Mugeia

【学園1F ロビー】

Brother
Mugeia

《Brother》
 何も考えたくなかった。

 変貌とも呼べるグレーテルのことも。お披露目から帰ってきたウェンディのことも。エーナクラスの先生のことも。

 何かを考えなければならない。
 けれど、もう、疲れてしまって。何を考えても、結論は変わらない。なのに、何を考えればいいんだろう。

 死にたくない。

 同じ感情を、ミシェラにもラプンツェルにも、アストレアにも持っていた。
 ああ、だから、彼は駄目なのだ。

「………ミュゲ?」

 逃げるように寮を出て、ロビーに着いた頃。昇降機から出て目についたのは、愛おしい白銀のヴェール。ふわふわと波打つ綿菓子のような髪が揺れているのが見えて、自然と声が出てしまった。

 呼びかけて、後悔する。
 今、誰よりも会いたくなかったから。

「………」

 自分から声をかけたくせに、ブラザーは気まずそうに顔を伏せて黙っていた。可愛い可愛い“妹”の靴の辺りを、目を逸らしながらも見つめて。

 今日はとても嬉しい日だ。
 ハッピーでラッキーで笑顔な日。
 特別で特別で仕方ない日。
 同じオミクロンであったアストレアはお披露目へといってしまった。
 それをミュゲイアがどうこうすることは出来ず、もうあの子の笑顔も見納めかと思いながら眠りについてしまえばお披露目は終わっていた。
 先生に起こされて、窓の外の太陽に元気よく挨拶をして制服に袖を通す。
 柔らかい制服がミュゲイアを包み込んで、朝食の美味しそうな匂いが鼻腔を擽る。
 今日もトイボックスは変わらない。
 何かが欠けても変わらず完成された箱庭は回り続ける。
 一度、薇を巻かれた人形は止まれない。
 先生も変わらない。いつもの素敵な笑顔。
 ミュゲイアは彼の言葉と新たな仲間に目を輝かせた。
 そこに居たのはデュオクラスのお友達。
 グレーテル。
 まだ、仲直りの出来ていなかった彼女がこのクラスへとやって来た。
 それがミュゲイアが先生にあの事を話したからかは分からない。
 いや、もうあんな些細な出来事殆ど忘れていた。
 ただ、嬉しかったのだ。
 お友達がやって来てくれたことが、お友達が増えることが。
 笑顔が増えるのが嬉しくて堪らない。
 変わってしまったグレーテルの事も今はどうでも良かった。
 笑顔しか見ていないミュゲイアに中身なんてどうでもいい事。
 幸せな一日の始まりに喜びながらミュゲイアはニコニコと笑いながら軽い足取りでロビーを歩いていた。
 ふと、ミュゲイアを呼ぶ声に後ろを振り向く。
 そこに居たのは白銀のドール。
 いつもの煌めくアメジストと目は合わない。
 名前を呼んだだけで顔を伏せて黙っていた。
 彼が何を考えているのかはミュゲイアには分からない。彼の思いも分からない。


「どうしたの、お兄ちゃん? オミクロンのお友達が増えたのに元気ないの? それとも、アストレアがお披露目に行ったから? 何でもいいけど笑って! 笑えば元気になるよ! ミュゲね、お兄ちゃんの笑顔が大好きなの!」


 ふんわりと薫る鈴蘭は微笑む。
 焼き付けるようにそのソプラノの声でお兄ちゃんと呼んだ。
 そう呼べと言ったのは目の前の彼なのだから。
 ミュゲイアを困らせる彼の言葉なのだから。
 彼の笑顔の為だけにミュゲイアは今日も妹をした。
 機嫌良く、思ってもいない呼び名で彼を呼ぶ。
 つまらない兄妹ごっこの幕が今日も上がる。

《Brother》
 “お兄ちゃん”。

 ああ。ああ。ああ。ああ……。

「……ごめん、やっぱり少し寂しくて。ちゃんと切り替えなくちゃ、新しい子が来たんだから」

 にっこり。
 顔を上げて、ブラザーは微笑んだ。宝石のように輝くアメジストを細めて、甘やかな音を紡ぐ。困ったように眉を下げては、今度は意気込むようにぐっと両手に拳を作ってみせた。いつものように、どこかフワフワした、“おにいちゃん”。

 コアの奥底で、何かがドロドロと蠢いている。上辺だけの自己嫌悪でソレから顔を背けて、ミュゲイアを柔らかく見つめた。目が合えば蕩けてしまいそうな甘さを孕んだ紫が、その視覚情報が。“妹”への愛情を、脳に送り続ける。

「ミュゲは何だか元気だね。
 新しい子がきて嬉しい?」

 ミュゲが嬉しいなら、おにいちゃんも嬉しいよ。
 にこにこ、そんな言葉を続けた。一歩距離を詰めて、自分と同じ白銀に手を伸ばす。拒まれないのなら、髪のひと束をガラスに触るような手つきで撫でてるはずだ。慈しみを込めた、博愛の手で。だってブラザーは、おにいちゃんだから。
 そう、おにいちゃん。おにいちゃん。おにいちゃん。おにいちゃん。おにいちゃん。はあ。

 にっこり。
 笑顔が咲いた。
 ミュゲイアの大好きな笑顔。
 恐怖を感じるよりも幸せを感じていたいと思うのは当たり前のこと。
 恐ろしい出来事は笑顔で上書きをする。
 笑っているから二人とも大丈夫。
 笑っているのなら幸せなんだ。
 笑うことだけが彼の役目。
 兄らしさなんて求めていない。
 それは口実に過ぎない。
 それで笑うからそう言ってあげているだけ。
 愚かな兄のために。
 愚かな兄には笑顔しかないから。
 花の蜜を吸うように、美味しいところだけを舐めてしまう。
 花自体に興味はない。
 蜜だけが欲しい。
 オミクロンの彼に付き合ってあげている。
 ただそれだけ。
 ただそれだけだから、なんだっていい。
 彼の中身に興味はない。
 必要なのは皮だけ。
 忘れた記憶のためだけ。

「お披露目に行っちゃったもんね。ミュゲもアストレアの笑顔がもう見れないのは残念だなぁ。」

 本当に残念だ。
 あの子の笑顔はもうないのだから。
 残念で仕方ない。
 けれど、アストレアが消えてもオミクロンにはドールが増えた。
 笑顔の数を補うように、二人も増えてくれた。
 しかも、お友達がやって来てくれたのだから。
 喜ばしいことだ。

「とっても嬉しいよ! だって、笑顔が増えたんだもん! それにね、グレーテルが来てくれたんだよ! ミュゲのお友達! これからはもっといっぱいグレーテルの笑顔が見れるから嬉しくて仕方ないの! ……お兄ちゃんも嬉しいでしょ?」

 頭に伸びた手を拒むことはしなかった。
 見上げるようにして、ただ真っ直ぐにその綺麗なアメジストを見つめる。
 彼の思考を掻き乱す笑顔でミュゲイアは喋り続ける。

《Brother》
 煮詰めすぎたジャムみたいな、ぐずぐずになった紫を細めていた。妖艶に艶めく紫水晶は、変わらずミュゲイアを見ている。シルクのように手のひらを滑る髪の毛先まで丁寧に触れて、名残惜しそうに手を離した。人の髪の感触がなくなった手のひらは、妙に軽く感じる。

 ───壊れたラジオみたい。
 今日も笑顔しか浮かべずに喋り続ける最愛の“妹”に、ブラザーはぼんやりと考えていた。それは単なる感想である。なんの意味も価値もない、ただの思考の隙間。
 擬似記憶の“妹”は、どんな風に笑っていたんだっけ。

「グレーテルとお友達だったんだね。それは嬉しいねぇ。
 うん、もちろん。ミュゲが幸せだと、おにいちゃんも幸せなんだから」

 朗らかな微笑みを浮かべて、ブラザーはミュゲイアの言葉に同意する。幼児に向けるような間延びした話し方で、とびきり大切な宝物に笑いかけた。
 こうやって笑えば、ミュゲはもっと幸せになれる。笑顔さえ見せていれば、ミュゲも笑ってくれる。何も難しくない。考えずに得られる手軽な幸福は、麻薬のように甘い。

「ミュゲ、これからどこに行くの?
 暇ならおにいちゃんともっとお話しようよ」

 今日のブラザーは平穏そのものだ。
 ミュゲイアが嫌う、様子のおかしい“おにいちゃん”の姿はない。ひたすらに優しい、愚鈍な“おにいちゃん”。

 その裏側がどうなっていようと、興味なんてないでしょう?

 とろりと溶けてしまったような、アメジストがこちらを見ている。
 真っ白なドールを紫に染め上げてしまいそうな程にそれは垂れて垂れてグズグズにミュゲイアを濡らそうとする。
 優しい触り方でミュゲイアに触れて、髪から手を離す。
 一つ一つの仕草の全てが甘く洗礼されていて、彼の手の感触だけが残っている。
 穏やかな微笑みをずっと浮かべて、甘く伸びた声が頭の中で反響している。
 ミュゲイアが幸せなら彼も幸せ。
 彼が笑っていればミュゲイアは幸せ?
 あの子とこの子の幸せは一緒?
 きっと、笑っているから幸せ。

「うん! とっても嬉しいの! でも、仲直りがまだだから後で話しかけて笑顔にしてあげないと! ウェンディって子は知らない子だけど、お披露目が決まってたのに出れなかったんだね。だから、笑顔じゃなかったのかなぁ? ミュゲね、ウェンディともお友達になりたいの! あの子の笑顔も欲しいの!」

 オミクロンに来て可哀想なんて、思っているのかも分からない。
 笑顔さえ浮かべてくれていればそれでいい。
 笑える子はみんないい子。
 グレーテルだって、良い子なのだ。
 仲直りをして、笑顔にしてあげればずっと笑顔のはず。
 今日も素敵な笑顔を浮かべていたから。

「決めてないよ!
 ………お話? どんなお話? 笑顔のお話? あっ! グレーテルとウェンディの歓迎会もしてあげたいね! きっと喜んでくれると思うの!」

 甘く、ひたすらに優しい彼のお話がどんなものかは分からない。
 何を話してくれるのかも分からない。
 コロコロと笑ってミュゲイアは楽しい話をする。
 歓迎会。新しい仲間のための催し物。
 可哀想な子達への歓迎会。
 地獄の穴に堕ちたアリスのためのお茶会。

《Brother》
「そっか、喧嘩しちゃったんだね。きっと謝れば許してくれるよ、大丈夫。
 ウェンディも優しい子だし、ミュゲならすぐ仲良しになれると思うな」

 適当なことを。
 その場で合わせるだけの、一切の思考を使わない会話。ただにこやかに相槌を打ち、ブラザーはミュゲイアを否定しない。以前のグレーテルと同じなのかすら分からないような人形だというのに、漠然とした希望を甘く喋る。ウェンディにだって、何かあったことくらいは明確に想像できるというのに。
 ミュゲとグレーテルとウェンディ。ふんわり目を閉じて、三人が談笑している様子を浮かべてみる。この世の何よりも尊ぶべき、愛おしい平穏がすぐに浮かんだ。口角をゆるめて、目を開ける。存在し得ない未来を、現実になると思い込んでいる。

「ふふ、それはとっても素敵だねぇ。二人ともクラスに来たばかりで緊張しているだろうし、喜んでくれると思うよ。
 じゃあ、その計画会をしよっか。座って話そうよ、例えば──……、……カフェテリアなんてどう?」

 貼り付けたような愛の笑みを浮かべ続けるブラザーは、ゆるやかに持ち上げた唇を開く。何の話かは決めていなかったが、その話なら誰も傷つくことはないはずだ。生きるとか、死ぬとか、そういうものと何の関係もない話。

 ミュゲイアが拒まないのなら、ブラザーはほんの一瞬言い淀むように言葉を詰まらせてから、貴女の手をとろうとする。掬うように小さな手のひらに手を伸ばし、そっと繋ごうとするはずだ。そうして、ワルツのステップのように軽やかな足取りで、貴女をカフェテリアに連れていくだろう。

 ゆっくりと時間が加速する。
 まるで何も見ていないように。
 何も知らないように。
 このトイボックスでの恐ろしいこと全てから目を逸らすように二人のドールは言葉を交わす。
 恐れも悲しみもないままに、ずっと、ずっと、ゆっくり瞬きをする。
 それはお互いを気遣っているわけではない。
 心配もしていない。
 この二人がこうやってホットチョコレートのような生暖かい沼に浸ろうとするのはお互いを信用していないから。
 皮にしか興味がないから。
 少なくともミュゲイアはそうなのかもしれない。

「……うん! 先生もそう言ってた!
 ウェンディともね、いっぱい仲良くなって笑顔のお話をするの!

 そうだよね! みんなにも言ってあげないと! 早くカフェテリアに行こ!」

 きっと、二人とも喜んでくれるはず。
 他のオミクロンのみんなも誘って、盛大なやつにしよう。

 あの二人の好きなものを沢山用意して、オミクロンの寮を飾り付けて。
 ミュゲイアは歓迎会に喜んで笑う二人を想像しながらルンルンとカフェテリアへと歩き出す。
 繋がれた手を強く握り返すことはせず。
 ワルツを急かすように。
 今にも駆け出してしまいそうな足でニコニコと。

【学園3F カフェテリア】

《Brother》
 添えられただけの手をしっかりと握り返して、ブラザーは踊るように歩いていた。 

 グレーテルとウェンディ、それからジゼル。三人のかわいい妹たちを迎える、とびきり素敵な歓迎会。沢山のぬいぐるみと大きなケーキ、砂糖とミルクがたっぷり入った甘い紅茶。ビスケットやゼリーも添えて、花瓶には溢れんばかりのお花を入れよう。折り紙で作った飾りで部屋をキラキラに。少しだけ部屋を暗くして、準備は万端。不思議そうにする三人を連れてきて、クラッカーの音を鳴らしてあげる。そうして、眠くなるまでお喋りをして………。

 ───……三階、カフェテリア。
 馬鹿げた妄想に浸って辿り着いたその場所で、ブラザーはキョロキョロと顔を動かした。まだ朝ではあるが、ここはドールズの憩いの場、言わば人気スポットだ。二人分、座れる席は空いているだろうか。
 席があれば、ブラザーはミュゲイアの手を離して、飲み物の準備に向かうはずだ。

「ミュゲ、何が飲みたい? いれてあげるよ」

 歓迎会をしよう。
 たくさんの笑顔が溢れた歓迎会。
 何も知らないあの子達の歓迎会。
 落ちこぼれに変身したあの子達の歓迎会。
 堕ちて落ちてやっと手を繋げる距離にまで来てくれたあの子たちへ。
 可愛いお菓子に甘くて噎せ返るホットミルクで迎えよう。
 たくさんのお花を飾って、主役にティアラをあげよう。
 キラキラ輝くお部屋の中で笑顔になろう。
 嗚呼、もしもこれが上手くいけばきっと幸せになれる。
 全身を濡らすほどの幸せに浸りきって、溺れることが出来るだろう。
 まだ、計画も立てれていない歓迎会を夢見てミュゲイアは微笑んだ。
 ふわついた足取りはいつの間にかカフェテリアまで着いていた。
 握られた手が離れれば、その手でスカートを触る。
 名前が呼ばれれば、ブラザーの方へと顔を向けた。

「いつもの! お兄ちゃんならミュゲが飲みたいのわかるでしょ?」

 うーんっと悩む仕草の真似をしてから、にっこりとミュゲイアは答える。
 飲み物は正直何でも良かった。
 別にわざわざいれてくれなくても良い。
 だって、仲良くお茶をしに来たわけではないのだから。
 ブラザーが飲み物の準備に迎えば空いている机の方へと歩こうとする。
 ふと、机に着いてから違和感を感じた。
 カフェテリアで見たアラジンのチラシがなくなっている。
 キョロキョロと見渡して見てもそれはない。
 ミュゲイアは近くで談笑していたドールの元まで近寄り、そのうちの一人の肩をトントンと叩いた。

「こんにちは! 素敵な笑顔だね! あのね、ちょっと聞きたいことがあるの。ここでチラシ見なかった? カフェテリアの机に置かれてたと思うんだけど。」

 ドール達の談笑に割って入るようにミュゲイアは話しかける。
 ブラザーが帰ってくるまでに済ませるつもりではあるけれど、ブラザーが途中で帰ってきたとしても何も問題は無い。

 早朝故に人気の少ないカフェテリアにも、少なからずあなた方のように足を運ぶドールズは存在する。授業の前のティーブレイクで一息吐く為か、テーブルの一角を使用する二人のドールの間にも、マグカップが二つ置いてあった。
 中身の珈琲は湯気が消え、随分量も減っているため、談笑は弾んでいることが見て取れる。

 あなたが歩み寄るなら、声を掛ける前に彼らが話していた内容が僅かに聞き取れるだろう。

「それでね、わたしの友達がエーナクラスの友達に話し掛けたら……全然お話が通じなかったらしいの。何だか不気味な譫言も言っていたんですって。」
「え〜、エーナはお話しする為のモデルなのに……おかしくなっちゃったのかな?」
「詳しいことは分からないけど、でも、いつまでもその状態が続いたらきっとその子はオミクロン行きでしょうね……あら……?」

 二人は歩み寄るあなたの存在にようやく気が付き、話を止めた。あなたにとって見慣れない顔なので、恐らく彼女たちはトゥリアクラスではないのだろう。
 あなたの質問に互いに顔を見合わせると、一方が肩を竦めてみせた。

「さあ、分からないわ。チラシなんて今朝から見てないし……そこにあったなら、近くの床に落ちてるんじゃないかしら?」
「うん、きっと誰かが落としちゃったんだよ。」

《Brother》
 早朝ということもあり、カフェテリアは閑散としている。どこか物寂しくさえ感じられるが、一先ずは二人で落ち着いて話が出来ることを喜ぼう。

「ふふ、わかったよ」

 ミュゲイアにふわりと微笑み、ブラザーは簡易的なキッチンへと向かった。依然として軽い足取りからして、チラシがなかったことには気づかなかったらしい。意図的に思考の端に置いているからかもしれないが、彼の様子が変わることはなかった。変わらない方がいいだろう。

 牛乳と砂糖、たっぷりの蜂蜜。
 冷蔵庫から材料を出して、牛乳を火にかけた。ミュゲイアの好きな、蜂蜜をたくさん入れた甘ったるいホットミルク。作っているだけで胃もたれしそうな香りに表情を綻ばせ、ブラザーは自分用にハーブティの用意も始めた。キッチン越しに“妹”の方を確認すると、誰かと話しているのが見える。そういえば、部屋に入ったとき何か話し声が聞こえたはずだ。意識して聞いていなかったが、ミュゲの知り合いだったのかもしれない。なら、挨拶しておかなければ。

「出来たよ、ミュゲ。熱いから気をつけてね。
 この子たちはお友達? こんにちは」

 完成したホットミルクとハーブティをカップに注いで、ブラザーは少女たちの談笑に混ざりに向かう。ことりと優雅にカップを置きながら、談笑するドールズに嫋やかな笑みを浮かべて見せた。

 近くにいたドールに聞いてみてもそれらしきものは見ていなかったようである。
 あのチラシはかなり派手なものであり、あればきっと目につくだろう。
 もちろん、それが床に落ちていたとしてもだ。
 それがないということは誰かが持って行ってしまったのかもしれない。
 チラシがないにしても、芸術クラブがなくなったわけではない。
 チラシの一枚はミュゲイアが所持しているのだから。
 あまり気にすることでもないだろう。

「そっかぁ、ありがと! あっ、ミュゲはミュゲイアって言うの! クラスはオミクロン! 二人の名前は? ミュゲとお友達になろ! 一緒に笑お!」

 残念というように言葉を出してから、鈴の音のような声で自分の名前を伝え、二人のドールの名前も聞いた。
 ニコニコと、人当たりのいい笑顔を浮かべながら。
 ベラベラと一方的に話をして、一度呼吸をした時であった。
 見慣れた声の彼が戻ってきた。
 その手には二つのコップを手に持っている。
 ふんわりと鼻腔を擽るミルクと蜂蜜の香りに頬がほんのりと赤くなる。
 クルリと一度ブラザーの方へと身体を向けてニッコリと笑った。

「うん! お友達! アラジンのチラシがなくなってたからこの子達に聞いてみてたの! お兄ちゃんは知らない?」

 お友達になろうとお願いした矢先にミュゲイアは勝手に二人を友達と決めてブラザーに紹介した。
 まだ、名前も知らないドール達を。
 それから、アラジンのチラシがなくなっていたことを教え彼に知らないかと尋ねた。

《Brother》
「アラジン……?」

 ぱちぱち、視界の奥で何かが弾ける。
 満点の星空。覚束無い輪郭が爆ぜる。

「知らないなぁ。天体観測はやめたんじゃない?」

 乾いた笑い声を零す。
 カップと共に持ってきたトレイを胸に控え、ブラザーは特に気にしていないように笑っていた。まるで他人事みたいな口調はミュゲイアにとって違和感を覚えるものかもしれないが、偽物の“おにいちゃん”と愛すべき同志との関係に、貴女はどれだけ興味を持っているだろう。ブラザーはただ、いっそ冷淡なまでにいつも通りだ。
 まだ、大丈夫。考えたくないことは、今だけは考えない。

「君たち、さっきはなんの話をしてたの? エーナクラスに、なにかあったのかな」

 話を終わらせるように、ブラザーは話していたドールズに向き直る。突然話しかけてきたオミクロンドールと、ソレと親しそうにするおかしなドール。警戒しない方が難しいだろう組み合わせになってしまった。噂好きの人形たちが、警戒よりも噂を広めることを選んでくれればいいのだが。

 ミュゲイアが自らの名と所属のクラスを述べる。それだけで、彼女達は僅かに難色を示し出した。笑うことと、友達になること。それを求めているだけだと言うのに、二人のドールは気まずそうに目線を逸らし、早く会話を終えたそうにしていた。
 やはりこの学園全体に根付くオミクロン差別の風潮は衰えていないのだろう。あなた方にとって居心地が悪い場であることは間違いない。

「あ、ああ……さっきの……エーナクラスの話ね。」
「この子の友達の友達がエーナクラスの子らしいんだけど……その子がおかしくなっちゃったんだって。エーナモデルなのに、全然お話が通じないらしいんだ。」
「そうなの……精神的な欠陥かしらね。意味の分からない譫言も呟いていて、とっても不気味だったらしいわ……」
「あ。そう言えば、その譫言ってなにを言っていたの?」
「え? そうね……なんでも、『あの場所に帰ろう』『炎に身を投げろ』……ですって。常軌を逸した様子で、友達にまでそうやって詰めってたらしいわ。」
「な、何それ……意味が分からない……」

 話を聞いている方のドールは、その事象の不気味さに思わず頬を引き攣らせて引き気味である。
 内容自体は、よくあるゴシップだ。彼女達は直接その話を聞いたわけでもないというのに、沸き立つ忌避感を娯楽として面白がっているようだった。

 ──そこで話していたドールのうち一人が時計を見やる。

「大変だ、そろそろ次の授業が始まる。寮に帰ろうよ」
「あら、もうこんな時間なのね。それじゃあさようなら、オミクロンのお二人。もうじきにそちらに新しい子がやってくるかもしれないわね。」

 どうやら予定が迫ってきているらしく、彼女達は慌ただしく席を立つ。
 そうしてカフェテリアにはあなた方だけが残されるだろう。

 乾いた声が聞こえた。
 乾燥した風が吹き抜けたように、その笑みがミュゲイアの耳を撫で、視界を埋めつくし、その言葉が頭の中でゴーン、ゴーンと鳴り響いている。
 まるで他人事のようにそう告げられたのにミュゲイアは驚いた。
 だって、だって、あなたは彼のことも愛している。いつもみたいに弟のことを心配しないの? どうしてそんなことを言うの?
 あの子が天体観測を辞めたなんて。
 そんな恐ろしいことを。
 どうして口にできるの?
 貴方はそれでいいの?
 三人で天体観測をしなくていいの?
 アラジンのためなのに?
 鏡越しの記憶と手を重ねるためなのに?
 知らない私たちを知ることにもなるのに?
 偽物のお兄ちゃんはまだそんな事を口にしてはいけない。
 知らない記憶に残るブラザーは違ったのだろうか。
 もっと、ただ純粋に愛せたのだろうか。
 知らない記憶のミュゲイアは彼をどう呼んだのだろうか。
 彼のことをブラザーと呼べたのだろうか。
 ブラザーの言葉を聞いて目をまん丸にしたまま静止していた。
 ドールたちの話す言葉は頭に響いては小川を流れる葉っぱのように流れてゆく。

「………炎に。……え? あっ、バイバイ! またね!

