何も考えたくなかった。
変貌とも呼べるグレーテルのことも。お披露目から帰ってきたウェンディのことも。エーナクラスの先生のことも。
何かを考えなければならない。
けれど、もう、疲れてしまって。何を考えても、結論は変わらない。なのに、何を考えればいいんだろう。
死にたくない。
同じ感情を、ミシェラにもラプンツェルにも、アストレアにも持っていた。
ああ、だから、彼は駄目なのだ。
「………ミュゲ?」
逃げるように寮を出て、ロビーに着いた頃。昇降機から出て目についたのは、愛おしい白銀のヴェール。ふわふわと波打つ綿菓子のような髪が揺れているのが見えて、自然と声が出てしまった。
呼びかけて、後悔する。
今、誰よりも会いたくなかったから。
「………」
自分から声をかけたくせに、ブラザーは気まずそうに顔を伏せて黙っていた。可愛い可愛い“妹”の靴の辺りを、目を逸らしながらも見つめて。
《Mugeia》
今日はとても嬉しい日だ。
ハッピーでラッキーで笑顔な日。
特別で特別で仕方ない日。
同じオミクロンであったアストレアはお披露目へといってしまった。
それをミュゲイアがどうこうすることは出来ず、もうあの子の笑顔も見納めかと思いながら眠りについてしまえばお披露目は終わっていた。
先生に起こされて、窓の外の太陽に元気よく挨拶をして制服に袖を通す。
柔らかい制服がミュゲイアを包み込んで、朝食の美味しそうな匂いが鼻腔を擽る。
今日もトイボックスは変わらない。
何かが欠けても変わらず完成された箱庭は回り続ける。
一度、薇を巻かれた人形は止まれない。
先生も変わらない。いつもの素敵な笑顔。
ミュゲイアは彼の言葉と新たな仲間に目を輝かせた。
そこに居たのはデュオクラスのお友達。
グレーテル。
まだ、仲直りの出来ていなかった彼女がこのクラスへとやって来た。
それがミュゲイアが先生にあの事を話したからかは分からない。
いや、もうあんな些細な出来事殆ど忘れていた。
ただ、嬉しかったのだ。
お友達がやって来てくれたことが、お友達が増えることが。
笑顔が増えるのが嬉しくて堪らない。
変わってしまったグレーテルの事も今はどうでも良かった。
笑顔しか見ていないミュゲイアに中身なんてどうでもいい事。
幸せな一日の始まりに喜びながらミュゲイアはニコニコと笑いながら軽い足取りでロビーを歩いていた。
ふと、ミュゲイアを呼ぶ声に後ろを振り向く。
そこに居たのは白銀のドール。
いつもの煌めくアメジストと目は合わない。
名前を呼んだだけで顔を伏せて黙っていた。
彼が何を考えているのかはミュゲイアには分からない。彼の思いも分からない。
「どうしたの、お兄ちゃん? オミクロンのお友達が増えたのに元気ないの? それとも、アストレアがお披露目に行ったから? 何でもいいけど笑って! 笑えば元気になるよ! ミュゲね、お兄ちゃんの笑顔が大好きなの!」
ふんわりと薫る鈴蘭は微笑む。
焼き付けるようにそのソプラノの声でお兄ちゃんと呼んだ。
そう呼べと言ったのは目の前の彼なのだから。
ミュゲイアを困らせる彼の言葉なのだから。
彼の笑顔の為だけにミュゲイアは今日も妹をした。
機嫌良く、思ってもいない呼び名で彼を呼ぶ。
つまらない兄妹ごっこの幕が今日も上がる。
“お兄ちゃん”。
ああ。ああ。ああ。ああ……。
「……ごめん、やっぱり少し寂しくて。ちゃんと切り替えなくちゃ、新しい子が来たんだから」
にっこり。
顔を上げて、ブラザーは微笑んだ。宝石のように輝くアメジストを細めて、甘やかな音を紡ぐ。困ったように眉を下げては、今度は意気込むようにぐっと両手に拳を作ってみせた。いつものように、どこかフワフワした、“おにいちゃん”。
コアの奥底で、何かがドロドロと蠢いている。上辺だけの自己嫌悪でソレから顔を背けて、ミュゲイアを柔らかく見つめた。目が合えば蕩けてしまいそうな甘さを孕んだ紫が、その視覚情報が。“妹”への愛情を、脳に送り続ける。
「ミュゲは何だか元気だね。
新しい子がきて嬉しい?」
ミュゲが嬉しいなら、おにいちゃんも嬉しいよ。
にこにこ、そんな言葉を続けた。一歩距離を詰めて、自分と同じ白銀に手を伸ばす。拒まれないのなら、髪のひと束をガラスに触るような手つきで撫でてるはずだ。慈しみを込めた、博愛の手で。だってブラザーは、おにいちゃんだから。
そう、おにいちゃん。おにいちゃん。おにいちゃん。おにいちゃん。おにいちゃん。はあ。
《Mugeia》
にっこり。
笑顔が咲いた。
ミュゲイアの大好きな笑顔。
恐怖を感じるよりも幸せを感じていたいと思うのは当たり前のこと。
恐ろしい出来事は笑顔で上書きをする。
笑っているから二人とも大丈夫。
笑っているのなら幸せなんだ。
笑うことだけが彼の役目。
兄らしさなんて求めていない。
それは口実に過ぎない。
それで笑うからそう言ってあげているだけ。
愚かな兄のために。
愚かな兄には笑顔しかないから。
花の蜜を吸うように、美味しいところだけを舐めてしまう。
花自体に興味はない。
蜜だけが欲しい。
オミクロンの彼に付き合ってあげている。
ただそれだけ。
ただそれだけだから、なんだっていい。
彼の中身に興味はない。
必要なのは皮だけ。
忘れた記憶のためだけ。
「お披露目に行っちゃったもんね。ミュゲもアストレアの笑顔がもう見れないのは残念だなぁ。」
本当に残念だ。
あの子の笑顔はもうないのだから。
残念で仕方ない。
けれど、アストレアが消えてもオミクロンにはドールが増えた。
笑顔の数を補うように、二人も増えてくれた。
しかも、お友達がやって来てくれたのだから。
喜ばしいことだ。
「とっても嬉しいよ! だって、笑顔が増えたんだもん! それにね、グレーテルが来てくれたんだよ! ミュゲのお友達! これからはもっといっぱいグレーテルの笑顔が見れるから嬉しくて仕方ないの! ……お兄ちゃんも嬉しいでしょ?」
頭に伸びた手を拒むことはしなかった。
見上げるようにして、ただ真っ直ぐにその綺麗なアメジストを見つめる。
彼の思考を掻き乱す笑顔でミュゲイアは喋り続ける。
煮詰めすぎたジャムみたいな、ぐずぐずになった紫を細めていた。妖艶に艶めく紫水晶は、変わらずミュゲイアを見ている。シルクのように手のひらを滑る髪の毛先まで丁寧に触れて、名残惜しそうに手を離した。人の髪の感触がなくなった手のひらは、妙に軽く感じる。
───壊れたラジオみたい。
今日も笑顔しか浮かべずに喋り続ける最愛の“妹”に、ブラザーはぼんやりと考えていた。それは単なる感想である。なんの意味も価値もない、ただの思考の隙間。
擬似記憶の“妹”は、どんな風に笑っていたんだっけ。
「グレーテルとお友達だったんだね。それは嬉しいねぇ。
うん、もちろん。ミュゲが幸せだと、おにいちゃんも幸せなんだから」
朗らかな微笑みを浮かべて、ブラザーはミュゲイアの言葉に同意する。幼児に向けるような間延びした話し方で、とびきり大切な宝物に笑いかけた。
こうやって笑えば、ミュゲはもっと幸せになれる。笑顔さえ見せていれば、ミュゲも笑ってくれる。何も難しくない。考えずに得られる手軽な幸福は、麻薬のように甘い。
「ミュゲ、これからどこに行くの?
暇ならおにいちゃんともっとお話しようよ」
今日のブラザーは平穏そのものだ。
ミュゲイアが嫌う、様子のおかしい“おにいちゃん”の姿はない。ひたすらに優しい、愚鈍な“おにいちゃん”。
その裏側がどうなっていようと、興味なんてないでしょう?
《Mugeia》
とろりと溶けてしまったような、アメジストがこちらを見ている。
真っ白なドールを紫に染め上げてしまいそうな程にそれは垂れて垂れてグズグズにミュゲイアを濡らそうとする。
優しい触り方でミュゲイアに触れて、髪から手を離す。
一つ一つの仕草の全てが甘く洗礼されていて、彼の手の感触だけが残っている。
穏やかな微笑みをずっと浮かべて、甘く伸びた声が頭の中で反響している。
ミュゲイアが幸せなら彼も幸せ。
彼が笑っていればミュゲイアは幸せ?
あの子とこの子の幸せは一緒?
きっと、笑っているから幸せ。
「うん! とっても嬉しいの! でも、仲直りがまだだから後で話しかけて笑顔にしてあげないと! ウェンディって子は知らない子だけど、お披露目が決まってたのに出れなかったんだね。だから、笑顔じゃなかったのかなぁ? ミュゲね、ウェンディともお友達になりたいの! あの子の笑顔も欲しいの!」
オミクロンに来て可哀想なんて、思っているのかも分からない。
笑顔さえ浮かべてくれていればそれでいい。
笑える子はみんないい子。
グレーテルだって、良い子なのだ。
仲直りをして、笑顔にしてあげればずっと笑顔のはず。
今日も素敵な笑顔を浮かべていたから。
「決めてないよ!
………お話? どんなお話? 笑顔のお話? あっ! グレーテルとウェンディの歓迎会もしてあげたいね! きっと喜んでくれると思うの!」
甘く、ひたすらに優しい彼のお話がどんなものかは分からない。
何を話してくれるのかも分からない。
コロコロと笑ってミュゲイアは楽しい話をする。
歓迎会。新しい仲間のための催し物。
可哀想な子達への歓迎会。
地獄の穴に堕ちたアリスのためのお茶会。
「そっか、喧嘩しちゃったんだね。きっと謝れば許してくれるよ、大丈夫。
ウェンディも優しい子だし、ミュゲならすぐ仲良しになれると思うな」
適当なことを。
その場で合わせるだけの、一切の思考を使わない会話。ただにこやかに相槌を打ち、ブラザーはミュゲイアを否定しない。以前のグレーテルと同じなのかすら分からないような人形だというのに、漠然とした希望を甘く喋る。ウェンディにだって、何かあったことくらいは明確に想像できるというのに。
ミュゲとグレーテルとウェンディ。ふんわり目を閉じて、三人が談笑している様子を浮かべてみる。この世の何よりも尊ぶべき、愛おしい平穏がすぐに浮かんだ。口角をゆるめて、目を開ける。存在し得ない未来を、現実になると思い込んでいる。
「ふふ、それはとっても素敵だねぇ。二人ともクラスに来たばかりで緊張しているだろうし、喜んでくれると思うよ。
じゃあ、その計画会をしよっか。座って話そうよ、例えば──……、……カフェテリアなんてどう?」
貼り付けたような愛の笑みを浮かべ続けるブラザーは、ゆるやかに持ち上げた唇を開く。何の話かは決めていなかったが、その話なら誰も傷つくことはないはずだ。生きるとか、死ぬとか、そういうものと何の関係もない話。
ミュゲイアが拒まないのなら、ブラザーはほんの一瞬言い淀むように言葉を詰まらせてから、貴女の手をとろうとする。掬うように小さな手のひらに手を伸ばし、そっと繋ごうとするはずだ。そうして、ワルツのステップのように軽やかな足取りで、貴女をカフェテリアに連れていくだろう。
《Mugeia》
ゆっくりと時間が加速する。
まるで何も見ていないように。
何も知らないように。
このトイボックスでの恐ろしいこと全てから目を逸らすように二人のドールは言葉を交わす。
恐れも悲しみもないままに、ずっと、ずっと、ゆっくり瞬きをする。
それはお互いを気遣っているわけではない。
心配もしていない。
この二人がこうやってホットチョコレートのような生暖かい沼に浸ろうとするのはお互いを信用していないから。
皮にしか興味がないから。
少なくともミュゲイアはそうなのかもしれない。
「……うん! 先生もそう言ってた!
ウェンディともね、いっぱい仲良くなって笑顔のお話をするの!
そうだよね! みんなにも言ってあげないと! 早くカフェテリアに行こ!」
きっと、二人とも喜んでくれるはず。
他のオミクロンのみんなも誘って、盛大なやつにしよう。
あの二人の好きなものを沢山用意して、オミクロンの寮を飾り付けて。
ミュゲイアは歓迎会に喜んで笑う二人を想像しながらルンルンとカフェテリアへと歩き出す。
繋がれた手を強く握り返すことはせず。
ワルツを急かすように。
今にも駆け出してしまいそうな足でニコニコと。
添えられただけの手をしっかりと握り返して、ブラザーは踊るように歩いていた。
グレーテルとウェンディ、それからジゼル。三人のかわいい妹たちを迎える、とびきり素敵な歓迎会。沢山のぬいぐるみと大きなケーキ、砂糖とミルクがたっぷり入った甘い紅茶。ビスケットやゼリーも添えて、花瓶には溢れんばかりのお花を入れよう。折り紙で作った飾りで部屋をキラキラに。少しだけ部屋を暗くして、準備は万端。不思議そうにする三人を連れてきて、クラッカーの音を鳴らしてあげる。そうして、眠くなるまでお喋りをして………。
───……三階、カフェテリア。
馬鹿げた妄想に浸って辿り着いたその場所で、ブラザーはキョロキョロと顔を動かした。まだ朝ではあるが、ここはドールズの憩いの場、言わば人気スポットだ。二人分、座れる席は空いているだろうか。
席があれば、ブラザーはミュゲイアの手を離して、飲み物の準備に向かうはずだ。
「ミュゲ、何が飲みたい? いれてあげるよ」
《Mugeia》
歓迎会をしよう。
たくさんの笑顔が溢れた歓迎会。
何も知らないあの子達の歓迎会。
落ちこぼれに変身したあの子達の歓迎会。
堕ちて落ちてやっと手を繋げる距離にまで来てくれたあの子たちへ。
可愛いお菓子に甘くて噎せ返るホットミルクで迎えよう。
たくさんのお花を飾って、主役にティアラをあげよう。
キラキラ輝くお部屋の中で笑顔になろう。
嗚呼、もしもこれが上手くいけばきっと幸せになれる。
全身を濡らすほどの幸せに浸りきって、溺れることが出来るだろう。
まだ、計画も立てれていない歓迎会を夢見てミュゲイアは微笑んだ。
ふわついた足取りはいつの間にかカフェテリアまで着いていた。
握られた手が離れれば、その手でスカートを触る。
名前が呼ばれれば、ブラザーの方へと顔を向けた。
「いつもの! お兄ちゃんならミュゲが飲みたいのわかるでしょ?」
うーんっと悩む仕草の真似をしてから、にっこりとミュゲイアは答える。
飲み物は正直何でも良かった。
別にわざわざいれてくれなくても良い。
だって、仲良くお茶をしに来たわけではないのだから。
ブラザーが飲み物の準備に迎えば空いている机の方へと歩こうとする。
ふと、机に着いてから違和感を感じた。
カフェテリアで見たアラジンのチラシがなくなっている。
キョロキョロと見渡して見てもそれはない。
ミュゲイアは近くで談笑していたドールの元まで近寄り、そのうちの一人の肩をトントンと叩いた。
「こんにちは! 素敵な笑顔だね! あのね、ちょっと聞きたいことがあるの。ここでチラシ見なかった? カフェテリアの机に置かれてたと思うんだけど。」
ドール達の談笑に割って入るようにミュゲイアは話しかける。
ブラザーが帰ってくるまでに済ませるつもりではあるけれど、ブラザーが途中で帰ってきたとしても何も問題は無い。
早朝故に人気の少ないカフェテリアにも、少なからずあなた方のように足を運ぶドールズは存在する。授業の前のティーブレイクで一息吐く為か、テーブルの一角を使用する二人のドールの間にも、マグカップが二つ置いてあった。
中身の珈琲は湯気が消え、随分量も減っているため、談笑は弾んでいることが見て取れる。
あなたが歩み寄るなら、声を掛ける前に彼らが話していた内容が僅かに聞き取れるだろう。
「それでね、わたしの友達がエーナクラスの友達に話し掛けたら……全然お話が通じなかったらしいの。何だか不気味な譫言も言っていたんですって。」
「え〜、エーナはお話しする為のモデルなのに……おかしくなっちゃったのかな?」
「詳しいことは分からないけど、でも、いつまでもその状態が続いたらきっとその子はオミクロン行きでしょうね……あら……?」
二人は歩み寄るあなたの存在にようやく気が付き、話を止めた。あなたにとって見慣れない顔なので、恐らく彼女たちはトゥリアクラスではないのだろう。
あなたの質問に互いに顔を見合わせると、一方が肩を竦めてみせた。
「さあ、分からないわ。チラシなんて今朝から見てないし……そこにあったなら、近くの床に落ちてるんじゃないかしら?」
「うん、きっと誰かが落としちゃったんだよ。」
早朝ということもあり、カフェテリアは閑散としている。どこか物寂しくさえ感じられるが、一先ずは二人で落ち着いて話が出来ることを喜ぼう。
「ふふ、わかったよ」
ミュゲイアにふわりと微笑み、ブラザーは簡易的なキッチンへと向かった。依然として軽い足取りからして、チラシがなかったことには気づかなかったらしい。意図的に思考の端に置いているからかもしれないが、彼の様子が変わることはなかった。変わらない方がいいだろう。
牛乳と砂糖、たっぷりの蜂蜜。
冷蔵庫から材料を出して、牛乳を火にかけた。ミュゲイアの好きな、蜂蜜をたくさん入れた甘ったるいホットミルク。作っているだけで胃もたれしそうな香りに表情を綻ばせ、ブラザーは自分用にハーブティの用意も始めた。キッチン越しに“妹”の方を確認すると、誰かと話しているのが見える。そういえば、部屋に入ったとき何か話し声が聞こえたはずだ。意識して聞いていなかったが、ミュゲの知り合いだったのかもしれない。なら、挨拶しておかなければ。
「出来たよ、ミュゲ。熱いから気をつけてね。
この子たちはお友達? こんにちは」
完成したホットミルクとハーブティをカップに注いで、ブラザーは少女たちの談笑に混ざりに向かう。ことりと優雅にカップを置きながら、談笑するドールズに嫋やかな笑みを浮かべて見せた。
《Mugeia》
近くにいたドールに聞いてみてもそれらしきものは見ていなかったようである。
あのチラシはかなり派手なものであり、あればきっと目につくだろう。
もちろん、それが床に落ちていたとしてもだ。
それがないということは誰かが持って行ってしまったのかもしれない。
チラシがないにしても、芸術クラブがなくなったわけではない。
チラシの一枚はミュゲイアが所持しているのだから。
あまり気にすることでもないだろう。
「そっかぁ、ありがと! あっ、ミュゲはミュゲイアって言うの! クラスはオミクロン! 二人の名前は? ミュゲとお友達になろ! 一緒に笑お!」
残念というように言葉を出してから、鈴の音のような声で自分の名前を伝え、二人のドールの名前も聞いた。
ニコニコと、人当たりのいい笑顔を浮かべながら。
ベラベラと一方的に話をして、一度呼吸をした時であった。
見慣れた声の彼が戻ってきた。
その手には二つのコップを手に持っている。
ふんわりと鼻腔を擽るミルクと蜂蜜の香りに頬がほんのりと赤くなる。
クルリと一度ブラザーの方へと身体を向けてニッコリと笑った。
「うん! お友達! アラジンのチラシがなくなってたからこの子達に聞いてみてたの! お兄ちゃんは知らない?」
お友達になろうとお願いした矢先にミュゲイアは勝手に二人を友達と決めてブラザーに紹介した。
まだ、名前も知らないドール達を。
それから、アラジンのチラシがなくなっていたことを教え彼に知らないかと尋ねた。
「アラジン……?」
ぱちぱち、視界の奥で何かが弾ける。
満点の星空。覚束無い輪郭が爆ぜる。
「知らないなぁ。天体観測はやめたんじゃない?」
乾いた笑い声を零す。
カップと共に持ってきたトレイを胸に控え、ブラザーは特に気にしていないように笑っていた。まるで他人事みたいな口調はミュゲイアにとって違和感を覚えるものかもしれないが、偽物の“おにいちゃん”と愛すべき同志との関係に、貴女はどれだけ興味を持っているだろう。ブラザーはただ、いっそ冷淡なまでにいつも通りだ。
まだ、大丈夫。考えたくないことは、今だけは考えない。
「君たち、さっきはなんの話をしてたの? エーナクラスに、なにかあったのかな」
話を終わらせるように、ブラザーは話していたドールズに向き直る。突然話しかけてきたオミクロンドールと、ソレと親しそうにするおかしなドール。警戒しない方が難しいだろう組み合わせになってしまった。噂好きの人形たちが、警戒よりも噂を広めることを選んでくれればいいのだが。
ミュゲイアが自らの名と所属のクラスを述べる。それだけで、彼女達は僅かに難色を示し出した。笑うことと、友達になること。それを求めているだけだと言うのに、二人のドールは気まずそうに目線を逸らし、早く会話を終えたそうにしていた。
やはりこの学園全体に根付くオミクロン差別の風潮は衰えていないのだろう。あなた方にとって居心地が悪い場であることは間違いない。
「あ、ああ……さっきの……エーナクラスの話ね。」
「この子の友達の友達がエーナクラスの子らしいんだけど……その子がおかしくなっちゃったんだって。エーナモデルなのに、全然お話が通じないらしいんだ。」
「そうなの……精神的な欠陥かしらね。意味の分からない譫言も呟いていて、とっても不気味だったらしいわ……」
「あ。そう言えば、その譫言ってなにを言っていたの?」
「え? そうね……なんでも、『あの場所に帰ろう』『炎に身を投げろ』……ですって。常軌を逸した様子で、友達にまでそうやって詰めってたらしいわ。」
「な、何それ……意味が分からない……」
話を聞いている方のドールは、その事象の不気味さに思わず頬を引き攣らせて引き気味である。
内容自体は、よくあるゴシップだ。彼女達は直接その話を聞いたわけでもないというのに、沸き立つ忌避感を娯楽として面白がっているようだった。
──そこで話していたドールのうち一人が時計を見やる。
「大変だ、そろそろ次の授業が始まる。寮に帰ろうよ」
「あら、もうこんな時間なのね。それじゃあさようなら、オミクロンのお二人。もうじきにそちらに新しい子がやってくるかもしれないわね。」
どうやら予定が迫ってきているらしく、彼女達は慌ただしく席を立つ。
そうしてカフェテリアにはあなた方だけが残されるだろう。
《Mugeia》
乾いた声が聞こえた。
乾燥した風が吹き抜けたように、その笑みがミュゲイアの耳を撫で、視界を埋めつくし、その言葉が頭の中でゴーン、ゴーンと鳴り響いている。
まるで他人事のようにそう告げられたのにミュゲイアは驚いた。
だって、だって、あなたは彼のことも愛している。いつもみたいに弟のことを心配しないの? どうしてそんなことを言うの?
