Dear

Suis-je meilleure suis-je pire Qu’une poupée de salon……

 景色が滑る。希望に満ちたターコイズブルーを、悠々と泳ぐ魚のように。
 爪先で地面を蹴って、朗らかなボーイソプラノを響かせながら、ディアは軽やかに走っていた。

 ただ、プログラム通りに。愛しき恋人の呼ぶ方へ。

Je vois la vie en ro……あっ! ふふっ、ごきげんよう、愛しきカンパネラ! 今日はみんな、おててを繋いで仲良しなの! きっとかわいいかわいいエンジェルたちが来たからだね! 花も、風も、空も、みんな幸せそうでとってもかわいい! 今日のキミのご機嫌はいかがかな? ああ、どんな鼓動をその星のかんばせに浮かべていたって、キミはとっても美しいよ!」

「手を繋いでも?」

「キスをしても?」

 ディアの瞳には、一体何が見えているのだろう。花も、風も、空も、ドールたちも、怯えきっているだけだった。惰性と蒙昧さに満ちた、昏い昏い絶望に攫われないように。思考停止を誘う毒に、防衛反応から来る嘘に、マガイモノの体温に、縋っているだけだった。あの日、この壁に咲く花に、初めて手を触れた時から。あの日、この場所で四人で誓いを立てた時から。あの日、この場所でただ何も知らず、優しいテノールに耳を傾けた時から。ディアは何も変わっていない。ただ、愛しき妖精の手を摩る彼は。肌が混ざり合う暖かさは、目と目が合う幸福は、キミの吐息に生かされる鼓動は。もう、あの子たちの手には絶対に届かない、目が眩むような眩しさを孕んで。

「壁に咲いた、素敵な素敵な愛の結晶のように!」

 彼は人形。破裂した屍でさえ、決して、手放してはくれない。

【学生寮3F 図書室】

Campanella
Dear

《Campanella》
 気付いたときには、彼はもうそこに迫っていた。残酷なほどに色鮮やかなターコイズブルー。それが果たして何を写しているのか分からないまま、カンパネラはびくりと肩を震わせて「ヒッ……!?」と悲鳴を上げた。

「えっ、えっあっ、うわちょ、近………」

 静かな空間で物思いにふけていたカンパネラに、ディアは眩しすぎた。部屋に電気がついたことで目覚める朝のような心地で、でもそれにしては少々暴力的であるとも感じられるような。
 手を繋いでも、キスをしても。畳み掛けるような言葉は甘く、しかしどれも彼女の恐れることばかりを予告していて、反射的に逃げ出すように足音を鳴らして後退する。本棚にべったりと背中をつけて、その瞳に涙の膜が張るのを感じて。
 そして。

「…………っ……」

 自身の心の柔らかなところを高らかに指さされると、カンパネラはその顔にそれまで以上の動揺を滲ませた。ドク、ドク、ドク。自分の鼓動の音が聞こえる。

「………なっ……何か、知ってるんですか……? ……その、落書きの子達について……」

 遅れて、彼がシャーロットのことを調べているのだというソフィアの話を思い出す。狼から距離を置くような心地でディアから離れようと足を動かしつつ、問う。“素敵な愛の結晶”などと宣うのだから、それならば彼が何か情報を握っているかもしれないと思い付くのは自然なことだった。

「知りたいの!?」

 海に太陽が反射して、魚たちの宴にスポットライトを当てるように。輝かしい光の矢に突き刺され、海に叩きつけられるように。
 ディアのターコイズブルーは、一層その輝きを増した。嬉しかったのだ。頼ってもらえたことが。幸福だったのだ。望みを口にしてくれたことが。ただ、それだけだった。無邪気で、純粋な、敬虔なる愛の使徒。ディアに悪意という感情が芽生えたことは、生まれた瞬間から一度もなく——胸を占める幸福感のままに、鼻と鼻がくっついてしまいそうなほどに距離を詰めてしまうのは、仕方のないことだったのである。

「それが、キミのお望みなのだね!?」

《Campanella》
「し、しりた、ちょっ近、かお、顔近あのッ、ひ、ひぃ~ッッ…………」

 顔と顔を近付けることはに、最近あった嫌な事件の関係もあってかより敏感になっていた。もはや声になっているのかも分からない、いっそコミカルな風にも聞こえる情けない声を上げながら、熟れた林檎のように赤くなった顔を逸らして逃げようとする。さてしかし彼から話を聞かないわけにもいかず、最終的には中途半端に逃げるだけとなった。ディアが距離を詰めれば詰めるほどカンパネラは後退し、本棚に背中をぶつけては方向を変えてまた後退し、しかし落書きの見える位置からは出ることがないという奇妙な行動を示したことだろう。

「お、のぞみ、って言ったら、そ、そうなんですけどぉっ……」

 情報を求めているからには無闇に突き放せない。相手に嫌がらせのつもりや悪意がなさそうなのがまたやりづらい。やや半泣きになりながら口を開き、なんとかして言葉を紡ごうとする。

「あの、あの………あ、あなた、あの。……シャーロットのこと、調べてるんですよねっ……?! あの、わたし、あの子のこと、思いだ……し、しら、知りたく、て。グ、グレゴリーのことも、なんです、けど、あのっ、何か、何かあの、あの二人のこと、しら、知りませんか、その。あの………」

 少々知りたいことが漠然としすぎており、情報の共有は少し手間取らせてしまうかもしれない。カンパネラはあなたから逃げながらあなたにすがっている。前者の感じはともかくとして、後者の何かを求めるような態度は、ディアは初めて見るものかもしれない。
 詰められた距離に過剰な恥じらいから顔を赤らめつつ、とかく必死にディアに問う。彼女の頭のなかではやはり、償え、償えと呪いのような言葉が巡っていた。

「〜〜〜っ、もちろんっっっ! 私が知っていることなら、何でもお話させてもらうよ!!! ああ、あの世界の全てを美しく彩る天使の如き麗しき彼女を愛しいキミが知っているだなんて! 求めてくれてありがとうっ、カンパネラ! 大好き!」

 正に、喜色満面と言った笑みを浮かべ、思い切り抱きつこうとして——すんでのところでブレーキを踏む。その小さな体のどこから出ているのだろう、と不思議になるほどに声を張り上げて、カンパネラの望みに応え、何とか距離を取りながらも溢れ出る幸福が全く隠しきれていなかった。緩む顔を隠そうともせず、一つ咳払いをして話し始める。

 ノースエンドと壁の絵を発見し、興味を持ったこと。
 シャーロットのお話を聞きに先生の下へと出向いたこと。
 シャーロットは古い友人で、大切な存在だから無闇に話したくない。遠くへ行ってしまった大事な人、胸の内に留めておきたい宝物のような思い出だと心底愛おしそうに語っていたこと。
 私たちの先生は本当に優しくて素敵だということ。
 先生の意外な一面のこと。
 先生の好きな食べ物のこと。
 先生の部屋の本たちはおしゃべりで可愛いということ。
 図書室の本たちは真面目で不器用で可愛いということ。

 閑話休題。

 別件で先生の部屋を訪れた際、サウスウッドを見つけたこと。
 サウスウッドの内容。
 青い花の話。
 先生に青い花を渡して反応を見たが、ヒトにも同様に毒性はないらしいこと。
 お披露目の子にも似た可愛い花が咲いていたこと。
 ダンスホールの排水溝に青い花が流れ着いていたこと。

 随分と脱線は多かったが、わかりやすいように丁寧に話してくれているのがわかる話し方だった。全てが大好きでたまらないのだと、キミの望みを叶えることが本当に幸福なのだと、そんな声色だった。

「——私が知っていることで、ミズ・シャーロットと関係がありそうなのはこのくらいかな?」

《Campanella》
 カンパネラは黙りこくった。ディアが話してる最中「えっ」「あえ」「ふぇ?」と間抜けな声を放ってはいたものの、それはあなたの言葉を止めるほどの力も大きさもなかったのだから、気付いていなくてもおかしくはない。
 そしてその話が一段落ついたらしい頃。カンパネラはしばらく呆けた顔で沈黙し──というか放心して──、

「た、」

 体感、たっぷり一時間。実際は一分にも満たない沈黙を破り、カンパネラは。

「……タイム…………」

 とりあえず時間を求めたのであった。

 古い友人? 誰と誰が? 大切? 何? 先生? 先生が何? 先生が可愛……何? 本? 本が可愛………何???
 ディアによる説明はまさに嵐のようであり、濁流のようであった。その脱線具合も内容も、支離滅裂……とまではいかずとも、カンパネラからすれば訳の分からないことばかりで目が回る。

「……あの、あの、……す、すみません。一個ずつ、……一個ずつ、あの、……確認させてくれませんか……」

 頭を抱えて悩んでも何も分からず、最終的におそるおそるといった調子でディアに伺う。半泣きである。断られなければ、カンパネラはそっと話を切り出すだろう。

「シャーロットと……ゆ、友人というのは。お、オミクロンの先生で、間違いないんですか。えっと……あの、本当に? そう言っていたの……? ……あ、で、です、か………?」

「いいよ! 待つよ! いくらでもお話するよ! 可愛いね! 好き! 間違いないよ!」

 頭の上にたくさんのはてなを浮かべ、瞳の夜に雨を降らすカンパネラの愛おしい姿に抱きしめたいのを必死に堪えながら、ディアは元気いっぱいにカンパネラの問いかけに返事をした。本人が意図した物ではないだろうが、一秒も悩む間を見せず、気を遣っている様子も全くなく、ただ嬉しそうに笑って快活に返事をする様は、一種の安心感を感じさせる物だった。この子なら全てを許してくれるだろう、と誰もが理解する輝きであった。

「【彼女は私の……古い、とても古い友人なんだ。君たちの擬似記憶で言う、『大切な人』に近しいと言っていい。今は遠いところへ行ってしまったけれど、彼女のことを忘れたことは一日たりとてないよ】と、おっしゃっていたよ! ンン……ッ、ふふっ、先生の素敵なお声を真似するのは難しいね!」

 もう随分と前に一度聞いただけの言葉を、一言一句正確に暗唱してみせる。どうやら本人なりに声真似もしようと努力していたようだが、首を絞められたカエルのような声になっていただけだった。ディアは自信満々に笑っているが……愛するものの記憶を精一杯大事にする、その愛だけは百点であった。クオリティに関してはお察しである。

「でも、上手く出来ていたのではないかな!? どう? 似ていたっ?」

《Campanella》
 流れるように放たれる「好き!」という言葉も、カンパネラには痛痒いというかなんというか。他人からの愛に自分なんかは相応しくないと毎日のように卑下を続ける彼女には刺激的すぎるのである。彼はまるで劇薬だ。天空のごとき包容力は、ひねくれ屋のカンパネラにも空っぽには見えない。それがまた恐ろしかった。
 思い上がるな。その自己否定は止まないのに、それでもディアから与えられる愛とやらは本物のように煌めいている。
 頭がおかしくなりそうだ。

 と。ディアが再び口を開いたかと思えば。

「………えっ」

 まさかこの人、先生の言葉を全部覚えているのか。
 いや、そこではなく。カンパネラの驚愕はそれだけが対象だったのではなく。ディアが先生の声を真似て放った言葉は、口調からして本当に言ったことのように思えるけれど、それは明らかにあり得ない話であった。

「古い、友人………」

 感想を問われているにも関わらず、カンパネラは彼の声真似のクオリティに関しては完全にスルーしていた。困惑のあまり、反応していられなかったらしい。ぽかんとした顔で反芻する。古い友人、大切な人。誰が誰と? 誰にとって、誰がどうだって?

「シャーロットと、先生が? 先生にとっての、シャーロットが……?」

 ドールと先生が。先生にとってのドールが。それは馬鹿馬鹿しくなるほどあり得ない話で。それを理由に言及を避けたのだということは、きっとそれは、彼女の……お披露目に出されて焼け死んだ彼女のことについて下手に語らぬための、嘘なのだろう。
 ああ。なんて、悪趣味な嘘を。

「────」

 あなた達が、殺したくせに?

 ぐらりと身体が傾くのを感じた。トタン、と強く足音を鳴らしながらよろめき、身体を支えるために本棚に手をつく。何冊か落ちてしまったのが見えた。
 ああ。腹の辺りをぐるぐると何かが巡る感覚がする。頭の奥が熱い。目の前が真っ赤に染まっている。顔の変なところに力が入って、つってしまいそうだ。その華奢な首筋やつるりとした額に汗が滲んでいるのが、ディアにも見えるだろう。

「ご、………ごめんなさい……あ、わ、わたし………こわ、……壊れて………」

 弱々しい声が響いた。震えていて、泣いているようだった。しかしディアがもし、茨の奥に秘められたようなカンパネラの顔を覗き込むのならば。
 彼の瞳には、栄光あるトゥリアモデルのプリマドールの目映きターコイズブルーには、また異なる色の感情が写り込むはずである。

 渾身の声真似への反応がなかったことに、しゅん……と肩を落とす。少し時間が経ったなら、また披露してみよう。その間に、みんなにもお披露目だね! ——どこから来るのかわからない莫大な自信は、未だ健在のようだった。しばらくはトイボックス・アカデミー中に首を絞められたカエルの声が響き渡りそうである。

「カンパネラ、どう、したの? っだ、だいじょ、ぅ、ぶ〜〜〜……っ?」

 ふと顔を上げれば、愛しきカンパネラが倒れ込んでいるのが見えた。励まさなければ! 涙を拭い、顔を覗き込み、キスをして安心させなければ! それが恋人の責務なのだから! ——だが、彼にとって最重要な恋人の責務がもう一つ
『恋人の望みは叶えねばならない』である。
 顔を近づけないで、との望みも無碍にはできない。全てを諦めない、全てを知り、全てを愛す。愛に溢れた世界の恋人が出した選択は——思い切り背を仰け反らせることだった。
 柔らかい体を極限まで後ろに倒し、顔を見る作戦である。いつか資料で見たリンボーダンスのような体制になっており、どう見てもディアも大丈夫ではなかったが、愛しきカンパネラのことを精一杯に考えた末の結果であるということは理解してもらえるはずだ。

《Campanella》
 手で顔に横髪を寄せ、隠すような仕草をしつつ。カンパネラはディアの声をぼんやりと聞いていた。しばし脳の奥をぐらぐらと揺らしていた彼女であるが、その少し間の抜けたような声を不思議に思えば、そっと俯いていた顔を上げた。

「……んえぇ………?」

 大丈夫かと問うディアの方がよっぽど大丈夫ではなさそうな体勢であった。顔を近付けないでと頼む自身への彼なりの気遣いなのかもしれないと思い至ることはできたものの、それよりもこちらの気が狂ったのかあちらの気が狂ったのか考えるので精一杯だった。若干怖かった。
 ディアの行動の奇妙さに一周回って冷静さを取り戻したらしいカンパネラは、困惑の表情を浮かべながら、とりあえず「す、すみません……?」となんとなく謝っていた。大胆に仰け反るディアが体勢を戻さなければ、ひっくり返ったアルマジロでも助けてやるように、制服のサスペンダーをちょいと摘まむようにして引くだろう。それがちゃんと身体を起こすための支えになるかは分からないが、とりあえず一旦体勢を戻してほしいという要求は伝わるだろう。カンパネラはどこか図々しく、話の続きを求めていた。

「ごめんなさい、あの、大丈夫なので……す、すみません。なんだか最近、どうにも……調子が……。
 そ、そんなことよりあの、えーっと……あの………も、もうひとつ、もうひとつ、よろしいですか」

 斜め下を見たり、横を見たりして、そして落書きを見た。友人たちのことが描かれた落書き。誰が書いたものなのかは、さっぱり検討もつかない。
 と。切り替えるようにディアの顔を見て。……逸らしてしまって。カンパネラは怯えたように口を震わせて問う。

「あの………さ、サウスウッドっていうのは、一体……」

「っん、お、っとと! っふふ、支えてくれてありがとう、カンパネラ! ちゃんと背中が痛くなるものなのだね、いいことを知ったよ! やはり愛しき世界のことを知るというのは幸福なものさ! 愛しきキミ、敬虔なる知と愛の使徒、夜の妖精、可愛い可愛いカンパネラ! キミの問いに答えよう!」

 弱々しくも強い意志を持ったそれは、ディアの小さな体を起き上がらせるのには特に意味を為さかったが。ただ手を差し伸べようとしてくれたことが嬉しくて、くすくすと頬をくしゃくしゃに緩ませる。背中の神経がツキリと痛むのでさえ、愛おしくてたまらないというようにくるくると回って、両手を大きく広げて可愛らしく笑って見せた。

「サウスウッドというのは、先生のお部屋のベッドに置いてあったミズ・シャーロットの小説でね! 随分と経年劣化が目立ったけれど、大切に扱われているのがよくわかる愛おしいものだったよ! 昔を懐かしんでいた、とおっしゃっていたね! 今も先生の部屋の本棚の中で、大事に眠っているはずさ!

 あの子が描く夢は所謂冒険記でね、南の孤島で生まれ育った、外の世界に強い憧れを抱く少年が主人公! 憧れを募らせ、ついに彼はいかだを漕ぎ出し、水平線の彼方を目指す……やがて辿り着いたるは、密林犇めく幻の黄金大陸! 襲い来る数々の危険をかわしながら、青き花の道標に従い、密林の奥地へ至ると! そこには大陸の至宝が眠っていた……キラキラ輝く宝石たちの真ん中で、笑顔を浮かべる少年の挿絵で閉幕さ! 強かな筆運びと瞼に流れる心躍る冒険の数々が素晴らしい、とっても優しい作品だよ!」

 つらつらと真実ばかりを並べ立てる、薄い唇。愛しきソフィアの望みの変化を、肌で感じているのか。警戒も、迷いも、恐怖も、その一切を感じ取れない無邪気な瞳。ただ、目の前の恋人と話せるのが、幸福で幸福でたまらなかった。体全体を使ってジェスチャーしながら、自らの感じた愛を精一杯伝えんと努力する。必死で、まっすぐなその輝きは、とても可愛らしい物だった。好きなのだ、どうしようもなく。

「ねえ、やっぱり手を繋いでもいいかな? 私の体は柔らかいんだ、いっぱい頑張って仰け反って、距離は取るようにするから! ね? ——ああ、困るよ。真面目なお話の途中なのに、愛しいキミに触れたくってたまらないのさ」

《Campanella》
 お伽噺の中の人物が紡ぐような言葉は、自分にはとても似つかわしくないものに思えた。わたしはそんな可愛いものでも立派なものでも美しいものでもない。ただの卑屈で愚図で間抜けで馬鹿なカンパネラが、そこにはいるのだ。

「あ、あうあうあ………」

 情報が多く、またもやカンパネラは目を回した。先ほどよりはよっぽどマシなぐらいの濃度だが、それにしてもやはり訳が分からない。
 嘘を言っているというわけではないのだろう。そんな壮大で無意味な嘘が、目の前の少年から発せられているとはあまり思えない。たとえ騙そうとしていたとしても、それにしたって意味が無さすぎる。
 サウスウッドの内容として語られたのは、なんとも“らしい”ものだった。どこにでもあるような童話、幼子の心を慰める可愛らしいお話。ジェスチャーを交えたディアの語りは迷いがないように見受けられ、本当の子供みたいだ。心の底からこの物語を楽しんでいる姿はいっそ微笑ましい。
 しかし微笑む余裕など、カンパネラにはなかった。

「の……仰け反んなくて、いいですからぁっ………あう………」

 手を繋いでもいいかという問いかけを不自然に有耶無耶にして、カンパネラは話を続けようとする。身体的な接触は本当に勘弁願いたいのだが、だからといって相手からの要求をまっすぐ断る勇気もなく、それが相手の苛立ちや落胆を煽る可能性を考えることのできなかったカンパネラにとっては、残念ながらこれが最適解のようだった。

「……あの……それ、ほ、ほんとに、シャーロットの本、なんですか? その……ほ、ほんとに?」

 カンパネラは困惑し、重ね重ねといった風にディアに問う。タイトルの感じもノースエンドや“あの本”と同じ風であるし、筆運び……どうやらその本の内容のみならず、文字のことまで評価しているような口ぶりから、それが手書きであることもなんとなく推察できる。特徴はノースエンドとほとんどいっしょだ。きっとそれは本当にシャーロットの書いた本だということが、カンパネラには理解できている。
 しかし。カンパネラはその理解を拒んでさえいた。それでは自分の考えがひっくり返されてしまう。

「な、なんで………もう一冊、あるの………?」

 ディアに訊いても、それはどうしようもないことだった。彼からすれば訳のわからない言葉だったに違いない。しかしそれは、カンパネラの心からの困惑だった。

「ふむ……なんで! それはまた難しい問いだね! ノース、サウスと続いているから、イーストとウエストもあるのではないかな! 先生はアカデミー内に散らばっているとおっしゃっていたよ! 全部見つけたら、ミズ・シャーロットのお話をしてくれる、とも! でも、そもそも何故連作なのか、というお話なのかな?」

 手を繋ぐことを拒まれたのも一切気にせず、ディアは嬉々として細い指を顎に当てた。問いの意味がわからないことがもどかしかった。愛するものの問いに応えようと精一杯だった。望まれることが嬉しかった。ぎゅう、と鼓動が跳ねてくすぐったい。頬が熱くなる。血管が沸騰しているみたい。自らの知を総動員して、カンパネラの望みを叶えようと愚直に努力する。
 美しくなくていい。可愛くなくても、立派でなくともいい。カンパネラだから、好きなのだ。カンパネラだから、喜んで欲しいのだ。カンパネラだから、愛しているのだ。

「ううむ……ミズ・シャーロットに直接お話を聞いてみようか?」

 ああ、全ての愛する概念たちよ。どうか幸いがありますように。迷える子羊たちを導く、北極星となれますように。特別なものなどいらないから、ただ、涙を拭えるように。ディアはまっすぐに願っている。世界中全ての望みを叶えられると、本気で信じている。純粋で、無垢で、誰より正しい彼だから——そう、提案してしまうことも、極自然的なプログラムの一環に過ぎないのであった。

《Campanella》
 言葉の足りない問いの中身を推察して答えるディアに対し、カンパネラは変わらず眉をひそめていた。この人は何を言っているのだろう。彼女の本が散らばっている? お披露目で死んだドールの創作物をさっさと処分しないのは何故? 彼女の本は二冊だけではなかったのか……?
 ノースとサウスがあるのならば、イーストとウエストもあるのではないかというディアの考察に、カンパネラはびくりと肩を震わせた。それは決して饒舌に物事を語らなかったが、確かに相手に違和感のようなものを感じ取らせる反応だ。ぱちぱちと瞬きが増え、落ち着かない様子を見せるカンパネラは、しかしディアの話を遮ることはなく。

「………………」

 直接。話を。
 そのターコイズは、ポラリスと呼ぶにはあまりにも近しく、蝋の翼を溶かしかねない熱を持っている。
 カンパネラは背中に氷を突っ込まれたような顔をして、汗を垂らした。ああ。突き付けられてしまう。何度も何度も夢に見るあの光景を、そうやって、現実で。
 口にしようか迷って、はく、と息を吸って、一度言葉を紡ごうとするのをやめて、静かに首を横に振った。

「……それは、む、無理かなって。その……わ、わたしも、あなたも、……あの子とは、もう、話せない……です。……あの子は……」

 だってあの子は、とっくの昔に死んだから。言えない。提案を無理だと切り捨てるだけ切り捨てて、その理由をはっきりとは語れない。
 だって、そんなことを口に出したら、あれが現実になってしまう!

