Rosetta

 ゴウン、ゴウン、ゴウン。
 暗い部屋の中に、鉄の箱が駆動する鈍い音がこだましている。
 壁にもたれかかりながら、ロゼットは雑音に耳を傾けていた。
 アストレアもいなくなったというのに、赤薔薇は悠然と佇んでいる。その仕草はあまりにも変わりなく、彼女自身ですら薄ら寒いと思っていた。

 ──ミシェラもいなくなった。アストレアもいなくなった。次は自分か、フェリシアかもしれない。
 そう考えたとしても、誰かと話していたときのような恐ろしさは思い出せない。
 あくまで他者の感情が反響していただけなのか、それともひとりでは事実の確認に過ぎず、他人事だと割り切ってしまえるのか。自分ではまだ分からない。

 やはり第三者の協力がいるだろう。──例えば。他者のために己を犠牲にできる、高潔なうつくしいドールだとか。
 雑音に鼻歌をつけながら、ロゼットはジャックを待っている。
 造花の詰まったはらを、シャツの上から撫でながら。

【学園1F ロビー】

Jack
Rosetta

 オミクロン寮から昇降機に乗ると、学園の大広間に辿り着く。このロビーはいつ見てもどこか薄暗い。窓が無いので採光は等間隔に設置された燭台の灯火のみ。火に浮かび上がるようにぼんやりと照らし出される通路は、壁も床も赤一色で統一され、気品は感じられど健全な学園らしい活発さは感じられまい。
 行き交うドールズも俯いて教本を眺めているか、小難しい授業内容について談義しているか、あるいは足早に次の授業場所に向かっていくかのいずれかで、ロビーはドールズの交差する中央広間というには、嫌に閑静な空間であった。

 現在は早朝。
 寮からやってくるドールの方が多い中で、あなたがロビーに佇んでいると。テーセラクラスの寮に続くエレベーターホールから、周囲のドールから頭ひとつ抜けた大柄なドールがやってくるのがよく見えるだろう。


 彼はロビーにあなたが留まっているのを見つけると、友人に対する当たり前のようにそちらに目を向け、「おはよう」と静かな声を投げかけて来るだろう。

「ロゼット、これから授業があるのか……?」

 わらわらと歩く子どもの群れで、彼は頭ひとつ飛び抜けた身長を持つ。捕まえるのも、そう難しいことではなかった。
 たんぽぽの綿毛のように、ふわふわとした足取りで、ロゼットは相手に近付いていく。
 本当に何もない、ただの朝の一幕のように。

 「おはよう、ジャック。確かに授業もあるけれど……何より、あなたに用があるの。この前話していたモノを見つけたんだ」

 落とし物を見つけたような口調だが、内容はそれほどやさしいものではない。
 銀の双眸は瞬きをすると、ちょっと隅っこに行こう。座った方が伝えやすいから」と口にした。
 発信器、そして植木鉢の行方。
 はてさて、始業までの時間で一体どこまで伝えられることやら。

 それは何気ない朝の幕間であった。
 既にあなたの事を、ジャックは親しい友人だと位置付けているのだろう。だからこそ彼は気さくに声を掛け、だからこそ足を止めてあなたの今後の予定を何気無く問うたのだ。
 無論、ジャックも始業に間に合わせるため、早めに寮を出ていたようだが──あなたの言葉を聞いて、彼は目の色を変える。

「! ……それは本当か?」

 あなたの言葉一つで、何を指しているのか察しがついたのだろう。
 ジャックは持っていた教材を抱え直し、周囲に目を向けてからあなたが促すに合わせて、首肯した。あまり目立たない暗がり、寂しい歓談席について、彼は改めてあなたに向き直る。

 時刻は早朝。まだドールの往来が少ない時間だ。

「──例のものが見つかったんだな。どうやって見つけ出した? まさか怪我は負っていないだろうな……?」

 彼は真剣な色を鮮やかな碧眼に宿して、あなたに問い掛けた。まず案ずるところは一点だ。釘を刺したとはいえ、彼女が発信機の位置の特定のために自らを傷付けていないとは言い切れない。

 こんな時間からクラスの違うドールふたりが話しているなんて、周囲からはどう見えるのだろう。
 怪しまれて盗み聞きでもされなければいいけれど──なんて考えて、ロゼットは少しおかしくなった。
 トイボックスの暗部を知らないドールに聞かれても、物語を作っているのか、気が狂ったかとしか思えないだろうに。
 席に深く腰掛けて、赤薔薇はそれなりに真剣そうな顔をした。
 真面目に向き合うのはいいが、深刻すぎても暗くなっていけない。ただでさえ暗い空間なのだから、引きずられないようにしていたかった。

 「怪我はしてないよ、あなたとかリヒトに心配されちゃうもの。ブラザーと色んなところを触って確かめたの」

 服まで脱いだんだけどねえ──なんて呟いて、相手の目を見つめる。
 何故ここに発信器を隠したのか、今でもよく分からない。
 取り出せばすぐ分かるから、かもしれないが、顔はドールの印象を決定づける大事なモノだ。
 先生たちも取り除くのに失敗したら大変だろうに。そんなことを考えながら、一旦椅子から立ち上がる。

 「目を閉じて、ジャック。教えてあげるから」

 相手が言う通りにしてくれるなら、ロゼットは彼の右目に手を伸ばすだろう。
 そうして、瞼の上から眼球をなぞり、異物の位置を教えようとするはずだ。

 適度に力を抜いた体勢でこちらとの話し合いに臨もうとしているロゼットの様子を見て、少し肩肘の張り過ぎていた自覚があったらしいジャックは、一つ息を吐いて身体を僅かに弛緩させた。
 それだけで空気は僅かなり軽くもなろう。重たい会話や雰囲気は存外周囲にインクのように滲み出してしまう。間違っても周囲の生徒に不審がられてはいけない、と自省したらしかった。

 あくまで自分達はクラスの垣根を越えて友人同士の歓談をしているという程にしなければ、と真面目なジャックはそう考えたのだろう。
 ──しかし。

「……ブラザーと……服を脱いで……色んなところを触って……確かめ、た……?」

 友情としての適切な距離感をテーセラクラスの授業で学んでいる彼にとっては、些か信じられない情報の羅列にただ言葉を反芻して、唐変木のように彼は瞬きを繰り返した。
 眉を寄せて、その皺になった眉間に手を当てて、「少し待て……理解が……」と呻くような声で続けかけたところで。

 彼女の促しにひとまず従い、彼は双眸を伏せてくれた。新星の如き輝くコメットブルーが瞼に覆われて隠される。その上をあなたの指先がなぞるならば、ジャックはその後顔色を変えた。

「……成る程、な。ここか……ロゼット、目に入った塵を取ってくれてありがとう……助かった。」

 理解と同時に、男女での触れ合いを“そういうこと”にして誤魔化したジャックは、やはりテーセラらしい価値観が表れていた。普通は男女で服を脱いで触り合ったりはしないものだ──という当たり前の価値観を。

「……なぜ相手にブラザーを選んだんだ? お前達はそういう仲だったのか……?」

 故に彼は困惑に質問を重ねていた。テーセラとトゥリアでは、価値観に大きな相違があることを知らずに。

 何を驚いているのか分からず、ロゼットは小首を傾げる。
 うつくしくあることは好いことだし、この身に恥ずべきところなどありはしない。
 トゥリアの教育の賜物か、それとも性愛由来の暴力とは縁が薄いからか。彼女の距離感は、無遠慮なほどに近い。
 席に腰を下ろしながら、「どういたしまして」と口にする。

 「何でって……ジャックもおにいちゃんと同じことを言うんだね。
 ブラザーを選んだのは、身長が近くて、同じトゥリアのドールだからかな。仮にあなた相手だったら、筋肉とか身長の差が大きくてちゃんと調べられないでしょう……」

 そこまで言って、ようやく相手の言葉の意味に気が付いたらしい。
 赤薔薇は口元を綻ばせて、首を横に振ってみせた。

 「ブラザーのことはおにいちゃんって呼んだりするけど、友達としか思ってないよ。“そういうこと”は何にもしてないし、相手も興味はないと思う。変なことを考えさせてごめんね」

 これもセクハラに当たるのだろうか?
 謝った後にそう考えたが、最早何を言っても変な空気になってしまう気がした。
 こういう時は、大人しく謝って話を変えるのが得策だ。

 「別の話をしようか。私の探していたモノの話なんだけど……“ガーデン”って知ってる?」

 トゥリアモデルが持ち主の心の安寧のため、触れ合いを大切にしているという事実程度はジャックとて知っていた。だが友愛を尊重するテーセラにとって、異性の肌を躊躇いもなく見せつけあうというのはあまり理解が及ばぬものであり、眉を寄せながら腕を組んだ。
 トゥリアにとっての当たり前と、テーセラにとっての当たり前。相互の価値観のズレを咀嚼するように。

「……成る程、確かに合理性を考えればその人選はもっとも、だな……しかしそれで言うなら、カンパネラもお前と似通った背丈だったはず……だ。
 いくらトゥリアとはいえ、貞淑……というものもあるだろう。ブラザーを疑ってるわけじゃないが、今後は、あまり……異性に躊躇いなく肌を見せない方がいい……万が一があるかもしれないからな。やむを得ない事情があるならば、仕方が無いが……」

 しかしやはり、何処かぼんやりとしているようにも思える彼女への心配が優ったのだろう。老婆心からか、ジャックは忠告するように貴女を説得しようとした。説教じみたものになってしまったが、貴女に恥をかかせようなどとはミジンも考えておらず、心からの善意である事は間違いない。
 そしてその後は特に追求せず、あなたの利口な話題転換にも付き従うはずだ。

「……“ガーデン”……か。悪いな、聞き覚えがない……。以前ドロシーがそれらしいことを口にしていたような気もするが……いつもの戯言と思ってほとんど聞き流してしまった。

 もしかして、何か重要な事実が分かったのか?」

 「カンパネラは触れ合うのを好む性格ではないし、ツリーハウスからあまり元気がなかったからね。声をかけるのはやめておいたんだ。
 でも、次にこういうことがあれば彼女に頼んでみるよ。気をつけるね」

 彼女の中には、恥もなければ危機感もないのだろう。
 他のトゥリアはともかく、自分では生殖行為はできないのに不思議だなあ──なんて言葉は心の内に留めて、ロゼットは頷いた。
 相手を悩ませてしまうのは本意ではないし、こういうことの積み重ねで苦手意識を持たれてしまったら少し寂しい。
 異性の前では脱がない、ということを頭に入れて。また別の話を、のんびり赤薔薇は語り出す。

 「他の子にとって、どうかは分からないけれど……私には大事なことかな。
 人類の歴史を調べている時に思い出したんだけど、記憶の中の大切な子が……なんだっけ。連邦…政府研究機関?の中にある、ガーデンっていう組織にいたみたいでね。
 昔の私は、そこに植木鉢の芽を見せに行こうとしていたんだ。……これはまあ、今はどうでもいいかな」

 ここで一呼吸。
 話すのは得意ではないから、予め要点だけをまとめてきてよかった。

 「それでね、ここからが本題なんだ。
 そこで“涙の園計画”っていうのをやっていたみたいなんだけど……これが私とか、フェリシアとか、ジャックとか……ここのみんなに関係があるかもしれないから、その内容を知りたいの。
 ほら。お披露目の時に、実験がどうって掲示があったみたいじゃない?その実験に、私の大事な子とか、“ガーデン”が関わってたらどうしようかなあって……」

 軽い口調で語りながら、視線が下に落ちていく。
 どうしよう、の先が、どうにも口に出せない。
 今まで、こういうことは関係ないこととして遮断できていたのに。最近は何か変だ。
 嫌な考えが棺を満たす妄想で、夜も寝付けない。おかしいとは散々言われてきたが、ついに致命的な故障が始まってしまったのだろうか。
 これ以上おかしなことを口走る前に、それぞれの向かうべきところへ向かった方がいいだろう。

 「よかったら、ドロシーにも訊いてみてほしいな。何かあったら私から会いに行くし、カンパネラに伝言を残してくれてもいいよ。あの子、湖で不思議なモノを見つけたみたいだから、もしかしたら関係あるかも」

 にっこりと、言いたいことだけを口にして席を立とうとする。
 引き止められれば再度腰を下ろすだろうし、何もなければそのまま離れていく。ロゼットはあなたの言う通りに動くだろう。

「……ああ。確かにカンパネラは、自ら進んで触れ合うようなドールではなさそうだったな……これもお前の配慮か。悪かった。

 だが、出来れば今後はそうした方がいいだろう。お前自身の尊厳の為にも。」

 ヒトの為にデザインされた慰み者に過ぎないドールが、尊厳を主張するなど可笑しな事かもしれない。だがジャックは確かにあなたという友人の個を認め、尊厳を守られるべきだと考えているようだ。あなたの気遣いも含まれていたらしい弁解へ、自身も誤解があったことを誠実に謝罪しつつ、重ねてあなたに告げるだろう。

 さて、ここからは更に大事な話だ。ジャックは表情を引き締め、語らう言葉に耳を傾ける。

「擬似記憶の大切な存在……か。授業では存在しない記憶らしいと習ったが、自身も覚えのない事実が次々と掘り返されるなら……案外と馬鹿にならないのかもしれないな……

 連邦政府研究機関の、ガーデン……それに涙の園……か。気になる単語だ、調べてみる価値はあるかもしれない。」

 自身の不明瞭な記憶を当てにした証言だとしても、いかにもな単語の羅列にジャックも小さく唸り声を溢す。
 未だ全貌が明らかになっていないトイボックスの秘密。それに彼女の大切な人が関わっているかもしれないのなら、心中穏やかではいられないだろう。

 真相を知りたいとも思うはずだ。
 ジャックは深く頷いて、「分かった、ドロシーにも聞いてみよう」と快く了承してくれる。

「だがドロシーの言葉は要領を得ないからな……直接話を聞いた方が、もしかしたら早いかもしれない。もし捕まえられなければ、また俺に声を掛けてくれ……。

 ロゼット。俺達の言動は見張られている。くれぐれも深追いはするな……口封じをされたくなければ。」

 ジャックは最後に、更なる情報を求めるあなたに忠告をひとつ。彼もまた席を立って、「また会おう。」と短く別れを告げてから、その場を立ち去るだろう。

 自分自身の尊厳についてなんて、まるで考えたこともなかったからだろう。
 ロゼットは一瞬驚いたような顔をして、それから、ちょっぴり困ったように頷いた。
 オミクロンならまだしも、“普通”のドールにそれを説かれたことはなかったのだろう。
 ──テーセラは皆心配性だが、それに加えて不思議なことを言うモノもいるらしい。
 ドロシーについての話を聞きながら、赤薔薇はそんなことを考えた。
 ジャックとは違うベクトルで変わった彼女とは、ひとことふたこと話をした程度だ。あまり親しくはないが、ちゃんと話せるだろうか。
 話に行くなら、きっと誰かを連れていこう。フェリシアだとか、アメリアだとか──それこそ、“友達”らしいカンパネラを。

 「うん。またね、ジャック」

 別れる時には、井戸端会議を終わらせたような明るい調子で。
 軽く手を振って、ロゼットも行くべきところに向かう。トイボックスはまだ、いつも通り回っていた。

【学生寮1F 図書室】

Gretel
Storm
Rosetta

「ありがとう。」

 『死に至る病』をストームに預けたグレーテルは、にっこり笑って謝意を述べた。真っ赤なベリーを埋めた眼窩が蕩けている。
 ストームの親切に甘えることにしたらしいグレーテルは、そのまま散らかしていた本を何冊か束ね、記憶を頼りに元の場所へ陳列し始める。この図書室は書物のジャンルごとに区分けされているため、指先で背表紙をなぞり戻す位置を確認しているグレーテルは、ストームに背を向けた状態だ。

 何かを落としたか問われると、グレーテルは「んん……?」と不思議そうに首を傾げる。

「なにかって?」


 ……包まれたそのペンダントは古びて錆び付いたチェーンで繋がれており、ペンダントトップの部分はロケットになっていた。
 ロケットの部分は開くようにもなっているのだが、ひしゃげて開きそうもない。そしてペンダントの表面には『H.schreiber』と潰れかかった刻印がなされている。

《Storm》
 背中越しに返事するグレーテルに近付いてゆく。再度凝視した。随分所持者に愛用され長年連れ添ったのだろう。錆びたチェーンや開きそうもないロケットに書かれた文字が思い出深さを物語る。
 ストームは磨り減って潰れかかる刻印を一文字一文字読み取る。H,s,c,h……。
 持ち主は……シュライバー?
 見覚えも聞き覚えもない名前。本当にグレーテルの物だろうか。元クラスメイトから貰った可能性も拭いきれない。だとしたら彼女にとって大切な宝物だろう。小さなロケット宇宙へ飛び出さぬように迷ってしまわぬようにしっかり手のひらに収め彼女に見せた。

「素敵なペンダントが落ちていまして、貴方様の物ですか?」

 「こんにちは、グレーテル。ストームに意地悪されてない?」

 麗らかな日差しを受けて、現れた花は笑う。
 図書室にやって来たのは偶然で、彼らの声を聞いたのも偶然だった。
 もしかしたら親睦を深めているのかもしれない──なんて呑気に考えて、ロゼットは後ろから声をかけたのだ。

 「驚いてしまったなら、ごめんね。私はトゥリアモデルのロゼット。グレーテルにそっくりなドールと話したことがあって、気になってたんだ」

 あの子が髪を伸ばしたのかと思ったよ、なんて。
 あくまで好意的に振る舞いながら、青髪のプリマに視線を向ける。
 どうやら本を探していることまでは読み取れなかったようだが、ペンダントを拾ったことには気がついたようだ。
 テーセラの手元を覗き込むと、「あっ」と声を上げた。

 「それ、ヘンゼルのじゃない? この前拾ってあげたんだ。大事なモノだって言ってたけど……今は交換でもしてるの?」

 一度手に持っていた本を全て本棚に納め直したグレーテルは、分厚く編み込まれたバーガンディの髪を揺らしてそちらへ向き直る。
 そこで彼女は漸く、ストームの手に収められた古びたロケットペンダントの存在に気が付いた。時の流れを感じさせる実に趣ある装飾品を見て、グレーテルは暫し硬直した。

「……────」

 視線はペンダントに釘付けのまま。
 グレーテルは浅い呼吸であなたの手元を凝視している。
 不自然な沈黙がストームとグレーテルの間を隔てる薄い幕となって降り始めたころ──

 その背に投げかけられたのんびりとした少女の声に、グレーテルはびくりと肩を跳ねさせた。

「ヘンゼル……わたしの、可哀想な弟……う、ううう。」

 ロゼットの何気ない言葉から漏れた、彼女の双子の弟の名を聞いて、グレーテルは小さく呻いた。苦いものを飲み込むような顔で、穏やかな表情を僅かに強張らせて。
 かと思えば彼女は、ストームの手からひったくるような乱暴さで、そのペンダントを強引に奪い取るだろう。大切に両手で抱え込んでは、少しだけ肩で息をして、へにゃりと引き攣った笑みを浮かべる。

「そう……ヘンゼルはわたしの弟のなんだから……ずっとずっと……。

 ………………」

 自己暗示らしき不明瞭な譫言を経て、グレーテルは瞬きをして、数秒後漸く顔を上げる。
 その瞳にはまた先程までのような明るいものが差していた。

「ご……ごめんなさい、取り乱しちゃって。ストームさん、拾ってくれてありがとう……うん、これはヘンゼルの凄く大切なものなの。

 今はわたしが……預かってる。えへ、へ……」

 グレーテルは調子を取り戻したようで、にこにこと微笑んだ。そうしてペンダントは彼女の懐に仕舞われるだろう。「こんにちは、ロゼットさん。わたしグレーテルっていうの、よろしくね」と、以降はまた新たにやってきたロゼットに自己紹介をしてみせた。

《Storm》
 図書室に赤色の花一輪のみだと思っていれば薔薇の花がパッと姿を表す。薔薇は小言を言いながらストームらに近付いて来た。

「ロゼットは手厳しいなぁ」

 雑談程度にかけられた声にストームはそう返した。意地悪だなんて人聞きの悪い。彼はただほんの数ミリの善意と彼の身体を縛り付ける使命感で動いただけなのに。酷い言い様だ。

 ロゼットが覗き込むペンダントをグレーテルも覗き込むと彼女は剥製になった。ラズベリーは一点に固定され時が止まったよう。余りに静まり返るものだから耳鳴りすら聞こえてきそうだ。
 グレーテルはロゼットの心地よいアルトボイスにビクリと体を反応させ震える声で小さく喚く。訳が分かるわけがなくストームは眉を下げ彼女の顔を覗き込む。あぁなんて、可哀想な顔。
 そう思った時にはグレーテルの小さな手がストームの手からペンダントをひったくっていた。先程まで手にあった可能性への切符はもう無くなっている。ストームはようやく意識を確かにさせると三回ほど瞬いてロゼットの方を見るだろう。グレーテルの様子が挙動が変だから。今の気付いたか? と。引き攣った笑みはストームのそれよりも下手くそだった。ストームは見逃さない。

「そう、ですか。無くさずに済んで良かったです」

 ストームはグレーテルに目線を戻すと胸に手を当て丁寧な所作でお辞儀した。そして背中では自身に近いロゼットの服を軽く引っ張り目配せする。ヘンゼルを知らないストームには彼女の言葉の真偽を判断しかねないから、ヘンゼルを知るロゼットが彼女にどんな言葉をかけるか様子を伺うようだ。

 何か悪いことをしてしまっただろうか。
 突然しおらしくなるグレーテルと、変わりないストームを、ロゼットは何度か見比べた。
 当然だが、答えなど出るはずもない。プリマでさえ困惑しているのだから、ただのドールに理解できる道理はないのだ。

 「厳しくないよ。ほんとのことだもの」

 とりあえず。ストームにそう返事をして、瞬きを返した。
 ──わたしもわからない。あれ、なに?
 無言の困惑が、睫毛の震えを生み出した。銀の眼は相手の感情を掴みかねて、ただ本の群れを写すだけだ。

 「ねえ、グレーテル。ヘンゼルはそれをなくしちゃいけないモノだって言ってたよ。“おねえちゃん”なんだったら、返してあげた方がいいんじゃないかな」

 対応策が見つからない以上、ロゼットはいつも通りに対応できない。
 だから、恐らく持ち主が望むであろうことを口にするしかできなかった。

 「それとも……ヘンゼルには、何か持っていられない事情があるのかな。ロケットの中身が、関係してたりする?」

 ストームを後ろに立たせたまま、無感動に彼女は問いかけるだろう。

 グレーテルは今しがたペンダントを仕舞い込んだばかりの制服のポケットに、手を置いたまま。まるでそれに縋るように、──どこか、それを守るように? ポケットを抑える手を離す事はなかった。

 どうやら強引な自己紹介で、先程の異様な空気感は拭えなかったらしい。それも当然である。
 こちらを不審がるように、ペンダントの本来の所有者について詰問するロゼットの言葉は鋭いが、至って真っ当である。グレーテルはなんとも言えない表情で目を伏せていたが、やがて顔を上げて、またにこにこと友好的な笑顔をあなたに向けるだろう。

「うん、そうなの。事情があるの。わたしはヘンゼルの“おねえちゃん”だから、ヘンゼルの為になることは全部分かってる。
 ヘンゼルにとってこのペンダントは凄く大事なものだけど、今は必要ないからわたしが大切に預かってる。それだけだよ。」

 それ以上に理由が必要? と言いたげな様子で、グレーテルは首を傾けた。その言葉にも、態度にも、一切あなたへの棘は見られない。だがどこか、“他人様の家庭の事情にこれ以上踏み込むな”と言ったような、分厚い壁を感じる。
 どうやらそれ以上に語るつもりもなさそうだ。彼女からペンダントについて詳しいことを聞き出すならば、別のアプローチが必要かもしれない。

「……あ、大変! わたし、デイビッド先生に呼ばれてたんだった。お話楽しかった、ストームさん、手伝ってくれてありがとう!

 また仲良くしてね……絶対、約束だよ?」

 そこで、彼女は図書室に取り付けられた時計をちらりと見上げて、思い出したようにパッと明るい声を上げた。赤い制服の裾を翻しながらあなた方に手を振って、階下へ続く階段を駆け降りていく。やがてその弾む赤毛は、あなた方の視界から消え失せるだろう。

《Storm》
 ストームはヘンゼルとグレーテルについて何も知らなかった。なのでロゼットの後ろに従え二人の会話を傍観することに勤めていた。想定よりも鋭いロゼットの言葉にストームは目を丸くするがご最もな問いかけだった。すぐには帰ってこない答えになにか違和感を感じて仕方がない。
 ストームは本能的にロゼットの前に躍り出る。彼女を背後にグレーテルの反応を待った。

 妙な一瞬の緊張。
 上げられたグレーテルの表情はにこやかだった。そしてストームらを一切介入させぬような壁を隔てる。一見姉弟間の秘密とも感じ取れる言葉だがそこには異常な依存が感じ取れた。そしてチラリと自身らの瞳から目を逸らしたグレーテルは別れの言葉を告げて去ってしまった。

「えぇ……分かりました」

 静かなお辞儀をしてストームはグレーテルを見送る。完全に彼女の姿が見えなくなるその瞬間まで。彼女の消え去った背中の残影を見詰める。

「涙が出る姉弟愛ですね。姉としての責務を全うしようと努めてるとは」

 ストームの瞳は酷く乾いていた。抑揚の一切無い声色。手に収められたスカーフをパサリと広げ、自身の首に巻き直す。服装を整えるとロゼットの方へ向き直るだろう。

「さてその姉弟愛は果たしてホンモノなのでしょうか? 素晴らしい愛のカタチを知る為にはジブン達は彼らを知らな過ぎる。そう思いませんか?
 そこでねロゼット。役割分担しませんか?
 ジブンはグレーテルを。貴方様はヘンゼルを調べる。そして共に美しい姉弟愛を見届ける。いかがですか?」

 ストームは首を傾げる。愛を追おう。そう提案しているのだ。敬愛するディアのように。暗闇のかかったちぐはぐの瞳はぐるぐると竜巻を渦巻いている。

 グレーテルが軽やかに立ち去った後、ロゼットはぼんやりといなくなった方を見つめていた。
 ヘンゼルとグレーテルが“きょうだい”ならば、グレーテルの苗字もシュライバーなのだろうか──なんて、どうでもいいことを考えながら。

 「ね、私もびっくりしちゃった。言葉は強かったけど、ヘンゼルの方がまだちゃんとお話してくれたよ」

 姉のように、拾ったペンダントをひったくる青年ドールを思い出す。
 ふたりとも、あまり話をするのが得意ではないのだろうか。デュオのドールたちは利発だが、どうにも考えが先走っているように見える。

 「そうだね。これから一緒に過ごす相手だし、調べて損はしないもの。どんな子たちなのか調べよっか、ストーム」

 嵐に巻き込まれていることにも気付かぬまま、ロゼットは微笑んだ。
 あくまでこれは善意で、好奇心故の行動だと信じているのだ。
 だってグレーテルはまだオミクロンに来たばかりで、自分たちは相手について知らなさすぎるのだから。

 「じゃあ、私は他の子と一緒にヘンゼルのところに行ってみるよ。ひとりだとあんまり上手く話せないからね。ストームは……グレーテルになんて話すの?」

《Storm》
 ロゼットのの柔らかくも無機質な微笑みを捉える。トゥリアらしい包み込む笑みであるがどこか機械的な彼女の魅力にストームは柔らかく眉を下げた。まだ手の内には出来ていない芸術品の輝かしい姿に喜びを感じたのだろう。つられて表情が緩くなる。

「そうですね……。お恥ずかしい話、ジブンも話は得意では無いので直接彼女に問う時は他の方に同行して頂こうかと考えております。なので初めは彼女の言動を観察しようかと、追跡調査というやつです」

 違う。追跡調査という名目を借りたストーキングな訳だ。ディビッド先生に用があると退出したグレーテルを追うつもりだろう。それに彼女がどのような経緯を経てオミクロンに落ちたのかも気になるところだ。ジゼル先生が教えてくれるでしょうか。と呟く。

 ストームの顔立ちは可愛らしいモノだ。口元を緩めれば、それだけではにかんでいるようにさえ見えた。
 だから、その言動の真意にも気づかなかったらしい。「いいね」なんてのんびり口にして、ロゼットは頷いた。

 「明るい子ではあるみたいだけど、ちょっと心配なところもあるし……ジゼル先生と話す機会にもなるよね。ちょっとしたら、また話そうか。他にも話したいことができるかもしれないからね」

 今から出て行くデイビッドに用とは何か、何故ヘンゼルのペンダントを持っているのか。
 優秀なストームのことだ、きっとヒントぐらいは得てくれるだろう。
 「お互い頑張ろうね」なんて口にして、ロゼットは先に部屋を出て行こうとするだろう。
 彼も今すぐ追いかけなければ、見失ってしまうかもしれないのだから。

《Storm》
「ロゼット、くれぐれもお気を付けて」

 頑張ろう、だなんて口にされるとストームはすぐにトゥリアであるロゼットの身を案じることだろう。彼女は無痛症であり、自身の身体が破損しようと気付かないかもと思わせるような鈍感さも持ち合わせている。オミクロンクラスのドールに今以上の欠損は廃棄を意味するから。仲間をまた一人失った今、これ以上の犠牲は払っては居られない。ストームの語彙は強いだろう。それが、善意なのか彼の狂気的な欲望かは誰にも分からない……。

 さて、グレーテルの後を追うことにしなければ。
 ディビッド先生との話と言うのも気になるところだ。ロゼットが図書室を後にするのに続けてストームは足早に図書室を出ていくことだろう。
 木苺を求めて───────