あの子が天体観測を辞めたなんて。
そんな恐ろしいことを。
どうして口にできるの?
貴方はそれでいいの?
三人で天体観測をしなくていいの?
アラジンのためなのに?
鏡越しの記憶と手を重ねるためなのに?
知らない私たちを知ることにもなるのに?
偽物のお兄ちゃんはまだそんな事を口にしてはいけない。
知らない記憶に残るブラザーは違ったのだろうか。
もっと、ただ純粋に愛せたのだろうか。
知らない記憶のミュゲイアは彼をどう呼んだのだろうか。
彼のことをブラザーと呼べたのだろうか。
ブラザーの言葉を聞いて目をまん丸にしたまま静止していた。
ドールたちの話す言葉は頭に響いては小川を流れる葉っぱのように流れてゆく。
「………炎に。……え? あっ、バイバイ! またね!
……お兄ちゃん。アラジンは天体観測やめたりなんかしないよ、だって三人で天体観測するってお話したでしょ? ……そんな事言うなんてお兄ちゃんどうしちゃったの? ……お披露目でも決まった?」
ポツリと頭に入った言葉は炎だった。
あの場所ってどこ? どうして炎に身を投げるの? 寂しいの?
そういえば炎と言えば、ミシェラ。
頭に浮かんだのは焔のような真っ赤な瞳の子うさぎだった。
けれど、浮かんでは消える煙のようにミシェラの事も薄くなって、ハッとしたようにドール達を見送った。
そして、ミュゲイアは少しぬるくなったホットミルクを口にした。
そして、酷い人へと視線を向けた。
嗚呼、酷い子。
そんな事を口にするなんて。
嗚呼、嫌な子。
自分勝手でちっともこっちを見ない。
天体観測のことだってもう忘れたのでしょう。
酷い人。
女を傷つける苦いドール。
とってもいけない悪い子。
「もしそうならもう兄妹ごっこもお終いになるね。」
アメジストに映る鈴蘭は嫌という程に笑っている。
ぷっくりと濡れた唇はキスを落として舐めるように毒を吐く。
幸せになるためのお薬はほんの少しだけ苦い。
「……あの場所……」
ぴくり、眉を寄せる。
薄気味悪そうにしながらも面白がっている彼女たちとは対照的に、ブラザーの表情は少しも楽しそうではなかった。朗らかな笑みはひやりと固まって、表情を強ばらせる。
あの場所。炎。身を投げろ。
……心当たりは、勿論ある。
「ああ、うん。ありがとう。またね」
席を立ち始めた乙女たちの声が聞こえれば、ブラザーの表情に色が戻る。にこにこ愛想良く笑って、簡単な挨拶と共に去っていく彼女たちを見送った。
忙しない足音も消え、すっかり静かになったカフェテリアに腰掛ける。どこまでも沈んでいきそうな感触に軽く息を吐いて、ミュゲイアに視線をやった。ホットミルクを口にする姿を横目に、自分もティーカップに手を伸ばす。ミュゲイアが視線を向けた頃には、もう湯気が二人の視線を妨げていた。
白い煙の向こうから、鈴蘭の華やいだ声がする。
「え……何言ってるの、ミュゲ。おにいちゃんはいつも通りだよ」
ゆらゆら、煙が揺れる。
ブラザーはカップを置いて、同じように揺れる白銀を見た。次第に見える口角は、やはり吊り上がっている。いつも通りだ。
それは自分だって同じこと。そう、そのはず。そうでしょう。そうだよね?
芸術品のような顔を綻ばせ、あの子はにっこりと笑っている。飛び出た言葉には、ノイズがかかったように上手く聞き取れなかった。
「ふふ……ミュゲったら、何言ってるの?
おにいちゃんに構ってほしいのかな。いいよ、おいで」
くすくす、上品に。
口元を覆うように手を添えて、洗練された優雅さで笑みを浮かべる。冗談を笑うだけのように、なんてことない声色だった。足を少し横にずらして、トントンと自身の太もものあたりを叩く。こっちにおいで、というジェスチャーだ。
ミュゲが何を言っているのか分からない。
どうしてそんな話をするんだろう。
兄妹ごっこ。兄妹ごっこ?
ああ。やめよう。
考えたくない。考えたくない。考えたくない。
「天体観測とかお披露目とか、いま関係ないよね? 歓迎会の話をしようよ。
ねえ、どんなお花を飾ろうか。ミュゲの好きなお花を飾ろうよ、きっと三人とも喜んでくれるだろうから。クッキーとかケーキは、おにいちゃんに任せてねぇ」
楽しそうに紡がれる音の数々が、静まり返ったカフェテリアを踊った。早口で捲し立てるように、口を挟む暇すら与えないように。
たっぷりの愛に蕩けた双眼が、刺すような鋭さで“妹”を見ている。
《Mugeia》
嗚呼、壊れているんだ。
心の底からミュゲイアがブラザーに対して思ったのはそれであった。
どれだけトゥリアであった頃は優秀だったとしても彼もオミクロンに落ちたドールに過ぎない。
その壊れたアタマが元に戻ることもない。
だって、目の前のドールは壊れている。
可哀想で哀れでどうする事も出来ない。
お披露目にもいけないような子。
ミュゲイアと一緒でずっとオミクロンに落ちたままのドール。
所詮はガラクタ。
分かり合えることも出来ない。
ずっと、傷の舐め合いにもならない戯れを繰り返すだけ。
大好きなブラザー、素敵な笑顔のブラザー。
同じだけの時をオミクロンで過ごしたドール。
大好きという言葉に詰め込まれたぐちゃぐちゃの毒がとろりと垂れてゆく。
虫唾が走るほどの甘ったるい言葉。ミュゲイアの名前を呼ぶその声。
一方通行のままの二人。
どこかで間違えた二人。
お互いを見れない二人。
紅茶の煙でぼやけたブラザーの言葉がミュゲイアの頭へと鳴り響く。
額縁で飾りたくなるほどの笑みを浮かべて、上品な仕草でミュゲイアの言葉を否定する。
いつも通りというのはそうかもしれない。
いつも通り、ブラザーはミュゲイアを否定している。
兄であることに固執して、ミュゲイアを妹として飾り付ける。
綺麗な笑顔、大好きな笑顔。
その笑顔を見て名前の付けられない感情が芽生えてしまいそうになる。
ブラザーのことをどこかで怖いと感じているから今まで流されてきた。
甘い蜜に溺れて、とろりと流れるように。
痛いことは嫌いだから。
幸せを感じられないのは嫌いだから。
いつまでも幸せでいたから。
目をつぶって、ブラザーのことは見ないで笑っていた。
静まり返ったカフェテリアにはブラザーの捲し立てるような言葉だけが踊っている。
無理やりにでもミュゲイアをリードするように。
踊ろうと誘ってくる。
ミュゲイアはブラザーの方へと近寄って、トントンと叩かれた太腿の上へと座った。
グッと近くなった距離でアメジストの瞳が煌めいている。
まるで、夜空のように。
バニラと鈴蘭の甘い香りが混ざりあって噎せかえりそうな程。
ブラザーの首へと手を回して、綻んだ口元を見つめる。
天体観測もお披露目も関係ないというその口を。
いつも、ミュゲイアを困らせる嫌な唇。
朝露に濡れる薔薇のような唇。
ミュゲイアはグッと顔を近づける。
ガブリ。
その唇を噛むようにミュゲイアは自分の唇を近づけた。
愛し合ってもいない。
お姫様と王子様でもない。
御伽噺とはかけはなれた口付け。
美麗に微笑むの唇を奪うように。
幸せを呼ぶ白い小鳥は幸せを食べてしまう。
柔らかい瞼をゆっくりと開いて、乾いた声でミュゲイアは笑った。
「……ねぇ、ブラザー。兄妹はこんなことしないんでしょ?」
天体観測を忘れないで。
知らない記憶はきっと二人を苦しめる。
腹の底を見せあって話せない二人では紅茶を冷ましてしまうようなつまらない事しか出来ない。
ミュゲイア、それはトゥリアドールの名前。
オミクロンに落ちたドールの名前。
妹としては設計されていない。
ただ、笑顔と幸せを運ぶ白い小鳥。
自分の幸せにしか興味のない浅はかなドール。
「……ねぇ、笑って、ブラザー!」
太陽すらも喰らう笑顔を咲かせてミュゲイアは笑った。
とびっきりの笑顔で貴方の幸せを食べてしまう狼。
羽のように軽い体が、膝の上に乗る。
その感触が、体温が、香りが、早鐘を鳴らす心臓を溶かしていく。
ミュゲイアはここにいる。
彼の愛する“妹”は、今日もこうして笑っている。その実感がじわじわと体温を高め、荒くなった呼吸をしずめた。大切な宝物。世界のなにより愛おしい少女。爛漫と咲き誇る花々に囲まれた、白銀の乙女。
これで大丈夫。
何もおかしくない。
ミュゲは“妹”で、僕は“おにいちゃん”。オママゴトなんかじゃない、本物の兄妹。擬似記憶から一緒に生きてきた二人。いつも通り。いつも通り。いつも通り。
……“妹”? おにいちゃん?
違う。これはもう。僕は。
違う。何もおかしくない。いや、でも。嫌だ。もうやりたくない。うるさい。違う。違わない。考えたくない。考えたくない。考えたくない。考えたくない。考えたくない……。
「───……ミュゲ?」
細い腕が首に回る。
ぐちゃぐちゃと絡み合った思考の隙間を縫うように、小さな手のひらがうなじを撫でた。擽ったい感触に思わず笑みが零れて、同じように抱き締めようと腕を持ち上げる。
この熱。この温もりが傍にあるのなら、他のことはどうでもいい。
幸せだ。
思考を必要としない、甘ったるい時間。ずっと浸っていたい、甘い甘い平穏の夢。複雑に重なった思考の束が剥がれ落ち、ブラザーの脳は停止する。ただ与えられる愛に愛を返し、思っているのか思っていないのか分からないことを囁くだけ。簡単で、単純だ。何も考えなくても幸せになれるなら、全部こんなことでいい。
笑顔が近づく。
波打つオパールに包まれた幸せの象徴の肩を、ブラザーは優しく抱き締めた。
どうやら自分が思うよりずっと追い詰められていたらしい彼は、ぐっと近づいた顔を、艶に煌めく白蝶貝を、ぽってり色付いた唇を、なんの疑問にも思わなかった。
「───」
柔らかい、“その為”に作られた唇が重なる。
小鳥の戯れのように悪戯な、けれど頭ごと飲み込んでしまうように悪辣に。
得られた幸せが、幸福な夢が、瓦解する。
彼は誰よりも兄であることを拒むくせに、誰よりも兄であることに固執しているから。
ああ。もう。
考えたくない。
考えたくない。
考えたくない。
考えたくないんだってば。
「ッ、あああああああ゙ッ!!!!!!!!!!!」
最早、それは反射だった。
突き飛ばすような、蹴り飛ばすような、そんな動きで眼前の“女”から距離をとる。勢いで尻もちをつきながら、ずるずると後ずさった。
「ぉえ゙ッ……ちが、ちがう、僕は、僕はおに゙いッ……いやっ、いやだっ、もう、いや……」
譫言を繰り返し、引き攣った息を吐き出す。零れそうなほど見開かれた夜空からは、大粒の星屑が流れ続けていた。
そうしていつか、星々は空から姿を消すのだろう。もう天体観測は出来ない。
ブラザーは視線を上げない。
ただ口元を抑えて嗚咽をあげながら、床を見ている。今、愛する“妹”がどんな顔をしているのか、おにいちゃんは見ていない。
ただ、彼は幸せが欲しかったのだ。
それはきっとミュゲイアでなくても良かったし、きっと彼女が“妹”でなくても良かった。
誰かを幸せにしたいと奔走するくせに、誰かに幸せにしてもらいたいなんて。
どこまでも、砂糖菓子のように甘い人形。
燃え上がる炎に溶けるまで、ケーキの上を飾るだけのラブドール。
《Mugeia》
視界がクラりと動き出す。
チュッと小さな音を立てて、白い小鳥は囀る。
何を言うでもなく、ただその口角はつり上がって裂けたようだった。
まるで蛇のように、羊の皮を借りた山羊のように。
純粋な濁色とした感情だけが口の中に残っている。
決して、口にすることも出来ない。
この感情の名前も知らない。
この感情は彼にだけ捧げる特別。
どうでもいい彼に対する愛なのかもしれない。
尻もちを付いて離れたブラザーに押されるようにミュゲイアもよろけてしまう。
見下ろした彼は困惑し、嫌がり、嗚咽している。
大粒の涙をポタポタと垂らして、下を見て、不格好に泣きながら口元を擦っている。
ミュゲイアはただその姿を見下ろしていた。
今までに見た事のないブラザー。
こんなにも取り乱しているブラザーは見たことがない。
そんなに泣いては星も見えないでしょ?
天体観測出来ないよ。
下を向いていたら星は見えない。
貴方を置いて流れていっちゃうかも。
流れ星の行き先も分からないね。
だから、上を見て。
涙は笑顔に変えて。
流れ星を追いかけて。
また三人で。
この瞳に夜空を描こう。
だから、笑って。
「ミュゲは笑ってって言ったんだよ、ブラザー! ……いや? いやならお兄ちゃん辞める? ブラザーは笑ってるだけでいいんだよ! ミュゲの為に笑ってるだけで幸せになれるの! だから、笑って! ミュゲの-笑顔-!」
カフェテリアにブラザーの言葉が響き渡る。
ブラザーの傍まで近寄ってその近くにしゃがみ込む。
ミュゲイアは捲し立てるようにブラザーの隣で言葉を並べる。
まるで、踊るように。
無理やりにでもその足を動かそうとするように。
太陽のように輝かしく、聖母のように優しく、恋人のように甘く熱い、そんな笑顔を飾り付けて。
ただ、笑っていればいいと告げる。
貴方はそれだけでいい。
笑って星を眺めるの。
また、三人で。
あの光景を思い出すの。
その為に貴方はコアを動かすの。
笑っていれば幸せになれるのだから。
はやく、笑って。
ずっと燃えていたら、美味しいケーキも食べれないでしょ?
フーっと息を吹きかけてもやし尽くしてしまおう。
甘いケーキがどろりと溶けてしまわないように。
さぁ、一緒に手を揃えて。
ブラザーという名前の甘くてくどい笑顔を食べてしまいましょう。
「ちがっ、僕は、!!」
星を編んだような髪を振り乱して、ブラザーは顔を上げた。紫がかった白銀がさらりと揺れて、小さな顔を隠す。涙に濡れた頬に張り付いた髪にも気づいていないのか、ブラザーは尻もちをついたまま、手を後ろについていた。ぼろぼろの掠れ声を絞り出して、まとまりなく騒いでいる。ぶるぶると震える手がやがて持ち上がって、眼前の彼女を指さした。
濁ってしまったアメジストは、未だ信じられないほど美しい。人形の感情に変化しない義眼は、陰鬱な悲壮感を称えても尚、甘やかに華やいでいる。見開かれた瞳からは、星々がこぼれ続けていた。天体観測を望んでいるとは、とても思えない。
彼は人形だ。いつまで経っても、操り糸が切れないお人形。
けれども、彼を動かす糸はめちゃくちゃで。
正しく動かしてもくれないから、彼はいつまでも楽な道に進めない。進まないように動いてきたから。今更首を締める糸が苦しいと藻掻いても、全ての助けに背を向けてきたのは他でもない彼なのだから。
「このッ……」
Brotherは、オミクロンのジャンクドール。
余計な自我を持った、誰よりトゥリアらしい全ての愛の体現者。
自分すらも愛してしまった、いつかのスクラップ。
「出来損ないがッ!!!