「……お披露目に、行って、しまったから……」

 そうやって、この舞台に優しい夢を見ていた頃の美しいヴェールを、事実に被せて届ける。繭も柔らかくて脆いそれを、ディアは剥ぐだろうか。

「教えてくれてありがとう、カンパネラ!」

 愛しきカンパネラの異常な反応。希望の導としていた子が、もう死んでいるという事実。葛藤。困惑。絶望。脆く、弱く、手を触れれば簡単に破けてしまいそうな繭を——ディアは何も聞かず、そっと抱きしめた。聞かないのか、と不思議に思うかもしれない。繭を剥ぎ、暴き、白日の下へ晒さんのかと。

「——耳を傾けて欲しいのなら、キミの美しき囀りのために舌を切ろう。夢の話がしたいのなら、キミの海のために耳を切ろう。Please  Please Bless You……私の呼吸は、キミのためだけにある。キミは、どうしたい?」

 簡単なことだった。ディアは、目の前の恋人の望みのためだけに存在するのだから。彼は、優しいのだ。正しいのだ。愛のために生きているのだ。貴方が一度死ねと言えば、彼は何をするかわからない。そんな得体の知れない、底知れない愛の蟲が、待っている。ただ甘やかに、泣きたくなるほど優しい言葉が。こちらを、飲み込まんと。
 ディアの呼吸は、新しい紙と、ペンの香りがした。きっともう、戻れない。戻らない。戻りたくもない。——太陽の香りだ。

《Campanella》
 ……お披露目に行ったから。その言葉が何を指すのか、ディアは知っているはずだ。姉がソフィアやアストレアに聞いたところによると、彼は少なくともお披露目に未来がないことを、知っているはずだった。その絶望の光景を目の当たりにしているのだから。
 ああ。しかし彼は、声も目も淀ませることなく、感謝を述べてみせた。暴かれなかった繭は泥のようにカンパネラの身体に張り付き、声はその幼い少女を抱擁し、そして彼女からすっかり呼吸を奪う。いつかのブラザーやロゼットに向けた胡乱な目が、ちかちかと不気味にひかっている。

「……………………」

 ああ、心がぐちゃぐちゃにされる。心臓を掻き回されている。カンパネラは誰も信じることができないし、縋れない。自分にそんな価値はないから。しかしディアは魔法みたいな力を持っている。どんな人物も彼に許される限り寄りかかるだろう。彼に許しの言葉を与えられたなら。例え、寄りかかりたくなくたって。
 私の呼吸は、キミのためだけにある。何度口ずさまれた言葉であろうか。

 カンパネラは、そのちいさな顔を両手で覆う。黙っていた。何を言ったらいいのかわからなかった。求めるのが怖かった。

「………わたしは。……ただ、……償いを……。……シャーロットに……グレゴリーに………」

 ようやっと絞り出した声は極小である。どうしたいか。償いたい。あの沈んだ太陽に、懐かしい旋律と夕暮れに。では、カンパネラはディアに何を求めたらいい?

「……わたしの、本を………」

 言いかけて、声はすぼんだ。明確に、言おうとしてやめたのだと分かるだろう。

「カンパネラ」

 リン、と辺りに響いたのは、強く美しい声だった。脆く震えた声だった。愚直で優しい声だった。キミが名前を呼んで欲しいのは、私ではないのかも知れない。でも、それでも、キミがキミを見失わぬように! どうかこの手を取って、カンパネラ。

「どうか、キミ一人で抱え込まないで。キミは一人じゃない、ミズ・シャーロットがいて、グレゴリー君がいて、オミクロンの子たちがいて、私がいる。頼りないかも知れないけれど、キミの望みのために、どうかこの身を尽くすと誓わせて。私たちは対等だ、平等だ、同じ星に立つ仲間だ。キミが私に与えてくれる幸福に報いたい。キミのためにありたい。どうか、キミの世界を教えて。キミの全てを愛させて。キミを、望ませてほしい」

 それは、切なる願いであった。カンパネラは、望みたいと望んでいる。手の伸ばし方が、筋肉が収縮する感覚が、呼吸の仕方が、わからなくてもがいている。キミと同じ場所に立ちたい。キミと同じ世界を見たい。キミの隣で生きていたい! この溢れて溢れてたまらない感情を、どう囁けばいい! きっとこの膨れ上がった感情の一割も、キミに伝えられていない。もどかしくて、求め方がわからなくて、もがいているのは私も同じだ。好きだ、大好きだ、愛してる!
 ——ただ、キミに幸せになって欲しいだけ。

「……おねがい、カンパネラ」

 Bless you.

《Campanella》
 誘惑と呼ぶには、それはあまりに純粋で、切実である。涙が出るほどに美しい草原を太陽が照らしている光景が浮かぶような。
 それはおそらく愛である。
 ディアの、カンパネラへの、愛。まっさらな翼で撫でてやるような愛。さあ望みを差し出せと、それを必ず叶えようと、その溢れんばかりの愛に基づく献身を示すディアはやはり、世界の恋人と名乗るに相応しいのだろう。

「………ちがう」

 それを拒んでしまうのは、きっと、カンパネラがひねくれているからだ。

「わた、わたしは、ひとりなんです。言ったでしょう、シャーロットは、お披露目に行って……グレゴリーもきっと……もう、どっちもいない。」

 いないことが苦しい。こんなこと口に出したくなかった。それでも言葉にしたのは、どうしてだろうか。
 キミは一人じゃない。ミズ・シャーロットがいて、グレゴリー君がいて。そんな、何も知らないはずなのに、なんとも綺麗で現実に反したことを堂々と断言するようなディアの声に、いま、自分が抱えた感情は、なんだと言うのか。

「そ、それに。わたし……ふたりのこと、た、大切な友達、だったのに、わ、忘れて、忘れて生きてきた……ひ、ひどい子で、それは、それは罪で。だから、償わなくちゃいけなくて、わ、わたしなんかが、誰かに、あなたに、寄り添ってもらうなんて、そんな権利、な、ない、絶対にないから、だからごめ、ごめんなさい、ご、ごめんなさ……」

 青白い顔でぼろぼろと泣く、カンパネラは何に照らされたとて変わらない。宝石のような涙が、いつからか頬を伝っていた。祝福に包まれることを、恐れていた。

「カンパネラは優しいね。頑張って、頑張って、愛した人を愛してくれる。……何も知らないくせに、って思う? ほんと、カッコ悪いね、私。カッコつけたくせに、カンパネラのこと、怖がらせちゃって……ああもう、ほんと、情けない」

 ぐしゃり、と長い前髪をかき上げて、ディアは形のいい眉を顰めた。自分の不甲斐なさが悔しくて、美しいかんばせを歪ませた。瞳の海に嵐を呼んで、薄い唇を噛み締めた。——信じられないことに、怒っていたのだ。

「キミの苦痛はわからない、抱えてきた葛藤も、記憶も、心も。踏み込もうとしてごめんね、でも、どうか覚えていて。
 キミの過去がわからなくても、キミの現在はわかる。キミがたくさん悩んでくれて、歩み寄ろうとしてくれて、愛そうとしてくれて、私はそんなキミが、とっても大好きなんだってこと。そして、キミの未来も知ってみたい。知りたいんだ、キミの全てが。キミが愛した全てが。過去も、今も、未来も、カンパネラが、永遠に大好きだから」

 ふう、と息を吐いて、静かに話し出す。コアの中で暴れるそれを抑えるような、燃えるようなそれを、きっとカンパネラは知っている。手放したい、破裂してしまう前に。されど、手放せない。きっと、誰もがわかっている。
 ふ、とディアの瞳がカンパネラを捉えた。それだけで、笑みが溢れて止まらない。幸福で、幸福で、たまらない。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓。脆くて柔い風船でさえも、コアには愛が溢れている!

「ねえ、私、本当に嬉しいの! ありがとうっ、カンパネラ! キミが覚えていてくれたから、知っていてくれたから、愛してくれたから! 私は、あの子に会える! 覚えていられる、愛せる、生かしていける! 彼女の生きた軌跡が、キミの鼓動の中にあってよかった! 好きだよ、愛してる、キミのおかげだ! 思い出せなくても、忘れないでいてくれてありがとう!」

 傷一つないマガイモノが、彼女の鼓動を抱きしめる。伏せられた長い睫毛を伝って、宝石が落ちる。熱い鼓動を伴うそれは、柔い肌に染み付いて。ずっとずっと、知りたかった。愛したかった。その心臓に触れたかった。ディアの深い深い愛が、霧雨のように優しく降り注ぐ。全てを許すような優しい響きは、真実の光を放っている。
 もしかしたら、ミズ・シャーロットは外の世界にいる大人かもしれない。私たちに、協力してくれるかもしれない。そんな切なる希望が一つ絶たれたことへの失望など、ディアの鼓動にはなかった。
 ディアにとって、知とは愛。ただ、嬉しかった。幸福だった。見ず知らずの他人のことが、ディアはこんなにも嬉しくて愛しい! ——彼は幸福だった。

「先生がね、お披露目に行ったら、ミズ・シャーロットのことを教えてくれるって言ったの。私、それを跳ね返しちゃったの。先生と、私たちの輝かしい望みのために。
 でもそっかあ……きっとそれって、とっても幸せなことかもしれないね? もっと知りたい、愛したい、口に出す日が来るかな? ——【お披露目に選ばれることになったの】なんて」

 青い炎をこぼしながら、ディアはいっとう美しく笑った。その希望に満ちた輝きはまるで、まるで、あの、太陽。

《Campanella》
 脳がぐらぐら揺れていた。ずっとずっと。視界がちかちかした。何も言えないまま、彼の声を聞いていた。このひとは、さっきから、なんという顔で、なんということを、言うのだろうか。
 どうしてわたしはこんなにも不幸なのに、このひとは心底幸せだという顔をするのだろう。
 先ほど引っ込んだばかりの情動が、再び顔を出す。最近こういうことは多かった。しかし、こんな、こんな風には。

「─────」

 そして。
 ───思い出すのは、悪戯っぽく笑う彼女の、薔薇色の頬だった。
 朝だった。先生がその事実を広く周知するその前に、少女たちのベッドで目覚めたそのとき、なんでもないことを言うかのように、シャーロットは言った。
 心底嬉しそうに。とても幸せそうに。無邪気に、何の憂いもなく、シャーロットは笑っていた。
 ……あなたが幸せなら、それでいい。彼女がこの学園を出ていくことで、わたしの幸福がいくら薄まろうとも。わたしが不幸になったとしても。いいよ。全然。大丈夫。
 わたしは、彼女にやって来る明るい未来のことを、疑っていなかった。


「やめてよ」

 少女の悲鳴はどこに宛てられたものだろうか。彼女自身にももはや分からない。頭をぐしゃぐしゃに乱して、前も後ろも、上も下も、カンパネラは見失い泣いていた。

「どうして、どうして、そんなこと言うの、……なんでよ。……嫌、ちがう、そんな。……うう、うあぁ、あ……ああぁ………」

 悲劇のヒロインみたいにさめざめと頬を濡らして、やがてカンパネラはその場に崩れ落ちているだろう。しかしそれは、悲しみの発露とはとても呼べない。ぎりぎりと己の手のひらに爪を食い込ませ、荒い呼吸は熱を持ち、目は砂嵐のようにざらついている。
 カンパネラは自分のことを、迷子みたいだと思った。
 ディアの目には、彼女はどう写っただろうか。

「カンパネラ、もしかして——怒っているの?
 怒りに身を焦がして、罪を求めて、生き急いで、死に急いで。どうして?」

 それは、純なる疑問。それは、残酷な洞察。それは、ディア・トイボックスというプログラム。
 ディアは、正しく完全無欠。誰かのために泣ける弱さも、愚直に惑う情けなさも、残酷なまでの愚かしさも、彼の強さの象徴である。彼の涙は、怒りは、戸惑いは美しい。全てが、愛のためにあるからだ。何も間違っていない。全てが正しい。それが、どんなに間違ったことか。
 おまえのこころはどこにある。いいえ、きっとない。ディアは、望まれたことを囁くだけの機械であったから。ディアの光は、優しさは、正の走行性。それが希望に向かう言葉であれど、絶望に向かう言葉であれど、あまりに強い正義の前に、引きずられる以外に選択はない。ここにはずっと、何かを選べる自由なんてなかった。それは、彼も同じ。恋人という使命から、彼は死んでも逃がれられない。恋人として生きようと思ったことなどない、憧れたことも、演じたことも。だって、彼は生まれた時から“それ”だった。

 ——ああ、なんて無邪気。なんて博愛。なんて、哀れ!

 恋人として、愛しき夢を守りたい。だから、怒りを理解しない。恋人として、ずっと愛し続けていたい。だから、怒りを理解する。恋人として、ディアは全てに尽くし続ける。怒らせちゃった時は、理由を聞いて、全部聞いて、奥の奥まで全部知って、食んで、噛み砕いて、全部、全部、飲み込んで。ごめんなさい。教えてもらったんだ、私を造った人に。愛しい恋人が望むように、振る舞い続ける。あの人が望んだように。それが、私。ディア・トイボックス。元トゥリアモデルのプリマドール。本当の人形。
 アティスには、すぐごめんなさいってしちゃったから。今度、また謝らないと。たくさんたくさん話をして、もっともっと心に触れて、アティスの望みを叶えるのだ。——この間は、少ししかお話できなかったものね?
 ごく自然的に不自然で、醜いくらいに美しい。その残酷なまでに優しい行為そのものが、心を突き刺す剣となるのに。

《Campanella》
「ッ、」

 びく、とカンパネラの華奢な身体が震えて、固まった。自身の肩を抱いたまま、見開かれた目にころりと宝石の涙が落ちて。
 ……暴かれた、なんて気分になるのは、どうしてだろう。

「…………おこ、って、る?」

 パントリーでミュゲイアに写真を見られたときのことを思い出していた。『どうしてカンパネラは怒るの?』と、彼女は言った。

 かつて、誇り高きプリマドールの冠を戴いたトゥリアドール。その深き、おぞましいほどに深き愛がゆえに、“欠けているもの”としてオミクロンに墜ちてきた、彼の目に。決して能力に欠けた訳ではない、洞察力に優れた彼の目に。
 カンパネラは、怒っているのだと。そう写ったらしいということは、彼女に強い衝撃を与えたようだ。

「…………どうして、なんて。……分かんない、ですよ………。お、おこってるとか、そんなの、……死に急いで、なんか………」

 わたしは、怒っている?
 カンパネラは戸惑っている。彼女は生まれてこのかた、まともに怒った覚えがなかった。ゆえに、彼女は自身の怒りを、認識できていなかった。
 それが、唐突に言葉に起こされてしまった。

「……もう、わけ、わかんないよぉ………」

 泣き言をこぼす。まともに、ディアのことを見上げられない。

「どうして、キミの怒りに、衝動に、自ら名前をつけて呪いをかけるの? キミのそれは、償いでも、罪でもなく、ただの自己満足でしょう。どうして立ち向かいながら逃げているの? どうしてキミが、他でもないキミが! キミの感情に見て見ぬふりをするの? キミには大切な人がいても、あの子にはキミしかいないのに! ずっとずっと、それだけなのに! ——わからないよ、ねえ、教えてよ。

 お姉さまがいなくても大丈夫になる日が、お姉さまがいらなくなる日が、キミには来るの?」

 ——どうしてだろう。もういなくなってしまったミズ・シャーロットより、海の向こうの未来より、目の前のカンパネラの怒りが、こんなにも遠い。ねえ、カンパネラ。ねえ、お姉さま。希望に殺されていくいのち。キミがキミを馬鹿にする時、キミを愛する私もまた、一緒くたにして馬鹿にしている。そういうキミの優しさが、また好きだった。誰かを傷つけてしまうのも、自らを卑下してしまうのも、全部、全部、愛おしいのに。
 できないことが、罪? できるようにすることが、償い? 許せないのは、許されないこと?

 下手だから? してもらっている? ひどい子だから、償わなくちゃ?

 カンパネラも、エトワールも、ロゼットも、わからないことだらけだ。

 ——知らなくてはならない。私は恋人、キミたちの望みを叶えるためだけに存在する。

 全部ダメでも、ダメじゃないよ。間違ってても、間違ってないよ。特別なものがなくても、何もできなくても、全部素敵だよ。キミの体が冷たいのは、この何処かに跳ねていってしまいそうなほどにときめく鼓動を鎮めてくれるため。キミの鼓動に棘があるのは、抱きしめ合う暖かさを教えてくれるため。キミが生まれてきたのは、皆を喜ばせるため。
 なのに、なんで? どうして? ねえ、そんなのって全然知らない。わからないよ。なんで? どうして? 知りたい、知りたい、知りたい! ねえ、教えてよ、カンパネラ。そしてどうか愛させて。キミの強さが育つ度、ひび割れていく愛しき植木鉢のことを。
 ——ディアは、全てを答えたのに。全てを知らせ、全てを愛したのに。ディアの美しい手を振り払ったのは、浅ましく、ひねくれた、かわいいかわいいカンパネラに違いなかったのだ。

 三国岳の麓の里に、暮六つの鐘きこゆ

「……して」

「……うして?」

「——どうして、ダメなのはダメなの!」

 ——幕を開く。

《Campanella》
 ディアの言葉を聞いていた、カンパネラはずっとしゃくり上げていた。呪い? 自己満足? 見て見ぬふり?
 ディアは、カンパネラを決して責めていない。だからこそ彼女は、ディア・トイボックスというドールがなんなのか、分からなかった。
 ああ、これは、欠陥品だ。まごうことなきオミクロンだ。傷付けようとして傷付けることは誰にでもできるけれど、彼はそういう感じじゃない。別に傷付けようとなんてしていないんだ。だから、いつも何かにつけて勝手に傷付いているカンパネラは、彼とは絶対に手を繋げないのだろう。
 そうやってまた勝手に絶望に沈むカンパネラに、頬を叩かれたような衝撃を与えたのは、するすると続けられた、ディアの言葉だ。


「───滅多なことを、言わないでくださる」

 そうやって顔を上げた、少女の目は閉ざされている。しかし、誰が見てもそう思うはずだ。“彼女”は、姉なるものは、ディアのことを睨んでいる。

「……シャーロット様やグレゴリー様についての情報が必要でしたら、私からお伝えしましょう。」

 これ以上妹とは話させない、と。ひどく遠回しに、姉なるものは告げた。指揮棒のように立って相対する彼女は、静かな怒りをたたえながら、ディアを責めるような真似はしない。ただじっと圧をかけるように、その場に美しく立ってみせるのみである。

「ミズ・シャーロットのことが知りたい、グレゴリーくんのことが知りたい、世界が知りたい。ミズ・シャーロットのことを愛したい、グレゴリーくんのことを愛したい、世界を愛したい。——でも、もういいよ」

 ディアは、泣いていた。

「カンパネラの望みを、叶えたかっただけなんだ……私とキミは、同じだからね。愛する子の望みを叶えることを、第一に考えてほしい。それが、キミの望みだから」

 ドールに、世界の恋人に、ディア・トイボックスに、自我など必要ない。ただ、望まれた言葉を紡ぐだけ。望まれた体温で抱きしめるだけ。キミと、お姉さまと、同じ。私たちは、望みのために生き続ける。手放されても、破裂しても、死んでも、私たちは私たちであり続けるのだ。——ディアは、幸福だった。

「……ねえ、キミが好きだよ。世界を守りたい理由なんて、全てを知りたい理由なんて、存在する理由なんて、それだけでいい……キミだけがいい。——私は愚かかな、お姉さま」

 幼く、細く、小さな手のひらで、涙を拭った。カンパネラの涙を。葛藤を。記憶を。心を。
 美しい夜を濡らしていた、キミの生きた証だった、もう届かなくなってしまった。それでもだった。

 自らの涙も。マガイモノの涙も。残酷なまでに美しい涙も。真実の愛もそのままに、ディアは絞り出すように囁いた。

「愚かでいい、哀れでいい、不自由でいい、どうか、あの子を守ってあげてくれ……大事な子なんだ」

 ——それだけが、ディアの望みだった。

《Campanella》
「………左様で。」

 冷たくも暖かくもない声で返す。切実に涙するディアを、姉なるものは閉じた瞼の向こうで、どんな風に見つめただろう。仮面じみたポーカーフェイスは、情報提供を提案する声と共に降りてきて、それ以上揺らぐようなことはなかった。ディアの美しい指が彼女の濡れたままの頬を拭ってもなお。
 愚かだろうかという問いかけにすら、姉なるものは答えない。それを談ずるべきは自分ではないと知っていた。
 守ってあげてくれ、なんて。彼女を守る以外に、自分の存在する意味などないのに。

「……貴方様は」

 そんな彼女が口を開いたのは、単なる気紛れなのか、なんなのか。
 私とキミは同じ。その言葉に、姉なるものは反論しなかった。愛するもののために生まれ、愛するものの望みを叶えるために動く、ふたりは確かに似ているように思える。
 ならば、彼は。

「誰に望まれて、貴方様は生まれてきたのだとお思いなのですか?」

「ん……私はね、いらなくなりたいんだ。世界中の全てが、もう何も望まなくていいくらい、幸福になればいい。証明したい、私の愛した世界は、私がいなくとも美しいと。そのために、私はいくらだって命を賭ける。このコアに誓って、そう望む。私の望みもね……諦めたくない。愛しているんだ。ディア・トイボックスという存在が、ディア・トイボックスの望みの妨げになるのなら——

 ——このコアを潰して死んでやる!」

 涙を拭うこともしないまま、ディアは可愛らしく笑った。涙を、笑みを、愛を、全てを諦めたくなかった。望まれたいと望んだことなど、一度もなかった。ただ、望みたいと望んでいた。望まれる愛は愛おしくて、望まれない愛も可愛らしくて、世界は今日も美しい。明日も、明後日も、一年後も、千億年後も、私という概念が眠りについても、美しい。ただ、静かだった。小さな手を胸に当てる。今にも、指が肌を突き破る。心臓を潰す。血が流れる。この世から、一体のドールがいなくなる。そんな想像をする。されど、そのコアは恐ろしいほど凪いでいる。静かな静かな、無償の愛だった。

