《Felicia》
「────あはっ。あはは、は。
あはははは!!!」
嬉しそうな仮面を貼り付けた少女は、昇降機に乗った瞬間、何かを崩されたかのように笑いだした。
小さな機内でくるりと回っては、可笑しそうに笑う。笑う。
昇降機は、今日も無機質な音を立てて上がっていく。何処に向かうのか、自分でも分からなかった。
しかしそんなのはどうでも良かった。彼女が、帰ってこなかったのだから。もう、あの笑顔を見られることなんて無いのだから。
フェリシアは、からっからの喉で大口を開けている。笑い声が霞んでも、笑いは止まらなかった。
昇降機が、止まる。誰かが乗り込むのだろうか。扉が開いても、そこには誰もいなかった。嗚呼、朝だから当たり前だったっけ。その場所は、学園の入り口。温かくも狂った、夢の始まり。乾ききってしまったのだろうか。笑い声が出なくなった。
しかし、
フェリシアは笑っている。
万遍の笑みを称えている。
喉はカラッカラで、
頭はガンガン響いて、
それでも。
それでも、笑っている。
フェリはきっと深く傷つくよなって。それはそうだよなって。そう思ったってどうしてもどこまで傷ついてしまうのか頭で想像できないのは、やっぱりコワれているからなのかもなって。彼女がこんな風に泣くなんて、知らなくって。何か出来ることがあったかもしれなくて。何か出来たことがあったかもしれなくて。このコワれた頭と体でなければいくらか緩和できたかもしれない数多の悲鳴を閉じ込めたティアドロップの絶叫が、笑顔の姿に熔けて固まっている。フラフラと寮から出ていったフェリを追いかけて、遅れて昇降機に乗って、開いた先だった。随分と楽しそうで、辛かった。
以前ストームに教えてもらったことを教えれば、そうすればきっと前の通りに……戻ってくれるかも、しれないなんて期待していた。甘かった、のか?
迷った。
迷ってしまった。
ノートを見せるか、どうか。
今握ってるのはきっと、とても不確かで危険な甘言だ。そして、もしかすると誰も傷ついていないかもしれない、ハッピーエンドへの片道切符だ。ストームの言葉を疑えるほど彼は頭が良くなかったが、同時にこの言葉の重みを理解できないほど勇猛でもなかった。
それでも伝えるとするならば、それはきっと彼の罪になる。
(だったらなんだ。今更なんだ。もう、どうしようもないくらい、オレは、)
「フェリ、フェリ! ええと、タイチョー!」
考えるの、疲れた。とにかく声を掛ける。今のままのフェリは、放っておけない。いつもの学生鞄を肩に掛けて、昇降機からいの一番に走り出して、フェリの方へ駆け寄った。
「オレだよ、リヒト。落ち着けって、その、お披露目、あって。嬉しかったり寂しかったり、するのは分かるけどさ、だからさ」
とりあえずここじゃ目立つだろ、という風に声を掛けるが、無理やりに引っ張ることは、なんだか出来なかった。だからそっと右手を差し出して……暗い方へ、暗い方へ、目立たない方へ。彼女が泣いていい方へ、彼女が叫んでいい方へ。……そんなとこ、あるかな。ロビーを見渡して探しながら、変わらずリヒトは右手を差し出している。
《Felicia》
目を瞑ると彼女“たち”が笑っているところが見える気がした。だから私も笑ってる。閉じ切った瞳の裏で、幸せだった頃の夢が映っているから。あ、あれ……そういえば最後に見たあの子たちは笑ってなかったっけ。そういえば、▇▇▇▇ちゃんは手を伸ばしてて▇▇▇▇▇ちゃんは険しい顔してたっけ。あれ。あれ。……あれ?
─── まぁ、いっか。苦しい顔より、笑ってた方がいっか。……うん。
掠れた声で少女は呟く。「帰って来なかったの」って。じゃあ、どうしてウェンディちゃんは帰って来れたんだろう。何が……彼女と彼女を分けたのだろう。今のフェリシアは、自分が傷ついていることを理解できそうになかった。ずっと、問いかけている。どうしてって。
あれ、どうして。泣いてるの?
▇▇▇▇ちゃん、▇▇▇▇▇ちゃん。また、二人の好きな物語を作ってあげる。幸せで、あったかい、そんなストーリーを考えるから。
泣かないで、大好きなお友達。
「ふへ、へ。あはは。……あは。は。」
ほら、私も笑ってるから。
ね? 泣かないで。ヒーロー、は、ここにいるよ。逃げないよ。
「あは……あぁ、▇▇▇くん。今日もとってもいい日だね。」
ふらふらと辺りを歩き回っていたが、昇降機から出てきたのは……。
声をかけられて、振り返った先にいたのは見慣れた顔だった。
罪を共にした彼の、不安そうな。
「わかってくれてありがとね、▇▇▇くん。優しいね。ありがとね、ふふ。ありがとね。」
ぼんやりとしながら、それでも彼女は笑っていた。霧のように濁った声で、ありがとう、ありがとうと繰り返す。右手を差し出されるのに気づくと、抵抗もなく貴方の手をとるだろう。
「ん」
そっと右手を取ってくれたことを確認して、リヒトは軽く頷いた。あの時よりも随分と、まぼろしのようにぼんやりとした、手を握る力にぐっと息を飲んで、
「……ん」
その傷の深さにまた、頷いた。ゆっくり手を引いて、ロビーの端にあるソファの方へ向かう。人影はほとんど無いが、きっとこれから増えるだろう。どれだけ傷ついたってトイボックスは回るし、どれだけ傷ついたって彼らにも授業がある。日常は回る、どう足掻いたって。日常を回す、どう藻掻いたって。それが彼らの生存戦略。
「フェリ、その……ノート、なんだけど。そんな場合じゃねえな、今はな」
でも、少しぐらいのモラトリアムは許されたっていいはずだ。リヒトはロビーの隅っこのソファにフェリを案内すると、パッと腕を広げて言った。
「いいよ、フェリ。ここならパッとは見えないし、オレが隠すよ。聞かれたら何とか言うし、見られたらオレのせいにするし。だから、だからさあ……何でもしていいから」
だから笑うのは、もうやめて。……なんて言えたら、良かった。そういう勇気があればよかった、けれど今の彼にはそれがないから、あと一歩の勇気がないから、そっと言葉の終わりの部分をゆっくり嚥下する。
それは、情緒に長けたエーナでなく、愛情深いトゥリアでなく、聡明なデュオでない、彼が忠実な友以上の関係になれない、テーセラモデルであったから。それも、コワれたジャンク品。
────まだ、迷っている。
《Felicia》
彼女の目の前には、潤む星だけが見えていた。あ、そういえば▇▇▇▇▇ちゃんのお葬式もしなきゃだね。……したくないなぁ。
現実だと思いたくないなぁ。
はぁ、やだなぁ───
繋がれた手に見向きもしないまま少女は背丈の変わらない彼をぼぅっと見つめている。向かっている場所すら気にすることなく、呆然とリアルを受け止めきれないでいる。それでも口元には優しげな笑みをたたえていた。ハイライトを失った宝石は、ただの石なのに。
完全に光を失ったそれを磨ける子はかなり限られていることだろう。
「ん〜? だいじょうぶ、だよ〜?
私、ちっとも悲しくなってないの。はは、なんでだろ。悲しくないなら嬉しいんだよね、きっと。」
案内されたソファに座る。腕を広げた彼と目を合わせようと上を向き、元ない声でそう言った。口の端は下がり切り、瞳には全くと星の介入がない。しかし、絶えず声だけで微笑んでいる。
「だから、だいじょうぶなんだってばぁ。もー▇▇▇くんは心配性さんだなぁ。ふふ。何でもしてくれるって言うなら……そうだなぁ。
ふふ。ノート見せて欲しいな。
きっと素敵なことが書いてあるんでしょう?」
回らない脳でそう答える。ああ、▇▇▇くんはノート見せに来てくれたんだっけ。真面目だなぁ。
ほんとに、いい子だなぁ。ゆらゆら揺らめく思考回路の中。フェリシアは彼の求める返答を探している。だけど、見つけようと探しても見つからない。あれれ。結構、探したんだけどなぁ。
「あぁ、そうそう。▇▇▇くんに伝えなきゃいけないことがあるんだった。……なんだったかな。」
少女の中はめちゃめちゃになっている。情報と情報とが散乱して、苦し紛れに言葉を紡ぐ。人魚姫のお話、また読みたいな。
「うれしくない。大丈夫じゃない。なんでもかんでも違う。……違うって、フェリ」
ぼんやりとした靄の中で、立ち込める悲しみと深い絶望の闇の中で、かき分けて、かき分けて、足を取られながらも懸命に逃した右手が、空を切っている。どんな言葉も空回っている気がして、ここにいるのがエーナだったら、トゥリアだったら、デュオだったらと思考が回る。
もしここにいるのが、アストレア、さん……だったら。
もしここにいるのが、オレじゃなかったら。
「……もういい。うそつき。ごまかし。とーへんぼく。悲しくなくても悲しい時はあるし、笑っていてもつらい時はあるんだぞ。そのくらい分かるだろ、フェリなら。分かってるはずだろ」
どけち、と、最後に負け惜しみのように言ってしまう自分の弱さが情けない。広げた手を下ろして、リヒトは鞄を体の前に持ってきた。
「ノート、は」
カバンから取り出した、彼の存在証明。渦中の彼らに置いていかれないために、リヒトが抱える唯一の価値。それでも、その中に美麗な字で書き込まれたたった一行のために、リヒトは躊躇っていた。ノートはまだ手の中に。
まだ、まだ、迷っている。
《Felicia》
「ちがう? 何が違うっていうの?
▇▇▇▇▇ちゃんは帰って来られない。▇▇▇▇ちゃんだけ帰って来られた。そういえば▇▇くんと▇▇▇ちゃんも何か言いたげな表情してたっけ。どんな感情も間違ってない。あはは……そこにあるのは事実だけなんだよ。間違ってなんかない。辛くなんてない。当事者の私がそう言ってるんだから、きっと、そうなんだよ。」
夢遊病者のように思いつきの文章をつらつらと語る少女。変わらずその大きな瞳を細め、ベルベットに彩られた天井を見上げていた。視界はぐらりと揺れに揺れ、霞がかった世界が蹂躙し切っている。
澱んだ瞳を貴方に向けると、膝の上で小刻みに震える指先をのんびりとした手つきで折りたたんだ。呼吸は荒くなく、垂れ下がる蜘蛛のように力を抜いている。
「心外だなぁ。嘘はついてないよ。呆れてるだけ。あと、やだなぁって思ってるだけ。ふふ。分かってるってば。」
とおく、とおく、空っぽになりかけの頭でそう応える。何が分かってるのか、分からないけれど。
▇▇▇くんがそう言うのならきっと、そういうことだから。
「ノート、だめ?」
こてん。首をかしげる。自分には言えないことなのだろうか。
「………どうして?」
「違う、上手く言えないけど、上手く出来ないけど、でも、違う、ちがうんだよ」
リヒト・トイボックスは粗悪品だ。どうしようもなく。目の前で泣いている友達に掛ける言葉一つも無い、ジャンク・ドールだ。救いようもなく。違和感を言語に落とし込めないまま、目線はうろうろとさまよって、足元に落ち込んだ。
ここにいるのが、彼女の焦がれたアストレアさんで。
お披露目に行ったのが、何も出来ないオレだったなら。
みんなはちゃんと、前を向けただろうに。
「夢で、夢みたいな言葉で、悲しくないなんて言うなよ。泣いてるくせに。すっごい悲しいくせに……嘘つくなよ……うそつき」
エーナのお前が上手に嘘なんてついちまったら、上手に夢なんて見てしまったら、オレは。ジャンクのオレは、分からなくなって、フェリの気持ちをきっと置いていってしまうから。ノートを躊躇いながらそれだけはダメだ、と立ち上がる気持ちと、じゃあどうすればいい、と立ち竦む気持ちの向こうで、
それでも、君が笑った。
だから、
(────ああ、もう!)
一瞬のためらいを踏み越えて一歩前に出て、がっとフェリの肩を掴もうとする。今にも飛んでしまいそうな不確かな風船を捕まえるように。そんなところに行くな、なんて醜い我儘を露呈するように。弾みで手から落ちたノートが床で跳ねる。
「いい加減、目を覚ましてくれよ! お前、今、悲しいんだろ、泣いてるだろ、辛いだろ、だったら、さっき言ったこと全部、ゼンブ、間違ってる!! 当事者のオレが言ってるんだから、きっと、そうなんだって……!!」
《Felicia》
「違う、違う、違う。今日の貴方は不思議なことを言うんだね? 私には何がおかしいのか分からないんだけど……そっか。▇▇▇くんにとってはおかしいんだね、そっか。」
首を傾げたまま、上の空に言葉を返していく。声に覇気がなければ話に掴みどころもない。フェリシアは、おかしいと言われているのが自分ということを理解していないようだった。どこか他人事のように思考を放り出している。
今の少女は間違いなく、生き抜く理由を失った蠢く蛆虫である。
「だから……、だから?
えーっと、えーと。だから……っ」
嘘ついてないんだって。必死な彼の顔を見ると、その言葉が何故か出てこない。今まで誰からも素直だと言われてきた。私は嘘つきでは無い。嘘はつけない……本当に? じゃあいま、▇▇▇くんが嘘だと言っているのは、何? ▇▇▇くんは何がそんなに嫌なの?
何がそんなに、貴方を強く突き動かしているの? 激情を粧っているの?
いきなり肩を掴まれても、彼女は特段驚かない。今のフェリシアは抜け殻なのだから。しかしその顔には、植え付けられたような笑顔は消えていた。疑問が膨らんではその脳内を支配していく。
どうして、どうして?
どうして────?
どうして、ねぇどうして?
どうして、人のために動くの?
▇▇▇くん。
いや、違う。▇▇▇くんじゃない。
彼は、彼は“リヒト”くん、だ。
「リヒト、くん──────」
どうして?
「どうして、貴方がそんなに苦しそうなの?」
「そんなの」
「そんなの……分かんねえよ」
誰のためにとか。何のためにとか。この先のこととか。これまでのこととか。リヒトは元々、考えることが苦手だ。理由と理屈を筋道立てて考えて、言葉に繋げて声に出すのが苦手だ。コワれているから。
そっと掴んだ肩を離して、怪我をしたりしていないか確認して、落としたノートを拾い上げる。その間ずっと、星座未満のバラバラな言葉を何とか声に出している。
「分かりたいから、ずっと話してんだ。分かるまで、ノート見せたくないって思ったから、話してんだ。
一緒に分かりたいんだ、なんでこんなに苦しいのか、分からなきゃいけないんだ……たぶん。きっと」
コワれているから聞こえるんだ。コワれそうなものが聞こえるんだ。コワれて欲しくなかったから、コワれたこの手を伸ばすんだ。眩しい、眩しい、彼だけの星。もがいて足掻くさまですら、星の胎動のようにキレイに見えるから。
彼は答えを差し出せない。その代わりに、ひとりじゃないと教えることは出来た。この姿勢を誰に教えてもらったのか。その解答は、作り物の雨と淵が知っている。
安心させようと微笑んだ。笑顔の作り方は、すごく不服だけど、一番上手いやつに教わった。
立ち上がる強さと傷つく弱さ、どちらも抱えて歩いて行けると、そう教えてくれたのは────。
「なあ、フェリ」
どうして、がいっぱいあるのなら。
「もし、フェリも分かってなかったらさ、みんなと一緒に探そうぜ。なんで苦しいのか。なんで悲しいのか。なんで空っぽなのか……ほら」
新しい探検隊とか、作ってさ。
《Felicia》
「分かんない。…………そっか。
リヒトくんも、分かんないんだ。」
──そうだ、以前までの私なら、その答えを即答できていた。
どうして、こうも、自分を見失っているんだろう。
…………あれ?
どうして、どうして、どうして?
私は“それ”を知っている??
知ってる。知ってるし、それは、絶対に忘れちゃいけないことだった。信念だった。なのに、どうして、忘れていたんだろう。
夢から醒めたか思うと、違うマヤカシに入り浸って。それでもまだそこから手を伸ばしてくれている子がいる。
彼はきっと怖いだろう。
優しくも不安そうな笑顔が、明らかにそれを物語っていた。きっと無理をしている。
嗚呼、あぁ、アァ……。
「あすとれあちゃん……っ!」
アストレアちゃん。
アストレアちゃん。
アストレアちゃん。
!
私の、“唯一”の相棒。
彼女の名前をハッキリと口にしたその瞬間、流れ込んでくる情報量の多さにフェリシアは頭を抱えるだろう。彼女と過ごした幸せだった日々が、彼女の微笑みが、ホログラムとなって深く深く突き刺さる。苦しい。痛い。……さびしい。
「リヒトくんがひとりじゃなかったら、私も……ひとりじゃないんだ。だって、私にはリヒトくんがいるんだもんね。また大事なことを忘れて突っ走る癖が出ちゃった。」
苦しそうに呻きながら身体を丸めるフェリシア。苦しそうな声が止まったかと思うと、頭を抱えたその姿勢のまま、そんなことを呟くのだった。
彼女の中で、何かが弾けた。
いや、吹っ切れたという方が正しいのかもしれない。
「……辛い時こそ、ヒーロー根性だよね。探しに行こっか、リヒトくん! 悲しい気持ちも、事実も変わらない。変えられるのは未来だけだろうから。よし、よし、よし! どうにかなる!!」
勢いよく飛び出した威勢のいい言葉たち。しかしそれを発する少女の瞳は未だ光を見失っていた。
「お、おう。うん、そうだな! そうだよ、きっと」
大丈夫、かな。
……大丈夫、かなあ。
こんな時、オレがオレでなければ、きっと答えは出るはずなのに。ただただ、パッと顔を開けたフェリの、いつもの快活な声に押されるように、安堵が出てしまった。こんな時、オレが、オレでさえなければ。
「そ、したらどうしよっか。また探検隊……でも開かずの扉じゃなくなるから、名前、どう、しよっか」
…………大丈夫、だよな。
………………大丈夫、なのかな。
いつものヒーローのように戻ってくれたフェリを見て、よかった、というように微笑んで。それしか出来ないから。信じるしかないから。拾ったノートを開こうと思って、
「あ────、その、あの。ノート、これ、こっから、なんだけど……」
大丈夫だ、信じよう。
────そう、思っていたはずなのに、うっかり手が羽根ペンとインクに伸びて、あっという間にページを汚してしまった。気づいたら、もう、読めなくなった。慌てて蓋を閉めて、ああ酷い、読めなくなっちゃった。……どうして。
「あ、やべ! ごめん汚れてる…ここ何書いてたっけ……」
慌てて制服の袖でインクを拭うが、拭ったからむしろ汚れてしまう。そのまま、ページを開いて……あの、ガーデンの辺りからフェリに見せた。
どうして。どうしてだろう。もしかしたら、これを見せたら、フェリはほんとに大丈夫になってくれたかもしれないのに。どうしてだろう。こんなに、今のフェリは元気に見えるのに。
────どうして。
《Felicia》
「ありがとう、なんか元気でた!
とりあえずやれることからやっていかなきゃだよね!」
その言葉は、その声は、以前の彼女のものと特段差異は無かった。リヒトくんの安堵の表情に、フェリシアも口先だけでは無い笑みを添える。意識して作られた表情はにこやかで。それでいて寂しそうな微笑みだった。
苦しまされる事実に歯を立てて、貴方の少しだけ不安そうな顔には目を背けてみて。
「探検隊かぁ、どうしよっか!
トイボックス調査隊とか……。
あっ! 調査隊☆リヒト班とかどうだろう! 可愛くない!?」
大丈夫だよ、と訴えかけるように楽しげに戯れてみせる。
リヒト班にはストームと、ソフィアちゃんと、ブラザーくんやミュゲちゃんも……勿論、私やロゼちゃんもきっといる。オミクロン全員オドオドするリヒトくんの後ろを陽気な笑い声と一緒に着いていくんだろうな。
きっと、最高に楽しいんだろうな。
「おっノート……ってあはは!
もう、リヒトくんたらおっちょこちょいさんなんだから。」
うっかりさんな貴方に、つい今度はお腹から吹き出してしまった。さっきまであんなに真剣になって変になった私と一緒に歩んでくれようとしていたのに。緊張がひょうきんな音を立てて解けてしまう。
どこまでも一生懸命なリヒトくん。
どれだけ怖くても、手を伸ばしてくれるリヒトくん。
だけど、大事なところでインクを零しちゃう。
大声で笑い出してしまいそうなのを堪えるために身体を震わせながらノートを受け取った。
「ありがとう、見せてもらうね。」
ノートを開くと真っ先にガーデンの文字が。眉間に皺を寄せる。ページを捲る手は、文字を追うごとに速度を増すだろう。昇る感情を抑えつけ、情報を頭に入れることだけに集中する。
しかし、開かずの扉の情報が書かれているページを開いたときには思わず手が止まることだろう。
フェリシアは目を開く。暫く指先を震わせて、資料の文字に釘付けになることだろう。
───ひとしきり読み終えると、貴方と目を合わせて尋ねるだろう。
「見せてくれて、ありがとう。
その……なんか、凄いこと書かれてて感想が思いつかないんだけど、その前に。
ね、ねぇリヒトくん。
言いたくなかったら言わなくてもいいんだけど……所々ちぎられてるページがあるのは、書き損じて破ったから、なのかな?」
「な、リ、リ……ヒト班だけはどうにかならねえか!? オレに隊長は無理だって!! ……その、それで言うなら、フェリの方が適任だろ。なんたってタイチョーなんだし。
……トイボックス調査隊☆フェリシア班! これでどーだ!」
大層な響きにずいぶんとびっくりして、慌てて訂正を要請する。さすがに荷が重い、元プリマのソフィア姉やストーム、そうでなくてもまとめ役にピッタリなブラザーさんやロゼ……適任はこんなにいっぱいいるのに。
断固、訂正してもらわなければならない、とリヒトはコワれた頭を回して、彼の思う一番“タイチョーらしい”ドールを挙げた。思いついた、というような晴れやかな顔で。うん、これ以上無いくらいの回答だ。
……ちなみに、リヒトは『フェリシア班』の案から動くつもりは無いので、説得するなら時間がかかるかもしれない。
ひとしきり騒いで、今度こそノートを真剣に見つめるフェリの顔を見つめる。本当に大丈夫になってくれたようで、安心した。安心したから、怖くなった。今ここで『もう大丈夫だ』と手を離したら、一気にフェリが落ちてしまいそうで。傷だらけの小さなドールを、置いていってしまいそうで。みんなのタイチョーは、強がりで、弱虫だから、誰かが一緒にいてほしいんだけれど。
……物思いにふける途中、ふと飛び出た質問に、リヒトはすんなりと答えた。
「ああ、それ」
当然のように。
「うん、別に大したことじゃなくてな。ほら、さっきみたいな感じ。書き間違えて、慌てて袖で擦っちゃって……ボロボロになって読めなくなったり汚れたりしたら、もう、要らないだろ。そのページ」
うっかり汚してしまった袖にそっと手を触れて、リヒトは笑った。笑えた。笑ってみせた。さすがに見づらかったかな、と心配するように首をかしげて、言葉を続ける。
「だから、捨てた。あ、情報は別のページに写してるから大丈夫! 消さないように気をつけてる」
ぐっ、と親指を立てて、任せとけ、というようにリヒトは言った。成り行きで情報伝達用になったこのノートのことを、彼はだんだん自分の仕事として認識し始めているようだ。『あ、言い忘れてた。ここはストームが書いてくれたとこでな』と、ノートの中の綺麗な字のページを指して、つけ加えた。
《Felicia》
「どうにかって……良くない!?