【学生寮1F 医務室】

 ロゼットは医務室の扉を開けた。
 時刻は夕刻、放課後の退屈な時間である。
 やって来た理由は、特になかった。強いていうなら、ひとりで横になりたかったのだろう。
 破損していないドールがこんな所に来るなんて、誰も考えはしないだろう。特に、あの新しく来た先生はそのはずだ。
 どうやら、ミシェラのお披露目以降は変わったモノを探す癖がついたらしい。
 きょろきょろと周囲を見回しながら、彼女はベッドへと近づいていく。

 医務室の扉をくぐると、これまでの温もりを感じる木製の床から一転、清潔な白い壁と床の空間があなたを出迎える。
 ドールが収まるための棺のような箱型のベッドが三つ、壁に沿って並んでいる。作業台と思しき広い机には何も置かれていない。当然だ、近頃は誰も目立った怪我をしていないから。
 奥に置かれた棚には、怪我をしたドールズに処置をするための医療道具が収められていたはずだ。

 誰も怪我はしていないのに、何故ひとつだけ開いているのだろう。
 棺にも似た寝具に近づくと、ロゼットは中を覗き込んだ。
 何か入っているのだろうか。それとも、誰かが同じ考えを持っているのだろうか?
 特に支障が出るようなモノが入っていなければ、一旦中に入り、横になってみることだろう。そうして軽く目を閉じて、あの“痛み”が来ないかどうか、やや身を硬くしながら待つはずだ。

 医務室に三つ並べられた棺型の黒いベッド。内一つが開いたままになっている。誰かが開け放したまま放置しているものらしい。
 あなたが蓋が開いたままのベッドを覗き込むならば、清潔なシーツと枕が整然とおさまっているのを目にするだろう。

 そして同時に蓋の方を確認すると──そこには『√0』という謎の記号が無数に刻まれていた。
 今なお鋭利なもので傷付けたような痕跡は色濃い。そして、その夥しい記号の上に、蝶の翅を思わせる模様が更に刻み込まれていた。
 拡げられた翅は半ば記号の海に接触しており、ぐちゃぐちゃとしている印象を見るものに与える。

 一見して、不気味な様子であろうことは間違いない。

 怯えていた感覚は、彼女に手を伸ばすことさえなかった。

 「……なんだ」

 拍子抜けのような、なんとなく悔しいような。
 肩透かしを食らったことには間違いなく、ロゼットはため息を吐く。
 警戒していたのが馬鹿みたいに思えたが、また違う収穫もあった。
 ──√0と、青い蝶。
 これらは結びつきがあるのかもしれないと、彼女は思った。
 根拠もないし、どちらも知っているドールなんて片手で収まるくらいしかいないだろう。
 だが、知る者が少ない記号がふたつも書かれているのは異様だ。

 「これも、ドロシーに訊いてみるべきなのかなあ……」

 棺から身体を起こし、赤薔薇は息を吹き返したばかりのように伸びをした。
 次に目を向けたのは、離れた所にある棚だ。
 一旦箱から出て、木製部分にある園芸用品を覗いてみる。
 発信器こそついているが、少しぐらい貰っていってもバレないだろう。多分。

 部屋の奥には医療棚がある。ドールズの傷病等の治療の為、薬や消耗品が常備されているのだ。
 確か上部のガラス扉の下、木製扉に覆われている部分には寮周辺の花壇や寮内の観葉植物などに用いるための、園芸用品が収まっていたはずだ。

 扉を開くとあなたの覚えていた通り、培養土や肥料、除草剤等の園芸用薬品の類いが整然と収まっている。あまりこれらを利用する機会も少ないため、埃を被っていた。
 また、一角の小さなバスケットには、まだ花壇やプランターに植えられていない種の入った袋がいくつも収まっている。袋の口を縛る紐には、種の種類が書き込まれているようだ。
 チューリップやヴィオラ、パンジー、マーガレットなどの花の種は勿論、ニンジンやキャベツ、ラズベリーやイチジクなどの家庭菜園にもなるような植物の種も収まっているようだ。

 その中に一つ、奥まった場所に、種類が何も書かれていない袋がある。中には小さな種が三つほど収まっているようだ。あなたはこの種に不思議と興味を誘われる。

 もうじき、芽吹きの季節が来るだろう。
 ミシェラやアストレア、その他たくさんのドールを打ち捨てたまま、新たな種が芽を出していく。
 愛別離苦からわずかでも意識を逸らすように、ロゼットは棚を覗き込み続けた。

 「こんなのあったっけ……?」

 紐に書かれた名前は、全て知っていた。だが、何も書かれていないというのは少し妙だ。
 ──もしかして、もしかするんじゃないだろうか。
 とうに砕けた植木鉢の欠片を、そっと拾い上げるように。彼女は恐る恐る、無名の袋へ手を伸ばした。
 開けられそうであれば、袋を開いて中を見てみることだろう。

 袋の中身は、特徴のない小粒のような種が三つ収まっているだけで、他には特に何かが入っている様子はない。
 種の特徴だけでどんな植物が芽吹くのかの判別は現状難しそうだ。正体不明の植物の種から、一体どんなものが芽吹くというのか。

 あなたはこの種を育ててみたい、どうにか育てられないだろうか? と思うだろう。正体不明の衝動の出どころは不明だったが。

 ロゼットは植物学に精通しているわけではないが、それでもトイボックスの中ではそれなりに詳しいと自負している。
 大抵の花の名前は分かるし、毒性の有無や、その性質も何となく理解できるつもりでいた。
 だから、本当に見たことのないその種を見て、彼女は驚いたのだ。
 観賞用の花が咲くのか、食用の実がなるのかすら推測できない。ただ、何かの植物であることだけが分かっていた。
 先生に訊いてみようかと思ったが──デイビッドならまだしも、会話を主とするクラスの先生はあまり植物に興味がないかもしれない。
 デュオのドールに訊くのも、何となく憚られた。四体いる中の三体とギクシャクしているのだ。話しかけてつれなく対応されては困ってしまう。

 「育ててみるしかないかなあ、とりあえず」

 ロゼットは、種をふた粒手に取った。
 育てたいと思ったのは、未知への好奇心からか──はたまた、自分のモノかすら定かではない記憶のためか。自分でもまだ分からなかった。
 ひと粒だけ袋に戻すと、何事もなかったかのようにしまい直す。そうして、一旦寝室に戻ることにした。
 育てる場所なら決まっている。自分の腹をさすりながら、彼女は一旦探索を中断するだろう。

【学生寮1F ラウンジ】

Sophia
Rosetta

 学生寮、ラウンジ。
 お披露目前のミシェラのように、ロゼットは本を読んでいる。
 エーナでなくても覚えられるような、やさしい内容の児童書だ。学ぶような内容もないが、暇潰しには最適だろう。
 一ページ一ページ、その手触りを確かめるかのように。赤薔薇は紙のふちをなぞりつつ、無言で読み続けていた。
 もう冬も終わった。寒がる子どもたちが、ペンギンよろしく集まることもない。
 ロゼットの読書は淡々と、無言で行われることだろう。──この場にソフィアがやって来るまでは。

《Sophia》
 まず、あなたは。ばた、ばた! と、奇妙な不規則を着込んだ足音を、ラウンジを仕切るドアの壁の向こう側から耳にするだろう。
 あなたが、そちらに視線をやるなら──少しの間を置いてから、ムーンストーンの銀の輝きには幼い少女の金糸が映り込むだろう。
 先日あなたが心の壁を隔てたばかりの、メシア気取りの愚かな女の姿がそこにあった。

 けれども、今回は尊大と言い表すにはあまりにも正反対な表情をしているようだ。アクアマリンは楕円に潰れ、表情は外側から中央へと圧力でもかかっているかのようにしかめられ、シワになっている。何ともバツが悪そうな顔だ。
 ソフィアは、スゥと音を立てて息を吸えば、意を決したようにあなたの元へ近づく。

「……その、ロゼット。読書中に悪いんだけど、……ちょっと、お話……させてくれないかしら。」

 一体誰が騒音を立てているのだろう?
 不思議そうに、ロゼットはそちらを見る。
 その視界にソフィアが入れば、一瞬目を丸くしたが──すぐ普段通りの表情に戻った。

 「どうしたの、ソフィアさん。王子様がいなくなって寂しくなっちゃった?」

 口振りは平坦なまま。立ち上がることもなく、赤薔薇は口にする。
 ぱたり、と本を閉じる音が響いた。少なくとも、あなたの話を聞くつもりはあるらしい。
 ソファの脇にスペースはあるが、ソフィアが座ったとしても嫌な顔はされないだろう。嫌な顔はされない──というだけだが。

《Sophia》
 赤薔薇は鳴く。その刹那、その言葉に、肺が押しつぶされるような圧力を受けて……たじろいでしまった。目を見開いて、はく、ともろい息を吐き出す様は、心の臓を一突きされたかのごとく。一瞬で青ざめてしまった肌は、作り物──と言うよりは、最早死体のようであった。
 言葉とは、狂気であり、凶器である。いつもと変わらず白銀のしずくを輝かせて咲き誇る赤薔薇は、それを知らない。知らないのだ。
 いっそ、残酷なまでの他人行儀は置いておくとしても。少女の最愛の親友の、その末路を察せるはずであろう者が、少女の傷を土足で踏みにじるなんてことを、悪意を持ってできるわけがないのだ! だって、赤薔薇は優しく咲くものだから! 心優しき者が、悪意を持って傷を踏みにじるなんて、到底不可能! ああ、だからつまり──彼女に悪意は存在しないのだから、ぜーんぶしかたない!

 傷付くのは! 簡単な言葉に圧力を感じて! 簡単に潰れる弱さのせい! 全部全部あたしのせい! 流石はオミクロン様! 人間様の真似事がお上手!

「……………………ううん。まさか、あなたを代わりになんてしないわよ。そうじゃなくて、この間のことを謝りたかったの。

 ……あたし。酷いことを言ってしまったでしょう。みんなの事を信用出来ていなかった。あたしはずっと弱いのに。みんなはもっと強いのに。ごめんね。ごめんね。みんなの事が大好きだから守りたいと思ったの。死んで欲しくなかったのよ。」

 ニコ、ニコ! 少女は、とびきりの笑顔を浮かべている。アクアマリンは、長いまつ毛の奥、瞼の奥で眠っている。ああ、なんて素敵なんでしょう! 鈴蘭だって満点をくれる、きっとあなたの唯一の取り柄だね、ソフィア。笑うのが上手になったのね。

 ただそこで咲く花に、少女ドールの心の機微など感じ取れるはずもなかった。
 曲がりなりにもトゥリアなのだから、その気になれば──否。その気にならずとも、相手の深い悲しみや、こちらに話しかけるときの緊張した面持ちは窺い知れただろう。
 それを反映したコミュニケーションを行わない、ということはそれだけの理由があるのだ。
 例えば、“普通”のドールのようにこちらを見下すソフィアが気にくわなかったとか。防衛機制の一種が働いているとか。
 あるいはもっとシンプルに、拗ねてしまっているのかもしれない。
 ロゼット自身は自覚できないだろうが、いい気分ではないのだろう。笑顔でいる相手に対して、彼女は仮面を被ったようなつめたい表情を浮かべている。

「謝りたいの? それなら私よりも先にアメリアに言うべきだと思うけれど」

 視線は交わらない。
 自分よりも幼い“おねえちゃん”の瞼を、白銀の鏡は映し続けている。
 さあ、姉妹らしく歓談といこうじゃないか。

《Sophia》
「アメリアにはもう謝ったの。だから次はあなたの番。別に許してくれなくとも構わないわ。あたしが言いたかっただけだから。」

 本当は許されたいはずなのに。その言葉は、普遍的な罪悪感によるものなのか、はたまた異常な悪感情の燻り故のものなのか、判別は不可能である。
 ああ、早く立ち去ってしまいたいな。ボロが出る前に。心を呑み込む笑顔のおまじないが解けてしまう前に。麗しの薔薇が姉と呼び慕った『誰か』の影が消えてしまう前に。

「それじゃ、用事はそれだけ。……あたしはね、あなたのことが大好き。あなたが強いドールだって理解してる。……でも、あまり危ないことはしないように、ね。あなたに、みんなに消えて欲しくないの。誰も同じ目に遭って欲しくないの。それだけはわかって。わかってよ。」

 にこり、と。どこまでも青水晶をまぶたの奥に隠したまま、プリンスみたいな明るい笑顔を取り繕っている。
 ……言葉を持つならば、言葉を交わさなければ。親友ならきっとそう言うだろうけど、あいにくあたしに王子様役は向いてないみたい。
 お互い、何を思って、何を望んでいたんだろう。
 言葉はそこで途絶えた。予定調和が崩されなければ、少女は窓辺の薔薇に小さく手を振って、その場を後にしてしまうのだろう。まるで、美しい童話のワンシーンをそのまま切り取ったみたいに。

 いつの間にか、童話集は椅子のクッションの上に移動している。
 相槌は打たない。彼女はただ、ソフィアの話に耳を傾けるだけだ。
 その中の苛立ちも、罪悪感も、全て吸い込むように。植木鉢の土のように、彼女はじっとしていた。

「待って」

 相手が話し終えて、背中を見せようとしたとき。
 動作を鋭く遮るように、赤薔薇は声を上げる。それとほとんど同時に、近付いてくる足音が聞こえてくることだろう。
 これは既に幸福な童話ではないし、完璧な悲喜劇でもなくなってしまった物語だ。
 だが──無情な物語の中にも、少しくらいは救いがあっていいはずだ。
 例えば。すれ違うばかりだった子どもたちが足を止め、ようやくお互いの心中を話し合うとか。それくらいはあってもバチは当たらないだろう?

「あのね、私の話も聞いてほしいの。本当に嫌だったら、いいんだけど……」

 言いづらそうに、一度言葉が途切れる。
 彼女はエーナではなく、トゥリアのドールだ。
 他者の感情を読み取ることができても、自分と向き合うことは得意ではない。
 だから、その話は分かりやすいものではなかっただろう。あなたが途中で立ち去ってしまっても、きっと彼女は怒らない。

「あの後、色んな子と話したんだ。オミクロンのみんなも、オミクロンじゃない子たちも、色んな不安を抱えてた。でも、それぞれやりたいことがあって、そのために動いてたよ。
 多分、あなたも同じなんだよね。アメリアと喧嘩しちゃった時も、全部を何とかしようとしてくれてた。
 アメリアの気持ちも分かってたし、お姉ちゃんが話すのが得意じゃないのも分かってたから、本当は私が仲裁するべきだったんだ。なのに、何もしなかったし、あなたを傷付けようとしちゃって……ごめんなさい」

 もしも、ここであなたが目を開けたなら。視界にはロゼットの姿が映るだろう。
 いつもの微笑みでもなければ、つまらなさそうな無表情でもなく。眉尻を下げ、不安げな子どもの顔をしたロゼットの姿だ。

「私はみんなと仲良くしたいし、トイボックスのことも、みんなで何とかしたいよ。
 だから、その……お姉ちゃんも、頼ってくれると嬉しいな。私とか、アメリアとか、プリマドールじゃないみんなのことも」

《Sophia》
「……………………ロゼ、ット、」

 呼び止められて。はた、と少女は振り返る。やわい足音を従えた赤薔薇が歩み寄るのを、呆然と。アクアマリンは眺めていた。
 ──薔薇は今まで、どこまでも『薔薇』であった。水を与えられて、てらてらと輝いて、静かに咲き誇る薔薇であった。
 だから、そんなあなたに『ロゼット』でいて欲しくて、水の代わりに声をかけ続けた。
 そこには、親愛だけがあった。
 彼女の言葉はたどたどしくて、上手なスピーチと言うには拙すぎる。けれども、それは紛れもなく『ロゼット』の言葉であって。ただそれだけで、その言葉に価値を見出すには充分すぎたのだ。

 だって。自分を姉と呼び慕ってくれる子が。自分の妹のような存在の子が。『ごめん』と言って、自分の想いをこんなにも伝えてくれているのだから。焦燥も憤怒も不快も嫌悪も、何もかも吹き飛んでしまったっておかしくないだろう。
 あたしは一人じゃないんだもの。

「…………うん、っ、うん……ぅ……」

 段々と、その声色は濁り始める。バツが悪そうにしかめられた、楕円形のムーンストーンがいたたまれなくなって……だなんて言い訳が出来ないくらい、アクアマリンはもっともっと、ひしゃげていく。そうして、潤いを帯びて。透明な雫がこぼれ落ちて、段々と粒が大きくなって。

「……さみしかった、そうよ……寂しかったわよ……! ミシェラがいなくて、アストレアがいなくなっちゃって……ロゼットにも、他人みたいにあつかわれて……、さみしかったよお…………!」

 ……終いには。うああん、と声を上げて泣き出してしまう始末である。普段ならばどこもかしこも彫刻のように白く静謐を纏っている肌は、目元も鼻元もほんのりと赤くなっている。
 まるで子供みたいだ。だって、実際子供なのだから。けれど、目の前で大粒の涙を拭い続ける小さな少女こそが、『ロゼット』が自分の意思で『姉』と呼んだ少女なのだ。

「ひっく…………よかった、よかったよお、ロゼット…………うああん……………!」

 プリマドールの冠が、背伸びを助けるガラスのヒールが、外れていくのをただ見ていた。
 普段であれば、誰かに涙を見せることなんてなかっただろう。ソフィアは気高く、他人に弱みを見せたがらないドールだ。
 誰よりも鋭く、一点の曇りもないように。研ぎ澄まされた剣のような心を保てているのは、優れた個体であるという矜持故なのだろう。
 しかし、王子様はいなくなってしまった。
 強くあるためのおまじないだって効かなくなれば、そこに残るのはただの少女ドールだ。
 ロゼットは魔法も使えないし、ドレスだって用意することはできない。地獄を飛び出すための、かぼちゃの馬車なんてもっての外だ。
 だが。少なくとも、傷ついた相手を慰めてやることぐらいはしてやれるのだ。

 「……うん。ごめんね、お姉ちゃん」

 ちいさな身体を、包み込むように。赤薔薇はその手を伸ばして、ソフィアを抱き締める。

 「今までずっと怖かったよね。大丈夫。痛いところがなくなるまで傍にいてあげるから、好きなだけ吐き出していいんだよ……」

 形のいい頭を、ゆっくりと撫でる。
 側から見れば、立場が逆転したようにも見えるだろう。それでも、これは“妹”が“姉”のためにできることを考えた結果の行動だった。

《Sophia》
「っぐ、ひぐ、ゔ………ゔあああ……………」

 年上の設計年齢である妹のやわい手つきに撫でられるにつれ、少女の『強さ』を磔にしていたピンが一本一本抜けていくように、嗚咽はとめどなく溢れゆく。そのまま手に取れてしまいそうな、まるまるとした純水晶を、ただこぼしながら。
 いつの間にか、少女の頼りない手はあなたの背に回されていて、あなたの身体を離さないようにぎゅうと力が込められているだろう。もちろん、それは華奢な少女の力である。いくら繊細な硝子細工であっても、このか細い衝撃では壊れることはないだろう。少女は、あなたに身体を預け、ぐずるのを続ける。

「こわい、怖いよお……お披露目も先生もこわい、今度はあたしかも、いや……まだ死にたくない……他のだれかが選ばれるのも、いや、やだあ……ひぐっ、うう………おいていかれたくないの…………!」

 呼吸は、酷く荒くて。肩を震わせ、年相応に咽び泣く姿は、プリマとして不甲斐ないものであるのは間違いない。けれども、髪を掴んで痛めつけるあの悪癖は出ていないようである。他に掴むべきものがあるからだ。
 やがて。一秒一分だか一時間だかの曖昧な時が流れた頃、ようやく少女は少しの理性を取り戻したらしい。ロゼットが口を開かないのなら、深い呼吸とすんすんと鼻を鳴らしすすり泣く音のみが辺りにはこだまするだろう。

 ロゼットの服に、アクアマリンから溢れた雫が染み込んでいく。
 この涙に色を付けるならば、それは夜を思わせる青なのだろう。ミシェラを、アストレアを、たくさんのドールを助けられなかった夜の色だ。
 ムーンストーンは瞬きをして、ただ泣きじゃくるソフィアを見ていた。
 どこまで行っても他人は他人で、赤薔薇は女王になり得ない。女王だって赤薔薇として生きてはいけないだろう。
 それでも、想像できない痛みを想像しようとし続けるしかないのだ。愛する誰かに寄り添う方法は、これしか知らないから。
 少しでも相手が安らげるように、彼女は頭を撫で続けていた。
 これ以上、ソフィアに何も傷付けさせたくはなかったのだ。誰かのことも、自分自身のことも。
 うん、と何度も相槌を打って。慟哭にも似た言葉に耳を傾けて。少女ドールが落ち着くまで、ロゼットはそこに立っている。
 呼吸が安定したのなら、形のいい頭の上で動かしていた手を一度止めるだろう。

 「お披露目は終わらないし、怖いことばかり見えてくるし……ずっと苦しかったよね。気付いてあげられなくて、ごめんね」

 そう言いながら、少し身を離した。目尻に涙が残っているなら、花に触れるようにそれを拭うはずだ。
 いつもよりも控えめに、赤薔薇は微笑む。遠慮をしていると言うよりは、相手の様子を窺っているように見えた。

 「全部大丈夫とは、言ってあげられないよ。お披露目が決まったとしても、私たちにできることはあんまりないもの。
 でも、お姉ちゃんが辛くなった時、こうして聞いてあげることはできるよ。お茶もコーヒーも飲めるし、花冠だって編んであげる。
 だから……そんな顔をしないで、お姉ちゃん。私たち、どんな形になったとしても、未来でもずっと一緒にいるよ。それだけは、絶対大丈夫だから」

 そっと、細い小指が差し出される。
 これをどうするかは、あなたの自由だ。

《Sophia》
 ごめんね、と。静かに、柔らかに、その声は響きゆく。女王様のプラスチックの冠は、とうにあなたのあたたかさで溶け崩れてしまったのだから、……その指が触れるだけでまた涙がこぼれ落ちそうになるのも、きっと仕方のない話。
 純水晶は、あなたの陶器のごとき指に二粒、三粒と染み込んで、やがてその雫は完全に止まるだろう。

「…………………………うん。約束ね。ぜったい。」

 潤んだアクアマリンは、少し高いところにあるムーンストーンをぼんやりと捉えていた。が、小指が差し出されれば、少しのタイムラグののちに、そちらに焦点を合わせる。
 今のソフィアは随分処理能力が鈍ってしまっているらしく、細い小指をしばらく呆然と眺めてから、ようやく気づいたようによろよろと自分の手を持ち上げた。そのか弱い挙動とは裏腹に、あなたの小指を繋ぐ小指にはしっかりと力がこもっている。鎖のように絡まるそれは、決して離れない絆を暗示しているかのようであった。
 きゅう、と結んだ指を軽く触れば、決意表明の儀はおしまい。どちらからとはわからない。けれどゆっくりと、指先の熱は離れてゆくのだろう。

 その涙は、もう悲哀だけでできたモノではないのだろう。
 多少の安堵と、信頼と、ひと匙の希望。そういった祈りが混ざって、青い瞳から溢れ出しているのだ。
 ──よかった。
 ロゼットは、心の底からそう思う。
 ソフィアという少女ドールに──オミクロンの仲間たちに、塞ぎ込んだままでいてほしくはないのだ。
 自分たちのいる場所は、きっとまだ絶望の序章にすぎない。これから先、もっとたくさんのドールが焼き捨てられることだろう。
 そうなった時、一緒に歩いてくれるドールがいないのは嫌だった。お姉ちゃんが現実に負けてしまうのは、もっと嫌だった。
 だから、少しでいいから前を向いて欲しかった。何にも負けず、鎖のような絆で一緒に立ち向かってほしかったのだ。

 「絶対、ね」

 小指の契約は、今ここに結ばれた。お呪いのように、確認のように口にして、ロゼットは手を離す。
 指を離しても、彼女はまだソフィアの傍にいた。日常に戻ってきたように、あるいは約束を果たそうとするように、柔らかな笑みを浮かべたまま。

 「たくさん泣いちゃったし、疲れちゃったよね。何か軽く食べて、休んだ方がいいよ。今のお姉ちゃんを見たら、みんなびっくりしちゃうもの」

 そんな風に苦笑して、赤薔薇は一緒にキッチンにでも向かおうとするだろう。
 それからふたりで軽食でも食べたかもしれないが──この話は、ここでおしまいである。

【学園3F ガーデンテラス】

 馴染み深い素材の天井、馴染み深い青草と、子どもたちの淹れたお茶の匂い。
 ガーデンテラスにやって来たロゼットは、いつも通りの日常に息を吐いた。
 スクラップの上でのみ成り立つ箱庭でも、美しく花は咲いている。
 醜い機構の中にも、まだ愛せるモノはあるし、美しいモノは現れる。
 それを実感できるガーデンテラスは、ある種の憩いの場として作用していた。
 オミクロンの仲間がいないことに安堵するのも、今だけは許して欲しい。何も考えない時間が必要なこともあるのだ。
 誰も座っていないチェアに腰掛け、赤薔薇は周囲を見回す。
 見たことのない花が増えてはいないか、どこか期待しているのだろう。

 あなたは両開きのガラス製扉を開いて、ドールズの箱庭へ踏み入る。
 球形の天井からは、麗かな春の日差しが降り注ぐ。先ほど寮でも見た晴天が、一面に大きく広がっていた。
 陽光を浴びて、テラスに敷き詰められた芝地と花壇に植わった可愛らしい花が咲き誇っている、が、花弁はやや渇いているように見えた。ちらほらと点在する真っ白なガーデンテーブルと椅子では、優雅にお茶会をするドールズの姿も見られた。

 土は乾き、手を乗せるとパラパラとした手触りが伝わってきた。
 恐らく、誰も水をやっていないのだろう。可哀想に。
 ロゼットは立ち上がり、じょうろを探す。エバーグリーンのそれが見つかれば、水を入れて草花に撒いてやることだろう。
 植物はいい。与えた分だけ返してくれる。
 負い目もなければ必要以上に求めない存在は、今でも心地いいものだ。

 「……あれ? 何だろう、これ」

 じょうろからちいさな虹が架かる。
 それをぼんやり眺めていると、芝の上に何かが落ちているのに気が付いた。
 ロゼットはそれを拾い上げ、観察してみることだろう。

 ガーデンテラスに咲き誇る色彩豊かな花たちは、花弁と根の部分がわずかに渇き始めている。このテラスにある花の世話は先生が行うことになっているのだが、きっと忙しいのだろう。
 以前は常に輝き誇るみずみずしい花壇が常にテラスにあっただけに、すこしの見窄らしい感慨を覚えるはずだ。きっと誰かが世話をしていたが──その誰かはこの学園を去ったのだろう。永久に。

 優しいあなたは花壇に水を撒いていく。水を欲していた生花たちは意気揚々と花開いて、恵みの雨を享受する。
 そうしてじょうろで水をやりながらゆっくり花壇の外周を歩いていたあなたは、足元の芝地に紛れるようにして、何か光るものを目敏く見つける事になるだろう。

 本当に小さな物品で、他のドールは気が付いている様子がない。

 あなたがそれを拾い上げるならば、それはどうやら小さな指輪のようだ。かなり細く、輪は小さく、女性のために造られた所謂婚約指輪(エンゲージリング)であろうことを察する。

 指輪の裏側には文字が彫られていたようにも見えるが、潰れてしまっている。
 よくこの場所に訪れるドールの所有物なのだろうが、あなたには見当も付かない。

 行き交う脚の群れの中、ロゼットはしゃがんだままそれを摘み上げる。
 恐らくは結婚とかいうモノに用いるものだろう。ヒト同士が強い結び付きにあることを示すためのモノでもあったはずだが、何故こんなところにあるのか。
 ドール間で婚姻する意味はないし、したところでお披露目に行くだけだ。指輪など貰えるはずがない。
 自分もネックレスをしていた時期はあったが、さてはて。一体誰が落としたモノなのだろうか。
 とりあえず、彼女は自分の指にそれがハマるか試してみるだろう。右手の人差し指に通ったなら、左手の薬指に通し──なんとなく気恥ずかしくなって外してしまうはずだ。

 あなたが拾い上げた婚約指輪は、この子供たちの学び舎であるトイボックス・アカデミーではいささか無縁であろう代物だ。宝飾品が保管されている控え室にも、この指輪は存在しないだろう。

 なぜならドールが永遠を誓うのは、いつか出会う所有者ただ一人。そしてその存在と結ばれる契約は、まかり間違っても『婚約』と名が付けられるものではないはずなのだから。

 あなたが指輪を嵌めようとしてみるならば、女性向けで輪が小さく作られているリングの直径よりも、僅かにあなたの指の方が細かった。サイズは合わず、指輪は僅かに余ってしまう。

 婚約指輪はロゼットのモノではなかった。彼女の指よりも、やや大きいのがその証拠だ。
 なあんだ──と残念に思いながらも、彼女はどこかで安心していた。
 トゥリアというドールにとって、性愛は愛の至上命令だ。友愛も、敬愛も、自己愛でさえも上回る。
 誰かに身を捧げることだけが、か弱い人形の存在意義。選ばれなければ存在する価値はない。
 箱庭の仕組みを知ったところで、トイボックスに教えられた価値観は簡単に変わらない。変えられないのだ。
 だから、もしこれが自分のモノだったら少し困っていただろう。
 今大切に想っている相手よりも、大切にしなければいけない相手がいたとしたら、どうしたらいいのか分からなかったから。

「持ち主の子は、今頃困ってるかな。そんなに困ってないといいなあ」

 ポケットにそれをしまいながら、彼女は落とし物をしたドールを探す。見える所にはいないとわかると、そのままガーデンテラスを立ち去ることだろう。本は置き去りのまま、水滴の光る花壇に背を向けて。

