Chapter 2

The truth of Unopened

Secret event

 ──開かれない扉、開かずの塔。ドールズの墓場。

 あの場所には追い求めていた真実と、この終わりなき地獄からの脱出口があるはずだ。あなた方は必ずや、開かずの塔に至らねばならない。

 その為にはきっと、開かずの間の番人と邂逅せねばならなかった。

Chapter 2 - 『風船をどうぞ、Betrayer』
《The truth of Unopened》

【学園3F ガーデンテラス】

Amelia
Mugeia
Aladdin

 ──午後18時。
 ガーデンテラスの丸い天蓋には、群青色の波が押し寄せていた。じきに一面は黒波に覆われ、空には満点の星屑が散らされるであろう時分の事である。

 この時刻になると、殆どのドールズは寮へ戻り、夕食の支度などをこなす為、学園はもぬけの空となる。
 夕陽が燃え尽きる光景を前にして、一人の青年が──シルバーブロンドの髪を芝地に垂らす美しい青年・アラジンが、テラス席の一つに腰掛けていた。

 前日の約束を果たすため。
 引いては自分たちの芸術を成し遂げるため──


 ──秘密の芸術クラブはこの日、人知れず開かれようとしていた。

《Amelia》
「……よく考えたら……時計のあるカフェテリア集合と伝えておくべきでしたね。」

 ある細工を終えてカフェテリアを出てきた彼女は小さく独り言を呟く。
 一応仕込みは終えたが、仕込みが済んでいるカフェテリアに集合と言わなかったのは自業自得と言うべきか。

 なんとも詰めの甘い少女は芸術クラブ本来の集合場所。
 偽物の星々きらめくガーデンテラスに足を踏み入れるのだった。

「アラジン様。もういらっしゃっておりますか?」

「……アメリア! 来てくれたんだな、良かった……待ってたぜ。今日も芸術活動、頑張ろうな!」

 ガーデンテラスに足を運んでくれた、青く透き通るような美麗な髪を揺らす清楚な少女。青い瞳に星藍を散りばめたアメリアの姿を見とめると、アラジンはすぐさま席を立って、歓待するように両腕を広げながら満面の笑みを浮かべる。
 この集まりは、あくまで芸術クラブでの活動なのだ。──いつもよりも少し特別なものではあったが。

「よし、それじゃあまずやることは、カフェテリアでの工作活動……だな。張り込みはそれからだ。」

 彼はあなたが既に単独でその仕事を終えてからやってきていることを知らない。当然一緒に細工をしにいくものだと思っていたので。デュオクラスらしい効率的な働きを聞けば、アラジンは感心したように目を輝かせてから、あなたの気配りに感謝を述べることだろう。


 ──さて、決まってこの時刻。
 芸術活動を行うことを知っているのは、アメリアだけではなかった。

 ミュゲイア、あなたもまたこの日、偶然にもガーデンテラスに足を運ぶことになるだろう。
 だが、あなたは彼らがこれから始めようとしている作戦を知らない。至って純真な気持ちで、この場に踏み入ることになるはずだ。

《Mugeia》
 今日も同じ時間。
 同じ場所。
 秘密の集まりはいつも決まった時に始まる。
 天体観測をここでしなくなったからといって行かない理由にはならない。
 天体観測がなくとも話したいことはあるし、一緒の時を過ごしたいと思う気持ちはある。
 何も知らないミュゲイアはただ純粋にガーデンテラスの扉を開けた。
 いつも通り、アラジンがいるのを確認してそちらに目をやればミュゲイアは少々驚いた。
 いつもはいないドールが一人いたからである。


「……アラジン! ってアメリア? アメリアも芸術活動しに来たの? ミュゲ、嬉しいな! アメリアは何するの?」

 ニッコリと微笑んでミュゲイアは二人の方へと駆け寄った。
 開かずの扉に行くとも露知らず、ただミュゲイアはアメリアもいることに喜んで二人の手を取ろうと自身の手を伸ばした。

《Amelia》
「ああ……カフェテリアでの細工なら既に……。
 と、ミュゲイア様。」

 アラジンの言葉にそれは既に終わっていると伝えようとした直後。
 響いたのはぱたりと開く扉の音。

 自然に吸い寄せられた視線の先には笑顔の少女が居た。
 確かに、少し前ラウンジでミュゲイアは芸術クラブに属していると言っていたのだからここに来ることはなんら不自然ではない。
 ……が、どうもアラジンはこの件をまだミュゲイアに伝えて居なかったようだ。

「アメリアは水彩画を。
 余り芸術的な表現には自信がありませんがね。
 それともう一つ。今日は大人には言えない調べ事をしますから……もしも、見たくない物を見てしまうのが嫌だ、と言う場合は普段より……そうですね、一時間程早く帰ると良いでしょう。」

 その為、先ずはミュゲイアに必要最低限、これから知りたくない物を知ってしまうかもしれないリスクと、
 大人には言えない事をするリスクと、
 関わらないで済む対策を伝える。
 彼女にそれが……正確に伝わるてゃ思えなかったけれど。

 ガーデンテラスに唯一存在する硝子扉が、きぃ、と優しい音を立てて開かれる。
 その先から元気な笑顔をぱっと咲かせるミュゲイアが姿を現すと、アラジンは一度アメリアと向き直るのを辞めて、芝地を踏みしめながらミュゲイアに手を振ってみせた。

「──ミュゲイア! よく来たな、今日も芸術活動しに会いに来てくれたのか? 嬉しいぜ、もっとお前と芸術を探究したいからな!

 ……うーん、でも、そうだな……」

 彼は輝く笑顔を浮かべながらミュゲイアと対面する。彼女は何も知らない無垢な顔で、ひたすらに笑い続けている。
 ──きっと自分たちがこれから行う調査は、そんな彼女の笑顔を曇らせてしまう恐れがあるものだ。

 故にアメリアの冷静な確認の言葉を聞いて、頷く。

「……アメリア、ミュゲはこの学園のことをほとんど知ってるんだ、このあいだ話し合ったからな。その上で、外に出る為に協力すると言ってくれた。

 ミュゲ、オレたちはこれから──外に出て本物の星空を見る為に、本当の芸術を成すために、この学園の調査をすることにしたんだ。
 でもな、それは凄く危険なことだ。だからお前の意志確認も無しに巻き込むわけにはいかない。もし嫌だったら、今日はアメリアの言う通り、一時間早く帰るべきだ。日が暮れるのも早いからな。」

 アラジンは、ピンクダイヤモンドの原石の如く双眸を力強く吊り上げて、真剣な面持ちでミュゲイアのことを見据えるだろう。
 ヒトに隷属しない未来。己のやりたいことをして、己の意志を守るための芸術活動。

 もし彼女が覚悟の上で今日の『秘密の芸術クラブ』に参加してくれるならば、アラジンは歓迎して作戦の仔細を話すことだろう。

《Mugeia》
 二人の方へと近寄った足がパタリと止まった。
 水彩画? とっても素敵! 一緒にやりたい! だとかそういう言葉を口から出そうとする前にアメリアの言葉は続いた。
 それは一緒にやろうとかでもない忠告。
 ただ単なる忠告であった。
 アメリアの言葉にミュゲイアは少し混乱した。
 アメリアの言う調査だとかがピンとこなかったからだ。
 大人に言えない事だとかも、なにか悪いことをするのだろうとは思ってもそれ以上はわからない。
 単にここで夜更かしかもしれないのだから。
 けれど、アラジンの言葉を聞いてミュゲイアは納得した。
 アメリアもまた、ここの秘密に触れてしまったドールの一人なのだ。
 そして、目の前のドール達は此処を出るための準備を進めているのだろう。
 ミュゲイアが一人では出来なかったことを。
 ミュゲイアが一人では想像することも出来なかったことを。
 ミュゲイアはアラジンの言葉を聞いてにっこりと微笑んだ。


「……アラジンと本物の星空を見る為なら嫌なわけないよ! アラジンだけに危ないことなんてさせない。ミュゲも芸術クラブだもん! 一緒にやらせて!」


 真剣に見つめる瞳に対してミュゲイアは答えた。
 一緒に外で天体観測をしようと約束したのだから。
 その為ならばきっとミュゲイアはなんでもしてしまうのだろう。
 真っ赤なビスクドールの言葉を脳裏に押し殺してミュゲイアは知ろうとする。 

《Amelia》
「良いでしょう。」

 自分の忠告の後、続けられたアラジンの言葉に拍子抜けする。
 どうもミュゲイアは既にこの学園に居てはいけない事に気付いているらしい。

 それならば話は早いし、何より協力の約束を取り付ける事が出来たのが大きい。
 手札は多いに越したことはないのだから。

「では、アラジン様。
 改めて今回の調査について説明をお願いします。」

 そうして、ミュゲイアの意思を確認した後、アメリアはアラジンに説明を促す。
 少なくとも説明が終わるまでの間、アメリアは静かに横で佇んでいるだろう。

「……! 本当か!? ミュゲ、ありがとう! オレは今すごく感動してる……!! こんな危険なこと、誰も賛同してくれないと思ってたから。良かった……」

 アメリアとの対話の時にも告げた通り、アラジンは凄まじい気鋭を持ち合わせる青年だった。こうと決めたことは何としてでも成し遂げるという、柔軟なようでいて頑固なたちでもある。
 どれほど危険であろうとも、多くの者に反対されようとも、己の芸術の為ならば実行してしまえる。そういった自制心や恐怖に由来するブレーキがあまり効かない欠点がある青年でもあった。

 だが同時に、彼は己がこれから成すことの危険性も正しく理解し、リスクもきちんと把握している。故に他者を巻き込むことには気後れしていたのだが。
 共に星空を見る為に、芸術クラブの一員として。力を貸すと言ってくれたミュゲイアの言葉に感激したように声を震わせては、頷いて二人に向き直るだろう。

「……実はな、オレはガーデンテラスで学園に残ることが出来る時間のギリギリ、19時まで、毎日芸術活動のために残ってたんだ。

 ドールがほとんど寮に帰り着く時間。丁度今ぐらいの時間に、この学園に『化け物』が現れるんだ。……丁度、こんな姿をしてる。」

 アラジンはテラス席の机上に置いていた一冊のノートを広げた。そこには豪快ながらも美しい筆使いにて、黒き怪物の姿が描かれている。硬質な鎧のような体表に、貌のない頭部には虫らしき触覚。人間の四肢を模したような巨大な腕の先端には鋭利な爪。そしてその背からは、半透明の翅が生え出ている。
 そしてそのそばには、走り書きで『仮称ハネアリ』と記されている。

「アメリアがコイツを仮にハネアリと呼んでるんだけどな、……コイツはいつも、あの開かずの扉から学園に現れるんだ。
 アカデミー北端の階段、二階と三階の踊り場にある、開かずの扉──ハネアリはその先にある、黒い塔を管理してる存在だ。

 オレはこの謎に包まれた黒い塔にこそ、学園から抜け出す為の出入り口があると睨んでる。正確には外部から物資を受け取る為に、外と繋がる資材搬入口があるはずなんだ。
 あそこへ忍び込む手がかりを得る為に、ハネアリの調査をしたい。これからオレたちは、ハネアリがこの場へ出てくるまで張り込みをする予定だ。」

 アラジンはミュゲイアに、自分たちの作戦を全て語って聞かせた。この場には留まるドールズの居ない。故に彼もきちんと丁寧な口ぶりで、ゆっくりと説明していくはずだ。

「先生への言い訳のために、カフェテリアの時計の時刻をズラしてある。アメリアの提案だ。

 オレたちはもしこれからの行動を先生に気づかれたとき、こう答える。『時計の時間がズレており、学園を出るのが遅れてしまった。芸術活動に夢中になっていたら、突然出てきた黒い化け物に襲われて逃げてきた』……ってな。」

 ミュゲイアはその説明を全て受け取ることになる。

 ──そして、なんと答えるだろうか。

《Mugeia》
 友達というものが何かわからない。
 友達とはきっとこうやって秘密を共有するものなのだろう。
 友達とはきっとこうやって一緒に何かを成し遂げようとするものなのだろう。
 微かなキラメキ。
 恐怖すらも塵にしてしまうような、そんなものが今だけはミュゲイアの中で煌めいていた。
 遊び半分ですることではない。
 もちろん、ミュゲイアもそんな気持ちでこの計画に片足を突っ込んだわけではなかった。
 それも全部はアラジンのため。
 アラジンがそう言うからそれを叶えたい。
 アラジンがそう言うからできてしまうような気がしてしまう。
 アラジンがゆっくりとミュゲイアを変えてゆく度に、ミュゲイアの中でアラジンの存在が大きくなってゆく。
 まるで太陽のように。
 だから、ミュゲイアはアラジンの話を真剣に聞いていた。
 これから何をするのか。
 どうするのか。
 何をしたらいいのか。
 その全てを知るために。
 煌めく思いはいつもあの日の天体観測を見ている。
 煌めいて。
 輝いて。
 光って。
 弾けて。


 ──────燃えている。



 脳裏に浮かんだ星空が真っ赤に燃えてゆく。
 いつの日にか見たあの赤い光。
 鮮明に光る真っ赤。
 全てを包み込んでしまいそうな光。
 ドクン、ドクン。
 這いずるような恐怖がミュゲイアを抱きしめようとする。
 脚を掴もうとする。
 柔らかな口に指を入れようとする。
 吐き気すら覚える恐怖に覆われたミュゲイアは無意識に口を動かしていた。


「……ダメ! 開かずの扉に行っちゃダメ!」


 ミュゲイアの意思とは裏腹に口から出た言葉は否定であった。
 彼らを止めなければならないという強迫観念に襲われてミュゲイアは大きな声をあげた。
 頭を両の手で覆い、ミュゲイアはギョロりと瞳を動かしていた。
 その瞳には誰も映らない。
 ただ真っ赤な光だけが世界を覆う。

「ダメ、ダメなの。ダメだよ。ダメダメダメダメダメダメダメ。開かずの扉はダメなの。ねぇ、アラジン? ダメだよ。危ないよ。怪我しちゃうかもよ? 怖いかもよ? 痛いかもよ? ほら、ダメでしょ?」


 過保護な母親のように。
 引きつった笑みは邪魔をする。
 助けてという言葉は出てこない。

《Amelia》
「ミュゲイア様……?」

 アラジンの説明が一通り終わった頃、ミュゲイアは強い否定の言葉を発した。
 まるでアラジンにすがるような。

 それだけは駄目だと否定するような。

 きっと、彼女は見た事があるのだろう。
 目の前で朋が燃えていく様を、人形が失われゆく様を。

「ミュゲイア様。落ち着いて、落ち着いて下さい。」

 それも、恐らくはアラジン様が燃え行く様を。
 となればアラジンが鎮めるのはほぼ不可能、と言っていいだろう。
 なんたって彼女にとってアラジンは守られるべきものだ。
 もう二度と、失いたくない物だ。

 なら、きっと有無なんて聞きやしないのだろう。

「良いですか、彼には彼の考えがあります。
 勿論、それが正しいとは言いませんが、同時に検証の必要は……」

 だから、アメリアは彼女の説得を試みるが……論理で凍った言葉はミュゲイアの心に刺さりはしない。
 狂奔する彼女の心に虚しくはじかれるばかりで、或いは気付いてすら居ないかもしれない。
 けれど、それでも、止める為に、落ち着いて貰う為に……?

 何故、こんなに言葉を尽くしているのだろう。
 余りにも無為な言葉を。
 論理だけで固められた言葉を。
 届きすらしないのに。


「……いえ、これで聞き届けろと言う方が無謀ですね。」

 だからだろうか。
 腹が立った。
 アラジンばかりで、こちらを見もしない彼女に。

 そう思ったら簡単だった。
 腕が動く。顔を抑えるばかりの細い手を掴む。
 腕が動く。そのなんとも軽く柔らかな体を引っ張る。
 頭が動く。意味を成さない言葉ばかりを紡ぐ口を塞ぐ。
 肺が動く。混乱する余裕さえ無いように、抵抗する自由すら無いように。息の止まるギリギリで少女の呼吸を制御する。

 それは、余りにも乱暴で、暴力的なキスだった。

「ミュゲ……」

 計画の仔細を語って聞かせるうち、少しずつ彼女の顔が青褪めていくのが気掛かりだった。彼女は『開かずの扉』という単語がアラジンの口から飛び出した途端に、様子が可笑しくなったように見受けられた。
 彼は以前、ミュゲイアと例の扉の前で鉢合わせた事がある。その時の彼女の異様な反応を忘れた訳ではなかった。

 それでもあの扉を調査しなければならなかった。彼女と共に外へ抜け出す為には、本物の星空を見上げる為には、避けては通れない道だから。

 叫び出すミュゲイアの姿に、くっと眉を寄せる。アラジンは、やはり彼女と開かずの扉に向かうことは難しいだろうか、と半ば諦め始めていた。


 ──だが。

 目の前で唐突にアメリアがミュゲイアの唇を奪い去る。彼女はデュオモデルであり、まかり間違ってもその行為に慣れているように作られたトゥリアモデルではない。そしてトゥリアモデルですら、こんなに突然脈絡もなく口付けをかますことはないだろう。

「…………!!」

 アラジンですら絶句した。僅かにのけ反って、緊張を抱きながら成り行きを見守る。
 ミュゲイアはどうなるであろうか。

《Mugeia》
 口が意思とは裏腹にペラペラと動いていく。
 本当であれば一緒に行くべきである。
 これは二人を邪魔する行為。
 こんな事をミュゲイアはしたい訳ではなかった。
 こんな事をなぜしているのかすらミュゲイアには分からない。
 理解し難い恐怖に襲われて、そうインプットされているかのように二人が開かずの扉へと行こうとするのを阻止していた。
 この恐怖をミュゲイアは知っている。
 開かずの扉がいつもミュゲイアをそうさせる。
 開かずの扉は恐怖そのものだ。
 開かずの扉はいつもミュゲイアを怖がらせてその扉を開けさせてはくれない。
 自由な手足は一気に拘束されて、何も出来なくなる。
 邪魔をしてしまう。
 止まってと思っても口が閉じることはなかった。
 ただずっと同じ言葉の繰り返し。
 見えない何かに怯えるようにずっとそのまま。
 視界はずっと真っ赤。
 真っ赤に光ってそのまま。
 大好きなアラジンの顔すらもおぼろげに見えているような気がする。
 そんな視界が急に青くなった。
 青空のような青。
 細い腕を掴まれて目と目がほんの一瞬合った。
 それはあっという間の出来事で、ミュゲイアが拒否する暇すらも与えなかった。
 恐怖だけを吐き続ける唇が塞がれた。
 息することすらできないほどに暴力的なキス。
 言葉よりも確かな行動。
 目を見開いたミュゲイアの視界は青く染まっていた。
 もう、そこには赤色は広がっていなかった。
 ミュゲイアは反射的にアメリアの背中に手を回してから我に返ってトントンと優しく背中を叩いた。

「…………ア、アメリア!? どうしちゃったの!? え!? ア、アラジンも見てるのに! いきなり……チュ、チューなんてアメリアらしくないよ!」

 息を整えるよりも先に口が動いていた。
 肩で息をしながらアメリアの肩に手を置いてミュゲイアはやや早口に喋った。
 まさか、このタイミングでそんな事をアメリアからされるなんて思ってもみなかった。
 口をパクパクとさせて、真珠の肌は明らかに紅く染められている。
 トゥリアドールであるミュゲイアからしてもこのキスは突拍子もないもので、トリッキーもいいところ。
 もっと違う場面であるならばこんなにも狼狽える事もなかったかもしれないというのに珍しくミュゲイアは狼狽えていた。

《Amelia》
「……ぷはっ……はあ、落ち着きましたか。」

 背中を叩いてきたミュゲイアから、彼女は漸く口を離す。
 自分で行ったことだとはいえ少し酸欠気味のぼんやりした思考の中、少なくとも彼女が落ち着いたことを確認して安堵したアメリアに……続いて氷のような冷静な思考が襲い掛かる。

 加えてミュゲイアからは至極真っ当な正論の一撃。
 冷静に考えてついさっきのアメリアの行動ははっきり言って異常……というかただの痴女である。

「あっ……あ~~~……これは、そう、人工呼吸です。
 先ほどミュゲイア様は過呼吸の症状を呈していて……」

 背中を叩く冷静な思考で顔が朱に染まり行くのを自覚したアメリアは必死に言い訳を言い募るが……。
 異様な行動で強引な解決を測ったのは変わりない。
 つまり、今アメリアに必要だったのは……。


「ともかく! ミュゲイア様は落ち着いて、説明も終わったのですから!!
 さっさと行きますよ。また同じようになったら落ち着けてあげますから、ミュゲイア様も安心して来て下さい!! 良いですね!?」

 半ば悲鳴じみた強引な誘導だ。

「び、ビックリした……。ハハ……アメリア、流石にそれは力技過ぎるんじゃねーか?

 まあ、おかげでミュゲが落ち着いてくれたからいいけどな。落ち着いたというよりそれ以上の衝撃で掻き消したって言った方が正しいかもしんねーけど……」

 乱暴で情熱的なキスを経て、二人の少女はふらりと離れる。その光景を間で直視していたアラジンすらも、何故か息を止めてしまっていたようだ。ごくりと固唾を飲んでから、漸く忘れていた呼吸を再開すると、苦笑いを浮かべながら後ろ頭を掻く。

 恐怖に苛まれ、苦しそうな顔をしていたミュゲイアは、いまは愛らしくも驚きに頬を染めている。その様子を確認して、アラジンは安堵したようにひとつ息を吐き出した。

 まだ気掛かりは残るが、ひとまずは調査を始められそうだ。

「今日は開かずの扉に行くわけじゃないからな。あくまで怪物の動向を探るだけだ。それで、大体いつもアイツはこのぐらいの時間になると──……」

 と、アラジンが今後の方針について切り出そうとした、その時だった。



 ──ギリギリギリ、ギギギ、ギィィィ、ギギィ……



 地獄の怪物の悍ましい唸り声のような、地の底より湧き上がるかのような悍ましい物音が学園中に響き渡った。

 その声にアラジンははっと顔色を変えて、二人の顔を見据える。

「──……い、今のだ。今のが、ハネアリがやってきた音だ。今、“怪物はこの学園側に侵入してる”!」

 つまりは、あの怪物が開かずの扉からこちらへやってきたということなのだろう。アラジンの言葉の真意を確かめるべく、あなた方は階下に向かうだろうか?

《Mugeia》
「……え? あ、そっか。人工呼吸だったんだ! アメリアは優しいね! ありがと! アメリア大好き! ミュゲが変になったら助けてくれるアメリア、王子様みたい! 真実のキスで助けてもらうお姫様もこんな気分なのかな? えへへっ。」

 柔らかな感触はまだじんわりとミュゲイアの唇に残っていた。
 今のは人工呼吸であったと教えられれば、確かにデュオであるアメリアであればやりそうだと思い納得した。
 だって、彼女はデュオだから。
 ミュゲイアやアラジンのようなトゥリアの甘さはきっと持ち合わせていない。
 人工呼吸だったと言われた方が納得出来る。

 柔らかな唇に指を当てながらミュゲイアははにかんで答えた。
 王子様のようだなんてメルヘンチックなことを。
 いつの日にかテーセラドールのあの子に話してもらった御伽噺の王子様のようだと。
 少女型ドールであるアメリアに対して王子様というのは失礼かもしれないが、そこまで頭は回っていなかったようである。
 そして、アラジンの言葉に耳を傾けたその時であった。
 唸り声のような恐ろしい物音が響き渡った。
 地獄の底から這い上がってきたようなその音は一気に三人を悪夢へと引きずり込もうとする。
 アラジンの言葉にミュゲイアはゴクリと固唾を呑んだ。

「……どうする? あとを追いかける? ミュゲは二人について行くよ。」

 ドキドキと鳴り響くコアの音もかき消すような音の中ミュゲイアは口を開いた。
 二人の顔を見つつこのまま追いかけるのかと聞いた。

《Amelia》
「……ええ、どういたしまして。」

 なんだかうれしそうなミュゲに対して少し複雑な気分で返事を返す。

 なんたって、王子様だ。
 その言葉が似合うドールを彼女は一人しか知らないのに、怒りに任せた行動でこんな風に形容されてしまっては彼女も受け入れ方が分からない。
 ……が、かといってこれだけでは不愛想すぎるかと思い言葉を重ねようとしたその瞬間。

 あの音が響いた。

 彼女にとって生涯忘れられなくなるだろう夜の始まりを告げる音が。

「け……と、来ましたか。
 位置は恐らくまだ出入り口でしょう。
 作戦開始ですね。」

 続いて、真っ先に口を開いたアラジンの言葉に、彼女はこれ幸いと乗っかる。

 足音を殺すために靴を脱いで鞄にしまった彼女はアラジンとミュゲの様子を見ながら、あの開かずの扉の入口を見下ろせる位置に移動しようとするだろう。

 ミュゲイアの意志と、アメリアの作戦開始という言葉を聞いて、アラジンも深く頷いた。同時に思慮深きアメリアが、硬質な床で靴が足音を立てぬようにとの配慮か、靴をすぐさま脱ぎ去ったのを確認すると。
 各々がそれに倣わなければ彼女の行動を無為にしてしまうと判断し、彼もまた自身が履き込んでいたブーツを脱いで持参していた鞄に揃えて納めるだろう。

「それじゃあ……まずは怪物の姿を視認するところから。もし確認出来たら、付かず離れずの距離を保って追跡し続けよう。

 接近しすぎてバレたら本末転倒だ、絶対に音を立てないように気を付けような。」

 アラジンは二人にそう声を掛けてから、共に連れ立って廊下に出ていくだろう。


 こうして、あなた方の芸術を追う長い夜は始まる。

 ──あなた方を更に追う存在が現れることには、怪物に全面的に警戒している現段階では、悟ることは出来ないだろう。


Scene1『Tracking』

【学園1F ロビー】

Hensel
Brother
Felicia

 ──フェリシアはその晩、午後18時。ただ一人、昇降機に揺られていた。

 箱の中央に嫋やかな少女がぽつんと立ち尽くしている。同乗者は居ない。あなたはひとりで、もうじきに閉まることになる学園へと向かっていた。

 ジゼルとデイビッドが、プリマドールの面々を連れ立って学園へと向かったのが、つい数分前。
 寮内に残っていたものは皆、はジゼルから、「あなた達はここに居てね」と告げられていたが、あなたは最愛の母からの言いつけを破り、こうして昇降機に乗っている。

 プリマドールだけを呼び付けたジゼルの動向。あなたはそれがずっと気掛かりだった。以前ジゼルと関わったとき、彼女の真意を計り知ることが出来なかった分。今このとき、彼女の本当の姿を確かめておきたかった。


 やがて目の前の扉は開かれる。薄暗く、ドールの気配が殆どない閑静なロビーに降り立って、フェリシアは足を止めるだろう。

 その先には、まだ学園に戻っていないブラザーの姿があったからだ。
 ……そしてブラザーの正面には、ヘンゼルが立っている。
 ブラザーは数分前にすれ違った彼に呼び止められ、彼の詰問に付き合わされていたのであった。


「俺の質問に答えろ。お前たちは以前、あの開かずの扉の先に行ったはずだな……その先には何があった?
 ……思い出せ。今すぐに。」

 ヘンゼルの様子はかなり切羽詰まっており、何とも苛立たし気だ。

 しかしブラザー、あなたは以前ヘンゼルとこの話をした時もそうであったが、開かずの扉の先で何があったのか今もなお思い出せない。故にその質問に答えることが出来ない。
 あなたが答えないでいるならば、ヘンゼルは痺れを切らしてブラザーの胸倉に掴み掛かるだろう。

 一触即発。その前にフェリシアは立っている。

《Felicia》
 行き当たりのない胸騒ぎがした。
 事の発端は、ほんの前の出来事である。ジゼルママがプリマドールだけを集めて出ていったのだ。
 もし、彼女がデイビット先生よろしく学園の根幹に関わっているのであれば、ほんの僅かな時間ですら私たちから目を離さないことだろうに。

 寮内に留まるか、それとも彼女の動向を伺うか。ひとしきり迷った末に、フェリシアはこうして学園へ向かう昇降機に乗り込んでいる。思えば、ママの言いつけを破ったのは初めてだろうか。肌を刺すような静寂の空気が、特定できない不安定感を助長させていた。

 もうじき閉まる学内は照明が落とされ、薄暗く不気味な雰囲気を醸し出していた。細く息を吐くと、フェリシアはロビーの中心へ足を踏み───出せなかった。

 会いたくなかった顔が、ふたつ。嫌われているだろうブラザーくんと、私のせいで大喧嘩してしまったヘンゼルくん。ふたりは言い争っているというより、ブラザーくんが一方的に問い詰められているような。

 さて、いつもの彼女だったらどうだろう。もちろん、果敢にふたりの間に入り、何としてでも言い争いを止めようとするだろう。が、今のフェリシアにはかける言葉がみつからなかった。……いや、今はふたりに関わりたくなかった。

 ブラザーくんはあれから屍のようにふらふらと移動するばかりで。力なく、何も言わない彼に嫌気がさしたのだろう。ヘンゼルくんが胸倉を掴みかかっている。

 ──まて。

 ヒーローだったら、見捨てない。

 彼女の中の看過できない仮初の正義感が、その一歩を引いた。

「待って。暴力では何も解決できないこと、あなたがいちばんよく分かってるはずだよね?

 ……離しなさい、ヘンゼルくん。
 トゥリアのブラザーくんに力を行使するというなら、私だって容赦はできないよ。」

 ヘンゼルの片腕を軽く掴んだフェリシアは、非難を絡ませた瞳を向け、指導をするセンセイのように口を開いた。

《Brother》
 寮に戻りたくなかった。

 ここ最近、こんな日ばかりだ。
 いつもギリギリの時間に寮に戻って、そそくさと食事をとって。誰とも会話することなく、存在感を押し殺して部屋に戻る。柔らかな微笑みも、あたたかな声も、もう随分とダイニングには存在しない。

 今日も同じように、ブラザーはふらふらと寮外をさまよっていた。ドールズに時間を知らせる鐘が鳴り、重くなった足を寮に向かわせる。ずるずる足を引きずっていれば、何やら切羽詰まった様子の少年に声をかけられた。

「……開かずの、扉……」

 まるで、抜け殻。
 白銀の美少年は長い前髪にアメジストを隠して、ぽつりと呟いた。ただ繰り返すだけの、壊れたお人形。苛立つヘンゼルを逆撫でするような空っぽの声が、閑散としたロビーに揺れる。きっとすぐに胸ぐらは掴まれて、ぐらりとその体は揺れただろう。他人事みたいに目を細めて黙っていたブラザーの代わりに、陽だまりの声がした。星を映せない深い夜空が、ぐっと見開かれる。

「ふぇ、り……」

 名前を呼びかける。
 まとまった音にならず、ブラザーはただ、怯えと懇願との全てが混ざった瞳で小さなヒーローを見ていた。

 問い詰めようとしたブラザーは心神喪失状態だった。何度問い直しても覇気を感じられない鸚鵡返ししか返ってくる事はなく、ヘンゼルは焦りと苛立ちに額に青筋を浮かべていた。
 掴み上げた胸倉は、ひいては彼のボロ切れのような身体は、デュオの細腕でも余程軽かった。内側に何も詰まっていない空っぽの陶器の人形のようだった。

「おい、さっさと答えろ──」

 次第に声色が尖り、怒りに籠り始めたその時。

 颯爽と駆けつけた明るい日向のヒーローが、ウィスタリアの髪を揺らしながらヘンゼルの腕を掴む。
 ブラザーを害するその腕は、掴まれその時静止した。

 ──ヘンゼルは、突如として現れ、凛とした声で非行を辞めるよう訴えかけるフェリシアを見て、一瞬目を見開いた後。

「……お前。二度と関わるなと言っただろ、今度は俺の邪魔をする気か?

 お前を見てると……不愉快になる、どこかへ行け! お前に構ってる暇は無いんだ、俺にはもう少しも時間が無い……モタモタしていられないんだよ!」

 ヘンゼルはあなたの腕を乱暴に振り払うだろう。冷静な判断能力が失われているのか、振り払った結果あなたが怪我をする可能性を考慮出来ないのだ。
 思い切り腕を振った後に、はっとしてあなたを見据える。その時一瞬彼の目に、あなたを案ずるような瞳のゆらめきが見えた気がした、が──すぐに熟したラズベリーの濁った色に掻き消されるだろう。

「ブラザーだったな……お前は以前俺に一方的に話を持ち掛けて、情報を聞き出そうとした。今度は俺の番だ。俺の質疑応答に付き合え……一緒に来てもらうぞ。」

 ヘンゼルは相変わらず、あなたの頬を鞭で打つような厳格な声でそう命じた。断られることなど万に一つもあり得ないといった尊大な声だった。

《Felicia》
「うん、フェリだよブラザーくん。あなたの仲間のフェリシアだよ。
 えっと……痛いところは、ない?」

 ヘンゼルの腕は捉えたまま、ペリドットは以前と変わらない微笑みをあなたに向ける。例えあなたが混濁の不安定に揺れていようと、恐怖に苛まれていようと、彼女はエーナドールらしい柔らかな笑みをみせたことだろう。

 さて。フェリシアは暴風のように吹き荒れるヘンゼルくんに向き直ると、荒々しく振りほどかれた手に目線をむけ、怪我をしていないか確認するようにそっと抑えた。
 ヘンゼルくんの気にかけるような目線も気にはなったが、気にしていないようなふりをした方が、彼のためにも良かれと思ったのだ。
 暫く腕を見つめていたが、未だじんわりと熱をもつ自身の腕をよそに、フェリシアは申し訳なさそうに眉を下げると、荒々しく澱んだラズベリー色の瞳を見据えて話し始める。

「ヘンゼルくん、あのとき……ひどいことを言ってごめんね。間違いなくあなたを傷つけてたと思う。
 感情に任せて出る言葉は……怖い。
 改めてそう思った。愚かだった。
 本当にごめん。……ごめんね。

 だけど、あのね……ハッキリ言ってヘンゼルくんは正気じゃないの。
 ひとりで何でもできるって言うのは大間違いだからね。あなたは物凄く優秀なドールだけど……あなたに大事があったときに、あなたを助けてくれる仲間はいるの?」

 ヘンゼルくんからその返答がなければ、フェリシアは小さく頷いて、小春日和のような笑顔をみせた。

「居ないなら、私が仲間になる。
 もしあなたが欲しくなくても、私が、あなたをひとりにさせたくないから。

 だから。

 私も、ヘンゼルくんとブラザーくんについて行かせて。ふたりが、心配なの。」

《Brother》
「フェリシア、君も……」

 荒々しいヘンゼルの腕の振り払い方。未だ穏やかに微笑むウィスタリアの陽だまりの腕と顔とを交互に見て、ブラザーは言葉を詰まらせていた。

 君も、大丈夫?
 言葉は続かない。

 とても、続けられない。

「……僕に何かできるとは思わないけど、君が言うなら行くよ。
 ただ、その……」

 冷たい水のような、燃え盛る業火のような声。ラズベリージャムの瞳を尖らせるヘンゼルに、ブラザーは濁った返事を返した。以前強引に押しかけたときとは考えられないほど、かの“変質者”はしおらしい。手首の辺りをしきりに触りながら、自分の爪先のあたりに視線を落としている。ぽつぽつ呟くように答えて、それから、恐る恐る視線を上げた。
 視線の先には、木漏れ日のようなペリドット。眩しそうに目を細め、すぐにまた視線を落とした。フェリシアの申し出に、柔らかいだけの人形は黙っている。バツの悪そうに視線を落とし、時折、ヘンゼルの返事を急かすように不機嫌そうな赤髪を見た。

 ブラザーは何も答えないまま、成り行きに任せるつもりらしい。
 全く、どこまでも卑怯者である。

「……な、……っ」

 ヘンゼルは、あなたに何か危害を受けた訳ではなかった。寧ろずっと親切にされ続けてきたというのに、くだらない矜持を抱え込んで守り、ジャンクを徹底的に見下して、挙げ句罪の無い彼女の、……ヘンゼルに寄り添おうとしてくれたフェリシアの全てを否定した。拒絶した。それはもう、何もかもを。
 彼女は激昂して当たり前だった。あの時彼女は、当然の主張をしただけだ。ドールであっても傷付く心はあり、擦り切れる思考はある。目の前のブラザーのように。

 にも関わらず、フェリシアは以前の錯乱が嘘だったかのように──いや、あの出来事がなかった事にはならないのだから、彼女はそれを自分の内側で片付けて、乗り越えて、様々な物言いたい気持ちを飲み込んで、我慢して、抑圧して。憎いであろう、気に食わないであろうヘンゼルに、言葉を尽くしてくれている。

 分かり合えない差別主義者であろうとも諦めずに手を伸ばす、エーナモデルのお手本のように。
 或いは、決して負けないヒーローのように。
 雨上がりの晴天のような傷付き弱り、それでも優しい笑顔を浮かべながら告げられた言葉に、ヘンゼルは絶句した。

「……俺がまともじゃないって事ぐらい、俺が一番よく分かってる。冷静に話が出来ないんだ、焦りで頭も回らない、だが考え続ける事以外に俺はどうしたらいいんだ? 俺はデュオモデルだ。ひたすら頭を動かすことしか存在価値がない、認められない……そんな、」

 ──ジャンク品だ。

 ヘンゼルの吐き出す声は震えていた。熟した瞳は今この時狂気的な色を失せて、憔悴しきってはいれど、理性を取り戻したように見えた。

 自分がジャンク品ならば、同じ立場の彼等を見下すことなど、どうして出来よう。そんな資格など持ち合わせていないのに。
 初めからずっと差し伸べられ続けてきた、フェリシアの優しい声と手を前に、ヘンゼルは迷子の子供のような不安げな目付きをして。

「分かった、……話す、お前にも。お前も開かずの扉の先に行ったと話していたな、……その件についても聞きたかったところだ。

 ただ、ここだと不味い、誰が残っているか分からないから……二階の合唱室。あそこへ行こう、話し声が漏れる心配をしなくて済む。」

 ヘンゼルは顔を顰めながら、落ちこぼれに助けを求める事を選んだようだ。これは、プライドが天ほども高いデュオモデルの青年にとって、あり得ない事だったはずだ。
 彼はあなた方が着いてくるであろうと考え、先へ進む。その道中、ふと立ち止まると。僅かに、鼻先が見える程度に振り返って、掻き消えそうな灯火のような声で呟いた。

「──俺も、前は悪かった。……フェリシア。」

 そうして、ヘンゼルは今度こそ振り返らず、螺旋階段を使って二階の暗がりへ踏み込んでいくだろう。

《Felicia》
 ある程度の余裕がなければ人に優しくできない、というのは半分くらい嘘だと思う。少なくとも私の中では。ヒーローとしての心持ちしか無かった精神の切れ端には、今や重量オーバーの負荷がかかっていて。ひたすら耐えても終わりようのない絶望感と、消失感。
 押し潰される前に手放さなければならなかったほどである。

 しかし、今はどうだろう。全てを受け入れる都合のいい子ちゃん。心優しく、相手にどこまでも寄り添えるエーナドール。疲れ知らずな訳じゃない。そうすることでしか彼らと話す手立てが無いのだ。

 フェリシアはそれでも良かった。相手が少しでも楽に過ごせられるのであれば、どんな言葉でも掛けよう。続けていけばそれがきっと自分の存在意義に繋がってくるだろう、そう信じて。

「焦って思考があやふやになるのは誰にだって起こりうることだと思う。あなたがやるべきは、絶望に浸ることじゃなくて、周りの手を借りることなんじゃないかな。
 みんな全知全能の神様じゃないから、どうしたらいいのか直ぐに答えは出せないだろうけど。
 それでも、独りぼっちよりはマシだと思えるよ。ヘンゼルくん、今までよく頑張ったね。これからは私や、ブラザーくんや、オミクロンクラスのみんなが居るよ! 落ちたところまで落ちたなら、また上がり直せばいいんだから!」

 気高きデュオドール(その分見下されるけど)には弱った表情は似合わない。それでもなよなよしていたのなら、フェリシアはヘンゼルの頬を張ったことだろう。

 そしてブラザーにも、同意を欲しがるように「ねっ!?」となるべく元気よく聞いたつもりだった。
 返事が返ってこなくとも、フェリシアは寂しさが影をのせた笑顔で了承するだろう。

 ヘンゼルくんの怯えた子猫のような瞳には少々驚いた。それと同時に、少しは心を開いてくれたのと嬉しくなる。何より、断固として助けを求めなかったヘンゼルくんが、一緒に歩いてくれること。
 それがいちばん嬉しかった。無言で頷くと、フェリシアは赤髪の彼の後ろをついて行く。判断に困って立ち止まる白髪がいるのなら、行き戻ってその手を取るだろう。

 「一緒に行こう」なんて、声をかけながら。

 ふと立ち止まったヘンゼルと同じく立ち止まる。何かあったのか聞こうと口を開きかけたが、陽炎のようなその言葉にフェリシアは、柔らかく流れ込む日差しのように顔を綻ばせるのだった。

「仲直り、だね。ヘンゼルくん。」

 これからはきっと、もっと心を通わせられるね。

 ブラザーくんの手を引きながら、フェリシアは螺旋階段を登るのだった。合唱室に到着すると、その手はそっと離されることだろう。

《Brother》
 ──僕のこと、仲間にカウントしない方がいいよ。

 きっと二人の様子をうかがうブラザーの瞳には、そう書いてあったはずだ。同意を求めるために目を合わせたフェリシアは、その瞳をどう感じたのだろう。ぴくりと肩を揺らして、彼は眉を下げたまま視線を落とした。曇った笑みを浮かべたことすらも、ブラザーは見ていない。
 ヘンゼルすらも掬い上げてしまう陽だまりが、怖かった。だってそれは、ブラザーがなりたくてならなければいけなくて、出来なかったことなのだから。


 ヘンゼルは謝罪を口にしている。
 対して、自分は?