可愛いじゃんリヒト班! ふぇ、フェリシア班はなんかこう! 字面がよろしくないから却下!! えーっと……じゃあトイボックス調査隊にしとこ! ねっ! そうしよ!!」
───いい案だと思ったのに。
フェリシアは大仰なリアクションを返した。リヒトくん中心の隊、楽しくなるのは間違いないんだけどなぁ。
そんなことを考えていると、リヒトくんによる次の攻撃が!!!!
フェリシア班なんてとんでもないと驚きつつ、いちゃもんを付けてバッサリ否定するのだった。
気持ちの良さそうな笑顔を浮かべるリヒトくんに対し、む! っと眉を釣り上げるフリをする。
小時間愉快な会話を繰り広げたあと、真面目な表情に戻ったフェリシアは再度ノートに視線を移す。
トイボックスについて、私が今まで知りえなかった情報。それら全てを物語を覚えるときのように、出来るだけナチュラルに頭に叩き込む。抜粋して、要約して、出来るだけ圧縮しながら、プログラムに刻み込んで行った。
「…………」
だから、至極当たり前の“ように”話す貴方の表情を確認することは出来なかった。いちど相手と目を合わせたものの、すぐにノートに集中してしまったから。リヒトくんの反応を見ることが出来たら、それが作ったものだと気づけたかもしれないのに。
「ぁっ、あぁ……そっか! ペンを扱うときは注意しなきゃだね!」
大体を把握しきれたとき、少女はやっと重たい頭を上げ、親指を突き出す貴方に笑いかけた。
貴方にノートのとあるページを指さされると、フォントの違う文字にやや呆れ顔を映して「確かに、彼らしい綺麗な字だね」なんて言葉を並べることだろう。
「っあ! そうそう。私もリヒトくんに伝えなきゃ行けないことがあったんだった。そうそう、あれだ。」
はっと閃いた。思い出した。彼に発信機のこと、伝えてなかったから。
「リヒトくん耳かーして?」
そうして貴方を手招きすることだろう。
「そういうこと。せっかくのノートをダメにしちまうからな」
それに、このノートはもう彼だけのものじゃなくなってしまったのだ。今や、トイボックスの情報の、どれだけのものか分からないが……大切な物が、ここに入っている。取り扱いには気をつけないと。……それでもまだ、なんだか、自分の分身のように見えて仕方がない気持ちもあるんだけど。
「……まあ、じゃあ。すっげ〜不服だけど、トイボックス調査隊ということで……ん?」
いいじゃん、フェリシア班。かわいいし、かっこいいし。と膨れながらも、フェリの言葉に改めて目を細めるリヒトがそこにいた。
トイボックス調査隊。“隊”なんだ。ひとりひとり、増えて、加わって、仲間になって。しょうがないなって笑ったり、やってやりましょうって意気込んだり、そういうドールズが増えて。クラスの別なんか関係なく、オミクロンでも、そうじゃなくても、彼らはみんなで、調査隊なのだ。
流星群を見たような気持ちになった。何処へ行くかも分からないまま、答えを探して駆け抜ける、眩い流星群を。あれ、そういや、オレ、さっき────。
そのとき、フェリがちょい、と手招きする。伝えなくちゃいけないこと、なんだろう。一片の疑いもなく、一瞬の躊躇いもなく、リヒトはフェリの方に首を傾け、耳を貸した。
「はーい?」
《Felicia》
「そうだね、重要なことがたくさん書かれてる訳だし……取り扱いには注意するんだよ? 先生には絶対に見られないように、ね。」
読んで気づいたのは、渡してくれたノートの重要性と、その恐ろしさ。これが見つかってしまったなら私たちは終わるだろうから。
真剣な眼差しをリヒトくんに向けると、「リヒトくんなら分かってることだと思うけど……」なんて釘を刺した。
「決まり! これからオミクロン……。
いや、他のクラスの子も仲間にしていかなきゃ! 多い方が絶対に楽しいもんね!!」
トイボックス調査隊──そういえば、開かずの扉のときも開かずの扉探検隊なるものがあったっけ。
規模の大きさは歴然だろう。だが行うことは分からない。誰も一人にせず、誰も置いていかない。
みんなで調査して、みんなで此処から逃げるんだ。
リヒトくんは笑っていた。
その笑顔の理由を、フェリシアは完全に理解できていない。だが、おそらくそれはどうでもいい。
大きな目的は彼と一緒で、私は、ヒーローなのだから。
フェリシアは貴方に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな小さな声で囁く。
「発信器は、右目」
短くそう言うと、貴方と目を合わせてぱちりとウインクさせることだろう。傍からみたら、内緒の面白話をしているように。
「じゃあ、またねリヒトくん!
調査隊メンバー、増やしていこ!」
立ち上がったフェリシアは、軽い足取りで昇降機の方へ向かうだろう。
フェリシアの念押しにしっかりと頷いて、耳打ちされる言葉に集中して……リヒトは思わずパチリと目を瞬かせた。振り返って、目が合って、反射的にもう一度、不格好に瞬かせた、右目。あれだけ探した発信機は、そんなところにあったらしい。
「お、おう! いつか、トイボックスくらいでっかくしような!」
内緒話も程々に、軽い足取りで去っていったフェリに大きく手を振って、ぽかんとしたまま、リヒトはまた、目をぱちぱちさせる。右目……右目。しっかり覚えて、ノートを開いて新しいページに書き込んだ。実感はあまり無いけれど、フェリが言うならきっとそうだ。
その途中で、少しだけ。少しだけの寄り道を。
(そういや、オレ、さっき。
“一緒に”って言ったなあ。
……疲れてんのかなあ)
一緒に。何度も言葉を反芻して、その度に気後れをしながら、それでもそれを望んでいた。ということに、今気づいた。
……まだ、リヒトには権利がない。彼はそう、確信している。一緒になんて大層で、あまりに眩しい、夢のような居場所に行く権利は。満点の星空の中、一際輝く一等星達のそば。両手を取り合って、星座のように夜空を照らす、そんな権利は、今は、まだ。
だから、と言うように、リヒトはページを捲った。さっきうっかり汚してしまった、ストームの美麗な字を……もう読めなくなったそれを、彼は覚えている。忘れるまで、覚えている。
『アティスはお披露目に行かない。
無事に戻ってくる可能性が高い』
「……よし」
────アストレアさんを、探そう。
顔も、声も、髪も、瞳も、何も分からなくても。もしかしたらあったかもしれないその人との日々を、もしかしたらあったかもしれないその人との言葉を、ひとつたりとも覚えていなくても。もしかしたら、戻ってきても、寮には帰れていないのかもしれない。学園の何処かで息を潜めているのかもしれない。だから、探すのだ。
アストレアさんは、きっと、今もずっと、みんなに必要な人だから。
……みんなの大切な人だから。
(これも、きっと……オレの“つぐない”だから)
「……と、言ったって」
(どこから探せばいいんだ────?)
リヒトの行動は、その大半が途方に暮れるところから始まる。やろうと思ったこと、したいと願ったことに対して、ちぎれかけたジャンクの回路はあまりに無力だ。でもとりあえずやるっきゃない。歩いて、探して、屈んで、覗いて、思考はその後ついてくる。
とにかく、お披露目に行ったのに戻ってこない……ということは、ステージの近くに居るはずだ。なにか、こう………よく言えないけど、隠し部屋みたいなものがあるのかも、しれない。
千里の道も一歩から、星を目指して飛び立つために地面を深く蹴るように、リヒトはノートを鞄にしまいこんで立ち上がり、とりあえずロビーを見て回る所から始めた。まるで、今日の授業はどこでやるんだっけ……と迷っているような素振りで。
このロビーはいつ見てもどこか薄暗い。窓が無いので採光は等間隔に設置された燭台の灯火のみ。火に浮かび上がるようにぼんやりと照らし出される通路は、壁も床も赤一色で統一され、気品は感じられど健全な学園らしい活発さは感じられまい。
行き交うドールズも俯いて教本を眺めているか、小難しい授業内容について談義しているか、あるいは足早に次の授業場所に向かっていくかのいずれかで、ロビーはドールズの交差する中央広間というには、嫌に閑静な空間であった。
(『決まりごと』は、いつもの。考査の結果は……あんまり、見たくねえな。)
例えば何か、こう、お披露目に関するお知らせとか。そんなに直接的なものは無いかあ、と思いながら、ちょっとだけ悔しそうに眉をひそめて、リヒトは掲示板に目を滑らせる。
その途中。目に映った文字列には馴染みがあって、馴染みがあったから考えたくなかった。無意識のささやかな拒絶に反して、理性は明確な違和感を警鐘する。後ろから襟をくっと引かれるように、意識も、動きも、思考も、全てが一時停止する。
(────え?)
うっかり、驚きも動揺も声に出さないようにぐっと飲み込んで。掲示板から1歩、2歩、と離れて、今度は暇な時間をつぶしているフリをして、のんびりと掲示板を見つめてみる。……もちろん、注視するのは一点だけ。
『青い色の蝶を見かけたドールへ』という、気がかりな一枚だ。
ロビーの中央までやってくると、掲示板が目に入るだろう。可愛らしく切り抜かれた木製の花や太陽などの装飾で子供向けに彩られている。
掲示板にはドールズの為に日々様々な掲示がされている。定期的に実施される試験の結果や、お披露目に関する重要な連絡事項など……基本的には先生方がドールズへ知らせるための掲示物ばかりなのだが。
見覚えのない一文から始まるこの掲示について、あなたは心当たりがあった。
『青い色の蝶を見かけたドールへ』──いかにも意味深な表題である。
呼び掛けの体をなしているというのに、真っ白な紙にはほとんど連絡らしき文章は綴られていない。クレヨンの落書きのような粗雑な筆使いで、無数の青い蝶の絵が描かれている。クレヨンの滲んだ線で形成されたイラストはお世辞にも上手とは言い難い。
おびただしいほどの蝶の中央には、掠れた文字で『ほのおにみをなげろ』の一文が残されていた。
明らかに先生方が残したものとは思えない。一体誰がこんな張り紙をしたのだろうか……?
“ほのおにみをなげろ”
「っ!」
気づいた時には首に手が掛かっていたような、そんな恐慌に一瞬、息を飲んで、後ずさる。目線をバッと下ろして、すんでのところで悲鳴を押えた。
誰かにそう言われたわけじゃない。誰かにそう詰られた訳じゃない。誰かにそう咎められた訳じゃない。誰かにそう責められた訳じゃない。それでも確かに呼吸を削り取る、その強迫を罪と呼ぶ。
(嫌だ。嫌に決まってる。だって、あそこは)
でも。
もし、そこに、みんなが求める“アストレアさん“が居たら。長いようで短い、それでも確かに時間が経ったから見えてくる、僅かな可能性。
リヒトは塔の中の構造を覚えている訳じゃない。その先に部屋があるのかもしれない。もしかしたらあそこで終わりかもしれないけれど、そうじゃないかもしれない。彼に可能性を精査する頭は無い、ただ、価値の分からない『かもしれない』が乱立する。
そうだ、それに彼は、青い蝶についても多くを知らないのだ。これが何なのか。何をしたくてここに来て、何をしたくて何処かに行くのか。何をしたくて、あれは、ずっと、リヒトの前に現れるのか。そして。
「……なんでもない、なんでもない」
ぼーっとしてましたよ、というふうに独り言をつぶやいてリヒトは辺りを見渡し……誰も居なくなったタイミングを見計らって、目の前の紙を取る。紙の欠片が掲示板に残っていないかも確認したあと、それをカバンに入れて、今度はテーセラモデルの控え室の方へ向かう。落ち着くように、落ち着くように、自分に言い聞かせながら、高鳴る心拍に合わせて足を動かして。……だって、紙が言うことがほんとなら、自分の行くべき先は。
あなたが踏み込んだ控え室。目の前には瞳を灼くような綺羅綺羅しい豪奢な空間が広がっている。
壁には、色とりどりのドレスやタキシードなどの正装がハンガーに掛けられて並んでいた。化粧台が三つほど並んでおり、あなた方はこの場所でお披露目の支度を入念に整えるのだ。
控え室の奥には、トゥリアドールズのための控え室へ続く扉が取り付けられているのが見えた。
きらきらしい輝きも、噎せ返るような瀟洒も、張り巡らされた絢爛も、出来損ないが息を飲むには十分すぎるジュエリーボックスで。不釣り合いに欠けたトパーズは、一瞬呆気に取られた後、首を振って部屋を調べ始める。結局全ては他人事、そう言いたげに口を噤む宝物には、今だけお目こぼしを願おう。
「よし」
控え室のどこかに、きっと別の場所への…………何か、こう。隠し通路的なものが、ある。んじゃないか。その向こうに居るんじゃないか。という、なんともまあぼんやりとした推論の元、リヒトは絢爛豪華な布の海をかき分けて歩く。五感を研ぎ澄ませながら、風の動きや変な音を聞き逃さないように……。
「ん?……んー?」
ふと、ウォークインクローゼットを歩く途中。リヒトは小さな違和感に気がついて、進んだ道を二三歩戻り、その棚に目を向けた。物珍しい置き物の数々は総じて、くすんだ灰色のベールを被っていたが……ひとつだけ。ひとつだけ、埃を被っていない小箱がある。ちょっとだけ、と言い訳しながら、リヒトはその箱に手をかけ……持ち上げようとしたり、軽く振ったり、顔を近づけたりして……躊躇いの後に、そっと開いてみた。
ウォークインクロゼットの奥に、大きな棚が聳えている。棚には衣装類ではない物珍しい置き物などがひしめいているが、ドールは殆どが誰も見向きもしないため、埃を被り始めている。
その中央に、埃を被っていない小箱が置かれているのをあなたは見つけた。
小箱といってもあなたの小さな手には余ってしまうような大きさで、また、細長い形状をしていた。
壮麗な金細工を施されており、この箱だけはジュエリーボックスのような控え室の内装に見劣りしていない。
箱はずっしりと重たく感じたが、振った時には内部で存外軽い音がする。軽い板状のものが小箱の内壁にぶつかって、カランコロンと音を立てているようにあなたの優れた耳は聞き取った。
箱を開けようにも、残念ながら鍵が掛かっているらしく、開かない。開けるための鍵らしきものも、周辺には見当たらなかった。
「なんだ、これ」
くるくる小箱を回しては、開かないことに眉をひそめて。またノートに書いておこう、と心に決めて、しっかり元に戻した。もしかしたらネックレスが入ってるのかもしれないが、同時に何か、リヒトの計り知れないものである可能性もある。とかく世界は、彼なんかじゃ掴みきれないほど広く、深く、薄暗いのだ。
「……えっ」
もっと奥、もっと奥。紗をかき分けてゆっくり探って行った先に、その惨状は存在した。まさか、またあの、アリスってやつが。あの時みたいに、あの時、みたいに……落とし穴に落ちたような、感覚。気にしない。それが誰かは。誰だったかは。
一つ息をして、目を閉じて開いて。ドレスに添えられたネームプレートを確認する。前回のお披露目を越えてなお、このドレスが処分されていないことに、何か理由があるのか……と、彼が思い至ったかどうかは、定かでは無いが。せめてそのドレスの主が、ひどく落ち込んでいないことを思っていたのは確かだった。
あなたが部屋を見渡していると、ウォークインクローゼットの奥に隠されるように、グチャグチャに引き裂かれたドレスが落ちていた。
そしてそのそばには、ドレスには必ずあてがわれる持ち主の名前が刻まれたネームプレートが落ちている。
あなたはそれを拾い上げ、名を確認するならば。
そこには『Dorothy』という名が刻まれていた。
あなたはドロシーを知っている。以前、テーセラクラスに在籍していた時に同級生だった、少女型のテーセラモデルである。一時はプリマたるストームに並ぶほど優秀で、物覚えもいいドールであったが、ある時を境に豹変し、狂人のような振る舞いをし始めたのを覚えている。
このドレスの惨状も、彼女の手によるものなのだろうか。
「どろ、しー……?」
一瞬の動揺を凪ぐように、彼女なら確かにやりかねない、という感想が広がる。そして、あんまりに自分は何も見えていなかったんだな、という感想も。ずっと、随分と、本当に随分と、狭い視界で生きていた。ドロシーのことも見えていたけど、まるで見えていないフリをして、二元論に帰着した価値観の中でもがいていた。コワれたものと、コワれていないものは、明確で悲しいほどに隔絶されていると、思っていたから。思っているから。
だから彼はもう一度、考えてみる。思い出してみる。ドロシーが変わってしまった時のことを。……何かの手がかりかもしれないから、手当たり次第に。
「何が、あったんだ」
問うても答えが無いと言うことは、それはつまり。彼が今だに彼女の視座にすら届かない、霧中に居るということに他ならない。
可能な限りこれが見つからないように、と。引き裂かれたドレスをネームプレートと共にもうちょっとだけ奥に押しやって、リヒトはウォークインクローゼットの外に向かって泳ぎ出す。
「……あれ、ここ、そんなに暗かったっけ?」
並んだ紗の中からそっと顔を出し、今度は見えた視界の端。リヒトはおっかなびっくり自分が出てきたドレスの位置を直しながら、考えた。ここはそんなに暗かったか?……わざわざ、灯りを持ち出すほど。そんなはずは無い、よなあ、とコワれた思考は回りだす。だって、ステージはそれこそきらきらに明るいはずなのだ。この控え室だって、並ぶ服たちの煌めきによってずいぶんと見やすい気がする。だから余計、気になって……
部屋の隅の、二つ並んだランタンの方に歩み寄った。
あなたはテーセラクラスだった頃にあった、ドロシーの人となりを洗いざらい思い返そうとする。彼女は基本的に快活で明るく、そして僅かに負けず嫌いなきらいがあった。テーセラクラス内の成績優秀者であったストームやバーナードによく食らいつき、成績を見て一喜一憂するような、ごく普通の一般的なドールであった。
忌憚無く物事を口にする所もあった。特にトイボックスのシステムや外の世界、仕えるべきヒトについての興味関心は尽きず、よく先生に付き纏って質問を繰り返していたのを覚えている。
テーセラクラスは、競争の激しいデュオクラスと違い温和な性格のドールが多い。クラス内での交友の輪は広く、穏やかで過ごしやすい環境であった。故にドロシーはあなたとも分け隔てなく親しげに接し、遊びには全力で付き合ってもらっていたのを覚えている。……むしろあなたの方が振り回されていたような気もした。
彼女が豹変した時期については不明瞭だ。彼女はある朝突然に『おかしくなった』。よく分からない譫言を呟き、どこでもない虚空を見上げることが増えた。結局あなたはそのままオミクロンクラスに堕ちることとなり、彼女があれからどうしているのか、見掛ける機会も無かった。
つまるところ、原因は分からない。ただし何か異変があったのだろうことは容易に察せられる。
そしてあなたが目を向けた衣装部屋の片隅。そこには何故かランタンが二つ身を寄せ合っていた。
どうやらランタンは電気式らしく、スイッチのオンオフ切替で実に簡単にあかりを灯すことが出来る。
何故こんな場所にランタンが放置されているのかは分からない。しかしこの明かりがあれば、暗所であっても問題なく見通せそうだと感じる。しかし現在のあなたには用がない代物でもあろう。
「……まあ、あって困るもんでもないのか……」
だから、ちゃんと書いとこう。変なラクガキ、小箱のこと、ランタンの仕組みや置いている場所……控え室にしゃがみこんでいつも通りに書き込みをしていたら、もうすぐ授業の時間である。残りの控え室と、それからダンスホールを見に行きたかったけど、日常は回らなければならない。これ以上なく自然に、間違いなくいつも通りに。だからリヒトは可能な限り控え室を戻して、その場を後にした。
“ほのおにみをなげろ”
これが、罪で、罰で、つぐないなのなら。あの日振り返らなかった後悔を、つぐなうときが来たということなのだろうか。あの空っぽの鉄籠の中に、赦しを乞う時が来るということなのだろうか。……それは、すごく、当たり前のことのように、思えた。
「“つぐない”、だからな」
《Odilia》
「えーっと……リヒトお兄ちゃんは何処にいるんだろう?」
そんな独り言を吐きながら少女、探してる存在を求め、前あった場所に来ていた。
少女は悩みながらもいるであろう場所を探す。
少女の目的は探してる存在、リヒトお兄ちゃんに情報を提供すること、そして聞きたいことがあるからそれを聞くこと、それとジゼル先生と遊ぼうと頼みたい、それが目的だ。
そんな森の中で太陽のように明るいオレンジ色の髪のお兄ちゃんを見つけ駆け出す。
「リヒトお兄ちゃーん!!」
そんな明るい声はきっとまだ気づいていないであろう貴方にも聞こえてくるだろう。
少女は駆ける、オレンジ色の髪のドールに向かって、まるで草原を駆ける狼のように。
「ぅ、おっ!」
ちょうど、授業を終えて。森の向こう側をぼうっと見つめていた時。さっと風が呼んできて、振り返ったその先に。ころころと丸い真っ白な彼女が、こっちに走ってきた。とん、と受け止めて、そっと笑って。
「よお、オディー! ……オレの言ったこと、覚えてるか?」
やりたいことをやっていい、したいことをしていい。自分で言っては見たけれど、現実は躊躇うことばかりだ。それでも、ころんと丸い狼のオディーに合わせて、しゃがんで目線を合わせる。
一応、オディーはテーセラの妹分で。リヒトはテーセラの先輩分でもあるので。可愛いオディーが、アリスのせいでひどい目にあったとか、そういうことがないかも気になるので。
話を聞く体勢を整えながら、リヒトはオディーに尋ねた。
《Odilia》
「覚えてるよ! でも……」
やりたいことをやっていい、お兄ちゃんはそう言ってくれた。そう言ってくれたからこそ、オディーはアリスちゃんに思いを伝えた。
でも結果は空回り。
「伝えたんだよ……伝えた……アリスちゃんの友達だよって……。
アリスちゃんにはその思いが正しく伝わらなかったみたいで……」
アストレアお姉ちゃんを傷つけろ、と命令されたことは伏せておく。余計なこじれ方をしそうだったから。
いやちゃんと伝えればこじれないのかもだけれど、オディーには伝える勇気がなかった。オディーはみんなに嫌われたくないから、このままの仲の良い関係でいたいから。
その方がみんな笑顔だし幸せだろうし、オディーもそれで嬉しいから。
「あとあと! 他にもいっぱい情報集めてきた!」
いちばん重要なのはこっちだろう。オディーはお兄ちゃんやお姉ちゃん達の力になりたい、みんなに貢献したい。
オディーの情報が少しでも役に立つならそれで十分だ。みんなのように器用じゃないオディーができる精一杯の努力だ。
それにリヒトお兄ちゃんならちゃんと有効活用してくれると思う。他のお兄ちゃんお姉ちゃんにも伝わると思う。そうすればみんながここを出れるようになる、そしたらオディーも嬉しいのだ。
「……まあ、そういうこともあるさ」
空回り、空回り、くるくる回って走って結局、何も残せない悔しさ。リヒトは知っている。何かしてやりたい。何か言葉を返してあげたい。……オディーの“やりたいこと”の相手がまあ、あのアリスなのは若干……いやかなり……気まずくはあるけれど。
「どうすりゃいいか、俺には言えないし、アドバイスとかも出来ないけれど。でも、オディーの傍には居れるから! だから、さ。……たっぷり休んで、またチャレンジしてみようぜ」
だから、せめて声に出して伝える、精一杯の年上仕草。何もいい案なんか思いつかなくて、何もいいアドバイスが出来なくて。それはちょっと苦しくて。でも、何も出来ないからできる、ここに居るよ、のエールだ。迷って迷って迷いながら、オディーの目を見つめて話す。
そして、情報いっぱい集めてきた、と自慢げなオディーに、リヒトは目をきらりと見開いた。
「OK、そしたら……」
持ってきたカバンの中からいそいそとノートを取りだして、開く。寮の方をちらりと見遣りながら、その場にあぐらをかいて、長い話になるなら座ろう、という流れを作って。持ってきた羽ペンをピン、と立ててマイクのように見立て、リヒトは首を傾げて言った。
「話を聞きましょうか、オディー調査員?」
《Odilia》
「調査員!!」
リヒトお兄ちゃんに言われた言葉に目を輝かせる。
調査員ってことはちゃんと仲間になれたってことだよね、とそう考える。
ちゃんと調べる仲間に入れて貰えた、それだけでオディーは嬉しい。
「じゃあリヒト隊長にちゃんと報告しないとだね。オディーはね、ダンスホールと控え室全部と三階を調べたの!」
そのことを簡潔に分かりやすく不器用ながらまとめていく。
ダンスホールの幕は降りており、客席の奥には開けれない大きな扉があること。
控え室にはドロシーお姉ちゃんのドレスがあって破かれてたこと。 カフェテリアでカラフルなチラシを見かけたこと。 ガーデンテラスのガラスの向こう側から変な機械音が聞こえたこと。
重要になりそうな大きなこのくらいだろうか。
「あ、あと……なんか調査中にね、頭が痛くなっていろいろと思い出しちゃったんだけど、お兄ちゃんは何か知ってる? それに……その記憶のようなものの中に、リヒトお兄ちゃんが出てきたの。
本当の記憶なら、オディーはリヒトお兄ちゃんに前から会ってることになるのかな?