「ねえ、キミになら聞いてもいいかな。どうして、どうして、ダメなのは………いいえ、やめにしよう。本当は、本当にお聞きしたいのは、これだけさ、ずっとね——キミの、望みは?」

 カンパネラも、お姉さまも、ミズ・シャーロットも、グレゴリーくんも、今日もとっても美しい。世界は変わらず美しい。明日も、明後日も、虹の彼方のその先も。いつも、問われるばかり。ディアが、本当に知りたいことは。皆の望みを、叶えたいという望みは。いつも、誰にも答えてもらえないままだった。それでいい。それがいい。言葉がない。頭がない。力がない。されど、愛がある。
 ——ディア・トイボックスは、幸福だった。

《Campanella》
 自分が、誰に望まれて生まれたと思うか。その答えは、はぐらかされた、のだろうか。誰かに望まれて生まれてきたという根本的な仮説を否定されたのか?まったく、ディア・トイボックスは姉なるものの理解の及ばないドールであった。

 いらなくなりたい。
 それは、『死にたい』とか『消えたい』みたいな言葉に似ているようでまるで違う。それは切なる願いであり、文字通り本当の望みなのだろう。それを叶えるためならば己を殺す。狂気じみてすらいる言葉を、可愛らしく笑う幼子の姿のドールが、夢でも語るかのように言い放ってみせる。
 率直に、歪だ、と感じる。泣きながら自死願望を語るよりずっと。

「私の望みでございますか?」

 その前に途切れた問いに対しても、姉なるものは耳を傾けていた。それはおそらく、先程妹に対して放たれ──人格交代により意図的にシャットアウトされたが──問いと同じものなのだろう。
 “ダメなのはダメ”。それが分からないと。ゆえに彼は特異であるのか、特異であるがゆえに分からないのか…。と、それ以上は発展しないであろう考察をしながら、姉なるものはそれに続いた質問に対し返答する。

「それならばとうに決まっています。私の望みはただ一つ。妹が、幸福になることでございます。これ以上に望むことなど、私にはございません。」

 姉なるものは、妹の幸福のために生まれた存在だ。その望みは彼女の象徴であり、何があろうとも揺らぐことはない。だからこそ返答も素早かった。迷う必要も考える必要もなかったのである。

「それが聞けてよかった。キミたちは優しい子だね……ミズ・シャーロットとグレゴリーくんに、よろしく言っておいておくれ。カンパネラと、カンパネラの鼓動に棲む全てのものに」

 ディアの鼓動には、一体どれだけの概念が棲んでいるのだろう。全てと交わした言葉を憶え、声を憶え、愛を憶え、ただ、抱きしめて生きている。この地球という星が誕生し、何十、何百、何千兆と死んでいった全て。その全てを、ディアは愛し続けている。死も、怒りも、後悔も、ディアの光の前ではただの美談、ただのキス、ただの愛でしかない。これから何十億年先も、もっとずっとキミたちが好きだ。それは、美徳のように語られる愛。ページの向こうの愛の国で、何兆回と誓われた愛。何より不気味で、悍ましくて、妬ましいほどに眩しい愛。万物を与えられ、万物を奪われ、今この瞬間も、愛しい子がキミの呼吸に殺されている。それすらも、愛す。恋人を奪われてきた回数で、ディアに勝てる者など世界中探したっていやしない。

「ひどい子だろうが、出来損ないだろうが、美しい髪が焼け焦げていようが、コアが鼓動を止めていようが、笑えなかろうが、泣けなかろうが、心から、永遠に愛することを誓うと! どうか皆の行く先に、幸多からんことを!」

 ディアの言葉は、シャーロットの剥がれ落ちた、今も昔もこれからも、ずっと美しい腕へと姿を変える。姉なる彼女に許されなかった、カンパネラの体温に、心に、鼓動に抱きついて。早鐘の心臓に、柔らかい胸に無邪気なキスを落とした。
 R.I.P.の唇。愛の炎が燃え上がる。皆を愛する太陽が、キミを燃やし尽くすまで。——いや、燃やし尽くしても。

《Campanella》
「……ええ。」

 社交辞令のような返事だった。故人にどうよろしく言えというのか。
 ディアにとっては、生きているものも死んでいるものも、大して変わらないのだろう。生きていても、死んでいても、愛おしいことには変わりなく。彼はどんなものにも、恋人として寄り添ってみせる。
 しかし少なくとも姉なるものにとって、ひいてはカンパネラにとって、生者と死者は明確に異なるのだ。
 死者に愛を囁くことは確かにできるだろう。でも、どんなに愛していても、死者からの返事は来ない。どんなに想っても、もう話すことはできない。大好きで大好きで、会いたくて堪らなくて、いないことが悲しくて、傍にいてほしくて。
 それでも会えないのが、死者というもの。既に失われ、もう二度と戻らない。いくら抱き締めたって、彼らは抱き締め返してはくれないのだ。抱き締め返すことが、できないのだ。

 ディアの愛は、対価を求めない。だから平気なのかもしれない。しかし“カンパネラ”の愛は、決して、無償の愛なんかではない。
 彼らを隔てるものは、そういう違いにあるのかもしれない。

「…………」

 心臓に唇が落ちる。その光景を、姉なるものは、何かの呪術を見るかのようにして見下ろしていた。
 顔を青ざめて嘔吐く、などという反応はせず、しかし喜びに頬を赤らめることもなく、子供の戯れに付き合うような顔だ。
 ディアの言葉はぜんぶ本心なのだろう。なのに、それは金の額縁で囲われた、絵画のようなかたちをしている。

 姉なるものは。
 姉なるものは、許さない。妹を燃やし尽くす存在は、何であろうとも許さない。彼女の手が届く範囲で、少女は妹を守るのだ。彼女の望みを叶えるためなら姉なるものはなんでもする。
 いつか、この恋人のことを冷たく見放すこともあるかもしれない。
 ……そして、姉なるものは認めない。妹が認めたくないものを、彼女は決して認めない。

 カンパネラにとっての、『太陽』───それは、あの大海の瞳の少女以外、絶対になり得ないのだと。

「声を聞きたくないのなら、私の喉に棲む小鳥を捧ごう。触れてほしくないのなら、私の爪先に棲む桜を散らそう。生きていてほしくないのなら、キスで殺して」

 揺蕩う。唇を離す。回る。踊る。笑う。キミはいつまでだって、変わらず美しいままだ。かわいい、かわいい、傀儡のままだ。愛しい愛しい、恋人のままだ。ああ、なんという幸福! 心臓がはじけてしまいそうで、きゅう、と肩を抱く。ふわり、とカーディガンが揺れて。甘い、甘いミルクの香りが、あたりを満たしていた。ああ、本当に、幸福だ……ねえ、だって。

「ふふっ、キミたちにはもう、私なんていらないみたい!」

 ここからいなくなって欲しい、そう、一言口にするだけで。ディアはまたね、と甘やかに囁いて、スキップしながら恋人の下へと消えていくだろう。もし、死んでくれ、と、一度、望んでしまったら。——その後のことは、考えたくもない。

《Campanella》
 姉なるものは、口付けない。小鳥を受けとることも、桜を食むこともない。今、それは全て必要のないことだからだ。だって妹はそれを望まないのだから。彼女は全てが怖くとも、全て滅びよとは願わない少女なのだから。
 それはわたしが臆病だからだと、カンパネラはいつも言う。姉なるものはそれを、貴女の優しさだと言い続ける。
 愛ゆえに。

「……では、ご機嫌よう。」

 ディアの言葉を肯定も否定もせずに、そっと大河へと流してしまうように。美しいカーテシーをして、姉なるものはどこかへと立ち去るだろう。授業までにはまだ時間があるはずだ。妹はしばらく出てこないだろう、今のうちに自分が探し物を進めておいた方が良い。
 ノースエンドを読み、少年の声を聞いたときから、カンパネラがずっと探しているもの。シャーロットのことを調べているらしいというディアの口からはついぞ聞けなかった。ああ、もっと、探さなければならない。どこにあるのかも、残っているのかも分からない、しかし、きっとそれはカンパネラにとって、ものすごく大切な品なのだから。

 甘やかなミルクの香りは、もう彼女の嗅覚を支配していなかった。

【学生寮2F 少年たちの部屋】

Storm
Dear

《Storm》
 ストームは寝室に居た。棺が並び一見不穏な空間とも思える場所。だがストームを始めとするトイボックスのドール達は造られた時から見ていた光景で、日常に溶け込んだ景色だろう。カーテンを押し上げる風によって太陽の光が直接部屋に差し込む。今朝の起床して第一に聞いたのは臨時の先生であるジゼル先生の声だったが、ストームにその記憶はまるで無かった。
 今朝はディアの唄声に誘われるように起きディアから魔法の言葉を掛けてもらったから。特段特別でもなんでもない“おはよう”の一言を。ストームにとってディアからの言葉は全て魔法そのもの。それはまるでピンクの塗料を舌の上に乗せられたような甘み苦みを孕んだ魔法。柔らかく頭の中を浮かせたかと思えば重たく殴り付けるようで、麻薬その物。今朝もストームのコアの中にディアの()が沈殿していった事件現場であった。

 今朝のことを思い出しながらストームは胸元に触れる。ディアに溺れたあの日にストームのコアは既に犯されている。あのターコイズの輝きに。あの薄紅色の雲のような髪に。すっかり犯されてラリってトんで、ディアの強すぎる愛をまた欲する。ディアに満たされディアに飢える。その繰り返し。どれほど些細な言葉でも行動でも、ストームはディアに心酔出来た。
 枯れることの無い無慈悲な愛に思いを寄せストームはほろ酔う。
 ───壊したい……。
 ディアの棺の縁を撫でる。あの小さくて可愛くてトイボックスの中でも郡を抜いた美しいドールは今朝もここで目覚め、今夜もここで眠る事だろう。それはずっとずっと続く。ディアがお披露目に出されるであろうその日まで……。
 いやそんな日は来ない。来てはならない。
 もしその日を迎えることになってしまえばストームは迷わずディアを破壊する事だろう。そして宙に浮いてしまった約束は消え失せ猟奇犯が解き放たれる事になる。
 今は悪夢について考える事を辞めよう。ストームはそんなこと微塵も考えていないのだから。彼はディアの棺に身を寄せうっとりと顔を歪ませている。

「お慕い申しております……」

 彼の居ぬ棺に唇を落とす。歪んだ純愛を抱くストームに出来ることはこの程度だった。ストームはただの博愛中毒患者でディアは博愛者。これ以上なんて烏滸がましい。出来たとしてもせいぜい抱き締められた時に抱き返す程度だろう。
 熱を持ってゆく身体に高揚してゆく気分に溺れた。熱い息が漏れる。ストームの頭の中はディアのことで埋め尽くされている。

 ギィ、小さく鳴った床の音がストームの耳に入った。よく聞こえるテーセラの耳、誰が鳴らしたかは当然のように理解っていた。
 彼だ。
 ストームはすぐさま立ち上がり制服を叩いて埃を払い髪を整えた。全てを完璧に。彼の前では自身の一番の姿で居たいらしい。
 じゃらり、じゃらり……鎖のぶつかる音がストームには聞こえる。真っ直ぐストームの首に繋がれた鎖の音だ。音は猟奇犯を容易く犬にさせる。
 犬は従順に瞳を潤ませて彼を待った。

「ここでお会い出来ると思っておりました」

「ご機嫌よう、ストーム! ……んふふ、飢えた顔」

 まるで運命に手を引かれたかのように、ディアは現れた。呼ばれていた。自分はここだと、早くここまで堕ちてくれと、涎を垂らし、低く唸る獣の声に。重苦しい執着に、欲に、愛に、小さな器を狙われても尚。ディアはくすくす笑って、ストームの胸へと飛び込んでいく。そっと小さな耳を当て、愛おしそうに囁いた。

「……どきどきしているね、かわいい」

 麻薬であった。ディアの肌は暖かく、脆く、柔く、甘いミルクの香りがした。ディアの瞳は、ストームだけを映している……ような感覚にさせる。その大きな瞳は、ストームを含めた世界の全てを映しているに過ぎないのに。そう、錯覚させる。魔法がある。——あの日と、同じ。一度、力を入れれば。簡単に、壊れてしまう。殺せてしまう。脆くてかわいい命もどき。ディア・トイボックスという輝き全てが、キミを魅了する。さあ、望んで。

「——ねえ、約束しようか」

《Storm》
 表情を指摘されるとストームはちぐはぐで大きな瞳を見開き、すぐに伏せた。はしたない、と自戒しているのだろう。
 可愛らしい笑い声と共に伏せた瞳の中飛び込んでくるディアは相変わらず眩しくて焼ききれてしまうほどの輝きを放っている。猟奇犯がどれだけ凶悪かも飢えているかも意に介してない様子。むしろその欲ですらコントロールされてしまうのではないか、と思う程の強い輝きであった。

 腕の中に世界一の輝きが舞い込んできたストームは潰さぬように唯一無二の宝石を包み込んだ。

 甘いミルクの香りがストームを襲う。柔らかな身体は暖かく惹かれてどうしようもない。トゥリアモデルの頂点に君臨していた彼の身体は正しく完璧だった。当然コアの脈動はテンポをあげるし、ストームの頭の中は薄紅色の愛の色で一色になる。浮遊感と、快感と、危険信号が同時に膨れ上がって爆発した。
 ディアのように染まらぬ頬を微かに上げ、目を細める。

「かわいいだなんて……身に余るお言葉です。
 鼓動が早いのは貴方様にお会いし、こうして触れているからですよ」

 ディアのターコイズの中にストームが、ストームだけが映る。けれどきっとディアはストームなんか見えていない。視界に入れているであろうが、ただそれだけ。ぼんやりとしか彼を見ていない。
 そして、愚かな事にディアの掛ける魔法にまんまと錯覚を見せられているドールがここに一人。
 なんて愚かな子。彼はきっとその催眠から目覚める事は出来ない。どっぷりハマってどうしようもない。
 ──それはあの日と同じ、あの日から完璧にかけられた永久に続く呪いのようであった。
 ストームは望む。強く、強く、強くディアを。貴方を。
 だが襲い掛かりはしなかった。
 腹を鳴らし涎を流して瞳が据わる程になろうと“約束(stay)”の言葉には逆らう事なんて出来ないから。

「何をお望みですか? my host」

「ふふ、かわいい! ほら、これでわかる? 誰より特別なキミに出会えて、私、とっても熱いの……おそろいだね」

 こつん、とおでこを合わせ、甘い声で囁きかける。無償の愛が詰まったムスク。焼きたてのアップルパイ。お父様の寝物語。もっと、もっと、もっと。精一杯に背伸びをし、腕の中を飛び越えて、それでもキミに会いに行く。キミは、私の奇跡だよ。愚かな子。可愛い子。愛しい愛しい私の子。さあ、望んで?瞳の海を、喉の小鳥を、柔い柔い唇を。可愛らしく、美しく、艶かしくも燃え盛るコアを。引きずられる。ディアという星の持つ引力に。地獄で煌めく輝きに。マガイモノの星空に。たとえ、鎖に首を絞められても。手を、伸ばしてしまうでしょう?

「ねえ、ストーム。私、美しい?」

《Storm》
 甘い、甘い、甘い、あまい、あまい……。
 もう既にディアに酔ってると言うのにさらに強いアルコールが注がれた。思考に陽炎が掛かる。触れた額から伝播する熱はマグマのように熱く一瞬で溶けてしまいそうだ。
 ストームは瞳孔を震わせこくりと喉を上下させた。
 煩い程瞳に訴え掛けてくる愛がコアを蝕むように満たしてゆく。喉が震える。
 これ見ようがしに欲しいだろ? と訴え掛けてくる瞳には逆らえるわけが無い。

 ──貴方様の甘さがもっと欲しい。

「世界一」

 背中を屈ませディアのシルクより柔らかな髪に指を通す。するりと撫でそのまま指先で項に触れた。少し力を入れれば折れてしまいそうな首がそこにある。

「ありがとう、私たちの紳士様。ふふ、ごめんなさい、返答はわかっていたから、言わなくてもよかったの。私は、今日も明日も変わらず美しいと、いつもキミは言ってくれるね。ありがとう、とっても嬉しいの。——でもね、それは違う。
 ああ、どうか髪をきちんとして、それからきものの泥を落して、鉄砲と弾丸なんて置いて、クリームを塗って、香水をつけて、塩を揉んで、きっとキミの皿の上で眠ろう。キミの夢を見て、キミの走馬灯を見て、キミの強き美しい牙で砕かれよう……ねえ、知らなかった? 明日の私はね、もっと、ずうっと……美しい、の」

 甘やかで、とろけてしまいそうなほどに優しい、生まれながらの強者の声に。

 ねえ、抗えないでしょう。ねえ、諦められないでしょう。飴玉のような瞳を食んで、甘いシルクの指を溶かし、その身全てを飲み込んだとしても。決してキミだけのものにならない太陽に、酔いしれたいでしょう。キミの強さ、キミの特別、キミの望み、全部、全部、愛しているから。わかるよ、わかるよ。——望む私を、望んでくれる。

 そっと、無防備に晒された首に牙を這わせる。

「……待て、できるね? 私だけのヤマネコくん」

 誰も傷つけないその牙は。脆く小さなその牙は。愛に溢れたその牙は。——砕かれてなるものかと、鬣を揺らし吠えている。

《Storm》
 ストームはよく理解している。
 明日のディアが今日の彼より、もっとずっと美しい事を。

 ディアは服を脱げだの猟銃を置けだの様々な注文をせずともストームの皿の上で終焉を迎えてくれる。扉の奥に自身の終焉が待っていると分っても尚、ディアは薄紅色の博愛でその美しいかんばせを綻ばせエンドロールを迎えるだろう。
 彼には助けてくれる犬なんか居ない。全てを愛し過ぎてしまった代償は大きい。愛し過ぎてしまったから、自然も犬も彼に罰を与えないだろうね。むしろ彼が森に留まることを歓迎するのように、ヤマネコに彼の身を献上する。
 そしてエンドロールを迎えてゆく……。

 
 グラグラとストームの欲望に語り掛けてくるディアの言葉は強いものであった。私はここだよ。さぁ手を伸ばして。
 耳を塞いだとしても頭に反響してしまう。頭に張り巡らされた回路が痺れて爆ぜているようだ。

 ストームは白く逞しさが目立つ首をディアに差し出した。全くの無意識で身体が調教されているように。

「……では注文を聞いてはくれませんか?」

 ストームはディアの手に指を絡めるだろう。そのままなんの抵抗もなしに絡めることが出来れば彼の人差し指をほんの軽く挟む程度に食むはずだ。鋭く尖った犬歯が少し大きめに開けられた口によって姿を覗かせる。
 伏せられた目を開けるのと同じタイミングで口を開けばそのまま彼の前に跪いた。


「ディア。生きてください。
 ジブンが貴方様を奪うその時まで変わらぬ姿で」

「いいこいいこ」

 ディアは、夢見ている。白磁の皿に横たわり、桜貝の手を伸ばし、くすくす笑って待っている。ねえ、ナイフとフォークだなんて使わないで。爪を。牙を。欲を。はらわたをぐしゃぐしゃに引き裂いて、唇の中の味を知って、こぼして、舐めて、心臓を潰して! その綺麗なかんばせを、愛と欲でぐちゃぐちゃに汚して! 理性だなんて捨て去って、私を望んで! 壊して、殺して、忘れないで! ——なんて、ね。

「この魂は、いつだってキミたちのために」

 くぷ、と濁った音と共に、ディアの指はストームの胃へと侵攻する。食われそうになっているのは、ディアの方なのに。皿の上で笑っているのは、間違いなくディアであるのに。今、この凶暴な猟奇犯の命を握っているのは、一人の美しい少年であると——そう、確信させた。

 ——ディア・トイボックスは、高潔である。全てを愛し、全てに愛され、ヤマネコに身を預けるなど、あってはならない。そんなものは、ディア・トイボックスではない。初めて知った。こんなにも、どうにもならない恋があるのだと。

 手に入れたいと叫ぶのに、手に入らないでくれと望んでいる。壊したいと望むのに、その瞬間を恐れている。ほら、今だって。私に流れる血の色の一つ、確かめてはくれないのね。

「……本当、キミほど私の望みに邪魔な子もいないね」

 いらなくなりたい。望み、望まれるために生まれたからこそ、誰にも名を呼ばれない日を。触れられない日を。愛されない日を。望まれない日を。それこそが、ディア・トイボックスというプログラムの最終目標。——キミの望みを、叶えてあげる。

「愛してるって意味さ」

 明日も、明後日も、十億年後も、変わらず、愛していると言ってあげる。

《Storm》
 ドクン。
 あぁ、毒されてく。
 甘いミルクの香りが誘う。おいで。おいでと。
 ストームはたちまちオーバードース状態に陥った。
 人工的なピンクの塗料が弾けてストームの食道を塗りつぶしていく。彼の瞳は決して洗い落とせない塗料で塗りつぶしにされた。今彼は、ディアに夢を“魅せられている”。

 ドレスコードもテーブルクロスも完璧だと言うのに、飢えた猛獣は鋭い牙と爪を携え、溢れ出る涎を皿に落とす。猛獣の大好物が彼を誘惑するように微笑んでいるから、ナイフもフォークも持たずにテーブルから払い落とした。そして猛獣はその自慢の爪で好物を引き裂き口に運ぶ。皿はもちろん、テーブルクロスも、猛獣のタキシードも、彼の口も何も透過しないピンクで汚れた。ひとくち喉を通してしまえば、猛獣のリミッターは外れた。
 我を忘れ、あられもなく、本能のまま、猛獣は好物を咀嚼する。
 すり潰す度ピンクが弾け、口にベッタリ張り付いた。
 皿まで舐めて猛獣は満足気に目を細めた。
 体の一部になったその瞬間まで感じ取れる。じゅわぁり……溶けた。
 溶けた瞬間、猛獣は大好物に食い尽くされた。
 猛獣の身を拘束する毒は、彼の自慢の牙や爪でさえも支配した。
 ロイコクロリディウムを喰らい尽くした猛獣は……。
 息絶えた──────────

 酷い夢だ。悪夢だ。
 ストームは顔を歪ませる。
 吐き気を催す甘さが張り付いて離れない。
 けれどずっと見ていたくて堪らない。
 無性にその夢に溺れていたい。
 だが無慈悲な博愛者はそうそう簡単に中毒者を高潮へ持っていかせなかった。
 “邪魔”。たった三文字がストームを枯渇にへ追い込む。ディアに貰った体温が一瞬にして消え失せた。甘い幻覚も幻聴も中毒者を見離す。身体を押し潰さんばかりの静寂が中毒者を襲う。
 視界には靄がかかり、ディアの存在を認識する事しか出来なかった。不気味なほど明るく冷たい光が見下ろす。

「ぁ、……ディ、ア?
 ジブンは……僕は、私は、オレは……必要、無いと?」


 ストームは震える声を抑えることが出来ない。ストームはアストレアのように言葉の裏を読み取ることが出来なければ、ソフィアのように可能性の先を見据えることも、リヒトのように“愛している”の言葉を無条件に信じる事も出来ない。
 ディアに見限られた。
 そう感じたんだろうね。
 呼吸はどんどん速さを増しストームは惨めに蹲った。喉の鳴る音が時折、寝室中に響き渡る。
 中毒者はいつもとは違う毒を与えられ発狂を起こしてしまった。

 はぁっ、と身体中の息を吐きストームの大柄な身体が収縮したその時。過呼吸は唐突に止まった。ゆらりと顔を俯けたまま立ち上がる。

 寝室にドールが二人。埃がキラキラと舞う。
 どこの部屋からか時計の針の刻む音が聞こえてくる。
 静寂がドールらを包む。包んでいた。




 猟奇犯が目覚めるまでは。



 

「は、ははは……。貴方様の愛は気持ちが悪い」

 蛇が喉に噛み付くようにストームの手はディアの細い首を掴んだ。いつものように壊れないように、苦しめないようにと扱う手つきではない。
 欲望のままに好物に手を伸ばす猛獣のように。それが毒だと分っていながら、喜んで掴む。
 ストームは心酔しきった瞳を細め、不気味な程口端をつり上げていた。

 ──ジブンが邪魔だと言うのなら、お望みどおり消えましょう。貴方様の後に。

「そうだね……きっと私、キミがいなくても生きていけるの。いらないの、ストームのこと」
 強く骨張った獣の牙が、ディアの細い細い首を掴む。幼い骨は悲鳴を上げて、ぎち、と歪な音を奏でていた。命の燃える音がする。脳が霞む。ぱち、ぱち、と視界がゆらめいて、ディアは熱い、熱い息を吐いた。苦しかったからではない。痛かったからでも、壊されてしまう恐怖故でもない。

 ——美しいと、思ってしまった。

 ご立派な理性をかなぐり捨て、ただ強大な本能のままに従う獣。その本能を抑え込んでいたのは、ストームの白く逞しい首を繋いでいたのは、紛れもないディアの言葉であった。約束。そのたった二文字だけが、この獰猛な猛獣を犬にしていたのだと、誰もが理解させられていた。その、ストームが。邪魔。その、たった二文字で。ディアの言葉で、こんなにも。どろり、とディアの瞳が溶けた。ショッキングピンクの囁きが、ストームの耳朶を犯す。瞳を犯す。コアを犯す。
 ねえ、今でいいの? 私たち、たとえ一緒になれたって。あの空に、真実に、食われてしまう。——おまえのあたまはどこにある?