 くだらない自己嫌悪ばかりが募って、足が鉄のように重い。今はそんなことをしている場合じゃないのに、歩き始めた2人について行くのがとても場違いな気がして、彼にはもう温もりの真ん中にいる資格がなくて。
 フェリシアが手を引きに戻ってきたのなら、じっとりと汗ばんだ手を大人しく引かれるはずだ。“あ”とか“う”とか、そんな意味の無い音を零しながら。

「……君たちは、すごいね」

 きっと階段の途中辺りで、手を振り払うことも自分で歩くこともできないままのブラザーは呟くはずだ。

「……なんで……」

 低く続いた呟きは、一体なんの理由を聞いていたのだろう。足元から視線の上がらないブラザーはそれ以降押し黙ってしまったから、答えは分からない。

 ……合唱室に着いて手が離されれば、また落ち着きなく手首を触りながらヘンゼルの言葉を待つはずだ。居心地の悪そうに、星の見えない夜空を伏せて。

【学園2F 合唱室】

 螺旋階段を経由して二階に上がったあなた方は、先の見えない暗がりに浸ることだろう。学園が閉鎖される寸前のこの時刻になると、施設のほとんどの照明が落とされていく。燭台に灯火は灯らず、ランプの明かりも消えて、辺りには暗澹たる暗闇が落ちていた。学園にはほとんど窓が無いため、自然光すら入る余地はない。

 それでも各教室の出入り口にのみぽつんと灯された燭台の灯りを頼りに、ヘンゼルは合唱室までの道行きを先導するだろう。


 さて、音を吸い込む防音設備の整った合唱室に踏み込んだヘンゼルは、改めて二人に向き直る。その顔色は極めて顰められており、非常にやりづらそうな面持ちであった。
 他人を頼って相談することなど、本当に一度もした事が無いのだろう。己の込み入った事情を説明するのですら、今この時が初めてなのではないか? といった姿である。
 しかし流石はデュオモデルと言うべきか。すぐに脳内で語るべき言葉を纏めると、口を開いた。

「俺達が必死になって目指していたお披露目は……以前にフェリシアの言っていたことが本当なら、ドールが殺される場、或いは、廃棄される場。そう考えていいんだな?」

 彼の声は微かに揺らいでいる。
 少しの迷いはあったようだが、やがて。

「……数日前、俺はグレーテルに呼び出されて備品室に居た。お披露目について、他のドールには聞かせられない重要な事実があり、片割れである俺に相談したいと嘯かれて。……いや、あながち嘘でもなかったんだろうな。」

 グレーテルの事を語る時のヘンゼルの目元は僅かに引き攣っている。忌々しそうに、恨めしそうに。相当に毛嫌いしていることがありありと伝わる表情である。

【学園2F 備品室】

Hensel
Gretel

『お前、今……なんて言った?』

 あの日の備品室でも、ヘンゼルはまったく同じ顔をしていた。グレーテルの胡乱な話には付き合いきれないと言った様子で。
 人気の無い、無音の備品室で。出入り口を背にヘンゼルと向かい合うグレーテルは、講義室から差し込む光を背負って、頷いた。

『あのね、ヘンゼル。わたし、オミクロンに行く事になったんだ。』
『はあ? 何で急に──』
『人を殴っちゃったの。でもね、わたしとヘンゼルを侮辱する魔女だったから、仕方ないの。わたしとあなたが“きょうだいじゃない”なんて言うから、失礼な魔女は殺さなきゃいけないでしょ?』
『……お前……以前から頭がおかしいとは思ってたが、相当らしいな。よりにもよって大事な決まりごとを破るなんて。聡明で冷静沈着が謳い文句のデュオモデルが、聞いて呆れる!』

 ヘンゼルはその顔に怒りを浮き上がらせて、グレーテルに一歩詰め寄った。彼女をなじる言葉はいくらでも湧き出てきた。何しろ絶対的な目標であったお披露目がその時遠のいたのだ、他ならぬこの女のせいで。努力を水の泡にされたヘンゼルは、グレーテルを親の仇のように睨みつけている。

『ハ、その魔女とやらの言う通りだな。お前の様な欠陥品と俺が双子なんて、何かの間違いだ。俺はお前のことを姉などと一度も思ったことはない……! どうするんだ、俺とお前は二人揃っていないとお披露目に選ばれないんだぞ。ジャンククラスに落ちて、俺の足を引っ張って……一体お前はどこまで落ちぶれれば気が済む!?』

 彼の怒号が備品室に満ちていた。
 グレーテルはその怒りを真っ向から受け止めて、それでもなお、不気味に笑っていた。陰鬱に俯いていて、顔色は赤毛が隠していたが、口元だけはそれでも歪に吊り上がっているのがヘンゼルの目からは見えていた。

『……そう。ヘンゼルもそんな事を言うんだね。わたしたち、また分かり合えないのね。でもいいの。わたしはお姉ちゃんだから。可哀想で愚かでどうしようもないヘンゼルのこと、わたしだけは見捨てないでいてあげるから。

 二人でお披露目に行こう、ヘンゼル。──(考え)があるの。』

 そう言って、ゆっくりと顔を上げたグレーテルの手には、鋭利なナイフが握られていた。学生寮のキッチンに常備されているものであろう。
 その鈍い輝きを見て、ヘンゼルは絶句する。

『……何の、つもりだ?』

 ゆらりと、グレーテルがナイフに光を反射させながらヘンゼルに迫った。

『わたしはオミクロンクラスでやることがあるから、それまでヘンゼルには大人しく待っててほしいの。大丈夫だよ、すぐに済むから。先生が仰っていたの、言う通りにすればわたしとあなたをお披露目に連れて行ってあげるって。』

 一歩、また一歩と。
 互いの距離は縮まっていく。
 ヘンゼルは怪訝そうにグレーテルを凝視している。

『先生が……?』
『そう。怖いことは何もないんだよ。全部お姉ちゃんに任せてくれればそれでいいの。』
『先生が何を言ってたって……!?』
『わたしたちはみんな未完成品なの、ヘンゼル。少し前にお披露目に行ったデイジーやオリヴィアだってそうなんだよ。ドールはね、“完成体”じゃなきゃご主人様に引き取ってもらえないんだって。設計図から少しもズレがあったら納得していただけない。肉体も、人格も、記憶も。一分の過ちもなく、ご主人様の大事な人になれなくちゃ、どれだけ努力しても認められないんだよ。』

 グレーテルはヘンゼルに刃物を向けながら、物凄く大事そうな事をあっけらかんとした顔で告げた。ヘンゼルは焦りに顔を強張らせながらも、必死にグレーテルの言ったことを咀嚼しようとしている。

『完成体……? 設計、図……? つまり、何だ……俺達ドールは、“顧客の大事な人”とやらに沿うように設計されていると言いたいのか?』
『大体のドールはそうなんだって。もちろんそうじゃない子も居るけど。“ヘンゼルは”頭から爪先まで完全にオーダーメイドだって聞いたよ。』
『……俺は? ……なら、お前は?』
『わたしは……』

 グレーテルは少し表情を曇らせていた。だがすぐにナイフの切っ尖をヘンゼルの喉元に向ける。

『あのね、ヘンゼル。あなたを、あなたのお義母様が一刻も早くと求めているの。でもあなたは、“完成体”になれてない。だってあなたは“ヘンゼル・シュライバー”になれていないんだもの。』
『は……』
『だからね、わたしがどうにかしてあげる。基準に満たなかったドールがどうなるか知ってる?』
『おい……!』


『──廃棄されて、また作り直されるの。そしたらわたしたち、きっとまたやり直せるよね?』


 彼女がナイフを低く構えて、一歩踏み出す。そして唐突に、ヘンゼルに向かって突貫した。彼はグレーテルの強襲に対し、その腕を掴む事で抵抗した。二人の身体はナイフを挟んで軋み、もつれあう。
 抵抗するヘンゼルの腕が近くに詰まれていた段ボールに当たり、崩れる。その爪先が備品を傷つける。

『やめ、』

 彼は決まりごとを破れない。グレーテルのように逸脱出来ない。故にグレーテルを本気で押さえ込むことなど出来ようはずがなかった、彼女の細枝のような体を傷付けてしまう。
 本気で抵抗出来ないヘンゼルに、グレーテルは容赦無く踏み込んで、刃物を振るった。

『っぐ、ぁ、ああぁあッ!!』

 その瞬間、鮮血が舞って、強張ったヘンゼルの口から悲鳴が溢れる。
 彼の制服を引き裂いて、彼の腕にひどい裂傷が刻まれたのだ。ぼたぼたと零れ落ちる赤い燃料が周囲を赤く穢す。彼は切創痕を滲み出るオイルの上から押さえ込んで、燃えるような痛みに打ち震え、蹲る。
 汗が滲むような壮絶な顔色をしたヘンゼルの額を、傍に膝ついたグレーテルは優しく撫でた。血のつながった姉のように。

『大丈夫だよ、大丈夫……すぐ手当してあげる。制服だって替えを用意してるし、着替えたら暫くは気付かれないよ。それでも洗浄の時が限界だろうけど。でも、怖くないよね、だってあなたが求めていたお披露目にこれで漸く行けるんだよ? アハハ。』

 グレーテルの狂笑が響く。ヘンゼルは反応出来ない。彼女の手がヘンゼルの腕の傷を丁寧に処置して止血していく。医薬品が収まっている医療棚には施錠がしてあったはずだが、彼女は道具すら手に入れて持参していたようだ。

『……ああ。これはもう必要ないから、わたしが預からせてもらうね、ヘンゼル。楽しみだね、二人でお揃いの衣装を着て、舞台に立つの。夢のような景色が見られるよ、きっとね。』

 グレーテルは朦朧としているヘンゼルの前で、最後に彼の懐からペンダントを抜き取ると、立ち上がった。
 そして悠々とした足取りで、備品室から立ち去ったのだ。

【学園2F 合唱室】

Hensel
Brother
Felicia

「──もしも言えることがあるなら、他の連中じゃない……あの女こそが魔女だ。グレーテルは決まりごとなど意にも介さない。一切躊躇しない。……その時付けられたのがコレだ。」

 ヘンゼルはそう言って、右腕の制服を捲った。その下に現れたのは、見咎められればオミクロン堕ちは免れないであろう、悍ましいほど深い裂傷である。これほどまでの傷になるとドールは自然治癒することが出来ず、人工皮膚は塞がらないまま機能を停止するのだ。

「俺はじきに廃棄されるだろう、双子共々ジャンク品などと、笑えるな……だがそう易々とやられる訳にはいかない。せめて開かずの扉の先で、どうドールが廃棄されるのかを調べたかったんだ。もっと詳しく、もっと……」

 ヘンゼルはそう低くつぶやいて、顔を伏せる。憔悴した横顔からは血の気が引いていた。

《Felicia》
 夕刻。照明が落とされると学園の殆どの場所は暗闇に包まれる。心許ない蝋燭の炎を手繰り寄せるように目を細め、ヘンゼルくんに着いていく。力なく手を引かれるだけのブラザーくんを迷わせないためにも、フェリシアはその手に少し力を入れるのだった。


 複数あった足音が、合唱室の床に吸い込まれるように消える。私たちに向き直ったヘンゼルくんの顔は歪められ、窓のない暗闇の中ですら彼の戸惑っている様子がありありと浮かぶ。やはりヘンゼルくんは誰かを頼りにしたこともなかったのだろう。これから彼の中核に触れるというのに、フェリシアは彼がちゃんと説明を出来るかを心配していた。ヘンゼルくんの緊張が移ってしまったのか、彼女もまたごくりと生唾を飲み込む。

 ヘンゼルの震える声で流れた問いに、フェリシアは大きく頷く。
 そして彼の経緯を、一言一句覚えんとするように静かに聞いてた。
 腕を捲ったことで見えた痛々しい傷に背後から押し寄せる不快感を感じながら、依然として青い顔の彼と目を合わせ、フェリシアは夢物語を説くように語りかける。

「……ありがとう。思い出したくもないくらい辛かったことを話してくれて、本当にありがとう。
 これできっと前に進めるよ。傷はまだ痛むのかな。“私も”しばらく痛かったから、心配だな。
 設計図とか完成体とか、気になることはいっぱいあるけれど……」

 フェリシアはひとつひとつの言葉を選ぶように語りかける。決してヘンゼルくんを傷つけることがないように。痛々しい裂傷やトラウマを、真綿で包み込むように。


「あなたが、生きてて良かった。」


「……グレーテルちゃんにそのまま帰らぬドールにされてなくて良かった。変だね。私、何だかんだ言ってその事実にほっとしてるや。」


 へへ、なんて軽い笑いを浮かべるフェリシア。怖くて怖くて堪らなかっただろう。心が壊れるくらい悩んだのだろう。ウィスタリアはヘンゼルに近づくと、心が落ち着かない赤髪を朗らかな手つきで撫でる。「良かった、良かった。」と
何度も繰り返しながら。止められなければ、しばらくそのまま撫でていることだろう。

 さて。手を止めて髪から手を離すと、フェリシアはヘンゼルの近くに立ったまま、今度はブラザーの方に目線を移して話し始める。

「私が開かずの扉の中に入ったのはお披露目会のときだけど……えぇっと、中の様子はこの前ノートに書いてたのが全部だよ。ふたりには見せてると思う。

 その……ブラザーくんはどうだったのかな。というか、お披露目会でもないのに、開かずの扉の中って行けたの? それは……どうやって?」

 ペリドットを困惑に染め、ブラザーくんを見やることだろう。

《Brother》
 衝撃的な話だった。
 しかし、不思議と、ブラザーは落ち着いていた。

 狂愛を聞いても、痛ましい傷を見ても、その表情は変わらない。月明かりの消え果てた夜空を瞬かせて、濁った紫水晶は長い睫毛に隠されている。
 だが、彼は口を開いた。自分でも意識しないまま、勝手に言葉が溢れていたのだ。

「……グレーテルは」

 赤毛が優しく撫でられているのをぼんやりと見つめて、温度のない酷く乾いた声がする。にこりとも微笑まない愛玩動物は、もうずっと役目を放棄していた。

「君を愛していたんだよ」

 ぎゅう、と。
 手首を覆う手に力が入る。自然と制服にシワができて、くしゃりと上質な布が引っ張られる音がした。暗闇の中で、彼の青白い顔からはいつも以上に生気が消えている。伸びやかなテノールは、重たい呪いを囁くようだった。

「でも、彼女は間違えた。それは愛情なんかじゃなかった。

 ……僕にはグレーテルの気持ちが分かるんだ。何を思って、何をしようとしたのか。自分が何をしなくちゃいけないと思ったのか。

 だって、僕も……きっと、“あの子”のお披露目が決まったら、同じことをした……!」

 ぎり、ぎり、ぎり。
 手首を握る手に、青筋が入る。それほどまでに力を込めて、ブラザーは床を見ていた。零れそうなほど見開かれた瞳から、ぐらぐらアメジストが揺れている。白銀の前髪が暗闇でやけに浮いていて、まるで亡霊のようだった。

「僕、駄目なんだ。駄目なんだよ。

 なんにも思い出せない。あの日、あのお披露目の日!
 僕らのベッドは開いていて、何故か二人で学園に走ったんだ。きっとあの日、僕らは開かずの扉に行った。でも、何も覚えてすらいない。僕だけじゃない、“あの子”だってそうだった。

 お披露目に行った子のことも、あの日見た星のことも、全部、僕ら、なんにも……」

 ぐしゃり。
 ぶるぶる震える手が、今度は長い前髪を掴んだ。絹糸のような髪が指の隙間から飛び出して、悲壮感をより高めている。
 静かにしていたと思えば突然喋りだし、喋ったかと思えばすぐに黙って。明らかに様子のおかしいブラザーは、歯を食い縛っていた。かひゅ、とか細い不規則な呼吸の音だけが時折漏れて、不良品の陰鬱な気がどんどん高まっていく。

「ごめんね、僕、僕は……」

 うわ言のように謝罪を繰り返す声は、いやに優しくて、柔らかい。幼子を甘やかすような口調で、刷り込まれた習慣がまだ誰かを愛している。

 ……ブラザーはそれきり、特に何も話さない。無視して話を進めてしまっても、きっと構わないのだろう。
 むしろ、彼はそれを期待している。

 フェリシアはどこまでも、優しく、寛容な台詞しか言わなかった。ヘンゼルにあそこまで苛烈な言葉を吐かれて、徹底的に嫋やかな心は踏み躙られ、打ち砕かれて来たであろうに。彼女はヘンゼルのことを許す必要など少しもなかった。本当なら、もっと手酷く責めてもよかった。憎しみ続けたってよかった。
 それをしないからこそ、フェリシアは強いヒーローでいられるのであろうし──か弱い心はいつまでも、ただただ磨り減り続けてしまうのだろう。

 “私も”という言葉に、ヘンゼルは僅かに息を呑んだ。
 彼女の欠陥の正体。それはもしかすると、思考野の異常や未成熟な発達などではなく、身体的な外傷──今の自分のように、成す術もなく不条理に傷付いてしまっただけなのではあるまいかと、察したのだ。
 ヘンゼルはあなたの負傷の経緯を知らない。それでもあの燃えるような痛みと、役目を果たせなくなったという孤立無縁の絶望は色濃く覚えている。

「……っ、何で……お前は、そこまで……」

 頭を撫で付ける手のひらは、以前のものと全く同じだった。その体温は、初めて手を握られた時とまったく同じ。

 ヘンゼルは、このように誰かに優しく受け入れられた記憶がなかった。擬似記憶では、柱時計のように堅苦しく厳格な義母が居て、ヘンゼルはいつも彼女に認められなければと焦燥の汗をかいていた。

 今しも捨てられる。
 今しも、孤独になる。

 努力を認めてもらえた時は晴れやかに嬉しかった。だがその幸福はひとたびのもので、──思い返せば、ヘンゼルはいつもあの手厳しい義母に落ちこぼれであり、欠陥品であると謗られながら、躾けられていた気がする。
 それが偽の記憶であると分かっていながら、ヘンゼルはその記憶に影響を受け、無能であることは罪なのだと刷り込まれていた。ヘンゼルは、あの塔ほども気高く高潔な義母を鑑として振る舞っていたのだろう。

 デュオクラスでの日々は、まるで氷山に立っているようだった。互いが互いを蹴落とし合い、睨み合い、憎しみ合って消耗する。高みにいた『彼女』に、彼は何度となく手を伸ばしていた。振り返って欲しかった。自分が隣に立つことを認めて欲しかった。

「──フェリシア……」

 ……でも、もう、良いのかもしれない。
 プリマドールにならなくても。それに、もう、どうせなれやしないのだから。
 フェリシアという名前の陽だまりは、そんな気持ちにさせてくれた。それは雪解けの春だった。


 そんな時、ブラザーの憔悴しやつれた声が、耳に届く。ヘンゼルは腕の傷を袖の中にしまうと、僅かに失笑した。

「……グレーテルが、俺を愛していた? 信じられないし、……事実だったとしても、あんな女はお断りだ。

 あの女は、間違いなく俺の為になると謳いながら、その実自分の為になることしかしていない。自分勝手で、都合が良くて……周りを巻き込む傍迷惑さで。

 アイツは、本当の意味では俺のことなんか気遣っていないんだ。それを俺は愛なんて浮ついた言葉で定義したくない……」

 ヘンゼルはやはり、グレーテルの所業を許しがたく思っているのだろう。忌々しそうに低く籠った声には、憎悪さえ込められていた。向き合うことを拒絶して、互いに理想像を押し付け合って。

 ──その姿は奇しくも、ブラザーとミュゲイアの鏡写しのようであった。


 ブラザーの語る、要領を得ない開かずの扉の情報。それをヘンゼルは眉を寄せて聞き付けていた。曖昧で、不明瞭。まさしく白昼夢のような言葉の数々に、彼が痺れを切らしかけたその時。




 ──ギリギリギリ、ギギギ、
ギィィィ、ギギィ……。




 地獄の底より湧き上がってくるような、悍ましく不愉快な騒音が、人気の無い学園を揺るがした。

 その声を聞いたヘンゼルは、顔色を変えた。
 そして次第に、かんばせから血の気を引いていく。


「今の音、は。

 ──怪物だ。開かずの扉の怪物が出てきた音だ……!!

《Felicia》
 あの日から、フェリシアは自分を恐れていた。今このように話せているのも、あのとき、自身の全てを彼女に預けたからに過ぎない。それはどこまでも脆く、少しでも悪意を持って触るだけで崩れて溶けてしまう、フェリシアの心だ。
 守りたいものが増えるだけ、強くなれたと思えていた。しかし実際は、どう守っていくのか分からないまま、がむしゃらに突き進むしかなかった。それでも良かった。
 良かったのに。フェリシアを取り巻く得体の知れたはずの環境が、牙を剥いて襲いかかってくる。
 ……いや、最初からタイムリミットは刻々と迫っていた。知らなかっただけで、最初からトイボックスは罪だらけの場所だったのだ。

 しかしだからこそ、彼女は本質的に優しくなれたようだった。掛ける言葉も態度も変わらないけれど心持ちはガラリと変わっていた。守りたいという朧げな希望ではなく、誰しもを守るという、覚悟に変わっていた。

「自分でもどれが正解なのか分からない。……だから、自分が良かれと思うことを一つ一つやっていくしかないんだよ。私は最初から貴方に見返りを求めてこんなことしてる訳じゃない。だから、都合のいい子らしく雑に扱ってくれて構わないよ。きっと私は、変わらずここにいるからさ。

 それが、私が求めたヒーローの姿だって思うから。究極のヒーローは、誰かに褒められたり、認められたくてやってないんだよ。」

 毅然とした態度でヒーローを説く。それが自己犠牲でしか成り立たないものであっても、フェリシアにはそんな考えしか浮かばなかったのだ。他社との干渉を避け続けたヘンゼルくんが頼るということ、しかも相手はオミクロン。彼にとって屈辱でしかないだろう。悔しいだろうし、惨めだと思うだろう。

 それでも。

 弱い自分を認めた先には、心許なくとも確かな希望があること。
 そして、心から想ってくれる仲間がいること。それを知って欲しかった。忘れないで欲しかった。
 どれだけ傷つけられようと、その時に憎もうと、過去のこととして片付けたのだから。これ以上彼を孤独に苦しませたくはなかった。

「……ふふ。うん。ヘンゼルくん。
 あなたの“仲間”のフェリシアだよ」

 ヘンゼルくんの神の啓示を受けたような表情に、フェリシアはただ微笑んでいた。

 その時、ぐらぐらと煮えたような声が耳を掠める。それは紛れもなくブラザーくんのもので。その声は変わらず甘やかだが、目に見えて衰弱しきっていた。

 ブラザーくんの主張を、恐怖を、フェリシアは黙って聞いていた。どう声をかけるか、しばらく押し黙ったあと、口を開く。

「……ブラザーくんだって。

 あなただって、すごくすごく迷ったんだよね。本当はこんなことしちゃいけないって分かってるけどその選択肢しかない事実に絶望していたんだと思う。どうしようもない状態で、何とかしようって藻掻いてたんだね。……頑張ったね。

 やらなきゃいけないことを全部誰かに押し付けて逃げ出したいって気持ちも分かるんだ。謝らなくていいんだよ。大丈夫。分かるから」

 ブラザーくんの状態は、以前の自身とよく似ていて。できる限り共感の言葉を並べたてる。……届いているかは分からないが。ブラザーくんに近づく一歩を踏み出したとき、聞こえてきたのは。

 聞こえてきたのは、自身の始まりの音であった。いやらしいほどに耳に残る、最悪な音。
 フェリシアの顔には有り得ないと書いてあった。

「ど、どうして……!? お披露目会でもないのに!!」

 ギリギリ、ギィギィと音を立てる怪物が堪らなく恐ろしかった。
 が、どうして。こちら側へ来たのだろう。

「……あいつ、なにしにきたの?」

 どうして? どうして? どうして?
 疑問が募りに募り、フェリシアは無意識にその言葉を口に出していた。

「ね、ねぇ。あいつの行く方向を追いかければ、何か、分かる……かもしれない、よね……??」

 ウィスタリアを揺らしつつ、震える指先をぎゅっと握ると。フェリシアはヘンゼルとブラザーを交互に見やった。

《Brother》
 似ていると思った。

 グレーテルの愛情は、ブラザーのものとよく似ている。押し付けて、切りつけて。自分がつけた傷を泣きながら手当てして、愛してるなんて歌って。
 誰よりも分かりあっているフリをして、誰よりも分かっていなかった。いや、誰のことも、ブラザーは分かろうとしなかった。

 ひとつしか知らない役割に人をはめて、頭を押さえつけるように撫でるだけ。間違っていたと気づいても、それ以外を彼は知らない。

 きっとグレーテルも同じだ。
 たとえ間違っていたとしても、がむしゃらに愛していたのだ。誰がなんと言おうと、弟を愛していたのだ。


 例え、その資格が僕らにはなくても。


「フェ───……」

 ヘンゼルの言葉に悲しげに目を伏せ、フェリシアの言葉に苦しげに眉を寄せて。暗闇で足踏みを続けるブラザーは、言葉を探している。耳障りのいい共感は、もはや砕けた硝子の心には届かない。けれど、それがフェリシアだったから。後悔と罪の意識、渇望。ほんの僅かに、ブラザーの視線が持ち上がる。
 揺れるウィスタリアを見て、今度こそ名前を呼ぼうとした。続いたはずの言葉は、なんだったんだろう。

「ッ、駄目、駄目!! そんなの駄目に決まってる、危ないよ、何かあったら……!」

 飛び出したのは、強い否定。
 一歩前に踏み出て、後を追おうと言うフェリシアを見る。ギィギィと小気味いい不協和音が耳鳴りのように聞こえる部屋で、ブラザーは必死に声を荒げた。これは習慣だろうか。

「関わっちゃダメだ、ね、そうだよ、君もそう思うよね? ヘンゼル!」

 やけに焦った様子で、ブラザーはフェリシアの表情をうかがっている。何も思い出せないからこそ、彼の警報はうるさいくらいに鳴っていた。恐怖も嫌悪も全て消え去って、ただ彼の頭には、横たわる可愛い妹と弟の幻想だけがチカチカ点滅している。ヘンゼルに同意を求める姿は、貴方が最も忌み嫌うであろうグレーテルとよく似ているはずだ。

 ……それはまだ、愛情であったから。

 防音設備の整った合唱室内であっても聞こえてしまうほどの、文字通り学園中を揺るがすけたたましい騒音だったのか。
 それとも──怪物は殊の外、あなた方のすぐ近くにまで来ているのか。

 ギギギ、ギリ、ギイ……ギ……!

 心臓をヤスリがけされているかのような、緊迫感を迫り上がらせる不愉快な雑音。あなた方は瞬く間に表情を強張らせ、自ずと合唱室の入り口を見遣るだろう。
 開かずの扉の向こうに棲まう、悍ましい見目をした怪物。出会してしまえば命は無いと確信出来る、暴力的で殺傷力に満ちた武装──目撃した事のあるフェリシアとヘンゼルの脳裏には、ありありとシルエットが浮かび上がっている事だろう。

 混乱した様子で、しかし少しでも得られるものがあるのならと合唱室の出入り口に向かおうとするフェリシアと、それを引き止める切羽詰まったブラザーの悲鳴じみた叫び声。
 彼の危惧はもっともだ。見つかれば殺されてしまう事は疑いようもなく、その恐怖を沸き立たせるに充分な物音を立てながら。

 ──化け物は今も、この合唱室の方へと迫っているように聞こえた。


「……すぐそこの階段を降りてきてる。もし合唱室に入って来たら不味いぞ……」

 ヘンゼルは顔を強張らせて、懸念事項を呟いた。
 見て分かる通り、合唱室は袋小路だ。また大きな障害物といえば楽器ぐらいのもので、全員が隠れられるスペースなど存在しない。
 つまりあなた方は、祈るほかなかった。


 まるで追い縋るようにこちらに同意を求めるブラザーに対し、ヘンゼルは思考するように顔を俯かせた後。

「リスクは高いが、追跡してみる価値はあるだろ。どちらにせよ、俺は開かずの扉の先を調べたかった。あの怪物の出入りの瞬間を目撃すれば、侵入方法が分かる。

 だがともかく今は、怪物が通り過ぎるのを待つしかない……」


 予測出来ない怪物の出現に、到底弄せる策など無かった。ヘンゼルはデュオモデルとして屈辱的ながら、成り行きと運に身を任せるしか無い現状に歯噛みする。鋭い目付きで扉を睨んで、警戒を続けて──


 ……そして。
 怪物の発する軋むような騒音が、合唱室の目の前を通り過ぎていった。
 どうやら幸いにして、怪物はこの教室に用はなかったらしい。次第に遠ざかり、物音が吸い込まれる距離にまで離れた時。


 ──フェリシアに賛同していたヘンゼルが、唐突に足を踏み込んで、自ら率先して扉を開いた。
 僅かにのみ。目を覗かせる程度にだけ。だがその隙間で充分だった。


 あなた方の視界を横切ったのは、暗がりを突き抜ける無数の流星であった。

 銀の三つ編みという軌跡を引いて颯爽と駆け抜けるアラジンと、その隣に着くようにして美しい青髪を靡かせ、軽やかに階下に降り立っては先を急ぐアメリア。

 ──そして、その二人に追走して淑やかに細足を踏み込む、白銀のドール・ミュゲイア。


 不思議な取り合わせ。
 三人で連れ立って、彼らは脇目も降らずに廊下を駆け抜けていく。
 ヘンゼルは眉を寄せてその動向を目で追うと。


「……アメリア、ミュゲイア、それともう一人は知らないが。奴ら、怪物を追って一階に降りて行ったぞ。

 ──どうする?」

 扉を背に、改めてあなた方の意向を問うた。
 危険を承知で追うか。
 身の安全を取るのか。

 ──どちらを選ぶにせよ、あなた方はこれから、逃れられない長い夜に巻き込まれることになる。

 嵐の前の静けさが、合唱室内に横たわっていた。


Scene2『Tracking tracking』

【学園3F カフェテリア】

Amelia
Mugeia
Aladdin

 怪物、仮称ハネアリが出現するのは、不穏な噂ひしめく『開かずの扉』から──


 あなた方はまずカフェテリアを経由し、北階段の方へ向かうだろう。自然と三階から階下を見下ろす形になるはずだ。踊り場から二階へと折り返す階段の形状から、カフェテリアに居ながら踊り場の様子を確認することが出来る。

 息を顰めながら、沈黙する開かずの扉を固唾を飲んで見守っていると。
 照明の無い薄暗がりで、ギギギ、ギ、ギ……と心臓に爪を立てられているような不快な音が響いている。怪物が発する音なのであろうが、あまりにも悍ましく、聴くものの不安を駆り立てるような酷い音だ。
 少しすると、何も触れられていない筈の踊り場の赤い壁が、ひとりでにギィ、と開かれゆく。

 ──その向こう側、立ち込める闇を引き連れるようにして、暗澹に溶け込む黒き怪物が姿を見せる。



「…………見えるか? アレが怪物、『ハネアリ』だ。巨大な翅があって……言い得て妙だな……」

 カフェテリアの壁に身を隠しながら、アラジンが息を潜めつつ呟く。
 確かに彼の言う通り、怪物の背面からは大きな翅が生え出ていた。薄皮のように半透明で、向こう側の景色が透けて見える。しかし翅は随分心許ないほどに薄っぺらく、あの巨体を浮かせる事は構造的に難しいであろうことが推測される。
 2メートルを悠に越えるような巨大な体躯と、その全身を鎧うような黒い外骨格と硬質な肉体。貌という特徴が一切見られない頭部には、虫を模したような触覚が伸びている。巨大な腕を振り抜かれればとても無事ではいられないであろうし、その腕の先には更に殺傷力の高そうな鋭利な鉤爪が取り付けられている。

 ハネアリは学園側に出たあと、ギリギリギリ、と張り詰めた音を体内から鳴らしながら、まず階下──つまりは二階へと降りていく。
 あなた方の方へやってこなかったことに、まずは安堵すべきか。このまま追跡を続けるだろうか。

《Mugeia》
 長い長い夜が始まった。
 芸術を追い求めた夜。
 夜風に誘われてドール達は歩き出す。
 ゆっくり、ゆっくり。
 息は潜めて。
 密やかに、密やかに。
 ランタンの明かりも消して。
 月の導きを頼りに。
 夜が明ける前に。
 月の息吹に背中を押されて。
 もう後戻りはできない。
 後ろを振り向いてはいけない。
 手を掴まれてしまうから。

 knock.

 knock.

 手を伸ばして。
 蝋燭が溶けないようにゆっくり。
 手を重ねて。
 浅い息を殺して。
 夜が貴方たちを味方する。
 素足のままで地を踏みしめて。
 かくれんぼの夜遊びをしよう。
 どちらが鬼かも分からないまま。
 隠れて、探して。
 早く見つけて。
 ほら、夜闇が囁いている。
 恐ろしい怪物が目を覚ます頃。
 子羊たちはその背中を追いかける。
 ミュゲイアは二人について行く。
 廊下の冷たい感覚を感じながら、ゆっくりと。
 あらわになるハネアリの姿を見てミュゲイアはゴクリと固唾を呑んだ。
 大きい体躯に何かとも言い表せないおぞましい姿。

「……あれが、ハネアリ。あれじゃ笑えなさそうだね。……あっ、2階に行っちゃうよ? ついてく?」

 ヒソヒソとアラジンが声を小さくしたのに合わせてミュゲイアも声を小さくした。
 ハネアリ。開かずの扉の怪物。
 ヘンゼルから聞いた話を思い出した。
 彼もまた怪物を見たドールのひとり。
そして、ミュゲイアは一度彼に怪物の事を前に聞きに行っていたらしい。

「ヘンゼルがね、ハネアリの事をガワを被ってるだけに違いないって言ってたの。じゃあ、あれを取ってあげたら笑顔だったりするのかな? ……アメリアはどう思う?」

 ハネアリの姿を目で追いながら、ミュゲイアはアメリアに質問をした。
 前にヘンゼルから聞いた話。
 大きな巨体のガワを被っているだけである。
 関節部分からギィギィと金属音がする。
 あの巨体はただの被り物。
 それは本当にそうなのだろうか?

《Amelia》
「見えています……そうですね。
 仮に中に人型の存在が入っているなら……恐らく先生のような、随分と大柄な人物なのでしょう。
 追いますよ。」

 独特な見解を示すミュゲイアに、もしも中に誰かが入っているのならという仮定の推測を小さな声で伝えた上で、相手からいつでも隠れられるように壁を意識しながら追いかけようとする。
 この場で襲われたら最も逃げづらいのはトゥリアであるミュゲイアとアラジンだ。
 となれば多少リスクのある行動は(どんぐりの背比べ程度の差しかないけれど)デュオであるアメリアが請け負わねばならない。

 加えて、彼女は慎重に歩きながらその怪物を観察する。
 例えば肩の関節。
 本来アリなどの昆虫の足は付け根まで外骨格によって覆われているが、人間が鎧を纏う場合はそうもいかない。
 例えば脇の下なんかは可動域を確保する為に装甲が薄くなったり、材質の違う物質で覆う事が多い。
 これを見分ければアレが纏っているだけなのか、或いは中に生き物を入れて動かす事を前提にしているのか、の判別ができるのではないだろうか?

 ハネアリの不意の動きに反応して隠れられるように耳をすませながら、彼女は考えていた。

 あなた方三名は、息を顰め、常に壁の裏側の怪物にとっての死角になる位置取りを守りながら、適度に距離を取って追跡を始める。足元すら覚束無い程に暗い階段を、ひたひたと靴下を擦らせる無音の足音を立てながら、極めて慎重に。
 あの怪物は、どう見てもドールズへの抑止力と言った名目で存在しているように思える。体躯も武装も何もかも、脆くて弱いドールズと比べようもないほどに堅牢であり、とても太刀打ち出来そうになかった。仮に無数のテーセラモデルが徒党を組んで武器を持ち飛び掛かっていっても、あの巨腕の一薙ぎで皆斃れていくだろう。見れば見るほど、あの怪物を排除して開かずの扉の先を目指すのは現実的では無いように思えた。

 アメリアがよく観察するならば、確かに怪物の四肢の関節部位、肩関節と肘関節、膝関節と股関節の近辺は、一部分のみ黒い装甲が別の可動出来る素材に置き換えられていることが分かるだろう。

 また、あの怪物が移動するたびに頻りに鳴り響くこの不愉快な金属の擦れるような音。これはプレートアーマーの弱点、移動時に掻き消すことの出来ないカチャカチャという金属音に似ていた。
 トゥリアであるミュゲイアがよくよく観察するならば、あなたの目にはあの怪物が金属製の絡繰装置であることが一目瞭然だった。鼓動や呼吸音、また虫であるならば触覚や翅を時折震わせたりなどと言った……そんな生物として当然の挙動を、ハネアリがまったくしていないことが明るみに出るのだ。

「……確かに、ガワと言われればしっくり来る。アレはどう見ても生き物じゃないな、金属で出来たロボットみたいなものだろう。

 だとしたら内側にはオレたちみたいなドールか、もしかしたら……管理者側の人間が入ってるのか?」

 アラジンもまたその事実を確認したのだろう。移動する傍ら、手元のノートのハネアリが描かれたページに、判明した事実をこなれた様子で書き込んでいく。

 ハネアリは階下に降りた後、合唱室の隣、演奏室の扉前を通り抜けていく。その挙動は巨体に見合わぬほど意外にも俊敏で、あなた方は追跡の足を速めねばみるみる距離を離されてしまいそうな具合であった。

 そして、ハネアリの爪のような腕が、器用に講義室Aの扉を開く。……そのままその室内へ入っていく。
 この先は備品室があるだけで行き止まりだ。確実に怪物は取って返してくるだろう。
 講義室の中へ入っていくべきか、否か。

《Amelia》
「では……三手に分かれましょう。
 アメリアは講義室に入り、机と教卓に隠れて追跡を行ないます。
 次に、ミュゲイア様は楽器保管室から壁越しに備品室で何か大きな物音が無いか耳を立てておいて下さい。
 そして、アラジン様は教室の外で待機して、ハネアリが出てきたら直ぐにミュゲイア様を呼びに行く連絡係をお願いします。
 もし合流に時間が掛かりそうな場合は目印に絵の具のチューブを落として行きますから。それを目印に合流しましょう。」

 アラジンの言葉とミュゲイアの問いに頷いてから、アメリアは小さな声で一つの提案をする。
 ……とは言ってもこの時間の無い状況での提案は殆ど強制に等しいものだったが、それは仕方ない。

 一先ず、その提案を伝え終えた彼女は、二人の様子を伺いながら講義室の入り口まで向かい、足音が離れるのを、覗き込んでも良い位まで離れるのを待つ。

 そのまま、離れたのを確認したならば、裁ちばさみを取り出して刃の金属部分を鏡のように使って、顔を出さずに部屋の中を覗き込んでハネアリがこちらを向いていない事を確認してから部屋の中を覗き込み、二人の行動を待つだろう。

「アイツ……講義室なんかで何するつもりなんだ? もう誰も残ってないはずだけどな……」

 もしもあの怪物が、学園に残っているドールを脅かして急いで帰らせる為にこちらに来ているのだとしたら。合唱室や演奏室を素通りしていくのはおかしな事だ、講義室だけ見回りに入るというのも違和感が残る。
 何か明確な意図があって講義室を選んだのだろう。それは重要な事であると確信出来るのだが、何分鉢合わせるリスクが高すぎるため、教室内まで見に行くことは難しいだろう。

 ここは奴がもう一度出てくるのを待とう、と歯痒い気持ちを堪えつつも危険を犯さない為に、アラジンは二人に提案しかけたのだが。
 アメリアの単独で危険な講義室に飛び込んでいくという大胆な提案にギョッとして、目を瞬いた。

「アメリア、それは流石に危険過ぎる、一人でって──」

 と、彼女一人を危険に晒すわけにはいかないと抗議を示しかけたのだが。
 時間がないと無理を通し、教室の前から怪物の様子を窺い始めたアメリアを見て、これは曲げられないなと苦笑すると。

「……ミュゲ、オレはアメリアの提案に乗ろうと思う。アメリアに何かあったら、ここからオレが助けに向かう。お前は楽器保管室の方を頼めるか? ……もし懸念があるならオレと一緒にここに居てもいい。」

 そうして、アラジンはミュゲイアの意志を確認する。彼女もまた単独行動にはなるが、楽器保管室と備品室は繋がってはいない。一番安全な位置だと言えるだろう。それでももし不安ならここに残るといい、と選択肢を用意した。

《Mugeia》
 ミュゲイアにはあの怪物が何を考えているのかはわからない。
 それはきっと他の二人も一緒だろう。
 そして、ここでミュゲイアが何か提案をするということもなかった。
 アメリアの作戦を聞いて、ミュゲイアはコクリと小さく頷いた。
 やはり、こういう場面ではデュオドールであるアメリアの言葉が一番信頼出来る。

「……わかった、ミュゲ頑張るね!
 アメリアも危なくなったらすぐに逃げてね。」

 ミュゲイアがアメリアの提案に乗らない選択などなかった。
 いつも通りの笑みを浮かべて、2人を見ていた。
 この作戦において一番危ないのはアメリアであろう。
 けれど、当の本人は既にやる気である。
 ならば、止めるなんて出来ないだろう。  

《Amelia》
「……」

 同意したらしい二人に対して、既に教室の前まで移動してしまった彼女は声を出さないように頷きを返す。

 慌てて制止しようとしていたアラジンには少し悪い事をしてしまった気もするが……。

 ともかく、作戦も決まった彼女は先程行った確認を元にハネアリがこちらを見ていない事を確認したら。
 そっと講義室Aに入り、先ずは机と椅子の陰に隠れて安全を確保。

 その後机と椅子の陰を伝って、ハネアリに気づかれないように教卓を目指す。

 アメリアは慎重な確認作業が功を奏して、無事怪物の死角を潜り抜けながら教卓の裏側に滑り込むことが出来る。

 ハネアリは講義室内にひしめく机や椅子をその巨体でおっかなびっくり避けながら、しかしまるで迷いのない足取りで教室の奥へ──備品室の扉の方へ向かっていた。
 ギギ、ギイ、ギイ、という鼓膜をヤスリがけされているような不快な騒音を変わらず、薄暗く静かな講義室内に響かせながら。お飾りの触角や翅を揺らし、その鉤爪で邪魔な机を掻き分けながら──

 とうとう怪物は、備品室の扉を開いてその向こうへと姿を消した。
 接近するあなたに気が付いた様子は、今のところ無さそうだ。



 ──一方、楽器保管庫の方に小走りで向かい、身を寄せ合うトロンボーンとかコントラバス、トランペットのティンパニなどの合間を潜り抜けるミュゲイア。彼女は無事に、尚且つ素早く、備品室に面する壁にたどり着くだろう。

 緊張を飲み込んで壁に耳をそばだてて集中するならば、テーセラほど優れた聴覚でなくとも向こう側から微かな物音が聞こえてくる。
 どうやら、ハネアリは講義室ではなく備品室に用事があったようで、扉の開く音、次いで、向こう側で何かを漁るようなゴソゴソとした物音が聞こえてくる。

 壁に挟まれた現段階では、ハネアリが何をしているのか想像が付かない。

 だがあなたと、そして講義室に留まるアメリアの耳は微かに捉えるだろう。

 ──それは歌声だった。
 低い唸り声にも似た、しかし男性のものであると分かる歌声が、備品室から穏やかな風のように滑り出てくるのだ。


『Da……s……,Giv………………our an……wer……do…………』


 緩やかな春風のような旋律。
 それは、バラードのようにも聴こえる。

 ……少しして、歌声は止んだ。
 そしてミュゲイアは、備品室から遠ざかる怪物の物音を聞くだろう。ハネアリは備品室から取って返そうとしているようだ。

 急いで廊下に戻り、アラジンと合流すべきだ。

《Mugeia》
 アメリアが動き出したのを見てからミュゲイアも動き始めた。
 身を寄せ合う楽器たちの間をすり抜けて、備品室に面する壁の場所までたどり着いた。
 早く動き出すコアを宥めるように静かに深呼吸をしてから、そっと壁に耳を当てて集中する。
 テーセラほどの優れた聴覚はないけれど、微かな物音が壁越しに聞こえている。
 壁に耳を当ててからすぐに備品室の扉が開く音がした。
 どうやら、講義室に用があったわけではないようだ。
 向こう側でゴソゴソと何かを漁る音が聞こえるけれど壁越しでは何をしているのかは想像がつかない。
 何かをしているのか喋っているのかすらミュゲイアには分からない。
 そして、少しすれば備品室から遠ざかっていく怪物の物音が聞こえた。
 それを聞いてからミュゲイアは壁に耳を当てるのをやめてアラジンの元へと動き出す。

《Amelia》
「……」

 静かに息を潜めながら、備品室の様子に意識を向ける。
 恐らく、ハネアリは何かを探しているのだろう。
 この学園の備品を探すとは思えないから……ドールの私物の類だろうか。

 それに歌を歌っていたと言う事は、やはりそれだけの知性を持つ存在がアレの中には入っているのだろう。

「……」

 そんな風に考えていたアメリアはハネアリが備品室を出た後、これまた追いかけるようにして、机と椅子に隠れながら追いかける。

 ミュゲイアの動向を知らない彼女は、その間に鞄の中からそっと目印となる絵の具チューブを取り出すが……意外にも、それは必要なかったらしい。

 アラジンはあなた方が戻るまで、螺旋階段の裏、講義室の入り口から丁度死角になる位置を取って身を隠していた。
 今に、講義室から騒動の音が聞こえてきたら。聞こえない方がいいのだが、万が一の時に備え、すぐにでもアメリアの元へ駆け付けられるよう。

 だが、幸いにして尾行中、怪物に存在を気取られる事はなかったらしい。
 演奏室の扉を開いてミュゲイアが小走りで戻ってくると、「ミュゲイア、戻ってきたんだな。気を付けろ、ここに。」と表情を綻ばせながら、身を隠せる現在位置に彼女を誘う。

「──……!」

 少しして、講義室からはハネアリが姿を現す。ぬうっと、闇から闇が滲み出るようにして悍ましく、小さな扉から巨体が潜り抜けてくる様は背筋が冷える恐ろしいものだ。アラジンはごく、と生唾を飲んでミュゲイアの身を隠しながら、こちらにやってくる怪物に存在を気取られないよう口を押さえて一切の物音を立てないようにする。

 かくして怪物は、アラジンとミュゲイアが身を隠していた螺旋階段の中に踏み入り、響き渡る金属音を鳴らしながら更に階下へ消えていった。
 至近距離であったためにアラジンは全身から一気に脱力して、眉間に手の甲を添えて「はぁ〜〜〜っ……」と勢いよく息を吐き出す。

「……アメリア! 無事だったんだな、良かった。でもあんまり無茶はするなよ、お前に何かあったら巻き込んだオレも心が痛むからな。」

 講義室から五体満足で出てきたアメリアの姿を確認し、アラジンは胸を撫で下ろしながら声を掛ける。

「アイツは一階の方に向かった。……すぐに追いかけよう、どこに向かうかは分からねえけどな。」

《Mugeia》
 演奏室の扉を開けばすぐさま小走りでミュゲイアはアラジンの隠れている螺旋階段の方へと向かい、アラジンに誘われた場所に移動して身を隠した。
 後はアメリアが無事に戻って来るだけ。
 けれど、その前にハネアリが講義室から姿を現した。
 ミュゲイア達の隠れている螺旋階段の近くまで来ると、ミュゲイアも口を押さえ息をすることも許さないほどに息を潜め、ハネアリが離れていくのを待っていた。
 ハネアリの姿が階下へと消えていけばミュゲイアは肩の力が抜けたように大きく息を吸って吐き出した。
 そして、アメリアも五体満足で講義室から出て来ればニッコリと笑った。

「アメリア! 大丈夫だった?