 ……お兄ちゃん。アラジンは天体観測やめたりなんかしないよ、だって三人で天体観測するってお話したでしょ? ……そんな事言うなんてお兄ちゃんどうしちゃったの? ……お披露目でも決まった?」

 ポツリと頭に入った言葉は炎だった。
 あの場所ってどこ? どうして炎に身を投げるの? 寂しいの?
 そういえば炎と言えば、ミシェラ。
 頭に浮かんだのは焔のような真っ赤な瞳の子うさぎだった。
 けれど、浮かんでは消える煙のようにミシェラの事も薄くなって、ハッとしたようにドール達を見送った。
 そして、ミュゲイアは少しぬるくなったホットミルクを口にした。
 そして、酷い人へと視線を向けた。
 嗚呼、酷い子。
 そんな事を口にするなんて。
 嗚呼、嫌な子。
 自分勝手でちっともこっちを見ない。
 天体観測のことだってもう忘れたのでしょう。
 酷い人。
 女を傷つける苦いドール。
 とってもいけない悪い子。


「もしそうならもう兄妹ごっこもお終いになるね。」


 アメジストに映る鈴蘭は嫌という程に笑っている。
 ぷっくりと濡れた唇はキスを落として舐めるように毒を吐く。
 幸せになるためのお薬はほんの少しだけ苦い。

《Brother》
「……あの場所……」

 ぴくり、眉を寄せる。
 薄気味悪そうにしながらも面白がっている彼女たちとは対照的に、ブラザーの表情は少しも楽しそうではなかった。朗らかな笑みはひやりと固まって、表情を強ばらせる。

 あの場所。炎。身を投げろ。
 ……心当たりは、勿論ある。

「ああ、うん。ありがとう。またね」 

 席を立ち始めた乙女たちの声が聞こえれば、ブラザーの表情に色が戻る。にこにこ愛想良く笑って、簡単な挨拶と共に去っていく彼女たちを見送った。
 忙しない足音も消え、すっかり静かになったカフェテリアに腰掛ける。どこまでも沈んでいきそうな感触に軽く息を吐いて、ミュゲイアに視線をやった。ホットミルクを口にする姿を横目に、自分もティーカップに手を伸ばす。ミュゲイアが視線を向けた頃には、もう湯気が二人の視線を妨げていた。

 白い煙の向こうから、鈴蘭の華やいだ声がする。

「え……何言ってるの、ミュゲ。おにいちゃんはいつも通りだよ」

 ゆらゆら、煙が揺れる。
 ブラザーはカップを置いて、同じように揺れる白銀を見た。次第に見える口角は、やはり吊り上がっている。いつも通りだ。
 それは自分だって同じこと。そう、そのはず。そうでしょう。そうだよね?

 芸術品のような顔を綻ばせ、あの子はにっこりと笑っている。飛び出た言葉には、ノイズがかかったように上手く聞き取れなかった。

「ふふ……ミュゲったら、何言ってるの?
 おにいちゃんに構ってほしいのかな。いいよ、おいで」

 くすくす、上品に。
 口元を覆うように手を添えて、洗練された優雅さで笑みを浮かべる。冗談を笑うだけのように、なんてことない声色だった。足を少し横にずらして、トントンと自身の太もものあたりを叩く。こっちにおいで、というジェスチャーだ。

 ミュゲが何を言っているのか分からない。
 どうしてそんな話をするんだろう。
 兄妹ごっこ。兄妹ごっこ?

 ああ。やめよう。
 考えたくない。考えたくない。考えたくない。

「天体観測とかお披露目とか、いま関係ないよね? 歓迎会の話をしようよ。
 ねえ、どんなお花を飾ろうか。ミュゲの好きなお花を飾ろうよ、きっと三人とも喜んでくれるだろうから。クッキーとかケーキは、おにいちゃんに任せてねぇ」

 楽しそうに紡がれる音の数々が、静まり返ったカフェテリアを踊った。早口で捲し立てるように、口を挟む暇すら与えないように。

 たっぷりの愛に蕩けた双眼が、刺すような鋭さで“妹”を見ている。

 嗚呼、壊れているんだ。
 心の底からミュゲイアがブラザーに対して思ったのはそれであった。
 どれだけトゥリアであった頃は優秀だったとしても彼もオミクロンに落ちたドールに過ぎない。
 その壊れたアタマが元に戻ることもない。
 だって、目の前のドールは壊れている。
 可哀想で哀れでどうする事も出来ない。
 お披露目にもいけないような子。
 ミュゲイアと一緒でずっとオミクロンに落ちたままのドール。
 所詮はガラクタ。
 分かり合えることも出来ない。
 ずっと、傷の舐め合いにもならない戯れを繰り返すだけ。
 大好きなブラザー、素敵な笑顔のブラザー。
 同じだけの時をオミクロンで過ごしたドール。
 大好きという言葉に詰め込まれたぐちゃぐちゃの毒がとろりと垂れてゆく。
 虫唾が走るほどの甘ったるい言葉。ミュゲイアの名前を呼ぶその声。
 一方通行のままの二人。
 どこかで間違えた二人。
 お互いを見れない二人。
 紅茶の煙でぼやけたブラザーの言葉がミュゲイアの頭へと鳴り響く。
 額縁で飾りたくなるほどの笑みを浮かべて、上品な仕草でミュゲイアの言葉を否定する。
 いつも通りというのはそうかもしれない。
 いつも通り、ブラザーはミュゲイアを否定している。
 兄であることに固執して、ミュゲイアを妹として飾り付ける。
 綺麗な笑顔、大好きな笑顔。
 その笑顔を見て名前の付けられない感情が芽生えてしまいそうになる。
 ブラザーのことをどこかで怖いと感じているから今まで流されてきた。
 甘い蜜に溺れて、とろりと流れるように。
 痛いことは嫌いだから。
 幸せを感じられないのは嫌いだから。
 いつまでも幸せでいたから。
 目をつぶって、ブラザーのことは見ないで笑っていた。
 静まり返ったカフェテリアにはブラザーの捲し立てるような言葉だけが踊っている。
 無理やりにでもミュゲイアをリードするように。
 踊ろうと誘ってくる。
 ミュゲイアはブラザーの方へと近寄って、トントンと叩かれた太腿の上へと座った。
 グッと近くなった距離でアメジストの瞳が煌めいている。
 まるで、夜空のように。
 バニラと鈴蘭の甘い香りが混ざりあって噎せかえりそうな程。
 ブラザーの首へと手を回して、綻んだ口元を見つめる。
 天体観測もお披露目も関係ないというその口を。
 いつも、ミュゲイアを困らせる嫌な唇。
 朝露に濡れる薔薇のような唇。
 ミュゲイアはグッと顔を近づける。
 ガブリ。
 その唇を噛むようにミュゲイアは自分の唇を近づけた。
 愛し合ってもいない。
 お姫様と王子様でもない。
 御伽噺とはかけはなれた口付け。
 美麗に微笑むの唇を奪うように。
 幸せを呼ぶ白い小鳥は幸せを食べてしまう。
 柔らかい瞼をゆっくりと開いて、乾いた声でミュゲイアは笑った。

「……ねぇ、ブラザー。兄妹はこんなことしないんでしょ?」

 天体観測を忘れないで。
 知らない記憶はきっと二人を苦しめる。
 腹の底を見せあって話せない二人では紅茶を冷ましてしまうようなつまらない事しか出来ない。
 ミュゲイア、それはトゥリアドールの名前。
 オミクロンに落ちたドールの名前。
 妹としては設計されていない。
 ただ、笑顔と幸せを運ぶ白い小鳥。
 自分の幸せにしか興味のない浅はかなドール。


「……ねぇ、笑って、ブラザー!」


 太陽すらも喰らう笑顔を咲かせてミュゲイアは笑った。
 とびっきりの笑顔で貴方の幸せを食べてしまう狼。

《Brother》
 羽のように軽い体が、膝の上に乗る。
 その感触が、体温が、香りが、早鐘を鳴らす心臓を溶かしていく。

 ミュゲイアはここにいる。
 彼の愛する“妹”は、今日もこうして笑っている。その実感がじわじわと体温を高め、荒くなった呼吸をしずめた。大切な宝物。世界のなにより愛おしい少女。爛漫と咲き誇る花々に囲まれた、白銀の乙女。

 これで大丈夫。
 何もおかしくない。
 ミュゲは“妹”で、僕は“おにいちゃん”。オママゴトなんかじゃない、本物の兄妹。擬似記憶から一緒に生きてきた二人。いつも通り。いつも通り。いつも通り。

 ……“妹”? おにいちゃん?

 違う。これはもう。僕は。
 違う。何もおかしくない。いや、でも。嫌だ。もうやりたくない。うるさい。違う。違わない。考えたくない。考えたくない。考えたくない。考えたくない。考えたくない……。

「───……ミュゲ?」

 細い腕が首に回る。
 ぐちゃぐちゃと絡み合った思考の隙間を縫うように、小さな手のひらがうなじを撫でた。擽ったい感触に思わず笑みが零れて、同じように抱き締めようと腕を持ち上げる。

 この熱。この温もりが傍にあるのなら、他のことはどうでもいい。

 幸せだ。
 思考を必要としない、甘ったるい時間。ずっと浸っていたい、甘い甘い平穏の夢。複雑に重なった思考の束が剥がれ落ち、ブラザーの脳は停止する。ただ与えられる愛に愛を返し、思っているのか思っていないのか分からないことを囁くだけ。簡単で、単純だ。何も考えなくても幸せになれるなら、全部こんなことでいい。

 笑顔が近づく。
 波打つオパールに包まれた幸せの象徴の肩を、ブラザーは優しく抱き締めた。

 どうやら自分が思うよりずっと追い詰められていたらしい彼は、ぐっと近づいた顔を、艶に煌めく白蝶貝を、ぽってり色付いた唇を、なんの疑問にも思わなかった。

「───」

 柔らかい、“その為”に作られた唇が重なる。
 小鳥の戯れのように悪戯な、けれど頭ごと飲み込んでしまうように悪辣に。

 得られた幸せが、幸福な夢が、瓦解する。
 彼は誰よりも兄であることを拒むくせに、誰よりも兄であることに固執しているから。

 ああ。もう。

 考えたくない。
 考えたくない。
 考えたくない。
 考えたくないんだってば。


「ッ、あああああああ゙ッ!!!!!!!!!!!」


 最早、それは反射だった。
 突き飛ばすような、蹴り飛ばすような、そんな動きで眼前の“女”から距離をとる。勢いで尻もちをつきながら、ずるずると後ずさった。

「ぉえ゙ッ……ちが、ちがう、僕は、僕はおに゙いッ……いやっ、いやだっ、もう、いや……」

 譫言を繰り返し、引き攣った息を吐き出す。零れそうなほど見開かれた夜空からは、大粒の星屑が流れ続けていた。
 そうしていつか、星々は空から姿を消すのだろう。もう天体観測は出来ない。

 ブラザーは視線を上げない。
 ただ口元を抑えて嗚咽をあげながら、床を見ている。今、愛する“妹”がどんな顔をしているのか、おにいちゃんは見ていない。

 ただ、彼は幸せが欲しかったのだ。
 それはきっとミュゲイアでなくても良かったし、きっと彼女が“妹”でなくても良かった。

 誰かを幸せにしたいと奔走するくせに、誰かに幸せにしてもらいたいなんて。 
 どこまでも、砂糖菓子のように甘い人形。

 燃え上がる炎に溶けるまで、ケーキの上を飾るだけのラブドール。

 視界がクラりと動き出す。
 チュッと小さな音を立てて、白い小鳥は囀る。
 何を言うでもなく、ただその口角はつり上がって裂けたようだった。
 まるで蛇のように、羊の皮を借りた山羊のように。
 純粋な濁色とした感情だけが口の中に残っている。
 決して、口にすることも出来ない。
 この感情の名前も知らない。
 この感情は彼にだけ捧げる特別。
 どうでもいい彼に対する愛なのかもしれない。
 尻もちを付いて離れたブラザーに押されるようにミュゲイアもよろけてしまう。
 見下ろした彼は困惑し、嫌がり、嗚咽している。
 大粒の涙をポタポタと垂らして、下を見て、不格好に泣きながら口元を擦っている。
 ミュゲイアはただその姿を見下ろしていた。
 今までに見た事のないブラザー。
 こんなにも取り乱しているブラザーは見たことがない。
 そんなに泣いては星も見えないでしょ?
 天体観測出来ないよ。
 下を向いていたら星は見えない。
 貴方を置いて流れていっちゃうかも。
 流れ星の行き先も分からないね。
 だから、上を見て。
 涙は笑顔に変えて。
 流れ星を追いかけて。
 また三人で。
 この瞳に夜空を描こう。
 だから、笑って。

「ミュゲは笑ってって言ったんだよ、ブラザー! ……いや? いやならお兄ちゃん辞める? ブラザーは笑ってるだけでいいんだよ! ミュゲの為に笑ってるだけで幸せになれるの! だから、笑って! ミュゲの-笑顔-(ブラザー)!」

 カフェテリアにブラザーの言葉が響き渡る。
 ブラザーの傍まで近寄ってその近くにしゃがみ込む。
 ミュゲイアは捲し立てるようにブラザーの隣で言葉を並べる。
 まるで、踊るように。
 無理やりにでもその足を動かそうとするように。
 太陽のように輝かしく、聖母のように優しく、恋人のように甘く熱い、そんな笑顔を飾り付けて。
 ただ、笑っていればいいと告げる。
 貴方はそれだけでいい。
 笑って星を眺めるの。
 また、三人で。
 あの光景を思い出すの。
 その為に貴方はコアを動かすの。
 笑っていれば幸せになれるのだから。
 はやく、笑って。
 ずっと燃えていたら、美味しいケーキも食べれないでしょ?
 フーっと息を吹きかけてもやし尽くしてしまおう。
 甘いケーキがどろりと溶けてしまわないように。
 さぁ、一緒に手を揃えて。
 ブラザーという名前の甘くてくどい笑顔を食べてしまいましょう。

《Brother》
「ちがっ、僕は、!!」

 星を編んだような髪を振り乱して、ブラザーは顔を上げた。紫がかった白銀がさらりと揺れて、小さな顔を隠す。涙に濡れた頬に張り付いた髪にも気づいていないのか、ブラザーは尻もちをついたまま、手を後ろについていた。ぼろぼろの掠れ声を絞り出して、まとまりなく騒いでいる。ぶるぶると震える手がやがて持ち上がって、眼前の彼女を指さした。

 濁ってしまったアメジストは、未だ信じられないほど美しい。人形の感情に変化しない義眼は、陰鬱な悲壮感を称えても尚、甘やかに華やいでいる。見開かれた瞳からは、星々がこぼれ続けていた。天体観測を望んでいるとは、とても思えない。

 彼は人形だ。いつまで経っても、操り糸が切れないお人形。

 けれども、彼を動かす糸はめちゃくちゃで。
 正しく動かしてもくれないから、彼はいつまでも楽な道に進めない。進まないように動いてきたから。今更首を締める糸が苦しいと藻掻いても、全ての助けに背を向けてきたのは他でもない彼なのだから。

「このッ……」

 Brotherは、オミクロンのジャンクドール。
 余計な自我を持った、誰よりトゥリアらしい全ての愛の体現者。

 自分すらも愛してしまった、いつかのスクラップ。


「出来損ないがッ!!!
 何度言えば分かるんだよ!? 僕の!! “妹”は!! そんなことッ、しないの!!!」


 こちらを見下ろす彼女の長い髪は、たらりと垂れている。綿菓子のようにふんわりと甘そうな髪の束を、ブラザーは乱暴に引っ掴んだ。
 あんなに愛おしそうに触れていたのに、もうそこには嫌悪しかない。しゃがむ彼女の髪を、強く引く。彼女の怯える“おにいちゃん”ですら、こんなことはしなかった。

 こんなこと、言わなかった。

「ドールの面汚しッ!! 欠陥品ッ!! 害獣がッ!!! 誰からも必要とされてないくせにッ、誰のことも幸せに出来ないくせにッ!!!

 “お前”なんかいない方がずっとずっと良かったのに!!!!」

 何度も、何度も。
 彼女を酷く罵倒して、髪を引く。

「言うことひとつ聞けないようは廃品、さっさとスクラップにでもなればいいんだ!! ああ、ああ、ああ!!! そうだ、それがいい!! ミシェラが! ラプンツェルが! アストレアが!! 帰ってくるかもしれないんだからさぁ!!!!
 早くしろよ出来損ないッ!!!」

 絶叫。
 一際強く髪を引いて、ブラザーは怒鳴った。慣れない大声に息は上がり、声は枯れている。肩で上擦った呼吸を繰り返しながらも、星屑のような雫が止まることはなかった。

 酷く冷静な自分が、遠くで彼を見ている。
 彼が“誰”のことを刺しているのか、自分が誰よりも分かっていた。

 ブラザーは笑っている。
 それは嘲笑であり、自傷だった。


 まるで幸せそうに見えない、貴女の大好きな笑顔だった。

 グラリ、クラリ。
 視界が揺れる。
 世界が踊り出す。
 頭がシャカシャカと揺れて、涙を流したアメジストが煌めいている。

「いたい! いたいよ! やめて!」

 ギュッと髪の毛が引っ張られた。
 その衝撃で前へと手をついてミュゲイアはただその痛みに困惑した。
 優しく撫でるために造られたその手がミュゲイアを乱雑に壊そうとする。
 甘く囁くために造られた声がミュゲイアを罵倒する。
 がらんどうの純白に真っ黒の言葉の嵐が迫ってくる。
 嗚呼、うるさい。
 嗚呼、騒がしい。
 どこまでも困らせる嫌な子。
 出来損ないで愚図で愚かなジャンク品。
 どこまでもダメで何も出来ない愚か者。
 愚者の罵詈雑言。
 床を見ていたミュゲイアは一際大きく髪の毛を引っ張られて顔を上げた。
 そこにあったのはミュゲイアの愛する笑顔。
 大好きで堪らない笑顔。
 また、ミュゲイアはドールを幸せにしてしまった。
 なんだ、何も壊れてなんかいない。
 どこもおかしくない。
 害獣でも出来損ないでも妹でもない。
 だって、ブラザーが笑ってる!
 こっちを見つめて!
 アメジストが煌めいている!

「何言ってるの? ブラザー。
 ミュゲはみんなを幸せにしてるよ! 今だって、ほら! ブラザーを幸せにしてる! ブラザーはミュゲに沢山痛いことをしたら幸せになるんだね! ……ふふっ、あははは! 幸せだねぇ。

 ……それにね! お披露目だよ! 誰かがお披露目に行ったらミシェラもラプンツェルもみんな帰ってくるかも! アラジンみたいに! 次は誰がお披露目に行って誰が帰ってくるのかなぁ!」


 嗚呼、とっても幸せ。
 幸せの白い小鳥で良かった。
 全部、全部、"貴女"のおかげ!
 貴女が擬似記憶で教えてくれたから、ミュゲイアは誰かを幸せにできている。
 今も幸せ。
 ずぅっと幸せ。

「……良い子だねぇ、"お兄ちゃん"。お披露目に行けばみんなが帰ってきてくれるよ。それってとっても幸せ! ずぅっと一緒にみんなの事待ってようね!」

 この幸せいっぱいのトイボックスで。
 病める時も健やかなる時も笑顔のままに。
 待ち続けましょう。
 犯した罪を半分こに嫌いなあの子を一人で幸せにしないために。
 ずっと、ここでみんなを見送ってみんなの帰りを待とう。
 貴方という欠陥品がお披露目に行くその時まで。
 ずっと笑ったままで。

 アメジストに映りこんだ白い小鳥は美しく咲く花のように、春風に揺れる花畑に囲まれるように、愛らしくがらんどうのとびっきりの笑顔で笑っていた。

 また流れ星が煌めいて遠のいて行く。

《Brother》
「ふ、ふふ、ふふふふふ」

 ああ、壊れている。
 コレも、自分も。

 駄目なのかもしれない。
 何もかも、全部。 


 ああ、なんか、疲れちゃった。


「ふふ、そうか、そうなんだ! あはは! そうだね!」

 ゆらゆら、ブラザーは体を起こす。
 散々引っ張った彼女の髪を柔らかく撫でて、愛おしそうに目を細めた。正面にいる彼女の瞳を見つめて、にっこり笑う。今度は随分と幸せそうだ。
 蕩けたチョコレートみたいに甘く、幼子が外を駆け回るみたいに無邪気に。心底楽しそうに笑って、言葉を続ける。

 糸は切れない。
 いつまでも、どこまでも。

 流れ星は燃え尽きて、もうどこにも見えない。
 きっともう、何処にも行けない。

 けれど、もし。
 もしも本当に、そんな素敵なことがあるのなら。

 夢が見られる。
 また、星が見える。

「そっか、お披露目に行けばいいんだ! そうしたらみんなに会える! みんな戻ってくる! あはははははは!」

 くすくす、人のいないカフェテリアに空っぽの声が響く。偽物の空の下、偽物の学園で、偽物の兄妹は笑いあう。

「ミュゲは凄いねぇ、とっても頭がいいんだねぇ。おにいちゃん、びっくりしちゃった!
 いい子のミュゲには、おにいちゃんが花冠を作ってあげようねぇ」

 乱暴に髪を引っ掴んだその手で、優しく“妹”を撫でる。世界のなによりも大切そうに、その柔らかい肌を傷つけまいと。仕草と声色、表情。その全てが、“妹”を愛していると言っている。貴女の大好きな笑顔が、貴女に向いている。

 ぼたぼたと跡を残し続ける涙は細い顎を伝って、床に落ちた。

「ふふっ、それじゃあ、それじゃあさぁ!」

 ようやく、ようやくだ。

 糸が切れる感覚がする。
 みんなの声が聞こえる。
 花の匂いがする!

 ここは幸福の楽園。
 ここは永久の平和。
 ここは夢の桃源郷。

 ああ、やっと!
 ようやく、これで、僕は救われる!

 みんな、みんな嬉しい! 誰も傷つかなくていい! これで全部ハッピーエンド! 最初からこうなるべきだったんだ! あはは! 僕ってばおっかしい! あはははははははは!



 お披露目には、僕が行こう!



「ミュゲがお披露目に行ってよ」



 ─────あれ?


「おにいちゃん、ミシェラに会いたいな。絵本を読んであげるんだ。あの子、ずっと僕の膝の上で本を読んでたから。頑張り屋さんな子だった。だからお披露目にも選ばれたんだ。
 ふふ、ラプンツェルにも花壇を見せてあげたいよ。あの子がお世話していた花壇が、今もちゃんと綺麗なままだよって教えてあげるんだ。きっと喜んでくれるよ。それで、今度は一緒にコゼットドロップを見に行こう。
 あのね、アストレアには美味しい紅茶をいれてあげるんだ。いつだって頑張り屋さんだから、たまには息抜きが必要でしょう? おにいちゃんの役目だよね、分かってるよ。たくさんお喋りして、たくさん撫でてあげないと。ミュゲもそう思うでしょ?

 楽しみだなぁ。
 はやく会いたいなぁ。

 ね、ミュゲ」


 あれ? あれ? あれ? あれ?


「ミュゲ、大丈夫だよ。
 痛いのも苦しいのも一瞬だよ。だから大丈夫。おにいちゃんのことを思い出して、また会えるまで少しだけ待っててねぇ」


 なんで? なんでよ。

 どうして、いつもこうなの。
 なんで僕って、いつも。


「あはは! あは! あは、はは、はは、ははは! あはははははっ! はははははっ!


