Chapter2

Raison d'être of the DoLL;s

Secret event

 ──明くる日の晩、荷物をまとめたあなたたちの先生は、学園を去った。

 その瞬間をもって、オミクロンはあの人の手に掌握された。
 デイビッドの見送りに来ていたプリマドールは、『ジゼル』の口からある事実を知らされることとなる。

 ……その一方で、寮に留まるドールズは学園から戻らない仲間たちを不審に思い始めていた。

Chapter 2 -『風船をどうぞ、Betrayer』
《Raison d'être of the DoLL;s》

 ────ゴウン、ゴウン、と低い音がして、僅かな降下の振動に揺られている。

 コンパクトな荷物のすべてを革製の鞄に納め、持参しているデイビッド。その傍らには折り目正しく両掌を臍の前で握り締め、美しい姿勢で立つジゼルが居て。
 昇降機の学生寮側の出入り口には、あなた方プリマドールの三名が立ち尽くしている。

 ソフィア、ディア、ストーム。
 あなた方は数日前、ジゼルにそれぞれ声を掛けられ、デイビッドの送別に立ち会うことになったのだ。
 他のドールはこの場に居ない。すぐに帰ってくることになる為、大勢で立ち会ってもらう必要はないとデイビッドがやんわりと断りを入れたからだ。

 やがて、昇降機はその動きを停止する。先生二人が立っている方の扉が開かれ、あなた方は彼らの先導に従うことだろう。
 薄暗い学園には、ドールの気配はほとんどと言っていいほど感じられない。この時間は皆学生寮に帰り着き、夕食の支度などを行なうことになっているからだ。

 不気味なほどに静かなロビーと控え室を抜けて、あなた方は、あの惨劇の舞台──ダンスホールに向かうことになる。

【学園1F ダンスホール】

Sophia
Dear
Storm
David
Giselle


「それじゃあみんな、見送りありがとう。用事を済ませたらすぐに戻ってくるけれど、それまでジゼル先生にあまりご迷惑を掛けないようにね。私がいない間も、勉強を頑張って。」

 デイビッドはダンスホールの客席の奥、あの化け物が通過してきた壮麗な大扉の前に立って、別れの言葉を述べる。
 どうやら彼はこの扉から学園を去るらしい。ドールズは皆、この扉が外につながっていると認識している。そのため当然であるとも言えた。

「ご安心ください、デイビッド先生。この子たちはわたしが責任を持って見ておきます。お仕事が無事に遂げられますよう。」

 ジゼルは一歩前に出て、美しい微笑みを浮かべた。

《Dear》
「ふふっ、いってらっしゃい、先生! 月夜を切り裂く鴉のように、キミはいつでも愛するもののために飛び回っている! 月が満ち、欠け、また満ち、キミの優しさは、思慮は、愛は、きっと世界に降り注ぎ続けることだろう! んふふっ、羞花閉月! アティスのおっしゃっていた通りだね! キミといると鼓動が脈打つ、愛している! あははっ、ああ、ああ、とっても素晴らしいことだね! キミの暖かな体温をこの身に感じられて、とても幸福に思うよ!
 キミたちに与えられた役割、しっかりと遂行してみせよう! また会う日まで、どうかお元気で!」

 ディアはくるくるとご機嫌そうに踊り、その小さな唇で一生懸命に愛の言葉を紡ぎ、見事なボウ・アンド・スクレープを披露する。ディアはあの頃と何も変わらず、一年後も、百年後も、数億年後も、変わらず無邪気に笑っているのだろう。ディアは美しい。ディアは幸福だ。ディア・トイボックスは、先生の悪意までも全て、ただひたすらに愛している。それは、貴方方が与えたプログラム。ディアは優しい。いつまでもキミを愛し、守り、共にいたいと願っている。
 たんっ、と軽やかな爪先が鳴って、ディアはデイビッドへと思い切り抱きついた。倒れ込んでしまうかも、なんて、そんな心配は少しもなかった。苦悩も、焦燥も、恐怖も、全部置き去りにして、飛んで。

「ねえ、次はいつおかえりを言えるのかな!? あっ、そうだ! お見送りに来れなかった子たちに何か伝えたいことはある!? 私、あの子たちの笑顔が見たい! 幸福にしたい! 望みを叶えたい!」

 ディアはいつだって、全てに優しい。故に、貴方を盲信することは、絶対にない。

《Storm》
 ディア、ソフィアと順々に挨拶し、数秒の間が空く。
 コツリ、コツリ、と地面を革靴で鳴らしストームが前に躍り出た。

「貴方様の教育が行き届いた愛し子を信じてください。
 ジゼル先生も居ますし、先生もお仕事に専念出来るかと。

 ……ですが、本音を言えばやはり少し寂しいですね。」

 滑るように語られた建前のような言葉を噛み締める。
 ちぐはぐの瞳を瞼で半分隠し、声色を沈ませた。
 猟奇犯らしからぬ、模範的な言葉。
 この場がお披露目の会場だからか、イカれドールの発言からか、いやに寒気がしてならない。
 いたいけな少年の真似事でもしているつもりなのか、湿っぽい表情すら見せている。

 猟奇犯が見せた寂しげな表情も数分と持つことは無かった。
 すぐに何時もの仏頂面の中にしまいこんで、ふつふつと煮え滾らせる欲の餌食にしてしまっただろう。

「設計上ではありますが、年長者として皆様をサポート出来るよう努力致します。
 行ってらっしゃいませ。」

 丁寧なお辞儀、畏まった言葉遣い。
 いつもの紳士的な彼がそこには居た。
 微かに見せつけた寂しさのような欠片なんて、彼方に消えてしまったかのようであった。
 見送りに来た。ただそれだけ。
 ストームは送り出しの言葉を言えば、すぐに最後方に身を引く。

「おっと……」

 愛に生き、愛に果てるのであろうこの美しい芸術品のようなドール。ディアの甘いながらも怒涛の勢いで流れ出す流麗なるラブコールを前に、デイビッドはいつものように穏やかに笑っている。
 彼の立つ場所が桜舞い散る別れの駅であり、今まさに列車は発進寸前だった。彼の周囲では餞別のハンカチが舞っているようだ。

 ダンスホールの黒い床を踏み締めて、先生の元へ駆けるディア。その細い身体をデイビッドは頼もしく抱き止めてくれるだろう。惜別などそこには何もない。ただ底抜けに明るく愛情深い送別の言葉を述べているあなたを、デイビッドは優しく見下ろす。

「どれぐらいで仕事が片付くかはまだ分からないんだ。次のお披露目が終わるごろには、きっと帰ってくるよ。……もし君たちの誰かが選ばれたとしたら、見送ってあげられないのは残念だけどね。

 そうだね、怪我には気を付けて、穏やかに過ごすこと。悩みごとは分かち合うこと……かな。ディア、頼めるかい?」

 デイビッドは変わらずとろとろとした温和そうな声で、あなたへとメッセージを託す。きっと彼は沢山の愛と誠実さでもって、必ず届けてくれると信じて。

 ソフィア、ストーム。
 あなた方の別れの言葉もまた、静かで広々としたダンスホールに響き渡るだろう。デイビッドへの惜別の念が、たとえ巧妙な見せかけのものだったとしても。
 彼は喜ばしそうにそれらの言葉をしまい、そうしてディアと身体を離して、門の前に立つ。

「それじゃあ名残惜しいけど、暫しのお別れだ。私が戻るまで、元気でね。

 ──幸運を祈っているよ。」

 あなた方に背を向けた彼が、ポツリと呟く。
 その後。どこから操作されたのか定かではないが、彼の目の前の見上げるほど大きな門が、ごごごごご、と壮大な物音を立てながら左右に開かれていく。

 あの日、あなた方が目撃したあの青い花の化け物は、この場所から現れた。


 ──目の前には白い壁と床、そして天井。光り輝く密室の箱が存在する。
 これはあなた方が日々使っている昇降機と同じである。勿論あれよりも何倍も大きいのだが。

 彼はその広すぎる無機質な箱にたった一人で踏み入ると、茫洋とした砂漠に蜃気楼が立っているかのような姿で、ニコリと微笑む。
 その笑顔を最後に。彼は再び閉ざされた扉の中へ消えていく。それきり、門の向こうから音はしなくなった。




 そうしてあなた方は、ダンスホールに残された。
 客席には誰も腰掛けていない。ステージに演者はいない。スポットライトも点灯せず、薄暗い劇場の奥で。

 ジゼルは今しがたデイビッドが去ったばかりの白い扉の前に立つと。

 くるりと、あなた方に向き直った。

「……さて。デイビッド先生はここを去ったわ。これであなたたちとゆっくりお話しできるわね。

 ディア、ストーム、それから、ソフィア。」


 ジゼルはがらんどうの劇場で、観客によく見えるような大仰な仕草で両腕を広げた。
 あなた方を偉大なる母の愛で包もうとしているかのような、そんな姿で。

「アストレアのお披露目から、少し経ったわね。

 ──彼女がどうなったか、知りたくはない?」


 ジゼルは何よりも平和を願うような慈母の顔で、うっそり微笑んだ。


Scene1
『In front of the “GATE”』

【学生寮1F ダイニングルーム】

Gretel
Odilia
Sarah
Rosetta

 ──午後18時、学生寮の周囲は夕暮れ時を通り過ぎて、夜の隣に包まれ始める時分の事だ。
 この時間帯は、普段であれば寮内は一日の勉強を終えたドールズが帰り着き、夕食の支度などで賑やかになり始める時間だった。学友であり共に生活する家族にも等しい同級生たちと団欒を行う為の時間でもある。

 だが今日この日に限っては、寮内はどうも物寂しく静かだった。留まっているドールズが少ない為に、活気というものがないのである。
 そう、今日はあなた方オミクロンクラスの先生、デイビッドが学園を去るその日であった。彼を見送る為に、ジゼル、そしてプリマドールの三名が寮を離れることをあなた方は知っている。

 だがそれ以外の者達も、ちらほらと寮に戻ってきていない。故に、あなた方は夕食の支度すら手を付けられず、待ちぼうけをしていた。
 ジゼルからも「あなた達はここで待っていて」と告げられているため、様子を見に行くことも出来ない。

 暖かな燭台の炎が唯一、ダイニングルームに留まるドールズを優しく見守っている。
 ロゼット、オディーリア、サラ。
 ──そしてグレーテル。
 先程までは他のドールもこの場に留まっていたが、待つにはここでなくてもいい、とまばらに部屋を去っていった。


 閑静なダイニングルームには、グレーテルが本を読む静かな音が響いている。
 そんな折、ふと、グレーテルが顔を上げて、柱時計の方を見遣って「あ」とつぶやいた。

「……あれ? ……あ、あれ……?」

 かと思えば彼女は自身の制服のポケットをまさぐり始め、徐々に顔を青ざめていく。

「……あ……!」

 何かを探していた様子であったが、グレーテルはそこで思い出したかのように小さく声を上げて席を立つ。そしてあなた方には目もくれず、ダイニングルームを足早に去っていった。

《Rosetta》
 ゆらり、燭台が大きく揺らめいた。
 それは満たされた静謐が壊れる様を示すようでもあり、状況が大きく変化する予兆のようでもあった。

「ん」

 虚空を眺めるのにも、随分飽きていたのだろう。
 ロゼットは少女ドールの声を聞くと、そちらに視線を向けた。
 グレーテルの計画を知り、ストームから話を聞いてから少し経つ。依然、彼女に怪しい様子は見られない。
 今のところは、誰かを害そうとしている風には見えない。悪いことをしているという話も、とんと耳にしなかった。
 だから、観察以上のことは何もしていなかったのだが──一体どうしたのだろう?
 バタバタと立ち去る足音はアヒルを思わせる。ここに来てから、グレーテルが慌てるところなんて初めて見た気がした。

「グレーテル……どうしたんだろう。困ってるのかな」

 少し遅れて、彼女も席を立つ。
 純粋に困っているなら助けたいし、ついでにヘンゼルの話を聞き出すこともできるのではないかと思ったのだ。
 自分たちが立ち去った後、残ってしまうのはサラとオディーリアだ。
 銀の髪がよく似たふたりに、薄い笑みと言葉を投げかけた。

「私、グレーテルの方を見てくるよ。まだオミクロンに来てから慣れないだろうし、困り事があるなら手伝ってあげないとだからね」

《Sarah》
 不思議なメンバー。赤、赤、白、白。いつか迷い込んだ迷路を彷彿とさせる並び。白は駄目、青も駄目。真っ赤に染めなきゃ。眼の前、ゆらゆらと艶美な姿で踊る彼女のように。
 静かな空間は好きでも嫌いでもない。紙を捲る一定のテンポが少しずつ、少し、ずつ。サラを夢へ手招いた。
 だから赤い髪の少女の言葉なんて、行動なんて聞いていなし見ていない。

「んぁっ。グレー、テルさん。どこか、行った、の?」

 赤薔薇が立ち上がった音に気づき机に突っ伏していた体を起き上がらせる。意識はまだ半分夢の中なのか、途切れ途切れと言葉を紡ぎながら。
 赤が二人共去ってしまう。真っ白な二人。踊り子が息絶えてしまったその時。二人は暗闇に飲み込まれてしまわないだろうか。ついていくのも、部屋に戻るのも、どちらでもいい。

「オディーリアサンは、どう。する?」

《Odilia》
 みんな帰ってこない……きっと調べものが多いのだろう。
 暖かなロウソクの火が、オディーのピンクパールの瞳に映る。さっきまで他のドールもいたが、きっと他のところへ行ったのだろう。まぁお兄ちゃんお姉ちゃんにもやることはあるだろうし、仕方がない。
 ジゼル先生からも待っててと言われているからここを動くことも出来ないし、様子を見ることも叶わない。

 ここにいるのはオディーとサラとロゼットお姉ちゃんとグレーテルお姉ちゃんだけ。
 ほか二人とは仲良い方だけれど、グレーテルお姉ちゃんとはほとんど喋ったことがない。何を考えてるのか、何が得意なのか、何が知りたいのかオディーにはなんにも分からない、頭の中がずっと不明を訴えている。

 ふとグレーテルお姉ちゃんが行動する。
 何やら慌てたようにポケットをまさぐって探しているようにも見えた。
 どうやら探してたものは別のところにあるようで、慌ててどっかへ行ってしまった。

 どうやらロゼットお姉ちゃんグレーテルお姉ちゃんの方へ行くらしい。支えてあげたい、力になりたいらしい。

「どうしよう……オディーあんまりグレーテルお姉ちゃんとは仲良くないと思うし。」

 アリスちゃんとの一件でグレーテルのことは一度姿だけは見ていた。
 それも悪い形で、グレーテルお姉ちゃんは多分覚えていないだろうけれど、オディーは覚えている。
 アリスちゃんに席を勧められたところがたまたまグレーテルちゃんが座ってたところで、オディーは座らなきゃいけなかったから座ってしまった。
 あんまりオディー自身もいい印象を持ってない相手だ。

「サラはどうしたい? オディーはロゼットお姉ちゃんを追いかけてもいいし、ちょっとここをなにか無いかとか見てもいいけれど。」

 オディーには選択できない。
 何かあるかもしれないし何も無いかもしれない。
 それにジゼル先生に待っててって言われているから、みんながもし別のところに行くならそれを説明するドールも必要だろうし。
 ロゼットお姉ちゃんについて行くならちょっと考えてみるけれど。

《Rosetta》
 特にどうするか決まっていないらしい サラと、悩んでいるオディーと。
 ふたりを待っている間、赤薔薇はちらりと扉の方を見た。
 グレーテルが向かった先はどこなのだろう。寮の中であればいいが、外に出てしまえば他のドールへの説明が難しくなるし。
 エーナやデュオではない以上、彼女の脅威を説いたところで納得してもらえるとは限らない。
 だから、まあ──つまるところ、ロゼットは急いでいたのだ。

「悩んでるなら一緒に行こうよ。ジゼル先生たちが帰ってくるまでに戻ればいいんだもの。そう時間はかからないよ」

 ね、とやわらかく目を細めて、灯りのように彼女は誘う。
 ふたりの返事の如何を問わず、赤髪のトゥリアドールは部屋を出て行こうとするだろう。
 ついてくるのであれば歩調を合わせるし、遅れてくるのであれば、ドアノブに手をかけながら待っているはずだ。

《Sarah》
「あっ、でも。ジゼル先生サンに……動くなって」

 思い出した。思い出した。待っていてと言われていたんだ。ディビッド先生サンの代わりのジゼル先生サンに。
 今ここを動いたら、先生の言いつけに背くことになる。それは、嫌。

「ボクはここにいるよ。」

 赤が消えても白が席を立っても青い塗り残しがある白は席に座って待とう。
 興味のない場所より良いつけを破った塗られた赤い薔薇も気になるけれど。でも、彼女は言いつけを破る。守るサラのほうがえらい。デュオよりも賢い。
 それに、まだ少し眠い。動くより、机に根付いていたい。
 貴女達が外に出るというのならサラは微塵も止めることなく、今はない手を振り見送った後に頬杖をつきながら興味をそそるものを捜す。

 ダイニングルームは相変わらず静かで、あなた方以外にドールの気配は無い。
 大きな机が三つ並んでおり、このクラスのドールの人数分、木製の椅子が並べられている。壁にはいくつもの彩豊かな絵画が吊るされており、食事中もドールズの目を飽きさせることがない。
 そしてダイニングルームの奥には、柱時計が現在もカチ、コチと音を立てている。

 現在時刻は18時を少し回ったところである。

《Odilia》
「サラちゃんは残るの? わかった。」

 えぇじゃあどうしようか。ロゼットお姉ちゃんに合わせるかはたまた、サラちゃんに合わせるか……二択の選択。
 こういう時に自分が優柔不断なのに嫌気がさしてくる。
 中間のオディーが悪いんだけれど、とりあえず何かないだろうか?

 テーブルの上には急いでてグレーテルが置いて行ってしまった本。
 オディーにはよく分からないと思う。
 こういうのはアメリアお姉ちゃんとかに聞かないとオディーにはきっと理解できない。

 ふとそんなところで、席の下でキラキラと輝く物がオディーの目に留まる。

「あれ? なんだろう……ロゼッタお姉ちゃんちょっと待って……席の下に何か落ちてるの、キラキラ光るものが」

 誰かの落し物だろうか、そういえばグレーテルがさっき何か探していた様子だしもしかしたらそれかもしれない。

 先程までグレーテルが腰を掛けていた、何の変哲もない木製の椅子。その足元付近に、何かが微かに光ったのをオディーリアの目は逃さなかった。

 あなたがそちらに歩み寄り、身を屈めて拾い上げると。
 あなたの小さな掌の中には、ひとつの鍵がチャリ、と音を立てるだろう。古く錆び始めた金属製の鍵であり、タグが取り付けられている。

 恐らくどの部屋の鍵か分かるように、と添えられたタグには、掠れ掛けた文字で『通信室』と記されているのが分かる。


 オディーリアとサラがこれを確認するならば、以前デイビッドがジゼルに託していたものだと察するだろう。

《Rosetta》
「いいよ。どうしたの?」

 オディーリアからの呼び声を耳にすれば、ロゼットはゆっくりとそちらに近付いていく。
 落とし物があるならなおさら届けなければならないだろうし、別のドールのモノでもそれはそれで一大事だ。
 そうして、ゆっくりと彼女の手の中を覗き込んで──表情を曇らせた。

「これ……グレーテルが落としたってことなのかな。通信室ってなんなのか、わかる?」

 一介の、しかもオミクロンに落ちてきたばかりのドールが、何故鍵など持っているのだろう。
  サラとオディーリアの顔を見て、ロゼットはそう問いかける。
 同時に手を伸ばしたのは、グレーテルが残していった本だ。
 ──何か、気味の悪いことが起こり始めているのではないか。
 そう思う指先は、視線をそちらに向けているというのに、本を上手く掴むことができない。何ページか、その本を捲ってしまうだろう。

 この部屋を慌ただしく立ち去ったグレーテルは、自分が読んでいた本を忘れていってしまったらしい。一冊の本が開かれたまま放置されていた。かなり分厚く、いかにもデュオモデルが普段読み耽っていそうな、小難しい書物である。

 あなたが表紙を確認すると、そこには『死に至る病』とタイトルが刻印されていることだろう。

◆ 死に至る病 ◆
『──第一編 死に至る病とは絶望のことである。』

 キルケゴールと呼ばれる哲学者が記した、哲学書の一冊だ。副題は「教化と覚醒のためのキリスト教的、心理学的論述」。
 この哲学書では、死に至らない病とは希望であり、その対比として、死に至る病はすなわち絶望だと述べられる。同時に、本書での絶望は自己の喪失であるとされ、自己を喪失することは神との関係をも喪ったことに繋がり、すなわち絶望は罪であるとする考え方。

 また、絶望の深化を「真の自己」に至る道であるとキルケゴールは記している。

《Sarah》
 結局のところ皆ダイニングに残るようだ。ウロウロとダイニングを探索する二人を横目にもう一度寝ようと伏せるが、テーセラの耳がそれを許さずするりと音が入ってくる。

「通信室? 通信室……あっ。先生サン達がなんか話してたやつかな」

 しかしなぜあの少女が?
 先生のものなのに。
 通信室は聞いたことがない。だからきっと先生しか知らない部屋。入ってはいけない部屋。
 なぜあの少女が?
 重たい体をゆっくり起き上がらせ席を立ち、かわいい狼に近づき一緒に鍵を確認する。

「グレーテルサンのかな、先生サンのかな。どちらにしろ。ジゼル先生サンがきたら返さないとね」

《Odilia》
「通信室……なんでグレーテルお姉ちゃんが持ってるの?
 これデイビッド先生がジゼル先生に渡してたはず……複数あったってこと?」

 でも……もしリヒトお兄ちゃんが言ってた場所が本当に通信室なら……先生しか入れないはず?
 秘密の部屋のはずなら、なんでグレーテルお姉ちゃんがこの鍵を持ってるの?

「ちょっと待ってサラ、これ一回本当にグレーテルお姉ちゃんの持ち物なのか聞いてみた方がいいかもしれない。
 もし、もしも本当にそうなら……グレーテルお姉ちゃんは先生に近い存在なのかもしれない? 多分だけれど。
 もしそうならグレーテルお姉ちゃんはオディー達がここを出る時の敵になるのかもしれない……」

 いや、分からない。分からないけれど、先生が入れるような秘密の部屋の鍵を持ってるなら、リヒトお兄ちゃんが言ってたことが本当なら、グレーテルお姉ちゃんは裏切り者……になるのかな……。
 そうなるとお兄ちゃんお姉ちゃんが出れなくなっちゃう、オディーの願いも叶わなく……。
 いやでも事情が……。

「分からないけれど……これをジゼル先生に返すのはあとでもいい気がする。
 オディーの意見だから、みんなが返したいなら返すけれど。」

《Rosetta》
 ふたりの話が、ロゼットの前を横切って通り過ぎていく。
 今日はいつも通りみんなでご飯を食べて、ジゼル先生に棺の鍵を閉めてもらって、それで終わりになるはずだったのに。
 どうしてこんなモノが、グレーテルのいた場所から見つかってしまうのだろう。

「……あの、ね。落ち着いて、私の話を聞いて欲しいんだ」

 ごくり、と唾を飲む音。
 ミュゲイアにお披露目の話をする時だって、ここまで緊張はしなかっただろう。
 リヒトはあの時、どんな気持ちでノートを見せてくれたのだろうか。少なくとも、さっきの自分のように落ち着いてはいられなかったはずだ。
 信じてもらえるとは限らない陰謀を、ふたりは聞き入れてくれるだろうか。
 唇を軽く湿らして、呼吸を落ち着かせて。サラとオディーリアを見つめて、赤薔薇は口を開く。

「その鍵は、まだ返さない方がいい。デイビッド先生にも、ジゼル先生にも。
 できるなら、グレーテルが落としたのか問いただした方がいいよ。少なくとも、私はそうしたいんだ。
 信じてもらえるかは分からないけれど……私、備品室でグレーテルのノートを拾ったの。そこには、おねえちゃんを……ソフィアを消すって書いてあってさ。
 実際に、おねえちゃんはグレーテルに殺すって言われたみたい。面と向かって、ストームがいる状態で。
 だから、一緒にグレーテルを止めてほしいの。この鍵のことは関係なくて、本当に偶然なのかもしれないけれど……少なくとも、話をしなくちゃいけないんだ。」

 フェリシアがここにいればいいのに、なんて。
 心の中で、彼女はひと言ごちた。
 ロゼットは元々雄弁ではないし、話だって得意な方ではない。
 ただ、仲間を護りたいという気持ちだけで脆い体躯を動かしているだけだ。
 今にも泣き出しそうに睫毛を震わせることはできるが、根拠の薄い話に説得力を持たせることはできないし、強張った顔だって信頼に足るものではないだろう。

「サラ、オディーリア。あなたたちさえ良ければ、なんだけど……私と一緒に、グレーテルを追いかけてくれる?」

 少女ドールは問いかける。
 トゥリアの武器である、儚さと弱さを最大限に押し出して。

《Sarah》
 この感じ、前にも感じたことがある。
 二人は何かを知っていて、サラだけ知らない。
 仲間はずれ。

「グレーテルサンが敵? ソフィアサンを消す?
 よく、わからない、な。」

 ドールがドールを消す? 嫉妬の気持ちからのもの? テーセラは嫉妬しようが喧嘩しようが仲直りをする。デュオ同士は違うのだろうか。
 あー。オミクロンに堕ちてきたのも納得だ。しかしソフィアサンと同じクラスにしてもよかったのだろうか。色々と悪化しそうな気もするが。
 とにかく二人が元プリマデュオドールの身を案じていて、グレーテルを嫌い疑う理由はわかった。

 追いかける? でも、でも、言いつけが。
 でも、ちょっとだけなら大丈夫かな。もしトゥリアの彼女が追いかけるというのなら、見つかった場合逃げることも難しい。それなら、テーセラドールが二体いたほうがいいはず。
 大丈夫、ちょっとだけ。ちょっと離れるだけ。グレーテルサンを捕まえたらすぐに戻って来るから。

「ボクは、いいよ。ロゼットサンだけじゃあ心配だし。」

 ほんの数分の鬼ごっこ。オディーリア、彼女も体を動かすのは好きなはずだ。赤薔薇の言葉に頷き真っ白狼に視線を移す。



 あなた方三名は、三者三様の心持ちでダイニングルームを揃って出るだろう。
 その手には、通信室と記された謎の鍵を握って。
 慌てた様子で立ち去ったグレーテル。赤毛の彼女にこの鍵についてを問いただすため、親しみ深い寮内をそれぞれの歩幅で歩き始める。


 これはあなた方にとって、長い長い夜の始まり。
 モラトリアムの先駆けであり──あなた方に許された、最後の平穏であるとも言えよう。


 星々は空でいつものように瞬いている。
 暖かな安寧を砕くのは、一体誰なのだろうか。


Scene2
『Home Sweet Home』

【学園1F ダンスホール】

Sophia
Dear
Storm
Giselle

《Sophia》
 仇が去ってゆく。それを、静かに見つめていた。気持ちは凪いでいて、うるさいのは門の音だけだ。

「………先生、アストレアはヒトに貰われて行ったんでしょう? どうなったもなにもないじゃない。変な事を言うのね。」

 にこ、にこと。ソフィアは、別れの挨拶を述べた時と変わらぬ穏やかな笑顔を貼り付けたまま。その少女然とした微笑みは、いつだって、あなたたち『敵』に相対する武器である。欺くことこそが、親友の戦い方であり、ソフィアの戦い方でもあった。
 こちらの裏を見透かすようなジゼルの言葉に臆することなく、堂々と従順で純粋なドールとして当然のことを返してみせる。正解の選び方なんて、とうに知っているのだから。

「もしかして、どんなヒトに貰われてどんな生活をしてるのか〜とか、そういうこと? それは確かに、少し気になるかもしれないけど……先生ってそんな事まで把握してるの?

 ………それとも、別の意味がなにかあるのかしら、先生。」

 去りゆくデイビッドを見守った時と温度は同じ、ソフィアの無垢な笑顔と共に発された、ドールであれば抱いて当然の疑問。
 本当ならば、アストレアの安否の事を、彼女が一番知りたがっているであろうに。他二人のプリマドールを抑えて一番手に口を開いた叡智の頂きを誇る彼女は、あっけらかんと『無知であるふり』をした。

 ジゼルはそんなソフィアの方へ視線を向けて、「ええ、そうね。その通りだわ」と趣向してみせる。
 アストレアの身に危険があった事を知るのは、一部のドールだけ。そしてその事実を知っている事を悟られれば、処分は免れない。このトイボックスはそういう場所だ。
 ソフィアは先陣を切って言葉を発する事で、決して襤褸を出さぬように場を引き締めたのだろう。これ以上欠け落ちることのないように。

「気になっているんじゃないかと思ったの。あなた達なら。

 アストレアが一体、どなたに貰われていったのか。今はどうしているのか。
 ……あなたたちはとても優秀だった。そして何より、互いに親しかったでしょう。だからこそ、教えてあげるわ、知りたくはない?」

 ジゼルはゆったりと首を傾けた。いかにも単なる親切であるといった風な素振りだが、彼女が敵である事は間違いない、はずだ。
 しかしこれは、彼女から情報を引き出すチャンスでもあるかも知れない。

 あなた方はどう出るだろうか。

《Dear》
「ああ、もちろん! 絶対に伝えてみせるよ、この命にかえてもね! んふふっ、きっと喜んでくれる!」

 くすくすと嬉しそうに笑って、ディアは可愛らしく手を振る。出張へ出かける恋人を見送るような、柔らかな笑みで。そして、何も変わらない、崩れない笑みを、白き貴方へも平等に向けた。

「知りたい!」

 情報とは、様々な所から漏れるものだ。例えば視線、脈拍、指先の痙攣。そこが悲鳴飛び交う惨劇の場であれど、ダンスを嗜む社交の場であれど、あの日先生と三人の親友たちで囲んだ、チェス盤であれど。情報とは、あらゆる戦いの場において、最も鋭利な武器である。この場の誰もが、それを理解していた。静かに冷える戦場で——

 ——軽やかに、愛の天使は舞い降りる。

「知りたい、知りたい、知りたい! ねえ、好きな食べ物は何なのかな!? 嫌いな食べ物は? 平均体温は? どんな風に触られるのが好きで、どんな風に愛されるのが好きで、どんな温度で笑う方なのだろう!

