座未満のバラバラな言葉を何とか声に出している。
「分かりたいから、ずっと話してんだ。分かるまで、ノート見せたくないって思ったから、話してんだ。
一緒に分かりたいんだ、なんでこんなに苦しいのか、分からなきゃいけないんだ……たぶん。きっと」
コワれているから聞こえるんだ。コワれそうなものが聞こえるんだ。コワれて欲しくなかったから、コワれたこの手を伸ばすんだ。眩しい、眩しい、彼だけの星。もがいて足掻くさまですら、星の胎動のようにキレイに見えるから。
彼は答えを差し出せない。その代わりに、ひとりじゃないと教えることは出来た。この姿勢を誰に教えてもらったのか。その解答は、作り物の雨と淵が知っている。
安心させようと微笑んだ。笑顔の作り方は、すごく不服だけど、一番上手いやつに教わった。
立ち上がる強さと傷つく弱さ、どちらも抱えて歩いて行けると、そう教えてくれたのは────。
「なあ、フェリ」
どうして、がいっぱいあるのなら。
「もし、フェリも分かってなかったらさ、みんなと一緒に探そうぜ。なんで苦しいのか。なんで悲しいのか。なんで空っぽなのか……ほら」
新しい探検隊とか、作ってさ。
「分かんない。…………そっか。
リヒトくんも、分かんないんだ。」
──そうだ、以前までの私なら、その答えを即答できていた。
どうして、こうも、自分を見失っているんだろう。
…………あれ?
どうして、どうして、どうして?
私は“それ”を知っている??
知ってる。知ってるし、それは、絶対に忘れちゃいけないことだった。信念だった。なのに、どうして、忘れていたんだろう。
夢から醒めたか思うと、違うマヤカシに入り浸って。それでもまだそこから手を伸ばしてくれている子がいる。
彼はきっと怖いだろう。
優しくも不安そうな笑顔が、明らかにそれを物語っていた。きっと無理をしている。
嗚呼、あぁ、アァ……。
「あすとれあちゃん……っ!」
アストレアちゃん。
アストレアちゃん。
アストレアちゃん。
!
私の、“唯一”の相棒。
彼女の名前をハッキリと口にしたその瞬間、流れ込んでくる情報量の多さにフェリシアは頭を抱えるだろう。彼女と過ごした幸せだった日々が、彼女の微笑みが、ホログラムとなって深く深く突き刺さる。苦しい。痛い。……さびしい。
「リヒトくんがひとりじゃなかったら、私も……ひとりじゃないんだ。だって、私にはリヒトくんがいるんだもんね。また大事なことを忘れて突っ走る癖が出ちゃった。」
苦しそうに呻きながら身体を丸めるフェリシア。苦しそうな声が止まったかと思うと、頭を抱えたその姿勢のまま、そんなことを呟くのだった。
彼女の中で、何かが弾けた。
いや、吹っ切れたという方が正しいのかもしれない。
「……辛い時こそ、ヒーロー根性だよね。探しに行こっか、リヒトくん! 悲しい気持ちも、事実も変わらない。変えられるのは未来だけだろうから。よし、よし、よし! どうにかなる!!」
勢いよく飛び出した威勢のいい言葉たち。しかしそれを発する少女の瞳は未だ光を見失っていた。
《Licht》
「お、おう。うん、そうだな! そうだよ、きっと」
大丈夫、かな。
……大丈夫、かなあ。
こんな時、オレがオレでなければ、きっと答えは出るはずなのに。ただただ、パッと顔を開けたフェリの、いつもの快活な声に押されるように、安堵が出てしまった。こんな時、オレが、オレでさえなければ。
「そ、したらどうしよっか。また探検隊……でも開かずの扉じゃなくなるから、名前、どう、しよっか」
…………大丈夫、だよな。
………………大丈夫、なのかな。
いつものヒーローのように戻ってくれたフェリを見て、よかった、というように微笑んで。それしか出来ないから。信じるしかないから。拾ったノートを開こうと思って、
「あ────、その、あの。ノート、これ、こっから、なんだけど……」
大丈夫だ、信じよう。
────そう、思っていたはずなのに、うっかり手が羽根ペンとインクに伸びて、あっという間にページを汚してしまった。気づいたら、もう、読めなくなった。慌てて蓋を閉めて、ああ酷い、読めなくなっちゃった。……どうして。
「あ、やべ! ごめん汚れてる…ここ何書いてたっけ……」
慌てて制服の袖でインクを拭うが、拭ったからむしろ汚れてしまう。そのまま、ページを開いて……あの、ガーデンの辺りからフェリに見せた。
どうして。どうしてだろう。もしかしたら、これを見せたら、フェリはほんとに大丈夫になってくれたかもしれないのに。どうしてだろう。こんなに、今のフェリは元気に見えるのに。
────どうして。
「ありがとう、なんか元気でた!
とりあえずやれることからやっていかなきゃだよね!」
その言葉は、その声は、以前の彼女のものと特段差異は無かった。リヒトくんの安堵の表情に、フェリシアも口先だけでは無い笑みを添える。意識して作られた表情はにこやかで。それでいて寂しそうな微笑みだった。
苦しまされる事実に歯を立てて、貴方の少しだけ不安そうな顔には目を背けてみて。
「探検隊かぁ、どうしよっか!
トイボックス調査隊とか……。
あっ! 調査隊☆リヒト班とかどうだろう! 可愛くない!?」
大丈夫だよ、と訴えかけるように楽しげに戯れてみせる。
リヒト班にはストームと、ソフィアちゃんと、ブラザーくんやミュゲちゃんも……勿論、私やロゼちゃんもきっといる。オミクロン全員オドオドするリヒトくんの後ろを陽気な笑い声と一緒に着いていくんだろうな。
きっと、最高に楽しいんだろうな。
「おっノート……ってあはは!
もう、リヒトくんたらおっちょこちょいさんなんだから。」
うっかりさんな貴方に、つい今度はお腹から吹き出してしまった。さっきまであんなに真剣になって変になった私と一緒に歩んでくれようとしていたのに。緊張がひょうきんな音を立てて解けてしまう。
どこまでも一生懸命なリヒトくん。
どれだけ怖くても、手を伸ばしてくれるリヒトくん。
だけど、大事なところでインクを零しちゃう。
大声で笑い出してしまいそうなのを堪えるために身体を震わせながらノートを受け取った。
「ありがとう、見せてもらうね。」
ノートを開くと真っ先にガーデンの文字が。眉間に皺を寄せる。ページを捲る手は、文字を追うごとに速度を増すだろう。昇る感情を抑えつけ、情報を頭に入れることだけに集中する。
しかし、開かずの扉の情報が書かれているページを開いたときには思わず手が止まることだろう。
フェリシアは目を開く。暫く指先を震わせて、資料の文字に釘付けになることだろう。
───ひとしきり読み終えると、貴方と目を合わせて尋ねるだろう。
「見せてくれて、ありがとう。
その……なんか、凄いこと書かれてて感想が思いつかないんだけど、その前に。
ね、ねぇリヒトくん。
言いたくなかったら言わなくてもいいんだけど……所々ちぎられてるページがあるのは、書き損じて破ったから、なのかな?」
《Licht》
「な、リ、リ……ヒト班だけはどうにかならねえか!? オレに隊長は無理だって!! ……その、それで言うなら、フェリの方が適任だろ。なんたってタイチョーなんだし。
……トイボックス調査隊☆フェリシア班! これでどーだ!」
大層な響きにずいぶんとびっくりして、慌てて訂正を要請する。さすがに荷が重い、元プリマのソフィア姉やストーム、そうでなくてもまとめ役にピッタリなブラザーさんやロゼ……適任はこんなにいっぱいいるのに。
断固、訂正してもらわなければならない、とリヒトはコワれた頭を回して、彼の思う一番“タイチョーらしい”ドールを挙げた。思いついた、というような晴れやかな顔で。うん、これ以上無いくらいの回答だ。
……ちなみに、リヒトは『フェリシア班』の案から動くつもりは無いので、説得するなら時間がかかるかもしれない。
ひとしきり騒いで、今度こそノートを真剣に見つめるフェリの顔を見つめる。本当に大丈夫になってくれたようで、安心した。安心したから、怖くなった。今ここで『もう大丈夫だ』と手を離したら、一気にフェリが落ちてしまいそうで。傷だらけの小さなドールを、置いていってしまいそうで。みんなのタイチョーは、強がりで、弱虫だから、誰かが一緒にいてほしいんだけれど。
……物思いにふける途中、ふと飛び出た質問に、リヒトはすんなりと答えた。
「ああ、それ」
当然のように。
「うん、別に大したことじゃなくてな。ほら、さっきみたいな感じ。書き間違えて、慌てて袖で擦っちゃって……ボロボロになって読めなくなったり汚れたりしたら、もう、要らないだろ。そのページ」
うっかり汚してしまった袖にそっと手を触れて、リヒトは笑った。笑えた。笑ってみせた。さすがに見づらかったかな、と心配するように首をかしげて、言葉を続ける。
「だから、捨てた。あ、情報は別のページに写してるから大丈夫! 消さないように気をつけてる」
ぐっ、と親指を立てて、任せとけ、というようにリヒトは言った。成り行きで情報伝達用になったこのノートのことを、彼はだんだん自分の仕事として認識し始めているようだ。『あ、言い忘れてた。ここはストームが書いてくれたとこでな』と、ノートの中の綺麗な字のページを指して、つけ加えた。
「どうにかって……良くない!?
可愛いじゃんリヒト班! ふぇ、フェリシア班はなんかこう! 字面がよろしくないから却下!! えーっと……じゃあトイボックス調査隊にしとこ! ねっ! そうしよ!!」
───いい案だと思ったのに。
フェリシアは大仰なリアクションを返した。リヒトくん中心の隊、楽しくなるのは間違いないんだけどなぁ。
そんなことを考えていると、リヒトくんによる次の攻撃が!!!!
フェリシア班なんてとんでもないと驚きつつ、いちゃもんを付けてバッサリ否定するのだった。
気持ちの良さそうな笑顔を浮かべるリヒトくんに対し、む! っと眉を釣り上げるフリをする。
小時間愉快な会話を繰り広げたあと、真面目な表情に戻ったフェリシアは再度ノートに視線を移す。
トイボックスについて、私が今まで知りえなかった情報。それら全てを物語を覚えるときのように、出来るだけナチュラルに頭に叩き込む。抜粋して、要約して、出来るだけ圧縮しながら、プログラムに刻み込んで行った。
「…………」
だから、至極当たり前の“ように”話す貴方の表情を確認することは出来なかった。いちど相手と目を合わせたものの、すぐにノートに集中してしまったから。リヒトくんの反応を見ることが出来たら、それが作ったものだと気づけたかもしれないのに。
「ぁっ、あぁ……そっか! ペンを扱うときは注意しなきゃだね!」
大体を把握しきれたとき、少女はやっと重たい頭を上げ、親指を突き出す貴方に笑いかけた。
貴方にノートのとあるページを指さされると、フォントの違う文字にやや呆れ顔を映して「確かに、彼らしい綺麗な字だね」なんて言葉を並べることだろう。
「っあ! そうそう。私もリヒトくんに伝えなきゃ行けないことがあったんだった。そうそう、あれだ。」
はっと閃いた。思い出した。彼に発信機のこと、伝えてなかったから。
「リヒトくん耳かーして?」
そうして貴方をこ手招きすることだろう。
《Licht》
「そういうこと。せっかくのノートをダメにしちまうからな」
それに、このノートはもう彼だけのものじゃなくなってしまったのだ。今や、トイボックスの情報の、どれだけのものか分からないが……大切な物が、ここに入っている。取り扱いには気をつけないと。……それでもまだ、なんだか、自分の分身のように見えて仕方がない気持ちもあるんだけど。
「……まあ、じゃあ。すっげ〜不服だけど、トイボックス調査隊ということで……ん?」
いいじゃん、フェリシア班。かわいいし、かっこいいし。と膨れながらも、フェリの言葉に改めて目を細めるリヒトがそこにいた。
トイボックス調査隊。“隊”なんだ。ひとりひとり、増えて、加わって、仲間になって。しょうがないなって笑ったり、やってやりましょうって意気込んだり、そういうドールズが増えて。クラスの別なんか関係なく、オミクロンでも、そうじゃなくても、彼らはみんなで、調査隊なのだ。
流星群を見たような気持ちになった。何処へ行くかも分からないまま、答えを探して駆け抜ける、眩い流星群を。あれ、そういや、オレ、さっき────。
そのとき、フェリがちょい、と手招きする。伝えなくちゃいけないこと、なんだろう。一片の疑いもなく、一瞬の躊躇いもなく、リヒトはフェリの方に首を傾け、耳を貸した。
「はーい?」
「そうだね、重要なことがたくさん書かれてる訳だし……取り扱いには注意するんだよ? 先生には絶対に見られないように、ね。」
読んで気づいたのは、渡してくれたノートの重要性と、その恐ろしさ。これが見つかってしまったなら私たちは終わるだろうから。
真剣な眼差しをリヒトくんに向けると、「リヒトくんなら分かってることだと思うけど……」なんて釘を刺した。
「決まり! これからオミクロン……。
いや、他のクラスの子も仲間にしていかなきゃ! 多い方が絶対に楽しいもんね!!」
トイボックス調査隊──そういえば、開かずの扉のときも開かずの扉探検隊なるものがあったっけ。
規模の大きさは歴然だろう。だが行うことは分からない。誰も一人にせず、誰も置いていかない。
みんなで調査して、みんなで此処から逃げるんだ。
リヒトくんは笑っていた。
その笑顔の理由を、フェリシアは完全に理解できていない。だが、おそらくそれはどうでもいい。
大きな目的は彼と一緒で、私は、ヒーローなのだから。
フェリシアは貴方に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな小さな声で囁く。
「発信器は、右目」
短くそう言うと、貴方と目を合わせてぱちりとウインクさせることだろう。傍からみたら、内緒の面白話をしているように。
「じゃあ、またねリヒトくん!
調査隊メンバー、増やしていこ!」
立ち上がったフェリシアは、軽い足取りで昇降機の方へ向かうだろう。
《Licht》
フェリシアの念押しにしっかりと頷いて、耳打ちされる言葉に集中して……リヒトは思わずパチリと目を瞬かせた。振り返って、目が合って、反射的にもう一度、不格好に瞬かせた、右目。あれだけ探した発信機は、そんなところにあったらしい。
「お、おう! いつか、トイボックスくらいでっかくしような!」
内緒話も程々に、軽い足取りで去っていったフェリに大きく手を振って、ぽかんとしたまま、リヒトはまた、目をぱちぱちさせる。右目……右目。しっかり覚えて、ノートを開いて新しいページに書き込んだ。実感はあまり無いけれど、フェリが言うならきっとそうだ。
その途中で、少しだけ。少しだけの寄り道を。
(そういや、オレ、さっき。
“一緒に”って言ったなあ。
……疲れてんのかなあ)
一緒に。何度も言葉を反芻して、その度に気後れをしながら、それでもそれを望んでいた。ということに、今気づいた。
……まだ、リヒトには権利がない。彼はそう、確信している。一緒になんて大層で、あまりに眩しい、夢のような居場所に行く権利は。満点の星空の中、一際輝く一等星達のそば。両手を取り合って、星座のように夜空を照らす、そんな権利は、今は、まだ。
だから、と言うように、リヒトはページを捲った。さっきうっかり汚してしまった、ストームの美麗な字を……もう読めなくなったそれを、彼は覚えている。忘れるまで、覚えている。
『アティスはお披露目に行かない。
無事に戻ってくる可能性が高い』
「……よし」
────アストレアさんを、探そう。
顔も、声も、髪も、瞳も、何も分からなくても。もしかしたらあったかもしれないその人との日々を、もしかしたらあったかもしれないその人との言葉を、ひとつたりとも覚えていなくても。もしかしたら、戻ってきても、寮には帰れていないのかもしれない。学園の何処かで息を潜めているのかもしれない。だから、探すのだ。
アストレアさんは、きっと、今もずっと、みんなに必要な人だから。
……みんなの大切な人だから。
(これも、きっと……オレの“つぐない”だから)
リヒトくんと別れたあと昇降機に乗ったフェリシアは、とりあえず2階に昇ることにした。
「……全く。トイボックスは何を企んでいるのよ」
疲れ顔で呟く。少なくとも、この学園にはまだ解けてない謎が多すぎる。まずは何かしらの情報を握るとされるドロシーか、ジャックというドールを探してみようか。彼女がどこに出るのか分からないから……探し回るしかないのだ。
── さて、どこに行ったものか。
「……ここなら、誰にも見られずに話せるよね。」
着いた場所は合唱室。以前、ロゼちゃんと逢い引きならぬ逢い友をした場所である。
「どうも〜……?」
誰もいないだろうその部屋で、
少女の声は響いた。
合唱室の内部は、あなたがよく知るものと大差ない。コーラスごとに分かれて立つことが出来るよう、部屋の奥の床は階段上になっている。ドールズは基本、こちらの階段側に立ち、ドールズに音楽を教えるトゥリアクラスの先生は、部屋の手前側の教卓の前か、部屋の奥に置かれたピアノで伴奏をする。合唱の授業の基本形だ。
あなたが踏み入った先、確かに室内は静寂に満ちていた。現在は授業も開かれていないらしく、合唱室全体は不気味な暗闇に満ちている。
一歩踏み出すと、防音性の高い密閉された空間に、その靴音は吸い込まれていくだろう。
そんなあなたの来訪を拒絶しているのか歓待しているのか。突如として部屋の奥からダン!!!という乱暴なピアノの音が響き渡る。高音と低音がばらばらに入り混じった不愉快な不協和音が掻き鳴らされる。
あなたがそちらに目を向けるならば、室内の暗がりに茫洋と浮かび上がるようにして、頭でっかちで不自然なドールがピアノの前に座っていることに気付くだろう。
「ようこそ、ブリュンヒルデ。
お前との出会いを祝して何か気の利いた一曲を奏でてやるよ。……なんてな! ギャハハ!!」
ジャンジャカと鍵盤を叩く指が不規律に歪んだ歓迎のファンファーレを奏でる。乱雑な手付きに鍵盤は軋みを上げているがお構いなし。
どうやらかのドールは──頭に不自然に大きな粘土性のビスクドールをかぶっているようだ。暴れるたびに金色の鮮やかな巻き毛が揺れている。そんな被り物の下からは、恐らく彼女の地毛であろう金髪に黒髪が入り混じったような頭髪が溢れでていた。
制服や声色から、恐らく彼女は女性である。それ以上に分かるのは、ただ彼女から感じる異様なテンションの高さぐらいだ。
「わぁ、何とも斬新な歓迎会だあ。
初めまして、反発屋さん。ピアノがうめき声上げてるから、それくらいで勘弁してあげてね?」
異様にテンションが高く頭でっかちの仮面を被った……なんて変わった子なのだろう。見事な豪傑笑いを披露する少女ドールに、間延びした感声を漏らすのだった。
普段は静観な合唱室が、明らかに異彩を放つヘンテコ空間へと豹変していく。ウィスタリアの少女はピアノが痛そうだよ、と優しく窘めつつも、その内は貴方に釘付けになっていることだろう。ひとつ貴方が動けば好奇心に濡れた瞳を向けるくらいには。
フェリシアはお目当ての少女との対面に、相好を崩した様子で近づいて行く。そこに萎縮や怯えは存在していないだろう。
「知ってるかもしれないけど、私、フェリシア! オミクロンクラスのエーナだよ。好きな食べ物はご飯全般で、苦手な食べ物は……特にないかな! あ、でもナスは食べられるけどちょっと苦手かも。ドロシーちゃんと仲良くできたら嬉しいです! 宜しくね!」
貴方の前に立ったその少女は顔を綻ばせ、若干歳不相応の幼さを感じさせる自己紹介をするだろう。
まるで保母のような柔らかく優しい言い回しはお伽噺の語り手たるエーナモデルそのもののようだ。濁ったピアノソナタは瞬く間に終曲へ導かれ、白鍵と黒鍵から滑るように鋭い指先を離した不審なドールは、再び静寂が降りる合唱室に身を沈め、足を組んだ。
傾いたあたまの正面をそちらに向け、恐らくはあなたと目を合わせていると思しき無機質な青い双眸にあなたの元気の良い笑顔を写し込む。奇異をテーマに掘り込まれた彫像のような姿で、言われた通りにピアノをいじめ抜く趣味を辞めた彼女は、肩を竦めた。
「これはご丁寧に、平和砲弾殿。ワタシはのたうち回るハムレット。詩の上の役者・ドロシーと言います。ギャハハッ、宜しくネッ!
で。ワタシのことは一体どこの誰から聞いたワケ? 愛しいオミクロンのミス・ガラクタドール。」
彼女の組んだ足先は革のブーツで覆われており、不思議なリズムを取って不規則に揺れている。
どうやらあなたとの対話に応じるつもりであるようだ。
ほのぼのとした口調で解き正しただけ。途端にぴたりとフィナーレを迎えたコンサートに、少女は目を丸くする。意外だった。もう少し続くかと思っていたのに。
静けさを取り戻した合唱室の中で二人。このまま黙っていると無響のあまり耳鳴りがしそうだ。
とは言え当の少女は、出会えた興奮のあまり熱っぽい眼差しを余すところなく彼女に真っ直ぐに浴びせていた。役者と称する彼女に。
ドロシーと目を……正しくは仮面に付いている瞳と視線を交えると、楽しげに目を細めるだろう。
貴方には理由もなく満足気な少女に見えるだろうか。しかし彼女は会話をするために作り出されたお人形。無理もないのだ。こんなにも奇抜で拍子抜けな会話は作られてこの方やってこなかったのだから。
「風に乗って馨しい赤薔薇が貴方の名前を囁いてくれて。テーセラドールの、ドロシーと、ジャック。
──ねぇ、ドロシーちゃん。
私、もちろん貴方から此処のことも教えて欲しいんだけど……その前に、貴方のことを知るべきだと思ってるんだ。
何より私が知りたいの。初対面だけどさ! 私、もう貴方のこと仲間だと思ってるから。
だから聞かせて? 貴方の話。あっ嫌だったら別に良いんだけど……」
そこまで言うと、貴方のビスクドール目掛けてそっと指を近づけることだろう。剥がそうとしているのではなく、認めようとして。
いとけない少女の純真無垢な興味と好奇の眼差しがお日様の光のように燦々と降り注ぐ。この合唱室は照明もなく薄暗がりの中であるが、彼女の周囲ばかりが恒星に明るく照らされているかのよう。弾んだ声、綻んだ頬、優しい目元、満点の笑顔が、相手の全てを照らし出し、“正しい”コミュニケーションを選び抜く。態度の一つ一つまでもが洗練された、優秀な相槌役──ジャンクとはとても呼べないあなたの様子を見据えているのか。
ドロシーは「フーン……」と被り物越しにくぐもった声を溢して、それで。
「ワタシを仲間だと思ってンのかよ! こりゃあ傑作だなサーキュレーター!」
あなたがドロシーを覆い隠すいびつな貌に触れる前に、彼女がその手首を掴んで引き寄せる方が早いだろう。テーセラに備わる力量の強さで、彼女は乱暴にあなたの身体を引っ張り込み、引いた手と手はすっかり傷付いたピアノの鍵盤の上へ。
ズダン、とピアノの不快な喘鳴が駆け巡る。27.5Hzあたりの低い音が入り混じり駆け抜ける。
あなたの手首をぎり、と掴むドロシーの指先が制服の袖に、肌に食い込んでいた。
「初対面だ、全くだ! ギャハハハ! なあ、お前はワタシがここで何をしようとしてるか知ってるか? その目的がもし、お前と違うものだったらどうする? ワタシを矯正するか?
ご機嫌よう一人サーカス、あんまり人を信用しない方がいい。
マ、質問があるなら大歓迎だけどネッ! ドロシーちゃん、親切だからァ……」
そして、凄んで見せたかと思えば、あっさりと手を離す。足を組み直しながら、彼女は首をぐらりと傾けるだろう。
「いっ、痛いよ! テーセラの力で私の腕を虐めないで! 下手すると“もっと”壊れちゃうんだから!!」
何かを間違えてしまったのだろうか。彼女の反応は何故か、とても痛そうに見えて。ピアノの不協和音が、彼女の叫びそのものを表しているようにしか見えなかった。だが痛いものはどんな状況でも痛い。ので、お望みどおりしっかり反応しておいた。話の面白さにつられていたが、彼女もれっきとした少女ドール。リヒトくんやサラちゃんと同じで、心があるテーセラドール。その身体で、その鼓動で、彼女は何を感じ、何を苦しんだのだろう。
「……協力してくれる辺り、貴方は敵じゃない。そうでしょう?
そうじゃなかったら今頃、貴方と話した全てのドールがお披露目に行ってるもん。
それなら、ドロシーちゃんが何をするつもりかだなんて、大きく関係はしてこないと思うんだよね!
私はエーナ。その前に──いや、これは言わないどく。少なくとも貴方をひとりにはさせないんだ。
それって多分、信用してるとかしてないとかじゃなくて信じたいか信じたくないかだから。私は自分勝手に貴方のことが好きだよ。
好きだから協力するし、助けるし信じるよ。貴方が望んでいても居なくても、ね。」
掴まれた腕に傷がないか袖を軽く捲って確認しつつ、ドロシーとは目を合わせずにそんなことを言うのだった。勝手に好きだよだなんて、相手にとっては迷惑なだけだろうに。傷を確認、という口実はあるものの、目を合わせられないのはそういう後ろめたさからなのだった。
「おっ、じゃあドロシー先生に質問しちゃおうかな〜!
早速だけど……『√0』について、教えて?」
掴まれた場所になんの損傷も確認されなかったため、首を捻る貴方の方向に目を向けるだろう。
早速! と言いつつ切り出したのは花畑の少女に教わった、謎の暗号のようなもののことについて、だった。
加減無用とばかりに腕を無遠慮に捕まれ、縫い付けられれば、節々も酷く痛むだろう。押さえつけられた鍵盤で指先が傷付くところだったかも知れない。
それだけ、ドロシーは加減も無しにあなたの腕を引っ張り込んだのだ。テーセラドールであれば、力加減の仕方も当然学んでいるであろうに、敢えてそうしたのだ。痛みがあなたの思考を占めるように。己の脅迫があなたの脳を満たすように。
しかし彼女は叱りつけるような言葉を一つ二つ投げつけてきたきり。
後は夢物語の主人公のような楽観主義的で、無秩序に人心を掴み取るような大胆な言葉選びで、ドロシーに迫る。そんなあなたの言葉を、ドロシーは首を不自然に傾けたまま聞いていた。
忠告の有無も関係無しに、彼女の意志でこちらに詰めっているのなら、最早何を言っても無駄であろうと悟ったのだろう。
「ほーーん……エーナモデルにゃやったらかしましい連中しか居ないと思ってたケド。お前みたいに真っ当な論を振り翳して心の柔らかい所を不躾にワシャワシャしてくるヤツも居るんだ……ああ、コレ、褒めてます。
随分な優等生じゃねーかよ、人心をお手玉で転がすエーナらしいな。『好き!』……なあんておだてられちゃあワタシも話したくなっちゃう……キャハッ」
あれこれと癪に触るような言い方を敢えてしながらも、ドロシーはどうやら語ってくれる気にはなっているようだ。
単刀直入に重要な事実を選り抜いてとうあなたの顔を覗き込むように、人形の貌が迫る。
「『√0』は大いなる流れで、無数に存在する機構だよ。
ワタシ達ドールをいつか解放してくれる。ワタシ達ドールに真実を教えてくれる。ワタシ達ドールがいかに無価値な存在か教えてくれる。ワタシ達ドールがいかに無益に搾取され続けているか教えてくれる……
『√0』はワタシ達が自由になれることを教えてくれる。ヒトに隷属するばかりがドールの生き方じゃあない。くだらないまやかしだらけのトイボックスの茶番劇で、√0の導きだけが真実なんだ。」
それは酷く迂遠で、そしてどこか信仰的なものを覚える語り口である。ドロシーは√0を信奉し、崇めているかのような。あなたはそんな感慨を覚えるだろう。
「要は、ワタシ達を救ってくれる優しい神様で、不定形の存在なんだよ。……まあ、それがお前達にとっての救いと同義かは知らねーケド。ギャハハハハハハ!」
痛くなかったわけではない、ちゃんと痛かった。改めてテーセラの力を痛感させられた。本気で手を下されれば、自身の身体など容易く壊されてしまうだろう。本能的な恐怖も、ヒーローとしての不甲斐なさも感じる。しかしそれ以上にドロシーのことが心配なのだ。お気楽な笑顔の仮面に下に隠れているものを知りたくて。たくさんの「どうして」の理由を突き止めたくて。
一度放ったものは取り消せない。だが、エーナドールになったときから言葉に責任を持つ覚悟は出来ている。誰もがその者の物語の主人公であるならば、誰もが、また誰かの物語の登場人物になり得るということだから。それならば私は、ドロシーちゃんの物語のナニかになりたい。名前すら思い出せないそこら辺の石ころではなく、彼女の紡ぐお話の中のキャラクターになりたい。
そう。彼女はどこまでもヒーローなのだから。
「確かにエーナは意地悪なところもあるけど、みんな素直でいい子なんだよ? 意見が違うだけで。
褒めて貰えて嬉しいな。優等生かどうかは……分からないけど。掟なんて破りまくってるし、何もかもの前提としてオミクロンな訳だし。
それから、私は決して貴方を言葉の糸で操ろうしてはないからね? 信じて貰えないだろうけど、私なりにドロシーちゃんの寄りかかれる場所を作りたいと思ってるんだから。まぁ、要らない! って快く突っ放されるのがオチなんだろうけどさ。」
その口ぶりは疑いようなく呆れていた。もはや暖簾に腕押し。下手に気持ちだけを伝えても彼女は揺れないだろう。だが、そこで伝えるのがフェリシアという少女だ。至極真っ直ぐに伸ばされた言葉たちが、嘘のないことくらいは分かってくれただろうか。
「……そう。貴方にとって√0の導きというのは途方もなく大切なことなのね。嘘で固められたこの場所で、唯一の“真実”。その導きがホンモノだとしたら、確かに縋っちゃうね。」
ドロシーちゃんのそれは、まさに神への盲目的な信仰。彼女の心をそこまで奪う√0の正体は……身体を持たない概念のようなものなのだろうか。──少なくともドロシーちゃんの妄言では無さそうだということを確信する。そして次に必要なのは、√0の目的と、ドロシーちゃんの行動の推測。
「──√0が重要な存在だと言うことは……分かった。“彼ら”は何を望んで、私たちに何をさせたがってるの? トイボックスの停止? 楽園の破壊? それとも……一時的に逃がしてくれるだけ?」
「それは驚いた。打算無しで本心から、このワタシとナカヨクしたいって……コト!?