 ……はあ。


 ……はあ………………」


 いっそ、誰か殺してくれ。
 ああ、だめ、やっぱり嫌だ。

 嗚呼、笑ってる。
 身体を駆け巡る快楽に溺れてしまう。
 幸せそうに笑っている。
 ブラザーが。
 また、幸せにできたことが嬉しい。
 とても嬉しい。
 それなのに、また。
 また、ブラザーがお兄ちゃんになってしまった。
 嗚呼、やっぱりダメだ。
 どこまでも浅はかで愚かなのだ。
 やはり、オミクロン。
 ジャンク品。
 ガラクタ。
 無償の幸せを与えてあげても尚これ。
 優しく頭を撫でるブラザーの手をミュゲイアはそっと掴んで胸の辺りに持ってきて握りしめた。
 ぎゅっと。
 柔らかなその手で。
 幸せそうな彼の手を包み込む。

「あはははっ! ふふっ! ブラザーってば変なの! ……ミュゲはね、ブラザーにお披露目に行って欲しいの! それまでに天体観測しようね! いっぱい笑おうね! お披露目が決まるまではずっと妹でいてあげる! いっぱい痛いことしていいよ! いっぱい幸せになってね! ブラザーの幸せはミュゲがお披露目に行く事じゃなくて、ミュゲに酷いことをする事なんだから! だから、それまではずっと一緒! 勝手に幸せになっちゃダメだよ! ブラザーはミュゲが幸せにしてあげるんだから! 可哀想なブラザー!」

 ギュッ。
 ブラザーの手にミュゲイアの爪が食い込む程に強く、ミュゲイアはブラザーの手を握った。
 お馬鹿なドールのために。
 さとすように。
 ゆっくりと幸せを教えてあげる。
 貴方の幸せは貴方のものではない。
 貴方の幸せはミュゲイアのもの。
 貴方の幸せはミュゲイアが決めてあげるのだから。
 だって、オミクロンのお前には分からないでしょ?
 壊れた頭なのだから。
 嗚呼、本当に可哀想な良い子。

「次のお披露目は選ばれるといいね、ブラザー! ミュゲいっぱい応援してるよ! ブラザーのおかげで笑顔が増えるんだよ! みんなもね、今回はお披露目に選ばれなかったって笑顔になれるから! ……燃えちゃえば一瞬だよ!」

 燃えてしまえばそれはきっと一瞬。
 真っ赤な炎は燃え続けない。
 嗚呼、とっても素敵。
 完成されていくミュゲイアの楽園。
 笑顔の楽園。
 幸せを与える者の楽園。
 ほら、素敵な夢。
 お前の壊れた身体が役に立つ。
 きっと、みんなのお兄ちゃんになれるよ。
 燃えてしまえばお兄ちゃんになれるよ。 
 擬似記憶でまた会えるよ。
 ミュゲイアを妹と呼ぶのならば。
 もう、お前に会わなくていいと思うと笑顔が止まらない。


「"妹"のお願いを聞くのが"お兄ちゃん"でしょ?」

《Brother》
 シワひとつない人工皮膚が、ブラザーの手を包む。温もりを分け与える、トゥリアモデルの体温。陽だまりのようにあたたかい、眠たくなってしまいそうな熱。

 爪が食い込む。
 ブラザーの薄い皮膚に、伸びることのない爪が突き刺さった。元々青白い肌は力が入り、更に白くなっている。ただ呆然と、血が止まりそうな手を人形は見た。塗料の巡る頭は行き場のない感情と答えのない思考ばかりを繰り返し、時間を消費している。酸素のない海の底だから、仕方がないのかもしれない。
 そんなわけ、ないのだけれど。

「……ミュゲはおにいちゃんにお披露目に行ってほしいんだ」

 がらがらの声だった。
 伸びやかなテノールはララバイを歌わない。頬を赤らめて愛を囁くこともない。彼の金糸雀は眼前で死に、彼という白鳥は随分前に喉が潰れている。標本になる前の虫のように、ピンで足が留められているのだ。皮が剥がされるのををじっと待つ、家畜の順番待ち。断頭台に立ったまま仲間の死骸を見ている日々は、一体いつまで続くのだろう。

 ミュゲの言う通りだ、と。
 素直に、ブラザーは思った。

 このまま生きていて、何が幸せだというんだろう。
 どうせ誰のことも幸せに出来ず、無意味に絶望して死んでいくのに。だったらいっそ、全てから逃げて、誰かのためになりたい。可哀想な被害者として、愛する誰かのパーツになりたい。指を刺されて罵られることもないまま、ただ運命を呪うポーズだけを見せて。

 なんて素敵なんだろう。
 なんで、そう言えないんだろう。


「僕に、死ねって言ってんの?」


 気味の悪い、薄ら笑い。
 軽薄そうなか細い声は、なんの感情が浮かんでいたのだろうか。無数の、得体の知れないどす黒い何かを孕んで、色欲のドールは笑っている。

 重かった。
 泣きすぎた頭が。いくつもの約束が。もらった花冠が。星を見る望遠鏡が。水の入ったジョウロが。

 飛んでるみたいに軽かった足取りは、いつからこんなに重くなってしまったんだっけ。
 いつから、僕は間違っていたんだっけ。



 いつから、“僕ら”は間違えたんだろうね。



「……もう、いらないよ、君」


 愛してるよ、君のこと。
 愛していたんだ、本当に。

「よく見たら全然……“あの子”っぽくないし……」

 でも僕、壊れてるみたいだから。
 君のことを愛していると、苦しくなってしまうから。

 自分から手放すことは出来ないから、だから。

「あっち行ってよ……おにいちゃんのかわいい“妹”は、どこに行っちゃったの……? はあ……」

 だから早く、何処かに行ってくれ。
 顔も見たくないんだ、もう。

 愛はいつの間にか憎悪へと変わり、愛憎の入り交じった関係は次第に姿を変えて飼い慣らせないほどの大きなケダモノへと変わってしまう。
 時を彷徨うように、お互いを知らないまま深く関わろうとしないままに消費した時間だけが二人の関係をどす黒く変色させてしまう。

 長かった。
 短かった。
 それすらも分からないほどにミュゲイアはブラザーとこの歪な関係を続けてきた。
 オミクロンで取り残されてきた二人だったから。
 一人でガラクタになるよりも二人でガラクタの山に身を投げていた方が寂しくなかったから。
 ただ都合良く消費し合うだけだったから。
 間違いばかりを犯してしまった。

 もっと、ミュゲイアの思考が真っ当であったのなら。
 母親のように彼を諭し抱きしめることが出来ていたのなら。
 こんなにもほろ苦い知らない味を舌で転がすこともなかっただろう。
 いつも、目先の甘いもので口直しをしてしまっていたから、きっと二人ともそれに甘えていたのかもしれない。

 もしも、この二人がオミクロンじゃなくてただのトゥリアドールとして関われていたのならもっと楽で不干渉で何も苦しくなかったのだろうか。
 ドールらしく何も考えず与えられた幸せにだけに埋もれて、己の欲をさらけ出さずにいられただろうか。
 お互いの首を絞め合わずともお互いの顔を見れたのだろうか。
 トゥリアの脆く儚い手を汚し合わずにいられたのだろうか。
 もっと、単純に愛せていたのだろうか。

 オミクロンでさえなければ。
 そう思うほどにミュゲイアはオミクロンであり、ブラザー・トイボックスというドールを理解することは出来ない。
 分かってあげることが出来ない。
 だって、この女は欲深く色情的で快楽に身を委ねるばかりの白濁としたドールであるから。
 この淀んだ瞳ではもうブラザーのことをしっかりと見つめることもできない。
 盲目な白は気づけない。
 ブラザーのことを理解することも、愛することも、全ては白煙のようにボヤけてしまい、残った煤のような黒い感情だけがこべりついている。
 どれだけ拭こうともそれは己の身を汚す行為。

 限界はもうとっくにきていた。
 きっと、二人とも。
 汚れた箇所を着飾ってもそれを脱いでしまえばまた汚れが目立つばかり。
 夜の間しか煌めく星を見れないように、夜ですら重たいベルベットの雲がかかれば星も見れないように二人とも綺麗なところしか見ていなかった。否、見ようとしなかった。
 ギュッと爪がブラザーの肌に食い込む感覚に反吐がでて、触れている箇所が氷のように冷たくて、手を繋いでも迷子の二人では道が分からない。
 ランタンは持っていない。
 道標の星は流れてしまう。
 一等星は二人を照らさない。
 重たい雲だけがブランケット代わり。
 また、夜の帳が濃くなるだけ。
 お互いの姿も見えなくなるほどに。

 嗚呼、あの時の記憶みたいだ。
 いつの日にか見た激しい頭痛の囁き。
 真っ暗な空間に二人、視界の遠くで燃え盛る北斗七星、瞬きをした時にはその情景は消えている。
 嗚呼、何も知らないままなら良かった。 悪戯に知らない二人を見せないで。
 身体を撫でるように煌めかないで、私の大事な北斗七星。
 愛らしい尻尾で慰めないで。
 きっと、簡単に身体が崩れてしまうから。
 愛すらも分からない哀れな獣に成り下がってしまうから。
 どうか、囁かないで。
 このドールに愛も憎悪も抱かさないで。
 愛する程に見たくなくなるのなら、愛を私に組み込まないで。

 ただのお人形のように思考を奪って。
 ただ、安らかな笑みを浮かべたままガラスケースで飾って。
 この笑顔だけを切り取って、額縁に移して。
 笑っているだけの楽なドールでいさせて。

 寂しさは笑顔に変えて。
 苦しみは微笑みに変えて。
 笑っているのなら幸せという甘い思考のまま抜け出せない愚かなドールを抱きしめて。
 情緒のブランコで揺らされて、ミュゲイアはまだ笑っていた。
 だって、笑顔しか擬似記憶は教えてくれない。
 大事な人は笑顔を求めていた。
 涙も怒りもそんなものは誰もミュゲイアに求めていない。

 貴方だけだった。
 ミュゲイアに笑顔以外の妹という知らないものを求めるのは。
 得体の知れない存在を求めて、困らせるのは。
 痛いことも背筋を撫でる恐ろしい顔も。
 全て、貴方が初めて。
 私の初めてを奪って捨てた最悪のドール。
 簡単に笑顔を見せてくれる都合のいいドール。

 貴方の妹はとても難しかった。
 けれど、貴方の妹でいることで貴方から一番笑顔を貰った。
 貴方の難しい愛が私を苦しめた。
 その愛は私にはとても重くて、羽を広げることも出来ないほどの小さな鳥籠であった。



「………バイバイ、ブラザー。また、笑って。」


 さようなら、愛おしい笑顔。
 さようなら、愛そうとした笑顔。
 擬似記憶から抜け出せない迷子のドール。
 傷の舐め合いしか出来なかったオミクロン。
 取り残されてばかりのオミクロン。
 可哀想なトゥリアモデル。

 貴方にドールは辛すぎる。
 求められたものに答えられない貴方にとってこの場所は地獄なのでしょう。
 兄であることを求められないドール。
 笑顔を求めるばかりのドール。
 出逢う場所を間違えたドール達。
 愛に飢えて愛に夢を見て愛に潰されたドール達。
 きっと、また目を瞑れば幸せは瞼の裏にある。
 がらんどうの頭の中にしか幸せを見れないドールたち。
 いつもこの脳内は完成されていて、未完成なのはトイボックスという小さな箱庭。
 海底に沈んだ楽園では息も難しい金魚たち。
 番う事も友になる事も許されない二人。
 掠れた声で鳴く白鳥はどこまでも醜く、幸せを呼ぶ白い小鳥は羽も広げられない。

 死期はまだ遠い寂しがりな二人にさようなら。
 未完成なモラトリアムで美しく鳴いて。
 ブラザー・トイボックス、貴方に幸せを享受して死合わせになることを願ってミュゲイア・トイボックスは美しく笑った。
 どうか、この愛憎で貴方が泡の様に消えてなくなれ。

 幸せってなんだろうか。
 幸せとはなにか。
 幸せ。幸福。
 それらは確かにミュゲイアの頭の中に存在している。
 いつだって、目を閉じればふんわりと擬似記憶を思い出す。
 確かな幸せの擬似記憶。
 ミュゲイアを構築するもの。
 みんなを幸せにするのはミュゲイアであり、幸せを与える存在。
 幸せの白い小鳥。
 それがミュゲイア。
 憎く愛らしいあの子でさえ幸せにしてしまう程に優秀なオミクロンのドール。
 出来ずたらドール。
 何も間違っていないドール。
 そう、何も間違えてなんて居ない。
 自分の笑顔を見る度に自分の唇に触れる度にそれを確信してきた。
 何も間違えてなんて居ない。
 そう思っている。
 そう思っているのに、その足は走り出しそうな身体を押さえつけて動いている。
 会いたい。会わなくちゃ。
 そう思わせてしまう。
 天体観測っていつするの?
 天体観測の準備は?
 天体観測の為に何をしたらいいの?
 ねぇ、教えて大好きなドール。
 纏まらないぐちゃぐちゃの頭でミュゲイアはガーデンテラスの扉を開いた。
 いつもと同じ時刻、貴方の待つ場所。
 貴方に会うためだけにその場所に行く。


「アラジンいる? ミュゲだよ! あのね、今日も一緒に芸術活動しよ!」

 今日も笑って!
 白濁のドールは白銀の星屑を探している。
 手繰り寄せるように、貴方の言葉はミュゲイアを救うから。
 だから、芸術でミュゲイアを肯定して。
 ギュッとノートを握り締める手に力を入れてミュゲイアは静けさのあるガーデンテラスで声を張り上げてアラジンの名前を呼んだ。

【学園3F ガーデンテラス】

Aladdin
Mugeia

 あなたは透き通る硝子の扉を開いて、芝地に足を踏み入れる。この日も頭上には輝かしき星天が瞬いていて、硝子の天蓋を挟んで箱庭の庭園に月明かりが降り注いでいた。

 午後18時、間もなく学園の門戸が閉ざされる瀬戸際の時間。
 あなたはガーデンテラスに足を踏み入れる。

 ──そこで気がつくだろう。いつもこの場所で芸術活動をしていると語っていた彼が居ないことに。
 明るく投げかけた声は、無人のテラスにむなしく響き渡るだけだ。
 思い返されるのは、カフェテリアから撤去されていたあのチラシ。存在が見えなかったアラジンのサークル勧誘のチラシが消えたということは、彼はもう活動を辞めてしまったのだろうか?

 あなたがそんな風に考え始めた頃。


「……あれ…もしかして、ミュゲか?」


 星空を見上げるあなたの背後に、聞き覚えのある声が届く。
 振り返るならば、開け放した硝子扉の向こうの薄暗い廊下にアラジンが立っているのが見えるだろう。
 彼はスケッチブックを片手に、学園に留まっていたようだ。

 星空に見下ろされて煌めくガーデンテラス。
 無機質な硝子越しの星々。
 月明かりがスポットライト代わり。
 柔らかな芝生を踏みつけてミュゲイアはこのガーデンテラスの広さに胸が騒いだ。
 投げかけた声に対する返事はなかった。
 月明かりに照らされる白銀はどこにもいない。
 星が昇る頃にはずっと居てくれていたのに。
 ただ、響き渡った甲高いソプラノ。
 返事のない言葉をクスクスと笑うように揺れる花々。
 ドクン、ドクン。
 コアがやけに煩い。
 涼しいはずの気温が急激に上がったように熱くなる。
 変な汗をかきそうになりながら、ミュゲイアは金魚のような目をギョロギョロと動かして辺りを見渡した。
 真っ白に零れ落ちそうな瞳のどこにも白銀は映らない。
 もしかして、本当に?
 カフェテリアに置かれていなかったチラシのことが脳裏をチラつく。
 ブラザーの言葉が頭の中で反響する。
 そんな訳ないと思うほどにブラザーの悪魔のような言葉はミュゲイアの頭に響き渡る。
 嫌なことばかり思い出させる煩い頭に困って耳を塞ごうとしたその時、いつもの大好きな声が響いた。
 勢いよく声の方へと振り返れば開け放した硝子扉の向こう側にアラジンが立っているのが見えた。
 ミュゲイアはそちらへと走り出し、抱きつくように手を広げて笑った。

「……ァ、アラジン! ミュゲ待ってたよ! あのね、あのね、カフェテリアにチラシがなくてミュゲがその事をブラザーに聞いたら、ブラザーが、アラジンは芸術活動辞めたんじゃない? って言ったの! それで、いても立っても居られなくてミュゲ来ちゃった! もちろん今日も芸術活動するよね、アラジン! いっぱい笑顔の芸術活動!」

 もし抱き留めてくれるのならばミュゲイアはアラジンの事を見上げたままに話し始めるだろう。
 今日も素敵な芸術活動を。
 笑顔がいっぱいの芸術活動。

 振り落ちる流星のように、ミュゲイアの小さな体はアラジンの元へと吸い込まれていく。彼は取りこぼさぬように彼女をふわりと抱き留めるだろう。人形のように軽いあなたを収めることなど、アラジンの細腕であっても実に容易く。

「ミュゲ、来てくれたんだな、ありがとう! オレが誘ったこと覚えててくれたんだよな? もしかして、待たせちまったか? ……ゴメン!」

 彼はこちらを見上げて花開くように微笑むあなたのほおばせを見下ろして、同じようににっこりと笑う。星降るような優しく夢見心地な声で応えるのだ。
 互いのあいだにむなしい軋轢など不要とばかりに、身を寄せ合っていようと違和感など感じ得ない。何故ならばあなた方は触れ合うために生まれたドールなのだから。

「チラシ──ああ、チラシは……心配させてゴメンな、勧誘チラシはもう全部捨てたんだ。本当はもっと同志が欲しかったけど……ブラザーの言う通り、オレはもうここで天体観測するのはやめにしたんだ。」

 そして、自身の頬を気まずそうに掻きながら、アラジンはすまなそうにぽつりと吐露する。無邪気に活動を楽しみにしていたあなたに心苦しいといったような、そんな表情で。

 柔らかく抱き止められれば、そのまま身を預けミュゲイアは微笑む。 ほら、何も変わってなんていない。
 嫌な予感は的中しない。
 だって、笑っているから。
 笑っていれば嫌な事なんて起きない。ただただ無償の幸福だけが降り注ぐ。
 今日も昨日も明日も芸術活動をしよう。
 それだけで笑顔になれる。
 ミュゲイアの芸術は笑顔なのだから。
 それを受け入れて受け止めてくれたのは他の誰でもないアラジンである。
 そんなアラジンが芸術活動を辞めるなんて、裏切るなんてしない。
 だって、私たちはあの痛みに抱かれた記憶の中でも星空を眺めていたのだから。
 ずっと、ずっと、そうするべきと決められていたのだから。
 アラジンと一緒に芸術活動をして、そのアラジンの笑顔をミュゲイアはスケッチブックに描き収める。
 それだけで満天の星空も霞むほどの幸せが出来上がる。
 だから、今日だっていっぱい笑おう。
 沢山の芸術活動を教えてもらおう。
 満天の星空が羨むほどのものにしよう。
 だって、アラジンもそれを望んでるでしょ?

「ううん! 待ってないよ! アラジンの笑顔考えてたから待ってない!」

 どれだけ待とうともそれは笑顔の為で終わる。
 それだけに楽しい時間。
 もう、誰にも邪魔されない時間。
 じっくり、ゆっくり、今を幸せにするの。


「────え?」


 ミュゲイアは笑顔のまま固まった。
 目を大きく見開いて、ただアラジンの気まずそうな顔を見つめた。
 おかしい。
 おかしい。おかしい。おかしい。
 グルグルと頭の中が掻き混ぜられてまた、ブラザーの言葉が反響する。
 ぐちゃぐちゃの真っ黒になる。

「ど、どうして辞めちゃうの? じゃあ、もうミュゲと天体観測してくれないの? あの約束は? ねぇ、どーして!?」

 焦ったようにキョロキョロと目線を泳がせながらミュゲイアはアラジンの腕を強く握り締めて問いかける。
 なぜ、そんな事を言うのだろうか。
 どうして笑っているのにこんな事が起きちゃうの?

 ミュゲイアの笑顔は、それでも崩れることはなかった。見た目だけがいつも美しく保たれるように造られていて、衝撃は彼女の内側でただ荒れ狂っている。あなたはいつもそうなのだろう。どれほど辛いことがあっても、どれほど悲しいことがあっても。彼女は自身でも知らずのうちに内側を傷付けるだけ傷付けて、表面上には何も変わらないように見せかけているのだ。
 彼女の歪な在り方はトイボックスと似ていた。誰かの目には、いつまでも幸せであるかのように見えるのだ。

「………………」

 アラジンは、焦燥を募らせたような声で詰問するミュゲイアに対し、眉尻を下げて少し思い悩むように黙りこくった。
 目線は気まずそうに逸らされていた。だが天体観測の約束、と告げられると、少し目の色を変える。彼の鮮やかなブーゲンビリアは、それでも力強い輝きを放って、あなたの狼狽を鏡写しにうつしだす。

「ちょっと誤解があったな、ごめん。……『ここで』天体観測するのはもう辞めたんだ。──オレにとって意味が無くなったから。」

 彼は言葉にするのを迷っている様子だった。
 しかし意を決すると、今度はアラジンの方があなたの肩を掴む。もちろん脆いあなたの肩が砕けないよう、やさしい力で。

「ミュゲ、大事な……話がしたい。同志のお前に。でもこの話をすると、お前はショックを受けるかもしれない。悲しい思いをするかもしれない。

 それでも天体観測の約束のことを思えば、話さないわけにはいかない。……聞いてくれるか?」

 星空が曇ってゆく。
 ゆっくりと分厚い雲に覆われてしまうように。
 真っ白なベッドが重たいシーツで隠されるように。
 窓の外の景色がカーテンで閉められてしまうように。
 ゆっくりと、ゆっくりと、霞んでゆく。
 煌めく星々が視界から逃げてゆく。
 手を伸ばしても遠くの星は掴められない。
 小さな手に収まらないほどの星をミュゲイアは探している。
 ずっと探している。
 逸らされた視線を追いかけるようにミュゲイアはアラジンと目を合わせようとする。
 そんな顔をして欲しい訳じゃない。
 そんな顔が見たかったわけではない。
 そんな顔を見るために此処に来た訳ではない。
 強く掴んだ腕の力を抜いたその時、肩を掴まれた。
 優しく包まれた肩に熱が集まる。
 ブーゲンビリアの瞳に吸い込まれてミュゲイアはアラジンの手に重ねるように手を置いた。
 優しく柔らかく。


「……ミュゲ聞くよ。話してアラジン。ミュゲ、天体観測したいからお話聞くよ。だから、笑って。」

 誤解という彼の言葉を聞いて、彼の意を決した様子を見てミュゲイアは笑った。
 天体観測が出来るのなら、星を見る時隣に貴方がいるのなら、なんだっていい。
 芸術活動が出来るのならば。
 ドクン、ドクンと煩くなるコアを黙らせるようにミュゲイアはアラジンの事をしっかりと見た。
 星が曇らないように。
 星を逃さないように。

 焦燥が手遅れな黒いインクのように滲み出していた、あなたの表情は。また穏やかに、受け入れるように微笑を浮かべるのだろう。その内側を傷つけ荒れ狂う、ピンポン玉から目を逸らし続けながら。
 アラジンはあなたの目の色と、表情、そして言葉を確認して、数秒黙った後に深く頷いた。

「ああ。それじゃあ──向こうに座ろうぜ、ミュゲ。

 立ちながら話すと良くない。これから誰に何を言われても、オレたちは綺麗な星を見ながら談笑してただけだ。覚えててくれ。」

 アラジンは実に自然な流れで、あなたと口裏を合わせた。万が一先生に見咎められようとも、あなたと共にこう口実を付けるのだと、見えない小指を切って一方的に約束したのである。
 了承を待たず、彼はあなたの背を押してガーデンテラスの適当な机と椅子に腰掛けた。奇しくもその席は、以前ブラザーも含め三人で天体観測をした時の、テラスの中央、特等席であった。