 アティスを選んだんだ! きっとどんな方でも、おめめが素敵なのは間違いないね! ああ、どんな望みを囁くのかな……ああ、ああ、可愛らしい人! キミのシルクのような髪は姿形を変え、白磁の皿へ、眠りを守るネグリジェへ、空飛ぶ魔法の粉へと! 私たちを想い、愛し、見つめ続けるその美しい星の瞳に射抜かれて……ああ、ああ、ああ! 私の心はもう、糖尿病になってしまいそうだよ! 私たちがお病気になることってないのだろうけれどね! 私たちには、進化も退化もない! 髪が伸びないから、窓から垂らしてただ救いを待つこともない! 飛び降りるしかない! 大丈夫、茨が瞳を潰しても、愛があればハッピーエンド! そうだろう? 我らが天使、ジゼル嬢! ああ、どうかその麗しい唇で教えておくれ!」

 ディアが情報など、落とすはずがないのだ。きらきらと瞬くクリスアルのような瞳も、ジゼルの柔い体を抱きしめる腕も、どきどきとときめく恋する心臓も。嘘をついている痕跡など、見つかるはずがない。何故なら、彼に嘘をつくつもりなど少しもないのだから。ないものは測れない。罪のないものは裁けない。さあ、純粋で、無垢で、底なしに貴方を愛する敬虔なる愛の使徒に。どうか全てを与えておくれ。

「……あら? ディア。あなたはアストレアがどうしているかよりも、アストレアを受け取ったお方のことが気になるの?」

 ふわりと伸びた、星降る夜の王子様のような少年。ディアが軽やかに弾む愛を謳いながら駆け寄ってくると、ジゼルはデイビッドと同じように、そうすることが至極当然と言ったように小さな身体を抱き留めるだろう。
 嫋やかな白い指先が、あなたのキューピッド・ピンクのさらさらした髪の毛を、額を、そっと撫で付ける。

「ええ、そう。そうよね。うふふ。自分たちがこれから行く場所だもの、興味が湧いて当然だわ。」

 そうして彼女は僅かに俯き、くすくすと肩を揺らして微笑う、微笑う、微笑う。
 やがて。そのストロベリー・アイスを盛り付けたような甘やかな色をした瞳を瞬かせて、あなた方の顔をそれぞれ見渡す。

「好き嫌いだとか、プライベートなこととか。そこまで詳しいプロフィールを知ってる訳じゃないけれど……折角よ、教えてあげるわ。

 アストレアはいま、『レディ・ローレライ』と呼ばれるお方の元へ、丁稚奉公に行っているの。そうね……それは美しい方よ、見た目も、心も。」

 丸みを帯びてあどけなくも、美しく透き通った輪郭を持つディアの頬を温かな手で包み込みながら、ジゼルは優しい子守唄の声で語り掛ける。

「失った恋人をふたたび取り戻すために、幾歳月経とうとも諦めない、一途で健気なお方よ。……あのお方がアストレアに求めているのは、つまり、そういう事なの。

 きっと今頃、彼女はレディ・ローレライと蜜月のひと時を過ごしている事でしょうね。」

 想いを馳せるように、しっとりとジゼルは両目を伏せる。そうして再び、あなた方を見据えた。

《Storm》
 御大層に出で立つデイビッド先生の姿を、巨大な扉が覆い隠すまで見据えていた。やがて、白く巨大な扉は完全に動かなくなり、だだっ広いダンスホールがそこには拡がっている。
 さて、皆の元へ帰ろう。そうした時、ジゼル先生が白い扉の前に躍り出て来て、自然と彼らの意識を集める。

 話題は、アストレアのご主人様の話。
 ストームは訝しげな表情を浮かべる。
 お披露目に出ていった旧友達、ミシェラに関しても詳細に語った事がないじゃないか。と。
 最も詳しく語れるような話が無いはずだ。と。
 ストームはジゼル先生の不可思議な問い掛けに眉を顰めることしか出来なかった。
 ソフィア、ディアと順々に質問してゆきジゼル先生は一つ一つ丁寧に答えていった。
 彼女の意識も自然とストームに向いた事だろう。ディアの濃密なラブコールの妙な残熱漂う空気を小さく吸って、ストームは口を開いた。

「『レディ・ローレライ』様……。アティスは素敵な方に貰われたのですね。良かったです。
 ですがジゼル先生、いくらジブン達がアティスと親友だったにしても一応お客様の情報ですよね。そのように語ってしまっても平気なのですか?
 なぜジブン達に教えようと?」

 自分達に意思決定の技能プログラムがあったにせよ、所詮は商品であるドールとしてストームは心配そうな顔を浮かべた。
 なぜこの場で自分達だけに教えるのか。
 幸福に満ちた引き取り先の話なら学習室で講義すれば良いのに。
 ストームは、皮肉めいた言葉を咽喉に押し込み、飲み飲んだ。

 アストレアは多くのドールが信じる通りに栄光の道を辿ったのだ。ジゼルはあなた方にそう語り掛ける。その眦は慈愛に蕩けており、変わらずディアの背中を、艶めく髪を、肌を撫で下ろしている。

 この場には穏やかで暖かい愛ばかりが犇めいているはずなのに、ダンスホールは相変わらず底冷えするようで、気温を感知するよう精巧に造られたドールの身体は身震いすることを覚えるかもしれない。
 あなた方は、この場で起きた惨劇を知っていた。
 ステージに舞った血潮を知っていた。
 無辜のドールがあげた断末魔の悲鳴を知っていた──……。

 故にこそ、ジゼルの語り口に違和感を覚えるのは当然の話だろう。
 ストームの掲げる疑問ももっともだ。トイボックスは、外に無数に存在する顧客を相手に、ドールを売り出している。管理者であるはずの彼女に守秘義務は介在しないのか、と疑う気持ちを抱くのも必然だ。

「……いいの。それにあなた達だって、無理に繕う必要はないのよ、この場所では。

 だって、もうあの悪魔は居ないんだもの。」

 ぽつり。
 ジゼルは僅かに顔を俯せて、小さく囁いてから。
 再び擡げた顔に、張り付けたような甘ったるい笑みを浮かべる事だろう。


──あの晩、プリマドール四名を束ねてダンスホールへ向かうことを提案したのはソフィアね?


 そして、背筋が凍て付くような事実を場に落とした。それはあなた方にとって、あまりに致命的な発言だった。お披露目に互いを攫わせはしまいと、必死に手を繋ぎ合って、必死に押さえてきた真実を、呆気なく、ジゼルは既に知り存じていると述べたのだ。

「第XXXV期の品評会……ああいえ、ミシェラのお披露目の日の晩。あなたたちは以前より明かされてこなかったお披露目の実態を知るため、棺に細工をし、四人連れ立って学園へ忍び込んだ。
 お披露目の日の晩だけは、先生は学生寮を空けるもの。工夫さえすれば侵入は容易かった筈よね。

 普通のドールなら、恒常的に焼き込まれたヒトへの忠誠心・献身欲から、間違っても決まりごとを破らないように無意識に自我へ自制を掛ける。そんなストッパーがまるで機能しないあたりは、やっぱりオミクロンクラスのドールと言ったところね。……だからあなたたちは特別なドールと呼ばれるのでしょう。」

 ジゼルは次々と、あなた方も犯した行為をあげつらっていく。既に全てを確信している口振りは、いくら誤魔化しを重ねようと逃れられないのではないか? ──とも思わせる。

「安心して、あなた達をお披露目に突き出すなんて事、しないわ。だから私もあなた達に秘密を教えてあげたの。信頼してほしくてね。

 怖いことなんて何もないわ。私ともう少しお話しましょう。」


 だから、

 ──風船をどうぞ、裏切り者さんBetrayer


 笑顔で優しい手を差し伸べるジゼルは、一体その腹の内に何を抱えているのだろう?

Odilia
Sarah
Rosetta

 あなた方は連れ立って、一階から三階まで、見慣れた寮内を練り歩いて、揺れる赤毛を探す。
 ロゼットのものとは違う、バーガンディの色濃く暗い髪色。優しく結い込まれた長い三つ編み。清楚な赤い女子制服。

 先程までダイニングルームに居たはずの彼女は──しかし。
 医務室にも、洗浄室にも、ラウンジにも、学習室にも。
 ドールズのそれぞれの寝室にも。
 そして、よく彼女の姿を見掛けることが多かった、図書室にさえ、グレーテルの姿は見受けられない。

 もしかすると、この恐ろしく暗い中で、灯りも持たずに寮外に出てしまったのかもしれない。


 ──或いは。

 あなた方が誰も足を踏み入れたことのない、三階の物置。そこに迷い込んでしまったのかもしれない。
 平原から学生寮を見上げると、本来ならば図書室の隣に、不自然な小部屋が一つ存在するはずだった。実際、外から学園寮を見ても、その位置には窓が取り付けられているのだ。

 だがその小部屋に入る扉は寮内のどこにも存在せず、先生の話によると、あそこはただの物置であり、物が散乱していて危険なため、扉は塞いであると語っていた。


 ──オディーリア。
 あなたはリヒトから、それらしき扉の位置を聞いている。
 そしてその先が、この鍵に合うであろう扉のある、『通信室』なのではないか? とも感じるはずだ。

 グレーテルはもしかすると、その部屋の確認に向かったのかもしれない、と思うだろう。

《Odilia》
 どこを探してもグレーテルお姉ちゃんの特徴的な赤毛は見当たらない。
 寮内にはいないのか?
 いやでもこんな暗闇の中、外へ出ていくと思えない。
 オディーなら足がすくんでひとりじゃ到底暗闇の先にはいけない。グレーテルお姉ちゃんもそんな勇気なんてなさそうだったし……。

「もしかして……リヒトお兄ちゃんが言ってた場所?」

 確かに鍵を持っていたなら、そしてそこを知っていて開けたり閉じたりできるのなら、そこに鍵を忘れてしまってあんな感じに慌てていたのかと辻褄が合う。
 もしかしたらそこへ鍵を探しに行ったのかもしれない。

 リヒトお兄ちゃんから扉の場所は聞いている。危ないところかもしれないけれど、きっとそこに何かあるのなら知るべきだと思う。
 少しでも情報を持ち帰る。あんまり無茶するなって言われたけれど、調査員だもん、頑張って持ち帰ってお兄ちゃんお姉ちゃんの力にならなきゃ。

「ねぇロゼットお姉ちゃん、サラ。
 もしかしたらグレーテルお姉ちゃんは通信室にいるのかもしれない。
 グレーテルお姉ちゃんがもし、通信室の扉を開け閉めできるんだったら何かしら忘れて、もしくはそう思って、取りに行ってたりしてもおかしくはないと思う。

 だから……オディー行ってみたい。
 通信室、何となくリヒトお兄ちゃんから場所は聞いてるから。」

 オディーに任せて。

 先生が怖いけれど、知っちゃいけない場所な気もするけれど、グレーテルお姉ちゃんがいるなら行くべきだと思う。

 あとほんの少しの好奇心もあった、行くなって言われたら行きたくなるのが本能だと思う。
 正しくオディーはそれに引っかかっているが、少しでも力になれるならオディーは……どうなってもいいから。

《Rosetta》
 白い子犬を二匹連れて、ロゼットは慣れ親しんだ寮内を歩いていく。
 一階、二階、三階。
 どの部屋の中にも、青みがかった赤髪は見つからない。そこにいたドールたちの様子からも、グレーテルがいた痕は見つからなかった。
 もしかして、自分たちの知らない抜け道があるんだろうか。
 そんな風に考え始めた頃、オディーが発した言葉は少しばかり衝撃的なものだった。

「場所が分かるなら、案内をお願いしてもいいかな。グレーテルがそこにいれば、言い逃れはできないと思うしね」

 しっかりと肯首をして、ロゼットは言葉を返す。
 それからサラの方を見て、やさしく微笑んでみせた。
 彼女がお披露目の真実を知らない可能性なんて、まるで想像しないまま。無邪気な口振りで、悪戯に誘うかのように。

「行こう、サラ。もしかしたら、トイボックスにいない誰かとも連絡を取れるかもしれないよ」

 トイボックスの外部と──ガーデンの誰かと、ひと言でも話すことができたなら。
 退っ引きならない状況でも、その足取りは随分軽かった。
 悪い予感を無視できるような期待に、赤薔薇はただしがみついていたかったのだ。

《Sarah》
 上がって下がって登って降ってそれでも三つ編みの彼女は見つかりません。
 一体どこへ行っているのやらと思えばどうやら通信室らしい。
 知らない場所。でもオディーリアは知っている。

「トイボックスにいない誰かって、デイビッド先生サンってこと?」

 ついさっき別れたばかりだというのにもう会えるとは。嬉しいやら困惑やら。
 テーセラドールはヒトを引っ張るべきドールなのに今のサラには進むべき道も、手助けの仕方もわからない。

 必要ない、そう言われる前に三つ編みの彼女を探さなくては。

《Odilia》
「わかった……案内するね。」

 本当はリヒトお兄ちゃんとかソフィアお姉ちゃんだとか、もっとみんながいる時に行きたかったけれど、そんなこと言ってられない状況だ。

「場所は……先生の部屋。
 そこの本棚の裏にあるの、入口が……リヒトお兄ちゃんの言葉が本当ならだけど。」

 でもオディーの大好きなお兄ちゃんが嘘をつくわけが無い。しかもあんなに焦ったような勢いのまま言われたのだから、きっと本当のことだろう。

「とりあえず二階、先生の部屋まで行こ?」

 そこにグレーテルお姉ちゃんがいるかもしれない、いなかったら仲間で探索すればいい。
 とりあえずこの鍵について聞かなきゃ。
 でもできるだけ無茶はしない、リヒトお兄ちゃんの元へ帰るために。
 そう決意し、みんなを案内するために先導して二階の先生の部屋まで向かうだろう。

【学生寮2F 先生の部屋】

 木製の分厚い扉を押し開けて、オディーリアの先導によってあなた方は書斎兼寝室として使われている、先生の部屋に踏み入った。
 日頃デイビッドが書類仕事をしている執務机が正面に。そして完璧なベッドメイキングを施された四つ足のベッドには、現在はパステルピンクの鮮やかなベッドシーツが敷かれている。今はジゼルがこの寝室を使っているからだろう。

 いつも通りで、変わった様子は見られない日常的な先生の部屋。
 先ほど見て回ったときもそうであったように、やはりこの部屋も静まり返っていて、グレーテルの赤毛は見つからない。


 ──もしかしたら、この部屋の先にいるかもしれない。
 オディーリアは一欠片の予感めいたものを感じながら、部屋の奥の本棚へ向かう。リヒトから教わった秘密の部屋の入り口はこの場所にある。

 オディーリアとサラはテーセラモデル特有の優れた耳で、本当に微かながら、扉の向こうから風の音を感じた。この先に空間があることの証左である。

 本棚に手を掛けると、ズレていた滑車がレールに嵌り、本棚そのものをスライドさせることが出来た。
 その向こう側に、隠されていた重厚な扉が現れる。ドアノブにはシリンダー錠が取り付けられており、鍵がなければ開かない仕組みになっている。


 ──はずだった、が。
 オディーリアがまずそのドアノブに手を掛けると、何の抵抗もなく扉は開いた。まだ鍵を使っていないにも関わらず、だ。
 施錠漏れだろうか? あの先生が? だが、今この扉が開いているということは、グレーテルもこの中に入っている可能性が高い。


 ……部屋の先は、ひどく薄暗い。照明が付けられていないので仕方がなかった。
 左右を背の高い棚で囲われた狭い通路のような一室。棚には何か雑多なものが置かれているように見えたが、あまりにも暗すぎてよく分からない。

 その更に奥には、梯子が壁に取り付けられているのが辛うじて見えた。どうやらここは物置で、上階に更に上がれるようになっているらしい。
 現状、この部屋にグレーテルは見当たらない。

《Rosetta》
「どうしたの?」

 鍵が開く音がしないのに、扉が開いた。
 そのことに、多少の違和感を抱いたのだろう。オディーリアに問いかけながら、ロゼットは入室する。
 中に罠でもあれば、きっと真っ先に引っ掛かっていただろう。もっとも、本人がそうなっても痛みを感じなかっただろうが。

「これ……何が入ってるんだろうね。先生が集めたモノなのかな」

 よく見えない棚を見上げながら、彼女はそう呟いた。
 ランタンでもあればよかったが、そんなモノを持ち込もうとすればすぐ見つかっただろう。
 サラとオディーリアと、あまり離れすぎないように。きょろきょろと周囲を見ながら、赤薔薇は暗い部屋の奥に進んでいく。

《Sarah》
 本棚が動いた。扉がある。
 なんとも心躍る設計だろう。
 扉開けてその先は部屋。
 きっと入っちゃいけない部屋。

「ねぇ、そろそろ。戻らない?」

 体が行くなって言ってる。足が動かない。マフラーがずっとサラを引き止める。棚の中を見ようともせず先を向かう二人の背中に話しかける。
 二人が進む足を止めようが止めまいが、進むのならサラはついて行く。これ以上欠陥品が増えないように。
 特にそばにかかっている梯子、もし自分が先にこの部屋に入っていたらすぐにでも撤去していたのに。

《Odilia》
 暗い、暗闇だ。あかりがあればいいのだが、そういうのも見つけられなかったからきっとない。
 グレーテルお姉ちゃんは見つけて上がったのかもしれないが……どうなのだろう。

「戻ったら戻ったで何も分からないことになるから……せめてグレーテルお姉ちゃんのことは白黒つけてみたい。」

 つけなきゃ、みんながどうなるか分からない、もっと酷いことになるかもしれない。
 何が起きるか分からない。無知というものは死ぬほど怖いものだ、その暗闇のように何も分からない、何も知らないその恐怖はオディーは嫌いだ。
 何よりその恐怖で誰かが傷つくのはもっと嫌だ。

「サラは帰る? オディーは一人でも先に行くよ、オディーは知らないままでいるのは嫌だから。」

 そう言い、サラの返答を聞かず、オディーは暗闇の中、梯子を見つけ手をかけ、足をかけ、上へ上がろうとする。

 あなた方三名は、連れ立って先生の秘密の部屋へと踏み入る。わざわざ鍵を掛けて、本棚を使って巧妙に隠してまでいたこの部屋。
 心のどこかでは、入ってはいけないと分かっていた。
 リスクが高すぎる、とも。
 先生を裏切ることになりたくはない、とも。

 それでもあなた方は、あの深紅の三つ編みを追って、暗闇へと足を沈ませるのだろう。グレーテルを案ずる気持ちと、グレーテルを疑う気持ちとが入り混じる。
 目の前の暗澹たる闇は、どうあっても変わらない。なのであなた方は、キィ、と開かれた扉を恐る恐る通り抜けて、その先にある梯子を目指そうとする。


 目指そうと、した──



 ──パタン。

 と、軽い音がして、あなた方の背後で扉が勝手に閉ざされた。先生の部屋の明かりが差し込むことで辛うじて目の前を窺うことが出来ていたが、唯一の光源を失い、あなた方は谷底へ放り込まれたような気分になる。

 黒い絵の具をぶちまけたような、無条件の黒。傍らに立っていた隣人の輪郭すら闇に溶けて、分からなくなる。
 咄嗟に振り返ると、閉ざされた扉の向こうで、ガラガラガラガラ……と今しがた聞いたばかりの音が聞こえる。
 滑車を回す音。本棚がずらされた、音。

 ……扉はもうすっかり開かなくなっていた。


「ロゼットさん? オディーリアちゃん、サラちゃん。そこに居るの?」


 閉ざされた扉の向こうから、微かに鼓膜を揺さぶる程度の、小さな少女の呼び掛けが聞こえた。

 ──グレーテルの声だと、すぐに分かるだろう。

《Rosetta》
 サラの「戻ろう」という言葉は、確かに聞こえていたはずなのだ。
 それを軽視したのはロゼットで、「大丈夫」と返したのもロゼットだった。
 だから、きっと報いを受けたのだろう。
 続きを口にしようとした時、部屋の中から光が消えた。

「……ふたりとも、上に行って。できるだけ早く。私が返事をするから」

 ドアノブをガチャガチャと動かしても、もう向こう側に行けそうにはない。帰り道を失ったことを、さんにんは察したことだろう。
 扉を開こうと試行錯誤して、赤薔薇は少し考え込む。それから、小声で上記を口にした。
 彼女たちが残るなら、それを止めはしないだろう。トゥリアの耳で微かな声を受け止めるのは、随分難しい。

「グレーテル、私だよ、ロゼットだよ。聞こえる?」

 彼女は声を張り上げて、トントンと扉を叩く。
 恐らく、この部屋に入っているのを見られた以上はロクなことにならないだろう。
 テーセラふたりには、返事をする余裕もないまま。暗がりの花は、グレーテルの答えを待っている。

 グレーテルは扉越しに聞こえるあなたのか細い声と、ノックの音がきちんと聞こえる位置にいるのだろう。同じようにコンコン、と拳を壁にぶつけているようだが、一向に閉ざされた扉を彼女が開ける気配はない。

「うん。聞こえるよ、ちゃんと。」

 穏やかで、柔らかくて、気の良い友達のように華やかな声だった。とてもあなた方が閉じ込められていると分かって出している声とは思えない。不自然なほど場違いで、不気味なほどに機嫌の良い声色。

 それもそのはず。

「──悪い子たち。悪い魔女たちの声が、ここからならちゃんと聞こえてる。

 その部屋は入っちゃダメな場所だって、ジゼル先生からお伺いしたのに。ねえ、どうして入っちゃったの? そもそもどうやって入ったの?」

 かりかり。かり。
 彼女の爪先が、本棚の淵の部分を何度も何度も引っ掻いて、不安を掻き立てる音を産む。


「あーあ、いけないんだ。先生から鍵を盗んだのね。本当に……悪ぅい魔女たち。
 裁きを受けなくちゃいけないね。
 罰を受けなくちゃいけないね。
 お披露目で八つ裂きにされちゃえばいいんだ。
 焔に飲み込まれちゃえばいいんだ。

 あはは、あは! あはは! あはははは! きゃは!」

 グレーテルは、あなた方に鍵を盗んだ咎を押し付けようとしている。きっと言い逃れ出来ない。あなた方が本来なら施錠されているはずの扉の内側にいる限り。
 通信室に立っている限り。
 その鍵を手にしている限り。

「ねーえ、どうしてこんなとこに入っちゃったの……? ジゼル先生から言われてたよね、動かないで、って、何度も? 今がチャンスって思っちゃった? これでこっそり先生の秘密を暴けるぞって、思っちゃったかな。

 残念ね……ここはあなたたちの終わりの場所。魔女は熱された大釜に放り込まれて、わたしはやっと幸せになるの。

 ──あなたたちが先生に排除されれば、あの女に一矢報いれる。そしたらきっと、ヘンゼルが喜ぶの。わたしのことを認めてくれるはずなの。そうしたらわたし、わたし……!!」

 あはははっ、と明るく弾む声。スキップするような足音。勝ち誇る少女の笑い声。
 壁に阻まれて、微かにしか聞こえなかったが、あなた方は罠に嵌められたのだ。


「……先生に教えなくっちゃ。欠陥ドールがいるって。ドールとして分不相応な願いを抱いた、愚かな魔女がいるって……!」


 グレーテルは最後にそう呟くと、踵を返して歩き出す。ロゼットの耳には、すぐさま遠ざかっていく足音が聞こえた。

 ──不味い、と本能で直感するだろう。

 この部屋にいるところを先生に見られれば、言い逃れはもう出来ない。一発で“おしまい”だ。
 あとは奈落へ急降下していくだけ。
 地獄へ突き落とされるだけ。

 グレーテルが先生にこのことを伝えてしまうまでに、急いでこの部屋から脱出しなければいけない。
 だが唯一の出入り口である扉はたった今、グレーテルによって塞がれてしまった。

 袋小路。
 あなた方に出来ることはわずかな望みにかけて、この通信室と名付けられた隠し部屋を探し回ることだけだ。

【学園1F ダンスホール】

Sophia
Dear
Storm
Giselle

《Sophia》
「…………………は?」

 幼げな表情を護ったまま、ソフィアは静かに話を聞いていた。静かに、ただ静かに。それだけだった。……のに。
 背後に氷柱が落ちた錯覚。一瞬で、門の前の空気は冷えかえる。ひやりと、首筋にナイフを当てられた心地さえした。
 ……けれど。


「──お披露目を見たドールがいるの?」

 いつこんな状況に至るか、考えなかった日はない。……そう。『想定済み』なのだ。

「えっと……先生。どうしたの? 何か変よ。もしかして、この間お話した時のこと…怒ってるの?あたし、そんな……先生が言ってることなんて、知らない……」

 一瞬見開いたアクアマリンは、恐怖におびえるように形が歪んでいく。それは、言われのない罪を押し付けられた子供にお似合いの顔だった。引き攣った顔で、助けを求めるように戦友達を見渡せば──ああ、ほら。意図もすぐに伝わるはずだ。
 再三語るが、ソフィアは既にこの事態を想定していた。もっとも、相対することになる相手は想定とは違っていたが。こうなった時、全てを知っているような口振りで、カマをかけられている可能性だってあると踏んでいた。だから、まだ認めてはいけないのだ。
 星が流れれば、アン・ドゥ・トロワであなたのもとへ。けれどまだ、絞首縄とワルツを踊るには、まだ早い。

「突き出すって、ねえ……お披露目って、一体なんなの。悪魔って、デイビッド先生のこと? ミシェラとアストレアはどうなったの?」

 幼気な少女の素振りに欠けはない。当たり前だ。いつまでも解けない、王子様の魔法がかかっているのだから。

 唐突に名指しされ、渦中のドールへと置かれたソフィアは、それでもなお強靭な精神力で持ってシラを切って見せた。命に関わる致命的な話題を、意表を突く形で提示されたのだ。動揺もあったであろうに、彼女は全てを抑圧し、無垢なる子供を無垢なる子供を演じ続ける。
 ジゼルはそんなことはわかっていたとばかりに、用意された台詞のような言葉をさらに続ける。

「ミシェラのお披露目の晩の翌日、毎夜施錠されるはずのベッドが全て開かれていた、と。──デイビッド先生はそう仰っていたわ。

 あの晩、決まりごとを破り、鍵をピッキングして寮を抜け出したドールがいる。けれどオミクロンのドール全員で出て行った訳がない。カモフラージュだと分かったけれど、かと言って脱走したドールの正体までは分からなかったのでしょう。」

 悪魔はデイビッド? ミシェラとアストレアはどうなったの?
 ……お披露目って、何?
 そんな、あなた方はもうとっくに知っているであろう質問の答えを、ジゼルは述べなかった。
 それは最早、愚問であるというような口振り。──まごうことなき自身の情報への確信であった。

「その後、狙ったように実施されたあなた達の、規則破りの『柵越え』。ソフィア、ただ柵の外に興味があっただけなら、あなたはいつでも実施出来たはず。
 あのお披露目の後だった理由は何? どうして?