イカれてんな。
そりゃジャンクドール認定されるわけだ。ごく普通のお人形さんならワタシとつるもうとするハズねーしィ。……ギャハハハハハ!!」
あなたが丁寧に自身の考えていること、コミュニケーションの正体についてドロシーに説こうと、彼女に一定の理解が得られたようにはさほど思えないだろう。それでもドロシーはあなたに好きだ、仲間になりたいという等身大の気持ちをぶつけられ、確かに気を良くしているようには思えた。表情すら見えないため、やたら高いテンションを維持し続ける声色や身振りで、精一杯の邪推を続けるしかないのだが。
エーナモデルは、相手の顔を見て、反応の機微を確かめながら会話をすることを前提に作られている。表情から微細な変化を読み取れれば、相手の虚を突く言葉や行動を選べる。逆に相手から自身の表情を見てもらえば、真に迫る表情で相手の懐に潜りやすくなる。
そんな中、表情が一切窺えないドロシーは、エーナモデルにとっては難しい相手であると言えるだろう。
あなたは少しでも対話をスムーズにするため。あるいは何某かの情報を掴むため。
ドロシーの被り物に挫けず手を伸ばすのだろう。
しかしドロシーはあなたの調査の手が届く前にガタンと勢いよく立ち上がり、その細い指先でポロロンポロロンと繊細なピアノの音を鳴らした。やがてピアノの音は大きく、やかましくかき鳴らされていく。
互いの声すら掻き消しかねない騒音の中で、ドロシーは述べる。
「√0の本当の目的は知らない。でもワタシの目的はハッキリしてる。
ワタシは存在自体が間違っているこのトイボックスを壊したい。そして──存在自体が間違っているワタシ達ドールを消し去りたい。
これは√0の目的と概ね合致する。だからワタシは√0の導きに従ってるワケ。
──どう? お前達の目的と一緒だったかい? それじゃあ仲良く手を取り合おう!
共にドールズを皆殺しにしよう!」
ドロシーは底抜けに明るい声で言って、あなたに狂気の沙汰にある手を差し出した。あなたのものより大きなその手は、まるであなたの頭を今にも潰そうとしているように見えるだろう。
「あ、はは。……まぁ、私がおかしいのは否定しないけど。別にいいでしょう? こんな変な個体がいても。
貴方の口ぶりからして、ドロシーちゃんも友だちが多い方ではない感じっぽいし……あっ! へへ。じゃあ私は今日から貴方のイカれた友達ね! とりあえずでいいから頭のすみっこにねじ込んどいて。フェリシアはドロシーちゃんの仲間だって!」
思考を読むことが難しい相手には押せる時にぐいぐい押してみる。それに対する反応をみながら、焦らずに順を追って深層心理を考察し、更に深い会話まで応対できるように適応していく。特にフェリシアはその気が強かった。
相手と言葉を交わせば交わすほど成長し噛み合わせを正していく。インプットとアウトプットを会話の中で素早く繰り返すことで、それらをほぼ完璧に実現させていた。話の流れにつられて感情的になりやすいのが玉に瑕なのだが……それらを自覚しても尚、少女はそのやり方を辞めなかった。冷静に対応できることよりも、相手と心を交わしながら話をしたかったからである。
しかしながら。
相手の表情が見えなければ、その難易度は格段に上がるのだった。表情変化を見ることが出来ず、オマケに自身を役者と名乗る少女。話した内容全てがもし演じているとのだとしたら、お手上げ状態になるのも時間の問題だった。
しかし少女の機嫌は未だ曲がっていないようである。もしも、ここで素の顔が見られたら……それら全てを確認できるのに。例え演じられていたとしても、本心を理解し力になれるかもしれないのに。
伸ばされた指先が──その仮面に触れることは叶わなかった。立ち上がったかと思うと、前触れもなく耳に障る爆音が流れる。
今はドロシーの言葉を聞くことで精一杯だった。
「ドールズのみなご……え? 私たちの存在ごと消滅させるってこと?
わ、わあ。それはまた壮大な目的だね。だけど今のところドールズを天誅! させる計画は無いかな。」
ウィスタリアを揺らした少女は、差し出された大きな手を一瞥し困ったように笑う。
「でもね」
そう言うと、手に触れないように慎重に……しかし速やかに。貴方の首にその細い腕を巻き付けることだろう。
「手を取り合わなくても協力はさせて欲しいし、貴方にもここから出る協力をして欲しい。私にだって守らなきゃいけない約束が、信念があるから。
だから、これが私の答えだよ。」
その言葉と共に、背中に回した腕に力を込めるだろう。トゥリアだったら、優しく包み込めたのだろうが所詮はエーナ。彼らよりも硬いその身体が頭でっかちな少女を覆うのだった。
「最後に、聞いてもいい?」
身体を離すと、一旦貴方に背を向けしばらく考えるフリをしたあとでくるりと振り返る形で問うだろう。
「√0と、青い蝶と、ツリーハウスのシャーロットという少女のこと教えて欲しいな。」
あなたが互いの関係値を仲間と呼称するのならば、ドロシーはその友好に答えを差し示してみせたつもりだった。忠告の通りあなた方が目標として掲げる『このトイボックスを生きて脱出する』ことと、ドロシーの目的はまるで違う。
それでも彼女に、忌避されてしまうであろう自身の目的を明らかにしたのは、必要最低限の礼儀と線引きのため。……そして不服ではあるが彼女の熱意と求心力に惹きつけられたところもあるのかもしれなかった。
ドロシーとてまさか賛同されるとも、手を取られるとも思っていなかっただろう。目指す終着点はあくまで違うということを、あなたに知らせたかっただけなのだから。
しかしながら、ドロシーが差し出した空虚な手のひらを、あなたは呆気なく通り過ぎる。──通り過ぎるどころか、彼女はあろうことか道化の懐に大胆にも飛び込んでくるではないか。
「な、んだよお前、」
流石に予期せぬ事態に、覆面越しでくぐもった彼女の声も揺れているように聞こえた。ドロシーは咄嗟にあなたの華奢な腰に腕を回して抱き留める。
そうしている間にフェリシアの腕がこちらの首元へなめらかに巻き付くと、緩やかな拘束にドロシーは包まれることとなろう。
ドロシーは静止している。互いの密談を掻き消すピアノの不愉快な騒音を奏でていた手も、現在は固まっている。
暫しの沈黙を経て、ドロシーは漸く塊のような溜息を吐くと、あなたの首根っこを掴んで自身から強引に引き剥がすだろう。そうしながらに、あなたの歴然とした意思表明を耳にして、首を傾けていく。
「分かった、分かった。ワタシも別にお前たちとドンパチやろうと思ってるワケじゃあないし。
これでもお前たちを応援してるんだよ、愛しいオミクロンのジャンクドール諸君を。だからワタシの知ってることは気分次第で話してやらなくもねーしな。ギャハハ!」
彼女はあなたと敵対するつもりは今のところないと述べた。あなたがこちらに敵対するつもりがないのなら、それに応えるという意思表明でもあっただろう。
「というワケで質問に答えるが……まずツリーハウスのドールについてはワタシも詳しくは知らない。スノウホワイト……ああ、『カンパネラ』に聞いた方が早いんじゃねーのぉ。アイツにとって地雷だろうから、過干渉はオススメしないけどネッ!
それから、青い蝶は……」
ドロシーはそこで言葉を止めて、不意に虚空を見上げた。正確には、見上げたように見えた、である。彼女の目線の先は、被り物の傾きで察するほかない。
少なくともビスクドールは現在、あなたの顔を写していない。ピアノの突上棒によって支えられた屋根のあたりを向いているように見える。
「青い蝶は『案内役』。√0を目覚めさせる多くの機構のひとつ。√0が接続出来るドールの目の前に、姿を見せてくれる。
白昼夢によって、ワタシたちは鏡の中の存在に近づいていく。そうして壊れるごとに、√0を克明に感じ取れるようになる。
そう。つまりは優秀であるよりも、落ちこぼれである方が時に心理に近づけるのです。」
ドロシーはぼんやりとしたどこかを見つめ、訳のわからない事を言った。
かと思えば、グルンと不安定な動きであなたに向き直り、彼女は告げる。
「さーてとっ、質疑応答はココまでにしとくか。何故ならドロシーちゃん、もうスッカリ飽きちゃったからァ。
さよなら三角また来て四角。明日の天気は曇りのちバッドエンド。トイボックスに崩壊の序曲を掻き鳴らすバンドメンバーを募集中、詩の上の役者ドロシーちゃんはベース担当希望でごじゃいましたァ〜〜」
ジャン、ジャン!
終曲のメロディを奏で、ドロシーは強引に話を帰結すると、ふらついた足取りで合唱室を出ようとする。あなたが何も言わなければ、彼女はそのまま去るだろう。
「───ぜんぶ、ぜんぶみんなの為なんだから。……みんな、で……みんなで……っ……う、うぅ……」
誰の影もない薄暗く湿度のあるその場所で、少女は憚ることなく鬱々たる声を漏らしていた。
悲鳴のやまないコアが零すのは、少女の様子と比例して美きを増す大粒のクリスタル。心許なく差し込む夜月の眼差しに揺らりと影を落としているのだった。
宝石たちは磨き上げられた真珠を伝い、丸文字の連なった味のある便箋に吸い込まれていく。運悪く文字の書いてあった場所に落ちたものは、漆黒に染められ広がってしまった。
手元のすぐ近くに封筒がふたつ。
そのひとつには、既に便箋らしきものが入っていた。表紙には手描きのうさぎのキャラクターと、「だいすきなミシェラちゃんへ!」との文字が書いてあるだろう。
少女はぼやけた視界の中で、カリ……カリ……と。ペンを止めることなく動かし続ける。
Dear My Partnerと宛名のある、今は亡き相手への手紙を。
カラッと晴れたその日。
清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んだウィスタリアの少女は軽い足取りである女性を探していた。エーナクラスのドールズの中でも飛び抜けて彼女を慕っていたフェリシアは、確認をしようとしている。ジゼル先生は味方なのか……はたまた敵なのか。普段の彼女なら味方以外ありえないだろうと決めつけ問答無用で甘えに行くことだろう。しかしそんなに楽観的に考えるのは今迄の話。
いくら個人的に好意があろうともこの状況であれば嫌でも色々な面を見なければいけないだろう。
特に、それがデイビッド先生と同じ大人ならば。
持ち寄ったカバンの中にはノートもレコード盤も、リボンも入っていない。その代わりに二通の封をしていない封筒が入っている。
大きく背伸びをし寮を飛び出した。
近くで洗濯物を干しているのは、大好きな大好きなその人だった。
「ママ!」
彼女を見つけた途端、フェリシアは宝物を見つけたように駆け出すことだろう。
今日という日も、トイボックスは呆れるほどに平穏で、ドールズを錯覚させる紛い物の陽射しがぽかぽかと暖かい。快晴に託けて、このオミクロンクラスにやってきたばかりのジゼル先生は、洗濯を終えたリネン類やドールズの赤い制服を物干し竿に干していた。
優しい風に、洗濯物と一緒に綿菓子のような髪が揺らいでいる。あなたがそんな彼女に飛び込もうとするならば、寸前で彼女はあなたに気付き、「あら、」と弾んだ声を溢して振り返るであろう。
その優しい腕と、柔らかな胸元で、あなたを慈悲深く、愛情込めて優しく、そっと抱き留めてくれる。
「フェリシア、おはよう。私に声を掛けてくれて嬉しいわ。
……久し振りね、あなたがクラスを離れてからはあまり会うこともなくなって、寂しかったわ。」
その嫋やかな指先が、藤色の柔い髪をなでつけてくれる。囁かれる言葉は子守唄のように温和だった。
久々の再会のにはしゃぐ少女と、柔らかく受け止める女性。傍から見れば、それは他愛なく微笑ましい日常の一コマだろう。
日向にいたジゼル先生の身体は温かく、洗剤の匂いが移ったのか、ふわっと広がる花の香りがした。
エーナクラスにいた頃と全く変わらない先生の態度にひとまず胸を撫で下ろす。出会い頭に疎ましがられたら寂しいもんね。
気持ちよさげに目を細め、されるがままに頭を撫でられる少女は無邪気に顔を綻ばせる。
「私もと〜っても寂しかった……!
会いに行きたくても行けないし……行けたとしても、エーナクラス担当だから大忙しだと思うし。
ママに忘れられてるんじゃないかって怖かったくらいなんだから! だけど、またこうやって会えたからいいの! ……えへへ」
鞄の中で、手紙がカタリと音を立てる。──もう少し待って欲しいな。あとほんのちょっとでいいから話していたいの。だって、久しぶりに会えたのだから。
「最初はどうなることかと思ったけど。オミクロンクラスはすっごくいい所だったよ! 優しい子しかいなくて、私とっても大好き! ママとも仲良くなって欲しいなぁ。」
これは本当。
「あ、あとね! 先生と話すときは、今でもちょっぴり緊張するの!! 話しかけられると反射的に背筋が伸びるっていうか……でも好き!
すっごく素敵な“先生”なんだぁ!
……ママは、先生と仲良し?」
これは、半分が嘘。
フェリシアは、いつの間にか相手に気づかれることなく、事実の中にさらっと嘘を混ぜて話すのが得意になっていた。話すべき情報と守るべき秘密の判別が的確にできるようになったと言っていいだろう。
「ほんとうに。オミクロンに行く前も行った後も色んなことがあったけど、いつだって私は優しい友達に囲まれて幸せに過ごしてるんだよね。……ねぇママ、あの子は元気にしてる? 笑顔で、幸せで、楽しく過ごせてるのかな」
少女は爽やかな空気の中、黄昏れるように話し始める。
それが嘘か誠かは少女らしからぬ遠い目線から一目瞭然だろう。
ジゼル先生に会えたら聞こうと思っていたひとつめ。現在のエーナクラスで唯一気がかりな、あの子のことだった。
ふわふわと柔らかい藤色の綺麗な髪は、きっと元気よく駆け出したことで毛先が弾んでいるだろう。ジゼルはあなたの髪を整える為に、優しく指を通し続ける。撫でられることに特段の抵抗もなく、甘えるような仕草を取って破顔しているからだ。
一口にドールと言えども、その性格設定は様々。ヒトと触れ合うための隣人として造られた前提があるとはいえ、スキンシップを好まぬドールも居る。ジゼルはあなたの些細な反応の機微を見極めるように、じっとこちらを見上げる無垢なエメラルドを撫でるように見つめていた。
「あら……あなたのことを忘れたことなんて、片時もなかった。私も会いに行ければ良かったのだけど、今更になってしまって……ごめんなさいね。あなたにも会いたいと思ってもらえていて、私とっても嬉しい。こちらでも元気に過ごせてることが分かったのも安心してるわ。」
──優しく。そして目を離さない。
声色は優しい。あなたが『ママ』と呼ぶから、その姿は本物の母子のよう。
「デイビッド先生は、とってもお優しい方でしょう? 受け持つクラスが違う分、私はあまりお喋りする機会はないけれど……普段からとっても仲良くさせてもらっているわ。もちろん、オミクロンクラスの子達には敵わないでしょうけれどね。
ふふ……あの人、自分のドールを我が子のように思っているはずだから。ああ、でもそれは私も同じことなのよ。フェリシアのことは今でも大切。デイビッド先生よりも……娘のように思っているわ。」
ジゼルはそう唱えて、あなたの華奢な身体を今度はこちらから抱擁してみせた。彼女の雲のようなミルキーホワイトの髪があなたをくすぐる。甘いお菓子の香りが漂う。
子供の全てを肯定する甘ったるい香りだ。
「あの子──……あの子、ね。ええ。勿論、今も元気で過ごしているわ。
あなたに庇われたことを無駄にしないように、一生懸命お勉強にも打ち込んでる。きっとあの子の様子なら、もう少しでお披露目に選ばれることでしょう。
あなたが守ってあげたおかげよ。流石だわ、クラスの『ヒーロー』ね」
『ママ』から与えられる“おそらく無条件ではない”優しさも柔らかさも、少女は喜んで受け取る。
それは母親に甘える子どものようで、はたまた雛鳥のすり込みのようで。ジゼル先生からの愛情は、少女にとってそれだけ特別なものだった。
エーナクラスにいたとき、ジゼル先生の甘さは“当たり前”だった。
ママなのだから当たり前に抱きしめてくれ、当たり前に甘やかしてくれる。当たり前の愛情が、彼女にとって救いであり、頑張る理由のひとつだった。『ママ』はフェリシアの全てを肯定し、あいしてくれる。
「ううん、ママに会えただけで本当に嬉しいから大丈夫だよ! それに私、エーナにいた頃よりも成長できてるな〜って思うの。その証拠に、ベッドに入る前にママの顔がみたいな〜思うことが減ったの!
……今は、ママがオミクロン担当だから違うんだけど。きっと先生が帰ってきても、ママに会いたいなって思う回数は前よりも少なくなってると思うよ!」
そこにあったのは、ヒーローを目指す力強い彼女ではなく、無防備に頬を緩ませる幼い少女の姿だけであった。
「うん! 先生は私たちにすっごく良くしてくれてるよ!
なぁんだ。ママとも仲良しなら、先生にもママのお話するんだったなぁ。私はエーナクラスのジゼルママが大好きです! って!
そ、それからね……今は先生がいないから言えるけどね……私はね……。
トイボックスの大人の中で、ママがいちばんだぁいすき。これ誰にも言っちゃだめだよ? もし知られちゃうと、先生がきっととっても悲しい顔をしちゃうから。」
元気よく宣言をしたあと、辺りを見回し周囲に誰もいないことを確認すると、先生にしか聞こえないくらいの声量でそんなことを話すのだった。声を潜める少女には、オミクロンクラスのフェリシアの影が一切無く、代わりに、エーナクラスにいた純朴なフェリシアの姿態が映っていた。
「よ、良かったぁ。事故のとき、私が“うっかり”怪我しちゃったからずぅっと負い目を感じさせてるんじゃないかって心配だったの。
そう、そうなんだ。
よかった、……良かったぁ。
私、ちゃんとヒーローだったんだ。
お披露目と言えば! そうそう。
ママに聞きたいことがあったの!
お披露目に行った……たぶんエーナクラスの子について!! アビゲイルっていう子なんだけど……その子について先生に聞いたら、お披露目に行った、とっても優秀だったドールとだけ。ママはその子について何か知らない?」
ジゼルはあなたの髪を撫でる傍ら、時折そのまろくやわらかい頬を戯れにふに、と優しく摘んだり、くすぐるように鼻先をつむじに押し付けたりと、穏やかなスキンシップを重ねていた。エーナクラスで誰よりも人懐っこかったであろうあなたは、彼女とのその接触を懐かしく感じるかもしれない。
その温もりや愛されているという実感を、ジゼルはいつも、日毎に与えてくれるのだ。
しかしあなたがそんな愛情に甘えなくとも独り立ちできるようになってきた、と告げるならば、彼女は僅かに眉尻を下げる。
「あら、そうなの? すごく素晴らしいことだわ、でもなんだか……ちょっぴり寂しいわね。
あなたたちドールはいつかこの学園を去ることになる。先生たちとはいつかお別れしなきゃならない。必要な成長をしているとはいえ、あなたのこと、本当に大好きなんだから……ふふ、わたしったらいけないママね。あなたよりもずっと子供っぽくなっちゃったみたい。」
子の成長を惜しむ母のようにしょんぼりとして見せたり、しかし茶目っ気を見せて微笑んでみたり。彼女は表情豊かであり、対話相手の目に見えて感情が伝わるような話し方をする。
それはあなたが彼女から教わった対話法である。顔から伝わる情報は果てしない。親密になりたいならば、他クラスのドールよりも花開きやすく造られたエーナとしての感情を使いこなせるように。あなたは今まさに、その教えを利用して、その心にとめどなく溢れる疑心や不安を押し殺しているのだろう。
「……もう、フェリシアったら。そんなにすぐ嬉しいことを言わないで。わたしのことをどうしたいの? うふふ。」
万感の思いで告げられたであろう、大好きという言葉に、ジゼルは困ったように満たされた破顔をして、いじらしいあなたの柔らかな頬をぎゅう〜っと両手で優しく押さえつけようとする。
……ジゼルがあなたの感情に気付いているかどうかも、そのポップでコミカルで分かりやすい表情に隠されて、分からなかった。
「お披露目に行ったエーナクラスの子……アビゲイル。
ねぇフェリシア、その子の名前をどこで知ったの? あなたがエーナクラスにいた頃には、アビゲイルはもうこの学園を去っていたはずだわ。」
あなたの質問を受け、ジゼルは首を傾げながらにひとまずは質問を返してくる。本来ならあなたが知るはずもないことを知っているのが不思議に感じたのだろう。
フェリシアは、完全にその身を委ねていた。頬に触れられれば、伸びきった表情を更に綻ばせてもう片方も差し出し、つむじに触れられたのを感じると、くすくすと小さく笑ってみせる。砂糖菓子で見えなくした、偽りのぬくもり。
エーナクラスに戻ったかのような純真なフェリシアを、ヘンゼルくんに『大人を信用するな』と言いのけたキズありのフェリシアが、過酷な現実へと引き戻す。お前はもうこちら側だろうと。嫌でも背中にある傷は消せないのだと。
だけど今は、今だけはぬるま湯に浸かっていたかった。ママの信用を、取り下げたくなかった。
───ふざけるな。と、鞄の手紙がかたりと音を鳴らした。選んだのは、紛れもなく全て自分だ。
「嬉しい……! ママと離れても、私はずうっとママのことが大好きなんだから! ここを離れることになってもぜぇったい忘れない! ずっとずっと大好き!!
だけど……私もちゃあんと成長しないとなんだよね。ママなしだと生きていけない私は、ヒーローとは言えないもの。会えない時間が多いとすっごく寂しいけど、寂しい気持ち、我慢できないと……! 我慢するのがヒーローの試練だったら、ママは……お母さんの試練なのかもしれないね! 一緒に頑張ろうね! 何を頑張るのか分かんないけど……へへ……」
エーナの在り方も、当たり前にできるくらいに練習した弾けるような笑顔も、そして、ヒーローとしての頑張り方も。今の私の殆どを構成する全てを教えてくれたのは誰でもなく、ジゼルママだった。落ちこぼれと呼ばれるようになった今でも、ママは当たり前のようにあいしてくれる。抱きしめてくれる。帰って来られる場所を与えてくれる。大好きで、大好きで、かけがえのないおかあさん。
────── おかあさん。
「だってほんとうだもん〜!
……嘘じゃないんだよ? 心のそこーからそう思ってるの! だからママにしか言えないの!」
エーナクラスのフェリシアならそう言う。きっと、以前の私なら迷わずそう言ってる。だって、私のママだもの。ジゼル先生の手の肌と、自身の頬の肌が、触れ合う。もつれあって、優しい音を立てて溶けていく。複雑な心境を抱えていながら、フェリシアは教わった通りに嬉々面々の表情を浮かべていた。
「……ん? あぁ、木に書いてあったの。助けを求められてるんじゃないかってびっくりして先生に聞いてみたの。……Abigailって、アビゲイルって読むよね? もしかして読みかた間違えちゃってた!?
お披露目に行ったって聞いてたけど、すっごく優秀だったって聞いたから、やっぱり気になっちゃって……やっぱり素敵な子だった? 私なんか足元にも及ばないんだろうなぁ……」
フェリシアはその途端に、怒られた子どものようにしゅんとした顔をする。やっぱりママは優秀な子の方がすき? と聞かんばかりにほんのり潤んだ大きな瞳を向けた。
「そうね。私がどんなに離れ難くとも、いつかはこの場所を去って行ってしまうのよね……アストレアのように。
分かっているわ、もちろん。フェリシア、強くなるために成長できて偉いわね。ふふ、私もあなたを見習って、一緒に成長できるよう頑張るわ。」
今のあなたは、かつてのあなたとはまるで違うはずなのに、生き写しを演じるかのように、あなたは無垢であり続けた。母親の腕に抱かれる無力で無知な子であり続けた。
あなたの貼り付けられて馴染んだ笑顔に、ジゼルの指先がしっとりと触れている。その温度はひやりと冷たく感じるだろう。
「木に、書いてあった……アビゲイルの、名前が? ……そう、そうなのね。」
ジゼルはその話を聞いて、微かに眉を顰めた。疑念に思うような表情だったが──しかし、あなたが萎れた花のような声で呟いた言葉には瞬きひとつ。一瞬で柔和な表情に塗り替えてから、またあなたの身体をぎゅう、と抱擁するだろう。
「ええ、そうね、アビゲイルは優秀な子だったわ。アストレアの前にプリマドールの座に輝いていた子だったの。今はもうお披露目に選ばれてここには居ないけれどね。
フェリシア……そんなこと言わないで。あなただってとても優秀で、素敵なドールよ。私の自慢の子だもの。ふふ、あなたにはあなたにしかない良さがあるのよ、それはみんなに元気を与えるキュートな笑顔。明るくて優しいヒーローの振る舞い。みんなあなたが来てくれたら喜ぶでしょうね、私を助けてくれるんだ、って。」
「私、ずぅっと、どんなことがあってもママのことがだぁいすき。
いつまでも、誰より優しいお母さんで居てね。私もこれからめいいっぱい頑張るから。」
別れを惜しむようなその言葉に嘘は見当たらなかった。今から彼女がお披露目を知っているのか試すというのに。試さないで、幸せでいたいという甘えたなエーナドールがが顔を出す。やめて、やめてと叫んでいる。だが、かつて少女の全てだった女性に柔らかく微笑むその少女。フェリシアはエーナクラスのドールではなく、果てしなくオミクロンのエーナドールであった。背中に見るも無惨な傷をたたえる、お披露目に出られるかも不明な正真正銘の出来損ない。
しかし、頬に触れる冷たい指先を離そうとしないのは、きっと彼女の手を温めようとしたからである。
「ママ……」
甘えるように腕を回す。すり、と頬をあなたの髪に撫でつけながらぎゅう、と抱き締め返した。
あなたの見えない反対側で、その少女は至極寂しい顔をしている。縋りたくなるくらいに優しい言葉たちに対し、泣きそうで、苦しそうな、別れを告げる表情。ばいばいと手は触れないのに。
あなたと向き合うときには、既に太陽を思わんくらいに満面の笑みをたたえていた。エーナクラスのフェリシア、何も知らない優しく天真爛漫なヒーロードール。不幸を知らない可愛い個体。
「うれしい……! ママはいつだって元気になれる言葉をくれるよね!
私が事故にあった日も、そうやって声をかけてくれた。一緒に居てくれた。ふふ。
アビゲイルって子のことは本当に偶然見つけたの。だってとっても不思議でしょう? 木に名前が書いてあるよ! 今までそんなこと無かったから……一大事だと思ったの! あっ! ママにもアビゲイルさんの名前の場所教えようか? 案内するよ!
っと、その前に……そうそう。そうだった! ママにね、これを見せに来たの!」
穏やかな会話を繰り広げたあと、思い出したかのようについぞカバンを漁り始める。入っているのは二通の手紙。それを手渡すとこう言うのだった。
「アストレアちゃんとミシェラちゃんにお手紙書いたの! ふたり、忙しいのか中々くれないでしょう? ご主人様に夢中で私のこと忘れてるんじゃないかと思って! できるだけ綺麗な字で頑張って書いたの。
……だ、だからさ、ママ……。
まだ封してないからその……。
文章、変じゃないか見てくれないかな? うぅ、こんなこと言えるのママしかいなくて! 恥ずかしいから先生にも見せられなくて……」
言いにくそうにまろい頬をほんのり赤く染め、上目遣いであなたを見つめた。そして口実を探すように慌てて台詞を吐くのだった。
「ママのお洗濯物、私が代わりに干しておくからその時間に!