何か知らない? お兄ちゃん。」
ここから出ることに関係あるのかは分からないが、オディーは気になっていた。この現象はなんなのか、どうしてリヒトお兄ちゃんがオディーの頭の中に出てきたのか。本当か偽物か分からない曖昧な記憶だが、もしかしたらリヒトお兄ちゃんなら知ってるかもしれないと貴方を頼るだろう。
「オレは隊長じゃない!! えーっと……そう、隊長はフェリ、フェリシア!! そしてオレたちは“トイボックス調査隊”な。センセーたちには秘密の調査隊だ」
隊長、なんて呼ばれた瞬間に間髪入れずに否定する。とりあえず、オレに隊長なんか出来ないことは確実だ。その一線だけは守らないと行けない。
うんうん、と頷きながら、控え室全部と言われた時には驚いて、たくさんの調査報告にひとつひとつ反応を返しながら聞いていく。妹分はどうにも、眩しく真っ直ぐに、この箱庭の調査を進めているらしい。その底抜けの明るさを眩しく思いながら、報告を聞いているうちに……ペンを持つ手が、ピタリと止まった。
「……え、オレが? な、何やってたの?!」
ぽかん、と口を開いて一言。
なんで、オレが?
「と、とにかく、ええと。それは多分……『擬似記憶の、見えていないところ』だと、思う。上手く言えないけど、きっと、本物だ。ドールズの擬似記憶にはオレたちの知らない部分があって。それで、頭が痛くなって、それを思いだすことがあるらしい……ってのは、アメリアから聞いた」
気を取り直して、もう一回内容を精査して、以前教えられたことについて、オディーにも共有した。詳しくはアメリアに聞いた方がいい、ということも。
それから、躊躇いがちに、心配そうに、それ以上に……うっすらと恐怖すら見える眼差しで、リヒトはオディーに尋ねる。少し、声が震えている。
「……その、大丈夫か? オディー、頭が痛かったり、胸が痛かったり、青い蝶々を見つけたり……何か、忘れたり……して、ないか?」
《Odilia》
「フェリシアお姉ちゃんの方が隊長なの?
わかった! じゃあリヒトお兄ちゃんは隊員だね!
トイボックス調査隊……フェリシアお姉ちゃんとリヒトお兄ちゃんとオディー達だけの秘密の調査隊。わかった、先生にはお口チャックだね」
秘密だということをわかったことの証明に、口の前にシーっと指を立てる。
またひとつ秘密が増えた、これはいい秘密。
みんなを助けるための秘密、先生にはごめんなさいだけれど、オディーみんなの力になりたいから秘密にするね。
と思いを心に秘める。
「え、リヒトお兄ちゃんがやってたこと?
えっと……確か転んでたよ、オディーは車椅子に座ってて、その視界の端で」
何となく覚えていることを話す。
いつもの通り花冠を被ったオレンジ色の綺麗な髪のお兄ちゃんがいた事を。
でもそこで終わってる。
その後のことは出てこなかった。
「擬似記憶の見えないところ……。
アメリアお姉ちゃんが知ってるんだね、会ったら聞いてみるね!」
どうやら本当の記憶らしい、頭が痛くなって知らないところが思い出される。
オディーが体験したことと同じことだ。詳しくはお兄ちゃんも知らないのかもしれない、またアメリアお姉ちゃんに会えたら聞いてみよう。
「え? 頭は思い出す時に痛くなったけれど……ほかは大丈夫だよ?
青い蝶々も見かけてないし、ちゃんとオディーみんなのこと覚えてるから大丈夫!」
元気に明るく、健康で大丈夫だと心配そうに恐怖心を抱えてるお兄ちゃんに言うだろう。
今ん所そういうことは無い。もしかしたら他のお兄ちゃんお姉ちゃん達はそうなってるのかもしれない。目の前にいるリヒトお兄ちゃんも、もしかしたら……。
「えっと……リヒトお兄ちゃん、大丈夫だよ、そんなに怖がらなくても……」
そうなにかに恐怖する貴方に優しく声をかけるだろう。
どうか少しでも恐怖が消えますように。
「いいか、オディー。たぶん……たぶんな」
優しく掛けてくれたその声を、掴んでしっかり立ち上がるように、リヒトはしっかり息を吸って、言葉を紡ぐ。
「オディーが思い出したのは、大切なことだ。大切だから思い出したんだ、大切だから、思い出せたんだ。……だから、さ」
自分の、擬似記憶のスキマを。今だけでいいから思い返す。
もう帰ってくるか分からない、文字だけになった記憶たちを思う。このコワれた頭がこれから失う、全てを想って、
約束だ、オディー。
「もう二度と、無くすんじゃないぞ」
『そうしてくれたら、オレ、もう何にも怖くないや』なんて言って、あの時と同じように、自分の頬をむにっと押し上げて、笑顔を作った。
そして息を吸って、次はオレの番だな、と明るい声で言って、長い話を始める。
まず、トイボックスから脱出するのが、きっと、みんなの目的であること。
トイボックス自体が、丸ごと海に沈んだ施設であること。
不思議な青い蝶が、時々トイボックスの中で見つかっていること。
『ガーデン』という不思議な施設について、ロゼットが調べていたこと。
オミクロンは何かの実験に巻き込まれていること。
ドールズには、センセーがドールズを探すための発信機がついていて……それは右目の中にあること。
他のドールズも色々調べているから、他の子にも話を聞くこと。
……それから、この全てを、センセーたちには秘密にすること。最後にしーっ、と人差し指を立てて、リヒトは念を押した。
《Odilia》
「大切なこと……宝物……」
思い出したものは大切なもの、お姉ちゃんとの記憶。
赤くて綺麗な髪のお姉ちゃん、オディーは大好きだ。
大切な大切な宝物。
「わかった……! 絶対に手放さないし手放したくもない!
絶対無くさない!」
お姉ちゃんとの記憶はどんな宝物よりも価値があって、どんな宝石よりも輝いている真っ赤な記憶。
あんなことがあるまで忘れていた記憶。もう手放しはしない、だって赤い糸のように強くて、運命のように鮮明に残る記憶だから。
絶対に忘れるなってことだと思うから。
リヒトお兄ちゃんが無くすなって言ってくれたおかげで、再度思いを固める。
「海……沈んでるの?」
実感が湧かなかった。
こんなに太陽の日差しがあるのに沈んでるなんておかしいと思う。
朝、昼、夜。ちゃんとあるのに沈んでるの?
まるであの汽車と同じように訳が分からない謎技術だ。
「発信機、オディー達のいるところ筒抜けってこと!?
た、多分オディー変なことしてないから大丈夫だと思うけど……お兄ちゃんもあんまり無茶しないでね。」
筒抜けならおそらく森の奥にあった柵を超えると気づかれるのだろう。
度が過ぎた行動は全部良くない方向へ倒れていく。
先生に見つかったら脱出なんて困難にも程がある。
それに何されるか分からない、お披露目に行かされるかもしれない。
リヒトお兄ちゃんが行っちゃったら、
オディーはどうすればいいのだろう。
本当に無茶だけはして欲しくない、リヒトお兄ちゃんだけでなくみんな。
「あとはガーデンって施設がある……っと、ガーデンテラスみたいにお花いっぱいなのかな?
オディーは今の所そういうのは見かけてない。
みんなも色々と調べてるんだね、オディー会ったらお話いっぱいするね!
あ、先生にはもちろん秘密にするよ、大丈夫、信じて!」
そういうと指で口角をあげ笑顔を作り証明するだろう。
大事なことを飲み込むように、ちゃんと抱えて離さないように。オディーの瞳は赤く煌めく記憶を抱いて話さない。ああ、だから、きっとオレは、何処までも行かなきゃいけないんだ。
「信じるよ、でも、オディーも無茶しないこと。おーけー?」
『発信機は、何とか出来ないかみんなに聞いてみるよ』と付け加えて、オディーに言葉を返す。無茶しないで欲しいのは、こっちもだ。こっちもなんだ。
オディーの、擬似記憶のスキマ。そこに自分がいるって、どういうことだろう。そもそも、擬似記憶のスキマは、オレたちにとって何なんだろう。急に、急に思い出がこっちに来たのは何でだろう。……どうして、オレは、オレだけは、忘れてしまうんだろう。
────コワれてるからか。
「よーし、そしたら、宝探しだ。この場所について徹底的に調べて、いつか外に出るぞ……トイボックス調査隊、えいえい、おー!」
切り替えるためにパッと声を出して、リヒトはノートとペンを仕舞う。そして、掛け声に合わせてえい、と拳を前に突き出して、グータッチの構えをした。トイボックス調査隊は絶対、諦めないのだ。
《Odilia》
「オディー無茶しない! オディーにはみんなとお外で踊るって夢ができたから、無理のない範囲で頑張る!」
オディーはディアお兄ちゃんとロゼットお姉ちゃんと話して踊って、やっぱりみんなと踊りたいと再確認出来た。
そのためにはここを出なければならない。
とはいえ無茶をするとオディーがお披露目会に選ばれちゃう。それだけは絶対にダメ!
オディーは絶対に無茶しない。
「発信機の方は頑張って! オディーも色々頑張ってみるね!」
おっけーと指で作り証明する。
「オディーもみんなと頑張る! えいえいおー!!」
オディーもリヒトお兄ちゃんの真似をし、リヒトお兄ちゃんの拳に合わせるように前に拳を出す。
リヒトお兄ちゃんに一旦報告もできたし状況も整理出来た、他に伝えることはないだろうか……。
「あ、そういえばジゼル先生とお話したんだけどね、一緒に遊んでくれるって!
オディーみんなを集めてるんだけど良かったらみんなにも伝えてね!
あ、あとリヒトお兄ちゃん、通信室ってわかる?」
そういえば伝え忘れてたことと聞き忘れていたこと、遊びのことと通信室のこと。
片方はまぁどっちでも構わないが、もう片方。通信室のことはリヒトお兄ちゃんは知らないだろうか……そう思い聞いてみる。
「よろしい、さすがオディー。みんなの妹分」
えいえいおー! と拳をあわせて、悲壮な現実に立ち向かう。どれだけ暗い場所でも明るいオディーは、まるできらきらひかる北極星のようだった。それはとても眩しくて、とても輝いていて、あまりに善良なものだから……嫉妬にも劣等感にも付け入る隙を与えない、純粋な好意がリヒトを満たす。たとえ直ぐに、掻き消えてしまうとしても。
「……通信室?」
遊びについて了解したあとに、オディーが付け加えた言葉。リヒトはその部屋を知らなかった。もちろん、訳の分からない部屋はこのトイボックスに少なからずあるが……そのうちの一つなのだろうか。寮の物置、開かずの扉、思い当たる節は沢山あった。リヒトは首を傾げて、推測交じりに尋ねてみる。
「つうしん、って言うとなんか、ピー、ガー…みたいな。知らねえなあ……オディーは場所を知ってるの?」
《Odilia》
「ん……デイビッド先生がね、ジゼル先生にそこの鍵を渡してたの。
そんなやりとりが聞こえちゃったの。だから気になっちゃって……」
そうジゼル先生と話してる時に聞いてしまった。
それはサラも知ってるけど、多分自分しか調べようとは思わないかもしれない。
そのためリヒトお兄ちゃんなら何か知ってるかと思ったが、宛は外れてしまった。
「リヒトお兄ちゃんでも分からないか……なんか先生達が話してたから重要なことかもしれないの、場所が分かれば調べようがあるんだけどね……」
とはいえ今調べてもきっと鍵は開いてないだろうけれど、盗むとしても先生をどうにかしなきゃいけないだろうし。
無謀な挑戦だ、とはいえ場所位は知る価値はあるかもしれない。
「オディーは場所が分からないの、他のみんなにも聞いてみるけど……なんか分かったらリヒトお兄ちゃん教えてね。」
「…………待って!」
センセーがわざわざ引き継ぎで渡すなら、通信室はきっと学園のものじゃない。センセーが管理してる、寮のものだ。寮の部屋なら、一個だけ、何に使うか分からない扉を彼は知っている。思い付きの勢いそのままにリヒトは口を開いた。
「これはヒミツの話なんだけどな……先生の部屋には、本棚の裏に隠し扉があるんだ。元々、先生が『物置』って言ってた、二階の先生の部屋、その隣のナゾの空間……そこがもしかしたら、ほんとは、ほんとは、通信室なのかも! しれ、な、い……」
しかし、途中から声はしりすぼみになっていく。そもそも、通信室の名前と、ちょっとした自分の知識で話しているだけなのだ。証拠も何も無い。何よりリヒトはコワれているから、自分の言葉が正しいと思えない。かわいい妹分の前でさえ。
「……まあ、かもしれない……ってだけだけど………」
目線を逸らして、頭をかいてそう付け加える。筋金入りの自己肯定感の低さは、いつだって彼から心の強さを盗みとる。それでもなけなしのプライドが、このままカッコ悪いのはいやだ、と足掻いた。
「うん、よし。まだまだオレたちだけじゃなんにも分かんないな。色んなやつと話したり、色んなところ探したりしようぜ。そして、また今日みたいに話そう。調査ホーコク会だ!」
な! と話して、リヒトはまた微笑んだ。このまま、オディーが新しい遊び仲間探しに走っていくなら、彼もまた大きく手を振って、その背中を見送るだろう。些細な日常を、明るい彼の一等星を、そっと両手で摘むように。
《Odilia》
「先生の部屋に……」
確証はない。でも、情報がない今これが一番答えに近い部屋かもしれない。
謎の空間、謎の部屋、オディーやきっとお兄ちゃんお姉ちゃんも見たことない通信室。
かもしれなくても重要な情報だ。
オディーは先生の部屋に入ったことがない、本棚の裏に隠し扉があることも知らなかった。
けれどもきっとオディーひとりじゃいけないだろう。というより行ったら多分見つかるし、秘密ってことは隠したいものだろうし、発信機の話もある。あまり迂闊に行動するとオディーもお披露目に行っちゃうことになる。
それはきっと……お兄ちゃんお姉ちゃんが悲しむことだからダメだ。
けれどもお兄ちゃんお姉ちゃんも同じ危険に巻き込むのもどうかと思ってしまう。
ここら辺は後で考えよう。
確証はないのだから、確実性は無いのだから。
それにリヒトお兄ちゃんも少し心配だ、オディーがお披露目に行くことになったらまたリヒトお兄ちゃんが変わっちゃうかもしれない、それにソフィアお姉ちゃんやウェンディお姉ちゃんもきっと……。
そういうのを最悪な事態というのだろう、それだけは絶対に回避したいと心に決める。
「お兄ちゃんありがとうね! でもオディーは危ないことはしないから安心して、確実にそこが通信室ってことがわかるまでは多分行くことはないから。
頑張って他のところを調査してまた報告会する!
今日はね、学園の二階を調査しようかなって思ってるの!
オディーに何か用があったらそこら辺探せば多分オディーがいると思う、いなかったらごめんだけど……」
じゃあ行ってきますといい、手を大きく振りながら学園の方へ向かってくだろう。
アストレアさんが、もし、隠れているなら。姿を出せないなら。きっとその人は学園内にいて、寮には居ないんだろう、という推測はある。コワれていてもトイボックスのドール。そのくらいなら、途切れ掛けの回路も回る。
なら何故、彼がまだ寮に居るかと言うと……。
「エルさんの棺に、るーとぜろ」
そう。もうずっと昔のことのように思える、あの湖畔でストームから言われたことを、青い蝶の繋がりで思い出したからだった。新しい記憶として刻まれた、青い天使さま、出会った時のその人の頭上には……青い蝶が、飛んでいたから。
るーとぜろ、青い蝶、そしてエルさん。リヒトにとってそれは星でしかないが、他の誰かなら、頭のコワれていない誰かなら、そこに星座を見いだせるはずだ。例えば、そう……『ドールの救い』とか。
すっかり書き忘れていた事にゾッとしながら、自分の役目を、ノートの価値を再確認して……リヒトは忘れ物をしたという素振りで、少年たちの部屋に向かった。
あなたがたが今朝も就寝し、起床した生活空間だ。暗いゴシックレース柄の壁とふかふかのカーペットが敷き詰められている……が、部屋の大部分を占めているのは重厚な棺桶型のベッドである。
現在、オミクロンクラスの男子の人数は5名。ベッドは余裕があるようにと十個分、二段に積み重なったりしているが、その半分は空っぽという状態である。
部屋の入り口から左手には大きなワードローブが置かれており、皆の制服がきっちりと収められていることを知っている。
(…………え)
どっか行くんじゃなかったの、と、小さな悲鳴が喉奥で弾け、結局声に出さなかった。足取りが絡め取られるようにゆっくりになって、呼吸が少し早くなる。二人きりになることだけは、なるべく避けようとしていたのに。
逃げることも退くことも隠すことも、部屋に入ってしまった今となっては許されない。そのくらい分かる、コワれていても。だからリヒトは深呼吸をひとつ、息を整えて歩き出した。自然に。自然に。いつも通りに。
そして、傍らにポツンと落ちていた鍵を拾い上げて、
「センセー、鍵落ちてる」
チョコレート色の死神の背中に、そう声をかけた。
「シーツ引いてんの? ……オレになんか手伝えること、ある?」
役目をちょうだい。仕事をちょうだい。自分の存在理由を確かめるために、割れたコップに水を注いで。いつも通りに、いつも通りに。オレに意味を与えてちょうだい。
あの夜から何度も息を飲んで乗り越えた死線がまた、プログラムの呼吸を絡めとって、歯車の食い違った思考回路に恐怖の油を流し込む。
さあ、笑って。いつも通りに。いつか来るお披露目を待つだけの、蜘蛛の巣にかかった蝶のように。
あなたが踏み込んだボーイズドール専用の寝室の奥には、デイビッド先生の後ろ姿があった。多くのドールにとっては頼もしい父の背中であり、……あなたにとっては、不吉な予兆を告げる雨雲を背負った黒い背中だった。
彼はどうやら、あなた方のベッド内部のシーツを整えてくれているようだった。そんな先生の傍らの床には、おそらくベッドに取り付けられているものであろう南京錠が落ちて転がっている。
あなたがそれを拾い上げて、声を掛けるならば。彼はすぐに振り返り、物凄く優しい笑顔を浮かべる。毎朝、あなたを揺り起こす微笑みだ。穏やかな日暮れを見上げているような笑顔だ。
「──リヒト、拾ってくれてありがとう。気付かなかったよ……よく気付いてくれたね。」
彼はそっとその手をそちらへ差し出す。あなたが鍵を手に載せてくれるならば、元通りに南京錠を取り付け直すことだろう。
彼が触れていた棺、──それはあなたの記憶が確かなら、いつもエルが使っているものだった。棺の中には清潔なシーツが敷かれており、皺一つ見られない。
「手伝えることか、そうだね……だったら一つお願いしようかな。」
先生は少し悩んだ後に、あなたの瞳を覗き込む。
「今朝来たばかりのウェンディに、怪我の具合はどうかと確かめてきてくれないかな。彼女は不慮の事故で負傷してしまったんだ。処置はきちんとしてあるけれど、傷は深くて自然には治らない。
もし痛みがあるようなら薬を用意してあげないと。……頼めるかい?」
(え)
先生に鍵を渡しに棺に近づいた際、ようやく思い出す。幾度となくあったはずの朝と夜に、何遍もあったはずのささやかな日常に、その人はその棺に収まっていた。そこは紛れもなく、躊躇いもなく、彼にとって空隙になった。それが焦燥の答えだった。
(……エル、さ……ん、の)
喉の奥でぐっと言葉を飲み込んで、無知で無防備なジャンクのままに、リヒトはセンセーに鍵を渡した。ストームの話からすれば、そこには“るーとぜろ”が書いてある。センセーがそこにシーツを張ったなら、蓋の裏はもちろん見えていたはずで。なら、この人は……トイボックスは一体、“るーとぜろ”をどう思うのだろう。
張り巡らされた巣の中で、もがく素振りひとつ見せてしまえば……音も無く来る。あの炎が。だから、どれだけ先の見えない恐怖の中でも、どれだけ宛先すら分からない不安の中でも、軽快に笑わなければ。
「りょーかい、オレに任せて! ……わ、忘れ物、見つけたあとで!」
幸い、笑うのは上手かった。だからぐっと胸を叩いて、そっと目線をずらして、ちょっと照れたように、おどけたように付け加えて、ころころと回る道化見習い、リヒトはその場を立ち回る。
そのままふらっとクローゼットの方に寄って、ちょいと整えるつもりで中を見てみた。クローゼットの扉や、しゃがんだ自分の背を陰にして、ぐちゃっと纏まっていない部分がセンセーから見えなくなるようにして。
「……ありがとう、リヒト。君は優しい子だね。」
親の愛情を乞い腕を伸ばすことしか出来ない赤子のように、ただただ役割を求める姿はどうにも切実で、そしてそれは彼という承認されたいドールの常であっただろう。故に先生はあなたへと役割と仕事を与え、快く引き受けられれば安堵したように微笑を浮かべた。
あなたはとても上手くやっている。先生はきっと、あなたの違和になど気が付いていない。その微笑みの端が僅かに引き攣っていたとしても、彼はまたエルのシーツを整える作業に戻ったので悟られることはないはずだ。
あなたが鍵を手渡すために彼に歩み寄った時、その棺の蓋の様子が視界に入るだろう。
そこには無数に√0という謎の単語が記されていたはずなのだが、それらの痕跡は跡形もなく消え失せていた。……棺を入れ替えられたのだろうか?