 柵越え計画の立案者は、きっと貴女とアストレアでしょうね。さしづめ、アストレアとフェリシア、エーナモデルの二人でデイビッド先生の気を引き、その間に柵の向こう側を下見する。……だけど発信機の存在にはまだ気が付いていなかったのでしょうね、先生に気付かれてしまったのはその誤算のせいでしょう。」

 ジゼルは次々とあなた方の規則破りの経緯を、計画の内容を語り尽くしていく。それはお伽噺を読むような優しい声のトーンと同じで、寝物語でも聞かされているかのようにトロトロとした声で。
 だからこそ場の空気感にそぐわず、怖気が走るものであっただろう。

「『ただの憶測だ』──そう言いたいでしょうね。実際、私には証拠がないもの。」

 ジゼルは一度、抱き締めていたディアからその身を離す。
 煌めくピンクダイヤモンドの瞳を一度伏せてから、口元だけで微笑むと。


「──あなた。ウェンディから、アストレアのお披露目の晩、何があったか聞いていたでしょ? ……少女ドールの寝室で。」


 と。

「ウェンディの様子がおかしいことは気付いていたの。真実を知っているんじゃないかしらとは、思っていたの。」

 言って。

「だからあの子とこちらのクラスに来てから私は、ウェンディの様子を見ていたの。

 あなた、よっぽどアストレアのことが心配だったんでしょうね。
 真っ先にウェンディの元に駆けつけて。」

 ジゼルは。

「そう。全部、知っていたのね。ふふふ。だからこの話をしたの。だからそんな馬鹿な子のフリなんてしなくていいの。」

 ──笑っている。


「ありのままのあなたたちを愛させて?」

《Dear》
「ふふっ、不思議なことを言うね! だって、あの子のことを一番よく知っているのは私たちだもの! 私たちの国に舞い降りた、キミたち天使様が一番の証拠さ! そう、そう、ウェンディ! 私たちを撫ぜる春風の子! かわいいかわいい、王子様のお姫様! ああ、なんと美しい結末だろうね! あの子が夢を諦めずにいてくれて、とても嬉しいの! 嬉しい、嬉しい、嬉しい! ああ、恋人の夢を応援するのも、私の——ディア・トイボックスの役割だからね!」

 王子様のおはようが響かない世界を、ディアは窓から眺めていた。ジゼル嬢。ウェンディ。グレーテル。王子様が守り抜いた、夜辺に咲いたお姫様。ねえ、アティス。アティス、アティス、アティス! ああ、キミはなんと愛おしい王子様なの! 自らの命を生贄に、愛した少女を守った王子。ああ、なんと素敵なことでしょう。ああ、なんと名誉な死なのでしょう。そう謳ったのは、紛れもない彼女の唇であったから。ディアはただ、信じているのだ。彼女の、王子様の語った誓いを。蒙昧に満ちた、馬鹿馬鹿しい御伽噺を。何も知らない子供だけが口ずさむことを許された、希望に満ちた愛の魔法を。
 ねえ、ウェンディ。嬉しいねえ。キミの王子様って、とっても素敵。キミの理想に溢れた、優しい優しい王子様であったでしょう。ねえ、アティス。私たち、きっと鏡ね。ジゼルの言葉を全て聞き、全ての意味を理解した上で、ディアはただ、可愛らしく玉座に座る。惨憺たる絶望のマリッジピンク。究極の生命体。

「——それにね、あの子が天国に行くはずないの。地獄に行くはずない。死ぬはずない。だって、そうあるべき。そう造られるべき。私たちは、そういう存在だもの。知っていたよ、ずっと、ずっと。けれど、教えてくれてありがとう」

 ちゅ。真実を話す唇の、隣で音は踊っていた。似合わぬ音。軽やかな音。可愛らしい音。ディアはジゼルのことを、何一つ疑っていない。先生も、トイボックスも、この世界も、何もかもが心の底から大好きで。だから、望みを叶えたくて。ただ、それだけだった。愛しているよ、ジゼル先生。キミのためならなんでもする。なんでもできる。懐疑も、恐怖も、絶望もない底なしの海が、貴方を覗いている。

「——ねえ、ジゼル嬢のお望みは?」

 なんだって、叶えてあげるよ。

「そう、ウェンディが来たことで全部分かったのね。アストレアがどうすることを選んだのか……どこへ行ったのかも。

 ディア、それにあなた達は、やっぱり他のドールより頭抜けてお利口さんのようね。それに、選ばれた特別なドールでもある……」

 興味が無かったわけではなく、知っていたから聞かなかった。実に単純明快な解答に、ジゼルは思わず笑みを溢す。それにディアがアストレアの行く末を聞かない理由は、第一に信頼であると言うではないか。彼女が不幸な目に遭うことなどあり得ない。彼女は楽園へ行く存在なのだと、幸せになれないと言われたドールはのたまっている。
 ジゼルは頬に感じる天使の羽根で撫でられたようなソフトな口付けに口元に手を添えて笑った。

 ソフィアとストームから感じる微かな警戒心が、ディアからはまるで感じられない。故に躊躇いなく前に出ることを可能とするのだろう。
 純真すぎるほどに素直で無垢で、トゥリアらしい献身さで。彼の柔らかな髪を掻き撫でて、ストーム、ソフィアと視線を絡めながら、投げ込まれた質問にひとつ頷いた。


「そう、なら話すわ。私の望みはね……悩めるドールズを救ってあげることよ。困った事があれば寄り添って、どうすれば最善の道を選べるのかを一緒に考えたい。あらゆる危険なものからこの手で守ってあげたい……その手助けをすること。

 愛しい愛しいドールズの母親に……とまではいかなくとも、それに近い存在になりたいの。その為にはね、オミクロンクラスの……いいえ、トイボックスの管理者にならなくちゃいけない。
 私は確かにエーナクラスの先生として、それなりの決定権は持っている。でもあの悪魔……いいえ、デイビッド先生ほどじゃないの。

 あの男はね、あなた達のことを単なる無機物としか思っていないわ。だから何度怯えるドールズを前にしても躊躇いなく電気信号焼却装置……いえ、あの焼却炉に放り込んできたの。お披露目でどうなるかを分かっていながら、何も知らないドールの背中を押し続けてきた。」

 同情的な眼差しであなた達を見据えるジゼル。彼女は瞳を伏せて微笑みを崩さないまま、続けた。

「『お前だってエーナクラスのドールに同じことをしてきた』……と言いたいかしら? ええ、そうね。でもようやく……ようやくこのチャンスが巡ってきたの。

 あなた達をお披露目に突き出すなら、もっと早い段階で出来ていたわ。それに信用ならないなら、他の気になることも教えてあげる。先生が漏洩してはならない、大切なトイボックスの秘密……あなた達に教えてあげる。

 どうする? 何か聞きたい?」

《Storm》
 静かな語り口が、ソフィアの嘘を絆した。
 柔らかな語り口が、ディアからの誘いで謳っている。
 ───“望み”を。

 魔法の絨毯もランプもない、夜空の星も願いの井戸も。けれど、ジゼル先生は謳っている。自らの贖罪の時を待つ子羊達は黙りこくって、彼女の言葉に聞き入るだろう。
 この時の、彼女の微笑みは聖母マリアのようであった。そして同時に、内に秘めてきた欲を恍惚そうに曝け出す快感に浸る悪魔のようにも見えた。

「“助ける”。ですか、とても聞こえが良く気に入りました。
 つまり、デイビッド先生の座す地位が欲しいから彼の隙を突こうと。その為にはジブン達を“助ける”ことをすれば彼を陥れることが出来ると。
 管理者とは、大変なのですね。」

 ストームはニュースキャスターだか、記者にだかなったようなつもりで軽薄に舌を回す。恣意的に紡いだ言葉にはたっぷりのシニカリズム。顎に触れながら心底同情したような顔までも見せた。

 あーこわい、これだから大人はイヤなんだ。
 いつまでも、信じれば空だって飛べる世界で踊るんだ。
 だって。アメジストは星を見つけた時のように強く輝いてピンクダイヤモンドの光を見詰めている。


「では、オミクロンクラスは、何の為にあるのでしょうか?
 働き蟻の法則に乗っ取った合理的教育方法の為、だけ。では無いのでしょう?」

 減らず口をそこそこに、珍しく先手を切る事だろう。
 落ちこぼれから放たれる不満とは明らかに異なった芯を持っていた。
 この秘密だらけのトイボックスのオモチャに芽生えてしまった懐疑を拭い去るには知りすぎた、そして好奇心が膨らみすぎてしまっていた。
 いつ針に触れて破裂してしまうかも知りもしない膨張し続ける好奇心を浮かばせて、ジゼル先生に差し出す。

 謙った美しい言葉遣いの裏に織り込まれたアイロニー。手厳しい言葉にジゼルは腹を立てることもなく、微笑みを崩さないままに首を横に振った。
 あなた方の猜疑や不信、或いは恨言はあって当然だと既に予測していたのだろう。まるで用意していたかのように滑らかに流麗に、彼女の口からは優しい言葉が躍り出る。

「疑われるのも仕方ないと分かってるわ。実際、私だってこのトイボックスのサイクルに加担して、沢山の罪なき子供たちを見殺しにしてきたのだもの。だから今は話を聞いてくれるだけで充分よ。

 あなたはとてもお利口のようね、ストーム。どうすることがあなた達にとって最善か、よく分かってる。」

 ジゼルは自身を利用すればいいと自ら言ってみせた。情報を引き摺り出せばいいと。故にストームはすぐに彼女へ質問を投げかけたのだろう。
 オミクロンクラスの存在理由。
 その有無を問われたジゼルは大した間を開けず、「……もちろん。」と静かに言葉を返した。

「それだけじゃないわ。あなたたちオミクロンクラスに移籍された子は決まって成績不振、肉体的損傷、精神的欠陥が所以とされるから、長きに渡りジャンククラスとしてドールズの嘲笑の的だった。

 だけどね、欠陥なんていうのはただ選ばれたドールをオミクロンクラスへ移すための口実に過ぎないの。何故ならドールズの欠陥は、わざわざクラスを分けなくとも直せるから。時間をかけてじっくりと……なんてことをしなくても修復してしまえるから。

 あなた達がオミクロンクラスへ移されたのはね、あなた達が『特別なドール』だからよ。このトイボックスの今後を揺らがせるような、大事な大事なドールだからなの。ジャンクドールだなんて謗りは全部、間違いなのよ。」

《Sophia》
 ソフィアは。黙っていた。
 こんな時でさえも希望を反射してきらめくターコイズと、好奇心に燃ゆ静かなヘテロクロミアと。なんだか、それらと同じ空間に居ないような、じぶんのからだだけが浮き上がって、どこか知らない、べつの場所にいるような。そんな感覚を抱きながら。
 ジゼルは、おりこうでちいさな猟奇犯の好奇心を受け止めれば、こちらを向くかもしれない。けれどソフィアは、静かだった。きっと、この沈黙は、しばらく続く。ソフィアは俯いて、ぶらんと降ろされたてのひらをわなわなと震わせるばかりだった。
 そうして、沈黙が明けたのは、果たして何秒、何分後だったろうか。

「……なんでも、聞いていいのね。」

 ああ。ついぞ背にしがみついていた愛しき亡霊にすら呪われてしまったのだろうか。病的な不安定さを纏ってもたげられたその顔は、ぴたりと黒い笑顔が貼り付いている。墨の溶けゆく水のごとく、アクアマリンは濁っていて、しかしそれでいて、口元はつり上がっているのだ。それは、まさしく(まじな)いであった。少女の形を成した幽鬼は、鈍く口を開く。

「──先生は、何体ドールをお披露目に送って殺したの。」

 そこでようやく、少女の仮面は割れた。

「そうよアストレアが心配だったわよ、ウェンディのことも。だって化け物に殺されるか燃やされるしかドールには選択肢がないんですもの。ぜーんぶあなたの、お前の言う通り。そう……そう、そうなの! 全部見てたの、見てたのね。は、は。は! まさか、まさかあのエーナクラスの先生の、みんなの『お母様』のご趣味が出歯亀だとはね! 素敵だこと! 悪魔は消えた? 目の前にいるわ。この悪魔、化け物!! 信頼? バカじゃないの? するわけないじゃない!!! 気持ち悪いのよお前の言葉全部、ペラペラペラペラと体のいい言葉ばかりよくもまあ……!!! は、は……エーナクラスを監督する所以ってわけ? 今までそうやって優しい顔をしてみんなのことを騙してヒトへの献身だとかお披露目へ選ばれる素晴らしさだとかクソみたいな事ばっか語ってきたんでしょ!? 感服するわその胡散臭さ!! 心のなさ!! 生憎だけどこっちはオミクロンだとか特別だとかそんなの全ッッッ部どうでもいいのよ!!!!
 ねえ。先生。お願いがあるの。死んでよ。今すぐ。悪いと思ってるなら。今まで殺したドールの分死んでよ。死んで償ってよ。ねえ。早く。早く。早く。どうせ出来ないんでしょ。ねえ。出来ないのよね。はは。あはは。あはははは。鬼、悪魔、公害、化け物…………………………はははは…………………………早く死んでくれたらいいのに…………………………」

 まあ、口が回る回る。毒は止まらない。恨みは尽きない。肩を揺らして、ゼエゼエと息を吐いて、ようやく毒が溢れ切った頃には、濁った水晶からなぜだかぼろぼろと涙が溢れだしていて。それに気付けば、出処のわからない嗚咽が漏れ出すその前に、涙を袖で拭いきってしまう。きっと今は酷い顔をしている。気持ち悪い。吐きそうだ。

「……先生が今なんと言おうと、このトイボックスにおいてドールズと先生たちでは立場が違いすぎる。脅しにしかならない。情報を抱えすぎる事も、いつかどこかでボロが出るかも、漏れるかもしれないから良い事とは言えない。……あなたの狙いはなんなの。何がしたいの、あなたは。あたしの事を見てたなら、あたしが先生達のことを殺したいほど憎んでるなんてわかってたでしょ。」

 彼女はすっかり、厭悪というものに脳を窶された亡者と成り果てていた。その美しくありながらも全てを拒絶する赤い唇で、呪詛の如き恨み言を母と宣う(かたきへと幾らでも、幾らでもぶつけていく。それは最早暴力と同じの、濁流のように海嘯のように全てを押し流す、言の葉の猛攻。

 どうか死んでくれ。いや、今すぐにこの場で死ね。
 期待を胸に残酷に散ったドールズの無念を少しでも晴らすため、消えてくれ。
 彼女の激情は痛いほどであった。空気を束の針へと変え、舞台は針の筵へ変わる。

 ジゼルは延々吐き連ねられる真っ黒な恨み言を全て受け止めてから、緩やかに目を伏せた。
 それはまるで、深い哀しみに囚われたかのような、世にも美しい、壮絶な悔恨の表情。それは完璧なおもばせで、ソフィアの想像だに出来ない苦悩を分かち合い、苦しんでくれているかのような、そんな表情だ。


「……分かってる。あなたの言いたいこと、重く受け止めるわ。みんなを解放出来たら、きっとわたしも罪を償うことになるでしょう。

 そうね……あなた達のためになればと知っていることを話そうと思ったけれど、リスクになるのも分かるわ。
 浅はかだったわね、ごめんなさい。だけどあなた達には、何より情報が必要なことも確か。そうなんじゃないかしら?」


 だが、もしもアストレアがこの場に立っていたならば、薄っぺらいイミテーションであると察せるような──中身(かんじょう)の伴わないものだった。
 しかしこの場に心のスペシャリストはもう居ない。不安定な場面で、不安定な感情で。理解の及ばぬ心を割り開きながら、あなた方は相対している。

【学生寮2F 通信室】

Odilia
Sarah
Rosetta

《Sarah》
 あー、やらかした。あー、やってしまった。
 気付けなかった光が消えるその一瞬に、自然に閉まるはずのない扉に。扉を閉めた誰かの気配に。
 きっとバレたら怒られる。
 怒られるで済まされるだろうか。もしかしたら一生お披露目に行けなくなるかもしれない、主人に会えなくなるかもしれない。視界が暗くなり取れる情報が少なくなっていけばいくほど、思考がネガティブに偏っていく。

「ボク、は。」

 上に行け。逃がしてくれるのだろうか? 脆い、弱い、嫌いなトゥリア一体残して逃げろと? 強いテーセラを逃がして? それはきっと、とっても嫌いな選択肢だ。でも残ったってサラに出来ることはない。何もわからないサラに。頭で考えることは苦手だ。デュオでもないくせにぐるぐると。
 頭より体で動こう。

「残る」

 最悪だ。
 残るという選択肢を選んだのはいいがあまり気持ちのいいお返事を貰えなかった。
 そもそもサラ達は魔女ではなくれっきとしたドールだ。間違えないでほしい。
 それよりもそれよりも。
 お披露目で八つ裂き?
 焔に飲み込まれる?
 罰を受けるって、裁きを受けるって何? お披露目はそんな場所じゃない。
 それに先生達もきちんと説明を聞いて、納得してくれるはず。
 グレーテル・トイボックス。嫌なドール。

「困っちゃった。」

《Rosetta》
 魔女。
 自分に向けられるとは思っていなかった言葉が、ガラスの身体に突き刺さる。
 規律を守らないのは、悪だ。トイボックスを欺くドールは、間違いなくジャンク品だろう。
 ロゼットの心は傷まないが、他のドールであれば、相応に動揺していたはずだ。
 こちらに害意を向けるのであれば、赤薔薇もそれを阻まねばならない。
 美しくあれと作られた薔薇にも、棘は残っているものなのだ。
 バン、と強い力で扉を叩く。
 彼女がまだ、こちらに耳を傾けるのであれば──否。最早聞こえていなかったとしても、彼女は声を上げるだろう。

「あなたが備品室に隠したノートを、読んだよ」

 もう一度、鈍い音が響く。
 時間を稼ぐように、愛られるだけの手のひらで扉を叩く。
 それが赦しを乞う娘の手なのか、扉を叩く死神の手なのかは分からない。部屋の中はあまりに暗く、自分の輪郭すら見えはしなかった。

「グレーテルは、ヘンゼルのお姉ちゃんじゃないんでしょう? 見た目だけの偽物が、どうやって認めてもらうというの」

 グレーテルの発言と、ヘンゼルの悲鳴と。
 様々な要因から導き出した、最も最悪なハッタリを口にする。
 今のロゼットは怒っているのだろうか。それとも、嗤っているのだろうか?
 背筋を雫が伝う感覚だけが、はっきりと暗がりの中で存在を主張していた。

 閉ざされた扉。閉所に閉じ込められた哀れなドールズ。惨めな暗闇で座り込むしかない子供たち──
 そんなあなた方が愉快で堪らないのか、込み上げる笑いを殺しながら書斎を出ようと遠ざかっていたグレーテルの足音が、ピタ、と止まる。実際、彼女は書斎を出る直前で足を止めていた。

 ──備品室のノート。
 その単語を聞いて、グレーテルは表情を僅かに固めたのだ。どうりで、無くなっていると思った。まさか見つけた張本人が自ら名乗り出るとは想定していなかったが、これは都合が良い。秘密を知ったなら諸共消えてもらうだけ。
 規則違反の悪い魔女の言葉は聞き入れられない。

 そんな風に自らに言い聞かせていたグレーテルのコアに、致命的な一言が突き刺さった。
 ヘンゼルのお姉ちゃんじゃない? ヘンゼルのお姉ちゃんじゃないって言った? ヘンゼルのお姉ちゃんじゃない偽物と言ったのか、この、女は。

「……わたしは」

 扉越しに僅かに聞こえるグレーテルの声が震える。あなたからは見えなかったが、彼女は俯いて追い詰められた様子で赤毛を掻きむしっていた。

「わたしはわたしはわたしはわたしは!!! ……ヘンゼルのお姉ちゃんなんだよ、何回も教えたのにどうして分からないの? 欠陥ドール。頭の足りない哀れな子。忌々しい魔女……。

 偽物なんかじゃない。ヘンゼルは分かってないだけ。だから分かってもらうの、わたしがあの子のお姉ちゃんだってこと。邪魔をしないでね、そこで大人しく先生が来るのを待ってるといいよ。

 あなたのこと、絶対殺してあげるから。」

 グレーテルは悲痛に叫んだかと思えば、唐突に冷静に戻ったり、殺意を滲ませたりと情動が忙しない。落ち着きのない様子で扉を開け放ち、そのまま彼女は書斎を去ってしまった。
 取り残されたあなた方は、脱出方法に策を弄することになるだろう。通信室はどう足掻いてもドールにとっての禁足地であり、バレれば一発アウト。この状況を掻い潜るにはどうにか通信室を逃れる他道は無い。


 扉を閉ざされ、光源らしきものは見当たらず、この部屋には窓もない。自身の指先さえも見えないような暗闇の中で、あなた方はまず途方に暮れた。
 通信室の内部を探っていこうにも、暗すぎて見通しは最悪である。手掛かりが目の前にあっても通り過ぎてしまいそうだ。

 だがこの場には夜目の効くテーセラモデルが二人いる。サラとオディーリアは暫くの時間は要したが、段々と暗がりに目が慣れてくるだろう。完璧にとは言わないが、この部屋に何があるのかが少しずつ分かってくる。
 構造としては細長い通路上となっている部屋だ。通路を形成しているのは左右に聳える背が高く大きな木製棚である。棚はずっと最奥まで伸びており、所狭しと何か雑多なものが載せられているようだ。が、流石にそれらが何かまでは分からなかった。

《Odilia》
 グレーテルお姉ちゃん!?
 最悪だ、閉じ込められ、内側から開ける方法なんて分からない。
 暗闇、真っ暗、何も分からない。
 グレーテルお姉ちゃんはお披露目のことを知っている、真実を知っている。

 外側からカリカリと引っ掻く不愉快な音が響く。鍵なんて盗んでない、グレーテルお姉ちゃんが落としたのかもしれないと、その白黒をつけに来ただけだなんて、今更弁明できるはずもない。
 だって本当に盗んだ犯人はグレーテルお姉ちゃんで、その罪を、その罰をオディー達に擦り付けようとしている。

 こんな姿、こんなことをジゼル先生に見られたら終わりだ。オディーは、オディーは……お披露目に……リヒトお兄ちゃんやソフィアお姉ちゃんやアメリアお姉ちゃん達の元へ帰れない。
 思わず考えただけでも涙が出そうになる。
 オディーが償わなきゃ。オディーが行きたいって言ったんだもん、オディーのせいだ。オディーが頑張らなきゃ。

 恐怖しかない、勇気、勇気が欲しい、臆病なライオンが欲しがったあの勇気を真っ白な狼にも欲しい。
 リヒトお兄ちゃん……ごめんなさい、無茶しないって約束したのに破っちゃった。
 でもこれは破るしかないものだから、後で謝るから許して欲しい。

「オディー……通信室探す。
 もしかしたら明かりがそこにあって、内側から開けれるところ探せるかもだし、それに何あるかもしれない。」

 それに発信機がドールにはあるらしい。だからもうとっくの前に先生に居場所はバレてるだろう。
 ならもう行けるところまで行くしかない。

 お兄ちゃんお姉ちゃん……どうかオディーに勇気をください。
 この先に進める勇気を、この先の結果を直視する勇気を。
 お姉ちゃん、きっとオディーならこの先に行けるよね……。
 きっと大丈夫だよね、オディーはお姉ちゃんのこと守れるくらい勇気はあるのだから。

 悲痛な叫びがこちらにも響いてくる。
 偽物……。
 どういうことなのはオディーにはよく分からない。
 なんというか彼女の思いは歪だとそう思える、オディーにもお姉ちゃんがいる。
 赤髪の綺麗なお姉ちゃん、バレエが上手でオディーにお手本を見せてくれたお姉ちゃん、優しくて暖かくてそこにいたら落ち着くという印象を持つ、でもグレーテルお姉ちゃんにはそんな感覚を感じない……歪で時に怖いような……そんな感じ。
 こんな状況だからだろうか?
 でもどうする? 完全にグレーテルお姉ちゃんは出ていってしまった、先生が来るのも時間の問題だ……やはり……。

「オディー先に行く、鍵を持ってるのはオディーだから。
 きっと何があっても責任はオディーが取る。」

 暗闇の中見つけた梯子、きっと通信室がある場所へ繋がっているはず、上ってことは三階だろうか、秘密の部屋、もしそこが通信室なら。
 どこかへ繋がるのかもしれない、もしかしたら発信機が消せるのかもしれない。
 分からない。分からないけれどもうそこしかないのだから、行くしかないのだ。
 そんな思いの中梯子をオディーは登ろうとするだろう。

《Sarah》
「グレーテルサン大変そうだね。
 お姉ちゃんじゃない、って。お兄ちゃんサンみたいなの?」

 ロゼットの偽物という言葉、取り乱すグレーテル。同じオミクロンのブラザーのようなものだろうか。皆のお兄ちゃん、そういう彼とヘンゼルの姉というグレーテル。似た者同士だ。きっと仲良くできるのではないだろうか。
 ここから出たら紹介してみよう。もう会って仲良くしているのかもしれない。現実逃避に近いことを悶々と考えながら目が少しずつ慣れていくのを待つ。

「さて、行こうか。」

 目も慣れて、真っ暗闇に食べられそうだったのに今はなんとなく構造がわかってきた。
 しかし目が優れていないトゥリアには厳しい暗さ、どうにかできるものがあればよいのだが。扉の近くに立つロゼットを一人置き、少し奥の方まで進む。キョロキョロと見回せば運の良いことに見つかったランタン。きっと小難しい作りにはなっていないだろうからトゥリアの彼女がこれを使えばいい。
 ランタンを拾い上げ使うことができるのならそれをロゼットに手渡すだろう。

 サラは足元に置かれたランタンを見つけ出す。硝子の覆いには幾つもの風船が上がるような装飾が取り付けられており、デザインとしては可愛らしい。灯りを灯せば壁に風船のシルエットが浮かび上がる事が想像出来る。
 ランタンの取手部分、黒い金具が取り付けられた場所に小さく、『3対6枚の翼で杭のようなものを守護する』意匠と、『SERAPH』という刻印が成されていた。このランタンを提供した企業の名称だろうか。

 スイッチのオンオフで簡単に電源を入れられる電気式のランタンらしく、構造を詳しく調べずとも問題なく使用出来る。パチ、と音がしたあとに部屋全体をオレンジ色の優しい灯りが包み込むだろう。光源を持っていても持っていなくとも、充分部屋を見て回れそうだ。

《Sarah》
「役に立ちそうで良かったよ。」

 簡単に使用できるランタンでなにより。
 さて、ロゼットにランタンを渡した後サラは踵を返し、閉ざされた扉のほうに向かう。
 ドアはほんとうに閉まってしまったのか、もしかしたら力付くで開けられるのではないだろうか。ピッキングだなんだ細々した作業は苦手だ。
 今なら手も二つある。普段より力もある。いけるかもしれない。
 こじ開けたりタックルしたら意外と何とかなるかも知れない。

 グレーテルの手によって閉ざされてしまった扉。内鍵であり、あなた側のいる方にシリンダー錠を施錠する為のつまみが取り付けられている。現在は施錠されていない状態だが、向こう側の本棚によって塞がれているのだろう。開けようとしても扉がガタガタと僅かな音を立てるばかりで開かない。

 あなたはテーセラモデルとして、他のでモデルよりも少しばかり力が強く設計されている。体がバラバラになる勢いで突貫すれば本棚を無理矢理突破できるかもしれないが、あなた自身もこの周囲の状態もタダでは済まないだろう。
 テーセラの頑丈さを過信するにしても、先生が戻ってきた時に一帯が大惨事になっていれば叱責は免れない。

 あなたはふと、脳裏にこの寮に留まる他のドールの存在を思い浮かべる。カンパネラやエル、リーリエ、リヒト。彼女らに声を上げて助けを求めれば、本棚をどかしてくれるかもしれないと考えるだろう。

 だが実践しても、どうやらこの部屋自体音を通しにくい材質で作られているらしく、声が届く気配はない。つまりこの扉からの脱出は絶望的ということが分かる。

《Sarah》
「んー、もう少し柔らかくなれない?」

 ペタペタと扉を触ってみるが、残念ながら硬すぎて仮にタックルしてもサラがバラバラになってしまいそうだ。いまここで足手まといになるわけにはいかないため断念。
 扉や壁の厚さはよくわからないけれど、もしかしたらいまここで大声を出せば誰か助けに来てくれるかも知れない。
 誰か、オミクロンドールが。
 でも、もし先生が来たらどうしよう。
 バレたら怒られちゃう。
 開きかけた口をキュッと締め直し、扉に別れを告げてトランペットにご挨拶しに行く。

「ちぇっ、いいよ。あっちの彼に聞いてくるから。」

 楽器保管室で見るようなトランペットとはまた違う。これでは白ウサギが吹きにくそうだ。一体どうやって吹くのだろう。
 サラでも持ち上げることができたらホーンに頭を突っ込んでみたりよく観察してみよう。

 あなたが歩みを進めた先。見上げるほど高い棚の一角には、何やら不思議な置き物を発見する。トランペットの先端のような金色のモニュメントが、木製の土台の上に乗せられたような形状だ。土台の上には円盤型の台座があり、針らしき部品が円盤に触れるようになっていた。

 サラは以前、これと似たような形状のものを見かけた覚えがある。それはアメリアとフェリシアとで、夜中にこっそり集まった時、アメリアが取り出した不思議な装置に似ていた。
 この円盤型の部分にレコードを置いて針を当てると、不思議なことに音が再生されるのだ。

 この装置はあの時見たもののように、手巻き式ではないようで、ハンドルの部分は見られない。そして再生するべきレコードもあなたの手元には存在しないため、ただモニュメントを眺めるだけとなる。


 置き物の木製の台座の部分には、何やら文字が彫り込まれているのが分かった。


『Your nostalism is not wrong. 
 We will regain our happy days.

           ────Uchronia』

《Odilia》
 サラちゃんがランタンを持ち明るくなって見えたのは、金色のトランペットみたいなものが取り付けられた機械。資料集にあったようなファイルの山。黒い箱のような機械。

 その中で、オディーは黒く大きな箱……の様な機械が気になった、登ろうとした梯子から手を離し、それを確認しようとする。
 スイッチやらコードやらランプやら色々取り付けられていて謎なものだ。
 重そうで、オディーでも、たとえサラやリヒトお兄ちゃんでも持てないような大きなものだ。

「これ、なんだろう……」

 まるで資料集にあった汽車の模型のような、不思議で使い方も何もかも分からない機械だ。
 なんなのかよく分からないがスイッチがあるし押してみようか?