何度言えば分かるんだよ!? 僕の!! “妹”は!! そんなことッ、しないの!!!」
こちらを見下ろす彼女の長い髪は、たらりと垂れている。綿菓子のようにふんわりと甘そうな髪の束を、ブラザーは乱暴に引っ掴んだ。
あんなに愛おしそうに触れていたのに、もうそこには嫌悪しかない。しゃがむ彼女の髪を、強く引く。彼女の怯える“おにいちゃん”ですら、こんなことはしなかった。
こんなこと、言わなかった。
「ドールの面汚しッ!! 欠陥品ッ!! 害獣がッ!!! 誰からも必要とされてないくせにッ、誰のことも幸せに出来ないくせにッ!!!
“お前”なんかいない方がずっとずっと良かったのに!!!!」
何度も、何度も。
彼女を酷く罵倒して、髪を引く。
「言うことひとつ聞けないようは廃品、さっさとスクラップにでもなればいいんだ!! ああ、ああ、ああ!!! そうだ、それがいい!! ミシェラが! ラプンツェルが! アストレアが!! 帰ってくるかもしれないんだからさぁ!!!!
早くしろよ出来損ないッ!!!」
絶叫。
一際強く髪を引いて、ブラザーは怒鳴った。慣れない大声に息は上がり、声は枯れている。肩で上擦った呼吸を繰り返しながらも、星屑のような雫が止まることはなかった。
酷く冷静な自分が、遠くで彼を見ている。
彼が“誰”のことを刺しているのか、自分が誰よりも分かっていた。
ブラザーは笑っている。
それは嘲笑であり、自傷だった。
まるで幸せそうに見えない、貴女の大好きな笑顔だった。
《Mugeia》
グラリ、クラリ。
視界が揺れる。
世界が踊り出す。
頭がシャカシャカと揺れて、涙を流したアメジストが煌めいている。
「いたい! いたいよ! やめて!」
ギュッと髪の毛が引っ張られた。
その衝撃で前へと手をついてミュゲイアはただその痛みに困惑した。
優しく撫でるために造られたその手がミュゲイアを乱雑に壊そうとする。
甘く囁くために造られた声がミュゲイアを罵倒する。
がらんどうの純白に真っ黒の言葉の嵐が迫ってくる。
嗚呼、うるさい。
嗚呼、騒がしい。
どこまでも困らせる嫌な子。
出来損ないで愚図で愚かなジャンク品。
どこまでもダメで何も出来ない愚か者。
愚者の罵詈雑言。
床を見ていたミュゲイアは一際大きく髪の毛を引っ張られて顔を上げた。
そこにあったのはミュゲイアの愛する笑顔。
大好きで堪らない笑顔。
また、ミュゲイアはドールを幸せにしてしまった。
なんだ、何も壊れてなんかいない。
どこもおかしくない。
害獣でも出来損ないでも妹でもない。
だって、ブラザーが笑ってる!
こっちを見つめて!
アメジストが煌めいている!
「何言ってるの? ブラザー。
ミュゲはみんなを幸せにしてるよ! 今だって、ほら! ブラザーを幸せにしてる! ブラザーはミュゲに沢山痛いことをしたら幸せになるんだね! ……ふふっ、あははは! 幸せだねぇ。
……それにね! お披露目だよ! 誰かがお披露目に行ったらミシェラもラプンツェルもみんな帰ってくるかも! アラジンみたいに! 次は誰がお披露目に行って誰が帰ってくるのかなぁ!」
嗚呼、とっても幸せ。
幸せの白い小鳥で良かった。
全部、全部、"貴女"のおかげ!
貴女が擬似記憶で教えてくれたから、ミュゲイアは誰かを幸せにできている。
今も幸せ。
ずぅっと幸せ。
「……良い子だねぇ、"お兄ちゃん"。お披露目に行けばみんなが帰ってきてくれるよ。それってとっても幸せ! ずぅっと一緒にみんなの事待ってようね!」
この幸せいっぱいのトイボックスで。
病める時も健やかなる時も笑顔のままに。
待ち続けましょう。
犯した罪を半分こに嫌いなあの子を一人で幸せにしないために。
ずっと、ここでみんなを見送ってみんなの帰りを待とう。
貴方という欠陥品がお披露目に行くその時まで。
ずっと笑ったままで。
アメジストに映りこんだ白い小鳥は美しく咲く花のように、春風に揺れる花畑に囲まれるように、愛らしくがらんどうのとびっきりの笑顔で笑っていた。
また流れ星が煌めいて遠のいて行く。
「ふ、ふふ、ふふふふふ」
ああ、壊れている。
コレも、自分も。
駄目なのかもしれない。
何もかも、全部。
ああ、なんか、疲れちゃった。
「ふふ、そうか、そうなんだ! あはは! そうだね!」
ゆらゆら、ブラザーは体を起こす。
散々引っ張った彼女の髪を柔らかく撫でて、愛おしそうに目を細めた。正面にいる彼女の瞳を見つめて、にっこり笑う。今度は随分と幸せそうだ。
蕩けたチョコレートみたいに甘く、幼子が外を駆け回るみたいに無邪気に。心底楽しそうに笑って、言葉を続ける。
糸は切れない。
いつまでも、どこまでも。
流れ星は燃え尽きて、もうどこにも見えない。
きっともう、何処にも行けない。
けれど、もし。
もしも本当に、そんな素敵なことがあるのなら。
夢が見られる。
また、星が見える。
「そっか、お披露目に行けばいいんだ! そうしたらみんなに会える! みんな戻ってくる! あはははははは!」
くすくす、人のいないカフェテリアに空っぽの声が響く。偽物の空の下、偽物の学園で、偽物の兄妹は笑いあう。
「ミュゲは凄いねぇ、とっても頭がいいんだねぇ。おにいちゃん、びっくりしちゃった!
いい子のミュゲには、おにいちゃんが花冠を作ってあげようねぇ」
乱暴に髪を引っ掴んだその手で、優しく“妹”を撫でる。世界のなによりも大切そうに、その柔らかい肌を傷つけまいと。仕草と声色、表情。その全てが、“妹”を愛していると言っている。貴女の大好きな笑顔が、貴女に向いている。
ぼたぼたと跡を残し続ける涙は細い顎を伝って、床に落ちた。
「ふふっ、それじゃあ、それじゃあさぁ!」
ようやく、ようやくだ。
糸が切れる感覚がする。
みんなの声が聞こえる。
花の匂いがする!
ここは幸福の楽園。
ここは永久の平和。
ここは夢の桃源郷。
ああ、やっと!
ようやく、これで、僕は救われる!
みんな、みんな嬉しい! 誰も傷つかなくていい! これで全部ハッピーエンド! 最初からこうなるべきだったんだ! あはは! 僕ってばおっかしい! あはははははははは!
お披露目には、僕が行こう!
「ミュゲがお披露目に行ってよ」
─────あれ?
「おにいちゃん、ミシェラに会いたいな。絵本を読んであげるんだ。あの子、ずっと僕の膝の上で本を読んでたから。頑張り屋さんな子だった。だからお披露目にも選ばれたんだ。
ふふ、ラプンツェルにも花壇を見せてあげたいよ。あの子がお世話していた花壇が、今もちゃんと綺麗なままだよって教えてあげるんだ。きっと喜んでくれるよ。それで、今度は一緒にコゼットドロップを見に行こう。
あのね、アストレアには美味しい紅茶をいれてあげるんだ。いつだって頑張り屋さんだから、たまには息抜きが必要でしょう? おにいちゃんの役目だよね、分かってるよ。たくさんお喋りして、たくさん撫でてあげないと。ミュゲもそう思うでしょ?
楽しみだなぁ。
はやく会いたいなぁ。
ね、ミュゲ」
あれ? あれ? あれ? あれ?
「ミュゲ、大丈夫だよ。
痛いのも苦しいのも一瞬だよ。だから大丈夫。おにいちゃんのことを思い出して、また会えるまで少しだけ待っててねぇ」
なんで? なんでよ。
どうして、いつもこうなの。
なんで僕って、いつも。
「あはは! あは! あは、はは、はは、ははは! あはははははっ! はははははっ!
……はあ。
……はあ………………」
いっそ、誰か殺してくれ。
ああ、だめ、やっぱり嫌だ。
《Mugeia》
嗚呼、笑ってる。
身体を駆け巡る快楽に溺れてしまう。
幸せそうに笑っている。
ブラザーが。
また、幸せにできたことが嬉しい。
とても嬉しい。
それなのに、また。
また、ブラザーがお兄ちゃんになってしまった。
嗚呼、やっぱりダメだ。
どこまでも浅はかで愚かなのだ。
やはり、オミクロン。
ジャンク品。
ガラクタ。
無償の幸せを与えてあげても尚これ。
優しく頭を撫でるブラザーの手をミュゲイアはそっと掴んで胸の辺りに持ってきて握りしめた。
ぎゅっと。
柔らかなその手で。
幸せそうな彼の手を包み込む。
「あはははっ! ふふっ! ブラザーってば変なの! ……ミュゲはね、ブラザーにお披露目に行って欲しいの! それまでに天体観測しようね! いっぱい笑おうね! お披露目が決まるまではずっと妹でいてあげる! いっぱい痛いことしていいよ! いっぱい幸せになってね! ブラザーの幸せはミュゲがお披露目に行く事じゃなくて、ミュゲに酷いことをする事なんだから! だから、それまではずっと一緒! 勝手に幸せになっちゃダメだよ! ブラザーはミュゲが幸せにしてあげるんだから! 可哀想なブラザー!」
ギュッ。
ブラザーの手にミュゲイアの爪が食い込む程に強く、ミュゲイアはブラザーの手を握った。
お馬鹿なドールのために。
さとすように。
ゆっくりと幸せを教えてあげる。
貴方の幸せは貴方のものではない。
貴方の幸せはミュゲイアのもの。
貴方の幸せはミュゲイアが決めてあげるのだから。
だって、オミクロンのお前には分からないでしょ?
壊れた頭なのだから。
嗚呼、本当に可哀想な良い子。
「次のお披露目は選ばれるといいね、ブラザー! ミュゲいっぱい応援してるよ! ブラザーのおかげで笑顔が増えるんだよ! みんなもね、今回はお披露目に選ばれなかったって笑顔になれるから! ……燃えちゃえば一瞬だよ!」
燃えてしまえばそれはきっと一瞬。
真っ赤な炎は燃え続けない。
嗚呼、とっても素敵。
完成されていくミュゲイアの楽園。
笑顔の楽園。
幸せを与える者の楽園。
ほら、素敵な夢。
お前の壊れた身体が役に立つ。
きっと、みんなのお兄ちゃんになれるよ。
燃えてしまえばお兄ちゃんになれるよ。
擬似記憶でまた会えるよ。
ミュゲイアを妹と呼ぶのならば。
もう、お前に会わなくていいと思うと笑顔が止まらない。
「"妹"のお願いを聞くのが"お兄ちゃん"でしょ?」
シワひとつない人工皮膚が、ブラザーの手を包む。温もりを分け与える、トゥリアモデルの体温。陽だまりのようにあたたかい、眠たくなってしまいそうな熱。
爪が食い込む。
ブラザーの薄い皮膚に、伸びることのない爪が突き刺さった。元々青白い肌は力が入り、更に白くなっている。ただ呆然と、血が止まりそうな手を人形は見た。塗料の巡る頭は行き場のない感情と答えのない思考ばかりを繰り返し、時間を消費している。酸素のない海の底だから、仕方がないのかもしれない。
そんなわけ、ないのだけれど。
「……ミュゲはおにいちゃんにお披露目に行ってほしいんだ」
がらがらの声だった。
伸びやかなテノールはララバイを歌わない。頬を赤らめて愛を囁くこともない。彼の金糸雀は眼前で死に、彼という白鳥は随分前に喉が潰れている。標本になる前の虫のように、ピンで足が留められているのだ。皮が剥がされるのををじっと待つ、家畜の順番待ち。断頭台に立ったまま仲間の死骸を見ている日々は、一体いつまで続くのだろう。
ミュゲの言う通りだ、と。
素直に、ブラザーは思った。
このまま生きていて、何が幸せだというんだろう。
どうせ誰のことも幸せに出来ず、無意味に絶望して死んでいくのに。だったらいっそ、全てから逃げて、誰かのためになりたい。可哀想な被害者として、愛する誰かのパーツになりたい。指を刺されて罵られることもないまま、ただ運命を呪うポーズだけを見せて。
なんて素敵なんだろう。
なんで、そう言えないんだろう。
「僕に、死ねって言ってんの?」
気味の悪い、薄ら笑い。
軽薄そうなか細い声は、なんの感情が浮かんでいたのだろうか。無数の、得体の知れないどす黒い何かを孕んで、色欲のドールは笑っている。
重かった。
泣きすぎた頭が。いくつもの約束が。もらった花冠が。星を見る望遠鏡が。水の入ったジョウロが。
飛んでるみたいに軽かった足取りは、いつからこんなに重くなってしまったんだっけ。
いつから、僕は間違っていたんだっけ。
いつから、“僕ら”は間違えたんだろうね。
「……もう、いらないよ、君」
愛してるよ、君のこと。
愛していたんだ、本当に。
「よく見たら全然……“あの子”っぽくないし……」
でも僕、壊れてるみたいだから。
君のことを愛していると、苦しくなってしまうから。
自分から手放すことは出来ないから、だから。
「あっち行ってよ……おにいちゃんのかわいい“妹”は、どこに行っちゃったの……? はあ……」
だから早く、何処かに行ってくれ。
顔も見たくないんだ、もう。
《Mugeia》
愛はいつの間にか憎悪へと変わり、愛憎の入り交じった関係は次第に姿を変えて飼い慣らせないほどの大きなケダモノへと変わってしまう。 時を彷徨うように、お互いを知らないまま深く関わろうとしないままに消費した時間だけが二人の関係をどす黒く変色させてしまう。
長かった。
短かった。
それすらも分からないほどにミュゲイアはブラザーとこの歪な関係を続けてきた。
オミクロンで取り残されてきた二人だったから。
一人でガラクタになるよりも二人でガラクタの山に身を投げていた方が寂しくなかったから。
ただ都合良く消費し合うだけだったから。
間違いばかりを犯してしまった。
もっと、ミュゲイアの思考が真っ当であったのなら。
母親のように彼を諭し抱きしめることが出来ていたのなら。
こんなにもほろ苦い知らない味を舌で転がすこともなかっただろう。
いつも、目先の甘いもので口直しをしてしまっていたから、きっと二人ともそれに甘えていたのかもしれない。
もしも、この二人がオミクロンじゃなくてただのトゥリアドールとして関われていたのならもっと楽で不干渉で何も苦しくなかったのだろうか。
ドールらしく何も考えず与えられた幸せにだけに埋もれて、己の欲をさらけ出さずにいられただろうか。
お互いの首を絞め合わずともお互いの顔を見れたのだろうか。
トゥリアの脆く儚い手を汚し合わずにいられたのだろうか。
もっと、単純に愛せていたのだろうか。
オミクロンでさえなければ。
そう思うほどにミュゲイアはオミクロンであり、ブラザー・トイボックスというドールを理解することは出来ない。
分かってあげることが出来ない。
だって、この女は欲深く色情的で快楽に身を委ねるばかりの白濁としたドールであるから。
この淀んだ瞳ではもうブラザーのことをしっかりと見つめることもできない。
盲目な白は気づけない。
ブラザーのことを理解することも、愛することも、全ては白煙のようにボヤけてしまい、残った煤のような黒い感情だけがこべりついている。
どれだけ拭こうともそれは己の身を汚す行為。
限界はもうとっくにきていた。
きっと、二人とも。
汚れた箇所を着飾ってもそれを脱いでしまえばまた汚れが目立つばかり。
夜の間しか煌めく星を見れないように、夜ですら重たいベルベットの雲がかかれば星も見れないように二人とも綺麗なところしか見ていなかった。否、見ようとしなかった。
ギュッと爪がブラザーの肌に食い込む感覚に反吐がでて、触れている箇所が氷のように冷たくて、手を繋いでも迷子の二人では道が分からない。
ランタンは持っていない。
道標の星は流れてしまう。
一等星は二人を照らさない。
重たい雲だけがブランケット代わり。
また、夜の帳が濃くなるだけ。
お互いの姿も見えなくなるほどに。
嗚呼、あの時の記憶みたいだ。
いつの日にか見た激しい頭痛の囁き。
真っ暗な空間に二人、視界の遠くで燃え盛る北斗七星、瞬きをした時にはその情景は消えている。
嗚呼、何も知らないままなら良かった。 悪戯に知らない二人を見せないで。
身体を撫でるように煌めかないで、私の大事な北斗七星。
愛らしい尻尾で慰めないで。
きっと、簡単に身体が崩れてしまうから。
愛すらも分からない哀れな獣に成り下がってしまうから。
どうか、囁かないで。
このドールに愛も憎悪も抱かさないで。
愛する程に見たくなくなるのなら、愛を私に組み込まないで。
ただのお人形のように思考を奪って。
ただ、安らかな笑みを浮かべたままガラスケースで飾って。