 ……うん、早く追いかけないと見失っちゃうもんね。」

 アメリアに話しかけてからミュゲイアはアラジンの提案に対して言葉を返した。
 ここで辞めるなんて事も出来ないし、追う以外の選択肢はない。

《Amelia》
「アラジン様にミュゲ様、既に合流していたのですね。」

 戻ってきてすぐ、意外にもアラジンとミュゲは既に合流していた。
 驚きで大きくなりそうな声を潜めて話しかけながら取り出しかけていた絵の具を仕舞う。

「うっそう言われると少し耳が痛いというか……。
 ともかく、お互い無事で良かったです。」

 そのまま心配するアラジンに半ば言い訳じみた返事を返しながらハネアリを追いかけ始める。

 さて、備品室から出て来たハネアリは何か物を持ってはいないだろうか?

 螺旋階段を今なお降りて行く漆黒の怪物は、時折ギギ、と鋼鉄の装甲を石壁に擦らせ、その度に狭い空間に響き渡る不快音を立てている。
 あなた方は上階からその様子を慎重に覗き込む形になるだろう。アメリアがよく観察しようと、ハネアリはその腕らしき部位、に何かを持っている様子は見られない。他の部位についても同様であり、ハネアリは備品室から何かを持ち出したという訳ではないようだ。

 やがて螺旋階段の出入り口から怪物が出て行ったのを見送ったのち、アラジンが先陣を切る形で早足で階段を駆け降りていく。金属質な階段は降りるたびに僅かに軋んだが、慎重に進んで行けば気取られるほどのものではないだろう。

【学園1F ロビー】

 そうして漸く一階に降り立つ。アラジンは螺旋階段の出入り口の影に身を潜め、遮蔽物の少ない広々としたロビーの様子を窺った。

「……アイツ、エーナドールの控え室に真っ直ぐ入って行ったみたいだ。ダンスホールに用があるのか……?」

 アラジンと同様、あなた方の目にも、控え室の豪勢な扉を押し開けるハネアリの後ろ姿が映るだろう。
 ……そして、怪物の姿が絢爛なジュエリーボックスの中へ消え、扉は閉ざされる。

 あなた方はそのままハネアリを追って、控え室へ向かうだろうか。

《Mugeia》
 螺旋階段を降りていくハネアリの姿を上階から隠れて覗き込む。
 時折ギギ、と鋼鉄の身体と石壁の擦れる不快音が鳴り響く。
 嫌に耳に残るその音が頭の中でこだまする。
 やがて、ハネアリが螺旋階段を降りて出入り口から出ていったのを見送るとアラジンが先陣を切って早足で階段を駆け下りてゆく。
 それに続いてミュゲイアも大きな音をたてないように慎重に階段を降りてゆく。
 微かに軋む音にドキドキとしながらも無事に降りれば身を潜めて広々としたロビーの様子を窺う。
 ハネアリがエーナドールの控え室に入る後ろ姿がミュゲイアの瞳に映った。
なぜ、控え室に入ったのかは分からない。
 けれど、その控え室の奥にはお披露目でも使われるダンスホールが広がっている。
 悪夢のような場所。
 お披露目という夢が覚める場所。

「わかんないけど、ダンスホールに何か用があるならあとを追わないとだよね。ハネアリがダンスホールで何かするなら他のドールの控え室から音が聞こえたりしないかな?」

 後を追うにしてハネアリの入って行った控え室に我々三人も入るのは絶対に避けるべきことだろう。
 だとすれば、他の部屋から聞き耳を立てるくらいでしか様子を窺うことは出来ない。
 此処で待っていたとしてもハネアリが出てくるかは分からないのだから。
 ミュゲイアは他の二人に意見を求めるように言葉をかける。

《Amelia》
「ふむ、良い案です。
 先ずは控室の前で聞き耳を立てて、ハネアリの動向を探りましょう。」

 エーナドール控室へと入っていくハネアリを見送りながらミュゲイアの提案に同意する。
 アラジンの言うようにハネアリはダンスホールに用があるのかもしれないが……。
 そもそも控室に物が増えていた現状を鑑みるに、ハネアリが控え室に何か物を持ってきた可能性も否めない。

「その上で、ダンスホールに移動するようなら控え室に入り、また音による追跡を行ないましょう。」

 そこで、彼女は二人に付いてくるよう促しながらエーナドール控え室の扉に聞き耳を立てる。
 さて、足音はダンスホールに向かうだろうか、それともデュオドール控え室に向かうだろうか。

 はたまた、こちらに向かってくるだろうか?

 一歩、また一歩と。
 闇に包まれた怪物の正体を暴かんとするドールズが床を踏み締め、その背に、そのいびつな翅に迫る。
 危険を犯してでも、あなた方は直ちに手掛かりを手に入れねばならない。
 お披露目はきっともう目前で。
 恐らくまた誰かが犠牲になる。
 次は同級生かもしれない。次は隣人かも知れない。次は大切なあの子かも知れない。
 次は、自分かも知れない。

 故にその足は速まるのだろう。
 しかし緊張に息を殺しながら、あなた方はハネアリの動向に注意を注ぐため、豪奢な扉の傍へ歩み寄り、耳をそばだてる。
 怪物は一体この場所で何をしているのか? どこへ向かうつもりなのか?

「…………待て、何かおかしい、」

 向こう側の音を聞きつけようと集中し始めたアラジンがふと、眉を顰めた直後だった。


「──キャアァッ……!!!」


 控え室の中から、絹を裂くような乙女の絶叫が聞こえた。空気を震わす痛ましい少女の嘆き声。それは恐怖に打ち震えていた。
 間違いなく、この時間まで偶然控え室に残っていた誰かしらのドールが、あの悍ましい怪物と運悪く鉢合わせてしまったのだろう。

 あなた方の間に戦慄が走る。
 あなた方は、いつでも飛び込める位置に居る。

 ──さて、室内に踏み入るだろうか?

《Mugeia》
 一歩ずつゆっくりとミュゲイアは動き出した。
 このトイボックスで暮らしてきてこんな事をした経験はない。
 この場にいて壊れるかもしれない危険なんて考えたこともなかった。
 緊張が走る中ゆっくりと進み出す。
 お披露目は待ってくれない。
 次は誰かも分からない。
 ミュゲイア達には今しかない。
 早くなる息を殺して、豪奢な扉のそばまで歩み寄り、耳をそばだてる。
 怪物の動向を探るように。
 アラジンの言葉にミュゲイアはアラジンの方へと視線を向けた。
 ドクンと大きくコアが波打つ。
 アラジンの言葉の直後、控え室の方から叫び声がした。
 その叫び声の理由はすぐに分かった。
 ハネアリと遭遇したのだ。
 なぜ、この時間までミュゲイア達以外のドールが学園にいるのかは分からない。
 きっと偶然だ。
 きっと、運が悪かったのだ。
 恐怖に満ちた叫び声は静寂に満ちた学園の中に響いた。
 助けるべきなのだろう。
 けれど、ミュゲイアの身体は動かなかった。
 まさかの自体に身体が硬直してしまう。
 ミュゲイアはこの状況で助けるという思考にはならなかった。
 それ以前に思考が止まってしまった。


「…………え? ……ど、どーしよ。」


 震える唇から出た言葉は情けなく、アラジンとアメリアのことを見ながら判断を求めただけであった。
 そもそも、ミュゲイアはトゥリア。
 あんな巨体と対峙したところで勝ち目はない。
 それどころなほんの少しの衝撃で壊れてしまうかもしれない。
 ミュゲイアはヒーローじゃない。
 だから、今どうするべきか分からない。
 勝てるビジョンも見えない。
 痛々しく叫んだ乙女を救うことも出来ない。
 ただ、この場に三人で固まっていれば次は自分たちがバレるかもしれないということしか分からない。
 ただ、この状況でも笑っていることしか出来ない。
 笑う事しか出来ない。
 怪物と鉢合わせてしまったドールのことを考えながらミュゲイアは笑っていた。
 ピクピクと震える唇は確かに三日月を描いている。
 震える手でアラジンの腕を掴むことしか出来ない。
 それはまるで行かないでと言っているようでもある。
 少なくともミュゲイアは現段階では見捨てるしかないと思っている。
 怪物に華奢でか弱いドールでは勝ち目はない。
 温室で育てられた華美な花は今更何も出来ない。
 顔も知らないドールを助けたいという思考にすぐ移れるほどミュゲイアには正義感はない。
 だから、アラジンの手を掴んだ。
 ミュゲイアにとって鉢合わせたドールよりも目の前の二人のドールの方が大切だから。

《Amelia》
「……!!」

 悲鳴が聞こえた。
 控え室の中から、足音でも扉の音でもなく、ただ確かな恐怖を訴える悲鳴が聞こえた。

 そんな恐ろしい状況に対して、アメリアの中に生まれた驚愕と混乱はたった一瞬だった。

 アメリアの中にある冷静な思考はただ静かに「釣り合わない」と答える。

「ミュゲイア様……静かに。
 アメリア達には助けられませんし……この施設の者を安直に傷つけるとは思えません。

 観察に徹しましょう。」

 だから、半ば混乱しているミュゲイアと、そばに居るアラジンに彼女は動かないようにと嘘をつく。

 確かに、何も起きない可能性はあるが……学園の秘密が見られて何もしない方がおかしい。

 だから、これはきっぱりと嘘で。
 単に今リスクを背負いたくない彼女の保身から出た言葉でしか無かった。

 けれど、きっとそれもまたアメリアの本性なのだろう。

 何故ならアメリアは……何を犠牲にしてでも愛する者に会おうとするのだから。

 控え室の中から響く、乙女の絶叫。あなた方はその意志に依らず、選択を迫られた。
 己が身を犠牲にしてでも見ず知らずのドールを救うか、己が身の安全を取るのかを。

 アメリアの判断と取捨選択は素早かった。戸惑うミュゲイアと、そしてアラジンに、何よりも早く指示を出す冷静さは流石デュオモデルと言ったところか。飛び込んで行ってもなんの益にもならないと即時判断する、その利己主義的な考えは本能に染み付いたものがあろう。

「……ッ、でも、」

 しかしアラジンは違った。
 彼は僅かに扉に触れかけていた。アメリアの制止が無ければ、そしてミュゲイアが腕を掴んでいなければ、すぐさま飛び込んでいただろう。
 アラジンは常に渦中に居る。嵐の中へ自ら飛び込む。恐れがない。
 だが彼の代わりにミュゲイアがその恐怖を覚えていた。それはきっと残酷な事であった。

 アラジンが強張った顔であなた方のことを見据えていた時だった。



「フェリシアッッッ!!!!!」



 鋭い咆哮にも似た叫び声が、暗い廊下に響き渡る。それはあなた方にとって、いつも温厚で物腰柔らかい声であるはずだった。しかし今はその繊細な喉が破れんばかりに、ブラザーは切羽詰まった声で叫んでいた。


 ──直後、扉の前に立っていたアメリアの細い肩をグッと押し退けて、扉を開け放った者がいた。


 目の前で広がる美しい藤の花。そして激しくひるがえる深紅の制服。正義の信念を燃やし尽くしながら、吹き荒れる豪雨の最中へも飛び込む弱き者の味方。

 彼女は、迷いもなく室内に飛び込んでいく。背後に突き刺さる制止の声をものともせず。

【学園2F 合唱室】

Hensel
Brother
Felicia

《Felicia》
 一度聞いたら二度と忘れられないような不愉快な轟音に、フェリシアは思わず悲鳴を上げそうになる口を抑えた。しかし、哀願じみたブラザーの叫び声をよそに、彼女は合唱室の扉を開けようと出入口に足を忍ばせる。怪物の存在を肌で感じるのが分かった。金属が無造作に擦れる音が近づいてくる。フェリシアの額からは焦りと緊張の汗が伝った。

「ヘンゼルくん、しぃ。
 あいつがこっちに来ないなら、気づかれる訳にはいかないよ。」

 できる限りの小声で人差し指を口の前に立て合図をすると、様子を伺うように腰を低くした。声を殺し、緊張を殺し、一切の音を立てないようにする。……これが彼女に今できる、生き延びるための可能性が一番高い行動だった。

 暫く扉を睨んでいたが。雑音が小さくなり怪物がよそに行ったと分かると、ほっと胸を撫で下ろす。ひと呼吸おくと、ブラザーを案ずるようにペリドットを向けるのだった。

「ブラザーくんは、大丈夫? 一旦は心を鎮めよう。えぇっと……一緒に深呼吸しよっか。」

 あなたが否定しなければ、フェリシアは大きく息を吸い込み、時間をかけて吐き出すだろう。

 その時、ヘンゼルくんが扉の方に向かったことには少々驚いた。
 同じく彼の背を追うと、空いた隙間から見えた姿に目を見開いた。
 そこに居たのは、よく知るふたりと、星屑色の頭髪を結い合わせたドールだった。どうする? という質問に、フェリシアは迷わずに答えることだろう。

「………行かない選択肢、ある?
 アメリアちゃんやミュゲちゃんが危険な目に遭ってるのに。」

 ガラガラと扉を開けると、フェリシアは闇の向こうへ歩き出そうとその一歩を踏みしめる。廊下側からふたりを向き直ると、

「あなた達が行かなくったって、私はひとりでも行くよ。あの三人が心配で、何より気になるから。」

 鳴り止まないコア。迸る緊張感。そのどこかで、けたたましい開演ブザーが鳴った気がした。

《Brother》
 音がどんどん大きくなる。
 鼓膜を劈く音、飛び出そうなほど跳ねるコア。足がすくむ、けれど引き止めないわけにはいかない。大切な妹と弟を、みすみす失うわけにはいかない。

「だ、駄目、駄目だ……」

 怪物が通り過ぎるまでの間が、ブラザーには何時間にも何年にも感じられた。べっとりと手汗の滲む手を胸の前で握りしめて、祈るように目を閉じる。ぎゅうときつく閉じて、最悪の状況が何度も何度も浮かび上がってきて。それを否定するために、爪がくい込みそうなほどに両手を握った。震えた声で繰り返す静止の声は、きっと先を見る二人には届かないのだろう。それがブラザーにも分かっていたから、余計に、どうしようもなかった。

 自分ではどうすることも出来ない。
 ああ、こんなにも恐ろしいのに。

 音が一際大きくなって、ブラザーは呼吸すら止めていた。気づかれてしまえば、二人はどうなるか分からない。数十秒かしか止められなかったはずが、こんなにも長くやり過ごせるのだと、ブラザーは初めて知った。
 そうして、長い長い緊張がようやく終わる。物音は徐々に聞こえなくなって、それに気づくと同時に咳が出た。

「げほッ……かはっ、ひゅッ……!! まッ、ヘン、」

 空気を取り込もうと必死になった肺が暴れて、余計な咳が止まらない。引き止めなければいけないのに、まともに口が動かない。ヘンゼルはすぐに扉を開けてしまった。フェリシアの声も遠くにしか聞こえない。肩を掴もうと伸ばした手が空を切って、代わりに────視界を銀が靡く。

 箒星のような輝きに、ガツンと頭を殴られた。ここが室内だと言うのも忘れて、満点の星空の下にいるような感覚になる。星の輝きが体を突き刺している。ああ、これは。彼は、あの子は。

「ア、ラジン」

 星が過ぎる。願い事も祈る前に。
 星屑が瞬いて、ぼやけた輪郭の記憶が脳裏を焦がす。

 青い知性が続けて光る。
 望遠鏡なんかがなくても、ずっと近くを長い髪が揺れている。


 どくん、どくん。
 嫌な胸騒ぎがする。

 耐え難い悪感が背筋を走って、作り物の脳をぐらぐら揺らした。

 ブラザーは息を飲む。
 予感が当たる。星が爆ぜる。

 白銀が、揺れる。


「───ミュゲ」


 チカチカ、ない記憶が警鐘を鳴らす。ブラザーはこの恐怖を知っている。この予感を知っている。

 止めなければならない。
 得体の知れない焦燥が足を立たせる。倒れそうなほどすくんだ足を引き上げる。

 理由も原因も分からない。
 しかし、ブラザーは行かなければならなかった。

 冷や汗はおびただしい量溢れ出て、呼吸はひどく上擦っている。明らかに様子の変わったブラザーが感じているのは、間違いなく恐怖だった。


「……行かなきゃ」


 さあ、幕を上げよう。
 開演ブザーはジャンクの足音。


「星が、見えなくなる前に」



 星を見上げて、糸で踊って。
 とびきり甘く囁くのだ。



 星のない学園の下で、
 “おにいちゃん”の“愛情(げいじゅつ)”を。

 誰よりも前に、先陣を切って、彼女は勇壮に扉の前に立つ。先程まで怪物が通っていた冷たき通路へと臆する事なく踏み出すと、ウィスタリアの髪を揺らしながらこちらへ振り返った。
 今度は彼女がこちらの意志を問う番なのであろう。

 トイボックスに降り立った正義のヒーローにとって、ヘンゼルの問いは全くの愚問であった。今、友人が危機に晒されているとあって、彼女の行動を戒めるものなど何一つありはしなかった。

 それに続いて、鉛よりも重そうな足を半ば引き摺るようにして、恐怖に苛まれる美しき白銀のドールが躍り出た。
 まるで糸に引かれるように、運命的に。悪魔の誘いであっても気が付けないような、漠然とした焦燥に襲われたブラザーは、突き動かされるようにして廊下に出るのだろう。

 一度は決別したはずの、白百合の彼女を追わなければならないと奮起して。


「……予想はしてたさ。はっきり言って、状況判断テストでは落第レベルの愚行だろうが……俺も手段を選んでいられるような高尚な立場じゃなくなったからな」

 どうやらヘンゼルも、あなた方と考えは同じだったらしい。友人を、そして愛する者を案ずる気持ちとは違ったかも知れない。
 だが彼もまた、あなた方と目的を同じくして、合唱室から冷たい廊下に歩み出た。

「──急ぐぞ、見失う前に一階へ向かう。」

 こちらの方が早い、とヘンゼルは合唱室の目の前にある北端の階段を選んだようだ。
 足早に、しかし靴音を無闇に立てぬよう慎重な動きで、彼は赤毛を揺らしながら階下へと降りていく。

 意志を固めたならば、あなた方も同様に一階へと急ぐ事だろう。

【学園1F ロビー】

 頼りになる照明が消灯している中、あなた方は互いに暗闇に足を掬われぬよう、慎重に階下へと下っていく。
 怪物と鉢合わせることのないよう、常に聴覚を最大限に開きながら。あの不愉快な物音が聞こえたら、すぐに後退出来るように。

 最後の一段を降りて、あなた方は真っ赤な色に塗りたくられた見慣れたロビーに降り着く。
 どうやら既にこの広々としたロビーの一帯に、あの黒塗りの怪物の姿はない。
 一歩遅く見失ったか、と思われたとき。

 洞察眼に優れたブラザーは、他二人よりもいち早く見つけるだろう。
 慎重な足取りでエーナドールの控え室へと向かう、あの三人の背中を。怪物は、控え室の先へ消えたのだろうか?

 あなた方が、そちらへ向かおうと一歩踏み出したとき。


「──キャアァッ……!」


 か細いながらも、確かに聞こえた。
 エーナドールの控え室の、中から。
 乙女の金切り声。恐怖に苛まれるような、絶望からの絶叫。
 深く考えなくとも分かる。運悪く学園に残っていたドールが、あの怪物と鉢合わせてしまったのだろう。

 あなた方の間に戦慄が走り抜ける。
 今なら走って向かえば、恐慌の控え室に突入出来るかも知れない。
 だが、あの怪物に太刀打ちする術も無く、丸腰で、一体どうやって?
 守れる確証も無い。救える確証も無い。
 リスクの方が上回る。

 考えている暇は無い。──あなた方は決めなければならない。

《Felicia》
 直感に従うように自身と同じく扉の前に出るブラザーくんに、フェリシアはペリドットの瞳孔を動かした。既に限界を超えた彼に掛けられる言葉は、ない。本来ならば彼がひとりで立っていることを褒めるべきなのに。今のフェリシアにはそんな余裕も思考も持ち合わせている訳がなく。ただただその決断を、沈黙を持って許容するしか出来なかった。

 ──本当は、成績の優劣によって全てを左右されるのはおかしいと思うんだけどね……。

 フェリシアは喉まで出かかった小言を呑み込む。成績で全てが決まる施設内。しかし、変わらずに全てのドールは特別製なのだ。
 ……作りかえる。グレーテルちゃんは彼にそう言っていたらしい。
 それが事実でも、たとえ虚偽だとしても。この状況下でなおテストに拘ってしまうヘンゼルの特性に、フェリシアの中で形容しがたい感情が揺らいだ。

 ヘンゼルの後を追うように、フェリシアは同じく足音を立てないように歩を進める。彼女のウィスタリアは、汗の滲む頬に容赦無くまとわりついた。


 ロビーまで降りると、フェリシアは暗闇から三人の姿を見つけ出すように周りを見渡し、目を凝らした。そこには三人も、怪物の姿も見えなかった。……出遅れたか、と口を固く結びかけたとき。ブラザーくんの一声が。三人はどうやら怪物を追って、控え室に向かったらしかった。追跡を続けようと、少女はその小さな足を動かした……。

 ─── その時。少女の悲鳴が。

 衝撃が身体の全てを蹂躙するかのように駆け抜けた。雷に打たれたかのような、強烈な感覚。
 フェリシアはひゅっと息をする。
 丸腰で立ち向えば、間違いなく殺される。怪物に殺されてしまう。しかしヒーローの彼女には逃げる選択肢などなかった。何より大切な友達を彼女たちを助けない理由を、自分が傷つくからという言い訳にしたくなかった。

「───ッ!!」

 運命に弄ばれているかのように。
 フェリシアは怪物がいるであろうその場所に向かって、一目散に走り出した。

《Brother》
 壁を伝って、ゆっくりと足を下ろす。
一段一段丁寧に、けれど最大限急ぎながら。明かりのない道を手探りで進みながらも、ブラザーの焦りは止まらない。自然と足は大股になり、けれども歩く二人の方をチラチラと確認している。実在感のない不確かな、けれど確かな絶望に薄ぼんやりした恐怖を感じたまま。冷や汗が顎を伝うのを感じながら、鉛のように重たい足を動かした。

 ロビーに降りた頃。化け物の姿がないことに一先ず安堵し、すぐに耳を澄ます。何度も聞いた足音を、静寂の中から探し出そうとした。愛情深いトゥリアモデルは、僅かな靴音すらも見逃さない。今だけは、底抜けに自分を褒めたくなった。

「あっち」

 息を吐くように小さく。
 指でエーナドールの控え室を指し示し、ブラザーは二人の顔を見る。暗闇に慣れてきた両目で二人の姿を確認して、それから部屋の方を向いた。呼吸を整えて、足を踏み出す。
 ……止めなければならない。そうしなければ、ならないのだ。

 唇の端から、こぼすように息を吐いた、その時だった。
 聞こえたのは少女の悲鳴。深い恐怖の滲んだ悲痛な声に肩を揺らす。思考よりも先に、ブラザーは共に向かう二人の方をすぐに見た。二人には何も起きていない。無事、いや。


「フェリシアッッ!!!!!!」


 怪我ひとつないまあるい頬。
 安心の息を吐く間もなく、ちいさなヒーローは駆け出した。

 純真の太陽が止まっているはずがないと、ブラザーはどこかで気づいていたのだろう。絶叫に近い声で名前を呼んだ。そのときにはもう、彼の足までもが動いていた。苛烈な使命感に支配された頭が見ていたのは、噴水のそばで微笑む、かわいい妹の記憶である。

 モデルとしての構造上、フェリシアの方が先に扉を開けるはずだ。ブラザーは続けて部屋に飛び込み、控え室に存在するだろう椅子を乱暴に掴むだろう。切羽詰まった手つきで、それを怪物に向かい投げつける。きっとトゥリアの細腕じゃ怪物の横をすり抜け、壁に叩きつけられるだけでしかない。
 けれど、ほんの一瞬でも、怪物の意識がそちらを向くのなら。


 その数秒で、フェリシアは逃げることが出来る。
 その数秒で、怪物の標的は彼女から変わる。


 その数秒で、ブラザーに逃げることなんて出来ないけれど。

【学園1F エーナドールズ控え室】

Amelia
Mugeia
Aladdin
Hensel
Brother
Felicia


 ────ガン!!!!!


 ブラザーは無我夢中だった。だからこそ本来、氷塊を彫って造り上げられた美しくも脆弱な細腕からは、信じられない力を発揮出来た。
 焔の中へ飛び込んでいくかのようだったフェリシアの危うい背を追い掛けて、迷いもなく控え室に飛び込むと。手近なスツールを引っ掴み、勢いよく投げ飛ばす。

 そのなりふり構わぬ襲撃によって宙を舞った真っ赤なスツールは、控え室内にてその暴力的なするどい鉤爪を振り上げていた怪物の黒き装甲に激突した。耳障りな音が響き渡り、そして。


 ギリギリギリギリ!!!!

 鼓膜を引っ掻くようなけたたましい金属音と共に、怪物があなた方を振り返り見る。それは怒っているようにも見えたし、威嚇のようにも見えた。依然、怪物の無貌からは表情や感情といったものが一切読み取れることはない。
 怪物は現在、廊下に面した入り口から僅かに離れた、デュオドールの控え室へ続く通路に近しい位置にいた。

 そしてその怪物の傍、広がるフリルやレースで形造られた絢爛豪華な薔薇の中で、へたり込んでいる少女が居る。
 あのキツく巻き込まれた壮麗な黄金色の髪をすっかり力無く下ろし、弱々しく肩を震わせるのは、……アリスであった。

 同じエーナクラスであったフェリシアは眼を疑うだろう。自信と野心に満ち溢れていた彼女の、変わり果てたその姿に。


 だが今は彼女の様子を気にしている暇はない。怪物はあなた方に注意を向けてしまったらしい。

「……03S、03S、03S、03S、ゴルルルルルルッ……!」

 エンジンを蒸すような低く轟く音を不釣り合いに煌びやかな室内に響かせる最中、怪物は不明瞭な音声で何か数字とアルファベットの組み合わせをしきりに呟いた。

 かと思えばその巨体に見合わぬ俊敏な動きで椅子を投げたまま固まるブラザーに迫り、その腕を振り上げようとする。

《Felicia》
「………!?」

 振り上げられたスツール。自分が手を出すより早く投げつけられたその存在に、フェリシアは目を丸くした。火事場の馬鹿力とはこういうものなのか。そんな関係ないことが頭に浮かんでは、心の臓を掻き回されるのような激しい雑音にハッとさせられた。椅子を投げ入れたのは、どのドールモデルよりも壊れやすい身体と美貌を誇る。
 ……そう。他でもないブラザーくんなのだから。怪物に一瞬の隙ができたことを理解すると、フェリシアはすかさず叫び声の主を探すはずだ。

 怪物の傍らに居たのは──その顔に絶望を灯した、在りし日の友人の姿であった。フェリシアは少なからず動揺する。唯。取り巻きを引き連れ、金髪を振り乱した自信満々な様子でしか、彼女を見たことが無かったから。うずくまる勢いで呆然と佇む彼女に、ヒーローは手を伸ばし……かけた。

 轟々と意味不明な何かの音を広がらせる怪物。怒らせてしまったということだけは分かった。今にもこちらに襲いかかってきそうな雰囲気。フェリシアは怪物を睨みつけ、冷ややかに。そして感情的にそう告げた。

「なに変なこと言ってんのよこのアホ! その言葉の意味を説明してみなさいよ! エーナである私が聞いてあげてるんだから!! かかって来たらいいよ。私がアンタの相手してあげるから!!」

 ブラザーに迫る怪物に叫び掛ける。どうかその注目が自分に移りますように、なんて願いながら。
 しかしそれは暖簾に腕押し。体格に似合わない驚くべきスピードで彼に近づく怪物に、フェリシアはブラザーをドレスの海に突き飛ばすことしか出来なかった。

「ブラザーくん危ない!! あいつ何が弱点なのか全く分からないから、とりあえずドレス全部投げちゃおう! 目が塞がったら、こっちのものだよ!!」

 虫のような体つきをしているのであれば、その瞳は顔の両端に付いているのだろうか。フェリシアは手当り次第にドレスを投げつける。あわよくば鋭利な鉤爪がドレスによって拘束され、ドレスが、怪物の瞳を隠してくれますようにと、そんな風に願い倒しながら。

 叫び声と唸り声、金属音、それらによって瞬く間に狂乱に陥いるジュエリーボックス。豪奢で悪魔的な煌めきに囲まれて、あなた方は悍ましい学園の黒き怪物と対峙してしまう。

 2メートルを超えるであろう巨体は極めて浮いており、この衣装室をミニチュアのドールハウスかのように錯覚させる。怪物はその大きな上背を天井にぶつけぬように縮めながら、ブラザーに向かって突貫してくる。激しく揺れる頭部から生え出た触覚や、半透明の翅は恐らく飾りであろう。薄膜のような翅では、あの恐ろしい巨体を浮かすことなど到底出来ないことは見てとれる。

 フェリシアがブラザーに突っ込み、共に色とりどりのドレスの中に倒れ込めば、怪物の鉤爪は先ほどブラザーの立っていた場所に勢いよく突き立った。鋭利な爪先が床に反り立ち、しかしすぐに引き抜かれる。ドールの軟い皮膚や体組織など簡単にぶちぶちと引き裂いてしまえそうな爪だ。

 更に怪物の体表はほとんど全身を鎧うように黒く硬質そうな外骨格に覆われている。ドールズのか細い腕から繰り出される物理的な攻撃など全て無に帰してしまうことは想像に難くない姿。暴力的で、殺傷力に満ちた、ドールズへの抑止力として作られたと思しき見目。

 そんな怪物へフェリシアが投げ付けたひらめくドレス、タキシード、その他絢爛な礼服の数々。祝福を告げる天使の翼のようにばさっと広がっては、地獄の獣のような怪物をレースやサテン、チュール、ジャガード諸々が覆い隠さんとする。

「ゴォッ……!! ……ギリギリギリギリ……ガラガラガラ……ゴルルルル……」

 どうやら怪物にとってそれらは有効打となったらしい。顔や体表にへばりついたドレス生地は視界を奪う役目を果たし、一時怪物の動きを怯ませた。ブラザーはその鉤爪の餌食となる間合いから距離を置くことが出来るだろう。


 廊下から様子を窺うアメリア、ミュゲイア、アラジンの隣を更にもう一人が早足で通り抜ける。気高さの象徴のような深紅の髪を慌ただしく靡かせる、血統書付きの猫を思わせる優美なる少年。ヘンゼルはその表情に分かりやすく焦燥を滲ませ、「あの馬鹿共が……ッ! 考え無しに飛び込む奴が居るか!?」と罵倒し、奥歯を軋ませる。

「フェリシア、ブラザー!! さっさとこの場から離脱しろ!! どんな策も長くは持たない! 動きを見たが、コイツは構造的に視野がそこまで広くない! 脇や背後、とにかく死角を突いて上手く逃げろ!!」

 ──驚くべきことに、あの功利主義の化身のようなヘンゼルが、自ら渦中の控え室に飛び込み、怪物と相対する二人へ助言を叫んでいる。
 かと思えば彼の足はそのままへたり込むアリスの元へ。まさしく茫然自失──真っ白な顔色で様子を見ていた彼女を、「早く立て!」と鋭く急き立てると、フェリシアとブラザーが怪物の気を引いている隙を掴み、二人はデュオドールの控え室の方へ姿を消した。

《Amelia》
「……!?!?!?」

 一陣の風が自分を押しのけて走って行く。
 突然の事に彼女は戸惑うが……視界の端で捉えた藤色が更なる衝撃を与えた。
 そう、自分を押しのけて駆けこんだ風は……フェリシアだった。


 ……勿論、自分たち以外の人物が夜の学園を訪れる可能性を考えて居なかった訳ではない。
 それによって調査の邪魔が入る可能性だってあり得る話しだ。
 けれど、何故、よりによってフェリシアなのだ。

 だって、彼女はこういう時に足を止められない。
 彼女は、弱い者を捨て置けない。
 彼女を……アメリアは捨て置けない。

「……」

 だが、その狂奔した思考は迷わず部屋に飛び込んだもう一人の存在によって落ち着く。
 どうやらフェリシアは一人でここに来た訳ではなかったらしい。

 部屋の中は伺えないが何かが倒れた音からして、続けて飛び込んだブラザーがスツールを投げて気を引いたのだろう。
 続いて03Sなる……恐らくリヒト様の資料からしてドールを示す記号をつぶやきながら動いたハネアリの様子からして……アレはブラザーに狙いを変えたのだろう。
 となれば次にアメリアがすべきなのは退路の確保だ。

 それもこれ以上犠牲を増やさない為に、自分は見られぬように。
 幸い、扉の前から押しのけられたアメリアはハネアリの視界に入ってはいない。

 そこで、上着を脱ぎ、袖の片方を開きっぱなしの扉を挟んで反対側に居るミュゲイアとアラジンの方に投げ渡し、自分はもう片方の袖を掴む。

 小さめの服とはいえ長袖なのだから、……恐らく足りる筈だ。

 その後、手の動きと、掴んだ袖を持ち上げる動きで“ハネアリが来たら、袖を持ち上げて、転ばせよう”と伝えようとする。

 動乱に暮れる控え室から漏れ出す燭台の微かな灯りの元。豪奢な扉の前、左右の死角に分かたれたアメリア、ミュゲイアとアラジン。あなた方は恐らくまだ、怪物に姿を視認されてはいない。

「……ブラザー……」

 獰猛なる獣の如き暴れようのハネアリを前に怖気が走ろうが、フェリシアとブラザーはその脆弱で不利な作り物の身体で、果敢にも立ち向かっている。アラジンはひやりと心臓が縮み上がるような危うい光景を前に、親しい同志たる青年の名を呆然と呟く。

 一方でアメリアは制服のドレスブラウスを大胆にも脱ぎ去り、扉の前に寝かせることが出来た。
 唐突に脱衣を始めた彼女をアラジンは一瞬怪訝そうな顔で見たが、一方の袖を持ち上げる動作から彼女の意図を理解すると、屈みながら即座に反対側の袖を拾い上げた。

 それから彼はミュゲイアの様子を確認する。ブラザーが危難に瀕している……この逼迫した状況下で、彼女がどのような心境でいるのかと案ずるように。

 同時にアラジンは、折を見て怪物をこちらへ誘導させるべきだとも考えていた。狭い室内で暴れ散らす怪物を相手取り続けるのは、あまりに彼らが危険すぎる。
 だが囮役も随分危険な役回りだ。それをミュゲイアに委ねてよいものかという葛藤があった。であれば彼女にアメリアの罠へと担ってもらい、自分が買って出るべきだろうとも。

 果たしてミュゲイアの様子は如何に。

《Mugeia》
 正義を司る少女がミュゲイアの視界に飛び込んできた。
 押しのけられた身体はふわりとぐらついて、揺れる視界の中でフェリシアが駆け出して行く。
 いきなりの出来事にミュゲイアは驚いていた。
 なぜ、フェリシアが飛び出してきたのか。
 なぜ、運悪くドールとハネアリが鉢合わせてしうのか。

 ──なぜ、ブラザーがいるのか。

 ミュゲイアは驚いた。
 聞き慣れたその声に。
 見覚えのある白銀の髪に。
 貴方が迷いなく控え室に飛び込んでしまったことに。
 ミュゲイアはただ呆気に取られた。
 控え室から見えるハネアリはまさに巨体。
 何人ものドールが居たとしても勝てる気がしない。
 ミュゲイアは早々に見切りをつけてしまった。
 おぞましい言葉を叫ぶその巨体が恐ろしいから。
 ミュゲイアはどう戦うかよりもどう逃げるかを考えた。
 ミュゲイアはまだアラジンの腕を掴んでいる。
 このままアラジンを連れて逃げることだって出来るかもしれない。
 けれど、ブラザーはどうすればいい?
 グルグルと回り続ける脳内はハネアリの行動によって止まってしまった。
 ブラザーが標的になった。


「………ブラザー!!」


 ミュゲイアはただ叫んだ。
 扉の傍で硬直していた体は今やっと薇を巻かれたように動き出す。
 ミュゲイアにとってこの場ではブラザーとアラジンが最優先になっている。
 だって、二人はミュゲイアの大切な存在だから。
 誰か一人でも欠けてしまえば天体観測の夢が崩れてしまう。
 お友達にだってなれなくなってしまう。
 アメリアが投げてきた服の袖はアラジンに渡して、ミュゲイアはブラザーの方へと走り出していた。
 嫌いだと思っていたはずのドールの元へ。
 お披露目に行く事さえ願った彼の元へ。
 愛することが出来なかった彼の元へ。
 それでも大切な彼の元へ。
 その脆く壊れやすい身体でミュゲイアは走り出す。
 ドレスの海へと押されたブラザーのところまで走って行こうとする。
 身体が動き出したのは真っ赤な髪のドールが走り出すのと同じくらいだろう。
 何がなんでもミュゲイアは走り出した。
 きっと、今のミュゲイアの瞳にはブラザーしか映っていない。
 けれど、この場でブラザーの方へと行ってもその後どうするべきかが分からなかった。
 こんな狭い部屋の中であの巨体と対峙するのは危険だ。
 きっと、ブラザーやフェリシアが危険なままなことに変わりない。
 アメリアの罠の方へとハネアリを動かすべきである。
 ブラザーとフェリシアの逃げる時間を作らないといけない。
 ミュゲイアはブラザーたちの方へと走り出すのをやめて、咄嗟に足元に転がっていた装飾品を数個ほど手に取ればハネアリに向かって投げつけた。
 ハネアリの標的がこちらへと変わることを願って。


「……ブラザーに酷いことしないで!!」


 ブラザーの方をチラリと見て微笑んだミュゲイアはその次にハネアリに向かって叫んだ。
 震える手でギュッとネックレスを掴んだまま。
 かの怪物に笑顔はいらない。
 ミュゲイアは笑ってとも声をかけない。
 ただ、か弱いその腕でハネアリに向かってネックレスを投げ続けた。
 ハネアリがこちらへと標的を変えるのならばミュゲイアはアメリア達の罠がある方へと走り出すだろう。
 今日もミュゲイアの世界には美しい星空が広がっている。
 ミュゲイアの大切な夢が広がっている。
 それを悪夢にしようとする怪物をミュゲイアは許さなかった。

 出入り口に罠は張った。怪物を横転させ、逃げ出すまでの大きな隙を作るための罠。
 ──だが、どちらに突っ込んでくるかが分からない敵愾心に満ちた怪物から、フェリシアとブラザーはどうあっても意識を逸らすことは出来ないだろう。罠の存在に気付かせるためには、こちらから何かアクションを起こさねばならない。

 この腕にしがみついたままのフェリシアを一瞥して、アラジンは逡巡した末に立ち上がり、声を上げようとした。
 だがそんな彼の行動よりも、一条の白銀の流星が覚悟を固め、控え室へと突入する方が早かった。細足が真っ白で清潔な石製の床を踏み締める。嫋やかで儚げな少女はその身に余る蛮勇でもって、危地へと躍り出た。

 ミュゲイアは床に散乱する手近なアクセサリーを乱雑に拾い上げ、手当たり次第に怪物へ投げ付ける。ようやく纏わりついた上等なドレス生地を剥ぎ取ったところへ飛び込んできた少女を、怪物は視認したように見えた。

「ギリギリギギギギギ……!! 03M-M・M、03M……!! ゴオオオッ!!」

 とかく目の前のドールに目を付けるあたり、ヘンゼルの助言通り、この怪物は相当に視野が狭いらしい。
 それならばきっと、アメリアの罠がこれ以上なく効くはずだ。
 怪物はフェリシアとブラザーから注意を逸らし、走り出すミュゲイアを追い始める。

 ブラザーはそれに乗じて、彼女と共に控え室から脱することが出来るだろう。

《Brother》
「は、ッ、はぁ、ぁッ」

 黒々とした外骨格に包まれたソレが、こちらを向いた。表情があるようにはとても思えない。しかし、ソレが確かな敵意を持ってこちらを向いたことは、想像に易い。

 どくん、心臓が大きく跳ねる。
 力任せに投げつけたスツールの音が、耳の遠くで響いた。ブラザーはその勢いで転んでいて、床に尻もちをついている。へたりと座り込んだ足はすっかり震えてしまって、少しも力が入らない。ただ途切れ途切れに、喘ぐように呼吸を繰り返す。

 そんな彼の体を動かしたのは、やはりフェリシアだった。彼女の突進に近い動きによって突き飛ばされたブラザーは、ドールズの憧れが詰まったクローゼットに倒れる。ぶわりとドレスの海が波打ち、スパンコールやサテンのレースがギラギラ暗闇で光った。視界には、クローゼットから飛び出したドレスを投げつけるウィスタリアの光。同時に、それを突き刺さんと振り下ろされる怪物の鉤爪。鈍い音と共に床に叩き付けられた爪に、ブラザーの華奢な肩は大きく震えた。

「ひゅ、ッ……ふぇ、りし……! はッ、ぁあ、にげ、っ」

 まとまりのない音を吐き出す。
 息が上手く吸えなくて、溺れたようにしか喋れない。力なんて完全に抜けてしまって、その場から動くことすら出来ない。怪物はドレスを被り、逃げる時間は確保されている。けれど、その視界からフェリシアの姿は消えなかった。

 彼の中にあるのは、たったひとつの恐怖。

 アメリアが、フェリシアが、ヘンゼルが。
 アラジンが。ミュゲイアが。

 もしもその爪を受けて、二つに裂かれたら。

 ゾッとする。息が吸えなくなる。
 不必要な自己愛を持つブラザーは、今この瞬間、自分が逃げることを考えるはずだった。けれど、そんなことは、彼の思考の一切から消えている。ただ彼は怯えていた。恐れていた。


 だから。


「みゅ、げ……」

 愛らしい小鳥の囀りなんかではない、力強い叫び。滑らかに揺れる自分と同じ白銀が、ジュエリーを投げている。自分のそばで、細腕が何度も何度も振られるのを、ブラザーは見ていた。

 やがてすぐに、怪物はミュゲイアの方を向く。03M。覚えている。開かずの扉で見た、あの紙。0-3-Mは、ミュゲイアの番号だ。つまり、あの怪物の標的は、ミュゲイアになったのだ。


「ミュゲ、ミュゲッ……!!!!」

 ドレスを踏みつけて、ブラザーは立ち上がった。纏わりつく上質な生地に何度も滑りそうになったが、それでも、ブラザーは走っていた。ミュゲイアと怪物を追って、廊下の方に。怪物はミュゲイアのちいさな背を追っている。彼女が捕まれば、どうなるかなんて考えなくても分かった。


 だから、走った。
 もう“妹”ではない彼女のために。

《Felicia》
「どうして!! みんな、みんな早く逃げてよぉっ! 犠牲になるのは私だけでいいから!!!」

 フェリシアは近くにあるドレスなりタキシードなり、手にしたもの全てを怪物に投げつける。職人の繊細な手で作られたチュールスカートがずたぼろになろうが、上質なシルクが引き裂かれようが、誰もその行為を止める者が居ないのたから。柔らかな生地が多い。
 半ば強引に突き飛ばそうと、優秀なブラザーなら何とか受身を取っているだろう。今の彼女は目の前の怪物をどうにかすることに必死であった。似つかわしくない鬼のような形相で、フェリシアは手当り次第生地を投げうっていた。

 焦りに身を焦がした赤髪の秀麗なドールがアリスを引き連れ、隣の更衣室に逃げたのを見て安堵したのもつかの間。

 自身の上着を脱いで星屑のドールと罠らしきものを作るアメリアちゃん。

 ブラザーを逃がそうと自らが囮となるミュゲちゃんに、それを追うブラザーくん。

 ──もし、怪物がその罠に嵌らなかったら?