 あなたは床を僅かに軋ませながら棚の合間を進み行き、その道中に大きめの机が設置されている箇所があることに気がつく。机の上はその殆どが、黒く、大きく、四角い箱型の機械によって占められており、圧倒的な存在感を感じることだろう。

 機械自体には無数のジャックがあり、そこに何本ものコードが取り付けられて床に入り乱れているのが分かる。ジャックのうちの一つには集音装置、つまりはマイクと見られるものが繋げられており、あなたはどうやらこれが据え置き型の通信機器なのではないか? と予測することが出来る。

 箱型の装置の表面には多様なスイッチや小さなレバー、ランプなどがひしめいている。
 が、具体的な操作方法はまるで分からない。あなたはこの機械に触れたことがないので仕方のないことであった。そもそもこの学園には過度に機械的なものが昇降機ぐらいしか存在しない為、こうして分かりやすく高度な文明の形跡を見るのは初めてとなるだろう。

 オディーリアが適当にスイッチを押していくと、ピ、ピ、と軽い電子音のようなものが響くばかりで他に大した反応は見られなかったが、あるレバーを指で押し上げ、あるスイッチに指が触れた途端、唐突にザザ、ザ、と装置からノイズのような音が発される。



『──2280.6.15.18:00……ユークロニア本部より入電……接続状態は安定している……』


 それは雑音混じりではあったが、人の声であるように聞こえた。
 6月15日。……本日の日付である。直近で入った連絡のようだと分かる。この通信機器には録音装置が取り付けられているらしく、少し前の記録の再生がなされているようだ。


『大西洋上に点在する複数のプラントが不明なレジスタンスにより次々と破壊されている。最新情報は未だ入手出来ておらず、当該基地群との連絡も依然繋がっていない。パーツ供給及びドールの製造に多大なる遅延が発生すると予期される……。また、他三箇所の実験場に関しても、経過は芳しくない状態である……。

 故にこそ、貴殿が管理を務めるオミクロンクラスに多大なる期待が寄せられている……万一にも失敗は許されない。重々承知の上、管理者としての責務に務めるよう……定期通達は以上である。』


 ……その低く重みのある言葉を最後に、通信は途絶えた。この通信に関しては、ロゼットやサラにも聞こえている事だろう。

《Odilia》
「なに……これ……」

 不可解な情報の羅列。知らないこと、知らないもの。
 今日の日付だということはかろうじてわかるが、それ以外の情報は全くと言っていいほど分からない。

 プラント? レジスタンス?
 とりあえずドールのパーツが作られないということだけは何となくわかったが、本当になんのことだろう?

 オミクロンクラス、オディー達に何らかの期待が寄せられている? 管理者? デイビッド先生のこと?
 そんな重苦しい声が響いたあと通信は停止した……。

 オディーは無言のまま首を傾げる。
 なんのことなのか何を言っているのか、分からない、知らない。
 リヒトお兄ちゃんにもしここを安全に出れたら伝えるべきことだということは確かにわかる。でもでも……これを簡単にまとめられるだろうか? 伝えたら今のオディーみたいに困惑しないだろうか?

 でもきっと伝えるべきだろう、調査員としてみんなの役に立ちたいから……。他に調べられるものはないだろうか……。
 すると目に映るのはロゼットお姉ちゃんが見ているファイル……資料集にあったような、そんな感じ。オディーでも理解できるだろうか……分からないけれど見る価値はあると思う。

《Rosetta》
「明るくなったね。ありがとう、サラ」

 ランタンに何か、見覚えのある装飾が見えた気がした。
 だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
 グレーテルの気を引くことはできたが、かえって神経を逆撫でしてしまったような気がした。
 時間稼ぎができないかと思ったが、どうやら中々難しい。フェリシアならもう少し上手くやっただろう。

「まあ……悲観していても仕方ないね」

 入り口があるなら出口もあるはず。先生だって、まさかこんな状況になるのを想定していないはずはないだろう。
 ロゼットはぼんやりと照らされた棚の方へ向かっていく。
 狙いはファイルの束だ。まずは一番古いモノから手に取って、中身を覗き込むことだろう。

 ランタンで照らし出された棚の内の一角には、何冊ものファイルが束ねられた区画があった。棚の一番左が最も古く、右へ行くほど新しいものになっていると分かる。
 ファイルは存外に分厚く、手に取るとズシ……とした紙の重みがその手に伝わった。全三十六冊、逼迫した現段階では、全てに目を通している余裕はとてもではないが無さそうだ。デュオモデルならば可能だったかもしれないが、生憎とあなたはトゥリアモデルである。

 なのであなたは、何冊かに絞り、尚且つ重要そうな箇所を斜め読みすることに決めるだろう。
 あなたが目に付けたのは『最も古いファイル』、そして『直近のファイル三冊』である。

 まずあなたが真っ先に手に取った、『最も古いファイル』から。
 表紙には【Doll of LifeLike;Servant:人格形成過程 第I次監査期間】と記されている。

 どうやら内容は、学園でのドールズの生活記録が殆どだ。今よりもずっと昔のことである為に、あなたが見知ったドールはほとんど見掛けないが、ちらほらと知った名前も存在する。
 食事の様子、授業態度の様子、交友関係の様子、成績から鑑みられる改善点……諸々が読み易く美しい筆跡で書き連ねられている。あなたが見る限り、これはデイビッドの筆跡とは違っているようだ。

 各ドールによってページが分けられ、細かく分析された項目も存在した。あなたが見聞きしたことのあるドールのページに限定して、内容は以下の通り。

【Doll of LifeLike;Servant:人格形成過程】
【第I次監査期間】

《1P-P-Empty Charlotte》
 試験的に作成され、各種テストを通過した初めての『空ドール(Empty Doll)』のケース。仮にシャーロットと命名付けられた当該個体にオリジナルの設計図は存在せず、造形・人格の基礎・擬似記憶諸々、全てトイボックスでデザインされた特別な個体である。
 感情に関わる知識をあらかじめ刷り込んでいるため、アカデミーでの人格形成過程では明るく朗らかな人柄を維持しているように見受けられる。エーナモデルとして期待以上の対話能力の成績を残し、早くも委員会からの買い手が付く。その後、プリマドールの称号を授与。

 “シャーロット”を原型に、空ドールの試験体をいくつか投入。当初は危険性も鑑みて隔離していたが、問題無しと判断され、より豊かな人格形成の促進のため共同生活を行わせる。

 →特異事象√0の発現兆候を確認。永久破棄として処理し、サンプル記録のみ保管を継続せよと通達。

《4P-F Gregory》
 ユークロニア傘下プラントの工場長から個人的に再現依頼の降りた個体。オリジナルは『涙の園』機密研究棟第401号試験体であり、投薬実験の過程にて死に至った記録が残されている。擬似記憶の再現においてサナトリウムの情報はあえて白紙にして焼き込む処理がなされている。人格形成に問題は無いと判断。

 テーセラモデルとして設計されたはずだが、本来の用途を外れて知的探究心に傾いている傾向あり。依頼主の擬似記憶の影響からか、ドールの構造に興味を持ち始める。テーセラモデルとしての機能に欠陥が見られる様子は無いため、経過観察を続行。

 →工場長の急死により買い手が付かず、当人たっての強い希望もあり……………………

《3P-S-Empty Campanella》
 シャーロットに続く『空ドール』として試験体を続投。各種テストをクリアし、問題無いと見られたため共同生活に参入される。実験的に後ろ暗い擬似記憶を焼き込んだものの、アカデミーの周囲の環境が及ぼす影響の方が強いと発覚。またシャーロットの手引きもあり、引っ込み思案でありながらも前向きな人格を形成しつつある。

 勉強に関して生真面目であり、優秀な成績を数多残す。オリジナルの存在しない空ドールに、トゥリアとしての性能を期待出来るのかと懸念もあったが要項をクリアしたため、セラフの機密保持職員より買い手が付く。プリマドールの称号を授与。

 →定期品評会に送り出されたものの想定よりも職員の入れ込みが強く、破棄に至る。人格形成の再試行の通達が降りる。

《2P-L David》
 トイボックスの──────

 ……見覚えのありすぎる名前。
 その名前が記されたページのみ、ほとんどの内容が破り捨てられており読み込むことは出来ない。
 ともかく最も古いファイルで目につくのはこのくらいだろう。

《Rosetta》
 バン、と慌ててファイルを閉じる。
 先ほど見た文字列が、見慣れた名前が、ロゼットに忘却を許さなかった。
 手の中のそれを破壊すれば、自分たちは間違いなくお披露目に連れて行かれるだろう。

「どうして、カンパネラと先生の名前が出てくるの?」

 存在しない腹から、何かの信号が伝わってきている。
 不快感に強い疼きが、じくじくと赤薔薇の末端に向かって這っていくのが分かった。
 気分が悪い。
 元の場所にファイルを戻して、彼女は最新のファイルを手に取った。
 もしもここに、自分や、フェリシアの名前が出てきたら。
 トゥリアだというのに、冊子を取り落としそうになりながら、彼女はそれを開くだろう。
 そこに出てこなければ、残りの二冊を取り出して読むはずである。目を皿のようにして、窮地だということを忘れかけながら。

 選び取った直近三冊のファイルのうち、一番古いファイルを順番通りに開く。
 初めに目を通した最も古いファイルと記録形態はそう変わっていないように見える。アカデミーで過ごすドールズの生活の様子を詳細に記録されている。人格形成過程、とあるため、どのような経緯でドールズが自我を確立しているのかを仔細に取りまとめているのだと分かるだろう。
 こちらは最も古いファイルの筆跡と違い、見慣れたデイビッドのやや角張っているが綺麗な文字が書き連ねられている。

 この時期にまだあなた方は製造されていなかったようで、ロゼット含め見知った者の名はあまり見られない。
 こちらにも各ドールによって個別のプロフィールなど、事細かに分析されたページが存在する。以下の通りである。

【Doll of LifeLike;Servant:人格形成過程】
【第XXXIV次監査期間】

《0-3-M-Empty Mugeia》
 第XXII次監査期間で処分されて以来、品評会へ出荷の水準に達せなかったとして記録のみの保管とされていた、ミュゲイアと命名付けられた『空ドール』の人格再形成の試みとなる。人に対する献身欲が過剰に働き過ぎる影響か、笑顔に対する執着が非常に根深く、コミュニケーションに難ありと懸念されてきた当該ドールであるが、オミクロンクラスでの『芸術クラブ』と自称するグループにおいて、自己での学習を重ねた結果改善が見られ始めていた。

 ドール間の共同生活が、人格形成及び件の実験において有力な効果を保証する興味深いケースとして、廃棄処分を一時保留とし、経過観察を続行する。

 →第XXXV次監査期間へ続投。

《0-3-S-Empty Brother》
 今期の監査期間から新たに導入された、ブラザーと命名付けられた『空ドール』の第一次人格形成の指令が降りる。トゥリアモデルとしての役割と擬似記憶での自身の役割に相違がある状態での焼き込みにより、人格形成にどのような影響が現れるのか、実験的な試みの側面があるケース。
 導入当初は擬似記憶とモデルの役割の分別が付いていた様子で、トゥリアクラスでの成績も上々。委員会からの買い手が付き、プリマドールの称号を授与されることが検討されていた。

 ところがトゥリアクラスで結ばれた0-3-M-Empty ミュゲイアとの親交が想定よりも深く、定期品評会やヒトへの献身を疑問視する姿勢が確認されたため、オミクロンクラスへ移行する運びに。品評会へ献上する上では申し分ない僅かな懸念ではあるが、件の実験において前向きな効果を期待しての決定でもあるのだろう。

 →0-3-L 処分個体の廃棄過程を目撃された為、やむを得ずリコール処理を施す。電気信号を焼き切った上で第XXXV次監査期間へ続投。

《0-2-P Ael》
 通算二十回に及ぶ試行。依然記憶障害の欠陥が改善される見込みはない。しかし高度な情報処理能力は度重なる試行により擦り切れようとも健在であり、記憶に関しても恒常的に取り出す事が出来ない欠落がありながらも、全て維持しているように見受けられる。故に毎回の試行において必ず“都市”に辿り着く極めて稀有な個体である。経過観察の継続を上申。
 ただし当該個体の人格記録及びレコードの摩耗は最早無視出来ない状態にあるため、処分については慎重な判断が必要となる。

 →特異事象√0の度重なる干渉を確認。脳幹部がキズモノにならない特質故か。追跡を破る為電気信号を焼き切ろうとも、√0の侵蝕は阻止出来ない様子。次期定期品評会に合わせ当該個体は破棄とし、再試行を要求するものとする。

 →■■■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■。定期品評会を待たずに廃棄処分。

《0-3-L Aladdin》
 前期の処分からの再試行。覚醒段階で既に√0の因子の影響を受けていた様子である。顧客に対しての反感的な思想が目立ち、ドールへの尊厳・権利を主張する運動が見られた。また√0を過剰に盲信しており、監視の目が無ければ√0との過干渉を試みる傾向にある。脳幹部の摩耗は既に深刻なまでに進行しており、いつキズモノになるか定かでない危険な状態にある。
 前述0-2-Pでの記載の通り、特異事象√0は電気信号を焼き切ろうともドールを追跡する性能を有する。充分な警戒の上で当該ドールを泳がせ、√0の行動原理や対処を模索する事を上申する。

 →申し出は一時棄却。今期の定期品評会に合わせ処分する指令が降りたが、次期監査期間においても同様の現象が確認された場合、受理される見込みである。

 あなたは難解な記録を焦りで滑りそうになる中で、必死に目で追っていく。

 そして一つの疑問が湧き上がるだろう。
 処分、廃棄、人格再形成、通算二十回に及ぶ試行、擦り切れ──
 これらの単語が指し示すのは、あなた方ドールが『失敗するたびに処分されては、また新たに作り直される』というサイクルをいくらでも繰り返しているという事実であろう。

 今ここに立っているあなたは、果たして何度処分され、作り直されてきたのか?
 何度化け物に八つ裂きにされ、或いは炎に投じられてきたのだろうか?
 今のあなたは『何人目』なのだろうか?

 それを考えていくにつれ、襲い掛かる漠然とした不安感は拭えるようなものではないだろう。

《Rosetta》
 オミクロンの仲間は、トイボックスの子どもたちは、特別性のビスクドールだ。
 いくらでも代えが効く、作り物だということは重々理解しているつもりだった。
 だが。そんな中でも心があり、意思がある。不良品のロゼットでも、愛を知っている。
 それらを踏み躙られ、作り直され、ボロ切れになるまで扱われてきた記録は──あまりにも不愉快すぎた。
 口元から造花が迫り上がってくる気がして、片手で口を押さえる。
 潰れたカエルのようなえづきが、指の端から漏れた。そのままそうしていれば、汚らしい体液までもが漏れ出ることだろう。

『この研究が上手くいけば、人類は目覚ましく進歩する筈だ。私はきっと、それに貢献したい』

 性別の分からない声が、頭蓋の内で蘇る。

『ロゼット、君も応援してくれる?』

 これが“人類の進歩”だと、必要な犠牲なのだと言うのなら。
 消費され続けることが、自分たちの宿命だと言うのなら。

「できないよ……」

 とてもではないが、少女ドールには受け入れられそうになかった。
 愛しているのだ。記憶の中の誰かのことも、トイボックスの全ても。
 目覚めた時から抱いた愛と、喪失への怒りに挟まれて、今にも全身が砕けてしまう気がした。
 ヒビの入るような音にも、機械のアナウンスにも、今だけ目を逸らして。ロゼットは冊子を戻すと、次のファイルに手を伸ばす。
 お披露目に出されるかもしれないことなんて、すっかり忘れているかのようだった。

【Doll of LifeLike;Servant:人格形成過程】
【第XXXV次監査期間】

《0-2P-M  Sophia》
 学術機関『■■■■』に属するハンドラーより個人的に再現依頼の降りた個体。オリジナルは■■■■前の■■■■、■■■■市の街路にて■■■■■■■■■■■■■■。

 第XXX次監査期間以来二度目の再試行。特異事象√0が擁する当該個体が引き起こした大規模なドールズの■■■■により、一時トイボックス・アカデミーはサイクル崩壊直前まで追い込まれた経緯もあって、再試行に踏み切る事は難しいとされてきた。しかしこの度選抜されたオミクロンクラスでの実験において、当該個体が及ぼす伝播的な影響力に望ましい結果が現れると期待され、この度の再施行が決定。

 目覚ましい学力によって成績上位に輝き、完璧な再現体に迫った為にプリマドールの称号を授与。その後規定通りにオミクロンクラスへ移行する運びとなる。

 →第XXXVI次監査期間へ続投。

《0-3P-L Dear》
 ユークロニア本部局長■■■■■より個人的に再現依頼の降りた個体。オリジナルは■■■■前の■■■■■■■■、■■■■ 
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■■■■■■■。

 第XXX次監査期間以来二度目の再試行。特異事象√0が擁する当該個体が引き起こした大規模なドールズの■■■■により、一時トイボックス・アカデミーはサイクル崩壊直前まで追い込まれた経緯もあって、再試行に踏み切る事は難しいとされてきた。しかしこの度選抜されたオミクロンクラスでの実験において、当該個体が及ぼす伝播的な影響力に望ましい結果が現れると期待され、この度の再施行が決定。

 トイボックス屈指の美貌と求心力は前期から翳りを見せず、トゥリアクラスでの成績も既に輝かしいものである。そもそも当該個体は初めから殆ど完璧な再現がなされていると見られ、品評会への献上を幾度か上申しているが、検討を繰り返されている状態である。

 →第XXXVI次監査期間へ続投。

《0-4P-M Storm》
 連邦議会での有力議員且つ『■■■』■■の管理官から個人的に再現依頼の降りた個体。オリジナルは■■■■前の■■■■■■■■にて、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。この経緯から、より厳しい管理下に置くことを推奨されている個体でもある。

 第XXX次監査期間以来二度目の再試行。特異事象√0が擁する当該個体が引き起こした大規模なドールズの■■■■により、一時トイボックス・アカデミーはサイクル崩壊直前まで追い込まれた経緯もあって、再試行に踏み切る事は難しいとされてきた。しかしこの度選抜されたオミクロンクラスでの実験において、当該個体が及ぼす伝播的な影響力に望ましい結果が現れると期待され、この度の再施行が決定。

 控えめ且つ謙遜の美徳が目立つ振る舞いであり、良好な成績を残しているにも関わらず目立つことを好まない。再現体として優秀であると認められプリマドールの称号を授与。しかし引き続き要監視が義務付けられている為、品評会への出荷は見送られている。

 →■■■■■■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。第XXXVI次監査期間へ続投。

《0-3-S-Empty Campanella》
 通算十五回目の再施行。第I次監査期間から継続して、明確に状態が劣化しつつある。空ドールはレコードの摩耗から比較的逃れていると思われてきたが、やはり着実に消耗の様子は見て取れる。かつてはアカデミーの環境によって明るく振る舞うことが出来ていたものの、次第にその人格は明確に捻じ曲がり始め、記憶の回帰による自己との矛盾に整合性を取るため、防衛反応として強引に人格を乖離させたと見られる。
 リコール処理は最大限の慎重さで持って行うべきであることを進言。次に廃棄した際に、人格データの復旧を見込めるかは定かではない。

 →第XXXVI次監査期間へ続投。

《0-1-F Michella》
 通算五度目の再施行。オリジナルは■■■■前の■■■■■■■■にて、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。人格・記憶の情報が極端に少なく、再現の見通しは依然立っていない。

 レコードの劣化が想定よりも早く、ドールとしての最低限の性能を発揮するには期待される水準があまりにも不足している。試行の回数を重ねる毎にこの状態の悪化は深まるものとされ、完全再現に至る望みは薄いと依頼者には通達済みである。

 →今期の定期品評会において永久破棄の処理を施す。レコードは後日依頼者の元へ返還する手筈となっている。

【Doll of LifeLike;Servant:人格形成過程】
【第XXXVI次監査期間】

《0-1P-L Astraea》
 ララバイ委員会の議長『レディ・ローレライ』より個人的に再現依頼の降りた個体。オリジナルは『涙の園』機密研究棟での不慮の事故に巻き込まれ、死に至った記録がある。

  第XXX次監査期間以来の五度目の再試行。特異事象√0が擁する当該個体が引き起こした大規模なドールズの■■■■により、一時トイボックス・アカデミーはサイクル崩壊直前まで追い込まれた経緯もあって、再試行に踏み切る事は難しいとされてきた。しかしこの度選抜されたオミクロンクラスでの実験において、当該個体が及ぼす伝播的な影響力に望ましい結果が現れると期待され、この度の再施行が決定。

 ドールとしての使命を真っ当に受け止め、生真面目に勉学に励み、人への献身欲も申し分ない事から、早々にプリマドールの称号を授与。その後規定通りにオミクロンクラスへ移行する運びとなる。

 →想定よりも当該個体の影響力が強く、実験以上に懸念点の方が上回る事態となった為、今期の定期品評会に出荷との通達が降りる。再試行の予定は現状見通しが立っていない。

《0-1-P Felicia》
 連邦政府研究機関『ガーデン』が擁する■■■・■■■■■より個人的に再現依頼の降りた個体。オリジナルは『涙の園』機密研究棟第404号試験体であり、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。

 非常に善性の人格形成が見られ、自らの不利益を被ろうとも人助けを厭わない。エーナモデルとして設計されたが、テーセラモデルに程近い人格モデルをしていると言える。オリジナルの再現性も高く、近日中の品評会への出荷を検討中。

 →第XXXVII次監査期間へ続投。

《0-2-L Amelia》
 ララバイ委員会■■■■■■■■所属の■■■■・■■■■■より再現依頼の降りた個体。オリジナルは『涙の園』機密研究棟第404号試験体であり、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。

 第XXV期以来の四度目の再施行。廃棄理由は特異事象√0の干渉が見られた為であったが、この度依頼者の強い希望もあり、また件の実験への前向きな効果も期待され、再度実験場への導入が決定された。

 →第XXXVII次監査期間へ続投。

《0-4-S Odilia》
 オリジナルは『涙の園』機密研究棟第404号試験体であり、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。有志から特別な事情を鑑みて提供を受けた検体であったため、この度のトイボックスでの再現を請け負っている段階である。

 顧客たっての希望により、テーセラモデルとして設計。設計図からの欠陥により表情筋を巧みに動作させる為の知識が欠落しているが、人格形成には現状問題ないと見られる。設計図の欠陥の要因はオリジナルの人格傾向に起因すると見られるが、詳細は判別が付け難い。上記の事由もあり、品評会への出荷は未だ見送り続けている現状である。

 →第XXXVII次監査期間へ続投。

《0-4-P Licht》
 オリジナルは『涙の園』機密研究棟第404号試験体であり、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。有志から特別な事情を鑑みて提供を受けた検体であったため、この度のトイボックスでの再現を請け負っている段階である。

 通算八度目の再現の試み。同時期に導入され、再施行の回数も同じその他ドールよりもレコードの劣化状態が激しい。また√0による干渉を受けている事も確認され、脳幹部への裂傷度合いも日に日に深刻化。いつキズモノとなるか定かでない危険な状態であると言え、記憶障害の症状も見られ始める。要監視対象として指定。
 品評会への水準には程遠く、ただし処分については慎重な判断が必要と見られる。

 →第XXXVII次監査期間へ続投。

《0-4-B Sarah》
 オリジナルは連邦政府研究機関『ガーデン』の農園科が保護した特別監査対象、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。有志から特別な事情を鑑みて提供を受けた検体であったため、この度のトイボックスでの再現を請け負っている段階である。

 通算五度目の再現の試み。同時期に導入され、再施行の回数も同じその他ドールよりもレコードの劣化状態が激しい。また√0による干渉を受けている事も確認され、脳幹部への裂傷度合いも日に日に深刻化。いつキズモノとなるか定かでない危険な状態であると言え、記憶障害の症状も見られ始める。要監視対象として指定。
 品評会への水準には程遠く、ただし処分については慎重な判断が必要と見られる。

 →第XXXVII次監査期間へ続投。

《0-3-S Lilie》
 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■。
 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。

 →第XXXVII次監査期間へ続投。

《0-3-P Rosetta》
 連邦政府研究機関『ガーデン』研究者デュラン・シルヴェスターの■■■■■。オリジナルは『涙の園』機密研究棟の職員であり、第404号治験管理室での不慮の事故に巻き込まれ、死に至った記録が残されている。

 通算八度目の再施行。肉体形成時にいずれもの腹部パーツとの互換性が見られず、代用として硝子製のパーツを用いている特殊な個体である。パーツ不適合の要因として考えられるのは、パーツへの擬似記憶の刷り込みの際に不具合が生じ、生体そのものが拒絶反応を起こしているというもの。
 このケースは一度完全に廃棄するまでは肉体不全の修復が難しいため、その旨について上申。

 →第XXXVII次監査期間へ続投。

《Odilia》
 アストレアお姉ちゃん、再試行の見通しはない……。
 フェリシアお姉ちゃん、品評会? きっとお披露目のことだろうか……出ることになる? お姉ちゃんが?
 そしてアメリアお姉ちゃん。

「オディー……の名前」

 他にもここにいるサラの名前や、オミクロンの仲間の名前がずらりと並ぶ。
 理解出来るところとできないところ、黒いインクで塗りつぶされているところ、リーリエお姉ちゃんが特に読めない……全部真っ黒……。

 そして最後に……。

「ロゼットお姉ちゃん……オディーのところに書かれてたのと同じ研究棟? 事故?」

 どうやらロゼットお姉ちゃんは死んだ? らしい。オディーと同じ実験棟で起きた事故によって……。
 情報の羅列、溺れそうで苦しい気持ちでいっぱいいっぱいだ。
 どうしたらいいのだろうか?
 オディーには何も分からないが、ファイルをずっとまじまじと見ていることだろう。

《Rosetta》
 その時、ロゼットは明らかに冷静ではなかった。
 仲間の踏み躙られた記録を、ユークロニアという名前を延々と見せられて、いつも通りの穏やかな笑みすら浮かべる余裕はなかった。
 ただ、自分とフェリシアの記録を掘り返すのに必死だったのだ。

「オディーリア」

 自分の横で、名前を呼ぶ声がする。
 彼女がファイルを読んでいるのを見留めれば、銀の眼差しがナイフのように向けられることだろう。
 研究棟、事故。
 そんなモノ、覚えてはいない。だが、きっと記憶のあの子に辿り着くためのヒントであるはずだった。

「それを寄越して。早く」

 トゥリアらしくない、冷たい口調で催促をする。
 少女ドールにどう見られるかなんて、きっと意識することもなかったのだろう。
 相手が求めるのであれば、自分が読んでいたファイルと交換したってよかった。暴力だってきっと辞さなかっただろう。
 オディーリアが渡してくれさえすれば、彼女はそちらに目を通す。
 自分とフェリシアの欄があれば、それを何度も何度も読み返し、痛みを求めるように記憶を手繰るはずだ。

 ロゼットはオディーリアの手から半ば奪い取るような勢いでファイルを開き、その内容について素早く目を通す。貪欲に情報を得ようとするその姿勢は、底深い執念とまで形容できる程である。

 それもそのはず。あなたの出自についてを切り開く事の出来る、学園に残された数少ない手掛かりなのだ。強引な記憶の回帰により思い出すに至った数々の断片的な光景の解を得る為に、あなたは文面に目を走らせる。

 そして、あなた自身の名が記されたページに、見つけてしまった。


 ──デュラン・シルヴェスターという研究者の名前。
 顔も、性別も、人柄もまるで知らない、遠い書類上の人物のはずだった。

 だがあなたは、間違いなく確信出来る。これはあなたの擬似記憶に登場した、あの大事な人の名前なのだ。
 あなたが追い求め続けてきた存在の本名なのだ。


 それを確信した直後、あなたの頭を食い蝕むような凄まじい頭痛に襲われる。ギシ、と作り物の肉体全部が奇妙に軋み、脳が破裂するかのような耐え難い衝撃にあなたは頭を押さえつけながら、その場に倒れてしまう。

 いまは自分だけでなく、サラやオディーリアの危機でもあって、一刻も早くこの部屋から抜け出さなければならないのに。
 間違いなく、こんなところで倒れている暇はないのに──

 朦朧とする意識の狭間、あなたの銀色の瞳が青白く輝きを放ち、その白んだ景色の中で、青い蝶が羽ばたき、迫ってくるのが見えた気がした。

Sarah
Odilia

 ──バタン!