この笑顔だけを切り取って、額縁に移して。
笑っているだけの楽なドールでいさせて。
寂しさは笑顔に変えて。
苦しみは微笑みに変えて。
笑っているのなら幸せという甘い思考のまま抜け出せない愚かなドールを抱きしめて。
情緒のブランコで揺らされて、ミュゲイアはまだ笑っていた。
だって、笑顔しか擬似記憶は教えてくれない。
大事な人は笑顔を求めていた。
涙も怒りもそんなものは誰もミュゲイアに求めていない。
貴方だけだった。
ミュゲイアに笑顔以外の妹という知らないものを求めるのは。
得体の知れない存在を求めて、困らせるのは。
痛いことも背筋を撫でる恐ろしい顔も。
全て、貴方が初めて。
私の初めてを奪って捨てた最悪のドール。
簡単に笑顔を見せてくれる都合のいいドール。
貴方の妹はとても難しかった。
けれど、貴方の妹でいることで貴方から一番笑顔を貰った。
貴方の難しい愛が私を苦しめた。
その愛は私にはとても重くて、羽を広げることも出来ないほどの小さな鳥籠であった。
「………バイバイ、ブラザー。また、笑って。」
さようなら、愛おしい笑顔。
さようなら、愛そうとした笑顔。
擬似記憶から抜け出せない迷子のドール。
傷の舐め合いしか出来なかったオミクロン。
取り残されてばかりのオミクロン。
可哀想なトゥリアモデル。
貴方にドールは辛すぎる。
求められたものに答えられない貴方にとってこの場所は地獄なのでしょう。
兄であることを求められないドール。
笑顔を求めるばかりのドール。
出逢う場所を間違えたドール達。
愛に飢えて愛に夢を見て愛に潰されたドール達。
きっと、また目を瞑れば幸せは瞼の裏にある。
がらんどうの頭の中にしか幸せを見れないドールたち。
いつもこの脳内は完成されていて、未完成なのはトイボックスという小さな箱庭。
海底に沈んだ楽園では息も難しい金魚たち。
番う事も友になる事も許されない二人。
掠れた声で鳴く白鳥はどこまでも醜く、幸せを呼ぶ白い小鳥は羽も広げられない。
死期はまだ遠い寂しがりな二人にさようなら。
未完成なモラトリアムで美しく鳴いて。
ブラザー・トイボックス、貴方に幸せを享受して死合わせになることを願ってミュゲイア・トイボックスは美しく笑った。
どうか、この愛憎で貴方が泡の様に消えてなくなれ。
最悪の気分だった。
こんなに気分が悪いのは珍しい。
何もやりたくなくて、全てが忌々しく、自己嫌悪ばかりが耳鳴りのように続いている。
ああ、そんなの毎日か。
「ふふ……」
もう誰も喜んではくれないのに、ブラザーは勝手に笑みを零した。一人きりになったカフェテリアは妙に広々と感じ、いやに背中が寒い。跡さえ付いてくれなかった手のひらを着いて、静かに立ち上がる。
思えば、二人を兄妹たらしめる記憶も証拠も、なにも無かった。もう何も、彼らには残らなかった。
壁や椅子を支えにして、簡易キッチンへ向かう。ぐちゃぐちゃになった顔を適当に水で洗って、ハンカチで拭いて。排水溝を流れていく水はなにも汚れていなくて、綺麗だと思った。けれどすぐ、裏に青い花がチラついて、水を止めてしまった。
割れるように痛む頭を片手で押さえて、足を引きずる。寮に戻り、一日中寝ていたい。しかし、彼には約束がある。自ら結んだ、重たい重たい縛りが。
「……ラプンツェル……」
さあ、ガーデンテラスに行こう。
爛漫と咲き誇る花壇に、今日も約束通り水をやりに行こう。
“おにいちゃん”は、弟との約束を破らないのだから。
あなたは両開きのガラス製扉を開いて、ドールズの箱庭へ踏み入る。
球形の天井からは、麗かな春の日差しが降り注ぐ。先ほど寮でも見た晴天が、一面に大きく広がっていた。
陽光を浴びて、テラスに敷き詰められた芝地と花壇に植わった可愛らしい花が咲き誇っている、が、花弁はやや渇いているように見えた。ちらほらと点在する真っ白なガーデンテーブルと椅子では、優雅にお茶会をするドールズの姿も見られた。
「あ、あっ……!」
足繁く通っている花壇が、いつになく乾いている。死霊のような足取りで歩いていた彼は、その様子を見るやいなや、目を見開いた。喉から掠れた声が飛び出し、ドタバタと重心を乱しながら走り出す。乱暴にジョウロを掴んで、水を入れて。重たいジョウロから水を零しながら、ブラザーは花壇の前まで戻ってきた。
ぜえぜえと肩で息をしながらも、丁寧に、丁寧に。ブリキのジョウロを傾けて、乾いた花々にたっぷりと水をかけてやる。爛漫と咲き誇る花壇にあの瑞々しさが戻るまで、ブラザーはそれを続けているはずだ。
「……平気、かな……」
再び水滴に花弁が輝き始めたら、ジョウロを半ば落とすように地面に戻す。重たいものを持ったからか、彼の白い手のひらはすっかり赤く線が入ってしまっていた。
念の為、水をかけられていない箇所がないか、ブラザーは入念に花壇の周りをまわってみる。頭の中には、この花壇を預けてくれた弟のことだけがいっぱいで、他のことなんて何にも考えていなかった。
ガーデンテラスに咲き誇る色彩豊かな花たちは、花弁と根の部分がわずかに渇き始めている。……無理もない。今のあなたは、精神的に追い詰められすぎている。ここ数日、実にさまざまなことがあった。他所ごとに気を取られるあまり、花壇の変容に気付けないことも致し方がない事なのだ。
だが間に合った。優しいあなたは花壇に水を撒いていく。水を欲していた生花たちは意気揚々と花開いて、恵みの雨を享受している。
エバーグリーンのじょうろは乱暴なあなたの手つきに従順に従っている。
あなたが花壇に向き直っているならば、その時。ふと、後ろから、さくさく、と小さな芝を踏む足音が聞こえてくるだろう。
その音は忍ぶようにあなたに迫って、水遣りに夢中になっているであろうあなたに、その手は伸びる。
「ねえ…」
少女の声で呼び掛けると共に、嫋やかなその手があなたの肩に触れるのと。あなたが気づいて振り返ること、そのどちらが早いだろう。
「………」
どこをどう見てみても、乾きは見られない。ブラザーは心の底から安堵の息を零して、強ばった肩から力を抜く。これで今日も、花壇は煌めいているままだ。
「ぁ、え……」
安心しきっていたのだろう。
少女の声に気づかなかったらしいブラザーは、ただぼんやりと宝石のような花々を見ていた。肩になにかの感触がして、間の抜けた声と共に振り返る。
きっと眼前にいる誰かは、陰鬱としたアメジストを鈍く光らせる白銀のドールと目が合うはずだ。放心したような、心ここにあらずなドールと。
あなたは心神喪失状態にあったのか、目の前の花壇に過集中するあまり、迫り来るドールの存在に気が付いていなかったようだ。あっさりと接近を許し、その肩に手が触れた時にようやくあなたは弱々しく振り返るのだろう。
まるでひどい乱暴を受けた少年のような傷付いた瞳は、かくして。あなたの背後に迫っていた、赤毛の少女の姿を捉えるはずだ。
オミクロンクラスに訪れたばかりのジャンクドール新入り、グレーテル。
ラズベリー色の熟した瞳があなたの衰弱した顔をそのまま写し込んでいる。
彼女は偶然立ち寄ったガーデンテラスで、顔見知りが途方に暮れている様子を見兼ねて歩み寄ったらしい。そういう風に感じられる、あなたを心から案ずる表情だ。
「……ブラザーさんだよね。大丈夫? 顔色が……とても悪いみたい。休むべきだよ、少し座ろう?」
彼女は以前会った時とは不自然なほど明瞭な声ではっきりと、冷静にあなたに休息を促した。
彼女の申し出にあなたはどう応えるだろう。
「……グレーテル……」
会いたくなかった、と素直に思ったことを、反省すべきだろうか。
ブラザーはまるで化け物でも見るかのように目を見開いて、僅かに後ずさる。震えた喉から絞り出された声は、それこそかつての彼女のように弱々しかった。
「ああ、えっと……うん、ありがとう。少し体調を崩していてね……」
ほんの少しの沈黙があって、ブラザーは1度グレーテルから目を逸らす。ぐずぐずに熟れたラズベリーの双眸と目を合わせる気にはなれなかった。しかし、妹と目を逸らして会話をすることなんて、ブラザーにはできない。悩むように目を泳がせ、最後にはやや気恥ずかしそうに微笑んでグレーテルの方を見た。
以前会ったときと同じように朗らかな笑み。穏やかなよく伸びる声。ブラザーはいつも通りだ。グレーテルとは対称的なまでに。
「大人しく休むことにするよ」
はは、なんて乾いた声と共に笑って、ブラザーは移動の姿勢に入る。グレーテルが呼べばそちらに行くだろうし、特に声をかけなければ空いている席に腰掛けるはずだ。
「体調が悪いの? 大変……すぐに先生に相談した方がいいんじゃないかな。いや、まずはゆっくり休むことだよね。」
いたましく衰弱した病人のような微笑みを浮かべる彼は、思わず手を伸ばしてしまいたくなるほどに儚い姿をしていたことだろう。今にも些細な衝撃で砕け散ってしまいそうなガラス細工。
グレーテルは指先を僅かに震わせて、眉尻を下げた。しかしすぐに、「こっちに来て」とあなたを誘いかけながら、ガーデンテラスの空いた席へと連れ立つだろう。
あなたが大人しく真っ白なガーデンチェアに腰掛けるなら、グレーテルも付き添いでその向かい側に腰を落ち着ける。
寄せては返す波のように不規則に揺らぐアメジストの相貌を、彼女は恐る恐ると見据えた。
「──ねぇ、ブラザーさん。さっき呟いてた、“ラプンツェル”さんって、……どなた?」
どうやら、花壇を世話する以前の追い詰められたつぶやきを聞かれていたらしかった。グレーテルはその人物が原因なのかと、真剣な瞳をしている。
「うん……ありがとう、きっと、少し休んだら大丈夫だから」
同じような言葉を繰り返す。
他に何を言えばいいかも分からないまま、ブラザーは大人しくグレーテルに着いて言った。途中、“ひとりで休むよ”と何度も言いかけてその度に口を噤んだのは、一体何が理由だったのだろう。
花々に囲まれたガーデンチェアに座った。鼻腔を擽るのは、いつだって甘い花の匂い。
────吐き気がする。
「え……」
ぼんやりと机の輪郭を眺めていれば、聞き馴染んだ名前が耳に転がった。ブラザーは思わず顔を上げ、愛おしい呪いの名に瞳を揺らす。不安定にさざめく双眼は、ぐるぐる彷徨った。定位置を見失った視線が、やがて自分の靴先にとまる。ジョウロを持ったときについたであろう土汚れが見えて、ブラザーは重苦しい息を吐いた。
「……弟だよ。
僕の大切な、かわいい…」
吐き気がする。
花壇をめちゃくちゃに荒らしてしまいたい気持ちと、そんなことを考える自分への殺意がグチャグチャに混ざっていた。
それでも目を伏せて薄らと微笑む姿からは、確かな愛情が滲んでいる。あのまろやかな声がいつまでも耳の奥で跳ねているのを、耳鳴りとは形容したくなかった。
……ああ、吐き気がする。
彼はいつもどっちつかずだ。
その名を口にしたとき、項垂れていたあなたの顔が糸で引かれたように持ち上がって。一時グレーテルのレッドアイと交錯した──ように見えただろう。だがあなたを見つめるグレーテルの瞳に対し、あなたは彼女を見てはいない。
その瞳はどこでもない場所を見ていたのだろう。存在しない弟の背を追おうとして、結局どこを見ることも叶わなかったような。不自然な間を空けて、またしてもあなたの眼差しはぽとりと落ちてしまう。羽を失った天使のようだ。
「……そうなの? わたしには分からない。どうして大好きな弟のことを話すのに、そんなに辛くて苦しそうなの。理解出来ないよ。
愛しい大切な弟のことを想うときは、幸せじゃないといけないんだよ。わたしは幸せ。ヘンゼルのことを考えている時が一番嬉しい。
だってわたしはあの子のおねえちゃんなんだもの。」
グレーテルはあなたに対して、素直に思ったことを述べた。弟への偏愛を述べていた彼女の姿を見ているあなたは、その言葉がいかに歪んでいるかも分かるだろうが、それでもこの言葉は臓腑を抉るような無神経さを帯びるのではなかろうか。
「──あなたは違うの?」
グレーテルの瞳に毒気が帯びる。それは純粋な色をしていた。
「───」
ぱくぱく。
魚が喘ぐように口を開いて、ブラザーは目を見開いた。
今度こそ、二人の視線は交わる。
どれほど歪んでいようと確かに存在する姉の愛情。それに輝く赤眼に、薄情な利己主義者は射殺された。死ぬ間際のスローモーション。走馬灯すら脳を駆けた。思い浮かんだ愛おしい思い出たちが手のひらから零れ落ちていくなかで、ブラザーはどんな顔をしていただろう。それはそれは、死人のような顔をしていたのだろう。
大切な弟。大切な妹。
あの子たちのことを考えているとき、自分は何を思っている?
本当に、なんの濁りもなく、愛情だけだと言えるだろうか。
答えは誰より、自分が知っている。
ああ、はやく。
はやく、棺を、誰か。
「へ、ん、ぜるは?」
今すぐにでもこの話を終わらせたくて、詰まった喉から無理矢理に音を吐き出した。カラカラに乾いた喉は、息を吸う度に切り傷ができたように苦しい。
質問には答えなかった。答えられなかった。とても、答える資格がなかった。
「ヘンゼルは、いないの? 君だけ、このクラスに来たの」
突然、随分と嫌味な質問を。
グチャグチャにすり潰された足では、もう遠くまで逃げられない。
グレーテルは、今しもあなたの首に手を掛けていることなど。その釜戸に、あなたの細い背を突き飛ばそうとしていることなど、考えもしていない無垢な顔であなたに真っ直ぐと突き付けた。鋭利な言葉の刃を。
グレーテルはあなたの抱えているものなど知らない。どれほどの重石をその内側で抱えて、擦り切れ掛けているかなど知らない。だからこそ、姉である彼女には、兄である彼の葛藤など理解は出来なかったのだ。
彼女は唯一を愛し、あなたは博愛する。抱えているものの重みが違う時点で、あなたとグレーテルの前提条件は違う。しかしあなたの憔悴した心は、そのことに気づかず己を苛み続けるのだろう。
グレーテルの、煮詰まったストロベリージャムのとろける瞳が、瞬きした。
「ヘンゼルは来ないよ」
グレーテルはうっそりと微笑む。
「ヘンゼルはわたしなんかと違って、落ちこぼれじゃないもの。……今は、まだ。」
やや含みのある言葉だったが、グレーテルは以降、ヘンゼルについて触れることはなかった。
それよりも、と前向きして、あなたの顔をじっと見据える。
「ねえ。あなたのことが心配だよ。だってどう見ても、普通のドールがするような顔色じゃなかったもの。何か困ったことでもあった……? それはラプンツェルに関係すること?」
「……そう」
歪で、不可解で、奇妙な愛情。
ドロリと粘着性のあるソレに、ブラザーは低く頷いた。毒々しいレッドアイが愛情に蕩けているのが見たくなくて、遠い目で花壇を見つめる。花弁を滴る水が偽物の光に照らされて、キラキラと美しく輝いていた。
続く含みのある言葉に違和感こそ覚えたが、ブラザーは何も言わない。それを聞き出すために思考を巡らせるのは、まだ彼には途方もないほどに億劫だったから。
視線がこちらを向いているのが、見なくてもわかった。自分がヘンゼルの話を広げなかったからだろうに、同じ話が戻ったことにため息が出そうになったのは、あまりにも傲慢だ。
横を向いたまま、ブラザーの乾いた薄い唇がゆっくりと開く。何を言うか迷うように目を伏せて、やがてグレーテルの方を向いた。軽く小首を傾げ、甘く微笑んでみせる。
「ごめんね、思ったより具合が悪いみたいだ。心配かけちゃったね。
ラプンツェルは何も関係ないよ。これはただ、僕が勝手に苦しんでるだけなんだ」
だから、あの子は何も関係ないんだよ。
一体誰に念を押しているのか、本人もあまり分かっていなかった。少なくともブラザーは以前のように、ただ今だけは、にこやかにそう告げた。
「……そっか。オミクロンクラスにいて、みんなからジャンクって後ろ指さされて……ヒトに仕える為にお披露目に出る夢も遠のいて……そしたら焦るし、きっとフラストレーションも溜まるよね?