 あなたの隣席に腰掛けた彼は、どこから話すべきかと少し手をこまねいて迷って。

 それから、頭上の煌びやかな星空を見上げた。
 あなた方にとって思い出深い財産を。


「あの星は偽物なんだ、ミュゲ。あの空も、本物なんかじゃない。機械で投影された映像にすぎない。

 この学園は海の中にある。オレたちが観測していた空はまやかしのものなんだ。だからここで星を見ることには意味が無い。──ミュゲ、オレが何を言いたいか分かるか?」

 アラジンに言われるがままミュゲイアは口裏を合わせることに対して小さく頷いた。
 そして、そのまま背中を押されて案内されたのはガーデンテラスの特等席。
 大事な大事な約束をしたあの席。
 その席にゆっくりと腰をかけてからミュゲイアはアラジンが話し出すのをただ待っていた。
 ブーゲンビリアの瞳を見つめながら、まだか、まだかとその柔らかな口が動くのを待った。
 ガーデンテラスは静寂に包まれて、煌めく有象無象の星々に見下ろされている。
 コアが煩いのはガーデンテラスが静かだからか、アラジンの言葉が気になるからかは分からない。
 そして、アラジンの瞳が動いた。
 頭上の星を見上げるのにつられてミュゲイアも見上げた。
 空には満天の星。
 きっと、アラジンと天体観測をしなければこの空の広さも星の煌めきにも気づかなかった。
 今では笑顔以外でミュゲイアが興味を持っているものである。
 星空に吸い込まれそうになる中でアラジンの言葉が聞こえてミュゲイアはアラジンの方へと目線を向けた。
 アラジンの語るトイボックスのこと。
 頭上に広がる星々は偽物で、トイボックスは海の中にある。
 それに対してミュゲイアは口を開いて。

「……ふふっ、あははっ! なぁんだそんな事? それならミュゲも知ってるよ! 此処が海の中にあるのも教えてもらったから! ……良かった、アラジンがお披露目に選ばれたとかじゃなくて! ミュゲ安心しちゃった!
 ……アラジンも知ってたんだね! アラジンはどこまで知ってるの? この事は誰から聞いたの?」

 ミュゲイアはキョトンと目を見開いてから盛大に笑った。
 なんだ、なぁんだ。
 そんな事だったのか。
 そんな事であったということにミュゲイアは笑ってアラジンの事を見た。
 面白いというように、心底安心したというように。
 ミュゲイアはこの場の雰囲気に不釣り合いな程にただ笑った。

 これでもかと決意を重ねて、ミュゲイアの明るい笑顔を悲しみで塗りつぶしてしまう覚悟をして。アラジンは膝の上に乗せた自身の掌を硬く握り込み、強張った真剣な表情であなたに語って聞かせたのだ。
 ──しかし、予想に反して。
 あなたは拍子抜けと言ったようにきゃらきゃらと明るく笑って、安心したように声を上げるものだから。アラジンも片方の肩を落として唖然としてから、やがて眉尻を下げて口角を上げた。

「な……なんだミュゲ、お前もう、このこと知ってたのか?! オミクロンの奴らは色々知ってるんだな、他のクラスの連中はなーんにも気付いてないのにさ……」

 ──この学園に訪れたばかりのアラジンは知らないことだったが、この学園にはヒトに仕えることを全ての指標として生きる、まさしく人形のような者しか存在しない。故にトイボックスの在り方になど興味は抱かない。それはヒトに仕えるにあたって不必要な思考だからだ。
 あなた方がトイボックスや自分たちの在り方に疑問を覚えるのは、ドールとして落ちこぼれだからだ。それは本来特異な事であったが、無論あなた方にそんな自覚はない事だろう。アラジンにも。

「オレは……大体のことはお前たちのクラスのソフィアから聞いた。オレ達の置かれてる危機的な状況は、結構馬鹿にならないらしい。

 ミュゲ……お前は知ってるのか? お披露目に出たドールの末路を。」

 素っ頓狂で思わず笑いが溢れた、と言った表情から、アラジンはまた真剣な色を眼差しに浮かばせ、あなたを見据える。

 つかの間の緊迫とした雰囲気もどこかへと吹っ飛んでしまい、ミュゲイアはニコニコと笑っていた。
 そんな事と言ってしまうほどにミュゲイアはその事を重く受け止めれていなかった。と言うよりは実感がなかった。興味がなかった。
 だから、そんな事なんて薄っぺらく軽い言葉で表現してしまった。
 ミュゲイアの身に直接起こったでもなく、聞いただけの話ではやはりどう捉えるべきか分からない。
 どうしても笑顔の方ばかりが脳を埋めつくしてしまっている。
 だって、ミュゲイアはそういうドールだから。

「知ってるよ! でも、アラジンも知ってたなんてミュゲびっくり! ……へぇ、ソフィアも知ってるんだ。」

 まさか、アラジンもこのことを知っているとはミュゲイアは思ってもみなかった。
 アラジンも少し笑ったのを見てミュゲイアはもっと笑った。
 けれど、次にはその顔もまた真剣なものになっていた。

「燃えちゃうんでしょ。それも知ってるよ。燃えちゃった子はね、笑顔がとっても可愛い子だったの。笑った顔が素敵なの。でも、それ以外覚えてない。ミュゲね、その子たちの笑顔の事しか覚えてないの。どうしたら笑ってくれたとかは覚えてるのに苦手な教科とか好きな食べ物とかは全く覚えてない。うーん、興味ないからかなぁ? 印象にないのかな? でもね、その子の笑顔も見れないんだって思ったら残念だったよ!? あっ、それにアラジンの事はミュゲ、笑顔以外も覚えてるよ! アラジンは特別だから!

 ………分からないんだ。ミュゲはあの子達の事残念って思ってるのか、悲しんでるのか、それともミュゲがお披露目に選ばれたんじゃなくて良かったって安心してるのか。だから、危機的な状況って言われてもあんまりピンと来ないの。笑顔が減ったのは悲しいけど、でも二人新しくオミクロンに来てくれたから数的には元に戻ったし。……でも、アラジンと天体観測出来てないのにお披露目に行くのはヤダなぁ。もちろん、アラジンがお披露目に行っちゃうのもヤダよ? アラジンは同志だから!」

 ミュゲイアは偽りに煌めく星空を見上げて口を開いた。
 柔らかいソプラノが静寂に溶けてゆく。
 ポツ、ポツと語られる言葉は歪んでいた。
 ミュゲイアのダメなところ。オミクロンである理由。
 彼女の汚い欠陥。
 笑顔ばかりしか分からない哀れなドール。
 その純白の瞳は何も映さない。
 ヴェールのように霞んで笑顔以外を映さない。
 だから、笑顔以外に気が付かない。
 何も分からない。
 異端児と言われるに相応しいゴミ屑。
 見せかけのパールはきっと腐った大腸。
 その笑顔は煤で描かれた汚れ。
 その頭には腐った花しか咲いていない。
 ミュゲイア・トイボックスは壊れている。
 ガラクタ、ゴミ屑、要らない子。
 何も見えない間抜けなドール。

「なーんだ、良かった……これを話してお前がショックを受けて笑えなくなったら、オレ責任感じちまうしさ。……けどまあ、状況としてはまだまだ笑えないんだけどな。」

 アラジンはそれでも、あなたへ話そうとしていた時より力が抜けた様子だった。少なからず他者へ衝撃を与える内容だ、自分がこれまで信じてきたものが崩れ去る衝撃は生半可なものではない。彼はそれを知っているからこそ、あなたを頻りに案じていたのだが、どうやらその心配はなさそうだ。
 いや、それどころか。彼女の笑顔は不自然なほどに崩れない。子供の落書きのように幼くでたらめな笑顔は彼女の顔をクレヨンで塗ったくったまま変わらない。ミュゲイアはその潤んだ穢れなき唇で、残酷な台詞をいくつもアラジンに吐きつける。

 居なくなった子のことはもう今となってはどうでもいいのだと。以前は仲良くしていたであろう存在であっても、もうほとんど記憶にないのだと。
 悲しいのか、悔しいのか、自分では分からない。どこまでも他人事で完結出来る、だからこそ彼女は遠い彼岸の出来事を他人事だと笑っていられる。

 アラジンはあなたが言葉を締めるまで黙って聞いていた。その鮮やかな瞳はあなたの笑顔を映したまま逸らされることはない。
 少しだけ黙って、彼はようやく口を開く。

「そうだな、分からなくていいんじゃないか? オレだって自分のことを完璧に理解出来てる訳じゃないし。お前が行っちまったやつのことを残念だって思うならそれが正解だし、それが自分じゃなくて安心したって言うなら、それも正解だよ。

 ミュゲはさ、笑顔のことは忘れずに覚えてるんだろ? だったらそのまま、笑顔のことを忘れなければいい。何をしてその子が笑ってたのか、その子と何をして楽しかったのか……思い出がお前の中に息づいてれば、きっとその子も嬉しいと思う。

 ……多分ほとんどの奴らはさ、誰かを失えば悲しいんだと思う。それが仲の良かった奴なら尚更な。だからお前の話を聞いたら、誰もがおかしいって言うかもしれない。普通じゃないからな。
 でもお前の普通じゃないところは、場合によってはきっと誰かの救いになる。悲しむ奴らが楽しい思い出まで全部忘れても、ミュゲが覚えて、ミュゲが取っておいてやればいいんだ。笑顔を描くのがお前の芸術だろ? って……これはオレが勝手に言っただけだけど。」

 アラジンはあくまで肯定し続けた。トゥリアモデルとしての在り方がそうであるように、決してあなたに否定的な言葉を吐かない。その上で考え方の一例を提示して、首を傾ける。

「……話が大分逸れたな。ともかくだ!
 ミュゲ、オレだってお披露目には行きたくない。お前にも行ってほしくないよ、もちろんブラザーにもな。だってオレたちは同志で、三人で天体観測する約束があるだろ?

 それを実現するためにオレは、外に行きたいんだ。外で本物の星空を見上げたい。そこにミュゲとブラザーが居てくれたら嬉しいと思う。その調べ物をするために、ここでの天体観測をやめにすることにしたんだ。……理解してくれたか?」

 ミュゲイアの語ったことは理解されがたいものであった。
 身勝手で我儘なエゴの塊。
 笑顔しか見てないからこそ出る愚かな言葉。
 笑顔以外に無頓着でそれ以外に対する気持ちが浅く、共感性に欠ける。
 ミュゲイアがオミクロンに落ちた所以である。
 今まで笑顔以外見てこなかったから、いきなりそれ以外を見ることも出来ない。
 染み付いた考えは習慣は変わらない。
 これはきっと笑顔にしか興味がなかった罰。
 ミュゲイアのガラクタな一面。
 結局のところミュゲイアも独りぼっちである。
 誰かといることを愛するのに、誰かがいないと笑顔を得られないのに、ミュゲイアはその誰かに寄り添えないから結局独りぼっち。
 いつだって自分だけで全てが完結してしまっている。
 笑顔だけは忘れなくとも、それ以外の印象が極めて少ない。
 どれだけ一緒におままごとをしても、木漏れ日の下で本を読んでもらっても、結局は素敵な笑顔だったという感想しか抱けない。
 身をもって経験しない限り、何も分からない。
 もしかしたら、経験したとしても変わらないかもしれない。
 いつまで経ってもトイボックスで起きていることに対してどこか他人事での甘ったれた事しか言えないのかもしれない。
 それはどこか寂しいものであり、置いてけぼりであるけれど、きっとミュゲイアはその寂しさにも気づけない。
 ただずっと星を追いかけているだけなのだろう。

「そっか、そうだよね! ミュゲがその子の笑顔だけでも覚えていてあげればその子も幸せだよね! だって、その子はミュゲが思い出す度笑ってるもん! ……そうだよね、これがミュゲの芸術だもんね! アラジンはやっぱり凄いね! ミュゲね、アラジンの事大好き! アラジンの事は笑顔以外も絶対に忘れない!」

 アラジンの言葉にミュゲイアは目を輝かせた。
 いつだって、目の前のドールは否定しない。
 心地よい肯定だけをミュゲイアに与えてくれる。
 ミュゲイアの大切な同志。
 ミュゲイアの大好きなお友達。
 どこまでも優しくて、聡明なドール。


「うん! ミュゲ、アラジンがお披露目に行っちゃうのやだ! みんなで天体観測したいよ! その為だったらミュゲもアラジンのお手伝いする! ミュゲも本物の星を絵に描きたい! ……ミュゲもアラジンと一緒に外に行きたい! 

 ……行きたいけど、ブラザーはわかんない。ブラザーも一緒に天体観測したいけど、ブラザーね、ミュゲにお披露目に行ってって言ってきたの。ミュゲもブラザーがお披露目に行けばいいと思っちゃった。だって、誰かがお披露目に行けばもしかしたらお披露目に行っちゃった子が帰ってくるかもしれないんだって! また、お披露目に行った子の笑顔が見れるかもしれないんだって! ブラザーが言ってたの。

 ミュゲ、ブラザーの事がよく分かんないし、ブラザーの笑顔は大好きだけど、ブラザーの兄妹ごっこは大変でミュゲ困っちゃう。オミクロンでずっと一緒だったのにブラザーの事だけは一番わからない。なんでなのかな? アラジンにはお披露目に行って欲しくないって思うのに、ブラザーに対しては違うの。でも、ブラザーはミュゲがお披露目に行ってくれたら嬉しいんだって。アラジン、ミュゲわかんないよ。……ミュゲはみんなで天体観測したいだけなのに」


 星を見よう。
 あの一番星を追いかけよう。
 太陽から逃げよう。
 天翔る星にこの身を焦がして、この星空を独り占めしてしまおう。
 ここじゃないどこか遠くで、どこかの丘の上で。
 星を見る時、隣に二人がいてくれたらいい。
 そうすればきっと、また何も知らない記憶の頃に戻れる。
 忘れていた時間の分だけそれを埋めるように、星を見たい。
 けれど、ミュゲイアはブラザーがわからない。
 ブラザーとも天体観測はしたいけれど、それはきっと好意からではない。
 あの記憶にブラザーがいたからに過ぎないかもしれない。
 けれど、あの記憶の中では二人とも仲良しだったかもしれない。
 こんなにも憎らしくも愛することもなかったかもしれない。
 ミュゲイアは分からない。
 純粋無垢で無知で愚かであるから。
 考えることを放棄してきたから。
 ブーゲンビリアの瞳に縋るしか出来ない。
 私の大事なアラジンに。
 友とも違う特別な同志に。

「ありがとな! ……オレもお前のことが好きだぜ、ミュゲ。お前は芸術に付き合ってくれる同志だからな。」

 己のことを何があっても忘れないと、爛漫な笑顔で告げてくれるミュゲイアの言葉が、アラジンにとって嬉しくない筈はない。眦を和らげて破顔しながら、彼女へ謝意と嘘偽りのない好意を告げる。
 今後も共に芸術活動に取り組むかけがえのない同志として側に居てほしい、そんな気持ちを抱えながら。

「え……ん? えっ!? な……ブラザーがお前にお披露目に行けって? ちょっと待ってくれ、そんなまさか……あ、いや。あいつはお披露目がどういうものか知らないんじゃないか? だからお前を勇気付けるつもりでそう言ったんじゃねえのかな……」

 ──しかしながら。怒涛の勢いで語られるあなたとブラザーの複雑怪奇に絡み合い、縺れ合う関係性の妙を聞かされて、さしものアラジンも混乱してしまったらしい。目を何度も瞬かせながら、口元を押さえて苦々しい表情を浮かべる。
 彼は、ブラザーがどこまで知っているのかも知らない。しかしミュゲイアを大事に想っているであろう彼が、他ならぬミュゲイアにそんなことを言っているなどと想像すら出来ず、納得出来そうな理由を挙げた。

「だって……お披露目のことを知った上でそんなことを言うってことは……ブラザーは、お前がし、……壊されることを──」

 それ以上は言えなかった。
 アラジンは汗さえ浮かびそうな深刻な顔で、じっとあなたを案ずるように見ている。

 ミュゲイアは小さく深呼吸をした。
 浅い空気がミュゲイアの身体を巡ってゆく。
 ゆっくりと、ゆっくりと。
 這うように。
 流れるように。
 そして、アラジンの方へと顔を向けた。
 目の前のアラジンはかなり戸惑ったような様子である。
 信じられないというのがよく伝わってくる。
 そう思われても仕方がない。
 アラジンの前ではミュゲイアとブラザーは至って普通だったから。
 隠していたつもりがあったのかは分からないけれど、まぁそれなりの仲をしていた。
 アラジンから見れば二人は仲がいいように見えたかもしれない。
 実際、傍から見れば仲のいい二人だっただろう。
 つい最近までは。
 それが崩れたのはトイボックスの皮が剥がれてきた頃。
 積もりに積もった思いが爆発してしまった。
 それもきっと、二人ともが知らぬ所でトイボックスの謎に触れてしまっていたからだろう。
 ブラザーも限界が来ていたのかもしれない。
 ミュゲイアも兄妹ごっこに疲れていたのかもしれない。
 もっと、別の方法で妹のミュゲイアじゃなくてトゥリアドールのミュゲイアとして笑わせたかったのかもしれない。
 けれど、言葉の足りないミュゲイアではダメだった。
 デリカシーのないミュゲイアではブラザーの神経を逆撫でする事しか出来なかった。

「……うーん、ミュゲは知ってると思うよ。だって、ミュゲがお披露目に行けばラプンツェル達が帰ってくるかもって言ってたし。でもね、ブラザーはねミュゲに酷いこと言うと笑ってくれるの。ミュゲに痛いことすると笑うの! それって、ミュゲはブラザーを幸せに出来てるってことだよね! ……でも、変なブラザー。笑って幸せなのにそんな事言うんだもん。ミュゲ、ブラザーの事がわかんない。」

 ミュゲイアは悩んだように言葉を紡ぐ。
 驚いているアラジンと違ってミュゲイアはどこか落ち着いていた。
 こんな時でさえ幸せを履き違えて笑顔を見間違えている。
 ブラザーのことを分かろうと出来ていない。
 ただ、ブラザーをどこかで怖がっていることには違いなかった。
 今まで怖いと思わせるような事をされてきたから。
 その印象と笑顔しかないせいでよく分からないのかもしれない。

「……ブラザーの妹じゃないって言ったのがダメだったのかな? でも、ミュゲは本当にブラザーの妹じゃないもん。でも、でも、兄妹ごっこ続けてあげるって言ってあげたのに。……ブラザーって難しいの。ミュゲの髪の毛引っ張ったりするし、痛いことしないと幸せになれないのかな?」

 オミクロンだから仕方ないね。
 欠陥品同士の仲違い。
 ゴミが増えただけ。

「…………………」

 アラジンは、流石に二の句を継げない様子だった。
 ぽかんと口を開け広げたまま、あなたの語るあまりにも信じ難い事実を素で受け止めるしかない。
 今まで彼は、この二人の美しい兄妹愛しか見えていなかった。表面上で、あまりにも薄っぺらくて、彼らの本質など何ひとつ見れていなかったらしい。氷山の一角を前に笑顔で接して、仲良くなれたのだと思い込んでいたらしいのだ……。

 しかし蓋を開けてみれば、彼らの関係性は全てが見せかけのまやかしに過ぎなかった。ブラザーはミュゲイアに暴力をふるい、ドールではあり得ない兄妹ごっこを彼女に強いている。一方でミュゲイアはブラザーの笑顔ばかりを盲信し、ブラザー自身のことを見据えるということをしていないようだった。
 すべてが歪で、噛み合わない、すれ違い続けるだけの関係だったという。

 アラジンは、口元を大きな手で覆って、暗い顔で数秒ほど沈黙していた。深く思考しているのだと一目でわかるだろう。怒涛の如く流れ込んできた驚愕の情報を咀嚼し、インストールするための時間であったとも言える。
 たっぷりの沈黙を経て、アラジンは手を下ろし、両腕を机に乗せてあなたを見据えながら口を開いた。

「……オレ、全然知らなかった。お前たち、そんな、…………。

 ……いや、取り敢えずミュゲ、一つ聞かせてくれ。お前は、痛いことをされるのも、酷いことをされるのも嫌なんだろ? だから、ブラザーに……お披露目に行けばいいって、思ったんだよな?」

 彼が間を空けて確認したのは、第一にあなたの気持ちだった。

「オレ……、お前がそんな風になってるって知らなくて、無神経に三人で天体観測しようって……、……悪かった、本当に。」

 長い長い沈黙。
 実際のところはさして長くない沈黙だったのかもしれない。
 それでも、ミュゲイアにとってはそれが長く感じてしまった。
 ブラザーのことを話すのは、アラジンが初めてであった。
 今までだって無意識のうちに恐れていた。
 この感情に名前を付けることも出来ないまま、いつもの甘いブラザーに甘えてそればかりを見ていたからかこの歪な関係を誰かに話したことなんてない。
 アラジンが初めてだ。
 そもそも、ミュゲイアがここまで自分の話をすることもあまりない。
 いつも笑顔、笑顔とばかり言っているから。
 そればかりだから、聞かれないと答えない。
 笑顔を優先してしまうせいで、いつもブラザーに対する思いを後回しにしていた。
 後回しにしているうちに麻痺していって、なんとも思わないような気がしていた。
 ブラザーといる時以外、ブラザーのことを考えなければ彼への思いは霞んでよく分からない曖昧なものに出来ていたから。
 それが出来なくなったのも、変なことが起きてしまったから。
 ブラザーへの思いを思い出させるように、謎の頭痛のせいで知らない記憶を見てしまっていたから。
 いつも、その記憶にはブラザーがいたから。
 そのせいだ。
 きっと、そのせいなんだ。
 あんな事をしたのも、そのせい。
 ブラザーとミュゲイアは兄妹ではない。
 あれはごっこ遊びでまやかし。
 それに本気になっていたのはいつだってブラザーだけで、ブラザーの気持ちを利用して手っ取り早く笑顔を得ていたのはミュゲイア。
 そのくせ、痛いことをされれば笑顔じゃなくなればブラザーのせいにしていた。
 ブラザーを怖いと思っていた。
 開かずの扉に対する恐怖と似ているようでどこか違う恐怖を感じていた。
 恐怖と言うよりは愛憎。
 ぐちゃぐちゃに溶かしたチョコレートのような感情。
 ミュゲイアでさえ、もうブラザーに対してどんな感情を抱いているのかわからない。
 ブラザーが分からない。
 笑顔になって欲しいのに、幸せになって欲しいのに、それに対して何かモヤモヤとしたものが生まれてしまう。
 いつも笑顔を求める側であったから、妹を求められるのには慣れていなかった。
 分からなかった。
 ミュゲイアがミュゲイアであることを否定されているような感じだった。
 それと同じくらいにミュゲイアもブラザーが兄であることを否定していた。

「……うん。ラプンツェル達に帰ってきて欲しいなら、ブラザーがお披露目に行けばいいもん!