「でもね、必要だから、キミと一緒にいるのじゃない。キミが、好きだから。大好きだから、共にいたい。望みを叶えたい。一緒に、幸せになりたい。ああ、ストーム、キミって子は、とっても邪魔で、感情的で、愚かで——とおっても、かわいいね……ねえ、わかる?」

「愛してるって意味さ」

《Storm》
 焦燥、憧れ、不快感、洗脳───
 ディアの調教は完璧だった。精神異常故のオミクロンドールであるストームの破壊衝動を完璧にコントロールし、幾度となく猟奇犯の握るナイフを下ろさせてきた。
 “約束”の二文字だけで。
 ストームやリヒト、ソフィアやアストレア。アメリアでさえディアには不要だということも理解っている。たとえ、天変地異が襲ってディア一人になろうと彼は何の不満も抱かずに生きていけることも。
 メモリが焼き切れるほど刷り込まれたディアの気質。
 ディアの愛すべき欠陥。
 決して自分のモノにならない細い首を掴みながら、ストームは欠陥だらけのディアを見下ろす。
 約束したのは? 約束させたのは?
 首輪を付けたのは?
 他の誰でもないディアじゃないか。
 今更要らないだなんて言わせない。

 欲した言葉をそのままに唱えたのはディアだった。
 耳に届くことのなかった愛の言葉が再び唄われる。
 今度は何度も何度も嬲り殺すように。

「………………理解しております」


 拘束を緩めぬままストームは続けた。
 ストームがこれ程、愚かで、感情的になるのはただ一人。
 ディア・トイボックスだけだった。
 ディアの為なら火の中にだって飛び込める。
 真実に喰われたって、寄生虫を喉に流し込んだって構わない。あの日、頭を失ったあの子のようになっても。
 命さえ惜しくはない。ディアの為なら。

 

「ディア、貴方様は今日もお美しい」

 ようやく拘束を解く。
 “約束”はいつでもストームの首輪を引いていた。ディアの首はアザにすらならないであろう跡がうっすらと残る程度。
 ほら、ディアの約束はどんなものより効力を発揮しているでしょう。おやすみ貪欲な彼(ヤマネコくん)

「何度も言われなくとも、知っているよ。でも、きっと何度でも言って、ね?」
 ふふ、と悪戯っぽく笑って、そっと執着の痕に指を這わせる。泣き喚く赤子に触れるように。沈みゆく太陽に手を振るように。愛しいものを撫でるかのように。仕方のない子だね、キミは。こんなに汚してしまうだなんて。そう、諭す。呆れたような蒼の中に、確かに愛の色が混じる。傷を知らない。痛みを知らない。ディア・トイボックスという美しいドールに、初めて与えられた愛だった。ディアを、汚した。じわりと背を這う罪悪だけを遺して、ディアは美しい手を伸ばす。遠くへ。もっと遠くへ。キミの向こうへ。

「ねえ、ストーム。いつか、一緒に月に行こうか。キミとなら、あの空の向こうに、手が届く気がするんだ」

 ハロー、ルサンチマン。親愛なる弱者。私の愛した特別な子。私の夢を、どうか守って。

「——返事は?」

 何を答えればいいか、わからないほど馬鹿じゃないでしょう?

《Storm》
 微笑みと共に揺れる髪は、他のどれより嫋やかだった。
 目を離すと消えてしまいそうな、真っ白の肌に良く似合う。
 どうか騙してくれ。“愛”と笑ってくれ。
 いつか壊すその時まで───────

 願いと希望をコアに秘め、ストームはお辞儀する。

「仰せのままに」

 パレットはディアから魅せてもらった色彩が所狭しと敷き詰められている。全部全部、愛の色。
 消して混ざり会うことの出来ない罪の色。
 ストームは約束が果たされるその日にその色でキャンパスを彩るだろう。
 伸ばされた細い腕の先、小さな指先の奥にちぐはぐの瞳が揺らいだ。彼が指したのは人工の空だった。

「空も良いですが、まずは海ですディア。
 ここから上がらなくては。
 空と海が交差する地平線を眺める、なんていかがでしょう?」

「へえ! それはとっても魅力的なお誘いだ! デートだね、嬉しい! 約束だよ! 私たち、海を見たことがないものね? 会ってみたかったの! きっととってもかわいくて愛しいじゃない! ?ああ、ずっとずっと遠くまで続く、サファイアの旅路……思い描くだけで胸がはじけそうだよ!

 ……でも私は、キミの海も好きだな……吸い込まれてしまいそう」

 ちゅ、と軽やかな音を立てて、その瞼にキスを落とす。どうしようもなく、焦がれていた。ストームの海。ちぐはぐの瞳に生きている、宵闇の海。愛しき海。どうか、その海に永遠に棲まわせて。そして、いつか忘れて。今更でいい、いらないと言って。
 全て、嘘だとしても。虚構で、マガイモノで、ただのプログラムに過ぎないとしても。あの日、私たちが焦がれた星は、私たちの薔薇が咲く星は、この空にしかない。私たちの愛しい海は、キミの瞳の中にしかない。キミといられる、ここが好きだ! ——地獄の底、輝く月がキミだった。

 溢れ出る愛と賛辞に、世界の恋人の輝きに、薄い唇は綻んだ。と、思えば、困ったように結ばれる。きゅう、とストームの服の裾を弱々しく引っ張った、世界の恋人は——

「んん……あっ、ええっと、それで、上がらなくてはというのは……何かな?」

 ——愛の言葉を囁くのに夢中で、肝心の問いを忘れかけるのが難点だった。

《Storm》
 祖となる海に対し、会ってみたいだの、可愛いだの、普通とはベクトルの異なる視点で物を言うディアをストームは見詰めていた。
 ただぼぅ、と見蕩れていただけ。なのに次の瞬間にはストームの瞼にキスが落とされた。
 イヤにゆっくり時間が流れる。ディアの湿った睫毛の一本一本。開いてゆく瞳。光を吸い込んで反射するターコイズの輝きまで鮮明に見える。

 ストームは何も言わぬまま身を引いた。
 さらり、と前髪を整え瞳を伏せる。そして咳払いをひとつ。次に発せられたのは酷く穏やかな声色だった。

「……ディア、なりませんよ。
 そう易々と口付けをするものではありません」

 ストームが注意した。それもディアに。
 心酔してもう二度と酔いから目覚めないであろうストームが。驚くべき事だ。
 声色は落ち着いているし、表情もいつものように仏頂面。だが後ろに下がる際、軽く棺にぶつかった。

 夜と朝を連想させるちぐはぐの瞳も伏せっぱなし。
 どこかよそよそしい態度にも取られる。
 やはりストームはストームだ。

 服の裾を引かれストームは微かに睫毛を上げる。
 すると、ディアの困り果てた面持ちがそこにはあった。何もかもがヘンテコで理解の及ばない国に迷い込んでしまった少女のようなかんばせに驚き瞬く。

「すみません。ソフィアやアメリアから聞いているものかと。早とちりしてました。
 ここトイボックスは海底に沈むおもちゃ箱であり、ここを出るには上へ上がる必要があります。あの空や風、気温湿度などは自然現象では無く自然現象を装った演出だったんですよ。

 ……ディア、こちらへ」


 ストームはドア付近をちらりと見た後にディアを部屋の奥へ案内する。一番奥の棺に寄りかかるように座ると彼もこちらへ招いた。
 新しい友人、グレーテルやウェンディ。臨時の先生であるジゼル先生に事を聞かれてはいけないと行動した次第だった。ディアが自身の隣に座ればストームは声を抑えて話し出すだろう。

「ジブンが知った情報をお教えします。
 まずはトイボックスについて……」

 ストームは淡々と語る。
 トイボックスは現在の教育出荷かつ廃棄処分する場所、資材支給をする場、そして全体の運営する場がある事。自分たちは何らかの実験の適合ドールである事。目的は定かでは無い事。
 トイボックスについての得た情報を告げると、ストームはターコイズの双眸を覗き見た。

「ん…嫌だった、かな? よく、怒られてしまうの……っご、ごめんなさい……気をつけるね」

 冷たい声。冬の海。死せる海。ディア相手には、あまり聞くことのないストームの声。冷たい、冷たい、冷たい冷たい冷たい冷たい冷たい——————

 ——ディアは、思った。こういうストームもかっこいいな……と。

 普段は見られない表情に胸が跳ね、触れたくなるのをグッと抑える。本気で拒まれている、と勘違いしているというのにも関わらず、それにすらもときめいてしまうのは流石、世界の恋人と言わざるを得ない。
 ぷるぷると震え、盛大に言葉に詰まりながらももう片方の手でストームの頬に向かおうとする手をなんとか抑え、行き場を無くした小さな手を彷徨わせ……ぎゅう、と柔い頬を引っ張り、ひゃんせいひゃんせい……と呟く。頬をかすかな桃色に染めながら(きっと痛みのせいだけではない)、恐る恐る隣へと腰を下ろした。

「ええっと……うん、うん、うんうん! なるほどなるほど、よーくわかったよ! つまり——キミの瞳を照らす美しい空は、キミの声を運ぶ優しい風は、キミの肌を伝うあたたかな温度は、天使様が私たちに与えた素敵な贈り物で! この美しい世界は、心やさしき海さんに抱きしめられたゆりかごってことだ! ゆりかごの夢に黄色い月がかかるよ〜♪ ふふっ、流石は愛しき恋人たちをこの世にプレゼントしてくれた天使様だ! この愛くるしい世界でさえも、創り出してしまえるなんて……ああ、もっと知りたくなってしまうね! 謎に包まれた私たちの愛しき世界……その全てを知れた時、その全てを連れてどこまでも行けた時、私は最上に幸福で、最上に美しいだろう! ねえ、ストーム! ——私たちの空には手が届くよ!」

 細い細い、手を伸ばす。許されるならば、無邪気な笑い声をあげながら、ゆりかごの歌を口ずさみながら、ディアはストームの手を繋ぐだろう。そして、もう片方の手を伸ばす。月へ。人工の月へ。私たちの月へ。今度は一緒に、手を伸ばす。

「教えてくれてありがとうっ! 調べてくれて、聞いてくれてありがとう! 愛してるっ! ん、っとと、キスはダメ、なの、だった、ね……! っく、鎮まれ、私の左手〜……っ!」

 ディアは愛らしく、幼く、まっすぐだ。愛するものの放つ言葉に一つ一つ相槌を打ち、全てを理解せんと努め、全てを希望へと変換し、全てを愛する。その甲斐甲斐しく、可愛らしく、愛おしい様はいっそ愚かで、哀れで、不自由で——それでいて、涙が出るほど美しい。その実、デュオドールには劣るものの、目を見張るほどの聡明さも持っている。与えられた情報を丁寧に食み、咀嚼し、嘔吐くこともなく嚥下する。ごぷ、と鈍い音がして、細い喉に大魚が飲み込まれていく。胃の中で、世界を飼っている。そんな幻覚が見えるほどに。絶望的な状況の中で、ディアはただ美しく笑っていた。知れることが、愛せることが嬉しい。愛しい。これ以上ないほどに幸せだ! ——それ以外に、何もない。

 キスを拒まれた時の方が、よほどショックを受けたような口調をしていた。やはり、ディアはディアだ。ディア・トイボックスとは、そう造られた生命体だ。残酷なまでに。

《Storm》
 独創的な芸術センスを有した猟奇犯は、純心だった。
 焦がれた相手にキスをされれば、当然のように頭がショートする。普段では身体をどこかにぶつける事なんてまず無い隙なしドールのはずが、あられもなくぶつけよろめいたのが証拠。
 仕草のひとつひとつが可愛らしい世界の恋人さんにまんまと心を奪われたのが運の尽きだった。
 ほら今も、指を絡められただけで身体を跳ねさせてる。
 ほんと笑えるよ。

 恋しそうに潤んだターコイズは、ストームのちぐはぐの瞳を釘付けにするには十分過ぎた。息を飲む。
 しっかり言葉を噛み砕いて咀嚼して呑み込む。食事をする様に知識を取り込むディアはやはり美しくて。
 また、初恋を繰り返す。

「………………それから」

 気後れしてた意識がようやく身体に追い付いてくる。
 
「それから、ミズ・シャーロット。
 彼女はかつてドールでした。
 ロゼ達が森の奥にあるツリーハウスで彼女を発見したそうです。半分の上体で。
 恐らくミーチェと同じ結末を迎えたと考えられます。
 彼女らは信頼をおいた者に、閉じ込められ焼かれました」


 ストームは思慮深い。ディアの耳に近付くと囁く声で、オミクロンのお姫様だったドールのエンディングを告げた。
 言葉の最後まで告げ終えれば、離れちぐはぐの瞳でディアを見詰めるだろう。

「っふふ、私、好きだなあ、ミズ・シャーロットのこと! ミシェラのことも、ストームのことも、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜーんぶ好き! ね、ね、ね、ストーム、もっともっと知ろう、もっともっと愛そう! あの子のこと、あの子の愛したもののこと、生きた証、死の瞬間、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ! あはは! ああっ、もう! ミシェラに、ミズ・シャーロットに、会いたいなぁ! 美しい髪が焼け焦げていようが、コアが鼓動を止めていようが、笑えなかろうが、泣けなかろうが、愛しきあの子に変わりないもの! ああ、キスを贈りたいな……だって、ディア・トイボックスは恋人だもの! もういないからって、忘れたりしない! ずっとずっと死ぬまで、死んでも愛し続けるのさ! ああ、世界とは何て愛おしい!」

 ミシェラが、アティスが、ミズ・シャーロットが、グレゴリーくんが、オーガスタスが、グロリアが、ジャスミンが、シンディが、ペネロペが、リタが、ラプンツェルが、ヴァージニアが、お披露目に行ってきた子たちが、外の世界のヒトたちが、草木が、水が、空が、星が、この世界に生きていた、狂おしいほどに美しい愛の全てが。いなくなった未来を。ちゃんと、幸福に生きていく。いなくなったからといって、今まで過ごした日々が消える訳じゃない。これからだって知れる、これからだって愛せる。愛する全ての概念の死を、無駄にしないことが大切である。私たちには、明日があるのだから。愛しきあの子たちにない、明日が。

 ディアの声は跳ねていた。今にも踊り出しそうなほどに。されど、小さな手を薄い唇に当て、溢れる笑い声を抑えるだけの理性があった。万が一誰か来たとして、壊されてしまうかもなどという焦燥がなかった。だって、キミがいる。

「好奇心は猫を殺す——以前、先生が贈ってくださった言葉さ。でもね、私は、キミにキスしてもらうためなら、毒林檎だって飲むよ。裸足で地獄の底を歩むよ。だってキミは、私の足が溶ける前に必ず走って、抱き上げてくれるもの。殺した後の無機物に興味などないのに、私だけの後を追ってくれるもの。私のことだけを、ずっと忘れず、愛してくれる——ねえ、ストーム。キミのそういうところが、愚かで、感情的で、邪魔で、とってもとっても大好きで——

 ——だから、その時が来たら、私のこと、ちゃんと忘れてね」

「約束!」

 ディアは、ずるい。必ず、守りに来てくれることも。必ず、忘れられないことも。こう言えば、ストームの人生を縛れることも。全部わかって、囁いた。私のこと、知らないで。愛さないで。
 ——望まないでね。

《Storm》
 ヒトは失うことを恐れる。
 金、物、時間、地位や名誉。そして愛。
 完璧にヒトを模倣して造られたドールはたとえオミクロンドールであれど、自らの手で奪う事に芸術的価値を見出すストームでさえも失う事を恐れている。
 だと言うのに、世界一美しいスノーホワイトは失う事さえ愛した。愛してしまった。
 ディア・トイボックスは正気の沙汰じゃない。
 理解が及ばない愛情論を独裁者のように演説するディアに、ちぐはぐの瞳が張り付いた。瞬きすら忘れ、演説に聞き入る小さな猟奇犯の無邪気なかんばせがそこにはあった。
 彼もまた、正気の沙汰じゃない。

 心休まるはずの寝室が狂人のダンスホールになって、愛に狂った踊り子の言葉にすっかり夢中になった猟奇犯。
 彼は踊る。くるくるゆらりステップを踏み。
 彼は惹かれる。他人には言い難い欲望を剥き出しに。
 ディアの言葉は酷くストームを揺れ動かす。
 死すら救済だと。


 死すら愛してしまうディアは、鬱陶しい輝きを放っている。
 だけどね。ディアが愛を追うのと同じ様にストームは強情だった。
 死は救済なんかじゃない。愛する事は出来ない。


「Shh……」

 キスでもしなければ止まらないであろう唇に、ストームは人差し指を添えた。恋焦がれ過呼吸すら催すディアに対して。ストームは恐ろしいくらいに穏やかな表情を見せたのだった。だけど、心情を覗くのはおすすめしないよ。
 多分ストームは身体中に張り付いて縛り付ける程の、黒い独占欲を渦かせてるから。ディアを独り占め出来る唯一の時間を邪魔されてはならない。
 謙虚で健気な忠犬の毛皮を被った、意地汚い狼だ。
 二人きりで内緒のはなしをして秘密の約束をする。ストームにこの特別な時間を第三者になんか共有してやる気はサラサラ無い。

「……お慕い申しております。
 今も昔も、そしてこれからも永遠に」


 ストームにとっての呪いの言葉。
 お誘いの返事はNo。忘れてと望むディアに首を横に振る。
 ──記憶の中のあの方に似た貴方様は、とても狡い。無責任で無鉄砲で。そんな所もあの方に似ているのです。たとえ、ディアに嫌われても邪魔者になれど貴方様を欲するでしょう。
 あぁ……貴方様が、欲しい…。

 ストームはディアの唇に触れた指先を自身の首へ。縁をなぞり自身のコアまで下ろす。じんわりと広がる感情が何かは定かじゃないが、暖かいとストームは感じるだろう。
 首の支配に飽き足らず、心までをも支配してると暗示した。ちぐはぐの瞳が見惚れてしまうターコイズに反射する。柔らかな初恋を宿す髪が動きと共に揺らめいて、溶け込んでしまいそうだ。
 ディアの息遣いですら愛おしいと魔法に掛けられる。

「……」

 彼の手を取り猟奇犯は細くて白くて小さなその手の甲に、唇を落とす。ゆっくりと睫毛を上げると立ち上がって、丁寧な所作でお辞儀した。
 親愛なる彼へ、忠誠の誓いと僅かな脅しを。
 決して独りにさせてはやらない、なんてね。

「………キミは。

 ……キミは、本当に、わがままで、強情で、大事なことは、何一つ、聞いてはくれなくて……どうしようもなく、かわいくて……いっそ、手放してあげられたら、よかったのだけれど。でも、だめなんだぁ、私。たとえばね、キミが急にナメクジさんの塩漬けを食べるように言ってきても、きっと、キミを嫌いになれないのだもの。ああ、もう、こまったな……」

 魂すらもぐちゃぐちゃに食い潰されて、ディアはその白い頬を真っ赤に染めた。耳の先まで、爪の先まで、鼓動の奥まで、熱が広がっていく。触れられたところからじくじくして、熱い。ストームは、きれいだ。キミは、私たちの奇跡だ。私たちに、愛と、祝福と、幸福を与えてくれる。好きだよ、大好きだ。だから、私のことを愛さないで。本当に、どうしようもない恋だった。無数の星々に咲き誇る、たった一輪の赤薔薇は。四本のトゲがあるけれど、脆くてとても守れない。五億の星を愛すけれど、小さな星にひとりぼっちだ。

 コアに手を当て、ゆっくりと睫毛を上げる。もう片方の拳を、思い切りストームに突き出した。脆くて、弱くて、ひとりぼっちで……けれど、けれどね。ディアだけが、自分が何を探しているか、知っているんだ。