わたしも……焦ってるんだ。いつもどうにかしなきゃ、なんとかしなきゃって考えて……それで、わたしのやることなすこと全部、物事を悪い方向に向かわせちゃって。ヘンゼルともそのせいで上手くいかないんだって、分かってるんだけどね」
グレーテルは一時浮かべた熟れた柘榴のような歪んだ微笑を瞬く間に拭い去ると、今度は一転、等身大の乙女のように、真っ当な姉のように思い悩む表情を浮かべた。
彼女の抱える悩み事は、以前彼女があなたにぶちまけた時と全く同じものらしかった。どうにかしたいともがきながら、自分の判断はいつも間違いで、より悪路の方へ舵を切ってしまうのだと。
「──でも今度はもう間違えない」
しかし彼女はその後、以前の気弱な彼女では考えられないほどに鋭い目付きになって。そして異様な、低い声で囁いた。
鉄塊よりも重い言葉だった。
「あなたも間違えないといいね。……がんばってね、応援してる。ちゃんと休んだら、先生にも相談しないとダメだよ。」
彼女の様相は目まぐるしく変わったが、もうこの頃には初めの頃と同じ、にこやかな笑みに戻っていた。
あなたにそう一言言い置いて、グレーテルは席を立つ。「付き添ってあげたいけど、わたしも勉強しないといけないから。……またね」と静かに別れを告げて、彼女は植物園を去るだろう。
「………」
グレーテルは進んだのだ。
それがどんな方向であれ、彼女は足を踏み出したのだ。
自分とは違う。
覚悟の決まった声に気が遠くなる感覚がして、ブラザーは死んだ魚のように口を半開きにし、黙っていた。
やがて、グレーテルはいなくなる。地面を踏む靴の音と風の音が混ざり、印象に残る赤毛も見えなくなった。
「……間違えない」
───あなたも間違えないといいね。
……皮肉だろうか。
だとしたら傑作だ。おかしくておかしくて、笑い死んでしまいそうになる。
「……僕は、もう」
何が間違いかも忘れてしまったよ。
……席を立った。
星がまだ見えないことに、心底安心した。
《Felicia》
篠突く雨の降りしきるトイボックスの学生寮。立ち込めるのは、思わずため息を零しそうなくらいに隠隠な様を見せる湿気だった。
ウィスタリアの少女は、しっとりした髪を震わせてラウンジ内にて物語を読みふけっていた。
柔らかなソファの上で、ただただ事務的に切れ目ない文字を追っていく。……しかし少女は、徐々にその行為に飽きてくる。途端にぴょこんと身体を跳ねさせ、ぽふっという軽い音と共にクッションに顔を埋めるのだった。
「はぁあ。つまんないの〜〜……。」
元気も出ないしやる気も出ない。
湿気に精神までやられてしまったのだろうか。
深い深いため息がひとつ。
つまらなさげに1400ページもの本を見やる。半分くらいは覚えられたのだろうが……これ以上読む気にもなれず。はたまた動く気にもなれず。ひとりきりのソファに全体重を預け、膝に置かれた本の代わりに、手繰り寄せたクッションを抱きしめていた。
かたん、扉の開く音。
柔らかな雨粒が窓を叩く昼下がり。分厚い雲が空を覆い、活発なトイボックスに静かな時間を降り注いでいる。
曇り空のラウンジはいつもより心做しか薄暗く、その中心にいるウィスタリアの太陽もまた、曇っているように見えた。
「……フェリシア?」
人のいないところ。人のいないところ。人のいないところ。
そればかり考えて彷徨っていた白い抜け殻は、クッションを抱くフェリシアに声をかける。正確には、声をかけるというより名前が口から零れた、という方が正しかった。彼女がこんなところにいることに驚いているのか、大きな瞳は緩やかに見開かれている。雨の音に掻き消されそうなか細い声を出したかと思えば、ブラザーは穏やかに微笑んだ。いつもの通り。いつもの通りに。
「一人かい? 珍しいね。
こんなところでどうしたの」
人のいるところに大抵いるお喋りな“おにいちゃん”の姿を、きっと貴女は久しぶりに見るだろう。全員集まらなければならない食事の時間しか、彼は人の多い共有スペースに来なかったから。
《Felicia》
ふと、開いた扉から差し込む光に視線を向ける。鷲掴みにされて変形したクッションが、数秒の時間をかけて元の形を取り戻した。
驚いたように立ちすくみながら名を呼ぶ貴方の姿が、あまりにも弱々しく見えてしまったから。
容赦なく窓を濡らす横なぐりの雨が、何かを知らせるように叩いて叩いて……叩いて。暖かな照明の下で、ぬるい温度を上昇させているのだった。
「や、やっほー? 久々にブラザーくんの顔を見た気がする。雨の日で遊べないから、本を読んでたの。
だけどちょっぴり飽きちゃって。」
脱力しきった身体に、ほんのりと呆れたような微笑みを表情を浮かべる。「かといって動く気にもなれないんだよね。どうしたものか〜」なんて言いながらソファに沈み込むのだった。普段の“おにいちゃんを名乗る”貴方なら、真っ先に隣に来てもいいかい? なんて少女に聞くだろう。違和感はそれだけではない。明らかに普段と様子が違っていることを感じていた。同時に少なくともその違いは、良いものではないだろうということも。
「……雨の日って気分が落ちちゃうよね。雨の日じゃなくても、最近は色んなことがありすぎだし。
……ねぇ、ブラザーくんは、ちゃんと眠れてる? ふふ。私の勘違いじゃなければ、目の下に森のくまさんがこんにちはしてるように見えるけど。」
もし彼が疲れているのなら、膝枕か何かしてあげよう。取り繕われて、もし疲れていないと返されればそのときは────
そうだ、一緒にあれをしよう。
今日は雨だ。じめじめしている。ガラスにもうひとつ、大粒の水滴が付着した。
「ふふ、フェリシアはみんなで遊ぶ方が好きだもんね」
ぽふん、と軽やかな音と共にフェリシアの姿が再び消える。それをぼんやりと見つめ、ブラザーは柔らかく笑った。甘やかなテノールは、もう雨音に負けない伸びをしている。いつもの通りに。いつもの通りに。
「僕? 僕はもちろん大丈夫だよ。ただ少し、体調を崩しちゃって。ほら、最近雨が多いからさ。
それより、フェリシアは大丈夫? 疲れてるよね、ご飯はちゃんと食べられてるのかな。何かあったら、なんでも……なんでも、おにいちゃんに、言っていいから」
いつも通り。いつも通り。いつも通り。
貼り付けた仮面が剥がされそうになって、少し上擦った声が出た。信じられないというように聞き返して、それから安心させるように微笑む。いつも通り。軽く視線を横に流して言い淀み、やや気恥ずかしそうにまた口を開いた。困ったように眉尻を下げて、冗談めかして肩を竦めてみせる。いつも通り。
すぐに話を終わらせて、ブラザーは不安に瞳の色を変えた。寄り添うように甘く囁き、ほんの僅かに口篭り、いつも通りの口上を口にする。
いつも通り。何もかも。
妹を心配するのが、“おにいちゃん”だから。
……フェリシアを心配するような言葉をかけながら、彼女の元に一切近づいていないのは、一体どういうつもりなんだろう。
足を縫い付けられたみたいに、ブラザーは扉の前から動かない。
《Felicia》
ブラザーくんから発せられる普段どおりの心地の良い音色。楽器に何かしらの不備があるのに、それを全く感じさせない必死な音色。 “おにいちゃん”であることが彼の信念ならば、その享受を否定する者は居ないだろうに。しかし、フェリシアは完璧に客観視できた訳ではなかった。それが唯、自身の享受である“ヒーロー”に通じるものだから。
「……ありがと。とっても心強い。
何かあれば、ブラザーくんに“また”頼らせて欲しいな。その代わり! ブラザーくんも何かあったら私に頼ってね? 何事も一瞬で解決できちゃうヒーローにはまだなれてないけど……一緒に考えて、苦しんで、背負うことくらいはできるから。
貴方も私も、一人じゃないから。」
いつも通り。フェリシアは労いの言葉をかける。今のは無し、なんて言えない言葉だらけ。希望溢れる言い分ばかり。言えることと言えば、それが彼女の本心であること。くすみかけのペリドットの瞳は、恐いくらい真っ直ぐに貴方へ向けられている。相手の表情から何を感じているのかを知るために、じいっと観察している。
ちぐはぐな言動を繰り返す貴方。少女はエーナだった。気になった相手は尽く分析をする。その結果彼が、自分の湧き出る感情に心も身体も追いついてないのかもしれないといった結論を出した。ままならない状況下で身動きができないのかもしれない。
貴方から目を逸らした少女はふと思いついたように立ち上がる。
先程まで食い入るように見つめていた貴方には目もくれず、足を進める。その目線の先にあったのは雨に打たれた窓ガラスだった。
「さてさて、暇で何にもしたくないから、ブラザーくんにフェリシアクイズを出す時間といこうかな。」
曇ったガラスに、ついっと細い指を滑らせた。まあるく縁取られた線は描きたての別の線に繋がり、貴方もよく知るだろう形が作り上げれていく。熊のような形ができたら、その耳の部分には目となる点をひとつずつ。ファンシーなカエルの出来上がりだ。
「ふふ。みてみて! これ、なぁんだ?」
近づかなければ、それがどんな形かは確認できないだろう。
貴方も私も、一人じゃない。
無責任で無防備な、ただ投げるだけの眩い希望。少し前なら自分だって吐いた綺麗事に、極限まで弱りきったブラザーは瞳を輝かせた。暗い絶望を湛える夜空のような紫水晶に、きらりと星が流れる。
────いいの?
背負いきれないもの全部、渡してしまっても。
背負いたくないもの全部、押し付けてしまっても。
前に進むその隣から逃げて、家畜のような平穏に浸っていても。
全部、いいの?
……いいわけないだろ。
「うん、ありがとう」
見つけた星は、許されない輝きだ。
願いを叶える流れ星でもなんでもなく、きっともうすぐ墜落する人工衛星。
明かりのない夜を瞬かせて、ブラザーは笑う。星屑を編んだような白銀が湿気を含んで揺れるのが、いやに不愉快だった。
「クイズ? ふふ、いいね。
なにを描いてくれたのかな」
にこにこ、いつも通り。
酷く重たそうに足を動かして、小さな歩幅でブラザーはようやく動きだした。のんびりとした足取り、と言うには悠長すぎるそれで、フェリシアの少し後ろにまで向かう。水が垂れるガラスに描かれた可愛らしいカエルに気づけば、ころころ弾んだ笑い声を出した。
「カエルさんだ。かわいいねぇ」
《Felicia》
「…………どういたしまして?」
取ってつけたような貴方の返答から、自身の言葉が全く響いてないことを悟った。どんな声掛けをしていいのか分からず黙りこむ。
これ以上彼を刺激するのは良くないだろう。フェリシアは相変わらず貴方の表情を見ようとしない。だから、ブラザーくんがどんな気持ちでその言葉を述べていたのか察することは難しかった。朗らかな会話を繰り広げているはずが、いつの間にか、崩壊直前の瓦礫を相手しているような、そんな緊張感が走っていた。迸るものではなく、じわじわと追い詰められているような、あの感覚。
背中に重たげな足音を感じる。
やけに時間がかかっているように感じたのは、気のせいだろうか。
ガラスに触れた指先が、結露に滑ってずる、と小さな線を描いた。
カエルを見たブラザーくんは、おにいちゃんらしく笑ってくれる。安心させてくれる、頼もしく明るい笑顔。フェリシアはほんの胸を撫で下ろす。緊張して損したかも、なんて軽く目を細めた。
「そうでしょ〜! 雨の日はこんなイタズラができるからいいよね!
ね、ね、ブラザーくんも共犯者になろうよ! クイズ出して?」
人懐っこくせがむようにそんなことを言い出す。朗らかな笑顔の先には、貴方がいる。
「もちろん。何かこっかなぁ」
明るい声でクイズをせがまれ、ブラザーも口角を緩めた。爪の先まで美しく整えられた人差し指をピンと立てて、窓ガラスに指を添わせる。結露に冷えたガラスは冷たく、コアの熱まで奪っていきそうな気がした。それでも冷めないから乾いた笑みが零れてしまったが、気づかれていないと信じたい。
のんびりとした口調で悩むように目を伏せ、やがて指先が滑り出す。少し経てば、カエルの横にはデフォルメされた子犬が出来上がった。ピンと耳のたった活発そうな子犬の頬には、花のような飾りがついている。
「はい、完成。これなーんだ」
ブラザーは指を窓から離す。
それからフェリシアを見て、悪戯っぽく微笑んでみせた。
《Felicia》
あなたの快い返事に、少女の口角は更に上がった。興味の色に瞳を染め、あなたと窓ガラスをしきりに見やる。歳不相応で、わざとらしいとも言えるお茶目な動きに、あなたはどんな反応をするのだろうか。普段のおにいちゃんの貴方なら、今日はご機嫌だね、なんて言いながら微笑むはずだと少女の第六感が告げていた。自身も自覚なしに、フェリシアはあなたを試している。あなたの放った大丈夫という言葉が、ホンモノなのか。
「わんちゃんだ! ふふ。可愛いお花まで付いてる! “ブラザー”くんは絵が上手だね!」
これは、ちいさな、わるだくみ。
共犯相手は、今も楽しそうに笑っている。少女の第六感は無自覚に願っている。あなたが、ほんとうにいつも通りであることに。貴方の名前を呼ぶ声が変に大きく響いて聞こえるのは、おそらく気の所為だ。
「カエルさんと〜、犬さんと〜、ふたりだと寂しい気もするし、他にもお友達欲しいね! ね、もっと描いて描いて!」
まろい頬が、ふんわりと弧を描いた。
わざとらしく、いっそ芝居がかった動き。柔らかく微笑むブラザーには、当然フェリシアのことが見えている。彼女が幼いくらいにこちらの絵を楽しみしていることを、当然知っていた。それがいつもとは少し違っていることも、きっと、“おにいちゃん”なら気づけていただろう。
「ふふ、正解。フェリシアをイメージしたんだ」
結露に濡れた指先がずるりと滑る。
窓辺にまで指を落として、ブラザーは微笑んでいた。どこまでも甘く、何もかもを包み込んでしまいそうな笑み。いつも通りの、嫋やかなトゥリアモデルらしい笑み。
人形は、求められた内容以外を口にしない。フェリシアの機微にも、冷えた指先にも、希望する呼び方にも、一切。
兄弟を示すこの名前は、ブラザーにとってのアイデンティティである。名前の通りを体現していたのが、彼だったはずなのだ。
ブラザーはいつも通り。
なにひとつ、いつもと変わらない。
けれど、ちいさなヒーローの願いは、この瞬間に打ち砕かれた。
「そうだねぇ、何を描こうか。
描いてほしい動物はいる? フェリシア」
窓辺に指を置いたまま、ブラザーはにこにこ笑っている。描くものすら相手に決めてほしいようだ。
だってもう、彼は疲れてしまったのだから。
《Felicia》
今しがた大袈裟に目を輝かせる少女と、それらを受け入れ穏やかに微笑む少年。それは、雨ふりの昼過ぎに綴られる心温まる優しい情景……などではなかった。少女は、あなたを見定めるために大きな瞳を離さない。そのペリドットには一切の躊躇いがなかった。
「私ってこんなイメージなの? お花のついた……わんちゃん?」
随分とあっけからんで呆けた台詞を返す。あなたの安心感を与えてくれる微笑み。“ブラザー”という名に相応しい、いつも通りの。
無条件に振りまくトゥリア特有の心地よい温度。相手に怪我をさせない、真綿のような柔らかさ。
しかし、それ以外はいつも通りのあなたとはかけ離れた全くの別人であった。エーナモデルとして、自身の精神に叩きに叩き込んだ、相手の感情を読み取る術たち。
彼女のそれら第六感が異常事態を通告していく。
「……ブラザーくんの、自分で考えたあなたイメージの動物を描いて欲しいな! わんちゃんの隣に描いて〜!!」
ひとつ。相手の精神状況を推し量るには様々なやり方があるが、この場合は第三者目線で自分を表現して貰ったほうがいいだろう。
描けないのなら、“それまで”であるから。フェリシアは一貫して明るい表情を崩さない。先程まで雨に鬱屈した表情を零していたというのに。今はそれに相対するように、対話に優れたエーナモデル特有の快活な笑顔を向けていた。
ブラザーはいつも通りを貼り付け、激しい思い込みによって平常心を保っている。兄の皮を被り続けた彼は、それをソツなくこなすことができる。
しかし、彼は所詮トゥリアモデルなのだ。どれほど懸命に嘘を吐いたところで、対話能力に特化したエーナモデルには敵わない。いつかはボロが出てしまう。かの王子のように、大女優にはなれない。
だから、ほら。
「僕、の?」
こんなにも簡単に、“ガワ”が剥がれる。
「そっ、か……ふふ、難しいなぁ」
ぎこちなく、笑う。
ぴくりと明確に眉が動き、ブラザーの口角はギギギと音でもしそうなくらい歪に吊り上がった。引き攣った微笑みを髪で隠すように、フェリシアから顔を背ける。毛量の増えた髪を耳にかけることも無く垂らして、曇った窓に向き合っていた。じっとりと、嫌な汗が背筋を伝う。
自分をイメージする動物?
飼い殺される家畜。大きな水槽の中の金魚。踏み潰されるだけの雑草。
駄目だ。こんなの描けない。
もっと、もっと、もっと、いつも通り、いつも通りの、僕の、僕らしい、おかしくない、なにか、なにか、なにか、なにか!
……。
「……どうかな?
フェリシアのおにいちゃんだから、僕も子犬さんにしてみたよ」
僅かに震えた指先が描いたのは、ぐにゃりと歪んだ線に包まれた子犬のイラスト。タッチはファンシーで可愛らしいが、隣に描いた妹たるヒーローは、もうすっかり結露に消えてしまった。窓を伝う雫が窓辺に落ちて、ブラザーの顎を伝う冷や汗も地面に落ちる。
《Felicia》
「……ねぇ。もう、いいんじゃないかな。ブラザーくん」
見上げた先でそおっと響いたのは、湿度の高いラウンジ内でぽつりと呟く少女の声。隣には滴る脂汗と、強ばった表情を浮かべる美しい少年ドールの姿が。彼のキャパシティーはとっくに限界を迎えていたのだろう。無意識だったとはいえ、そのような表情をさせてしまったことに少女は今更ながら後ろめたさを感じていた。
「いいんだよ? いつも通りじゃなくても。何があったのか知らないけど、私はブラザーくんの選択を……存在を絶対に悪く言わないから。頑張ってるって分かってるからその重荷を少しくらい分けてくれたっていいんじゃない。ずっと、背負ってきてたんでしょ?」
しっとりした紫髪を耳にかける。少女が再びなぞらえた窓ガラスには、あなたが描いた貴方イメージの犬のイラストが。少女ドールのイラストには一切の歪みがない、まぁるい線で作られたコミカルな犬のイラスト。しかし、その表情は曇っていた。フェリシアの描いたあなたは、口をへの字に曲げて結露の涙を流している。
「休んで、いいんだよ。
貴方はひとりで戦ってるわけじゃないんだから。オミクロン全員で戦ってるんだもん。」
フェリシアは穏やかに笑ってあなたを一瞥すると、悲しそうな貴方のイラストの周りに、四葉のクローバーのイラストをひとつ、ふたつ、みっつ。
「何もしたくない? ……いいんだよ。
いいんだよきっと。ブラザーくんはきっと頑張りすぎたんだから。
でも、全部を捨てて諦めたいだけはダメだから。それだけは私が、嫌だからね。」
「……僕は」
白い肌に睫毛で影が落ちる。
他のモデルよりも美しく柔らかくあることを求められた人形は、張り詰めた悲壮感の中であろうと彫刻品のようだ。生気を失って、ようやく完成する永久の芸術。それに、限りなく近い。
ブラザーはいつになったら、永遠の美しさを手に入れられるのだろう。都合のいい甘さと肌触りの良さなら、ずっと前から持っているのに。
人形は曖昧に微笑んだ。
濁った紫水晶は細められ、フェリシアの足元辺りを見ている。
「僕は、そんな言葉をかけてもらえるような人形じゃないよ」
ブラザーは分かっていた。
自分がどういう人形か。
自分が、何をしてきたか。
「ありがとう。フェリシアは優しいねぇ」
貴女の“おにいちゃん”は、いつだってそうだった。
馴れ馴れしく関わってくるくせに、いつも一方的で。どんな関係を結ぼうとも、それは彼の中で兄と妹に変形する。
愛に満ちた薄膜の拒絶。
薄く薄く張られたソレは、何を持ってしても突き破れない。
彼にとって万物は、彼が守るべき弟妹だ。
だから誰にも縋らず、誰にも頼らない。妹や弟の手を借りることなど、“おにいちゃん”にあってはならないから。
彼が、ジャンクドールだからか?
いいや、そうではない。
『Brother』は、トゥリアモデルの優秀なドール。
ヒトを慰め、愛し、共に生きるための傀儡。
慰められる機能なんて、ついているわけが無いでしょう。
「大丈夫。僕、まだやれるよ」
彼に、友人はいない。
彼に、相棒はいない。
彼に、恋人はいない。
いるのは、偶像じみた家族だけ。
花壇に吹く春風のようにふわりと微笑む姿は、いつより“いつも通り”の“おにいちゃん”だった。
《Felicia》
「そっ……かぁ。」
ちょこんと佇む影に、少年の姿が映し出される。その姿は息を飲むほど美しく芸術的で、どこまでも冷え冷えとしていた。生気を何処かに忘れてしまった、虚無に塗られたお人形さん。同情のしようがないくらい惨めな、迷子の迷子のおいにちゃん。貴方の心はどこですか。
こころをきいてもわからない。
いばしょをきいてもわからない。
ないてばかりいるおにいちゃん。
フェリシアはつい軽く吹き出してしまった。色々話をしてきたが、貴方から後ろ向きな言葉を聞いたのは初めてな気がするから。
「くふふ、ふ。それじゃ、私も“そんな”人形の一人だよね? あ! 違うとは言わせないから! 出来損ないで、オミクロンで、すぐ落ち込んじゃう甲斐性がない落ちこぼれ。」
残念ながらフェリシアは犬のおまわりさんではない。困ってしまってわんわーん、なんて泣けやしないし、泣くどころかすったもんだで笑い飛ばす。途方もなく愚かなヒーローだった。
「あっはは! いっしょだね!!」
在り来り、……いや、見慣れてきたはずのおにいちゃんの笑顔。
そういえば、初対面でおにいちゃんを名乗られたっけ。
相対するそのヒーローは、どんなに拒絶されようとも、一も二もなく渦中に飛び込んでしまう、大分お節介でちょっぴり鬱陶しい、太陽に照らされた人形だった。
助け助けられながら成長していく、貴方の妹らしかった。
『Felicia』は、エーナモデルの平凡なドール。
快活で、明瞭で、相手を慰め上を向かせるのに適したモデル。
離してなんかやるもんか!
「ブラザーくんの頼りがいには際限がないなぁ。じゃあ、さ! ブラザーくんにもトイボックス調査隊に入ってもらおうかな!