ワードローブの木の扉は現在、中途半端に開け放されたままになっていた。きちんと開いて中を確認すると、いつも通りにきっかりと皺を伸ばされた綺麗な状態の制服が何着もハンガーに下げられている。
その、足元にある予備の革靴やブーツなどの群れが一部、引き倒されてごちゃついているのを発見した。
その指先が倒されたブーツの位置を整え、戻していくうち、あなたは気が付くだろう。
他のドールの靴に埋もれて、手遅れな程にズタズタに引き裂かれた靴とブーツを発見してしまったのだった。何やら恨みを感じるほどの徹底ぶりである。
一体誰が、何故、こんな真似をしたのだろうか。
ストームが間違えるなんて、そんなこと滅多にない。基本的に無いと思って、それに何より、信じている。オレより出来るやつで、オレよりすごいやつで、オレよりキレイなやつなんだから。
だからきっと、棺を取っかえたんだと思うけど……それにしたって、取っかえるなら蓋の裏くらい見るはずで。ならますます、“るーとぜろ”をセンセーが知らないわけがない。トイボックスの暗闇に浮かぶ小さな星々は、燦然と煌めきながらただ、リヒトを惑わすだけだった。
謎に足を取られながら、さっき気にかかったワードローブを開けた先。惨状は、薄皮一枚破った向こうでいつも彼らを待っている。それでも、平静を、息をひとつ、ふたつ。リヒトはいつも通り声を出した。
「ありゃ」
(……どう、すればいいだろう)
戻すべきか? 直すべきか? センセーに言ったら綺麗にしてくれるかも? でももしこれが何かの合図だったら? るーとぜろとか? それをコワしたりセンセーに教えたりしていいのか? ここで黙る方がむしろ怪しくないか? でもコワれたままなのは辛くないか? もし誰かの悪いイタズラだったら? 気に病むんじゃないか? だけどこれで何かして悪い方向に転んだら? また足を引っ張ったら? また迷惑をかけたら?
(……どうも、出来ないか、オレには)
誰か、答えを。
「ここにも無いか……んじゃ、行ってきます!」
リヒトは軽くそう言って、結局そっと元の位置にワードローブの扉を戻して、ぱっと少年たちの部屋を出ていった。振り返りもせず。
リヒトは、まだ答えに辿り着けない。コワれているから。だから、今、その役目はアメリアや、ストーム、フェリや、ソフィア姉に回っていた。
そして、その前は、きっとセンセーがそうしてくれていた。
迷った時にどうすべきか。困った時にどう考えるべきか。教えてもらっただろうに、どうにも、上手く頭が回らない。学びのほとんど全てを落っことしてしまう、自分の欠落に嫌になって……
……まだちょっとだけ、信じたいよ。信じたかったよ。きっともう、コワれちゃったけど。
今朝も全員で一緒に朝食を取ったばかりであるこの空間は、今は閑散としている。長い机が二つに、人数分の椅子。特に席順は決まっていないが、皆それとなくいつも同じ席に着くことがお決まりだった。
また、先生は皆の顔が見られる一番手前側の席にいつも腰掛けている。
部屋の奥には柱時計が置かれている。今も滞りなくカチコチと時を刻んでいるようだ。
ダイニングルームをひょいと覗いて、人影がないことを確認する。朝の端切れを繕ったような賑やかさは既に無く、リヒトはふっと息をつく。
「……ん、居ない」
手持ち無沙汰に、それ以上に、さっきの緊張から解き放たれ、一人であることに安堵して。無人のダイニングルームをぺちぺちと歩き回りながら、ぼうっと、妙に目に入る絵画を見つめていた。
学園を探して、見つける。
見つけたものを、伝える。
何か頼まれたら、叶える。
望まれたものを、望まれた通りに。
……それ以外のことは、考えなくていい。考えないほうがいい。そう決めている。リヒトは出来損ないなのだから、考えずに言われた通り動けばいい。可能性も、もしかしたらも、恐怖も、希望も、二の次で。
────そう、割り切れたら楽なんだけど。中途半端に揺れる心に嘆息した。
兎にも角にも、体を動かそう。作り物の体を動かせば、借り物の心が少しは紛れる。リヒトはいつもそうやって、体で心を動かしている。
「次!」
そして、次の足場が業火に包まれるまで、リヒトは進む、引かれるように。
ダイニングの壁には、いくつも絵画が掛けられている。食事中、幼い年齢設計のドールズが退屈しないようにか、色彩豊かで見ていて楽しいものを選んでいるように見える。
絵画はいつものように整然と並べられているが、あなたはふと疑問に思う。この絵画の出所はどこなのだろう。ここで描いたのだろうか、それとも外部から寄贈されたものなのだろうか?
何気なく見遣った絵画の右下には、おそらくは描いた人物の名が書き記されていたように見える。だがその全てが黒く塗り潰されており、一体誰が描いたのか分からないようになっていた。
あなたがおもむろに周囲を見渡せば、ダイニングルームに飾られた絵画はほとんど同じように黒塗りにされた箇所が存在するようだ。
ふと、ダイニングルームを去ろうとしたあなたの視界に、一つの絵画が留まった。
それはバスケットに収まった鮮やかな黄色いマリーゴールドだ。繊細な筆使いで描かれた水彩画であり、淡い色合いでありながらも見るものの目を不思議と惹きつける瑞々しい魅力がある。
あなたはこのマリーゴールドに強烈な既視感を覚えるだろう。しかしいつ、どこでこれを見た?
その時あなたのこめかみが僅かに痺れた。この感覚だけは刻みついて離れない。
求めるならば、あなたは記憶を取り戻すことが出来るだろう。だが、それはあなたにとって望まない結果を引き起こすかもしれない。
くっ、と後ろ髪を引かれるような。柔らかくて懐かしく、温かくて心地よい……恐怖が、彼を縫い止める。それはサプライズプレゼントの前の目隠しのように、リヒトの視界を塞ぐのだ。祝福を与えてあげる、と微笑むように。
「……ひ、っ…………」
不格好に息を飲む。一気に体温が下がったような気がして、コアの音がうるさい。反射的に、何も見ないように下を向いて、足元を見つめた。マリーゴールドの淡く鮮やかな誘惑を、見ないように。足元には何も無い。自分の足と床しか見えない。何も無い。何も見えないから、いたくない。
見たくない。逃げたい。動けない。でも、知りたい。どうすればいいっていうんだ。結局オレはコワれてるから、手がかりなんて何も無い。だったらこれに縋るしかない。大切だったら思い出せるんだろ。大切だったら思い出せるんだろ。大切だったら思い出せるんだろ。だったら、“これ”でも何でも使って、失ったものを思い出すしかないじゃないか。それしか出来ないじゃないか。
アストレアさんを、見つけたいなら。
────何も出来ないままじゃ置いていかれるって分かれよ、出来損ない。
「………は、っ………はぁっ……」
弱さと迷いと自分可愛さで、コワれた体は固まった。軽く、浅い呼吸。責め立てられるように、視界が狭くなる。結局、一歩も前に進めないまま、絡み取られて動かない足を見つめる。
そして。
(……嫌だ)
ざり、と後ずさる音。右足が後ろにずるりと引かれて、リヒトは焦った。心の何処かが嫌がっていて、心の何処かが見たがっている。納得して動かした自分の体に、自分が一番困惑している。もうぐちゃぐちゃだ、何も分からない。
(……嫌だよ)
ずり、と左足が後ろに動く。また恐慌のように喘ぐ。全て自分の意思であった。ぎちぎち音を立てそうなくらい、抗いながらもゆっくりと、リヒトは俯いていた顔を上げた。マリーゴールドが、設計された瞳に映り込む。何もしたくなかった。何も見たくなかった。何も忘れたくなかった。何も失いたくなかった。
(……嫌だってば)
でも、さ。
動き回って何か見つける以外に、お前に出来ることあるの?
決心も固まらないままに、乱暴を受けた少年みたいな顔で色鮮やかなマリーゴールドを直視したあなたの目の前で。
また、見覚えのある青い蝶が舞う。輝き放つ鱗粉を周囲に振り撒きながら、物言わぬ蝶はひらひら揺らめいて、あなたの頭にぴと、とあしをまとわり付かせた。
次の瞬間だった。
あなたの脳裏がバチンと弾けるような音がして、その衝撃は神経へ響いていく。激しい頭痛と眩暈、その身を支配されるような覚束無い感覚。
もはや逸らすことも出来ずに絵画を凝視するあなたの双眸は、青白く輝いていた。蝶の翅が持つ抜けるようなブルーと同じに。
長い回顧の果てに戻ってきた此処が、何処か。しばらく分からなくて、ぼんやりしていた。思い出したように痛み出すまえに、呟きは零れる。
「ら、ぷん………つぇる」
あんなに、あんなに大切な言葉をくれたのに。あんなに優しくしてくれたのに。手を握ってくれたのに。リヒトは、あの時、目の前で彼を見送った。その先に殺戮しかない、正真正銘の地獄に見送った。笑顔で。
罪が重なる。オレのせいになって、また、助かれなくなっていく。
「ラプンツェル、って、名前だったんだな」
……ああ、分かってる。うるさいぐらいにぎぃぎぃ痛むなよ、分かってる。また、また何か無くした。忘れたんだろ。思い出せないけど。それくらい分かる。分かってる。もう何度、何度繰り返したと思ってる。こんな愚かで馬鹿な自傷行為を。
リヒトはグッと喉を詰まらせて、自分の膝を抱き寄せて蹲った。いつの間にか寄りかかっていた壁に背を預けて、呻きながら痛みに耐えて。ノートの中に書きなぐりながら、ひとりぼっちで呟いた。酷く当然で、それでもずっと、言いたくなかったこと。
つまり、“今のリヒト”はもう、一緒に助かることが出来ないなんてこと。
「オレは、コワれた、出来損ない」
「これから、コワれる、不要品」
既に、もう、いくつだ? 数え切れない。これからも、どうせ、こんな風に無くしていくんだろう。取りこぼしていくのだろう。コワれていくのだろう。そのくらい、コワれた頭でだって分かる。無くして、無くして、無くした先に居るのは、それはもうきっと、忘れる前のリヒトとは全然違うから。ぐしゃ、と手でかき混ぜた頭に、出来損ないの花冠が乗っていた。今、コワれた。花びらが散った。
思い出した記憶の中の、病衣のリヒトがそっと、今のリヒトを覗き込むように。ひょっと伸びた背で、大きな手で、リヒトを包み込むように現れる。そんな幻想を思う。首に掛けられていたカードも知っている。カードキー、揺れるウェスタリア、第404治験管理室……博士。
「……だから」
がっ、と顔を上げて。背中合わせだったリヒトは、病衣のリヒトを突き飛ばした。そんな風に勢いよく立ち上がった。最大限の敵意と悪意を持って、完全に完璧な笑顔で。お前の終わりはどうせこんなもんだ。みっともなく死んだんだ。きっと治りやしなかった。あの白い部屋で終わったんだ。全部に置いていかれたんだ。そしてこんな、ジャンクになって。ざまあみろ、出来損ない、生まれ損ない。
なんか、
なんだか、可笑しい。
ほんっとに、可笑しい。
なんで笑えるのか、もう分かんない。はは、あはは、あはは! あっははは! おっかしい!!
「もう、いらない!」
言い切った、瞬間。
起動してから今までで、
一番、すっきりした。
「よーし、次は何処行こうかな」
いらないから、走り出せる。どうでもいいなら、これ以上どうコワれたって、どうでもいい。どうせみんなもオレのことなんて要らないだろうし、だったらオレだってどうだっていい。何したってどこ調べたって怪しまれたってコワされたってどうだっていい。つぐないの果てにコワれたって、いい。どうせ誰も許してくれないし。
リヒト・トイボックスはふらりと歩き出した。ガチャガチャ、外れた部品をぴょんぴょん跳ねさせた、オンボロのポップなマーチのように。目的地は特にない、やりたいことも特にない、緩やかなスーサイド・ステップで。
《Campanella》
陽光の降り注ぐ、穏やかな昼間だ。土は少し湿っていて、雨が降ったあとの匂いがする。しかしもうじきに乾くだろう。時は何をも待たず流れていくのだから。時さえも偽物に思える、この箱庭であれども。
寮の周辺に存在する森。今は外での授業などは特にやっていないらしい、いつも体力育成か何かでテーセラのドールたちが駆け回っている印象の強い森は、比較的静かである。
そんな中で、カンパネラは歌っていた。
「Memory……All alone in the moonlight……I can smile at the old days,I was beautiful then……」
泣き疲れた少女が嗚咽の代わりに紡ぐのは、月明かりの下、ある老いぼれた娼婦猫の歌った歌である。悲しく、寂しい歌声は、彼女の周囲を夜にする。
光の下へと手を引いてくれるあの子は、いない。どう足掻いても。温もりを求めて、木陰に佇んでいたって。
「……I remember.The time I knew what happiness was……」
大木に背を預け、眠れないのに目を閉じる、彼女は無惨な燕の死骸のようである。夢見を恐れるようになった少女の目元はどす黒い。冷ややかな相貌に影を落とす髪が、静かに風に揺れている。その手の中にはあの木箱がある。
ずっとずっと持ち歩いているのだ。もう、なくさないように。
奪われないために。
「Let the memory……、」
そこまで歌えばふと、木漏れ日が頬を差した。カンパネラの耳が足音を拾う。ぱち、と青い目が開かれて、首を軽くひねり、彼女はそっと視線を送るだろう。嵐の後みたいな、疲れ果てた顔で。
「……リヒト、さん」
……live again.
彼は、続く歌詞を知らない。だから、月夜に放り投げられたように中途半端に消えてしまった歌声を名残惜しく思って、それだけだった。彼らは、この歌の続きを歌えない。それが、彼らの罪で、罰で、きっとつぐないでもあるのだろう。
「ん、カンパネラ」
思い出が還っては去っていく、一人と一人と天鵞絨の座席。
リヒトがそっと腰を下ろしたのは、彼女から一人分空けた、同じ巨木の根元だった。この距離感は変わらない。離れる気もなければ、近づく気もない。ただ、ほんとうのさいわいへ向けて走っているのだと信じて、座っているだけだ。
彼女は、贈り物を抱いて目を閉じていた。疲れ果てた顔で、嵐の中で、もう何も無くさないように全てを拒んでいた。上手く言葉が掛けられなくて、せめて気を逸らす何かがあればいいと願った。そのために出来ることは何だろう。オレに出来ることは何だろう。オレなんかに。
鞄の中で、ノートが揺れる。
「……そうだ、この前、見せ忘れてた、って思ったんだ。もう誰かから聞いたことあるかも、しんないけどさ!」
とにかく、このトイボックスは複雑で、数多の過去が絡まりあって解けなくなっている。絡まった糸を解くことなんて出来ないから、絡まった糸がそこにあることだけはせめて、カンパネラにも伝えたかった。もしかしたら、カンパネラの役に立てるかもしれない。大丈夫、それなら出来る。
彼は鞄からいつものノートを取り出して、閉じたまま、柔らかな草地にそっと乗せる。カンパネラが望むなら、それは彼女の手が届く距離だ。木漏れ日が揺れていた。
「……オレは、つぐない、頑張ってるよ。上手く出来てる自信はないけど」
これはひとりごと。
届かなくって、いいよ。
《Campanella》
彼が座った途端、カンパネラは列車の乗客になった。それは償いの旅なのか、明るい場所を目指す旅なのか。行き先はやっぱり分からない。彼にならば、分かるのだろうか。
かたくなった目が眩しさに負けて、細められたり、閉じたりする。クレヨンで塗りたくったような隈が消える時は、果たしてくるだろうか。
「…………」
そっと隣に置かれたノート。使い込まれているというか、色々と中に書いてあるんだろうなということが、そのトゥリアドールには一目で窺える。
つぐない。つぐないかぁ。カンパネラは至極ゆったりと頭を傾けて、しばらくノートを眺めた。返答のない空白の時間は、リヒトを少々不安がらせてしまうかもしれなかった。
無言のままに持ち上げられた腕が、戸惑うように、躊躇うように宙をふらつく。迷いの動作であることは明白だった。
迷って。困って。悩んで。
「………わたしも。……がんばってるし、……がんばります、よ」
にこ、とぼんやり笑って、ノートに手を伸ばした。つぐないなんて言葉を出されてしまったら、カンパネラは応えないわけにはいかない。
わたしたちは、同じ罪を背負った隣人なのだから。
それからしばらく、カンパネラはノートに目を通していた。ぱらぱら、ぱらぱらと音がする。よく読み込んでいる様子の割に少しページを捲る速度がはやいのは、その中に吐露されたリヒトの心の柔らかなところに、あまり乱暴に踏み込まないためだった。途中で「ここは読んでほしくない」と意思表示をされたなら、カンパネラは何の文句も言わず応じるだろう。
“るーとぜろ”。レコードと怪物。ミシェラ。炎。柵の向こう。アストレア。ぐちゃぐちゃで読めない、きっと、読んではいけないところ。
……シャーロット。ああ、彼女のこと、伝わってたんだなぁ……。ページを捲る手はそこで一旦止まって、それで、また続けようとして。
「第三の、壁」
思ったより大きな声が出てしまった。カンパネラの少し血走った目が、揺れる。どくんと心臓が脈打ったのを感じた。
壁。第三の壁。何を意味するのかは分からない。でもその言葉をカンパネラは知っている。聞いたことが、ある。
演奏室の落書き。ドロシーが書いたらしい。カンパネラがその時に、あ、逃げられない……と悟ったような顔をしたのを、リヒトは見ていただろうか。
ほどなくして読むのを再開する。
……巨人。青い蝶。機械。
つぐない。
発信機。ガーデン、涙の園。開かずの扉の向こう。実験。控え室の小箱。ドレス。疑似記憶のズキズキ。通信室、エルの棺、靴。
……と、ここまで真剣な面持ちでノートの中身を読み進めてきたカンパネラの顔が、段々とふにゃふにゃしてくる。頭の上にいくつものクエスチョンマークが浮かんでいる。
青い蝶。思い出したこと。ラプンツェル? ちけん……治験? 大きくて、病院で、トイボックスじゃなくて、四番ルームで? 博士、オディーリアさんとフェリシアさんが、いて………????
「……あ、ありがと、ございま………?」
目をぐるぐるさせながら、カンパネラはノートをまた側に置くだろう。リヒトの手が届く場所だ。
混乱している、というのは声色だけで十分伝わったことだろう。ここに記されていた衝撃の事実はだいたいカンパネラも知っていて、リヒトにとってもよく分からないであろうことばかり、カンパネラも分からない。ひぃ、ふぅ、と走りでもしたかのように息をついて、膝の上のオルゴールに手のひらを重ね、何かを言おうと頭を動かす。
「………えっと……なんか、たくさん、ご存じなんですね………が、がんばってる、ね。すごく。リヒトさんは……」
こんなにたくさんメモがされていると言うことは、理由の方は知らないが、きっとトイボックスの真実を追い求めている証拠なのだろう。そしてその真実の欠片たちを、カンパネラに提示してくれた。何か礼になりそうなことを言わなくてはならない。
あ、う、と言葉に詰まりながら、なんとか声を絞り出した。
「あ、あの………えっと、あの。さ、最後のページの……『Garden of tears』って、やつ。わた、わたし、……見たこと、あります。ここの湖に落っこちちゃったとき、その、機械が。見えて。……そ、そこに、彫ってありました。
……こことは、どういう関係なんだろ………」
掠れて読めなかった言葉は、ロゼットの話によって補完された。Garden of tears……涙の園。聞いたことのない、如何にも意味深長なワードである。何かのヒントになるかは分からないが、ひとまず伝えた。それの続きの言葉はどうにも編み出せない様子である。
ノートを手に取ってくれた、その姿を見て。混乱している、と全身から分かるような、ふらふらの姿を見て。ちょっとだけ後悔したのは秘密だ。気分転換にしては少々……荒療治だったかもしれない。
「……わかんない」
涙の園計画と、トイボックスの関係について。コワれたジャンクには分からない。分かるものなんてそんなに無い。まして、これからコワれていくものに分かるものなんて。
カンパネラが教えてくれたことに関しては、ぱっと顔を上げて応えた。
「だけど、助かる。そんなものあったんだな……ありがと、書いとくよ!