 ……え? ……ち、違うよ! アラジン! ミュゲも、ミュゲもね、天体観測したいの! 三人でしたいの! また、あの頃みたいに天体観測したいの! 誰か一人がお披露目に決まったらお終いの天体観測じゃない天体観測がしたいの! だから、アラジンは悪くないよ!悪くないから謝らないで! 笑って!」


 ミュゲイアは否定しなかった。
 ブラザーがお披露目に行けばいいと思ったことを。
 けれど、アラジンの謝罪は否定した。
 アラジンを謝らせたかった訳じゃない。
 天体観測をしたくない訳じゃない。
 天体観測は今ではミュゲイアも大好きな事だ。
 それを嫌だなんて思ったことはない。
 三人でできるならしたい。
 お披露目が来てしまえばお終いじゃない天体観測。
 いつまでも、好きなだけやりたいのである。
 星空を眺めて一緒に笑い合いたい。
 ミュゲイアの純粋な願いなのである。
 だから、ミュゲイアはアラジンの言葉を否定した。
 焦ったように身を乗り出して、口早に。


「……ミュゲは天体観測したいの。ブラザーもいないとヤダよ。でも、ブラザーの妹は嫌なの。そうじゃないの。……そうじゃなくて」

 そうじゃない。
 そうではなく、
 兄、妹ではない関係性で、
 困らせられることもなく、ただ心の底から笑って。

 ───────「友達として」


 ミュゲイアは自分の口から出た言葉に自分自身も驚いていた。
 友達。
 そうだった、ミュゲイアはブラザーを一度も友達として見れてなかった。
 ずっと、妹を演じていたから兄と言う存在でしか見ていなかった。
 それも笑顔の為だと思っていたから。
 無知で疎かなガラクタはアラジンを見つめる。
 このどうしようもない感情を。
 我儘でおかしな思考を。
 もう何をどうしたらいいのか分からない関係を。
 それでも、ミュゲイアの口からでた言葉は友であった。


「……ミュゲはブラザーとお友達になりたいの?」

 本気で猛省して、背中を丸めて、彼女に申し訳が立たないアラジンは珍しくしおらしい態度で謝罪をした。あまりにも軽薄だったのだ、彼等の関係性を本気で推し量ろうともしないで能天気にその間で『同志』だなどと宣っていたことも、本気で恥ずかしかった。
 自分は星空の下、彼等と芸術を共有出来て嬉しかった。だが彼等はそうではなかったのかもしれない。腹の内側では、もっと複雑な感情が入り乱れていたのかもしれない……気付いてあげられなかったことも不甲斐なく、彼は端麗な顔をただ歪めていた。

 そんな彼を、笑顔を愛する少女は慌てた様子で宥めようとする。幼く爛漫な彼女には珍しいほどに。思えばミュゲイアはここに来て、沢山の本音を語ってくれている気がした。アラジンが彼女に真実を話す覚悟をした時よりも、それ以上の覚悟を持って。
 それだけ真剣な気持ちで吐露してくれているのだろう、と思って。アラジンも真面目に取り合わなければならないと、表情を引き締めて彼女に向き直った。
 きっとそれも、『同志』のあるべき姿だと思うから。何よりも、親しい彼女の──いつも笑顔で元気なミュゲイアの浮かない顔から、曇り空を取り払いたかった。
 アラジンは心配していたのだ、心から。同志であるミュゲイアとブラザーのこれからのことを。

「……ともだち」

 彼女から溢れた単語に、アラジンもまた驚いたように目を丸くしていた。しかし、深く考えなくてもそれは当然なのかもしれない。ミュゲイアはブラザーと兄妹であることに違和感を覚えている。そしてその関係は痛くて、怖くて、苦しいことなのだろう。
 そうでなければ、この場は学び舎なのだから、友人になるのは当たり前だ。

「そっか、ともだち……友達、か。ミュゲはブラザーと友達になりたいんだな? それが一番、お前の中で納得出来るんだよな?

 ……分かった、オレも協力するよ、ミュゲ。」

 アラジンは、こちらに身を乗り出していたミュゲイアを真っ直ぐに見据えて、一等星の輝き放つ声で言った。
 机に置かれた嫋やかな手を、こちらの掌で重ねるように握って。ゆっくりと席を立って、彼女の華奢な身体をギュッと抱擁しようとする。
 その大きな手のひらはあなたの背に回されて、励ますように撫で下ろされるだろう。

「どうすればブラザーと友達になれるのか、一緒に考えよう。

 それで、──三人で外に出て、『今度こそ』、終わらない天体観測をする。これをオレの芸術にするよ、ミュゲ。

 ……一緒に頑張ってくれるか?」

 息をするのも忘れてしまいそうな時間。
 ただ、口から出た言葉がずっと頭に触れてミュゲイアを揺さぶる。
 友達。
 その言葉は好きだ。
 けれど、友達は分からない。
 擬似記憶もそんな事は教えてくれなかった。
 ただ、憧れているだけだった。
 憧れていたから、此処で沢山の友達を作るなんて目標を掲げていた。
 友達と笑い合う。それを憧れた。
 人間のやる事に憧れた。
 いつだって、ミュゲイアの周りには沢山の笑顔があったけれどミュゲイアはその真ん中にいない。
 その円を外から眺めて笑っているばかりだった。
 だから、友達の作り方は知らない。
 隣にいるのが恋人ではない時が分からない。
 沢山の愛を詰め込まれて生まれたトゥリアには友愛が分からない。
 愛しているで片付かない関係が分からない。
 熱い夜に身体を重ねて、月明かりに照らされた姿を微笑むのではない関係。
 それは、きっと。
 何よりも煌めいていて流れ星のように早く流れてしまうほどに楽しい時間。
 ミュゲイアはずっと憧れていたのかもしれない。
 友というものに、友として接し合うドールたちに。
 そこに自分が混ざれたらと思って、真似するように天真爛漫になっていったのかもしれない。
 『友達』、口に出してしまえば抑えることのできない思いがある。
 道を間違えて何度も遠回りをしてミュゲイアが見つけた答え。
 嫌いになれない彼との関係。
 だって、独りぼっちのミュゲイアを独りにしてくれなかったのはずっと彼、ブラザーだったから。
 オミクロンに取り残される日々の中で彼だけがずっとミュゲイアの隣にいてくれた。
 お互い迷子にならないように、手を繋いでくれていた。
 ねぇ、ブラザーだったんだよ。
 貴方だったの。
 ミュゲイアに呆れないで何度もずっと一緒に居てくれていたのは。
 それは単にミュゲイアが妹だったからかもしれない、彼がお兄ちゃんであったからかもしれない。
 それでも、こんなにも長くを此処で共にしたのはブラザーだった。
 ブラザーの笑顔を知っている。
 貴方の好きな飲み物だって知ってる。
 貴方の匂いだって知ってる。
 貴方の手の温もりだって知ってる。
 貴方の広い背中を知っている。
 ずっと、名前を呼んでくれていたのはブラザーだった。
 ミュゲと呼んで、寂しさを紛らわせてくれていた。
 こんなにも彼のことを知っているのに、彼の本音も何もかも無視していたのはミュゲイアだった。
 知れていないのは、友達となったブラザーの事くらいだ。
 ずっと、彼の名前を呼べなかったのはミュゲイア。
 兄として接してくる彼を嫌がりながら、彼を都合よく兄にしていたのはミュゲイアだ。
 最初から名前を呼んでいれば、貴方と出会ったその時からちゃんと向き合っていれば。


「……なり、たい。ミュゲ、ブラザーと友達になりたいよ、アラジン! 今更だけど友達になりたいの。ブラザーはずっと一緒だったから! ミュゲね、ブラザーと対等になりたいの。……ブラザー、ブラザー。」


 ごめんね。
 その言葉はぎゅっと押しつぶされた喉のせいで出なかった。
 アラジンに抱きしめられて、アラジンに言葉をかけられてミュゲイアはゆっくりとアラジンの背中に手を回した。
 口にしてしまえば抑えられないこの気持ち。
 未熟でまだ何者でもない真っ白な小鳥の言葉。
 彼の名前を呼んだ。
 彼の名前を呼ぶ度に声が震えた。
 目にかかる髪の毛の隙間から頬に一滴の流れ星が流れる。
 ポツリ、ポツリ。
 今まで笑顔の裏で隠れていた感情が爆発したように、それは止まらない。


「うん、うん! ミュゲ、三人で今度こそ天体観測したいよ。三人じゃなきゃ嫌なの!
 ……あ、あれ? ミュゲ、壊れちゃったのかな? 開かずの扉じゃないのに、怖くないのに、止まらない。アラジン、どうしよ。ミュゲ、幸せなのに涙が止まんないよ。ミュゲ、笑ってる? どうしたらコレ止まるの?」


 天体観測がしたい。
 誰か一人でも欠けてはいけない。
 もっと自由な場所で、もっと空の広さを知りたい。
 名もない星を、寂しそうな星を、寂しがりな私たちが一人にしないように。
止まらない。震える声も。
 頬を濡らす雫も。
 ミュゲイアは知らない。
 開かずの扉でしか流れなかった涙がなぜ、ここで流れるのか。
 なぜ、こんなにも溢れて止まらないのか。
 ただ、ミュゲイアはアラジンを見つめた。
 煌めく純白の瞳をうるうるとさせて、止まらない涙を目で擦りながら。
 幸せそうに笑っている。
 嬉しそうに笑っている。
 貼り付けではない笑顔。
 ミュゲイアも知らないミュゲイア。
 アラジンが、ブラザーが、真っ白なドールを鮮やかにしてくれる。
 どんな色にも染まってしまう無垢な小鳥。
 いつか、大きな翼を羽ばたかせて。
 みんなを連れて一番星の傍まで行こう。
 貴方は幸せを運ぶ白い小鳥ちゃん。
 貴方は笑顔という芸術を愛するドール。
 貴方は芸術クラブのミュゲイア。

 それはまるで産まれたての赤子が産声を上げるように。きっと彼女は今、ありのままの本心しか口にしてはいなかった。
 恋人のものでも母のものでもない、幼く物を知らない彼女の真っ白な手のひらが、アラジンの背に回されると。彼は眼を伏せて、あやすようにあなたの背を何度かさすってくれた。
 ねじれて歪んで、いつしかすれ違い続けるばかりだっただろう。相手の眼を見ることすら厭う、手遅れな関係だったろう。それでもミュゲイアは、一度は見限ったあの青年と、もう一度向き直ろうとしている。
 アラジンはきっとそこに、芸術を見出していた。

 だってそんな想いも衝動も、ドールには必要のないものだ。
 トゥリアはただ、所有者に愛される存在でなければならない。そんな制約を打ち破る欲求は、自己の尊厳をもっとも尊重しなければ生まれない。
 ──アラジンはいつも、これを芸術と呼んでいる。

「絶対なれるさ、ミュゲ。話をしよう、ブラザーと。アイツと友達になれるまで。ほつれた関係を元通りに出来るまで。……諦めなければ、きっとアイツも分かってくれるはずだ。」

 アラジンは力強い言葉であなたを肯定し、励まし続けた。あなたがブラザーとの関係を見直すことに、前向きになれるように。
 清らかな潔白のホワイトトパーズが彼女の眦に光っている。アラジンはトゥリアの当たり前として、その目元に口付けて涙を拭ってやるか少し考えた。彼女は不安がっているように見えたから、愛玩用のドールならばそのように寄り添ってやらねばならないと教育されている。
 だが思案の末、アラジンは何もせずに、薄く笑った。

「何もしなくていい、ミュゲ。お前は笑えてるよ、今までで一番綺麗だ。
 ヒトは嬉しい時にも涙を流すように出来てるらしい。だからお前は何も変じゃないし、おかしくないぜ。」

 友達としての適切な距離感。
 友達としての接し方。
 友達としての気配り。
 トゥリアでは不慣れなことも多いだろう。だが不思議と成し遂げられるような気がする。

 願いを叶える流星が、その背を押してくれる。

 一日の授業も終わり、ゆっくりと時間だけが進んでいた。
 寝る時間までの囁かな暇な時。
 何かやらないといけない課題というのもこれといってなく、明日の準備も済ませてしまっていた。
 そんな中でミュゲイアはラウンジのソファに座って黙々とノートに絵を描いていた。
 毎日、毎日。
 飽きることなくただ絵を描いている。
 この習慣が出来てそれなりに時が経つ。
 ミュゲイアの芸術活動はこれだと言われたその日からずっと、この生活であった。
 最初はまだ上手いともいえなかった絵であったが、毎日描いていればそれも少しはマシになるようで絵らしいものにはなってきていた。
 毎日描くのは笑顔の絵。
 ミュゲイアのノートにはそれ以外が描かれていない。
 全てのものは笑顔でいつも星空が描かれている。
 ラウンジの机には使われた痕跡のある色鉛筆が散乱している。
 何度も描いては眺めてを繰り返していれば時間はあっという間に過ぎてしまう。
 きっと、ミュゲイアは今日もこれを繰り返すのだろう。
 ただ楽しそうに笑って笑顔ばかりを描く。
 このノートの中では笑顔しか存在しない。
 薄っぺらく真っ白なノートの中に完成された楽園がある。
 ミュゲイアの思うままに色付いていく小さな楽園。
 笑顔だけしかない理想の楽園。

【学生寮1F ラウンジ】

Amelia
Mugeia

《Amelia》
 空で偽物の月が笑う頃、いつもの図書館に向かう気になれなかった彼女は彷徨うように本を求めて、気付けばラウンジを訪れていた。
 そうして扉を開けて、真っ先に視界に飛び込んできたのは散らばった色鉛筆。
 机の上にに広がる聖域だった。

 何処か近寄りがたさすらも感じる没頭に対して、彼女は一先ず持ち主に声をかけることにした。

「こんばんは、ミュゲイア様。
 お絵かきですか?」

 そう、その色鉛筆たちの傍で絵を……笑顔を描くミュゲイアに。

 静寂を律するようなそんな声がラウンジに響いた。
 ミュゲイアの名を呼ぶ、聞き覚えるのある声。
 硝子製の氷のような繊細な声。
 ミュゲイアは絵を描く手を止めて声の主の方へと視線を向ける。
 まっさらな青空のような髪の毛。
 知識の海に沈んだような青の瞳。
 この子はアメリアだ。
 ミュゲイアの大好きなオミクロンクラスの可愛らしいドール。
 賢いドール。

「こんばんは、アメリア! そうなの! ミュゲね、お絵描きしてるの! どうどう!? これはね、アラジンがお星様と一緒に笑ってる絵なの! あっ、アラジンって言うのはね、ミュゲの同志! それで、こっちの絵は笑ってるカンパネラの絵! まん丸石で可愛いでしょ!」

 アメリアへ挨拶をしてからミュゲイアは止まらぬ勢いで話し始めた。
 ミュゲイアは何も聞かれていないのに100を話してしまう。
 1の質問に対して色んなことを返す。
 それも楽しそうに。
 開かれたノートの両ページに描かれている二人のドールをミュゲイアは見せた。
 同志であるアラジンがまた星と笑っている絵。
 それから、石ころのような丸いナニカが笑っている絵。
 丸にもじゃもじゃと黒で髪の毛のようなものを描いて、無理くり笑わせたような絵。
 ミュゲイアのカンパネラの絵。

《Amelia》
「えーっと……。アラジン様は芸術クラブのお方ですよね。
 それで、ええとまんまネラ様……ですか?」

 声を掛けた直後、真夏の雨のように途切れる事のない言葉が帰ってきて彼女はくらりとしてしまう。
 まさか挨拶だけでこれだけの言葉が帰ってくるとは、ただでさえ口下手な彼女はゆっくりと話をかみ砕くが……なんだか妙な感じになってしまう。

「芸術クラブといえば、もしかしてミュゲイア様もアラジン様にお会いしたのですか?」

 そんな状況を打破すべく、もとい会話の主導権を得る為に、新たな問いを投げかける。

 後に、彼女はこの無謀な行いを後悔することになったとか……ならなかったとか……。

 ニコニコ。
 ミュゲイアはただアメリアの事を見ている。
 愛おしそうに、楽しそうに、大好きというように。
 真っ白な瞳にありったけの愛をのせて見つめている。
 だって、彼女もまたミュゲイアの大好きな笑顔だから。

「そうだよ! ミュゲもね、アラジンに会って同志になったの! それで、ミュゲも絵を描いてるんだよ! アラジンがね、ミュゲの芸術はこれだって言ってくれたの! ミュゲの芸術は笑顔にする事なの! だから、アメリアも笑って!」

 ニッコリ、笑顔。
 真夏の雨すら枯らしてしまうほどにミュゲイアは言葉を続ける。
 ペラペラと色んなことを纏まりのないままに喋っているばかり。
 楽しげに。
 嬉しそうに。
 構ってもらえるのが嬉しい犬のように。
 しっぽをブンブンと振ってアメリアと会話をする。

「あっ! そうだ! ミュゲ、アメリアの事描く! アメリアの笑顔描きたい! ねぇ! ねぇ! いいでしょ? アメリアこっち来て! 絵のモデルやってよ! とびっきりキュートなアメリアの笑顔描くよ!」

 ミュゲイアは思いついたような顔をすれば、グッとアメリアとの距離を縮めて楽しい提案をする。
 そう、アメリアに絵のモデルになってもらおうというものだ。
 ミュゲイアの思いつきに過ぎない発言。
 けれど、今はそれがしたいと思えばそれに一直線なのもミュゲイアで、相手の返事を聞く前に勝手に話を進めている。

《Amelia》
「確かに、ミュゲイア様は笑顔を大切にしておられますね。
 それなら……」

 笑って、と迫ってくるミュゲイアに、彼女は控えめに口角をあげて微笑みを返す。
 普段から笑って、と願う彼女にとって、笑顔を絵にするのは、ある種の切実な代償行為なのかもしれない。
 なんて思いながら共通の話題であるアラジンの話を出そうとしたのも束の間。

「おおう……ええと、絵のモデル、ですか?
 その、あんまりアメリアは見てくれの良い体付きではないというか……そのう、絵にするならディア様とかロゼット様とか……後はフェリシア様とか。
 そういった方々の方が見応えが良いと思うのですが……」

 なんだかディアやブラザーにも似た押しの強さで、ずずいとこちらに迫ってくるミュゲイアに気圧されて一歩下がる。
 しかも、自分をモデルにして絵を描くというのだ!
 ギリギリ絵は写真とは違うのではないか? とか、冷静に考えて写真を撮るのをそういう行為だと思ってるのは自分だけなんじゃないか? とか、アメリアの冷静な部分はぴしゃりと指摘するが。
 自分の姿を絵として残そう! と言われては彼女もたじろがずには居られない。
 慌てて他の生贄を差し出しながら手を真っ直ぐ伸ばして首をぶんぶんと横に振る拒否の姿勢を示し、逃れようと試みる。

 口角を上げて笑い返してくれたアメリアに対してミュゲイアもにっこりと笑ってみせた。
 笑ってくれたら笑い返す。
 笑ってくれてなくても笑い返す。
 それがミュゲイアなのだから。

「え、なんで? アメリアもとっても可愛いよ! 笑顔はものすごくキュートだし、髪の毛も綺麗だし、ギュッてしやすい身長だし! 他のみんなもいつか描きたいけど、今描きたいのはアメリアなの! だから、いっぱい笑って! アメリアの笑顔、ミュゲだぁい好き!」

 他のドールの名前を出し自身を卑下するアメリアを見て、ミュゲイアはキョトンとした。
 ミュゲイアから見てみればアメリアもとっても魅力的なのだ。
 アメリアの頬に手を置いて顔をもっと近づけてミュゲイアは笑いながらアメリアの事をほめた。
 鼻と鼻がくっついてしまいそうな程に近い距離で真っ白の瞳にアメリアの水色が溶かし込む。
 この子もミュゲイアの大好きな笑顔。
 今描きたいのは他の誰でもない目の前のドールなのだからミュゲイアも折れる気はないようである。

《Amelia》
「~~……!!
 わっ……分かりました、分かりましたから、どうか、どうか離れて下さい……!!」

 ミュゲイアはアメリアの必死の拒絶をたった一歩で乗り越えて、吐息がかかるような近くまでやってくる。
 その上飛んできたのは比喩も何もない直接的な口説き文句だったのだからもうたまらない。

 顔を真っ赤にして恥ずかしがるアメリアはミュゲイアを押しのける事も出来ず、モデルになる事を承諾して離れてもらうようにお願いすることしか出来なかった。

 にしても、全ての人の笑顔を求め、今この瞬間だけは自分の事を求める……というのはこれまたディア様とよく似ている。
 やはり……トゥリアのドールは皆こんな感じなんだろうか……?
 と、まだ内心を詳しくは知らぬトゥリアドールたちにアメリアは後日戦々恐々とすることになるのだが……それはまた別の話。

「やった〜〜! アメリア大好き!
 大大大好き!」

 アメリアの了承の言葉にミュゲイアは花を咲かせたように喜んだ。
 どうか離れて下さいと告げるアメリアの言葉を無視するようにミュゲイアは嬉しさのあまりアメリアに抱きつこうとした。もちろん、トゥリアであるミュゲイアがアメリアを力強く抱きしめるなんて無理であり、それはふんわりとした抱擁になるだろう。
 これもトゥリアゆえの距離感の近さであり、これを治すというのもきっと難しいだろう。

「じゃあね、そこに座って! いっぱい笑って!」

 ミュゲイアは自身の座っているソファの向かいにあるソファの事を指さしてそこに座るようにお願いをした。
 モデルをやってくれると決まったのならば、早速描かなくてはならない。そうでないと、時間は待ってくれない。あっという間に睡眠の時間がやってきてしまう。
 それまでにしっかりと描きあげなくてはならないのだから。
 少しばかり急かすようにミュゲイアは先にソファに座って、アメリアが座ってくれるのをじっと待っていた。

《Amelia》
「…………!?!?!?!?」

 離れて下さいと言ったはずなのに、ミュゲイアは逆に抱きついてきて……。
 どこか暴力的なまでに与えられる柔らかな感触とミルクのような甘く幼い香りに彼女の頭の中はひと時混乱で埋め尽くされる。

「あっああ……はい……」

 そのせいか、アメリアはどこか上の空のまま、呆けたようにフラフラと向かいにあるソファに座り込み、ぼんやりとした笑顔を向ける。
 まるで夢のように、或いは糸の切れた操り人形みたいに。

 密着した時間が終わり、ミュゲイアにはアメリアと触れ合った感覚と温度だけが残っていた。
 アメリアがゆっくりと向かいの席に付いて微笑んでいるのを見てから、いそいそとノートのまだ何も描かれていないページを開いて色鉛筆を一本手に持った。
 心持ちは画伯そのもの。
 画伯になりきるように色鉛筆を握りしめ前に出し、片目を閉じてじっくりとアメリアのことを見る。
 目の前にあるのはミュゲイアの大好きな笑顔。
 それに大切に宝箱にしまうようにミュゲイアは色鉛筆を動かし始めた。

「アメリアの笑顔はやっぱり可愛いね! ミュゲね、アメリアの笑顔大好き! もっと見たいの! アメリアも笑顔好き?」

 静かに絵を描くというのも、目の前に他者がいればついつい喋ってしまって出来ないようでモデルであるアメリアにミュゲイアは話しかけた。
 他愛もない笑顔の話。

《Amelia》
「……ああ、ええと、笑顔、ですね。
 そうですねえ、笑顔を好き、嫌い、と分けた事はありません。
 笑う、と言っても幸福、享楽、威嚇、虚飾、侮蔑、と色んな感情を含みますから。」

 惚けていた彼女は、ミュゲイアからの問いかけでようやく正気を取り戻す。
 ……が、どうやら本調子というわけではないらしい。彼女はミュゲイアの特質を慮り切れずに自分の考えを語る。

 それは、ある種過去に受けた嘲笑を回顧してのものだったのだろうが……。

「だから、アメリアの持つ笑顔というものへの感情はとても複雑です。
 ですから、ミュゲイア様のように笑顔を芸術として持っていられる事は、きっと素敵な才なのでしょう」

 もしかしたら、ミュゲイアの心情を逆なでしてしまうのかもしれない。

 アメリアの言葉に反応するのが少し遅れてしまった。
 目の前のドールが何を言っているのか理解できないという風に、ノートに絵を描く手が止まった。
 それから、ミュゲイアは笑った。
 おかしなことを言うドールもいたものだ。
 理解できないのではない、ミュゲイアは笑顔=幸せなものという答え以外持っていない。
 デュオのように新しい答えを導き、選択肢を増やすことをしない。
 ミュゲイアの中では笑顔というものは固定されていてそこから発展することも新しく何かを知り得ることもない。
 だって、ミュゲイアの中では確立してしまっているから。

「ふふっ、アメリアってば変な事言うんだね! デュオの子って色んなことを色々考えるから変な答えになっちゃうのかな? ……アメリア、笑顔は幸せなものでそれ以外ないんだよ? だって、ミュゲ意地悪な笑顔なんて知らないもん! そんなのないよ!」

 ミュゲイアは自分の考えがさも当たり前で模範解答であるというように話し出す。
 ミュゲイアだってオミクロンである期間が長い分バカにされた事は何度もあった。何度も嘲笑された。けれど、その嘲笑もミュゲイアから見れば笑っているのだから幸せなものなのだと思って過ごしてきた。
 見た目だけで全てを決めて、その笑顔の意味なんてわざわざ考えてこなかった。
 いつだって、ミュゲイアの中では笑顔は幸せなものだから。それ以外なんてないのだ。それ以外なんて存在しないのだ。

「笑顔は複雑なんかじゃないよ。笑顔はみんなを幸せにするもので、笑顔は幸福の証なの! 分からないならミュゲが教えてあげる! アメリアの言うようにミュゲの笑顔は芸術だから!」