調査隊としての位置づけは妹とか弟じゃなくて“同士”だから、辛い時はおにいちゃんとしていなくていいよ! ブラザーくんがおにいちゃんで居たいときはそうして貰って構わない! でも、安心して誰かに寄りかかれる口実ができるよ!」
名案! と言うように頬をゆるませるのは、ほんのちょっとは頼りになりそうなヒーローだった。
眩しいな、と。
素直に思った。
愛おしいとも、思った。
「ッ、違う!!!!」
だから、こんなにも強い声が出た。
ラウンジの床を踏みつけ、ブラザーは1歩前へ出る。気持ちの勢いに押されて、体が前のめりになったみたいに。さらりと銀糸のような髪が揺れて、ハッキリ否定を映すブラザーの両目がよく見える。吹けば飛びそうなほど華奢な体には似合わないほど、双眸には強い感情が漲っていた。相変わらず曇天のように陰っているくせに、煮詰めすぎたジャムのようなあの愛情がまだ残っている。残っていた。
「違う、フェリシア、違うよ」
震えた声に込められているのは、怒りだろうか。或いは、深い悲しみかもしれない。
ブラザー自身も気付かぬうちに、彼の手はフェリシアの手首を掴んでいた。エーナモデルよりも高い体温が、更に上昇している。手首を握る手は力を入れすぎて白くなり、いくらトゥリアの握力とはいえ僅かに痛むだろう。
いつだって、頭を撫でるかその頬を撫でるかしかしなかったのに。
「君は素敵な子だよ。
僕みたいなのとは違う。君はいつも一生懸命で、いつも真っ直ぐで、みんな、みんな君に勇気をもらう。みんな君のことが大好きだよ。出来損ないなんかじゃない。落ちこぼれでもない。フェリシアは頑張ってるよ。君は何も悪くないよ。
僕とは違う。君は、違う。
違う、違う、違う、違う!!」
もう一歩、体が前に出た。
ぐっと距離を詰めて、ヒーローを、フェリシアを見る。
ブラザーにとって、フェリシアはヒーローではない。
どれほど彼女が笑顔を浮かべ、探検隊として謎に飛び込み、誰かと共に生きる純欄の陽だまりだとしても。
かわいい、かわいいかわいい、大切な妹だ。
「撤回して。今、今すぐ!」
きつく眉を寄せる。
光度を亡くした紫水晶は今にも泣きそうなくらいに高ぶって、フェリシアだけを見つめていた。
きっと、多分。
怒っていたわけでも、悲しんでいたわけでもないのだ。
ただ、貴女の独りよがりな“おにいちゃん”は、そんなふうに思わないでほしいと願っている。
そんなふうに言うフェリシアに、フェリシア以上に傷ついている。
貴女は、彼がここまで激しい自己嫌悪に陥っていることを初めて知るはずだ。同時に、それに勝るほどの愛情を、今も持っていることも。
《Felicia》
掴まれた手首がツキリと傷んだ。柔らかく包み込むためのトゥリアドールの腕で、今彼は逆上を顕にしている。喧嘩まがいのことは出来るだけ避けたい……が、これだけの熱情を持った彼に舌触りのいい言葉を並べても無駄だということは分かっていた。
「やだ!」
それは、やけに子供じみた否定だった。
「何を言われようと撤回しないよ! 手を離して! 痛い!!」
アストレアちゃんだったら、全てを受け入れて微笑むのだろうか。ミシェラちゃんだったら……まず、私のようなことは言わない筈だ。
マスカットジャムを溶かしたような瞳があなたを強く見咎める。
掴まれてない方の腕をあなたの後頭部に添えると、自身の方にぐっと引き寄せるのだった。“逃がさない”と言うように、強く、強く。
「ブラザーくん、私を見て。私の目を見て。
いい? 私は、あなたの可愛い妹なのかもしれない。だけどね、私が好きで大切にしたいのは、おにいちゃん以前にブラザーくんなの。今までの行動が、おにいちゃんであるあなたでしか無くとも、私の仲間はずっとブラザーくんなの。
………分かる!?」
言葉言葉はいつになく刺々しく、それでいて感情的だった。冷静に会話できるエーナモデルらしからぬ動き。眉は釣り上がり、見通すペリドットはぐつぐつと煮詰まっている。
はーっと大きくため息をつくと、あなたから目をそらすように頭を落とす。そのままの体制を維持したまま、ギリギリあなたに聞こえるくらいの声量で、ぽつり、ぽつりと呟き始めた。
「正直、あなたから貰った分の愛情を返せる自信は、ないんだ。
覚えてないかもだけど、噴水で話したことあったでしょ。あの時、凄く救われたの。良かったぁって思ったの。ブラザーくんの優しさに、甘えに甘えてた。矛盾するんだけど、ヒーローとしてじゃなくて私を見てくれたこと、本当に嬉しかったの。ぼろぼろだったから有難かったの。」
頭を垂れたまま、「ありがとう」と天邪鬼に言うのだった。
「だから、私は大事にしたいの。
おにいちゃんとして頼りになるあなたも、弱いあなたも、どちらもブラザーくんだから。私にとってあなたは、心から大切な仲間だから。辛いときに傘を差し出してくれたあなたが傷ついているのなら絆創膏を貼ってあげたいの。自己判断で、意思で、抱きしめてあげたい。あなたはひとりじゃない。」
そう言って上げた顔には放漫な笑顔が。そのままそっと、あなたの髪を撫でることだろう。
「……ずっと強くなくていいんだ。ブラザーくんが、大好きだよ」
ペリドットのギラついた光が、こちらを見上げている。思わず舌打ちさえ出そうになって、ブラザーの顔はぐしゃりと歪んだ。
どうして分かってくれないの。
言外に伝える痛ましい視線が、ただ真っ直ぐにフェリシアを見ている。
ブラザーは甘い。
ただただ甘いだけの、砂糖の塊。見た目を飾るだけのマジパン。柔らかな言葉を紡ぐだけの木偶の坊。
中身がスカスカのまま運良く生き延びた彼は、誰かの首を締めることもできない。自分のだって、締められない。
「ッあ、ごめ」
痛い、とフェリシアが言い切れば、ブラザーは慌てて手を離す。自分のしたことに驚くように目を見開き、一歩後ろへ下がろうとした。ふらついた頼りない足よりも早く、ウィスタリアの光が頭部に触れる。器だけの抜け殻は大人しく引き寄せられ、ギラギラ焼き尽くされてしまいそうな光と目が合った。
眩しい。愛おしい。
……怖い。
眩しさに向き合いたくない。
そんな資格はどこにもない。
光の射す方には行けない。
その手を取ることはできない。
なのに。
それなのに、どうして。
「ふぇ、り、しあ」
何度拒んでも、何度笑っても。
柔らかくて強固な薄膜に触れて、手を伸ばして。
髪を撫でられる感触。
耳に滑る言葉は、もうずっとブラザーが言えなくなってしまった愛だ。
それは呪いである。
ブラザーにとって、妹からの愛情という、何より重い呪い。
疲れた。
もう、疲れたんだ。
この手をとりたい。
とって、そして、もう。
「じゃあ、じゃあさぁ、教えてよ」
髪を撫でる腕を掴んだ。
なんの力も入っていない、添えるだけの手。拒めば、簡単に逃げられてしまうような手。
くしゃりと服を掴む彼は抱き締められたまま項垂れて、泣きそうな声で呟いた。いつの間にか冷えきってしまった指先は、もう貴女よりもずっと冷たい。
「どうすればよかったの?」
言葉は冷たかった。
お前のせいだと責めているようでもあり、自分のせいだと謝っているようでもあった。
「どうすれば、僕は、僕ら、ずっと笑い合ったままでいられたの?」
ぐ、と。
空っぽの頭がフェリシアの肩口に落ちる。それに連動するように、腕を掴んでいた手がずるりと滑った。力無く垂れ下がり、体の横ついている。
「……カンパネラが悪いよ」
雨音に消える囁き。
ぴたりとくっついた貴女にしか聞こえない、膿んだ傷口の嘆き。
「柵なんて越えるからこうなったんだ。ロゼットも、ドロシーも、ジャックも……みんな、みんな酷いよ。
ソフィアだって……プリマドールのあの子たちが、勝手なことしたから。何も知らなければ、ずっとこのままだったじゃないか」
トン。
優しく、フェリシアを突き飛ばす。後ろに下がったのはブラザーの方だった。
「アラジンになんて会いたくなった。天体観測なんてしたくなかった。
ヘンゼルにだって、グレーテルにだって……ラプンツェルだって! あの子たちがいなければ、こんなことにならなかったんだ」
長い前髪に隠れて、顔は見えない。
ぱらぱらと頬を伝う雫は、雨ではないのだろう。
「嫌い、嫌い……!
みんな嫌いだ、大っ嫌いだ。みんなみんな、全部間違えたんだよ」
大っ嫌い。
はやく死んでしまえばいいのに。
「君は勝手だよ。勝手に希望だけ見せて、アストレアだって結局お披露目に行ったじゃないか! 君のせいだ、君が、君が守れなかった! 僕は悪くないんだ、きっとそうなんだ」
悪夢を払うように、顔を左右に振る。
先程よりも雨は強さを増して、ざぁざぁと嫌な音が鳴り出した。
「あっち行って、もう来ないで!
僕に近づかないでよ!
僕が死ねばいいんだろ、全部! そうだって言いなよ! 言えってば!!
ていうか、なんで早く殺してくれないの!?」
ぐちゃぐちゃ。
まとまりのない言葉をひたすら重ねた。
正しい頼り方すら分からないから、ブラザーはただ感情を爆発させる。決壊してしまったそれを乱暴に、フェリシアに叩きつける。
「うえっ、え、うああっ……ごめんね、ごめんね、フェリシア……こんなおにいちゃんで、ごめんね……」
ブラザー貴女に口を挟む隙を与えぬまま、一人で怒鳴り一人で泣いた。誰かのせいにしたくて、自分のせいだと思い込んで、そうして自分も周りも傷つけて。
呪って、呪って。
最期はきっと、ひとりぼっちだ。
「君にはもう二度と会いたくない」
逃げるように部屋を出る。
どうか追いかけないで。
どうか忘れて。
君を愛した『Brother』を。
もういなくなってしまった、薄膜の“おにいちゃん”を。
《Rosetta》
夕刻、オレンジの光球が傾き始める頃。
ブラザーが戻ってくるのを、ロゼットは玄関で待っていた。
それは存外早い帰りかもしれなかったし、時間ギリギリの遅い帰宅だったのかもしれない。
とりあえず、まだ可処分時間が残っていた頃としよう。それくらいに、彼女の“おにいちゃん”は帰ってきたのだ。
「おにいちゃん」
シルクの髪が視界の端で揺れる。
赤髪のドールは目を見開いて、幽霊のような青年ドールに近付いた。
「あのね、聞いてほしいことがたくさんあるんだ。この前の発信器のことをジャックに話したり、ガーデンテラスに行ったりして、色んなことを調べたんだけど……」
拙い口調で、赤薔薇は捲し立てるように話しかけた。
話の調子自体はゆっくりしたものだ。遮るつもりであれば、いつでも遮ることができるだろう。
ただ。
今のブラザーには見えないかもしれないが、ロゼットの表情は少しばかり硬い。
不安げながらも、話しかけたいという心境が、美しいかんばせに強く現れている。
観察の得意な、優れたトゥリアドールであれば、きっと汲み取ることができるはずだ。
「……ロゼット……」
───疲れてるから、後にしてくれないか。
───頼るなら別の人を頼ってよ。
───あっち行って。
「……どうしたの」
陶器の肌を青白くしたブラザーは、きっと時間ギリギリに帰ってきた。ここ最近の彼は、人の多い共有スペースにいない。貴女と会うことだって久しぶりだし、だからこそ、ブラザーは無痛の裏側で僅かに伸びた赤薔薇をまだ知らなかった。
ぼそりと聞こえないくらいの声で名前を呼んで、少し黙って。ぐずぐずに溶けた脳みそが習慣で言葉を整理して、爛れた喉がアウトプットした。
ブラザーは貴女の様子に気づいているのだろうか。彼はただ一切の光を亡くした紫水晶に、無垢な赤色を鈍く反射しているだけだった。少なくとも玄関で足は止めたから、まだ対話の意思はあるらしい。それすらも、習慣かもしれないが。
《Rosetta》
「あ……のね、色々分かったから、おにいちゃんに教えてあげたいなって、思って。それだけなんだ」
ブラザーの様子がおかしいことは、よく分かっている。
それでも、ロゼットは上手く回らない舌を動かし続けた。
トゥリアの役割は、平たく言えばカウンセラーだ。
相手を観察し、心の不調を見つけ、やんわりと肯定しながらそれを癒す。
他者の発する些細なシグナルを見つけることは、きっとブラザーもロゼットも得意な方だったはずなのだ。
「まず……ジャックと会って、発信器のことと、私の擬似記憶の話をしてきたんだ。おにいちゃんに裸を見せるなって言われちゃったけど、まあこれは関係ないよね」
いつも以上に、話の順序がめちゃくちゃだ。
自分でそう気付きながらも、ロゼットは直すことができない。
リヒトと一緒に話したときのように、ブラザーが訂正したりしてくれるのを、無意識に期待しているからだ。
「上手く話さなきゃ」「ちゃんと伝えなきゃ」と思うほど、話はまとまりをなくしていく。
「それで、発信器のことはジャックも知らなかったみたい。多分、ドロシーも知らないと思う。ふたりには伝えたし、他の子にも教えてきたから、みんな多分知ってると思う。
あと、私の記憶に出てきた“ガーデン”っていう場所について質問したんだ。ドロシーは知ってそうだけど、ジャックは知らなかったみたい。
おにいちゃんは聞いたことない? 連邦政府研究機関とか、“ガーデン”とか」
ようやく話し終えて、銀の眼は相手を映す。
彼は無感動のまま、そこに立っているのだろうか。それとも、また別の反応を示すのだろうか。
「知らなかったら、大丈夫だよ。私も最近思い出したことだし、まだ大切な子が誰だったかも分からないし……」
付け足したのは、言い訳がましいひと言。無視してしまったって、ロゼットはきっと傷付かない。
「…………」
拙く捲し立てるロゼットを、ブラザーはどこか遠くから見ていた。紫がかった白銀の髪に風が吹き、ふわりと体ごと攫われてしまいそうになる。
もう随分と学園の探索に時間を割いていなかった彼にとって、赤薔薇の話はトンチンカンだった。そもそもブラザーは、ロゼットの擬似記憶についてすらよく知らない。本当に、知らないことばかりだ。学園のことも、ロゼットのことも。
知ろうともしなくなったのは、いつからだろう。
ロゼットは前を向いて、謎と向き合っているのに。
ツリーハウスを駆けたあの日と、僕らは何が違うんだろう。
「ロゼット、あのね、まず君の……いや、いい。君の質問だけれど、僕は……ああ」
間延びした幼子を甘やかすような口調で話す彼は、どこにもいない。ぽつりぽつりと呟くような声で、チンタラまとまりのないことを話している。ブラザーは開きかけた口を閉じて、また開いて、閉じてを繰り返していた。
「………まず、君の質問に答えるね。僕はそういうの、全然聞いたことないよ。
それから、ロゼットの擬似記憶ももう一度教えてくれるかな」
ぎこちなく微笑んだ。
口角だけを吊り上げて、ブラザーは染み付いた行動を繰り返した。
《Rosetta》
急ぐような早口と、疲弊したブラザーの脳は相性が悪かったらしい。
言葉を選んでいるような呟きを、ロゼットは何とも言えない気持ちで聞いていた。
聞き上手のトゥリアと言えど、能動的な会話はまだ得意ではない。至らない点があったとすれば、すぐにでも直すつもりだった。
だが、どうやらそういうわけではなかったらしい。指で口角を釣り上げたように──不恰好な笑みを浮かべる“兄”に、彼女は少しだけ安堵した。
会話の表面だけをなぞっているからか、赤薔薇はまだ致命的な勘違いには気付けていない。
ブラザーは、ただ少し疲れているだけなのだと、そう思い込んでいる。
声を抑えて話をするため、そっと身を寄せた。拒絶されなければ、そのまま至近位置で話すことだろう。
「そうなんだ。えっとね……私の擬似記憶は、誰かと温室で花を見てた記憶なんだ。家族だったのか、恋人だったのかは思い出せないけど、多分結婚してたわけじゃないんだと思う。
今まではそれしか知らなかったんだけど、ガーデンテラスとツリーハウスと……文化資料室で続きを思い出したんだ」
指折り数えて、頭痛の数を確認した。
あれこそ、普段は感じないような痛みだ。アメリアと話した時に言えばよかった、なんて今更彼女は心中でごちる。
「ガーデンテラスだと、植木鉢を預かってたかな。大事な子は優しく私の名前を呼んでくれてて、何かの植物をくれたんだ。
ツリーハウスは、あの子が『人類の進歩』に貢献したいって言ってて。全然会えなくなってたけど、植木鉢にお水をやってる記憶だったの。
それで……文化資料室の記憶では、ようやく芽が出てて、その子に会いに行こうとしたんだけど……植木鉢を落としちゃった、っていうところで終わりだったんだ。
文化資料室の記憶で、連邦政府研究機関っていう言葉を思い出したの。“ガーデン”は思い出せなかったけど、調べたら出てきたから、多分関係あるんだと思うんだ」
小休止。
ひそひそ話から、声が普通のボリュームに戻った。
「ごめんね、おにいちゃんには何も伝えてなかったからびっくりしたよね。ミュゲにも話したけど、あんまりちゃんと聞いてもらえたか分からないし……」
そう身長の変わらない相手を、覗き込むように見つめる。
相変わらずめちゃくちゃな話だが、どうにか伝わっただろうか。
猫のように滑らかな動きで近づくロゼットに対し、ブラザーはほんの僅かに距離をとった。それは体勢を変えただけのようにも見え、きっと不信感は与えないだろう。この距離でだって彼女の声は聞こえる。嵐のような日だったら話は別だったかもしれないが、少なくとも今日は、二人の距離はこんなに近くなくたっていい。
同じトゥリアクラスのドールで、同じく優秀な“カウンセラー”だったロゼットなら、違和感を覚えるのかもしれないが。けれども、ブラザーはまだ微笑んでいる。貴女に向けて、まだ。
「擬似記憶の続きを見たんだ。それはいいね」
上手く伝わったのだろうか。
ただ壊れた人形は仮面じみた笑みを貼り付け、同調と肯定を行った。トゥリアモデルの得意とすることだ。
「どうしてその話を僕に?」
責めている。
嘆いている。
どちらも、ロゼットにはきっと伝わらない。
伝えていないから。
《Rosetta》
半歩、ブラザーが後ずさったことには彼女も気が付いている。
気が付いた上で、何も口にはしなかった。
疲れているからうるさく聞こえてしまうのだろうな、とか。虫の居所が悪いのかも、なんて正当化して、そのまま受け流せてしまった。
物分かりの良さは時々すれ違いを生むが、今回もそうなのだろう。
それはいいね──と言われても、ロゼットは曖昧に微笑み返すしかできなかった。
ボタンを掛け違えているような違和感が、ぎこちないままずっと続いている。
サラの時とはまた違う、ただ風に揺れるだけの草木に話しかけているような虚しさ。
話しかけるタイミングを間違えてしまったのか、ブラザーがこの話に興味を持っていないだけなのか、いまいち赤薔薇には分からない。
だって、彼女は傲慢にも、自分の話を聞いてもらえると思って話しかけているのだから。
「おにいちゃんが……何だか、ずっと元気がないように見えたから。話したいって思ってて、それで」
どうして──という言葉に、やや視線を下げて答える。
最近は、もう“普通”の話をする方法も忘れそうになっていた。
学園にも、オミクロンの寮にも、それ以外の場所にも、ここにはいない誰かとの思い出が散らばっている。
それは自分に──クラスのみんなに存在を主張して、無差別に傷付ける、綺麗なだけの鋭利な破片だ。
そんなモノがある所で、日常を装って話をする方が、よっぽど残酷なような気がしていた。
だから、調べ物の話なんかをずっとするしかなくなっていたわけなのだけれど。
「ミシェラもアストレアもいなくなって、嫌なことばっかり続いてるし……フェリシアとか、おねえちゃんも傷付いてたみたいだったから。おにいちゃんも、辛かったら聞かせてほしいな」
今更、正直すぎるくらいの言葉はあなたに届くのだろうか。
今更だった。
「……フェリシアのところに行ってあげてよ。あの子はきっと、随分傷ついているから」
ロゼットが悪いわけではない。
時期が悪かったのではない。
ブラザーのせいだった。
ブラザーのせいだ。全て。
「ロゼットは、すごいね。
色んな子の話を聞いているんだね。みんな、ロゼットだから話したくなるんだろうね」
顔を伏せる。
薄紫がかった白銀のヴェールが表情を隠して、毛先を鮮やかなオレンジが照らした。ロゼットの赤毛は今も宝石のように輝いているのだから、硝子はどちらだろうと内心苦笑する。
羨んでいるのかもしれない。
星に手を伸ばしているような気持ちだった。
顔を上げる。
ブラザーは微笑んでいた。
酷く自然に、柔らかく、嫋やかに、妖艶に。
「そのままでいてね」
純粋な願い、なわけがない。
いつも通りに笑んで、ブラザーはその役から降りたのだ。
《Rosetta》
どうして今フェリシアの話をするのか、ロゼットには理解できなかった。
今話したいのはブラザーで、心配なのもブラザーで、そこに誰かが入り込む余地などない。
フェリシアはかけがえのない相手だが、ブラザーだってもちろん大事だ。軽んじるつもりなど、微塵もなかった。
「違うよ、おにいちゃん」
別人のような笑みのまま、彼が遠ざかってしまう気がして。白魚のような手が、彼の手を絡め取ろうとする。
「話をしようって思うから、みんな話してくれるんだよ。話す気がない子は、そもそも目も合わせてくれないもの」
そう言って、彼女はブラザーの顔を見る。
ふたりとも顔を伏せている、なんて滑稽な絵面はどうにか回避したらしい。視線は相変わらず交わらないが。
「そのままって、どのままか分からないよ。ねえ、おにいちゃんは私と話したくないの? ……それとも、今は話せない?」
無理ならいつ話せるの、と。
遊園地に行けなかった子どものように、ロゼットは問いかける。
銀色の睫毛がキラキラ輝くのを、ただじっと見つめながら。
手を引いた。
今度こそ、明確に。
どんなに鈍感でも気づけるくらいに、後ろに引いた。
「ロゼットが優しいからだよ。
話す気がない子だって、きっと君が話しかけ続ければ心を開いてくれる。ロゼットには、そういう力がある。
大丈夫、僕が保証するよ。ふふ、頼りないかもしれないけどね」
にこやかに、歌うように。
ブラザーはロゼットと一定の距離を保ったまま、言葉だけでまあるい頭を撫でている。二人の指先は触れ合わない。けれども、ブラザーの言葉は以前と同じように心地よく舌触りがいい。それだけで、なんの意味もない言葉だ。
冗談めかしてはころころ楽しそうに笑って、ブラザーの声は弾む。悪戯に、ウィンクまでつけようか。
「ロゼットは面白いことを言うねぇ。話したくない時なんてないよ。
君は君のまま、ただ自然体でいてねってだけなんだ」
一歩大きく、ステップを踏むように後ろに下がった。アン・ドゥ・トロワのリズムで、くるくる回ってみせる。
安心した。
自分が居なくても、みんなは大丈夫だろうから。
最初から、きっと大丈夫だったんだ。
じゃあ、最初から、僕って別にいらなかったんだなあ。
……ブラザーは“バイバイ”とだけ笑って、ロゼットの横を通るはずだ。引き留められないのなら、彼はそのままオミクロン寮に入っていくだろう。
貴女との会話を終わりにして。
《Rosetta》
拒絶。
明確に、ロゼットとブラザーには断絶ができた。
それは前からあったのかもしれないが、少なくとも、ロゼットは今初めてそれに気が付いた。
言葉は甘やかなだけで、毒にも薬にもならない。彼女の望む対応ではない、という意味では毒でしかないだろう。
トゥリアのクラスにいた時と同じだと、彼女は思った。
「じゃあ、おにいちゃんはどうして私と話してくれないの」
振り向くまで、十秒ほどの時間を要した。
大丈夫。まだ一緒にいることは許されている。ただ、ブラザーは触れられる気分ではなかっただけだ。
そう納得しようとしているのに、立ち去ろうとする背中とは、手の届かないほどの距離が空いている。
「おにいちゃん、ずっと変だよ。大丈夫か大丈夫じゃないかも教えてくれないし、自分のことはずっと教えてくれないし。
リヒトにもはぐらかされちゃったけど、今なら分かるよ。あなたはもう、とっくに大丈夫じゃないんじゃないの?