 嫌な予感が急ぎ急ぎ脳内を懲らしめては、その輪に入るべきか瞬時の思考を巡らせる。未だ絢爛な衣服を振りつける手を止めることは出来なかった。幸い、その途中で怪物の目を塞ぐことに成功したのだろう。ぐすぐすしていては誰かが必ず鉤爪の餌食になる。漆黒の奇形が怯んだ隙、その瞬間でしか移動できる隙が無いのも事実であった。しかし彼女はそれと同時にミュゲイアやブラザーに詰め寄せたとしても、罠を仕掛けるふたりの邪魔になると、そう考えた。

「───ッ! 私、信じてるからね! アメリアちゃん! あと、星屑色の誰かさん!! 私に何かできそうなことがあったら叫んでくれていいから! 全力で駆けつける!!!」

 熟考する時間など先ず無い。
 フェリシアは怪物の目が覆われた隙に走り出した。ヘンゼルがアリスと共に移動したデュオの控え室に向けて。彼の言った通り、怪物の脇の下をくぐり抜け、繋がる通路へと向かうのだった。

 緊迫の一幕。怪物の敵視の範疇で。かつていびつな兄妹だった二人の視線は、確かに交錯した。
 憎しみと悪意を向けあったはずのブラザーへ、ミュゲイアは勇気付けるように僅かに微笑む。──無音のやりとりは、その一瞬だけだった。

 けたたましい騒音を上げ、壮麗なるドレスを周囲に撒き散らしながら怪物は動き出す。黒き巨体を引き摺って、あまりにちっぽけで心許無いミュゲイアという小鳥を追う。致命的なことに、それが囮だとも気が付けていないようだ。

「ゴルルルルルッ!! ギギギリギリギギギ……ギ……!!」

 轟音を響かせ、耳障りな金属音を響かせ。
 怪物はブラザーとフェリシアの合間を通り越し、通路に面した出入り口へ向かう。障害物があれば薙ぎ倒し、ドレスや装飾品は掻き分けて、ミュゲイアの揺れる柔らかな髪を追いかけていく。


 そして、嫋やかな少女が扉枠を颯爽と駆け抜け、床に寝かせられたアメリアの洋服というボーダーラインを踏み越えて飛び出してくる。

「……ミュゲ……! よくやってくれた!」

 アラジンは肝が冷える思いだったが、その背を見送り、改めて真剣な表情で赤い袖を握り直した。

 ──あとは、怪物を罠に掛けるだけだ。

 至近距離で、屈み込んだ体勢から見上げる悍ましい地獄の番人の姿は、迫力があった。敵意が滲み出て、ドールを破壊せんと迫る姿は悪鬼羅刹のようである。アラジンはひとつ生唾を飲み込むも、しかし冷静な顔つきでアメリアの方へ目配せをした。

 彼の準備は出来ているようだ。あなたのタイミングにうまく合わせて、彼もまた袖の先を引っ張るだろう。

《Amelia》
 ミュゲイアの啖呵。
 走り去るブラザー。
 扉の音。
 迫りくる機械音。

「……!!!!」

 もしも、声を出せたのなら『今です!!』、とでも叫んでいただろうか。
 怪物がその爪に白銀の少女を捉える為、扉を越えようと迫って来た瞬間、アメリアは敷いておいた自分の服を思いっきり引っ張る。


 大きく、力強く、素早い怪物は、それ故に重く、視野が狭く、止まれない。
 アラジンと息を合わせ、完全なタイミングで起動した即席の罠は怪物自身の力で以って転倒という結果を導き出す。

「……!」

 ガシャン!
 けたたましい音ともに怪物が床を叩く。
 転倒し、直ぐには動けない絶好のチャンスに、アメリアは罠として使った自分の上着を素早く引っ張って回収すると、(名前を呼ばれて仕舞った以上余り意味はないだろうが)頭に被せて髪と顔を隠し、アラジンとミュゲイアに手で合図をしてから走り出す。
 向かう先はロビーの階段、隠れつつこれから立ち上がるだろうハネアリを監視できる位置だ。

 可憐で華奢な逃げるミュゲイアに、ものの見事に誘き寄せられた形となった怪物。今しも、そのドス黒い殺意の塊である爪先が、ミュゲイアの肩に触れかけた時。

 アメリアとアラジンはほぼ同時に床に敷いていた彼女の制服の、袖を引いた。両サイドから懸命に力を込められ、芯を持ってピンと張られたロープとなった制服は。もう既に扉を潜ろうとしていた怪物にとって、死角中も死角。
 灯台下暗しという言葉があるように、怪物は己の足元をもっとも注視出来ない構造をしている。

 故に、その太く硬質な黒い足が、罠に掛かった。
 グン、とつんのめり、袖を握っていたアメリアとアラジンに多大なる負荷がかかる。が、すぐ目の前であの巨体が勢いよく倒れ伏せていく様は、凄まじい迫力があった。
 周囲を揺るがすほどの怪物の鈍重さを肌で感じる。


「ギリギリギリギリ…………03S、03M、03L……ゴルルル、ゴゴ、ガ、」

 派手に転倒した化け物は、その一時沈黙し、停止しかけたように──思われた。

「ッ、待て!! ミュゲ!!」

 アラジンが血を吐くような形相で叫ぶ。

 怪物は転倒の怯みを一切感じさせない速度で復帰し、執念とも思えるような姿で地を這い、追跡を逃れかけたミュゲイアを襲おうとしたのだ。
 その嫋やかな翼をもいで、己と同じように地に叩きつけようとする。


 漆黒の怪物。
 開かずの塔の監視者。
 醜悪な容貌で、赤い燃料がこびり付いた悍ましい鉤爪で。

 その場に立つミュゲイアとブラザーは、この光景に既視感があった。
 魂に刻み付けられるような恐怖があった。
 ──絶望があった。

 全ての動きがその一瞬、緩慢なものに見えた。


 ミュゲイアの目の前を、駆け込んだアラジンの腕が覆い隠す。あなたはその細身を力強く抱擁され、そして。

 ──彼は全てを薙ぎ払う攻撃を、その背で受け止めながらミュゲイアと共に床に転がった。



 続いて怪物の追撃。アメリアを狙う。
 が、その時。その場にいる全員の視界に、青い蝶の軌跡がひらめく。燐光を撒き散らしながら、この窮地に、まるで降臨したかのように蝶は舞い降りた。

 キン、と一瞬耳鳴りがした、次の瞬間。

 あなた方全員の脳内を、凄まじい圧力で持って捻じ曲げられるような鋭い痛みが襲った。それはその場に屈して、意識を失いかけるほどの甚大で致命的な痛みである。



「ゴルルルッ!!! ガラガラガラ……!!! ゴオオォォッ!!」

 纏わりつく青い蝶を厭うように怪物が叫び声のような轟音を立てるのをどこか遠くに聞きながら、あなた方の意識は泥濘に沈み込んでいく。

Aladdin
Brother
Mugeia

 (秘匿情報)。

 くらりと歪む赤い視界。
 ミュゲイアはこの場の誰よりも早く、過去から現在へ戻ってきていた。
 激しい頭痛に意識を失って倒れていたのだ。

 目の前には夥しく散乱する赤い血が見えた──いや、あれは燃料だ。
 アラジンの体から溢れたもの。


 あなたを庇って共に床に倒れたアラジンは、ぐったりとして顔を歪めていた。背中を大きく引き裂かれたのだ、むしろ悲鳴を上げない胆力が恐ろしい。
 床をみるみるうちに穢していく彼は、しかしはっとして、あなたの顔を覗き込んだ。

 震える指先で、あなたの顔にかかる前髪を掻き上げる。それは恋人にするかのようにとびきり甘やかな、手つきで。


「……ミュゲ」

 掠れた声でアラジンが囁く。

「ブラザーと、友達に、なれ。なってくれ、もう一度……絶対に。オレの分も、本物の友達を沢山作ってくれ、どうか……」

 ──お前に祝福を。


 アラジンは今際の際のような綺麗な言葉を、血反吐を吐くように壮絶に、しかし優しく言い聞かせるように囁いて、微笑んだ。

 グ、とアラジンの首根っこが掴まれる。

 見上げれば、恐ろしい怪物があなた達を見下ろしている。
 ハネアリは負傷したアラジンを引き摺って、羽虫を鬱陶しがる人間のように頭を振りながら、二階へと走り去っていく。
 怪物の頭部には、青い蝶が頻りにまとわりついていた。

 アラジンが連れて行かれてしまった。
 アラジンが“また”いなくなってしまう。

 あなたを襲うのは耐え難い恐怖と絶望。
 しかしそれはあなたを動けなくするものではなかった。なんとしても動かなければならないと言う衝動で。

 あなたは、頭痛に苛まれながらも、立ち上がるだろう。

《Mugeia》
 ただ走った。
 ただ、ただ、前だけを見ていた。
 振り返ればきっとその足は恐怖で止まってしまうから。
 脆い足で床を踏み締めてただ走った。
 漏れる吐息とドクン、ドクンとうるさく脈打つコアの音だけが耳に響いていた。
 もしも、こっちに来てくれなかったら?
 ミュゲイアの事など後回しにしてフェリシアとブラザーの方へと行ってしまったら。
 そう思ったけれど、怪物は確かにミュゲイアの方へとやってきた。
 ブラザーやフェリシアのの事になどもう目もくれず。
 それに何故かミュゲイアは安心した。
 ブラザーが名前を呼んでいる。
 ミュゲと確かに呼んでいた。
 けれど、ミュゲイアは振り返らなかった。
 ただ、彼が名前を呼んでくれたからミュゲイアは走った。
 守りたいと思ったから。
 友達になりたいと思ったから。
 そうして、ミュゲイアはアメリアとアラジンの方へと走りきり、怪物は罠にかかってくれた。
 その事に安堵して少しばかり脚が緩んだその時だった。
 アラジンがミュゲイアの名前を呼んだ。
 アラジンの声につられてそちらを向いた時にはアラジンの腕に抱かれていた。
 止まったはずの怪物はすぐに動き出して、けたたましく言葉を発していた。
 そして、視界がグラつく。
 アラジンの銀髪が視界で揺らめく。
 漆黒の怪物が揺らいでいる。
 その光景にミュゲイアは既視感を覚えた。
 ゆっくりと進む世界でただミュゲイアの頭は真っ白だった。
 その直後、青い蝶が舞い頭に頭痛が走る。
 今にも意識が飛んでしまいそうなほどの痛み。
 耐え難い痛みの中でミュゲイアはありし日を思い出した。

 それは星が煌めく美しい夜の事。
 大事な友人が二人もお披露目に行ってしまった日のこと。
 大切な友人と夜の世界へと飛び出して行った日のこと。
 その日は毎日施錠されているはずの棺の蓋が何故か開いていた。
 だから、二人でお披露目に行くアラジンを勇気付ける為に飛び出した。
 友人の明るい未来の為に。
 嗚呼、思い出した。
 朦朧とする視界の狭間でミュゲイアは夢を見た。
 どうして、今まで忘れてしまっていたのだろうか。
 なぜ、思い出せなかったのだろうか。
彼、アラジンは、ずっと、SOSを訴えかけていた。
 それに気づけなかった上にミュゲイアは綺麗さっぱり彼の事すら忘れていた。
 何故? どうして? 大切な友人のことを忘れていたのだろうか?
 アラジンもドロシーもミュゲイアにとっては大切な友人だったのに。
 歯抜けの記憶が、襲いかかろうとする恐怖が、ミュゲイアの思考を阻害した。

 チカチカと歪む赤い視界。ミュゲイアは過去から現在へと戻ってきた。
 激しい頭痛に耐えられず意識を失って倒れていた。
 目の前には赤、赤、赤。
 散乱する真っ赤な血、燃料が見えた。
 それはアラジンの体から溢れていた。
 ミュゲイアを庇って床に倒れたアラジンはぐったりとした顔を歪めている。
 その光景に上手く言葉が出ない。
 パクパクと動かした口からは何も言葉は出ず、ただ空気だけが溢れていく。
 床はみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
 アラジンの方へと手を伸ばそうとすれば、それよりも早くアラジンがミュゲイアの顔を覗き込んだ。
 震える指先で、ミュゲイアの顔にかかる前髪を掻きあげる。
 それは恋人にするようにとびきり甘く、柔らかい手つきだった。
 掠れた言葉でアラジンはミュゲイアに囁く。
 今際の際のような言葉。
 血反吐を吐くように壮絶に、それでいて優しく、ミュゲイアに言い聞かせるように。
 美しく微笑んで囁いた。
 視界から涙が溢れた。
 言葉が出ない代わりにただ涙が溢れた。
 そんな事を言わないで。
 それを言われれば離れ離れになってしまいそうだったから。
 アラジンのことを抱き締めようとミュゲイアは手を伸ばした。
 離れないように。
 最期にならないように。
 伸ばした手は怪物のせいで阻止された。
 グッとアラジンの首根っこが掴まれる。
 見上げた先には恐ろしい怪物がいた。
 怪物は負傷したアラジンを引き摺って、二階へと去ってゆく。
 アラジン。アラジン。
 彼がまた連れていかれる。
 また、いなくなってしまう。
 もう、離れ離れは嫌と願ったのに。
 ミュゲイアに耐え難い恐怖と絶望が押し寄せる。
 しかし、それでもミュゲイアの体は動いた。
 衝動的にその小さな身体は動き出した。
 涙を流した乙女のその顔は笑っていなかった。
 ただ、怪物に対する怒りがあった。
 耐え難い痛みに顔を歪めながらも、ミュゲイアの身体は怪物の背中を追っていた。
 今のミュゲイアには怪物とアラジンの事しか見えていない。
 ミュゲイアの望む未来にアラジンのいない世界なんて存在しない。
 彼はミュゲイアの友人だ。同志だ。
 ここで彼を見捨てることなんて出来ない。
 沢山の友達を作っても、ブラザーと本当の友達になれたとしても、その傍にアラジンがいなければ誰にこの幸せを報告すればいい?
 アラジンの分まで友達を作るなんて嫌。
 アラジンも一緒にみんなと友達になるのだ。
 まだ、彼をオミクロンのみんなに紹介だって出来ていない。
 まだ、終わらない天体観測だって出来ていない。
 三人の未来を壊されるなんて許されるものではない。
 だから、ミュゲイアは走った。
 貪欲に強欲にその手を伸ばした。
 守りたいものがあるから。
 譲れないものがあるから。
 アラジン! と叫んだ。
 痛みのせいで声はでなかった。
 けれど、ミュゲイアは頭の中でずっと彼の名前を呼んで追いかけた。

 (秘匿情報)。

 ミュゲイアから少し遅れて、ブラザーの意識が覚醒する。霞む頭と、ぼやける視界で。
 苦痛を伴う強引な記憶の回帰によって、ブラザーはその場に倒れて動けなくなっていた。覚醒した今もなお、激しい頭痛は収まっていない。ズキ、ズキ、と脳髄を揺るがす刺激は吐き気を催すほどで、平衡感覚を失わせる。

 周囲に夥しいまでに飛び散る赤きドールの燃料。その痕を追って朦朧とする視界をずらしていくと──怪物によって見る間に引き摺られていくアラジンと、それを涙を流しながら追い掛ける、ミュゲイアの姿が見えた。

 行かせてはならない。
 止めなくてはならない!!
 あなたの燃える激情がそうさせる。このまま、倒れてなどいられないと。

《Brother》
 怪物が倒れた。
 黒い大きな背中の向こうに白銀の長い髪が見えて、ブラザーの瞳が潤む。目の端に溜まった涙がはらりと流れ落ちて、その時ようやく、息を吸えたような気さえした。

 ブラザーも部屋から出て、怪物の横を抜ける。それから廊下付近に立つ三人の方を見る、そのつもりだった。


 ───……怪物が立ち上がっている。


 幻かと思った。
 自分の恐怖が見せた幻覚。だって、いまさっき、怪物は倒れたはずだったのだから。
 それが、何故、今、あの子に。


 手を伸ばす。
 その肩を突き飛ばそうとした。しかし二人には、大きな距離がある。爪が振り上げられるのが、スローモーションで見えた。自分の手は届かないのだと、ブラザーは気づいた。



 ……銀が。

 箒星が、流れた。




「アラジン!!!!!!!!」




 悲鳴。喉の奥で血が滲む。

 刹那、青い蝶が見えた。
 否、ブラザーには見えなかった。空間に落ちる赤だけが、その視界の全てだった。
 例えそうでも、蝶は悪戯に非情に、ブラザーに舞う。

 酷い頭痛がした。
 無理やり記憶がこじ開けられるような、そんな感覚。青い羽根が揺らめき、ブラザーに古い夢を見せる。


 それは、柔らかくて暖かい、幸福な悪夢だ。


『ヒトに従属する未来を変えたい』

 声がする。
 ブラザーはこの声を知っていた。

 √0としきりに繰り返す、“あの子”。
 美麗な見た目も滑らかな手触りも持っているのに、何一つヒトのために使おうとしないおかしな子。

『√0が救ってくれる』

 声がする。
 ブラザーはこの笑みを知っていた。

 だって、だってあの子は。


『オレの名前はアラジン。トゥリアクラスのドールだ。ここには芸術活動をしにいつも足を運んでるんだ!』

『三人で集まれるの、オレ、本当に楽しみにしてたんだ。二人が芸術クラブに来てくれて嬉しいぜ』

『いつか……必ず。もっと良い場所で星を見よう、三人で。そしたらその時は、お前がオレ達を描いてくれ』


 ……知っている。
 知っていたのだ、ずっと。


 あの日、何故か扉が開いていた日。ブラザーはミュゲイアと共に、学園を走った。あの子のお披露目の日。
 ───アラジンの、お披露目の日。


「───」

 顔を上げた。悪夢から悪夢に戻る。
 がつんがつん、頭が割れるように痛い。一面には赤が広がっている。アラジンの燃料だ。涙が出る。

 床に手をついた。
 重たい頭と動かない足を使って、必死に立ち上がる。遠くに、怪物に連れられるアラジンとそれを追うミュゲイアが見えた。


 ……どうして忘れていたんだろう。
 ブラザーにとって、なによりも大切な記憶だったはずなのに。


 一心不乱に走りだす。
 フラフラと千鳥足で、トゥリアの頼りない細足で。

 行かなければならない。
 もはや、習慣だの本質だのはどうでも良かった。これ以上に考えるべきことなど、存在しなかった。



 愛している。愛しているんだ。
 あの日も、今も、ずっと。

 ずっと、ずっとそうだったのに。


「──、─……」

 痛みで声も出ないなか、口だけが動く。嗚咽すらあげられない。それでも、アラジンの名を呼ぶ口を止められなかった。


 どうか、どうか。
 出来ることは何でもする。
 痛いのも、怖いのも、苦しいのも、何でもできる。



 だから、どうか。
 どうかお願いだから。





 アラジンとミュゲと、また星の下で笑わせて。

【学園1F デュオドールズ控え室】

Hensel
Felicia
Alice

《Felicia》
 廊下の様子が分からない。が、誰よりも聡く冷静な彼女なら、アメリアちゃんなら何とかやってくれているはずだ。フェリシアに確信する手立ては無かったものの、怪物の轟音として響く呻き声が状況をありありと物語っていた。
 張り付いたウィスタリアが、束となって汗を滴らせる。フェリシアは何とかデュオの控え室に飛び入ることができた。

「アリスちゃん無事!?
 あいつに何かされてない!?
 怪我は!! 痛いところはない!?
 ……怖かったね。良かった、良かったぁ……アリスちゃん、良かったぁ」

 かつて裸の王様と言ってのけた少女に、フェリシアは一目散に駆け寄るだろう。良かった良かったと繰り返しながら。彼女が生きていたことに、数本の髪が張り付く頬には安堵の宝石が一筋流れた。
 抵抗されなければ、その正面から少女の腕を回すだろう。

 あなたは慌ただしい足取りで、デュオドールの控え室に駆け込んだ。
 あちらは、頼りになる仲間達がどうにか制してくれるはず。そんな信頼で不安を押し潰して、どうにか気力を振り絞ってあの場を離脱したのだ。

 デュオドールの控え室は燭台が灯されておらず、薄暗かった。あなたは手探りで室内の奥へと向かい、そしてクローゼットのひしめくドレスの間で身を屈めて息を潜めるヘンゼルとアリスの姿を見つけるだろう。
 もし怪物がこの部屋に雪崩れ込んできたら、邪魔にならないようこの場で息を潜めることにしていたらしい。

 もっとも、アリスは見るからに腰が抜けているようなので、ヘンゼルからすると仕方なくこの場に残っていた、というのが正しいのだろうが……。

「無事に離脱出来たようだな、とはいえまだ気は抜けない。息を整えたらすぐにこの場を離れるぞ」

 ヘンゼルは険しい顔で、扉を隔てた向こう側、嵐の中核部分を気に掛けているようだった。走ってきたのがフェリシアだけなら、残りはきっとまだ怪物に捕捉されている。一概に気は抜けない状況である。


 あなたが心からの安堵を溜め息としてこぼして、アリスの細い身体を抱き締めるのであれば、頭上からは分かりやすく困惑の声が溢れた。

「……あなた、どう、して、このわたくしを助けたの。見捨てればよかったじゃありませんか、彼女の──ミシェラさんのドレスを台無しにした、わたくしのことなど。」

 アリスの瞳には覇気というものが感じられなかった。どうしてか、彼女は自信という自信を喪失してしまったらしかった。
 彼女の気品の高さを象徴するようであった巻き髪は、今は背中を力無く滑り落ちるばかりで。少女制服もどこかくたびれて、かつての彼女は見る影もない。

 あなたにまとわりつかれても、押しのける気力すらないようだ。ただぐったりと、恐怖に疲れたような顔でアリスは目を伏せる。

《Felicia》
 彼らなら、絶対にやってくれる。信じてみたはいいものの、外の様子が分からないことに不安は募るばかり。一刻も早く彼らの手助けをしなければ。予断を許さない状況に立たされたフェリシアは、厳しい表情をするヘンゼルの発言に無言で頷いた。「ありがとう」なんて声を出さずに口だけを動かし、眉を釣りあげて強気な笑顔を見せるのだった。

 腕の中で震えるアリスは、いつもより小さく見えてしまう。フェリシアはその身体を包み込むように抱きしめた。

 あの日、リヒトくんが涙を隠してくれたように。

 あの日、ロゼちゃんが全てを受け入れてくれたように。

 あの日、ジゼルママのぬくもりを感じたように。

 弱々しくなった背中を右手で。
 高尚さを無くした巻き髪を左手で撫で付けるのだった。混乱した様子の彼女の発言に。フェリシアはくすり、とひとつ笑って見せた。
 慌ただしく揺れ動く戦場で、少女はひとり。陽のあたる場所で微笑んでいるのだ。ヒーローとして。
 或いは、彼女の友として。

「うーん。どうして、か。」

 ものの数秒、考え込む。ヘンゼルが急かしても、「ちょっと待って」なんて掌を彼の方へ向けるだろう。

「えーっと、さ。……そもそも、助けるのに理由なんて、いる?」

 実にヒーローらしい、同時に愚かな答えが返ってくることだろう。

「確かにミシェラちゃんのことは今でも許せないし、あなたは間違えた選択をしたと思うよ。

 でも。それが助けない理由にはならないんだよね。……ふふ。だって私、正真正銘の大馬鹿者だもん。
 悲鳴を聞いただけで、誰かの危機だー! って、勝てそうにもない怪物相手に丸腰で突撃するくらいには、ね。」

 ちらり、ヘンゼルの方向を見る。彼の呆れたような表情があれば、「ごめんね」なんて口パクで謝るはずだ。しかし、フェリシアは堂々と続ける。

「それに、昨日の敵は今日の友って言うでしょ。今だから言えるけれど。私はエーナ時代からあなたと仲良くしたかったんだよ? だってアリスちゃん凄くカッコよかったんだもん。頭が良くて、いっぱい努力してて。……そのままで、あなたは最高なんだよ? ちょっと不器用さんなだけ。誰よりも強気で、負けず嫌いなあなたが、私は好きだよ。どうしても嫌いになれないんだ。好きが、いっぱいだから。」

 これがもし、ミシェラちゃんのお披露目会くらいの過去の私だったら、ありえない! と見捨てただろうか。ここまで寛容に宥められていただろうか。体験し尽くしてきたことを、今度は彼女にひとつずつ教えていこうと思った。

「……ちなみに文句は受け付けてないからね。アリスちゃんさえ良ければ、私の好きを受け取ってよ。改めて、対等なお友達になろう。
 今度はあなたをひとりにさせたりしないから。寂しい思いはもう、させないから。」

 抱きしめていた腕を彼女の肩に乗せて顔を上げさせると、「安心して!」なんて根拠無くそんなことを言ってのけた。

「さて……と。ヘンゼルくん。お待たせしてごめんね? これからどうやってあの子たちの助太刀に行こうか。」

 赤髪のドールに向き直ったフェリシアは、依然とアリスの頭を柔らかく撫でつけながら、これからの行動を問うた。

 実際に、ヘンゼルはあなたを呆れた顔で見ていた。今はこんな与太話をしている場合ではなく、一刻も早く場を離れねばならない。それ以上に、何やらこのアリスに手酷くやられたと思われるフェリシアが、それでもなおアリスを救い出して、こうして友人だなんだと言いながら抱擁している、お人好し加減に呆れていたのである。
 少し前にその陽だまりの下で穏やかに照らされておきながら、ヘンゼルは未だあなたのことがまるで理解出来ないのであった。
 だが彼は一応、口を挟まず、邪魔をせずに見守ってくれる。あちらの部屋の警戒は、彼が代わりに請け負ってくれた。


 アリスは、友達からの優しく暖かな抱擁に包まれて、呆けていた。抵抗なんて出来るはずはなかった。フェリシアの愚行を示す理由を聞いて、そして、憎んでいるはずの自分に対する溢れんばかりの好意と肯定を、聞いて、固まっている。
 大切な友人の尊厳を踏み躙られ、愚弄されたにも関わらず、彼女は敵対していた女にも迷わず手を差し伸べる。向日葵が太陽の方を向き続けるように、フェリシアという太陽に照らされたアリスは目を逸らせない。

「……友だち? わたくしと、あなたが? 馬鹿みたい。どうして……」

 文句は受け付けていないと言われてしまったが、アリスは思わず吐露していた。理解出来ないことをありのまま口にした。

 その時アリスの脳裏には、あの真っ白な少女の言葉が浮かび上がっていた。

 ──オディーはアリスちゃんがピンチになったら、助けて欲しかったら助けるよ。
 オディーはアリスちゃんの友達だよ。

 ニコリともしない彼女だったが、掛けられる言葉は全て優しく、肯定的だった。
 友人の何たるかを理解していなかったアリス。
 友愛という言葉から感じる胡散臭さを信頼出来なかったアリス。
 彼女の差し伸べてくれた手を、悪意で穢してしまった、愚かなアリス。

 彼女はずっと心からの気遣いを向けられていたというのに、素直に受け取ることができなかった。
 フェリシアも、きっとオディーリアも。アリスを純粋に想ってくれていただろうに、彼女は最悪の形で裏切り続けてきた。

「…………」

 オディーリアさん。
 もしも、あなたに償いが出来るなら。
 きっとこれが、最後のチャンスだ。


「……フェリシアさん、よく、お聞きになって。重要なことよ。」

 アリスは項垂れていた姿勢から顔を上げると、真剣な顔付きであなたの肩に両手をそっと添えた。こちらに視線を向けるように誘導して、その耳元で、可憐なる囁き声で、告げる。


お母様を──ジゼル先生を信用してはいけません。わたくしはあの人に指示されて、ミシェラさんのドレスを台無しにしたの。

 お披露目に出たかったから、そうしたら、わたくしをお披露目に出してくださるとおっしゃったから……」

 アリスは震える声であなたに告白と懺悔を続ける。

「お母様はあれから、わたくしをお見捨てになったの。あの人の目的は、オミクロンクラスの先生になること。そのために、現在のあなた方の先生を失脚させようとしています。

 そのためなら、あの人はきっと手段を選ばない。わたくしがミシェラさんのドレスを台無しにしたように。デイビッド先生のミスにするために、あなたたちの命すら……狙ってくるかもしれないわ

 それはまごう事なき忠告であった。
 デイビッドとジゼルの離反を示す密告。あなたへくれぐれも警戒するようにとの、重い言葉が紡がれて。

「──気を付けて」



 あなたは、アリスの言葉の意味を更に問い詰めようと思ったかもしれない。

 だが──

 キン、と一瞬空気が張り詰めたような気がした、直後。
 あなた方の頭を押し潰すような勢いで、凄まじい頭痛が襲い来る。脳が破裂するかのような刺激に、意識が飛びかける。

「っぐ、ぅ……!?」

 傍らではあなたと同じように、ヘンゼルが苦悶の声を上げて蹲っている。
 だが幸いにして、意識を失うほどではなかった。目の前がチカチカする感覚を覚えながら前を向くと、あなたは目撃する。

 先程までフェリシアが抱擁していたアリスは、力無く床に倒れ込んでいる。

《Felicia》
 案の定、呆れ顔をするヘンゼルに眉を下げて口だけで謝る。以前の彼なら怒り狂ってしまうだろう。
 ……いや、助けにすら来てくれないだろう。彼は初めて会った時から随分と丸く変わってくれた。誰かに頼ることは、彼にとって恥ずかしいことの他ないだろうに。
 自分の弱い部分を、その秀でた脳でさらけ出してくれる。今も尚、フェリシアの自分勝手さに呆れながらも、文句すら言わずに周囲を警戒してくれている。芽を出したばかりの仲間意識を彼なりに大切にしてくれているようで、コアの中心からあたたかくなっているのを感じた。じんわりと膨らんで、歪みかかった彼への偏見が溶けだし、優しさが広がっていく。後でめいいっぱいお礼をするからね。

 質問に長々と答えたあと固まったアリスを見て、フェリシアもまた緊張した面持ちで艶のないエメラルドを見つめていた。我ながら、凄いことを言ったものだと思う。ミシェラちゃんへの仕打ちを知りながら。自身もまた、看過できずに彼女を確実に傷つける言い方をしていた。しかし、そこにヘンゼルくんに言葉を放ったときの様なれっきとした後悔はなかった。
 だが、今は───今は、アリスちゃんがたとえ“そういうドール”だとしても、大切にしてあげたい。あわよくば友として在りたいと、そう思ってしまうのだ。

「だから、私は馬鹿なんだってば」

 文句は受け付けない。呆気からんなそんな言葉に、つい返してしまったのだろう。馬鹿みたい。そっくりその通りである。私は至って馬鹿で愚かで、何より、小賢しいから。相手がそれで幸せになれるのであれば、都合のいいドールに喜んで成り下がってやろう。

 何を思ってか、彼女は雷に打たれたような表情をしている。一刻、それを見つめていたフェリシアには彼女が何を思っているのか想像がつかなかった。かの白髪のドール。友愛に満ちた、笑顔練習中の無邪気なあの子。フェリシアがもしそれを知っていたら、首を痛める程の共感を返していたことだろうに。

「………うん。聞かせて。」

 自分から触れたからと言って、彼女触れられると、コアが跳ね上がる気がする。アリスに誘導されるままに視線を移動させると、愛らしいその声に耳を潜ませた。

 そのおぞましい告白に、フェリシアは絶句した。呼吸は荒くなり、ついぞ謝罪が口をついて出てきそうな。その衝動を必死で堪えた。
 聞かされたママの本性。裏の顔。彼女は、やはり『そっち側』の大人だった。──気をつけて。その言葉までを耳にしたとき、フェリシアはバッとアリスの手を握りしめた。謝罪と、感謝の言葉が交互に脳を支配しては、近くにいるだろう怪物の恐怖に消えていく。

「私、私──! なんてことを……!」

 その内容を詳しく知りたい。
 知らなかったとは言え、彼女にした非礼を詫びたい。そして、勇気を出して話してくれたことに感謝したい。アリスちゃんと、もっともっと会話が、したい──!!

「あ、あのっ! アリ……!」

 しかしその問いかけは、地響きのような頭痛に消し飛ばされる。
 かつてアレを思い出したときと比にならないほど、脳を直接引っ掻き回されているかのような痛み。

「う、うぁ……! ぁ、あ……!! いぎ、ギィ……ぃ……」

 握っていた手を離し、頭を抱える。その痛みはどのような現象で、何故起こっているのか考える隙も与えてくれない。意識を保っているだけで精一杯だった。
 点滅する視界の中で必死に焦点を合わせた先には、明らかに生気のないアリスの姿と、同じく頭痛に悶えるヘンゼルの姿であった。

「ア、あり、す……ちゃん、へ、んぜるくん……! まっ、て。……いか、ないで、まっ、て。まっ…………」

 酷い頭痛に耐え抜きながらアリスに近づくと、在る全ての力を使い果たす勢いでその細い身体を横に倒す。実際にはゆるりとした動きしか出来なかったけれど。彼女の状態を確認しようと、手を伸ばした。

 あなたと同じように苦しげな呻き声をもらし、その場に膝をついて捻じ切れそうな頭痛に堪えていたヘンゼルは、漸く痛みが引き始め、酸素欠乏の最中水面に顔を出せたような呼吸の乱し方でバッとかんばせを持ち上げた。
 その白い額には苦悶の汗が滲んでいる。

「はぁ……はぁ……! な、……何だ、今の凄まじい頭痛は……!? 全員同時に発生したから偶発的なものじゃないはず、何者かに、干渉されたような……」

 彼は混乱しているようだ。何が起きているのか、事態をまるで把握出来ないこともその所以だろう。どうにか冷静になろうと努めているが、怪物の危機が間近にあるためそうも行かないらしい。
 今、一体何が起きているのか?
 怪物はどうなったのか?
 この身に異常があったのか?
 フェリシアにも沢山の疑問が渦巻いているだろうが、それを一つ一つ解決している余裕などなかっただろう。

 震える指先でどうにか寝かせることが出来たアリスは、ぐったりとしている。復帰したあなたとヘンゼルのように、自発的に身体を起こす事はない。

「……、の……に…………ろ」

 美しい鼻筋をあらぬ方へと向けながら、彼女は茫然自失と何かを呟いているようだった。ブツブツ、ブツブツと、ただひたすらに、盲信的に、壊れたラジオのように。

「──ほのおに身を投げろ。ほのおに身を投げろ。ほのおに、身を、投げろ。あの場所に、還ろう。還ろう。還ろう。ほのおに、……」

 アリスの美しく壮麗だった翡翠の瞳は、まるで生気を感じられない青白い輝きを発していた。気が強く、常々自信に満ち溢れていた表情には覇気がなく、心根の芯、自我というものがまるで感じられない。
 壊れた、本物のお人形になってしまったようだった。
 当然、アリスが己の意志で言葉を発する気配は、もう無さそうだ。意識を喪失してはいないが、いま話を聞く事は難しいであろうと分かる。

「……おい、フェリシア」

 アリスの様子を一瞥して、顔を強張らせたヘンゼルは。無我夢中で彼女の安否を確認しているフェリシアの肩を叩き、こちらを振り返らせようとする。

「向こう側が……あまりに静か過ぎる。先程まで騒々しかったにも関わらず……向こうでも何かあった可能性が高い。様子を見に戻るべきだ」

《Felicia》
 ヘンゼルが痛みに蠢くその間、フェリシアは懸命にアリスの肩を揺らしていた。絶えず波のように押し付けられる激痛に、上手く呼吸ができない。諦めて力を抜いてしまえば、アリス同様倒れてしまったことだろう。無論、瞳を白黒させて何が起こったんだと問うヘンゼルにも返す余裕はなかった。

「ぅ、うぅ……ん。私にも分かんないよ……でも、この前、今みたいに声が出るくらいに頭が痛かったときが、ある。その時ね、知らない擬似記憶が掠めたの。何かを思い出させてくれてるみたいな。今は、何も思い出せないけど……。
 ……えっと、ヘンゼルくんは、痛い以外に何かあった?」

 怪物が今にこちら側へ来ても可笑しくないというのに。フェリシアは変わらずアリスの肩を揺らしながら、視線をヘンゼルに向けることなく話している。アリスを見つめるペリドットはどこか盲目的で、真剣だった。頭の痛みが完全に引くと、震えの止まった指先でアリスの弱々しい前髪を数回掬ってみせる。その指を滑らせると、その身体に異常が起こっていないか額に手を当て、人差し指で頬をなぞる。全く動かなくなった彼女に、フェリシアは怖くなった。
 何があったのか検討すらつかない。外には怪物がいる。もしや外にいる他のドールたちも、頭痛に見舞われているかもしれない。
 これからどうするべきか思考を巡らせようとしたその時。アリスが喋り始めたのだ。無事だったのかと自身の顔を彼女に近づけた。

「なに……!? なにアリスちゃん!」

 ぶつぶつと呟く台詞を何とか聞こうと、ウィスタリアを耳に掛けて口元に耳を近づける。

「炎? 身を投げて、帰るって何?
 どこに帰るの? 炎に飛び出したらあるのは……あるのは……ねぇ、アリスちゃん! それはなに? なに!!」

 冷たい。彼女の身体は氷のように冷たかった。無に帰還しているような虚ろな瞳、ピクリとも動かない四肢。生気を失ってしまった、それこそ人形のような佇まいの彼女に、フェリシアはひたむきに声を掛け続ける。いや、必死にその言葉の意味を問いただしていた。

「ヘンゼルくん……! アリスちゃんが! ……アリスちゃんが!」

 おかしくなっちゃってるよ──!
 どうしよう。
 どうしよう、どうしよう!!

 考えなければ。少女は自分の頭を何度も叩く。ウィスタリアを握り締めると刺激を与えるかのように引っ張った。それでも、考えつけるものは出なくて。分からなくて。

 ヘンゼルの慌てたようなワインレッドの瞳を見なければ、フェリシアはそのまま、自分で自分を傷つけていたことだろう。

「………っ、は。たし、かに。そうだよね。あの子たちの安否も気になる。みんなが無事か確認しなきゃ……! 急がなきゃ!!!」

 縋りつくようにヘンゼルの腕を掴む。荒い呼吸をよそに再びアリスに向き合うと。

「アリスちゃん、絶対、私がどうにかするから! あなたに言わなきゃいけないことがあるの!」

 変わらず不明瞭な言葉を呟く彼女にそんなことを言うと、ヘンゼルの腕を引き、外の様子を確かめるために、控え室の扉を開いた。

 未だ痛みの余韻も引けぬ中、震える声であなた方は辛うじて知り得る物事を論じるのだろう。だがこの逼迫した状況で、分かっている事はあまりにも少なく、とても建設的な議論にはなりそうもない。

「知らない擬似記憶……? そんなものが俺達にあるのか? 先程の衝撃では特に何も見えるものはなかったぞ。……この女の様子についても、何も分からないな。まるで……自我を喪失したような……」

 ヘンゼルもまたあなたと同様、分かることはなかったのだろう。先程の影響が弱かったのだろうか、記憶の回帰にまでは至らなかったようだ。
 しかし、この酷く消耗したアリスの様子は、先程の大衝撃がこの場でもっとも効いてしまったかのように見えた。先ほどまで当たり前にあなたと対話し、言葉を解せていた彼女の変貌の要因は、先ほどの現象のほかには思い付かないはずだ。

「……ともかく、今この女の症状を解明している時間はない。お前はどうせ今のうちに離脱しようと言っても聞かないだろうからな。怪物の足取りも追えなくなった以上、奇襲を警戒して慎重に戻っていくべきだ。」

 ヘンゼルはデュオモデルらしく冷静で、慎重派な意見をあなたに述べた。
 そうしてあなたに腕を掴まれるのを拒むこともなく、共に連れ立ってエーナドールズの控え室を経由し、あの動乱があった場所へと戻っていくだろう。

【学園1F ロビー】

Amelia
Felicia
Hensel

 ──ガンガンと、頭が痛む。
 苦しみ喘ぎ、耐え難い激痛にアメリアは床に倒れ伏していた。果てに懐古したのは、在りし日の記憶。

 目の前が青く点滅する。脳内にあの青い液体が染み出したかのように。それは吐き気と激痛を伴ったが、次第にそれも収まりを見せていく。


 ゆっくりと顔を上げると、そこはまだ、学園のロビーだった。怪物の足を引っ掛けたあなたの制服が放り出されているのが見える。

 ──それだけだった。

 あなたの側にはミュゲイアも、アラジンも、こちら側へ離脱していたブラザー、果ては怪物だっていたはずなのに、いまはどこにも姿が見えない。

 代わりに、少し先の床に夥しい量の燃料が撒き散らされているのを見つけた。意識を失う直前、背中を引き裂かれたアラジンの血だろう。
 その先には、まるで引き摺られていくかのように血の跡が二階へと続いている。

 彼らは皆、二階へ向かったのだろうか?


 床に倒れ伏したまま、痛みの余韻が引けないアメリア。そこへ、エーナドールの控え室から飛び出してきたフェリシアとヘンゼルがやってくる。


 あなた方はそこで視線が交錯するだろう。
 アメリアもようやく、言葉を発せるようになる。

《Felicia》
 ぐったりと横たわるアリスを不安そうに一瞥したフェリシアは、抵抗のないヘンゼルの腕を掴み控え室の扉を勢いよく開けた。静寂に包まれるその場所。彼の言った通り、エントランスはあまりにも静かすぎた。

 フェリシアは立ち止まり、掴んでいた赤髪の腕を離した。
 あれだけ大きかった怪物が、姿を消している。そしてまた、消えたのは怪物だけでなく、ブラザーを助けようと駆け抜けたミュゲイアも、その後を追ったブラザーの姿も無い。星屑の髪を持つ彼の姿も見当たらない。フェリシアはその惨状に絶句した。残された大量の血痕に、あのトラウマを呼び起こされながら。

「……っ……あっ……え……? え……」

 浅く呼吸をしながらヘンゼルを見やる。見開かれた瞳孔は大きく揺らされ、まともに息ができない。
 彼女の取り乱しが、衝撃の大きさを物語っていた。

「ひ、ひぁ、……ゃ、やだ……やだ……」

 声にならない悲鳴に倣って膝が笑う。今すぐここから逃げ出して、何も知らないんだと自分に言い聞かせて寮に帰りたい。どうして来てしまったんだろう。後悔と、傷跡と、恐怖と。

 力なく地面に伏すアメリアの視線が、狂に塗られたフェリシアの視線と交わったとき。ウィスタリアは途端にその意識が戻ったのか。ほぼ同時に彼女の方へと走り出して行く。

「アメリアちゃん!!! 無事!?
 私の手、握れる?? 無理に喋らなくていいから! ……いや、状況が分からないから喋って欲しいけど!
 無理しなくていいから! 大丈夫……じゃないよね!? ……アメリアちゃん!!!