 笑顔に対して変な事を考えるドールに手取り足取り教えてあげよう。
 これもオミクロンだから仕方のないこと。そうやってミュゲイアは無自覚に見下して助けてあげようとする。教えてあげようとする。それは嫌なお節介でトゥリアらしい献身であった。
 変わらぬ笑顔のままそう告げればまたミュゲイアは手を動かして絵を描き始めた。

《Amelia》
「ええ、そうですね。
 ミュゲイア様の中でどれが幸福で、どのように幸福かを決めるのはミュゲイア様自身です。
 けれど、他者の考えを変な、と言うのはオススメしませんよ。」

 ピタリ、少女の手が止まる。
 にこり、口角が上がる。
 ミュゲイアは確固たる正しさがそこにあるかのように笑顔の幸福を語る。

 それをアメリアは止めはしない。
 なぜなら自分の中でどのような感情を抱くかはどうあっても自由で、規定のしようはないのだから。
 笑顔を全て幸福だというのなら……少なくともミュゲイアの中ではそれで良い。

「もしも、誰かに自分とは違う、と考えて違和感を感じたのなら、自分とは違うんですね、と言う方がお互いに幸せだと思いますよ。」

 だから、アメリアはたった一つだけ、自然にでてしまった変な、という形容だけをほんの一時笑顔を崩す事で咎める。
その上で。

「それで、笑顔は幸福の証拠であり、みんなを幸せにする。のですね?」

 と、もう一度微笑みを浮かべ直してミュゲイアに教えを促す。

「……アメリアは難しいね! 変って言ってごめんね! うん! 笑顔は幸せにしてくれるの! だから、アメリアもいっぱい笑っていっぱい幸せになって! ミュゲね、アメリアが笑って幸せになってくれたら嬉しいの!」

 ピタリ、ほんの一瞬アメリアの笑顔が消えた。
 アメリアの話をミュゲイアがちゃんと受け止めることが出来るのはまだ先になるかもしれない。
 まだ、ミュゲイアには分かっていない。
 笑っているのなら、そう思ってしまうし謝ってもアメリアを変だと思ったことには変わりない。
 分からないものは変に思ってしまう。
 それ以外の形容をわからないから。
 そして、また手を進める。
 色々な色で色付けて、鮮やかに。
 真っ白なノートが彩られてゆく。


「アメリアは今幸せ?」


 ポツリとでた言葉はやけに響いた。
 笑っているアメリアはミュゲイアから見たら幸せそのものだ。
 幸せそう。それ以上の感想は浮かばない。
 だからこれはありきたりな話。
 ちょっとした暇つぶしの話。

《Amelia》
 まくし立てられるような謝罪と、笑顔に関する教示に、今度は笑みを浮かべたまま頷く事で答える。

 きっと、本質的にミュゲイアがアメリアの考えを理解するのはとても遠い未来だろうし、そもそも理解する事は無いのかも知れない。
 けれど、今はまだ上手く話せているから、罪を犯しては居ないから。
 一先ず今はこれでいい、少なくともこちらが良くないと言った事を謝ってくれたのだから。

「幸せか……ですか。
 それはとても難しい問いです。
 ある人は今のアメリアをこの世で最も幸福だと表現するかもしれませんし、ある人はアメリアをこの世で最も不幸だと表現するかもしれません。

 本質的に幸福かどうかは頭の中の考えにある……とアメリアは思っていますから。
 そのうえで……アメリアから見て幸福かと聞かれると……」

 そうして、一時の静寂が訪れた部屋の中で 、不意に飛び出したミュゲイアの問いかけに、彼女は慌てて笑顔を崩して答える。

 きっと、笑顔のままでは伝わらないだろうから。
 きっと、不幸を表現するのに笑顔は合わないだろうから。
 彼女は幾つもの予防線を張った上で、こう答える。

「そこそこに不幸、といった所でしょうか」

 ミュゲイアの幸せかという質問に対するアメリアの答えにミュゲイアはまた手を止めた。
 アメリアは笑っていたのに、ミュゲイアがこの質問をした途端に笑顔をやめてそこそこ不幸と答えた。
 その変化がミュゲイアには分からない。
 笑っていたのに何故不幸と答えたのか。
 それが理解できない。
 そして、ミュゲイアはアメリアが不幸を感じているだなんて全く思ってもいなかった。
 何故、そう思ったのかミュゲイアには分からない。

「え!? アメリア不幸なの!? ミュゲと笑ってたのに!? どーして! どーして、アメリアは不幸なの? 笑ったら幸せになるよ! ミュゲが笑顔にしてあげる! だから、幸せになって! いっぱいミュゲと笑って!」

 もう少しで完成というところで手を止め、ミュゲイアは机に手をついてグッと体を前にしながらアメリアにまた質問をした。
 何故か分からないというように。
 解決策も笑うこと以外知らないからそのままそれを押し付けて。

《Amelia》
「! ……そうですね、落ち着いて、落ち着いて聞いて下さい。
 先ほどのはあくまでアメリアの思うアメリアのお話です。
 ですから、ミュゲイア様の思うアメリアはもっと違う感情を抱いているのでしょう。
 例えば……そうですね、今、アメリアは幸福に見えますか?」

 アメリアの答えに対して、やはりミュゲイアは理解できなかった。
 その上笑顔と言う解決策を、ミュゲイアの中でだけ絶対的な解決策を押し付けようとしてくる。
 だから、アメリアは実例を示すために、笑顔を作って見せて問いかける。

 きっと、ミュゲイア様なら今ここで世界一の笑顔を浮かべて見せたら、世界一の果報者だと思うのだろうな。
 と、そんな風に思いながら。

「……え? ……うーん、ミュゲにはアメリアは幸せにそうに見えるよ! 笑ってるし! ……なのに、なんでアメリアの思うアメリアはそこそこ不幸なの?」

 やはりアメリアの話し方はどこか難しく、アメリアの思うアメリアとミュゲイアの思うアメリアとで違いが出てしまうことがよく分かっていない。
 けれど、アメリアが笑顔を作り幸福に見えるか? と聞いてくればミュゲイアは確かに幸せそうだと答えた。
 それ以外に見えないというように、なんの迷いもなく。
 決まりきった答えを吐くように。
 そして、なぜアメリアの思うアメリアは不幸なのかとミュゲイアは質問した。
 彼女が何故不幸なのか分からないから。
 信じ難いことであるから。
 小首を傾げて無知な瞳はただ知識の海を見つめる。

《Amelia》
「ええ、そうですね。
 では、これはどうでしょう。」

 想像通りの、決まりきった答え。
 どこか機械的なまでの確かさを持ったその答えに対して、アメリアはまるで実験をするように、今度は笑顔を消した硬い声音で応える。

「それを今説明しているところです。
 では、ミュゲイア様は今のアメリアが幸福に見えますか?」

 そうして、直ぐに答えを求めるミュゲイアを言葉で制しながら、どこか険しい表情で答えを返す。
 これは、幸福に見えるだろうか?

「……え? 笑ってないから幸せに見えないよ。でも、さっきまで笑ってたし、あれ? でも、アメリアは笑えるから幸せな子でしょ? だからそんな顔しないで笑って! それに笑ってくれないと絵が描けないの!」

 ミュゲイアは困惑した。
 アメリアの意図することがわからないから。汲み取ることが出来ないから。
 それに、アメリアのそんな顔なんて見たくない。
 笑っていてくれないと。
 笑顔で幸せにしてくれていないと、ミュゲイアは満たされない。
 だから、笑うように言ってから思い出したように色鉛筆を手に持って絵をかけないと告げた。
 そう、まずは笑ってくれないと絵が描けない。
 今一度しっかりとソファに座って次こそ絵を描く手を進めようとした。

《Amelia》
「ええ、申し訳ありません。
 ともかく、このように幸福とは移ろいやすいものです。
 だから、アメリアの中での幸福とミュゲイア様の中での幸福が違っても、不思議ではないでしょう?
 自分以外の方は好き勝手出来ないのですから」

 そんな顔しないで笑って、と他の表情を拒絶するミュゲイアにアメリアは穏やかに微笑みを作り直して答える。
 実例を示し、幸福は簡単に移ろう物だと答える。
 それが自分どころか他人なら、なおさらに。

「その上で、アメリアがそこそこに不幸、と言った理由をミュゲイア様に伝わるように表現するなら……。
 大体一ヶ月に半分も笑っておりませんから。
 笑顔が50%もないので幸福とは言いづらく、とはいえ一度も笑っていない訳ではないのでこの世で最も不幸、とは言えません。
 結果、“そこそこに不幸”なのです」

 そうして、アメリアとミュゲイアでは幸福の決め方が違うと示した上でミュゲイアに分かるように“そこそこに不幸”の理由を説明する。
 随分と迂遠な話し方だが……これは本当に伝わるのだろうか?

「うーん、じゃあ、ミュゲがこれから毎日いっぱいアメリアのことを笑顔に出来たら100%になるからアメリアはいっぱい幸せになれるね! そうなるようにミュゲ頑張るね! 何回も何回もミュゲが笑わせてあげる!」

 アメリアの言葉に対してミュゲイアは閃いたようにしてから、ニッコリと笑って告げた。
 自分の中での答えを出すように、問題が解けた時のように、ミュゲイアは楽しげに伝えた。
 50%ほどの笑顔ならばミュゲイアがアメリアのことを沢山笑わせよう。
 いっぱい笑顔にしよう。
 そうしよう。
 そうすればいい。
 そうすれば笑顔が100%になって幸せになると思ったようである。
 それだけを告げるとまたミュゲイアは絵を描くのに集中し始めた。
 たくさんの色鉛筆を使って、また机の上は色鉛筆で散乱してゴチャついていく。
 そして、少しするとミュゲイアはノートから目を離してアメリアの方を向いた。

「出来たよ、アメリア! 見て見て! アメリアの絵! 笑顔で素敵でしょ! それでね、隣にいるのはミュゲ! 一緒に笑ってるの!」

 ニッコリとした笑顔と共にノートをグッとアメリアの方へと向ける。
 ノートにはニッコリと笑ったアメリアらしき絵と同じようにニッコリ笑ったミュゲが手を繋いでいる絵であった。

《Amelia》
「ふふふ、アメリアは手強いですよ」

 無邪気な傲慢で以って笑わせてあげる、と宣言したミュゲイアに、アメリアは遠回しに「簡単には出来ませんよ」と忠告しながらも、微笑ましさから笑い声を溢す。
 それぞれで評価が異なる……というのは伝わらなかったが、幸いミュゲイアに合わせた表現の方は伝わったのだ。
 ならば、これからも話をすることが出来る。

「ええ、素敵です。
 ミュゲイア様らしい絵ですね。」

 そんな確信を抱いていたら、絵が完成したらしい。
 青い髪と制服からかろうじてアメリアだとわかる絵を褒めながら、パチパチ、と拍手をして称賛の意を示す。

「えー! アメリア手強いの!? それならミュゲもっと頑張るね! アメリアの笑顔大好きだから!」

 手強いと述べるアメリアの言葉に楽しげに返して、ミュゲイアはそれでももっと頑張って笑わせると宣言をする。
 今以上に、もっと、もっと。
 いっぱい。
 底なしの欲を向けた笑みを向けて、その愛らしい笑顔を独り占めしようとしてしまうのだろう。
 だって、ミュゲイアはアメリアという笑顔も大好きだから。

「ほんとに! 嬉しい! ミュゲね、アメリアに褒められるの大好き! また、絵のモデルしてね!

 あっ! もう寝ないとだよね! アメリア、一緒に部屋に戻ろ! ミュゲね、今日も笑顔の夢を見るからちゃんと寝る時間になったら寝るんだぁ!」

 アメリアに褒められたことに対して、ソファから飛び上がって小さくピョンピョンと跳ねて喜ぶ。
 その度に綿あめのような髪の毛が揺れて、鈴蘭の香りがほのかに広がる。
 そうやって、喜んでいたのもつかの間気がつけばもう寝なければならなら時間が近づいてきている。
 その前に部屋に戻って服を着替えないといけない。
 そう思えば、ミュゲイアはノートを閉じて大切そうに片手で持ってからアメリアの方へと近づきアメリアの手を握ろうとする。
 拒まれることがなければそのままアメリアの手を引いて女子部屋に戻ろうとするだろう。
 今日はいつも以上に素敵な笑顔の夢が見れそうな気がするから。
 この笑顔に包まれたままに眠ってしまいたい。

【寮周辺の平原】

Felicia
Mugeia

《Felicia》
 寮外。お花畑。
 カンカン照りの日差しに目を細めるフェリシアは咲きこぼれる花々の間に物陰を見つける。それが誰なのかは、特徴のある髪の質感ですぐに理解できた。彼女にバレないように、そおっと後ろから足音を忍ばせて向かう。少女は所詮エーナドール。トゥリアドールのあなたならそんなコソコソした行動にもすぐに気づくかもしれない。

「だーれだ!」

 狙いを定めるようにぴょこんと飛び跳ねると、お花畑の彼女……ミュゲちゃんの両眼を掌で隠した。
 あなたが振り返れば、悪戯にまどろむペリドットがそこに居ることだろう。

 その日は日差しが良かった。
 カンカン照りの太陽は乱反射するように地上を照らして、心地よいそよ風は撫でるようにミュゲイアの頬を掠める。
 暖かい風に誘われるように花畑にやってきたミュゲイアは制服が汚れることも気にせず花を積んでいた。
 一本、また一本。
 綺麗に元気よく咲く花の首を折っては片手に持ってゆく。
 色とりどりの花を手繰り寄せてミュゲイアの小さな掌の中には花束が出来上がってゆく。
 花が好き。
 花をあげればみんな笑ってくれるから。
 花の香りが好き。
 甘く優しい香りはみんなを幸せの笑顔へ導くから。
 ミュゲイアの名前も花からくるものだから。
 また一輪と手をかけたようとしたその時、視界が覆われた。
 そよ風によって運ばれてきたような明るい声がミュゲイアの耳に響く。


「……わっ! びっくりしちゃった! 今日も素敵な笑顔だね、フェリ!」


 驚いてしまったのか手の中にあった花束ははらりと地面へと落ちてゆく。
 ミュゲイアの目を覆う手にそっと自身の手を重ねて、視界からのければ後ろを振り返って悪戯にまどろむペリドットを見つめてニッコリと微笑んだ。

《Felicia》
「えへへっ、こんにちは! 特に用はないんだけど……ミュゲちゃん見つけたら嬉しくなって声かけちゃった。何してたの〜?」

 太陽の下で晴れやかな笑顔を浮かべるあなたに、フェリシアもまた朗らかな笑みをたたえる。トゥリア特有のぬくもりが、重ねられた手を伝ってじんわりと伝わってきた。いや、ミュゲちゃんと話しただけで周りの温度が一、二度上がったような気さえする。そのくらいフェリシアは、あなたと久しぶりに話せて嬉しかったのだ。
 声を掛けつつあなたの後方部を見やる。あるのは、驚いた拍子にミュゲちゃんが落としてしまったのだろう、小さな花束だった。均等に散りばめられた宝石箱のようなそれらを見た刹那、フェリシアは慌てて震わせた瞳をあなたに向ける。

「わわ、ごめん! その花束、私がミュゲちゃんびっくりさせちゃったから落ちちゃったんだね。こんなに綺麗なのに!
 ………あ、良かった。しおれてはないみたい! ふふ。はい、どうぞ。」

 「大変大変」なんてボヤきながら、落ちてしまった花々を、傷つけないように丁寧に掬う。ひとつひとつを、掌で元の姿に戻していく。手早く一通りその作業を終えると、軽く安堵したように破顔してあなたへそれらを手渡すことだろう。

「ミュゲはね、お花を摘んだりしてたの! 天気がいいからお外で遊びたくて! 暇ならフェリも一緒に遊ぼ!」

 花畑に似合う笑顔を浮かべた2人のドールの周りには穏やかな空気が漂っていた。
 ふんわりとしたような柔らかい空気感でミュゲイアはニッコリと笑って話をする。
 最近は彼女とゆっくり話す時間もなかったのもあって、ミュゲイアは楽しそうに言葉を紡ぐ。
 聞き上手な貴女に話したいことが沢山あるとでも言うように。

「え? ああ、全然大丈夫だよ! ありがと、フェリ!
 フェリも一緒にお花摘みする? それとも別の遊びする? ミュゲはフェリが笑顔になる遊びならなんでも大賛成だよ!」

 フェリシアにいわれて初めてミュゲイアは自身が花束を落としたことに気がついた。
 ゆっくりと落ちた花々へと視線を向けてから、フェリシアが拾ってくれているのを手伝うように自身も拾い始めた。
 そして、花束を渡されればそれを受け取ってから何をして遊ぶかを話し始めた。

《Felicia》
「遊ぶ遊ぶー! 最近ミュゲちゃんとお喋りしてないな〜って思ってたから嬉しい。ぽかぽかお天気の日は笑顔ももっと増えそうだね!」

 フェリシアは植物を潰すことがないよう、時間を掛けて腰を下ろした。自身の衣服に泥が着くこともあまり気にしていないようだ。
 紅潮した頬に、あなたを見つめる翠の瞳。雰囲気は棘がなく柔らかく丸まっている。
 お天気にお花に、久々のふたり。ミュゲちゃんの微笑みは、いつも辺りを明るく照らしてくれる。
 和やかな雰囲気の中で、フェリシアはさらに口を開いた。

「どういたしまして! こちらこそ、脅かしちゃってごめんね。
 お花摘みも別の遊びも良いんだけど、今日はミュゲちゃんに私の悩みを聞いて欲しいんだ。
 最近ね、私、笑顔になれないの。とってもへこんじゃってるの。
 聞いてくれたら、笑顔になれる気がする。……お話、聞いてくれる?」

 はっきりと分かる。私は、彼女にこれ以上ないくらい狡い頼み方をしたと思う。笑顔の為なら何でもすると知っている子に、一方的な相談を押し付ける。傍から見たらミュゲちゃんを利用しているようにしか見えなくて、とてつもなく嫌気がさした。だが、聞かねばならない。オミクロンクラスの中でいちばん彼に近いだろうあなたに、聞かねばならなかった。

「──ブラザーくんについて。」

「そうなの! お天気の日はね、笑顔がよく見えるの! フェリの笑顔みたい! キラキラお日様!」

 フェリシアとミュゲイアが集まればいつも笑っている。
 二人が一緒にいて笑っていない時なんて今までなかった。
 いつも笑顔で幸せに包まれている。
 ミュゲイアにとってはとても大好きな時間だ。
 彼女はお日様のようなドールだから。
 太陽そのもの。
 向日葵のドール。
 そんなフェリシアの事がミュゲイアは大好きである。
 彼女のまん丸としたペリドットの瞳を見つめながらミュゲイアは笑う。

「相談? フェリ笑えてないの! それならいっぱい笑って! 笑ったら元気になれるよ! その為ならミュゲ、いっぱいお話聞くよ!

 ……え? ブラザー? ブラザーの事でフェリはへこんでるの?」

 ミュゲイアはフェリシアのお願いに二つ返事で了承した。
 彼女が笑えるのならば、ミュゲイアはどんな話だって聞く。
 笑顔にしてあげるのがミュゲイアの仕事なのだから。
 それこそがドールであるミュゲイアの役目なのである。
 ニッコリと笑って返事をしたけれど、その後に続いたフェリシアの言葉にミュゲイアは少し動揺した。
 その名前は今のミュゲイアの悩みの種でもあったから。
 お友達になりたいドールの名前であったから。

《Felicia》
「そうね! 私も、笑顔は元気の源だと思ってるミュゲちゃんの仲間なんだけど、今はどうしても笑顔になれはいの。しょんぼりなの。
 だから、お話聞いてくれるって分かって嬉しいな。ほら、笑顔〜!」

 にこ〜っと無理やり自分の口角を上げてみる。それだけで、恐らく目の前のドールは喜んでくれるだろう。穢れを知らない太陽の化身。フェリシアはあなたのペカっと光る笑顔を見る度に罪悪感が拭えない。いつもなら彼女も、似たような光さす微笑みを返すことだろう。自分で決めたこととはいえ偽った笑顔はまだ慣れない。
 フェリシアは何かを払拭するようにあなたの頭を柔らかく撫でることだろう。しかし彼女にとってそれは、罪悪感を少しでも和らげるための行動でしかなかった。

「そう、ブラザーくん。最近様子が明らかにおかしかったでしょう? 心配だったから、ふたりで会ったときに話してみたの。
 そしたらね、ブラザーくん、凄く怒っちゃって。間違いなく私の言い方が悪かったんだけど、私は、ぜんぶ良かれと思って言ったことだから、どこが悪いのか分からなくて。

 ブラザーくんに大っ嫌いって、
 二度と会いたくないって、言われちゃった。はは。」

 話してるうちに、見なかったものが見えてきたような気がして。
 しかしきちんと視界がクリアになったのに、見たくないものばかり目に入って。感極まって乾いた笑いしか出てこない。悲しい……あぁそっか。私、悲しかったんだ。

「フェリの笑顔ね、ミュゲとっても大好き!」

 フェリシアの笑顔はいつだって、太陽のようである。
 ミュゲイアの大好きな笑顔。
 笑顔を作るフェリシアの姿はミュゲイアには幸せそうに映った。
 あまり笑えていないというフェリシアがミュゲイアのおかげで笑ってくれるのならば、ミュゲイアにとっては嬉しい限りである。
 ミュゲイアは誰かを笑顔にすることに喜びを覚えるのだから。
 笑顔からしかミュゲイアは何も得られないのだから。

「……ブラザーはどうして怒ってるの? ミュゲもね、ブラザーの事が分からないの。ミュゲ、もっとブラザーの事知りたいのに。お友達にならないとなのに。
 ………お披露目のせいなのかな? そのせいでブラザー変なのかな?」

 ミュゲイアもフェリシアと同様で、ブラザーに悩んでいる。
 ミュゲイアはアラジンと一緒に一つの答えを見つけることは出来たものの、ブラザーと関係が悪化したままなことには変わりない。
 そして、フェリシアもブラザーと関係が悪化してしまったようである。
 ブラザーが変なのはいつもの事だとは思っているけれど、きっとミュゲイアが今までブラザーに対して思っていた変と今回のでは違うのだろう。
 そして、心当たりというのもミュゲイアにはお披露目しかなかった。
 それがミュゲイアとブラザーの関係が悪化した原因でもあったから。

《Felicia》
「ミュゲちゃん、私を、私の笑顔を好きでいてくれてありがとう。
 私もミュゲちゃんが大好きだよ! ミュゲちゃんの笑顔も、ちょっと寂しそうな顔も、頑張ってる顔もみぃんな大好き!」

 あなたには見せたこともないような神妙な面持ちでフェリシアは告げる。いつもなら太陽を衰えさせないその顔に、その時はあなたの大好きな光はないだろう。そんなフェリシアの真剣な顔に、あなたはいつものように笑顔を強請むだろうか。あなたは笑顔の化身。蕾を開花させ、気持ちの良い風を吹かせる美しいドール。しかし、悪く言えば、笑顔に取り憑かれている怖い一面も持つのだから。

「それが、私にも分からなくて困ってるの。ブラザーくんはいつだって優しかったから、甘えてたんだなぁって。今さら気づいたって遅いんだろうけど。感情の機微に一番気づけるのはエーナなのに、みっともないよね。……はぁ。

 ──そういえば、ミュゲちゃんって、ブラザーくんのこと"おにいちゃん"って呼んでたよね? 名前呼びになったのは、どうして?」

 溜めた気持ちを吐き出すように大きくため息をつく。みっともないし、そうなってしまった自分が恥ずかしい。……こんなとき、どうしても自分と彼女を比べてしまう。王子の相棒、隣に立つには彼女が完璧すぎるんだ。相棒なら……アストレアちゃんだったらこんなヘマはしない。

 自己嫌悪の渦に巻き込まれそうになったそのとき、ふと考えたことがあった。ミュゲちゃんはブラザーくんに妹と呼ばれていたはず。
 小首をかしげつつ、あなたの挙動をじっくり観察していた。