……ノート、長くってごめんな、実はオレも、この中に書いてあること、ほとんど何なのか分かってなくて……」
気分転換になったかな、いや、こんな内容じゃ無理だったかな。ぽつぽつと、花弁が閉じるように内に向き始めた、独り言が続く。
「でも、集めていくうちに、きっとオレじゃない誰かが気づいてくれる。オレじゃない誰かが、繋がりに気づいてくれたり、する。オレじゃない誰かなら、きっと。
そして、それが、何かの助けになるかもしれない。ここから出ることでも……過去を思い出すことでも、なんでも。……だからオレ、そのためなら、がむしゃらに……頑張ってみようかなーって。それが……つぐない、かなって。自信ないけど」
そう言った割に、リヒトの声は随分と真っ直ぐ響いていた。少なくとも、かつて学習室で交わした言葉よりは迷いなく、戸惑わず、躊躇いなく。隣人のために届ける言葉だ、慎重に選んではいるものの……震えは無かった。言葉一つに恐怖していた、迷って迷って塞ぎ込んでいた、あの出来損ないは何処に行った?
彼は明るかった、随分と。顔を上げて、梢を見上げている。木漏れ日は星のようにチラチラと揺れて、リヒトの顔に星空を落としていた。石炭袋が見えているのだろうか。そらの孔が見えているのだろうか。見上げている。彼は明るかった、随分と。
「オレが、頑張ってるからさ。だからさ。……カンパネラ、つらいことあったら……その。休んでいいよ。つぐないも、ちょっとなら……休んでいいと、思うし、あ、子守唄、歌うか、オレが! …………いや、ダメか……」
結局、ノートを見せるだけじゃ、やっぱり足りないと思ったのか。リヒトは探り探り、いくつか言葉を付け加えては、やっぱり取り下げた。隣人との間に合いた一人分の空白が埋まることは、きっとない。だけど、リヒトはどうしたってカンパネラの、クレヨンを塗りたくったような隈が気になるらしい。ふらりとここに立ち寄った理由で、距離を見誤ってまで、言葉を重ねた理由だ。
つまり、心配なのだ。
《Campanella》
きらきら、きらきらと光っている。オレンジ色のきれいな星が。ぴかぴかと頭上で光っている。カンパネラはずっとそれを見上げていた。彼女はやっぱり、まだ暗闇の中にいた。
「………うん。すごく……素敵だと、思います」
言葉の震えがないことに、ちょっと失礼だって分かっていても驚いてしまう。同じ傷を負っているはずなのに。どうしてこうも違うのだろうか。
強いなぁ、と思った。何故だか、少し心配にもなった。
「……あり、がとう。……ふふ。歌って、くださるの?」
持ち上げていた身体から、また力を抜く。再びとん、と背中を木に預ける。力なく微笑む彼女はやはり死骸のようであり、それでも、先程より表情は明らかに明るかった。
慰めようとしてくれている。あたためようとしてくれている。純粋に、それが嬉しかった。
───ねえ。あなたなんかがこんなに穏やかな気持ちになって、良いと思ってる?
それは、誰でもない彼女自身の声である。
視線を落とす。カンパネラはオルゴールの上蓋を開いて、中の天使像の頭を指の腹で撫でる。無意味な動作にも見えただろう。実際、大した意味はそこにはなかった。口を開く。
「……お歌の前に、ひとつ、聞いてもいいですか?」
オルゴールを見つめて、時を止めてしまうかのように、そのからくりを作動させないまま。
カンパネラは、問う。彼女の願いに関わることについて。
「もし……もし、今はもういなくって、ほんとなら会えるはずがなくて……それでも、それでも大好きなひとに、もう一度、会えるかもしれなかったら。でもそのために、たくさん、怖いことに……立ち向かわなくちゃいけないかも、しれなかったら。
……あなたは、どうする?」
「…………わかん、ない」
リヒトは、言葉を詰まらせた。『あなた』と問われた時、一瞬、誰のことか分からなかった。分かったとしても、分からなかった。要らないからゴミ袋に包んでしまって、今どんな顔をしているのか、それすら見えない。
迷って、迷って、迷って、
迷って、迷って、迷って、
そして、答えることを諦めた。
「わかん……ない。
オレの、オレのこと、は」
でも、別にどうだっていいよな、これ。オレがどうしようが、何しようが、みんな気づかないだろうし。興味無いはずだし。結局、立ち向かったって、オレがコワれて全部終わって、そこでどうでもよくなるから。
『(会いたいよ……!!)』
どうでもいいよ、絶対。
「……もし、もしもの話な。カンパネラがそうしたいなら、それで一人で大変なら、オレはずっとここにいる。居るだけで何にもできないかもしんないけど、置いてったりしないから。それに、みんながいる。なんでも出来るみんなが、いる」
だから、大事なのは貴方の意志だった。選択肢を狭めないように、追い詰めないように、もしもの話だと前置きしてから、リヒトは言葉を紡ぐ。星と、星を繋げた星座のはしごが、暗い夜を包んで物語に変えるように。ひとりぼっちの月のない夜に、貴方を独りにしない為に。
「大丈夫、オミクロンは、ひとりじゃない。だから、辛くて、嫌で、何も見たくなくて目を瞑ってても大丈夫。……オレこれ、みんなに言ってるんだけど、あんまり聞いて貰えてる自信ねえんだよな……」
《Campanella》
分からない、か。
少し心がざらついたのを感じて、それを静かに振り払った。答えないことを選んだのなら、それを尊重するべきだ。踏み荒らしたくないし、そんな権利はない。思い上がっちゃだめだ。
カンパネラに寄り添う、リヒトの言葉は優しい。傷つけぬように、包み込めるようにと選ばれた言葉であることがよく分かる。
行かないで。一人は嫌だ。そんなカンパネラの叫びに応じるように声は降り注ぐ。置いていかない、一人にしない。その柔らかな星明かりにくるまって眠ってしまえたなら、どれだけ楽になれることだろう。
けど。
「……きっと、一人じゃないことはみんな、ちゃんと分かるし、分かってるんだと思うんです。それを……自分自身が許せない、だけで。
リヒトさんの声はたぶん、ちゃんと、届いてるんです。優しさとか、心配、とかも。
ただ……そ、そのひとが、自分が孤独じゃないこととか、目を塞いでも、許されてしまうこととか……そういうことが怖かったり、認められない……とか……。……そのひと自身が……自分が、楽になることを許せない、とか。」
だから大丈夫、という訳ではないのだろうけど。その言葉がどうにも届かないように思えてしまうのはリヒトの力不足ではなく、言われる側の個々の問題なのだと、そういうことを伝えたかった。回りくどくなってしまったのはそれこそカンパネラの力不足であるが…。
「……少なくとも、わたしは、そう。許されないんだ、許されないんだって言って……わたしは、わたしが楽になることを、許せないの」
「…………そっか」
カンパネラの言葉を取りこぼさないように、目を閉じて聞く。それは遠回しで、どこまでも選び抜かれた優しさだった。届いている、と言われたらほっとしたように俯いて、楽になるのを許せない、という言葉にはそっと、自分の両手を握りしめた。音楽のようだった。子守唄のようだった。コワれていても、伝わった。伝わったよ、ちゃんと。
「みんな、“つぐない”なんだ」
心の中に罪を抱えていて、罰が欲しくて傷いたり、傷つけたりして、そして、傷だらけの体でつぐなっていくのだろう。知ってしまったボロボロの事実を、ナイフのように振りかざしながら、自分の心に突き立てるのだ。
赦されるといいと思った。
(誰に? 何に?)
それは、分からない。
それでも、この純粋で無垢で、ただ美しいだけであったドールたちが、どうか赦されますように。目の前の惑うカンパニュラの花も、どうか、許して赦されますように。
みんなの命が、いつか、
赦されますように。
「いつか、許せるといいな。
カンパネラも、みんなも」
リヒトは強く指を絡めて握った自分の両手を、そのままこつんと額に当てた。そのためになら、燃え尽きてもいいと思った。ほのおのなかにみをなげても、いいと思った。どうせもうコワれるだけなのだから、どこまででもいけるとおもった。
自分を棄てて、諦めて、ようやく本当の意味でみんなに向き合えたような気がして。リヒトは気恥しさや申し訳なさを飲み込むように、話を少し前に戻す。機能不全の記憶領域から、自信があるのか無いのか分からないくらいの楽譜を思い出して、そっと息を吸って、声を、乗せる。
「あめー、じんぐ、ぐれいす。はう、すいー……ざ、さうんど。ざー、せいど、れーっちど、らいく、みー…………だったっけ?」
潰れた地声の、乱雑な歌声。声は伸びやかで、でも緊張して震えていて、発展途上だ。途中で本当に気恥ずかしくなったのか、中途半端なところで切って、分かっているのに確認した。落ち着いて居られない、と言うように、片手間にノートを回収してカバンに突っ込みながら……そっと、カンパネラの方を見上げる。
《Campanella》
みんなみんな、償っている。そう思うとしっくり来た。もしそのひとが何の悪行をしていなくとも、傷付いた理由がほしくて自分を罪人にしてしまう。そしてその罪を晴らすため、許されるために、みんな踠いているのかもしれない。
踠けば踠くほど、肺から空気がなくなって、海の底に落ちていく。それを、彼ら彼女らは償いだと思っているのかもしれない。
「…………そう、だね」
許せないだろうな。一生。
カンパネラの原動力は怒りである。彼女の大切なものを蔑ろにしたトイボックスへの。その次に……すべて忘れて、なかったことにして、それでも生きていられてしまった自分への。カンパネラの心の安寧は、生きていてもいいのだという透明な実感は、あの日向にしか存在し得なかったのに。
ずっと怒り続けることって、相当つらい。心をずっと削って責め続けて、何かを大嫌いで居続けることは悲しいことだということをカンパネラは知っている。対象が自分自身であれば尚更だ。けれどこの怒りを手放してしまったら、カンパネラはきっと。
それをそのまま彼に告げるのは、ひどく残酷なことだ。だからカンパネラは頷いて、共に祈った。みんなが許せるようになりますように。そして、あなたのつぐないに果てがありますように。
あなたが、あなたをやめませんように。
「……合ってますよ。……続けて………」
Amazing grace……賛美歌だ。カンパネラも歌ったことがある。美しい曲だ。神に赦しを乞い、そして赦された者が、神に感謝の祈りを捧ぐ歌。
確かにその声はまだ拙かった。けれどカンパネラはそっと視線を返すと、心地良さそうに目を閉じて、身体から力を抜きながら歌の続きを乞うた。片手でオルゴールを胸に抱えて、もう片手を放り出す。リヒトとの間の空白に。
目を閉じたカンパネラを見て、とうとう意を決したように、リヒトも姿勢を正して遠くを見る。軽く息を吸って、目を閉じて、
歌は続く。
「あーい、わーんす、わーずろすと……ばーっと、なーう、あい、しぃ」
見捨てられていたけれど、いつか見つかりますように。何も見えなかったけれど、いつか見えますように。空っぽになった心に願いをたくさん詰め込んで、ちょっと恥ずかしいくらいのカッコつけで、くすぐったい気持ちを抱えたまま、みんなのほんとうのさいわいを祈ろう。
燃える、星のように。
「……オレ、カンパネラのこと、手伝うよ。なんか知りたいこととか、見つけたこととか、あったらまた、知らせに行くよ。テーセラだから、丈夫だから、きっとすぐ行けるよ、どこでも」
鞄を片手で手繰り寄せて、その中のノートと、それから破いた心の欠片ごと、大切に抱きしめた。そして、同じように、もう片手を放り出した。カンパネラとの間の空白に。
歌は続く。
「あめー、じんぐ、ぐれいす。はう、すいー……ざ、さうんど。ざー、せいど、れーっちど、らいく、みー……」
ここのワンフレーズしか覚えていなかったのか、曲はまた始まりに戻る。彼が未だに追い求めている、驚くべき祝福を語る歌。美しく儚い夢を何度だって再生し直すように、リヒトは歌う。きっとレコードが擦り切れるまで。体が燃え尽きるまで。
ふと、リヒトは薄く目を開けた。設計された瞳がちょっとだけ揺らぐ。そして、ちょっとだけ、ほんと少しだけ、手を動かした。人差し指の先が、そっと触れる。
あなたが、あなたを許せますように。
《Campanella》
盲目だったけれど、今は見えるようになった。それは希望の歌だった。目の奥があたたかい。それは一切の暴力性を捨て、カンパネラの白い頬を伝っている。
雫が木漏れ日に光る。蒼眼が空を見ている。
───星の涙だ。
リヒトは、言う。身を委ねてよいのだと誘う。その恐怖を理解した上で、一心に伝えてくる。草原に柔らかな何かが落ちた気配がして。歌が何度も何度も再生されて。オルゴールみたいで。
触れた。
僅かだ。些細だ。静かだ。けれど確かに触れた。リヒトの体温はカンパネラのそれより温かかった。
ああ。思い出せる。あなたのお陰で思い出せる。人肌とは、案外、恐ろしいものではないということ。
かつてのわたしにとってそれは、光で満たされる合図だったことを。
「…………あのね」
歌が何度も繰り返されたころ、カンパネラは言った。歌は、止まるだろうか。止まってしまったら寂しいな。しかしどうなろうとも、カンパネラはこと紡ぐだろう。今しか言えないことだ。
ずっと誰にも言ってこなかった。言いたかったけど言えなかった、協力を仰ぐこともしなかった。けど、彼なら、この少年なら、あなたなら。どうか、傷を開くお手伝いをして。
「探し物が、あるの。つぐなうために……思い出すために………あぁ、ううん、ちがう。取り戻したいものが、あって……手伝って、ほしいんです」
星が燃えていた。ずっと、ずっと。暗い空の中に飲み込まれてなお、燃えていた。
「なーう、あい、しぃ……」
歌声がすっと遠のいても、柔らかな音程はとくとくとした拍動に乗って、体の中を静かに波打っていた。音がなくてもその祝福は、歌のように満ちていた。だから、止まっていないよ。耳をすませば、まだ、きっと、歌うことが出来る。
カンパネラがそっと言葉を紡いだのを聞いて、リヒトは緩やかに口を閉じた。彼女の言葉は星の囁きだ、そっと耳を傾けて……そして、目を開く。
カンパネラが、オレに、
頼んでくれた。
「うん……! 手伝う」
リヒトは一も二もなく頷いて、嬉しくて前のめりになりそうな身体を何とか抑えた。
「オレ、何したらいい? どうすればいい?」
必要ならばメモを取る準備もして、リヒトは継ぐ言葉を待っている。カンパネラにとって、『手伝って欲しい』と言うことがどれだけ痛いものなのか、リヒトには分からなくても、その勇気に応えたいと思った。空っぽの体で、コワれた頭で。何も出来ないまま、ただ。
星は燃えている。そして、暗い夜の中で手を伸ばしている。星座を作ろう。みんなは、ひとりじゃないと歌うんだ。何度だって、燃え尽きるその最期まで。
《Campanella》
「………シャーロットのことは、ちょっとだけ、知っているんですよね。……わたしの友達。柵の向こうの、ツリーハウスの……“半分のドール”……。」
いるかも知らない小鳥にさえ聞かれないようにと潜められた、小さな声でカンパネラは語る。おとぎ話を教えるように。
「……彼女はエーナモデルの、昔のプリマドールで……すごく、素敵なドールでした。……わたしの手を握ってくれた、大切な子で………。
……お披露目で、焼かれちゃった。いま、わたしが償いを向けているひとり、です。」
噛み締めるように罪を吐露する。もう忘れないために必要なことだった。思えば、彼女のことを他者にちゃんと伝えたことって、ないんじゃないだろうか。
偽物の雲が流れて、偽物の太陽が出る。木陰の外の光が強まる。カンパネラは目を細める。
「わたしは……あの子の欠片を、探してるんです。思い出すために。それで、償って……もう一度、………会いに、行くために。それで───」
カンパネラは身体を起こして、リヒトの方を覗き込むように見た。人差し指はまだ僅かに触れたままである。引きもしないし、それ以上重ねようともしない。
きっと、彼にとってよく分からない情報ばかりをわたしは吐いているのだとカンパネラは自覚している。でも構わなかった。要点さえ伝われば大丈夫だ、なんてアバウトなコミュニケーションの感覚なのである。信頼ゆえと言えば聞こえは良いが。
とかく、カンパネラは言葉を続ける。更に声の音量が落ちた。
頭の中を、セピア色の音が駆け巡る。ノイズは多いけれど、なんとか聞き取れるといった風に。
『僕の? ……──は、うーん。……ノース──ド。雪国の─────か? ……──ロット、何笑っ────だよ。』
回帰する、声。それはノースエンドを開いた、その先で聞いた少年の声であった。彼の声は語る。かの思い出を。過ぎ去ったあの日の断片を。
『カンパネラ、──の、本は?』
「───“ウェストランド”という本を、一緒に探してほしいんです。……たぶん、シャーロットが書いた本、……の、はずで。わたしが………あの子から受け取った、大切な本……の、はずなの………」
それを開けば、また何かを思い出せるかもしれない。思い出せなかったとしても、この寂しさが少しは埋まるかもしれない。そう、期待していた。
蒼星の目は乞うていた。きっとあなたは断らないと分かっていながら。必死そうに、ちかちか光っている。
「うん、知ってる。聞いた」
森も、空も、作り物。何処までもトイボックスの大きく厚い両手で覆われているような、そんな木陰で。誰にも奪われないように、こっそりと隠された秘密の会話は続く。
リヒトは、カンパネラの言葉を、その緩やかな旋律を邪魔しないように、そっと声を潜めて頷いた。
「ウェストランド」
教えてもらった本の名前を、微かに口を動かして覚える。ウェストランド。似たような書名のものを何処かで見たような気がする、と思い至って、少しだけ希望が見えた気がした。
「ウェストランド、ウェストランド……シャーロットさんから、カンパネラへの、贈り物」
忘れないように、無くさないように何度も繰り返した。カンパネラのつぐないのための、いつかの彼女の贈り物。それは、話を聞くだけで、考えるだけでキラキラして見えた。ずっと、価値のあるもののように思えた。自分より。
「OK、探す。絶対見つける!」
ちか、ちか、瞬きのメーデー。誰も彼もを拒む嵐の向こうから、確かに輝く蒼星。空っぽになった心の中に、その光を受け入れた。
ずっとこうしているべきかと思ったけれど、ずっとこうしていたら何も出来なくなってしまう。だから最後に、小さなおまじないを掛けるように、そっとカンパネラの指を軽くタップして、そしてリヒトは立ち上がる。軽く草を払って、鞄を肩にかけて、落ち着いたら寮に戻りなよ、なんて声を掛けて。ふっと森から草原に抜けた風に、ひょいと飛び乗るように、その場から歩き出すだろう。
……草原の真ん中、寮との狭間。随分と小さくなったリヒトの背がそこで振り返る。もしもまだ、あなたがそこにいるのなら、リヒトはグンと伸びをするように、大きく手を振るだろう。他でもない、あなたに向けて。
《Amelia》
■■.■■.■■■■ 昼前、学生寮一階ラウンジ。
「……つまり、リヒト様も、あの後何度か知らない記憶を見たのですね?」
その日ラウンジでは二体のドールが何やら話し込んでいた。
先程、橙色の髪をしたドールに確認をするように問い直した蒼い髪のドール、アメリアはまるで難題を目の前にした学者のように考え込む。
疑似記憶とは、ドールとは、私とは。
己の不確かな記憶を取り巻く謎について議論を交わしていたのだ。
「ううむ……少し恥ずかしい思いはしましたが……いずれ話さなければ行けない事でしたね。」
暫くして、髪とは正反対に頬を赤く染めた彼女は、先ほど語った、
病院で蒼い薬を点滴されながら“博士”という人物を呼ぼうとして、オディーリアに助けられた記憶を振り払うように軽く頭を振ってから言葉を発する。
考え込んでいたのか羞恥を抑えこんでいたのか分からない彼女だが……一先ず、話しを締めくくっててリヒトの意見を聞こうとする。
ラウンジの隅、暖炉の向こう。ウェンディ探しの道すがら、アメリアと巡り会ったリヒトは、息を潜めるようにお互いの記憶を辿っていた。その間、リヒトの目線はラウンジの方に向けられている。誰が入ってきても気づくように。
……青色が怖いわけじゃない。青色は、もう怖くない。何を踏み躙られたって、何を奪われたって、何をコワされたって、構わないと思えたから。