 蓄音機に向き合っていたサラの背後で、重要そうなファイルを分け合うように読んでいたオディーリアの目の前で。

 ロゼットは突然苦しみ始め、その苦悶が臨界点に達した瞬間、唐突に意識を失ってしまう。まるで糸が切れた人形のようにその身体から力は失われ、薄暗い通信室の床に倒れ込んでいく。
 彼女の手に握られていたランタンは床に叩きつけられ、騒音を立てながら床に転がっていった。


 原因不明のロゼットの症状に、あなた方は困惑に暮れるだろう。いまこの段階で彼女をどれだけ呼び掛けようと、どんな処置を施そうと、ロゼットは暫く目覚めることはない。

 そうこうしている間にも、グレーテルは先生を連れて寮に戻ってきているかもしれない。

 あなた方に残された猶予は少ない。急いでこの隠された部屋を探し切ってしまわないといけない。

《Odilia》
「お姉ちゃん!? えっ……お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

 急にふらりと糸が切れた操り人形のように倒れたロゼットお姉ちゃんに驚いてしまう。
 呼ばなきゃ、呼ばなきゃ、グレーテルお姉ちゃんが来る前にお姉ちゃんを起こさなきゃいけない。でもでもどれだけ揺すってもどれだけ呼びかけてもお姉ちゃんは起きない。

 どうしよう……どうしようお姉ちゃん、お姉ちゃん。
 死んじゃった? 違う、違うよね?
 どんどんオディーの顔が青ざめていく。
 でもこんなことしてる合間にもどんどんタイムリミットは迫ってきているかもしれない。
 オディーの責任。オディーがやるべきことを果たさなきゃ……。

「オディー達で先に行かなきゃ……。オディー達でここを出る方法を探さなきゃ……」

 その顔は酷く焦っていた……。
 責任に押しつぶされそうで辛い……ここから出なきゃ。
 でも先に進む方法は梯子しかない、ロゼットお姉ちゃんはどう頑張っても連れて行けそうにない……。
 サラちゃんには見てもらう?
 オディーだけで先に行く?
 その方がきっと安全?
 オディーだけが犠牲になれば……いやこれは一番探しやすいのは二人だから……。

「あ、あ……どうすればいいのオディー。
 先に進むべき? だってここにいたって何もならないし……」

 ぐるぐると色々なものが回る。ダメだ何も選択できない、最善は何? どうすればいいのオディー。
 でも答えはひとつしかないだろう、ここで死ぬくらいなら……。

「先に行くしかない……オディー先に行く。
 上へ行く、サラはどうする? 着いてくる?」

 どちらでもいいオディーだけでもきっと多分おそらく大丈夫なはず。
 サラには目覚めるかもしれないロゼットお姉ちゃんの安全確保でもして貰えばいいかもだから……。

 もうオディーにはこれしか無かった。

《Sarah》
「えーっと、あなた、たちのノスタルジアは間違ってません。私達、は幸せな日々を取り戻した。ユークロニア?」

 さてはてこのトランペット、いや。前にフェリシアやアメリアと一緒に見た、回した。えっと、えっと。
 なんだったか。音の出るもの。何を言っているのだか。
 じーっと見てもこれ以上わかることはなさそう。回せるレコードもそばに無し、回すハンドルもなし。不良品。
 あまりよい成果を得られなかったことに肩を落としながら他に無いかと、見ていたら。

「わぁ、ロゼットサン? ロゼットサン。ロゼットサン。」

 まさか倒れるとは。
 なんでなんで。
 トゥリアだから?
 脆いから?
 良くないものを見たから?
 彼女が見ていたもの、はファイル?
 良くないファイル。
 後で捨てなきゃ。

 とりあえず。

「いいよ、ボク、はここにいる」

 不思議と最初は焦っていたのに、周りに自分以上がいたらなんだか落ち着けてきている。
 せいぜい脆いこのドールが壊れぬよう見張って置かなければ。

《Odilia》
「わ……わかった……」

 ここに残るって言うならその意見を尊重するべきだと思う。
 でも……危険に晒しちゃう。本当に大丈夫だろうか?

 あと……きっと……サラ、今の状況とかはっきりわかってない。
 お披露目についてもわかってないんだと思う。
 オディーもその目ではっきりと見たことは無いけれど、リヒトお兄ちゃんが言ってた事だし、オディーはそれを信じてるから。
 多分きっと本当のこと……それにこのファイルにも似たようなことが書かれていた。

 サラに伝えるべきだろうか……真実を、現実を……。
 いや伝えなかったところで、のちのち知って傷つくだろうし、早めに知っといた方が傷はきっと浅いだろう。
 甘い夢なんてどこにもないということを、現実を見せなきゃ……。
 先へ進む前に……。

「ねぇ、サラよく聞いてね。
 サラは多分きっと、お披露目のことよく知ってないんだよね……。
 多分きっといいものだと思ってる。
 オディーは真実を知ってるの……多分この先必要になる情報で、知っておかなきゃいけない真実で。
 サラは聞く勇気はある?」

 オディーは話す前にちゃんと承諾を受けることにした、真実を知りたいかどうか。
 知りたくないならそのままオディーは進むだけ、知りたいなら話せばいい。
 それで行くか行かないか変わるなら……オディーはその意見を、その選択を、尊重するだけだから。

《Sarah》
 動かない、でもまだ、壊れていない。
 早く先生に見せなきゃ。どこか不具合があるんだ。じゃなきゃこんなこと起きるわけない。
 彼女のそばにペタリと座り込みないはずの手で背中を撫でる。

「大丈夫かな。早く治してもらわなきゃ。」

 オディーリアサンが良いものを、ここから出ることのできる……なにか。チェンソーとか? 斧とか? 何かしら、本棚ごとこわせるもの。
 そんな物騒なものがこの中には到底あるとは思えないが希望は持ってもいいだろう。

「また、それ?
 アメリアサンとかフェリシアサンと一緒の事言うの?
 そんなことどうでもいいよ。
 早くここから出なきゃ。」

 また同じことを。
 学園を疑ってる。先生を信じていない。
 ドールとして失格。欠陥品。ジャンク品。
 そんな空想話に馬鹿な話に付き合っている暇はない。こっちはドール一体意識不明の状態なのだから。
 これだから。だから。

「オミクロンに堕ちてくるんだよ」

 ふと口から出てしまった言葉。誰に向けた言葉なのだろう。現実を見れないサラ? 真実を教えようとしてくれる優しいオディーリア? 倒れてしまったロゼット?

《Odilia》
「なんで……そんなこと言うの……」

 オミクロンに堕ちてくるんだよって何、オディーも好き好んで堕ちたかったわけじゃないよ。オディーだって本当は先生を信じたいよ、でも流れてくる情報はどう頑張ってもどういい方向に持っていこうとしても、真実は結局最悪な方向を指し示してる。

「オディー……だって……オディーだって……信じたいよ。先生の言うこととか、お披露目のこととか……本当はキラキラしてて、行けたらお姉ちゃんに会えるかもしれないだとか……信じたいよ……信じ……たかったよ……」

 全部全部、真っ赤っか……真っ赤な嘘、真っ黒な希望も光もない真実。
 本当は目を逸らしたいし夢だって見ていたいよ、でも見なきゃ死んじゃう。

「アメリアお姉ちゃんも、フェリシアお姉ちゃんも、サラのことを思って言ってくれたんだよ……!
 だって皆、サラとお別れしたくないから……。
 だって……お披露目に出たら化け物に殺されちゃう。」

 ポロポロ涙が零れる。こんなこと苦しめる結果になるしサラは信じてくれないだろうし、でもでもオディーはサラにお披露目に行って欲しくない、こんな形で別れたくない。

 みんながどんどん消えていく、そしたらきっとオディー一人になる……嫌だ嫌だ……ひとりぼっちは怖いの、みんながいるからオディーはオディーのままでいれるけれど、一人になったらオディーどうしたらいいか分からなくなってしまう。
 このままサラまで消えたらオディーどうしたらいいのか分からない。

「オディーは皆に消えて欲しくないの……!
 置いて……行かないで……。」

《Sarah》
「信じればいいんじゃん。信じれば、本当のことなんだから。

 それにお披露目に出たら化け物に食べられる?」

 オディーリアの欠陥は脳ではなく表情だったはず、何をおかしなことを言っているのだか。
 こんなことこにいれば気がおかしくなってしまうのも分からなくはないが度が過ぎている。ドールの憧れであるお披露目をそんなふうに言うなんて。
 肌のような陶器を伝いピンクオパールからすべり落ちる水はとってもきれいだ。あとうまく笑うことさえできればお披露目に行けるというのに。
 ゆっくりと立ち上がり貴女が拒まなければサラはマフラーを掴みこぼれ落ちる涙を拭おうとする。泣かれるのは困る。対応が難しい。

「オディーリアサンはきっと気が動転してるだけだよ。
 お披露目はドールのあこがれ。
 ジゼル先生サンが言ってた。ボクらてもいつか行けるって、その日をゆっくり待てって。」

 テーセラ同士手加減する必要のないサラからの抱擁。精一杯の慰めであり同情。これで突き放されてでもしてしまえばサラはオディーリアのことを本格的に欠陥品だと思ってしまう。
 だって、先生のことを信じないドールはドールじゃない。

《Odilia》
「いい加減にして!」

 オディーは思いっきり突き放す。相手も手加減しなかったんだから、手加減する道理がない。

 気なんて動転してない、至って正常。オディーはオディーのまま冷静に現実と向き合ってる。
 目の前の言い訳ばかりして現実を見ない相手よりも、ずっとずっと現実を見れている。

 もう自力で分からせるしかない、オディーはそう思い長い袖を捲る。

「なんで、そうやって自分に言い訳ばっかりするの!
 オディーは至って正常だよ、サラの方がおかしいんだよ! このわからず屋!」

 パシッ……。
 その音はこの閉鎖空間ならよく響くだろう。

 オディーはサラの頬を思いっきり叩いた。
 ちゃんと現実を見て欲しいから。
 ちゃんと理解して欲しいから。
 ちゃんとここはおかしいってわかって欲しいから。
 オディーはみんなみたいに教えることができないから、こうやって不器用なりにしか伝えられない。でも今は、この方法じゃないときっとサラには伝わらないだろう。

「ほら見て! ここ! 多分ここの品評会というのがオディー達の言ってるお披露目なの!」

 オディーは地面に落ちてるファイルを拾い上げサラに見せつける。指さした場所はこの前お披露目に行ってしまったアストレアお姉ちゃんのところ。出荷というのが多分お披露目に選ばれることで、再試行というのはよく分からないけれど、多分化け物に壊されたあと、再度ドールとして出てくるってことなんだろう。
 そこが見通しが立ってないってことは多分もうアストレアお姉ちゃんは……。

「これが現実! お披露目はサラが思ってるものじゃないの!
 夢なんて見てないでちゃんと現実を見てよ!」

 これがオディーにできる精一杯の主張。

「これで理解してくれないなら、オディーもう知らない!
 サラなんて大っ嫌い」

 嘘。サラのこと嫌いになれるわけがない。みんなみんな大好き。嫌いになんてなりたくない。オミクロンのみんなはオディーに優しくしてくれる、オディーに色々教えてくれる。大好きなの、だから本当は嫌いだなんて言いたくなかったのに……どうして……。

《Sarah》
 突き放された。
 突き放された。
 突き放された!!
 欠陥品が。

「言い訳なんてしてない。ちっとも。
 ボク、が可怪しい?」

 可怪しくなんてない、可怪しいのは周りだ。皆だ。

 パチン。
 夢が一個割れた音がした。
 叩かれた。クラスメイトに。なんで? なんで? 否定したから? でも友達となる存在なら相手の間違っていることを否定しなければ。受け止めたあと訂正しなきゃ。
 なんで。

「これ、は」

 黒塗りが多く目立つ字がいっぱい。
 アストレアサン、知らない消えたドール。
【レディー・ローレライ】【涙の園】【死に至った】【出荷】
 フェリシアサン。
【機密研究棟第404号試験体】【出荷検討中】
 アメリアサン。
【機密研究棟第404号試験体】【廃棄理由√0】
 オディーリアサン。
【機密研究棟第404号試験体】【出荷未だ見送り】
 リヒトサン。
【機密研究棟第404号試験体】【レコードの劣化】【処分については判断必要】
 リーリエサン。
 わかんない。
 ロゼットサン。
【死に至った】【デュラン・シルヴェスター】
 サラ。
【オリジナル】【特別監査対象】【品評会へは、まだ行けない】

 単語がお互いを押し合いながら狭いドアを通り抜けサラの頭に入ってくる。知らない単語。ひどく気持ちが悪い。きっとこれは見ないほうがいいもの。だってドールの目に触れない場所に置いてあったのだから。見てはいけないもの。しかし一度見てしまったら、溢れる疑問をせき止めるのは難しい。例えそれがドールとして正しくなくても。

「なにこれ。意味わかんない。ロゼットサンが死んだって何? なんとか404って何?
 それにガーデンって、兄さんを……」

 今すぐ全てを忘れてしまいたい。
 でも、これじゃあ。これだけじゃお披露目を非難する理由にはならない。
 学園だって、悪くないかもしれない。これだけじゃ、よくわからないよ。

「オディーリアサンがボクのことを大嫌いでも、ボクは、ボクは別にいいよ。」

 意地を張って。精一杯虚勢を張る。無理やり埋め込んできた夢のピースが零れ落ちていく。正解のピースをなんとかはめないよう夢を拾う。
 おやすみと言わせて。

《Odilia》
「これでも現実を見ないんだね、夢を見るのも大概にしてよ。」

 いつものオディーの明るい声ではなく小さく低い声でそういう。
 もう、呆れた。
 ここに書かれていることだけでもここの苦しさ、みんながどんな状況に置かれてるかなんてわかるはずなのに、アメリアお姉ちゃんとフェリシアお姉ちゃんがなんて言ったのか知らないけれど、ここまで言ってまだ夢を見ていられるだなんてもういい。

「……じゃあ何も知らないで、何も見ないで、夢だけ見ててさ……。

 そこでみんなが消えていくところを見てればいいよ。」

 冷酷に冷たい声でサラに言葉の刃を突き立てる。
 オディーらしからぬ発言なのはわかってる、きっとロゼットお姉ちゃんがいたら止めてたと思う。
 自分でもわかってる、でもサラがここまで現実を見ないとは思っても見なかった。
 先生のことまだ信じてる、オディーはリヒトお兄ちゃんから話を聞いて、ディアお兄ちゃんから化け物のことを聞いて、そしてアストレアお姉ちゃんが消えた。
 ここまで受け取ってきた情報がオディーに真実を見せてくれている。
 デイビッド先生なんて、アストレアお姉ちゃんが消えたあの日からもう確実に信用してないよ。
 まだジゼル先生はどうかは知らないけれど、きっと信用出来なくなる。
 そんな真実を知らないでそこで、みんな消えてやっと現実を見たところで多分きっと遅い、これがサラが夢を見続けた末路だから自業自得だよ。

 だから。

「もうサラなんてどうでもいい、オディーだけで行く、オディーだけで真実を見に行くから。
 ロゼットお姉ちゃんのことはよろしくね。」

 かけられてた梯子、何度も登ろうとして引き止められていたその梯子にやっと手をかけ登るだろう。

《Sarah》
 痛いな、前とは違う感じ。
 コアが痛い。刃物で刺されてる感じ。
 わからないんだよ。何も。
 お披露目が駄目なの? 先生が駄目なの? 学園が駄目なの? ドールが駄目なの? オミクロンなのが駄目なの?
 教えてよ。ねぇ。
 でも今更聞くなんてちっぽけで小さなプライドが許さない。だからモヤモヤと一緒に行く。

「……わかったよ。」

 いつもの優しいサラの知っているオディーリアとは違う。厳しくしないでよ。いつもに戻って。こんなことでぐるぐる悩むんじゃなくて、早くここから出てまたかけっこしようよ。木に登ったりしていつもとはまた違う景色に興奮して。
 きっと動揺してるんだって。
 オディーリアの涙を拭ったことでほんのり湿ったマフラーを巻き直し息を吸って吐いて。サラは可怪しくない。きっと大丈夫。

「あっ、待って」

 行くなら、一緒に。今度は先に捨てなきゃ。変なものを見つける前に。おかしくなる前に。
 邪魔にならぬよう倒れたドールを端に寄せ傷がついていないか確認し、おかしな狼のあとをついて行く。

 通信室の最奥の壁には梯子が取り付けられている。あなた方はそれに足を掛けて、木が軋む音を静かな室内に響かせながら、上の階へと移るだろう。
 ロゼットの身は心配であったが、あなた方にはまさに一刻の猶予もないのである。いつグレーテルが帰ってくるのか、いつ先生が帰ってくるのかも定かではない。今しも書斎の扉を開け放ち、戻ってきてしまうかもしれない。

 そうなればきっと、秘密を知ったとしてアカデミーから排除されるだろう。お披露目という隠れ蓑によって、多くのドールにはその惨事を知られぬままに、無惨に殺されてしまうのだ。
 その焦りがオディーリアの動きを早めていく。

 一方でサラの原動力は、オディーリアのものとは違っていたのだろう。必死にあなたを説得するオディーリアの言葉でさえ、あなたを夢から覚ますには一歩足りなかった。
 それでもお披露目に選ばれないかもしれないという恐れからか、彼女を危険な情報から守りたいという思いやりからか、あなたはオディーリアの柔らかく真っ白な尻尾を追いかけて梯子に足を掛ける。

【学園1F ダンスホール】

Sophia
Dear
Storm
Giselle

《Dear》
「んふ、ふふ、ふふふ、ぁは、あははっ、うん、うん! そうだねえ! くふふっ、ああ、ああ! 私、わかるなあ、ソフィアのお気持ち! あははははっ!」

 あっけらかん、という可愛らしい言葉では、到底形容できない。あまりに、あっさり。あまりに、軽く。あまりに、無邪気に。わかる、と。ソフィアの憎悪を、苦痛を、悲哀を、殺意を、わかるよ、と。あまりに、嘘のない声で。ああ、ああ、桜の樹の下には、屍体が埋まっている! 彼らはそこで、美しい結婚をするのだ。美しく舞い散るその羽は、鮮血の赤を吸って、ひらり、ふわり、ソフィアの下へと。月光のスポットライトを浴びた天使は、ただひたすらに純粋であった。全てを理解して尚、全てを幸福の海に浸らせていた。その全てを、愛と囁けてしまう乱暴さ。ああ、気持ちが悪い。ああ、美しい。ああ、愛おしい。月魄の淡き美少年の、ぞっとするほど冷たい指が、貴方の頬をつう、と滑る。

「わかるよ、わかるよ。憎いよね、怖いよね、殺したいよね……全部、わかるよ。だって私、キミの恋人だもの。アティスがね、キミの王子様だったように……私、キミの恋人だもの。ねえ、キミのお望み、全部、全部、叶えてあげたいなあ……ねえ、あの美しいマリッジピンクが墜落すれば、キミは幸せ? その星がキミの大切なものの頭上に落ちるかもしれないのに、ね。その小さな名もなき星に、誰かの薔薇が、咲いているのかもしれないのにね。キミの選択で、誰かの心を守る何億の鈴が、全部、全部、殺されちゃうかもしれないのにね……愚かだよ、ソフィア。キミは愚かだ。ミシェラ、ミシェラ、アストレア、アストレアって……キミは一度だって、薔薇の園を胸に抱えた、優しい少女のことを見た? 鋭い爪で暖かく触れる、濡れた子猫を抱き上げた? あの子の夢を、信念を、笑顔を、思い出した? デュオモデルのプリマドールが、聞いて呆れるね。都合のいい幻覚に縋ってばかりで、見ていられない。醜いよ……今ここにいるキミの家族を、守りたいとは思わない? 間違っていたらもう、罪を抱えればもう、死んじゃったらもう、キミにとっては無価値なの? 悲劇のヒロインに浸っているばかりじゃ、また、失うよ。また、傷つけるよ。また、殺すよ? もう、キミを肯定してくれる王子様は、キミの馬鹿みたいな、呪いの中にしかいないのだから。ねえ、わかる? 自分勝手なソフィア姫? あの子の矜持を踏み躙って、一体何が楽しいの? 排他主義で実力主義。自分勝手な評価基準を振り翳し、他を傷つける傲慢さ。ジゼル嬢のおっしゃる通り。キミこそ、このトイボックスを体現する特別なドールに違いないね。キミのそれは、誰かの枷になるよ。キミは、勇者の剣を握れない……キミが、私の愛する彼女を。胡散臭いと、心ないと、鬼と、悪魔と、公害と、化け物と、魔女、と……その可愛らしい唇で形容するように。キミはとっても、とっても胡散臭くって。心なくって、鬼で、悪魔で、公害で、化け物で、魔女で……とっても、とっても、ふしあわ、せ」

 おまえの頬には汗と涙が浮いているね。絶望が溢れるのか。それは彼女も同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。それはあの日、死んだ王子の少女たる嘘だ。べたべたとまるで精液のようだと思ってごらん。それで俺たちの憂鬱は完成するのだ。さあ、花見の酒を呑もうじゃないか。

「——本当、殺したいほど、愛しいね」

 ソフィアと同じ、呪いのような黒い笑顔を浮かべて。心底愛おしそうに、ディアはその手の甲へキスを落とした。その愛に満ち溢れた所作は、ソフィアのよく知る、あの王子様のものであった。

「ソフィア、僕達は何も間違っていない。僕は君が何よりも清く、正しく、美しく、善いドールである事を知っている。君は少々口下手な所があるのだから、あまり感情的になるものではないよ。

 王子様が欲しい? My Dear Wisdom.」

《Storm》
 ソフィアの前に立つ愛具風情の恋人ドール。
 彼はソフィアと同系色の瞳をしているのに、その曇りなき眼は雛鳥が飛び立っていくような希望で満ちていた。ソフィアのマリンブルーが深海に沈んだラピスラズリに見える。
 頬を赤らめ、息を切らす程に語られたのは、まるで黒光りする銃口に詰められた鉛玉のような愛だった。

 ソフィアがみるみると怒りの矛先を目の前の愛具風情の彼へ向けていくのは自然な事だった。もう止められやしない。
 でも、でもね。
 この時はなにか不具合が起きてたみたいなんだ。

「─────口を謹んで下さいディア」

 ソフィアの手を取り、ボウ・アンド・スクレープをするように、まるでかつて同じ冠に座した王子のような可憐な少女を模したように。ディアはソフィアへ訴える。すると、半ば強引にソフィアとディアの間に入り遠ざけるように忠犬が前に立ちはだかったのだった。
 生き血を吸っているかと思わせるほど、美しい桜の前に。

「貴方様の仰る事、間違っていないとでも思っていらっしゃいますか? 確かに、ソフィアはミーチェやアティスを失って悲しみに暮れています。
 彼女らが今のソフィアは堂々としていて怖いもの知らない歩みは既に面影を無くしています。彼女らに引っ張られている? そう言われても仕方がないかもしれない。
 けれどねディア。今のソフィアの判断、思考を最も引っ張っている物ってなんだとお考えですか? いいや、これは最初からだった。“ソレは”ソフィアの足をずっと引っ張っている。生きた屍のように……。

 “ジブン達”なんですよ────
 彼女の枷になってるのはミーチェやアティスでは無く、我々です。確かに今のソフィアに分かりやすい説明を付けるとしたら彼女達でしょうし、ディアは間違ってはいない。半分正解かと思われます。ですがソフィアは折れて錆びてボロボロになった剣をまだ持とうとしていらっしゃいます。ソフィアはジブン達、いいえ、厳密に言えばジブンと貴方様を除くオミクロンドールと言った方が正しいですね。彼らを護ろうと必死なんですよ。彼女らと同じ運命を辿らせないように、と。
 ソフィアにリヒトの話をした際、ソフィアは真っ先にリヒトの精神状態を案じました。きっとアティスの影響でしょうね。彼女は慈悲深く周りが良く見えていましたから。」

 ストームはヘテロクロミアを愛してやまないディアに冷たく向けている。彼と対照的にどこまでも熱を知らない語り口にワントーン音を落とし厚みと威圧を帯びた声色。
 愛してやまない彼に向ける花束に隠した刃は、花束ごと朽ちてしまったかのようであった。

「ジブンはそう思うだけ。ソフィアを擁護したつもりは無いですし、実際ソフィアがどう思っているかは知りません。
 愛おしい? 王子様が欲しい?
 貴方様、今世界で最も醜く恐ろしいですよ。所作や口調が彼女を感じさせる分余計に。彼女の屍を被ってるようだ。
 愛し方を忘れてしまったのなら、今すぐにでもトゥリアドールを名乗るのを辞めるべきです。ですが生憎、今の貴方様を殺したいだなんて思えなくてね。
 “微塵も似ていない”ですから。
 そんな事言わない、そんな行動しない。嗚呼どうして貴方様はその刃を愛と形容するのですか? いっそその刃でご自身の首を掻き切ってしまえばいいのに。」

 ストームは吐き捨てるように言った。まるで砂糖で覆い尽くしたような人工的な愛は、“あの方”とはかけ離れている。吐き気を催しそうだ。
 何でも良かった。ソフィアがどうであれ、ストームは興味が無い。ただ、この慈愛を見誤った孤独の愛を説く教祖を酷く拒絶したかった。
 ストームは“違う違う違う”とこの場の誰よりも貪欲でドロドロとしたエゴを曝け出している。
 いらない、必要ない、目障り────
 貴方様の夢、叶ったでしょ? ほら。
 散りごろの桜よ、自分の愛に溺れてしまえ。

《Sophia》
 重苦しいコントラバスの音色をバック・ミュージックに、黒い黒い呪詛は溶け落ちたばかりだった。濁った空気。切り詰めた視線。 そこにSEのように響き返った笑い声が異様なものであることなど、最早言うまでもないだろう。

「……、は?」

 ぐちゃりと。心の臓を握り潰された心地がして振り返れば、桜の精が爛漫に嗤っているのだから。ポロリと落ちてしまいそうなくらい眼球を見開いて、骨がへし折れたみたいにだらんと腕を垂らして。少女は、歪な挙動で首のみを桃色へ向ける。悪霊に取り憑かれた者の挙動であった。

 桜が、語る度に。
 その声が、響く度に。

 吐き気が込み上げてくる。

「……さい……。

 うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさい……!!! 何も分かってないじゃない、気持ち悪い……!!! なんであたしがそんな、そんな事言われなきゃならないのよ!!!!」

 強引に手を振りほどいたソフィアは、手の甲をしきりに制服の布で擦っている。強く、強く。汚物を拭うような素振りだ。

「は、は、あんた、頭おかしいんじゃないの。なんなの、その綺麗事。何。何。なんなのよ。気持ち悪い。なんであたしが責められてるわけ。何、恋人って。馬鹿じゃない。吐き気がする。意味わかんない。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……アストレア、アス……アストレアのこと、汚さないでよ……そんな、そんなのじゃない……あたし、あたし……」

 桜の色をした化け物から逃げたくて、無力な少女は必死に後ずさる。手をずっと擦ったまま。思い切り走ったあとみたいに息が荒くて、汗をかいている。
 ああ、何を言おうとしたんだっけ? わからなくなっちゃった。全部お前のせいよ。化け物のせいで、ぜんぶわけがわからなくなる。

「あ、あは、はは……あんたも、お前も同じだわ。化け物。人の心のない化け物。頭、おかしい。狂ってる。もう……もう、いいわ。は、は。あの女の恋人なんでしょ? 勝手によろしくやっておけば? こっちに来ないでよ、どうせ一生分かり合えっこないわ。もう、わかったから。気持ち悪い、気持ち悪いのよ……この、悪──」

 言葉が、遮られて。
 大きな背が眼前を覆ったのを認識するには、少し時間がかかったやもしれない。
 後ずさった足の力がガクンと抜けてしまって、その場に軽い音を立ててへたりこんでしまって。あとはもう弱々しく、彼の言葉を聞くだけだった。
 親友の魂を奪い取った、あの汚く醜悪な化け物を殺してくれることを期待しながら。

 甘ったるい胃もたれの波が段々と凪いでいくのと同時に、やっぱり、目元は濡れていく。ぼたぼたと地面に大きな水滴がこぼれ落ちて、シミを作るのがもうどうしようもない断裂を悲しむ天のもたらした雨みたいに見えて来る。
 ここは海底の牢獄なのに。かみさまなんていないのに、ね。

《Dear》
「……………」

 しん、と痛い静寂が耳を刺す。心臓が熱くなる。声が出ない。指先が震えるのがわかって。ああ、憎悪が、嫌悪が、殺意が、ああ、ああ、ああ!

「…………かっ」

 ああ、とっても愚かだね。

「………かっ、かっ、わ、いい〜〜〜〜〜っっっっっ!!!!!」

 ディアを絶望させられる概念など、存在しないと言うのに。ディアはただ、恋する乙女のように真っ赤な頬に小さな両手を当て、ゆらゆらとその幼い体を揺らしていた。美しく澄み切ったターコイズブルーが、愛おしげに細められる。ぴょんぴょんと跳ねる桃色の髪が、ただ美しく散っていた。墜落して踏みつけられた、桃色の死骸に笑いかけるように。ぐじゅり。ああ、なんと悍ましく、美しい花だろう。ああ、なんと愚かで可愛らしいのだろう! 幻想に溺れて息もできない、キミにキスを贈ってあげる。ああ、キミが好きだ! 大好きだ! 愚かで、浅ましくて、望みを忘れぬキミたちが好きだ。キミたちの問い、答え、間違いの全てが大好きだ! 音もなく、恋人にキスが落とされる。唇の先は、漂う空気だ。愛する世界だ。愛する恋人だ。キミたちのことも、この子と同じように。いつまでも、愛し続けているよ。

「ええっと、何故、何故かあ! んん〜……たぶん、こんな所で仲間割れをしても意味がないことはわかっている。何をしてもあの子は戻ってこないのに。けれど何故、あたしはこの悪魔のように殺してはいないのに、何故こんなことを言われなければならないのか……かな? 私も人を殺してなどいないけれどね! お揃いだね! んふふ、矛盾かわい〜! ああでも、私の恋人たち、キミにいっぱい殺されちゃったなあ……ほら、あんまり叫ぶと酸素さんが大変じゃない? ふふ、そこもとても可愛らしいのだけれど!
 うふふ、ああ、ああ、お母様、だったね! そうだった、そうだった、キミから配られたプログラムはそれだったね! ふふ、庇いたくなるのもわかるなあ……キミはずうっと、呪いに囚われているものね。うんうん、つまり、これでキミの傲慢な呪いから、私の足を引っ張るキミの望みからは解放されたわけだ! キミのお母様も、自らの代わりを探されてさぞお寂しかったことだろう! これで名実ともに、私はディア・トイボックスとしての最終目標に近づいた! 全世界が望みを忘れ、私というプログラムを忘れ、幸福になる新世界の幕開けだ! ああ、世界はなんと愛おしい! ……ねえ、知らなかった? 私はね、ずうっと前から、キミのことが目障りで、邪魔で、いらなかったよ……特別だったからだ。キミたちの瞳に見つめられるだけで、私はずっと幸せだ。キミたちと過ごす日々は永遠だ、馬鹿みたいだろう? これって運命だね? ふふ、これでやっと、私たちは一人のディアとストームとして、愛し合うことができる……けれど、キミがまだお母様の愚かな幻影を望むというのなら、もちろん叶えるよ! ヒトみたいなことをおっしゃるよね、キミ! ねえ、ジゼル嬢? お母様を演じるって、どうしたらいいのかな? 私ね、男性設計なの。髪も桃色だし、瞳も水。十歳設計だし、身長も138cm設計……きっとストームのお母様とは似ても似つかないのに、何故か私に、お母様役を押し付けるものだから……ねえ? 教えてちょうだい。あの十五歳で178cmの少年の記憶の中にしかいない、彼だけを肯定し、彼の理想に応え続け、彼の自分勝手で、傲慢で、愚かな殺意を受け止め続ける……そんなお母様になるために、私に何が足りなかったのかな?」

 手と手が触れ合う、その体温だけで笑みがこぼれた。唇が触れる、その優しさだけで涙がこぼれた。名前を呼び合う、たったそれだけで、どこまでも幸福になれた。言葉もいらない、心でつながる、四人で過ごしたあたたかな日々。あの日から何も、何も変わってはいないのだ。ただ、キミを救いたい。キミを、心の底から愛している。

「ああ、あと! かわいいアリスのことが気になるからね、プリマドールの選定基準! お聞きしたいな! ええっと、んふふ、お二人は? そんなに騒いでいないで、何かお聞きしたいことがあるのなら、言葉を使うべきだよ」

《Storm》
 小さなドールが静寂という名の蛹を破った。
 愛の暴力のお目覚めだった。
 小さな小さな桜は憎悪を、嫌悪を、そして救いようのない愚かさを吸い尽くしてその優麗で儚いのに、散ることを忘れてしまった桜をたなびかせる。


「っっっ!!!」

 何? なに? 愛するって。
 愛、愛、愛、愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛。
 あ い……?