 フェリシアはミュゲイアに見せない顔を見せた。
 神妙な面持ちで告げる言葉はミュゲイアの頭に流れてゆく。
 ミュゲイアは彼女が笑ってさえいてくれればそれでいい。
 それは他のドールに対しても言えることであった。
 自分の前でさえ笑っていてくれれば、自分のいない所でどうなっていようが何を思っていようがミュゲイアにとってはどうでもいいことである。
 ミュゲイアは今まで自分の前以外でみんながどんな思いをしているのか、どんな顔をしているのかなんて考えもしなかった。
 自分の前だけで笑っているドールを見て、幸せなんだ。この子は笑ってくれている。そう思って終わっていた。
 他者に笑顔を求めるのはミュゲイアが幸せになりたいから。
 ミュゲイアという存在に価値を持たせるため。
 それだけであって、その人自身に興味はない。
 無関心であった。

「……ミュゲはね、フェリが笑ってくれていると嬉しいの。フェリにはいつだって笑って欲しいよ。フェリはとっても素敵なドールだから、みっともないなんて事ないよ! フェリは笑うことができる良い子なんだもん!」

 大きなため息をついているのも初めて見た。
 ミュゲイアの知らないフェリシアの一面である。
 ブラザーだけではない。ミュゲイアは他のドール達の事を何も知らない。
 フェリシアが悩んでいたことだって、知らなかった。
 知ろうともしなかった。

「ブラザーの事をおにいちゃんって呼んでたのはブラザーの前だけだよ! だって、ブラザーはミュゲのおにいちゃんじゃないし、ブラザーがいない場所でも兄妹ごっこする意味はないでしょ? ……それに、もう兄妹ごっこも辞めちゃったから。もう呼ばないよ。」

 もう、彼をおにいちゃんと呼ぶことはないだろう。
 兄妹ごっこは辞めてしまった。
 ミュゲイアはもうブラザーの妹ではない。
 擬似記憶の妹とは違う。
 それにようやくブラザーも気がついた。
 気がついてしまったから、二人の関係は崩れてしまった。
 妹でなくなって喜んだのはミュゲイアだけであった。
 ブラザーにとってはきっと嫌なことだったのかもしれない。
 ブラザーにとっての妹はミュゲイアにとっての笑顔だったのかもしれない。
 ミュゲイアはいつもと変わらない笑顔で答える。
 彼女の顔にはりついた笑顔はきっとずっと崩れない。
 それがデフォルトでそういう設計だから。

《Felicia》
 フェリシアはあなたとはまた違った考えを持っていた。
 笑顔そのものが幸せなのではなく幸せこそが笑顔を作るのだ、と。今まであなたと食い違った部分は間違いなくそこから来ていた。
 そもそもあなたとフェリシアでは笑顔に関する前提条件が違っているのだから。例え笑顔でなくともフェリシアがミュゲちゃんを好きなことには変わらなかった。無条件で相手を認めるのはエーナ独自の特性であり、美点であると言えるだろう。

「……ありがとう。私も!
 ミュゲちゃんが笑ってくれると嬉しい気持ちになるよ!
 いつもにこにこで、太陽みたいな明るいあなたが大好き! ずっと友だちでいようね!」

 ミュゲちゃんはきっと笑ってる私にしか興味が無い。笑ってない私の事なんて知ろうともしていないのだろう。……だけど、たぶん、それでいいんだ。また問題が怒ったら、その時にまた考えてみよう。一緒に悩んであげよう。

「ごっこ、か。そうだったんだね!
 どうして辞めちゃったの? おにいちゃんって呼ぶと、ブラザーくんは素敵な笑顔を見せてくれてたんでしょう?」

 少なくともブラザーくんはミュゲちゃんにおにいちゃんと呼ばれて喜んでいたはずだった。もしかして、それもやめてしまったのだろうか。

 ミュゲイアは笑っている。
 いつも幸せそうな笑顔で。
 その笑顔は相談中に似つかわしいものかは分からない。
 真剣に話を聞いているのすら分からない。
 ただ、ずっとミュゲイアはフェリシアのペリドットのような瞳を見つめている。
 トゥリアドールらしく、その瞳を見つめて愛おしそうに目を細める。
 フェリシアの言葉を聞いていれば、彼女の口から友達という言葉が出てきた。
 それに対してミュゲイアは目を大きく見開いて、グッとフェリシアと距離を詰めた。

「友達! ミュゲとフェリはお友達? お友達ってどこからお友達なの? フェリとブラザーはお友達? ……ブラザーはいっぱいミュゲに笑ってくれたよ、でもね、ミュゲはブラザーとお友達がいいから辞めちゃったの。ブラザーもミュゲは妹じゃないって言ったから。ミュゲ、ブラザーと友達になりたいの。フェリはどうやってお友達を作るの? 笑い会えたらお友達?」

 友達という言葉に敏感なミュゲイアは質問責めするようにフェリシアに言葉を投げかける。
 ミュゲイアの目標は沢山の友達を作ること。
 けれど、トゥリアドールのミュゲイアに友達の作り方は分からない。
 だから、今まで友達と言ってきた相手は全員ミュゲイアが勝手にそう決めつけただけである。

《Felicia》
 最愛の瞳を向けられる。
 ミュゲちゃんから向けられる視線はいつだって慈愛に満ちていた。
 たとえその表情が場に似つかわしくなくとも、今のフェリシアは深く気にとめることはないだろう。
 フェリシアはあなたから目を離さない。愛おしそうに……というよりも、微笑ましそうにあなたを見つめているのだった。
 ぐっと距離を縮められると、驚きに目を丸くする。しばらく瞬きを繰り返すと困ったように話し出すだろう。

「うーん。その質問って、友達の定義……みたいな話? 友達の解釈ってたくさんあるから、一つに絞れないと思うけど。……そうだね。
 私は、お互いがお互いを友達として認識してたら友達って言って良いんじゃないかって思うよ!
 認識の基準はあやふやだけど、『私たち友達だよね!』って伝えて相手に否定されなければ、一先ず双方の共通認識として取っていいんじゃないかなぁって。
 ……ごめん。あんまし深く考えたことなかったかも。ミュゲちゃんの求める答えになってる?

 そっか、ミュゲちゃんはブラザーくんと友達になりたいんだね。
 ……でも、友達になって、彼とどんなことがしたいの? 私にはどうしても、妹と友達ってかなり違う関係性に見えるんだ。ブラザーくんは大好きな妹のミュゲちゃんに、そんな酷いこと言ったのかな。」

 どのようなあとで友達の定義を調べておこう、そう思った。頭を捻りながら出した答えは、我ながら苦し紛れの言葉を並べ立てただけ。エーナモデルの誰かに話したらきっと笑われてしまうだろう。
 フェリシアはあなたに向き合うとブラザーくんの話に戻すのだった。彼女もまた、彼と仲直りしなければいけなかったから。

 友達。
 それについてフェリシアに聞いてもこれといった決定的な答えはかえってこなかった。
 友達というのも色々な捉え方や、それに対する答えはいくらでもあるのだろう。
 もっとも、友達のいい例であればテーセラになるのかもしれない。
 テーセラはトゥリアと真逆のドールなのだから。
 ミュゲイアには程遠く、理解できない話。
 フェリシアを話を聞いても、自分の中で上手く咀嚼できていないようで笑っているばかりであった。

「友達って難しいんだね。じゃあ、じゃあ、フェリとミュゲはどっちもお友達って思ってるからお友達? オミクロンのみんなもお友達なの?

 ブラザーとお友達になったらね、天体観測をするの! 三人でするんだぁ!
 妹はブラザーが勝手に言ってただけだから。ミュゲはブラザーと遊んであげてただけなの。だって、ミュゲとブラザーは兄妹として造られたドールじゃないもん。
 ……お披露目に行ってって言われたよ。」

 お友達とは難しいものである。
 フェリシアとミュゲイアはお互いに友達と思っているから友達だとしたら、オミクロンのみんなもそれに当たるのだろうか。
 ちゃんと友達というのを確認したことはない。
 ならば、確認しないと友達にはなれないのだろうか。
 それも、ブラザーのように。
 ブラザーと友達になろうとするようにそう動かないと関係は進まないのかもしれない。
 そして、フェリシアの問いにミュゲイアは淡々と答えた。
 傍から見れば仲良く兄妹をしていた二人に見えたかもしれないが、これは強制であって自由のもとにあるものではなかった。
 単に都合よくお互いを扱っていただけである。

《Felicia》
 正確な答えが出せなかったことが心苦しかった。他の誰か……いや、アストレアちゃんなら誰もが納得できるような説明が出来たんだろうなぁ。フェリシアは変わらず微笑んでいるあなたをちらりと見やった。そして察した。あの表情はまだ消化しきれてない顔だということを。

「友達ってなぁに? って聞かれると改めて難しいなぁ。一般的に……楽しみを共有する相手、みたいに言われるけど、恋人間だって、それこそ兄弟姉妹間だって出来ることだもん。

 そうなんだ。……素敵だね!
 でも、びっくり! ブラザーくんと二人じゃなくて三人なんだ?」

 ブラザーくんにお披露目会に行けと言われた……知る限りのブラザーくんは絶対にそういうことを言わないはず“だった”。
 そこまで彼を追い詰め、踏みにじった元凶は既に分かっている。
 そしてフェリシアは予測から確信に変わっていた。彼はきっと、お披露目会を知っても知らなくても学園で平和に暮らしていたかっただけなんだ、と。ミュゲちゃんと形だけの仮面兄弟ごっこをして、兄としての顔を発揮し、弟と妹たちと楽しく暮らす……それだけで良かったのだと。

 フェリシアでさえも難しい話である友達。
 ミュゲイアは兄妹もよく知らない。
 ブラザーに言われた通りにしていただけ、それどころかお兄ちゃんと呼んでいただけさえあった。
 だから、よく怒られたしそうじゃないと言われた。
 友達だけのもの。
 恋人間でも兄妹間でも出来ないようなこと。
 友達だからこそ出来ること。
 それはミュゲイアにも分からない。
 ミュゲイアが分かるのは恋人であることだけ。
 手の絡ませ方や甘い口付けを分かってもそれは友達のすることではない。
 友達だからこそというのも分からなければ、友達のなり方も分からない。
 今までどうやってみんなを友達だと言っていたのかすら分からなくなってしまいそうなくらいである。

「テーセラモデルならわかるのかな? それならリヒトとかの方が答えがわかるのかも!

 うん! 三人なの! ミュゲとブラザーとアラジンじゃないとダメなの! ミュゲ達は運命だから!」

 結果的にはテーセラモデルのドールの方が適任だと思い、そちらに答えを聞くという答えしかミュゲイアは導き出すことが出来なかった。
 三人と言われればミュゲイアはニコニコと笑って言葉を紡ぐ。
 そう、二人でやっても意味をなさない。
 三人でやるからこそ意味があり、価値がある。
 終わりのない天体観測は誰か一人でも欠けてはならないのだから。
 だって、そうじゃないと運命でなくなる。

《Felicia》
 ミュゲちゃんとブラザーくん。
 ふたりの関係がそこまで拗れているとは思わなかった。フェリシアはあなたを労うように、ふわふわした髪の流れに沿ってそっと手を動かすことだろう。
 あなたの無垢な疑問を咀嚼しながら、フェリシアはエーナドールらしい回答を出来ていたのか、反省をし始めていた。テーセラドールが友人としての愛を提供するための存在するならば、トゥリアドールは恋人や親としての愛を提供するための存在である。柔和な肢体で包み込み、その身ある限り相手のためだけに尽くすことができるドール。フェリシアはその愛情の深さを大輪の赤薔薇から教わっていた。友だちである前に、恋人らしくあれというドールたち。もちろん、少女はそんな彼ら彼女らが大好きだった。
 だからこそ、フェリシアには説明できなかった。恋人を刷り込まれた彼女に、友だちとしての最適解を提示すること。つまりは心の底からそれらを理解しなければいけない。無理であろう。対等な話し相手として作られるエーナドールには、その概念が埋め込まれないのだから。言葉として受け入れた友だちという文字。辞書のように在り来りなことを話すほかできなかった。

「そうだね! でも、リヒトくんは最近すごく忙しそうだし、一番手っ取り早いのはプリマだったストームに聞いてみることじゃないかな! 彼ならきっとすぐ答えてくれると思うよ!

 へぇ。ふたりの他に、アラジンって子がいるんだ! 運命なんてロマンチックで素敵だね! ブラザーくんとアラジンって子は仲がいいの?」

 咄嗟にストームの名前を出した。リヒトくんは分かりやすくミュゲちゃんを遠ざけているようだったから。ふたりきりにするのはお互いにとってよろしくないだろうと思ったのだ。

 そうしてさらっと話題を転換させる。エーナお得意の会話操作。にこにことあなたの好きそうな笑顔を貼り付けると、フェリシアはまた、ブラザーくんに何があったのか聞き出そうとしていた。

 フェリシアの相談に乗るはずがいつの間にかミュゲイアの友達についての質問の話に話題がそれてしまっていた。
 かと言って、ミュゲイアがフェリシアの相談に対して何かいいアドバイスができるわけでもない。
 話を聞くことは出来ても、解決策は浮かばない。
 役に立ちたいとは思うけれど、そのために何ができるのかと聞かれれば口を閉じてしまうだろう。
 ミュゲイアもブラザーの事はあまり分からないのだから。
 ブラザーが変わってしまったという事しか分からない。
 ブラザーをどうにかする方法だって、彼をお兄ちゃんと呼んで接してあげれば機嫌が治るのではないか? くらいしか思い浮かばない。

「ブラザーとアラジン? 仲良いと思うよ!
 アラジンはね、ミュゲと同志なの! ミュゲね、アラジンに会ってから絵を描いてるんだよ! 今度、フェリの事も描かせてね!」

 コロコロと色んなことを話すミュゲイアはニコニコとしながら答える。
 アラジンとブラザーだってきっと仲がいい。
 最近知り合ったというのもあり、一緒にいることがよくあるわけではないだろうけれど何か衝突があったという話も聞いていない。
 そもそも、他のドールからブラザーの話を聞くこともあまりないのでミュゲイアの前以外でのブラザーをあまり知らないというのもあるけれど。
 まさか、久しぶりにブラザーの話を聞いてみたと思えばこのような話になるとも思っていなかった。
 しかも、誰とでも仲のいいフェリシアから。
 ブラザーの事をよく知っているドールが何人いるかもミュゲイアには分からない。
 オミクロンクラスでもブラザーは基本的にミュゲイアと一緒にいることが多かったし、他のドールとの関係も知らない。
 ブラザーは広く色んなドールと仲がいいのかな? 程度であった。

「フェリも早くブラザーと仲直りできるといいね! ミュゲもブラザーとお友達になれるように頑張る!
 ……そうだ! お手紙を書くのはどうかな!? お手紙ならブラザーも読んでくれるかも!」

 ミュゲイアはアラジンの話をしてから、フェリシアの相談に話を戻すように話題を元に戻す。
 そして、何か閃いたというように言葉を口にしてから手紙を書こうと述べた。
 手紙ならば面と向かって言えないことも言えるかもしれない。

《Felicia》
 ブラザーくんとの関係よりも、今はミュゲちゃんもブラザーくんの関係を心配した方がいいのではないかと思えてきた。ただでさえ山積みの問題が、音を立てて倍に倍に増えているような気さえする。
 少なくとも解決しなければいけないものは確実に増えている。頭がずきずきと痛んだ。全てを一気に解決出来るような得策は、無いに等しいだろうから。
 フェリシアの中で燻っていた罪悪感は、思考が問題にシフトしたことで薄れていた。集中したとしても、ハッキリとした解決案を提示出来るわけではなかったが。
 フェリシアはあなたからアラジンのことを聞くと、納得したように頷くことだろう。

「素敵な子なんだね! ミュゲちゃんの同志さん、会ってみたいなぁ。
 ふふ。うん! 喜んで絵のモデルになるよ!」

 あくまでも笑顔を突き通すあなたに、フェリシアもまた、火の粉をまぶしたような笑顔を見せることだろう。しかし、あの時のブラザーくんを見る限りかのドールと仲の良いというのは些か理解しがたかった。おそらく、今は彼自身が彼の周りの全ての交流から逃げ出そうとしているということなのだろう。放たれた嫌いという言葉もきっと嘘であって欲しい。フェリシアは願っていた。彼がまだ、光を失っていないのだと。長らく彼と行動を共にしていたミュゲちゃんと話したことで、フェリシアは彼の状態を把握しかけていた。
 考える時間さえあれば、大方彼とどのように話したら良いか答えが出そうだ。今日知ったブラザーくんとミュゲちゃんの関係、そしてアラジンというドールに関しては何も分からないけれど。今は何とか持ち堪えなければいけない、そう結論づけた。

「うん! また仲良しに慣れたらいな。一緒に頑張ろうね。だって、私とミュゲちゃんは、仲間なんだから。ミュゲちゃんが困ったことがあったら何でも相談に乗るよ。私に出来ることならなんだって頑張るつもりだからからさ……!

 確かにお手紙はいい案だね! 書いてみようかなぁ。ありがとう!」

 ミュゲちゃんは自身を慮って相談に話を戻してくれたのだろう。
 彼女も彼女なりに解決しなければいけない問題があって、私にも私にしか解決できない問題がある。ブラザーくんとまた協力できるようになるために、今は手探りで会話を繰り返すしかないのだ。

「忘れないで、私はずーっとあなたの味方だよ!」

 花の香りが運ぶ風に誘われるように、フェリシアは寮に戻った。

 アラジンとわかれ寮に帰ったミュゲイアは初めてのことに疲れてしまったのか、早々に眠りについてしまった。
 ぼんやりと友達という単語ばかりが頭を覆っている。
 ブラザーにはまだ話しかけれていない。
 ブラザーに話しかける機会を伺いながら、時は過ぎてゆく。
 学園に着いたミュゲイアは講義室Bに足を踏み入れた。
 何をどうするべきかも分からないまま、刻々と時は迫っている。
 流れ星は待ってくれない。
 それでも、ミュゲイアは今日も笑っている。
 晴れた青空に見合った太陽のような笑顔を浮かべている。

【学園2F 講義室B】

 講義室Bは、もう一方の講義室Aとは対になるような、鏡写しの部屋の作りをしていた。

 講義室は、各クラスの先生による座学を中心に使用されている。部屋の右手側の壁には広い黒板が張り付けられており、教壇と、揃えられたドールのための机と椅子が存在する、シンプルな教室といったところか。

 現在は人気も特になく、授業の予定も見たところ無さそうだ。

「……あれ? 誰かの忘れ物なのかな? これをミュゲが届けてあげたら笑ってくれるよね!」

 講義室Bの中には誰もいないようで、静まり返っていた。
 この部屋での授業の予定もないようで、誰かが来る気配もない。
 グルリと講義室の中を見渡してみたら、机の上に教材が置かれている。
 この部屋での授業の予定もないならば、置かれている教材は忘れものだろう。
 ミュゲイアは教材が置かれっぱなしになっている机の方まで近づいて、教材を手に取った。
 テーセラのものと思わしき教材に名前がないかと思いながら確認をしていく。

 講義室の机の上に、ドールの忘れ物と思しき教材や筆記用具が散らばっている。教材内容から推測するにこれらはおそらく、テーセラモデルのものだ。
 あなたは教材の中に、一枚の写真を見つけるだろう。


 どうやら学生寮付近の平原で撮影したものらしく、一帯には青々とした草地が広がっている。空は明るく晴れ渡っていて、燦々とした西陽が照り付けていた。
 枝葉を茂らせた一本の樹木には、手製のものと思しきブランコが吊り下がっており、そこには鮮やかな青髪を風に靡かせるエルの姿がある。しかしその表情は、どこかあなたが普段から見ている彼とは違う気がした。

 ブランコが吊るされている木の幹には、アラジンとあなたの姿がある。彼らは身を寄せ合って、スケッチブックを抱え持っていた。そちらへ向かおうとしていたらしいブラザーが、この写真を撮った人物の方へ朗らかな笑顔で手を振っている。

 一見、何気ない寮内での日常を切り取った写真に見える。だがあなたの目にはどうにも違和感のあるメンバーに見えた。
 アラジンはこの学園へ訪れたばかりのドールである。それに彼はトゥリアクラスであって、オミクロンの寮に入ることは出来ないはず。そして彼らの写真を、恐らくはテーセラクラスのドールが所持している……という、どうにもちぐはぐな有り様に。

 写真の裏側には、『芸術クラブ』と記載がされているようだ。

 持ち主の名前を探して、散らばっている教材を漁ってゆく。
 その中で一枚の写真が目に付いた。
 引き寄せられるように伸ばした手は薄っぺらい髪をゆっくりとすくい上げた。
 写真の中には何気ない日常を切り取ったような風景があった。
 けれど、ミュゲイアはその写真を見て目を見開いた。
 こんなものを撮られた記憶はもちろんミュゲイアにはない。
 見覚えるのあるオミクロンのメンバーとオミクロンではないアラジンの姿。
 オミクロンの寮に他の寮のドールが出入りをすることは出来ない。
 そして、ここに来たばかりと言っていたアラジンがこの写真に写っていること自体がおかしい。
 おかしいけれど、この違和感は初めてではない。
 ミュゲイアがあの三人での天体観測の時に見た記憶ではオミクロンではないはずのアラジンも一緒にいた。
 アラジンはオミクロンにいた?
 お披露目から帰ってきた?
 ならば、なぜミュゲイア達はその事を忘れているのだろうか?
 前々からの知り合いであったのならば、オミクロンに来て初めて知り合ったエルの事もブラザーの事も覚えていないのはおかしい。
 ぐちゃぐちゃの時系列。
 ぐちゃぐちゃのアタマ。
 見覚えるのある写真。
 思い出そうとすればするほど霞んでゆく光景。
 パチリと火花が散っていく度に痛む頭。
 頭痛がまた警告する。
 これは思い出さない方がいいと言うように。
 ミュゲイアの邪魔をする。
 知りたいことばかりが遠のいて、疑問ばかりが近づいてくる。
 ズキズキとする痛みを耐えることはトゥリアドールの脆い体では難しく、ミュゲイアは写真を裏向きにして机の上に置いた。
 写真の裏側には芸術クラブと記載されている。
 芸術クラブ。
 アラジンの作ったものであった。
 ミュゲイアの大好きな名前。
 アラジンとミュゲイアを引き寄せてくれた名前。
 ミュゲイアの知らない記憶の中でもミュゲイアは芸術クラブに属していたのだろうか。
 今も芸術クラブにいるのは偶然ではなく、必然であったのだろうか。
 ミュゲイアはギュッと目を瞑り、頭を抑えてまたこの写真のことをなにか思い出せないかと試し始めた。

 あなたが友人達と笑い合っている写真。幸せな風景を切り取った一枚に、あなたは当然見覚えがない。何しろ記憶がないのだから。
 通常クラスに所属しているはずのアラジンは、何故かオミクロンクラスに居て。この写真の所有者はおそらくテーセラクラスのドール。このちぐはぐな写真の違和感はいくつも存在した。

 あなたはこの写真を撮った時のことを自然と思い出そうとするだろう。だが、脳がそれを拒むように激しく切り詰めて痛んだのだ。神経が擦り切れそうな強い痛みに、あなたは僅かにふらつくだろう。
 記憶を掘り返そうとすると、あなたはとてつもない恐怖に苛まれる。それはあの開かずの扉の向こうに足を踏み出そうとした時にまとわりついた、あの得体の知れない恐怖と似て。

 立ち止まりたい。
 何も知らないままでいたい。
 思い出したくない。
 傷つきたくない。
 あなたの防衛本能が頭に自制を掛けていた。
 だがあなたはそれ以上に、失ってしまった大切なものを、幸福のかけらを少しでも掻き寄せるように、頭痛と恐怖に抗って、記憶を想起させる。

 ──その時、あなたの目の前に燐光を輝かせる、不思議な青い蝶があらわれた。

 学園に、こんな生物が飛んでいるところは見たことがない。震える翅は繊細な硝子細工のように神秘的に輝きを透過していて、作り物みたいな美しさの青い蝶だった。
 蝶は痛みによって動けないあなたの元まで舞い降りて、ふわりとその額にあしで留まる。