「……ああ、うん、見た。青いちょうちょがいて、そいつを追いかけて。それで、色んな記憶を見て。それに、その……」
潜められていながら、確かに続いていた言葉が、ここでくっと止まる。確かに言おうとしていた言葉が、もう隠すまいとしていた言葉が、すんでの所で引き留められる。
「……いや、なんでもない」
ぐっ、と息を飲んだ。
喉の奥からせり上がる感情に見ないふりをして、今更そんな、と捨て去って。
それでも、言えない。
まだ、怖い。
例え自分が要らないとしても、染み付いた劣等感は拭えない。それは頭の先から爪の先までデザインされたドールには似つかわしくない、本能と呼ばれるようなもの。
自分から、
キズを、見せるなんて。
「青い、薬? それ、あれかな、さっきオレが言った、あの、『ちけん』ってやつかな。『博士』は知ってるよ、オレも」
記憶の話題を取り戻すように、アメリアの言葉を首肯する。擬似記憶の不思議な繋がりは、ここで確かなものになって、余計に深い謎として彼らの前に横たわった。そこから目を逸らすように、ため息を吐くように、リヒトはまたラウンジの入り口の方を見遣る。
だからきっと、貴女の姿が見えるはず。そして、話題を変えられる、と思った彼はきっと、ほっとしたように貴女の名前を声に出して、呼ぶ。
「カンパネラ!」
大丈夫、ここにこわいものはいないから。だから少しだけ、話そう。きっと、貴女の手がかりになってくれるから。
《Campanella》
カンパネラはカーディガンの内側に何かを抱え、ラウンジの入り口で佇立していた。固まっていたのである。
寮のラウンジは、記憶の中のそれとは色々と差異があるものの、雰囲気は変わらない。暖炉の上に見慣れない置物はないし、本棚には知っている本しか収まっていない。けれども過去に浸るには十分で、蝶を見たあの日から度々訪れていた。
無人である頃を見計らって来ていたわけであるが、今回は二人もひとがいる。引き返そうと思ったが、次の瞬間それは迷いに転じてしまった。かの橙色を目にしたからである。
リヒトは、カンパネラがオミクロンクラスの中で最も親愛の情を傾けている相手だと言えよう。友人だと胸を張って言うにはまだ早すぎるように思えて気が引けるが、それにしたって周りのドールと比べれば安心感があるというか、気が緩むというか。常に警戒しているがゆえに人影を恐れて反射的に逃げ出す気のあるカンパネラであるが、今回に関しては躊躇われたのだった。
「…………あ、……えと…………」
しかし、安心しきっててこてこと歩み寄るというわけではなかった。愛らしい青色の髪の少女、アメリアがその向かいに見えたのだ。
カンパネラはアメリアが苦手だ……というか、一方的に嫌われているものだと思い込んで恐れている。よく彼女からの視線を感じるものの積極的に声をかけられるというわけでもなく、ということは、賢く聡明な彼女はカンパネラの鈍間さを常に観測しており、その上でヒソヒソとあらぬ噂を流されたり、悪口を言われているんじゃないか……と。そんな事実はないし、少なくともオミクロンクラス内でカンパネラがあらぬ噂を流されるなんてことは覚えている限り一切なかったことであるのだが。
といった調子で、入り口で石のごとく固まっているのであった。
優しくて招くようなリヒトの呼び掛け。それでもなおカンパネラは暖炉の側には駆け寄れない。「あう……」と不思議な声を発して、しばし沈黙したのち。
「………ご、……ごめんなさい、わたし、お邪魔に……」
と、後ずさろうとしたその時に、頭の中で声が響いた。今は表に出ていないものの、常に妹を見守る姉の声だ。
───「行っておいで」、と。
背中を支えられ、そのまま優しく押されたような感覚がした。
「……………あ………」
とん、とまた一歩を踏み出す。手招かれ、背中を押されている。そのどちらもただの感覚の話であるが。
アメリアは、拒絶するだろうか。うまく何事も言えないまま、入室の許可を伺うように、茨の奥の目がアメリアを見るだろう。
《Amelia》
「あっ……」
リヒトが何かを言いかけた……いや、言い淀んだ直後、部屋の中に誰かが入ってくる。
それは丁度彼女の視界の外側で、直ぐに反応することは出来なかったが、目線を向けるまでもなく、それが誰なのかだけははっきりと分かる。
そう、リヒトが名を呼んだ少女ドール。カンパネラ。アメリアの憧れの人。
「あっ、いえ、その、
どうぞ、お座り下さい。カンパネラ様。」
余りにも突然な彼女の登場にアメリアは半ば挙動不審になりながらソファの一角を指し示す。
なんたって“あの”カンパネラ様だ。
貞淑で、前に出過ぎず、それでいて穏やかな……。
……なんだか別のドールの事を言っているような気がしないでもないが、今の彼女にとってそれは判然としない事で……。
ともかく、話の邪魔をしてしまったかもしれないと謙遜しながら立ち去ろうとする彼女を引き留めようと画策する。
カンパネラがどう思っていそう、とか。
アメリアがどう考えていそう、とか。
エーナのフェリほど詳しく知ることは出来ないけれど、なんとなく感じることはできる。なんてったって、良き友であれかしと作られたテーセラモデル。コワれていたって、忘れていたって、棄てていたって設計は同じ。
なら、やることはひとつ。
オレに出来ることはひとつだ。
「大丈夫。アメリアはいじわるじゃねーし、悪口も言わないし、酷いことしないし、もし、したって、オレが止めるし、」
ひとつ、ひとつ。足場を作るように、暗闇に光る石を並べるように、ひとつ、ひとつ。一歩一歩リヒトは前に出て、アメリアとカンパネラの間に立って、二人を見た。そして、
「オレが、一緒にいたって苦しくないやつだ。……だったら、安心だろ?」
こう、付け加える。
あの木陰だけじゃない。あのコンパートメントだけじゃない。天鵞絨の座席に誰が居たって、そこは貴女の旅路なのだと、誰も傷つけたりなんかしないと、不格好に伝えて。
ちょっとお行儀悪めにソファの背に軽く腰掛けて、今度はカンパネラから目線を外して、アメリアにも言葉を掛ける。
「カンパネラ、慎重で、静かで、優しくって、よく気がつくやつだから……ちょっと、時間がかかるだけ。大丈夫」
そう言って、笑って。
さっき飲み込んだ言葉を、跡形もなく消化して。
《Campanella》
アメリアに促され、カンパネラは戸惑った。拒絶か無視か、それともリヒトの手前上辺だけ笑って対応するかだと思っていたからだ。
挙動不審ではあるが、そうは見えない。少なくともアメリアは、カンパネラを拒絶していないように見受けられた。
「……………………」
そして声は響く。自己嫌悪の塊のような言動をしながら、被害妄想の多いカンパネラに強く根を張った誤解。それを見抜いた上で、責めるでもなく、ゆっくりとほどかれる。
怯えの見える表情は驚きに変わり、戸惑いになった。戸惑いになって、目が泳いで。
やがて、また一歩を踏み出していた。
「…………は、………はい……」
きょろきょろ無意味に辺りを見渡しながら、一歩、一歩とリヒトの方に歩み寄り。アメリアの方を一瞥して、本当に嫌がられていないかを確認しようとして。
秒針が一周する前には、カンパネラはそのスカートを抑えて整えながら、丁度アメリアが示した、リヒトの隣に位置する場所へ腰を下ろした。膝の上には、カーディガンの内側から取り出された……やはりあのオルゴールがある。リヒトからすればそれは随分見慣れたものであろう。
手すりと背もたれにそれぞれ身体をめり込ますような勢いの距離の置き方をしていたものの、人嫌いのカンパネラにとってこの着席は、危険な地へ大冒険へ出掛けるに等しかった。
「………え、えっと……」
本当に邪魔になっていないか不安がりながら、俯いた顔を上げたかと思えば、二人のことを交互に見た。話題を切り出すような勇気はなかったらしい。
眉をひそめて泣きそうな顔をしながらも、どちらかからの言葉を待つだろう。
《Amelia》
「ええ、勿論」
リヒトの言葉に頷く。
正直言ってそういう注釈が必須なのは少し驚きというか……悲しみがあるが……。
別に嘘ではないし悪いことではないのだ、咎める必要も意味もない。
それに、カンパネラが慎重で静かで優しくてよく気が付き礼儀正しいのは事実だ。
……おそらく。
「それでは……そうですね。
先ずは気楽なお話を。
普段カンパネラ様はリヒト様とどのようなお話をなさるんですか?」
とまあ、ここまで仲介してもらったのだ。
アメリアもここは挙動不審になっている訳にも行かない。
一呼吸置いて気分を落ち着かせ、恐らく無難であろう話を繰り出す。
「そう来なくちゃ」
リヒトはぴょん、とソファの背をまたいで、自分もちゃんとソファに腰かけた。これでおそろい、みんなおそろい。でも、話の真ん中にいるのは自分じゃあないことくらい、分かってる。だからそっと微笑んで、自分のことだけ考えた。
例えば、この先。もう変えられようのない未来として、リヒトは自分が全て忘れてしまうことを考えているけれど。もしそうなった時、何もかも忘れた、自分じゃない自分は、きっとカンパネラをひとりにしてしまう。
(それは、やだな)
少なくとも、みんなは思ったより全然怖くなくって、望んでいるものはきっと手を伸ばせばそこにあって、暖かな光はきっと貴女のことを置いていかない、ということを。
(……うまく、言えたらなあ)
それは、後顧の憂いを断つ、というのだけれど。きっと彼は、知りもしない。
ふっと考えの縁から戻って来た頃には、アメリアがカンパネラに尋ねていた。これはカンパネラに対する質問だから、オレは答えられないよな、と思いつつ……カンパネラが答えられるかも、ちょっと不安で……あれ?
(……もしかして、この感じがずっと続くのか……??)
《Campanella》
「………………」
カンパネラは、立派な花瓶か何かを勢いよく破壊し、三秒後の母親からの激しい叱責を覚悟した子供のような顔をした。口を一文字に結び、汗をたらりとかいている。
おそらく気を遣ってわかりやすい話題をくれたのだろう。しかしはたりと沈黙してしまう。リヒトは何も言わない。だってそれはカンパネラに宛てられた言葉なのだから。
「………えと……」
膝の上に置いた手をもにもに揉みながら、視線を足元に落としたりリヒトに送ったりアメリアに向けたりする。相手の反応が来る前に逸らしてしまう。
体感たっぷり三十秒黙ったところで、そろそろ何事かを言わなければならないと危機感を覚えたらしい。
「……その………き、近況とか……相談事、です、かね………?」
絶対求められていたこととは違うんだろうなと思いつつ、こうとしか言えない。リヒトとの会話は、好きなものを話したり共有したり笑いあったりというよりは、安心や不安のお裾分けを繰り返し、傷を見つめ合うといったような内容であるので。
愚鈍なカンパネラなれど、ここで会話を終わらせたら間違いなく気まずい感じになるということは分かる。愛する姉に助けを求めたいところであるが、背中を押された以上ここで頼るというのは情けないにもほどがあるだろう。今更だが。
「え、えーっと………お、おふたりは、さっき、何をお話されてたんですか……?」
話題の転換を試みる。ここで話題を速攻で流すのって失礼なんじゃないかと、言葉を発したあとに思い至る。ああ、またコミュニケーションを間違えた気がする……。
何も言わないまま、顔を青くして横髪を掴み頬に寄せる。カーテンの中に逃げてしまうようだった。足元を見つめて、また相手の返事を待つだろう。
《Amelia》
「えっ……ええ! そうですね、確かに、アメリアの側から話さなければ無作法でした。」
アメリアの熟慮断行から繰り出された質問に投げ返されたのは……白湯よりも薄い答えだった。
近況とか相談事と言われても……何を返せば良いのだろうか。
だが……確かに甘く見ていたのも事実。
憧れの人のプライベートに迫ろうというのに何も言わないというのは無作法だし、なにより貞淑な事を尊敬している相手なのだ。
ガードが硬くても当然という物だろう。
「そうですね……アメリアとリヒト様は……」
そこに深く納得して話そうとした直後、アメリアは気付いてしまう。
“リヒト様と最後にした会話って……ついさきほどまでの会話を除くとどう考えても恋バナなのでは……?”と。
策士策に溺れる。
正直に直前の話をすれば確実に空気は深刻で沈鬱なものとなり、一つ前の会話を話せば「アメリアはとっても浅ましい獣でござい」と憧れの人に突きつけることとなる。
見事に自分を罠に嵌めるダブルバインドに陥った彼女は露骨に動揺して挙動不審になった末に……。
「その……想い人の話などを……」
真っ赤になった顔を伏せて絞り出すように憧れの人との談話を優先した。
(こ………)
片方は顔を青くして、カーテンをサッと閉じてしまうように横髪にそっと手を添えていて。
(この…………………)
もう片方は顔を真っ赤にして、カーテンの向こうに隠れてしまいそうなほど挙動不審に慌てふためいて。
(この不器用'sが〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!)
どっちもまともに話せていない沈黙の中で、リヒトは声に出さない悲鳴をあげた。
(だから! オレは! フェリじゃないんだって! 元プリマのみんなでもないんだって! そりゃ呼んだのはオレだけどさ、 だからってお互いここまでオクユカシイのは予想外で!! くっそ、何とかしなきゃ……!!)
「あっ、ああ、その、そう! うん! なんつーか……想い人、ってよりかは、そうだな」
変な沈黙を続ける訳にはいかない、と、リヒトは声をあげる。とりあえず、言葉足らず過ぎて全てが誤解の種であるアメリアの言葉に補足をして……その後どうしよう……。
「トイボックスには、“ご主人様”を待ってるやつがたくさん、居て。でもオレたちは、それに会えないことをもう知ってて……だったら、頑張って自分から会いに行こう! ってしてる奴も、何人かいて。アメリアもその一人って感じで。具体的にどんな人がいいかなーって話、して」
『それが“想い人”の話ってやつで……』と、たじろぎながらもなんとか話題の補完をした時。ふっとコワれた思考回路がパチンと動いた気がして、リヒトはばっと体を起こした。そうだ。もうこれでなんとかなれ。
「お、おう。じゃあ……そうだ!
話題、これで行こう! 『いつか会いたい人について』ってのでどうだ!! 名前は……分かんなかったり、言えないなら出さなくてもいいし! これで二人とも話せるだろ……!!」
もはや最後の辺りは願望だ。上手くいってくれ、頼むから。例えば、シャーロットさんの話とか。難しくても、具体的に言えなくても、名前出せなくても、ヒントになればそれでいいから。
《Campanella》
「ぉも……!?」
少女の赤面も、飛び出した言葉も、全く予想外である。まさかまさかの、俗に言う恋バナ………!? と誤解を加速させそうになったところで、リヒトの補足が届く。
はて、会いたい人。さらりとアメリアがここの真実を知っているのだということも判明したが、それを思考する余裕はなく。
会いたい人。会いたい人……。
「………ええと……わたし、は………」
オルゴールの表面を見つめる。切り出すかどうか、悩んだ。天国よりも美しい思い出は、口にすれば蜃気楼みたいに溶けてしまわないか、恐ろしく思うのである。
「………あ、アメリアさんの、その……想い人と、いうのは。えっと……ど、どんな、方なの……?」
結局、他人に語らせることを選んだ。これで何も返されなかったらと思うと怖いところだが、すぐに彼らのことを口に出せるような状態ではなかったらしい。
横髪を掴んだままころりと首を傾げ、ビイ玉より綺麗な目を瞬かせ。お先にどうぞと言わんばかりに、アメリアに問いかける。
《Amelia》
「くっ……」
リヒトの的確なサポートを経由して、カンパネラから帰って来たのは超ド級のキラーパス。
脳天に銃口を突きつけられたかのような圧力……。
もとい話さなければならない空気感が少女に襲い掛かる。
「アメリアは……その……。
会いたい人が居る……という思いだけが、ありました。
だから、それがどんなお方で……どんな姿で、それが特定の個人なのかも……分かりません。
その答えは……きっと、アメリアの疑似記憶の中を探したって無いのです。
だから……遠い、遠い何処かで、アメリアの歩き続けた先に居る方が……愛する方なのだと……思います」
だから……彼女はほんの少しだけ噓をついた。
フェリシアとの、一時愛し、愛の形を自覚させてくれた一夜を秘めて、リヒトと語り合った事を語る。
今ではそんな事はないと知っているけど……それでも足が止まっているふりをした。
「……ん」
穏やかな表情で、リヒトは首肯する。ぐるぐるした目で言葉を選ぶ、アメリアの誠実さを知っているからだった。こと、恋や、愛や、想いに対して、彼女はとても誠実なように思う。所管だけれど。……いつかこの所感も、消えてしまうかもしれないけれど。
「だからオレも、応援しているワケで」
まったく、困った友人たちだ、そう言いたげに、ゆるりと微笑む。ホントは、彼女たちに自分の助力が必要だなんて、微塵も思っていない。自分が勝手に首を突っ込んでいるだけだと、わかっている。それでも、ちょっとくらいは、さ。
カンパネラは、と声に出して問うのは、辞めておいた。
代わりに、そっと目線をカンパネラの方に流す。話さないならそれでよし、もし話すなら、そっと受け止められるように。選択は常に貴女にあって、誰もそれを咎めることなど、しないのだ。
《Campanella》
小鳥みたいな少女の声は、どこかいじらしく、可愛らしい。リヒトは訂正したけれど、これでは本当に想い人のことを語っているかのようだ。
想いだけがあって、どんな相手かは分からない。それはカンパネラには正直理解しがたい感覚であった。そんな想いを抱えるのなら、普通はある特定の個人と会いたいと願うのが普通なのではあるまいかとも思った。
けど、馬鹿にされていいようなものでもないと強く思った。
「………すてき、ね」
本心だった。戸惑ったのも本心だったが、素敵だと思ったのも本心だったのである。
ぎこちないが、確かな優しさを込めた微笑みが浮かぶ。自然ではないけれど、無理矢理浮かべたわけでもない。あの輝きが佇む写真の中のそれとは違う寂しげな笑顔だが、それでも朧気に面影を残していただろうか。
さて。どこか恥じらいながら語ったアメリアに話させた手前、カンパネラはリヒトの視線の意味を知らんぷりすることはできなかった。求めつつも、無理に口をこじ開けさせるような真似はしないのが彼らしい。
「わ、わたし、は……ええと。……あ、会いたい、人が……そのぅ………ふ、ふたりほど……」
俯いて、前を向いて、また俯いて。カンパネラはおそるおそるといった調子で、時折リヒトのことをちらちらと見ながら、語り出すだろう。
「………お、お友達、で。もう、ここにはいないんだけど……か、片方とは、もしかしたら………なんでかは分からないけど……あ、えるかも、で。……もう片方は……た、たぶん、もう無理、なんだけど……」
これはおそらく蛇足だ。そう思いつつも、こんなところで言葉を自然に切るような器用さはなかった。言ってるうちに悲しくなってきて、なんだかもう仕方がない。
どう続けたものかと言葉が詰まったところで、カンパネラはずっと自分が触れ続けていた木箱に目を向ける。
「………あの……」
言いながら、彼女は突然ラウンジの窓の方を見つめた。その向こうに視線を逸らしたとしても、きっと二人の目には何も写るまい。それは、“今の”カンパネラの目にだって写らないのだから。
青い蝶が思い出させてくれた記憶のさなか。それは、赤く、光っていた。
「………これ、そのお友達のひとりから、貰ったんです。……わたしが、……音楽がすきって、言ったから………」
木材をつぎはぎにして作られた、如何にも手作り感満載の木箱を大切そうに手に取ると、アメリアの方へ差し出すようにして見せてみる。彼女に拒まれなければ、「お、……オルゴール、なの………」と目を逸らしながら続けるだろう。
「て………手造り、みたいで。彼の。……あ、その、えっと……テ……テーセラモデルの、男の子だったんだけど、その……彼、身体を動かすのが、好きじゃなかった……みたい、で。……不思議なひとで………」
……あれ、わたし、もしかして喋りすぎてる……?