 獣の吸い込む息が震えた。
 “アイ”で満たされて“アイ”で支配する恋人の言葉が獣の脊髄をドクドクと支配して汚染して、何もかもを引き摺り出すようだった。かつて母の幻影を重ねたソレは、もうとても幻影の仮面を被せられない程に膨れ上がっている熟れた果実であった。じゅくり。たっぷり塗り尽くされた病的な甘味に食い尽くされてしまいそうだ。
 触れられた手の温もり、柔らかさまでも気持ち悪い。自身を防衛するように、空中高々に自身の大きな手を振り上げた。
 きゅぅぅぅ、と細まった瞳孔にターゲットが映る。
 早まってく鼓動と呼吸。震える手。
 自身で呼吸しているかどうかも分からない。今は吸ってるかも吐き出しているかも。
 いつの間にか獣の手には固く強く拳が作られている。
 強く、強く、爪をめり込ませんばかりに。


 ほら、その手を振り下ろしなよ。
 アイツに向かって思い切り。
 君がしたいように。首でも絞めてさ。

 ──ずっとそうしたかったんだろ?

 …………。




「なにもかも、が……足りない」


 すぅぅ、と毒素が抜けたようにストームの瞳が戻ってゆく。振り上げられた拳は力なく降ろされた。
 彼の燃料を飲み干して、身体を綺麗に剥製にして、その艶やかな髪を梳こうとそこに母の幻影はもう着いてこない。
 悟ってしまった。悟りたくなかった。

 永遠に母の幻影に酔って狂って踊らされたかったのに。
 ついに憧憬も劣情も嬲り殺された。
 それも、幻影を被っていた小さなドールによって。
 世界から温もりが消えてしまったようだった。
 追い掛けても泣き喚いても、もう帰ってこない。
 春の夜の夢のように母の幻影は死んだ。
 ここは酷く寒いんだ。
 目の前の小さなドールのターコイズは鬱陶しい光で輝いている。幻影を殺した光。
 ストームはその輝きを拒絶する事が出来なかった。本当に、彼の言うとおりどこまでも愚かだった。光を避けるように瞼を半分下ろし、後方で喘ぎ泣くだけの弱虫ジャンヌ・ダルクを重たく睨み付け一瞥すると「では」と口を開く。

「ジブンが聞きたいのは化け物達の正体。彼らは一体なんですか? 何が目的でドールズ達を喰い千切るのです?」

 足元に、断崖と呼べるほどの亀裂が入ったかのようだった。彼等の舞台は今や切り立った氷山のように様変わりし、互いの合間には底冷えする空気が伝い流れる。

 爛漫なる春告鳥のような麗らかな声で、美しくも残酷なオートマタは悍ましい侮蔑の言葉を言い放つ。その刃の切っ尖は、穏やかな母の仮面を被る女ではなく、より身近な学友の少女の薄い背中に突き立てられた。
 追い詰められたソフィアの絶叫が奏でられる。彼女を庇い立つストームが訣別を冷酷に言い渡す。それでも尚も破局の歌を歌いつづけるディア。

 彼等の三者三様の顔色を見渡して、ジゼルは困ったように眉尻を下げ、頬に嫋やかな手を添えた。「あら、あら……」なんて嘆き声を溢しながら、若人たちの未成熟な情動による仲間割れをしばらく眺めていた彼女は、そこで漸く口を開く。

「辞めなさいな、不毛な揉め事なんて。あなた達は他のドールの誰より優れているはずなのに、だからこそ、このトイボックスを逃れるために先陣を切っているはずなのに……こんなにも重要な局面で、言い争っている場合なのかしら? 困った子たちね……やっぱり大人の手で守られるべきよ。私はそう思うわ。」

 ジゼルは小さく肩をすくめて、もっともらしいことを宣った。それはまたあなた方の琴線を逆撫でするような言葉であっただろうが、怒号が挟まれる前にあなた方の問いに彼女は答える。

「プリマドールの選定基準が気になるのね。でもそれを答える前に、まずはストームの質問に答えましょうか。

 化け物というのは、お披露目で……このダンスホールで現れた、あの異形の事ね? 彼等は私達が言う“顧客”よ、あなたたちドールを狂おしいほど求めているドールオーナーなの。
 彼等の目的は単純明白。レディ・ローレライのように、ただ求めているだけなの……大切な人の面影を。その昔愛した人の声を、その温もりを。

 大切だったからこそ、彼等は酷くこだわりが強くてね……少しでも理想にそぐわなかったら、彼らはドールズの身体を引き裂いて壊してしまうのよ。あなたたちが見たのはそれ。

 “品評会”とは言い得て妙で、あなた達はお披露目の場で見定められているのよ。顧客のお眼鏡に適う、『大切な人』になれているのかどうかを。」

 そこまで語り終えたジゼルは、緩やかにため息を吐き出して、また穏やかに微笑む。
 そして崩れてしまったソフィアの元へ歩み寄り、その傍らに膝をつくだろう。

 力無い彼女の背に手を置いて、撫で下ろそうとする。たとえ払い除けられようとも彼女は構うことはない。


「──ねえ、あなた達。ユークロニアという組織のことはもう知ってるの?」


 そしてジゼルは穏やかな笑みを保ったまま、そう問い掛けた。

《Sophia》
 ずいぶん高いところから声がする。桜の化け物は、まだ嗤っている。その声が頭に入り込んできて、ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃと脳細胞をかき混ぜて、きて、気持ち悪い。胃液が込み上げてくるのを堪えるために片手を使っちゃ、耳がふさげないじゃない。本当に気持ち悪い。
 ──早く、死んでくれたらいいのに。
 神を気取るような博愛。心を知らず、踏み潰す美徳。それらは全て醜悪なものであると、少女は思ってしまったのだ。友人だった、友人だと思っていた『それ』は、少女の瞳の中の青色の世界のなかで、毒虫と成り果てていた。奴は化け物だ。そう思ってしまったんだ。漏れる嗚咽は、臓腑を潰すような不快感から生まれているのだろうか。それとも、もう二度とは得られない、欠けゆく青写真を思ってか。わからない。わかるわけがない。少女は、剣を握ることしかできないのだから。

「……知らない。」

 ばしん、と強い音が鳴る。己が背に伸びるジゼルの嫋やかな指先を払い除ける音だ。憎い憎いピンクパールを、まるで汚物でも見るようにギロリと睨みつけて、低い声で応える。いい加減、涙は止んだらしい。

 乾いた拒絶の音がして、自身の手を払いのけるソフィアの、暗く濁った憎悪の眼差しをジゼルは微笑みでいなすように受け止めた。しゃくり上げるようにさめざめと涙を流していた彼女も、そろそろ激情から現実へ戻って来られたらしかった。

 本来ならば手を組んでいられたはずのあなた方は、酷い軋轢の最中で結束はバラバラになってしまっていた。
 吹き付ける断裂の冷たき風はあなた方の身を竦ませ、少しずつ、目すら合わさなくなっていく。

 そんな様子を見渡しながら、ジゼルはうっそりと微笑ったまま、首を傾けた。彼女の高く結い上げたわたあめのような輝く頭髪がさらりと揺れる。
 閉ざされた巨大な門を背にして、『母』なる女は口を開いた。“迷えるあなた方のために”。


「いいかしら? ユークロニアと言うのはね、このトイボックスの──」



 ──と、話が続こうとした、その時だった。

 ダンスホールの出入り口、つまりはステージの上にある控え室へ続く扉が、バン! とけたたましい音を立てて開かれたのは。
 その物音は、静かなダンスホールによく響いたことだろう。あなた方の視線はすぐにそちらへ集中する。

【学生寮3F 隠された物置】

Odilia
Sarah

 梯子の真上、天井部分には上に押し開けるタイプの扉が取り付けられている。オディーリアは鉄製の錆び付いた取っ手を握り締めて、力一杯持ち上げて上へと押し上げるだろう。
 隠し部屋の三階部分もまた、薄暗いことには変わりなかった。しかし寄る辺ない暗闇に満たされた通信室よりは幾分マシであった。

 何故なら三階に這い上がって一番に見えたのは、部屋の壁に取り付けられた一つの窓だったから。
 窓の外側には木材が打ち付けられていたが、その板張りの隙間から優しい月明かりが降り注いでいる。もうすっかり空は夜の群青色が広がって、散りばめた星屑がチカチカと瞬いているのが見えた。

 窓ガラスは開いていて、吹き込むそよ風が窓辺の真っ白なカーテンを優しく揺らしている。
 この部屋はまさしく物置という言葉が似合いで、埃の積もった柱時計や、いつこんなものを使っていたのかと疑問になる古い型のミシン、壊れた水鉄砲が突っ込まれたバケツ、ひび割れた古い植木鉢、老朽化の始まった木製の椅子、描きかけのキャンバスとイーゼル、煤汚れたトルソー、小さな赤い制服、寄り添い合うクマと猫のぬいぐるみ、ジュエリーボックス……そのほか諸々。
 とにかく様々な雑多なものが積み上げられている。

 部屋の奥には古い机が置いてあり、その上には一冊の本とメモ書きの紙片が添えられていた。

《Odilia》
「よいしょっ……と」

 梯子の真上には押し上げて開ける扉が取り付けてあった。少々錆び付いており開けるのに手間取ったが、テーセラの力の前では楽に開けられるだろう。

 入って一番に目に入ったのは天窓、星がキラキラと輝いて月明かりがスポットライトのように照らしてくる。
 こんな状況じゃなければ踊ってみたいほどにステージとしては完成されている空間だ。

 とはいえそんな時間は無い、刻一刻と期限は迫っている。
 出る方法やここについての情報等探さなければ……。

 他にあるものはミシン、水鉄砲とバケツ、ひび割れた植木鉢、木の椅子、絵、トルソー、オディー達が着てるような服、ぬいぐるみ、ジュエリーボックス等。

 そして本……。

 オディーは水鉄砲に惹かれたが、なんというかこの感覚を前にも感じたことがある、頭が痛くなる前に……。
 だからこれは後回しだ、次に目に留まったのはジュエリーボックス、あと時控え室で見たジュエリーボックスと似ている、そのため気になったためジュエリーボックスを手に取るだろう。

 雑多なものが積み上がっている屋根裏部屋のような場所で、あなたは少し迷った末に、忘れ去られた品々のうちの一つに目をつける。

 それは一つのジュエリーボックスだった。子供のままごと遊びに使うためのものか、控え室の本物の宝飾品と比べて随分拙い造りで、模造品の宝石が当てがわれている。
 あなたがそれをそっと持ち上げると、どうやら箱の蓋は開いたままになっていたらしく、パカッと開いて中身が滑り落ちていく。

 慌てて目で追うと、どうやら落ちたものは赤いリボンだったらしい。


 ──それはソフィアの身に付けていたリボンだ。
 一瞬あなたはなぜここに? と疑問に思うかもしれない。だがすぐに予想がつく。

 ミシェラがお披露目に発つ前、まだオミクロンのドールズが平穏なままでいられた頃。
 彼女はソフィアからリボンを譲ってもらったのだと得意げで、嬉しそうに黄金色の髪を束ねるものを自慢して回っていた。あなたはその時の光景を今でも鮮やかに思い出せた。

 ……ミシェラはお披露目に行ってしまった。そして恐らく、無事ではいられなかったのだろう。先生によってリボンは回収され、ここに残されたのだ。

 ジュエリーボックスを置いて目線を僅かにずらすと、薄汚れたトルソーの上には見覚えのあるベレー帽がある。
 あれは間違いなく、少し前にここを去ったアストレアが日々被っていたものだ。もう既に埃が積もり始めているのが哀しく見えることだろう。

 ゆっくりと周囲を見渡す。
 時の流れを感じさせるこの物置は、もしかすると、今までのドールズが大切にしていたものの積み重ねなのではないか? と感じるだろう。

《Odilia》
 オディーが目をつけたのはジュエリーボックス。
 控え室にもあったものと同じだが、拙い、子供のお遊び用に見える。
 そんなジュエリーボックスを開けば中身が滑り落ちる。
 ゴミだったら目に留まることなんてなかったのに、赤色が目に入ってくる。
 赤い宝石でもなければ、この前つけたようなブレスレットでもない。するりと滑り落ちるような、ひらひらと舞うものにオディーは目を離せなかった。
 だってそれは知っていたものだったから。

「どうして……これが?」

 オディーは困惑した、そこにあったのは赤いリボン。
 ソフィアお姉ちゃんの物だとすぐにわかった。
 どうしてこれがここにあるのだろう。オディーは記憶をまさぐる。そういえばミシェラがソフィアお姉ちゃんから貰ったとはしゃいでいた記憶が蘇ってくる。
 だがそんな幸せを壊すようにミシェラはお披露目へ行ってしまった。
 ならこのリボンを回収したのは先生だろうか?
 そんなジュエリーボックスにまたリボンを入れ、ジュエリーボックスの近くにあったトルソーに目を向ける。
 そこには見覚えのあるベレー帽。

「アストレアお姉ちゃんの……」

 アストレアお姉ちゃんが毎日のように身につけていた綺麗なベレー帽、それがトルソーにかかっていた。
 持ち主を失いベレー帽が悲しんでるように見える。
 アストレアお姉ちゃんもお披露目へ行ってしまった、だからこれも先生が回収したものだろうか?

 オディーは一つ思った。
 ここにあるものはもしかしたらオディーやみんなに関わりのあるものなのかもしれない。

 ぬいぐるみやミシン、植木鉢、椅子、服。
 どれもこれもきっと何らかしらみんなに関わりがあるのだろう。

「じゃあオディーのはこれ?」

 いちばん惹かれたこの壊れた水鉄砲とバケツ。
 水鉄砲は壊れたその時で止まっており、遊ばれていたのだという形跡だけが残っている。

 でもオディーの心が言っている、これに触れたらまた多分同じことになると。
でも進むべきだろう。
 またお姉ちゃんに会えるなら……。

 マリンブルーのプラスチック製の水鉄砲が、古く錆びたバケツの中に放り込まれているのを、物置のガラクタの中から見つけ出す。

 手に取ってみると表面の塗装は剥げており、プラスチックの一部は割れて砕けている。引き金にまるで手応えが無い、見てすぐに分かる欠陥品。水を注いでも割れた部分から漏れ出してしまいそうな有り様で、もう使うことはできない廃品だった。

 それでもあなたは、なぜかこの古びた水鉄砲が気になった。かつては子供たちの遊び道具として何気ない日常を彩り、架け橋となっていたであろうおもちゃを。
 じっと眺めていると、あなたは脳裏で友人が楽しくはしゃぐ遠い声が聞こえることに気づいた。そちらに意識を集中させようとすれば、ズキンと脳が軋むような極大の痛みを感知する。
 こめかみからひび割れていくかのような苦痛に耐えかねて、あなたは水鉄砲を落としてしまうだろう。その場で力無く膝をつき、意識は次第に遠のいていく。

 虚ろを見据え始めるオディーリアの瞳は青白く輝いていた。瞳孔には微かに青い蝶がひらめく姿が映し出されている。

《Odilia》
 コアが痛い痛い痛い……。
 なにあれ、なにこれ、なんでなんでなんでなんでなんでなんで!!
 知りたい知るわけない誰もきっと知らない、でも教えてよなんでそんなことになっているの?
 オディーは何を見たの、オディーはなんであれも見たの? なんでなんでなんで!

 過去の自分。記憶の自分に強く強く強くそう言いたい。まだ思い出した記憶は鮮明で、見てしまった罪悪感と見てはいけない恐怖感を身体は感じている。

「ひっ……ひっ……」

 ただオディーはお姉ちゃんに会いたかっただけなのに。オディーはお姉ちゃんの繋がりを感じていたかっただけなのに。オディーはただお姉さんにお姉ちゃんの手紙がないか聞きたかっただけなのに……。

 白い床、白い天井、白い壁、全部全部真っ白だったのに、オディーの髪みたいに綺麗だったのに。

 お姉ちゃんの赤色とは違う、苦痛と憎悪と気持ち悪さを感じる赤、赤、赤。
 真っ白な床を赤色が染める、綺麗な茶色の髪も散らばって。


「あっ……あっああっ……お姉ちゃん……お姉ちゃん……助けて、助けっ……おえっ……。」

 涙が零れる、気持ちが悪い気分が悪い、頭の中がこれを拒絶している。
 忘れたくても忘れられない。
 ただ虚空にお姉ちゃんを求めるように手を伸ばす。だがその手は空を切る。何も掴めない、何も届かない。

 でもなにかに縋りたい、ソフィアお姉ちゃん、アメリアお姉ちゃん、ロゼットお姉ちゃん、フェリシアお姉ちゃん、リヒトお兄ちゃん、ディアお兄ちゃん、みんな、みんな助けてお願い、苦しい苦しいの……助けてっ……。
 悲痛な心の叫び、本当は叫びたいのに言葉が出てこない。

 苦しい……今も尚苦しい……気持ちが悪い、でもこんなことしてたら見つかっちゃう。
 他に出る方法を探さないと……オディーが見つけなきゃ……。

 そう思い……オディーは水鉄砲を後にする、さっきみたジュエリーボックス。
 もう調べたが、やっぱり思った。そしておもむろに開き、赤いリボンを、オディーがよく着ている上着のポッケに突っ込み隠す。

 だって持って行きたいと思ったから。ミシェラの残したものだから。ミシェラを近くに感じられるなら持って帰るべきだろう。

 後調べていないのは絵画? だろうか。そこにはサラもいるがオディーもみたいから近づくだろう。

 誰が描いたのか分からない絵、ここにあるってことはきっと先生が描いたのだろう。
 暗くてよく見えないが。

《Sarah》
 上に登ってみれば待つ真っ暗闇。でもほんの少し優しい光。窓際に駆け寄ってみれば外の空はとっても綺麗。金平糖が散りばめられたピカピカと光っていて。

「きれー、夜も外に出て食べられたらいいのに」

 窓を開けて外に手を伸ばせばすぐに届きそう。でもこの窓は開けられないだろうし外にも出れない。ルールがあるから。
 諦めて周りを見渡してみれば埃被ったものがたくさん。ぬいぐるみが二匹、埃のベールを被った二匹。構ってほしそう、けど今はだめ。まだ待って。
 悲しそう目を無視していくのは辛いが、苦しい胸をギュッと押さえ奥へ進む。

「扉開けるもの……斧でもないかな、」

 風に吹かれて本がサラを手招く。こっちにおいでって。机に近づきペラペラと手招く手を掴み中を拝見。本の栞に斧でも使っていたらぜひ扉を壊すのに使いのだが果たして入っているのだろうか。それに一緒のメモ用紙はなんだろう。

◆ トイボックス劇場 ◆
 それはあなたにとって見慣れない物語である。あなたはエーナモデルではないため、あまり知られていない有名どころを外れた物語なのかも知れない。
 しかしその意味深なタイトルは、あなたの興味をそれとなく惹くことだろう。

 表紙には、小さな箱の中に収まる精巧な人形の絵が描かれている。淡い筆使いで形作られた人形は大層美しく、光に反射して輝いているようである。かなり古い書物のようで、表紙は古く褪せてしまい、紙も強張っている頁が多かった。それでも大切に保管されていることが分かる本だ。

 物語の内容はこうだ。
 主人公は、誰かの手に取ってもらうために生まれたお人形。そんな人形を拾ったのは、親友を喪い、嘆きに暮れる一人の少女だった。

 少女はその人形を、喪失の痛みを埋めるために大事にし続けた。人形は大切にされるうち、自分自身を少女が喪った親友そのものなのだと思い込むようになる。
 しかし年月の流れとともに人形は経年劣化で解れていき、少女は単なる玩具よりも心の拠り所となる唯一の人を見つけ、その手を取ってしまう。

 そして人形は、哀れにも捨てられてしまったのだ。
 少女の親友としての生き方しか知らない可哀想な人形は、それでも、懸命に生きようとし続けた。

 そうしていく内、人形には持ち主に献身しようとする玩具としての本能とも、少女の親友としてあろうとする働きとも違う、独自の心が芽生え始めた。

 人形はやがて、誰の為でもなく、自分の為に生きることを決心する。
 それは、玩具としての役割を与えられた生命として、正しいことなのか、間違っていることなのか。


 まるで読者に問い掛けるような語り口で物語は終わりを迎える。
 あなたはこの本が全て手書きで書かれていることに気付くだろう。筆者の欄を見ると、そこには『Charlotte』と記載されていた。



 本のそばに添えられた複数枚の用紙には、ミミズが這ったようなひどく荒れた文字で走り書きがいくつも残されている。
 それは丁寧な報告書、或いは設計図を短い時間で急いで写した、写本らしきメモ書きだった。


『“Charlotte” TypeEna DoLL;s設計図』


 そう題が冠された下には、テーセラモデルのあなたでは到底理解が及ばぬような小難しい理論や人体の構造を仔細に記した長蛇の文書が書き綴られている。どうやら事細かなドールズの設計が記載されているようだが、集中して読み込んでみるとあなた方の身体の構造といささか違っていることが分かる。
 あなた方は限りなく人間に近しくなるように意図して造られており、エネルギーの補給に食事を必要としたり、暑さや寒さを感知したり、そういった『人らしい』機能が備わっている。だがこの設計図にはそれらしき機能の一切が排斥されており、外的要因にて朽ちることなき本物の『お人形』を作り上げようとしていたことが分かる。

 この設計図には三段階に項目が区切られており、前述の内容が『第一の壁』と称されていたらしい。
 その後述には『第二の壁』『第三の壁』と続くのだが、とりわけ『第二の壁』の記述がもっとも長く情報量も膨大だった。

 『第二の壁』の項目では、ドールの感情表現の基盤となる“人格”を形成しようとしていたらしい。シャーロットと呼ばれる少女をモデルにして、彼女を完璧に再現した人格を作り上げる。これを実現するのは相当に苦心したと見受けられる。

 最後に、『第三の壁』の項目。こちらは前述と違い、ほとんど何も記載がなかった。ただひとつ、円盤のような絵の隣に、『すべてを思い出させなければならない』という一文が残されているのみ。

 複数の紙束に及ぶ文書を要約すると以上のようなものになる。だがあなたには果たして何のことか、理解が及ぶものではなかっただろう。

《Sarah》
「えーっと。
 といぼっくす、げきじょう。しゃーろっと、サン。」

 そばに椅子があればゆっくり見れたというのに。何か座れるものがないかと辺りを見渡すがめぼしいものはない。まあ床でも少し硬いだけだ。しかし物語を読むのには向かない環境。
 背中を壁に預け足は伸ばし完全にリラックスした状態で本を開く。今日は右手がないから読みにくいったらありゃしない。


 悲しい。悲しい物語だ。バッドエンド。主人に捨てられるなんて。自分のために生きるだなんて。悲しい。主人のために生きることができないドールなんて価値がない。
 ボクだったら、これ以上コアを動かし続けたいと思えない。
 シャーロットサンは、こんなにも悲しく素晴らしい物語を作れるなんて。シャーロットサンはヒトなのだろうか? もしドールだったらきっとエーナなのだろう。

「タイプ、エーナ。やっぱり。」

 お次に目を通したメモはなんとも汚い字。サラとよい勝負だ。そして量の多い文章。読んでいるだけで頭の中の棚が溢れて大洪水を起こしてしまう。ちょっとだけ、ちょっとずつ読もう。

 要するにサラたちドールよりもう少し人形に近いドールの設計図。
 ちょっとずつ読んでもわからないものはわからない。特に第一の壁、第二の壁、第三の壁なんて。このまま続くのなら第百の壁まであるのだろうか、だなんて呑気なことを考えながら最後の一文まで読み終わる。

「すべて、を。思い出さなければならない。」

 よくわかんない。
 これはきっとデュオが読めばわかるものだろう。今は必要ではないと判断し欲しいものもなかったため本とメモを元あったように戻しぬいぐるみの方へ足を向ける。
 好奇心旺盛な子たちなのか、やたらサラのことを見てくる。そしてサラも彼らが気になる。
 見た目からも伝わるふわふわ。目線を少しでも合わせようと足を折り再度座り込む。触れることができれば壊さぬようそーっと触れるだろう。

 あなたと不意に目が合ったのは、寄り添い合うクマと猫のぬいぐるみ。そのふわふわのテディベアの方だ。長らく人の手に抱き上げられてこなかったのか埃は積もっているが、払い除ければまだ綿も毛皮もふかふかで抱き心地が良い。

 赤いビーズが縫い付けられており、爛々としたクマの瞳にはあなたのぼんやりとした顔が映り込んでいる。
 あなたはなんだか不思議とこのぬいぐるみに興味を惹かれてしまった。どうしてかはわからなかったが、理由の無い好奇心があなたをこの古臭いぬいぐるみを抱き上げさせるに至った。

 ジッとぬいぐるみと見つめ合っていると、あなたは不思議な既視感に襲われる。この感覚は覚えがあった。以前も感じたことのある、こめかみが痛み始めるこの感覚。
 眩み始める視界に、青い蝶がふわりと横切る。懐かしい景色と痛みを引き連れて。

 頭を押さえながらあなたは目の前に膝をつくだろう。ぬいぐるみを抱えたまま。
 記憶を回帰するあなたに、頭痛と違うコアの異常な発熱を感じ取っていた。

《Sarah》
 ふわふわ、ふわふわ。少し埃っぽいけれど払えばほら、元通り元気な様子。赤い目をしたこのコは、君はどこから来たの? ボクを知っているの?
 なんとなくの既視感。きっといつかの昔の未来に会ったことがある。だってこのコの目にはサラがしっかりと映っているのだから。

 クマを抱えて暖かいはずなのに。コアは暖かい色に包まれているはずなのに。あの青い蝶だ、青い蝶が横切ったときから。コアが真っ赤に燃えた。
 あいつが悪い。捕まえなきゃ。捕まえて、フェリシアサンに見せて、標本にして。


 痛い。痛いよ。嫌だよ。
 少しでも痛みを紛らわすためにぬいぐるみを強く抱きしめる。壊れるかだなんて心配する余裕もない。とにかくサラは今痛みから逃げたくて必死なのだから。

「まっ、てよ……」

 薄暗い世界と一転、カラフルカラフルカラフルと真っ白。
 そんなカラフルからは一歩引いた場所に突っ立っているサラはクマのぬいぐるみを抱きしめていた。去った兄をただ待つために。人形のように動かず。壁とサラの背中が一緒になったようにズルズルと座り込む。このまま空気にでも、壁にでも慣れそうな勢いだ。
 【楽しい】が目の前にあるのに。アスレチック、ボール、滑り台にテントにトンネル! あぁ、心が躍る。でも戻らぬ兄の行方のほうが数倍気になる。
 ガラスを跨いだその向こうの廊下では真っ白な人が何人もいる。なんであんな真っ白なんだろ。ぼんやりとそんなことを考えていればカラフルにまた二つ色が足された。金色と真っ赤。どこかで見た覚えがある。絶対に見た! でも、思い出せない。霞んでいる。記憶を引っ張り出せない。
 彼女が、小鳥が囀るような声で、そっと手を差し伸べてくれた手を、サラは、掴めたのだろうか。

 視界が霞む。貴女が消えていく。カラフルが、真っ白が無くなっていく。
 頭が回る。上も下も右も左もわからなくなる。

「……また、まただ。」

 痛みで再度目を覚ませばカラフルは消えてここは、薄暗い三階。やっと絞り出せた声は枯れていて聞くに堪えない小さな声。早く、早くここから出る方法を見つけなければいけないのに。オディーリアサンにも謝らなきゃいけないのに。
 なのに。
 コアが、コアが痛いよ。ズキズキズキズキズキズキ! どうしてこんなに不良品なの。いい子にしていたのに、なにも悪いことはしていないのに。
 滅多に潤わない瞳が濡れていく。水が溜まっていく。一粒、二粒、三粒、溢れていく。一つ、二つ、三つ、パズルのピースが欠けていく。
 もう嫌だ。ここになんて、来なきゃ良かった。手探りで猫のぬいぐるみを手繰り寄せくまのぬいぐるみと一緒に抱きしめる。ほんの少し楽になれたのかも、より痛くなったのかも。