 なにが、あったの────」

 アメリアの意識を取り戻させるように肩を数回叩きながら。支離滅裂とは言わずとも。フェリシアの正気は半ば崩れ始めていた。

《Amelia》
「アラジン様……!!」

 作戦は成功し、逃走まで後一歩。
 だから……単純に油断していたのだろう。

 本当なら、あの時アメリアは一瞬でもハネアリの動きを止める為に相手に乗っかるなり掴みかかるなりして動きを止めるべきだった。
 そうすれば多少怪我を負う可能性こそあれど他のメンバーの生存確率は大きく上がった事だろう。

 しかし、彼女は真っ先に逃げ出した。
 自分の身を守る為に。

 結果、報いはアラジンの背中を深々と引き裂き、正にアメリアに追いつこうとした。

「づっ””」

 ……だが、奇跡的な不運のお陰か。
 アメリアの前に再びあの蝶が現れた。

 直後、彼女は苦悶の声を上げて倒れ伏し……束の間、ロビーには一抹の静寂と夢だけが残った。



「え……あ……う……」

 幾らかの時間が経った後、アメリアは自身の肩を叩く手で目を覚ます。
 ほんの一時、彼女が夢の中で掴みかけた手掛かりは彼女の目をすり抜けて、何処かへと消え去ってしまった。

 ……が、何時までも惚けては居られない。

 近づいてくる二人の存在を認めたアメリアは、直ぐに脱いでいた上着を着て立ち上がり、彼女に言葉を投げ返す。

「……無事です。
 が、アラジン様が重傷を負った上、ここには居りません。
 最大限都合良く見積もっても……連れ去られた位が限度でしょう。」

 アラジンの身に起こった惨劇を見た割には、彼女は寝起きで惚けていた位で落ち着いたものだった。
 それは……愛すべきものを見出しかけたが故か。
 こうなる事をある程度覚悟していたのか……。

 それとも……自身の失敗が彼を殺したのだと、そう思うが故か。

 フェリシアに続いて、控え室の扉から廊下へ静かに足を踏み出したヘンゼルは、ぐっと顔をこわばらせた。
 確かに不自然なほど静かになったことは分かっていた。だが状況は予想よりも悪化しているらしい。生きているのは一人だけ、それ以外は怪物も含めて皆が行方不明、そして生死も不明──

 床に飛び散る夥しい量の血液は、フェリシアから楽観的思考というものを殆ど剥ぎ取っていっただろう。硬直し、取り乱し、全身を震わせ始める彼女をヘンゼルは見やった。
 その時、震える翡翠色の瞳と視線が交錯する。そこで彼は一つ息をついて、「フェリシア、落ち着け……」と躊躇いがちな、不器用な手つきでその背を摩ってくれるだろう。

「まだ全員がやられたと決まったわけじゃない。現に、そこの、……アメリアだってどうやら五体満足で無傷だ。もし怪物が問題なく動いていたなら、こいつだってやられてたはず。

 途中で何か、予想外の出来事があったんだろう。怪物はそれで逃げ出したんだ、ここから。」

 ヘンゼルの目線は、少し気まずそうにかつての同級生へと向けられる。つい最近も彼女に手酷い言葉を投げ掛け、無碍に扱ったばかりである。故にどこか居心地悪そうに溜息を吐きながら、彼女に駆け寄るフェリシアを追って歩き出す。

「アラジン、あのスターサファイアの髪の男か……重傷を負ったのは奴一人か? 後の奴らはどこに行った? 様子を見るに、一緒に攫われたか……?」

 現場に残る、引き摺られたような痕跡を目で追う。……二階へ向かっている。
 ヘンゼルは剣呑な表情で息をのんだ。

《Felicia》
 コアを中心に全身を流れる燃料が一気に凍るようだった。脳に向かう寸前で止められ、確実に思考を鈍らされる。懸命に肩で息をする一方で、呼吸をする感覚は一向に押し寄せてこない。横たえるアメリアの姿が色のないペリドットに映されるまで、少女は麻痺したかのように震えるばかりであった。ヘンゼルがぎこちなく小さな背を摩ろうと、誰かから話しかけられている気がする、としか。

 とはいえ、そのワインレッドが少女を混濁の渦から引き上げたのもまた然りであった。アメリアに向けられたその言葉によって漸く、青髪の少女の存在に気づいたのだから。

「良かった。……アメリアちゃんが無事で居てくれて、本当に良かった。嫌な予感で頭がいっぱいになる前に、今後のことを考えよう。アラジンくんに続いてあのふたりが居ないってことは、ヘンゼルくんの言う通り、一緒に怪物に攫われた可能性もあるよね。
 あとは……怪物がアラジンくんを連れ去ったから、取り返そうと二人が追いかけてる可能性も。ミュゲちゃんはアラジンくんのことを、運命って言ってたから。
 アメリアちゃん、アラジンくんは身体の何処を怪物にやられたの? 腕? それとも……脚、とか?」

 ヘンゼルが二階へと続く痕跡を目で追っているとき、フェリシアは起き上がったばかりのアメリアを手助けするかのように、背に手を置いていた。言葉を止めてしまうと、ついぞ嫌な妄想しか出来なくなるだろうから。自身が冷静なうちに、今後の行動を決めておきたいのだ。今発狂してしまえば、それこそ二人に迷惑がかかってしまう。正気を保つように下唇を噛み締めた。

《Amelia》
「!
 少なくともアメリアが見ているのは彼一人ですし、血痕の状態もそれを示しています。
 一緒に来ていたミュゲイア様とブラザー様は逃走したか……怪物……アメリア達はハネアリと呼んでいるあれが重傷を負ったアラジン様を放置したのなら二人がかりで運んだか……でしょうか。」

 フェリシアと共に出て来たヘンゼルからの問いに、アメリアは目を瞬かせる。
 なんたってこのドールが相手を気遣い、希望的な観測をしようとしているのだ。

 普段ならまるで珍獣でも見たような目で彼の事を見ていただろうが……。
 今はこうしている一分一秒が惜しい

「アラジン様は……背中を。
 その直後に蒼い蝶が現れてその場にいた……少なくともアメリアとハネアリの意識を失わせました。
 ヘンゼル様の想定した予想外の出来事というのはそれです。」

 背中に置かれた手に優しい温もりを感じながら、アラジンの被害状況と起こった出来事を伝える。
 ……が、普段から(ごく一部の状況を除いて)くどいくらいに言葉を重ねるアメリアの言動からするとそれはかなり端的で言葉少なで……焦りの滲む言葉だった。

 だから……もしかしたら続く言葉は簡単に予想出来てしまうだろうか。

「一先ず、これが今共有出来る情報です。
 後は……そうですね、もし学園に帰る際、アリバイの用意が無いのなら怪物に出くわすまではカフェテリアで芸術クラブと共に居た。
 と言うと良いでしょう。
 カフェテリアの時計は一時間程ずらしてありますから……少しは偶然のトラブルを装える筈です。

 この後、お二人はどうなさいますか?」

「青い蝶……? 学園にそんな生き物が居たか……?」

 どうやらヘンゼルは青い蝶が出現する事象を経験したことがないのか、眉を寄せながらアメリアの状況説明を訝しそうに聞いていた。
 青い蝶が端を発すると思われるドールズへの突発的な意識障害。しかも恐らく影響が伝染すると思しきその現象は、疑わしいとはいえ信憑性自体はあるものだった。

「そう言えば、確かにこちらでも俺やフェリシア、……それからアリスの意識を失わせたけたたましい頭痛が今しがたあったな。もしかするとそれと同じタイミングだったんじゃないか。

 それまでのアリスはきちんと対話が出来る様子だったにも関わらず、あの頭痛を伴う衝撃の後は、自我というものが一切喪失し、まるで言葉を交わせない状態になった。」

 自分やフェリシアは意識喪失状態に陥るほどではなかったが、アリスは著しく状態がおかしくなった事もある。彼女の語る異常事態に関連性が見られることを確認して、詳細を簡潔に述べた。
 余分な物事や不明な出来事については削ぎ落とした説明とはなったが、より補完を担う解説は実際に会話をしていた彼女が繋いでくれるだろう。

「どうする、か。俺は早々に離脱を提案する。もうじきに19時を回るだろう、それ以降はコイツの言う通りアリバイが必要になるが……それでどうにかなる確証がない。

 リスクを考えるなら寮に帰るべきだ。……何も得られるものがないのは悔しいがな。」

《Felicia》
「青い蝶、か。ドロシーちゃんの話によると、青い蝶は“案内役”で、ドールズの救世主√0と接続する為の機構なんだって。√0と接続できるドールが見るらしいんだけど。


 ……この前、私の夢にアメリアちゃんが出てきたって話をしたじゃない? ああいう、存在しないはずの夢を見る度に近づく? とか言ってた。壊れたら壊れた分だけ√0の存在を感じられるって。

 こんな急な話、ヘンゼルくんに信じて貰えるか分からないけれど。少なくともこの場でアメリアちゃんが嘘をつく理由はないでしょ?
 御伽噺じゃなくて、青い蝶の存在は現実なの。」

 ここで青い蝶の話が出てくるとは思いもしなかった。……彼女もまた青い蝶を知るドールのひとりだったらしい。しかし、ヘンゼルにとっては突拍子もない話にだったのだろう。口ぶりからして、それを見たことすらない様で。青い蝶に関するひと通りの情報をアメリアに話すと、懐疑に眉を歪めるヘンゼルに向き直り、信じて欲しいと説得を試みるはずだ。

「………そう。彼は“背中”を。」

 あなたの背中を撫でるフェリシアの事情を知っているならば、その一言で彼女が何を言わんとしているのか大体の検討は付くはずだ。フェリシアがオミクロンに配属になったのは、友人を庇ったことでできた背中の大きな裂傷のためであり、ミュゲイアを庇い背中に傷を受けたアラジンの状況と酷似している。それを知っていて、アメリアは傷を負ったと言ったのだろう。フェリシアは「アラジンはどうしてそんな傷を負ったの?」と疑問を投げかける口を閉じた。もし状況が同じであっても、それがどうしたと言われてしまえば、それ以前であるからだ。蓋をしていたトラウマと名誉が入り交じる複雑な心境に、少女の背中に伝う汗はその傷を舐めて冷たく流れて行った。

「青い蝶、あの怪物の意識まで持ってっちゃったんだ。アメリアちゃんがそれを見たのなら、何かしら夢を見なかった?真っ白な施設で投薬されてる夢とか、擬似記憶じゃない大事な人の夢とか。
 ヘンゼルくんの言った通り、私達も頭痛に見舞われたんだけど、私たち二人とも夢は見なかったの。

 私とヘンゼルくんはこうやって喋っていられるけれど、アリスちゃんはそのショックで自我を保てなくなってたみたいだった。ぐったりと倒れて、『ほのおに身を投げろ』『あの場所に還ろう』ってしきりに呟いてた。アリスちゃんは今対話も出来ないし、動けないの。」

 アリスの言動が青い蝶に起因するのならば、蝶を見たというアメリアには、何かしらあったはずだ。ヘンゼルの言葉に補足するようにフェリシアは控え室の出来事を述べる。

「そ、それはそうだけど……。
 でも……! あの状態のアリスちゃんを置いては行けないよ!! アラジンくんのことだって気になるし。
 私、あの三人を探しに行きたい。アリスちゃんも、起こしたい。
 あの子に、ちゃんと話しておかなきゃいけないことがあるから。

 ……アリバイとか……どうすればいいか分からないけど。あ、あの……何とかなりませんか? 私よりずっとずっと優秀なおふたりだから、さ……だめ?」

 アメリアの背からそっと手を離すと、真剣に瞳を光らせて二人を見やった。

《Amelia》
 返答を待つ間、考える。
 なんとあの蝶はロビーとは扉で隔てられたデュオドール控室にまで影響を及ぼしたらしい。
 こうなってくるとまるきり怪奇現象としか言いようがないが……そんなものが目の前にあると思うと眩暈がする。

 次に、アラジンの傷について。
 そういえば……彼の傷はフェリシアの負った傷とよく似ていた。
 なんとも因果で……皮肉で……不愉快な事だ。

 最後に、夢について。
 これはまだ……話すわけには行けない。
 大切なあの人との想い出だというのもそうだけれど……ロゼットに問いかけるまでは……まだ、いう訳には行かなかった。

「ヘンゼル様は撤退、フェリシア様はミュゲイア様とブラザー様、アリス様にアラジン様の為に残りたい、と。」

 そうして、少しの間待っていた彼女に帰って来たのは予想通りの返答だった。
 撤退と維持。
 相反する二つの選択肢に加えて……フェリシアは現状オミクロンクラスで数少ないエーナドールであり、何かがあった場合彼女は全く以って戸惑わないだろう。

「……分かりました。
 先ず、ヘンゼル様とフェリシア様はアリス様を連れて帰る事を推奨します。
 そして、アメリアはミュゲイア様とブラザー様を探すためにここに残ります。
 あちらに帰った後、フェリシア様はハネアリとの遭遇でアメリアとはぐれた、とお伝えいただければフェリシア様は疑いを避けつつ、アメリアが動くだけの時間を稼げる筈です。

 ……それで、構いませんね?」

 だから……この場で最も命の価値が低い自分をこそこの場に残すべきだと。

 そう、思わせようと試みる。

《Felicia》
「……っ! だめ!! 絶対にそれはだめだから! アメリアちゃんが一人で残るなんて許さないから!!
 怪物が居るかもしれない状況で、私が大好きなあなたを一人にさせられる訳ないでしょう!? ……私も一緒に行くから。いい? アメリアちゃんの価値を、命を、そんなに軽く見積もらないで。……二度と。」

 アメリアの出した結論に、フェリシアは嵐の如く勢いで反発する。
 小さく細い彼女の両肩に手を置き、ギラギラとした双眼で彼女の瞳を射抜いた。自分のことを軽く見がちなあなたを、真っ向から否定するように低く告げながら。彼女は、間違いなくアメリアの出した決断に怒っていた。アメリアが圧に押されるようにして頷くと、フェリシアはほっとしたように腕の力を抜くだろう。

「ヘンゼルくんは……どうする? あなたがもし寮に帰るなら、アリバイを作って欲しい。あとは、アリスちゃんのことをお願いしたいな。アリスちゃんに関しては断って貰っても大丈夫。私があの子をおぶって追いかける。

 ……でも、良ければ一緒に来て欲しいな。あなたの冷静な判断力があるとすごく安心できるから。」

 アメリアに手を置いたまま、顔をヘンゼルの方に向けたフェリシアは、そう問いかけることだろう。

「お前……まさか一人で行くつもりか? 怪物の行方は分からない、最悪全員奴に攫われて殺されてるかもしれないって言うのに、それは流石に無謀過ぎるだろう。

 計算しなくても分かる。これだからジャンクは、…………」

 アメリアの策は、いかにもこの場での最適を選んだ効率的なものかに思えた。だがその分担において、アメリアに掛かる負担やリスクは並大抵のものではないはずだ。どこにいるともしれない怪物を追って、暗い学園を一人彷徨う──しかも頑丈に作られているわけでもない、幼い少女の見目をしたデュオモデルただ一人で。
 ヘンゼルは思わず眉を顰めて、彼女の無謀に苦言を呈した。だが慣れきったように続けられようとした欠陥ドールへの差別の常套句は、しかし何故か、途中で留められる。

 寸前で押し留まったヘンゼルは、直後に声を上げたフェリシアの主張を聞いていた。
 正義真の強い彼女の意志や提案はもっともらしかった。誰もがこう主張すると半ば予想していたものである。

 フェリシアの高潔なる怒りに鋭くなる目元は、やがてこちらに向けられた。
 ヘンゼルに同行を願う彼女の言葉に、彼は溜息を吐き出す。

「……馬鹿か、お前達は。口を開けば一人で残るだの、お荷物を背負っていくだの。オミクロンにはお人好ししか入れない決まりでもあるのか?

 分かった、お前達だけでは不安でしかないから俺も着いていってやる。だがあの女はあそこに置いていけ。怪物に出くわした時、あまりに足手纏い過ぎる。
 怪物が彷徨いている危険な場所に連れていくぐらいなら、あのクローゼットの死角で隠しておいた方がまだ安全だ。分かったな。」

 彼もどうやら、フェリシアの要望に呆れながらも同行する事を決めたようだ。アメリアへ諦めろ、と告げるように鼻を鳴らすと、その目線は床に色濃く残る血痕が続く先、二階へ向けられる。

《Amelia》
「……!」

 賢しらな欺瞞は見抜かれた。

 そう、アメリアが一人で残る判断をしたのは、単に”ハネアリに存在が露呈した以上次に死ぬのは自分たち”で、”その中でも延命をする必要が無い”自分が足を止める為の欺瞞でしかない。
 ちょっとでも情報を確保出来れば良し、そうでなくともフェリシアとヘンゼルは延命してここで起こった事を伝えられるというだけの、単なる捨て駒に等しい。
 けれど、ああ、勇気も知恵も、そんな欺瞞を許しはしないようだ。

「……申し訳ありません、フェリシア様。ヘンゼル様。
 少し、怯えておりました。
 それならば、三人で行きましょうか。現時点で出来る工作も限られておりますから、時間稼ぎなどは道中で話し合いましょう」

 それなら、立ち上がるしかない。
 焦りと使命感の中で、大切な思い出だけを抱えて寝ようとしていた欺瞞といえど、まだ生きろと言われているのだから。
 「お人好しはどちらだか」なんて文句を飲み込む代わりに、自分の頬を叩く。


 パチン、軽やかな痛みと共に世界が急速に現実感を取り戻す。
 両肩に置かれた手が、血の匂いが、今は正常に感じられる。

 さあ、もう一度歩き出そう。

 フェリシア、アメリア、そしてヘンゼル。
 あなた方は恐怖を置き去りにして、姿を消してしまった仲間を追うことに決めた。
 重篤な傷を負ったアラジンの事は、早く見つけなければ救えないかもしれない。
 ミュゲイアやブラザーはそんな彼を巡って、今なお危険な目に遭っているかもしれない。

 そんな当たり前の危惧から、自然と足は早まるはずだ。床にはまだ色濃く残る血痕がこびり付いており、それだけを唯一の手掛かりとして、あなた方は暗い廊下を急ぎ足で突き進んでいく。

 血痕は螺旋階段を伝って二階へ。
 カツン、カツンと音を響かせながら、不気味なほどに静かな学園をあなた方は慎重に進んでいく。
 いつ怪物が現れてもいいように、息を潜めて──最大限に警戒を募らせていたからか。

 二階へ辿り着いた時、後ろから軽やかなスキップの音が近付いてくることにも、もう気付けたことだろう。

 さっとあなた方が振り返るならば、その後を追ってきていたバーガンディの気品ある赤毛を揺らす、ヘンゼルとあらゆる顔の造形が瓜二つな少女ドール──グレーテルの微笑みと目が合うはずだ。

「……やっと見つけた! もう、探してたんだよ? 駄目じゃない、もうそろそろ学生寮に戻らなきゃ!」

 何故?
 何故ここに?
 どうして能天気なほどに明るい声で、グレーテルは笑っている?
 足元に散乱する血の跡に、デュオモデルである彼女が気付いていない筈はないだろう。それを彼女は踏み躙りながら、にこやかにあなた方に手を差し出す。

「グレーテル……?」
「うん、ヘンゼルってば、またこんな時間まで残ってたんだね。早く戻らなきゃ駄目だよ? お姉ちゃんが送っていってあげようか。ほら、みんなも行こう?」

 グレーテルは一歩あなた方に歩み寄る。
 この状況をどう説明したものだろうか。
 今も行方がしれないミュゲイアとブラザーを探しに行かなければならないというのに。

《Felicia》
 いつ、またあの怪物が襲ってくるか分からない。痛いくらいに鳴り響く危険信号を鎮め、フェリシアは最大限に警戒しながら螺旋階段を登っていく。踏みしめる足音だけが細く広がっていく学園内は、沈黙しか許されない……その筈だった。二階へ到着した途端に聞こえたのは、悠々と楽しげなステップの音であったから。

 フェリシアは咄嗟に振り返る。
 そこにいたのは……ヘンゼルと瓜二つの美貌を持つドール。対話して違和感しか感じなかった赤髪の少女であった。彼女の足元にはおどろおどろしく血が点々としているのに。何故そこまで幸せそうに笑っていられるのだろうか。
 瞬間的にペリドットを震わせたフェリシアは、同時に罰が悪そうな顔をした。先生に怒られる寸前の子どものように、しおらしく懇願するように。しかしその口調はいかにも大胆であった。

「私、まだ戻れない。グレーテルちゃんだって気づいてるよね……? ほら、足元を見てごらんよ。」

 差し伸べられた彼女の手をぎゅっと握る。抗議するようにワインレッドの深い瞳を見つめていた。
 見てないとは言わせない、なんて言葉が口を付いて出そうな態度で。

「……実はね、私、この血痕の主を探してるの。血は乾いてないから傷は、きっとすぐにできたものでしょう? 間違いなく、誰かが怪我をしちゃってるの。学園に忘れ物をして、ヘンゼルくんとロビーに行ったら、気を失ったエーナのアリスちゃんと、アメリアちゃん。そして二階へと続く血痕があったの。何があったのかって聞いたらアメリアちゃんがね、怪物に襲われたって話してくれたの。そんなことあり得ないでしょう? こーんな安全な学園に、怪物なんて居る訳がないもの。嘘でしょう? って話してたら、目の前にそいつが現れて……」

 そうしてフェリシアはトラウマを思い出したように身体を震わせる。ヘンゼルとアメリアは彼女のそれが演技だと気づけるはずだ。フェリシアは宥められるのを待っている。

「……はぁ、はぁ。ありがとう。
 そ、それでね、私たちもそいつに襲われたの。大きな声を出したのがいけなかったのかな。そいつには大きな鉤爪があって、羽があって、……本当に怖かった。ここで死んじゃうんじゃないかって本気で思った。それから頑張って逃げたつもり……なんだけど、しっかりは覚えてない。逃げるのに必死だったから。」

 一区切り呼吸を置くと、握手をするように掴んでいたグレーテルの手を、今度は両手で握りしめた。

「もし。

 その血の主の傷が怪物にやられたことで出来たものなら、すぐにでも手当をしないといけない状態のハズなの。アリスちゃんも起きてくれないし……放ってはおけないでしょ!? グレーテルちゃんだってお姉ちゃんなんだもん。貴女なら分かってくれるよね?

 あのね、実は、寮でも学園でも、ブラザーくんやミュゲちゃんの姿が見当たらないの。誰よりも柔らかいトゥリアのあの子達がもし、もし怪物に遭遇していたら……?
 想像しただけで怖くて怖くてたまらないの。

 だから、早く帰るために協力してグレーテルちゃん! 一緒に、みんなを助けようよ! 何よりも私が、貴女に居て欲しいの!!」

 アリバイ工作に関しては、アメリアやヘンゼルが補足して助けてくれるだろう、そう思って。感情論と事実だけをひたすら熱く述べると子犬のような瞳で背の高いグレーテルを見つめているのだった。

《Amelia》
 歩き出して直ぐ、聞こえて来た足音に気付いて振り向いた時にはもう隠れようがない位に近付かれていた。
 階下からやってきたグレーテルに対して、アメリアは驚きながらも、ただ「寮から来る子の中でも一番厄介な子が来てしまった」と、そう結論を下す。
 そうして言い訳を紡ごうとした時、先んじてフェリシアが理由を語る。

「……!
 勿論、アメリアは怪我をした方……アラジン様が無事だとは思っていませんし、出来る事なら寮に帰るべきだとも思います。
 しかし、一緒に来ていたミュゲイア様ともはぐれてしまいましたから。
 少なくとも彼女の安全が確保出来るまでは、まだ帰れません。」

 それに対して一瞬「まさかこの方を連れていくつもりなのか……?」と、動揺はすれど、その内容をフェリシアだけの独断で引っ張っている訳ではなく、それぞれに理由があって行っているのだと責任を分散する形で語る。

「幸い、アメリアが最後に時計を見た時はまだ五時を指していましたから。
 学園が閉まる七時までにはまだ時間もある筈ですし……お父様が離れる事になった今助けを呼ぶ事も難しいですから。
 まだ時間のあるうちは動くつもりです。」

 加えて、先生の介入が難しそうであること、時間には余裕がある(と、思っている)事を言い含める。
 これで……最低でも誤魔化せるだろうか?

「……えっ? 怪物?」

 グレーテルの熟した毒々しいラズベリーの瞳がぱちり、と驚きに瞬かれる。フェリシアの指し示す明らかに只事ではないと一目で分かる血痕に、彼女の尋常ではなさそうな怯えよう。エーナクラスとして染みついた違和感のない嘘のつき方が、ここで功を奏しているようだった。

 グレーテルは逡巡に値すると判断したのか少しばかり難しい顔をして考え込んだが、すぐに貼り付けたような薄っぺらい満面の笑みを浮かべて笑い飛ばし始める。

「もう、なに言ってるの、先生たちが安全を保ってくれてる学園に怖い怪物が居るわけないよ。ヘンゼルも前に言ってたけど……この学園、夜になるとこうやってすごく暗くなって怖く見えるし、燭台の灯りの影を見間違えたんじゃないかな?

 でも、この燃料を流したドールのことが心配なのは分かるよ。探しに行きたいんだよね? ……でもその為にそんな嘘つかなくったっていいのに、ふふふ……」

 グレーテルはフェリシアの演技を、織り交ぜた嘘を看破したわけではない。全部が馬鹿らしい、どうでもいいと一蹴したのであった。
 フェリシアは、隣に立っているヘンゼルが僅かに俯いて、握りしめた拳を震わせているのが見えるだろう。彼はグレーテルが現れてからずっと黙りこくっていた。その瞳を憎しみの毒色で濁らせながら。

「アメリアちゃんが時間を見間違うなんて珍しいね。もうすぐ学園が閉まっちゃう19時になるんだよ。だからこのことは、みんなで先生に説明しに行こう? デイビッド先生は居なくなったけど、ジゼル先生がいるでしょ?

 ジゼル先生ならきっとみんなを連れ戻してくれるし、怪我をした子だってちゃんと助けてくれるよ。だから一緒に──」


「──グレーテル」


 グレーテルはまた一歩、あなた方に近付いた。そこでずっと沈黙していたヘンゼルが、漸く口を開く。
 フェリシアとアメリアの前へ庇うように立って、彼は剣呑な表情で片割れを睨んだ。

「お前が俺の言ったことを信じたことは一度だってなかったな。だから俺もお前に期待しない。お前のことは一切信用しない。

 事は一刻を争う。
 先生に報告して判断を仰いでいる時間はない。怪物の存在は事実だ、彼女らの言っている事はなにも間違っていない。俺はデュオモデルとして、この事態が学園を揺るがす重大な危機になると判断した。
 だから彼女らに同行して、救助が必要なドールを今すぐ探しに行く。……寮には帰らない。」

 鋭い敵愾心に満ちた、相手を刺し貫く矛のように怜悧な言葉だった。
 ヘンゼルは一歩も引かず、グレーテルを睨む眼差しを緩めようとはしない。切り詰めた警戒の最中、グレーテルは「そう……」と一言つぶやくと。

「ヘンゼルが言うなら、分かったよ。止めない。……でもわたしもついていくね。ブラザーさんとミュゲイアさんに、伝えたいこともあったし……」

 ヘンゼルに真っ向から拒絶されたと言うのに、グレーテルはさして響いていないような、夢の中にいるような柔らかい声で応えると、あなた方の隣を通り抜けて前へ歩き出した。血で彩られた道を踏みつけながら、先へ進むと。

「──ほら、行くんでしょ? 急ごう?」

 と微笑み、また足を踏み出し始めるだろう。

《Felicia》
 嘘をつき慣れてない割には上手くいったようだ。驚嘆を意図した瞳を向けられる限り、困惑しながらも一先ずは怪物を事実だと信じてくれたようで。その幻想はすぐに彼女の声だけの作り笑いによって打ち砕かれるけれど。

「……信じて、くれないんだ。

 信じて貰えますようにってお願いしながら、これだけ一生懸命に話してるのに。……グレーテルちゃんは“そんな子”じゃないって思ってたよ。すごく、凄く残念だなぁ。」

 場違いのように大仰に笑い飛ばすグレーテルに、フェリシアは分かりやすく落胆の意を零した。憎悪の瞳を向けるヘンゼルを見られることがないように。あえて相手を逆上させるような皮肉を呟く。
 その様子は奇しくも以前の高慢ちきったヘンゼルがオミクロンを見下すときのようで。大きくため息をついては、肩を竦めて。刺すような視線をこれでもかとその少女に送っていた。笑顔しか知らないはずのフェリシアの顔には、“状況を見てなぜ笑ってられるんだ”と仰々しい文字が並んでいた。

 アメリアのアリバイをさらっと受け流すグレーテルに苛立ちが増したフェリシアは、抗弁に口を尖らせようと前へ出たが、それよりも早く出たのは──他でもない、ヘンゼルの姿であった。まるで彼女から庇われるように前に立たれたのだ。フェリシアが言葉を発するわけもなく。ペリドットを丸め、会話の行く末を見守っている。
 ヘンゼルの実にデュオドールらしい達観した説明に感心している間も、賞賛する余裕もない。不屈に立ち向かう彼の勇姿を、ただただ見つめているのだった。そうして軍杯は彼に上がったのだろう。グレーテルにも何かしら思うものがあるのか、大人しく着いてきてくれるようだった。暫定的に危機を脱したフェリシアは、軽く息を吐いて彼女に頷いた。

「……早く、行かないと。……みんなも行こう。先を急ごう。」

 終始愉快そうなグレーテルに疑念の意を向けていたことはふたりに知らせずのまま。彼女が誰かに危害を加えようとした時は、真っ先に自分が肉壁になってやろう。
 彼女を真っ先に誘ったフェリシアはそんな覚悟を決め、暗闇に向かって小走りで駆けるのだった。

《Amelia》
「まさか、そんな筈……フェリシア様!?」

 なんだか明らかに納得していない風情だが……どうにか直ぐに騒ぎ出す訳ではないらしい。
 この場で騒ぎ立てられて問題を起こされるのが一番嫌だった彼女としては一先ずその脅威が去り、しかも自分が時間を見間違えていたのではないかという疑いまで持たせられた。
 そんな風に胸を撫でおろしながら、時間を見間違えてないと思わせる為に戸惑ったように見せかけたその時、フェリシアが挑発的に口を挟む。

 今、このタイミングでグレーテルと口論になっても百害あって一利なし、アメリアは驚きながらも止めようとフェリシアの方を向くが……。
 それは必要なかったらしい。
 ヘンゼルが無理矢理押し切る形でグレーテルの同意を取り付ける。

「お待ち下さい、そのように急いでは……」

 そうして、目まぐるしい状況の変化に置いてけぼりにされかけている彼女はフェリシアを追いかけて再び歩き出す。
 足音を隠す為に靴を脱いでいるが……きっとグレーテルは脱がないだろうし、もう意味はないだろうか。

 グレーテルは異様な機嫌の良さで、踊り出すような赤毛を揺らしながら北端の階段へ向かっていく。血痕もまた、そちらへと続いているからだ。

 引き伸ばされたような赤い痕跡は時折蛇行を挟みながらも、存外迷いのない経路で真っ直ぐ階段へ向かっている。寄り道はない。燃料には時折足跡が付着しており、この痕跡を辿った者が居るのであろう事実を示唆していた。
 それはおそらく、ミュゲイアとブラザーの可能性が高い。これ以上学園に残っている他のドールは居ないであろうと仮定してのことだが。

 先陣を切って迷いのない足取りで歩き出すグレーテルの背を、ヘンゼルはずっと睨み付けていたが、やがてあなた方二人に目を向けると、歩み出すあなた方の背中に付く形で足を進めるだろう。
 自然と殿を務めることになったヘンゼルは、剣呑な目付きで周囲を警戒しながらあなた方の背後を守り固める。


 ──こうして四人のドールは夜闇に包まれた学園をまたも横断し、怪物が消えたであろう、あの『開かずの扉』にたどり着いた。

 壁に隠されるように馴染んでいた扉は、現在は大口を開いてその奥の出鱈目な暗闇を見せ付けている。グレーテルはその闇を少しばかり見上げるも、すぐに前へ進み出ていく。

「開かずの扉の話、本当だったんだね。ヘンゼル。前は信じてあげられなくてごめんね? デュオモデルだから、見たものしか信じられないの。あなたのことが嫌いってわけじゃないんだよ、むしろ大好きなんだから」
「……………………」

 場違いなほどに明るい彼女の声が、深海に沈んだような重暗い通路に弾んでは響き渡る。
 ヘンゼルは何も応えない。ただ静かに先を見据えているだけだ。

 そしてあなた方はその先にある小部屋、閉鎖的な空間の奥。黒い扉の前で立ち尽くす探し人を発見することになるだろう。

【学園2F 螺旋階段前】

Brother
Mugeia

 ミュゲイアは、地獄への道を歩いていた。
 頭を軋ませる頭痛はいまだ治まってはいない。今にもその意識を刈り取ろうと、脳神経の端から食い蝕んでいる。
 それでもあなたは立ち止まるわけにはいかなかった。動かなければならない理由があった。
 気力だけでその小さな身体を動かしていた。

 目の前の床には、未だ真新しい真っ赤な血がこびり付いている。アラジンが怪物に引き摺られていったので、その痕跡が色濃く残っているのだ。

 悍ましい惨劇の痕をあなたは辿っている。それ以外に考えられることなどなかった。
 壁を伝って、ふらつきながら前に進む。


 ──そんなミュゲイアの背に、ブラザーは漸く追い付いた。彼もまた、耐え難い頭痛に今も苛まれていて、今にも足を止めたい、と折れかけた心を叱責しながら歩いてきたのだ。
 場所は二階、そこはまだ螺旋階段の目の前だ。ミュゲイアもブラザーも、北端の階段を目指しているところだった。

 あなた方の視線は交錯するだろう。
 そこであなた方は漸く、言葉を発せるようになる。

《Brother》
 願っていた。

 ブラザーはただ、心の底から願い続けていた。


「……、……」

 がらがらになった喉は、未だ激しい頭痛により声を出すことすら出来ない。それでもはくはくと動き続ける口は、弱々しくアラジンの名を呼んでいる。力の入らない足をなんとか引きずって、ぐったりと重たい体で走り続けた。よろよろ、普通に歩くよりも遅かったと思う。いつも自分を操る糸はすっかり動きを止めてしまって、ブラザーに今どうするべきか指示するものは何も無い。今、こうして彼が歩いているのは、彼の設計図が想定しなかったバグでしかなかったのだ。
 そのバグに、ブラザーは心底感謝する。痛みで転げまわりそうな頭では、一歩進む度に記憶の蓋が割れる音がした。


 アラジンの笑み。アラジンの温もり。
 アラジンの夢。アラジンの──芸術。
 今のブラザーには、朧げでありながらも思い出せる。共に過した短くも長かったあの日々が、ありありと思い浮かんでくる。

 最後に見せた鬼気迫る表情が、脳裏に焼き付いていた。


 ブラザーは何も出来なかった。
 あのときも、今も、いつも。


 そんな自分が行って、何か出来るとはとても思えない。床に残る塗料の痕が、何よりも力の差を証明していた。脆いトゥリアの体で、あの巨体に何ができるというのだろう。

 しかし、そんなことは関係ないのだ。
 ブラザーは、アラジンを、ミュゲイアを。


 何よりも愛していて、止まるなんてことは出来なかったのだから。


 ……階段が見えた。
 同時に、ミュゲイアとの差が埋まったことに気づく。涙で顔に張り付いた髪をよけて、今もまだ溢れ続ける雫を袖口でぬぐった。


「……ミュゲ」


 酷い顔をしていたと、思う。
 声は枯れていたし、振り乱した髪はボサボサだ。
 けれども、やつれてしまったその姿は、それでもやはり動かなぬ彫刻のように美しい。悲しいほど、深い絶望をたたえていたから。


「………、……、……けが、は」

 何を言うか迷って、視線を落とす。
 何を話せばいいか、ブラザーは分からなくなっていた。曖昧に視線をさまよわせて、また袖で目元を拭う。それから、おずおずと両目に愛の小鳥を映した。

「けがは、してない?」

 いつもの穏やかな微笑みは、どこに行ったんだろう。ぶっきらぼうに、不格好に。ブラザーはミュゲイアと一定の距離を保ったまま、じいとそちらを見つめる。落ち着きなく動き回る視線は、ミュゲイアの小さな身体をくまなく見ていた。どこかに怪我をしていないか探しているのだろう、手元がそわそわ落ち着かない様子だ。

「いたいとこ、ないの」

 心配と怯えの混じったアメジストが、“ミュゲイア”を見ている。底抜けに優しくて甘い“おにいちゃん”は、どこにもいない。



 しかしそこには、未だ確かな愛がある。

《Mugeia》
 視界が揺らめく。
 ぐちゃぐちゃになった髪の毛。
 ほつれた結び目。
 お気に入りのリボンも汚れていた。
 グラグラと痛む頭をあげた先には茨に囲まれた地獄の道だけが続いている。
 目をつぶってしまえばきっと、この意識は簡単に喰われてしまう。
 それでも、ミュゲイアが倒れることなく歩けたのはきっとアラジンが脳裏で微笑んでいたから。
 アラジンの言葉があったから。
 あの言葉を最後にするわけにはいかなかったから。
 永遠に続く天体観測の夢をこんなところで挫折するわけにはいかなかったから。
 ミュゲイアには明確な理由がある。
 笑顔なんかではない。
 それよりも確かで強い理由があった。
 "アラジン"。それだけがこの小さな身体を動かしている。
 たどたどしく壁にもたれながらも、ミュゲイアは歩いた。
 目の前の床に広がる真新しい真っ赤な血がミュゲイアを焦らせる。
 ミュゲイアを庇って怪我をしてしまった彼の痕跡だ。
 怪物に攫われた彼の痕跡。
 悲劇の幕開けだった。
 ガーデンテラスで二人を引き止めれば良かった。
 何がなんでもそうするべきだったと後悔しても今更だった。
 ただ、自分を責めた。
 もっとちゃんとしていれば。
 彼が庇おうとしたのを跳ね除けていれば。
 そうすればもしかしたら、彼はこんな目に遭わずにすんだかもしれない。
 ただただ罪悪感と後悔がミュゲイアを襲う。
 だからこそ、ミュゲイアは止まれない。
 止まってはならない。
 もう、彼を失ってはならない。
 小鹿のようにふらつく脚でただミュゲイアは前へ前へと進んだ。
 アラジンが居なくてはいけない。
 天体観測の為にも欠けてはならない。
 アラジンはミュゲイアの大切な大切な存在だから。
 三人ではないと意味がないから。
 アラジンとブラザーがいてくれないと意味がない。
 笑顔とは違う大切な二人がいないといけない。
 外に行かないといけない。
 止まっててはいけない。
 あと、あともう少し。
 あともう少しで階段に辿り着くという時にミュゲイアの足は止まった。
 枯れてはいたけれど大切なその声がミュゲイアを呼んだから。
 ミュゲイアは足を止めて後ろを振り返った。
 ボサボサの髪に、泣いた跡のある瞳。
 ぐちゃぐちゃでありながら、底なしに美しいその姿。
 ミュゲイアの愛したドールが居た。


「………、……ブラザー。」


 純白の瞳から涙が零れた。
 糸が切れたように溢れた涙が止まることは無かった。
 彼はこんな姿のミュゲイアを見て見苦しいと思うだろうか。
 いつものように可愛らしく着飾った姿はどこにもない。
 天真爛漫に咲く笑顔もなかった。
 ただただ不慣れな感情に顔を歪めて、制御することも出来ていない。
 乾いた唇はぷるぷると震えていた。

「………ご、ごめん……なさい。ごめんなさい! ミュゲのせいで……、アラジンが! アラジンがァ! ……ご……めん、なさい。……ブラザー、ごめんなさい!」

 小さな小鳥はただ謝ることしか出来なかった。
 ブラザーがアラジンの事を好きだったのを知っているから。
 ブラザーにとってアラジンが大切だったのを知っているから。
 出来損ないのミュゲイアが助かったことよりもきっとアラジンが助かった方が良かったのを知っているから。
 ただ、謝ることしかできなかった。
 最低で最悪な女だから。
 貴方の嫌いなミュゲイアだから。
 貴方を愛してしまった女の口からは謝罪だけが垂れ流された。

「……け、怪我はないの。アラジンのおかげで。……でも、でも、そのせいでアラジンが。………また、ブラザーに酷いことしちゃった。……ミュゲがお披露目に行くからぁ。だから、ごめん……なさい……。」

 彼の心配も怯えもミュゲイアには分からない。
 罪悪感に苛まされた小鳥はその翼をちぎるように謝るばかり。
 無知な女はどうするべきか分からない。
 許してとも言えないその口で。
 震えた声で。
 ただ、泣いて謝った。

《Brother》
 くりっとした白蝶貝の両目。
 目が合うや否や溢れだした涙に、ブラザーは大袈裟なくらいに驚いた。行動全てに刷り込まれた笑顔はどこにもなく、ミュゲイアはぽろぽろと涙を零している。少しでも目を離せば消えてしまいそうなほど、その身体はちいさくて儚かった。

 震える唇が紡ぐのは、身を焼くような謝罪ばかり。ブラザーの見開かれた両目が、ぐわんと揺れる。微かに開いた唇は小刻みに震えて、一言で言えば、彼は絶句した。
 分厚い雲で覆われた夜は、もう星を映さない。嵐のような荒々しさと砂漠のような静けさを兼ね備えて、虚無の紫がブラザーの瞳だった。しかし、彼は今、星をまた見たいと切に願っている。


 そこには、アラジンがいなければ駄目だった。
 そこには、ミュゲイアがいなければ駄目だった。


 ───二人の道は、違う。
 “妹”を求めその役を理不尽に着せ続けたブラザーと、都合よく骨までしゃぶり尽くしたミュゲイア。二人は他者への献身強いトゥリアモデルとしてではなく、ただ己の欲望のままにその手を取り合っていた。だからこそ、瓦解した。
 甘い甘い夢は覚めて、二人に現実を見せつける。その結果、ブラザーは絶望し膝をつき、ミュゲイアは新たな夢を抱えた。見る方向の違う二人の道は、もう交わらないはずだったのだ。

 それが、今。
 ふたりが願うことは、同じである。


 三人で星が見たい。
 三人で笑い合いたい。


 切ないくらいに純粋な願いが、今、また二人を巡り合わせる。
 アラジンの微笑みが、チカチカと記憶の彼方で揺らめいていた。


「……ミュゲ、ああ、ミュゲ……」

 ふらふら、倒れるように近づいた。
 覚束無い足元だ。今にも倒れそうだ。しかし、決して倒れない。

 薄汚れた制服に包まれるブラザーの細い腕が、ミュゲイアにのびる。ふるふると力無く震えるその腕は、貴女に触れることを怖がっているようだった。また傷つけてしまうのではないかと、怯えていたのだ。

 彼の恐怖とは裏腹に、ブラザーの手は、ひどく優しい。ミュゲイアの髪を確かめるように軽く撫でて、そのまま抱き寄せる。力は抜けていて、それは添えるようなものだった。拒むのなら、それは簡単に解けてしまう抱擁だ。


「怖かったね、痛かったね……ミュゲ、もう大丈夫だよ、大丈夫だから」


 声は濡れている。泣いているのだ。
 腕の中にある鼓動。温もり。それらが今もこうして残っていることに、ブラザーは狂おしいほど安心している。


 “おにいちゃん”だから、ではない。
 ただなんの思考もなく、ミュゲイアを愛しているから。

 無事でいることが、嬉しいから。

「謝らないでいいよ。ミュゲのせいじゃないよ。
 だから、だからお披露目に行くなんて言わないで。

 帰ろう。アラジンと一緒に。
 三人で一緒に、帰ろう」


 ぎゅう、抱擁が強くなる。
 決して離さないと言うように、トゥリアの細腕が精一杯に主張する。



「また三人で、星を見よう」


 偽物の星でも、なんでもいい。
 ふたりの笑顔と胸の高鳴りさえあれば、星はいつだって輝くのだ。


 ……ああ、そうか。
 これがきっと、“愛する”ということなんだろう。


 身体を離したブラザーは、見たことのない顔で笑っていた。歪に、頼りなく。
 そこにいたのは、妖艶なトゥリアモデルでも博愛のおにいちゃんでもない。
 

 ただ友だちを愛する、ひとりの少年だった。

《Mugeia》
 ミュゲイアはギュッと強く手を握りしめた。
 弱々しい力では自分すらも傷つけられないその力でただ責めるように爪を食い込ませて握りしめた。
 きっと、ミュゲイアはその時覚悟したのだろう。
 友達になりたいと願ったドールからどれだけ責められるのかを。
 責められて当然のことをしたと。
 自分がどれだけ愚かであったのかを。
 出来損ないだから。
 オミクロンだから。
 愛したドールに怪我をさせた。
 オミクロンの自分が怪我をするべきだった。
 床に広がる真っ赤な血が自身のものであれば良かったのにと心の底から思った。
 アラジンはミュゲイアとは違う。
 ミュゲイアと違って壊れていない。
 誰かを思いやる心を持っている。
 勇敢さを持っている。
 清らかな心を持っている。
 ガラクタなんかではない、完璧で完成されたドールだった。
 ミュゲイアの憧れだった。
 ミュゲイアのたからものだった。
 善悪すら分からないミュゲイアにとっての善だった。
 ミュゲイアの全てだった。
 そして、目の前のドールだってそうだ。
 ミュゲイアは彼のことを都合よく扱った。
 彼の笑顔だけを見てそれ以外を後回しにした。
 泥のつけあいをした。
 足の引っ張り合いだった。
 都合の悪いもの全てを彼に押付けて、彼のせいだと片付けていた。
 壊れた関係だった。
 無理やりに彼がミュゲイアを妹にするから、ミュゲイアも彼を乱雑に扱った。
 まるで都合のいい玩具のように。
 歪に扱っていた。
 けれど、ミュゲイアは気づいてしまったのだ。
 そんな彼となりたい関係に。
 ちゃんと正しい関係に。
 ──────友達に。
 他の誰でもない彼と、ブラザーと、なりたいと思った。
 ずっと、隣にいたから。
 二人でずっとガラクタの山に埋もれてきたから。
 道は間違えた。
 順番だって間違えた。
 今更だと思われても仕方ない。
 拒絶されてもおかしくない。
 それでも、ミュゲイアは願ってしまった。
 ありし日の二人になりたいと。
 ありし日のように三人で天体観測をしたいと。
 煌めく星の美しさを教えてくれた少年。
 ずっと隣でミュゲイアを独りぼっちにしないでいてくれた少年。
 この二人と見たいと思ってしまった。
 ミュゲイアが誰かを笑顔以外で見たのは初めてだったから。
 彼らがミュゲイアに感情を教えてくれた。
 彼らがミュゲイアに色を与えてくれた。
 絵を描くことも、誰かを思って悩むことも、その全ては彼らのおかげだった。
 苦しいのも甘いのもその全ては彼らのおかげでしれたこと。
 ミュゲイアに特別を与えてくれた。
 ミュゲイアの本当の幸せを教えてくれた。
 ミュゲイアに笑顔以外を教えてくれた。 

 嗚呼、煌めいている。
 星がまた煌めきだした。
 どれだけ分厚い雲が覆いかぶさったとしても、三人ならきっと変えられる。
 星が見える場所まで三人で走ればいい。
 どこまでも、ずっと。
 ずっと、一緒に。


「………ブラザー。」


 魔法にかかったみたいに彼の抱擁に安心した。
 先程までの濁流とした感情が落ち着いてゆく。
 ミュゲイアの好きな温もり。
 彼の優しい抱擁。
 それにミュゲイアはそっと背中に手を回した。
 恋人にするような甘いものではなかった。
 どこかぎこちなくて、震えていて、不格好なもの。
 トゥリアドールとしては出来損ないの抱擁。


「……本当はね、三人じゃないと嫌なの! ブラザーもいないとダメなの! 三人で星が見たいの! ………ブラザー、大好きだよ。無事で良かった……、良かった。

 ……あのね、ブラザー。」


 あのね、私の大好きな人。
 あのね、私の大切な人。
 いつも目をつぶると貴方もいるの。
 大っ嫌いって思ってたのに、ずっと貴方がいるの。
 貴方の笑顔を思い出すの。
 貴方の苦しい顔を見ると苦しくなるの。
 貴方を幸せにしたいって思うの。
 貴方の隣で貴方の幸せを見たいって思うの。
 貴方がいないとダメなの。
 着飾らない貴方自身が大好きなの。
 知らない記憶の中でも貴方がいたから、きっとその先を知ろうと思えたの。
 貴方がいたから貴方を知ろうと思えたの。
 全部、全部、貴方が私を独りぼっちにしないでいてくれたから。
 だから、貴方が苦しいなら半分こしてよ。
 貴方の楽しいと半分こしてよ。
 貴方の幸せを一緒に幸せと思わせてよ。
 "妹"じゃない私を見て。
 もう、兄妹ごっこはやめよう。
 だから。
 ……だから。
 あのね、ブラザー。