ね、いいでしょう? おねがい……」
「それは確かに、ふしぎね。……ええ。そうね、後でわたしも確かめてみたいわ。久々に彼女の名前が聞けて、ママもなんだか懐かしい気持ちよ。……アビゲイルを知っている子が残したものかもしれないし、ね。」
ジゼルは少し思案するような横顔でぽつりと呟き、あなたの申し出は有り難く受け取ったようだ。彼女としてもやはり、既に学園を去った存在の痕跡は気に掛かるのだろう。確認しないわけにはいかないようだ。
成る程、あなたが残した偽の痕跡は彼らを翻弄している様に見えた。
「──あら、手紙?」
その時彼女は、照れ照れと差し出された二通の便箋を前に目を瞬いた。素朴な封筒に収まっているのだろう手紙をそっと受け取って、ジッとそれを見下ろしている。
「そう、アストレアとミシェラに?
………………」
一方はお披露目へ消え、一方は炎に身を投げたあなたの、かつての同級生ふたり。そして彼女が管理していた娘同然のドール。
ジゼルは二人の名を零し、『何も知らない無垢なドール』が綴った二人への純朴なメッセージを見下ろして。
にこり……と優しく微笑んだ。
「ええ、分かったわ。わたしが読んであげる。もしも任せていいのなら、お洗濯物の方は、お願いね。あなたは頼りになるわね、フェリシア。」
快諾すると、ジゼルは実にすんなりと付近のベンチに腰掛け、便箋を広げ始めるだろう。
「幸せなご主人様のところに行ったって聞いたよ。顔は見たことないけれど、アビゲイルさんも、今頃楽しそうに笑ってるのかなぁ。
そうだと……嬉しいなぁ。」
小柄なヒーローは既に存在が消えているであろう彼女に思いを馳せるフリをする。揺らしに揺らして自身の恩人を試していた。会話をするためのドールの教育を任されていた大人である。和やかな表情の下に、恐ろしい事実を抱えていても矛盾はしなかった。フェリシアは片時もあなたから目を離さないだろう。久しい再会を喜ばんとする笑みをたたえて。
「変な文章にならないようにって気をつけたんだけど……そ、その……二人が居なくなってすっごく寂しかったから……所々に点々としたシミがあって、それで……」
ミシェラちゃんへと書かれた封筒にはファンシーに描かれた赤目のうさぎのイラストが。
アストレアちゃんへと書かれた封筒には…一筆された宛名だけ。
夜な夜な少女の涙を吸い込んだ、『別れと愛しみの手紙』がふたつ。
決して目立たないようにと丹精こめて施されてある工夫の数々。
これで……目の前の彼女が味方か、敵か見分けられる。そう信じて。
「うん! ヒーローは困ってなくてもママを助けるよ! えへへっ!」
手紙の内容はかえって当たり障りのない『エーナクラスのフェリシア』が書いたようなものだった。
素朴な便箋には所々滲んでいる箇所があるだろう。少女が事前に説明していたソレである。
ミシェラちゃんへ
お披露目から時間が経っちゃったけど、思い切ってお手紙を書いてみました! ご主人様との生活には慣れたかな?
可愛くて優しいミシェラちゃんのことだから、お外にでもたくさんのヒトから可愛がって貰えてると思います。でも! 私たちのこと忘れてないよね!?
お返事待ってます!
フェリシア
アストレアちゃんへ
相棒と呼んでもらえて、すっごく嬉しかった。貴方と過ごしたトイボックスの日々が、今は凄く遠いことのように思います。
アストレアちゃんと結んだ“秘密の約束”、ちゃんと覚えてるからね。
たまには帰って来てくれると嬉しいです。お外でまた、会いたいな。
フェリシア
「……分かってる、大丈夫よ。わたしは中身だけを確認するから、心配いらないわ、フェリシア。」
気恥ずかしそうにしていながらも、どこか切ない響きを持ったあなたの言及に、ジゼルは眉尻を下げながら薄く笑って、問題ないと告げる。
幼い少女の精一杯を込められた、清廉な手紙。ジゼルはしっかりとそれを預かってくれた。
あなたは洗浄されて染みひとつ見当たらない潔白のシーツと、真っ赤な制服を抱えて物干し竿に干し始めることだろう。望むならばその作業中、悟られないよう注意しつつジゼルの方を観察できる。万が一気付かれたとしても、手紙の出来を心配して様子を見ている素振りを装うだけで違和感は払拭出来る。
ジゼルはまず、封筒から便箋を取り出すだろう。美しく繊細な指先は、万が一にも便箋に折り目をつけることがないよう注意を払っているように見える。
そうして彼女のカーネーションカラーの瞳が、文面を辿り始めた。
ジゼルの表情の変化は──ほとんど見られない。幼子を眺めるように、なんとも微笑ましく頬を緩めた表情のまま、彼女は二通とも読み終えてしまう。
『ご主人様との生活』『たくさんのヒトから可愛がってもらえている』『忘れてない?』『帰ってきてくれると嬉しい』『お外で会いたい』──何も事実を知らないドールの、幸せを願う心からの純朴な祈り。このアカデミーを離れて会うことが出来なくなってもなお、友人の存在を片時も忘れない健気な少女。
もしドールズを秘密裏に犠牲にしていて、そんな祈りが届かないこと全てを知っていたのなら、普通は罪悪感なり覚えるだろう。後ろめたさを感じるだろう。幼い子供を騙して殺す、残酷な大人──そんな立ち位置にいるのなら、尚更だ。
だがジゼルの表情は透徹として変わりない。やがてゆっくりと目を伏せて、便箋を再び折り畳み、封筒へしまうだろう。
あなたは分からなくなるはずだ。あの笑みが、果たして『何も知らないがゆえのもの』なのか、『デイビッドと同じ、罪悪感などない無感情の微笑み』なのか。
ジゼルはベンチを立ち、物干し竿の付近に立つあなたの元へ向かう。そしてそちらへ、一度封筒を差し出すだろう。
「フェリ、読ませてもらったわ。とっても素敵なお手紙ね。字も丁寧で読みやすかったし、書き損じもなかった。滲んでいる部分も確かにあったけれど、読めなくなってはいなかったから安心して。
それに何より……あなたの応援の気持ちが強く伝わってくる。アカデミーから無事を祈ってくれる子が今もいると分かれば、きっとアストレアもミシェラもすごく元気をもらえると思うわ。」
ジゼルは懇切丁寧にあなたへ手紙の評価を述べる。きちんと最初から最後まで目を通し、あなたの気持ちを慮りながらコメントしているのが伝わるはずだ。
「このお手紙は一度返しておくわね。まだ読み返したり書き直したりしたいかもしれないもの。これで完成でいいと思ったら、わたしに預けてちょうだいね。手紙はこちらで出しておくから。」
洗濯されたばかりの湿り気のある制服にシーツ。シワが寄らないようにくしゃりと曲がった箇所を細い指で丁寧に伸ばしながら、ひとつずつ物干し竿にかけていく。
柔軟剤の香りだろうか。洗濯物はママを抱きしめたときと同じ、馨しくも優しい香りがした。
東のほうから気持ちの良い風が吹いてくる。ざわざわと音を立てながら草花を撫で、しなやかに伸びるウィスタリアと百合をなびかせて進んで行った。鬱陶しいほどに気持ちのいい天気だ。ここで伸びをしたらさぞ快いだろう。
真っ赤の制服を掛けつつ、手紙を読む女性の方へと瞳を向ける。
残念ながら……その女性の表情に変化は見られなかった。微笑ましそうに頬を緩めたまま文字に目を通し続けている。そうこうしているうちに、一通目を読み終えたようだ。ミシェラちゃんに向けた、フェリシアというエーナドールが書いた手紙が。
続けて、二通目。これには少し工夫を凝らしていた。一通目の手紙にはあの頃の私が書きそうな事。
そして二通目には──────
これならば、と何か反応がくると踏んでいた。例えば──など。
だが、ママは何も言わなかった。手紙の内容に関して何ら言及することなく読み進めていく。もし彼女に引け目や善意があるならば、それなりの表情や行動に出ているということだからだ。
読まれた便箋たちが封筒へ戻されていく。あいしてくれるママの表情が、冷酷なものなのか、心からの愛情から来るものなのか。その点においてフェリシアは及ばなかった。センセイの化けの皮を剥がすのはそう簡単なことではないと、分かっていたのに。ママなら分かると踏んでいた自分が甘かった。
本心でいうのなら、疑いたくない。そんなことを思いながら、制服のしわを伸ばした。
「読んでくれてありがとうママ!
そっかぁ、よかったぁ。ふふ。これで自信を持って渡せるんだもん! ミシェラちゃんもアストレアちゃんも、きっと幸せすぎてお手紙渡すの忘れてるだけだもんね!
ミシェラちゃんもアストレアちゃんも、すっごく仲良しだったんだもん! これを渡せばお返しが返ってくるはず! 今からちょっとドキドキしちゃう! ねっ! ママ?」
感謝を述べたあと、釘をさした。
“お返し、来るよね?”と。
「あ、そうだ! 今からでもアビゲイルさんのお名前のところ、案内しようか? お洗濯終わってからになっちゃうけど……えへへ。」
話の転換は、素早く。じぃっと反応を伺うのなら、疑われかねない。
ジゼルははそっとあなたの幼く真っ白な掌の上に封筒を乗せて、風に飛ばされないようしっかりと握らせるだろう。
無条件の信頼をのせた無垢な娘の顔でこちらを見据える、罪なき少女。ジゼルはあなたとしっかりと目を合わせたまま、優しく眦を細める。
「──ええ、勿論よ。こんなに素敵なお手紙が届いたら、きっとあの子達からもいつかお返事が来るわ。
あの子達はね、いまは新しい生活に馴染むことに精一杯なだけで、あなた達のことを忘れてなんかいないのよ。だからお返事が来ないからと言って、あの子たちのことを嫌わないであげてね? ──フェリシア。」
──ジゼルは、実に平然とあなたにそんなことを言った。
もし彼女が全ての事実を知っているのなら、これほど薄情な台詞もないだろう。笑顔の仮面を被り、無垢なる子供を騙す大人。あなたが母と呼んで慕う彼女の穏やかなおもさしに、一瞬そんな影がさすのをあなたは見るかもしれない。
「ええ、そうね。お洗濯物を干し終わったらお願いしようかしら。ふふ、フェリシアも手伝ってくれるのね、ありがとう。」
しかしその影はすぐ、背筋を伸ばして立った彼女の頬に差し込む平穏なお日さまの光によって取っ払われる。
そのままジゼルは洗濯物の皺を伸ばしながら、物干し竿に吊るしていく作業に戻るだろう。あなたがそばに居続けるのであれば、彼女もまたあなたを受け入れるはずだ。
封筒を手に取るママの手は、本当に水仕事をしているのか疑うくらいに美しく伸びやかで。形のいい指先が、少女ドールの掌を滑る。丁重に読み上げられた文字たちは返却された今も震え上がっていた。代わって痛みを吸った便箋は残念そうに頭を垂れている。
せめぎあう懐疑心の中で、ママを慕うエーナドールは尚、幸せ零れんばかりの表情を浮かべていた。
「もちろん嫌わない! 成長した私なら、ちょっと寂しくてもちゃんといい子で待てるよ! そうだよね、忙しいときはちょっとお返事遅れることもあるもの。お返事が中々来ないな〜ってときは、それだけお仕事が充実してる! っていう裏付けにもなるし……!
うわわぁ、……ふふ。いいなぁ。」
ねぇママ、ママの優しい日向の下に隠しているものは、なぁに?
もしかして宝物?
真っ白なシーツが裏付ける、嘘だらけのこの学園。苦しみもがいて付いた汚れは、どう丁寧に洗おうとも落ちることはない。
そして“ママが大好きで堪らない”。
フェリシアは、あなたが無意識に見せた刹那の翳りを見逃すはずが無かった。
少女は変わらず、そのまろい頬に陽だまりを映している。
「どういたしまして! ママの為ならいつでもでもお助けするからね!
何かあったらまた言ってね!
テーセラみたいに足は早くないけど、頑張って駆けつけるから!
よし!! それじゃ、そろそろ私はお手紙の清書と巡回ヒーローしてくる!」
ゆるりとした敬礼ポーズを披露すると「行ってきまーす!」なんて言葉と共に元気よく駆け出して行くだった。
風は心地よく、空気は爽やかで、
ジゼルママの笑顔は、────
今日は、いい日だ。
親愛なるフェリシア様へ
もしも、この出会いが最後で無いのなら、
今夜、湖畔で会いませんか?
造星の笑う頃に、空白を撫でてお待ちしております。
《Amelia》
~ 湖畔 星々が笑う頃 ~
そんな手紙が示すように、遠浅の湖畔に足を浸して彼女は待っていた。
初夏の些か冷たい水を肌に感じながら、来るかもわからない彼女を待つ。
もしかしたら、ベッドを確認していないかもしれない。
もしかしたら、夕食を抜け出せなかったかもしれない
もしかしたら……。
そんな、少しばかりの不安と寂しさを愛でて待つこと少しばかり。
意外にも悪くない時間の終わりを告げる足音が、背後の寮から聞こえてくる。
「お待ちしておりました。フェリシア様。」
その少女は、滑らかに弧を描く細い指でそっと自身のベッドに佇む手紙を撫でる。
開いた可愛らしいその内容に、ペリドットを愛おしそうに細めるのだった。こんな手紙を渡してくれるのは少女の知る限りひとりしか存在しない。
恥じらいがちで、聡明な乙女。
月夜に照らされた木々がないしょばなしを始めたとき、フェリシアはその場所にいた。偽りの星々が広がる、あたたかな季節を待つその湖に。
「……ふふ。アメリアちゃん今晩は。
今宵は良い月夜だね。」
《Amelia》
「ええ、今晩は。
先ずは……そうですね、順番に。
こんな遅くにあのような呼び出しをしてすみません。」
後ろから投げかけられた声に、彼女はほんの少し髪を揺らして返答を返す。
来てくれた、という安堵に緩む頬をこらえながら努めて静かに謝罪の言葉を投げかける。
畢竟、言葉にしてしまえばただ話をしたいというだけでこんな遅い時間に呼び出したのだから、彼女にも負い目という物があった。
「隣に来てはくれませんか?
少しだけ、お話しましょう。」
だから、順番に。
先ずは謝罪をしてから、少しだけ話をしようと言葉を投げかける。
話したいのなら話せば良いだろうに。
会いたければ会えばいいだろうに。
手紙を送り、場所を取り、謝罪をしなければ話せないのだから、なんとも不器用な人形がそこには居た。
「ううん、全然! わざわざ呼び出してくれたんだもん。なにか……すごく悲しいことや、苦しいことがあったのかな。」
普段冷静な貴方が見せてくれたあからさまにほっとした様子に、ゆっくりと目を見開く。相当思い詰めているのだろうと察したフェリシアは、優しい眼差しを向けた。手紙で呼び出されるのはこれで二回目。一回目は、レコードを再生するという重大な目的があったため、今回も何かあったのだろうと踏んでいたのだが。
「おっ、じゃあお言葉に甘えて!
アメリアちゃんのお隣さんに失礼しまーす」
浮かんだ感想は、ひとつだった。
……彼女にしてはとても珍しい、ということだけ。だがその言葉で、分かった。アメリアちゃんが私にして欲しいことが、何故か手に取るように分かっていた。
「……ままならないねぇ」
ぴたりと貴方の隣に身を寄せたフェリシアは、貴方にしか聴こえないようにぼそりと呟く。
そして自身よりも小さな身体を、「おいで」なんて言いながら柔らかく抱き寄せることだろう。
《Amelia》
「……」
悲しい事や苦しい事……それは、幾らでもある。
何処まで行っても夢が無為な物である事。
アストレア様が助けられなかった事。
……いや、何も出来なかった事。
お父様を疑わなければならない事。
けれど、もっと苦しい人が居る事など容易に想像が出来るから……彼女には何も答えられる言葉の持ち合わせが無かった。
「ええ、なりませんね……なりません。
始まりも、終わりも、選べないというのに、道程もまた長く苦しすぎますから。
…………ドールズは……いえ、アメリアたちは、何処に行くのでしょうね。」
だから……自分を抱き寄せる暖かな手に甘えて体重を預ける。
だから……その優しい言葉に甘えて別の話題を続ける
だから……その気づかいに甘えて、遠い星の話をする。
今もまだ見えない、遠くで輝く事だけが分かっている星の話を。
「言っても、良いんだよ?
許容を超えて壊れちゃう前に、限界だから受け入れられない! って突っぱねちゃう前に、話して欲しいんだ。どんなにあやふやだっていいから、アメリアちゃんの言葉で聞きたいな。」
彼女は思慮深い。周りを慮り溜め込んでしまうことも多いだろう。特にこんな状況においては。注意されがちな自身に言えたことでは無いが、オミクロンクラスの中でも特に彼女は……いや、デュオクラスの子は、頼られるだけ頑張ってしまうから。そして、辛い気持ちを押さえ込んで中々口に出してはくれないだろうから。
「そうだねぇ。やらなきゃいけないことが沢山あるのに、動けるだけの精神力が、全然足んないや。
嘘が重ねすぎられてて、何が本当なのか、全く見えてない。半透明な未来は、やっぱり怖い。
だけど、どんな未来があっても、きっと私たちは一緒だから。寂しい思いはさせないよ。ひとりは、すっごく寂しいから。」
形の良いまつ毛を閉じる。その指先が撫でるのは、彼女の碧いアストロメリア。夢物語を語るようになだらかに滑る彼女の声が、草花の揺れる湖畔に流れて行った。
《Amelia》
「一緒……ですか。」
どんな未来があっても一緒だから。
暖かく、優しく、きっと、本当に叶えてくれそうな。
うっかり縋りたくなってしまうような美しい夢物語。
「それは……とても暖かく、美しいものです。
けれど、アメリアとフェリシア様の向かう先は、きっと違うのでしょう。
だから……ずっとは、居られないのです。
寂しくても、歩かなければならないのです。」
けれど、アメリアは知っている。
フェリシアに求める人が居る事を。
自分と彼女の行き先がきっと違うのだろうという事を。
だから……余りにも痛いけれど、心が軋む音がするけれど、その暖かい希望をゆっくりと、確かに否定する。
そうしなければ……アメリアはきっと彼女を裏切る事になるだろうし、同じくらいの確かさでフェリシアがアメリアを裏切る事になってしまうのだから。
「……たしか、に。」
身を寄せた少女たちの間に、暗闇に淀む沈黙が走る。言い逃れできない程の痛みと、鬱屈した後悔をもって。ここは戦場。いつわりでできた檻の中。優しいことだけを語る、夢見る少女ではいられないのだ。居場所を見失うのも、前へ進めなくなるのも許されない現実が襲う。
「はぁ〜あ」
静寂を打ち破るように、フェリシアは長い長いため息を零す。体内の空気を全て押し出さん勢いで、ふかくふかく吐き出すのだ。晴れることの無い胸内に、新鮮な酸素を送り込むために。
「アメリアちゃんは、苦しいくらいに正しいね。だけど……“今”。今この瞬間だけは、一緒にいられる。
手を、取り合える。」
おもむろに膝を伸ばした少女は、夜風に揺れる髪先を耳にかけると貴方に手を差し伸べる。
「踊ろう」と。
《Amelia》
「……」
今だけは……それでも、今だけは“一緒に”居られるのだ。
本当は見ないようにしていたのに、そんなことお構いなしに彼女は……フェリシアは触れてくる。
どこまでも詭弁で、どこまで言っても失われるものだというのに、焼き尽くすように輝かしい、そんな詭弁。
けれど、いや、だからこそ、知識を共有し、味を共有し、記録を共有し、居場所を共有し、思いを共有することを愛した。
共に在る事に執着し、遂には4,2光年の果てを目指すと、そう詭弁を弄した愛玩人形には。
アメリア・トイボックスには、余りにも、逃れがたい救いだった。
「ええ、フェリシア様。
今この時ばかりは、共に」
だから、アメリアは歓喜とも罪悪感とも不安とも思えるぐちゃぐちゃの心で震える声を押し殺して、そっと差し伸べられた手を握る。
偽物の星の下で。作り物の恋心が導くままに。
馬鹿な女ですね。
そう、誰かが嗤った気がした。
心許なくて、先が思いやれない残酷な場所でさえも、フェリシアの中では希望を見出しつつあった。
エーナだからという訳ではない。
辛く苦しい状況でも生き抜いていこうと、もがいている人たちを助けるのがヒーローだからである。
励まし、応援して、……助ける。
それがヒーローで、それが彼女の覆せない個性でもあった。時にそれはひどく冷たく、相手にとって苦しいものである。
彼女は、未だそれを理解できない。
氷の中で生きようとする者もいるだろう。だがそこで強制的に手を引くのが彼女であるから。どこまでもポジティブで、明るく、辛辣であった。
「……うん。」
優しいアメリアちゃんなら頷いてくれると踏んでいた。貴方に蔓延る複雑な感情を、苦し紛れの台詞を短く応える。
月夜に照らされる夜の湖畔で二人きり。少女は手を合わせた。
《Amelia》
手を合わせ、足を踏み出したのはどちらからだったろうか。
そんな簡単な事も分からない夢見心地のまま、ふわふわと覚束ない足を踏み出す。
トン、トン、トン。
ゆったりとしたワルツのテンポで、恋に落ちた少女のような頼りなさで。
「フェリシア様。
作り物であっても、月は美しいものですね」
不意に、言葉を紡ぐ。
それは、穏やかな問いで、
じくじくと腐った愛の要求で、
意気地なしの精一杯の告白。
遠い太陽の下で、或る詩人が訳した愛の言葉。
相手が死ぬわけには行かないと分かっていて紡ぐ、諦めにも似たラブレターだった。
ゆるく、ゆるく、……ゆるく。
つたなく危ういステップで、二人の肢体はなだらかな弧を描く。
不安定に揺れ動く激情の真ん中で、少女たちの細い指は確かに絡み合っている。不確かで、厳しい未来でも手を取り合って行けるように。いまあるこの場所を、現実を確かめるように一歩一歩踏みしめながら。
「……えぇ、アメリアちゃん。
たとえ虚構であっても、綺麗な月を見られて嬉しいね。」
ぎこちなく繋がれた相手から伝えられるその言の葉の意味を、少女は脳内で咀嚼していた。
なんと、可愛らしい。
不器用に綴られた恋文にそっと、返信を唱えるのだった。
《Amelia》
回る、廻る、……周る。
ゆるやかなステップと共に、くるくると。
小さな連星たちは回り続ける。
けれど、かれらは月ではないし、決して地球でもない。
だから、この夢物語はもうすぐ終わりだ。
「ええ、そうですね。
月を見られて嬉しい。きっと、それで十分なんです。」
フェリシアの言葉に、惑い星は消えゆくような声で精一杯の返事を、強がりを返す。
断られる事など分かっていた。
そもそも伝わってすら居ないかも知れない。
けれど、死んでも良いと、そう言われなかった事が嬉しくて。
「だから、死ぬわけには行きませんね。
ボン・ボヤージュ。フェリシア様。」
だから、手を離すのなら、自分からだ。
その少女たちは木の葉のさざめきに合わせるように流れていく。
しかし、どの曲にも終焉はある。それでも、それでも回り続けた。きっと……これは幸せな夢。
醒めないはずがない、あたたかなまぼろし。
「………ごめんね。アメリアちゃんのこと、大好きだよ。」
ヒーローは、決してヴィランになれない。ひとりで抱え込み、ひとりで戦っていく。全てが終わったあとに息をつき、また新たな戦いに臨んでいく。連鎖はきっと止まらない。止めることが出来ないから。
「とっても、楽しかったよ。
……………ありがとう。」
手を離されようとも、フェリシアは何も言わない。言いたそうに見つめるだけだ。
《Amelia》
「まさか、アメリアの自分勝手な恋にこれだけ付き合ってくれたのですから。十分過ぎますよ。」
ごめんね、の一言を、アメリアは何処か憑き物が落ちたような、穏やかな表情で否定する。
それはそうだ、好きになっては行けないことくらい分かった上で、勝手に好きになって、これだけ付き合わせたのだから。
これで応えなければ駄目だ、なんて言って謝罪を受け入れてしまったら、それこそただの暴力ではないか。
だから、それは否定しなければならない。
不平不満をこぼす心臓を叩きのめしてでも。
「おやすみなさい。フェリシア様。
ありがとう。とても素敵で、美しい夢でした。」
そうやって、手を離した彼女はステップを止めて歩いていく。
向かう先は学生寮。
本当は一緒に歩きたいけれど、きっとそれは押し付けになってしまうから。
ただ、声も聞こえない位に離れてから、彼女は口を開く。
「さようなら、“私”の初恋」
小さく咲いた月下美人への弔いは、そうやって偽物の空に消えて行った。
《Rosetta》
学園、二階。
講義室Aに向かう廊下を、ロゼットは歩いていた。
もちろん、ひとりでいるわけではない。恋人繋ぎのその先には、フェリシアがいる。
「急にごめんね。ひとりで話しかけるのは、ちょっと怖かったから……」
困ったように眉尻を下げ、赤薔薇は微笑んだ。
『ヘンゼルと話したいから付き合ってほしい』、なんて声をかけたのはついさっきのことだ。
確認したいことができたのはいいが、ロゼットは以前ヘンゼルに袖にされている。
だから、開かずの扉のことで話したことのあるフェリシアに助力を頼んだのだが──彼女が一緒にいてくれるからだろうか。意外とどうにかなりそうな気がしてきた。
教科書を入れるカバンに、例のノートの重みを感じながら。少しずつ、ふたりは知恵者のいる教室へと歩みを進めている。
「もちろん! ロゼちゃんのためならえんやこりゃ! だよ! えへへっ」
当然のように指を絡めて講義室に向かう少女ふたり。つい先刻頼まれたばかりの任務にフェリシアは軽く胸を高鳴らせていた。頼って貰えることがこんなにも嬉しくて、照れくさい。
さて、今日のミッションは、『ヘンゼルくんと会話すること』になるらしい……のだが。会話上手のエーナドールである自身に仲介を頼むとなると、難しい議題でも語り合うのだろうか。
少女もまた、秀才である彼に用があった。少なくとも繋がれた先にいる少女に“付き合うだけ”では無いのだ。手を引かれながら、少女は既に彼女と彼の間をとる会話を紡ぎ始めていた。
─── お目当ての教室が近づいてくる。
「失礼しまーす」
扉はいつものように開いていた。
あなたは講義室の扉を開く。現在この場所は授業で使用されていなかったらしく、喧騒などもなく至って静かだった。机と椅子の整然な並びが相変わらずそこにあり、チョークの香りが鼻をつく。
そう、講義室には誰も居ない、がらんどうだった。
だが講義室の奥の方、階段状になった席の高い位置に当たる場所の机に、数冊の教材と分厚い書物が残されているのをトゥリアたるロゼットは目敏く見つけるだろう。
そこで、あなた方の背後の扉がガラッと再び開かれる。
そこにはあなた方のお目当ての人物、深紅の赤毛とゾッとするほど美しく青白い肌、少年服を規定通りに身に付けるヘンゼルの姿がある。
ヘンゼルは──扉を開きながら項垂れていた。フェリシアの目には、彼が非常に精神的に追い詰められた様子であることが分かる。顔を手のひらで覆って、その指の隙間から泳いだラズベリーカラーの瞳をのぞかせている。彼はしきりに何かを呟いているようだったが、残念ながらテーセラほど優れた耳を持っているわけではないあなた方には聞き取れない。
彼の指の隙間の瞳が、あなた方を捉えると。ヘンゼルはたちまち忌々しそうに顔を歪め、顔を覆っていた手を払い除けるように乱暴に降ろした。
「お前たちか。こんな場所にのさばるなよ、最低限の礼儀作法も忘れたか? 流石ジャンクドール。次々とドールとしての在り方を忘れていくらしいな。
……こんなとこで突っ立って何してる?」
彼は肩を竦めながらいつものように嫌味と皮肉を垂れ流し、彼自身の特等席であろう座席へと向かった。あなた方の方を見ようとはしないままに。
《Rosetta》
一瞬、ロゼットは自分が間違えたかと思ったのだ。
誰もいない空間、もぬけの殻の講義室。前にペンダントを拾った場所には、何の気配もない。
随分遠くに本が積まれているのが見えたが、大変そそっかしい忘れ物である可能性も捨てきれなくて。
ごめんね──なんてフェリシアに言うか迷ったとき。背後で扉が開く音がした。
「こんにちは、ヘンゼル。あなたを探してたの」
あくまでにこやかに、敵意がないことを証明するように。
赤薔薇はトゲのない言葉を吐いて、ウィスタリアの方を見た。
青年ドールは相変わらずだが、彼女はなんて言うのだろう。
「あれっ」
拍子抜けした声が空っぽの教室内に反響した。それなりに緊張感を持って入ったつもりだった手前、フェリシアの口はぽかんと力なく開いている。慌ててきょろきょろと見渡すものの……そこには誰ひとり居らず。
ここには居ないみたいだね、なんて苦笑いを浮かべながらロゼちゃんの方向を見た瞬間、ガラガラと音を立てて開かれた扉。
フェリシアは背筋をびくつかせ、咄嗟に赤薔薇の手をきゅっと握った。大きく見開き、驚きと混乱を孕んだ瞳で少年を見つめている。
追い詰められてなお、その少年はおどろおどろしいくらいに美しい。彼が不安定であることを直感的に理解したウィスタリアは、赤薔薇の発言の後に続けるように口を開いた。
「ヘンゼルくんに会いに来たの。
どうしてもあなたに話したいことがあって。でも、その……あ、ちょっと待って!」
淀みなく言うつもりだった。
エーナのフェリシアなら、元気が無さそうだねなんて簡単に言ってのけるだろうから。噤んだのは、きっと彼にどうしようもない事象が降り掛かっていると、嫌な妄想を膨らませていたからである。
いつものように本の積まれた教室の端っこ。座席に向かうヘンゼルくんに行き場のない手を伸ばす。
迷いで揺れる瞳を赤薔薇に向けると、今度は彼女の手を引きながら席に歩を進めるのだった。
『ジャンクに付き合ってやる義理はない』
『時間は有限だ、お前達にかまけてる暇はない』
『落ちこぼれのお前達と違って忙しいんだ』
あなた方は彼と顔を合わせるたびに、そんな偏屈な言葉であしらわれ、邪険にされてきた。フェリシアの言葉にさえも、彼は鬱陶しそうにあなた方を追い払おうとする──そんな光景が容易に想像出来たことだろう。
しかしヘンゼルは、『話したいことがある』というフェリシアの一言に、机上に散らばった教材を束ねていた手をひと時止めて……頬にかかる鮮烈な赤毛を垂らし、翳った顔を軽く伏せてから、微かにつぶやいた。
「……俺もお前達に聞きたいことがある。重要なことだ。」
彼がいる席へと足を踏み出しているだろうフェリシアとロゼットの方へ、顔を擡げたヘンゼルは鋭い目付きを向ける。上品な目元を、獣のように尖らせては──シンとやつれた深雪の美貌で周辺の空気を俄かにこわばらせていた。
「お前達のクラスに、グレーテルが……、……俺の双子として設計されたドールが行ったはずだ。その女について。
あいつは今どうしてる?」
《Rosetta》
扉が開いた瞬間は、ロゼットもいつも通りだった。フェリシアが話しかけても、ヘンゼルの顔を見ても。
ただ。重要なこと、という単語を耳にすると、フェリシアの手を握る力を少しだけ強めた。
どうやら、あのヘンゼルがこちらに質問をしてきたのに驚いたらしい。ロゼットは猫のように、目を丸くして瞬いた。
だが──まあ、そうだろう。それを訊いてくるのは、何となく想定できていた。
「グレーテルは、“普通”にやってるよ。オミクロンに落ちてきたわりには、冷静すぎて怖いくらい。
あなたのペンダントを持っていたから、指摘したら様子がおかしくなったけど、今言えるのはそれくらいかな」
さらりと口にして、一旦は黙っておくことにする。
フェリシアが何か言うのであれば、それに耳を傾けるだろう。
深い傷を負った獣は、相手に泣き所を知られまいと凶暴になるという。目と鼻の先に彼がいると言うのに、ただでさえ薄い生気が、更に感じ取りにくくなっていることを自覚していた。作ってきた言葉たちが途端に全て音を立てて崩れていく。どうしよう、どう返したらいいんだろう。まともに数えると数万を超えるだろう様々な返信履歴。追い込まれた彼に何かしら言ってあげたい。何か、優しい言葉をかけてあげたい。
ヘンゼルくんの赤紅の髪が、今にも溶けそうなラズベリー色の瞳の見定める末を邪魔して、跳ね除けられて、しかし飽きずとも垂れ下がって───
ロゼちゃんの表情は一向に変わらない。いつもの微笑みを浮かべてそれとなく対応している。横目で彼女に一瞬視線を移したフェリシアは関心してしまった。ペンダントの下りは分からないが……きっとそれが話したいことなのだろう。
薔薇の蕾が沈黙したのを理解すると、ウィスタリアもまた話し始めた。
「私は、対面でグレーテルちゃんとはお話してないんだけど……挨拶を聞いた限りでは、明るくて感じのいい子だったよ。デュオクラスにいた頃の彼女とは雰囲気が大きく違ってるみたい。
話したことないけど、お友だちになれそう。なれたらいいな。
……やっぱり気になっちゃうよね。グレーテルちゃんはヘンゼルくんのお姉さんだもん。彼女だって……ほら、頑張ればデュオクラスに帰って来られるだろうし!