【学園2F 合唱室】

Amelia
Rosetta

《Amelia》
「さて、結局あの方は何処にいらっしゃるのやら……」

 ある日の夕方、生徒たちもまばらになってきたころ。
 彼女は学園の中を歩き回っていた。

 一通り部屋も回り、探検も手詰まりになり、疑問も湧き上がって来た彼女はある狂人のふりをした名役者を探すことにしたのはいいのだが……。
 残念ながらかの名役者は想像の100倍は放蕩で、或いは何かの運命的な悪戯で、何部屋回っても会えなかった結果。
 彼女は足が棒になる位歩き回らされた果てに最後に残った合唱室に望みを託したのだった。

「……」

 だが、運の悪い時と言うのはとことん運が悪い物だ。
 閑古鳥が一斉に讃美歌を奏でたような有様の合唱室を目にした彼女は頭を抱えて深くため息をつく。
 探し人は見つかりそうにない。けれど……そんな彼女を見ていたものが一人居る。

 「アメリア」

 どこから跡を付けていたのだろう。鷹揚な赤薔薇は、真っ青なシャイガールに声をかけた。
 何かしらの目的があったというよりも、冷やかしに近いのだろう。その表情のどこからも、剣呑な雰囲気を見ることはできない。

 「歌でも歌うの? 珍しいね、こんな所にいるの」

 それで言うと、最近は皆珍しい動きしか見せていないのだが、それはそれ。
 使い古した言葉を吐きながら、ロゼットは相手の反応を窺っている。
 合唱室の防音設備はしっかりと仕事を果たし、何とも言えない空気を部屋の中に留めていた。

《Amelia》
「! ……おや、ロゼット様。
 確かにアメリアがこういった場所を訪れる事は珍しいですが……つい先程まで人探しをしていた所です。
 ここが丁度最後の部屋だったのですが……アテが外れてしまいました。」

 急に名前を呼ばれたせいか、彼女はピクリと肩を跳ねさせて緋色のガラス細工に向き直る。
 そうして歌でも歌うの? という冗談ともなんとも言い難い問いかけにうっすらと微笑んでいかにも残念そうに答えを返す。

「ですから、今のアメリアが何をしているのかと問われたら、きっと“暇”をしていると答えます。
 ロゼット様は如何ですか?」

 更に、彼女はロゼットの返答を待たずに、暗に「貴方は歌いに来たのですか?」と緩やかな会話のボールを投げかける。

 何だか、アメリアが探し物をしているところにばかり遭遇している気がする。
 ロゼットは少しおかしくなって、微笑みを浮かべた。別に馬鹿にしているわけじゃない。こういう巡り合わせもある、というだけで。

 「そう、災難だったね。私もちょうど暇だったの。探したいモノがあったんだけど、中々見つからなくって……」

 ふと。そこまで口に出して、先日の拾得物を思い出す。
 ロゼットには少し大きい程度の指輪だ。アメリアの指には随分余るだろうが、まあ渡しても悪くないだろう。

 「そういえば、この前婚約指輪を拾ったんだ。私のじゃなかったみたいなんだけど、アメリアは何か知らない?」

 ごそごそとポケットを漁りながら、そんなことを口にした。相手の返答が終わる頃にはきっと取り出せるだろう。

《Amelia》
「ええ、困ったものです。
 何か連絡手段でもあれば少しはマシなのでしょうが……まあ、生きていれば時にはままならない事もありますから」

 災難だったね、というロゼットに彼女は肩を竦めて応える。
 ままならないの真っただ中で、たまにはままならない事もある、というのは少し滑稽かもしれないが……目を逸らすこともまた必要なのかもしれない。

「……と、これは……婚約指輪ですか? 大きさはアメリアには合いませんが……そうですね、もしかしたらそこから何かを思い出せるかも知れません。
 アメリアには……そのう、何か……深い関係の方がいらっしゃったようですから……」


 それはさておき、ロゼットの差し出した指輪に眼を向ける。
 婚約……というと心当たりはある。
 凄くある。
 というかどう考えてもアレは結婚式でしょうとしか思えない疑似記憶がある。
 ……が、それを詳細に話すのはなんだか……はしたない。

 結果、彼女の声はどんどん尻すぼみになってしまい、最後に至っては蚊の鳴くような声になってしまっていた。

 ロゼットもジャックやなんかと話す時は早起きをしているし、かなり心当たりがあるのだろう。
 確かにね、なんて呟きながら、彼女は頷いた。

 「他のクラスのドールと話すとしたら、授業前か放課後に待ち伏せするしかないし……難しいよねえ」

 手紙を渡せばいいかもしれないが、そこまでの手間をかけるのも面倒だ。
 テレパシーのように、離れていても意思を伝えられるアイテムがあればいいのかもしれない。発信器があるのだから、いい感じに隠されていたりしないだろうか。
 なんてふざけたことを考えながら、彼女は指輪を見せる。返ってきた反応はやや妙だが、触れない方がいいのだろう。多分。
 からかいたい気持ちを引っ込めながら、赤薔薇は理解者然とした表情を浮かべる。

 「必要なら、あなたにあげるよ。元々私のモノじゃないしね。ガーデンテラスに落ちてたから、持ち主が見つかったら渡してあげてほしいけど……」

 はい、と。
 相手が同意したならば、あっさりと指輪はアメリアの手に渡ることだろう。

《Amelia》
「ありがとうございます。ロゼット様。
 ですが、そうですね。ただで受け取るというのもなんですから。
 質問ついでに、ロゼット様はこれをご存じ有りませんか?」

 ロゼットの差し出した婚約指輪をうやうやしく受け取ってから、彼女は情報収集ついでに質問を投げかける事にした。
 そうして、彼女が言葉と共にカバンから取り出したのは一枚の札が取り付けられた鎖。


 じゃらじゃらと鳴って装飾には似つかわしくない無骨な品だった。

「恐らくこれはこのトイボックスに関連した団体か、企業の物だったのでしょう。
 ですから、ロゼット様がどこかで……それこそ疑似記憶で、アメリアたちが過去に同じ施設と関わっているなら見ているかもしれないと思ったのですが……」

 正直言って、それがロゼットに関わりのある品である。
 という可能性はかなり低い。というか明らかに分の悪いどころではない賭けだ。
 だから、もしもそういえば病院か……或いは研究施設に居たような気がする。くらいの情報が拾えれば良い。
 それくらいの期待しかしていなかった。

 アメリアは仰々しいほどの丁寧さで、誰かの指輪を受け取った。
 まだ距離があると言えばいいか、生真面目すぎると言えばいいか。少なくとも、気安く受け取ってもらうにはまだ親密さが足りないようだ。

 「変な板だね。犬につける鑑札みたい」

 その後、おもむろに差し出されたのは、金属のついた板だった。
 一瞬アメリアが引きちぎってきたのかと思ったが、そういうわけではないらしい。
 よくよく考えれば当然である。彼女は自分よりもちいさい体躯の、貧相なデュオドールだ。

 「トイボックスって何か飼ってたっけ」なんて冗談を口にしようとして──ロゼットの顔から、表情が消える。
 トイボックスに関連した団体か、企業。
 その言葉を耳にした瞬間、トゥリアドールは鎖を奪い取った。
 普段の温厚さからは想像できないほど乱雑に、泥棒がひったくるように。暴力的な振る舞いをしていることに、当人は自覚すらしていないのだろう。
 ただ、それを一刻も早く目にしなければいけないという意識に襲われているようだった。

 「……どこで、これを?」

 肉体のどこにも、痛みが走ることはない。
 金属の板、鎖のひとつひとつをじっくりと観察して、赤薔薇はそう結論付けた。
 その胸に浮かんだのは、罪悪感よりも強い落胆だ。何の手がかりも得られなかったことに、彼女はやや焦っていた。
 せめて他の手がかりを得なければならないと、そう判断したのだろう。アメリアではなく、ただの金属の足跡を辿ろうとするように、ロゼットは問いかける。
 彼女は今、自分がどんな顔をしているか分からなかった。

《Amelia》
「……!」

 ……ビンゴ。
 普段、探索の中で有用な情報に行きついた時の言葉が、あざ笑うような痛みとともに浮かび上がる。
 アメリアが取り出した札にロゼットはいっそ分かりやすい位の感情的な反応を示し、それを無理やり奪い取ったのだ。

 その反応は何よりも雄弁に、溺れる者が藁を掴もうとするような確かさでロゼットが求めている物である事を示し、同時に傷つけてしまったかもしれないという罪悪感を彼女に与える。

「寮の前、壊れた噴水です。
 元々掛かっていたのが壊れたのか……或いは壊れていた物に近付かないようかけられたのか、そこはわかりませんが、水底に沈んでいました。

 何か、心当たりがあるのですね? ロゼット様。」

 けれど、彼女は罪悪感に歪みそうになる表情を意思によってねじ伏せながら答えを返す。
 何たって、彼女は4.2光年の向こう側に行かなければならないのだ。

 だから、
 罪悪感も、やさしさも、仲間意識も、
 本当に会おうというのなら捨てなければならない。

 浅ましい獣でなければ、たどり着く事なんて夢のまた夢だから。

 そう、彼女の中のアメリアが囁いていた。

 寮の前──朝出てくる時にもう少し気を付ければよかったと、ロゼットはそう考える。
 今更悔やんだところでどうしようもないし、起こってしまったことは変えられない。
 トゥリアドールにできることは、思考することではなく、ただ求められるように振る舞うだけなのだ。
 蔑むような目で見つめられると、急速に心の中が凪いでいく。
 何も考える必要はない。問われていることだけをすればいい。
 感傷はどうでもいいものだと、改めて割り切って。髪を耳にかけながら、ロゼットは口を開く。

 「……連邦政府研究機関。その中の、“ガーデン”という研究所に、大切な子が所属していたの。今日もそれに繋がるモノを探していたのだけど……アメリアは、多分知らないよね」

 だって、知っていたらこんなことを問うてくるはずはないのだ。
 デュオドールは非効率的なことを好まない。アメリアだってきっと例には漏れないだろう。
 これは尋問だと、そう理解していても。一縷の希望がそこにある気がして、赤薔薇は目を伏せた。

 「詳しく知りたければ、文化資料室に行くといいよ。あそこのファイルに詳細があったから」

 今からあなたが向かうなら、きっと彼女も止めはしないだろう。
 部屋から出ていくのであれば、扉を潜って行くちいさな背中をただ見守るだけである。

《Amelia》
「連邦政府研究機関、ガーデン、大切な子。
 ……大切な……」

 ロゼットの言葉を一つずつ咀嚼していく。

 連邦政府研究機関。なんと重要な事だろう、遂にトイボックスに連なる組織の名前が出て来た。これでまた一歩外に近づける。
 ガーデン。これまた重要な情報だ。より正確に調査を行なう事が出来るだろう。

 大切な子。……遅れてやっと気付く。
 自分が何を踏みにじったのか、何を足がかりにして星を目指そうとしたのか。
 どれだけ愚かで浅ましい行いをしたのか。

「ロッ……ロゼット、様。
 申し訳ありません。不躾な、浅ましい問いでした。
 貴方様の心臓をかき回すような。
 欲にまみれた、行いでした。
 本当に、申し訳ありません。」

 詳しく知りたければ、というロゼットの言葉に対して謝罪をする。
 傷口を漁り、答えを求めるような行いを。

 焦りだけでは言い訳にならないその言葉の謝罪を。

 どうして謝るのだろう。今更遠慮することなどないというのに。
 ロゼットは相手を安心させようと、薄い笑みを貼り付ける。

 「気にしないでいいよ。私にとっては大事かもしれないけど、あなたには関係ない子なんだから。アメリアの役に立ったら、それがいい」

 これはなんてことないやり取りに過ぎないし、アメリアも悪意があったわけではない。
 だから、こじ開けられた傷など存在しないのだ。現に痛みもないのだから、間違いない。
 そう結論付けて、赤薔薇は相手に鎖を返そうとするだろう。

 「元々、私がこれを取っちゃったのが悪いんだもの。あなたは悪くないよ。ただ、他の子には気を付けてあげてほしいなあ……」

 何だか妙な空気になってしまったなあ、なんて。
 ぼんやりと考えながら、言葉をただ並べていく。大切な仲間との話のはずなのに、どこかでそれもどうでもいいような気がしていた。

《Amelia》
「いいえ、駄目です。
 ロゼット様の先ほどの行いでそれが大事な物である事をアメリアは気付いていました。
 だから、駄目です、アメリアはそこに傷があると分かった上で手を触れました。
 だから、だから、それは悪なのです。」

 何故か安心させようとしてくるロゼットに彼女は自分の行いは悪であると説明を行なう。

 何故なら、そうしなければ罪が罪でなくなってしまうから。
 罪は償わなければならないし、懺悔しなければならない。
 そうでなければ……アメリアは容易に悪に転がり落ちるのだから。

「ロゼット様は……痛くはなかったのですか……?」

 だから、この問いは、ロゼットの心にすら痛覚が無い事を知らない彼女の、無知ゆえの問いだった。

 「それは……」

 聞き上手のトゥリアドールなのに、何の言葉も出てこなくて、ロゼットは黙り込む。
 尊厳、という言葉を使ったドールが脳裏に過ぎった。
 痛みを感じないのに、傷付いたと言ってもいいのだろうか。
 肉体の傷にも気が付けないし、自分の心がどう感じたのかなんて言うまでもないだろう。
 持ち主すらも分からないのに、何故アメリアは悪だと言い切れるのか分からなくて、銀の眼はただ青い星を見ている。

 「痛くないよ」

 瞬きを、ひとつ。
 とりあえずは、答えられることから答えることにした。

 「痛いって思ったことは、ないよ。少なくとも、オミクロンに来てからは、何かを思い出す時しか痛くなかった。だから、アメリアが謝る必要はないと思う」

 でも。
 そう言って、一度言葉を切る。
 ロゼットはトゥリアのドールだ。適切な返答をすることこそが取り柄の、か弱いドールである。
 相手が罪を覚えたのであれば、それを赦す道筋を示してやるのもまたトゥリアの仕事だろう。

 「でも……アメリアが悪いことをしたと思うなら、他の子にはしないであげてほしい。あり得ないと思うけど、口にしそうになったら、私を傷付けたかもしれないことを思い出して。
 いつか私がちゃんと痛くなくなったって思えたら、あなたを赦すよ」

 罰と言うにはあまりに甘やかなそれは、きっと親愛が形を変えたものなのだろう。
 ね、と小首を傾げて。赤薔薇はアメリアの様子を窺った。

《Amelia》
「ああ……そう……ですか……。
 そういう……ことですか。
 それでは……それでは……」

 痛くないと、そう言った。
 体だけでなく、心すらも痛みがわからないと。そういった。
 罪は、宙ぶらりんになってしまった。

 いつかちゃんと痛く無くなったと思えたら、赦すよと。そういった。
 償いは、遠い夢となってしまった。

 小首を傾げて。様子を伺われた。そうされた。
 今もなお、気を使われてしまった。

「ロゼット様……手に触れても……良いですか?」

 だから、決めた。
 痛みを、おしえようと。そう決めた。
 罪を、示すことにした。

 いつかを目指そうと。そう決めた。
 遠い夢を、追うことにした。

 手を、差し出した。そう決めた。
 踏みだすことにした。

 それが、もしもロゼットの心を傷つけるかも知れないとしても。
 “私”のエゴで以って、痛みを示す事にした。

 どうしてアメリアの方が痛そうにするのか、ロゼットには分からない。
 どこにも触れていないし、さっきひったくった時に傷を付けてしまったのだろうか。
 何も推察できなくて、ただ赤薔薇は不安げな目をしたまま立ち尽くすしかできなかった。

 「手を? うん、いいよ」

 “お願い”の意図は読めなかったけれど、頭のいいデュオドールのことだ。きっと何かあるのだろう。
 警戒することなく、彼女はその手を差し出した。
 傷ひとつない右の手を、握手でもするかのように。

《Amelia》
「はい、先ず……そうですね。こうしましょう」

 差し出された手をそっと握る。
 暖かくて、確かな命を感じるその手を。

「ロゼット様、アメリアがロゼット様に触れている感覚は分かりますか?」

 両手で挟むようにして、もにもにと握る力を強くしたり弱くしたり。
 まるで子供に向けた手遊びのように柔らかな手のひらを弄ぶ。

 きっと、触れる感覚は、あるはずだ。あるはずなのだ。

 ちいさな手のひらが、自分の手をもてあそぶ。その動きに痛みはなく、ただくすぐられるような純粋な快がある。
 差し出した手をどうにかするわけではないあたり、アメリアは怒ったりしているわけではないらしい。
 それなら、そのまま預けていてもいいだろう。ロゼットは手を引っ込めることなく、ただ好きに遊ばせたままにしている。

 「あるよ。今みたいに握られたり、なぞられたりするのは分かるんだ。あついのとかつめたいのとかは、よっぽどじゃないとよく分からないけど」

 仲のいい子はあつい気がするんだよね、なんて。
 のんきに口にしたのは、思い込みによる幻覚のことなのかもしれない。
 今、彼女にとって相手の手はさほど熱くないのだろうか。

《Amelia》
「はい、ではこれを触覚と定義します」

 温感と冷感が鈍い、という追加情報に加えて、触覚はある事が分かった。
 これで一先ず一歩前進だ。

「次に、例えばそうですね。
 ロゼット様。アメリアの手の甲をつねって頂けますか?」

 そうして、一先ず触覚の存在を確認したアメリアは次に自分の手を差し出してつねるようにお願いをする。

 もしかして何か難しいことをしようとしているのではないか、なんて気が付いても今更だ。
 デュオドールが触診を進めていくのを、赤薔薇は従順に見守っている。
 手をつねるように、と言われたのには驚いたが、聡明なアメリアのことだ。きっと考えがあるのだろう。

 「うーん……こんな感じ?」

 あまり仲間を傷付けたくはないが、頼まれたからにはやった方がいいのだろう。
 相手の手の甲にそろりと指を近付け、ロゼットは白い皮膚を摘み、摘んだ皮膚を滑るようにねじらせた。
 “決まりごと”のこともあり、痛いことを好むドームは見たことがない。この状況で傷付くようなことを望むドールはなおさらだ。
 アメリアってもしかしたら変なんじゃないか、と。出会ってからしばらく経っているのに、彼女は今更そう思い始めていた。

《Amelia》
「……はい、そうです。
 それで良いです。このように、肉体の組織が直接的、或いは潜在的に損傷する、している事を伝えるのが痛覚です。」

 手の甲の皮膚をねじられる。
 当然ながら……いや、或いは幸福にも、もしくは不幸にも、彼女は痛みを感じて表情をゆがめ、ひと時言葉に詰まる。

「但し、それは他の感覚と同様に物理的な接触のみに定義されません。
 例えば、他の個体が損傷すると、生物は多くの場合、物理的ではない、情動的な痛みを感じます。
 何故なら自己が潜在的に損傷する可能性が提示されるからです。」

 しかし、伝えねばならない。
 何故ならこれはアメリアが自分で決めた事で、ただのエゴから来る行いなのだから。
 だから、はしたなく、浅ましい獣として、知識を使い倒して見せよう。
 全ては罪を罪として認める為に。

「その機能は、先ほどロゼット様が仲のいい子はあつい気がする。
 と申したように、鈍くとも、感じなくとも、少なくともロゼット様には存在します。
 これを……心が痛む、と定義します。」

 さあ、唯物論の偽を証明し、メアリーの部屋に青を落とそう。

 講義のような言葉が、右から左へと流れていく。
 デイビッドやドロシーの使う語彙よりも、それは随分と硬い。説教のようにすら聞こえる語調で、アメリアは何かを伝えようとしてくれている。
 だが、元からついていない機能についてどう理解すればいいのだろう?

「でも、ウェンディが怪我してオミクロンに来たって聞いた時も痛くなったりしなかったよ」

 瞬きと、言い訳をひとつ。
 痛いことをしてしまった、アメリアの手の甲をさすりながら、ロゼットは口にする。
 身体の距離はこんなにも近いが、心の距離は随分遠い。否定しなければいけないことばかりが隔たって、少女ドールの言葉はいまいち響かずにいる。
 肉体が何の痛みを感じずとも、心までもが同じ症状を示すなんて、本来あるはずがないのに。

「アメリアは私の心が痛かったことにしたみたいだけど……大事な子について思い出した時も、ミシェラとアストレアがお披露目に行った時も、どこも痛くなかったよ。みんな悲しんだり、泣いたりしてたけど、私はどうでもよかった。
 もしも、全部アメリアの言葉の通りだとしたらさ。私は他の子が痛いと思っていても、自分が傷付くと思っていないってことでしょう?
 相手に共感できないのは、トゥリアとして欠陥だとは思うよ。でも、それっていけないことなのかな。身体は確かに脆いけれど、テーセラみたいに強い心を持ってるってことで、いいことにはならないかなあ……」

 結局のところ。ドールにとって、唯心論はただの理想に過ぎないのだ。
 諾々と言うことを聞いて、エデンの園で死ぬまで暮らすのが子どもたちの役割なのだから。
 それを押し付けられてきた以上、自分の心も痛みも空であると、そう認識する唯識論の方がロゼットにとっては楽だったのだろう。
 今更違うように生きろ、なんて言われてもどうしようもない。
 大切な人は死んでしまって、脱出の目処も立っていないのに、痛みを知ったところで何ができるのだろう?

《Amelia》
「ええ、そうですね。
 では、一つずつお答えしましょうか。

 先ず、痛みを感じなかった原因として真っ先に考えられるのが、痛みを定義していないからでしょう。
 ロゼット様は痛みについて何か普遍的な感覚がある、と思っているように見えます。
 しかし、痛みが情動に影響されると言ったように、脳構造に依存して定義が変化することもまた有り得ると……いえ、有り得ていいと、アメリアはそう思います。

 そして、もう一つ。
 痛みを感じるには観念的にも、あるいは物理的にも触れる必要があります。
 もしも、何か硬い壁のようなもので己の心を守っているのなら、きっとそれは痛みを感じないのでしょう。
 遠い場所での死が生物の心を動かさないように。」

 アメリアの言葉に対して、ロゼットは言い訳とも問いとも取れる言葉を投げ返してくる。

 そこから受け取れる手応えに、内心で彼女は小さくうなづいた。
 なんたって、目の前のロゼットはこの話を聞く必要すらないのだ。
 痛みを感じたくないとして、この部屋を立ち去ってしまってもいいし、「きっとそうなのかもね」と言って話を逸らしたっていい。
 そのうえで問いをぶつけてくれた。
 なら、きっとそれは意味のあることの筈だから。

「次に、共感は出来る必要はありません。
 アメリアは人ではありませんから。だから、これはただのアメリアがそうしたいというだけの行いです。
 もしも嫌なのであれば、それでも良いと、アメリアは思います。」

 手の甲を優しくさするロゼットに、アメリアは''ああ、やっぱり、他者が痛みを感じる事を理解している''と、そう認める。
 それはきっとロゼットの尊い優しさで、善性なのだろう。
 だから、アメリアはその善性に触れる形で、罠をしかけながら問いに答える。

 逆説的な心を探すために。

「さっきアメリアが言ってくれた、機能? みたいなことを、まだ私が分かってなかったってことかな。教えてもらった今でも変わらないけれど、それは何でなのかな」

 それは対等なドール同士の会話と言うよりも、教師と生徒がお互いの解釈をすり合わせるための会話のように見えた。
 合唱室を本来の目的のために使おうとするドールがいれば、きっと驚いただろう。彼女たちは少しも歌うことなく、ただ論じているだけなのだから。
 ひとつの話題を意図的に無視して、ロゼットは小首を傾げる。

「共感って仲良くなるための機能だと思ってたけど、いらないんだね。難しいなあ……」

 強いなあ、とロゼットは思った。
 やりたいことを丁寧に噛み砕いて、理解のできていない自分にも根気強く教えてくれて。
 ソフィアもそうだ。デュオのドールは、自分の言うことを理解してもらえると思って話すことができる。
 その強さが今にはどうにも眩しくて、少しだけシャッターを下ろした。瞼に覆われて、視界が半分になる。

 「それで……結局、私はこれからどうしたらいいのかな。アメリア先生」

《Amelia》
「そうですね、そこにも解釈の齟齬があります。
 何故ならば、言葉で語れば事実として共有出来るかと言われれば、そんなことは無いからです。
 ごく内的な感情という分野において、それがどんな物であるかを決めるのは自分の定義なんですから。

 だから……きっと分からないというよりは名前を付けていないと、そう答えるべきなのでしょう。」

 仕掛けた罠はことごとく空振った。
 その事実に安堵とも不安とも思えるちぐはぐな感情を抱きながら問いの答えを返す。

 “大丈夫、まだロゼット様は問いかけてくれている”。そう、自分に言い聞かせるように思いながら。

「その上で……もしもロゼット様に何をすれば良いのかと応えるのならば……。
 ロゼット様のしたいようにするといい、と、アメリアは答えます。

 何故なら、今こうしているのはアメリアのしたい事であって、ロゼット様のしたい事とは限りませんから。」

 だから、もう一度……いや、何度でも。
 ロゼットの快不快の感情を……いや、自我を引きずり出すために罠を重ね続ける。

 自分でモノを考えるのは苦手だ。
 できれば何も考えたくはないし、誰かの言うことを聞いている方がずっと楽だから。
 だから、今回もアメリアの決めた通りにすれば丸く収まると思っていたが──どうやらそうではないらしい。
 自分が何を痛みと呼ぶか考えろ、なんて。理不尽にも程がある。
 投げかけられた課題は、ロゼットに数十秒の沈黙をもたらした。
 思考停止ではないが、それは限りなく鈍足に近い。かつて口にした未来も、誰かとした約束も、ここで言うには力不足な気がした。

「私は……何がしたいんだろうね」

 視線は交わらないまま、困ったように笑う。
 少なくとも、こうしてアメリアの手を煩わせたくはなかったし、相手に「傷付いたかもしれない」なんて余計な気を遣わせたくはなかった。
 ただ。

 「嫌な気持ちになってる子がひとりでもいたら、嫌だなあって思うよ。それについて、私がどう思っていたとしても」

 強いて言うなら、そのくらいだ。
 汝隣人を愛せ、というのは生き物に備わった当然の機能で、特筆すべきことでも何でもない。
 共感ができないロゼットでも、そうした方がいいことを知っているくらいで、だから今までひと言も口にはしなかった。

《Amelia》
「……」

 ゆっくりとした、余りにもゆっくりとした沈黙が合唱室を包み込んだ。
 問いに詰まり、立ち止まって考え込む。
 少なくともそれはアメリアにとってとても良いことだったから。
 真っ直ぐに緋色を見つめて待ち続ける。

「嫌、ですか。
 それもまた、痛みと呼んでも良いと、アメリアは思います。
 きっと、それは優しいものなのだろう、とも。
 だから、もう一度問いましょう。
 ロゼット様。貴方様はその想いに、何と名前を付けますか?」

 だから、ゆっくりと紡がれた答えにアメリアはそっと微笑む。
 嫌だと、不快だと思う感情があった。
 その事実にアメリアは安堵しながら……だからこそ慎重に問いかける。

 何故なら、アメリアが勝手に名前をつけては、それはただの押し付けでしかないのだから。

 嫌と思うことが、痛みに繋がるのだろうか。
 黙っていれば分からないし、自分のわがままに過ぎないというのに。

 「これは……悲しい、だと思う。多分」

 だが、これに名前を与えるなら悲しさが一番近いのだろう。
 分かり合えない距離感、そして共感してやれない寂しさ。
 それはロゼットにとって、“悲しい”に分類されるモノだ。
 これで合っているのだろうか。アメリアはなんて返すのだろう?
 やや不安げに、銀の眼は青い瞳を見つめ返す。

《Amelia》
「悲しい、ええ、良い名前です。
 ただ今まで通り嫌と名付けても良かったところを、ロゼット様は悲しいと、そう名付けました。
 なら、きっとこれからもっと沢山の名前を、ロゼット様は付けるのでしょう。」

 ロゼットのなんとも不安そうな、それこそ正しいか分からない問題で当てられた生徒のような頼りない言葉にアメリアは頷きで応える。
 正しい、とは言わない。
 そうあるべきだ、とも言わない。
 けれど代わりに、良いと答える。

 きっと、これからロゼットは自分の内面を覗き見て、沢山の苦しみとともに沢山の名前を付けるだろう。
 そうしたら、いつか何かを痛みと名付ける日が来るかもしれない。
 だから、教えるのはここまでで良い。
 アメリアは、そう考えて新たな言葉を紡ぎ出す。



「きっと、その道程の中でいつか、痛みと名付ける感情に出会うかもしれません。
 もしもその時に、痛みが余りにも耐えがたかったら……アメリアを、恨んでください。
 徹底的に、完膚なきまでに。
 痛みを忘れてしまうくらい。
 それが、わがままなアメリアのロゼット様にするお願いです。

 さて……何か、聞きたい事はありますか?」


 いつか、貴方が痛みを知った時に。
 こんなことなら知らなければ良かったと思った時に。
 ちゃんと貴方を殴りつけ、痛みを教えた悪を恨んで欲しいから。
 それが、自分のエゴで知をひけらかしたもののせきにんだから。

 彼女は自分を恨んでくれと、そう頼んで言葉を切る。
 後はロゼットの自由だ。

「アメリアは、私に嫌われたいの?」

 純粋に、ロゼットはそう思った。
 痛みについて薫陶を受けたまでは、まだ理解できた。教え合うのはデュオのさがだ。
 しかし、恨んでほしいというのは分からなかった。
 こちらはとっくに赦したし、それ以上に思うことなど何もない。“オミクロンの仲間”とは、仲良くしたいのに。
 花の名を教えるように、相手は自分を刻み込もうとしているのかも知れないが──そんなことを赤薔薇に理解できるはずもなく。
 彼女はただ、自分よりもちいさな知恵者を映し続けている。