「でも、負けるつもりはないよ」

 どんな概念にも、終幕がある。それが罵声とブーイングに満ちた終幕なのか、拍手と歓声に満ちた終幕なのかは、『その時』まで誰にも分からない。ただ、その全ての終幕を愛している。時に観客として、時に監督、脚本家、演出家、時に同じ舞台に立つ演者。恋人が望むままに、価値観を、姿を、コードを書き換えて生きる。それが、恋人としての使命。ああ、願わくば。——私の舞台の終幕は、愛しき静寂で満たしたい。

「愛しているよ、永遠に。勝負だね、ストーム」

 ディアは、この世界という舞台で。残酷なほどに、憎らしいほどに、殺したいほどに。間違いなく、主役と呼ばれるドールであった。

《Storm》
 スノーホワイトは熟れたように真っ赤。
 彼らしくない。
 けれど、真っ赤になってもやはり世界一美しかった。
 一瞬見惚れたように目を細める。だが、すぐに異常性に目を覚まされ怪訝そうにディアを見た。
 ストームに、ディアの愛情観は分からない。
 理解にするには繊細さ、感情表現、共感性、何もかもが足りていない。そんなストームを深く理解してか、ディアはテーセラドールである彼に分かりやすい方法で表現しようとしている。
 突き出された拳は友愛。
 相棒と何度か交わした事があるけれど、このような形でディアに拳を突き出されるとはストームは思ってもみなかった。小さな拳とディアの愛らしい顔をと行き来する瞳はまんまるく見開かれていて、声すらまともに出せずにいた。

「…………」

 猟奇犯は再び舞台に立たされようとしている。
 まだ見ぬ世界を愛した監督が革命家やら、ヒーローやら、王子様やら、好き勝手にキャスティングしていたその舞台に。
 猟奇犯は何役だろう? 騎士? それともやっぱり猟奇犯?
 なんだっていい。彼を他の誰かに壊されなければ──
 ストームは突き出された拳を見ると、微かに口を綻ばせた。


「ジブンは……ジブンはなんて幸せ者でしょう。
 言い表しようも出来ない程の身に余る幸福です。
 
 でもねディア……。
 “それ”をするのはジブンは不相応です。その瞬間まで心待ちにさせてください」

 ストームが、対等で居られるはずがない。
 ディアからの寵愛を与えられるに値しない。
 たとえそれが博愛であっても。
 猟奇犯はスポットライトに当たった主役に恋をした。
 恋をして心を焼かれ精神を蝕まれ狂ってしまった。
 叶いっこない初恋を永遠の思い出にする為、猟奇犯は舞台から下りた彼を奪い去りたい。
 その為に尽くしてきたから、彼の舞台をも拒む。

 ストームは彼の拳を下ろさせる。申し訳なさそうに眉を下げ、深々と頭を下げた。

「無礼をどうかお許しください」

 沈黙が当たりを包んだかと思えば、ストームは立ち上がり「では」と部屋を後にする。手を引かれて止められなければ出ていってしまうだろう。

「……っあっはは! キミらしい! かわいい!」

 大きな大きなターコイズブルーをさらに大きく、まんまるに見開いて、声を出せずに固まった。テーセラモデルというプログラムに真っ向から反抗していくストームが不思議で、水たまりに向かっていくアリさんみたいで、おかしくって。お空からヒトを見つめる神様のような気持ちで、たまらなくって。とっても、とっても、愛おしかったものだから。くしゃ、と柔らかな頬を緩め、ストームの覚悟と体温の遺った拳を胸に当て、ぎゅう、と鼓動を抱きしめる。春を告げる嵐が吹いて、雪が朝靄に溶けていくみたいに。ぴょんぴょん跳ねて、きらきら光って、幸せだって叫ぶみたいに。沈黙なんて、静寂なんて、全部まとめて抱きしめてしまうくらいに、真っ直ぐ笑うディアだから。世界を愛し、世界に愛され、憎まれ、憧れられ、忘れてくれと、望まないでくれと、心の底から幸福を願うディアだから。忘れてほしい、なんて、本当に、残酷で、無茶で、ずるいことを言う。

「ねえ待ってっ、愛しきストーム!」

 踵を返すストームを追って、ディアは星へと手を伸ばす。とっ、と思い切り地面を蹴ると、飛びつくようにストームの服の裾を引っ張った。息つく間も無く、ちゅ、と目尻にキスが落とされる。瞼の裏に焼き付いて、離れない柔らかな唇で、望む。キミの瞳の見る世界は、どんなに美しいだろう。キミの舞台から見る客席は、どんなに愛しいのだろう。ああ、願わくば、私がそこにいなければいい。
 舞台に上がるのが怖いのならば、舞台を広くするまでだった。空に手が届かないのならば、みんなで肩車をし合えばいい。息ができないのなら、キスをするよ。私たちは、なんだってできる! どこまでも行ける! 誰にだって会いに行ける! ——それでも、数多の星のその中で、たったキミだけに会いに行きたい。

「——またね!」

 その全てが、プログラムされた愛情であったとしても。目の前にいるのがストームだからという、たったそれだけの理由だとしても。その輝きは、正しさは、そこに込められた愛情は、私たちの空で輝く星のように、本物であったのだ。——ディアの宝石のような瞳には、あるプログラムが備わっていた。ドールとも、先生とも違う。この惨劇を俯瞰する側——下等生物を愛でる、神の狂気だ。

《Storm》
 1/fゆらぎの声がストームの頭の中に取り憑く。
 ──春の嵐を呼んだ。

 観客席まで降りてきて猟奇犯に手を差し伸べた主演の彼は、愛おしげに目を細めて猟奇犯の手を引く。猟奇犯が拒んでもその柔らかな手で無理矢理スポットライトの下まで引っ張って行こうと、悪魔の言葉を囁いた。
 悪魔の言葉に呼ばれ振り返ってしまった。
 それが危険だと分かってながら。自らプログラムに背く哀れな彼に、お似合いの罰が下ると分かっていながら。
 ストームは柔らかく艶やかに潤む初恋色の唇に捕まる。

 猟奇犯はすっかり舞台の上に、瞳が焼けてしまう程のスポットライトの下に攫われてしまった。
 唇が離れるとストームは自身の目尻を撫でる。
 トゥリアドールとしてのプログラムでは説明の及ばない、ストームを見据えより遠くに向けた気持ちの悪い程深い愛情。ディアは一体どこを見ているのか、ストームには分からなかった。
 分かるのは瞳の輝きが世界一美しいって事だけ。
 ストームは思わず「美しい」と声を漏らした。輝く星々を映し出す瞳に見染められ、ちぐはぐの瞳を細める。
 ため息が出るほどの美しさを神の狂気だと知ることはきっと無い。
 再度深々と頭を下げ、忠告を告げれば彼は去るだろう。
 
「……ジゼル先生にご注意を」

「ジゼル嬢か……確かに、かわいらしすぎてその瞳の湖に咲く水仙になってしまいそうだね! ご忠告ありがとう!」

 律儀でかわいい恋人の強く美しい大きな背にぶんぶんと両手を振りながら、ディアは少し……いや、だいぶズレた感謝をつらつらと述べる。美しき水仙へと姿を変えたナルキッソスは、自己愛の象徴と呼ばれる神である。恐ろしいほどの博愛を体現したディアとは似ても似つかないようでいて、きっと本質は同一だ。己を飾る金の王冠も、大切なひとの薬指を飾る金の指輪も、全てを残酷に照らす強大な太陽の前ではただの金だった何かへと成り果ててしまうように。全てを魅了する美しさを持ち、愛され、妬まれ、愛し——いつだって、湖の中の世界に夢中なだけの伽藍堂。ただ、溺れるつもりはない。さあ、忘れ去られるために戦おう。

「さて、せっかく愛しい皆が天使様の夢を見る天上の雲にご招待いただいたんだ、たっぷり調べさせていただこう!」

 くるくると両手を広げて楽しそうに回りながら、希望に溢れた迷子のアリスは、不思議の国のルームツアーへと洒落込んだ。

 あなたがたが今朝も就寝し、起床した生活空間だ。暗いゴシックレース柄の壁とふかふかのカーペットが敷き詰められている……が、部屋の大部分を占めているのは重厚な棺桶型のベッドである。
 現在、オミクロンクラスの男子の人数は5名。ベッドは余裕があるようにと十個分、二段に積み重なったりしているが、その半分は空っぽという状態である。

 部屋の入り口から左手には大きなワードローブが置かれており、皆の制服がきっちりと収められていることを知っている。

「おや! おやおやおや! ふうむ、なるほどなるほど、これは……ズバリ、クリスマス前のサンタさんより慌てん坊の子がいるね! ふふ、名推理……あははっ、ごちゃごちゃでかわいい! けれど、次履くときに慌ててしまってもいけないからね、揃えておこう! 先生たちもお忙しいのかな、素敵!」

 お城の大きな大きなカーテンを開くシンデレラ姫のような気持ちで、ワードローブを開け放つ。愛しきものを知り、愛しきものを愛す。ありふれた特別な営み。猫に導かれた迷子のアリス。新しい世界が広がる予感に伏せていた長い睫毛を上げれば、皆の足並みを支えるブーツや革靴の一部が、ごちゃごちゃと乱れているのが目に入る。シーツを整えたり、先生が自分達のために懸命にお仕事をしてくれている様をディアはずっと見て、愛していたものだから少し珍しく思った。そして、とても、とても、愛おしく思った。みんな、何かに一生懸命なのだ。走って、走って、靴が擦り切れても走って、足が擦り切れても走って、その先にある何かに。細い顎に指を当て、くすくすと笑い、慌てん坊のサンタクロース〜♪ なんて陽気に歌いながら、愛おしき愛の結晶の前に座り込む。小さな繭に包まれた、愚かで優しい日常を、傷つけぬように。希望の炎を燃やす蝋人形が、潰えぬように。そっと、手を伸ばした。

 ワードローブの木の扉は現在、中途半端に開け放されたままになっていた。きちんと開いて中を確認すると、いつも通りにきっかりと皺を伸ばされた綺麗な状態の制服が何着もハンガーに下げられている。それぞれ衣服を置いておく場所は定められており、あなたが使用している一角には予備のズボンスタイルの制服と、ナイトウェアでもある真っ白なフリル付きの寝具がきちんと収まっている。足元には予備の靴も揃えて置かれていた。

 その、足元にある予備の革靴やブーツなどの群れが一部、引き倒されてごちゃついているのをあなたの目は目敏く発見した。

 その指先が倒されたブーツの位置を整え、戻していくうち、あなたは気が付くだろう。
 他のドールの靴に埋もれて、手遅れな程にズタズタに引き裂かれた靴とブーツを発見してしまったのだった。何やら恨みを感じるほどの徹底ぶりである。

「ふんふふ〜ん……♪ ふふ、愛する子の生活を手助けするというのは良いものだね! 頑張り屋さんで世話焼きなエトワールの気持ちがわかる気がするよ! ええっと、これはこっち……おや?」

 鼻を抜ける春風のように軽やかな鼻歌を奏でながら、ディアの細く美しい指先は予備の靴類を丁寧に持ち上げ、揃えていく。童話に息づくプリンセスのような美しい所作は、正しくトゥリアモデルの元プリマドールという肩書きに相応しき優雅さであった。愛する皆の足が疲れぬように。どこまでもどこまでも、走り抜けていられるように。願いを込めて、一つ、一つ。愛に溢れたその唇で、恋人のかわいい姿を思い浮かべる。エトワール。私たちの愛しきエトワール。頑張り屋さんで、世話焼きで、自分を見てもらいたいと叫ぶだけの、愚かでかわいいエトワール。愛しているよ、エトワール。あの子と過ごした輝かしい思い出にターコイズブルーを細め、くすくすと笑っていれば。肩を寄せ合うブーツたちに隠された、ひどく壊れたブーツが目についた。

 そのブーツのタグには、持ち主の名が書かれていた。——【Ael】と。

 どうやら、何者かに未来の道を絶たれたのはエルだけらしい。ぎゅう、と痛々しく縮こまる靴を抱きしめる。ディアは、憤りを感じることも、笑みを浮かべることもなく、ただ、知りたい、と思った。一体誰が、何故、こんな真似を? 知りたい、知りたい、知りたい、愛したい! ああ、世界はなんと美しい!

「——会いにいくね、まだ知らぬ愛しい子」

 散乱した靴と、エルの為の予備として用意された靴の惨状の他には、ワードローブ内に異変は見られなかった。むしろこの、エルに対する苛烈な恨みを感じる行為自体が、平和なはずのトイボックスにおいて異色過ぎるのだが。

 ともあれあなたは靴を問題なく回収するに至るだろう。誰も見ていないのであなたを止める誰かも存在しない。

「手がかりはなし、か……まあ、焦らずとも良いだろう。きっとすぐに会える、私たちは、運命の赤い糸で繋がれているのだから!」

 小さな器。幼い器。何千兆とからまる糸に、運命の赤い糸に、首を絞められながら笑っている。きりきり、と血が青くなっていく。ぽわ、と顔を赤らめる。命が消えていく音に耳を傾けながら、命と愛を語るのだ。靴を大事に大事にしまった鞄ごと、あの子の証を抱きしめる。逃しはしない。愛しているから。全て、全て。
 くるりとかわいく振り返り、愛しき天上の雲を攫う天使。高い高い洞察力を誇るターコイズブルーは、一つの違和感を目敏く捉えた。妬み。嫉み。恨み。——明確な、悪意の予感。

「……ベッドに、傷?」

 ——並べられた棺のひとつ、見覚えのない傷がある。

「んふふ、やんちゃな子もいたものだね! 普段は見られないけれど、寝相が少し悪いのかな? かわいい〜! ああ、誰だろう、知りたい、知りたい、知りたい……くふ、このベッドを使っていたのは、一体どんなおてんばさんな天使様かな?」

 穏やかに、静かに笑って少女を出迎える森の中。赤が踊る。花が揺れる。狼の遠吠えをバックミュージックに。
 多くの人がじっとりとした嫌な予感を感じざるを得ない莫大な違和感に、ディアは全て気づいていながら。くるくる踊り、ぽやぽや笑い、底知れぬ狼の腹の中へ。ずるん。

 あなたの優れた洞察眼は、実に目ざとく捉えることだろう。並べられた黒い棺のうちの一つに、記憶にある限りは存在しなかったはずの傷がついている。
 鉄製の棺のなめらかな側面に、何か大きなものを強い力で擦ったような、ざらざらとした傷が残っている。

 この棺を使っているのは確か──エルだったはずだ。

 あなたはふと思い返す。今朝方、エルとリーリエが珍しくも寝坊して、朝食の席に参加してこなかったことを。先生は体調不良が心配だ、などと言っていたが、エルに関わる不審な痕跡が数多く残されているのは多少気にかかる事だろう。

「おやおや……んふふ、かーあいい」

 まるで、世界で一人、愛しき姫に愛を誓うように。窓から世界を眺めるように。命を賭けて守るように。あの子の前に跪いて。屍のように冷たい黒を、造られた体温で優しく撫でる。ざらざらと揺蕩う知と愛のさざめきに、そっとキスを落とした。ああ、かわいい、かわいい……私たちの愛しき天使様に、一体どんな幕開けがあったというのだろう。腹の中の桃源郷。胃酸がみせる甘い夢。幻覚症状。盲信。ひとつになっていく感覚。——知りたい。あの子に会いたい。あの子の、悪意に触れたい。

「ふふっ、どうかいい子にお待ちしていてね、Le petit Chaperon Rouge!」

 きっと助けてあげるから、狼に食べられて待っていて。

【学生寮2F 少女たちの部屋】

 あなたが普段あまり踏み入ることのない、少女ドール専用の寝室。温かみのある花柄の壁とふかふかのカーペットが敷き詰められている…が、部屋に置かれているのは重厚な棺桶型のベッドである。
現在、オミクロンクラスの女子の人数は11名。それよりも少し余裕があるようにか、16個のベッドが二段に積み重ねられたりして上手く設置されている。

 部屋の入り口から左手には大きなワードローブが置かれており、皆の制服がきっちりと収められていることを知っている。

「toc-toc! お邪魔するよ、Mon amour~!!!!!!!!!!!!!!」

 勢いよくドアを開け放ち、ご機嫌よう、とドアと壁をいたわり、囁きながら軽やかに床へと降り立つ。意思疎通のできない植物や無機物、果ては概念までもを平等に愛するディアにとって、性別設計の境などないに等しい。純粋無垢で真っ直ぐ、ただ愛するものの全てを知りたいと願うディアの足を止められるものがあるとすれば、愛するものの望みのみ。一言入らないで、と言われればディアはその長い睫毛を伏せ、しょんぼりと雨の日の捨て犬のように去っていくだろう。だが、生憎この部屋は数秒前まで心地の良い静寂に包まれていたため、ディアは意気揚々と大声で口頭ノックをし、訪問するに至った。無念である。

 静まり返った少女たちの部屋。現在は多くのドールが授業あるいは散歩にでも出掛けており、誰も寝室を使っている者はいなかった。

 そんながらんとした部屋の奥、以前までは誰も使っていなかった棺の蓋が二つ開かれており、きちんと新しい南京錠も当てがわれている。
 あなたはこれが、新たにオミクロンクラスへとやってきた仲間、ウェンディとグレーテルに充てられたベッドではないかと予想するだろう。

 あなたがまず向かった一つの棺。その中身には整えられた新品のシーツとふかふかの枕、ブランケットが収まっている。
 特段こちらのベッドに何か気に留まるものというのはない。特筆すべき点があるとすれば、その枕には何やら涙の染みが薄く浮かび上がっていることぐらいであろうか。

 もう一方の棺も同じように真新しいシーツと枕があり、柔らかいブランケットは丸められているようだ。その傍らには無数の書物が詰まれており、寝る間も惜しんで勉強したいという気概が伝わってくる。恐らくこちらはデュオドールのグレーテルに当てがわれたベッドだろう。
 書物の内容は実に多岐に渡るが、エーナモデルが率先して学ぶような『対話』に関わる論説に主軸を置いているものが多い気がする。少なくともデュオモデルが学びそうな内容ではなさそうだ。

「ふふ、どうやらこの天上の国に飛んできてくれた天使様たちにも、温かな春風が舞い込んだようだね! 王子様に連れられて、新しいお城にやってきたお姫様が環境の変化に戸惑うのはよくあることだと、アティスが語ってくれた物語にもあったし……彼女たちがどんなケーキを焼き上げるのか、とってもとっても楽しみだ!」

 ディアは、とても、とても大きな春の嵐だ。暖かかな花の香りを見に纏い、世界の全てを巻き込んで、涙さえも枯らしてしまう。ディアには翼がある。大きな翼。白い翼。造られた翼。走って、走って、大口を開けて待ち構える崖の先へ、虹の彼方へ、明日の向こうへ、どこまででも飛んでいける。その眩しさに苛まれ、群がり、落ちていく蟻の悲鳴さえ。讃美歌みたいに口ずさんで、愛と美談に昇華するのだろう。——何より、タチが悪いのは。
 ディアに抱かれ、愛され、キスをされる。神のような彼の、鼓動の一番すぐそばは。とても穏やかで、幸福で、愛らしい——台風の目であることだ。

「さてさて、新しい子にばかり目移りしていては、恋人の名折れだね。この世の全ての概念を愛する。それこそが、ディア・トイボックスに与えられたプログラムなのだから!」

 全てに平等な恋人は、世界の端の端でさえも、海の底の底でさえも、決して、見逃してはくれないのだから。

 あなたの優れた洞察眼は、実に目ざとく捉えることだろう。並べられた黒い棺のうちの一つに、記憶にある限りは存在しなかったはずの傷がついている。
 鉄製の棺のなめらかな側面に、何か大きなものを強い力で擦ったような、ざらざらとした傷が残っている。

 この棺を使っているのは確か──リーリエだったはずだ。

 あなたはふと思い返す。今朝方、エルとリーリエが珍しくも寝坊して、朝食の席に参加してこなかったことを。先生は体調不良が心配だ、などと言っていたが、エルの棺の様子も思い返すと、彼らに何かあったのではないか? と感じることだろう。

「ふむ……よしよし、これでエルとリリィに会いに行く口実ができたね! 最近はみんなお忙しそうで、かっこいいけれど、雑談をするお暇もなくて寂しかったから……これで二人を見かけたら、堂々とお話に行ける! んふふ、やったね!」

 ざらざらと揺蕩う知と愛のさざめきに、そっとキスを落とす。溢れ出した言の葉は、無邪気に跳ねて傷を歩いた。恋人に向けられた悪意の証を、一瞬にして皆と歩く幸福な遊歩道に変えてしまう。まるで、仕事で構ってくれない両親を気にかけるような。それでいて、ただ話したいと望む子供のような。そう呼んでしまうには、あまりに残酷すぎる愛であった。

 ご機嫌よう、蝶を夢む天使たち。夜空を駆ける流星のように。愛のために忙しく飛び回り、幸福を運ぶ愛しいキミのお時間。——このディアに少しいただけないかな?