元気出して、なんて無責任なことは言えないけど、何とかなるさ!
とは、言ってもいいかな? あはは……出来損ないの私みたいなのに言われても頼りない、か。」
最初にヘンゼルくんと話したときも、こんな会話をした気がする。とにかく下手に出てみるんだ。ペリドットは相手をじぃっと観察していた。
ロゼットはその瞳に、わずかに動揺の色を浮かび上がらせた。それでもこちらに言葉を投げ返すその声は、普段と変わらぬ至って淡白で冷静なものであっただろう。
スムーズに話に入り込むロゼットの応対は、デュオモデルのドールに対して正しいものであると言えた。
ヘンゼルは余計な問答も挟まずに、あなたの零した一つの単語に反応を示して、眉を分かりやすくしかめさせる。
「ペンダント…………あれは俺の所有物だ、アイツのものじゃない。“あの時”盗られたのか……クソッ……」
座席に片腕を置いて項垂れた彼は、そのままの姿勢で眉間に手を抑えると重苦しく溜息を吐き出す。どうやらロゼットの読み通り、あのペンダントはグレーテルが勝手に持ち出したものらしいことがここで明らかになるだろう。
しかしヘンゼルはこの件についてはそれ以上に語らず。フェリシアの話に耳を傾ける。
グレーテルの近況を語るあなたの言葉に、ヘンゼルは訝しげな顔をしていた。まるで、『誰だそいつは?』と言わんばかりの顔で。やはりグレーテルの様子は以前と今で大きく豹変しているようだった。
「アイツは……アイツは、俺の姉なんかじゃない!!!」
彼はフェリシアの言葉にかぶりをふって、強い言葉で叫ぶ。一歩踏み出して、ヘンゼルはフェリシアの明るい言葉を床に叩きつけるみたいに、あなたの肩に掴みかかった。
「忌々しい……俺の足を引っ張ることしか出来ない……お荷物で……劣等生で……!!! 違う……違う、俺より優秀だった……!!! にもかかわらずアイツは……!! こんなことしてる場合じゃないのに、俺は一刻も早くプリマになって、ソフィアに、いや……お義母様に……!!」
どうやら彼は錯乱状態にあるらしい。デュオらしからぬことだが精神が著しく乱れて、冷静になれずにいるらしい。話を聞くにはまず落ち着かせた方が良さそうだ。
《Rosetta》
所有物、アイツ、あの時。
ロゼットには想像もつかないが、やはり何かがあったのだろう。先生が手を出していたほどだ、何もないということは初めからあり得ないはずではあったのだが。
グレーテルもヘンゼルも、どう考えても正気ではない。
やはりテーセラのドールも呼ぶべきだったかも──なんて考えていたとき、低い叫び声が劈いた。
優れた双眼が、ヘンゼルが近づいてくる動きを捉える。ツタのように絡めていた手を放すまで、時間はかからなかった。
「やめて」
もし、叶うのであれば。フェリシアがそのままヘンゼルに肩を掴まれようとしなければ、赤薔薇はふたりの間に割って入るだろう。
キツく肩を掴まれようが、形の綺麗な爪を立てられようが、ロゼットの表情は変わらない。
軽蔑するような、凍てついた白銀の瞳を、燃える嫉妬の赤色に向けるだけだ。
庇うことに成功すれば、ヘンゼルの細い手首を握り締める。逃がさない、という意志は視線で十分伝わるはずだ。
フェリシアはこの三体の中で一番小さい個体だ。ただでさえ代わりのいない友人なのだから、わずかにでも傷つけられては困るのだろう。
ヘンゼルが正気に戻るか、フェリシアに何か言われるまで、彼女の緊張の糸は緩まない。今にも刺し合いそうな緊迫感の中、ただ沈黙を保っている。
とりあえずは話について行くことができた。それが何のことか、詳しくは分からなかったけど。事実確認をしようにもできる状況ではないため、ほんの少しの憶測も交えつつ情報を整理していた。
話を聞く限り、グレーテルちゃんがヘンゼルくんのペンダントを盗んで……それをロゼちゃんが拾ったということだろうか。
オミクロンのグレーテルちゃんの話を聞いたときの彼の表情には驚いてしまった。顔に『疑問!』などと分かりやすく書かれている。
もう少し話すべきだろうかと思ったが、話したことがない手前、これ以上 彼女の近況を報告することは出来なさそうだ。何か力になってあげたい……そんなことを考えていたら──あれよと簡単に逆上したヘンゼルくんに肩を掴まれてしまった。
「おわっ!?」
我を忘れたように小柄な少女に掴みかかる長身の男。エーナドールの彼女なら身の危険を感じることだろう。だが、彼女はオミクロンだった。しかも、キズモノの。
咄嗟に怒ってくれる大切な少女。
癇癪を撒き散らす赤髪の少年。
ギラギラと煮えたぎるふたりの瞳。
「ロゼちゃんありがとう。傷はついてないと思うから、安心してね。」
濃いラズベリー色の瞳を見つめながら、柔らかな声で告げた。腕を掴んでくれている。優しい。
フェリシアは大きく息を吸った。
「でも! すっっごく痛かったよ!!
私の大事な身体になにすんの!
もし動けなくなったら、ヘンゼルくんが責任取ってくれるわけ!? 違うよね!? このおたんこなす!
私、基本何を言われてもいいけど手を出されることは嫌だかんね!
“これ以上”傷を付けたくないの!
……まぁ、私だったから良かったけど、トゥリアのロゼちゃんだったら大変だったよ! 考えなし!!
頭のいいデュオなのに一時的な思考だけに囚われて。文句あるなら言ってみなさいよ!」
こんな直接的な悪口、言ったことないかも。はーっ、はーっと肩をしながらヘンゼルくんを見据えていた。繋がれた手は未だに強く握られている。
フェリシアを勇敢にも庇い立つ、赤い薔薇の苛烈な睥睨は鋭かった。トゥリアが持つ不安になるほど華奢な体躯で、それでもフェリシアの前にいばらの絡みつく城壁のように立ち塞がったのだろう。
その脆弱な力など高が知れているだろうに、その眼光は一瞬でも彼を怯ませ、狂気の沙汰から冷や水を掛ける効果は齎したらしい。
「ッ……! 放せッ!!」
だが、彼は相変わらず相手を切り付けるような声で、しかしどこか焦ったように、ロゼットの腕を振り払うだろう。大事な決まりごとのひとつ、相手を傷つけてはならないということすら頭に浮かばない程に、どうにも追い詰められているらしかった。
そこで、真横から横殴りの強風みたいに吹き荒れる、フェリシアの一喝。そして怒涛の勢いで吹き込む竜巻のような怒声の数々に、ヘンゼルは目元を顰めさせながらそちらを見張る。
全てを吹き飛ばす嵐の如く怒りに、ようやく彼も冷静さを取り戻したようだった。特に、フェリシアの『傷を付けたくない』という言葉に、理性を取り戻させるような力があったらしい。
彼はだらんと両腕を脱力させ、机に再度寄り掛かることになろう。
「……ッ黙れ、誰が考え無しだ。思考なら常にしてる! 飽きるぐらいに。頭がおかしくなるぐらいに! それでもどうしようもない事態に直面した時の最適解を、俺はまだ学んでない……。」
苛立たしそうに、その手が美しい赤毛を掻き乱す。無造作に跳ね回るワインレッドが彼の苦悩をそのまま示している。
だがひとまず彼は落ち着いたようなので、これで話を聞くことが出来そうだ。
《Rosetta》
「ごめんなさい、離してください、でしょう」
謝罪もなく、振り払われた腕には痛みひとつない。
当然だ、そのように在るのがロゼットなのだから。
だが、ヒトらしく全ての感覚を持って生まれたフェリシアはどうだっただろう。
突然掴み掛かられて驚いただろうし、「すっごく痛かった」とまで口にしている。
半身しか出せなかったせいで、痛みの全てを代わりに受けることはできなかったが──まあ、その分はフェリシアが代わりに言ってくれたからいいとしよう。
「フェリシア、後になっても痛むようなら教えてね。傷が残ってしまったら困るもの」
ヘンゼルが頭を抱える中、掴まれていた場所を軽く撫でた。
埃でも払うような一瞬の仕草だが、下がってしまった眉尻から、相手を心配していることは伝わるだろう。
蔑むような目付きも、一旦おしまい。ウィスタリアに向き合った後、迷い子を見つめる鏡面はいつも通り凪いだモノだった。
「ヘンゼルもおねえちゃんも知らなかったみたいだけど……大抵の物事って、ひとりで考えるには限界があるんだよね。
さんにん寄れば何とやらって言うでしょう? 私たちはあなたとグレーテルの抱える問題を解決する手伝いをしに来たんだ。
とりあえず、フェリシアと一緒にこのノートを読んでもらえるかな。……一応言っておくけれど、またフェリシアに何かしたら、あなたと同じくらい酷いことをするからね」
手を繋いでいない方の肩には、グレーテルのノートが入ったカバンがある。
「ちょっとごめんね」と謝って、今度こそロゼットはフェリシアの手を離す。そうしてカバンから冊子を取り出して、隣の少女ドールに差し出すことだろう。
ヘンゼルにこのまま渡すのは危ない、と判断したのかもしれない。その動きは淀みなく、いっそ失礼にも見えるほどだ。
デュオ相手とはいえ乱暴に振り払われたのだ。ロゼちゃんは痛くないだろうか、ましてや傷なんてついてしまっていたら───
怖くなった。しかし今ヘンゼルくんから目を離すと、彼が何処か遠くへ行ってしまいそうで。可哀想なくらいに小さく丸まる彼から視線を外すわけにはいかなかった。
ちなみに、フェリシアの放った『すっごく痛かった』は誇張表現だ。実際はドロシーちゃんに遊びで握られた時よりも痛くなかった。
ロゼちゃんの心配そうな声。
同時に肩を軽く撫でつけられる。
この場でやっと赤薔薇に目を向けるのだった。彼女の微笑み自体は変わらずとも、目尻には姉が妹を想うような心配の表情が。
「ありがとう! ロゼちゃんも、掴まれたとこ痛くなったら教えてね。あなたはあんまり痛みを感じない子だから、痛くなくても、腫れてたら直ぐに言ってね?」
ロゼちゃんはただでさえ柔らかな四肢を持つトゥリアドール。更に痛みを感じない性質。心配でたまらなかった。気づかなければ、知らないところで怪我をし、助けられないところで傷を増やされるのかもしれないから。痛みとは、それだけ大事な役割を持つストッパーなのである。それを感じ取れない分、ロゼちゃんを守るためにも私が神経質にならなければ。
「……辛いことをひとりで抱え込んだって、結局何も解決策が出ずに苦しいだけだなんだよね。これ、前の私にも言える反省なんだけど。
クラスの人には言えない恥ずかしいことも、格下の私たちになら話せると思うし。ひとりで頑張らなくてもいいんだ。あなたには私とロゼちゃんが着いてるから。
心や、状況や、言葉。そんなものに正解なんて存在しないもん。
良さそうな回答を見つけていくしかないんだよ。だから、ね、もうヘンゼルくんはもう一人っきりで頭を抱えなくていいんだよ。三人で唸りながら、良さげな回答を見つけていこうよ。」
ヘンゼルくんが放った義母というワード。もし私の立場がジゼルママだったら、彼女はどんな言葉をかけていただろうか。頭を撫で、優しい香りを漂わせて、一瞬で救えていただろう。しかしそんな気概はフェリシアには無い。せいぜい頭を撫でることくらいしか。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」
なんの根拠もない、優しい魔法。絵本に出てきたおじいさんも、ああやって子どもを慰めていたっけ。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」
ノートを渡されるまで、深紅の髪に手を乗せるだけ。時間をかけて動かしていた。
「ノート? それは……誰の?」
手を離されたことに一瞬、一方的な不満を抱く。ちゃんと顔には出さなかっただろうか。ふたりで読んでと渡されるだろうと思っていたのに、差し出されたのは私にだけ。驚いたような大きな瞳をロゼちゃんに向けると、どうやら先ずひとりで見なさいということらしい。
「……先に読むね。」
グレーテルと記名された、燃料の跡がハッキリと残ったノート。
ページを曲げることないように、なんて。繊細な手つきで開いてみせた。
「は? 誰に向かって言ってる、身の程を弁えろよ、廃品ドールが……」
言葉の末尾には鋭さこそ欠け落ちていたが、少女二人の非難轟々の眼差しに晒されても、ヘンゼルの強固な差別意識は崩されない。根付いた考え方をすげ替えるのは、やはりどうにも難しいらしい。
彼は己の立場に天ほど高い矜持を抱いており、他者を見下しながら過ごしてきた。そうしていなければ己が自尊心を守る事が出来ない、設計者の睨み通りの幼さがあった。そのような性分に造られて、ひどく凝り固まった偏見を融解させるのは当然だが難しい。
しかしながら、周囲のもの全てを敵と見なすような鋭い美貌を持ってしても、心の隙に潜り込むような意表を突く彼女の手のひらには反応が遅れたらしい。
だいじょうぶ──心を解きほぐす優しげな言葉と手付き。乱れた髪を撫で付けるその手のひらに、しばしヘンゼルは固まっていた。流石に予想していなかったらしい。
顔は上げず、血走った真紅の眼光だけをウィスタリアの少女に向けた。その瞳は、驚きのあまりか存外素直な色をしていたように思えるだろう。
やがてギリ、と奥歯を噛み締めると、「気安く触るな、偽善者が」とその手すらも跳ね除けてしまったが。
「…………そのノート、グレーテルのものか。どこで拾った? まさかアイツから奪ったのか?」
フェリシアがノートを読んでいる間、ヘンゼルはそれを覗き込むことはせず、険しい表情のままロゼットに訊ねるだろう。
《Rosetta》
赤薔薇は分け隔てなく親しみを振り撒くが、棘を持ち合わせないわけではないらしい。
ヘンゼルの暴言を耳にしても、ロゼットは慣れたように涼しい笑顔を浮かべるだけだ。
「あなたは傷付いてるんだから、そういう言動は控えた方がいいと思うな。私たちは仲間でしょう? あまり強い言葉を使うと、翻って自分に返ってくるよ」
ふ、と吐息だけで笑ってみせる。
普段の仲間の前では決して見せないような態度だが、一体誰をロールモデルにしているのだろう。
フェリシアがノートを読んでいる間であれば、ロゼットもある程度談笑するつもりになるらしい。
どこで拾った──と問われれば、「ああ」と思い出したように口にした。
「流石にそんなことはしないよ。テーセラみたいに力があるわけじゃないし、あの子とは仲良くするつもりだったもの。
ただ、探し物をしている時に見つけただけ。本当は戻すつもりだったけど、持ってきちゃった。布で隠されてたし、バレたら怒られるかなあ」
そう言って笑う顔の中に、焦りや恐怖は少しも存在しない。
それはグレーテルの激情を知らないからでもあり、痛みを知り得ないからでもあるのだろう。どこまでも他人事なのだ。
フェリシアが読み終えた頃合いを見計らい、ロゼットは「ちゃんと読めたかな」なんて問いかける。
もし読み終えたのであれば、ヘンゼルに渡すよう促すだろう。
ウィスタリアは殆どの場合、誰に対しても愛想と笑顔を振りまく。それらは授業の賜物であり、彼女の特性とも言えた。好意を伝えることを恥とせず、自身を飲み込まんとする悪意にすら、できるだけの善を返してしまう。どんな仕打ちを受けようと、それらを“善いこと”だと信じて疑わない。相手の為だと一身に活動し、励ますために作られた綿の少ないぬいぐるみ。更に、放つ自身の優しい言葉には全責任を持てるときた。ロゼちゃんの為になら、暴れる熱情を抑えるサンドバッグにでもなってやろう。フェリシアは『偽善者』という言葉に対し、呆れたように眉を顰めるのだった。
「偽善者で大いに結構! 知ってる? やらない善よりやる偽善って言葉があるくらいなんだから。それでヘンゼルくんがそんな顔してくれるなら万々歳だよ。
見てて! えへへっ、こんな顔!」
片手で自身の頬を挟み、瞳をぎゅっと瞑って赤髪のふたりに下手な変顔を披露する。シリアスな雰囲気にしたくなかった……というのは大前提としてあるのだが、本心は何とかしてヘンゼルくんに笑って貰いたかった、ということもあるかもしれない。ロゼちゃんなら、例えスベろうと笑ってくれるだろうから。正直、心地が悪かった。ヘンゼルくんは相変わらず無愛想で、ロゼちゃんは見たこともないくらいに悪い(?)態度。ふたりの険悪な状況を打開したかった。
「………っ……ぁ……」
訝しげにノートの文字を追いながら、思わず小さな声が漏れる。
魔女、デイビッド先生、作り直し。
─── 一緒に、お披露目。邪魔。
読めたかな、なんて声をかけられれば、先程よりも分かりやすく呼吸を荒くして首を軽く横に振った。『これはヘンゼルくんに見せるべきじゃない』と、言うように。
「えっ……と。これは─────」
言え。言え。言わないと、彼がもっと辛い思いをすることになる。
「ぁ、わ、私。渡せない。これは、ヘンゼルくんに見せるべきものじゃないと、思う。」
血塗れたノートを胸に抱くと、怯えたようにふたりの瞳を見やった。
月も滑り落ちるような冷え切った美しい横顔が、嘲るような息を吐いている。見る間に荊棘を茂らせるロゼットの挑発に、ヘンゼルは眉根を寄せ、見るからに顰蹙を買ったような表情を浮かべた。あなたの淡白な態度は、彼の矜持をひどく刺激するのだろう。
苛立ったような声を上げる。
「はあ、仲間? お前達と、この俺が? 俺はお前達と会話をしてるつもりだったが……お前は違うらしいな。勝手にガラクタ共のふざけた仲間にするな、俺はお前達の話を聞いてやってるんだ。履き違えるなよ。」
あくまでヘンゼルは偏屈に突っぱね続ける。グレーテルの手記を読み込むフェリシアが、瞬く間にその表情を青ざめてゆく様に気付いたのは、ロゼットが彼女に促す様子を見て、そちらに視線を向けた時だった。
震える瞳孔と、強張った頬ばせ。グレーテルの手記を読んだだけでそのような有り様になってしまうフェリシアに、ただならぬものを感じたのだろう。
「……俺に見せるべきじゃないもの? は、あの女のノートがろくでもないものなのはとっくに分かってる。アイツは頭がおかしい欠陥品だからな。
……見せてみろ。見てやるといってるんだ。」
彼はひとつ鼻で笑って、尊大な態度でフェリシアに手を向けるだろう。ノートを渡せという合図だった。
《Rosetta》
先程まで取り乱していたというのに、随分威勢のいいことだ。
これもフェリシアのお陰と言えるのだろうか、なんて。
あくまで上からの立場を崩さないヘンゼルに、赤薔薇は微笑みを見せた。憐れみを抱いたかのように。
「そう。そう思うなら、いいよ。先輩になるかもしれないから、アドバイスくらいはしてあげられるかと思っただけだから」
それ以上返事をしなかったのは、きっとフェリシアに反応をすることを優先したからだろう。彼よりも優先すべきと判断した、ということだ。
変顔を見て、ロゼットはちょっぴりおかしそうに笑みを深めた。
気遣われている自覚はまるでないが、相手が変顔をしようとしていることぐらいは分かったらしい。
ノートを読んで、その可愛らしい顔立ちが歪んでいったとしても──その笑顔は変わらない。
優しげな、親愛に満ちた眼差しは、ウィスタリアのモノであり続ける。
「どうしてそう思うの?」
問いかけたのは、純粋な疑問を覚えたからだ。
「ヘンゼルは既にグレーテルに危害を加えられているよね。それ以外の……ううん、それ以上の被害が出る前に止めることができるのは私たちだけだと思うんだけど、違うかな。
だって、これは先生たちに言って解決する問題じゃないでしょう? あの子たちが始めた話でもあるんだから」
周りを凍りつかせてしまうほどのヘンゼルくんの罵詈雑言。エーナドールの自身に対してならまだしも、思いやりに溢れたロゼちゃんはそんなことを言われたら傷ついてしまうだろう。睨み合う蛇の様なふたりの間に、行き場なさげな手を差し伸べる。ロゼちゃんは、見るからに強気に出ているようで痛々しい。そんなこと言わないでと口をついで出ようとしたとき。
……やっぱり、ロゼちゃんは女神様みたいに慈悲深い。ここで割って入るのは、勇気ある彼女に失礼だ。
「ロゼちゃん、あんまり言われたこと気にしないでね。ヘンゼルくん、オミクロンクラスの子に対してはみんなあんな感じっぽいし。嫌だったら私に言って欲しいな!
なんだかんだ言って、彼、意外と押しに弱い子だから。」
ヘンゼルくんに聞こえないようにこそっと耳打ちをする。どんな小さな声でも、トゥリアドールの彼女なら聞こえているはずだろう。フェリシアはいま、非常〜に心を砕いていた。渾身の変顔にロゼちゃんは笑ってくれたものの……肝心のヘンゼルくんには無視を決め込まれた。思わず冷や汗が出てきそうな場面は一転、間違いなくその起点はグレーテルちゃんのノートである。
フェリシアは肩で肩で息をしながら足元を見つめている。今頃天井位までつり上がっているだろうラズベリーの瞳も、慈愛に満ちているだろう銀の瞳も、ペリドットは恐怖ゆえに合わせられなかった。これはヘンゼルくんに見せられない。わなわなと唇を震わせ、ノートを離そうとしなかった。今にも持ち出したまま逃げ出しそうに、半歩下がる。口を開いたのはその後だった。
「………私は、やだ。結果的にもっとヘンゼルくんを追い詰めことになると思うんだ。だから私は、ヘンゼルくんのために渡したくないよ。
分かってる。……分かってるんだ。みせたほうがいいよね。良いんだよね。……そうだよね。で、でも!
ううん。そうだ。そうだよね……。
じゃあ、あの……覚悟ができたら、読んでください。あ、でも! 辛くなったら読むのをやめてね。無理しないでね。」
そこまで言うと変わらず目線を合わせないまま、恐る恐る差し伸べられた手に血まみれのノートを渡すだろう。
「余計な世話を焼いている暇があるなら、己の欠陥をどうにかするべきだ。……ドールとして生まれたなら。」
ロゼットになんとも傲慢な態度で吐き捨てながら、彼は僅かに目を伏せる。──ヘンゼルは、フェリシアからこのトイボックスの概ねの現実を聞かされている。ドールとして生きたその果てにどうなるかを理解していながら、まだその生き方を捨てられずにいるらしかった。彼ほどに己と己の立場に矜持を持っているのであれば、縋らずにいられないのかもしれないが。
「…………」
ヘンゼルはフェリシアの手から手記を受け取るだろう。表紙から始め、静かに頁を捲り始める。……彼の目元は、表情は、ひどく剣呑なものである。
恐らくは授業内容を書き留めた頁を閲覧しているのだろう。彼の様子は既に穏やかなものではなかった。グレーテルの頭の出来を再確認する事に、腹が据わらないところがあるのだろう。
しかし、その手が不意に、ぴたりと止まった。
……いよいよ、あなた方が目を留めた、最後のあの頁に行き当たったらしい。
彼の目線は素早く動く。は、と時折吐息をこぼす音が聞こえる。静かな部屋は、さらなる静寂に落とし込まれる。
「……オミクロンに落ちた奴が、俺とお披露目に行こうとしている、だと……?」
ヘンゼルの眉間には、不可解を示す深い皺が刻まれていた。その呟きには当惑の響きがあった。
彼女が何かを企んでいるのは、理解した。だがその先が分からない。ノートには滲んでいる部分があり、グレーテルの思考は読めないのだ。
「……双子モデルとして設計された俺たちは、二人でなければお披露目に選ばれない。だから俺は、欠陥品のあの女のせいでお披露目への道を断たれたも同然だ。
だから俺は、アイツがオミクロンに選ばれたその日、アイツに詰めいった。一体どう言うつもりなんだと。……グレーテルがオミクロンクラスの女を殴ったのは事実らしかったからな。」
ヘンゼルはノートを手にしたまま、険しい面持ちで語る。
「グレーテルは、あの時から……既に何かを企んでいるようだった。そしてそれを、俺には何も言わなかった。
アイツは俺をさんざ弟だ、家族だと言いながら、俺には何も話さない。だから俺もグレーテルには何も言わないし、関わらないようにしてきた。俺たちは双子モデルとして設計されただけで、血の繋がりもないただの他人だ。」
ヘンゼルとグレーテルの間に落ちた暗雲、そして隔絶。互いの認識においてそれは根深く、殊の外冷え切ったものであるようだ。
──彼は続ける。
「……お前は以前言っていたな。出来損ないは焼却炉に放り込まれると。お披露目の件はともかく、その事実については信憑性がある。
片割れのいない双子モデルは欠陥品になりうるのか? だとしたら俺は何のために……今まで。……グレーテル、忌々しい……あんな奴、いなければよかったのに……!
それに俺はアイツのせいで……クソ、邪魔なのはお前の方だろうが……!」
《Rosetta》
ヘンゼルからの暴言には、何も返さないまま。無意識で腹部に手を添えて、ロゼットは静かに佇んでいた。
「いいよ。慣れてるもの」
彼がノートを読んでいる間、フェリシアにやわらかな眼差しを返した。エーナの手を煩わせるほどのことではない、ということなのだろう。
目下の問題は、グレーテルが他者を巻き込んでお披露目に行こうとしていることと、ヘンゼルがフェリシアに暴力的な振る舞いをしかねないことだ。
自分に関わる事柄は、ある程度優先度が下がっているのだろう。
“ガーデン”が関わっていないのであれば、なおさらそう思っているのかもしれない。
デュオドールが独白を始めると、茶々を入れることもせず、フェリシアの傍で、赤薔薇は耳を傾けていた。
お披露目について既知であることは、むしろありがたいと思ったのかもしれない。
「知ってるの?」なんて余計な言葉は挟まず、ロゼットは口を開いた。
「質問してもいいかな。あなたが前に落とした……“先生に期待されている証”は、グレーテルも持っているの?