《Amelia》
「まさか、アメリアはロゼット様と共にありたいです。
 仲良くしていたいとも、思っています。
 ですが同時に、アメリアは恨まれてもしかたない、とそう定義している行いをしました。
 その上、自分の為に、ロゼット様をいつか傷つけるかもしれない知識を語りました。
 それで恨むなと、自分は正しい事をしたなどと……アメリアは言えません。」

 嫌われたいの?
 その純粋でズレた問いに彼女は微笑みとはまた違う、楽し気な笑みを浮かべる。
 確かに、この善悪への厳格さはアメリアの悪い所だ。

 けれど、それをロゼットはまだ知らないのだろう。
 それでも、理由を考えようとしてくれたのは、案外悪い気分はしなかった。

「ですが、もしかしたらロゼット様がその時に恨むことを躊躇してしまっては要らぬ傷を与えてしまいますから。
 恨んでもいいと、いえ、恨んで下さいと、そうお願いしたのですよ」

 だから、彼女は静かに力強く。
 自分が恨まれるべき理由を力説する。
 悪はここにあるぞ、と。
 いつか、何かに窮した時、私が苦しみを背負おうと。
 そう、宣言をする。

 仲良くしたいが、同時に負の感情を抱かれたいとも思っている。
 赤薔薇はどちらか一方の感情しか抱けない。敵か味方か、判断基準はそれだけだ。
 アメリアの話したことは、間違いなく自己矛盾の一種だが、きっと愛でもあるのだろう。
 まだそれを理解しないまま、かかしは曖昧に頷いた。

「ううん……じゃあ、痛いと思った時はすごく怒るよ。その時までは、会える所にいてね」

 恨みも、怒りも。まだガラスの鉢には縁遠いモノだ。
 だが、彼女がそこまで言うのなら信じてしてみよう。ここまで時間を割いてくれたのだから。

「あの、さ。アメリアがよかったらなんだけど……さっきの鑑札を譲ってくれないかな。知ってそうな子に見せてみようと思うんだ」

 話し込んでいる間に、随分時間が経っていたらしい。
 扉の方を一瞬見て、ロゼットはそう提案した。
 鎖はまだ返していないし、そのまま持ち去ってもよかっただろうが、念の為だ。

《Amelia》
「ええ、それでかまいません。
 会えるところに居られるかは……ちょっと自信がありませんが」

 この子は中々に難しい事を言う。
 ドールには明日の保障さえ怪しいのだから、その時までは会える所に、というのは随分と気の遠くなるお願いでもあった。
 だから、絶対にとは言わない。、いや、言えない。
 それでも、そう言ってくれた事がアメリアにはうれしかった。

「ええ、あの札であれば持って行ってください。
 ロゼット様には指輪を頂きましたしね」

 さて、これで話もそろそろ終わりだろう。
 アメリアは最後に札を持って行っていいと言い残して部屋を出ていく筈だ。

【学園2F 備品室】

 学園、備品室。
 特に用事はないけれど、ロゼットはそこに立ち入った。
 古臭い雰囲気を思わせる埃っぽさも、以前アメリアと話した時の空気だって、最早どこにも見受けられない。
 ここはいつも通りに清潔で、きっちりと管理された、雑多な物置だ。
 のんびりと、彼女は並べられた物品たちを観察する。美術館ほど美しくはないだろうが、それなりに目を楽しませることはできるだろう。

 この場所は主に講義室での授業に用いる雑多な教材備品を保管して置くスペースだ。黒板に図形を描く為の巨大な定規や、人体の構造を学ぶ為常設された人体模型、スチールラックには所狭しとチョークの替えや過去の教材を束ねて置いたものなどがまとめて置かれている。

 清掃は欠かしていないのか、多少手狭でも埃っぽくはなく、清潔な倉庫であると分かる。

 扉を開いて、薄暗い中に踏み出して。周囲を見回そうとした時、つま先に何かがぶつかった。
 忘れ物にしては、随分重いような気がする。
 ゆっくりと視線を下すと、そこには潰れかけの段ボールがあった。
 恐らく、棚から落ちてしまったのだろう。中身が散乱しているが、誰も気付かなかったのだろうか。
 せめて中身は戻してあげよう、と。しゃがみ込んで、ロゼットは散乱したものを取り上げる。
 一応、それが壊れていないか確認するくらいはやるはずだ。自分がやったことにされては堪ったものではない。

 あなたが備品室に入ってすぐ、足先に崩れた段ボールが当たる。どうやらうずたかく積み上げられていたところ、何らかの衝撃を受けてバランスが崩れてしまったらしい。段ボールからは雑多な教材がこぼれ落ちている。

 あなたは屈み込んで散らばった教材を拾い集める。教材類は幸いにして、多少折り目が付いていたりするだけで破損はしていないようだ。
 確認後、それらをまとめて段ボールに収めていくならば、そのタイミングであなたは気がつくだろう。

 段ボールの側面に、何やら事件的な引っ掻き傷が残っているのだ。ドールの細い爪が傷付けたのだろう様子で、ここで何かの争いが起きたことをあなたに予想させた。

 段ボール、傷跡、暗い部屋。
 何も起きないはずがなく──。
 聡明な赤薔薇の脳髄は、頭蓋の中から警鐘を鳴らす。
 ここで何かがあったとして。もしかして、その“何か”はついさっき起こったのではないか?
 嫌な想像ばかりが積み重なっていく。それから目を逸らすように、ロゼットは段ボールから視線を外した。

 「怪しいなあ、すっごく……」

 同時に。視界に入り込んできたのは、謎の布の塊だ。
 部屋の奥に横たえられた──隠されていたのかもしれないそれは、トゥリアの視線に晒されながら沈黙している。
 できれば帰ってしまいたいが、後から誰かが被害を受けては洒落にならない。
 できるだけ足音を立てず、その布に近付くと、ロゼットはその布を引っ張った。ゆっくりと、中のモノを傷付けないように。

 あなたが見据えた部屋の奥。そこには何やら、大きな布の塊が落ちていた。それは何かを包むようにした状態で、部屋の隅の暗がりに隠されているようだった。

 あなたの感じた嫌な予感は、実に正しい。このようなものが今まで備品室に置かれていた覚えは、あなたに無い。つまり近日中に何者かがこの場所に置き去りにしてと言うことに他ならない。しかも少なくとも配置からして、やましいものを隠すといった行為に思える。

 あなたが慎重に何かを包む布を取っ払っていけば、すぐにその全容が明らかなものとなるだろう。

 それはドールの内側に流れる赤い燃料──血らしきものにまみれた一冊のノートであった。
 表紙には几帳面な文字で、『グレーテル』と名が記されている。

「ぐれー……てる?」

 何故か血まみれ、何故か記名済み。そして何故か同級生の名前が書いてある。
 訳が分からない。
 宇宙に浮かぶ猫の幻覚を見そうなまま、ロゼットはそこに立ち尽くしている。
 とりあえず、中身を見てみないことには始まらないだろう。
 覚悟を決めると、彼女はノートに手を伸ばすだろう。燃料はもう乾いているだろうか。
 乾いているなら、そのノートの中身を軽く読んでみるはずだ。誰かの秘密を覗き見る、罪の意識なんてまるでないままで。

 繊細な手付きでページを開いて、他者の秘密を覗き込んで。
 ロゼットは──全く笑えなくなっていた。
 他者へとここまでの妄執を抱くことは、まだ理解できる。
 だが、真実を知ってなお利己的に動けるその精神性はどうなっているのだろう?献身性の強いトゥリアドールには何も理解できなかった。

「ヘンゼルと会わないとまずいみたいだね」

 ぱたん。
 ノートを閉じて、制服の下に隠すように隠し持つ。
 布だけは元のように戻した後、ロゼットは小走りで備品室を出て行った。

【学園2F 講義室A】

Hensel
Felicia
Rosetta

 学園、二階。
 講義室Aに向かう廊下を、ロゼットは歩いていた。
 もちろん、ひとりでいるわけではない。恋人繋ぎのその先には、フェリシアがいる。

 「急にごめんね。ひとりで話しかけるのは、ちょっと怖かったから……」

 困ったように眉尻を下げ、赤薔薇は微笑んだ。
 『ヘンゼルと話したいから付き合ってほしい』、なんて声をかけたのはついさっきのことだ。
 確認したいことができたのはいいが、ロゼットは以前ヘンゼルに袖にされている。
 だから、開かずの扉のことで話したことのあるフェリシアに助力を頼んだのだが──彼女が一緒にいてくれるからだろうか。意外とどうにかなりそうな気がしてきた。
 教科書を入れるカバンに、例のノートの重みを感じながら。少しずつ、ふたりは知恵者のいる教室へと歩みを進めている。

《Felicia》
「もちろん! ロゼちゃんのためならえんやこりゃ! だよ! えへへっ」

 当然のように指を絡めて講義室に向かう少女ふたり。つい先刻頼まれたばかりの任務にフェリシアは軽く胸を高鳴らせていた。頼って貰えることがこんなにも嬉しくて、照れくさい。

 さて、今日のミッションは、『ヘンゼルくんと会話すること』になるらしい……のだが。会話上手のエーナドールである自身に仲介を頼むとなると、難しい議題でも語り合うのだろうか。

 少女もまた、秀才である彼に用があった。少なくとも繋がれた先にいる少女に“付き合うだけ”では無いのだ。手を引かれながら、少女は既に彼女と彼の間をとる会話を紡ぎ始めていた。

 ─── お目当ての教室が近づいてくる。

「失礼しまーす」

 扉はいつものように開いていた。

 あなたは講義室の扉を開く。現在この場所は授業で使用されていなかったらしく、喧騒などもなく至って静かだった。机と椅子の整然な並びが相変わらずそこにあり、チョークの香りが鼻をつく。

 そう、講義室には誰も居ない、がらんどうだった。
 だが講義室の奥の方、階段状になった席の高い位置に当たる場所の机に、数冊の教材と分厚い書物が残されているのをトゥリアたるロゼットは目敏く見つけるだろう。

 そこで、あなた方の背後の扉がガラッと再び開かれる。
 そこにはあなた方のお目当ての人物、深紅の赤毛とゾッとするほど美しく青白い肌、少年服を規定通りに身に付けるヘンゼルの姿がある。

 ヘンゼルは──扉を開きながら項垂れていた。フェリシアの目には、彼が非常に精神的に追い詰められた様子であることが分かる。顔を手のひらで覆って、その指の隙間から泳いだラズベリーカラーの瞳をのぞかせている。彼はしきりに何かを呟いているようだったが、残念ながらテーセラほど優れた耳を持っているわけではないあなた方には聞き取れない。

 彼の指の隙間の瞳が、あなた方を捉えると。ヘンゼルはたちまち忌々しそうに顔を歪め、顔を覆っていた手を払い除けるように乱暴に降ろした。

「お前たちか。こんな場所にのさばるなよ、最低限の礼儀作法も忘れたか? 流石ジャンクドール。次々とドールとしての在り方を忘れていくらしいな。

 ……こんなとこで突っ立って何してる?」

 彼は肩を竦めながらいつものように嫌味と皮肉を垂れ流し、彼自身の特等席であろう座席へと向かった。あなた方の方を見ようとはしないままに。

 一瞬、ロゼットは自分が間違えたかと思ったのだ。
 誰もいない空間、もぬけの殻の講義室。前にペンダントを拾った場所には、何の気配もない。
 随分遠くに本が積まれているのが見えたが、大変そそっかしい忘れ物である可能性も捨てきれなくて。
 ごめんね──なんてフェリシアに言うか迷ったとき。背後で扉が開く音がした。

 「こんにちは、ヘンゼル。あなたを探してたの」

 あくまでにこやかに、敵意がないことを証明するように。
 赤薔薇はトゲのない言葉を吐いて、ウィスタリアの方を見た。
 青年ドールは相変わらずだが、彼女はなんて言うのだろう。

《Felicia》
「あれっ」

 拍子抜けした声が空っぽの教室内に反響した。それなりに緊張感を持って入ったつもりだった手前、フェリシアの口はぽかんと力なく開いている。慌ててきょろきょろと見渡すものの……そこには誰ひとり居らず。

 ここには居ないみたいだね、なんて苦笑いを浮かべながらロゼちゃんの方向を見た瞬間、ガラガラと音を立てて開かれた扉。
 フェリシアは背筋をびくつかせ、咄嗟に赤薔薇の手をきゅっと握った。大きく見開き、驚きと混乱を孕んだ瞳で少年を見つめている。
 追い詰められてなお、その少年はおどろおどろしいくらいに美しい。彼が不安定であることを直感的に理解したウィスタリアは、赤薔薇の発言の後に続けるように口を開いた。

「ヘンゼルくんに会いに来たの。
 どうしてもあなたに話したいことがあって。でも、その……あ、ちょっと待って!」

 淀みなく言うつもりだった。
 エーナのフェリシアなら、元気が無さそうだねなんて簡単に言ってのけるだろうから。噤んだのは、きっと彼にどうしようもない事象が降り掛かっていると、嫌な妄想を膨らませていたからである。
 いつものように本の積まれた教室の端っこ。座席に向かうヘンゼルくんに行き場のない手を伸ばす。
 迷いで揺れる瞳を赤薔薇に向けると、今度は彼女の手を引きながら席に歩を進めるのだった。

『ジャンクに付き合ってやる義理はない』
『時間は有限だ、お前達にかまけてる暇はない』
『落ちこぼれのお前達と違って忙しいんだ』

 あなた方は彼と顔を合わせるたびに、そんな偏屈な言葉であしらわれ、邪険にされてきた。フェリシアの言葉にさえも、彼は鬱陶しそうにあなた方を追い払おうとする──そんな光景が容易に想像出来たことだろう。
 しかしヘンゼルは、『話したいことがある』というフェリシアの一言に、机上に散らばった教材を束ねていた手をひと時止めて……頬にかかる鮮烈な赤毛を垂らし、翳った顔を軽く伏せてから、微かにつぶやいた。

「……俺もお前達に聞きたいことがある。重要なことだ。」

 彼がいる席へと足を踏み出しているだろうフェリシアとロゼットの方へ、顔を擡げたヘンゼルは鋭い目付きを向ける。上品な目元を、獣のように尖らせては──シンとやつれた深雪の美貌で周辺の空気を俄かにこわばらせていた。

「お前達のクラスに、グレーテルが……、……俺の双子として設計されたドールが行ったはずだ。その女について。

 あいつは今どうしてる?」

 扉が開いた瞬間は、ロゼットもいつも通りだった。フェリシアが話しかけても、ヘンゼルの顔を見ても。
 ただ。重要なこと、という単語を耳にすると、フェリシアの手を握る力を少しだけ強めた。
 どうやら、あのヘンゼルがこちらに質問をしてきたのに驚いたらしい。ロゼットは猫のように、目を丸くして瞬いた。
 だが──まあ、そうだろう。それを訊いてくるのは、何となく想定できていた。

「グレーテルは、“普通”にやってるよ。オミクロンに落ちてきたわりには、冷静すぎて怖いくらい。
 あなたのペンダントを持っていたから、指摘したら様子がおかしくなったけど、今言えるのはそれくらいかな」

 さらりと口にして、一旦は黙っておくことにする。
 フェリシアが何か言うのであれば、それに耳を傾けるだろう。

《Felicia》
 深い傷を負った獣は、相手に泣き所を知られまいと凶暴になるという。目と鼻の先に彼がいると言うのに、ただでさえ薄い生気が、更に感じ取りにくくなっていることを自覚していた。作ってきた言葉たちが途端に全て音を立てて崩れていく。どうしよう、どう返したらいいんだろう。まともに数えると数万を超えるだろう様々な返信履歴。追い込まれた彼に何かしら言ってあげたい。何か、優しい言葉をかけてあげたい。

 ヘンゼルくんの赤紅の髪が、今にも溶けそうなラズベリー色の瞳の見定める末を邪魔して、跳ね除けられて、しかし飽きずとも垂れ下がって───

 ロゼちゃんの表情は一向に変わらない。いつもの微笑みを浮かべてそれとなく対応している。横目で彼女に一瞬視線を移したフェリシアは関心してしまった。ペンダントの下りは分からないが…きっとそれが話したいことなのだろう。
薔薇の蕾が沈黙したのを理解すると、ウィスタリアもまた話し始めた。

「私は、対面でグレーテルちゃんとはお話してないんだけど……挨拶を聞いた限りでは、明るくて感じのいい子だったよ。デュオクラスにいた頃の彼女とは雰囲気が大きく違ってるみたい。

  話したことないけど、お友だちになれそう。なれたらいいな。

 ……やっぱり気になっちゃうよね。グレーテルちゃんはヘンゼルくんのお姉さんだもん。彼女だって……ほら、頑張ればデュオクラスに帰って来られるだろうし!
 元気出して、なんて無責任なことは言えないけど、何とかなるさ!
 とは、言ってもいいかな? あはは……出来損ないの私みたいなのに言われても頼りない、か。」

 最初にヘンゼルくんと話したときも、こんな会話をした気がする。とにかく下手(しもて)に出てみるんだ。ペリドットは相手をじぃっと観察していた。

 ロゼットはその瞳に、わずかに動揺の色を浮かび上がらせた。それでもこちらに言葉を投げ返すその声は、普段と変わらぬ至って淡白で冷静なものであっただろう。
 スムーズに話に入り込むロゼットの応対は、デュオモデルのドールに対して正しいものであると言えた。
 ヘンゼルは余計な問答も挟まずに、あなたの零した一つの単語に反応を示して、眉を分かりやすくしかめさせる。

「ペンダント…………あれは俺の所有物だ、アイツのものじゃない。“あの時”盗られたのか……クソッ……」

 座席に片腕を置いて項垂れた彼は、そのままの姿勢で眉間に手を抑えると重苦しく溜息を吐き出す。どうやらロゼットの読み通り、あのペンダントはグレーテルが勝手に持ち出したものらしいことがここで明らかになるだろう。

 しかしヘンゼルはこの件についてはそれ以上に語らず。フェリシアの話に耳を傾ける。
 グレーテルの近況を語るあなたの言葉に、ヘンゼルは訝しげな顔をしていた。まるで、『誰だそいつは?』と言わんばかりの顔で。やはりグレーテルの様子は以前と今で大きく豹変しているようだった。

「アイツは……アイツは、俺の姉なんかじゃない!!!」

 彼はフェリシアの言葉にかぶりをふって、強い言葉で叫ぶ。一歩踏み出して、ヘンゼルはフェリシアの明るい言葉を床に叩きつけるみたいに、あなたの肩に掴みかかった。

「忌々しい……俺の足を引っ張ることしか出来ない……お荷物で……劣等生で……!!! 違う……違う、俺より優秀だった……!!! にもかかわらずアイツは……!! こんなことしてる場合じゃないのに、俺は一刻も早くプリマになって、ソフィアに、いや……お義母様に……!!」

 どうやら彼は錯乱状態にあるらしい。デュオらしからぬことだが精神が著しく乱れて、冷静になれずにいるらしい。話を聞くにはまず落ち着かせた方が良さそうだ。

 所有物、アイツ、あの時。
 ロゼットには想像もつかないが、やはり何かがあったのだろう。先生が手を出していたほどだ、何もないということは初めからあり得ないはずではあったのだが。
 グレーテルもヘンゼルも、どう考えても正気ではない。
 やはりテーセラのドールも呼ぶべきだったかも──なんて考えていたとき、低い叫び声が劈いた。
 優れた双眼が、ヘンゼルが近づいてくる動きを捉える。ツタのように絡めていた手を放すまで、時間はかからなかった。

「やめて」

 もし、叶うのであれば。フェリシアがそのままヘンゼルに肩を掴まれようとしなければ、赤薔薇はふたりの間に割って入るだろう。
 キツく肩を掴まれようが、形の綺麗な爪を立てられようが、ロゼットの表情は変わらない。
 軽蔑するような、凍てついた白銀の瞳を、燃える嫉妬の赤色に向けるだけだ。
 庇うことに成功すれば、ヘンゼルの細い手首を握り締める。逃がさない、という意志は視線で十分伝わるはずだ。
 フェリシアはこの三体の中で一番小さい個体だ。ただでさえ代わりのいない友人なのだから、わずかにでも傷つけられては困るのだろう。
 ヘンゼルが正気に戻るか、フェリシアに何か言われるまで、彼女の緊張の糸は緩まない。今にも刺し合いそうな緊迫感の中、ただ沈黙を保っている。

《Felicia》
 とりあえずは話について行くことができた。それが何のことか、詳しくは分からなかったけど。事実確認をしようにもできる状況ではないため、ほんの少しの憶測も交えつつ情報を整理していた。
 話を聞く限り、グレーテルちゃんがヘンゼルくんのペンダントを盗んで……それをロゼちゃんが拾ったということだろうか。


 オミクロンのグレーテルちゃんの話を聞いたときの彼の表情には驚いてしまった。顔に『疑問!』などと分かりやすく書かれている。
 もう少し話すべきだろうかと思ったが、話したことがない手前、これ以上 彼女の近況を報告することは出来なさそうだ。何か力になってあげたい……そんなことを考えていたら──あれよと簡単に逆上したヘンゼルくんに肩を掴まれてしまった。

「おわっ!?」

 我を忘れたように小柄な少女に掴みかかる長身の男。エーナドールの彼女なら身の危険を感じることだろう。だが、彼女はオミクロンだった。しかも、キズモノの。

 咄嗟に怒ってくれる大切な少女。
 癇癪を撒き散らす赤髪の少年。
 ギラギラと煮えたぎるふたりの瞳

「ロゼちゃんありがとう。傷はついてないと思うから、安心してね。」

 濃いラズベリー色の瞳を見つめながら、柔らかな声で告げた。腕を掴んでくれている。優しい。

 フェリシアは大きく息を吸った。

「でも! すっっごく痛かったよ!!
 私の大事な身体になにすんの!

 もし動けなくなったら、ヘンゼルくんが責任取ってくれるわけ!? 違うよね!? このおたんこなす!
 私、基本何を言われてもいいけど手を出されることは嫌だかんね!
 “これ以上”傷を付けたくないの!

 ……まぁ、私だったから良かったけど、トゥリアのロゼちゃんだったら大変だったよ! 考えなし!!
 頭のいいデュオなのに一時的な思考だけに囚われて。文句あるなら言ってみなさいよ!」

 こんな直接的な悪口、言ったことないかも。はーっ、はーっと肩をしながらヘンゼルくんを見据えていた。繋がれた手は未だに強く握られている。

 フェリシアを勇敢にも庇い立つ、赤い薔薇の苛烈な睥睨は鋭かった。トゥリアが持つ不安になるほど華奢な体躯で、それでもフェリシアの前にいばらの絡みつく城壁のように立ち塞がったのだろう。
 その脆弱な力など高が知れているだろうに、その眼光は一瞬でも彼を怯ませ、狂気の沙汰から冷や水を掛ける効果は齎したらしい。

「ッ……! 放せッ!!」

 だが、彼は相変わらず相手を切り付けるような声で、しかしどこか焦ったように、ロゼットの腕を振り払うだろう。大事な決まりごとのひとつ、相手を傷つけてはならないということすら頭に浮かばない程に、どうにも追い詰められているらしかった。

 そこで、真横から横殴りの強風みたいに吹き荒れる、フェリシアの一喝。そして怒涛の勢いで吹き込む竜巻のような怒声の数々に、ヘンゼルは目元を顰めさせながらそちらを見張る。
 全てを吹き飛ばす嵐の如く怒りに、ようやく彼も冷静さを取り戻したようだった。特に、フェリシアの『傷を付けたくない』という言葉に、理性を取り戻させるような力があったらしい。

 彼はだらんと両腕を脱力させ、机に再度寄り掛かることになろう。

「……ッ黙れ、誰が考え無しだ。思考なら常にしてる! 飽きるぐらいに。頭がおかしくなるぐらいに! それでもどうしようもない事態に直面した時の最適解を、俺はまだ学んでない……。」

 苛立たしそうに、その手が美しい赤毛を掻き乱す。無造作に跳ね回るワインレッドが彼の苦悩をそのまま示している。
 だがひとまず彼は落ち着いたようなので、これで話を聞くことが出来そうだ。

「ごめんなさい、離してください、でしょう」

 謝罪もなく、振り払われた腕には痛みひとつない。
当然だ、そのように在るのがロゼットなのだから。
 だが、ヒトらしく全ての感覚を持って生まれたフェリシアはどうだっただろう。
 突然掴み掛かられて驚いただろうし、「すっごく痛かった」とまで口にしている。
 半身しか出せなかったせいで、痛みの全てを代わりに受けることはできなかったが──まあ、その分はフェリシアが代わりに言ってくれたからいいとしよう。

「フェリシア、後になっても痛むようなら教えてね。傷が残ってしまったら困るもの」

 ヘンゼルが頭を抱える中、掴まれていた場所を軽く撫でた。
 埃でも払うような一瞬の仕草だが、下がってしまった眉尻から、相手を心配していることは伝わるだろう。
 蔑むような目付きも、一旦おしまい。ウィスタリアに向き合った後、迷い子を見つめる鏡面はいつも通り凪いだモノだった。

「ヘンゼルもおねえちゃんも知らなかったみたいだけど……大抵の物事って、ひとりで考えるには限界があるんだよね。
 さんにん寄れば何とやらって言うでしょう? 私たちはあなたとグレーテルの抱える問題を解決する手伝いをしに来たんだ。
 とりあえず、フェリシアと一緒にこのノートを読んでもらえるかな。……一応言っておくけれど、またフェリシアに何かしたら、あなたと同じくらい酷いことをするからね」

 手を繋いでいない方の肩には、グレーテルのノートが入ったカバンがある。
 「ちょっとごめんね」と謝って、今度こそロゼットはフェリシアの手を離す。そうしてカバンから冊子を取り出して、隣の少女ドールに差し出すことだろう。
 ヘンゼルにこのまま渡すのは危ない、と判断したのかもしれない。その動きは淀みなく、いっそ失礼にも見えるほどだ。

《Felicia》
 デュオ相手とはいえ乱暴に振り払われたのだ。ロゼちゃんは痛くないだろうか、ましてや傷なんてついてしまっていたら───
 怖くなった。しかし今ヘンゼルくんから目を離すと、彼が何処か遠くへ行ってしまいそうで。可哀想なくらいに小さく丸まる彼から視線を外すわけにはいかなかった。
 ちなみに、フェリシアの放った『すっごく痛かった』は誇張表現だ。実際はドロシーちゃんに遊びで握られた時よりも痛くなかった。

 ロゼちゃんの心配そうな声。
 同時に肩を軽く撫でつけられる。
 この場でやっと赤薔薇に目を向けるのだった。彼女の微笑み自体は変わらずとも、目尻には姉が妹を想うような心配の表情が。

「ありがとう! ロゼちゃんも、掴まれたとこ痛くなったら教えてね。あなたはあんまり痛みを感じない子だから、痛くなくても、腫れてたら直ぐに言ってね?」

 ロゼちゃんはただでさえ柔らかな四肢を持つトゥリアドール。更に痛みを感じない性質。心配でたまらなかった。気づかなければ、知らないところで怪我をし、助けられないところで傷を増やされるのかもしれないから。痛みとは、それだけ大事な役割を持つストッパーなのである。それを感じ取れない分、ロゼちゃんを守るためにも私が神経質にならなければ。

「……辛いことをひとりで抱え込んだって、結局何も解決策が出ずに苦しいだけだなんだよね。これ、前の私にも言える反省なんだけど。
 クラスの人には言えない恥ずかしいことも、格下の私たちになら話せると思うし。ひとりで頑張らなくてもいいんだ。あなたには私とロゼちゃんが着いてるから。
 心や、状況や、言葉。そんなものに正解なんて存在しないもん。
 良さそうな回答を見つけていくしかないんだよ。だから、ね、もうヘンゼルくんはもう一人っきりで頭を抱えなくていいんだよ。三人で唸りながら、良さげな回答を見つけていこうよ。」

 ヘンゼルくんが放った義母というワード。もし私の立場がジゼルママだったら、彼女はどんな言葉をかけていただろうか。頭を撫で、優しい香りを漂わせて、一瞬で救えていただろう。しかしそんな気概はフェリシアには無い。せいぜい頭を撫でることくらいしか。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」

 なんの根拠もない、優しい魔法。絵本に出てきたおじいさんも、ああやって子どもを慰めていたっけ。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」

 ノートを渡されるまで、深紅の髪に手を乗せるだけ。時間をかけて動かしていた。


「ノート? それは……誰の?」

 手を離されたことに一瞬、一方的な不満を抱く。ちゃんと顔には出さなかっただろうか。ふたりで読んでと渡されるだろうと思っていたのに、差し出されたのは私にだけ。驚いたような大きな瞳をロゼちゃんに向けると、どうやら先ずひとりで見なさいということらしい。

「……先に読むね。」

 グレーテルと記名された、燃料の跡がハッキリと残ったノート。
 ページを曲げることないように、なんて。繊細な手つきで開いてみせた。

「は? 誰に向かって言ってる、身の程を弁えろよ、廃品ドールが……」

 言葉の末尾には鋭さこそ欠け落ちていたが、少女二人の非難轟々の眼差しに晒されても、ヘンゼルの強固な差別意識は崩されない。根付いた考え方をすげ替えるのは、やはりどうにも難しいらしい。
 彼は己の立場に天ほど高い矜持を抱いており、他者を見下しながら過ごしてきた。そうしていなければ己が自尊心を守る事が出来ない、設計者の睨み通りの幼さがあった。そのような性分に造られて、ひどく凝り固まった偏見を融解させるのは当然だが難しい。