ミシェラとアストレアがいなくなって辛いの? ツリーハウスで見たモノが嫌だったの? ……それとも、サラみたいにいなくなった子のことを忘れちゃったから言いたくないの?
ねえ、教えてよ、ブラザー。あなたはどうして話そうとしてくれないの?」
時間が解決するかもしれない、とは多少思った。
だが。今この瞬間、彼から何も聞けないことを自分は引きずるだろうという直感もあった。
何かしらの痛みに繋がってしまう気がして怖かったのだ。
先生に聞かれていても構わない。ロゼットはずかずかと、後ろから無遠慮に距離を詰めようとする。
十秒あれば、ブラザーは玄関の扉を開くことが出来る。ロゼットが歩いてくるまでの数秒で、ブラザーはその中に入ることが出来る。
言葉の途中で、ドアは閉めなかった。代わりに、開いておくことも無かった。
ギィと音をたてながら、扉はゆっくり閉まっていく。二人に残された時間は、扉が閉まるまでの数秒しかない。
勿論、ロゼットが今から走って飛び込んだなら扉に挟まることが出来るだろう。しかし、トゥリアモデルであり腹部に硝子を抱えるコワレモノの貴女が、そんなことをすればどうなるか。ただ歩くだけなら、きっと扉を手で抑えるより先に一度閉まってしまう。
ブラザーは玄関で振り返った。
扉の向こうに見える赤薔薇は、どんな顔をしているだろう。星屑のように煌めく銀の目は、なにを見ていたのだろう。
扉の向こうに見えるブラザーは、きっと何も変わらずに微笑んでいた。沈みかけたオレンジが瞳に反射して、ロゼットを見ているのか見ていないのかすら定かではない。
「ロゼット、約束しよう」
ピン、と。片手の小指をたてる。
それを唇に添えて、目を細めた。
「僕のこと、忘れてね」
小指が、薄い唇から離れる。
その直後、扉は閉まった。
「…………」
ベッドの上から起き上がれない。
眠りはいつになく浅く、血が通っていないかのように重い手足は寝返りすらうてなかった。眠っているのか起きているのか分からない時間を過ごして、やがて気づく。どうやら、世界は朝を迎えたらしい。
朝食の準備に向かわなければならない。しかし、ブラザーはベッドに沈んだままだった。
「……フェリシア………」
無意味な贖罪。
まるく柔らかい舌触りだったはずが、今はザラザラと舌を切り付けるように鋭く感じる。ブラザーは深く息を吐いて、呼吸を止めた。
10秒、20秒、30秒───
「ひゅ、かはっ゙……!」
びくん、と体が揺れる。
げほげほ慌てて酸素を取り込む体に嫌気が差しながら、ようやく動くようになった体を起こした。もうみんなはキッチンに向かってしまったようで、部屋には誰もいない。
すぐにはとても行きたい気分ではなくて、ブラザーは意味もなく部屋を見回した。“何かをしている感覚”が、ほしかったから。
あなたがたが今朝も就寝し、起床した生活空間だ。暗いゴシックレース柄の壁とふかふかのカーペットが敷き詰められている……が、部屋の大部分を占めているのは重厚な棺桶型のベッドである。
現在、オミクロンクラスの男子の人数は5名。ベッドは余裕があるようにと十個分、二段に積み重なったりしているが、その半分は空っぽという状態である。
部屋の入り口から左手には大きなワードローブが置かれており、皆の制服がきっちりと収められていることを知っている。
「……あ、れ」
こんな時でも優れた観察眼は、その傷に目を留める。今まであまり深く人のベッドを見ていなかったが、こんな傷はついていなかったはずだ。
ドクン、と嫌な鼓動の鳴り方がする。それを否定するために、傷がついたベッドに近づいた。
あなたの優れた洞察眼は、実に目ざとく捉えることだろう。並べられた黒い棺のうちの一つに、記憶にある限りは存在しなかったはずの傷がついている。
鉄製の棺のなめらかな側面に、何か大きなものを強い力で擦ったような、ざらざらとした傷が残っている。
この棺を使っているのは確か──エルだったはずだ。
あなたはふと思い返す。以前、エルとリーリエが珍しくも寝坊して、朝食の席に参加してこなかったことを。先生は体調不良が心配だ、などと言っていたが、今まではなかったこの痕跡も相まって、多少気にかかる事だろう。
「… ……… ………………」
ざらついた、擦り傷のようなナニカ。
エルとリーリエの二人が起きてこなかったあの日。体調不良だと聞かされたわりには、次に見かけた時にはいつも通りに見えた二人
ドクン、ドクン。
嫌な鳴り方が続いている。
自分の勘違いだと、そんなことは気にしなくていいのだと。そう思い込むために、ベッドに手を伸ばした。棺の蓋部分に手を添えて、静かに中を開こうとしてみる。
なんの違和感もない。
なにも、なにも、なにも。
あなたはエルにあてがわれた棺型のベッドの蓋を開く。
その内側には清潔でまっさらなシーツと枕、そしてブランケットがいっぱいに詰まっている。どうやら整えられたばかりのようで、シーツには皺一つ見られない。
ベッド自体にも、外側についた傷以外には特段目立つような痕跡も無さそうだ。
「……そう、だよね」
滝のような汗と、深い息。
ブラザーは思わずその場に座り込み、肩で呼吸を繰り返した。
そんなはずがない。
そう、そうだ。何も、何も関係なんてないんだ。
「………時間、か。行かないと。ご飯、食べなきゃ……」
ぎこちなく目を見開いたまま、ブラザーは立ち上がる。棺を元の通りに戻して、フラフラと歩き出した。誰もいない部屋で、喧しく独り言を言い続ける。自分に平和を言い聞かせて、彼は朝食に向かった。
ダイニングルームで押し込むだけの食事が終わったなら、ブラザーはその場にじっと座っているはずだ。すぐにあの部屋に戻る気にもなれず、両手を握り締めているのだろう。
毎日全員で一緒に食事を取っているこの空間は、今は閑散としている。長い机が二つに、人数分の椅子。特に席順は決まっていないが、皆それとなくいつも同じ席に着くことがお決まりだった。
また、先生は皆の顔が見られる一番手前側の席にいつも腰掛けている。
部屋の奥には柱時計が置かれている。今も滞りなくカチコチと時を刻んでいるようだ。
「……これ、も」
クラスメイトたちが各々部屋を出ていく中で、ブラザーはずっと椅子に座っていた。ちびちびと水を飲みながらぼんやりしていれば、いつの間にか部屋には自分だけになっている。賑やかな食事の場としか思っていなかったが、人がいなくなると、こんなにも閑散としているらしい。
ふと壁にかけられた絵画に目を留めた彼は、椅子から立ち上がる。絵の方に近づき、じっとそれらを眺めてみた。もしも壁から外せそうなら、絵を外してみるはずだ。
ダイニングの壁には、いくつも絵画が掛けられている。食事中、幼い年齢設計のドールズが退屈しないようにか、色彩豊かで見ていて楽しいものを選んでいるように見える。
絵画はいつものように整然と並べられているが、あなたはふと疑問に思う。この絵画の出所はどこなのだろう。ここで描いたのだろうか、それとも外部から寄贈されたものなのだろうか?
何気なく見遣った絵画の右下には、おそらくは描いた人物の名が書き記されていたように見える。だがその全てが黒く塗り潰されており、一体誰が描いたのか分からないようになっていた。
あなたがおもむろに周囲を見渡せば、ダイニングルームに飾られた絵画はほとんど同じように黒塗りにされた箇所が存在するようだ。
あなたはふと気がつく。
ここに飾っている絵画のほとんど全部が、ツリーハウスに飾られていたあの美しい絵の数々と筆使いが酷似しているということに。恐らくこれらの絵は、ツリーハウスに飾られていた絵を描いた人物と同じ存在が手掛けたのだろうと察することが出来る。
また、絵は壁に吊るされているだけなので簡単に取り外すことが出来るが、特段壁や絵画の裏に何かが見つかると言うことはない。
「… …… ………」
記憶のフラッシュバック。
柔らかな雨粒が頬を濡らした感覚が蘇り、ブラザーは反射的に一歩下がった。持っていた絵が手から滑り落ちかけ、慌てて現実に戻る。
「………カンパ、ネラ……」
彼女はどんな気持ちで、毎日この絵たちを見ているんだろう。
運ばれる食事は、どんな味に感じるんだろう。
ずきり。頭が痛む。
ブラザーは目を伏せて、静かに絵を元の位置に戻した。ふらふらと頼りない足取りで、彼はキッチンに向かう。人の少ないところに行きたい。
キッチンは広々とした他の空間に比べて、大きな家具が敷き詰められているためか、少し手狭な印象を覚えるだろう。
こじんまりとしたシンクとコンロ、調理スペースを十分に確保出来る広い机がある。そして奥には、パントリーに続く木扉も取り付けられていた。
「……あれ……」
部屋に入って、まずは落ち着こうと呼吸を整える。数回の深呼吸と共に足元から視線を上げると、その本に気がついた。
いつもなら整頓された机に乗る、開かれたままの本。どうやらお菓子作りに関する本のようだ。ブラザーの足は自然と、本の方へと向かう。
……彼は料理が得意だった。
よくお菓子を作っては妹や弟たちに振る舞い、頬についたクリームを拭ってやっていた。
体はまだ、それを覚えている。
キッチンの中央を陣取る、木製の作業用テーブル。
その椅子に程近い場所にお菓子作りのレシピが乗った料理本が開かれたまま置かれている。
あなたの記憶によると、この本は図書室に置いてあったものだと分かる。
開かれたままのページには、甘さ控えめの紅茶クッキーのレシピが記されていた。
あなたは今も思い出せる。
アストレアをお披露目に送り出す前日、お祝いのために皆でこのクッキーを作って、食べたことを。
あなたは今なお鮮明に思い返せる。
あの場にいたアストレアの美しい笑顔を。
──だが、もうアストレアはここに居ない。このトイボックスのどこにも居ないのだ。
その事実があなたの胸を占めるだろう。
「あす、」
名前を呼びかけて、口を閉じた。
とても、呼んでいい資格なんて無かったから。
「………」
本に手を伸ばす。
ほんの一瞬躊躇って、それからまた手を伸ばした。開かれた本を持ち上げて、ぎゅうと胸に抱き寄せる。
……あの子は。
あの子は、誰にも抱き締められることなく、一人で炎に落ちたのだろう。それでも誰のことも呪わず、ただ幸せを祈ったのだろう。
「………ごめんね……」
最低だ。
本物の彼女をもう抱き締められないから、こんなもので代わりにして。結局、自分の罪悪感を減らしたいだけの独りよがり。愛してるなんて口先だけで、あの子みたいに全部を愛してあげられなかった。
ぎゅう、と。強く本を抱く。
すぐそっちに行くからねとか、もう苦しくないよとか。そういう言葉を考えて、結局なにも口に出さず、ブラザーは目を伏せた。星が瞬くように煌めいていたあの微笑みを、脳裏に刻みつけて。
パントリーは食糧庫の名の通り、野菜や果物などがうず高く積まれた木箱がいくつか並べられていた。壁に沿って置かれた木製の棚には、調味料やハーブなど調理で使う素材が所狭しと詰め込まれている。
そして雑多な食材で溢れかえり、手狭な印象を受ける部屋の奥には、地下へと続く階段があった。
「これ……」
パントリー内を見回して、やはり気づいたのは地下への鍵だ。南京錠のかかった扉に近づいては、ブラザーは僅かに首を傾ける。以前はこんなもの着いていなかった気がするのだが、何かあったのだろうか。というか、いつの間にこんな物を?
ブラザーは薄ら寒い予感を感じつつ、鍵へと手を伸ばす。
パントリーの奥には、足が速い生鮮食品を保管しておくための氷室へ続く扉がある。普段その扉は開放されており、ドールも問題なく立ち入ることが出来たのだが、現在は閉まっているようだ。
あなたは更にその上から南京錠によって施錠されていることに気付くだろう。南京錠自体はありふれた形をしているが、鍵は付近に存在しない。
扉には木製看板が吊り下げられていた。
看板の記述を読むなら、以下のように記されている。
事故を防ぐため、氷室への立ち入りを
禁止することにしました。
地下にご用がある時は先生まで。
パントリーの奥は、たしか生鮮食品が保管されていたはずだ。お菓子作りを好んでしていたとはいえ、ブラザーだって何度かここには入ったことがある。いや、それ以前に、この場所が封鎖されていたところを見たことがなかった。学園や寮の中は、生徒たちにとって自由に行き来できるようになっていたはずである。
それが、どうして今?