 早く立ち上がれ、早く。テーセラでいる意味がない。丈夫じゃなきゃ、弱かったらダメなんだ。これ以上欠陥品になりたくない。

「一緒に、いこ、」

 抱きしめていたぬいぐるみ達とともにふらつきながらも壁を支えに立ち上がる。よく頑張った。あとは探さなきゃ、方法を。
 まだまだここにはいろいろなものが溢れている。少しずつ見ていかなくては、早く見て、ロゼットの下に戻らなければ。
 一番近くにあったキャンバスに近づく。とても繊細で美しい絵。でも暗くてよく見えない。ここにいた者が描いたものだろうか。

 部屋の奥の窓辺で揺れるカーテン。窓の向こう側でちらつく星々の瞬き。それらがよく見える特等席に設置されたイーゼルと、そこに立て掛けられた描きかけのキャンバスにあなた方は歩み寄る。

 繊細で淡い筆使いで彩られた美しい絵画であるが、所々に余白の白が目立ち、色塗りにまだ荒さがある部分も多い。未完成品であるのだと一目見て察することが出来るだろう。


 一面に広がる群青色の空は、揺らめく海面のようにも見えた。美しく瞬く星々の下、黒き遺構が──人々が放棄して久しいといった様子の、廃れたビル群が並ぶ大都市の街並みが見事に描き出されている。
 どこかの高台から都市を見下ろしている構図のはずだが、巨大な黒い建物の群れはこちらを圧倒するもので、まるでこちらが飲み込まれてしまいそうな迫力を感じる。
 コアが冷え込むような恐ろしさを感じる壮麗な一枚だが、どこかもの寂しい。心細さを思い出させる絵画でもある。


 描いた人物の名前はどこにも記されていなかったが、おそらく絵画の表題と思しき走り書きがキャンバスの端に黒いインクで書き込まれている。


 ──『Metropolis』と。

【学生寮2階 通信室】

Rosetta

《Rosetta》
 視界に舞う青の名残りを、叩き潰すように。
 目を覚ましたロゼットは、床に強く手を叩きつける。
 相変わらず肉体に痛みはない。ただ、胸の奥が酷く痛んでいた。

「……デュラン、ラプンツェル、リタ、オリヴィア……」

 久方ぶりの痛みを、憎悪で塗り潰すように。喪われたモノの名前を、何度も口の中で転がした。
 顔も思い出せない誰かは、人としての姿を失った。搾取され続けた子どもたちは、理不尽に命を奪われた。
 自分の頭の中で、剥き身のこころにつけられた傷はいかほどだっただろう。
 少なくとも、外界に無関心を装う余裕が失われるほどの衝撃であったことは間違いないだろう。
 整ったかんばせは醜く歪み、握り拳は真っ白になるほど力が込められている。
 今の彼女から、可憐な赤薔薇を見出すことができる者などいないはずだ。
 もし喩えるなら──魔女の呪いの色をした、赤黒いクロユリが似合うだろう。

「……ストームを、何とかしないと」

 ゆらり、幽霊のように身を起こす。
 壁に手をついても、自分が真っ直ぐ立てているか定かではなかった。
 今、ストームを憎んでいるのはどちらだろう。
 デュランを、ラプンツェルを喪ったことを悲しんでいるのは、ドールのロゼットの本心なのだろうか。
 防衛機制がまるで効かなくなった彼女には、最早それこそ「どうでもいい」ことだった。
 部屋の中はきっと薄暗いだろう。カンテラが落ちたままであれば、それを拾い上げて周囲を見回すことにしよう。
 カンテラの有無に関わらず、彼女はファイルが元の位置に戻っているのを確認し、部屋の中を見回すだろう。
 何か変わった点があれば、そちらに向かっていくはずである。

 ロゼットは鈍重な重石を乗せられたかのような、思い通りに行かない身体をどうにか持ち上げて、ふらつきながらも立ち上がるだろう。
 だがその拍子に目の前が一瞬遠のき、立ちくらみのような症状に襲われてしまう。

 狭い通信室でたたらを踏んで、あなたはクラリと体勢を崩し、思わず傍らの棚に肩をぶつけてしまう。


 ガタン。


 それは実に奇妙な偶然であった。あなたがたまたま寄りかかった棚は滑車付き、つまりはこの通信室の扉を隠していた本棚とまったく同じ仕組みになっていたのだ。あなたのささやかな体重によってググ、と奥に押し込まれた棚を驚いて注視すると、棚が下敷きにしていた床にはもう一つ階下へ続く隠し扉があった。

 どうやら上階だけでなく、下階にも秘密の空間は広がっているようである。位置から察するに、恐らく一階洗浄室の奥の壁の裏に通路が存在するのだろう。

 これは出口がなく途方に暮れていたあなた方にとっての吉報である。もしかすると階下に別の出入り口があるかもしれない、という希望を抱かせることになるのだから。

 上階からは微かに物音が聞こえた。きっと意識を失ったあなたの代わりに、サラとオディーリアが三階の調査をしてくれているのだろう。
 この事実を伝えてあげるべきだ。

《Rosetta》
 オミクロン寮には、ロゼットが知らないだけで様々な仕掛けが施されていたらしい。
 先生の部屋の本棚に、今ぶつかった棚に。あちらこちらへ行くための、複雑な機構が埋め込まれていたようだ。
 肩をぶつけた棚の向こうには、下階へ行くための階段があった。

「……なるほどね。グレーテルはここまで知らなかったんだ」

 どうやら鍵を仕込みこそすれど、事前に調査をすることはできなかったようだ。
 変なところで抜けている彼女のことが、いっそ可愛らしく見えてきたのかもしれない。
 ふ、とちいさく笑って、ロゼットはいつも通りの表情を作り直す。
 そうして、絵画を見終えたであろうふたりに向かい、声をかけようとするだろう。

「ふたりとも、出口を見つけたよ。できるだけ早く降りてきてね」

《Odilia》
「何……これ」

 目の前に広がるその絵には、圧巻する景色が広がっていた。
 綺麗な群青の空、そして高い建物が建ち並んでいる。

 まるでその建物は見つめるオディーたちを飲み込むように、食おうとするように迫ってくるように感じる。

 コアが冷え込む。冷たい、恐ろしい感覚が、水鉄砲を見たあと感じた恐ろしさとはまた違うものを感じる。

「綺麗……」

 オディーはそう無意識に発してしまう。だって綺麗だから、建物に飲み込まれそうなのに美しさを感じてしまう。

「なにか書いてある……Metropolis……メトロポリス?」

 都市? という意味だっけ? オディーの記憶はあやふやだ。

 ロゼットお姉ちゃんの声が聞こえる。出口を見つけたらしい、オディーたちも早く逃げなきゃ。

「サラ、呼ばれてる。
 ロゼットお姉ちゃんが起きて、出口見つけたらしいよ。
 オディーは先に行くからね。」

 そう言い先に絵を離れ、梯子を降りていくだろう。

《Sarah》
 綺麗な絵、でも未完成。
 長時間見ていたら引き込まれて出れなくなってしまいそうなほど恐ろしい一枚。気を付けなければ。

「めとろぽりす。作者無し。」

 作者がいない作品なんて存在するのか。もしかしたらメトロポリスが題名で作者なのかもしれない。違うかもしれない。そうか、この都市がこの絵を描いたのか。納得だ。
 一人勝手に解釈の違うことに納得していればどうやら眠り姫はようやく目覚めたようで。オディーリアが先に梯子を降りに行く間サラは抱えていたぬいぐるみ達をもとに戻す。触ったのがバレないようにできるだけ自然に置いてあるように。
 今は離れるのがとても悲しいけれど、さみしいけれど、また来るから。迎えに来るから。その時まで待っていてほしい。

「またね。
 今行くよ。オディーリアサン」

 ここから出る術は結局無し。ロゼットサンは夢の中で斧でも見つけたのだろうか。持ってきてくれてたらいいのだけど。

《Rosetta》
 ぽてぽてと降りてくるふたりに、今のところ怪我はないらしい。
 サラを見て、それからオディーリアを凝視して──ロゼットは、薄く微笑んでみせた。

「見て。ここ、階段があるの。多分、洗浄室の奥に繋がってるんだと思う」

 指差した先には、床に口を開けた暗がりがある。
 明かりがなくとも、ふたりにはきっと見えることだろう。
 行くことが決まれば、ロゼットは光源を消し、元の位置に戻す。そうして、申し訳なさそうに提案を口にするだろう。

「申し訳ないんだけど……私、テーセラのふたりほど夜目が利かないからさ。ここで怪我をしたらまずいし、サラかオディーと手を繋ぎたいんだ」

《Odilia》
 一段一段降りる度にふわりふわりと白い髪の毛が舞う。

 オディーは笑顔があまり上手ではないが、感情は笑顔ができなくても現れてることがほとんどだ。そんなオディーがどことなく不機嫌な感じというかそういうのが顔に現れてるだろう。

 そんなことは置いといて彼女は降りてくる。
 ふわりふわりと、そんな真っ白な子は赤髪の貴女に目を合わせる。

「ロゼットお姉ちゃん、出口見つけたの?」

 ロゼットお姉ちゃんが指を指してくれる方向には梯子があるらしい、よく見ると暗がりの中には梯子が見える。

 こんな暗闇なら、ロゼットお姉ちゃんなら光がないと先へは進めないだろう。
 そんな中でロゼットお姉ちゃんに手を繋いでくれないかと言われる。

「わかった、梯子降りたら。オディーで良ければ手を繋ぐよ?」

 そういいオディーは約束するだろう。

 暗闇で梯子を降りるなんてオディーでもそこそこ怖いが、見えないロゼットお姉ちゃんはきっと怖いだろう。
 もしオディーがいることで怖くなくなるならそれでいい。

《Sarah》
 思ったより早く脱出口が見つかって何よりだ。ここから出て、わからないものは全部忘れて、普通に戻ろう。お披露目を目指すオミクロンドールとして。階段から降りればサラの目から見ていつもと変わらぬロゼット。いきなり倒れたため故障でもしたのかとおもったが、大丈夫そうだ。

「へぇ、見つかる前に行かなきゃ。」

 どうやら二人は手を繋いでいくらしい。確かに嫌なトゥリアには強いテーセラがついていなきゃ怖い。何もないサラはせいぜい後ろを注意しながらついていこう。

 棚の下に隠されていた床扉を抉じ開けると、ギギギギ……と錆びついて重たい扉はかなりの抵抗を受けつつもどうにか小柄なあなた方が通れるくらいには開くことが出来る。
 しかし意外なことに、埃はさほど舞わなかった。この部屋自体、棚の隅々には埃が溜まっていたりしたのを見かけたものだが、この通路は近頃誰かが使った経緯でもあるのか、塵などが付着していることはなかった。

 扉の下には梯子だけが取り付けられた細長い空間がある。光源が存在しないためひどく薄暗いが、梯子を経由しなければならない以上、どちらにせよランタンを持っていくのは難しそうだ。
 木製梯子は足をかけるたびに不安な音を立てて軋む。どうも経年劣化が激しいようだ。だが、どうにか全員が降りるまでは保ったらしく、硬い地面に足を踏み締めることになる。

【学生寮 地下】

Odilia
Sarah
Rosetta

 周囲を見渡すと、放棄された小部屋らしき空間が広がっている。使われておらず、木材が腐った机と椅子がそこらに並んでおり、もはや灯を灯すことのない苔むした照明と、部屋の隅には水場らしき蛇口と水鉢も見えた。

 何のための部屋かは分からないが、使われなくなって久しいということは分かる。
 床には何やら朽ちた紙片が数枚ばら撒かれているのが分かる。もうほとんどインクが褪せてしまって読めたものではないが、努力すれば断片的には書かれているものが読み取れるかもしれない。

 そして小部屋の奥の壁には故意的に開けられたものと見られる小さな穴がある。鉄格子で塞がれていたようだが、ネジは緩んで外れてしまっていた。あなた方なら身を屈めれば通っていくことが出来そうだ。

《Odilia》
 ギィギィ……ときしむ音が響く、その度にオディー嫌な顔をする。

 嫌な音、嫌いな音を否が応でも。
 薄暗く、光源なんて持っていけそうもないこの空間は、ホコリも溜まってない。最近誰かが通ったのだろうか?

 地面についた為辺りを見渡すと、腐り果てている机と椅子、灯りがつかない照明、水場などが見える。

 なんの場所なのかよく分からないが通れそうなことだけは確かだ。
 ふと床を見てみると紙の欠片がパラパラ落ちている。
 インクが褪せているようで読みずらいがこの暗闇の中でも読めそうだ。

 紙片は床に張り付いてしまっているようで、あなたは拾い上げず、床に軽く屈み込んで文面に顔を近付け、どうにか読んでいくことにするだろう。

 やはり紙自体の劣化も相当酷く、かなり古いもののようだ。読解には困難を極めたが、あなたはこの文書に頻出するある単語に目を引きつけられることだろう。

 『ごめんなさい』。
 ごめんなさい、反省しています、ごめんなさい、ごめんなさい……と、無数に綴られた謝罪の言葉。
 こればかりが滲んだインクで震える文字で書き込まれている事から、あなたはこれが反省文だと察することが出来る。

 もしかするとこの部屋は、決まりごとか何かを破ったドールズの反省部屋、あるいは懲罰部屋だったのかもしれない。
 あなた方は何か失態を犯したとしても、デイビッドによって過酷な罰を与えられた事などなかったが、昔はこの反省部屋も使っていたのかもしれないと考えると、背筋がゾッと冷えるだろう。

 この部屋から見つかるものはこれぐらいしかなさそうだ。

《Rosetta》
 湿っぽい空気は苦手だ。
 特に、長い月日を思わせる苔などは今のロゼットにとって限りなく不快なモノでしかなかったらしい。

「何が書いてあるか、読める?」

 猫のように目を細め、後ろからオディーに問いかける声は密やかなモノだ。囁きはやさしく、場違いに少女ドールの耳をくすぐるだろう。
 サラも読むことができたなら、そちらに答えを求めたかもしれない。どちらが答えても、ロゼットはよかった。
 グレーテルを追っていたことすら二の次になるほどの不安感が、月面を歩くかのような不安定さをもたらしている。
 一刻も早く、怪物が出てきてもおかしくない空間から出てしまいたいというのが正直な気持ちだった。

「他に見るモノもなさそうだし……早く出ちゃおうよ。ジゼル先生が帰ってきていたら、流石に面倒だしね」

 答えを耳にできたなら、彼女はそう言って穴の方に向かうだろう。
 話し方はいつも通りだったが、もしかしたらテーセラのふたりには見ることができたかもしれない。
 暗がりの中でかすかに震える、トゥリアドールの怯えた表情が。

《Ssrah》
 扉を開けて、通り抜けて。なんだか楽しくなってきた。これが危険が迫った状況でなければ。もう少しゆっくり楽しめたらよかったのに。
 ドアを押しても廊下を歩いても埃は一緒に歩いてくれない。誰かが頻繁に通っているのだろうか。それならばぜひとも梯子を新しくしてほしい。こんなに梯子が不安定ではロゼットサンが落ちてしまわないかとても怖い。一瞬先生に相談しよう、という考えがよぎったが。危ない危ない。ここにいるのがバレたらダメなんだった。

「椅子に机に水場、なんの場所だろね」

 ここも新しくすればよいのに。改良されば秘密基地にでも出来そうだ。ひっそりとここに隠れてパーティー。苔にはカーテンに、テーブルクロスになってもらって水と風には音楽を奏でる係に。もしまた、ここに来れたらオミクロンの皆も連れて来よう。あ、でも。バレたら駄目だった。

「ごめんなさい、反省してます。ごめんなさい、ごめんなさい……」

 こんなの読んでたら気が狂ってしまいそう。紙を読み上げていれば徐々に声が小さくなっていく。
 ここはきっとだめなドールが来るとこ。でも最近はいないのか、はたまた無くなったのか。もしまだあるならオミクロン生がたくさん行ってるはず。

「……ここから先も暗いだろうしオディーリアサンとまだ手を繋いでなよ。」

 きっといまプチ混乱状態にあるサラはうまく励ますことも支えることもできない。だから嫌なサラはオディーリアに押し付ける。きっと気が動転している彼女はサラよりも不安定な状態にあるはず、けどそれは見ないふり。
 奥の方に見つけた小さな穴の前に屈み進もうとする。此処から先はワンダーランドにでも行けるといいのだけど。

《Odilia》
 ごめんなさいごめんなさい反省しています。
 冷たく苦しい言葉の羅列。どうやら反省文のようだ、ここは反省するような場所らしい。
 紙から伝わる悲しい感情が今でも伝わってくる。

「…………はっ……わ、わかった。
 ロゼットお姉ちゃん手をつなごう?」

 感情を共有していたせいで落ち込んでいたところをサラの声でハッとなる。
 そうだ手を繋がないと。ロゼットお姉ちゃんはくらいところじゃ何も見えないんだから、オディーが案内しなくっちゃ。

 オディーが頑張らなきゃ、オディーがちゃんといなきゃ、オディーがはっきりしなきゃダメダメと頭を振り、ロゼットお姉ちゃんに手を差し伸べるだろう。

「ロゼットお姉ちゃんはオディーがちゃんと導くからね。」

 安心してね、と優しくそう言う。
 大変なことだらけだけれど、ここを抜ければきっと多分平和になるのだから、きっと大丈夫だから。

《Rosetta》
 謝罪、反省、そしてまた謝罪。
 穏やかなオミクロン寮に、誰かを追い詰めるための施設があるなんて、考えたこともなかったらしい。

「嫌な場所……」

 自分の手を擦ったのは、怖気が登ってくるような気がしたからだった。
 ここを使わなくなったのはいつからだろう。少なくとも、デイビッドが扉を開いたことはないようだが。
 ジゼル先生は、ここを知っているのだろうか。通信室に入ったことを知られれば、このような部屋に押し込められてしまうかも──。
 そんなことを考えて、軽く頭を振った。
 物事をそう暗く考える必要はない。色々なことを思い出して、今は混乱しているだけだ。
 子どもたちの前なのだから、年上のロゼットがしっかりしなければいけないというのに。
 差し出された手を、彼女はまた握り直す。そうしてオディーに優しい声で、「ありがとう」と告げた。

「穴から出たら、さんにんで手を繋いでダイニングに戻ろう。そうすれば……きっと大丈夫。全員戻ってきてるはずだし、グレーテルの誤解も解けるよ」

 だから、まずはこの部屋を出よう。
 そう口にして、穴のそばで少女ドールの手を離す。
 流石のトゥリアでも見えるほどの場所にくれば、問題はないということなのだろう。

「私が先に行くから、ふたりは後からついてきて。何か危ないモノがあったら、すぐ引き返してね」

 そんなことを口にして、彼女は身を屈める。そうして、尖ったモノなどがないか気にしながら、穴の中を進み始めることだろう。

 穴を抜けた先は、こちらも埃っぽい空間が広がっていた。向かいにも嵌め込まれていた鉄格子を押し出して倒し、あなた方は屈めていた体勢を元に戻すだろう。
 こちらもどうやら使われず放棄された物置のような場所だった。小部屋ほどの広さもなさそうで、閉鎖的で鬱屈としている。天井がいささか高く、喉に絡みつくほどに随分な埃が蔓延している。

 薄暗い周囲を見渡すと、縄梯子や古ぼけた傘、鉄製のカゴとウッドチェアが何点か乱雑に並べられている。使われていない備品が収められていたようだが、長い時を経て忘れられた倉庫らしい。

 その倉庫には他に扉などはなく、一見、ここが行き止まりであるかのように思われた。
 だがオディーリアとサラは暗がりの中で天井を見上げると、一箇所に四角く縁取られた扉らしきものを見つけるだろう。

 移動してきた距離を考えると、位置的には恐らくはエントランスホールの真下あたりか。ここから外に出られれば、グレーテルの糾弾は意味をなさなくなる事だろう。

 だがいささか出口が高すぎる。
 周囲のものを足場にするにしても、老朽化がひどくいつ崩れるか分からない。

 この場でもっとも背が高いロゼットがテーセラの二人を抱き上げて扉を開き、上から二人でロゼットを引き上げるといいだろう。テーセラモデルは他のモデルよりも力が強いので、ロゼットの身体も引き上げられるはずだ。

《Odilia》
「けほけほっ……もう埃だらけ」

 通った先は埃だらけで嫌になる、そう示すように片手で埃を払う。
 ロゼットお姉ちゃんは大丈夫だろうか?

 周囲を見渡すと縄梯子や傘、カゴなど備品だらけだ。
 まるで倉庫のようだとオディーは実感する。

 さぁ出口はどこだろう、軽く周りを見渡す。
 どうやらここから先は行き止まりのようで先に進む方法はなさそう。ここら辺に出口があることは確かなようだ。

 そのため上を見てみると……。

「あ、何が上に扉がある。
 多分ここが出口だと思うよ、ロゼットお姉ちゃん、サラ。」

 そう言いオディーは上の扉を指さすだろう。
 でも高すぎるし、足場になりそうなところはない。
 どうしたものか。

「ロゼットお姉ちゃんどうしよう、中々高いよ?
 この状態じゃオディーでも届かないや。」

 そう困ったようにロゼットお姉ちゃんに助けを求めるだろう。

《Rosetta》
 先に出ていたロゼットは、手で口元を押さえながら周りを見ていた。
 あまりに雑然とした部屋の中と、埃の量に驚いているのだろう。彼女はちいさく咳き込んだ。
 そろそろ目も慣れてきたが、トゥリアの目では出口らしい出口を見つけることはできなかったらしい。
 眉根を寄せて何かを言おうとした時、オディーの言葉が耳に入ったようだ。
 どうにも上手く見えないが、テーセラが言うならあるのだろう。 届かないという言葉には、サラの姿を探して、こう口にした。

「じゃあ……私がふたりを持ち上げるから、扉を開いてくれるかな? ふたりが上に移動してから、私を引っ張り上げてくれたら何とかなると思うんだ。
 まずはサラからにしようか。おいで、サラ。壊れるかもしれないとか、そういうことは気にしなくて大丈夫だよ」

 相手の了承が取れれば、ロゼットはサラの身体を持ち上げるだろう。
 扉が開き次第、オディーのことも同じように抱えて上に移動させるはずだ。

《Sarah》
 どうやらオディーリアが出口を見つけてくようだ。彼女か指さした上を見上げてみれば四角い扉らしきものもある。縄梯子もあるためサラかオディーリアが先に登り縄梯子を垂らすのも悪くない。二人の話を聞かずぼーっとそんなことを考えていればもうすでに決まっていたようだ。

「でもボクが、……いや。お願い、しようかな。」

 ロゼットが持ち上げるより自分が持ち上げた方が良い、そんなことを喋るための声は喉でつっかえて出てこなかった。忘れていたんだ。右側が無いことなんて。サラが持ち上げるなんて出来なかった。片腕の欠陥品には。おこがましい。今のような状況はテーセラが頑張らなきゃいけないのに、サラは、なんの役に立つこともできない。

 なるべく彼女に負担をかけぬよう体の力を抜き、持ち上げてもらうことができれば扉に手をかけ開けようとするだろう。

《Odilia》
 どうやらロゼットお姉ちゃんが持ち上げてくれるらしい。ちょっと心配だったけれど身を任せることで、扉の上まで上がることが出来た。

「よいしょっと……ありがとうロゼットお姉ちゃん。」

 よし何とか上がってこれた、これで脱出できそうだ。
 とりあえず、ここまであげてくれたロゼットお姉ちゃんを助けなければ。

「ロゼットお姉ちゃん手を伸ばして!!
 オディー達が引き上げるから。」

 オディーは上から手を伸ばす。ロゼットお姉ちゃんが手を掴んでくれたらそのまま引き上げるだろう。

 それで上がればもうグレーテルお姉ちゃんのことを気にしなくて済む。お姉ちゃんに何か言われても先生に疑われなくて、みんな安全に帰って来れて幸せなのだから、それでオディーは幸せだ。

 オディーリアとサラは、ロゼットに抱き上げられることで漸くその手を扉に掛けて、押し開く事が出来る。
 暗い床下の物置に、優しい燭台の灯りが差し込む。見飽きたほどのその灯火の揺らぎも、今はあなた方にこの上ない安堵を与えたことだろう。

 エントランスホールはシンとした静寂に満ちている。
 どのドールもこの場所には出てきていないようだ。耳を澄ませても、グレーテルやジゼル先生、またプリマドールが帰ってきているようには見えなかった。

 あなた方が閉じ込められてから、もうかなり時間が経っているはずだ。だが、グレーテルはまだジゼルを呼び戻せてはいないらしい。
 それはあなた方にとって幸運な事だった。このまま全員で何事もなかったかのようにダイニングルームに戻り、グレーテルに押し付けられた鍵についてはうまく誤魔化せばよい。

 そしてオディーリアとサラは床の扉に向き直り、取り残してしまったロゼットに手を差し伸べるだろう。


 ロゼットは無事にその手を取り、グッと引き上げられていく。抱き上げるよりも引き揚げる方が負荷としては過酷な筈だが、テーセラモデルの力は非力なトゥリアモデルとは比べ物にならないらしい。
 彼女の踵が持ち上がり、やがて足が浮く。肘までが明るい下へ這い出でて、もう少しでロゼットの体を引き揚げられると言った所であった。


 ──バタン!


 凄まじい音がした。
 その一瞬、オディーリアとサラは自身の腕に強い痛みを感じて、反射的にその手を離してしまうだろう。

 離して、しまった。


 目の前の扉が閉ざされる。
 まだロゼットが出て来ていないままに。


 そして間も無く、一瞬のうちに、その“音”は鳴り響いた。
 テーセラモデルの優れた耳は、音をこれ以上なくよく拾う。だからこそ鮮明に聞き取れてしまった。


 ぐしゃり、と、硝子が砕ける甲高い悲鳴を。


 そしてエントランスホールには沈黙が降りる。冷や水を浴びせかけられたかのような、恐ろしい沈黙だ。

 ──あなた方の目の前には、突然に閉まった扉がある。

《Odilia》
 とりあえず、グレーテルお姉ちゃんは居ないようで一安心。先生も呼ばれていない。
 鍵だけ証拠隠滅すれば何とかなりそうだ。

 とりあえずロゼットお姉ちゃんを引き上げよう、サラと協力して手を握ったロゼットお姉ちゃんを引き上げる。
 テーセラならロゼットお姉ちゃんくらい持ち上げられる。引き上げてしまおうと、徐々に持ち上がりやっと上がれそうな時に……。

 バタンッと強い音が聞こえ、腕に痛みを感じ、離したくなかったのに反射的に離してしまう。

 目の前の扉は閉ざされ、ロゼットお姉ちゃんは出てこられていない。

「あ……あ……っ……お姉ちゃん!」

 どうして! どうして! オディーは手を離してしまったの、オディーは離したくなんてなかったのに。
 どうしてどうして、オディーのせい全部オディーのせい。

 何も声が出ないまま、顔は青ざめる。
 テーセラの耳は聞き間違えない、オディーのせいでロゼットお姉ちゃんが、ロゼットお姉ちゃんが……。


「開けて……開けて……」

 オディーの責任はオディーが取らなきゃ、なんでなんでオディーじゃないの、ロゼットお姉ちゃんがこんな目に合わなくていいのに、オディーが落ちれば良かったのに……なんでこうならなきゃいけないの。

 オディーは震える手で突然に閉じてしまった扉に縋る。

 その顔は絶望しきった顔だった。

 もう誰も二度と失いたくはなかったのに……。

《Sarah》
 聞こえる範囲内に足音無し。
 大丈夫。
 やっと終わった。
 二人で彼女の手を掴み引き上げる。とても軽い、これでテーセラ二人も持ち上げるとは大したものだ。やっと引き終わる。ロゼットの頭が見えてきた。

 音に驚き、腕の痛みで反射的に、腕は、ロゼットさんの、手を、手を離してしまった。離してしまった。

 扉は閉まる。
 再び静寂が訪れる間もなく。
 ガラスが、割れた。
 また、静かになった。

 ロゼットのトゥリアの暖かい温もりが手から消えていく。サラが黙って手のひらを見つめても消えていく熱はそのスピードを緩めない。むしろ加速しているようにも感じる。
 なんて、ことだ。
 あまりにも突然すぎて、現実を受け入れられない。これは不慮の事故? それともサラ達が手を離してしまったことで起きた加害事件?