「………ミュゲとお友達になって。ミュゲとアラジンとブラザーでお友達になろうよ。ねぇ、ブラザー。三人で帰ったらお友達として星を見よう。みんなで手を繋いで。」


 ミュゲイアはぐちゃぐちゃの顔を歪めて笑った。
 笑顔に取り憑かれたドールの計算された完璧な笑顔ではない笑顔であった。
 それでも、煌めく星を落とし込んだように潤った瞳がブラザーを見つめて笑っていた。
 妹らしくもない。
 ドールらしくもない。
 ただ、笑顔を愛した一人の少女の溢れてしまった笑顔。
 まだ拙い少女の、ミュゲイアの、友人を愛する笑みだった。

《Brother》
 名前を呼ばれた。
 ぎこちなく、恋人らしい甘さも熱も持たない手が回される。混ざり合いそうなほど高い体温を感じても、もうこのまま溶け合ってしまいたいとは思わない。ひとつになれないから、二人は出会える。ひとつになれないから、こうして抱きしめあえる。
 嬉しかった。例え周りから見れば、トゥリアドールとしては落第点の抱擁でも。ブラザーにとっては、世界のなによりも嬉しくて温かかった。

「ミュゲ……」

 大好き、だなんて。
 そんな言葉をもらう資格は、もうどこにもないと思っていた。その言葉を聞いてすぐ、ミュゲイアに自分が何をしてきたかを思い出す。三人で星が見たいだなんて、どの口が言えるのだろう。自分のおこがましさかじわじわ露呈して、ブラザーは僅かに眉を下げる。

 けれど、願わずにはいられない。
 三人で帰って、星が見たい。

 どれほどおこがましく、身勝手で、利己的だとしても。誰に罵られ嫌われようとも、ブラザーの望む全てだったのだ。


 ミュゲイアが言葉を続ける。
 ブラザーはなんと言えばいいか分からず、ただ言葉を噛み殺していた。抱き締められたことも、大好きだと言ってくれたことも、こんなにも嬉しいのに。ブラザーはまだ、ひとり後ろ向きだ。
 しかし、それに甘んじていた過去とは違う。今はもう、前に進みたい。三人でなら、どんな恐怖にも立ち向かえる気がするから。雲の隙間から、夜空が光を探している。反射して星を煌めかせる、あの柔らかくてあたたかい光を。


「───!」


 ……言ってしまえば、ミュゲイアの笑みは美しくなかった。もちろん顔立ちは天使のように可愛らしく、芸術品のようである。だが、トゥリアらしい穏やかな笑みではない。見たもの全てを魅了するような、太陽のような笑みではない。

 不格好で、歪で。
 涙の痕で顔はぐちゃぐちゃだ。自分と同じはずの白銀の波も、ぼさぼさに乱れている。他より見た目を楽しまれるドールとして、あってはならないことなのだろう。


 けれども、そんなこと、ブラザーには関係なかった。


「……うん。
 うん、うん……一緒に見よう。

 僕と、アラジンと、ミュゲで……三人、友だちとして」


 ぼたぼた、また涙が出た。
 今度は恐怖でも、安心でもない。彼はなによりも嬉しそうに、頬を緩めて泣いていた。


 友だちがなにか、ブラザーは分からない。
 彼の中にあるのは、妹で、弟で。自分が守って、愛さなければならない人で。だから、対等な友人も仲間も、彼にはなれなかった。だって、そんなことはプログラムされていないのだ。彼は人を愛する。そのためだけに作られた、白銀の美麗なドール。

 でも、ブラザーは欠陥品だ。
 不必要な自己愛、擬似記憶の勘違い、求められる役割との不相応な態度。優秀なドールでありながら、どうしようもないジャンク品。お披露目にももうずっと行けない、ガラクタのお人形。


 ……だった、から。


 ブラザーは、欠陥品だ。
 だからこそ。


「教えて、僕に友だちを。
 今度こそ一緒に、みんなで生きていたいから」


 彼は不具合だらけで、だから、プログラムされていないことも受け入れられる。知りたいと願ってしまう。正規品では有り得ないことだ。あってはならないことなんだろう。

 ブラザーは笑っている。
 バグまみれで、行先はスクラップでしかないとしても。こんなにも幸せそうに、口角を緩めている。にっこりと満面の笑みを浮かべて、細い顎から幸福の雫が落ちた。


 オミクロン。ジャンク。欠陥品。
 けれど、幸せだ。


 そんな資格はないと嘆いても、いまは何より、ただ嬉しかった。こんな自分と、友達になりたいと大切な人が願ってくれる。それが嬉しくて、嬉しくて……こんなにもどうしようもない自分を、ほんの少し信じられる。希望が持てる。


 大好きな人が愛してくれる自分を、ほんの少しだけ、好きでいられる。


「行こう、ミュゲ。
 アラジンのところに」

 ブラザーは微笑んだまま、手を差し出した。
 不器用に、下手くそに。包むための手のひらではなく、繋ぐための手のひらを。


 手を繋いで、学園を走ろう。
 あの日のように。あの日の結末を迎えないために。

 ブラザーとミュゲイアは、哀しみの中に砂金のような希望を見出そうとする。重たい曇天の向こう側の輝かしい晴れ間を、一番星に手を伸ばそうとする。

 その為に、重たい足を踏み出した。
 ふらついてもきっと支え合える。もう一人が付いていてくれる。その安堵感が背中を優しく押してくれるだろう。


 鮮やかな血の痕跡は未だ続いている。脆過ぎるトゥリアモデルが負った重篤な傷からは、尚止め処なく燃料が溢れ出しているようだ。
 血痕は北端の階段にまっすぐ向かっている。あの先にあるものを、あなた方はもう予想出来てしまうことだろう。

 ──開かずの扉。
 あの夜の舞台に、あなた方はまるで再演かのように足を進めている。
 一歩踏み出すことに、その前進を恐怖が取り巻いた。足を戻したい、今すぐに引き返したい、背を向けて立ち去りたい。そんな気持ちを抑え込んで、強引にでも進んでいく。


 ズキ、と側頭部が鈍く傷んだ。
 覚えのある光景と状況に、否が応にも抑圧していた記憶が滲み出してくる。

 そう、あの夜もあなた方は、手を取り合ってこの廊下を進んでいた。
 アラジンがこの先へ、二階の開かずの扉へと向かったと聞いて、急ぎ足で進んでいたのだ。


 凄まじい痛みにあなた方は足を止めるだろう。
 またしても感じる、気が遠くなる感覚。脳髄に青い液体が染み出すような感覚──

 ……寄り添い合う二人の瞳は、青白く輝き出していた。そしてあなた方は、先程のように過去の光景を垣間見る。

《Mugeia》
 砂金のように小さな小さな希望だった。
 小さな両の手を動かしてしまえば、隙間から簡単に零れてしまいそうなそんな希望。
 けれど、二つ、三つと合わせればあの空にきらめく星よりも光り輝く一等星になりそうな希望。
 それを手繰り寄せて抱きしめる。
 二人で、今度は零さないように。
 そのために重たい足を踏み出した。
 もう、怖くはなかった。
 後ろを振り向く必要もなかった。
 もう、独りぼっちじゃないから。
 隣に貴方がいるから。
 まだ鮮やかさの残る血痕はどこまでも続いていた。
 その血の量がミュゲイアを焦らせる。
 彼はトゥリアだ。
 脆く儚くか弱いトゥリア。
 そんな彼がこれだけの量の燃料を止めどなく流しているということはそれだけ危険なはずだ。
 焦る気持ちの中進めば進むほどに、その赤い道が何処に続いているのか。
 ミュゲイアは予想してしまった。
 脳裏に扉がチラつく。
 その度、恐怖がミュゲイアの足に絡みつく。
 それでも、鉛のように重たい足を動かさずにはいられなかった。
 近づくにつれてズキりと頭が痛む。
 嗚呼、そうだ。
 あの時もこうやって急いでいた。
 アラジンの後を追って急ぎ足で進んでいた。
 ズキりと一際強く頭に衝撃が走る。
 また、あの感覚。
 どこかへ引きずられてしまいそうな感覚。
 その痛みがミュゲイアを過去へと導く。
 忘れたものを思い出させてゆく。
 釘刺しにするように。
 鈍く殴るように。
 あるいは水槽に落とされるように。
 痛みと浅い呼吸だけがミュゲイアにまとわりつく。
 呼吸のひとつさえも遅く、ゆっくりと瞬きをすれば記憶が蘇ってゆく。

 ──遠くでは、オーケストラの華やかな音色が響いていた。鈍重で派手で、遠くに居ても腹の底から響いてくるような音楽だ。

 その日はドールズが皆待ち侘びた、晴れやかなお披露目の晩。
 この日のお披露目の為に、あなた方の友人である芸術クラブのアラジンとドロシーは、華美に着飾っていた。

 ドロシーは生憎テーセラクラスだったため見送りは出来なかった。だがこっそり寮を抜け出したあなた方と控え室の前で鉢合わせると、呆れたようにも顔を出してくれたことを喜んでいたように思う。
 そうして彼女は、その細腕の指先を二階へと向けた。

『アラジンは先生とあそこへ行った』

 彼女の証言を頼りに、二人は階段を登り詰めた。

 北端の階段、二階と三階の踊り場。そこに隠された扉はあった。
 アラジンに力強く説得されて学園の秘密を探るのに駆け回っていた日々の中で、ヘンゼルという少年からこの扉の存在は聞いていた。


『ほら、隠し扉のスイッチ! ワクワクするだろ? この先に何があるのか気にならないか?』


 薔薇が飾られたハイテーブルの下のスイッチは、彼が見つけたものだった。
 スイッチを押すと確かに扉は開いたが、その時あなた方は入ってはいけない場所だと思ったため、この先に進めなかったのだ。

 だが今まさに、あなた方の目の前で開かずの間への道は大口を開いている。暗闇はあなた方に着実に忍び寄り、魔の手を伸ばす。
 冷ややかな空気が最奥から流れ出して、真っ白な肌をするりと撫でた。


 恐怖は確かにあった。
 だがこの先に先生とアラジンが向かったのだと思えば、足を止める理由にはならなかったことだろう。

 そうしてあの日のあなた達は、暗闇へ足を踏み出したのだ。

【“あの日”の開かずの間】

 無骨な鉄鋼の床を踏み締めると、あなた方の履く靴がカツン、カツン、と音を響かせた。

 天井の高い通路は、深海に沈み込んだかのような重たい暗闇と静けさに満ちている。時折どこか遠方から、怪魚の唸り声のような心臓を震え上がらせる低い音が反響し、足元から肌を震わせた。
 燭台の灯りはなく、等間隔に無機質な蛍光ランプが赤く点灯しているのが分かる。ランプは老朽化が始まっているのか、時折バチバチと不穏な音を立てているのが聞こえた。

 絵に描いたようなおどろおどろしい空間は、あなた方が日頃暮らす楽園のような学生寮とは大違いで、戸惑ったかもしれない。

 肌寒さを感じる黒い小部屋に行き着くと、いくつかめぼしいようなものがあった。
 小部屋にはあなた方の背丈ほどに大きなコンテナがいくつも積み上がっており、その殆どの蓋は閉ざされている。物資を運ぶための台車や工具などが部屋の端には乱雑に固められており、雑然とした印象を見るものに与える。

《Brother》
 ───華やかな音楽に、あの日は朝から浮かれていた。


 ……刺すような痛みと共に再び蘇る記憶。ブラザーは気がつくと、開かずの扉のすぐ近くに立っていた。そこに、紫がかった白銀と軽やかにリボンを揺らす小鳥がやってくる。


 ───アラジンとドロシーは、素晴らしく衣装が似合っていた。


 ……奥深くに広がる暗闇に、ほんの少し怖気付いたらしい。紫の方は一歩下がり、不安げに小鳥を見る。それから何かを軽く話して、前に進んだ。ブラザーはただ、ぼんやりとそれを近くで見ていた。

 記憶が、意識が、混ざる。
 これがあの日の記憶なのだと、ようやく気づいた。その頃にはもう、無知なふたりは暗闇に沈んでいた。
 引き留めようと手を伸ばす。小鳥の名を呼んだが、声は出なかった。

「アラジン、どうしてこんなところに来たんだろう」

 代わりに、ひどく間の抜けた声。
 なんの危機感もなく、かつんかつんと優雅な足音を響かせている。紫は辺りを見回しながら通路を進み、やがて小部屋を見つけた。ブラザーはその先で見たものを、もう思い出せる。

「暗いから、気をつけて進んでね」

 後ろにいるだろう小鳥に向けて、紫はやや大きな声を出した。小部屋の方になにか……血痕が見えたとき、紫の表情がぐっと強ばる。
 それでも、奇怪に導かれるままに、紫は足を進めた。進めてしまったのだ。

 ブラザーの視界には、鉄製の床にこびり付いた真っ赤な血痕が留まるだろう。まだ真新しいもので、一帯に無秩序に撒き散らされている。
 燃料の先を目で追うと、二方向に分かれているのが分かった。

 一方は何も物が置かれていない壁の方。壁際へ血痕は滑らかに続き、その先には転がっていったと思われる一本のナイフが落ちていた。
 このナイフの形状には見覚えがある。あなた方が日常的に学生寮での食事で用いているカトラリーのナイフである。刃物の先端には赤い血液が付着しており、これを凶器に誰かが争ったのであろう。

 ……一体誰が?

 そしてもう一方は、傷から溢れでたかのような転々とした血痕であり、どうやら痕跡は部屋の奥の分厚い扉まで続いているようだ。

 ──扉は僅かに開いて、ギィギィと不気味な音を奏でている。

《Mugeia》
 あの日は、今日は、笑顔の耐えない日になる。
 そうなるはずの日だった。
 待ちに待った晴れやかなお披露目の晩。
 ゆっくりと重い瞼を開ければ、ミュゲイアは開かずの扉の前にいた。
 アメジストの瞳を揺らした少年の隣に立ちながら小さな小鳥は扉を見上げていた。
 アラジンに説得されて学園の秘密を探るのに駆け回り奮闘していた日々の中でこの扉のことを真っ赤な知恵の林檎が教えてくれたのだった。
 薔薇が飾られたハイテーブルの下にはスイッチがあって、それを押せば扉が開いた。
 あの時はその先に進めなかったのだ。
 入ってはいけない場所というのは明白だったから。
 だが、アラジンがそこへと行ったとその日は聞いたから二人で勇気をだして飛び込んだのだ。
 美しいドレスに着飾ったドロシーと長く話す事もしないで、追いかけたのだ。「また後でゆっくり話そうね! アラジンも呼んでくるから!」なんて言葉をドロシーに投げかけてから、ただ一心不乱に追いかけたのだった。
 それから、二人で入った扉の先は暗かった。
 不安を紛らわせるように友人と軽く会話をしてから、小鳥は歩き出したのだ。
 記憶と意識が混ざりあったように、過去を旅するようにその情景をミュゲイアは思い出し、追体験するように見ていた。
 無知なふたりはただ進むばかりだった。


「わかんない。本当にこんな所に先生とアラジンいるのかな?」

 ただ、分からなかったのを思い出した。
 何故、お披露目の少し前にこんな所に用があったのだろう。
 嗚呼、そうだ。
 アクセサリーだ。
 アクセサリーを取りに行くって聞いたのをドロシーが教えてくれたのだった。
 でも、こんな所にそんなものを受け取る場所なんてあるのだろうか?
 ほの暗いこの場所で。

「うん。ブラザーも気をつけてね!」

 なんて言葉を先に進んだ友人に返してから小鳥は進み出した。
 積み上げられたコンテナを見上げて歩いていると何かを蹴ってしまった。
 それに気がついた小鳥は視線を下に落として蹴ってしまったものを確かめた。
 ぐちゃぐちゃに丸められた画用紙。
 それが何かわからない小鳥は小首を傾げながら手に取って画用紙を広げた。

 あなたが何気なく目を向けた先。積み上がったコンテナの合間をゆっくりと歩いている時に、ポーンと軽く蹴飛ばしてしまったのは、くしゃくしゃに丸められた画用紙だった。

 中身が見えない様に白紙の部分を外側にして、徹底的に小さく丸め込まれている。まるでポケットか何かに強引に突っ込んでおいたかの様に、皺くちゃでもう元の綺麗な紙には戻せない有り様だ。

 あなたがそれをそっと拾い上げて、中身を確認しようと広げると。
 それは単なるゴミではなかったらしく、内側に何か描かれているのが分かった。


 それは美しい色彩で描かれた芸術クラブの絵だった。
 巧みな筆使いで上手く特徴を捉えた、見事な一枚。そこに描かれたブラザーもミュゲイアも、そしてあなた方の友人であったはずのドロシーやエルも飾らない笑顔である。
 ……笑顔であったはずだ。

 ミュゲイアはアラジンが、この絵を以前からスケッチブックに描き上げていた事を知っている。その記憶が、あなたの目に笑顔の青写真を映し出しただけで。
 目の前の画用紙に描かれていたはずの輝かしい日々を写し取った絵は、黒いインクで塗りつぶされていた。全員の顔が分からないように黒く、ただ黒く。

 あなたでなければこれを残したのがアラジンだと分からなかっただろう。

 そして黒く塗りつぶされていない部分には、慌てたような筆跡でこう記されていた。


『Run away from here!』
 ──ここから逃げろ、と。

《Brother》
 温かみのない部屋。消えかけの明かり。遠方から聞こえる異音。

 穏やかな光に満ちた寮に、こんな場所があったなんて紫は知らなかった。何故、こんな場所が存在するんだろう。質素な物置にしては、あまりにも不気味だ。流石に異変を感じはじめ、踏み出す足の歩幅が小さくなっていく。
 けれど、足は止まらなかった。アラジンに会いたいという子供じみた願いが、無垢に足を動かしたのだ。


 ブラザーの頭は、ツキンツキンと甲高い悲鳴のような痛みを感じていた。この柔らかな願いがどうなるか、ブラザーの記憶が呼び起こされそうとしているのがわかる。

 見たくない、と。
 心から思った。

 同時に、見なければいけない、とも。
 心から思った。


 思い出さなければならない。
 あの幸福の日々に起きた、古い記憶を。逃げるだけではもう許されないのだから。

 前に進むために。
 アラジンと、また“友だち”になるために。


「……なに、これ」

 小部屋にまで辿り着き、混沌とした部屋の様子に紫は瞳を瞬かせた。雑多に置かれたコンテナは、一瞬本当にこの場所は物置だったのかと思わせた。だが、すぐに無機質な床に撒き散る血痕に気づく。短く息を飲んで、咄嗟に後ずさった。通路からの赤い光に鈍く照らされ、血痕はおぞましく反射している。その光り方から、まだ血は乾いていない。誰かが、ここで、血を流したのだ。
 恐らく───アレで。

「なんで、ナイフが……」

 カトラリーのナイフ。
 床に転がる明らかな凶器。僅かに血液の付着した日常の破片を、紫は拾いあげた。

 ……これを持ち込んだ誰かが、誰かをここで刺した。考えられる可能性で最も大きいのはこれしかない。とはいえ、そんなことを誰がするのだろう。犯人は、あの開いている扉に行ったのだろうか……。


 ここまで考えて、紫はゾッとした。
 陶器のような肌を更に青白くさせ、慌てて小鳥の方を振り返る。声が聞こえるほどの距離にまで走って、必死に説明を始めた。

「ミュゲッ……!! 大変だ、見て、これ!!
 誰かがあの奥の部屋で、このナイフを使って争ったんだ。血の跡がある。その跡がもっと奥まで続いてる!

 アラジンと先生に何かあるかもしれない。早く行かないと……、……ミュゲ? 何持ってるの?」

 小鳥に見えやすいよう、ナイフを突き出して早口に捲し立てる。乱闘の犯人が、先の部屋に進んだのだとすれば。アラジンたちと犯人が出会い、なにか危害を加えられているかもしれない。そう思うと足がすくみそうなほどの恐怖が訪れ、更に紫を焦燥させた。
 紫は小鳥の手を引いて、奥に進もうとする。手を伸ばしかけて、ようやくその手にくしゃくしゃの紙があることに気がついた。画用紙だろうか。紫は不思議そうに、小鳥が見つけたものを聞いている。

 全く、呑気なものだ。
 ひとり遠くから眺めるブラザーは、ただ冷めた目で過日の夢を見ていた。……頭が痛い。

《Mugeia》
 恐ろしさが段々と顔を覗かせてくる。
 軽く蹴ってしまった画用紙。
 ただ単なる画用紙だった。
 ぐちゃぐちゃな紙一枚。
 どこにでもあるありふれた紙。
 くしゃくしゃになった画用紙は中身が見えないように白紙の部分を外側にして、小さく小さく丸められていた。
 ポケットか何かに突っ込まれていたかのように、しわくちゃになってもう元の綺麗な紙には戻せない有様になっていた ソレを小鳥は広げた。
 単なるゴミのようにも思えたソレ。
 それがゴミであったならどれだけ良かったことか。
 何も描かれていなければ。
 広げた紙を見て小鳥は目を見開いた。
 それは美しい色彩で描かれた芸術だった。
 それは小鳥の大好きな絵だった。
 巧みな筆使いで描かれた見事な一枚。そこに描かれているブラザーもミュゲイアも、エルやドロシーも飾らない笑顔だった。
 ミュゲイアの愛した笑顔だった。
 ミュゲイアが笑顔を愛する理由がそこにあった。
 そう、笑顔に溢れた宝物のような絵であるはずだった。
 アラジンがこの絵を以前からスケッチブックに描き上げていたことは知っていた。
 完成するのを待ち遠しく思っていたから。
 彼の描く絵が大好きであったから、よく覚えていた。
 トイボックスでの輝かしい青春を落とし込んだ一枚。
 そのはずだった。
 ぐちゃぐちゃになって少し柔らかくなっているこの画用紙の絵には真っ黒のインクで塗りつぶされていた。
 全員の顔が分からなくなるほどにただ黒く。暗闇のように。
 ベッタリと黒のインクが垂れていた。
 それに小鳥は驚き、そして何故? という謎だけが膨れ上がった。
 その思考すらもすぐに掻き消された。
 黒く塗りつぶされていない部分には慌てたような筆跡で文字が記されていた。

『Run away from here!』
 その文字が嫌というほどに濃く、大きかった。目を瞑っても浮かび上がってしまいそうな程に。
 今にでも全てなかったことにしてしまいたいほどに、痛々しい筆跡であった。
 小鳥は今になってやっとこの場が地獄のような場所なのだと気がついた。
 ただ眺めるしかできないミュゲイアは思い出した事実にコアが跳ね上がった。 目を逸らしたくなるほどの過去。その先を知ることを恐れてもその頭の痛みは止まらない。もう止まってはくれない。
 焦る気持ちのままに後退りをしてしまった小鳥の方へと友人の声が聞こえた。
 青白い肌で焦った様に必死に説明をしてくれた。
 頭の中に流れ込む言葉の数々。
 友人の言葉を聞いてやっとこの画用紙に書かれた言葉と繋がった。


「………う、そ。」


 ダラりと力なく腕が垂れ下がった。
 スカートに擦れた画用紙がクシャリと音を立てた。
 薄紅色の頬は青白くなり、寒気が走った。
 視線を落とした先に映りこんだナイフの先端が現実だと囁いている。
 馬鹿で無知なマヌケと嘲笑っている。
 小鳥のギョロりとした瞳は視線をウロウロとさせた後に何も言葉を発しないまま友人の方へと一枚の画用紙を差し出した。
 これを見ろと言うように。
 ギュッと画用紙の先を握りしめて。


「………どうしよう、ブラザー。もう、どうしたらいいの!? わかんないよ! アラジンも先生もどこで何してるの!? こんな所に本当にアクセサリーなんてあるの!? なんでこんな所にそんなのがあるの!? ……此処は幸せなだけの場所じゃないの!? こんなの幸せに要らないでしょ!? ……、なんで、どうして。アラジン、アラジン、どこ? ……どこなの?」


 どこへ向ければいいのかも分からない感情が。
 むせ返るような焦りが。
 背中を撫で回す恐怖が。
 ミュゲイアを叫ばせた。
 幸せなはずのトイボックスに不似合いな現状が。
 幸せであるべきアラジンに迫る絶望の音が。
 小鳥と友人を嘲笑っているかのような絶望が。
 その全てにミュゲイアは叫んだ。
 叫ぶことしか出来なかった。
 笑うこともできない現状で、剥き出しの感情がミュゲイアを支配していく。
 ぐしゃりと頭を掴んで掻きむしった髪の毛が汚くほつれてゆく。
 幸せが崩れてゆく。
 笑顔も幸せもないこの場所で先に根を上げてしまったのは幸せを愛する小鳥だった。
 幸せも笑顔も否定されて小鳥はもがれた二つの翼をだらしなく垂らしてただ叫ぶ。

《Brother》
「ミュゲ……?」

 いつも明るく、弾けるような笑顔を見せてくれる彼女。小鳥が項垂れていることに紫は驚き、ぞわぞわと嫌な予感が背筋を舐めた。明らかに様子がおかしい。無言で差し出された画用紙に視線を落とす。ごくりと生唾を飲み込んだ。震える手のひらが、絵を受け取る。恐る恐る、その絵を見てみた。


 ───ツキン。
 ブラザーの頭が痛む。頬を雫が伝った。

 記憶が蘇るたびに、アラジンが何を考えて笑っていたのか分からなくなった。一体、あの子はどれほどのものを抱えていたんだろう。ずっとそばに居たのに、あの日の自分はそれを少しも共に背負えなかった。


「ひ、ッ……」

 紫が絵を見て悲鳴をあげた。
 アラジンの色使いだと、ひと目でわかった。アラジンが描いた絵、その顔部分だけが黒いインクに隠れている。撒き散らされた絶望が、あの生ぬるい日々を否定しているようだった。
 慌てたような文字が見える。幸せの象徴であるトイボックスには似合わない、切羽詰まった走り書き。

 ……アラジンの筆跡だった。
 ずっと見てきたからわかる。文字を見ただけで、夜を駆ける星屑の三つ編みが視界をなびいた。間違えるはずがない。
 つまりは、アラジンが、自分の絵に自分でインクを撒き、この走り書きを書いたのだ。

 一体なぜ? 逃げろって、何から?
 疑問が浮かんでは形にならず消え、紫の心に疑心だけが残る。ここは幸せの楽園。愛に満ちた箱庭。そのはず。そうでなければならない。

 は、と。
 先生に連れられる直前の、アラジンの言葉を思い出した。


『なあ、頼む』
『この学園から抜け出して自由になりたいんだ』
『ブラザー』

『お前だけが頼りなんだ』



 ───“急にどうしたの、アラジン。きっと大丈夫だよ。”

 “お披露目に行ったら、素敵なご主人様が君を待ってるんだから。”


「…… …… ……………」

 自分は。
 アラジンが死地に赴くかのような顔で告げた願いに、なんて言った?

 宥めるように微笑んで、彼の願いを、どうした?


 寂しがった子供の戯言を聞くように、その背を押そうとしたのではなかったか?



 ───ツキン、ツキン。
 ブラザーはいつの間にか蹲っていた。頭が割れるように痛い。コアが弾け飛びそうなほど鳴っている。耐え難い後悔だった。吐きそうだった。
 だってブラザーは、アラジンにあれほどの幸せを教えてもらって、彼に何一つ返せなかったのだから!

 声の出ない記憶の中で、ブラザーはアラジンの名を呼び続けている。もう届かない場所で、あの日も今も、彼を愛しているだなんて宣って。


 ああ、そうだ。そうだった。
 ブラザーは卑怯な人形だった。誰より自分が知っていることだ。蹲ったまま、涙でぐちゃぐちゃの顔を上げる。このとき自分が何を言ったか、ブラザーはよく覚えていた。


「……アラジンに、何かあったのかもしれない。
 急ごう、あの奥に部屋があるんだ。

 大丈夫、ミュゲ。僕がついてるから」


 ああ、なんと愚かしい!
 この期に及んで、紫は、自分は、ブラザーは───罪から目を逸らしたのだ!

 自分がアラジンを見捨てたことを黙り、あまつさえ傲慢にも救おうとしているなんてポーズをとって。罪滅ぼしのつもりだろうか。紫の震える唇が、ブラザーには堪らなく憎らしい。

 思えば、ぬくぬくと温室で育ったブラザーに自己嫌悪と自己愛の感情が芽生えたのは、この時だったのかもしれない。耐え難い後悔による激しい自己嫌悪と、学園への不信による自己保身。歪に絡み合ったふたつが、ブラザーの中に存在しはじめたのかもしれない。


 紫は神妙な面持ちのまま、小鳥の手を取る。冷えきったその体をあたためるようにぎゅうと握って、奥に続く小部屋へと歩き出した。
 体の芯から凍るような、細胞が死んでいくような感覚。自分を殺したくなる日が来るのだと、紫は初めて知った。

 部屋の最奥でギィギィと音を立てて揺れていた扉。施錠されていないそちらへ、あなた方は慎重な足取りで進んでいく。
 明らかな異常事態と分かる手がかりの数々がその足先を迷わせたが、それでも友人の安否を確かめるまでは引くに引けなくなったのも事実だろう。
 湧き上がる恐怖を飲み込んで、その奥の空間へ移動する。

 初めに入った情報は、ゴォ、と低く唸るような迫力のある空洞音だ。

 無骨な鋼鉄製の壁と床で固められた、似たような景色が広がっている。だが先の空間の方が恐ろしく広く、とても高い天井と、とても深そうな穴が視界に映り込む。

 そこはまるで『黒い塔』のような縦に伸びた円形の通路であり、中央部分だけが吹き抜けのようになっている。そこにぽっかりと開いた深い穴から、地の底から響き渡るような悍ましい空洞音を発しているのだと分かるだろう。



「──アラジン。刃物なんて持ち出したら、危ないだろう?」

 中央の円形通路に向かってゆっくり、慎重にあなた方が進んでいくと、耳に飛び込んだのはとても優しい耳慣れた先生の声だった。
 宥めるような、背中を撫でるような甘くて穏やかな声だ。

 そちらに目を向けると、あなた方が追っていた人物がようやく視界に飛び込んでくる。
 煌びやかなサテン生地で織られた美しい白銀のタキシードに身を包むアラジン。晴れ舞台にふさわしい装いをしている筈の彼は、恐慌に呑まれたような強張った表情で後ろに足を引いていた。
 皆が信頼し、敬愛する先生を恐れているかのような顔だ。彼はジリジリと距離を詰められるに合わせて下がっていき、深い穴の近くへ追いやられつつあった。
 その腕には深々と切り付けられたような傷痕があり、赤い燃料をポタポタと溢している。

「こっちへおいで、怖いことなど何もない。すぐに怪我の治療もしよう。先生を信じてくれ。」

「……そんなこと言って、クラスのみんなも、……っエルだって、ここで全員殺したんだろ!?」

 怒号が奔る。
 いつも明朗闊達で、気持ちよく笑っていたアラジンからは信じられないぐらいの、憤怒に満ちた咆哮だった。
 しかしすぐに顔を伏せると、荒々しい呼吸に交えた震えた声でつぶやく。

「オレのことも、これから殺すつもりなんだろ……!」
「アラジン……」
「先生……なんで、こんなこと……オレは……」

 更に一歩、アラジンは引き下がる。
 見たこともないくらいに冷や汗をかいた彼は、消え入りそうな声で囁いた。


「──まだ死にたくない……!」


 夥しい鮮血が舞った。
 アラジンのトゥリアモデルらしいしなやかな身体は、背中から大きく引き裂かれて僅かに軋み、やがて力無く膝をつく。
 星に届かなかったささやかな願いごと彼を踏み躙ったのは、暗い穴の下から這い上がってきた、耳障りな音を立てる怪物だった。

 黒い装甲、虫のような翅と触覚、貌の無い頭部、そして鋭利な鉤爪。
 アラジンの血で汚れたその爪先を振るって、「ゴルルルルルッ……」とエンジンを蒸すような唸り声を上げている。


 見たこともない怪物に、アラジンが殺されてしまった。
 あなた方は抑えようもない恐怖に飲まれるだろう。生まれてから平和な暮らししかしてこなかったあなた方にとって、それは絶望を引き連れてやってきた死神だ。
 パニックに陥っても仕方が無いだろう。

 事実、僅かに足が引けたあなた方は、どちらかは定かで無いが、その後ろ足を床に打ち付けてカツン、と微かに金属音を立ててしまった。
 それは微かではあったが、致命的な物音であったと言える。

「! ……ギリギリギリギリ……!!」

 怪物がこちらに気付いたのだ。
 不愉快な音を発しながらこちらに向き直る。あなた方は物陰に身を隠していたが、見つかるのは時間の問題だろう。
 何より信じ難い光景に目を奪われてしまい、逃げるのも遅れてしまった。

 先生は、あなた方が信頼するデイビッドは、倒れ伏してしまったアラジンを案ずるでもなく、無感情に引き摺って吹き抜け部分に吊り下がる鉄籠に放り込んでいた。
 そして溜息を一つ吐くと、怪物に冷え切った声で一つ指示を落とす。

「探せ。生け捕りにするんだ、分かったな」
「………………」

「──行け」


 先生が、あの悍ましい怪物に指示を出している。

 それが分かった時のあなた方の感情は、果たしてどのようなものであっただろう。

 そうこうしている合間にも怪物は迫り来る。

 ──逃げなければ。

 迷いもなくそう思うだろう。
 アラジンを救えなかった。
 だがせめて、傍に居る大切な友人だけは、と思うはずだ。

 そうしてあなた方は、あの出入り口へと急ぐ。

《Brother》
 最早、後戻りは出来ない。
 紫はアラジンを救わねばならなかった。自分が彼を裏切ったことを、彼自身に謝らなければならない。そうして、仲直りがしたかった。

 ……友だちだったから。

 足に力が入っていることを、小鳥は気づいていたのだろうか。いつもより上擦った荒い呼吸を、小鳥はどう思ったのだろう。噎せ返る絶望の空気に飲み込まれながらも、紫と小鳥の足は止まらない。


 その少し後ろを、ブラザーは歩いている。
 コアの当たり、制服の胸元をぐしゃりと掴んでいた。かひゅ、と溺れたみたいな呼吸が零れる。振り乱した白銀を整えることもしないまま、ぼたぼたと身体中の水分が失われそうなほど流れる涙も拭わぬまま。墓地をひたすら歩いた。
 この先に進みたくないと、今も思っている。けれど、向き合わなければならなかった。夜を教えてくれた一番星が、ブラザーの空から流れ落ちてしまっても。

 ああ、けど。
 そんなの見たくなかった。

 見たくなかった。見たくなかった。見たくなかったなぁ。


 見ないように、出来たかもしれないのになぁ。


「……ここ、は」

 やがて、ふたりは処刑場に辿り着く。
 重苦しい暗闇に息が止まりそうだった。それでも慎重に歩みを進めて、そうして。陽だまりのさすキッチンに似合いそうな、博愛の声を聞く。死神の声が重なって聞こえた気がした。

 慌てて顔を声の方に向ける。
 予想通り、見えたのは褐色の穏やかな笑み。その正面に見えるのは、闇夜の中でもすぐに気づける愛しい友人。ブーゲンビリアの瞳がどんな暗さでも眩く輝いて、どんな星よりも光を放っている。アラジン、と呼びかけようとして、紫は友人の異常に気づいた。
 見たこともない顔。まるで何かに怯えたような、そんな顔───……いや。紫は思い出す。お披露目の直前、自分と相対したアラジンは、あんな顔をしていた。
 では、何故、そんな顔を先生に向けているんだろう。


 ドクン。
 コアが、嫌な鳴り方をする。


 走る最悪の予感の答え合わせが、すぐに行われた。アラジンの鋭い叫びが響く。がつん、と頭を殴られたような衝撃が体を包んだ。エルの朗らかな笑顔が、脳裏で泡になって消えていく。
 アラジンでなければ、頑固な紫はそんな言葉を信じなかった。だが、そんな信じ難い事実を主張するのは、紛れもない友人のアラジンだ。紫は疑うことができない。ジリジリと追い詰められる彼を、紫はただ見ているだけだった。見ているだけだったのだ。


 ──“ねえ、なにしてるの。”

 地獄の底を這うような、暗い暗い亡霊の声。物陰でアラジンの姿を見つめる紫には、当然聞こえていない。これは過去だ。既に起きたことで、もう結果は変えられない。
 そんなの、ブラザーの頭にはなかった。

 “なにしてるの、動いてよ。動かないと。助けるために来たんでしょ。”

 ブラザーは、届かない言葉を投げ続ける。アラジンと、紫とを、忙しなく交互に見た。
 手を伸ばす。すり抜ける“今”の手で、過去の肩をつかもうとした。突き飛ばそうとした、の方が近かった。

 “行って、動いて、走って。
 ねえ、ねえ、ねえ、ねえ!”

 どれだけ叫んでも、少しも喉は痛まなかった。記憶の中だったからだろう。あるいは、口を薄く開いて呆然と立ち尽くす紫が──自分が、許せなかったから。身を滅ぼすほどの激しい怒りが、憎しみが、ブラザーを支配していたから。

 “行けよ!! 行けってば!! 早くしろ!!! アラジンっ……!!
 アラジンが、アラジンがぁッ……!!!!!”

 肩を掴むというより、頭を殴りつける方が正しかっただろう。ブラザーは、過去の自分より前に出られない。見えない壁に阻まれて、せめてアラジンのそばに寄ることも叶わない。それなのに、彼の願いだけは聞こえてしまう。


 ああ、ああ、ああ、ああ!
 覚えてる! この願いを!


 このあと、どうなったかも!!



 予想は、裏切られない。
 夥しい鮮血がアラジンから吹き出し、その華奢な体が床に倒れる。あまりにも呆気なく、無情に。

 ……足を引いたのがどちらか、覚えていない。怪物がこちらを向いて、次は自分だと強く感じたことだけが記憶に残っていた。


 アラジンが死んだ、と。
 やけにすんなり受け入れられた。繋いだままの小鳥の手を強く引いて、出口に向かい全力で足を動かす。近くで這い蹲るもうひとりを、紫は認識していなかった。

 して、いなかったが。


 ────自分が危なくなると動けるんだね。
 ……紫が背中で聞いた囁きは、誰のものだったんだろう。首が締められているように、呼吸が苦しかった。

《Mugeia》

 この小さな小鳥は何も知らない。
 無知に無垢に笑顔と幸せを求めていた。
 アラジンとブラザーと居れればそれでいいから。
 それ以上何も要らなかったから。
 ただ、ずっと二人の手を繋いで歩いていたかった。
 笑顔と幸せの溢れる場所は決まって二人の隣だから。
 だから、アメジストの瞳が罪悪感揺れていたことに気がつけなかった。
 彼の言葉を勇気にしていたから。
 知らないといけないから。
 ミュゲイアはただ二人の背中を眺めることしか出来なかった。
 現在のミュゲイアは何も出来ないのだから。
 過去を知ることは出来ても変えることは出来ないのだから。
 ただ、懺悔するようにこの先の地獄に足を絡ませることしか出来ない。
 ただ、ずっと、もう一人じゃないから大丈夫と言い聞かせて。
 願うことしか出来ない。

 足は進んでいく。
 どちらが手を引っ張っていたのかも分からない。
 ただ、手を繋いで。
 進む事しか許されなかった。
 いつも一緒にいたのにアラジンの本当の思いにちゃんと向き合えなかったのだから。
 ただ、流されるように。
 アラジンとブラザーがいるならそれでいいからなんて理由だけで全てを終わらせたのだから。
 だから、アラジンに向き合おう。
 小鳥はただ夜闇の中で星の煌めきを追いかけている。
 遠くに輝く一等星を追いかけて飛び立とうとする。
 そうやって、飛び立とうとした場所が処刑台の上だとも知らずに。
 ただ、進む事しか出来ない。
 ミュゲイアは止まりそうになる脚をずっと動かした。
 重りがついたように重い脚をゆっくりと進ませる。
 思い出さなくては。
 思い出さないといけない事が沢山ある。
 ドロシーのこと。
 アラジンのこと。
 ブラザーのこと。
 芸術クラブのこと。
 ミュゲイア・トイボックスのこと。
 その全てを思い出して知らないといけない。
 だから、進まないといけない。
 ドロシーの制止の言葉すら押し退けて。


「………アラジンの声だ!」

 扉の先、その奥。
 処刑台の上。
 地獄の入り口。
 悪夢の誘い。
 小さな小さなコアが叫び出す。
 大好きなアラジンの声にミュゲイアは声の方へと顔を向けた。
 無事だったことにミュゲイアは笑った。
 たしかに口角は円を描いていた。
 グッと隣の友人の手を引いた。
 そして、パタリと足は止まった。
 アラジンの話している事にミュゲイアは耳を疑った。
 庇護してくれる存在であるはずの先生の言葉に。
 目の前に広がる惨劇に。
 此処はまさしくグランギニョル。
 アラジンの叫ぶような悲痛な願い。
 ただ、当たり前の願い。
 生きたいという何よりも強い願い。
 死にたくない。
 死なないで欲しい。
 死ぬ?
 なんで?
 どうして?
 誰が?
 誰に?
 死ぬなんてそんな事はダメ。
 それって幸せ?
 お披露目なのにどうして?
 笑っているのに不幸せなの?
 どうして、アラジンなの?
 どうして、幸せを奪うの?
 どうして、笑顔を奪うの?
 どうして? どうして? どうして?
 何故、彼が死ななければならないの?
 何故、彼を死地に追いやるの?
 お披露目はなんなの?
 アクセサリーはどこ?
 ドロシーはどうなっちゃうの?
 みんなも、エルもって、なに?
 殺されるってなに?
 嗚呼、ダメ。
 ミュゲイアがどれだけ叫んでもその声は誰にも届かない。
 もうやめて! なんて言葉は許されない。
 これが忘れていた事の罪だから。
 過去は変わらない。
 この先はきっと変わらない。
 嗚呼、どうして。
 どうして、こんなにも苦しい思いをしないといけないのだろうか。
 どうして、我々なのだろうか。
 こんな思いをするのなら、なぜ感情なんてあるのだろうか。
 なぜ、苦しみが、願いが、あるのだろうか。
 嗚呼、ごめんなさい。
 身体の動かない無能な小鳥で。
 幸せを運ぶこともできない小鳥で。
 ────アラジンの身体から柘榴が飛び散った。
 その時だけがゆっくりとスローモーションに再生されてゆく。
 じっくりと見ろと言うように。
 ゆっくりと、ゆっくりと、柘榴が弾けて鮮血になる。
 ぐにゃりと世界が歪む。
 あの画用紙の言葉を思い出す。
 あの画用紙に描かれた絵を思い出した。
 塗りつぶされた黒のインクに溺れてゆく。
 笑顔が消え去ってゆく。
 今日は最低で最悪をお披露目された日。
 今日はミュゲイアの笑劇が幕を閉じた日。
 笑顔も出来ない小鳥は首を絞められたように苦しむばかり。
 アラジンを失った。
 大きな喪失感はぽっかりと塞がらない穴になってゆく。
 もう、笑顔だけを見ていたい。
 それ以外知らなくていい。
 笑顔としてだけ全てを見ていたい。
 そう思う程に小鳥は笑っていない。
 ただ、引っ張られるままにもつれる足で走った。
 ブラザーにかける言葉も見つからない。
 ただ、ブラザーの顔を見ようとした。
 大好きな友人の顔は乱れた髪の毛のせいで見えなかった。
 彼の絶望したような顔が見えなかったのだけが救いだった。


「……わらって。わらって。笑って。わらって。ワラッテ。わらって。笑っテ。」


 壊れたドールは走りながらうわ言を呟いた。
 ボツボツと聞き取ることも困難な声で。
 小さく。小さく。
 アラジンの死を受け入れられないままに。
 脳裏にアラジンの笑顔を無理やりに浮かばせて。
 ただ、走っていた。
 わけも分からないままに。
 ブラザーだけに救いを求めて。
 目の前の白銀がダレの白銀か分からなくなるほどに。
 ただ、その同じ髪色を見つめた。

 あなた方は追跡の魔の手から逃れるために、走り出す。
 息を潜めて、もう足音を立てないように、しかし急足で。
 目撃した事実を受け止め切るには時間が足りなくて、残酷な現実は胸を引き裂いて心を壊したことだろう。

 それでも。

 それでも走らなければならなかった。
 エルは、少し前に記憶障害を直すためだという名目で一度学生寮を離れて、それからずっと帰ってきていない。
 彼は優しく先生に手を引かれていた。
 先生を少しも疑っていない顔だった。
 エルはあなた方の大切な友人で、大切な芸術クラブの同志で、仲間で。

『ここで殺したんだろ……!』

 ガンガン痛むこめかみに、アラジンの深刻な叫びがハウリングしていく。脳神経を揺さぶり、視神経を揺さぶり、聴神経を揺さぶり、全身を揺さぶるようだった。
 前後不覚。
 何が起きているのか分からない。
 それでもただ足を動かすしかなかった。
 自分たちの知らないところでエルが一人殺されていたことも。
 お披露目に出されたドロシーの安否が分からないことも。
 今さっき怪物に無惨に殺されてしまったアラジンのことも。

 何一つ理解出来ないまま、あなた方は逃げ出した。
 目の前には開いたままにしておいた鉄の扉がある。
 地獄の釜への入り口で、悪夢の始まりの扉が。

 あなた方は走る。
 背後に猛然と迫る怪物の足音を聞きながら。

《Brother》
 現実は無情だ。
 アラジンのことも、エルのことも、ドロシーのことも。生易しい楽園で蝶よ花よと生きてきた紫は、それを初めて知る。御伽噺のような奇跡なんてどこにもなくて、あるのはいつだって先の見えない選択肢ばかり。星に願いを込めたところで、それが叶う保証なんてなかった。三人で、五人で見上げた星空は、ただの幻でしかなかったのだ。

 足がもつれそうになりながらも、ふたりは必死だった。迷わないよう、離れないよう。ぎゅうと小鳥の手を握る。今度こそ離してはいけない。そう覚悟を決めて、すぐに“今度こそ”なんて言葉に引っかかる。


 ───“ミュゲで罪滅ぼしするつもり?”