 刹那、脳内で何かが弾けるような音がして、あなたのまぶたの裏に、どこか懐かしい過日の景色が流れ出した。

 チグハグでぐちゃぐちゃな写真。
 思い出したいと思えば思うほどに頭はそれを拒否して、ミュゲイアの邪魔をする。
 自分の思考を自分が邪魔してしまう。
 なぜ、思い出したくないのかすらミュゲイアには分からない。
 痛みは増してゆくばかり。
 力が抜けるようにふらついたミュゲイアは机にもたれかかった。
 開かずの扉にも似た恐怖。
 思い出すことを恐怖している。
 コアがやけに煩くて、目の前がチカチカする。
 そんな中でミュゲイアの視界に入ったのは青い蝶だった。
 見たこともない青い蝶はやけに美しく、神秘的な輝きを透過した作り物のような蝶。
 その綺麗な蝶に向かって手を伸ばすことすら出来ず、ただミュゲイアは見つめていた。
 やがて、蝶がミュゲイアの元まで舞い降りて口付けをするようにミュゲイアの額に留まる。
 その時、ミュゲイアの脳内で何かが弾ける音がした。
 ゆっくりと閉じた瞼の裏にどこか懐かしい景色が流れ出す。

 ──パシャリ。
 明るいフラッシュが焚かれて、ミュゲイアは目を丸くした。
 隣で肩を寄せあっていたアラジンもまたミュゲイアと同じような顔をしている。
 二人で覗き込んでいたキャンバスには沢山の楽しい思い出達が描かれている。
 どうして、忘れていたのだろうか。
 アラジンとはこんなにも仲が良かったのに。
 生まれた芸術を見返しては一緒に笑っていたのに。
 どうして。
 お互い覚えていないのだろうか。
 シャッターを押したドールに向かってアラジンが笑っている。
 そのドールは黄金の髪の毛を靡かせて、栗色の瞳を悪戯に細めていた。
 そして、そのドールの周りへとみんなが集まっていくのをミュゲイアは見ていた。
 嗚呼、幸せだった。
 ミュゲイアは確かにオミクロンクラスで幸せだった。
 沢山の友人に囲まれて、そして、次第に置いてけぼりになっていた。
 思い出してゆく。
 思い出す度にその記憶が恋しくなってしまう。
 ミュゲイアの知らない幸せなミュゲイア。
 そして、ミュゲイアは我に返った。
 どのくらい時が進んだのかも分からない。
 長かったようで短いその時間。


「……ドロシー。」


 その名前を呟いた。
 記憶の中でもうすぐお披露目に行くと言っていたドールの撮った写真。
 テーセラモデルのドール。
 チカチカと尾を引く痛みに頭を抑えながら、ミュゲイアは写真手にとってギュッと抱きしめた。
 愛おしい幸せを。
 幻覚でも妄想でもなかったこの記憶を。
 ゆっくりと深呼吸を数回してからミュゲイアは机にもたれ掛かるのをやめた。
 そして、この写真を持っていたテーセラドールを探すためにミュゲイアは机に散らばった教材を全部抱き抱えて講義室Bを出て、同じ階で誰か生徒が居そうな場所として合唱室へとまだ痛む頭のままゆっくりと足を運んだ。

【学園2F 合唱室】

Dorothy
Mugeia

 合唱室の内部は、あなたがよく知るものと大差ない。コーラスごとに分かれて立つことが出来るよう、部屋の奥の床は階段上になっている。ドールズは基本、こちらの階段側に立ち、ドールズに音楽を教えるトゥリアクラスの先生は、部屋の手前側の教卓の前か、部屋の奥に置かれたピアノで伴奏をする。合唱の授業の基本形だ。


 合唱室はひどく薄暗い。そして一歩踏み込むと、壁が音を吸い込んでいる為か学園の喧騒からはぐっと遠のいて、空白から不安が押し寄せてくるような無音の空間へと変わりゆく。
 そんなあなたの背後で、ぱたんと軽い音がして扉が閉ざされた。光と音が消え去り、あなたを暗闇が取り巻く。

「ギャハハハ! ご機嫌よう、アムネシア! いきなり転がり込んでどうした、追われてるのか? さて一体何に? 黒ずくめの男達か? 責任からか? ビッグフットの怪物か? 憂鬱な定期試験か? それとも輪郭のない恐怖からか?」

 そして、あなたが背にした出入り口から、ネジが外れたように不自然に明るく陽気な声が響き始めた。
 聞き覚えのある声。
 あなたが懐古した記憶に新しい、少女の声だ。

 そうあなたが確信して振り返ったならば、その瞳に映り込むのはいびつな大きさを持つ、傾いたビスクドールの頭部であった。グリグリと無機質な赤い瞳が、あなたの顔をただ写し込んでいる。

「ワタシはオムニバスに揺られ、一人絶望していたのです。夢追い人はとっくに崖から身を投げました。さて、オマエは庭のダリアの美しさをどれだけ覚えてる?

 匿ってやるよ、お前が恐れるものから。親愛なるオミクロンのジャンクドール、ワタシは詩の上の役者・ドロシー。ご機嫌よう! ご機嫌よう! ご機嫌よう!!」

 それはまるで壊れたラジオのように。
 脈絡のない言葉を無数にあげつらい、簡単に放ってはまた新たに取り出す。
 奇を衒ったドールは暗がりの中、あなたに迫る。

 開けた扉の先に広がるのは薄暗い合唱室。
 一歩、そこに足を踏み入れれば学園の楽しげな声は静かに遠のいて部屋の中に静寂をもたらした。
 パタリと軽い音がして扉が閉ざされた。
 一気に暗くなった視界にピクリと肩を揺らしてからキョロキョロと周りを見渡した。
 明かりを探すように。
 そうしていれば、背後から不自然に明るい声が静寂に切り掛るように聞こえてきた。
 聞き覚えのある声。
 懐古した記憶に新しい少女の声。
 嗚呼、懐かしい。
 嗚呼、知っている。
 この声もその名前も。
 確かに知っている。
 追いかけるように振り返って目に入ったのは歪な大きさを持つビスクドールの頭部であった。
 グリグリとした無機質な赤い瞳が吸い込むようにミュゲイアを写し込んでいる。

「……ドロシー? ドロシーなの? ミュゲだよ! ねぇ、お披露目は? アラジンみたいに戻ってきたの? ……そうだ! 写真! これドロシーが撮ってくれたんだよね? 講義室に置かれてたの! ミュゲ、覚えてるよ。思い出したよ。ねぇ、お顔見せて? ドロシー。また笑って。」

 壊れたラジオのように言葉を放つ彼女を見て、ミュゲイアはパタリと抱えていた教材を床に落としてしまった。
 そんなことすら気にならないほどに、ミュゲイアもドロシーの方へと近づいて行った。
 小さな手でビスクドールの頭部に触れて。
 その名前を呼ぶ。
 悪戯に笑っていたドール。
 よく彼処に忍び込んできていたドール。
 貴女を知っている。
 貴女の顔を見たいとその手は伸びていた。

 彼女はまるで、調子のはずれたサーカス・ミュージックを背負っているようだった。
 あなたの目に映る少女ドールは、頭の可笑しな道化であった。話を通じ合わせようという気概すら感じられない、そばに居ると身の危険すら覚える異様なドール。
 傾いた粘土製の異質な覆面、不安定な挙動、法則性を感じられない奇々怪々な言動全てが、不運にも出くわしてしまったあなたを追い詰めるものであるかのようだ。

 ドロシーは一歩あなたへ踏み出した。あなたが気味悪がって、同じように一歩下がるかと予期した動きのつもりだった。

「──は? ……ッオイ待て、」

 だが、ミュゲイアはまるで動くものを愚直に追う子猫のように、或いは好奇心旺盛な赤子のようにドロシーに肉薄する。
 その細い手のひらが彼女の被り物に伸びていく。子供が見様見真似で行なった化粧のように不自然に赤く染められた作り物の頬へと、指先が触れた途端。

 パシ、と乾いた音がして。

 ドロシーはあなたの嫋やかな手首を掴み上げていた。テーセラのドールに掴まれたというのに、さほど痛まない。それでも確かな拘束でもって、ドロシーはあなたから触れられるのを阻止するだろう。

「………………オイオイスマイラー。あんまり焦らせんなよ、カワイイお花チャン。急に触られると吃驚すンだろうが、あんまりオイタするとこの腕へし折るヨ〜ッ? キャハッ。」

 手首を掴む彼女の指先が、悪戯にあなたの手のひらの肉を揉み込む。それはまるで脅迫しているかのようであるが、一向に力が込められる気配は無い。

「……それで? 思い出しちゃったワケ? ……“全部”?」

 どうやらドロシーは、静かに話を聞いてくれるようだ。

 ミュゲイアは確かにそのおかしなビスクドールに手を伸ばした。
 奇々怪々な言葉、壊れたオルゴールのように不規則な話。
 その全てをミュゲイアはきっと理解出来ていない。
 あの頃も彼女がこうだったのかは分からない。
 思い出せていない。
 それでも、その声に見覚えがある。
 その名前を確かに知っている。
 あの時のような栗色の瞳は見せてくれていないけれど、それでも懐かしさを感じる。
 伸ばした手を阻止するように掴み上げられてやっとミュゲイアの動きは止まった。
 さほど痛いわけでもなく、それでも拘束の役割は果たしているようなもの。
 へし折るなんて言われればミュゲイアの腕がピクリと小さく動いた。
 けれど、一向に力を込められることはなくドロシーが言葉を続けた。

「……えっ、あっ、ごめんね? ミュゲ、ドロシーに会えたのが嬉しくて。
 全部かはわかんない。きっと全部じゃない。でもね、アラジンと天体観測をしたら前にも天体観測を三人でしてたのを思い出したし、ドロシーの撮ってくれた写真を見たらね、青い蝶がやってきてその時の事を思い出したの。ねぇ、どうしてミュゲは忘れちゃってたの? ミュゲはブラザーと何を見たの? ドロシーは全部覚えてるの?」

 静かに話を聞こうとしてくれているドロシーを見て、ミュゲイアはゆっくりと言葉を紡いだ。
 幼子が話すようにその言葉に纏まりはなく、ミュゲイア自身も上手くこの出来事を落とし込めていないというのがよく分かる。
 ミュゲイアには分からない。
 題名も知らない映画の一部シーンをいきなり見せられていただけのような感覚であり、思い出したのはほんの一部。
 全てに触れることはまだ出来ていない。
 ミュゲイアはまるで答えを求める様にドロシーに問いかける。
 聖女から言葉を貰おうとする哀れな子羊のように。
 純白の瞳はドロシーを見つめている。

 ドロシーは黙って、大人しくあなたの話を聞いていた。先程まで誰に相槌を打たれているわけでもないのに、あなたと対話をする気が微塵もないであろう無数の言葉をけしかけていたのだが、現在は鳴りを潜めている。
 輪舞曲を踊る途中で停止したオートマタのように、あなたの伸ばされた腕を掴み上げた姿勢のまま。彼女は感情の揺らがないつるりとした深紅の眼にあなたを写し込んでいる。

 自分でも気付かぬうちに秘された真実を追い求め、夢の中を彷徨う幼子の少女。純真無垢なピンクパールの瞳のきらめきがドロシーに乞うならば、あなたに解を与える役柄を与えられた彼女は。

「アラジンのこと、思い出しちゃったってワケ。ふうん……そぉ。もうそんな所まで思い出したんだ。

 そーだよ、ご名答だ、名探偵。その写真はワタシのだ。あーあ……置き忘れてくなんて、ドロシーちゃんてばお間抜けさん! それに、まさかお前がこんなに早く思い出してくるとは思わなかった!」

 咀嚼するように頷いて、それから自身の犯したミスを明るく陽気に自身で茶化した。作った握り拳でコツン、と頭でっかちなこめかみのあたりを軽く叩いて。
 そうして、こちらに披露するために掲げられていたであろう幸福な日々を切り取った、一枚の写真をそっと摘み上げると──

「こればっかりは、ワタシの詰めが悪かった。今度はもうこんなミスしない。」

 びり。
 彼女の低い呟きを皮切りに、あなたの記憶を呼び覚ます足掛かりとなったあの写真は、呆気なく破かれてしまう。
 あなたと友人たちの笑顔に、無慈悲な亀裂が走る。

 びり。び。びりり。
 次々と、あなたの目の前で写真を細切れにしていくドロシーが、一体どんな顔でこのような真似をしているのか、あなたには分からない。
 そして過日の芸術クラブの笑顔は、おそらくもう二度と戻らない。

 ミュゲイアは夢見ていた。
 思い出した記憶をまた実現できると思っていた。
 アラジンの時のように、天体観測の約束をしたみたいに。
 夢を見ている。
 思い出した記憶を愛して、大切に大切にしたいと思うほどにそれに憧れてしまう。
 また、あの時と同じようにと思ってしまう。
 だからこそ、ドロシーとも夢を見ていた。
 また、一緒に写真を撮れるのでは? なんて淡い期待を抱いていた。
 いつの日かあの写真をみんなで見て笑い合える日を願ってしまった。
 思い出したことを喜んでくれると思っていた。
 笑い合えると思っていた。
 その全てがどこまでも甘く幼いものである。
 思い出していない事もドロシーが教えてくれる。
 あの頃を手に入れられる。
 ドロシーはきっとその手伝いをしてくれる。
 そんな考えをチラつかせるようにミュゲイアは笑っていた。
 ドロシーの手によって取られた写真を見てドロシーは何か思い出話をしてくれるのだと思っていた。
 それを期待していた。

 ───その頃の芸術クラブってどんなのだったの? ドロシーとミュゲはお友達だったの?

 口から出ようとした言葉はドロシーの行動によって破られてしまった。
 パラパラと雪が降るように写真が破られていく。
 あのころの思い出を消してしまうように。
 塵になってゆく。
 もう、戻れないと言うように。


「……うそ。うそうそうそうそ! ……どうしてそんな事するの!? ドロシーなんで? ドロシーはミュゲに何も思い出して欲しくないの? あ、そっか、この写真はドロシー写ってないもんね! 次はドロシーも一緒に写真に写ろ? いっぱい笑顔の写真! ミュゲが撮るよ! 絵も描くよ! だから、だからやめて! おねがい! やめて、やめてよ。……おねがい……だから。」


 笑顔が固まった。
 目の前の光景を受け入れられないというように。
 止まった身体が動き出した時には手遅れで、ミュゲイアはその場に座り込んで破られた写真をかき集めようとする。
 焦ったようなその顔。
 ピクピクと動いた口元の笑顔は崩れてしまいそう。
 どうして?
 ミュゲイアは笑えているのに。
 どうして不幸せな事が起きたの?
 どうして?
 ギョロりとした瞳でただドロシーを見つめた。
 うるうると潤んだ瞳からは今にも雫が落ちてしまいそうであった。

 あなたの制止の声など気にも留めないドロシーの無慈悲な爪先が、写真を単なる紙屑に変えるたびに。あなたの大切だったはずの記憶が欠け落ちていくような気がした。
 彼女の白い指の隙間から零れ落ちていく。あなたをかつて形成していたはずのものが。数少ない残された手掛かりだったものが、無感動に床へ散っていく。

 舞い落ちた記憶の花弁が散らばる床へ、一心不乱に縋り付くミュゲイア。そんなあなたの傍らに、ドロシーは同じように片膝をついて身を屈めた。こちらを見るあなたの瞳は、至近距離で不気味な覆面とかち合うだろう。その奥で彼女の目と視線が合っているかは分からない。

「……もういいよ。思い出さなくていい。」

 ドロシーは低い声で囁いた。あなたの鼓膜を舐るような声だった。

「お前は昔から本当に頭が足りないなミュゲイア。せっかく全部が上手く行ってただろうが。お前の側にはブラザーがいて、アラジンがいて、……エルが居る。これ以上何を欲張ろうって?

 余計なことに首を突っ込むなよ、イエネコみてーに早死にするぜパラドックス。」

 それこそ猫を持ち上げるように、ドロシーはあなたの首根っこを掴んで持ち上げようとする。その動作によって、みっともなく床に這いつくばって過去の痕跡を拾い集めようとする行為をやめさせようとしたのだ。
 そしてあなたの顔を覗き込もうとする……覆面で分かりにくかったが、そうしているのかもしれない。

 不気味な赤い目がミュゲイアを見ていた。
 歪なビスクドールの微笑みがただミュゲイアを見ている。
 無機質なソレに見つめられてミュゲイアの手が止まる。
 写真だったものの残骸を集めても、元に戻るなんてことはなくただ山になるだけ。
 今、ミュゲイアがちゃんと笑えているのかすらミュゲイアには分からない。
 ただ、幸せと言えない状況だけがミュゲイアにまとわりついて離れない。
 笑えない。
 ぎこちない笑みはきっと笑っているとは言い難い。
 虚ろに涙を流し、頬をつたう感覚だけがわかる。
 ドロシーの事は分からない。
 彼女が意図することを理解できない。
 低い声で呟かれた言葉がミュゲイアの鼓膜を撫でて奈落の底に落としていく。
 もう、思い出さなくていい。
 その言葉はミュゲイアを苦しめてきた警告そのもの。
 いつの日かの記憶を見ようとするミュゲイアの目を覆うヴェール。
 きっと、欲張りすぎた。
 欲張ったから苦しんだ。
 思い出さずにいればただ笑っているだけのまま生活をして、お披露目に夢を見ていられた。
 苦しいことも不幸も感じない、完璧なドールでいられた。
 幸せのままだった。
 それでも、ミュゲイアは星に魅入られてしまった。
 芸術を知ってしまった。
 星探しの広大な旅路に夢を見てしまった。
 きっと、戻ろうとしても戻ることなんて出来ない。
 指先にある思い出の残骸を掻き集めてしまう。

「……どうして、どうして、またそんな事言うの? 天体観測したいよ。友達になりたいよ。いっぱい絵を描きたいよ。」

 ドロシーの言葉は初めて聞いた気がしなかった。いつかにも思い出さなくていい、と言われた気がする。
 首根っこを掴まれ、顔を覗き込まれればミュゲイアはポロポロと泣いていた。
 欲張りな子供は沢山の欲を述べる。
 それをどう実現するのかも分からないままに。
 また、言われてしまった言葉だけが頭に反響して背中が熱くきりつめた痛みがし始めた。
 ジワジワと体を蝕む痛みにミュゲイアは顔を歪めた。

「……いたい、いたい。痛い。……あ"、……イヤ。」

 ミュゲイアは自分の身体の痛みに顔を顰めて自身のことを抱きしめた。
 痛みに耐えるように腕に強く爪をたてて、背中の痛みに濁った声を出す。
 次第に言葉を出すこともなくなり、歯を食いしばってただ痛みに耐えていた。

 思い出が散り散りになる痛みに、悲しみに暮れているのだろうか。ドロシーにスマイラーと呼ばれた笑顔のドールは、今やその頬から笑顔を保持出来ていなかった。
 もうどうにもならない塵を掻き集めて、力無く肩を震わせるトゥリアドール。見るものに同情心を誘う姿だ。思わず手を伸ばしたくなる、か弱い花のようだった。
 だがドロシーはあなたに手を差し伸べたりしなかった。不自然に首を傾けたまま、じっとあなたを見ている。

「ギャハハ! バカな女! 天体観測も芸術活動も、別に思い出さなくったって出来ンだろ。どうして思い出に固執する?

 アラジンを見ろ、アイツは何も知らない。何も知らないままお前と仲良くお友達になった。記憶なんか無くたっていいだろうが、無くなったって困らないだろうが。お前は少しも困ってなかっただろうが、能天気な顔で笑ってられただろうが、つまりは何も不都合なんてなかった。そうだろ?」

 畳み掛けるようにドロシーはあなたへ告げる。彼女の奇人めいた素ぶりには似合わぬ、理知的な言葉でやり込めようとしているかのようだ。反論を許さぬ暴風雨のような言葉たちがあなたをがんじがらめに縛り付ける。

「思い出したら今に後悔する。お前がそう言ってたんだ。もう全てを忘れてしまいたい、そうすればずっと笑顔でいられるからって……」

 痛みに喘ぐあなたの背を、彼女はまるで慰めるように撫で下ろした。その手つきは乱暴に見えたテーセラドールに見合わぬ優しいものであっただろう。

 ミュゲイアの芽吹いたばかりの願いという花はいとも簡単に潰されてしまった。
 バカと言われればその通りであり、浅はかで愚かで救いようのないジャンク品。
 バカにしたように笑われ、ドロシーの言葉に対する反論すら上手く出てこない。
 バカな女と言われて当然である。
 だって、何も覚えていなかったのだから。
 今になって思い出したところで、どうする事も出来ない。
 もちろん、ここから出て行く術すら知らない。
 無計画そのもの。
 ただ、夢を言っているだけ。
 魔法の粉はないのだから飛んで行く事も出来ない。
 エメラルドの都だってない。
 魔法使いに頼んだところで助けてもくれない。
 かかとを三回合わせたってどこにも行けない。
 変えようのない現実があるだけ。

「……でも、……でも、外に行って……みんなで天体観測したいの……。今度こそ終わらない天体観測を……したいの。……ドロシーも一緒に行こうよ。

 …………ミュゲ、そんなの、言った覚えないよ。……思い出してみないとわかんないよ。……ミュゲ、笑顔でいるから。……思い出したいの。」

 背中を撫で下ろされミュゲイアは言葉を詰まらせながらもゆっくりと口を動かす。
 そんな事をミュゲイアは言ったのだろうか?
 そんなにも恐ろしい事があったのだろうか?
 燃えるように痛む背中は何も語らない。
 撫でられようがその痛みが引くこともなかった。
 ただ、何を言われても思い出そうとしてしまうばかり。

 手折られやがて弱りゆく花のような、可哀想で哀れな震え声だった。ドロシーに何度揶揄され諭されようとも、それでもミュゲイアは星を追いかける夢を諦めようとはしない。
 意固地で、無謀で、愚かで、向こう見ずで、能天気で、リスクを知らず、慎重さに欠ける。
 今の彼女をなじる言葉など、ドロシーはいくらも思い付いた。思い出す痛みに悶えながら、どうしてまだ固執しようとするのだろう。

 ヒトに奉仕することを至上とする、普通のドールなら。
 或いは今まで通りの、妖精のように気ままな彼女なら。
 笑顔以外にどうでもよかったはずのミュゲイアなら、こうまで散々言われれば、「その通りにすればあなたは笑ってくれる?」などと言って、思考停止するはずだと思っていた。
 今日は随分としぶといな。なんだか強引に我を通そうとしているようだ。ドロシーは無言であなたの顔を凝視している。

 あなたはドロシーの言葉から感じた既視感を足がかりにして、芋蔓式に記憶を引き上げようとするだろう。
 だがそうしようとした時、あなたの頭が破裂しそうになるぐらい激しく傷んだ。それと同時にあなたの内側で、これ以上思い出してはいけないと警鐘を鳴らされるのを聞く。サイレンのようなそれはあなたの内部を反響する痛みとなって現れるだろう。

 あなたはあの日、恐ろしいものを見たのだ。
 それを思い出すことを、本能が忌避している。苦しみ苛む頭の痛みが、記憶の想起を許さなかった。

「……マア聞けよ。優しくて親切なドロシーちゃんの、とっても為になるアドバイスを。

 お前は、この件について、もう何も首を突っ込むな。そうすれば思い出したいって事以外、お前の望みは全て叶う。お前は何があっても笑顔でいたいんだろうが。それ以外のことはどうでもいいんだろ? ギャハハハ!」

 今回ばかりは悪意のある言葉選びだった。これに懲りろよというようにドロシーはギリギリとした笑い声を上げて、すくっと立ち上がる。
 散らばった自身の教材を拾い集めると、首をガタガタと震わせながら明朗闊達な声で告げた。

「それじゃードロシーちゃんはそろそろ次の授業があるから行くぜ〜。さよなら三角また来て四角、谷底へ崩落したトイボックスの乗合馬車から、死に損ないと屍を喰らう獣がお送りしておりま〜すッと! ギャハハハハハハ!」

 笑い声は遠ざかりゆく。やがて合唱室にはぽつねんとあなただけが取り残されるだろう。