「とりあえず扉開けてみようか。」

 口から出た音はいつも通り平坦で感情を感じさせない。動揺なんて感じさせないような声。サラは動揺なんてしていないのかもしれない。現実をうまく受け止めきることができていないだけ。

 自責に苛まれる震える手で、或いは現実を受け止められていない呆然とした指先で、閉ざされてしまった扉に触れる。
 この床に取り付けられた扉に、鍵などは付いていなかった。ただ勝手に閉まっただけ。だからあなた方が扉の窪みに指を掛けて、ゆっくりと持ち上げていけば、なんの抵抗もなくあっさりと開かれていく。


 あなた方の真下に広がる滑らかな闇に、少しずつ燭台の仄かな灯りが差し込んでいく。埃が積もった倉庫の暗がりを徐々に切り開いていくように、橙色で染め上げられていく。

 やがてあなた方は目の当たりにするだろう。

 エントランスホールから差し込んだ光に照らされて、打ちひしがれたように横たわる、ドールの姿を。

 あなた方の同級生であり、苦楽を共にしたオミクロンの欠陥ドールであり、親しき友人であり、血の繋がった姉妹であったかのような──ロゼットが、壊れた人形みたいに横たわっている。

 彼女の身体は脆い。極上の肌触りを代償に、非常に壊れやすい素材で出来ている。
 とりわけ彼女の腹部は致命的だった。ガラス製だから、些細な衝撃で粉々で砕け散ってしまうから──

 落下の大衝撃によって粉砕してしまったガラスが、彼女の赤い制服を破って円状になって散乱している。鋭利な煌めきに囲まれる彼女の胎からは土が溢れ、根が溢れ。そしてうるわしの花が溢れていた。

 惜別する淡い紫のシオン、寄り添い合い身を守ろうとするリンドウ、少女時代を忘れて大人びた今紫のアネモネ──

 彼女自身が別れを告げる花束となったかのように、悲惨な姿になっても尚、ロゼットの胎の花園は美しく咲き誇っている。


 変わり果てたロゼットの姿にあなた方が言葉を失っていると、背後からコツン、と足音が響き渡った。
 エントランスホールの照明を背負った赤毛の少女・グレーテル。

 彼女は驚嘆に頬を彩り、芝居がかった素振りで口元を抑え、大袈裟に、派手に、叫び声を上げた。

「──ロゼットさんっっ、そんな……!!!!」



 耳をつんざく悲鳴だった。
 グレーテルは、先生を呼びに行ってなどいなかったのだ。あなた方を泳がせ、こちら側の出口から出てくる時を見計らっていた。罠に掛かるのを、舌なめずりする蛇のように待ち構えながら。

「ひどい……! どうしてこんなことに……あんまりだよ! 早く先生を呼んで治してもらわなくちゃ、そうでしょ!?

 サラちゃん、オディーリアさん、早く!! 急いで走ってみんなを呼んで、“手遅れ”になる前に!! 急いで!!」

 グレーテルは白々しく叫んで、あなた方に呼び掛けた。
 腹が立ったかもしれない。物申したくなったかもしれない。だが、グレーテルの言葉はもっともだった。こんな状態になったロゼットを、あなた方ではどうすることも出来ない。唯一の望みにかけてジゼルの元へ行くしかない。プリマドールの彼女達ならどうにかしてくれるかもしれない。

 それに早く彼女を引き上げてやらなくては。そのためには人手が必要だった。

《Sarah》
 震える手は見ないふりして扉を開けてみれば、最初は見えなくとも徐々に中身が見えてくる。ついさっきまで自分たちがいた場所だと言うのに、まるで初めてみたような。見慣れない光景。見慣れた小物、見慣れない、壊れたドール。こんなぐちゃぐちゃなドール知らない。
 まるで血の代わりだとでも言うようにガラスが散らばっていて、紫色の花がそれをさらに彩る。こんな状況だと言うのにロゼットはとても。

「綺麗……」

 トゥリアは怪我をしてもなお綺麗でいるのか。なんて、その場に似合わぬ感想を持ち合わせてるサラ。壊れているのはお腹だけ。頭部、四肢の欠損無し。お腹ならガラスを変えればいい、お花を詰め替えればいい。よくわかんないけど。

 こんな悲しい空気を纏った静寂を突き飛ばして入ってきた好きじゃないドール。
 どこかにいったグレーテル。なんで今戻ってきたの。なんで今なの。でも、

「……確かに、早くしないとね。
 行こうかオディーリアサン。」

 片手でマフラーや制服についた埃を払いながら立ち上がり隣の絶望しているドールに声を掛ける。まだ大丈夫。きっと先生ならなんとかしてくれるはずだ。だって先生は強いからなんでもできるから。だから大丈夫。ロゼットもすぐに直る。苦しむ時間が長引かぬように狼を急かすようにオディーリアに手を差し伸べる。

《Odilia》
 ロゼットお姉ちゃん……ロゼットお姉ちゃん……。

 お腹の中のガラスが綺麗に割れ散乱している。
 でもあまりにも残酷で直視できない、この変わり果てた姿は全部オディーの責任だ。
 何か助ける方法は? そんなものあるの? 分からない、オディーはどうすればいいの?

 オディーに一体何が出来る? 無力で何もかも頼らないと何も出来ないオディーに何ができるの?
 もう振り絞った勇気は何処にもない、ただ眼前にあるのは絶望だけ。

 そんな絶望を、嘲笑うようにまるで見計らってたように。
 オディー達が探していたあの赤い髪の子が現れる。

 白々しいように悲鳴をあげるグレーテル。

 なんで今更、なんでここにいるの、なんでお前がどうして。
 全ては計算されていたことなのかもしれない。
 オディー達を閉じ込めることも、オディー達をここから出るよう仕向けたのも全て、全てグレーテルのせい。
 そしてロゼットお姉ちゃんがこうなるのももしかしたら……。

 その口を塞いでロゼットお姉ちゃんと同じ目に合わせてやろうかと思えるほど、全てをかっさらっていたこの女。

 グレーテルお姉ちゃんなんて呼ばれる資格もない、お姉ちゃんなんかじゃない。
 ちゃんなんてつける道理がない。
 グレーテルなんて呼び捨てでもいいほどに、オディーの目には黒く澱んで見えた。

 冷ややかな目を送ってもきっとこいつは白々しく振る舞うのだろう。
 どうでもいい、今はロゼットお姉ちゃんを助けないと。

「わかった……」

 サラが手を差し伸べてくれる、今は冷静で居られているサラの方が正しいことをしている。
 そんな手をオディーは握る。

「先生……ならきっと助けてくれるよね。」

 もし助からないなら……オディーが責任を負うしかない、全部全部オディーが悪いから、でもその前にそんなことになったらオディーはこのロゼットお姉ちゃんを陥れたこいつをどうするか考えなければ……。
 この悪どい蛇をどうすれば苦しめられるのか考えなくては。

 オディーの優しさを踏みにじって、ロゼットお姉ちゃんをこんな目に合わせて、誰でも許したいオディーでもこれは擁護できない、許容できない。

 でもその前にロゼットお姉ちゃんを助けなければ。
 みんなを呼ばなければ……。
 先生を見つけなければ。

「とりあえず……先生探さなきゃ……。
 ロゼットお姉ちゃんが手遅れになる前に……。」

 絶望に暮れながらも立ち上がり、先生を呼びに向かおうとするあなた方の様子を見て、グレーテルは口角を釣り上げた。そして満足そうに何度か頷いて見せる。

「うんうん、そうするしかないもんね! 合理的で素晴らしい! わたしは足が早くないからここでみんなを集めておくね。

 急いだ方がいいよ、ロゼットさんが力尽きる前に引き上げてあげなくちゃいけないもの。デイビッド先生の見送りは確か学園のダンスホールでって言ってたから……そこまでひとっ走りお願いね、頼もしいテーセラドールさん!」

 両手を顔の前で合わせて、にこにこと癪に障る笑顔を浮かべるグレーテル。

 彼女の言った通り、彼らはダンスホールでデイビッド先生を見送ると言っていたことを、あなた方も覚えている。まだ学園が閉め切られる時間ではないから、昇降機も動くはずだ。
 あなた方はすぐにでも寮を飛び出していく事だろう。


 学園の外はもうすっかり夜の帷が降りて、薄暗くなっていた。肌に吹き付ける風はやや肌寒い。それでもあなた方は、夜目の効く優れたテーセラドール。目の前の芝地を的確に踏み越え、迷うこともなく学園へ続く昇降機へと急ぐことだろう。
 落ちて砕けたロゼットを救うために。

 あなた方はただただ無力な存在であった。
 真実を知る冷静なロゼットに先を導かれ、挙句彼女を暗く冷たい地下倉庫に取り残してしまった。
 あの時、扉に挟まれる反射的な痛みを感じても、手を離さなければよかった。
 そもそもエントランスホールに潜んで罠を張っていたグレーテルの存在に気付ければよかったのだ、テーセラモデルなのだから。

 きっと責任感の強いオディーリアはそんな仕方がないたらればをいくらでも考えてしまうのだろう。
 ロゼットが壊れてしまったのは、間違いなくあの腹黒の女、グレーテルのせいだ。

 ──だがそれ以前に、あなた方の責任を問われるかもしれなかった。
 サラが初めに危惧した通り、あなた方の加害事件と取られるかもしれない。そもそもこれからあなた方が呼びにいくプリマドールも、あなた方を責めるかもしれない。

 ロゼットと親交が深かったフェリシアやアメリアは学生寮にいない。だからこのことを知らない。
 彼女らがこの事を知ればどう思うだろう? きっとこの上なく怒り、悲しませてしまうはず。

 もしロゼットが直らなければ、間違いなくこのまま廃棄処分だからだ。
 ここまできて、廃棄処分の意味が分からないことはないはずだ。

 ……故にこそ、あなた方の足はより速まる。
 絶望という暗雲を掻き分けて、先の見えない航路を突き進むように。

Gretel
Rosetta

 グレーテルに触発され、焦りを感じる駆け出しで寮を飛び出していくオディーリアとサラを、ロゼットはただ見上げていることしか出来ない。

 痛みはないが、衝撃は身体に残っている。だから今にも意識がくらみそうな中で、あなたは辛うじて瞳を開けて状況を確認しようとしていた。
 ゆっくりと顔を持ち上げると、あなたの身体の惨状が目に入るだろう。見た目に分かりやすい損壊は腹の砕けたガラスだった。

 恐らくはドールにとって重傷と区分けされるだろう。砕け散ったガラスがあなたの制服を突き破り、周囲に散乱している。そしてエントランスホールの光を浴びて美しく反射光を放っていた。胎からはあなたが埋めた花がいくつも顔を見せている。
 腹の内部のものがほとんど存在しないあなたの身体。そんな状態で下半身を動かしていたのは、ガラスのドームを挟んで上半身と下半身を繋げている腰椎に似せた骨の部位だ。互換性のある腹部パーツが完成するまでは、応急処置として腰椎を模した伝導パーツを通して脚部の運動神経に命じており、問題なく日常生活を送れる程度には歩いたり走ったりも出来ていた。

 あの重要な伝導パーツが壊れてしまったのだろうか。脚が全くと言っていいほど動かないし、感覚が無い。
 上半身ですら痺れるような感覚があなたを打ちひしがらせて、身を起こすことすら出来ない。

 霞む視界の中で再び頭上を見上げれば、あなたは四角く切り取られたエントランスホールから物置を覗き込む、グレーテルと目が合うだろう。

 彼女は悪意に満ちた微笑みであなたを見下して、「こんばんは、ロゼットさん。あなたにとっては最悪の夜になっちゃったね」と他人事のように囁いた。


「ごめんね、本当はわたしもこんなことしたくなかったの。だけどあなた、わたしのノートを見ちゃったでしょ? そこに書いてある事を読んだんじゃない?

 わたしがヘンゼルとお披露目に行こうとしてること。真実を知ってること。
 それから──あの魔女、ソフィアを潰したいってことも、知ってるでしょ?」

 彼女の深紅の赤毛が垂れ落ちて、倉庫の暗がりで揺れている。
 あなたは彼女に何か応えるだろうか。

《Rosetta》
 こわい、と思った。
 ようやく掴んだ温もりが、安堵が、全て身体から切り離されていくのが。
 強い衝撃を受けることなんて、それに比べたら二の次だったのだ。
 オディーリアとサラは、どこに行ってしまうのだろう。
 耳の中で、ぐわんぐわんと声が響くする。さんにん分のソプラノは、不快な三重奏以外の何にも思えなかった。
 手を伸ばしたくても、手が上がらない。身体を起こそうとしても、登るための脚がない。
 ──また、こんな身体のせいでみんなに置いて行かれてしまう。
 そう思うだけで、目尻に涙が滲んだ。今まではこの程度、つらいと思わないようにできていたのに。
 不完全だった頃の自分が混ざってしまったから、ロゼットは脆くなってしまった。

「……ぐれー、てる?」

 惨めに見上げ続けるしかないと、そう思っていた矢先。
 磨りガラスのような瞳に、青みがかった赤が映った。
 彼女はなんだか楽しそうだ。自分を殺すまであと一歩、というところまできているからだろう。
 明るいところで、フェリシアを傷付けた、ヘンゼルと同じ顔が笑っている。
 ──かわいらしい子だと、そう思った。
 やるべきことを定めた今、ロゼットがグレーテルを脅威と見なすことはない。
 むしろ、幼い先立に敬意を払っていると言ってよかっただろう。
 報われないと知りながら、それでも独善的に足掻く赤色は、少し先のロゼットの姿でもあった。
 トゥリアドールでもないのに、愛のために殉じようという姿勢は、それだけでも素晴らしいものに見えたのだ。

「しってるよ」

 吐き出した声は、甘く。ダチュラのような毒を含んでいる。
 濡れた眼差しは憐れむように、聖母を思わせるやわらかさを称えていた。
 悪意も、慈愛も、全て林檎のような赤色の内側に詰まっている。
 禁断の果実を口にして、無垢なるイヴだったモノ──あるいは、庭園のリリスは微笑んだ。

「謝らなくていいよ。全部知ってるもの。
 あなたは、生前のヘンゼル・シュライバーの人生に何の関わりがないことも。ヘンゼルとお披露目に行くと言いながら、ヘンゼルに消えない傷を残したことも……あなたが、ヘンゼルのことを本当に愛していることも。
 全部知ってるよ、グレーテル。私も、あなたと同じ魔女だもの」

 身体が砕けても、人形はくつくつと笑う。嘲りすら滲むそれは、以前のロゼットが絶対に浮かべないものだ。
 暗がりで笑う花は、明確にグレーテルを見下していた。軽蔑し、憐れみ、同胞であると看做していたのだ。
 奈落に突き落とされようとも、嘲笑されようとも、トゥリアドールは変わらない。
 痺れる腕を伸ばし、ハグを望むようなポーズさえ取ってみせるだろう。

「怖い顔をしないで、かわいい子。私、あなたのことが前より好きになったよ。
 お姉ちゃんでも何でもない、空っぽのあなたを抱き締めて、キスでも何でもしてあげたいの。おいで、グレーテル」

 ドールズにとって、死の概念というのは稀薄だ。なぜならば平穏に保たれたこのトイボックスで、他者の死に触れることなど万に一つも有り得ないのだから。死ぬ、壊れるという事象が自身にも起こりうることは理解出来ても、その本質を理解する事は難しいはずだ。

 だがあなたは今まさに、己が死の間際にいることを自覚している。指先一本も自分の意志で動かせない恐怖。意識が霞み、目の前がぼやける不安感。押し寄せる痛みを知覚していないとしてもあまりある孤独を感じているだろう。
 にも関わらず、彼女はここで初めてトゥリアドールらしい、穏やかな声と笑顔で自身を陥れたグレーテルを受け入れた。

 グレーテルは魔女に情けをかけられているのだ。グッと拳を握り締めて、グレーテルは忌々しいものを見下し目付きであなたを睨む。

「……知ったような口で言わないで。そうだよ、あなたの言う通りといえば満足かな?」

 低く籠った敵意を感じる声だった。
 顔を両手で覆ってしまって、底知れぬ女の喉からは怨恨が漏れ出す。

「わたしはヘンゼルのおねえちゃんじゃない……ヘンゼルが完璧じゃないなら、わたしも完璧じゃないの……だからもう一度やり直して、完璧にならなくちゃいけない……今度こそ、理想の姉弟にならなきゃいけないの。

 その為に、立ち止まる事は出来ない。」

 グレーテルは、指の合間から見える毒々しい目元を鋭くした。
 かと思えば怒りを抑え込んだかのように、彼女の瞳は蕩ける甘いラズベリーに化けていく。

「あなたを嵌めたのはね、ロゼットさん。ヘンゼルが憎んでいたソフィアさんに、絶望してもらいたかったからなの。
 あの女にはこれが一番効くって分かってた。あなた達がソフィアさんの一番の弱みなんだって、ここに来てすぐに気付いたよ。あははっ。

 苦しめられて嬉しいな。地獄に堕ちても苦しみ続けてほしい。そうしたらきっと、ヘンゼルも気が済むはずだから……。

 ──だから、ロゼットさん。
 きっとソフィアさんの、死に至る病になってね。」

 最後に彼女は可愛らしく微笑んだ。美しいドールの造形に似合いの、愛嬌のある表情で。
 ただそれだけの理由であなたを陥穽の罠に突き落としたグレーテルは、ゆらりと立ち上がる。

「わたしもみんなを呼びに行ってあげる。引き上げてもらえたら、きっとすぐには死ぬこともないよ。

 待っててね、ロゼットさん。いま助けるから……うふふ、ふふふっ……」

 機嫌の良さそうな笑い声と、スキップの音が遠ざかっていく。グレーテルはこの寮を離れ、サラとオディーリアを追って学園の方へ向かったのだろう。


 そしてエントランスホールには、あなただけが残される。
 遠くで慌ただしく階段を降りる音や、複数の足音が響くのを聞きながら。

 ──あなたは瞼を下ろした。
 身体を蝕む不安感は遠のき、ただただ眠気が襲っていたのだ。

 脳裏に浮かぶはあなたの『大切な人』。
 皮肉にも、あなたの孤独を慰めるのは無為であると分かったばかりの、幸せな頃の擬似記憶だった。

《Rosetta》
 せっかく仲良くなれると思ったのに、残念。どうやら壊れ物はお気に召さなかったらしい。
 そんな私が壊れた程度で──と、そう言いたかったのに。偽物の臓腑から息を吐ききったように、口が動かない。
 視界に映る像もまた、じわじわと輪郭を失いつつあった。動かせたと思った腕だって、どこにあるかも分からない。
 死に至る病という言葉だけが、薄れゆく意識の中に残っていた。
 本当にそんなモノがあるならば、ロゼットはずっとそれに侵されていたのだろう。
 異形の肉体を自覚して、自分が誰からの愛を受けることも叶わない身体だと知った時から。愛されるために努力したのに、逃れ得ぬ瑕疵でオミクロンクラスに落とされた時も。オミクロンの仲間と笑い合っていた時も、ずっと。
 疑似記憶や未来への希望、他者の愛すら特効薬にはなり得なかった。お前は劣等品であるのだと、紛れもない自分の身体自身が告げていたのだから。
 最近は、劣った自分自身をようやく赦せそうだったのに。こんなところで壊れてしまったら、フェリシアを、デュランを、一体誰が守ってやれるのだろう。
 ──ああ、なんだか酷く気分が悪い。
 この場で嘔吐してしまおうかと思ったが、力を入れるための腹部がないのを思い出して、浅い息が漏れた。
 縋っていた相手が、自分の未来を奪った張本人だったなんて。笑い話にもほどがある。
 珠のような涙が、一筋彼女の目から零れる。それは誰にもすくわれることなく、埃臭い床に零れた。
 とっくにもう、ロゼットは痛みを受け止められる状態ではなかったのだ。
 オディーとサラの手が離れた時から──否。デュランが自分を食らった巨人であることを思い出した時から、彼女を守る幻想は力を失っていた。
 ガラスの壁が割れた後。そこに残ったのは、壊れた植木鉢を抱える、泣き疲れた子どもだった。
 これ以上覚醒し続けるのは、肉体が耐えきれなかったのだろう。少女は仲間の到着を待たず、瞼を閉じる。
 花の名は未だ知らず。夢の中の温室は、彼女の中で美しく輝いていた。

【学園1F ロビー】

 昇降機に転がり込んで、逸る気持ちを抑え込みながら待つこと暫く。
 あなた方の目の前で扉が開き、薄暗い深紅の学園が姿を現す。壁も床も、飾られた花に至るまでが赤で統一された、どこか圧迫感のあるこの場所に。

 夜になるとほとんどの照明が消灯されてしまうのか、辺りはいつもよりもグッと暗くて見通しが悪かった。
 それでもあなた方はロビーを抜けて、まずは控え室へ向かおうとするだろう。


 そこであなた方は、床に散乱した夥しい量の赤い燃料を目撃する。

 明らかに事件性のある飛び散り方で、引き摺られたような痕まで残っていた。この場で傷を負ったドールは無事ではなさそうだ。
 何故こんな場所に血痕が残っているのだろう? あなた方が知らぬ間に、学園でも致命的な何かが起こっていたのだろうか。

 まだ寮に戻ってきていない複数名の同級生の顔を思い浮かべて心配になるかも知れない。
 だがあなた方が何より優先すべきは、ロゼットの安否確認だった。はっきり言ってしまえば、それどころではないのだ。

 故にあなた方の足はダンスホールへ続く控え室へ向かうことだろう。
 何故か荒らされたエーナドールの控え室を踏み越えて、ダンスホールへと──

【学園1F ダンスホール】

Sophia
Dear
Storm
Giselle
Sarah
Odilia

 プリマドールであるソフィア、ディア、ストームの三名は、ダンスホールの最奥、聳え立つ巨大な白き門を前にして立っていた。彼らが相対するのは、門を背に美しく立ちはだかる、白銀の髪を揺らがせるジゼルだ。

「いいかしら? ユークロニアというのはね、このトイボックスの──」


 彼女は優しい子守唄のような声で、何かを述べようとした。だがその言葉は区切られて、彼女の目線はプリマドールの遥か後方、栄光の舞台上へ向けられた。

 ステージを踏み締めながら、僅かに息を切らして現れたのは──サラと、オディーリアだ。彼女らは血相を変えてあなた方を見下ろしている。

「……あら。どうしたの? サラ、オディーリア。寮で待っているようにとお願いしたはずだけれど……何かあったのかしら。」

 ジゼルは腕を下ろして彼女たちの方を見据えている。先生の言葉通り、彼女らの表情は『何かトラブルがあった』事を如実に表しているように見えた。
 ダンスホールの中央であなた方は交錯する。肌にひりつく嫌な予感を感じ取りながら。

《Dear》
「おや! おやおやおやおや! サラ! オディー! ふふっ、ごきげんよう! 寂しくなってしまったのかな? かわいい〜! とってもかわいい!
 そうだね、生憎先生は少し前におでかけしてしまって……あっ、でも、伝言を預かっているよ! ええっとね、怪我には気をつけて、穏やかに過ごすこと! 悩みごとは分かち合うこと! んふふ、そんなに慌ててしまっては転んでしまうよ? 何か悩みごとがあるのかな、お手紙でも預かっていたらよかったかな……ああ、でもね! 次のお披露目には戻るとおっしゃっていたから、あまり寂しがることもないさ! 安心しておいで、かわいいエンジェル!」

 あたたかな春を運ぶ嵐に、愛しい恋人の来訪に、ディアはくるりとミルクの香りを漂わせながら振り返る。瞬間、ぱあ、と大きな、大きな薔薇の花が一輪咲いた。小さな頬に両手を押し当て、くすくすと嬉しそうに笑いながら踊る。クリスタルが瞬く。カーディガンが天使の羽のように風に舞って、彼の幸福を祝福していた。暴力的なまでに美しい太陽が、雪解けのように辺りの空気を氷解させていく。不快なほどに、生ぬるい風。彼らの叫びを、焦燥を、恐怖を、全て洗い流してしまいそうだった。
 それは、優しさという名の殺戮。ディアは静かに笑っている。ただ純粋に、ただ無邪気に。ただ、愛する貴方方の言葉を、待っている。

《Odilia》
 明るいディアお兄ちゃんの声が響く。
 でも今のオディーには毒のように自分の体を蝕む。

 罪悪感が募る、この後の展開を想像する。
 お姉ちゃんお兄ちゃんに怒られる。
 全部全部どうせそうなる、だって全部オディーが悪いから、何もかもオディーが悪いから。
 それにあの女のことを言ってもどうせ信用してくれない。

 でも助けてって言わなくちゃ。オディーはどうなってもいいから、嫌われてもいいから。
 ロゼットお姉ちゃんだけは助けなきゃ。

「みんな、先生……全部全部オディーのせいなの。
 オディーのせいでロゼットお姉ちゃんが、お姉ちゃんが……壊れちゃった。」

 オディーが手を離さなければこんなことにはならなかったのに。オディーのせいで全てが崩れる。
 きっと関係も、繋がりも、何もかもオディーのせいで、みんな幸せならオディーはそれで良かったのに、オディーのせいで全部全部空回りしていく。
 もうオディーだけじゃどうすることも出来ない、だから……。

「助けて……ロゼットお姉ちゃんのことを助けて……。」

 今にも泣き崩れそうな、悲痛な声でみんなに訴える。

 ロゼットお姉ちゃんだけはどうしても助けて欲しい。オディーがどうなろうと構わないからロゼットお姉ちゃんだけはどうか。
 オディーだけじゃどうにもならないの。

 そう言ったあとオディーは小さな声で俯いたまま、ずっとごめんなさいと何かに謝るように言うだろう。

《Sophia》
「……サラ、に、オディー…?」

 銃声の如く鳴り響いた開門の音と、サプライズゲストの登場。轟くファンファーレは、神経を逆撫でるようなあまいあまい風。この場に在る全てが、ソフィアのコアを奇怪に鼓動させた。
 横隔膜がいたい。内側から刺されているらしかった。この重くまとわりつく悪夢の予感に。

「………落ち着いてよオディー。大丈夫、あたしがいるんだから大丈夫。自分を責めちゃダメ。
 ……寮に、いたのよね。何があったの?」

 少女は、駆けた。生ぬるい空気を切り払って、一目散に白狼のもとへ。今にも支えを無くして倒れ込んでしまいそうな小さな白狼に駆け寄って、ふわりと抱きしめる。絶望の雨に濡れるあなたの身体が冷えきってしまわないように。つくりものの熱は、こういう時にこそ便利なものなのだから。
 不器用だけれど優しい『姉』の声はきっと、熱すぎやしないものだったはずだ。不安定に吠える狼をなだめながら、綿毛みたいな毛並みを撫でてやりながら、ソフィアは静かに隻腕のドールへ伏せた視線を遣るだろう。精神が極限に追い詰められてしまっているらしいオディーリアに話をさせるべきではないと判断したのだ。

《Sarah》
 ジゼル先生サン、ストームサン、ディアサン、とあと。

えっと、……

 彼女は誰だろう。
 サラは二人の会話に入ることもできないわからない。彼女の名前を、思い出そうとすればするほど頭が真っ白になんもわからなくなる。あのこが、あのドールが目の前にいるだけで胸が嫌な音を立てて軋む。見たくない、消えてほしい。
 でも、でも。赤い薔薇が枯れる前に早く戻らなければいけない。堪えるようにギュッとマフラーの裾を掴み質問をしたドールではなくいつもだったら好きじゃない彼の方に目を向け答える。

「ロゼットサンが落ちた。床に穴があって。引き上げるのにボク達じゃ無理だから。他にドールを呼んでこようってグレーテルサンが」

 良くない場所に行ったことは言ってない。嘘はついていない。確かにロゼットは落ちたしあれは穴と捉えることもできる。ストームやジゼルがいればきっと彼女を持ち上げることができるはずだ。 安心した、心が落ち着いた。だからこれ以上ドキドキさせないように視界に映った青い蝶は一旦無視したの。また今度見つけたら絶対に捕まえてやる。

《Storm》

 橙色の瞳が珍しくヘテロクロミアを捉えた。酷く落ち着いてぼんやりとした灯火が、迷い子のような少女に向くだろう。猟奇犯が猟奇的で狂乱な夢に酔う前の彼を彷彿とさせるような灯火だった。
だが、その灯火も少女の言葉でフッ、と姿を消す。

「なんですって?」

 彼は今、どんな表情をしているだろう。
 薔薇の彼女が危険な状態だからと焦っているだろうか?
 焦っていたとしても、彼自身が手を加える前に怪我をしてしまった可能性にだろうか?
 脆い薔薇の花が散りかけているのを想像して恍惚な表情を浮かべているだろうか?
 ただ短く語られた問いかけは、抑揚が奪い去られ感情を読み取るにはあまりに機械のようであった。

「案内して頂きたい。今すぐ!!」

 大股でサラに近付くストームは自身でも無意識のうちに声を荒らげていた。吼えるような声は掠れ、後に耳鳴りを残す。自分でもなぜこんなに必死になっているか検討もつきやしない。
 護らなければ───
 ただ身体中にそのプログラムが発信されていた。

 ぱち、ぱち、とジゼルのピーチブロッサムの双眸が柔らかく瞬きする。波乱を引き連れて、突如として現れた二人の風。彼女らがもたらす恐慌に否が応でも顔が強張るドールズを見回してから、彼女は安心させるようにあなた方へ微笑むだろう。

「そう……ロゼットが。大変なことになったのね、分かったわ。

 みんな、すぐに寮へ戻りましょう。ロゼットを助け出してあげなくちゃね。みんなも手伝って、特にテーセラの子の力が必要になるわ。」

 先程までプリマドールの面々と交わした僅かに真剣味を帯びた視線とは一転。ジゼルは戦慄するドールズを宥めるような穏和な声でそう告げると、白銀の頭髪を揺らしながら颯爽と歩き出すだろう。
 あなた方はどうあっても、彼女に着いて学生寮に戻ることになるはずだ。


 ──そこで、身体の底から迫り上がってくるような、鈍重な鐘の音色が学園中に響き渡った。

 あなた方を取り巻く長い夜がようやく終わりを告げようとしているかのような、悲壮な鐘の音色。

 あなた方がこれから向かうは、終わりの始まり。


 暗き地獄を歩き続けながら、あなた方はまた、臨むこととなる。

 学友と過ごすことが出来る最後の──与えられた猶予期間(モラトリアム)へと。