【学生寮1F 学習室】

Sarah
Dear

《Sarah》
 ある日の学習室。
 人気のない教室。
 程よく差し込む光。
 ちょうどよい温度。
 寝るには素晴らしい環境。
 不自然に膨らんだカーテン。
 膨らんだカーテンは机一個分を半分を程隠しており、下からは細くとも筋肉質な脚が覗いている。
 カーテンまでやってきてよーく耳を澄まして見ればもしかしたら小さな寝息が聞こえてくるだろう。
 もし貴男がカーテンの中にいるドールの頭を覗くことができれば、カスミソウの花畑に佇むサラの姿を捉えられるかもしれない。衣装も真っ白なため彼女が目を閉じて倒れてしまえば見つけることは難しいだろう。そんなサラのそばにはニゲラを九本抱えている彼女の兄であろう人。
 倒れた状態から勢いよく立ち上がり兄に抱きつくサラ。
 幸せな夢。
 しかし夢は一定の場所に留まらない。花畑は徐々に木材に侵食されていく。茶色く染められていくかすみ草。衣装も泥で汚れたものへ。
 食卓を囲むサラと兄。二人だけの朝食の時間。
 利き手の握りこぶしで使うカトラリー、逃げ惑うベーコン。笑いながらサラの口元についたパンを拭う兄。
 それを恥じることもなく笑う兄に釣られサラの口角も自然と上がる。
 あぁ幸せな夢。

 走る。走る。景色が滑る。カーディガンは風を抱きとめて、天使の羽のように舞っていた。白い頬を林檎のように上気させ、はふ、と熱い息をこぼし、穴に向かって走る白ウサギのように。今にも転びそうなほどにふらふらとしながら、ディアは楽しそうに走っていた。——ああ、呼ばれている! 誰かが、愛を呼んでいる! 愛する誰かが! キミが!
 それだけで、涙が出るほど幸福で。早く望みを叶えてあげたくて、先走る心を宥めるように。床が、壁が、窓が、雲が、気をつけて、と囁いた。今日の風はいたずらっ子で、ゴールは目前! なんて、囃し立てる気分らしい。ああ、まんまと乗せられる。時計の針が速くなる。このドキドキは、疲れのせいだけじゃないと知っていた。ねえ、ねえ、キミのせいだよ、サラ。

 ——ドアを開けば、そこは一面の花畑だった。

……daar buiten loopt een schaap……♪」

 気づけば、歌っていた。歌い慣れたフランスの歌ではなく、サラの設計に合わせたオランダの子守唄。普段の大声からは想像もつかない、優しい優しい囁き。けれど、いつまでも愛に満ちた声。花を踏まぬように、夢が覚めぬように、そっと歩く。ベールを覗く。カーディガンをかけてやる。ほら、あそこに羊がいるね。きっと何年、何兆年、一緒に羊を数えよう。そういうものを、永遠と呼ぼう。

slaap kindje slaap……♪」

 時計は砂糖漬けになって、きっと、二人の前では意味を成さない。さあ、シンデレラ。ガラスが割れても踊り続けて。

《Sarah》
 これは、なんの曲だろう。朝食の時間に似合わないお歌。メロディがフヨフヨとサラな周りを漂い頭にぽよんとぶつかってはまたどっかにふらついていく。歌に意志なんてない海月のようにただぷかぷかと回る。
 掴んでいたカトラリーを振り回し捉えようとするが意思なんてないくせに逃げられてしまう。
 ころころと変わる舞台は掴んでいたカトラリーさえも可愛らしいぬいぐるみへと魔法をかける。ふわふわとした黄色毛皮を身にまとい赤いボタンが縫い付けられたウサギさん。
 ぬいぐるみを大事そうに抱えて歩くは長い長い廊下。

 誰もいない。
 なにもない真っ暗な廊下。
 窓も絵もない廊下。
 後ろを振り返っても影さえも手を振ってくれない。
 髪を撫でる風さえもそばにいない。コアが鳴る音と少しあらい呼吸音しか聞こえない空間。
 怖い、怖い。
 兄さんはどこ。
 クラスメイトはどこ。
 ご自慢の足にムチを打ち動かす。けしてうさぎのぬいぐるみを離さぬように。片腕でギュッと握りしめて。

「……さ、ん……にぃ、さん」

 必死に兄を呼ぶも来てくれない。いない。独りぼっち。誰もサラのそばにいない。階段を登って降りて登って登って落っこちて。シンデレラのように靴を落とさないように。アリスのように落っこちすぎないように。望遠鏡をくぐり抜けてお皿の兵隊さんの邪魔をしないように。通り過ぎたら全部真っ暗。何も落とさないように走り続けて。何もない恐怖から、わからない恐怖から逃げて。孤独を振り払うように走って、た。のに。

 あ、口からこぼれ落ちた音とともにぽすっと落ちるぬいぐるみ。
 拾う暇なんてない。
 走らなきゃ。真っ暗から逃げなきゃ。

 真っ暗な廊下。少し明かりが見えてきた。そんな光を逃さないように足は加速する。髪を撫でてくれる風がいなくとも自分が作り出せばいい。闇を置き去りにしようと走る足は加速すればするほど光に近づき。音も聞こえるように。
 これはなんの曲だったか。聞き覚えのある曲。突き止めるのはまた後で今は光を掴まなければ。近づきすぎて身が燃えても、真っ暗よりまし。

「ふゎ〜ぁ、あ。あ? にぃ……さん……。

 じゃな、い。
 なぁんだ、ディアサンか。」

 おはよう。

「うん、ディアサンだよ〜!」

 それは、偽りの世界で燦々と輝く、偽りの太陽。お兄さんじゃなくてがっかりした? でもね、ディアは恋人。キミの望みを叶える者。ディアは世界を愛し、世界に愛されている。ディアの夢では、全ての世界が恋人なのだ。

 ——小さな手をいっぱいに振れば、いつの間にか、手の中にはおねぼうのタクト。
 ディアの真っ赤な唇から生まれた音符さんたちは、サラを、うさぎさんを、兵隊さんを、望遠鏡を、お皿を、お兄さんを、クラスの子たちを、シンデレラを、お靴を、王子様を、継母を、義姉を、ねずみさんたちを、ねこちゃんを、わんちゃんを、王様を、魔法使いを、大公を、かぼちゃ、バケツ、旅行好きの階段の泡、世界の全てを乗せて踊る。おやおや? シンバルの音が聞こえるよ。ディアの歌に合わせて、兵隊さんの行進だ。みんなも歌い始めたね、気分はまるでパーティー会場。おや、魔法使いが唱えるよ! みんなで一緒に、ビビデバビデブー! ほら、目を開けてみて……わあ、本物のパーティー会場だ! 王子様たちは踊り出す、とってもとっても綺麗だね! でも、悔しそうな子がひい、ふう、みい? それもとってもかわいいね! 転んじゃうのもターンするのも、そもそも踊らなくたって!

 タクトが指すは、サラの太陽。

「おはよう、こんにちは、おやすみなさい」

 ディアの造るサラの世界に、ミシェラとアティスはいない。

「サラが信じるものが真実さ」

 ——ねえ、サラの望みは?

《Sarah》
 少年の声より少し高く幼さをだいぶ残した声をテーセラモデルであるサラは捉えモゾモゾとカーテンの扉を開ける。開けるのは容易いがぽかぽかと暖かい日差しの中にいたサラにはカーテンが閉め切られ人工的な光に照らされる教室は少し物足りない。どちらも自然で作られたものではないけれど。

 眼の前には自分より小さい、けれど年齢設計が一つ上でトゥリアの元プリマドール。

「見れば、……わかるよ……」

 まだ夢心地なのか、はたまたここが夢なのか。そんなのサラには関係のないことだが寝ぼけた声で返す。
 もし今が夢だとするのなら内容を覚えとかなければ、日記に記すために。
 区別をつかせるために。

「今、は。おはようの時間、なの?

 まぁ、いいや。」

 彼の挨拶に疑問を持ちつつカーテンの扉を少し開く。見たところまだ明るいため午前中だと思っていたが、明るさなんて関係ないか。
 昼だと思ったらそれは夜で朝かと思ったらそれは夜中なのだから。
 彼の挨拶が正しい。
 時間なんて関係ない。

「ふふ、そうだね。キミにそう見えたのなら、きっとそうなのだろうね」

 未だぼんやりとした様子で言葉を紡ぐ、オミクロンでたった一人の妹に。くすくすと暖かな笑みを向けながら、眠たいのならまだ寝ていていいよ、と囁きカーディガンを掛け直す。自分よりも強い肩。大きな背。けれど、夢を望み続ける幼いドール。サラの世界を、守ってみせる。愛するものの、善意という澱から。

「ねむたくて、ふにゃふにゃで、うとうとな子には、あたたかいベールをかけてあげるの。おはようのキスなんていらないの。真っ赤な唇は、子守唄を囁くためだけにあるべきなの。だってね、愛しい夢の妖精は、サラは、ちっとも呪いなんかにかかってやしない。キミだけの祝福さ、特別なね。糸車に急かされなくたって、毒林檎に誘われなくたって、眠たくなったら眠っていいさ。だって、生きているのだもの。

 どうして起きてくれないの、なんて、みんな不思議なことを言うよねえ」

 ディアが囁くは、プログラムコード。ここは仮想現実。全部忘れて、楽になれ。見たくないものは、見なくていい。私が全部見てあげる。キミの代わりに、息をしてあげる。キミの代わりに、キミの現実を生きるから。——猛毒が、脳を犯す。

「ねえ、サラ。キミが信じる方を、いつだって真実にしてあげる。ひめも、王子様も、鼓動から殺して回ってあげる。明けない夜はないけれど、キミのためなら太陽だって殺してあげる。だから、安心して馬鹿になって。私に甘えて、ね、おねぼうさん」

《Sarah》
「あはは、変、なの……」

 サラの背中はカーディガンを受け入れ優しく抱きしめる。
 これでもっと暖かくなった。でもここで眠ってしまったら現実に戻ってしまう。
 まだもう少し、この温かいなかにいさせて。もう少し。

「ボク、は、ふぁ〜あ。
 馬鹿じゃない、よ……」

 トゥリアの声はまるで綿あめを煮詰めて金平糖を包んだようなものだとよく聞く。
 あぁほんとうに甘い。
 溺れていたくなるようなずっと彼のそばにいたくなるような。そんな声。
 寝ぼけた頭はあまり言葉を噛み砕こうとはしないが脳が理解せずとも体は声に溺れていく。フッカフカの声に身を委ねよう。
 今だけ、ほんの少しだけだから。よくわからないことも、嫌なことも、右手のことも忘れてもいいかな?

「うん、うん、そうだね……キミは賢い。優しくて、純粋で、とても、とても愛らしい子だ。キミの夢のお話を聞くのが、私はとっても、とーっても、大好きなのだよ? キミに何度、幸福をもらったことか! キミは頑張った。頑張って、頑張って、愛し切ったね。えらい、えらい。だから、馬鹿になって、何も考えないで、呼吸も忘れて……見たくないものは、全部、全部、ポイってしちゃおうね」

 カーテンはベール。囁き声は鐘の音、指先の桜貝でブーケを。病める時も、健やかなる時も、キミが全てを忘れても、きっとずっと、愛し続けるから。

「ふふ、実を言うとね? 私が、かわいい妹であるサラに、甘えてほしいだけなのさ。だって、聞いて? ソフィアったら、私の方が身長が高いのを頑なに認めようとしないの! 今は1cm差だけれど、私がヒトだったならもっとぜーったい差がついてるのに! もう、それが、あの子のかわいいところなのだけれど!」

 彼は、10歳だ。惨劇の始まりを目撃し、全ての望みのために奔走し、愛するもののために忘れ去られたいと望む、小さな小さな10歳だ。純粋で、無垢で、ただ、未来のために潰される今を。思い出のためにすり減らされる今を。今のサラを守りたいと言葉を紡ぐ、138cmの恋人だ。

 忘れることは罪だろうか?

 思い出さないのは罰だろうか?

 どうして、どうして、ダメなのはダメなのだろうか。

 答えはわからない。ただディアは、その問いの答え全てを愛するだろう。ディアが選ぶのは、いつだって。今目の前にある、キミの望みだ。ほら、今だって。ピンクのロイコクロリディウムは、愛で世界を支配する。

「——おにいちゃんぶれるのは、オミクロンではサラだけだから。ね、さみしい私のために、甘えてくれる?」

 舞台は用意した。さあ、望みのままに踊っておくれ。モラトリアムの内側で。

《Sarah》
「ボク、偉い? えへへ、良かった。
 ポイッ、か……」

 でもね、ボクあんまりお話得意じゃないんだ。
 もっと得意な子がいて、誰だっけ。夢の中の子? また混ざっちゃった。
 混ざらないように日記まで書いているってのに。あーあ。あーあ。


「甘える、か。難しいことを言うね。

 ……もし自分がヒトだったら、なんて考えたことないよ。」

 自分の中での理想のテーセラモデル。それは頼られてたくましくて、かっこいいドール。例えば、テーセラのプリマドール・バーナードサンのような。憧れのドール。
 あのドールは甘えるなんてこと、しないはず。ならボクはできない。
 テーセラモデルは支える側、甘えるなんて駄目な気がする。多分。
 でも、でも。
 ボクはオミクロンでガラクタでジャンク品。
 なら、いいんじゃないか。あまえても、少しなら。ほんの少しなら。
 ボクがヒトだったら、きっともう。
 ゆるされるよね。甘えても。

「そう、全部委ねて……うまいよ、いいこいいこ。ねえ、想像して? 私たちは兄妹だ。キミは末っ子、私は真ん中、一番上にはお兄さん。木の香りが心地よい家の中で、三人で川の字になって眠る。柱には成長が刻まれて、抜かれちゃうかも、なんて笑い合う。たまにドアが叩かれて、羊が、風が、クラスの子たちが遊びに来る。みんなで一緒に住んだっていいし、私たちが遊びに行ったっていい。
 全てがキミの自由。キミだけの楽園。そこにあるのは、甘いミルクの香りだけ。テーセラとか、トゥリアとかじゃなく、ただのサラとディアとして、共にいれるんだ」

 この世には、たくさんの愛がある。空に輝く数多の星に、幾重の周回軌道があるように。それらは輝き、墜落し、何光年先の輝きを与える。光が強すぎたり、弱すぎたり、速すぎたり、遅すぎたり。支えとなったり、不快の象徴となったり。どの星に薔薇を咲かせるかは、本人の自由意志に依存する。それでいいと言える愛。自分がいいと言える愛。どちらが正しいのかなんて、誰にもわからなくても。きっと、そこにあったのは、確かに愛であったのだ。キミに幸福あれ、燦々と咲く薔薇であれ、キミの望みが叶うのならば、墜落したって構わない。愛するキミに、本当の幸を。

「おままごとでいい、夢物語でいい、キミの幸福以外に、優先すべき事項なんてない!」

 私は、たった一つが選ばれて、それでいいなんて到底言えない。だから、来て。選んで。キミの愛したものを、守りたいと願ったものを、なくしたくないと叫んだものを、全部、全部、選ばせてみせるから!

「——キミの、望みは?」

《Sarah》
「あははっ、ディアサンはボク達についてこれるかな。
 なんたって、兄さんはボクと同じぐらい足が早くてボクを引き上げることができるぐらい強いんだから。」

 つい最近見た夢を思い返しながらいかに兄が素晴らしい存在か伝える。
 兄さんに引っ張ってもらって、その後はそのまま宙に浮いてお昼寝をしたんだっけ。
 ディアサンと一緒に遊ぶのなら何をしよう。花の指輪を作って、兄さんは冠を、ボクは指輪ならうまく作れる。リヒトサンよりも上手い花の冠。自慢の兄さんが作るものならなんだって好き。ディアサンもきっと喜ぶ。

「ただのサラ、とディア?
 えっと、それって、それって」

 自分だってクラスメイトや、先生方といるのは嫌いじゃない。もちろん眼の前にいる太陽とも。
 しかし、それは。
 ドールとして正しいのだろうか。
 ヒトのためのドール。
 共にいても、ヒトに尽くせるの?
 ぐるぐると回転する本棚を頭の中の小さなサラが押さえつける。難しいよ。

「ボクは、ボク達はヒトのために存在するんだよ。
 おままごとも、夢物語も、よくわからないけど……。

 ボク、は。
 ただ皆が幸せにいれたらいいんだ。
 欠けないで、可笑しくならないで」

 外傷のない真っ白でキラキラなディアサンを見るとコアが痛くなる。すぐにお披露目に行って幸せに成れそうなドール。望みなんて、ドールの望みなんてたった一つだと言うのに。
 キラキラすぎる太陽をずっと見つめてたら目が壊れちゃう。目を見て話さなければいけない。対話をする。友情を育む上で大事なこと。
 けれど今は。なんとなく見れなくて、マフラーに手を回し顔を覆う。これで何かが解決するというわけではないが。ただ逃げてるだけ。
 見すぎたら吸い込まれて帰ってこれなさそうな見たことはないけれど海の色のターコイズブルーの瞳が少し怖いの。

「だいじょうぶ」

 私は、大丈夫だよ。

「キミがどれだけ転んでも、私が、おにいさんが、みんなが、手を差し伸べてくれる。洗って、手当てして、いたいのいたいの、とんでけって。キミの毎日は、ずっとそうだった。そして、これからもそうなんだ。そして、これからはもっと愛しいんだ」

 そして、キミを大丈夫にしてあげる。

「かわいいフレンズ、愚かなフレンズ、何も心配はいらないよ。知らなくていい、想わなくていい、生きなくていい。私が、全部、全部やってあげる。キミの眠りを愛してる、キミは十分頑張った、キミは一億兆分頑張った。キミの優しさを愛してる、可笑しくて愛しいキミを愛すよ、私がキミを幸せにする。キミを、ありのままのサラを、愛している」

 支え、励まし、笑い合うのが友と言う。走り、労い、夢を見るのが友と言う。こんな言葉を、友と言う。大丈夫、キミの前にいるのは、間違いなく親友のディア・トイボックスだ。ディアの言葉はとても優しい。甘美なまでに心を犯す。——まるで、プログラム上の言葉を、トレースしているかのように。
 歪だった。吐き気がした。憎くて憎くて仕方ない。けれど、何一つ間違っていなかった。だって、そこには愛がある。サラを愛し、サラを守り、サラを生かすにはどうすれば良いか。考えて、考えて、言葉を選ぶ誠実がある。声が優しい。言葉が優しい。手つきが優しい。甘くて、甘くて、それは、友愛と呼ぶにはあまりに無償の——麻薬のような博愛だった。もう、いいじゃないか。この世界で生きていくには、あまりに。純粋なのだ、ディアの言葉は。真実なのだ、ディアの言葉は。幸福なのだ、ディアの愛は。ならば、もう。もう、いいだろう。

 さあ、顔を上げて。さあ、目と目を合わせて。さあ、踊ろう。

「——ね?」

 サラの右手に、指先に、確かにキスが落ちていた。涙が出るほど愛しい、幻肢痛だった。

《Sarah》
「ディアサンに手を差し伸べられるって、ボクがやらなきゃいけないのに。

 それに愛してるって、くすぐったいよ、なんか。それにそれは。ボクに送る言葉じゃない。」

 主人に正しい道を示すのがデュオ、手を引っ張るのがテーセラ、道中辛くなったら癒すのがトゥリアで、相談にのるのがエーナ。
 役目まで取られちゃあ、サラの存在意味が無くなってしまう。
 そのまんまのサラ? 必要ない。
 テーセラではない、身体の強くない、足の速くない、友情を育むことのできないドールなんて、サラなんていらない。
 でも、それすらアイシテしまう彼は、


「……」

 友愛の定義が揺れている。わからない。友達同士はキスをするのだろうか。
 しない、とは、教わっては、ない、はず。
 大丈夫。心配はいらない。授業はちゃんと聞いている。覚えている。風とは友好的に、喧嘩をしたらすぐに仲直りをする。ゆるす。意地悪をされていたら助ける。お花のおしゃべりには耳を傾けすぎない。
 ね、ちゃんと覚えている。

「ねぇ、ディアサン。
 サラが欠陥品でも、何もわからなくても、アイシテくれるの?」

 ただの9歳ドールのわがまま。
 愛情を確かめたいのかもしれない、
 愛情に飢えているわけではない。むしろ沢山もらってる。先生から、生徒から、兄さんから。
 ただ、太陽に見つめられすぎて、頭がぼやぼやして、もう何も深く考えたくないだけ。
 彼が自分を愛しようが愛したいが何も変わらない。
 欠陥品にも愛を注ぐなんて、変なの。

「あははっ、不思議なこと言うなあ、キミは! 当たり前じゃない! んふふ、おかしい……かわいい、かわいいねえ! それのどこが、罪だと言うの? それのどこが、罰だと言うの? どうして、ダメなのはダメなの? ふふっ、それに、キミに愛してるを贈れないだなんて、私が困ってしまうよ! 私はただ勝手に、こんなにも、キミを愛してしまっているのだもの!

 でも、そうだね……それが、キミの望みと言うならば!」

 お姫様である前に、王子様である前に、友人である前に、たった一人の女の子。一体のドールである前に、男性設計である前に、世界全部の、キミの恋人。ねえ、全部あげる。キミの望み、叶えてあげる。ねえ、コアはとっておいてあげる。いい子にしてて、ヤマネコくん。全てのキミを、諦めないから。これが愛だと、教えてあげる。

「折ってよ、私の右手」

 細い、細い、白い右手が、まるで握手でもするかのように、ただ当たり前に差し伸べられる。熱い血管。ときめく鼓動。ヒトらしさを追求された、あたたかくやさしい手のひら。触れれば壊れる。触れれば殺せる。ディアはただ、無邪気に笑って待っている。重ねられた皿の上で、くるくる囁き舞っている。美しい。愛らしい。悍ましい。この少年の一部が、キミのものになるのだ。キミの劣等感の全てが、キミのものになるのだ。この少年の全てが、世界のものなのだ。

「私がキミの右になるから、キミを私の左にさせてね」

 ——キミの夢、現実にしてあげる。

「愛してるって意味さ!」

《Sarah》
 おる? オル? 折る?=壊す?
 この細い腕を。赤い液体が常に巡っている温かい腕を。きっと触れたら触り心地のいい腕を。
 テーセラである自分に折れと?
 柔らかいトゥリア。
 強いテーセラ。
 腕がポキって壊せちゃうところなんて簡単に想像できた。
 赤い液体が溢れて、サラの左腕はディア・トイボックスの右腕を掴んでいて。 太陽は一切の影を落とすことなく微笑んでいるのだろうか。

 そんな怖いこと、ダイッキライ。

 言葉が耳に届いた瞬間、サラの体は勝手に反応していた。座っていた椅子を降りディアから距離をとる。驚いた猫のように飛ぶように離れた。
 彫刻はまばたきを数回し呼吸を整え頭を整理するがそんなのできない。


「いやっ、嫌だ。嫌だ嫌だ。嫌だよ。
 ロゼットサンはこんなこと言わない、リーリエサンはこんな事言わない、お兄ちゃんサンも、カンパネラサンも、ミュゲイアサンサンも。
 言わないよ。アイじゃないよ。
 折るのは、壊すのは、嫌い、ダイッキライ。」

 一歩、一歩離れた距離を噛みしめるように再度近づく。
 壊さないように優しく優しく優しく右手に触れる。
 大丈夫、壊さない。
 温かい。
 ほんとうにすぐに折れてしまいそうな腕。
 ボクなんかが触っても大丈夫なのだろうか。

「ねぇ、ボクの左ならいつでもあげる。だから、そんなこと言わないでよ。

 きれいな体のほうが嬉しい。」

 そのほうがお披露目に行けるかもしれない。
 右がないなら、左なら無くなったって一緒かもしれない。

 ああ、わからない! ぱち、ぱち、と長い睫毛を瞬かせて、大きな瞳を見開いて、ディアは可愛らしく小首を傾げた。
 長い春の前髪を透かして、ターコイズブルーがキミを見つめる。ディアにとっては、毎晩ベッドの中でうんうん唸りながら考えて、欲しいものを調査して、奮発して、ラッピングも頑張って、やっとの思いで渡したプレゼントのようなものだった。この、熱い手が。優しい手が。ディアにとっては、そうだった。手とか、腕とか、そういうものじゃない。もっと、幸福という概念に近いもの。腕を折られることは、痛くも、痒くも、怖くもない。たくさんたくさん考えて渡した、愛のプレゼントが受け取ってもらえなかったことも、怒りも、悲しみも、湧いてこない。その全てが可愛らしく、美しく、愛おしい。——ただ。