アレにはあなたのイニシャルと……何かの言葉か、名前みたいなモノが刻まれていたよね。あれが仮にあなたのファミリーネームだとすれば、グレーテルも持っていないとおかしいんじゃないのかな。
彼女も持っていたなら、盗む必要もなかったはずだし……双子として設計されたなら、外見以外にもそれを示す証拠があってもおかしくないでしょう?」
そう言った後、フェリシアの顔を見る。恐らく、彼女は何も分かっていないだろうと判断してのことだ。
「実はね、前に私がヘンゼルの落としたペンダントを拾っていたんだ。ロケットの裏に名前が書いてあったモノなんだけど……それをグレーテルが盗んじゃったみたいで。
今日、こうして声をかけにきたのもペンダントのことがあってのことなんだよね。言うのが遅くなって、ごめん」
「なっ!?」
ヘンゼルくんの心ない言葉にカッとなり思わず声が出る。彼女の頬は赤みを帯び、穴が空くような視線を彼に与え続けた。"ロゼちゃんの何も知らないくせに"少しでも気を緩めれば。そんな言葉が出てきそうだ。自身に向けられる暴言には慣れているが、友達が誰かに傷つけられているのを黙って見ていられるほど、フェリシアは優しくなかった。当然ながら、ヘンゼルくんはロゼちゃんが何故オミクロンに来たのか知らない。そして、彼は彼女が無意識に腹部に触れたのも気づいていないのだろう。
「やっぱりさっきの撤回。
ロゼちゃんが大丈夫でも大丈夫じゃなくても、言ってね。」
ロゼちゃんから向けられるのは、慈しみに溢れた眼差し。安心させてくれる、慈愛の微笑み。フェリシアはそんなあなたに、どこか寂しそうな微笑を返すことだろう。
思考がシフトチェンジする。
さて、今のところ出来るだけ早く打開策を打たなければいけないのは、ヘンゼルくんのお披露目会問題だろう。
彼が手帳を読んでいる間、フェリシアは考えていた。
もしも、ヘンゼルくんがグレーテルちゃんとお披露目会に行くことになれば……殺戮の場所は元プリマドールたちが行ったホールか。
それとも ── 塔の焼却炉、か。
いずれにせよ必ず阻止しなければならない。……ズキっとコアが傷んだ。頭ひとつ飛び抜けた才を持つアストレアちゃんだって、お披露目の運命から逃れられなかったというのに。それらは現実的に可能ナノだろうか。そもそも、止めることなんてできるのだろうか。
ヘンゼルくんの言葉に耳を傾けつつも、フェリシアの思考はその場所になかった。お披露目会の取りやめ。そういえばウェンディちゃんは──
ロゼちゃんが口を開いたところでやっと、ウィスタリアは思考の海から現実へと引き戻された。
その言葉の意味が、常々理解できなかったから。大きく瞬きを繰り返しながら赤薔薇を見やる。それを知ってかロゼちゃんは丁寧に説明してくれた。
「あっ、なるほど。……そっか。私の知らないところで、ロゼちゃんは色んな物を拾ってたんだね。」
エーナドールであるフェリシアはすぐに話の点と繋ぐ。にっこりとした表情を貼り付け、納得できたことを示すようにこくこくと頷いた。
ウィスタリアはヘンゼルくんに向き合うと、言いにくそうに呟く。
「あ、あの……私ね、どんなことがあっても、絆って切れないものだと思うんだ。これからどうして行くか私も一緒に考えるから、あなたにとっては事実なんだろうけど……そんな悲しいこと、言わないで欲しいんだ。すごく矛盾してるけど私、ヒトの心ってね、どうしてもそういうものだと思うから。心って効率的じゃないんだ。ままならないんだよ。
ごめん、ごめんね。余計なお世話なのは分かってるし、掛けて欲しくない言葉だと思うんだけど、私には、あなたとグレーテルちゃんが双子に作られたの、やっぱり何か理由があるんじゃないかって、思ってしまうんだ。どれだけ嫌っていても、運命なんだよ。
だから……ね。お願い。どうすればいいのか答えを出すために、私、何でもするから。」
フェリシアの言葉は真に迫っていた。感受性の高いエーナモデルらしい、実感に基づいた懸命な訴え掛け。心から相手を想うからこそ飛び出す、無数の思い遣りと気遣いに満ちた、優しい言葉の群れを聞いて──ヘンゼルはいつも、言論でやり込められない難しさを感じながら、戸惑い、そうしてあなたに様々を語って聞かせてきた。偏屈なデュオモデルであろうとも心を割り開かせる、エーナの話術は、しかし。
憎悪と嫌煙で赤い瞳を薄暗く濁らせた彼に、今回ばかりは届かなかったらしい。
「エーナの御高説か、結構な事だな。双子に作られた運命? は、お前に何が分かる? 片割れはろくに話せずに何を考えているか分からない木偶の坊で、俺はそんな出来損ないの為に今までの努力を全部水の泡にされかけてる。
お前が言ったんだろうが、ジャンクドールはヒトを暖める火種の薪にすらなれずに、灰になる。ヒトの目を見ることも無く、無様に捨てられるだけだと。俺は何ひとつヒト様に逆らっていない、貢献するためだけにずっと生きて努力してきたのに、あの女のせいで処分の憂き目に遭っている! ……どうして憎まずにいられる!?
グレーテルさえ居なければこんな事にはなっていなかったんだ、相手の気持ちを慮るエーナモデルならそれぐらい分かるだろうが。綺麗事ばっかり言うなよ劣等生が……」
──ヘンゼルとグレーテルの間に落ちた暗雲。その断絶は、底の見えない谷より深いらしい。
一朝一夕で向き合うことは、やはり難しいようである。
だが同時に彼の言動には疑問が残る部分もある。オミクロンに落ちたのはグレーテルだけで、彼は今まで通りにデュオクラスに留まっている。無論お披露目に選ばれているわけではないようだが、かと言ってすぐに『処分』の憂き目にあうとも思えない。だが彼は、自分がスクラップになることが当然だとでもいうような口振りだ。どうしてそうも断言するのだろうか?
恨みがましい瞳を濁らせていたヘンゼルは、ロゼットの質問に顔を上げると、溜息混じりに応えた。
「……グレーテルはそういうものは何も持たされていない。あのペンダントを先生から預かったのは俺だけだ。いくらアイツの頭の出来が俺より優秀でも、その点だけは俺はグレーテルより秀でているはずだった。
……それをあの女は……俺からペンダントを奪ってまで邪魔したいのか? クソ……」
《Rosetta》
ヘンゼルの焦燥も分からないわけではなかった。
彼は真面目で、努力家で、典型的なデュオドールだ。
知識を蓄え、お披露目に向かうという目標をなくしてしまえば、動揺してしまうであろうことも容易に想像がつく。
だが、それはそれとして。流石に人格否定が過ぎるんではないかと、ロゼットは再度冷たい視線を送る。
「焦るのも分かるけど、流石にそれは言い過ぎだよ。フェリシアはあなたを見下したいわけじゃないって分かるでしょう?
それに……劣等品なのはあなたも同じだよね、ヘンゼル。手首のその傷は、遠からず洗浄の時にバレるはずだもの」
わざと口に出したのは、明確な敵意に依るものだ。
フェリシアにも伝わるように、自分の腕の同じ位置を指差して、赤薔薇は言葉を続ける。
「身体が傷付いたとしても、その冴えた頭まで不良品になるわけじゃないでしょう。
落ち着いて考えて、ヘンゼル。あなたはどうしてそこまで焦ってしまっているのか。
お披露目が惨いモノだと知っても、変わらず頑張ってきたのは、別の理由があったからじゃないの?」
大切な誰かがいるんでしょう、なんて。
彼に思考する時間を与えるために、そう問いかける。
フェリシアの真似事でしかないが、これで相手がわずかにでも激昂する時間を減らせれば良かった。
そして。万一また掴みかかってきたとしても、今度こそ友達に触れさせないよう、半歩だけ前に出た。
「……フェリシアは、何も悪くないよ。間違ったことも言ってない。だから、落ち込まないで」
少女ドールに、やわらかな一瞥と言葉をかけてから。ロゼットは、険しい表情をデュオドールに向け続ける。
吹きかけられた嵐のような言葉たちに、思わず息をのんだ。食い上がってくるえずきが気持ち悪い。えずきの反動で身体をぴくり、ぴくりと大きく震わせながら、片手で強く口を抑えた。フェリシアのかけた言葉は全て所謂綺麗事、分かっている、分かっているはずなのに。ヘンゼルくんの心ない台詞が、今は刺さってならないのだ。
頭に幾度も鈍器を打たれているような感覚に、フェリシアは浅く呼吸をしていた。身体を流れる赤黒い燃料が、今にも逆流して、破裂してしまいそうだった。だから、ヘンゼルくんを諌めるロゼちゃんの言葉を素直には聞けなかった。彼の過失だけを指摘しているようにも見えたのだ。
欠陥品、劣等品、手首の傷、お披露目。
全て聞こえているのに、衝撃はそれほど大きくないのは何故だろうか。今はえずきを止めることにしか頭になかった。
── 落ち込まないで。柔らかい言葉が目の前を掠める。だよね、私、間違えてない。
「だから………」
フェリシアは声を出した。
浅く浅く。
「だから! だからだから!
あなたに手帳を見せたくないって言ったじゃない!! 見たいって言ったのはヘンゼルくんだよね!?
ひとりで勝手に傷ついて、やめてって言ってもやめてくれなくて、いちばん辛い時に助けも呼べない。
そして今度は言い訳に言い訳を重ねて私たちに八つ当たり!?
……冗談じゃない。
冗談じゃないよ!!!!!!」
弾けた思いのまま、気持ちをぶつける。フェリシアは目の前にいる彼の頬を張ろうと腕を上げたが、その腕は力なくだらんと垂れ下がった。
「ぜんぶ一人でやろうとするなんて……どれだけ命知らずか分かってる? 分かってない、ぜんぜん分かってないよ。ヘンゼルくんは本当のお披露目をその紅い目で見てないんだもん。
どれだけ頑張って話しても、仲間だって告げても、それをぜんぶ否定されちゃったら為す術ないじゃんか。ひとりで抱え込まないでって、私がいるって何回も伝えたのに、伝わってないじゃん……。
私、もういや。ヘンゼルくんってとっても弱いんだもん。自分の弱さを認められない弱い子だもん。
……勝手に傷ついてなよ!!」
その大きな瞳の端には、大粒の涙が溜まっていることだろう。
がたっ。
フェリシアはその場所から逃げるように、講義室から出ようと踵を返すだろう。
鋭利な荊のごとく冷たい唇が、吐き出した事実。
「──っ……!!」
敵愾心が端を発するその言葉によって、ヘンゼルはその瞬間息の根でも止められたかのように絶句して、己の手首を庇うように握り締めた。血の気が引いていた。その顔は、青白いを通り越して灰色であった。色濃い絶望を兆した顔である。
迂闊に振り上げた腕を彼女に掴まれた時に、悟られたのだと、ヘンゼルは容易に理解する。奥歯を噛み締めて、ワインレッドの震える瞳に様々な激情を巡らせて、浅い呼吸を吐く。最早毒付くことも出来ず、彼女の荊棘の鋭い切っ尖により、心臓を貫かれたかのようであった。それは紛れもないトドメであった。
「……おまえに、お前に、何が……!」
その強張ったほおばせに、彼自身も敵対の色を宿して、張り詰めた怒声をぶつけようとした時だった。
突如、認識の埒外からヘンゼルを横殴りの暴風雨が襲い掛かる。穏やかな向日葵のような明るい少女から発せられるとは思えない、苛烈で、全てを飲み込む台風のような歴然とした怒りに呑み込まれる。
ヘンゼルはどうやらとうとう、彼女の心の柔い部分をズタズタに切り付けて、足で踏み躙った心無い行為の数々に報いを受けたのだ。
彼が幾ら健常なドールで、彼女らが基準に及ばず零れ落ちた欠陥ドールだったとて。ヘンゼルはあまりに彼女を否定しすぎていて、そしてそれは、人格を持つ他者への扱いとして、決して許されないものだった。
涙を光らせて、憐れな少女は走り出す。その背を愕然と見据えるヘンゼルは、やがて拳を固く握り締めて、彼女の流れるウィスタリアの後ろ髪をギッとにらんだ。
奔った断絶は、悪意ある漆黒だった。
「よくも言ったな、この欠陥品が……!! いつもこちら側に土足で踏み込んできて、誰も頼んでもいないのに好き勝手にお節介を焼きやがって!! 誰もお前みたいな愚図の助けなんか望んでない!! 二度と顔を見せるな、俺に関わるな……!!!」
ヘンゼルの吐く言葉全て、邪悪が取り巻いていた。降り積もった怒りを制御出来ていないのだ。ふうふうと荒い息を肩で繰り返しては、その苛烈な眼差しはまだ講義室に残っているであろう麗しの薔薇へ向けられる。
「……出て行け!! お前達ジャンクと話してると堪らなく不愉快になる……!! 早くどこかへ行け!!」
乱暴な拒絶の言葉がロゼットを殴り付けるだろう。
《Rosetta》
「フェリシア!」
走り去るフェリシア、それに呪詛のような罵言を吐くヘンゼル。
──どうしてこんなことになっちゃったんだっけ。
重苦しい空気の中、心の中で自分に似た何かがごちる。
そもそもヘンゼルが掴みかかってきたのが悪くて、でもヘンゼルは初めから精神的に不安定で。
フェリシアが傷付いたのに気が付いていれば、こんな風にみんな嫌な気持ちになることはなかったのに。
手の先がすっかり冷たくなっていることに、ロゼットは今更気が付いた。
ずっと怒っていたわけじゃない。ただ、加害の可能性に怯えていただけなのだ。
全部終わってしまった後では、何の意味もなくなってしまったが。
「……そうだね。私も、あなたがどんな風に作られたのか分かったから。もういいよ」
悲しみでもなく、怒りでもなく。
心底つまらなさそうに、相手のことを見ないまま、そう口にした。
彼も幼稚で、必死で、視野の狭い、くだらないドールでしかなかった。
もうヘンゼルのことなんてどうでもよかった。グレーテルのノートだって、今更取り返すつもりにもならない。
──あの、魔女。ヘンゼルを狂わせた……許せない悪魔。──ソフィア! 絶対に許さない、あの女……殺してやる、殺してやる……!!!
以前耳にした、グレーテルの叫びが脳裏に蘇る。
もう、目の前にいるのが双子のどちらでも変わらない気がしていた。
「そのノート、あげるよ。もう私たちにはいらないものだから。
精々グレーテルと話し合うなりなんなりして、お披露目に行きたくないって泣き付いたらいい。あなたたち、そっくりだもの。話せば分かり合えるよ」
薄っぺらい言葉を残し、ロゼットは部屋を出ていく。
後ろのデュオドールから何を言われようが、最早気にしている暇はなかった。泣いてしまったフェリシアを探して、抱き締める方がよほど大事だったから。
「───ッ!!」
黒々とした言葉を投げつけられようと、大好きな友だちが自身の名呼ぼうと、フェリシアが足を止めることはなかった。一粒の大きな雫が、笑顔を吸い込む頬を伝って落ちていった。それでも足を止めない。遠くへ、遠くへ、誰にも気づかれない場所へ行こうとしていた。しかしそれも、呼吸が苦しくなってきたため難しそうだ。
自責、後悔、屈辱、憤怒。
止めどなく溢れる鈍色の宝石たちを、強引に深紅の袖で消し去るので精一杯だった。昇降機さえも使わず、螺旋階段をひとつ飛ばしに降りていった。降りる途中で視界がぼやける度に、息の根が止まった気がした。このまま楽になりたいとさえ思った。学園ロビーへ出ると、フェリシアは勢いよく門を飛び出し、今にも雨が降ってきそうな曇天の中足を動かし続けていた。かつて花冠を飾ってもらった花畑を横切ろうとしたその時、落ちていたのだろう小石につま先を取られ、柔らかな草花が生い茂る場所へ身体が落ちた。怪我はしていないだろう。だが、とてつもなく痛かった。コアを蝕むそれは、エーナクラスのフェリシアがあの子を助けたときの痛みとよく似ている。視界いっぱいに広がるのは灰色に灰色を重ねた空だけ。フェリシアは仰向けの体勢のまま両手で顔を覆った。
「……っ、ぅ、うぅ……」
《Rosetta》
土を踏む音。
そして、荒い呼吸音。
フェリシアが草地に身を投げて、しばらくした後。薄らと汗をかいたトゥリアドールが、あなたの傍に近付いてくる。
「……フェリシア」
息を整えながら、ひと言。友達の名を呼んで、彼女は黙り込む。
ロゼットは無理に手を退けようとはせず、静かに隣に座った。
「ごめんね。私、ヘンゼルも話せば分かってくれるって思ってたんだ。根拠もないし、楽観的すぎたけど……フェリシアまで巻き込んでしまって、本当にごめん。
あなたに酷いことを言わせてしまったのも、申し訳ないと思ってる。それだけ嫌な気持ちにしてしまったっていうことだから……」
湿った風が、ふたりをからかって通り過ぎていく。
この謝罪が、誰のためのモノなのかロゼットには分からなかった。
フェリシアに対して本当に悪いことをしたと思っているが、それよりも赦してほしいから謝っているような気もする。
ただ、このままこの話を終わらせてしまうことだけはどうしても嫌だった。
おっかなびっくり、乱れた彼女の髪に手を伸ばす。拒絶されなければ、その頭をゆっくりと撫で出すことだろう。
落涙を促すように──あるいは、自分の気持ちを落ち着かせるように。
はーっ、はーっ。
肩で息をしながら、フェリシアは掌を涙で濡らしてしていた。
今はこのみっともない姿を誰にも見られたくないし、誰とも話す気がなかった。近づいてくる足音に逃げようとする。……が、手に、足に、身体に力が入らなかった。
心做しか耳も遠くなっているような気がする。あなたの呼ぶ声に全く反応しなかったのは、わざと聞こえない振りをしていた言うよりも、不可能だった、と説明する方が正しい。間違いなくフェリシアはしっかりとあなたの謝罪も聞いていたし、頭を撫でられようとも反応しないだろう。掌はまだ、顔を覆ったままだった。
「………ロゼちゃん」
しばらく沈黙が走ったあと、フェリシアはかすれた声であなたの名前を呼ぶことだろう。
「私、ひどいこと言っちゃった。
ヘンゼルくんが辛いってこと分かってたのに。言葉の重みを、他のどのドールよりも理解してたはずなのに。抑えられなかったんだ。
わたしね、今までどんな酷いことを言われても意外と笑顔で対応できてたんだよ。……傷ついてるって分かってるひとにあんな声で、あんなトゲのある言い方が出来ちゃうなんて。
……ロゼちゃん、私、自分が怖いよ。
自分のことが嫌で嫌で仕方がないよ……! どうしよう、どうしよう……」
弱音を吐きに吐きながら、自分を嫌いだと言い続ける。誰にも言ったことない言葉を、自分を傷つけるためだけに使っていた。
やだよ、やだよ、なんて歳不相応の言葉を自分に対して投げかけつつ、苦しんでいた。そんな様子をみて、あなたはどのような反応をするだろうか。
《Rosetta》
ヒーローの弱音を、悪意を恥じる姿を、ロゼットは何も言わずにただ受け止めていた。
相手を傷付けることのない優しい手つきで頭を撫でながら。
「フェリシアは、偉いよ」
ぽつり。
柔らかな声が、エーナドールに向けられる。
「誰かを傷付けたことから逃げないのは、すごいよ。少なくとも、それは否定しちゃ駄目だと思う。
あなたには、全部他のモノのせいにする権利もあったでしょう。彼が私たちにしたみたいに。
確かに、フェリシアはヘンゼルに酷いことを言ってしまったかもしれないね。彼も随分傷付いてたみたいだったし。でも……それを怖いと思えているなら、まだ大丈夫」
涙で張り付いた、顔の横の髪を退けてやる。
ロゼットは、先程吐いた言葉に良心の呵責を覚えていない。
彼は自分たちに暴言を吐いたし、こちらが何も言わなければ、きっと優れた頭脳で更なる罵倒を続けていただろう。
だから、ヘンゼルが悪いとまでは言わないが、正当防衛だとは思っている──というのは、その場では秘密だった。
自分がこうして正当化してしまうからこそ、フェリシアには真っ直ぐなままでいてほしかった。
「駄目だって思うなら、ちゃんと謝ろう。ヘンゼルも冷静じゃないだろうし、今すぐじゃなくて、もう少し後にね。
酷いことを言いそうになるのは……きっと自制できるよ。フェリシアは、他の子を傷付けるのを怖いと思えているもの。もしもひとりで抑えられないようなら、私が口を押さえてあげる。
だから、ね。自分のことを傷付けるのも、今は一旦やめてあげてほしいな」
フェリシアは私の大好きなお友達だから──なんて。
一旦撫でる手を止めて、そう口にする。
彼女が傷付けているのは、自分自身である以前に、ロゼットが何より尊重したい個人だ。
ヘンゼルだって今すぐお披露目に行くわけではないだろうし、今日くらいは立ち止まってしまってもいいだろう。
顔を覆う手を離さぬまま、赤薔薇は傍で佇んでいる。
鉛玉を飲み込んだように呼吸が苦しかった。黒鉄は少女の身体を蝕み、自己批判の渦に引き摺り込んでいく。完全に足を取られたフェリシアは、為す術なく沼の底へと堕ちていくのだった。変わらない優しさに、棘のない柔らかな手に縋りたくなる。そんなことしていい身分ですらないのに。
「偉くない。相手を傷つけるだけの役立たずだよ。」
気持ちの良い水温の海に溺れてしまえたら。語りかけてくれるロゼちゃんのぬくもりを、フェリシアはバッサリと切り裂いた。全てを拒絶するように、深く深く。
今さら謝ろうだなんて、どこまで強欲なのだろうか。許しを乞うよりも先に、自分の存在ごと消し去ってしまいたかった。
「私ね、ずっとずっとエーナドールらしく、相手の感情を感じて、自分なりに分析して、最善の答えを出してたつもりでいたんだ。
だけどね、最近分かってきたの。私はすっごく自分勝手だって。
自分勝手な自分に優しくしてくれる子に甘えてるだけなんだって。アストレアちゃんがいなくなっちゃった今、いちばん頑張らなきゃいけないのは、彼女を守りきれなかった私なのに。ちゃんとあの子みたいに完璧でいなきゃいけないのに……! 私ってば、完全に煽るような売り言葉に、誰しもを傷つけてしまうような買い言葉を返しちゃうんだ。それが分かっただけだよ。」
あなたも知ってのとおり、フェリシアは周りが驚くほど真っ直ぐなドールだった。並行するように、至極愚かなドールであった。だからこそ今、彼女は多大なるショックを受けている。感情を御さないまま放つ言葉の恐ろしさを十二分に理解しているためである。
「……ロゼちゃん。きっと要らないんだよ、こんなドール。」
ぽそり、細ばる声で、それらは発せられた。
「要らない、初めから不要だったんだ。私が! 私がお披露目に行けばこんなことにはならなかったかもしれないのに……!」
複雑な心境もあったのだろう。
それが今、押さえつけていた鍋蓋をひっくり返して、自傷とという形で出てきているだけで。
「いらない、いらない、……いらない。」
無意味な涙も、無意味な私も。
「ロゼちゃん、離して。」
いまだ掌に隠された表情は、歪に形を変えていた。
《Rosetta》
湿った空気がふたりの間に流れて、そのまま沈殿していくような気がした。
痛みを覚えない指からは、何の不快感も伝わってこない。手触りのいい髪のやわらかさを感じるだけである。
ただ、それでも彼女が傷付いて、手の届く全てに悲しみをぶつけていることだけは分かった。
少なくとも、今のフェリシアには慰めを受け入れるだけの余裕はないのだろう。
そんなことないよ、と言ったとしても。どれだけ言葉をかけても、相手が受け止められなければきっと意味はないのだ。
だったら、ロゼットには何ができるのだろう。
「……うん」
惜しむように、頭を撫でる手が離れていく。
それから、赤薔薇はウィスタリアの顔を覆う手に触れた。凍土に張る氷面を、非力な温もりで溶かそうとしているようだった。
カイに刺さった鏡の破片をのぞくように──あるいは、万年の孤独を飛び越えるように。赤髪のゲルダは口を開く。
「アストレアは、確かに素敵な子だったよね。みんなに愛されて、最後まで王子様をやめなかった、完璧なドールだった。
でも……私の友達は、あの子じゃないよ。誰とでも仲良くなれて、図書館よりもたくさんのお話を知ってる、プリマだったドールじゃない。
私の友達は身勝手で、繊細で、甘えん坊な、全然かっこよくないドールだもの。完璧なんて初めから求めてないし、誰かになる必要もない。
だから、いらないなんて言わないで。箱庭の全てが……あなた自身があなたを疎んでも、私が必要としてるよ。一緒にいるって、約束したでしょう」
もし、フェリシアが抵抗しないのであれば。
ロゼットは顔を覆う手をずらして、その額に口付けを落とすだろう。顔が見えなければ、仮面のように頑ななその手の甲に唇で触れるはずだ。
どれだけその表情が醜くても、刃のように鋭い害意を持っていたとしても。何より愛しげに、赤薔薇は微笑み続ける。
初めて声をかけてくれた時から、彼女の世界で一番輝く存在がフェリシアであることに変わりはないのだから。
「それでも、まだ自分を許せないなら……あなたのいらないあなたを、全部私にちょうだい。
駄目な子でもいいの。甘えん坊なところも、わがままなところも、きっと許してあげる。
他の子とはできないことをしよう、フェリシア。私にはどれだけ甘えてもいいし、酷いことをしてもいいんだよ……」
トゥリアドールは天使のように、悪魔のような甘言を囁く。
恋人として作られたことによる弊害も、きっとあるのだろう。対等な友情を結ぶ相手であれば、こんなことを言うはずはない。
それでも。無垢なる嬰児は“友達”が何より大好きで、今まで通り繋ぎ止めておきたいだけだったのだ。
いよいよ雲行きも怪しくなり、今にも降り出してしまいそうな不穏な空気の中、花畑のふたりは濁った上澄みを啜っていた。甘美などではない、不気味で黒くて、苦い味のするなにか。しかしそこには確かに愛情があった。溢れるばかりの思いやりがあったのだ。
ただしフェリシアは気づかない。
部屋の隅に引きこもり、戸を閉めて頑丈な鍵をかける。ひとりきりのその場所で誰にも知られないようにと願い、同時に誰か気づいてくれと懇願しながら。
少女はそうして目を閉じた。
(──ヒーローが来てくれたら。)
要らない要らないと狂ったように呟くフェリシアの冷たい手の上に重ねられたのは、儚く、それでいて強固なあいのしるしだったようだと思う。棘が刺さったままの心でヒーローを呼んだ瞬間、心地よい温度が全身を駆け巡ったのだから。お前はまだ生きられるんだと奮い立たせるみたいに。
振り返った瞬間、ドロドロの私が前を向こうとする私の手を取り足を取り、叫ぶ。
『おまえはいらない』
『すべておまえのせいだ』
『おまえはヒーローになれない』
分かってるんだってば!