あまり普段から口数が多いとも言えない自分がこんなに語っているのは、なんだか奇妙に写るのではないか。そう突然不安になったらしい。話の続きを切ってしまうと、リヒト……ではなく、アメリアの方へ目を向けた。
リヒトはきっと自分の話を拒まないと知っている。しかしアメリアはどうだろう。もし退屈をさせていたら。そもそも彼女の話をあそこで終わらせるのではなく、さらに何かしらの質問を投げかけるべきではなかったんだろうか。
降り積もる不安に押し潰されそうになる。だくだく、と背中に汗をかいている。
あなたは、どんな顔をしているのだろうか。
《Amelia》
「カンパネラ様……!」
カンパネラの言葉に、彼女はついパッと顔を上げてしまう。
それは、自分の想いを肯定された喜びか、或いは言及されたことで羞恥が限界に達したのか。
どちらにせよ、彼女は丁度カンパネラが話し始めた辺りで顔を上げる事が出来た。
結果、アメリアは不幸中の幸いに乗じて、興味津々とばかりに少し体を前のめりにさせてカンパネラの言葉に聞き入る。
「テーセラモデルの方と……もう会えないかもしれないお方……ですか。」
もしも、自分が愛する人に会えないと決まったらどうなってしまうだろう。
もう何処にも行けなくなってしまうだろうか。
或いは、新しい誰かを探しに行くのだろうか。
今のままでは想像の出来ない地平に、カンパネラは立っている。
少なくとも、それだけは確かだった。
それは、カンパネラが自分の知らない何処かに居るというのは、当然のような、なんだか納得のいく物で……けれど心の何処かがずきりと痛む醜い嫉妬で……。
と、考えた辺りで一時、アメリアは何か引っかかるような物を覚えたが、それは直ぐに押し流されてしまった。
なんたって、あの彼女が自分を伺うように見てきているのだ。
そこに考え込んで返事をしなかったというのは余りにもあんまりというものだろう。
「それは……とても素敵な旅路でございますね。
忘れ得ぬ郷愁と、色褪せぬ輝きを感じます。」
だから、彼女はカンパネラの会いに行く道程を、その旅路を称える。
なんたって、それはカンパネラのもので、カンパネラの物語なのだから。
それを誰が批判できるだろう。
「ところで……リヒト様のお話も、アメリアは聞きたいと思うのですが。
どうでしょう?」
だが、それは、それとして。
アメリアに憧れの人の前で想い人の話をさせるというとんでもない事をしたリヒトに仕返しをすべく、カンパネラが語り切ったであろう折を見て、リヒトに水を向ける。
忘れ得ぬ郷愁で、色褪せぬ輝きで、それだけでは無いことをリヒトは、薄らと知っていたが、あえて声に出すような真似は避けた。傷をあえて見せたがる者が居ないように、嵐の中で苦しげに瞬いたことを、あえて知って欲しいと望む彼女ではない。
だけど、話をしている二人を見て、随分と安心したことくらいは言っていいかな。そう、思った。もうしばらく沈黙が続くものだと思っていたから、ゆっくりとだけど、確かにカンパネラが話し出したことが意外で。アメリアも、静かな話を受け入れてるようで、なんかほっとして。そのくらいなら、まあ。
頬杖をついて二人のことを見ていたリヒトは、次の瞬間、ガクッと頬杖から顔を滑り落として、驚くことになる。他ならぬ、智恵溢れるデュオモデルの思わぬ仕返しによって。
「えっ、オレ?」
急に振られて、話の真ん中に引きずり出された六等星は、ぱち、ぱち、と目を瞬かせた。
「オレは」
リヒトは、言葉を選ぶようにすっと俯いた。手のひらを見つめて、二度、三度と握って、開いて、握って、開いて……握る。
「……んー、まあ。ぼちぼちかな。ご主人様って言われても、あんまり想像つかなかったし……目の前のテストを、何とか、落ちこぼれないようにこなすので、精一杯だったし」
『……結果は、こうなんだけど』そう言って、リヒトは手をうんと上げ、ぐっ、と伸びをして、大きくソファの背もたれに寄りかかる。伸ばした首を背もたれの上に乗っけて、天井を見つめた。
「だから、二人がちゃーんと、会いたい人とか、いるのが、いいなーとは思う」
いいことだ。とても、いいことだ。善も悪も問わず、必要性も実現可能性も問わず、ただ、肯定した。遥か遠い、手も届かない空の彼方で、星が瞬いている。二人は、輝いている。キレイだ。
それは、とても、いいことだ。
《Campanella》
意外、だった。アメリアは話を嫌がるどころか、前のめりになってまっすぐに聞いてくれていたから。
その驚愕は、ずっとずっと嫌われているものだと思っていたからというのが大きい。視線を向けるだけ、向けられるだけの関係だった。
嫌悪では、なかったのか。
「………あ、」
アメリアが口に出したことで、ひとつだけ誤解をさせてしまっていたことに気付いた。会いたい人のうちの片方……グレゴリーこそが、カンパネラの言う『たぶんもう無理』な方であったからだ。
ひいては、もしかしたら会えるかもしれない片方、というのは。
「………ぁ、ありがとう、ございます……」
訂正はしなかった。特に支障はあるまいと思ったからだ。アメリアにもアメリアの歩む道があり、旅がある。彼女の旅にきっと不要なものだ。
アメリアからの知的で穏やかな敬意を困惑しながらもなんとか受け止めて、礼を述べる。そんな立派なものじゃないんだけどな。眦が溶けてしまうような感覚がするのは何故だろう。
思えば自分は、いくらどんなドールに優しくされたって、その優しさの裏を想像して怯えてきた。アメリアからの言葉を疑う必要がないのは、やはり、隣人がいるからなのだろうか。姉が背中を支えてくれているからだろうか。
他人の信じ方を、思い出してきているのだろうか。
と。アメリアによって突然次の話者になったリヒトの方へ、カンパネラはそっと耳を傾けて目を向ける。確かに小さいかもしれないけれど、ちゃんと星は光っていた。彼が落ちこぼれなのは事実なんだろう。でも彼が落ちこぼれてくれなくちゃ、カンパネラはもっと一人ぼっちだった。
つられて天井を見上げる。見上げられているとは夢にも思ってないらしい。
「…………」
会いたい人がいない。本当に、そうかなぁ。学習室での会話を思い出し、そう心の中で疑う。
しかしあくまでも心の中でだけだ。カンパネラは沈黙を守り、何も追及しない。何も語らない。「うぅん」と無意味に鼻から抜ける声を放つだけだ。
《Amelia》
「ええ、リヒト様です」
なんだかパチパチと目を瞬かせるリヒトに頷きながら、ちらりとカンパネラを見てなんだか同意を取っている風を装う。
驚いていても意趣返しからは逃がさないぞ、という強い意思で以って話を促すと……帰って来たのは少し想像通りの答えだった。
「まあ、実際そうですよね。
前までは落ちこぼれないように、今となっては明日生きるだけで精一杯なのですから。
冷静に考えると……こうして想い人の話をしている事の方が妙ではある……と思います」
そんな暇は無かった。
確かにそうだ、アメリアにも実際そんな時間は無かった。
ほんの少しでも良い人形である為に。
はしたない、浅ましい獣にならないために。
己を律し続けて結局何を求めていたのか考えることすらしていなかったのがアメリアなのだから。
リヒトにだってそんな時間はないと言われればそりゃあそうだろう。
納得の出来る話しだ……というかこれは単に、アメリアが時間の無い間にも好きな人のことを考えていた凄まじくはしたない女という事になるのではないだろうか?
そんな、気付いては行けないことに気付きかけたその時。
「いい、ですか?」
いいなーとは思う、と言ったリヒトの言葉に首を傾げる。
なんたって自分に会いたい人がいる事をアメリアは恥ずかしい、浅ましいとは思いこそすれ、誇ったことなどないのだ。
だから、良いという純粋な誉め言葉を受け取れずに首を傾げることしか出来なかった。
「ん? いいことに決まってるだろ」
ぐっと体を起こして、天井を見ていた視界に二人の姿を移して。不思議なことを聞くなあ、と思いながら、リヒトは言葉を続けた。呆れたように、それでもなんだか、愛おしいように。
これだから、どっちも、ほっとけないのだ。
「だいたいなんだよ、ふたりとも、なんか自信無さすぎ。
……お披露目のことも、色んなことも知っちゃって、お先真っ暗みたいなもんなんだからさあ……そんな中で、やりたいこととか、会いたい人とか持ってるのって、実はすっごいことなんだぜ。
もういいや、ってなる方が、ずっとずっと楽なのに。ずっと、ずっと。
だから! 諦めないで、忘れないで、誰かのために頑張ってるのって、すっごくすっごく、すごいことなんだ」
だから誇って、不器用で怖がりで、それでも輝く一等星。会いたい人がいるのなら、脇目も振らず走って。
……いや、そりゃちょっとは、歩いたり座って休んだりして欲しいけれど。無理や無茶はしないで欲しいけれど。……そうして欲しいのは、二人を心配する気持ちの他に、あまりに早く二人が居なくなってしまったら、遠ざかる背を諦めるために必要な時間が、なくなっちゃいそうだからだけど。ちゃんと手を振れるかどうか、オレが不安なだけだけど。
……ちっぽけだなあ、オレ。
「胸張って言えよ、『わたしはこの人に会いたいです、だから頑張ります』って。みんな、絶対、心から応援してくれるからさ」
『……オレは、応援第一号な』と付け加えて、リヒトは両手で小さくピースサインを作った。にっこり笑って、冗談めかした明るい声色で、二人の背中をぽん、と押すように。いえーい。
《Campanella》
まぁ、たぶん、一般論としてこんな絶望的な状況のもと、何かしらの素敵な目的を持って歩み続けることは“良いこと”なのだろう。カンパネラもアメリアの想いを肯定的に受け止めている。
……カンパネラの場合は、たぶん、違う。そんなきれいな話ではない。カンパネラの願いは、大好きな友達にもう一度会いたいという願いは、もはや目的という話ではなく。
「………」
言うなればそれは、鋼でできた命綱だった。
諦めたら、忘れたら。その時、カンパネラはきっと本当の意味で死ぬだろう。スクラップにされるより、怪物に食い荒らされるより、無惨で深い死を迎えるのだろう。
そして尚且つ。もしもその願いが叶うのなら、カンパネラは何だってするだろう。何だって、投げ捨ててしまうだろうから。
リヒトのピースサインに、コンクリートのような質感の微笑を浮かべて応える。ほんとうに胸を張って良いのかとは思えなかった。彼が語るカンパネラの姿みたいに、本当の自分は美しくはないと知っていた。
「……がんばらなくちゃ、ですね」
《Amelia》
「決まっ……!!」
この親友は、なんと気楽に言ってくれる事だろう。
アメリアの生の、その殆どを苛み、操り、苦しめて来た呪いとすら言える渇望を、リヒトは事もなげにいい事だと言い切った。
それは、アメリアに混乱と幾分かの救いを与え、言葉を詰まらせる。
望むことははしたなく、浅ましいけれど。
それでも、かれは良いことだと、そう言ってくれた。
だからこそ、アメリアは気になる。彼に、求める物はあるのだろうか、と。
だって、そうだ、彼は会いたい人が居る事をまるで特別な事のように言う。
元から持っているアメリアには分からないけれど……。
けれど、特別な物というのは少ないか、或いは存在しない物で……。
だから、さっきリヒトが自分で言っていたように、リヒトには会いたい人が……それでなくても強い願いがないんじゃないか? と。
「むっむうう……リヒト様がそこまで言うのなら。
良いでしょう。
今度、いえ、いつか、いえ、予定があった頃に……言ってみることにします。」
そうやって考えた頃にふと。
アメリアは自分が安堵している事に気付く。
リヒト様が自分から何処かに行かない事に。
置いていくのは自分である事に。
自分よりも遥かに優れたリヒトに……願いがない事に。
その醜くどす黒い感情に、浅ましく、確かにはしたない感情をようやく自覚した彼女は、よく使い慣れた自己嫌悪でそっと蓋をして、加えて決意の重石をする。
いつか、リヒトがやりたい事を決めた時。ちゃんと背中を押そう。
その為に、今はこの汚れた心を隠しておこう。
今はとぼけたふりをして、気付かないふりをして。
そうやって、いつか行き先が決まったのなら。
精一杯の笑顔と沢山の涙で背中を押そうと……そう決めた。
「でも、無理すんなよ。センセーにバレたらダメなんだからな」
頑張らなきゃ、と意気込んだカンパネラに対して、これは忘れちゃいけないと付け加える。
そして、また二人をぼんやりと見て。
(……まあ、なんというか)
この一言でぱあっと霧が晴れてくれるのなら、二人ともこんなにナンコーフラクでは無い。オクユカシクもない。まったくもって、ほうっておけない。
つまり、じゃあ、悩んでくれている間は、ここに居てくれるのか、と……ちょっとだけ、安堵して。
(あーもう!! 嫌だ!! この!! う〜〜〜〜っ!!)
見送ると決めたくせに居て欲しくて、支えると決めたくせに後ろめたい。どっちつかずの感情がグルグルするのはいつもの事で、いつものように苦手だ。ピースサインしたじゃん。あそこでちょっとだけカッコつけたじゃん。もう、情けないなあ。捨てるって決めたものをずるずる引っ張っている、自分が。
もう何度目か。ぱっと話題を切り替えようと思って、リヒトは咄嗟に思いつきを口にした。
「……っと、言うわけで! アメリアとカンパネラ、二人とも“トイボックス調査隊”の仲間入り! ってことでいいか?」
口走った、数秒後。慌てて『あ、えと、トイボックス調査隊ってのは、フェリシアが隊長で……』と、勢いで出してしまった言葉に説明を付け加える。
トイボックス調査隊。フェリが隊長……とリヒトは主張しているけれど、実際のところ、隊長とか隊員とか、あんまり変わりなくて。ただ、トイボックスの大きくて漠然とした両手の中で、ひとりぼっちにならない為の隊であること。センセーには秘密の、調査隊であること。ひとつひとつ、言葉を尽くして言ってみた。我ながら、結構曖昧な調査隊である。
オミクロンはひとりじゃない、って言っても受け入れにくいなら……みんなで丸ごと囲ってしまうまで、だ。見事なまでのテーセラ的脳筋思考だった。
「ニュータイに条件なし! 落ちこぼれでも、何も出来なくても、何にもわかんなくても、大丈夫! お互いのやりたいことのために、困った時はお互いさま!! って、やつで………その………どう、かな?」
『いっ……やならその全然いいんだけど……』と、慌ててそう言って、カンパネラと、アメリアの方をそれぞれ見る。ちょっと無理やりすぎたかな、という心配と、断りたいなら断ってもいいよ、という心からの思いを込めて。
《Campanella》
「あ、は、はい。そう……ですね。」
リヒトからの付け足しに、はっとしたように首肯する。いくら頑張ったとて先生にバレては全ておしまいだ。今まではそちらの面での警戒は甘かったような気もするが……蝶を探すのも第三の壁を探すのも、これからは慎重に行かなくては。
もし先生に、シャーロットやグレゴリーのことを思い出していることがバレたら。あの写真がそうだったように、また失うかもしれない。オルゴールや、ノースエンドや、今あるセピア色の記憶を。会話はなるべく避けなくてはならないだろう。
ああ、でも。『あの時間』から逃れるのはどうにも難しい。誤魔化す練習をしなくてはならないと、カンパネラは心中で独りごちる。
「……ちょ、調査隊………?」
と。リヒトの口から突然飛び出した提案に、カンパネラはまたころりと首を傾げた。
フェリシアを体調の座に据えた、トイボックスの真実を追及するものたちの集まり……というよりは、どちらかというと子どもたちのお遊び集団のようなものに聞こえる。調査隊と銘打つが、ひとりぼっちにならないための、というのがおそらくは本質なのだろう。
けど、わたしは、そんな。そうやって弱音を口にしようとして、カンパネラは躊躇っていた。きっとリヒトは、カンパネラやアメリアのことをひとりぼっちにしないためにこうやって言ってくれているのだ。自己嫌悪や遠慮からとはいえ、提案を退けるのはその想いを無下にすることにはならないのだろうか?
「あ~……う、え~……と……」
右往左往。目に見えた迷いの、その果てに。
「………じゃあ……は、はい……うん。」
こくり、と頷いて。カンパネラは入隊の意思をやんわりと示した。若干こう、無理をした感じは否めないかもしれないが。
さて、アメリアはどうだろう。カンパネラは美しい青の少女の様子を窺うだろう。彼女は一人での旅路を進むのか、それともひとりぼっちにならないのか。答えが是であれ否であれ、彼女は肯定も否定もしないだろう。
《Amelia》
「調査隊……ですか?」
このトイボックスについて調査を進めようという……互助会のようなものらしい。
正直言って願ってもない申し出だ。
一人での調査に限界があるのは事実だし、信用についてもフェリシア様がリーダーと言う事で花丸をあげたいくらいだ。
入隊に条件が無い、というのもとても良い。
オミクロンのドールがそういった事を気にするのは事実だし、なにより尊敬するカンパネラ様と共に入るのは親交を深める上でとても有効と言えるだろう。
正に文句の付けようがないパーフェクトな提案だ。
「そうですね……アメリアは、少し考えさせて欲しいです。」
……けれど、今はまだそれに乗る事が出来ない。
何故なら今アメリアは調査を進めており、どれほど疑われているか分からない以上下手に参加して迷惑をかける訳にも行かない。
かといってただ断るのは目の前の親友に失礼だ、とそう考えたアメリアは具体的な期日を伝える。
「次のお披露目の後、アメリアが無事だったなら答えさせて頂きたいです。」
「そ、」
息を飲んだ。
「そんなこと、言うなよ」
ふにゃ、とへこたれた声になってしまった気がして、リヒトは拳をぎゅっと握って、膝の上に置いた。希望ばかりで足をすくわれちゃダメから、きっとこの言葉は正しいのだけれど。
でもだってそんなの、そんなの。考えたくなんてなかったじゃん。だけど正しいから、そんなこと言って、諦めちゃいそうな光に手を伸ばしたのは、ただの。
「……っああもう、了解!! 絶対な、絶対な! 約束だからな!! 破ったら許さないからな、このっ……棺の中にシーツ詰めまくって寝れないようにしてやるから!! それから、えっと、アメリアの洗濯物だけ裏返しにしてやる!! あと、あと……あ! アメリアのこと見る度に『わっ!!』って後ろから脅かしてやるからな!! それから、ええと……ええっと…………なんでもだ!!
あーくそ、締まんねえなあ……!!」
困惑と戸惑いと引き止めたい気持ちと、ちょっと……いやかなりの苛立ちを元にリヒトはわめきたてる。カンパネラがびっくりするだろうから後でちゃんと謝っとかなきゃ、だけど、今はほんとーに何とか言ってやりたかった。考えうる限りの嫌がらせを叩き付けてまで、答えを確かなものにしたかった。
閑話休題。
「でも、カンパネラが話してくれてよかった。少なくとも……二人が仲良く出来そうで、良かった」
しばらく暴れて落ち着いたあと、思い切って呼んでみて良かった、と彼は笑って、ラウンジの小さな歓談を纏める。……なんだかなあなあになって、上手く纏まりはしなかったけれど、それでも。無理やりにでも手を繋げて、良かったと思う。
新しい乗客を乗せて、銀河鉄道が続くように。彼女が望む場所へと行けるように。星座を作るのはみんなの意思だが、星を集めるのは彼の仕事だ。
(……帰りたくないなあ)
そう思うのは、これでもう何度目だろう。テーセラの実技授業終わり、リヒトは息をついて立ち上がった。二三本の木の向こうに寮の小さな姿が見えていて、どうにも足を動かす気になれなかった。疲れていたし。
……全て知る前から、全て知った後も、時折、ここから見る寮と草原の景色が、まるで絵画のように見えた。自分の居ない場所、まあ、全部空想なんだけれど。今日はとりわけ、それが強かった。
「……はーーー……」
木に寄りかかって、ぼうっと見ている。幾つかの背が遠くなる。いつもの鞄にも意識を割いて、その中のノートにも注意していたから、頭を使った。いつもよりずっと。
授業中は、視野が狭くなる。集中しないと課題をクリア出来ないし、体の動かし方だって、上手く考えないと繋がらない。本能で動いているようで、実はみんな、ロジックに基づいた動きをしている。そこがコワれてしまった以上、リヒトは他の誰よりも頭を動かさなくちゃいけない。他の子を気にしている暇なんてなくて、自分のことで精一杯になる。その反動か、授業後のリヒトはぼんやりしがちだった。
だから、声を掛けられるまできっと、気づかなかったんだ。
────本当に、それだけ?
《■■■■■》
今日も今日とて青い花と青い蝶探し。
探しものは高いところにあると誰かから、どこかから聞いたことがある。そのためか今サラがいるのは木の上。枝から枝に飛び移る姿は動物で言うところの猿。頑丈で運動能力の優れているテーセラモデルとしては満点の動き。
しかし飛んでも移っても視界に入る青は湖、空、あと花の噂話。ピンクだったり水色だったり、赤色だったり、黒色だったり、紫色だったり、白色だったり、オレンジ色だったり。
いや、お花にしてはやけにでかいオレンジ色だ。
「あっ」
よく凝らして見てみれば花ではなかった。リヒト・トイボックス。典型的なジャンク品。嫌いなジャンク品。
話したくない気分でもない。
声をかけてあげよう。
気分が沈んでいる。
今なら嫌いじゃないかもしれない。
彼が寄りかかっている木に乗り移り彼らの腕に足を引っ掛け宙ぶらりんの状態で話しかける。今の自分はさながらコウモリのような格好だろうか。
あれ、でも眼の前のジャンク品は頭が下にある。
「なんか、変? リヒトサンの足が浮いてて頭が上にある。こんにちは。」
「あ、おい……ちょうだ」
声の方を見上げたその瞬間、過ぎったものに、凍り付く。一瞬、ばっと目線を逸らして、嫌な音を立てて軋む胸に見ないフリをした。ひっくり返ってゆっくり揺れてる、のんびりとしたあの子の名前は、何だっけ。オレはどんなふうにそれを呼んでいたんだっけ。どんなふうに話しかけていたっけ。記憶はあるのに記憶が無くて、上手く呼吸が出来ない。視界の端を過ぎった青い蝶が、嫌に楽しげに見えてしまった。
だから、ごめんなさい。
夢を見るアリス。
彼は、貴方が分からない。
「………………っ」
コワれたココロは迷ったけれど、結果、誤魔化すことにした。大丈夫。覚えてなくても、推測できる。オレはこの人とどんな関係だったか考えられる。浅い呼吸を二三度。そして宙ぶらりんになった、チェシャ猫のようなあの子にまた、振り返る。別に、別にいいさ、空っぽの身体は捨て置いたって。誰に蔑まれ、苛まれたって。つぐないは今日もここにあって、決して緩むことは無いから、リヒトは安心してその苦しさを飲み込むことが出来た。全て、自分がコワれて生まれてしまった罪で、彼女を巻き込むことは無い。
────いたい、気はする。きっと気の所為。気の所為じゃなくても、気の所為にする。
「お、オレか、オレだよな。オレしか居ないし……えと、こんにちは」
名前を呼んでくれたのが苦しい。名前を覚えてくれていたのが苦しい。白ウサギが罪状を読み上げているように、引きずり出されたハートのジャックのように。それでも、それは彼自身の欠陥にほかならないから、彼は大きく息を吸って、出来る限り普通に、話した。欠陥品でも、数をこなせば、だいぶ上手くはなるもので。
続いて、『さかさまだけど、降りれる?』と聞いたのは、関係性を思い出せないが故の、探り探りの質問だった。大丈夫、頭を回せ、コワれてるけど多少は使える。
《■■■■■》
「あおい、蝶? どこどこ」
求めていた物の言葉をテーセラの耳は一音もこぼさず拾いきった。逆さまのまま器用に体や首を動かし視野を広げるが残念ながら拾えても捉えることはできない。
?
あ、嫌いかもしれない。
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ思った。
眼の前の人参頭は息を深く吸って吐く。
壊れたのかも。
壊れかけかも。
すでにジャンク品は壊れているのか。
「リヒトサンしかいないでしょ。
あっ、なるほど。」
作られてから年月の経ち酸味の強い紅茶のような目は同じような色をした人参頭を見下ろす。
ようやく逆さまの世界に気づききれいな着地を決める。70点。
両手でバランスが取れないからか少し蹌踉めいた。残念今日も右手がお留守。
「いつもより変なの。走りたりなかった?」
どこか他人行儀の貴男にはてなを並べ今日の授業を思い返す。確か確か今日は授業で走った。でも足りなかった。もっともっと走りたかった。走れば忘れられる。嫌いも好きも。わからないも。
そしてすっきり。
そんな気分?
走ろう、全部忘れればそれで元通り。
悪いのは可笑しい周り。
「あー、いや。むしろ、なんか、走りすぎて疲れた……っていう、か」
『出来損ないだからなあ』と笑って、リヒトは自分のカバンを拾い上げた。尋ねてきてくれる声に棘は無いから、少なくとも仲が悪かった訳じゃあないのだろう。そう願いたい、彼はエーナモデルとかじゃないから、貴方の『嫌い』もよく読み取れない。一人で勝手に動揺しているのを俯瞰する、やけに透明な自分が、上手に自分を動かしていたから……少なくとも言葉は、ちゃんと口から出た。
ごめんなさい。
忘れるより、忘れられる方がきっとずっと辛いから。自分のせいでそんな目に遭わせてしまってごめんなさい。
コワれてしまって、ごめんなさい。
「ええと……見たことあるの? 青い、蝶」
名前、名前を思い出さなきゃ。違う、思い出せやしないんだった。じゃあどうしよう、と迷って、青い蝶の話をもう一度拾った。さっきの言いぶりだったらきっと、この人は青い蝶を探してるはずだ。ノート見せたかどうか、覚えてないけど、見てないなら見せて、教えなきゃ。それが彼に出来る唯一のことだったから。
また、つぐないの音がする。自分勝手で、独り善がりな、つぐないが更に締まってく。
《■■■■■》
「ふーん。変なの。」
テーセラなのに疲れた? 欠陥品ジャンク品。
彼の隣に腰を掛け背中を木に預ける。今日はふわんとしないカッチカチ。ちぇ、おじいちゃんは腰を痛めているようだ。
せっかく落ち込んでいるのなら一緒に走ろうと思ったのに。
ちぇっ。
「あるよ。
青空の破片。誰か、が……教えてくれたの。
あっ、思い出した。鳥だ。真っ白な鳥。」
青い蝶。青空の破片。
今捕まえたいものナンバーワン!