「……? ごめんね、ありがとう……でも、サラもとってもきれいだよ? 右手がなかったらきれいじゃないなんて、そんなことあるはずないのに。できないことが、欠けていることが、悪いだなんてあるはずないのに。きれいな体のほうが嬉しいのに、どうして……どうして、そんな、寂しいこと、言うの?」

 ——ただ、ターコイズブルーの瞳に映るは、困惑だった。
 全てを愛し、全てを望み、全てを知りたいと願う。輝くタクトは、鈍く光るナイフにも、涙を拭うハンカチにもなれる。ありのままのキミでいいと、誰より願う彼自身が。キミのためなら何にだってなれると語るのだ。ディアの全てが、世界のためにあるのだ。それは、理想とされる恋人像。望みと矛盾の複合体。キミの愛が、歪な彼を作っていく。キミの望み一つで、世界を変える力がある。ディア・トイボックスは、歪で、悍ましく、そして、とても愛らしい。——世界の恋人なのだ。

「私、わたしっ、もっとお勉強する! 知りたい、愛したい、キミが好きだ、大好きだ! もっと、ちゃんとサラのこと、知れるように! 愛せるように! たくさんたくさん頑張るよっ、だから——その日まで、どうか待ってて! 大好きな子たちみんなで、大好きな子たちを迎えに行こう! ずっと一緒にいよう。重ね合った爪先を、いつまでも土で汚していよう。大きなバーガーで顎をはずそう。くだらない傷を愛そう。アメリカンムービーの親友たちのように」

 きゅ、と両手で迷いなくサラの手を握る。冷たくて、気持ちのいい手。強くて、優しい手。大好きな手。つう、とサラの手を伝うのは、熱い、熱い涙だった。幸せそうな笑い声だった。ねえ、約束しよう。夏の着物を贈ることで、キミに夏を贈るように。愛を伝えるのに、アルコールが足らない情けなさも、愛情が満ちているから、許せてしまうみたいに。ただ、キミを愛したい。何もわからなくても、何も知れなくても、世界を救い、世界を愛す。キミに、愛するキミに、輝かしい未来をプレゼントしたいだけ。キミを、幸福にしたいだけ。ずっと、それだけ。キミを世界に連れて行く! ディアの涙は、幸福由来。ディア・トイボックスは、希望に溢れる世界の恋人。——世界の恋人なのだ。

「刹那が怖いのなら、蝶と一緒に空高く跳ぼう。地球の中心にさよならを言おう。永遠が怖いのなら、明後日に約束をすれば良い。夢から覚めたくないのなら、同じ夢を見れば良い。もっともーっといっぱいの、キミを愛する子に会いに行こう! 実は、私たちは今、みんなでとーっても楽しい夢を見ていてね? ——ご興味ないかな、フェアリー・フレンズ?」

《Sarah》
 ストップストップ。
 早くたくさん喋るのはNGで。
 一度深呼吸。
 いち、にぃ、さん。すぅ。はぁ。
 深く息を吸いまた吐く。
 あっ、やっぱり無理だ。

「欠けているのは悪。満たされているのは善だ。
 常に満たされていて、貪欲なディアサンにはボクの、欠けているドールの気持ちなんてわかんないよ」

 小さく開いた口からは言葉がいくつも溢れ投げつけられていく。
 言葉の防波堤は仕事を放棄していて、強い言葉は門を簡単に通り抜けてはぶつかる。効果があるのかなんてわからない。
 けれど投げた側のサラには効果ありのようだ。

「いやっ、違って。ごめん。間違えた。




 ねぇ夢の中にずっといてもいいのかな?
 お花と喋ってたってベッドを煮詰めて風を添えて食べたって、芋虫の煙に乗って空を旅したり、マフラーに巻き付かれて冬眠したって。
 わからなくなってもいいのかな。
 ボクは……ずっと寝ててもいいのかな。
 だって、どうせ……なんでもない」

 お披露目には行けないのだから。

 宝石からあふれる形のない雫さえも壊さぬように拭う。
 サラは自身を肯定してくれる人を、強い人を好む。
 眼の前にいる太陽は体はけして強くはないがサラには壊せない芯がある。
 何よりも、何よりもサラの夢物語の共演者。
 共に夢を見よう、聞こう、触ろう、感じよう、嗅ごう、創ろう。
 夢から覚めるまで、一緒に寝てくれる?

「そんなことない」

 わからないことだらけだ。

「そんなことないよ! そんなこと……っ、そんなこと、ないよ。私だって欠けてる。だって私は、キミの気持ちの全部をわかって、全部を愛して、全部を救っていたいのに……大事な大事なキミの気持ちが、わからないのだもの」

 知らなければならない。

「おそろいだ」

 ただ、ディアは、わからないことが幸福で、幸福で、仕方がないのだ。教えてもらうこと、知りたいと奔走すること、その傷でさえ、当たり前に愛している。キミが、この世界に存在していたこと。それだけで、涙が出るほど幸福で。けれど、ディアは貪欲で、全てを望むものだから。ただ、望んでいる。キミの望みも、世界の望みも、全て、全て叶えたいと。ただ、キミの笑顔が見たいと!
 ディア・トイボックスは、世界の恋人は、純粋で、欠陥品で、絶対に、全て、全て諦めないのだ!


「トゥリアモデルって、私が愛してきたものって、恋って、そういうものなの。好きな人に意地を張りたくて、かっこ悪いところ見せたくなくて、でも全部、愛してほしくて。矛盾だらけで、情けなくて、欲が絡んだり、好きだからこそ傷つけたくなったり、好きだから、好きって言えなかったり。遠回りして、転んで、離れて、それでも、抱きしめに行きたくなっちゃったりするの! そういう不器用さも、全部、全部、大好きなの! 全部、全部、かわいくって、いとしくって……しかたない、の。キミの望みを叶えたいから、頑張ってみただけで……ほんとは、私、友愛の正解なんて知らない……けれどね、一つ、一つだけ、私でも知っていることがあるの。——お友達とは、本当の自分を、当たり前に曝け出せる関係のこと。

 っだから、だから……っ、本当の私で、キミに愛を伝えさせて」

 涙が、幸福が、愛が溢れて、止まらない。私なりの愛で、キミなりの愛で、キミと話ができたなら、どんなに幸福だろう、どんなに愛しいだろう。遠回りして、転んで、離れて、怖がらせて、それでも、そこにあるのは愛だった。友愛でも、性愛でも、恋愛でもなく、ただ、愛であったのだ。

「——キミが、サラが好きです。朝焼けを見れば、またキミの夢を見れる。そんな愛をくれて、ありがとう。私たちの夢に、ついてきてください」

《Sarah》

「いっしょ……おそろい……」

 嘘だ。真っ赤な嘘。真っ黒な嘘。
 オミクロンに堕ちてきたってプリマドールっていうタグは外れない。ずっとついてる。
 生まれた頃から設計された頃から欠陥品と比べてみろ。
 完璧だったのに。

「ボクにアイ? ボクが好き?
 でもボクはディアサンのことが嫌いだよ。
 それ、に。ボクはディアサンについていけない。
 だって主人サンが待ってるはずだから。
 ボクを、サラ・トイボックスを。」

 一歩、一歩またディア・トイボックスから離れる。彼に依存してはいけない。離れて、温かい太陽から、輝く太陽から。
 テーセラモデルはヒトの友達に、理解者になるために作られたドール。
 ドールが理解者(依存先)を求めるな。
 ただ一人、サラ・トイボックスを求めてくれる主人を求めろ。

「でも私は、私は、キミが好きだよ! 私を嫌うキミも、突き放すキミも、殺すキミも、みんな好きだよ……」

 いつだって、全てを選べるのは与えられたもののみで。全て、満たされている側の言葉でしかなくて。そして、どちらも何も悪くない。腕一本分のシルクでは、到底説明できない溝が、二人の間には存在していた。そして、世界に満たされた、歪な歪な少年は——迷いなく、深い、深い溝へと飛び込んでいく。

「——この心臓を潰せば、キミの隣で話ができるの?」

 ときめき続ける心臓に手を当て、爪を突き立てる。何も傷つけられない、弱くて脆い、優しい手が。今だけは、愛に任せてずぷずぷと埋まってしまいそうで。いつだって、その身に宿る激情を愛するのはディアだけで。ディアは、永遠にひとりぼっちであった。それすら、愛していた。ただどうにもないくらいに、世界を愛していた。

「なんてね、冗談。まだ、“その時”じゃないから」

 私がいらなくなるその時、私が消えるその時、キミという星を掲げに行こう。

「いつかまた、迎えに行くよ。みんなも、みんなのご主人様も、大事なものも、全部一緒に、夢路の橋を渡ろう。私が死んだら、いらなくなったら」

 私が堕ちる煌めきで、キミの愛が、遥か遠くのご主人様に、見つけてもらえますように。

 だから。

 だから。

「またね、サラ」

 その時の別れは、さよならがいい。

【寮周辺の森林】

Ael
Dear

「エル〜〜〜!!! 私とお話しよ〜〜〜う!!! 愛しているよ〜〜〜!!!!!!!!!!!」

 暖かな陽光差し掛かる、静寂に包まれた森の中、美しい少年の笑い声が響き渡る。

 ぎゅう、と小さな両手で抱える鞄の中には、授業のプリントや皿のかけら、虫の抜け殻。今まで愛しきものたちと心を通わせた証が、所狭しと詰められている。最近のものでいえば、少し水分は抜けたがいつも抱き抱えて眠っているのがよくわかる花冠や、ハンカチにくるまれて眠っている花の死骸——壊されたエルのブーツなど、だ。

 明朗な大声。澄んだ高音。あの愛らしい天使様は、必ず迷える羊に会いに来てくれる。私がたとえ、ゲヘナの底にいたとしても。そう、信じてやまない。だって、私たちはそう造られた存在なのだ。燃え盛る炎に飛び込んで、恒星となって世界を照らす。柔らかな風も味方にして、その声は世界中へと飛んでいく。運命には抗えない。神託は必ず実行される。プログラムは必ず実行される。神と、神に愛された者たちによって。

 ディアはエルへの悪意の証を大事に大事に抱え、その愛の円盤を天使へと向けた。

 ——エルが来てくれる方が先か、騒音被害で訴えられる方が先か。もしくは怪奇・永遠に愛を叫び続ける少年として学園の七不思議となるか。仁義なきバトルの始まりである。

《Ael》
「わわ!? ディアなのです!? びっくりしちゃったのです! こんにちはなのです!」

 朗らかな少年の笑い声が耳に入る。エルを、天使を愛していると、話したいと呼んでいる声が。あまりに大きな声だったため、エルはハッとしてそちらへと駆けた。先ほどずぶ濡れになってしまった髪の毛と制服はそのままに、一直線にディアの、声の方へ。
 ディアは色々なものを手に抱えており、エルと話したいと言わんばかりの表情で天使が降り立つのを待っていた。

「えへへ、エル、ディアと話せることがとっても嬉しいのです!」

 向けられた愛情の目を受け止めて、キラキラと輝く天使の笑顔を受け渡す。びちょびちょなままのエルだけれども、それでも受け止めて愛していると言ってくれるのがディアだ。ディアはエルのことを、いや、ドールズを恋人と呼ぶが、エルはディアは"恋人"ではなく、"ディア"だと思っている。目の前にいる片想いのおとこのこは、エルと話したくて仕方がない。それと同時に、エルも、可愛らしいなと天の愛情を向け、話をしてあげたいと心から愛玩した。

「エル〜〜〜! どうしたの、そんなびしょびしょになってしまって〜! あっ、わかった! ジャパンスタイル、ミズモシタタルイイオトコってやつだね! トゥリアの授業で教えてもらったよ! ホットガイ講座仕草編-ひよこさん版-! 前髪わーっ、ぐしゃーってするのだよね! ふふっ、かわいい〜〜〜! でも、風邪を引いちゃうといけないからね! ぎゅーっとくっついていよう!」

 こちらへ一生懸命に駆けてきてくれたエルの献身により、騒音被害は免れた——かと思われたが、愛するものに出会えた喜びで勢いと声量は増すばかり。冷たい体に勢いよく抱きつけば、灼けるような太陽がエルの鼓動を溶かしていく。エルは天使だ。腕を回した細い背中には、大きな、大きな、白い翼が生えている。優しく撫でた頭には、天使の輪が浮いている。ディアがドールである前に、トゥリアモデルである前に、オミクロンである前に、ディアである前に、世界の全てを愛する恋人であるように。ディアにとって、エルは天使である前に、かわいいかわいいハニーであるのだ。燦々輝く太陽は、天使のニスを溶かすのか。蝋の心に、暖かな火を灯すのか。ただ、本当の人形同士の、無邪気な幸福だけが響いていた。

「んふふ、私もね、ずっと、ずーっとお話したかったの! とーってもかわいいスイートを見つけてしまってね! ええっとね……ん、ん、これ、これ! ご存じないかな!?」

 抱きついたまま、んしょ、んしょ、と間を縫って取り出したのは、ひどく破損したエルの靴。悪意の証。墜落流星、天使の翼。くすくす笑い、きらきら瞬き、恋する乙女が取り出したるは、愛したものの証だった。——さあ、迷える羊の問いに答えて、天使様。

《Ael》
「ミズモ………?? ホット、貝…………????? ひよ……??????? わわっ!?」

 意味のわからない単語ばかりが左耳に入り、右耳から抜けていく。そして、ぎゅう。ぬくもりに包まれて冷えかけの身体は体温を少しずつ、すこぉしずつ取り戻す。驚きながらもエルはえへへ、と優しい笑みを溢し、聖母マリアはこの様な気持ちであったのかと実感した。残念ながらエルは聖母マリア、あるいはそのような存在ではない。母親ではなく、一観測者──そう、"天使"として、全てにおいて平等でなくてはならない。天からの使い、命じられたことを伝える、大事な大事な役割。記憶を失いやすくなっているエルだが、天使の役職が外されていないのは、これがエルの運命だと神様が足枷をしただけなのかもしれない。一つの、ビスクドールであり、一人の、大事な天使。──これが、エルの使命なのだ。
 よいしょよいしょと何かを取り出すディアに目を向けていれば、ボロボロになった靴が。誰のものだろう、どうしたものだろうと思っていたが…………Aelの文字列が。

「これは……エルのなのです? どうしちゃったのでしょう、でもこればかりは仕方がないのです、せんせいに報告するのです!」

 あらら、と驚きながらも仕方がないと振り切った。エルはこんなことをされる心当たりは全くな──

 もしかして。ふと、頭の中に記憶がよきる。怖くて、暗くて、何なのかがわからない、あの記憶。"あれ"なのだろうか。そう思って、ふとエルは黙りこんでしまった。

「んふふっ、エルみたいにとってもかっこいい子のことだよ! あははっ、私もちょっと濡れちゃった! お揃いだね、嬉しい!」

 陶器のように真っ白な肌を濡らしながら、ディアはそんなこと気にも留めず、濡れた髪にキスを落とした。願わくば、その美しい頬を濡らす水が、涙へと変わりませんように。その時が来て、キミの涙を拭ってくれる存在が、いっぱい、いっぱい、隣に居ますように。世界が幸福に溢れるその時、私がそこにいませんように。ただ、それだけを願って。真っ赤な唇から溢れる言葉は、春風のように舞っている。ディアの言葉はあたたかく、さわやかで、純粋で、指の隙間をすり抜ける。誰もが求める美しい愛で、全てを望む唇で、望まないでくれと語るのだ。敬虔なる愛の使徒は、小さな天使様の右目には、どう、映るのだろう。

「そうだね、先生なら何かご存じかも!エルはかわいくてかっこいい上に賢い! 天才! かわいい! とっても素敵だ! そっか、そっか、先生か! あのお方はとってもとっても優しくて、平等で、どこか寂しい方、だ、から……」

 沈黙。記憶。恐怖。ディアの高い洞察力は、無惨にもそれを捉えた。捉えて、しまった。次の瞬間。咲き誇りたるは、一輪の笑顔。

「知っているのだねっっっ!!!!!!」

 ディアなら、世界の恋人なら、絶対にそんな顔はしない。いつだって心の底からの笑顔で、全ての望みに応え続ける。私たちは、そう造られたプログラム。私たちは、同じ。全てを愛するそのために、全てを知らねばならないのだ。——これが、世界の恋人の使命なのだ。

「ねえ、どうか教えて! 笑って、愛して、導いて——キミが、天使様ならば!」

《Ael》
「……とにかく、これはエルがエルで何とかしてみるのです、ディア、ありがとうなのです!」

 えへへ。天使は微笑みをこぼす。自分がどんな役割なのかを忘れて、自分がどんな天使なのかを忘れて。ただ恐怖を思い返した悲しいビスクドール。それは、自分を繕うものであった。今はここに、天使はいない。怖くて仕方のない天使さまはお眠りになってしまったのだ。だから、代わりの"エル"が挨拶をする。えへへ。と。本当は怖くて仕方がないのだけれども、そんな表情であればエルは、さらにエルでないようになってしまいそうで、そのほうが怖かった。とにかく大丈夫だ、自分で何とかできるだろうとディアにありがとうのあいさつ。頬への優しいキスは、知らないふりをした。
 ぎゅう、と彼の持つ靴を握る。彼の手を覆い被せるようにして、両手で。ドールの微笑みを溢して、そして。

「エルが聞くのがいちばん良いと思うのです。ディア、本当に助かったのです! 受け取ってもいいのです?」

 恋人でも、天使でも、何でもないただの男の子がいた。エルは、自分がどこに居るのかを見失ってしまったのかもしれない。でも、確かなことは───
 √0が、いる、それだけ。エルは天使として、ドールとして√0に貢献したい。いや、一つの命として。明確な道はあるものの、長く複雑で簡単に歩けない。でも、灯りを灯すのは自分だ。今は、天使は、お眠りさんなのだ。だからまってて、天使の微笑みがまたあなたに福音をあたえるまで。

「ん、もちろん! それがキミのお望みならば、喜んでお渡しするよ!」

 ぱぁ、と心の底からの美しい笑みを浮かべ、ディアはその羽根を天使に託す。ああ、エル。かわいいエル。キミの空を守りたい。キミの夢を守りたい。キミの全てを愛したい。二人はきっと、お互いのプログラムを遂行できない数少ない存在なのだ。神に問う、天使に問う、信頼は、無抵抗は罪なりや。その罪でさえも、愛したいと望んでしまう。きっと二人は混ざり合えない。既に救われている存在を、救うことはできないからだ。既に愛し、愛されている人間に、愛を教えることはできないからだ。ディアが不幸となることなど、ありえないからだ。きっと二人に意味はない。福音は、聞こえない。けれど、キミの声は聞こえるから。キミの心臓は鼓動するから。だから、また話をしよう、エル。私たちの、かわいいかわいいただの少年。

「次に会うときには、もっと頼り甲斐のある恋人になってみせるよ。キミの踏む地が天国だ。キミに地獄を望まれる、そんな幸福を愛している。だからどうか待っていて、愛しているよ、エル」

【学園1F エーナドールズ控え室】

Alice
Dear

 軽やかな足音が響いている。天使の音。愛の音。愛しい愛しい恋人を探して——バァン! と盛大に扉が開き、ディアは、本日のターゲットをその目に映した。

「ぜー、ぜー……っ、そこの可愛らしい子!!!!! ライ麦の輝きをその御髪に宿し、世界中を駆け巡る春風の囁きを瞳に嵌め込んだ憎悪の子!!!!! ああ、ああ、会えて嬉しいよ! なんっと可愛らしいのだろう! キミの鼓動に棲む激情を思い浮かべるだけで、私の体は舞い上がり、赤道を駆け抜けて行ってしまいそうさ! ああ、私はなんと幸福だろうね! 好きだよ、かわいい、愛している! とってもかわいい天使の子! ハグをしても? キスをしても? キミの鼓動に触れさせておくれ!!!」

 びしっ! と大仰な効果音が目に見えるほどの勢いで、ディアはアリスへと人差し指を向ける。小さな肩で大きく息をし、見るからに疲れ果てているその体で勢いよくアリスの方へ駆け寄ったかと思うと、学園中に響くような大声で愛の言葉を捲し立て始めた。ディアは頻繁にこのような奇行に走ることがある。相手は花畑を可愛らしく闊歩する虫さんであったり、コーヒーであったり、他クラスのドールであったり、先生であったりと様々だが、本日のターゲット——及び今回の被害者は残念なことにアリスだったということだ。学園にいたドールたちも嫌味を言うのでさえ憚られると言った様子で、触らぬ神に祟りなしと捌けていく。その間にもディアはずいずいと距離を詰め、鼻と鼻が触れ合うほどに近づいていた。完全なる不審者である。何が目的なのかと、貴方はその聡明な頭で思考を巡らせるやもしれぬが——

「——キミのお名前は何かな!」

 ——実際のところ、ただの純粋なるナンパであった。

 あなたが勢い込んで飛び込んだ控え室。目の前には瞳を灼くような綺羅綺羅しい豪奢な空間が広がっている。
 壁には、色とりどりのドレスやタキシードなどの正装がハンガーに掛けられて並んでいた。化粧台が三つほど並んでおり、あなた方はこの場所でお披露目の支度を入念に整えるのだ。

 また控え室の奥には一枚の鉄扉があり、その先はダンスホールの舞台袖へと通じている。


 溢れ出る濁流のように全てのものを押し流す愛の言葉は、天からの祝福のように宙を舞って飛んでいく。
 愛の亡者とも呼べようあなたの口説き文句をその身で受け止めることになったドールから、張りのある言葉一つ返らないからだ。

 あなたの目線は今、足元に向けられている。幾重にも花弁の折り重なった可憐な薔薇のように、様々な色彩を持つドレスの尾ひれが四方八方へ広がっている。要は整頓されたクローゼットから取り出され、散らかされているのだが──その薔薇に埋もれるようにして、とびきり豪華な金色の髪が周囲へ飛び散っていた。美しく巻き上げられていたであろう髪は解かれている。

 無気力に控え室の天井を映していた翡翠色の瞳が、あなたへ向けられた。やかましいと言わんばかりに顰められて。

「……あら、これはトゥリアクラスの“元”プリマドール、ディア様ではありませんの。ご機嫌よう、わたくしはアリス。流石は愛玩用のドール、日常生活からもまるで品を感じられませんのね。