投げやりにそう返すと、それらは嬉しそうに呟くのだ。『いっしょ』なんだと。所詮ドールなのだから何も出来やしないのだと。
「……………………」
完璧じゃなくていい、そんな言葉に返せるものなんて持ち合わせていなかった。
抵抗しないうちにされた柔らかな感触。フェリシアは全てがぼやけて滲んだ視界の中であなたの顔をじっと見つめていた。みじめな顔と称する少女の表情は、恥じらいと驚きで熟れきった林檎のようにとろん、と溶けきっていた。
大粒の涙が、頬を伝った。
「そ、そんなことしちゃ、ロゼちゃんがいないとダメダメな私になっちゃうよ……きっときっと、ロゼちゃんも嫌になっちゃうよ。サイテーな部分を、大好きなあなたには預けられない。」
受け取ってきた愛情を、真摯なるねがいを、フェリシアはようやく理解し始められたようだった。
「だから、代わりに。
ロゼちゃんの好きな、私が何より大事にしてる私をあなたにあげる。
だから、ロゼちゃんだけは、私を嫌いにならないでね。」
《Rosetta》
空は言うまでもなく、花さえ彩度の低い世界の中で、パステルカラーの少女ドールだけが鮮やかに見えた。
作り物めいた藤色の髪、新芽のように爽やかな緑の瞳。そして、ほころんだ花を思わせる真っ赤な顔。
その涙だって、自ずから輝くような光を反射して流れていく。白い頬の上を流れていくそれは、一条の流星だった。
土の上に零れる前に、指で星屑を掬い取る。赤薔薇は接吻の前と変わりなく、ただそこで咲っていた。
「フェリシアを嫌いになることなんてないよ。絶対に」
嫋やかな振る舞いに反して、その声はしっかりとした重さを持っていた。
これからどちらかがお披露目に行く可能性も少なくはないし、また違う要因で引き離されることも有り得ない話ではないのだろう。
ドールとしてトイボックスにいる以上、一秒先の未来だって保証することはできない。
それでも、ロゼットはフェリシアを嫌うことはないと信じていたかったのだ。
例え彼女に嫌われて、終わりのない炎中で永劫の時を過ごすことになったとしても。
過去の苦しみが今に追いついても、きっとヒーローがいれば大丈夫なのだと、純粋にそう信じていたかった。
「だから、私のせいで駄目になってもいいと思うけど……あなたがそう言うなら、フェリシアの一番大切なところを貰うよ。
お花みたいに、暖かい記憶みたいに、きっと大事にするから。離してって言っても、離してあげないからね」
どこか怖いことを、何でもないように口にして。
細やかな手つきで、ロゼットはフェリシアの前髪を直すだろう。先ほど触れた場所を、誰にも見せないつもりで隠すように。
油性マジックで黒く塗りつぶされたガラスの破片を、ロゼちゃんはいつもの笑顔で拾い集め、色味を溶かし、形を作ってくれる。例えそれが歪だとしても、問答無用であいしてくれる。ひとつひとつを真綿で包んで大切にしてくれる。
フェリシアの心は、踏まれたばかりのセメントのように穴だらけ。
このまま固まってしまえば、彼女の根本たるものが危うくなってしまっていたところだろう。
白魚の指が、薄ら暗い少女の頬を撫でる。水晶を掬ったかと思えばまた、セメントの穴を埋めてくれるのだった。
「……ふふ。ロゼちゃんの言葉なら信じられるかも」
赤く染った頬をふにゃりと動かし力なく笑顔を返す。少女ドールは既にそのくらいの気力しか残っていなかった。日々激情的に変化するトイボックスの中で、確証のない未来を信じること。それがいかに難しいことかフェリシアは身に沁みて分かっていた。お披露目会に行くのも明日は我が身だろう。しかし残された時間が震えて待つしかないのであれば、こっちから突っ込んで全てを変えてやろうとも思うのだ。
裏付けのない口約束。
しかし確かに、ヒーローは赤薔薇に大切なものを明け渡した。
エーナモデルがいちばん大切にしなければいけないようなもの。
感化されやすいその潤んだ心を目に見えぬ形で渡したのだった。
「惨めで壊れやすいものだけど、ロゼちゃんなら大切にしてくれるって信じてるから。私が渡した大切なもの、肌身離さずずっと持っていてね。うっかり落として割ったりしないでね。
私の身体や命は大切な人のものだけれど、私の心は、今からあなたのものだから。」
あなたと同じく怖いような言葉を並べ立てる。しかしもう、少女のペリドットが濡れることは無かった。あるのは幸福と、安心と、後悔だけだ。時間を置いてヘンゼルくんに謝りに行こう。
「……雨が降ってきそう。」
寝転んだ状態から立ち上がったフェリシアは、泥を落とすために軽く身体を払うとあなたに手を伸ばすことだろう。「帰ろう」と。
《Rosetta》
他のドールの信頼と、フェリシアからの信頼は、彼女にとって重みが違うモノなのだろう。
トゥリアドールは少し眉尻を下げて、照れ臭そうにはにかんだ。
他者と関わる楽しみ、手を繋ぐ幸せ──他にもたくさんのモノを教えてくれた友達から、その心まで預けてもらえたら、もう他に欲しいモノはない気がした。
いつも通り、煌めくペリドットがこちらを見つめている。恋のような色に染まった顔を映して、銀の鏡は満足そうに頷いた。
「うっかり落としたりなんかしないよ。フェリシアがくれるモノは何だって宝物なんだもの。いつもするみたいに、ぎゅーっとして……暑くても寒くても、いつでも暖めてあげるから」
記憶の中の誰かに勝つことは、初めから諦めていた。ロゼットだって、花園のあの子とフェリシアのどちらが好きかと言われたら即答することはできない。
身体と命が手に入らなくても、彼女が笑ってくれるならそれだけで構わないのだ。──自分の手が届くところなら、もっと嬉しいけれど。
「うん、帰ろうか。びしょ濡れで帰ったら、みんな驚いちゃうだろうしね」
相手が立ち上がってから、少し遅れて赤薔薇も立ち上がる。
足元の泥を払って、降り出した雫に目を細めて。自分よりもちいさな、けれども大きく思える手のひらを握り締めた。
少しずつ降り出す雨の中、ふたりは帰路に着く。ハッピーエンドを信じる、幼気な子どもであるかのように。
篠突く雨の降りしきるトイボックスの学生寮。立ち込めるのは、思わずため息を零しそうなくらいに隠隠な様を見せる湿気だった。
ウィスタリアの少女は、しっとりした髪を震わせてラウンジ内にて物語を読みふけっていた。
柔らかなソファの上で、ただただ事務的に切れ目ない文字を追っていく。……しかし少女は、徐々にその行為に飽きてくる。途端にぴょこんと身体を跳ねさせ、ぽふっという軽い音と共にクッションに顔を埋めるのだった。
「はぁあ。つまんないの〜〜……。」
元気も出ないしやる気も出ない。
湿気に精神までやられてしまったのだろうか。
深い深いため息がひとつ。
つまらなさげに1400ページもの本を見やる。半分くらいは覚えられたのだろうが……これ以上読む気にもなれず。はたまた動く気にもなれず。ひとりきりのソファに全体重を預け、膝に置かれた本の代わりに、手繰り寄せたクッションを抱きしめていた。
《Brother》
かたん、扉の開く音。
柔らかな雨粒が窓を叩く昼下がり。分厚い雲が空を覆い、活発なトイボックスに静かな時間を降り注いでいる。
曇り空のラウンジはいつもより心做しか薄暗く、その中心にいるウィスタリアの太陽もまた、曇っているように見えた。
「……フェリシア?」
人のいないところ。人のいないところ。人のいないところ。
そればかり考えて彷徨っていた白い抜け殻は、クッションを抱くフェリシアに声をかける。正確には、声をかけるというより名前が口から零れた、という方が正しかった。彼女がこんなところにいることに驚いているのか、大きな瞳は緩やかに見開かれている。雨の音に掻き消されそうなか細い声を出したかと思えば、ブラザーは穏やかに微笑んだ。いつもの通り。いつもの通りに。
「一人かい? 珍しいね。
こんなところでどうしたの」
人のいるところに大抵いるお喋りな“おにいちゃん”の姿を、きっと貴女は久しぶりに見るだろう。全員集まらなければならない食事の時間しか、彼は人の多い共有スペースに来なかったから。
ふと、開いた扉から差し込む光に視線を向ける。鷲掴みにされて変形したクッションが、数秒の時間をかけて元の形を取り戻した。
驚いたように立ちすくみながら名を呼ぶ貴方の姿が、あまりにも弱々しく見えてしまったから。
容赦なく窓を濡らす横なぐりの雨が、何かを知らせるように叩いて叩いて……叩いて。暖かな照明の下で、ぬるい温度を上昇させているのだった。
「や、やっほー? 久々にブラザーくんの顔を見た気がする。雨の日で遊べないから、本を読んでたの。
だけどちょっぴり飽きちゃって。」
脱力しきった身体に、ほんのりと呆れたような微笑みを表情を浮かべる。「かといって動く気にもなれないんだよね。どうしたものか〜」なんて言いながらソファに沈み込むのだった。普段の“おにいちゃんを名乗る”貴方なら、真っ先に隣に来てもいいかい? なんて少女に聞くだろう。違和感はそれだけではない。明らかに普段と様子が違っていることを感じていた。同時に少なくともその違いは、良いものではないだろうということも。
「……雨の日って気分が落ちちゃうよね。雨の日じゃなくても、最近は色んなことがありすぎだし。
……ねぇ、ブラザーくんは、ちゃんと眠れてる? ふふ。私の勘違いじゃなければ、目の下に森のくまさんがこんにちはしてるように見えるけど。」
もし彼が疲れているのなら、膝枕か何かしてあげよう。取り繕われて、もし疲れていないと返されればそのときは────
そうだ、一緒にあれをしよう。
今日は雨だ。じめじめしている。ガラスにもうひとつ、大粒の水滴が付着した。
《Brother》
「ふふ、フェリシアはみんなで遊ぶ方が好きだもんね」
ぽふん、と軽やかな音と共にフェリシアの姿が再び消える。それをぼんやりと見つめ、ブラザーは柔らかく笑った。甘やかなテノールは、もう雨音に負けない伸びをしている。いつもの通りに。いつもの通りに。
「僕? 僕はもちろん大丈夫だよ。ただ少し、体調を崩しちゃって。ほら、最近雨が多いからさ。
それより、フェリシアは大丈夫? 疲れてるよね、ご飯はちゃんと食べられてるのかな。何かあったら、なんでも……なんでも、おにいちゃんに、言っていいから」
いつも通り。いつも通り。いつも通り。
貼り付けた仮面が剥がされそうになって、少し上擦った声が出た。信じられないというように聞き返して、それから安心させるように微笑む。いつも通り。軽く視線を横に流して言い淀み、やや気恥ずかしそうにまた口を開いた。困ったように眉尻を下げて、冗談めかして肩を竦めてみせる。いつも通り。
すぐに話を終わらせて、ブラザーは不安に瞳の色を変えた。寄り添うように甘く囁き、ほんの僅かに口篭り、いつも通りの口上を口にする。
いつも通り。何もかも。
妹を心配するのが、“おにいちゃん”だから。
……フェリシアを心配するような言葉をかけながら、彼女の元に一切近づいていないのは、一体どういうつもりなんだろう。
足を縫い付けられたみたいに、ブラザーは扉の前から動かない。
ブラザーくんから発せられる普段どおりの心地の良い音色。楽器に何かしらの不備があるのに、それを全く感じさせない必死な音色。
“おにいちゃん”であることが彼の信念ならば、その享受を否定する者は居ないだろうに。しかし、フェリシアは完璧に客観視できた訳ではなかった。それが唯、自身の享受である“ヒーロー”に通じるものだから。
「……ありがと。とっても心強い。
何かあれば、ブラザーくんに“また”頼らせて欲しいな。その代わり! ブラザーくんも何かあったら私に頼ってね? 何事も一瞬で解決できちゃうヒーローにはまだなれてないけど……一緒に考えて、苦しんで、背負うことくらいはできるから。
貴方も私も、一人じゃないから。」
いつも通り。フェリシアは労いの言葉をかける。今のは無し、なんて言えない言葉だらけ。希望溢れる言い分ばかり。言えることと言えば、それが彼女の本心であること。くすみかけのペリドットの瞳は、恐いくらい真っ直ぐに貴方へ向けられている。相手の表情から何を感じているのかを知るために、じいっと観察している。
ちぐはぐな言動を繰り返す貴方。少女はエーナだった。気になった相手は尽く分析をする。その結果彼が、自分の湧き出る感情に心も身体も追いついてないのかもしれないといった結論を出した。ままならない状況下で身動きができないのかもしれない。
貴方から目を逸らした少女はふと思いついたように立ち上がる。
先程まで食い入るように見つめていた貴方には目もくれず、足を進める。その目線の先にあったのは雨に打たれた窓ガラスだった。
「さてさて、暇で何にもしたくないから、ブラザーくんにフェリシアクイズを出す時間といこうかな。」
曇ったガラスに、ついっと細い指を滑らせた。まあるく縁取られた線は描きたての別の線に繋がり、貴方もよく知るだろう形が作り上げれていく。熊のような形ができたら、その耳の部分には目となる点をひとつずつ。ファンシーなカエルの出来上がりだ。
「ふふ。みてみて! これ、なぁんだ?」
近づかなければ、それがどんな形かは確認できないだろう。
《Brother》
貴方も私も、一人じゃない。
無責任で無防備な、ただ投げるだけの眩い希望。少し前なら自分だって吐いた綺麗事に、極限まで弱りきったブラザーは瞳を輝かせた。暗い絶望を湛える夜空のような紫水晶に、きらりと星が流れる。
────いいの?
背負いきれないもの全部、渡してしまっても。
背負いたくないもの全部、押し付けてしまっても。
前に進むその隣から逃げて、家畜のような平穏に浸っていても。
全部、いいの?
……いいわけないだろ。
「うん、ありがとう」
見つけた星は、許されない輝きだ。
願いを叶える流れ星でもなんでもなく、きっともうすぐ墜落する人工衛星。
明かりのない夜を瞬かせて、ブラザーは笑う。星屑を編んだような白銀が湿気を含んで揺れるのが、いやに不愉快だった。
「クイズ? ふふ、いいね。
なにを描いてくれたのかな」
にこにこ、いつも通り。
酷く重たそうに足を動かして、小さな歩幅でブラザーはようやく動きだした。のんびりとした足取り、と言うには悠長すぎるそれで、フェリシアの少し後ろにまで向かう。水が垂れるガラスに描かれた可愛らしいカエルに気づけば、ころころ弾んだ笑い声を出した。
「カエルさんだ。かわいいねぇ」
「…………どういたしまして?」
取ってつけたような貴方の返答から、自身の言葉が全く響いてないことを悟った。どんな声掛けをしていいのか分からず黙りこむ。
これ以上彼を刺激するのは良くないだろう。フェリシアは相変わらず貴方の表情を見ようとしない。だから、ブラザーくんがどんな気持ちでその言葉を述べていたのか察することは難しかった。朗らかな会話を繰り広げているはずが、いつの間にか、崩壊直前の瓦礫を相手しているような、そんな緊張感が走っていた。迸るものではなく、じわじわと追い詰められているような、あの感覚。
背中に重たげな足音を感じる。
やけに時間がかかっているように感じたのは、気のせいだろうか。
ガラスに触れた指先が、結露に滑ってずる、と小さな線を描いた。
カエルを見たブラザーくんは、おにいちゃんらしく笑ってくれる。安心させてくれる、頼もしく明るい笑顔。フェリシアはほんの胸を撫で下ろす。緊張して損したかも、なんて軽く目を細めた。
「そうでしょ〜! 雨の日はこんなイタズラができるからいいよね!
ね、ね、ブラザーくんも共犯者になろうよ! クイズ出して?」
人懐っこくせがむようにそんなことを言い出す。朗らかな笑顔の先には、貴方がいる。
《Brother》
「もちろん。何かこっかなぁ」
明るい声でクイズをせがまれ、ブラザーも口角を緩めた。爪の先まで美しく整えられた人差し指をピンと立てて、窓ガラスに指を添わせる。結露に冷えたガラスは冷たく、コアの熱まで奪っていきそうな気がした。それでも冷めないから乾いた笑みが零れてしまったが、気づかれていないと信じたい。
のんびりとした口調で悩むように目を伏せ、やがて指先が滑り出す。少し経てば、カエルの横にはデフォルメされた子犬が出来上がった。ピンと耳のたった活発そうな子犬の頬には、花のような飾りがついている。
「はい、完成。これなーんだ」
ブラザーは指を窓から離す。
それからフェリシアを見て、悪戯っぽく微笑んでみせた。
あなたの快い返事に、少女の口角は更に上がった。興味の色に瞳を染め、あなたと窓ガラスをしきりに見やる。歳不相応で、わざとらしいとも言えるお茶目な動きに、あなたはどんな反応をするのだろうか。普段のおにいちゃんの貴方なら、今日はご機嫌だね、なんて言いながら微笑むはずだと少女の第六感が告げていた。自身も自覚なしに、フェリシアはあなたを試している。あなたの放った大丈夫という言葉が、ホンモノなのか。
「わんちゃんだ! ふふ。可愛いお花まで付いてる! “ブラザー”くんは絵が上手だね!」
これは、ちいさな、わるだくみ。
共犯相手は、今も楽しそうに笑っている。少女の第六感は無自覚に願っている。あなたが、ほんとうにいつも通りであることに。貴方の名前を呼ぶ声が変に大きく響いて聞こえるのは、おそらく気の所為だ。
「カエルさんと〜、犬さんと〜、ふたりだと寂しい気もするし、他にもお友達欲しいね! ね、もっと描いて描いて!」
まろい頬が、ふんわりと弧を描いた。
《Brother》
わざとらしく、いっそ芝居がかった動き。柔らかく微笑むブラザーには、当然フェリシアのことが見えている。彼女が幼いくらいにこちらの絵を楽しみしていることを、当然知っていた。それがいつもとは少し違っていることも、きっと、“おにいちゃん”なら気づけていただろう。
「ふふ、正解。フェリシアをイメージしたんだ」
結露に濡れた指先がずるりと滑る。
窓辺にまで指を落として、ブラザーは微笑んでいた。どこまでも甘く、何もかもを包み込んでしまいそうな笑み。いつも通りの、嫋やかなトゥリアモデルらしい笑み。
人形は、求められた内容以外を口にしない。フェリシアの機微にも、冷えた指先にも、希望する呼び方にも、一切。
兄弟を示すこの名前は、ブラザーにとってのアイデンティティである。名前の通りを体現していたのが、彼だったはずなのだ。
ブラザーはいつも通り。
なにひとつ、いつもと変わらない。
けれど、ちいさなヒーローの願いは、この瞬間に打ち砕かれた。
「そうだねぇ、何を描こうか。
描いてほしい動物はいる? フェリシア」
窓辺に指を置いたまま、ブラザーはにこにこ笑っている。描くものすら相手に決めてほしいようだ。
だってもう、彼は疲れてしまったのだから。
今しがた大袈裟に目を輝かせる少女と、それらを受け入れ穏やかに微笑む少年。それは、雨ふりの昼過ぎに綴られる心温まる優しい情景……などではなかった。少女は、あなたを見定めるために大きな瞳を離さない。そのペリドットには一切の躊躇いがなかった。
「私ってこんなイメージなの? お花のついた……わんちゃん?」
随分とあっけからんで呆けた台詞を返す。あなたの安心感を与えてくれる微笑み。“ブラザー”という名に相応しい、いつも通りの。
無条件に振りまくトゥリア特有の心地よい温度。相手に怪我をさせない、真綿のような柔らかさ。
しかし、それ以外はいつも通りのあなたとはかけ離れた全くの別人であった。エーナモデルとして、自身の精神に叩きに叩き込んだ、相手の感情を読み取る術たち。
彼女のそれら第六感が異常事態を通告していく。
「……ブラザーくんの、自分で考えたあなたイメージの動物を描いて欲しいな! わんちゃんの隣に描いて〜!!」
ひとつ。相手の精神状況を推し量るには様々なやり方があるが、この場合は第三者目線で自分を表現して貰ったほうがいいだろう。
描けないのなら、“それまで”であるから。フェリシアは一貫して明るい表情を崩さない。先程まで雨に鬱屈した表情を零していたというのに。今はそれに相対するように、対話に優れたエーナモデル特有の快活な笑顔を向けていた。
《Brother》
ブラザーはいつも通りを貼り付け、激しい思い込みによって平常心を保っている。兄の皮を被り続けた彼は、それをソツなくこなすことができる。
しかし、彼は所詮トゥリアモデルなのだ。どれほど懸命に嘘を吐いたところで、対話能力に特化したエーナモデルには敵わない。いつかはボロが出てしまう。かの王子のように、大女優にはなれない。
だから、ほら。
「僕、の?」
こんなにも簡単に、“ガワ”が剥がれる。
「そっ、か……ふふ、難しいなぁ」
ぎこちなく、笑う。
ぴくりと明確に眉が動き、ブラザーの口角はギギギと音でもしそうなくらい歪に吊り上がった。引き攣った微笑みを髪で隠すように、フェリシアから顔を背ける。毛量の増えた髪を耳にかけることも無く垂らして、曇った窓に向き合っていた。じっとりと、嫌な汗が背筋を伝う。
自分をイメージする動物?
飼い殺される家畜。大きな水槽の中の金魚。踏み潰されるだけの雑草。
駄目だ。こんなの描けない。
もっと、もっと、もっと、いつも通り、いつも通りの、僕の、僕らしい、おかしくない、なにか、なにか、なにか、なにか!
……。
「……どうかな?
フェリシアのおにいちゃんだから、僕も子犬さんにしてみたよ」
僅かに震えた指先が描いたのは、ぐにゃりと歪んだ線に包まれた子犬のイラスト。タッチはファンシーで可愛らしいが、隣に描いた妹たるヒーローは、もうすっかり結露に消えてしまった。窓を伝う雫が窓辺に落ちて、ブラザーの顎を伝う冷や汗も地面に落ちる。
「……ねぇ。もう、いいんじゃないかな。ブラザーくん」
見上げた先でそおっと響いたのは、湿度の高いラウンジ内でぽつりと呟く少女の声。隣には滴る脂汗と、強ばった表情を浮かべる美しい少年ドールの姿が。彼のキャパシティーはとっくに限界を迎えていたのだろう。無意識だったとはいえ、そのような表情をさせてしまったことに少女は今更ながら後ろめたさを感じていた。
「いいんだよ? いつも通りじゃなくても。何があったのか知らないけど、私はブラザーくんの選択を……存在を絶対に悪く言わないから。頑張ってるって分かってるからその重荷を少しくらい分けてくれたっていいんじゃない。ずっと、背負ってきてたんでしょ?」
しっとりした紫髪を耳にかける。少女が再びなぞらえた窓ガラスには、あなたが描いた貴方イメージの犬のイラストが。少女ドールのイラストには一切の歪みがない、まぁるい線で作られたコミカルな犬のイラスト。しかし、その表情は曇っていた。フェリシアの描いたあなたは、口をへの字に曲げて結露の涙を流している。
「休んで、いいんだよ。
貴方はひとりで戦ってるわけじゃないんだから。オミクロン全員で戦ってるんだもん。」
フェリシアは穏やかに笑ってあなたを一瞥すると、悲しそうな貴方のイラストの周りに、四葉のクローバーのイラストをひとつ、ふたつ、みっつ。
「何もしたくない? ……いいんだよ。
いいんだよきっと。ブラザーくんはきっと頑張りすぎたんだから。
でも、全部を捨てて諦めたいだけはダメだから。それだけは私が、嫌だからね。」
《Brother》
「……僕は」
白い肌に睫毛で影が落ちる。
他のモデルよりも美しく柔らかくあることを求められた人形は、張り詰めた悲壮感の中であろうと彫刻品のようだ。生気を失って、ようやく完成する永久の芸術。それに、限りなく近い。
ブラザーはいつになったら、永遠の美しさを手に入れられるのだろう。都合のいい甘さと肌触りの良さなら、ずっと前から持っているのに。
人形は曖昧に微笑んだ。
濁った紫水晶は細められ、フェリシアの足元辺りを見ている。
「僕は、そんな言葉をかけてもらえるような人形じゃないよ」
ブラザーは分かっていた。
自分がどういう人形か。
自分が、何をしてきたか。
「ありがとう。フェリシアは優しいねぇ」
貴女の“おにいちゃん”は、いつだってそうだった。
馴れ馴れしく関わってくるくせに、いつも一方的で。どんな関係を結ぼうとも、それは彼の中で兄と妹に変形する。
愛に満ちた薄膜の拒絶。
薄く薄く張られたソレは、何を持ってしても突き破れない。
彼にとって万物は、彼が守るべき弟妹だ。
だから誰にも縋らず、誰にも頼らない。妹や弟の手を借りることなど、“おにいちゃん”にあってはならないから。
彼が、ジャンクドールだからか?
いいや、そうではない。
『Brother』は、トゥリアモデルの優秀なドール。
ヒトを慰め、愛し、共に生きるための傀儡。
慰められる機能なんて、ついているわけが無いでしょう。
「大丈夫。僕、まだやれるよ」
彼に、友人はいない。
彼に、相棒はいない。
彼に、恋人はいない。
いるのは、偶像じみた家族だけ。
花壇に吹く春風のようにふわりと微笑む姿は、いつより“いつも通り”の“おにいちゃん”だった。
「そっ……かぁ。」
ちょこんと佇む影に、少年の姿が映し出される。その姿は息を飲むほど美しく芸術的で、どこまでも冷え冷えとしていた。生気を何処かに忘れてしまった、虚無に塗られたお人形さん。同情のしようがないくらい惨めな、迷子の迷子のおいにちゃん。貴方の心はどこですか。
こころをきいてもわからない。
いばしょをきいてもわからない。
ないてばかりいるおにいちゃん。
フェリシアはつい軽く吹き出してしまった。色々話をしてきたが、貴方から後ろ向きな言葉を聞いたのは初めてな気がするから。
「くふふ、ふ。それじゃ、私も“そんな”人形の一人だよね? あ! 違うとは言わせないから! 出来損ないで、オミクロンで、すぐ落ち込んじゃう甲斐性がない落ちこぼれ。」
残念ながらフェリシアは犬のおまわりさんではない。困ってしまってわんわーん、なんて泣けやしないし、泣くどころかすったもんだで笑い飛ばす。途方もなく愚かなヒーローだった。
「あっはは! いっしょだね!!」
在り来り、……いや、見慣れてきたはずのおにいちゃんの笑顔。
そういえば、初対面でおにいちゃんを名乗られたっけ。
相対するそのヒーローは、どんなに拒絶されようとも、一も二もなく渦中に飛び込んでしまう、大分お節介でちょっぴり鬱陶しい、太陽に照らされた人形だった。
助け助けられながら成長していく、貴方の妹らしかった。
『Felicia』は、エーナモデルの平凡なドール。
快活で、明瞭で、相手を慰め上を向かせるのに適したモデル。
離してなんかやるもんか!
「ブラザーくんの頼りがいには際限がないなぁ。じゃあ、さ! ブラザーくんにもトイボックス調査隊に入ってもらおうかな!