鍵のない南京錠鍵。
木製看板。整列する文字。
「……事故?」
一体、なんの。
「………… ……」
……医務室に行こう。
医務室の扉をくぐると、これまでの温もりを感じる木製の床から一転、清潔な白い壁と床の空間があなたを出迎える。
ドールが収まるための棺のような箱型のベッドが三つ、壁に沿って並んでいる。作業台と思しき広い机には何も置かれていない。当然だ、近頃は誰も目立った怪我をしていないから。
奥に置かれた棚には、怪我をしたドールズに処置をするための医療道具が収められていたはずだ。
不穏な気配から逃げるように、大股で階段をのぼった。二段飛ばしなんてことは出来なかったが、二階に辿り着く頃には、ブラザーの息はとっくに上がっていた。
呼吸を整え、医務室のドアを開く。
事故と聞き胸騒ぎがしたのだが、なにかこの部屋に異変らしい異変はなさそうだ。気になるとすれば、やはり。
「……開いてる……」
ひとつだけ開いた、棺。
ごくりと唾を飲み込んで、ブラザーは静かにそれへと近づいた。
医務室に三つ並べられた棺型の黒いベッド。内一つが開いたままになっている。誰かが開け放したまま放置しているものらしい。
あなたが蓋が開いたままのベッドを覗き込むならば、清潔なシーツと枕が整然とおさまっているのを目にするだろう。
そして同時に蓋の方を確認すると──そこには『√0』という謎の記号が無数に刻まれていた。
今なお鋭利なもので傷付けたような痕跡は色濃い。そして、その夥しい記号の上に、蝶の翅を思わせる模様が更に刻み込まれていた。
拡げられた翅は半ば記号の海に接触しており、ぐちゃぐちゃとしている印象を見るものに与える。
一見して、不気味な様子であろうことは間違いない。
「ッ、────」
息を飲む。一歩、下がる。
無理やり息を吸って、呼吸を整える。記号と模様から目を逸らして、清潔な床を見つめた。ぐっと眉間に皺を寄せて、震えた指先が収まるのを待つ。
「、……」
数秒、或いは数分。
ブラザーは静かに息を落ち着かせ、表情のトゲを抜いていく。それが終われば、ベッドをもう一度見た。すぐに飛び込む不可解の一言にまた顔を背け、足早に部屋を出る。
どこか、どこか近い部屋に。
ドアノブをひっつかんで、乱暴に引いた。
洗浄室は二つの区画で分かれている。
手前側の区画はドールズが制服を脱いで皺がつかないように保管しておく場所。この区画はリネン室も兼ねており、シーツやタオルの替えも何枚も棚に収められている。
奥には洗浄室がある。ドールズが自身の体内に巡る燃料の老廃物を摘出し、洗い流すための区画だ。
飛び込んだのは洗浄室だったようで、ブラザーは見慣れた赤黒い液体に安堵する。軽く息を吐き、ずるりと扉にもたれかかった。
しかし、異変だらけのこの場所で、何も無い場所なんかがあるはずもない。
「……、え……」
ぼんやりと中心に見える作業台を見ていれば、頭痛の蘇りそうな青が目にとまった。赤黒いドールの体液に混じって、何かがこびりついている。
喉が渇く感覚。今日も血を飲み込んで誤魔化しながら、作業台に近づいた。
ドールの洗浄を行うための奥の区画には、赤黒い汚れがこびり付いた作業台が置いてある。これはドールが洗浄の際横たわるためのもので、この汚れは洗浄の末に排出する老廃物であるとあなたは知っている。
そんな作業台の上に、僅かに青い液体が付着していることにあなたは気がつく。それは乾いたインクのように作業台に定着していて、拭っても取れないものだった。無臭であり、青いということ以外に特徴が見られない。
また、この液体はどことなく、コゼットドロップの青に似ているような気がすることにも気が付けるだろう。
……これもドールの身体から出てきたものなのだろうか?
また、あなたが作業台に近付くなら、その足元に大きな傷が残っていることに気が付く。まるで作業台に乗ったドールが激しく暴れたかのような、怖気の走る生々しい傷だった。
「コゼット、ドロップ」
乾いた呟き。
口からこぼれた言葉が壁に跳ね返り、自分の耳に届く。自然とそう思ってしまった青が、途端に忌々しく見えてくる。
「なんで、ここに」
ドールを洗浄するための場所で、どうして?
こんな傷があるのは、どうして?
部屋から出る。
また、逃げる。
階段を上り詰め、寮の最上階に位置する埃臭い書物の蔵に辿り着く。図書室の天井は四階部分までを突き抜けているためか、とても高い。そして、木製のロフトを介して上階にも数多の書物がところ狭しと保管されているようだ。
図書室はほの暗く、壁に取り付けられた卵型の照明をつけてもまだ暗い。
屋根裏の部分に切り取られた小窓から差し込む陽光が、空気中に舞う埃を幻想的に煌めかせていた。
階段を駆けて、駆けて、駆けて。
ドアを開けて、噎せ返る埃を吸い込んだ。
「げほっ……」
肩で息をしながら、後ろ手でドアを閉める。僅かに寄せた眉間のシワを指でなおしつつ、部屋を見回した。この部屋には誰もいないようだ。安心する。
フラフラと頼りない足で部屋を進み、適当な本棚に指を滑らせた。そうして、見たことの無い本たちに目を留める。
「……夢……」
ツリーハウスで聞いた、夢。
ブラザーにとってはもう壊れてしまった、記憶。
【夢の研究】
人が睡眠状態にある際、しばしば安定した脳波に覚醒時に近い乱れが見られる事があります。これは人が夢を見ている時間、『レム睡眠』と呼ばれている状態です。
レム睡眠の際には、睡眠状態にある人の瞼の裏側で眼球が小刻みに動きます。レム睡眠とはこの事から、『Rapid Eye Movement』の頭文字を取って名付けられました。
人が覚醒状態にあるとき、脳内には『ノルエピネフリン』と『セロトニン』と呼ばれる神経伝達物質が分泌されています。これらは人が覚醒状態にある際、学習能力や判断力、記憶能力に貢献する重要な役割を果たしているのです。
一方人が眠りについたとき、脳は休息状態に入りますので、上記二つの神経伝達物質の循環が低下します。その代わりに『アセチルコリン』と呼ばれる物質の分泌が増加し、脳の感情中枢を刺激します。こちらの物質の影響で、人はレム睡眠時に景色が鮮明に見える事があったり、感情の発露を促されたりするのです。ただし脳からの運動神経への電気信号は睡眠時遮断されている為、現実で体が動いたりすることは殆どないでしょう。
人は夢を見ている間、『日常生活で知覚した様々な体験の記憶を整理・統合』しています。生存の為に必要な情報を膨大な記憶の中から選別し、脳に定着させるこの作業を行う事で、人は滞りなく日常生活を送るということが可能になっています。
また夢は人の心を癒すという役割が持つことも判明しています。レム睡眠中、人はストレスとなる感情を処理することがあるようです。トラウマになるようなショックな体験をした時、それらを思い返した脳が夢を見させます。そこに現実にはなかった要素が付加されていき、悪夢はその形を変え、その出来事に付随するネガティブな感情を忘れていくと言われているのです。
脳の休眠時に見る夢が持つ大切な役割というものは荒唐無稽に思えて、存外に侮れないものです。自我がある生物であれば、生存の為に必ずや必要となるのも頷けることでしょう。
「………」
本を閉じる。
ブラザーは静かに目を伏せたまま、元あった場所に本を戻した。
夢。記憶。
……人の心を、癒す。
人形な何も言わぬまま、指を滑らせた。隣の本を手に取って、また更に中を開いてみる。目についた新しい本たちがなくなるまで、それを繰り返すだろう。
◆ 波間に揺らぐ精霊 ◆
『美しい乙女が座っている
金の飾りは輝き 金色の髪を梳いている
金色の櫛で髪を梳かし 乙女は歌を口ずさむ
その歌は不思議で 力強いメロディ』
『小舟に乗った舟人は その歌に心を奪われて
岩礁は目に入らず 上を仰ぎ見るばかり
舟人は波に飲まれるだろう 彼女の歌声によって──』
古い民謡の書き出しから始まる、幻獣ローレライについて綴った書物のようだ。ローレライとは、不誠実な恋人に見切りを付け、川に身を曲げた女性が水の精に移り変わったもの。彼女の歌声は舟人を魅了し、次々と座礁させていったと言われている。
あなたはその本の末尾に、何やら見慣れぬスタンプが押されていることに気付く。嫋やかな花を囲う女の手が描かれた不思議な紋様だった。添えられた文書なども無く、謎は謎のままである。
◆ 遷延性意識障害、植物人間の定義について ◆
『大脳の機能の一部、または全体が機能不全に陥り、目覚めなくなった人間を“植物人間”と呼称する事がある。脳幹の機能は依然生きているため、自発的な呼吸は続けられ生存状態にあるものの、意識回復の見込みは薄い患者が該当する。遷延性意識障害とも呼ばれる。
一方で、脳死は脳幹部も機能不全に陥っているため、自発呼吸は叶わず、数日以内に死に至るものを指す。』
小難しそうな医学書の一部の記載だ。寝台で眠っている人間の頭や身体に、植物が絡み付いている挿し絵が付いている。またその挿し絵の片隅には、『あの子も目覚めなくなった』という手書きの文章が添えられていた。
◆ 魔女裁判の歴史 ◆
『ヨーロッパ中世末の15世紀、悪魔と契約してキリスト教社会の破壊を画策する異端者、通称“魔女”の概念が誕生し、大規模な魔女裁判が行われた。別名魔女狩りとも呼ばれる、被疑者に対する刑罰、私刑との迫害は極めて残忍であり、苛烈を極めていた。犠牲となった少女は数百万人を悠に数え、その多くは凄惨な“火刑”によって命を散らしたと言われている。』
この本には栞が挟まれていた。また、埃を被っていないため近頃誰かが読んだのだろうと推察出来る。
「……魔女」
最後の本を閉じて、ぽつりと呟く。
つい最近、誰かに同じようなことを言った気がした。
鈴蘭の甘い香りが蘇る、ような。
そんな気がした。
気がした、だけだった。
「………」
本を元の位置に戻す。
ロフトの方に向かい、行けるのなら上に登ってみようとするはずだ。高さが足りなければ、力の入らない手で椅子をずるずる引いてくるだろう。
図書室の埃を被ったロフトの上。あなたは椅子を使って十分な高度を獲得し、梯子を掴んで登り切ることが出来る。
狭い空間には、古びた本が無数に散らばっている。こちら側にある本は、階下のものよりも経年劣化の程度が酷かった。
おそらく、図書室で唯一取り付けられた小窓も原因の一つだろう。小さく切り取られた窓からは、暖かい陽だまりが斜めに差し込んで床にまだら模様を作っている。
日向の中には、以前あなたが見かけたノースエンドと題された本も見つかるだろう。
特にここが変わっている様子はないらしい。情けなく安堵する自分に目を逸らしながら、ブラザーは小さく息を吐く。舞い上がる埃が小窓の光で照らされているのを眺めつつ、何気なく窓の外に視線をやった。
「……晴れてる」
星が見えなくて良かった。
小窓の外からはオミクロン寮周囲に広がる明るい平原が一望出来るようになっている。遠景には更に平原を取り囲む森林が見え、青々とした木々が身を寄せ合い、風によってひしめき合っているところまであなたの目は捉えるだろう。
現状、オミクロン寮は変わりなく平和そのものだ。あの空が偽物の天蓋であり、その先に暗い深海が広がっていても、嘘のヴェールに包まれている限りこの平穏は盤石だった。
よくよく見渡しても、特に目に留まるものもなさそうだ。
窓の外をぼうっとしばらく眺めて、やがてブラザーはのろのろ梯子を降りていく。手から力が抜けて───足が梯子から滑り落ちて───梯子が突然倒れて───なんてことを考えたが、なんの問題も起きず、彼の体は床に着いた。
「……」
制服についた埃を軽くはらいつつ、部屋を出ていく。逃げあがってしまったが、まだ見ていない部屋があったはずだ。そこを見に行こう。
部屋の扉を開けると、無秩序に並べられた机と椅子の組み合わせが十六存在した。机が向かい合うのはいわゆる教卓であり、先生があなた方へ何か教えるときはもっぱら学園ではなく、この学習室を用いることが多かった。
現在、この学習室を使用している者は存在しない。静かながらんどうの空間に、あなたの足音がこだまする。
部屋の中には誰もいない。
カツンカツンと高い足音が響く部屋を、ふらふら進む。
黒板には授業の跡が残っていた。いつもならすぐに今日の授業の記憶が蘇る部屋だったはずが、今日は頭の霧が晴れない。いや、きっと、もう随分と前から晴れていない。
「……なんだっけ」
授業の記憶が欠けている。寝てはいなかったはずなのに、何を話していたか思い出せない。黒板を見れば思い出せるだろうか。ただぼんやりと、何かに導かれるままに足を動かした。
今日の学習室の黒板には、以前の講義内容であろう『擬似記憶とドールの結びつき』について、がデイビッドの美しい字でまとめられていた。
近頃あなた方は授業に身が入っているだろうか。それよりも気に掛けるべき事柄があまりにも多すぎて、思い返せば授業にも力が入らない気がした。無理もない、今もまさに己や周囲の身の危険がある中で、今まで通りに日常生活が送れるはずがないのだから。
故にあなたはまず授業内容を思い返そうとするだろう。あなたの優秀に造られた脳は容易く授業の記憶を掘り返すことが出来るだろう。
『君たちは日々ベッドで休む時に幸せな夢を見ることだろう。ある子は家族との団欒の夢、ある子は恋人との蜜月の夢、ある子は友人との行楽の夢。夢の内容は実に千差万別で、全く同じ夢を見るドールはたったの一人もいない。
それは君達の設計時、人格形成のために刷り込まれた擬似記憶の内容が再生されているんだ。
擬似記憶というのは“覚えているが実際には存在しない記憶”を指す偽記憶の造語だが、意味としてはほとんど同じ。個々にデザインされた美しい思い出と記憶の群は、本来無個性な存在であるドールの個性となり、また同時にいずれ君たちの所有者となる“ヒト”との接し方の指標となるはずだ。
また、君たちは自身の擬似記憶に関わること、それ以外の夢は見ないようになっている。ドールの設計上、“想定されていない”と言った方が正しいかな。だから君たちは悪夢に怯えることはないし、毎晩幸せな夢だけを見て眠れる。
……しかし私は、君たちが本当の意味で人間に近しい存在になるには、幸せな夢を見るだけでは到底足りないと考えている。この学園生活は君たちにドールとして必要な素養を与える他に、君たちのより豊かな感情を育むためにも不可欠な過程だ。もしこの生活で君たちが想定された夢以外の光景を垣間見たのなら、それは私たちにとっての大躍進となるだろう。』
──以前は、先生の最後に話した言葉の意味を理解出来ていたかは怪しかった。しかしあなたは今、幻のような記憶にない光景を垣間見ている。
彼が語っていたのは、そういったものなのだろうか?
黒板に指をそわせて、静かに目を閉じる。いつかの穏やかな声が、ぐるぐると蘇る。
……大躍進?
「なん、で」
キーッ。
気がつくと、黒板に爪をたてていた。伸びることの無い爪が黒板を引っ掻いて、不愉快に甲高い音が部屋に響く。自分が腹を立てていることに、ブラザーはまだ気づいていない。
「なんで、なんで……」
がりがり、黒板を引っ掻く。
耳障りな音にも気づかないほど、彼は目を見開いて唇を震わせていた。がり、がり、がり、がり……。
「……あ、っ」
やがて、黒板の一番下まで指がきて。ようやくブラザーはハッとして、一歩下がる。汚れた爪と黒板を交互に見ては、複雑に眉を下げた。黒板の跡を消し、手を洗ってから部屋を出る。ラウンジには入る気になれず、のろのろ学生寮を出た。
トイボックスの日和は本日も快晴だ。寮を一歩歩み出たあなたは、あの偽物の天蓋から無条件に降り注ぐ出鱈目の陽光を虹彩に浴びて、眼を細めることだろう。
光が降り注ぐ一体の草原は時折流れるそよ風によって穏やかに揺れて、遠くの森林からは鳥達の鳴き声が聞こえてくる。……空を舞う鳥の姿はひとつも見えやしないが。
寮のすぐそばには欠け落ちた翼を持つ女神像のモニュメントが添えられた噴水が、清涼な水の音を奏でており、先生が干したのであろう洗濯物が風に揺られているのが見える。
この近辺は平和そのもので、普段と特別変わったようなところは見受けられないだろう。
さく、さく。
靴底が草を踏む音を聞きながら、ブラザーは眩い光に目を細めた。辺りにやはり人影は見えない。避けて歩いているから当然と言えば当然だが、偽物の空気を思い切り吸い込めるのは気が楽だった。肺がいっぱいになって、吐き気がする。
「……」
鳥たちの声と水の流れる音。
伏し目がちに地面を見つめながら、ゆるゆると平原を歩く。噴水の近くまで行けば、流れる水に映る自分を見ているはずだ。
噴水は相変わらずとめどなく稼働し、透き通る水面に飛沫を上げ続けている。その度に陽光に反射して、きらきらと目に真新しい輝きをもたらした。
あなたが水槽の底に目をやると、見慣れないものが沈んでいるのが見える。黒ずんで錆びた鎖のような硬質な物体の断片がみっつほど、散らばって沈んでいたのだ。
あなたはこれが何か分からない。どこからやってきたのかも検討がつかない事だろう。
「………」
水面に移る自分の顔は、吹き上がる水で揺れる水面によりよく見えない。ぐにゃぐにゃとぼやける白だけが見えて、ブラザーは水面に手を入れた。
ちゃぷ。冷んやりした感覚。自分の手が入ったせいで、余計に移る顔はグチャグチャだ。ぐるぐると手を回すとどんどん認識できなくなって、爽快感すら感じた。
「……あ」
無心で、無心で、無心で。
噴水の底を掻き混ぜていれば、指に何かが当たる。何かが沈んでいたらしい。ブラザーは欠片のひとつを拾い上げてみた。
指に当たる破片の角は尖っていて、ちくちくと痛んだから。
噴水の水槽部の底に沈んでいた物体を、制服の袖を濡らしながら拾い上げる。鉄製の鎖の残骸はあなたの手のひらの中でごろりと転がった。ずしりと重たく感じる。
周辺にはこんな鎖を使った設備などはなく、一体どこから流れ着いたのかあなたにはまるで予想が付かない。
鎖であるからには、どこかに繋がっていたのだろうとは感じるが、それだけだ。
「…… ……」
ちく、ちく。
角ばった破片を指に押し当てる。少しだけ気が楽になった。
「……やめよう」
馬鹿げたことを。
こんなことをしても、なんの意味もないのだ。
ブラザーは噴水の中に重たい破片を落として、跳ねる水を横目に歩き出した。次は湖畔へ向かう。一刻も早く、あの場から離れた方がいい。
あなたは柔らかな草地を踏み締め、平原を越えて広い敷地内のちょっとした湖畔に辿り着いた。
湖畔といっても、規模感は小さく、おおよそ2500㎡と言ったところか。
湖の水は澄み渡っており、いつ掬っても澱みひとつ見られない。たまに近辺に自生している広葉樹から落ちた葉が浮いているぐらいである。
さて、湖畔。
ブラザーは時間を浪費するようにダラダラと歩き、澄み渡る水の前に立った。ゆらゆら水に揺れては動く落ち葉を目で追いながら、傍に腰を下ろす。
「……あれ」
揺れる葉が、波打つ。
僅かに水面がゆれた。ぶくぶくと、何かが泡立ったように感じる。
ブラザーはぼうっとその場に座っていたが、澄み渡る湖畔になぜそんなあぶくが立ったのか、という疑問にやがて辿り着いた。立ち上がることすら億劫で、四つん這いのような形で水の中に入った。ずぶ、と腕が水に沈めば、自然と足が出るのだから。
じゃぶじゃぶ、波が立つ。
思ったよりも深い湖畔に足を入れて、ブラザーは泡が出たところまで進んでいた。水を含んだ制服が重い。張り付いた生地が鬱陶しかったが、足は止まることなく進んだ。
泡が出たであろう箇所に着いて、辺りを見回す。何かがありそうな気配はないが、あの違和感は本物だった。導かれるように、ブラザーは水面を見る。短く息を吸って、ざぱりと水の中に潜った。
そこにあったのは、奇妙な装置。
湖畔の中に沈んだというより、意図してそこに在るような、何か。踊る文字列に目敏いトゥリアモデルの瞳を細めて、顔を上げた。
「……っ、ぷは」
長い前髪をわけて、再び水面を見る。揺れる透き通った湖畔の底に、また訳の分からない物がある。不透明な学園の水から、ブラザーは這い上がった。
水の中に、足を引かれたような、そんな気がした。