 しかしながら、周囲のもの全てを敵と見なすような鋭い美貌を持ってしても、心の隙に潜り込むような意表を突く彼女の手のひらには反応が遅れたらしい。
 だいじょうぶ──心を解きほぐす優しげな言葉と手付き。乱れた髪を撫で付けるその手のひらに、しばしヘンゼルは固まっていた。流石に予想していなかったらしい。

 顔は上げず、血走った真紅の眼光だけをウィスタリアの少女に向けた。その瞳は、驚きのあまりか存外素直な色をしていたように思えるだろう。
 やがてギリ、と奥歯を噛み締めると、「気安く触るな、偽善者が」とその手すらも跳ね除けてしまったが。

「…………そのノート、グレーテルのものか。どこで拾った? まさかアイツから奪ったのか?」

 フェリシアがノートを読んでいる間、ヘンゼルはそれを覗き込むことはせず、険しい表情のままロゼットに訊ねるだろう。

 赤薔薇は分け隔てなく親しみを振り撒くが、棘を持ち合わせないわけではないらしい。
 ヘンゼルの暴言を耳にしても、ロゼットは慣れたように涼しい笑顔を浮かべるだけだ。

「あなたは傷付いてるんだから、そういう言動は控えた方がいいと思うな。私たちは仲間でしょう? あまり強い言葉を使うと、翻って自分に返ってくるよ」

 ふ、と吐息だけで笑ってみせる。
 普段の仲間の前では決して見せないような態度だが、一体誰をロールモデルにしているのだろう。
 フェリシアがノートを読んでいる間であれば、ロゼットもある程度談笑するつもりになるらしい。
 どこで拾った──と問われれば、「ああ」と思い出したように口にした。

「流石にそんなことはしないよ。テーセラみたいに力があるわけじゃないし、あの子とは仲良くするつもりだったもの。
 ただ、探し物をしている時に見つけただけ。本当は戻すつもりだったけど、持ってきちゃった。布で隠されてたし、バレたら怒られるかなあ」

 そう言って笑う顔の中に、焦りや恐怖は少しも存在しない。
 それはグレーテルの激情を知らないからでもあり、痛みを知り得ないからでもあるのだろう。どこまでも他人事なのだ。
 フェリシアが読み終えた頃合いを見計らい、ロゼットは「ちゃんと読めたかな」なんて問いかける。
 もし読み終えたのであれば、ヘンゼルに渡すよう促すだろう。

《Felicia》
 ウィスタリアは殆どの場合、誰に対しても愛想と笑顔を振りまく。それらは授業の賜物であり、彼女の特性とも言えた。好意を伝えることを恥とせず、自身を飲み込まんとする悪意にすら、できるだけの善を返してしまう。どんな仕打ちを受けようと、それらを“善いこと”だと信じて疑わない。相手の為だと一身に活動し、励ますために作られた綿の少ないぬいぐるみ。更に、放つ自身の優しい言葉には全責任を持てるときた。ロゼちゃんの為になら、暴れる熱情を抑えるサンドバッグにでもなってやろう。フェリシアは『偽善者』という言葉に対し、呆れたように眉を顰めるのだった。

「偽善者で大いに結構! 知ってる? やらない善よりやる偽善って言葉があるくらいなんだから。それでヘンゼルくんがそんな顔してくれるなら万々歳だよ。
見てて! えへへっ、こんな顔!」

 片手で自身の頬を挟み、瞳をぎゅっと瞑って赤髪のふたりに下手な変顔を披露する。シリアスな雰囲気にしたくなかった……というのは大前提としてあるのだが、本心は何とかしてヘンゼルくんに笑って貰いたかった、ということもあるかもしれない。ロゼちゃんなら、例えスベろうと笑ってくれるだろうから。正直、心地が悪かった。ヘンゼルくんは相変わらず無愛想で、ロゼちゃんは見たこともないくらいに悪い(?)態度。ふたりの険悪な状況を打開したかった。

「………っ……ぁ……」

 訝しげにノートの文字を追いながら、思わず小さな声が漏れる。
 魔女、デイビッド先生、作り直し。
 ─── 一緒に、お披露目。邪魔。

 読めたかな、なんて声をかけられれば、先程よりも分かりやすく呼吸を荒くして首を軽く横に振った。『これはヘンゼルくんに見せるべきじゃない』と、言うように。

「えっ……と。これは─────」

 言え。言え。言わないと、彼がもっと辛い思いをすることになる。

「ぁ、わ、私。渡せない。これは、ヘンゼルくんに見せるべきものじゃないと、思う。」

 血塗れたノートを胸に抱くと、怯えたようにふたりの瞳を見やった。

 月も滑り落ちるような冷え切った美しい横顔が、嘲るような息を吐いている。見る間に荊棘を茂らせるロゼットの挑発に、ヘンゼルは眉根を寄せ、見るからに顰蹙を買ったような表情を浮かべた。あなたの淡白な態度は、彼の矜持をひどく刺激するのだろう。
 苛立ったような声を上げる。

「はあ、仲間? お前達と、この俺が? 俺はお前達と会話をしてるつもりだったが……お前は違うらしいな。勝手にガラクタ共のふざけた仲間にするな、俺はお前達の話を聞いてやってるんだ。履き違えるなよ。」

 あくまでヘンゼルは偏屈に突っぱね続ける。グレーテルの手記を読み込むフェリシアが、瞬く間にその表情を青ざめてゆく様に気付いたのは、ロゼットが彼女に促す様子を見て、そちらに視線を向けた時だった。
 震える瞳孔と、強張った頬ばせ。グレーテルの手記を読んだだけでそのような有り様になってしまうフェリシアに、ただならぬものを感じたのだろう。

「……俺に見せるべきじゃないもの? は、あの女のノートがろくでもないものなのはとっくに分かってる。アイツは頭がおかしい欠陥品だからな。

 ……見せてみろ。見てやるといってるんだ。」

 彼はひとつ鼻で笑って、尊大な態度でフェリシアに手を向けるだろう。ノートを渡せという合図だった。

 先程まで取り乱していたというのに、随分威勢のいいことだ。
 これもフェリシアのお陰と言えるのだろうか、なんて。
 あくまで上からの立場を崩さないヘンゼルに、赤薔薇は微笑みを見せた。憐れみを抱いたかのように。

「そう。そう思うなら、いいよ。先輩になるかもしれないから、アドバイスくらいはしてあげられるかと思っただけだから」

 それ以上返事をしなかったのは、きっとフェリシアに反応をすることを優先したからだろう。彼よりも優先すべきと判断した、ということだ。
 変顔を見て、ロゼットはちょっぴりおかしそうに笑みを深めた。
 気遣われている自覚はまるでないが、相手が変顔をしようとしていることぐらいは分かったらしい。
 ノートを読んで、その可愛らしい顔立ちが歪んでいったとしても──その笑顔は変わらない。
 優しげな、親愛に満ちた眼差しは、ウィスタリアのモノであり続ける。

「どうしてそう思うの?」

 問いかけたのは、純粋な疑問を覚えたからだ。

「ヘンゼルは既にグレーテルに危害を加えられているよね。それ以外の……ううん、それ以上の被害が出る前に止めることができるのは私たちだけだと思うんだけど、違うかな。
 だって、これは先生たちに言って解決する問題じゃないでしょう? あの子たちが始めた話でもあるんだから」

《Felicia》
 周りを凍りつかせてしまうほどのヘンゼルくんの罵詈雑言。エーナドールの自身に対してならまだしも、思いやりに溢れたロゼちゃんはそんなことを言われたら傷ついてしまうだろう。睨み合う蛇の様なふたりの間に、行き場なさげな手を差し伸べる。ロゼちゃんは、見るからに強気に出ているようで痛々しい。そんなこと言わないでと口をついで出ようとしたとき。
 ……やっぱり、ロゼちゃんは女神様みたいに慈悲深い。ここで割って入るのは、勇気ある彼女に失礼だ。

「ロゼちゃん、あんまり言われたこと気にしないでね。ヘンゼルくん、オミクロンクラスの子に対してはみんなあんな感じっぽいし。嫌だったら私に言って欲しいな!
 なんだかんだ言って、彼、意外と押しに弱い子だから。」

 ヘンゼルくんに聞こえないようにこそっと耳打ちをする。どんな小さな声でも、トゥリアドールの彼女なら聞こえているはずだろう。フェリシアはいま、非常〜に心を砕いていた。渾身の変顔にロゼちゃんは笑ってくれたものの……肝心のヘンゼルくんには無視を決め込まれた。思わず冷や汗が出てきそうな場面は一転、間違いなくその起点はグレーテルちゃんのノートである。

 フェリシアは肩で肩で息をしながら足元を見つめている。今頃天井位までつり上がっているだろうラズベリーの瞳も、慈愛に満ちているだろう銀の瞳も、ペリドットは恐怖ゆえに合わせられなかった。これはヘンゼルくんに見せられない。わなわなと唇を震わせ、ノートを離そうとしなかった。今にも持ち出したまま逃げ出しそうに、半歩下がる。口を開いたのはその後だった。

「………私は、やだ。結果的にもっとヘンゼルくんを追い詰めことになると思うんだ。だから私は、ヘンゼルくんのために渡したくないよ。

 分かってる。……分かってるんだ。みせたほうがいいよね。良いんだよね。……そうだよね。で、でも!
 ううん。そうだ。そうだよね……。
 じゃあ、あの……覚悟ができたら、読んでください。あ、でも! 辛くなったら読むのをやめてね。無理しないでね。」

 そこまで言うと変わらず目線を合わせないまま、恐る恐る差し伸べられた手に血まみれのノートを渡すだろう。

「余計な世話を焼いている暇があるなら、己の欠陥をどうにかするべきだ。……ドールとして生まれたなら。」

 ロゼットになんとも傲慢な態度で吐き捨てながら、彼は僅かに目を伏せる。──ヘンゼルは、フェリシアからこのトイボックスの概ねの現実を聞かされている。ドールとして生きたその果てにどうなるかを理解していながら、まだその生き方を捨てられずにいるらしかった。彼ほどに己と己の立場に矜持を持っているのであれば、縋らずにいられないのかもしれないが。

「…………」

 ヘンゼルはフェリシアの手から手記を受け取るだろう。表紙から始め、静かに頁を捲り始める。……彼の目元は、表情は、ひどく剣呑なものである。
 恐らくは授業内容を書き留めた頁を閲覧しているのだろう。彼の様子は既に穏やかなものではなかった。グレーテルの頭の出来を再確認する事に、腹が据わらないところがあるのだろう。
 しかし、その手が不意に、ぴたりと止まった。
 ……いよいよ、あなた方が目を留めた、最後のあの頁に行き当たったらしい。

 彼の目線は素早く動く。は、と時折吐息をこぼす音が聞こえる。静かな部屋は、さらなる静寂に落とし込まれる。

「……オミクロンに落ちた奴が、俺とお披露目に行こうとしている、だと……?」

 ヘンゼルの眉間には、不可解を示す深い皺が刻まれていた。その呟きには当惑の響きがあった。
 彼女が何かを企んでいるのは、理解した。だがその先が分からない。ノートには滲んでいる部分があり、グレーテルの思考は読めないのだ。

「……双子モデルとして設計された俺たちは、二人でなければお披露目に選ばれない。だから俺は、欠陥品のあの女のせいでお披露目への道を断たれたも同然だ。

 だから俺は、アイツがオミクロンに選ばれたその日、アイツに詰めいった。一体どう言うつもりなんだと。……グレーテルがオミクロンクラスの女を殴ったのは事実らしかったからな。」

 ヘンゼルはノートを手にしたまま、険しい面持ちで語る。

「グレーテルは、あの時から……既に何かを企んでいるようだった。そしてそれを、俺には何も言わなかった。

 アイツは俺をさんざ弟だ、家族だと言いながら、俺には何も話さない。だから俺もグレーテルには何も言わないし、関わらないようにしてきた。俺たちは双子モデルとして設計されただけで、血の繋がりもないただの他人だ。」

 ヘンゼルとグレーテルの間に落ちた暗雲、そして隔絶。互いの認識においてそれは根深く、殊の外冷え切ったものであるようだ。
 ──彼は続ける。

「……お前は以前言っていたな。出来損ないは焼却炉に放り込まれると。お披露目の件はともかく、その事実については信憑性がある。

 片割れのいない双子モデルは欠陥品になりうるのか? だとしたら俺は何のために……今まで。……グレーテル、忌々しい……あんな奴、いなければよかったのに……!

 それに俺はアイツのせいで……クソ、邪魔なのはお前の方だろうが……!」

 ヘンゼルからの暴言には、何も返さないまま。無意識で腹部に手を添えて、ロゼットは静かに佇んでいた。

「いいよ。慣れてるもの」

 彼がノートを読んでいる間、フェリシアにやわらかな眼差しを返した。エーナの手を煩わせるほどのことではない、ということなのだろう。
 目下の問題は、グレーテルが他者を巻き込んでお披露目に行こうとしていることと、ヘンゼルがフェリシアに暴力的な振る舞いをしかねないことだ。
 自分に関わる事柄は、ある程度優先度が下がっているのだろう。
 “ガーデン”が関わっていないのであれば、なおさらそう思っているのかもしれない。
 デュオドールが独白を始めると、茶々を入れることもせず、フェリシアの傍で、赤薔薇は耳を傾けていた。
 お披露目について既知であることは、むしろありがたいと思ったのかもしれない。
 「知ってるの?」なんて余計な言葉は挟まず、ロゼットは口を開いた。

「質問してもいいかな。あなたが前に落とした……“先生に期待されている証”は、グレーテルも持っているの?
 アレにはあなたのイニシャルと……何かの言葉か、名前みたいなモノが刻まれていたよね。あれが仮にあなたのファミリーネームだとすれば、グレーテルも持っていないとおかしいんじゃないのかな。
 彼女も持っていたなら、盗む必要もなかったはずだし……双子として設計されたなら、外見以外にもそれを示す証拠があってもおかしくないでしょう?」

 そう言った後、フェリシアの顔を見る。恐らく、彼女は何も分かっていないだろうと判断してのことだ。

「実はね、前に私がヘンゼルの落としたペンダントを拾っていたんだ。ロケットの裏に名前が書いてあったモノなんだけど……それをグレーテルが盗んじゃったみたいで。
 今日、こうして声をかけにきたのもペンダントのことがあってのことなんだよね。言うのが遅くなって、ごめん」

《Felicia》
「なっ!?」

 ヘンゼルくんの心ない言葉にカッとなり思わず声が出る。彼女の頬は赤みを帯び、穴が空くような視線を彼に与え続けた。"ロゼちゃんの何も知らないくせに"少しでも気を緩めれば。そんな言葉が出てきそうだ。自身に向けられる暴言には慣れているが、友達が誰かに傷つけられているのを黙って見ていられるほど、フェリシアは優しくなかった。当然ながら、ヘンゼルくんはロゼちゃんが何故オミクロンに来たのか知らない。そして、彼は彼女が無意識に腹部に触れたのも気づいていないのだろう。

「やっぱりさっきの撤回。
 ロゼちゃんが大丈夫でも大丈夫じゃなくても、言ってね。」

 ロゼちゃんから向けられるのは、慈しみに溢れた眼差し。安心させてくれる、慈愛の微笑み。フェリシアはそんなあなたに、どこか寂しそうな微笑を返すことだろう。

 思考がシフトチェンジする。
 さて、今のところ出来るだけ早く打開策を打たなければいけないのは、ヘンゼルくんのお披露目会問題だろう。

 彼が手帳を読んでいる間、フェリシアは考えていた。
 もしも、ヘンゼルくんがグレーテルちゃんとお披露目会に行くことになれば……殺戮の場所は元プリマドールたちが行ったホールか。
 それとも ── 塔の焼却炉、か。
いずれにせよ必ず阻止しなければならない。……ズキっとコアが傷んだ。頭ひとつ飛び抜けた才を持つアストレアちゃんだって、お披露目の運命から逃れられなかったというのに。それらは現実的に可能ナノだろうか。そもそも、止めることなんてできるのだろうか。

 ヘンゼルくんの言葉に耳を傾けつつも、フェリシアの思考はその場所になかった。お披露目会の取りやめ。そういえばウェンディちゃんは──
 ロゼちゃんが口を開いたところでやっと、ウィスタリアは思考の海から現実へと引き戻された。
 その言葉の意味が、常々理解できなかったから。大きく瞬きを繰り返しながら赤薔薇を見やる。それを知ってかロゼちゃんは丁寧に説明してくれた。

「あっ、なるほど。……そっか。私の知らないところで、ロゼちゃんは色んな物を拾ってたんだね。」

 エーナドールであるフェリシアはすぐに話の点と繋ぐ。にっこりとした表情を貼り付け、納得できたことを示すようにこくこくと頷いた。

 ウィスタリアはヘンゼルくんに向き合うと、言いにくそうに呟く。

「あ、あの……私ね、どんなことがあっても、絆って切れないものだと思うんだ。これからどうして行くか私も一緒に考えるから、あなたにとっては事実なんだろうけど……そんな悲しいこと、言わないで欲しいんだ。すごく矛盾してるけど私、ヒトの心ってね、どうしてもそういうものだと思うから。心って効率的じゃないんだ。ままならないんだよ。

 ごめん、ごめんね。余計なお世話なのは分かってるし、掛けて欲しくない言葉だと思うんだけど、私には、あなたとグレーテルちゃんが双子に作られたの、やっぱり何か理由があるんじゃないかって、思ってしまうんだ。どれだけ嫌っていても、運命なんだよ。
 だから……ね。お願い。どうすればいいのか答えを出すために、私、何でもするから。」

 フェリシアの言葉は真に迫っていた。感受性の高いエーナモデルらしい、実感に基づいた懸命な訴え掛け。心から相手を想うからこそ飛び出す、無数の思い遣りと気遣いに満ちた、優しい言葉の群れを聞いて──ヘンゼルはいつも、言論でやり込められない難しさを感じながら、戸惑い、そうしてあなたに様々を語って聞かせてきた。偏屈なデュオモデルであろうとも心を割り開かせる、エーナの話術は、しかし。
 憎悪と嫌煙で赤い瞳を薄暗く濁らせた彼に、今回ばかりは届かなかったらしい。

「エーナの御高説か、結構な事だな。双子に作られた運命? は、お前に何が分かる? 片割れはろくに話せずに何を考えているか分からない木偶の坊で、俺はそんな出来損ないの為に今までの努力を全部水の泡にされかけてる。

 お前が言ったんだろうが、ジャンクドールはヒトを暖める火種の薪にすらなれずに、灰になる。ヒトの目を見ることも無く、無様に捨てられるだけだと。俺は何ひとつヒト様に逆らっていない、貢献するためだけにずっと生きて努力してきたのに、あの女のせいで処分の憂き目に遭っている! ……どうして憎まずにいられる!?

 グレーテルさえ居なければこんな事にはなっていなかったんだ、相手の気持ちを慮るエーナモデルならそれぐらい分かるだろうが。綺麗事ばっかり言うなよ劣等生が……」

 ──ヘンゼルとグレーテルの間に落ちた暗雲。その断絶は、底の見えない谷より深いらしい。
 一朝一夕で向き合うことは、やはり難しいようである。

 だが同時に彼の言動には疑問が残る部分もある。オミクロンに落ちたのはグレーテルだけで、彼は今まで通りにデュオクラスに留まっている。無論お披露目に選ばれているわけではないようだが、かと言ってすぐに『処分』の憂き目にあうとも思えない。だが彼は、自分がスクラップになることが当然だとでもいうような口振りだ。どうしてそうも断言するのだろうか?

 恨みがましい瞳を濁らせていたヘンゼルは、ロゼットの質問に顔を上げると、溜息混じりに応えた。

「……グレーテルはそういうものは何も持たされていない。あのペンダントを先生から預かったのは俺だけだ。いくらアイツの頭の出来が俺より優秀でも、その点だけは俺はグレーテルより秀でているはずだった。

 ……それをあの女は……俺からペンダントを奪ってまで邪魔したいのか? クソ……」

 ヘンゼルの焦燥も分からないわけではなかった。
 彼は真面目で、努力家で、典型的なデュオドールだ。
 知識を蓄え、お披露目に向かうという目標をなくしてしまえば、動揺してしまうであろうことも容易に想像がつく。
 だが、それはそれとして。流石に人格否定が過ぎるんではないかと、ロゼットは再度冷たい視線を送る。

「焦るのも分かるけど、流石にそれは言い過ぎだよ。フェリシアはあなたを見下したいわけじゃないって分かるでしょう?
 それに……劣等品なのはあなたも同じだよね、ヘンゼル。手首のその傷は、遠からず洗浄の時にバレるはずだもの」

 わざと口に出したのは、明確な敵意に依るものだ。
 フェリシアにも伝わるように、自分の腕の同じ位置を指差して、赤薔薇は言葉を続ける。

「身体が傷付いたとしても、その冴えた頭まで不良品になるわけじゃないでしょう。
 落ち着いて考えて、ヘンゼル。あなたはどうしてそこまで焦ってしまっているのか。
 お披露目が惨いモノだと知っても、変わらず頑張ってきたのは、別の理由があったからじゃないの?」

 大切な誰かがいるんでしょう、なんて。
 彼に思考する時間を与えるために、そう問いかける。
 フェリシアの真似事でしかないが、これで相手がわずかにでも激昂する時間を減らせれば良かった。
 そして。万一また掴みかかってきたとしても、今度こそ友達に触れさせないよう、半歩だけ前に出た。

「……フェリシアは、何も悪くないよ。間違ったことも言ってない。だから、落ち込まないで」

 少女ドールに、やわらかな一瞥と言葉をかけてから。ロゼットは、険しい表情をデュオドールに向け続ける。

《Felicia》
 吹きかけられた嵐のような言葉たちに、思わず息をのんだ。食い上がってくるえずきが気持ち悪い。えずきの反動で身体をぴくり、ぴくりと大きく震わせながら、片手で強く口を抑えた。フェリシアのかけた言葉は全て所謂綺麗事、分かっている、分かっているはずなのに。ヘンゼルくんの心ない台詞が、今は刺さってならないのだ。
 頭に幾度も鈍器を打たれているような感覚に、フェリシアは浅く呼吸をしていた。身体を流れる赤黒い燃料が、今にも逆流して、破裂してしまいそうだった。だから、ヘンゼルくんを諌めるロゼちゃんの言葉を素直には聞けなかった。彼の過失だけを指摘しているようにも見えたのだ。

 欠陥品、劣等品、手首の傷、お披露目。

 全て聞こえているのに、衝撃はそれほど大きくないのは何故だろうか。今はえずきを止めることにしか頭になかった。

 ── 落ち込まないで。柔らかい言葉が目の前を掠める。だよね、私、間違えてない。

「だから………」

 フェリシアは声を出した。
 浅く浅く。

「だから! だからだから!
 あなたに手帳を見せたくないって言ったじゃない!! 見たいって言ったのはヘンゼルくんだよね!?

 ひとりで勝手に傷ついて、やめてって言ってもやめてくれなくて、いちばん辛い時に助けも呼べない。
 そして今度は言い訳に言い訳を重ねて私たちに八つ当たり!?

 ……冗談じゃない。

 冗談じゃないよ!!!!!!」

 弾けた思いのまま、気持ちをぶつける。フェリシアは目の前にいる彼の頬を張ろうと腕を上げたが、その腕は力なくだらんと垂れ下がった。

「ぜんぶ一人でやろうとするなんて……どれだけ命知らずか分かってる? 分かってない、ぜんぜん分かってないよ。ヘンゼルくんは本当のお披露目をその紅い目で見てないんだもん。

 どれだけ頑張って話しても、仲間だって告げても、それをぜんぶ否定されちゃったら為す術ないじゃんか。ひとりで抱え込まないでって、私がいるって何回も伝えたのに、伝わってないじゃん……。

 私、もういや。ヘンゼルくんってとっても弱いんだもん。自分の弱さを認められない弱い子だもん。
 ……勝手に傷ついてなよ!!」

 その大きな瞳の端には、大粒の涙が溜まっていることだろう。

 がたっ。

 フェリシアはその場所から逃げるように、講義室から出ようと踵を返すだろう。

 鋭利な荊のごとく冷たい唇が、吐き出した事実。

「──っ……!!」

 敵愾心が端を発するその言葉によって、ヘンゼルはその瞬間息の根でも止められたかのように絶句して、己の手首を庇うように握り締めた。血の気が引いていた。その顔は、青白いを通り越して灰色であった。色濃い絶望を兆した顔である。
 迂闊に振り上げた腕を彼女に掴まれた時に、悟られたのだと、ヘンゼルは容易に理解する。奥歯を噛み締めて、ワインレッドの震える瞳に様々な激情を巡らせて、浅い呼吸を吐く。最早毒付くことも出来ず、彼女の荊棘の鋭い切っ尖により、心臓を貫かれたかのようであった。それは紛れもないトドメであった。

「……おまえに、お前に、何が……!」

 その強張ったほおばせに、彼自身も敵対の色を宿して、張り詰めた怒声をぶつけようとした時だった。
 突如、認識の埒外からヘンゼルを横殴りの暴風雨が襲い掛かる。穏やかな向日葵のような明るい少女から発せられるとは思えない、苛烈で、全てを飲み込む台風のような歴然とした怒りに呑み込まれる。
 ヘンゼルはどうやらとうとう、彼女の心の柔い部分をズタズタに切り付けて、足で踏み躙った心無い行為の数々に報いを受けたのだ。

 彼が幾ら健常なドールで、彼女らが基準に及ばず零れ落ちた欠陥ドールだったとて。ヘンゼルはあまりに彼女を否定しすぎていて、そしてそれは、人格を持つ他者への扱いとして、決して許されないものだった。

 涙を光らせて、憐れな少女は走り出す。その背を愕然と見据えるヘンゼルは、やがて拳を固く握り締めて、彼女の流れるウィスタリアの後ろ髪をギッとにらんだ。

 奔った断絶は、悪意ある漆黒だった。

「よくも言ったな、この欠陥品が……!! いつもこちら側に土足で踏み込んできて、誰も頼んでもいないのに好き勝手にお節介を焼きやがって!! 誰もお前みたいな愚図の助けなんか望んでない!! 二度と顔を見せるな、俺に関わるな……!!!」

 ヘンゼルの吐く言葉全て、邪悪が取り巻いていた。降り積もった怒りを制御出来ていないのだ。ふうふうと荒い息を肩で繰り返しては、その苛烈な眼差しはまだ講義室に残っているであろう麗しの薔薇へ向けられる。

「……出て行け!! お前達ジャンクと話してると堪らなく不愉快になる……!! 早くどこかへ行け!!」

 乱暴な拒絶の言葉がロゼットを殴り付けるだろう。

「フェリシア!」

 走り去るフェリシア、それに呪詛のような罵言を吐くヘンゼル。
 ──どうしてこんなことになっちゃったんだっけ。
 重苦しい空気の中、心の中で自分に似た何かがごちる。
 そもそもヘンゼルが掴みかかってきたのが悪くて、でもヘンゼルは初めから精神的に不安定で。
 フェリシアが傷付いたのに気が付いていれば、こんな風にみんな嫌な気持ちになることはなかったのに。
 手の先がすっかり冷たくなっていることに、ロゼットは今更気が付いた。
 ずっと怒っていたわけじゃない。ただ、加害の可能性に怯えていただけなのだ。
 全部終わってしまった後では、何の意味もなくなってしまったが。

「……そうだね。私も、あなたがどんな風に作られたのか分かったから。もういいよ」

 悲しみでもなく、怒りでもなく。
 心底つまらなさそうに、相手のことを見ないまま、そう口にした。
 彼も幼稚で、必死で、視野の狭い、くだらないドールでしかなかった。
 もうヘンゼルのことなんてどうでもよかった。グレーテルのノートだって、今更取り返すつもりにもならない。

 ──あの、魔女。ヘンゼルを狂わせた……許せない悪魔。──ソフィア! 絶対に許さない、あの女……殺してやる、殺してやる……!!!