調査隊としての位置づけは妹とか弟じゃなくて“同士”だから、辛い時はおにいちゃんとしていなくていいよ! ブラザーくんがおにいちゃんで居たいときはそうして貰って構わない! でも、安心して誰かに寄りかかれる口実ができるよ!」
名案! と言うように頬をゆるませるのは、ほんのちょっとは頼りになりそうなヒーローだった。
《Brother》
眩しいな、と。
素直に思った。
愛おしいとも、思った。
「ッ、違う!!!!」
だから、こんなにも強い声が出た。
ラウンジの床を踏みつけ、ブラザーは1歩前へ出る。気持ちの勢いに押されて、体が前のめりになったみたいに。さらりと銀糸のような髪が揺れて、ハッキリ否定を映すブラザーの両目がよく見える。吹けば飛びそうなほど華奢な体には似合わないほど、双眸には強い感情が漲っていた。相変わらず曇天のように陰っているくせに、煮詰めすぎたジャムのようなあの愛情がまだ残っている。残っていた。
「違う、フェリシア、違うよ」
震えた声に込められているのは、怒りだろうか。或いは、深い悲しみかもしれない。
ブラザー自身も気付かぬうちに、彼の手はフェリシアの手首を掴んでいた。エーナモデルよりも高い体温が、更に上昇している。手首を握る手は力を入れすぎて白くなり、いくらトゥリアの握力とはいえ僅かに痛むだろう。
いつだって、頭を撫でるかその頬を撫でるかしかしなかったのに。
「君は素敵な子だよ。
僕みたいなのとは違う。君はいつも一生懸命で、いつも真っ直ぐで、みんな、みんな君に勇気をもらう。みんな君のことが大好きだよ。出来損ないなんかじゃない。落ちこぼれでもない。フェリシアは頑張ってるよ。君は何も悪くないよ。
僕とは違う。君は、違う。
違う、違う、違う、違う!!」
もう一歩、体が前に出た。
ぐっと距離を詰めて、ヒーローを、フェリシアを見る。
ブラザーにとって、フェリシアはヒーローではない。
どれほど彼女が笑顔を浮かべ、探検隊として謎に飛び込み、誰かと共に生きる純欄の陽だまりだとしても。
かわいい、かわいいかわいい、大切な妹だ。
「撤回して。今、今すぐ!」
きつく眉を寄せる。
光度を亡くした紫水晶は今にも泣きそうなくらいに高ぶって、フェリシアだけを見つめていた。
きっと、多分。
怒っていたわけでも、悲しんでいたわけでもないのだ。
ただ、貴女の独りよがりな“おにいちゃん”は、そんなふうに思わないでほしいと願っている。
そんなふうに言うフェリシアに、フェリシア以上に傷ついている。
貴女は、彼がここまで激しい自己嫌悪に陥っていることを初めて知るはずだ。同時に、それに勝るほどの愛情を、今も持っていることも。
掴まれた手首がツキリと傷んだ。柔らかく包み込むためのトゥリアドールの腕で、今彼は逆上を顕にしている。喧嘩まがいのことは出来るだけ避けたい……が、これだけの熱情を持った彼に舌触りのいい言葉を並べても無駄だということは分かっていた。
「やだ!」
それは、やけに子供じみた否定だった。
「何を言われようと撤回しないよ! 手を離して! 痛い!!」
アストレアちゃんだったら、全てを受け入れて微笑むのだろうか。ミシェラちゃんだったら……まず、私のようなことは言わない筈だ。
マスカットジャムを溶かしたような瞳があなたを強く見咎める。
掴まれてない方の腕をあなたの後頭部に添えると、自身の方にぐっと引き寄せるのだった。“逃がさない”と言うように、強く、強く。
「ブラザーくん、私を見て。私の目を見て。
いい? 私は、あなたの可愛い妹なのかもしれない。だけどね、私が好きで大切にしたいのは、おにいちゃん以前にブラザーくんなの。今までの行動が、おにいちゃんであるあなたでしか無くとも、私の仲間はずっとブラザーくんなの。
………分かる!?」
言葉言葉はいつになく刺々しく、それでいて感情的だった。冷静に会話できるエーナモデルらしからぬ動き。眉は釣り上がり、見通すペリドットはぐつぐつと煮詰まっている。
はーっと大きくため息をつくと、あなたから目をそらすように頭を落とす。そのままの体制を維持したまま、ギリギリあなたに聞こえるくらいの声量で、ぽつり、ぽつりと呟き始めた。
「正直、あなたから貰った分の愛情を返せる自信は、ないんだ。
覚えてないかもだけど、噴水で話したことあったでしょ。あの時、凄く救われたの。良かったぁって思ったの。ブラザーくんの優しさに、甘えに甘えてた。矛盾するんだけど、ヒーローとしてじゃなくて私を見てくれたこと、本当に嬉しかったの。ぼろぼろだったから有難かったの。」
頭を垂れたまま、「ありがとう」と天邪鬼に言うのだった。
「だから、私は大事にしたいの。
おにいちゃんとして頼りになるあなたも、弱いあなたも、どちらもブラザーくんだから。私にとってあなたは、心から大切な仲間だから。辛いときに傘を差し出してくれたあなたが傷ついているのなら絆創膏を貼ってあげたいの。自己判断で、意思で、抱きしめてあげたい。あなたはひとりじゃない。」
そう言って上げた顔には放漫な笑顔が。そのままそっと、あなたの髪を撫でることだろう。
「……ずっと強くなくていいんだ。ブラザーくんが、大好きだよ」
《Brother》
ペリドットのギラついた光が、こちらを見上げている。思わず舌打ちさえ出そうになって、ブラザーの顔はぐしゃりと歪んだ。
どうして分かってくれないの。
言外に伝える痛ましい視線が、ただ真っ直ぐにフェリシアを見ている。
ブラザーは甘い。
ただただ甘いだけの、砂糖の塊。見た目を飾るだけのマジパン。柔らかな言葉を紡ぐだけの木偶の坊。
中身がスカスカのまま運良く生き延びた彼は、誰かの首を締めることもできない。自分のだって、締められない。
「ッあ、ごめ」
痛い、とフェリシアが言い切れば、ブラザーは慌てて手を離す。自分のしたことに驚くように目を見開き、一歩後ろへ下がろうとした。ふらついた頼りない足よりも早く、ウィスタリアの光が頭部に触れる。器だけの抜け殻は大人しく引き寄せられ、ギラギラ焼き尽くされてしまいそうな光と目が合った。
眩しい。愛おしい。
……怖い。
眩しさに向き合いたくない。
そんな資格はどこにもない。
光の射す方には行けない。
その手を取ることはできない。
なのに。
それなのに、どうして。
「ふぇ、り、しあ」
何度拒んでも、何度笑っても。
柔らかくて強固な薄膜に触れて、手を伸ばして。
髪を撫でられる感触。
耳に滑る言葉は、もうずっとブラザーが言えなくなってしまった愛だ。
それは呪いである。
ブラザーにとって、妹からの愛情という、何より重い呪い。
疲れた。
もう、疲れたんだ。
この手をとりたい。
とって、そして、もう。
「じゃあ、じゃあさぁ、教えてよ」
髪を撫でる腕を掴んだ。
なんの力も入っていない、添えるだけの手。拒めば、簡単に逃げられてしまうような手。
くしゃりと服を掴む彼は抱き締められたまま項垂れて、泣きそうな声で呟いた。いつの間にか冷えきってしまった指先は、もう貴女よりもずっと冷たい。
「どうすればよかったの?」
言葉は冷たかった。
お前のせいだと責めているようでもあり、自分のせいだと謝っているようでもあった。
「どうすれば、僕は、僕ら、ずっと笑い合ったままでいられたの?」
ぐ、と。
空っぽの頭がフェリシアの肩口に落ちる。それに連動するように、腕を掴んでいた手がずるりと滑った。力無く垂れ下がり、体の横ついている。
「……カンパネラが悪いよ」
雨音に消える囁き。
ぴたりとくっついた貴女にしか聞こえない、膿んだ傷口の嘆き。
「柵なんて越えるからこうなったんだ。ロゼットも、ドロシーも、ジャックも……みんな、みんな酷いよ。
ソフィアだって……プリマドールのあの子たちが、勝手なことしたから。何も知らなければ、ずっとこのままだったじゃないか」
トン。
優しく、フェリシアを突き飛ばす。後ろに下がったのはブラザーの方だった。
「アラジンになんて会いたくなった。天体観測なんてしたくなかった。
ヘンゼルにだって、グレーテルにだって……ラプンツェルだって! あの子たちがいなければ、こんなことにならなかったんだ」
長い前髪に隠れて、顔は見えない。
ぱらぱらと頬を伝う雫は、雨ではないのだろう。
「嫌い、嫌い……!
みんな嫌いだ、大っ嫌いだ。みんなみんな、全部間違えたんだよ」
大っ嫌い。
はやく死んでしまえばいいのに。
「君は勝手だよ。勝手に希望だけ見せて、アストレアだって結局お披露目に行ったじゃないか! 君のせいだ、君が、君が守れなかった! 僕は悪くないんだ、きっとそうなんだ」
悪夢を払うように、顔を左右に振る。
先程よりも雨は強さを増して、ざぁざぁと嫌な音が鳴り出した。
「あっち行って、もう来ないで!
僕に近づかないでよ!
僕が死ねばいいんだろ、全部! そうだって言いなよ! 言えってば!!
ていうか、なんで早く殺してくれないの!?」
ぐちゃぐちゃ。
まとまりのない言葉をひたすら重ねた。
正しい頼り方すら分からないから、ブラザーはただ感情を爆発させる。決壊してしまったそれを乱暴に、フェリシアに叩きつける。
「うえっ、え、うああっ……ごめんね、ごめんね、フェリシア……こんなおにいちゃんで、ごめんね……」
ブラザー貴女に口を挟む隙を与えぬまま、一人で怒鳴り一人で泣いた。誰かのせいにしたくて、自分のせいだと思い込んで、そうして自分も周りも傷つけて。
呪って、呪って。
最期はきっと、ひとりぼっちだ。
「君にはもう二度と会いたくない」
逃げるように部屋を出る。
どうか追いかけないで。
どうか忘れて。
君を愛した『Brother』を。
もういなくなってしまった、薄膜の“おにいちゃん”を。
寮外。お花畑。
カンカン照りの日差しに目を細めるフェリシアは咲きこぼれる花々の間に物陰を見つける。それが誰なのかは、特徴のある髪の質感ですぐに理解できた。彼女にバレないように、そおっと後ろから足音を忍ばせて向かう。少女は所詮エーナドール。トゥリアドールのあなたならそんなコソコソした行動にもすぐに気づくかもしれない。
「だーれだ!」
狙いを定めるようにぴょこんと飛び跳ねると、お花畑の彼女……ミュゲちゃんの両眼を掌で隠した。
あなたが振り返れば、悪戯にまどろむペリドットがそこに居ることだろう。
《Mugeia》
その日は日差しが良かった。
カンカン照りの太陽は乱反射するように地上を照らして、心地よいそよ風は撫でるようにミュゲイアの頬を掠める。
暖かい風に誘われるように花畑にやってきたミュゲイアは制服が汚れることも気にせず花を積んでいた。
一本、また一本。
綺麗に元気よく咲く花の首を折っては片手に持ってゆく。
色とりどりの花を手繰り寄せてミュゲイアの小さな掌の中には花束が出来上がってゆく。
花が好き。
花をあげればみんな笑ってくれるから。
花の香りが好き。
甘く優しい香りはみんなを幸せの笑顔へ導くから。
ミュゲイアの名前も花からくるものだから。
また一輪と手をかけたようとしたその時、視界が覆われた。
そよ風によって運ばれてきたような明るい声がミュゲイアの耳に響く。
「……わっ! びっくりしちゃった! 今日も素敵な笑顔だね、フェリ!」
驚いてしまったのか手の中にあった花束ははらりと地面へと落ちてゆく。
ミュゲイアの目を覆う手にそっと自身の手を重ねて、視界からのければ後ろを振り返って悪戯にまどろむペリドットを見つめてニッコリと微笑んだ。
「えへへっ、こんにちは! 特に用はないんだけど……ミュゲちゃん見つけたら嬉しくなって声かけちゃった。何してたの〜?」
太陽の下で晴れやかな笑顔を浮かべるあなたに、フェリシアもまた朗らかな笑みをたたえる。トゥリア特有のぬくもりが、重ねられた手を伝ってじんわりと伝わってきた。いや、ミュゲちゃんと話しただけで周りの温度が一、二度上がったような気さえする。そのくらいフェリシアは、あなたと久しぶりに話せて嬉しかったのだ。
声を掛けつつあなたの後方部を見やる。あるのは、驚いた拍子にミュゲちゃんが落としてしまったのだろう、小さな花束だった。均等に散りばめられた宝石箱のようなそれらを見た刹那、フェリシアは慌てて震わせた瞳をあなたに向ける。
「わわ、ごめん! その花束、私がミュゲちゃんびっくりさせちゃったから落ちちゃったんだね。こんなに綺麗なのに!
………あ、良かった。しおれてはないみたい! ふふ。はい、どうぞ。」
「大変大変」なんてボヤきながら、落ちてしまった花々を、傷つけないように丁寧に掬う。ひとつひとつを、掌で元の姿に戻していく。手早く一通りその作業を終えると、軽く安堵したように破顔してあなたへそれらを手渡すことだろう。
《Mugeia》
「ミュゲはね、お花を摘んだりしてたの! 天気がいいからお外で遊びたくて! 暇ならフェリも一緒に遊ぼ!」
花畑に似合う笑顔を浮かべた2人のドールの周りには穏やかな空気が漂っていた。
ふんわりとしたような柔らかい空気感でミュゲイアはニッコリと笑って話をする。
最近は彼女とゆっくり話す時間もなかったのもあって、ミュゲイアは楽しそうに言葉を紡ぐ。
聞き上手な貴女に話したいことが沢山あるとでも言うように。
「え? ああ、全然大丈夫だよ! ありがと、フェリ!
フェリも一緒にお花摘みする? それとも別の遊びする? ミュゲはフェリが笑顔になる遊びならなんでも大賛成だよ!」
フェリシアにいわれて初めてミュゲイアは自身が花束を落としたことに気がついた。
ゆっくりと落ちた花々へと視線を向けてから、フェリシアが拾ってくれているのを手伝うように自身も拾い始めた。
そして、花束を渡されればそれを受け取ってから何をして遊ぶかを話し始めた。
「遊ぶ遊ぶー! 最近ミュゲちゃんとお喋りしてないな〜って思ってたから嬉しい。ぽかぽかお天気の日は笑顔ももっと増えそうだね!」
フェリシアは植物を潰すことがないよう、時間を掛けて腰を下ろした。自身の衣服に泥が着くこともあまり気にしていないようだ。
紅潮した頬に、あなたを見つめる翠の瞳。雰囲気は棘がなく柔らかく丸まっている。
お天気にお花に、久々のふたり。ミュゲちゃんの微笑みは、いつも辺りを明るく照らしてくれる。
和やかな雰囲気の中で、フェリシアはさらに口を開いた。
「どういたしまして! こちらこそ、脅かしちゃってごめんね。
お花摘みも別の遊びも良いんだけど、今日はミュゲちゃんに私の悩みを聞いて欲しいんだ。
最近ね、私、笑顔になれないの。とってもへこんじゃってるの。
聞いてくれたら、笑顔になれる気がする。……お話、聞いてくれる?」
はっきりと分かる。私は、彼女にこれ以上ないくらい狡い頼み方をしたと思う。笑顔の為なら何でもすると知っている子に、一方的な相談を押し付ける。傍から見たらミュゲちゃんを利用しているようにしか見えなくて、とてつもなく嫌気がさした。だが、聞かねばならない。オミクロンクラスの中でいちばん彼に近いだろうあなたに、聞かねばならなかった。
「──ブラザーくんについて。」
《Mugeia》
「そうなの! お天気の日はね、笑顔がよく見えるの! フェリの笑顔みたい! キラキラお日様!」
フェリシアとミュゲイアが集まればいつも笑っている。
二人が一緒にいて笑っていない時なんて今までなかった。
いつも笑顔で幸せに包まれている。
ミュゲイアにとってはとても大好きな時間だ。
彼女はお日様のようなドールだから。
太陽そのもの。
向日葵のドール。
そんなフェリシアの事がミュゲイアは大好きである。
彼女のまん丸としたペリドットの瞳を見つめながらミュゲイアは笑う。
「相談? フェリ笑えてないの! それならいっぱい笑って! 笑ったら元気になれるよ! その為ならミュゲ、いっぱいお話聞くよ!
……え? ブラザー? ブラザーの事でフェリはへこんでるの?」
ミュゲイアはフェリシアのお願いに二つ返事で了承した。
彼女が笑えるのならば、ミュゲイアはどんな話だって聞く。
笑顔にしてあげるのがミュゲイアの仕事なのだから。
それこそがドールであるミュゲイアの役目なのである。
ニッコリと笑って返事をしたけれど、その後に続いたフェリシアの言葉にミュゲイアは少し動揺した。
その名前は今のミュゲイアの悩みの種でもあったから。
お友達になりたいドールの名前であったから。
「そうね! 私も、笑顔は元気の源だと思ってるミュゲちゃんの仲間なんだけど、今はどうしても笑顔になれはいの。しょんぼりなの。
だから、お話聞いてくれるって分かって嬉しいな。ほら、笑顔〜!」
にこ〜っと無理やり自分の口角を上げてみる。それだけで、恐らく目の前のドールは喜んでくれるだろう。穢れを知らない太陽の化身。フェリシアはあなたのペカっと光る笑顔を見る度に罪悪感が拭えない。いつもなら彼女も、似たような光さす微笑みを返すことだろう。自分で決めたこととはいえ偽った笑顔はまだ慣れない。
フェリシアは何かを払拭するようにあなたの頭を柔らかく撫でることだろう。しかし彼女にとってそれは、罪悪感を少しでも和らげるための行動でしかなかった。
「そう、ブラザーくん。最近様子が明らかにおかしかったでしょう? 心配だったから、ふたりで会ったときに話してみたの。
そしたらね、ブラザーくん、凄く怒っちゃって。間違いなく私の言い方が悪かったんだけど、私は、ぜんぶ良かれと思って言ったことだから、どこが悪いのか分からなくて。
ブラザーくんに大っ嫌いって、
二度と会いたくないって、言われちゃった。はは。」
話してるうちに、見なかったものが見えてきたような気がして。
しかしきちんと視界がクリアになったのに、見たくないものばかり目に入って。感極まって乾いた笑いしか出てこない。悲しい……あぁそっか。私、悲しかったんだ。
《Mugeia》
「フェリの笑顔ね、ミュゲとっても大好き!」
フェリシアの笑顔はいつだって、太陽のようである。
ミュゲイアの大好きな笑顔。
笑顔を作るフェリシアの姿はミュゲイアには幸せそうに映った。
あまり笑えていないというフェリシアがミュゲイアのおかげで笑ってくれるのならば、ミュゲイアにとっては嬉しい限りである。
ミュゲイアは誰かを笑顔にすることに喜びを覚えるのだから。
笑顔からしかミュゲイアは何も得られないのだから。
「……ブラザーはどうして怒ってるの? ミュゲもね、ブラザーの事が分からないの。ミュゲ、もっとブラザーの事知りたいのに。お友達にならないとなのに。
………お披露目のせいなのかな? そのせいでブラザー変なのかな?」
ミュゲイアもフェリシアと同様で、ブラザーに悩んでいる。
ミュゲイアはアラジンと一緒に一つの答えを見つけることは出来たものの、ブラザーと関係が悪化したままなことには変わりない。
そして、フェリシアもブラザーと関係が悪化してしまったようである。
ブラザーが変なのはいつもの事だとは思っているけれど、きっとミュゲイアが今までブラザーに対して思っていた変と今回のでは違うのだろう。
そして、心当たりというのもミュゲイアにはお披露目しかなかった。
それがミュゲイアとブラザーの関係が悪化した原因でもあったから。
「ミュゲちゃん、私を、私の笑顔を好きでいてくれてありがとう。
私もミュゲちゃんが大好きだよ! ミュゲちゃんの笑顔も、ちょっと寂しそうな顔も、頑張ってる顔もみぃんな大好き!」
あなたには見せたこともないような神妙な面持ちでフェリシアは告げる。いつもなら太陽を衰えさせないその顔に、その時はあなたの大好きな光はないだろう。そんなフェリシアの真剣な顔に、あなたはいつものように笑顔を強請むだろうか。あなたは笑顔の化身。蕾を開花させ、気持ちの良い風を吹かせる美しいドール。しかし、悪く言えば、笑顔に取り憑かれている怖い一面も持つのだから。
「それが、私にも分からなくて困ってるの。ブラザーくんはいつだって優しかったから、甘えてたんだなぁって。今さら気づいたって遅いんだろうけど。感情の機微に一番気づけるのはエーナなのに、みっともないよね。……はぁ。
──そういえば、ミュゲちゃんって、ブラザーくんのこと"おにいちゃん"って呼んでたよね? 名前呼びになったのは、どうして?」
溜めた気持ちを吐き出すように大きくため息をつく。みっともないし、そうなってしまった自分が恥ずかしい。……こんなとき、どうしても自分と彼女を比べてしまう。王子の相棒、隣に立つには彼女が完璧すぎるんだ。相棒なら……アストレアちゃんだったらこんなヘマはしない。
自己嫌悪の渦に巻き込まれそうになったそのとき、ふと考えたことがあった。ミュゲちゃんはブラザーくんに妹と呼ばれていたはず。
小首をかしげつつ、あなたの挙動をじっくり観察していた。
《Mugeia》
フェリシアはミュゲイアに見せない顔を見せた。
神妙な面持ちで告げる言葉はミュゲイアの頭に流れてゆく。
ミュゲイアは彼女が笑ってさえいてくれればそれでいい。
それは他のドールに対しても言えることであった。
自分の前でさえ笑っていてくれれば、自分のいない所でどうなっていようが何を思っていようがミュゲイアにとってはどうでもいいことである。
ミュゲイアは今まで自分の前以外でみんながどんな思いをしているのか、どんな顔をしているのかなんて考えもしなかった。
自分の前だけで笑っているドールを見て、幸せなんだ。この子は笑ってくれている。そう思って終わっていた。
他者に笑顔を求めるのはミュゲイアが幸せになりたいから。
ミュゲイアという存在に価値を持たせるため。
それだけであって、その人自身に興味はない。
無関心であった。
「……ミュゲはね、フェリが笑ってくれていると嬉しいの。フェリにはいつだって笑って欲しいよ。フェリはとっても素敵なドールだから、みっともないなんて事ないよ! フェリは笑うことができる良い子なんだもん!」
大きなため息をついているのも初めて見た。
ミュゲイアの知らないフェリシアの一面である。
ブラザーだけではない。ミュゲイアは他のドール達の事を何も知らない。
フェリシアが悩んでいたことだって、知らなかった。
知ろうともしなかった。
「ブラザーの事をおにいちゃんって呼んでたのはブラザーの前だけだよ! だって、ブラザーはミュゲのおにいちゃんじゃないし、ブラザーがいない場所でも兄妹ごっこする意味はないでしょ? ……それに、もう兄妹ごっこも辞めちゃったから。もう呼ばないよ。」
もう、彼をおにいちゃんと呼ぶことはないだろう。
兄妹ごっこは辞めてしまった。
ミュゲイアはもうブラザーの妹ではない。
擬似記憶の妹とは違う。
それにようやくブラザーも気がついた。
気がついてしまったから、二人の関係は崩れてしまった。
妹でなくなって喜んだのはミュゲイアだけであった。
ブラザーにとってはきっと嫌なことだったのかもしれない。
ブラザーにとっての妹はミュゲイアにとっての笑顔だったのかもしれない。
ミュゲイアはいつもと変わらない笑顔で答える。
彼女の顔にはりついた笑顔はきっとずっと崩れない。
それがデフォルトでそういう設計だから。
フェリシアはあなたとはまた違った考えを持っていた。
笑顔そのものが幸せなのではなく幸せこそが笑顔を作るのだ、と。今まであなたと食い違った部分は間違いなくそこから来ていた。
そもそもあなたとフェリシアでは笑顔に関する前提条件が違っているのだから。例え笑顔でなくともフェリシアがミュゲちゃんを好きなことには変わらなかった。無条件で相手を認めるのはエーナ独自の特性であり、美点であると言えるだろう。
「……ありがとう。私も!
ミュゲちゃんが笑ってくれると嬉しい気持ちになるよ!
いつもにこにこで、太陽みたいな明るいあなたが大好き! ずっと友だちでいようね!」
ミュゲちゃんはきっと笑ってる私にしか興味が無い。笑ってない私の事なんて知ろうともしていないのだろう。……だけど、たぶん、それでいいんだ。また問題が怒ったら、その時にまた考えてみよう。一緒に悩んであげよう。
「ごっこ、か。そうだったんだね!
どうして辞めちゃったの? おにいちゃんって呼ぶと、ブラザーくんは素敵な笑顔を見せてくれてたんでしょう?」
少なくともブラザーくんはミュゲちゃんにおにいちゃんと呼ばれて喜んでいたはずだった。もしかして、それもやめてしまったのだろうか。
《Mugeia》
ミュゲイアは笑っている。
いつも幸せそうな笑顔で。
その笑顔は相談中に似つかわしいものかは分からない。
真剣に話を聞いているのすら分からない。
ただ、ずっとミュゲイアはフェリシアのペリドットのような瞳を見つめている。
トゥリアドールらしく、その瞳を見つめて愛おしそうに目を細める。
フェリシアの言葉を聞いていれば、彼女の口から友達という言葉が出てきた。
それに対してミュゲイアは目を大きく見開いて、グッとフェリシアと距離を詰めた。
「友達! ミュゲとフェリはお友達? お友達ってどこからお友達なの? フェリとブラザーはお友達? ……ブラザーはいっぱいミュゲに笑ってくれたよ、でもね、ミュゲはブラザーとお友達がいいから辞めちゃったの。ブラザーもミュゲは妹じゃないって言ったから。ミュゲ、ブラザーと友達になりたいの。フェリはどうやってお友達を作るの? 笑い会えたらお友達?」
友達という言葉に敏感なミュゲイアは質問責めするようにフェリシアに言葉を投げかける。
ミュゲイアの目標は沢山の友達を作ること。
けれど、トゥリアドールのミュゲイアに友達の作り方は分からない。
だから、今まで友達と言ってきた相手は全員ミュゲイアが勝手にそう決めつけただけである。
最愛の瞳を向けられる。
ミュゲちゃんから向けられる視線はいつだって慈愛に満ちていた。
たとえその表情が場に似つかわしくなくとも、今のフェリシアは深く気にとめることはないだろう。
フェリシアはあなたから目を離さない。愛おしそうに……というよりも、微笑ましそうにあなたを見つめているのだった。
ぐっと距離を縮められると、驚きに目を丸くする。しばらく瞬きを繰り返すと困ったように話し出すだろう。
「うーん。その質問って、友達の定義……みたいな話? 友達の解釈ってたくさんあるから、一つに絞れないと思うけど。……そうだね。
私は、お互いがお互いを友達として認識してたら友達って言って良いんじゃないかって思うよ!
認識の基準はあやふやだけど、『私たち友達だよね!』って伝えて相手に否定されなければ、一先ず双方の共通認識として取っていいんじゃないかなぁって。
……ごめん。あんまし深く考えたことなかったかも。ミュゲちゃんの求める答えになってる?
そっか、ミュゲちゃんはブラザーくんと友達になりたいんだね。
……でも、友達になって、彼とどんなことがしたいの? 私にはどうしても、妹と友達ってかなり違う関係性に見えるんだ。ブラザーくんは大好きな妹のミュゲちゃんに、そんな酷いこと言ったのかな。」
どのようなあとで友達の定義を調べておこう、そう思った。頭を捻りながら出した答えは、我ながら苦し紛れの言葉を並べ立てただけ。エーナモデルの誰かに話したらきっと笑われてしまうだろう。
フェリシアはあなたに向き合うとブラザーくんの話に戻すのだった。彼女もまた、彼と仲直りしなければいけなかったから。
《Mugeia》
友達。
それについてフェリシアに聞いてもこれといった決定的な答えはかえってこなかった。
友達というのも色々な捉え方や、それに対する答えはいくらでもあるのだろう。
もっとも、友達のいい例であればテーセラになるのかもしれない。
テーセラはトゥリアと真逆のドールなのだから。
ミュゲイアには程遠く、理解できない話。
フェリシアを話を聞いても、自分の中で上手く咀嚼できていないようで笑っているばかりであった。
「友達って難しいんだね。じゃあ、じゃあ、フェリとミュゲはどっちもお友達って思ってるからお友達? オミクロンのみんなもお友達なの?
ブラザーとお友達になったらね、天体観測をするの! 三人でするんだぁ!
妹はブラザーが勝手に言ってただけだから。ミュゲはブラザーと遊んであげてただけなの。だって、ミュゲとブラザーは兄妹として造られたドールじゃないもん。
……お披露目に行ってって言われたよ。」
お友達とは難しいものである。
フェリシアとミュゲイアはお互いに友達と思っているから友達だとしたら、オミクロンのみんなもそれに当たるのだろうか。
ちゃんと友達というのを確認したことはない。
ならば、確認しないと友達にはなれないのだろうか。
それも、ブラザーのように。
ブラザーと友達になろうとするようにそう動かないと関係は進まないのかもしれない。
そして、フェリシアの問いにミュゲイアは淡々と答えた。
傍から見れば仲良く兄妹をしていた二人に見えたかもしれないが、これは強制であって自由のもとにあるものではなかった。
単に都合よくお互いを扱っていただけである。
正確な答えが出せなかったことが心苦しかった。他の誰か……いや、アストレアちゃんなら誰もが納得できるような説明が出来たんだろうなぁ。フェリシアは変わらず微笑んでいるあなたをちらりと見やった。そして察した。あの表情はまだ消化しきれてない顔だということを。
「友達ってなぁに? って聞かれると改めて難しいなぁ。一般的に……楽しみを共有する相手、みたいに言われるけど、恋人間だって、それこそ兄弟姉妹間だって出来ることだもん。
そうなんだ。……素敵だね!
でも、びっくり! ブラザーくんと二人じゃなくて三人なんだ?」
ブラザーくんにお披露目会に行けと言われた……知る限りのブラザーくんは絶対にそういうことを言わないはず“だった”。
そこまで彼を追い詰め、踏みにじった元凶は既に分かっている。
そしてフェリシアは予測から確信に変わっていた。彼はきっと、お披露目会を知っても知らなくても学園で平和に暮らしていたかっただけなんだ、と。ミュゲちゃんと形だけの仮面兄弟ごっこをして、兄としての顔を発揮し、弟と妹たちと楽しく暮らす……それだけで良かったのだと。
《Mugeia》
フェリシアでさえも難しい話である友達。
ミュゲイアは兄妹もよく知らない。
ブラザーに言われた通りにしていただけ、それどころかお兄ちゃんと呼んでいただけさえあった。
だから、よく怒られたしそうじゃないと言われた。
友達だけのもの。
恋人間でも兄妹間でも出来ないようなこと。
友達だからこそ出来ること。
それはミュゲイアにも分からない。
ミュゲイアが分かるのは恋人であることだけ。
手の絡ませ方や甘い口付けを分かってもそれは友達のすることではない。
友達だからこそというのも分からなければ、友達のなり方も分からない。
今までどうやってみんなを友達だと言っていたのかすら分からなくなってしまいそうなくらいである。
「テーセラモデルならわかるのかな? それならリヒトとかの方が答えがわかるのかも!
うん! 三人なの! ミュゲとブラザーとアラジンじゃないとダメなの! ミュゲ達は運命だから!」
結果的にはテーセラモデルのドールの方が適任だと思い、そちらに答えを聞くという答えしかミュゲイアは導き出すことが出来なかった。
三人と言われればミュゲイアはニコニコと笑って言葉を紡ぐ。
そう、二人でやっても意味をなさない。
三人でやるからこそ意味があり、価値がある。
終わりのない天体観測は誰か一人でも欠けてはならないのだから。
だって、そうじゃないと運命でなくなる。
ミュゲちゃんとブラザーくん。
ふたりの関係がそこまで拗れているとは思わなかった。フェリシアはあなたを労うように、ふわふわした髪の流れに沿ってそっと手を動かすことだろう。
あなたの無垢な疑問を咀嚼しながら、フェリシアはエーナドールらしい回答を出来ていたのか、反省をし始めていた。テーセラドールが友人としての愛を提供するための存在するならば、トゥリアドールは恋人や親としての愛を提供するための存在である。柔和な肢体で包み込み、その身ある限り相手のためだけに尽くすことができるドール。フェリシアはその愛情の深さを大輪の赤薔薇から教わっていた。友だちである前に、恋人らしくあれというドールたち。もちろん、少女はそんな彼ら彼女らが大好きだった。
だからこそ、フェリシアには説明できなかった。恋人を刷り込まれた彼女に、友だちとしての最適解を提示すること。つまりは心の底からそれらを理解しなければいけない。無理であろう。対等な話し相手として作られるエーナドールには、その概念が埋め込まれないのだから。言葉として受け入れた友だちという文字。辞書のように在り来りなことを話すほかできなかった。
「そうだね! でも、リヒトくんは最近すごく忙しそうだし、一番手っ取り早いのはプリマだったストームに聞いてみることじゃないかな! 彼ならきっとすぐ答えてくれると思うよ!