ゆったりとしたふわふわのお花のベッドに座っていて。そばにいた白鳥サンが教えてくれたの。
教えてくれたあとはどこかに羽ばたいて行ってしまった白鳥サン。今はどこを旅しているのだろうか。もしかしたら他の仲間と一緒にお姫様でも迎えに行ったのかもしれない。
「……だよな、変だよな」
テーセラなのに。ドールズなのに。トイボックスの人形なのに、帰りたくないとか変だよな。ココロがあるとか、変だよな。……それがほんとにいい事なのか、まだ分からない。
「ま、真っ白な、鳥……? えと、それって、その、ホントの鳥?」
あまりに不思議な話で、リヒトは思わず聞き返した。というか、聞き返した後で少し後悔した。もしかしたら、普段の自分はここで聞き返しなんてしなかったかもしれない。サッと心臓が冷える気持ち。
トイボックスに鳥はあまり居ない。と、いうか、深海なのを知っている以上、いるとも思えない。魚の居ない湖。鳥のいない森。猫のない笑顔すら木立の向こうの夢。
「とっ、とにかく、その青い蝶に関してなら、オレも見た事あるよ。ええと……なんか、思い出したりした? 青いちょうちょ、見た時」
話、変えよう。さっきからずっと、手探りの不器用さで話している。木に背中を預けた彼女の方をちらりと見ながら、時折梢の先を見すえて、空も、草も、ゆらゆら目線を動かして。そして、できる限り明るく、間違えないように平静に。声色の舞台裏が真っ白な台本を持って走り回っていることを、悟られないように。
……ちょっとだけ、この子の事が分からない。好意も嫌気も見えないうえに、知らない世界が見えてるみたい。見えない、見えない、見えないものには不安げな霧が入り込む。もしかしたら、嫌われてるかも、なんて、憂慮が。今更、ほんとに、今更。
《■■■■■》
「うん。白鳥。
とっても綺麗だったよ。また会いたいな。瑠璃色の瞳が印象的でさ。」
今思い出してもとても優美という言葉が似合う鳥だった。お話も上手、だった、気が、する。
あまり覚えていない。
「思い出した、というか。
夢で見たんだ。
確か、えっと。
兵隊さんの真ん中を歩いていたときだ。
その後兄さんと朝食をとって。」
近くにあったら小石を数個取りそれを直列に並べる。よし、兵隊さんの整列まんまだ。
そして小石の整列の行き着く先に二本の花を引きちぎり落とせばサラの夢。
サラは何もおかしくない、逆にお前はどうなんだ。とでも言わんばかりに隣に座る六等星を見返す。言葉にしなきゃ伝わらないというのに。テーセラとしては及第点といったところだろうか。
兄さんとの朝食の時間がいかに楽しかったか喋ろうとした、が。残念ながらその思い出がサラの口から紡がれることは無かった。
変な、邪魔者が兄さんとの楽しい思い出に入ってきたのを思い出したから。あの青い髪。もう彼は要らない。ぽいっ。
「はくちょう」
白鳥が、いる?
瑠璃の瞳の、白鳥。そんなに美しいものがもし居るのなら、会いに行ってみたい。ぽかん、とした頭の中で、瑠璃を細めた美しい鳥が、真っ白で細く長い首を曲げた。夢みたいだ。……だけど、誰かの例え話だろう。多分。
「へいたい」
……兵隊さん?
そんなに物騒なものが居るのなら、叶うことなら会いたくない。次第にはてなマークのたまってきた頭の中で、くるみを抱えたおもちゃの兵隊がざっ、ざっと行進する。誰かの例え話……なのかな?
ああ、やっぱりちょっと難しい。比喩や例え話は頭の正常に動く者にしか使えない、美しい言語だ。
「……え、と。とにかく、話に聞いたことが、あって。
擬似記憶……多分擬似記憶、だよな、それ。お兄さんとの、朝ごはん。
えっと、だから、擬似記憶の中でやったこと、とか、見たものとか。そういうのを、こっちの……トイボックスの中で探してみると、いいかも、知れない」
『オレはそうやって見つけて』と付け加えた。……正確には、区別をつけられていないのが正しい。擬似記憶のスキマを思い出す行為と、青い蝶を見る行為。リヒトにとってそれはほとんどイコールに近いが、反面、オディーやアメリアには青い蝶を見たと言われたことがない。
だから、伝えなくてはいけないことが、迷いながらの言葉になった。言葉にしなくては伝わらないが、上手い言葉が見つからない。だんだんおかしくなっているみたいだ、自分の方が。夢と夢のパノラマの向こうに、この子に、言葉で、翻弄されている。
「……でも、思い出すのって、いいことばっかじゃなくて」
どこから言えばいいだろう。何を言ったらいいだろう。何を言って欲しいんだろう。どう、役に立って欲しいんだろう。それがわからない。ああ、また、及第点に、指が掛からない。
《■■■■■》
サラの夢話を壊れた蓄音機のように繰り返すジャンク品。
そんなに気になったのなら今度湖にでも食器棚にでも案内してあげようか。
正規品が立ち並ぶ中欠陥品同士背中を丸めビクビクしながら。
やーだね。
「あっ、疑似記憶……そっか。
ごめんまた混じっちゃった。あれ、でも。いや。そっか。」
あれ、兄さんとの朝食は疑似記憶の中? いや違う。サラの疑似記憶は愛しい兄との花畑での幸せな記憶。
朝食は関係ない。疑似記憶じゃない。じゃあ夢? 違う、絶対に違う。本物、絶対に本物。
「探すのを提案したり、やめさせようとしたり、どっちがいいの。」
イラつきを隠そうともせず空っぽではない方の手で彼の手を握ろうとする。貴方が拒絶しなければサラの手はテーセラの頑丈な手を強く押さえつけ、こちらに視線を向けるよう誘導する。
正解を頂戴。ボクにどうしてほしいのか教えて。
「────」
手を捕まえられて、とうとう展翅された青い蝶のように、リヒトは目を丸くして。怒らせてしまったという焦りが、帰って心を落ち着けた。摩訶不思議の森が、ようやく姿を表してくれた。
夢でも、忘れ物でも、何でも、どうにでもなれ。結局、欠陥品の出来損ないドールに出来るのは、今までの道を馬鹿に信じて、一歩ずつ繰り返すことだけだから。がむしゃらに、何も見えなくなるくらいまで、自分の全部をすり減らして、いつかどこかに、みんなの所に辿り着けると、信じるだけだから。
「わかん、ない。……わかんないから、オレが知ってることを言う。教える」
青い蝶についても、それ以外についても。馬鹿らしいかもしれないけれど、とにかく見て、信じて。信じられないなら、これは全部夢として、いつもみたいに花と踊って、木と跳ねて。手を解くことはしないまま、息を飲んでリヒトは続けた。
「……その、オレが見せる事の中で、気になったことがあったら、自分で調べて。きっと、君は、キレイなはずだから、」
忘れてしまったこの人が、ちゃんとみんなの元へ辿り着けるように。夢のような言葉の森の中を掻い潜って、ようやく“役に立ち方”を見つけたから。
「───お披露目に行っても、ご主人様には会えない。
だからみんな、色んなやりたいことのために、トイボックスを調べてるんだ」
震えた声でそう言って、ノートを開いて、差し出して。『馬鹿みたい』って嗤われることを、恐れて、少し、期待して。捕まえられた自分の手が緊張で冷えていることに、彼はまだ気づいていない。
《■■■■■》
「いらない。いらないって。」
それはきっと正解じゃないよ。
ジャンク品の言葉なんて信じない。何を言われたって。
一生懸命耳をふさぐもかたっぽ空いてりゃあ、テーセラモデルの優れた耳をお持ちなら。一音もこぼさず拾えてしまう。
【お披露目】【主人はいない?】【みんな?】
皆? 皆って、オミクロンのクラスメイト? それともこの、トイボックスのドール達? 誰が可笑しいの。誰がジャンク品なの。
手に込める力が強まる。
相手の手が正常じゃないことなんてわからない。
そんなこと今のサラにわかる訳が無い。
何も知らないのはだぁれ?
何もわからないのはだぁれ?
仲間外れ? いや、見えていないだけ。
「嘘つき。馬鹿みたい。
……品の、ジャンク品のくせに。欠陥品のくせに。壊れてるくせに。オミクロンのくせに。えっと、あと。走ることしかないくせに。」
悪口を言い慣れてないくせに、変なところで頑張るから。サラのメモリーにある悪口をありったけ並べる。
役に立たない情報だけくれちゃって。
吐き捨てられた言葉は彼にぶつかりそこらに転がっていく。それがどうも嫌になる。
相手の目をみることはせず視界に映るのは二人の雰囲気とは真反対の和やかな自然。一方的につながっているのは手だけ。心は分かり合えるだろうか。繋がれるのだろうか。
「こんなノートいらないよ。」
ジャンクが悪化するだけ。
差し出されたノートをひったくりポケットからペンを取り出す。いつもなら夢を紡ぐペン。今は六等星の輝きを、夢を潰すペン。
利き手ではない左手でペン先を潰してしまうような筆圧で彼が見せてくれたページを消しに行くように大きくバッテンを書く。
幼稚なドール。ビリビリに破いてしまえば、湖に落としてしまえば良かったのに。自分は相手を嫌うのに自分は嫌われたくなかったのだろうか。
「いらない」
嘘つき。馬鹿みたい。ジャンク品のくせに。欠陥品のくせに。壊れてるくせに。オミクロンのくせに。走ることしかないくせに。
「……まあ、そっか」
嘘つき。馬鹿みたい。ジャンク品のくせに。欠陥品のくせに。壊れてるくせに。オミクロンのくせに。走ることしかないくせに。
「…………そうだよな」
嘘つき。馬鹿みたい。ジャンク品のくせに。欠陥品のくせに。壊れてるくせに。オミクロンのくせに。走ることしかないくせに。
……大きなバッテンがついたのは、ノートの2ページ目だった。リヒトはそれをぼうっと見ていて、一瞬だけ、瞳孔が開いた。発信機の付いている、でもそれを彼女は知らない、作り物の眼が。随分強くペンを握っていたから、裏まで滲んじゃってるかもなあ。仕方ないよ、だっていらないんだって。だから短く息を吸って、やれることはまだ、まだ、あるよ。
「要らなくても、他の、誰かにも聞いてみて。青い蝶、知ってる子、結構居るし。手がかりには、なるだろうし……これもいらないなら、いいよ。これ以上、オレがやれること……ないから」
随分とするする口は回った。きっと、さっきから顔色は特に変わっていない。大きな大きな否定の証をゆるりと見つめて、静かに表紙を閉じた。思い出せた訳じゃない確信が、確かに大きくバッテンを描く。自分と、この子の間に。結局、名前聞いてない。
……ああ、忘れてた。
この子、
オレのこと、嫌いなんだった。
《■■■■■》
「……」
気まずい。
大きくバッテンが本に閉じられていく。刻まれた。サラの拒絶が。
でもいいはずだ。可怪しくないんだから。おかしいのは彼らだ。
大丈夫。
そう自分に言い聞かせても、夢を壊したペンを持つ手はなんだか痺れていて、一瞬でも気を抜いたら落っことしてしまいそうだ。
彼になんと声をかければよいのだろう。これはきっと意見の合わない喧嘩。喧嘩をしたあとは仲直りをしなければいけない。でもきっと今じゃない。だから、せめて。せめての別れの挨拶を。
「またね。」
そう言い残してサラは壊れた六等星を置いて夢へ逃げましたとさ。
「……じゃあね」
ちかちか、燃える六等星は、現実の中に置いていかれた。あんなに激昂していたのに残してくれた別れの挨拶に、こちらも反射的に言葉を返す。……“また”は、言えなかった。さあて、こちらも帰らなくっちゃ。そう思って、ノートを拾って立ち上がろうとして……。
ずくん。
「────っ」
嘘つき。馬鹿みたい。ジャンク品のくせに。欠陥品のくせに。壊れてるくせに。オミクロンのくせに。走ることしかないくせに。嘘つき。馬鹿みたい。ジャンク品のくせに。欠陥品のくせに。壊れてるくせに。オミクロンのくせに。走ることしかないくせに。
(ま、っ……まだ、まだ、まだ、っ、まだまだまだまだまだ……!)
悲鳴は、まだ言っちゃダメ。今更のように痛み出す傷が、ずくずくと膿んで顔を出す。思わず両手で口元を覆って、俯いた。弱音は、まだ言っちゃダメ。苦痛も、まだ言っちゃダメ。思い出す時みたいに痛いわけじゃないのに、忘れる時よりもずっと痛い。それでもそれは、言っちゃだめ。
下を向いた弾みでノートを落とした。ぱらりとめくれて、表紙が揺れる。まだインクの乾ききっていない、大きなバッテンが目に映った。
このノートは、リヒト・トイボックスの価値の全てだ。
「……っ…………!」
もういっそ、あの子みたいに、大きくバッテンを書いて否定出来れば楽だった。落ちこぼれは落ちこぼれらしく、何も知らずに。だけど、溢れかえったバッテンの間から、きらきら輝く誰かが見えたから。手伝って欲しい、と、求める声が、自己否定の向こうから聞こえたから。要らない体を、薪で満たしてくれたから。怖かったけど、燃えてみようと思ったんだ……そしたら光って、気づいてもらえるかなって。
塞いだ口の代わりに、閉じた瞳から零れたものが雄弁に語る。飲み込んでしまった感情の代わりに、眦が潤んで静かに応える。ダメだ、ノート、濡れる。後ずさって、木に背中を預けて、座った。雨が止んだら、この木陰から立ち上がろう。そして調査しよう、何処でもいいから。……それが、価値の全てだから。
「……やること、やろう」
嘘つき。馬鹿みたい。ジャンク品のくせに。欠陥品のくせに。壊れてるくせに。オミクロンのくせに。走ることしかないくせに。
走ることしか、ない。
────だからだよ。
一度見つけたら次々と見つけられる星のように、トイボックスには違和感が満ちている。価値も意味も見つからなくても拾い集めよう。誰かの星になるように。そうして出来た価値の塊を……例え一度否定されたとしても……大事に鞄に入れて、リヒトは木陰から平原の方へと踏み出した。濡れた目元は、太陽が乾かしてくれる。きっと、願った通り、跡形もなく。
トイボックスの日和は本日も快晴だ。寮を一歩歩み出たあなたは、あの偽物の天蓋から無条件に降り注ぐ出鱈目の陽光を虹彩に浴びて、眼を細めることだろう。
光が降り注ぐ一体の草原は時折流れるそよ風によって穏やかに揺れて、遠くの森林からは鳥達の鳴き声が聞こえてくる。……空を舞う鳥の姿はひとつも見えやしないが。
寮のすぐそばには欠け落ちた翼を持つ女神像のモニュメントが添えられた噴水が、清涼な水の音を奏でており、先生が干したのであろう洗濯物が風に揺られているのが見える。
この近辺は平和そのもので、普段と特別変わったようなところは見受けられないだろう。
「……はくちょう」
あの子の言う“はくちょう“を探して上を見てみても、鳥の影のひとつもない。夢のようだと思った。まだあの木立に、喩えと夢想のあわいに、足を浸しているような気分だった。
ふと、洗濯物がズレているのに気づいた。洗濯ばさみがひとつ外れて、風で動かされていたらしい。なんてことは無い、異常とも言えない日常の一幕。謎も、秘密も存在しない。戻さないと、もしかしたら飛んでいくかもしれない。リヒトは洗濯物に手を伸ばして、
「……あ」
自分の手の甲に、大きくバッテンが書かれているような気がした。思わず手を引っ込める。ぱちぱちと瞬きをして、手を見下ろした。もちろん落書きされているなんてことはなくて、デザインされた時のままの少年らしい手の甲だった。何度か引っ掻いても、傷をつけようとしてみても、ずっとこうだった。
リヒトは顔を上げた。作り物の空が青くて、吹き渡る風は緑色。時折強く風が吹いた時だけ飛んでくる、噴水の飛沫は冷たい水色。
真っ白な洗濯物の中で、独り。
あなたは柔らかな草地を踏み締め、平原を越えて広い敷地内のちょっとした湖畔に辿り着いた。
湖畔といっても、規模感は小さく、おおよそ2500㎡と言ったところか。
湖の水は澄み渡っており、いつ掬っても澱みひとつ見られない。たまに近辺に自生している広葉樹から落ちた葉が浮いているぐらいである。
「あれか、“がーでん”」
カンパネラの話通りだ。ぶくぶくと湧く泡の方に向かって走り出す。……その途中、じく、と痛み出すような、周回遅れの劣等感が密かに顔を出す。足取りが、一歩、遅れていく。
本当は、焦りのひとつ、無い訳ではない。もしみんなが、全て知っていたら。もしみんなが、自分の知らないたくさんのことを知っていたら。このノートに、書いてあることに、価値が無くなっていたら。
(んな訳ないと、思えない…から)
探すことで、求めることで、常に不安を潰し続けるしかない。自分の欠けを補完して、なんでも出来ると元気を回して、誰かの役に立つしかない。止まりかけの足取りを奮って動かして、
(……いつまで?)
いつまでも、と呟いて、リヒトはあぶくの立つ湖面の近くに、服を濡らさないように近寄った。
泡が立っているのは湖畔の沖の方に近しいあたりで、あなたが湖畔の周囲を歩きながら近い位置まで歩いて行こうと、その正体を掴むことは難しいだろう。
水の中に入っていかなければ、カンパネラの言っていたことを確かめるのは厳しそうだ。だがそうなると制服を派手に濡らしてしまうことは避けられまい。
無理に探しに向かう必要はないのだが、果たしてあなたはどうするだろう。
次第に、足取りは重くゆっくりになっていく。次第に、目線は水面を逸れて地面へ降りていく。走ることしかないくせに、あの時みたいに、湖畔を走って振り切ろうとは思えなかった。ずぶずぶの罪業の足枷で、随分と疲れ切っていた。
価値の全ては、紙片一枚。
もしそれすらもみんなが知っていて、『もう知ってるから要らないよ』なんて言われて。大きなバッテンを書かれてしまったら。
のろのろと進んでいたはずの歩幅はいつの間にかゼロになって、ぬかるんだ足裏の感触に、リヒトは瞠目した。
自分にしか出来ないこと。
自分にしか出来ないこと。
(────ある訳ねえよ)
それでも、
自分がやるべき事なら、ひとつ。
確かに見つけているのだ。
後暗くて、面倒くさくて、気持ちの悪い劣等感が振り返る。あの日の高潔な使命感は、後悔と罪を拭う度に汚れていったから。あの日の純粋な絶望は、罰が染み込んで酷い臭いを放つから。
だからもう、これしかないよな。背を焼く業火の方を向いて、ぬかるんだ靴で歩いていく。学園の入口は向こう側、走る気にはなれなかった。
リヒトは、迷うこともなくその場へ立つことができる。
北端の階段、二階と三階の間に位置する踊り場。
あの扉は、踊り場の壁にぴったりと馴染むように存在した。一見何もないように見えるため、多くのドールはその扉の存在に気が付かず、前を通り過ぎてしまう。
まるで、ドールの生活には不要な区画だから、巧妙に隠されているかのようだ。
しかしよく観察すると、扉枠はきちんと存在している。ドアノブなどは存在せず、故に開き方が定かでない扉だった。
嫌だ、と。そう言うのは簡単だ。とても簡単だ。あの場所は誰にとっても酷い傷になる。自分もそうだと言えば、きっと、そうしなかったことを理解してくれる。けれど、ああ、あいにく。自分についていたはずの、深くて未だに痛む傷、その場所を忘れてしまったのだ。
人影の無い頃を見計らって、階段を登る。あの日の暗い一段を、あの日の手を引かれた一段を、登る。そうして辿り着いた薄く細い扉枠の前に立って、リヒトは息を飲んだ。
炭鉱の金糸雀は、綺麗な声を挙げて死ぬ。
じゃあ、自分は?
コンコン、と試しに扉をノックしてみて、今度は辺りを見渡した。近くの壁に押せそうなものは無いか、もし近くに置き物なりなんなりがあったなら、その下や、裏を見るようにしゃがんだ。
ぼんやり、していた。
なんのフリをしていようか、どう取り繕うか、考えられないくらいには。
(バレたら、言い訳、どうしようかなー……)
壊れているのに無理やり回し続けたからか? 出来の悪い頭はなんだかぼんやりと揺れて、ゆっくりとその回転を止めていた。油を差さなかった歯車のように、電気の止まったメリーゴーランドのように。
扉は確かにそこにあるが、周囲を見渡したり渡り歩いても、手掛かりらしきものは見つからない。
強いて言うならば扉の脇には一つハイテーブルが置かれており、その上には深紅の薔薇が生けられた花瓶が設置されている。だがこのオブジェクトはこの学園の至る所に装飾として飾られており、なんの変哲もないように見られた。
ハイテーブルの横に身を預けるように座り込んで、目を瞑った。何も見つからなかった。何も見つからないのは、結局分かってた。価値の全てを抱きしめて、紙片の擦れる軽い音。
ちょうちょ。ちょうちょ。
青いちょうちょ。
「身を投げる、炎をくれよ」
ぽつりと呟いたその本音が、怖くて仕方ない青い誘いが、リヒト・トイボックスの存在証明が、21gに充ちますように。
そして、長いようで、一瞬で、安寧は瞬きのように去っていく。そして、カラカラに乾いた喉の奥のような現実がやってくる。他クラスのドールのきゃらきゃらした声と、足音を伴って。リヒトは素知らぬ顔で立ち上がった。
何より嫌いで、何より怖くて、手を伸ばさずにはいられない、青い、ちょうちょ。逃げるように、求めるように、それでいて何も知らないように、リヒトは結局、その場を去っていった。青いちょうちょ、青いちょうちょ。……ううん、なんでもいいや、もう。
裁きをちょうだい、
赦しをちょうだい、
この✕を消せるほどの。