 以前耳にした、グレーテルの叫びが脳裏に蘇る。
 もう、目の前にいるのが双子のどちらでも変わらない気がしていた。

「そのノート、あげるよ。もう私たちにはいらないものだから。
 精々グレーテルと話し合うなりなんなりして、お披露目に行きたくないって泣き付いたらいい。あなたたち、そっくりだもの。話せば分かり合えるよ」

 薄っぺらい言葉を残し、ロゼットは部屋を出ていく。
 後ろのデュオドールから何を言われようが、最早気にしている暇はなかった。泣いてしまったフェリシアを探して、抱き締める方がよほど大事だったから。

【寮周辺の平原】

《Felicia》
「───ッ!!」

 黒々とした言葉を投げつけられようと、大好きな友だちが自身の名呼ぼうと、フェリシアが足を止めることはなかった。一粒の大きな雫が、笑顔を吸い込む頬を伝って落ちていった。それでも足を止めない。遠くへ、遠くへ、誰にも気づかれない場所へ行こうとしていた。しかしそれも、呼吸が苦しくなってきたため難しそうだ。

 自責、後悔、屈辱、憤怒。

 止めどなく溢れる鈍色の宝石たちを、強引に深紅の袖で消し去るので精一杯だった。昇降機さえも使わず、螺旋階段をひとつ飛ばしに降りていった。降りる途中で視界がぼやける度に、息の根が止まった気がした。このまま楽になりたいとさえ思った。学園ロビーへ出ると、フェリシアは勢いよく門を飛び出し、今にも雨が降ってきそうな曇天の中足を動かし続けていた。かつて花冠を飾ってもらった花畑を横切ろうとしたその時、落ちていたのだろう小石につま先を取られ、柔らかな草花が生い茂る場所へ身体が落ちた。怪我はしていないだろう。だが、とてつもなく痛かった。コアを蝕むそれは、エーナクラスのフェリシアがあの子を助けたときの痛みとよく似ている。視界いっぱいに広がるのは灰色に灰色を重ねた空だけ。フェリシアは仰向けの体勢のまま両手で顔を覆った。

「……っ、ぅ、うぅ……」

 土を踏む音。
 そして、荒い呼吸音。
 フェリシアが草地に身を投げて、しばらくした後。薄らと汗をかいたトゥリアドールが、あなたの傍に近付いてくる。

「……フェリシア」

 息を整えながら、ひと言。友達の名を呼んで、彼女は黙り込む。
 ロゼットは無理に手を退けようとはせず、静かに隣に座った。

「ごめんね。私、ヘンゼルも話せば分かってくれるって思ってたんだ。根拠もないし、楽観的すぎたけど……フェリシアまで巻き込んでしまって、本当にごめん。
 あなたに酷いことを言わせてしまったのも、申し訳ないと思ってる。それだけ嫌な気持ちにしてしまったっていうことだから……」

 湿った風が、ふたりをからかって通り過ぎていく。
 この謝罪が、誰のためのモノなのかロゼットには分からなかった。
 フェリシアに対して本当に悪いことをしたと思っているが、それよりも赦してほしいから謝っているような気もする。
 ただ、このままこの話を終わらせてしまうことだけはどうしても嫌だった。
 おっかなびっくり、乱れた彼女の髪に手を伸ばす。拒絶されなければ、その頭をゆっくりと撫で出すことだろう。
 落涙を促すように──あるいは、自分の気持ちを落ち着かせるように。

《Felicia》
 はーっ、はーっ。
 肩で息をしながら、フェリシアは掌を涙で濡らしてしていた。
 今はこのみっともない姿を誰にも見られたくないし、誰とも話す気がなかった。近づいてくる足音に逃げようとする。……が、手に、足に、身体に力が入らなかった。
 心做しか耳も遠くなっているような気がする。あなたの呼ぶ声に全く反応しなかったのは、わざと聞こえない振りをしていた言うよりも、不可能だった、と説明する方が正しい。間違いなくフェリシアはしっかりとあなたの謝罪も聞いていたし、頭を撫でられようとも反応しないだろう。掌はまだ、顔を覆ったままだった。

「………ロゼちゃん」

 しばらく沈黙が走ったあと、フェリシアはかすれた声であなたの名前を呼ぶことだろう。

「私、ひどいこと言っちゃった。
 ヘンゼルくんが辛いってこと分かってたのに。言葉の重みを、他のどのドールよりも理解してたはずなのに。抑えられなかったんだ。

 わたしね、今までどんな酷いことを言われても意外と笑顔で対応できてたんだよ。……傷ついてるって分かってるひとにあんな声で、あんなトゲのある言い方が出来ちゃうなんて。

 ……ロゼちゃん、私、自分が怖いよ。
 自分のことが嫌で嫌で仕方がないよ……! どうしよう、どうしよう……」

 弱音を吐きに吐きながら、自分を嫌いだと言い続ける。誰にも言ったことない言葉を、自分を傷つけるためだけに使っていた。
 やだよ、やだよ、なんて歳不相応の言葉を自分に対して投げかけつつ、苦しんでいた。そんな様子をみて、あなたはどのような反応をするだろうか。

 ヒーローの弱音を、悪意を恥じる姿を、ロゼットは何も言わずにただ受け止めていた。
 相手を傷付けることのない優しい手つきで頭を撫でながら。

「フェリシアは、偉いよ」

 ぽつり。
 柔らかな声が、エーナドールに向けられる。

「誰かを傷付けたことから逃げないのは、すごいよ。少なくとも、それは否定しちゃ駄目だと思う。
 あなたには、全部他のモノのせいにする権利もあったでしょう。彼が私たちにしたみたいに。
 確かに、フェリシアはヘンゼルに酷いことを言ってしまったかもしれないね。彼も随分傷付いてたみたいだったし。でも……それを怖いと思えているなら、まだ大丈夫」

 涙で張り付いた、顔の横の髪を退けてやる。
 ロゼットは、先程吐いた言葉に良心の呵責を覚えていない。
 彼は自分たちに暴言を吐いたし、こちらが何も言わなければ、きっと優れた頭脳で更なる罵倒を続けていただろう。
 だから、ヘンゼルが悪いとまでは言わないが、正当防衛だとは思っている──というのは、その場では秘密だった。
 自分がこうして正当化してしまうからこそ、フェリシアには真っ直ぐなままでいてほしかった。

「駄目だって思うなら、ちゃんと謝ろう。ヘンゼルも冷静じゃないだろうし、今すぐじゃなくて、もう少し後にね。
 酷いことを言いそうになるのは……きっと自制できるよ。フェリシアは、他の子を傷付けるのを怖いと思えているもの。もしもひとりで抑えられないようなら、私が口を押さえてあげる。
 だから、ね。自分のことを傷付けるのも、今は一旦やめてあげてほしいな」

 フェリシアは私の大好きなお友達だから──なんて。
 一旦撫でる手を止めて、そう口にする。
 彼女が傷付けているのは、自分自身である以前に、ロゼットが何より尊重したい個人だ。
 ヘンゼルだって今すぐお披露目に行くわけではないだろうし、今日くらいは立ち止まってしまってもいいだろう。
 顔を覆う手を離さぬまま、赤薔薇は傍で佇んでいる。

《Felicia》
 鉛玉を飲み込んだように呼吸が苦しかった。黒鉄は少女の身体を蝕み、自己批判の渦に引き摺り込んでいく。完全に足を取られたフェリシアは、為す術なく沼の底へと堕ちていくのだった。変わらない優しさに、棘のない柔らかな手に縋りたくなる。そんなことしていい身分ですらないのに。

「偉くない。相手を傷つけるだけの役立たずだよ。」

 気持ちの良い水温の海に溺れてしまえたら。語りかけてくれるロゼちゃんのぬくもりを、フェリシアはバッサリと切り裂いた。全てを拒絶するように、深く深く。
 今さら謝ろうだなんて、どこまで強欲なのだろうか。許しを乞うよりも先に、自分の存在ごと消し去ってしまいたかった。

「私ね、ずっとずっとエーナドールらしく、相手の感情を感じて、自分なりに分析して、最善の答えを出してたつもりでいたんだ。
 だけどね、最近分かってきたの。私はすっごく自分勝手だって。
 自分勝手な自分に優しくしてくれる子に甘えてるだけなんだって。アストレアちゃんがいなくなっちゃった今、いちばん頑張らなきゃいけないのは、彼女を守りきれなかった私なのに。ちゃんとあの子みたいに完璧でいなきゃいけないのに……! 私ってば、完全に煽るような売り言葉に、誰しもを傷つけてしまうような買い言葉を返しちゃうんだ。それが分かっただけだよ。」

 あなたも知ってのとおり、フェリシアは周りが驚くほど真っ直ぐなドールだった。並行するように、至極愚かなドールであった。だからこそ今、彼女は多大なるショックを受けている。感情を御さないまま放つ言葉の恐ろしさを十二分に理解しているためである。

「……ロゼちゃん。きっと要らないんだよ、こんなドール。」

 ぽそり、細ばる声で、それらは発せられた。

「要らない、初めから不要だったんだ。私が! 私がお披露目に行けばこんなことにはならなかったかもしれないのに……!」

 複雑な心境もあったのだろう。
 それが今、押さえつけていた鍋蓋をひっくり返して、自傷とという形で出てきているだけで。

「いらない、いらない、……いらない。」

 無意味な涙も、無意味な私も。

「ロゼちゃん、離して。」

 いまだ掌に隠された表情は、歪に形を変えていた。

 湿った空気がふたりの間に流れて、そのまま沈殿していくような気がした。
 痛みを覚えない指からは、何の不快感も伝わってこない。手触りのいい髪のやわらかさを感じるだけである。
 ただ、それでも彼女が傷付いて、手の届く全てに悲しみをぶつけていることだけは分かった。
 少なくとも、今のフェリシアには慰めを受け入れるだけの余裕はないのだろう。
 そんなことないよ、と言ったとしても。どれだけ言葉をかけても、相手が受け止められなければきっと意味はないのだ。
 だったら、ロゼットには何ができるのだろう。

「……うん」

 惜しむように、頭を撫でる手が離れていく。
 それから、赤薔薇はウィスタリアの顔を覆う手に触れた。凍土に張る氷面を、非力な温もりで溶かそうとしているようだった。
 カイに刺さった鏡の破片をのぞくように──あるいは、万年の孤独を飛び越えるように。赤髪のゲルダは口を開く。

「アストレアは、確かに素敵な子だったよね。みんなに愛されて、最後まで王子様をやめなかった、完璧なドールだった。
 でも……私の友達は、あの子じゃないよ。誰とでも仲良くなれて、図書館よりもたくさんのお話を知ってる、プリマだったドールじゃない。
 私の友達は身勝手で、繊細で、甘えん坊な、全然かっこよくないドールだもの。完璧なんて初めから求めてないし、誰かになる必要もない。
 だから、いらないなんて言わないで。箱庭の全てが……あなた自身があなたを疎んでも、私が必要としてるよ。一緒にいるって、約束したでしょう」

 もし、フェリシアが抵抗しないのであれば。
 ロゼットは顔を覆う手をずらして、その額に口付けを落とすだろう。顔が見えなければ、仮面のように頑ななその手の甲に唇で触れるはずだ。
 どれだけその表情が醜くても、刃のように鋭い害意を持っていたとしても。何より愛しげに、赤薔薇は微笑み続ける。
 初めて声をかけてくれた時から、彼女の世界で一番輝く存在がフェリシアであることに変わりはないのだから。

「それでも、まだ自分を許せないなら……あなたのいらないあなたを、全部私にちょうだい。
 駄目な子でもいいの。甘えん坊なところも、わがままなところも、きっと許してあげる。
 他の子とはできないことをしよう、フェリシア。私にはどれだけ甘えてもいいし、酷いことをしてもいいんだよ……」

 トゥリアドールは天使のように、悪魔のような甘言を囁く。
 恋人として作られたことによる弊害も、きっとあるのだろう。対等な友情を結ぶ相手であれば、こんなことを言うはずはない。
 それでも。無垢なる嬰児は“友達”が何より大好きで、今まで通り繋ぎ止めておきたいだけだったのだ。

《Felicia》
 いよいよ雲行きも怪しくなり、今にも降り出してしまいそうな不穏な空気の中、花畑のふたりは濁った上澄みを啜っていた。甘美などではない、不気味で黒くて、苦い味のするなにか。しかしそこには確かに愛情があった。溢れるばかりの思いやりがあったのだ。
 ただしフェリシアは気づかない。
 部屋の隅に引きこもり、戸を閉めて頑丈な鍵をかける。ひとりきりのその場所で誰にも知られないようにと願い、同時に誰か気づいてくれと懇願しながら。
 少女はそうして目を閉じた。

(──ヒーローが来てくれたら。)

 要らない要らないと狂ったように呟くフェリシアの冷たい手の上に重ねられたのは、儚く、それでいて強固なあいのしるしだったようだと思う。棘が刺さったままの心でヒーローを呼んだ瞬間、心地よい温度が全身を駆け巡ったのだから。お前はまだ生きられるんだと奮い立たせるみたいに。
 振り返った瞬間、ドロドロの私が前を向こうとする私の手を取り足を取り、叫ぶ。

『おまえはいらない』
『すべておまえのせいだ』
『おまえはヒーローになれない』

 分かってるんだってば!
 投げやりにそう返すと、それらは嬉しそうに呟くのだ。『いっしょ』なんだと。所詮ドールなのだから何も出来やしないのだと。

「……………………」

 完璧じゃなくていい、そんな言葉に返せるものなんて持ち合わせていなかった。

 抵抗しないうちにされた柔らかな感触。フェリシアは全てがぼやけて滲んだ視界の中であなたの顔をじっと見つめていた。みじめな顔と称する少女の表情は、恥じらいと驚きで熟れきった林檎のようにとろん、と溶けきっていた。
 大粒の涙が、頬を伝った。

「そ、そんなことしちゃ、ロゼちゃんがいないとダメダメな私になっちゃうよ……きっときっと、ロゼちゃんも嫌になっちゃうよ。サイテーな部分を、大好きなあなたには預けられない。」

 受け取ってきた愛情を、真摯なるねがいを、フェリシアはようやく理解し始められたようだった。

「だから、代わりに。

 ロゼちゃんの好きな、私が何より大事にしてる私をあなたにあげる。
 だから、ロゼちゃんだけは、私を嫌いにならないでね。」

 空は言うまでもなく、花さえ彩度の低い世界の中で、パステルカラーの少女ドールだけが鮮やかに見えた。
 作り物めいた藤色の髪、新芽のように爽やかな緑の瞳。そして、ほころんだ花を思わせる真っ赤な顔。
 その涙だって、自ずから輝くような光を反射して流れていく。白い頬の上を流れていくそれは、一条の流星だった。
 土の上に零れる前に、指で星屑を掬い取る。赤薔薇は接吻の前と変わりなく、ただそこで咲っていた。

「フェリシアを嫌いになることなんてないよ。絶対に」

 嫋やかな振る舞いに反して、その声はしっかりとした重さを持っていた。
 これからどちらかがお披露目に行く可能性も少なくはないし、また違う要因で引き離されることも有り得ない話ではないのだろう。
 ドールとしてトイボックスにいる以上、一秒先の未来だって保証することはできない。
 それでも、ロゼットはフェリシアを嫌うことはないと信じていたかったのだ。
 例え彼女に嫌われて、終わりのない炎中で永劫の時を過ごすことになったとしても。
 過去の苦しみが今に追いついても、きっとヒーローがいれば大丈夫なのだと、純粋にそう信じていたかった。

「だから、私のせいで駄目になってもいいと思うけど……あなたがそう言うなら、フェリシアの一番大切なところを貰うよ。
 お花みたいに、暖かい記憶みたいに、きっと大事にするから。離してって言っても、離してあげないからね」

 どこか怖いことを、何でもないように口にして。
 細やかな手つきで、ロゼットはフェリシアの前髪を直すだろう。先ほど触れた場所を、誰にも見せないつもりで隠すように。

《Felicia》
 油性マジックで黒く塗りつぶされたガラスの破片を、ロゼちゃんはいつもの笑顔で拾い集め、色味を溶かし、形を作ってくれる。例えそれが歪だとしても、問答無用であいしてくれる。ひとつひとつを真綿で包んで大切にしてくれる。
 フェリシアの心は、踏まれたばかりのセメントのように穴だらけ。
 このまま固まってしまえば、彼女の根本たるものが危うくなってしまっていたところだろう。
 白魚の指が、薄ら暗い少女の頬を撫でる。水晶を掬ったかと思えばまた、セメントの穴を埋めてくれるのだった。

「……ふふ。ロゼちゃんの言葉なら信じられるかも」

 赤く染った頬をふにゃりと動かし力なく笑顔を返す。少女ドールは既にそのくらいの気力しか残っていなかった。日々激情的に変化するトイボックスの中で、確証のない未来を信じること。それがいかに難しいことかフェリシアは身に沁みて分かっていた。お披露目会に行くのも明日は我が身だろう。しかし残された時間が震えて待つしかないのであれば、こっちから突っ込んで全てを変えてやろうとも思うのだ。

 裏付けのない口約束。
 しかし確かに、ヒーローは赤薔薇に大切なものを明け渡した。
 エーナモデルがいちばん大切にしなければいけないようなもの。
 感化されやすいその潤んだ心を目に見えぬ形で渡したのだった。

「惨めで壊れやすいものだけど、ロゼちゃんなら大切にしてくれるって信じてるから。私が渡した大切なもの、肌身離さずずっと持っていてね。うっかり落として割ったりしないでね。
 私の身体や命は大切な人のものだけれど、私の心は、今からあなたのものだから。」

 あなたと同じく怖いような言葉を並べ立てる。しかしもう、少女のペリドットが濡れることは無かった。あるのは幸福と、安心と、後悔だけだ。時間を置いてヘンゼルくんに謝りに行こう。

「……雨が降ってきそう。」

 寝転んだ状態から立ち上がったフェリシアは、泥を落とすために軽く身体を払うとあなたに手を伸ばすことだろう。「帰ろう」と。

 他のドールの信頼と、フェリシアからの信頼は、彼女にとって重みが違うモノなのだろう。
 トゥリアドールは少し眉尻を下げて、照れ臭そうにはにかんだ。
 他者と関わる楽しみ、手を繋ぐ幸せ──他にもたくさんのモノを教えてくれた友達から、その心まで預けてもらえたら、もう他に欲しいモノはない気がした。
 いつも通り、煌めくペリドットがこちらを見つめている。恋のような色に染まった顔を映して、銀の鏡は満足そうに頷いた。

「うっかり落としたりなんかしないよ。フェリシアがくれるモノは何だって宝物なんだもの。いつもするみたいに、ぎゅーっとして……暑くても寒くても、いつでも暖めてあげるから」

 記憶の中の誰かに勝つことは、初めから諦めていた。ロゼットだって、花園のあの子とフェリシアのどちらが好きかと言われたら即答することはできない。
 身体と命が手に入らなくても、彼女が笑ってくれるならそれだけで構わないのだ。──自分の手が届くところなら、もっと嬉しいけれど。

「うん、帰ろうか。びしょ濡れで帰ったら、みんな驚いちゃうだろうしね」

 相手が立ち上がってから、少し遅れて赤薔薇も立ち上がる。
 足元の泥を払って、降り出した雫に目を細めて。自分よりもちいさな、けれども大きく思える手のひらを握り締めた。
 少しずつ降り出す雨の中、ふたりは帰路に着く。ハッピーエンドを信じる、幼気な子どもであるかのように。

【寮周辺の平原】

Brother
Rosetta

 夕刻、オレンジの光球が傾き始める頃。
 ブラザーが戻ってくるのを、ロゼットは玄関で待っていた。
 それは存外早い帰りかもしれなかったし、時間ギリギリの遅い帰宅だったのかもしれない。
 とりあえず、まだ可処分時間が残っていた頃としよう。それくらいに、彼女の“おにいちゃん”は帰ってきたのだ。

 「おにいちゃん」

 シルクの髪が視界の端で揺れる。
 赤髪のドールは目を見開いて、幽霊のような青年ドールに近付いた。

 「あのね、聞いてほしいことがたくさんあるんだ。この前の発信器のことをジャックに話したり、ガーデンテラスに行ったりして、色んなことを調べたんだけど……」

 拙い口調で、赤薔薇は捲し立てるように話しかけた。
 話の調子自体はゆっくりしたものだ。遮るつもりであれば、いつでも遮ることができるだろう。
 ただ。
 今のブラザーには見えないかもしれないが、ロゼットの表情は少しばかり硬い。
 不安げながらも、話しかけたいという心境が、美しいかんばせに強く現れている。
 観察の得意な、優れたトゥリアドールであれば、きっと汲み取ることができるはずだ。

《Brother》
「……ロゼット……」

 ───疲れてるから、後にしてくれないか。
 ───頼るなら別の人を頼ってよ。
 ───あっち行って。

「……どうしたの」

 陶器の肌を青白くしたブラザーは、きっと時間ギリギリに帰ってきた。ここ最近の彼は、人の多い共有スペースにいない。貴女と会うことだって久しぶりだし、だからこそ、ブラザーは無痛の裏側で僅かに伸びた赤薔薇をまだ知らなかった。
 ぼそりと聞こえないくらいの声で名前を呼んで、少し黙って。ぐずぐずに溶けた脳みそが習慣で言葉を整理して、爛れた喉がアウトプットした。

 ブラザーは貴女の様子に気づいているのだろうか。彼はただ一切の光を亡くした紫水晶に、無垢な赤色を鈍く反射しているだけだった。少なくとも玄関で足は止めたから、まだ対話の意思はあるらしい。それすらも、習慣かもしれないが。

 「あ……のね、色々分かったから、おにいちゃんに教えてあげたいなって、思って。それだけなんだ」

 ブラザーの様子がおかしいことは、よく分かっている。
 それでも、ロゼットは上手く回らない舌を動かし続けた。
 トゥリアの役割は、平たく言えばカウンセラーだ。
 相手を観察し、心の不調を見つけ、やんわりと肯定しながらそれを癒す。
 他者の発する些細なシグナルを見つけることは、きっとブラザーもロゼットも得意な方だったはずなのだ。

 「まず……ジャックと会って、発信器のことと、私の擬似記憶の話をしてきたんだ。おにいちゃんに裸を見せるなって言われちゃったけど、まあこれは関係ないよね」

 いつも以上に、話の順序がめちゃくちゃだ。
 自分でそう気付きながらも、ロゼットは直すことができない。
 リヒトと一緒に話したときのように、ブラザーが訂正したりしてくれるのを、無意識に期待しているからだ。
 「上手く話さなきゃ」「ちゃんと伝えなきゃ」と思うほど、話はまとまりをなくしていく。

 「それで、発信器のことはジャックも知らなかったみたい。多分、ドロシーも知らないと思う。ふたりには伝えたし、他の子にも教えてきたから、みんな多分知ってると思う。
 あと、私の記憶に出てきた“ガーデン”っていう場所について質問したんだ。ドロシーは知ってそうだけど、ジャックは知らなかったみたい。
 おにいちゃんは聞いたことない? 連邦政府研究機関とか、“ガーデン”とか」

 ようやく話し終えて、銀の眼は相手を映す。
 彼は無感動のまま、そこに立っているのだろうか。それとも、また別の反応を示すのだろうか。

 「知らなかったら、大丈夫だよ。私も最近思い出したことだし、まだ大切な子が誰だったかも分からないし……」

 付け足したのは、言い訳がましいひと言。無視してしまったって、ロゼットはきっと傷付かない。

《Brother》
「…………」

 拙く捲し立てるロゼットを、ブラザーはどこか遠くから見ていた。紫がかった白銀の髪に風が吹き、ふわりと体ごと攫われてしまいそうになる。
 もう随分と学園の探索に時間を割いていなかった彼にとって、赤薔薇の話はトンチンカンだった。そもそもブラザーは、ロゼットの擬似記憶についてすらよく知らない。本当に、知らないことばかりだ。学園のことも、ロゼットのことも。

 知ろうともしなくなったのは、いつからだろう。
 ロゼットは前を向いて、謎と向き合っているのに。

 ツリーハウスを駆けたあの日と、僕らは何が違うんだろう。

「ロゼット、あのね、まず君の……いや、いい。君の質問だけれど、僕は……ああ」

 間延びした幼子を甘やかすような口調で話す彼は、どこにもいない。ぽつりぽつりと呟くような声で、チンタラまとまりのないことを話している。ブラザーは開きかけた口を閉じて、また開いて、閉じてを繰り返していた。

「………まず、君の質問に答えるね。僕はそういうの、全然聞いたことないよ。
 それから、ロゼットの擬似記憶ももう一度教えてくれるかな」

 ぎこちなく微笑んだ。
 口角だけを吊り上げて、ブラザーは染み付いた行動を繰り返した。

 急ぐような早口と、疲弊したブラザーの脳は相性が悪かったらしい。
 言葉を選んでいるような呟きを、ロゼットは何とも言えない気持ちで聞いていた。
 聞き上手のトゥリアと言えど、能動的な会話はまだ得意ではない。至らない点があったとすれば、すぐにでも直すつもりだった。
 だが、どうやらそういうわけではなかったらしい。指で口角を釣り上げたように──不恰好な笑みを浮かべる“兄”に、彼女は少しだけ安堵した。
 会話の表面だけをなぞっているからか、赤薔薇はまだ致命的な勘違いには気付けていない。
 ブラザーは、ただ少し疲れているだけなのだと、そう思い込んでいる。
 声を抑えて話をするため、そっと身を寄せた。拒絶されなければ、そのまま至近位置で話すことだろう。

「そうなんだ。えっとね……私の擬似記憶は、誰かと温室で花を見てた記憶なんだ。家族だったのか、恋人だったのかは思い出せないけど、多分結婚してたわけじゃないんだと思う。
 今まではそれしか知らなかったんだけど、ガーデンテラスとツリーハウスと……文化資料室で続きを思い出したんだ」

 指折り数えて、頭痛の数を確認した。
 あれこそ、普段は感じないような痛みだ。アメリアと話した時に言えばよかった、なんて今更彼女は心中でごちる。

「ガーデンテラスだと、植木鉢を預かってたかな。大事な子は優しく私の名前を呼んでくれてて、何かの植物をくれたんだ。
 ツリーハウスは、あの子が『人類の進歩』に貢献したいって言ってて。全然会えなくなってたけど、植木鉢にお水をやってる記憶だったの。
 それで……文化資料室の記憶では、ようやく芽が出てて、その子に会いに行こうとしたんだけど……植木鉢を落としちゃった、っていうところで終わりだったんだ。
 文化資料室の記憶で、連邦政府研究機関っていう言葉を思い出したの。“ガーデン”は思い出せなかったけど、調べたら出てきたから、多分関係あるんだと思うんだ」

 小休止。
 ひそひそ話から、声が普通のボリュームに戻った。

「ごめんね、おにいちゃんには何も伝えてなかったからびっくりしたよね。ミュゲにも話したけど、あんまりちゃんと聞いてもらえたか分からないし……」

 そう身長の変わらない相手を、覗き込むように見つめる。
 相変わらずめちゃくちゃな話だが、どうにか伝わっただろうか。

《Brother》
 猫のように滑らかな動きで近づくロゼットに対し、ブラザーはほんの僅かに距離をとった。それは体勢を変えただけのようにも見え、きっと不信感は与えないだろう。この距離でだって彼女の声は聞こえる。嵐のような日だったら話は別だったかもしれないが、少なくとも今日は、二人の距離はこんなに近くなくたっていい。
 同じトゥリアクラスのドールで、同じく優秀な“カウンセラー”だったロゼットなら、違和感を覚えるのかもしれないが。けれども、ブラザーはまだ微笑んでいる。貴女に向けて、まだ。

「擬似記憶の続きを見たんだ。それはいいね」

 上手く伝わったのだろうか。
 ただ壊れた人形は仮面じみた笑みを貼り付け、同調と肯定を行った。トゥリアモデルの得意とすることだ。

「どうしてその話を僕に?」

 責めている。
 嘆いている。

 どちらも、ロゼットにはきっと伝わらない。
 伝えていないから。

 半歩、ブラザーが後ずさったことには彼女も気が付いている。
 気が付いた上で、何も口にはしなかった。
 疲れているからうるさく聞こえてしまうのだろうな、とか。虫の居所が悪いのかも、なんて正当化して、そのまま受け流せてしまった。
 物分かりの良さは時々すれ違いを生むが、今回もそうなのだろう。
 それはいいね──と言われても、ロゼットは曖昧に微笑み返すしかできなかった。
 ボタンを掛け違えているような違和感が、ぎこちないままずっと続いている。
 サラの時とはまた違う、ただ風に揺れるだけの草木に話しかけているような虚しさ。
 話しかけるタイミングを間違えてしまったのか、ブラザーがこの話に興味を持っていないだけなのか、いまいち赤薔薇には分からない。
 だって、彼女は傲慢にも、自分の話を聞いてもらえると思って話しかけているのだから。

 「おにいちゃんが……何だか、ずっと元気がないように見えたから。話したいって思ってて、それで」

 どうして──という言葉に、やや視線を下げて答える。
 最近は、もう“普通”の話をする方法も忘れそうになっていた。
 学園にも、オミクロンの寮にも、それ以外の場所にも、ここにはいない誰かとの思い出が散らばっている。
 それは自分に──クラスのみんなに存在を主張して、無差別に傷付ける、綺麗なだけの鋭利な破片だ。
 そんなモノがある所で、日常を装って話をする方が、よっぽど残酷なような気がしていた。
 だから、調べ物の話なんかをずっとするしかなくなっていたわけなのだけれど。

 「ミシェラもアストレアもいなくなって、嫌なことばっかり続いてるし……フェリシアとか、おねえちゃんも傷付いてたみたいだったから。おにいちゃんも、辛かったら聞かせてほしいな」

 今更、正直すぎるくらいの言葉はあなたに届くのだろうか。

《Brother》
 今更だった。

「……フェリシアのところに行ってあげてよ。あの子はきっと、随分傷ついているから」

 ロゼットが悪いわけではない。
 時期が悪かったのではない。

 ブラザーのせいだった。
 ブラザーのせいだ。全て。

「ロゼットは、すごいね。
 色んな子の話を聞いているんだね。みんな、ロゼットだから話したくなるんだろうね」

 顔を伏せる。
 薄紫がかった白銀のヴェールが表情を隠して、毛先を鮮やかなオレンジが照らした。ロゼットの赤毛は今も宝石のように輝いているのだから、硝子はどちらだろうと内心苦笑する。

 羨んでいるのかもしれない。
 星に手を伸ばしているような気持ちだった。

 顔を上げる。
 ブラザーは微笑んでいた。
 酷く自然に、柔らかく、嫋やかに、妖艶に。


「そのままでいてね」


 純粋な願い、なわけがない。
 いつも通りに笑んで、ブラザーはその役から降りたのだ。

 どうして今フェリシアの話をするのか、ロゼットには理解できなかった。
 今話したいのはブラザーで、心配なのもブラザーで、そこに誰かが入り込む余地などない。
 フェリシアはかけがえのない相手だが、ブラザーだってもちろん大事だ。軽んじるつもりなど、微塵もなかった。