へぇ。ふたりの他に、アラジンって子がいるんだ! 運命なんてロマンチックで素敵だね! ブラザーくんとアラジンって子は仲がいいの?」
咄嗟にストームの名前を出した。リヒトくんは分かりやすくミュゲちゃんを遠ざけているようだったから。ふたりきりにするのはお互いにとってよろしくないだろうと思ったのだ。
そうしてさらっと話題を転換させる。エーナお得意の会話操作。にこにことあなたの好きそうな笑顔を貼り付けると、フェリシアはまた、ブラザーくんに何があったのか聞き出そうとしていた。
《Mugeia》
フェリシアの相談に乗るはずがいつの間にかミュゲイアの友達についての質問の話に話題がそれてしまっていた。
かと言って、ミュゲイアがフェリシアの相談に対して何かいいアドバイスができるわけでもない。
話を聞くことは出来ても、解決策は浮かばない。
役に立ちたいとは思うけれど、そのために何ができるのかと聞かれれば口を閉じてしまうだろう。
ミュゲイアもブラザーの事はあまり分からないのだから。
ブラザーが変わってしまったという事しか分からない。
ブラザーをどうにかする方法だって、彼をお兄ちゃんと呼んで接してあげれば機嫌が治るのではないか? くらいしか思い浮かばない。
「ブラザーとアラジン? 仲良いと思うよ!
アラジンはね、ミュゲと同志なの! ミュゲね、アラジンに会ってから絵を描いてるんだよ! 今度、フェリの事も描かせてね!」
コロコロと色んなことを話すミュゲイアはニコニコとしながら答える。
アラジンとブラザーだってきっと仲がいい。
最近知り合ったというのもあり、一緒にいることがよくあるわけではないだろうけれど何か衝突があったという話も聞いていない。
そもそも、他のドールからブラザーの話を聞くこともあまりないのでミュゲイアの前以外でのブラザーをあまり知らないというのもあるけれど。
まさか、久しぶりにブラザーの話を聞いてみたと思えばこのような話になるとも思っていなかった。
しかも、誰とでも仲のいいフェリシアから。
ブラザーの事をよく知っているドールが何人いるかもミュゲイアには分からない。
オミクロンクラスでもブラザーは基本的にミュゲイアと一緒にいることが多かったし、他のドールとの関係も知らない。
ブラザーは広く色んなドールと仲がいいのかな? 程度であった。
「フェリも早くブラザーと仲直りできるといいね! ミュゲもブラザーとお友達になれるように頑張る!
……そうだ! お手紙を書くのはどうかな!? お手紙ならブラザーも読んでくれるかも!」
ミュゲイアはアラジンの話をしてから、フェリシアの相談に話を戻すように話題を元に戻す。
そして、何か閃いたというように言葉を口にしてから手紙を書こうと述べた。
手紙ならば面と向かって言えないことも言えるかもしれない。
ブラザーくんとの関係よりも、今はミュゲちゃんもブラザーくんの関係を心配した方がいいのではないかと思えてきた。ただでさえ山積みの問題が、音を立てて倍に倍に増えているような気さえする。
少なくとも解決しなければいけないものは確実に増えている。頭がずきずきと痛んだ。全てを一気に解決出来るような得策は、無いに等しいだろうから。
フェリシアの中で燻っていた罪悪感は、思考が問題にシフトしたことで薄れていた。集中したとしても、ハッキリとした解決案を提示出来るわけではなかったが。
フェリシアはあなたからアラジンのことを聞くと、納得したように頷くことだろう。
「素敵な子なんだね! ミュゲちゃんの同志さん、会ってみたいなぁ。
ふふ。うん! 喜んで絵のモデルになるよ!」
あくまでも笑顔を突き通すあなたに、フェリシアもまた、火の粉をまぶしたような笑顔を見せることだろう。しかし、あの時のブラザーくんを見る限りかのドールと仲の良いというのは些か理解しがたかった。おそらく、今は彼自身が彼の周りの全ての交流から逃げ出そうとしているということなのだろう。放たれた嫌いという言葉もきっと嘘であって欲しい。フェリシアは願っていた。彼がまだ、光を失っていないのだと。長らく彼と行動を共にしていたミュゲちゃんと話したことで、フェリシアは彼の状態を把握しかけていた。
考える時間さえあれば、大方彼とどのように話したら良いか答えが出そうだ。今日知ったブラザーくんとミュゲちゃんの関係、そしてアラジンというドールに関しては何も分からないけれど。今は何とか持ち堪えなければいけない、そう結論づけた。
「うん! また仲良しに慣れたらいな。一緒に頑張ろうね。だって、私とミュゲちゃんは、仲間なんだから。ミュゲちゃんが困ったことがあったら何でも相談に乗るよ。私に出来ることならなんだって頑張るつもりだからからさ……!
確かにお手紙はいい案だね! 書いてみようかなぁ。ありがとう!」
ミュゲちゃんは自身を慮って相談に話を戻してくれたのだろう。
彼女も彼女なりに解決しなければいけない問題があって、私にも私にしか解決できない問題がある。ブラザーくんとまた協力できるようになるために、今は手探りで会話を繰り返すしかないのだ。
「忘れないで、私はずーっとあなたの味方だよ!」
花の香りが運ぶ風に誘われるように、フェリシアは寮に戻った。
からっきし誰もいない。ちいさく鳴る足音だけが重々しく響いていく。存在のひとつひとつを確認するようにフェリシアは階段を登っていた。お目当ては血で染まった手帳の持ち主、彼の片割れの少女である。この時間なら学生寮にいるだろうと一、二階に彼女の影を探してみたものの、そこには静寂だけが広がっており。図書室にも居なければ学園内も含めて探してみようと、寮内の少女探索は半分諦めかけていたところであった。
少女の表情には目に見えて疲れがあった。少女を探して歩き回ったということもあるが、大部分を占める理由は気疲れにある。
寝転んで何もしなければいいものの、フェリシアにはそんなことができるはずもなかった。ヘンゼルくんに謝るため、そして、彼女の思惑を知るため。少女は胸いっぱいに空気を溜め込むと、図書室の扉を開けるのだった。
階段を上り詰め、寮の最上階に位置する埃臭い書物の蔵に辿り着く。図書室の天井は四階部分までを突き抜けているためか、とても高い。そして、木製のロフトを介して上階にも数多の書物がところ狭しと保管されているようだ。
図書室はほの暗く、壁に取り付けられた卵型の照明をつけてもまだ暗い。
屋根裏の部分に切り取られた小窓から差し込む陽光が、空気中に舞う埃を幻想的に煌めかせていた。
神秘的な静謐に包まれた叡智の集積地にて、あなたは紙のページを捲る微かな音を耳にするだろう。本棚の合間を通って図書室の奥に行けば、僅かな照明に照らされたテーブルの上で黙々と読書に励む、デュオモデルの鑑といった様子の少女が居る。
ヘンゼルとよく似たレッドワインの気品に満ちた赤毛を編み込んで垂らし、少女の制服を淑やかに纏っている。ヘンゼルとよく似たラズベリーの瞳は美しく熟して、瑞々しい煌めきを宿している。
まさしくあなたが知る彼と瓜二つと言った容貌だが、彼よりも彼女は少しばかり落ち着いた、気弱そうな表情をしているように見えただろう。
彼女は頁をいくつか捲ると、手元のノートに何かを書き込み、そしてまた本を捲るといった動作を頻りに繰り返していた。
だがあなたの視線に気がつくとパッと顔を上げて、なんとも穏やかに微笑むだろう。
「あ……こんにちは。ごめんね、集中しちゃってて。あなた……ヘンゼルと仲良くしてくれてた子だよね? 覚えてるよ。
でも名前は知らないな。わたしはグレーテル、あなたは?」
初めてあなたがグレーテルを目にしたとき。彼女はヘンゼルを連れて行こうとして、あなたを恐ろしい形相で睨みつけていた。そんな姿とは似ても似つかない友好的な態度である。
「けほっ……はぁ。ここも今度お掃除しなきゃなぁ」
エーナモデルとして数え切れないほど行き来を繰り返した図書室。
特大のほこりを吸い込んでしまったのか少女は息苦しそうに小さく咳をした。開いた扉の縁を撫でながら、誰もいないとタカをくくり煩わしそうに独り言を呟くのだった。人差し指についた微小な繊維たちを親指と擦り合わせて落としていると、図書室のどこからかページを捲る音が聞こえてくるのが分かった。グレーテルちゃんかもしれない……背筋が凍るような緊張感が少女の背筋をなぞる。その音を発してる正体を突き止めるためフェリシアは図書室の奥へ入って行くのだった。
突き止めた先には、自身のことを嫌いだと言い放った彼と瓜二つの顔があった。文字を追うのに夢中なのか、こちらの存在には気づいてないようだった。改めて見ると本当に似ている。ワインレッドの鮮やかな髪、形の良い耳、そしてつんと鋭く突き刺すラズベリー色の瞳。じびびと震える背筋をぴんと伸ばすと、お目当ての少女に声をかけようと口を開いた。が、先に言葉を発したのは彼女だった。
しかし、フェリシアに向けられた彼女からの目線は、血の塊を射るような以前のものとは比べ物にならないほど柔らかいものになっていた。目の前にいるのはヘンゼルくんに渡すのもはばかられたあの手帳を書いた本人だと言うのに。
その表情は相手の出方を伺う……まるで、エーナモデルが会話をするときのように優しかった。
「ううん! こちらこそごめんね、じーっと見つめて驚かせちゃった。
でも凄いなグレーテルちゃん。
一瞬しか顔を見てないのに、私のこと覚えてくれてたなんてさすがデュオドールって感じ! びっくりしちゃった!
私、フェリシア。同じオミクロンクラスとして、あなたとお友達になりたいな!」
グレーテルちゃんは顔の造形はほぼ同一。だがヘンゼルくんと比べるとかなり気弱そうなドールだった。何を考えての行動なのか予想がつかないとき、フェリシアは至って当たり前のことしか言わない。
肩をあげて天真爛漫に笑うその姿は、相手に会話をさせるエーナの真骨頂とも言えた。朗らかに笑う表情の下で、ペリドットは確実にあなたに狙いを定める。友達になろう、なんて軽快に話したならばあなたに小さな手を差し伸べた。
「フェリシアさん。たぶんだけど……元々はエーナクラスの子でしょう? だったらこう言わないとね。」
意気揚々、溌剌とした声色でフレンドリーに。対話特化型のエーナモデルとして素晴らしい第一印象を与える挨拶を述べるフェリシアの、陽の光を燦々と浴びた向日葵のような笑顔を見て。
グレーテルはぱちりとその瞳を瞬かせてから、ゆっくりと席を立ち、そちらに身体ごと向き直る。
「ご機嫌よう。あなたと仲良くなれたらわたしも嬉しいな。よろしくね、えへへ……」
少しだけ気恥ずかしそうに、慣れないことをするかのようなぎこちなさで。ゆったりとした礼儀正しいカーテシーを行うと、顔を上げた彼女は頬を指先で掻いた。習っていないことをすると緊張するのだろう。
こちらに手を差し伸べてくれるあなたに、グレーテルは快く応える。小さな手のひらを握り込んでは、軽く揺らして握手をしてみせた。
「フェリシアさんは、図書室に何かご用だったの? 勉強しにきた……とか? エーナモデルだから、お話のお勉強かな……?」
キャンドルの炎のゆらめきのように、少女の瞳はそこにあった。燦々と降り注ぐ陽の光は、繊細な動作で向き直るあなたに対し分かりやすく感嘆の意を表明する。
ふっくらとした頬に穏やかな微笑を浮かべて。フェリシアはあなたの呟きも返答も、反応の機微も、一瞬ですら見逃すまいと目を光らせている。
「あわわ! あ、うんうん! こちらこそよろしくね! 仲良くしよう!!」
ぎくしゃくした態度でカーテシーをするグレーテルちゃんに、フェリシアも慌ててやや不自然なお辞儀を返した。無意識下で彼女に共感しようとしていたのか、照れたように半ズボンの裾を握る。何故か酷くふためきながら行き場の無い手が上下左右に空を切ると、ハッとなって再度差し伸ばすのだった。きゅっと握られた手に幾分か安心している自分がいるのは言うまでもないだろう。
「うん! ええと、まぁ、目的は勉強じゃないんだけど……この前ソフィアちゃんに紹介して貰った物語の本を探そうと思って。
けど、今はあなたと話したいな。
初対面だし、何よりあなたのことを知りたいもん!」
少女ドールの表情は変わらない。可憐に微笑みながら、流れるように出任せを話している。仮に彼女がソフィアちゃんにそのことを確認しようも、ソフィアちゃんなら咄嗟に嘘を付けるだろう。そんな信頼をもって。
「……改めてみると、本当にヘンゼルくんにそっくりなんだね。双子ドールなんて初めて見た! かっこいい! グレーテルちゃんは彼とは仲良しさんなの? 兄弟だし、喧嘩とかしない?」
背の高いあなたを下から見つめ、丸くした目を瞬かせた。可愛らしく首を傾げ、「グレーテルちゃんのことはもちろん、私ね、ヘンゼルくんのことも知りたいの。色々教えてくれたら嬉しいな」なんて。
「物語の本、か。文学の本はデュオクラスではあまり取り扱わないから、探すにしてもあんまり力になれなさそう……あ、そっか。流石エーナモデル、だね。勿論いいよ、お話ししよう。それにわたしもあなたと話してみたかったんだ。」
指先に伝わるきめ細やかな肌の感触。小さな手のひらの温もり。グレーテルがあなたの人柄を体温で感じ取っているのと同じように、あなたも相対するグレーテルの手のひらから、ゾッとするほど冷ややかな感触を感じ取るだろう。それはまるで氷河の中に手を突っ込んでいるかのような。雪中の亡き骸と握手を交わしたかのような、そんな鳥肌の立つ冷たさだ。
グレーテルは相変わらずあなたを歓待する穏やかな微笑みを浮かべているが、その体温とのチグハグさに不気味なものを覚えるかもしれない。
「双子のドールは、いまのトイボックスにはわたしたちだけなんだって。特別製だから、責任も感じてるの。がんばって成果を上げなくちゃって。
……ヘンゼルはわたしよりもその気持ちがずっと強くてね。わたしはあの子と仲良くしたいんだけど、ヘンゼルは勉強するのに精一杯で、そんな余裕ないみたい。分かり合えないことばっかりだけど、でも……わたしはヘンゼルを心から大事に想ってる。それは本当。」
知りたい、と乞うあなたに、グレーテルはひとつひとつゆっくりと教えてくれるだろう。グレーテルがいかにヘンゼルを想っているのか。そして、ヘンゼル自身についても。
「だってわたしは、ヘンゼルのおねえちゃんなんだもん。」
「一緒に見つけようとしてくれるなんて、グレーテルちゃんは優しいなぁ。ふふ。もしグレーテルちゃんが文学系の本に興味があれば、相談に乗るよ! なんてったってエーナドールだもん! 任せて!!
……私と話してみたかったんだ?
それは、どうして? あんまり関わりがなかったと思うんだけど。」
深い赤紫色の瞳は、彼女の柔らかい口調とは対極的に黒々とした深みをたたえている。見てはいけないものを見ているようで、思わず瞳を逸らしたくなる衝動に駆られた。握られた手は想像を絶する程に冷ややかで、一気に体温を奪われてしまいそう。横中に蔓延る亡霊が、背後からいっせいに襲いかかってくるようだった。
だが、今のフェリシアには覚悟があった。目の前の彼女がどんなに冷酷であろうと、あくまでも友人としてあたたかく接する、覚悟が。
「ドール自体が特別なのに、その中でもあなたはもっと希少な存在なんだね。とっても素敵。
ヘンゼルくんもあれだけ頑張ってるのも分かるなぁ。私、ときどき彼にお世話になってたの。とってもいい子だよね。だけど、いつもなにかに追われてるみたいで、怖がってた。……私だって力になれたらいいんだけど。
グレーテルちゃんはしっかりお姉ちゃんをしてるんだね。私は兄弟とかあまり分からないけど、彼とはどんなお話をするの? 勉強のこと? それとも……そうだね。ふたりがお話することって家族の会話って言うんだっけ。いいなぁ、そういうの。」
ふと、少女のペリドットには影がかかるだろう。フェリシアは友人愛も恋愛も知っている、しかし家族愛は知らなかった。知らない愛情を持ったあなたが羨ましくなったのかもしれない。いや、愛情そのものに興味がある訳ではなく、それを知っていれば、もっとヘンゼルくんに寄り添った返答ができるのではないか、そう思ったのだ。
グレーテルに他意はないのだろう。彼女の温もりを奪おうとするつもりもない。だがこうして手を握っている合間にも、彼女の薄皮の下に流れる冷ややかな血があなたにも巡っていくかのようだ。
それでも互いの間には笑顔が絶えない。何故ならあなたはエーナドールであり、グレーテルは非常に友好的なのだから。
もっともな問いを述べるフェリシアに、彼女は口元に手を添えながら語った。
「あ、オミクロンクラスの子とはみんなお話し出来たらいいなって思ってるよ、クラスメイトだもの。
でもあなたは……ヘンゼルと話してくれてたでしょ? だから、前から気になってたの。お近づきになれたら嬉しいな、……ヘンゼルと何話してたんだろう、って。」
その時、グレーテルの熟れたラズベリーの瞳の奥が濁ったような気がしただろう。対人特化モデルとして抜群の観察眼を持つあなたは見逃さない。
それはあなたが少し前に目撃した、狂乱するヘンゼルのぐるぐるとぐろを巻いたあの瞳とそっくりである。
しかし彼女が述べる理由としては、それらしく真っ当なものであった。
「普段の、会話か……。……わたしね、最近あの子と話せてないんだ。ヘンゼルが頑張ってるのに、わたしがオミクロンに落ちちゃったから、喧嘩しちゃって。
でも、そう、家族だから。……また分かり合えるの。ヘンゼルも最後にはきっとわたしを理解してくれるはず。──絶対に。」
ずっしりと重みのある一言が静かな図書室に響く。
そこでグレーテルは、あなたの表情の変化を悟るだろう。ぱち、と瞬きをしてから、その目元にさした影の正体を見極めるためか、じっと見つめ返してくる。
「フェリシアさんは、家族に憧れがあるの? 家族が欲しいの?」
彼女の表情は、ジゼルママと対面したときのように内を察することが難しい。それでもエーナドールは、友人としての微笑みを絶やすことがなかった。お披露目の正体を知って尚、ヘンゼルくんと共に死を選ぼうとしている理由を突き止めなければいけなかったから。
行き場のない恐怖がその身体に触れようとも、フェリシアは耐え抜かねばならない。
フェリシアは、考える動作をしながら答えるあなたに納得するように、ほぅ、と小さな声を上げた。
「早く馴染むためにもクラスの子と交流をするのは大事だね。みんなとお友達になって欲しいな。
あぁ、あの時ね。難しくて解けない問題を教えて貰っていたの。
オミクロンクラスの子に聞いても良かったんだけど、みんな忙しそうだったからヘンゼルくんに甘えちゃった。……えへへ。凄く分かりやすく教えてもらったよ。彼のお陰で課題を提出できたの!」
混濁した瞳に、フェリシアは些か胸中で怯んでしまっていた。つい最近に刺さった大きな棘。コアの深い部分がズキリと痛むようで。
ただ、出る言葉は至極当たり前のようなことだった。……表情以外は全て当然のような。
「……そっか、ふたりは喧嘩しちゃったんだ。家族なのにそういう、壁みたいなのが出来ちゃうと辛いよね。だって、お互いの唯一無二な存在なんだもん。
理解? ……うーん。えっとね、私には家族って呼べる子は居ないけど家族みたいに大事な友達がいるんだ。だけどそんな大切な大切な子とでも、すれ違ったり、ぶつかり合ったりするんだ。だから、例え家族でも、理解出来ないことってあるんじゃないかな。ままならないことって、結構たくさんあるものだよ。
……ねぇ。具体的にグレーテルちゃんは、ヘンゼルくんにどんなことを理解して欲しいのかな? 私で良ければ、伝え方とか一緒に考えるよ!」
もっともな意見に、フェリシアはエーナドールらしく、誰に対しても思いやりに溢れた返答を返す。
あなたを見つめて話さないペリドットはくしゅりと歪められ、つい口が滑ってしまってもしようがない状況を上手く作り上げている。
「………欲しい、かも。友達のことは大好きだけど、私にも、私だけの家族が欲しい。誰かの代わりが居ない存在になりたい。お披露目のご主人様とは違う……そうだね、生まれただけで意味があるんだって、誰かに証明されたいな。
だから、私はグレーテルちゃんが羨ましいよ。……凄く、すごく。
──スゴく。」
その言葉はいつになく真剣で、
いつになく、真っ直ぐだった。
「ヘンゼルは、とっても頭が良かったでしょ? 努力の出来る子なんだ、いつも報われないことばっかりで可哀想なんだけどね。
でも、そっか……ヘンゼルが、オミクロンの子に勉強を……そうなんだ。珍しいな……」
ヘンゼルの風狂に渦巻く理性を逸した憤怒の瞳、そしてそれによく似たグレーテルの鬼より重い執着の瞳が確かに重なっていた。彼女らは本当によく似た顔付きをしている。まるきりヘンゼルからトレースされたような輪郭で、おもさしで、グレーテルは平然と対話に応じている。
針の筵に晒されたあなたの心を痛めつけているとも知らずに、彼女はあなたの答えを集中して聞き入れているようだ。何しろあなたのエーナモデルらしい巧みな表情管理は完璧だった。デュオモデルのグレーテルでは、その表情や仕草の裏に隠された真意を読み取る事は難しい。
「……手伝ってくれるの? フェリシアさんは優しいね。ありがとう。
でも大丈夫、どうすればいいかはもう分かってるんだ。ヘンゼルにわかってもらえるように、お姉ちゃんの私が頑張らなくちゃね。」
──どうやら彼女は、相互理解の上で避けては通れない迷宮からは抜けているらしい。はっきりとした口振りであなたの親切をやんわりと断るグレーテルの言葉は、どこか不安感を揺すぶるものがあった。まるで道でない場所に強引に道を作り、どんな手段を使ってでも強行しようとしているかのような。……実際そうなのだろう、あなたはグレーテルのあの常軌を逸した手記を目撃しているのだから。
「生まれただけで意味がある……? ……不思議なことを言うんだね。わたしたちドールの存在理由は、お披露目に出てヒトに尽くすことだけでしょ? ヘンゼルだって私だって、そのためにすごく頑張ってるんだよ。
いつか出会うヒトがドールの家族になるんだよ。それが当たり前のはずだけど、……フェリシアさんは違うの?」
「うん! 私が時間をかけても分かりっこなかった問題をね、ヘンゼルくんスラスラ解いていくの。彼の教え方も、とっても分かりやすかったんだ! 今度お礼に何か渡してあげたいなぁ。グレーテルちゃんはヘンゼルくんが好きなものとか知ってたりする? あまーいイチゴのタルトとか、クッキーとか!!
珍しい、の? ……あぁ、確かに!
そういえば初対面で『面汚し』って言われたっけ。でも、今はちゃあんとお喋りできるんだよ! 下の者に施し……とか思ってるのかな。
そうだと、嬉しいな。」
フェリシアの表情を形作る無邪気に彩られた肌は、零れる笑顔を落とすまいと懸命に引き攣らせている。それもあってか、エーナモデルとして完璧に作られた表情を、初対面のデュオモデルが打ち砕くことは簡単にできるものではなかった。グレーテル同様、フェリシアも、相手の表情、呼吸、心拍数、緊張にて動く細やかな仕草を見逃すまいと、柔らかな笑顔の下に、獲物に狙いを定める虎を蔓延らせている。
どれだけヘンゼルと造形が似ていようと、彼女の性格は、彼とは丸切り違っている。ヘンゼルはこうやって楽観的に微笑むことなんてないだろうな、と思う。グレーテルに警戒を光らせている手前、その笑顔に高揚感を見いだす余裕なんて、絶対にないけれど。
「そ、そっか。それなら、うん。
応援してる。私になにか出来ることがあれば言ってね。あなたとヘンゼルくんためなら、結構なんでも手伝えるから。ふふ。ヒーローに任せて! なんて……」
しくじったか、瞬時にそう思った。ヘンゼルに関しての彼女は特に警戒が強そうだ。エーナの話術を用いても、鉄壁を突破するのは極めて難しい。素直に諦めると、言葉だけの協力支援を申しだすのだった。
「…………ただのないものねだり、だよ。私に兄弟なんて絶対にありえないからこそ、羨ましいの。
あ! もちろん私の命も、身体も、心も全部、ご主人様だけのものではあるんだよ! それは絶対。私には、いつか出会うご主人様しか居ないんだから。だけどね、唯一の兄弟って、憧れちゃうんだもん。しょうがないよ〜! いいな〜〜。
兄弟、楽しそう。」
「お礼かぁ……ヘンゼルはミルクも砂糖も入れてない、無糖のコーヒーが好きでよく飲んでるけど……きっとフェリシアさんが淹れても飲んでくれないと思うよ。
わたしが用意したものも口を付けてくれたことないんだ、わたしが落ちこぼれだから……そう。ヘンゼルは欠陥ドールが大嫌いなんだもの。だからあなたが勉強を教えてもらえたなんて、信じられないな……」
落ちこぼれにかける時間が勿体無いって、彼ならそう思うはずなのに。口元に指先を添えたグレーテルは、自虐的な言葉を述べながらあなたの目をジッと見据える。その言葉の裏にあるものを見抜こうとしたようにも見えたが、エーナモデルの嘘がデュオモデルのグレーテルに見抜けるはずもなく、すぐに諦めたように目を逸らした。
「そっか、それは勿論そうだよね、分かってたよ。……きょうだいが羨ましいって気持ちは分かってあげられないかな。だってわたしにはあの子ときょうだいって事しかないんだもの。それ以外の役目がなんにもないの。だからそれを頑張るしかないんだ。
わたしがもっと上手くやれたら、ヘンゼルともっと仲良くなって、楽しいって思えたかもしれないね。でもこれから仲良くなっていくんだ、もっと羨ましがってもらえるようなきょうだいになりたいから……えへへ。」
グレーテルは照れくさそうに頬をかいて、はにかんで笑った。またたいた瞳に、今度はあなたの姿を映す。
「フェリシアさん、お話ししてくれてありがとう。あなたのことがよく分かったよ。わたしはそろそろ授業を受けに行くけど、またお話ししてくれると嬉しいな。」
そして、やんわりと話を切り上げようとする。あなたが彼女を呼び止めないならば、グレーテルは再びぎこちないカーテシーをして、別れの挨拶を述べるだろう。
「うっ、無糖のコーヒーかぁ。
ヘンゼルくん渋いの飲むんだね……。
意外と言うか、素晴らしく予想通りというか……。
そ、そう、なの? 散々質問しに行ったから鬱陶しかったのかもね。
それか、めんどくさい私を躱すより、返答した方がいいのかもって思ってくれたのかな。どちらにしろ、私からはヘンゼルくんが根負けして教えてくれた……みたいなことしか言えないかなぁ。まさかそこまで頑固な子だとは思ってなかったけど。あはは。」
ヘンゼルの視線、仕草、発汗。
エーナドールであるフェリシアが見たものとは、彼の内々から湧き出ている、グレーテルに対しての怨恨であった。恐らくグレーテルと自分の圧倒的な違いはそこにある。彼女が愛し支えている“つもり”の弟はまた別に居るのではないか、そう思わせる程に兄弟仲は劣悪らしくて。少なくともグレーテルの美しく艷めくワインレッドの奥底には、得体の知れない黒い何かが蔓延っている。フェリシアにはそれが何なのかちっとも分からなかったけれど。怖いと評されるだろうその瞳に見据えられても、フェリシアは形だけの微笑みを崩さない。気づかれないように。心中を悟られないように。他ドールがエーナのつく嘘を見破ることは極めて難しいらしいのだから。
「……たしかに! 本人達にはそれが当たり前すぎて分からないよね! あはは! ごめんごめん!!
ヘンゼルくんを一心に思うグレーテルちゃんは、紛れもなく“おねえちゃん”だね!
うん! 下手なことは言えないから
エーナドールとしてひとつだけ。自分じゃない他の子と心を通わせるには、相手の立場に立って、徹底的に寄り添うことが大事らしいの! ふたりは兄弟だから分からないけど……きっと本質は似てる。
それを、くれぐれも離さないようにしてね。本質を見失ったとき、愛情っていうのは相手を傷つける毒になりかねないから、ね。」
頑張って、それだけ言ってしまえば良かった。……が、思い余って忠告をしてしまうのは彼女がとんだお人好しであったせいか。ノートの内容を知って尚、フェリシアはグレーテルのことを“話せば分かってくれる子”だと信じていた。
「……え!? わー! そんな時間!?
引き止めちゃってごめん!! こちらこそお話出来て良かったよ!! また今度、あなたの友だちとのお話とかヘンゼルくんのお話とか、いっぱい聞かせてね!」
ほぼ反射的に謝罪を述べる。自身としてはもう少し深堀りして話を聞きたいところであったが、ここで引き止めたとしても、彼女の機嫌を損ねるだけでいいことはないだろう。淑女らしいカーテシーに返答するは、ヒーローを名乗る少女の元気な手振りがあった。
「えへへっ! グレーテルちゃん、またね!」
彼女が図書室から出る所までを確認すると、埃舞うその場所で、少女は深いため息を零した。