 わたくし、見ての通り今は疲れておりますの。お静かになさってくださる、最低限のマナーでしょう。」

 嫋やかな足は頽れて床に投げ出され、負傷兵のように壁に身を委ねて。確かに疲れているように見えるが、異様な気配の漂う姿で、少女は辟易と肩をすくめた。

「アリス、アリス、アリスだね! んふふ、かぁわいい……私のお名前、知っていてくれて嬉しいよ! モデルまで覚えていてくれるだなんて……確かに、レディの前で不躾だったね。トゥリアモデルは美しいものの前での正しい振る舞いを教えられるモデルでもあるのさ、任せてよ」

 愛しき恋人へと投げかけた問いに答えてくれたことが嬉しくて、くすくすと口元を押さえて小さく笑う。美しく釣り上がった目尻を下げ、柔らかな頬を緩ませて無防備に笑う姿は、正しく元トゥリアモデルプリマドールと言うにふさわしき愛らしさであった。細い膝を折り、眠れる女王に傅く姿は、正しく世界の恋人と言うにふさわしき洗練さであった。無造作に散らばるドレスでさえ、鮮やかな花の棺へと変えてしまう。無機質な鏡の視線でさえ、おしゃべりなメイドへと変えてしまう。愛の魔法。さらりと流れるミルキーウェイを掬い上げ、キスを落とした。トゥリアモデルは、美しさを追求されたモデル。欲を受け止め、愛し、従順に返す姿は浅ましいと、卑しいと形容されることも多い。口が上手いわけでも、頭が良いわけでも、体が強いわけでもない。美しさしかない。ただ、そこには。時に言葉より、知識より、純粋な強さより人を動かす——圧倒的な美があるのだ。

「確かに私はトゥリアモデルだけれど、本を読むのは大好きさ。本たちはおしゃべり好きでとっても可愛いし、愛する世界のことを知れるのは心地がいい……でも一つ、惜しいことを挙げるとするならば、辞書の幸福の欄にキミの名前が載っていないことだね。そうは思わない? ローズクイーン」

 獰猛な獣の手綱を握る、美しい彼の一声が。

「ふふ、どうかキミのお耳を優しく揺らせるよう気をつけるから、私とお話、してくれる? とってもとっても優秀で、とおっても頭のいいキミが、もっともーっと、優秀になるお手伝い。キミの知らない物語、お話させてよ」

 ——弱い訳がないのだと。

「ええ、お噂はかねがね。あなたのことはとてもよく耳にしますわ、プリマの無様でみっともない零落は、絶好のゴシップの種ですもの。
 そう言ったお話は、あなた方プリマドールの耳障りな成功談よりもよっぽど、耳心地良いものでしてよ。うふふふ……」

 アリスはあなたを、ひいてはプリマドールという栄光を背負ったドールを拒絶するように、刺々しい言葉をわざと選んでいるように思えるだろう。
 あなたとの対話を望んでいないのだと有り体に知らせるかのように。疎ましそうにあなたを睨み上げていた、気の強そうな切れ長の翠玉は、しかし悪辣に細められる。うっそりとした嘲笑は彼女の肌に馴染んでただただ美しく空間を底冷えさせる事だろう。

 ドレスによって形どられた花棺の前で恭しく跪き、作法に則って高貴なる者に対するそれのように口付ける彼の仕草は、成る程トゥリアのプリマドールに選ばれるだけあって、息を呑むほどにうつくしい。彼そのものが銘を刻むほども躊躇われる一等の芸術品であるかのよう。
 アリスはその様を見て、ひとまずはプリマに対する理不尽な敵意を収めたようだ。取り憑く島もない様子では無くなるだろう。

「わたくし、先ほども申し上げましたけれど、とっても疲れていますの。

 エーナモデルとしてあなたのお話には付き合って差し上げますが、そうダラダラと時間を殺されるのも本意ではありませんことよ。

 さて、本日は一体どのようなご用向きなのかしら、ディア様。」

「ふふ、貴重なお時間いただき誠に光栄に存じます、女王様? では、お言葉に甘えて。コホン……主人公はね、一人の小さな男の子。男の子は風に急かされ、空に背中を押され、床にいざなわれるままに、不思議で可愛いドレスの海に迷い込む。ティーカップが囁くの、侵入者がやってきた、女王様に報告だ! トランプ兵が男の子の手を引いて、舞台は裁判所へと早変わり。そこには、とっても美しいライ麦色の髪と、翡翠の瞳。その器に激情を持った女王様がいて——男の子は、あっという間に恋に落ちてしまうの」

 感嘆の声を出さぬよう、必死に迅る鼓動を抑えるも。目は口ほどに物を言う、とはよく言ったもので、嬉しくて仕方ない! と言う気持ちが溢れに溢れた瞳を合わせ。ディアはときめく胸に手を当て、恭しくボウ・アンド・スクレープを披露する。一つ咳払いを落として、滔々と語り始めるは。キミの知らないお話。けれど、どこかで聞いたような話。美しく揺らされる桃の髪を彩る栄冠にふさわしき、太陽の輝き。刺々しい言葉に満ちた氷の世界を、雪解けのように優しく溶かす、愛の言葉。優しい肯定。打算も、策略も意味もない、ただ、馬鹿らしいほどに純粋なお話。シャボン玉のようなそれは、冷えた星の海に触れ、凍っていく。不定形な愛の言葉は、消えることなく輝いた。そうやって、皆で生きていければ良い。

「思わず愛の言葉を並べ立てて、男の子は可愛い女王様に聞くよ、お名前はなんですか、って——彼女はアリス、アリスと甘やかな声で囁くのだけれど……どうかな? まだ未完のお話だけれど、続きが気にならない?」

 細い人差し指を唇に当て、目を細めて悪戯っぽく微笑む。歯の浮くような口説き文句が、二人の間に満ちていく。暗に——暗にと言っても全く隠す気もなかったが——キミが好きだ、これからも共にいさせてはくれまいか、とプロポーズ然とした言葉を囁く。断頭台に晒されている。目の前の女王の気まぐれで、悪意で、簡単に首が飛ぶのだと。そう理解していながら、ディアは無防備に小首を傾げた。罪人でも、屍人だっていい、キミのそばに入れるのなら。だって。

「ふふっ、ねえ、アリス! 私ね、キミのことすっごく好き! かわいくて、聡明で、かっこよくて、かわいくって、とっても最高! んふふっ、ねえ、アリス、アリス、アリス!」

 だって、こんなにも幸せだ! ばっ! と大きく両手を広げ、ディアはアリスの名を呼ぶ。何度も、何度も、くすぐったそうに笑って、何度も。項垂れる薔薇の花弁を心配そうに覗き込めば、おいで! と、両手を差し出すが——

「——どうか私と、デートをしてはいただけませんでしょうか、女王様!」

 ——よもや、この真っ白な細腕でアリスをお姫様抱っこするつもりであるようだった。

「あ、お姫様抱っこが恥ずかしいのなら、添い寝デートでも私は構わないよ?」

 貴方が何かしらのアクションを起こさなければ、この頭お花畑男により、状況はどんどん悪化していくことだろう……。

 一言許しを与えると、たちまち透き通る水晶の身を持つ王子様から、滔々と澱みなく溢れる奇妙で胸踊る物語。彼女が好奇心旺盛な迷い人の名を冠しているからだろうか、耳馴染みのある物語はアリスの為に脚色を与えられ、あなたと彼女の為だけの素敵なラブロマンスに早変わりする。

 アリスは、あなたが物語の語り部でいる間、存外にも物静かにしていた。いまだドレスの花束の中に埋まりながら、きらめくライトブルーの瞳が発する愛と希望のしらべをただ受け止める。
 そうして口を挟めるタイミングを狙って、アリスは豪奢な睫毛を瞬かせる。

「…………その、お言葉。もしかしてこのわたくしを口説いているおつもりなの?」

 賛美と、溢れるほどの愛と、そしてこの心を求めるように名を呼び重ねるあなたを、アリスは胡乱げな目付きで見ている。
 頬に掛かる黄金色の絹糸を耳に掛けおろしながら。

「さすがは、選ばれし至高のトゥリアドールですこと……自分磨きに全くの余念がありませんのね。

 でも残念、あなたの言葉は向けるべき相手を間違っておいでね。わたくしたちドールズは、ただ一人、わたくしたちをいずれ抱き上げるご主人様のためだけに存在する。そんなこと、目覚めたばかりでもすぐに教わる常識の筈なのに……

 わたくしは数多に恋を囁くような不埒者にはなりませんの。ですから、せっかくのお誘いですが謹んで、ご遠慮しておきますわ。それに今は、ここから離れたくありませんもの……」

 アリスはそう呟いて、フリルとパニエの優しい包容に埋まっていく。どうやらここを移動する気は無さそうだ。

「………っ」

 ぶわわ、と白い頬が、耳が、指先が、春一番が駆け抜けたかのように真っ赤に染まっていく。あ、う、と意味のない文字列をその薄い唇から溢れさせ、両手を赤い顔に当ててきゅう……と萎んでいくその姿から察するに、とても、とても恥ずかしかったらしい。口説いているつもりなのか、と図星をつかれたことが、こんなにも。ディアは世界の恋人だ。世界の全てを平等に愛し、世界の全てを平等に望む。世界の全てを口説き続ける、正しく愛の化身と呼ぶべき人形だが……その実、その全てを本気で愛しすぎてもうたまらないのだ。一人一人に全力で、誰も取りこぼしたくないと願う。キスをされれば恥ずかしいし拒絶されれば愛おしさでご自慢の脳もショートする。皆と同じだ。歳を取らず、髪も伸びず、病気にもならず、聡明で、世界の誰よりも美しく、全ての世界を愛する少年。トゥリアだからじゃない、ドールだからじゃない、ヒトだからじゃない。ただ当たり前に、恋をしている。口説いているのか、なんて、そりゃあ、もう。

「っ、ぅ………あ、っ、………っ、く、くっ、口説いてるよ!!!!!!!!!」

 間違いなく、今日一の大声であった。

「キミに価値を見るのは、私だ。私は、キミの前にいる。キミの隣にいたいと願う。ドールじゃなくたって、トゥリアモデルじゃなくたって、プリマドールじゃなくたって、罪だって、罰だって、好きなものは好きだよ!!!」

 間違いなく、心の底から溢れた叫びだった。

「……あっ、えっと、ごめんなさい、お元気がないのに、つい……ねえ、それって」

 は、と我に帰ったように謝罪を述べれば、しょぼんと濡れた子犬のように長い睫毛を伏せた。細い人差し指を合わせ、気恥ずかしそうに視線を彷徨わせていたが……誘いを断る、といううららかな拒絶の言葉を聞いた瞬間、上げられた瞳は——きらきらと数多の星の輝きを宿し、10万ルクスの光を纏っていた。

「添い寝デートを許してくれる……ということかな!? ああ、私、好きな子と同じ夢を見るのがとってもとっても大好きなの! 嬉しい! ドレスさんたちの上に寝るのは少し心苦しいけれど……お隣、お邪魔させていただくね! 私、キミの、アリスのお話が聞きたい!」

 ディアはエーナモデルではない。言外の望みを感じ取ることができない、嫌味を嫌味と受け取れない、単純で裏表がなく、パーソナルスペース0……つまりは、傍迷惑無邪気ポジティブ拡大解釈男である、ということだった。

 アリスはあなたの百面相に圧倒されたようだった。羞恥を抑え込めた拡声器を通したかのような必死な大声にも、肉眼で見える恒星のように虹彩を灼く力強い輝きを宿すクリスタルの瞳にも。
 躍動する想いを一心にぶつけられ続けるリアリストの彼女の心境は果たしてどのようなものか。僅かに顰められた目元から、あまりよろしくないものであるのは確かなのだが。

 何せアリスはプリマドールの座に輝く格上のドールを皆毛嫌いしている。疎ましい相手に激しすぎる慕情をぶつけられれば、エーナモデルとて反応に困るというもの。

「……理解に、苦しむわ……」

 眉間に握り拳を置いたアリスの横顔は苦悩の一色である。眉間には不可解をありありと示す皺を無数に刻んで、愛嬌のある顔立ちをすべて台無しにしている。これもすべてあなたのせいなのだ。

「は?」

 その上あろうことか座り込むこちらと共寝を試みようとは、一体どういう了見だろう。アリスの眦が一気に吊り上がる。

「い……良いわけないでしょう、一体いつ誰が許可したというのかしら。人のお話をきちんと聞いてくださる? デートだなんてお断り。特にあなたのようなプリマドールとは絶対にご遠慮致します。

 壊れ物を哀れに思うからこそ、お話程度は付き合って差し上げていることをお忘れなく。気安く近づかないで頂戴……不愉快ですわ。
 それにあなたと来たら好き、好き、の一点張り。もう少し有意義な会話にしようとする気概は無いの? ……フン、無いのでしょうね。愛玩用のドールに、エーナモデルほどの熟達した対話が出来るわけがないもの。」

 初め、アリスは惑うように声色を揺らしていたが、言葉を発しているうちに調子を取り戻してきたのか、あなたを嘲るように意地悪に口角を釣り上げた。こうまで言えば気分を害して──そのくだらない恋心などというものも冷めるだろうと考えてのことだ。

「んふふ、そのお顔もとっても可愛い! 理解してくれなくていいよ、私が勝手に、キミを全て理解して、全て愛していたいだけだから。けれど、理解しようと思ってくれて嬉しいな! だって、興味のない相手にはその美しい眉を顰めることもないものね? ふふっ、ええと、近づかないで、だね! かしこまりました、女王様。このくらいでいいかな?」

 楽しそうにころころと笑って、溢れてやまない恋を抱えぴょんぴょんと飛び跳ねながら、部屋の隅へできるだけ体を寄せる。ぎゅう、と幼い器を縮こませて、愛しきものの望みに応えられるのが嬉しくて仕方ないのだと。それこそが、自分に与えられた最上幸福なのだと。それこそが、ディア・トイボックスというプログラムに与えられたコードなのだと。くしゃり、とやわい髪が頬を包み、その姿は正に花に住む小さな親指姫といった真っ直ぐな献身であった。

「ええっと、それでー! 好き以外のお話ということだったのだけれどー! 愛玩用って何ー!!!! 私の恋がーーーー!!! モデルのせいだって言いたいのーーーーー!!!!」

 花弁を伏せる薔薇の、憂の睫毛に春風のメイクを。部屋の隅からでも届くようにと、精一杯に声を張り上げていたディアは。

「……ねえ、私、嘘じゃないよ。トゥリアモデルだからじゃない。本気だよ」

 そっと息をひそめ、くすくすと笑った。それは、今まで見せていた純情な少年とはまた違う、歪んだ愛の片鱗であった。よれたハーフパンツから覗いた黒子が。ディアが理想と、欲と、全ての渇望の末に生まれた歪んだ複合体であることを静かに証明している。胸を刺すほどに純粋なクリスタルを艶かしく彩る黒子が、ぐらりと蠢く。小さな体。高い声。何人たりとも汚せぬ愛の澱。その身を、心を、全て与えたいとただ純情に望む幼い少年。学園中に朗々と大声を響かせるディアが、声を顰めた。その事実が意味するは、ただ確かな真実だった。ディアは愛するもののためなら、なんだってする。例えば、今目の前にあるキミが、どんなに残虐なことを望んでも。意味はない。理由もない。疑問も、憧憬も。ただ、ディアがディアである。それだけの話だった。

「——キミの望み、叶えてあげる」

 ディアの優しさを、正しさを、高潔を、否定できるものがどこにいよう。

「……はあ。それは離れ過ぎですわ、まったく、パーソナルスペースすらご存知ないのかしら。」

 広い控え室の対角線上、互いの声が届きにくい距離まですっかり離れていってしまうディアの後ろ姿を、アリスは茫然と見つめていた。その足取りは天使のように軽やかで、遠ざかる彼の口からは相変わらずラブコールが蓄音機のように絶え間なく流れ続けている。
 アリスはそちらへ向けて鼻で笑った後、尊大な態度で口を開く。

「宜しいかしら、学のない貴方に教えて差し上げますが、他人と会話する際には適切な社会距離というものがありますのよ。互いの手の届かない距離、およそ120〜360cm程間隔を空けるのがビジネスマナーとして最適で……あああ喧しい! 煩い! あなたと来たら本ッ当になっていませんのね!! どうしてその有り様でプリマドールになれたのか、疑問すら覚えます!!」

 あなたに教授を与えていたアリスであったが、部屋中に反響する凄まじい声が投げ帰ってくると、いよいよ苛立たしそうに耳を塞ぎながら怒鳴り声を上げるだろう。痺れを切らしたように彼女が立ち上がると、はらりと花弁が落ちるようにドレスが周囲に落ちて散乱する。

 七色の光を閉じ込めた見事な黄金の頭髪がなめらかに肩に、背中に滑り落ちている。その姿は草臥れたように見えたが、それでもなおドールの磨き抜かれた不朽の美貌によって輝かしかった。

「わたくしの望みはね、プリマドールになることよ!! あなたの手助けでどうにかなるようなものじゃございませんの、特にプリマドールのあなたにはね……もう、放っておいてくださる!」

「それって、もっと近づいても良いと言うこと!? んふふ、アリスは物知りさんだね! でもそうだね、何故プリマドールになったのかといえば……アリスが物知りで、お話上手で、とっても聡明なのと同じように、誰より美しいから、かな」

 分かり合える筈がない。筈がないのだ。ディアは元プリマドール、トゥリアモデルを体現した愛と美の化身。アリスの言葉を受け、1mmも違わず120cmの位置に立てば、ディアはそれはそれは美しく笑った。ディアは太陽。抱きしめるのが好きで、キスをするのが好きで、キミが好きな、ただの太陽。

「私の方で勝手に調べておくだけだから、どうか気にしないでおくれ。キミの努力に、高潔に、才能に、どうか正しい評価が為されますように。私はいつだって、キミの幸福を願っているよ」

 それでも。それでも、わかり合いたい。手を伸ばしたい。全ての望みを叶えたい。そう願ってしまうから、彼はいつまでも世界の恋人で。いつだって、大切なものを焼き尽くして回るのだろう。

「ねえ、アリス。プリマドールになった後、お披露目に行った後、キミに似合う素敵なご主人様に出会った後」

 何も否定しない、何も諦めない、何も特別視しない。ディア・トイボックスは、問い続ける。キミが大事にしているものを、なおも脈打つ心臓を、掴み取るために。

「——キミはどうしたいの?」

 ぐちゃり、と、深淵を覗く音がした。

「〜〜〜ッ、気、に、入ら、ない……嫌味のつもりかしら!? 腹立たしいことこの上ありませんわ……!」

 きっと、プリマドールを毛嫌いするアリスにとって、相手を寄り添うトゥリアドールプリマとしての最適解は、ことごとく不正解で。琴線に鋭い爪を立てるが如き疎ましさで、憎たらしく感じてしまうのだろう。
 対話のプロフェッショナルとして設計されたエーナドールとて、人らしい心を持つように意図された存在。アリスはとりわけ、見下されることを厭うのだろう。拳を震わせ、眉をキツく寄せて、不快の絶頂を露わにしている。

「初対面で、何の関わりもないあなたがわたくしを、口説く理由もなければ幸福を願う理由もあるはずがない。あなたの言葉はそれに足る重みが全く感じられないの、全部薄っぺらいのよ! トゥリアモデルだから全てを愛するように、肯定するように設計されているだけ! あなたとのお話に付き合うだけ時間の無駄とすら思えます!」

 彼女は現実主義者であり、全ての物事に論理を求める。運命的な出会いも、ドラマチックな一目惚れも、感動的な愛の言葉でさえ、信用出来ない。故にアリスはあなたの肯定を全て跳ね除けた。激しく痛罵し、社会的距離が開いていなければ頬さえ叩かれていたかのような衝撃を持つ剣幕で当たり散らす。

 「だからね……」と、今度こそ決定的に、あなたとの縁を引きちぎる一言を続けようとした時。

 あなたの妖艶で、あたたかくて、無遠慮で、心地よくて、躊躇のない真実を求める問いが、アリスを刺し貫いた。
 ──プリマドールになって、ご主人様に見初められて、それから?

「……っ、そ、んなの……決まっています。わたくしたちドールズの存在意義とは、愛しきヒトのお役に立つこと。この身を愛していただくこと、それに限るはずですわ。
 わたくしがより優れた存在になることは、いずれ会うヒトへの最大の貢献となる。ですから、許せませんの……わたくしより優れている方なんて、居なくていい。わたくしが一番でなければ、意味がありませんの……わたくしのことを一番に見ていただきたいのに。運命のヒトが……お姉様のような方が、わたくしでなく、より素晴らしいプリマドールを抱き上げたら……?」

 アリスは己が深淵を、気付けば吐露していた。疲弊から、心根が弱っていたせいもあるかもしれない。突然に暴かれて、堪えることが出来なかった。
 翡翠の瞳を揺らして、その身を押さえ込むように抱きかかえる。わずかに俯いてから、赤い唇を震わせていた。

「……忌々しい。プリマドールがいるだけで、わたくしは正当に評価されない、きっと……だから見るだけで嫌になりますの、いい加減にどこかへ行ってくださる!?」

「ん〜……キミってやっぱり不思議なことをおっしゃる! かわいいね!」

 こてん、と小さく首を傾げ、ディアはけらけらと可愛らしく笑った。アリスはとても、とても論理的なドールなのだろう。けれど、愚かだ。その点で、ディアにとってアリスとソフィアはとてもよく似ていた。自らの目的のためならなんだってできると豪語するのに、誰かを利用する選択を取らない。茨の道とわかっていて、別の道を選ばない。それが反発なのか優しさなのか、ディアには判別がつかない。けれど、ディアにとってはその全てが愛だった。
 ——ディアは現に、トゥリアモデルの洞察力を以て、アリスの望みを引き出している。
 ディアがトゥリアモデルのプリマドールの栄冠を携えていた理由が、今まさに、そこにあった。

「ふふっ、ああ、安心して、エンジェル! 私が勝手に、キミの望みを叶えたいとプログラムされているだけさ! どうしたらキミがプリマドールになれるのか……その問いの答えを知っている人物に、いささか心当たりがあってね! と、いうわけで! キミの本当の望みも聞けたことだし、私は早速不思議の国へと駆け出すとしよう! 貴重なお時間ありがとう〜! 愛してるよ〜! ばいば〜い!」

 かくして、軽やかな足音と大きな笑い声を学園中に響かせながら、春の嵐は去っていった。ディアは一体、誰に教えを乞うつもりなのだろう。如何に愛するつもりなのだろう。どんな言葉を、愛と形容するつもりなのだろう。その愛の矛先が、世界を貫くその瞬間は、どんなに甘美なものだったのか。その問いの答え合わせは、きっともう少し後に、語られることとなる。悪夢のような、桜の開花を合図として。

「ああ、そうだ! ふふ、大丈夫! キミは、プリマドールになれなくても十分綺麗だ! じゃあまたね!」

 あまりに優しく、残酷なその言葉が、二人の最期の会話だった。