 「違うよ、おにいちゃん」

 別人のような笑みのまま、彼が遠ざかってしまう気がして。白魚のような手が、彼の手を絡め取ろうとする。

 「話をしようって思うから、みんな話してくれるんだよ。話す気がない子は、そもそも目も合わせてくれないもの」

 そう言って、彼女はブラザーの顔を見る。
 ふたりとも顔を伏せている、なんて滑稽な絵面はどうにか回避したらしい。視線は相変わらず交わらないが。

 「そのままって、どのままか分からないよ。ねえ、おにいちゃんは私と話したくないの? ……それとも、今は話せない?」

 無理ならいつ話せるの、と。
 遊園地に行けなかった子どものように、ロゼットは問いかける。
 銀色の睫毛がキラキラ輝くのを、ただじっと見つめながら。

《Brother》
 手を引いた。
 今度こそ、明確に。

 どんなに鈍感でも気づけるくらいに、後ろに引いた。

「ロゼットが優しいからだよ。
 話す気がない子だって、きっと君が話しかけ続ければ心を開いてくれる。ロゼットには、そういう力がある。
 大丈夫、僕が保証するよ。ふふ、頼りないかもしれないけどね」

 にこやかに、歌うように。
 ブラザーはロゼットと一定の距離を保ったまま、言葉だけでまあるい頭を撫でている。二人の指先は触れ合わない。けれども、ブラザーの言葉は以前と同じように心地よく舌触りがいい。それだけで、なんの意味もない言葉だ。
 冗談めかしてはころころ楽しそうに笑って、ブラザーの声は弾む。悪戯に、ウィンクまでつけようか。

「ロゼットは面白いことを言うねぇ。話したくない時なんてないよ。
 君は君のまま、ただ自然体でいてねってだけなんだ」

 一歩大きく、ステップを踏むように後ろに下がった。アン・ドゥ・トロワのリズムで、くるくる回ってみせる。

 安心した。
 自分が居なくても、みんなは大丈夫だろうから。

 最初から、きっと大丈夫だったんだ。
 じゃあ、最初から、僕って別にいらなかったんだなあ。


 ……ブラザーは“バイバイ”とだけ笑って、ロゼットの横を通るはずだ。引き留められないのなら、彼はそのままオミクロン寮に入っていくだろう。
 貴女との会話を終わりにして。

 拒絶。
 明確に、ロゼットとブラザーには断絶ができた。
 それは前からあったのかもしれないが、少なくとも、ロゼットは今初めてそれに気が付いた。
 言葉は甘やかなだけで、毒にも薬にもならない。彼女の望む対応ではない、という意味では毒でしかないだろう。
 トゥリアのクラスにいた時と同じだと、彼女は思った。

「じゃあ、おにいちゃんはどうして私と話してくれないの」

 振り向くまで、十秒ほどの時間を要した。
 大丈夫。まだ一緒にいることは許されている。ただ、ブラザーは触れられる気分ではなかっただけだ。
 そう納得しようとしているのに、立ち去ろうとする背中とは、手の届かないほどの距離が空いている。

「おにいちゃん、ずっと変だよ。大丈夫か大丈夫じゃないかも教えてくれないし、自分のことはずっと教えてくれないし。
 リヒトにもはぐらかされちゃったけど、今なら分かるよ。あなたはもう、とっくに大丈夫じゃないんじゃないの?
 ミシェラとアストレアがいなくなって辛いの? ツリーハウスで見たモノが嫌だったの? ……それとも、サラみたいにいなくなった子のことを忘れちゃったから言いたくないの?
 ねえ、教えてよ、ブラザー。あなたはどうして話そうとしてくれないの?」

 時間が解決するかもしれない、とは多少思った。
 だが。今この瞬間、彼から何も聞けないことを自分は引きずるだろうという直感もあった。
 何かしらの痛みに繋がってしまう気がして怖かったのだ。
 先生に聞かれていても構わない。ロゼットはずかずかと、後ろから無遠慮に距離を詰めようとする。

《Brother》
 十秒あれば、ブラザーは玄関の扉を開くことが出来る。ロゼットが歩いてくるまでの数秒で、ブラザーはその中に入ることが出来る。
 言葉の途中で、ドアは閉めなかった。代わりに、開いておくことも無かった。

 ギィと音をたてながら、扉はゆっくり閉まっていく。二人に残された時間は、扉が閉まるまでの数秒しかない。
 勿論、ロゼットが今から走って飛び込んだなら扉に挟まることが出来るだろう。しかし、トゥリアモデルであり腹部に硝子を抱えるコワレモノの貴女が、そんなことをすればどうなるか。ただ歩くだけなら、きっと扉を手で抑えるより先に一度閉まってしまう。

 ブラザーは玄関で振り返った。
 扉の向こうに見える赤薔薇は、どんな顔をしているだろう。星屑のように煌めく銀の目は、なにを見ていたのだろう。
 扉の向こうに見えるブラザーは、きっと何も変わらずに微笑んでいた。沈みかけたオレンジが瞳に反射して、ロゼットを見ているのか見ていないのかすら定かではない。

「ロゼット、約束しよう」

 ピン、と。片手の小指をたてる。
 それを唇に添えて、目を細めた。


「僕のこと、忘れてね」


 小指が、薄い唇から離れる。
 その直後、扉は閉まった。

【学生寮2F 少女たちの部屋】

Brother
Rosetta

 少女たちの部屋の中は、息の詰まるような静謐で満たされている。
 木製の空間、死を思わせる閨、そして外から差し込む偽の陽光。
 ドールたちを守るために作られた、清潔な死体安置所のような場所に、ロゼットは戻ってきた。
 理由は何だったのだろう。忘れ物か、気まぐれか、昼寝でもしようと思ったのかもしれない。
 何であれ、彼女はそこでカンパネラを見つけたのだ。

「カンパネラ、あなたもお昼寝?」

 悪い子だね、なんて言いながら。
 何でもないような顔で、彼女は仲間に近付いていく。
 先日のことは忘れたような、気の抜けた微笑みを浮かべたまま。

《Campanella》
 カンパネラは自身の棺にその身体をおさめていた。上蓋は開いている。青白い相貌はまるで本当の死体のようで、枯れた木の枝のような頼りない四肢が力なく置かれていた。彼女は手を組み、静かに目を閉じ──しかし、部屋に誰かが入る気配にすぐに気付いて上半身を起こすあたり、本当に眠っていたわけではなかったらしい。
 眠ってしまえば、あの星の墜落する夢に襲われる。夢をも見ないほどどろどろに疲れて、限界を迎えて落ちるように眠るしか、夢を見ない方法はなかった。

「………ロゼット、さん……」

 脱いでいたカーディガンの中にサ、と何かを隠すと、その柔らかな笑みの赤薔薇と相対する。決して睨み付けているわけではないが、その青の目はきろりと昆虫じみた動きをして、あなたを見上げた。

「ね、………眠りに来た、わけでは……」

 もにょもにょと曖昧な返答をすると、どこか素っ気なくふるりと顔を背けてしまう。あの湖の近くでの一幕を思い出してしまった。あの時の醜い気持ちが露呈するのを恐れ、カンパネラはロゼットから逃れようとしたのである。これ以上は話しかけてくれるな、という態度だが……果たして彼女に通じるだろうか。

 死者が今蘇った、というような見た目のドールがこちらを見ている。
 この前みたく怒っているわけではないらしい。よかった、とロゼットは内心安堵する。

「じゃあ、休憩してたのかな。邪魔しちゃってごめんね」

 交わらない視線はいつものことだ。カンパネラは積極的に交流をしたがる方ではないから。
 銀の目も、ふいっと相手から視線を外した。自分の棺を整えるふりをしながら、口だけがくるくる回る。

「最近、色んなことがあって大変だもんね。アストレアがお披露目に行っちゃったり、新しい子がふたりも入ってきたり……調べたいこともあるけど、あんまり上手くいかないや。あなたはあれからどう?」

 白いシーツの上に、手を滑らせる。
 それは泳ぐイルカのようでもあり、滑るペンギンのようでもあった。
 今棺に入るのは露骨すぎる気がして、ロゼットは棺の中のモノを入れ替え続けていた。

《Campanella》
「……いえ………」

 通じなかったか。まぁ、予想通りである。
 カーディガンとその中のものをひとつの塊にして胸に抱き込むと、カンパネラは棺の中におさまったまま膝を立てて俯き、ロゼットの言葉を仕方なくといった風に拾い始めた。

「………大事な友達の、分からないこと、分かろうとして、頑張ったら……もっと分かんなくなって……。……なんか、もう、わたしも、上手くいってない………です。」

 必要最低限の返答で済ませるのははて、意地なのか何なのか。無機質な石の壁みたいな、抑揚の抜けた平坦な声で返答する。会話を発展させる気はないらしい。
 ロゼットの調べたいものというのは、彼女が以前に言っていた『ガーデン』なるもののことなのだろう。見たことも聞いたこともない、そもそもどういうものなのかも分からない。その上カンパネラは自分のことでいっぱいいっぱいで、ロゼットのためにとそのことについて調べる気力もやる気もない。特に助けになれることはなかった。
 ロゼットはずっと穏やかだ。何もかも、彼女からすればガラスのショーケースの向こう側の世界なのだろうか。アストレアのお披露目と、オミクロンへの新入りの話を同じ程度の話と語るのなら───それはカンパネラがそう受け止めたというだけの話だが───わたしと同じで、このひとも随分薄情なのではないか、と思い至る。
 彼女の中にももしかしたら、大きな苦悩や葛藤が存在するのかもしれない、だなんて。そんな発想はどこにもなかったようで。

「……疲れて、きちゃいました。もう。………」

 ぽつりと、弱音とため息をこぼす。それは心の柔らかなところを見せるというより、アピールみたいな、当て付けみたいな、それでもみっともなく共感を求めるような言葉であった。

「友達って、オミクロンの子? それとも、ツリーハウスにいた子かな」

 野に咲く花を大切にすることはできるのに、他者の心のうちを踏み荒らしている自覚すら持つことはできないらしい。
 彼女はトゥリアらしく、投げかけられた言葉に関心を持ったような返事をした。
 視線は逸れたままだから、きっとカンパネラの鬱屈した姿にも気付くことはできないのだろう。
 みんな自分のことに必死で、精々二本の腕で繋げる相手にしか気を配れないのだ。仕方ない。
 無意識にロゼットはそう思っているし、他のドールもそうだと思っているからだろう。淡々とした語り口は、雑談の域を出るモノではない。
 本当に葛藤やなんかがあったとしても、友達でもない“オミクロンの仲間”の前で発露することはないのだろう。

「疲れちゃったなら、やめてもいいと思うけどなあ……」

 この言葉も、表面だけなぞってあなたの心を素通りしていくつもりなのだろう。
 いつも口ばかりだ。美しいだけのドールは、凍えるほどの無関心であなたにアドバイスを投げかける。

《Campanella》
「………ツリーハウスの子、です。……あの子……大切なのに………」

 控え室で青い蝶を見たとき。あの日のラウンジでのやり取りが回帰して。彼女の囁きが、何の含みもないように見える美しい微笑みが、カンパネラを惑わせた。
 分かったことのなかに、分からないことが多すぎる。なるべく自力で理解を試みたいところだが、それが無茶だということにはとうに気付いていて。それでも、ヒントを得るためにあの場所を訪れる勇気が、まだ出ない。

 ……ロゼットは声を投げ掛ける。きっとそれは素直な言葉だった。慰めようとか、方向性を正しくしてやろうとかじゃなくて、シンプルにそう思ってアドバイスをしただけなのだろう。端からカンパネラの痛みに寄り添おうというわけでもなく、だからといって「ふーん」で終わらせないあたり、温情はあるんだろうが。
 カンパネラの頬に影が落ちる。長い睫毛が落としているのである。ドールなら誰でも持っているその美貌は儚く、いつもの彼女ならば当然ながら、人ならざる何かのような気配を纏っているはずで。

「……簡単に、おっしゃるのね………」

 けれどその時のカンパネラは、随分と人間臭い顔をしていた。目に見えて傷付いている……否、苛立っている様子だ。
 関わってくるなと他人を拒むくせに、過剰に「軽んじられた」として怒るのは、大きな矛盾であろう。相手からすればそれは理不尽にすら思えるはずだ。
 カンパネラはここのところ、いつもの気弱さを有しながらも、時々このようなことがあった。パントリーでミュゲイアに鬼の女の顔を見せたときと同じだ。感情の制御が、まるでできていないのである。

 大切な子。
 擬似記憶の中にいたのか、後から思い出したのかは、何も分からないが、その言葉はなるべく尊重してあげたかった。
 それはロゼットにはもう手に入らないモノで、今また違う形で繋ぎ止めようとしているモノでもある。
 思い出せることは少ないが、想起する度に息苦しくなるのは事実だ。そんな感覚を味わうのは自分だけでいいと、そう思っているのもまた事実だった。
 だから、カンパネラの声が急に鋭利さを帯びたのに、赤薔薇は随分驚いたのだ。

「ごめんね、変なことを言っちゃったかな」

 そちらに振り向いたのにも、口にしたことにも、まるで悪意はなかった。
 ただ、態度で示してもらわなければ何も分からないのがジャンクドールの常だったというだけなのだ。

「でも……あんまり辛いなら、一旦足を止めて、他の子に相談してみてもいいと思うんだ。それこそ、私も聞いてあげられるし」

 ね、と小首を傾げる。
 最近、あまり他のドールと上手く話せていないせいだろうか。自分の動きが不自然でないか、妙に気になる。
 脆いコアは駆け足で、逃走を試みるように拍動を続けていた。

《Campanella》
 その相貌に苛立ちを滲ませたかと思いきや、カンパネラの瞳はだんだんと潤んでいく。困惑だった。
 わたしは、怒っている?
 そうだ、カンパネラは怒っていた。でも彼女は今まで、姉以外の何かを大事に思ったことがなかったので、このような怒りの感情を知るタイミングがなかったのだ。自分のことも大切じゃなかったから、自分のために怒ることもできずにいた。こんな風に、誰かとコミュニケーションを取って現状をどうにかしなくちゃいけない、みたいな状況に陥るまで、カンパネラはその怒りのコントロールを練習する機会がなかったのだ。
 その結果がご覧の有り様で、どうやらロゼットのことも驚かせてしまったらしい。

「つ、つらくたって、立ち、止まったら、わたし………ま、また失くしちゃうかも、しれないじゃないですか、そ、そしたらもう、わた、わたし、耐えられな……」

 目がぐるぐると回り始める。わたし、何を言っているんだろう。ラウンジでリヒトやアメリアと話したときはこうじゃなかった。もっと上手くいっていたはずだ。

「それに……それに、他人に聞いてもらったって、そのひと、わたしに何してくれるって、言うんですか………い、一緒に、探してくれる? ふたりに会わせてくれる? あなたは、そうしてくださるの……?」

 そんなわけないでしょう、なんて言い放つみたいに。胡乱な目が床を睨み付けている。ロゼットのことを睨む勇気はないくせに、その制御がうまく行かない攻撃性を収めようともしない。危うさがずっと地べたを這っていた。

 深い青色の窓の端に、雫が溜まっていく。
 カンパネラが下を向いているからだろう。内から決壊しようとしている感情は、今にも溢れ出してしまいそうに見えた。
 また失敗した──と言うには、いささか早計すぎる気がした。
 だって、彼女はまだ心の内を言葉にしているだけなのだ。誰かを傷付けようともしていないし、こちらに敵意をつけているわけではない。はずである。
 だったら、まだ話す余地はあるのではないだろうか。
 ちょっぴり考えてから、ロゼットは苦笑する。

「そうだね。確かに、あなたが立ち止まっている間にもみんなは進んでいくし、取りこぼしてしまうモノは出てくると思う。
 でも、新しく拾えたモノだってあるんじゃないかな。少なくとも、ドロシーや私は今ここにいるし、オミクロンのみんなが全員いなくなったわけではないもの」

 棺に向かい、足を進める。
 あなたはどんな顔をするだろう。ロゼットは困ったように笑いながら、自信なさげに言葉を続けた。

「他の子には、あなたの願いを全部叶えてあげることはできないよ。カンパネラのやりたいことは、カンパネラにしかできないから。
 私たちにできるのは、あなたがやりたいことをするお手伝いだけ。危なくない程度に探したり、会える方法を考えたり……ちょっとしたことしかできないけど、あなたが求めてくれるなら、できる限りのことはするよ」

 ねえ、カンパネラ。
 トゥリアドールの甘やかな眼差しが、スノウホワイトを見つめている。
 その中に悪意はなく、求められれば応えるという本能が見え隠れするだけだ。

「私は何をしたらいい?」

《Campanella》
 赤薔薇は、歩み寄る。その動作に怯えるように強張り、かたく閉じられた瞼は、ふるふると睫毛を震わせながらもまたゆっくりと開かれる。
 新しく、拾えたもの。そんなものはない。うじうじしてるから、あの宝物はパントリーから消えたのだ。もう戻らない景色を手元に置くのを彼女は恐れた。
 あの友人たちとの夢は、ずうっと前から見続けていた。その時からもっと彼女らの跡を追っていたら、今もっと多くのものを取り戻せていたはずだ。
 失ったものだらけだ。得たものなんてない。
 得たものなんて。

「…………」

 反論は全て頭の中でしか響かない。沈黙はいつも彼女の鎧だった。

 求めろ、と。そう願われる。トゥリアドールの設計図通りの行動だ。カンパネラはとっくにそこから外れてしまっていたし、理解もできない。その献身は一体どこへ行き着くのだろう。ロゼットは、何の為に生きているのだろう。ヒトなんてものに会えやしないのに、彼女はヒトのために生きる人形の眼差しを、彼女は持ち続けている。
 不安定で不明瞭な怒りが、じきに哀れみに塗り潰される。これ、何回目だっけ。わたしはいつから他人にこんな気持ちを抱くようになったのだろう。

「……なら、これ………」

 そう言ってカンパネラが差し出したのは、精巧な金属製の小さな天使像である。今のカンパネラがそうであるように、像は箱の中にあった。継ぎ接ぎの木箱だ。ずっとカーディガンに包まれていたものだ。

「これ。……回したら、音が鳴るんです。………わたし、怖くて、できない、から……」

 鳴らせ、と。至ってシンプルなその行動がカンパネラに何をもたらすのか、あなたは検討もつかないだろう。小箱を持つ手は僅かに震えている。

 あなたにも欲しいものがあるじゃない──なーんて、不用意に口は開かないまま。
 震える少女ドールから、爆弾同然の代物を受け取って。ロゼットはいつも通り、ヒトを安心させるための微笑みを浮かべる。
 憐れみも怒りも、表出しなければないのと同じだ。「カンパネラが歩み寄ってくれた」と、彼女はそう思い込み続けている。

「いいよ。ちょっと待ってね……」

 なるたけ慎重に、具材の詰まったサンドイッチを運ぶように。
 恐る恐る小箱を受け取って、ロゼットは像の仕組みを観察し始める。他者から預かったモノだ、壊してしまってはまずいと思ったのだろう。
 どうすれば鳴るのか理解すれば、彼女はゆっくりとそれを回し始めるだろう。一定のテンポで、機械的に、カンパネラが聴き取れているか確認しながら。

 小箱の大きさはおよそ拳大。手のひらに乗ってしまうほど小さく、だがサイズ感と比べるとずしりと微かに重たく感じる代物であった。

 蓋は問題なく開かれる。開いたと同時に、小箱内部から飛び出すような格好で作られた金属製の天使像と目が合うだろう。精巧に削り取られて造られた天使像の根本は、円盤型に繰り抜かれており、細かい絡繰が施されているようだった。

 小箱の正体はオルゴール。
 ロゼットがじっくり仕組みを観察するならば、オルゴールの音色を奏でる為のネジ巻きは、祈りを捧げる天使像そのものが該当するようだ。
 グッと真っ白な彫像を掴み、ロゼットは手応えを感じながら回していく。

 やがて回らなくなったところで彼女が手を離すと、くるくるとオートマタの役割を果たす天使像が小箱という小さな世界で回り始める。
 同時にこの寝室を、眠る前に頭を撫でてもらえるような、そんな美しい音色が満たすだろう。

《Campanella》
 まなうらに浮かぶ夕暮れ。カンパネラが焦がれ、恐れた光景だ。あの少年が、グレゴリーが照れくさそうにしてこちらへ差し出すオルゴール。懐かしく、優しく、美しい音色が部屋に響き渡り、流れ込んでくる。
 カンパネラがロゼットに願ったこととは、自傷と戒めの補助であった。目を逸らしてはいけないと分かっているのに、カンパネラはずっとこの音色と向き合えなかった。
 もう届かない景色。この曲は何って、問うことも、できない。だからわたしはこの曲のことを知らなかった。

 ───違う。

 それは過去の話だ。曲のタイトルも、歌詞も、知らないで過ごしていたのは。誰もいない静かなツリーハウスで、わたしはこのオルゴールの音色を聴いていた。
 あのツリーハウスは、三人だけの秘密基地だった。
 なのに。

『その曲、──────って言うんだよ。』

 オルゴールの音色に耳を傾け、それに癒しを与えられていたカンパネラに、投げ掛けられた声があった。優しい声だった。声は彼女に教えてくれた。その曲のタイトル。その曲をグレゴリーが気に入っていたということ。
 教えてもらった。その旋律に乗せられた言葉が、どんなものなのかということを。


 ───あなたは。

 少女たちの部屋に、異常な呼吸音が響いていた。ひどくどこかが痛んだという訳ではない。カンパネラは、気付いてしまったからだ。まだ思い出せていない記憶があるのだと。

 ───あなた、誰なの?

 青白い貌が更にひどい色になって、頬を伝うのは彼女の汗なのか涙なのか分からないといった惨状である。カンパネラは片手で自身の髪を掴み、ひいては自身の頭皮を強く引き、もう片方の手でオルゴールを持つロゼットの腕を握っていた。すがり付くように。
 命の危険さえ感じさせる荒い呼吸音の中、さながら砂嵐の中に佇む星のように。カンパネラが紡ぐ極小の音色は言葉を乗せて、すぐ近くのロゼットの耳にならば届くだろう。

「───Daisy,Daisy───Planted one day───by a glancing dart,───」

 明らかに異様な状態のまま、カンパネラは歌を続けた。たとえロゼットが何かをしてくれていたとしても、カンパネラから反応は返ってこないだろう。彼女の心は、ここではない場所にあった。
 わたしはこの旋律に沿う歌詞を知っている。忘れていただけで、閉ざしていただけで。
 優しい声は教えてくれた。
 それが誰のものだったのか、思い出せない。思い出せない。

──Planted by………Daisy Bell…………」

 ………思い出せない。

「優しい曲だね。何の歌なんだろう……」

 ロゼットは、これでカンパネラが喜んでくれると思って疑わなかった。
 この前のように酷い何かを目にすることも、気絶するほどの頭痛に苛まれることもない。
 だから、きっと彼女は満たされるはずだと。そう信じていたのだ。

「……カンパネラ?」

 なのに、明らかに相手の様子がおかしい。
 喘鳴にも似た荒い呼吸、急激な発汗、意識の混濁。
 このような状況でも歌い続ける理由が、ロゼットには分からなかった。

「カンパネラ、どうしたの」

 空いた手で、自傷に近い振る舞いをするトゥリアドールの腕を掴む。
 カンパネラ──なんて必死に呼びかけても、返事はなくて。自分では双星の片割れに届かないのだと、彼女は理解したのだ。

「カン……」

 声をかけても、手を掴んでも。優しいままでは返事はないのだろう。
 生ぬるい夢から目を覚ますには、きっとこれだけでは足りないのだ。

「ごめんね」

 髪を掴む手を、そっと離した。
 恨まれても仕方ない。これをされた相手がどんな気持ちになるかなんて、想像するまでもないことだ。
 赤薔薇は柔らかな平手を、勢いよくカンパネラの頬に叩きつける。
 そうして反応があれば──先程と依然変わりなく、冷静に告げるだろう。

「目は覚めた? スノウホワイト。何を思い出したのか、聞かせてくれるかな」

《Campanella》
 ぱしん、と音が弾けて、カンパネラの歌は止まった。オルゴールの演奏が少しずつ終わっていく。部屋は静けさを取り戻していく。
 頬が熱い。冷たい指先が、僅かに熱を持ったその場所に触れる。今のは、痛みだ。暴力だった。
 その痛みと衝撃によって目を醒ましたカンパネラは、しばし固まる。衝撃で横に頭を背けられたまま、ぽかんと口を開けて黙っている。スノウホワイト、なんていたずらっぽく呼ばれて。つい数秒前にこちらを叩いてきた人物だとは思えない態度で。

「…………ぃ、」

 混乱。困惑。痛み。暴力。カンパネラの頭はどろどろになり、そのぐちゃぐちゃになった中身がグロテスクにこぼれ落ちてしまうように、カンパネラは、その瞳を一気に潤ませた。

「……いたぁい………!?」

 情緒不安定極まりない。ドールズが共通して持つ武器のように整った顔を情けなくしわしわにして、カンパネラはぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。「ひどい」「ごめんなさぁい」「いたい……」とぼやきながら仔猫のようにふやふやと泣く姿はあまりにも弱々しい。
 カンパネラは脆弱だが、ロゼットもまた同じ脆弱なトゥリアドールである。彼女の放った平手の攻撃力などたかが知れており、しかしカンパネラは、過剰に痛がって振るわれた暴力に泣くのだった。

「ぐす………わ、かんない……です………な、なんか、また、知らないドール………デイジーベル、……歌詞を、教えて……もらっ……ツリーハウス………お、お母様って………だれ………う……うぅ~………」

 この調子では、落ち着きを取り戻すまでは時間がかかるかもしれない。カンパネラ自身も混乱が続いていて、伝えようとしても情報がめちゃくちゃに出力されてしまうのである。

 べしょべしょに濡れていくカンパネラは、雨に打たれる子猫を思わせた。
 さっきまで震えながら歌っていたのに、今になっては泣きながら痛みに喘いでいる。
 コロコロと変わる表情は空のようだ。随分と暗い青色を、ロゼットは黙って見つめている。
 お母様って誰、というのはこちらの台詞だが──まあ、一旦落ち着かせるしかないのだろう。
 オルゴールをカンパネラの棺に戻して、彼女は涙を拭ってやる。服の袖が湿るのは必要経費というやつだ。

「デイジーベルって、さっきの歌のことかな。カンパネラも歌えるくらい、よく聴いていたんだね」

《Campanella》
「ぁう………」

 不意に涙を拭われ、カンパネラはぎゅうっと目を閉じた。彼女にとってその手は、カンパネラに暴力を振るった手である。また叩かれるのではないかと恐れたのだ。目を覚まさせよう、落ち着かせようとしてくれた相手に対してずいぶん失礼な反応だが、カンパネラはそういう質なのだった。
 ロゼットの手が離れても離れなくても、曇天の瞳からは雨が絶えず降り続けていただろう。

「ち、ちが………あ、いや、デイジーベル、なんですけどぉ………っ、わた、し、これ、大切だけど、怖くて全然聴けなくて、い、いまやっと歌詞思い出して、おし、えてもらった、だ、誰に、わたし、あのひと、ツリーハウスに、わたしたちの、……なんで? あそこは、あそこはわたしたちだけの、三人の、秘密基地で、それで……な、なんであの、あのひと、あの場所に……」

 しゃくり上げながらも話を訂正し、何を思い出したのかという問いに答えようとする。落ち着きをなかなか取り戻せておらず、自身の中に浮かび上がる疑問が多すぎるゆえか、明らかに失敗しているが。

 警戒されてしまうのも、まあ仕方のないことなのだろう。ついさっき、引っ叩いてきたドールを信じる方がおかしいのだ。
 困ったように微笑みながら、ロゼットは辿々しい語りに耳を傾けていた。
 デイジーベル、ツリーハウス、秘密基地。
 さんにん──というのは、過去にツリーハウスへ向かった時のメンバーではないのだろう。
 きっとそれは、カンパネラの何より大事な思い出にいたであろう友達なのかもしれない。
 ロゼットにとってのフェリシアのような、心のやわらかいところに座す、何よりいとしい誰かのはずだ。
 拒絶されなければ、彼女は先程叩いた頬に軽く手を滑らせるだろう。走る痛みを宥めるような、優しい手つきで。

「私がオルゴールを鳴らしたから、デイジーベルの歌詞を思い出したんだね。それはよかったよ。それで……その歌詞は、誰に教えてもらったの? 私の知らない子?」

 ひとつずつ、あなたの混乱を解いていこう。スパゲッティの束をほぐすように、片結びになった紐を戻すように。
 同性のトゥリアドールに、赤薔薇は甘い声で囁いた。

《Campanella》
 熱い頬に──もう痛みなんてとっくに引いているはずだが──美しいロゼットの陶器のような指が這うのを感じる。滑らかで触れ心地が良い。カンパネラの頬も、ロゼットの指の腹も。彼女たちの肌やそのうちがわの肉や骨は、そのように作られている。腐っても欠けていてもふたりはトゥリアモデルのドールだった。
 カンパネラはその手を拒まない。弾いて叩き落とすこともできたが、そんな気力や余裕もないらしかった。普段は接触を執拗に拒むカンパネラだが、今回は実際に触れた手が暴力の気配を帯びていないことに、いくらか安心したらしい。

「………わからない、の。あなたはきっと知らないし……わたしも、知らない……。名前も顔も、……声しか、わたしは………」

 まだ、忘れている。
 シャーロットとグレゴリーの名前、髪や目の色、声、温度、笑顔。それらのことを思い出せたことで、カンパネラはいくつか“取り戻せた”と感じていたのだが。
 あの愛おしく思えるような図書室の落書きを描いたもののことも、シャーロットが自分やグレゴリーにそうしたみたいに“サウスウッド”という本を贈ったのであろうドールのことも、カンパネラは思い出せていないのだ。思い当たりもないのである。
 償わなきゃ。償わなきゃ。あの優しい声の主が誰だったのか、思い出さなきゃ……。
 身の内で響く声に押し潰されてしまいそうに、眉間にしわを寄せながらカンパネラは答える。欠陥品はその声に甘さなど乗せられなかった。