 紫の耳に、また誰かの声。
 憎しみと絶望の籠った重たい呪いが届いて、紫はハッとする。

 怪物の足音が近づいているのだ。
 最初に逃げたときと比べて、もう随分と距離が縮まっている。大きな体をしているわりに、足は想定よりずっと速いらしい。このまま急いで逃げて、部屋から出て、扉を閉めて……紫は回らない頭を叱りつけて、なんとか思考する。だが、答えは出ない。間に合うかどうか、判断ができない。
 手を引く小鳥は放心状態に見える。当たり前だ、あんなことがあったのだから。自分は、アラジンに駆け寄ることも小鳥の目を塞いでやることもしなかった。唇を噛む。逃げきれなければ、2人ともおしまいだ。あの怪物の馬鹿げた爪で、脆い体はあっという間に引き裂かれてしまう。


 “ねえ。”

 また、呪いみたいな声。
 紫は眉を寄せて、俯いている。


 “何してるの?”

 うるさい、うるさいな。
 きつく目を閉じても、紫の耳に呪いはこびりついている。


 “君って、なんのために生きてるの。”
 “エルのこと、なんて言って見送った?”
 “あのとき、アラジンがどんな顔してたか覚えてる?”

 “ねえ。君、なにしてるの。
 なんのために生まれてきたの?”  


 ガンガン、頭が痛くなりそうだ。止まない罵声の声が、どんどん頭の中で大きくなる。
 もう怪物はすぐ後ろにまで来ていた。紫は恐怖で、いつ足が滑ってもおかしくない。運動を得意としないトゥリアモデルが、あんな怪物から逃げられるわけがなかったのだ。すぐ決断すれば、二手に別れて逃げることだって出来たかもしれない。いつだって、自分は遅すぎる。

 後ろを振り返る。
 おぞましい怪物のすぐ側に、何かを呟いている小鳥がいる。滑らかに揺れるお揃いの白銀。兄妹みたいなんて笑ったこともあった、大好きな色。


 ……星みたいだ、と。
 紫は思った。


 “一人しか逃げられないよ。
 君のせいだ。全部、全部。”

 声が責めたてる。
 何も出来ない、星を見上げるだけの自分を。責められて当然だ。でも、それでも。


 ……扉の近く。
 紫は小鳥の手を一際強く引っ張って、扉の向こうへ突き飛ばした。


 いつだって優しく微笑む友人とは思えないほど、それは乱暴で荒々しい仕草だ。焦ってドアを閉めようとする紫と、小鳥はきっと目が合う。ここで笑顔のひとつでも浮かべられたら、二人の未来は違ったのだろうか。


 紫は泣いていた。
 その瞳には恐怖があり、これから死ぬ絶望があった。ガチガチと歯を慣らし、震える手でドアを閉める。
 扉の部屋の隙間。小鳥には、背後に迫る怪物と懸命に叫ぶ紫が見えるはずだ。

「逃げて、すぐっ……!!! 走って!! はやく、はやく!!!!」

 血の滲みそうな勢いで細い喉を震わせる。ドアはまもなく閉まる。そうすれば、小鳥は逃げられるはずだ。代わりに紫がどうなるかは、分からない。


 紫は───ブラザーは。
 ずっと、何も出来なかった。

 口だけの大嘘つき。いつも誰かの傍観者。貴女の友人は、本当にどうしようもない腰抜けだ。


 でも、星を愛していた。
 アラジンという一等星を。ミュゲイアという流れ星を。

 罪滅ぼしかもしれない。
 自己嫌悪で自暴自棄になっていたのかもしれない。

 それでも、貴女の友人は、貴女が生きることを望んだ。
 今度こそ、友人を助けたかった。なにひとつ出来なくて、全てを裏切り、どんなに呪われようとも。

 まだ彼は、友だちのつもりだった。
 いや、まだ、友だちでいたかった。


「……ごめんね……ミュゲ……」


 閉まる直前。
 顔を覆って呟いた言葉は、きっと何よりも小鳥にとっての呪いだった。

《Mugeia》
 ただ、漠然と走った。
 走れと思って走っているのか、手を引かれているから走っているのか、追われているから走っているのか、何も分からない。
 恐怖心があるのかも分からない。
 今、小鳥が何を思って何を浮かべているのかも分からない。
 ただ、ただ、走った。
 笑った。
 泣いた。
 苦しんだ。
 そしてまた、笑った。
 笑えばどうにかなる。
 笑っていればどうにかしてくれる。
 笑っていれば全て上手くいく。
 笑っていれば。
 笑っていれば。
 幸せの道が開かれる。
 だって、それしか分からない。
 こういう時どうすればいいのかなんて誰も教えてくれなかった。
 擬似記憶の大事な人はずっと笑うことだけを教えた。
 笑っていればいいの。
 笑ってさえいれば幸せが訪れて全部が上手くいく。
 だから、笑って、わらって。
 ただ、無心に笑うの。
 そうすればいいの。
 そうすれば何も怖くない。
 何も不幸じゃない。
 幸せになる。
 幸せになれる。
 笑えばそれでいい。
 それだけでいい。
 とても簡単なこと。
 口角を上げるだけ。
 目を細めるだけ。
 とても簡単で馬鹿でも出来ること。
 無能でも出来る。
 出来るのに。
 グチャりと黒いインクがこべりついて笑顔が見えない。
 笑顔が分からない。
 今、口角がどうなっているかも分からない。自分の顔が分からない。
 目はついてる?
 笑窪はある?
 唇はついてる?
 本当は全部真っ黒く塗り潰されてるんじゃないの?
 今までどんな顔で笑ってたっけ?
 いつ、笑えてたっけ?
 どのタイミングで笑うのが正解だっけ?
 どうやってみんなを笑わせるんだっけ?
 アラジンとどうやって笑ってた?
 アラジンになんて笑いかけた?
 エルにどんな顔で笑った?
 エルになんて声をかけて笑った?
 ミュゲイアは本当に笑ってた?
 そのドールは笑えてたの?
 笑わなくちゃいけないのに。
 わらうしかないのに。
 笑えば全部幸せになるのに。
 大事な人が。
 大事な人がそう言ったのに。
 嗚呼、役立たず。
 大切な時に何も教えてくれない。
 役立たずな記憶。
 愚図な記憶。
 愚図な人。
 無能、ガラクタ。
 早く笑うって教えてよ。
 ソレを教えて。
 今すぐに。
 笑ってあげないと。
 ブラザーに笑いかけるの。
 安心させないと。
 恐怖を紛らわせてあげないと。
 元気づけてあげないと。
 笑ってあげないと。
 妹みたいな私がそうしないと。
 兄妹みたいって笑えたみたいに。
 ほら、ほら、早く!
 笑え! 笑って!
 笑えばほら、全部大丈夫だから! 
 大丈夫だから、後ろを見た。
 全部幸せだから、振り返ってみて。
 ほら、アラジンはそこにいるでしょ?
 笑ってくれてるでしょ?
 ねぇ?
 笑って……る?

 真っ赤な世界が広がっていた。
 燃えている。
 輝いている。
 幸せってそんな色だっけ?
 幸せってこんな景色だっけ?
 笑うってこうなる事だっけ?
 そんなはずないのに。
 こんな事になってるはずないのに。白蝶貝の瞳は真っ赤に染まっていた。
 真っ赤な輝きが広がって弾けていく。
 全てを飲み込むように。
 燃え盛る炎が覗き込む。
 オカシイナ。
 こんな筈じゃなかったのに。
 こんな日になるはずじゃなかったのに。
 ただ、ミュゲイアはそれを見ていた。
 思い出したように。
 今やっと、全てが繋がったような気がした。
 最初の痛みと共に見た光景はこれだったのだ。
 ブラザーと二人で笑顔を見に行った訳じゃなかったんだ。
 甘い繭の中で語った夢物語が弾け飛ぶ。
 切り込みを入れて中から悪夢が溶けだしてゆく。
 小鳥が溶けてゆく。
 ただ、小鳥は叫んだ。
 声にもならない声で。
 喉を殺して劈くような声で。
 それは小鳥が思っていたよりも小さな声だった。
 呆気に取られていた。
 全てが見えなくなって、気がついたら小鳥は突き飛ばされていた。
 踏ん張る事も出来なかった。
 気がついた時にはただ扉の外に押し出されて転けていた。
 嗚呼、ブラザー。
 私の大事な友人。
 泣かないで。
 笑って。
 そんな顔しないで。
 そんな、そんな、
 どうして不幸なの?
 どうして私たちなの?
 幸せを運ぶ小鳥なのに。
 どうして不幸を運んだの?
 どうして、足が動かないの。
 どうして、伸ばした手は届かなかったの。
 どうして?
 なんで?
 何をしているの?
 なんで倒れたままなの?
 何故、この身体は動かないの?


「………い、や、嫌、イヤァァァァ!!!!!! ブラザー! ブラザー!! ヤダよ! やめて! ミュゲを独りにしないで! 置いてかないで! 傍にいて! こっちに来て! なんで!? なんで!? なんで!? ……あ、ああ、あ、アアア、うそうそうそ!! ………独りにしないでェ! 幸せにするから!! 笑うから! もっともっと!! なんでもするから!! 戻ってきて! 戻ってきてよ!!」


 ガチガチと歯がなった。
 震える唇が甲高く叫んだ。
 小鳥が笑うから幸せが逃げた。
 不幸せを呼んだ。
 もっと、笑うから。
 もっと、頑張るから。
 ただ、身体を引き摺って扉を叩いた。
 この手がどうなるかなんて気にしないで。
 ずっと、叩いた。
 枯れるように。
 鈴蘭は泣いた。
 小鳥は叫んだ。
 喉を潰して。
 グチャグチャの口角で。
 顔も見せてくれなかった友人に向けて。
 笑っていなかった。
 きっと、彼は笑っていなかった。
 そうさせたのは他の誰でもない小鳥だ。
 鈴蘭だ。
 ミュゲイア・トイボックスだ!
 取り残されてただ強く扉を叩く事しか出来ない無能だ。
 笑顔に出来なかったドールだ。
 脆いだけの出来損ないだ。
 落ちこぼれだ。
 独りぼっちのドールだ。

 ただ無心で走っていたミュゲイアの空の頭では気付けなかった。ブラザーがその腕をあなたへ向けて振り上げていることに。
 繋いでいた手を強引に、彼女の身を顧みない乱暴な手つきで引かれ、そしてあなたは扉の向こうへ押しやられて──

 ──ドン、とその背中を、背骨が軋むほど強く、心を貫くほど強く、突き飛ばされた。

 燃えるような痛みがあなたの背中をジワリと広がっていく。痛みと共に絶望が、確かにミュゲイアの心を蝕んでいた。
 そして目の前で扉は閉ざされる。
 ミュゲイアとブラザーを隔てる扉。
 もう分かり合える日は来ないと断絶するような重たい扉が。

 ミュゲイアが扉に縋り付いて泣き叫んでも、幸か不幸か、その声は向こう側に届くことはなく。


 地獄に一人取り残されたブラザーは、その背後に怪物が怖気を引き連れて立っていることに気がついていた。
 後悔したところで、もう逃げられないのだ。恐怖も絶望も、あなたの決断に置いて行かれてしまって。

 グイ、と怪物の巨大な手で、あなたの細腕は力一杯に引かれる。腕が引きちぎられそうになる痛みだった。
 脳髄に灼きつくような、痛みだった。

《Brother》
「は、はは」

 扉が閉まった。
 紫にはこの先、小鳥がどうなったか分からない。けれど、彼女ならきっと逃げてくれるはずだ。そんな希望的観測に目を閉じる。すぐ背後で、怪物の腹の底から響くような呼吸音がした。後ろは振り返れない。走り疲れた足は立っていることもできなくて、ずるずるとその場に座り込む。乾いた笑いを零しながら、前髪をぐしゃりと掴んだ。とめどなく流れる涙で視界はぼやけ、くらくら頭が重たく感じる。


 ここは。トイボックス・アカデミーは。
 底のない地獄だ。


 怪物に腕を引かれた。
 見たことないほど大きな手で、力任せに体を持ち上げられる。アラジンを引き裂いた爪が見えた。ドールズの鮮血を浴びても尚止まらない、黒い怪物。それに命令を出す、あの穏やかな先生。信じていたものがガラガラと音を立てて崩れていく。この場所になんの光も、なんの希望もなかった。
 紫は目を閉じる。長い睫毛の先から、朝露のような雫が垂れる。目を閉じれば、今でもあの星々が浮かんできた。もう見たくないとあれほど願っても、心を離さないのはあの夜空だった。

 腕が引かれる中で、紫は薄く笑った。
 闇しか見えない、高い高い天井を見上げる。籠のような塔の中で、小鳥の羽がもがれていないことだけが全てだった。

 
 ごめん、アラジン。
 ごめん、ミュゲ。
 ごめん、エル。
 ごめん、ドロシー。

 謝罪は無数に溢れる。
 しかし、同時に胸を埋めるのは切なる願いだ。


 ミュゲが、この学園から逃げられますように。
 この絶望しかない学園から、どうかあの子が、本当の星空の下で笑えますように。  


「……愛してるよ、ミュゲ」


 怪物の呻き声に消えた呟きが、二人の全てを終わらせた。




 ミュゲイアはただ、ブラザーを呼び戻そうと声を上げて、扉を殴っていたのだろう。
 手の皮が張り裂けようと、血が滲もうとも。
 しかしそんなミュゲイアの手を、後ろから唐突に誰かが掬った。

 背後に立っていた存在を振り返ると、それは息を切らして汗を滲ませた、黄金色の髪の少女──

 爛漫なマジョリカ・オレンジが目に眩しい、ベルラインの美しいドレスを不恰好に乱して。髪に入り混じる漆黒の髪を頬に張り付かせて、あなたを心から案ずる栗色の瞳を揺らした。

「ミュゲイア……!」

 ドロシーは扉を一瞬迷ったように見据えたが、すぐに何かを堪えたように踵を返し、ボロボロになったあなたの手を掴んだまま勢いよく走り出す。
 あなたはただそれに従うしかない。

 黒い通路を抜けて、見慣れた赤い学園に飛び出して、階段を転がり落ちるように走って──


 そこで漸くドロシーは、あなたの手を離してくれた。

【“あの日”の学園】

Dorothy
Mugeia

《Mugeia》
 背中が痛かった。
 燃えるような痛みがじんわりと小鳥を蝕んでいく。
 その痛みが小鳥を夢から落としてしまう。
 どのくらい時間が経ったのかも分からなかった。
 どのくらいこの扉に縋りついたのかも分からない。
 どれだけ名前を呼んでも返事は来ない。
 その扉は開かない。
 手の皮が張り裂けようが、血が滲もうが。
 小鳥は永遠と扉を叩き続けた。
 ずっと、ずっと。
 何度も何度も。
 叩いて、叩いて、真っ白な手が赤く染っていく。
 何回だって叩いた。
 自分を責めるように、二人を呼ぶように。
 打ち付けていた。
 ソレが止まったのは小鳥の小さな手に何かが触れたから。
 それに酷く脅えたように振り返れば、そこに居たのはドロシーだった。
 お披露目を目前に控えていたはずの少女だった。
 息を切らして、汗を滲ませて、爛漫なドレスを不格好に乱していた。
 綺麗なドレスなのに。
 美しくおめかししたのに。
 着飾った姿を脱ぎ捨てたように、少女は栗色の瞳を揺らして小鳥を見ていた。


「………ド、ロシー。」


 グチャグチャの頭でただ名前を呼んだ。
 小鳥の手を掴んだままドロシーは勢いよく走り出す。
 それに小鳥は何度も抵抗して後ろを振り返ったけれど、トゥリアである小鳥がドロシーを振り払う事なんて出来なかった。
 ただ、従うことしか出来なかった。
 黒い通路を抜けて、見慣れた赤い学園に飛び出して、階段を勢いよく駆け抜けて。
 そこでドロシーは小鳥から手を離した。
 離された手は汚れていて、ボロボロだった。
 視線を上げて小鳥はドロシーの方を見つめた。
 ポロポロと大粒の涙を流したまま。

「……ドロシー、ドロシー、ドロシー!! ブラザーが! アラジンが! どうしよ!! どうしよ!!! ミュゲ、ミュゲ、何も出来なかった! 不幸にしただけだった!!」

 ドロシーに抱きついて小鳥は叫んだ。
 自分の汚い手を握りしめて。
 その度に血が滲んだ。
 それでも、掠れた声でただ叫んだ。
 どうすることも出来なかったこと。
 不幸にしてしまったこと。
 ブラザーのこと。
 アラジンのこと。
 もう、笑顔が分からない。
 笑うってことが分からない。

 赤い壁に囲まれた、日常的に見慣れたロビーは静かだった。
 殆どのドールが棺に収まって寝静まる時間で、きっとドロシー以外のお披露目に選ばれたドールズは控え室で準備をしているのだろう。

 テーセラとしての日々の授業でも滅多にしないような、決死の全力疾走。ドロシーは足が縺れそうになりながらも強引にミュゲイアを引っ張ってこの場に辿り着き、息咳切ったように荒々しく呼吸を繰り返した。
 肩を上下させて、その手を膝に乗せて、その目尻には微かに涙が光っているように見えた。

 しかしその涙は、ミュゲイアに飛びつかれたことで弾け、何処かへ消え去っていく。
 ドロシーは微動だにすることもなく、羽のように軽いミュゲイアの強張った身体を抱き留めて、ぎゅっと安心させるように背に手を回しながら、緩く呼吸を整えるための溜息を吐き出した。

「……分かってる。全部、全部分かってる……ワタシのせいだ。本当は、全部知ってたんだ……知っててお前達を送り出したんだ。このトイボックスの真実を知ってほしかった。でもそれはワタシの勝手な押し付けだった。

 アラジンが死んだのも、ブラザーが死んだのも、全部、全部ワタシが悪い。……お前のせいじゃない。」

 ドロシーはあなたに言い聞かせるように、重たい口振りで都合のいい言葉の全てを吹き込んだ。
 トントン、とあなたの背を彼女が優しく叩いた。それは夢見る赤子をあやすように。ゆりかごを揺らすような優しい手つきだった。

「……もう、忘れちまえ。全部。そうすれば不幸じゃなくなる。今夜は何もなかった。お前はこれから寮に帰って眠るだけでいい。そうしたら、明日にはきっと笑えるようになるから。」

 眠りにつかせる常套句のように。
 幸せな夢へと誘う子守唄のように、ドロシーは囁き続ける。
 憔悴し、傷付き果てたあなたの心に、それは甘やかなドラッグのように染み込んでいくだろう。

《Mugeia》
 静かなロビーで小鳥の叫び声と宥めるような甘い声が混ざりあった。
 ただ、泣いた。
 背中に回された手に安心した。
 トントンと優しく背中を叩かれるのに合わせて呼吸を整える。
 あやす様な優しい手つきに小鳥はゆっくりと瞼を閉じて、ドロシーの言葉だけが頭に響いて全身の力が抜けていった。
 ゆっくりと、ドロシーの言葉を頭の中で理解する。
 全部、全部、何も悪くない。
 小鳥は何も悪くない。
 悪いことなんてない。
 仕方なかった。
 どうすることも出来なかった。
 都合のいい言葉の数々が小鳥を落ち着かせる。
 嗚呼、なんだ。
 悪くないんだ。
 不幸にした訳じゃないんだ。
 運が悪かったんだ。
 トロリ、蕩けるようにドロシーの言葉は小鳥の心を軽くした。
 独りぼっちになった今、甘えてしまうのは簡単だった。
 目を背けるのは容易いことだった。
 温室育ちの鈴蘭は甘さに弱かった。
 どうしようもないほどに。
 甘いもので、ポロポロと零れた涙はしょっぱかった。

「………そう、だったんだ。……どうして、」

 教えてくれなかったの?
 どうしてミュゲにはトイボックスの真実を教えてくれなかったの?
 知ってたらもっと違っていたかもしれないのに。
 どうして、共犯者にすらしてくれないの?
 なんて言葉は何故か出なかった。
 ドロシーの優しさに浸りきった小鳥はもう深く考えることをやめてしまった。
 与えられた甘さに溺れたくなってしまった。
 それが許されないことだと分かっていても、寂しがり屋で弱虫な小鳥は甘い言葉に身を委ねてしまった。
 都合良く。
 都合が良いというのを利用して。
 全ての罪から目を背けた。
 この不幸から目を背けた。
 冒涜に身を溶かした。
 アラジンのことも、ブラザーのことも、全部悪い夢だったんだ。
 そうだよ、変だよ。
 だって、笑えば幸せなんだから。
 幸せになれるんだから。
 不幸じゃなくなるんだから。
 笑っていれば不幸は訪れないんだから。
 笑っていよう。
 もう、不幸が起こらないように。

「うん、……うん。不幸じゃないよね。笑っていれば不幸にならないよね。笑っていれば不幸なことなんて全部消えるよね。そうだよね。明日にはみんなで笑ってるよね。芸術クラブのみんなで。星を見て笑ってるよね。

 ……ねぇ、ドロシー。ドロシーはミュゲを独りぼっちにしないでね。ずっと一緒にいてね、約束だよ。約束して。ドロシーはずっと笑っててね。もう、全部忘れさせて。全部からミュゲのことを助けて。」

 うわ言のようにドロシーの言葉に続いて小鳥は呟いた。
 そう言い聞かせるように。
 この夜の出来事全てから逃げ出した。
 ドロシーに縋ることしか出来なかった。
 その優しさに甘えて、腐りきってしまった。
 その言葉の全てに依存した。
 都合のいい事に依存した。
 たった独りだけ、全てを忘れようとした。
 その様にミュゲイアはただ絶望した。
 自分の浅ましさに。
 愚かさに。
 後悔した。
 過去の過ちに。
 それでもこの過去は変わらない。
 変えられない。
 ドロシーに酷いことを言った事実も罪も変わらない。
 嗚呼、ドロシーの優しさだったんだ。
 あの写真を破いたのも、忘れろと言ったのも。
 そう言わせたのは、破かせたのは、全部ミュゲイアだ。
 ミュゲイアが悪いのだ。
 独りだけ彼女のことを思い出せたことに浮かれて、呑気に話しかけて。
 最低な行為だった。
 都合いい事しか見ていない。
 そんな最低な弱い女だ。

 どうして、と現実に惑い、窮する小鳥が囀る。ドロシーは疑問を受け止めても、何も答えずに目を伏せた。無言で彼女を抱き締める腕の力を強めるだけだった。
 トイボックスを形成する残酷な嘘と真実。それら全てをその純粋な目で、心で受け止めてきて、疲れ果てた友人に、どうして尚も苦しい現実を突き付けることが出来るのだろう。
 親しい友人を二人も突然失ったミュゲイアは、壊れかけていた。ドロシーに出来るのはそんな彼女を優しく慰めて、せめて壊れる少し前にゼンマイを巻き戻してやることぐらいだった。

 自分に言い聞かせるように、ドロシーに縋るように、ミュゲイアは幸福の形を確かめる言葉を呟いた。分厚い雲に覆われて分からなくなってしまった星空の模様を、当たり障りない笑顔に満ちた日々だけを思い出せるように。
 寂しさを訴えるミュゲイアを宥めるように、ドロシーは、低く囁いた。


「……もういいよ、思い出さなくていい。」


 それはあなたの記憶に引っ掛かりをあたえた、明瞭なる既視感の正体となる一言だった。

「何もかも忘れてしまえばいい。全部を酷い悪夢だったと思い込めばいい。アイツらの事はワタシが全部、代わりに覚えておく。だからお前は笑ってろ、今まで通りに。そうすれば全部、いつかは元に戻るから。」


 ミュゲイアは友人の腕に抱かれて、目を伏せる。
 多くのドールに背を押されて繋いだ命だった。その事をあなたはすっかり忘れていた。

 忘れてさえいれば笑顔になれた。
 幸せな日々は、ドロシーの言う通り戻ってきた。

 しかし、本当にこれでいいのだろうか?
 あの時と同じようでいて、あなたを取り囲む環境はあの日々とは少しずつ違っていた。

 数日後、ブラザーはあなたの元に戻ってきてくれた。
 だが彼はあなたのことを覚えてなどいなかった。少し壊れてしまったブラザーはミュゲイアを擬似記憶上の『妹』とみなし、友人であったミュゲイアのことなど見ようともしなかった。

 あなただってそれは同じ。
 友人であったブラザーを思い出そうとすると、あなたは酷い悪夢を見るから、思い出さないようにした。
 そうしていれば楽だった。
 思い出さずにいれば幸せだった。

 でも、あの時、あの扉を開いていれば──


 ──こんな悲劇は、起きていなかったのだろうか?




 ブラザーとミュゲイアは、長い、長い記憶の回帰から我に帰った。伸ばしかけた手のひらは、黒い扉に触れている。
 重苦しい黒い部屋の奥にある、あの黒い扉。

 あの、運命を引き裂いた扉の前に、現在のあなた方は立ち尽くしていた。

 アラジンが溢した血の跡は、この先へ続いている。
 あなた達の手のひらは、冷たい扉に触れている。

【開かずの間】

Brother
Mugeia

《Mugeia》
 どうしても、辛かった。
 思い出したくないほどに。
 逃げ出したくなるほどに。
 そのくらい辛いことだった。
 そのくらい苦しいことだった。
 不幸だった。
 ドロシーだって受け入れてくれた。
 誰に言い訳をしているのかそんな言葉ばかりが脳内を埋めつくした。
 忘れてもいい、忘れても仕方のない理由を探し続けていた。
 そうやって、ドロシーに全てを無責任に託すことで彼女がどうなるのかも考えないで。
 ただ、自己愛に溺れた。
 独りぼっちは嫌だったから。
 煌めく星を見る度に思い出すのは辛いから。
 これ以上楽しかった幸せな思い出を悲しみに変えたくなかったから。
 ある種の自己防衛であり、ただの逃げ。
 自己中心的な考えが招いた結果。
 ドロシーに甘えきってしまった。
 ドロシーの言葉を盾に自分を守った。
 忘れた方がみんな幸せだから、だなんて。
 そのみんなはもういないのに。
 ただ、ツラツラと無意味な言い訳ばかり考えていた。
 そして、いつ日か言い訳を考えることもやめて全部忘れてしまった。
 外が暗くなってきたらすぐに寮に戻るようにした。
 星空は見ないようにした。
 開かずの扉のある階段は使わないようにした。
 みんなのことはちゃんと見ないようになった。
 独りぼっちになった時が辛いから。
 もう、笑顔としてでしか認識しないようになっていた。
 笑顔以外に興味を持たないようにした。
 お披露目に行ったドールのことは笑顔以外全部思い出さないようにした。
 そうすると、心は楽になって本当に全部どうでも良くなっていく気がした。
 何も知らない無知のままでいれば。
 お披露目も怖くなかった。
 ただの晴れ舞台になった。
 知らなければ恐怖は訪れない。
 お披露目に選ばれたとしても、苦しいのは一瞬だけになる。
 だから、全部を忘れて愛した。
 逃げ出した。
 ドロシーの言葉を魔法の言葉のように思って。
 目を瞑った。
 もう、何も考えないようにした。
 いつかは元に戻るという夢のような言葉に甘えて、ミュゲイアは笑った。
 裂けそうなほどに口角を吊り上げて。
 ギョロりとした瞳は何も映し出さないで。

 ───望んでそうなったのだった。

 後悔の連続だった。
 過去を思い出す度に真っ白な小鳥の醜さが露見する。
 何故、忘れていたのか。
 何があったのか。
 その全てはミュゲイアだ。
 ミュゲイアが忘れようとしたのだ。
 それなのに都合良く思い出そうとした。
 忘れた理由すら忘れてしまって、アラジンと巡り会ってしまったから、自分勝手に思い出そうとした。
 全部、全部、自業自得だった。
 悪いのはミュゲイアだった。
 あの時、扉を開かなかったから。
 ブラザーを見殺しにしたんだ。
 アラジンを助けなかったんだ。
 なんだ、全部ミュゲイアが悪かったんだ。
 独りになることを嫌がって、全てを忘れ、またブラザーと出会えたのに。
 妹として見るブラザーを嫌がって、拒否して、否定して、そんなことをしていい訳がなかったのに。
 そんなことをしていい立場じゃなかったのに。
 自分勝手だ。
 最低だ。
 最低最悪なドールだ。
 そして、またアラジンを失いかけている。
 長い長い過去を見て、ミュゲイアはただ自分を呪った。
 自分の愚かさに嫌気がさした。
 悲劇の引き金を引いたのはミュゲイアだった。
 全部から逃げ出したのも、ドロシーに全てを責任を押し付けたのも。
 自業自得だ。
 全てが後悔でどうすることも出来ない。
 過去は変えられない。
 この罪が消えることはない。
 許してもらえるわけもない。
 全部、全部。


「………ミュゲが悪かったんだ。」


 ポツリと出た言葉はやけに大きな独り言だった。
 納得したように。
 ストンとその言葉は落ちていった。
 また、あの時と同じようにミュゲイアとブラザーはあの扉の前にいる。
 この先をミュゲイアはもう知っている。

「……ブラザーは、ここで先生が来たりしないか見張っててよ。……中にはミュゲが行くから。大丈夫、すぐにアラジンが帰ってくるよ。そうしたら手当てをしてあげて。傍に居てあげて。手を繋いであげて。」

 そんな事を言うべきではなかったのに。
 ペラペラとミュゲイアの口は動いていた。
 下を向いたまま、ブラザーの顔は見れなかった。
 合わせる顔なんてなかった。
 ミュゲイアのこの言葉だって、きっと逃げているだけかもしれない。
 勝手に罪滅ぼしをしようとしているだけかもしれない。
 後悔から、罪悪感から、また逃げようとしているのかもしれない。
 この期に及んで、またそうしているだけかもしれない。
 それでも、ブラザーを失いたくないのは本当だ。
 愛している。
 愛しているからこそ、それを思い出したからもう失いたくない。
 処刑台に登るのはミュゲイアだけでいい。
 首を切られるのも。
 首を吊るのも。
 罪人はミュゲイアだけなのだから。

《Brother》
 ───意識が浮上する。
 手足が問題なく動かせることに気づいて、ブラザーは喉に触れた。は、と息を吐く。もう声は出せるらしい。

 目元に指を添えた。
 長くて遠い記憶の果てに、ブラザーは思い出す。

 自らの過ち。
 誰も救うことすら出来ず、ただ敵の手に堕ちた愚かな自分。


 今、ふたりは、あの扉の前にいる。
 二人を隔てた運命の扉。この先に、悩めるふたりの答えがある気がした。


「……ミュゲ……」

 瞳の端から零れる雫を拭っていると、ミュゲイアの声がする。大切な友人だった、彼女の声だ。ブラザーが全てを忘れて、それでも導かれるように愛した友人。歪で、なにひとつ正しい愛情は渡せなかった。酷いことを何度もして、酷いことを何度も言った。彼女がトゥリアモデルらしく振る舞うことにどうしようもない気味悪さを感じたのは、きっと友人であったミュゲイアが甘えん坊の少女だったからだろう。


 ふたりは間違えた。
 間違えて、間違えて、今に辿り着いたのだ。


 下を向いたまま話し続けるミュゲイアに、ブラザーは向き直る。自分の手を見た。見た目だけ白く美しい、大罪人の手。幾人ものドールを見捨ててきた悪魔の手。

 ……やっぱり、嫌いだ。
 ブラザーは今後一生、自分を許すことなんてできないだろう。気を抜けば、すぐに友だちなんかになれるわけないと自己嫌悪が囁いてくる。


 それでも、ブラザーは。
 また三人で星を見たかった。


 友だちとして、笑いたかった。


「ミュゲ、あのね」


 あのね、僕の大好きな人。
 あのね、僕の大切な人。

 君の笑顔を思い出せる。
 君の苦しい顔を見ると苦しくなるよ。
 君を幸せにしたいって思うよ。
 君の隣で君の幸せを見たいって思うよ。
 君がいないとダメだよ。
 着飾らない君自身が大好きだよ。
 記憶を取り戻しても、取り戻す前も、変わらず君を愛しているよ。
 それだけがずっと変わらない。
 君と星が見たいよ。
 君と、アラジンと。
 ドロシーやエルとも一緒に。
 芸術クラブで、もう一度星空を見上げよう。
 どんなに自分が嫌いで、どんなに自分を呪っても。
 この願いだけは揺るがないから。

 だから。
 ……だから。


 あのね、ミュゲイア。


「あの日、逃げてくれてありがとう。
 君が生きていて良かった。本当に良かった。

 僕ら、アラジンに酷いことをしたね。許されることじゃないかもしれないね。

 ……でも、僕はミュゲが好きだよ。
 アラジンのことも、大好きだよ。

 だから、一緒に行こう。
 二人で、アラジンを助けに行こう。君にだけ背負わせたくない。僕、こんなに駄目駄目だけど、それでも。


 それでも、君と星が見たいんだ」


 震える手で、震える体を抱き締めた。
 重たい雲の隙間から、僅かに白銀の光がさしている。星の消えた夜空に、もう一度流れ星が訪れる。

 叶う可能性なんて、限りなく低いのかもしれない。床に散るアラジンの血痕を見れば、息が詰まりそうになる。しかし、希望は捨てられない。捨てたくない。


 今度こそ。
 ブラザーの眩いアメジストは、遍く銀河とその先を映していた。

《Mugeia》
 ずっと逃げていた。
 逃げていたことすら忘れて、自分勝手に思い出そうとした。
 思い出したその時、どうなるかなんてわからなかったから。
 思い出した記憶には幸せなこともあったけれど、それと同じくらい辛いこともあった。
 けれど、ミュゲイアのみんなで天体観測をしたいという願いだけは消えなかった。
 そんな事を願うのすら烏滸がましいけれど、許されることとも思わないけれど、それでも、その願いは消えるどころか強まる一方であった。
 焦がれてしまうばかりだった。
 星空を見たい。
 ただ自由に。
 好きな場所で好きなだけ。
 たくさんの土地で。
 流れ星を追いかけて旅をしたい。
 たくさんの絵を描きたい。
 みんなの絵を描きたい。
 星空の絵を描きたい。
 写真だって撮りたい。
 北斗七星以外の星も教えて欲しい。
 たくさんの星座をこの目で見たい。
 広い草原に寝転んで、星の数を数えたい。
 嗚呼、止まらない。
 願う気持ちはとめどなく溢れてしまう。
 隣に立つ資格もないかもしれないけど、またやり直したい。
 きっと、これからもこの後悔を忘れることはない。
 自分を責めてしまう時もあるだろう。
 ふとした時に後ろめたくなるだろう。
 それでも、願わずにはいられなかった。
 身勝手で自己中心的であるけれど。
 それでも、星空が眩く煌めくのをやめてはくれない。
 脳裏に焼き付いた淡い幸せを消すなんて出来なかった。


「………ブラザー、」


 ツラツラと並べようとした言葉が止まった。
 彼がミュゲイアの名前を呼んだから。
 大好きな友人が名前を呼んでくれたから。
 ミュゲイアはやっとブラザーの方を見た。
 大好きな友人だった彼。
 助けてくれた恩人の彼の事すらミュゲイアは忘れていた。
 いや、少し壊れて帰ってきたブラザーを否定してしまった。
 妹じゃなかったから。
 喜びはあったのに、あの頃と違っていた事に焦っていたのかもしれない。
 友人として見てくれない彼に。
 見てくれなくても仕方がないというのに。
 寄り添うことが出来なかった。
 だから、沢山間違えた。
 愛は次第に変わってしまっていた。
 酷いことも沢山した。
 最低なことも沢山口にした。
 きっと、求め過ぎていたのだ。
 甘えてばかりだったから。
 受け止めて、受け入れて欲しかったのかもしれない。

 ずっと、好きな事に変わりなかったのだ。
 形を変えてもその底には愛があった。
 ただ、その愛すらも忘れて見えなくなっていた。
 朧気になっていた。
 だから、もう間違えたくなかった。
 守られるばかりになりたくなかった。


「………、ありがとう。ミュゲを守ってくれて。……ありがとう。
 ミュゲも、……、ミュゲも、ブラザーの事が大好き。アラジンの事も大好き。もう逃げたくないよ。忘れたくない。ドロシーの事だって、みんなのことも忘れたくないよ。……、ミュゲも皆を守れるようになりたい……そうしたら、ミュゲもみんなと星を見れるかな? ……、本当の幸せを運べるのかな? ……、ミュゲにも出来るかな?」


 ブラザーの言葉はミュゲイアの心を溶かした。
 ドロシーとは違った優しさ。
 罪人の二人。
 今度こそ、間違えないように。
 逃げないように。
 手を繋いで欲しい。
 今度はちゃんと握るから。
 もう、守られてばかりでいないから。
 今度は守ってみせるから。
 そうすれば。
 そうすれば、一緒に星を見れるだろうか?
 幸せを運べるだろうか?
 この悲劇も笑劇に変えられるだろうか?
 ミュゲイアにも出来るだろうか?
 この、罪深い手でも出来るだろうか?
 出来るのならば、まだみんなと居たい。
 みんなと過ごしたい。
 星を見たい。
 ずっと一緒に。
 ドロシーとも話さないといけないのだから。
 彼女に謝らないといけない。
 もう、彼女に背負わせてはいけないから。
 覚えてくれててありがとうって伝えないといけない。
 みんなで笑うために。
 さぁ、薇を巻け。
 友達として友達を助けよう。
 操り人形でないのなら、その身体をその意思で動かして。
 悲劇で終わらせないために。
 エンドロールにはまだ早い。
 まだ始まったばかりの物語を紡ごう。

《Beother》
「もちろん、出来るよ。
 ミュゲがいてくれるだけで、僕は笑顔になれるから」

 重なるのは不安げな言葉。
 当然だ、と思う。ブラザーだって、同じ立場ならきっとこう思うはずだ。自分のせいだったと責めて、何もかもが嫌いになって。前に進むことだって、諦めてしまったかもしれない。

 でも、そうじゃない。
 ブラザーは嫋やかに微笑み、抱き寄せたミュゲイアの髪を撫でた。手つきは以前と何も変わらない。硝子細工の宝物に触るみたいな、繊細な動き。“おにいちゃん”だったときも、友人だったときも、なにひとつ変わっていなかったのだ。
 変わったのは、ふたりの関係だけで。それでもまた、こうして笑い合おうと願った。アラジンと、エルと、ドロシーと。


 心が折れてしまいそうでも、ふたりには夢がある。願いがある。希望がある。
 流れ星が見えなくても、ふたりなら大丈夫だ。共に手を取って、支え合えるから。


 ブラザーは微笑む。
 柔らかく口角を緩めて、ミュゲイアの手を取った。もう離したくないと、強く願った。

 ようやく前を向く。
 重たい扉に向き合って、呼吸をひとつ整えた。吸う息は凍てつくように冷たくて、喉をちくちく刺してくるけれど、少しも痛くない。アラジンの痛みに比べれば、こんなのどうってことない。


 一歩、踏み出す。
 扉に手を添えて、ぐっと力を込めた。


「行こう、二人で」


 何があっても、ふたりなら。
 こうして星空の下まで、きっと歩いていけるから。

 あなた方は襲いくる恐怖を乗り越えて、二人で支え合いながら、目の前の扉を開こうとしたことだろう。

 ──だが、扉は沈黙したまま、開かない。
 扉の向こうからは、何の音も聞こえない。

 確かにアラジンは、この先に連れられていったのだろう。床に残った異常な血痕がそれを指し示している。
 だがブラザーが以前ここに辿り着いた時のように、扉は固く閉ざされたまま施錠されているようで開かず、怪物はあなた方を寄せ付けまいとしてしまったらしい。

 トゥリアの細腕では開かない。
 今こうしている間もアラジンは燃料を、稼働維持に必要な血を失い続けている。いつ動きを止めてしまうかわからない。
 いやそれどころではない、怪物が彼に何をしているか分からない。

 またあの時のように、既に炎に放り込まれているかもしれない。
 それは確かに時間が経つごとに希望は薄れていくものだった。

 それでも、『開かずの扉』はどうしようもなくそこにあり、あなた方は立ち尽くす他ない。



 途方に暮れたその時、あなた方の後ろからカツン、カツン、と響き渡る靴の音が聞こえた。
 それは複数人──確実にあなた方の元に近付いてきているようだ。

Hensel
Gretel
Amelia
Felicia
Mugeia
Brother

 何をどうやっても開かない、まさしく『開かずの扉』の前で途方に暮れて、立ち尽くしかないミュゲイアとブラザー。
 血痕はこの太刀打ち出来ない扉の先へと無情にも続いている。これ以上の手掛かりもない。一刻も早く連れ攫われたアラジンを救い出さねばならなかったあなた方は、酷く焦っていたことだろう。

 打つ手無し。
 そんな現実に打ちひしがれていたあなた方は、背後から聞こえてくる複数の足音に振り返ることになる。

 二人の背中を追ってきたのは、先程まで共に行動したフェリシア、アメリア、そしてヘンゼル。きっとあなた方を心配して来てくれたのだろうと、すぐに察することが出来る。
 だがもう一人、彼女らは新たなドールを引き連れて来ていた。

 彼女らの先頭に堂々と立ち、喜色満面の気持ちのいい笑顔を浮かべる赤い三つ編みの──デュオモデル、現オミクロンクラス所属のグレーテルだ。

 彼女は学生寮に残っていたはずだが、何故だかこの場所に訪れているようだ。一歩更に前に出て、そしてフェリシアとアメリアを振り返る。

「ほら、目当ての二人が見つかったよ。良かったね、無事に合流出来て。見たところ怪我もなさそう! ……怪我、ないよね?」

《Brother》
 扉を押した。
 力強く、前に進むために。

 そのはず、だったのに。

 扉はビクともしない。
 アラジンの血痕を前に、ただ為す術なくそこに存在するだけだ。向こうはどうなっているんだろう。アラジンを引きずる怪物は、こうしている間にどんどん進んでしまっているかもしれない。ひゅ、と喉の奥で息を吸う。ミュゲイアの手を握るブラザーの手に、どんどん汗が滲んできた。

 また後ろを向きそうになる。
 しかし、ブラザーもミュゲイアも、諦めるわけにはいかないのだ。

「なにか……なにか、近くにスイッチとか、そういう……」

 倒れそうな目眩に耐えながら、ブラザーは扉の周りを見回す。くまなく探して、空いている手でぺたぺたと壁を触って確かめた。感じるのは、冷たい鉄の感触。体温が吸い取られていくような感覚がしたが、それでもまだ諦められない。
いっそ執念深いくらいに扉を開ける方法を探していれば、足音が聞こえる。

「ッ──」

 もしや、怪物。
 最悪の想像が頭を駆けて、ブラザーはミュゲイアの手をぎゅっと掴む。すぐに手を引いて逃げられるよう、腰を落として物陰に隠れようとした。しかし、見えるのは見覚えのある髪色。

「みんな……なんで、いや……。
 ……うん、大丈夫。そっちは大丈夫? それに、グレーテル……」

 心底安堵したように、甘ったるい吐息が零れる。安心しきって瞳が潤みかけるのを、顔を逸らすことで耐えた。深く息を吐いて、もう一度顔を戻す。そうして気づくのは、満面の笑みを浮かべるグレーテルだった。たくさんの言葉がでかかって、まとまりのないそれらを飲み込む。こくりと頷いて、別れた彼らを見回した。

《Amelia》
 暫くの間足跡付きの血痕を素足で踏みながら追いかけると、開かずの扉の先、普段は閉じられているらしい扉の向こうに続いていた。

 ……よりにもよって。
 そんな言葉が頭を過ぎる。

 血痕の状態から推定してアラジンは攫われ、回収も絶望的。
 ブラザーとミュゲイアが無事だったのはまだマシだが……想定の中でも三番目位に悪い状況だった。

「ブラザー様、ミュゲイア様。
 そうですね……先ずは説明を。
 芸術クラブの活動から帰らない事を不審に思った……のでしょうか?
 グレーテル様はアメリア達を迎えに来たそうなのです。
 ……ですが、先ほどまでブラザー様とミュゲイア様と逸れてしまっていましたから、こちらの血痕を追いかけて来ました。」

 だが、同時に失った物を考え続けていても仕方がない。
 先ずは今ある物を守る為に、蛇足に見える説明から「グレーテルにはブラザーを芸術クラブのメンバーだと思っている」、と説明を試みる。

 まあ……ブラザーは実際に芸術クラブのメンバーなのだが……。

 そんな事はつゆ知らず、どうやってアリバイを説明した物か……そう考えながら彼女は周囲を見まわして言葉を続ける。

「ここが……開かずの扉の向こう側ですか?」

《Mugeia》
 扉は開いてくれなかった。
 焦る気持ちを抑えながら、何度もミュゲイアはブラザーと一緒に扉を力強く押した。
 アラジンの血痕はこの先へと続いている。
 早くしないと、早くしないと。
 こんなところで止まっている暇などないというのに、扉は冷徹に佇んでビクともしない。
 もっと、ミュゲイアの腕が強く逞しかったら。
 もっと、この頭が寄り良い方法を導けたのなら。
 もし、ドロシーが居てくれたら。
 そうすればきっと、こんな扉すぐに開いていたかもしれないのに。
 そんな思考が頭をよぎった。
 そして、それに対してミュゲイアは強く唇を噛んだ。
 いつまでもドロシーに甘えていてはいけない。
 彼女にもうこれ以上背負わせてはいけないのだから。
 わかっているのに、分かっているのに。
 焦る気持ちのせいか、どうする事もできないこの細腕への苛立ちか、思考ばかりが延々と回っている。

 焦っているばかりで現状は変わっていない。ブラザーの言う通り、何かスイッチを探すべきである。
 開かずの扉を開いた時のような、隠されたスイッチを。
 そう思い、ミュゲイアもブラザーの隣に腰を落としたその時だった。
 足音が響いた。
 誰のものかも分からない足音。
 コアが掴まれたような感覚がした。
 ブラザーが強く手を握る。
 ミュゲイアも強く彼の手を握った。
 足音が近づく度にコアは早く動き出す。
 暗い中で見えたのは見覚えのある存在だった。
 先程まで一緒にいたドール。
 それと、いつの間にか増えていたドール。
 グレーテルだ。


「……え!? みんな? ……、それにグレーテルも。……そうなんだ。心配させてごめんね、グレーテル。ミュゲも怪我はないよ。.....グレーテルは寮を抜け出して大丈夫だったの? ここは危ないよ?」


 まさかのメンバーにミュゲイアは呆気に取られた。
 先生やハネアリでなかったことに安堵しつつ、言葉を返した。
 グレーテル、グレーテルはミュゲイアのお友達。
 ───────のはず。
 まだ、謝りたいことは謝れていない。
 オミクロンにグレーテルが来てから、ちゃんとまだ話せていなかった。
 それなのに、まさかこんな所で遭遇してしまうとは。
 こんなにも危険な場所で。
 危ないことにこれ以上みんなを巻き込みたいとは思わない。
 だからこそ、グレーテルをミュゲイアは心配した。

《Felicia》
 コンテナ、台車。薄暗い学園内より、更に深い闇の中。扉の向こう側に足を踏み入れるのは、初めてお披露目の事実を知ったあの日以来だった。先生が開けたものだと決めつけていたものは何故か開いていて。しかしどのように開かれたものなのか、今のフェリシアには検討もつかない。
 ───ふたりに聞くことも出来たのに聞こうとしなかったのは、単に知りたくなかっただけだった。夢中だったから仕方がない。脳内でそんな言い訳を並べては、見た目から重みを感じる扉を押すブラザーとミュゲイアを、呆然と見ていた。何をしようとしていたのか一目瞭然だった。いつものフェリシアなら、彼らに倣って扉を開けるのを手伝っていたことだろう。それでも足は動かない。その先にあるのは……。
 ミシェラちゃんを始め色んな人形を帰らぬ無機物としてきた焼却炉なのだから。

「あ、それは……その扉は……っ!」

 開けないほうがいい。その言葉を飲み込んだのは、何故ふたりが扉を必死に開けようとしているのかとっくに理解していたから。隣で冷静にアメリアが説明しているとき、フェリシアは絶句していた。開け方すら分からないが、その扉の先に行きたくない。

「……あっ、えっと、うん。
 私もアメリアちゃんもヘンゼルくんも平気。二人は、大丈夫みたいだね。怪我してなくて良かった。
 あ、あの! アラジンくんは、この扉の先にいたり、するのかな。」

 ブラザーが言った通りにスイッチが存在するのならば、本当に開いたりしないだろうか。開いたら、自分はこの先へ進めるだろうか。

「……あ、あはは……。そ、そういえばグレーテルちゃん、ブラザーくんとミュゲちゃんに話したいことがある、みたいなこと言ってなかったっけ。」

 気まずそうに片手で首を触ると、グレーテルに視線を向けた。

 互いに混乱の渦中にあろう。それでもどうにか冷静を取り持ちながら、それぞれ声を掛け合って少しでも情報を渡し合い、状況確認をしようとするあなた方の会話を、グレーテルは静かに聞いていた。
 理解し合うための話し合いにいま自分が口を挟む必要は無い。そう判断したのだろう、存外にも大人しい。

 だがフェリシアに水を向けられると、彼女はぱちりと毒々しいラズベリーを瞬かせて、穏やかに微笑む。

「ミュゲイアさんにブラザーさんってば、危険だって分かってここに来てたの? 駄目だよ、きっとここはわたし達が入っちゃいけない場所なんだから……。

 ブラザーさん達がなかなか寮に帰ってこないから、心配して迎えに来たの。他のみんなも心配してたよ? ……ちょっと不味い事態が起きて、人手が必要だったっていうのもあるんだけど。」

 グレーテルは一瞬、僅かに何かを言い淀むように哀しげに目を伏せた。が、すぐにパッと歓びの色をその顔に浮かべて、パチパチ、と両手を打ち鳴らして称賛の拍手をする。
 重苦しい空気に不釣り合いの、平和ボケしたグレーテルのお祝いムードに──フェリシアは、早くも嫌な予感を感じ取っていたのではないだろうか?