「声……声かあ」

 名前があれば近付ける。顔があれば、探すことができる。
 だが、空気を震わす音の波長だけとなればどうにもならなかった。
 ぽそりと呟いて、ロゼットは視線をやや下に向ける。どうやら、ドール探しは中々に難航しそうだ。

「分からないなら、仕方ないね。また今度にしよう。それじゃあ、“あのひと”っていう子は誰なのかな。あなたには、昔仕えていたヒトがいたの?」

 まだ痛むのだろうか。それとも、記憶の想起に苦痛が伴うのかもしれない。
 どちらにせよ可哀想なことだと、赤薔薇はその頬に手を添え続けている。
 カンパネラの温度を、痛みを遮断する皮膚から知ることは難しい。ただ、そのようにあれかしと作られた、すっきりとした顔のラインが分かるだけである。
 荊のような髪で隠していても、猫背で視線を逸らそうとしても。カンパネラは美しく、それだけは紛れもない事実なのだ。
 さっきはごめんね、と告げるように。傷ひとつない肌をひと撫でして、白い手は離れていくだろう。

《Campanella》
「………それも、その、歌詞を教えてくれた……誰か、で。……ドールだったかも、先生だったかも、別の何かだったかも……曖昧、で……」

 ゆるゆると首を横に振って答える。あの子と呼べばいいのか、あのひとと呼べばいいのか。彼と言えばいいのか彼女と言えばいいのか。全てが不明なままだ。
 段々と言葉がせっつかえなくなり、ゆっくりになってきた。呼吸音も平常通りに戻りつつある。ロゼットの手によって、たくさん絡まった思考が一本に直りかけていた。
 水銀のような色の瞳は慈しみを有していた。客観的にそう見えるよう設計されているだけの話かもしれない。

「………ヒト? ……ヒトに、仕えるなんて、それは………あり得ない話、でしょ……?」

 ロゼットの指が離れると、カンパネラは不思議そうに首をかしげた。トイボックスがドールズに見せ続けた夢は何もかもが偽物であり、お披露目にヒトの姿どころか与えられる未来さえなく、ドールに幸福は許されていない。ロゼットだってそんなことは知っているはずだ。
 ずいぶん不思議なことを問われた、という顔だ。そういう彼女には、過去に仕えたヒトなんてものが存在するのだろうか。

 記憶の中にぱっくりと空いた、確かに大切だったはずの穴。
 ドーナツのようなそれには、ロゼットも覚えがある。作られた時からずっと抱えている、何より大切な虫喰いだ。

「わかるよ。私も、大切な子はずっとそんな風にしか思い出せないから。本当にいるのか分からなくて、不安だよね」

 水底の目は、先程よりも泳ぐのが少なくなってきているような気がした。ようやく落ち着いたのかもしれない。
 ヒトについての話題に反応されたのを見れば、くるくると指に髪を巻き付けた。ちょっとした誤魔化しの仕草だ。

「冗談だよ。変なこと言ったら、反応してくれるかな、って……あんまり面白くなかった?」

 ロゼットも、カンパネラも。
 実験とか√0とか、色々なしがらみに巻きつかれてはいるが、まだそこに生まれた理由は見つからない。
 少なくとも、赤薔薇はそうだ。気が付いたら芽吹いていたから、なんとなくここで咲いている。

「あり得ない話って言ってくれて、よかった。お披露目なんて、できれば行きたくないからね。大切なことも、あんまり思い出せていないもの」

 先生に聞かれたらまずいような発言でも、簡単に口に出せてしまうのは、危機管理能力が欠如しているからなのだろうか。
 それとも、カンパネラの共感を誘う、下手くそなコミュニケーションの技術なのだろうか。
 自分自身でも分からないまま、彼女は曖昧に笑っている。

「とりあえず……オルゴールの歌を教えてくれた子を思い出した、ってことでいいのかな。その子のことは思い出せないけど、確かに存在していた、ってことで」

《Campanella》
 共感を差し出され、カンパネラは少しどぎまぎする。大切な子。カンパネラにとってのあの二人のような、昔友人だったドールとかだろうか。

「じょ、じょうだん」

 まぁ、何事もないのならそれは安心だが。面白くなかったか、などという風に聞かれても、どう返すのが正解なのか分からず、曖昧に首を傾げるばかりだ。びっくりした、まだ何か、探さなきゃいけないものが増えるのかと思った……。
 思い出せていない大切なこと。ロゼットにもあるらしい。生きていなきゃ何も思い出せないのなら、カンパネラはお披露目になんか出るわけにはいかない。彼女も、同じ気持ちなのだろうか。それにしては少々態度がさっぱりしているような気がしないでもないが。

「……ええ、まぁ………」

 とりあえずはそんな感じだ。どう整理してもうがんばっても、もうそれ以上のことはよく分からないのだ。どうしてツリーハウスに三人以外の誰かがいたのか、あれは誰だったのか。解かなくてはいけない謎が雪のように降り積もっていく。

「………すみません、ありがとう、ございます…………」

 目元を抑え、棺の中に返ってきていたオルゴールに守るように手を添えながらカンパネラはようやっとまともな謝罪と感謝を並べた。彼女のことはきっと困惑させてばかりだろう。

 やっぱり面白くなかったのかもしれない。
 ややしょんもりとしながら、ロゼットはちいさく頷いた。
 突拍子もないことを言えばギャグとして成立すると学習していたが、しんみりした空気の中ではまともに受け止められかねないことには気付かなかったらしい。
 もうちょっと授業をちゃんと聞いていればよかった──なんて思いながら、彼女はカンパネラの肯定を受け取った。

「気にしないで。お互い様でしょう、こういうのは。カンパネラの助けになれたなら何よりだよ」

 当たり障りのない、けれど正直な言葉を返した。
 彼女には以前湖で教えてもらったこともあるし、ツリーハウスに連れて行ってもらった恩みたいなモノだってあるのだ。
 良いことも悪いことも、してもらったことは何倍に増やして返す。その方がきっといいと、彼女は信じている。

「他に、私にできることはないかな。あんまり走り回ったりはできないけど、探し物のお手伝いならできるよ」

 最終確認ついでに、小首を傾げてみせる。
 お節介になりすぎていたら申し訳ないな、とは思うけれど。自分の探し物ついでなのだから、まあいいだろうという気持ちもあった。

《Campanella》
 あ、しょんもりされてしまった……。カンパネラは自分の気遣いの下手さが露呈したのを感じた。謝罪の言葉を口にしないのは、手遅れだと勝手に諦めたからだった。

「そ……そうですか………?」

 カンパネラがロゼットのために何かしてやったことと考えると、特段何もしていない気がする。ずっとしてもらってばかりな上、彼女には…彼女には“関係のないこと”にまで、巻き込んだ。それでロゼットが満足しているならいいのだが……。

「探し物……え、えっと………」

 それはもう無数にある。探し回ってばかりだ。手が足りないのは仕方がないと諦めていたが、それが増えるのであればありがたい話でしかないわけだが、カンパネラは躊躇った。これ以上彼女に何かをさせるのは気が引けるというのも確かにありはしたが、それより利己的な理由が別にあった。
 ウェストランドは、カンパネラに残された数少ない過去の欠片なのだ。それもシャーロットからの贈り物。安易に人様にタイトルを告げるのは少し、嫌だった。本当に取り戻したいのならそんな心情的なものは早く振りきるべきだと分かってはいるのだが。
 しかしせっかくの彼女の申し出をそんな理由で断るのはどうなのか。一番探しているものはその本なのだが。しかし………などと長く迷う仕草を見せた末に、カンパネラは少し上体を動かして、ロゼットの耳元──というには少々遠いが──に囁いた。

「……もし、『トイボックス劇場』って本を見つけたら、教えてほしいんです……。あ、あるか、わかんないけど……」

 そして素早くまたあなたから距離をとると、「あと、それと、」と続けようとする。なんだかしおらしいというか、申し訳なさそうな顔をしているのが見えるだろう。
 詫び、と言えるかは分からないが。

「………わ、わたしも、あの、湖のときみたいに、……その………ガーデン? のこと、調べてみます、から………」

 トイボックス劇場──聞いたこともないタイトルだ。
 一瞬、ダンスホールを思い出したが、きっと関係ないのだろう。あそこを劇場と呼ぶのは、いささか悪趣味すぎる。

「分かった。フェリシアとかジャックとか、他の子にも一応訊いてみるよ」

 近付いては離れていく、波のような動きを見ながら、赤薔薇は頭を縦に振る。
 風に揺れるように微かな動きだったが、他のドールに問うくらいにはやる気があるらしい。
 タイトル以外に情報はないか──と訊こうとした時、聞こえてきたのは嬉しい言葉。
 関わりの薄いドールに、大切なモノを気にかけてもらえるのがこうも嬉しいとは。
 ロゼットは表情を少し明るくして、「ありがとう」と何度も口にした。

「気持ちだけでも嬉しいよ。ありがとう、カンパネラ。
 よかったら、見たことのない植物の話を聞いた時も教えてほしいんだ。大切な子が、私に遺してくれたモノかもしれないから。……できたらでいいの。なかったらなかったで、仕方ないから」

 悲嘆も疑いも、まるでないみたいに。すっかり善意を信じた顔のまま、ロゼットはそう告げる。
 カンパネラが詫びるような顔をしていても、きっと気にならないのだろう。贖罪なんて言葉は、ガラスの鉢のどこにも刻まれていないようだ。
 これ以上何もなければ、彼女はそのまま少女たちの部屋を出ていくだろう。「頑張ろうね」と、何に対してか分からない言葉を残したまま。

【学生寮3F 図書室】

Storm
Rosetta

 一段一段、駆け上がるように。飛び上がる前の鳥のような軽やかさで、ロゼットは階段を登っていく。
 目的地は埃と知識の累積する、三階の図書室だ。
 待ち合わせをしていたことをすっかり忘れ、お茶を嗜んでいたためだろう。彼女の顔にいつもの平静は見られず、時計ウサギのように急く焦燥が浮かんでいた。

「ご……めん、遅れちゃった」

 扉の向こうに飛び込むように、前のめりで入室して。
 ストームの姿を見つければ、息を切らしながら笑ってみせた。

「ヘンゼルと、話してきたよ。得たモノも、一応……あるんだけど」

 情報共有をしよう、と持ちかけたのはどちらからだったか。
 ロゼットはヘンゼルと接触して、ストームもグレーテルに関する情報を幾度か得ていた。
 だからそろそろ潮時だろう、とは思っていたのだが。まさか遅れて来るとは誰も思っていなかっただろう。

《Storm》
 アップテンポのメトロノームのように靴が床に当たる音。
 だんだんと近付いて来るようで、ストームは入口の方向に視線を向けた。
 数秒後、狂った時計でも持たされた白うさぎが、大慌てで入ってくる。

「そうですか。よかった。
 それほど急がれなくても良かったのに。
 転んで怪我でもされたらせっかくの綺麗なお身体に、もうひとつ傷をつけることになりますよ。」

 息も絶え絶えそうに見えるのは、白うさぎもといロゼットがトゥリアだからだろうか。ストームは彼女に近付くと、近くの席までエスコートするだろう。
 彼は、どこか楽しげであった。
 さて、彼女の呼吸が整い次第、愉快な姉弟達の事を話そうじゃないか。

 多少遅れてしまったが、どうやら相手は怒っていないらしい。よかった、とちいさく呟いた。
 その心配は完璧な良心から来るものではないことも分かっているが、取り繕ってくれるのであれば、無碍にする必要もないだろう。

「ありがとう。……そうだね、割れちゃったら、全部出てきちゃうもの。気を付けるよ」

 アイリス、ネモフィラ、フリージア。
 今日の中身を思い出しながら、服越しに腹部をそっと撫でた。
 エスコートしてくれるなら、その手を取って席に着くだろう。どこまでも紳士的なドールだ。あとは内面さえどうにかなれば完璧なのに。
 コアの拍動も平常に戻った頃、ロゼットはいつも通りの微笑みを浮かべる。悪趣味さも恐怖もない、なんてことない話をする時のように。

「そうだね……何から話そうか。ヘンゼルに会う前に、グレーテルのノートを見つけた話をした方がいいかな。
 見つけた場所は備品室。布に包まれて、隠すみたいに保管してあったの」

 髪を耳にかけながら、ロゼットは先に話し始める。

「表紙と中身には、たくさん燃料がついててね。一番燃料がついてたページは開けないくらいだった。
 そのページを開いてみたらオミクロンに行くことを言われた日の話と……デイビッド先生から何かを言われて、ヘンゼルとお披露目に行くことを決めた、っていうことが書かれてたの。ここまではいい?」

 質問があれば受け付ける、と言うように。
 軽く足を組んで、朝と夜を表したようなヘテロクロミアを見つめ返す。

《Storm》
 ロゼットが語り始めると、ストームはちぐはぐの瞳を穏やかに伏せつつ彼女を見詰めた。
 落ち着いた口調。聞き取りやすい低い声色。
 流れる様な自然な仕草。
 相手に熱を帯びさせるようにプログラムされているのがはっきり分かる。
 ストームは彼女の語る情報を聞きながら、軽く握った拳で口を覆い隠した。途中、何度か目を見開き頷く。
 ロゼットがストームを気にかけ、問い掛けるとストームは肩ほどまで手を挙げた。

「お披露目に行く事を“決めた”とはどう言った意味です?
 自身で決めるなんて、可能なのですか?」

 ストーム自身が口にしてみても、おかしい事がわかる。
 なぜ? どうして?
 お披露目に焦がれ拗らせてしまったドールが聞いたら、飛んで喜び迷いなくお披露目の舞台に立つことを決めるだろう。それが出来ないのだから拗らせてるのに。
 グレーテルはデイビッド先生から何を話され、運命を決めたのか全く分からない。

 夜と夕暮れを宿す瞳は、真相を望み光を反射させた。

 問答をする生徒のようだ──なんて思いながら、ロゼットは少年ドールを見つめる。
 はいどうぞストームくん、なんてふざけて見せようと思ったが、そういうわけにもいかないのだろう。
 何せ、今の話題はあの忌々しい殺戮ショーなのだから。
 真相を探る意思に応えるように、銀の双眼は瞬きをする。エーナほどではないが、その語りには相手に理解させようとする意思があった。

「文字通り、グレーテルはヘンゼルとお披露目に行く決意を固めたという意味だよ。
 自分自身で決められるかは……私も分からないなあ。汚れてて読めないところも多かったもの。
 ただ、彼女は自分の……なんて言うんだろうね。レゾンデートルというか、根幹に関わるようなことをデイビッド先生に聞いていたみたいだし、掛け合えばどうにかできたりするのかな」

 その先生はもういなくなっちゃうわけだけど、なんて。
 思考の過程を口にしながら、赤薔薇は返事をする。
 お披露目に行かない方法も、行く方法もあるならば、それはオミクロンの仲間の役に立つことだろう。
 ドロシーだって、あれだけのことを知りながらまだ“普通”のドールとして在籍できているのだ。裏があるのは間違いないと見ていい。

「ただ……本当にそんなことができるとしても、大きな問題があってね。
 このノートを見た後、私はフェリシアとヘンゼルに会いに行ったの。そうしたら、ここに」

 ぬ、と白い手が伸びる。遠慮のない動きは、トゥリアらしい親密さを意識させるモノだ。
 触れれば砕けそうな白磁の指は、ストームの手首を指した。

「一筋、傷があって。それを指摘したら怒ってたけど……まあ、その前から怒ってたしどうでもいいか。
 私が気になるのは、ヘンゼルが傷物になっていたってこと。あんなモノ、洗浄や着替えの時にすぐ見つかってしまうでしょう?
 それでヘンゼルがオミクロンに来てしまったら、あの子はどうするんだろう。グレーテルもオミクロンに落ちてきたばかりだし、お披露目に行くことにしたって言っても、どうするのか想像できないよ」

《Storm》
 銀の双眸がちぐはぐの瞳からのモールス信号を受け取ったかのように瞬いた。
 赤薔薇からの考察を含んだ答えに耳を傾ける。

「決意。妙ですね。

 自身で決められるかについては……おおよそは不可能でしょうね。可能であればあのドールが必ず手を高々にあげるでしょうから。」

 何も知らないドールがお披露目に行くのに意気込んで先生に宣言までするだろうか。もちろん、今までお披露目に行ったドールがご主人様の役に立つといったふうな、錚々たる目標や夢を先生に話していた事は知っている。
 ストームにはどうも、そういった類にグレーテルが当てはまるとは思えないらしい。呪詛師はドス黒い雲をその腸に抱え込み、平然と良き姉を全うしているのか。
 想像しただけでも、まともじゃない事なんてはっきりしている。

 そんな中に、ロゼットの話は続く。
 するとストームの手が唐突に取られる。なんの躊躇も確認もなし、呼吸するように捲られた手首にロゼットの整った指が乗っかった。
 目を点にさせていれば、ロゼットからの説明がされようやくピクリと眉を動かした。
 ゆっくり息を吸い込むと、ロゼットの指さした手首に一筋の線を引きながら話し始める。

「傷がついたのでしたら、“普通なら”ジブン達のクラスメイトになるでしょうね。
 ですが、アティスは身体に傷がついたままお披露目に行きました。当然、ジブン達は商品にならない欠陥品な訳ですからスクラップ行きになるでしょうが、彼女はならなかった。
 ジブンの調べた限りですと『欠損部位の修復』が行われる場合もあるそうです。アティスはそうでした。
 ですから、ヘンゼル自身、それとロゼットやフィリーが彼に傷がある事を周りに知られぬままにしておけば、彼は修復され滞りなくお披露目に出される可能性もあります。

 グレーテルについてはすみません。判断しかねます。」

「なるほど……なるほどねえ」

 ぱっ、と手を離す。触れた時と同様に、ロゼットは唐突に距離を取った。
 決意云々はともかく、傷付いたドールもお披露目に行くというのは剣呑ではない話だ。
 そういうことがあり得るのであれば、フェリシアや他のドールも問題なくお披露目に行けてしまうだろう。自分やサラがどうなるかは分からないが。
 ヘンゼルの傷の有無は最早問題ではないのだろう。グレーテルと同じクラスになるか否か程度の違いしかないようだ。

「ありがとう。じゃあ、傷のことはそんなに重要じゃないね。
 あと伝えられることは……そうだなあ。ペンダントを取られた時のことは詳しく聞けなかったけど、少なくとも同意の上じゃなかったみたい」

 ストームから視線を外しているのは、決して後ろめたさからではない。
 愛玩用のドールなりに頭を回し、ノートの内容を思い出そうとしているからだ。やや伏せられたまなじりは、怜悧な光を湛えていた。

「それから、これは伝えておかなきゃまずいかな。
 グレーテルは誰か、女の子のドールを排除しようとしてるみたい。これについては多分……というか確実に、お姉ちゃんのことじゃないかと思ってるよ。悪魔とか何とか、散々言ってるのを聞いたことがあるもの」

《Storm》
 飄々としたロゼットの行動に、ストームはまた置いていかれそうになる。
 彼女の距離感は実に独特だ。

「姉弟仲は、なんと言いますか。
 悲しいほどに一方通行のようですね。」

 もはや同情すら湧きそうにもなかった。
 弟を想うあまりに弟の宝物を奪ってきたグレーテル。
 オミクロンに行く事が決まった姉に宝物を奪われ取り返すことも出来ないヘンゼル。
 どちらに対しても。
 “不信感に満ち満ちた姉弟のドール”。
 ストームにはそんな印象しか与えないだろう。

「えぇ、間違いなくソフィアでしょうね。
 実際グレーテル本人がソフィアに宣戦布告していらっしゃいました。『死に至る病』という本を抱え、殺してあげる、と。ソフィアの事を『絶望』で殺す、と。
 そのための準備でもしているんじゃないでしょうか。」

 一見大人しく見えたグレーテルが、ソフィアに対し並々ならぬ殺意を抱いているのが垣間見えた対話を思い出す。
 今でも鮮明な記憶で、印象的であった。
 何らかの形でソフィアの精神を害するのなら、止めなければならない。銀の双眸がちぐはぐの瞳と合えば、そう目線で訴えるだろう。

「ロゼット、引き続き協力してくださいますか?」

 少年ドールの言葉に、ロゼットは深い肯首でもって返事をする。コメントするだけで気が重くなりそうな気がした。
 グレーテルとヘンゼルが何故あそこまで不仲なのか、と考えれば。まあ、半分以上はデュオクラスのせいなのかもしれない。
 知識という見えないモノを蓄え、その優劣で競い合う。ドールズの中でも最も競争が苛烈なクラスにいれば、上下関係を嫌でも意識させられてしまうのだろう。
 だが、それ以前にあの二体は異様だ。
 ヘンゼルはともかく、グレーテルは初めから目的が違うような節さえ見られる。彼女が何をしたいのか、直接問いただす必要があるかもしれない。

「絶望で殺す、って言うと……直接的な加害をする気はないのかな。
 まあそうだよね、自分が衝動的に暴力を振るってオミクロンに来てしまったんだもの。逆に壊れるより辛い目に遭わされると思うと、いっそ同情するよ」

 デュオドールは刃物のような存在だ。
 上手く扱えば切れ者として存分に力を発揮するだろうが、気を抜いていればその知恵でいくらでもこちらを傷付ける。
 自分で考えることは得意ではないが、まさかそんなドールの相手をする羽目になるとは。
 頭の中で、高笑いをするソフィアとそれを睨みつけるグレーテルが対峙する。おねえちゃんは本当に敵が多いなあ、とぼやいても、悲観以外に何もできそうになかった。

「もちろん。乗り掛かった船だし、最後まで付き合うよ。
 ああ、あとストームの方はどうだったのかな。グレーテルとかトイボックスのことを、他に知ることはできた?」

 協力を求められれば、あっさりと彼女は承諾するだろう。
 ヘンゼルのことはいまいち庇う気になれないが、ソフィアや他の仲間に何かあれば大変だ。
 身体能力に優れた元プリマであれば、きっと自分よりは上手く守れるのかもしれないが──なんて。
 ゆっくりと瞬きをして、赤薔薇はストームに話すことを促す。

《Storm》
 多方面からの恨みを買ってる魔女は、ロゼットから見ても似たような印象を受けるらしい。
 デュオクラスにいた時のソフィアを深くは知らないが、容姿端麗で頭もよく回る。それに加え、矯正しようも無い性格と来た。
 頭の良さがヒエラルキーを決めるデュオクラスでの、おおよそのソフィアの立ち位置が手に取るように分かる。
 同情する、と評価したロゼットの言葉に、ストームは「そうですね……」と曖昧に返すと目を逸らした。

「感謝します。

 ジブンですか? ……グレーテルについては特に情報を得られませんでした。強いて言うのなら先程言ったようにソフィアを絶望で殺すつもりと言うことだけです。
 その他と言いますと、これを……。」

 ストームはポケットから四つ折りの紙を取り出す。丁寧に広げるとそれは数学の課題について内容や提出日などが記載されている学習室の掲示物だ言うことが分かるだろう。
 だが、吹き出しを埋め尽くす程の文字の羅列が異様な存在感を放っていた。

 以下の通りに書かれた紙を、くるりとロゼットの方向に向け差し出した。

墓場。五十六個の歯車。
青い蝶。赤い目。邪魔だ。邪魔だ。
邪魔だ。あなたは暗い穴の中。邪魔だ。どうすれば? 黒い部屋。そして黒い人。アレが邪魔だ。思い出せない。もう失敗は出来ない。

 ストームも計画の手がかりになるような情報を手に入れられたわけではないらしい。残念。
 だが、何もかもを取りこぼしたというわけではないようだ。差し出された紙を手に取って、ロゼットは「へえ」と呟いた。

「なんて言うか……ものすごい執念だね。青い蝶とか、思い出せないっていう文は√0に関係してそうだけど、よく分かんないや」

 裏返したり、光に透かして見たり。そこまでしても怪文書である以上の情報を得られないと知って、彼女は諦めたらしかった。
 特に補足や何かがなければ、その白い指がストームに紙を返すべく差し出されることだろう。

「見せてくれてありがとう。もう失敗はできない、っていうのが気になるけど……よく分かんないね」

 これ以上共有できることがなければ、一度解散してしまうのも手ではないだろうか。
 ロゼットはぼんやりと、少年ドールの瞳を見つめている。

《Storm》
 渡した紙は、ロゼットの繊細な陶器のような指に捕まり隅々まで確認された。
 だが、紙自体にこれといった仕掛けもなく彼女が紙を返そうと差し出した時、ストームは書かれた文字を指さした。

「確認してみたんです。誰の字なのか。

 エルでした。
 エルは、最近不可解な点が多いんです。」

 告げられたのは、自身を天使と呼ぶドールの名前。
 お披露目の翌日、目を覚ましてこなかったうちの一人だった。未だに自身の目を疑うかのような目線が、銀のクリスタルに向く。ちぐはぐの瞳の夜と朝の色に雲がかかったように、ぐるりぐるりと渦を巻いていた。
 かわいい天使に何が起こっているのか。
 天使を誑かすのは誰なのか。
 
 ストームは一つ大きく息を吐き出した。
 そして、ロゼットの細い指に捕まった紙を抜き、再び四つ折りにするとポケットの中に眠らせる。

「分からないことを考えても仕方ありませんね。
 この件に関する結論は急ぎではありませんし。
 一応、お伝えした方が良いかと思い告げさせて頂きました。ロゼットなら分かる場合もあるかもしれませんから。」

「天使くんの?」

 銀の眼はより丸く、大きく開かれた。どうやら、エルの存在が関わっているのは想定外だったらしい。
 彼が√0に関わっているという話は聞いたことがない気がする。そもそも、ここ最近の騒動に関わっているところを見たことさえなかった。
 虚を突かれたような顔で、彼女はぱちぱちと瞬きを繰り返す。それからポケットに視線をやって、ちいさく息を吐いた。

「私には何も分からないけど……天使くんが何か知ってるなら、もっと早く訊いてみればよかったな。
 他にも変なところはあった? 今度、√0について知ってる子と話す時に訊いてみたいんだけど」

 こんな近くに√0を知るドールがいるなんて、まるで自分たちはチルチルとミチルみたいだ。
 忘れっぽいエルが、この紙に書いた内容をしっかりと覚えていてくれるといいのだが。考え込むような表情で、ロゼットは問いを投げかける。

《Storm》
 エルの名前がロゼットから呟かれれば、ストームは深く頷いた。
 まさか、彼の名前が出てくると思いもしていなかったのだろう。きょとり、と時間に置いてかれてしまったような表情を見せ、瞬きをするロゼットの沈黙をストームも共に過ごした。

 小さな息遣いの後、ロゼットが問いを投げるとストームは唸るような声色で「そうですね……」と切り出す。

「エルの棺、蓋の裏におびただしいほど√0が刻まれていました。それを問い質したところ、エルは√0を救世主と仰っていましたよ。
 訊くのは良いと思いますが、エルが覚えてる事がどの程度あるかどうか……」

 青い鳥は忘れっぽい。ベールを被ったら自身が青い鳥であることを忘れてどこかに連れていかれてしまうだろう。
 ストームは希望は大きくは無いだろうと首を横に振る。
 次の瞬間にはピタリと一点を見つめた。
 希望が全く無いわけでは無い。
 √0を教えてくれた時のように。

 棺の裏の、√0。
 ドロシーやツリーハウスの示すあの数字が、本当にドールズの救世主足り得るのだろうか。
 ──私には何も見えないのにね。
 青い蝶も、忘れていた友達との思い出も、ロゼットの頭の中には何もない。
 何も思い出せなくても、きっと自分たちを助けてくれると信じていたくて、いつも通りの口調で返事をする。

「まあ、最近はみんな忘れていたことを思い出したりしてるし……ちょっとぐらいは期待していいと思うな。
 救世主って言うんだから、きっと私たちのことを何とかしてくれる作戦とか、計画みたいなモノだって信じたいし。訊いてみないことには何も始まらないよ」

 意図的な楽観視がどう転ずるか、この段階ではまだ分からない。
 だが、ある程度行動の指針も定まった。
 グレーテルを警戒することと、エルに質問をすること。単純だが、これだけ分かれば十分だ。

「じゃあ、今日はこんなところかな。また何か分かれば、報告し合おうか。あなたの好む“芸術”の話もできたらいいね」

 音を立てず、赤薔薇は席を立つ。
 これ以上に何もなければ、彼女は部屋を出ていくことだろう。

《Storm》
 当然のような口調で応えたロゼットに、ストームは朧気な瞳を彼女に向けた。
 大袈裟すぎる楽観視。ロゼットは仲間というものを信じていたいのだろう。ストームはそう直感した。
 同時に、自身から拭いきれぬ懐疑的な感情との差異をありありと突き付けられた。
 救世主、作戦、計画……。√0……。
 全く認識した事の無い得体の知れない存在に、そこまで信頼を寄せても良いのだろうか。
 だが、彼女の言う通り信頼するも疑うも行動しなければ判断できないのも事実。ストームは口を噤んでただ肯定を示すように頷く。

 赤薔薇が立ち上がれば、猟奇犯も同じくして立ち上がるだろう。立ち去ってゆく彼女に、送り出すお辞儀をする為に。

「そうですね。
 ヘンゼルの件、調べて下さり感謝致します。
 貴方様と言う“芸術品”にまた嗜好の話が出来る日々が訪れる事、心から願っております。
 ではまた、良きタイミングで」