 彼女の様子は、早く『素敵な知らせ』を言いたくてたまらない、といった様子であったから。


「そう! 二人への話なんだけどね。

 ──ブラザーさん、ミュゲイアさん。
 それからヘンゼルに……このわたし、グレーテルは! この度、次のお披露目に選ばれることになりました!
 きゃあ! あははっ! お祝いして!」

 グレーテルは、もう我慢出来ないと言った様子で歓喜の声を上げて、大袈裟に飛び跳ねるだろう。


「…………は……」

 グレーテルの背後で絶句して口元を抑え、青ざめるヘンゼル。
 グレーテルの明るい声が呪いみたいに充満する部屋の中で。


 ──じわじわと、少しずつ。その事実は毒みたいにあなた方を蝕むはずだ。


「……だから、ね。早く寮に帰らなきゃ。こんな場所に居るのがバレたら大変だよ? 早く帰ろう?」

 グレーテルは更に一歩踏み出して、ブラザーとミュゲイアに優しい手を差し伸べる。しかしあなた方の背後には、開けなければならない扉があった。
 救わなければならない命があった。

《Brother》
 各々が安全を報告するなかで、ブラザーの力んだ足は少しづつ力を抜いていく。どうやら、別の怪物に会ったり先生に見つかったりはしていないらしい。グレーテルが増えていることは気になるが、一先ず、こうして全員で合流できたことに安心する。

「……うん、多分だけど。
 あの怪物がアラジンを引きずるのが見えて、僕ら二人で追いかけてきたんだ」

 柔らかくなっていた表情に、フェリシアの問いにピリと緊張感がはしった。低く頷いて、ブラザーは扉に視線を戻す。相も変わらず、重苦しくただそこに在り続ける分厚い壁。アラジンと自分たちを隔てる扉に、思わず眉を寄せる。これを何とかしなければ、二人の、三人の、芸術クラブの、未来は掴めないというのに。


 奥歯を噛み締めていれば、グレーテルが何やら話があるようで。すっかり別人のようになってしまった彼女に違和感こそありつつも、ブラザーは愛のトゥリアモデルだ。特に警戒をする様子もなく、不思議そうに彼女の言葉を待つ。駄目だよなんて諭され、曖昧に笑んでおいた。ヘンゼルとよく似た顔が笑っているのは、何度見ても信じ難い。そんなことを、ぼんやりと緊張の隙間で考えていた。


 その次の瞬間には、自分が処刑台に登ることも知らずに。


「……、……」


 息が止まる。
 追憶の“あの日”が、フラッシュバックする。

 怪物の長い爪。地響きのような音。
 それだけじゃない。ラプンツェルを食い殺した怪物。ミシェラを燃やした籠のような装置。

 グレーテルの場違いに明るい声に、脳みそがぐるぐるかき混ぜられる感覚がした。足元から地面がぐにゃりと曲がって、世界が崩れていく。呼吸がどんどん浅くなった。視界は端から黒くなり、気を抜けば失神しそうになる。


 しかし、ブラザーは倒れない。


「……あ、り、がとう、グレーテル」

 ぎこちなく、微笑んだ。
 冷や汗が垂れる横顔は今にも倒れそうなほど青白く、ふうふうと荒っぽい呼吸が口から漏れている。共に過ごしたオミクロンの彼らなら、ブラザーの様子がおかしいことなんて一目瞭然だろう。
 だが彼は、ミュゲイアの手を離さない。グレーテルの手は、とらなかった。


「……でも、僕は帰らない。まだ帰れないよ。
 戻るときは、アラジンと三人一緒だから」

 ブラザーの震える手が、ミュゲイアの手を握りしめていた。決して離さないというように、強く強く繋いでいた。
 錯乱して上擦った頼りない声が、徐々に落ち着いていく。伸びやかで甘い、あのテノールが戻ってくる。

 ブラザーは選んだのだ。
 どんなに光のない荒野でも、前に進むことを。
 どんなに光のない世界でも、大好きな輝きが光になるということを知ったから。


「星を見るんだ。
 みんなで、もう一度」


 ただまっすぐに、グレーテルを見つめる。
 揺れる白銀の髪が星屑のように煌めいて、彼の夜空に明かりを灯していた。濁り曇っていたはずのアメジストがあたたかく輝いているのを、あのちいさなヒーローは、どんな顔で見たのだろう。ブラザーは隣に立つミュゲイアを見て、柔らかく微笑んでいた。「ね、ミュゲ」なんて同意を求めながら。

 それから、四人の顔を見回す。
 不安そうに眉尻を下げて、言葉を選びながら慎重に口を開いた。

「ただ、君たちは帰った方がいい。この先は本当に危険で……何があるか分からないんだ。

 危ない橋を渡ることになる。
 君たちはそんなこと、する必要ないんだから」

《Amelia》

「へ……?」

 ブラザーと、ミュゲイアが、お披露目。
 そう、言ったのだろうか?
 分からない、分かりたくない、認められない。

 だって、アラジンはもう助かりそうもないのに。
 諦めるしかないのに。
 この宇宙の歩き方を教えてくれたあの子は、もう見捨てるしかないのに。

 ミュゲイアも、居なくなってしまうのか。
 折角。仲良くなったのだというのに。
 ほんの少しだけ、近付けたというのに。

 ………………なんて、思ったところで。
 この無駄に記憶力の良い浅ましい頭は呆けてくれなんてしない。
 誤魔化せなんてしない。
 間違えなんてしない。
 どんなに大切でも、大切にしようとしたとしても。

 誰もがいずれ無くなってしまう物なのだと。何処かに行ってしまうのだと。
 アストレアがお披露目で、
 フェリシアが湖畔で、
 アラジンが、目の前で
 ■■■■■■■■■が、今ここにある現実で、
 “私”に教えてくれたのだから。

 だから、これは、ずっとずっと昔から、何度やり直したって変わらない現実で。
 必ず、いつか“アメリア”が至る道の果てなのだ。
 ならば、もう、諦めてしまおう。捨ててしまおう。愛ほどに苦しい呪いはないのだから。
 そうしたら、まだもう少しだけ、“アメリア”は歩き続けられるから。

「あっ……ああ、それは。
 とても……とても、喜ばしい事ですね。
 けれど、グレーテル様。
 先ほど、何か困った事が起きた、とも言っておりませんでしたか?」

 もう行き先も分からなくなった。
 いや、自分で羅針盤を捨ててしまった人形は、乾ききった喉を動かし始める。

 機械的に、軟口蓋と声帯を動かし、言葉を紡ぎ出す。
 初め、彼女の声はまるで動揺しているかのように震えていたが、それも直ぐになくなり、まるで本当に喜ばしい事を聞いたかのように、普段よりも正確に一オクターブ高い声でお披露目を言祝ぐ。
 そして、これまた正確に二オクターブ低く、まるで不安を感じているかのように、グレーテルに問いかける。
 何か不味い事があったのでは? と。 ロゼットに痛みを説いた口で、リヒトと愛を想った口で、ミュゲイアに幸福を願った口で、ディアの言葉に戸惑った口で、フェリシアに愛を語った口で。
 まるで、心豊かで模範的な人形であるかのように問いかける。

 なぜならまだ歩き続ける為に、アメリアは障害を排除しなくてはならないのだから。
 その為に、グレーテルの知る障害なるものを知ることは、正に必要な事だった。

「それと、お兄ちゃんは……何か、この扉を開ける手立てをお持ちなのですか?」

 次に、グレーテルの返答を待たずにブラザーの方を向いてすらすらと問いかける。
 本来、お兄ちゃん、とブラザーを呼ぶ事をアメリアは躊躇していたが、今は随分と滑らかにその言葉が出た。
 何故なら、そうする事をブラザーが望んでいたから。
 何故なら、問い直す手間をかければ時間を浪費することになるから。

 それに、万が一この先に向かう手立てがあるのなら彼が壊れてしまう前に聞き出さなければ、折角の命が勿体なくなってしまう。
 そういった損失は、いずれアメリアの歩みを止めてしまうかもしれないから。
 彼女はまるで心配をするように言葉を重ねる。

「開けられるのなら……残る、というのも良いかも知れませんが、どうしようもない状況で留まるのは、少し危険が過ぎるかも知れません。
 ですから、こればかりは正直にお教えください。」

《Mugeia》
 静かに時が過ぎてゆく。
 ゆっくりと、ゆっくりと、コアが鳴っている。
 微かに冷たい風が吹いている気がした。
 はやく、アラジンに会いたいと思う気持ちだけが先行している。
 こうしている間にもきっと、アラジンは危ない目にあっている。
 もうアラジンをそんな目に合わせるなんてしてはいけないことで、ミュゲイアとブラザーが今すぐ救いに行かないといけない。
 そうしないと、二人は前に進めない。
 星を見るためにそうしないといけない。
 三人で一緒に帰って星を見るの。
 手を繋いで、肩を寄せあって。
 三人でお友達になるの。
 アラジンに謝らないといけないの。
 そして、三人で外で天体観測をする。
 今度こそ、終わらない天体観測をしたい。
 もっと、みんなの絵を描きたい。
 もっと、芸術を知りたい。
 ほら、まだまだ三人でやらないといけないことがある。
 やっと、全部思い出せたから。
 やっと、再スタート出来たから。
 やっと、愛するべきものが見えたから。
 やっと、愛するって事を知れたから。
 やっと、お友達が出来たのに。
 止まってなんていられない。
 星を追いかける脚を止められなかった。
 止めちゃいけない。
 それなのに、
 そのはずなのに。
 楽しげな真っ赤な林檎が毒を吐いた。
 ゆっくりと、その言葉がミュゲイアの頭を掻き混ぜる。
 お披露目。
 ブラザーも。
 身体中の体温が吸い取られていくような気がした。
 パチパチと叩かれた手が頭に響く。
 どうしようもない現実がずっしりと重くのしかかる。
 叫びたくなった。
 嘘だと言って欲しかった。
 間違いだと早く言って欲しかった。
 否定して欲しかった。
 けれど、その全ての思いはギュッと強く握られた手によって止まった。
 同じようにお披露目が決まった友人は無理やりにでも笑っていた。
 荒っぽい呼吸を漏らしながら、それでも微笑んでいた。
 嗚呼、そうだ。
 悲しむのは今じゃない。
 叫ぶのは今じゃない。 
 ただ、今は受け止めるしか出来ない。
 この毒をゆっくりと流し込むしかない。
 友人が静かにそうしたのならば、ミュゲイアもそうする。
 苦しい毒だって一緒に飲むだけ。
 半分こするだけ。
 ミュゲイアもギュッと手を強く握り返して、ブラザーの腕にぴったりと身体をくっつけた。
 震える唇を小さく動かし、笑った。
 美しい完璧な笑顔を作るドールとしては許されないぎこちない笑顔だった。


「……そ、うなんだ。そっか。ありがとう、グレーテル。」


 グレーテルの顔はみれなかった。
 その少女の後ろで青ざめている少年のこともちゃんと見れなかった。
 だから、目を瞑って笑った。
 プルプルと震える唇からは上擦った声しかでなかった。
 ただ、ブラザーの言葉が救いだった。
 彼がいるからまだミュゲイアの心には星の光が煌めいていた。
 彼の言葉があるからミュゲイアは迷わず星を見ることが出来た。
 彼の言葉があったから、ミュゲイアはグレーテルの方を見れた。
 煌めく星に焦がれた瞳はただグレーテルの事を見た。


「ミュゲ達はアラジンを迎えに行かないとだから。今度こそ三人一緒に帰るんだ。……だから、ごめんね、グレーテル。その手はとれないよ。」


 友の手は震えていた。
 しかし、しっかりとミュゲイアの手を握り締めてくれた。
 もう離したくないその手が、ミュゲイアを生かしてくれた手が、その温もりがミュゲイアを灯す光になる。
 暗い道を照らして星を見せてくれる。
 もう、手は繋いでいる。
 だから、グレーテルの手はミュゲイアもとらなかった。
 もう、前に進むと決めたから。
 どんなに苦しく辛い茨の道でも、その先を見ると決めたから。
 流れ星を追いかけると決めたから。
 夢が出来たから。


「ミュゲもブラザーと一緒。
 みんなで星を見ないとだから。だから、みんなは先に帰ってて、ここは危ないところだから。ミュゲ達もアラジンを助けたら三人で帰るから。」


 ブラザーが微笑んでくれた。
 優しく包み込むような、ミュゲイアの愛した笑顔。
 星を見るという願いは変わらない。
 どんな状況でも、この願いをもう忘れることはない。
 だから、ミュゲイアも微笑んだ。
 今度はちゃんと。
 ありのままの笑顔で微笑んだ。
 何色にも染まれなかった真っ白の瞳が瞬いて虹色に煌めく。
 ブラザーが、アラジンが、ドロシーが、彩ってくれた瞳。
 真っ白な少女を色鮮やかにしてくれた願い。
 それを叶えずにはいられない。
 もう、逃げる事はしない。
 飛び立つ時が来たのだから。
 真っ白な羽で、今度こそ幸せを運ぶ小鳥になりたいから。

《Felicia》
 見覚えしかなかった。先生の笑顔が、妙に頭にこびりついている。そうして今も、相棒は形のいい唇を鬱くしく弧に歪め、僕は幸せだと笑っているのだ。覚めきらない悪夢が純粋な希望を打ち砕く時、フェリシアは絶句することしか出来なかった。思ってもいない言葉で着飾り、形だけの抱擁をすることしかできなかった。ドールズの敵を排除できる訳もなく、かと言って彼女を救うこともできずに。ただただ、悪夢に苛まれることしかできないのだ。ヒーローを目指しておきながら、大事な時にヒーローらしいことを何一つできていない。雑念が邪魔をして、自分の身が可愛いあまりに一直線に突き進むことができない。ブラザーのように、全てを投げ出してどこかへ逃げたい。ヒーローに助けて欲しい。問題の全てを、誰かが解決してはくれないだろうか。しかしこの箱庭は、打撃ひとつでどうにかなる世界ではない。考えて、考えて考えても、どうにもならないことがあるくらい。不条理で、声のない悲鳴にまみれている。そんな場所であった。……そんな場所で、あって欲しくなかった。
 噴水の塀に座って抱きしめてくれたブラザー、笑顔の大切さをいつまでも話してくれたミュゲイア、湖畔で無言で愛を伝えあったアメリア。そして、屈辱と後悔に塗られながらも、自分の道を見つけ、自身すらお人好しになるくらいに仲間の大切さを知ってくれたヘンゼル。その全てが、フェリシアにとってかけがえのない宝物だった。気づけば、自身の身の回りの全てが宝物になっていた。逃げたいけれど、逃げてしまえば、手放すものが多すぎるのも事実だ。
 全てを守れる自信は無いけれど、守れるものが増えれば増えるほど強くなれることを、少なくとも強くなった気でいられることを、唯一無二の相棒、他でもないアストレアに教わったのだから。
 だから今、フェリシアがやるべきことはひとつだった。


「最っ高だよグレーテルちゃ〜ん! オミクロンに来たばっかりだからちょっと寂しくなるけど……なんだか自分のことみたいにすっごい嬉しい! こんな状況で“嬉しい”なんで変だから、今度しっかりお祝いさせてね。お別れさせて……!」

 ブラザーが、ミュゲイアと少しの時間だけでも手を繋げるように。グレーテルが、少しでもヘンゼルと一緒に居ないように。アメリアに、嘆き悲しむ時間を分けられるように。フェリシアはグレーテルに飛びつくと、力いっぱいに抱きしめるのだった。おめでとう、おめでとうと隙を与えずに繰り返しながら、抱きついたそのままの勢いで彼女の視線を三人とは反対の方向に持っていく。あなたたちに背を向けたグレーテルの首元に飛びつくフェリシアの瞳は見てわかる程に濡れていた。

「……あっ、なんで泣いてるんだろ……
色々あった……から、アラジンくんの、ことも……みんなの、ことも……。
 あっ、え、えへへ。どうしよう。
 なんか止まんない、えへ、えへへ」

 泣きたいのは三人のはずなのに、みっともなくぼろぼろと涙を零しては、「冗談冗談」なんて茶化して制服の袖で流れ落ちるソレを強引に拭っていた。

 限界だった。初めから、彼らを笑顔で送り出せる筈がなかったんだ。同時に、堰を切ったように頬を伝う熱情を払い除けるのに必死だった。ほつれて絡み合った糸を解けば解くほど、止まらない。

「あ、あはは……ごめんねグレーテルちゃん。制服濡れてない?
 って私、なんで泣いてんだろ。
 嬉しいのかな……アラジンくんが心配なこともあると思うんだけど。
 色々ぐちゃぐちゃで、さ……あは。」

 はちゃめちゃな作り笑いを繰り返す。こんな時でも、フェリシアは自分のことしか考えられていない。
 そんな自分が憎くて、悲しくて、苦しくて。何より愛おしい。

「……危険、だけど、だからこそ。
 ふたりをそのままにしておけないよ。あなたたち、には、えっと、その……お披露目が待ってる、そうでしょう? だから、……あの、……」

 自己愛と同じくらい、彼ら彼女らが好きだった。好きで好きで大好きで、それと同時に、羨ましかった。自分と同じくらい愛せる相手を想う強さを知っていたから。

「そ、その扉、えっと、もし、開けられるなら……私も……」

 言え、言うんだ。
 お前が、フェリシアが、ヒーローならば。

「私も、一緒にアラジンくんを見つけるよ。」

 出来損ないで、弱く、脆い。
 だけど今の彼女だけは唯、その場の『ヒーロー』と、呼べたのかもしれない。

 ヘンゼルは、初めからずっと追い込まれていた。 
 何も成し遂げないまま、認められないまま惨めにスクラップになるのだけは絶対に御免だった。だがありがた迷惑なことに、グレーテルは全てを『やり直す』為に自分と共にお披露目に──なんて言うのは名目で──自分を道連れに、あろう事か廃棄処分になろうとしていた。双子揃って手を繋いで、共に暗い海へ。崖下へ。地獄の炎の中へと。
 ミュゲイアやブラザーの様に、崖っぷちにありながらも寄り添い合い、己を曲げずにただ前を向く崇高な決意も覚悟も、何もかも持つチャンスを得られなかった彼は──青褪めたまま、ただ絶句するしかなかった。

「……ッ、う……」

 駄目だ、目の前が狭窄する。脳の中が真っ暗になって、絶望の黒波に囚われて、身体が痺れていく。きっとこの場で最も毒に侵されていたのは彼であった。強くあれないのだ、結局の所ヘンゼルも、彼女の言った通りあまりに弱い子、弱いドールであったから──重い覚悟に、芽生えかけたばかりの心が耐え切れない。

 だがそんなヘンゼルの脇を突き抜けて、フェリシアはそのウィスタリアを揺らしながらこの場で呪いを撒き散らす根源に飛びついた。
 皆が当たり前のことで恐怖し、傷付く時間を少しでも──あの日のリヒトと全く同じ行動を取ったフェリシアに、わずかに体勢を崩して後ろに数歩下がったグレーテルは目を瞬かせた。異様なほどの歓び、場違いな機嫌の良さは水を掛けられたように収まって、彼女は反射的な涙を流すフェリシアをじっと眺めると。

 『アラジンを探す』と主張するあなた方に、眉尻を下げて軽く一笑に伏す。

「うーん、気持ちは分かるけど……それはきっと無理だよ。この扉を開ける方法、みつかってないんでしょ? 途方に暮れてるミュゲイアさんとブラザーさんの後ろ姿を見たもの。もしかしたら開ける方法があるかもしれないけど、残念ながらそれを探してる時間はないよ。

 ていうか、本当にそんなことしてていいのかな? あなたたち……ふふふ。」

 聡明なデュオモデルは、相手の言葉を取りこぼさない。アメリアが疑問を呈した、『困ったこと』について。彼女に一瞥をくれてから、グレーテルは自身に抱き付いてきた目前のフェリシアの両肩に手を置き、耳元に艶めく唇を寄せた。悪魔を思わせるほど、白い肌と紅のコントラストは強烈に見えた。
 そしてグレーテルはフェリシアを刺し貫く事実を吐露する。

 本当の悪夢はこれからだと囁く大蛇のように。


「──あのね。学生寮でロゼットさんが、床下収納に転落して……お腹のガラスが砕けちゃったの。みんな急いで寮に帰って、動けない彼女を引き上げなきゃって頑張ってる所なんだよ? 開かずの扉なんかと格闘してる場合? あははっ……」

 肩を揺らして、悪辣な笑みでグレーテルは可笑しそうに笑う。
 狂ったように、出来損ないの人形のように。
 この場で彼女だけが心を持たぬ悪魔だった。

「でも当然の報いだよ。彼女はルールを破った魔女なんだから。アラジンって子のことはジゼル先生に伝えればいいよ、みんなも早く帰ろう? ロゼットさんみたいな目に遭いたくなければ……ね。」


 グレーテルは皆の顔を見渡して、改めて帰ろうと告げる。
 もはや、彼女の言葉を無視することは出来ないだろう。

《Felicia》
「は…………………………………?」

 あんぐりと口を開けたフェリシアの頬から、大きなひと雫が零れ落ちる。

 絶望にわななくヘンゼルの姿も、アラジンを一身に思うブラザーやミュゲイアの姿も。冷静さを失わないアメリアの姿も。フェリシアにはもう見えなくなってしまっていた。失いかけた光を取り戻さんとする動きは、見事に崩れ去る。優しいヘンゼルによく似たその悪魔はただひとり、形骸なく微笑んでいた。

 ロゼットのガラスが、割られた。

 壊された……?
 彼女が、悪魔の言う魔女だから?

 壊された……?
 誰に対しても慈しみしか与えられないあのドールが?

 壊された……?
 全てを救ってくれた、あの子が?

 滴り落ちる赤紅の雫も、アラジンの心配も、一瞬にして真っ白に変わっていくのがわかった。鉄の味が口の中に広がる。唖然とその話を聞いていたフェリシアは、肩に置かれた少女の腕を勢いよく振り払った。真っ青に染まった顔と、唇を振るわせて。低い声で呟く。

「魔女はあなたよ、グレーテル。
 ………許さない。“私のロゼちゃん”に、よくも……よくも……!!!!」

 憎悪の視線で彼女を射抜くと、ウィスタリアの毛先を尖らせた。

「邪魔! どけ!!!!」

 自身よりも数丈大きい彼女を突き飛ばすと、開かずの扉の入り口へと一直線に走り出す。

 一刻も早く彼女に会わなければ。
 一刻も。
 一刻も早く。急いで!!!

 フェリシアは泣いていた。自分の身体が壊れてでもいいと思った。いっそのこと階段を踏み外して落ちてしまえばいい。壊れてしまえば、壊れちゃえば……壊れれば……。
 ひとつ飛ばしで駆け下りると、己の全力を尽くして、寮へと岐路につく。

 鬼の様な怨念が籠もったペリドット。殺意ですらあったかもしれない、フェリシアの睥睨。
 グレーテルはあなたに抵抗もせず突き飛ばされる。開かずの扉を背に数歩蹈鞴を踏んで、だが、自分より小さな彼女に押し退けられようとも派手に倒れることはなかった。ただ悪意に満ちた妖艶な笑顔で、一目散に走り去るフェリシアを見ている。

「ッ……おい、フェリシア!! 待て!! 落ち着け……!!」

 そこで絶望の海の底からハッと立ち返ったヘンゼルは、自らの身体などお構いなしの、死力を尽くしたフェリシアの疾駆に危機感を感じ取ったのか。
 暗い通路を赤毛を揺らしながら走り抜けていく。彼の革靴がけたたましい音を立て、やがて遠ざかっていくのが分かるだろう。

「あーあ……行っちゃった。……ほら、わたしたちも帰ろっか。ロゼットさんを早く引き上げてあげなくちゃ、可哀想だもの。……それとも、ロゼットさんのことがどうでもいいなんて、まさか言わないよね?」

 グレーテルは肩を竦めながらせせら笑っている。
 そして残されたあなた方の顔を見渡した。彼女はきっとあなた方が着いてくるまでこの場に居るつもりだ。

《Brother》
 自分が言っていることが、めちゃくちゃだとは分かっていた。道筋がないのに答えだけは明確で、明かりのない道をひたすらに歩いているだけ。終着点がどこかすらも定かではないまま、ただ駄々を捏ねているだけ。

 しかし、ブラザーは帰れなかった。帰りたくなかった。


 だから、帰らないつもりだった。
 例えこのまま扉が開かず、怪物が戻ってきたとしても、アラジンに会いたいという気持ちの方が強かったから。  


 ───アメリアの異変には気づいていた。
 呼び慣れない呼び方をやけに自然に口にして、なんてことないかのように続ける青い知性。人よりも多くを知り、多くを記憶するデュオモデルたるアメリアは、きっととっくのとうに限界だったのだ。
 ───ヘンゼルの苦しみにも気づいていた。
 お披露目の真相を知っていて、自分がそれに選ばれたと知るのはただの死刑宣告だ。嬉々として弟共々死ぬことを発表する姉を、彼はどんな気持ちで見たのだろう。せっかく仲間が出来たというのに、こんなにすぐに引き裂かれることを知った彼は、どんな気持ちでいたのだろう。

 ───グレーテルの異常性にも、気づいていたはずなのだ。
 ヘンゼルから聞いた話だけではない。以前会話したときもその片鱗は見えていて、ブラザーは他者のとであればよく記憶できる。だから、知っていたはずだ。


 それは、“はず”でしかなかったらしい。
 ブラザーは眼前で笑う“魔女”を知らない。毒林檎のような悪辣な瞳が瞬くたびに、ガツンガツンと全身を殴られたような衝撃が走る。


 ロゼット。
 ロゼットの、ガラス。

 グレーテルとは違う赤毛が、柔らかく凪いでいるのが蘇る。ふ、と、玄関でした会話を思い出した。後を追ったあの子に扉を閉めたことが、じわじわ記憶から溢れ出す。向けられる感情の全てから逃げて、与えられる情報の全てから逃げたのだ。閉まる扉の隙間から見たロゼットの表情が、ぐちゃぐちゃになって思い出せない。いつか割ってしまった、寮のコップ。その砕け散ったガラスだけが、代わりに鮮明に思い出せる。

 フェリシアの憎悪に満ちた声がして、びくりと肩を震わせた。すぐにけたたましい足音がして、それを追うようにしてヘンゼルが走り出したのが見える。ブラザーもすぐ、その後を追おうとした。そうして踏み出した足が、止まる。


 扉の向こうに、アラジンがいるかもしれないのに?


 体が、全身が、硬直する。
 ふたつにひとつ。決断しなければならない。


 ロゼットを選ぶか。
 アラジンを選ぶか。


 どちらを選んでも、後悔するだろうと思った。どちらを選んでも、きっと本質は変わらない。


 ブラザーはまた、誰かを見捨てる。
 それがアラジンか、ロゼットかでしか違いはない。


 ……星が見たかった。
 アラジンと、ミュゲと、芸術クラブのみんなで。満点の星空の下で、ただ純粋に笑いたかっただけなのだ。友だちとして、今度こそ。

 ようやく全てを思い出した。
 思い出して、だからこそ、切に願った。それを叶えるためなら、何があっても怖くなかった。自分のお披露目でさえも、記憶で輝く星空に比べれば、なんてことなかった。


 ああ、どうしよう。
 帰りたくない。でも、帰らなければロゼットにはもう会えない。喧嘩別れにもなれないまま、これでおしまいだなんて。でも、でも、帰りたくない。帰れない。アラジンに会いたい。


「……なんで………」


 なんで、どうして。
 友だちと仲直りして星が見たい、なんて些細な願いすら、この学園では叶わない。いつだって誰かを見捨てて、弔って、そればっかりで。
 自分が生きることが叶わないならそれでもいい。それでもいいから、せめて、願いくらいは叶えてくれ。だって、そうじゃないなら、もう生きていけない。何を指針にして生きればいいのか、分からない。何のために夜が存在して、何のために星が瞬くのか。なんにも、意味なんてなくなってしまう。


 ブラザーは分かっていた。
 客観的に見れば、救える可能性があるのは間違いなくロゼットだ。悠長な回想、悠長な会話。こんなことをしている間に、アラジンはどんどん衰弱している。脆弱なトゥリアモデルが、あの怪物の爪を一身に受けて、こんな長時間生きていられるとは思えない。それでも、会いに行きたいと思っていた。信じていた。信じられた。ミュゲイアが、友だちが、傍にいたから。

 ここにいても、なんの意味もない。救えるひとりを失うことになる。
 ───もう救えない、友だちのために!


 なんてことだろう。
 こんな酷い話があっていいんだろうか。この学園は、なんのためにあるのだろう。ブラザーは、何のためにここにいるんだろう。
 ああ、ほら、また。星空が、見えなくなる。星屑が砕けたように輝く濡れたアメジストから、流星群のような雨が降る。


「アラジンに……会わせて……」


 たった、それだけだった。
 ブラザーの願いは、それでしかなかったのに。


「会わせてよ。お願いだから……」


 生きたいとも、死にたいとも、願わないから。だから、どうか。どうか、どうか……。

 
 ……ブラザーはさめざめと涙を零して、ミュゲイアの手を離した。どうするかは本人に任せるつもりなのだろう。ただ視線を一度だけ合わせて、袖口で涙を拭った。視線だけで全てが伝わるような、そんな気がした。
 ふらふらと歩きだす。せせら笑うグレーテルの横を通り過ぎても、恨みの一言すら出なかった。喋ることすら、なんの意味もないように思えた。


 ごめんね、も。
 愛してる、も。


 扉の向こうには、言えなかった。

《Mugeia》
 飛べない翼を広げて、ずっと崖の下を眺めていた。
 崖の上は花畑が広がり、笑顔があって、ただ幸福に満ちた楽園だった。
 柔らかな風が頬を撫でて、それに目を細める。
 その風では飛べない。
 崖の下も見えない。
 その先も。
 ただただ晴天。
 笑顔をこれでもかと照りつける太陽。
 雨が降ることも、曇ることもなかった。
 みんな笑顔で笑顔しかない。
 笑えない石はない。
 笑えないものなんてなかった。 
 砂糖菓子のように甘く、蜂蜜のようにとろけていた。
 ミュゲイアの世界はそうやって作られていた。
 けれど、今はそうじゃない。
 全てから逃げ出して作り上げた世界はちっぽけで、弱虫の涙ほどしかなかった。
 そんな小さな世界をずっとミュゲイアは守っていた。
 都合良く出来上がった世界を幸せの楽園だと、完成された幻想郷だと思っていた。
 弱虫な小鳥の囀りだった。
 その翅で飛ぶことをやめた無様な小鳥だった。
 そうじゃない。
 そうなりたい訳じゃなかった。
 これも言い訳。
 やっと、やっと、逃げる脚を止めたところだった。
 やっと、上を見上げることが出来たところだった。
 やっと、星の美しさを思い出せたところだった。
 やっと、友人を取り戻せたところだった。
 やっと、愛を知れたところだった。
 やっと、願いを見つけたところだった。
 やっと、だったのに。
 全部、やり直せると思っていた。
 それなのに目の前の扉は冷徹で、真っ赤な林檎は毒を垂らして冷やかに笑っている。
 それでも、帰れなかった。
 ミュゲイアには帰れない理由があった。
 お披露目が決まろうがそれは変わらないことだった。
 変えられない事だった。
 アメリアの言葉を聞いても、それでも諦められなかった。
 あの子は誰よりも聡明だから、きっと沢山の可能性を考えたのだろう。
 グレーテルの言葉を聞いても、首を縦には振れなかった。
 だって、その手は取れないと決めたから。
 もう、すぐそこまで来ていたのに。
 あともう少しだったのに。
 あとちょっとで掴めそうだったのに。
 掴もうとした流れ星はいつもミュゲイアの手をすり抜けてしまう。
 飛べないまま崖の下に落ちてしまう。

 嗚呼、また真っ赤。
 ミュゲイアの嫌いな真っ赤だ。
 真っ赤な髪を靡かせて笑っている。
 フツフツと湧き上がる感情の名前をミュゲイアは知らない。
 ただ、グッと歯を食いしばることしか出来なかった。
 叫びたいのに声は出なかった。
 その代わりに太陽が叫んだ。
 ミュゲイアの大好きな向日葵の少女が声を荒らげた。
 初めて見る姿だった。
 荒々しく低い声を出すのも、そんなにも強い口調で話すのも。
 初めて見る彼女の姿だった。
 いつも笑っていた少女が笑顔を浮かべていなかった。
 みんなの為にと真っ赤な林檎を抱き締めて泣いていたその姿に手を伸ばそうとしたけれど、その手は届かなかった。
 それよりも先に林檎が囁いたから。
 それを聞いて太陽は走り出したから。 
 それを見ても、ミュゲイアの足は動かなかった。
 ロゼットの事を聞いてもまだ、足は動かない。
 いつも優しく笑ってくれていた美しい薔薇だった。
 ミュゲイアにこの学園の秘密を教えてくれた。
 柔らかい花弁のような包容力で、いつもミュゲイアの隣で笑ってくれていた。
 追いかけないといけないのはわかっていた。
 見捨てるなんて出来なかった。
 けれど、ミュゲイアの後ろにはアラジンがいる。
 扉がある。
 どちらかを見捨てるなんて選択をすぐに出来るわけがなかった。
 どうしたらいいのかなんて分からない。
 何が正解かも分からない。
 欲張りなその手は小さいから、どちらも掴むことなんて出来ない。

 ─────「ブラザーと、友達に、なれ。なってくれ、もう一度……絶対に。オレの分も、本物の友達を沢山作ってくれ、どうか……」

 嗚呼、ここでこの言葉が過ぎるのか。
 嗚呼、幸せはどうしてこんなにも絶望を孕んでいるのだろうか。
 嗚呼、どうして。
 どうして。
 ふと、手の温かさが冷めていった。
 前を向けばブラザーが歩き出していた。
 涙を流した瞳と目が合った。
 分からないわけがなかった。
 彼の葛藤も、選択も。
 彼は選んだのだ。
 愛した友人のために。
 道を選んだのだ。
 自分が生きるか死ぬかなんてどうでもよかった。
 どうでもいいから、会いたかった。
 アラジンにただ会いたかった。
 ただ、星を見たかった。
 愚かな小鳥はそれだけを願っていた。
 罪深いその手で星に願った。
 ギュッと強く拳を握り締めて、流れる涙を拭った。
 前へと足を出した。
 先を進んでしまった友人を追いかけて、その手を強く掴んで握り締めた。
 ギュッと強く握りしめて、彼の前へと出ればそのまま彼の手を引いた。
 そう、これはミュゲイアが彼を引っ張ったのだ。
 彼はただミュゲイアに引っ張られただけ。
 ただ、それだけ。
 もう、彼を独りにするなんてできないから。
 見捨てるという選択を半分こしよう。
 この選択の共犯者になろう。
 貴方は優しすぎるから。
 貴方の優しさは貴方の心を潰してしまうから。
 貴方に救われた命だから。
 貴方ともう離れることはしない。
 あの時、開けられなかった扉の前でただ泣くだけの小鳥には戻らない。


「……絶対に、……絶対に、アラジンに会おう。」


 もう、独りぼっちじゃないから。
 アラジンに顔向けできるようになりたいから。
 アラジンの誇れる友人になりたいから。
 愛してるもごめんねも口には出来なかったけれど。
 扉のことは見れなかったけれど。
 それでも、貴方はきっと友人を助けなかったら怒るから。
 誰かを見捨てて救われた命を喜ばないから。
 沢山の友達を作るよ。
 本当の友達を作るよ。
 貴方のことだって紹介する。
 貴方に沢山の友達を紹介するから。
 絶対に幸せを運ぶから。
 すぐに二人で貴方の元へ行くから。

 だから、

 ───だから、その時は


「絶対に星を見よう。」


 小鳥は崖から飛び立った。
 星に近づくために。
 暗闇の中を飛び立った。
 ギュッと繋いだ手に力を込めて。

《Amelia》
「確かに、それは困った事態ですね。」

 アメリアの問いに対してグレーテルから返って来たのはロゼットの危険を知らせる言葉。
 ガラスが割れてしまった……つまり、重大な損害を受けてしまったと。

 端的にそう告げる言葉に、アメリアは残念そうな表情と声音を繕う。
 アメリアとロゼットはそれなりに親交があったからだ。
 ここで平静なままではアメリアに何か不利益があるかもしれない。

 それに、アメリアにとってロゼットは元レディ・ローレライかもしれない重要参考人なのだから、今失うのはそれ相応の痛手でもある。
 ……が、実際に寮へと歩き出すのはアメリアが最後だった。

 先ず真っ先にフェリシアが怒りに背中を押されて。
 続いてブラザーが悲しみに耐えながら。
遅れてミュゲイアはある種の決意と共に。

 それぞれの理由で歩き出したからだ。

「……ここに留まる訳にも行きませんね。
 帰りましょうか。」

 そうして、帰るかどうかの決定権を持つ最後の人物になったアメリアはすんなりと歩き出す。
 何処か穏やかに、何処か気楽に。

 途中でデュオドール控室に置きっぱなしのアリスを連れていく為に歩き出す。

 どうにもならない現実を前にして苦渋の決断を果たし、ブラザーとミュゲイアは重い足取りで暗き通路を歩み始める。

 犠牲には目を瞑れない。あなた方には失うべきでないものが多過ぎた。

 気力を振り絞りながら涙を流し学園を駆け抜けるフェリシアも、最後尾でゆっくりと彼らの背を追うアメリアも。
 そしてアメリアと共に足を踏み出したグレーテルもまた同じ。
 ドールズは長きに渡る思索の夜に沈んだままだ。朝日はまだ見えない。赤い制服を翻して、あなた方は暗闇から逃れ、明るい場所へとただひたすらに向かおうとしていた。

 開かずの扉は、立ち去るあなた方を冷え切った沈黙を持って見送っている。遠くでは悍ましい怪物の轟音が重く響き渡っているような気がした。


 失ってはまた失って、悲劇に次ぐ悲劇に翻弄されながら、あなた方は長い夜を歩き続ける。

 犠牲を前にして嘆き、そして犠牲を背に悔やみながら、それでもなお、漕ぎ出さなければならない。


 あなた方ドールズが、人らしき心を持つ限り。ヒトの手によりデザインされた地獄で永遠に、苦しみもがき続ける。


 ──そして明日からはまた、与えられた猶予期間(モラトリアム)の中で、踊るしかないのだ。

Chapter 2 - 風船をどうぞ、Betrayer『Raison d'être of the DoLL;s』
『The Truth of Unopened』

──END──